[付録] ニュースと感想 (92)

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● ニュースと感想  (7月26日)

 「テロ対策」について。
 イギリスやエジプトでテロの爆弾があった。これを受けて、ニューヨークの地下鉄では、テロ対策として、乗客の手荷物チェックが行なわれているという。( → ロイター
 これでテロ対策をしているつもりなんだから、呆れるね。なるほど、地下鉄でチェックすれば、地下鉄ではテロがなくなるかもしれない。しかし、その分、他の場所に移るだけのことだ。デパートとか、駅構内とか。また、ニューヨークのかわりに、他の都市の鉄道が狙われるかもしれない。

 「部分で改善すれば、全体も改善される」
 というのは古典派の発想だが、残念ながら、そうは行かない。
 「あっちが窪めば、こっちが出っぱる」
 というふうになって、全体の総和は変わらないこともある。経済やテロは、そうだ。ここでは、個別対策ではなくて、全体対策が大切なのだ。
 一つ一つのテロを個別に予防しようとしても、その個別の場所でテロがなくなるだけだ。そこで窪んだ分、別のところで出っぱるだけだ。

 こういうことがわからない発想を、「底抜け」と呼ぶ。テロ対策であれ、マクロ経済対策であれ、保守派や古典派というものは、常にその対策が「底抜け」である。なぜ? 「部分を見て、全体を見ない」という発想を取るからだ。マクロ的な発想がないからだ。……万事、この調子。

 [ 付記 ]
 トンチンカンな例として、朝日の社説を掲げておこう。「中東テロ 何が憎しみを生むのか」という標題で、こう述べている。(朝日・朝刊・社説 2005-07-24 )
 「無差別テロがまた起きたことに強い憤りを覚える。」
 「犯人グループの動機はまだ分からない。」
 「こうした残虐なテロが続く背景には、さまざまな要因が絡んでいると見るべきだろう。パレスチナ問題、米英主導のイラク戦争、中東諸国の民主化の遅れ、経済格差、欧米に対する劣等感。」
 ここにあるのは、ひどい人種差別だ。あるいは、優越感だ。( → 7月09日b ) この社説が言いたいことは、こうだ。
 「われわれは先進国の人間であるから、テロによる被害には、ひどい悲しみと憤りを覚える。しかし、彼らテロリストは、後進国の人間であるから、人間的な悲しみや憤りなんかはない。彼らは単に、損得尽くで計算しているだけだ。たぶん、先進国を恐怖のどん底に突き落としたいという、愉快犯だろう」
 こういう人種差別が根底にある。そして、その人種差別をなくせば、真実がわかる。真実とは? 「彼らもまた、われわれと同じ人間だ」ということだ。われわれがテロによって悲しみを感じるように、彼らもまた自国民を殺されたことに悲しみを感じる。それが「復讎」という形で、テロになっただけだ。
 朝日は「何が憎しみを生むのか」「犯人グループの動機はまだ分からない」と書く。この愚かな新聞社のために、私が正解を教えよう。正解は、こうだ。
 「憎しみを生むのは、悲しみだ」
 「犯人の動機は、悲しみだ」
 悲しみとは、自国民を殺される悲しみだ。今でも毎日、イラクやパレスチナでは、アラブ人が殺されている。ロンドンで死者が出れば大ニュースになるが、イラクやパレスチナで死者が出ても当たり前すぎてニュースにならない。
 自分の悲しみなら理解できるが、他人の悲しみは理解できない。……そういう傲慢な体質が、今、われわれに悲しみを味わわせる状況を生んでいるのだ。
 テロリストに対して、「どういう方法で対処すべきか?」と質問するのなら、その質問自体が間違っている、と答えよう。なすべきことは、テロリストに対処することではない。相手の悲しみを理解することだ。
 彼らが狙っているものを間違えてはならない。彼らが狙っているのは、先進国民を恐怖のどん底に陥れることではない。われわれにも、彼らと同じ悲しみを味わわせることだ。そして、われわれが、テロに直面して、憤りばかりを感じていて、人間的な悲しみを忘れている限り、テロの問題はいつまでも解決しないのだ。なぜなら、それは、人間の根源としての生死の問題を、ただの政治の問題に転換してしまうからだ。
 人の生命は重い。生命は政治で扱われるべきものではない。なのに、そこを勘違いして、生命を政治の道具にしている。だから、いつまでたっても、人々の生命は政府にもてあそばれることになるのだ。


● ニュースと感想  (7月26日b)

 「地震とエレベーター」について。
 地震でエレベーターに閉じ込められた人が多いという。3時間も密閉されたり。で、「規模が大きくなると、止まるエレベーターが多くなりすぎて、管理会社の手に負えなくなる」ということだ。(朝日・朝刊 2005-07-24 )
 やばいですねえ。夏なら、脱水症状。冬なら、凍える。小便や大便を漏らす人も出てくる。エレベーターが満員だったりしたら、地獄のありさまだ。
 では、その理由は? 
 「地震が起こったら、エレベーターが自動的にストップする」
 という機構を整えたのはいいが、
 「地震が収まったら、エレベーターのストップを解除する」
 という機構が備わっていないからだ。本来なら、エレベーターの内部に、その機構を備えるべきである。あるいは、自動的に解除される機構を備えるべきだ。自動解除のタイム設定は、30分後。何もしなければ、その時点で解除される。
 それでは危険か? もしかしたら、エレベーターが異常を起こしている危険があるか? あるかもしれない。だとしたら、近くの階に降りて、そこで客を降ろすようにすればいい。
 とにかく、「自動停止したまま缶詰」なんてことにしておくと、地震のときに、確実に死者が出る。エレベーターの動く危険よりも、動かない危険の方が、ずっとやばい。
 エレベーター会社の言い分。
 「エレベーターが動いて死者が出ると当社の責任ですが、エレベーターが動かないで健康を害して死者が出ても当社の責任ではありません」
 いやですねえ。みなさん、地震になったら、エレベーターから自力で脱出する工夫をするしかないかも。二人で肩車して、エレベーターの天井を開けてから、くさりをたどって、上部の階に脱出する。そこで扉を強引に力ずくで開ける。
 映画では良くあります。……実際にやる気にはなれないが。 (^^);

 [ 付記 ]
 これを書いたあとで気づいたが、朝日の社説にも、似た趣旨の話が掲載されている。25日の朝刊。


● ニュースと感想  (7月27日)

 「朝日とNHKの対立」について。
 朝日とNHKの対立は、半年ほど前にあったが、朝日が今になって検証記事を掲げている。(朝刊・特集 2005-07-25 )
 この件は、私も前に何度か取り上げたことがある。( → 1月29日b など。)
 今回の記事は、おおむね、政治家の圧力があったことを推定させるものだ。ここで、改めて、私の立場をはっきりと明示しておこう。

 私は日ごろ、朝日の批判をするが、それは、朝日が嫌いだからではないし、朝日が左翼がかっているからでもない。(だいたい、朝日はちっとも左翼がかっていない。右翼である人が、自分が中央だと思うから、中央にいるのが、左翼に見えるだけだ。自分の偏向を、他人の偏向のせいにしているだけだ。)
 私が朝日を批判するのは、朝日が権力的・保守的である場合に限られる。朝日がマスコミとして何を言おうが、それは、マスコミの言論の自由・報道の自由だから、私はこれを批判しない。
 ところが、ネットにいる一部の人々は、「朝日は左翼がかっている」と非難する。どういう気なんだか。そもそも、「左翼がかっている」ということは、政治の自由や表現の自由を認めている国では、ちっとも悪いことではない。なのに、「左翼がかっている」と非難している連中は、日本を強権独裁の専制国家(異端の意見を認めない国)にしたがっているのだろう。
 私が朝日を批判するのは、それとは逆の場合だ。朝日それ自体が強権独裁の専制体質である場合だ。ここを勘違いしてはならない。

 ここで、話をNHK問題に移そう。
 NHK問題では、ネットに棲息する右翼連中が、「朝日はけしからん、いい加減だ」と非難している。
 さて。仮にそれが事実だったとしても、そんな非難なら、自民党がしきりにやっていることだ。自民党に任せておけばいい。世間の連中が自民党の肩を持つ必要など、さらさらない。黙っていればいいだけだ。(黙っていられないんでしょうけどね。さもしいね。)
 一方、それが事実でなかったなら、どうか? その場合は、NHKや自民党が間違いで、朝日が正しかったことになる。しかも、この場合は、真実を報道した一部のマスコミが、政府その他から弾圧されていることになる。そして、その「真実の報道を弾圧する政府権力」の尻馬に乗っているのがさもしい右翼連中なのだ。

 こういう連中は、「政府の言論弾圧」という事実を、ちっとも理解しないのだろう。今回のNHK事件の本質は、「政府の言論弾圧」である。政治家が、気に食わない番組を作ったNHKを弾圧して、放送を停止させ、それをいったん認めたあとで、「やばい」と思って言葉をひるがえし、関係者同士で口裏を合わせる。そして、「その場には、二人しかいなかったから、証拠はないもんね。口裏合わせをすれば、真実が虚偽になり、虚偽が真実になる」という方針を立てる。
 で、その方針に乗って、さもしい連中が、「朝日は証拠がないのに報道した。デタラメ報道だ。真実だというのなら証拠を出せ」と騒ぐわけだ。……まったくもって、腹黒い二人の悪巧みにはまっている。
 たとえば、読売は、26日の社説でも、しきりに朝日を攻撃している。口裏合わせをしたので、物証はないが、「物証はないのがけしからん、物証を出せ」としきりに攻撃する。「物証がなければ報道するな」とも言う。「NHKの幹部が自民党の幹部に会って、その直後に、番組の方針が転換した」という事実があるのに、あくまで「NHKの自主的な転換だ」と主張して、「政治家の圧力などはなかった。物証がないのだから、圧力はなかった」と主張する。……かくて、自分が新聞社であるのに、同業の新聞社への弾圧を、しきりに擁護する。いじきたない。さもしい。マスコミとして、最低ですね。
 というわけで、こういう最低のマスコミ連中を批判するために、小泉の波立ちがあるわけだ。「言論の自由を守れ。政府の弾圧に対抗せよ」と。
 私のポリシーは、反マスコミでもないし、反朝日でもない。反権力や、反常識だ。そして、その目的は、「真実をめざすこと」、ただそれだけだ。

 [ 付記 ]
 言葉を誤解する新聞社のために、忠告しておこう。言葉の実質は、物ではない。自動車やパソコンならば、実質は物だ。しかし言葉の実質は、音声としての空気振動でもないし、紙の上のインクでもないし、パソコン画面の電気の強弱でもない。言葉の実質は、物ではなくて、言葉が言葉として機能することである。それは、語り手と聞き手とが、感覚を通じて意思を通じあえばいい。── ここに記号というものの本質がある。
 読売新聞は、「物として残らなければ、その物はなかったのだ」と主張する。しかしそれは、言葉というものの本質を、誤解している。人の話した声は、決して物としては残らない。(録音されない限りはそうだ。)しかし、たとえ瞬間的に消える音声も、その瞬間には生きて存在しているのだ。「存在しない」と主張するのは間違いだ。
 言葉というものは、瞬間的に消滅するがゆえに、瞬間的に発生させることも可能だ。パソコンや自動車は、瞬間的に消滅することがないゆえに、瞬間的に発生させることも不可能だ。── 言葉と物とは異なる。言葉には言葉に特有の特徴がある。その特徴を理解しない限り、言葉を扱う資格はない。
 読売新聞社には、マスコミとしての資格がないのだ。彼らのやっていることは、言論の擁護ではなくて、言論の弾圧に賛同することだけだ。こんな会社は、有害無益であるから、さっさとつぶれた方がいい。さもないと、日本は専制国家となり、言論の自由が消えてなくなる。フセイン体制や江沢民体制のように。(ま、ナベツネ体制だから、同じことか。)

  【 追記 】 ( 2005-07-28 )
 私が上記で述べたことの趣旨は、「朝日が全面的に正しい」ということではない。朝日の主張にはおかしなところがあるし、そもそも取材者が変な先入見を持って、一方的な思い込みで取材した、という難点もある。この難点は、あちこちで朝日批判の声が上がっているとおりだ。
 私が本項で述べたことの趣旨は、「朝日と自民・NHK連合のどちらが正しいか」ということではない。今回の個別の事情を離れて、「言論の自由を守れ」ということだ。
 今回の事件より、いっそう広く目を向けよう。NHKと政府とは、どういう関係にあるか? NHKはふだん、「政府権力のチェック機関」という、マスコミの使命を果たしているか? 違う。「政府権力の宣伝者」という、逆の目的のために仕事をしている。
 若い人にはわからないかもしれないが、20年〜30年前には、NHKは「政府権力のチェック機関」という、マスコミの使命を果たしていた。政府が何かを言えば、その問題点を掲げて、批判の目を向けた。だからこそ、視聴者は「報道の独立」を守るために、けっこう高額のNHK視聴料を払ってきたのだ。(昔の人にとってはけっこうな負担だった。)
 ところが、今や、どうか。NHKは、政府批判の報道など、ほとんどやらない。政府の宣伝ばかりやっている。「小泉がこういう方針を立てました」というニュースなら山のように出るが、野党の批判は追いやられるし、そもそも、NHK自体に、批判の意識がない。「政府の発表を9割、野党の批判を付け足しで1割」という形で報道して、それを「公正な報道」と称している。二つの対立する馬鹿意見を並べるだけで、利口の意見などこれっぽっちも報道しない。
 たとえば、今では、政治番組を見たければ、民放で見るしかない。ひところなら久米宏の「ニュースステーション」があったし、今でも政治討論の形の政治番組もある。ところが、民放にはあっても、NHKにはない。なぜか? NHKは完全に、権力の手先になり下がったからだ。
 NHKはいつでもどこでも、政府のご意見伺いをしなくてはならない。というのも、予算やら何やらで、政府の許可を得ないとできない仕組みになっているからだ。組織そのものが「政府の手下」であるから、報道もまた「政府の手下」となる。
 で、こういうふうに「権力の犬」になった報道機関を、私は日ごろ、ずっと批判しているわけだ。で、朝日にも、変な狂犬みたいな記者がいるので、NHKという犬に噛みついた。ただし、その噛みつき方が、いかにも狂犬らしくて、メチャクチャな噛みつき方だった。そこで、世間にいる右翼たちが、「朝日という左翼犬は、狂犬だ。こんなやつはデタラメだ」と非難する。
 私もまあ、朝日というのは狂犬だ、とは思う。しかし、この狂犬は、政府に噛みついたのであって、民衆に噛みついたのではない。そこを理解しよう。
 なのに、自分は正義だと自惚れている人々が、「この狂犬は間違っている」としきりに主張する。あげく、正義を主張しているつもりで、政府の手先となり下がっている。正しいことを主張すればするほど、政府による言論弾圧に与するということを見失って、ただ狭い「NHK 対 朝日」という対立だけに目を奪われる。
 だから私は「広い目をもて」と主張するのだ。問題は、「NHK 対 朝日」ではない。「言論の自由」を守るか弾圧するかなのだ。

( ※ そもそも、「NHKが権力の手先に成り下がっている」ということにすら気づかないところに、保守派の人々の倒錯がある。……では、なぜ? 「自分自身が権力の手先に成り下がっている」ということに気づかないから。保守派の人々は、政府には弾圧されないから、日本は自由だと勘違いする。)
( ※ だいたい、朝日と政府が喧嘩したら、力の差は圧倒的である。仮に朝日が間違っていると思うのであれば、傍観していればいい。弱い者いじめなんかをする必要は、さらさらない。なのに、保守派はこぞって、弱いものいじめをする。読売を含めて、世間でよってたかって、たった一つのマスコミを大批判する。……大政翼賛会ですかね。これが日本の現状だ。惨憺たるありさま。言論の自由を破壊するのは、政府ではなくて、マスコミなのだ。政府批判を少しでもやれば、日本中でよってたかって、押しつぶそうとする。)
( ※ そういえば、似たことは、前にもあった。イラク人質事件だ。たった三人に対して、日本中で、狂気になって、攻撃を加えた。政府が個人攻撃をするという異常さもさることながら、政府に賛同した多大な人々が尻馬に乗って個人攻撃をした。……それに似ている。狂気としか言いようがないですね。どうしてまた、そんなに弱者いじめが好きなんだか。私だけは「弱者いじめは駄目だ」と主張するが、そのうち私も、「弱者いじめ」に合いそうだ。しかし、それでも、私はあえて政府と世間に批判の槍を向ける。言葉の槍で。決して、沈黙はしない。……沈黙はしないというところに、言論の自由がある。)
( ※ 言論の自由は、日本にはある。一応は。……ただし、中国には、ない。政府批判は一切許されないし、マスコミが政府批判を書けば取りつぶされる。日本のマスコミ連中は、そういう中国を批判するが、その一方で、日本を中国のようにしたがっているのだ。狂気。)
( ※ とにかく、朝日批判をする人々は、朝日の記事がどうのこうのというより、まず、NHKの現状をはっきりと認識するべきだ。「もはや政府の宣伝(CM)しかしないくせに、受信料を巻き上げる」というNHKの現状を。そして、この現状をさらに推進しようとしているのが、保守派の連中だ。どうしても日本を、中国のようにしたいらしい。)

 [ 付記 ]
 なお、話をわかりやすくするために、次の設問を出しておく。
 「朝日は誤報を許されるか?」
 たいていの人は、「許されない」と主張する。私は、「許される」と主張する。なぜか? 「許されない」のだとすれば、「言論弾圧」になるからだ。誤報であるかどうかは、読者や他のマスコミが検証すればいい。間違いであるなら間違いであると主張すればいい。ところが、読売は、どうか?
 「朝日は完全に正しいと主張しなかったから、駄目だ。だったら黙っていろ」
 つまり、「間違いであれば報道は許されない」という立場だ。これは言論弾圧である。だからこそ、私は、こう主張する。
 「間違いであれ何であれ、言論の自由はある」
 と。間違いか否かということと、意見を出すか否かなとは、別のことなのだ。「朝日の記事はこれこれがおかしい」と指摘するのは構わないが、「朝日の記事は間違っているから、朝日を攻撃してやれ」というような政略は、断じておかしいのだ。
 これがつまり、「言論の自由」を重視する私の指摘したいことだ。なお、キャッチフレーズふうに一言でまとえれば、こうなる。
 「注意すべきことは、間違いが報道されることではなくて、真実が報道されないことだ。
 報道された間違いは目に触れるが、報道されなかった真実は目に触れない。人は目に見えるものばかりに着目するが、目に触れなかったものの方が大切なのだ。
 保守派の人々はしきりに、朝日の記事のテープレコーダーや珊瑚事件のナイフなどを問題にする。しかし、そんな些末なことなど、どうでもいい。大事なのは、もっと巨大なことだ。
 たとえば、NHKの記事全体が政府寄りに歪むという巨大な偏向や、日本全体が不況によって何百兆円の巨額の金が奪われているということだ。……なのに、こういう巨大な真実に目を向けない保守派が、テープレコーダーやらナイフやら、些末なことばかりを問題視する。
 論点のすり替え。めくらまし。これは、小泉のお得意のテクニックだが、それにだまされる人々が、たくさんいる。

 教訓。
 殺人という大罪を犯した人は、立ち小便のような微罪を告白するべし。そうすれば、愚かな人々は、大罪を見逃してくれる。
 よその女性と本格的な浮気をした夫は、キャバクラ遊びのような微罪を告白するべし。そうすれば、けなげな妻は、大罪を見逃してくれる。(いや、女性は、そんなに甘くないかも。まんまと欺かれるのは、自分は利口だと思い込んでいる保守派の男だけかも。)


● ニュースと感想  (7月27日b)

 「談合と摘発」について。
 道路公団の談合が摘発され、副総裁が逮捕された。人々は「けしからん」と憤慨している。だが、ことの核心を、人々は見失っているようだ。
 そもそも、談合というものは、何十年も前からずっと続いている。数限りなく行なわれており、公共事業では談合が原則だ。自由競争の方が例外である。だから、談合の問題は、「例外的に見つかった談合事件はけしからん」と憤慨することではなくて、「日常的になされている談合事件を摘発できないのはなぜか?」と考察することだ。
 では、あらためて問おう。「日常的になされている談合事件を摘発できないのはなぜか?」と。
 通常ならば、犯罪には、証拠で対応する。ところが、談合には、証拠はない。ただの意思の問題であるから、関係者の証言しか得られない。物はなく、心だけがある。
 こういうふうに「物的証拠のない犯罪」において、「口裏合わせ」が行なわれると、犯罪というものは露見しにくい。── ここに本質があるのだ。
 こういうふうに露見しにくい犯罪を摘発するには、検察の強権的な摘発が必要だ。強権的な摘発によって、関係者の一方の「口裏合わせ」を打破し、真実を露見させる。……もちろん、そのためには、傍証となる物的証拠は必要だが、傍証はあくまで傍証でしかない。決定的なのは、関係者の一方が「口裏合わせ」をやめて真実を告白することだ。

 さて。ここで、話をひろげよう。関係者が「口裏合わせ」をして偽証することは、談合以外にもある。前項 の問題(NHK問題)がそうだ。
 このような場合、「口裏合わせ」による偽証を、どう扱うべきか? 「物証がないから、容疑者を無罪にする」と見なすべきか? 「たとえ物証がなくても、口裏合わせをする前には事実を証言していたから、その証言を重視する」というふうにするべきか? 
 よく考えよう。二つの問題は、本質的には同じである。「口裏合わせ」による「事実の隠蔽」を、容認するかどうか、ということだ。……しかしながら、多くの人々は、このことを理解しない。「口裏合わせ」による「事実の隠蔽」を、あるときは是認し、あるときは非難する。そこには態度の矛盾がある。
( → 前項 のNHK問題)


● ニュースと感想  (7月28日+)

 「朝日とNHKの対立」についての追記
    → 該当箇所


● ニュースと感想  (7月28日)

 「ブログとデータベース」について。
 ブログをメモ帳代わりにして、知識のデータベースを作ることができる。たとえば、Openブログがそうだ。詳細は、該当項目を参照。

  → Open ブログ  ( 07月26日 〜 27日 )


● ニュースと感想  (7月29日)

 「言論の多様性」について。
 7月27日およびその追記では、「報道の自由」を話題にした。
 そもそも、報道の自由が大切なのは、なぜか? それは、真実を隠蔽せずに明かすためだ。では、そのためには、何が大切か? 
 それは、「言論の多様性」だ。換言すれば、「白一色」とか「赤一色」のような、一色でべったりと塗りつぶすような専制的な報道体制を排除することだ。

 このことの例の一つとして、(またしてもだが)靖国の問題を取り上げよう。
 最近、「自虐史観」などの言葉で、日本の加害責任をあげつらう史観を否定する勢力が優勢だ。読売・サンケイのような保守派のマスコミを代表として、あちこちにわんさと繁殖している。
 このことは、実は、かなり最近のことだ。以前は、社会党や朝日が「加害責任」を唱えて、保守派は黙っていた。ただし、これはあまりにも偏向した史観であったため、小林よしのりの政治漫画や、保守派の「国民の歴史」という著作などをきっかけにして、社会党や朝日の偏向した意見は劣勢になっていった。

 ここまでの経過では、私は、小林よしのりの言論活動を、高く評価する。なぜならそれは、「左翼べったり」という一面的な史観を排除し、歴史に多様な視点を持ち込んだからだ。「左翼べったり」の史観が、いかに事実の錯誤に基づいていたかを、小林は赤裸々に暴露した。これは、「弱者が巨大なマスコミに立ち向かう」というふうに、ドンキホーテ的な行動ではあったが、それゆえ、私はその勇気を高く評価したい。
 しかるに、最近では、違う。もはや朝日流の史観は、劣勢である。小泉や小林の史観の方が優勢だ。とすれば、小林が自説を主張すれば主張するほど、「多数派へのアンチテーゼ」にはならず、「多数派による少数派の迫害」に与していることになる。
 小林は最新号の月刊「SAPIO」では、東条英機などの戦犯を擁護している。彼らを「歴史の流れに抗せなかった犠牲者である」という視点に立ち、「誰がやっても、他の道は取れなかった」と弁護している。
 しかし、そうか。なるほど、そういう解釈も、取れなくはない。そういう半面もある。とはいえ、それは、物事の半面にすぎない。ただそれだけを見て、他の半面を無視するのでは、「言論の多様性」が失われてしまう。
 「日本の加害責任を反省せよ」という意見が圧倒的であった時代なら、A級戦犯を擁護するのはいい。それは、赤一色の言論に対するアンチテーゼだ。
 しかし、首相がA級戦犯を擁護して、靖国参拝をする時代には、それは、白一色の言論への賛同であり、言論の多様化に反するのだ。
 A級戦犯を擁護するのは、政府・自民党・保守派の意見だ。そういう体制派のために、漫画家が弁護するのでは、何をかいわんや。漫画家というものは、在野にあって権力に向かって吠えるところに、意義がある。権力の犬になるのでは、漫画家の資格がない。仮に、小林がそういう意見をもつのであれば、漫画家としての倫理ゆえに、政府擁護の口を閉じるべきだったのだ。「政府は正しい」と思うのであれば、政府を擁護するのではなくて、口を閉じるべきなのだ。政府が国民を弾圧するときに、「そうです、そうです」とシッポを振るのではなくて、せめて口を閉じるべきなのだ。それが漫画家の倫理だ。(貴乃花じゃないんだから、下らないことをペラペラとしゃべらないでほしいものだ。口をふさげ、と言ってやりたいね。)

 なお、それとは別に、小林の意見には、おかしいところがある。それは、権力者の結果責任だ。
 A級戦犯を「歴史の流れに抗せなかった犠牲者である」という視点に立ち、「誰がやっても、他の道は取れなかった」と弁護するのは、それはまあ、ある程度は成立しなくもないだろう。しかし、権力者だけは、それが免責されないのだ。
 わかりやすく言おう。当時、海軍や陸軍には、末端の下級兵だけでなく、上級の士官がいた。少尉や少佐などがいた。彼らもまた、軍の上層として、軍の行動への責任があった。……とはいえ、これらを「戦犯」と処刑するのには、私は反対だ。その理由は、小林が述べた理由と同じだ。実際、戦勝国の士官は処刑されないのだから、敗戦国の士官が処刑されないのも当然だ。(現実には海外ではけっこう処刑されたが。)
 一方、A級戦犯は違う。彼らは最上位の権力者だった。「戦争中止の道を取れたか取れなかった」が問題なのではない。「戦争中止の道を取ろうとしなかった」ことが問題なのだ。なぜなら、戦争中止の権限をもつのは、彼らだけだったからだ。
 小林は「原爆が落とされるまでは日本は戦争を中止することができなかった」と主張するが、これは、事実認識を、根本的に間違っている。日本は原爆が落とされるよりもずっと前に、戦争を中止することができた。いつでもどこでも、戦争を中止することができた。「降伏」という形で。実際、1年早く降伏していれば、被害はずっと少なくて済んだはずだ。さらには、ポツダム宣言を受諾するとき、「国体の護持」という余計な注文を付けたせいで、降伏の時期が2カ月かそこら遅れた。そのせいで、ソ連が参戦し、原爆が落とされた。千島列島(これは正当な日本の領土であった)を失い、広島や長崎では一般市民が虐殺された。……その責任のすべては、当時の権力者にある。なのに、権力者が自分のなしたことの責任を取らないで、いったい誰が責任を取るのか。
 権力に阿諛追従する小林は、しきりに、権力者の責任を免じようとしている。冗談ではない。最高権力者が、自己の行動の結果責任を負わないというのは、あまりにも無責任にすぎる。
 ひるがえって、阿南惟幾陸相の自害したときの、「一死を以て、大罪を謝し奉る」という言葉を思い浮かべるがいい。これこそ「責任感」というものだ。
 あるいは、米内光政の行動を思い浮かべるがいい。(彼は、日中戦争に対しては不拡大論を唱え、日独伊三国同盟締結には批判的であった。さらに、戦時中にも、この方針から、軍部の戦争拡大方針には批判的だった。)
 権力者は、歴史の流れのなかで、一人ですべてを変えることはできないが、とはいえ、たとえ一人でも、できることはあるし、できることをなすべきなのだ。百分の一しか力をもっていないとしても、百分の一の務めを果たすべきなのだ。それをわきまえない無責任連中が百人集まると、その結果が、先の途方もない大失敗だ。
 「歴史には何も逆らえません」と弁解の言葉は、たしかに成立するが、それが成立するのは、末端の国民であって、最高権力者ではないのだ。

 マスコミは、最高権力者の犬になってはならない。小林のように、権力者の弁護と免責ばかりする、権力者の犬になってはならない。言論の世界では、意見の多様性が必要だし、多数派に逆らうゴーマニズムが必要なのだ。あらゆるマスコミが、読売や小林のように政府の犬に成り下がってしまっては、日本はふたたび暗黒の道を進みかねない。
 なぜか? 言論の自由のない国は、戦争の道をたどるのが当然だからだ。なぜなら、政府が「お国のために戦おう。靖国にまつられるために戦死しよう」と国民を煽動したとき、読売や小林のような政府べったりのおかかえ野郎ばかりが口を出し、私のような異端の人間は口を出せなくなるからだ。

 [ 付記1 ]
 実際、日本があの大戦をおっぱじめたのも、当時、言論の自由がなかったからだ。当時の人間の証言がある。引用しよう。
 国民にも戦争責任があると主張するためには、その国の言論の自由が完全に保証されていなければならない。戦争を始める前の日本には、そんな状況はなかった。特高警察が「危険思想」の持ち主を洗いざらい逮捕して戦争反対の声を圧殺していたのである。
 加えて軍部の尻馬に乗る跳ね上がりの「愛国者」たちが、少しでも政府を批判するものがあれば「非国民」だの「アカ」だのと言って、よってたかって迫害していたのだ。
 開戦直前の日米会談で、アメリカは日本に中国から撤兵することを求めた。当時中学生だった私ですら、ひそかに政府がアメリカの要求を呑めばいいのにと思っていた。が、同時に、そんなことを公言しようものなら「皇軍兵士が尊い血を流した占領地を放棄しろというのか」と皆から袋叩きにされるだろうことも想像していた。
 あのころには、「同胞の血を流した土地」という言葉が、護符のような力を持っていたのである。
 だから、軍部に批判的だった多くの国民も、日本に生まれついた以上は、政府のやることをただ黙って受け入れるしかないのだと、一種運命論的な諦めを抱いていたのだ。
 戦争責任を負わなければならないのは、国民の口を封じていた政府当局者たちである。葉書一枚で招集され、否応なく戦地に送り出された無力な国民に責任があるはずはない。
 ( → 引用元のサイト
 [ 付記2 ]
 小泉は小林はやたらと「戦争はカッコかった、兵士はカッコ良かった」と宣伝するが、現実の兵士の状況は、悲惨なものだった。敵と戦って死ぬ前に、先輩に殴り殺されることさえ日常茶飯だった。
  → 当時の体験記
 というわけで、小泉や小林に洗脳されないように、注意しましょう。彼らはしきりに一面的な意見を押しつけて、他の意見を抹殺しようとするが、物事は、多様に見るべきなのだ。
 私は、小泉や小林の意見が、まったくの誤りだとはいわない。朝日ふうの左翼的な洗脳意見に対するアンチテーゼとしてなら、大きな意味があると思う。しかし、保守派が自分の意見を押しつけて、他の意見を圧殺しようとするのであれば、私は断固として異を立てる。「物事はそんなに単純じゃないぞ。一面的に見るな。他の面を見よ」と。
 言論において大切なのは、飼い犬の精神ではなく、天の邪鬼の精神なのだ。


● ニュースと感想  (7月30日)

 「言論の多様性」について。続き。
 前項の続きとなる話。二つに分けて記す。

 (1) 言論機関の倫理
 言論機関の倫理という面から、朝日を批判する意見もある。
 「間違った記事を載せたら、訂正報道や謝罪文を載せる必要がある」
 というふうに。なるほど、それはそうだ。実は、これと同じ主張は、私は前に何度か述べたこともある。だから、その意見には、私は賛同する。
 ただし、誤解してほしくないが、私は別に今回の件で、朝日を「正しい」「頭を下げなくていい」と弁護しているわけではない。どうも世間では、「敵か味方か」という解釈が多いようだが、私は別に、朝日の飼い犬じゃない。
 私が問題にしているのは、朝日の態度ではなくて、朝日以外の他社の態度だ。だいたい、多くの社がこぞって「朝日いじめ」をしているときに、私がその「朝日いじめ」の輪に連なって、朝日に石を投げる必要はない。そんなことをするのは、私の趣味ではない。正しいかどうかということ以前の問題だ。
 そもそも、朝日が頭を下げるかどうかなんて小さなことは、私の関心にはない。訂正報道や謝罪文を載せようが載せまいが、そんなことはどっちでもいい。保守派ならば、朝日に頭を下げさせて、「勝ったぞ」と溜飲を下げるだろうが、私はそんな態度は取らない。勝ち負けなんか、どうでもいい。
 私が話題にしているのは、何か? それをはっきりと理解してほしい。小さな問題に目を奪われると、大きな問題から目を逸らされる。
 特に、大部分の人が意識的に目を逸らしていることがある。それをもう一度、はっきりと指摘しておく。それは、こうだ。
 「NHKは、ただの国営放送にすぎない。しかも、金だけは、民営化されている。最悪だ。」
 NHKが自民党の広報機関にすぎない、という点が、一番問題なのだ。朝日が頭を下げるとか何とか考えている人は、頭が完全に洗脳されてしまっている。そういう連中は、北朝鮮に行けば、「偉大なる首領様」と叫ぶに決まっている。そして、北朝鮮で反政府活動をする人がいて、ちょっとでも誤報をすると、大騒ぎで弾圧するのだ。
 私が問題にしているのは、朝日以外の他社の態度だ。政府がNHKを国営放送にしようとして、朝日だけがそれに異を立てた。他社はみんな政府の飼い犬だから、朝日が噛みつくと、「その噛みつき方は正しくない」と非難する。
 なるほど、朝日の噛みつき方は、正しくなかった。しかし、そもそも政府に噛みつこうとすらしない飼い犬どもには、そんなことを主張する資格はないのだ。なすべきことは、「その噛みつき方は正しくない」と朝日を非難することではなくて、別の仕方で政府に噛みつくことだ。それもできない連中は、政府に頭を撫でてもらって、キャンキャンと喜んでいればいいのだ。

 (2) 心理的な圧力の有無
 この件では、朝日を批判するサイトもあちこちにあるので、けっこう読んでみたが、どうやら根本的に事実を誤認しているようだ。その趣旨は、こうだ。
 「当事者である与党幹部とNHK幹部はどちらも『圧力はなかった』と否定している。当事者が語っているのだから、それが事実である。朝日はそれをくつがえす根拠を持っていない。ゆえに朝日の報道は虚報である」
 この馬鹿らしさについては、私は何度も指摘したとおり。たとえれば、こうだ。
 「談合事件で、政府が談合関係者に聴取したところ、全員が談合疑惑を否定した。当事者である全員が否定したのだから、それが事実である。『談合がある』と報じた人(たとえば道路公団改革の猪瀬)は、嘘つきだ」
 こう主張したのは、道路公団の副総裁である。彼は談合の疑惑をきっぱりと否定して、猪瀬を非難した。しかるに、その後の経過は、ご存じの通り。副総裁は逮捕された。
 要するに、密室の事件では、当事者同士の口裏合わせなんて、何の意味もない。むしろ、口裏合わせがあればあるほど、そこには疑惑が高まる。
 朝日の報道は虚報だ、と保守派は非難する。それは正確な言い方ではない。朝日の報道がどれだけの裏付けがあるかは、「はっきりとしない」というのが正解だろう。朝日は「正しい」と証明することはできないが、保守派も「朝日は間違っている」と証明することはできない。「朝日は自分を正しいと証明できないから、朝日の報道は間違いだ」という保守派の主張は、論理的な誤認がある。その論理で言うなら、自分自身の主張も「朝日は間違いだ」と証明できないのだから、自分の主張もまた間違いだということになる。
 私の推測を言えば、朝日は取材に関して、テープレコーダーをこっそり使っていたと思う。これは取材倫理に反するので、口が裂けても「使っていました」とは言えないだろうが、ま、朝日としては、事実を確認しているはずだ。つまり、「与党幹部がNHK幹部に圧力をかけた」というNHK幹部の証言を、朝日は握っているはずである。(私の推定だが。)
 「朝日の報道は虚報だ」という主張は、ほとんど「絵に描いた餅」にすぎない。蜃気楼のようなものだ。……とはいえ、私が指摘したいのは、「朝日批判は間違っている」ということではない。
 とりあえずは、こうだ。
 「言葉というものは、物ではない。心というものも、物ではない。口裏合わせをした二人がたがいに『圧力はなかった』と主張すれば、心の問題を物質として証拠で示すことはできない
 これが、先日、最初に述べたことだ。そして、このことを通じて真に述べたいことは、前項のように、「言論の自由」である。
 「政治家の圧力によってNHKの番組は改編された」
 というのが朝日の報道だ。それに対して、保守派は、「政治家の圧力があったかなかったか」を話題にする。圧力なんてものは、心理的なものだから、物証などは存在しない。仮に、物証としての証言テープを出せば、取材倫理に反する。どっちみち、朝日をぶちのめすことができる。……これが保守派の思惑だ。何とかして朝日をとっちめてやろう、というわけだ。(さもしいね。)
 で、私は、「論点を間違えるな」と指摘しているわけだ。朝日と自民党の喧嘩の勝ち負けが大事なんじゃない。言論の自由が問題なのだ。とすれば、
 「政治家の圧力によってNHKの番組は改編された」
 という問題では、「政治家の圧力によって」が問題なのではなくて、「NHKの番組は改編された」というのが問題なのだ。
 NHKはそれを「自主判断で」と主張する。そりゃまあ、自民党の飼い犬としては、ご主人様を守るのが使命なのだから、そう答えるしかあるまい。たとえ命じられたとしても、「命じられました」とは口が裂けても言えない。嘘をつらぬくしかない。しかし、そんな嘘を真に受けるべきではないのだ。
 「NHKの番組は改編された」というのは、事実である。これが問題なのだ。そして、「政治家の圧力を受けて改編された」のではなく、「NHKは自発的に改編した」のだとしたら、それはそれで、問題である。その場合は、「魂はまともだが、やむなく圧力に屈した」のではなく、「魂そのものが、政府に売り渡されている」ことになるからだ。
 たとえて言おう。ナチスが「ユダヤ人を虐殺せよ」と命じることがある。ここで、二通りの態度がある。
 「従わないと自分が殺されるので、やむなく従う」
 「喜んで嬉々として、ユダヤ人を殺す」
 朝日の指摘は、前者に相当する。この場合は、権力の圧力があったことになる。NHKの主張は、後者に相当する。この場合は、権力の圧力なしに、自分から権力の犬となったことになる。
 だからこそ私は繰り返し、指摘するのだ。「言論の自由こそ本質だ」と。


● ニュースと感想  (7月30日b)

 「報道の自由の余話」について。
 前項 までの話では、報道の自由について論じた。これに関連して、興味深い記事があった。
  → 福岡一家殺害で「犯人扱い」、フライデー側に賠償命令
  → アップル本社が「存在しない」、MSの地図検索新サービス

 前者では、講談社が誤報をしている。ただしここでは、被害にあったのは個人である。読売のような保守派は、朝日が権力者についてちょっとでも誤報らしきものがあると、目くじらを立てて大騒ぎするが、週刊誌が毎度のようにくだらない嘘記事を書いて、個人を弱い者いじめしても、あっさりと見逃す。

 後者では、MSがアップルいじめをしている。ここでは、弱い者いじめだけでなく、「真実の隠蔽」ということをやっている。(MSはよくやる。)

 どっちにしても、たいていの保守派は、講談社ないしMSに文句を言うことなど、決してありえない。「講談社が弱い者いじめをしたぞ」と非難することもないし、「MSがアップルいじめをしたぞ」と非難することもない。
 なぜか? 強いものには媚び、弱い者は無視する。……これが保守派の体質だからだ。
 保守派の定義。「長いものには巻かれろ。お上が右といえば右、お上が左といえば左」
 こういう態度は、「真実の追究」とは正反対のものだ。

( ※ 私は? それとは正反対である。「強きを挫き、弱気を助く」が私のポリシーだ。朝日が弱者をいじめれば朝日に噛みつき、政府が朝日をいじめれば政府に噛みつく。これが私の方針だ。誰にも味方はしない。単に強者に噛みつくだけだ。……別名、シーサイドの狂犬。あるいは、シーサーの狛犬(こまいぬ)かも。 → 画像


● ニュースと感想  (7月30日c)

 「パソコン略字の廃止」について。
 ビッグ・ニュース。パソコンの略字が廃止される。字形が変更され、略字が正字に変わる。
 → http://openblog.seesaa.net/article/5453160.html


● ニュースと感想  (7月31日)

 「パソコン略字の廃止の意義」について。
 前日分のニュースについて、意義をまとめておこう。

 (1)
 今回の決定の意味は、「略字の廃止」である。「正字と略字が両方流通する」(書籍は正字・パソコンは略字)という不統一の状況を是正したわけだ。「一言語に文字種が二通り」という混乱を是正したわけだ。
 もう少しはっきり言えば、「正書法」はもともと日本語において統一されていたのだが、「略字派」という急進的な国語改革主義者が、勝手にJISを変更した。1978JISから1983JISへと、パソコンの字形を変更した。かくて、文字種を二通りにした。その後、とんでもない混乱が起こったわけだ。この混乱を解消するのが、今回の狙いである。
(詳しくは → 略字侃侃諤諤

 (2)
 今回の決定の背景には、新JISの決定(2004年2月)がある。さらにその背景には、国語審議会の決定がある。ここで「正字体への統一」が打ち出された。
 略字派の敗北はここで決定し、パソコン業界もこの方向で進むことになった。マイクロソフトの今回の決定は、当然のことだろう。

 (3)
 細かく言えば、完全に正字に統一されたわけではないようだ。国字系の文字(魚の名称の漢字)とか、「湮滅」の「湮」とかは、略字のまま取り残されているようだ。
( 対比先 → 完全な統一を示す私の案 : 圧縮ファイル「略字&正字」の「別表」)
 人名漢字は、新たに追加されたものは正字で、従来からあるもの(「翔」など)は略字であるようだ。

 (4)
 10字については、変更ではなく追加であるという。引用すると、こうだ。
従来は同一の文字コードで表現されていた異字体のうち、10文字を別の文字として新たにJISコードを与えている。具体的な例を挙げると、「辻」「飴」「祇("祇園"の"祇")」のように"編"や"つくり"の部分に「しんにょう」「食」「示」の部首を持つ字、「葛("葛飾区"の"葛")」「撰("杜撰" の"撰")」といった印刷字体とは異なる字、「茨("茨城"の"茨")」「杓」のように点などの打ち方が違う字などがある。
http://pcweb.mycom.co.jp/news/2005/07/30/011.html
 (5)
 読売の記事によると、こうある。
 “今の「ウィンドウズXP」で使われている「葛」「辻」「飴」「蝕」「逗」などは基本的に表示・印刷できなくなる。”
 しかし、従来の略字がまったく表示・印刷できなくなる、ということはない。なぜか? 現在の他社製フォントを使えばいいからだ。たとえば、「DF ゴシック」とか「JS ゴシック」とか、そういう他社製フォントがある。これらのフォントは、そのまま使えるから、これらのフォントを使う限りは、今まで通り、略字で表示・印刷される。
 ただし、これらのフォントも、将来的には「略字から正字へ」というふうに変更されるはずだ。その変更に応じて、フォントファイルを新しいフォントで上書きすれば、略字は使えなくなる。とはいえ、上書きしなければ、古いフォントのままだ。……つまり、どっちにもなる。このあたりは、ユーザーのお好みで、自由に設定できるはずだ。
( ※ とはいえ、混在は、やめた方がいい。略字というのは、誤字の一種であるから、こんなものを残しておく必要は、まったくない。ウィルスのようなものだ。さっさと駆除するのが賢明だ。……人名などで、どうしても略字を使いたい人は、画像として使えばよい。手書き文字で字形に個人差が出るのと同様だ。)

 (6)
 毎日新聞の記事から。
 “昨年10月に合併で誕生した奈良県葛城市は、正式な市名に「葛」を簡略化した「葛」の字を採用した。新OSでは原則、表示・印刷できなくなる。同市は「簡単に名前は変えられない。残念だ」と頭を抱えている。”( Yahoo ニュース
 地名や人名などで、この手の問題が起こるだろうが、気にする必要はさらさらない。これはただの異体字の問題だから、「どっちも同じ字だ」と告知しておくだけでいい。「別の字体(異体字)も間違いではありませんよ」と告知するわけだ。
 「葛」の下方が「ヒ」であろうと「人」であろうと、「同じ字だ」と見なせばいい。「別の字だから間違いです」と判断しなければいい。しんにょうの一点や二点も同様である。ついでに言えば、「比」の左側が「 上 」であっても「ヒ」であっても構わないし、「北」の左下が「縦が突き出ている」でも「横が突き出ている」でも構わない。これらはただの「デザイン差」だ。(パソコン上でも、フォントを変えると、違う形で現れる。確認してほしい。明朝体・ゴシック体と、教科書体・行書体とでは、形が違うはずだ。)
 「新OSでは自分の名が出せなくなる」なんて騒ぐ必要はないのだ。「どっちも同じ字だから、微妙な差があるだけで、文字は出る」というのが基本認識である。たとえば、「葛西」さんが「河西」や「香西」さんになってしまうわけではないのだ。また、どうしても細かな差にこだわるなら、フォントを古いフォントにすればいいだけだ。それでもまだ気になるなら、gif などの画像を使えばいい。
 ついでに言えば、両者(正字体・略字体)を別の文字コードで共存させた場合は、まさしく文字が消失する。たとえば、「葛西」さんを正字で検索したとき、略字は検索されなくなり、そのせいで、本人が消失する。細かなデザイン差が消失するのではなくて、本体が丸ごと消失するのだ。
 というわけで、「文字の同一性」という観点からは、「同じ文字は同じコードポイントで」というのが、本質的には好ましいわけだ。
( ※ きつい言い方をすれば、「誤字は一人前の顔をして威張るな」と言える。「渡邉」の2字めにせよ、「齋藤」の1字めにせよ、やたらとたくさんの異体字・誤字があるが、一人前の顔をして「別字だ」と威張らないでほしいものだ。文字というものは、規範化されるべきだ。それが一国の国語政策というものである。)

 (7)
 メイリオ(Meiryo)という画面用のフォントも発表された。クリアタイプと呼ばれるもの。階調のある(灰色の)ドットを使うことで、画面上の見映えを良くする。特に液晶画面で効果がある。小さな文字を使った場合も、可読性を良くする。
 実は、これは、私が前に提案していた「細ゴシック」と呼ぶものに近い。従来のゴシック体は、太すぎて、拡大すると画面上の見映えが悪い。字画がつぶれたりする。そういう問題をなくすために「細ゴシック」があるといい、というのが、私の提案だった。それが実現したわけだ。
 メイリオは、本文用の細い字体と、見出し用の太い字体とがある。
( ※ なお、Meiryo は、見ての通り、「めいりょう」であり、「明瞭」から来たらしいが、下手なダジャレである。中国人の人名みたいな発音にしないでほしいものですね。でもまあ、MSのことだから、「名料」の意味かも。金をふんだくってやるぞ、という予告。)
( ※ Vista の由来は、 → itmedia 。ただし、別の見解もある。 → Yahoo ニュース cnet
( ※ それまでの仮称 Longhorn をやめたのは、MSの正体を露見すると困るから。せっかく horn を隠していたのに、自分で自分の long horn を暴露してはまずい、と気づいたから。)

 [ 付記 ]
 「略字を廃止するべきかどうか」について首をひねっている人が多いようだ。これについては、上記の「略字侃侃諤諤」のページを読めば、問題点の整理ができる。一方、次項の素人サイトの主は、こういう基礎文献を読んでいないから、何が問題点となっているかをさっぱり理解できず、「略字を残した方がいいんじゃないのか」というふうに首をひねって戸惑っている。……ここでは、議論が整理できていないから、自分自身で答えが見出せないのだ。議論を整理すれば、自ずと正解はただ一つだけが見えてくるものだ。最善の正解が二つあるということはない。


● ニュースと感想  (7月31日b)

 前項 の続き。「パソコン略字の廃止の評価」について。
 前日分のニュースについて、私なりの評価しておこう。

 (1) MSとアップル
 今回のMSの判断は、(当り前の決定ではあるが)まともな決定である。正しい措置として、歓迎しよう。
 アップルはどうか? 実はかなり前から、多種多様な文字を実装していた。正字も使えたが、略字も使えた。ただし、独自の文字規格で。
 この方針だと、多様な文字を使えるかわり、独自の文字規格を使っていたので、文字の流通という面では、互換性の欠落という難点があった。
 また、略字と正字が混在してしまうため、社会に二種類の文字が出回るという難点もあった。たとえば、「もりおうがい」と書くと、二通りの出力が可能となり、間違えやすくなる。これがあらゆる文字に適用されるから、社会的には、略字と正字とが混在して、メチャクチャな状況となる。
 一方、MSの方針だと、略字は排除されるから、文字の混乱はなくなる。
 ついでに言うと、アップルは当初、「略字だけを使って、既存の正字を排除する」というメチャクチャな方針を取る X0213 (初期版)という規格を採用しようとした。この点については、私が猛烈に批判して、「そんなことをすると倒産するぞ。やるなら独自の文字規格でやれ。普通の文字コードを使うな」と警告を発したら、一転、私の勧告と同じ方針に変えた。(よかったですね、アップルさん。)

 (2) 朝日
 これで見物なのは、朝日である。朝日は略字派だ。今回の方針を見て、どう態度を取るか? 
 実は、MSの正式の報道があっても、朝日はこれを報道しない。29日の夕刊や30日の朝刊では、各種のマスコミが報じているが、朝日はまったく報道しない。どういうことなんでしょうかねえ。「気に食わない事実は抹殺して報道しない」というふうに、報道管制を敷いているんでしょうか。
 それとも、単に、取材力が貧弱なだけか? 

 (3) 歴史
 一番肝心の話をしておこう。裏事情だ。
 「パソコンの文字を正字に統一して、略字を排除せよ」
 というのは、私の長年の主張だった。ただし、これを主張した人は、当初はほとんどいなかった。あったのは、次の二通りだけだ。
  ・ 略字に統一せよ (JIS主流派)
  ・ 略字と正字を共存させよ (JIS反主流派)
 たとえば、「榊」という文字なら、「木ネ申」と「木示申」の二通りがある。現状では前者だ。そこで、「前者だけにせよ」という主張と、「前者と後者を共存させよ」という主張があった。一方、私だけは、「後者だけに統一せよ」と主張した。……で、今回、私の主張通りになったわけだ。
 ただし、私のこの主張は、最終的には取り入れられたが、当初は、ひどい反発を食った。
 主流派からは「時代錯誤のトンデモだ」と非難された。
 反主流派からは「既存の文字をなくすなんて、駄目だ。そんなことをすると、同じ文字コードに二つの文字が共存して、混乱する。やるなら、正字を追加して、略字はそのまま残すべきだ」と非難された。
 文字コードの世界では、「南堂久史はトンデモだ」という声がわんさと鳴り響いた。「こんな野郎は無視してしまえ」という声が圧倒的だった。とはいえ、IBMなどを中心にして、賢明なる技術者が、私のサイトの話を読んで、共感して、正字派の勢力が広がった。かくて、メーカー側の技術的な点から、略字派の野望は砕かれた。
 ただし、「南堂久史はトンデモだ」という声に惑わされている人も多い。たとえば、「文字の海、ビットの舟」という大手のサイトがあるが、ここでは、「どうして最終的に正字派が勝ったのかさっぱりわからない。急に方向が転換したのはなぜだか不思議だ」というふうに述べている。そりゃ、そうでしょう。方向転換を唱えたのは私だけなのに、その私のことを「トンデモ」扱いして、まるきり無視しているのだから。中心を無視して、周辺だけを見れば、物事の核心が見えないのは、当然のことだ。
( ※ ところで、この著者は、力が不十分であり、文字コードや漢字については、知識不足の点や誤解が多く見出される。それ以前に、文章がメチャクチャである。……とはいえ、取材力だけは、大したものだ。技術音痴の文系ライター、という感じですかね。)

 ともあれ、トンデモ扱いされた南堂の意見が、最終的には、世間の標準となった。私が何も言わなければ、パソコンの文字と、書籍の文字とは、二重に分断された状況が続いただろう。いや、さらに、分断が広がったはずだ。何しろ、初期のJIS案(パソコン文字の案)では、現状の多くの正字が略字に改定されるはずだったからだ。そうなれば、とんでもない混乱が起こったはずだ。
 トンデモ扱いされた南堂の意見が、世間の標準となる。そういうことも、あるものだ。ただし、世間は、そのことを認めようとはしない。「自分たちが自力でそう決めたんです」と思い込みたがる。「もともと正字の方がいいと思っていたんだから、正字になるのは当然なのです」というふうに。……文字コードの規格の審議時には、何一ついわずに黙っていた人が、最後の最後になって、「全部自分で決めたんです」と手柄を独り占めしようとする。
 ま、そんなものでしょうね。事実を見ず、真実を見ず、虚偽だけを見る人々は、あまりにも多い。彼らにとっては、誰が得をするか、誰が損をするか、ということだけが、問題だ。
 私は、そうではない。事実と真実だけが大切だ。「正字への統一」という形で、パソコン文字が正常化すれば、それで私の望みは達成されたことになる。私自身は、表舞台に出る必要はない。歴史の陰に埋もれるとしよう。
 ただし、歴史の事実を知りたい人だけは、この事実を知っておくといいだろう。「正字への統一という流れは、決して水のように自然に湧き出たものではなくて、源流となる発想があったのだ」と。
 → 文字講堂のサイト

( ※ 私と同じ意見ではないが、「反・略字」のサイトとしては、「ほら貝」のサイトも大きな貢献があった。「理論」の文字講堂、「啓蒙」のほら貝、という感じである。専門家への理論と、一般向けの啓蒙。……頑張ったのは、この二つだけ。あとは、その他大勢である。とはいえ、前述の素人サイトみたいなのは、JIS関係者と企業しか見ないから、肝心の論議をまったく見失っている。)

 [ 付記 ]
 そもそも、歴史的に「略字派」というメチャクチャな勢力が優勢になったのは、国の国字政策が貧弱すぎたからだ。何しろ、JISの漢字規格制定の予算は、ゼロ同然である。というか、JISという規格そのものが、国家の予算で決められていない。日本規格協会は、独立法人(財団法人)であり、国の予算がちゃんと出ていない。あまりにも貧困だ。
 一国の文字政策を、こんな貧弱な環境[手弁当]で決めようというところに、そもそもの間違いがある。
 ついでに言えば、マイクロソフト日本の文字関係予算は、その何百倍にもなりそうだ。言っておきますが、それと対比されているのは、日本という国家全体における関係費用総額だ。……ついでに言えば、私ももちろん、手弁当だ。……で、最終的には、日本の国語政策は、マイクロソフトに決めてもらうことになったわけだ。
 ビル・ゲイツさん、どうもありがとうございました。 (皮肉)

 [ 余談 ]
 私の個人的な感想は? 
 「私の意見が百%通ったわけではないが、核心部分については私の意見が百%通った。」
 と評価した上で、
 「全面勝利」
 を宣言しておこう。文字講堂に「2002JISへの道」(2000-04-08)を掲げて以来、約5年を経て、ようやく、勝利を得たことになる。  \(^^)/

 [ 補足 ]
 と書いたあとで、敗北宣言をするようだが、……   (^^);
 この新しい文字集合が、シフトJISで使えるかどうか? それが問題だ。unicode でしか使えないのだとしたら、エディタではうまく使えないことになるので、困ってしまう。(MS-Wordしか使わないのなら、どっちだって同じことだが。)
 とはいえ、148字( → Open ブログ )というのは、すでにシフトJISに入っている分だけかもしれない。
 私としては、シフトJISで使えるようになってほしいが、この問題は、現時点では、あまり大きな問題ではなくなっているかもしれない。そもそも、これは、文字の問題ではなくて、パソコン業界の内部の問題だから、技術革新によって解決のできる問題だ、とも言える。


● ニュースと感想  (8月01日)

 前項の続き。「パソコン略字の廃止の是非」について。
 「新旧両方の字体を共存させるべきだった」(略字を廃止するべきでなかった)という意見が、Openブログに掲載された。この件について、以下で答えておこう。

 この問題は、すでに前日分で言及した。とはいえ、このような意見は、当然である。むしろ、常識的だろう。だから普通は、この意見が通る。
 実は、最初は、この意見が比較的優勢だったのだ。( 略字派 > 共存派 > 正字派 )つまり、正字統一派は、圧倒的に劣勢(私一人だけ)だった。
 
 しかるに、それがいかにして、「正字」の統一に至ったか。いかにして、「同じ字にさまざまな字形がたくさん共存する」という混乱した状況が避けられ、「原則として同じ字は一つだけ」という統一的な状況になるに至ったか。……この件は、文字コード問題の闘争の歴史である。知りたければ、当時の大々的な論争を調べるといいだろう。

 ともあれ、もし口を出すならば、7年前に口を出すべきだった。大論争の一方に加わるべきだった。一方、今となって「あのときはこうするべきだった」と口出ししても、もはや何も変わらない。
 歴史の形成に当たっては、参加した者だけが関与することができる。歴史の形成から身を引いていた人は、何かを形成することはできず、せいぜいぶつくさと文句を言うことしかできない。

 これは、上記の質問者への批判ではない。「歴史への参加」というのは、汗水を垂らして多大な努力を要するものだ。そういう努力をした人だけが、歴史に関与できる。そういう努力をしたくない人は、自分で自分の道を閉ざしたことになる。だとすれば、自分の決めた自分の行動に対して、後から何かを言っても仕方ないのだ。何かを言いたければ、歴史の形成に参加しよう。
 たとえば、「不況の解決」という問題について、この問題を解決したいのであれば、今すぐ、何らかの努力をしよう。何十年かたって、「2005年にはこうするべきだった」などと批判しても、もはや手遅れなのである。なぜなら、2005年の時点で、あなたは何もしなかったからだ。
( ※ たとえば、ブログで意見を表明する、ということすらしなかった。……たいていの人は。)

 [ 付記1 ]
 人名漢字について、付言しておこう。
 人名漢字は、JIS X213 の初期規格に、たくさん含まれている。今は、パソコンの文字コード表(現JIS)を見ても、変な漢字は含まれていないが、新しいJIS の規格には、漢和字典にも出ていない変な漢字がたくさん入っている。これらは、人名漢字である。
 人名漢字というのは、略字のようにれっきとした慣習のあるものもあるが、個人が勝手に書き間違えたのが定着したものも多い。「齋藤」の1字めなどが例だ。ダイエーの中内功の「力」が「刀」になったのも、ただの誤字なのだが、誤字が堂々とのさばっている。
 そのせいで、新しい JIS 規格には、誤字を由来とするたくさんの文字が導入されている。もちろん、「漢字」として言語表現に使われることは一切なく、単に「署名」のために使われるだけで、一種のデザインにすぎないのだが、こういうものが、ものすごくたくさん規格に入っているわけだ。
 で、多くの企業は、これらをいちいち区別する必要がある。たとえば、「齋」の字が何種類もあるとすれば、その何種類もの文字を文字コード表の中から選んで、適切に使う必要がある。さもないと、「別人」になってしまうからだ。とんでもないトラブルが起こる。
 たいていの人は、漢字を「自分のもの」と思い込んで、自分が自由に使えればいいと思っている。同時に、他人にも、そのことを強要する。「おれの名前は、この字で書くのが正しいのだから、この字を使え」と。そういうエゴイスティックな人間が何万人もいるから、その何万人ものエゴイストのために、人々は多数の異体字をいちいち覚える必要が出てくる。
 たとえば、あなたがただの「山田」さんであって、「山」や「田」に異体字などは存在しないとしても、あなたが営業員や医師やサービスマンや政治家になったなら、顧客の人名を間違えないように、顧客のたくさんの異体字をしっかりと覚える必要がある。「僕は漢字なんか覚えないで漢字変換するもんね」と言っても、「齋藤」の「齋」を、たくさんある漢字候補から正確に選ぶ必要がある。もし間違えたら、大問題だ。たとえば、請求書を他人に回したりしたら、大問題だ。投薬だったら、人命にかかわる。たとえ間違えないとしても、「間違えまい」と多大に努力する必要がある。
 文字というものは、本来、個人のものではなくて、社会のものである。その社会性を理解しないで、「おれの文字はおれのもの」と思い込むエゴイストが多すぎる。そして、そういうエゴイストが多すぎるせいで、JISの規格は歪んだものになってしまった。ただのデザイン差を「文字差」に取り込んでしまったせいで、莫大な漢字を覚える必要が生じるようになった。
 自分が自分の漢字を使うときのことばかりを考えて、他人から漢字を無理やり押しつけられるときのことを考えていない。そういう「自分だけ良ければいい」というエゴイズムにあふれる連中が多すぎるから、社会はエゴイズムの嵐となり、エゴとエゴのぶつかり合いになって、人々は傷つけ合う。
 「自由がいい」という妄想のはては、エゴとエゴのぶつかり合いの、醜い混乱だ。今度の文字コードは、略字に関する限りは「カオス」のかわりに「統一」となったが、人名漢字に関する限りは、「ものすごくひどいカオス」になっている。そのツケは、今後、多くの人々が払うことになるだろう。まずは、「人名異体字を全部覚えよ」という研修が、各社で始まるはずだ。いい年をした大人が、小学生みたいに、「漢字ドリル」をやるわけだ。で、うまくやれないと、減給である。しかも、覚えされられる漢字というのは、由緒ある漢字ではなくて、誤字を由来とした漢字ばかりだ。真実ではなく、誤字を覚えるために、あなたの貴重な人生はつぶされる。
 なぜあなたは、そういう馬鹿げたハメに、陥ったか? よく考えてみるがいい。あとになって後悔しても遅いのだ。「南堂久史の話をちゃんと聞いておけば、こんなことにはならなかったのに……」「正しい文字だけに統一しておいてくれれば、こんな苦労は味わわずに済んだのに……」とぼやいても、漢字ドリルをやらされる現実からは、逃れられない。

 [ 付記2 ]
 ネットのブログを見ると、「両方を併用せよ」という意見がたくさん見られる。素人というのは、度しがたいものだ、と感じたので、「文字講堂」の該当箇所に書いてある話を簡単に紹介しておこう。
 「両方を併用せよ」というふうにした場合、「両方の文字が使える」のではなくて、「文字の消失」が起こるのだ。
 たとえば、「葛」という字がある。これについて二つの文字を用意した場合、どうなるか? 二つの文字が使えるか? 違う。文字が消失するのだ。たとえば、追加された文字が二通りのうちのどちらにせよ、新しく追加された方のコードポイントは、従来の文字コードでは空白となる。すると、Windows Vista では「葛飾区」と表示されても、WindowsXP 現行版 や Windows98 などでは「・飾区」と表示される。「葛」の字が消失する。
 他の文字でも同様だ。というわけで、新たに追加されたコードポイントを使った文書では、いたるところで虫食い状態になる。「森鴎外」を正字で書いたつもりでも、「森・外」になってしまう。
 一方、「字形の変更」ならば、文字が消失することはなく、正字の「森鴎外」が略字の「森鴎外」で表示されるだけだ。字形の変更はあるが、文字の消失はない。
 一般に、「コードポイントの追加」には、二通りの意味がある。
  ・ 正規でない文字の追加
  ・ 正規である文字の追加
 前者ならば、単純に、その文字を追加してよい。たとえば、「渡邉」の2字めの異体字をいくつか追加する。それはそれで、特に大きな問題は起こらない。
 後者ならば、その文字を追加すると、とんでもないことになる。同じ文書に対して、これまでは仮の文字として「区鳥」(鴎)を使っていたのに、今度は真の文字として「區鳥」を使う。同じ文字に対して、コードポイントが変わってしまう。すると、あらゆる文書に対して、いっせいにコードポイントを変更する必要があるし、日本中のあらゆるコンピュータに対してフォントを変更する必要がある。さもないと、「區鳥」が正しく表示されないからだ。
 こういうトラブルを回避するのが、「字形の変更」つまり「コードポイントを変えないこと」である。
 だから、「字形の変更」というのは、本質的には、「コードポイントの無変更」のことなのだ。これが最も、トラブルを避けることができる。一方、「字形の変更」を避ければ、「コードポイントの変更・追加」が必要となる。この場合は、ものすごいトラブルが起こる。
 素人は、「字形の変更」という言葉を聞いて、「形が変わるのか、大変だ」とだけ騒ぐ。その一方で、「コードポイントの変更・追加」というのは、わけがわからないから、「知らないよ」とほったらかす。そのせいで、「コードポイントの変更・追加」が実施されると、ものすごい混乱が起こるわけだ。
 無知な人々は、あまり口を出さない方が賢明である。(さもないと、前項の無知なライターのように、無意味な無駄口をせっせと語ることばかりに、人生の多大な時間を費やしてしまう。肝心な真実を理解しないし、理解しようともしないから、間違いばかりをたくさんあさって、それで人生がつぶれてしまう。無駄とゴミだらけの人生。……ま、高度な数学を理解しない小学生が、高度な数学について論じるようなものだ。一番の難点は、自分が無知であることに気づかないこと。)

 [ 注記 ]
 前日の「略字侃侃諤諤」は、リンクを修正しました。(31日の午前中。)


● ニュースと感想  (8月01日b)

 「地震の予知」について。
 地震を 100%ほどの確率で予知する方法があるという。地殻のひずみによる電位差で、生体の電位差が変異する(つまり電位差が増幅される)ので、それを人間が機械で検知することで、微弱な地殻のひずみを検知する。かくて、力学的には検知できなかった微弱なひずみを、電磁気的に検知する。この方法で、先日の震度5の東京地震も予知したという。(週刊新潮・最新号。「 金木犀がNEC技術者に教えた 地震予兆」という話。)
 この方法は、科学的に考えても十分に納得の行く方法だ。正当に評価されていい。
 しかし、現実には? 「トンデモ」扱いだ。「力学的に検知する」という方法は、「駄目だ」ということが判明しているのに、いつまでたっても、この古臭い方法から脱せない。「力学的な方法で予知できないから、予知は絶対に不可能である」という結論に、一挙に飛んでしまっている。
 学会の主流派というのは、こういうものだ。正しい理論というものは、常に最初は「トンデモ」扱いである。で、公認されるまで間、多くの人々は、犠牲にされるわけだ。学会が頭の古い連中ぞろいであるせいで、国民が犠牲になる。何事も、同様だ。どの分野でも。


● ニュースと感想  (8月02日)

 「区体論への誤解」について。
 区体論について、よく読まないまま勝手に誤解して、「トンデモだ」と批判する人々が多い。そこで、その誤解をほどく。
 簡単に言えば、「虚像への批判は無意味だ」ということだ。「区体論のここがおかしい」と論理的に主張するのならばいい。しかし、「区体論は**である」と勝手に虚構の像を作り上げた上で、「それは正しくない」と虚構の像を否定しても、そんなことには何の意味もないのだ。
 たとえて言おう。「小泉は保守派の経済音痴であるから悪い」ということを、論理的に批判するのならいい。しかし、「小泉はマルクス主義のユダヤ人であるから悪い」というふうに、勝手に虚像を作って批判しても、無意味である。
 区体論への批判というのは、たいていがこうだ。読みもしないで、勝手に決めつけて、気に食わないと感じられる箇所を批判する、というわけ。……よくある話。無知な素人(自称・専門家)ほど、そういうことをやる。

  → 誤読解説編
  → 区体論のページ (こちらを先にお読み下さい。)


● ニュースと感想  (8月02日b)

 「レクサス」について。
 トヨタがレクサスの新車を3種発売して、レクサス店の展開をした。これをめぐって、マスコミでは「トヨタは輸入車に対抗できるか」というような記事を書いている。トヨタとしては、「いかにきめ細かなていねいな車作りをしたか」を自慢している。( → ニュース検索
 ここで、私の見解を示しておこう。

 トヨタが「いかにきめ細かなていねいな車作りをしたか」を自慢しても、そんなことは、たいして意味はない。無意味とはいわないが、高級車の狙いがズレている。ていねいな車作りなら、たしかにトヨタはこれまでもやってきたし、アメリカでも受けはいいが、欧州ではあまり受け入れられないし、日本でもあまり受け入れられまい。「いかにきめ細かなていねいな車作りをしたか」を問題にするなら、これまでのトヨタ車でも十分だ。クラウンと大差はあるまい。
 輸入車を購入するユーザーは、そんなものを求めているのではない。彼らが求めているのは、ブランド価値だ。
 それは、何か? 近づいてルーペで見たときにわかるような、細かなところの寸法のていねいさか? 違う。離れてざっと全体を見たときに、直感的にわかるような、一目見てパッと高級品とわかる雰囲気だ。
 それはつまり、デザインだ。これを比較してみよう。たとえば、対抗相手は、ベンツCLSだ。( → 参考サイト1参考サイト2
 こいつと比べると、レクサスは月とスッポンだ。生粋の伯爵と、成り上がりの田舎侍ぐらいの差がある。
 本当をいえば、品質的には、そんなに差はない。ただし、一目見た瞬間には、そう感じられる。つまり、レクサスには、ブランド価値がほとんどない。ISにせよGSにせよ、マークXと同じぐらいの安っぽいブランドにしか見えない。(初代アリストに比べても、ずっと格下に見える。ただしこれは、ジウジアーロのデザイン。)

 結論。
 いくら改善と努力で小さな成果をコツコツと築き上げても、肝心のデザインが生半可では、輸入車に一発で張り倒される。大切なのは、下積みの職人の努力ではなくて、エリート的な独創的な技術者の独創的な才能だ。凡人の努力ではなくて、天才の才気だ。
 そして、トヨタは、前者ばかりを重視して、後者を軽視してきた。こういう態度からは、真のブランドは生まれないのだ。車作りそのものが反高級であり、自社の経営方針そのものが反高級であり、社員の処遇そのものが反高級(反エリート)であるのだから、そういう会社からは、エリート的なブランドは生まれようがないのだ。

 正解。
 では、どうすれば、真の高級ブランドを築けるか? 会社そのものが真の高級ブランドになることだ。それには、次のようにすればいい。
  ・ グループ内に「レクサス」子会社を創設する。
  ・ そこに、優秀なデザイナーとマネージャーを移籍させる。
  ・ そこでは徹底的な能力主義。超高給またはクビ。
  ・ 技術自体は、トヨタの技術を使えばよい。
 要するに、「レクサス」という新会社を立ち上げて、その会社はトヨタを「製品開発のための下請け」にしてしまえばいいのだ。トヨタよりも一ランク上の会社を作ることで、トヨタよりも一ランク上のブランドと実質を得るわけだ。
 田舎侍がどんなに努力しても、貴族にはれない。貴族は生まれながらにして貴族である必要がある。その違いを、生粋の貴族は見抜く。トヨタがいくら「ていねいな車作り」を訴えても、しょせんは真のブランドに離れるはずがないのだ。「ダサイ高級品」になるのが、関の山だ。

 教訓。
 独創性のある人間を正当に評価しない会社は、その会社自体が独創性をもてないゆえに、一流の会社になれない。ブランド力のある会社は、独創性を持ち、社内で独創性のある人間を優遇するものだ。「レクサス」という名前をもつことでブランドができるのではなく、名前に付随する一流の実質をもつことでブランドができるのだ。
 「集団での協調」ばかりを重視して、「みんなで協力して仲良くいっしょに」という状況では、独創性のある人間は、「トンデモ」と呼ばれて排除されるだけだ。トヨタのような会社は、いつまでたっても、「あすなろ」にすぎないのだ。


● ニュースと感想  (8月02日c)

 「米国の住宅バブル」について。
 米国の住宅バブルについて、これを指摘する記事があった。(読売・朝刊・経済面 2005-07-28 〜)
 この件は、ときどき指摘が出るが、読売もこのことを大きく指摘したわけだ。まずは読売の記事を褒めておこう。世間が浮かれているときに、「それじゃ危険だよ」と指摘する声を示すことは、とても大切だ。それはまた、「意見の多様性」という意味でも、とても大切だ。
 言論が一色に染まっていると、多様な意見が消し去られ、危険を警告する警鐘が鳴らない。それでは、一国全体を誤らせる。昔の戦争しかり。バブル期の経済しかり。
 マスコミの使命は、時流に乗って浮かれることではなくて、時流に乗って浮かれる人に警鐘を鳴らすことだ。「そうです、そうです」と読者におもねることではなくて、「そうじゃないよ」と読者に冷や水を浴びせることだ。……それができれば、日本は大戦の過ちを犯さなかっただろうし、バブルの過ちも犯さなかっただろう。
 たとえば、朝日は、バブル期にはさんざん「そうです、そうです」と読者におもねてばかりいた。「財テクで金儲け」という記事を頻繁に掲載し、「日本の企業が大幅な利益を出すのは、日本式経営で日本企業が優秀だからだ」とおもねってばかりいた。……で、その記事を真に受けた人は、株を買って、しばらくは少しだけ儲けて、そのあとで、バブル破裂で、大損をした。(バクチの開帳者と同じ手口。最初は儲けさせて引き込んで、最後にごそっと奪って、破産させる。)

 マスコミの使命は、政府や現状を肯定することではなくて、警鐘を鳴らすことだ。その意義を、はっきりと理解しよう。


● ニュースと感想  (8月03日)

 「鞭打ち症の新療法」および「第十惑星」について。

 (1) 鞭打ち症の新療法
 原因がよくわからなかった症状である「鞭打ち症」について、原因が解明され、新療法が出たという。「ブラッドパッチ法」という。朝日に記事がある。(朝刊・オピニオン面・投稿 2005-08-02 および ネットの地域版
 画期的な発見らしい。だが、政府も保険会社も「トンデモ扱い」であるらしく、無視されているようだ。で、治療を認めないので、症状が解決せず、無駄な保険金がダラダラと垂れ流されているらしい。
 こういうのは、投稿や地域版として埋もれさせず、大々的に報道してもいいはずだが、マスコミというのは下らない科学ネタばかりを追っている。困ったものだ。

 (2) 第十惑星
 「太陽系に第十惑星」という記事がデカデカと出ているが、こういうふうに世間を惑わす記事はやめてもらいたいものですね。「惑星であるかどうか、異説がある」と述べるだけでなく、なぜ「惑星でない」とされるか、そこを解説するべきだ。
 だから新聞社の書いた記事にすら、誤解が出てくる。
 「この太陽系が何人きょうだいなのか、いささか気になる。」(朝日・天声人語 2005-08-02 )
 兄弟の数なら、はっきりしている。8だ。つまり、第9惑星とされる冥王星は、他の8個の惑星の兄弟ではない。他の8個の惑星は、太陽系内で生まれたが、冥王星は、太陽系外のカイパーベルト帯で生まれて、途中で太陽系内にまぎれこんだものであり、いわゆる小惑星の仲間である。冥王星および第十惑星が誰の兄弟かといえば、たくさんある小惑星の兄弟である。
 たとえて言おう。太陽家とカイパー家の二つがあり、それぞれたくさんの子供がいたが、カイパー家の子供の一人が、自宅を飛び出して、太陽家に住み着いている。この家でした子供を、「太陽家の家族」と呼ぶかどうかは、定義しだいだが、誰の兄弟かと言えば、もちろんカイパー家の子供たちの兄弟である。

 こういう事情をちゃんと解説しないと、新聞社は世の中に、誤解を垂れ流すことになる。困ったものだ。
 真実を報道せず、虚偽ばかりを報道する。「面白くなければ、記事じゃない」というわけですかね。吉本ふう。


● ニュースと感想  (8月03日b)

 「LLP(有限責任事業組合)」について。
 LLP(有限責任事業組合)という制度が始まった。この本質がよくわからない人が多いと思うので、解説しておこう。

 最初にイチャモンを付けておくと、LLPなんて言葉を使うセンスには呆れるしかないね。日本語になっていない。これからずっとこの言葉を使うつもりなんだろうか? 「有限組合」という名称が最適なので、できればこの言葉を使いたい。

 さて。LLP(有限組合)の本質は何かと言えば、「有限会社」に対する「有限組合」である。つまり、責任が有限であるという点で、「株式会社」や「有限会社」と同じであり、利益の内部留保ができないという点で「組合」と同じである。……というわけで、「有限組合」が本質だ。

 まず、責任が有限であるという点では、「株式会社」や「有限会社」と同じであるから、いちいち考慮する必要はない。「無限責任」という方がおかしい。(連帯保証人というのも無限責任に近かったが、最近では法改正されて、強引に破産を迫られて人生を破壊されるようなことはなくなったようだ。)
 
 次に、利益の内部留保ができないという点だが、これこそが、この制度の本質だ。つまり、「会社」でなくて「組合」であるということだ。
 具体的に言えば、土地や設備などの資産を会社保有にすることはできない。となると、たいていの商売には適さない。ただし、「財産は知恵」という会社なら、物としての財産はほとんど存在しないことになるから、うまく適している。……というわけで、映画やアニメなどの「財産は知恵」という会社には、LLPは適している。というより、これらの会社を除いて、ほとんどの会社には、LLPは適していない。LLPは、会社というよりは、あくまでも「組合」なのだ。その意味で、LLPを「組合と会社のいいとこ取りをした」という新聞解説(朝日・朝刊・2面 2005-07-31 )は、正しい解説ではない。LLPは、「物的資産のない事業体にのみ有利である」にすぎない。
 LLPは、夢の制度ではない。ごく限られた分野でのみ有益な制度だ。悪い制度ではないが、あまり過大に評価しない方がいい。

 [ 付記 ]
 「内部留保はできない」という点が「組合」の特徴だ。では、「内部留保ができる」というふうにしたら、どうなるか? 
 組合の場合は、組合への「課税」がなされない。法人税はゼロで、組合員である個人だけに課税される。ここで、「内部留保ができる」というふうになると、組合は「利益を無税で溜め込んで、内部留保する」ということが可能になる。たとえば、十億円の利益を上げても、内部留保にすれば、組合員に配分しないまま、会社に利益が蓄積される。あらゆる企業がこんなことをやれば、国に入る法人税はゼロになる。
 これは「脱税」と同じである。「税をまったく払わない」というのではなくて、「税の支払いを数十年後に繰り延べる」という形の脱税だ。こんなことが広がると、国の税収は数十年も遅れて入ることになる。数十年間、法人税がゼロだ。数十年後には、インフレで、やはり受け取る税収はゼロ同然だ。
 というわけで、「内部留保を認める」と「法人税がゼロ」というのは、両立しない。「内部留保あり」なら、「法人税がかかる」。「法人税がゼロ」なら、「内部留保なし」。そのどちらかだ。……前者が会社であり、後者が組合である。
 LLPは、組合である。「法人税がゼロ」で、「内部留保なし」。そういうタイプだ。決して「いいとこ取り」なんかではない。
( ※ ついでに言えば、企業にとっての「いいとこ取り」は、国にとっては「損をするばかり」である。朝日の発想は、頭が経団連寄りだ。彼らの発想は、「法人税をゼロにして、国には税金を払わないこと」である。それを理想とする、反国家的な脱税趣味者。「税を払いたくない」とだけ主張する。まともな経営者ではないですね。「しっかり働いて、しっかり税を払いたい」と主張する経営者は、経団連なんかには入らない。)


● ニュースと感想  (8月03日c)

 「企業防衛」について。
 「企業防衛」という言葉が使われることが多い。TOBによる買収に対抗する行為を言う。
 しかし、「企業防衛」という言葉は、不適切なので、使用をやめた方がいい。それは、いわば、「泥棒」という犯罪を「富の適正配分」と呼ぶようなものである。つまり、犯罪的な行為を、美名で正当化することになるからだ。
 「企業防衛」は、正しくは、「買収妨害」または「市場取引妨害」である。これが実態だ。以下で示そう。

 そもそも、株式は、市場で売買されるものである。その売買を阻害するということは、市場原理の公正な取引を妨害するものであり、普通は「独禁法違反」などに問われる。たとえば、ある人気商品を高値で売るとメーカーが「高値で売るな」と邪魔することがあるし、逆に、目玉商品として安値で売るとメーカーが「安値で売るな」と邪魔することがある。……しかし、こういうことは、市場の取引を妨害する行為であるから、正当な活動ではない。売られている物を誰が売ろうが買おうが、それは、売り手と買い手だけの問題であり、第三者が口を挟むべき物ではないのだ。
 同様に、株券の取引も、売り手と買い手が決めればいいのであって、「そんなことをすると、おれの職場が脅かされる」という理屈で、経営者が妨害する(つまり会社を私物化する)ことは、許されないのだ。もちろん、労働者もしかり。
 株券というものは、市場で売買されるものだから、その売買を、第三者が妨害してはならないのだ。どうしても売買に介入したいのであれば、「上場廃止」だけが許される。(これはつまり、誰かが全株式を買い占めることに相当する。他人による買い占めを邪魔するために、自分が買い占めるわけだ。買い占め反対のために、買い占めをやるわけだ。皮肉。)

 新聞報道ではしばしば、「企業防衛」という言葉が使われる。しかし、売買を妨害する犯罪的な行為を、そんな美名で呼ぶのは不適切だ。たとえば、タマゴッチであれ、リンゴであれ、人気のケーキであれ、誰かがその店の商品を買い占めることがあるかもしれない。しかし、「買い占められると評判が悪いから」という理屈で、買い占めを阻止する妨害策を取ることは、犯罪的なのだ。買い手にとっては、「売っているものを買うだけだ」となる。それを、「あんたに買われると、こっちに都合が悪いんだよ」と言って、買うのを妨害するのは、犯罪的である。
 これを理解するには、あなたが買い手の立場になったと思えばいい。人気のケーキが売っているので、三百円で買おうとする。三百円を出すと、「あんたには売らないよ」と言われる。「なぜ」と尋ねると、「うちはね、むさ苦しい男には、売らないことにしているんだ。かわいい女の子にしか、売らないんだ」と言われる。あなたが抗議すると、「誰に売ろうが売るまいが、こっちの勝手だ。あんたに売りたくないと言ったら、売りたくないんだ。ここまで電車賃がいくらかかったにせよ、そんなことは知ったこっちゃないね。さっさと帰ってくれ」と追い返す。
 こういうふうに商業行為が恣意的になると、社会の公正さは保たれなくなる。「売るか売らないか」は、誰に対しても公平であるべきであって、「こいつに売ると都合が悪いから、前言をひるがえして、売るのをやめることにしました」なんてことは、許されないのだ。……これは、法律的に違法かどうかということに関係なく、市場経済の社会では、倫理的に必要なのだ。(ただし、共産主義の社会では、異なる。共産主義の社会では、政府の高官だけが、国営販売店に優遇される。販売上の差別が、おおっぴらに許容されている。)

 「企業防衛」と呼ばれる行為は、ただの犯罪的な「買収妨害」にすぎない。これが実態なのだから、正しく「買収妨害」と呼ぶべきだ。悪魔でない限り、犯罪的な行為を美名で呼ぶべきではない。
( ※ ただし悪魔は、悪魔を天使と呼ぶし、犯罪を善行と呼ぶ。……で、こういうことをやっているマスコミには、だまされないようにしましょう。)

 [ 付記 ]
 本項で述べたことの本質的な意義は、次項(明日の分)からわかる。


● ニュースと感想  (8月04日)

 「上場廃止」について。
 繊維業界のワールドという会社が、上場廃止をするという。(各紙・朝刊 2005-07-26 )
 これをめぐって、「上場廃止の損得」というような解説をマスコミは書き立てる。また、「上場廃止しても、しっかりと存続すればいい」という趣旨を述べて、上場廃止を支持する社説(読売・朝刊 2005-07-29 )もある。
 だが、勘違いしてはならない。大事なのは、当の企業の損得ではない。むしろ、日本全体における効果だ。── 上場廃止というのは、株式会社という資本主義の根幹を揺るがす問題だ。この問題は、どういう影響があるのか? それを考えるべきだ。一見して、いかがわしい方針なのだから、よく考えるべきだ。
 そして、実際、これはきわめていかがわしいことなのである。一種の「詐欺」なのだ。その理由を示そう。

 そもそも、資本主義とは、何か? 次のことだ。
 要するに、バクチ(投資)をやって、勝っても負けても、資本家が結果を負う。勝てば自分が金を得るし、負ければ自分が金を失う。責任はあくまで、自分だけが負う。経営者も労働者も、その責任は負わない。
 この意味で、「会社は誰のものか」という質問には、「資本家のものだ」と答えるのが正しい。仮に、「労働者のものだ」という結論が出た場合には、会社が儲かれば労働者が金を得るが、会社が損すれば労働者は賃金をもらえなくなる。……それでは、労働者は困る。「会社が儲かったら、自分も金を得たい」と思う労働者は、給料として、現金のかわりに株券でもらえばいいだけだ。つまり、現金でもらったあとで、その現金で株券を買えばいいだけだ。現実には、そんなことは、ほとんどやらないが。

 ともあれ、資本主義のもとでは、責任のすべてを負うのは、資本家である。これが原則だ。
 ところが、詐欺師というものは、別のことを考える。こうだ。
 「収益が上がったら、その利益は全部、独り占めする。収益が下がったら、その損失は全部、他人に回す」
 そして、このための仕組みがある。それが「上場廃止」だ。

 「上場廃止」は、市場にある株式を全額購入することによってなされる。ここで、その資金が、資本家の資金によるのであれば、それはただの「買い占め」と同じであり、良し悪しはない。ただの商業活動だ。
 ただし、ここで、「自分の金でなく、他人の金で、株式を買い占める」という方法がある。それは、「株式を買い占める費用を、銀行に出してもらう」という方法だ。今回、この方法が取られた。三井住友などが、経営者に二千億円もの資金を融資する。
 ここで、ただちに疑問が生じる。「二千億円もの金を、どうして個人に融資できるのか?」
 おかしな話だ。もちろん、おかしい。ともあれ、このようにすると、結果的に、こうなる。
 「株価が上昇した場合は、上場を再開するか、株式を他者に売却することで、経営者が莫大な株式売却益を得る。数百億円から数千億円の利益」
 「株価が下落した場合は、単に個人破産するだけだ。夫婦の財産を分けておけば、夫は倒産しても、妻は富豪だから、何も不自由しない。そして、数百億円から数千億円の損失は、すべて銀行に回す。借金の踏み倒し」
 こうすれば、「利益が出れば、おれのもの。損が出れば、他人のもの」というふうになる。「有限責任制度」という資本主義を逆手に取った、ずる賢いシステムだ。
 実は、これは、ギャンブルの一種なのだ。しかも、「勝ちはあるが、負けはない」というギャンブルだ。で、彼が勝てば、誰も損はしない。だが、彼が負ければ? それが問題だ。

 彼が負ければ、数百億円から数千億円の損失が出る。その損失は、銀行に回り、「不良債権処理」という形になる。では、銀行は、損をするか? いや、損をしない。どうせ政府が「不良債権処理」という形で、処理を促進するからだ。さまざまな税制優遇などがなされて、銀行は損をしない。たとえば、ここ十年ぐらい、銀行はほとんど税金を払っていない。それどころか、前に払った税金を、還付してもらうくらいだ。さらには、ゼロ金利のおかげで、市場から安く資金を受けて、その資金をずっと高い金利で融資に回すから、ボロ儲け。
 結局、「不良債権処理」のための資金は、天から降ってくるわけではなくて、国民が負担する。不良債権処理のために、国民は莫大な金を奪われる。で、なぜ? もともとの根源は、不良債権が生じたからだ。というのも、企業が馬鹿げたバクチをやって、たくさん倒産したからだ。
 
 「不良債権処理」というのは、要するに、「勝てばおれのもの、負ければ他人のもの」という詐欺の、ツケ払いなのだ。バブル破裂後に、多くの企業が倒産したが、だからといって、経営者が大損をしたわけではない。経営者は、バブル期にはボロ儲けをして、バブル破裂後には、赤字企業を倒産させて、赤字を銀行にツケ回しした。その赤字を、今になって、国民が負わされている。(たとえば預金利率がゼロという形で。あるいは、物価上昇率がマイナスなのに、ローンの金利はマイナスにならないで高金利になる、という形で。)

 結語。
 「上場廃止」というのは、損か得かと言えば、非常に得になる方法だ。ただし、その理由は、何らかの富を生み出すからではなくて、国民の富を経営者が奪うからだ。正確に言えば、「資本家として負うべきリスクを、自分で負わずに、国民に負わす」という形で、目に見えない形で、国民の富を奪っているのだ。
 これは一種の詐欺である。そして、詐欺をするがゆえに、経営者にとっては、得なのだ。ただし、経営者にとっては得だが、国民にとっては損である。
 マクロ的には、そう認識できる。ただし、古典派流に考えるなら、別の結論になる。「その経営者が得をするなら、全員が同じことをすれば、全員が得をするはずだ」と。その理屈で言えば、「全員が泥棒をすれば、全員が得をするはずだ」となる。
 古典派の詭弁。論理倒錯。

 [ 付記1 ]
 読売の記事(26日・朝刊)によれば、社長が払う金は 10億円で、残りの 2300億円ほどは、三井住友や他の銀行が払う。では、なぜ銀行は、こんな大金を払うのか? 
 それは、過剰な「量的緩和」がなされているからだ。手持ちの金は、倉庫に積んでおいても、びた一文も利益を生まない。それならば、ワールドに貸して、利息を得た方が得だ。危険手当みたいなのを込みにすると、かなりの高利を得られる。年に3%ぐらいの利息を得ることができるだろう。千億円の融資で、3%なら、30億円だ。これが手に入るのだから、大儲けだ、と考えるわけだ。
 実は、これは、バブル期の発想そのものである。バブル期には、やはり空前の量的緩和がなされた。手持ちの金は利息を生まない。そこで、土地を担保にして、莫大な金額をどんどん融資していった。そのあげく、土地神話が崩れて、担保が崩れて、技能の融資は巨額の不良債権と化した。莫大な利益を生むはずだったものが、ただの紙屑と化した。30億円ほどの利息を得ようと狙って、千億円の融資本体を紙屑にしてしまった。
 これがつまり、不良債権の発生のメカニズムである。目先の利息にこだわったあげく、本体の方を失ってしまう、という構造だ。……で、その根源が、「量的緩和」であったわけだ。
 とにかく、銀行は、こんなことをやるべきでないのだ。銀行の融資の目的は、「生産活動」のための融資である。土地投機への融資であれ、株投機への融資であれ、「生産活動」ではない「投機」のための融資など、するべきではないのだ。なぜなら、投機は、バクチであり、危険だからだ。
 銀行は、自分の社会的使命を、はっきりと悟るべきだ。すなわち、こうだ。
 「投機のためでなく、生産活動のために、融資をする」
 なのに、その使命ないし本質を理解しない銀行が、「ちゃんと担保を取ってあります」という理屈で、莫大な金を融資する。……一度やった失敗を、ふたたび繰り返そうとする。無意味な担保主義。
 資本主義の原理は、「資本家がリスクを負担すること」である。その原理を忘れた銀行が、リスクを顧みずに、目先の利益にこだわって、あげく、あとでリスクのしっぺ返しを受ける。
 阿呆な人間というものは、リスクを考慮せずに、目先の利益だけを追い求めるのである。馬の前にニンジンをぶら下げれば、ニンジンをめざして、たとえ危険な断崖の小道でも進むだろう。……馬鹿な馬であれば。(そんな馬や鹿はいないかもしれない。馬や鹿は、銀行ほど馬鹿ではない。)

 [ 付記2 ]
 本項の問題をよく理解するには、次の事例を見るといい。
  → Yahoo ニュース(毎日新聞)
   (<トヨタ>敵対的買収防衛、グループ企業が株式買い増し推進)

 つまり、敵対的買収を阻止するために、非上場の名目的な幽霊会社みたいなのが、グループ株を保有する、というわけだ。なるほど、これなら、敵対的買収を阻止できる。
 しかし、よく考えてみよう。これと同じことは、どこかの誰かがやったのではないか? 
 そうだ。西武の堤義明だ。コクドという持ち株会社みたいな会社があって、その会社がグループの株を保有する。そのコクドの株を堤義明がもつことで、間接的にグループ全社を保有する。かくて、経営の私物化。
 要するに、「株式公開」を阻止すれば、「株式の私物化」が起こる。そして、そういう不公正な状況を排除するシステムが、「株式会社」という公正な方式なのだ。
 トヨタがこういう不公正なシステムを採用するということは、トヨタが西武グループ化しつつあるということを意味する。あと二十年ぐらいは大丈夫かもしれないが、その後、堤義明がやったように、誰かが(あるいは集団が)経営を私物化する。第三者のチェックを受けないことで、否応なしに、経営は私物化されていく。……あげく、西武グループと同様に、ボス支配が起こり、不公正がまかり通り、グループ全体が没落する。
 トヨタは今回、「公正さ」を捨てたことで、没落の道を歩みはじめたのだ。ローマ帝国の没落と同じように、トヨタ帝国はまさしく没落の道を歩みはじめたのだ。


● ニュースと感想  (8月05日)

 「不良債権のツケ回し」について。
 前項では、「上場廃止」の話題で、「不良債権のツケ回し」という話をした。上場廃止のような「経営の私物化」をしたあと、その企業が倒産すれば、上場廃止のための二千億円もの資金は紙屑となり、その分は、不良債権として、国民にツケ回しされる、という話だ。
 
 これに似た例は、バブル期にもあった。で、この「不良債権」に関して、おもしろい話があった。週刊誌の「SPA」という雑誌にある漫画。坂本未明という人の書いている話。
 バブル期に不良債権問題が起こったが、これについて、こういう話がある。
 「長銀がつぶれたのは、米国の陰謀だ。何としても長銀をつぶせ、という米国の指示があった。何のために? 米国資本が日本市場に参入するために。それには、ゼロから参入するのは困難だから、既存の銀行を買収するしかない。ただし、莫大な金をかけるわけには行かない。そこで、長銀を倒産させて、不良債権処理(つまり国税を何千億円もかけて帳簿をきれいににすること)のあとで、きれいになった長銀をたったの十億円で米国資本(リップルウッド)に売却すること。……こうして、たったの十億円で、米国資本が日本に参入できた。それが新生銀行だ」
 「もう一つ、日債銀もある。この銀行は、自民党の打ち出の小槌といわれて、銀行の金を自民党の政治献金のために、湯水のごとく垂れ流していた。このままだと、倒産したときに、業務上の横領のような問題が出る。ついでに、自民党の政治家も、逮捕される。そこで、この問題を隠蔽するために、日債銀を不良債権処理する。銀行が消滅してしまえば、帳簿も消滅し、証拠も消滅し、あらゆる犯罪は闇に葬られる」
 ただし、このことの証拠を握った人物は、右翼に殺されたらしい。あるいは、殺されたあとで、「自殺」の隠蔽工作をされて、「自殺」として処理されたらしい。……この当時、死ぬはずのない人が次々と不自然な形で「自殺」したことになっている。警察の捜査も、ろくになされない。上からの圧力があったらしい。

 [ 付記 ]
 マスコミはなぜ、圧力を報道しないか? それは、先日あるいは次項で述べたとおり。
 つまり、「政治家の圧力なんかありません」と、虚偽の報道をさんざん垂れ流すのが、マスコミの仕事なのだ。「言論の自由」をつぶし、真実を隠蔽し、ひたすら権力のために奉仕するのが、マスコミの仕事なのだ。たぶん、そうしないと、自民党に殺されてしまうんでしょう。
 ひょっとして、私も、自民党に殺されるかも。やばいね。……命を危険にさらす覚悟で書きます。


● ニュースと感想  (8月05日b)

 「NHKの受信料不払い」について。
 NHKの受信料不払いが多くて、経営に支障が出るほどだという。(朝刊・各紙 2005-08-03 )
 現象だけを見れば、これは当然だろう。政府べったりの放送局に、国民が金を払うのは、どう考えてもおかしい。政府の宣伝ばかりをする広告放送には、広告主である政府が金を払うべきだ。それが当然だ。……普通の人なら、そう考えるはずだ。喜んで受信料を払う方がおかしい。(いやいや払うならまだわかるが。)
 さて。では、そうなればいいか? NHKを完全に国有放送にして、全額を税金で面倒を見ればいいか? よく考えると、それもまずい。国営放送なんてのは、最悪である。新聞で言えば、プラウダや人民日報のようなものだ。それが無料配布されて、朝日も読売も毎日も、みんなつぶれてしまう、……というようなものだ。(「ネットでニュースを読むから、新聞は購読しない」という人も多い。こういう人だと、小額の金を節約するために、言論の自由を売り渡すだろう。悪魔に魂を売り渡す、という傾向の人は、けっこう多いものだ。)
 というわけで、「NHKを完全に国有放送にして、全額を税金で面倒を見る」という案は、ボツだ。それは日本の北朝鮮化である。金日成やフセインの国と同じようなものだ。皮肉っていえば、ブッシュのアメリカにも似ている。(政府べったりの報道機関ばかりである米国が、「自由」や「言論の自由」を唱える、という皮肉。)

 では、どうすればいいか? あるべき姿を見ればいい。「NHKの独立化」だ。毅然として、政府の干渉を受けず、独立した報道機関としての立場を築くことだ。それには、まず、人事や予算などで、NHKの独立を守る必要がある。NHKの経営についての承認機関は、国会(できれば多数決よりも全員一致に近い形)として、政府の干渉をできる限り減らすことだ。……まずは、野党あたりが、NHKの独立を守るための措置に動くべきだ。当然ながら、他のマスコミも、その方針を支持するべきだ。
 さて。現実はどうか? それとは正反対だ。「NHKの幹部が番組について、与党政治家と会って、圧力を受けた」と朝日が報道したら、「圧力があったという証拠がなかったから、圧力はなかったのだ。朝日は誤報をした」という声が、世間にわんさとあふれた。
 呆れたものだ。ここでは、「NHKの幹部が番組について、与党政治家と会った」ということ、それ自体が問題なのだ。幹部たるもの、番組については、何ら干渉を受けてはならない。圧力があろうとなかろうと、会ってはならないのだ。どうしても政治家が意見を言いたければ、「ご意見の投書箱」に、一人の視聴者として投書すればいい。……しかし、それでは、政治家の腹が収まるまい。一人の視聴者として投書するのではなく、政治家として、何らかの言い分を通したくなる。そして、それがつまり、「圧力」である。
 だから、「政治家が会った」ということ、それ自体が、圧力なのだ。たとえ何も語らなかったとしても、「あの番組の件ね、どういうことなんだね」と示唆しただけで、十分に圧力となる。腹芸だ。
 
 これが物事の本質だ。言葉として語られたものよりは、言葉にはならなかったものが重要だ。「政治家が会った」ということは、まさしく「圧力をかける」という行為なのだから、このことを問題にするべきなのだ。なのに、「圧力をかける言葉があったかなかった」ということばかりを話題にして、一番肝心の「政治家が会った」ということを不問にする。こうやって、政治家の圧力を是認し、政府によるNHKの操作を是認する。
 今のマスコミの多く(読売など)は、言論の自由を破壊するために存在している。「言論の自由を守れ。政府の干渉を許すな」と語るべきときに、「言論の自由を破壊せよ。政府の干渉を許せ。政府の干渉を咎める報道を朝日がやったら、その朝日をとっちめてやれ」と主張する。
 マスコミの自殺行為。こうして国民は次々と洗脳されていく。まずは読売が洗脳され、次にNHKが洗脳され、ついでに、ネットに棲息するネットオタクが洗脳され、こぞって「朝日批判」をして、「政府にたてつくやつは、国賊だ、非国民だ」と非難する。「靖国」をめぐっては、「ご先祖様を尊敬するのは当然だ」「お上に従うのは当然だ」と主張して、「信仰の自由を守るために、宗教を国家から分離せよ」という声を踏みつぶす。
 何でもかんでも、「お上に従え」と叫ぶばかり。……かくて、政治の世界でも、私みたいな反抗者は、「トンデモだ」と非難される。
 ちょっとでも集団からはずれる人を「トンデモだ」と非難する人々だらけの国。いやですねえ。ご先祖様が命を賭けて守ろうとしたのは、こんな日本だったんでしょうか? (何だか恥ずかしくなります。……)


● ニュースと感想  (8月06日)

 「原爆記念日」について。
 8月6日は原爆記念日。7月6日はサラダ記念日。(不謹慎で済みません。)
 原爆をめぐる記事が新聞にもいくらかでている。エノラゲイの話も出ている。(読売・朝刊・社会面 2005-08-04 など。)
 これと靖国問題を比較しよう。(しつこいようだが。)
 日本は原爆を落とされたからといって、アメリカに「謝れ、謝れ」と要求はしない。過去のことは歴史の事件と見なして、いつまでも文句を言ったりしない。これは、中国や韓国と比べて、日本の良いところだ。
 ただし、よく考えると、中国や韓国だって、日本と同様だった。日本に侵略されたからといって、日本に「謝れ、謝れ」と要求はしなかった。過去のことは歴史の事件と見なして、いつまでも文句を言ったりしなかった。
 それが一転したのは、「A級戦犯の合祀」がなされてからのことだ。(1978年に実施。翌年公表。)
 さらに、「靖国参拝」という形で、日本の首相による「A級戦犯への参拝」がなされた。このときから、一転して、大問題となった。
 
 このことがよくわからない保守派が多い。そこで、原爆問題と、絡めてみるといい。比喩的に言えば、こうなる。
 「日本は原爆を落とされたからといって、アメリカに「謝れ、謝れ」と要求はしなかった。過去のことは歴史の事件と見なして、いつまでも文句を言ったりしなかった。ところが、2008年ごろになって、アメリカの大統領が、急に、エノラゲイに参拝するようになった。数十万人もの市民を虐殺した原爆の象徴であるエノラゲイのもとに参拝して、エノラゲイを称賛した。『この飛行機のおかげで平和がもたらされたのだ。原爆はすばらしい。原爆こそ平和の源泉だ』と。」
 こんなことをやれば、日本国民は神経を逆撫でされて、「ふざけるな」と言い出すだろう。米国に向けて反米デモを繰り返したり、米国商品のボイコットをやるかもしれない。……ま、その気持ちはわかる。
 同様に、中国や韓国の人々の気持ちもわかる。日本人は、戦没者を崇めたいのなら、そのための方法はいくらでもある。なのに、よりによって、ことさら中国や韓国の人々の神経を逆撫でするようなことを、あえてやるまでもあるまい。米国大統領でいえば、戦没者を称えるためには、いくらでも方法があるのであって、あえてエノラゲイだけを称える必要はないからだ。

 わが身をつねって、他人の痛さを知る。(これは小泉には最も不得意なことだ。自分のことしか考えられないんだから。ゴーイング・マイウェー。強引にまあいいや。)


● ニュースと感想  (8月06日b)

 「コジェネと燃料電池」について。
 東京ガスが「燃料電池」から「コジェネ」へと、当面の方針を変更した。「燃料電池」の実用化を 08年と見込んでいたが、とうてい無理なので、予定をひっくり返して、「コジェネ」にする。これならすでに実用化が可能だ。「燃料電池」で予定された性能を、「コジェネ」はすでに実用化しているからだ。(朝日・朝刊・経済面 2005-08-05 )
 この件は、私が先に述べたことを、そっくりそのままなぞっている。「燃料電池なんか駄目だ、既存の技術を使え」という趣旨。( → 1月23日1月24日 [ 付記 ] ,7月25日
 私の「燃料電池は駄目」という話を聞いて、「そんなのはトンデモだ」と思った人も多いだろう。「南堂だけが正しくて、トヨタやホンダや一流の電器会社などが間違っているなんてことは、ありえない。燃料は簡単に実用化されるだろう」というふうに。(実は読売もその趣旨の記事を掲げている。政府のシナリオの引用という形で、「2010年には燃料電池が実用化される」という超楽観的な記事を書いている。2005-08-04 経済面 。ウェブ・ページあり。)
 こうやって人々は、政府の誇大妄想を信じ込まされる。(何度だまされても懲りない国民。)
 とはいえ、現実を見れば、ガス会社はいつまでも馬鹿ではないから、夢よりも現実を直視して、「燃料電池はまだまだ駄目」と気づくわけだ。

 [ 付記1 ]
 注釈しておこう。「コジェネ」という言葉は、ちょっとまぎらわしい。「熱電併給」という効率アップの方法は、電源として、二通りのものが使われる。通常のオットー・サイクルの発電機と、燃料電池の発電機だ。どちらも発電のあとで余った熱源を利用することで温水を湧かすことができて、「コジェネ」になる。
 だから、「燃料電池」と「コジェネ」とは、対立する概念ではない。通常は「コジェネ」というのは、「オットー・サイクルのコジェネ」であるが、他に「燃料電池のコジェネ」もあり、さらに、「コジェネなしの燃料電池」もある。
 私もまぎらわしい言葉遣いをしてきたが、趣旨を理解して、適切に判断してほしい。「燃料電池よりもコジェネの方がいい」というふうに書いたこともあるが、この場合は何を意味するかは、明らかだろう。

 [ 付記2 ]
 読売の記事だと、2010年までに自動車用の燃料電池がものすごい進歩をしていることになる。たったの5年で。……とうてい、ありえそうにない、夢物語であろう。
 比較してみよう。
 「この5年間で、研究段階の燃料電池は、どれだけコストダウンしたか?」
 「この5年間で、ハイブリッドは、どれだけコストダウンしたか?」
 細かな技術的な進歩はたくさんあったが、いくら塵が積もっても、なかなか山にはならない。「塵も積もれば山となる」というのは事実だろうが、それには何十年もかかる。たったの5年でできるはずがない。
 夢と現実の混同。希望と現実と混同。……この違いを理解する人はいないんでしょうかね? 


● ニュースと感想  (8月07日)

 「戦争の回避」について。
 60年前の戦争に関して、「なぜ負けるに決まっている戦争を回避できなかったか?」と疑問に思う人が多いようだ。そこで、私がはっきり答えておこう。
 「人々が真実を見なかったのは、真実の声が封殺されていたからだ」
 一般に、真実というものは、誰かがはっきりと声を出すことによって意識される。「そうかもしれないな」と思う人は多いだろうが、漠然と感じるだけでなく、はっきりと言葉で表現する必要がある。
 しかし、当時、反戦的な言論は一切、封じられたいた。理由は二つ。
 「軍国主義であり、軍が政治を(実質的に)握っていた」
 「非民主主義であり、言論の自由はなかった」
 この二つのことで、「戦争反対」という声を上げることは、不可能だった。仮に、そんな声を上げれば、「非国民」と見なされ、特高に逮捕され、獄死することになる。(たとえば、小林多喜二。)……フセイン体制や金正日体制と同様だ。

 さて。今現在は、どうだろうか? 一応、名目的には、言論の自由はある。あることはあるが、まともに機能していない。なぜなら、「真実を広める」という役割をになうマスコミが、正常に機能していないからだ。逆に、(読売のように)政府の犬となったり、(朝日のように)自分の勝手な思い込みを国民に押しつけたり、ほとんど報道管制を敷いたようなありさまになっている。
 とはいえ、最近は、インターネットというものがある。これによって、言論の自由は、かなり保たれるようになった。では、それで、問題は解決したか? 否。
 なぜか? それは、人々自身が、自分で自分に「思考の枠」をはめているからだ。それは、「古い思考にとらわれる」という枠だ。つまり、自分で自分を縛っている。これを自縄自縛という。
 
 経済学であれ、物理学であれ、進化論であれ、従来の学説は矛盾だらけなのだが、「現在の学説は正しい。ゆえに、現在の学問を否定する学説は、トンデモだ」と思い込む。これは、戦時中の発想と同じだ。
 「日本軍は正しい。ゆえに、神国日本を否定する輩は、非国民だ」
 非難する言葉が「非国民」と「トンデモ」とで異なるだけで、実質的には、言っていることは同じだ。こうやって、異端の説を圧殺する。だから、最初は異端として現れる真実の芽は、圧殺されるのだ。

 あの戦争では、なぜ巨大な失敗の穴に落ち込んだか? バブル後の経済では、なぜ巨大な穴から脱せないか? ……いずれも同じである。人々が「古い思考にとらわれる」という形で、自らに対して、「真実を見る目」をふさいでいたからだ。


● ニュースと感想  (8月07日b)

 「PC漢字の混乱」について。
 先日のJIS漢字の話に、追記した話がある。
 一つは、フォントの話で、次のページで。
  → Open ブログ8月03日

 もう一つ、混乱の話(JIS X0213:2004 )もある。かなり長い話。
  → Open ブログ8月05日 ,Open ブログ8月06日


● ニュースと感想  (8月08日)

 「郵政法案と衆院解散」について。
 郵政法案が否決されたら衆院を解散する、という方針を首相が暗示している。その理由として、「郵政法案の廃案は、小泉改革の否定だ」と述べている。(朝日・夕刊・1面 2005-08-06 )
 ここで、小泉はもちろん、次の意味で言っている。
 「私の方針は、改革だ。郵政法案を否定するということは、改革を否定するということだ。ゆえに、改革を認めるなら、改革のための郵政法案に賛成するべきだ」
 これは詭弁である。論理的に、狂っている。なぜか? 正しくは、こうだ。
 「小泉の方針は、口先だけの改革だ。郵政法案を否定するということは、口先だけの改革を否定するということだ。ゆえに、改革を認めるなら、口先だけの改革のための郵政法案に賛成する必要はない」

 ここで、本質は、何か?   「小泉の改革は、口先だけの改革にすぎない」
 ということだ。これはつまり、
 「小泉の改革は、言葉の上では『改革』と呼ばれるが、本当はその言葉に値しない空虚なもの(空っぽなもの)にすぎない」
 ということだ。名前だけあって、実態がない。なのに、そういう空っぽなものが、「改革」という名前で呼ばれるせいで、本当の改革であるかのごとく錯覚される。
 小泉は言葉(キャッチフレーズ)による宣伝が上手だ。しかしそれは、口先男または詐欺師であるというだけのことだ。「パンパカパーン」と構造改革をブチ上げたまではいいが、「米百俵」とか「e-Japan 」とか「改革なくして成長なし」とか何とか言っても、しょせんは「何も実行せず」というだけのことだ。(しいて言えば、不良債権処理の形で、半病人の企業を、次々と殺していっただけだ。救うかわりに、殺すだけ。)
 小泉は、改革者ではなくて、「改革」を口にしながら、破壊だけをしてきた。一種の経済テロリストである。経済テロを「改革」と呼んで、国民をだましてきたわけだ。

 詐欺師の心地よい言葉にだまされるな。── それが本項の結論だ。

 [ 付記 ]
 ここで、どこが詐欺かのポイントは:
 「郵政民営化」という方針自体は、間違っていない。たいした改革ではないが、まったくやらないよりは、やった方がいい。その意味で、「小泉と反対派」という図式では、小泉の方が正しい。反対派(保守派)が正しいわけではない。
 小泉の詭弁の特徴は、「反対派は悪い、だから自分は正しい」というふうに理屈をもってくることだ。本当は、「目くそ鼻くそ」なのだが。
 「毒薬で殺されのと、銃殺されるのと、どちらがいいですか?」
 「癌になるのと、エイズになるのと、どちらがいいですか?」
 「醜い老婆と結婚するのと、オカマと結婚するのと、どちらがいいですか?」
 こんな質問には、「どっちもイヤだ」と答えるしかない。小泉と反対派も同様。どっちも捨てるしかない。要するに、まともな改革派に交替するしかない。……ま、自民党政権が壊れれば、どう転んだって、今よりはマシになるだろう。
 昔の細川政権を思い出そう。あれは支持率が9割を超えていた。あの再来を望みたいですね。(半年で政権を投げ出したのは、真似してほしくないが。……その点、クリントンは偉かった。いくら下半身を攻撃されても、決して政権を投げ出さなかった。相手が「やめて」といっても、すぐにやめずに、最後まで続ける、……というのは、女性扱いが上手だったからだろう。[下ネタで、すみません。])


● ニュースと感想  (8月08日b)

 前項の続き。「次の衆院選挙」について。
 衆院解散があるかないか、なんてことをマスコミは報道しているが、「衆院解散はある」と見なした上で、「その結果はどうなるか」を予測した方がいいだろう。
 予測といってもヤマカンでは意味がないが、はっきりとした事実はいくつか上げられる。
 以上をかんがみて、私の予想議席数は、自民党が前回当選より30議席以上減らして、200議席前後。民主党は前回当選の177議席から30議席以上増やして、210議席ぐらい。自民党をちょっと上回りそうだ。その他、比例区では共産党が現行の9議席程度。あとは泡沫政党。
 予想すれば、自民党政治は終わり、民主・公明・保守亀井派の連合で、中道政権の成立だろう。問題は、あの人が首相の器に足りるかどうかだが。……菅直人でないのが残念。

 [ 付記 ]
 と書いたあとで気づいたが、読売(朝刊・4面 2005-08-07 )には、簡単な予想記事がある。予想というよりは、数字なしで、おおまかな傾向のみを示す。たいして意味のない記事。
 なお、8月07日の夕刊と8月08日の朝刊は、お休みです。この一大事に、のんびりと休んでいるわけ。ビールと枝豆。


● ニュースと感想  (8月09日)

 「専門語の表記」について。
 表記法について、「コンピュータ」か「コンピューター」か、という問題を朝日が取り上げている。長音記号の有無だ。(朝刊・第三社会面・コラム。2005-08-07 のころの数日間。)
 07日の記事では、「専門用語を一般向けの記事やマニュアルに記述するべきではない、という方向にある」という趣旨の話がある。しかし、こんなことは、まったく当り前のことだ。新聞社はそこのところを根本的に勘違いしている。
 「専門用語が正しく、一般用語は正しくない」
 今のマスコミは、この方針を取っている。そのせいで、やたらとカタカナを使いすぎる。
  「染井吉野」→「ソメイヨシノ」
  「菊」→「キク」
  「鶴」→「ツル」
  「白鳥」→「ハクチョウ」
 ちゃんと感じがあるのにカタカナにするのは、やめてもらいたいですね。いくら専門語ではカタカナにするからといって、専門語を使う必要はない。
 ついでに言えば、専門語(学名)は、欧米ではラテン語で書かれる。花や鳥の名前をラテン語で語る、というような馬鹿なことをする国民は、他国ではありえない。日常語を学名よりも下に置く、なんて考えるのは、狂気のマスコミだけだ。

 電気用語も同様。専門語では横書きのために「コンピュータ」と書くのが自然だろう。しかし日常語では専門語の書法を踏襲する必要はまったくない。ラテン語で書く必要がないのと同様だ。
 上ばかり見ていて、読者のことを見ない、というマスコミの体質が露見している。自分たちをお上の広報紙だと思って、読者のためにあるということを忘れているから、兵器でこういうことをやらかすのだ。物事の根本が狂っている。基本精神がイカレている。……夏の暑さのせいじゃないですね。


● ニュースと感想  (8月09日b)

 「サマータイム法案」について。
 サマータイム法案についての記事がある。今期は時間切れなので、次の国会で再提出をめざすという。超党派の議員立法。(朝日・朝刊・経済面 2005-08-07 )
 日本の国会のやっているのは、この程度のものだ。経済の巨大な不況を扱うかわりに、時計の針を進めたり遅らせたりすることだけ。くだらん。みみっちい。
 しかも問題なのは、これが「民主主義の基本に反する」ということだ。サマータイムは、賛成者が「ちょっとだけメリットがありそうだから、やってみれば?」という程度であるのに対して、反対者は「生活リズムが狂って巨大な迷惑をこうむるから絶対にやめてほしい」という切実なものだ。ここで、仮に多数決で可決したとしたら、「少数派に多大な被害をもたらして、多数派がちょっとだけ利益を得る」という形になるから、まさしく「多数派の横暴」であり、民主主義の最悪の形態となる。だから、これは本来、民主主義では「やってはならないこと」なのだ。
 この問題は、マクロ経済学にも似ている。「全体量の悪化」である。「51人が得をして、49人が損をする」というのを見て、古典派ならば「OK」と答えるだろう。しかしマクロ経済学ならば、「得が各人 +1 で、損が各人 −2 ならば、総量はマイナスになる」というふうに、総量の増減を計算する。
 たかが国会議員の多数決でサマータイムを決めて、日本人全体に迷惑をかける、という、馬鹿げた発想。国会議員が論じる前に、マスコミでも大いに論じられているが、そこでは「賛否が分かれる」という形になっている。しかも、賛成側がただの直感による賛成であるのに対し、反対側は綿密な根拠を出した反対でる。愚人の賛成と、賢人の反対。……ここで賛成が可決されたら、ただの衆愚政治だ。(なお、国会議員は愚人ばかりだから、可決される可能性が高い。)
 国会議員は、国民生活を指導するという余計なおせっかいをするくらいなら、まともに政治の改革でもやってもらいたいものだ。
( ※ 政府がこれまでにやった改革と言えば、「クールビズ」だけでしょうかね。)
( → 本件で過去の記事の一覧

 [ 付記 ]
 この問題の核心は、「サマータイムを全員に強制する」という点だ。やりたい人だけが早出出勤するなら、別に問題はない。私はこれを「サマーワーク」と呼ぶ。( → 過去ログ


● ニュースと感想  (8月10日)

 パソコンの話として、下記をご覧ください。
  → Open ブログ 2005年08月09日
  「パソコンのバックアップ」という話。


● ニュースと感想  (8月10日b)

 「衆院選と与野党」について。
 衆院選では、私はどちらを支持するか? そのことを明かしておこう。
 まず、小泉は、こう主張する。
 「今度の選挙は、改革賛成か改革反対かだ」
 この理屈だと、こうなる。
  ・ 改革賛成 …… 自民党の小泉勢力
  ・ 改革反対 …… 自民党の党内反対派および野党
 で、この図式で、小泉は「おれの勝ち」と踏んでいるわけだ。

 私は、こう言っておこう。  「郵政改革なんか、どっちでもいい。そんなのは日本の命運を左右しない。日本の命運を左右するのは、景気対策だ。景気対策をやるかやらないかだけが、選挙における国民行動を左右する」
 では、景気対策とは? それが問題だ。次のいずれも駄目だ。
  ・ 構造改革
  ・ 量的緩和
  ・ 公共事業
  ・ 不良債権処理
  ・ 財政再建(増税)

 かわりに、次の政策だけが、唯一、正しい。
  ・ 現在の減税と、将来の増税
 つまり、「景気回復後の増税」(一定期間後の増税ではない)を担保とした上で、現時点で十兆円以上の大型減税をすること。── この政策だけが、唯一、判断の分かれ目となる。これをやるなら、どの政党であれ、正しい。これをやらないのなら、どの政党であれ、間違い。
 現状では、「自民党ははっきり駄目」である。民主党は、まだ政策が決まっていないようだが、決まっていないようでは、「良し」とはとうてい言えない。ただし、今後、「大型減税」を公約として出すのなら、一挙に満点となる。

 ※ 現時点では、かろうじて点数を取れるのは、共産党だけだ。日本の経済のことを最もよく理解してるのは、共産党だ、という皮肉。
 大企業は、自社の利益を大幅に増やしたいなら、自民党に献金するより、共産党に献金した方がいい。その方がずっと大幅に利益が増える。(皮肉ですけどね。)
 ※ なお、共産党は「ただの減税」だけで、「将来の増税」は含まれていないらしいから、この点では、落第だ。50点。
 ※ なぜ将来の増税が必要か? 将来の増税があるから、現在の減税を大規模にできる。仮に、将来の増税がなければ、現在の減税は小規模となり、効果は焼け石に水だ。


● ニュースと感想  (8月11日)

 「景気の現状」について。
 政府は景気について、「踊り場脱出」と宣言し、「本格的な景気回復」を認定した。しかしこれは選挙目当てのただの宣伝である。経済学的に言えば、白を黒と言いくるめているようなものだ。
 まず、次の質問をしよう。
 「生産性の向上が2%あると、GDPはどれだけ増えるか?」  他の条件が変わらなければ、もちろん、2%だ。そして、生産性の向上は常に年2%はあるから、GDPは常に年2%は拡大していいはずだ。ところが、現実には、GDPは実質値で1%程度しか上昇していない。
 とすれば、差し引きして、1% − 2% で、マイナス1%となる。これは、何を意味するか? 労働者の減少だ。生産性とは、労働生産性の向上を意味するからだ。
 要するに、生産性が向上して、生産額が増えて、企業の利益も拡大しているのだが、労働者はどんどん解雇されていく、ということを、上の数字は意味している。
 だから、正しくは、こうなる。
 「GDPの拡大の幅が、生産性の向上の幅(2%)を上回ったときに、景気の回復を宣言できる。現状は、企業の利益は向上するが、国民の雇用はいまだ悪化しつつある状況である」

 さて。現実の雇用を見ると、少しは改善する傾向が見られるが、雇用の調整は景気の調整に半年かそこらは遅れるから、必ずしも現在の状況を意味しないし、また、ある程度の誤差などもある。
 特に、重要な点もある。それは、団塊の世代の退職だ。企業は、景気回復のせいで雇用を増やしているのではなくて、団塊の世代の大幅退職に備えてちょっと雇用を増やしているだけかもしれない。つまり、こうだ。
 「高齢者が五百万人退職して、若年者が二百万人雇用される。雇用者総数は、三百万人減る。しかし、高齢者は退職しても失業者にカウントされないから、名目上、失業率は改善していることになる」
 つまり、雇用者はどんどん減っているのに、失業率は改善している、というわけだ。ここでは、団塊の世代がいるせいで、数字のマジックが起こって、失業率が低下しいるように見えるだけだ。

 さらにもう一つ、数字のマジックがある。生産量が増えているように見えても、本当は指して増えていない、ということだ。なぜなら、GDPの増加は、「実質GDP」の値であるからだ。
 好況のときはともかく、不況のときには、実質GDPの値は、補正された値と見なすことができない。ここでは、「物価下落の分だけ数値が上がっている」というふうになるだけだ。たとえば、実際の生産活動はまったく同じでも、物価が2%下落すると、「実質GDPが2%上昇しました」というふうになる。デフレが悪化すれば悪化するほど、物価下落が起こり、実質GDPはふくらむことになる。(名目GDPの方は、ほとんどゼロであり、上昇なんかはしていない。)

 あれやこれや見ると、「景気回復」というのが実態を反映していない、ということが、はっきりとわかる。小泉流の「詐欺政治」の典型だろう。


● ニュースと感想  (8月12日)

 「民主党の方針」について。
 今度の選挙の争点は、何か? 小泉は「(郵政の)改革か否かだ」という。で、民主党の菅直人たちは、「そんな相手の土俵に乗るな」と党首の岡田に進言したという。で、岡田は「わかった」と答えたあげく、争点をこうぶちあげた。
 「今度の選挙の争点は、小泉か岡田かだ」
 呆れたものだ。「岡田」なんていったって、関西ではどこかのボケ監督かと思われるのが関の山だ。「何のこっちゃ? 堀内か岡田か、の間違いじゃないの」と言われるだけだろう。(首になる監督の話。)
 
 正しい争点を教えよう。それは、こうだ。
 「首相のためか、国民のためか」
 首相のためであれば、「猪突猛進の構造改革」を唱える改革バカを支持すればいい。国民のためであれば……ええと、どこを支持すればいいんでしょうか? 
 ここを、よーく考えないと、駄目だ。「国民のためなら、わが党を支持してください」と言えるようでないと。
 現状は? 党首はこう言っている。「岡田のためであれば、わが党を支持してください」
 バカらしくて、話にならない。どっちもこっちも、「首相のため」と唱えているだけだ。目くそ鼻くそ。
 小泉は、改革バカ。岡田は、真性バカ。どっちのバカがいいか? どっちもいやですよね。
 岡田にまともな頭があれば、さっさと菅直人を副党首格で迎えるはずだが、「人事権は党首にある。おれの好きなようにやる」と言っているだけ。要するに、ただのワンマンのボスであり、他人の意見を聞く耳をもたない。……こいつは、ブッシュや小泉と同じで、ただの独裁的なボス体質だ。無能なやつほど、独裁的なボス体質になる。無能なやつほど、他人の意見に耳を貸さずに、独走する。
 はっきり言っておこう。民主党は、岡田に「他人の意見を聞け」と勧告した上で、岡田が拒否したら、岡田をすぐさま解任した方がいい。さもないと、たとえ政権を取ったとしても、国民にとっては最悪だから、民主党は党が瓦解する危険がある。民主党は、政権を取らないうちは安泰だが、政権を取れば、バカな党首をいだいて、党が瓦解しかねない。
 岡田というのは、党首になる前は、けっこう謙虚だった。ところが、最近は、威張ってふんぞりかえっている。小泉が強権的なので、それに対抗して、自分も強権的になろうとしている。「これでいいライバルになれるぞ」と。
 こんなやつは、さっさと捨てた方がいい。威張り散らすボスほど、有害なものはない。ブッシュしかり、フセインしかり、小泉しかり。

 [ 付記 ]
 10日の朝日新聞(朝刊・番組欄)に、NHKの番組の予告解説があった。コソボ紛争でブッシュがセルビア攻撃の空爆をしたが、それによって民主主義が回復したわけではなく、かえって民族間の分断を決定的にし、国家を完全に破壊してしまったという。紛争が起こったときに、憎しみを解消するのではなく、一方を勝手に「正義」と見なして、大虐殺することで解決しようとする。……こういう独裁的な方法では、世界は破壊されるばかりだ。独裁者の方針というのは、こういうものだ。自分が「正しい」と信じた道を猪突猛進し、他人の意見を無視して、ブルドーザーのごとく進む。彼はたしかに道を切り開くが、そのまわりには多大な破壊の跡が残る。
 小泉という破壊的なブルドーザーのかわりに、岡田という破壊的なブルドーザーを立てても、何の意味もない。どっちもつぶれてほしいものだ。大切なのは、破壊ではなく、建設である。そのためには、批判に耳を傾けるだけの、謙虚さが大事だ。……小泉には、それがない。そして、岡田も。(あっちの岡田も、こっちの岡田も。)


● ニュースと感想  (8月12日b)

 「情報の有料化」について。
 Winny のように「無料で他人の情報を使ってやろう」という泥棒根性のソフトもあるが、逆に、「無料のものに金を払おう」という試みもある。ブログの記事に金を払う、というシステム。
  → Open ブログ 8月11日

 泥棒根性とは正反対。これは、「人々が金を払うことで、文化を創り上げる」という試みだ。なかなかよろしい。私としては、褒めておこう。「金は一文も払いたくない」というさもしい人々もいるだろうが、さもしくない人々もいるものだ。
 なお、こういう制度で、人々は損をするか? いや、損をしない。むしろ、得をする。なぜか? 
 金を払うとしても、払う金は、自分が受けた利益の範囲内のことだ。たとえば、「この記事には百円の価値があるな」と思ったら、百円以内の金を払うだけだ。たとえば、50円の金を払う。そして、そのことで、今後もその記事を読むことが可能となる。
 
 ちなみに、「小泉の波立ち」は、(たぶん)永遠に無料です。なぜか? 気まぐれな私が「いつでもやめる」という自由を確保するためだ。
 読者は、タダでこの記事を読めるが、そのかわり、明日にも、私の気まぐれで、「小泉の波立ち」は停止するかもしれない。読者は、金を払っていないのだから、受け取る権利もないのだ。
( ※ これで、このホームページが無料であるわけが、わかったでしょう。私が気まぐれで、いつでも勝手にやめる自由を確保するためだ。気まぐれ男の気まぐれを満たすため。……ある日突然、やめることは、あります。たとえば、どこかの彼女と駆け落ちした場合。……そのために、無料にしているんです。  (^^) )


● ニュースと感想  (8月13日)

 「民主党の党首」について。
 前々項では、民主党の党首を「真性バカ」と記述しましたが、これは事実に反する誤りであったので、訂正します。

 民主党の党首は、民主党の選挙スローガンとして、「日本を、あきらめない」という語句を採用しました。では、「日本を、あきらめる」とは、何のことでしょうか?
 たぶん、「諦める」の意味なのでしょう。しかし、「成功を諦める」なら意味が通りますなら、「日本を諦める」なら意味が通りません。(「きみのことを諦める」なら意味が通りますが、「〜のこと」が入ります。)
 「日本を、あきらめない」なんていう狂人的な言葉を使うのは、正気の沙汰ではありません。「真性バカ」というより、「精神異常者」と称するべきでしょう。
 というわけで、党首の評価を、「真性バカ」から「精神異常者」に訂正します。前々項の記述が不正確であったことを、お詫びします。
 日本を精神異常者に委ねたい人は、ヒトラーか岡田氏に政権を委ねるといいでしょう。(そういえば、ヒトラーみたいな人もいますね。反対党に。  (^^); )

 [ 付記1 ]
 冗談はさておき。……
 要するに、このキャッチフレーズは、「never give up」を下手に直訳しただけだろう。日本語を正常に使う能力が欠落しているから、こういう馬鹿げたことをやらかして、認識できない。
 ま、「英語かぶれの日本語音痴」と言うのは、よくある話だから、とりたてて目くじらを立てるほどのこともない。ただし、自分でそういう大失敗をやらかして、ちっとも気づかない、というのが、どうしようもない点だ。
 自分で大失敗をやらかして、気づかない、ということ。── これは政治家として、致命的な難点だ。
 さらに言えば、漢字の「諦める」という文字を知らない幼稚さも、どうしようもない知性(痴性?)だ。ひょっとして、高度な知性があって、「明らめる」という文語のつもりかもしれないが、それも不自然だ。
 もしかしたら、やはり、ただの「真性バカ」なのだろうか? ……それならそれで、筋は通るが。
 民主党の政策の第一弾は、「個人所得税の増税」である。「児童手当」などを支給して、その財源に「個人所得税の増税」をやる、という方針。
 バカじゃなかろうか? 国民間の配分をいくら変更しても、それは、ただの所得再配分であり、良くも悪くもない。経済政策になっていない。(福祉政策にはなっているが。)
 この不況の一大事に、景気の立て直しを二の次にして、目先の福祉政策を優先させる。火事で家が崩壊しそうだというときに、消火をほったらかして、赤ん坊におっぱいを含ませることを考えている。……あげく、家もろとも、焼けつくされる。
 これは、「真性バカ」か、「狂人」か? どっちでしょう? ま、どっちにしろ、日本経済は破壊される。小泉以上にひどい経済音痴。いや、経済狂人。

 [ 付記2 ]
 このことからわかることがある。日本語力を見れば、知性がわかる、ということだ。口先だけの小泉もひどいが、口先さえも駄目な岡田は、最悪だ。言葉をまともに使えないのは、論理が錯乱していて、頭が錯乱しているからだ。……私なりに、評価を下そう。小泉は、日本経済を停滞させた。しかし、岡田が政権を取れば、日本経済を破壊する。最悪の事態になる。(理由は、翌日分で。)


● ニュースと感想  (8月13日b)

 「PC漢字」について。
 新JIS規格の漢字について、新たな解説を公開しました。
   → 2004 JIS をめぐる混乱

● ニュースと感想  (8月14日)

 「民主党の経済政策」について。
 民主党の経済政策を見ると、小泉以上にひどい。小泉は状況を停滞させたが、ミンス党の政権は状況を悪化させる。下手をすると、日本経済を破壊しかねない。最悪の事態になりかねない。── その理由は? 「サプライサイド」のかわりに、「マネタリズム」を取るからだ。

 予測しよう。民主党が政権を取る。すると、量的緩和を大幅に継続して、マネーをジャブジャブにする。その結果、資産価格と物価が急上昇し、同時に、実質所得の低下から、消費が縮小して、スタグフレーションになる。

 つまり、これまでは、「物価下落と所得低下」のデフレだったが、民主党が政権を取れば、「物価上昇と所得の大幅低下」というスタグフレーションになる。
 たとえば、物価が 10%上昇する。これは、マネタリズムの狙い通りだ。「物価が上昇するから、消費も投資も増える」というわけだ。
 しかし、残念ながら、そうはならない。それが成立するには、物価上昇率意図賃金上昇率がほぼ一致する必要がある。しかし初年度は、物価上昇だけがあり、名目所得の上昇はないから、実質所得が10%減少するだけだ。かくて、生産活動は10%低下する。……こうして、景気は悪化する。
 さて。国民は大損をするが、その金は、どこへ行くか? 基本的には、企業と投資家に行く。企業は物価上昇の分、実質金利が下がり、大幅な利益を得る。その利益を、どうするか? 設備投資に向ければ、何も問題はない。しかし、消費が激減するときに、設備投資をする馬鹿はいない。当然、手持ちの金は、資産投資に向けられる。かくて、地価と株価ばかりが上昇する。
 結局、一般大衆は所得の10%下落に苦しみ、土地と株の持主は資産価格が20%ぐらい上昇して大喜び。
 それでいいか? 当面は、それでいいかもしれない。しかし、数年後にふたたび、バブルが破裂し、ふたたびデフレに落ち込む。……かくて、日本経済は地獄のありさまになるだろう。

 真性バカまたは狂人が経済政策を取ると、こういうことになるのだ。マネタリズムを採用して、スタグフレーションを引き起こし、さらには、バブル膨張とバブル破裂が、追い打ちだ。

 [ 付記 ]
 もっとひどいのが、「高速道路の無料化」という政策だ。それで利益を得るのは、運送会社だけだ。宅急便の運送会社は儲かるだろうが、国民はその分、増税となり、大損だ。
 どうせなら「ビールの減税」の方が、ずっと効果がある。なぜか? ビール減税は国民全体にほぼ均等に行き渡るからだ。……ま、ワインや日本酒党や、アンチアルコールの人には、不満かもしれない。しかし、そもそもビールだけが、極端に効率の税であったから、「ビールの減税」には、正当な意味がある。同時に、経済て的にも、効果がある。
 「高速道路の無料化」なんてのは、環境を汚染するだけだ。本来ならば鉄道で運ばれるものがトラックで運ばれるようになり、炭酸ガスが大幅に増加する。レジ袋有料化でいくら節約しても、その百倍もの石油が無駄になる。
 はっきり言って、「高速道路の無料化」というのは、運送会社の社長にコロリと洗脳された、馬鹿党首のいる政党の発案だ。
 小泉は少なくとも、「構造改革」という国家規模の大ボラを吹いた。どうせホラを吹くにも、「高速道路の無料化」というのは、あまりにもいじましい。政党がまともに公約に取り上げるようなものじゃない。……経済音痴の度合いをさらけ出すだけだ。
 国家の経済政策というものは、需要不足のときに、30兆円ほどGDPを拡大することが目的となる。これこそが喫緊の課題だ。この喫緊の課題をほったらかして、「高速道路の無料化」なんかを掲げる政党には、情けなさのあまり、吐き気すら覚えるね。
 さっさと解党すべし。


● ニュースと感想  (8月14日b)

 「PC漢字」について。
 細かな話を補足しておいた。特に重要ではないが。
   → Open ブログ 2005年08月13日







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「小泉の波立ち」
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