[付録] ニュースと感想 (9)

[ 2002.01.23 〜 2002.02.03 ]   

  《 ※ これ以前の分は、

       8月20日 〜 9月21日
       9月22日 〜 10月11日
      10月12日 〜 11月03日
      11月04日 〜 11月27日
      11月28日 〜 12月10日
      12月11日 〜 12月27日
      12月28日 〜 1月08日
       1月09日 〜 1月22日
         1月23日 〜 2月03日

   のページで 》




● ニュースと感想  (1月23日)

 「景気の良くなる可能性のある政策は、とにかく何でもやってみよう」
 という意見がある。おもしろい。いかにも積極的な態度である。これに対する私の見解を述べよう。
 はっきり言おう。この意見は、あまりにお気楽で、能天気である。たとえれば、危険な路線を進むとき、「とにかく先へ進んでみよう」というものだ。思慮不足のはてに、身を滅ぼす。(たとえば、ペイオフ・量的緩和・円安・不良債権処理が、危険ないし有害であることは、これまで示してきたとおり。)
 なるほど、「怖くて先へ進めない」という臆病な人物もいる。( → 小泉 ) しかし、それとは正反対に、向こう見ずであればいいわけではない。
 では、どうするべきか? 危機に直面したとき、なすべきこと。それは、すくんで動けなくなることでもなく、向こう見ずに進むことでもなく、まず、目を開いて、真実を知ることだ。経済とはどのようなものであるかを、正しく理解することだ。


● ニュースと感想  (1月23日b)

 トイレットペーパー騒動の回顧記事。(読売・朝刊・経済面 2002-01-21 )
 時宜を得た記事である。ただ、事実報道だけで、核心が記していないので、私がまとめておこう。
 「トイレットペーパーがなくなる(減産)」という噂が立った。で、人々はこぞって購入に走った。とたんに、店頭からトイレットペーパーがなくなり、全国で大騒ぎになった。「メーカーはけしからん!」「小売店は商品を隠すな!」という非難がごうごうと起こった。 
 しかし、あとで判明したところでは、「減産」「売り惜しみ」という噂は、事実無根であった。品物は大量にあった。しかし、人々が何カ月分も大量に購入したせいで、急に店頭から消えてしまったのである。メーカーは必死に増産に励んだが、人々が先買いしていたため、ちっとも売れない。騒動の終了後、数カ月間にわたって、店頭のトイレットペーパーは売れ残ったまま、山積みされた。

 この教訓は?
  第1に、「噂が品物を消す」ということ。
  第2に、「信憑性を高める根拠となる事実があると、噂は信じられやすい」ということ。
  第3に、「不安なときほど、人々は妙な噂を信じやすい」ということ。

 ここから得られる結論は、こうだ。「デフレで不安なときに、ペイオフという信憑性のある根拠を与えると、噂が品物(紙幣)を消す」ということだ。── これを「取り付け騒ぎ」と呼ぶ。歴史上、何度も起こったことである。だからこそ、そういう特別な言葉がある。
 賢明な人間は、あえて危険を冒さない。頑固な人間は、愚直に直進し、あえて危険に踏み込む。一国全体の価値よりも、メンツの方が大事なのだ。「ここでひるんでは、メンツが失われる」……そして奈落に突き進む。歴史上、こういう失敗例は、枚挙に暇にない。

 [ 参考 ]
 人々の 69% は、ペイオフの対策を何も考えていない、とのこと。(世論調査による。読売・朝刊 2002-01-22 )
 これもまた、そのときが来たとき、一挙に事態が急変する土壌となる。


● ニュースと感想  (1月23日c)

 ペイオフが近づくにつれ、あちこちでも話題になってきている。(たとえば、朝日・経済面 2002-01-22 )
 そこで、私の見解を述べておこう。「われわれは、どうすればいいか?」について答える。(何だか資産コンサルタントみたいだな。コンサルタント料は無料だが、責任は持てません。)

 (1) なしてはならないこと。
  ・ 不安定な中小の銀行に預けること。
  ・ 1千万円以上を定期預金すること。(ひとつの銀行に。)
  ・ 長期国債を購入すること。(暴落の恐れあり。)
  ・ 外貨預金をして、円高のときに解約すること。(利息も注意)

 (2) なすべきこと。
  ・ 郵貯に預けること。(優良な銀行もこれに準ずる。)
  ・ 1千万円以上は普通預金にすること。( or 分散預金。)
  ・ 比較的短期(2年など)の国債を購入すること。
  ・ 外貨預金をして、円安のときに解約すること。(利息も注意)

 さて。話はこれでは終わらない。これは最も合理的な行動である。で、国民全員がこれを実行すると、どうなるか? ほとんどの銀行が資金枯渇を起こして、金融混乱。長期国債が売れ残って、金融市場も混乱。資金の国外逃避も発生。円安により実質所得が減少して不況はいっそう悪化。国家的には、大混乱で、最悪。
 「各人が合理的な行動を取れば、国全体では非合理な行動となる」……「合成の誤謬」である。不況のときは、これが発生する。だからこそ、不況のときは、ペイオフを実施するべきではないのだ。
 「ペイオフは正しいことだから実施しなくてはならない」というのは、経済学を理解しない人の見解だ。「正しい行動が正しい結果を招くとは限らない」というのが「合成の誤謬」の意味するところだ。(下手をすれば、金融恐慌から、取り付け騒ぎを経て、真の恐慌に転じる。)

  訂正 履歴 
 上記の記述は、4番目の項目が間違っていた(理由の説明が正反対だった)ので、次のように訂正しました。(すでに本文は訂正済み)
 【 誤 】
 (1)   ・ 外貨預金をして、短期で解約すること。(円安の為替リスク。)
 (2)   ・ 外貨預金をして、長期間保有すること。(景気回復後に円高差益。)
 【 正 】
 (1)   ・ 外貨預金をして、円高のときに解約すること。(利息も注意)
 (2)   ・ 外貨預金をして、円安のときに解約すること。(利息も注意)

 ※ この教訓は? 私はコンサルタントには向いていない、ということ。うっかりと注意不足で、金儲けはまったく下手。



● ニュースと感想  (1月24日)

 民主党の党大会。「小泉と対決」との方針を示した。しかし実際にどうするかは混迷。構造改革と景気回復のどちらを優先するかも、不明。(朝刊各紙 2002-01-20 )
 私は前に、「野党は小泉の改革路線に賛意を示すべきだ」と述べた。一方で、小泉の経済政策を批判している。では、私は野党に何を望んでいるか? それを述べよう。
 構造改革という路線それ自体は間違っていない。間違っているのは、路線それ自体ではなく、手法である。「構造改革によって景気回復」という経済方針である。これをひっくり返して、「景気回復によって構造改革」とすればよい。
 つまり、「構造改革か景気回復か」という二者択一そのものが間違っているわけだ。どちらを優先させるかという問題ではなく、順序の問題なのだ。小泉の「構造改革 ⇒ 景気回復」という路線を取れば、構造改革も景気回復もどちらも失敗する。逆に「景気回復 ⇒ 構造改革」という路線を取れば、構造改革も景気回復もどちらも成功する。だから、正しい順序を選べ、というのが私の主張だ。
 そして、この正しい順序を示すことこそ、野党の役割なのだ。小泉に「反対するか、賛成するか」「足を引っ張るか、カゴ担ぎをするか」なんていう、低次元のことを考えている限り、野党はただの抵抗勢力か提灯持ちになってしまう。

 [ 付記 ]
 民主党の小泉批判は? 「抵抗勢力に妥協するのはけしからん」という主張。もっともらしいが、実に情けない。
 昔々、支持率7%の、もてない女がいました。大人気の純ちゃんに盛んに秋波を送りましたが、ちっとも見向いてくれません。「純ちゃんは本当は私を好きなんだ」と信じていたのですが、いつまでたっても交際してもらえません。とうとう、頭に来て、悪口ばかり言うようになりました。「純ちゃんの馬鹿。性悪女とばかり付き合って。私の方が素敵なんだから、こっち向きなさいよ!」
 みじめですね、まったく、民主党って。「小泉の足をすくうのではなく、頭を前に引っ張る」と言っていたころは、とても格好良かった。しかし今や、振られて悪口を言う女。哀れ。 (……党首は北海道出身で、「函館の女」だったかな?)


● ニュースと感想  (1月24日b)

 「ITのせいで景気が良くなる」という説が出回っている。(政府も音頭取り。) で、へそ曲がりの私としては、これとは逆の説を提出したい。「ITのせいでデフレになる」と。

 そもそも、衣食住が満たされていれば、衣食住にかける金はそう変わらないものだ。給与上がったとしても、豪邸に住んで、高級ワインを楽しんで、高額プレタポルテを着る、……というふうには、なりにくい。
 で、普通は、衣食住にかける金はあまり変えない。余裕の金は、教養娯楽費に回す。
 ところが、である。人々は最近、パソコンに向かいっぱなしで、時間をなくしてきている。ほら、これをパソコンで読んでいるあなたも、パソコンに向かいっぱなしでしょう? で、時間がないのだから、他のことをやる時間も減ってくる。読書・映画鑑賞・音楽鑑賞・ビデオ鑑賞……などをすることが減ってくる。そうするには、金がないというより、時間がない。で、そのせいで、各業界の商品が売れなくなる。出版社・映画館・CD会社・レンタルビデオ屋などの売上げが減る。かくて、教養娯楽の需要が減少する。つまり、IT普及のせいで、デフレになる。
 どうです? もっともらしい説でしょう?

 実際には正しいかどうかと言うと、……まあ、少しは正しい、というところか。現在のデフレに寄与する分は、少しはあるだろう。1割ぐらいか? 
 では、人々からパソコンを取り上げれば、景気は良くなるか? それはまあ、極端な仮定だろう。実際には、人々がパソコンに向かう時間を減らせば、……という話になる。
 私見では、人々がパソコンに向かう時間を減らすのは、経済的効果を別としても、好ましいことだ、と思える。読書したり、芸術を鑑賞したり、家庭の団欒(だんらん)を楽しんだり。……そういうのは、好ましいことだ、と思える。実際、小学校では「朝の読書運動」を実施している学校では、子供たちが、テレビゲームに向かう時間が減り、じっくり自発的に読書するようになった。精神が落ち着き、学校の荒廃がなくなり、成績も上昇した。テレビゲームというITを減らせば減らすほど、子供たちは良くなるのだ。同様のことは、パソコン中毒の大人にも、当てはまるだろう。
(「そういうおまえはどうなんだ!」とは、聞かないでね。……それでもあえて答えれば、私はパソコンを、娯楽のためには使いません。せいぜい、小泉の悪口を書いて、うさ晴らしするだけ。標題もそのうち変更するかも。「小泉に腹立ち」)

 [ 付記 ]
 もうちょっと真面目に言えば、「IT化のせいでデフレが深刻化する」ということは、たしかに成立する。というのは、(デフレのときには)IT化によって生産性が向上すればするほど、労働者が不要になるので、失業率が高まるのだ。
( → 詳しくは、明日の記述を参照。)


● ニュースと感想  (1月24日d)

 税制についての論議。(朝日・朝刊・経済面 2002-01-24 )
 「増税」を唱えるのは、「財政均衡」論者。いわゆる帳簿主義。「帳簿をきれいにすれば、景気も良くになる」という信念。その主張は、「増税しよう。国民の金を奪えば奪うほど、総需要が増大する」という倒錯した理屈。
 「減税」を唱えるのは、「小さな政府」論者(中谷巌)。「国は最低限の保証だけをすればいい」という主義。となると、国民は自己防衛のために、貯蓄するしかないですね。「貯蓄すればするほど、消費が増える」という倒錯した理屈。
 ……こんな意見、読んでも、頭が混乱するだけだろう。そこで、約1週間後に、私としても、見解をまとめることとしよう。
《 なお、私の主張は、こうだ。「増税も減税もダメ。今は減税で後で増税、という可変税率が正しい。そうすれば、今すぐの景気拡大と、将来の財政再建が、ともに実現する」。( → 中和政策可変化 ) ついでに、もうひとつ。減税の規模は、両者の唱える2兆円とか 10兆円とかでは、全然足りない。細かな話は、また後日。》


● ニュースと感想  (1月25日)

 不況の原因について、
  「不況は、生産性が向上しないせいだ」
  「不況は、企業収益が悪化したせいだ」
 という説がある。これらの説は正しくない。そのことを説明しよう。(今日と明日で、二日連続。)

  (1) 「不況は生産性が向上しないせいだ」
 「不況は生産性が向上しないからだ、ゆえに生産性を向上させれば不況は解決する」という説である。たとえば、経済財政白書( or 経済財政諮問会議)がそうだ。「構造改革を進めれば、生産性が向上するので、景気が回復する」と主張している。
 もっともらしい説だ。しかしこれは、理屈になっていない。「生産性が向上するから、景気が回復する」なんているのは、全然論理になっていない。なぜか? 彼らが言うのは、「生産性が向上すれば、経済成長率が向上する」という主張だ。しかし、その主張が成立するのは、「需要が十分にあれば」という仮定が成立する場合だ。もし需要が十分あれば、生産性の向上した分、供給が増大するので、経済成長率は上がる。つまり、不況でないときには、その主張は正しい。しかし、不況のときは、その仮定が成立しないのだから、その主張は正しくない。
 たとえて言おう。コップに水をたくさん入れたい。そこで彼らは「コップを大きくすればいい」と主張する。「コップをどんどん大きくすれば、その分、コップに入る水は多くなる」と。その主張は、水(需要)がたくさんあるときは、正しい。コップを大きくした分、入る水は多くなる。しかし、もともと水が足りないときは、いくらコップを大きくしても、無駄なのだ。単にギャップが増えるだけだ。彼らの言い分は、「コップを大きくすれば、水も増える」だ。しかし、そんな馬鹿な話はあるまい。砂漠では、コップはあっても、水はない。今の日本では、生産力はあっても、需要はない。現実を見るべきだ。

 本質は上記の通りだ。ただ、本質とは別に、論理としての問題も、上記の説にはあるのだ。── だいたい、この説は、デフレ対策を説明しているのか? インフレ対策を説明しているのか?
 インフレのときなら、上記の説は成立しそうに見える。「インフレが起こるのは、生産性が向上しないからだ。ゆえに、生産性を向上させれば、インフレは解決する」と。
 なるほど、この意見なら、納得できそうだ。「供給不足を解決するため、供給拡大をする」というわけだ。そのやり方は、インフレのときには、ある程度は効果があろうだろう。しかし、その同じやり方を、インフレとデフレの双方に適用するのは、論理矛盾である。── それはインフレをつぶす効果があるのか? あるいは、デフレをつぶす効果があるのか? 同じ政策を、あるときは「インフレをつぶすため」と主張し、あるときは「デフレをつぶすため」と主張するのでは、論理矛盾である。あまりにもご都合主義だ。要するに、全然、理屈になっていないわけだ。論理というよりは、詭弁であり、錯乱であり、狂気である。

 結局、こうだ。「不況は、生産性が向上しないせいだ」というのは、「インフレは、生産性が向上しないせいだ」というのと、いっしょに主張される。それはつまり、「インフレもデフレも、状況が悪いのは、みんな、生産性の低さのせい」という説だ。「電信柱が高いのも、郵便ポストが赤いのも、みんな生産性の低さのせい」というわけだ。あまりにもご都合主義であり、とうてい理屈になっていない。
cf. 同じような責任のなすりつけは、不良債権処理論者も。 → 1月15日c の最後。)

 上記の説に対する批判は、ここで終わる。つまり、何が間違っているかは、説明し終えたことになる。……ただ、それでは、読者にとって不親切だろう。何が間違っているかはわかった。では、何が正しいのか? つまり、
 「生産性の向上は、インフレとデフレの、どちらに対して有効なのか?
 という疑問が生じるだろう。そこで、その答えを示そう。答えは、次のようになる。──
 実は、生産性の向上は、インフレにもデフレにも、ほとんど影響しない(どちらにも有効でない)。なぜなら、あまりにも規模が小さいからだ。経済財政諮問会議は、「自分たちが『e-Japan』と唱えれば、それだけで、年に3%ぐらい、生産性が高まる」と自惚れている。(→ 1月11日b ) しかし、そんなことはありえないのだ。生産性の向上率は、もともと年に 2%〜3% であり、これに対して(政府の政策で)人為的に上乗せできる量は、たかが知れている。甘く見ても、年に1%程度だろう。実際には、年に 0.1% もない、と私は思う。この程度の小さなものでは、経済的な影響はたかが知れている。
 その一方で、今や需給ギャップは、5%〜10% ぐらいある。これだけ大幅に縮小した経済を、生産性の向上なんていう小幅のもので、埋めることはできないのだ。
 要するに、景気変動というものは大幅なものであり、生産性向上というものは小幅なものであるから、景気変動のための解決策としては、生産性向上は力不足なのだ。対象が、インフレであれ、デフレであれ、その解決のためには、生産性向上は、役立たずなのだ。
 生産性向上は、まったく無意味ではない。小幅の効果はある。長い年月をかければ、「チリも積もれば山となる」で、大きな成果を生むこともできる。その意味で、長期的には、効果がある。しかし、目前の「景気変動」という巨大なものに対しては、あまりにも力不足なのだ。小さな力のものに、巨大な役割を期待するのは、幻想である。
 そして、今の日本の経済運営は、このような幻想のもとで、なされている。

 [ 付記 ]
  ついでに、次の6点を、補足しておこう。
  1.  「生産性が向上しないから、不況になる」というのは、論理が逆になっている。
     正しくは、「不況だから、生産性が向上しない」のだ。その理由は、設備や人員が遊休して、無駄が発生するからだ。(これについては、すでに述べたとおり。 → 11月28日
  2.  生産性が向上すると、かえって不況を悪化させる、という逆効果がある。
     不況のときは、供給が増えると、需給ギャップが開く。これは、効果がないだけでなく、逆効果もある。失業が増えたり、供給過剰で過当競争が起こって原価割れしたり。……生産性向上のメリットが出るのは、不況でないときだけだ。不況のときはむしろデメリットが出るのだ。(先にも述べたとおり、メリットが出るのは、「十分な需要があれば」という仮定が成立する場合のみ。)( → 9月26日 後半 )
  3.  「不良債権処理をすると、生産性の低い分野から、生産性の高い分野に、経営資源が移行する。(ゆえに社会の生産性が向上して、景気が良くなる。)」というのは、正しくない。
     この意見は、経営資源(資金・労働力)が、生産性の低い分野から生産性の高い分野に移行することを、めざしている。そして、「そのためには不良債権処理が必要だ」と主張している。
     しかし、この意見は、根本的な勘違いがある。「経営資源の最適配分」が必要なのは、好況のときなのだ。好況のときなら、経営資源が限定されているので、最適配分する必要がある。しかし、不況のときは、経営資源が余っているのだ。資金も人も、余っている。(その証拠が、ゼロ金利と高失業率。)……こういうときに、「経営資源の最適配分」などは、まったく無意味である。
     つまり、「低い生産性の分野から、高い生産性の分野へ」という意見は、意味をなさない。なぜなら、「生産性ゼロの分野」(失業)が大量にあるからだ。なすべきことは、「生産性ゼロの分野」をなくすべきことであり、その移行先が「生産性の低い分野」であっても構わないのだ。
     ここを勘違いしているのが、不良債権処理論者だ。彼らは、生産性の低い分野をつぶして、「これで生産性の高い分野が成長する」と思い込む。しかし、「生産性の低い分野を取りつぶすと、生産性の高い分野に移行する」ということが成立するのは、不況でないときだけだ。不況のときは、そうはならない。「生産性の低い分野を取りつぶすと、生産性ゼロの分野が拡大する」となるだけだ。……この点を勘違いしてはならない。 ( → 1月15日c
     わかりやすく言おう。論者の主張しているのは、「低収入の仕事は無駄だから、やめなさい」ということだ。しかし、不況のときにそんなことをしたら、失業するだけだ。低収入がイヤなら、無収入になるだけだ。馬鹿げている。「低収入をやめれば、高収入の方に移れる」ということが成立するのは、好況のときだけだ。そんな妄想を、不況のときに信じるのは、あまりにも愚かしい。
     ( ※ 昔話にありそうですね。現状に満足していればいいのに、強欲な爺さんは、より多くのものを求めて、現状を離れる。あげく、すべてを失い、無一文になる。……懲りない人々は、いるものだ。)
     ( ※ 「政府による特定産業への誘導は良くない」ということもある。これは、第3章(後) に述べた。)
  4.  経済成長率を高めるには、生産性よりも、労働力の方が、大きな効果をもつ。
     経済成長率を高めるには、生産性を向上させるよりも、はるかに強大な方法があるのだ。それは、労働時間を増やすことだ。(例: インフレのとき、残業を増やして、供給力を増やす。)
     当たり前のことではある。しかも、である。労働時間を増やすことは、急激に 20%〜30% 程度増やすことが可能であり、著しく大きな供給向上の効果をもつのだ。それに比べて、(政策による)生産性向上による供給向上の効果は、微々たるものだ。(前述の通り、1%以下。)
     そして、ここまで考えれば、「不況脱出のために生産性を向上させよう」という主張が、いかに馬鹿げたものであるか、よくわかるだろう。もしその主張が正しいのなら、(経済成長率を高めるために)「生産性を向上させよう」と言うかわりに、「残業しよう」と言えばいいのだ。残業すれば、供給は拡大するし、(需要が十分にあれば)経済成長率は高まる。また、残業によって、操業率(稼働率)が急激に向上するから、設備の遊休がなくなり、企業の業績は急激に回復する。日本中の赤字企業は、ほとんどが大幅黒字に転換するだろう。
     ただし、それは、「需要が十分にあれば」という仮定が成立する場合に限る。実際には、需要はない。残業して、供給を拡大すれば、大量の売れ残りが発生するだけだ。
  5.  「景気対策には、規制緩和を」というのも、「景気対策には生産性の向上を」というのと同じである。(つまり、無意味。)
     「規制緩和で」というのは、「規制緩和で生産性向上を」と言っているのと同じである。結局、この意見に対する評価も同じになる。
     だいたい、考えてみれば、すぐにわかるはずだ。電器産業や流通産業などは、過当競争でつぶれたり業績悪化したりするところが、続出している。これらの産業には、規制などはほとんどないのだし、今さら何か規制緩和などをしたところで、急に業績が向上するはずがない。「規制緩和をすれば(生産性が向上して)景気が回復する」なんているのは、現実とは何の関係もない、ただの論理的お遊びである。
     昔の日本なら、規制だらけだったが、今の日本は、規制はかなり減っている。銀行や流通などは、規制緩和が遅れていたが、それも近年は、急速に規制緩和されてきた。その成果として、これらの産業では、業績が急速に向上したか? いや、業績が急速に悪化した。今、銀行と流通の株が暴落して、これらの産業は赤字倒産が続出しているが、それは、規制緩和のせいなのだ。温室で保護されていた産業が、急に寒気にさらされれば、病気になるのが続出するのは当然だ。
     で、何が言いたいか? 規制緩和は、それ自体は、悪くはないし、むしろ好ましいことだ。しかし、それは、マクロ経済的に言えば、不況の効果があるのだ。急速に競争が激化すれば、急速に収益が悪化するのは当然である。もちろん、その分、消費者は利益を得るから、こういう競争の激化は、好ましいことではある。とはいえ、その好ましいことが、景気回復効果をもつということはないし、むしろ、逆なのである。「良いことをすれば景気も良くなる」というのは、あまりにも幼児じみた思想だ。経済学というものは、そんなに単純ではない。
    ( ※ 極端な例を示そう。最大の「規制緩和」は、農業の自由化だ。今、これを一挙に実行すれば、輸入が急増し、同時に、国内失業率は急上昇するだろう。食料品の価格が下がるので、消費者にとっては好ましいが、失業率は大幅に上昇する。その失業者に、失業手当を払うとしたら、どうなる? 以前は、農業をして働いていた人が、今度は遊んで、失業手当を得るだけだ。社会全体の効率は極端に下がる。大幅な失業が発生するので、国内需要は急低下し、既存の工業などの産業も、急速に業績悪化する。つまりは、恐慌だ。……「規制緩和」というものは、このように、巨大なマイナス効果を発揮することさえあるのだ。有益な薬も、使う状況を間違えれば、ひどく有害なものとなる。)
    ( → 9月11日c
  6.  生産性向上と景気は、本当はあまり関係がない。
     ここで、まとめてみよう。生産性の向上と景気とは、どういう関係にあるか? 
     実は、生産性の向上と景気とは、ほとんど関係ない、と言っていいだろう。プラス効果もマイナス効果も両方あるので、両者をあわせて、ほぼ中和される。( 「収益力の向上」&「総所得の縮小」/ 「労働時間の短縮」&「 失業率の上昇」 )
     では、生産性の向上は、無意味なのか? いや、効果はある。景気に対して効果があるのではなく、人々の生活の質の向上に効果があるのだ。多くのものを所有できたり、高品質のものを所有できたり、労働時間が減ったりする。そういう効果はある。その意味で、人々は幸福になれる。しかしそれは、景気とは関係ないのだ。景気というのは、需給の関係で決まるものだ。
     つまり、生産性の向上率の変化という微小な変化によってではなく、需要の変化という巨大な変化によって、景気変動が発生する。もっと正確に言えば、生産性の向上による「供給の伸び」に比べて、「需要の伸び」が上回るか下回るかで、インフレ(= 需要過剰)になったり、デフレ(=需要過小)になったりする。つまり、「供給の伸び」自体の絶対的な大小はどうでもよくて、「需要の伸び」と比較しての相対的な大小だけが問題なのだ。 ( → 詳しくは 需要統御理論
    ( 余談。── 「生産性の向上で景気が良くなる」というのは、 「生産性の向上で恋愛がうまく行く」とかいう妄想と同じである。なるほど、それを主張するとき、「風が吹けば桶屋が儲かる」というような論理を、こじつけることはできる。しかし、あくまでこじつけにすぎない。 [例] 生産性の向上 → 会社をクビ → 彼女と会って慰めあう → できちゃった結婚。)


● ニュースと感想  (1月26日)

   ※ 昨日の続きである。

  (2) 「不況は企業収益が悪化したせいだ」
 生産性向上率の不足ではなくて、企業収益の悪化を、不況の原因と見なす説がある。(野口悠紀雄の説。自分のサイト該当ページ で公開している。元は、中央公論 2001年 11月号掲載。)
 この説は、前日の (1) の「生産性が向上しないせいだ」と比べると、対策は、「生産性を向上させよ」「技術水準を高めよ」で同じだが、原因分析は、ちょっと違う。

 不況の原因を考えよう。そもそも、技術の低迷は、不況の理由とはならない。なぜなら、不況は急激に起こるが、技術の低迷は急激には起こらないからだ。たとえば、1991年の日本のバブル破裂にせよ、2001年秋のアメリカのテロ不況も、そこで起こったのは、急激な消費縮小である。これこそが不況の真の原因である。これに対して、「日本はバブル破裂のときに、急速に技術が低下した」とか、「アメリカはテロ不況のときに、急速に技術が低下した」などと主張するのは、馬鹿げている。
 そこで野口悠紀雄は、「内外価格差」を理由とした。しかし、これもまた、急激に起こったわけではない、というのは、たしかだ。バブル破裂後よりはバブル破裂前の方が、内外価格差の拡大は大きかった。(理由は急激な円高。)また、内外価格差は、日本だけではないのだから、内外価格差を理由とするなら、欧米も不況になっている必要があることになる。しかしこれは事実に反する。ゆえに、内外価格差は理由とならない。( → 詳しくは 1月04日b

 以上で示したのは、内外価格差は不況の理由としては「不十分」「根拠薄弱」ということだった。のみならず、「不適切」「間違い」であるとさえ言える。理由は、次のことだ。
 内外価格差は、そもそも、景気悪化の効果をもたない。もう少し正確に言えば、一国全体の産業を、すべて悪化させることはできない。なるほど、部分的には、理由になる。たとえば、繊維産業が収益悪化するのを、内外価格差のせいだと考えてもよい。しかし、一国全体の産業がそろって収益悪化するとしたら、それはもはや内外価格差には原因を求められない。たとえば、輸入品を使う産業(エネルギー産業・小売業・海外旅行業・牛丼屋など)がある。「輸入品の価格が下がれば、これらの産業の収益は好転する」というのが正しい。「収益が悪化した」などと主張するのは、論理が正反対である。
 今は、あらゆる産業の景気が悪い。外国製品との競合にさらされる産業だけでなく、外国製品との競合のない産業(床屋などのサービス業)もそうだし、外国製品の価格が下がると得をする産業(上記の例)も、すべての産業の景気が悪い。こういう状態に対しては、内外価格差は、景気悪化の理由にならないのだ。

 結局、まとめて言えば、こうだ。
 「技術低迷や内外価格差による収益悪化を、不況の原因と見なすのは、正しくない」
 「この両者を原因としたあとで、不況脱出の方法として、生産性向上を唱えるのは、正しくない」
〔 理由は 前日の (1) と同じ〕

 かくて、冒頭の説(「収益悪化が不況の原因だ」と考える説)が正しくないことはわかった。では、この件について、正しくは、どう理解するべきか? 
 その答えを言おう。冒頭の説は、原因と結果が反対になっているのだ。「企業収益が向上しないから、景気が悪い」のではない。「景気が悪いから、企業収益が向上しない」のだ。
 あるとき突然、総需要が1割減になったとする。企業にとっては、売上げが1割減になる。企業収益は、1割どころか、大幅に悪化するし、下手をすると赤字になる。……これが正しい認識だ。
 同様のことは、経済成長率についても言える。次のような意見がある。
 「鉱工業生産は 90年代の10年間で、韓国は2倍、米国も1.4倍と上昇していたが、日本はマイナスだった。このような生産低迷こそ、日本の景気低迷の原因だ」
 という意見だ。しかし、これも原因と結果が反対になっている。生産が低迷したから景気が低迷したのではなく、景気が低迷したから生産が低迷したのだ。供給能力が足りなかったから生産が減ったのではなく、需要が足りなかったから生産が減ったのだ。事情を勘違いしてはならない。

 ついでに言おう。「収益性の悪化が不況の原因だ」という説に従って、「収益性を向上させよう」と努めると、どうなるか? 実を言うと、企業は今まさしく、収益性を向上させようとしているのだ。それは何か? 「リストラ」だ。縮小した経済に対応するため、自らをスリムにしている。設備投資を縮小し、社員を減らす。……こうやって、収益性を向上させようとしている。で、その結果は? ミクロ的には収益性が向上していくが、マクロ的には(総需要が減って)不況がいっそう悪化するばかりだ。
 ここでは「合成の誤謬」が起こっているのだ。個々の企業が「収益の向上」をめざして努力すればするほど、一国全体では「収益の悪化」が進行するのだ。冒頭の説は、そのことに気づいていない。ミクロを良くすればマクロが良くなると思い込んでいる。ミクロの総和がマクロだと思い込んでいる。ここには、根本的な誤解がある。
( → 12月02日 にも同趣旨の野口説批判 )

 [ 付記 ]
  ついでに、次の5点を、補足しておこう。
  1.  「企業収益の悪化は、経営がダメだからだ」というのはおかしい。
     安直な「経営責任」説である。なるほど、個別の1企業の収益悪化ならば、各企業の経営の責任にできる。しかし、国全体の収益悪化は、もはや単なる経営の責任にはならないのだ。
     だいたい、バブルのころも、今と同じような経営体制だったのだ。同じ事情を、好況と不況の双方の理由とすることはできない。(思い返せば、当時、「日本式経営はすばらしい」と浮かれていたんじゃありませんか? 好況も、不況も、電信柱も、郵便ポストも、みんな、経営のせい。)
     根本的に言えば、マクロ経済の動きを、ミクロ経済に責任転嫁するべきではない。バブル期に「日本の企業は優秀だ」と見なすのは錯誤だったが、不況期に「日本の企業は劣悪だ」と見なすのも錯誤だ。マクロとミクロとは、別のことなのだ。この違いをはっきりとわきまえるべきだ。
    ( ※ 余談だが、「日本企業の経営はダメだ」という主張自体は、正しい。ただしそれは景気と関係ないのだ。「うちの亭主はぐうたらだ。だから日本の景気は悪い」という女房の説と同じである。)
  2.  「技術水準を高めよ」などというのはおかしい。
     「不況から脱出するため、技術力向上に努力すべし」というのが冒頭の説だ。しかし、これは、マトはずれである。
     そもそも、技術力の向上は、不況であれ、好況であれ、常に必要なことだ。不況だからといって、急になすべきことではない。
     また、技術力を向上させた(生産性を向上させた)からといって、不況が解決するわけではない。そんなことは需要不足のときには無意味なのだ。(前日分で述べたとおり。)
     また、政府やエコノミストが「技術力向上」なんて唱えても、効果はゼロである。だいたい、「技術力向上の必要性」なんで、いちいち言われなくても、企業は日夜努力しているのだ。いちいち偉そうに主張するのは、口幅ったいというものだ。
     ためしに、ソニーやホンダの研究所にでも行って、「技術の向上が必要だ。これは私の独創的な経済学説だ」などと講演してみるがいい。たちまち、反論されるだろう。「おれたちは日夜、骨身を削って、努力しているんだ。そういう苦労も知らずに、口先だけで号令を出すのは、最低の人間だな」と言われて、叩き出されるだろう。 ( → 1月12日 「e-Japan」 )
  3.  不況は技術水準を低下させる効果がある。
     不況脱出のためであれ、好況持続のためであれ、とにかく、技術水準の向上は必要だ。ただし、それが不可能になることがある。技術水準の向上の必要性はよくわかっているのだが、やりたくてもできなくなることがある。それが不況なのだ。
     なぜなら、不況のときは、成長が損なわれる(売上げが減少する)せいで、事業規模の縮小や研究開発費の低下が生じるからだ。
     例証はある。朝日新聞・朝刊・経済面 2002-01-18 によると、工作機械の分野では、日本企業の世界シェアが、近年、大幅に減少している。国内需要が大幅に減少したことで、日本企業の売上げも大幅に減少している。その間に、世界市場で、外国企業は急成長している。外国企業は規模も研究レベルも急成長するが、日本企業は売上げも利益も研究費も減少しつつある。日本は不況のせいで、体力と競争力をなくしていく。
     諺にもある。「貧すれば鈍す」。これが今の日本だ。
     結局、話は逆なのだ。「不況脱出のために技術水準を向上させよ」と言うべきではなく、「技術力向上のためにこそ、今すぐ不況を解決するべきだ」と言うべきなのだ。それこそが経済学の役割なのだ。話の根本を勘違いしてはならない。
    ( ※ 前項で述べたことと照らし合わせると、先の経済学者の説がいかに傲慢尊大であるかがわかる。本当は経済学者が景気を悪化させたせいで、日本の技術水準がどんどん低下している。なのに、「おまえたちが技術向上をサボっているから、こっちの景気まで悪くなる」と主張する。自分で失敗しておきながら、他人に責任転嫁するわけだ。人間として、最低である。)
  4.  技術向上による効果はたかが知れている。
     「技術向上はすばらしい」と期待をかけるのは、あまりにも期待過剰というものだ。技術向上にせよ、生産性向上にせよ、毎年、少しずつ向上するものだ。生産性が急激に向上するということは、まずありえない。
     さらに、経済が急激に変化する、ということは、もっとありえない。質的に大きな変化があるとしても、金額的に大きな変化はないのだ。(例: パソコンの性能が激変することはあっても、パソコンの価格が激変することはない。ハードディスクの性能が急激に向上することはあっても、ハードディスクの価格が急激に低下することはない。メモリの価格が急激に低下することはあっても、人々の購入するメモリの代金が急激に縮小することはない。デジカメの売上げが急上昇することはあっても、その分、従来型カメラの売上げが急減して、総和はあまり変わらない。……理由はいずれも同じ。財布の中身が限られているから。)
  5.  ITによる効果もたかが知れている。
     「ITによって経済が成長する」と主張する人もいる。しかしこれは、正しくない。
     なるほど、90年代のIT化は、たしかに広範な影響を及ぼした。ある意味では、人々の生活を大きく変化させたと言える。しかし、それでも、90年代のIT化が経済に及ぼした影響は微小であったのだ。「アメリカでは 90年代にIT化で成長率が大きく上がった」と主張する人は、「日本では 90年代にIT化があっても成長率は下がった」と主張するのを忘れている。「日本はIT化が遅れていたからだ」と主張しているようだが、そんなことはあるまい。日本でもIT化は急速に進んでいたのだ。パソコンやインターネットは、日本でも90年代後半に急激に普及したのだ。にもかかわらず、日本の90年代後半の経済成長率はマイナスだった。
     そういう事実を直視するべきだ。政府は今、「 e-Japan によって、今後、大幅な生産性向上があるので、景気が回復する」と唱える。呆れるほかない。90年代後半よりも大きなIT化が、今後数年間に起こるだろうか? 90年代後半なら、Windows95 やらインターネットやら、さまざまなものが急激に普及した。しかしそれらはもう普及してしまったのだ。なのに、今後数年間で、それより大幅IT化がなされることが、あるだろうか? もちろん、ありえまい。IT化に(というか科学技術に)、巨大な妄想をいだくのは、文科系の人間特有の誤解である。
     なお、アメリカの 90年代の成長について、補足しておこう。80年代と比較すれば、アメリカの成長率はかなり向上したが、その原動力となったのは、IT化よりは、むしろ、品質向上運動[QC]だろう。80年代の米国製品は、粗雑品だったが、90年代には、品質が大きく改善された。もしこれがなかったなら、アメリカは 90年代に、IT化によって製品をどんどん生産したとしても、みんな粗雑品になったはずだ。(某MS社のように、とは言わないが。)
    ( → 第2章 IT化」


● ニュースと感想  (1月27日)

 不良債権処理をめぐる話題2件。

 (1) 韓国の不良債権問題 (朝日・朝刊・経済面 2002-01-25 )
 韓国では、不良債権問題が、国の公的資金投入によって解決した。ただし、コストも莫大で、公的資金の回収率はせいぜい5割ほどになる。というのも、投入した公的資金のうち大半が、銀行経営悪化により、回収できなくなったため。国民負担は莫大になる。……というのが、記事の要約。この記事は基本的には、「不良債権処理は大事だ」という主張のようだ。
 しかし、ここでは、一番肝心な点が抜けている。「そもそも韓国には、バブル破裂後の大不況などは存在しなかった」という点だ。不況は、通貨危機によるもので、一時的なものであった。大幅な通貨安が生じたが、これは、混乱を生むと同時に、輸出に有利な状況となった。ともあれ、経済は急激に回復していった。(日本がぐずぐずしている間に、韓国のIT産業は急成長した。また、自動車も、米国で非常に大きなシェアを取るようになった。あれやこれや。前日に記述した韓国の成長率も参照。90年代に2倍になったのだ。)
 つまり、「不良債権処理」の前提となる「景気回復」が一応成立していたのだ。ここが日本とは大いに異なる。記事は、この一番肝心な点を、見過ごしている。
 そもそも、不良債権処理は、「するか否か」の問題ではないのだ。「できる」のならば、早くした方がいいに決まっている。問題は、「できるか否か」だ。つまり、景気が回復していないときに、「できないのに、それでも無理にやるか否か」だ。
 たとえて言おう。寝たきりの病人は、今すぐ借金を返済するべきか否か? 借金返済を急いで、無理して働く方がいいか。それとも、健康を回復してから、働く方がいいか。……そこが争点となっているのだ。
 「重病人が無理して働けば、またぶっ倒れる」というのが、(不良債権処理の)延期論者の意見だ。なのに、記事は、ごく軽い病人の例を持ち出して、「早く借金を返済するといいですよ、ほら、こんなに」と報道する。ほとんど捏造(ねつぞう)と言ってもいいくらい、ひどい記事だ。

 (2) 書籍「日本経済の罠」の著者による論説 (朝日・夕刊・文化面 2002-01-25 )
 「不良債権処理をする理由は?」という質問に、「そうしないと信頼(コンフィデンス)が損なわれるから」と答えている。「失敗した企業が退場するというルールを厳格に守られないと、ルールに対する信頼が損なわれる」というわけだ。
 なるほど、それはそうだ。しかし、「ルールを守れ」なんて、そんなことはいちいち言わないでほしい。幼稚園児じゃないのだ。いちいち言われなくても、誰だって知っている。
 しかも、である。そもそも、この緊急時において、ルールなんていうものが、どれほど大切なのか?
 彼は「ルール至上主義」だから、ルールという「神聖不可侵なもの」を損なうことを恐れているのだろう。しかし本来、ルールなんてものは、どうでもいいのだ。ルールのために人間があるのではない。人間のためにルールがあるのだ。
 そもそも、「ルールを守るべきだ」というのは、経済学というより、宗教論または人生論または倫理である。「悪法もまた法なり」と言って毒を飲んだソクラテスの立場を、取るべきかどうか、という問題だ。「間違ったルールもまたルールなり」と信じて、「日本を破壊してもいい」と彼は結論するわけだ。しかしそれは、経済学ではなく、宗教的信仰である。(宗教的信仰ゆえに国家破壊をめざしたテロリストもいましたね。実にそっくり。)
 結論。経済学者がなすべきことは、国家を破壊するような間違ったルールを尊重することではない。「神とルールは神聖不可侵だ」と唱えることではない。「どうすれば、どうなるか」と実証的に考察することだ。景気回復策としても、「ルールを守れば新しい産業が発展する」などという無根拠な妄想を示すことではなく、「需要がなければ新しい産業も発展しない」と事実を示すことだ。
( → 1月16日 の書評 )

 [ 付記 ]
 この「ルールに従って不良債権処理をせよ」という原則論の、一番ずるいところは、現実の適用例が抜けているところだ。
  ・ 「ダイエーをつぶせ」
  ・ 「NECも富士通もつぶせ」
  ・ 「赤字のIT企業をみんなつぶせ」
  ・ 「不良債権処理のせいで資金枯渇した銀行もつぶせ」
  ・ 「あれもこれも、みんなつぶせ」
 当然、そのように言うべきだろう。なのに、そうは言わずに、原則論を言うばかりだ。
 なぜ、「ダイエーをつぶせ」と声高に言えないのか。なぜ「大銀行をどんどんつぶせ」と言えないのか。危機に直面したとき、自分の主張もろくに言えないようなら、卑怯とか臆病とか呼ばれても仕方あるまい。


● ニュースと感想  (1月27日b)

 朝日新聞記事のおかしなところ、2件。(朝刊 2002-01-26)

 (1) 社説
 「ホームレス対策の法案を」という主張。「ホームレスの人がかわいそうだから、対策をしよう」という人道的な意見。……と思ったが、その理由は、「構造改革を進めると失業者が生じる。そのためにはホームレス対策を」だって。
 つまり、「失業者をもっと増やせるように、失業者対策をしよう」というわけだ。本末転倒。今は、「失業を起こさないこと」つまり「景気回復をすること」こそ、必要なのだ。
 だいたい、就職先がない状態なのに、「就業訓練をすれば、就職できる」と主張するのも、おかしな妄想だ。狂気と妄想。

 (2) 経済面記事
 「景気回復策」として「減税」という選択肢を示した。そこまではいい。だが、それを批判する。理由は、「減税は日銀による財政政策だから」だって。それを日銀の当局の言葉であるように報道する。
 ひどい捏造(ねつぞう)だ。日銀が批判したのは、「減税」ではなく、「日銀による土地の買い上げ」であり、それを「日銀による財政政策だ」と批判しているのだ。なのに勝手に、両者をいっしょくたにする。捏造記事。
 だいたい、経済学の基礎を考えれば、すぐわかるはずだ。減税は、政府による政策であり、日銀の政策ではない。これまで何度もやった減税は、政府がやったのであり、日銀がやったのではない。また、赤字国債の発行も、政府や立法府の問題であり、日銀の問題ではない。この記事は、経済学の初級さえも理解しない、ひどい無知とデタラメである。

 [ 余談 ]
 同じ日の読売・経済面も、奇妙奇天烈な意見。(これは記事ではなく、エコノミストの談話。)
 ・「円安にせよ」という意見。(デフレをやめて、スタグフレーションにしよう、という意見。既述。)
 ・「預金に課税せよ」という意見。(呆れて、論評する気にもなれない。)


● ニュースと感想  (1月27日c)

 新聞協会の漢字使用に関して、読売が独自の方針。これらの追加漢字は、使うことは使うが、難読な漢字にはルビを付ける、とのこと。(読売・朝刊 2002-01-26 )
 妥当である。なお、この件については、私は朝日の方針を批判したことがある。( → 1月26日


● ニュースと感想  (1月27日d)

 日本人の大人の科学知識は、先進国 14カ国中 12位。(朝日・朝刊 2002-01-26 他 ,朝日・天声人語 2002-01-27 )
 これを憂慮する意見がある。しかし、この数値は、統計的にはまったく無意味である。
 なぜか? 調査は単なる ○× 式の問題だ。まったく無知の人間を対象とすれば、 ○× をデタラメに答えるので、正答率は 50% となる。さて、今回の日本人の誤答例を見ると、「抗生物質はウィルスに有効か」などの難問に対して、正答率が極端に低い( 23% )。
 これはつまり、「日本人の科学的知識がない」ことを意味しているのではなくて、「間違った科学的知識に汚染されている」ことを示す。仮に、統計的処理をするのなら、 50% を割る項目はすべて「 50% 」と扱った上で、処理するべきだろう。(通常の答案で言えば、誤答は「0点」と見なすべきであり、マイナス点を付けるべきではない。)
 統計というものは、簡単に人をだませるのだ。今回の教訓は、「科学的知識を計測する」という調査自体が、非科学的であった、ということだ。
( → 12月05日b 国際学力テスト )


● ニュースと感想  (1月28日)

 バーチャルカンパニーについて。
 「バーチャルカンパニー」というものを提案する。(こういう言葉はすでに一部で使われている。 → [ 付記 ]
 ここで私の提案するものは、「仮想オフィス」「仮想チーム」のように「場所をもたない」という意味ではなくて、「組織そのものが仮想的である」ものを言う。具体的には、次の2種類である。
 (1) 既存の会社組織を解体して、小組織の集合体とする。
 (2) 既存の小組織を合体して、新たに大きな会社組織を作る。

 作り方は上この2種類があるが、いずれの場合も、「小組織を合体して作った、仮想的な大組織」という点が共通する。
 (1) の例に近いのは、「持ち株会社」だ。実体のほとんど無い「持ち株会社」のもとで、各カンパニーが独立して行動する。同様の実例は、まさしく「バーチャルカンパニー」と称して、すでにいくつか見られるようだ。
 (2) の例は、弱小の会社が形式的に合体するものだ。これにより、大会社としてふるまうことができ、しかも、経営の独立性は保てる。

 私の眼目は、 (2) にある。具体的には、弱小出版社の問題(朝日・朝刊・投稿面コラム 2002-01-28 )の例がある。弱小出版社は、大手出版社に比べて、取引面で冷遇されている。「差別をなくせ」と弱小出版社は言うが、取り次ぎ会社にしてみれば、手間やリスクの負担を負う以上、中小出版社に対して、大手出版社並みの取引条件を出すわけにはいかない。当然のことだ。差別ではない。
 この問題は、「バーチャルカンパニー」を使うことで解決できる。弱小出版社が形式的にバーチャルに合体して、「合同出版社」をつくる。編集や財務の独立性を保った上で、最終的な印刷物の流通面だけを合同化する。……こうすれば、取り次ぎ会社にとって、大会社と取り引きしているのと同じだから、大会社並みの取引条件を提示できる。

 「バーチャルカンパニー」というのは、従来は不可能だった。高度な通信機能が実現できた現在でこそ、可能なものだ。IT化というものは、こういうふうにして使うものだ。「e-Jpapan ,e-Jpapan」と政府が号令して、それで済む、というわけではない。

 [ 付記 ]
 「バーチャルカンパニー」という言葉は、次の4通りで使われているようだ。
  (a) 高校の授業での「模擬企業」
  (b) 企業内の仮想組織。バーチャルチームと同じ。
  (c) 複数企業にまたがる仮想組織で、 (b) の変形。
  (d) 私が本項の (2) で述べたような意味。
 なお、参考文献もある。 → 学生の卒論研究


● ニュースと感想  (1月28日b)

 野口悠紀雄の論説。(中央公論 2002-02 号。 なお、1月14日 の野口説も参照。)
 この論説はなかなか興味深いので、コメントしておこう。(私はこの人を何度も批判するが、別に嫌いだからではない。取り上げるに足る話題を提供してくれるからである。批判することで、真実が見えてくる。詭弁ばかりを言う先日の誰かとは大違いだ。)

 野口悠紀雄の話では、次の (A) (B) (C) (D) の4点が問題だ。この4点について批判しておこう。(いかにも正しそうに見える意見なので。なお、野口説は、引用ではなく、大意。)


 (A) 「企業収益が悪化したのが、不況の原因だ」
 これについては、前々日の 1月26日 を参照。独立して説明しておいた。

 (B) 「日本と中国は、物価や賃金の差があるから、その差を縮小するために、日本で物価下落(デフレ)が起こるのは当然だ」
 これについては、明日の 1月29日 を参照。独立して説明しておいた。

 (C) 「インフレは個人会計から政府会計への所得の移転が起こる。これは増税と同じだ。ゆえに、けしからん」
 これについては、明後日の 1月30日 を参照。独立して説明しておいた。

 (D) 「実体経済の悪化は、実体経済を改革することによってしか改善しない。ゆえに、マクロ政策なんかより、構造改革が大事だ」
 野口悠紀雄はこのように「構造改革」を唱える。小泉も同様である。
 しかし、である。構造改革をするには、どうすればいいのだ? そこを理解していない。小泉流に「ダメな企業を退出させよ」とか、「在来型の産業を退場させ、新しい産業を興すべきだ」とか、主張しているようだ。しかし、それだけでは、ダメな企業はどんどん退出していくが、新しい産業は興らないのだ。つぶれるところはあっても、生まれるところはないのだ。「つぶせば、その分、生まれるだろう」と考えているのだろうか? それはもはや、経済学ではない。不況のときなら、「つぶれる企業が出れば出るほど、不況は悪化して、生まれる企業はどんどん減る」というのが経済学だ。
 「つぶせば、その分、生まれる」ということが成立するのは、総需要が拡大している場合のみだ。不況のときは、それが成立していない。だから、それを成立させるために、マクロ政策が必要となるのだ。
 たとえて言おう。野口医師なら、「病気を治すには、病原菌を退治するのが根本的な対策だ」と主張する。しかし、そんなことは、誰だってわかっているのだ。その先のこと、つまり、「病原菌を退治するにはどうするか」が問題なのだ。そこで、病原菌をやっつけるための「マクロ政策」という名前の薬を飲まそうとする。すると野口医師が反対する。「薬を飲ますなんてのは根本的な対策ではない。病原菌を退治するのが根本だ」と。……なんか、話がずれていませんか?
 構造改革をすれば景気が回復するのではない。景気が回復しなくては構造改革が進まないのだ。構造改革を進めるためにこそ、景気の回復が必要なのだ。……そこのところを理解していないと、企業がどんどん倒産して不況が悪化していくのを見て、「これで景気が回復する」と喜ぶ 変人首相 も出てくる。「病人を死なせてしまえ、そうすれば病原菌は死に絶える。これぞ進化論」と言うようなものだ。もう、絶句。
( → 10月06日構造改革との関連

 [ 付記 ]
 野口説(供給サイドの説)を批判する経済学者は、かなり多い。その批判は正しい。しかし、そういう批判をする経済学者たち自身の意見はどうか? 実は、これもまた、おかしいことが多い。(たいていは、マネタリスト。)
 彼らは、「インフレ目標 & 量的緩和」を唱える。しかし、そんなことをやっても、需要は増えないし、実体経済は変化しない。(なぜなら「流動性の罠」があるから。) その意味で、「マクロ政策なんかダメだ」と逆批判する野口説も、正しい。
 要するに、野口悠紀雄も、マネタリストも、相手に対する批判は正しい。(つまり、相手の欠点はよく見える。) しかし、自分自身の説は、どちらも間違っているのだ。では、彼らに共通する欠点は、何か? 
 今のデフレは、需要縮小に原因がある。だから、めざすべきは、需要拡大なのだ。なのに、その本質を忘れている。「生産性を上げよう(そうしてさらに供給を増やそう)」とか、「物価と賃金を中国並みまで下げよう(日本を中国並みの途上国にしよう)」とか、「お札をいっぱい印刷しよう(それを国民には渡さず、倉庫に積み上げよう)」とか、そんな脇道ばかりを狙っている。……しかし、大切なのは、「需要拡大をめざすこと」だ。もっとはっきり言えば、「需要のコントロールをめざすこと」だ。そして、これを直接めざす以外に、不況脱出の道はないのだ。彼らはそこを理解していない。
( → 「需要統御理論」

 [ 参考 ]
 野口悠紀雄を含む経済学者の議論がなされた。その議事録がある。長たらしいので、お暇な人向け。
    → ESRI 経済政策フォーラム


● ニュースと感想  (1月29日)

 「日本と中国は、物価や賃金の差があるから、その差を縮小するために、日本で物価下落(デフレ)が起こるのは当然だ」
 野口悠紀雄がこう主張している。( → 前日の (B)
 この件は、むしろ、読売新聞のコラム(朝刊・経済面・けいざい講座 2002-01-14 )の論説の方が正しいことを言っている。そこで示しているのは、「中国の通貨は、為替レートが購買力平価よりも下がってきているから、将来的には通貨切り上げがなされるだろう」という主張。これは正しい。
 「中国の競争力が怖い」と恐れている人が多い。しかし、中国の競争力が強まれば、その分、通貨は切り上げられるのだ。だから中国製品が、技術力を大幅に向上させたとしても、日本になだれ込んでくるようなことにはならない。その分、中国の通貨が切り上げられるだけだ。
 こう理解すれば、野口説の間違いもわかるだろう。日本と中国に物価や賃金の差があるのは、通貨の価値の差があるからだ。なぜそれだけの差があるかといえば、中国の競争力が弱いからだ。そして、中国の競争力が強まり(あるいは日本の競争力が弱まり)、物価や賃金の差の縮小が必要になるとしたら、それは、物価下落や物価上昇ではなくて、通貨レートの変更によって起こるのだ。
 「価格の差があれば、それを埋める方向に進む」というのは、基本的には正しい。しかし、その「埋め方」を野口悠紀雄は誤解している。個別の商品なら、「価格下落」という形を取ることもあるだろう。しかし、一国全体で見れば、この差を埋めるのは、「物価下落」ではなくて、「通貨レートの変更」なのだ。たとえば、中国製品がなだれのごとく日本に流入したら、中国の通貨の価値は上がり、日本の通貨の価値は下がる。それが正しい解釈だ。(なお、現実には、両国の間で通貨レートはさして変わっていない。というのも、中国の製品が日本になだれ込んではいないからだ。というのも、中国の製品の競争力がたいして強くはないからだ。)
 中国製品の競争力がそのうち強まるとしても、それによる物価下落圧力など、気にかける必要はない。むしろ、事実は逆なのだ。もし中国製品の競争力が強まれば、円は相対的に下がるので、輸入物価が上がり、インフレ圧力となる。
 結局、中国製品によるデフレなど、ありえないのだ。そもそも、日本中でどうなっているかを見るがいい。繊維産業なら、中国製品との競合にさらされているだろう。しかし、IT,建設,不動産,流通,証券,銀行,……などのほとんどの産業が赤字経営となっているのは、中国製品の価格下落がこれらの産業に及ぼした影響のせいではない。「安い中国製品が流入したから、日本の地価や床屋代が下がった」なんて、「風が吹けば桶屋が儲かる」よりもひどいジョークである。
 もうひとつ。「あらゆる国内生産が中国製品との競争にさらされる」というのも、ひどいジョークである。いったい、いつ、中国が高度な工業製品を作れるようになったのか? たとえば、高級車のセルシオやシーマと張り合う製品があるのか? 中国製の半導体製造装置(ステッパー)などがあるのか? もちろん、ない。「あらゆる国内生産が中国製品との競争にさらされる」ということは、ありえないのだ。何もかも中国製品のせいにすることはできないのだ。電信柱も、郵便ポストも、中国製品のせいではないのだ。
 今のデフレは、需要不足に起因する。その本質を捉えない限り、認識を誤る。

 [ 補足 1 ] 技術力と円高
 この件に関して、補足しておこう。
 「中国製品は価格競争力があるから、日本は技術力で対抗しなくてはならない。(だから改革や教育に力を入れよ。)」というのが野口説だ。いかにも、もっともらしい。しかし、この説は、根本的におかしい。
 仮に、日本が技術水準を高めたとする。すると、日本の競争力が強くなり、円が強くなり、通貨レートの差が開く。だから、かえって中国との価格差は開くのだ。つまり、「価格差に対抗しよう」とすればするほど、かえって価格差は大きくなるのだ。これでは、何をやっているのか、わけがわからなくなる。本末転倒と言うべきだろう。「岸に向かって泳ごう」と思って、沖に向かって泳ぐようなものだ。
 このことを別の言い方で、説明もできる。「内外価格差を埋めるために、物価水準や賃金は下がるべきだ」と主張する一方で、「技術力を高めよ」(そうして円高にせよ)と主張するのは、論理矛盾である。なぜか? 日本を中国並みにしたいのなら、技術水準を中国並みに落とすべきだし、日本の技術水準を高めたいのなら、日本物価や賃金が高まるのを甘受するしかないのだ。(さらに、仮に、「円安と高技術の両者をともにほしい」と望むなら、強力な円安介入が必要となる。その結果は、過剰なマネーによるバブルの再発である。そしてそのバブルが破裂して、大不況が訪れる。)
 結局、野口悠紀雄は、経済学というものを全然理解できていないのだ。たしかに、「日本の技術水準を高めよ」というのは正しいし、「そのために改革や教育をうまくやれ」というのも正しい。しかしそれは、「内外価格差があるという問題を解決するため」ではなくて、逆に、「内外価格差を大きくするため」(= 通貨レートの差を開くため = 円高にするため = 日本の富を増すため)なのだ。つまり、話は正反対なのだ。
 なお、単に中国との価格差に対抗するだけなら、話は簡単だ。日本の技術力を上げる必要もないし、日本をデフレにする必要もない。(経済弱体化を放置して)円安にするだけでいい。つまり、日本人の実質所得を低下させればよい。しかし、円安(つまり実質所得の低下)というのは、もちろん好ましいことではない。(円安というのがいかに悲惨な状態かは、大幅に通貨下落したアルゼンチンを見ればわかるだろう。インフレ・実質賃金低下・債務急増など。)
 ついでに言っておこう。野口悠紀雄は「世界的な価格体系」というものを持ち出して、内外の価格が1点に収束すると思い込んでいる。しかし、品質差を無視した「世界的な価格体系」なんてものは、ありえないのだ。当然、収束すべき1点などはない。内外価格差は、常に存在する。しかも、その差は、大きければ大きいほど好ましいのだ。それは経済力の強さ(= 円高 )を意味するからだ。 ( → 1月04日b 「水の高低差のモデル )

 [ 補足 2 ] 空洞化
 「日本の空洞化が心配だ」という説がある。(たとえば、貿易黒字の縮小を報じる記事。夕刊各紙 2002-01-24 )
 しかし、これも話は同様だ。空洞化すれば、貿易黒字が減るので、円安になる。それが日本の貿易黒字を増やす方向に働く。というわけで、結局、うまく均衡する。「産業がすべて逃げていって、日本が空っぽになる」ということは、ありえない。
 だいたい、こんな心配は二十年ぐらい前から、ずっと言われていた。貿易黒字の幅は、5年周期ぐらいで、増えたり減ったりするが、減るたびに、「狼が来る、狼が来る」と叫ぶ人が出てくるわけだ。うんざり。
 ついでに言えば、「中国の黒字が大幅に増加する」と叫ぶ人もいるが、中国の黒字なんて、いくらか増えただけだ。はっきり言って、必要量に達していない。莫大な借金をしていて、それを返済する必要があるので、大幅な黒字が必要なのに、その必要量に達していない。この程度の黒字を騒ぎ立てるのも馬鹿げている。
( ※ 日本の対中赤字は、かなり大幅だ。これを見て、「空洞化だ」と大騒ぎする人もいるが、誤解である。第1に、日本の対中輸出は、香港経由もののが別途あるので、それも考えれば、赤字幅はたいしたことがない。第2に、中国は日本からの借金を返すためには、対日貿易を黒字にする必要がある。日本に輸出して、金を得て、その金を、日本への借金返済にあてるわけだ。金はぐるりと回って、日本に戻ってくる。第3に、貿易収支は、二国間だけで考えるべきではない。日本は対米貿易では、大幅黒字なのだ。これを見てから、「空洞化だ」と騒ぐべし。)

 [ 補足 3 ] 産業別の差
 なお、初歩的な解説を加えておく。
 マクロ的には、前述のことで言い尽くされている。しかし、個々の場合に、それがそのまま当てはまるわけではない。産業別の差というものもある。
 たとえば、軽工業では、中国製品が価格競争力ゆえに強い。高度技術分野では、日本製品が技術力ゆえに強い。そういうふうに、産業別の濃淡は現れる。先に述べたことは、こうした産業別の差をならした上での、マクロ的なことのみである。
 なお、繊維などの軽工業だけに着目すれば、中国製品が価格競争力によって圧倒すると見える。視野を狭くすれば、野口説は正しいわけだ。実際、彼自身、そうしているのだろう。「物事の一部分だけを見る」というのは、多くの経済学者の陥る穴である。 ( → 12月11日
 ついでに言えば、軽工業分野でも、日本製品は中国製品につられて「価格下落」することはない。単に競争力をなくして淘汰されるだけだ。

 [ 付記 1 ] 景気と円高
 野口悠紀雄は、円安については、そのデメリットを正しく理解している。なのに、円高(= 内外価格差の拡大)については、そのメリットを正しく理解できない。どうも、自分で自分の言っていることがよくわかっていないようだ。そこで、説明してあげよう。
 「円安は日本の富の減少を意味する」というのは正しい。となると、「円高は日本の富の増大を意味する」ことになる。だから、内外価格差が拡大して、外国製品が安価になればするほど、日本は得をして、富が増えるのだ。そして国民は幸福になるはずなのだ。
 実際、大幅な円高直後のバブル期には、そうだった。輸入される肉や果物や繊維製品を、大幅に安く買えるようになったので、消費者は大幅に得をした。内外価格差が広がるというのは、実にありがたいことなのだ。
 では、それが景気に及ぼす影響は? 内外価格差の拡大は、生産者にとっては、価格下落というデフレ効果をもつ。消費者にとっては、実質所得の増大(富の増大)によって、インフレ効果をもつ。(たとえば、食費が少なく済むので、電器製品の購入が増える。結局、差し引きして、ほぼトントンである。インフレまたはデフレの方にいくらかぶれることはあるとしても、一国経済全体を、インフレまたはデフレの側に大きく傾けるほどの力はない。
 つまり、一国の景気に大きく影響を及ぼすのは、為替レートや内外価格差ではなくて、別のものなのである。

 [ 付記2 ] 景気と心理
 では、景気を変動させるのは、何か? もっとはっきり言えば、需要を大きく変動させるのは、何か?
 答えを言おう。それは、「消費心理」である。「心理などが経済を動かすものか?」という疑問も生じるかもしれない。しかし、そうなのだ。たとえて言えば、小さな船の乗客のようなものだ。二十人ぐらい乗れる船がある。その右側に乗客が片寄れば、船は右に傾く。その左側に乗客が片寄れば、船は左に傾く。乗客の好き勝手な心理による、好き勝手な行動が、船を揺らすのだ。そして、人間というものは、常に集団的な同一行動を取りがちだ。うまくばらけるということは、あまりない。右に寄るときはそろって右によるものだし、左に寄るときはそろって左によるものだ。かくて一国経済という船は、大きく左右に揺れるのである。人間心理ゆえに。
 そして、マクロ経済学というものは、人間心理に作用することで、人々の行動を片寄らせないようにして、一国経済を安定させるためにあるのだ。
( ※ 「景気循環という規則的な上下動がある」と信じている人もいる。しかしそれは、経済学というよりは、ジンクスを信じる人の予想ごっこのようなものだろう。一種のお遊びである。景気変動の本質は、「不安定であること」に尽きる。右に寄ったり、左に寄ったりするので、そこに何らかの規則性が見出されるように思えることもある。しかしそんなのは、統計のお遊びにすぎない。ランダムな数列に勝手に規則性を発見して得意がるようなものだ。景気変動の本質は、「不安定であること」であり、それゆえ、この「不安定さ」をなくすのが、マクロ経済学の目的となる。……このあたり、根本的に誤解している経済学者が多いようなので、注意しよう。「マクロ経済学の目的は、ミクロ経済を効率化することだ」などと信じている人もいるが。 → 12月02日1月26日


● ニュースと感想  (1月30日)

 「インフレは増税だ」という説について。
 「インフレは個人会計から政府会計への所得の移転が起こる。これは増税と同じだ。ゆえに、けしからん」
 という説がある。いかにももっともらしく感じられる説だ。この誤解をほぐしておこう。

 「インフレは増税の効果をもつ。所得が個人から政府に移る」というのは、正しい。しかし、である。その先が問題だ。その移った金は、何に使われるのか?
 その金を政府が勝手に使ってしまうのであれば、たしかに悪い。公共事業なんかに無駄づかいされては、国民の金が勝手に使われて道路などに化けてしまったことになる。これは、国民にとっては損なので、明らかに悪い。 ( → 政府か国民か
 しかし、である。その金を政府が勝手に使うとは限らないないのだ。他に、次の二つの使途がある。
  ・ 政府に入った金を、減税のために使う。
  ・ 政府に入った金を、国債償還のために使う。
 この二つについて、順に説明しよう。

 (1) 政府に入った金を、減税のために使う。
 この場合は、政府に入った金を、減税で国民に戻すのだから、「国民 → 政府 → 国民」というふうに、ぐるりと一周回っただけだ。国民は別に、損も得もしない。
 実際、これは、過去数十年間に渡って、何度もなされたことだ。年5%前後の物価上昇があり、それによって増税の効果があるので、その分、減税した。こういう減税はずっとなされてきた。(バブル破裂後は、不景気なので、なされなかったが。)
 こういうことは、ごく当たり前のことである。インフレに増税の効果があったからといって、いちいち「けしからん」などと怒ることはない。

 (2) 政府に入った金を、国債償還のために使う。
 これは、簡単に言えば、「増税して、国債償還」と同じことになる。
 このことの経済学的な意味については、本日別項に示した。そちらを参照。── なお、簡単に言えば、こうだ。「増税して、国債償還」なら、「貨幣流通量の縮小」という効果によって、貨幣価値が上がる。国民は、金を奪われるとしても、貨幣価値が上がる。だから結局、損も得もしない。むしろ、「インフレ抑制」という効果が出る分、得である。

 以上の (1) (2) のうち、 (2) が重要である。
 つまり、インフレのときには、増税する(そして国債償還に回す)方がいいのだ。「増税して、公共事業に使うのは、悪い」という主張は正しいが、増税して得た金を、国債償還のために使うのならば、悪いどころか、好ましいことなのだ。

 わかりやすく説明しよう。「増税がけしからん」という説に従うなら、むやみやたらと減税すればよい。そうすれば、莫大な財政赤字が発生する。そしてインフレとなる。デフレの時期にはそれでもいいだろう。しかし、インフレの時期にそんなことをやったら、とんでもないことになる。
 だから、インフレの時期には、増税が必要なのだ。「増税がけしからん」というのは、「インフレを招く」ないし「インフレを放置する」ということになるのだ。
 この意味で、冒頭の「インフレは増税だからダメだ」という説は、自己矛盾を含む。「インフレはダメだ」と主張しているくせに、増税しないことで「放漫財政(財政赤字)によるインフレ」を是認しているからだ。

 [ 付記 ]
 インフレのときに自動的に増税が行なわれるというのは、実は、自動安定装置が働いている証拠である。「インフレ」→「増税」→「インフレ収束」という自動安定装置だ。
 これは、間違ったことではなくて、逆に、正しいことだ。つまり、「インフレのときに増税」というのは、悪いことではなくて、正しいことなのだ。このことが理解できない人は、「自動安定装置 (automatic stabilizer , built-in stabilizer)」という言葉を経済学の本で理解しましょう。(いちいち経済学の本なんか見なくても、高校の参考書にも出ていますけどね。高校生レベル。)


● ニュースと感想  (1月30日b)

 「増税は損で、減税は得だ」という説がある。しかしこれは、正しくない。

 増税して、その金を政府が公共事業に使うとする。この場合、国民の金を政府が使ってしまったことになるので、国民は損である。
 では、増税して、その金を「国債償還」のために使うのであれば、どうか? 少なくとも、政府は政府の用途に支出するわけではないから、政府は得しない、ということはわかるだろう。……では、その金は、どこへ消えてしまったのか? 
 答えを言おう。国債償還をすると、貨幣流通量が減る。だから、その分、貨幣価値が上がるのだ。
 たとえば、「増税と国債償還」によって、国民の金を 10% 奪ったとする。このとき、国民の富が 10% 減るわけではない。貨幣流通量が 10% 減り、貨幣の価値が 10% 上昇しただけだ。つまり、国民の富はそのまま不変なのだ。手持ちの金は 10% 減ったとしても、貨幣価値が 10% 上昇しているので、国民の富は、増えも減りもしていないのだ。(このあたりの考え方は、マネタリズムそのものである。マネタリズムは、インフレのときには正しい。)
 結局、「増税と国債償還」ならば、国民は手持ちの金を奪われても、ちっとも損はしないのだ。手持ちの紙幣の枚数は1割減るとしても、その1枚ずつの価値が1割増えるから、損得はないのだ。で、何が違うかと言えば、貨幣価値が変わる。つまり、インフレになるか否かが異なる。

 このことから、次のように結論できる。「インフレのときは、増税と国債償還により、貨幣流通量を減らすべきだ」と。
 つまり、インフレのときには、「増税かインフレか」の二者択一なのだ。「増税しないで、手持ちの金を増やそう」と思えば、その分、「手持ちの金の価値が減る」つまり「インフレとなる」という形で、ツケは返ってくる。
( ※ 結局、どこかで帳尻あわせが必要となる。子供でも直感的にわかるだろう。空からお金が降ってくるはずがないのだ。)
( ※ なお、「金利アップ」という方法もあるが、インフレのときに、これをやると、異常な高金利となり、さまざまな弊害が出て、事情はひどく悪化する。詳しくは、後日また述べる。)

 以上のことを、さらに本質的に考えよう。
 国民の富が増えるか減るかは、貨幣の量で決まるか? 貨幣をどんどん増やせば、国民の富がどんどん増えるか? 人々に大量のお札をプレゼントすれば、みんなが大金持ちになるか? もちろん、そんなことはない。やたらと貨幣を増やしても、インフレになるだけだ。
 国民の富が増えるか減るかは、経済的な生産量(と分配)によって決まる。貨幣の量によっては決まらないのだ。貨幣の量で決まるのは、計測の単位だけだ。同じ1円という単位が、インフレのときには小さな価値しか持たなくなり、デフレのときには大きな価値を持つようになる。それだけのことだ。国民の富を増やしたければ、経済的な生産量を増やす(生産性を向上させる)べきであり、貨幣を増やしたり減らしたりすることには直接的な意味がないのだ。
 というわけで、増税によって損することもないし、減税によって得することもない。そう理解することが大事だ。
( ※ 増税や減税に意味があるとしたら、直接的な効果ではなく、間接的な効果だけだ。つまり、「そのことを通じて、景気を調節して、生産量や需要をうまく調整する」ということだけだ。)

 [ 付記 ]
 「国債償還」は、なぜ、貨幣流通量を減らすか? 
 簡単に言えば、こうだ。── 「国債償還」は、「国債増発」の反対であり、「財政黒字」だから、貨幣流通量は減ることになるのだ。(「国債増発」による「財政赤字」が、貨幣流通量の増加を通じて、インフレをもたらすことは、すぐにわかるだろう。)
 ただ、実を言うと、前述のことは、あくまで原則にすぎない。「国債償還」そのものが、ただちに「貨幣流通量の減少」を意味するわけではない。そうなるように、マネーサプライ管理や公開市場操作や金利調整などを併用するわけだ。このことを通じて、前述のことを成立させるわけだ。


● ニュースと感想  (1月31日)


 「増税はちっとも得ではない」と前日に示した。(国債償還に使う限り、だが。)
 しかし、これを「実感に合わない」と感じる人もいるだろう。「増税はやっぱり損だよ」と感じる人もいるだろう。実は、その感覚は正しい。増税は、「損したと感じる」ものなのである。実際に破損してはいなくとも、「損したと感じる」ものなのである。心理的にそういうふうに感じられるものなのである。
 このことを、以下で説明しよう。

 まず、本質的に考えよう。国民は、生産した量を消費するだけである。だから、生産量が一定である限り、生活が豊かになったり貧しくなったりするわけではない。増税したからといって、生活が貧しくなるわけではないし、減税したからといって、生活が豊かになるわけではない。つまり、減税や増税によって、日本の生産能力が急に増えたり減ったりするわけではない。生産能力の変化をもたらすのは、「生産性の向上」であって、貨幣の量ではないのだ。

 では、どこがどう異なるか? 不況のときとインフレのときに分けて考えてみよう。
 不況のときは、どうか? 人々は、金を貯蓄に回している。そもそも消費する気がなくて、消費しなくなっている。ここでは、自らの意思で消費しなくなっている。
 インフレのときは、どうか? 人々は、金を増税で奪われている。消費したくとも、消費できなくなっている。ここでは、政府の意思によって、消費しなくなっている。
 両者は、「自らの意思」および「政府の意思」という違いがある。消費しないという行動自体は同じであり、生活水準も同じであるのだが、「消費したい」という気持ちの有無だけが異なっている。
 不況のときは、そもそも消費する気がないので、消費しなくても、不満はない。インフレのときは、消費する気がたっぷりあるのに、増税のせいで消費できないので、不満たらたらである。どちらも、物質的な経済は同じであるのだが、心理的な気持ちが異なるのだ。── というわけで、実質的には損得の差はなくとも、インフレのときに増税があると「損した」という気持ちになってしまうのだ。

 そういうことだ。増税すると、たしかに「損した」気分になる。しかし、あくまで気分の問題だ。本質的に損したわけではないのだ。たしかに、自分の貯金通帳の金はどんどん減っていくが、その分、政府の財政赤字(借金)は減っていく。この財政赤字は、もともと、国民一人一人の払うべき赤字(借金)であり、それが減っていくわけだ。
 つまりは、国民一人一人は、自分の貯金を減らして、自分の借金の支払いに充てているだけだ。目に見えるところでは、貯金がどんどん減っていくが、目に見えないところでは、自分の借金がどんどん減っていく。つまりマクロ的には、金が、一つの項目から、他の項目に移っているだけだ。別に、損も得もしていないのである。
( ※ 国民全体にとっては、マクロ的に損得はない。ただ、国民間で、微妙な損得の差が出ることもある。この件については、後日また述べる。)


● ニュースと感想  (1月31日b)

 小泉内閣への世論調査の結果。(朝日新聞・朝刊・政治面 2002-01-29 。数字は % )

  内閣を支持する   はい 72  ノー 16
  首相の政治姿勢   良い 39  悪い  3
  行政・財政の改革  良い 26  悪い 10
  景気・雇用対策   良い  9  悪い 46


 前々回調査( → 10月01日b )と比べてみると、ほとんどの項目は統計誤差の範囲だが、「景気・雇用対策」について「悪い」とする数字だけは、「34」から「46」に急上昇。 )


● ニュースと感想  (1月31日c)

 田中真紀子がクビ。(朝刊 2002-01-30 )
 このことの意味は? 失業者がまた一人増えた、ということで、小泉がまた構造改革を進めた、ということだ。……というのはジョークだが、もっとよく考えてみよう。
 真紀子はつまり、「(外務省を)改革する」と言っておきながら、混乱と停滞を引き起こしただけだった、というのがクビの理由だ。この意味で、クビを決めた小泉の判断は妥当である。
 しかし、それなら、小泉本人もクビにするべきだろう。「改革する」と言っておきながら、混乱と停滞を引き起こしただけだった、というのは、まったく同じだからだ。真紀子は外務省を破壊し、小泉は日本経済を破壊した。「改革」をめざしたが、実際になしたのは「破壊」だけだった。実によく似ている。
 違うのは、どこか? 誰も小泉のクビを切ることができない、ということ。外務省の破壊は終わったが、日本経済の破壊はなおも続行する、ということ。外務省は救われたが、日本は救われない、ということ。

 [ 付記 ]
 なぜ真紀子が首を切られたか? それがわからない人のために、解説しておく。
 今回の事件は、「子供同士の喧嘩」にそっくりだ。しかし、外相というのは、大人なのであり、子供同士のようにふるまってはいけないのだ。「外相は正しい」という意見もあるが、それは外相を子供扱いしているものだ。大人は、子供と張り合って、「自分は正しい」などと言ってはいけないのだ。
 外相というのは、部下と張り合うものではなくて、一段上の立場で、部下を統率するものなのだ。その統率能力が欠けていたことが、問題となったのである。
( ※ なお、小泉は、抵抗勢力と子供同士のような喧嘩をしないので、真紀子よりは上だ。)
( ※ 私の個人的な感想を言えば、真紀子は喧嘩が下手。すぐに喧嘩して、すぐに泣き出すだけ。小泉は、喧嘩が上手。あまり喧嘩しないが、喧嘩に慣れている。すごみがある。目つきも、鋭い。橋本に似合うのは竹刀だが、小泉に似合うのはドスだ。こわいですねえ。人を殺せる。……ドスの名前は、銘刀「構造改革」。)


● ニュースと感想  (2月01日)

 「企業収益が悪化したせいで、不況になった」という説(野口悠紀雄)について。( → 1月26日 のつづき。)
 この説がおかしなところは、「企業収益の悪化とは何か」が、さっぱり不明なことだ。それは、次のどちらなのか? 
  (1) コストが上がったから、収益が悪化した。
  (2) 売上げが減ったから、収益が悪化した。
 そこのところを、まったく分析していない。単に「売上げ」から「コスト」を差し引きした「収益」だけの悪化を述べている。帳簿の計算結果だけを見ていて、帳簿の各項目を見ていない。これでは、経済学的には、何の意味もない。
 仕方ないから、サボっている本人のかわりに、私が分析しておこう。

 (1) 「コストが上がったから」
 これは、成立しない。あらゆる産業でどれもこれも急激にコストが上がった、ということは、ありえない。実際、「バブル破裂まではコストが低く、バブル破裂を境にコストがが急上昇した」という現象は見られない。どちらかと言えば、リストラなどにより、コストは低下している。

 (2) 「売上げが減ったから」
 これは、明白に見て取れる。今や、あらゆる企業が、5% ないし 10% の売上げ減に悩んでいる。
 さて、である。売上げが減少したということは、(需要と供給の曲線を見て、)需要と供給の均衡点が低価格の方に移動したということである。だから、ここでは、「数量の低下」と「単価の低下」が同時に発生したことになる。たとえば、2000円の商品が、売上げ数量の減少による過当競争により、単価が下落し、数量と単価の双方が低下する。かくて、ダブルパンチとなり、企業収益が悪化する。

 要するに、(2) の「売上げが減った」ということは、まさしく見て取れる。しかし、である。この「売上げが減った」というのは、個別企業だけでなく、全産業で発生している。となると、それは「(国全体の)総売上げが減った」ということ、つまり、「総需要が減った」ということになる。
 結局、「企業収益が悪化した」というのは、「総需要が減った → ゆえに総売上も減った → ゆえに個別企業の売上げも減った → ゆえに企業収益が悪化した」という話のうち、一番最後のところを見ているだけなのだ。あとのところに目をふさいでいるだけなのだ。
 だから、「需要減少のせいではない」という主張は、「自分には見えないから、それが存在しない」と主張しているのと同じである。あるいは、「私は頭が悪くて理解できないから、それは存在しないのです」と主張しているのと同じである。
 こういうのは、経済学ではなくて、素人の強弁である。

 [ 付記 ]
 野口悠紀雄は、なぜかくも間違うか? 実は、彼は、経済学者ではないのである。(ひどい悪口のようだが、事実である。)
 彼の主張は、「マクロ政策なんか必要ない」つまり「マクロ経済学なんか必要ない」である。……こういうことを主張するのは、経済学者ではない。たとえれば数学で、「四則で十分だ。微積分なんか必要ない」と主張するようなものだ。もう少し正確にたとえれば、「有限の場合だけ論じていれば十分だ。無限なんか不要だ」と主張するようなものだ。まったく、論外である。
 彼は、そういう立場に立って、マクロ経済を論じるのに、ミクロ経済を用いている。そして、「国の経済を良くするには、個々の企業を良くすればいい」と主張する。
 はっきり言おう。「不況のとき、個々の企業を良くすればいい」というのは、個々の企業にとっては正しい。その意味で、野口悠紀雄は、経済学でなくて経営学を論じている。しかし、そこにとどまっていればいいものを、話を個別企業から一国経済に拡張している。「ミクロの総和がマクロだ」と思い込んでいる。つまりは、ミクロとマクロの違いが、根本的に理解できていないのだ。……だからこそ、野口悠紀雄は、経済学者ではないのである。(たぶん、経営学者なのだろう。お世辞だけど。)

  【 追記 】
 野口悠紀雄の新しい主張。「収益改善が大事だ。新環境に適した新事業を興せ」という主張。(朝日・夕刊・ウイークエンド経済 2002-02-02 掲載。自分のホームページでも公開中。)
 「新事業を興せ」と簡単に口に出すが、しかし、今はそうしたくてもできないのだ。何をやっても儲からないのだ。なのに、うまい金儲けの方法があるのなら、教えてもらいたいものですね。また、そもそも、たとえ新事業が成功しても、その分、他の企業では売上げが減少するから、マクロ的には何の意味もないのだ。「新事業を興す」というのは、マクロ的には、単なるパイの切り分けに過ぎず、パイそのものを大きくすることではない。生産力の質の向上には効果があるが、総生産の拡大[ = 総需要の拡大]には効果がない。 ( → 12月02日
 野口悠紀雄は、自説にこだわるなら、「総生産を縮小したままでいい」つまり「国の成長率はマイナスでいい」と、はっきり明言するべきだろう。(「狂気のマクロ政策学者」として、歴史に名前が残る。)

 [ 余談 ]
 野口悠紀雄の悪口ばかりでは不公平なので、他の人の悪口も言っておこう。
 他の経済学者も、事情は似たようなものだ。「不動産や株の総額が急減したのが不況の原因だ」と主張する。しかしねえ、マクロ的に言えば、そんなものは、ただの帳簿の数字にすぎない。たとえば、不動産や株の総額が一挙に 10倍になったとする。それで、日本の富は 10倍に増えるか? 自動車やパソコンの生産量が 10倍になるか? もちろん、ならない。帳簿がどうなろうと、生産量はまったく変わらない。どこが異なるかというと、不動産や株を現金化したとたんに、10倍のインフレが発生するだけだ。この点、貨幣供給量を 10倍に増やしたのと同じである。 ( → 1月30日b
 帳簿の数字にせよ、貨幣供給量にせよ、そんなものを増やしても、実質的な富は増えないのだ。同様に、そんなものが減っても、実質的な富は減らないのだ。(せいぜい、帳簿の数字と、計測の単位[= 貨幣価値]が変わるだけだ。)
 だから、「不動産や株の総額が急減したのが不況の原因だ」と主張する経済学者もまた、野口悠紀雄と同様、マクロ経済のことを全然理解していないわけだ。(彼らはマクロ経済を、ミクロ経済に還元するのではなくて、帳簿の数字に還元するわけで、ただの会計屋である。ただの経営学者である野口悠紀雄よりも、さらに悪い。)
 というわけで、日本には経済学者がろくにいないのだ。その証拠が、今の不況である。まともな経済学が取られていれば、こんな不況になるはずがない。そのことは、素人でもわかるだろう。つまりは、「愚かな頭で、愚かな行動を取るから、愚かな結果が出る」わけだ。今の不況は、当たり前なのだ。


● ニュースと感想  (2月01日b)

 米国景気が回復しつつある、という見通しがある。(読売・朝刊・経済面 2002-01-31 の分析など。)
 私の見解を言おう。前の四半期のマイナスから、今度の四半期の 0.2% へと、GDPは向上したわけだから、たしかに経済自体は、回復基調にある。しかし、その向上率は、 0.2% にすぎない。これは、生産性向上率の 2.5% に達していない。ということは、景気は、拡大しているのではなく、いまだ縮小過程にあることになる。つまり、回復したのではなく、悪化の幅が減ったにすぎない。( 0.2% を、0% と比較するべきではなく、 2.5% と比較するべきなのだ。)
 また、物価水準(GDPデフレータ)はマイナスである。五十年ぶり。こちらが本質的だ。これは何を意味するか? 「需要と供給の曲線で、需要曲線が下がったので、供給曲線を下げた。そういうふうに無理をして、かろうじて数量を維持した」ということだ。
 個別企業で言えば、売上げが減ったので、大幅値引きして、かろうじて売上げを保った、ということだ。売上げは保っても、利益は大幅減である。これでは、とても景気が回復したとは言えない。(タコが自分の足を食っているようなもの。)
 結論。
 今の米国景気の回復は、見かけ上のものにすぎない。表面的には、底打ちしたように見えるが、それは無理して維持しているだけであり、真の景気回復ではない。そのうち、先食いした需要の反動が出る。だから、ふたたび米国景気は悪化するだろう。
 だから、そうなる前に、何らかのマクロ政策が必要だ、と私は考える。ぐずぐずしていると、手遅れになりかねない。今はただちに、物価上昇をめざす政策を取るべきなのだ。

 [ 付記 ]
 同日夕刊では、米国景気の回復について、金融当局は、かなり楽観しているようだ。私は悲観的である。これらは予想だから、両者のどちらが結果的に正しくなるかは、まだわからない。
 では、私の方針は、どこが違うか? 「結果が不明ならば、景気回復を確実にするべきだ」ということだ。「たぶん大丈夫だろう」ではなくて、「絶対大丈夫だ」とするべきだ、ということだ。
 仮に、私の予測がはずれて、米国景気がこのまま回復したとする。すると、景気回復策を採った場合、効果が過剰になって、インフレ気味になる。……しかし、そうなったとしても、問題ないのだ。すぐに景気を冷やせばいいからだ。冷やす効果がすぐには出ないで、今までの過熱した景気がしばらく継続するかもしれないが、だとしても、問題ないのだ。そのときのインフレ気味と、それ以前のデフレ気味とを、二年ほどで平均すれば、普通になるだけであって、ひどいインフレになるわけではない。
 一方、私の予測が過度に的中したら、どうなることやら。ただでさえ低い金利は、どんどん下がっていき、ついには「流動性の罠」になる。……ぞっとしますね。
 教訓。「負けたら身の破滅」という、分の悪いギャンブルは、やるべきではない。


● ニュースと感想  (2月02日)

 米国の与野党で、増税・減税の論争がなされている。これを論評しよう。
 米国では 2001年5月に、大型減税法案を成立させた。十年間で1兆3500億ドルの減税である。ところが、最近、2002年度が5年ぶりの財政赤字なりそうだということで、減税反対の声が野党から上がっている。(読売・朝刊 2002-01-27 )

 共和党は、巨額の減税を十年間も継続しようとする。やたらと減税するわけだが、これは「小さな政府」を信奉しているからだろう。
 民主党は、共和党を批判する。「減税は、財政悪化を招くので、景気対策にならない」と。なかなか禁欲的な意見だし、真面目に思えるようだ。そのせいか、世論でも、こちらの支持率が高いようだ。
( ※ ついでだが、日本でも、だいたい同様な事情にある。「増税しよう」とか、「痛みに耐えよ」とか。真面目というか、マゾというか。)

 で、私の意見は? 次の二点だ。
 (1) 長期減税も、減税なしも、どちらもダメ。( 中和政策
   「景気悪化時に減税、景気回復後に増税」とするべきだ。
 (2) 財政悪化は、全然、問題ではない。損でも得でもない。
   それは単に、インフレ効果があるだけだ。 ( → 1月30日b
   また、不況のときは、インフレが必要である。 ( → 需要統御理論
   ゆえに、今は、あえてインフレを招く減税が必要なのだ。

 結論。
 (1) 共和党の「長期減税」も、民主党の「減税反対」も、どちらもダメだ。「今は減税、後で増税」が正しいのだ。換言すれば、当面(不況のとき)は、共和党の政策を取るべきであり、将来(好況のとき)は、民主党ふうの政策を取るべきである。
 (2) 民主党の「財政健全化」は、意味がない。それはインフレのときのみに意味をもつ。不況のときには、そんなことをするべきでないし、むしろ、弊害がある。

 [ 余談1 ]
 以上のことは、当たり前に思えるかもしれない。そう思えるのなら、あなたは賢い。逆に、それを理解できない多くの政治家は愚かである。(多くの経済学者も同様。)
 実を言うと、こんなことは、政治家と経済学者以外なら、誰だって知っていることなのだ。
 企業なら? 「金のないときは借金して、金の余ったときは借金を返済する」と知っている。「金のないときに、借金を返済して、倒産してしまおう」なんて考えている企業はない。
 小学生なら? 低学年の子供なら、小遣いは日給だ。「1日で帳尻を合わせよう」とするだろう。しかし、高学年の子供なら、小遣いは月給だ。「1日だけで帳尻を合わせよう」とはせずに、「1カ月で帳尻を合わせよう」とするだろう。
 人間というのは、猿ではないのだ。計画性というものがあるのだ。必要なときには借りるし、必要でなくなったら返す。そのくらいの計画性はある。企業であれ、小学生であれ、猿でなければ、そのくらいの計画性はある。
 しかるに、政治家と(一部の)経済学者だけは、そういう知恵がないのだ。猿並みなのだ。あくまで単年度の黒字にこだわる。あくまで1年のうちで帳尻を合わせようとする。数年間を見て帳尻を合わせる、ということができない。
 だから、景気策として最善の策は、共和党や民主党に政治を任せることでない。猿よりも賢い小学生に、政治を任せればよい。

 [ 余談2 ]
 日本ではどうか? もちろん、日本猿がいる。小泉と橋本だ。
 小泉は「財政健全化」をめざす。つまり、「不況のときに、財政支出を減らして、財政健全化をしよう」とする。これはおよそ経済学の基本に反している。 (財政支出が減るので、ケインズ派に反する。また、マネーサプライの減少を招くから、マネタリズムにも反する。)
 橋本も同様だ。景気がちょっと回復傾向を見せると、ただちに財政を引き締めた。消費税の増税(3% → 5%)やら、各種負担金の増額やら。で、その結果、財政は健全化して、景気は急上昇したか? もちろん、そうはならなかった。景気は急激に悪化した。かくて、法人所得税や個人所得税などが激減したので、かえって財政は悪化した。つまり、「財政健全化」を狙った行動が、逆に、「財政悪化」を招いたのだ。
 これはつまり、「増税するほど、逆に、税収が減る」というわけだ。これも「合成の誤謬」の一種である。不況期には、こういうことが発生する。

 [ 余談3 ]
 わかりやすく、たとえ話を示そう。病気の人間は、金が不足したとき、どうするべきか? 「借金返済」のために、無理して働くべきか?
 小泉と橋本は、「借金を返せ。借金禁止!」と言う。すると、日本という病人は、無理して働いて、ますます病気が悪化してしまった。初めは微熱だったが、今では高熱となり、ほとんど瀕死である。
 南堂医師は逆に、「借金せよ」と言う。「病気のときは、借金しなさい。それで薬を買ったり、栄養を取ったりしなさい。必要なだけ金を使って、健康を回復しなさい。そして、健康を回復したら、たっぷり働いて、得た金で借金を返しなさい」と。
 あなただったら、どちらがいいと思いますか? (すぐにわかりますよね。猿にもわかる経済学。)

 [ 参考 ]
 クルーグマンの意見もある。「中央公論 2002年2月号」および新刊書「恐慌の罠」。
 内容はいろいろあるが、米国の景気刺激策についても言及している。彼の立場は、「恒久減税よりは一時減税」かつ「金持ち優遇よりは低所得者優遇」である。この点、私と基本的に同じ。この人、本当に、私とよく似ている。(他の経済学者たちとは全然別で、私と彼だけが一致しているようだ。)
 私とクルーグマンの違いは? 私の方がずっと言葉と思想が過激だ、ということだ。同じようなことを言っていても、クルーグマンはかなり歯切れが悪く、あれこれと留保をつけたりしている。つまりは、クルーグマンの方は上品な紳士で、私は下品な直言屋だ、ということかな。
( ※ なお、「金持ち優遇よりは、低所得者優遇」というのは、「金持ちほど消費性向が低い」という経済学的な理由による。 → 第3章「所得税減税」 )
( ※ 1月10日c でも、米国の減税論争について少し述べた。)


● ニュースと感想  (2月03日)

 小泉の支持率が急低下。読売の世論調査で、内閣支持率は 47% に。一挙に 30% 減。(読売・朝刊 2002-02-02 ) 他の世論調査も同様で、フジテレビは 41% 、テレビ東京では 56% で、いずれも前回から 30% 減。(朝日・朝刊 2002-02-02 ) 
 さて、なぜか? 真紀子をクビにしたからか? しかし、今回調査では、批判的な声が大多数であるものの、「真紀子は外相では不適だ」という点では、賛否なかばしている。つまり、国民は真紀子支持ばかりではないわけだ。
 一方、読売の同じ調査では、「景気は回復しそう」が 14% で、「回復しそうにない」が 68% だ。それが国民の意識だ。
 要するに、だ。今回の支持率の激減は、「もう幻想を見なくなった」のであり、「現実を見るようになった」ということだ。現実とは? 「構造改革」という言葉が、ただのまやかしに過ぎない、ということだ。実際には、不況は悪化しているし、この先もさらに悪化するばかり、ということだ。
 国民はもはや、幻想から覚めて、真実に気づいたのだ。小泉という金メッキのライオンのメッキが剥げたのだ。王様は裸だ、とわかったのだ。となると、今後、支持率が元に戻ることはあるまい。
 しかし小泉本人は、いまだに幻想を信じている。「山あり谷ありだ」と述べて、今後また山が来て、支持率が上がると思い込んでいる。まったく、お調子者だ。「いずれ今回の私の判断が適切だったとわかってくれると思います」とも述べて、支持率低下の原因を、真紀子問題だと勘違いしている。(本当な本人の景気問題のせいなのに。真紀子はそれを取りつくろってくれていただけだ。)

 しかし、である。小泉ばかりを批判することはできない。なぜなら小泉には、他の選択肢が与えられていないからだ。「構造改革か、公共事業か」という選択肢しか、もともと知らないからだ。この二つの選択肢しかなければ、「構造改革」を選んで、日本を不況にするのも、あながち不当ではない。
 はっきり言おう。日本経済を不況にしている張本人は、小泉ではない。小泉に選択肢を示さない、マスコミである。正しい選択肢は、ちゃんとある。「中和政策」だ。それを示すこともなく、単に「構造改革をやれ」だの、「新型公共事業をやれ」だの、「量的緩和をやれ」だの、見当違いの方針ばかりを示しているマスコミこそ、最大の張本人なのだ。
( ※ 「政府は不況対策をせよ」と主張するマスコミは、自分自身では正しいことを述べているつもりのようですがね。だいたい、クルーグマンサミュエルソンスティグリッツ の話を掲載した読売からして、その主張を全然理解していないのだから、どうしようもないですね。無知の首相を囲む、無能 or 無脳のマスコミたち。彼らこそ真の戦犯である。 → 10月22日 補記
( ※ 言い落としたが、一番の戦犯は、経済学者たちである。デタラメばかり言う経済学者たちは、上記の三人のノーベル賞級学者の説を、正面きって批判するがいい。道化ぶりが白日の下にさらされるだろう。)


● ニュースと感想  (2月03日b)


 支持率低下の小泉は、あまりにもミジメに見える。そこで、少しアドバイスしてあげよう。
 支持率を回復する特効薬は? 真紀子を環境省大臣に任命することだ。つまり、川口と真紀子の取りかえっこだ。これなら、「適材適所」ふうなので、世間も納得する。今すぐやれば、支持率も回復するかも。なんだか冗談みたいですけど。(ついでに総理の首もすげ替えたいところだが。……)( → かわりの首相 第3章・末 )


● ニュースと感想  (2月03日c)

 野口悠紀雄批判を、2月01日 のところに書き足した。 → 【 追記 】


● ニュースと感想  (2月03日d)

 大橋巨泉の辞任の弁解。「党議拘束があるから」「自分の主張ができなくなるから」というもの。(朝日・朝刊・オピニオン面 2002-02-03 )
 呆れたので、批判しておく。

 (1) 「党議拘束があるから」という点。
 これは、政党で立候補した以上、当然のことだ。党議拘束がいやなら、無所属で立候補するべきだ。「選挙の世話は政党に頼り、当選後はそれを忘れて政党無視」というのは、子供のわがままである。
 そもそも、物事の基本を考えるがいい。「党議拘束」は、受けるべきものではなく、掛けるべきものなのだ。民主主義というのは、多数決なのだから、自分が多数派になればいいのだ。彼の言い分は、「政治を変える必要はない、自分が好きなことを言えばいい」というもので、これでは政治家の主張ではない。

 (2) 「自分の主張をしたい」という点。
 これも、根本的に間違っている。国会とは、自分の主張を言うべきところではなく、国民の声を代弁するべきところなのだ。自分の主張をしたければ、私のように、ホームページで言えばいい。雑誌上で言ってもいい。しかし、国会で言ってはいけない。そんなことをするのは、宗男と真紀子だけで、たくさんだ。

 ……さてと。よく考えてみると、最大の問題点は、むしろ、首相の方だな。
 小泉は「構造改革」という自分の主張にあくまでこだわる。「おれが勝ったんだから、おれの好きのようにする」と唯我独尊の主張をする。しかしね、最近は、支持率が5割を切った。景気対策については、圧倒的に不評である。巨泉のように、やめちゃえばいいのに。(名前も似ているし。小泉と巨泉で。)






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「小泉の波立ち」
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