第2章 改革の問題点


        
 《 目次 》

  序言
  景気回復
  IT化
  不良債権処理  
  株式保有機構
  その他
   (後日記)

 

 序言

 小泉の改革[小泉内閣の改革]は、おおむね、正しい。
 しかし、完全無欠というわけではない。ところどころに問題点も見つかる。そうした問題点を、以下でいくつか列挙してみることにする。

 【 付記 】
 誤解されると困るのだが、私は別に、小泉を非難しようとしているのではない。誹謗中傷を言いたいわけではない。小泉にも足りない点があるので、それを冷静に指摘したいだけだ。悪口と聞こえる箇所があるとしたら、私の筆の未熟さゆえのこととして、海容していただきたい。

 なお、小泉ファンの人は怒るかもしれない。
 「純一郎さまを批判するなんて、純一郎さまに失礼だ」
 と。しかし、それは本人の気持ちに反する。
 小泉は、批判を嫌わない。批判を聞く耳を持っているし、それどころか、批判を好んで聞く。なぜなら、批判を聞くことが、道をあやまたずに済む唯一の策だからだ。
 身のまわりを「イエスマン」だけで囲んで、批判にいっさい耳を貸さないような人物は、「自信過剰」「唯我独尊」の独裁者となる。それはまた、「自滅」に至る道でもある。
 だからこそ、小泉は「批判」を好んで聞くのである。その点、旧来のワンマンな保守派首相とは異なる。それゆえ、私はここに、批判めいたことを書く気になった。



 なお、小泉は経済学者ではない。だから、小泉が経済音痴だとしても、それは別に小泉の恥ではない。恥じるべきは、むしろ、「経済学者」を自称している人たちだろう。

 以下の文中では、「小泉は〜」という記述もあるが、これは「小泉個人は〜」と読むべきではなく、「小泉(とその周辺の人物たち)は〜」とか、「小泉の内閣は〜」と読むべきでもある。いちいち長たらしく書くのは面倒なので、単に「小泉は〜」と書いた箇所も多い。


 景気回復

 今の日本で、一番大事な問題は何か? それは、デフレからの脱出、つまり、景気回復である。
 しかしながら、小泉は、この点については、正しい方針を示していない。単に「構造改革をする」と述べているだけだ。しかしこれは、根本的に間違っている。
 デフレに関しては、次のことを理解することが必要だ。

 小泉は、このいずれも理解していない。このことを、以下で述べよう。

 デフレの本質

 デフレの対策をするには、まず、デフレの本質を知ることが大事だ。つまり、「デフレとは何か」「デフレとはどういう状況のことか」を知ることが大事だ。
 いきなり解答を言おう。
「デフレとは、供給に対して需要が不足している状態」
 のことである。(インフレは、その逆。)
   [ ※ ただし、個々の商品についてではなく、一国の市場全体について言う。]

 経済というものは、供給と需要が一致している状況が好ましい。「市場経済」というものが成立するのも、このような安定的な状況である。
 一方、供給と需要が一致していない状況がある。需要が多すぎたり(インフレ)、供給が多すぎたり(デフレ)。こういう状況では、「市場経済」は、必ずしも成立しない。たとえば、需要が多すぎると、物の値段がその価値以上に異常に上昇することがある。

 市場経済と景気

 「市場経済は素晴らしい」と信奉する人は多い。古典的な経済観である。しかし、これは、古すぎる考え方だ。
 市場経済が有効性を十分に発揮できるのは、インフレでもなくデフレでもないときだ。一方、インフレやデフレのときは、市場経済がかえって状況を悪化させることもある。こういうときは、規制が状況を良くすることもある。(「放置すれば全員倒産。それを補償するために公的資金投入」── という最悪の結果を避けるために、公的規制をした方がいい、ということもある。)

 構造改革と景気

 小泉は、景気回復の手段として、「構造改革」を唱える。しかしこれは誤りだ、とすぐにわかるだろう。「構造改革」とは、日本の体質を強くすることだ。それは、日本の基本的な経済力を高める効果がある。しかし、それは、景気とは何の関係もないのだ。(しいて言えば、わずかにデフレの効果の方が強い。)
 次の図を見てほしい。

     景気と経済成長の図

 経済というものは、一般に、長い目で見れば、右上がりの曲線を取る。[ 図の点線 ] これは、生産性の向上である。  一方、当面の経済状態だけを見れば、上がったり下がったりで、波をなす。[ 図の実線 ] この「上がったり下がったり」の上下動が景気である。
 デフレを解決するには、この「上がったり下がったり」の波の振幅を小さくすることが大事だ。これが、デフレの解決の本質であり、デフレの解決の目標だ。
 一方、長い目で見たときの右上がりの曲線を、なるべく高い率で右上がりにすることも大事だ。原始的な農耕社会では、何百年も同じ農耕法をしてきたので、生産性の向上はゼロパーセントである。蒸気機関のようなものができて、機械の力を利用できるようになる、という産業革命が起こると、この生産性の向上率は劇的に向上する。
 ここまで言えば、明らかだろう。
 「構造改革」とは、経済の体質そのものを強化することであり、生産性の向上である。それは、もちろん大切だが、長期的にのみ、効果を発する。また、その効果は、非常に小さい。ほったらかしておいても、年間生産性向上率は2%程度である。政府が何らかの音頭取りをしても、それに対する上乗せは、ほとんど微々たるものにすぎない。たとえば、IT関連産業を大幅に振興したとしても、別に農業やサービス業などの生産性が上がるわけでもないので、国家的な生産性向上は、せいぜい0.5%程度であろう。それが景気に及ぼす効果は、ほとんど無視してよいレベルだ。つまり、「構造改革」というものは、「景気」にたいしては、ほとんど無効である。また、成果が現れるのは、何年も先の話である。
 だから、当面の景気回復のためには、「構造改革」ではダメなのだ。それはそもそも、狙っているものが根本的にずれているのだ。

 景気対策と景気

 一方、「景気対策」は、逆である。これは、日本経済の体質そのものを強化するわけではない。需要と供給のバランスが崩れているのを、適正に直すだけである。逆に言えば、このバランスを適正に直せば、景気は回復する。
 このような「バランスの是正」は、絶対に必要だ。「いや、政府は何もしない方がいい」という意見もあるだろうが、そういう意見は、完全に間違いである。その証拠が、バブルだ。バブルは、まともな経済運営がなされていれば(たとえばグリーンスパン議長が運営していれば)、発生させずにいることができた。株が異常に上昇し、地価が異常に上昇しているのだから、金利を十分に上げればいいのであって、それでバブルの発生を止めることができた。(この点は、今日では、もはや常識だろう。)ところが、である。当時の政府は、ほとんど無策だった。資産インフレは明確に発生していたもかかわらず、 現況がインフレであると認識できなかった。そうして故意に無策でありつづけた。かくて、何もしないでほったらかしておいたのだが、その結果は、巨大なバブルの発生だった。
 今日でも、話は同様である。(話の方向は正反対だが。)今日の状況は、かつてのバブルとは正反対で、いわば、「逆バブル」である。
 そして、バブルのときに、バブルを収束するべきであったように、逆バブルのときにも、逆バブルを収束するべきなのだ。
 「デフレは放置するべきだ」という主張もときどき見られるが、しかし、それは、「インフレは放置するべきだ」という主張と同様である。そういう無責任な主張は、バブルから何も学んでいない、と言わざるを得ない。

 構造改革と景気対策

 構造改革と景気対策は、似て非なるものである。前者は「長期的な体質強化」であり、後者は「当面のバランス是正」である。
 たとえて言えば、次のようになるだろう。

 景気対策というものは、病気の治療に似ている。すでに体力は十分にあるのだが、たまたま、内臓のどこかのバランスが崩れて、肉体的に変調をきたして、倒れてしまうのである。こういう病人に対して、「体力をつけろ」と言っても、それはあまりに見当違いである。体調を崩した病人は、体力がないから倒れたのではない。手や足の筋肉が衰えたから倒れたのではない。内臓のバランスが崩れたから倒れただけだ。このときは、崩れたバランスを直すように、適当な薬剤を飲めばよい。その薬剤により、ホルモンの調子とか自律神経の状況とかが是正され、崩れたバランスが直り、そうして、元の体調に戻る。ここでは、薬剤は、手や足の筋肉を操作して、体を立たせたわけではない。単に「バランスの是正」という、きっかけを与えただけだ。
 景気対策の本質は、ここにある。日本経済そのものをあれこれといじる必要はない。日本経済そのものは、すでに、十分な体力を持っている。バブル以降でも、十年もたったわけだし、その間の生産性の向上は、すでに相当蓄積している。今さら2年間ぐらいで構造改革してできる生産性の向上に比べて、その何倍もの生産性の向上を、すでに日本はなしている。(たとえばリストラによって。)つまり、構造改革は、すでに相当なされているのだ。にもかかわらず、日本の景気は、いまだに回復していない。
 景気を回復させるには、構造改革というのは、まったく見当違いの方法である。あさっての方向を向いている。それは、決して無意味ではないし、有意義なことではあるが、景気回復自体には、何の役にも立たない。景気を回復させるには、景気回復策、つまり、「需要と供給のバランスが崩れているのを直すこと」が必要である。そしてまた、それだけが、唯一の解決策である。

 景気対策の方法

 結局、景気対策は、絶対に必要である。需要と供給のバランスを正す対策が必要である。ただし、その方法が問題となる。
 古くは、「ケインズ的な方法」、つまり、「公共事業」があった。ケインズ流に言えば、「道路に穴を掘って埋める」というふうにしてもよかった。ただし、「道路に穴を掘って埋める」というのが、いかに馬鹿げたことであるかは、子供でもわかる。(大人なら、「借金が残るのがダメ」と言う。)
 昔は、「ニューディール政策」ふうの「公共事業」が有意義であった。水力発電とか、道路建設とか、港湾建設とか、そういった社会資本の整備に金を使うことで、「需要の増加」と「経済体制の強化」を同時になしえた。昔ならば、社会資本投資の経済効率の倍率は 1.0 をかなり上回った。それが 1.5 ぐらいになることもあった。(つまり、社会資本に 1 の金を投下し、その社会的な経済利益が 1.5 になった。たとえば、トンネルを掘ることで、無駄な燃料費や人件費などが削減されて、社会的な利益が出る。)(かくて、借金を返済できる。)
 しかし、昔ならともかく、今では、社会資本投資の経済効率の倍率は 1.0 を割ることが多い。それは専門家の間では、すでによく知られている。というわけで、「公共投資は無駄だ」というふうになってきたわけだ。
 それは正しい。だから、「公共事業をやたらと行なうべきではない」という意見は正しい。特に、景気回復の手段として、公共事業をやたらと実行するのは、マイナス点が多い。それはそうだ。しかし、景気回復策には、公共事業以外の方法もあるのだ。公共事業は、多大な無駄を生むが、まったく無駄を生まない方法もある。そういう方法を取ればよい。
 「無駄を生まない方法」としては、古くから知られているのは、「減税」だ。しかし、減税といっても、所得税の減税だと、単なる「金持ち優遇」になりかねない。だから、その点は、いろいろと留意する必要がある。所得税の減税以外にも、いろいろと方法があるので、そうしたものを考慮するとよい。
 とにかく、最後に繰り返しておこう。デフレの解決には、構造改革ではダメで、景気回復策が必要なのだ。小泉の方針は、そのことを理解していない。小泉は完全に間違った方向に走っている。(これは経済財政諮問会議の責任も大きい。経済財政諮問会議の面々が、「景気」というものをまったく理解していないことに、責任の過半はある。「経済学者」という肩書きをもっていながら、経済のことをまったく知らないのだから、その罪は非常に大きい。)
 小泉は、「景気回復のために構造改革をします」と言っている。それは必ず失敗する。少なくとも、1年以内に景気が回復することは絶対にありえない。数年後には、いくらか回復するかもしれないが、それは、構造改革のおかげではなくて、「景気循環」という自然治癒のおかげである。
 小泉の「改革」は、この点だけ見れば、確実に失敗する。「2〜3年で構造改革の成果が出ます。今のうち痛みを我慢すれば、そのうち景気は回復します」などというのは、完全に妄想である。その点を、わきまえておくべきだ。
 一方で、「景気回復策」を正しく取れば、景気は半年以内に劇的に回復する。しかも、公共事業のような無駄な出費は、1円も出さずに済む。そういう方法があるのだから、そういう方法を取るべきであろう。
 (具体的な方法は、次章で述べる。次章が出るのを待ちきれない人は、クルーグマン教授の経済学の本を何冊も読んでおくといいだろう。それらを読めば、だいたいわかる。) 

 結語

 小泉は国民に訴えて、二者択一からひとつを選ぼうとしてる。
「財政再建か、景気対策か」
 というふうに。しかし、これは間違った二者択一である。「財政再建と景気対策」の両方とも達成することが可能なのだ。
「米百俵」
「当面の痛みを忍んでも、長い目で得をしよう」
 と小泉は訴える。いかにも善人ふうである。実際、小泉は善人なのだろう。しかし一国の首相は、善人であるだけでは務まらない。賢明であることが必要なのだ。
 平凡な人間は、「右か左か」と二つのものを差し出されたとき、どちらか一方を取る。しかし、単にどちらかを取るのではなく、「第三の道はないか?」と考えるとよい。賢明な人間なら、よく考えた上で、特別な工夫で、二つともいっぺんに取る方法を見出すものだ。(逆に、愚かな人間は、「二兎を追うものは一兎をも得ず」となる。)
 ここで読者は疑問を呈するかもしれない。
 「財政再建と景気対策の双方を得るなんて、そんなうまい方法があるのか」
 と。なるほど、もっともな疑問である。
 だが、よく考えれば、この双方は相反するものではない、とわかるはずだ。なぜなら、景気が回復すれば、税収が増え、財政は自然に再建されるからだ。歴史的に見ても、財政赤字が溜まるのは不況のときであり、財政赤字が解消するのは好況のときである。近い例で言えば、米国がそうだ。レーガノミックスは、「双子の赤字」といわれる超巨額の赤字を出した。しかし、クリントン時代の長期の好況によって、この赤字を一掃した。そういうものなのだ。財政再建と景気対策は、相反するものではない。それらを相反するもののように思い込むのは、完全な思い違いである。
 だから、どういう方法であるかは別として、「うまい方法」は、たしかにあるのだ。

 小泉は平凡な善人としてふるまっている。しかし、その行く末にあるのは、「財政再建と景気回復」のどちらか一方の達成ではなくて、たぶん、両方とも不達成だろう。小泉の言うような「構造改革」では、二年後に、景気は決して回復しないし、財政再建も今以上に悪化しているはずだ。


 IT化

 小泉(経済財政諮問会議)の改革方針では、「日本をIT化する」というようなことが言われている。しかし、これは、期待過剰だ、と言えなくもない。IT化したからといって、産業の体質が劇的に向上するわけではない。

 IT効果の期待過剰

 IT社会というものに、小泉は、期待しすぎているようだ。文科系の人間特有の誤解である。理科系のことがわからないから、何だか、ものすごいことのように思えるのだ。自分にはうまく扱えないから、すごい能力を持つように思えるのだ。しかし、コンピュータに詳しい私(→「知の道具箱」)から言わせれば、コンピュータなんてものは、大騒ぎするほどのものではない。そこそこ便利ではあるが、たいしたことはない。なるほど、20年ほど前にワープロ専用機ができたときは、その便利さに感嘆した。しかし、20年以上たった今、当時と比べてどれほどコンピュータが便利になったかと言えば、「大したことはない」と言わざるを得ない。インターネットや携帯電話だって、大騒ぎするほどのことはない。固定電話が初めて導入されたときは、その便利さに感嘆しただろうが、インターネットや携帯電話は、それほどのインパクトはない。
 コンピュータとかITとかいうものには、あまり期待をかけても仕方ないのだ。

 期待の裏切り

 IT化にあまり期待をかければ、期待は裏切られる。そのことを、もう少し詳しく、個別に述べてみよう。

 第1に、効果の大きさは、たかが知れている。
 アメリカでも「IT化による生産性の向上で好況持続」などと言われた。しかし、実際には、IT化の生産性向上は大したことはなかったとわかってきた。活況のほとんどは「ITバブル」によるものだった。そして、今や、「ITバブルの破裂」と言われている。IT産業の企業は続々倒産しているし、IT産業の労働者はどんどん失業している。少し前なら、アメリカの状況を見て、「IT化に期待」と言えただろう。しかしそれはもう完全に時代遅れだ。

 第2に、影響の範囲は限られている。
 IT化は、職場のネットワーク化などでは、目に見える影響として現れるが、それによって、業務の能率が劇的に向上するわけではない。
 人によっては、能率が低下することもある。私の知人の一人は、「朝から晩までメールの処理に追われている。まともな仕事をする時間が減ってしまった」と嘆いている。やたらとワープロを打ってばかりいる人も多いようだ。それでいて、その文書内容は、下らないことばかり、ということも多いようだ。そういえば、「コンピュータの導入でペーパーレス」とずいぶん前に言われたが、実際には、印刷される文書量は激増した、ということだ。製紙業界の話でも、近年、コンピュータのプリンタ用の紙の販売量がどんどん増えているということだ。
 IT化によって、業務が向上した面もあるが、無駄な仕事がどんどん増えた面もある。IT化は、業務の向上に役立つ、とは言えないのだ。
 また、広く業界を見ても、IT産業だけならともかく、全産業に大幅な影響を及ぼすほどのものではないようだ。たとえば、八百屋や花屋では、経理にコンピュータを使うぐらいだが、こんなことは、十年以上前から(ワープロ専用機などで)やっているだろう。最近では、「インターネットで注文を受け付ける店舗」というのをやっていることもあるらしいが、たいていは赤字か倒産か、どちらかのようだ。
 だったら工業系の会社ならどうか、というと、こういう会社では、たいてい、業務用の大きめのコンピュータを20年も前から使っている。ここ数年のIT化とは、全然関係ない。
 要するに、今さら「IT化」などと騒ぎ立てるようなことは、何もない。そもそも、本質的なIT化は、20年以上前に始まっているのだ。

 IT化と経済的影響

 小泉(経済財政諮問会議)の方針では、「IT化で構造改革」「IT化で経済再生」というようなことを言っている。しかし、これもまた、大いなる勘違いである。IT化は、経済とか景気とかいうことについては、あまり影響を及ばさないものだ。何らかの影響(社会の情報化)をもたらす、という文化的な意味をもつことは確かだが、経済的には、あまり意味をもたない。そのことを、以下で述べよう。

 第1に、コンピュータの影響は、質的なものであり、量的なものではないことが多い。
 たとえば、ここ十年ほどの間に、コンピュータのおかげで、自動車の質はずいぶん向上したが、自動車の生産台数が量的に増えたわけではない。昔も今も、自動車の生産台数は同じぐらいである。── これは、当たり前の話であって、どんなに生産性が向上しようと、人の買う自動車の台数は、だいたい同じぐらいだからだ。日本の都会では「1軒1台」。日本の地方やアメリカでは「1人1台」。いずれにしても、一人で2台も3台も所有するようなことにはならない。なぜなら、必要ないからだ。増えれば、かえって邪魔だからだ。
 というわけで、コンピュータの影響が出たとしても、製品の質が良くなるというぐらいの話で、生産量が増えることはない。
 コンピュータの影響は、通常、質のみに現れ、量には現れないのだ。したがって、経済的な影響はあまり現れないのだ。

 第2に、たとえ生産能率が上がって、生産量を増やすことができたとしても、それは統計的に無意味になる。(つまり、技術革新があっても、[金額的な]生産性の向上としては現れない。)
 たとえば、生産性が5%向上したとしよう。その場合、その分の利益増になるか? 仮に、その企業だけが、生産性を5%向上させたのであれば、その分の利益増となる。しかし、全企業が5%向上を達成したのであれば、そうはならない。なぜなら、全体で生産量が5%の増加となり、5%値崩れするからだ。5%多く生産しても、単価が5%下がるので、差し引き、売り上げ総額は変わらない。
 しかし、これはまだいい方である。5%多く生産しても、5%多く消費者が購入してくれるとは限らない。消費者の必要量が一定であれば、市場に商品があぶれるので、商品は値崩れして、単価は5%どころか、大幅に下落する。(こういう例は、生鮮野菜によく見られる。人間の野菜消費量は、ほぼ一定であるから、ある野菜が少し生産過剰になると、大幅に値崩れする。「安いからいっぱい食べる」というふうにはならないのだ。)
 ただ、一方で、値崩れしない場合もある。「価格が1ランク下がったなら、かわりに品質が1ランク上の製品を購入する」という態度を消費者が取る場合だ。同じ品質の製品を安価に買うのではなく、同じ価格で高品質の物を買うわけだ。こういう場合には、従来通りの売り上げを保てる。── この場合には、生産性の向上は、質の向上に転化されたわけだ。
 さて、経済統計というものは、金額だけを問題とする。(商品の質は問題としない。) だから、生産性の向上によって、商品の質が次々と向上していっても、経済的に見れば、「同じ価格の商品が同じ量だけ生産される」というわけで、経済統計的には何も向上していないことになる。つまり、技術革新によって、製造能力としての生産性は向上しても、経済統計における金額的な生産性はまったく向上しないことになる。
 一例が、半導体のメモリだ。メモリは、一昔前に比べて、価格が劇的に低下した。1996年のころは 16MB で2万円ほどしていたが、2001年夏現在では256MBが4000円弱だ。単価は 80分の1になった。つまり、製造能力としての生産性は 80倍になった。しかるに、パソコン1台あたりに使われるメモリ価格は5分の1になったわけであるから、(従業員数 etc. が同じだと仮定すれば、)労働生産性は5分の1になったことになる。
 これは一種のパラドックスのように見える。「技術革新によって、製造能力としての生産性が向上すれば向上するほど、労働生産性が下がる」というのは。
 しかし、そういうものなのだ。技術革新というものは、製造能力や商品の品質には影響を及ぼすが、金額的には影響を及ぼさないのだ。(逆効果を及ぼすことさえある。) 
 技術革新とか、IT化とか、そういったことによる生産性の向上は、たしかに、人間生活を向上させる。しかしそれは質の向上となって現れるものだ。金額となって現れるわけではない。
 IT化が経済に好影響を与える、というのは、とんでもない妄想である。それはいわば、「恋愛が経済的に好影響を与える」というのと同様の妄想である。恋愛は人間に幸福をもたらす(あるいは不幸をもたらす)が、金をもたらすわけではない。IT化の影響は、経済とは違うところに現れるのだ。
 そのことを理解しないと、経済運営そのものを失敗するだろう。

 IT化の逆影響

 「そうはいっても、IT化は経済面にも、何らかの好影響を及ぼすはずだ。」
 と考える人も多いだろう。それは、正しい。たしかに、経済面にまったく好影響を及ぼさない、ということはない。何らかの好影響を及ぼすはずだ。
 しかし、その影響の大きさは、先に述べたことからもわかるように、ごくわずかだ。いくらコストダウンに努めても、そのコストダウンを自分だけで享受することはできない。同業他社も同様のことをするから、全社がコストダウンをした結果は、商品価格の下落であり、利益にはならない。(「1社だけで先んじてなした場合」は、話は別だが。)
 結局、IT化の利益の大部分は、会社ではなく、消費者に還元される。これは、あまり、経済的には意味をもたない。(先にも述べたように、質の向上に転化されるだけだから。)
 しかるに、である。好影響は、このように小さなものでしかないが、悪影響の方は、もっとはっきりと現れる。
 たとえば、(生産量が同じだとして、)生産性が5%向上すれば、労働者は5%余ってしまう。だから、それを首切りする必要がある。というわけで、生産性が向上すればするほど、失業者が増えるわけだ。これははっきりと現れる影響だ。(景気が良ければ、失業者は吸収されるが、景気が悪ければ、生産性の向上はそっくりそのまま失業者増となる。実際、あちこちで、「リストラ」が行なわれている。これはつまり、人員をカットして同じ生産量を保とうとしているわけで、そうやって強引に生産性を向上させているわけだ。)[なお、「リストラ」とは、首切りのことではなくて、首切りによって生産性を向上させることである。]

 構造改革による生産性の向上とは、このような面があるのだ。決して「生産性の向上は薔薇色」というようなものではないのだ。
 小泉は、そのことに気づいていない。小泉の方針によって、IT化を進めたりして、日本経済の体質を強化しても、それによってデフレから脱出できるということはありえない。逆に、デフレは増すばかりだ。小泉は大いなる勘違いをしているのだ。
 小泉のいう「構造改革による景気回復」とは、大いなる幻影である。そのことに気づくべきだろう。景気回復は、構造改革によってなすべきものではなく、別のことによってなすべきものなのだ。

 IT化と景気回復

 小泉が、自分の誤りに気づけば、誤った方針を改めることができる。では、どう改めればいいか?
 IT化や生産性の向上は、もちろん、悪いことではない。人間にとって素晴らしいことだ。ただ、それが、「経済的好影響」という形では現れてこないのだ。ここに問題がある。
 だから、IT化や生産性の向上が「経済的好影響」という形を取れるようにすればよい。そのように好影響の形を転化させればよい。そういう施策を国家的に整備すればよいのだ。
 これが本質である。そして、その本質に気づけば、取るべき策は、だいたい明らかとなる。
 現在はどうなっているか?  
  「生産性の向上」→「労働力の余剰」→「首切り」
 という形になっている。せっかくの生産性の向上が、首切り(失業者増)という形になって現れているのである。ここを変えればよい。どうするか? もちろん、「首切り」の形のかわりに、別の形を取るようにすればよい。では、どんな形を?
 すぐにわかるのが、「ワークシェアリング」だ。別の形でいえば、「時短」だ。生産性が5%向上したのなら、5%の人員を首切りするかわりに、各人の労働時間を5%減らすわけだ。こうすれば、生産性の向上は、好もしい影響をもたらすことになる。
 だから、政府としては、このような形になるように、誘導すればよい。
 しかしながら、現実には、こう誘導するどころか、逆の方向に誘導している。つまり、「ワークシェアリングをやめて、失業者を増やしなさい」というふうに誘導している。そこが問題なわけだ。このことについては、次の  で少し詳しく述べる。

 IT化の形態

 単なるIT振興は、実は、あまり大きな意味をもたない。
 今、参院選前の各党の公約などの政策方針を見ると、「IT化で景気回復」「IT産業の雇用ミスマッチ解消で雇用促進」などと言っている。しかしこれは、楽観的すぎる。
 そもそも、「IT産業が成長産業だ」ということは、誰もが知っている。だから、この分野に参入したがる人や会社は多い。しかし、実際には、新規参入しても、大儲けできるわけでもない。成功した例もあるが、失敗した例もある。
 つまり、「ちょっと参入して、それでボロ儲け」というほど、話は甘くないのだ。
 そもそも、今さら急に専門知識のあるプロフェッショナルが養成できるとは思えないし、また、1〜2年程度研修した程度の初心者では、ろくに仕事をこなせない。人にせよ、会社にせよ、新参者が簡単に成功するわけではないのだ。
 米国のIT産業の盛衰は暗示的だ。ネット上の物品販売会社は、大々的に騒がれたが、倒産した。かわりに、旧来の物品販売会社が、自社をIT化してネット上で販売すると、成功した。そういうものなのだ。独自のIT産業などは成功しにくい。旧来の立派な会社がIT化すると成功する。IT化自体は、上に着る衣服のようなものだ。その下にある肝心の本体がもともとあることが必要なのだ。人間でも、ただのプログラマはあまり役に立たないが、専門家がプログラム知識をもてば強力になる。そういうことだ。── こういう点に理解しないで、単に「IT化」などと叫んでも、倒産したネット販売会社の二の舞になるだろう。
 IT技術というものは、語学力に似ている。専門知識のある社員が、語学力を持てば、「鬼に金棒」だ。しかし、専門知識なしで、語学力だけあっても、そんな社員は、通訳ぐらいにしかならない。いわば「鬼なしの金棒」のようなものだ。役立たずで、使い物にならないのだ。会社も同様だ。IT分野に参入して、利益を得るには、何らかの「プラスアルファ」が必要だ。単にIT分野に参入するだけでは、利益は得られないのだ。そこのところを勘違いすると、手痛い火傷を負うだろう。

 IT化の有効な場合

 すでに述べたとおり、IT化は、経済的には、あまり効果をもたないものだ。特に、政府が音頭取りしてやるという形でのIT化は。
 ただし、政府が音頭取りするようなIT化も、有効である場合がある。それは、民間企業が自発的にやっていない領域についてのIT化だ。
 日本の民間企業には、欠けたところがある。一般的にいって、日本の民間企業は、目先のことにとらわれる。人間も「即戦力」だけを求める。いかにもケチくさい。というわけで、長期的にはアメリカに負けてしまう場合がある。
 特に問題なのが、「境界領域」だ。この部分は、日本の企業は、まったく弱い。
 IT化といっても、情報産業の中核となるような場合なら、日本企業も強い。また、いわゆるバイオも、日本企業はそこそこ努力している。しかし、ITとバイオの境界領域は、まったく弱い。ゼロといってもいいくらいだ。
 境界領域に進出するには、まず、人間から養成しなくてはならない。付け焼き刃ではダメだ。「IT技術者に専門領域を学ばせる」というのは、無理だし、やっても二流の研究者しかできない。だから、専門領域の研究者に、IT技術を詰め込むしかない。とはいえ、どの領域でも、IT分野に詳しい専門家などはほとんどいない。かくて「ニワトリと卵」のような関係で、どちらが先かはわからないが、いつまでたっても、ニワトリも卵も産まれない。
 やはり、IT化となると、大学生という未分化・未完成の状態から、IT教育をするしかないようだ。ここで各専門分野の学生にIT教育を施す。そこから、一定の素質をもった学生を、境界領域に導くといい。
 このようなことは、一部の大学では行なわれている。(慶應大学の藤沢キャンパスなど。)しかし、もっと国家的に制度を整える必要がある。
 「IT化」というものは、政府が音頭を取って、すぐに実現できるというほど、甘いものではない。学生段階から育てて、5年〜20年ぐらいのスケールで見ていくものだろう。そして、このようなことは、確かに必要なのである。小泉としても、実行する必要がある。
 ただし、これを「構造改革」とか「景気回復」などに、短絡的に結びつけるべきではない。そういう短期的な視点しか備えていないことが、日本を弱体化させてきたのだ。
 そういうことをわきまえた上で、IT化を推進すればいいだろう。(ただしこれは、IT化というよりは、日本の科学技術力の全般的な強化である。)

 政府のIT化

 経済活動としてのIT化については、すでに述べたとおりだ。
 一方、「民間における経済活動のIT化」とは別に、「政府のIT化」もある。これは、経済活動とは話が違うが、これはこれで必要である。経済財政諮問会議も「e-Japan」などというキャッチフレーズを用いて、推進しようとしている。
 例としては、いくつかが挙げられているが、2001-07-13 の読売朝刊を見ると、「レセプトの電子化」という記事がある。医療レセプト(診療報酬明細書)を、電子化する、というものだ。(「総合規制改革会議」の中間報告による。)
 呆れた。数年前から何度も指摘されたことをひとつだけ掲げて、それ以外の肝心なことをほったらかしているからだ。
 なるほど、「医療レセプトの電子化」は、それ自体を見れば、適切である。それはそれで、文句はない。
 一方、それとは別に、もっと必要性の高いものがいくつかある。

 (1) 処方箋の電子化
 処方箋は、現在、どうなっているか? 
 「病院で電子化する」→「それを印刷する」→「それを薬局にもっていく」→「それを薬局で人間が再入力して、電子化する」
 というふうになっている。つまり、病院と薬局で、二度も手間をかけて同じことを入力している。実に馬鹿げている。ネットワークで連絡すれば一発で済む問題だ。保険証がICカードになっていれば、簡単に解決できる。なのに、そうしないから、患者や薬局でやたらと待たされるし、莫大な人件費が無駄になっているし、健保の赤字が増える。膨大な無駄である。日本全体でどれほど巨額になることか。
 ここを電子化することこそ急務なのだ。 (ただし電子化に対応していない病院・薬局のために、紙の処方箋も併用する。「電子処方箋への一本化」は、やらない。)

 [ 付記 ]
 「電子化すると、入力ミスの問題がある」
 という反対意見がある。しかし、勘違いしてはならない。私は別に、「手書き処方箋を電子化せよ」と言っているのではない。「二度の入力を一度で済ませよ」と言っているだけなのだ。

 (2) 医療情報の電子化
 医者の誤診が話題になっている。ただし、コンピュータの「医療エキスパートシステム」を使えばよい。ある症状に対して、いくつかの病気の可能性を示されるので、そのなかから、最も疑わしい病気を推定できる。他の病気の可能性も考慮される。かくて、診療の補助に使うことにより、誤診は大幅に削減できるわけだ。
 これは、アメリカではスタンドアローンのパソコンで実用化されている。
 日本でも、まずは、これを翻訳して使えるようにするべきだろう。さらに、これを発展させて、ネットワーク化して、巨大な「自己成長型の医療エキスパートシステム」を開発するべきだ。そうすれば、誤診が大幅に減り、医療の質が向上する。愚かなエラーで失われていた人命も、たくさん助かるのだ。
 こういうことを政府が実行してこそ、真の「IT化」となる。「レセプトの電子化」しか言えないような会議は、まったく時代から取り残されている。ま、アマチュアと老人ばかりなのだから、それも当然なのだろうが、だったら、こんな諮問機関は、何の役にも立たない。それよりは、まず、諮問会議自体をIT化した方がいい。老人が会合してしゃべるよりは、壮年の専門家がネット上で議論した方がずっと有効だ。

 最も効果的なIT化

 すでに述べてきたように、政府の音頭取りするような「IT化」は、ほとんど効果がない。本当に必要な「IT化」は、すでに民間が自発的に行なっている。
 ただし、政府のなすべきことで、真に有効なことが、ひとつだけある。それは、「IT規格の整備」だ。
 まず、これまでに述べてきたことからわかるように、最も有効なIT化とは、「失業者にIT教育をする」というような付け焼き刃の方法ではなくて、専門知識をもつ国民各人のIT能力を高めることだ。一握りのIT専門家を育てることではなくて、国民全体にわたって少しずつIT能力を高めることだ。
 「そんなことはわかっている」
 と思うだろう。なるほど、誰もがわかっている。そして誰もがコンピュータに習熟しようとする。しかし、挫折する。たいていの人が、キーボードをまともに打てない。ブラインドタッチ(不見打法)ができるのは、ほんの一握りの人々でしかない。また、高齢者では、キーボードを打つこと自体ができない。
 なぜか? それは、現在の「IT規格」が整備されていないからだ。今のキーボードは、「JISカナ配列」と「ローマ字配列」だけだ。これでは、高齢者などは、まったくキーボードを使えない。それが当然だ。だから、誰でもキーボードを打てるように、「五十音配列」のキーボードをJISに定めることが必要なのだ。
 携帯電話は国民に圧倒的に普及している。多くの若者が携帯でメールを打つ。「親指の速射」などとも言われている。それが可能なのは、携帯では、ほぼ「五十音順」の配列になっているからだ。これなら、いちいち覚えなくても打てるので、誰でも携帯でメールを打てる。
 コンピュータはそうではない。高齢者は、JISカナ配列を使って、どこにキーがあるのかわからないまま、挫折する。実際、政府の大臣でも、コンピュータでメールを打てるのは、ごくわずかだという話だ。
 なお、「練習して、コンピュータに習熟すべきだ」と主張する人もいるが、とんでもない間違いだ。自分ができるからといって、他人に強制するのは間違っている。それはいわば、ピアニストが「ピアノなんて簡単だから、できるまで練習なさい」と主張するのと同じだ。
 コンピュータが誰にでも使えないのは、人々に責任があるのではなくて、キーボードに責任がある。キーボードを「五十音配列」にするように、JISの規格を定めるべきなのだ。これこそが、真の「IT化」の政策となる。こうすれば、初心者も、高齢者も、熟練者も、誰もがキーボードを打てるようになるからだ。(配列は切り替え可能なので、熟練者は別の配列を使う。)
 キーボードに「五十音配列」を取り入れるのは、ごく簡単だ。規格を定めるだけでいい。あとは、キーボードを買い換えれば、簡単に使える。既存のキーボードのままでも、ソフトをうまく変更して、ソフトウェア的に実現することもできる。(実を言うと、私のパソコンでは、すでに、そういうソフトを組み込んである。だから、私のパソコンでは、高齢者も、楽に「五十音配列」で入力できる。)
 とにかく、こうして、誰もが楽にコンピュータを使えるようになる。それが「真のIT化」だ。
 (政府は「IT化」を唱える。しかし、大臣たち自身がちゃんとコンピュータを使えないような状況をほったらかしておいて、「IT化の推進」などを唱えるのは、ちゃんちゃらおかしいとしか言いようがない。)

 新50音配列
┌─┬─┬─┬─┬─┬─┬─┬─┬─┬─┬─┬─┬─┐

└┬┴┬┴┬┴┬┴┬┴┬┴┬┴┬┴┬┴┬┴┬┴┬┴┬┘
 │
 └┬┴┬┴┬┴┬┴┬┴┬┴┬┴┬┴┬┴┬┴┬┴┬┴┐
  │
  └┬┴┬┴┬┴┬┴┬┴┬┴┬┴┬┴┬┴┬┴┬┴┬┘
   │
   └─┴─┴─┴─┴─┴─┴─┴─┴─┴─┴─┘

      [ → 参考 : キーボードのページ


    初心者用の配列とは別に、熟練者用の配列として、
      「Dvorak配列」や「OEA配列」がある。高速入力が可能。
      これらについても、詳しくは、上記の参考ページを参照。
      (この二つの配列は、熟練者にとってだけでなく、一般の
       人にとっても、「ブラインドタッチが楽にできる」という
       特長がある。)


 不良債権処理

 小泉は、「不良債権処理」も掲げている。しかし、これを「景気回復策」に結びつけるのもまた、「構造改革」と同様で、完全な誤解である。「不良債権処理」は、たしかに必要だが、それが景気回復の効果をもつことはない。

 不良債権処理の本質

 不良債権処理の本質は、何か? 要するに、帳簿上の処理だ。帳簿上で、数字の項目を書き換えるわけだ。それだけの話だ。
 これによって、デタラメな経理が是正される。未処理のまま先送りしていた経理処理が顕在化する。そのことで、経営の見通しが良くなる。そういう効果はある。しかし、だからといって、日本の経済そのものに、直接的な影響を及ぼすわけではない。せいぜい、「経理が明瞭になったので、帳簿の不安がなくなって、安心して経営や投資ができる」という心理的な効果にすぎない。
 要するに、それだけのことなのだ。他の構造改革のように、直接的に経済体力を向上させるわけでもない。景気回復策のように、直接的に需給のバランスを是正するわけでもない。単に帳簿をいじるだけだ。それだけで景気が回復すると思うようでは、あまりにおめでたい。
 小泉は、「経理」というものの本質を理解していない。経理は、それ自体が何かを生み出すわけではない。経理を通じて、問題点が浮かび上がったり、隠されていた点が隠されなくなったりして、正しい行動を取る指針が与えられる。それだけのことなのだ。経理によって何かをなす、その「何か」が大事なのであって、経理そのものが大事なのではない。
 不良債権処理は、たしかに必要だ。しかしそれは、景気回復とは、何の関係もない。どちらかと言えば、景気回復を遅らせる効果がある。長期的には、心理的不安をなくすことで、成長率を高めるだろうが、当面は、需給のバランスの崩れを、さらに拡大する方向に働く。
 「不良債権処理で景気回復を」というのは、とんでもない見当違いである。

 不良債権処理の実質的効果

 不良債権処理が、単なる経理処理だけでなく、実質的効果をもつこともある。それによって経済活動がはっきりと動く場合だ。「銀行が不良債権を処理する」というだけなら、単なる経理上の処理にすぎないが、「倒産状態にあるデパートを他の会社に営業権の売却をして経営再建する」というのなら、実質的な効果をもつ。
 その違いはどこにあるかと言えば、後者では、経営者が交替したことで、企業の生産効率が劇的に変化する、ということだ。デパートのそごうは、以前は放漫経営をしていて、利益どころか赤字を垂れ流していた。このデパートを単に会社整理するだけなら、隠れていた赤字が顕在化するだけであり、経理上の意味しかもたない。しかし、このデパートの経営体が変わって、赤字を垂れ流す体質から、利益を生む体質に変えたなら、企業の生産効率がはっきりと向上したことになる。
 だから、このような形の「不良債権処理」であれば、意味をもつ。単なる「不良債権処理」が良いのではない。「不良債権処理」には、意味のないものと、意味のあるものと、2種類があるのだ。そこのところを考えないで、単に「不良債権処理」を進める、と言っても、経済効果をもたないのだ。

 日産自動車との比較

 不良債権処理の実際としては、日産自動車の例が参考になる。
 日産自動車では、ゴーン改革の最初に、数千億円にものぼる不良債権処理(不良資産処理)を行なった。このとき、会社は数千億円の赤字決算を出した。そうしてウミを出しきったあと、次の決算では、赤字は解消された。さらに、その次の決算では、数千億円の黒字を出した。 (一見、「ウミを出しきったゆえに黒字になった」と見える。)
 さて、ここで注目すべきは、次の2点である。

 (1) 不良債権処理と業績回復
 不良債権処理(不良資産処理)のあとで、業績回復がなされた。しかし、不良債権処理ゆえに業績が回復したのではない。業績を回復させたのは、ゴーン改革による日産自動車の体質改善である。(コストカットなど)。売却などの帳簿上の処理だけで、企業が効率化したわけではない。
 換言すれば、こうだ。ゴーン氏でなく、他の銀行家などが社長になっていたら、不良債権処理はできるが、会社の体質改善はできない。だから、その場合、不良債権処理をしても、日産はずっと赤字体質のままだったろう。(今ごろ倒産していたかもしれない。)

 (2) 不良債権処理の資金
 日産には、不良債権処理(不良資産処理)をするだけの資金があった。ルノーからの株式投資が七千億円ほどあり、これで累積損失などの償却ができた。また、持ち合い株式を売却したり、子会社を売却したり、土地などの資産を売却したりして、相当の資金を得た。
 ともあれ、このように、日産にはもともと資金(資産)があった。だから、不良債権処理(不良資産処理)に耐えることができた。

 以上に着目して、どう判断すべきか?
 まず、(1) の点(企業体質の改善が必要)は、すでに述べてきたことだ。ここでは、繰り返さない。
 次に、(2) の点は、注目すべきだ。ここは、日産と日本は異なる。現在の日本は、日産と違って、「手持ち資産」と呼べるようなものは、ほとんどない。せいぜい、NTTやJRなどの株式ぐらいだが、これらの総額は大したことはない。一方で、国債残高という巨額の累積赤字を抱えている。つまり、日産のように金を持っていないのだ。こういうふうに「金のない」状態で、不良債権処理に政府の金を使おうとすれば、どこかでひずみが出る。たとえば、赤字国債の発行とか、他の景気対策ができなくなるとか。
 銀行が不良債権処理をするのは勝手だが、そこに政府の金をつぎ込むようだと、とんでもないことになるだろう。また、体力のない銀行があえて不良債権処理をすれば、銀行自体が倒産して、あげく、政府資金の投入が必要となるだろう。

 素人判断

 経済学的に厳密に分析すれば、不良債権処理は急ぐべきではない、という結論になる。
 しかし、世の中には、
 「不良債権処理を急ぐべきだ、そうすれば景気回復が進む」
 という意見も出回っている。そこで、これはどういう理屈であるのか、確かめてみようとした。すると、驚くなかれ、どうやら、そこには理屈などはひとつもないらしいのだ。根拠もなしに、そう述べているのだ。
 唯一の理屈としては、こうだ。
 「不良債権がなくなれば、余計な重しがなくなって、銀行などが正常に貸し出しを行える」
 と。しかしこれは、理屈ではない。単なる夢想である。
 「ある日突然、不良債権が消えてしまえばいいな」
 というわけだ。「棚からぼた餅」願望であろう。なるほど、そんなふうに天からお金が降ってきて、不良債権が消えてしまえば、それに越したことはない。しかし、天からお金が降ってくることなど、ありえないのだ。ある日突然、不良債権が消えてしまうことなど、ありえないのだ。
 不良債権を処理するには、身を削るコストがかかる。しかも、そのコストが、自分の体力を上回ることさえある。
 たとえば、こうだ。日産自動車は、不良債権が莫大にあった。このとき、「不良債権処理を急ぐべきだ」と主張に従って、それを実行すれば、莫大な不良債権を、ただちに処理することとなる。ところが、ルノーから7000億円を出資してもらう以前ならば、処理の費用がない。その費用は、自分の体力を上回る。なのに、強引に処理をすれば、倒産するしかない。
 とにかく、「何が何でも不良債権処理を急げ」というのは、素人考えというしかない。彼らは身を削るコストを考えずに、そう主張しているのだろう。つまりは、「天からお金が降ってきて、コストなしに不良債権を解消すればいいな」と思っているだけだろう。こういう素人考えに従うと、日本経済は破壊されてしまう。日本という国が、倒産も同然となる。
 会計屋が日産の社長にならなかったのは、日産にとって大いなる幸いだった。もし「不良債権処理大好き」の人間が社長になっていたら、強引に不良債権処理を進めたすえに、処理しきれなくなって、日産を倒産させ、かつ、莫大な赤字を世間にまき散らしていただろう。そして最後に、こうつぶやくはずだ。「不良債権処理にはコストがかかるとは思ってもいなかったので……。しょうがないでしょ。日産が倒産したのは、私のせいじゃないよ」

 銀行への公的資金注入

 不良債権処理に関連して、「経営不良な銀行に公的資金を注入すべきかどうか」という議論がある。これについては、次の意見がある。

 なるほど、どちらの意見も正しく思える。では、どうするべきか? 
 それには、まず、物事の根本に立ち返って考えるとよい。そもそも、銀行の預金には、政府保証がある。これは、預金者の取り付け騒ぎを招かないためのものであり、この政府保証はもちろん必要である。しかし、この保証が逆に、銀行の放漫経営を放置させてしまっている。ここに問題があるのだ。
 だから、この問題を解決すればよい。それには、どうするか? 次のようにするのが順当だろう。

  1. 預金には、政府保証を与える。
  2. しかし、経営不良を放置する銀行には、預金の政府保証を与えない。
  3. 預金の政府保証を与えられなくなった銀行は、その時点で、退出させられる。(倒産)
  4. ただし、その前に、政府は選択肢を与える。「ただちに国有化されるならば、継続して、政府保証を与える」と。(実質的には、これしか選択できない。さもなくば倒産)

 かくて、(政府の監視が行き届いていれば、)経営が一定限度まで悪化した時点で、銀行は国有化され、さらに売却され、新たな経営体のもとで再出発をすることになる。つまり、一定限度以上に経営が悪化することはない。

 そして、このようにした場合、先の

 という二つの意見は、ともに満たされる。つまり、この二つの意見は、実は、対立するものではなくて、両立させることが可能なのだ。

( ※ なお、「一定限度」というのを、「再建可能なぎりぎりの状態」とすれば、注入するべき公的資金の量は、最小限で済む。つまり、ゼロで済む。それ以上の金がかかった場合は、政府の監視が不十分だったことになり、政府の責任。)
( ※ なお、「こういうふうに国有化されるのはイヤだ」という銀行があったら、その銀行に対しては、最初から政府保証を与えない。)


 株式保有機構

 銀行株を公的資金で買い上げる、という案がある。
 これは、一長一短である。まず、そのことをわきまえておくべきだ。私としては、これは、政策の選択肢の問題だと思う。実行するにしても、実行しないにしても、それぞれ長所と短所があるので、その長所と短所を総合的に判断して、政治家が選択肢から選択すればよい。
 ただし、「銀行株の買い上げ」は、「部分的に」ならともかく、「全面的に」というのは、問題がある。

 優良株とクズ株

 簡単に言おう。銀行のもつ優良株だけを買い上げるのならば、あまり問題はない。将来的に、景気回復にともなって、優良株の株価は上がるだろうし、損失はあまり出ないだろう。一方、クズ株もある。クズ株もいっしょに買えば、これらは将来的にゴミになる可能性が高い。だから、クズ株は買い上げてはならない。
 たぶん銀行側は、「優良株もクズ株もまとめて買い上げよ」と言ってくるだろう。しかし、こういう要望を聞き入れてはならない。この点、特に強調しておきたい。マスコミなどを見ても、この点を強調している論調は、ほとんど見かけない。しかし私は、この点を強調しておきたい。
 クズ株を買い上げてはいけないのは、なぜか? クズ株でも、株価が安ければ、それはそれで問題はないのではないか? ── そう思う人が多いだろう。しかし、そうではないのだ。
 なぜなら、日本の株式市場は、公正な株価を形成していないからだ。こう言明すると、非常に物議を醸すので、たいていの人は、口を閉ざしている。しかし、本当は、日本の株式市場は、デタラメなものである。それは、クズ株の株価を見ればよい。倒産も同然の会社の株が、50円ぐらいの値段が付いている。
 「債権放棄」を要請している会社がある。(建設業など。)これらは、債権放棄をしてもらわないと、やっていけない。つまり、事実上、倒産状態にある。倒産させるとまずいので、とりあえず倒産させていないが、実質的には倒産している。経営再建するにしても、債権放棄を要請する状況だということは、つまり、株主責任で株式抹消の必要がある状況だ、ということだ。つまり、株価はゼロと同然だ、ということだ。にもかかわらず、こういう「債権放棄を要請した会社」の株が、日本の株式市場では、たいてい、50円ぐらいの値段が付いている。
 「そのくらいの価値はあるんだろう」と思うかもしれない。しかし、「そごう」など、いくつかの再建計画を練った会社を見ると、直前までは50円ぐらいの値段が付いているが、再建計画が出たとたんに、株価はゼロになる。(途中、整理ポストに入る。)もともとゼロ円だったものに、50円ぐらいの値段が付いていたものが、化けの皮を引っぱがされたわけだ。
 とにかく、日本の株式市場というものは、こういうものだ。正当な価格は形成されない。クズ株には実態以上のべらぼうな株価がついている。こういうクズ株を、公的資金で買い上げれば、すべてクズとなりかねない。
 クズ株は、値段が低いので、株価操作しやすい。たとえば、「銀行のもつ手持ちのクズ株を買い上げる」と政府が発表すれば、クズ同然の株に高値がつくように、銀行は裏で手を回すだろう。たとえば、A社がB社に頼む。
「ねえ、買っておいてよ。どうせ政府があとで買いあげてくれるんだから、心配ないさ。」
「わかった。そのかわりに、おたくも、うちの株を買っておいてよね」
 こうやって、合法的に、クズ株の値段を釣り上げる。そして、数年後に、政府の持ち株はすべてクズとなる。一方、銀行は、手持ちのクズ株を、大量に政府に買い上げてもらって、大儲けだ。
 要するに、クズ株をいっしょくたに買うと、こういうことになるのだ。


 その他

 その他、小泉の改革方針における問題点を、いくつか指摘しておく。

     
《 その他 一覧 》

  農業改革
  林野庁改革
  郵政民営化
  企業改革
  司法試験改革



 農業改革

 小泉の改革では、日本における2つの重大な「癌」を治療しようとしている。それは、次の二つの「癌」である。

 このことは、すでに序章で述べたとおりだ。 ( → 序章「小泉の基本方針」)
 ただ、日本における「癌」は、もうひとつある。それは、農業だ。
 農業もまた、上記の二つと並んで、巨大な「癌」である。この三つを並べて、「日本の3大"癌"」と呼んでいいだろう。いずれも、国民の税金を膨大に無駄遣いする、という特徴を持つ。ほとんど日本を滅ぼしかねない。
 農業をどう改革するか? ── その点については、ここでは、述べない。いちいち私が指摘しなくても、誰でもすぐに気づくようなことも多いからだ。経済財政諮問会議の面々なら、頭をひねれば、すぐにも答えを出すことができるだろう。 (例 :莫大な補助金)
 ただ、問題は、これが「癌」だ、と意識していない点だ。たぶん気づいてはいるのだろうが、農民票が怖くて、口に出せないらしい。
 しかし、小泉に勇気があるのなら、この問題もまた、改革の対象に含めるべきだ。

 林野庁改革

 一般の農業問題のほか、林野庁の問題もある。
 林野庁は、一般企業で言えば、「万年赤字で倒産状態」というありさまにある。この点では、郵政事業よりもひどい。小泉は、郵政事業ばかりに言及するが、林野庁にも言及するべきだろう。
 林野庁というものは、完全に廃止した方がよい。なぜか? 存在そのものが悪だからだ。この役所は、「自然改造計画」という不可能なことに莫大な金を投じるという、無駄で悪影響のあることをやっているからだ。
 日本は温帯である。温帯の土地には、温帯の樹木を植えればよい。なのに、そうせずに、寒帯の杉をあちこちにやたらと植える。これは根本的に無理だ。無理がたたれば、あちこちで、いわゆる「森林の荒廃」が起こる。花粉は異常に発生するし、杉は間伐されずに倒れるし、土壌は流出するし、川や海は死んでいく。「森林の荒廃を防ぐために多額の税金を費やせ」という主張もあるが、根本的に間違っている。温帯の山地に、寒帯の樹木を植えよう、という「自然改造計画」が根本的に間違っているのだ。だから、それを改めるのが先だ。
 その土地にはその土地にふさわしい樹木がある。なのに「建材のため」と、金目当てで杉を植えて、本来の自然を破壊した。今の日本はその復讐を受けているのだ。

 郵政民営化

 郵政民営化については、ここでは「賛成」とも「反対」とも述べない。かわりに、「賛成派」「反対派」のそれぞれの主張に、矛盾があることを示そう。
 ( ※ 郵貯には言及せず、郵政事業のみに言及する。)

 郵政民営化に「賛成」だとしよう。それで、郵政事業を民営化したとする。しかし、その結果は、民営化を阻害する方向に働くのだ。
 なぜか? 今現在の郵政省は巨大すぎるからだ。電電公社がNTTになったとき、これで「民営化」は成功したと思えた。しかし、実際には、NTTのガリバー的な寡占状態となった。適正な競争が働いていない。(市場を得られない他の会社は、コスト的にも苦しい。)
 郵政事業の民営化でも、同様だ。今のまま民営化すれば、その民営化された事業体は、圧倒的な強みをもち、市場を独占する。これでは、民営化の効果がない。

 だから、民営化するのなら、もっと遅らせるべきなのだ。とりあえずは郵政事業に民間企業を参入させる。そうして郵政省のシェアを、今の「独占状態」から、5割程度まで、落とさせる。そうして、強力な民間企業が育った時点で、民営化すればよい。
 ただし、その場合、問題も生じる。現在の郵政省はシェアを失うわけだから、現在の職員は、大幅に人員があまって、リストラの対象となる。国鉄の「清算事業団」のようなところに入ることになるかもしれない。
 しかし、それは、「反対派」が自ら招いた道なのだ。今すぐ民営化すれば、市場を独占できるし、リストラもされない。なのに、「今すぐの民営化」に反対して、リストラを招いているのだ。

 賛成派も、反対派も、自らの目的とは逆のことをやろうとしている。本当は、民営化に賛成するなら、民営化を遅らせて、郵政省を弱体化させるべきなのだ。民営化に反対するなら、民営化を早めて、市場独占体制を築くべきなのだ。(NTTのように。) 
 結局、賛成派も、反対派も、自らの目的とは反対のことをしようとしているのだ。そのことに、一応、留意しておくといいだろう。
 特に、反対派は、よく考えた方がいい。今すぐ民営化すれば、市場を独占できて、NTTのようになれる。民営化を拒めば、市場を奪われたあげく、最後は、旧国鉄の清算事業団のようになる。
 「民営化に反対」という労組指導者は、一般の組合員の声を聞いた方がいい。電電公社の労組も、「民営化反対」と言っていた。しかし今、NTTの組合員で、「民営化をチャラにして、国有化してくれ」なんて思っている人は、一人もいないはずだ。

 企業改革

 小泉は、日本の経済体質の強化のため、「構造改革」を唱えている。しかし、これは、ある意味では、社会主義的な考え方である。
 「国がこれこれの方針を出せば民間が動く」と考えるのは、社会主義的な匂いがある。たとえば、
「国が『IT振興』と言えば、民間がそれに従うだろう」
 と考えているフシがある。
 しかし、そんなことをやったからといって、一国の経済体質が変わるものではない。そんな号令を出したりするだけでは、全然足りないのだ。
 「構造改革」というものを、一種の「場の改革」「環境の改革」「状況の改革」と見なすのならば、それはそれなりに、効果はある。しかし、その効果は、ささやかなものだ。せいぜい、
「阻害する邪魔物をなくして、民間が自由に活動できる場を提供する」
 というぐらいのことしかできない。構造改革というものは、経済の活性化の切り札ではないのだ。

 では、どうすればいいか? 
 経済の活性化は、企業それ自体の活性化によってなされる。現状では、日本の企業は、米国の企業に比べて、きわめて体質が保守的である。たとえば、

 こういう保守的な体質からは、独創的な商品などは生まれない。結果的に、平凡な商品ばかりをつくって、安売りの競争ばかりしている。まことに、情けない。
 「うちの会社はどうかな?」
 と思ったら、まず、その会社の商品のデザインを見るとわかる。デザインには、独創性が必要である。独創性をもつ社員が生かされている会社なら、デザインもまた優秀だからだ。
 そういう視点で見ると、99%の会社はダメだ、とわかる。たとえば、日本のIT関連の会社で、まともなデザインの商品を出している会社といえば、2000年春に「デザインで爆発的な人気」をとった某デジタルカメラを発売した会社と、薄紫色のノートパソコンを出した会社ぐらいだろうか。
 この2社は、確かに、独創性を重視した、超優良企業だ。しかし、それ以外の会社は、すべてダメである。何がダメかと言えば、経営者がダメであり、経営がダメである。
 こういうふうに、根本的にダメな企業をそのまま放置している限り、政府がいくら「構造改革」などを訴えても、たいした効果はもたない。
 真の構造改革が必要である。それは、何か? 個々の企業について、企業の体質改革をすることである。そうして、そこいらにあるダメな会社を、先の2社のように優れた体質に変えることである。
 それは可能か? 可能である。少なくとも、「そうしよう」という意思があれば、その方向に進むことはできる。しかし、今は、「そうしよう」という意思がない。ほとんどの企業は、目先の業績を改善することに熱中しているだけで、自らの構造を変えようとはしていない。しかし、「自らの構造を変えよう」と本気で思えば、多かれ少なかれ、その方向に進むものだ。たとえば、日産自動車がそうだ。「自らの構造を変えよう」と本気で思った結果、その方向に進みつつある。
 日産自動車は倒産寸前だったから、そのような体質転換の方向に進むことができた。しかし、多くの日本企業もまた、本質的には、かつての日産自動車と同じ体質と病根をもっているのだ。だからこそ、自己改革の必要がある。
 小泉は政府レベルで「構造改革」を訴えている。しかしこれでは、日本を真に改革することはできない。世界レベルの企業には太刀打ちできないままだろう。さらには、すでに体質強化をなした韓国や台湾のメーカーに、追い越されるだろう。(実際、すでに一部は追い越されている。コンピュータ部品でも、メモリー、CRT、液晶、など、かつては日本の牙城だった分野で、韓国や台湾のメーカーに次々とシェアを渡している。お先は真っ暗である。)
 日本の会社は、自己がどうするべきかさえ、知っていない。たとえば、コンピュータメーカのF社やI社などは、「IT時代だから、社員を英語力で昇進させよう」と決めた。その結果、社員の英語力は向上したが、かわりに、社員の技術開発力は低下した。(特に某社はひどい。製品のデザインを見ても、惨憺たるありさまだ。)── こういう結果は、当たり前の話だ。英語スクールなんかに通っていては、まともな研究開発ができるはずがない。「どうすればうまく発音できるか」なんてことを考えていては、まともな技術的アイデアなどは浮かばない。
 要するに、「IT時代」というものを、完全に取り違えているのだ。今の日本の経営者というのは、そういうレベルの連中ばかりなのだ。そもそも、社長などが60歳前後なのだから、40歳程度のアメリカや台湾などに勝てるはずがないのだ。片やボケかかった老人が経営しており、片や人生の円熟期の人間が経営している。勝負は、戦う前から、明らかであろう。(日産のゴーン社長も、40代前半だ。)
 結局、小泉が「IT振興」などと唱えても、まるで無効果なのだ。そんなことを唱えても、日本の会社のダメな状態は少しも直らない。そもそも、直そうとすらしていない。こういう状況を何とかしない限り、日本は没落の途をたどるしかない。そして、当然、民間企業に対して無策である小泉の政策のままでは、構造改革だけをいくらやっても、その結果は、日本経済の沈滞と没落であろう。

 司法試験改革

 司法試験改革は、それ自体の良し悪しはともかくとして、なかなか示唆に富む。「単なる改革は、かえって状況を悪化させる」ということの、見本となっているからだ。
 どんな改革であれ、その改革をしたら、
 「改革をした場合のメリット・デメリット」
 「改革をしなかった場合のメリット・デメリット」
 を、相互に比較するべきだろう。
 つまり、デメリットを消そうとして、改革をすれば、当面のデメリットは消えるはずだが、一方、かわりに、新たなデメリットが生じるかもしれない。その点を、考慮するべきなのだ。
 ところが、司法試験改革においては、このことができていない。
 「現況では、司法試験による弊害があるから、ロースクールにする」
 というのが、審議会による改革の方針だ。なるほど、司法試験をなくせば、司法試験による弊害はなくなる。それはそうだ。しかし、ロースクールによる弊害はどうなるのか? ── そのことがまったく考慮されていないのだ。
 司法試験がなくなれば、司法試験による弊害もなくなる。しかし、ロースクールを創設すれば、ロースクールの場で新たな問題が生じる。つまり、現在の司法試験の問題が、そっくりそのまま、ロースクールの場に移るのだ。
 なのに、審議会は、そのことをまったく失念している。たとえば、ロースクール入学の段階で、苛酷な競争が行われるが、そのことを忘れている。
 それだけではない。司法試験とは違った、粗雑さが現れる可能性がある。どうやら審議会は、「各大学に任せるから、何とかなるさ」と思っているようだ。しかし、昨今の山形大などの状況を見ても、各大学に任せれば、下らないミスが続出するだろう。また、「面接で入学者を決める」などとすれば、愛想のいいタレントみたいな人間ばかりが入学し、人の痛みをわかるような人間は排除されるだろう。女性は美人ばかりが得をするだろう。(そのことは企業における入社試験を見ればわかる。顔を見て、「性格が暗そう」と言われて内定を取れない不美人の女性がいた。頭に来て、整形したら、たちまち、「性格が明るそう」と言われて、あちこちで内定を取れた。同じ人物が、そうなるのだ。いかに「面接」というものがいい加減か、よくわかる。)
 だから、私は、ここで予言しておく。「ロースクールが創設されたら、整形美人が続出する」「美容整形病院が繁盛する」と。(これはジョークではない。たぶん、男も美容整形する必要が出てくるだろう。かくて、小泉の改革は、美容整形業界についてのみは、景気回復をもたらす。)





 《 後日記 》
 本章を公開した 2001-07-13 のあとで、クルーグマン教授の寄稿が新聞上に掲載された。(2001-07-17 読売新聞朝刊1面コラム)
 論旨は、「構造改革だけではダメで、景気刺激策を採ること」である。この点、私が本章で述べたことと同趣旨である。(私の方が先に公開したのだから、私はクルーグマン教授の意見を盗んだわけではない。)

 さて。クルーグマン教授の寄稿と本章とでは、少し違うところもある。クルーグマン教授の寄稿では、景気刺激の具体的策としては「インフレ目標で」と述べてあるだけだ。しかし、私は「インフレ目標はそれだけでは機能しないから、その裏付けが必要だ」と述べた。両者の意見は少し違うように見える。
 実は、この両者は対立はしない。はっきり言って、クルーグマン教授の趣旨と私の趣旨は、ほとんど同じである。ただ、今回のクルーグマン教授の寄稿は、あまりにも文章が短すぎて、細かい点について言及していないのだ。
 たとえば、私の言うように「裏付けが必要」というのは、クルーグマン教授もわかっているはずだが、「では、どんな裏付けが?」となって、それについて言及すると、話がどんどん長くなる。また、「インフレ目標とは本質的にはどういうことか」とか、「インフレ目標の収束のさせ方」とか、他の問題点とか、そういうことにも言及すると、どんどん話が長くなる。だから、クルーグマン教授は、限られた紙面では、それらについてはすべてはしょって、一番大きな2点についてのみ、言及したのだろう。
 私はどうかと言えば、紙面が限られているわけではないので、すべて言及するつもりだが、話は非常に長くなる。そこで私は、これらについては、次章で独立して示すことにした。
 クルーグマン教授は、寄稿では「景気対策としてインフレ目標」と示しているだけだが、氏の膨大な著作では、これ以外のさまざまなことも、いろいろと言及している。(当たり前。氏の業績が小さなコラムに収まりきるはずがない。)

 なお、今回の寄稿について言えば、まことに核心をつかんでいる。だから、小泉政権の人々はよく理解するべきだと思う。
 ただ、コラムでは話が短すぎて、ちょっと意図がつかみにくい点もあるだろう。だから、そういう点については、本章を読んで、「構造改革だけではダメだ」ということを詳しく理解してもらいたい。
 ともあれ、今回の寄稿では、世界最優秀の経済学者が小泉の政策に「バツ点」をつけた、という点に意味がある。



 《 余談 》
 私が本章で「小泉政権の経済策への批判」を述べた。これは、第1章の最後の「余談」で述べたことと矛盾するように見えるかもしれない。
「先に『小泉を非難しない』と言っていたくせに、本章ではさんざん批判しているではないか」
 と。

 しかし、本章の冒頭で述べたことを思い起こしてほしい。私が小泉を批判しているのは、小泉を誤った道から救いたいためである。今のままでは、小泉は間違った道をたどり、失敗する。そのあげく、政権を失う可能性も大きい。

 世間には、こういう意見が出るだろう。
「あんたは景気回復に失敗した。責任を取れ! 橋本だって責任を取ったんだから、あんたも責任を取れ!」
 そして、そう言われれば、小泉は自ら率先して辞任するだろう。なぜなら、「構造改革で景気回復」という自らの信念が間違っていたことを認めざるを得ないからだ。彼は潔く、辞任する。(ちょうど、細川が「潔く」辞任したように。)
 かくて小泉政権は崩壊する。たぶん2〜3年程度で、小泉政権は崩壊する。それはほとんど必然である。だからこそ私は、そうならないように、ここに喚起しておいた。

( ※ とはいえ、小泉が私の意見に耳を傾ける可能性は、ほぼゼロである。ゆえに、小泉政権の崩壊は、まず不可避だろう。そのことを、ここに予言しておく。) 

( ※ 追記しておくと、2001年7月下旬の時点で、株価は「バブル破裂以降で最悪」。
 さて、日産の社長は「2年で業績回復する。さもなくば辞任」と公約した。小泉もまた、同様の公約を迫られる可能性がある。たとえば「2年で景気回復する。さもなくば辞任」などと。
 その場合、公約は守れないので、小泉の辞任は確実となる。 )



 《 雑感 》
 小泉は質問されると、「失業者が出ても、新しい産業が現れれば大丈夫」と答える。それが「構造改革だ」ということらしい。実にトンチンカンな答えである。
 新しい産業が出るかどうかが大切なのではない。「新規雇用者の数」と「失業者の数」とを引き算して、その差を見て、雇用がプラスになることが必要なのだ。雇用が純増になることが大切なのだ。小泉の「構造改革路線」は、「新規雇用があれば大丈夫」ということで、ここでは単純な引き算さえできていない。
 新規雇用者を増やす政策が必要なのではない。雇用が純増になる政策が必要なのだ。個々の産業に対する政策が必要なのではない。一国全体のマクロ経済に対する政策が必要なのだ。それが「景気回復策」だ。小泉にはそれが欠けている。政策の方向が狂っている。(たぶん、マクロ経済というものを、まったく理解できないのだろう。)

 にもかかわらず、小泉は「骨太の方針」「構造改革路線」を突き進む。実に一本気である。「雄々しい」とさえ言えるくらいだ。こういう態度を見ていると、昔の戦艦大和を思い出す。
 「もはや戦艦は無力だ」ということは、当時すでに明らかになっていた。(ほかならぬ日本が敵の「不沈戦艦」を航空機で撃沈して証明した。)
 にもかかわらず、そのことを無視して、さらに航空機製造などを犠牲にして、ひたすら恐竜のごとき巨艦のみを建造していった。まっすぐ破滅をめざして突き進む方針は、実に一本気であった。
 小泉も同じ道を歩むのだろう。「構造改革路線」という巨艦主義はダメだとすでに明らかになっている[ → 後日記 ]のに、そういう声を無視して、頑固に巨艦主義にこだわる。ひたすら自らの信念に従って、破滅に向かって突き進むのだ。戦艦大和のように。

 「改革なくして成長なし」
 と小泉は訴える。しかし、今の日本に必要なのは、「成長」ではなくて、「需給のギャップの解消」なのだ。(本章の前半で述べたとおり。) なのに「成長」をめざすというのは、めざすもの自体が間違っているのだ。「需要」の増加が必要なときに、「供給」の増加をめざすというのは、方針が根本的に間違っているのだ。この人は、本当に、経済というものがわからない経済音痴なのだろう。

   ※ 真の原因は? 現在の需要は、最低レベル。
       「消費性向が最低レベルに」 読売夕刊(7.31.)



[第2章、終] 

※ 次は、《 第3章


「小泉の波立ち」
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