[付録] ニュースと感想 (51)

[ 2003.10.24 〜 2003.11.28 ]   

  《 ※ これ以前の分は、

    2001 年
       8月20日 〜 9月21日
       9月22日 〜 10月11日
      10月12日 〜 11月03日
      11月04日 〜 11月27日
      11月28日 〜 12月10日
      12月11日 〜 12月27日
      12月28日 〜 1月08日
    2002 年
       1月09日 〜 1月22日
       1月23日 〜 2月03日
       2月04日 〜 2月21日
       2月22日 〜 3月05日
       3月06日 〜 3月16日
       3月17日 〜 3月31日
       4月01日 〜 4月16日
       4月17日 〜 4月28日
       4月29日 〜 5月10日
       5月11日 〜 5月21日
       5月22日 〜 6月04日
       6月05日 〜 6月19日
       6月20日 〜 6月30日
       7月01日 〜 7月10日
       7月11日 〜 7月19日
       7月20日 〜 8月01日
       8月02日 〜 8月12日
       8月13日 〜 8月23日
       8月24日 〜 9月02日
       9月03日 〜 9月20日
       9月21日 〜 10月04日
       10月05日 〜 10月13日
       10月14日 〜 10月21日
       10月22日 〜 11月05日
       11月06日 〜 11月19日
       11月20日 〜 12月02日
       12月03日 〜 12月12日
       12月13日 〜 12月24日
       12月25日 〜 1月01日
    2003 年
       1月02日 〜 1月13日
       1月14日 〜 1月24日
       1月25日 〜 1月31日
       2月02日 〜 2月11日
       2月12日 〜 2月22日
       2月23日 〜 3月07日
       3月08日 〜 3月16日
       3月17日 〜 3月25日
       3月26日 〜 4月06日
       4月07日 〜 4月14日
       4月15日 〜 4月24日
       4月25日 〜 5月10日
       5月11日 〜 8月11日
       8月19日 〜 10月23日
         10月24日 〜 11月28日

   のページで 》




● ニュースと感想  (10月24日)

 「企業責任」について。
 日本の企業の体質というのは、どうしようもない。このことを、述べておく。
 先日、独禁法の強化案というものが公取委から示されたが、それに対して、経団連は大反対している。「独禁法違反をしても、罰金を小額にしてくれ」と。呆れた話だ。これはつまり、「おれたちは独禁法違反をするつもりだ」つまり「おれたちは犯罪者集団だ」と告白しているに等しい。その犯罪者集団の集まりだから、経団連はマフィア・クラブと同様である。彼らが献金して、法律をねじ曲げようとしているわけだ。たとえば、泥棒が献金して、「泥棒に対する刑罰を減らしてくれ」と頼むのと同様である。
 「恥を知れ!」と言ってやりたい。特に、トヨタの経団連会長さん。あなたは自分を世界一の優良企業だとばかり自惚れているようだが、自動車産業というのは、しょせん、大量の交通事故死者や排ガス中毒者を生み出し、ものすごい害悪を振りまいているのだ。たしかに、自動車は社会に貢献しているが、同時に、社会に害悪を振りまいているのだ。そういう事実を見ないでいるから、自社を世界一などと自惚れて、あげく、経団連の会長として、独禁法違反という企業犯罪を堂々と振興しようとする。……おのれの罪深さに気づかないと、きっと地獄に堕ちますよ。
 トヨタは、障害者向けの自動車の販売には熱心だが、それはそれでいい。ただし、それだけで満足してもらっては困る。そういうのは、あくまで企業として当然の商売であって、社会奉仕の意味などはまったくない。せめて、プリウスの自動駐車システムを、障害者向けの自動車にも搭載するようにすればいいのだが。しかし、ま、やる気はないでしょうねえ。設計変更が非常に増えるから。
 つまりは、トヨタは、障害者対策をしていると言いながら、しょせんは、簡単に儲かることしかやっていないのだ。自分のためにやっているだけであって、障害者のためにやっているわけではないのだ。それを悪いとは言わないが、「良いことをやっています」と主張して、大々的に宣伝するという恥知らずな真似は、やめてもらいたい。善行は隠れてやるものである。そしてまた、金儲けを狙った商売を「善行」と称するのは誇大宣伝という悪行である。
 欧州では、煙草の箱には、「健康のために吸い過ぎに注意しましょう」なんていう文句は書いてなくて、「肺ガン率を大幅に高め、あなたの生命を短くします」と注記してある。この伝で言えば、自動車にも、「排ガスと事故で、人々の生命を奪います」と脇に注記しておくべきなのだが。

 [ 付記 ]
 一般に、自動車のドライバーになると、人が変わったようにエゴイストになることがけっこう見られる。温厚な人が、運転したとたん、「ばっきゃろー」と怒鳴ったり、歩行者を殺しかねないようなことをする。自動車は、人を変えてしまう。
 だから、トヨタの社長も、まったく悪魔のごとき言動をするようになるのだろう。彼らは、家庭では温厚な好々爺なのだろうが、自動車の経営に関わったとたん、人が変わったようにエゴイストになるのである。本人は気づいていないようだが。
( ※ 注釈しておくと、トヨタの悪口を言いたいわけではない。日本企業の代表として、トヨタを例示しているだけだ。他の企業も、大同小異である。「良き市民であること」を社訓としているような企業は、例外中の例外に属する。)


● ニュースと感想  (10月24日b)

 「アイドリング・ストップ」について。
 自動車が信号待ちで停車しているときに、エンジンを止めて、無駄な燃料を消費しないようにする、ということを、「アイドリング・ストップ」という。これが推奨されているのだが、次の難点がある。
 この二点を解決する方法がある。それは、交差点に、「信号変換を告知する電波」を流すことだ。
 赤から青に変化する数秒前に、その電波を流すと、電波を受けた自動車は、自動的にモーターによってエンジンを始動する、というわけだ。
 この信号があれば、直前にエンジンがスタートしているから、問題はない。また、モーターを強力にすれば、あまり濃い燃料は必要ない。
 この信号が有効になるのは、停車中だけだから、交差する二つの方向のうち、常に停車中の片方だけで選択的に信号が有効になる。走っている側の道路の自動車で、エンジンが停止することはない。
 とりあえずは、大都会だけでも、信号機にこういう電波発信機を付けると、効果が出るだろう。

 [ 付記 ]
 一般に、環境浄化は、「システムの最適化」によって、問題が解決することが多い。そのためには、情報処理技術が、非常に有効である。個別の単体マシンでは大したことはできないとしても、社会全体のマシンを制御すると大規模な効果を出せることが多い。


● ニュースと感想  (10月26日)

 「経済財政白書」について。
 本年度の経済財政白書が示された。次で、入手できる。
   → 要約ページ (目次・要約)
   → 説明文書  ( pdf )


● ニュースと感想  (10月26日b)

 「少子・高齢化」について。
 前項の経済財政白書では、少子・高齢化について、なかなか適切な指摘をしている。「女性・高齢者の労働力を使えばよい」という指摘だ。
 この数字を見ると、女性は6割〜7割しか就業しているだけだ。その分を使えば、生産力人口を増やせる。
 また、もっと大事なことがある。いったん育児のために退職してから、パートで再就職すると、生涯所得が2億円以上も減少する。逆に言えば、現状の制度を改めて、ずっと就業できるように社会システムを整えれば、生涯所得を2億円以上、増やすことができる。……別に、これは不可能なことではなくて、欧米では当たり前のことだ。当たり前のことをやるだけで、これだけの所得増加の効果が出る。とすれば、その分、高齢者の福祉への負担をまかなうことができる、ということになる。
 こうなると、万事、うまく行く。女性は、働いて仕事に充実できるし、給料も増える。世帯所得が増えるから、世帯あたりで増税しても、問題はない。男性の税金は、かえって減る。男性の仕事も減るから、男性の過労死も減る。高齢者は、福祉の金を心配することもなくなる。
 一方、民主党や自民党は、逆のことを主張している。「消費税を上げよ」という政策だ。これだと、財源のめどはつくが、ただそれだけだ。国民の所得が増えるわけではないから、単なる増税であるにすぎない。結局、国の財政は健全化するが、それだけである。帳簿がきれいになる、ということ以外は、何の効果もない。こういう無意味な政策を、「責任政党の現実的な政策」と称する。馬鹿馬鹿しい。金が一円も増えるわけでもない政策が、どうして現実的な政策であるのか。現実的な政策とは、帳簿の数字を整えることではなくて、稼ぐ金を増やすことだ。つまり、失業している人々を、働かせることだ。それを「責任政党の現実的な政策」と称する。
 自民党であれ、民主党であれ、多くのマスコミや経済学者であれ、いずれも、帳簿の数字のことしか考えていない。かくて日本経済は縮小し、増税ばかりが幅を利かせる。無責任の極み。

 [ 付記 ]
 その点、「経済財政白書」は、かなりよく指摘している。ただし、対策は、不十分である。女性や高齢者の就業率を高めるには、「雇用した企業への減税」および「雇用しない企業への増税」が不可欠である。最適の政策は、法人税を可変にして、女性や高齢者の就業率が低い企業には、法人税を上げるべきなのだ。
 だいたい、人種差別と似たようなことをする企業は、それ自体が反社会的な存在なのだから、多大な罰金を科せられて当然なのだ。
 現在、「中高年を狙ってリストラする」というのが、平然として語られているが、こういう差別主義を当然としている企業は、犯罪者も同然である。それを当然視して報道しているマスコミもまた、同じ穴のムジナだ。彼らはユダヤ人を差別して殺したナチスとほとんど同様の頭をもっているのである。良心のかけらさえもない。


● ニュースと感想  (10月26日c)

 「能力主義」について。
 近ごろやたらと、「成果主義」だの、「能力主義」だの、そういう経営方針が報道されている。かくて、成果や能力に応じて給料を払うことが、正しい経営方針だ、と信じられている。とんでもない勘違いである。
 経営とは、賃金の配分のことではない。どうやって社員にまともに仕事をさせるか、ということだ。
 だから、成果主義や能力主義を唱えるならば、中高年の解雇・賃下げをしたり、若手の賃上げをするよりは、若手に権限委譲するべきなのだ。「経営とは、賃金の配分を変更することだ」と信じている経営者こそ、無能の極みであって、むしろ、そんなことを信じている経営者をこそ、解雇するべきなのだ。
 「成果や能力に応じて給料を払うことが、正しい経営方針だ」と信じている経営者を、まず、解雇しよう。それこそが本当の能力主義だ。


● ニュースと感想  (10月27日)

 「経済政策の検証」について。
 この2年間ほど、「景気対策」と称して、経済政策がなされたが、その結果は? 結果だけはいくらか報道されたが、最初からつなげた顛末(てんまつ)とはなっていないので、私がまとめておく。

 (1) IT講習会
 「IT講習会で、国民の情報処理能力を高める」という方針で、予算が組まれた。これについては、私はさんざん批判してきた。「ただのおばさんたちのおしゃべり会になる。パソコンは机の上で置物になる」と。ところが、最近、もっとひどい無駄の極みも報道された。パソコンは、「置物になる」どころか、「段ボール箱のなかで開封されないまま」ということもあったらしい。会計検査院が検査したところ、調査したパソコンのうちの3分の1が、まともに使われていなかった、ということだ。(朝日・朝刊・社会面 2003-10-22 )

 (2) 信用保証
 「中小企業に対する貸し渋り対策で、国が融資の連帯保証人になる」という制度があった。十年間で、1兆9千億円。そして結果的に、9割程度が返済不能となり、国が借金の肩代わりをした、ということだ。(読売・夕刊・1面 2003-10-21)
 結局、詐欺師に、いいようにむしり取られただけだ。愚劣の極みと言えよう。こんなことは、最初からわかっていたし、警告もさんざんなされていた。それでも実行するのだから、政治家はひどい。また、もっとひどいのは、財務省の官僚だ。こんなものに予算を付けるなんて、頭が狂っているとしか思えない。政治家が迫ったとしても、省を上げて、断固として反対するべきだった。全員が辞表を提出するぐらいの覚悟をするべきだった。それもできずに、身を守るのに汲々としていたのだから、彼らの罪深さたるや、言葉に余る。わかっていて国民の金を無駄にしたのだから、万死に値する。
 しかし、である。それよりもっとひどいのは、古典派の経済学者だ。彼らは「不良債権処理をせよ」という。それはつまり、「あらゆる融資に対して、銀行や国が連帯保証人となり、借金の肩代わりをする」ということだ。狂気の沙汰である。
 「国による連帯保証」なんてのが間違っていることは、財務省の官僚ならば、誰でもわかっていた。ところが、それをわかっていないのが、古典派の経済学者だ。「不良債権処理をせよ」という彼らは、国外追放するべきだ。さもなくば、日本は崩壊してしまう。
( → 10月20日 : 新聞における最近の「不良債権処理」奨励記事 )
( → 不良債権物語 : 不良債権処理がダメであるわけ )


● ニュースと感想  (10月27日b)

 「シュレーディンガーの猫」のページの最後に、新たな話を追加した。「殺人をしても逮捕されないで済む」という話。(だから、量子力学の学者の言う方法を用いれば、完全犯罪を実行できて、画期的な推理小説が書ける……ということになりそうだが。)

   → シュレーディンガーの猫


● ニュースと感想  (11月04日)

 「シュレーディンガーの猫」のページの最後に、新たな話を追加した。「並行宇宙とは何か」という話。

   → シュレーディンガーの猫


● ニュースと感想  (11月04日b)

 「書籍の全文検索」サービスについて。
 出版された書籍の内容を、全文検索して、無料で提供する、というサービスが登場したという。ネット販売の Amazon が実行中だそうだ。
  → ZDNNほら貝1ほら貝2

 「無料でサービス」というのを聞くと、フリーソフトの礼賛者を中心に、「何でも無料で入手できるのはすばらしい」ということになるだろうが、他人のものを勝手に売り払って、それで善行をしているつもりになっては、とんでもない。「何でも無料で入手できるのはすばらしい」と思う人は、まず、自分の財産を他人に無料でプレゼントするべきである。単に「自分が無料で入手できるのは素晴らしい」と思うのは、「泥棒は素晴らしい」というのと同じ発想である。
 だから、Amazon は、まさしく泥棒をしていることになる。

 さて。ここまでは、当たり前のことであり、いちいち私が大騒ぎするまでもない。ただし、ひどい詭弁が堂々とまかり通っているので、指摘しておこう。
 Amazon は、「これで売上げが9%増えた」と述べ、「だから、著者や出版社にもメリットがある」と主張している。それを「なるほど」という形で信じている人も多いようだ。しかし、この主張は、とんでもない詭弁である。
 「これで売上げが9%増えた」というのは、あくまで、Amazon だけの話だ。他の書店では、売上げが減っているはずだ。たとえば、ある情報が必要だとしよう。「 Amazon で情報がわかる」と知られれば、書店に行かずに、Amazon に行く。そこで情報を十分に得た人は、何も買わない。もっと情報を得たくなった人は、Amazon で買う。かくて、Amazon では、売上げを増やすことができる。しかし、書店としては、自店に来るべき人々が Amazon に行ってしまったのだから、売上げは減る。
 そもそも、考えてみよう。「無料で情報を入手できて、得だ」とわれわれが思うのは、「書店で金を払わずに、肝心の情報を入手できるので、本を買わずに済む」と思うからだ。「本代が浮いた」と思うわけだ。とすれば、われわれが金を浮かせた分、書店や出版社は売上げを減らしたことになる。ただし、配分の変更が起こるから、Amazon だけは得をするわけだ。
 ここでは、「自社だけが儲けている」というのを、「全員が儲かる」というふうに言いくるめる、という詭弁が使われていることになる。泥棒をした人が、「私はこんなに儲かりました。だから人々も幸福ですよ」と言いくるめて、人々の金を盗むわけだ。こういう詭弁に騙されないように、注意しよう。

 さて。では、どうすればよいか?
 たしかに、「出版書籍の全文検索」というのは、便利だろう。しかし、それには、いちいち著者の「許可」を必要とするべきだ。さもなくば、著作権の侵害となる。
 著作権の侵害とならないとしたら、あくまで、部分的な引用に限られる。たとえば、検索箇所に引っかかった箇所の前後を少しだけ(原稿用紙1枚程度)というふうに。この程度ならば、問題はないだろう。
 現実には、書籍全体の 20%を入手できるという。とすれば、マシンを5台使えば、あらゆる本は無料で入手できることになる。これでは、出版業は、成立しない。国全体から、出版業が消滅してしまいかねない。(もしそうなったら、Amazon 自体も倒産するが、愚かな会社というものは、自己の利益を狙うだけだから、そういうことがわからないのだ。)

 なお、もう一つ、別の案もある。20%以内などという制限を付けずに、100%まで、いくらでも電子的に内容を提供することにするが、ただし、その分を有料とするのだ。情報を20%入手するなら、代金を20%払えばよい。これならこれで、正当な商業活動である。
 なお、その場合、料金を受け取るのは、出版社と著者であって、Amazon という販売業者ではない。ここを勘違いして、勝手に第三者に提供するということは、無料であろうと有料であろうと、泥棒であることには変わりない。
 たとえば、あなたの貯金を、鼠小僧が盗んで、それを貧者に分けてしまったとしよう。このとき、鼠小僧はいくら「自分は善人だ」と言い張っても、泥棒であることには違いない。貧者は「無料でもらえて嬉しい」と大喜びするだろうが、いくら貧者が喜ぼうと、そういう泥棒行為は許されないのだ。

 なお、「著作権なんて無料が当然だ」と思う人がいたら、その人は、自分の仕事に対して、給料をもらうべきではない。あなたの作成した仕事は、何らかの情報作成であり、その分に対しては、給料は払われないのだ。「著作権なんて無料が当然だ」というのは、そういうことだ。
 農民や漁師なら、情報でなくて物質を生産するので、大丈夫だろう。しかし、それ以外の頭脳労働者は、同様にして、「金を払ってもらえなくなる」と理解するべきだ。「金を払いたくない」と思うのなら、それが当然だろう。
( ※ 自分が消費者の立場に立つことしか考えず、自分が生産者の立場に立つことを忘れてしまう……という人が多い。そういう考え方を、「すねかじりの発想」という。あなたのそばにも、いるでしょ。ほら、バッグを買うことばかり考えていて、自分ではちっとも稼ごうとしない人が。)
( ※ 無為徒食の人は、「物価が下がるデフレは素敵」と叫んで、「賃金を下げるデフレを歓迎する」という結果を招く。朝日新聞には、こういう意見が、以前はよく掲載されたものだ。たぶん、ごくつぶしの記者には、共感できるのだろう。似た者同士だから。)


● ニュースと感想  (11月09日)

 「番号ポータビリティ」について。
 「番号ポータビリティ」というのは、携帯電話の自動転送サービスのこと。電話会社と番号を変えたときに、自動的に転送する、というわけ。そのためのコストは莫大である。一人あたり1万数千円。
 消費者は「そんな金を払いたくない。もっと低コストの方法を」と求めており、DoCoMo もそのつもりらしい。(朝日・朝刊・経済面 2003-11-09 )
 しかし、国としては、何が何でも実施したいようだ。そこで、コストを会社負担として、金額を「5千円」にするという案がある。しかし、会社負担というのは名分だけであり、実際には、その分、このサービスを利用しない人々の負担が増えることになる。馬鹿げた話だ。

 そこで、まともな案を示しておこう。番号の変更は、ただの情報操作であるから、コンピュータで簡単に情報操作をすればよい。これならば、コストはほとんどゼロである。
 具体的には? 番号を変更したら、「番号が変更されました。新番号はこれこれです」という文字データを出力する。それだけだ。
 たとえば、あなたが山田太郎に電話をかける。彼はすでに番号を変更していて、電話がつながらない。かわりに、「番号が変更されました。新番号は ******** です」という文字データが画面に出る。そこであなたは、ケータイを操作して、「番号変更」に設定する。すると、あなたのケータイのなかの電話番号簿で、山田太郎の番号が新番号に自動的に変更される。以後は、かけるたびに、この新番号につながる。
 つまり、電話局の機械を操作するのではなく、ケータイの機械を操作する。これなら、コストはほぼゼロで済む。ケータイに自動変更機能がなければ、手動で変更すればよい。
 なお、番号の変更者は、コストをかけずに済むが、電話をかける方には、手間がかかる。「そんなのはダメだ」と思う人がいれば、その人だけが、自動転送サービスを利用すればよい。企業なら、そうする企業も多いだろう。それはそれでよい。そう思う企業は、そのために費用を払えばよい。


● ニュースと感想  (11月09日b)

 「選挙結果の判定」について。
 選挙管理委員会が、「自由」と書いた票は「自由民主党」の略だと見なして、自民党の票に配分するつもりだ、と報道されている。
 かくて、「自由」は「自由民主党」の票となり、「民主」も「自由民主党」の票となり、選挙の結果、与党が90%以上の得票率を獲得。
 これは、どこかの途上国が、独裁政権を確立する妙案である。


● ニュースと感想  (11月12日)

 「図書館と著作権」について。
 図書館の問題についての記事が出た。(読売・朝刊・解説面 2003-11-12 )
  「複本問題」……ベストセラーを何冊も貸し出すという問題。
  「期間問題」……新刊書を、刊行直後は、貸し出し制限すべきだ、という問題。
  「補償問題」……貸し出しした本には、著者に補償金を払うべきだ、という問題。

 ごく当然の話に思えるが、図書館側は、すべて反対している。「無料こそ善である」という立場から、「読者には新刊書をタダで読む権利があるのだ。だいたい、補償金を払おうにも、金がない」と主張している。
 図書館側の主張が正しいとするなら、話は簡単だ。図書館を廃止すればよい。そしてかわりに、「著作権を保護しない」として、誰でも自由に著作物をコピーできるようにすればよい。誰かが本を一冊購入して、ネットで無料配布すれば、日本中の人々がタダで読むことができる。こうなれば、図書館そのものが必要なくなる。(数日前に述べた amazon の泥棒行為を、公的に認めるわけだ。)

 これは要するに、「泥棒天国」という案だ。換言すれば、図書館の主張は、「おれは公的機関だから、おれだけは泥棒をしてもいい」という主張だ。呆れて、ものが言えない。どうしてそんなに「泥棒は正しい」と主張するのか? 頭が狂っているとしか思えない。
 なお、「著作権を保護しない」となれば、日本からは、有料の著作物は消滅する。当然、プロの著述家は消滅し、アマだけが存在するようになる。出版業だけではない。映画や音楽やソフトでは、日本は米国に比べてかなり貧弱だが、「著作権廃止」となれば、日本では、映画も音楽もソフトも壊滅するだろう。残るのは、アマチュアの自主制作の映画や音楽やソフトだけとなるだろう。
 かくて、日本では、文化が壊滅する。その方向に向けて、必死に努力しているのが、図書館なのである。日本の図書館は、文化を振興するためにあるのではなく、文化を壊滅させるためにあるのだ。

( ※ もしかしたら、英語圏至上主義者による、陰謀かもしれない。とすれば、これは、首相じきじきの指示であるのかもしれない。日本文化を破壊すれば、きっと米国に気に入ってもらえるのだろう、と純ポチがシッポを振るわけだ。)

 [ 付記 ]
 では、どうすればいいか? 図書館は、「金がない」と言うが、だったら、無料のものだけを収拾すればいいのだ。ソフトウェアではフリーソフトがあるように、出版物にも無料の出版物がある。たとえば、売れ残りになって裁断される書物とか、自費出版で誰も買わない書物とか。……こういうものなら、無料である。だから、こういうものだけを、収拾すればよい。
 つまり、こうだ。「金がないから、泥棒をしてもいい」なんて主張せずに、「金がないから、タダのものだけを収拾する」と主張すればいいのだ。
( ※ 「そんなのは嫌だ」と言うかもしれない。しかし、プロの著作家が壊滅すれば、アマチュアしか残らないから、どうせ、そうなるしかないのだ。)


● ニュースと感想  (11月12日b)

  【 告知 】
 このページ(小泉の波立ち)は、11月中に、引っ越す予定です。

 ( 引っ越しをした場合、現在のページには、「自動移転」のページが出ます。
  だから、大騒ぎする必要はありません。ただ、びっくりするといけないので、
  あらかじめ、予告しておきます。)
 [ 余談 ]
 なぜ引っ越すかというと、so-net のせいです。
 このプロバイダは、契約を途中で勝手に変更(廃止)したりで、ユーザー無視が非常に甚だしい。史上最悪のプロバイダと言えそうです。ひどいもんだ。インターネットで苦労したいマゾヒストの方には、是非、加入をお勧めします。さんざん苦労を楽しめるでしょう。
 ついでに言うと、これは、親会社の SONY という会社の体質のようです。ユーザーを無視して、自分の主張だけを押しつける。ベータという機器も、生産中止にする。独自技術をどんどん開発するが、その独自技術を維持する気はさらさらない。機械で後悔したい方には、 SONY の製品を購入することを、強くお勧めします。 さんざん後悔を楽しめるでしょう。


● ニュースと感想  (11月13日)

 「戦争と平和」について。
 われわれは通常、戦争に反対する。その理由は、「戦争は人を殺す」からだ。しかし、戦争が人を殺すのではなく、平和が人を殺すこともある。そういう逆説的な状況もあるのだ。
 過去の例で言えば、ナチス・ドイツだ。ヒトラーは、ユダヤ人やロマ人(ジプシー)を強制収容所に入れたり、虐殺したりした。しかし、これはまだ、規模は小さかった。もっと大規模な例がある。その例は、現在の北朝鮮だ。国民全員が、餓死寸前である。数千万人が餓死の危機にさらされており、実際に死んだ人は数百万人になると推定されている。拉致された日本人が死亡したのも、たいていは、餓死であると見なせるだろう。
 もう少し、正確に言おう。餓死というのは、単純に栄養失調で死ぬ場合もあるが、生命維持力が低下したせいで、免疫力が弱まり、風邪や肺炎などの病気で死ぬこともある。これは、統計上は、餓死ではなくて病死に分類されるだろうが、栄養さえあれば十分に生きられたという意味で、本当は餓死にあたる。
 ともあれ、このような例では、平和が人を殺すのである。一方、戦争は、わずかな兵士を殺すが、大量の人々の生命を救うことになる。
 通常、「戦争のおかげで人命が救われた」というのは、嘘っぱちである。たとえば、「広島に原爆を落としたから、大量の人命が救われた」というのは嘘っぱちである。「十万人以上の民間人を殺したから、数百人の米国兵士の人命が救われた」と言うべきところを、「広島に原爆を落としたから、数万人の米国兵士の人命が救われた」と嘘をついている。しかし、である。北朝鮮の場合は、そうではない。ここでは、平和が人を殺すのだ。

 「戦争反対」とか、「平和が大事」とか、そう主張するのは、構わない。それはそれで、一つのポリシーである。しかし、「戦争が人を殺す」とか、「平和は人を殺さない」とか、そういう単純な発想をするべきではない。なるほど、たいていの場合は、その通りだ。しかし、例外的な場合も、まさしくあるのだ。そういうときに、「平和は人を殺さない」と主張するのは、「金正日は大量の国民殺害をしていない」と主張するのと同じであり、独裁者による大量殺害を弁護しているのと同じなのだ。そのことを、理解しておこう。
( ※ 北朝鮮国民の大量餓死についての記事。  → 朝日・朝刊 2003-11-13 など。)

 [ 付記 ]
 では、どうすればいいか? アメリカ流に、やたらと爆弾を落とせばいいか? いや、私はそうは思わない。
 悪いのは、北朝鮮ではなくて、金正日一人である。アメリカはイラクでは、フセイン一人を殺すために、イラク人や自国兵士の命を大量に犠牲にした。これではあまりにも愚かすぎるし、同じことを北朝鮮でやるべきではない。
 私のお勧めは、「金正日の財産の狙い撃ち」である。金正日には、フランスの宮殿のような超豪華な建物がある。彼はここで贅沢をするのが、政権維持の目的だ。だから、これらの建物をすべて、順々に、ピンポイントで破壊するといいだろう。そうすれば、政権維持の目的がなくなる。
 なお、建物や施設は、逃げていかない。だから、破壊の直前に、予告しておくといいだろう。人は逃げさせておいて、建物と施設だけを破壊するわけだ。

 [ 補足 ]
 北朝鮮に対し、「核開発を停止すれば、政権維持を保証する」というブッシュのやり方には、私は反対する。それは大量の北朝鮮国民を見殺しにするということだからだ。自国の安全と引き替えに、北朝鮮国民の人命を悪魔に差し出すというのは、悪魔の取引である。
( ※ とはいえ、二人はどちらも悪魔だから、悪魔と悪魔が「悪魔の取引」をするのは、当然かもしれないが。)
( ※ ともかく、私がここで言いたいのは、「われわれは悪魔になるべきではない」とうことだ。自分たちの命を守るために、他国の人々を大量に餓死させる、というのは、悪魔の発想である。そして、そういう悪魔が、甘い言葉でささやくのだ。「平和こそ大事ですよ。平和ならば、誰も死なないんですよ」と。)


● ニュースと感想  (11月14日)

 「外来語」について。
 国立国語研究所が、外来語について、最終提案をした。(朝刊各紙 2003-11-14 。読売新聞が詳しい。)
 おおむね、問題はないが、「アイデンティティ」の訳語を、「独自性」「自己認識」とするのは、問題がある。実際には適用できないケースが多いからだ。

 例1:
 「企業のアイデンティティを確立する」
 この用例では、「独自性」でいいが、「自己認識」ではダメだ。

 例2:
 「現代人は、アイデンティティが揺らいで、不安になる」
 この用例では、「自己同一性」でいいが、「独自性」ではダメだ。「自己認識」だと、文脈には当てはまるが、意味が狂ってしまう。ここでは、認識する自分が揺らいでいるのではなくて、認識される自分が揺らいでいるのだ。主客転倒である。

 結語。
 「アイデンティティ」の訳語を、「独自性」「自己認識」とするのは、どちらも問題がある。では、正しくは? 「自分性」が好ましい、と思える。
 この件については、国立国語研究所に送付したメールがある。まるきり無視されてしまったが。……これを、次に転載しておく。



Date: Thu, 07 Aug 2003 07:45:11 +0900
------------------------


 アイデンティティという用語の訳語を決めるのに際して、誤解を指摘します。

 この語の意味を、「自分を他人とは違うものと考える明確な意識」という説明がしてありますが、完全に間違っています。
 この語の意味は、「これこれという認識者の意識」ではなくて、対象にある性質です。たとえば、リンゴには「赤い」というような性質がありますが、これは、リンゴに備わっているのであり、認識者の意識が決めるものではありません。認識者の意識が決める例としては、「美しい」とか「馬鹿げている」とかいう価値判断のあるものがありますが、アイデンティティという用語で示すのは、そういう意識のレベルのものではないのです。

 アイデンティティというのは、基本的には、哲学用語です。まず、この哲学用語を、正しく理解してください。

 たとえば、ある個人である太郎がいるとします。太郎のアイデンティティとは、太郎を他の人々と対比したときの、太郎にある独自の性質のことではありません。では、何か?
 アイデンティティとは、「自分らしさ」のことであり、「自分の本質」のことなのです。「自分とは何か?」を考えて、「自分らしさ」や「自分の本質」を探るときに、「自分の独自性」に着目することもあります。しかし、独自性がアイデンティティであるわけではありません。太郎の独自性には、くだらない癖などもありますが、そういう下らないことは、いくら独自的であっても、アイデンティティにはなりません。アイデンティティというものは、その人の本質・核心を突くものでなくてはならないのです。

 以上のような意味をよく理解した上で、その意味にふさわしい訳語を決めることが必要です。


 「自己認識」という訳語は、全然ダメです。対象物体の性質ではなく、認識する人間の行動を意味しているので、見当違いも甚だしい。

 「自己同一性」という訳語は、意味不明です。二つのものの同一性(たとえば二つのコインの同一性)ならば意味がありますが、一つのものの同一性などは自明ですから、この訳語は何も意味していないのと同じです。

 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

 私の提案する例:

  自己確定 / 自分らしさ / 自分性

 ※ 私が強くお勧めするのは、「自分性」です。

 例:
 アイデンティティークライシス ⇒ 自分性の危機
 ナショナルアイデンティティー ⇒ 国家的な(国家の)自分性
 コーポレートアイデンティティー ⇒ 企業的な(企業の)自分性

 例:
  「コーポレートアイデンティティーを確立するために、新たなロゴマークを制定しよう」
 ⇒ 「企業的な自分性を確立するために、新たなロゴマークを制定しよう」

  「青少年のアイデンティティーの喪失による思いもかけぬ事件の数々」
 ⇒ 「青少年の自分性の喪失による思いもかけぬ事件の数々」

  「人はみな、おのれのアイデンティティを求めて悩むのだ」
 ⇒「人はみな、おのれの自分性を求めて悩むのだ」


 ※ 以上の事例では、「自己認識」や「自己同一性」という訳語は、不適切。




● ニュースと感想  (11月14日b)

 「小久保の無償トレード」について。
 世間で話題になっている茶飲み話なので、私も口を挟んでおく。
 朝日新聞などは、「2億円という大金を払えるのは巨人だけだ」などと、さかんに巨人を買いかぶっているようだが、嘘をつかないでほしい。日本ハムは新庄に2年で計3億円プラスCM出演料。横浜は下柳に、2年で計2億8千万円。阪神は伊良部に、2年で計5億円。片岡には、年1億7千万円で、7年契約。……これらに比べれば、小久保の年2億円少々というのは、破格の安さだ。小久保というのは、「全盛期の清原が、三塁守備もできる」というぐらいの、大スター選手である。人格は、ヤンキースのジーターだ。年齢も31歳だから、伊良部や下柳のような引退間際の選手とは全然違う。まともに払えば、年5億円以上が相当だ。どう考えたって、上記三球団は、小久保を欲しがったはずだ。将来の見えない下柳や伊良部や新庄なんかを買うよりも、ずっとお得だ。要するに、「2億円を払えるのは巨人だけ」という報道は、まったくのデタラメである。
( ※ こう書いたあとで判明したが、横浜の球団役員は、「無償トレードなら、是非、うちに来てほしかった」と言っている。雑誌 Number の最新号に記事がある。)
( ※ なお、「ケガ人だ」という説もあるが、ケガはほぼ治っている。現時点でも、三塁守備に負担があるだけで、打撃には問題ないし、来春にはすっかり完治するらしい。ケガ人に金を払うわけではない。ケガ人だった人に金を払うだけだ。)
 
 そもそも、無償トレードとは何か? このことを理解していない記者が多いようだ。
 第1に、「有償トレード」と比較すると、球団が損である。(球団は、補償となる金銭または人員を受け取れない。)
 第2に、「自由契約」と比較すると、選手が損である。(選手は、好きな球団に行けないし、契約を自分に有利にすることもできない。)
 ポイントは、「有償トレードまたは自由契約にしなかったのはなぜか?」ということである。それが「なぜ無償トレードにしたか?」という問題のポイントだ。
 そして、その答えは、ただ一つである。無償トレードにすれば、球団または選手が損をするが、どっちが損をするかは、関係がない。無償トレードにすれば、球団または選手の権利を制約することで、巨人が儲かる。それこそ、目的であったわけだ。
 結局、小久保は、経営者の人身御供にされたのである。親が借金をこさえて、破産しかけている。そこで、悪い金持ちに、かわいい娘を人身御供にする。姉は、妹が人身御供にされて、涙を流すが、親のためだと思って、黙って我慢する。親は、「娘は親のために犠牲になれ」と主張して、娘を人身御供にしたあと、ふたたび自分勝手なことをし放題である。悪い金持ちは、かわいい娘をタダで入手できて、舌なめずりをしている。
 ひひジジイが二人いて、その間で、娘の兄弟たちが悲しんでいる。そのまわりでは、まともな青年実業家たちが、「僕たちなら、もっと金を払って、まともな待遇をしてやれたのに」と、地団駄を踏んでいる。
 これが真相だ。ところが、たいていのマスコミは、それを示さずに、「いちばん金があるのは、あの金持ちだから、仕方ないよ」と、ひひジジイたちを弁護しているのだ。
 悲しい時代劇。

 [ 付記 ]
 この話のポイントは何か? 
 物事を考えるときには、核心を突け、ということだ。たとえば、ここでは、「無償トレードとは何か」を考えるときには、「有償トレード」や「自由契約」と比較するべきだ、ということだ。(「誰がいちばん金持ちか」なんてことは、どうでもいいことだ。必要なのは、たったの2億円であって、百億円ではないのだ。)
 なのに、こういう合理的思考ができないと、物事の核心を突けないせいで、論理が迷走する。


● ニュースと感想  (11月15日)

 「景気診断」について。
 四半期のGDPの実質成長率が 0.6%で、これは年率換算 2.2%だ、という。(各紙夕刊 2003-11-15 )
 このことを評価して、二つの見解が出ている。「景気は回復しつつある」という楽観的な見解と、「先行きは楽観できない」という悲観的な見解だ。(同日夕刊〜翌日朝刊・各紙)
 夕刊記事には、政府の提灯持ちみたいな楽観的な記事があふれていたが、翌日朝刊になると、熟慮して警告する悲観的な見解も多く出ている。「個人消費は停滞したままだ」とか、「名目成長率が大事だ」とか。……これらの見解は、エコノミストの意見のようだが、私の見解と同様であり、なかなか好ましい。ひところは、「構造改革と生産性の向上で、景気はうまく回復する」なんていう楽観的な笛吹が多かったが、さすがに何年たっても効果が現れない現実を知ると、楽観ばかりすることもなくなるようだ。

 さて。ここで、もう少し本質的に考えてみよう。「実質成長率が年率2%以上で、名目成長率はほぼゼロだ」ということは、いったい、何を意味するのだろうか? それは、景気の回復を意味するのか否か? もちろん、成長率はプラスであることが望ましい。とはいえ、実質成長率はプラスでも、名目成長率はゼロであり、物価上昇率は逆にマイナスだ。つまり、物価上昇率がマイナスである分だけ、実質成長率がプラスになっただけのことだ。ここでは、物価上昇率がマイナスであることと、実質成長率がプラスであることは、等価である。とすれば、そのことは、良いことなのか悪いことなのか? これは難しい問題だ。
 物価上昇率の分を補正した実質成長率というものは、インフレのときならば重要な意味があるが、デフレのときにもそうなのだろうか? 物価上昇率がプラスであるときには、その値を差し引きすると正確になるが、物価上昇率がマイナスであるときにも、その値を差し引きすると正確になるだろうか? 
 
 この問題に、私なりに答えを言おう。
 こういう状況は、「好ましい」のではなくて、「最悪ではない」だけだ。どうせなら、実質成長率がゼロの方が、まだマシである。(景気の点では。)
 まず、「名目成長率がゼロで、物価上昇率がゼロで、実質成長率がゼロ」である場合。この場合は、「現状維持」である。何も変わらないわけだ。良くも悪くもない。
 次に、「名目成長率がゼロで、物価上昇率がマイナス2%で、実質成長率がマイナス2%」である場合。この場合は、次のことを意味する。
 「物価は下落しているが、生産金額は変わらないから、生産数量は増えている」
 「生産数量の増加は、生産性の向上か、労働量の増加による」
 ここで、理由が「生産性の向上」であれば、生産数量が増えるのは当然である。人々の消費生活も2%向上することになる。理由が「労働量の増加」であれば、労働時間が2%増えて賃上げなしだが、物価が2%下落しているから、人々の消費生活も2%向上することになる。……いずれにせよ、人々の消費生活は向上する。その意味では、生活者側では好ましい。しかし、生産者側では、物価下落が続いているわけだから、好ましくない。
( ※ そもそも、デフレというのは、生活者側では好ましいが、生産者側では好ましくない。その傾向が進んでいる、とも言える。)

 結局、こうだ。物価下落が続いている以上は、いまだに需給ギャップがあるから、景気は不況を脱していないのである。ただし、何らかの理由によって、物価の下落を補うだけ、生産数量の増加があった。そのおかげで、悪化がさらに進行しないで済んでいる。景気がいまだに悪いという状況は変わらないが、現況よりさらに悪くなることはなく、現況で踏み止まっている。それが、「物価上昇率がマイナスで、名目成長率がゼロ」という状況だ。そのことが統計数字では、「名目成長率がゼロで、実質成長率がプラス」となる。
 要するに、「景気は回復した」または「景気は良くなりつつある」のではなくて、「悪いままだが、さらに悪くなるのを踏み止まっている」のだ。小康状態である。
 これが結論である。

 [ 付記 ]
 直感的に、わかりやすく言おう。人々の年収はどんどん減りつつあった。前は月収30万円あったのに、毎年、月給が1万円ずつ減りつつあった。非常に悲観的であった。
 ところが、先月は初めて、月給の低下がなくなった。会社は「賃下げ」を実施したが、労働時間が増えたので、残業手当込みの月給は、増えも減りもしなかった。労働者の状況は、あいもかわらず悪化しているのだが、少なくとも月給の金額だけは、減らなかった。おかげで、消費も減らさずに済んだ。
 企業は、売上数量が増えて喜んだが、よく考えると、単価が下がっているので、売上高は同じだった。それでも、労働コストを下げた分だけ、企業の利益は増えた。ただし、企業の利益は増えても、その利益を労働者には配分しないので、マクロ的には、景気は回復軌道には乗らなかった。
 結局、「いっぱい働いて、いっぱい消費する」という点で、労働者は幸福でも不幸でもない。特に悪くはなっていない。とはいえ、「不況」という状況からは、相も変わらず、脱せないままなのである。この先、景気が回復する見込みは、まったくない。
 たとえて言えば、病気の患者が、「熱は38度のままだが、今までのように熱がどんどん上がる一方ではなくなった。状況は良くなった」と喜ぶようなものだ。実際には、熱が下がったわけではないし、病気が治る見込みもまったくないのだが、熱が上がらなくなったという状況だけを見て、喜んでいるわけだ。また、「熱が上がらなくなった」という状況は、「熱の上がり方が、前に比べると、改善している」ということになるから、統計的な数字だけを見ると、「状況は改善している」というふうにも見えるわけだ。(本当は状況が改善しているわけではないのだが。)
 ついでに言えば、こういう状況を見て、楽観的になっていると、「だったら何もしないでも病気はやがて治るだろう」と信じて、無為のままでいる。すると、いつまでたっても、病気は治らないのである。

 [ 補記 ]
 現況の分析と、将来の予測を、加えておこう。
 現況が悪化しないで済んでいるのは、輸出の増大のおかげだろう。その理由は、円安と、米国の減税景気だ。いずれも、輸出の増大をもたらすが、短期的なものである。ここ半年ぐらいは効果があった。しかしこの先は効果がなくなるだろう。
 となると、将来の予測は、きわめて悲観的になる。円安介入の停止と、米国の減税効果の薄らぎにともなって、ふたたび不況が悪化する可能性がかなり大きい。
 なお、そのきっかけも、おおまかに予想できそうだ。「きっかけは、円高にともなって、海外資金が引き上げて、株価が下落することだ」と。しかも、これは、不可避である。人為的な介入というものは、しょせんは限界があるからだ。
 ここでは、なすべきことは、何か? 「だったら無制限に介入せよ」と思うのは正しくない。「熱が下がらなければ、強引に解熱剤で熱を下げよ」と思うよりは、「病気が治らなければ、病気を根源的に治せ」と思うべきなのだ。


● ニュースと感想  (11月15日b)

 「自衛隊派遣」について。
 イラクへの自衛隊派遣について、議論がかまびすしい。しかし、賛否いずれにせよ、議論の立脚点そのものが狂っている。その点を指摘しておく。
 賛成論は、「フセイン体制の打倒」とか、「イラクに民主主義を確立するため」とか、「ここで参加しなければ侮蔑される」とか、「引けばテロに屈することになる」とか、いろいろと名分を立てている。反対論もまた、逆の方向から、「平和こそ大事」などと名分を立てている。
 しかし、名分などは、あくまで教条論にすぎない。そういうのは、宗教論議のようなものだ。
 大切なのは、「こうすれば、こうなる」という現実論だ。科学的合理主義と言ってもよい。科学の実験では、「こうすればこうなる」と推測して、それを実験で確認する。「こうするべきだ」なんていう主観は関係ない。政治でも、そういう態度を取るべきだ。「こうすれば、こうなる」という論議をするべきだ。

 私なりに、見通しを立てておこう。
 派遣すれば、自衛隊員はいくらかの人命が奪われるだろう。数人〜数十人の人命は、奪われるだろう。そのことを、あらかじめ覚悟しておくべきだ。死者が出てから、「予想外でした」などと言うべきではない。これらの人命は、派遣したからこそ、奪われたのだ。また、派遣したことで、イラクに民主主義が根づくのならば、奪われた人命は無駄ではないかもしれない。しかし、「自衛隊を派遣したから、イラクに民主主義が根づく」なんてことは、まず絶対にありえない。アメリカ軍よりもはるかに貧弱な自衛隊など、いてもいなくても同然である。……結局、「派遣すれば、どうなるか?」と言えば、効果はまるでなく、人命が奪われるだけだ。ただし、アメリカ軍だけは、喜ぶはずだ。なぜなら、自衛隊が犠牲になった分、アメリカ軍の犠牲が減るからだ。
 そして、それを「国益」と呼ぶのなら、呼んでもいいだろう。「お国の金儲けのために死ね」と言うわけだ。金正日は、日本人を拉致して、勝手に利用した。日本の保守派も、自衛隊の人命を拉致同然にして、勝手に利用した。両者の違いは、ただ一つ。金日成は、殺すつもりで拉致したわけではなかったが、日本の保守派は、殺すつもりで拉致同然にする、ということだ。そして、「国益」を口にするところは、どちらもそっくりである。

 [ 付記 ]
 念のために言えば、私は「自衛隊を派遣してはいけない」と主張しているわけではない。意見を押しつけているわけではない。「自衛隊を派遣するべし」と保守派が主張するのならば、それはそれで彼らの自由である。彼らに反対はしない。ただし、彼らはそのとき、金日成と同じ種類の人物になるのである。そのことを指摘しているだけだ。
 つまり、彼らに対して、鏡を向けているのである。「その鏡には悪魔の姿が写っていますよ」と教えるために。

 [ 補記 ]
 私がこう書くと、「おまえは左翼だな」と保守派が批判するかもしれない。とんでもない誤解だ。彼らはそもそも、自分の言ったことを思い出すべきだ。「イラクには大量破壊兵器があるから、それを排除するためにイラク戦争をするのだ」と主張したことを。
 自衛隊が出ていくなら、あくまでも、「イラクには大量破壊兵器があるから、それを排除するためにイラク戦争をするのだ」と主張しつづけるべきなのだ。吉本喜劇をしのぐ、すごい茶番になって、面白い。
 なのに、舌の根も乾かないまま、以前の主張を引っ込める。とすれば、「自衛隊を出すべし」と今は主張しても、どうせ将来は、その主張を引っ込めているだろう。
 私は予測しておく。保守派は今、「民主主義のために自衛隊を出します」と言っているが、将来はきっと、その主張を引っ込める。かわりに、こう言うはずだ。「米軍が撤退したから、自衛隊も撤退します。大切なのは、米国の真似をすることだけなんです。イラクの民主主義なんか、どうでもいいんです。わんわん」と。……まず間違いなし。


● ニュースと感想  (11月21日)

  【 告知 】

 (1) この「小泉の波立ち」というページが、移転しました。

 (2) ソフトのページ「知の道具箱」も、新たなところに移転しました。

  知の道具箱

  ※ 同時に、「ワープロ機能拡張セット」というソフトを、バージョンアップしました。

 (3) 進化論のページで、興味深いことを記述しています。

  クラス進化論 のサイトの 「数理編」のページ

  ※ 経済学とも関連します。原理的には「秩序理論」の話と同様の原理です。


● ニュースと感想  (11月22日)

 「パレート最適」について。
 前項で述べた「進化論」の「数理編」に関連して、「パレート最適」について示しておこう。
 上記の「数理編」で述べたように、「部分最適化は、全体最適化をもたらさない」ということがある。
 一方、「パレート最適」という概念は、「部分最適化は、全体最適化をもたらす」ということを主張している、と考えられることが多い。
 そこで、この両者の違いを、本質的に示しておこう。

 「パレート最適」という概念は、「部分最適化は、全体最適化をもたらす」ということを主張している、と考えられるが、ただし、このことは、「局所的に」のみ成立するのである。換言すれば、それによって与えられる最適な値とは、(ポテンシャルの)「極小値」と理解できる。
 たとえば、凹型の曲面があるとしよう。ここでは、極小値がある。そして、極小値からズレたところでは、前後左右に動いて、ポテンシャル値が減る方向に移動すれば、必ず、最終的には、極小値に達する。つまり、平面上でX軸方向に動いても、Y軸方向に動いても、それぞれの方向で最適化(ポテンシャル減少)をめざせば、全体のポテンシャルが極小値になる。── このことは、凹型の曲面の範囲では、成立する。それが「局所的に成立する」という意味だ。
 しかし、もっと範囲を広げると、凹型の曲面にはならず、凸凹した曲面になることもある。極小値は一つだけでなく、複数あることもある。そして、極小値が複数ある場合には、一つの凹型の曲面の範囲で「最適化」を実施しても、別の凹型の曲面の「最適値」には移動できない。このことは、次の表で示せる。

 \ A  B 
 A  -3   0 
 B   0  -2 

 ここでは、階段的に、0, -2, -3 という値が示してあるが、これをポテンシャル値と理解して、「なめらかな凸凹のある図形だ」と理解してほしい。つまり、右下と左上は凹んでいて、右上と左下は平らである。凹みが二つあるが、右下は -2 で、左上は -3 だから、左上の方が深い凹みだ。
 ここで、最初に右下にいるとすると、X軸方向で動いても、Y軸方向で動いても、0 にしかならないから、右下が極小値(最適状態)である。一方、X軸方向とY軸方向を同時に動かせば、右下から左上に移動できて、その場合は、新たな極小値(最適状態)に達する。その新たな極小値が、元の極小値よりも、いっそう小さな極小値になることもある。

 「パレート最適」とは、「部分最適化」という概念である。右下が凹型の曲面であるとすれば、そこにおいて各変数を動かして極小値を得ると、その極小値が「全体の極小値」となる。そのことは、この右下の凹みの範囲内では成立する。つまり、局所的には成立する。
 しかし、局所的な極小値が、広い全体における最小値であるとは、限らない。なぜなら、他にも極小値があるかもしれないからだ。そちらの方が、いっそう最適な状態であるかもしれない。

 経済学における「古典派」とは、「極小値は最小値である」という主張である。それは、局所的には、成立する。
 しかし、現実には、「極小値は最小値である」ということはありえない。たとえば、不況という状況において、放置すれば、不況という状態での極小値になるだけだ。そして、それは、「企業は投資を控えてリストラをし、家計は消費を切りつめる」という状態だ。企業も、家計も、それぞれ、自分にとって、最適状態を選ぶ。その結果、「不況における最適状態」に近づく。それが「縮小均衡」という状態だ。
 とはいえ、「縮小均衡」という状態は、あくまで、「不況」という範囲における最適状態だ。それは、局所的な最適状態ではあっても、全体的な最適状態ではない。全体的な最適状態は、「局所的に最適化する」という方法では得られないのだ。つまり、「部分的に最適化する」という方法では得られないのだ。では、どうすれば、得られるか? 実は、「最適化」とは逆の方法を選べばよい。上の行列を見よう。右下にいるとき、行も列も「B」を取っている。このとき、行だけを「A」にしたり、列だけを「A」にしたりすれば、それ単独では、状況が「-2」から「0」に変化するだけだから、状況は悪化するだろう。しかし、行と列をいっしょに「A」にすれば、「-2」から「-3」に変化することで、状況は一挙に改善する。
 もっとわかりやすくするためには、配点を変化させて、次のようにする。

 \ A  B 
 A  -3   2 
 B   2   1 

 ここでは、数値は、「損」の値だと見なすとよい。当面は、右下にいて、比較的マシではあるが、やはり、損が少ないだけであり、損がいくらか出る。しかし、右下から左上に移行すれば、損がマイナスになる。つまり、利益が出る。それこそが、最善の状況だ。
 経済学に即して言えば、こうだ。不況のとき、企業や家計が、それぞれ、自分だけの最適化をめざせば、「部分最適化」がなされるだけである。それによって、「パレート最適の原理」がなされるので、「その状況における最適状態」が可能となる。つまり、「不況における最適状態」が可能となる。しかし、そういう仕方では、不況を脱することができない。不況を脱するためには、企業や家計が、それぞれ、自分だけの最適化をめざすのではなくて、全体の最適化をめざせばいいのだ。つまり、「部分最適化」を捨てて、「全体最適化」を実行すればいいのだ。
 具体的に言えば、こうだ。企業は、「経営の健全化」をめざして解雇・賃下げをするかわりに、労働者をどんどん雇用して、賃上げをすればよい。家計は、「家計簿の健全化」をめざして消費を縮小するかわりに、どんどん消費をすればよい。いずれも、単独でやる限りは、デメリットがある。しかし、国中の企業と消費者がいっせいにそういう行動を取れば、メリットがある。つまり、不況を脱することができる。── それが、「部分最適化を捨てて、全体最適化をめざす」ということだ。
( ※ 「国中の企業と消費者がいっせいにそういう行動を取る」ということは、放置に任せているだけでは、不可能である。何らかの方法が必要だ。それが「タンク法」である。)

 [ 付記 ]
 本項の話を、大々的に理論化したのが、「秩序理論」である。なお、関連する話題としては、「囚人のジレンマ」や「ナッシュ均衡」もある。ここでは、いちいち言及しないが。

 [ 補説 ]
 従来の説との比較をしておこう。
 (1) 古典派
 古典派は、「放置すれば最適化する」と考える。そして、「最適化しないとしたら、阻害物があるからだ。ゆえに、阻害物をなくせ」と主張して、「規制緩和」や「構造改革」を主張する。特に、サプライサイドが、そうだ。……しかしこれは、あくまで、「部分最適化」ないし「局所的な最適化」をめざす方法だ。不況でないときには、それでもいいが、不況のときには、無効である。(そんなことをいくらやっても、行列で、右下のから左上に移行できない。)
 (2) マネタリズム
 マネタリズムは、古典派の一派である。ただし、サプライサイドのように、供給力を改善しようとするかわりに、貨幣的な手段を取る。これは、「下方へ向かわせる力を増やす」ということに相当する。この力は、モデル的には重力のような力であり、現実には、投資を増やす力(つまり、金利の低下)である。この力が増大すると、極小値へ向かう力が強まる。……しかしこれは、あくまで、極小値に達していないときに働くだけだ。いったん極小値に達したら、極小値より先には進みようがない。つまり、力が無効となる。それが「流動性の罠」という状態だ。(この力をいくら強めても、行列で、右下から左上に移行できない。)
 (3) ケインズ派
 ケインズ派の方法は、総需要を増やすことで、「右下から左上へ」という移行を実現する。その意味で、古典派とは違って、本質的に正しい方法である。……しかしこれは、コストを考慮していない方法である。成果自体は出るが、同時に、ひどいデメリットも生じる。
 ケインズ派の主張からは、「穴を掘って埋めてもよい」などという結論が出てくる。なるほど、そうすれば、「右下から左上へ」という移行を実現して、不況を脱出することは、たしかに可能だ。しかし、そのあとでは、コストが襲いかかるのだ。いわば、凍死を免れるが、火あぶりで死ぬ、というようなものだ。
 単純に言えば、ケインズ派の方法は、「中和」である。「マイナスがあるなら、プラスを注げば、差し引きしてゼロになるはずだ」という発想だ。かくて、凍死しかけた人間に対して、右半身はそのままで、左半身だけ火あぶりにする、という結論が出される。
 正しくは、「マイナスをなくす」ことであって、「マイナスを補うプラスを注ぐ」ことではないのだ。つまり、「民需の縮小をなくす」ことであって、「官需を増やす」ことではないのだ。この区別をしないまま、「差し引きして、マイナスを補うプラスがある」と考えるところに、ケインズ派の難点がある。
( ※ 比喩的に言えば、こうだ。熱伝導率が高い金属なら、ケインズ派の方法は成功する。熱伝導率が低い人間なら、ケインズ派の方法は失敗する。成否は、対象しだいである。経済で言えば、公共事業が役立つ途上国では成功するが、公共事業の不要な先進国では失敗する。)


● ニュースと感想  (11月23日)

 前項の続き。「複数均衡点」について。
 前項では、2×2型の行列で、複数均衡点の例を示した。すると、「こんなことが、よくあるのか? 特殊事例ではないのか?」という疑問が生じるだろう。そこで、「特殊事例ではないこと」、つまり、「かなり一般的であること」を示す。
 その基本は、「複数均衡点」である。均衡点が複数ある例を、次の二つで示す。

 (1) 1次元タイプ
 1次元の変数で「複数均衡点」がある場合が、最も簡単だ。
         y = f (χ)
 という1変数のグラフを書いて、複数の均衡点がある場合は、簡単に示せる。それは、w 型のグラフだ。極小値が二つあり、途中に山がある。
 単数の均衡点がある場合は ∨ 型もしくは ∪ 型で示せる。すると、その極小値から脱することは困難だ。しかし、複数の均衡点がある場合は、一方の均衡点から、他方の均衡点へ、移動することができる。ただし、その途中では、 ∧ 型もしくは ∩ 型の「山」を越えなくてはならない。
 このようなことは、量子力学では、しばしば考察される。心理学でも、「閾値」という用語とともに、考察されることがある。だから、1次元タイプの「複数均衡点」は、別に、特殊であるわけではない。
 心理学の例を言えば、こうだ。恋人候補が二人いる。紀香と菜々子である。どちらがいいか、悩んでいたが、ひょんなことから、紀香と付き合うことになった。どんどん仲良くなり、交際が深まった。婚約して、結婚式場を予約した。ここでは、紀香という均衡点に達していた。ところが、あるとき、喧嘩した。巨大なエネルギーが生じて、暴走した。あげく、菜々子に電話をかけて、菜々子と付き合うようになった。結婚式場では、紀香のかわりに、菜々子と式を挙げた。かくて、菜々子という均衡点に達した。つまり、紀香という均衡点から、菜々子という均衡点に、移行した。……普通なら、そのようなことは起こらないのだが、巨大なエネルギーが生じると、そういうことも起こるわけだ。

 (2) 2次元タイプ
 2次元タイプと言えば、前項のような、2×2の行列の行列タイプである。これは、「行列」として見れば、特殊に思えるかもしれない。しかし、「複数均衡点」として見れば、特殊ではない。
 複数均衡点というのは、一般的には、次のような図で示せる。(図形的には、卵のパックの容器のようなものだ、と思えばよい。○ にあたるのは、凹みの部分である。そういう凹みの部分が、いくつも配置されているわけだ。)

          ○ ○  ○
         ○ ○ ○  ○
         ○  ○ ○

 ここでは ○ は、ランダムに配置されている。ただし、そのうちの、近接した二つだけを見れば、次のように並んで見える。

      ○ ○

 ここで、両者の間は、山になっているから、山を縦線で描けば、次のように書ける。

      ○

 あるいは、同じことだが、次のように書ける。

     ▼
    ○ ○
     ▲

 これは、次の行列と、等価である。(全体を右に 45度、回転する。また、 ■ は斜めに割って、三角として理解する。)
 ○  ■ 
 ■  ○ 
 これは、前項で示した行列と、本質的には同じだ。( ○ は低くて、 ■ は高い。)
 結局、こうだ。一般的に「複数均衡点がある」という状態は、特定の近接した二つの均衡点だけを見れば、すぐ上の行列のようなタイプ(つまり前項のようなタイプ)になるのである。そこでは、二つの極小値がある。そして、右上と左下は、壁のようなものだ。これは、1次元タイプで言えば、 ∧ 型もしくは ∩ 型の「山」に相当する部分である。
 だから、複数均衡点がある状況では、前項で示した行列のようなことは、一般的に成立するのであって、決して特殊な例ではないのだ。
 量子力学の世界では、「複数均衡点」というのは、非常にしばしば見られる出来事であり、決して特殊な例ではない。同様に、社会科学の世界では、「複数均衡点」というのは、非常にしばしば見られる出来事であり、決して特殊な例ではない。そういうふうに理解することが、大切だ。
 なのに、このことを理解しないと、局所的にだけ物事を見て、局所的な均衡点を得ることだけを目的とするようになる。思考が落とし穴にはまってしまって、間違った思考から脱することができなくなる。経済学における「古典派」というものは、そういうものだ。

 [ 補説 ]
 2次元タイプは、近似的には、1次元タイプで表現できる。つまり、 極小値が二つある凹型曲面において、「左下から右下へ」という断面図を描けば、w 型に見える。
 このことからわかるように、谷から谷に移行するには、途中で山を越える必要がある。つまり、凹みの部分にいるときには、谷底に向かえば向かうほど、山から遠ざかるので、他方の谷底には移行しにくくなる。
 経済で言えば、こうだ。不況のときに、企業がリストラを進めれば進めるほど、企業自体は業績が好転するが、しょせんは不況における最適化にすぎない。それでは、右下の極小値に近づくだけだ。すると、左下に移行することは、ますます困難になるのである。

 [ 付記 ]
 現状(2003年の後半)に当てはめよう。企業は輸出によって利益を出しているが、それを労働者へ配分せずに、内部留保に回して、企業業績を向上させようとばかりしている。「黒字がいっぱい出たぞ」と大喜びをしている。しかし、そんなことをすればするほど、不況脱出は困難になる。
 正しくは、輸出によって利益を、内部留保に回さず、労働者にたっぷりと配分することだ。企業はふだんは、「成果主義」と主張しているのだ。とすれば、成果が出て、利益が出たのなら、その成果を労働者にちゃんと配分するべきだ。
 しかるに、そうしない。企業は利益を独り占めしようとする。経団連あたりも、しきりに賃下げを主張する。かくて、企業はますます業績が好転するが、いつまでたっても不況を脱出できなくなる。……間違った理論に従って行動すると、こういう結果になるのだ。
( ※ 間違った理論とは? 「部分最適化は、全体最適化をもたらす」という理論である。古典派の思想そのものだ。かくて、企業は自分で自分の首を絞めている。しかも、そのことに気づかない。)
( ※ 誤解を避けるため、注釈しておく。私は別に、「いつでも常に、労働者の配分を増やせ」と主張しているわけではない。インフレのときには、逆にするべきだ。つまり、労働分配率を下げるべきだ。その分、企業に収益が溜まる。ただし、企業がそれを投資に回さないように、金融政策で、利上げをすればよい。かくて、インフレにおいては、金融政策が成功する。……結局、「労働分配率を下げよ」「賃下げをせよ」という主張は、インフレのときには正しいのだが、デフレのときには正しくないのだ。そのことに気づかずに、デフレのときに「インフレ退治」の賃下げを主張しているのが、企業や古典派だ。凍死しかけている人間に、解熱剤を処方するようなものだ。個人消費の体温はますます冷えていく。)

  【 追記 】
 「複数均衡点というのは、特殊事例ではない」と述べた。実は、もっと強く、次のように言える。
 「複数均衡点というのは、単数均衡点を一般化したものである。だから、単数均衡点という方が、むしろ、特殊事例である。」
 わかりやすく言おう。科学の世界ではしばしば、「特殊から一般へ」という「理論の一般化」という方法がなされる。数学で言えば、「正の数から、正と負の数へ」とか、「整数から、実数へ」とか、「実数から、複素数へ」というふうに一般化がなされた。幾何学では、「3次元空間から、n次元空間へ」という一般化がなされた。物理学では、「ニュートン力学から、相対論へ」という一般化がなされた。……いずれも、「特殊から一般へ」というふうに、一般化がなされた。
 そして、「単数均衡点から、複数均衡点へ」というのも、同じような一般化なのである。世界そのものは、通常、複数均衡点をもつ。ただし、ごく一部だけを見るときには、局所的に、単数均衡点があるように見える。その意味で、「単数均衡点というのは、特殊事例である」と言えるわけだ。


● ニュースと感想  (11月25日)

 前項の続き。「複数均衡点」について。
 「複数均衡点」については、従来の経済学でも、考察されることがある。たとえば、クルーグマンによる考察がある。( → 「 オイルショックを考え直す 」,「 十字の時:公共投資で日本は救えるか? 」)
 クルーグマンなどの考察では、「複数均衡点」というのは、次のように理解される。
 通常の均衡点は、「 乂 」型のグラフなどで示せる。これは、「単調増加と単調減少の曲線が交差する」という形のグラフである。ここでは、交差する点が一つだけあり、それが均衡点である。
 さて。一方の曲線が、 ∩ 型もしくは ∪ 型であって、単調増加でも単調減少でもないことがある。このような曲線が、たとえば水平の線と交差すると、A 型もしくは ∀ 型のように、交差する点が複数できる。この交差する点が、複数均衡点である。
 では、このような考察と、前項の考察とは、どのように異なるのだろうか? 

 実は、上記のような複数均衡点は、「ミクロ的な複数均衡点」であり、前項のような複数均衡点は、「マクロ的な複数均衡点」である。前項のような均衡点では、一つの状況では均衡点はただ一つだけある。ただし、状況が変わると(異なると)、需給曲線そのものがズレていくせいで、均衡点が別々となるのである。
 ここでは、「需給曲線の移動」ということが、決定的に重要である。つまり、「同じ状況で均衡点が複数ある」というのが「ミクロ的な複数均衡点」であり、「同じ状況では均衡点が単数あるが、異なる状況では均衡点が異なる(だから均衡点が複数ある)」というのが「マクロ的な複数均衡点」である。
( ※ マクロ経済学とは、需給曲線そのものが変化することを考察する学問だ。 → 8月14日 「ミクロとマクロ」 )

 このことは、図形的には、前にも示した次の図で理解できる。

     トリオモデルの図

 ここでは、水平線が移動しているように見える。ただし、逆に、水平線は固定されていて、右下がりの曲線だけが移動している、と理解しよう。すると、右下がりの曲線が、右方から左方へと移動するにつれて、均衡点は「水平線の上」から「水平線の下」へと移動する。(図で言えば、右側の図から、左側の図へと、変化する。)……そういうふうに、均衡点が移動していくわけだ。
 そして、状況が、右側の図から左側の図へと一挙に変化すれば(つまり、右下がりの曲線が、右方から左方へと一挙に移動すれば)、均衡点は一挙に移動することになる。均衡点の移動の前後を比較すると、均衡点は二つあることになる。
 
 結局、こう言える。前項におけるような「複数均衡点」というのは、「均衡点が二つある」というふうに見えるが、「同一状況で二つの均衡点がある」のではなくて、「異なる状況でそれぞれの均衡点がある」ということだ。
 そして、一つの状況では一つの均衡点に落ち着くが、その結果、その状況から、抜け出せない。しかも、その状況が好ましくないことがある。この場合には、均衡点に達することが大事なのではなくて、むしろ、均衡点から抜け出すことが大切だ。そして、そのためには、「均衡点に向かおう」とする各人の行動を制限するべきではなくて、「均衡点がそこにある」という状況そのものを改めるべきなのだ。
 
 経済で言えば、こうなる。不況のとき、企業も個人も、それぞれ、その状況における最適行動を取りたがる。そのせいで、不況における均衡点(縮小均衡の点)に向かってしまって、そこからなかなか脱せない。こういうときには、「均衡点に向かおう」とする企業や個人の行動を変更させようとしても、無駄である。むしろ、均衡点を変えることが、大事なのだ。つまり、「不況における均衡点である縮小均衡の点」から、「正常な経済状況における均衡点」へと、均衡点を変えることが大事なのだ。そのためには、状況そのものを、何らかの方法で変える必要がある。とはいえ、状況そのものを、不況から好況へと、変化させることはできない。そこで、何らかの方法で、疑似的な「好況」を一時的に作り出せばよい。そうすれば、あとは、その均衡点で落ち着くようになる。……その具体的な方法が、「タンク法」である。

 [ 付記 ]
 前項や前々項では、2×2の行列を示したが、これが「複数の状況」を示すと考えてよい。需給曲線で言えば、需給曲線の変化そのものを示す。つまり、マクロ的な変化を示す。
 一方、クルーグマンの考察のようなこと(ミクロ的な複数均衡点)は、需給曲線を固定したものと見なしているわけで、話はまったく別の事情にある。そこでは、単調増加や単調減少の曲線が成立しないから、こういうのは非常に特殊な場合である、と考えていいだろう。


● ニュースと感想  (11月26日)

 前項の続き。「複数均衡点」について。
 「自由放任ですべてはうまく行く」という古典派の主張に従っても失敗する、ということが、しばしばある。そういう場合は、「複数均衡点」という原理で説明できることが多い。
 例として、「ソ連崩壊後のロシア経済」がある。ロシアは、IMFの処方に従って、古典派的な「自由主義経済」を実施した。「これで状況は最適化する」と古典派経済学者(およびIMFの官僚)は主張した。しかし、現実には、うまく行かなかった。
 では、どうなったか? ロシアでは、新たな創造的な産業が急成長するかわりに、マフィア的な産業が急成長した。すなわち、「まともな生産活動をする」かわりに、「既存の資源などを切り売りする」とか、「国家の財産を盗む」とか、「輸入品を販売するだけ」とか、「他人の生産能力を暴力的にたたきつぶして市場を独占する」とか、「賄賂を使って自分だけ甘い汁を吸う」とか、ほとんど犯罪まがいの経済活動ばかりが進んだ。
 ここでは、各人が自分だけの利己的な行動をめざした。つまり、「部分最適化」(強者の利益の増大)が、どんどん進んだ。しかるに、そんなことをいくらやっても、IMFの狙ったような「全体最適化」は実現しなかったのである。すなわち、「部分最適化は全体最適化をもたらす」という命題は、成立しなかったのである。

 このことは、どう説明されるだろうか?
 もちろん、従来の古典派的な学説では、説明できない。しかし、「複数均衡点」という考え方によれば、説明できる。
 ソ連崩壊後のロシアは、いわば、カオス的な状態であった。そこには何の秩序も成立していなかった。すると、「部分最適化」によって「状況の最適化」を進めようにも、骨格となるものが何もなかったから、方向がまったく見出されなかった。そのなかで、勝手な活動が進んで、勝手な方向に骨格が作られていった。
 「部分最適化」という方法は、もともと骨格があれば、あとは小さな凸凹をならして(つぶして)、なめらかな状態に最適化できる。しかし、もともと骨格がなければ、どうしようもないのだ。そのせいで、妙な方向に骨格が作られていくこともある。「部分最適化」という方法は、骨格を作る方法ではないのだ。

 では、どうすればよかったか? ここでは、何らかの方法により、国家規模で経済を誘導することが効果的である。すなわち、その国において最も有望な産業(国際競争力のある産業)を見極め、その産業を推進して、一国全体の生産力を高めることだ。これが王道である。たとえば、ロシアで言えば、農業とか、軽工業とか、資源産業とか、軍事産業とか、そういったものだ。これらの産業を国家的に推進するが、個別企業の経営については口出ししない。そういう「産業政策」が有効である。
 この方法を取ったのは、アジア諸国や中国だ。産業政策を取って、軽工業や、部品工業などで、労働集約的な産業を推進した。その結果、アジア諸国は、他の途上国をしのぐ急成長を成し遂げた。(昔の文明開化のころの日本も、この方法を取った。)
 逆に、失敗したのは、「国家規模でも個別企業でも、国が決定する」という社会主義国家だ。また、「国家規模でも個別企業でも、放任する」(マフィアの好き勝手にさせる)というロシアもある。
 ロシアでは、好き勝手なことをさせたあげく、「政商」と呼ばれる巨大な独占企業が出現し、国家の富を犯罪まがいの方法でかすめ取った。大半の人々が貧困に苦しむなかで、国家の財産を半合法的に取得して、莫大な富を独占するようになった。あげく、国家そのものを左右するほどの力を備えて、大統領との間で、権力争いが生じている。こうなるとでは、大統領を批判しても、政商の側を批判しても、意味がない。どちらもヒトラーまがいの独裁的な悪なのである。悪ばかりが跋扈(ばっこ)している。不公正な操作のあげく、一部に富が集中しているせいで、まともな産業基盤も育たず、まともな国民需要も育たない。
 では、このようになったのは、なぜか? 経済を「自由放任」にしたからだ。「自由放任」ゆえに、最も強力な悪ばかりがのさばるようになったのだ。「自由放任」とは、「弱肉強食」の原理である。そこでは、「腕力と暴力の強いものが勝つ」という、荒廃した原理だけが幅を利かす。(かつて米国のNYダウンタウンがそうだった。犯罪の巣窟たる無法地帯。そこでは極端な「自由放任」が成立した。)
 結局、「自由放任」とは、「強いものが勝つ」ということだけを意味するのであって、「良し悪し」は関係ないのだ。もし、そこに秩序があるのならば、「部分最適化」を通じて、「全体最適化」を実現できる。しかし、そこに秩序がなければ、「特定の強者ばかりが有利になる」(大多数にとっては不利である)という状況で、安定してしまうのである。なぜなら、それはそれで、一つの均衡点であるからだ。
 かくて、均衡点が複数あれば、最善の均衡点ではない均衡点で、安定してしまうことがあるので、放置するだけでは、最善の状態にはなれないことがある。「複数均衡点」という概念からは、そのように結論できる。
( ※ なお、「秩序」とは、「正しい骨格」と解釈するとよい。)

 [ 付記 1 ]
 ロシアで言えば、「社会主義経済」という最悪からは脱することができたが、現状はあくまで次善の均衡点にすぎない。この均衡点は、正しい経済状態の均衡点ではなくて、間違った経済状態の均衡点である。このような均衡点にいる限りは、いつまでたっても、まともな経済成長路線に乗ることはできない。つまり、ロシアは、何年たっても、アジア諸国のような正しい成長路線には乗れない。放置するだけでは、ダメなのだ。
( ※ これは別に、ロシアを馬鹿にしているわけではない。日本もまた、同病相憐れむである。日本もまた、不況という間違った均衡点から、いつまでたっても脱せない。もはや十二年。ついでに言えば、2年前には小泉と竹中が、「構造改革によって、2年後には必ず景気を回復させます」と言っていたが。)
( ※ ついでに言えば、似た例として、「独占・寡占状態」というものがある。初期の資本主義国家では、しばしば見られた。ただし近年では、独占禁止法によって、こういう悪しき状態を解体する方法ができた。ところが、最近になると、ふたたび産業界から「独禁法を弱めよ」という声が出てきている。かくて、土建業界で談合がまかり通ったり、マイクロソフトが市場を独占したせいで人々がウィルスに悩んだりする。大多数の国民がこういうふうに苦しむのは、間違った経済政策のせいだ、とも言えそうだ。愚かな人々が「自由放任こそ最善」と信じるせいで、こういうひどい状態で安定するわけだ。)

 [ 付記 2 ]
 IMF流の処置に問題があることについては、スティグリッツがひどく批判している。著書もあるが、インターネット上にも記事がある。( → 「 世界経済危機でわたしが学んだこと 」)
 ただし、スティグリッツの批判には、「複数均衡点」というような概念は出てこない。単なる悪口のようなものだ。(私のよくやる古典派批判に、けっこう似ているかも。……)
 なお、オマケとして、解説しておこう。スティグリッツは、IMFを「古い経済学を信奉している」と批判している。しかし、「新しい経済学」なんてものは、(私の経済学を除けば)どこにも存在しない。スティグリッツの頭のなかには、「新しい経済学」というものが想定されているのだろうが、そんなものは現実には存在していない。スティグリッツの書いた経済学だって、古い経済学と比べて、大同小異である。せいぜい「流動性の罠」と「インフレ目標」を追加したぐらいだ。
 だから、IMFの難点は、「古い経済学を信奉している」というよりは、「経済学(一般)を信奉している」点にある。経済学とはそもそも未完成な(というより間違った)体系だ、ということを、理解できないでいるわけだ。そして、スティグリッツの美点は、新しい経済学を提示した点にあるのではなくて、既存の経済学の欠陥を指摘したことだ。
 「無知の知」は、重要である。「現在の経済学は無力である」と知ることは、重要である。スティグリッツは、それをなした。IMFは、それをなさなかった。だから、IMFは、間違った原理を提示して、ロシアや他の諸国を、経済的に破綻させてしまったのだ。
 おのれを「馬鹿」と認識している馬鹿は危険ではないが、おのれを「利口」と認識している馬鹿は危険なのである。こういう輩は、国家を崩壊させる。
( ※ 「そういうおまえは、どうなんだ」と非難されそうだが。……私は馬鹿かもしれないが、国家を崩壊させるほどじゃないと思いますが。どうなんでしょうねえ。うちのカミさんに訊いたら、「あんたは家庭を崩壊させるほどの馬鹿だ」と言われましたが。でもねえ、うちの独裁者は、私じゃないんですよ。)


● ニュースと感想  (11月26日b)

 前項の続き。「産業政策」について。
 前項では、「産業政策」について言及した。このことは、ちょっと興味深い話題なので、ついでに少し言及しておこう。
( ※ 重要な話ではなくて、かなり枝葉末節的な話である。いちいち読まなくてもよい。「複数均衡点」の話とは、あまり関係ない。)

 (1) 企業経営
 比喩的に言おう。一国でなく、一企業の経営を考える。
 個々の毎度毎度の企業活動は、社員の各人が決断するべきであり、社長がいちいち指示するべきではない。しかし、全体の方針を決めるときは、社長が明確に指示するべきだ。それなしに、下っ端の各人に任せっきりでは、会社全体が迷走する。
 つまり、各部門における部分最適化をなしても、それだけで企業全体における全体最適化ができるとは限らない。変な方向で安定してしまうことがある。たとえば、道路公団であれ、政府組織であれ、自分たちの保身のための状態で、安定してしまっている。こういう状況では、個別部門に対して、いくら「自由放任」や「部分最適化」をしても、それだけでは組織全体を最適化できない。組織全体を最適化するには、組織全体の状況をドラスティックに変化させることが必要だ。そういうドラスティックな変化は、決して、「自由放任」によっては成し遂げられないのである。
 古典派の人々は、「自由放任で常に状況は最適化する」と信じている。しかし、それは、ごく小さな局部にだけ適用される話であり、全体構造については適用されないのだ。そのことを理解しよう。

 (2) 構造改革
 「構造改革」というのは、この意味でやろうとするのであれば、好ましい。つまり、誤った全体状況を、抜本的に改革する、という意味だ。では、具体的には、どうするか? 
 2001年の経済財政白書で言うような、「日本をIT産業で先進化する」なんてのは、愚の骨頂である。日本では、IT化のための骨格はすでにできているのだから、IT化のためには部分最適化で十分だ。政府が介入すれば介入するほど、状況は悪化するだけだ。
 なのに、実際には、政府は、現在ふたたび、「有望分野の産業育成」という方針を示して、「燃料電池」「ロボット」などを、国家政策で振興しようとしている。(2003-11-25 読売・朝刊・1面 )
 馬鹿げている。これらの産業は、日本がすでに最先端レベルに達している。「誰もが有望だと思っている有望分野」というのは、優れた参入者がたくさんいるのだから、そんな分野を振興しようとして、いちいち介入する必要はないのだ。どうせやるなら、「まだ有望かどうか判明していない分野」にするべきだ。……具体的に言えば、遺伝子産業ならば、「まだ有望かどうか判明していない時期」に政府が振興すれば、大きな成果を成し遂げただろう。実際には、「遺伝子産業を振興するべし」と日本人研究者が主張しても無視する。しかるに、その声を米国が聞いて、米国企業が先んじると、そのあとで、「これは有望だと判明した」からといって、あわてて振興しようとする。しかし、そのときには、すでに周回遅れになっているのだ。
 要するに、政府が振興するのならば、「有望だと判明していて、すでに民間の大企業が参入している分野」ではなく、「まだ有望かどうか判明していない分野」にするべきなのだ。
 また、日本で「構造改革」をやるとしたら、国際競争力のある産業ではなく、国際競争力のない産業で行なうべきだ。たとえば、農業や土建業だ。つまり、自民党の支持基盤そのものだ。
( ※ この分野なら、構造改革をやれば、効果は出る。ただし、いくら効果が出ても、「不況」という大問題は解決しない。なぜなら、「不況」という大問題は、農業や土建業の問題ではなくて、一国のマクロ経済の問題だからだ。「構造改革なくして、景気回復なし」というのは、正しそうに聞こえるキャッチフレーズではあるが、まったくの間違いである。しいて言えば、「小泉の頭を構造改革するべきだ」となる。そうすれば、日本のマクロ経済の全体状況が改善して、不況から脱することができる。)

 (3) 規制緩和
 産業政策をするのであれば、いちいち補助金をやるよりは、その前に、「規制緩和」をすることが先決である。規制だらけのところで、補助金を出しても、無駄に消えるだけだ。たとえば、農業や土木産業で、何らかの振興策をして、補助金を出しても、まったくの無駄である。
 似た例として、政府の振興しようとする「バイオ」という産業がある。しかるに、薬剤産業というのは、規制だらけの典型的な産業だ。たとえば、外国の薬品を、自由に利用できない。政府は「人種差」を理由として、「安全性が保証されていない」と言うが、これは、非科学的と言うしかない。人種差なんてものは、生物学的には、まったく無意味と言ってよい。遺伝子的に言えば、白人と日本人は、皮膚の色のような表面的な部分がごくわずかに異なるだけであり、内臓のような骨格的な部分はまったく同一である。「メラニン色素が多いか少ないか」とか、「手足が長いかどうか」とか、「瞼が一重か二重か」とか、その程度の小さな違いしかない。そんなものにとらわれるのであれば、同じ日本人でさえ、別々の人種と見なす必要が出てくる。
 かくて、非科学的な迷信に従って、無意味な規制をしているのが、今の日本だ。そして、そのせいで、日本の薬剤産業は、国際競争力がない。「だから振興しよう」と政府は主張する。つまり、薬剤産業に、自分で枷(かせ)をはめておいて、「だから助けてやらなくちゃ」と主張する。狂気の沙汰だ。


● ニュースと感想  (11月27日)

 前々項の続き。「複数均衡点と山越え」について。
 「複数均衡点」という考え方を理解すると、いわゆる内需振興策というものがなぜ無効であるかも、わかるようになる。
 小渕政権などの歴史を見よう。公共事業であれ、減税であれ、これまでの景気振興策は、すべて失敗してきた。そこで古典派は、「ほら見ろ」とばかり、「ケインズ的な総需要喚起策は無効だ」と主張した。サプライサイドは「構造改革」を主張したし、マネタリストは「量的緩和」を主張したし、帳簿主義者は「不良債権処理」を主張した。しかし、この三者の主張を実施しても、効果はまったくなかった。それに比べれば、ケインズ的な総需要喚起策の方には、まだしも、「景気悪化の度合いを減らす」というぐらいの効果はあった。(ただし、あとには、赤字の山が残ったが。)

 では、正しくは? 「複数均衡点」という考え方によれば、こうだ。
 たとえ内需振興策を取ったとしても、その規模が小さければ、 w 型の中央にある山を乗り越えることができない。すると、現在の均衡点(極小値)をどんどん離れていっても、力不足で、山を越えることができないので、そのあと、ずるずると後退して、元の極小値に落ち込んでしまうのである。「山越え」に失敗するわけだ。
 ここでは、失敗した理由は、「山越え」をしようとすることではなくて、「山越え」をする力が不足していたことだ。もっと大きな力があれば、「山越え」をすることができる。すると、w 型の一方の凹みから、中央にある山を越えて、他方の凹みの側に移行できる。そのあとは、「自由放任」に任せれば、自然に最良の均衡点(極小値)に達する。
 だから、なすべきことは、「山越え」をするだけの、十分な力をもつことだ。しかるに、現実には、国民にはその力がない。体力が衰弱しきっているからだ。こういうときには、国が国民に、その体力を一時的に貸与すればよい。「今は貸与して、将来は返却してもらう」というのが、正しい方策だ。一方、「国民の自助に任せる」という「自由放任」政策では、いつまでたっても、国民は、現在の均衡点(極小値)から脱することができない。
 現在、マスコミや経済学者は、「景気はまだ回復していないから、しっかりデフレ対策をするべし」などと述べているが、過去の失敗に懲りていないようだ。デフレ対策をしても、たいていは無効である。大切なのは、デフレ対策をすることではない。「山越え」をすることのできるだけの、十分な大きさのデフレ対策をすることだ。そして、その大きさが不足する限りは、どんなにデフレ対策をしても、失敗するだけなのだ。
 「デフレ対策をするべし」などという意見は、ただの気休めにすぎない。問題は、するかしないかではなくて、その量がどれだけかなのだ。

 [ 付記 ]
 たとえて言おう。入学試験がある。入学試験の前に、たっぷり試験勉強をすれば、うまく合格できるだろうか? いや、そんなことはない。大切なのは、点数を上げることではなくて、合格点をクリアできるだけの十分な点数を獲得することだ。そして、点数が十分でなくて、合格点をクリアできない限りは、どんなに努力しても、その努力はすべて無駄になるのである。
 つまり、「水泡に帰する」わけだ。現在の経済政策は、たいてい、こうだ。バブルという泡が破裂したあとで、今はまた水泡に帰する政策をしているわけだ。泡づくし。(踊る阿呆に見る阿呆。)
( ※ 「十分な」というのがどのくらいであるかは、「状況をそのものを変えるだけの量」というふうに規定できる。そして、その量は、2×2型の行列で説明される。ただし、2×2型の行列で説明するのは、かなり面倒になるので、簡単には説明しきれない。詳しくは、「秩序理論」で説明するが、現在、未公開である。本項ではとりあえず、 w 型のグラフで簡単に説明した。)
( ※ ただし、「複数均衡点」という考え方を使わないとしても、マクロ経済学モデルの範囲で、その数字を出せる。前にも計算結果を提出したことがある。ざっと言って、10兆円〜20兆円の減税だ。なお、現在は、企業業績がかなり好転しているから、その分、支出額は低めに見積もることができる。10兆円の減税で済むかもしれない。……現実には、政府の政策は、たったの1〜2兆円ぐらいの政府支出であり、その一方で1〜2兆円ぐらいの実質増税[社会保障料の値上げ]をするから、こんな経済政策はまったく無効である。)


● ニュースと感想  (11月27日b)

 前項の続き。「複数均衡点とマクロ経済学モデル」について。
 すでに述べた「複数均衡点」というという概念と、先に長々と述べてきたマクロ経済学のモデル(トリオモデルおよび修正ケインズモデル)との関連について、考察してみよう。
 「複数均衡点」という概念は、ここまで数項目にわたって述べたように、2×2の行列で示せる。それは「異なる状況で、異なる均衡点がある」というふうに示せる。
 また、「 乂 」型の曲線と水平線の交差する図も示したが、これは、トリオモデルの説明に合致する。すなわち、「複数均衡点」という概念における「異なる状況」というのは、トリオモデルでは、「均衡点が水平線の上にあるか下にあるか」というふうに場合分けして示される。均衡点が水平線の上にある場合には、その均衡点が正常な均衡点である。均衡点が水平線の下にある場合には、正常な均衡が達成されない。すなわち、不均衡状態となる。その後、需要が回復するかわりに、生産力が縮小すると、均衡点に達する。それが「縮小均衡」の状態である。この状態は、均衡は達成されるが、一国の生産力が崩壊した状態であるから、好ましいというよりは悪い状況である。下手をすると、均衡のあとで、急激なインフレ状態になったり、失業と物価上昇の併存というスタグフレーション状態になったりする。急激なインフレやスタグフレーションは、不況という状況からは回復しているが、決して望ましい状況ではない。
 修正ケインズモデルでは、「異なる均衡点」は、「普通の均衡点」および「縮小均衡の均衡点」として示される。この両者については、何度も述べてきた。そして、両者の根本的な違いは、「消費性向が異なること」である。「普通の均衡点」は、消費性向が高い状態での均衡点であり、「縮小均衡の均衡点」は、消費性向が低い状態での均衡点である。いずれにしても、需給は均衡している。ただし、消費性向というものは、気分しだいで、容易に変化する。いったん縮小均衡に達したあとで、消費性向が上向くと、「普通の均衡点」に向かって、経済は急激に移行しようとする。しかるに、生産力は、急激には増大しない。となると、急激なインフレやスタグフレーションが発生することになる。これは、決して、望ましい状況ではない。

 まとめ。
 「複数均衡点」という概念を使うと、「異なる状況」というものが理解される。さらに、「トリオモデル」や「修正ケインズモデル」という概念を使うと、この「異なる状況」の変化の過程が理解される。すなわち、こうだ。
 複数の均衡点があるとき、その複数の均衡点は、状態としては、大きく懸け離れているのである。同じく「均衡点」とは呼ばれていても、その状況はまったく異なる。単純に「均衡であればよい」というようなことはない。
 「縮小均衡」という均衡点は、経済が最も萎縮した状態である。いったんそこに達すれば、もう一つの均衡点に達するのは、非常に困難である。というのは、最も萎縮した状態から、元の正常な状態にまで成長するのは、容易ではないからである。だからこそ、「縮小均衡」に陥る前に、元の均衡状態に移行するべきなのだ。
 図で示せば、こう言える。 w 型のグラフがあると、二つの極小値がある。いったん一方の極小値に陥ると、他方の極小値には移行しがたい。だから、悪い方の極小値に近づきつつあるときには、「極小値」(均衡点)に近づこうとするべきではなくて、逆に、「極小値」(均衡点)から離れようとするべきなのだ。そうすることで、悪しき均衡点から離れ、良き均衡点に近づくことができる。

 [ 付記 1 ]
 比喩的に言おう。悪女と良女がいる。二人の女は、どちらも魅力的であり、あなたを誘惑する。どちらか一方に吸い寄せられたら、もう離れられない。ただし、悪女と結ばれれば地獄であり、良女と結ばれれば楽園である。
 今、景気が悪くなった。すると、悪女が力を増して、あなたを誘惑しはじめた。あなたは悪女にどんどん吸い寄せられていく。すると、古典派経済学者が言った。「悪女と結ばれれば、悪女から一生離れられなくなるだろう。悪女と結びついた状態で安定するだろう。そこが均衡点だ。均衡点は好ましいのだから、均衡点に達するべきだ。さあ、悪女と結ばれなさい」と。
 しかし、悪女は最悪の相手である。そんな相手と結ばれた状況は、蟻地獄のような状態である。そこから抜け出すことはできないとしても、本当はそこから抜け出したいのだ。そこは、たしかに均衡点であるが、「均衡点は好ましい」とは言えないのだ。
 そこで私が言う。「悪女は均衡点だが、その均衡点から離れよ。力を振り絞って、誘惑の魔手を逃れよ」と。あなたはその声を聞いて、均衡点から必死に逃れようとする。誘惑から離れるには、非常に大きな力を要するが、なんとか力を振り絞って、悪女から離れる。そして、ついに、悪女と良女の中間点にまで戻った。つまり、 w 型の中央の山に達した。すると、あなたは、二つの谷のどちらからも吸い寄せられなくなった。そこで、良女の方を向いて、一歩進めた。そのあとは、良女にどんどん吸い寄せられていって、良女と結ばれて、安定した状態になった。この均衡点は、好ましい均衡点だった。
 「女(均衡点)なら何でもいい、と古典派経済学者は言ったが、そんな意見に従わなくてよかった」と、あなたは胸を撫で下ろした。
( ※ 11月23日 の例では、「紀香と菜々子」という二人がいて、どちらも良女だった。しかるに今度は、一方が悪女である。悪女には適当に名前を付けてもいい。たとえば、あなたのそばにいる誰か。)

 [ 付記 2 ]
 「女(均衡点)なら何でもいい」という古典派経済学者の主張は、全面的に間違っているというわけでもない。たしかに、「最悪ではない」(独身よりはマシ)という意味でなら、「均衡点(女)なら何でもいい」とは言えそうだ。しかし、いったん一つの均衡点(女)に落ち着いたら、そこから脱することが困難になるのだ。
 これがポイントだ。なのに、古典派の楽観的な言葉に載せられると、性悪女につかまって、一生後悔するハメになる。あとで「しまった」と思ったときは、手遅れだ。
( → ご同輩向けページ 「 我が妻との闘争 」 )

 [ 補足 ]
 なんだか話が逸れてしまったようだが、冗談を言いたいわけではない。「複数均衡点という概念を取ると、事実を正しく理解できる」と言いたいわけだ。あるいは、「均衡点は一つだけあり、それがベストだ」という古典派の主張にだまされるな、と言いたいわけだ。そして、「だまされると、ひどい目に遭いますよ」と警告しているわけだ。(身につまされませんか?)


● ニュースと感想  (11月28日)

 前項の続き。「複数均衡点」について。
 まとめふうに述べておこう。「複数均衡点」というと、特別な概念であるように思えるかもしれないが、そんなことはない。「単純に放置すれば万事うまく行くわけではない」ということを示す。つまり、放置するのとは逆に、「何らかの共同行動を取ることで、好ましい秩序を形成できる」ということを示す。
 たとえば、生物だ。生物においては、たがいに自己の利益だけをめざして行動するよりは、共同行動を取ることで、利己主義だけの行動を取ることよりも、いっそう大きな利益を得ることができる。有性生殖の生物は、親子や夫婦という単位で共同行動を取ることで、個体単位で行動する無性生殖の生物よりも、いっそう大きな利益を得ることができる。( → 進化論のページ

 また、別の例もある。天声人語(朝日朝刊 2003-11-27 )によると、コロンビアでは、民主主義が成立しているにもかかわらず、ゲリラが大きな勢力を持ち、政府軍と対立しているという。なぜか? ブッシュや小泉ならば、「テロリストが悪いんだ。悪を根絶せよ」と主張するだろう。しかし、話はそう単純ではない。
 コロンビアでは歴史的に、勝った方のグループが国の金をむしり取り、他方が煮え湯を飲まされる、というふうに、政治が腐敗しきっていた。こういうふうに腐敗しきっている政治状況では、負けた方が暴力主義に走りがちだ。
 つまり、「弱肉強食」が行き過ぎて、「勝った方が利益を独占する」というふうに過度のエゴイズムが進むと、負けた方も過度のエゴイズムを発揮して、とんでもない混乱状況になるわけだ。だから、ここでは、「規制緩和」とか「自由放任」とかの処置は、まったくの間違いであり、むしろ逆に、「各人が節度をもつように秩序を形成すること」が大切なのだ。

 日本も同様である。不況の日本は、コロンビアと同様に、一種の無秩序状態である。ここでは「自由放任」という処置をしても、エゴイズムが横行するだけだ。コロンビアではゲリラが誘拐・破壊をやり放題だし、日本では企業が解雇・賃金不払い・成果独占などをやり放題だ。かくて、無秩序状態が続くので、放置するだけでは、いつまでたっても状況は改善しない。── だから、不況の日本は、コロンビアと、原理的には同じ状況にあるのだ。
 「複数均衡点」という概念は、そういう事実を教えてくれる。「均衡点は一つだけだ」「放置すればエゴイズムによって最良の状態になる」と信じる古典派経済学者には、とうてい理解できないことだろうが。


● ニュースと感想  (11月28日b)

 解説。「ポテンシャルとは何か?」について。
 ポテンシャルとは何か、ということは、物理学の学習者ならば、すぐにわかるだろう。ただ、大学卒業後、「もう忘れてしまった」という人のために、簡単に解説しておく。
( ※ 特に読まなくてもよい。数式の細かな話だから、経済学の本質とはあまり関係ない。)

 簡単に言えば、ポテンシャルとは、「力の積分値」である。このことから、「ポテンシャルを微分すると、力になる」と言える。
 ポテンシャルが ∨ 型だとしよう。極小値よりも左側では、斜面が右に傾いており、極小値よりも右側では、斜面が左に傾いている。つまり、傾きが逆であり、傾きの値(微分値)は符合が反対である。
 これが、需給曲線の「 乂 」型のグラフに相当する。均衡点よりも左側では
      右下がり曲線 右上がり曲線
 であり、均衡点よりも右側では
      右下がり曲線 右上がり曲線
 である。そういう不等式関係がある。この関係から、需要も供給も、均衡点に近づく方向に力が働く。つまり、均衡点の左側と右側とで、逆方向の力が働く。……このような状況を、 ∨ 型のポテンシャルが示しているわけだ。( ∨ 型でなく、 ∪ 型と言ってもいいが。)
 ここでは、状況に応じて均衡点が移動する、ということに注意しよう。

 [ 補説 ]
 実は、正確に言えば、もっと込み入った事情にある。
 まず、需給曲線において、「均衡点が移動する」ということがある。それは「 乂 」型のグラフでは、「需給曲線が変動する」ということによって起こる。( → 4月16日b 以降。)
 そして、需給曲線の均衡点がどう移動するかについて考えると、メタ的に、「状況の均衡点が二つある」(2×2型の行列が成立する)というふうになる。ここでは、「状況の均衡点が複数ある」となる。この「状況」というのは、需給曲線の均衡点ではなくて、需給曲線の均衡点の、移動の仕方である。
 だから、単純に「均衡点が複数ある」というのは、不正確だ。その均衡点というのが、需給曲線の均衡点なのか、状況の均衡点なのか、不明確だからだ。正しくは、後者である。後者ならば、その複数均衡点について、 w 型のグラフを書ける。
 なお、後者でなく前者であると考える立場もある。しかし、それだと、話がおかしくなる。つまり、「需給曲線の均衡点が複数ある」と見なすと、曲線が非常に奇妙な形になるので、これはあまりにも不自然であり、とうてい信じがたくなる。(この件は、需給曲線のかわりにケインズモデル[45度線モデル]において、クルーグマンが指摘した。 →  十字の時:公共投資で日本は救えるか? )
 要するに、こうだ。「複数均衡点」というのを、経済モデルそれ自体において適用してはならないのだ。「複数均衡点」というのは、経済モデルにおいて均衡点が複数あることを示すのではなくて、経済モデルの状況それ自体に複数の均衡点があることを示すのだ。
 直感的に言えば、こうなる。「ケインズモデルに複数の均衡点がある」のではなくて、「ケインズモデルが成立するような状況と、古典派モデルが成立するような状況という、二つの安定した状況があって、それぞれに、状況の均衡点がある」のだ。── この両者を混同しないように注意しよう。それが、本項で言いたいことだ。

 [ 補足 ]
 数学的に言えば、こうだ。モデルを示す2次元平面があるとしよう。すると、そのなかに均衡点が複数あるわけではない。モデルを示す2次元平面と直交する軸があって、その軸のなかで均衡点が複数あるわけだ。
 需給曲線で言えば、トリオモデルを用いて、次のように示せる。

   [ 好況 ]   [ 不況 ]   [ 合成 ]

     乂               乂
    ───  +  ───  =  ───
             乂       乂

 つまり、交点は、次の位置にあると見える。

   「好況」のとき …… 下限直線の  上
   「不況」のとき …… 下限直線の  下
   「合成」のとき …… 下限直線の 上と下

 実際には、「好況」のときと、「不況」のときとは、別々の平面が成立する。しかし、その二つの平面を重ね合わせて見ると、「合成」の平面のように見える。すると、そこでは、交点が二つあるように見えるわけだ。
 左側の図が成立すること(「好況」)もあるし、中央の図が成立すること(「好況」)もある。しかし、同時に二つの図が成立すること(「合成」)はない。つまり、一つの平面上に、複数の交点が存在する、ということはない。
( ※ 似た話を示そう。自動車が走っている。時刻1と時刻2とでは、自動車は異なった位置にある。しかし、それぞれの時刻で撮影した二枚の写真を合成すると、自動車が二台あるように見える。実際には一台しかなくても、異なる時刻の写真を合成すると、二台あるように見えるのだ。)

 [ 付記 1 ]
 モデルにおける「複数均衡点」は、 w 型のグラフを書ける。ここでは、均衡点は一つしかない。何らかのポテンシャルのグラフを書けるとしても、 v 型となり、 w 型とはならない。ただし、状況に応じて、 v 型が左右に移動するから、それぞれの v 型を一つの平面に合成すれば、 v が二つ並んで w のように見えて、「均衡点が複数ある」というふうにも見える。しかし、本当は、複数の均衡点があるわけではない。正しくは、「均衡点が移動した」だけだ。
 すぐ前の [ 補足 ] の図(トリオモデルの図)で言えば、 乂 のところが v 型のポテンシャルの極小値となる。 乂 が移動すると、 v 型のポテンシャルの極小値も移動する。そして、二つの場所を合成すると、 乂 が二つあるように見えたり、 v 型のポテンシャルの極小値が二つあると見えたりする。
 というわけで、正しくは、「均衡点が移動する」と見るべきなのだ。にもかかわらず、それぞれの平面を合成して、「複数の均衡点がある」と見なしがちだ。そうすると、誤認して、間違った主張となるのである。
( ※ にもかかわらず、普通の経済モデルにおける「複数均衡点」というのを、考えたがる経済学者がけっこういるものだ。便利さだけを追求して、物事の核心を見失う、というタイプの秀才に多いようだ。一方、クルーグマンのような天才タイプだと、普通の経済モデルにおける「複数均衡点」というのが、とんでもないモデルとなることを、ちゃんと指摘している。 → 前出の、クルーグマンのページ。)

 [ 付記 2 ]
 古典派の難点は、どこにあるか? 
 古典派は、需給曲線の「 乂 」型のグラフを単純に信じている。そのとき、「均衡点は移動しない」と信じて、「状況は変化しない」と考えている。ゆえに、「均衡点は複数ある」ということを、理解できない。そのあげく、「均衡点に達すれば、万事解決する」と信じている。
 本当は、そうではない。不況というのは、均衡が達成されない状態ではなくて、均衡点が好ましくない位置にある状況なのだ。上の図で言えば、「好況の図」において均衡点に達せない状態ではなくて、「好況の図」のかわりに「不況の図」が成立している状況なのだ。
 だから、解決策は、「好況の図」のなかで最適の策を取ることではなくて、状況そのものを、「不況の図」から「好況の図」へと変化させることだ。そして、それは、2次元平面のなかでは解決できず、3次元目の軸の方向において解決されるのだ。

          好況  不況

             
 二つの平面       
                  → 3次元目の軸
            
状況の       \  /\  /
ポテンシャル     \/  \/

         極小値  極小値

 [ 付記 3 ]
 では、2×2の行列は、何を意味するか? 
 「好況」および「不況」については、人間行動の選択肢がある。最善の行動と、最悪の行動がある。それぞれについて、「状況のポテンシャル」を考えると、階段状になる。ただしその階段状のポテンシャルについて、段差をなくして滑らかに描くと、最適の行動は曲線ないし曲面における極小値となる。そして、その「状況のポテンシャル」を並べて描くと、 w 型のグラフとなる。
 状況のポテンシャルについては、 w 型のグラフを書ける。ここでは、均衡点(極小値)がまさしく複数ある、と見える。ただし、正確に言えば、こうだ。複数の均衡点というのは、連続的な世界における均衡点ではなくて、二つ(または複数個)の選択肢のうちのうちから選ばれた選択肢の状況としての均衡点だ。たとえば、「不況という状況における特定の経済状況」のことではなくて、「不況」という状況自体のことだ。
 だから、一方の均衡点から、他方の均衡点へ移行するには、「山を乗り越えればよい」と言えるが、それは、状況のなかを連続的にたどることによって成し遂げられるのではなくて、状況そのものを切り替えることによって成し遂げられる。グラフで言えば、「山」の部分は、「好況」の平面と「不況」の平面の中間にあたる平面の状況にあるのではなくて、これらの経済モデルの平面の並ぶところの外にある。一方の均衡点から、他方の均衡点へ移行するには、これらの経済モデルの平面の並ぶところの外をたどって、一挙にジャンプする必要がある。
 そして、その「外」の部分を通るには、かなり大きな力を必要とする。だから、「 w 型のグラフが書ける」とか、「山を乗り越える」とか、そういうふうに認識するのも、あながち見当はずれではない。というわけで、先の「二人の女の比喩」も、正確ではないとしても、まるきり間違っているわけではない。(好況の平面と不況の平面の中間に、極大値を与える平面があるわけではないが。)
 とにかく、状況のポテンシャルというのは、経済モデルにおけるポテンシャルとは別のものだ。したがって、状況のポテンシャルの極小値というのは、経済モデルにおけるポテンシャルの極小値とは別のものだ。
 経済モデルにおけるポテンシャルの極小値は、あちこちに見出されるが、それはあくまで、「均衡点の移動」として理解される。一方、状況のポテンシャルというのは、いわば、人間行動のポテンシャルである。
(……こう述べても、話はかなりわかりにくいだろう。本項の件は、話が非常に複雑になる。だから今は、詳述しない。もっと詳しい話は、「秩序理論」で説明する。)

 【 追記 】
 本項の説明は、不十分なものではあるが、それでも、ある程度のことは判明するはずだ。
 たとえば、従来の経済学では、「経済モデルにおける複数均衡点があるとき、一方の均衡点から他方の均衡点には、どうやってジャンプするか?」という問題があった。この問題については、本項の記述を読めば、かなりよく理解できるはずだ。
 具体的に言おう。不況の均衡点で安定しているときに、好況の均衡点に移行するには、どうすればいいか? ── 経済モデルのなかで、適当な経路をたどろうとしても、無駄である。つまり、少しずつ小出しの景気刺激をして、連続的に経済を変化させても、無駄である。そんなことをしても、少し変化させたあとで、また元の不況の均衡点に戻るだけだ。むしろ、状況を一挙に転換するべきだ。つまり人々の行動を、「不況下の行動」から「好況下の行動」へと、全面転換させるべきだ。それには、経済的な政策のかわりに、心理的な政策を取るべきだ。……これが不況対策の本質である。真の不況対策とは、GDPを少しずつ増大させる政策をたくさん積み上げることではなくて、人々の行動を全面的に変更させることなのである。
( ※ 現状は、どうか? 政府は「景気対策」と称して、小出しの景気刺激策をしきりにやっている。その一方で、国民の大多数は最適行動としての「消費削減」「投資削減」という行動を取る。こんな状況では、小出しの景気刺激策をいくらたくさん積み上げても、まったく効果はないのである。これまで政府は、「住宅投資減税」「設備投資減税」「先端産業への補助金」「公共事業」など、たくさんの施策を出してきたが、そのすべては、まったく無効なのである。……山が低いときは、小さな力でも山を乗り越えられる。しかし山が高いときは、小さい力を何度も何度も発揮しても、元の谷底に戻るだけなのだ。人々の行動を全面的に変更させる力をもたない限り、何をやっても無効なのだ。)

 [ 余談 ]
 本項の話に似た話として、「投機」の理論がある。株式や小豆などの投機で、価格はいかに決まるか、という理論だ。(現在の需給の均衡ではなく、将来の需給の均衡を扱う。)
 古典派の理論によれば、均衡点は一つだけある。放置すれば、自然に最適の値に落ち着く。だから、何も介入しないのがベストの策だ、ということになる。
 ケインズの理論によれば、人々の思惑が影響する。「上がる」と思えば、人々は「買い」に走るので、ますます上がる。「下がる」と思えば、人々は「売り」に走るので、ますます下がる。
 さて。ケインズの理論によれば、均衡点は、どうなるか? 簡単に見ると、「いっせい売り」の場合の均衡点と、「いっせい買い」の場合の均衡点との、二つの均衡点があるように見える。そこで「複数均衡点」と主張する経済学者も多いようだ。
 しかし、私の先の説明を思い出そう。ここでは、「一つの状況では、一つの均衡点がある」となる。「一つの状況で、複数の均衡点がある」のではない。そして、状況がどちらになるかを決めるのは、人々の「心理」なのである。
 ケインズは、「他の人々がどう思うかが肝心だ」と考えて、投機を「美人投票」にたとえた。「どう思うか」という心理に着目したという点では、ケインズはまさに慧眼であった。ただし、それだけでは十分ではない。「人々の心理が状況を左右する」という点が決定的に重要なのだ。そして、状況が決まると、均衡点がどこに位置するかが決まるのである。
 人々は、「複数の均衡点から、どれを選ぶかを決める」のではない。「複数の状況から、どれを選ぶかを決める」のだ。── こういう違いを、はっきりと区別しよう。
( ※ 以上においては、「均衡点」というのは、モデルにおける均衡点のことを言う。モデルにおける均衡点は、状況ごとに一つだけ決まる。人々が、複数の状況から一つの状況を選ぶと、その状況ごとに、モデルにおける均衡点が自動的に決まるわけだ。)
( ※ 人々は、あくまで状況を選んでいるのであって、均衡点を選んでいるのではない。ここを混同しないように、注意しよう。たとえば、不況においては、人々は「不況における最適行動を取ろう」というふうに状況を選んでいるだけだが、その結果、モデルの均衡点として縮小均衡の点が選ばれてしまうわけだ。人々は、あえて不況となる均衡点を選んでいるわけではないのだが、不況となる状況[最適行動]を選んだ時点で、知らず知らず不況となる均衡点を選んでしまっているのだ。……つまり、ここでは、「意図せざる結果」を招いているわけだ。そういう事実を、正しい理論は教えてくれる。)
( ※ 「意図せざる結果を招く」という現象は、「合成の誤謬」という用語でも説明される。 → 2月17日
( ※ 「最適行動を取ると、縮小均衡の点に近づく」ということについては、「縮小均衡」という概念で、前に何度か述べた。 → 9月27日b 以降。 )
( ※ 「好況」および「不況」という状況は、経済モデルではどう示されるか? それについては、すでに述べた通りだ。すなわち、修正ケインズモデルでは「限界消費性向が 0.8 」および「限界消費性向が 0.7 」という直線で示される。両者の根本的な違いは、「下限均衡点割れ」がないか・あるかだ。それに応じて、トリオモデルでは、「下限直線割れ」がないか・あるかという差が出る。 → 9月11日b 以降。特に、9月15日 。)


● ニュースと感想  (11月28日c)

 【 告知 】
 「ユニバーサル・モデル」という用語は、「トリオモデル」という用語に変更しました。
 既存の文書中でも、この語句を一括置換しました。






   《 翌日のページへ 》





「小泉の波立ち」
   表紙ページへ戻る   

(C) Hisashi Nando. All rights reserved.
inserted by FC2 system