[付録] ニュースと感想 (10)

[ 2002.02.04 〜 2002.02.21 ]   

  《 ※ これ以前の分は、

       8月20日 〜 9月21日
       9月22日 〜 10月11日
      10月12日 〜 11月03日
      11月04日 〜 11月27日
      11月28日 〜 12月10日
      12月11日 〜 12月27日
      12月28日 〜 1月08日
       1月09日 〜 1月22日
       1月23日 〜 2月03日
         2月04日 〜 2月21日

   のページで 》




● ニュースと感想  (2月04日)

 イギリス経済の状況に関する記事。イギリス経済は世界各国のなかで、例外的に好況で、小売業は笑いが止まらない状況だという。昨年、景気悪化の目が出たあと、果敢に利下げをしたせいらしい。これは欧州中銀よりも果断であったし、だから欧州を尻目にイギリスは好況だ、とのこと。(読売・朝刊・経済面 2002-02-03 )
 なるほど。正しい金融政策を取れば、不況は防げる、ということだ。米国もこれに近い。いずれも、バブル破裂直後の日銀のもたつきぶり(後手に回って大不況)とは正反対だ。

 記事では、「好況は、内需拡大の効果だ。輸出は大幅に減少したが」とも記してある。これは、興味深い。「輸出が大幅に減少」というのは、「国際競争力が落ちた」と見てもよい。しかし、国際競争力が落ちても、国内の総需要が拡大すれば、景気は回復するわけだ。そのことをイギリス経済は実証している。
 なのに今、「国際競争力を強めるのが大事であり、総需要を増やす必要なんかない」と主張する経済学者がいる。もしそうなら、イギリス経済を、どう説明するんでしょうね。 ( → 2月01日1月26日


● ニュースと感想  (2月04日b)

 景気と増税・減税に関して、1月24日d でも簡単に述べた。
 ここで、私の主張を、簡単にまとめておこう。
 [ 参考 ]
 私の意見と対称的なものとして、政府の方針を示しておこう。
 経済財政諮問会議が税制改革の工程表を検討中だという。今後数年間、減税を先行させる、という案。 (朝日・朝刊・経済面 2002-01-12 )
 この案は、「減税を先行させる」という点では、私の案と似ているところもある。しかし、異なる点も多い。私としては賛成できない。

 (1) バラマキしない
 中低所得者は消費性向が高いから、ここに重点配分するべきなのだ。そうすれば、景気回復が出る。なのに、上記の案は、「課税最低限の引き上げ」である。これでは逆に、景気は悪化してしまう。(今は「バラマキ」のみ、将来は「バラマキ」と「課税最低限の引き上げ」の併用、……というのが、私のお勧め。)
( ※ 「バラマキ」のことを「消費税の還付」と呼ぶ人もいる。例: 1月24日d の 中谷巌。これはまあ、単なる名称の問題だから、どうでもいい。)

 (2) 金額が限定的である
 小規模かつ有限の減税では、景気回復効果に確実性がない。となると、人々は景気回復効果を信じない。ゆえに人々は金を消費にまわさない。かくて、減税の失敗。(これまで何度もたどった道。)

 (3) 増税時期を固定している
 2〜3年後に増税を予定しているようだが、「将来の増税」がはっきり予定されれば、当面の減税の効果が損なわれてしまう。 (つまり、「リカードの等価定理」がいくぶん作用するわけ。)
 増税の時期は、「一定期間後」ではなくて、「景気回復後」とするべきだ。前者なら、減収を意味するが、後者なら、増収を意味するからだ。この「意味する」というのは、心理的なものだが、そもそも「消費縮小」などの景気変動そのものが、心理的なものなのだ。
( ※ 景気変動を、心理のせいにせず、生産性や技術水準のせいにするのは、まったく見当違いである。これらは急激には大変化しないものだからだ。急激に大変化するのは人間の心理だけだからだ。この点は、すでに述べたとおり。  → 景気と心理
( 生産性や技術水準のせい にするのは → 1月25日1月26日


● ニュースと感想  (2月05日)

 円安の解説記事で、楽観説と悲観説。(朝刊・経済面 2002-02-04 )
 悲観説は、「円安で、スタグフレーション。悪くすると、日本のアルゼンチン化だ」。……これは、私の主張にそっくり(というより同じ)。ただ、楽観説の方は、主張者が明示されているのに、悲観説の方は、主張者が明示されていない。
 いったい誰が、私と同じ意見を言ったんでしょうねえ。
( 私の主張は →  「円安でスタグフレーション」 9月30日12月15日12月27日 。「日本のアルゼンチン化」 12月23日b 。)


● ニュースと感想  (2月05日b)

 小泉の「構造改革」とは、何なのか? 
 朝日新聞に「一からわかる構造改革」という特集。(朝刊 2002-02-04 )
 読んでみたけれど、小泉の宣伝と野党の批判をまとめただけで、何もわからない。どうして不況が悪化するばかりなのかもわからない。「一しかわからない構造改革」であった。

 私が簡単に示そう。「一言でわかる構造改革」だ。
 構造改革とは、つまり、「供給の改善」である。「需要の改善」を無視している。それゆえ、「需要不足に起因する不況」にはまったく無力である。また、「供給の改善」が進めば進むほど、供給能力が向上して、需給ギャップが開くので、かえって不況は悪化する。

 つまり、「需要不足」のデフレに対して、「供給の改善」というインフレ対策をほどこす。体温が下がった病人に対して、解熱剤を与える。それで正しい処方をした気になっている。だから経済の体温はどんどん低下し、不況はますます悪化していくのだ。
 デフレ下に「インフレ対策」をすれば、状況は悪くなるばかりだ。間違った経済政策は、やればやるほど、状況を悪化させるのだ。
 そもそも、物事の根本原因(供給でなく需要に原因あり)を見誤れば、あとのすべては砂上の楼閣になる。「南をめざそう」としても、最初に北を向けば、直進するほど、反対方向に進んでしまうのだ。小泉は言う。「さらに構造改革をめざして邁進する!」 ……あっち向いて、ホイ。

 結局、「構造改革」を一言でいえば、「見当違い」である。日本の景気がどんどん悪化していくのは、悲劇ではなくて、喜劇なのである。主演は、タテガミを振り乱す道化。踊りは、獅子舞。

 [ 付記 ]
 もう少し細かく見よう。「供給の改善」を不況下で実行すれば、企業は「効率改善」「収益性の向上」をめざす。(この点は、野口悠紀雄説の通り。)
 では、「効率改善」「収益性の向上」とは、何のことか? 長期的には、「技術水準の向上」のための「研究投資」である。しかし、不況下では? そんなことをやっている余裕はない。もっと手っ取り早い方法を取る。つまり、リストラだ。人件費・設備投資・研究開発費を、削減することだ。
 その結果、失業者があふれ、投資需要は縮小し、技術水準は下がる。こういう「支出減 → 収入減」が、スパイラル状に悪化する。……それが今の不況だ。

 [ 補足 ]
 「でも構造改革は、悪いことではないと思う」と思う人もいるだろう。そこで、解説しておく。(前にも同様なことを述べたが。)
 構造改革(供給の改善)は、長期的には好ましいことだ。だから、長期的には、それをなすべきだ。しかし今は、不況なのだ。話はまったく別なのだ。「長期的には、供給を改善させるべきだが、短期的には、需要を改善させるべきだ」ということ。── それを理解することが大事だ。
 不況とは、需要の急激かつ大幅な縮小によって生じる。体に大きな穴ができたようなものだ。まずはこれを治療するべきなのだ。「筋力を高めよう」というような話は、長期的には間違ったことではないが、体力トレーニングをする前に、まず、健康を取り戻すべきなのだ。「長期的な体力向上策」というのは、病人にとっては、短期的にはまったく役立たずで有害なのだ。


● ニュースと感想  (2月05日c)

 首相の施政方針演説。(夕刊各紙 2002-02-04 )
 構造改革を進めるというが、その具体策を見ると、とても日本の景気を動かせそうもない、ちまちまとしたものばかりだ。「政府の公用車を低公害車にしたこと」「住宅金融公庫の廃止」「郵政民営化」「特殊法人改革」など。……これらの経済効果をすべて合計しても、(プラス分からマイナス分を引いた)純増は、1兆円にもなるまい。その程度の経済効果しかないのだ。
 しかし、今の日本の総需要の縮小は、30〜70兆円ほどある。これだけの需要拡大が急務なのだ。なのに、政府のやろうとしていることは、あまりにも小規模だ。つまり、「焼け石に水」である。
 結局、「構造改革で景気回復」というのは、羊頭狗肉である。(雪印みたい)

 ついでに、イヤミを述べておこう。首相は施政方針で、「IT国家の実現」なんていう、構造改革に関係なく必要なこと(世界中でやっていること)まで、掲げている。この分だと、国家として当然の義務教育まで、「構造改革」と呼ばれて、小泉の手柄にされてしまうかもしれない。「手柄は全部、おれのもの。失敗は全部、他人のせい」

 [ 付記 ]
 政府の「IT政策」の目玉の「IT講習会」の実情。(朝日夕刊 2002-02-04 )
 じいちゃん・ばあちゃんが、孫とメールができるようになった、と大喜び。「じいちゃん元気だよ。また明日」とメールする。……これで日本の景気が回復する、というのが小泉の「e-Japan」政策。
( ※ 私は思うんですけどね、まず、小泉じいちゃんがパソコンでメールを打てるようになってほしい。「しし」も「じじ」も似たようなもの。)
( → 11月13日 パソコン配備 )

 [ 追記 ]
 以上を書き終えたあとで、2月05日 の朝日特集記事(構造改革の解説・第2回)を読んだ。この記事には、本項と同趣旨のことが書いてある。「構造改革で景気回復というシナリオに説得力がない」と。
 この記事は、なかなか良く書けている。朝日には珍しく、小泉の問題点をとらえている。(ずっと提灯記事ばかりを書いて、「構造改革で景気回復」と嘘をふりまいていたのがだが、ようやくマスコミとしての本分を取り戻したようだ。)
 ま、ところどころ難点はあるが、細かいことは言うまい。ただ、「不良債権は経済を詰まらせている」というのは、明確な誤り。 ( → 1月14日c


● ニュースと感想  (2月05日d)

 「真の構造改革」について。
 小泉のやっていることは、あまりにも歯がゆい。前項で述べたように、効果のほとんどないことばかりだ。
 そこで、私が「真の構造改革」を示す。これは、効果が巨大であり、かつ、民間部門でなく政府部門の改革だ。(民間部門の改革に口を出して、「政府が口出しした成果だ」などと自画自賛するのは、私の趣味には合わない。)

 (1) 入札の透明化
 道路公団の改革、なんていうケチくさいことは、最優先の課題ではない。公共事業すべてを改革する。指名入札を廃止し、競争入札とする。当然、コストは激減するし、同時に、業界の効率化は大幅に進む。

 (2) 農業改革
 農業部門を抜本的に改革する。政府の保護をなくす。輸入を自由化する。第一次産業の人員を大幅に削減することで、労働生産性を高める。
 もちろん、大量の失業が発生するから、その補償はする。セーフティネットと言ってもいい。これは、やむを得まい。中期的にはコストがかかるが、長期的には日本全体の労働生産性を高める。
( → 詳しくは 第2章「農業改革」 。特にその最後にある 私案 。)

 まとめ。
 以上の2点は、日本の「癌」とも言える。こういう肝心のことをやらないで、チマチマとしたことばかりやるのだから、小泉の「構造改革」なんてのは、あまりにもみみっちい。
 実際には、この2点をやるのは、非常に難しいだろう。あちこちで大抵抗が起こるだろう。だからこそ、首相の肝っ玉が必要なのだ。小泉というのは、いくら威勢のいいことを口にしていても、本当は小心者なのだ。
 だから小泉くん。私を見習いたまえ。私は、小心ではないぞ。ヘソ曲がりではあるが。


● ニュースと感想  (2月06日)

 朝日の構造改革の解説記事。(朝刊 2002-02-06 )
 記事から丸ごと引用すると、次の通り。
 “「構造改革とは、需要を増やすのではなく供給の仕組みを効率化する政策。需給ギャップはさらに大きくなり、むしろ景気が悪くなってしまう」と心配する声はある。”
 これは 2月05日b の私の記述の丸写しだ。無断引用である。そもそも、こういう意見は、私のほかに言っている人がいるとは思えない。いったい誰が、こう言っているんですかね。
 ( ※ たいていの経済学者は、逆のことを言っている。つまり、「供給を効率化するほど、経済体力が成長するので、日本は景気が良くなる」と言っている。「需給ギャップが拡大する」と指摘しているのは、私だけだ。)
 朝日さん。無断引用は、やめてください。「声がある」なんてぼかして書かずに、ちゃんと出典を明示してください。 ( → 2月05日 の記述も、無断引用ですかね?)

 [ 付記 ]
 ついでに言えば、私の説を誤解しないでほしいものだ。私は「構造改革はいけない」と言っているのではなく、「構造改革単独ではいけない」と言っているのだ。「構造改革をやめよ」と言っているのではなく、「需要拡大策と併用せよ」と言っているのだ。( → 10月06日


● ニュースと感想  (2月06日b)

 特定分野への支出という景気回復策(広義のケインズ的方法)について。
 「減税・バラマキよりも、特定分野への支出の方がいい」という主張がある。「その方が経済波及効果が高く、小額の金で高い需要創出効果が見込める」というわけだ。いかにもマクロ経済学者らしい主張である。政府の言う「 e-Japan によるIT分野重視」とか、野党の言う「福祉や厚生分野の重視」とか、一部の識者の言う「環境分野重視」とかいうのも、この一環だろう。また、一部で論議されている「特定集団への減税や補助金」も同様だろう。(これらは、公共事業に限らない、というところが、狭義のケインズ政策とは異なる。)
 さて、これらをどう評価するべきか? 「景気回復」と「体質強化」の両方ができて、一挙両得だろうか? 実は、そうではないのだ。

 これらを単なる政策として行なうなら、別に問題はない。それはコストを十分考慮した上での、一般的な政策の問題である。金をかけてまでやるべきだと思えば、やってもいいだろう。(お勧めするわけではないが。)
 しかし、だ。これらの政策を「景気回復のため」という経済的な政策として実施するのなら、問題がある。その理由は、こうだ。
 景気刺激のための支出は、公平でなくてはならない。なぜなら、将来、増税で回収するからだ。単に「くれてやる」のならば、「もらえなかった」と文句は言えない。しかし、「くれてやる」のではないのだ。単なる貸し借りなのだ。そして、増税は「公平に」である以上、減税( or 財政支出)も「公平に」であるべきなのだ。
 政府の使う金は、空から降ってくるわけではない、と理解するべきだ。空から降ってくる金ならば、政府が好き勝手に使っていい。しかし、実際には、違う。その金は、国民の金であり、あとで増税で帳尻あわせが必要なのだ。となれば今、政府が好き勝手に使うべきではないのだ。( → 第3章 政府か国民か

 あとで増税は必ず必要となる。となると、あなた、借りてもいない金を、返す気がありますか? ないでしょう。他人の借金を払いたがる人など、いるはずがない。
 金は政府が好き勝手に使えるものではないのだ。金は本質的に国民のものであり、国民と政府が貸し借りをするだけだ。国民の金を政府が「ベスト」と思う分野に使うことは許されないのだ。「国民は金を住宅やIT機器の購入のために使うべし」などと主張する経済学者もいる。しかし「住宅なんか、オレはいらないね。まず飯を食いたい」と主張するホームレスがいるのなら、その人にはそういう金の使い方を認めるべきなのだ。「携帯電話なんか、僕はいらないね。僕には愛がすべてだ。彼女と楽しいひとときを過ごすことにこそ金を使いたい」と主張する人がいるのなら、その人にはそういう金の使い方を認めるべきなのだ。「環境保護のためになんか、1円も出したくないね。僕は全財産を、重病の娘の命を救うために費やしたい」と主張する人がいるのなら、その人にはそういう金の使い方を認めるべきなのだ。政府が勝手に一人一人の財布の使い道を命令して、「住宅を買え」だの「e-Japan の品物を買え」だのと指図するのは、根本的に間違ったことなのだ。(前述の例で言えば、「ホームレスは餓死せよ」「恋人たちは別れよ」「親は病気の娘を殺せ」となる。)
 「金の最も賢い使い方を知っているのは、われわれ経済学者だ。愚かな国民の金を、上手に使ってあげよう」などと思うのは、ひどい思い上がりである。それは個人の尊厳を無視した、独裁主義の考えである。簡単に言えば、人の財布に勝手に手を突っ込んで、勝手に支出することである。

 そして、もうひとつ。減税・バラマキならば、「公平に支出」ということが担保されるからこそ、額を巨額にできるのだ。国民全体に渡すなら、たとえば 30兆円程度を支出できる。一方、特定分野につぎこむとしたら、額はどうしても限定的になる。パソコン業界であれ、住宅業界であれ、どんな分野であれ、限られた分野では、30兆円を受け入れることはできない。それゆえ、景気回復効果も限定される。
 そもそも、今の不況は、特定分野が縮小しているのではない。国民全員が消費を減らしているせいで、あらゆる産業分野が需要減で悩んでいる。こういうときに、特定分野だけを優先しても、ダメなのだ。「経済波及効果」やら「乗数効果」やら、表面的な経済理論にとらわれるのは、間違っているのだ。
 物事の本質を理解するべきなのだ。つまり、一国全体の経済が縮小したときは、一国全体の経済を拡大するべきだ、と。
( → 第3章 大きな力11月12日〔 新型公共事業 〕

 [ 補説 ]
 ここで述べたことは、要するに、「ケインズ的な政策」への批判である。
 ケインズ的な政策は、次のように要約できる。
 以上をまとめれば、「不況脱出はできず、あとに財政赤字だけが残る」となる。
 これこそ、今まで日本のやって来たことだ。小泉はそれを批判しているわけだ。この意味では、小泉の言い分も間違ってはいない。「ケインズ的な政策はダメだ」という主張は、たしかに正しいのだ。

  訂正 履歴 
 すぐ上の最後の項目に、誤記があったので、訂正しました。(本文は訂正済み。)
   ×  受益者が限定的なので、将来的に税できない。
     受益者が限定的なので、将来的に税できない。


  【 追記 】
 「ルーズベルトのニューディール政策を見習って、未来投資型の新しい産業を興せ」という意見。(朝日・朝刊・論説面 2002-02-10 の立花隆 )
 これも、「特定分野の需要喚起」である。この意見のダメなところは、「ルーズベルトのニューディール政策は失敗した」という歴史的教訓を忘れているところだ。
 特定分野だけの需要喚起では、大きな不況のときには失敗する、ということは、もはや歴史が証明しているのだ。そして、大きな不況を解決するには、全分野で需要喚起したときのみ成功する、ということも歴史が証明しているのだ。
 では、どうやって? そのための方法は、二つしかない。官需ならば、戦争によって戦争特需を起こすことだ。民需ならば、大幅な減税だ。そのどちらを取るか、肝を据えるべきだ。 (肝っ玉のない小泉は、単に無策で不況を放置するだけ。河童に肝を抜かれたか。それとも本人が河童?)


● ニュースと感想  (2月07日)

 「特定分野に支出しよう」いう政策がある。これは、「需要を指定する」ものだ。( → 前日分
 さて、これとは逆の政策が、「供給を指定する」ものだ。小泉や政府の「e-Japan」計画がそうだ。野口悠紀雄の「新事業を興せ」というのもそうだ。
 これはメチャクチャな意見である。こういうことを主張する人は、まず、「市場経済」というものをちゃんと理解するべきだ。IT機器にせよ何にせよ、もしもそこに需要があるのなら、そこで供給した人は莫大な利益を得る。そんなうまい分野があるのなら、誰だってそこに参入する。しかし現実には、そんなうまい話はない。ということは、つまり、「十分な需要」はないわけだ。
 人は言う。「太陽電池」とか「介護ロボット」とかいう需要はあるぞ、と。しかしそれは、現在のコストでは成立しないほど低い価格での需要でしかない。コストを無視して「需要がある」などと言っても、ただの夢物語でしかない。そして、現在成立するコストでは、需要はろくにないのだ。……こういうことを理解しない経済学的素人たちが、「IT分野の新産業」だの、「環境分野の新産業」だの、「すばらしき e-Japan 計画」だの、空想物語を述べる。彼らは「需要−供給」曲線さえも理解していない。だったら、経済学の話をするよりも、空想科学小説でも書いていた方がいい。ジューヌ・ベルヌみたいにね。

 [ 補足 ]
 ちょっと舌足らずなので、説明しておこう。
 特定分野を「少し補助する」のならば、特に問題はない。それは経済政策の範囲内である。たとえば「パソコン産業を優遇する」というのは、「他の産業を冷遇する」というのと同じだが、それはそれで一理ある。
 しかし、特定産業を「(景気に影響を及ぼすほど)多く補助する」というのは、ダメだ。少しの手助けをして、一つの幼い産業が立つのを支えることはできる。しかしどんなに多大な力を与えても、胎内に眠っている未熟児産業を強引に立たせることはできない。(金を出しても無駄になるだけ。)
 まして、政府が金も出さずに口をちょっと出しただけで、特定の産業が急に大幅に隆盛する、などということはありえない。なのに、「e-Japan 計画」では、そうなると主張する。やっぱり政府は、空想科学小説でも書いていた方がよさそうだ。

 [ 付記 ]
 政府の直接支出でなく、規制緩和という方法もある。これも一種の(特定分野の)供給拡大策である。
 これは、長期的には良い効果があるとしても、短期的には効果は微々たるものである。また、短期的・中期的には、景気を回復するどころか、景気を悪化させる影響の方が大きい。この点は、すでに説明した。( → 9月11日c1月25日の最後
 なお、朝日の記事(朝刊 2002-02-06 )では、具体例として、「規制緩和で、通信業界は成長した」という例を挙げている。しかしこれは、「そこには需要があったから」という点を見逃している。需要があるならば、たしかに規制緩和は有効である。しかしその仮定が、今や成立していないのだ。
 具体例を示そう。大規模店舗の出店について規制緩和すると、スーパーが続々と出店するだろうか? まさか。今やスーパーはあちこちで赤字店舗を閉鎖しているのだ。増やすどころか減らしているのだ。こういうときに、出店の規制緩和などをしても、まったく無意味である。同様のことは、ほとんどの産業に当てはまる。(通信業界は例外的。)
 規制緩和という供給拡大策は、「需要があるならば」という前提が成立するときのみ、有効となる。ここを理解しなくては、本質を見失う。


● ニュースと感想  (2月07日b)

 前々項(昨日の分)では、こう述べた。「特定分野の需要を増やそうとしてもダメだ」と。
 前項(本日の別項)では、こう述べた。「特定分野の供給を増やそうとしてもダメだ」と。
 この二つのことをまとめれば、次のように言える。
 「特定分野を振興しても、景気回復には役立たない。そのことは、需要サイドであれ、供給サイドであれ、成立する。」
 需要であれ、供給であれ、特定分野だけを増やそうとしてはダメなのだ。景気回復のためには、特定分野でなく、全分野を対象とするべきなのだ。なぜなら、そもそも不況期には、全分野が縮小しているのだから。

 換言すれば、こうだ。特定分野の産業を急激に発展させようとするべきではないのだ。(短期的な)産業構造の改革は、なすべきではないのだ。産業構造の改革は、長期的になすべきものであって、短期的になすべきものではない。そもそも、なしたくても、不可能である。たとえば、近年大成功を収めた、パソコンでさえ、70年代の萌芽期から、90年代の成功まで、20年もかかった。たかだか1〜2年程度で、産業構造を抜本的に変革することなど、不可能なのだ。
 なるほど、体質改革は、たしかに必要だ。しかしそれは、長期的な観点からなすべきものであり、今の「不況脱出」という短期的な目的のためには、適さないのだ。小泉の「構造改革」路線は、考え方からして、根本的に間違っているのだ。
 教訓。── 「部分と全体を区別すべし」「短期と長期を区別すべし」

 [ たとえ話 ]
 医者が、「肥満は毒です。ぜい肉を退場させて、体質を改革するといいですよ」と教えました。そのあとのことです。
 小泉くんは、病気になって、痩せたとき、「しめた」と思いました。「これで、ぜい肉が減ったぞ。すばらしい。体質改革が進んだ!」と喜びました。そこで、さらにどんどん病気を悪化させて、どんどん痩せていきました。本人は、急激に体質が変化したので、大得意。そしてついに、ガリガリになって、死んでしまいました。あとには多額の借金の山。
 大泉くんは、病気になって、痩せたとき、「まずい」と思いました。「まず病気を治そう」と判断しました。借金払いを停止し、逆に借金して、療養しました。退院したときは、ぶよぶよの肥満体でした。しかし健康になったので、以後、長い期間をかけて、スポーツに励み、筋肉隆々になりました。仕事もいっぱいやったので、借金も皆済しました。めでたし、めでたし。


● ニュースと感想  (2月07日c)

 前日の記述に、誤記がありましたので、訂正します。 → 訂正履歴
 (ただの誤記なので、特に読み直す必要はありません。お暇な人は、ご覧ください。)


● ニュースと感想  (2月08日)

 前々項( 2月07日b )では、構造改革について否定的に述べた。これに関連して、少し付け加えておこう。これは経済における「量と質」の話である。

 「日本経済の抜本的な改革なくしては、景気回復はありえない」という主張がある。(たとえば竹中の「財政方針演説」)……しかしこの主張は、根本的に間違っている。つまり、景気回復のためには、経済体質の抜本的な改革などはまったく不要であり、マクロ政策だけがあればよい。
 この十年間、日本の景気が悪化したのは、なぜか? 日本の技術力が急速に低下したからではなく、マクロ経済政策を失敗したからにすぎない。民間に責任があるわけではなく、政府と日銀に責任があるだけだ。この責任分担の割合は、100%である。その理由は、こうだ。── 民間の技術開発力や競争力の低下があるとしたら、その結果は、日本経済の質の低下であり、単なる円安になるだけだ。これはの問題である。一方、景気の拡大や縮小は、の問題であり、これは、マクロ経済政策の問題である。
 冒頭の主張は、景気とかマクロ経済に対する認識を、根本的に誤っている。国民の給与が上がるか下がるかは、質の問題であり、民間の問題だ。しかし、失業者が増えるか減るか(倒産が増えるか減るか)は、量の問題であり、政府のマクロ政策の問題なのだ。
 政府の問題を、民間に解決してもらおうとするのでは、いつまでたっても問題解決ができないままとなる。経済担当大臣が上記のようなことを主張するのは、大臣の仕事を民間にやってもらおうとするようなものだ。サボリの強弁であり、職務の放棄にも等しい。さっさと辞任するべし。
( ※ そもそも、量の問題を、質をいじって解決しようというのが、根本的に間違っている。)

 [ 付記 ]
 バブル期には、これとは逆の勘違いがひろまった。「今の好況は、民間がすばらしいからだ」という民間の自画自賛である。しかしこれも誤りだ。単にマクロ政策によって(資産)インフレになったにすぎない。国民の所得は増えたが、賃上げによって所得が急増したというよりは、労働時間の急増によって所得も急増しただけである。(過労死の続出。)……別に、当時、日本経済のが良かったわけではなく、単にが拡大しただけだ。
 そして、今は同様に、質が悪化しているわけではなく、量が縮小しているだけだ。そのことに気づかない人が、「生産性の向上で景気回復」なんていうデタラメを主張するわけだ。

 [ たとえ話 ]
 竹中先生の学級では、「体質改革」「劣者は退場」の方針が立てられました。そして生徒たちは、真冬のさなかで寒風にさらされ、次々と風邪を引いてしまいました。学級の平均点は、大幅に低下しました。
 父母は非難した。「これは教師の責任だ! 風邪を引かせるような方針を改めよ!」と。
 しかし竹中先生は、こう主張しました。「すべては生徒個人の問題だ。各人が抜本的に体質を改善して、寒くても風邪を引かない体質することが必要だ。体質改善なくして、成績の向上なし。さあ、生徒にもっと氷水をぶっかけよう。すべては個人の問題だ。私の責任じゃないね」
 日がたつにつれ、生徒たちは次々と死んでしまいました。それを見た先生は、「これで劣者が退場するので、理論上、平均点が上がるぞ!」と大喜びしました。しかし実際には、平均点は下がるばかり。全員が劣化していったのです。
 でも竹中先生は、あいもかわらず、同じことを主張しながら、暖かな部屋でぬくぬくと過ごしていました。「2年後には何とかなるさ」


● ニュースと感想  (2月09日)

 景気悪化は生産性を低下させる。── このことはすでに何度か説明したが、再論しよう。
 景気が悪化すると、経済が縮小する。これは売上げの減少をもたらす。そのことが、生産性の悪化をもたらすのだ。理由は次のようなものだ。

  (1) 稼働率の低下。設備や労働力の遊休化。
  (2) 社会的な倒産や失業の発生による、生産力の遊休化。
  (3) 売上げ減少による、収益性の悪化。
  (4) 単価の低下による金額的な生産性の低下。

 このうち、(1) 〜 (3) は、わかるだろう。(4) は、少し説明しておこう。
 1日に製品を 100個、生産していた労働者がいるとする。彼の生産する個数は常に変わらないとする。しかし、彼の生産性は、不況期には低く、好況期には高い。なぜなら、製品単価が上下するからだ。生産性というものは、量で数えるものではなく、金額で数えるものだからだ。当然、単価が下がれば、生産性は低下する。おおざっぱに言えば、デフレで 3% の単価引き下げや 3% の賃下げがあれば、彼の生産性は 3% 低下したことになる。( → IT化生産性の向上の理由について
 つまりは、「構造改革で生産性向上」と主張して、不況を放置すれば、かえって生産性は悪化していくわけだ。

 [ 付記 ]
 以上のこと(景気悪化は生産性を低下させる)を、前日 で述べたこと(量と質)と関連させれば、次のように言える。
  「量の悪化が、質の悪化をもたらす」

 さて。前日の結論(「質と量は別だ」ということ)に対して、次のような反論を出す人もいるかもしれない。
  「質の向上は、量の向上に、少しぐらいは寄与するはずだ」
  「生産性の向上は、景気の向上に、少しぐらいは寄与するはずだ」

 しかし、こういう寄与は、まったく皆無なのだ。そのことを以下で説明しよう。

 仮に、小泉教主が「構造改革・構造改革」とお経を唱えると、それだけで御利益が出て、全産業で生産性が 1% 向上したとする。(もともとある 2% 程度への上積みとして。) しかし、だとしても、経済の縮小があると、それによる生産性の低下が(たとえば) 3% ぐらいはある。[このことは、前述の通り。]
 結局、(生産性の向上を見たとき、) 1% のプラスは、3% のマイナスに、埋没する。だから、不況のときは、1% のプラスの効果が現れることはないのだ。
 「生産性の向上が、景気の向上に、寄与する」ということが成立するのは、こういう埋没がないとき、つまり、不況でないときに限られるのだ。
 結語。「生産性の向上がゼロ以下である」ときには、「生産性の向上が、景気の向上に、寄与する」ということはない。 ── また、もう少し厳しく言えば、「ゼロ以下」ではなくて、「本来の 2% 〜 3% 以下」ならば、いちいち「生産性の向上」を言い立てることはできない。また、正確に言えば、政府の政策による生産性向上の分が、政府の政策による生産性悪化の分に、埋没するならば、生産性の向上の効果を言い立てることはできない。政府の口先だけの効果が、量の悪化による質の悪化の分に、埋没するならば、生産性の向上の効果を言い立てることはできない。

※ その証拠。 …… 現実を見てほしい。あなたの給料、上がっていますか? そもそも、毎年 2% 〜 3% の生産性向上に相当する技術向上・経営改善などがあるのだ。とすれば、この5年間に 10% 〜 15% の賃上げがあって当然だ。定昇以外に。なのに、それがなかった。とすれば、政府の不況路線による「量の縮小による質の悪化」の効果が、民間の努力による「質の向上」の効果を、呑み込んでしまった、ということになる。今もそうだ。小泉の路線のせいで、賃金は上がるどころか下がっている。生産性は上がるどころか下がっている。……どれもこれも、日本経済が拡大するどころか縮小しているせいだ。)
※ たとえ話。 …… 動く歩道が後方に動いているとする。自分は前に歩いているつもりでも、動く歩道の後退する速度の方が大きければ、差し引きして、ちっとも前進していないわけだ。「前に歩けば前進するはずだ。前進!」と号令しながら、動く歩道の後退する速度をさらに上げる。……それが、構造改革である。)


● ニュースと感想  (2月09日b)

 米国政府の景気対策法案は、廃案となることが正式に決定した。与野党対立が原因だが、最近の米国景気に回復の兆候があることも一因らしい。(読売・夕刊 2002-02-07 )
 これでうまく行けば、問題はない。うまく行かなければ、大混乱。一国経済を賭けた、丁半博打。なぜわざわざ博打をやるのか? 私にはわかりません。私は議員と違って、博打が嫌いなので。
 さて、丁か半か?

 [ 付記 ]
 私の主張は? 「さっさと不況を脱して、普通の経済状況に戻せ」ということ。
 たとえて言えば、「道路の端を歩いていて、落ちそうなときは、危険を避けて、道路の中央に戻るべし。たぶん大丈夫だろうと信じて、わざわざ端を歩く危険を冒すべきではない」ということ。


● ニュースと感想  (2月09日c)

 フェイルセーフ ( fail-safe )について。
 何事であれ、「見込み違い」ないし「失敗」ということは起こる。そこで、その場合の「最悪を防ぐ」策があるべきだ。これを「フェイルセーフ」という。(もともとは工学用語。事故のときの最悪を防ぐ防護策を言う。たとえば自動車のタイヤがパンクしたときに、最悪を防ぐようにしてある、ノーパンクタイヤ。
 これが抜けていた例が、ロケットから分離に失敗した衛星 DASH だ。万一、分離信号が届かなかったなら、自力で遅延して分離できるように、フェイルセーフ機構を整えておくべきだった。それがなかったので、衛星は宇宙のゴミとなってしまった。

 さて。経済も同様である。「万一、うまく行かなかったら」という場合を想定して、そのための防護策を採っておくことが必要だ。それがないと、見込み違いになったったとき、一国経済がゴミとなってしまう。「きっと大丈夫」と楽観しているだけではダメなのだ。能天気。


● ニュースと感想  (2月10日)

 生産性の向上で景気が悪化する── このことについて再論する。
 ( ※ これ以前の分は → 2月05日b9月26日1月25日 など。)
 ( ※ なお、逆に、「生産性の向上で景気が良くなる」という説も広く流布している。 → 11月28日

 まず、基本を示そう。
 通常なら、生産性の向上で、経済は成長していく。供給能力が向上するにつれて、需要も向上するので、生産性の向上する割合で、経済は成長していく。(実際には、景気変動も加味される。)
 しかし、不況のときは、そうではない。不況のときは、生産能力が、需要を上回っている。こういうとき、生産能力をさらに向上させれば、どうなるか? 第1に、需給ギャップがさらに開いていくので、過当競争による単価の下落(採算割れによる赤字の拡大)が起こる。第2に、余剰労働力が発生するので、失業率が高まる。……いずれも、不況をさらに拡大する。
( → 詳しくは 需要統御理論

 次に、わかりやすく説明しよう。
 「生産性の向上で景気が悪化する」というのは、直感に反して、わかりにくいかもしれない。そこで、本質を理解しよう。
 景気というものは、単なる需給ギャップによって決まるものである。経済の成長とは関係ない。需要が供給を上回るか下回るか、というだけのことだ。だから、生産性の向上は、直接的には、景気とは関係ない。
 ただ、生産性の向上で、供給が伸びるにつれて、需要の伸びが追いつかないと、需給ギャップが開く。そのことが、景気の悪化を招く。 ( → 1月25日 vi

 さらに、誤解を正しておこう。
 「生産性の向上はバラ色だ」という解釈が広まっている。しかしそれは、誤解である。なぜなら、物事の半面しか見ていないからだ。
 わかりやすく言えば、生産性の向上とは、二人でやっていた仕事を一人でやることだ。そうして能率は2倍にアップした。労働者は2倍の所得を得ることができる。しかしそのとき同時に、解雇者が一人増えるのだ。
 「生産性の向上」とは、「高収入」の道であるが、同時に、「雇用減」の道でもあるのだ。両者がうまく調和しているなら、好ましい。しかし不況のときは、そうはならず、余った一人は失業者となってしまう。 ( → 11月28日(3)
 そして、残った一人は、2倍の所得を得ても、2倍の消費をするわけではない。だから、二人合計の消費の総額は、前よりもいくらか減ってしまう。かくて、不況はさらに悪化する。

 ここで、実例を見てみよう。
 パソコン産業とファーストフード産業(ハンバーガー・牛丼)を見よう。これらの産業は、近年、急速に生産性の向上があった。パソコンでは、労働者一人が何倍ものパソコンを生産できるようになった。ハンバーガーや牛丼は、大幅なコストダウンをなしえた(労働者一人あたりの生産量が増えた)。──では、その結果、景気は良くなったか? いや、逆に、景気は悪化した。
 この実例では、次の二点に注意しよう。(いずれも、生産性の向上による効果。)
  1.  数的な量は増えても、金額的な量が減ることがある。
     たとえば、パソコン会社。生産台数は増えても、単価が大幅に下がったので、企業の売上高はかえって減ってしまう。生産性が向上したせいで、IT不況になる、というわけ。
  2.  個別企業の売上高は増えても、業界全体では総売上が減ることがある。
     たとえば、外食産業。マクドナルドと吉野家の売上高は増えても、レストランなどの外食業界全体では総売上が減る。限られたパイのなかで分け前を取り合って、勝者だけがたくさんの分け前を取っても、パイ自体は大きくならないし、それどころか、パイ自体が小さくなってしまうことがある。
 結局、パソコン産業にせよ、ファーストフード産業にせよ、生産性が上がれば上がるほど、その業界の規模は縮小しているわけになる。

 さて、実例への解釈を示そう。
 上の実例で述べたことは、「必ずそうなる」というわけではない。生産性の向上により、単価が引き下がると、それにつれて、需要が急拡大することがある。(たとえば、1990年代後半の、パソコン産業や携帯電話産業。)……これは、需要が拡大する場合である。新規の産業ならば、そういうことはあるだろう。
 一方、近年のパソコン市場や、外食市場のように、需要がすでに飽和状態であれば、需要がさらに急拡大するわけではない。ここでは、生産性が向上しても、需要は増えず、かえって、総売上は縮小していくことになる。

 別の実例を見よう。
 電器業界を見よう。これは、パソコン業界のように大幅な生産性の向上はない。小幅の生産性の向上があるだけだ。
 ともあれ、生産性の向上によって製品の単価は少し下落する。ただし、同時に、質の向上があるので、その分、単価が小幅に上昇する。結局、その両者(単価上昇分と単価下落の分)が、ほぼトントンなので、業界の総売上は減少しない。( → 第2章
 ただし、景気に対して中立ではない。生産性の向上があるので、労働者の雇用はいくらか縮小する。
 さて、これらの企業が、供給量が同じままで、さらに生産性を向上させようとすれば、どうなるか? 労働者を減らすしかない。それがつまり、「リストラ」だ。つまり、企業が生産性向上をめざせばめざすほど、労働者はどんどん減っていくことになる。
 第二次産業の全体を見ても、過去、労働者の数は毎年だんだん減りつつあった。(かわりに、生産性の向上しない第三次産業で、労働者の数が毎年だんだん増えていった。)

 結語。
 以上で見たように、生産性の向上があると、その業界で、総売上ないし労働者数が減っていく。それによって、景気を悪化させる効果が生じる。
 ただし、この問題は解決可能である。ある業界が縮小しても、その分、他の業界が拡大すればいいのだ。(たとえば、軽工業 → 重工業 → ハイテク産業 → 知的産業 →サービス業 )
 そして、このような産業構造の変化は、過去において、実際になされてきた。それが成立している間は、生産性の向上が景気に及ぼす影響はほとんどなかった。(なぜなら、不況ではなかったからだ。この点、最初に述べた通り。)
 しかし、今や、いったん不況となった。すると、「生産性の向上が景気を悪化させる」というふうになるのだ。一種の悪循環である。

 対策。
 この悪循環を出するには、どうすればいいか? 
 もちろん、「不況から脱する」ことが根本的な解決策だ。いったん不況から脱すれば、もはや、生産性の向上が景気を悪化させる効果は生じなくなる。まずは、適当なマクロ政策で、需要を拡大すればよい。そうすれば、あとは政府が特に介入しなくても、自然に新しい産業への移行がなされる。

 [ 付記 ]
 以上に、正しい路線を示した。一方、これとは逆の路線もある。供給サイドの路線だ。「生産性を向上すれば景気がよくなる」と盲信する。
 これはなぜ盲信か? 「生産性の向上につれて、経済が成長する」という命題は、「需要が十分にあれば」ということが、暗黙の仮定となっている。そして、暗黙の仮定が成立しないときは、その命題が主張しない。── そういうことを理解できずにいるからだ。( 類例は → 10月12日
 小泉も同様である。こういうふうに盲信しているようだ。暗黙の仮定がわからない。かくて、不況下であるにもかかわらず、「生産性を向上せよ!」と叫んで、企業にリストラ[= 解雇]をさせている。(まったく、自分が何を進めているか、わかっているんでしょうかね。)
 ただ、小泉は、「e-Japan で生産性向上!」などと主張しているが、実際には、特別な技術指導をして、民間の生産性を向上させているわけではない。単に「構造改革!」とお経を唱えるだけだ。それだけで、たちまち民間の生産性が向上するのだそうだ。また、それだけで、需要のない砂漠に、新しい産業が成立するのだそうだ。ほとんど新興宗教である。 ( → 8月30日
 小泉は今日も叫ぶ。「さあ、お経を唱えよう! 構造改革、構造改革! お経を唱えれば、きっと2年後には御利益が出る!」


● ニュースと感想  (2月11日)

 労働時間の短縮について。(需給ギャップ解消のための、供給削減の一種。)
 「不況解決のため、需要を増やすよりは、供給を減らそう。それには、労働を短縮しよう。収入は減ってもいいいから」
 という声もある。(提唱したエコノミストは、小原庄助さん。)

 「労働時間の短縮」という意見は、なるほど、一理ある。たしかに、日本の労働時間は長すぎるし、欧州のように短時間労働なのが好ましいとも言える。
 しかし、である。「多く働いて、多く金を得る」のか、「少し働いて、少し金を得る」かは、個人のライフスタイルの問題である。どちらが良いとか悪いとか言うものではあるまい。

 さて。話を人生論から、経済学に戻そう。
 上記のような意見はある。しかし、「少し働いて、少しの金を得る」というライフスタイルは、経済学的に言えば、「不況解決」の方法とはならない。
 なぜか? 今は、一時的に大幅に需要が縮小してしまっている。この大幅に縮小した需要に合わせて、労働時間を大幅に削減しても、設備の遊休という無駄が発生するので、社会的に生産効率は大幅に低下してしまう。「労働時間を 10% 削減して、収入を 10% 削減する」というふうにはならず、「労働時間を 10% 削減して、収入を 15% 削減する」というふうになるだけだ。(量の悪化による、質の悪化で、生産性が低下するのだから、やむをえない。)
 「少し働いて、少しの金を得る」ということが成立するのは、「設備の遊休という無駄が発生しない」という条件が成立する場合だけだ。つまり、毎年、生産性の向上程度(2% 〜 3%)であれば、労働時間の短縮は可能だ。(生産性の向上による拡大と、労働時間短縮による縮小とが、中和するので。)
 にもかかわらず、その値を越えて、一挙に 10% 程度の労働力削減などを実行すれば、単なる時短では済まず、大幅な失業(解雇・倒産)が発生する。しかも、生産性の低下による、時間あたり賃金の引き下げも発生する。
 つまり、漸進的な変化ならば、社会は受け入れ可能だが、急激な変化は、社会は受け入れ不可能なのだ。「労働時間の削減」というのは、ごく長期的な課題である。欧州の一部では、「週 40時間労働」から「週 35時間労働」へ移行したが、それには十年以上の時間をかけている。こういうのが、本来のあり方なのだ。

 結語。
 ワークシェアリング(時短)は、雇用の分かち合い効果で、失業の痛みを緩和することはできるが、不況そのものを根治することはできない。不況そのものの根治には、別の根元的な処置が必要なのだ。── それはつまり、需要の拡大である。急激に縮小した需要を、元の水準に戻すことである。

 [ 付記 ]
 「『経済を成長させよ』という主張はけしからん。経済を成長させれば、環境が破壊される」という意見がある。シンプルライフ信奉者である。
 こういうライフスタイルは、個人的にやるのならば、何ら問題はない。しかし、一国全体でそろってやれば、とんでもない事態を引き起こす。たとえばあるとき、牛肉の消費が急激に大幅に減れば、牛肉が大量に余って、行き場をなくす。それを焼却したり、廃棄したり、余計な手間がかかる。自分の所得を減らすために、金を使うわけだ。しかも、廃棄物処理で、環境はかえって悪化する。
 漸進的な小幅な変化ならば問題ない。しかし急激な大幅な需要縮小は弊害があるのだ。

 [ 余談 ]
 私自身の趣味で言えば、「少し働いて、少し金を得る」方が好きである。しかし、実際には、「多く働いて、少し金を得る」になってしまっている。
 ついでに言うと: マル秘の法則 …… 「マクロ経済学者は貧乏だ」「マクロ経済学者は、国を富ませ、自分を貧しくする」「ミクロ経済学者が、マクロ経済を論じると、自分を富ませ、国を貧しくする」

( ※ 参考: 「需要統御理論」簡単解説の、本日追加分
( ※ 参考: 供給削減策は、「労働時間の削減」のほか、「設備の削減」もある。 → 1月05日


● ニュースと感想  (2月11日b)

 ワークシェアリングについて。
 ワークシェアリングが話題になっている。「これをやるべし」というエコノミストの提案もある。しかし実際には、企業や労組が協議しても、なかなか進展しないようだ。
 当然である。ワークシェアリングを、現在の社会システムのもとで実行すれば、コスト高になる。コスト高をまかなうには、単位時間あたりの賃金を引き下げるしかない。しかし、それでは労働者が受け入れられない。エコノミストに「やるべし」と言われても、やれば損する以上、誰もやりたがらないのだ。
 だから、解決策はひとつ。ワークシェアリングがコスト高になるような社会システムを変更するべきだ。具体的には、次の通り。
 以上のようにすると、どんな効果が現れるか? 次の二つだ。
  ・ ワークシェアリングの進展(雇用者の増大)
  ・ 機械(ロボットなど)から人間への転換
 後者は、技術革新に反するだろうか? 実は、単に適正になるだけだ。今は、機械が生産しても無税だが、人間が生産すると課税される(個人所得税 : 企業は課税を免除されているように見える)。ここには、課税の歪みがある。それが適正になるだけだ。( → 第3章 不安定構造から安定構造へ

( ※ 政府としては、上記の提案を取ると、補助金などの支出が増えるが、労働者が増えることによって所得税の税収が増える、というメリットもある。また、失業手当を払う金も節約できる。補助金を出しても、ただちに支出増になるわけではない。これで景気が回復すれば、逆に国家財政は一挙に好転する。)

 [ 付記 ]
 ワークシェアリングは、景気回復のための決定的な処置ではない。病気を根治するものではなく、一時しのぎの応急処置のようなものである。なぜなら、それは「縮小均衡」をめざすものであるからだ。


● ニュースと感想  (2月11日c)

 「特定分野の需要喚起」について、2月06日b に 【 追記 】 を加えた。
 [ 付記 ]
 ついでに言えば、この立花隆の論考では「流動性の罠」という用語が使われている。いま最も重要な経済用語である。なのに、朝日も読売も、この用語について、いっぺんも解説していない。しいて言えば、朝日の「ウイークエンド経済」の野口悠紀雄の寄稿があるが、ここでは、正しい説明ではなく、間違った説明となっている。 ( → 1月10日
 日本のマスコミというのは、まったくデタラメぞろいなのだ。嘘を報道することには熱心だが、真実を報道することはやらないのだ。たまにやると、無断引用。 ( → 2月06日

 今のマスコミがなすべきことは、何か? 「総需要の拡大」という正解を示すことだ。なのに、「特定分野を振興せよ」だの、「不良債権処理をしてどんどん倒産を増やせ」だの、デタラメばかりを言っている。日本の景気回復をする一番いい策は、マスコミの記者たちをすべて、「不良記者処理」することだ。


● ニュースと感想  (2月12日)

 「円安」と「通貨危機」について。
 景気回復策として、「円安を」という声がある。しかし、アジア通貨危機では、通貨安と同時に、経済は急速に悪化した。ここでは「通貨安が景気を良くする」という説が成立していない。そのことに注意しよう。
 いま、やみくもに「円安」を進めると、景気が回復するどころか、アジア通貨危機の二の舞になるかもしれない。
(……と書いたあとで、水をぶっかけるようだが、実は、そうならない公算が大きい。下記の説明を参照。)

 [ 参考 ]
 アジア通貨危機の理由は? 諸説あるようだ。
 「ヘッジファンドの陰謀だ」というのはマレーシアの首相の説。
 「複数均衡点のせいかもしれない。(でもこういう理屈は、都合がよすぎるので、やたらと使うべきではない)」というのがクルーグマンの説。
 どうも、定説はないようだ。
 そこで、私なりの説を出せば、次の通り。
 アジア通貨危機では、資金が急速に流出した。キャピタルフライトである。これによって国内資金は急激に減少した。一方、通貨安で、輸出は有利になったが、生産力というものは、急激には成長しない。資金流出の分を埋めるには、長い時間がかかる。というわけで、輸出が回復するまでの間、国内は資金不足になる。資金不足だから、生産力を向上させる設備投資もできない。(昔の日本で言えば、世銀から借款を受けて、ダムや発電所などのインフラを整備したが、そういうことができなくなる。)……かくて、成長率も下がり、一種の悪循環となる。
 すなわち、原因は、次の点である。
 「経済的な大変動が起こったが、ここで、資金は大変動がすぐ可能であっても、生産力は大変動がすぐには不可能であること。」(そのせいで、均衡が生じず、不均衡がしばらく続いたこと。)
 この説が正しければ、日本では、キャピタルフライトによる通貨危機の心配は、あまりいらない。もともと生産力が余っているから、「供給不足による成長困難」という問題は発生しない。(別の問題は出るだろうが、それは別の話。 → 本日別項 の 円安問題 )

 [ 余談 ]
 アジアの経済成長が、いずれ頭打ちになることは、クルーグマンが予測していた。その理由は、次の通り。
 もともとの話、急成長していたとはいっても、生産性が急速に向上したわけではない。遊休していた労働力(など)が稼働するようになっただけのことだ。簡単に言えば、失業者が働くようになったから、経済は急成長しただけだ。(昔のソ連と同じ。)……だから、失業者がいなくなったところで、急成長もおしまい、というわけだ。
 教訓。
 経済が急成長するのは、生産性が上がるからではなく、単に労働量[時間 ・人]が増加するからである。ゆえに、経済を急成長させて景気を回復させるための即効薬は、質の向上(生産性の向上)ではなく、量の拡大(生産量の増加 ≒ 労働量の増加)である。( → 2月08日 付記


● ニュースと感想  (2月12日b)

 円安について。
 「景気回復策として円安を」という提案がある。これなぜダメなのか、その核心を一言で説明しよう。
 円安とはつまりは、外需の拡大内需の縮小である。「その総和は差し引きしてプラスになる」というのが論者の主張である。しかし、たとえそうなったとしても、結局は、「内需の縮小」という根本問題を、解決するどころか、かえって拡大してしまうのだ。
 つまり、本質から、ずれた対策なのだ。たとえば、癌で体重の減った人に対して、癌を治すのではなく、逆に癌を悪化させて、かわりに、別のところで体重を増やそう、というようなものだ。根本が狂っている。見当違い。

 [ 補説 ]
 詳しく説明しよう。
 輸出産業は得をして、輸入産業は損をする。差し引きして、トントンになりそうだが、仮に、輸出産業の得のほうが上回ったとする。それでも、輸入産業(と消費)のほうの損は消えないのだ。輸入産業(と消費)は、ただでさえ縮小しているのに、ますます縮小の度合いがひどくなる。そこでは、どんどん倒産や失業が発生する。「輸出産業が伸びればいいだろう」というようなものではないのだ。
 ついでに言えば、差し引きしてトントンになるか? 残念ながら、もっと悪くなる。
 第1に、輸出産業は、円高の利益をすべて得ることはなく、製品価格の引き下げという形で、利益は外国に流出する。(たとえば最近、自動車のドル建て輸出価格は、円安効果で、大幅に引き下げられている。外国の消費者は得をして、その分、日本の国民は損をする。)
 第2に、企業が利益を得ても、労働者に分配されない。たとえば大幅な利益を上げた自動車産業で、労働者の賃上げはスズメの涙。ゆえに、あるべき消費拡大効果が、消えてしまう。
 結局、どうなるか? 内需拡大の効果はすべて消えて、内需縮小の効果だけが残る。 輸出産業は、利益を上げるが、それは借金返済に回されるだけだ。つまりは、銀行にたまる金が増えるだけだ。需要はどんどん縮小し、銀行の金庫に積み増される紙幣の山ばかりが拡大する。── それが、円安の結果だ。

 [ 余談 ]
 ただし円安で、喜ぶ人もいる。輸出企業の企業収益は向上するので、「収益悪化が不況の原因だ」と唱える論者は、大喜びするだろう。内外価格差が縮小すれば、「内外価格差が不況の原因だ」と唱える論者も、大喜びするだろう。彼一人は幸福になり、国民全体は不幸になる。( →  1月26日

 [ 付記 ]
 アルゼンチンでは、事情はまったく異なる。ここでは、需要縮小ではなく、需要過剰が起こっていた。だから、内需を縮小させ、外需を増やすのは、逆に、好ましいのである。
 こういう本質を見逃して、「経済悪化には通貨切り下げで」と主張する人は、インフレとデフレの区別もできないわけで、頭が単細胞に過ぎる。××のひとつ覚え、かな。
 だから、こういう論者をすべてアルゼンチンに輸出すれば、日本の景気はよくなるだろう。( → 12月25日


● ニュースと感想  (2月12日c)

 空洞化なんかこわくない。──そのことを示そう。
 「アジア各国の技術水準が上がり、しかも内外価格差がある。だから、日本の産業は、アジア各国に流れて、日本の産業は空っぽになってしまう」という心配がある。
 しかし、そんなことは絶対にありえない。
 仮に、空洞化が発生したとする。つまり、輸出が減少して、輸入が増大する。となると、円安になる。円安になれば、輸出競争力が強まり、輸出が回復して、空洞化はつぶれる。……結局、変動相場制のもとでは、輸出と輸入は原則的に均衡するから、「空洞化する」つまり「輸出が消えて輸入だけになる」というような問題はない。

 では、何の心配もしなくていいか? いや、心配すべきことはある。それは、「円安」だ。円安とは、つまり、日本の経済力の「質の悪化」である。これは実質賃金を低下させるので、国民の富が減少する。(いっぱい働くことはできるようになるが、所得を十分に得られない。働けど働けどなおわが暮らし楽にならざり。 → 9月29日
 では、「円安」を防ぐには、どうすればいいか? 日本の経済力の「質の悪化」を防ぐことだ。企業の体質を強化し、技術水準を高めることだ。── しかるに、政府の方針は、正反対である。「劣者を退場させよ」という名分のもとに、全員を劣化させていく。( → たとえ話
 「日本の経済体質の強化」を唱える政府は、「日本の経済体質の弱体化」をなしつつあるのだ。その証拠が、最近の円安だ。

 ともあれ、貿易に関する限り、「円安」という「質の悪化」は生じることはあっても、「空洞化」という「量の悪化」はありえないのだ。それが「変動相場制」というものだ。

 [ 付記 ]
 「空洞化が心配だ」という主張は、だいたい、だいたい5年おきに出てくる。というのは、だいたい5年おきに、貿易黒字が増えたり減ったりするからである。この程度の貿易収支の変動は、ごく当然である。波が下り坂のときには、「空洞化、空洞化」と大騒ぎするが、波が上り坂のときは、それをけろりと忘れてしまうのである。そして5年後にまた、同じ大騒ぎを繰り返す。学習効果のない人々。頭のメモリ容量が不足しているらしい。


● ニュースと感想  (2月13日)

 「政府の大小」と「国民の損得」について。
 1月30日b に述べたとおり、国民が損をするか否かは、増税・減税では、決まらない。では、国民が損をするか否かは、何で決まるか? 
 それも、1月30日b で軽く触れたとおりだ。貨幣の増減(増税・減税)によって決まるのではなく、国がどう支出したかで決まる
 そういうことだ。(帳簿上で)誰の金が増えたかではなく、(現実に)誰の物が増えたかが問題なのだ。政府の道路やチョロマカシが増えたのなら政府が得をしたのであり、国民のパソコンや酒が増えたのなら国民が得をしたことになる。
 そして、このことから、次のように結論できる。
  1.  《 供給サイド について 》
     特殊法人を削減したり、道路予算を減らしたりするのは、政府の富を減らし、国民の富を増やすことを意味する。この点では、小泉は正しいことをしているわけだ。
     とはいえ、「それが景気回復効果をもつ」と信じているところが、根本的な勘違いであるわけだ。景気の点では、むしろ逆効果だからだ。
  2.  《 ケインズ派 について 》
     i のことを逆に見れば、こうだ。
     「政府支出を増やせ」というケインズ的な方法は、景気回復の点では正しいのだが、国民の損得という本質的な点では、間違っているわけだ。
    •  [ 補足 ]
       なお、公共事業は、政府が利益を得るばかりでなく、国民にも利益が波及する。しかし、「公平に」という原則が成立していないので、国民の間で、いびつな「富の再配分」が生じる。国民全体の金を奪って、建設産業の人の財布に入れる、というふうな。これは一種の泥棒だろう。( → 2月06日b 特定分野への支出 )
 この2点をまとめて言えば、「供給サイドも、ケインズ派も、ともに間違っている」となる。換言すれば、「小さな政府も、大きな政府も、どちらも間違っている」となる。
 「政府を小さくすれば、(その分、)国民の富が大きくなる」というのが供給サイド。「政府を大きくすれば、(経済波及効果の分、)国民の富も大きくなる」というのがケインズ派。両者は対立する。では、どちらが正しいか? 実は、どちらも正しくない。どちらも間違っているのだ。政府の大小と、国民の富の大小は、直接的には関係ないのだ。
 大切なのは、政府の大小ではなくて、国民の富の大小なのだ。政府を大きくするか小さくするかを論議するべきではなく、それとは独立して、国民の富を大きくするか小さくするかを論議するべきなのだ。
 景気対策の際も、国民の富に着目するべきだ。景気の変動が、国民の消費の増減によって生じたものであるのだから、景気を安定させるには、国民の消費の増減を元に戻せばよい。
  ・ それが縮小しているときは、それを拡大させる。(減税など)
  ・ それが拡大しているときは、それを縮小させる。(増税など)
 こうして、(政府支出には関係なく)あくまで国民支出だけを調節する。調節すると言っても、勝手に大きくしたり小さくしたりするのではなくて、一方に偏ったものを中央に戻すだけだ。熱が上がったり下がったりしたのを、平熱に戻すだけだ。
 では、そのためには、どうするべきか? 「需要をコントロールすればいい」というのが、「需要統御理論」の考え方である。
( ※ 具体的には、金利調整のほか、増減税の調整も使う。この点、政府支出の増減に頼るケインズ的な政策とは、異なる。また、政府支出と金利調整に頼る従来型政策とも異なる。政府支出と金融と税制のうち、ケインズ的政策は一つを用い、従来型政策は二つを用い、需要統御理論は三つを用いて、可変化して調整する。手持ちの手段は、多いほど有効だろう。 → サイバネティックス

 [ 付記 ]
 もう少し説明しておこう。
 「大きな政府も、小さな政府も、どちらも間違いだ」と述べた。では、何が良いのか? それは、「スリムな政府」だ。つまり、無駄を排除した政府だ。人間でも同様だろう。ぜい肉のないスリムな体格が好ましいのであって、小さいとか大きいとかには関係ないのだ。小さくても余分な肉がついていばダメだし、大きくとも引き締まっていれば問題ない。
 政府が大きいとか小さいとかは、本質的には、どうでもいいことなのだ。福祉をたくさんやるか否かは、本質的には経済政策とは関係ないのだ。たとえば教育費を、私費でまかなうか、公費でまかなうか、という問題である。私費で 100万円を払うのも、 100万円の増税をしてから公費で払うのも、どちらでも同じことだ。どちらかが得するわけではない。……それでも「私費だと損だ」とわめいたり、「増税だと損だ」とわめいたりする人が多いが。
( ※ ただし公費なら、所得再配分の効果はある。貧しい家庭の子弟でも進学できるようになる。その意味では、ある程度の「大きな政府」は必要である。とはいえ、それも程度問題だ。「漫画教室の費用も、お料理学校の費用も、物見遊山の留学費用も、みんな公費でまかなう」というのは、おかしいだろう。……しかしながら、今の政府は、こういうおかしなことをやっている。無駄な「パソコン講習会」のために、大いなる浪費をしている。その一方で、奨学金を惜しんで、貧しい高校生をどんどん退学に追い込んでいる。大きな政府と小さな政府の、悪いところだけを取っている。狂気の経済政策。 → 11月30日b 「パソコン講習会」, 11月20日c 「奨学金」 )

 [ 補説 ]
 本項で述べたことは、大きな目で見ると、どう位置づけされるか? 
 小泉の路線は、「小さな政府」である。「政府を小さくして、財政健全化をすれば、日本は良くなる」というものだ。それは一面的には真実に見えるかもしれない。しかし、そうではない、と本項は示すわけだ。
 政府を名目的に小さくすることは、良くも悪くもない。むしろ、国民の実質的な損得だけが大事だ。
 また、1月30日b で述べたように、財政の健全化は、単に貨幣価値の大小を意味するだけで、国民の損得には関係ない。
 ……いずれも、首相の信念に反して、「国家の効率化」などはできないのだ。その一方、政府を小さくして、財政健全化することには、景気悪化の効果がいくらかある。
 結局、小泉の方針は、プラスがなくて、マイナスだけがある。経済学に無知な首相が、錯誤に基づいて行動すると、「日本を良くしよう」とした結果、日本を悪くするのである。
( ※ マクロ経済学では、しばしば、こういう逆説が発生する。「正しい心で、正しく行動すれば、正しい結果が出る」などと信じてはいけないのだ。それは幼稚園児の理屈である。)

 [ 余談 ]
 2月07日b で述べたこととの関連を示しておく。
 そこでも「供給サイド」と「ケインズ派」を否定したが、では、本日の記述とは、どう違うのか? 
 図式的にまとめれば、次のようになる。
    本日の分 ……  小さな政府 / 大きな政府
    2月07日b ……  供給振興  / 需要振興
  (特定分野で)
 私は、どちらの場合でも、両者をともに批判している。前者の場合は、「政府の名目的な大小でなく、民間の実質的な損得を見よ」と批判し、後者の場合は、「部分でなく全体を見よ」と批判する。
 だから、上のような図式を示されて、「二つのうちのどちらが正しい策か?」と問われたら、「そのどちらでもない。別のことだ」と答えるのが正しい。


● ニュースと感想  (2月13日b)

 医療費の自己負担のアップが決定。(サラリーマン本人で3割負担)
 「今のままだと、財政が破綻する。だから、自己負担の上昇か、保険料の上昇か、どちらかが必要だ。この二つのうち、前者は後者よりも好ましい」
 ということのようだ。これに対して、私の見解を述べよう。

 この問題は、基本的には、「大きな政府/小さな政府」の問題である。だから、どちらかが正しい、ということはない。( → 本日別項 の 付記
 「小さな政府がいい」というのが、小泉の主張であり、朝日社説( 2002-02-08 )の主張である。しかしこれは、財政というものにとらわれて、保険というものの本質を見失っている。「小さな政府がいい」というのなら、一切の社会保障をなくすべきだろう。3割負担ではなく、10割負担にして、すべて自己負担にするべきだろう。……人々は、「自分は健康だから得だぞ」と喜んでいたあと、年を食って、大病を患うと、たちまちアウトとなる。自己破産して、野垂れ死に。若いうちは天国だが、年を食うと地獄。(索漠とした世界である。)
 私としては、この問題(社会保障を大きくするか小さくするか)は、国民の判断に任せるべきだ、と考える。選挙で訴えもせず、総理一人で決め込むべきではない。それはもう、ほとんど独裁である。(ヒトラー化。小泉は精神的に、狂ってきたのかもしれない。独裁だけでなく、狂気。マスコミも付和雷同。)

 [ 付記 ]
 視点を転じて、経済学に考えよう。
 主張の前提は、「今のままだと財政破綻する」ということだ。ここに着目するべきだ。(経済学的には。)
 結論から言おう。先に述べた二つのうち、前者も後者も取らない、というのが好ましい。つまり、「負担の先送り」をするべきである。当面は財政赤字を拡大し、将来的に財源を得て赤字を埋める。
 このことは、実質的には、減税・バラマキの効果がある。だから、景気回復効果がある。逆に、今のように負担を上げれば(そう予告すれば)、消費が減るので、景気悪化効果がある。
 そもそも、「国家財政の健全化を求める」というのは、つまりは、「個人財政の悪化を求める」ということだから、「需要をさらに縮小させて、不況を悪化させる」という効果が出るのだ。
 結局、今回の方針は、「不況のさなかの景気悪化策」と言えるわけだ。小泉の政策は、すべてそうだ。そして、さらに問題なのは、それを「景気回復策」と信じていることだ。
 総理の錯誤。それに輪をかけて、マスコミの無知。そのマスコミを信じて、方針を決める総理。── 狂気のスパイラル。


● ニュースと感想  (2月14日)

 不況解決の政策、早わかり。
 政府が、総合的なデフレ対策をとりまとめようとしている。そこで私としても、まとめておこう。すでに提案されている政策の、簡単な一覧。
( ※ 評価は、最後の2項目以外は、すべてダメ。)
 [ 余談 ]
 「デフレ対策」として、「不良債権処理」というのを唱える人が多い。実に不思議だ。不良債権処理なら、これまでずっと、莫大になされてきたのだ。数十兆円規模である。それなのに、スズメの涙ほどの効果もない。状況は良くなるどころか、逆に悪化するばかり。目に見える成果としては、せいぜい、銀行の株価が下がったことぐらいだ。目に見えないところでは、失業・倒産が莫大に発生している。
 なのに、そういう現実を、どうして理解できないのだろう? なぜ、現実に目をふさぎ、妄想ばかりを信じていられるのだろう? 不思議。洗脳されているのかな? 
( ※ マスコミという巨大なデマゴークのせいだろう。マスコミとは、真実を報道する機関ではなくて、真実を糊塗して隠蔽するための機関なのだ。)
( → 不良債権処理の妄想 は  12月11日(4)

 [ 付記 ]
 「米国の景気回復に頼る」という案もある。他人任せの案。
 残念ながら、これも期待できない。すでに円安で輸出が伸びているのだ。このあと、さらに輸出が増えれば、(貿易収支均衡のため)円高になるだけだ。だから、輸出は、頭打ち。結局、この案もダメ。(だいたい、そんな案がうまく行くなら、3年前に景気は回復していたはず。)
 結局、政府の取る政策は、どれもこれもダメ。となると、悲観的になりますね。1年前なら、ダイエーが倒産同然になるなんて、誰も信じなかったでしょうしね。この先、どうなることやら。
( ※ ひどい場合、ペイオフ実施後の4月に、取り付け騒ぎが発生して、株価は大暴落するかも。)

  【 追記 】
 ダメな政策は、 2月19日d にもあり。続編。


● ニュースと感想  (2月14日b)

 チョコレートの日です。チョコレートの数と質で、景気を診断しましょう。去年と比べて、景気はいいですか? 悪いですか? ……題して、「チョコレート景気(ケーキ)」。
( ※ 「アホなダジャレを言うな」と怒らないでください。チョコをくれた女子社員に、オヤジギャグを言いましょう。)


● ニュースと感想  (2月15日)

 パスワードについて。(コンピュータの話。読まなくてよい。)
 宇宙開発事業団で、機密漏洩が発覚した。他人のパスワードが推測できたため。(読売・朝刊 2002-02-14 )
 この問題は、パスワードが短すぎるのが、根本的な原因だ。世間でよくあることだが、パスワードは8桁ぐらいのことが多い。これでは、入力は楽だが、機密保持は劣る。
 この問題を解決するには? 次のようにすればよい。

 それには、「入力の簡単さ」「機密保持」という相反する条件を、ともに満たせばよい。では、実際には、どうするか? パスワードを二重化すればよい。
 つまり、「入力するパスワード」と「実際にログインするためのパスワード」を、別にする。両者の変換は、ユーザ独自の「変換パスワード」によって、マシンが自動実行する。具体例を示すと:
   入力パスワード:dehure
   変換パスワード:nandouhisasinokoizuminonamidati
   ログインパスワード:a2xop9we97f5usy5e7rf5ah7rd7fh4
 入力パスワードは、毎度入力するので、短いものにする。変換パスワードは、なるべく長く、かつ、覚えやすいものを使う。入力パスワードから、ログインパスワードへの変換は、ログインのソフトが自動的に行なう。
( ※ 変換パスワードは、必要以上に長くてもよい。つまり、基本的には、次の式が成立する。
  入力パスワードの桁数 + 変換パスワードの桁数 ≧ ログインパスワードの桁数 )
( ※ ログインパスワードは、手動入力も可。従来のシステムに対する変更は、パスワードの桁数アップのみ。あとはすべて、ユーザ側のログイン・ソフトの問題。アプリケーションまたはOSで処理する。SSL みたいなものかな。)

 [ 付記 ]
 ついでだが、銀行などの暗証入力機器では、数字を直接入力するようになっているが、数字の下に、ローマ字を付けておくべきだろう。次のように。
     1 2 3 4 5 6 7 8 9 0
     A K S T N H M Y R W
 「くさつ」と入力したいときは「KST」であるから、「234」とキーを打つ。携帯電話のようなものである。
 逆に言えば、「234」とキーを打ちたいときは、「くさつ」と覚えておけばよい。
 アメリカの公衆電話の電話機では、こういうふうになっている。(ただし、数字と文字の対応は異なる。米国公衆電話の、キーかダイヤルの画像がどこかにあるはずなので、ご存じの方は、ご連絡ください。)
 さて、このことのメリットは何か? パスワードを長くできることである。たとえば、「1321132587」なら、覚えにくいが、「うさぎおいしかのやま」なら、簡単に覚えられる。

 [ 付記 ]
 将来的対策は、上述の通り。では、当面は? 
 今のマシン環境で(上記のソフトなしで)やるなら、「母音省略法」でパスワードを決めるといいだろう。たとえば「ふじわらのりか」というパスワードを決めて、「FJWRNRK」と入力するわけ。
 なお、ダメなパスワードは、「自分や家族の名前」「自分や家族の誕生日」「仕事上のキーワード」など。こういうのは、すぐバレます。その他、「iloveyou」なんてのもヤバい。

 [ 付記 ]
 参考 → パソコン用語 訳語集

 [ おまけ ]
 ついでですが、私はチョコレートをもらえませんでした。すると、日本の景気は今や、大恐慌だなあ。


● ニュースと感想  (2月15日b)

 自殺者の統計データ。(朝日・朝刊・社説 2002-02-12 )
 毎年3万人以上。交通事故の3倍以上。1970年と比較すると、……30歳以下は、まったく不変。60歳以下は、逆に半減。壮年世代のみが、ほぼ倍増。女性は低レベルで不変だということだから、壮年世代の男性のみが、倍増(以上)ということになる。
 これほどはっきりとした統計が出た以上、「自殺者急増の理由は不況のせい」と断言していいだろう。そのうち 1万人 〜 1.5万人程度が、不況で増えた分である。戦後最高の、政策による殺人事件。それが、毎年。
 ただし、である。これを報道した社説は、この点を無視している。「自殺は心の病です」と述べて、個人の問題に帰してしまって、国に原因があることを無視している。どういうつもりだろうか?
 よく考えてみると、先日の社説は、「不良債権処理を進めよう」「どんどん企業を倒産させよう」であった。つまり朝日は、おのれの手で人々の首を絞めているのだ。おのれの手を血で染まらせているのだ。
 となると、「不況は殺人」と言えば、自分が殺人犯であることを認めることになる。だから、すべてを自殺者本人のせいにして、真実を隠すのだろう。
( → 1月05日c11月04日 [ジョーク])


● ニュースと感想  (2月15日c)

 「資金需要はないと言うが、政府系の金融公庫には、貸し出しを求める人が行列をなしている」という声がある。(朝日・朝刊 2002-02-13 )
 なるほど、たしかに、こういう需要はある。しかし、問題が二つ。
 第1に、たいていは赤字企業の運転資金である。貸し出したところで、投資需要が増えるわけではない。(需要が減っているときに、新規投資するのは、狂気の沙汰。……例外は、ごくわずか。)
 第2に、たとえ必要な資金需要があっても、不況のさなかには、倒産する可能性が高い。倒産率が 10% ならば、その分の利率を上乗せしないと、銀行は赤字になってしまう。しかし、そんな過大な上乗せをした高利は、とても払えない。そこで、政府系の金融公庫に走る。しかし、 10% ぐらいは倒産する(借金を踏み倒す)から、その分、国民の金が奪われることになる。……「貸せばいい」というものではないのだ。あとで莫大な赤字が発生して、国民にのしかかる。
( ※ 倒産確率については → 9月23日 数値分析


● ニュースと感想  (2月15日d)

 日銀総裁が、「インフレ目標」に否定的見解。「先に金利や物価が上がり、実体経済が後から付いていくことはありえない」と。(読売・朝刊・経済面 2002-02-14 )
 三重の意味で、間違っている。
 (1) インフレ目標とは、物価上昇率を上げ、実質金利を下げることを言う。だから、「先に金利が上がり」ではなく、「先に金利が下がり」だ。正反対の勘違いをするようでは困る。ど素人。
 (2) 「金利を動かして、実体経済が動くことはありえない」だと? これは、日銀の存在目的(役割)そのものを否定した発言である。ど素人。というか、狂人。
 (3) スパイラル効果を理解していない。物価が上がれば、(実質金利の低下で)景気拡大がさらに増す。物価が下がれば、(実質金利の上昇で)景気縮小がさらに増す。こういうスパイラル効果があるのだ。物価の変化が実体経済の変化を増幅するのだ。(だからこそ、日銀が常に景気を調整することが必要になる。)……なのに、そういうことを理解していない。つまり、マクロ経済の素人。
 結語。
 経済の番人は、経済の素人かつ狂人。だからデフレは悪化する一途なのだ。


● ニュースと感想  (2月15日e)

 森永卓郎の主張。(週刊誌「DIAS」の最新号。)
 「構造改革は、供給改善策だ。需要不足のデフレには無効だ」 という認識。
 これは、認識の内容そのものは、正しい。(私の主張と、まるきり同じだ。)
 しかし、そのあとがおかしい。「需要不足」が原因ならば、それへの対策は、「需要の拡大」以外にあるまい。なのに、見当違いな提案をする。「首相がデフレ克服の断固たる意思を示せ。そうすれば景気は良くなる」と。つまりは、「総理の口先ひとつで、一国経済は右にも左にも動く」というわけだ。「経済学なんかいらない。言葉だけあれば足りる」というわけだ。
 どうも、自分の言っていることがわかっていないようだ。だから、認識と対策とが矛盾するのだ。では、なぜ、自分の言っていることがわからないのか? 
 先日の著書( → 1月06日c )を見ると、この認識の件については、ごくわずかに言及しているだけだ。巻頭の序文では、大々的なテーマとして呈示しているくせに、本文を読むと、数行ほど書いてあるだけ。つまり、一番大事なはずの主題については、数行だけ書くだけで、あとの数百ページは、ただのおしゃべりだけ。体をなしていない。
( ※ 参考までに言うと、私は、同じ肝心なテーマを主題にして、原稿用紙400枚以上を書いている。このホームページで。何しろ、自説ですからね。)

 推測するに、どうも、この人、自説を述べているのではなく、他人の意見のパクリなのだろう。だから、生半可にしか理解できないのだ。……ひどい話だ。どうせパクるのなら、しっかりパクリなさい。半分だけパクっても、間違うだけです。
( ※ では、元ネタは? ここにあります。 → 10月06日

  【 追記 】
 月刊誌「論座」の最新号に、森永卓郎への批判がある。木村剛による。
 「インフレ目標とは量的緩和のことだ」と前者が間違って主張し、「そんなのダメだ」と後者が批判するわけ。実に虚しい論争。誤解の上に立った、砂上の蜃気楼。
 まず、「インフレ目標とは何か」を、正しく理解するべし。 ( → 「インフレ目標」簡単解説


● ニュースと感想  (2月15日f)

 構造改革批判について。
 構造改革路線がダメなことは、もう、誰もが気づきかけているようだ。そこで、「政府は、構造改革が景気回復をもたらすと言うなら、その論理を説明せよ」と批判する人が多い。
 こういう人たちは、自分が正しいことを言っていると思っているようだが、ひどい勘違いである。
 いわば、政府が「 1+1=0 」と言ったら、「それを証明せよ」と批判しているようなものだ。しかしそもそも、間違った命題を証明することなど、不可能である。不可能なことなど、注文するべきではない。どうせ文句を言うなら、「政府は間違っている」と、正面切って批判するべきだ。つまり、「量が縮小しているという問題を解決するには、質を向上させるという方法ではダメなのだ」と。
 世の中には、まったく、肝っ玉のない評論家が多い。評論家というよりは、ヒョウロク玉だろう。

 [ 付記 ]
 ところで、私は? 他人の悪口ばかり言って、いい気になっているんじゃ、とんだヒョウロク玉だ。反省します。本日分は、悪口特集ですが、お許しあれ。明日から、まともなことを書きます。


● ニュースと感想  (2月16日)

 公的資金投入の是非について。(朝日・朝刊・経済面 2002-02-15 )

 (1) 渡辺喜美代
 銀行破綻を防ぐには公的資金投入は必要だ、と述べている。なるほど、それはそれで、やむをえないかもしれない。しかしそもそも、銀行破綻が根源なのだ。その根源を放置したまま、取りつくろうだけでは、何にもならない。
 「危機状態だから公的資金投入が必要だ」というのはまだ理解できるが、「公的資金を投入すればデフレが解決できる」という論旨はおかしい。

 (2) 塩崎恭久
 比較的、まともなことを言っている。結構、頭がいい。ただし、認識が狂っている。そもそも、今の状況は何か? デフレだ。デフレとは、総需要が縮小した状態だ。そこでは、個々の企業がいくら頑張ってもダメなのだ。誰もいない砂漠で物を売っても、物は売れないのだ。なのに、「個々の企業が頑張ればいい」と主張する。勘違いだ。
 たとえば、携帯電話が好調なのは、そこに需要があるからだ。企業が頑張ったからではない。携帯電話だって、最近まで好調だったが、最近は、需要が飽和して、伸びが止まってきている。身売りする企業も出てきている。いくら個別企業が頑張ってもダメなのだ。企業が頑張れば済むということではないのだ。
 「個の総和が全体だということはない」と理解するべし。「総需要の縮小」という根源を理解するべし。彼は、頭は悪くなさそうだから、理解してほしいですね。── 勉強不足です。マクロ経済学を勉強しましょう。さしあたっては、「需要−供給」曲線を勉強しましょう。(本日別項を読んでもわかります。)


● ニュースと感想  (2月16日b)

 マクロ経済学とミクロ経済学。
 マクロ経済学とミクロ経済学は、どう違うか? ……さまざまな説明があるが、私の考えでは、次のようになる。
 マクロ経済学とは、一国全体の経済を扱うもので、特に、景気変動を話題にする。そして、景気変動は、需給ギャップによって生じる。
 ミクロ経済学とは、ひとつの産業を扱うもので、経営資源の最適配分などを話題にする。そこでは、「需要−供給」曲線のもとで、需給が均衡すると考える。当然、需給ギャップは生じない(と考える)。

 では、ミクロ経済学者が、マクロ経済を論じると、どうなるか? 古典派になる。彼はこう考える。
 「需給ギャップは存在しない。ゆえに、経営資源を最適配分すればよい。生産性の低い産業から、生産性の高い産業へ、経営資源を移せばよい。これで、一国全体の経営資源が最適化され、経済は成長する」
 この命題は、不況のときには、「需給ギャップは存在しない」という前提が間違っている。だから、そのあとの主張がいくら正しくても、すべては砂上の楼閣となる。
 ……今の日本で出回っている経済政策は、この種のものが多い。(小泉・竹中・野口悠紀雄など。政府の「経済財政白書」もそう。)
 というわけで、日本の経済運営がデタラメなのは、ごく当然なのである。たとえて言えば、牛肉解体業者が、病人の治療をするようなものである。牛刀をもって、手術をなす。やればやるほど、血が流れる。

 [ 付記 ]
 こう言えるかもしれない。「ミクロ経済学は、均衡の理論であり、マクロ経済学は、不均衡の理論である」と。
 さて、「不均衡」とは、「需給ギャップ」のことだ。この「需給ギャップ」について、これから数項目で、連続して述べる。(本日別項など)


● ニュースと感想  (2月16日c)

 「需給ギャップ」と「倒産と失業」との関係は? 
 需要が一定であるときに、質の向上(生産性の向上)があると、設備や人員が少なくて済むようになる。すると、その分、設備や人員が余る。余った分は、維持するわけには行かなくなるので、放出される。── それが、倒産であり、失業である。
 このことを、別の言い方で述べよう。「需要−供給」曲線では、需要に比べて供給の過剰な分が、「需給ギャップ」である。この分の供給は、やがて「倒産と失業」となるはずだ。しかし、一時的に、倒産と失業が保留されている。しかしもはや保留されなくなったときに、「倒産と失業」が現実化する。( → 1月20日 : 「需要−供給」曲線による説明)
 以上を、まとめてみよう。
  1. 「需給ギャップ」とは、「倒産と失業」の予備状態のことである。
  2. そこでは、一時的に、不均衡が発生している。
  3. 不均衡状態では、赤字が蓄積していく。ゆえに、均衡へ移行することが必要である。
  4. 不均衡から均衡へ移るには、「倒産と失業」を現実化する(供給を縮小する)か、需要を拡大するか、どちらかである。
 この iv の二つのうち、実際には、「倒産と失業」が現実化しつつある。一方、私の主張は、「需要を拡大せよ」である。
( ※ なお、小泉の主張は、「供給の向上をめざせ」である。これは不況のときには、「需給ギャップを拡大する」ことである。)

 [ 付記 ]
 図で説明しよう。
 需要が急に縮小すると、需要曲線が急激に左にシフトする。新たな理論上の均衡点は、元の均衡点よりも、価格が低い。そこで均衡するべきだが、実際には、そこは価格が低すぎて、採算割れである。そこには達しにくい。ゆえに、採算可能な価格(もしくは旧来の設備に対応する旧来の価格)では、供給過剰で、需要過小となる。
 かといって、新たな均衡点に強引に近づけば、企業は採算割れとなり、赤字が発生するし、累積赤字に耐えきれなくなって倒産も発生する。
 本質的に考えよう。「採算価格」という下限があることが、需給ギャップを生み、不況を生む。これは、「流動性の罠」(「金利ゼロ」という下限があること)と、本質的に同じことである。[重要!]( → 1月19日

 [ 補記 ]
 結局、古典派というものは、「採算価格」「コスト」というものを無視している。「売れなきゃ、値段を下げれば、均衡するぞ。どうせコストはゼロさ」というわけだ。つまり、「コストがゼロであると仮定すれば……」というわけだ。例によって、「経済学者のお遊び(空理空論)」である。

  



 
 乂 
 
     このグラフで、
右上がりの曲線は供給。
右下がりの曲線は需要。
    → 量


● ニュースと感想  (2月16日d)

 「需給ギャップ」と「不良債権処理」との関係は? 
 需給ギャップがあるから、過剰な供給を減らせ、というのが、不良債権処理だ。(過剰な分のうち、赤字を出す弱い部分が、切り捨てられる。── 産業効率の向上、という名目。)
 で、それが成功したとする。すると、需給ギャップはなくなる。この場合、縮小均衡するが、そこでは失業者は残ったままであるから、別に、景気が回復するわけではない。(それでもデフレは一応解決する。)
 さて、ここでインフレ政策が取られれば(日銀は反対するがそれを押しきれば)、インフレとなり、失業者は雇用される。景気回復の実現である。「万歳!」と人々は叫ぶだろう。

 しかし、初めから最後までを、トータルしてみよう。結局は、失業した人が、また雇用されるだけだ。つまり、ぐるりと一周して、元に戻っただけだ。しかも、そのために、莫大な金をかけている。
 たとえて言えば、こうだ。自動車(という供給)を2台もっている。夫婦(という需要)のうち、妻(という需要)が、旅行に出掛けて、1台余った。そこで、維持費を節約するため、自動車を売ろうとする。しかし買い手が現れない。やむなく、「不要自動車処理」をすることにした。解体業者にお金を払って、引き取ってもらった。かくて、「不要自動車処理」の成功。維持費を払わずに済むようになった。めでたしめでたし。……と思ったら、妻(という需要)が、旅行から戻った。また自動車(という供給)が1台必要となった。そこで、金を出して、また購入した。結局、元の状態に戻ったわけだ。ただし、トータルすると、売るために金をかけて、買うために金をかけたわけだから、財布の金だけが減った。
 不良債権処理とは、そういうことだ。
( → 12月08日

 [ 付記 ]
 ただし、カーマニアの夫は弁解するだろう。「古い車から、新しい車に変わったぞ」と。つまり、「低能率な企業から、高能率な企業に変わったぞ」というわけだ。夫は鼻高々。
 しかし、たとえ買い換えるとしても、古い車を下取してもらえばよかったのだ。業者に金を払わず、業者から金をもらうべきだったのだ。
 つまり、古い車を手放すにしても、買い手のいないときには売らず、買い手が現れるときまで待つべきだったのだ。(あるいは、妻[景気]が帰ってくるまで、じっと待つべきだったのだ。)
 というわけで、「待つこと」こそ、正しい方針なのである。金を捨てた夫の詭弁に、妻はだまされてはいけない。尻を蹴飛ばしてやれ。
( ※ 「いくら待っても妻が戻らないから、不要自動車処理をするんだ」と夫は言う。しかし、不要自動車処理をしたからといって、妻が戻ってくるわけではない。勘違いしないように。戻ったときに、妻の怒りが大きくなるだけだ。)

 [ 補記 ]
 日産自動車(株)が、やめた社員を再雇用。(夕刊・各紙 2002-02-14 )
 こういうことが、景気回復後には、しばしば発生するだろう。「高いコストをかけてリストラする」→「景気回復後に、高い金を払って新規雇用(再雇用)する」というわけ。元に戻っただけだが、そのために無駄なコストをかけている。こういうことを狙っているのが、「構造改革で景気回復」というやつだ。つぶして、戻して、金が減る。


● ニュースと感想  (2月17日)   [ 重要!] 

 「貯蓄のパラドックス」と「流動性の罠」の関係について。
 「貯蓄のパラドックス」というのは、「一人一人が貯蓄を増やすと、国全体の貯蓄総額はかえって減ってしまう」ということだ。どうしてかと言うと、各人が消費を減らせば、国全体では、総生産が減り、そのせいで総所得も減り、そのせいで貯蓄総額も減る、ということによる。ケインズ( および ロバートソン )が示した。これをサミュエルソンが、貯蓄以外にも一般化して、「合成の誤謬 fallacy of composition 」と名付けた。
 このことは、よく知られた話だが、もっと厳密に考えてみよう。実を言うと、「貯蓄のパラドックス」は、必ずしも成立せず、ある条件のもとでのみ、成立する。

 「一人一人が貯蓄を増やすと、国全体の貯蓄総額は増える」ということ(つまり「貯蓄のパラドックスの逆」)は、成立することがある。それは、「貯蓄は美徳」である社会だ。その経済学的な過程は、次の通り。
 「一人一人が貯蓄を増やす国全体で、消費が減る&貯蓄が増える投資が増える(∵ 投資 = 貯蓄)投資によって供給能力が拡大するので、次の期間に生産が増える生産増の分、所得が増える所得増の分、消費と貯蓄が増える」
 差し引きして、どうなったか? 貯蓄して、投資すると、投資の分の需要が増えただけでなく、投資によって供給能力の向上した分、生産と需要が増えたことになる。つまり、貯蓄して、投資したことで、経済が拡大したことになる。要するに、パイが拡大したわけだ。
 これは、戦略としては、「今は我慢して、将来では楽をする」ということだ。供給能力の不足する途上国で成立する論理である。(「米百俵」と同様。)

 さて、原理的には、これが成立するはずだ。では、これが成立しないのは、どういう場合か? 
 それは、「需要が頭打ち」という条件が成立する場合だ。需要が頭打ちだと、生産を増やしても、その効果が出ない。生産しても、過剰在庫が発生するので、生産せずに、設備が遊休する。パイは拡大しないままである。それがわかっていれば、企業としても、わざわざ生産力を拡大する気にはなれないから、投資もしない。……となると、貯蓄しても、それが、投資に回ることもない。もちろん、生産力も拡大しない。貯蓄した金は、単に滞留するだけだ。(これは「流動性の罠」の状態。)
 この場合は、貯蓄するよりは消費するべきである。消費を拡大することがわかっていれば、企業は投資を増やすので、経済は成長過程に乗る。なのに、消費をしないで、貯蓄をすると、貯蓄をする分、消費が減って、経済は縮小していく。……これが、「貯蓄のパラドックス」だ。

 以上をまとめて言えば、こうだ。
  1.  「貯蓄のパラドックス」が発生するのは、「需要が頭打ち」つまり「不況」のときだ。
  2.  そこでは、金が滞留する。つまり「流動性の罠」が発生する。
  3.  「需要が頭打ち」でないときには、「貯蓄のパラドックス」は発生しない。貯蓄によって、経済は成長する。
 注意。
 「貯蓄のパラドックス(合成の誤謬)は発生する」というふうにだけ説明する経済書が多いが、それは不正確であるので、注意しよう。「貯蓄のパラドックス(合成の誤謬)は、通常は発生せず、限られた場合のみ発生する」というのが正しいのだ。(限られた場合というのは、経済の自然な流れが阻害された状況である。)

 [ 付記1 ]
 上記では、「需要が頭打ちのとき」と言ったが、正確には、「需要不足(需給ギャップ)が発生するとき」と言うべきである。
 需要は、頭打ちでなくて、微弱に成長するとしても、その微弱な成長率が供給の成長率を下回るようだと、需給ギャップが発生する。そして、「貯蓄のパラドックス」が成立するようになる。
 また、さらに正確に言えば、「もともと需給ギャップが発生しているとき」ではなくて、「その全体行動によって、需給ギャップが発生するようになったとき」である。つまり、もともとは均衡状態にあったとしても、全体行動が急激に変化すると、新たに需給ギャップが発生して、不均衡になる」ということがあるわけだ。こうなると、「貯蓄のパラドックス」が成立するようになる。
( ※ 途上国では、そうやたらと「貯蓄のパラドックス」は発生しない。というのは、しょせん、供給不足・需要過剰であって、たとえ大変化があっても、なかなか需給ギャップは発生しないからだ。とはいえ、貯蓄が増えすぎて、「貯蓄率99%で、消費率1%」という極端な状況になれば、やはり、「貯蓄のパラドックス」は発生するだろう。)

 [ 付記2 ]
 「需給ギャップが生じる」というのは、「経済の自然流れが阻害されている」ということでもある。本質的に考えると、貯蓄が増大したとき、その貯蓄が投資に流れ込むべきであるのに、投資の先の消費が詰まっているせいで、投資が増えず、貯蓄が投資に流れ込めないまま滞留する。……こういうふうに、自然な流れが阻害されているわけだ。 ( → 1月08日 [詰まっているモデル])
 こういうときには、金を投資に流し込もうとして、どんどん押し込んでも、無駄である。(その無駄なことをやるのが、「量的緩和」論者。)では、どうすればいいかというと、金を投資に押し込むのではなくて、詰まっている投資の先の、詰まっている消費を増やせばよい。そのためには、当面は一時的に、貯蓄を増やすどころか減らせばいい。……そのことを、「貯蓄のパラドックス」は教える。

 [ 付記3 ]
 「貯蓄のパラドックス」ないし「合成の誤謬」は、「各人が合理的な行動を取れば、国全体では非合理な行動となる」と要約できる。では、その本質は? 「許容量オーバー」と言っていいだろう。一人だけの行動ならば、社会はその行動を受け入れることができる。しかし、大多数がいっせいに同じ行動を取ると、社会がその大きな変化を受け入れることができなくなる。そこでは、「許容量を超過した」せいで、「ギャップ」ないし「不均衡」が生じるわけだ。(これは一種の歪みである。)

 [ 付記4 ]
 「貯蓄のパラドックス」と「流動性の罠」は、ほとんど同じ状況のことである。このことに注意しよう。 実を言うと、 「貯蓄のパラドックス」≒「流動性の罠」≒「需給ギャップ発生」≒「不均衡」≒「デフレ」 と言える。一見、別々のことのようであるが、これらは、ほとんど( or まったく)同じことなのである。
 これは、重要な事実である。そこで特に、「同一定理」と名付けることにしよう。今の日本では、これらのすべてが同時に発生しているが、それらは、一つの同じ状況の、別々の現れにすぎないのである。( cf. 1月19日 …… 「デフレ」≒「(商品市場の)流動性の罠」)
 なお、この状態では、自然な流れが阻害されているわけだが、したがって、「市場経済(均衡)」という原理が成立しなくなっている。そのことにも注意しよう。
( なのに、「理想的な市場」という妄想を信じて、「詰まっている」という現実を無視した政策を取ると、とんでもない結果を招くわけだ。たとえば、下記の「補足」の「不良債権処理」を参照。また、10月12日 [理想的でない市場]も参照。)

 [ 付記5 ]
 もう少し解説すると、……
    「貯蓄のパラドックス」≒「流動性の罠」(≒「需給ギャップ発生」)
 というふうには言えるが、まったく同じだというわけではない。
 「流動性の罠」とは、……金利に「下方硬直性」(ゼロ以下になれない)ことがあるゆえに、需給ギャップが生じた状況から抜け出せないこと。
 「貯蓄のパラドックス」とは、……消費が詰まっているせいで、融資が詰まっていて、その結果、貯蓄をすることで、需給ギャップが拡大すること。( 「詰まっている」というのは、「上方硬直性」があるということだ。)
 「デフレ」とは、……商品価格に、「下方硬直性」(採算価格以下になれない)ことがあるゆえに、需給ギャップが生じること。
 こういった違いはある。ただ、根本としては、「消費不足」がある。このことが違った面で現れている、と解釈していいだろう。まず、「消費不足」がある。それに対応するべきだ。しかし経済には、さまざまな「硬直性」があるので、「自然な流れが阻害される」こととなる。そこで、「消費不足」に対応できなくなり、「ギャップが生じる」という結果を招く。そして、そのギャップから抜け出せなくなったり、ギャップが拡大したりする。
 ここで、「消費不足」というのは、単に「消費が少ないこと」ではなくて、「消費が急激に縮小したこと」である。消費が急激に縮小したときに、他の面がその急激な変化に追いつけないで、当面、何らかの障害にぶつかる。そのことが、「硬直性」となって現れる。
( ※ なお、
    「合成の誤謬」≒「貯蓄のパラドックス」
 とは言えない。この件は、明日の 2月18日b の記述を参照。)

 [ 補足 ]
 リチャード・クーは、「不良債権処理」についても、「合成の誤謬が成立している」と主張した。これは、上の例にならって、次のように解釈できる。
 不良債権が少しであれば、それを処理することが好ましいが、不良債権が多くあると、それらをすべて処理することは好ましくない。理由は、全体のなかで、処理がなめらかに実施できなくなるからだ。少しなら、処理がなめらかにできるが、あまりにも多いと、処理がなめらかにできない。許容量オーバーで、滞る。たとえば、倒産した会社の社員が、他の会社に移行できず、失業という形で、滞留する。こういうときは、処理をやればやるほど、滞留が増えて、状況はいっそう悪くなる。(……現実の失業率悪化を見れば、すぐわかる。失業者は失業したまま。そこにさらに失業者が追加される。なのに、「失業者は、新しい産業に移行するはずだ」と、主張する人もいる。現実無視の妄想。こういう妄想に従って、日本経済は運営されている。)
 なお、前日分の「夫婦と自動車」のたとえ話で言うと、こうなる。……通常ならば、古い車を下取に出せる。しかし、放出される車があまりにも多いと、中古車業者の在庫が過剰となり、処理能力が満杯になる。許容量オーバーで、滞る。車を下取には出せなくなる。こういうときは、中古車業者の在庫が減るまで、待つべきだ。(詰まっているときに、「詰まっていないはずだ」と信じて、無理に押し込んでも、ろくなことはない。)


● ニュースと感想  (2月18日)

 「需給ギャップ」と「インフレ目標」と「合成の誤謬」の関係について。
 「物価上昇率を高くすれば(たとえば4%にすれば)、不況脱出が可能だ」という説がある。なかなか、もっともな説である。しかし、これは、間違いではないものの、無意味である。
 「物価上昇率が高くなる」というのは、そもそも、「需要が十分にあり、需給ギャップが解決している」ということだ。それはつまり、「不況が解決している」ということだ。だから、上述の説は、「不況が解決していれば、不況が解決する」と言っているわけで、同語反覆(トートロジー)にすぎないのである。

 もう少し細かく見よう。「需給ギャップがあるまま、物価上昇率が高まる」という状況は、考えられなくもない。貨幣供給量を増大した場合だ。しかし、デフレで「流動性の罠」が発生しているとき(= 金利ゼロのとき = 金の借り手が現れないとき)には、貨幣供給量を増大しても、実需は増えない。
 結局、貨幣供給量を増大しても、その金は、国民や企業の手には渡らず、銀行に滞留するだけで、物価は上昇しないのだ。「貨幣供給量を増大すれば、物価が上昇する」という命題が成立するのは、「流動性の罠」になっていないとき、つまり、デフレでないときに限るのだ。デフレのときには無効なのだ。

 ここで、「インフレ目標」との関連を考えよう。
 「インフレ目標」は、「今は物価上昇率がマイナスでも、将来は物価上昇率が(高めの)プラスになる」という期待をもたせることで、投資需要を増やそうとする。しかし、その期待を、もつようになるか? ここが肝心だ。
 もし需給ギャップが小さければ、需給ギャップを乗り越えることができるかもしれない。そして、人々がそう信じれば、実際にそうなったときに得をするので、人々は投資を増やして、その行動の総和として、需要が増えて、ギャップを乗り越えてしまう。── これはいわば、「合成の誤謬」の逆の現れである。「人々が合理的な行動を取った結果、国全体で不合理になる」のではなく、「人々が(その状況では)不合理な行動を取った結果、国全体では合理的になる」わけだ。そして、それゆえ、人々の不合理な行動が、結果的には合理的になるわけだ。

 では、問題は、そういうことが発生するか、だ。これを「相転移」と呼ぶことにしよう。「相転移」とは、「需給ギャップを乗り越えること」である。
 仮定のとおり、「需給ギャップが小さければ」、相転移は発生するかもしれない。そして、「発生するだろう」と人々が信じれば、実際に相転移が発生する。
 しかし、逆に、「需給ギャップが大きければ」、「発生するだろう」と人々が信じないので、実際には相転移は発生しないだろう。
 たとえば、今の不況だ。この不況は、大きい。ここでは、政府や日銀が「インフレ目標」を設定しても、需給ギャップが大きいので、相転移が発生するとは人々が信じがたい。だから、実際に相転移が発生する(不況を脱出する)こともできないだろう。
 結局、「インフレ目標」が効果を発するかどうかは、需給ギャップの大きさに依存するのだ。
( ※ このあたり、量子力学に似ている。古典力学では、ギャップは乗り越えられない。量子力学では、ギャップが小さければ乗り越えやすいが、ギャップが大きければ乗り越えにくい。大きなギャップを乗り越えるには、大きなエネルギーが必要である。……それが、大規模な「減税・バラマキ」だ。)
( ※ ついでに言えば、ミクロ経済学という「均衡の理論」は、なめらかな移行のみを扱うので、古典力学に似ている。マクロ経済学という「不均衡の理論」は、なめらかでない移行を扱うので、量子力学に似ている。)

 最後に、要点を言えば、こうだ。
 不均衡の生じたまま、身動きの取れなくなった状態がある。このとき、何らかの特別な手段[インフレ目標や減税など]によって、不均衡状態から均衡状態へ移行することができる。[それが相転移だ。一種のカタストロフィーである。]……ただし、不均衡状態が大きければ大きいほど、この移行を起こすためには大きな力が必要となる。
 なお、いったん均衡状態に移れば、あとは普通の制御方法を適用できる。(金利操作による景気の微調整など。)

 [ 付記 ]
 相転移とは、本質的には、何を意味するか? 
 それは、「需要曲線を、一時的・局所的に引き上げて、一時的・局所的な均衡状態を作り出すこと」である。(そのための手段は、減税やインフレ目標など。)
 こうして作り出された均衡状態は、一時的・局所的なものであるから、すぐまた消えてしまうかもしれない。この均衡状態を持続的かつ全般的なものに拡張するには、「量的緩和」を行使することが必要となる。そして、そうすることを保証するのが、「インフレ目標」(そのもの)である。
 だから、「インフレ目標」という言葉には、次の二つの意味があると考えてよい。
  1. 均衡状態が回復したあとで、「量的緩和」を実際に行使すること。(つまり、物価上昇率がプラスになったあと、一定の物価上昇率を保つこと。金融を引き締めて物価上昇率をやたらと下げたりしないこと。)
  2. 上記のことをあらかじめ公約することで、[一時的・局所的に]均衡状態へ移りやすくすること。(デフレから脱出しやすくすること。)
 この二点は、あまり区別されていないが、厳密には区別した方がよい。まずは b によって、一時的・局所的にデフレから脱出する。そのあと a によって、その均衡状態を持続的かつ全般的なものに拡張するわけだ。
( ※ なお、 b は、状況が悪いときには、減税と組み合わせないと効果を発しにくい。 a も、状況が悪いときには、減税と組み合わせないと、失敗する[均衡が破れる]ことになりやすい。)


● ニュースと感想  (2月18日b)

 「合成の誤謬」の種類について。
 「取り付け騒ぎ」というものもある。これもまた、「合成の誤謬」の一種である。たとえば、「あの銀行は危ない」という噂が立ったとする。一人一人が「金を失うまい」として、「全額を引き下ろす」という合理的な行動を取ると、取り付け騒ぎとなり、銀行は閉鎖され、1円も下ろせなくなる。下手をすると、銀行がつぶれる(ペイオフ実施中である)ので、一時的に下ろせなくなるだけでなく、預金そのものを失う。合理的な行動の総和が、非合理となるのだ。
 これもまた、「合成の誤謬」の一種である。ただし、よく見ると、他の場合とは、事情が異なる。次のように分類することができる。
  1.  不均衡 → 不均衡の拡大
     「貯蓄のパラドックス」の場合だ。一人一人が貯蓄を増やすと、国全体では逆に貯蓄が減ってしまう。元の不均衡から、もっとひどい不均衡へ移る。
  2.  均衡 → 不均衡
     「取り付け騒ぎ」の場合だ。変な噂を信じて、合理的と信じる行動を取ると、「銀行閉鎖」という不合理な結果を招く。元は均衡であったのに、不均衡に移る。
  3.  不均衡 → 均衡
     「インフレ目標」による「不況脱出」の場合だ。(不均衡から均衡に移るわけ。) もともとデフレであったときに、デフレであるにもかかわらず、「たぶんインフレになるだろう」と考えて、デフレにおいては不合理であるはずの行動を取ると、その全体の結果として、デフレを脱出するという合理的な行動となる。つまり、「合成の誤謬」の逆となる。 ( → 本日別項
 以上のように、「合成の誤謬」と言っても、3種類のタイプがあるわけだ。このように、整理・分類できる。

 [ 付記 ]
 「だからどうなんだ」と問われても、別に、何か言いたいわけではない。とにかく、同じ言葉で呼んでも、まったく同じようなものではなくて、細かく見れば別々の事情にあるのだ、ということを理解すればよい。分類すれば、見通しが良くなるだろう。共通点と相違点を理解すれば、物事をいっそうよく認識できたことになる。
 たとえば、一昨日 に述べた「貯蓄のパラドックス」は、上の三つのタイプのうちの1番目のものに分類される。だから、同じく「合成の誤謬」であるとしても、2番目と3番目のものは、一昨日のことには当てはまらない。……そういうふうに理解できる。


● ニュースと感想  (2月19日)

 「ゲームの理論」と「合成の誤謬」について。(これは、数学的な話。特に読まなくてもよい。)
 「ゲームの理論」と「合成の誤謬」は、実は、関係がある。「ゲームの理論」は「合成の誤謬」の、最も単純なモデルとなっているのだ。これは、数学的には、面白い話だろう。

 「ゲームの理論」で、「囚人のジレンマ」は、次のような表で示せる。

      囚人A の値   
 −  ▲ 
 0  + 
      囚人B の値   
 +  ▲ 
 0  − 

 囚人Aは、右または左を選択できる。
 囚人Bは、上または下を選択できる。
  ( ※ 通常、 「右 = 上」 ,「左 = 下」であるようにする。
       例: 右 = 上 =「得ボタン」,左 = 下 = 「損ボタン」。)

 ここで、場合分けしてみると:
 囚人Aも囚人Bも、自分が「得ボタン」を押して、相手が「損ボタン」を押すと、自分はプラスで、相手はマイナス。
 囚人Aも囚人Bも、自分が「損ボタン」を押して、相手が「得ボタン」を押すと、自分はマイナスで、相手はプラス。
 両者が「損ボタン」を押すと、両方ともゼロとなる。
 両者が「得ボタン」を押すと、両方とも ▲ となる。
 ( ※ ▲ は、適当に決めていいが、「囚人のジレンマ」の場合には、「大きなマイナス」とする。)
 ( ※ 「両方ともゼロ」のときは、「ゼロ」のかわりに「小さなプラス」でもよい。)
 ( ※ このゲームのミソは、「自分だけは得をしよう」と双方が思うと、どちらも損をする、ということ。)

 これは、実は、「合成の誤謬」の単純なモデルとなっている。
 初期状態を、「両方とも、損ボタン」の状態とする。ここで、一方が「得ボタン」を選択すると、その人はプラスとなる。しかし、「二人がそろって、得ボタン」だと、両方が ▲ (大きなマイナス)となるのである。
( ※ 先の表では、「自分がプラスだと、相手はマイナス」となっているが、「自分がプラスで、相手はゼロ」と修正しておくとよい。 …… [*] )

 数学的に、もうちょっと一般化してみよう。
 まず、表は、 [*] のように補正しておく。ここで、両者の和を考える。両者が「損ボタン」ならば、両者の和はゼロである。一方が「損ボタン」で他方が「得ボタン」ならば、両者の和は + である。両者が「得ボタン」ならば、両者の和は ▲ (大きなマイナス)である。
 このような値を、上記の 2×2 の平面上に載せて、3次元のグラフを作るとする。左下では、値がゼロ。右上では、値が大きなマイナス。左上と右下では、値がプラス。凸凹した変な階段状の形ができる。
 これを拡張する。2段階しかないものを、無限段階にあると見なす。そうして、なめらかな曲面で連続化させる。すると、右上では、(値が大きなマイナスなので)窪んでおり、左上と右下では、(値がプラスなので)盛り上がっている。
 この曲面が、「合成の誤謬」を幾何学化した曲面である。初めは原点( 0,0 )にいる。そのあと、x座標方向またはy座標方向に動けば、盛り上がった曲面の上に達する。しかし、x座標方向およびy座標方向に同時に動けば、窪んだところに落ち込んでしまう。
 この意味で、この曲面は、先の 2×2 の表と同じである。ただし、変化の仕方が、連続的になっている、という点が異なる。

 [ 付記 ]
 「合成の誤謬」のモデルとしては、別の具体的な例を挙げることもできる。
 シーソーがあるとする。その左側に猿が3匹いる。シーソーは左に傾いている。ここで、シーソーの右側の上方に、バナナがぶら下がっている。それに猿は気づいた。まず、猿Aが、シーソーの右側へ移動して、バナナをつかんで、また戻った。次に、猿Bが同じように、シーソーの右側へ移動して、バナナをつかんで、また戻った。次に、猿Aと猿Bがいっしょに、シーソーの右側へ移動した。とたんに、シーソーのバランスは崩れ、猿Aと猿Bは、シーソーといっしょに下がってしまい、バナナを取れなくなった。(このとき猿Cは上がるが、そこでどうなるかは、また別の話。)

 別の例も挙げることができる。夫と妻と子供が、順に風呂に入って出た。さて、翌日は、夫と妻が一緒に風呂に入った。すると、風呂が小さいので、湯が浴槽からあふれてしまった。3人目の子供が、風呂に入ろうとしても、お湯が足りないので困ってしまった。「かあちゃん、お湯ないぞ」

 別の例も挙げることができる。男が妻を得ようとした。女A,女Bの二人がいて、どちらの一人を得ても幸福になれる。そこで「どうせなら2倍の幸福を」と思って、両方と結婚した。とたんに、重婚罪。どちらの女からも愛想を尽かされ、逃げられてしまった。2倍の幸福を得ようとして、逆に、不幸になった。

 上の三つのモデルの本質は、いずれも、「許容量オーバー」である。したがって、「許容量オーバー」を本質としたモデルであれば、上記以外のさまざまなモデルを考えることもできる。
( ※ たとえば、「二つの合成」だけでなく、「三つ以上のものの合成」でもかまわない。実例を示すと …… 小船に客が1人乗るたびに、喫水線が1センチ下がる。しかし、10人乗ると、逆に、喫水線が上がる。なぜなら、転覆して、乗客がみな放り出されるので。/別の例。風船に息を一回吹き込むと、少しふくらむ。何十回分も吹き込むと、破裂する。)

 [ 参考 ]
 「許容量オーバー」を、数式で表現する方法のひとつに、剰余記号 ≡ がある。
       1+1≡0 (mod 2)

 [ 補説 ]
 「合成の誤謬の逆」、つまり、「不合理な行動の総和が合理的な行動となる」ことの例としては、「インフレ目標」のほかに、次のような例もある。
 例 …… 一人一人が生命を恐れず消火する、という不合理な行動の総和として、大火事を鎮火する。/一人一人が自分の金を捨てる、という不合理な行動の総和として、税収を得た国家が成立する。/一人一人がおのれの欲望を抑えて我慢する、という行動の総和として、集団の規律が保たれる。
 これらの例は、「一人一人がエゴイストになれば、全体も良くなる」という考え方とは、正反対である。実に高尚な考え方だ。
 ふうむ。してみると、「市場経済万能主義」「競争主義」というのは、実に、底の浅い考えである。しばし、慨嘆。


● ニュースと感想  (2月19日b)

 不良債権処理のニュース。(朝日・朝刊 2002-02-17 )
 与党の幹部が「不良債権をRCCに簿価[≒ 時価以上]で買い取らせよ」と主張した。(自民党の幹事長と保守党の党首) ── これについて、菅直人がこう批判した。
 「不良債権処理そのものは銀行から移るかもしれないが、その負担は、国民の負担になる。国家的規模のつけ回し、飛ばしにすぎない」と。

 感想。
 いやあ。びっくりしました。菅直人の意見は、私の 2月14日 の主張(公的資金投入の項)と同じだ。賢い。烏合の衆の政界にあって、この人だけがまともなことを言っているようだ。
 菅直人は、これだけ言えるのなら、経済学者や経済記者よりも、ずっと賢明である。「不良債権処理は、コストがかからずに実行できる。そのためのお金は、空から降ってくる」なんていう嘘ばかりを述べている経済学者や経済記者は、頭を丸めて、菅直人に教えを請うといいだろう。
 それにしても、経済学者と経済記者ってのは、どうして、コストを数えることができないんでしょうかね。猿だって、数を数えるぐらいはできるんですけどね。

 [ 付記 ]
 私も、一つ提案をしておこう。「RCCに簿価で買い取らせる」という提案をするくらいなら、そんな回りくどい方法を取らず、もっと素直な方法を取ればよい。こうだ。
 「増税して、国民から金を奪う。その金を、銀行業界に直接プレゼントする」
 ひとまず、20兆円ぐらいを増税して、それを銀行業界にプレゼントする。これで当面、不良債権処理は済むはずだ。しかし、国民は、増税で消費を減らすので、倒産が続出し、不良債権はさらに追加発生する。そこでまた、20兆円ぐらい増税して、それを銀行業界にプレゼントする。すると倒産が続出するので、また同じことを……、というふうに、以下、繰り返し。タマネギを一枚ずつ剥いて、最後にはカラになってしまう。「あれ、中身はどこにあるの? このなかに『景気回復』という中身があるはずなのに」と、最後に不思議がるわけ。猿知恵。
 馬鹿げているか? いや、この方がずっと賢明である。やっていることは「RCCを利用した不良債権処理」と同じだ。しかし、カモフラージュしないで、実態をあるがままに見せているだけ、何をしているかが、はっきりとする。
 だから、この提案は、ジョークではない。ジョークなのは、政府や学者やマスコミの「不良債権処理で景気回復」という説の方だ。

 [ 補足 ]
 菅直人の批判がいくらか利いたのかもしれない。当初は黙っていた他の与党幹部たちも、簿価買い取りに批判的な意見を出すようになったようだ。(読売・朝刊・政治面 2002-02-18 )
 しかし、である。批判する彼らは、正しいことを主張しているつもりらしいが、「簿価買い取り」でなければ、銀行にとってRCC利用のメリットはほとんどないから、不良債権処理は進まない。「時価で不良債権処理」と述べるマスコミや政治家は、「簿価で」という主張に比べると、正義ではあるが、論理は狂っている。悪と狂の対決。……頭がクラクラしてくる。

 [ 追記 ]
 この「簿価で」という案は、結局、つぶれた。(朝刊 2002-02-19 )


● ニュースと感想  (2月19日c)

 米国のネット接続料金が高騰。DSL会社がつぶれて、CATV会社の寡占化が進んだため。1年ほどの間に、月額料金が 40ドル → 50ドル と上昇。(読売・朝刊 2002-02-17 )
 この教訓は? 
 日本は、3000円程度だから、ずっと料金は安い。50ドルと比べれば、半額以下だ。ならば、「日本は米国より通信料金が高いから景気が悪い」とか、「ITでやがて景気が回復するだろう」という説により、今、日本は米国よりも好景気でいいはずだ。しかし、そうはならない。日本の景気は悪化するばかりだ。
 結局、「ITで景気回復」という説は完全な妄想だ、ということ。(政府はこの妄想に従って、「2年後に景気回復」という「e-Japan 計画」を唱えているが。)


● ニュースと感想  (2月19日d)

 不況対策のダメな政策の例。( 2月14日 の続き)
 結語。
 どれもこれも、規模が小さすぎて、効果不足。最低でも 25兆円(国民総生産の5%)はないと、需給ギャップの解消に向かわない。( → 2月07日b

 [ 付記 ]
 ついでだが、円安という「不況脱出策」には、問題点が二つある。(他にもあるが。)


● ニュースと感想  (2月20日)

 円安について。「円安による不況脱出」というのが、ダメであることの、本質を示そう。
 そもそも、為替相場とは何か? 輸出競争力の有利・不利を示すためのレートか? 違う。物々交換のための基準を決めるレートだ。
 たとえば、200万円相当の日本製自動車1台と、2000円相当の中国製フリース 1000枚。これは、現在の為替レートで、釣り合っている。
 さて、ここでレートを変更して、1割円安にしたとする。すると、日本は物々交換で、1割損することになる。自動車を1割多く与えるか、フリースを1割少なく受け取ることになる。
 で、結局、どうなるか? 国民は、これまでより1割多く生産しないと、旧来のものを(外国から)得られない。つまり、1割、タダ働きしている計算になる。
 そういうことだ。円安により、生産量は増えるだろうし、労働時間も増えるだろうが、それは、「タダ働き」にすぎないのだ。輸入品価格が上昇して、物価が上がっても、賃金も増えない。……完全な「タダ働き」である。それでいて、「失業率が下がった」「物価が上がった」などと喜ぶのは、奴隷根性が身に染みついた、根っからの奴隷である。
 この「タダ働きの奴隷」という状態は、誰か一人がそうなるわけではない。国民全体が、少しずつそうなる。物価上昇を通じて。……最近、パソコンの価格が上昇してきたし、さまざまな輸入品価格も上昇しつつある。たしかにわれわれの「実質所得」は奪われてきている。
 「円安で不況脱出」と唱えるエコノミストがいる。彼らは本質的に、「売国奴」である。言葉のニュアンスは気色悪いが、彼らはまさしく日本を安売りしようとしている。「為替操作して、実質レート以下の相場にせよ」という主張は、本質的に、売国行為である。それによって、失業者は急減するとしても、かわりに、無給労働の奴隷が増えるだけだ。これをもって彼らは「不況を脱出した」と称するが。( 実は、「無給で遊んでいた」→「無給で働く」と変わるのだから、状況は悪化したことになる。)

 [ 付記 ]
 実際には、もっとひどいことになりそうだ。
 「円安で輸出増加」というのが、彼らの狙いだが、変動相場制のもとでは、輸出入は均衡するから、輸出急増ということにはならない。つまり、輸出の量は増えても、輸出の金額は増えない。安売りするだけのことだ。それでも無理に輸出を増やせば? 米国からは課徴金。国内では、為替介入によってあぶれた金で急激なインフレ(正確にはスタグフレーション)。資産インフレも発生して、急激なバブル。そのあとでバブル破裂。
 メチャクチャになるでしょうね。

 ついでに言っておこう。「円安で経済成長」というシナリオが成立する場合もある。それは、日本が「供給力不足」の途上国である場合だ。── こういう場合には、もともと(輸入に比べて)輸出力が不足していたのが、輸出をできるようになる。つまり、バランスを取り戻す。同時に、国内であぶれていた失業者が、生産活動に携わるようになるので、国全体の生産性が大幅に高まる。かくて、国全体の経済は、「供給力不足」というアンバランスな状態から、バランスの取れた状態へと回復する。「不均衡」から「均衡」へ戻ったわけである。そういうふうにして、経済はまともになる。
 もう少し細かく言うと、通貨が1割下がっても、輸出は単に1割上がるだけではなく、2割か3割も上がる。なぜなら、もともと輸出力が欠けていた(≒ 輸入過剰であった)から、輸出が非常に伸びるのである。
 日本はそれとは違う。日本は途上国ではないし、もともと輸出力不足ではなかった。変動為替相場のもとでは、通貨が1割下がったとき、輸出が2割も3割も上がることはない。(そうなりかけたら、たちまち、円高になって、釣り合ってしまう。)
 日本はそもそも、供給力は過剰なのだ。アンバランスは発生しているが、それは、「供給力不足」ではなく、「供給力過剰」である。こういうときに、「供給力不足」のための処方である「円安」を強引に施せば、病人に対する処方としては、正反対の処方となる。かくて、病状は、良くなるどころか、悪化するのである。


● ニュースと感想  (2月20日b)

 「合成の誤謬」について、いろいろと説明してきた。ここで、最後に、肝心なことを述べておこう。── 今の日本の状況は、まさしく「合成の誤謬」にあるのだ。

 今、各企業は、それぞれが合理的にふるまおうとしている。すなわち、リストラや解雇をして、生産性を向上させようとしている。しかし、各企業が合理的にふるまえばふるまうほど、国全体では不合理な行動となるのである。── すなわち、「合成の誤謬」である。
 なぜか? 各企業が生産性を向上させれば、生産に要する人員は減る。従って、失業者(無収入者)は増える。また、労働コストが減るから、国民全体の総所得も減る。結局、総所得がどんどん減るから、総供給も減る。……つまり、「不均衡から、もっとひどい不均衡に移る」わけで、「貯蓄のパラドックス」とそっくりの「合成の誤謬」が発生している。
 では、なぜ、そうなるのか? ここでも「許容量オーバー」が発生している。その許容量とは何か? 消費である。消費が頭打ちとなっている。こういう状況では、いくら生産性を向上させて、供給能力を増やしても、上限たる消費に制約されて、実際の供給量は増えない。つまり、経済が成長しないまま、需給ギャップのみが拡大する。

 結局、景気対策として、「構造改革をしよう」「生産性を上げよう」というのは、「合成の誤謬」を犯していることになる。「量の向上でなく、質の向上だから、効果がない」というだけでなく、「合成の誤謬を犯すから、状況はさらに悪化する」わけだ。(例:失業・倒産の増加。)
 にもかかわらず、政府や経済学者は、このことに気づかない。現在の状況が「合成の誤謬」という状況にあることに気づかない。そして、相も変わらず、「構造改革」「生産性向上」「収益力向上」などを唱えている。かくて、景気を前に進めようとして、どんどん後ろに進めてしまうのである。
 こういう愚かな状況を、「合成の誤謬」という用語が説明するわけだ。

 [ 付記 ]
 補足しておこう。もう一つの「合成の誤謬」も、ここでは同時に発生している。それは「貯蓄のパラドックス」である。
 不況のときは、人々は先行きが暗いので、「消費しないで貯蓄する」という合理的な行動を取る。そういう合理的な行動の総和として、国全体の経済はさらに悪化していく。「不均衡から、もっとひどい不均衡に移る」わけだ。
 結局、どういうことか? 生産者の側でも、消費者の側でも、そろって「合成の誤謬」が発生しているのだ。誰もが合理的な行動を取るが、その結果、それらの総和として、国全体ではいっそう不合理な結果に導かれるわけだ。(そうなる理由は説明済み。)

 [ 補足 ]
 ここまで理解すれば、不況脱出の正しい方法もわかるだろう。また、政府やマスコミの唱える方法( 2月14日 )がなぜダメなのかも、わかるだろう。政府が「合理的な行動を取れ」とけしかければけしかけるほど、状況はいっそう悪化していくのである。
( ※ 明日の記述 も参照。)


● ニュースと感想  (2月21日)

 「需給ギャップ」の問題に関連して、おまけ的に、関連する話題を少し述べておこう。これは、あくまで「おまけ」なので、特に注意する必要はない。当面の景気問題とは、関係ない。参考として読むだけでいい。

 「需給ギャップ」(不況)は、「需要−供給 曲線による均衡がうまく成立しない」というふうに示してきた。ただし、こういう均衡がうまく成立しないという例としては、それ以外の場合もあるのだ。(「市場経済がうまく働かない」 = 「理想的な市場でない」 = 「古典派のモデルには従わない」という場合。)
 こういう場合を、以下に示そう。

 (1) 品質差のある場合
 これは「レモンの市場」という経済学用語で有名。(「レモン」とは「不良品」の意味の俗語。) 中古自動車のように、個別の品質差があると、市場がうまく機能しない。そこで、次のような対策が考えられた。( → 10月17日
   a. 売主による品質情報発信で補正。
   b. 第三者による品質鑑定で補正。
 ここでは、品質差は、測定可能である。

 (2) 品質差があり、測定不可能である場合
 品質差があっても、測定不可能である場合がある。たとえば、多品種少量生産で、品質の差が単純に「良し悪し」で測定しがたい場合だ。「良し悪し」よりも、「種別」や「嗜好」が問題になる場合だ。映画・音楽・書籍などが該当する。
 なお、ここでは、「品質の良いものが売れる」のではなく、単に「需要の多いものが売れる」にすぎない。(例:嘘ばかり書いたデマゴークの経済学書が売れる。「われこそは正義なり」と述べた悪の経済学書が売れる。「私は馬鹿です」と述べて真実を書くこのホームページは読者が少ない。)

 (3) プレミアム性のある場合
 何らかの小さな価値の付加することにより、差別化して、稀少性を出して、プレミアム性を出すことができる。たとえば、サイン入りの商品とか、特別限定版の商品(例:記念切手,テレカ,季節限定ビール,限定バージョンの時計やスポーツカー)。
 こういうのは、小さな品質差はあるとはいえ、それを気にしない大多数の人にとっては、品質差はないも同然だ。だから、通常の市場では、このプレミアム性は無視される。しかし、特定の限られた市場(マニア向けの市場)では、プレミアム性を考慮した取引がなされる。通常の市場とは別の市場が成立するわけだ。(ここでは、売り手と買い手が、共通の幻想をもっている、とも言える。)

 (4) 情報伝達にタイムラグのある場合
 供給と需要が均衡するには、売り手と買い手が、市場価格の正確な情報をもっている必要がある。しかし、需給のバランスが急激に崩れたとき、新たな正当な市場価格の情報が、売り手に行き渡らないことがある。つまり、情報伝達にタイムラグがかかる。
 もしその急激な変化が「値上げ」であれば、情報の入手の遅い売り手をめざして、買い手が襲いかかる。買い手は、旧価格で入手して、新価格で売る。そうして差益を得る。……こういうことは、不動産価格の上昇局面では、よく見られた。結果的には、こういう「利にさとい」人々のせいで、市場価格は急激に正常な価格に修正される。(バラツキがなるなる、ということ。)
 もしその急激な変化が「値下げ」であれば、情報の入手の遅い売り手は、いつまでも古い高価格のままでいる。それは売れ残る。すると、売れ残りの物件が残ったまま、いつまでも市場はまともに取引がなされないままになる。……こういうことは、不動産価格の下落局面では、よく見られた。結果的には、「ちょっと下がったな。じゃ、私も売値を下げるか」と思うまでに、半年ぐらいかかる。それが何重にも繰り返されるので、下落幅の大きいときは、正常な価格に修正されるまで、長い年月がかかる。実際、バブル破裂後、下落幅は大きくするべきなのに、実際に売り出される物件の下落幅は小さかったので、取引があまりなされないまま、何年間もずっと、ダラダラと少しずつ下落し続けた。
( ※ この「不動産価格の下落低下の遅さ」という件に関しては、私としては上記のように解釈するのが正しい、と思う。しかし、まったく別の解釈もある。「人々の合理性が不完全だから」という、アカロフによる説。私としては、承服できないが、一応、示しておこう。 → 合理性と不動産不況

 まとめ。
 以上に、(1) 〜 (4) の例を示した。これらは、古典派経済学がうまく適用できないことを示す。かなり重要なことである。特に、(1) をやった3人は、2001年度のノーベル賞を受けた。( → 10月17日 )  だから、(2) 〜 (4) を研究すれば、その人もノーベル賞をもらえるかもしれない。(保証はしませんが。)
 なお、(1) 〜 (4) は、ミクロ経済学に属するが、マクロ経済学とも関連する。(不均衡を扱うから。ケインズとも関連するわけ。)

 [ 付記 ]
 (1) 〜(3) の場合、「需要−供給」曲線で言うと、「曲線が一本の線ではなくて、曲線がぼやけて霞んでいる」状況、つまり、「曲線がファジーである」状況と言えるかもしれない。(言えないかもしれない。)
 曲線の中心部でだいたいの取引がなされるが、曲線の中心部から離れたところでも少数の取引はなされる、というわけだ。供給曲線がばらついているわけだ。どうしてばらくか、というと、価格差以外の要素が関与してくるせいだ。
( ※ この件、あまり面白い話ではない。)

 [ 補説 ]
 「品質差」と「プレミアム性」を、意図的に結びつける経営戦略がある。それが「ブランド」だ。
 たとえば、「ソニー」や「ベンツ」というブランド。「ルイ・ヴィトン」「グッチ」というブランド。……これらが狙っているものは、「シェア(市場占有率)」ではなくて、「利益」である。「量」ではなくて、「質」である。そのことに注意しよう。
 「企業の目的は最大の利益をめざすことだ」という説がある。しかし、ブランド企業においては、そのような戦略を採らない。最大の利益をめざして、どんどんシェアを増やしていけば、最大のシェアを取ることに成功したとき、もはやその企業は「標準的」になってしまって、プレミアム性を失ってしまうからである。ブランド企業においては、「利益の額」よりも、「利益率」の方が大事なのだ。
 この意味で、これらの企業は、「優勝劣敗」という考え方を取らない。劣者がいなくなっては、自らが優良であることを証明できなくなる。自らが高収益を上げるためには、劣悪な他社がどうしても必要なのである。
 だから、これらの企業は、「劣者は退場せよ」という戦略は採らない。むしろ、劣者が消えそうになったら、わざと自分が手抜きして、他社を残してあげようとするだろう。
 というわけで、「優勝劣敗にすれば、優秀なものだけが残る」というのは、一種の錯覚であるわけだ。小泉は、こういう錯覚をもっているようだが。
( ※ この「ブランド性」をよく理解できない会社もある。たとえば、ベンツだ。やたらと「大きくなること」をめざしたあげく、経営悪化したクライスラーだの、日産だの、他企業を買収・吸収しようとしていた。そうして「ブランド性を保つ」ということを忘れてしまった。そして、クライスラーと合併したことの結果は、連結決算の悪化だ。自らのブランドも傷つきかけている。……一方、これと対照的なのが、ソニーだ。同業他社を買収しようとはしない。シェアを上げようとはしない。シェア拡大のかわりに、高収益を上げようとする。もちろん、低価格品の乱売などはしない。そして、資金が余って、企業を拡大したくなったら、同業他社を買収するのではなくて、異業種の企業を買収する。音楽,映画,保険など。……こういうのが、ブランド企業としては、正しい戦略である。)


● ニュースと感想  (2月21日b)

 ここまで、「需給ギャップ」について、いろいろと述べてきた。最後に、まとめておこう。

 不況の本質は、何か? 「需給ギャップ」である。これが根本である。
 この根本が、「倒産」「失業」「収益性低下」「技術水準低下」「物価下落」などの現実的な事象を引き起こし、同時に、「流動性の罠」「貯蓄のパラドックス」などの経済学的・理論的な事象を引き起こす。
 こういうさまざまな事象が問題となる。それらに対して、「××を解決せよ」と個別に直接的な対策をしてもダメである。(たとえば、失業者に対するセーフティーネット。企業に対する追加融資。銀行に対する不良債権処理。)……こういう直接的な対策は、対症療法にすぎない。病気に対して、熱を下げたり、栄養を注入したり、そういう「取りつくろい」にすぎない。
 病気に対しては、病気の根治こそが必要なのだ。そして、それが、「需給ギャップの解消」だ。この根治をすれば、さまざまな問題は一挙に消える。そしてまた、これのみが、正しい解決策である。

 需給ギャップの解消には、二つの方法がある。「供給の縮小」と、「需要の拡大」だ。
 この二つのうち、「供給の縮小」がまず考えられた。「劣者退場」「不良債権処理」などだ。しかし、これらは、さまざまな弊害(赤字・倒産・失業)が出る。さらに、仮に成功したとき、ふたたび供給の拡大が必要となるので、二重の意味で無駄である。
 ゆえに、二つのうち、残る「需要の拡大」が正解である。

 「需要の拡大」には、二つの方法がある。「官需の拡大」と、「民需の拡大」である。
 「官需の拡大」は、ケインズ的な方法である。これは、小さな不況のときには有効だが、大きな不況のときには力不足である。(やたらと公共事業ばかりを増やすことは不可能なので。)
 「民需の拡大」は、問題ない。そもそも、「民需の縮小」が不況の原因だったのだから、「民需の拡大」(元に戻すこと)を図るのが当然である。

 「民需の拡大」には、「消費の拡大」が必要だ。では、どうやって? それについては、これまで何度も述べたとおり。(ここでは再論しない。)
 ともあれ、「消費の拡大」という根治以外には、正しい解決策はないのだ。そう理解することが必要だ。
( ※ 「消費の拡大」というのは、「合成の誤謬」をもたらすボトルネックを排除することでもある。そのボトルネックで詰まっているという状況をなくすことで、経済は「合成の誤謬」から脱して、正常な状態に移行する。)

 「消費の拡大」というのは、「生産の拡大」でもある。これは、「生産能力の拡大」ではなくて、「実際になされる生産の拡大」である。
 「生産能力の拡大」は、生産性の向上によって生じる。これが必要だ、と思う経済学者が多い。(政府もそうだ。)しかし、現実には、生産能力は余っている。こういう状況で、生産能力の向上をやっても、需給ギャップが開くだけだ。かくて、状況は悪化するばかりだ。(余剰労働力の発生による、失業の発生など。)
 「実際になされる生産の拡大」こそが、今は必要なのだ。つまり、遊休している生産力の活用である。遊んでいた設備や労働者を、働かせる。
 「生産能力の拡大」は、生産性の向上であり、質の向上であり、長い時間をかけて少しずつなすものだ。一方、「遊休していた設備や労働者の稼働」は、生産力の回復であり、量の向上であり、短期的に一挙に増大させることができるのだ。……しかも、このとき、遊休していて「生産性ゼロ」であったものが、いきなり元の生産性を回復するので、国全体では生産性が急激に向上する。つまり、量の向上によって、質の向上が同時になされる。(逆に言えば、不況のときは、量の悪化にともなって、質の悪化が生じている。)

 以上のようにすることが大事だ。つまり、「消費の拡大」によって、「量の拡大」をもたらし、そのことで「遊休していた生産力」を回復し、そのことで国全体の生産性を向上させ、「質の向上」も同時に果たす。そうして実体経済を回復させる。……これこそ、めざすべきことなのだ。
 めざすべきことを正しく理解すること。それが何より大事だ。

 一方、これとは逆の意見もある。「量的緩和をしろ」「資産デフレをつぶせ」というような説がそうだ。マネタリズムと言ってもよい。「貨幣をいじればいい」「貨幣で物価を動かせばいい」とだけ考えて、実体経済を動かすことを見失っている。こういう目先にとらわれて、実体経済を見失うと、とんでもない結果を招くことになるだろう。(すなわち、「インフレ」ならぬ「資産インフレ」である。後日、また述べる。)

 結語。
 実体経済が縮小しているときは、実体経済を拡大させることを目標とすること。量が縮小しているときは、(質ではなく)量を拡大すること。それが大事だ。単なる表面的な数字などに惑わされず、物事の本質に注目するべきなのだ。
 今の経済学者たちの意見は、たいてい間違っている。それは、物事の本質を見抜かず、表面的な症状を見て、対症療法ばかりを狙っているからだ。日本という病人の症状はひどい。このとき、症状だけに注目して、症状をとりつくろおうとばかり努力しているから、その間に、病巣はどんどんひろがっていくのである。






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「小泉の波立ち」
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