第1章 改革をめぐる人々


        
 《 目次 》

  序言
  支持率
  マスコミ
  野党
  抵抗勢力  
  真紀子

 

 序言

 小泉の改革は、どんな受け止められ方をしているだろうか? つまり、小泉自身ではなく世間にとって、小泉の改革はどんな意味をもつだろうか? それを考えてみたい。
 なるほど、たしかに、世間では熱狂的な話題を集めている。しかしそれが必ずしも正確な受け止められ方だとは言えない。むしろ、「誤解されっぱなし」とさえ言えるくらいだ。
 小泉の髪型や服装がどうのこうの、というのは、まあ、下らない話ではあるが、誤解のうちには入らない。ただのミーハーの与太話であろう。どう受け止められようが、たいした問題ではない。せいぜい紙や電波が無駄になるぐらいだ。
 問題は、小泉の改革自体がどう理解されているか、だ。これが、どうも、おぼつかない。マスコミにせよ、野党にせよ、うまく理解できていない。それどころか、逆の意味に理解している、とさえ言えるほどだ。だから、小泉の改革に対して、自分たちがどうするべきか、わかりかねているようだ。
 暗闇のなかでは、人は盲目となる。それは誰でも知っている。しかし、光が過剰なところでも、人は盲目となる。しかも、そのときは、人は自分がよく見えずにいることを理解しがたい。
 「群盲象を撫でる」── これが今の日本のありさまだ。小泉を評して、ある人は「過激」と呼び、ある人は「保守」と呼ぶ。ある人は「非情」と呼び、ある人は「感受性豊か」と呼ぶ。ある人は「独裁的」と呼び、ある人は「行動が遅い」と呼ぶ。そのいずれも、一面的には正しい。しかし、小泉の全体像を理解していないのだ。全体像を理解しないから、てんでに勝手にバラバラなことを言い立てているのだ。
 全体像を理解するには、どうすればいいか? 一歩、身を引くことだ。物事を直接見ようとせず、少し離れたところから、広く見ることだ。今現在の瞬間的な事柄にとらわれず、長い時間の歴史のなかに置くことだ。そして、物事の表層を見るだけでなく、その下にある核心をとらえようとすることだ。
 以下では、その方針で、分析していくこととする。


 支持率

 小泉の支持率は高い。これは事実である。しかしこの事実に対して、世間の誰もが、目が眩んでしまっている。この事実を正しくとらえることができないし、正しくとらえようともしない。
 そこで、以下では、詳しく分析してみよう。

 支持率への驚き

 たいていの人は、次のように言う。

 「これは大変なことだ」
 「これは不思議だ」
 「これは異常だ」
 「これはまともじゃない」
 「こんなことは戦争中でもなければ起こらないことだ」
 「これはほとんど独裁に近い」

 誰もが目が眩んでしまっているのである。そして、なすべきことを忘れてしまっているのである。
 「不思議だ」という感想をもつのはよい。しかし、それはただの感想だ。意見でも何でもない。しかし、たいていの人が、ここで思考がストップしてしまっている。そこから先に話が進まない。
 「不思議だ」と思うのなら、その理由を分析するべきだ。それが識者やマスコミの義務であり、存在意義である。なのに、マスコミを見ても、「大変だ、大変だ」と喚いているだけだ。一種の思考放棄である。そんなことでは困る。
 支持率は高い。ならば、その理由を分析するべきだ。しかし、マスコミは、そのつもりがないらしいし、その能力もないらしい。そこで、以下で、私が分析を試みる。

 支持率の質

 まず、支持率の質を分析してみよう。
 支持率は、80%とか90%とかいう数字で表される。そこには量のみが現れ、質は現れない。だが、分析するならば、質も分析するべきだろう。
 「小泉のどこを支持するか」
 「小泉のどこが好きか」
 「小泉のどの政策を支持するか」
 「小泉の政策に無条件で賛成するか」
 こういうことを分析してみるとよい。ま、いちいち調べなくても、テレビのワイドショーの街頭インタビューなどを見ていれば、わかる。
 小泉の支持率とは、いわゆる政治的な高支持率というのとは異なっているのだ。それはむしろ、一種のアイドル的な人気なのだ。松嶋菜々子とか、イチローとか、吉永小百合とか、長島茂雄とか、そういう人気者が国民の高い支持を得るのに似ているのだ。
 そして、これらの人気者が高い支持を受けたからといって、「松嶋菜々子は独裁的だ」とか、「イチローは独裁的だ」などと言うのは、馬鹿げている。にもかかわらず、そうした馬鹿げたことを言っているのが、今の(一部の)マスコミだ。
 小泉の高支持率の大部分は、人気投票のようなものにすぎない。人間性に対する好き嫌いのようなものにすぎない。
 なのに、これを「独裁」などと表現するのは、過剰な反応であり、それどころか、間違った反応である。
 そもそも、独裁とは何か。一種の「洗脳」的要素があって、それにすべてを丸め込もうとする体制だ。ところが、小泉自体が、この点に注意している。「独裁にならないように注意せねば」と本人が自省している。また、支持率が高いのを喜ぶことはなく、「下がった方がいい」とも言っている。また、自分の言うことばかりを聞くイエスマンで周囲を固めず、なるべく反対者の意見に耳を傾けようとする。また、自己陶酔がなくて、本人が自己チェック的である。つまりは、小泉は、独裁者とは反対の性格をしている。こういう人物を「独裁」と言うのは、詭弁であり、虚偽であろう。世間を特定の方向にミスリードしようとするわけで、「扇動的だ」とさえ言える。
 この点では、「小泉は独裁的だ」という主張は、その主張自体が、独裁体制に似ている。嘘と詭弁で塗り固め、世間を特定の方向に導こう、という扇動的な傾向があるからだ。ナチスはこの手がうまかったが、「小泉は独裁的だ」という主張もまた、ナチス的だ。ナチスは「あいつはユダヤ人だ」といって、特定の人物を排除しようとした。それと同じで、「小泉は独裁的だ」と煽動して、小泉を排除したがっているわけだ。実に危険である。
 それに対して、弁解するかもしれない。
 「いや、そんなつもりはないんだ。ただ、権力のチェックをするのが、マスコミの義務だから」
 と。苦しい言い訳である。権力のチェックは、たしかに必要だ。しかしそれは、正しい事実を報道することによってなされる。嘘の事実を報道することによってなされるのではない。
 「小泉のこういう体質が独裁的だ」
 と事実を報道するのなら、まだわかる。しかし、そういう事実は見出せまい。そこで、仕方なく、支持率の高さだけに目を付けて、これをもって「独裁制に似ている」と主張する。「小泉も支持率が高い、独裁政治も支持率が高い、だから両者は似ている」というわけだ。とんでもない詭弁と言うべきだろう。論理になっていない。こんなエセ論理がまかり通ったら、どうなるか。「松嶋菜々子は人気がある。イチローも人気がある。だから二人はそっくりだ。」となってしまう。「冬は寒すぎて、過ごしやすくない。夏は暑すぎて、過ごしやすくない。だから、冬と夏はそっくりだ」となってしまう。
 支持率の高さだけに目を奪われるべきではない。支持率が高いのが危険なのではなくて、支持率が高いことに過剰な反応をすることが危険なのだ。過剰な反応はほとんど思考停止につながるからだ。
 「支持率の異常な高さ → おかしい → 危険だ」
 という短絡的思考。こういう短絡的な思考が始まると、以後、論理的な思考ができなくなる。小泉の政策のどれが良いとか悪いとか、分析的に判断することが不可能となり、単に「支持率が高いから」という理由で「良い」とか「悪い」とか判断しがちになる。
 このような、短絡的思考ないし思考停止。それは、不要だというだけでなく、危険ですらある。たとえれば、ボートが沈みかけているとする。ここで、沈没を免れるため、「バケツで水をくみ出そう!」と決議したとき、「賛成者が90%なのは独裁的だ!」とわめきたてて、水のくみ出しを妨害する者が出るかもしれない。その結果、ボートは沈没し、全員が死んでしまう……ということになる。
 一国が沈没しかけているときには、事態の本質を正しくとらえるべきだ。単に表面的な形式的なことだけにとらわれていると、とんでもない結果を招くことがある。それでも、こういう「天の邪鬼」は、いつもどこかにいるものだ。彼らは、周囲の人々がどうなろうか、そんなことは問題ではないのだ。自分の言行がどんな結果を招くかにも、関心はないのだ。ただ自分の思いつきを大声で喚いて、人の目や耳を引きたがっているだけなのだ。一種の目立ちたがり屋である。こういう人物は、いつもどこかにいる。テレビのタレントで言えば、柳沢慎吾がそうだ。いつもジョークを言って、まわりを喜ばせているつもりでいる。しかしそれが人々にとってはうるさいのだ。ジョークが楽しく聞こえることもあるが、夜中に眠りたいときに、朝まで一晩中ジョークで騒がれては、迷惑である。なのに本人は、自分が迷惑がられているということが、わからない。一人で勝手に、おもしろいことをしているつもりになっている。まったく、ハタ迷惑である。(……以上、「ウッチャンナンチャン」の南原清隆の証言による)
 小泉を「独裁的」と称するのも、同様だ。柳沢慎吾と同じで、みんなにはうるさがられるだけだ。「おまえ、とんちんかんなこと言うなよ」と。なのに、本人だけは、得意になっているのだ。まったく、ハタ迷惑な人々である。こういう人々のせいで、目が逸らされていると、その間に、本気で独裁を狙うような性格の人々(どこかの都知事とか)が、こっそりのさばり出すのだ。彼らは、柳沢慎吾のような間抜けに対して、感謝するだろう。しめしめ、と。なぜなら、「独裁だ、独裁だ」とオオカミ少年のようなことをしてもらったおかげで、そのあと、本当にオオカミがやってきたとき、うまく行くかもしれないからだ。
 とにかく、結論的に言えば、支持率の高さが問題なのではなくて、支持率の高さの意味が問題なのだ。

 支持率の質(続)

 支持率の高さについて誤解する人々について、もう少し言及しておこう。
 小泉への支持とは、改革への支持である。これが高いことは、独裁的だろうか?
 多くの人はここを誤解している。「支持が8割以上だというのは、特定の方向に凝り固まっていることだ。これはおかしい、これは危険だ」と。
 これは勘違いである。民衆の「小泉支持」とは、特定の主義主張に凝り固まることではないのだ。
 民衆の支持しているのは、「現状打破」である。つまり、「現地点から離れる」という点で共通しているのだ。ある特定の方向を向いて走ろうとしているわけではない。「今のこの地点にいれば危ない。だからとにかく今のこの地点から離れるべきだ」と考えて、小泉を支持しているのだ。
 ところが一部のマスコミは、それを誤解する。「みんなが同じ方向を向くのは危険だ」などと見当違いのことを主張する。実際には、同じ方向を向いているわけではないのだが、勝手にそう決めつける。そうして結局は、「だから現地点に留まろう」という結論に誘導しているわけだ。
 しかし、こういう扇動者ほど有害無益なものはない。地盤の崩れかけたところに人々がいて、そこから逃げ出そうとしているとき、「みんながそろって逃げ出すのは危険だ、現地点に留まろう」と呼びかけるようなものだ。こういう扇動者に従えば、残った者はひどい目に遭う。
 もっとも、こういう扇動者の意見が、人々に信じられるとは限らない。一般的な国民は、こういう扇動者よりも、はるかによく現状を理解している。小泉の方針とは、改革であり、自民党政治の打破であり、利益誘導主義の打破である。小泉の改革とは、一種の破壊であり、現状からの拡散である。そして、それを妨害しようとする人々が、「小泉は独裁的だ」などと言い立てるのである。
 「小泉は独裁的だ」と言い立てる人々が、かえって「独裁的」な体質を帯びているということ。そのことに注意しよう。詭弁家というものは、常にそういうやり方をするものだ。自分が嘘つきであるときには、他人を「嘘つきだ」と批判して目を逸らそうとする。そういう手口である。

 こういう人々のおかしさは、日産自動車のゴーン改革と比べれば、いっそう浮き彫りとなる。
 日産ではどうなったか? 赤字が蓄積して、倒産寸前となった。そこへ、ゴーン氏が登場して、「根本的に改革せよ!」と号令を出し、あげく、全社一丸となって体質改善に乗り出した。
 そこへ「全社一丸はけしからん」と言い出す人が出てくるかもしれない。そうなったら、どうなるか。会社の体質改善は遅れる。赤字は蓄積する。悪くすると、倒産するかもしれない。
 つまり、そういうことだ。赤字が蓄積して倒産寸前の日本に、小泉が現れて、体質改善に乗り出した。そこへ、「全員で一丸になるのはけしからん」と言い出す人物が出てきて、改革の足を引っ張る。かくて、日本は、国家の破綻から免れる力をそがれる。
 支持率云々を主張する人は、そういうことがわかっていないのだろう。彼らには、危機感というものがない。今の日本は沈没寸前だという意識がない。あまりにも能天気であり、あまりにも甘ったれているのだ。彼らは、自分が主張したことの結果、どうなるかも考えないで、単に、原理原則ばかりを主張したがるのだ。

 支持率の核心

 話がだいぶ、回り道をしてしまったようだ。駄馬にかかわっているうちに、余計な方向に道を逸れてしまったようだ。
 ここで、話を本道に戻す。
 初めに述べたとおり、小泉の支持率は高いが、それに「不思議だ」と感想を漏らすだけでなく、その理由を突き止めることが肝心だ。そこで、それを、私なりに、突き止めようとする。

 まず、核心に至る前に、前例を見てみよう。
 小泉の高支持率は、本当に不思議なことか? 前例はないか? ── そう思って、歴史を見れば、すぐに気づく例がある。細川政権だ。
 細川政権もまた、未曾有の高支持率を得た。他の政権とは異なって、細川政権と小泉政権、この二つだけが、80%程度かそれ以上の支持率を得た。
 そこで、この二つの政権を比べてみると、実に共通点が多いことに気づくだろう。

 ただ、このうち最後の点は、あまり問題ではない。外貌や性格だけなら、橋本や海部もどっこいどっこいだった。だから、肝心な点は、「改革」という点だろう。
 ともかく、日本政治を根本的に改革しようという姿勢があれば、こういう高支持率を得られるものなのだ。そのことは、当然なのであって、不思議でも何でもないのだ。
 つまり、「高支持率は不思議だ」というのは、自己の認識不足を露呈しているにすぎない。現状は、不思議なことであるどころか、ごく当たり前のまっとうなことなのだ。当然のことが当然に起こったのであって、驚くべきような点は何一つないのだ。
 だから、次のようにも予言できる。

 「仮に小泉が暗殺されたあと、自民党の保守政権(例:橋本政権 or 野中政権)が復活したとする。その場合、支持率はまた従来の水準まで急低下する。そこでスキャンダルなどによって内閣が崩壊したあと、新たに改革派の政権(例:真紀子政権)ができたとしたら、その政権もまた80%程度の高支持率を得る」 

 つまり、改革派の政権が80%程度の高支持率を得るのは、ごく当たり前で当然のことなのだ。不思議でも何でもないのだ。そう理解しておくといいだろう。

 支持率の理由

 では、改革派の政権が80%程度の高支持率を得るのは、なぜなのか? それが問題となる。

 実は、これも不思議ではない。
 そもそも、自民党という政党は、国民からまったく信頼されていないのだ。それは、比例区の票を見ればわかる。昔も今も、ずっと25%〜30%程度の票しか獲得していない。それだけの支持しか得ていないのだ。「与党だから何となく」とか、「地元のために有利だから」という分を排除すれば、純粋に政策を支持しての自民党支持は、国民のうち、ごくわずかしかない、と推断できる。
 つまり、国民の大部分は、もともと反自民なのだ。だから、それがそのまま、改革派の支持になった、と考えれば、わかりやすい。そう考えれば、おおざっぱに、数字のつじつまは合う。 
 要するに、もともと、国民の政治的な傾向は、「こういうもの」というまとまった部分があったわけである。そういう部分に適合した政権が登場すれば、支持されて当然であろう。
 それにさらに、「与党だから支持します」という日和見主義者たちの支持を付け加えた分が、現在の小泉の支持率である。
 つまり、このようにして、分析はうまく完了する。

 支持率と歴史

 ただ、問題も残る。「ではなぜ、これまで、自民党政治が続いてきたか」という点だ。「国民の意思がそのような改革的なものであったとすれば、なぜ、それに反する自民党政治が続いてきたか」という点だ。
 それを分析すれば、次のようになるだろう。

 第一に、選挙の仕組みだ。一票の格差が衆院で2倍以上、参院では5倍程度、なんていう、メチャクチャな仕組みのせいだ。仮に、一票の格差が最小限になるような仕組みがあったなら、(小選挙区制でも中選挙区制でも)自民党政権がひっくりかえっていた可能性がある選挙は、戦後、何回かある。
 さて、これほどにもひどい選挙制度は、もはや民主主義とは言えない。「独裁制とは、無限大の格差のある民主主義だ」と表現することもできるので、格差が数倍もあるような選挙制度は、日本が民主主義ではなく、半独裁国家であったことを意味する。政権は常に民意とは懸け離れたところでできていた、といってもよい。となると、民意に従った小泉が政権に就いたということは、日本が独裁主義から免れて、民主主義になったことを意味する。とすれば、国民が熱狂するのも、当然だろう。細川政権と小泉政権は、いずれも、国民が熱狂した。それは、日本が独裁制を脱して民主化したことの、熱狂であろう。(だから支持率が高いのも当然だ。)

 第二に、野党の信用不足がある。国民は、自民党には愛想が尽きていたのも事実だが、かといって、野党もまた信用されていなかった。実際、政策だけ見れば、小泉の政策は、民主党の性格とそっくりだ。なのに、なぜ野党が票を獲得できないかといえば、国民に信用されていないからだ。
 これには、野党自体の責任も大きいが、国民の「慣れの不足」「食わず嫌い」も、一因である。とはいえ、いったん政権を獲得すれば、「ほう、やればできるんだ」と信用される。それが細川政権の高支持率である。細川世間自体は、成立するまではそこそこの「日本新党」支持だけだったが、いったん政権につけば、80%程度の高支持率を得た。
 いったん「与党」という箔がつけば、強くなるものだ。


 マスコミ

 小泉は突っ走る。では、マスコミはどうしているか?
 マスコミは小泉に追いつけない。何とかして、あとを追おうとしているのだが、どうにも追いつけないのだ。

 マスコミの警鐘

 先に、支持率の問題を挙げた。ここでも、問題は明らかとなる。
 支持率が高いのであれば、「不思議だ」などと言うのではなく、「なぜそうなのか?」と分析するべきだった。なのに、それができない。単に「不思議だ、おかしい、異常だ」と言っているだけだ。
 もしかしたら、マスコミは、ここで、告白しているのかもしれない。「自分たちは、それだけしか言えないんです」「自分たちはそのくらい無能なんです」と。
 しかし、そうではないようだ。それどころか、マスコミは、自分のなしていることが、よくわかっていないようだ。
 「小泉の支持率が高い」
 と指摘するだけなら、それでよい。しかし、それを「独裁的だ」などと虚偽の理屈で形容するのは好ましくない。論理でそう示すのならともかく、詭弁でそう示すのは好ましくない。それは言論の自由をはきちがえている。マスコミには、言論の自由があるが、それは、好き勝手なことを言う権利ではない。嘘やでたらめを言う権利ではない。しっかりとした裏付けのある主張を言う権利のことだ。
 少なくとも、自分の言ったことでどうなるかぐらいは、ちゃんと心得ていてほしい。「小泉は高支持率だ、ゆえに独裁的だ」と批判するのなら、それによって小泉の支持率を引き下げようとしているのだ、と自覚するべきだ。そうして小泉の改革を妨害しているのだ、と自覚するべきだ。
 「自分は警鐘を鳴らしているつもりだ」などとは自惚れない方がいい。国民は熱狂的に支持しているが、別に、洗脳されたわけではない。単におもしろがってミーハー的に支持しているだけだ。小泉が変なことをすれば、一夜にして支持率が下がる。(たとえば細川政権を見るがいい。「国民福祉税」なんていうものをぶちあげたとたん、「夜中に増税を決めるな」と国民の総スカンを食った。支持率は劇的に下がった。小泉だって、同じようなことをすれば、同じ目に遭う。)
 国民は賢明である。利口ぶった記者にいちいち教えてもらわなくとも、全権委任などはしない。自己の判断力をすべて明け渡すようなことはしない。小泉を支持しているから小泉の言うことを聞くのではなくて、小泉が自分たちの言うことを聞くから小泉を支持しているだけだ。そんなことぐらい、国民はみんなわかっている。小泉が「右を向け」といったからといって、国民が右を向くわけではない。その証拠が、小泉の政策への、個別支持率だ。さまざまな支持率調査のうち、「靖国参拝」だけが、劇的に支持率が低い。これだけは、小泉を支持していない。国民はちゃんと自分で判断しているのだ。いちいち「高支持率は危険ですよ」なんて、利口ぶった記者に教えてもらう必要はないのだ。

 マスコミの自覚

 どうも、今のマスコミ(新聞・雑誌)を見ると、「小泉が高支持率なのはけしからん」「おれの方が利口なんだと示したい」という知ったかぶりがあふれすぎている。こういう知ったかぶりたちが紙面を埋めつくしているのだと思うと、残念でならない。
 なるほど、「マスコミが権力を支持してばかりいれば問題だ。マスコミは権力を批判しなくては」という意見は成立する。それはそれなりに立派である。しかし、その際には、二つのことに留意しなくてはならない。

 この二つが必要だ。しかし、このことが、十分にできていない。
 なるほど、相手が昔の自民党のときは、話は簡単だった。昔の自民党は、間違ったことばかりやっていたので、昔の自民党を批判すれば、それはそのまま正しい主張になった。
 しかし、今や、そういう具合には行かないのだ。小泉は原則として正しいことを言っているのであり、それをそのまま単純に批判すれば、かえって間違ったことを主張することになる。
 だから、マスコミは、小泉に追いつけないのである。世の中は激変しているし、それどころか180度、逆の方向に流れているのだ。なのに、そのことに気づかず、いつまでも、同じ流れのつもりで、旧来通りの心構えで発言をしている。流れの変化が理解できていないのだ。
 結局、本人は、「政府に対する批判」「政府の暴走のチェック」のつもりでいても、実際には、「小泉の改革の足を引っ張る」だけであり、「抵抗勢力を利するだけ」だ。今や小泉自体が「改革」=「反権力」の行動を起こしているのだ。こういうときには、名目的な「反権力」は、実質的には「権力擁護」となってしまう。つまり、既存の権力(官僚や保守派議員)を利してしまう。結局、「反権力」のつもりで小泉批判をすれば、「旧体制の擁護者」「旧権力の犬」になってしまう。それが今の(一部の)マスコミだ。

 彼らはどうも、自分たちのやっていることが、まったく理解できていないようだ。たとえば、支持率をとっても、そうだ。
 「支持率が80%以上だというのはおかしい」
 と言って、国民の改革気運に、水を差す。しかし、どうせそんな意見を言うのであれば、その1カ月前にも同様のことを言えばよかったではないか。 「森内閣の不支持率は80%以上だ。支持率は5%だ。これはおかしい」
 と。そう言えばよかった。そうやって、森内閣を助けてあげればよかった。(もしそうしていれば、今頃、民主党などの野党に、とても感謝されただろう。)
 要するに、マスコミというのは、二枚舌なのだ。森内閣の不支持率は80%以上のときは、「それが当然」とばかり報道する。ところが、小泉内閣の支持率は80%以上のときは、「それが当然」とは報道せずに、反対に、「おかしい、変だ、異常だ」と報道する。まったく、呆れた話だ。たった1ヶ月ぐらいで、よくまあ、こうも反対の立場で報道できるものだ。ここまで無節操なことが、よくまあできるものだと、感心する。私だったら、ここまで恥知らずなことは、とてもできない。
 そういえば、真紀子の件もそうだ。「外務省の機密費はけしからん」とさんざん批判しておいて、いざ真紀子がそれに手を付けると、今度は真紀子批判に転じる。たしかに、真紀子に手続き的なミスがあったのはたしかだが、だからといって、それを大騒ぎして、肝心の機密費のことをほったらかす、というのも、おかしな話だ。あげくは、真紀子が議会に電話で要望したからと言って、「三権分立の侵害だ」などと、大仰に騒ぎ立てる。呆れた話だ。
 三権分立というのは、電話一本で揺るがされるほど、もろいものなのか。こんな下らない手続きミスを、「三権分立」というふうに大げさにとらえるなど、「ネズミ一匹で大山鳴動」というようなものだ。国会というのは、いつから、こんなみみっちいところになってしまったのだろう。そしてまたマスコミというものは、いつから、こんなに下らないことばかり報道するようになってしまったのだろう。新人はどの分野でもヘマをする。ヘマをしたからといって、ギャアギャアわめき立てるのでは、聞かされる方がうんざりする。まったく、今のマスコミには、うんざりだ。こういうふうに、下らないことばかり報道しているから、肝心のことをちっとも報道できないのだ。 

 マスコミの誤解

 まとめて言えば、マスコミは、小泉のことを理解できていない。マスコミは小泉を一種の「権力」と見なしている。そして「独裁的なもの・横暴なもの」ととらえて、それに対抗しようとする。身にしみた習癖が抜けないわけだ。
 事実はそうではない。小泉は「権力」などではない。たしかに権力の頂点に立ってはいるが、小泉自体は権力ではない。小泉の立場はきわめてもろいものだ。それに比べれば、官僚の権力ははるかに強い。自民党だって、小泉の方針を簡単にひっくり返して党の参院選公約としたくらいで、小泉よりも強い。目立つのは小泉だが、権力を実質的に握っているのは官僚と自民党保守派である。小泉はこれらを変えようとしているが、今のところはまだまだ変えられずにいる。
 小泉を「独裁者」に喩えるのは、小さな蟻を巨大な「象」に喩えるようなものだ。マスコミの戦うべき相手は、小泉ではなく、その下にいる権力だ。そのことを理解しないと、いつまでたっても、権力に利用されっぱなしになるだろう。真紀子の問題でも、新聞などの活字メディアが外務省の言いなりに操られているのは、まことに情けない。
 小泉の幻影は大きい。それは支持率にも現れている。しかし、小泉の権力基盤は、きわめて弱体だ。そのことを誰よりもよく知っているのが小泉であり、逆に、そのことをまったく理解していないのがマスコミだ。


 野党

 マスコミは呆れたありさまだが、それに輪をかけて呆れたありさまなのが野党だ。マスコミは、やるべきことをやっていないし、やるべきこととは正反対のことを少しやっている。一方、野党は、やるべきこととはまったく正反対のことをやっている。
 以下、順に述べていく。

 野党と小泉 (1)

 マスコミは小泉のことを正しく理解できていないが、野党もまた正しく理解できていない。
 最も根本的なのは、小泉が敵か味方か、という点だ。この点をよく理解できていない。実は、理解できなくてもよい。しかし、理解できないままに、早急に「敵だ」とか「味方だ」とか決めつけると、判断を誤る。その点に注意するべきだ。
 小泉は敵か味方か? 形だけを見れば、敵対する自民党の親玉なのだから、敵なのだろう。少なくとも頭では、そう判断せざるを得まい。
 しかし、小泉の目標としていることは、何か? それはほとんど、民主党の公約そのものだ。公明党や自由党などの公約にも似ている。一方、旧来の自民党とは、あまりにも懸け離れている。── ということは、小泉は同じ目標をめざす「同志」であることになる。
 「敵でありながら、同志である」
 このことが、判断を曇らせる。どうするべきか、わからなくなる。しかし、わからなくなったら、そこで判断を止めればよい。かわりに、別の方面から、考え直せばよい。つまり、実利的な面からだ。

 野党と小泉 (2)

 実利的な面から、小泉を判断することができる。

 それを冷徹に考えるのだ。一種のビジネスである。ビジネスには損得だけが問題であり、好き嫌いなどは問題外となるし、建前や原則論なども問題外となる。それが「ビジネスライク」というものだ。
 では、ビジネスライクに考えて、小泉をどう見なすべきか? 
 これは簡単だ。ビジネスならば、まず、市場に聞く。市場の要求の高いものを提供するのがビジネスの原則だ。そこで、市場に聞けば、「小泉の支持率が圧倒的」「反小泉は僅少」とわかる。
 ここで、選択肢は、二つある。

 シェアとは、ここでは、選挙での議席のことになる。選択肢のうち、どちらを取るべきかは、子供でもわかるだろう。ところが、子供でもわかることができないのが、今の野党だ。

 ここで、少し複雑な事情がある。
 小泉という商品を売っているのは、ひとつのメーカー(党)だけではない、ということだ。すでに「自民党」というメーカーが「小泉」という商品を売り出している。となると、「民主党」などのメーカーも「小泉」という商品を売り出すと、競合が起こる。
 では、競合が起こるなら、どうするか? ここで、二つの選択肢がある。

 民主党は、前者の立場を取った。これはつまり、80%以上の市場を捨てる、ということであり、その市場をすべて自民党に与える、ということだ。そして残る10%程度の市場を、他の党と分かちあうわけだ。
 呆れた話である。この党は、経営者として、最低の経営判断をした。これはつまり、自滅への道であり、企業で言えば倒産への道である。そんなことがどうしてわからないのだろう? 「子供でもわかることができないのが、今の野党だ」と先に言った。ほとほと呆れはてる。マスコミは、なすべきことをなしていないが、野党は、なすべきこととは正反対のことをなしているのだ。

 野党の正しい方針

 では、野党は、どうするべきであったか? 先に述べた点では、「商品の差別化」という選択肢があった。この選択肢を取ればよい。
 では、「商品の差別化」をするとして、どう差別化するか? これは、簡単だ。市場の声を聞けばよい。
 今の市場には、どういう声があふれているか? 誰でもよく知っているとおり、次の声だ。

 「小泉の改革を支持する。だけど、自民党に投票すると、保守派が増えそうなので困る。」
 「かといって、野党に投票しても、野党は反小泉なので、困る」
 「結局、どこに投票するか、迷ってしまう」

 こういう市場の声があるのだ。だから、この市場の声を満たすような商品を出せばいいのだ。
 それにはどうするか? OEM(相手先ブランドの商品)を使えばよい。ブランドは違っていても、中身は同じ、というやつだ。つまり、ブランドとしての政党名は別であっても、商品としての内容は小泉、という商品を提供すればよい。
 「自民党」ブランドでは、その商品は、小泉度があまり高くない。保守派成分がかなり混じっている。だから消費者は、こんなまがいものは買いたくない。
 そこで、「民主党」ブランドで、小泉度100%の商品を出せばよい。「私たちは、ブランドは違いますが、小泉成分を100%含んでいるので、まさしく消費者の望んでいるものですよ」と訴えれば、消費者は、こぞって、これを買うだろう。
 ところが、民主党のやっていることは、正反対だ。「私たちは小泉成分をあまり含んでいませんよ」と宣伝している。これでは、消費者からそっぽを向かれて当然だ。
 民主党は、政党として未熟である。「議席を獲得する」という目的のための行動が、まともにできない。国民の要求に応えられず、自分勝手なことばかり主張している。自分を国民に合わせようとするのでなく、国民を自分に合わせようとしている。
 これでは、選挙で勝利できないのは、確定的といわざるを得ない。

  【 後日記 】
  この予測は現実となった。やっぱりね。(7.30.記)
   cf. → 選挙結果への感想

 野党の戦術ミス

 野党とは、参院選を前にして、あえて自滅の道を選択するという、ひどいミスを犯した。これは最大のミスだが、他にも、まだいくつか、ミスがある。それらについても、ついでに細かく述べておこう。

 (1) 対決相手の選択
 野党の戦術は、次のような変遷をたどった。

 ここでは完全に戦略を間違えている。
 そもそも、そんなに簡単に戦う相手をコロコロと変えるべきではない。昨日は「小泉支持」で、今日は「反小泉」では、有権者の信頼を失う。
 さらに、戦うべき相手を間違えている。戦うべき相手は、小泉ではなくて、「抵抗勢力」だ。そのことを訴えるべきだった。
 ま、7月ごろになると、そのことに気づいて、いくらか訴えかけてもいるようだ。しかし、相変わらず変な党首が、「小泉との違い」を訴えているので、有権者は「あ、そう。反小泉なのね」と受け取り、「抵抗勢力との対決」という印象は消えてしまう。まことに愚かしい。「あっちもこっちも」と訴えているのかもしれないが、そんなわかりにくい表現では負ける。小泉は肝心なことを一言で言い切る。鳩山は肝心なこと以外をだらだらという。どちらが有権者に訴えるかは、あまりにもわかりきったことだ。

 (2) 小泉批判のミス
 自民党との違いを訴えようとして、小泉を批判したりする。これは完全な戦術ミスだ。
 小泉を批判するということは、小泉に批判的な人たちの票をもらおうということだ。つまり、80%の支持率のときに、残りの20%の人々の支持を得ようとする、ということだ。20%の不支持のうち、保守派と革新派がほぼ半々だろう。となると、野党は国民の10%程度の支持者の票を得ようとしている。これは決定的なミスだ。狂気の沙汰というしかない。
「議席を得ようとするのが政党の目的」
 とすれば、民主党は、もはや、政党としての形をなしていない、とすら言える。あえて泡沫政党の仲間入りをめざそうとする、という戦術には、まったく、呆れるほかはない。
 その点では、自民党の方が、政権政党としてはまだマシ、と言えるかもしれない。まったくずる賢い悪代官のようなものだが、それだけに、利には賢い。自分にとって損になるようなことはしない。だから日本をぶちこわすようなことはしない。民主党は逆だ。自分にとって損になるようなことをあえてやる。こういう人物は、日本全体をぶちこわしかねない。自民党を一字でいえば「悪」だが、民主党を一字でいえば「狂」だ。悪人と付き合えば、金を失うだけで済む。狂人と付き合えば、命を失う。
 自民党というのは、日本を食い物にした悪党どもの集まりだが、それだけに、食い物にする日本をぶちこわすことはしなかった。民主党は逆だ。自分が正しいことをしていると狂信したら、日本自体をぶちこわしかねない。何しろ、自分たち自身をもぶちこわそうとしている連中なのだから。何をやるか、わかったもんじゃない。

( ※ 小沢は「自党の破壊」を3度もやった。鳩山も?)

 (3) 選挙の目的
 野党は選挙の目的を完全に勘違いしている。(もっとも、与党だって勘違いしているが、それはさておき)
 選挙の目的は何か? 「自分たちが当選することだ」と政治家は思う。ひどい勘違いだ。それはあんたたちだけの思い込みだ、と言ってやりたい。
 選挙は、政治家のためにあるのではない。国民のためにあるのだ。そこのところを、根本的に勘違いしてはならない。
 政治家は、どの政党が増えるか減るか、誰が当選するか落選するか、ということを問題にする。それが選挙の目的だと思う。とんでもない話だ。国民にとって、どこの馬の骨が当選しようが、どこの犬の骨が当選しようが、どちらでも構いはしない。国民にとって関心があるのは、どこの誰が当選するかではなくて、その結果どのような政策が実現されるか、である。
 自民党であろうと、民主党であろうと、国民にとって好もしい政策が実現するのであれば、そのようにしてくれる政治家を支持する。それだけのことだ。
 そこのへんのことを、多くの政治家は理解していない。「私を支持してくれ」「民主党を支持してくれ」と訴えても、しらじらしいだけだ。「ふん、勝手なことをほざくなよ」と思うだけだ。「いったい自分を何様だと思っているんだ。人の支持を得られるほどの人格者だと、自分のことを自惚れているのかね」と蔑みたくなるものだ。「ちっとは謙虚さを持てないのかね」と皮肉りたくなるものだ。
 今の野党はといえば、やたらと自己を目立たせようとしている。そのために小泉批判をしたりする。これでは、政治家として、本末転倒である。いわば、「目立つために小学生を虐殺する」という、例の犯罪者と同じレベルだ。
 個性というものは、他人との違いを訴えたときに現れるものではない。個性とは、自己の本分を尽くしたときに、自然ににじみ出るものだ。野党は小泉との違いを訴えようとするから、ますます、自己の個性が消えてしまって、ただの「小泉の影」になってしまう。小泉は、誰かとの違いを出そうとするのではなく、ただ自己を全力で発揮しようとするから、個性が現れる。
 そこのところを理解しないから、結局、野党は、「反小泉」と見なされて、抵抗勢力と一緒くたに見なされるようになるのだ。
 違いを訴えるにしても、どうせなら、「小泉との違い」ではなくて、「自民党内の抵抗勢力との違い」を訴えるのなら、まだ効果があったのだが。
 また、違いを訴える際にも、「小泉よりも民主党の方が優秀ですよ」と訴えるのは、まったく馬鹿げている。仮にその言い分が正しいとしても、そんなことを言って、改革派が内部対立していては、抵抗勢力が利するだけだ。「だったら民主党に票を入れるのはやめよう」と国民は思うだろう。本気で改革する気があるのなら、「小泉より優秀」なんて甘い言葉を言うべきではない。うまく言いくるめようとすればするほど、国民の信頼を失う。小泉が改革しようとしているときには、素直に「応援します」「抵抗勢力と戦います」と言えばいいのだ。それができないから、国民の信頼をなくす。
 「いや、違うんだ。自民党保守派とは、同じ穴のムジナじゃないんだ」と訴えても、「あ、そう、じゃ、別の穴のムジナなのね」と言われるのが落ちだ。
 今の民主党は、抵抗勢力と結託して、改革を妨害している、としか見えない。本当の意図がどうであれ、そうしているとしか見えない。たとえば、真紀子問題だ。真紀子が国会で立ち往生するように、民主党と抵抗勢力は結託している、と国民は思う。そして、実際、そうなのだろう。
 民主党は、小泉の改革路線を否定すればするほど、抵抗勢力に似てくるのだ。実際にそうであるかどうかは別として、国民にはそう見えてくるのだ。ま、それでも、そのことに気づいていてそうやっているのなら、まだ救いがある。しかし、どうやら、自分のやっていることが自分でわかっていないようだ。たしかに、民主党は、「悪」ではない。しかし、「狂」である。まことに嘆かわしいことであるが。

 野党と党首討論

 ま、あまり野党をけなしても仕方ない。そこで少しはサービスしてあげたい。
 先日の国会の党首討論を見たが、まったく、野党の方は出来が悪い。そこで、野党のために、少しは票が伸びるような、アドバイスしてあげよう。

 (1) 気概
 まず、野党は、気概がなっていない。最初の気概からして、完全に負けている。
 野党のやっていることを見ると、政権のアラ探しと揚げ足取りだけだ。「閣内不統一」だの、「失言」だの、何だの。何というスケールの小ささか。「ここにホコリが溜まっていますよ」と言って、嫁いびりをする、姑のようだ。まったく、情けない。
 小泉は、日本を変えようとする構想と気概を語る。なのに、野党は小泉のアラ探しと揚げ足取りだけ。大人物と、小人物。ライオンとハイエナ。それだけの差がある。
 姿勢からして、そうだ。小泉は正面を向いて、堂々と吠える。鳩山は、俯いた姿勢で、おどおどと見上げる。見ていて、哀れをもよおしてくる。「せめてもうちょっと胸を張れないの」と言いたくなる。
 野党の党首たるものは、本来ならば、小泉に対抗して、自分なりの大きな構想を提示して、小泉と張り合えばいいのだ。しかし、そうすることもできず、政策の細かな点でぐだぐだと理屈をこね回したり、イヤミを言ったり。こんな与太話をするなら、酒場でクダを巻いていればいいのだ。国会でテレビ中継するのが無駄だ。

 (2) 内容
 姿勢とか精神論とかは別として、党首討論の内容としては、どんなことを言うべきであったか? もちろん、一番大事なことをいうべきであった。ところが、それを言わない。
 民主党が小泉の改革に対して言及したのは、改革を称えることぐらいだった。相手への称賛など、ただの与太話にすぎない。そんなことは国会では言わないでほしい。まったくの無駄だ。こんなことを言う議員そのものが無駄だ、とさえ言える。
 民主党は、何を言うべきであったか? それは、小泉の一番突かれたくないことだ。それはまず、
「抵抗勢力と戦う気はあるか」
 と尋ねて、「もちろん、ある」という答えを引き出してから、
「抵抗勢力はどこにいるのか」
 と問えばよい。
 ここで小泉は困る。抵抗勢力が自民党にいるということは自明である。しかし、小泉が自民党と戦うことはできない。ここで、小泉の矛盾が明らかとなる。
 つまり、小泉の最大の矛盾は、よって立つ基盤である自民党こそが、最大の問題点であることだ。こうして真の敵が自民党だということを、国民の前に赤裸々に浮き上がらせることができるのだ。
 ところが、野党の党首は、「党首討論」という形式にとらわれることで、小泉と対決して勝とうとすることばかりにとらわれている。それで「どっちが勝った」というようなことばかり考えている。
 党首討論では、小泉に勝つことが目的なのではない。小泉をつぶして、橋本が復活するようにすることが目的なのではない。まず自民党の保守派をたたきつぶすことこそが目的なのだ。なのに、その目的を理解できず、目先の小泉との戦いに血眼を上げている。
 党首討論とは、相手との勝ち負けを争う「ゲーム」ではない。それによって現実世界を変える「現実の場」だ。その場での勝ち負けにこだわるべきではない。なのに、野党の党首は、そこを理解していない。だから同士討ちのようなことばかりしている。これでは保守派が陰で、「漁夫の利」とばかり、ニンマリするだけだ。こんな野党など、存在価値はないし、むしろ、ない方がマシだ、とさえ言える。

 (3) 勝負
 党首討論では、小泉に勝つことが目的なのではない、と先に言った。このことを、もう少し詳しく言おう。
 これは、「勝ち負けにこだわるべきではないの」というよりは、もっと強い意味になる。「勝ち負けを争ってはならない」のだ。なぜなら、勝てば勝つほど負けるからだ。
 そもそも、小泉と対決して、どうする。彼は改革派であり、国民の大部分の支持を得ている。彼と対決したことで、勝てば勝つほど、国民の支持を失う。国民は小泉の改革を支持しているのであり、それと対決する野党はただの抵抗勢力にすぎないと見える。それが、「勝てば勝つほど負ける」ということだ。
 戦うべき相手を間違えてはいけない。野党が対決すべきは、小泉ではなく、自民党守旧派である。
 小泉は自民党の総裁である限り、自民党の枷(かせ)を負っている。自分がやりたくても、党内の妨害で、やれないことがある。郵政民営化でも、道路税でも、やりたくてもなかなかやれない。そこを突けばいいのだ。「やれ。なぜやれないのか」と突き上げれば、国民は野党に喝采を送る。ところが逆に、野党は小泉と対決するばかりだ。
 野党は、自分の存在意義を完全に誤解している。野党というものは、与党に対抗するのが目的なのではない。野党がどうのこうのというより、そもそも政党というものは、国民の要求を理解して、その声を代弁するのが目的なのだ。「国会に出たら、与党と対決するのが自分の仕事だ」と思い込んでいるようでは、完全に野党ボケしたと言うほかない。国民は国会議員に喧嘩をしてもらいたいのではない。喧嘩のショーを見たいのではない。きっちりと仕事をしてもらいたいのだ。国が間違った方向に行きかけているのなら、それを正そうとする仕事ぶりを見せてほしいのだ。
 結局、野党が実際にやっているのは、小泉の改革を妨害していることだけだ。野党はそのことを理解していないし、自分が何をめざすべきかさえ理解していない。そうして結局、自民党の保守派を喜ばせているだけだ。今回の選挙でも、自民党のとの保守派がこっそりとたくさん当選するだろうが、それもまた、野党が愚かで不甲斐ないせいである。

 野党と自己反省

 私がさんざん野党の悪口を言うと、野党の支持者は怒るかもしれない。「保守反動め、自民党の犬め!」と。
 しかし、野党のそういうところが、野党を自ら弱体化させているのだ。
 自民党と野党には、決定的な違いがある。前者は打たれ強く、後者は打たれ弱い。それはなぜかというと、ふだんから「打たれ」ているか否かによる。
 自民党は普段から、さんざん悪口を言われている。いまさら悪口を追加されても、「蛙の面にションベン」であろう。すぐに怒りがちな単細胞な人もいるが、こういうのは、単細胞だから、ちっとも怖くないし、無視していい。一方、野党は、ふだんから悪口を言われていない。権力を握っていないから、当然かもしれないが、自分たちで勝手に、言いたい放題のことを言っている。そして、権力を握っていないゆえに、その主張が実現されないので、検証されることもない。かくて、自分の言ったことが正しいと、あくまでも思い込んでいる。
「自分の言ったことは間違っていた。反省します」
 などと殊勝なことを言う野党議員は、ほとんどいないのだ。(もしいれば、立派なものだが)……この点で、今の野党議員は、与党議員よりもずっと高慢ちきである。
 今の野党には、人間的に見て、根本的に駄目なところがある。それは、自己反省の欠如だ。自民党の議員ならば、多かれ少なかれ、失敗を体験しているので、いくらは自己反省をするものだ。ところが、たいていの野党議員は、自己反省などとは、まったく無縁である。── このことが、彼らの最大の弱点となっている。自己反省の欠如とは、自己の問題点を放置することになるからだ。

 野党の前歴

 しかし、私がそう言っても、反省するどころか、反論する野党議員も多いだろう。
 「いや、おれたちは間違ったことなどしていないぞ」
 「ま、ちょっとは失敗はしたかもしれないが、小さなことだけさ」
 などと。
 そこで、野党議員たちの「ウルトラ」級の大失敗の前歴を示してあげよう。それは、バブルの発生だ。
 バブルは、なぜ生じたか? 景気が過熱しているのにもかかわらず、それを冷まそうとせず、逆に、景気をさらにあおろうとしたからだ。本来、景気は過熱していたのだから、なだらかに冷ますべきだった。そうすれば、あとで急にバブルが破裂するようなことはなかった。なのに、どうしたか。日本の経済運営者は、こぞって、景気を高めようとした。「好況の持続」とか「景気の拡大」とかを言っていて、冷まそうとはしなかった。
 主犯は、大蔵省と日銀である。どちらも、景気拡大策を採り続けた。わずかに金利を上げることは上げたが、あまりにも小さな上げ幅だったので、とうてい景気を冷ます力はなく、「焼け石に水」だった。しかも、だ。それでも日銀は「金利上げ」という方向だけは間違わなかった。しかし、野党はどうだったか。「所得税の減税」をぶち挙げて、競いあった。(いずれの議員も、当時、自分がどう主張したか、思い起こすがいい。たぶん、当時とは、所属する政党名が異なっているだろうが。)その結果、所得税は減税され、過剰な資金が家庭に流れ込み、需要は増え、まさしく好況が拡大した。株や地価は止めどもなく上がっていった。そうしてバブルを途方もなく拡大させたのだ。
 つまり、バブル景気については、野党議員もまた共犯なのだ。主犯は大蔵省と日銀(と政府)だが、野党もまた立派な共犯である。
 しかし、である。野党は、他の共犯者とは、大きな違いがある。自らの過ちを、今になっても反省していない、ということだ。自分の過ちを、自覚もしていないし、反省もしていない。自らの過去に対して、目を閉じている。他人については「自らの過ちに対して、目を閉じるな」と偉そうに言い張るが、自分自身については、そうしない。
 そういう無反省の人々が、野党の面々なのだ。そうして今日もまた、あれこれと勝手なことを主張して、「自分は正しいことを主張している」と思い込んでいる。自己に対する反省というものが、まったく欠落している。
 今の野党に、小泉に対抗する力量はない。もし真に対抗したければ、「自分は偉い」などと思い込まず、まず、自らの過ちに目を向け、自らの愚かさを自覚するべきだ。小泉の大きさを知り、自らの小ささを知るべきだ。そういう自覚もなしに、党首討論での勝ち負けなどにこだわっているようでは、野党は永遠に小泉の対抗馬とはなりえないし、国民からも見放されたままだろう。

 野党と小泉

 野党の批判をしたついでに、小泉との違いを浮き上がらせておこう。
 彼は真に「改革派」と名付けてよい、と思う。また、小泉という人物を信頼していいと思う。そう確信したのは、選挙制度で、「票格差2倍以内」と提言したからだ。
 これは、次の点で、画期的だ。

 これは、与党や野党の「党利党略」とは正反対だ。自分の属する集団にとって損になるとわかっていながら、あえて国家的見地から、それを実行しようとする。こういう人物は、これまで、日本には現れなかった。
 日本に現れた政治家は、「国のため」といいながら、結局は、自分の理想のために行動したにすぎなかった。これは形を変えたエゴイズムである。だから、いくら「国のため」と思っても、自分たちにとって損になるようなことは決してやらなかった。選挙制度一つを見ても、自分たちに不利になるように改訂しようとした政治家は、小泉以外には一人もない。
 小泉は、その意味で、まれに見る傑物と言える。曾野綾子が自民党議員たちに招かれて講演したとき、「お国のために死ねるか」と問うた。たいていの国会議員は、青ざめたらしい。しかし、小泉だけは、「もちろん。この身は捧げるつもりだ」と思っただろう。
 この点で、気概だけでも、小泉は他の議員たちとは際立っている。野党も与党も、「自分のため」に動いているという点では、径庭ないのだ。

 ただ、私が小泉を評価するのは、その気概だけではない。その着目の良さもだ。
 「票格差2倍以内」ということ。これは、実は、国家として最も優先すべき課題なのだ。なぜなら、それは民主主義の基盤だからだ。もしそれができていなければ、すべては砂上の楼閣となってしまう。
 つまり、「票格差2倍以内」というのは、

 ということを意味するのだ。だからこそ、私は小泉を高く評価する。(ひるがえって、鳩山はといえば、「集団的自衛権」「憲法改正」などを言い立てていた。彼の関心がわかると同時に、彼の人物のスケールもわかる。)
 「票格差2倍以内」というのは、あらゆる事柄に優先する。それは民主主義の基盤である。なぜなら、これなしには、あらゆる事柄が、一種の独裁政治になってしまうからだ。
 独裁とは、「勝手に一人で票を独占すること」と同じであり、いわば「票格差無限大」と同じである。とすれば、票格差が2倍〜5倍あるということは、いくらか独裁政治の傾向を帯びていることになる。「日本は戦後この方、ずっと半独裁国家であった」と言っても過言ではない。( ※ このあたりのことは、先にも述べた。「支持率」のところの、「支持率と歴史」の初めのあたり。)
 マスコミは小泉の高支持率を見て、「独裁的だ」などと言い立てる。しかし、実際には、独裁と小泉とはまったく正反対のものであり、小泉はむしろ「民主主義の擁護者」なのだ。
 マスコミというのは、実に危険な存在だ。思えば、大昔、「シーザーは独裁者だ! シーザーを倒せ!」と言い立てた煽動者がいた。そうしてシーザーを失脚させ、かわりに、真の独裁者を招き寄せた。民衆をやたらと煽り立てようとする輩は、実に危険な存在なのだ。
 小泉は独裁者とは違う。独裁者は、自分の命が何よりも大切で、小心者である。小泉はそれとは逆だ。彼は一命を投げ出すつもりでいるし、気迫がある。
 私は別に、ここで、小泉を賛美しようとしているわけではない。事実を述べているだけだ。事実は事実として理解するべきだ。特に、野党だ。相手が大きいのであれば、その大きさをはっきりと理解しておくべきだ。デカい相手を「ちっぽけ」と見くびったり侮ったりすると、戦いには、必ず負ける。
 優れた闘争者は、プロレスであれ、ボクシングであれ、K1であれ、相撲であれ、野球であれ、何であれ、相手を見くびることはない。相手を見くびったなら、その戦いにはもはや負けている。
 野党は、少なくとも、そのくらいは理解しておくべきだ。


 抵抗勢力

 マスコミも野党も、小泉を正しく認識できていない。突っ走る小泉に追いつかないし、やっていることはせいぜい足を引っ張ることぐらいだ。
 一方、それとは逆に、小泉と敵対する勢力がある。小泉の進路に立ちはだかり、小泉の行動を妨害しようとする勢力だ。最も問題となる勢力だ。
 これについて、話を進めよう。

 抵抗勢力の強大さ

 抵抗勢力は、マスコミや野党とは比べものにならないくらい、タチが悪い。マスコミや野党は、せいぜい無視すればいいだけだが、敵対する勢力は、無視するわけには行かない。
 それだけではない。マスコミや野党は、小泉よりも弱い。マスコミは、小泉で飯を食わせてもらっているだけだし、野党は、小泉と喧嘩しても大人と子供のようなありさまで勝負にならない。
 しかし、抵抗勢力は違う。これは、小泉よりも、はるかに強大だ。小泉が少しでも気を抜けば、たちまち逆襲してくる。参院選前なら、おとなしく黙っているが、参院選のあとは、さっそく牙をむくだろう。
 マスコミは「小泉は抵抗勢力と戦え」などと言っているが、敵を見くびっているとしか思えない。はっきり言って、まともに戦えば、小泉は負ける。小泉一人では、官僚と自民党の全体に勝つことはできない。
 では、小泉は、どうしたか? 

 小泉の戦略

 小泉の戦略は、こうだ。自分一人では戦えないので、国民のバックボーンを得ようとした。こうして、バックボーンの力を得て、強大な敵と戦おうとした。
 これは賢明な策である。
 しかるに、マスコミは、このことを理解していない。単に「小泉はマスコミのあしらいが上手」とか、「小泉はテレビの前での演技が上手」とか、「小泉内閣はワイドショー政権だ」などと言い立てる。まことに表面的・皮相的な理解である。
 小泉は、人気者になりたいお調子者なのではない。彼のまわりの人が言うように、彼は無口ではにかみやなのだろう。私もそうだと思う。彼がテレビの前で、国民受けのするようにしているのは、演技である。しかし、それは、マスコミが思うように、「受け狙い」ではない。もちろん「選挙での票狙い」でもない。彼は援軍をほしいのだ。自分一人では負ける戦いに、背後の援軍がほしいのだ。そういう戦略をもって、演じているのだ。
 このことを理解するのが大事だ。こうしたことを理解しないと、彼の改革方針そのものを理解できなくなる。

 政界再編成

 抵抗勢力に対して、小泉は別の戦略ももっている。それは「政界再編成」だ。
 参院選のあと、抵抗勢力は必ず牙をむく。そのとき、小泉は、「政界再編成」をカードとして手元に用意しておくはずだ。
 「政界再編成」とは何か? 政界のガラガラポンである。すべての政党を事実上解体して、新たな政党体制を組み立てる。
 それにはどうするか? 「小泉新党」を作るのだ。というか、おそらく、これが唯一の方策であろう。小泉が「この指止まれ」と指を上げて、止まった人たちで新党をつくる。
 もちろん、全員がその指に止まったのでは、意味がない。だから、指を上げる時期は、大事である。それは、小泉が改革案を出して、それを自民党が拒絶したときだ。
 細川政権も、改革を実現しようとして、自民党の妨害でにっちもさっちも行かなくなった。このとき、細川は、政権を投げ出した。しかし、小泉は、そうはしない。「政界再編成」を実行するだろう。
 なぜ、そう推測できるか? それは、多くの人たち(主として自民党員)が「衆参同日選」を進言したのに、小泉が頑として拒否したからだ。多くの人は、単に自民党の議席増を狙っていた。(他人のフンドシで議席をもらおうというのだから、まったくチャッカリした話だ。しかしまあ、それはさておき。)小泉はそれを拒否した。なぜか? 小泉の頭には、既に、年内の総選挙が頭にあるのだ。抵抗勢力があくまで抵抗したなら、「解散するぞ」「そして小泉新党を立ち上げるぞ」と脅すわけだ。もちろん、抵抗した人々が誰と誰であったかは、もう明らかになっているから、抵抗勢力は、小泉新党に入れない。この状態で選挙が行われれば、抵抗勢力は壊滅する。当たり前だ。この選挙では、立候補するのは、「小泉新党」と「抵抗保守党」以外は、共産党と社民党だけだからだ。それ以外の公明・民主などは、小泉新党に合流する。合流しなければ落選するのはわかっているのだから、よほどの馬鹿でない限り、公明・民主にいる現職議員は、小泉新党に入る。
 この状態では、小泉新党が8割程度の議席を取り、残りの2割を、抵抗勢力と共産党で分けあうことになるだろう。
 では、実際に、そうなるか? 
 たぶん、ならないだろう。そうなるのがわかっているから、抵抗勢力は、抵抗できなくなる。それが小泉の狙いだ。
 小泉は、ただちには、解散カードを切らない。手元に留めておく。「伝家の宝刀」である。使わないでいるときにこそ、最大の効果を発揮する。そうして「切るぞ切るぞ」と解散カードをひらひらさせながら、抵抗勢力を抑えていくはずだ。
 とはいえ、「絶対にカードを切らない」とは言えない。「どうせ見せびらかしのカードだろ」と抵抗勢力が勘違いすることはあり得る。その勘違いが高じれば、小泉は、やむなく、解散カードを切るだろう。そして政界ガラガラポンとなる。
 歴史の示すところでは、このような「思いがけずも」「つい調子で」「つい勢いに乗って」という形で政界が激変することは、非常に多い。たぶん、政界には、「ポーカーなら強気一辺倒で押す」というタイプの性格の人が多いせいなのだろう。こういう性格の人が多いと、状況はしばしば激変するものだ。

 対決以外の方法

 抵抗勢力に対する方法は、対決以外の方法もある。何も正面切って対決する必要はない。中国の故事でも、「戦わずして勝つのが最善の策」という意味の言葉がある。(漢文でそういう文句を習ったはずだ。「百戦百勝」よりも、「戦わずして勝つ」の方がよい、という意味の言葉。)
 その方法の一つが、先の「伝家の宝刀」である。これを切らずに戦うのが最善の策である。その他、いろいろと、「からめ手から」という方法がありそうだ。
 一方、「正面から戦う」というのは、戦略としては、あまりよくない。戦いは、双方が傷を負う。たとえ勝っても、自分も損害を受ける。少なくとも、改革の速度が遅くなるのは間違いない。
 ここはなるべく、知恵を絞って、「戦わずして勝つ」の道を選ぶようにするとよい。


 真紀子

 小泉政権で、真紀子は、特に着目すべき人物である。
 ではなぜ、彼女に着目するべきか? 彼女がテレビの人気者であるからではない。彼女が「改革」自体で特別な意味をもっているからだ。
 しかるに、たいていの人は、その意味を理解していない。もちろん、マスコミも理解していない。だからマスコミの真紀子報道は、まったくピントはずれだ。
 マスコミは、真紀子の「良し悪し」を言い立てる。タレントふうの人気を別とすれば、たいていの評価は、「外務大臣として失格」というものだ。
 なるほど、「外務大臣として」評価すれば、たしかに、真紀子は多くの欠点をかかえている。しかし、真紀子は、単に外務大臣としての役目を負わされているのではない。もっと大きな使命を帯びているのだ。
 そのことを、以下で示そう。

 真紀子の意味 (1)

 真紀子の役目は、外務大臣として外務省を指揮することだけではない。改革そのものの「先兵」とか「先導役」のような役割を帯びている。そのうち、特に「意識改革」の役割を担っている。
 「意識改革」とは何か? 
 小泉は改革を唱える。しかし、「改革せよ」と号令をかけるだけでは改革は実行されない。号令をかければそれで万事片付くというほど、話は簡単ではない。そもそも、号令だけで話が済むのなら、世の中に「社長」とか「リーダー」とか「首相」などというものは必要なく、号令を出すスピーカーがひとつあれば足りる。
 人は、号令を受けただけでは、動かない。たとえれば、野球やサッカーなどの監督だ。監督が「打て」と号令したからといって打者が打てるわけではないし、「シュートしろ」と号令したからといってゴールにシュートできるわけではない。もちろん、「勝て」と命じたからといって勝てるものでもない。
 小泉が「改革しろ」と号令をかけたとしても、実際にその行動を取るのは、官僚である。官僚がどう動くかは、官僚自体に任される。「打て」といったときにどんな打ち方をするかは打者に任されるように、「改革しろ」といったときにどんな改革をするかの細部は官僚に任される。(大枠ぐらいはコーチ役などが示すこともあるが。)
 だから、結局、改革を実現するには、一人一人の官僚が「改革しよう」という意識を持たなくてはならないのだ。「打て」といわれても、打者は打てない。打者が打つには、技術的なことを別とすれば、「何が何でも打とう」という意識を持つことが必要だ。そうしてボールに向かいあう意思統一が必要だ。
 打者ならば、「何が何でも打とう」という意識を持つことは当然だ。しかし、官僚は、「何が何でも改革しよう」なんていう意識を持つことはない。官僚はプロのスポーツ選手と違って、ただの月給取りだから、実績が給与に結びつくことはない。とすれば、なるべく楽をしようとするのが当然だ。つまり、サボりたがる。
 しかも、人というものは、本来、怠惰なものであり、なるべくなら、何も変えずに、だらだらと生きていきたいものだ。
 つまり、小泉が「改革せよ」と言っても、誰もそれに従わない状況なのだ。当たり前なことをやっていては、改革は挫折するし、少なくとも、スピードは落ちる。
 そこで、真紀子の登場となる。
 真紀子は、外務省を改革しようとして、あちこちを引っ掻き回している。そのあげく、ろくに成果を上げていない。── このことをとらえて、「真紀子は外相失格」とマスコミは指弾する。
 しかし、それは、正しい認識ではないのだ。
 真紀子の役割は何か? 「引っ掻き回すこと」それ自体なのだ。引っ掻き回すことによって、どんな結果が出るかは、当面、問題ではない。多少の失敗が出ても、あまり構わない。それより、失敗を恐れて、何もしないことの方が問題だ。
 「引っ掻き回す」ことによって、どうなるか? 官僚の意識が引っ掻き回されるのだ。
「まったくメチャクチャな大臣だ」
「付き合いきれないよ、まったく」
 と思われるぐらいでいい。たとえそう思われても、
「今までのようにチンタラチンタラとやっていたら、大臣と衝突するなあ」
「そのあげく、大臣の気まぐれで、首になるかも」
 と思わせればいい。
「でもまあ、首にはなりたくないから、とりあえずは何か改革らしいことでもするか」
 という気になるだろう。そこまで行けば、意識改革は半分は成功したようなものである。とりあえず、動かない石の地蔵を、半歩だけでも、前へ動かすことに成功したからだ。そして、いったん動き出せば、官僚というものは、競って同じ方向へ動き出すものなのだ。(その変化は遅々としたものではあろうが。)

 真紀子の役割は、文科系の学問用語でいう「トリックスター」である。トリックスターは、何か実用的な結果を出すことが役割なのではない。トリックスターの役割は、「人々の意識を引っ掻き回すこと」である。「物事はこうあらねばならない」と思い込んでいる人々に対して、奇妙キテレツな行動を取って、驚かしたり、笑わせたり、泣かせたり、意表を突いたりで、頭の中身を掻き乱す。そのようにして旧来の体制や構造を乱して、そこに新たな生命を吹き込み、そこに新たな秩序を組み上げる準備をもたらすのである。
 トリックスターは、それ自体は、何も作り出さない。一陣の嵐を巻き起こしたあと、自分自身は何も残さずに立ち去る。しかし、トリックスターの影響を受けて、他の人々は、何かを作り上げることができるのだ。それは決して、トリックスターに指示されて作り出したものではない。彼ら自身が作り出したものだ。しかし、それは、彼らだけでは作り上げられなかったものだ。トリックスターがいたからこそ、彼らはそれを作り上げる力を、自らのうちから引き出せたのである。
 トリックスターは悲しい。道化やピエロの目には涙が浮かぶ。人々は決して、トリックスターに感謝したりはしない。何かをなしたとすれば、自分たち自身の力で、それをなしたのだと思い込む。トリックスターに感謝したりはしない。
 しかし、それでいい。トリックスターは英雄ではない。人々に忘れられるのが使命である。
 ただ、人々が感謝しようが感謝するまいが、トリックスターのなした成果ははっきりと残るのだ。人々が真紀子に感謝することはないかもしれないが、たしかに人々の目に見えない形で、真紀子の影響は、世間に浸透し、官僚たちの心に浸透する。今、われわれは、そのことに留意しておこう。

 真紀子の意味 (2)

 真紀子は、トリックスターとしての役割のほかに、もうひとつ、重要な役割を帯びている。それは、軍事的な用語でいえば、「先兵」としての役割である。
 「先兵」というのは、一種の囮(おとり)のようなものである。あるいは、テストケースのようなものである。敵がひそんでいるが、どこにどのくらいひそんでいるか、わからない。そこで、先兵を出して、敵の戦力を探る。
 これが「先兵」の役割だ。
 先兵は、たいていは、犠牲になる。全滅することもあるし、そうでなくても被害は甚大だ。にもかかわらず、先兵は必要である。先兵が犠牲になることによって、敵の戦力を知り、味方の本体の被害を最小限にすることができるからだ。
 だから、司令官としては、全体の被害を最小限にするために、あえて先兵に犠牲になってもらわなくてはならない。生半可な人道主義者だと、「それでは先兵がかわいそうだ。不公平だ。先兵を出さずに、みんなでいっしょに出よう。それなら不公平ではない」などと言う。そして、全員でいっしょに出撃し、あげく、待ち伏せていた敵の餌食となって、味方の全体が全滅する。── こういう結果をもたらす。 
 先兵は必要だ。特に、「抵抗勢力」という強大な敵が待ちかまえていて、その姿を見せずにいるときは、なおさら必要だ。
 ただし、誰でも先兵ができるわけではない。並みの人間が先兵を命じられても、足がすくんで、一歩も前に進めないだろう。先兵となるべき人間は、「全体の犠牲を減らすために、あえて一命を差し出す」という勇気と覚悟のある人間が選任される。
 今の内閣で、それができるのは、真紀子だけだ。真紀子以外の誰に、その気概があるか? あるとすれば、小泉だけだが、まさか、小泉を先兵に出して、大将を討ち死にさせるわけには行くまい。
 真紀子は、途中で地雷を踏んだりして、あちこちから砲火を浴びている。「真紀子はダメだ、失敗した、大臣の器じゃない」などと言われる。彼女はこうして、自ら地雷を踏むことで、大将の身を守っているのである。
 そもそも、物事を大きく変革しようとすれば、必ず、小さなミスはたくさん起こる。抵抗勢力は、その小さなミスをとらえて、徹底的に攻撃しようとしてくる。だから、先兵は、是非とも必要なのだ。
 もし先兵たる真紀子がいなくなったら、どうなるか? 

 そのいずれかでしかない。いずれにしても、改革の道は閉ざされる。

 真紀子の成果

 真紀子は、先兵となって、抵抗勢力の情報をあぶりだしつつある。
 ひとつは、相手が誰か、ということだ。これは、ある程度はわかってきたが、敵もさる者、参院選が終わるまではなかなか尻尾をつかませまいとしている議員も多いようだ。また、外務省の騒動で懲りたのか、あぶりだしにされるのはごめんとばかり、こっそり息をひそめている官僚も多いようだ。というわけで、「相手が誰か」という点では、成果は少々、物足りない。もうちょっと大暴れして、もうちょっと相手をあぶりだしにしてほしいのだが、ま、この程度でも、よくやっている方である。
 もうひとつは、敵の取る手段である。この手段については、真紀子のおかげで、すでにだいぶよくわかってきた。次の三点だ。

  1. 実質でなく形式を咎める
  2. 相手の問題点を、誇張して、歪める
  3. マスコミを利用する

 以下では、これらについて、順に示そう。

 1.実質でなく形式を咎める
 抵抗勢力としては、改革に抵抗しなくてはならない。しかし、改革の実質そのものを問題にするのは、世間のかねあいもあって、難しい。そこで、実質ではなくて、手続きなどの形式にこだわる。何をどうするかという話の本筋では議論せずに、脇のあたりにある些細な手続きミスなどをとらえて、大問題にする。つまりは、揚げ足取りのようなものである。
 実に姑息な方法ではある。正面から立ち向かわずに、このような揚げ足取りで勝負しようとするのは。しかし、抵抗勢力というのものは、もともと、人格的に「自分勝手」な人々なのだから、こういう姑息な方法を取るのは、当然と言うべきだろう。
 この方法は、一応、有効である。そもそも、神ならぬ人間が大きな仕事をすれば、些細なミスはいくつかは起こるものだ。

 2. 相手の問題点を、誇張して歪曲する
 改革の途上で、小さなミスは起こりがちだ。そこで、そういうミスを見たら、針小棒大にとらえて、大騒ぎする。これもまた、抵抗勢力の手管だ。つまり、誇張して歪曲するわけだ。
 たとえば、真紀子が電話をかけて何か要請したとする。これは、うっかりのミスだ。こういうことをしてはいけないのは確かだが、大臣職に不慣れな、政治経験の浅い人間なら、このくらいのミスはありがちだろう。ま、命令したわけではないし、ちょっと要請したぐらいなら、「下らないミス」でおしまいになるのが普通だ。しかし、抵抗勢力たるもの、これを針小棒大に扱わねばならない。「要請」というものを「強制」のごとく扱う。「議院内閣制のもとでの連絡」というものを「三権分立の侵害だ」などと言い立てる。こうして、「初心者のうっかりミス」を、あたかも軍事クーデターを起こして日本を転覆させようとしているかのごとく大問題として扱う。
 ここには、一種の「誇張」があるし、「歪曲」もある。こういうふうに、事実を「誇張」して「歪曲」するのが、抵抗勢力のひとつの方法だ。
 この手口は、他にも見られる。支持率の論評だ。支持率が80%ぐらいあるとすると、小泉が改革派であるという実質には目をつぶって、あたかも小泉が保守独裁政権であるかのごとく言い立てる。「支持率が高いのは危険だ! これは独裁の兆候だ!」というふうに。小泉の支持率が高いのは、自民党の独裁をつぶしたからであり、それを国民が支持したからなのだが、そういう「実質」には目をつぶり、単に支持率が高いという「形式」だけに着目して、「小泉は独裁のようだ」と言い立てる。話をまるきり、すり替えているわけだ。まったくもって、ひどい詭弁だ。しかし、詭弁というものは、そういう「論理的アクロバット」を使うものだから、これはこれで、大したものである。なかなか高等な欺瞞戦術である。
 こういう高等な欺瞞戦術があると、それにそっくりだまされる人も、数多く現れるようだ。

 3.マスコミを利用する
 この手の欺瞞は、自分たちだけで言っていては仕方ない。国民に広める必要がある。そこで、そのためには、マスコミを利用する。(外務省による「リーク」も、その手口のひとつだ。)
 マスコミを利用するには、どうすればいいか? それは、簡単だ。おだてればいい。マスコミには、「おれは利口だ」「おれは小泉なんかよりずっと利口だ」と自惚れている人が多い。そういう人を、うまくおだて上げると、うまく小泉批判の掌に乗るものだ。いわば、お釈迦様の掌で踊らされている孫悟空だ。
 もうひとつ、マスコミを利用するには、「やっかみ」も利用するとよい。社会の人間は、とりあえずは何らかの業績を残すものだが、マスコミの人間は、たいていは消えてしまうあぶくのような仕事しか残していない。だから、たいていのマスコミ人は、やっかみの塊だ。やたらと他人の悪口を言いたがるし、それで憂さを晴らそうとする。(もしかしたら私も? ……そうかもね。でも私はマスコミ人ではないと思う。お金をもらって書くようなプロのライターではないのだから。でもまあ、性根は、マスコミ人並みに、腐っていそうだ。)
 ともあれ、マスコミ人は、尊大で偉ぶっているものだ。政府や政治家を「尊大だ」などと批判するマスコミ人ほど、実は尊大で偉ぶっているものだ。だからこそ、彼らのやっかみを利用できる。彼らにいくつかの情報を提供すれば、嬉々として小泉批判をしたがるだろう。彼らは、たいていコンプレックスの塊であり、そういう人間ほど、成功した人間の足を引っ張ろうとするものだからだ。そういう卑しい根性を利用するわけだ。しかも、彼らは、自分たちが利用されたことに気づかない。「自分は正義をなしたのだ」と思い込んで自己陶酔している。
 こういうマスコミ人ほど、利用しやすい人間はない。



 《 余談 》
 最後に、余談を述べておこう。
 読者はたぶん、こう疑問を呈するだろう。
「ずいぶん多くの相手に、悪口を述べているね。まったく、へそ曲がりな著者だ。そのくせ、小泉にだけは甘いぞ。世間がそろって同じ方向になびいているのなら、それに反発すればいいのに」と。

 その言い分は、わからなくもない。たしかに私は、へそ曲がりである。人々とは逆を行きたがる。では、なぜ、小泉の方針に賛意を示すか? 
 それは、世間の見方とは逆に、小泉は実に脆弱な存在だと思うからだ。

 私の予想では、小泉はたぶん保守派にひっくり返されると思う。人々が「改革」を信じていられるのは、今後のごく短い期間だけだと思う。その短い期間が終わったあと、小泉は強制的に退出させられ、そのあと、保守派の政権が復活するだろう。
 なぜなら、それが歴史的事実だからだ。(たとえば、細川政権もそうだった。)
 理由はまだある。戦後の歴史を見てみるがいい。保守派の意思は常に団結していたのに対して、改革派の意思は常にバラバラだった。今でも、民主党などの野党は、「改革を進める」と言いながら、小泉に対立している。今後もそうだろう。そしていつか、保守派は、反小泉の野党に賛成して、小泉を転覆させるだろう。

 さらに、それ以外の可能性もある。内部抗争とか、クーデターとか、暗殺とか。……いずれにせよ、小泉は、その志のすべてをなしとげる前に、舞台から消えるだろう。つまり、今現在の小泉人気は、ただの「あだ花」のようなものにすぎない。いくら世間に人気があっても、それは権力とは結びつかないのだ。
 権力というものは、腹黒い政治家が左右するものだ、と昔から決まっている。理性的な政治家が権力を握ることなど、めったにない。(今の米国を見るがいい。地球環境を破壊し、地球を核ミサイルの嵐にするような人物が、大統領になっている。遠からず核戦争が起こったとしても、何ら不思議ではない。米国の権力は、最悪の人物に握られた。それが政治というものだ。)

 小泉は権力者には珍しく、国民に支持されている。だからこそ、彼の命運は短いだろう。ケネディなどと同様だ。
 われわれは今、短い「夢」を味わっているのだ。細川内閣はわずか半年で崩壊した。小泉政権は、もうちょっと長く続くかもしれないが、やはり、そう長く続くことはあるまい。

 結局、私が小泉を非難するまでもないのだ。私が小泉を非難しなくても、他の多くの人が、みんなで足を引っ張って、小泉を引きずり下ろす。そしてふたたび、保守派政権が復活する。だからこそ、私は今、あえて小泉に賛意を示すのである。短い夢として。


  【 追記 】

 その後、私の態度は変わった。小泉に対して、批判的になった。
 理由は → 1月09日



[第1章、終] 

※ 次は、《 第2章


「小泉の波立ち」
   表紙ページへ戻る   

(C) Hisashi Nando. All rights reserved.
inserted by FC2 system