[付録] ニュースと感想 (7)

[ 2001. 12.28 〜 2002. 1.08 ]   

  《 ※ これ以前の分は、

       8月20日 〜 9月21日
       9月22日 〜 10月11日
      10月12日 〜 11月03日
      11月04日 〜 11月27日
      11月28日 〜 12月10日
      12月11日 〜 12月27日
        12月28日 〜 1月08日

   のページで 》




● ニュースと感想  (12月28日)

 刑務所の収容者が、増えすぎて、あふれているそうだ。犯罪者の急増の結果である。(読売・夕刊・コラム 2001-12-27 )
 不況になれば犯罪者が増える、というのは、社会学的に当然のことだ。働きたくても職がない。失業保険も受け取れない。生活保護ももらえない。となると、犯罪に走る人が、どんどん増えてくる。
 不況というのには、こういうひどい問題があるのだ。社会の最下層の人々こそ、直撃を受けるのだ。
 なのに、「私は庶民なので、資産の減るインフレは困ります」なんて主張するいう人がいる。まったく、呆れてしまう。
 あのねえ。減る心配のある資産を持っている人は、庶民なんかではないのだ。その日の食事にも事欠くような人こそ、この世で一番苦しんでいるのだ。そして、そういう人が、路頭に迷ってホームレスになったり、犯罪に走ったりする。かくて、世の中、すさんでしまう。
 なのに、「デフレは素晴らしい。商品価格が下がって、どんどん得する。たまった金の使い出が増える」と喜ぶ輩が多い。こういうのは、倒産する心配のない大会社に勤務している、エリートたちだろう。まったく、こういう輩が、「庶民」の名をかたって、不況を続けようとする。他人を犠牲にして、ぬくぬくと血をすすっているわけだ。とてつもないエゴイストと言えよう。
 そして、その最たる存在が、小泉だ。毎日毎日、「不況は素晴らしい。また倒産した。これで日本は良くなる」と言い続けている。天使の皮をかぶった悪魔のような存在である。

( ※ 「構造改革、構造改革」と呪文を唱える。すると人々は、それにたぶらかされて、悪魔の誘い込む地獄に連れていかれる。世論調査でも、世間の半分の人が、悪魔の言葉を信じている。それというのも、マスコミが悪魔のデタラメを流布させているからだ。「夢見心地で幻を見るのをやめて、現実を見よ。あんたたちは花園に向かっているのではなく、泥沼に吸い込まれているのだ」と言うマスコミは、ひとつぐらいはないものか。……ゲーテの「ファウスト」には、悪魔にたぶらかされている人々が描かれているが、今の日本は、まさしくこういう状態だ。もう一度言う。「現実を見よ」)
cf. 構造改革が根本的に間違った政策であることについては → 10月06日


● ニュースと感想  (12月29日)

 失業率が最悪。2001年は、年初から悪化の一途。有効求人倍率も同様。(夕刊 2001-12-28 )
 この先、どんどん悪化していくだろう。好転する見込みなどは、まったくない。逆に、悪化する要素は、たくさんある。「デフレスパイラル」のほか、「ペイオフ実施」がそうだ。
 「小泉の路線(構造改革)はダメ」ということが、数字上、はっきり示されているのだ。現実を直視しよう。(前日分の「悪魔にたぶらかされている」話も参照。)
 ついでに言えば、政府も自分の無能さをわきまえていて、「2003年ごろ景気回復に」という見込みを述べている。つまり、あと2年間は、ずっとひどい状況だ、ということ。自分でも無能さを認識しているわけだ。
( ※ なお、「2003年ごろ景気回復に」というのも、もちろん、何の根拠もない妄想である。とりあえず夢を見て、現実逃避したいだけ。)


● ニュースと感想  (12月29日b)

 政府は、ペイオフを断固実施、との方針。そのために、不安除去のため、公的資金の注入も実行。年明けにはこの方針をまとめる予定だ、とのこと。(朝刊 2001-12-28 )
 なるほど。公的資金を投入する(準国有化する)ならば、ペイオフによる金融不安は生じないだろう。それはそうだ。その意味では、政府方針は、一応理解できる。
 しかし、である。それには、とんでもないコストがかかる。破綻した銀行(長銀など)のためにも、莫大なコストがかかった。今度は、それを上回るかもしれない。「断固実施」という論者は、「さもないと日本の面子がつぶれる」という論拠だが、たかが面子のために、何十兆円もつぎこむほど、今の日本は金持ちなんですかね。つぎこんだうち、消えてしまう金もかなりあるのに。……このあたり、特にマスコミはよく理解してもらいたいものだ。
 さらに、である。政府は、「自由経済が大事! 市場経済が大事!」という考えのもとで、「企業を準国有化せよ」と主張しているわけだが、「自由経済をめざして社会主義化する」という、その論理矛盾がわかっているんですかね。そもそも、小泉の方針を考えるがいい。「構造改革だ! 特殊法人や郵政事業を民営化しよう! これこそ構造改革だ!」と主張しておきながら、逆に「銀行を準国有化する!」と主張する、その矛盾ないし二枚舌がわかっているんですかね? (しかも、準国有化のためにつぎ込む金の方がずっと多いから、差し引きして、民営化の効果はゼロになるどころか、マイナスだ。)
 さらに、である。根本的な矛盾がある。そもそもペイオフは、何のために実施するのだ? 「銀行経営を明瞭にしよう。いい加減な経営をしている、劣悪な銀行を退出させよう」というのが、基本方針であったはずだ。それがペイオフの目的であったはずだ。なのに、「劣悪な銀行を退出させず、公的資金で救済する」というのでは、論理矛盾である。というか、現状よりも悪くなっている。今なら、「劣悪な銀行を退出させる」(たとえば長銀のように)ということも可能だ。なのに、「すべてを公的資金で救済する」というのでは、銀行は放漫経営が許されることになる。「劣悪な銀行を退出させる」という原則を貫くために、逆に、「劣悪な銀行をすべて救済する」というわけだ。……論理矛盾であるし、狂気の沙汰であろう。無意味な原則をあくまで守るために、現実を強引に歪める。かくて、国民の莫大な金が失われる。(たとえて言えば、「泥棒を絶滅する」という無意味な原則を立てて、泥棒された家に国民の税金を無制限につぎこんで補償するようなものだ。ま、そうすれば、無意味な原則が成立しますけどね。しかし、それで「泥棒がいなくなった」と思うとしたら、狂気の沙汰だろう。)
 結語。
 とにかく、はっきりしたことがある。構造改革とは正反対のことをやるのは、小泉だ、ということだ。構造改革に「抵抗する」のは、保守派だ。しかし、「民営化」とは逆の「準国営化」という「構造改革」を進めるのは、小泉なのだ。これは、抵抗勢力どころじゃなくて、最大の敵である。
 小泉は、自己の信念に忠実であるなら、さっさと自分をたたきつぶすべきだろう。(かわりに、日本経済をたたきつぶしていますけどね。)


● ニュースと感想  (12月29日c)

 米国の百貨店。クリスマス商戦で、大幅値引き。2〜3割の値引きがざらで、8割引も。売り上げの量は増えたが、売上げ総額は1割減、とのこと。(朝日・朝刊・経済面 2001-12-28 )
 「大幅値引き」なので、消費者は大喜びだろう。しかし、これは、「商品が売れない」ということだから、あちこちで、「企業の売上げの縮小」をもたらすわけで、結果、「労働者の賃下げと解雇」が続出することになる。つまり人々は、右手では少し金を贈られて、左手では大幅に金を奪われる。(それでも、右手だけ見て、喜ぶ半可通も多い。)
 とにかく、それがデフレというものだ。米国もどうやら、デフレに突入しつつあるようだ。金利低下も効果を発しなくなってきている。いよいよ、日本の二の舞か。


● ニュースと感想  (12月30日)

 朝日の社説。「未来を信じて希望をもって生きよう」という主張。(朝刊 2001-12-29 )
 実に美しい言葉だ。現実を忘れさせてしまう、陶酔するような言葉だ。……で、こうやって、現実を忘れさせるというのは、まったくもって、悪魔の手段だ。
 今、マスコミがなすべきは、「現実を見よ」ということだ。なのに、それとは正反対のことを主張する。不況だらけの現実から、あえて目を逸らさせようとする。不況がどんどん深刻化していくという現実から目をそむけさせて、きっと未来は明るくなる、と夢想をいだかせようとする。「不況で家庭崩壊」という具体的な例を示すのはいいが、それが不可避の運命であるかのごとく偽って、小泉があえて招き寄せたものであることを隠蔽する。「今後は不況がどんどん悪化するばかり」というのが現実なのに、「今は痛みがあっても明日は幸福」という根拠なしの妄想を、何が何でも信じ込ませようとする。手では人々に血を流させて痛みを与えながら、口では甘い麻薬のような言葉をささやいて現実を忘れさせようとする。……小泉は「構造改革」という一語で人々をたぶらかすが、朝日は多くの語によって人々をたぶらかそうとする。
 言論人の責務とは、言葉を使って、何をすることだ? 人々をたぶらかすことか? それとも真実を伝えることか?
( → 12月28日b にも「悪魔のたぶらかし」)


● ニュースと感想  (12月30b日)

 朝日に「インフレ目標」の記事。「インフレ期待 望み薄」「財政拡張に陥る恐れ」というタイトル。(朝日・朝刊・経済面 2001-12-29 )
 最初から最後まで、徹底的に間違っている。ここまで嘘とデタラメを記す記事は、初めて見た。( 11月25日(3) よりもひどいな。)
 以下、個別に記す。
  1. 「インフレ期待」に働きかける経済政策は、ケインズがかつて唱えた。
     呆れた。事実とは正反対のことを書いている。ケインズ政策は、「官需」の拡大であり、インフレ目標は「民需の拡大」である。両者は、正反対である。両者は、「需要喚起」という点では共通するので、記者はそこを見て、「両者は同じだ」と誤解したわけだ。しかし、これは、物事を根本的に勘違いしている。
     経済学の流れは、どうなっているか? 「ケインズによる『官需拡大』という方法は、今や無効だ。ゆえに、『民需拡大』のために、インフレ目標が必要だ」というのが、経済学の流れだ。なのに、こういう流れを全然理解していない。それで、両者を混同したあげく、粗雑な結論にたどりつく。「虎もライオンも、どっちも猫科だから同じ動物だ」というような。
     需要喚起という点にばかりこだわって、官需喚起と民需喚起の異同を、根本的に理解していない。つまりは、インフレ目標の本質を、全然理解していないわけだ。(まるきりの勉強不足・知識不足。)

  2. 「ヘリコプターからお金をまく」ように量的緩和することだ
     呆れた。「ヘリコプターマネー」という基本用語を、全然理解していない。
     「ヘリコプターマネー」とは、バラマキである。国民に直接、金を渡すことだ。( → 中和政策サミュエルソン ) これはただちに、個人消費を拡大するので、即効的な景気回復効果がある
     一方、「量的緩和」は、企業に貸し出す金を増やすことだ。これは、国民に金を渡すわけではなく、企業に貸す金を出すだけだ。もちろん、個人消費が増えるわけではない。したがって、即効的な景気回復効果はない
     この両者は、全然、別のことだ。ここでは「猿を犬と言いくるめる」ようなデタラメを述べている。
    ( ※ ここでは、「ヘリコプターマネー」という経済学用語を知らないでいるわけだ。ただ、「流動性の罠」という経済学用語を知らないのが、より根本的な原因である。この基本用語を知らないから、「量的緩和はダメ」ということを理解しないまま、「インフレ目標イコール量的緩和」と短絡的に誤解してしまうわけだ。何度も言うが、「流動性の罠」という用語を使うことが必須である。それを使わない「インフレ目標」の話は、すべてデタラメだ、と見なしてよい。)

  3. 日銀による株式・土地・社債などの買い上げ
     こういう主張があるが、「インフレ目標」とは全然関係のない政策である。「日銀はいくらでもお札を刷れるから、そのお札で好き勝手に買物をしよう」という、呆れはてた主張だ。「強制インフレ政策」と呼ぶべきものだ。
     馬鹿げた主張だから、まともな経済学者なら、こんなことは主張しない。ただし、政治家( → 11月04日b )には、こういうデタラメを主張する人もいる。彼らは「インフレ目標」という名前に乗じて、自分たちのデタラメを主張している。「私は虎だ」と主張する、化け猫のようなものだ。
     こういうふうに嘘をつく政治家も呆れはてたものだが、「化け猫はダメだから虎もダメだ」というふうに論理を飛躍させる記者も呆れはてたものだ。本人は、それで、正しいことを書いたつもりでいるんですかね? いくら「化け猫はダメだ」と書いても、それは全然、インフレ目標の批判になっていない、ということに気づかないんですかね? (いろいろと知識を仕入れたのはいいが、それらが頭のなかで混線状態になっているわけ。半可通。)

  4. 物価上昇の「努力目標」が「達成目標」になりかねない
     勝手にそんな心配をしないでほしいものだ。それは記者個人の勝手な心配でしょう。
     「インフレ目標政策」と、「インフレの達成手段」とは、全然別のことだ。前者は、未来の金融手段(量的緩和)を意味する。後者は、今すぐの財政政策等を意味する。両者はまったく別のものだ。この二つを勘違いするのは、素人だけだ。
     だいたい、「素人が誤解して心配するからダメだ」などと言っていたら、専門的な政策などは、何一つ取れなくなる。「素人は微積分を誤解するかもしれないから、微積分など廃止してしまえ」というようなものだ。余計な心配を叫んで喚くよりは、口を閉じていなさい。オオカミ少年ですね。
    ( ※ ついでに言えば、「目標」を「達成する」のは、むしろ、好ましいことである。「インフレ目標」と「中和政策」は、セットで実施されるのだ。)

  5. 日銀による赤字国債引き受けは、「財政拡張政策」になる
     これもまた、ひどい勘違いだ。「財政拡張政策」というのは、公共事業などの用途で、好き勝手に国が金を使うことだ。これは、節度のない放漫財政を意味して、途方もなく赤字が溜まる。一方、「減税」ならば、たとえ日銀による赤字国債引き受けを実行しても、将来的に「増税」および「自然増収」で回収されるから、一円たりとも無駄に使われることはない。 ( → 12月16日
     さらに言おう。金が無駄になるどころではない。むしろ、景気回復効果によって、税収は増えるから、財政はかえって健全化するのだ。「この政策(中和政策)を取ると、短期的には財政が赤字になるが、長期的には財政が健全化する」というのが正しい。なのに、「財政がずっと赤字化する」というふうに述べるのは、事実とは正反対のことを述べているわけで、白を黒を言いくるめている。ひどいデマ。
    ( ※ たぶん「合成の誤謬」という経済学用語も知らないのだろう。「貯蓄を減らせば貯蓄を減らすほど、貯蓄が増える」ということが理解できないわけだ。まったくの無知。)( → 経済学的なマジック

  6. 緊縮財政と構造改革を進める、という正攻法以外にない
     冗談を言わないでほしい。どうしてそれが「正攻法」なのか? 「景気が悪化したときに緊縮財政」なんてのは、「正攻法」どころか、とんでもないへんてこりんな政策だ、というのは、マクロ経済の常識ではないか。
     もしそれが正しいとしたら、逆に、「景気が良くなったときは財政緩和」が正しい、という結論になる。論理的に、そうなる。(なぜなら、「いつも緊縮」とか「いつも緩和」というのは、論理的にありえないからだ。「いつも緊縮」ならば、その状態が「標準」になるので、もはやそれは「緊縮」とは言えなくなる。「いつも緩和」も同様。)
     で、「景気が良くなったときは財政緩和」という主張だが、そいつを、まさしく実行したことがある。バブル期だ。バブルがふくらんでいるさなかに、減税をしたり、金利を低い水準にとどめておいたりした。その結果、とほうもない「資産インフレ」が発生した。
     朝日は過去の失敗(バブル)に学んでいない。「景気が良くなったときは財政緩和」なんてのは、絶対に間違っているのだ。同様に、「景気が悪化したときに緊縮財政」なんてのは、絶対に間違っているのだ。 (経済学の基本知識がまるきり欠如している。学生以下のレベル。)
     ついでに、言っておこう。「緊縮財政と構造改革を進める」というのは、インフレ対策としては、正攻法だ。インフレのときには、まさしくそうするべきだ。そうすれば、インフレはつぶれる。朝日の根本的な間違いは、「インフレをつぶす方法」を、デフレの最中に実行する、という点だ。そんなことをすれば、デフレがますます悪化してしまう。そして、そのことは、事実でも証明されている。ここのところ、どんどん景気が悪化しているではないか。失業率も倒産件数も、どんどん悪化している。間違った素人経済学を使うと、こうなるわけだ。

  7. 不況の根本理由について
     記事には、一番肝心なことが抜けている。それは、「なぜ不況なのか」という点だ。
     小泉は「供給不足だから不況になる。だから供給を増やそう」と唱えている。しかし、今は「需要不足だから」というのは、常識だろう。小泉と朝日は、そこをつかんでいないから、全然見当違いな方向に話をもっていくことになる。
     要するに、物事の根本を理解していないと、完璧に間違ってしまう、という見本だ。
 以上に、記事の問題点を、経済学的に指摘してきた。さて、それとは別に、他の問題点も指摘しておこう。
 記者がひどい無知だということは、すぐにわかる。では、なぜ、かくも無知なのか? それというのも、自分の頭が先入観で占められていて、「インフレは絶対にダメ」という概念に凝り固まっていて、他人の意見を聞く耳を持たなくなっているからである。他人の意見を聞かない、というのは、学者にもよく見られるが、記者がそうなったら、もう、おしまいである。公正な報道などは期待できない。この人は、記者失格である。
 もうひとつ、問題点がある。だいたい、この記事は、何なのだ? 解説なのか? 主張なのか? 一見、解説なので、第三者の公正中立な報道だと思って読み進めるが、その内容は、個人的なひとりよがりな見解だ。解説と主張とを、ごちゃまぜにしている。「事実報道と、意見表明は、厳密に区別するべし」というのが、言論人の基本だ。それを完全に逸脱している。記者失格である。
 勧告。この人は二重の意味で、記者失格である。さっさと辞職するのが一番いいと思う。そうすれば、「デフレでリストラ」を実行したことになるのだし、本人の嫌いな「インフレ」を排除した成果が出るわけだ。だから、率先、リストラしてもらうといいだろう。
 本日の社説を読むがいい。「不況で家庭崩壊」というようなひどい目に遭っている人々がたくさんいるのだ。そういう人々の悲しみを理解すれば、記者も、いくらかは反省する気分になれるはずだ。
( ※ インフレ目標についての基礎知識は → 「インフレ目標」 簡単解説

 [ 教訓 ]
 自分が正しいと思い込んでいる狂信者ほど、始末に負えないものはない。ヒトラーしかり、麻原しかり、ビンラディンしかり。小泉しかり、朝日しかり。……共通点は、いずれも「決して自己反省しないこと」。


● ニュースと感想  (12月31日)

 米国景気の見通し。ほとんどのエコノミストは「来年後半には回復するだろう」と考えているし、その見通しのもとで、株価も「先行き明るい」と堅調だ。しかし、スティグリッツは、「景気回復は早くて1〜2年先」と悲観的である。(読売・朝刊 2001-12-30 )
 だからスティグリッツは「変人」と呼ばれるのだろう。で、こういうケースはたいてい、「変人」の方が正しく、世間の「凡人」たちは間違っていた、と後日判明することが多い。
 では、私の見通しは? 「超変人」たる私の見通しは、「米国は日本の二の舞になるかも」である。( → 12月29日c
 もうちょっとはっきり言うなら、「日本のような大不況」にはならなくとも、「景気後退」はかなり長く続くと思う。「景気回復は1〜2年先」ではなくて、「景気回復は4年ぐらい先」になりそうだ。理由は? ここ5年ぐらい、米国の成長性は高すぎた。本来の生産性向上率(2.5%程度)をかなり上回っている。となると、そのツケ払いを迫られるだろう。つまりは、「バブルの崩壊」だ。

 [ 付記 ]
 「近年はIT化があって、大幅に生産性が向上した」(だから成長は永続する)なんていう「IT神話」もあるが、こんな神話は、私は全然信じていない。サービス業が8割を占めているのに、ここで大幅に「IT化による生産性向上」なんて、ありえませんからね。接客業だって、理容業だって、パソコンの出番なんか、ほとんどない。せいぜい、料理店で料理の注文を受けるときに、端末に入力するくらいだろうが、これは、手書きのメモで済むところを、入力する手間と時間をさんざんかけているわけだから、IT化によって、生産性は向上するどころか、悪化している。
 なお、「駅の改札口を自動改札口にする」というような「サービス業の生産性向上」はある。しかし、よく考えれば、これは、「機械化」による生産性向上だ。この手の「機械化による生産性向上」は、昔からなされてきた。自動改札口もそうだ。関東では目新しいようだが、関西では昔から実行されてきた。だから、ここ数年の「IT化」とは、何の関係もない。そもそもの話、「IT化」の効果なんて、「機械化」の効果に比べれば、ずっと小さい。 (このことは統計データでも出ている。以前と近年で、生産性の伸びを比較すればわかる。経済財政白書などを参照。)
 では、なぜ「IT化で永遠のバラ色」という妄想が、かくも広く流布したのか? それは、「人々に楽観的な妄想をふりまいて、株を買わせよう」という、証券会社の戦略だ。ヒトラーにせよ、麻原にせよ、悪い奴ほど、妄想をふりまく。
 ついでだが、日本でも、「構造改革でバラ色」という楽観的な妄想をふりまく奴がいますね。そうやって洗脳して、支持率を上げよう、というわけだ。似た手口。
( ※ 妄想をふりまくには、マスコミを利用する。小泉はマスコミを操作するのが、実にうまい。特に、朝日はほとんどの記者が洗脳されて、「小泉教」の信者になってしまった。みなさんも、ASAHI と ASAHARA に、洗脳されないように注意!)
( → 12月30日 小泉と朝日のたぶらかし )


● ニュースと感想  (1月01日)

 年が明けてしまった。明けまして、おめでたくありません。
 こんなに暗い正月は、史上初めてかも。せめて今年からは良くなればいいのだが、前日記述したとおり、「来年後半には米国の景気が回復」という見込みが信じにくいので、「米国の景気回復に頼って、日本も景気回復へ」というシナリオも、やはり信じにくい。
 しかも、そもそもの話、政府は「2年後に景気回復する」と言っているが、これはつまり、「2年間は景気回復しない」ということ。 ( → 11月29日
 自ら無能を認めている政府による、明らかに無効だとわかっている政策が継続する。なぜ? 「今が悪ければ、明日は良い」「今日が雨なら、明日は晴れ」という、根拠なしの妄想が幅を利かせるせいだ。
 というわけで、「お先は明るい」という妄信ゆえの無策が続く。かくて、お先真っ暗である。


● ニュースと感想  (1月01日b)

 朝日の社説。(朝刊 2001-12-31 )
 また「小泉礼賛」の提灯記事。ただ、読んでみて、氷解した。「抵抗勢力 v.s. 小泉」という図式で、「悪 v.s. 善」という図式をつくっている。「自民党の守旧派を打破する、われらのスーパーマン、純ちゃん」という主張だ。かくて、小泉かぶれになる。
 朝日の頭はいつまでたっても、「スーパーマン」を喜ぶ幼年時代の、「善・悪」の対立図式から抜け出せないようだ。
 ついでに言えば、アメリカも「善玉・悪玉」をやたらと決めつける。「悪の親玉」として、そのたびに、フセインとか、ビンラディンとかをあげつらう。昔は、ソ連とか、キューバとか、ベトナムとか、北朝鮮とか、中国とか、ま、そのときそのとき、適当な「悪玉」をあげつらって、「悪いやつらをやっつけよう。おれたちは正義の味方、スーパーマン」と言い張って、世界中で戦争を起こしてきたわけだ。 (その言い分で、日本にも原爆を落としたり。)
 で、朝日は米国を批判してきた(元日の1面記事も)のだが、それはそれとして、今度は自分が米国と同じ論理を使っているわけだ。「われらのスーパーマン 純ちゃん」と。
 あのねえ。朝日さん。抵抗勢力が悪だからといって、小泉が善だということにはならないんです。前者は日本を食い物にして、後者は日本をたたきつぶす、それだけの差。……「目くそ鼻くそ」という言葉を知っていますか?


● ニュースと感想  (1月02日)

 小泉は初夢で、すばらしいお告げを聞いた。「不況を一挙に解決するには?」と問いかけて、その方法を知ったのである。

 小泉はまず、疑問を出した。「劣悪なものをどんどん退出させている。だから、構造改革が進んでいるし、状況はどんどん良くなっているはずだ。( 12月08日 ) なのに、なぜ、景気は良くならないのか?」
 すると夢のなかで、先人が教えた。「きみは誤解している。いいかね。倒産させると、劣悪なものが退出したように見える。しかし実際には、本当にすっかり退出するわけではない。失業者が生じる。これは生産性がゼロだ。生産している部分だけを見て、その平均を取れば、平均値は向上している。しかし、失業者などの非生産の部分も含めて、全体の平均値を取れば、かえって平均値は低下している。状況はどんどん悪くなっているのさ」
 小泉は尋ねた。「じゃ、どうすればいいんですか?」
 先人は答えた。「形の上で退出させるだけではダメだ。生産していない失業者が残っている限り、状況は良くならないのだ。だから、失業者をすっかり消し去ればいい。そうすれば、真に退場させたことになる。……進化論とは、そういうものだ。負けたものは、存在してはならない。それが進化論の意味だよ。だから私は、それを実行した。きみも私を見習いたまえ」
 小泉は尋ねた。「あなたはどうやったんです?」
 先人は答えた。「簡単さ。劣悪な者を、存在させないようにした。……つまり、ユダヤ人をガス室に送ったのさ。どうだ、うまいだろう? きみと同じ考え方をすれば、こうなるのさ。さあ。きみも私と同じ考え方をもっているのだから、さっさと失業者をガス室に送りたまえ。そうすれば、真に、劣悪な者を退場させることになる。そうしない限り、きみの経済理論は、いつまでたっても不完全だ」

 小泉は目が覚めたとき、ようやく真実に気づいた。たしかに、先人もまた、大恐慌のときに政権を取り、「抜本的改革」を唱えて、国民の圧倒的な支持を得たのだ。自分と彼は、何とよく似ていることだろう。そしてまた、国民やマスコミも、政府の改革方針を、熱狂的に盲信して支持するという点で、何とよく似ていることだろう。時代も、首相も、国民も、ウリ二つである。おそらく行く末も、ウリ二つであろう。
 そこでさっそく、演説を練りはじめた。「私の方針のとおりにすれば、国はきっと良くなる。私を信じよ! 改革せよ! 明るい未来が待っている! 今はどうであれ、未来はきっとバラ色だ! さあ、私を信じよ!」
 ……狂信者というものは、夢に現実を合わせようとするものだ。
( → 12月30日 小泉と朝日のたぶらかし )

 [ 付記 ]
 経済学的に、解説を加えておく。
 上記の点で、経済学的に大切な点は、「退出させる」ということの意味だ。
 「劣悪なものを退出させれば、生産している部分の平均点は向上する」というのは確かだ。しかし、退出させられた人々が、失業者として残っていれば、「生産していない部分を含めた全体の平均点は下がる」わけだ。
 例を挙げる。能力が 80,70,60 の三人がいるとする。一番劣る 60 を退出させれば、残りは 80,70 になるので、生産者の平均は 75 に向上する。しかし 60 の部分は 0 になってしまったわけだから、全体の平均値は総計の 150 を3で割った値 50 に低下する。全体の生産量も、210 から 150 に低下する。それでも「平均値が 75 に上がった」と勘違いして喜ぶエセ経済学者が多い。
 この問題を回避するには、どうするべきか? 失業した人々が、他の産業または企業になめらかに移行することが必要だ。小泉の主張する「構造改革」が成立するためには、退出させられた失業者を受け入れる先があることが必要だ。しかるに、今の日本は、そうなっていない。  結局、単に劣悪な部分を退出させるだけではダメなのだ。そのことを理解していないから、小泉の構造改革は、効果が上がらないし、むしろ、やればやるほど、かえって状況は悪化するばかりなのである。
( → 10月16日 構造改革がダメなわけ )
( ※ 進化論を間違って使うから、こういうことになる。進化論を使うなら、まさしく、ヒトラーのようにガス室を用意するべきなのだ。そうしないで、わかったような頭で理屈をこね回すから、日本経済が破壊されてしまうのだ。)


● ニュースと感想  (1月02日b)

 金融政策と財政政策。
 この両者は、景気調節のための、両輪である。いわば、右手と左手である。右手だけで十分なことも多いが、左手が必要となることもある。そういうときに、自分で自分の手を縛っていては、破滅してしまう。原則というものは、なるべき守るものではあるが、いざというときには、臨機応変に行動するべきなのだ。
 たとえば、「貯金すべし」という原則をなるべく守るのはいい。しかし、病気になったとき、原則にこだわるあまり、治療する金をケチっていては、病気が悪化しかねない。……それが今の日本だ。ほとんど瀕死であるにもかかわらず、「金を惜しめ」「赤字を出すな」とこだわっている。治療するための金をケチって、不況をどんどん深刻化させる。
 今は右手だけでは力不足であり、そういうときは、左手も使うべきなのだ。

 では、なぜ、この両輪が大切か?
 「自由経済万能論者」(古典主義者)は、「放任すれば、万事うまく行く」と思いがちだ。しかし、それが正しいとすれば、「金融政策も何もしない方がいい。金利調整などは不要だ」ということになる。
 しかし、このような「金融政策否定論」は、今日では、ほとんど狂気の沙汰である。そんなふうに金融政策を放棄している国(先進国)は、世界中に一つもない。
 経済は放置すればいいというものではない。となれば、金融による調整は最適にするべきだし、同様に、財政による調整も最適にするべきなのだ。「最適にするのがイヤだ」などというのは、経済学ではなくて、信仰ないし狂信である。
 狂信者というものは、おのれの盲信する原則を完璧に信じる。そして、そこから、一歩もはみ出すことができない。「財政健全化」という原則も同様。


● ニュースと感想  (1月02日c)

 ユーロ(欧州の通貨統合)発足。これは成功するだろうか?
 「成功する」という根拠は、数々の効率化メリット。これはこれで、理解できる。しかし、「チリも積もれば……」というぐらいの話で、せいぜい「少し良くなる」という程度の話だろう。劇的な効果があるわけではない。
 「失敗する」という根拠は、別にある。景気調整の難しさだ。たとえば、アルゼンチンと比べよう。債務不履行状態になったアルゼンチンでは、「通貨切り下げ」というのが、ほぼ唯一の方策である。一国全体の賃金水準を切り下げることで、供給力を増加させるわけだ。こういう方策がある。しかし、通貨統合をすると、この方策が使えなくなる。
 ただ、よく考えると、アルゼンチンが破綻したのは、「長年の財政赤字の蓄積」という問題を放置してたからだ。欧州ではこの問題を回避するために、「財政赤字は3%以内」という制限が課せられている。だから、アルゼンチンの二の舞にはならないだろう。
 しかし、逆の問題もある。「財政赤字は3%以内」という制限があると、景気対策としての財政政策に枠がはめられてしまうのだ。「景気悪化したときに財政拡大」という正しい方針を取れなくなるのだ。(小泉のように、「景気悪化したときには財政緊縮」という間違った方針を取ると、さらに景気を悪化させることになる。)
 財政政策に枠がはめられる。これは、金融政策に枠がはめられるのと同様なわけで、景気調節能力を失うことを意味する。そもそも、小さな景気変動は、金融政策で対処できるが、大きな景気変動には、金融政策で対処できない。(たとえば今の日本。流動性の罠。) ……というわけで、財政による景気調節能力を失った欧州は、いつか、破綻する日が来る。
 では、解決策は? 「財政赤字は3%以内」という制限を、あくまで原則に留めておけばよい。景気悪化したときには、(承認を経て)弾力的に運用すればよい。長期的には、「財政赤字は3%以内」という制限を守るが、短期的・中期的には、例外を認めればよい。……そうすれば、景気変動の問題は回避できるだろう。
 ともあれ、どんな制度であれ、「硬直した制度」というものは、例外的な状況においては、逆に害悪をもたらすことがある。そのことに留意するべきだ。
( ※ 例を挙げよう。財政赤字の数え方は、普通、1年単位だ。それを、1週間単位とか、1日単位とかにして、その短期間において強引に財政規律を守ろうとすれば、国家経済は破綻してしまう。……同様に、10年単位で守るべきところを、強引に1年単位で守ろうとすると、国家経済が破綻することもある。今の日本は、それに近い。)


● ニュースと感想  (1月03日)

 1月02日分 に 付記 を追加した。


● ニュースと感想  (1月03日b)

 劣悪なものを退出させるべきだろうか?
 「劣悪な者を退出させるだけでは、失業者となって残るから、全体の効率化はかえって低下してしまう。失業者がうまく移転できるように、景気回復策が必要だ」と先に述べた。( → 1月02日の付記
 マクロ政策としてはそうなのだが、別途、ミクロ的な政策もある。それは、個別企業を、「退出させるよりも、優良化させよ」ということだ。
 たとえば、学校で試験をしたら、出来の良い生徒と出来の悪い生徒がいた。小泉ならば、こう言うだろう。「クラスの平均点を上げるために、出来の悪い生徒は、クラスから追放してしまえ」と。
 一方、別の方法もある。クラスの全員が優秀になるように、うまく手を打つのである。たとえば、設備を良くしたり、優秀な教師を呼び寄せたり。
 これを実行した例としては、JR,NTTなどがある。中曽根首相は、国鉄や電電公社を民営化したが、その目的は、こういう出来の悪い生徒を、出来の良い生徒にするように、優良化することである。そのためには、外部から、良い教師を招き寄せた。(優れた民間人を社長に据えた。)……これは、「優良化」の例である。
 一方、小泉は、「出来の悪い生徒は追放してしまえ」と主張して、不良債権処理を進めた。その結果、山一、長銀、マイカル、青木建設など、あちこちで倒産が発生した。これらは氷山の一角にすぎない。日本の倒産家因数はほとんど最悪に近いレベルである。 ( → 11月16日b ) それで生産性が向上したかと言えば、失業者は何も生産しないので、日本全体の生産性は逆に低下してしまった。
 「劣悪な者を退出させれば、状況が良くなる」といのは、「失業者が吸収されれば」つまり「失業者が別の生産者になって優良化すれば」という仮定が成立する場合だけだ。その仮定が成立しないまま、失業者をどんどん発生させるから、日本はどんどん悪化していくのである。
 小泉流の「構造改革至上主義」は、粗雑であり、半面的であり、膨大な無駄が発生する。むしろ、「優良化」をめざすべきなのだ。

 [ 付記1 ]
 小泉は真紀子に、こう言う。「ダメな官僚をクビにすればいいのではない。そんなことをすれば、官僚はひとりもいなくなる」と。ならば小泉本人も、こう理解するべきだ。「ダメな企業を倒産させればいいのではない。そんなことをすれば、企業はひとつもなくなる」と。
 私は 1章 で、「真紀子はトリックスターだ」と述べた。まさしく、そうなのだ。真紀子は、確かに失敗しているが、自ら失敗することで、失敗の手本を見せているのである。「私みたいにやれば、失敗するのよ」と例示して、「あなたみたいに構造改革をやっていると失敗するのよ」と教えているのだ。
 なのに、小泉は、それが理解できない。「人のフリ見てわがフリ直せ」ということがわからない。真紀子がせっかく道化を演じているのに、その意味が理解できない。かくて小泉は、自分自身が道化となってしまっているのだ。
 普通の道化は、「自分は道化だ」とわかっている。小泉という道化は、「自分は道化だ」とわかっていない。「自分は絶対に正しい」と信じている。少しも反省しないし、少しも方針を修正しようとはしない。唯我独尊の頑固爺い。嵐の場で狂気の言葉を喚いているさまは、ほとんどリア王のようである。
 哀れなのは、狂人の好き勝手にもてあそばされる、日本である。
 「こんな夜は、利口も阿呆も惨めなものさ」 (……「リア王」より)

 [ 付記2 ]
 参考。特殊法人改革も、話は同様だ。組織の形態の変更が目的なのではない。「組織を優良化する」ことが肝心なのだ。 ( → 12月20日c


● ニュースと感想  (1月03日c)

 サイバネティックスと経済学。
 前日分では、こう記述した。「金融政策と財政政策は、景気調節のための両輪である。両者がともに必要であり、どちらも最適になるように調節するべきだ」と述べた。
 このことについて、原理的に説明しよう。

 こういう思想は、「サイバネティックス」と呼ばれる。(しいて日本語化すれば「最適制御」となるだろうか。)
 コントロール可能な量がいくつかあるとき、それぞれのコントロール量を最適にすることで、状況を最適な状態にできる、という思想である。
 これは、工学では、さまざまな面で、応用されている。鉄などの製造装置にはダイヤルとメーターがいっぱい付いていて、各種のパラメーターを制御できるようになっていて、これらのパラメーターをそれぞれ最適に調節することで、最適の生産が可能となる。
 身近なところでは、自動車の運転がある。アクセルとブレーキとハンドルを最適の量に制御することで、最適の運転ができる。アクセルを踏みすぎれば暴走するし、ブレーキが踏み足りなければ衝突するし、ハンドルを切りすぎれば脱線する。最適な制御が必要だ。たとえば、雪道でのブレーキだ。急ブレーキをかけると、タイヤが雪上でスリップする。こういうとき、ブレーキを適当に強く踏んだり弱く踏んだりして、最適な踏み方をすると、すべらずに済む。
 「常に最適な制御をする」というのが、サイバネティックスの思想である。

 経済学でも、この思想を取るべきだろう。決して無為無策がベストであるわけではない。自由放任がベストであるわけではない。 (金融政策や財政政策を、最適になるように行なうべきである。)
 ただ、「無為無策でも、ひとりでに最適の状態になる」という幸運な場合もある。それは、システムが「安定した構造」をもっている場合である。( → 3章
 一般的に言えば、ミクロ経済は「安定した構造」をもつ。しかし、マクロ経済は「安定した構造」をもたない。(だから景気変動が起こる。)
 結局、マクロ経済は、「安定した構造」をもたないのだから、「無為無策でもいい」ということにはならないわけだ。
( ※ 制御可能なパラメーターは、いろいろとある。金利,財政支出,税率,物価上昇率など。これらを、最適になるように可変化するといだろう。……というのが「需要統御理論」の主張である。)

 [ 付記 ]
 サイバネティックスでは、よく示される例としては、「船の舵を最適に制御する」という例がある。
 船自体を(巨人の手でつかんで)動かすことはできない。乗員のできることは、せいぜい、エンジンの出力調整と、舵の操作である。この両者を最適にすることによって、船の進路を最適に保つことができる。
 たとえば、嵐の海で、ビルのような高さの高波が次々と襲いかかってきたとする。ここで、どうするべきか?
 市場経済 至上主義の経済学者が船長であったとすれば、「放置せよ。神の御心に任せよ。神がすべて救ってくれる」と主張するだろう。現実には、放置すると、高波が次々と船首に強く当たるので、船はだんだん、波に対して横向きになってしまう。横向きになった船は、波に対して弱いので、やがては転覆する。沈没。一巻の終わり。
 一方、サイバネティックスを信じる船長ならば、「常に船首を波の方に向けよ」と命令する。波が次々とぶつかると、船は初めのうちは波のほうを向いていても、少し右向きになったり、少し左向きになったりする。そのたびに、舵で船を逆方向に戻して、船首を波の来る方向に保とうとする。これは、状況に応じて最適になるように、たえず微妙な制御をしているわけだ。……経済学で言えば、インフレ気味になったり、デフレ気味になったりするたびに、金利を上げたり下げたり、財政を緩和したり引き締めたりして、たえず微妙な調整をするわけだ。
 今の日本では、小泉船長がこう主張する。「最適な制御など必要ない。自由放任つまり無為無策こそが最適である。うまく行かないのは、船の能力が劣るからだ。船の性能を高めることこそ、嵐を乗り切るコツだ」と主張している。……そりゃね、船の性能を高めることも大切でしょう。でもね、そんなのは、何年も先の話であって、目前の嵐を乗り切ることとは、何の関係もない。なのに、こういうふうに船長がホラ吹きして、乗員たる国民もホラを信じる。
 「ホラを信じるな! 正しい行動を取れ!」
 と甲板の隅っこの方で、私が言っているんですけどね。聞く耳を持つ乗員は、ほとんどいない。私も小泉船長といっしょに沈むしかないのか。……もちろん、あなたもね。


● ニュースと感想  (1月04日)

 「内外価格差があるせい価格下落は、『良い物価下落』だ」という説がある。しかし、これは、正しくない。
 原因が、内外価格差があるせいであれ、生産性の向上のせいであれ、それによってもたらされる価格低下は、個別商品の価格低下であって、全商品の物価低下ではない。ユニクロのフリースやパソコンなどが価格低下するのは良いことだが、だからといって、全商品の平均で物価が下がる(デフレになる)ことがいいわけではないわけだ。……要するに、個別商品と全商品とを混同しているわけで、上の説の論理は成立しないわけだ。
( ※ こういう解説は、すでに 9月26日 でも述べた。また、最近、あちこちの書籍でも指摘されている。)

 ただ、ここで、もう少し説明を加えておこう。
 「個別商品の価格低下が良いのであれば、全商品の価格低下も良いはずだ」という推論がある。
 しかし、この推論は正しくない。なぜか? ここでは、「合成の誤謬」を犯しているのだ。実際には、個別商品に当てはまることが全商品に当てはまるわけではないのだ。なぜかと言えば、「全商品の価格低下」はデフレであるからだ。デフレが良くないのは、現在、多くの国民が身にしみて理解しているはずだ。倒産やら失業やらがある。
( ※ ただし、である。「倒産も失業もかえって好ましい」と主張する変な人もいる。小泉がそうだ。自分の奇妙な理屈を、現実よりも優先させているわけだ。人々がいくら苦しんでいようとも、「知ったこっちゃない、痛みを与えておけ」と放置して、自分の理想に邁進する。「我らの偉大なる理想のために、国民を犠牲にせよ!」というわけだ。ヒトラー並みの狂信者である。最近も同類がいましたね。ビルに突入したやつが。)

 さて。ここまでは当然の話である。そこで、さらに、ひねった見解を加えよう。
   「個別商品の価格低下はよいが、全商品の価格低下は良くない」
 ということは、
   「一部の商品が価格低下を起こせば、他の商品は価格上昇を起こすべきだ」
 ということを意味する。
 具体的に例を示そう。ユニクロのフリースやパソコンの価格低下が起こるときは、それを埋め合わせる分、他の商品が価格上昇を起こすべきだ。(その価格上昇は通常、生産性の低いサービス業で発生する。)
 つまり、「良い価格低下」があるのと同様に、「良い価格上昇」もあるわけだ。この両者は、物事の裏表の関係にある。ある商品がどんどん価格低下しているときには、その分、他の商品がどんどん価格上昇しているべきなのだ。「良い価格上昇なんてない」と思っている人が多いが、それは間違いなのだ。

 では、なぜか? 価格上昇は消費者にとって損であるはずなのに、消費者にとって損であることが好ましいのだろうか?
 答えを言おう。「イエス」である。なぜなら、人は消費者であるだけではなくて、生産者でもあるからだ。人は、その商品を買うときには「安い方が得だな」と思うが、自分が生産して売るなら「高い方が儲かるな」と思う。このことに気づくことが大切だ。「物価は低けりゃいい」と思うのは、物を買うことしか考えていない人だ。そういう発想だから、デフレを放任する。デフレとは、つまり、消費者はどんどん得をするが、生産者はどんどん損をする状態だ。(損に耐えきれなくなったところが、倒産したり失業したりする。しわ寄せはすべて生産者に来る。)

 それでも日銀は、このことに気づかない。「消費者を重視せよ。物価安定を重視せよ」と唱えて、生産者のことなんか全然考えない。当たり前だ。彼らは、自分自身が何も生産しないからだ。たいていの国民は、何らかの生産をして、その代価としての所得を得る。日銀は違う。日銀の仕事は、自分でお札を刷ることだけだ。「何も生産しない純粋な消費者」というものがあるとすれば、それは、日銀だ。つまりは「無為徒食の輩」である。(仮に何かを生産しているとすれば、昔はバブルを生産し、今はデフレを生産を生産している。軽蔑されてしかるべき存在である。ただし、日銀マンは、「おれたちは有能だ。なぜなら高収入だから」と思い込む。)
 さて。もうひとつ、もっとひどい錯覚をもつ人物がいる。小泉だ。
 小泉は、「生産を大事にせよ」と考えて、構造改革を唱える。しかし彼のやっていることは、生産者を虐げることなのだ。小泉の方針を貫徹すればするほど、日本の生産能力は傷つけられていく。(倒産や失業の発生。企業の体力低下。)
 それでも小泉は、その方針が正しいと思い込む。「徹底的に傷つけてしまえばいい。そうして生き残ったものだけを残せばいい」と。これはもう、ほとんどサディズムである。理屈は通ってはいないし、正気の沙汰ではない。狂信者というのは、そういうものなのだろう。国民全体を身ぐるみ剥いで、血を流させて、それを正しいことだと信じ込む。
( → 9月26日 「良い物価下落」 )


● ニュースと感想  (1月04日b)

 「内外価格差がデフレをもたらす」という説がある。これは、正しくない。

 結論。上記の例が反証となる。ゆえに、「内外価格差がデフレをもたらす」という説は、正しくない。

 さて、上記の説が間違っていることはわかった。では、正しい説とは、何なのだろうか?
 答えを言おう。実は、上記の説を逆にしたものが、正しいのである。(この意味で、上記の説は、正しくないだけでなく、事実とは正反対である。)
 つまり、「内外価格差が大きければ大きいほど、経済が悪化する」というのは間違いであり、「内外価格差が大きければ大きいほど、経済は良好である」というのが正しい。
 なぜか? 内外価格差とは、つまりは、通貨価値の差と見なしてよい。通貨が高くなれば高くなるほど、内外価格差は大きくなる。経済力が強ければ強いほど、通貨は高くなるし、内外価格差は大きくなる。過去の例で言えば、「強いマルク」「強いドル」「強い円」が生じた時期があった。このころ、これらの国では、経済力は強くなり、同時に、内外価格差は大きくなった。……これが事実というものである。

 では、なぜ、そうなるのか?
 ここで、途上国の状況を見てみよう。中国などは、内外価格差ゆえに、競争上は有利である。だから、途上国から先進国に、圧倒的な輸出が起こって、先進国の産業は壊滅してもいいはずだ。しかし、実際は逆である。先進国から中国に対して、さまざまな機械類が洪水のごとく輸出されており、中国から先進国への機械類の輸出はごく少ない。それはなぜかと言えば、「品質差」「技術差」という「非価格競争力」があるからだ。
 逆に言えば、「品質差」「技術差」では太刀打ちできないから、それを補うために、「実質賃金切り下げ」による「価格低下」で、かろうじて競争力を保っているわけだ。
 そして、通常、国際収支というものはバランスする水準に決まる。つまり、「非価格競争力の強さ」と釣り合うように、「価格競争力の弱さ」( = 通貨の強さ = 内外価格差の開き)が決まる。
 そういうことだ。だから、経済力の強い国ほど、通貨は強くなり、内外価格差は開くことになる。最近の日本について言えば、円安傾向にあるが、これは、「日本の病状が悪化している」ことを示すわけだ。

 次に、モデル的に考えよう。
 そもそも、頭の悪い経済学者は、前述のような勘違いをしがちなものだが、どうしてこういう勘違いが起こるか? それは、モデル的に説明するとわかる。
 彼らの思考は、次のようなものだ。
 「経済は自由経済と市場原理に従う。ちょうど、水が高いところから低いところへ流れるように。だから、内外価格差があれば、その差を埋めるように、物事が進む。高い価格は、低い価格に近づいていく。それがデフレだ」
 というわけだ。しかし、これは、そもそも間違ったモデルを使っている。
 モデル的に考えよう。「水は高いところから低いところへ流れる」というのは、普通は成立する。しかし、場合によっては、逆になることもあるのだ。つまり、「放置すると、水は低いところから高いところへ流れて、一定の高低差になると均衡する」ということがある。
 それは、どんな場合か? 二つのタンクがあるとする。両者はチューブで結ばれているとする。放置すると、中身の水が、一方から他方にどんどん移っていく。両者に一定の高低差が生じたところで、均衡する。……このような場合は、たしかにある。それは、一方のタンク内部が加圧されている場合だ。一方のタンク内部が加圧されていて、他方が減圧されていれば、両者には高低差が必要となる。
 経済の場合も同様だ。タンクの内部が加圧されているというのは、経済力が強い状態であり、非価格競争力が強い状態だ。こういう国が、他の国と釣り合うためには、一定の高低差(価格競争力の弱さというハンディキャップ)が課せられる必要があるわけだ。「強い奴ほどハンディキャップを多く課せられる」というわけであり、「能なしの奴ほどハンディキャップが少ない」というわけだ。
 ゴルフや競馬で言えば、能力が劣るものほど、ハンディキャップで有利に取り扱ってもらえる。でもって、実力がどんどん低下していったときに、「ハンディキャップで有利になった! 万歳!」と勘違いする素人がいるわけだ。経済学者というのは、たいてい、こういうものである。ゴルフをやったら、「いかにしてハンディキャップを増やすか」ということばかり考えていて、なるべく下手に打とうと努力する。ゲームを終えたとき、他の人がいかに少なく打ったかを自慢しているときに、経済学者は「こんなに多く打ったんだ。おかげでこんなにハンディキャップで有利になった」と大喜びするわけだ。下手になればなるほど喜ぶ、という、奇特な人々。……最近も、円安になったと言って、大喜びしていますけどね。(円安は、「日本が経済的に有利になること」を意味するように見えるが、本当は、「日本の経済力が弱くなってきていること」つまり「日本が途上国に近づいていること」を意味するのだ。)

 [ 付記 ]
 貿易財と非貿易財は、分けて考えた方がいいだろう。
 貿易財については、内外価格差があっても貿易によって埋められていく。(当然だ。)
 非貿易財については、内外価格差はそのまま残る。(例は、電話料金や交通料金や各種サービス業の料金など。)ただし、現実には、かつて急激な円高の直後には内外価格差が目立ったが、そのあと時代につれてだんだん内外価格差は縮小傾向にあるようだ。少なくとも、途上国でなく欧米諸国との差を見ると、あまり大きな差はなくなってきている。(マクドナルドのハンバーガーはたぶん日本が世界一安い。)
( ※ ついでに言うと、各国の昼食代を比べると、予想外に差が少ないのに驚く。アフリカのひどい途上国で 300円。香港で 500円。日本はバブルのころは 700円ぐらいだったらしいが、最近は牛丼 280円という人も多いようだ。)


● ニュースと感想  (1月05日)

 なぜ日本だけがデフレか? これについて考えてみよう。
 世界中の先進国は、どの国も、プラスの物価上昇率を保ってきた。なのに、日本だけは、デフレになった。では、なぜ日本だけが?
 これについては、いくつかの理由を考えることもできる。
  ・ 供給が過剰であるせいだ
  ・ 内外価格差のせいだ
  ・ 貨幣流通量が不足しているからだ

 などだ。しかし、これらは、まともな理由にはならない。以下で説明する。
 結局、いずれも答えになっていないわけだ。つまり、「なぜ日本だけがデフレに?」という問いに、正しく答えてはいないのだ。
 そこで、私が答えを言おう。こうだ。
「日本だけがデフレになっているのは、日本だけがデフレをめざしているからだ」
 ということだ。
 そもそも、日本以外の外国を見るがいい。どこの国でも、物価上昇率3%程度のインフレをめざしている。だから、インフレにはなるが、デフレにはならない。
 日本だけは違う。日銀は「物価安定状態」をめざしてきた。つまり、「物価上昇率 0%」をめざしてきた。
 しかし、「物価上昇率が 0%」というのは、「景気が中立」ではなくて、「不況」の状態なのだ。そのことは、経験的に明らかであろう。(経済学的な理由は、「需要統御理論」で説明した。かなり専門的な話になる。)
 ともあれ、日本はずっと「物価安定」つまり「不況」をめざす政策を取ってきた。日本は。日本だけは。だから、日本だけは、不況になった。そして、いったん不況になれば、スパイラル的に状況が悪化しがちなものだ。( 景気悪化 → 所得減 → 消費減 → 生産減 → 景気のさらなる悪化 → …… という悪循環)
 現在、この悪循環が、どんどん深刻化しているところだ。そして今や、真打ちが登場した。これまでの内閣は、曲がりなりにも、景気を良くしようとしていた。しかし小泉は、「構造改革」「財政緊縮」「供給拡大・需要縮小」というデフレ路線を取っている。「構造改革」は、失業率上昇や倒産続出をめざすものだから、もちろん景気はどんどん悪化する。その一方で、インフレ側にすることを、徹底的に排除している。
 そういうことだ。「デフレをめざしているから、デフレになった」のだ。もう少しはっきりえば、「間違った経済学を信じているから、間違った状況に進む」のだ。
 今の日本が悲惨なのは、景気が下降していること自体ではない。上り坂を拒み、あえて下り坂を選択して、その道を進んでいるのだが、にもかかわらず、「なぜこの坂は下りなのだろう」と不思議がっているということだ。自分で自分のやっていることが理解できていないということだ。それほど愚かであることだ。

 [ 付記 ]
 実を言うと、日本が救われる機会はあった。景気が上昇過程を取ることもあった。なのに、そのたびに、「橋本政権の増税」とか、「日銀のゼロ金利解除」とか、「山一や長銀の不良債権処理」などを実行して、景気回復の小さな芽を、強引につぶしてしまった。海の底から浮かび上がって、やっと表面に浮かぶ寸前まで来たところで、頭を押して、溺れさせて、ふたたび沈めてしまった。こんなことを何回もやっているから、日本経済は体力をなくして、今やどんどん沈みつつあるのである。
 さらに、小泉は、二度と浮かび上がれないように、日本経済に鉛の重しをつけるようなことまでやっている。「重しに逆らって浮かんだものだけが優良だ。劣悪なものを沈めてしまえば、優良なものだけが残る」……こう主張して、あらゆるものを沈めてしまおうとしているのだ。ひとつも残らないかもしれないのに。


● ニュースと感想  (1月05日b)

 生涯純益額の話。
 「高齢者は生涯を通算して、公的負担よりも公的受益の方がずっと多い。差し引きして、5000万円以上のプラス。逆に、若手は数千万円のマイナス。しかし、これは、不公平だ。このままだと、若手が逃げ出してしまって、日本に将来はない」という主張。(朝日・朝刊・社説 2002-01-04 )

 さて。この前半の基礎データ自体は、あちこちで言われていることだし、経済財政白書でも説明されている。肝心なのは、データではなくて、そのあとの解釈だ。
 こういうふうに「年寄りは得だ、若手は損だ」というのは、経済学的な数字比べのようなものである。統計を取って、データを比べて、「こっちが多い、こっちが少ない」と比べているだけだ。数字を比べるくらいは、子供でもできる。そのあとの数字の解釈が全然できていない。
 なるほど、高齢者は得で、若手は損だ。では、高齢者はすごくリッチな生活をしてきて、若手は貧困な生活をしているのか? 逆だ。高齢者は若いころ、まさしく「赤貧」という言葉がふさわしい生活をしてきた。今の若手は、不況でさえ、何ひとつ不足ない生活をしている。不足ないどころか、過剰でさえある。子供たちを見ると、ありあまるほどのオモチャやテレビゲームをもっていて、飽きては捨てる。まったく、過剰な物を与えられている。心がすさむほどに。

 では、統計をどう解釈するべきなのか? それは、こうだ。「高齢者は、所得自体が少なかった。彼らの所得は、会社などの社会制度に蓄積された。若手は、そうした社会制度を、生まれたときから享受することができたので、所得が多かった。つまり、公的でなく私的な面で、高齢者から若手への所得移転があった。」
 要するに、こうだ。高齢者は、公的負担は少ないのに、公的受益が多くなるので、公的な面だけ見れば、高齢者は得をしてるが、私的な面で見れば、(所得減という形で)高齢者は損をしているのである。彼らは、正当な所得を得られなかったから、所得に比例する公的負担も少なかったわけだ。高齢者の世代が若い世代の金をふんだくっているわけではなくて、逆に、若い世代が高齢者の世代の金をふんだくっているのだ。
 実際、高齢者は、若いころは「年功序列」制度のもとで賃金を抑制され、年を取ってからは「年功序列の破壊」のもとで賃金を抑制された。踏んだり蹴ったりである。せっかく働いて日本を高成長させても、その富は会社や社会に蓄積され、その富を若手が「おれたちのものだ」とばかり享受している。公的な面だけ見れば得をしているように見えるが、総合的に見れば損をしているのだ。
 そもそも、よく考えてみるがいい。高齢者は、若いころは、食事もろくに取れなかった。彼らは自分たちの食事を削ってまで、子供の教育のために金をかけた。今日の日本があったのは、高齢者がそれほどまでに犠牲を払ってくれたからだ。南米の人々は、「その日だけが良ければいいさ」とばかり、金を酒代などに費やしてしまったが、日本の高齢者はわれわれの世代に多大なものを残してくれてくれたのだ。
 なのに、こういうふうに辛い境遇を甘受してまで自己犠牲を払ってくれた高齢者を、「ズルをしているやつら」とばかり見なす社説は、ほとんど人でなしである。人間のクズといってよい。
 だいたい、あなた、そういうことができますか? 自分のために多大な犠牲を払ってくれた親(祖父母)がいるのに、その犠牲を忘れてしまう。さんざんもらっているときは感謝の一言もいわずに、あとで彼らが年老いてから、「勘定をしてみると、もらった額よりも、負担する金の方が多いな。これじゃ、不公平だ」と言い出す。彼らの犠牲によって育ててもらった恩をすべて忘れて、「自分の金がもったいない」と言い出して、親(祖父母)をほっぽり出す。……そういうことが、あなた、できますか? (朝日の人ならできるでしょうね。朝日にしてみれば、そういう人でなしの勘定をするために、経済学はある。)

 社説はさらに言う。「今のままでは、若い人たちは、アホらしくなって、外国へ逃げてしまう」と。へえ、そうですか。だったら、逃げたければ、逃げればいい。今の日本は、高齢者の残しておいてくれた、多大な富があるのだ。会社にせよ、インフラにせよ、教育制度にせよ、技術水準にせよ、すべては、高齢者が長年をかけて育てていってくれたものだ。それを捨てたければ、そうすればいい。高齢者が何も残してくれなかった途上国が羨ましいのなら、さっさと途上国に行ってしまえばいい。(まず初めに、朝日の社員が、途上国に行ってしまえばいい。だいたい、日本にいれば、邪魔なだけだ。)
( ※ ついでに言えば、「先進国に逃げたい」という理屈は成立しない。日本は、高齢者のおかげで、途上国から先進国になったのだ。途上国の人間が先進国で好き勝手に暮らすことはできないのだ。それができるくらいなら、先進国に途上国の数十億人が流れ込むだろう。日本だって、中国からのボートピープルを押し流している。高齢者のおかげを受けなかったら、朝日の記者もボートピープルになっていただろう。だから、途上国にも行かずに、海で漂流していなさい。とにかく、自分の主張の通り、さっさと日本から出ていってもらいたいですね。)

 最後に、記事の矛盾を示しておこう。記事では「高齢者は金を使わずに遺す」とも記している。そうだ。高齢者はたしかに、多大な公的受益を得るが、その受益を自ら使うことはないのだ。ちっとも得をしていないのだ。
 彼らは、得た金を、貯蓄して、遺産として、子供たちに遺す。何千万円という金を貯めていても、それを自分たちで消費しないで、次の世代に遺す。そういう心をもった、けなげな人々なのだ。なのに、そういう人々をけなすのが、朝日だ。身ぐるみ剥いでやろう、というつもりだろうか。ほとんど鬼畜も同然である。
 私はこれまで何度も、「小泉は狂信者だ」と書いた。朝日は違う。人間の一種ではなくて、鬼畜であり、人間の顔をした悪魔である。
( → 朝日が悪魔である例 12月30日

 [ 付記 ]
 朝日はなぜ、これほど悪魔であるか? その理由は、社説を見れば明らかだ。最初から最後まで、政府の礼賛ずくめだ。つまり、言論人の責務としての「政府批判」ということを忘れて、政府の賛美ばかりしていると、こういうふうに見当はずれの意見になる、ということだ。言論人としての心根が腐っているから、主張もまた腐ったものになるのだ。


● ニュースと感想  (1月05日c)

 自殺者の統計。毎年3万人以上。(1998,1999,2000年。) 交通事故の死者数 8747人(2001年)を圧倒的に上回る数字。
 これは、朝日新聞・天声人語 (朝刊 2002-01-04 )の記事だが、「不況で自殺者が多いのは問題だ」という主張もある。
 ふむふむ。朝日というのはまったく人でなしの集団だが、天声人語だけは非常にまともである。私としても、この著者に敬意を表したい。(南堂というのは悪口が趣味の野郎だ、と思い込んでいる人もいるようですけどね。ま、それは事実ですけど。)

 だけど、誉めてばかりじゃ、悪口を望んでいる読者の期待に添えないな。そこで、余談。
   サッカーW杯で、朝日が「自社以外の新聞を閉め出せ」と主張。( → Yahoo 「夕刊フジ」
 つまり、「情報統制」かな。朝日の本領発揮?


● ニュースと感想  (1月06日)

 「インフレ目標」について、「量的緩和」と「流動性の罠」の説明をしよう。
 新古典派の経済学者に多いが、「市場経済は万能だ」という素朴な信仰がある。これが「インフレ目標」政策と結びつくと、「量的緩和」となる。「量的緩和をすればよい。あとは市場でうまく行く。マネーが出回り、景気は回復する」という、素朴な思想である。
 この素朴な思想を否定したのが、クルーグマンだ。彼は「流動性の罠」という原理を示して、「市場に任せればうまく行く」という素朴な楽天的な思想を否定した。そのことがわからないでいる経済学者が多いようだ。そこで、説明しておく。

 「流動性の罠」については、すでに説明した。( → 流動性の罠 ) 今ふたたび説明すれば、こうだ。融資するマネーの需要と供給の曲線を描く。通常、両者の交点は、金利がプラスの領域に存在する。(たとえば、金利が 3% のときにマネーの需要と供給が 30兆円で均衡する、というふうに。) 通常、金利を下げれば下げるほど、需要は増える。しかるに、マネーの需要が頭打ちのときは、金利をいくら減らしても、需要は(飽和して)現在以上には増えない。均衡点は、金利がマイナスの領域にあるが、金利はゼロ以下にはならないからだ。
 これは、現実の事情だ。マネーの供給は余っているが、マネーの需要がない。つまり、銀行がいくら融資をしたくても、企業の側が借りてくれない。このことは、これまで何度も説明してきた。( → 12月19日b9月24日b
 つまりは、量的緩和をしても、滞留する分が増えるだけで、ちっとも景気刺激効果はないのだ。今だってほとんどゼロ金利なのに、企業は借りてくれないのに、いくら「貸します」と銀行が言っても、無意味なのだ。

 需要が頭打ちのときは、供給をいくら増やしても無駄だ。こんなことは、当たり前だろう。にもかかわらず、「量的緩和をすべし」と唱える経済学者が多い。なぜか? 量的緩和論者は「市場原理」を盲信しているからだ。「供給があれば、必ず、その分、需要が増える」「供給を増やすということが、まったく無効であるはずがない」「無限に量的緩和すれば、必ずいくらかは効果があるはずだ」と。
 こういう考え方を信じている読者も多いだろう。だから、説明しておこう。
 「需要が頭打ち」というときには、いくら供給を増やしても、まったく無意味なのだ。たとえ無限に供給を増やしても、効果はゼロなのだ。
 そのことを、現実の例で示そう。それは、(汚い話だが)クソだ。クソは、誰もほしがらない。農業などで「少しだけならもらう」という人もいる。しかし、一定量で頭打ちになるのだ。あとは、「金を払えばもらってやる」という人がいるだけだ。こういう状態で、「クソをタダで上げますよ」と言っても、無駄だ。「クソの供給を無限に増やせば、必ずいくらかはもらい手が出るだろう」ということも成立しない。誰もほしがらないものは、いくら供給を増やしても、まったく無効なのだ。
 「金はクソじゃない。融資には利益があるぞ」と思うかもしれない。しかし、いずれは返済しなくてはならない金なら、使い道のない金など、あるだけ邪魔なのだ。たとえば、あなた、「1兆円を貸してくれる」と言われて、借りますか? 借りないでしょう。そんな金、置き場所だけでも困る。盗まれたりしたら、身の破滅だ。かといって、保険料や保管料を払ったりしたら、それだけでも莫大な出費だ。とっとと銀行にお引き取り願うのがベストだ。そして、たいていの企業は、そうしている。余った金があれば、せっせと銀行に戻している。……これが現実だ。
 「タダでも引き受け手がないもの」というものは、クソのほかにも、いろいろとある。豆腐のカスの「おから」もそうだし、牛を屠殺したあとの牛骨もそうだし、ホタテ貝の貝殻もそうだ。いくらかは有効に使えるとしても、多すぎれば、余ってしまう。タダでも引き受け手がいなくなる。こういうときに、「供給を無限に増やせば、引き取り手が出てくる」などと信じるのは、馬鹿げている。
 そして、こういう馬鹿げたことを信じるのが、新古典派であり、マネタリストであり、また、量的緩和論者である。
 彼らは物事の本質を理解できないのだ。「均衡点は(価格が)マイナスの領域にある」というのが現実なのに、「均衡点は常に普通の領域にある」と現実離れした夢想を信じ込む。現実ではなくて、夢想(思い込みの理論)を信じるから、判断を誤ってしまうのだ。

 [ 付記 ]
 本質的に考えてみよう。企業が金を借りないのは、なぜか? 銀行が金を貸してくれないからか? 違う。投資の必要がないからだ。というのも、売上げが増えないからだ。なぜなら、個人消費が縮小しているからだ。
 個人消費の縮小。ここがボトルネックだ。水道管で言えば、蛇口が閉まっているのだ。こういうとき、「ダムの水量を増やせばいい。たくさん水を供給できるようにすれば、蛇口から水はいっぱい出る」などと主張しても、無駄だ。渇水のときなら、ダムに水を蓄えるべきだろう。しかし、ダムの水はもともと足りているのだ。蛇口が閉じられているから、水が流れないのだ。
 だから、正しくは、蛇口をあけるべきなのだ。つまり、個人消費を増やすべきなのだ。
 そういうこともわからない人々が、「ダムの水を増やせ」つまり、「マネーを増やせ」という「量的緩和」を唱えているわけだ。物事の本質を理解しないと、こういうピンぼけになる。
( ※ 仮に、こういうピンぼけの政策を取ったとする。そして、あるとき急に蛇口をあけると、その家が、水浸しになって洪水のような状態になる。「急いで蛇口を閉めれば大丈夫さ。日銀っていうのはすごく優秀なんだ。判断が正確で早い。水が一滴出た段階でそれを洪水だと判断する」なんて楽観をしている人もいるが、あまりにも楽観的である。こういう人を「能天気」と呼ぶ。)( → 本日別項 1月06日b の「 (1) ハイパーインフレの危険」)


● ニュースと感想  (1月06日b)

 量的緩和は、何をもたらすか? それを述べよう。
 最初に結論を言えば、第1に、ハイパーインフレの危険であり、第2に、資産インフレ(バブル)である。

 (1) ハイパーインフレの危険
 量的緩和は、「流動性の罠」ゆえに、景気回復効果はない。資金は、単に滞留するだけである。(本日別項 1月06日 で述べたとおり。)
 では、滞留した資金は、どうなるか? これについては、すでによく知られている通り、「乾いた薪を積み重ねるようなもの」である。滞留資金という薪が、効果を発さないまま、どんどん蓄積される。なぜ効果を発しないかと言えば、人々が「インフレ期待」をもたない(デフレ期待が続く)からである。ところが、あるとき突然、インフレ期待が発生することがある。これは、心理的なものであるから、一夜にして突然発生することがある。地震が起こって生産力が損なわれる(神戸大地震のときは物流が滞って生産が縮小したことがあった)とか、中東で戦争が起こって石油供給の不安が生じるとか、小泉が辞任してデフレ期待が消えるとか。……こうなったとき、突然、インフレ期待が発生する。つまり、薪に火がつく。となると、積み上がった薪はいっせいに火がつく。
 仮に滞留した資金が、本来の水準の2倍だったとすれば、物価は急激に2倍になる。2カ月後にもこの水準が続くとすれば、2カ月で2倍、つまり、年率では 12倍だ。つまり、年率 1200%のインフレである。これはまた、空前であろう。空前のデフレを体験した日本が、空前のインフレも体験することになる。
 量的緩和論者の主張は、「日銀が制御できる」である。しかし、あまりに楽観的すぎる。日銀は市中の金を一夜にして回収することはできない。ざっと見て、二カ月はかかるだろう。その間、インフレが続くことになる。
 さて、二カ月後、本当に回収できるだろうか? もし回収したら、いったん2倍に上がった物価を、今度は反対に半分に下げることになる。強力なデフレ政策だ。こうなると、あちこちで倒産が莫大に発生するだろう。今でさえ、年率3%程度のデフレに苦しんでいるのに、物価を半分に引き下げるデフレなんていうのは、とんでもない状況を引き起こす。日本中の企業が倒産してしまうかもしれない。
 結論。「薪に火がついている状態」ならば、火の加減は可能である。物価がどんどん上がって激しいインフレになりかけても、もともとたいして薪は積まれていないのだから、制御は可能である。せいぜい、7%を5%に戻す、という程度の話だ。しかし、「薪に火がつかない」状態のまま、薪をどんどん積み上げるのは、きわめて危険なのだ。無制限に量的緩和をすれば、とんでもないハイパーインフレが一週間程度で発生し、制御不能になる危険がある。
 量的緩和には、これだけの危険があるのだ。しかも、これだけの危険を負担しても、成功した場合の利益はゼロである。(「流動性の罠」。) つまり、「うまく行ってゼロ、悪ければ莫大なマイナス」という、とてつもなく分の悪いバクチをするわけだ。
 こんな政策を取るのは、愚かと言うほかはない。

 (2) 資産インフレ
 先の「ハイパーインフレの危険」というのは、可能性の話である。絶対にそうなる、というわけではない。たとえば、小泉政権がずっと続けば、国民はデフレがずっと続くと信じて、いつまでたってもインフレが全然発生しないかもしれない。薪は積み上がったまま、火がつかないかもしれない。そういう可能性も、かなりある。(ずっとデフレが続くというのは、喜ぶべきか悲しむべきかは、わからないが。……)
 さて。もっと現実的な可能性がある。それは、「資産インフレ」だ。
 量的緩和論者の最大の見当違いは、「そうすればインフレになる」と思い込んでいることだ。完全な勘違いである。インフレ下で量的緩和をしたなら、インフレが高まる。しかし、デフレ下で量的緩和をすると、インフレではなく、資産インフレになるのだ。 (インフレ期待が発生したとき。)
 デフレのときに、マネーをふんだんに出回らせておいて、かつ、インフレ期待が発生したとすると、どうなるか?
 もし減税が実施されていれば、国民は所得が増えるので、支出する。だから、需要が増える。しかし、もし減税が実施されていなければ、国民は物価上昇の分、実質所得が減る。実質所得が減るとわかっていれば、消費を切りつめるしかない。切りつめたくなくても、切りつめざるをえない。(実質所得が減って、手元不如意なのだから、仕方ない。)で、結局、消費はどんどん減る。投資も頭打ちだったのがさらに悪化する。かくて、景気はどんどん悪くなる。
 にもかかわらず、マネーが出回っており、インフレ期待が発生する。となると、資産家や企業は、行き所のなくなったマネーを、現金から資産にシフトする。土地や株式などを買うようになる。これらの資産が暴騰するわけだ。
 にもかかわらず、国民の所得は増えない。土地や株式をもっている人は「簿価が増えたな」と思って喜ぶだろうが、別に、手元の収入が急に増えるわけではない。土地や株式をもっていない人は、不満がたまるが、こちらもやはり手元の収入が増えるわけではない。どちらも物価上昇の分、実質所得は減るだけだ。
 つまり、景気回復効果のあるインフレ(物価上昇)はほとんど発生せず、単に資産インフレ(バブル)が発生するだけだ。
 で、結局、「資産インフレは素晴らしい」というのが、量的緩和論者の主張だ。しかしそれは、バブルの再発である。メリットもあるが、デメリットも非常に大きい。
 はっきり言おう。「資産インフレをめざす」という政策は、「インフレ目標」とは関係ない。それは、「景気回復」としては、効果は少しはあるだろうが、あまりにも邪道である。
 経済学というものは、本道をめざすべきなのだ。つまり、景気回復に際しては、「需要の拡大による生産の拡大」をめざすべきなのだ。一方、「資産インフレを発生させれば、資産家が大儲けするので、そのおこぼれをもらって、一般大衆も少しは儲かるだろう」とか、「一般大衆は、物価上昇による実質所得の減少ゆえに大損するだろうが、一部の資産家は資産インフレで大儲けするので、国民全体で見れば差し引きしてプラスになるだろう」なんていう政策は、あまりにも邪道なのだ。それは物事の本質を見誤っている。数字上の帳尻あわせにこだわるあまり、国民というものを置き去りにしている。
( ※ 「資産インフレを起こせば、インフレが起こるだろう」というのは、「金持ちのおこぼれが、まわり回って一般大衆にも届いてくる」ということで、ほとんど「風が吹けば桶屋が儲かる」というようなものだ。景気対策としては、あまりに迂遠である。直接現金を渡すような即効性はない。だいたい、「田園調布の金持ちの土地が上がったから、私も消費を増やそう」なんて思う貧乏人がいるわけがないでしょうが。逆に、「いま借りているボロ屋も、大家がまた家賃を上げるな。ひい〜」と思うだけだ。)
( ※ そもそも、「デフレ解決のため、バブルの再来をめざす」なんていうのが、根本的に間違っている。「右頬を打ってごめんなさい、おわびに左頬を打ちます、これでチャラでしょ」というようなものだ。いわば、「毒をもって毒を制す」ようなものだ。しかし、日本という病人に、毒を飲ませないでほしいものだ。今は、「薬をもって病を治す」ことこそ、なすべきことなのだ。)

 [ 付記1 ]
 では、どうするべきか? 正しい方針を言おう。
 インフレのとき、初年度は、実質所得が減少する。だから、初年度は、減税やバラマキを行なう必要がある。そうして、実質所得の減少を補う必要がある。
 そうすれば、一般国民は消費を増やすし、景気はなめらかに回復する。つまり、資産インフレにならず、インフレになる。日本は世界各国と同じく、正常な状態になる。めでたし、めでたし。
 その後、資金は過剰な状態が続くので、景気回復後に、増税によって過剰資金を回収する。( 中和政策
 つまり、税率を、景気の状況に応じて最適の値になるように、可変化すればいいわけだ。「景気の良いときは増税、景気の悪いときは減税」という、経済学の基本に従えばいいわけだ。これが王道である。
( → 1月03日c 「サイバネティックス」 )

 [ 付記2 ]
 「量的緩和で、インフレではなく、資産インフレになる」……このことが大事だ。なのに、量的緩和論者は、このことに気づかない。なぜか?
 それは、物事の本質を考えないからだ。今は、消費(需要)が不足している。だから、ここを増やす方策を取るべきなのだ。なのに、その根元的なところを見ないで、単に「マネーを増やせば需要が増える」と思い込む。マネーが使われるかどうかばかりを考えていて、どういうふうに使われるかという根元をなおざりにしている。 (実際には、デフレ下でマネーを増やすことで、需要が増えたとしても、消費が増えるのではなく、資産投資が増えるだけなのだが。)
 こういういい加減な思考をするのは、マネタリストに多い。「マネーの量だけを調節すれば、すべてうまく行く」という単純な思想である。一般人が「金がすべてさ」と信じると、守銭奴になるが、経済学者が「マネーがすべてさ」と信じると、マネタリストになる。……どっちも似たようなものだが。(ともに視野が極端に狭い。)


● ニュースと感想  (1月06日c)

 書評。
 最近、「インフレ目標」に関する3冊の本が刊行された。(最初の1冊以外は、現在、大書店にしか出回っていない。)
    岩田規久男 「デフレの経済学
    伊藤 隆敏  「インフレ・ターゲティング
    深尾 光洋  「日本破綻」 (講談社現代新書 1583)


 いずれも、「インフレ目標を採用すべし」という主張をしている。それはいいのだが、しかし、物価上昇の実現手段としては、「量的緩和で」と主張している。
 これは問題である。理由は、本日の別項で示した。( 1月06日1月06日b

 [ 余談 ]
 ついでに言うと、次の本もある。
    森永 卓郎  「日本経済「暗黙」の共謀者」 (講談社+α新書)
 この著者だけが、私の意見に似ている。レベルは、ごく初心者向け。私は特に論評はしないので、読者が勝手に本屋で眺めてみてください。


● ニュースと感想  (1月07日)

 書評。岩田規久男の、インフレ目標などに関する新刊書。「デフレの経済学」。 ( cf. 公開された pdf 文書 もある。)
 全体的に見れば、そう悪くはない。「内外価格差」についての説明などは、好もしい。しかし、基本的には、ダメ。景気の現況を認識していないし、(インフレ目標についても誤認しているので)景気回復策もダメ。

 この著者は、どにかく、「インフレ目標」というものを、まともに理解していないわけだ。単に「量的緩和をしよう」というマネタリストの主張をしながら、「でも、インフレが行き過ぎないように、インフレ目標で上限をはめよう」と留保をつけて、ついでに、「最初はインフレ目標を宣言して、景気づけのアピールをしよう」と追加しているだけだ。
 単に量的緩和をすればいいのではない。「流動性の罠」( ≒ 量的緩和が無効であること)も知らないまま、量的緩和をするというのは、単純すぎるし、素朴すぎる。経済学を覚えたての学生が書いた処方のようなものだ。「金が足りないからデフレになった」ゆえに「金さえ流せば万事うまく行く」という考えで済むほど、経済学は幼稚ではないのだ。
 はっきり言おう。今は不況だ。その理由は、個人消費の縮小にある。これを拡大するためにこそ、「インフレ目標」が必要となる。そういう物事の根本を理解しない限り、あとの主張もすべて砂上の楼閣となるのだ。
( → 「需要統御理論」 簡単解説


● ニュースと感想  (1月07日b)

 「不況の原因は、資産デフレだ」という説がある。「土地や株の帳簿の価格が極端に下落したから、デフレになったのだ」という説である。しかし、これは正しくない。( 正しくは、もちろん、「不況の原因は個人消費の縮小である」だ。)

 だいたい、バブルで簿価が上がったからといって、それが特別大きな意味をもつわけではない。帳簿の数字が増えて、そのあと減ったとしても、それはそれだけのことだ。
 経済というものは、帳簿の上に存在しているのではない。実体経済というものがあるのだ。景気が悪いというのは、実体経済が悪いことを意味するのであって、簿価が下がったことを意味するのではない。
 現在、投資が活発にならないのは、なぜか? 企業のもつ土地の簿価が下がったからではなく、個人消費が縮小した(日本全体の総需要が縮小した)からである。企業が投資するためを借りる担保力がないからではなく、そもそも企業が投資する意欲がないからであり、それというのも、売上げ縮小(個人消費縮小)が原因なのだ。
 また、現在、個人が消費を増やさないのも、それ自体が原因となっている(循環している = スパイラルになっている)のであり、個人の土地や株の簿価が下がったからではない。そもそも、大半の人は、土地も株も持っていないのだ。資産デフレが発生するための資産を持ってないのだ。にもかかわらず、現在、人々は消費を減らしているのだ。
 というわけで、「簿価の下落がデフレの原因」という主張は、全然、理屈になっていないわけだ。
( ※ しいて言えば、「デフレのせいで簿価が下がった」と言うべきだろう。原因と結果が逆になっている。)
cf. → 10月24日12月03日

 [ 付記 ]
 例を挙げて数値的に示しておこう。
 株を 100万円ぐらい持っていたとして、それが8割減になっても、80万円の損失にしかならない。たかが知れている。土地の方は、自宅を売るわけではないから、いくら簿価が上がっても、関係ない。むしろ、簿価が上がるにつれて、固定資産税が上がるから、地価が上がれば上がるほど、かえって所得が減って、消費は減るだろう。土地を持っていない人は、家賃が上がるから、これもかえって消費は減る。増えるのは、企業の担保力だけ。しかし、流動性の罠の状態のときは、いくら担保力が増えても、投資は増えない。(もともと投資する気がない。)


● ニュースと感想  (1月07日c)

 マネタリストによる、デフレの説明。
 「デフレの原因はマネーが足りないからだ。貨幣の流通する速度が低下している。そのせいで、量と速度との積が縮小して、マネーが不足気味になっている。だから、マネーを増やせば、マネー不足は解消して、デフレが解決する」という説がある。( 岩田規久男 「デフレの経済学」 )
 この説は、正しくない。以下に、理由を示す。

 第1に、「流通速度の低下」が原因であれば、逆のこと、つまり、「流通速度の上昇」を目的とするべきであろう。「マネーを増やせばいい」というのは、論理の飛躍である。理屈になっていない。(ただし、実を言うと、「流通速度の上昇」を主張できないのだ。それについては、以下で述べる。)

 第2に、「流通速度の低下」とは何かを、本質的に理解していない。「流通速度の低下」とは、何のことだ? そこを全然考えていない。
 著者は考えていないから、私が示そう。「貨幣の流通速度の低下」とは、ただのモデル上の話にすぎない。現実のマネーの動きを、「量と速度の積」というふうにモデル化して、そのモデル上の数値を話しているだけだ。「だから速度を上げればいい」という理屈は成立しない。なぜなら、「現実がモデルに従う」わけではなく、「モデルが現実に従う」からだ。
 流通速度はコントロール可能な量ではないのだ。モデル上の流通速度が上がるように、現実をコントロールすることは可能だが、流通速度そのものは、コントロール可能な量ではないのだ。なぜなら、流通速度を変化させるためのハンドルとかアクセルとかは存在しないからだ。
 では、モデル上において「流通速度の低下」となるような現実の事象とは、何か? それは、「流動性の罠」だ。金は、使われずに、滞留する。だから、見かけ上、流通速度が低下したように見える。
 となると、結論は? 「マネーを増やせば、マネーの不足が解消する」のではなくて、「もともとマネーは余っているのだから、マネーを増やせば増やすだけ、その分、流通速度が低下する」というのが正しい。それがモデルの正しい理解だ。
 現実の事象は、「流動性の罠」だ。それを理解しないで、単にモデル上の数値だけで考えるから、どれとどれが独立関係にあり、どれとどれが依存関係にあるかも、わからなくなる。実際には速度と量は背反的な関係にあるのに、たがいに独立した量だと思い込む。あげくは、「モデルが現実に従う」ということを忘れて、「現実がモデルに従う」と思い込む。
 こういう考え方を「経済学者の思い上がり」と呼ぶ。

 [ 付記 ]
 モデルとたとえ話。
 モデルというのは、一種のたとえ話である。つまり、現実を簡略化した比喩である。このことを理解しよう。
 経済をモデル化すると、何だか、学問的になったように感じられるものだ。数学を使ったりするので、高尚になったように思えるものだ。文系の数学音痴ほど、そう思いがちだ。しかし、数学者ならば誰でも知っているが、数学とは、神様の領域ではない。数学とは、ただの架空の空間であり、バーチャルなものである。数学的なモデルは、真実の領域に入ったのではなくて、架空の領域に入ったのである。それは現実とは何の関係もない。モデルが現実と関係があるかどうかは、そのモデルが現実に適合しているかどうかで検証される。
 どんなに立派なモデルを作ろうと、現実がモデルに従うということはない。それは「シッポが犬を振る」と主張するようなものだ。つまりは、本末転倒だ。ただ、現実がモデルに従うことはないが、モデルが現実に適合すれば、現実がモデルに合致するように見えることもある。(あくまで、見えるだけだ。細部ではどこかに食い違いが生じるものだ。)
 結局、モデルというのは、たとえ話にすぎないのだ。逆に言えば、たとえ話というのは、モデルなのだ。
 私は、この経済学の解説のあちこちで、たとえ話を使っているが、それは話をおもしろおかしくするためではなくて、現実をモデル化しているのである。現実を簡略化し、現実をわかりやすくするために。


● ニュースと感想  (1月08日)

 経済学における「詰まっているモデル」。
 経済学で、「物事がうまく行かない」という事象については、「詰まっているモデル」というのを使うと、うまく説明できるものだ。なぜか? 「物事がうまく行かない」というのは、「市場経済の原則」が成立しないことを意味する。そこでは物事が自然に流れることができなくなっている。とすれば、そこには何らかの阻害要因があるわけだ。この阻害要因を知ることが大切だ。
 [ 参考 ]
 こういうふうに「市場経済の原則」が成立しない場合(市場が「理想的」でない場合)について、いくつかの例を考察したのが、昨年度のノーベル賞の受賞者の業績だ。 ( → 10月12日
 経営(工場生産)における例をうまく説明した本がある。「ザ・ゴール」という本だ。ここでは、次のように説明されている。── 工場の生産工程では、生産性の向上が目的となる。現状以上に生産性を向上させようとすると、他の箇所は余裕があるのに、特定の一箇所が限度に達して阻害要因となっているものだ。ここが「ボトルネック」である。だから、ボトルネックを解決すれば、全体の生産性が上がる。
 さて、この「ボトルネック」というのは、モデル的に言って、チューブの一部で内径が狭い箇所である。ここが全体の流れを阻害している。ここの内径を広げれば、うまく流れるわけだ。

 では、不況については? ボトルネックは、チューブの途中ではなく、出口である。日銀はいくらでも金を出すし、銀行も借り手を捜しているのだが、しかし、借り手が見つからない。企業が金を借りてくれないのだ。それというのも、個人消費が冷え込んでいて、総需要が増える見込みがないからだ。というわけで、個人消費が「ボトルネック」となっているわけだ。つまり、ここが「詰まっている」わけだ。
 こうしてモデル化すると、事情が鮮明になる。すると、解決策もわかる。個人消費を増やせばいい、と。

 さて、そこで、「個人消費を増やすには、どうするか?」が問題となる。
 もちろん、「詰まっている箇所」の問題を除去すればよい。つまり、デフレ期待を除き、インフレ期待をもたせればいい。
 しかし、である。実を言うと、それだけでは足りないのだ。詰まっている原因を除いただけでは、足りないのだ。なぜか? 詰まっているものを除いても、それだけではすぐには物事は流れ出さないからだ。初めは少しずつ流れるだけだ。それからだんだんとたくさん流れていく。元のようにたくさん流れるようになる(正常化する)まで、かなり長い時間がかかる。
 そのように理解することが大切だ。「今はデフレだから、デフレの原因を除けばいい」と考えている人が多いが、そうではないのだ。デフレの原因を取り除いても、それだけではインフレになる保証はない。これ以上はデフレが悪化しない、というだけであり、たぶん、現状維持か、微弱な回復にしかならない。
 では、どうすればいいか? 最初にドカンと勢いを付けてやればいいのだ。単に阻害要因をなくすだけでなく、一番最初に大きな加速要因を加えてやればいいのだ。そして、いったん加速要因を加えて、スムーズに流れるようになれば、あとはもう加速要因は必要ない。(……このことは、「飛行機を離陸させるように、最初はエンジン全開で加速する」という比喩で示してもいい。)
 ともあれ、最初にドカンと勢いを付けることが必要だ。では、具体的には、どうすればいいか?
 経済学的に言えば、不況脱出のための、景気刺激の強い策とは、「減税・バラマキ」および「高めの物価上昇率」である。これらを最初に行なえばいい。そうすれば、景気は急速に回復に向かう。失業・倒産・不良債権・財政赤字などの問題は急激に解決に向かう。病気だった日本経済は、すばやく健全化していく。そして、いったんその流れに乗れば、もはや加速は必要ない。とにかく、最初に、大きな加速が必要なのだ。そのことを理解することが大切だ。
cf. モデルについては、前日分の記述も参照。 → 1月07日c
cf. 減税については → 11月09日(2)

 [ 付記 ]
 ただし、「最初に勢いをつけること」には、副作用もある。自動車でも、急加速すれば、体を後ろに押しつけられる苦しみを味わう。それと同様だ。
 その副作用とは、「物価上昇の辛さ」だ。急激な景気回復を望むのならば、この辛さを耐えねばならない。ただし、この辛さは、実質的なもの(金銭的な損失)ではなくて、「心地が良くない」という心理的なものにすぎない。
 もし、この心理的な辛さを受け入れるのがイヤなら、実質的な痛みを体で味わうほかない。物価上昇のかわりに物価安定を選んで、失業・倒産・不良債権・財政赤字という、現実的な損失を受け入れるしかない。
 日銀の選択は、後者である。ちょっとでも物価上昇の目が出たら、たちまち物価安定をめざして金利を上げる。かくて、失業・倒産・不良債権・財政赤字という痛みを、いつまでも味わい続ける。
 そこで、だ。
 こういうときこそ、真の勇気ある為政者が必要となるのだ。「心の辛さに耐えよう。たとえ心では不安を感じても、その心の不安を克服しよう。それだけの勇気を持とう。現状にとどまるのは容易だが、あえて前に進むだけの勇気を持とう」と唱える為政者が。
 つまりは、小泉とは正反対の人間が必要なのだ。小泉はこう唱える。「物価上昇というのは怖い。だから、尻込みしよう。あくまで現状に留まろう。いくら傷を負って血を流そうと、今の痛みに耐えよう。とにかく、現状に留まろう。そのうちきっと、何とかなるさ」と。
 心の不安にとらわれ、怯えて、びくついて、一歩も前に進めない。いくら傷を負って血を流しても、「痛みに耐えよ、我慢せよ」と言うだけで、何一つ行動できない。こういう人間を、「臆病」と呼ぶのだ。一国の宰相としては、最も不適切な小心者である。

 [ 参考 ]
 現状にとどまっていたために命をなくした例。
 神奈川県の渓流(玄倉川)で、キャンプ場での大事件があった。(1999年8月14日)。 川中の砂州でテントを設営していたら、夜中に増水した。水深が膝ぐらいまでになって、対岸まで渡るのが危険になった。本来なら、危険を冒しても、対岸まで渡るべきだった。しかし、小心なリーダーはびくついて、「現状維持」という方針を立てた。多くの人々は、それに従い、川中の砂州にとどまった。その後、川は急激に増水した。とどまっていた全員は、濁流に流されて命を落とした。……現在の日本は、こういう状況にある。デフレという川の水はどんどん増水しつつあるのだが。


● ニュースと感想  (1月08日b)

 「インフレ目標で示す物価上昇率の値は、低め(1% 〜 3%)がいい」という主張がある。これは、適切でない。このことについて、ふたたび説明しよう。
( ※ 以前も説明したことがある。 → 9月08日「需要統御理論」 簡単解説需要統御理論

 「物価上昇率1% 〜 3% 程度のマイルドなインフレがいい」という主張がある。1月06日c の3冊の著者も、そう主張しているようだ。インフレ目標とは何か、ということを、よく理解していないから、こういう主張をするのだろう。
 彼らの根拠は、「高めの物価上昇は、激しいインフレになるから、副作用が強い。しかし、自分はマイルドなインフレをめざしているから、副作用は弱い」ということだ。
 しかし、「副作用が弱い」ということは、「効き目も弱い」ということだ。はっきり言って、これは「怯えている」「びびっている」のである。医者が患者に対して、適切な薬の量を処方がわからないから、「少な目にしておけば安全だろう」と思って、薬の量を控えめにしているわけだ。しかし、そんなことでは、病気を適切に治せないわけで、正しい処方ではなくなる。生半可なヘボ医者ほど、こういう処方をして、患者の回復を妨げる。
 どうすればいいかを、示そう。

 (1) 初めは、高めの物価上昇率が必要である。
 なるほど、景気が回復したあとでなら、やや低めの物価上昇率でも足りる。しかし、デフレから元に戻す初期には、やや高めの物価上昇率が必要なのだ。
 これは、飛行機の離陸にたとえるとわかる。飛行機は、いったん離陸したあとでなら、弱めのエンジン出力で巡航飛行できる。しかし、離陸する際には、エンジンを全開にして最大出力にする必要がある。ここで「エンジン全開にすると危険かな」などと思うと、飛行機は失速して、飛び立てない。
 そういうものだ。同じ状態(普通の景気)を維持するためには、少ない出力(低めの物価上昇率)で足りるが、状態の変化をする(デフレからインフレにする)ときには、大きめの出力(高めの物価上昇)が必要なのだ。そうしないと、うまく状態の変化を引き起こせないのだ。
 「でも、5%の物価上昇なんて、困る」と思うかもしれない。しかし、さにあらず。現在は、マイナス3%ぐらいの物価上昇率だ。次の年に5%の物価上昇が起こっても、2年を通してみれば、5%とマイナス3%の平均で、1%にしかならない。現在が0%だとしても、5%との平均で、2.5% にしかならない。全然、問題ではないのだ。
 とにかく、デフレから脱出する際には、ドカンと大きな勢いが必要だ。ここで小心になって、びびっていると、経済そのものが失速してしまう。
( ※ 高めの物価上昇が起こると、国民の反対は強くなるだろう。しかし、為政者たるもの、自分が国中の批判を受けても、国を救うべきなのだ)
( → 本日別項 1月08日

 (2) 景気回復後も、生産性向上に匹敵する物価上昇率が必要である。
 景気回復後には、2.5% ないし 3% の物価上昇率が必要である。この値は、世界各国の「インフレ目標」と比べても、順当なものであろう。
 なぜこの値が必要か、と言えば、この値が、生産性の向上率に匹敵するからだ。「生産性の向上率に匹敵する物価上昇率が必要だ」ということは、別途示したので、そちらを参照。話は長くなるし、専門的になるが。 ( → 需要統御理論
 一方、「1% 〜 3% 程度」という値を示す人もいる。しかし、これは、低すぎるのだ。このような値だと、生産性の向上に匹敵しないので、結局は、景気悪化効果が出てくる。つまり、不況へ至る道である。そして、いったん不況になってしまえば、そこから脱出しにくくなる。
 実は、これは、かつて日本がたどってきた道である。90年代前半には、日本の物価上昇率は 2% 程度だった。このとき、「低めの物価上昇率」が実現していたが、同時に、不況になっていた。つまり、2% というのは、「少し上がりの坂」ではなくて、「下り坂」なのである。こうして下り坂を転げていったあげく、物価上昇率は、1% 、0% 、マイナス1% ……というふうに、どんどん下がっていった。
 だから、最初は、3% 程度の物価上昇率を保っていれば良かったのだ。世界各国のように。そして、2% になったら、「景気は悪化した」と判断して、ただちに十分な景気刺激策を採ればよかったのだ。そうすれば、日本は不況の下り坂を取らなかっただろう。
 現実には、そうではなかった。「2% の物価上昇は、インフレだ。これは、物価安定をめざす日銀の方針に反する。0% の物価上昇をめざして、景気を引き締めよう」と日銀は考えた。つまり、不況のさなかに、景気悪化策を取った。
 そういうことだ。「0% の物価上昇率こそ理想だ」という日銀は大きく間違っているが、「2% 程度の物価上昇率こそ理想だ」というマイルドインフレ論者もいくらか間違っているのだ。それらはいずれも、「景気悪化」をめざしているのだ。……なのに、彼らは、そのことに気づかない。なぜか? 「インフレ目標とは何か」ということを、根本的に理解していないからだ。
 マイルドインフレ論者は、「物価が下落すると、景気が悪くなる。だから、物価を少し上げれば、景気も良くなるだろう」と考える。それだけだ。そこには物価上昇のメカニズムに関する、何の理論的考察もないし、数量的な考察もできていない。彼らの主張は、経済理論ではなくて、素人ふうの漠然たる直感的な思い込みにすぎないのだ。それも、小心な。




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「小泉の波立ち」
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