[付録] ニュースと感想 (28)

[ 2002.09.21 〜 2002.10.04 ]   

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    2001 年
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● ニュースと感想  (9月21日)

 「日銀による民間銀行の保有株の買い取り」という方針が示された。(朝刊・各紙 2002-09-19 )
 新聞では大騒ぎだ。「良い」と褒めたり、「危険だ」と批判したり。しかし、私の見解は違う。「これはたいして意味がない」と私は考える。

 大騒ぎしているが、それは日銀が禁じ手を取った、ということに対してだろう。しかし実質的には、何がどうなったか? 単に銀行の株が日銀に移っただけだ。
 ここで、注意しよう。今回の方針は、対象となるは、銀行保有株だ。あらゆる株が無制限に対象となるわけではない。もし、そんなふうに無制限の買い取りがあるのだとすれば、資産インフレに向けた方向となるが、実際には、そんなことはない。

 そもそも、日銀の株式購入といっても、次のことと同じだ。
  ・ 政府が赤字国債を発行して、日銀に購入してもらう。
  ・ 政府が株式保有機構を設立する。
  ・ そこが銀行株を購入する。

 また、株が民間銀行から日銀に移るだけなら、次のこととたいして違いはない。
  ・ 政府が赤字国債を発行して、日銀に購入してもらう。
  ・ 政府が銀行に公的資金を投入する。

 つまり、「公的資金を投入する」(銀行の株式を購入する)というのと、たいして違いはないのだ。違うとすれば、株が銀行株になるか、一般企業の株になるか、というだけの違いだ。どちらかと言えば、「銀行株だけ」を買うよりは、「一般企業の株を買う」方がマシだろう。

 また、そもそもの話、「株式の持ち合いの禁止」(売却義務)というのが、時期に適していない。「株式の持ち合いの禁止」というのは、株が高値のときには好ましいが、株が低いときにこんなことを義務づけるのは、狂気の沙汰だ。これを延期するのが先決だ。ただ、今さら延期もできないから、日銀が当面は肩代わりする、というのなら、それはそれで納得もできる。

 もうちょっと踏み込んで考えよう。政府や日銀が大量の株を購入する(株式保有機構を設立する)というのは、良いか悪いか? 
 これは、状況しだいだ。もし政府が正しい景気回復策を実施するのであれば、景気は回復するから、株式保有機構は黒字を出す。だから、好ましい。一方、逆に、政府が正しい景気回復策を実施しないのであれば、株式保有機構は赤字を出す。だから、好ましくない。
 つまりは、株式保有機構は、それ自体ではたいして意味(良し悪し)はない。根本的な対策を実施するか否かの方が肝心なのだ。

 ここで誤解してはならないのは、株式保有機構のように、「政府・日銀による株式購入が、景気回復効果をもつか否か」だ。ここに注意。
 新聞報道でも、「短期的には株価底上げの効果はあるが、中長期的には意味がない」という意見が大半だ。そのとおり。「銀行による持ち合い株の売却」という見込みがなくなったから、当面は、(市場の売り手が少なくなるので)底上げ効果がある。しかし、株価というものは、本質的には、売買の人数(需給関係)で決まるというよりは、企業の業績によって決まる。企業の業績が良ければ買い手は増えるし、企業の業績が悪ければ買い手は減る。そして、企業の業績は、景気しだいだ。だから、本質的には、景気対策が肝心なのだ。売り手(銀行の売却)を少しぐらい減らしても、せいぜい、短期的な効果しかないわけだ。

 では、景気回復効果はあるか? それは、ここ数日、示したことからもわかる。資産価格を上昇させても、それによる景気回復効果は、「おこぼれ効果」しかない。資産価格の上昇があっても、それは「所得の増加」とは違うのだ。株価が上がったとき、「所得が増えた」と人々が錯覚すれば、消費は増える。しかし、いったんバブル破裂で懲りた人が多いのだから、錯覚して消費を増やす人はたいしてあるまい。
 景気を回復させるには、資産価格の上昇によって「所得が増えた」と錯覚させることが大事なのではない。「まさしく所得が増えた」という現実を与えるべきなのだ。(売却してもいない資産の)帳簿の数字をプラスにするのではなく、各人の財布の金をまさしくプラスにするべきなのだ。── そのためには、「減税」しかない。そして、いったん「減税」が実施されれば、生産の増加により、正しい基調に乗って、働くことによる収入で、財布の金がまたプラスになる。
 逆に言えば、資産市場に数兆円の金を投入しても、そんなことには、実体経済を数兆円も拡大する効果はない、ということだ。(「おこぼれ効果」で2千億円ぐらいは効果があるかもしれないが、焼け石に水。)

 結語。
  ・ 日銀または政府による株式保有(機構)は、あまり意味がない。
  ・ それは、メリットもデメリットも、小さい。
  ・ 銀行救済が目的であれば、「公的資金の投入」と同様な意味はある。
  ・ しかし、景気回復効果は、焼け石に水。
  ・ 結局、景気は、一時的には少し良くなるが、本質的には回復せず。
  ・ なぜなら、資産市場は少し好転しても、実体経済は縮小したままだから。

( ※ 続報[読売・朝刊・1面 2002-09-20 ]によると、買い取りの規模は、1〜2兆円になるらしい。これでは全然、意味がない。コメントする価値もない。……「もっと規模を拡大せよ」という意見もあるらしいが、これならコメントする価値はいくらかある。)

 [ 付記 1 ]
 「不良債権処理」に似たところがあるので、解説しておこう。
 「持ち合い株式の解消」というのは、デフレ下で行なえば、「売る必要のない物を無理矢理に売らせることで、相場をいっそう下落させ、デフレをいっそう悪化させる」という効果がある。だいたい、銀行が株を売りたくもないのに、無理に売らせれば、需給関係が崩れるから、市場の相場も崩れる。
 この点は、不良債権処理も同様だ。売りたくもない土地を無理に売ったり、倒産させる必要もない企業を無理に倒産させたり。……その効果は、「帳簿をきれいにすること」だけ。「帳簿がきれいになれば、すっきりするので、経済も良くなる」という馬鹿げた妄想の元に、ひたすら土地を超安値で売却し、企業を無理に倒産させて、デフレをどんどん悪化させる。
 両者は似たところがある。このことに気づくべきだ。
 マスコミの論調を見ると、「不良債権処理を進めよ」という意見と、「日銀による銀行保有株購入は好ましい」という意見との、双方がある。しかし、この両者は、考え方が矛盾している。「無理な売却をして相場を無理に下落させる」ということが、好ましいのか否か。……そこをはっきりと考えるべきだ。なのに、考えもしないで、矛盾した立場を主張するエコノミストは、自らの思考の矛盾を理解するべきである。

 [ 付記 2 ]
 結局、「持ち合い株式の解消」というのは、デフレ下で行なうべきではない。その意味で、今回の「日銀による銀行保有株購入」というのは、やらないよりはやった方がいい。
 ただし、である。次善であっても、最善ではない。銀行保有株購入ということ自体はいいが、それを実施するのは、日銀である必要はさらさらない。ここに注意するべきだ。第1案は、「政府がやる」こと。これは「株式保有機構」だが、構想がまずく、利用されない。第2案は、「銀行の子会社がやる」こと。これは、いい。第3案は、「銀行の出資したペーパーカンパニーがやる」こと。これが、ベスト。( → 7月15日 の最後 )
 第2案または第3案が好ましく、日銀がしゃしゃり出るのは好ましくない。

  【 追記 】 ( 2002-09-26 )
 各国の評価。9月24日,25日の新聞などを見ると、各国の中央銀行の評価は悪い。「正道を踏み外した」というような批判。
 榊原英資の意見もある。「外国(の中央銀行)はマネタリストが多いから、批判が多いだろう」という推測。(朝日・朝刊・経済面 2002-09-25 )……たしかに、そうである。
 私のコメント。
 どうも、各国は勘違いしているようだ。日銀の銀行株式購入を「間違った金融政策だ」と批判しているが、批判になっていない。これは金融政策ではないのだ。もちろん景気回復が目的でもない。
 では、日銀の銀行株式購入の目的は、何か? 銀行の救済だ。今のままでは、銀行が軒並み赤字になって、倒産する可能性があり、金融制度が崩れるかもしれない。そこで、「公的資金を投入せよ」つまり「銀行株式を購入せよ」という意見が出てくる。しかし、銀行株式を買うというのは、あまりにも問題が多い。リスクも非常に大きい。下手をすると、すべてが紙屑となる。こんな危険なことに血税を投入するのは、馬鹿げている。
 実際、ここ数年の銀行株価を見るがいい。住友、三井、三菱、三和、富士、さくら、などの大手銀行が次々と合併したとき、「不良債権処理の体力が付いたぞ、先行きを楽観できる」などと信じた投資家が株を買ったので、株価は上がった。しかし今や、見るも無残な額まで、低落した。銀行株は、リスクが大きすぎる。仮に数年前、十兆円で買っていたら(公的資金を投入していたら)、今はそのほとんどが消えていたはずだ。
 というわけで、銀行株の購入(公的資金の投入)は、好ましくない。だから、どうせなら、一般株を買い上げって銀行に現金を与えた方がいいわけだ。
 ただ、これを日銀がやるというのは、正当な方法ではない。本来ならば、政府がやるべきことだ。だから、批判をするなら、その相手は、日銀ではなくて、政府だろう。「政府がやるべきことをやらないから、日銀が余計なことに手を染める」と。(たとえて言えば、医師がモルヒネを処方しないから、患者が闇市場でモルヒネを購入して、自分で注射するようなもの。道外。)
 なお、最後に一言。「銀行株の購入」は、「金融制度の維持」のためであれば、悪くはない。「ペイオフ解禁で金融制度を崩壊させよ」なんていう狂気の政策とは正反対であり、その意味では、好ましい。
 ただし、である。これは、景気回復策ではないのだ。そして、「金融制度の維持」にせよ何にせよ、根幹は、景気回復なのだ。景気が悪化したままで、いくら金融制度をいじっても、仕方ない。
 だから、根本対策としては、やはり、「消費性向の向上」をもたらす以外にはない。
( ※ オマケ。榊原英資は、「量的緩和をしても、投資は減るばかり」と主張している。正しい。量的緩和論者は、こう言う。「量的緩和が足りないから、その効果も足りないのだ。投資もあまり増えないのだ」と。しかし、違う。量的緩和をずいぶんしているが、投資はあまり増えないのではなく、まったく増えないし、むしろ減っているのだ。量的緩和論者の主張がいかにおかしいか、よくわかる。)


● ニュースと感想  (9月21日b)

 中村修二の特許訴訟の、中間判決。「特許権は会社に属するが、正当な対価は会社が勝手に決めることはできない」というもの。(朝刊 2002-09-20 )
 新聞によると、企業はこの問題で、オロオロして、うろたえているようだ。まったく、呆れる。「能力主義で会社を活性化」と言っていたのは、どこの誰だ? 一方では「能力主義でリストラだ。実力重視で、中高年には賃下げする」と言い、一方では「能力主義なんかは集団の和を乱す。優秀な人間にもほぼ一律の賃金しか払わない」と言う。二枚舌。
 会社は、自分たちが正しいと思っているようだが、世界的にはまったくの常識はずれだ、と理解するべきだ。中村修二は、好きな研究ができて給料がもらえる、と喜んでいたら、外国人に、「いくらボーナスをもらった? 何億円?」と尋ねられ、「ゼロ」と答えると、付いたあだ名が「奴隷」。(レッジーナの中村俊輔よりも前から世界的に有名なのが、 slave Nakamura だ。)
 日本の会社に勤める皆さん。あなたたちは、奴隷だ。そのことに気づくべきだ。自らが奴隷であることに気づかなかったり、奴隷の境遇に満足しているようでは、北朝鮮の国民と同じだ。北朝鮮の国民は餓死する。日本の国民は低賃金で長時間こき使われて過労死する。どちらも同じ。

 [ 付記 ]
 中村修二がアメリカに流出して、そこで旺盛に研究を進めていることが記事にあっている。(朝日・朝刊・経済面 2002-09-20 )
 大学でそこそこの高収入だが、そんなことはどうでもいい。彼の開発した成果の多くが、アメリカの大学に帰属してしまう、ということが肝心だ。日本人の最高の頭脳が開発したものが、ごくわずかな金を惜しんだばかりに、すべてアメリカのものになってしまうのだ。
 馬鹿げている。日本の会社の経営者は、技術者の賃金を下げることばかりに熱中して、技術者の開発したものを手に入れることを忘れている。こんなことでは、日本にはクズ技術者しか残らなくなる。
 つまり、日本の会社には、まともな判断力のないクズ経営者しか残っていないのだ。小泉も、どうせ「構造改革」を唱えるのなら、こうしたクズ経営者を一掃するべきだろう。(自分自身がクズ政治家だから、それも無理かも。)

  【 追記 】
 企業は発明者に「正当な対価を払え」と明文化されているが、その「正当な対価」というのが、決めにくいらしい。裁判所は、「企業ではなく、裁判所が決める」と言っているが、これはどうも、市場原理に反するし、国家統制的で、好ましくない。
 私は次の案を提出する。
  ・ 企業は自分で正当と思える任意の価格を提示する。
  ・ その正当な価格の何倍かの価格で、発明者が逆取得できる。
 たとえば、企業が中村修二に「2万円」を払った。企業はその発明の正当な価格を「2万円」と見なしたわけだ。それはそれでよい。だから、中村修二は、その価格で発明を買収できる。「2万円の価値しかない」と企業は主張したのだから、2万円で権利を奪われても文句は言えまい。さもなくば、自己矛盾だ。
 実際には、一定倍率(たとえば 10倍)を係数として掛ける。企業が正当な価格として「2万円」を呈示したなら、その 10倍である 20万円を払って、発明者が権利を買収できる。
 こうなると、企業は、いい加減な価格を提示できない。かくて、市場原理で、適切な価格に落ち着く。
 適切な価格が毎年上昇していくようであれば、企業は毎年、追加を支払えばいいだろう。


● ニュースと感想  (9月22日)

 企業の「メセナ」について。
 ポーラの「iS」という文化誌が終刊。(読売・夕刊・文化面 2002-09-20 )
 グローブ座も、一時は「パナソニック・グローブ座」という名前になって、松下がスポンサーになっていたが、あっさり契約を切って、スポンサー捜しが難航し、ジャニーズ事務所に買収されることになった。
 企業がメセナを次々と廃止している。ま、デフレだから、ある程度は仕方ないかもしれない。しかし、である。だったら、偉そうなことは言わないでほしい。
 「アメリカでは法人税がどうのこうの、チンタラチンタラ」と述べて、アメリカの真似で、税金を負けさせようとする。それでいて、アメリカの企業が潤沢にメセナ資金を出していることは真似しない。
 朝日や読売も、スポンサーの意向が怖いらしくて、企業におべっかを使って、「法人税減税」なんてことを主張する。そろいもそろって、クズばかりだ。彼らは単に「国の金を寄越せ」と言っているだけであり、土建業者が「仕事を寄越せ」というのとまったく同じだ。ゲスの集団。
 経団連会長の豊田会長に、ひとこと言っておこう。政府の審議会に出たりして、自分は立派だと思っているようだが、とんでもない錯覚だ。自分自身の姿を鏡に映してみるがいい。トヨタという会社は、排ガスをばらまくことで、社会に多大な迷惑をかけている。そうやって社会に多大な迷惑をかけることの上に立脚している会社なのだ。
 なるほど、自動車は、社会的に有益だろう。進歩的な技術もあるし、燃料電池などで環境対策もしている。それはそれでいい。しかし、だからといって、排ガスで社会に多大な迷惑をかけているということの免罪にはならないのだ。
 自動車会社に言っておこう。あなたたちは、昔の水俣病を起こした公害企業であるチッソと、五十歩百歩なのだ。いくら社会に有益なことをしたとしても、有害なことをしたことは免責されない。だいたい、ディーゼル車を売ることで、日本中にどれほど多くの花粉症患者を出したか、考えてみるがいい。しかも、「それはまだ科学的に証明されていません」などと述べて、ディーゼル微粒子を出し放題にしている。まったく、水銀を垂れ流したチッソと、ウリ二つだ。
 そして、こういう極道な会社が、経団連のトップを占めているのだ。自分の責任は取らない。国の金ばかりを奪い取ろうとする。
 たぶん、北朝鮮は、これを真似したのだろう。「自分の責任は取らないよ。日本の金ばかりを奪い取ればいい」と。両者はかくも、そっくりなのだ。


● ニュースと感想  (9月22日b)

 北朝鮮による日本人拉致問題について。
 この件で、誰もが見失っている点を、指摘しておく。それは「金大中事件」との関連だ。
 日本人の多くの意見は、こうだろう。「北朝鮮はけしからん。このまま国交回復して、多額の援助をするなんて、納得が行かない。」
 韓国人の多くの意見は、たぶんこうだろう。「北朝鮮はそういう悪いことをしただろうが、韓国はそうではないよ。おれたちには関係ないね」
 しかし、である。拉致はいきなり始まったわけではない。日本人拉致の時期は、1977年〜80年だが、それに先だつ 73年8月、韓国の新民党の金大中(元大統領候補)が、東京のホテルで襲われ、韓国に連れ戻された。これは韓国公権力による拉致だった。この拉致が先だったのだ。
 この拉致に対して、日本政府は、どう出たか? 韓国政府の、のらりくらりとした言い分を聞くばかりだった。最終的には、1975年7月、日韓外相会談で、韓国側から提出された口上書によって、手打ちをした。「原状回復を」(つまり金大中を日本に引き戻せ)という世論を無視して、韓国による主権侵害を放置(同意)した。(金大中は軟禁されたままだったと記憶している。)
 こういう歴史があったのだ。これは韓国政府と日本政府の共謀による犯罪隠蔽だ。そして、こういうふうに「拉致を認める」という前例を作ったのだ。となれば、北朝鮮が韓国のマネをしたからといって、こちらだけを大騒ぎすることもあるまい。韓国当局が拉致したのは、将来は大統領となる人物である。日本人で言えば、無名の市民が拉致されたのではなく、小泉首相が拉致されたようなものだ。そういう行為を、平然と認めてきたのだ。日本政府は。
 北朝鮮による拉致と、韓国による拉致。この両者は、並べて考えるべきである。一方だけを考えては、真相を理解できない。
 北朝鮮が拉致をしたのは、彼らが突然、狂気になったからではない。これを狂気と呼ぶなら、米国は毎年発狂しているようなものだ。1977年のころの北朝鮮による拉致は、その当時の歴史においてとらえるべきだ。そして、そういう歴史感覚をもてば、罪と狂気は北朝鮮だけにあるわけではない、とわかるだろう。
 同じような罪と狂気は、拉致とは別の形で、世界のあちこちで、今もなお続いているのである。( → 後述の [ 付記 2 ])

 [ 付記 1 ]
 国交回復問題について。
 国交回復して、多額の金を北朝鮮に贈る、という考えがある。それには反対意見が強い。しかし私は、「やむをえない」と考える。狂犬にエサをやるのは悔しいが、狂犬を飢えさせて野放しにするのはもっと危険だ。せっかくエサがほしいと言ってきたのだから、治療薬入りのエサをやるべきだろう。
 エサをやるのはいいが、タダではエサをやるべきではない。前提をつけるべきだ。それは、北朝鮮に「言論の自由」を認めさせよ、ということだ。
 根本問題として、「言論の自由」こそ大切だ、と私は考える。言論の自由なしには、真実が現れない。虚偽のもとで、何をしようと、無意味である。

 [ 付記 2 ]
 私が「言論の自由」を重視するのは、わけがある。対比して示そう。
 一つは、良い例で、ソ連だ。あれほど強固な体制が、「言論の自由」(グラスノスチ)を認めたとたんに、一挙に民主化していった。(経済的にはともかく、政治的には急激に変化した。)
 もう一つは、悪い例で、韓国だ。韓国は先進国グループでは唯一と言ってもいいほど、言論の自由が認められていない国だ。親日的な意見を出せば、たちまち投獄される。下手をすれば、死刑だ。このまえも、親日的な書籍を刊行した韓国人作家が投獄された。彼は死刑に怯えて、日本政府に政治亡命を求めた。しかし日本政府は拒否した。(金大中事件のときとそっくり。) ……韓国では、こういうふうに真実が隠蔽される状況にあるから、「日本海」という名称問題やら何やらで、嘘とデタラメの限りを尽くしているわけだ。
 ここで、断っておこう。私は、別に、「日本がすべて正しく、韓国がすべて間違いだ」とは言わない。しかし、「真実を見ること」つまり「言論の自由を認めること」は、最低限の原則だ。この最低限の原則が守られていないような状態ではどうしようもない。
 なお、韓国の言論統制については、日本の新聞はろくに記事にしていない。韓国で言論の弾圧が行なわれていることに、知らんぷりである。それどころか、「W杯で韓国と仲良くしましょう。韓国を応援しましょう」なんて報道していた。韓国礼賛、一辺倒。ついでに言えば、韓国側では、同様の報道姿勢はほとんどなかった。「日本が勝って悔しい」とか、「日本が負けて良かった、ざまあ見ろ」とか、そういう報道が大半だった。そりゃまあ、市井では、「日本にも勝ってほしい、両方とも勝つといいね」という意見を出した市民はいた。しかし、そういうことを報道したのは、日本側だけだったのだ。言論の自由のない韓国報道界は、韓国礼賛、一辺倒だった。はっきり言って、日本のマスコミ(新聞社)は、間抜けな片思いである。それどころか、韓国の真実を報道しないのだから、自ら言論統制をしているようなものだ。せっかく言論の自由を得ていても、それを自分自身でつぶしてしまっている。
 日本のマスコミは、「個人情報保護」法案のときは、「言論の弾圧だ」と、うるさいほど報道したのに、韓国の「言論の弾圧」には、ほおかむりだ。── ダブルスタンダード。卑怯者の原則。正義や良心のかけらさえもない。最低のマスコミたちだ。(特に朝日は、ひどい。)
 結局、狂気は、北朝鮮だけにあるわけではない。報道規制されて「反日」一色の韓国もそうだし、それを礼賛して批判しない日本のマスコミもそうだ。北朝鮮も、韓国も、日本のマスコミも、同じ穴のムジナなのである。いずれも正気を失っている。
( ※ 関連情報は、マスコミでは得られないが、インターネットで得られる。「親日派のための弁明」という語で検索。)
( ※ ついでに、一言。この本を書いた韓国人作家は、立派だ。死刑になるほどの危険を冒して、政府とマスコミと国民全体に反して、彼らの妄想を打ち砕くために、自己の意見を発表した。百万人といえど、われ行かん。実に尊敬に値する。)
( ※ 「日本海」の名称問題は決着した。各国から疑問の声が多く上がり、賛否を問うまでもなく、提案自体が撤回された。[朝日・朝刊・総合面・ベタ記事 2002-09-21 ]。結局、世界に相手にされなかったわけだ。韓国の主張がいかに馬鹿げているか、よくわかる。というより、かくも馬鹿げた主張を堂々と主張して、世界に恥さらしをする洗脳国家の実態がはっきり暴露されたわけだ。……なお、「日本海」the Sea of Japan という名称を付けたのは、日本ではない。当時の日本は鎖国状態だったし、国外のことをよく理解していなかった。日本海も太平洋も、ろくに知らなかったのである。開国後、外国人の名付けたあちこちの海を、ようやく知ったのだ。しかるに洗脳国家は、「坊主憎けりゃ、袈裟まで憎い」「日本憎けりゃ、日本海まで憎い」と主張する。日本のマスコミもその尻馬に乗って、洗脳に加担する。)
( ※ 最後に、一言。私の意見に対して、「右翼め!」とか、「日本軍国主義め!」とか、「朝鮮差別め!」とか、そういう批判も来そうだ。そこで、誤解を避けるため、注釈しておく。私は別に、保守派ではない。「靖国に行け!」なんて言わない。何度も繰り返したように、私は右から左のすべての主義に反対している。「国粋主義に反対だから、それとは逆のを支持する」というマスコミほど、おめでたくないだけだ。私が言いたいのは、ただ一つ。「目を開け。真実を見よ」ということだけだ。……そして、真実を見失った人ほど、他人にレッテル付けしたがるのである。)

 【 追記 】 ( 2002-09-27 )
 「言論の自由」と「表現の自由」について。
 某女流作家を訴えた裁判の判決が出た。友人の肉体的な障害を描写した小説がある。これに対して、原告は「プライバシーの侵害」を理由として、出版の差し止めを主張した。被告は「表現の自由」を理由として、反対した。判決は、原告の勝訴。(朝刊・各紙 2002-09-25 )
 マスコミは、「表現の自由」をもちだす。そして「表現の自由は最大限に尊重されねばならないが、今回の判決はやむを得ない」などと解説する。── しかし、とんでもない間違いだ、と私はマスコミを批判したい。
 マスコミは「表現の自由」というものを、根本的に勘違いしている。表現の自由は、あらゆることに優先される権利ではない。たとえば、「表現の自由の自由のためであれば、人を殺したり、人を拉致したりしてもいい」ということは成立しない。「表現の自由」を最優先の基準とするマスコミは、「国家のため」を最優先の基準とする北朝鮮と、同工異曲の発想をもっている。
 はっきり言おう。「表現の自由」は、「他人に迷惑を掛けなければ」という原則のもとでのみ成立するのだ。「弱者を傷つけてもいい」ということは成立しない。友人の肉体的な障害を描写するなんていうのは、「表現の自由」を持ち出すまでもなく、人間として最低の行為だ。頭がイカレているとしか思えない。「他人を拉致して殺す」なんていう狂気的な人間がいることには呆れたが、こういう狂気的な作家(やマスコミ)がいることにも呆れる。狂気というものは、北朝鮮に限らず、普遍的なものであるようだ。
 本質を示そう。「表現の自由」は、権力などの「上の者」に対して、「下の者」が対抗するための権利である。マスコミや小説家は、その権利を使って、国に対抗することはできる。しかし、自らが「上の者」となって、無名の市民や障害者という「下の者」を蹂躙(じゅうりん)することはできないのだ。「表現の自由」というのは、そんな横暴を認める権利のことではない。ここが肝心だ。
 マスコミの一部は、三島由紀夫の「宴のあと」と比較したりする。馬鹿げている。この本は、前外相という強者たる権力者の汚れたプライバシーを扱ったものだ。弱者たる障害者の障害を扱ったものとは根本的に異なる。
 そこを理解することが肝心だ。それを理解できないようでは、人間的な精神に欠陥があると言うしかない。例の女流作家もそうだし、マスコミもそうだ。彼らは、市民を拉致して殺しても平気でいるような北朝鮮と、頭の構造がそっくりなのである。
( → 5月28日

 【 追記 2 】 ( 2002-09-28 )
 拉致問題について、世間の意見が一致しているときに、私が付和雷同ふうに、同じ意見を言っても、読者が納得しないだろう。「南堂はもっと、へそ曲がりな意見を言え」と注文しそうだ。そこで、へそ曲がりの意見を述べておく。
 拉致問題で北朝鮮を一方的に批判するべきではない。日本にもいくらか責任がある。
 「バカ言え」と人々は怒りそうだが、実は、これは、日本政府が公式に認めたことなのだ。26日の報道によれば、政府は有本さん拉致の犯人として、よど号事件のメンバーの一人について、逮捕状を取った。日本人の彼が拉致の犯人なのだ。
 拉致の目的は、「よど号事件のメンバーのための嫁さん(略奪結婚)」だったのだ。だから、これは基本的には日本人の犯罪だろう。日本人のために嫁さんを捜すのが北朝鮮の責任である、と北朝鮮が考えていたとは思いにくい。それほど世話焼き婆さんではあるまい。
 もちろん、北朝鮮にも責任はある。新潟の男女拉致などは、よど号とは関係あるまい。しかし、「北朝鮮がすべて悪い、日本には全然責任がない」と考えるのは、どうも、足元を見失っているとしか思えない。
 ま、以上は、拉致を正当化した主張ではない。遺族のことを思えば、なおさらだ。とはいえ、相手を批判すればそれでいい、というものでもあるまい。非難だけでなく、自省を。── へそ曲がりの私としては、そう思う。

  【 追記 3 】
 北朝鮮に「言論の自由」を認めさせるのは、困難そうに思える。しかし実は、うまい手がある。それは「インターネット」だ。
 インターネットを利用すれば、韓国を含めて、世界中の情報にアクセスできる。となると、「拉致問題を報道したくない」と政府が考えても、インターネットに接続した市民は勝手に知識を得ることができる。
 こうして、完全ではなくても、部分的ながら、「報道の自由」をいくらか達成できる。現在の「報道管制」には、穴があくことになる。「洗脳」という状況を改めることができる。
 だから、日本としては、「インターネットへのアクセス」を北朝鮮にもたらすのが、最善の策だろう。そうして自国の閉鎖性や後進性に気づくようになれば、外から強引にこじ開けようとしなくても、扉は内側から開く。これが利口なやり方だ。
( ※ なお、似た案に、「経済特区」というのもある。自国の一部分において、「自由化で経済発展」という例を見れば、他の国民全体が、「私たちも自由化で経済発展したい」と望むようになるだろう。── その成功例は、中国に見られる。)


● ニュースと感想  (9月23日)

 米国の「イラク侵攻」について。
 米国の言う「危険があるから予防的攻撃」というのに、「ただの侵略戦争だ。営々と築き上げてきた平和秩序を破壊する」という批判が仏独で上がっているという。(朝日・朝刊・海外面 2002-09-22 )
 ライオン首相は何を吠えたかと思ったら、じゃれ猫のごとく、猿顔大統領に寄り添って、尻尾を振っているようだ。

 それはさておき。なぜ、米国はこうするのか? 
 みんな、「米国は横暴だ」と主張するが、それには理由がある。答えを言おう。人は、大金をもてば使いたがる。巨大な武力を持てば、使いたがる。そういうことだ。
 では、巨大な武力とは、何か? ── ここが一番肝心だ。この点をマスコミはまったく報道していない。
 巨大な武力とは、飛行機の数や、兵士の数ではない。そんなものは撃墜されたり、損耗したりする。米国のように「犠牲者ゼロ」をめざす国が、そんな犠牲に耐えられるはずがない。
 答えを言おう。巨大な武力とは、ステルスである。これは圧倒的な攻撃力を誇る。世界中で唯一、米国だけがもつ、「犠牲ゼロの圧倒的攻撃力」となるものだ。
 中国やロシアや日本や欧州は、そのことに気づかないから、あれこれと旧式の戦闘機を作る。しかし、どんな戦闘機も、レーダーの目からは逃れられないのだ。ひとたびレーダーに発見されれば、ミサイルやら何やらで、何割かは撃墜される。船でも戦車でも同様だ。
 しかし、ステルスは違う。まったく見えない。レーダーにも発見されない。だから、完全な攻撃力と完全な防御力を持つ。考えてみるがいい。ボクシングで、相手は目隠しをしている。となると、こちらはどんなに弱いパンチでも、相手を打ち放題なのだ。なぶり殺し。圧倒的優位。
 これほど圧倒的な優位に立てる技術は、人類史上、かつてなかった。そして、そういう圧倒的な優位を得た以上、米国がその力を行使したがるのは当然なのだ。途方もない誘惑である。
 
 結語。
 「米国は横暴だ」なんて主張しても、無駄である。相手は横暴だとわかっていて、それをやっているのだ。良心ゆえに行動しているのではなく、誘惑ゆえに行動している。天使の心に従っているのではなく、悪魔の心に従っている。悪魔にたぶらかされた人物に、「天使に従え」なんて忠告しても、無駄である。
 では、どうするべきか? 第1に、ステルス技術こそ根源だ、ということを明らかにすることである。第2に、ステルス技術を米国だけに独占させず、世界各国が利用するべきだ、ということだ。
 ステルス技術は、二つからなる。根本(平面反射)はロシアで発見され、電波吸収には日本の会社の高度な磁性技術が使われている。その成果はめざましく、レーダーを完全に無効化する。実際の戦果は、湾岸戦争において見られた。ステルスがどれほど大きな戦果を示したか、よく調べるといいだろう。
 仮に、米国が日本をステルス技術で攻撃したら、日本のあらゆる社会基盤は完璧に破壊され、残るのは焦土だけだろう。そして日本は、敵機がいつ攻めてくるのかもわからず、夜空に向かって空砲を撃つことしかできまい。(竹槍で B29 に対抗するようなもの。)

 [ 付記 ]
 参考文献 : 講談社「ステルス戦闘機」 by ベン・R・リッチ(解説ページ 。現在絶版)
 インターネットで情報検索 : 「ステルス戦闘機 リッチ
 日本の磁性技術は、山根一真「メタルカラーの時代」 p.371


● ニュースと感想  (9月23日b)

 時事的な話題。「ユーロの通貨統合」について。
 通貨統合にともなう問題が報道されている。ドイツなどは、高い失業率。(この件は、しばしば報道されている。朝日・朝刊・海外面 2002-09-20 など。) 一方、ユーロ不参入の英国では、好況で、失業率も低い。物価は高いが。(朝日・朝刊・海外面 2002-09-18 )

 まず、英国だが、これは、ごく普通の状態である。物価が高いというのは、つまりは通貨が強いということであり、どちらかと言えば好ましい状況だ。記者は「物価は低いのがいい」と主張しているようだが、物価が下がれば賃金も下がるのだから、別に、生活が楽になるわけではない。「高物価・高賃金」と「低物価・低賃金」の二者択一だ。「低物価・高賃金」というのが理想だが、これは、自国だけで生産性を急速に向上させない限り、ありえない。「棚からボタモチ」を望むような記者の望みは、「経済音痴」の一言で片付けられる。そりゃまあ、「棚からボタモチ」とか、「空からまんじゅうが降ってくる」なら、それが理想ですけどね。

 一方、ドイツではどうか? かつては「強いマルク」を誇った欧州の名手だが、今や、通貨統合で、惨憺たるありさまだ。失業者が 400万人を越えている。(人口は 8200万人)。大問題だ。なぜか? ドイツは他の国よりも高賃金だからだ。そのせいで、投資も少なく、失業解決の見込みがない。

 さて。総合的に考えてみよう。通貨統合問題では、どうするのが正解か? なかなか難しい問題である。
 原理はどうなるか? たしかに、通貨統合には、「共通の尺度」による経済的なメリットがある。また、市場統合というのは、アメリカの巨大な市場の例を見ても、明らかにメリットはある。一方、通貨統合をすれば、もはや国別の金融政策は不可能となる。(タンク法も使えない。)
 以上を勘案して、私の考えを言えば、次の通り。
  ・ 「市場統合」は、なるべく進めるべきだ。障壁をなくす。
  ・ ただし、通貨だけは、統合しない。国別の金融政策を認める。
 こうすれば、国別の金融政策ができる。失業対策(タンク法のポリシー・ミックス)も使える。(「低金利・増税」という組み合わせ。ただしこの政策を、バブル状態の国で取ると、バブル加熱でとんでもないことになる。)

 「通貨統合」は、たしかに、メリットはある。しかし、「金融政策によるマクロ調整機能を失う」という大きなデメリットもある。このデメリットが、大量の失業者の発生だ。「通貨統合」を実施している限り、この「大量の失業者」という問題は、根本的に解決できない、と思える。
 だから、選択肢は、次の二つ。
  ・ 「通貨統合」を実施して、「大量の失業者」を甘受する。
  ・ 「通貨統合」をやめて、「大量の失業者」を解消する。
 このいずれかだ。「両方をともに得よう」というのは、不可能であると思える。可能になるとしても、域内の各地域の経済レベルが平準化したあとである。そうなるには百年ぐらいの時間がかかるだろう。なのに、経済格差があるという現実を無視して、通貨だけを強引に統合すれば、歪みが出るはずだ。それが「大量の失業者」である。

 なお、金融政策や経済政策とは別の、根本的な問題もある。
 そもそも、「通貨の統合」をすれば、「経済の統合」が進む。となると、ドイツのような「高賃金・高技術」の国と、スペインなどの「低賃金・低技術」との、平準化が進む。当然、スペインはドイツに近づく。ドイツはスペインに近づく。だから、ドイツがそれまでの「ヨーロッパの最強国」としての地位は失わるわけだ。結局、失業や低賃金化は、本質的に、避けえないのである。そもそもそれが、「通貨統合」「経済統合」の目的(欧州の平準化)なのだから。
 「通貨統合」「経済統合」は、「欧州の平準化」をもたらす。それは、スペインのような後進地域には、明らかにメリットがある。また、スペインやドイツを全部まとめたヨーロッパ全体でも、メリットが少しある。しかし、「わが世の春」を謳歌していたドイツにとっては、メリットよりもデメリットの方が大きい。「格差」を享受していた国は、「格差」がなくなるにつれ、これまでの特権を奪われざるをえないのだ。

 結語。
 ドイツはユーロの通貨統合を脱退した方がいい。それができない限り、大量の失業問題は根本的に解決できない。どうしても強引に失業問題を解決したければ、欧州全体をインフレないし資産インフレ状態にするしかない。そうすれば、(供給過剰の)ドイツは幸福になる。ただし、(供給不足の)他地域は不幸になる。
( ※ 不幸の例:スペインやポルトガルで、資産インフレによるデメリットの発生。過剰労働で、過労死続出。バブル発生と、そのあとのバブル破裂。景気の過剰な上下変動。一時的に景気は良くなるが、そのあとで、景気が悪化して、倒産や不良債権の続出。)

 なお、どうしても「通貨統合」をするのだとしても、経済規模に即した形にするべきだろう。つまり、所得レベル別に、「ドイツとスイスとオーストリア」「イギリスとフランスとイタリア」「スペインとポルトガル」というふうに、個別の小グループに分ける。
 「経済における欧州統合」というのは、妄想だ、と私は思う。異なった現状に対して、無理に統一した政策を当てはめれば、かえって現状への対応が不可能になるだけだ。(似た話はある。生徒の能力が異なるのに、強引に同一の教育を施す。そのせいで、高学力の生徒も、低学力の生徒も、ともに不適合な教育を受け、誰もが苦しむ。)
 必要なのは、通貨統合や金融政策の統合ではない。「市場統合」だけだ。これだけを進めればよい。どうしても通貨統合を実施するのであれば、先進国では、大量の失業状態(膨大な無駄)や、賃金の低下を、甘受するしかない。なぜなら、それが通貨統合の目的なのだから。(先進国をそうやって苦しめ、その分、非先進国を楽にするわけ。平準化。)
 イギリスは、今のところ、幸福だが、通貨統合を実施したとたん、大量の失業と賃金低下に悩まされるだろう。(ただし、イギリスの富をもらえるので、スペインやポルトガルは大喜びだろう。)

 [ 付記 ]
 ドイツには、「東独を吸収した」という別の理由もある。これもまた、一国内に二つの国家を統合するという点で、ユーロの縮図となっている。
 どうするべきだったか? もちろん、東独は後進国だったのだから、いきなり統合するのではなくて、「1国2制度」のもとで徐々に吸収を進めるべきだった。東独は、独自通貨のもとで、「低賃金・低物価」という形で、徐々に西独に近づくようにするべきだった。(台湾や中国が初めは低賃金を利用して高成長をしたのと同じ道。)
 現実には、完全に統合して同一通貨をとったため、東独国民は、雇用者は高賃金を得たが、そのかわり、莫大な失業者が発生し、成長率は低い。
 通貨は、為替レートを通じて、異なる制度を「翻訳」するような機能がある。その機能によって、異なる制度がスムーズにつながる。ここで、この「翻訳」機能を廃止して、いきなり統合すれば、とんでもない混乱が起こるのは自明だ。
 「通貨統合」というのは、言語で言えば、「公用語統合」に似ている。なるほど、「公用語統合」を実施すれば、域内の一体化がどんどん進むだろう。しかし、それが完全になされるまでには、百年ぐらいの時間がかかるだろうし、その百年ぐらいの間は、とんでもない混乱が発生するのである。
 ハワイは米国に統合されて、英語を使うようになり、繁栄している。これを見て、「だから日本も米国に統合されて、英語を使うようにして、繁栄しよう」などと主張したら、どうなるか? 百年後には、繁栄しているかもしれない。しかし、それまでは、とんでもない混乱が起こる。
 ユーロにおける「通貨統合」というのは、だいたい、そういうものである。彼らは正しいことをしているつもりなのかもしれないが、そこには時間観念が欠如しているのである。彼らは「長期的にはこの道は正しい」と思っているのだろう。しかし、「長期的にはわれわれはみんな死んでいる」のだ。(ケインズの有名な言葉。)


● ニュースと感想  (9月24日)

 前項の続き。「失業問題解決」の方法。
 前項に関連した話。ドイツの失業問題。4年前にも、同様の失業問題が発生していて、「失業解決」を最大目標として公約して、野党候補が大統領に当選した。しかるに、失敗。失業問題は、まったく解決できず。大難問。(読売・朝刊・国際面 2002-09-22 )
 同じ人物(大統領)は、「今度こそ、次の4年間で失業解決を」と主張している。しかし、不可能だろう。もし可能なら、とっくにできているはずだし、日本だって小泉が同じ問題で悩むはずがない。ドイツにせよ、日本にせよ、失業は解決困難だ。旧来の経済学にとらわれている限りは。
 ユーロの統一的な経済政策は、「財政緊縮・物価安定」をめざすもので、これは、IMF流のマネタリズムの手法である。しかしこれは、「失業解決」どころか、「失業増大」をめざす経済政策なのだ。こんなことをやっている限り、失業問題はいつまでたっても解決しない。歴史的には、失敗の連続。死屍累々。

 では、失業を解決するための、正しい政策は? それは、私が何度か示したとおり。要点をまとめれば、以下の通り。
  1.  「タンク法」による、消費の拡大。
     すると、設備の稼働率の向上にともなって、失業者は吸収される。
  2.  需給ギャップが解消するまで(稼働率が満杯になるまで)は、物価上昇はない。
     (一時的には赤字販売をやめることによって物価上昇が発生するが、それは持続的な物価上昇ではなく、一時的なものにすぎない。)
  3.  需給ギャップの解消後、なおも需要が増えると、物価上昇が発生する。
     3%程度までの物価上昇は、問題がないので、金融政策だけで調節できる。
  4.  物価上昇が3%を越えると、「高い物価上昇率と高い失業率」の混在になる。「スタグフレーション」だ。
  5.  そうなったら、「ポリシー・ミックス」の政策を取る。つまり、「消費の縮小と、投資の拡大」(消費と投資の比率の変更)だ。( → 4月下旬 )
  6.  すると、投資の拡大にともなって、失業者は吸収される。また、消費の縮小にともなって、物価上昇は抑制される。
 以上の話の核心は? 不況期には、消費の拡大によって失業者を吸収する。好況期には、投資の拡大によって失業者を吸収する。この切替が肝心だ。(マネタリズムは、その切替ができない。そこに根本的な難点がある。特に、日本のマネタリストは、不況のときに投資を増やそうという、倒錯的なことをする。そんなことをやれば、中期的には、供給能力拡大で、需給ギャップが拡大するだけなのだが。つまり、処方としては、状況を悪化させるだけ。)

 なお、「タンク法」および「ポリシー・ミックス」のいずれでも、独自の通貨が必要である。(さもないと、反対の状況にある他の国に、悪影響を及ぼす。)
 逆に言えば、独自の通貨があれば、「タンク法」および「ポリシー・ミックス」を使うことによって、失業問題をうまく解決でき、経済を正常な成長経路に載せることができる。(現実には、通貨統合のせいで、それができない。)


● ニュースと感想  (9月24日b)

 9月21日b の「発明報酬」の件に、[ 追記 ] を加筆した。 → 該当箇所


● ニュースと感想  (9月24日c)

 時事的な話題。3件。

 (1) 長期国債の売れ残り
 長期国債に、買い手が付かず、売れ残ったという。「未達」という。(朝刊・経済面 9月20日 ,ニュースページ
 もっともな話だ。こんな低金利の長期国債は、暴落の恐れがあり、リスクが大きすぎる。長期国債を買うべきか否かは、「国の経済政策が失敗するか否か」に関するバクチと同じである。「失敗」と思うのなら、(低金利が続くので)買ってもよい。「成功」と思うのなら、(高金利になるので)買ってはいけない。── 結局、国は「経済政策は失敗します。今後もずっと不況です」ということを自ら言明しているようなものだ。こんなのを、信じるにせよ、信じないにせよ、どっちにしろ、国民はひどい目に遭う。
 一方で、「長期国債を買うべし」と主張するマネタリストもいる。彼らの言い分によれば、「国がどんどん国債を発行して、日銀に買わせろ」ということらしい。しかしそれは、(使途を減税にする)タンク法とは違って、使途が公共事業だ。しかし、公共事業の費用を日銀発行の国債でまかなうというのは、財政節度の点で異常だし、経済学的な原理からも間違ったことだ。(民間引き受けの国債でまかなうべきだ。 → 4月08日
 では、どうするべきか? その答えを言おう。(すでに述べたことがあるが。)
   ・ 長期国債は発行しない。
   ・ 短期国債または変動金利国債を発行する。
   ・ 変動金利国債は、物価連動ではなく、短期金利連動で。
 これで、問題は片が付く。
   ・ 長期国債の売れ残り問題(購入倍率1以下)はなくなる。
   ・ 短期国債の売り切れ問題(購入倍率 500以上)もなくなる。
 かくて、適切な購入倍率に落ち着くので、市場が健全化する。
( ※ 量的緩和論者は、やたらと「長期国債を買い入れよ」と主張する。短期国債についてはどうするべきか主張していないが、おかしな話だ。おかしいと言えば、量的緩和論者は、なぜ、自ら金を借りて投資しないのか? 自説に従えば、銀行から金を借りて、アパートでも買って、資産インフレを起こすべきだろう。なのに、そうしない。銀行預金と、短期国債購入しか、しないだろう。行動が自説に矛盾する。……ついでだが、私は、行動は自説に矛盾しない。政府が「減税」を実施したら、すぐにもらいに行きます。ついでに、量的緩和論者の分も、私がかわりにもらってあげます。)

 (2) 株式市場の振興策
 株式市場の振興策として、珍案が出た。「地域振興券」ならぬ「株式振興券」(有価証券兌換券)を、国民にばらまく、という案。(朝日・朝刊・オピニオン面 2002-09-23 )
 これはつまりは、「減税をして、その金を、消費ではなく株式購入に回す」というのと同じだ。一種の消費縮小策である。愚の骨頂。「実需ではなくマネーを増やせばいい」「実需を減らしてもマネーを増やせばいい」という、マネタリストの考え方の延長上にある。
 さて。それはさておき、株式市場の振興について、考えてみよう。
 根本的に言えば、「特定の市場の振興」というのは、有害無益である。株式であれ何であれ、何らかの市場を振興する必要はない。株式市場がふるわないのは、株式に魅力がないからだ。こういうふうに魅力のないものを買わせようとして「強引に血税をつぎ込め」というのは、愚の骨頂。たとえて言えば、「石炭から石油へ」という時代変化のときに、「石炭が売れないで倒産や失業が発生するなら、国民に石炭を強引に買わせればいい。そのために引換券を渡せ。費用は血税で」というようなものだ。無駄の発生。
 では、どうすればいいか? たしかに、資本主義社会には、リスクを負担する資本家が必要だ。誰かが株主にならなくてはならない。一方、日本は、貧富の差が少なく、資産家はあまりいない。いるとしたら、高齢者だが、高齢者は、リスクの低い預金を選ぶのが賢明だ。
 ここで、「国民全員が資本家になれ」というのが前述の珍案だ。しかし、それは、どう考えてもおかしい。
 私の提案は、こうだ。
  ・ 巨額資金の株主になる資格は、専門知識のある、投資のプロしかいない。
  ・ 巨額資金をもつのは、預金をたらふく集めた銀行と年金基金しかない。
 だから、この両者が株式投資をするように、制度を整えるべきだ、と考える。また、その株式投資は、なるべく「平均株価を買う」つまり「全株を買う」という形にするべきだろう。これなら、投資家の判断ミスによる被害が生じない。
 しかし、である。現実は、私のこの提案とは、逆の方向に進んでいる。銀行の持ち合い株の禁止だ。── これはこれで、一理ある。しかし、持ち合い株ではなく、「平均株価を買う」という形であれば、銀行に許容するべきだ、と私は考える。
 そもそも、銀行の仕事は、何か? 国民から金を集めて、投資に回すことだ。とすれば、直接融資であれ、株式投資であれ、銀行としての役割には違いはないのだ。単に「ハイリスク・ハイリターン」であるか否かの差だ。実際には、銀行融資は、「ハイリスク・ローリターン」になっている。それが不良債権というものだ。
 株式市場対策については、根本的に考え直す必要がある。「株価が下がったから、国民に強引に買わせよう」なんていう、猿並みの浅知恵では片付かないのだ。

 (3) 土地デフレ対策
 「土地価格下落に対策を」という社説。(読売・朝刊 2002-09-23 )
 上記の「株式対策」にせよ、この「土地対策」にせよ、同根である。「これが問題だから、これに対処せよ」というわけだ。しかし、そんな個別の対策をいくらやっても、モグラたたきである。一つをたたけば、他のところが出てくる。キリがない。全部シラミつぶせにやれば、社会主義経済になる。
 個別対策をいくらやってもダメなのだ。総需要が縮小しているときには、何か一つを処置しても、その分、別のところにひずみが出る。たとえば、土地の価格を上げれば、資産家は「価格が上がった」と喜ぶので、消費を増やすが、一方、土地購入予定の一般国民は「価格が上がった」と悲観するので、貯蓄を増やして消費を減らす。資産家の消費は増えるが、非資産家の消費は減る。差し引きして、チャラになるか、悪化だろう。
 資産価格は、いくら上昇しても、富の増大を意味しない。売り手が1億円を得すれば、買い手が1億円を損する。── そういう経済原理もわからず、単に「資産インフレを起こせ」と主張するのが、経済音痴のエコノミストやマスコミだ。右手を見て、左手を見ない。右手で得して、左手で損したとき、「得した得した」と勝手に喜ぶ阿呆。
 大切なのは、資産デフレ対策でもないし、個別の振興策でもない。マクロ的な総需要の拡大だ。つまり、消費性向の上昇だ。この本質を理解しない限り、いつまでたっても不況脱出は不可能だろう。
 現在の不況は、問題の大きさを意味しているのではなくて、人々の愚かさを意味しているだけだ。二股路で、「天国はこちら」と矢印が記してあるのに、あえて「地獄行き」と矢印のある方を選ぶ。そして、「こちらが天国行きだ」とデタラメを言い張る。
 勝手に地獄に堕ちなさい。だけど、私を道連れにしないでほしいね。


● ニュースと感想  (9月25日)

 9月23日b9月24日の続き。「通貨統合」について。
 香港で「ドル・ペッグ制」(香港ドルを米ドルに連動させる固定レート制)の存廃をめぐって議論が沸いているという。(朝日・朝刊・経済面 2002-09-24 )
 ここでは「固定レート制」が議論となっているが、よく考えると、これは「通貨統合」とかなり似た話だ。「固定レート制」≒「通貨統合」というふうにも考えられる。
 固定レート制がどういう問題を引き起こすかは、南米などの経済破綻を見てもわかる。(たとえばアルゼンチン。) 自国経済が弱体化したなら、平価引き下げを実施するべきなのだが、そうしないと、実質切り上げをしたのと同じことになる。楽な生活をできるが、赤字が蓄積する。そしてあるとき、もちこたえられなくなり、破綻する。(借金人生はいつか破綻する、ということ。)
 通貨統合も、同じ効果がある。ある国の経済が弱体化したなら、平価を引き下げて、一国全体の実質賃金を切り下げ、同時に、職場を増やすべきだろう。それができずに失業に悩んでいるのがドイツだ。

 通貨政策には、次の意味がある。
  ・ 金利の変動を通じて、投資と消費の比率を変動させる。
  ・ 為替レートの変更で、対外的な通貨の価値を変動させる。
 単なる固定レート制は、後者をつぶす。通貨統合は、両者をともにつぶす。ドルペッグ制は、通貨統合に近い。(金利も米ドルの影響を受ける。)
 ここで、考えよう。その国独自の通貨政策を行えないとしたら、問題はあるか? ある。なぜなら、その国独自の消費性向(の変動)が発生することがあるからだ。たとえば、ドイツだけで消費性向が低下する、というふうな。そして、消費性向の変化を、経済的に補正するには、通貨政策が必要だ。通貨統合は、それを不可能にする。そこに問題がある。
 なお、米国では、各州で消費性向の変化があっても、国全体では問題は起こらない。それは、米国の各州が完全に一体化されているからだ。人々は移動の自由や転職の自由が完全に保証されている。となると、欧州でも通貨統合を成立させるには、米国と同様のことを実現することが必要だ。── それはつまり、言語の統合だ。言語の統合があれば、文化も統合され、地域が完全に一体化する。そこでは通貨の統合も可能だ。……しかし、そんなことに、意味があるのか? また、可能なのか? たとえば、独語や仏語や伊語をすべて廃止して、英語に統一する、ということが? どう見ても、無意味だし、不可能だ。
 通貨統合というのは、理念ばかり先走って、現実に足がついていないのである。経済学的には、まったくの暴挙だ。それはちょうど、南米諸国が「ドルペッグ制」を取ったすえに経済破綻を起こすのと同様である。

 [ 付記 ]
 通貨制度を捨てた上で、なおかつ経済を安定させる方法は、あるか? ある。それは、「タンク法」だ。金利の調整をしなくても、増減税で調整できる。総量も調整できるし、また、「均等減税」「投資減税」などを組み合わせることで、投資と消費の比率も調整できる。
 ただし、難点もある。「決定に時間がかかる」ということだ。とはいえ、これは、「ID口座」を使えば、解決する。( → 2月28日b
 問題は、実現が困難だということだ。「タンク法」も国民への理解が必要だし、「ID口座」も同様だ。ユーロが曲がりなりにも経済を安定させるとしたら、この方法を取るしかあるまい。
 なお、それができたとしても、金融政策の有効性が消えるわけではない。金融政策は、やはり、あった方がよい。その意味で、通貨統合は、あくまで暴挙である。理想を信じたはての暴走。
 しかも、本質的に言えば、通貨統合をすると、タンク法もまた制約を受ける。たとえば、「タンク法の減税」にしても、「ドイツ国民だけに、タンク法の減税」という具合には行かない。それは、通貨を増発して、その通貨発行益を、ドイツ国民だけが享受するということになるからだ。当然、他の国から、反発が起こる。かといって、他の国でも同様のことをすれば、他の国がインフレになる。インフレは、過剰消費を意味して、将来の過少消費(=デフレ)をもたらす。
 結局、通貨統合をすると、国別の通貨政策が使えなくなる。どうしようもないわけだ。やはり、通貨統合をするなら、その前に「賃金水準の統合」をする必要がある。そして、「賃金水準の統合」を、高賃金・高所得であるドイツが拒むのであれば、通貨の統合も拒む必要があるわけだ。(実際には、そうしないから、その矛盾が、失業の増大という形で噴出するわけだ。)


● ニュースと感想  (9月25日b)

 時事的な話題。ここ一週間ほどの新聞記事から、落ち穂拾い。……メモふうに、いくつか列挙する。[ (1) 〜 (3) は、朝日・朝刊・経済面 2002-09-13 ]

 (1) 量的緩和
 「国債買いオペの増額」という主張に対して、「国債を日銀に買ってもらって、資金を得ても、また国債を買うだけ」という都銀幹部の意見が紹介されている。
 良い指摘だ。つまりは、いくら買いオペをしても、資金は金融市場をぐるぐる回っているだけだ。では、それは、何を意味するか? 資金は、投資には向かわないということだ。これが肝心だ。
 マネタリストは、ここを勘違いしている。「量的緩和をすれば、投資が増える」と思い込んでいる。ここ数日、述べてきたように、「貯蓄 → 投資」という流れが阻害されているときには、そんなことは成立しないのだ。こういうときは、いくら量的緩和をやっても、金は投資には向かわず、滞留するだけなのだ。つまり、「貯蓄と投資とのギャップが広がるだけ」なのだ。
 これが経済学的な基本だ。こういう基本原理を理解できないまま、机上の空論ばかりで、「貨幣数量説」などを持ち出すマネタリストが多いのは、まったく困りものだ。

 (2) 戦争と景気
 イラクとの戦争開始が予想され、景気悪化の見込み、とのこと。
 もっともな話である。平和は利益になるが、戦争は損失になる。すでに原油価格が高騰しているので、日本もその分、富が流出したせいで、大損していることになる。回戦になれば、さらに損失が発生しそうだ。
 ここで思い出すのは、湾岸戦争(1990)だ。1990年に急速な景気悪化があったのは、バブル崩壊のせいだけではない。「戦争開始」によって消費心理が急激に冷えた、という事実がある。
( ※ 湾岸戦争。── 1990年、イラクのクウェート侵攻。91年1月、米軍の空爆開始。日本は 130億ドルの戦費支出。その分、増税。)
( ※ 戦争が景気刺激効果をもつのは、それによって物資の補給が必要なとき。イラク相手では、さして物資補給は必要なかったから、米国では、軍事需要による景気刺激効果は、ほとんどなかった。)

 (3) IT不況
 富士通がまたリストラ。昨年の今ごろも、そっくりな記事が出ていた。( → 2001年8月30日2001年9月30日c
 当時は、これでカタが付いたはずだった。しかし残念ながら、底なしのようだ。
 なお、当時の経済学者の多くは、「2002年夏には米国景気が回復するから、日本も景気が良くなる」と楽観していた。(たとえば、経済財政白書。 → その要約 ファイル
 現実には、そうならない。「今が悪ければ、明日は良い」とはならず、「今が悪ければ、明日も悪い」となる。経済学者の信じる「景気循環」というものは成立しない。好況は必ずつぶれるが、不況はつぶれるとは限らず、持続しやすい。そういう非対称性がある。( → 9月08日c 。理由はその少し前。)
 楽観はしない方がいい。 (2) のこともあるから、さらに悪化していく可能性も高い。

 (4) 企業の利益向上
 公共事業の好況企業の入札資格を変更。売上高よりも収益性を重視して、優良企業と見なして、優遇するようにする── という国土交通省の方針。(読売・朝刊・1面 2002-09-15 )
 これはつまり、「企業の収益性が悪化しているなら、収益性重視へと、経営態度が変わればいい。そのために、制度を整えよう」というわけだ。
 馬鹿げた話だ。「企業の収益性が悪化しているのは、経営態度のせいだ」と思い込んでいる。なるほど、均衡状態なら、そうだろう。しかし、不均衡状態(需給ギャップがある状態)では、そうはならない。
 企業が赤字覚悟で受注しているのは、そうしたくてそうしているわけではない。やむにやまれず、そうしているのだ。「赤字をめざす」のではなくて、「赤字の最小化をめざす」わけだ。
 そういうことも理解できず、「需給ギャップ発生」という本質も見抜けず、単に表面だけを見て、「収益性のいい気業を優遇すれば、収益性のいい企業が増える」と思い込む。マクロ経済音痴。

 (5) オマケ
 上の (4) の続きで、悪口を言っておこう。マクロ経済音痴は、政府だけではない。経済学者も、多くはそうだ。

  ・ 「投資が不足しているなら、資金供給の量を増やせばそれで解決する」

    ……無意味なことをしようとする。
  ・ 「投資が不足しているなら、投資する企業を優遇すればそれで解決する」
    ……「マイナスの実質金利」によって、状況を強引にねじ曲げようとする。
       市場を歪め、非効率な事業を推進し、多額の無駄の発生をめざす。

 こういうことを、経済学者もやろうとする。政府とは、五十歩百歩である。そのいずれも、「不況の本質」つまり「消費不足」という状況を見抜けない。核心を突くかわりに、付け焼き刃のような対症療法ばかりめざそうとしている。あまりにも非本質的。

( ※ たとえ話。冬になると、寒気が入り、部屋は冷えました。そこで経済学者は主張しました。「寒気に対抗するため、暖房せよ」と。しかし、肝心の「窓を閉める」ということをしなかったので、いくら暖房をしても、ちっとも効果はありませんでした。無駄に燃料が浪費されるばかりでした。なのに経済学者は、こう主張しました。「暖房が利かないのは、暖房が足りないからだ。もっともっと暖房を強めよ」と。しかし、ちっとも効果がありません。── それを見た南ちゃんが、「部屋が冷えた根本原因を解決するべきです。窓を閉めるべきです」と言いましたが、一切、無視されました。政府も経済学者も、口をそろえて、「もっと暖房を強めよ」と叫ぶばかり。……これを称して、「底抜け政策」と呼ぶ。)

 (6) 政府の目標
 政府が目標を変更。「2003年度にデフレ脱却」という目標があったが、状況は悪化するばかり。2002年度も物価上昇率のマイナス幅が見込みよりも拡大。とても目標の達成は覚束ない。地価の下落率も、収まるどころか、バブル後最大幅。(朝日・朝刊・3面 2002-09-20 )
 政府もやっと自らの愚かさに気づいたようだ。現実に直面して。……ただし、自らの愚かさに気づいても、するべきことがわからないのは、相変わらず。最近はまた「不良債権処理」なんて言い出しているようだ。そんなことが効果があるのなら、とっくにデフレは解決しているはずだ。
 デフレの本質は、生産が増えないこと。その理由は需要が増えないこと。……これが核心だ。貨幣や銀行制度ばかりをいじっても、実際の生産額を増やさなくては、どうしようもない。真実を見ない限り、いつまでたっても、愚かさからは脱却できない。
 なお、勤労者世帯の可処分所得(7月分)は、昨年同月比で 5.3% 減少。(同じく4面の記事。)……こういう現実に対処しない限り、不況からはいつまでたっても脱却できない。あと十年続くかも。


● ニュースと感想  (9月25日c)

 【 予告 】
 明日からふたたび、修正ケインズモデルの話。これまでは、均衡状態の区間の話だったが、今度は、不均衡状態の区間の話。


● ニュースと感想  (9月26日)

 区間 BM のにおける状態は、すでにあれこれと説明してきた。
 さら、区間 BM のにおける状態を、考えよう。これには、二つの場合がある。つまり、
   ・ 区間 BM の左下の状態
   ・ 区間 BM の右上の状態
 の二つだ。本項では、前者について考えよう。(後者については、数日後。)

     修正ケインズモデルの領域の図(詳細)

 「区間 BM の左下」というのは、つまりは、「下限均衡点以下」ということだ。生産量が非常に縮小した状態である。具体的には、「不況」と考えてよい。
 そして、それが具体的にどんな状態であるかは、すでに詳しく説明してきた。つまり、
 「消費性向が 0.8 → 0.7 というふうに低下することで、需要の縮小が発生し、それにともなって需給ギャップが発生する。すると、スパイラル的に生産が縮小していく(収束点 A に近づく)」
 ということだ。

 さて。では、なぜ、そうなるのか? 
 緑色領域について述べたことを思い出そう。消費性向が 0.8 〜 0.9 であるとき(区間 BM の中にあるとき)は、その範囲内で消費が増減しても、問題は起こらなかった。それは、消費の増減を、投資の増減が補ったからであった。たとえ消費が減っても、その分、投資が増えた。だから、たとえ一時的に需給ギャップが生じても、需給ギャップを解消することができた。つまり、均衡を保つことができた。
 では、なぜ、消費性向が 0.8 〜 0.9 であるとき(区間 BM の中にあるとき)は、均衡を保つことができるのに、消費性向が 0.8 よりも低いとき(区間 BM の外にあるとき)は、均衡を保つことができないのか? 
 それは、「貯蓄 → 投資」という資金の流れが頭打ちになるからだ。たしかに、貯蓄が拡大すれば、投資が拡大する。しかし、そういうふうに釣り合うのも、一定の範囲内のことだ。あまりにも貯蓄の拡大が大きいと、投資の拡大がもはや追いつけなくなる。(金利がゼロとなった状態。「流動性の罠」の状態。)
 そして、投資の拡大のできる最大幅は、下限均衡点に近づくにつれ、小さくなる。下限均衡点よりも左下では、もはや投資の拡大を追加できる余地はない。貯蓄がさらに拡大すれば、その増えた分がそのまま貯蓄増加となる。かくて、下限均衡点以下では、貯蓄の増大(消費の縮小)が、そっくりそのまま発現する。そして、そのあとは、スパイラル的に状況が悪化していくわけだ。

 図で言えば、こうだ。区間 BM のでは、消費性向が少し下がって、「 C = Y−I 」という直線上から、「 C < Y−I 」という領域に移っても、そこはまだ緑色領域である。一時的には需要不足が発生するが、金融政策で投資「 I 」を増やすことで、需給ギャップを解消できる。しかるに、区間 BM の左下では、消費性向が少し下がって、「 C = Y−I 」という直線上から、「 C < Y−I 」という領域に移ったとき、金融政策で投資「 I 」を増やすことができないので、需給ギャップを解消できない。(だから金融政策でなく公共事業で投資「 I 」を増やせ、というのが、ケインズ派の主張。)

 とにかく、核心を言えば、こうだ。
「区間 BM の中では、(需給の)均衡状態であり、そこでは、消費が縮小しても、投資の拡大で補える。しかるに、区間 BM よりも左下では、もはや金融政策が無効なので、消費が縮小すれば、ただちに需給ギャップが発生する。そしてそれがスパイラル的に悪化する」

 [ 付記 ]
 本項で述べたことは、これまでのまとめふう。このあと、さらに、下限均衡点以下の場合について、いろいろと考えるので、ここでいったんまとめておくわけだ。
( ※ 詳しい話は、以前の箇所を参照。 → 9月16日9月17日


● ニュースと感想  (9月26日b)

 「日銀による銀行株式購入」について、9月21日に 【 追記 】 を記しておいた。( → 該当箇所 ) 


● ニュースと感想  (9月27日)

 「言論の自由」について、9月22日b の最後に 【 追記 】 を記しておいた。( → 該当箇所 ) 


● ニュースと感想  (9月27日b)

 「縮小均衡」について。
 前項で述べたことで肝心なのは、「下限均衡点以下の場合、水色領域( C < Y−I )では、需給ギャップがただちに不況のスパイラルを発生させる」ということだ。
 では、下限均衡点以下の場合だとしても、「 C < Y−I 」という水色領域ではなく、「 C = Y−I 」という直線上にいるときは、どうなのか? それについて考えてみよう。

     修正ケインズモデルにおける景気悪化の図

 前にも示した図をふたたび示す。これは「景気悪化の過程」を示す図だ。この図から、次のことがわかる。
  1.  最初に B にいたあと、需要の縮小にともなって、B の真下の点に移行する。
  2.  その点(B の真下)から、45度線の上の点に移行する。
  3.  同様のことを何度か繰り返して、スパイラル的に左下に移る。最終的には、収束点 A に行きつく。
  4.  収束点 A に行きつくのにともなって、需給ギャップは解消する。
  5.  需給ギャップがなくなるので、(需要に比べた)過剰生産はなくなるが、経済はどんどん縮小しているので、(生産能力に比べた)遊休設備はかえって増える。
 このうち、1. 〜 3. は、すでに述べたことだ。 4. 5. は、本項で新たに示した。
 この「収束点 A 」という状況に注目しよう。これは、「縮小均衡」の状態だ。ここでは、
 特に、不況の二大問題である「倒産」「失業」に着目すると、次のようになる。
 どうして、こういう差が出るか? それは、「倒産した企業は消えるが、失業者は消えない」からだ。企業は、いったん倒産してしまえば、消えてなくなる。だから、新規の倒産が出なくなれば、それで片付く。しかし失業者は、そうは片付かない。いったん失業した労働者は、消えてなくなるわけではないから、新規の失業が発生しなくなったからといって、それで済むわけではない。(失業者を皆殺しにするならともかく。)
 つまり、「倒産」「失業」という、不況の二つの問題のうち、「倒産の発生」という問題は解決したし、「失業の発生」という問題も解決したが、失業者は残るから、失業率が高いという問題は解決しない。また、設備の稼働率も大幅に下がっていて、生産性は悪化していて、賃金も下落したままである。(低生産・低賃金・低所得・低支出における、低レベルの均衡状態。それが縮小均衡だ。)
 結局、「縮小均衡」というのは、需給の面についてだけ言えば「均衡している」(45度線の上にある)と言えるが、それだけなのだ。そこは決して好ましい状態ではないし、むしろ、一刻も早くそこから脱しなくてはならない状態なのである。
 「ここは均衡点だから、これでよし」と思う経済学者が多いのだが、実際には、そんなことはないのだ。どん底というのは、最善ではなくて、最悪の地点なのである。
( ※ このことは、「均衡点と収束点」の違いとして述べた。 → 8月04日

 [ 付記 ]
 本項で述べたことは、「縮小均衡はすばらしい」という意見への批判である。「縮小均衡だって、均衡の一種なのだから、不況よりはマシだろう」と思う人がいるが、そうではないのだ。それはいわば、「病気になって体重が1キロだけ減るより、病気が非常に悪化して体重が 20キロも激減して安定する方がマシだ」という考え方だ。
 単に増減だけを見て、絶対的な値を見ない。── それは臆病者の思考なのである。
 「不況が底打ちした」という状況を見ると、マスコミは喜びたがる。とんでもない話だ。「不況が底打ちした」という状況は、単に「変化の過程における最悪の状態(収束点)になった」ということを意味するだけだ。「最悪に達するまで、変化を放置し、無策のままだった」ということでもある。
 「不況が底打ちした」という状況は、「不況が解決した」ということを意味するわけではない。「不況が底打ちしたぞ、だから先行きは薔薇色だ」ということにはならない。単に縮小均衡状態に達したということを意味するだけであり、その先の回復はまったく約束されていないのだ。そのことを理解しよう。
( ※ つまり、「景気循環」は成立しないわけだ。 上がれば下がるが、下がっても上がらない。 → 9月08日c )

  【 追記 】
 「縮小均衡」と「左点」の関係を示そう。
 実は、「縮小均衡」について知るには、修正ケインズモデルを使うよりは、トリオモデルを使った方がいい。その方が、本質がよくわかる。
 トリオモデルにおける「左点」の状況が、「縮小均衡」なのである。( → 8月04日8月06日 の (2)
 「左点」では、需給の均衡は、一応成立している。しかしそれは好ましい状況ではないのだ。「失業者が残る」という問題もあるが、そもそもの話、「均衡を得るために、供給を削減する」というのが、根本的におかしい。
 「均衡」というものは、至上命題ではない。このことに注意しよう。経済学者は、「均衡」というものをありがたがる。しかし、「均衡」をありがたがるのは、経済学者だけだ。なぜか? 「均衡」というのは、「経済が制御しやすい」もしくは「放置しても大丈夫」ということを意味するにすぎない。それは(国民にとっての)良し悪しとは別のことなのだ。
 具体的に示そう。左点とは、多くの会社が倒産したり、多くの設備が廃棄されたりして、もともと存在した供給能力が失われた状況だ。いわば、金持ちが貧乏人に落ちぶれた状況だ。国で言えば、不況の先進国から、好況の途上国になった状況だ。……そして、前者よりも後者の方が好ましい(不況の国より好況の国が好ましい)、ということはない。単に前者よりも後者の方が制御しやすいというだけのことだ。大事なのは、制御のしやすさではない。国民の絶対的な富だ。年収 500万円から 400万円に減るのは残念なことだが、年収 50万円から 60万円に増えるのよりはマシだ。(前者は日本、後者は中国。)……結局、貧しくなるか否かが問題なのではない。貧しくあるか否かが問題なのだ。
 「縮小均衡が好ましい」という意見は、ここのところを誤解している。単に「貧しくなる」ことだけを恐れて、そのせいで、「一挙に貧しくなってしまえ。そうすればもうこれ以上は貧しくならない」と主張する。ほとんど狂気である。
 縮小均衡は、(たとえ均衡が成立しても)、好ましくない。そして、そんなことは、経済学を捨てて、常識を持てば、簡単に理解できることなのだ。「物が売れなきゃ、設備を廃棄してしまえ」「そのあと物が売れたら、また設備を増やせばいい」なんていうのは、「穴を掘って埋める」というのと同様に(逆順だが)、損得無視の錯乱思考なのである。── にもかかわらず、こういう錯乱思考を、経済学者の多くは信じる。彼らは「均衡」という言葉を妄信するあまり、現実を見失ってしまっているのだ。

( ※ 「縮小均衡」と「下限均衡点」との違いについて説明しておこう。「縮小均衡」が、「均衡」の一種だとしたら、「下限均衡点」よりも下の点で均衡が成立することになる。これは、おかしいだろうか? 実は、おかしくない。「下限均衡点」というのは、「供給を削減しなければ」という前提にもとづく「下限」である。つまり「正気を保っている」という前提にもとづく「下限」である。……この前提を捨てて、「正気を失い狂気になれば」という前提にもとづくのであれば、他の均衡は、いくらでも得られる。そして、その最悪の状態は、原爆で一挙に国土を廃墟にすることだ。国土が一挙に廃墟になり、国民が一人もいなくなれば、需要も供給もゼロという状態で均衡する。あるいは、数年後に、誰かが漂流して、一人で自給自足して、需給が均衡する。こういう均衡もあるのだ。凡庸な経済学者ならば、「おお、それはすばらしい、だったら均衡を得るため、原爆で国土を廃墟にしよう」とか、「そうやって極限的に小さな縮小均衡を実現しよう」とか、勝手に主張するだろうが。)

 [ 余談 ]
 上記の 【 追記 】 の余談を示しておく。「不良債権処理」との関連だ。
 「縮小均衡」というんは、「供給能力の破壊」を意味して、狂気の一種である、と上で述べた。そして、「不良債権処理」というのも、この種の狂気の一種なのだ。
 「ダイエーや地方銀行などは、劣悪企業だから、倒産させてしまえ」という供給削減策がよく言われる。しかし、である。それらの劣悪企業を倒産させたあとで、景気が回復したとして、それで好ましいだろうか? 実は、生き残った企業が新たに設備投資をすれば、そこでは「いったん捨てた物を、また作り直す」という形で、莫大な無駄が発生するのだ。
 はっきり言おう。好況であれ、不況であれ、劣悪な企業は存在するのが当然なのだ。しかるに、「ちょっとでも劣悪なものは、どんどん倒産させてしまえ」なんていうことをやったら、莫大な無駄が発生する。仮に、そんな意見が成立するとしたら、多くの国で、企業の5%ぐらいを倒産させなくてはなるまい。だが、そんなことをしている国は、どこにもない。そんなことをやったら、社会的な大混乱が発生する。「劣悪な企業を強引に倒産させる」なんてことをやっている国は、世界中のどこにもないのだ。
 なのに日本だけが、そういう主張に従って、多くの企業をつぶそうとする。(たとえば銀行をどんどんつぶそうとする。) まったく、狂気的だ。
 この狂気を妄信して、「不良債権処理」というのを進めて、生存可能な企業を次々とつぶせば、どうなる? 能率の低い企業は消えるが、かわりに、能率ゼロの失業者が蔓延するだけだ。
 このことがわかりにくいかもしれない。そこで、注釈しておく。「能率の低い企業は消えればいい」というのは、「その経営資源が他の優良企業に吸収される」という場合だけだ。つまり、不況でない場合だけだ。不況のときは、劣悪な企業が消えると、「能率ゼロの失業者」と「効率ゼロの遊休資金」だけが残る。それらは有効に使われることはないのだ。好況のときには成立することも、不況のときには成立しないのだ。
 かくて、不況のときに、無理に企業を倒産させることで、状況は一挙に大幅に悪化するわけだ。
 そもそも、常識を働かせよう。劣悪企業で低賃金をもらうのと、失業して無給になるのと、どちらが社会の効率を上げるか? 常識があれば、すぐにわかる。しかし今の日本は、常識のない狂人ぞろいだから、「ややマシ」という状況を拒んで、最悪の奈落に突き進もうとしているわけだ。


● ニュースと感想  (9月28日)

 「貯蓄のパラドックス」について。
 「貯蓄 → 投資」という資金の流れがある、とすでに示した。このことに関連して、いわゆる「貯蓄のパラドックス」について説明しよう。
 「貯蓄を増やす」つまり「消費を減らす」ということは、何を意味するか?
 両者の違いは、「貯蓄 → 投資」という資金の流れが、うまく進むか否かによる。それは、均衡状態ならば ○ (うまく進む)であり、不均衡状態の不況ならば × (うまく進まない)である。
 結局、不況のときは、「貯蓄 → 投資」という資金の流れが、うまく進まない。だから、貯蓄を増やせば増やすほど、消費は減る。しかも投資がそれを補えない。だから、需要は減る。そのあげく、景気悪化のスパイラルに乗って、経済が縮小し、貯蓄もまた減る。……かくて、「貯蓄のパラドックス」となるわけだ。

 「貯蓄のパラドックス」は、以上のように説明される。ただし、これは、修正ケインズモデルでのみ説明可能だ、ということに注意しよう。 ケインズのモデルでは、「消費性向の低下」を表示しないから、うまく説明できない。古典派のモデルでは、そもそも「貯蓄のパラドックス」という概念がない。(常に均衡が達成されるから。)
 ただし、ケインズは、言葉によって、「貯蓄のパラドックス」を説明した。とはいえ、どのようなときにそれが発生し、どのようなときにそれが発生しないかは、説明できなかった。しかし、修正ケインズモデルを使えば、モデル的にうまく説明することが可能である。 …… (*

( → 2月17日 「貯蓄のパラドックス」)
( →  9月08日b 。「不況期に貯蓄が増えるどころか減っている」という現象が、現実において見られる。理論だけでなく。)

 [ 付記 ]
 すぐ上で述べたように、「貯蓄のパラドックス」が、現実において見られる。そして、このことは、マネタリズムの説(ゼロ金利時にも量的緩和が有効だ)が正しくないことを示している。
 理由は、次の通り。
( ※ 以下は、論理が複雑すぎて、理解しにくいかもしれない。一言で本質を示せば、こうだ。「量的緩和はゼロ金利のときにも有効だ」という説は、「貯蓄のパラドックスなんか成立しない」という説と同値であり、それは現実との矛盾を起こす。……このことを論理的に精密化したのが、以下の一連の論理展開だ。面倒なら、読まなくてもよい。)
 かくて、第1項を仮定することで、(現実との)矛盾が導き出された。ゆえに、第1項の仮定は、間違いである。(背理法)── つまり、「ゼロ金利のときに、量的緩和は有効だ」というマネタリズムの主張は、間違いである。
( ※ この矛盾は、論理矛盾ではなくて、「現実と不整合」という意味の矛盾。)

 [ 補足 ]
 「貯蓄のパラドックス」は修正ケインズモデルでのみ説明可能だ、と述べた。
 しかし、従来の経済学においてもも、「貯蓄のパラドックス」を説明するモデルはある。ただし、そのモデルは、ケインズの示したモデル(修正ケインズモデルの元になったモデル:需給ギャップを示すモデル)とは、まったく別のものである。
 実は、このモデル(「貯蓄のパラドックス」を説明する従来のモデル : 教科書に書いてある)は、不正確なものである。このモデルによれば、「貯蓄のパラドックスが起こったあと、交点 A に落ち込むこと」(そこに収束する)は、説明できる。しかし、「貯蓄のパラドックスが起こらないこと」、つまり、「不況でないとき(均衡状態)には、貯蓄の増加が投資の増加をもたらす」ということが、うまく説明できない。(なぜなら均衡状態における生産の変動をうまく説明できないから。) また、「弱い均衡状態から、不均衡状態へ」という過程の変化も、うまく説明できない。……そういう難点がある。この件は、上記の (*) と関連する。
 だから、こういうモデルは、あるにしても、ほとんど意味がない。だから私としては、特に紹介しない。
( ※ モデルというものは、あれこれといくつも持ち出すべきではない。説明が錯綜して、わかりにくくなるだけだ。貯蓄の増加も、消費の縮小も、実質的に同じことなのだから、いちいち別の図を用いるべきではない。物事は統一的に説明するべきであって、場合ごとに別の理論や図を持ち出すのでは、ご都合主義になってしまう。)


● ニュースと感想  (9月29日)

 時事的な話題。「大胆減税を」という読売新聞社の提言。(朝刊 2002-09-28 )
 小泉政権の批判をして、「構造改革や不良債権処理なんかはダメだ」と述べているのは、正しい。マスコミにしては珍しく、正鵠を射た意見だ。批判としては、おおむね正しい。
 しかし、提言は、ピンボケである。以下、列挙する。
  1.  減税の規模が小さすぎる。減税の規模は、15兆円程度(最低でも12兆円)が必要だ。これ以下では、不足。規模の小さい減税は、一時的な気休めにしかならない。それで、少しは回復途上に乗るが、ふたたび景気悪化して、あとには財政赤字が残るだけだ。(この十年間、何度も繰り返した通り。理論は → 9月04日
  2.  「需要不足が原因」と原因分析しているくせに、「投資促進」を主張する。しかし、「需要不足」とは、「供給過剰」である。そんなときにどこの企業が、「投資」つまり「供給能力の拡大」をめざすのか? 自分で自分の主張を理解していないようだ。論理矛盾。
  3.  そもそも、投資促進の根本を理解していない。「投資促進」には「金利の引き下げ」というのが大原則だ。これのみが正当かつ有効であり、他は不当かつ無効だ。「金利の引き下げの余地がない」というのが論者の意見だろうが、「金利の引き下げの余地がないほど、金利が下がっている」というのは、「投資意欲がない」ということなのだ。こういうときには、「法人税減税」とか「投資減税」などを実施しても、企業は投資なんかしない。( → 後述の [ 付記 ])
  4.  減税と増税の負担者が問題。「企業に減税して、消費者に増税」というのでは、効果がまったく減じる。「投資意欲を掻き立て、消費意欲を縮小させる」というのでは、方向が正反対だ。「投資よりも消費を増やすべき」なのだ。需要不足・供給過剰のときは。
  5.  財源が問題だ。「課税最低限の引き下げ」などを財源としているが、これでは「貧者から富者へのプレゼント」だ。消費性向の高い低所得者ほど、課税されることになる。だいたい、「課税最低限の引き下げ」というのは、根拠が薄い。そもそも、消費税増税のとき、「逆進性を緩和するために課税最低限を引き上げる」というふうにしたはずだ。「課税最低限の引き下げ」を実施するなら、消費税を廃止するのが筋だろう。……そもそも、税は総合的に見るべきであって、所得税だけとか、消費税だけとか、そういうふうに単独で見るべきではない。「所得税と消費税」で見れば、低所得者もちゃんと応分に税を払っているのだから、「課税最低限の引き下げ」という形で特に低所得者に増税するのは、筋が通らない。
  6.  財源は、「将来の増税」よりも、「将来の物価上昇」の方が好ましいのだ。これなら、増税なしで実施できる。しかも、景気回復効果は、ずっと大きい。だいたい、「将来の増税」にこだわるから、小幅の増税(3兆円程度)しかできないのだ。「将来の物価上昇」でまかなうことにすれば、増税の必要がないから、15兆円の減税も簡単に実施できる。( →  2月22日 以降の「タンク法」)
  7.  「証券・土地の減税」は、ほとんど意味がない。株価や地価が下落しているのは、買う魅力がないからであり、税制のせいではない。たとえば、多少減税されたとして、それで買う気になれますか? そもそも、本体の価格は、景気の変動で、数割の幅で変動する。こういうときに、土地や証券の減税でたった1%程度の減税をして、効果があると思うのか? 計算能力がないのだろうか? ( ※ 証券・土地は、資産だ。資産価格の変動は、景気変動を増幅させることはあるが、逆方向に進めることはない。税制の改変は、ほとんど意味がない。)
 今回の提言は、まったくのデタラメと言うほどではないが、「正解」からはほど遠い。こんなことをやっているようでは、日本経済は、いつまでたっても、泥沼から抜けきれない。
 正解は? 何度も言ったとおり。「タンク法による大幅減税」である。だいたい、経済学的な根拠もなしに、素人の思いつきだけで提言しても、ろくに効果は計量されていないし、効果は期待できないのだ。

 [ 付記 1 ]
 やたらと「投資促進」をめざす政策がある。「法人税減税」「投資減税」もそうだし、「マイナスの金利」もそうだ。しかし、このような政策は無効だ。なぜか?
 もともと消費が縮小しているときは、企業は、まず、稼働率を上げて、遊休設備を減らそうとする。設備が遊休しているときに、投資なんかする企業はない。
 だから、めざすべきは、まず、消費の拡大である。それによって、設備の稼働率を上げて、設備不足の状況をつくりだすことだ。設備不足になれば、いちいち政府が投資減税などをしなくても、企業は自分で喜んで投資をする。
 たとえ話を示そう。(設備を水にたとえる。)馬に水を飲ませようとしたら、馬はたらふく水を飲んでいて、腹がいっぱいなので、水を飲まない。そこで飼い主が、「水飲み減税」というニンジンをやろうとした。しかしいくらニンジンで釣っても、馬は水を飲まない。「がぼがぼなのに、どうして飲めるんだ」と馬は不平を言った。そこで南堂は、「馬の喉が渇く状況が必要だ。根本が大事」と主張した。しかし他の人々は、「水飲み減税」と騒ぐばかり。また、マネタリストという一派は、こう主張した。「馬が水を飲まないのは、水が足りないからだ。水がいっぱいあれば、馬は水を飲む。馬の前に、水をたくさん置けばいい。量的緩和!」と。しかし結局、馬は水を飲まない。
 教訓。馬を水辺に連れていっても、馬に水を飲ませることはできない

 [ 付記 2 ]
 「法人税減税・投資減税」については、「景気回復のためではなく、企業活力の向上のため」という名分もある。しかし、これはおかしい。
 だいたい、あれやこれやと「おんぶにだっこ」のような過剰な世話焼きをしてやる必要が、どこにあるのか? そんな世話焼きをしてもらえないと自立できないような無能な企業を助けることが、どうして「企業活力の向上」になるのか?
 だから、結局、企業優遇には、「金利の引き下げ」だけあれば十分なのだ。(金利の引き下げができないほど金利が低下しているときは、投資優遇そのものが無意味である。上述。)
 なお、「法人税減税・投資減税」の両者を、個別に言うと……
 (1) 「投資減税」は、こういう形で「マイナスの金利」をつけることは、「一人立ちできない自立困難な超劣悪企業を助成する」ということだ。愚の骨頂だし、「企業活力の向上」とは正反対となる。
 (2) 「法人税減税」は、そもそも赤字企業が続出しているときには、意味がない。これでは不況対策にはならない。「優良企業が伸びればいい」と言うのかもしれないが、富士通やらソニーやら、ほとんどの企業が赤字化しているときに、優良企業なんていうものはほとんど限られている。必要なのは、「優良企業だけが伸びる」ことではなく、「すべての企業が優良になること」なのだ。そうでなくては、日本経済は立ち直れない。だいたい、一部の数パーセントの企業が、他の大部分の企業を吸収するなんて、現実的にありえないことだ。理論倒れ。妄想。


● ニュースと感想  (9月30日)

 「縮小均衡と左点」について、9月28日の最後に  【 追記 】 および  [ 余談 ] を記しておいた。( → 該当箇所 ) 


● ニュースと感想  (10月01日)

 本項の記述は、順序の都合で、10月05日 の箇所に移動した。 → 該当箇所


● ニュースと感想  (10月02日)

 時事的な話題。(予定を変更して、本日は時事ネタ。)
 政府が内閣改造。柳沢金融相を更迭して、竹中経済相が兼任。前者は、公的資金投入に批判的だったが、後者は公的資金投入に意欲的。政府は方針を転換。これに対して、「不良債権処理が進む」と歓迎する向きが多い。米国や一部のエコノミストがそうだ。一方、「短期的には不良債権処理によってデフレが悪化する」という批判もある。(朝刊・各紙 2002-10-01 )
 こういうニュースを聞いても、よく理解できない人が多いだろう。それはそうだ。言っている本人(政府など)が、自分で何を言っているか、まるでわかっていないからだ。そこで、解説しておこう。

 (1) 公的資金投入
 まず、「公的資金投入」と「不良債権処理」とは、関係がない。なるほど、不良債権処理を進めるには、原資が必要だ。その原資が足りなくなりかけている。だから、不良債権処理を進めるには、公的資金が必要だろう。
 しかし、公的資金を投入したからといって、不良債権処理が進むわけではない。必要条件と十分条件を勘違いしてはいけない。
 そもそも、不良債権処理が進まないのは、「原資不足」のせいではない。「やるべきではない」から、やらないだけだ。
 報道されているように、バブル破裂のときの不良債権処理は、もうとっくに済んでいる。現在、次々と不良債権が増えているのは、デフレのもとで新たに不良債権が増えているからだ。こういうときに、「不良債権処理」を進めれば進めるほど、不良債権は増えていく。だから、銀行は、不良債権処理をあまりすすめないわけだ。

 (2) ペイオフ
 ペイオフとの関連も肝心だ。
 「銀行経営が危なくて、銀行が倒産しそうだから、公的資金を投入する」という意見がある。これなら、まあ、わかる。金融システムの保護のためというのは、預金を直接的に保護する(倒産した銀行の資金を政府が支払う)というのよりも、効率がいい。
 しかしである。政府は一方で、「ペイオフ実施」と言明している。その理由は、「劣悪な銀行を淘汰するため」である。
 となると、一方では、「公的資金を投入しよう。劣悪な銀行を保護しよう」と言って、他方では、「ペイオフを実施しよう。劣悪な銀行を淘汰しよう」と言っているわけだ。完全に矛盾している。
 いったい、どちらなのか? 現状では、「両方」である。つまり、「ペイオフを実施して、銀行をどんどん倒産させよう。ただし倒産するとまずいから、銀行にどんどん公的資金を投入しよう」というものだ。最悪。狂気。
 正解は、この反対である。「ペイオフを実施しない。銀行はやたらと強引に倒産させない。強引に倒産させないから、公的資金を投入する必要もない」だ。

 (3) 不良債権処理
 不良債権処理との関係では、どうか? 
 そもそも、不良債権処理は、するべきではないのだ。不良債権処理の推進論者でさえ、「短期的には、不良債権処理は、デフレを悪化させる」と述べている。だったら、短期的には、今すぐ不良債権処理をするべきではないのだ。それは緊急の課題ではない。「長期的には不良債権処理が必要だ」と思うのならば、長期的に実施すればいい。つまり、数年後に実施すればいい。
 実は、不良債権処理については、そうするのが最適なのである。つまり、「不況期にはやらず、不況を脱したあとにやる」というわけだ。
 「不良債権処理」というものの本質を理解していない人が多いので、示しておこう。「不良債権処理」というのは、好況期にのみ、実施するべきなのである。好況期とは、需給の均衡が成立している状態だ。市場原理が成立している状態だ。そういう状態では、劣者が退出して、その分、優者が伸びる。かくて市場における優劣が交替していき、市場全体の効率が向上する。つまり、古典派の主張するとおりになる。── ただしそれは、均衡状態の場合だけだ。
 不均衡状態(不況)のときは、どうか? 不均衡状態とは、需給の均衡が成立していない状態だ。市場原理が成立していない状態だ。そういう状態では、劣者が退出しても、その分、優者が伸びることはない。単に劣者が増えて、その劣者のせいでさらにれっさやが増殖する(デフレスパイラルだ)。かくて市場における優劣が交替するどころか、劣者の増殖のみが起こり、市場全体の規模が縮小する。つまり、古典派の主張するとおりにならない。
 この違いを理解することが大切だ。なのに、たいていの論者は、理解できない。「不況のときも、好況のときと同じさ。市場原理が働いて、優勝劣敗になる」と信じ込む。
 彼らは経済学というものをまったく理解できないのである。中学生レベルの「需給曲線」というものを知って、それだけですべてが解決できると思い込んでいる。頭のレベルが中学生レベルなのだ。そして、こういう中学生並みの阿呆ばかりが経済を運営しているから、日本の景気はどんどん悪化していくのである。
 「不況のときは、市場原理が成立せず、合成の誤謬が発生する」── こういう大学生並みの知識を、日本のエコノミストが理解するのに、あと何世紀かかるだろうか? 
( ※ 日本だけでなく、アメリカのエコノミストも同様だ。特に、悪名高いIMFがそうだ。阿呆ばかりが経済を運営する。利口は排除される。── これを「悪貨は良貨を駆逐する」と称する。なるほど。)

 (4) 原因
 政府があれこれと見当違いな政策を遂行しようとするのは、なぜか? それは、そもそも、不況の原因を理解できていないからだ。
 今の不況は、物が売れないからだ。生産力が不足しているからではない。実際に、あちこちの会社では、設備の稼働率が低下しており、設備は余剰である。労働力も、人手不足ではなく、失業者があふれている。── 原因は、需要不足(消費不足)であって、供給不足ではないのだ。
 これが原因だ。この本質を知ることが大事だ。そして、このことを知れば、対策もわかる。つまり、「消費を増やすこと」である。
 ところが、政府のやろうとしていることは、何か? 「法人税減税」「投資減税」「雇用促進の補助金」とか、「不良債権処理や公的資金投入で、銀行の投資余力の向上」とかだ。さらにまた、「量的緩和で投資資金の供給を増やす」というのもある。……いずれも「投資を増やすこと」である。つまり、「供給能力を増やすこと」である。
 馬鹿げている。完全に、見当違いのことをやっている。はっきり言おう。これは、デフレ対策ではなくて、インフレ対策だ。インフレのときなら、投資を増やして、供給能力を増やすことが大切だ。そうすれば、一時的には投資が需要となって物価上昇が起こるが、中期的には供給能力の拡大でインフレが沈静する。しかるに、デフレの最中に、「供給能力の拡大」なんてのを実施しようとするのは、完全に見当違いである。そんなことばかりやろうとしているから、景気はますます悪化していくのだ。
( ※ 竹中は「サプライサイド」を自称している。こんなのが経済を運営するから、ますますひどいことになるわけだ。ついでに言えば、「サプライサイド」というのは、「市場原理ですべてうまく行く」だから、「不況はこの世に存在しないはずだ」ということになる。「自分の説では不況を説明できない」と述べるべきなのに、謙虚でなく尊大だから、「自分の説では説明できないものは存在しない」と強弁する。かくて、デフレ対策を求められたときに、インフレ対策を実施して、ますます景気を冷やすわけだ。)

 [ 付記 ]
 ピンと来ないかもしれないので、肝心かなめのこととを、一言で示しておこう。
 「不良債権処理」とか「サプライサイド」とか、そういうのは、「古典派」の処方である。古典派の処方は、不況でないときには正しい。ところが、今は不況である。だから、根本的に間違いなのである。
 たとえて言えば、古典派の処方は、「常に解熱剤を飲ませよ」というものだ。なるほど、それは、景気が過熱したときには、有効だ。不良債権処理をするべきだし、優勝劣敗を進めるべきだし、市場原理を信じるべきだ。しかるに、景気が冷えたときには、そういうことは、効果があるどころか、逆効果があるだけなのだ。有益ではなく、有害なのだ。
 今の日本では、古典派経済学者が、自らの領域からはみ出して、他の領域にまで食い込んでいることだ。「常に解熱剤を飲ませよ」という処方を、凍えて死んでしまいそうな人に施す。体温の下がった人に、さらに体温を下げようとする。まったく、メチャクチャである。
( ※ こういうメチャクチャは、過去にもあった。世界大恐慌のころ、各国はそろって「保護主義」に走った。そのあげく、貿易が縮小し、世界経済全体が縮小していった。これもまた「合成の誤謬」に似ている。歴史は繰り返す。今もまた、正しい政策と信じて、正反対の間違った政策を実行しているのである。)

 [ 補足 ]
 「不良債権処理」に関しては、「公的資金投入」のかわりに、「RCCで高値買い上げ」という意見もある。
 しかし、これは論外である。これは銀行に現金をプレゼントするのと同じことだ。だったら、公的資金投入で、株券と交換する方がマシである。株主責任も問われるからだ。
 


● ニュースと感想  (10月03日)

 前日の続き。3件。(予定を変更して、本日もまた時事ネタ。)

 (1) 不良債権処理
 朝日新聞の社説から引用。(2002-10-02 )
 「不良債権問題の根っこには、『銀行は必要な処理を先送りしている』という不信感がある。それが経済の先行きに対する不安を呼び、低迷の遠因になっている。私たちが、日本経済再生の最優先項目不良債権の処理を掲げるのはそのためだ」
 なるほど。「不良債権処理を急げ」という意見の根拠がわからなかったが、これでわかった。「経済の先行きに対する不安を呼び、低迷の遠因になっている」。こういうことだ。
 つまり、それは単なる精神的な不安を呼び起こすだけであり、単に遠因になっているだけなのだ。たとえば、「明日は空が落ちてくるのではないか」とか、「明日は関東大震災が起こるのではないか」とか、「来年はブッシュがイラクに侵攻するのではないか、それでコストを日本にツケ回しするのではないか」いうのと同様に、「先行きに対する不安を呼び、低迷の遠因になっている」だけなのだ。実にまあ、迂遠な理屈づけである。
 彼らはどうして正直に言えないのだろう。「不良債権が景気悪化の原因になるとは、うまく言えません。経済理論では説明できません。漠然とそう思っているだけなんです」と。つまり、「私は経済学音痴なんです」と。
 では、経済学をまともに使えば? 簡単だ。次の通り。(背理法。)
 これが経済学というものだ。このくらいのことは、初歩的な知識として、理解してもらいたいものだ。特に、マスコミ(朝日など)は、デタラメをふりまくのも、いい加減にしてもらいたいものだ。
 なお、こういう悪口に対しては、反論も出るかもしれない。しかし、反論するより前に、まず、自説をちゃんと述べるべきだろう。「不良債権処理をする経済学的な理由は、これこれだ」と。そういう論理も出せずに、単に「不安を払うため」と述べるだけでは、非科学的だし、雨乞いと同じだ。)
( ※ ついでに述べておく。不良債権処理の目的は、投資の増大であって、消費の増大ではない。なぜかと言えば、「不良債権があるせいで、個人消費が増えない」なんてことは、ありえないからだ。なお、その逆ならば、ある。つまり、「不良債権処理が進むと、失業するかもしれない。だから、不良債権処理が進むなら、消費を減らさなくっちゃ」と思うわけだ。それが正常。かくて、不良債権処理が進めば進むほど、景気は良くなるどころか、悪化する。……ただ、「短期的にはそうなる」というのは、論者もわかっているようだが、長期的にもそうなるのだということを、彼らはわかっていない。 → 前日分の記述。)

 (2) 資産デフレ対策
 「株価が下落すれば、銀行の自己資本比率が低下して、BIS規制が守れなくなる。だから、資産デフレ対策をして、株価を上げよ」という主張。(読売新聞・朝刊・投書面コラム「論点」 2002-10-02 )
 一応、もっともな意見に見える。しかし、論理が倒錯している。
 たしかに、銀行の自己資本比率を上げないと、金融システムが揺らぐ。しかし、それだったら、「公的資金の注入が必要だ」というのと、同じではないか。
 「公的資金の注入」というのをやめて、かわりに、「株式市場に資金を注入する」(そうして株式を人為的に高値に釣り上げる)というのでは、後者の方がはるかに害悪が大きい。前者は、銀行の資本状況を歪めるだけだが、後者は一国の株式市場全体を歪めてしまう。
 論者は言うかもしれない。「いや、株式を国が買い占めるということではない。単に株価を上げよと言っているだけだ」と。しかし、どうやって株を上げるのか? 次の二つしかない。
  (a) 国が強制的に株を買い占める。(日銀の買い占めと同様。)
  (b) 景気を回復させて、経済そのものを立ち直らせる。
 このうち、(a) はダメだ。となると、(b) しかない。それならそれで、「景気を回復させよ。そうして資産デフレを解消させよ」と述べるべきなのだ。それなのに逆に、「資産デフレを解消させて、景気を回復させよ」と述べている。これは、論理が倒錯している。
 資産デフレの解消は、直接の目的ではない。倒産の解消も、失業の解消も、不良債権の解消も、株価下落の解消も、直接の目的ではない。直接の目的は、「景気回復」だけだ。そして、それがなされれば、他のすべては解決するのだ。倒産も、失業も、不良債権も、株価下落も、それらを直接的に解消させようとして、強引な資金注入などをすれば、経済を歪めて、かえって悪影響が起こるばかりなのだ。
( ※ たとえて言おう。風邪を治すのならば、風邪のウイルスを退治することが必要だ。表面的な症状だけを抑えようとして、解熱剤などを飲めば、かえってウィルスが繁殖して、病状を悪化させる。……そして、こういうことに気づかない素人が、表面の症状にとらわれ、「熱を下げれば風邪は治る」と誤解して、「不良債権処理」やら「株価対策」やら、対症療法を取りたがるのである。)(同じ話は、前にもしたことがある。二番煎じ。)

 (3) 法人税減税
 「日本の法人税は高い」という説がある。しかしこれは、詭弁である。だまされないように注意しよう。
 もしそれが正しいのであれば、「法人所得税を減税し、個人所得税を増税する」という結論となる。しかし、それで片付くのか? 
 本当のことを言おう。税は、「法人所得税と個人所得税」の二つだけがあるわけではない。直接税(所得税)以外に、間接税(特に消費税)がある。これが肝心だ。
 消費税は、おおざっぱに言えば、企業と消費者が半々で負担する。直接の支払いは消費者が行なうが、企業は「売上げ減少」を避ける「値下げ」の形で損することによって間接的に税を支払う。
 だから、税率だけを見て、「日本の法人税は高い」と主張するのは正しいとしても、その結論は、「法人税を下げて個人所得税を上げよ」ではなくて、「法人税と個人税を下げて消費税を上げよ」つまり「直間比率を変更せよ(直接税を減らして間接税を増やせ)」であるのだ。
 だから、「法人税を下げ、個人に均等減税をして、かわりに消費税を上げる」というのであれば、論理が通っているし、私としても賛成する。
 しかるに、「法人税だけを下げよ。個人税を上げよ」なんてのは、ダメだ。不況(個人消費縮小)のときに、そんなことをすれば、とんでもないことになる。
 今の政府も経済学者も、論理を無視して、とんでもない詭弁ばかりをふるっている。彼らは「直接税と間接税」という区別すら理解できない。単に「直接税」という狭い領域のなかだけを見て、日本と外国とを比較する、というデタラメをやっている。
 よく考えてみるがいい。日本の企業は、本当に租税負担率が高いか? そんなことはありえないはずだ。日本は世界でも名うての低福祉国家である。低福祉・低負担だ。こういう国は、租税負担率が低い。また、企業と国民との間の比較で言っても、長年、労働分配率の低さが話題になってきた。国民が働いた富は、労働者には分配されずに、企業に内部留保されるばかりだった。となれば、国民は仕方なく、消費を減らすしかない。だから、不況は、ある意味、当然なのだ。
 単に税だけを見てもダメなのだ。もっと総合的に理解しなくてはいけない。
 
 [ 余談 ]
 たとえ話。
 日本の経済学者は、「企業を優遇せよ。国民の富を取り上げよ。そうすれば企業は強くなる」と主張しました。それを聞いた政府と企業は、労働者への給与を激減させ、ほとんどの富を企業が独占しました。企業は莫大な利益を得て、大喜び。「すごい利益だ。日本企業は世界最強だ」と自画自賛しました。……しかし、翌月、給料をもらえなくなった労働者は、消費ができなくなったので、何も買えなくなり、企業の売上げは激減しました。企業はすべて倒産してしまいました。
 「不思議だな。大幅に利益を得たし、企業は最強になったのに、どうして倒産したのだろう?」と企業は不思議に思いました。
 「当たり前ですよ」とヒゲもじゃの経済学者が答えました。「マクロ経済学を知ればいい。国全体を見てごらんなさい。給料っていうのは、労働者に与えるコストであるだけでなく、消費者が受け取る所得でもあるんです。国民は、労働者であるだけでなく、消費者でもあるんです。だから、労働コストを減らせば、所得も減る。そういうこと。それがわからなけりゃ、子供並みの猿知恵。」
 「そうか。目先の利益を追って、企業の体力を強めようとすると、長期的にはかえって、企業の体力が弱まるのか。個別企業が自分だけの利益を追うと、国全体ではかえって利益が減るのか(*)」と手を打ちました。「マクロ経済ってのは、たいしたもんですね。もっと早く教えてくれればよかったのに」
 「教えてましたよ。『小泉の波立ち』というページの、本日分に書いてありますよ」と告げました。「問題は、読んでから、理解できるかどうかですね。猿と古典派エコノミストは、マクロ経済を理解できない」

( ※ 注記。「個別企業が自分だけの利益を追うと、国全体ではかえって利益が減る」(*)というのは、市場原理が成立しないことを意味する。市場原理は、均衡状態では成立するが、不況という不均衡状態のときには成立しない。このことは、後日、詳しく述べる。なお、前にも言及した。 → 8月10日
( ※ ついでだが、「個別企業が自分だけの利益を追えば、自動的にすばらしい状態になる」と思う人は、19世紀の古い資本主義社会に戻った方がいい。資本家が極端に富を独占し、労働者は貧困だった。中産階級が存在せず、購買力がなく、経済はろくに成長しなかった。……そして、今、同じように古臭い考えをする人々が出てきている。それが「法人税減税」だ。こんな1世紀前の時代遅れの考え方が出てくると、ふたたびマルクスが墓から呼び出されるようになりそうだ。)
( ※ 最後に悪口を一発、かましておこう。── 朝日や読売や各種のエコノミストたちよ。あなたたちは1世紀前の経済学を信じている。「19世紀経済がすばらしい、日本をその状態に戻そう」なんていう時代錯誤なことは言わないでほしい。「個人消費をゼロにして、企業の売上げをゼロにすれば、日本企業は強力になる」なんてことはありえないのだ。弱まっているのは、ミクロ的な企業体力ではなくて、マクロ的な総需要だ。経済学のイロハぐらいは、知っておくべし。── ま、猿には、何を言っても無駄だろうが。)


● ニュースと感想  (10月04日)

 前日の続き。(予定を変更して、本日もまた時事ネタ。)

 (A) ペイオフ延期
 「ペイオフ延期へ」という報道。(朝日の特ダネ。朝刊・1面 2002-10-03 )
 朝日の特ダネというのは、ときどき間違うことがあるから、どこまで信用していいかはわからないが、一応、正しいと見なしておこう。
 「ペイオフ延期」というのは、正しい方針であるから、好ましい。実現するとすれば、長く迷走したあとで、ようやく、落ち着いたわけだ。これまでを振り返ると、
  (1) 当初は 2002年度から開始の予定。
  (2) 1999年12月末に「1年間延期」と変更。
  (3) 「特別な個人当座預金を除外して実施」という方針にするが、猛反発。
  (4) 内閣改造を名分に金融相を更迭して「ペイオフ延期」へ。
 ずいぶん迷走したものだ。
 さて。ここで、裏話を教えよう。(3) の、銀行の猛反発を喰らった時点で、小泉は「ペイオフ延期」を決断したはずだ。というのは、もはやこの時点では、ペイオフは実質延期が決まっていたからだ。単に普通預金の分類上の名称を「特別当座預金」に切り替えるか否か、という程度の差にすぎなかった。ただし、ここで「ペイオフ延期」と口にすると、「君子豹変」と文句が出る。で、金融相を首切りするかわりに、「内閣改造」という形を取ったわけだ。「死体を隠す最適の場所は? 死体のたくさんある戦場だ」というセオリー( by チェスタトン)に従って、金融相のクビを多くの大臣のクビのなかにまぎれこませたわけだ。何とも、手間暇かけることだ。

 さて。ペイオフ延期を決めたのは、今というこの時点だ。私は1年も前から言っていたのに、ぐずぐずしていていた。そうして時間を無駄にして、最後のせっぱ詰まったところまで来て、ようやく決まった。── 何ともまあ、愚鈍なことか。これでは、他の分野も、同じようになりかねない。つまり、「景気対策をようやく始めるのは、日本が恐慌になりかけたとき」というふうに。ひょっとして、手遅れになるかも。
   [ クイズ ]  小泉の退陣と、日本経済の破滅は、どちらが先か? 

 (B) 不良債権処理のチーム
 不良債権の関連記事もあった。(同日。)
 政府は不良債権処理のチームに、強硬な推進論者である木村剛を迎えるらしい。とにかく、政府は不良債権処理路線を、ばく進。これを受けて、株価は暴落。9000円割れして、バブル後の最安値。日銀の株価購入による上昇分を、一人で食いつぶしてしまったことになる。
 木村剛は、日銀出身。母体を裏切っているような感じだ。
 なお、木村剛がなぜ不良債権処理の強硬な推進論者であるかと言うと、(前日冒頭に述べた)朝日のような「不安心理」云々のせいではない。「帳簿主義」のせいだ。「帳簿をきれいにすれば、景気もきれいになる」というわけだ。「経済は帳簿で動く」という帳簿主義。( → 第2章
 日銀にいるマネタリストは、たいてい、こう考える。「すべてはマネー」とか、「すべては帳簿」とか。

 なお、同日の経済ベタ記事によると、量的緩和により、マネタリーベースは、前年度比 21%(15兆円)の増加。
 つまり、マネーをどんどん増やしているのだが、いくらマネーを増やしても、景気は少しも良くならず、悪くなるばかり。だから、「量的緩和が足りないからだ」という説がまったく成立しないことが、ここでもわかる。彼らの説が正しいとすれば、たとえば、こうなる。
「15兆円の量的緩和により、0.1% だけ景気が良くなった。だから、景気回復効果を 20倍(2%アップ)にするために、15兆円でなく、その 20倍の量的緩和をすればよい。つまり、300兆円の量的緩和を」
 となる。それなら、理屈になる。しかし現実には、量的緩和をしても、景気は悪くなるばかり。マネタリストの考え方というものは、こういうものだ。
 そして、「不良債権処理」の推進というのも、同様である。木村剛にせよ、量的緩和論者にせよ、メチャクチャな方針で日本を逆推進させようとしているのは、マネタリストなのだ。彼らは常に、「マネー、マネー」と叫ぶ。貨幣妄信論者。経済というものを貨幣だけでとらえようとする。
 ついでだが、これに比べれば、竹中のような素朴な「サプライサイド」の方が、まだマシかもしれない。理論は空っぽでも、狂信はしていないからだ。マネタリストは、理論が精密だが、狂信をしている。「貨幣は神様だ」という一種の信仰だ。

 (C) 不良債権処理の解説記事
 不良債権処理の解説記事が、朝日に出た。おおまかに引用しよう。(朝刊・解説面 2002-10-03 )
 「不良債権をかかえたままだと、銀行は有望な企業にも融資を増やさないので、投資が増えない。だから不良債権処理が必要だ」
 という主張。もちろんこれは、間違い。
 「銀行は有望な企業にも投資を増やさない」なんてことはない。有望な企業には、こぞって貸し出しをしている。問題は、有望な企業が非常に数少ない、という点だ。つまり、総需要が縮小していて、国全体ではマクロ的に売上げの増加が見込めない点だ。……こういうマクロ経済のイロハも理解できない、愚かな記者たちが、記事を書く。(詳しくは、前日分の「背理法」を参照。)

 不良債権処理について「当面はマイナス面ある」とも述べている。これも、わかっているようでいて、わかっていないようだ。「当面はマイナス面だけがある」というのが正しい。プラス面は、まったくない。なぜなら、「金利ゼロ」という状態は、「投資需要の増分がゼロだ」ということを意味するからだ。いくら銀行が貸し出しをしようとしても、企業が借りてくれない。「投資が増える」というプラス面は、皆無なのだ。(それが「金利ゼロ」という状況だ。)
 もう少しはっきり示そう。「不良債権処理のせいで銀行の貸し出しが増えない」というのであれば、特定の優良な銀行だけで不良債権処理を進めればよい。たとえば、城南信金とか、東京三菱とか。これらの銀行で不良債権処理を進めて、かつ、自己資本比率を向上させる。あとは、これらの優良銀行が、どんどん貸し出しをすればよい。それで済むはずだ。他の銀行はすべて貸し出し停止してしまっても構わない。……で、そうなるか? ならない。たとえ優良銀行が貸し出しできても、肝心の企業の方に、融資を受けて投資する気がないからだ。ここが根本なのだ。この論理からしても、「不良債権処理で投資増大がなされる」という理屈が間違っている、とわかる。
( ※ 市場原理というものを考えてみるがいい。たとえば、自動車の生産が激減しているとする。ここで自動車の供給を増やすには、あらゆる自動車会社に資金注入する必要はない。特定の優良な1企業だけで増産すれば十分だ。……ただし、自動車の需要が激減していなければ、の話だが。)

 記事では最後に、「思い切った不良債権処理を進めれば、日本経済は長年の重荷から解放される」と述べている。まったく、呆れた話だ。これは「空から金が降ってくる」という理屈だ。財源をまったく無視している。
 財源を考えるといい。不良債権処理に無駄な金をかければ、その費用は、空が負担するのではなく、国が負担する。国とは、国民だ。だから、結局、不良債権処理の費用を、増税によって国民が支払うことになる。増税は、所得の減少を意味し、需要の縮小を意味する。── だから、不良債権処理を進めれば進めるほど、マクロ的には需要が縮小して、経済は縮小する。
 「思い切った不良債権処理を進めれば、日本経済は長年の重荷から解放される」なんてことはない。「思い切った不良債権処理を進めれば、銀行は重荷から解放されるが、国民がその重みを肩代わりする」というのが正解だ。
 「不良債権処理には、コストがかかる。数十兆円もの莫大なコストは、誰かが払わなくてはならない」── このことを、記者は理解するべきだろう。まったく、経済学のイロハを知らないだけでなく、常識のイロハも知らないようだ。「金は空から降ってくるわけじゃない」と常識を働かせるべきだ。( → 不良債権物語

( ※ この記事の一番最後では、「[供給拡大策として]これこれなどの景気回復措置を総動員するべきだ」とも述べている。ところが肝心の「総需要の拡大」が抜けている。核心を抜かして、ゴミばかりを列挙している。だから記事自体がゴミになってしまうわけだ。 → 後述の [ 付記 ]
( ※ この記事には、根本的な欠陥がある。それは、「政府の提灯持ちをやっている」ということだ。政府が何らかの政策を打ち出したら、それに対して批判的な解説をするのが、権力チェック機関たるマスコミの役目だ。政府が自己賛美ばかりをしたなら、政府の隠している問題点を列挙するべきなのだ。なのに朝日は、その逆だ。問題点をほとんど示さず、政府の方針を賛美ばかりしている。「コストがかかる」という真実を隠蔽し、「コストがかからない」と虚偽で洗脳しようとする。マスコミの役目を放棄して、逆のことをしている。最低。昔から小泉の腰巾着だったが、いつまでたっても癖が直らない。政府の嘘の片棒ばかりをかついで、国民を洗脳しようとする。北朝鮮の機関誌そっくり。)

 (D) 法人税減税と企業体質
 「法人税減税で、日本企業の体力強化を」という意見がある。これもまた、馬鹿げた話だ。「企業に厳しくして、優勝劣敗を強めることで、体質強化を」と述べるのならば、まだわかる。しかし逆に、「企業を甘やかして、体質強化を」というのでは、話が正反対だ。
 たとえば、スポーツ選手を鍛えるには、どうするべきか? 甘やかして、たらふく食事を与えて、ぶよぶよと太らせればいいか? 逆だろう。厳しくして、節制させて、筋肉質にする必要がある。企業も同様だ。甘やかすだけでは、かえって体質は低下する。
 本質を示そう。日本企業がダメなのは、法人税のせいなんかじゃない。経営が劣悪だからだ。たとえば、日産自動車。官僚的体質でどうしようもなかったのが、外国人社長が来て、経営面が一新した。部品購入でも、それまでの系列重視を廃止して、「良いものをより安く購入」となった。ところが、他の企業は、全然そうなっていない。その最たる面が、「能力主義」が実現していない点だ。優秀な人間が抜擢されず、年功序列や集団主義に埋没してしまう。
 その一例が、中村修二だ。ノーベル賞級のすばらしい才能が、日本では生かされず、アメリカに逃げてしまう。日本企業がこういうすばらしい才能を受け入れることができない、ということを、如実に示す。
 彼の著書が店頭に出ているが、それによると、こうだ。日本企業からのオファーはゼロだったので、アメリカで就職するしかなかった。選んだ職場は、「最も高給のところ」ではなくて、「最も仕事の環境の良いところ」であった。
 だったら、日本企業が、もっと良いオファーを提供できたはずだ。しかし、できたとしても、しない。日本企業の体質というものは、それほどにも、前近代的・封建的なのだ。ソニーやキヤノンなどが、「わが社は先端的です」などと自惚れているようだが、冗談も休み休みにしてほしい。だったらなぜ、中村修二を獲得しなかったのか? 自社で莫大な開発費を投じるよりも、ずっと小額の人件費で中村修二を獲得できたはずだ。なのに、そうしなかった。それはつまり、企業体質が劣悪であった(天才を受容できない体質だった)ことを示す。そして、他の企業は、ソニーやキヤノンよりも、はるかに劣る。── こういう劣悪な企業体質を放置しておいて、「法人税減税」しか唱えられないようでは、日本経済のお先は、真っ暗だ。
 ついでに言えば、シンガポールや香港では、もっとずっと「能力主義」が進んでいる。日本はアジアのなかでは、マレーシアやインドネシア並みに劣悪な企業体質なのだ。ここに注目するべきだろう。
 なお、マレーシアやインドネシアでは、企業は、「政府は減税しろ」とか、「国はおれたちに金を寄越せ」とは言わないから、日本よりは、いくらかマシである。「企業に金を渡せ」と叫ぶだけの日本のエコノミストは、たかり主義である。途上国のこじき並みの、最低のノータリンの集団だろう。
( ※ 「企業の体質改善を!」と叫んで、一人で訴訟に立ち向かったのが、中村修二だ。彼の勇気に比べると、たかり主義者たちは、何ともまあ、愚劣な人間性しか備えていないことか。情けない。)

 [ 付記 ]
 では、景気回復の正解は? 
 「不況の原因は、総需要の縮小であり、供給力の縮小ではない」と理解するべきだ。換言すれば、「今は、設備不足で困っているのではなく、設備が余剰となっていて稼働率低下で困っているのだ」と理解するべきだ。つまり、現実を見るべきだ。── そういうことを理解できない人々や記者が、「供給力をもっと増やそう」とするのだ。デフレのさなかに、インフレ対策をやって、状況をさらに悪化させるわけだ。
 たとえば、企業は、「体質強化」のために、どんどんリストラして、生産性を高めようとする。それで個別企業の体質強化は進むが、マクロ的には失業者が発生して、状況はますます悪くなる。こういうことを理解するのが、「マクロ経済を理解する」ということだ。なのに、古典派のエコノミストは、それがわからない。「個別企業が強化されれば、日本全体も強化されるはずだ」と誤信している。「合成の誤謬」という言葉も理解できないのだろう。
 ついでに言えば、「合成の誤謬」というのは、「総需要縮小」つまり「需給ギャップの発生」という状況で発生する。だから、正解は、まずこの状況を解消することだ。そして、この状況を解消すれば、あとは、政府がいちいち企業の歩行を助けたりしなくても、自動的に経済は正常に進んでいく。

  【 追記 1 】
 政府や経団連会長は、「デフレ対策を(するぞ・せよ)」と述べているが、これも、「供給改善」という勘違いのことを述べている。「構造改革・財政改革・規制緩和・体質改善」など、いろいろ述べているが、すべて見当違いのことだ。
 必要なことは、ただ一つ。「総需要の拡大」だけだ。そして、この本質を理解できないから、いつまでたっても不況は解決しない。個別企業の体質改善ばかりを考え、国全体の経済を考えない。マクロ経済音痴が、日本経済を破壊する。

  【 追記 2 】
 なぜ不良債権処理は、好ましくないか? その本質を考えよう。
 不良債権処理をしても、一見、悪くはないように思える。というのは、30兆円で不良債権処理をしても、30兆円の効果はあるから、特に損失が発生したわけではない、と見えるからだ。「30兆円払って、30兆円の効果を得た」というわけだ。しかし、そうではない。
 減税と比較しよう。減税ならば、同様の理屈は成り立つ。「30兆円の減税をすると、国家財政に 30兆円の赤字が発生する。これは問題だ」という主張もあるが、そんなことはない。政府は 30兆円の赤字でも、ちょうど同額だけ、国民は黒字になる。国全体を見れば、チャラであり、ちっとも損失は発生していない。(得も発生していない。)
 不良債権処理は、そうではない。30兆円を投入して、30兆円の帳簿上の赤字を解消したとする。それで、帳簿はきれいになる。しかし、それだけだ。「政府の帳簿で 30兆円を減らして、銀行の帳簿で 30兆円を増やす」というふうにして、30兆円を、帳簿から帳簿へ移転させるだけだ。国全体を見れば、状況はちっとも良くなっていない。
 ただ、良くなってはいないが、悪くなってもいない。だから、純然たる帳簿上の処理だけならば、やってもやらなくても同じであり、プラスもマイナスもない。しかし、である。話は帳簿だけでは済まないのだ。なぜなら、帳簿上の処理にともなって、「会社の清算」が起こり、すると、次の二つの事態が発生するからだ。
 (1) 倒産・失業
 「倒産・失業」という事態は、不況のとき(需給ギャップがあるとき)には、失業者が吸収されないので、純然たる損失をもたらす。なぜなら、失業者が残れば、「生産効率ゼロ」の人々が増えるからだ。
 不良債権処理にともなって、企業の方は「倒産で片付く」と言えるが、人間の方は「倒産で片付く」とは言えないのだ。ゆえに、不良債権処理をすればするほど、失業者の増加にともなって、国全体の生産効率は低下していく。
 つまり、減税と違って、不良債権処理は、純然たる損失を発生させるのだ。それも、莫大な規模で。(失業率が5%上がれば、国全体の生産は5%減る。それは莫大な損失だ。企業で言えば、普通の営業利益がすべて吹っ飛ぶ勘定だ。)
 不良債権処理は、マクロ的には、純然たる損失を発生させる。このことに留意しよう。── ただし、統計上では、この損失は、なかなか露見しない。なぜなら、統計上の「労働生産性」では、「失業者の生産ゼロ」の分は、勘定に入らないからだ。
 結局、「不良債権処理」を進めて、「生産性の向上」をめざすと、統計上の生産性(雇用者の分だけ)はいくらか上昇するが、実質的な生産性(国全体の分)はどんどん低下する。もちろん、総所得・総生産も、どんどん低下する。純然たる損失。
( ※ 失業率は、「自発的失業」に勝手に分類される分も含めると、かなり高率である。就職できなかった新卒者や、既婚婦人や、高齢者は、「自発的失業」に分類される。これらの人々は、本来、就職して生産活動ができた。なのに、遊ぶしかない状況は、非常にまずい。国全体の効率低下。)
 (2) 組織価値の解消
 会社という組織がなくなれば、会社のもっていた価値もなくなってしまう。技術・ブランド……そういったさまざまな蓄積が一挙に消えてしまう。所有する設備も大幅に価値を減らして投げ売りされる。
 たとえば、不良債権処理で、マイカルをつぶすと、あとには 7000億円ほどの赤字が残った。もともとマイカルがもっていたブランドとか組織力とかは、ほとんど消えてしまった。莫大な損失の発生だ。
 では、もし不良債権処理をしなければ? たとえマイカルの経営が劣悪だとしても、毎年、赤字の利子程度を払って、3年間持ちこたえさせたとしよう。ゼロ金利のもとでは、利子もゼロ程度で済む。コストはかからない。そして、3年後に、不況が完全に解消したあとで、マイカルを他の小売業(ヨーカドーなど)に売却する。……こうすれば、マイカルを非常に高い値段で売ることができる。無駄も発生しない。
 つまり、不況の解決したあとなら、不良債権処理をしても問題がないし、むしろ、不良債権処理を進めるべきなのである。そうして「劣悪企業から優良企業へ」という変化(経営資源の移転)を進めるわけだ。均衡状態では、それが可能である。
 しかるに、不況のときには、それができない。劣悪企業は、優良企業に吸収されることなく、単に消えてしまう。劣悪だとしてもゼロではなかった企業価値が、ただのゼロになってしまう。このとき、莫大な損失が発生するのである。
 不良債権処理の推進論者は、このことに気づかない。「不良債権処理を進めれば、産業効率が改善する」と信じ込む。しかしそれは、均衡状態でのみ成立することなのだ。そして、「均衡状態で成立することは、不均衡状態でも成立する」と勝手に思い込むのが、古典派エコノミストだ。彼らはそういう妄想にとらわれて、日本経済や企業を、次々と破壊していくのである。狂気の経済改革。
( ※ 小泉は「覚悟を決めよう」と述べた。狂人が覚悟を決めてもらっては困る。必要なのは、覚悟ではなくて、覚醒だ。妄想から目を覚ますことだ。)
( ※ 実例を示そう。ダイエーだ。「ダイエーはどうしようもない赤字会社だから、さっさと不良債権処理でつぶしてしまえ」という声が強かった。もしつぶせば、数兆円の無駄が発生し、その数兆円の無駄を、国民が負担する必要があった。しかるに現在、ダイエーは経営再建を果たしており、自力再建が可能である。国民が再建するかわりに、ダイエーの社員が失業しないで働いたから、再建できた。……これが正常なあり方だ。結局、「不良債権処理を」と叫ぶ連中は、「劣悪なダイエーを倒産させてしまえ」「それで発生する数兆円の赤字は、国民が尻ぬぐいをすればいい」と叫んでいるわけだ。呆れた話。)
  おまけ。
 「セーフティネットを」「政府の保護を」という声もある。「不良債権処理で失業が発生するなら、セーフティネットで失業者を保護しよう。また、経営が苦しくなる中小企業があるなら、政府系の金融で保護しよう」と。
 これこそ、自己矛盾の極みだ。「効率改善のために、劣悪な企業を倒産させよ」と述べて、次々と倒産させ、その尻ぬぐいを、すべて政府がやる。「小額の赤字を出す企業」をつぶして、「巨額の赤字債権」を生む。「10%減収の労働者」をクビにして、「100%減収の失業者」を生む。莫大な赤字をどんどん発生させて、政府がすべて尻ぬぐいする。
 こうすれば、政府部門で莫大な赤字が発生する。しかし、政府にツケ回ししたので、民間部門では赤字が発生しなくなる。それを見て、「万歳! 赤字が解消したぞ!」と大喜び。そういう猿知恵を叫ぶのが、「不良債権処理」論者だ。

  【 追記 3 】
 別件。「量的緩和が無効だ」というデータ。
 銀行の国債保有残高が急増している。8月は、3月に比べて 15兆円増加で、81兆円に達する。あおりで、長期金利は3月の 1.4% から 1.0% 程度に低下。(読売・朝刊・経済面 2002-10-04 )
 つまり、いくら量的緩和をしても無効だ、ということだ。日銀は長期国債をどんどん買い上げるが、それで得た現金で、銀行は、また長期国債を買い直す。国債ばかりが人気になる。融資は少しも増えない。(増えないどころか、減っている。)
 この現象は、「量的緩和は無効だ」(融資は増えない)ということを示すが、同時に、「不良債権処理は無効だ」(融資は増えない)ということをも示す。「不良債権処理をすれば、銀行に融資をする資金の余裕ができる」というのが論者の主張だが、すでに余裕はありあまっているのだ。
 貨幣はジャブジャブある。貨幣を使う人がいない。── それが不況という現象だ。「貨幣を増やせ」という量的緩和論者も、「貨幣の余裕を増やせ」という不良債権処理論者も、本質を見失っているのである。








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