[付録] ニュースと感想 (46)

[ 2003.4.07 〜 2003.4.14 ]   

  《 ※ これ以前の分は、

    2001 年
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       9月22日 〜 10月11日
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      12月28日 〜 1月08日
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         4月07日 〜 4月14日

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● ニュースと感想  (4月07日)

 「経済学とモデル」について。
 「経済をモデル化することこそ、経済学を科学にする」と思い込んでいる人々がいる。そこで、注記しておこう。
 経済現象をモデル化することは、たしかにできる。しかし、だからといって、そのことに特別重要な意味があるわけではない。なぜなら、現実が、そのモデルに従ってくれないからだ。
 物理学のさまざまな現象ならば、法則や公式に現象が従ってくれる。未来の予測もできる。しかし、経済学においては、そうではない。現実がモデルに従ってくれるとは限らない。
( ※ 以上は、すでに述べたとおり。)

 ただ、それでも、「経済をモデル化する」という試みは、あちこちで続いている。それはそれで、まったく意味のないことでもない。少なくとも、論文を書くくらいの役には立つかもしれない。無能な人間がモデルを一つ書いて、それで給料をもらえるとしたら、それはそれで、少しは役に立つのかもしれない。(国民の役には立たないが。むしろ、無駄な金を奪うだけ、国民にとっては迷惑だが。それでも、本人にとっては、大切であろう。大学などの経済学という講座は、無能な人間のための失業対策だと思えば、まあ、それなりに、失対事業ぐらいの有益性はある。)
 というわけで、「経済のモデル化」というのを、少しは考察してみよう。(「物事の本質を探る」ということは脇にのけておいて、とりあえず、モデルごっこをするわけだ。頭の悪い経済音痴でも、生半可な数学知識さえあればできる。……こういう人は、非常に多いしね。)

 (1) 線形的
 二つの変数が線形的に関連しているモデルを作ることができる。たとえば、「金利を下げると、失業率が下がる」というモデルだ。
 「金利が下がると、投資が増える。物価が上昇し、同時に、失業率が下がる」という理屈だ。そこで、「金利」と「失業率」の関係をグラフ上でプロットして、「モデルができました」と示すわけだ。
 これは、正しいようでいて、正しくない。その説明は、「IS-LM」の箇所で説明した。再掲すれば、こうだ。
 「 IS-LM 分析というのは、ごく短期的にのみ成立するのであって、長期的には成立しないのである。グラフで言えば、局所的にのみ成立し、大局的には成立しないのである。」
( → 7月25日 ,7月26日 )

 つまり、こういうことだ。「金利を下げると、失業率が下がる」ということは、ある一時点では(局所的に)成立する。しかし、長い時点を見れば、「金利が低いときには、失業率が低い」ということは成立しない。むしろ、逆だ。「失業率が高いときほど、金利は低い」および「金利が高いときほど、失業率が低い」と言える。
 しかし、だからといって、今度は逆に、「金利を上げれば、失業率が低くなる」と主張しても仕方ない。
 正解は? そもそも、「失業率と金利とを線形的にモデル化しよう」という試みが間違っていたのである。(「 IS-LM 」というのも、この誤りを犯している、と言える。なぜなら、「局所的にのみ成立する」ということが明示されていないからだ。)

 (2) 周期的
 二つの変数が周期的に関連する、というモデルを作ることができる。通常は、一方の変数は、「時間」である。
 「周期的」なモデルとして、前に述べたのは、「景気循環」のモデルだ。しかし、そこに真に周期をなす理由がないのであれば、ただの統計のお遊びにすぎないこともある。
 一般に、あらゆる統計データは、「1/f 揺らぎ」というような変動を帯びがちだ。となると、そういう無意味な変動を見ても、勝手に「周期的だ」と勘違いすることもある。
 はっきりと周期性があると言えるとしたら、「季節の循環」という周期性に関連しているものだ。たとえば、「冬には扇風機が売れずに暖房機が売れ、逆に、夏には扇風機が売れ暖房機が売れない」というふうな。こういう周期性ならば、わかる。しかし、それ以外だと、勝手に統計を誤解しただけにすぎないことも多い。

 (3) カオス
 カオス理論を使えば、「予測が当たらない」と示すことはできる。しかし、「当たる予測法」なんてものができるはずがない。(仮に、予測できるとしたら、それはもうカオスではない。)
 「株価の予測」とか、「競馬の予測」とか、そういうのをカオス理論によってうまくモデル化しようとする人がいるとしたら、何か勘違いしているのだろう。その人がうまくモデル化できるとしたら、株価や競馬について、「予測が当たるため」ではなくて、「予測が当たらないため」なのである。
( ※ 前に述べたとおり。)

 (4) 科学
 科学というのは、「精確に予測すること」と同じではない。「精確に予測して間違うこと」ではなく、「おおざっぱでいいから正しいこと」が大事なのだ。つまり、科学とは、物事の真実を探し出そうとすることだ。
 カオスというのは、真実に到達できない人々が、それなりに真実に近づこうとするための方法だ。たとえれば、盲目の人が、象を撫でるようなものだ。象を撫でて、「こういうものだ」と判断することは、情報の増加を意味するので、それはそれなりに、いくらかは良いことだ。しかし、本当に大事なのは、真実をとらえること、つまり、目を開くことである。それこそが科学の目的だ。
 盲目のまま象を撫でることは、それまで象を撫でることもできなかったことに比べれば、一歩前進である。その意味では、「科学は既存の知識の範囲を少し拡張する」と言える。しかし、「科学の範囲を広げる」ということにはならない。「科学の範囲を広げる」というのは、象そのものを科学の範囲に取り入れることだ。撫でることではないのだ。だから、いくら統計処理して近似的なモデルを作っても、そのモデルは、たいして意味はないのである。事実に対して何らかの見当を付けることはできるようになるし、一歩前進ではあるが、物事の真実そのものをとらえることにはならない。
 物事の真実を捕らえるというのは、隠れていた変数を見出すとか、隠れていた原理を見出すとか、そういうことだ。たとえば、「一見バラバラに見えた多くの事象が、ある変数のもとで統一的に説明される」とか。また、「どうにも関連づけできなかったマクロとミクロが、一定の原理のもとで統合される」とか。
 景気変動にせよ、株価変動にせよ、失業率の変化にせよ、そういう経済学的な変化は、たくさんある。その変化を統計的にいくら調べても、ほとんど無意味であるし、その変化の仕方を、モデルでシミュレーションしても、ほとんど無意味である。
 大切なのは、「どういう原理で発生するか」を知ることだ。その根本的な原理を知ったとき、ようやく、「真実を知った」ことになる。そして、そのとき、「どうすれば状況をうまく制御できるか」ということを理解することもできる。
 ここでは、「精確に間違うこと」よりも、「おおざっぱに正しいこと」が大切なのだ。真実を知るとは、そういうことだ。

 [ 付記 1 ]
 カオスについて否定的に述べたが、もちろん、おもしろい例もある。それは、「小さな初期変動が、あとで巨大な影響をもたらす」という例だ。
 それは、米国の大統領選挙の例だ。米国の大統領選挙制度における小さな変動が、世界全体に途方もない大変動をもたらした。
 2000年、ブッシュとゴアの対決で、票数は接戦となった。最後に、フロリダ州の小さな地方の票数で、左右されることになった。結局、百票程度の差でブッシュが当選したが、実は、後日、再調査の結果、ゴアの方が票数は上だった、と判明した。(決定はひっくりかえらなかったが。)
 ここでは、二つの小さな問題に注目しよう。
 一つは、集計ミスそのものである。上記のように、集計ミスがあった、という現象があった。これは結果である。結果としての小さな変動(票数の違い)が、あとで大きな変動を引き起こした。
 もう一つは、集計ミスの原因である。フロリダ州では、誤差が大きく出る奇妙なシステムを採用していた。単純に氏名を記入するわけでもなく、丸印をつけるわけでもなく、「ペンで押して穴をあける」という投票方法だった。その結果、うまく穴があかなかったり、他人の候補者の欄に穴をあけてしまう、という誤差が、多大に発生した。その規模は数百票。ブッシュとゴアの票差よりも、誤差の票差の方が、ずっと大きかった。そのせいで、最終的に、逆転が発生したわけだ。
 もし普通の投票方法であったなら、こういう誤差は発生しなかったはずだ。なのに、こういう投票方法を取った。つまり、投票方法という方法上の小さな変動が、米国大統領の選出を左右したわけだ。

 で、そのせいで、何が発生したか? ブッシュゆえの結果というものは、いろいろある。特に、最近は、イラク戦争が話題になっている。下手をすれば、石油危機から、世界恐慌になりかねない。
 また、「地球温暖化についての反対」という米国の方針もある。最近、世界規模で異常気象が発生している(たとえば欧州の洪水)が、将来的には、もっと大規模な異常気象が発生して、かつてない莫大な被害をもたらすだろう。それもまた、米国のブッシュのせいである。その最初の原因は、「フロリダ州の投票方法が、穴あけ式か否か」という程度のことにすぎなかったのだ。
 つまり、「北京の蝶々の羽ばたきが米国にハリケーンを引き起こす」のではなくて、「フロリダ州の選挙用紙の穴が、世界に莫大な異常気象を引き起こし、あちこちで人家を水没させる」わけだ。カオス理論そのものだ。
 カオス理論は、そういう変動が「いつどこで」と精確に予測することはできないが、そういうふうに「小さな変動が莫大な結果を引き起こす」という原理については、モデル的に説明できるわけだ。

 [ 付記 2 ]
 なんだか話が大げさに思えるかもしれないが、別に、不思議でも何でもない。たとえば、サイコロやルーレットでは、初期変動のごく微小な差が、結果に大きな違いをもたらす。それと同じことが起こるだけだ。この手のことは、日常茶飯である。
 たとえばの話、恋愛とか結婚とかでは、非常に多くの偶然がからまって、男と女の複雑な関係が出来上がる。「もしあのとき、こっちの道を歩いていたら、別の女性と結婚していたかもしれないな」なんて思うことは、たいていの人にあるはずだ。人はそれを、「運」とか「運命」とか呼ぶ。


● ニュースと感想  (4月07日b)

 コンピュータの話題。「迷惑メール」について。
 zakzak に、興味深い情報があった。
 「迷惑メールには、配信お断りという返信を出すと、そのメールアドレスが無効ではないことが判明する。そこで、そのアドレスが、業者に出回る。だから、次回から、他の名義の配信業者から、どんどん迷惑メールが送られてくるようになる」とのことだ。
 「配信お断りという返信を出したら、そのあと一挙に、迷惑メールが大量に押し寄せてくるようになった」という例もあるそうだ。
 だから、配信お断りという返信を出さない方がよい、という結論。

  【 追記 】
 これは、「無差別配信」がなされるということだから、携帯電話に限った話かもしれない。


● ニュースと感想  (4月08日)

 時事的な話題。朝日新聞の経済記事(小林慶一郎)への批判。(経済面・2003-04-06 )
 前にも書いたが( → 2月06日b )、小林慶一郎というのは、まったくデタラメばかりを書くので困る。最低限、経済学の教科書ぐらい読んでから、書いてほしいものだ。基礎的な知識もなしに、細かな数字と論理ばかりいじると、とんでもない見当違いな方向に突き進んで誤る、という見本だ。自分を利口だと自惚れている人には、いい反面教師になる。それだけが効能だ。
 以下、列挙する。

 (1) 国債が値上がりする(名目金利は低下する)のは、なぜか? 海外に資金を逃避させたくても、円高が続くと予想されるからだ。

 事実と正反対ではないが、完全にズレている。
 第1に、円高であるか円安であるかは、全然関係ない。円高が続こうと、円安が続こうと、事情は同じだ。では、問題は何かと言えば、現状と比較して、「円高になる/円安になる」という点だ。こんなことは、為替問題の基礎知識だ。イロハぐらい、理解してほしい。
 第2に、為替レートだけの問題ではなく、金利の問題もある。たとえ為替レートが変動しなくても、金利が違えば、資金は移動する。
 結局、上記の二点を考慮して、「円レートの変動」と「金利」との両方を考慮して、資金は動く。さらには、「予想が当たらないかもしれない」というリスクもある。
 実は、このリスクが、一番大きい要因だ。国内に資金がある限り、リスクはゼロだ。海外に資金を出せば、非常にリスクは大きくなる。かなり前、金利が非常に低下したとき、日本の余剰資金は、ロックフェラーのビルを購入したり、米国映画会社を購入したりして、海外投資したことがあった。で、その結果は? 大損だ。数パーセントでなく、数割の損失が発生した。数千億円の損失である。こういうリスクがあるのだ。
 普通の企業や人間が、海外に資金を投資するというのは、非常に危険である。一部の玄人筋だけがやるべきだ。彼らが、愚かな素人をカモにする。わざわざカモになるために資金を出すのは、馬鹿げている。基本的に言えば、為替レートはほぼ適切になっているから、あえて海外に資金を投資するメリットは、ない。どうしてもやるなら、大きなリスクを覚悟するべきだ。うまく行けば、小金を儲けるが、うまく行かなければ、大損をする。成功する可能性の方が高いが、失敗したときには惨憺たる目に遭う。

 (2) 金融市場で資金の需要と供給のミスマッチが起こっている。それは景気低迷のせいだ。

 話の前段は正しいが、後段が正しくない。資金の需要と供給のミスマッチは起こっているが、それは、「景気低迷」のせいもあるが、もう一つ、「過剰な量的緩和」という根本的な理由がある。
 資金の需要と供給のミスマッチは、本当は、「景気低迷」とはあまり関係ない。景気低迷でも、資金供給を減らせば、このミスマッチは解消するからだ。問題は、「過剰な量的緩和」の方である。
 ただ、「過剰な量的緩和」の原因は、「市場に資金の吸収力がなくなったこと」であるから、その意味では、「景気低迷」は理由となる。とはいえ、「景気低迷」が何をもたらすかを、記事は正しく理解していない。「資金需要が減っていること」ではない。「(いくら低金利にしても)資金需要が増やせないこと」なのだ。つまり、「流動性の罠」だ。……この本質を、記事は理解していない。ピンボケ。

 (3) 国債暴落の可能性がある。すると、「不況下の高金利」という最悪の事態となる。いずれはそうなりそうだ。

 相当狂った論理である。
 記事の主張しているシナリオは、「資金逃避(キャピタルフライト)」である。「国債が暴落しそうだと、みんながそろって資金を海外に逃避させるから、大幅な円安が起こり、同時に、国債も暴落する」というものだ。悪名高き木村剛のふりまいた妄想を、まんまと信じてしまっている。しかし、キャピタルフライトなんてものがありえないということは、先に示したとおりだ。( → 2001年12月22日c
 そもそも、「不況下の高金利」というのは、ありあえない。「不況」というのは、「ゼロ金利」の状況である。金利を下げればいいのに、なぜまた高金利にする必要があるのか。狂気の沙汰だ。馬鹿げている。単純に量的緩和をすれば、ゼロ金利になるのだ。「不況下の高金利」というのは、ナンセンスである。
 ただし、である。「不況」でなく、「スタグフレーション」ならば、高金利になることはあり得る。記事は、「不況」と「スタグフレーション」との区別ができていないのかもしれない。経済学の初心者ならば、この二つの用語を区別できないとしても、不思議ではない。そこで、その線で解説しよう。
 「景気低迷下での物価上昇」という「スタグフレーション」の状況では、高金利になる。そして、それは、きっと発生するだろう。ただし、その原因は、キャピタルフライトなんかではない。「過剰な量的緩和」のせいである。
 今、マネタリストは、「過剰な量的緩和をやれ」と主張している。「そうすれば物価は上昇するからだ」と。実際には、物価は上昇していない。企業は「金を借りて物に投資する」という投機をしていないからだ。なぜなら、デフレであるからだ。しかし、いつか、インフレ期待が発生すると、企業はそういう投機をするようになる。物価はどんどん上昇する。しかるに、物価上昇のせいで、実質所得はどんどん低下するから、消費や生産量はどんどん低下する。……結局、マネタリスト流の「インフレ目標」がまさしく効果を発揮したときに、状況は「不況」から「スタグフレーション」へと転じる。(その原因は、所得が増えないこと。)
 記事は上記の点を理解していない。第1に、金利上昇が起こるのは、不況ではなくスタグフレーションのときである。第2に、原因は、キャピタルフライトではなくて、過剰な量的緩和(およびインフレ期待の発生)である。第3に、解決策は、日本の景気が自然に向上することを待つことではなくて、所得を増やすこと(減税)である。

 (4) 景気回復の方法は、財政の健全化だ。実例はアメリカなどに見られる。

 あまりにも馬鹿げた話だ。こういうIMF流の「財政健全化」という政策の失敗例は、世界中に溢れている。アジア経済危機もそうだし、ロシアもそうだし、現在の欧州もそうだ。スティグリッツが口汚くIMFを批判しているのだから、そういう本でも読んで、IMFの失敗例を勉強するべきだ。初心者は、まず、勉強が大事だ。
 だいたい、「財政健全化」なら、日本でも小泉がやったではないか。その結果は、ひどい景気悪化だった。いまだに懲りないらしい。
 そもそも、「財政健全化で景気回復」という話の根拠が、まったくあやふやだ。マネタリスト流の説明をしているんだか何だかもわからないほど、まったくの無根拠だ。
 そこで、私が説明しておこう。「財政健全化」が有益な場合は、ある。ただし、ケースバイケースである。第1に、原則として、需給ギャップの生じていない均衡状態であることが必要だ。第2に、状況が「増税・低金利」というポリシー・ミックスを要求していることが必要だ。具体的には、「消費過剰・投資不足」のスタグフレーション的な状況がそうである。その場合には、「増税・低金利」によって、経済は正常化し、同時に、「財政健全化」もなされる。では、現在の日本は、どうか? 「消費過剰・投資不足」か? 違う。反対に、「消費不足・投資過剰(供給力過剰)」なのだ。こういうときには、「財政健全化」をすればするほど、状況は悪化する。こういうときには、むしろ、「財政悪化」をすることで状況は改善する。
 小泉は、「財政健全化」をめざして、緊縮予算を実行したが、その結果、景気はどんどん悪化し、税収はどんどん減少し、「財政健全化」をめざせばめざすほど、財政は悪化していった。今や国の支出の半分は借金でまかなっているありさまだ。……これが現実だ。こういう現実を直視するべきだ。

 (5) どうせ財政に金を回すなら、不良債権処理など、金融システムの保護に金を回すべきだ。

 これこそ、最悪である。莫大な金を、ただの赤字処理のために使っても、何の意味もない。記事の主張するようにするとしたら、「不良債権処理に金を出す」という一方で、財政健全化のために「増税」をすることになる。そんなことをやったら、日本経済の破滅だ。
 金融システムに金を注ぐことは、何の意味もない。いくら金を注いでも、生産量は少しも増えないからだ。大切なのは、帳簿をきれいにすることではないのだ。生産量そのものを増やすことなのだ。そして、そのためには、「所得」を増やすことが必須である。
 逆に、所得を削る「増税」をやって、その金で帳簿をどんどんきれいにしていけば、状況は加速度的に悪化する。
 たとえて言おう。容器の底に穴があいているときに、いくらたくさんの水を注いでも、無意味なのである。「もっとたくさんの水を注ごう」と思って、どんどん水を注いでも、しょせんは底抜けなのだから、注いだ金がみんな抜けていくだけだ。こういうときには、まず、底にある穴をふさぐことが先決だ。物事の根本原因に対処することが大切だ。結果だけを見て、それを表面的に上塗りすればいい、という問題ではないのだ。
 最近、「銀行が倒産しそうだから、銀行に資金を投入せよ」とか、「銀行に十兆円ほどプレゼントしよう」とか、メチャクチャな案が出ている。これも同根である。いくら銀行に金をプレゼントしても、銀行そのものに穴があいていては、無意味なのである。プレゼントしてもプレゼントしても、その金は、穴から出て行くだけだ。
 十兆円の金があるなら、それは、「生産を増やすため」つまり「所得を増やすため」に使うべきだ。逆に、「増税して十兆円の金を得て、それを銀行に注ぐ」なんてことをやれば、一時的には銀行は小康を得るとしても、事態は加速度的に悪化する。底の穴がますます大きくなるだけだ。


● ニュースと感想  (4月09日)

 「合理的期待形成仮説」について。
 モデルの話で、「IS-LM」について批判したが、ついでに、古典派の「合理的期待形成仮説」についても述べておこう。これはしばしば「精密な議論」などと評価され、非常な緻密なモデル的な議論だと見なされるからだ。── つまり、本質を欠いた精密な議論が、いかに無意味になるかの、実例となる。要するに、「精確に間違う」という、見事な例だ。

 「バローの中立命題」または「リカードの等価定理」と呼ばれる主張がある。それは、こうだ。
 「(貨幣供給量の増加をともなわずに)国債発行で財政支出をしても、景気回復効果はない。なぜならば、財政支出をすれば、その分、将来の増税が予想されるので、合理的な国民は、将来の増税の金をまかなうために、今のうちは、金を貯蓄する(消費を減らす)。だから、財政支出の増えた分、消費が減って、総需要は一定である。ゆえに、景気刺激効果はない」
( ※ ここで、「財政支出」は、「公共投資」または「減税」を意味する。)

 この主張の結論部は、もちろん、現実に合致しない。財政支出を増やせば、景気刺激効果がある。そのことは、経験的に明らかだ。
 では、結論部が間違いだとすれば、途中のどこかが、おかしいことになる。では、どこがおかしいのか?
 「国民が合理的である」というのがおかしい、と考えるのが普通だ。「一般の国民はそんなに合理的じゃない。合理的じゃないものを合理的だと仮定するのが間違っている」というわけだ。しかし、それは、「一般の国民は馬鹿だから」というふうに侮辱するのも同然である。ここに経済学者の思い上がりがある。
 実は、仮定は、「国民が合理的であれば」ということのほかに、もう一つある。それは「経済学者が正しければ」という、(隠された)大前提だ。
 たしかに、「経済学者が正しい」という前提の上では、「国民が合理的であれば、おかしな結論になる」というふうになるだろう。そこで、「だから国民が合理的でない」と結論するのが、普通だ。しかし、経済学者はそう主張しても、国民は別の主張をするのだろう。「だから経済学者が正しくないのだ」と。そして、そちらの方が、正解なのだ。
 以下では、経済学者(特に古典派)のどこが間違っているかを、具体的に指摘しよう。

 まず、「財政支出」の使途としては、「公共投資」と「減税」とがある。この二つを分けて考える必要がある。

 (1) 公共投資
 財政支出が「公共投資」である場合を考えよう。
 第1に、「効用」の問題が出る。
 「国が一定の支出をすれば、国民にとってその分、プラスになる。そのプラスを得るから、他の面でプラスを得る必要がなくなる。だから、公共投資の分、消費を減らす」
 という理屈になるはずだが、そういう理屈は成立しない。なぜなら、「効用」の違いがあるからだ。
 政府が国民一人あたり1万円の支出をすれば、国民にとって1万円分の経済的利益が与えられる。とはいえ、それは、1万円分の「効用」があるとは限らない。たとえば、道路を作ってもらっても、各人に1万円分のありがたみがあるわけではない。
 具体的な例を言えば、政府が本四架橋で1万円の支出をして、「あなたに1万円分の幸福を与えました」と言ったとしても、国民は、「じゃ、日常生活費を1万円減らそう」とは思わない。「家賃も食費も電気代も節約します。そうして消費を減らして、貯蓄します。将来の増税のために。それでいいのさ。何しろ、政府が本四架橋を作ってくれて、それで幸福なんだから」とは思わない。「本四架橋」のかわりに、「穴を掘って埋める」でもいい。
 というわけで、政府はやたらと無駄遣いをするが、だからといって、国民はそれで幸福になったとは思わないし、自分の日常生活に必要な消費を減らそうとも思わない。つまり、政府が財政支出を拡大したからといって、国民はその分、消費を減らすとは言えない。つまり、総需要は拡大する。── というわけで、「景気刺激効果はない」という上記の象徴は成立しない。
 第2に、「マクロ的な効果」の問題がある。ただ、これは、次の (2) でも共通するので、そちらで説明にしよう。

 (2) 減税
 財政支出が「減税」である場合を考えよう。
 財政支出をすると、それが「公共投資」であれ「減税」であれ、とにかく、マクロ的な効果がある。そして、これこそが、肝心な点である。なぜか? それこそが、古典派経済学者の見失っている点だからだ。
 一般的に、古典派経済学者は、「ああだこうだ」と勝手な主張をしているが、そのすべては、「マクロ的な効果を見失っている」という点に原因がある。景気回復策として、「賃下げをせよ」「不均衡から均衡に移せ。縮小均衡でもいい」「量的緩和をせよ」「不良債権処理をせよ」「構造改革をせよ」……などと主張するが、そのすべては、正解とは正反対のことだ。そして、その理由は、「マクロ的な効果を見失っているからだ」と、これまで何度も指摘してきた。そして、今回、冒頭の主張(合理的期待形成仮説)についても、同様なのである。彼らは「マクロ的な効果を見失っている」ゆえに、間違った主張をするのだ。
 ともあれ、次の (a)(b) で、具体的に指摘しよう。

 (a) 生産量
 古典派の考え方の最大の問題は、マクロ的な「総需要」「総所得」「生産量」というものを無視していることだ。現実には、それらが影響するのに、そういう影響を無視する。特に問題なのは、「所得の効果」だ。「所得が変動することで生産量が変動する」ということを無視する。── 古典派は、需給の調整」というミクロ的な原理ばかりを重視しているが、そこでは、「需要曲線」や「供給曲線」の動的な変化をもたらすものを、無視しているのである。ゆえに、間違った結論を出す。(これまでも何度も例を挙げて示したとおりだ。)
 本件に戻ろう。冒頭の主張では、「減税があっても、将来の増税を予測して、消費を増やさない」となる。なるほど、全員がそう思ったときは、そうなるかもしれない。1億人いて、1億人の全員が例外なしにそう思ったときは、そうなるかもしれない。では、たった1人でも、そう思わない人がいたら、どうなるか? 彼は消費を増やす。すると、その分、マクロ的に総需要が増える。その分、生産量が増える。生産量が増えると、総所得も増える。かくて、スパイラルが発生して、「総需要」「総所得」「生産量」がいずれも増える。
 そして、ここが肝心なのだが、その場合、将来の「所得」が増えるのだ。たとえば、「現在は5万円の減税で、将来は5万円の増税」であっても、さらに「将来は 10万円の所得増加」が追加される。だから、将来は、「5万円の増税と 10万円の所得増加」だから、「5万円の手取り増加」となる。── だから、合理的な国民は、現在も将来も5万円ずつ消費を増やすはずなのだ。
 まとめると、古典派は、次の点でミスをしている。
 上記では、「所得増加」による「生産量の増加」を示したが、実際には、さらに、別の理由が加わる。それは「物価上昇」の効果だ。
 上記と同じく、「たった1人でも例外のある場合」を考えよう。彼は消費を増やす。そのことで、需要曲線が右シフトして、均衡点の価格が上昇する。つまり、「物価上昇」が発生する。すると、「将来の物価上昇」を予測して、合理的な国民は、将来の損失を防ぐために、物価の上昇しないうちに買おうと思って、現在の消費を増やす。すると、そのことが生産の拡大と所得の拡大をもたらし、また、物価上昇もさらに進む。状況はスパイラル的に進んでいく。── ここでは、「所得増加」のほか、「物価上昇」も、スパイラルを拡大する効果がある。
 さて。以上において、原理的に大切なことは、何か? それは、「所得の増加によって生産量の拡大が発生する」ということだ。このことは、不均衡状態でも成立するが、均衡状態でも成立する。
 さて。それが成立しないのは? それは「上限均衡点の突破」があった場合だ。つまり、生産量がすでに上限に達している場合だ。
 こういう場合には、「所得の増加」があっても、「生産量の増加」は見込めない。減税であれ、公共事業であれ、やったところで、何の意味もない。単に物価を上昇させるだけだ。(「貨幣数量説的なインフレ」である。)
 一般的には、そういうことは考えなくてよい。生産量が上限に達しているときに景気刺激をする、なんていうのは、狂気の沙汰である。それはたしかに無効だが、狂気的な政策が有効か無効かなんて、論じる必要もない。それは、「無効である(効果ゼロである)」と結論するよりは、「有害である(効果がマイナスである)」と結論するべきだ。「有効か無効か」を論じるような冒頭の意見は、お門違いである。(景気過熱の場合には。)
 とにかく、ここでは、「供給能力」と「稼働率」の区別に注意しよう。稼働率が上限に達していないときには、供給能力の上限までは達していないわけであり、まだまだ生産量の拡大の余地はある。たとえ完全雇用に達していても、残業増加によって生産量を拡大できる。そして、生産量の拡大にともなう所得の増加こそが、「増減税の損得」なんていう考え方を蹴散らかしてしまうのだ。
( ※ だいたい、「税によって行動を決める」なんていうのは、脱税マニアのような人間の考え方である。発想からして、イカレている。「合理的な人間」というのを、税による損得勘定ばかりを考えている人間だ、と規定している経済学者は、頭がイカレているとしか思えない。たとえば、ノーベル賞を受賞した田中耕一さんのような人間は、「合理的でない」と見なすべきか? 彼は、目先の税金や所得の損得には目を奪われず、自らの最高の生き方を選び、そのことで、莫大な賞金を手に入れた。多くの経済学者は、最も合理的かつ経済的な行動を取ろうとしているが、いずれも貧乏である。どちらが合理的なのか? ── ここまで考えてみると、「合理的」という考え方そのものがナンセンスだ、と思いたくなるだろう。もしそう思うのならば、あなたの頭は、経済学者と違って、まともである。)
( ※ 均衡状態において生産量が増加すること[好況]については → 10月26日
( ※ 不均衡状態でも、同様に、生産量が増加する。これは、ケインズの主張したとおり。)

 (b) 均衡/不均衡
 古典派考え方の基本的な問題として、(需給の)「均衡/不均衡」という違いを区別しないことがある。彼らは、「経済は常に均衡状態にある」と考える。つまり、「不均衡状態にある」という場合を理解できない。この根本的な誤解ゆえに、あれこれと奇妙な結論を出すことになる。冒頭の主張も同様だ。
 冒頭の主張は、変形として、次のように主張されることもある。
 「政府の財政支出は、その原資が増税でも公債発行でも、効果は同じだ」
 というものだ。(ここで「公債発行」は、民間引き受けとする。つまり、貨幣量の増加をともなわない。)
 さて。本当にそうか? 需給が均衡しているのならば、その説は成立するかもしれない。これは、金融市場を通じた効果だ。
 つまり、こうだ。
 「増税は、その分の消費縮小をもたらす。公債発行は、その分の資金を金融市場から吸い上げることにより、金利の上昇を通じて、投資の縮小をもたらす。いずれにしても、需要の縮小をもたらす」
 そして、「そういうふうに需要を縮小させるから、増税であれ、公債発行であれ、いずれによっても財政支出を拡大しても、効果はない」というふうに、冒頭の主張につながる。
 しかし、ここでは、(需給の)「均衡/不均衡」という違いが無視されているのだ。なるほど、「均衡状態」の場合には、「公債発行」の効果は、上記の主張のようになるだろう。(ただし、マネタリズムの主張するように金融市場の調整が完璧に発揮されたと仮定する。換言すれば、金融当局が金利の操作をしなくても、市場金利だけで自動的に同額に調整されると仮定する。……現実には、そんなことはありえないが、ここは大甘で、百歩譲ることにする。)
 しかし、である。「均衡状態」の場合はともかく、「不均衡状態」の場合には、そうはならない。「公債を発行したら、その分、投資が減る」ということはない。なぜなら、不均衡状態では、資金はもともと余って滞留しているからだ。市場から吸い上げられる金は、「投資」に向けられるための金ではなくて、「何にも使われずに滞留している金」である。だから、「公債を発行して財政支出をする(公共投資または減税をする)」ということをやれば、その分、確実に、総需要は増える。(投資が減らないので。)
 一方、「増税」の場合は、異なる。「5兆円の増税をして、5兆円の公共投資をする」という場合には、効果はトントンである。つまり、総需要が増えることはない。
 というわけで、「増税でも公債発行でも効果は同じ」ではなくて、「公債発行ならば効果があるが、増税では効果がない」というのが正しい。
 最後に補足しておこう。本質を考える。
 「増税と公債発行」では、差が付く。特に、不均衡状態ではそうだ。その本質は何か? 不均衡状態では、貨幣が滞留しているが、「公債発行」をすると、その滞留していた貨幣が有効に使われるので、実質的には、「貨幣供給量が増えた」というのと、同じ効果があるのである。「貨幣供給量が変わらなければ」というのが、論者の主張の前提となっているわけだが、その前提が、実質的に変わってしまうわけだ。だからこそ、「増税と公債発行」では、違いが生じるのである。

 [ 付記 ]
 すぐ上の説明では、不均衡状態のときだけを考えた。では、均衡状態ではどうか? 話は似たり寄ったりである。
 均衡状態のときには、公債発行によって、たしかに民需の縮小が発生する。これは「クラウディング・アウト」として知られていることだ。ただ、それが完全に発生するか否かが問題だ。(つまり、公債発行の効果を、民需の縮小がまるまる食いつぶすかどうか、ということ。)
 クラウディング・アウトは、完全に発生するか? 「イエス」と答えるのがマネタリズムだ。しかし、現実には、「ある程度は発生するが、完全に発生するわけではない。部分的に発生するだけだ」というふうになる。経験的に、そうわかっている。( → 7月25日
 このことは、理論的には、すでに説明した。つまり、クラウディング・アウトは、下限均衡点以下ではまったく発生しないが、上限均衡点では完全に発生する。そして、下限均衡点と上限均衡点の中間では、部分的に発生するのだ。つまり、民需はいくらか食われるとしても、全体としての生産量は増える。そのことが、上限均衡点に達するまで続く。ただし、上限均衡点に達すれば、景気刺激をしても生産量は増えない。(この件は、すでに説明したとおり。 → 10月23日
 この「下限均衡点と上限均衡点の間」というのが大事だ。この区間では、生産量の増大と所得の増大が発生する。そして、「所得の増大」ゆえに、「将来の増税があるから貯蓄」という考え方が否定されるのである。(先に (a) で述べたとおり。)

 [ 補説 1 ]
 上の説明では、話の基本を示そうとしていたので、細かなところは、簡略化してある。その箇所を、もう少し正確に説明すれば、次のように補正できる。

 (i) 投資の縮小/消費の縮小
 公債発行が「投資の縮小をもたらす」と上では述べた。ただ、正確に言えば、「投資の縮小」だけでなく、「消費の縮小」もある。なぜなら、金利の上昇があれば、投資が減るだけでなく、(高金利に引かれて貯蓄が増えることで)消費も減るからだ。
 いずれにせよ、公債発行は、(金利の上昇を通じて)「民需を減らす」という効果がある。それを、上では「投資の縮小」と述べたが、そこには「消費の縮小」という意味もある。 ( ※ 上では、「投資の縮小」と述べた。一方、論者の説明では、「消費の縮小」と説明されることもある。両者には、違いがあるようだが、本質的には関係のないことだ。気にすることはない。説明の仕方の違いぐらいの意味しかない。正しくは、「民需の縮小」である。── そして、肝心なのは、不均衡状態ではそれが発生しない、ということだ。なぜなら、吸い上げられる資金は、もともと滞留していた資金にすぎないからだ。)

 (ii) 増税の効果
 本文の最後では、増税して公共投資をすることを、「効果なし」(つまりトントンだ)と評価した。
 しかし、現実には、「増税は効果なし」というより、もっと悪いはずだ。実際、不況のときに、「増税により公共投資の増加」なんてことをやれば、「効果なし」ではなくて、「景気はさらに悪化する」というふうになるものだ。
 では、なぜ? その理由は、いろいろと考えられる。
 第1に、増税なんかをやれば、消費心理が萎縮して、消費性向が急激に下がりがちだ。実際に「増税と公共投資」をする以前に、「増税」を予告した段階で、消費が減る。そのことで、スパイラル的に状況が悪化する。つまり、「そのことをやった結果の効果」ではなくて、「そのことをやる前の予告の効果」によって、状況が悪化する。
 第2に、公共事業というのは、減税よりも、乗数効果が悪い。というのは、乗数効果の「速度」が遅いからだ。前にも述べたとおり。( → 3月09日
 それゆえ、「増税して公共事業をする」というのは、「増税して減税する」(つまり何もしない)というのよりも、景気を悪化させる効果がある。だから、どうせ公共事業をやるのであれば、「増税」ではなくて、「公債発行」をするのが、原則である。後者の場合には、資金は、滞留していた資金を使うことになるからだ。(それは[実質的な]貨幣供給量を増やす効果がある。)

 [ 補説 2 ]
 オマケとして、補足的な話を述べておこう。
 増税を実施した場合、それを考慮して、人々は消費を減らす。しかし、その分は、増税の額よりも小さい。たとえば、5兆円の増税をしたとき、人々は5兆円の消費削減をするのではなく、4兆円ぐらいの消費削減しかしない。
 これは、換言すれば、減税の裏返しである。5兆円の減税をしたとき、人々は5兆円の消費拡大をするのではなく、4兆円ぐらいの消費拡大しかしない。
 こういうことは、「限界消費性向」から、明らかとなる。
 そして、この5兆円と4兆円との差が、差し引きされて、経済に変動をもたらす。5兆円の増税による5兆円の公共支出と、4兆円の消費削減があれば、差し引きして、1兆円の総需要拡大をもたらす。
 そして、総需要の拡大は、生産量を拡大し、景気を変動させする。それがどういう意味をもつかは、すでに述べたとおりだ。


● ニュースと感想  (4月10日)

 前項の続き。
 前項では、合理的期待形成仮説について、あれこれと考察してきた。しかし、大局的に見れば、この考察は不要だ、とも言える。
 なぜか? 合理的期待形成仮説は、「貨幣供給量が変化しなければ」と仮定しているが、そもそも、この仮定が無意味だからだ。(その仮定が無意味だから、合理的期待形成仮説そのものが無意味となり、これへの考察も無意味となる。)
 合理的期待形成仮説は、「貨幣供給量が変化しなければ」と仮定している。しかし、景気回復を狙うときには、「金融緩和(貨幣供給量の増加)と減税」をともに実施するのが基本だ。これは「タンク法」と同じ効果がある。
 そして、こういうふうにするならば、貨幣供給量は一定ではない(増加する)から、最初の仮定が成立しなくなる。となれば、それ以後の議論のすべては、無意味となる。
 とにかく、貨幣供給量の変動が根本的に大事なのだから、それを無視した上での議論は、ほとんど意味がない。

 [ 付記 1 ]
 なお、貨幣供給量の変動なしのときには、どうか? 貨幣供給量の変動なしというのは、普通の経済状態だ。そういうときに、金融緩和なしに「公債発行で減税(または景気拡大)」だけ実施するというのは、考えられるとしても、あまりにも馬鹿げたことだ。国民受けだけを狙った愚策である。それは、市場金利の上昇と消費拡大をもたらして、「投資縮小と消費拡大」をもたらす。投資と消費の配分比率の変更だ。消費不足でないときに、そんなことをすれば、状況を悪化させるだけの効果しかない。
 とにかく、不況のときであれ、景気後退のときであれ、景気刺激を狙うのであれば、貨幣供給量を増加させるのが基本だ。そして、貨幣供給量を増加させたならば、物価の変動や所得の変動が発生するのだから、そういう効果を考慮しなくてはならない。つまり、もはや増減税だけで効果を論じるわけには行かなくなるのだ。(だから、合理的期待形成仮説の前提が崩れる。)
 たとえば、「合理的な国民は、将来の増税を予想するから」とか何とか言っても、そういう議論は、無意味なのだ。なぜなら、そういう予想をする国民は、「合理的」であるように見えても、「物価上昇や所得上昇」を無視しているという点で、あまりにも「不合理」となるからだ。「合理的な国民は不合理な行動を取る」というふうに仮定しているわけで、議論そのものがナンセンスなのだ。
( ※ 換言すれば、議論がナンセンスであることに気づかないのが、合理的期待形成仮説を唱える人々だ。マクロ経済音痴、とも言える。)

 [ 付記 2 ]
 結局、簡単にまとめれば、次のように言える。
 合理的期待形成仮説(の結論部)が成立しないのは、国民が合理的でないからではない。国民が合理的行動を取るとき(減税を受けて消費を増やすとき)、その合理的な行動を「不合理だ」と経済学者が勘違いするからだ。
 要するに、国民が不合理だからではなく、経済学者が不合理なのである。それゆえ、合理的な行動に対する不合理な理屈が成立しないのである。
( ※ 話が混乱しているように感じられるかもしれないので、解説しておこう。要するに、彼らの主張する「合理的」という言葉は、彼らの独特の用語であって、本来の「合理的」という意味ではないのだ。古典派が「合理的」と呼ぶ行動は、「古典派にとっては合理的と感じられる」という意味であって、「現実には不合理」ということなのだ。現実の国民は、古典派ほど不合理ではないから、古典派が「不合理」と見なすような「合理的」な行動を取る。たとえば、正常な国民は、減税を受けたら、消費を増やす。損得だけを考えて、消費を惜しんで、死ぬまで金を使わない、という不合理な行動は取らない。── 比喩的に言えば、正常人と狂人とは、言葉の用法が違う。正常な国民が取る行動を、狂人は「不合理だ」と見なす。それだけのことだ。)

 [ 補説 1 ]
 上では冗談っぽく述べたので、「話半分に聞いておこう」と思う読者も出るだろう。そこで、本質を示しておく。
 古典派の説では、「合理的な国民は損得に従って行動する」と前提している。しかし、実は、この前提自体が完璧に誤っている。
 なぜか? 企業ならば、「損得に従って行動する」と言える。企業は、利益を得るために存在するのであって、損得だけが行動基準となる。しかし、国民は、そうではない。国民は、給料を稼ぐときには、損得が行動基準となる。しかし、消費をするときは、損得は行動基準とはならない。たとえば、水の値段が1円の場合と、100円の場合があるとする。どちらを取るか? 合理的期待形成仮説の信者ならば、「1円の方を取る」というだろう。しかし合理的な国民は、そんなことはしない。「安い方を取る」のではなくて、「飲みたいときに取る」のである。喉が渇いていなければ、1円でも買わない。喉がカラカラのときなら、100円でも買う。つまり、損得ではなくて、効用に従って決める。それが「消費」の本質だ。かくて、消費と投資とは、まったく別の基準に従うのだ。
 そして、そのことを理解できずに、「消費も投資も同じく、損得の原理に従う」と考えているところに、合理的期待形成仮説の根本的な間違いがある。

 [ 補説 2 ]
 典型的な例を示そう。論者の主張によれば、こうなる。
 例 1
 ガソリンの値段が、曜日で変わるとする。週の前半は 99円で、週の後半は 101円だ。合理的な人間は、週の前半に 99円で買い、週の後半には買わない。買いだめするわけだ。すると、「 101円と 99円の差で、2円儲けたぞ」と、合理的な人間は考える。── なるほど、この場合は、話は成立しそうだ。
 さらに、ガソリンだけでなく、行きつけのハンバーガーの値段もそうなった。週の前半は 99円で、週の後半は 101円だ。合理的な人間は、週の前半に 99円で買い、週の後半には買わない。買いだめして、食いだめするわけだ。すると、「 101円と 99円の差で、2円儲けたぞ」と、合理的な人間は考える。週の前半には食べたくもないのに倍量を食べ、週の後半には食べたくても何も食べられない。
 例 2
 パソコンの値段を見ると、どんどん下がる一方だ。毎年どころか、四半期ごとに大幅に下がっていく。だから、どうせ同じ物を買うならば、あとになって買う方が得である。
 ゆえに、合理的な人間は、いつまでたってもパソコンを買わない。「もうちょっと待った方がいい、もうちょっと待った方がいい」と思いながら、永遠にパソコンを買わない。世の中の人々がキーボードとプリンタで大量に印刷しているときも、セコセコと万年筆やソロバンを使ってひどい低能率の作業をする。

 以上の 例1 ,例2のような行動が、合理的なのだろうか? 論者の主張では、「合理的だ」ということになるが、どう見ても、非合理きわまりない。それというのも、(売買の)損得だけを見て、効用をまるきり無視しているからだ。
 最後に言っておこう。損得だけで決めるとすれば、最も合理的な国民は、1円も使わないのがベストだということになる。金を、全部貯蓄して、利子を増やして、そうして金がどんどん増えるのを喜びながら、何も食わずに、餓死する。死後に残る遺言は、「香典をもらいたい」だ。それが最も合理的な人間だということになる。
( → 3月20日

 [ 補説 3 ]
 人々はなぜ、損得では行動しないのか? それは、人間は企業とは違って、可変的な存在ではないからだ。固定的な消費が必要な存在だからだ。
 企業ならば、生産コストが高いなときに、生産活動を停止することできる。人間は、生存コストが高くても、生存をやめることはできない。
 また、企業ならば、生産コストが安いときに、生産活動を倍増することできる。人間は、生活コストが安くても、一人で二人分の生活をすることはできない。
 さらに、企業ならば、不死であるから、金が溜まれば、いくらでも貯蓄すればいい。人間は、寿命があるから、金が溜まっても、来世には持ち越せない。子孫に残しても、相続税を取られるし、そもそも子孫というのは、自分ではない。(損得で考えるならば、子孫には一円も残さないのが最も得だ。)
 以上をまとめれば、企業は可変的であり、人間は固定的である。人間は固定的な必要性に応じて、固定的な消費が必要である。損得だけで行動すると、必要性を満たせず、効用が著しく低下してしまう。
 換言すれば、こうだ。企業にとっては、金銭は独立変数だから、金銭だけで損得を考えればいい。しかし人間にとっては、金銭は独立変数ではなくて、生存その他に影響するから、金銭だけの損得で行動すると、生存その他が悪化してしまって、かえって総合的にはデメリットが大きくなるのである。
( ※ 「変数同士の相互影響を無視して、それぞれを独立変数と見なす」というのは、古典派の典型的な間違いである。「……が一定だと仮定すれば」という、例の妄想。)

 [ 補説 4 ]
 「合理的期待形成仮説」への批判としては、次のような考え方もある。アカロフの考え方である。 
 「合理的期待形成仮説が成立するのは、『人々は完全に合理的である』という前提が成立する場合だけである。実際には、人々は完全に合理的であることはなく、いくらか合理的であるだけにすぎない。そして、その場合には、完全に合理的である場合とは違った結論が出る」。(→ 合理性と不動産不況
 しかし、本当は、そうではないのだ。合理的期待形成仮説が成立しない理由は、人々が不完全に合理的であるからではなくて、経済学者の信じる「合理的」という概念そのものが間違っているからなのだ。
 古典派経済学者の説は、所得の増加を無視する。それはつまり、「多く働いても、所得は多くならない」ということだ。こんな仮定に基づく話など、まったくの砂上の楼閣にすぎない。
 間違っているのは、合理的期待形成仮説の論理ではなくて、古典派経済学の核心そのものなのだ。


● ニュースと感想  (4月11日)

 前項の続き。
 「合理的期待形成仮説」について、補足しておこう。
 「合理的期待形成仮説」というのは、まったく眉唾物の結論を出すのだが、それでも、多くの影響を与えてきた。特に、ケインズ派への批判として、大きな影響があった。(ロバート・ルーカス,トマス・サージェントらの主張。)
 これらの経済学者の意見は、数学的なモデル分析を使う。そこから演繹的に結論が出るので、たいていの人は、「なるほど」と納得してしまう。どんなに眉唾物の結論が出ても、演繹的な論理的過程そのものは、一分の隙もないので、「なるほど」と納得してしまうのだ。

 そこで、私が、話の本質を突くことにしよう。
 ここではまさしく、「モデル的な手法」というのが問題となっているのである。一定のモデル作って、そのモデルが妥当であれば、そのモデルから得られた数学的結論は正しい。しかし、問題は、そのモデルが妥当であるか否かなのだ。つまり、話の前提そのものなのだ。話の論理的な演繹的過程はまったく問題ではなくて、前提そのものが問題なのだ。
 具体的に言おう。彼らの「合理的期待形成仮説」で使われるモデルには、「インフレ供給曲線」や「インフレ需要曲線」というものがある。つまり、「物価上昇率が高まるにつれて、供給や需要が増える」というモデルである。
 なるほど、たしかに、物価上昇率が高まるにつれて、供給や需要が増える」という現象は見られる。だから、このようなモデルを作ることは、十分に妥当性があると思える。しかし、それこそが勘違いだ。
 これは、「IS-LM」の問題点と、同様である。「変数 x が増加すれば、変数 y も増加する」という関係があるとき、 x の微分(増分)と y の微分(増分)とには、関数関係があるかもしれない。しかし、そのことは、 x と y とに関数関係があることを意味しない。 ( → 7月26日

 具体的に示そう。「物価上昇率を高くすると、供給( or 需要)の上昇率も高くなる」と言える。しかし、物価上昇率と、供給(需要)の上昇率には、関数関係はないのだ。たとえば、物価上昇率が1%のときに、景気刺激をして、物価上昇率を1%から2%へ上げるとする。このとき、供給(需要)の上昇率も、2%から3%へ上がるかもしれない。しかし、だからといって、「物価上昇率が1%のときには、供給(需要)の上昇率が2%であり、物価上昇率が2%のときには、供給(需要)の上昇率が3%である」というような関数関係が成立するわけではない。関数関係が成立するのは、それぞれの増分同士なのだ。つまり、物価上昇率ならば「2%−1%=1%」で、供給(需要)の上昇率ならば「3%−2%=1%」だ。こういうふうに、増分同士で比較するなら、関数関係は見出されるかもしれない。しかし、それぞれの値の絶対的な大きさについては、関数関係は成立するとは限らない。というか、一般的には、まったく成立しない。(現実経済を見れば、すぐにわかる。)
 物価上昇率の影響というものは、国情や時代によって、どんどん変化する。昔の高度成長時代の日本ならば、5%ぐらいの物価上昇はどうということはなかった。80年代以降の日本では、2%ぐらいの物価上昇にも過敏に反応するようになった。失業率も同様で、日本では5%ぐらいの失業率で大問題となるが、欧州では 10%ぐらいの失業が慢性的に続いていても慣れきってしまっている。
 先に「IL-LM」のところでも述べたが、経済政策で大切なのは、状態(物価上昇率など)の「絶対的な値」ではなくて、「変化率」なのである。つまり、「今どのくらいの値であるか」ではなくて、「上がるか下がるか」なのだ。そして、それこそが、モデルの対象となる。なのに、「今どのくらいの値であるか」ということをモデル化したとしても、無意味である。モデルが不正確であるということではなくて、モデル化したということ自体が間違っている。もともと関数的ではないものを、勝手に関数にするということ自体が、根本的に間違っている。ここでは、「数学化」することで、真実に近づいているのではなく、真実から遠ざかっているのである。
 たとえて言おう。「天気を示す関数」というのを想定して、「奇数の日は雨、偶数の日は晴れ」というモデルを作ったとする。このモデルは全然当たらないはずだ。そして、その理由は、モデルが不正確であったからではなくて、そういうモデルが存在すると思うこと自体が根本的に間違っているわけだ。
 もっとうまいたとえ話を言おう。「寒く感じたら、着る服を増やす」という判断は正しい。しかし、「この温度のときには、この枚数」というふうに指定することは、まったく無意味である。同じ温度でも、夏には寒く感じるし、冬には暖かく感じる。また、服の種類も、厚手の生地やら、薄手の生地やら、いろいろとある。単に「温度と枚数」なんてものを関数化しても、無意味である。肝心なのは、絶対的な枚数ではなくて、枚数の増分だけなのだ。だから、「寒く感じたら、着る服を増やす」というふうには言えても、「温度 23度のときには4枚」というふうには言えない。そんなモデルを作ること自体に、意味がない。

 結局、何が言いたいか? 
 それは、「いくら精確なモデルを作っても、モデル自体の根拠が間違いならば、そのモデルには何の意味もない」ということだ。つまり、「精確に間違うことには何の意味もない」ということだ。そのことが、合理的期待形成仮説のモデルから、よくわかる。
 モデルを使って数式化することで、合理的期待形成仮説は、見事な論理を築き上げた。そのことで、「すばらしい数学的展開だ」と経済学者は感嘆した。しかし、すばらしい数学的展開を見せたということは、論者の賢さを証明したのではなくて、論者の愚かさを証明しただけだ。
 彼らは実に見事に、「精確に間違う」ことをなした。それに対して拍手をするのは勝手だが、その拍手は、感嘆ゆえではなくて、笑いゆえであるべきだ。コメディを見たらら、ケラケラと笑うのが正しい。コメディを見て、「なるほど」と感嘆するのは、阿呆だけである。

 結語。
 「精確に間違う」ことには、何の意味もない。「おおざっぱに正しい」ことこそが大切だ。何より大切なのは、本質を見抜くことである。── モデルを考えるときには、そういうことに留意しておくべきだ。

 [ 付記 ]
 「本質を突く」ための方法を、ヒントとして示そう。
 一般に、センスのない数学者は、やたらと計算をする。センスのある数学者は、直感的なヒラメキに頼る。そして、直感的なヒラメキというものは、具体的な実例となるモデルと関連する。そういう具体的なモデルを思い浮かべながら、原理的なことを考えるといい。( → 2002年1月16日b ファインマンの方法 )
 今回の件に即して言えば、こうだ。合理的期待形成仮説で複雑な数学的な展開が出てきたら、その数式をいちいち追っていく必要はない。そんなことをしても、鼻面を引き回されるだけだ。むしろ、その数式が何を意味しているのか、どんな具体例にあてはまるかを、現実に当てはめようとするべきだ。すると、「こんなモデルは現実にあてはまらない」とわかるし、「話の結論はメチャクチャで現実に合わない」ともわかる。
 常に「本質」というものを気にかけていないと、「詭弁」にあっさりとだまされてしまう。注意しよう。


● ニュースと感想  (4月12日)

 前項の続き。「合理的期待形成仮説と失業」について。
 合理的期待形成仮説について、「古典派は、所得について無視する」と先に述べた。これについて解説しておく。(なお、部分的には説明不足の点があるので、説明不足の点は、経済学の教科書を読んで調べてほしい。)
 合理的期待形成仮説(あるいは古典派)が、ケインズ派の説と最も異なる点は、失業についての話である。合理的期待形成仮説では、「商品市場でも、労働市場でも、需給は均衡する」という前提のもとで、「労働市場で失業はない」と結論する。現実に失業者が存在するのは、「低賃金で雇用されるのを拒んでいるだけであり、勝手に失業しているだけだ」ということになる。
 ここで、彼らが見失っている点は、何か? それは、「生産量の変動」である。修正ケインズモデルを見ればわかるとおり、経済には、均衡している状態がいっぱいある。たとえ均衡していても、生産量は変化する。拡大均衡のこともあるし、縮小均衡のこともある。
 だから、たとえ商品の需給が均衡していても、生産量の変化に応じて、労働量の雇用量は変化するわけだ。とすれば、それに応じて、失業も当然発生する。
 ここでは、「生産量の変化」が肝心である。古典派は、これを無視(軽視)しているのだ。そして、「生産量の変化」は、所得の面を見れば「所得の変化」であり、労働力の面を見れば「雇用者数の変化」である。

 結語。
 古典派は、ミクロ的にだけ考えていて、マクロ的な変化を無視する。ミクロ的な均衡だけを重視して、マクロ的な「生産量の変化」を無視する。均衡点は一点だけに固定されていると信じ込んでいて、均衡点が時間的に移動するということを無視する。
 そのせいで、「所得の変化」および「失業者数の変化」(雇用者数の変化)を無視する。かくて、合理的期待形成仮説の主たる結論(下記)や、「非自発的な失業者は存在しない」という結論など、荒唐無稽な結論が生じる。

( → 失業に対する古典派の説については、12月13日 以降の「失業シリーズ」。1月02日 以降の「古典派批判」。自発的失業については、1月12日

 [ 付記 ]
 合理的期待形成仮説の主たる結論とは、「金融政策が無効になること」など、ほとんどトンデモと言える主張である。彼らの主張は、一言で言えば、「人々が完全に合理的であれば、経済政策はまったく無効である」ということだ。……嘘みたいな主張だが、まさしくそうだ。経済学の教科書を参照。
 とはいえ、「合理的期待形成仮説は正しい」と主張する経済学者は、けっこう多い。つまり、「経済学は無効である」と信じる経済学者が多いわけだ。この自己矛盾!

 [ 余談 ]
 余談で、「化石捏造(ねつぞう)」の話をしておこう。
 「文藝春秋」最新号( 2003-05 号)で、「化石捏造」のてんまつが記述してある。話のネタ元となった最初の告発者が、経緯を記している。最初、「こんなにひどいデタラメがある」と主張したが、学会からは無視され、それどころか、学会追放に近い処分になった。あちこちの学者に訴えても、ほとんど黙殺。化石を調査しようとしても、学会のボスなどに根回しされ、「あいつにだけは化石を見せるな」という通達がなされ、博物館からも締め出された。「もはや学会には頼れない」と信じて、ジャーナリズムと結びつこうとした。そこへ運良く、毎日新聞社の記者がインターネットをたどって、情報を求めてきた。そこで、「張り込めば必ず捏造の現場をとらえられるはずだ」と指示し、新聞社は多大な金と人員をかけて張り込みを続けた。すると、まんまとVTRにその現場が撮影された。

 この話が、なぜ面白いか? 今の経済学と、そっくりだからだ。トンデモと言える古典派の経済学が学会の主流となっている。考古学では、トンデモが暴露されたが、経済学では、いまだにトンデモがまかりとおっている。「構造改革」だの「不良債権処理」だのが唱えられ、次に、「量的緩和」だの「日銀による債権の買い切り」だのが唱えられた。そのすべては、古典派的なトンデモなのだ。そのトンデモの極端な例が、「合理的期待形成仮説」である。「経済学が無効だと主張するなんて、こんな学説は奇妙すぎる」と誰もが主張する。なのに、そういうトンデモが、ずっと主流として、支持されてきているのだ。
 考古学と経済学の違いは、何か? 捏造を指摘する声が、あるかないかか? 違う。捏造を指摘する声があっても、それを報道する記者がいるかいないか、だ。考古学では、そういう記者がいたが、経済学には、そういう記者がいない。だから、いつまでたっても、経済学ではトンデモがまかり通っているのだ。
( → 2001年10月15日 「化石捏造」 )

 [ 補足 ]
 すっきりしない感じが残るかもしれないので、補足的に説明しておく。
 前にも述べたが、合理的期待形成仮説の論理的過程は、ちっとも間違っていない。その論理は完全に正しい。「合理的期待形成仮説は、論理的に間違っている」と主張する人がいるとしたら、その人の方がおかしい。
 合理的期待形成仮説の間違いは、論理ではなくて、前提なのである。その前提は、「所得が変化しない」ということであり、「生産量が変化しない」ということであり、「ミクロだけを重視してマクロを無視する」ということである。── そのすべては、わかりやすく言えば、「需給曲線は変化しない」ということだ。「需給曲線は変化しない」という仮定のもとでは、合理的期待形成仮説は成立する。均衡点はひとつだけあるはずだし、その均衡点が最適になるはずだ。
 しかし、現実には、「需給曲線は変化する」となる。不況のときには需要曲線が左シフトするし、減税や公共投資をすれば需要曲線が右シフトする。需給曲線が変化するのにともなって、均衡点が移動する。(このことは、修正ケインズモデルを見ると、よくわかる。)
 にもかかわらず、古典派は、この肝心なことを無視する。そこに、古典派の根本的な難点がある。そして、世間の誰もが、そのことを批判しない。学会の主流派に逆らえないのである。考古学で捏造がまかり通っていたように、経済学でも捏造がまかり通っているのだ。「王様は裸だ」と叫ぶことが怖いのだ。


● ニュースと感想  (4月13日)

 時事的な話題。「株価の最安値」について。
 株価がまたバブル後の最安値を更新して、底なしのありさまだ。新聞記事などでは、大あわてしているようだ。あわてていないのは竹中だけで、「踊り場状態」だなんて言っている。彼には下り坂が平坦に見えるらしい。
 竹中もイカレているが、マスコミもイカレている。「賃下げはやむを得ない(企業の収益性の向上のためには仕方ない)」なんて主張していたではないか。しかし、賃下げは、総所得の現象を意味するのだから、賃下げが不況の悪化を招くのは必然なのである。だったら、「賃下げはやむを得ない」と主張した時点で、「不況の悪化はやむを得ない。自殺しよう」と覚悟するべきだったのだ。その覚悟ができていなかったから、今になって大あわてしているわけだ。愚の骨頂。

 私は前から、こう指摘していた。「賃下げはマクロ的に悪化を招く。四月からは、どんどん景気が悪化する」と。そして、対策としては、「総所得の向上しかない」と。
 なのに、いまだに、マスコミ上には、「消費喚起」という言葉はまったく現れず、「企業への減税」だの、「日銀の資金供給の拡大」だの、古典派的な主張ばかりが出回っている。例外的に、ケインズ派の尻馬に乗って、「公共事業拡大」なんて言っている人もいるが、まともには議論されないようだ。

 要するに、日本の経済界は、学者もマスコミも、狂気のオンパレードなのだ。イラクを破壊したのは、二人の狂気的な大統領だった。日本を破壊しているのは、たくさんいる狂気的な学者とマスコミである。
 日本は自殺しつつある。誰かが爆弾を落としたわけでもないのに、経済爆弾(所得縮小)を自分で自分に落として、自分で自分を破壊しつつある。

 [ 付記 ]
 バラ色の夢想をふりまいていた学者とマスコミも、罪は深い。「構造改革で景気回復」とか、「不良債権処理で景気回復」とか、「量的緩和で景気回復」とか、そういう説を唱えて、「2〜3年後には景気回復」と主張していたのが、彼らだ。
 2年前、「構造改革」「不良債権処理」「量的緩和」を唱えていた人々は、今のこの現実を前にして、素直に自己の間違いを認識するべきだ。彼らには、一言だけ言っておこう。「どんなに景気回復策を出そうと、買う金がなければ、誰も物を買えない」と。「買う気をどんなに駆り立てようとも、財布に金がなければ、買うことができないのだ」と。



● ニュースと感想  (4月13日b)

 時事的な話題。「イラク戦争の終結」について。
 イラクのフセイン政権が崩壊した。これをもって、「独裁体制の終結」と称して、「アメリカの勝利」と吹聴する人々が多い。あれほど戦争反対を唱えていた朝日の一部も、コロリと態度を変えて、「独裁体制の終結だ、万歳」と叫んでいる始末だ。あきれたものだ。
 はっきり言おう。戦争が終結したとき、アメリカは、勝ったのではなく、負けたのだ。なぜなら、「戦争の理由」としての、「大量破壊兵器」もしくは「化学兵器」は、ついに一度も使用されなかったからだ。こういう兵器は、あったかもしれないが、たとえあっても、使う意思がなかったことが判明した。政権が崩壊する寸前になっても、それでも使われなかった。とすれば、戦争の理由は、なかったことになる。戦争の理由がないまま、戦争をしたことになる。アメリカの主張していたことは、すべて嘘八百だったのだ。

 そこで、今になって、「独裁体制の打倒が目的だ」と、戦争の理由をすり替え始めている。こういうプロパガンダにだまされるのが、マスコミだ。
 しかし、勘違いしてはいけない。「独裁体制の打倒」は、そもそも、戦争の目的とはならないのだ。そのことは、次項で述べる。


● ニュースと感想  (4月13日c)

 前項の続き。時事的な話題。「独裁体制と戦争」について。
 イラク戦争の大義名分が、今になって「独裁体制の打倒」になってきてしまっている。しかし、こんなことは、戦争の名分にはならない。
 結局、軍事独裁を主張するなら、これまでのアメリカの歴史的な方針をすべて否定する必要があるし、現在でも世界中のあちこちで戦争を起こす必要がある。まずはチベットで虐殺を繰り返している中国と核戦争ごっこをする必要があるだろう。

 [ 補説 ]
 では、どうするべきか? 軍事独裁を放置するべきか? あるいは、平和的に経済封鎖で対応するべきか? 違う。そのどちらも正しくない。
 私は、単純な平和主義ではない。「軍事独裁を放置せよ」とは言わない。アメリカのような暴力賛美は大嫌いだが、だからといって、平和主義者のように無為を好んでいるわけでもない。たとえば、フセイン政権は崩壊させるべきだったと思う。また、上記のミャンマーや韓国の政権も崩壊させるべきだった。── ただし、その方法が異なる。アメリカのように何千人も殺すような国家テロを、私は支持しない。むしろ、一発の弾丸も使わずに、1人の人間も殺さずに、相手国家を崩壊させるべきだった。
 そんな方法はあるのか? ある。それは、経済学を使うことだ。
 相手国家を崩壊させるには、経済的に完全に崩壊させてしまえばよい。そして、それは、可能である。その方法は、「極端な景気変動を起こすこと」である。
 日本を見るがいい。バブルのあとで、ひどい不況になって、国民は青息吐息だ。ここでは、5%程度の景気変動にともなって、スパイラルが発生して、国家経済は非常に苦しくなっている。これよりもさらに大規模で景気変動を起こせば、国家経済は完全に崩壊する。
 では、強引に景気変動を起こす方法は、あるか? ある。それは、「経済封鎖を断続的に実施すること」である。
 たとえば、ミャンマーや北朝鮮(あるいは以前のイラク)に対して、こうする。  こういうことを繰り返せば、国家経済はメチャクチャになるし、国民の精神もおかしくなってくる。たとえて言えば、シジフォスである。石を山頂に運んでは、それを落とし、また石を山頂に運び、それを落とし、……というやつだ。
 だから、こういうことをやれば、戦争などを起こさなくても、相手国を崩壊させることができるのだ。逆に、単純な経済封鎖では、景気変動が起こらず、単なる途上国の段階に留まるだけだから、ほとんど効果がない。それは、北朝鮮、ミャンマー、キューバなどを見てもわかる。単なる経済封鎖は、ほとんど効果がないのだ。実際、キューバも北朝鮮も、60年たっても、国家は崩壊しない。

 最後に言っておこう。「戦争」とか「単純な経済封鎖」とか、そういう馬鹿げた方法で国家を崩壊させようとしているのは、保守派だ。彼らは、「景気変動」という最善の破壊策を、独裁国家には適用しないで、逆に、自国に適用している。
 小泉は、「構造改革」と称して、日本を不況のどん底に落としている。経済学的には保守派に属する古典派は、マネタリズムやサプライサイドという妄想を信じて、日本を不況のどん底に落としている。こういう保守派は、独裁国家を崩壊させるかわりに、日本を崩壊させようとしているのだ。
 特にひどいのは、「ふたたび資産インフレを起こせ」と主張しているマネタリストだ。彼らはあえて、「バブル発生とバブル破裂」を再来させようとしているのだ。経済学的な国家破壊主義者。


● ニュースと感想  (4月13日d)

 前項の続き。時事的な話題。「イラク戦争の報道」について。
 米国は、イラク戦争の戦犯を、米国の国内法によって軍事法廷で裁判する方針だという。米国捕虜の映像公表などが該当するという。(読売・朝刊・国際面 2003-04-10 )
 まったく、たいした方針だ。他国の出来事を、勝手に自国の国内法で裁くというのだから。法治主義もへったくれもない。
 さて。日本のマスコミも、米国捕虜の映像公表をしたところが、いっぱいある。テレビでも新聞でも、さんざん報道してきた。こういう日本のマスコミも、米国に裁かれるべきなのだろう。米国というのは、大した民主国家である。だからこそ、イラクを攻撃したのだろう。自己流の民主主義を押しつけるために。ま、それが「民主主義」の名に値すれば、の話だが。
 とりあえずは、Y新聞の社長あたりを、軍事裁判にかけるのだろうか。彼も独裁者だからね。

 [ 付記 1 ]
 読売新聞は、「イラク国民が米軍を熱狂的に歓迎」という記事ばかりをわんさと書いている。そうやって戦争を正当化したがっているらしい。勘違いしては困る。米軍を熱狂的に歓迎する国民もいるだろう。しかし、歓迎しているのは、生き残った人々だけだ。死んでしまった人は、反対の声を上げられないのだ。
 それとも、読売新聞は、こう考えているのだろうか? 「死んでしまった人々も、米軍を歓迎しているはずだ。彼らは、『殺してくれて、ありがとう』と感謝するはずだ」と。
 もしそう思うのであれば、米軍は、さっさと読売の社員を全員殺すべきだろう。社員は「殺してくれて、ありがとう」と言うはずなのだから。ま、たしかに、そう思うかもしれない。独裁者に殉じるのが、読売の社員の使命だからだ。

 [ 付記 2 ]
 読売や保守派は、「人的犠牲は最小限に抑えられた」と主張する。しかし、今回の戦争では、数千もの人命が奪われたのだ。1万人を越える、という説もある。戦争を起こさなければ、これだけの人命は失われずに済んだのだ。
 9月11日のNYテロでは、数千もの人命が奪われたことで、「大量の人命を奪うテロは絶対に容認できない」と主張し、今度は「数千もの人命が奪われても最小限だから容認できる」と主張する。数を数えることがでいないのだろうか? ソロバンでも教わった方がいい。
 本当のことを言おう。保守派というのは、イラク人の人命など、物の数でないのである。人命とは、米軍兵士の人命だけを言う。イラク人には人命などがないと考える。そういう差別主義なのだ。だからこそ、広島に原爆を落としても、いまだに反省の一つもしないで、平気でいられるわけだ。
 アメリカ人はアジア人のことを、黄色い猿だと思っている。そして、日本の保守派とは、自分を人間だと思っている黄色い猿のことなのだ。鏡を見ないので、「自分は黄色人種ではなくて、白人の仲間だ」と勝手に思い込んでいるわけだ。だからこそ、多大な人命が奪われるのを見ても、平気でいられるのである。

 [ 付記 3 ]
 読売や保守派は、「米国は、独裁者を倒し、自由を守る。民主主義のヒーローだ」といった調子の話をしきりにする。冗談も休み休みにしてほしい。
 歴史を見るがいい。過去の独裁政権は、ほとんどが右派の軍事政権だった。そして、そのほとんどすべてを、米国は支持した。なぜなら、「反共」だったからだ。仮に、冷戦時代、日本で社会党が政権を取って、北欧流の福祉重視の政治体制を取ったとしよう。そのとき、自衛隊がクーデターを起こして、日本を軍事独裁政権にしたら、米国はその軍事独裁政権を必ず支持したはずだ。実際、他の例では、そうしてきたのだから。
 最も身近な例は、韓国にある。韓国では、朴正煕(ぼくせいき)大統領および全斗煥(ぜんとかん)大統領の下で、クーデター以後、軍事独裁が長年続いた。米国も日本もそれを支持していた。今はフセインに対して「独裁政権 打倒!」と叫んでいる保守派の人々は、韓国の独裁政権に対しては、長年、「独裁政権 万歳!」と叫んでいたのである。
 まったく。それほど態度を変えて、恥ずかしくないんですかね。
 ( ※ 「朴」は、韓国語読みでは、「パク」である。)

 [ 付記 4 ]
 ついでに、もう一つ。独裁よりも、もっとひどいのがある。「侵略・虐殺」だ。そして、それを支持している国は、現在、世界でただ一つだけある。それが米国だ。
 中東を見るがいい。イスラエルによるパレスチナへの武力占領・虐殺を、世界中が非難している。米国だけが、それを容認する。
 日本の保守派は、今は「フセイン独裁政権を倒したぞ! 米国万歳!」と叫んでいるが、彼らは、イスラエルについては、虐殺も核兵器も容認しているのである。二枚舌とは、このことだ。


● ニュースと感想  (4月13日e)

 時事的な話題。「イラク復興」について。
 イラク戦争のあとの「イラク復興」について、米国が、国連主導ではなく、米国主導で実施したがっている。その理由を示そう。
 これは、「マーシャル・プラン」と同じである。敗戦国に対して、莫大な援助をすることで、戦争の恨みを帳消しにしたいわけだ。「攻撃した」とばかり思われていては、憎まれて、国益を損なう。そこで、多額の援助を実施することで、感謝されたいわけだ。
 ただし、である。いかにも人道的に見えるこの援助だが、実は、損得ずくなのである。第二次大戦直後には、日本に多額の援助がなされて、大量の小麦などがふるまわれた。日本人はそれを受け取って、涙を流して感謝した。しかし、である。こうしてふるまわれた小麦は、実は、米国の余剰生産物の処理だったのである。日本では余剰の米の処理法に悩んでいるが、それと同じで、当時の米国も、余剰の小麦やミルク類の大量在庫に悩んでいた。それを在庫処理するために、日本などに送ったわけだ。しかも、ここが肝心なのだが、その金は、日本が払ったのである。── ここを決定的に勘違いしている人が多い。「アメリカからの援助だから、アメリカがタダでくれた」と思っている人が多い。違う。アメリカは「善意で贈ります」と言っていたが、その代金は、しっかりと回収していたのである。
 今回のイラク復興も同様だ。アメリカが国連に任せずに、自国だけで占領を続けたいのは、イラク復興のビジネスを、自国で独占したいからだ。しかも、ここが肝心なのだが、その金は、アメリカは払わない。第1に、イラクの産出する石油でまかなう。第2に、協力費として、日本からの拠出金でまかなう。
 先の開戦のときには、「アメリカのご機嫌を損ねるわけにはいかない。戦争に賛成するべきだ」と主張した保守派の人々がいる。彼らは、今度もまた、同じように主張するだろう。「アメリカのご機嫌を損ねるわけにはいかない。拠出金を払うべきだ」と。
 かくて、へつらうことしかできない腰抜け国家の金を没収して、アメリカはしこたま儲けるのである。アメリカという国は、何と賢いことだろう。実に賢い。ずる賢い、という方が正確だが。ひるがえって、腰抜け国家の方は、金を奪われるだけで、なんともまあ、愚かなことだろう。
 日本は北朝鮮を見て、「テポドンが怖い」と脅える。しかし、北朝鮮にはテポドンがあるが、日本には H2ロケットがあるのだ。 H2ロケットは、テポドンよりも、はるかに強力かつ高精度である。なのに、日本は、テポドンに脅える。これほどの腰抜け国家は、世界を探しても、類を見ないはずだ。「子猫が怖い」と脅えるライオンのようなものだ。
 「らいおん・はーと」とは、そういう意味だったのだ。


● ニュースと感想  (4月13日f)

 時事的な話題。「イラクの戦後の無秩序」について。
 イラクは戦後に、無秩序状態であるそうだ。米軍は残党退治の方に手を取られ、治安には手が回らないという。で、今になって、「各国は治安要員を出してほしい」などと言い始めている。
 呆れた話だ。あれほど「国連は来ないでいい」と言っていたのが、今になって、「各国は要員を出してほしい」だ。それでいて、「国連を通じて」とは言わない。本来ならば、「国連の平和維持軍に来てほしい」と言うべきだろう。
 米国は、「フセイン後には自由になる」と言っていたが、その「自由」とは、略奪も何も可の「無秩序」であったわけだ。
 日本の保守派のあちこちも、「独裁打倒はすばらしい」とは言うが、「無秩序はすばらしい」とは言えないようだ。
 結語。米国も保守派も、まったくの「無責任」である。「おれは正しいんだ」と主張するばかりで、自己反省というものがまったくない。ま、それが、保守派の定義ではあるから、仕方ないが。


● ニュースと感想  (4月13日g)

 時事的な話題。「自衛隊の戦力」について。
 今回のイラク戦争で、良かったことが一つだけある。それは、「自衛隊はハイテクの前ではゴミにすぎない」と判明したことだ。
 ステルスと精密誘導兵器が、イラクの戦力を完璧に叩きのめした。同様のことは、自衛隊に対しても、当てはまる。たとえば、日本の敵国が、ステルスと精密誘導兵器を整備したとしよう。すると、1日目に、自衛隊の全戦力が、壊滅する。海上自衛隊の軍艦はすべて撃沈され、陸上自衛隊の戦車やレーダーも爆破される。戦闘機だけは、飛んでいる間は必ずしも撃墜されないが、基地に戻った時点で、ただの飛べない鳥となり、やはり爆破される。
 現状では、自衛隊はただのゴミにすぎない。だから、どうせ自衛隊を維持するならば、日本の自衛隊もハイテク化するべきだろう。戦車や軍艦などはほとんど廃止し、制空権を取ることを最重視するべきだ。ステルスと精密誘導弾と対戦車ヘリは絶対に必要だ。しかるに、現実の自衛隊は、どれ一つ持っていない。
 国民は毎年、とんでもないゴミを維持するために、莫大な金を払っているわけだ。これもまた、ガラクタを建設する公共事業の一種なのかもしれないが。

( ※ 戦車というのは、防衛のためには、ほとんど意味がない。相手国を侵略するためにだけ、役に立つ。なぜか? たがいに対戦者ミサイルなどで戦車のつぶしあいをやって、最終的にどちらかが残り、その残った方の戦車だけが、人間に対して有利になる。戦車同士の戦いというのは、昔ならともかく、今では時代錯誤である。そういう時代錯誤の発想が、今の自衛隊を占めているから、自衛隊はゴミとなるわけだ。)
( ※ ついでだが、なぜ米軍はほとんど死者を出さずに、イラクの戦車部隊を絶滅させたか、その理由を教えよう。それは、相手の戦車の射程距離の外で、戦ったからだ。「射程距離の外で」というのは、米軍の戦い方の基本だ。相手の弾が届かなければ、被害は受けない。それだけの距離を保った上で、米軍だけは、制空権を利用して、相手位置を確認しながら、ミサイルや対戦車ヘリで、空中戦によって相手戦車を爆破する。だから戦果は大差が付いたわけだ。……要するに、イラクは昔の戦略を取ったのに、米国はハイテクの戦略を取った。その戦略の差が、結果に大差をもたらした。ついでだが、日本の自衛隊は、米国ふうではなく、イラクふうである。敵国が米国ふうの戦略を取れば、壊滅するのは、日本の自衛隊だ。)


● ニュースと感想  (4月13日h)

  【 追記 】 (場所は4月13日だが、4月15日に追記した。)

 時事的な話題。「イラクの文化財破壊」について。
 イラクで無秩序状態がひどくなり、略奪が起こり、博物館まで根こそぎにされたという。多くは盗まれただけのようだが、一部は破壊され、完全に失われてしまったという。残っているのは、土や石の破片だけ。(朝刊 2003-04-14 )

 ひどい。あまりにもひどい。戦争で人間が死んでも、人間はまた新たに生まれるから、かけがえのない存在というほどでもない。しかし、文化財というものは、唯一無二のものであり、かけがえがないのだ。そして、それを破壊したのは、最近では、タリバンであり、私はこれをひどい蛮行だと思った。しかし、その上手がいた。米軍だ。もともと治安悪化で病院などが根こそぎにされていて、それを放置していた。そのあと、博物館略奪の報を受けて、博物館に赴いたが、すぐに退去したため、また盗人が押し寄せて、博物館が根こそぎにされたという。

 米国というのが、タリバンと同様に、いかに無知蒙昧の輩であるか、この件からもわかる。そもそも、イラクというのは、メソポタミア文明の発祥の地であり、そこには多大な文化財があった。その地を爆撃するというところからして、狂気の沙汰だが、そういう狂気がまかりとおっているから、あとで文化財を守ろうという気さえしないわけだ。かくて、文化財の破壊は、必然だった。そもそも、「文化財を守れ」というアピールを、考古学者たちがもともと発表して、報道されていたのだ。それをまるきり無視していたわけだ。
 メソポタミア文明というのは、ギリシア・ローマ文明よりも先で、人類にとっての価値はむしろ上回る。米国というのは、欧州重視主義だろうから、ギリシア・ローマ時代ぐらいしか知らないだろうが、たとえていえば、ギリシアのパルテノン神殿やローマのコロセウムが破壊されてしまうようなものだ。コロセウムといえば、最近のテレビでは「ビューティ・コロシアム」という番組が話題になっているが、その「コロシアム」とは何かが、ローマには形として残っている。それが爆弾で破壊されるとしたら、途方もない損失である。そして、それよりもっとひどいことが、今回の戦争で発生してしまったわけだ。
 米国というのは、歴史がほとんどない国だから、歴史の重要性がわかっていないようだ。日本人なら、いくらかわかるだろうが、法隆寺三千院など、奈良や京都の文化財がすべて破壊されてしまうようなものだ。言っておくが、これらの価値は、イラクの文化財の価値に比べれば、屁のようなものだ。米国も日本も、その価値が全然わかっていないのだ。

 イラク戦争に「賛成」を唱えた人々よ。あるいは「やむを得ない」と是認した人々よ。今こそ、もう一度言うがいい。「戦争は正しい。人類最古の文明を伝える文化財を破壊することは正しい」と。そして、「メソポタミア文明も、ギリシヤ・ローマ文明も、日本の奈良や京都も、文化財をすべて破壊してしまえ。その理由は、フセインが化学兵器を査察団に見せなかったからだ」と。
 ついでに言えば、日本にも、化学兵器や核兵器は存在しない。だから査察団に見せることはできない。同じ理屈がまかり通れば、日本もアメリカに爆撃されてしかるべきなのだ。  M

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● ニュースと感想  (4月13日i)

  【 追記 】 (場所は4月13日だが、4月27日に追記した。)

 時事的な話題。「イラク戦争の論理矛盾」について。
 戦争の是非については、さんざん論じたから、それとは別の観点から論じよう。ここでは、論理的な矛盾を説明する。
 どんな戦争であれ、その戦争をするには、大義名分が必要だ。ただし、今回の戦争ほど、大義名分がデタラメである戦争は、史上かつてなかっただろう。そのデタラメぶりを示す。

 (1) 大量殺戮
 つまり、「大量殺戮兵器を使って1人も殺戮しないのは、悪である」が、「大量殺戮兵器を使わないで大量に殺戮するのは、善である」ということになる。
 これほどメチャクチャな理屈はないだろう。刑法で言えば、こうなる。「拳銃を保有して、1人も殺さないのは悪である。しかし、拳銃を使わないで、拳銃を持っている人を殺すことは善である」と。
 この理屈で言えば、アメリカ人の大多数は、殺されてもいいことになる。アメリカ人の多くは、拳銃を持っているからだ。デタラメの極み。

 (2) 独裁
 つまり、「イラクのなかの独裁者に対しては、民主主義の敵として、懲らしめよ」となるが、「米国という世界のなかの独裁者に対しては、自ら民主主義を捨てて、服従しよう」というわけだ。米国がどんな無理難題や大量殺戮をしても、決して文句を言ってはいけない。「反対する自由」とか、「思想の自由」とかは、民主主義の根幹であるが、そういう「民主主義」を捨てて、独裁者に完璧に服従しなくてはならない。
 つまりは、「イラクにいる独裁者は嫌いだが、米国という独裁者は大好きだ」というわけだ。デタラメの極み。

 以上の (1) (2) のうち、とりわけ (2) が罪深い。特に、読売はひどい。
 マスコミというものは、言論機関なのだから、言論の自由や民主主義を大切するのは、自らの基本原理であるはずだ。にもかかわらず、それを捨てようとする。「米国に反対してはいけない」「良し悪しを言わずに、ともかく米国のやることには服従しなくてはいけない」とばかり主張する。
 しかも、その理由は、「それが国益だから」だ。とすれば、この態度は、悪魔に魂を売り渡すのも同然だ。それは、「自らの利益のためであれば、クウェートを侵略してもいい」と考えるフセインと同じだ。これほどの自己矛盾はあるまい。

 [ 付記 1 ]
 では、日本は、どうするべきだったか? 青臭い平和主義ではなくて、現実主義で言おう。

 (a) 北朝鮮との関連
 「米国の戦争は正しくない」ということは、実は、保守派もわかっている。ただ、北朝鮮との関連があるから、「そんなことは言えない」と主張しているわけだ。それが本音だ。
 だから、私は、真実をして指摘しておこう。「米国支持をしないと、北朝鮮が攻めてきたときに、日本を守ってもらえない」というのは、妄想だ、と。
 第1に、北朝鮮が日本を攻めてくるはずがない。武力的には圧倒的に劣っているのだから、先制攻撃をするはずがない。実際、北朝鮮が主張しているのは、「先制攻撃する」とうことではなくて、「もしそっちが先制攻撃するなら、少しは被害を覚悟してもらいたい」ということだけだ。それを「北朝鮮が先制攻撃する」というふうに論理をすり替えるのは、あまりにも身勝手な論理であり、狂気的な錯乱である。……このことがわからないのであれば、日本と米国の合同戦力を、北朝鮮の戦力と、交換してもらえばよい。向こうの戦力がそれほど立派なものなのであれば、交換によって安心できるだろう。テポドンと小銃をもらって、かわりに、米国の最新ハイテク兵器と核兵器と空母をプレゼントすればよい。それで、安心できるはずだ。
 第2に、「日本は米国に守ってもらっているからご機嫌を伺う必要がある」、というのは、卑屈極まる妄想である。米国は、日本のために、日本を守るのではない。もしそうであれば、「日米安保条約は絶対に必要だ」などと主張するはずがなく、「さっさと解消してくれ」と言うはずだ。あのわがままな米国のことだから、必ずそうなる。では、なぜ、そうしないか? 米国が日本を守るのは、日本のためではなくて、米国自体のためなのだ。日本というハイテク国が敵対国に渡ることは、米国にとって死活的な問題だ。イラクが米国を戦力的に打ち負かすことはありえないが、日本のハイテクを奪った敵国がハイテク兵器で米国を打ち負かすことはあり得る。はっきり言おう。米国を軍事的に打ち負かす可能性のがる国の筆頭は、欧州でもロシアでもなく、日本である。なぜなら、ハイテクで米国に匹敵するのは、日本だけだからだ。
 だから、日本と米国が政治的にどんなに険悪になろうと、日本が北朝鮮に攻撃されたら、即時、米国は、北朝鮮を攻撃する。それは、日本のためではなくて、米国自身のためなのだ。たとえば、イラク戦争では、米国は圧倒的に有利だからこそ、イラクを攻撃した。イラクが悪いからイラクを攻撃したのではない。イラク攻撃では被害がほとんどでないから攻撃したのだ。逆に、パキスタンを相手にすれば、核兵器のリスクがあるから、パキスタンを攻撃することはあり得ない。ひるがえって、北朝鮮や中国の場合は、どうか? 北朝鮮が日本を攻めてきた場合は、どうせ海を渡る戦力もないのだから、簡単に北朝鮮を打破できる。一方、中国が日本を攻めてきたら、どうなるか? アメリカは、中国との戦争で、莫大な被害を受ける。とうてい、中国と戦争をする気はない。しかし、である。中国の攻める相手が二歩であれば、アメリカは、どんなに多大な被害が出ても、日本を守る。それが自己にとって死活的な問題だからだ。日本のハイテクを中国が奪ったら、というのは、米国にとっては悪夢そのものだ。だから、たとえ国民の半数が死ぬハメになっても、日本を守るために戦う。私が米国大統領でも、そうする。日本という国は、戦略的に、それほど重要なものなのだ。もし日本が奪われたならば、米国は中国の属国となるか、米国が消滅する危険がある。そんな危険は看過できないのだ。

 (b) 日本の取るべき態度
 今回、日本は、「米国に服従する」「米国支持を表明する」という以外に、どんな選択肢があったか? どうするべきだったか? 不支持を表明したら、米国の不興を買うのではないか? その質問に対する答えを言おう。
 私は、青臭い理想主義ではない。「フランスのように拒否権を発動するほど、徹底的に反対せよ」とは言わない。私自身の気質としては、そうしたいところだが、私が日本の首相になったらという仮定のもとでは、あんまり自分勝手なこともできない。
 正解を言おう。日本は、沈黙するか、中立を表明するべきだったのだ。それで、問題はないか? 問題はない。そのことは、初期の小泉自体が証明した。小泉は、改選前は、ずっと態度を曖昧にしていた。賛否を明かさなかった。ならば、その態度を、ずっと保留しておくべきだったのだ。
 それで問題はないか? ない。「日本の首相が態度を鮮明にしないから、安保条約を解消する」なんていう意見は、ただの一度も米国では現れなかった。そんな心配をしていたのは、日本の保守派だけだった。いや、間違えた。日本の保守派のうちの、臆病な人たちだけだった。気力のある保守派は、そんなことは言わなかった。「怖い、怖い」と言っていたのは、臆病な人間だけだったのだ。
 実際、世界中の人々の8〜9割が、米国の攻撃に反対している。米国はそれらの人々や国々に対して、「おれを支持しないのなら、ひどい目に遭わせるぞ」などとは言っていない。「たぶん米国はそうするだろう」と主張しているのは、日本にいる臆病な人々だけなのだ。というか、彼らの妄想だけなのだ。
 米国は、支持してもらえれば嬉しいが、支持してもらえなくてもたいして構わない。たとえば、フランスやドイツに対して、「NATOを解消するぞ」などとは、主張していない。そんなことを勝手に主張しているのは、日本の臆病な保守派だけなのだ。
 だから、日本取るべき態度は、初期の小泉の態度だったのだ。沈黙と中立。現実的には、これがベストだっただろう。
 その陰で、日本のマスコミが、「政府はそうでも、民心はそうではない。反対している人々が大多数だ」と報道すればよかった。
 マスコミの責務は、事実の報道であって、虚偽や妄想の報道ではないのだ。

 [ 付記 2 ]
 「米国には服従しよう」という主張を取る保守派に、言っておこう。仮に、その主張が正しいとしよう。ならば、その主張を、とことん取るべきだ。「戦争のときだけは米国に服従しよう」なんて言わずに、あらゆる場合で米国に服従するべきだ。たとえば、次のように。
 保守派は、そう主張するべきだ。そして、それができないとしたら、自己矛盾を起こしていることになる。
 犬なら犬らしくふるまうべきであり、立派な人間のようにふるまうべきではないのだ。

 [ 付記 3 ]
 米国や国際社会は、どうするべきだったか? これについても、青臭い平和主義以外の案を、提案しておこう。
 米国としては、いったん言い出した以上、引くに引けなかっただろう。一方で、フランスなどのヨーロッパ諸国も、「武力で解決」という方針は呑めなかっただろう。とすれば、私としては、次のことを提案しておく。(今さら、証文の出し遅れ、ではあるが。)
 それは、「妥協」である。妥協とは、「足して2で割る」ことだ。つまり、「部分的な武力行使」である。
 具体的に言えば、小規模の空爆だ。たとえば、イラクの空軍基地と、大統領宮殿を、空爆で破壊する。つまり、戦争の1日目と2日目の攻撃だ。
 ここで、いったん、イラクの出方を窺うべきだった。おそらく、この時点で、イラクの大幅な譲歩を引き出せたはずだ。「フセイン亡命」という選択肢も、あらかじめ準備しておくべきだった。これによって、「高価な戦争」という、馬鹿げた策を避けることができたはずだ。
 今回の戦争で、損をしたのは、イラクだけではない。米国は多額の出費をしたし、日本もある程度の負担を強いられそうだ。私としては、フセインの命は、そんなに高い値段に値しないと思う。経済的に、そんな馬鹿高い価格の公共支出は、したくないのだ。
 私としては、フセインの命に払う値段は、十億円か百億円が限度だと思う。数兆円の金を払って、さらに数千人の人命を追加の代価として払って、それで平気でいられるなんて、正気を失っているとしか思えない。

 [ 余談 ]
 「米国は世界唯一の傑出した大国である」という意見が、最近また、結構出回っている。思えば、ひところ、ソ連が崩壊したころ(日本もバブルで経済が崩れたころ)にも、こういう意見が出回っていた。しかるに、90年代の半ば、一時的に下火になったものだ。そして、今またそういう意見が出回っている。
 では、なぜ、一時的に下火になったのだろうか? それは、米国の唯我独尊の顔に水をぶっかけた、1人のヒーローがいたからだ。彼の名は、英雄。姓は、野茂。
 「米国のベースボールは世界最高だ。日本の野球なんか、比べものにならない」という意見が、当時、圧倒的だった。そこへ、野茂が乗り込んで、快刀乱麻のごとく、ノーヒットノーランなどをやらかした。「おれこそ最高」と自惚れた米国の顔に、水をぶっかけて、目を覚まさせたのだ。「おまえと同じ力をもつものは、世界にもいるのだ」と。
 このころ、外国のことなどまるで理解しなかった米国は、世界というものを意識したはずだ。そして謙虚さをもったのだ。それゆえ、世界は平和に保たれた。
 だから、ゴジラがNYで暴れるのが、もう少し早かったなら、イラク戦争は免れたかもしれない。また、北朝鮮への攻撃は、しばらく一休みしそうだ。米国民は、北朝鮮よりも、ゴジラの方に興味がありそうだ。「北朝鮮が日本に、テポドンを打ち込むか」よりも、「ゴジラは米国に何発、アーチを打ち込むか」の方が、関心になりそうだ。
 ともあれ、戦争を引き起こすものは、傲慢さである。(おべっかづかいがいればいるほど、傲慢さは増長する。その点、ゴジラは勇敢だ。ゴジラは平和の使徒である。野茂だって、戦争には「 No More!」と背中で言っている。)


● ニュースと感想  (4月14日)

 時事的な話題。「朝日の経済シンポジウム」について。(特に言及するほどのことはないのだが。)
 経済学者たちによるシンポジウム。朝日新聞社主催。
   →  http://www.asahi.com/sympo/deflation/index.html

 講評。
 結語。
 誰もがマクロ経済学というものを理解でいないようだ。マクロ経済学のなすべきことは、需要と供給のバランスが崩れたときに、そのバランスを是正することだ。やたらと「供給力を改善せよ」と述べるのは方向が逆だし、「政府が原因で需要が歪んで縮小したから、政府の力で(歪んだ)需要を増やせ」というのも見当違いだ。
 無知と愚者による、烏合の衆。

( ※ 最後の主張に関連して、正解を述べておこう。日本に足りないのは、「物を買いたい気持ち」ではない。「所得不足」もしくは「所得不足の不安」なのである。「物を買いたい気持ちがないから、物が売れないんだ」というのは、とんでもない。貧しい生活をして、生活が苦しい、と叫んでいる人々が大半だ。誰もがもっと贅沢をしたいのだ。今みたいに切りつめた生活は、いやなのだ。にもかかわらず、所得がないから、消費をへらさざるを得ないのだ。そのことを、経済学者は理解できない。「金がなくても、買う気があれば、物は売れる」と思い込む。実に空疎な主張。)


● ニュースと感想  (4月14日b)

 時事的な話題。「中国の元の切り上げ」について。
 中国の通貨の「元」を切り上げるべきか、という議論が記事になっている。「1981年以降、通貨レートが、切り上げられるどころか、5分の1に切り下げられている。元の水準ぐらいに切り上げるべきだ。そうしないから、世界中がデフレになる。」という話。(読売・朝刊・特集 2003-04-13 )
 これについて、いくつか言及しておこう。

 (1) デフレの元凶
 「中国の元のレートが低すぎるのが、デフレの元凶だ」という説は、二つの意味で不十分である。
 第1に、「輸入デフレ」の元凶になるのは、通貨のレートそのものではなくて、貿易収支である。貿易赤字が発生しているのならば、たしかにその説は当てはまるかもしれないが、貿易赤字が発生していないのならば、その説は当てはまらない。現実には、どうか? 香港・台湾を経由する迂回輸出の分も考慮すれば、日本と中国との貿易収支は、輸出入ともバランスが取れている。目立つような貿易赤字は発生していない。( → 1月29日c ) また、日本の貿易収支の全体も、赤字ではなく、黒字である。
 第2に、たしかに中国全体を見れば、中国は大幅な貿易黒字が発生している。しかし、そのせいで貿易赤字になっているのは、日本ではなくて、米国である。実際、米国は、大幅な貿易赤字が発生している。だから、論者の主張が正しいとすれば、デフレになっているのは、日本ではなく、米国であるはずだ。ところが、現実には、米国はデフレではないし、それどころか、先進国中では、最も景気が良い。── とすれば、論者の理屈は、破綻している。貿易収支の悪い国ほど、景気が良いのだから。(実は、これは、当然のことだが。)

 (2) 切り上げの是非
 とはいえ、たしかに、中国の元レートは適正ではないし、上記の記事のように、切り上げられるのが適切だ。「水が高きから低きに流れるようにするべきだ」という意味では、論者の主張は正しい。
 しかし、だからといって、それを「中国に強いるべきだ」と論じるのは、話の方向が正反対である。なぜなら、通貨が低すぎることで、損をしているのは、先進国ではなくて、中国だからである。たとえば、同じ物を購入するのに、2倍の労働をしなくてはならない。換言すれば、同じ労働量では、半分のものしか購入できない。富の損失という被害を受けているのは、先進国ではなく、中国なのだ。
 だから、中国としては、「切り上げた方がいい」とは言える。しかし、先進国としては、「現状の方がいい」となる。仮に、元の切り上げがなされれば、輸入物品の価格が上がり、輸入インフレとなる。これは明白な損失だ。
 「デフレのときには、物価が上昇した方がいい。そうすれば、インフレになる」と思う経済学者もいるだろう。しかし、これこそ、トンデモだ。デフレとは、「価格下落」のことではない。「過度な価格下落」つまり「赤字化」のことだ。輸入物品の価格が上昇していても、需要が縮小している限りは、企業の赤字は修正できない。デフレ下での輸入インフレは、「デフレがインフレに改善すること」ではなくて、「デフレがスタグフレーションに悪化すること」を意味するだけだ。
 もし「輸入インフレで物価が上昇すると、デフレが解決する」ということが成立するのであれば、石油の輸入代金として、相場以上の莫大な金を払えばよい。そうすれば、確実に、物価は急上昇する。で、そうすれば、インフレになるか? ならない。スタグフレーションになるだけだ。そんなことは、とっくに経験済みだ。
 こういうことがわからないで、物価ばかりにとらわれるのが、今の経済学者だ。

 (3) 切り上げの方法
 とはいえ、「水が高きから低きに流れるようになるはずだ」という原理のもとでは、自然に、元のレートが上昇するはずだ。なのに、なぜ、そうならないか? 
 中国は、本来、途上国なのだから、「金を借りて投資をする。そうして生産力を増強する」というのが、あるべき姿だ。ところが、現実には、黒字を出して、金を先進国に投資している。本末転倒だ。そして、それが、「元の異常な通貨安」となる。ここに根本問題がある。
 では、どうすればいいか? 中国が異常なドル投資をしているのだから、その分、先進国が、中国に投資をすればよい。たとえば、中国の資産を購入する。中国の国債を買ってもいいが、これは為替リスクがあって危険なので、中国の不動産や株式などの資産を購入するのがよさそうだ。
 具体的に言おう。先進国の側が、中国の資産を購入する。すると、大量のドルや円が中国に流れ込む。中国の当局は、ドルや円を購入して、元を払う。先進国の側は、その元で、資産を買う。資産を売った中国人は、大量の元があるので、それが市中に流れると、猛烈な物価上昇が発生する。だから、当局は、その大量の元を吸収するため、メチャクチャな高金利にするか、元を切り上げるか、二者択一となる。通常、元を切り上げる。その時点で、中国に投資をしていた先進国の側は、少しずつ資産を切り売りする。元のレートが大幅に切り上げられているから、短期間で、巨利を得る。
 実際、これは、「1ドル = 360円」だったころに、投機筋が実施した方法だ。当時、莫大な資金が日本に流れ込み、当局としては、通貨の流通が過剰になるのを防ぐため、否応なく、円の切り上げに追い込まれた。
 だから、日本の側は、「円安に導くためにドルを買おう」なんて言わないで、「金儲けをするために元を買おう」と言って、莫大な金を中国に投じればいいのだ。現実には、莫大な金を米国なんかに投資しているから、変な偏りが生じて、うまく経済が回らない。 「世界最大の赤字国に投資して、世界最大規模の黒字国には投資しない」なんてのは、馬鹿げているわけだが、そういう馬鹿げていることをやっているから、世界経済がいびつになる。そして、「中国の通貨が安すぎる」なんて文句を言う。自分で勝手にそうしておきながら、他人のせいにする。愚の骨頂。本気でそう思うのならば、さっさと米国に預金した資金を引き揚げて、中国に投資するべきなのだ。
( ※ なお、中国の長期国債などを買うと、物価上昇および金利の上昇が同時に発生したとき、国債暴落の損をこうむる。)

 (4) マネタリズムとの関連
 上記の最後のあたりを、よく理解してほしい。莫大な貨幣供給量があると、それを抑制することは、困難なのだ。「貨幣供給量をコントロールすれば、インフレなんか簡単に退治できるさ」とマネタリストは言う。しかし、現実には、莫大な貨幣供給量があると、それを抑制にするには、異常なほどの高金利が必要となる。そんなことをすれば、その異常な金利を払えなくなった企業が、あちこちでやたらと倒産する。健全な企業が、金融当局のメチャクチャな政策のせいで、むやみやたらと倒産するわけだ。
 だから、マネタリストが自らの説を論証したければ、上記のように「円を元に大幅に投資する」という状況になったとき、「通貨の切り上げ」でなく、「大幅な高金利」を主張するといい。私は、「そんなことをすれば、倒産が続出する」と主張する。マネタリストは、「異常な高金利でインフレが収束して経済が正常化する」と主張する。どちらが正しいか、実施して、検証してみるがいい。
 ただし、実を言うと、中国でやらなくても、すでにあちこちで検証済みである。アジア通貨危機がそうだ。このときは、「途上国への大量の資金流入」ではなくて、それとは逆に、「途上国からの大量の資金引き上げ」が発生した。IMFのマネタリストは、「資金の引き上げを阻止するため」と称して、異常な高金利を実施させた。年 25% というメチャクチャな高金利。当然、経済は急激に萎縮した。その他、ロシアでもどこでも、「異常な高金利」というのは、常に経済を大幅に萎縮させた。マネタリスト流の「金融政策だけですべてを解決する」という政策は、常に失敗続きなのだ。
( ※ ついでだが、アジア通貨危機のときに、マレーシアだけは、失敗しなかった。なぜか? 金融政策で調整するのはなくて、通貨レートを固定相場制にして調整したからだ。通貨の問題を、通貨で解決する。だから、成功した。マネタリストは、通貨の問題を、金融政策で解決しようとした。だから、ひどい副作用が出て、失敗した。)
( ※ マネタリストは、とにかく、大失敗の連続だ。そして彼らは、今また、日本でも同じ失敗をやらかそうとしている。「過剰な量的緩和」というのが、それだ。これもまた、過剰な貨幣供給量をもたらし、将来的には、異常な高金利をもたらすだろう。)







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