[付録] ニュースと感想 (8)

[ 2002. 01.09 〜 2002. 1.22 ]   

  《 ※ これ以前の分は、

       8月20日 〜 9月21日
       9月22日 〜 10月11日
      10月12日 〜 11月03日
      11月04日 〜 11月27日
      11月28日 〜 12月10日
      12月11日 〜 12月27日
      12月28日 〜 1月08日
         1月09日 〜 1月22日

   のページで 》




● ニュースと感想  (1月09日)

 私の小泉に対するスタンスが、初期から変化していることに気づくだろう。それをもって「変節漢め!」と思う読者がいるかもしれない。そこで、釈明しておく。

 私のスタンスは? 「強きを挫き、弱きを助く」である。(「天の邪鬼」だろ、と言われるかもしれないが。)
 初期に私が小泉に与していたのは、当時、小泉の政権基盤が脆弱だったからだ。マスコミも「こんな変人に口先ほどのことができるのかね」と見くびっていた。このとき、「強き」は、自民党保守派だった。彼らは実に強大だった。何しろ、細川政権ができたときは、たちまちKOパンチを見舞って、半年で細川政権を瓦解させたのだ。こんな強力な相手に、小泉は勝てそうもない、と思えた。
 ところが、である。最近になると、小泉の基盤は非常に強力となった。強力どころか、ほとんど独裁者ふうに、自分の思うがままに、日本の景気をオモチャにしている。だから、私は今や、小泉を批判しているのだ。
 つまり、私のスタンスが変わった(ように見える)のは、小泉をめぐる環境が変わったからだ。(本当を言えば、私は、初めから「すべてを批判する」であるが。やっぱり「天の邪鬼」なのかな。)

 [ 余談 ]
 小泉は今や強大な基盤をもっている。では、なぜか?
 実は、それは、小泉自身の力によるのではない。すばらしい協力者がいたからだ。誰か? 鳩山だ。彼は選挙で小泉をボロ勝ちさせた。そうやって小泉に強大な基盤を与えたのだ。
 選挙の前は「反・小泉」を唱えて、自党の議席を激減させる。選挙のあとは「親・小泉」を唱えて、小泉べったりだ。これほど好都合な野党はあるまい。(私だったら、逆にしますけどね。)
 かつて、細川政権が瓦解したのは、史上最強の野党があったからだ。今、小泉の基盤が強大なのは、史上最弱の野党があるからだ。(というか、もはや「野党」ではなくて、ただの金魚のフンかもしれない。)

( → 1月24日。 民主党の方針変更。)


● ニュースと感想  (1月09日b)

 量的緩和の実施と効果。
 2001年12月に日銀は量的緩和を実施した。その数値。マネタリーベース(現金と当座預金)は、79兆円余で、前年同月比 17%増。(読売・朝刊・経済面 2002-01-08 )
 かなり規模の大きい量的緩和だ、と言える。量的緩和論者は「これでたちまちデフレ解消」と大喜びしたことだろう。で、その結果は、何もなし。ヌカ喜びのあとで、現実を知る。
 現実と比べて、自己の間違いを知ったら、ちゃんと認めるべきだ。それができないと、小泉みたいになりますよ。


● ニュースと感想  (1月09日c)

 景気回復効果の最新情報は? 同日・読売記事によると、ダイエーの12月売り上げが判明。「まずまず」と経営陣は言っているが、よくデータを見ると、前年同月比で、「来店者は4%増なのに、売上げは1%減」とのこと。一人あたりの消費は5%も下がっていることになる。これはまあ、実感通りですね。
 なお、夕刊フジ(8日付:7日発行)によると、ダイエーの目標値は1%増。目標には2%届かなかったわけ。

 [ 付記 ]
 物価下落しているから、その分(2%ほど)、売上げは減る。それは当然だ。しかし、「当然だから問題ない」と思うのは、誤りだ。
 なぜか? たとえ売上げは減っても、賃金・償却費・借金といったコストは減らない。コストは減らないのに、売上げは物価下落にともなって、当然のごとく減る。かくてますます経営状況が悪化する。倒産や失業も増える。こういう過程を「デフレスパイラル」と呼ぶのだ。そこでは、当然のことが問題なのだ。
 小泉はその逆。「当然のことはすべて正しい」と思い込む。「倒産も失業も、当然のことだ。だから正しい」と。自分で他人をぶん殴っておきながら、「ぶん殴られた人は死ぬのが正しい」と言うのと同じ。ヤクザの理屈。


● ニュースと感想  (1月10日)

 「流動性の罠」という言葉について、解釈の混乱が見られるので、解説しておこう。
 この用語は、ケインズが最初に使ったが、ケインズの「流動性の罠」と、最近話題の「流動性の罠」とは、少し違うのだ。 (「どちらも同じだ」と思い込んでいる人もいるが。)

 本質的な部分では、同じである。どちらも、「金利がゼロの状態のときに、金が流れなくなる」ということを意味する。
 ただし、違う点もあるのだ。最近話題の方は、「融資の金が流れなくなること」であり、ケインズの方のは、「預金の金が流れなくなること」である。
 もう少し、詳しく説明しよう。

 最近話題の「流動性の罠」とは、「金利(融資利率)をたとえゼロにしても、融資の需要が頭打ちなので、借り手がもはや現れないこと」だ。これはクルーグマンが唱えたものだが、私も何度か説明してきた。
 ケインズの「流動性の罠」とは、「金利(預金利率)がゼロなので、預金者は、金を預金するとデメリットがあり、金を現金でもつようになること」だ。理由は二つある。
 第1に、もし将来的に金利の上昇が見込める(現在が金利の底値である)なら、定期預金や債権にすると、低利子が固定されるので、損をする(債券なら価格下落する)。
 第2に、預金だと、いちいち預けたり下ろしたりする手間がかかるので、その分、現金よりも利便性が低い。
 ……というわけで、「現金に対する需要が強くなる」ことになる。(流動性選好説)

 この二つの「流動性の罠」は、「融資の話」「預金の話」というふうに、事情が違っている。というわけで、「流動性の罠」と言っていても、2種類の意味があるのだ。両者を混同しないように、注意しよう。さもないと、論理がメチャクチャになる。

 [ 付記 ]
 両者を混同した例としては、野口悠紀雄の主張(朝日・夕刊・ウイークエンド経済・コラム 2002-01-06 )がある。
 彼は、両者を混同しているので、預金の事情を理由として、融資の事情を結論としている。「(預金で)現金に対する需要が無限大になるから、(融資での)投資が増えない」と主張している。これでは論理になっていない。
 現在、量的緩和が無効になっているという事情は、融資が増やせない、ということであり、これは融資の話だ。つまり、最近話題の方の「流動性の罠」だ。ケインズの言うそれではない。話を勘違いしないように。

 [ 参考 ]

 実を言うと、現代の日本においては、ケインズの「流動性の罠」は、成立しにくくなっているのだ。なぜかと言うと……
 第1の点は、たしかに残る。とはいえ、小泉政権のもとでは、不況はずっと続くと見込めるので、金利はずっと低金利(ゼロ金利)が続くと見込める。だから、「今が底」とは言えない。実際、ここ十年間、ずっと低金利だったので、「今が底かなあ」と推測されてきたのだが、実際には逆に、金利はさらに下がるばかりだった。また、そもそもの話、ケインズのモデルは、「償還期限が無期限」の債権のことだから、「十年もの」の国債について丸きり当てはまるわけではない。(さらに言えば、ケインズの話は、長期金利だけであって、短期金利は除外されている。今の日本で問題となっているのは、融資の短期金利の方なのだが。)
 第2の点は、もはやほとんど成立しなくなってきている。つまり、現金の利便性が消えて、逆に、預金の利便性が出てきているのだ。というのは、ATMおよびキャッシュカードというものが登場したからだ。キャッシュカードというのは、ドラエモンふうの「どこでも財布」という感じである。いつでもどこでも、どんなに多額の金でも、引き出せる。(本当は限度額があるが、庶民にとっては上限は感じられない。クレジットカードを併用すれば、何百万円も使える。) こういう便利なものがあるのだから、たとえ金利がゼロでも、預金するようになる。だいたい、自宅に現金を置いておくと、泥棒に盗まれたりする危険があるので、銀行に預けておいた方が安全である。


● ニュースと感想  (1月10日b)

 不況で泥棒、という事件。
 不況のせいで、職がないので、泥棒をした。しかし最近、また泥棒をしそうになったので、怖くなって、自首した、……という話。小心な泥棒ですねえ。(読売・夕刊・社会面 2002-01-05 )
 とにかく、不況というものは、国民の心を荒廃させるものなのだ。根っからの犯罪者ではなくて、まともに盗みもできない小心者さえ、ついつい、泥棒するように仕向けるものなのだ。
 さて、である。これは国家規模の犯罪続出事件だが、その主犯は? もちろん、首相だな。だから、警察よ、さっさと小泉を逮捕して、監獄にぶち込みなさい。そうすれば、日本中で、泥棒の発生件数が激減します。これほど有効な犯罪対策はないでしょう。
 そういえば、昨年、わが家も泥棒に入られた。近所でも、泥棒に入られた家が結構ある。小泉さん、わが家の金を泥棒しないでください。お願いします。ライオンらしく、檻(おり)に入っていてください。
cf. 12月28日 「刑務所が満杯」)


● ニュースと感想  (1月10日c)

 米国の与野党で減税論争。(読売・朝刊・経済面 2002-01-09 。この件、かなり前から大いに話題になっていたことだが、日本の新聞はろくに報道してこなかった。今回ようやく、目立つ記事が出たわけだ。)

 共和党は「恒久減税」。民主党は「減税反対・財政規律重視」(限定的な減税のみ)。
 どちらの言い分も正しく見える。(共和党の言うように、)不況のときには、減税は有効だ。しかし、(民主党の言うように、)ずっと減税していると、財政悪化を招き、長期的には経済にマイナスだ。

 私の立場は? 「不況のときは減税、好況のときは増税」だ。つまりは、経済学の王道だ。「減税したり増税したり、いちいち変えるのは面倒だ」という、議員のサボりの都合なんかには左右されない。
( ※ この件、後日また、詳しく述べる予定。)

 [ 参考 ]
 ブッシュ大統領が、「在任中の増税拒否」を表明。言葉は over my dead body で「生きている限りは」。(朝日・朝刊・コラム 2002-01-07 )
 ま、それはそれでいいんですけど、朝日はこれを「私の目の黒いうちは」と変に意訳した。でもね、ブッシュ大統領の目は、もともと黒くないでしょ?
 そういえば、先年、ウサギが「私の目の黒いうちは、景気はよくならない」と言っていた。赤い目をして。


● ニュースと感想  (1月11日)

 中村修二(青色ダイオードを開発。ノーベル賞絶対確実)へのインタビュー。(朝日・朝刊・経済面 2002-01-09 )
 朝日には珍しく、良いインタビューだ。久々のヒット。というか、連載しているインタビューで、今回だけが正しい主張だ。(ここのところ、インタビューを続けているが、朝日好みの人選なので、嘘を言う人ばかり。連日のインタビューの主張を、正反対にすれば、正しくなる。ホントですよ。)
 さて、である。今回のみ、正しい主張を掲載したが、それいいとして、朝日はどうやら、聞いても全然理解できないらしい。日頃の自分の主張とは、正反対の考え方だからだろう。あるいは、豚に真珠。猫に小判。無知に天才。……そこで、無知な朝日にもわかるように、解説しておく。
 氏の主張を経済学的に解釈すれば、どうなのか?
 つまりだ。朝日の大好きな「構造改革」なんていうものは、全然、無意味なのだ。「特殊法人民営化、郵政省民営化、道路公団廃止、不良債権処理、公的資金注入、ペイオフ、財政緊縮」……そんなことは、いくらやっても景気回復効果は、全然ないのだ。構造改革は、政府部門の効率化にはなるかもしれないが、肝心の民間企業にとっては何の意味もないのだ。企業の効率の改善にはつながらないのだ。

 では、何が大切か? それを言おう。政府の体質ではなくて、企業の体質を変えることだ。改革すべきは、政府ではなくて、企業なのだ。
 構造改革路線は、そこのところを勘違いしている。「政府や産業構造を効率改善すれば、企業が効率改善する」と思い込んでいる。大いなる錯誤だ。中村修二の指摘するように、日本企業の体質そのものが根本的にダメなのだ。
 日本企業は、まったく前近代的で、硬直化している。その一例が、「年功賃金廃止」「能力給」と唱えることしかできない、アホな経営者たちだ。彼らは、そのように給与制度を改革することで、企業体質が改革できると信じている。何という愚かさ! 日産のゴーン社長であれ、他の改革型経営者であれ、何をしたか、よく見るがいい。彼らは、どうしたか? 給与制度を改革したのではない。社員の意識をひっくり返し、組織を活性化させたのだ。真の「改革」とは、そういうものだ。(なのに、彼らは、「能力給」を唱える。それは実際にはどういうことかというと、中高年の給与を切り下げ、一方、中村修二のような人物には上限を付けることだ。)

 政府の組織ではなく、個々の企業の体質を改革すること。それが大切なのだ。そのことを理解しないから、小泉船長のもとで、日本という船は、全然見当違いの方向に進んでいく。「船を前進させよう! そうすればいつか、暖かなハワイにたどりつける!」……そう信じて、北極に向かいつつあるのだ。
( → 詳細は 第2章「企業改革」
( → 参考情報は 10月21日 の最後。)

 [ 付記 ]
 日本企業の失敗例。
 日本企業は、海外進出に際して、間違いを犯している。現地法人のトップを、現地人にせず、日本人にしているのだ。そのせいで、業績不振やら、トラブル発生やら。……で、「日本企業の失敗例を、うまく他山の石として、わが社は成功した」と中国の新興企業の会長が述べる。(朝日新聞・朝刊・経済面 2002-01-10 )
 この件、昔から言われていたことだ。なのに二十年たっても学習できない。日本企業の経営が、いかにダメか、よくわかるだろう。
 逆に、日本ではどうだったか? マクドナルドにせよ、何にせよ、日本で成功した外資企業は、みな、社長は日本人だ。彼らは、日本の風土に適した経営を貫いたからこそ、成功したのだ。「郷に入れば郷に従え」「When in Rome, do as the Romans do」。
 日本の経営陣は、世界に比べて、二千年遅れている。

 [ 追記 ]
 エジプトで「ポケモンはユダヤの商品だ」というデマが流れた。かくてポケモンは商品からもテレビからも一掃される。デマに対抗することもなく、ただ消え去るのみ。(朝日・朝刊・1面コラム 2002-01-11 )
 日本企業の経営方針が典型的に現れている。他の企業も同じ運命になりかねない。
 さらに、日本そのものも、だ。前例はある。先の大戦では、「日本は極悪非道の人非人だ」というキャンペーンが、米国を席巻した。そして洗脳された米国が、義憤に駆られて、何を決断したかは、ご存じの通り。つまり、宣伝負けだ。それによって国を破滅させられた。「先の大戦は日本の軍国主義のせいだ」というのは、一面的な認識だ。宣伝負けという致命的なミスがあったのだ。
( ※ ついでだが、欧米というのは、日本蔑視がまかり通っている。北里柴三郎がノーベル賞を受賞できなかったのは、業績を横取りされる形で、無視されたからだ。今の日本でも、西沢潤一は、他の受賞者より、はるかに業績を上げているのだし、とっくにノーベル賞を受賞していいはずなんですけどね。これも日本蔑視のせいだろう。)

 [ 余談 ]
 ついでに、朝日の初歩的な間違いを指摘しておく。
 中村修二が「会社は5年で辞めるつもりで集中しろ」と言ったら、それを「(まさしく)5年で辞めろ」と言ったと誤読している。小学生レベルの誤読。
 呆れた。日本語がわからないんでしょうかね。「つもり」というのは、気構えであり、実行じゃないんですけれど。たとえば、「死ぬ気で頑張れ」というのは、「死ね」という意味じゃないんですけど。


● ニュースと感想  (1月11日b)

 政府の「e-Japan 重点計画」。185万人の雇用創出。潜在成長率が 0.5% 向上。労働生産性が3%向上。……という成果。(読売・朝刊・経済面 2002-01-09 )
 すばらしいバラ色の夢だ。で、そのために、政府は何をする? 「IT振興を口に出して、そこそこの公的投資をする、とうだけ。
 冗談ですかね。IT振興なんて、いちいち政府が口に出すまでもない。マスコミには同じような言葉が、山のようにあふれているし、経営者だって、同じようなことを言っている。つまり、政府の言葉は、効果ゼロ。(国民の成果を、横取りするつもりならともかく。)……一方、政府の公的支出は、少しは効果がある。しかし、少しだけだ。そこそこの金を出して、莫大な効果をもたらすなんて、そんな夢のような出来事があるはずがない。
 なるほど、政府の「e-Japan 重点計画」というのをいろいろと見ると、さまざまな項目がずらりと並んでいる。これを見ると、「おお、すごい」と思うかもしれない。しかし、こんなふうに項目をいくらずらりと並べても、無意味だ。ただの調査レポートにすぎない。こんなことは、どこの国でもやっていることだし、いちいち大騒ぎするほどのことはない。だいたいね、いくら「すごいぞ、すごいぞ、こんなにやるぞ」と大騒ぎしていようと、現実にはどうだ? パソコンを「全生徒に対して1人1台」という配備さえ、全然進んでいないのだ。(学校全体で 40台だけ。しかも、インターネットにもろくに接続できない。 → 12月10日b11月13日
 日本というのが、いかにIT後進国か、よくわかるだろう。こんな状態でいるくせに、今さらちょっと言葉と金を出すだけで生産性が大幅に向上するなんて、悪い冗談だとしか思えない。

 結語。
 IT化で、何らかの効果があるとしても、民間の方で、やるべきことはやっている。政府が口を出して振興することの経済的な効果などは、ごくわずかである。しかも、「IT化でバラ色」なんていう構想そのものが、ほとんど蜃気楼であったことは、米国のITバブルの破裂で明らかになっている。今ごろそんな夢を見るのは、5年以上遅れている。
 根拠なしのデタラメな夢をふりまいて、国民を欺くのは、やめてもらいたいものだ。そんなふうに幻想を信じてばかりいるから、現実は無策のままどんどん悪化していくのだ。

 [ 付記 ]
 マクロ政策以外にも、生産性を向上させる方法(ミクロ的な方法)は、ある。それはIT化ではなく、組織改革だ。( → 本日別項 1月11日
( ※ 労働生産性との関連は → 1月12日の[ 付記 ]


● ニュースと感想  (1月12日)

 「ワークシェアリングで不況解決」という案がある。そこで私としても、コメントしておこう。

 「ワークシェアリングで不況解決」というのは、成立するか? いきなり結論から言おう。それによる効果は、少しはあるが、根本的な対策とはならない。不況の解決は、縮小した経済を、元の水準に戻すことによってのみ、可能である。一方、ワークシェアリングは、「縮小均衡」をめざす道である。それは、根本的な対策とはならず、単に痛みを緩和するだけだ。
 ただし、「不況解決」という短期的な方策としては不十分だが、「労働時間の削減」という長期的な方策としては有効である。十年ぐらいの長期計画で、労働時間を徐々に削減していくのは、長時間労働をやめるという意味で、好ましい。一方、逆に、今すぐいきなり労働時間を1割以上減らして賃下げする、というのは、好ましいとは言えない。(功罪ともある。一部の論者の唱えるように、「企業も労働者も、すべてよし」というわけではない。)
( → 12月18日

 [ 諸点 ]
 不況のときのワークシェアリングは、どう評価するべきか? 以下、諸点を述べよう。

 (1) 失業を減らせるか? 
 「ワークシェアリングをすれば、失業を減らせる」という意見がある。たしかに、リストラ(解雇)による失業を減らすことはできる。しかし、である。倒産ゆえの失業は減らせないのだ。この意味で、ワークシェアリングは、失業防止の特効薬ではない。「景気回復」こそ、特効薬(というか根本対策)なのだ。それは倒産続出も防止するからだ。

 (2) 景気回復の効果は? 
 全企業がいっせいにワークシェアリングを実施したら、総賃金が減るので、総需要が減ってしまう。つまりは、デフレスパイラルだ。これは「景気回復」とは正反対の方策である。むしろ、「ワークシェアリングをしないで、現在の賃金を維持する」方が、マクロ的な景気対策となる。つまり、無理が利くのであれば、なるべく現状維持が好ましい。

 (3) 赤字企業では? 
 マクロではそうなのだが、個別企業ではそうも行かない。特に、赤字になった企業は、無理に賃金を払っていれば、企業そのものが倒産しかねない。この場合は、賃金抑制が必要となる。となると、「解雇を避けるため」のワークシェアリングも有益だ。解雇よりは、ワークシェアリングの方がマシである。

 (4) 賃上げとの関係は? 
 労組は春闘では、賃上げのかわりに時短を求めるべきだろう。賃上げにこだわるから、賃上げも時短も得られない。生産性向上の配分を得られない。欲を張るから、得られるはずのものも得られない。
 昔々、欲張りばあさんがいました。「あれもこれも」と欲張ったすえに、何ももらえず、おしおきだけをもらいました。
( ※ 不況のとき以外も、同様だ。ワークシェアリングの正しいあり方は、「生産性の向上分を、賃上げではなく、時短でもらう」という形だ。毎年3%ぐらいの生産性向上があるから、その分、少しずつ時短を実施する、というのが、好ましい。ただし、不況のとき以外は、ワークシェアリングのかわりに、賃上げでもらっても構わない。)

 (5) サービス残業は? 
 「ワークシェアリングなんかするより、まずサービス残業の解消をせよ」と労組は唱えることもがる。しかし、これは、話が逆である。ワークシェアリングを実施していないからこそ、サービス残業が発生するのだ。企業としては、「人員を減らすが、仕事は減らさない。一人あたり労働時間は増える。しかし残業手当を払わない。だから人件費を抑制できる」というわけだ。それだからこそ、ワークシェアリングを実施すれば、サービス残業は減る。労組はこの点を、理解しておいた方がいい。
( ※ ついでに言えば、「サービス残業」という言葉は、やめた方がよい。「賃金不払い」もしくは「賃金泥棒」もしくは「犯罪」と呼ぶのが正しい。本来なら、国が取り締まるべきだ。なのに、できないのは、公務員にサービス残業をやらせているから。泥棒が泥棒を取り締まることはできない。日本というのは、泥棒が政権を持っている、泥棒国家なんです。だから、日本中に泥棒がはびこるんです。)

 (6) 生産性との関連は? 
 「ワークシェアリングを実施すると、生産性が下がる」という主張がある。「コスト削減は不十分なのに、売上げが減るのでは、無駄だ」という説だ。これは、「資本生産性」について言うなら、正しい。
 しかし、「労働生産性」については、どうか? むしろ、生産性は上がる、とさえ言える。無駄な遊休時間が減るからだ。
 このことは、特に、サービス業に当てはまる。どんなに営業時間を長くしても、国民の買物の総額は同じだ。国全体では同じ売上げ総額しかない。なのに、日曜日も夜間も営業していて、無駄な遊休時間がたまる。かくて、国全体では、労働生産性が大幅に下がる。……このことが、日本の労働生産性を、先進国中で最下位にしている。(「26カ国中で19位。先進国7カ国中で7位。読売・朝刊・経済面 2002-01-10 )
 ワークシェアリングかどうかはともかく、時短を実施すればよい。そうすれば、労働時間削減により、生産性は大幅に上がる。……これは、マクロ的には、非常に有効な方法だ。小泉流の「構造改革」による生産性向上よりも、圧倒的に大きな成果を発揮するだろう。
( ※ 具体的な政策例 …… 日曜日に働いたら、平日は2日間休む、という制度。週休3日制が促進され、労働生産性は急速に向上。)

 [ 付記 ] 労働生産性について
 「日本の労働生産性は低いのは、ああだこうだ」という説がある。もっともらしい説が多いが、たいていは嘘である。技術が低いわけでもないし、コストが高いせいでもない。一人あたりの生産額は十分にあるのだ。
 ただし、労働時間が多い。そのせいで、「生産額 ÷ 労働時間」 である労働生産性が低いのである。
 ここを見誤ってはならない。「生産性を上がるために、技術を向上させよ、IT化を進めよ」という意見は、まったく正しくない。技術やIT化は、それ自体、すでに目一杯やっているのだ。政府の号令なんかで、急激に向上するものではないのだ。
( ※ ただし、お気楽に考える人も多い。「政府が号令をかければ、それだけで技術水準が向上し、IT化がどんどん進む。号令だけで、生産性が急激に向上する」と。お気楽。)
( ※ あのね。みなさん、職場で、必死に働いていますね。日夜努力していますね。そこに政府が出てきて、こう言うわけだ。「きみたちがいくら日夜努力しても、まったく無駄だね。そんなことじゃ、生産性が上がらないよ。大事なのは、私たちの号令だけだ。さあ、号令を聞きなさい。この号令を聞けば、生産性が大幅に向上するぞ」と。そして、「e-Japan ,e-Japan ,e-Japan ……」と何度も叫ぶ。呆れますね。そんなの、どうでもいいじゃん。 → 1月11日b

 [ 結語 ]
 ワークシェアリングは、短期的には特に有効ではないが、長期的には好ましい。(時短による労働時間削減という意味で。)
 マクロ経済的にも述べておこう。
 実は、「ワークシェアリングによる時短」は、不況時よりも、好況時にこそ、やるべきなのだ。「好況時に供給を減らすのは変だ」と思うかもしれないが、時短は同時に「収入減」ももたらすから、「インフレスパイラル」をつぶす効果もある。
 好況時には、平常時に比べ、労働時間も所得も、何割か増える。これは、平常時からずれた、いびつな状態である。だから、労働時間も所得もともに減らすこと(平常時に戻すこと)が、好ましいわけだ。
 経済学の目的とは、このように、「景気の変動なくすこと」である。「景気拡大のために、生産性を向上させよう」と大騒ぎする人もいるが、エセ経済学者と呼ぶべきであろう。生産性の向上というものは、経済学者が号令して実現するものではない。個々の企業の個々の人々が、日夜努力することで、少しずつ積み上げていくものなのだ。
 このことを理解できない人が、「構造改革」と叫ぶ。


● ニュースと感想  (1月12日b)

 新聞雑感。イヤミつき。
 読売ではここのところ、ほぼ連日、ワークシェアリングについて記事を掲載している。事実調査も十分で、なかなか有益な記事だ。偉い。
 朝日は、逆。毎日毎日、素人による経済論だ。作家は「他人に頼らず一人で生きていけ」。科学者は「日本は途上国化しろ。原始生活を送れ」。女優は「農業でもやっていろ」。……あのねえ。みなさん、そう思うのなら、さっさと日本を出ていって、アフリカの僻地にでも行って、勝手に一人で暮らしてください。
( ※ それにしても、朝日の経済部ってのは、どうなっているんですかね。「専門家よりも、素人に意見を聞こう」という発想。物理学や生物学で、そんなことを考える記者って、いるんですかね?)

 [ 注記 ]
 ただし、経済部以外では、まともな記者もいる。 ( → [ 追記 ] のポケモンの記事)


● ニュースと感想  (1月13日)

 迷惑メールについて。
 迷惑メールには、まったく困りものだ。政府がさっさと対策を取るべきだが、諸外国はすでに立法しているのに、日本はいつまでたっても迷惑メール対策の法案ができない。「IT後進国」が歴然としている。(それでいて、「e-Japan 計画で経済成長」という能天気な夢を見ている。 → 1月11日b

 IT無能な政府は頼りにならないので、とりあえず、私が方法を示す。

 (1) プロバイダ
 プロバイダが、「DMメールの一括拒否」というサービスを、ユーザのために設定するべきだ。
 今ドコモがやっているのは、「宛先不明が多数になったのは迷惑メールと判定する」というものだ。しかしそれとは別に、「(宛先不明でなくとも)宛先が 100件以上のDMメールはすべて拒否する」という選択肢もほしいものだ。どうしても必要なDMメールやメルマガだけは、いちいち自分で登録して、受信できるようにする。それ以外のDMは一括して、受信拒否。そういうサービスがほしいものだ。(いやなら、利用しなくてもよい。迷惑メールの好きな人は、もらうといいでしょう。)
(この件、転載も無断引用も可。)

 (2) 個人
 個人では、「フォルダ分け」のできるメールソフトを使って、迷惑メールは自動的にゴミ箱に入れるとよい。ただし、設定は少々面倒なので、初心者向けではない。具体的な方法は、いちいちここでは述べない。(なお、それで網羅できるわけでもない。漏れて残る分もかなりある。)

 [ 余談 ]
 民間がこんなに苦労するのも、すべて、政府がIT音痴だから。政府公開文書でも、機種依存文字を使ったりするしね。こういう人々が唱える「e-Japan」なんて、あまり期待しない方がよい。だいたい、小泉さん、あなたメール打てないでしょ。それでいてメルマガを出すとはね。「らいおんはーと」も、カタカナ変換ができないのかもね。
(だいたい、これをひらがなで書くとはね。大人のやることじゃない。幼稚園レベルのセンスだ。まさか、それほど白痴ではあるまいから、やはり、単なるIT能力欠如だろう。)

 [ 参考 ]
 ドコモの場合、メール総数は1日10億。うち、85%ぐらいが不配の迷惑メール。設備能力の限界に達する。メールが届く時間も、数十分から数時間も遅れる。ひどいときには数日遅れで、郵便よりも遅い。(朝日・夕刊・ウィークエンド経済 2002-01-12 )


● ニュースと感想  (1月13日b)

 ワークシェアリングについて、補説。
 ワークシェアリングや時短を、国が促進することもできる。実施した企業に補助金を与えたりしてもいいのだが、アメを与えるよりはムチの方が効き目があるだろう。具体的には、「残業税」がある。残業について課税するわけだ。
 通常、人員を減らして、少ない人員に残業をさせた方が、企業は得である。しかし、残業を実施すれば、企業は残業よりも雇用増加を選ぶ。
 このことは、不況の今よりは、景気回復しつつある過程で、大きな効果が出るだろう。
cf. 第3章(後) でも残業規制について述べた。)


● ニュースと感想  (1月13日c)

 「経済学者は、やたらと消費を拡大させようとするが、けしからん! 環境に負担がかかるぞ」という意見がある。(たとえば、朝日・朝刊・投書欄コラム 2002-01-05 )
 そこで、「消費と環境」の関係について、解説を次に示した。 → 「需要統御理論」 簡単解説

 さらに、付言しておこう。
 上記の意見は、「消費を勧めるのをやめよ」という考え方。これは一見、まともな人生論である。しかしそこには経済学が抜けている。
 論者は経済学がわかっていないので、説明しておこう。消費と生産とは、物事の裏表なのだ。買い手が何かを買うということは、売り手がそれを売るということなのだ。だから、「消費をやめよ」というのは、「生産をやめよ」ということなのだ。その主張は、結局、「倒産と失業を発生させよ」ということなのだ。
 だから、論者はつまり、「デフレを続けよ」と言っているわけだ。それでいて、「デフレは困る」とも言っている。……つまりは、自分で自分を殴って、「なぜ痛いのだろう?」と不思議がっているわけ。

 [ 付記 ]
 ただし、消費を減らすためかどうかは別として、「労働時間を減らせ」というのは(いくらかは)正しい。この件、1月12日 を参照。


● ニュースと感想  (1月13日d)

 ペイオフを控えて、資金が外国へ逃避している、とのこと。金持ちはせっせとシティバンクなどの外銀に預けたり、外国の債券を買ったり。すでに7兆円の規模。(「DIAS」という週刊誌の最新号。)
 当然のことだろう。政府が阿呆なことをすれば、民間は対策を取らざるを得ない。外銀や外債という経路は、私も「金があったらこうする」と思っていた案だ。誰でも同じことを考えるようだ。
 今は資産家が資金を逃避させているだけだが、今後は法人もこぞって資金を逃避させていくことになるだろう。ペイオフが近づくにつれ、とんでもないことになりそうだ。極端な円安になったり、流動した過剰な資金が変なことを起こしたり、経済的な混乱が発生しそうだ。しかも、これは、「懸念」ではなくて、「最も可能性の高い」ことなのだ。
 「人々が最も合理的な行動を取れば、国全体では非合理な行動となる」ということ。「合成の誤謬」。こういう経済学の基本を理解していない人が、日本の経済を運営している。
 フリードマン「選択の自由」によれば、「デフレのときのペイオフ」は、「恐慌」に至る最短の道である。下降しつつある日本経済は、あるとき一瞬にして、「取り付け騒ぎ」が発生し、完全マヒして、奈落の底に落ちかねない。


● ニュースと感想  (1月14日)

 《 本項は、ただの悪口なので、特に読む必要はありません。 》

 かつて私は野口悠紀雄を何度か批判したが、野口悠紀雄がホームページで「私はデフレ容認なんて言っていないぞ」と弁解している。
 情けないことだ。自分の言ったことを忘れるとは。仕方ない。指摘してあげよう。(これらのページは削除される可能性もあるが。)

 箇所は:
 「デフレ阻止は旧構造の温存 物価下落は構造改革の過程」という標題のページ。(http://www.noguchi.co.jp/archive/toyokeizai/010526.html
 文章は、
 「現在生じている物価下落現象は、…………国際的に著しく高価格国であった日本が、国際的な価格水準に近づいてゆく構造的変化の過程である。」
 「これが構造的現象である以上、…………マクロ政策によっては阻止できない」
 「物価下落が要求しているのは、日本の産業構造の改革なのである。」
 「デフレ阻止政策を取れば、…………旧来の経済構造を温存させることにしかならないのである。」
 など。
 これを読めばわかるとおり、要旨は、「デフレは構造改革をもたらす。デフレ阻止は構造改革を妨げる」である。どう読んでも、「デフレ ⇒ 構造改革促進」と考えた上での「デフレ賛成」としか読めないはずだ。(小泉と同じですね。)

 なお、次の箇所もある。
 「世界経済の枠組みの中で教育政策の見直しを」という標題のページ。(http://www.noguchi.co.jp/archive/toyokeizai/010623.html
 文章は、
 「中国の潜在的な経済規模がきわめて大きいことを考えれば、中国の賃金水準が日本のそれに近づくよりは、日本の賃金が中国水準に向かって下落してゆく可能性が強い。」
 「このため、賃金水準の大幅な引下げ、人員の削減、…………などが必要とされる。」
 など。
 これまた、(賃金に関して)「内外価格差があるゆえに、デフレは当然だ」というデフレ正当化であろう。(どうせ言うなら、バブルのころに言えば良かったのにね。円高で内外価格差が大きかったし。)
( → 1月04日1月04日b12月21日b

 [ 付記 ]
 本項は、野口悠紀雄を攻撃するためにあるのではない。彼が「自分はそんなことを言っていない、事実無根だ」と述べているからだ。このままでは私が事実無根のことを言ったことになってしまう。そこで、「そんなことはないでしょ。自分の言ったことを忘れないで」と教えてあげただけだ。
( ※ 野口悠紀雄は「11月の原稿では言っていない」と述べている。そうかもしれない。しかし、それ以前には、言っているのだ。以前の説を撤回したのであれば、その旨、ちゃんと明示するべきだろう。なお、自説を撤回するのは恥ずかしいことではないが、自分の言ったことを失念してしまうのはすこぶる恥ずかしいことだ。)


● ニュースと感想  (1月14日b)

 寸言ジョークが新聞に掲載された。(読売・朝刊・社会面「USO放送」 2002-01-06 )

    午年の景気予測 :
    「ニンジン次第でしょう」 …… 労働者一同


 実に正しい。そこいらの経済学者よりも、ずっと正しい。ついでに、これをもじって、私が付け足しておこう。
 こういうデタラメを唱える経済学者たちに比べて、上記のジョークは何とすばらしい経済学を唱えていることだろう!

 [ 解説 ]
 不良債権処理の話は、「コストがかかる」ということ。銀行や企業の赤字は消えるが、赤字自体が消えるわけではなくて、国民全体に負担が転嫁される、ということ。


● ニュースと感想  (1月14日c)

 「不況の原因は不良債権があるせいだ」という説がある。これが根本的に誤っているということを示す。
 この説は、おおむね、次の二つの理由を取る。
    (1) 銀行が詰まっている
    (2) 企業の生産が詰まっている
 これらについて、順に説明しよう。

 (1) 銀行が詰まっている
 「銀行が詰まっている」という説がある。「銀行は資金を貸し出すべきなのに、不良債権のせいで、資金を貸し出さない。だから企業は十分に投資ができない」という説だ。
 仮に、その説が正しいとしよう。企業は借りたいのに、銀行は十分に貸し出さない。となると、「資金市場における需要と供給の関係」を見たとき、「需要過剰・供給不足」となるから、金利は上がるはずだ。しかし、現実には、それとは逆になっている。金利は非常に低い。ゆえに、その説は正しくない。(背理法。)
 なお、「銀行はみな詰まっている」ということはない。詰まっている銀行もあるが、詰まっていない銀行もある。だから、まともな銀行がどんどん貸し出しを伸ばしていいはずだ。なのに、そうならない。
 結局、資金需要が不足しているのだ。詰まっているのは、資金の供給側(銀行)ではなくて、資金の受け入れ側(企業)のだ。

 (2) 企業の生産が詰まっている
 「企業の生産が詰まっている」という説がある。小林・加藤の書籍(「日本経済の罠」)が「ディスオーガニゼーション」という語で示しているが、つまりは、企業の「相互不信」である。不良債権がたまっていると、取引相手の企業がいつ倒産するかもわからない。だから注文を受けても、十分に生産する気がない。そのせいで投資も生産も縮小している、というわけだ。
 仮に、その説が正しいとしよう。投資も生産も縮小していて、供給能力が縮小している。となると、「需要と供給の関係」を見たとき、「需要過剰・供給不足」となるから、物価は上がるはずだ。しかし、現実には、それとは逆になっている。物価は上がるどころか下がっている。ゆえに、その説は正しくない。(背理法。)
( ※ この項、野口悠紀雄が最初に「むしろインフレになるはず」と指摘した。上の説明は、私が書き直したもの。)

 結局、不況の原因を「不良債権のせいで供給が縮小しているから」と説明するのは、全然正しくないわけだ。
 当たり前だろう。話の根本を考えてみるがいい。今の不況は、供給過剰であり、需要不足なのだ。なのに、「供給の縮小」を不況の原因と見なすのは、話の方向が根本的に正反対の方向を向いている。
 「供給主義の経済学」は、ここではまったく見当違いなのだ。


● ニュースと感想  (1月15日)

 企業の資金需要がないことについて。状況と解説。
 まず、事実を細かく見よう。例として、IT産業を見ると、各社は、需要減で、投資計画を大幅に削減している。一方、最も資金を必要としているのは、資金繰りの苦しい経営難の会社だが、たとえば、ダイエーは3年間で1兆円も借入金を返済することを迫られている。結局、統計を見てもわかるとおり、企業はどこもかも、借金の返済に努力している。
 では、なぜか? 先の見通しが暗いからだ。借金とは、「今借りて、後で返す」である。ところが、「今は景気が悪いが、後はもっと景気が悪い」という見通しがある。となると、「今借りて、後で返す」というのは馬鹿げている。誰だって、そうだろう。「今は低収入でも、来年は高収入」と思うなら、借金して消費するが、「今は低収入で、来年は失業」と思うなら、借金はなるべく今のうちに返済しようとする。(さらに借金を増やす、なんてのは、もってのほかである。量的緩和論者は、そこのところがわからないようだが。)
 何よりまず、先の見通しを明るくすることが必要なのだ。
(ただし、単なる言葉ではダメ。具体的な裏付けが必要。「インフレ目標」は大事だが、これを単なる言葉による景気づけと考えるのは正しくない。竹中はそこのところがわかっていないようだが。 → 12月05日


● ニュースと感想  (1月15日b)

 公的資金投入について。
 恐慌を危惧して「ペイオフ反対」を唱える私が、なぜ公的資金投入を批判するか、理由を述べよう。
 公的資金投入は、「マイナス効果」があるから悪いのではなく、「愚かしい」から悪いのだ。効果がない、と言っているのではない。効果はいくらかある。しかし、かかるコストが大きすぎる。
 「銀行経営が回復すれば、投入した資金は戻る」と楽観する人もいる。しかし、銀行経営が回復する保証は、どこにあるのか? 前にも公的資金を投入したのに、良くなるどころか、悪くなるばかりではないか。このままだと、投入した資金はすべて「減資」で消滅してしまうかもしれない。紙幣が、まず株券となり、次に紙屑となるわけだ。
 では、どうすればいいか? 「景気回復という根源対策のために金を使え」というのが、私の提唱だ。たとえて言おう。ここに病人がいる。それで「病人が死んだら大変だ」と騒いで、痩せた体重を回復させるために、ごちそうを食わせて、さんざん金をかける。しかし、痩せたあとでいくら金をかけても、無駄だ。痩せる病根を取り除くのが先決だ。
 不況という根本原因を放置したまま、痩せた銀行に対して、いくら公的資金を投入しても、ほとんど無駄だ。とにかく、不況という根本原因に対する対策が必要なのだ。症状ばかりを見て、症状だけをとりつくろおうとしても、ダメなのだ。(このことは、公的資金投入にも、不良債権処理にも、当てはまる。)


● ニュースと感想  (1月15日c)

 経済財政白書の「不良債権問題」の説明について。
 まったく間違っているので、指摘しておく。

 (1) 不況の原因は、銀行が詰まっているせいだ
  …… 前日の 1月14日c で説明済み。

 (2) 不良債権がたまっているせいで、金融システム不信になる
 ペイオフをやるから、金融システム不信が生じるのだ。ペイオフをしなければ、国が保証してくれるので、金融システム不信は生じない(顕在化しない)のだが。結局、金融システム不信をわざわざ起こす責任は、銀行よりも国にある。

 (3) 不良債権を抜本処理すればよい。そうすれば銀行収益が確立する
 もしコストがかからなければ、そうだ。実際には、コストがかかる。「あの銀行は千億円の赤字を出すかも」と想像されていたのが、「あの銀行は本当に千億円の赤字を出した」というふうになる。銀行収益は、好転するのではなく、赤字が顕在化するだけだ。

 (4) 公的資金を投入すれば、銀行はコストなしに不良債権処理をできる
 お金が空から降ってくるならば、そうだ。実際には、そのコストは、国が負担する。つまり、銀行の赤字を、国民全体で分かちあう。国民は、勝手に連帯保証人にされて、全員に莫大な赤字がのしかかる。何十万円も払わなくてはならない。銀行の尻ぬぐいのために。
 となると、消費はますます縮小し、景気はますます悪化する。

 (5) 不良債権があるせいで、金が生産性の低い産業にたまって、生産性の高い産業に回らない。
 量的緩和で、金はありあまっているのだから、その主張は成立しない。話は逆で、銀行は「金を借りてくれ」と優良企業に頭を下げているのに、断られっぱなしなのだ。

 (6) 銀行融資が、不動産業に偏っている。国全体の経営資源が、生産性の低い産業に偏る
 「経営資源(労働力・資本)が生産性の低い産業に偏る」というのは、不良債権問題とは全然関係ない。この件は、11月28日 の (2) (3) でも詳しく示した。以下でも、さらに説明しておこう。
 簡単に言おう。
 第1に、生産性の低いところに労働力が集中するのは当然だ。生産性の高いところでは、どんどん労働者が不要になって、人員を吐き出す。だからその分、生産性の低い産業が引き受ける。どんな時代でもどんな国でもそうだ。
 第2に、不動産業に資金がたまっているのと生産性が低いのとは、関係ない。不動産業に資金がたまっているのは、融資を返せないからだが、それはバブルが破裂したからだ。経営がデタラメだったのが原因であり、生産性の低さは関係ない。
 第3に、不動産業以外の赤字産業に資金(返せない融資)が溜まっているのは、単に返せないでいるだけだ。黒字産業は、さっさと金を返して、赤字産業だけは、金を返せずにいる。そういうことだ。つまり、「低能率な産業に金が溜まる」というのは、「今はどの企業も金を借りようとしない(むしろ返そうとする)」というのを言い換えただけだ。
 第4に、これが根本だが、経営資源の偏在というのは、不況のときには、まったく問題とならない。なぜなら、もともと余っているからだ。経営資源の偏在が問題となるのは、経営資源が不足しているとき(デフレでないとき)の話だ。そういうときには、限られた経営資源を、低能率な産業から高能率な産業に移すべきだ。しかし、経営資源が余っているときに、「低能率な産業に置くべきではない」と言い出したら、無駄に眠らせておくことになる。経営資源を「低能率な産業 → 能率ゼロの倉庫」というふうに移すことになる。……狙っていることとは逆のことをやるわけだ。(それが小泉の「構造改革」だ。)
 結論。「都合の悪いことは何でもかんでも、生産性の低い産業に帰する」というのは、ご都合主義である。「電信柱が高いのも、郵便ポストが赤いのも、みんな生産性の低さのせい」というわけだ。こういうのは、経済学とは関係ない。
 結局、「不況は不良債権のせい」という考え方は、根本的に間違っているわけだ。今の不況は、需要不足のせいである。不良債権のせいではなのだ。もちろん、不良債権処理をしても、プラス効果などはない。「これで風通しが良くなったので、銀行は金を貸し出します」と言っても、そもそも企業は金を借りる気はない。だから、何の意味もないわけだ。
 不良債権はたしかに問題ではある。しかしそれは、「不況の原因」ではないのだ。「不況の結果」なのだ。そこを勘違いするから、不良債権処理を進めれば進めるほど、どんどん不良債権が増えていくことになる。

 《 たとえ話 》
 昔々のことです。獅子丸くんは、病気になって、発熱しました。獅子丸くんは、原因と結果を考えました。「熱が出たから、病気になったのだ。熱こそが、諸悪の根源なのだ。熱を下げれば、病気は治るはずだ」……そう考えて、病気なのに、強引に熱を下げようとして、寒風のさなかに裸をさらしました。すると、体温が下がれば下がるほど、病気はひどくなってしまいました。そしてとうとう、ポックリ死んでしまいました。


● ニュースと感想  (1月16日)

 書評。小林・加藤「日本経済の罠」。
 かなり前に出版されたもので、けっこう話題になった本。書評するつもりでいたのだが、熟考のすえ、詳しい書評は書かないことにした。あまりにも虚しいからだ。
 普通の本ならば、それを書評することに、何らかの意味がある。以前、量的緩和論者の本を何冊か批判したが、批判するに足る本だったからだ。それらを批判することで、考え方にひそむ問題点を浮き彫りにする。そうして誤解を正し、真実にたどりつく。そういう効果が見込めた。
 本書は違う。これを批判したからといって、真実に近づけるわけではない。むしろ、真実から遠ざかるばかりだ。というのは、本書は、「論点に問題点がある」というより、思考法そのものが根本的におかしいからだ。狂ったコンピュータのようなものである。狂ったコンピュータの狂った論理過程を批判しても、何の意味もない。こんなものは、「直して使おう」と思うよりは、捨てるしかない。
 本書では、いろいろと緻密な論理が展開される。「おお、すごい、論理的だ」と、素人は目をくらまされるだろう。しかし、その緻密な論理というのが、ことごとく、本質を逸れて、どんどん脇道にずれていき、結局は、とんでもないところに行きつくことになるのだ。

 ここで、私の方針を述べておこう。私の方針は、「核心を突く」である。細かな表面的なものには惑わされず、それらを捨てて、一番核心的なところを、ズバリと斬る。そういう方針と比べると、本書は正反対と言えるだろう。表面的な細かなところにこだわり、緻密な論理を展開するが、それがことごとく、核心とは正反対の方向に進んでいく。それでも、論理自体は緻密だから、どこが間違っているのかわかりにくくて、素人は感心しながらだまされてしまう。
 どこがどう間違っているか、つまり、どこにどういう論理的な誤誘導があるか、説明するつもりでいた。しかし、やる気をなくした。あまりにも虚しいからである。間違った論理は多量にあるが、そうした間違いをいちいち指摘しても何の成果も得られない。読者としては、そんな間違いの箇所をいちいち理解するために頭を使うよりは、本書をさっさと捨てた方が、ずっと利口である。馬鹿の猿芝居の詳細な解説を知っても、何ら益するところはない。
 本書は、世間ではかなり認められたらしく、いくつかの賞を受賞した。私としては、当然だ、と思う。非常に緻密な論理で、素人をうまくたぶらかしているからである。「経済学を知りたいけど、専門的な知識はない」というような素人は、コロリとだまされてしまうだろう。実に優秀な「詭弁家」である。これほどうまく本質を逸らし、人々の目を曇らせる本は、めったにない。私が最近読んだ本の中でも、傑出してワースト1の座を占める。となると、賞を受けるのも、もっともな話だ。

 [ 付記 ]
 悪口ばかりではつまらない、と思えるかもしれないので、細かなことも以下に述べておく。 ( ※ ただし、読む必要はありません。読むだけ無駄です。
 ……ここまで書いてきて、やはり、虚しくなってきた。「書かなければよかった」と思う。まったく無益な指摘である。1月15日c の、経済財政白書についての批判は、まだ有益なのだが。
( → インターネット上にも他人の 書評 あり。)


● ニュースと感想  (1月16日b)

 物事の本質をつかむ方法について。
 物事の本質をつかむコツを示そう。これは、ノーベル賞学者のファインマンの示した方法だ。
( ※ ファインマンは、ノーベル賞学者のなかでも傑出した天才タイプ。著書に「ご冗談でしょう、ファインマンさん(下)」というエッセーがある。以下は、この本(p.107)に記してある方法を、私なりに書き直したもの。)
   *   *   *   *   *
 人は物事を考えることがある。そのとき、ついつい、分析的に考えてしまいがちだ。つまり、物事を細かな断片に分けてから、再構成していくのである。その際、細部にとらわれるあまり、全体像を見失ってしまいがちだ。
 たとえば、数学の問題を解くとき、いちいち目先の計算ばかりに気を奪われてしまう。全体のなかで、どんなことをして、どちらに向かっているのかが、わからなくなってしまう。同様のことは、経済学などの理論を組み立てる際にも、よくあることだ。
 こういうとき、全体像を理解するには、どうすればいいか? それには、具体的な現実モデルを想像すればいい、というのがファインマンの方法である。ある理論の適否を考えるとき、具体的な現実モデルを想像して、その理論を当てはめる。すると、理論の問題点が浮かび上がる。間違った理論だと、どこかで齟齬(そご)が生じる。そうして問題点に気づきやすくなるし、全体像もとらえやすくなる。

 これと似た方法は、私もよく使っている。「たとえ話」を用いる、というのも一例だ。また、不良債権処理については、特に「不良債権物語」という長いたとえ話を示した。こうしたモデルを考えると、不良債権のような込み入った話については、見通しが良くなるものだ。他の理論についても同様だろう。クルーグマンも、よくたとえ話を持ち出すが、これも同じ狙いだと言える。 (逆に、クルーグマンのたとえ話を読んで、「子供じみた話だ」と軽蔑するような人に限って、頭のなかの論理が錯乱したままでいる。)
( → 1月07日c 「モデルとたとえ話」)

 [ 付記 ]
 ついでに言うと、「部分にこだわるあまり、全体を見失う」というのは、学問だけでなく、たいていの芸術にも当てはまる。たとえば、凡庸な画家は、細部の筆致にこだわるあまり、画面全体の雰囲気がおかしくなってしまう。そのことは模写の際にはきわだつ。部分的なタッチにこだわって真似ようと必死になるが、全体としては原作とは似ても似つかぬ雰囲気のものになってしまう。……どの分野であれ、凡人はみな同様であるようだ。


● ニュースと感想  (1月17日)

 不良債権処理に関連して、倒産処理の方法について考察する。倒産処理ないし企業再建には、どうすればいいか、という方法論だ。例としては、ダイエーを取り上げる。
( ※ これは、マクロ経済の話ではなく、細々とした手続きの話。あまりおもしろくない。悪賢い奴が国民の金をくすねるのを防止しよう、という方法論 or 法律論。)

 ダイエーは、はっきりと倒産したわけではないが、ほとんど倒産に近い。債権放棄や、債務の株式化や、整理回収機構(RCC)の利用も、話題となっている。このあたりは倒産企業も同然である。自力では存続できないわけで、実質的に破綻していると言って良いだろう。単に思惑で、不渡りを出さないようにしているだけだ。(銀行の気が変わって、融資継続を断った時点で、資金繰りがつかずに、正式に倒産する。)
 それにしても、ダイエーが倒産するとはね。数年前には、懸念はされても、「まさか」という感じだった。隔世の感がある。小泉の構造改革ってのは、本当にすごいな。日本最大の小売業を実質倒産させたり、日本最良のIT企業であるソニーを赤字経営にしたり。日本経済の構造をこれほど悪化させた首相は、空前絶後だろう。その意味で、「構造改革」は、まさしく実現された。(「改善」ではなくて「改悪」ですけどね。)
 おっと。話が横道に逸れた。元に戻す。
 現状は、どうか? 実質倒産した企業の再建策というものは、はっきりと決まっていないで、混迷している。そこで、この問題を整理したい。
 とりあえずは、現在あるいくつかのの案について、問題点を採り上げよう。

 (1) 債権放棄
 債権放棄は、もちろん、好ましくない。これは銀行に損を与える。といっても、銀行の経営陣や社員がそのツケを払うのではなくて、一般の預金者にツケが回される。
 で、誰が得をするか? 株主だ。本当は、クズになったはずの株式を、価値あるものとしてもらえる。結局、預金者から株主に、お金をプレゼントするわけだ。その決断は、銀行の経営陣が行なう。理由は、「面倒がかからないから」。つまりは、銀行員がサボりたいから、預金者の金(利息に当てる分の金)を、株主に横流しするわけだ。ほとんど犯罪に近い。業務上横領に似ている。
 (なお、今回、(1) が実施されたわけだが、それによってダイエーの株は昨年12月14日の安値 69円から1月16日午前中の高値まで 72%の上昇となった。その分、銀行が株主たちに、預金者の金を横流ししたわけ。 → 数値は Yahoo ニュース

 (2) 銀行保有株の減資
 銀行保有株の減資というのが、今回、ダイエーに関して決着した方策だ。(夕刊 2002-01-16 )
 しかし、銀行の株だけを減資するということは、結局、銀行の金をプレゼントするということと同じだ。つまりは、(1) の債権放棄と同じだ。途中で金が株式という形を経由したというだけのことだ。話は (1) の場合とまったく同じだ。
 だいたい、債権放棄や減資に際しては、すでに指針で示されている。「普通株すべての減資」だ。これが原則となる。この原則を踏み外すべきではない。(決まった通りにできないのだから、まったく情けない。)

 (3) 債務の株式化
 債務の株式化は、ずっとマシである。債権放棄や一部減資よりも、マシである。しかし、問題点もある。
 そもそも企業再建にあたっては、株主責任を明らかにするため、減資が原則だ。しかし、減資をするとなると、せっかく債務を株式化しても、すべてがチャラとなってしまう可能性がある。実際、(2) では、減資をしている。
 となると、「債務の株式化」をしても、何にもならない。いったん株式にして、その株式を部分的に減資するのでは、債権放棄をしたのと同じことだ。
 結局、ここでも、100%減資を免れた株主が得をすることになる。

 (4) 整理回収機構や日本政策投資銀行の利用
 整理回収機構を利用する、という案が急浮上している。また、産業再生法を受けて、日本政策投資銀行の融資を受ける、という案もある。「企業再建ファンド」を設立して、ここに国の金を投入する、という案もある。(読売および朝日。朝刊 2002-01-16 )
 ここで融資または出資した金が消えないのであれば、まだいい。しかし (3) で述べたように、その金は消えてしまう可能性が高い。国がダイエーの債務や株式を保有しても、それはただの紙屑となる可能性が高い。
 これはつまりは、国民全体にツケを回すということだ。最悪である。

 《 対策 》
 では、どうすればいいか? その案を、以下に示す。これは、私の案であるから、唯一絶対のものとは言えない。さらに修正するべきかもしれないし、他にも案はあるかもしれない。ともあれ、ひとつの案として示す。
 まず、原則を考えよう。資本主義の原則に従う限り、破綻した企業の責任は、一義的には株主にある。ゆえに、100%減資が必要となる。
 ただ、いきなり 100%減資というのは、難しいかもしれない。(産業再生法を使えば可能かもしれないが。)
 そこで、私の出す案は、「上場廃止」である。次の手続きを取る。
  1. 「実質破綻」を宣言する。
  2. 「上場廃止予定」を宣言する。
  3. 支援銀行またはファンドが、超低価格でのTOB(株式公開買い付け)を実施する。
  4. 市場に出回る株式が減少すると、株式上場基準を満たさなくなるので、自動的に上場は廃止される。
  5. 株式を 100%減資する。
  6. 産業再生法を適用する。(現状だと、銀行が多額の株式を保有することが制限される。すると、次項の処理ができなくなる。そこで、この制限をはずすため。)
  7. 新規増資を行なう。同時に、債務の株式化を十分に進める。このあとの株式については、減資の対象としない。(そのことを明示して、十分な額の出資を受ける。もし減資の対象となると、出資が不足して、結局は、再度の経営危機を招いてしまう。)
  8. 以後、資金不足になったら、また増資を行なう。このときは、時価発行を原則とする。経営が好転していれば、高めの価格で時価発行。経営が悪化していれば、低めの価格で時価発行。
 こうして、「上場廃止」という形を取って、株式の「100%減資」を速やかに実施できる。こうして問題となる癌を取り除いたあとで、増資や融資を行なって、経営再建すればよい。こうすれば、非常に透明度が高くて、公正明大なので、国の金を出すとしても、国民は納得がゆく。
 数年後、ダイエーがうまく再建されたら、出資者は、株式値上がりの利益を得る。逆に、ダイエーが倒産したら、株式にした分は消えてしまう。そのあたりは、ダイエーの経営次第だ。ともあれ、リスクを負担して、リターンを得る。それだけの話だ。
 一方、現状の方策はどうか? 銀行や国が金を出すので、リスクはこれらが負う。一方で、ダイエーが将来再建された場合、既存の株主たちは「濡れ手に粟」でボロ儲けだ。紙屑が金の山になったことになる。国民の金を大幅にくすねたことになる。彼らはボロ儲けして、国民は大幅な損失を喰らう。
 私の提案なら、「国民の金を既存の株主にプレゼントする」というような馬鹿げたことはなくなる。また、「中内オーナーに私財提供を要請する」なんていう不明朗なこともなくなる。なぜなら、中内オーナーは、自分の株が紙屑になることで、自動的に私財を提供することになるからだ。これなら、不明朗でなく、公正明大だ。また、もう一つの効果もある。「年老いても君臨したワンマンオーナーが、専制経営で経営失敗したすえに、全財産をなくす」ということになるわけで、これは実に良い教訓をもたらすだろう。
( ※ なにしろ、日本中で、ワンマンオーナーの横暴経営が、大きな顔してまかり通っていますからね。

 [ 追記 ]
 ダイエーの処理案が確定。(朝刊 2002-01-19 )
 普通株の 50%減資・優先株の減資・債務の株式化・債権放棄などだ。まったく、何考えているんでしょうね。
 これが本質だ。なのに、新聞は、目先の手続きの報道ばかりをしている。金がぐるぐる回っているのを追ってばかりいて、目をくらまされてしまって、最初と最後を見失ってしまっているのだ。手続き論などは、どうでもいい。誰の金が奪われ、誰が得したのかを、ちゃんと考えるべきだ。


● ニュースと感想  (1月17日b)

 アルゼンチンで(通貨危機のあとで)、金融危機。(朝日・朝刊 2002-01-16 )
 通貨切り下げで、ドル建ての個人債務が急上昇した。で、個人債務については、旧来の通貨レートでの返済を認めることにした。これにて個人は助かった。……と思ったら、その分、銀行の負担が増えて、銀行が倒産の危機。
 まったく、呆れますねえ。「個人の債務を減免する」というのは、「それで債務は消えてなくなる」つまり、「債務は空に蒸発していく」という考えなんでしょうかねえ。……その底抜け論理には、呆れるほかない。まったく、日本の「不良債権処理」論者とそっくりだ。

 では、どうするべきか? 実は、何もしなければいいのだ。つまり、通貨の切り下げだけをやればよい。
 すると、どうなる? 個人のドル建ての債務は増えるが、あまり騒ぐことはない。ペソ建てに切り替われば、一時的には債務は増えるが、弱い通貨ゆえの高い物価上昇率のもとで、債務は実質的にどんどん減価していく。同時に、金利は大幅に高くなるから、無駄な消費は減って、銀行に預ける人が増えてくる。結局、「弱い通貨・高い物価上昇率・高い金利」という状況のもとで、個人消費は減少し、企業投資は増え、供給力が高まり、国家的な経済力は高まっていく。……長い年月をかけたあと、経済が正常になれば、「並みの通貨・並みの物価上昇率・並みの金利」になる。そこで安定する。
 とにかく、普通のことをやればいいのだ。奇をてらうことをやると、その場は取りつくろえるが、他の面で歪みが噴出する。経済というのは、そういうものだ。金は空から降ってこないゆえに。

(だけど日本では、「不良債権処理」論者や「公的資金投入」論者は、そこのところに気づかないんですよね。日本も、アルゼンチンの愚者を笑えないな。……もう一度、強調しておこう。「不良債権処理」には、コストがかかる。それによって不良債権は消えるが、その分、国民の金は奪われるのだ。その分、人々は貧しくなるのだ。金は空から降ってこないゆえに。……私は思うのだが、「不良債権処理」賛成論者から1人あたり 100万円を徴収して、それで不良債権処理を進めればいいのでは? まさか彼らもイヤだとは言うまい。言わせないぞ。)


● ニュースと感想  (1月18日)

 「雇用における流動性の罠」について。
 ( ※ 本項は重要なので、よく理解してほしい。「流動性の罠」については、1月10日 も参照。)
 
  



 
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     このグラフで、
右上がりの曲線は供給。
右下がりの曲線は需要。
    → 量

 古典派経済学では、市場経済ですべてうまく行くことになっている。需要と供給が一致する点で、うまく均衡するはずなのだ。
 しかしクルーグマンが指摘したとおり、そういう均衡が成立しない場合がある。それは「融資における流動性の罠」の場合だ。融資の金利には下限(ゼロ)がある。だから、均衡点がマイナス金利にある場合には、均衡点には達しえない。つまり、均衡しない。つまり、需給ギャップがある。このギャップは市場経済に任せるだけでは埋められないまま残る。(いくら供給を増やして量的緩和しても効果はない。もし効果があるなら、その状態は「流動性の罠」ではない。)

 さて、である。この考えを、(融資でなく)雇用についても当てはめることができるのだ。
 古典派経済学では、雇用についても、市場経済ですべてうまく行くことになっている。雇用の需要と供給がうまく一致する点で、均衡するはずだ。高い給与で雇用できる企業は少ないとしても、安い給与で雇用できる企業は多い。だから、原則として、失業は発生しないはずである。失業が発生するとしたら、人々が高い給与を望みすぎるからだ。安い賃金でいいというのなら、それに応じる企業はあるはずだ。……というのが、古典派の考え方である。しかし、現実には、そうではない。今は、「いくら安い賃金でもいいから雇ってくれ」という人があふれているのに、それらの人々を雇う企業が現れない。つまり、古典派の考え方は、成立しない。
 では、なぜか? 実は、これもまた、「流動性の罠」と、基本的には同じ原理で説明できるのだ。
 「融資における流動性の罠」の本質は、どういうことか? 通常の場合なら、(金利が)プラスの領域に均衡点があるのに、不況の場合は、(融資の)需要が激減してしまって、均衡点は(金利が)マイナスの領域にしかない、ということだ。均衡点に達することができない。だから、均衡せず、需給ギャップが残る。
 雇用の場合も同様である。通常の場合なら、(賃金が)最低賃金以上の領域に均衡点があるのに、不況の場合は、(雇用の)需要が激減してしまって、均衡点は(賃金が)最低賃金以下の領域にしかない。均衡点に達することができない。だから、均衡せず、需給ギャップが残る。(つまり失業が発生する。)……これを「雇用における流動性の罠」と呼ぶ。

 そういうことだ。だから、「市場に任せれば失業は自然解消する」という古典派の考え方は成立しないわけだ。どうしても成立させようとすれば、「最低賃金を切り下げて、日本人も中国人のように低賃金で働け」と主張するしかない。しかし、たとえそうしても、それでうまく行く保証はない。なぜなら、「賃金 = ゼロ」という、第2の下限があるからだ。これに対して、均衡点は「賃金 = マイナス」という領域にあることがある。
 需要不足で供給過剰のときには、生産を増やせば増やすほど赤字が増える。そういうときに、賃金ゼロだからといって、生産を増やせば、赤字がどんどん蓄積するばかりだ。たとえば、半導体のメモリがそうだ。また、銀行もそうだ。賃金がゼロで素人を雇っても、売上げが増えるわけではないのに、労働管理費などのコストだけは増える。机や椅子を用意するだけでも大変だし、社会保険料の負担まで考えれば相当の金額を必要とする。つまり、賃金ゼロでも、雇用は増えない。
 結局、市場経済万能を信じる古典派の考え方は、あまりにも素朴に過ぎるわけだ。
 では、どうするべきか? 答えは、簡単だ。「均衡点がマイナスの領域にある」という状況そのものを変えればよい。つまり、不況から脱すればよい。そうすれば、均衡点は普通の領域に移るので、そこで市場経済の原理が正常に働くことになる。(融資の需給も、雇用の需給も、市場でうまく均衡するようになる。)
 状況を変えるということ。景気を正常に直すということ。それこそが、マクロ経済学のなすべきことなのだ。それが実現したとき、ようやく、古典派の主張が生きるようになる。そして、そうならない場合(つまりデフレである場合)、古典派の考え方は成立しないのである。

 [ 付記 ]
 ここでは、原理だけを示した。実際の失業を分析するには、これだけでは足りない。もうひとつ、「雇用の硬直性」も考慮するべきだ。
 それはつまり、「簡単には首切りできない」ということだ。人は品物ではない。(不況時に)余ったからといって、社員を原材料のように捨てるのは容易ではない。また、(好況時に)足りないからといって、社員を原材料のように補充するのも容易ではない。(たとえば高度な専門職など)
 人間というのは、ただの品物とは違うのだ。市場に任せるだけで、万事うまく行くわけではないのだ。事情はもっと複雑なのだ。単細胞な古典派の考えるほど、物事は簡単ではないのだ。
( ※ だいたい、「市場に任せれば最適になる」という原則が成立するのであるのなら、一国の大統領や首相は、最適の人物に決まるはずだ。しかるに、現実には、最悪に近い人物に決まることが多いですねえ。)


● ニュースと感想  (1月19日)

 前日分では、「雇用における流動性の罠」について説明した。実を言うと、これをさらに拡張できるのだ。デフレの場合に。
 実は、デフレという状態は、「流動性の罠」とほとんど同じなのである。(本質的な原理はほとんど同じ。適用範囲が違うだけ。) このことを、以下に示そう。

 (商品の)需要と供給の曲線を描けば、その交点ができる。ここが通常、均衡点となる。企業は、需給の状況に応じて、利益を増やしたり減らしたりする。
 ところが、この均衡点では、「企業利益がマイナスになる」という場合がある。このような状態では、企業は正常な生産活動ができないし、企業は原則として成立できない。
 ただし、企業には過去の蓄積があるので、その蓄積を取り崩すことにより、一時的には、均衡点にとどまることができる。ここが、他の場合の「流動性の罠」とは決定的に異なる。融資の金利はマイナスにならないし、賃金は最低賃金以下(もしくはゼロ以下)になることは、ありえない。しかし、商品の価格については、「原価割れ」つまり「利益がマイナス」という状況が一時的には成立できるのだ。金利や賃金は下限を割ることはないが、商品価格は下限を割ることがあるのだ。
 とはいえ、あくまで、一時的にすぎない。長期的に続けば、蓄積が消えて、企業は倒産する。だから、この均衡点は、均衡点とは言っても、あくまで「仮の」均衡点にすぎない。安定した均衡点ではないのだ。つまり、本質的な意味では、下限はちゃんと存在するわけだ。
 というわけで、ここでまた、古典派経済学の「市場経済万能」という考え方は成立しない。「放置すれば最適な均衡点に達する」ということはないのだ。下限があるゆえに。

 このように考えてみると、「デフレとは何か」が、理解できる。デフレとは、経済活動全体が「流動性の罠」に陥った状態である。つまり「市場原理」が成立しなくなった状態である。そこでは、「需要−供給」の曲線上でのなめらかな移行ができなくなっている。なぜなら、「下限」が立ちはだかっているからだ。曲線上を移行しようとしても、「下限」が壁のように立ちはだかって、移行を阻止しているのである。
 この壁は、金利や賃金のときには、乗り越えられない。ただし商品価格のときには、一時的には乗り越えられる。無理に乗り越えている状態が、デフレである。(原価割れ = 赤字経営)
 しかし、これは無理な状態であるから、無理が続けば、無理に耐えられなくなる。かくて、倒産が発生し、失業が発生する。
 これがデフレというものの本質だ。

 ついでに言っておこう。古典派経済学の主張では、「賃金や価格が下がるので、そこで最適な状態で均衡する」となる。しかし、その言い分では、下限が考慮されていない。賃金が最低賃金(もしくはゼロ)以下であったり、商品価格が原価以下であったり、という「下限割れ」の状態について、考慮されていない。だからこそ、デフレに対しては、古典派経済学の主張は無力なのである。

  【 追記 】
 需給ギャップについて、次項を参照のこと。( → 2月16日c


● ニュースと感想  (1月20日)

 「倒産」という現象について、説明しよう。そこには(供給の増減の)「不可逆性」があるというのが重要である。 ( …… 前日に述べたことと深く関連する。)

 
  



 
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     このグラフで、
右上がりの曲線は供給。
右下がりの曲線は需要。
    → 量

 需要と供給の曲線を考えるとき、供給は価格の上下につれて増減する。ここでは特に、価格が「原価割れ」となる場合、つまり、「企業利益がマイナス」(赤字化)となる場合が重要である。
 損益分岐点よりも価格が下がっている状態は、単に「利益が減った」ということだけではなくて、企業の存立が脅かされる。赤字が蓄積すれば、倒産する。つまり、赤字経営は黒字経営と、対称的ではなく、非対称である。
 赤字経営が黒字経営と、対称的である場合もある。それは、小規模な一時的な赤字の場合だ。この場合、少しぐらい赤字が出ても、そのうち黒字になったら、その赤字を埋め合わせればよい。(そのときまでは銀行が融資してくれる。)だから、赤字が出たと言っても、「利益の減り方が大きかった」というぐらいの意味しかない。
 しかし、それも限度がある。あまりにも大きな赤字が長期間続くと、もはや、企業は存立できなくなる。つまり、倒産する。倒産すれば、あとになって黒字で埋め合わせることはできない。倒産というのは、不可逆的なのである。
 そして、この不可逆性があるゆえに、古典派経済学の「市場原理主義」は成立しなくなる。その例としては、最も極端な場合を考えるといい。恐慌だ。いったん恐慌になったとする。需要が激減して、倒産が続出して、供給が激減する。そのあと、需要が回復したとき、元の正常な状態に戻るか? 古典派経済学なら、「需要が元に戻るのに応じて、供給も元に戻る」と答えるだろう。しかし実際には、供給はすぐには戻らない。なぜなら、大半の企業は倒産しており、供給能力はすぐには回復しないからだ。つまり、不可逆性がある。
 これを、グラフでモデル的に示せそう。供給曲線の左下の方には、「一方通行」の関門がある。この関門を左に移ることはできるが、いったん左に移ったら、供給能力が壊滅してしまうため、すぐに右方に移ることはできなくなってしまうわけだ。(供給能力が回復するには、長い年月がかかる。)
 要するに、「倒産」という現象を経由すると、「古典派経済学の主張は成立しなくなる」というわけだ。

 [ 補説 ] 不可逆的な回復過程
 供給が不可逆的であることについて、反論ないし抗弁が来るかもしれない。「でも、長い年月をかければ、景気回復につれて、供給は可逆的に戻るはずだ」と。
 しかし、必ずしも、そううまくは行かないのだ。というか、たいてい、うまくは行かない。そのことを、次の (1) (2) で示す。 [ 面倒な話だから、読まなくてもよい。]

 (1) 別経路
 供給が減るときと増えるときで、別の経路を取ることがある。(つまり、来た経路をそのまま逆戻りすることはない。往路と復路で、別の経路をたどる。)
 企業が倒産しないのならば、縮小したあと拡大するだけだ。モデル的にいえば、曲線を左下に行ってから、右上に戻るだけだ。
 また、倒産した企業がひとつ程度ならば、縮小してから拡大するときに、倒産した企業の分を、他の企業でまかなうことができる。(社会全体で見れば、設備に余裕があるので。)
 しかし、多くの企業が倒産すると、そうは行かない。縮小してから拡大しようとしても、縮小したときに倒産企業の設備が多く廃棄されてしまっているので、他の企業の遊休設備だけではまかなえなくなる。となると、新規の設備投資が必要となる。しかし、である。新規の設備投資は、既存の設備に比べて、コストがかかるのだ。その分、新たに生産する分は、コスト高になる。つまり、損益分岐点が上がる。つまり、供給曲線は左にシフトする。(同じ価格でも、以前よりは少しの量しか生産できない。) 供給曲線の形は、左下のところで、「 」のような形であったのが、「」のような形になる。いったん下がってから上がるときに、同じ経路を戻らず、左に分岐して上がる。
( ※ 本質を考えれば、こうだ。倒産時には、設備を廃棄して、そのあとで、設備を新規購入する。いったん捨ててから、またで買い直す。となると、余分のコストが必要となる。つまりは、倒産という過程を経由することで、多大な金を捨てることになる。)
( ※ ただし、反論する人もいる。「古い設備なんて、ゴミと同じだ。新規の設備の方がいい。新規の設備を買った方が得だ」と。この意見は、もっともらしく聞こえるが、根本的な問題がある。それは、「減価償却」というものを理解できていない、という点だ。新しい設備は、減価償却費が多くかかる。古い設備は、減価償却費が少なくて済む。新しい設備は、生産能力で有利だが、コストの点では不利なのだ。差し引きすれば、ほぼトントンであろう。新しいものが古いものよりも有利だということにはならない。……こんなことは企業経営者にとっては、常識だ。実際、減価償却が済んだ古い設備を使って、大儲けしている企業はたくさんある。)
( ※ なお、倒産を経た場合は、まだ減価償却の済んでいない設備を廃棄することになる。となると、ここで多大な無駄が発生することになる。この無駄については、明日の記述を参照。)

 (2) 供給形態の交替
 供給が減るときと増えるときで、たとえ倒産を経ても、モデル上の経路が同じであることもある。それは、供給能力が交替した場合である。この場合、経路は同じでも、質的には一変してしまう。そしてそれは、必ずしも好ましいものではないのだ。
 小泉なら、こう楽観するだろう。「デフレによって、劣悪な企業が退出する。そのあとで、景気が回復すれば、劣悪な企業がなくなって、優良な企業だけが残る。かくて、全体を見れば、質的に向上する」と。
 しかし、デフレのときに多くの企業が倒産したあと、景気回復したとしても、優秀な企業が進出するとは限らない。その間に、外国企業が進出することもある。つまり、国内生産が消失してしまうことがある。(要するに、「供給」というものが、「国内生産」から「輸入」に一変してしまうわけだ。)
 例を示そう。IT産業は、今、赤字である。これらが小泉の「劣者は退場」とか「不良債権処理」とかいう方針のもとで、いっせいに倒産させられたとする。生産能力は激減する。しかし需要は激減しない。となると、新たな供給が必要となる。それをなすのは、輸入である。
 この場合、供給される商品は同じであっても、供給する者(社)が、「国内生産」から「輸入」に一変してしまったことになる。日本はもはやIT産業をもてなくなる。(せいぜい、韓国企業の下請けとなって、国内工場を維持するぐらいだろう。今は韓国企業を下請けに使ったりしているが、立場が逆転するわけだ。ソニーやNECなどのブランドはすべて消えてしまって、韓国のブランドが残る。日本は韓国の技術者の命令を聞いて、下働きするだけとなる。途上国並みだ。「そんなの嫌だ」といっても、もはや日本にはソニーやNECもなくなっているのだから、仕方ない。韓国企業の下請けになるのがイヤなら、失業するか、農業をやるか、どちらかだ。)
 日本の途上国化。こういったことが、デフレや倒産を経ることで、起こりやすい。まさしく、とんでもない事態である。だからこそ、デフレや倒産を避けるべきなのだ。
( ※ しかし、こういった事態を喜ぶ人もいるだろう。日本が途上国化すれば、大幅な円安になる。1ドル=1000円 ぐらいになるかもしれない。内外の価格差や賃金差は縮小する。「これで中国の低価格品とも対抗できる! 日本はついに中国並みになった! すばらしい! 万歳!」と喜ぶエコノミストが出てくるはずだ。で、日本は中国にフリースなどを低価格でどんどん輸出するようになる。そして中国からハイテク製品を高価格で買うようになるわけだ。彼らエコノミストの望み通りに。)
( ※ ついでだが、「劣者は退場すべし」という論理は、あまりに粗雑である。市場経済という考え方によれば、劣悪な企業が存在していたのは、実は劣悪に見えたのは劣悪ではなくて、それだけの存在価値があったからだ。大きな価値はなくとも、小さな価値があったからだ。この企業は、平常の景気ならば、存在しえた。それを、デフレによって無理矢理につぶすというのは、市場経済ではなくて、国家社会主義の方針である。「国家計画生産」ならぬ「国家計画破産」だ。呆れたものだ。)

 [ 余談1 ]
 「可逆的」とか「不可逆的」とかいう概念は、物理学では馴染みのある概念である。特に熱力学では、「エントロピー」(不秩序性)という概念といっしょに扱われる。実を言うと、倒産という過程を取ることにより、エントロピーは増大する、と考えてよい。
 なぜか? ひとつの企業が存在しているとき、そこにはバラバラの個人の集合ではない会社組織が存在する。そこには秩序がある。そこではエントロピーは減少している。そして、いったん会社組織が破壊されれば、あとは元の無秩序な個人の集団となる。つまり、エントロピーは増大する。
 さて、この無秩序な集団が別の会社組織に再構成されれば、元よりもさらにエントロピーの減少した状態になるだろう。しかし、それには、何らかのエネルギーが必要となる。普通のときは(エネルギーがあるので)そうなるが、不況のときは(エネルギーがないので)そうならない。普通のときと不況のときは、エネルギーの状態が異なるのだ。不況のときに、普通のときのことを想定して「こうなるはずだ(産業の構造改革がなされるはずだ)」という信念を取っても、現実無視の妄想となってしまうのだ。その妄想に従って邁進すれば、エントロピーは増大するばかりである。(失業続出・社会混乱。)
 モデル的な余談を加えよう。いったんエントロピーが増大すると、熱力学的には可逆的に戻らない。ただ、断熱過程では戻らないが、外部からエネルギーを注げば(断熱過程でなければ)、元に戻すことができる。これを類推的に言うと、こうだ。いったん倒産が発生したあとは、不況からは可逆的には戻らない。ただ、無介入では戻らないが、外部から金を注入すれば(マクロ的に減税などの財政措置を取れば)、不況から元に戻すことができる。(通常、財政措置を使わずに、金融措置だけで足りるのは、多大な倒産が発生していない[エントロピーが増大していない]からである。エントロピーが増大した場合には、通常の方針はそのままでは当てはまらない。)

 [ 余談2 ]
 先の「別経路」ということは、数学的には「カタストロフィの理論」で幾何学的に説明可能だ。いったんカタストロフィを経ると、元の経路を逆戻りできなくなる、という話。詳細は、略。


● ニュースと感想  (1月21日)

 デフレとインフレとは非対称だ、ということを、これまで何度か示してきた。
 第1に、金利がゼロ以下にならないことゆえの、「流動性の罠」である。( → 1月07日
 第2に、「倒産」という現象を経由することによる、供給の「不可逆性」である。 ( → 1月20日
 ここで、3番目を示そう。それは、「倒産を経由した場合、赤字と黒字は非対称となる」ということだ。

 倒産しない場合なら、赤字と黒字は対称的である。赤字のときに1億円の損が生じたら、それはあくまで1億円の損失であって、黒字のときの1億円で埋めることができる。しかし、倒産した場合は、そうではない。1億円の赤字は、単に1億円の赤字にとどまらず、莫大な損失に増殖するのだ。
 これは、ちょっと不思議に感じるかもしれないが、直感的には、誰もが感じていることだろう。「倒産すれば、大損が出るに決まっているぞ」と、読者は怒鳴るかもしれない。なるほど、たしかに、わかりきったことではある。しかし、そのわかりきったことを、多くの経済学者はわかっていないのだ。逆に、反対に思っているのだ。「倒産すればするほど状況は良くなる」と。……そこで、以下で、細かく説明しよう。

 通常の赤字は、その企業が自力で解決できる。赤字は黒字で埋めることができる。しかし、倒産すると、もはやその赤字を黒字で埋めることはできない。となると、倒産処理をすることになる。しかし、倒産処理をすると、もともとの赤字の累積をはるかに上回る赤字が発生するのだ。
 例を示そう。たとえば、A社が毎年1億円の赤字を生んでいたとする。それが3年続いても、3億円の赤字だ。しかし、A社が倒産すると、その赤字は3億円よりもずっと大きくなるのだ。(たとえば 50億円。)
 では、なぜか? 企業が営業活動をしている限り、単に営業赤字を生むだけだ。しかし、活動を停止すると、すべての経営資源が一挙に無価値になってしまう。宝がゴミになってしまう。そういう多大な損失が発生するのだ。
 具体的に、どのくらいの損失が発生するか? 算出する式を示そう。それは、株式総額から負債を引いた額である。たとえば、株式総額が 100億円で、負債が200 億円なら、この企業は 300億円の企業価値と 200億円の負債(マイナス 200億円の債権)があり、その合計値の 100億円が株式総額となる。この企業は 100億円の価値があり、株式総額も 100億円である。さて、この企業を強引に倒産させると、200億円の負債だけが残る。プラス 100億円のものが マイナス 200億円のものになるわけで、差し引き 300億円が消えてしまうことになる。この 300億円が、企業価値の分である。
 ここで消えてしまったものは、細かく言うと、企業のブランド力とか、ノレン代とか、技術力とか、製造能力である。たとえば、工場には一定の価値があるが、その工場がただの鉄屑になってしまう。社員の集団は利益を生む能力があるので、集団の価値があるが、集団が霧散してしまえば、集団の価値も消えてしまう。

 以上は、原理である。
 実際には、以上のような無駄が発生しても、その無駄が緩和されることも多い。特に、一つの企業では無駄が発生しても、他の企業でその分の利益を得て、社会全体を見れば、損得なしで済むことも多い。たとえば、次のように。
  ・ ノレン代や技術力が、社員といっしょに、買収される。
  ・ 工場設備が他の企業に高額で下取される。
  ・ 失業者が、以前の給与で他の企業に雇用される。
 しかし、これらがすべてなされる(無駄が完全にゼロで済む)のは、その企業が「倒産」されずに「買収」された場合だけだ。「買収」なら、「倒産」のような無駄が発生しないのは、当然だろう。
 実際には、「倒産」では、無駄はゼロでは済まない。多大な無駄が発生する。価値あるものが急激に無価値のものになるのだから当然だろう。
 結局、倒産というのは、社会的なコストが非常に高くつくのである。

 なお、「倒産しても、その分、他の企業が伸びればいいではないか」という考えもある。小泉ならば、そう思うだろう。「それで優勝劣敗が進むぞ。構造改革が進むぞ」と思うだろう。しかし、話はそう簡単ではないのだ。
 なぜなら、すでに示したとおり、「倒産」を経ると、無駄が発生して、その分、コストがかかるからだ。いくらか緩和されるとしても、コストの発生をゼロに抑えることは無理だからだ。(特に、デフレのときはそうだ。好況のときなら、他企業による買収が可能なので、小泉ふうの説も成立するが。)
 つまり、こういうことだ。「黒字経営から赤字経営になり、赤字経営から黒字経営になる」という移行は、なめらかになされる。しかし、「赤字経営から倒産に至り、倒産から新規企業発生に至る(または別企業のシェア増大に至る)」という移行は、なめらかではないのだ。倒産という現象が発生した時点で、多大なコストを払うからだ。
( ※ なお、デフレのときは、別の無駄も発生する。「生産しないでいる経営資源が遊休する」という無駄だ。 → 12月09日1月02日[ 付記 ]

 [ たとえ話 ]
 あまり上手な話ではないが、「倒産の不可逆性」と、「倒産を経由することの莫大な損失」について、たとえ話を言おう。
 ポーカーなどのバクチをやっていたとする。勝ったり、負けたりだ。全員の和は同じだから、通常は、全員を見れば、損得はない。各人は、手持ちの金が増えたり減ったりするだけだ。(赤字と黒字は可逆的である。)
 ところが、あるとき、誰かの金がゼロになったとする。ここで退場すれば問題はない。(自発的な会社整理と同じ。)しかし、「もうちょっと」と思って、金を借りて続行したとする。(赤字経営の続行。)それで、次に勝って、赤字を解消できれば、問題ない。しかし、次に大負けしたら? ここで退場である。(倒産。)
 しかも、これはもはや、可逆的ではない。バクチの借金が小額なら、何とかなる。しかしバクチの借金が多額だと、何とかならない。家や財産を二束三文で差し押さえられる。さらには職場を無理矢理退職させられて、退職金を奪われたりする。
 そのあとは、もう元には戻れない。元の職場で高給を稼ぐことはできず、低ランクの仕事にしか就けない。彼の運命は、いったん「破局」という関門をくぐったことで、不可逆的に悪化したのだ。
 バクチ狂は、「バクチで損したって、そのうち取り返せるさ」と信じて、やたらとバクチにのめりこむ。物事が不可逆的になることがある、ということを理解できないのだ。そうしていつか、大負けして、身を破滅させる。……古典派経済学者の考え方はこれと同じであり、小泉の考え方もこれと同じである。彼らは、「市場原理万能」および「可逆的」という妄想をいだいたあげく、おのれを破滅させるかわりに、企業を破滅させ、国家を破滅させるわけだ。

 [ 補足 ]
 ついでに、もうひとつ、おかしな説を示しておこう。それは「問題解決の先送りは許されない」というモラル理論だ。経済をモラルで語ろうという説だ。
 これが実行されたら、どうなるか? まず、融資を受けている企業はすべて、融資を一挙に返済することを迫られて、倒産する。また、新興企業というものは、いずれも最初は赤字経営だから、もはや日本には新しい企業が発生することができなくなる。個人も同様だ。ちょっとでも風邪を引いて、会社を病欠したら、たちまち「劣悪な社員」と判定されて、休養を認められず、ただちに解雇される。一日でも学校を病欠した生徒も、たちまち「劣悪な生徒」と判定されて、休養を認められず、ただちに退学させられる。
 何ともまあ、索漠とした状態だ。しかるに、そうすることを主張している本人は、自分が正しいことを主張していると思っている。「とにかく厳しくすればいい。厳しくすれば厳しくするほど、誰もが鍛えられるはずだ。甘やかしてはいけない」と。……物事を、実利ではなくて、モラルや信念で考える。現実を見ずに、理想だけを見る。
 目を閉じて、おのれの信念に陶酔して、やみくもに突き進めば、破滅に至る。

 ( ※ 「先送りしても問題は何も解決しない」という批判がある。当たり前だ。先送りは、解決策ではない。解決策とは別の、保留のことだ。ここを保留している間に、解決策を採るべきなのだ。勘違いしてもらっては、困る。……人は病気になったとき、仕事を休むが、仕事を休むこと自体が、病気を治すわけではない。病気を治すには、別途、治療が必要だ。「仕事を休むことは治療にはならない」という批判は、根本的な勘違いである。)
 ( ※ では、どうすればいいか? 「問題解決の先送りは許されない」と言うのではなくて、「問題の根本原因を取り除くべきだ」と言えばよい。個々の企業の赤字を処理するのではなくて、日本全体の企業を赤字にしている根本原因[= 不況 ]を取り除けばよい。……個々の企業の帳簿ばかり見ているようではダメなのだ。日本全体の帳簿を見て、その本質を知るべきなのだ。)


● ニュースと感想  (1月21日b)

 需要と供給をめぐる、ここ数日間の論説(「流動性の罠」などをテーマとした)は、本日別項の分でいったん終わる。
 これらで示したことは、「需要と供給」をめぐる古典派経済学の考え方があまりに素朴すぎる、ということだ。現実の経済は非常に複雑な動きを見せるのに、たったの2本の曲線だけで万事を説明しようとする。こんなことでは、素朴すぎて、現実からは遊離している。
 もう少しはっきり言おう。「流動性の罠」というのは、古典派の信じる「需要−供給曲線」による説明が成立しなくなった状態なのだ。古典派の信じている前提から逸脱した状態なのだ。それは、不況のときに発生する。そして、だからこそ、古典派経済学は、不況に対して無策どころか正反対の処方を出すのである。
 私がここ数日間の論説で示したかったことは、そういうことだ。単に「流動性の罠」などをモデル的に拡張して、学説の拡張をして、モデルごっこをしたかったわけではない。もっと別の大きな狙いがあったわけだ。
( ※ 私は小泉の悪口を言っているが、小泉をいじめたいわけではない。小泉も一人の下級シンパとなっているような、ある巨大な幻影を崩したいわけだ。)

 なお、翌日分では、もう一つ、関連した話を付け加えておこう。これは、本日分のことを、不良債権処理と関連させた話だ。そこでは、マクロ経済の原理を、現実の経済施策(不良債権処理)に適用している。


● ニュースと感想  (1月22日)

 前日に述べたことと、不良債権処理との関係を述べよう。
 前日に示したとおり、倒産を経由すると、赤字は莫大にふくらむ。これはつまり、「不良債権処理をすると多大な無駄が発生する」ということを意味する。そのことに注意しよう。
 不良債権処理をしなければ(倒産を経由しなければ)、企業はいったん赤字を経由したあと、黒字に戻るので、自力で、その赤字を黒字によって埋めることができる。しかし、不良債権処理をすれば(倒産を経由すれば)、そうはならないのだ。
 ここで、疑問が発生する。「では、無駄な企業が存続するのを許容するのか? 劣悪な企業は退出するべきではないのか?」と。
 その答えをいおう。「劣悪な企業は退出するべきだ」ということは、不況でないときにのみ、成立するのだ。
 不況でないとき、赤字を出すような劣悪な企業は、存在そのものが有害であり、さっさとつぶした方がいい。しかし、不況でないときに黒字を出す企業は、たとえ(他に比べて)いくらか劣悪であるとしても、あえてつぶすことはないのだ。そういう「少し劣悪な企業」つまり「少しは黒字を出せる企業」は、競争のなかで次第にシェアを落としながら、そのまま存在するか、縮小するか、あるいは、自己清算すればよい。黒字になる企業をあえてつぶす必要はない。
 にもかかわらず、「経済を不況にして、少しは黒字を出せる企業を、あえて倒産させる」というのは、倒産を経由させることで、莫大な損を発生させることになる。これは、あきらかに無駄だ。

 結論。
 「劣悪な企業は退出するべきだ」というのは、正しいとは言えない。不況でないときには、「劣悪な企業は退出するべきだ」というのは正しい。では、不況であるときには? 「不況を脱しても存在できないような企業のみを退出させ、不況を脱すれば存在できるような企業は退出させない(不良債権処理をしない)」というのが正しい。
 では、そのためには、今、どうすればいいか? 今はとりあえず、どうしようもないダメ企業を除いて、たいていは不良債権処理はしないでおく。かわりに、ただちに、強力な景気回復策を採る。景気が回復したあともなおも赤字を出すような企業は、さっさと倒産させればよい。しかし、景気が回復したあとに黒字を出せるような企業は、今のうちに倒産させるべきではないのだ。そんなことをすれば、多大な無駄が発生する。だいたい、企業には責任がなくて、政府の経済運営に責任があるのに、なぜ勝手に政府が「劣悪」と決めつけて、勝手に倒産させるのか? そんな横暴なことをする権限は政府にはないし、しかもそれは莫大な損失をもたらす間違ったことなのだ。
 にもかかわらず、である。現実には、日本は逆のことをやっているのだ。景気回復策をせず、逆に、不良債権処理をして企業をどんどん倒産させていく。これでは、多大な無駄が発生して、日本には莫大な損失が積み重なるばかりだ。

 [ たとえ話 ]
 真冬のことだ。会社が、冷暖房の装置を逆に働かせた。暖房を利かせるべきなのに、冷房を利かせた。そのせいで、健康だったあなたは、風邪を引いてしまった。そこへ小泉社長が出てきて、あなたに宣言する。
 「解雇する。他の社員は風邪を引かないのに、きみは風邪を引いた。風邪を引いて、生産性が低い。きみは劣悪だ。劣悪な社員は、会社にとって有害だから、クビだ」
 「冗談じゃない」とあなたは反論する。「自分には何の責任もないぞ。会社が勝手に冷暖房を間違えただけではないか。そもそも、自分は今は風邪を引いても、数日後には風邪は治る。だから、待ってほしい」
 しかし小泉社長は、聞く耳を持たない。「おれは絶対に正しい」と言い張り、断固として、おのれの信念を貫き通す。まわりの参謀たち(エコノミストたち)も、ワンマン社長に追従して、そろって同じことを言う。
 「不良な社員はクビにしろ! そうすれば、会社の赤字が減る。放置すれば、赤字が溜まるだけだ。不良な社員はクビにしろ! 不良社員処理! 不良社員処理!」
 そうして彼らは、どんどん冷房を強くする。日々に、また一人、また一人、と風邪で倒れていく社員が増えていく。それを見て、小泉社長は、
「おお、これでどんどん会社の体質は強化されていく。社員が減ると言うことは、改革が進んでいるということだ」
 と大喜びだ。そして、ますます冷房を強めたので、もはや健康な社員はほとんどいなくなった。会社そのものが倒産寸前である。「日本」という名の会社が。
 そこへ、ヒゲのない変人が出てきて、こう言う。
 「改革が成功すると、日本が倒産? それじゃ、本末転倒でしょう。今はね、社員を解雇するべきではない。物事の本質を考えてほしい。そもそも、冷暖房を間違えたのが、根本原因だ。だから今は、不良社員処理なんかするべきではない。まず、冷房をやめて、暖房にするべきだ」
 しかし、それを耳に入れる者は、ほとんどない。むしろ、逆の主張がひろがるばかりだ。「不良社員処理を進めよう、そうすれば部屋が暖かくなるぞ」という主張が。倒錯した論理で。……なぜか? 今や、風邪よりもひどい病気が流行しているのだ。「狂気」という病気が。


● ニュースと感想  (1月22日b)

 不良債権処理をめぐる雑感。

 (1) 米国の立場が転換
 不良債権処理について、「米政府から、早期処理という言葉があまり聞かれなくなった」と日本の政府高官が語ったという。不良債権処理は必要だが、その結果、経済混乱が起こると困る、というわけ。(朝日・朝刊・2面コラム 2002-01-20 )
 やたらと「不良債権処理」と日本にゴリ押ししていた愚かな人々も、ようやく気づくようになったらしい。(おのれの非を認めても、頭を下げないところは、いかにも米国らしいが。)
 ともあれ、米国は、いくらか理解してきただけ、まだマシだ。日本政府は、いまだにダメ。[ 次の (2) に述べるとおり。]

 (2) ゼネコン
 ダイエーのあとはゼネコンが標的にされるという。「今すぐやれ」と財政当局幹部も語ったという。[ (1) と同じ記事。]
 さて、この問題には、どう答えるべきか?
 なかなか難問である。「強引な不良債権処理はやらない方がよい」という原則と、「根本的にダメな企業は、倒産させるしかない」という原則の、板挟み。あなたなら、どう答えますか? 
 私の答えを言おう。「先送り」だ。当面は、倒産させずにおく。これによるコストは、赤字の利子分。累積赤字は巨額だが、ゼロ金利のときは、利子はたかが知れている。一方、今すぐ倒産させれば、巨大な不況効果が発生する。それを、社会全体が負担できればいいが、負担できる体力がない。だから、社会全体が体力回復するまで、待つべきだろう。さもないと、共倒れの危険がある。
 なお、赤字の追加発生もあるが、これは今や、どんな企業でも同様だ。ゼネコンに限った話ではない。これを理由として倒産させるのなら、日本中のすべての企業を倒産させる必要がある。ゼネコンの赤字よりは、IT産業の赤字の方が巨額だから、NECや富士通や東芝を先に倒産させるべきだろう。(馬鹿げた話だが。)
 結局、ここでも解決策は「不良債権処理よりも、景気対策を」となる。そして、景気が回復したあとで、不良債権処理を進めればよい。「アメリカも不良債権処理を急いだぞ」という声もあるが、アメリカも景気回復後に不良債権処理を急いだのだ。話を勘違いしてはならない。
( → 先送りについては [ 補足 ]






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「小泉の波立ち」
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