[付録] ニュースと感想 (12)

[ 2002.03.06 〜 2002.03.16 ]   

  《 ※ これ以前の分は、

       8月20日 〜 9月21日
       9月22日 〜 10月11日
      10月12日 〜 11月03日
      11月04日 〜 11月27日
      11月28日 〜 12月10日
      12月11日 〜 12月27日
      12月28日 〜 1月08日
       1月09日 〜 1月22日
       1月23日 〜 2月03日
       2月04日 〜 2月21日
       2月22日 〜 3月05日
         3月06日 〜 3月16日

   のページで 》




● ニュースと感想  (3月06日)

 朝日のデフレ解説記事。(2002-03-05)
 大きく間違っているわけではない。半年前なら、「不良債権処理をすれば、デフレは一挙に解決する」と、狂気のデタラメを言っていたが、それに比べれば、まともになっている。とはいえ、マイナスがゼロになっただけ。世間並みである。悪意の嘘はないが、誤解は多い。以下、列挙。
 まとめ。
 少々まともにはなったが、やはり勉強不足。もっと経済学を勉強してから、記事を書きましょう。


● ニュースと感想  (3月06日b)

 中期的な財政赤字について。
 「財政赤字は良くない」という説がある。これについて考えよう。これは、次のように主張する。
 「財政赤字(放漫財政)は、国家経済を破綻させる。やたらと借金したりせず、ちゃんと黒字になるように財政を保つべきだ。そういうふうに財政をしっかりとすれば、経済もしっかりと行くはずだ」

 なるほど、いかにももっともらしい。しかし、これは経済学というより、ただの素人論理だろう。そういう素人論理に従って、国家経済を運営した結果が、今の「緊縮財政によるデフレ深化」である。

 では、真実はどうなのか? 財政赤字は、良いのか悪いのか? ── 簡単に言えば、こうだ。
 「財政赤字は、インフレ効果をもたらす。だからインフレのときには、『財政赤字は悪だ』と言えるが、デフレのときには、『財政赤字は善だ』と言える」

 このことから、結論を言えば、こうだ。
 「デフレ期の」「中期的な」財政赤字ならば、問題ない。 (換言すれば、「インフレ期の」または「長期的な」財政赤字は、ダメ。)

 対比的に述べると、
   ・ 長期的な財政赤字 …… 放漫財政なので、好ましくない。
   ・ 中期的財政赤字 …… 将来、増税で回収するので、問題はない。
 なお、中期的な財政赤字については、「国債を5年で償却する」という法的制限を付けてもよい。財政赤字を心配する人のための措置。
( ※ ただし、あまり意味はない。そもそも、タンク法を使えば、5年後には増税をして、減税の分をすっかり償却するはずである。しかも、それが正しい政策だ。……詳しい説明は、また後日。)

 [ 付記 ]
 本項で述べたことは、すでに述べたことの焼き直しである。 1月30日b2月22日 など。
 1月30日b で述べたのは、「財政黒字(増税)はインフレをつぶす」ということである。(これはインフレのときの話。)
 本日分で述べたのは、「財政赤字(減税)がデフレをつぶす」ということである。(これはデフレのときの話。)
 結局、タンク法に従えば、財政黒字や財政赤字それ自体は、国民にとって損でも得でもない。単に貨幣価値が上がるか下がるか、というだけのことにすぎない。だから、財政赤字は、景気変動のうちで、自動的に解決される。 [なお、もっと細かな話は、また後日。今のところは、おおまかに理解しておけばいい。]

( ※ 本項で述べたのは、中期的なことだ。長期的なことは、明日以降で述べる。)


● ニュースと感想  (3月07日)

 減税の損得について。
 3月04日b では、「タンク法の減税に損得はない」と述べた。ただし、減税で得はしなくても、得した気分にはなる。このことに注意しよう。
 減税すれば、貨幣量は増える。しかし、生産量は(直接的には)増えない。生産量が増えないのだから、手に入る物が増えるわけではない。だから、ちっとも得をしていないことになる。単に物の値段が上がるだけだ。
 たとえば、100円で 100個売っているとき、5%分の減税があれば、物が 105個に増えるわけではなく、物の価格が 105円になるだけだ。ちっとも得しないのである。
 ただし、である。減税の直後は、まだ物価が上がっていない。だから、このときに買えば、得をしたことになる……と感じるだろう。そうだ。そう感じる。たしかに、得をしたように感じるのである。
 では、実際に得をするか? 実際に得をするには、金で物を買わなくてはならない。しかし、一人だけが買うのではなく、国民全員がそろって買えば、物価は値上がりするしかない。物の量が限られているからだ。
 結局、どういうことか? まだ買っていないときは、元の値段で買えるように思えるので、得した気分になる。しかし、実際に買うときには、もはや値上がりしているので、元の値段では買えないのである。……ま、先んじた人は得するが、遅れた人は損するわけで、差し引きして、国民全体では、損得はない。変化がなだらかだとしても、同様である。
 結語。
 実際に得をするには、金が手に入るだけではダメで、物が手に入らなくてはならない。そして、金だけが増えても、物の量が増えなければ、しょせん、得はしないのである。あなたが実際に得をしたければ、紙幣をたくさんもらうだけではダメで、その紙幣で物を買わなくてはならない。……そのことが理解できない人は、紙幣なんか使わず、魔法のランプから出た魔神に、「宝石、酒、自動車」などと頼んだ方がいい。紙幣はあなたを豊かにしてくれないが、魔法のランプはあなたを豊かにしてくれる。

( ※ 紙幣はあなたを豊かにしない。── それはなぜかというと、紙幣は使われるまでは、富への交換を約束するものにすぎないからだ。あなたが 2000年の時点で、百億マルクの紙幣を持っていて、「おれはすごい金持ちだ」と思っていても、あなたはまだ現実の富を持っていることにはならない。たとえば、ユーロへの切替のあと、マルクが無効になれば、百億マルクの紙幣は、ただの紙屑になる。紙幣は使われるまでは、富ではないのだ。)

 [ 補説 ]
 モデル的に示してみよう。
 100円で 100個売っているとき、5%分の減税があったとする。あなたは大急ぎで買いに行って、100円で買えたとする。そういう人が 50人いたとする。残りは 50個。これを、売り手は 105円ではなく 110円で売る。そういうのが 50個。だから、全部を平均して、105円。
 消費者の側から見てみよう。あなたは 100円で買えたとする。「しめしめ、5円得した」と思う。「明日もまた 100円で買おう、そうすれば得するぞ」と思う。さて、手元の金は、1日目と2日目に買うための 210円があった。初めに 100円で買えたので、2日目には 110円残っている。しかし2日目には、 110円という多めの金をもっている人が 50人いて、50個を売っているのだから、需給の均衡から、110円で均衡することになる。かくてあなたは、1日目には 100円で買えたが、2日目には 110円で買うことになる。だから1日目と2日目を平均して、105円。
 結局、大急ぎで買うという行為があってもなくても、マクロ的に見れば同じことである。これは当たり前のことだ。しょせん生産量は同じなのだから、金が増えようと増えまいと、国全体を見れば、手に入るものの量が増えるわけではないのだ。

 [ 余談 ]
 結局、「損得はない」わけだ。それが経済学的な意味である。
 さて、そのことを理解しないと、勘違いするハメになる。たとえば、「1日目に、『5円得した』と思って喜び、2日目に、『5円損した』と思って怒る」というふうな。そんなふうに一喜一憂するのは、好ましくない。むしろ最初から「合計すれば損得はない」と思って、泰然自若としていた方がいい。
( ※ 素人は、こう思う。1日目には、「減税で得した、減税はすばらしい! 減税賛成!」。2日目には、「減税でインフレになった、減税はけしからん! 減税反対!」)
( ※ 阿呆は、こう思う。1日目には、「安売りしているうちに2日分まとめて買っちゃえ」と思って、100円のを2個買って、「しめしめ、10円儲けた、オレって頭いい」と思う。2日目には、前日に買ったものを使おうとするが、「あ、腐っている。日持ちがしないのを忘れていた!」と後悔する。そこで2日目に 110円で買い直して、合計、310円の出費。結局、100円の損。)

 [ 付記 ]
 「減税すれば、景気が良くなって、物が増える」という考えもある。しかし、景気が良くなって物の量が増えたとしても、それは労働時間が増えて生産量が増えただけであるから、タダでもらったわけではないし、得をしたことにはならない。あなたの人生の一部と物を交換しただけだ。)
( ※ 「増税は、損したと感じるものだ」という話もある。 → 1月31日
( ※ 本項の話は 3月11日b に続く。)


● ニュースと感想  (3月07日)

 長期的な財政赤字について考えよう。
 2月23日b (タンクの比喩)では、国家債務(国債残高)を、タンクのように使えるということを示した。
 ただ、タンクを使えるとはいえ、いくらでも無制限に使えるわけではない。つまり、国家債務をいくらでも溜め込むことができるわけではない。
 中期的な財政赤字なら、「今の減税」と「将来の増税」で帳尻合わせできた。一方、長期的な財政赤字は、帳尻合わせされずに、国家債務が溜まるばかりだ。これは好ましいことではない。限度が問題となる。では、国家債務の限度は、どのようにして決まるか?

 通常経済のとき(デフレでないとき)ならば、国家債務の限度は、インフレによって決まる。(インフレによって制限がかかる。)
 原理的には、2月22日 に記したとおりだ。財政赤字の拡大は貨幣流通量の増大(≒ インフレ)を意味する。財政赤字を拡大すれば、ちょうどその分、インフレになる。だから、むやみやたらと財政赤字を拡大すれば、どんどんインフレになる。それは困る。というわけで、自然に、財政赤字の拡大に、制限がかかる。
 インフレのときに、さらに財政赤字を拡大する(≒ さらにインフレをひどくする)のは、よほど無能な経済運営である。まともな経済運営をしていれば、インフレのときには財政黒字となるものだし、だから自然に国家債務は縮小していく。
 なお、「増税せずに、インフレを放置して、そのせいで、インフレがどんどん進むかもしれない」と心配する人がいるかもしれない。しかし、政府が賢明である限り、この心配は不要である。なぜなら、「増税した方が良い」から、「インフレよりも増税」という選択をするようになるからだ。政府が賢明である限りは。
( ※ このことは、詳しい説明が必要なので、もっとずっと後で、いろいろと準備してから、再論する。)
( ※ なお、「政府が賢明でなければ」つまり「政府が愚かならば」という心配は、しなくていい。政府が愚かならば、どのみち、地獄である。どんなに立派な経済学があっても、愚かな政府は愚かな政策を取るから、そもそも経済学の議論をすること自体が無駄である。こういうときは、心配なんかしないで、経済学のことなんか忘れて、酒でも飲んでいればいい。中南米の人たちのように。政府が愚かならば、酒とサンバとカーニバル。……そう言えば最近、変なダンスが流行っていましたね。日本も不況のさなかで、中南米化してきたようだ。)

 [ 付記 ]
 上に述べたとおり、「タンク法による財政赤字は、インフレとトレードオフの関係にある」わけだ。それゆえ、「財政赤字が増えても、こわくない」と言える。(なぜなら、インフレをつぶすために、財政赤字をつぶすから。)
 さて、「財政赤字がこわくはない」と言えるが、ただしそれは、「野放図に財政赤字を増やしてよい」ということではない。ツケ払いは、「インフレ」という形で来る。
 ただ、そのことを、誤解せずに理解するべきだ。「将来、破局が来る」のではなく、「遠からず、インフレが来る」だけだ。そして、「インフレになったら、それをつぶすために、やがて増税が来る」わけだ。結局、「今は減税、後は増税」(≒ 借りて返す)という、当たり前のことになるだけだ。
 結局、あるとき突然、大破局がやってくるわけではなく、インフレが少しずつやってくるだけだ。そして、そのとき、「インフレか増税か」を迫られるだけだ。(どちらを選んでも、損する度合いはほぼ同じ。)
 そういうふうに正しい認識をするべきなのだ。妄想ゆえの恐怖をもつべきではない。決して、「財政赤字が増えたせいで、突然、大破局が来る」わけではないのだ。
 ただし、「オオカミが来る、オオカミが来る!」と大騒ぎをする人も多い。注意しましょう。

 [ 注記 ]
 通常経済のときでなく、不況のとき(不況を考慮したとき)では、話は全然異なる。 これについては、明日の分 で述べる。
( ※ 「タンク法以外」つまり「赤字国債でなく民間資金に頼る」という形の財政赤字については、もっとあとで述べる。)


● ニュースと感想  (3月08日)

 長期的な財政赤字について。話を続けよう。(前項の続き)
 不況のときは、財政赤字が溜まると、どうなるだろうか? 
 通常経済のときであれば、前項で述べたように、インフレが高まるので、インフレを防ぐため、増税[財政黒字]が必要となるので、自然に、財政赤字に歯止めがかかる。(財政黒字にしなければ、インフレになるだけ。)
 では、不況のときは? 物価が上昇しないので、この歯止めはかからない。となると、むやみに財政赤字が拡大する心配があるかもしれない。つまり、現実のデフレと、財政赤字の拡大によるインフレ効果とが、中和しあうわけだ。……その結果、あまりインフレが発現しないことがある。
 となると、不況のときに、現実の物価上昇を起こさないまま、むやみやたらと財政赤字を拡大することが可能となる。そして、浮かれていたあとで、突然、ハイパーインフレが発生したりする。── こういう危険はある。

 では、こういう危険が現実化する(ハイパーインフレが発生する)のは、どのような場合か? ── それは、次の二つの場合だろう。

 (1) 政府が償還能力をなくす
 政府が償還能力をなくすというのは、「債務不履行」(デフォルト)である。こうなったとき(または、こうなると見込まれたとき)、巨大なインフレが発生する。これは「アルゼンチン化」に近い。
 なお、たとえ政府が償還能力をなくしても、次の (2) にならない限り、一国経済は破綻していないことになる。政府の税収が不足しても、民間には十分な富があるので、増税をするだけで解決する。

 (2) 国家経済が縮小する
 国家経済が縮小することがある。こうなると、政府が償還能力をなくしただけでなく、民間にも富がなくなるので、増税の余地がなくなる。実は、これは、今の日本の状況でもある。
 こうなると、いずれは政府の信用がなくなり、破滅的な状況が発生しかねない。たとえば「キャピタルフライト → 円安 → 物価の急上昇」だ。現在、小規模に発生しているが、これが大規模に発生すると、1ドル = 1000円 ぐらいになる。輸入インフレが発生して、日本人は中国人並みの低い実質所得しか得られなくなる。日本の奴隷化である。一方で、輸出産業はボロ儲けするから、国内で極端な富の偏在が生じるかもしれない。(その偏在する先が、特定の産業の労働者ではなくて、銀行の金庫であれば、悲劇である。 → 2月12日b 補説
 もう一つ、本質的な問題がある。今、政府は「構造改革」と称して、「劣者は退場」という方針のもとで、どんどん供給力を削減している。しかし、そのうちいつか、需要が回復すると、縮小した供給力では対応しきれなくなる。供給不足。インフレの発生。……そうなるわけだ。そして、現在の供給縮小の度合いがひどいほど、将来の供給不足の度合いもひどくなるので、将来のハイパーインフレもひどくなる。

 まとめ。
 不況のときは、借金が増えること自体が問題なのではない。借金を返す能力がなくなっていることが問題なのだ。だから今は、「借金が溜まること」を心配するべきではなくて、「借金を返す能力がなくなること」を心配するべきなのだ。
 物事の本質を考えよう。経済が弱体化したときは、経済を強化するべきなのだ。病人が気にするべきことは、自らの体であって、預金通帳の数字ではないのだ。国家財政という預金通帳の数字を良くするために、国家経済という体を悪化させる、というのでは、本末転倒である。

 [ つづき ]
 さらに話を続けよう。実は、大きな目で見れば、財政の悪化は、さして危険視すべきことではない。それよりもっと危険なものがあるのだ。

 (1) 財政悪化
 財政が悪化したすえに、いつか大きなインフレが発生する。しかし、それと同時に、インフレによって債務は急激に減少する。問題が縮小していくわけだ。だから財政悪化は、大問題ではあるが、「地獄」というほどではない。
( ※ わかりやすく言えば、財政悪化のすえの破局は、安定構造と不安定構造のうち、安定構造に属し、不安定構造には属さない。問題があっても、いつかは収束するものだ。 → 安定型と不安定型

 (2) デフレ
 もっと危険視すべきものがある。それは、財政の悪化でなく、経済そのものの悪化だ。景気というものは、問題が不安定構造に属する。インフレにせよ、デフレにせよ、問題はスパイラル状に拡大していく。そして、こちらに対しては、「地獄」も待ち受けている。たとえば、「大恐慌」がそうだ。

 大きな目で見れば、財政問題は、しょせん貨幣の問題にすぎない。巨大なインフレが発生するとしても、それは貨幣価値が低下するだけのことだ。国民の富が大きく増えたり減ったりするわけではない。巨大なインフレは、それ自体はさして問題ではなくて、それによる国家経済の混乱が問題であるだけだ。(アルゼンチンの混乱も同様。通貨切り下げにより、巨大なインフレが発生したが、同時に、輸出競争力を取り戻し、供給力が拡大し、経済はしだいに正常な状態に戻っていく。)
 一方、デフレは、本質的な問題だ。大量の失業があふれるということは、国家経済そのものが損なわれているということを意味する。貨幣価値だけが低下するのではなくて、国民の富そのものが減っていることを意味する。最悪の場合、国民全員が失業して、国の経済力はゼロとなる。(その場合も、小泉は「構造改革が進んだ」と大喜びだろうが。)(なお、この場合、国家債務の総額が少なくなっていても、返済能力がなくなっているので、財政は破綻する。赤字の大小が問題ではないのだ。)
 だから、不況の今は、何よりまず、国家経済そのものを強化するべきなのだ。「効率を高めよう」と唱えながら、「効率の低い部分を、効率ゼロにしてしまう」という「構造改革」路線を捨てて、効率ゼロの失業について解決をめざすべきなのだ。効率の低い部分を切り捨てるのは、失業問題の解決が達成されたあとである。また、財政問題の解決を図るのは、返済能力(≒ 経済力)を高めたあとである。

 結語。
 「財政悪化を防ぐには、財政を健全化すればいい」という説は、誤りである。デフレのときに、財政健全化をめざせば、帳簿上では一時的に成功するかもしれないが、国の根本的な経済力を損なう。それは借金の返済能力そのものを損なう。その先には、完全な財政破綻が待ち受けている。
 帳簿の数字にこだわるべきではなく、一国の経済力そのものにこだわるべきなのだ。一時的に借金を増やしてもいいから、一国の経済力そのものを縮小状態から脱出させるべきなのだ。
 標語ふうに言えば ──
 「財政破綻を招くものは、債務の巨大さではなくて、返済能力の悪さである」
 「財政破綻を招くものは、財政の悪化ではなくて、経済力自体の悪化である」

( ※ このことゆえ、国債格付け機関が、日本国債の格付けを下げたのは、適切である。「日本には個人や政府の資産がいっぱいある」とか、「財政赤字を増やさない」とか、そんなことを言ってもダメなのだ。経済力が縮小しているならば、国債の格付けは下がるものなのだ。また、そうなるのが当然だ。だいたい、全員が失業して、経済力がゼロになれば、国債返済能力はゼロになる。……日本はそこに近づきつつあるのだ。)

( ※ この問題は、次のようにモデル化することもできる。── 積み木を何段も重ねる。高くなったのを見て、危険視する人がいる。「こんなに高く積んでは危険だ! 危ないぞ! 危ないぞ! 危ないぞ! さっさと取り崩そう!」と大騒ぎ。しかし、である。どうせ危険さを心配するなら、積み木の高さよりも、積み木を支える基礎がぐらつくかどうかが問題となる。積み木が崩れるのは、高くなったときではなく、基礎がぐらついたときなのだ。こういうとき、「危険な高さを減らそう」と考えて、1段目を強引に取り除こうとして、基礎を傷つけてしまい、全体を崩壊させてしまう。……というのが、「不況期の財政健全論者」だ。)

( ※ もうちょっと本質的に言おう。「財政健全化」というのは、インフレ対策としては正しい。それをデフレのときにやるのが、根本的に間違っているわけだ。小泉の政策は、すべてそうだ。「構造改革」「財政健全化」「サプライサイド」……すべて、インフレ対策である。どんな病気に対しても、処方は同じわけ。体温の下がった患者に、「解熱剤を注射します」。)

 [ 補説 ]
 以上のことから、「長期的な国債残高」の上限が、決まってくる。それは、「意図せぬ不況」が来ても、なんとか負担に耐えきれるだけの大きさである。
 経済というものは常に変動するものだ。正しい政策運営をしていても、何らかの要因によって、小さな不況になるかもしれない。このとき、あまりにも巨額な国債残高があると、経済がちょっと弱まっただけで、負担に耐えきれなくなる。それまでは大丈夫であっても、ちょっとした不況で破綻してしまう。
 だから、そうなることのないような大きさで、上限は決まる。……このことに気づかないでいると、景気のいいときは「まだまだ大丈夫」と借金を増やしていったすえ、ちょっと景気が悪くなると、いきなり破綻する。
 だから、景気のいいときは、やがて来る不況に備えて、借金を減らしておくべきなのだ。そしてまた、借金を減らすのは、将来の不況に備えてのことであって、現在の不況に対処するためではないのだ。(勘違いしないように。)

 [ 比較 ]
 従来の学説との比較をしておこう。従来の学説では、「名目成長率が金利よりも大きければ大丈夫」と主張する。しかしこれは、「名目成長率も金利も変動しなければ」という仮定が成立する場合の話だ。
 実際には、この仮定は成立しない。つまり、名目成長率や金利は変動する。そして、変動するとしたら、どうなる? たとえ今は大丈夫(安心)でも、将来はダメ(危険)になるかもしれない。好況のときに「今は、名目成長率が金利よりも高いから大丈夫」などと安心して、どんどん財政赤字を積み重ねていると、あとで不況になったとき、「ありゃ、名目成長率が金利よりも低くなった」という事態になるかもしれない。(デフレなら、必ずそうなる。名目成長率はマイナスで、金利はゼロ以上。)……そうなってからあわてても遅いのだ。
 だから、従来の学説は、不十分なのだ。すぐ上の [ 補説 ] に述べたことが正しいのだ。

 [ 現況 ]
 今の日本は、どう説明されるか?  現在、弱いデフレである。この程度では、破綻状態にはならない。しかし、破綻に近づきつつわけだあるから、国債格付けは下がる。今のうちに、さっさと財政赤字を増やして、景気回復をすれば、名目成長率が上がるから、大丈夫。一方、財政健全化にこだわると、国債残高が一時的に小康を保つが、かわりに、名目成長率がさらに悪化する。となると、破綻にどんどん近づく。
( ※ 破綻の例 : 経済悪化 → 円安 → スタグフレーション → 金利上昇 → 税収減と高金利 → 国債の利払いが不能になる → デフォルト )

 [ まとめ ]
 以上を簡単にまとめれば、こうだ。
 「財政破綻が危険だから、財政赤字を増やさない」という政府の方針は、完全に間違っている。それは、狙いとは逆に、財政破綻の可能性をどんどん高めているのである。

 [ 注記 ]
 ここで述べたことは、赤字が「タンク法」によるものであるか否かを問わない。財政赤字一般に適用される。


● ニュースと感想  (3月09日)

 不良債権処理のQ&A。初心者向けに、簡単にまとめる。

 Q 不良債権処理は、どうすればいいのかな?
 A 不良債権処理をすればいい、というわけではない。かといって、しなければいい、というわけでもない。「一時的な延期」が好ましいのだ。
 今はただちに強力な景気回復策を採る。そのあと、1年ぐらいたってから、不良債権処理を進めればいい。 もし1年前にその政策を取っていれば、今ごろ、景気は回復していたし、不良債権も大幅に減っていたはずだ。現実には、景気回復策を採らないので、不良債権処理を進めれば進めるほど、不良債権が増えていく。
 不良債権処理とは、赤字の尻ぬぐいを、他の人々(企業)がやることだ。他の人々(企業)に体力がないときには、やればやるほど、病気の感染者が増えていくのだ。まずは他の人々(企業)の体力を回復することが優先するのだ。すべてはその先の話である。

 Q 不良債権処理は、延期すればいいのかな?
 A 単に延期するだけでは、何の意味もない。その間に、「景気回復策」を取る必要がある。
 世の中の「不良債権処理」論者の間違いは、「不良債権処理」を景気回復策と勘違いしていることだ。「不良債権処理を進めれば、それだけで景気が回復する」と思い込む。そのせいで、肝心のことが、お留守になっているのだ。
 下手をすると、彼らの主張通りにしたあげく、「不良債権処理は解決しました、日本は破綻してしまいました」となる。

 Q 景気が回復したら、どんどん不良債権処理を進めるべきか? 
 A あわてることはない。景気が回復したら、それだけで赤字企業が黒字企業になることも多い。つまり、何もしなくても、自然に不良債権は大幅に縮小することになる。
 だから、景気回復後、しばらく様子を見て、それでもどうしても赤字になる企業だけ、不良債権処理を進めればよい。それ以外の企業は、黒字になる優良企業なのだから、優良企業をわざわざつぶすことはない。逆に言えば、優良になるはずの企業を不良と見なして、どんどんつぶすのが、不良債権処理だ。
( ※ 換言すれば、景気回復後にも存続できないようなダメ企業は、さっさと不良債権処理をした方がいい。たとえば、ゼネコンのいくつかは、景気回復後にも赤字確実である。こういうのは、他の企業とは、話が異なる。)

 Q 外国では、不良債権処理をして成功した、と聞いたが。
 A そのときの状況が異なる。外国で不良債権処理がうまく行ったのは、デフレではなかったからだ。デフレでないときには、不良債権処理を進めるべきなのだ。だからこそ私は、「まずデフレを解決せよ」と言っているわけだ。単に「不良債権処理を遅らせよ」と言っているわけではない。「不良債権処理ができるような状況を用意せよ」と言っているわけだ。
 状況の違いを理解せず、「他人が成功したから、自分も成功する」というのは、素人考えである。「イチローはアメリカ野球で成功した。だから自分もアメリカ野球で成功するだろう」と、小泉が思ったとしても、そんな理屈は成立しない。単に他人の真似をしてもダメなのだ。とはいっても、単細胞な人が、やたらと多いものだが。……

 Q 不況期に赤字企業を無理に存続させても、劣化するだけでは? 赤字が蓄積しないうちに、さっさと処理した方が得なのでは?
 A その通り。個々の企業を見る限り、さっさと不良債権処理をした方が得だ、と言える。(そうでないこともあるが、そうであることもある。)
 しかし、個々の企業でそうした方がいいとしても、国全体でそうすると、不況が悪化するせいで、かえって損失が大きくなってしまうのだ。これを「合成の誤謬」と呼ぶ。つまり、個の総和が全体とはならないわけだ。
 だから、マクロ経済学を理解すれば、「不良債権処理は先延ばしがよい」という結論を得られるが、マクロ経済学を理解しない素人だと、「不良債権処理はさっさと進めた方がよい」という結論を得る。木を見て森を見ず。
 今の日本の悲劇は、経済の素人が、経済の舵取りをしているということだろう。タイタニック。

 [ 付記 ]
 不良債権処理という政策は、小泉流の「構造改革」と根っこは同じ。健康な人々を、寒気にさらし、氷水をぶっかけて、風邪にして、それで倒れた人を、「劣悪だ」と退場させる、……という政策。
 基本的には、「弱者に優しい」のではなく、「弱者に厳しい」のだ。というか、寒気にさらして、「全員をむりやり弱者にする」のである。「そうすれば全員が強者になる」と信じて。(狂気の盲信。)


● ニュースと感想  (3月09日b)

 不良債権処理の記事。(朝日・朝刊・経済面。2002-03-07)
 朝日には珍しく、良い記事だ。なぜか? 自説を述べないで、事実を足で調べて書いているからだ。
 報告例。経営悪化した中小企業がある。不況下で、もはや経営が成り立たない状態だ。事実上の倒産状態である。しかしそれでも、経営者は必死に働いて、利息だけはかろうじて支払っていた。ところが、債権がRCCに送られた。するとRCCは企業に元利返済を求めてきた。毎月の返済額は倍増。返済不能。倒産。……かくて、不良債権処理が一件落着となった。
 その結果は? 不良債権処理をやらなければ、毎月、利子の分を返済してもらえたし、景気回復後には、元金も返済してもらえたはずだ。しかるに、不良債権処理をやったせいで、利子の分も元金の分も、返済してもらえなくなったのだ。
 では、莫大な負債は、誰が負担する? 本来ならば、この企業が、不況の解決後に、すべてを返済して負担していたはずだ。しかしもはや、この企業はない。となると、銀行か政府が負担するしかない。いずれにせよ、銀行か政府を経由して、国民全体で負担することになる。
 不良債権処理というのは、そういう莫大な無駄を発生させるものなのだ。だからこそ、不良債権処理を進めれば進めるほど、日本経済の体力は、どんどん悪化していくのだ。

( ※ 不良債権処理というのは、ゼロサムではない。ゼロサムならば、国民が損した分、経営者は得をする。しかし、そうはならない。経営者は得をしない。単に国民に莫大な赤字が発生するだけである。これに比べれば、「国債暴落」なんていうのは、全然、問題でない。債権者が損すれば、債務者が得をする。それはゼロサムだから、マクロ的には大した問題ではない。)

 [ 付記 ]
 あまりにも馬鹿らしいので、おもしろい提案をしよう。それは「不良債権処理」とは正反対の「不良債権の逆処理」だ。それは、こういうことだ。
 今、利子しか返済できないような不良企業があるとする。この企業に「不良で危ないから、利子だけでなく元利を払え」と請求すると、前記のように、倒産してしまう。そこで、逆に、「この企業は優良だ」と見なすとよい。すると、たちまちにして、問題は一挙に解決する。
 なぜか? 上記の企業は、「不良」と見られているので、年利 16% もの高利を払わされている。(記事による。債権が 6000万円で、利子払いは毎月 80万円。年利 16%だ。) さて、この企業が「優良だ」と見なされれば、年利は3%ぐらいで済む。差し引き、1年目に元金を 13% を返済できる。2年目には、元金が減っているので、利子はさらに少なくなり、元金の返済ももっと増える。それを重ねて、6年ぐらいで皆済する。……結局、この企業は、返済する額は何も変わらないまま、「不良」から「優良」に見なされるだけで、借金をすべて返済できたことになる。その分、国民が 6000万円を肩代わりする必要はなくなる。
 実際には、その逆にしている。倒産しなくて済む企業をあえて倒産させて、その赤字を、国民全体で尻ぬぐいする。……(不況期の)不良債権処理というのが、いかに馬鹿げているか、よくわかるだろう。
 不良債権処理のせいで、あなたの肩にはざっと 100万円 〜 200万円ぐらいの余計な負担が課せられている。政府やマスコミが「不良債権処理をせよ」と推進しているせいで、こういうひどい目に遭っているのだ。

 [ 補記 ]
 この「不良債権処理の逆処理」だが、実は、ジョークというわけでもない。実は、「景気回復」につれて、これが実現する。その理由を示そう。
 不況のときに、「不良債権処理の逆処理」は、できるか? できない。なぜなら、企業は倒産する可能性があるので、その「倒産確率」の分だけ、金利を上乗せする必要がある。さもなくば、銀行が赤字をかぶることになる。だから、倒産しかねない企業を「優良」と見なすのは、粉飾処理となる。
 では、景気回復が実現したら? そのときは、この企業は、もはや赤字を出さずに黒字になるので、まさしく「優良」となる。優良な企業を優良と見なすのは、粉飾ではない。金利を引き下げていいわけだし、それで元利とも皆済してもらえる。
 というわけで、景気回復につれて、自動的に「不良債権処理の逆処理」が実現することとなる。
( ※ この話、なんだかジョークみたいに感じられるかもしれないが、まったく真面目である。おもしろいのは、話の仕方だけであって、内容の方は、まったく真面目である。それと逆なのが、不良債権処理である。話の仕方だけは、まったく真面目だが、内容の方は、ほとんどジョークである。)


● ニュースと感想  (3月10日)

 デフレ礼賛論。「お金と物にとらわれるな」「経済成長にとらわれるな」という説。(朝日・朝刊・オピニオン面 2002-03-09 )
 朝日はこういう意見をよく掲載する。しかし、こういう意見は完全な錯誤に基づいている。以下に、理由を示す。
 第1に、われわれが「デフレはダメだ」と叫ぶのは、お金や物にとらわれているからではない。なのに、「お金や物にとらわれている」と他人を見下げるような意見を出すのは、ひどい思い上がりだ。傲慢不遜と言える。われわれがデフレを嫌うのは、われわれが守銭奴であるからか? 違う。国民の幸福を願うからだ。莫大な自殺者が発生したり、莫大な失業者が生じたり、莫大な家庭崩壊が発生したり、人々が路頭に迷ったり、若い学生たちが退学させられたり……。こういう不幸を憂うからだ。金を惜しむのではない。人々の幸福や生命を惜しむのだ。そこを勘違いして、「あんたたちは金にとらわれている守銭奴だ」と言わんばかりの口調は、尊大そのものだ。そんなことを叫ぶ人は、人間としての優しさのかけらもないのだ。「自分が安穏と暮らせるからそれでいい」と思いながら、自惚れにとらわれているばかりだから、この世で多大な人々が苦しんでいるのを見ても、少しも共感ができず、涙一つ流せないのだ。(悪魔の無感情と同じ。朝日の正義感と同じ。小泉の独りよがりと同じ。)
 第2に、現状認識を間違えている。「経済成長にとらわれるな」という意見は、インフレのときにこそ叫ぶべきことだ。インフレのときなら、過度に経済成長が生じているわけだから、「経済成長にとらわれるな」と叫ぶことで、世間に警鐘を鳴らすといい。しかし今は、デフレだ。経済は、成長しているどころか、縮小しているのだ。縮小しているときに、「成長は不要だ」と叫ぶのは、完全にそっぽを向いている。家が水没しそうなときに、「火事は不要だ」と叫ぶようなものだ。見当違いも甚だしい。車が左に脱線しそうなときに、「右に脱線してはいけない」と叫ぶようなものだ。そうやって、中央に戻すのを妨げて、あえて危機を増幅させているのだ。
 第3に、心構えが軟弱である。ただの保守的な現状是認にすぎない。不況という不幸のさなかにあるときに、「現在の不幸のままでいい」「現在の不幸をそのまま受け入れよう」と唱えるのは、あまりに安易すぎる。現状肯定。保守頑迷。無為無策。……いわば、暴君が人々に圧政を加えているときに、「へいこらしよう」と唱えるようなものだ。なるほど、意志薄弱な軟弱な人間は、それしかできまい。しかし、心ある人間は、悪政を見たら「それではいけない」と叫ぶべきなのだ。「現状を放置しよう、今の不幸を甘受しよう、多大な人命を犠牲として差し出そう」などと叫ぶべきではないのだ。(軟弱な朝日は、悪政にひれ伏していますけどね。)

 結語。
 現状を認識しよう。デフレとは、「現状維持」ではない。「経済が成長しないこと」ではなく、「経済が縮小していく」ことなのだ。つまり、経済が自己崩壊していくことだ。そういう事実に盲目であってはならない。
( → 時短とシンプルライフ消費と環境


● ニュースと感想  (3月10日b)

 松下電器が、デザイン部門の、社内分社化。(朝日・朝刊・経済面 2002-03-08 )
 単なる成果主義でなく、権限を分与した形での成果主義。これは、私がお勧めしたもの。( → 11月27日
 ま、松下は、私の意見を受け入れたわけではないだろうが、それと同じ結果になったわけだ。で、松下の方針が成功すれば、私の提案が正しかったことになる。失敗すれば、その逆。
 どうなるでしょうかね。私としては、こういう企業が増えてくれることを望む。そうすれば日本の経済力も高まるだろう。

 [ 補説 ]
 デザインに関連して、日産自動車の話題。
 以前、日産のデザイン方針を批判した。( → 11月19日 ) その後、いくらか情報を得たので、追記する。
 これが日産のデザイン失敗の例だ。「なぜ売れないのかわからない」と日産は嘆く。自分の愚かさがいまだに理解できないわけ。
 なぜ売れないか? 経営的には、はっきりしている。デザイン部門を統括する責任者がダメなのだ。中村某という責任者の独裁体制( or 無責任体制)である。はっきり言おう。デザイン部門の長は、デザイナーであってはならず、むしろ経営者でなくてはならない。彼は個性的なアバンギャルドなデザイナーであり、奇をてらったショーモデルのデザイナーとしては優秀だが、販売モデルのデザイナーとしては優秀ではないし、まして、経営能力は、非常に低い。そういう人物の管理下では、失敗するのも必然だ。「独りよがり」な責任者を就任させた時点で、日産の業績低迷は予定されていたのである。

( ※ 日産でも、ブルーバードシルフィは、成功例となっている。この車は、性能的には、まったく平凡な車である。技術は古いし、社内は狭いし、車としての魅力はない。スカイラインやプリメーラと比べれば、月とスッポンだ。にもかかわらず、この平凡な車は、はるかに優秀な販売成績を収める。なぜか? ユーザーに人気のあるデザインを持つからだ。ユーザの声というものが、いかに大切か、よくわかるだろう。逆にいえば、ユーザ無視がいかに損失をもたらすか、よくわかるだろう。)
( ※ 日産の経営は、一見好調に見える。しかしそれは、下請けを泣かせて、コストカットに成功しているから。赤字は出なくなったが、販売数量は伸びないし、下請けは赤字。トヨタやホンダとは、雲泥の差。)
( ※ 日産の状況は、今の日本とも共通する。責任者が、独断で間違った運営をする。日産も、日本も、ともに唯我独尊の貫徹。結果は、日産は業績低迷で、日本は不況に。)


● ニュースと感想  (3月11日)

 「物が売れないのは、買いたいものがないからだ。買う気を起こさせる魅力的な商品を出せばいい。そうすれば、景気は良くなる。新たな供給が新たな需要を生み出すのだ」  という説がある。威勢のいい説だ。しかし、これは、正しくない。

 (1) 新たな供給が新たな需要を生み出すか?
 「新たな供給が新たな需要を生み出す」というのは、企業のレベルでいえば、ある程度は事実である。ミクロ的には、ある程度は正しい。携帯電話にせよ、デジカメにせよ、新しい魅力的な商品が出れば、その需要は生じる。
 しかし、それはミクロ的に見た場合の話にすぎない。デジカメという新製品が売れれば、フィルムカメラという旧製品が売れなくなる。携帯電話という新製品が売れれば、やはり別の何かが売れなくなる。なぜか? しょせん、財布の総額は限られているからだ。
 マクロ経済というものは、個別の何かが売れるかということを問題にするのではなく、一国全体における財布の支出総額を問題にする。新しい商品が売れようが売れまいが、そんなことは関係ないのだ。一つ増えて、一つ減ったとき、「合計ゼロ」と考えるのがマクロ経済学だ。「片方だけ見れば、一つ増えたから、うれしいな」と喜ぶ猿知恵では、困るのだ。

 ついでに、一言。
 経営的に言っても、「新製品で業績向上」なんて考える経営者は、落第である。そんなことは、どんな阿呆な経営者でも考える。だから誰だって、新製品を出したがる。問題は、新製品を出して、それが開発コストに見合うだけ売れるかだ。次から次へと新製品を出しても、売れ残れば、旧型品が在庫の山になるだけだ。
 おもしろい見本がある。日産自動車だ。20年ぐらい前に、業績が低迷してから、毎年、「今度は画期的な新車が出ます。だから業績は急速に良くなります」と言っていた。まさしく、上記の「魅力的な新製品」というアイデアに従った。で、どんどん新車を出したが、それで、どうなったか? どれもこれも目論見からはずれて、売れ行き不振。開発費ばかりが莫大にのしかかり、業績は下落の一途。
 はっきり言おう。業績向上のカギは、「画期的な新製品」なんかじゃない。では、何か? 「ユーザの意向を重視すること」だ。これが鉄則だ。優秀な企業は、どれもこの方針のもとに運営されている。逆に、ダメな企業は、「(ユーザでなく)自分が最高と信じる新製品を、『これはすばらしい』とユーザに押しつける」という方針のもとに運営されている。(たとえば日産の「マーチ」。小泉の「構造改革」。)
( ※ ユーザ重視 → 「ザ・ゴール2」)

 (2) 欲しいという気持ちはどこから? 
 「欲しいという気持ちを湧かせる商品をつくれ」と、先の意見は言う。しかし、これは考え方が根本的に間違っている。
 物が人間の意識を決めるのではない。あなたの気持ちを決めるのは、あなた自身であって、物ではない。物は、単に、そういう気持ちを起こさせやすくするだけだ。
 あなたの友人がアップルのパソコンを欲しがったとしたら、それは、アップルのパソコンが友人の心を操作したのではなくて、友人がそれに好感を持ったからにすぎない。同じ商品が、友人にとっては素敵に見えるが、他人にとっては素敵に見えない。物が心を決めるのではない。心を決めるのは、あくまで本人であって、物はいくらか影響を及ぼすだけだ。
 だからこそ、時間の変化のなかで、まったく同じ商品が、人の気分しだいで、欲しくなったり、欲しくなくなったりする。例は、枚挙にいとまがない。ナタデココ,ティラミス,純ちゃんグッズ。……多くの人が、急に欲しがり、急に欲しがらなくなる。それというのも、物はまったく同じなのに、人々の心理が変化したからだ。
 実は、これは、大切なことである。なぜなら、同じことが、個々の商品ではなく、一国全体の総需要についても当てはまるからだ。
 今は不況だ。総需要が縮小している。なぜか? 日本製品が急に魅力がなくなったからか? 日本の技術水準が急に低下したからか? 日本の賃金水準が急に上昇したからか? 日本の生産性が急に悪化したからか? それとも、日本の経営者が急に無能になったからか? ……多くの経済学者が、そのいずれかの説を支持する。しかし、違う。いずれでもないのだ。本当は、消費者の心が変化したからだ。「買おう」という心がなくなった。そういう心理的な変化が一国全体で生じた。それが、不況の真の原因である。
 「買いたい物がない」と先の意見は言う。しかし本当は「買いたい心がない」のだ。── そして、そう理解すれば、どうするべきかもわかるだろう。

 結語。
 景気変動というものは、人間の心理によって生じる。だからこそ、急速に需要が大きく増えたり減ったりして、急速に景気が過熱したり冷えたりするのだ。(たとえ技術や生産力などの状況がほとんど変化しなくても。)
 「経済活動を心理なんかのせいにするのは科学的ではない」と思うのは、非科学的な思考である。人間とは、そもそも、心理的な動物である。人間の行動を、人間自身の心理に帰するのは、当然のことなのだ。
 人間は、心理的に行動する。人間は機械ではないのだ。誰かの立てた予定に従って生きるのではなく、自らの意思によって自立的に生きる。
 そして、科学的というのは、真実をあるがままに理解することであり、何でもかんでも数字や無機物に還元することではないのだ。
( → 景気と心理

 [ 付記 ]
 「買いたくない」心理は、なぜ生じたか? それは、将来への不安のせいだ。換言すれば、景気の悪化自体が、人々の心理に影響して、景気のさらなる悪化を招いている。悪循環である。 ( → 安定型と不安定型
 現状を脱するには、どうするべきか? もちろん、人々の心理を大規模に変化させることが必要である。そして、そのための方策は、「痛みに耐えよ」と叫ぶ「構造改革」なんかではないのは確かだ。「痛みが来る」と思えば、逆に、「買いたい」という心はますます縮小する。……「構造改革」というのは、あらゆる意味で、景気を悪化させる政策である。


● ニュースと感想  (3月11日b)

 減税の損得について。
 3月07日3月04日b では、「減税に損得はない」と強調した。しかし、これは、私の従来の主張に矛盾するように感じられるかもしれない。── 私は前には、こう言っていたからだ。「インフレ目標政策を取るときは、初年度に減税を実施すべし。初年度の損を補うために」というふうに。ここでは、「初年度では得だ」というふうに示している。
 これは矛盾だろうか? 一件、矛盾に見えるかもしれないが、本当は、矛盾ではない。

 タンク法で言った「減税に損得はない」というのは、たしかにその通りなのである。ただし、3月07日 に述べたように、得はしなくても、「得した感じ」になるという効果もある。
 たとえば、初年度に減税によって、20万円もらったとする。その 20万円を使ってしまえば、物価が上昇するので、得はしない。しかし、20万円を使うまでは、20万円分の得があったと感じる。そして、そう感じることが大切なのだ。なぜなら、そう感じることによって、消費が増えて、デフレから脱出できるからだ。── しかも、そう感じたことで実際にデフレから脱出すれば、まさしく財布の金が多くなるのだから、そう感じたことはただの錯覚ではなくなる。(ただし、労働時間も増えるが。)

 そして、別のこともある。「インフレによって実質所得の減少が起こるから、それを補うために減税をする」というふうに、以前は述べてきた。普通の人々は、そう感じるだろう。それはそれでいい。しかし、本当は、「インフレになるから減税をする」のではなくて、「減税をするからインフレになる」のである。
 これは、普通の人にとっては、どちらでもいいことだが、経済学的に考えるときは、区別しよう。たとえば、すでに高いインフレ状態になっているときは、「インフレを補うために減税をする」という政策を取ってはならない。むしろ、増税するべきだ。それが正しい経済学的解釈である。
 私が、「初年度に減税」に対して、「インフレを補うため」という説明を付けるのは、経済的な理論から言っているのではなくて、一種の政治的な思惑のためである。つまり、人々に、安心感を与えるためである。「物価上昇があっても、別に損ではありませんよ、安心してください」と。そうして人々が安心すれば、先行きを楽観するので、人々は消費を増やすし、それによって景気が回復するわけだ。
 しかも、この説明は、詭弁や嘘ではない。「減税はインフレを補うためだ」というのは、ただの説明ではなくて、実際にそういう効用がある。ただ、世間の人々に説明するときは、それでいいとしても、経済学的に理論的に考えるときは、「減税には損得はない」と考えた方がいいだろう。
 もう少し言っておこう。減税に対するこの二つの解釈は、別に、矛盾しているわけではない。むしろ、同じことだとも言える。「減税はインフレを補うため」というのは、「インフレがあっても減税があって、差し引きチャラになる」ということだ。それはつまりは、「損はない」(損得はない)と言っているわけだ。……この意味で、同じことを言っていることになる。つまり、「インフレは(減税ゆえ)損ではない」というのと、「減税は(インフレゆえ)得ではない」というのとは、同じことの表裏である。

 まとめ。
 減税した直後には、得した気分になるので、景気回復効果がある。しかしそれに遅れて、物価上昇が起こる。……だから、減税したときには、「減税は得だ」と喜びすぎない方がいい。そしてまた、物価上昇が起こったあとで、「インフレは損だ」と怒るべきではない。減税によるインフレは、本質的には、損も得もないのだ。

 [ 付記 ]
 減税は、タンク法による損得はないとしても、それとは別の「得」をもたらすことがある。デフレのときなら、減税をすると、景気回復を通じて、「経済効率の悪化」というマイナスが消えるからだ。こうなると、失業・倒産などのマイナスが消えるので、実質的な富が増える。(タンク法の比喩で言えば、単に貨幣の量が増えるだけでなく、まさしく自動車という物が増える。)……だから、その分の「得」は発生する。とはいっても、その分は、大した量にはならない。賃上げが多いか少ないか、という程度だし、景気の変動に比べれば、無視できる幅だ。


● ニュースと感想  (3月12日)

 「巨額なバラマキを。年 25兆円を5年間。償還は 20年で」という提案。(朝日・朝刊・投稿コラム 2002-03-11 )
 奇妙奇天烈と言うべきだろう。こういう与太を堂々と掲載するのは、いかにも経済音痴の朝日らしい。
 なるほど、これをやれば、デフレは確実に解決する。しかし、そのかわり、猛烈なインフレがやってくる。頭がイカレているとしか思えない。
 論者の意見は、「これは国が国民に金を贈与することだ」だと。へえ。では、論者に尋ねる。国はその金を、どこから手に入れるのか? その金は、空から降ってくるのか? 空から金が降ってくるなら、こんなにありがたいことはない。25兆円と言わず、1000兆円ぐらい贈与すればいい。そうすれば、日本人は、何もしないで、遊んで暮らせる。外国にも配れば、世界中の人は、みんな働かないで、遊んで暮らせる。
 まったく、馬鹿げた話だ。実際には、金は空からは降ってこない。25兆円の貨幣を贈れば、その分、インフレになるだけだ。デフレのときはそれでいいが、デフレが解決したあとでもそんなことをやっていれば、ひどいインフレになるだけだ。それでいて、富はまったく増えないから、猛烈な物価上昇という痛みだけがあることになる。

 結語。
 初年度にバラマキをするのはいい。しかし、バラマキ(減税)とは、贈与ではなく、単なる貨幣量の増加である。それは、デフレを解決することはできるが、デフレ解決後には、インフレをもたらすだけだ。ゆえに、インフレになったら、ただちに増税をする必要がある。

 [ 付記 ]
 何事も、思いつきではダメだ、ということ。経済学的な知識が必要だ、ということ。ま、もっとも、朝日にそれを求めるのは、酷ではあるが。猿は経済学を理解しない。


● ニュースと感想  (3月12日b)

 最近、株高である。なんだか変だと思っていたが、解説記事があった。金庫株のせいらしい。今年に入ってから、各社で金庫株の購入がどんどん決まっているとのこと。たとえば、設定上限額で言って、トヨタが 1500億円、松下が 1000億円。(読売・朝刊・経済面 2002-03-11 )
 さて。金庫株(自社株買い)は、企業が手持ちの資金を取り崩して、自社の株を買うことだ。100億円の現金を失い、100億円分の株券を得る。その企業にとっては、損得はないので、その企業の株価に対する影響は、理論的にはゼロである。
 しかし、個別企業ではそうだとしても、市場全体では異なる。「価格を無視して、とにかく買う」という買い手が現れたのだから、市場全体の平均価格は上がる。というわけで、最近、平均株価がけっこう上がっているのだろう。
 しかし、自社株買いは、永遠に続くわけではない。ある程度で、打ち止めだ。このとき、価格を無視した買い手が消えるから、価格は正当な価格に戻る。つまり、元のもくあみ。
 というわけで、当面、デフレの深刻化にもかかわらず、株高が進んでいるわけだが、やがては、それも収束するだろう。この株高は、そう長く続くことはあるまい。結局は、実体を反映した数字に落ち着くはずだ。

( ※ この先の見通しは? 私はそんな予測を言うつもりはないが、例年の調子では、3月いっぱいは上がって、4月からじわじわと下がる、というのが、基調であるようだ。実際にどうなるかは、神のみぞ知る。)
( ※ 株高にともなって、円高が進んでいる。そのせいで、トヨタや松下といった輸出企業の利益は減る。自社株買いを進めるほど、自社の利益はどんどん減り、自社の株価を下げる効果がある、というわけ。)
( ※ 「株高だから、きっと景気が回復する。だから当面、デフレ対策なんかやめてしまおう」というのが、政府の方針らしい。サボる名分。……ふう。疲れますね。)


● ニュースと感想  (3月12日c)

 政治の話がずっとお休みでしたが、久々に、新ページを公開します。
   「首相公選制の私案」


● ニュースと感想  (3月13日)

 「インフレ目標」と「量的緩和」について。
 「インフレ目標つきの量的緩和」を主張する経済学者が多い。日銀はこれに反対している。で、両者の紙上対決。インタビュー形式。(読売・朝刊 2002-03-12 )
 「インフレ目標つきの量的緩和」を主張するのは、岩田規久男。「1%〜3%のインフレ目標を設定して、量的緩和をすれば、インフレになる」という説。 ( → 1月07日
 「それは無効だ」と反対するのは、日銀理事。「量的緩和をやっても効果はない。理由は構造問題があるからだ。構造問題の解決が先決だ」という説。その一方で、「物価上昇率ゼロになるまで量的緩和をする、と日銀は宣言した」と述べる。
 最後に記者が、「薪が燃え上がらないような不思議な現象」という言葉で、「流動性の罠」について説明する。
 三者三様である。で、どうか? もちろん、全員、おかしい。評価すれば、「3〓〓トリオ」である。(伏せ字)

 (1) 量的緩和
 「1%というインフレ目標つきの量的緩和」が無効なのは、もうはっきりとしている。上記の日銀理事の言うように、日銀はすでに「物価上昇率ゼロになるまで量的緩和をする」という形で、「0%というインフレ目標つきの量的緩和」を実行済みなのである。日銀と (1) の論者との違いがあるとすれば、「物価上昇率が1%(〜3%)でなく、0%であること」ぐらいだ。そのくらいの差は、無視できるレベルだ。
 だから、(1) のようなことを言う量的緩和論者は、「0%というインフレ目標つきの量的緩和」がなぜまったく無効であるのかを、説明する義務がある。そして、説明できなければ、「インフレ目標つきの量的緩和」という自説を撤回するべきだろう。
 たぶん、本人は、無知なので、わからないのだろう。だから、説明してあげよう。それは「流動性の罠」だ。それゆえ、量的緩和がまったく無効であるのだ。そして、だからこそ、「0%でなく、1%〜3%」であろうと、「インフレ目標つきの量的緩和」には、まったく効果がないのだ。( → 2月18日

 (2) 日銀
 こちらは、量的緩和論者のようなデタラメは言わない。ただし、勘違いしている。「インフレ目標つきの量的緩和」が無効であるというのは、「現在の量的緩和」についてのことであるからだ。しかし、「インフレ目標」というのは、そもそも、「将来の量的緩和」についてのことのだ。前者を批判しても、後者を批判したことにはならない。つまりは、自分で勝手に「インフレ目標」というものの幻想を抱いて、その幻想に対して批判しているわけだ。無意味。
 そもそも、「インフレ目標が現在において直接的に無効だ」というのは、初めから明らかなことなのだ。「インフレ目標」というのは、「デフレから脱出させる力」ではなく、「デフレから脱出するのを加速させる力」なのだ。ここのところを、根本的に勘違いしている。
 また、そもそも、経済学的な知識が欠如している。どうせ (1) を批判するなら、それが無効である理由を、はっきりと指摘するべきだ。つまり、「流動性の罠だ」と。

 (3) 記者
 以上をまとめれば、(1) は完全な間違い。(2) は無意味かつ非論理。このうち、(1) の方が、特に罪が重い。
 さて、記者としては、最後に「流動性の罠」に言及している。この点では、上記の二人よりも、経済学的な知識があるし、ずっと頭がいい。
 しかし、難点がある。「流動性の罠」は、読者に向けて言うべきではない。インタビューなのだから、当の相手に言うべきだ。「それは『流動性の罠』のせいでしょ」と。相手は無知なのだから、無知な経済学者に「流動性の罠」という経済用語を教えてあげるべきだったのだ。(たぶん相手にすごく嫌われるでしょうけどね。)
 なのに、それを言えない。そのせいで、このインタビュー全体が、無意味なものになってしまっている。知識はあっても、度胸がない。まったく、情けない。(そのせいで、泣きを見るのは、国民。)

 [ 付記 ]
 記事についての話は、以上で終える。ただ、それとは別に、この問題に対して、私なりのコメントを加えておこう。
 「インフレ目標つきの量的緩和」を唱える経済学者がたくさんいる。しかし、もうそろそろ、自己の誤りを認めるべきだ。
 現実を見るがいい。「0%というインフレ目標つきの量的緩和」は、すでに実施されているのだし、それでいて、効果はまったく出ていないからだ。もし「インフレ目標つきの量的緩和」が少しでも効果があるのであれば、効果がまったく出ないということはありえず、少しは効果があるはずだろう。なのに、現実には、まったく効果が出ていない。
 「流動性の罠」というものを、はっきりと理解するべきだ。つまり、「ゼロ金利のときには、いくら量的緩和をやっても、投資はまったく増えない。金は単に滞留するだけだ」と。
 そしてまた、これは現実でもある。「いくら量的緩和をやっても、投資はまったく増えない。金は単に滞留するだけだ」というのが現実だ。そういう現実も理解できないようでは、エセ経済学者だ。嘘とデタラメばかりを主張したことを反省するがいい。そして、国民に詫びるべきだ。「自説は間違っていました。間違いを主張したせいで、デフレを深めてしまいました」と。
cf. → 3月01日d3月03日b

 [ 余談 1 ]
 上記の (1) の論者は、まったくひどい。「これはリフレーションだ。こうした試みは、多くの先進国で成功している」と主張している。とんでもない勘違いだ。先進国で成功している「インフレ目標」は、インフレ下の物価上昇コントロールであり、デフレ下の物価上昇コントロールではない。つまり、(デフレ脱出たる)リフレーション政策ではない。完全に勘違いしている。「デフレ下のインフレ目標なんて、歴史上にない実験だ」という意見があるのも知らないようだ。ひどい無知。

 [ 余談 2 ]
 上記の日銀理事も、話がおかしい。特に、論理が変だ。
 「インフレ目標は無効だ」というのは、全然、論理になっていない。「有害だからダメだ」というのならともかく、「無効だからダメだ」というのは、論理にならない。賛成する理由がないというのは、反対する理由にならない。彼は「賛成する理由がない」と述べて、反対しているが、論理になっていない。どうしても反対するなら、賛成できない理由ではなく、反対する理由を述べるべきだ。彼の意見は、論理ではない。
( ※ 下手な比喩で言うと、次の通り。彼の主張は、「この夫は妻と結婚している積極的な理由がない。だから、離婚しなければならない」というものだ。そんなことを言い出したら、世の中の大部分の夫婦は離婚するハメになる。……何事であれ、そのことについて「ダメだ」という明白な理由がない限り、そのことを全否定することはできないのだ。こういうのは、論理学のイロハである。日銀理事は、論理力が全然ないわけだ。)

 さて、もう少し、論理の話をしよう。「インフレ目標」は、それ単独ではデフレ脱出をもたらさない(減税と組み合わせる必要がある)。
 つまり、「インフレ目標」は、デフレ脱出の「必要条件」ではあるが、「十分条件」ではない。一方、日銀理事が主張しているのは、「インフレ目標だけやったってデフレ脱出ができない」ということであり、つまり、「十分条件」であることを否定しているだけだ。……結局、「必要条件」と「十分条件」の区別ができないまま、見当違いなことを否定しているわけ。だから、無意味な主張となる。
( ※ まったく、ひどいね。高校時代、数学の点はすごく悪かったはず。どこかで聞いた話だと、「日銀に入るのは、大蔵省にも民間銀行にも入れなかった、落ちこぼれだけ」だとか。)


● ニュースと感想  (3月13日b)

 「インフレ目標」について、関連する話題を示しておこう。私の主張は、「インフレ目標は、それ単独では効果を発揮しないから、減税と組み合わせるべきだ」ということだ。
 なぜか? そうしないと、初年度には、物価上昇だけあって、賃金上昇がない。ゆえに、実質所得が減少して、デフレ脱出が困難になるからだ。(国民も不幸になる。)
 このことを、次のように解説してみよう。

 インフレ「である」ことと、インフレ「になる」こととは、異なるのだ。
 インフレ「である」ことは、問題はない。たとえば、毎年3%の物価上昇のインフレ「である」とする。それはそれで、問題はない。物価は上がっても、賃金も上がる。これは世界各国のごくありふれた平凡な状況である。
 インフレ「になる」ことは、問題がある。たとえば、それまでマイナス2%の物価上昇(デフレ)であったのが、プラス3%の物価上昇へと、急に変わったら? このとき、一挙に前年比プラス5%の物価上昇が起こる。その分、実質賃金の低下が起こる。
 こういう激変が起こるわけだ。それはもちろん好ましくない。そういう激変が景気対策として必要だとしても、国民にとっては大きな痛みが襲いかかるのだ。
 だからこそ、物価上昇を起こす初年度には、激変緩和処置(痛みを減らす処置)として、「減税」がどうしても必要なのだ。そしてまた、それは、経済学的に言っても、本質的に当然なのだ。なぜか? 「量的緩和」とは、企業投資を増やす方策だ。「減税」とは、個人消費を増やす方策だ。今は、供給過剰なのだから、企業投資を増やす方策は本質的にそっぽを向いている。むしろ、個人消費を増やすことこそ、めざすべきなのだ。
 なのに、「量的緩和」論者は、そのことを理解しない。「個人消費を減らしていい、企業の投資さえ増えればいい」と主張し、「個人の金を奪って、その分、企業に金を与えよ」と主張する。そうして個人消費をさらに減らそうとする。……結局、彼らは、経済のことを何もわかっていないのだ。

 [ 付記 ]
 「量的緩和」論者は、なぜそれほど愚かなのか?
 実は、彼らは、「マネタリスト」なのである。「貨幣を金融市場で調節すればいい。それだけで、万事うまく行く。デフレもインフレも、貨幣操作だけで簡単に解決できる。おちゃのこさいさい」と信じているわけだ。
 では、なぜ彼らは、そんな単純な幼稚な説を信じるか? それは、彼らが、貨幣操作以外のことを理解できないからである。「マネタリスト」というのは、「貨幣以外のことは何も知らない」という、無知な人たちのことである。
 そして、そういう人たちが、「インフレ目標つきの量的緩和」を主張して、無意味な量的緩和ばかりをやらせて、日本を不況の罠に陥れているわけだ。
 無知な経済学者ほど社会にとって有害なものはない、という見本だ。彼らは、「デフレ脱出」を唱えながら、日本をいつまでもデフレに陥れている。つまり、自分で言っていることと、やっていることが、正反対である。
 その点、「デフレをめざして、デフレにしている」という日銀の方が、まだマシである。日銀は、めざす方向は間違っているが、自分で何をやっているか、ちゃんとわかっている。……日銀というのは、とんでもない価値観の持ち主たちではあるが、量的緩和論者に比べれば、頭はずっとまともである。

 [ 対策 ]
 こういう(量的緩和論者の)無意味な意見があとを絶たないのは、なぜか? それは、「流動性の罠」について、マスコミがまともに報道しないからだ。
 だから、マスコミは「流動性の罠」について、ちゃんと解説を書くべきなのだ。情報提供という使命を果たすべきなのだ。この件、何度も繰り返したことだが。 ( → 3月03日b

 [ 余談 ]
 量的緩和論者を、比喩で言うと……
 「前へ進め! 前へ進むのが大事だ!」と叫んで、アクセルを一生懸命に踏んでいる。しかしながら変速機が、ニュートラル状態である。アクセルを踏んでも、エンジンが空回りするだけで、車はちっとも前に進まない。それでも彼らは叫ぶ。「アクセルをどんどん踏めば、いつかは前に進めるはずだ! もっとアクセルを踏め! もっと!」……あげく、エンジンは焼け切れて、車は壊れてしまいましたとさ。
( ※ 別の比喩もできる。彼らはつまり、「前へ進もう」と言って、進めないのだから、道化である。自分の愚かさが理解できないあたり、まさしく道化そのものだ。それでも相変わらず、「前へ進むべきだ!」と叫んでいる。……国民は、笑うしかないですね。もの悲しいけれど。)


● ニュースと感想  (3月14日)   [ 基本 解説 ] 

 「流動性の罠」について、しっかりと解説しよう。(クルーグマン流ではなく、南堂流で。  cf. 3月03日b の [ 付記 ]
 
 次のグラフを見てほしい。これは、金融市場における「需要−供給」関係を示したものだ。
( ※ これは、一般市場における「需要−供給」関係と、本質的には同じことである。ただし、供給は資金供給であり、需要は資金需要である。また、価格は、物の価格 [yen] ではなく、金の貸し借りの価格、つまり、金利 [%] である。)


  



 
 乂 
 
     右上がりの曲線は(資金)供給。
右下がりの曲線は(資金)需要。
    → 量
 今、需給が均衡しているとする。均衡点はである。(グラフの交点。)
 ここで、資金供給が増える(量的緩和する)と、どうなるか? まず、資金供給が右にシフトする。すると、均衡点が、従来の点から、需要曲線上の右下に移行する。新たな均衡点をとすれば、からへ移行するわけだ。ここで、よりもは右下にある。だから、の金利よりもの金利の方が低い。つまり、資金供給を増やすと、金利が下がるわけだ。── これが「量的緩和」の意味である。
 つまり、「量的緩和」というのは、単に資金の供給量を増やすことを意味するのではなくて、金利を下げるという効果があるわけだ。
( ※ 通常、中央銀行は、このように資金供給を増やしたり減らしたりして、市場の金利水準を決めている。)
( ※ 均衡点が右下に移ると、金利が下がるが、同時に、資金需要の量も増える。)

 さて、通常は、それでいい。では、金利がゼロのときは、どうか?
 金利がゼロのときに、量的緩和をしても、金利はゼロ以下に下がらない。(つまり金利の下方硬直性がある。) となると、どうなるか? ── それを考えてみよう。

 現在の金利がゼロであるということは、現在の均衡点では、金利がゼロであるということだ。ここで、資金供給を増やす(量的緩和をする)と、供給曲線が右にシフトする。そして、新たな均衡点は、グラフ上では、よりも右下のになる。
 ところが、である。の金利はゼロであるから、それより右下のでは、金利はマイナスだということになる。新たな均衡点は、金利がマイナスの領域にあるわけだ。しかし、理論上ではそうでも、現実には金利はマイナスにならない。
 すると、どうなるか? 需要はのところでストップして、それより右下には移行しなくなる。もはや「均衡」しなくなっているわけだ。(「不均衡」になっている。)
 このとき、いくら量的緩和をしても、金利がゼロ以下に下がることにはならないし、資金需要が増えることにもならない。単にギャップが増える(不均衡が拡大する)だけである。
( ※ グラフで言うと、均衡点周辺の領域に着目したとき、「V」のような形になる。そこに金利ゼロという補助線を水平に引くと、「∀」のような形になる。……さて、である。均衡点は、「∀」の最下部の頂点にあるが、そこには達しえない。なぜなら、「∀」の水平線に当たる「金利ゼロ」よりもさらに下方には届かないからだ。このとき、「∀」の水平線の左端が需要の点である。「∀」の水平線の右端が供給の点である。そして、「∀」の水平線の幅が、資金の需給ギャップである。量的緩和をすると、単にこのギャップが広がるだけである。このギャップに相当する資金は、どこにも行かずに滞留する。量的緩和をしても、資金需要の点はから少しも変化しないので、量的緩和による資金需要拡大の効果は皆無である。)
 この状態を「流動性の罠」と呼ぶ。

 結局、「流動性の罠」の状態(金利がゼロであっても資金需要が増えない状態)では、いくら量的緩和をやっても無効である。金融操作が無効になっているのだ。

 まとめ。
 金利がゼロ以上のときは、量的緩和は、金利引き下げという効果をもち、資金需要を増やすことができる。
 しかし、金利がゼロになると、量的緩和をしても、金利は下がらず、資金需要を増やすこともできない。(単にギャップが増えるだけである。)

 [ 付記 ]
 いったん「流動性の罠」になったら、どうすれば解決できるか?
 もはや量的緩和は無効になっているのだから、量的緩和以外のことをやるしかない。
 具体的に言えば、資金供給をいくら増やしても無効であり、資金需要を増やすしかない。そこで、何らかの方法(減税)で、個人消費を増やせば、企業の投資も増えるので、資金需要も増える。── それが正解である。(量的緩和は正解ではない。)

 [ 補足 ]
 量的緩和の本質は? それは、すでに 「インフレ目標」 簡単解説1月06日 で示したとおり。
 つまり、「需要が頭打ちのときには、いくら供給を増やしても、在庫が増えるだけで、需要を増やす効果はない」ということ。比喩の例はそちらを参照。


● ニュースと感想  (3月14日b)

 日産自動車が、村山工場を廃止したあと、跡地を売却。相手は、宗教法人。740億円。(読売・朝刊・経済面 2002-03-13 )

 これが構造改革の成果だ。つまり、「劣者は退場。かわりに、宗教法人が登場」だ。物を生産する工場が消え、お布施を受ける団体がかわりに来る。前者は劣者で、後者は優者。
 で、そんなことで、景気は回復するんですかね? 小泉は「これで構造改革が進んだぞ。きっと景気は回復する」と信じているようだが、それは「神様の御利益で」ということなのかな。……たしかにまあ、「構造改革で景気回復!」というのは、ほとんど神がかりの説ですね。


● ニュースと感想  (3月14日c)

 不良債権処理は、なぜ、景気の良いときには進めるべきで、不況のときには進めるべきではないのか? その答えを言おう。

 まず、大事なことがある。赤字はしょせん、誰かが負担しなくてはならない。不良債権処理をしたからといって、赤字が蒸発するわけではない。これが原則だ。
 では、赤字は、誰が負担するべきか? 

 (1) 景気の良いとき
 景気の良いときであれば、元のダメ企業をつぶしても、他の企業が生まれる。元のダメ企業の生む黒字( or 赤字)よりは、他の企業の生む黒字の方が大きい。つまり、社会全体を見れば、元のダメ企業をつぶした方が、黒字の額は大きくなる。他の人々が赤字を分担して負担することになるが、それでも社会全体を見れば、黒字の額が増える。だから、(公正ではなくとも)そうする方が好ましい。

 (2)景気の悪いとき
 景気の悪いときには、どうか? 元のダメ企業をつぶすと、他の企業が生まれるか? いや、デフレのときには、元のダメ企業をつぶせば、逆効果である。その企業の従業員が解雇されたり、連鎖倒産が発生したり、一挙に清算処理を迫られたりして、経済全体がさらに縮小する。……つまり、「元のダメ企業をつぶせば、他の企業が生まれる」という前提が成立しないのだ。「劣者から強者に交替する」ということが成立しないのだ。(つまり、構造改革が進まないわけだ。デフレのときには。)(正確に言えば、「劣者から強者に交替する」どころか、「劣者から無能力者に交替する」のだ。以前は悪いながらも生産能力があったが可能だったが、倒産企業と失業者は生産能力がゼロである。つまり、デフレのときの不良債権処理は、「構造改革」のかわりに「構造改」を進めるわけだ。)

 結語。
 「企業をつぶすことによって構造改革が進む」ということが、成立するのであれば、不良債権処理を進めるべきだ。しかし、それが成立しないのであれば、不良債権処理を進めるべきでない。換言すれば、好況のときには不良債権処理を進めるべきだが、不況のときは不良債権処理を進めるべきでない。
 「景気の良いときに正しいことは、景気の悪いのときにも正しい」と思うのは、大いなる錯覚である。状況の違いを認識することが大事だ。
( ※ 「傘は不要だ」という意見は、晴れのときには正しいが、雨のときには正しくない。何事も状況しだいなのである。)
cf. 3月09日 にも、不良債権処理の話。)

 [ 付記 ]
 この問題は「均衡・不均衡」という言葉でも説明できる。
 「均衡」状態にあるならば、ある企業が倒産しても、その分、新規企業が登場する。そうして「市場経済」のものとで、自然な変化がなされる。……これは「構造改革」の理念でもある。
 しけし、景気のいいときならそういう「均衡」は成立するが、不況になるとそういう「均衡」は成立しなくなり、「不均衡」となる。ある企業が倒産しても、その分、新規企業が登場する、ということにはならない。もともと供給過剰であるならば、企業がひとつ倒産しても、別の企業が出てくることはない。それでも供給が削減したことで、不均衡の度合いは一時的に減る。しかし、同時に、需要もまた減るから、不均衡はかえって拡大する。


● ニュースと感想  (3月14日d)

 「個人破産」の記事。(朝日・朝刊・家庭面 2002-03-12 )
 借金が累積して、返済不能になった個人に対する方法。「自己破産」のかわりに、「任意整理」をする。自己破産なら、借金は全額免除。任意整理なら、借金を減免した上で、それを返済することになる。前者なら、貸し手がまるまる損をする。後者なら、借り手が応分の責任を果たす。

 これは「不良債権処理」に、話が似ている。
 「不良債権処理」は、個人の「自己破産」と同様だ。「企業をつぶしてしまえ。借金は全額免除」というわけだ。しかし、そんな方法がベストであるなら、個人に対しても、同様のことを推進すればいいだろう。「どんどん借金してください。あとで自己破産すれば、借金は全額免除です」と。

 馬鹿げたことだ。だから、不良債権処理というのは、そもそも馬鹿げたことなのだ。劣悪な企業に対しては、借金を全額免除するべきではない。借金を減免してでも、とにかく、可能な範囲で借金を払わせるべきなのである。そうすれば、貸し手も借り手も不幸にならずに済む。── そのことを、上の個人破産の記事は教える。
cf. 「民事再生法」による再建。)

( ※ 現状は、逆である。どんどん不良債権処理を進める。いわば、次々と個人を自己破産させていくようなものだ。莫大な損失の発生。)
( ※ だいたい、「不良債権処理を進めるべきだ」と唱える人は、上記の個人破産について、どう説明するつもりなんですかね。)


● ニュースと感想  (3月15日)

 賃上げゼロについて。(トヨタなど。)
 「国際競争力を保つため、賃上げゼロはやむをえない」という説がある。経営者側が、こう主張しているようだ。これは正しくない。
 国際競争力を保つため、賃上げゼロにすれば、その分、円高になるだけだ。逆に、賃上げをすれば、その分、円安になるだけだ。……結局、マクロ的に見れば、賃上げをしようとしまいと、国際競争力には関係しない。これは、当たり前の話だ。いちいち細かく説明するのも面倒くさい。
 では、何が違うか? 企業間(産業間)の差だ。たとえば、自動車産業で賃上げをして、鉄鋼産業で賃上げをしなければ、自動車産業は鉄鋼産業に比べて、賃金が高くなるので、鉄鋼産業に比べて不利である。……それだけのことだ。
 結語。
 経営者側の主張(およびマスコミの流布する説)は、経済学を無視した話である。だまされてはいけない。
( ※ トヨタの状況は、どうか? ここ数年、米国ではシェアがどんどん増えていき、ビッグ3の一角を占めそうな勢いだ。利益も莫大だ。……少なくともトヨタに関する限り、国際競争力は、弱まるどころか、強くなりすぎているのだ。つまり、経営者は、白を黒と言いくるめているわけだ。)

 [ 補説 ]
 「比較優位」と「絶対優位」とを区別するべきだ。(経済学の教科書にはたいてい書いてある話。)
 劣悪な技術水準の途上国があるとする。何をやっても、劣悪なものしか生産できない。国際競争力は全然ない。では、この国は、何も輸出できないか? いや、そんなことはない。劣悪なもののなかで、比較的マシなもの(たとえば農産物)を輸出し、比較的ダメなもの(たとえば自動車)を輸入すれば、国全体では、富を増やすことができる。
 話は同様だ。日本全体が高賃金になっても、ちっとも問題ではない。比較的優れた企業は、高賃金を払っても、なおかつ栄える。比較的ダメな企業は、高賃金を払うと、耐えきれずに倒産する。
 つまり、トヨタが主張しているのは、「自分たちは国内のなかでダメな企業です」ということであり、「世界のなかで国際競争力をなくしている」ということではないのだ。
 もしトヨタの主張が正しいとすれば、そういう劣悪な企業は、さっさと倒産した方がいい。そして、高賃金を払える企業(たとえばホンダ?)と交替した方がいい。自動車産業全体がダメなら、別の産業と交替した方がいい。……それが構造改革の理念だ。(構造改革は、長期的には正しい。)
 要するに、「日本は高賃金で国際競争力をなくしている」というのは、まったくのデタラメである。それは、経済学的に言ってもおかしいが、そもそも現実を無視している話だ。今、日本は、貿易収支が赤字か? いや、大幅な黒字だ。ということは、日本の国際競争力は強い、ということだ。「国際競争力が弱い」とギャーギャーわめいているのは、どこかの自動車会社のように、日本国内では劣位な会社だけだ。そんな会社は、さっさとつぶれた方がいい。
 結局、トヨタがなすべきことは、賃上げを抑えることではなくて、(国内の他企業に比べて)劣悪な経営をしている、当の経営者をクビにすることだ。彼らの主張は、そういうことを意味する。
( ※ ただし本当は、トヨタにおいて劣悪なのは、経営ではなく、技術水準でもなく、経済学的な論理だけ。それを論破できない労働組合は、唯々諾々として受け入れることとなるわけだ。経済学を知らないと、労働者はだまされて損をする、ということ。)
( ※ 結局、円安による巨額の企業利益は、銀行に眠るだけで、消費に結びつかない。かくて、不況はますます悪化する。)

 [ 付記 ]
 円安に関連して、何度も繰り返したことだが、肝心なことを、もう一度、言っておく。
 日本の高賃金(つまり円高)は、少しも問題ではない。それはつまり、日本の技術水準の高さを示すだけだ。「円安にすればいい」というのなら、日本の技術水準を中国並みに落とせばいい。そうすれば、中国並みの低い技術水準で、中国並みの低い賃金となる。
 「低い技術と低い所得」で途上国となるか? 「高い技術と高い所得」で先進国となるか? ──そのいずれかしかないのだ。「高い技術と低い所得」というのを、経営者側は主張しているようだ。しかし、そんなことを主張するのは、経済学の素人と言うしかない。仮に、そんなことが実現したら、たちまち、大幅な黒字となり、円高が実現するので、結局、「高い技術と高い所得」となってしまう。……たとえ円表示の賃金があまり上昇しなくても(賃上げを抑制しても)、急激な円高が進むことで、国際比較の賃金が急上昇するのだ。そして、これは、過去において日本のたどってきた道である。
 結語。
 自動車産業が賃上げを抑制すれば、貿易黒字が増えて、円高となるので、日本の全産業の賃金が上がる。自動車産業が賃上げをすれば、貿易黒字が減って、円高が抑制されるので、日本の全産業の賃金は上がらないまま、自動車産業だけが比較的高賃金となる。

 [ 補記 ]
 ある会社が高賃金であるということは、その会社にとって不利であることを意味しない。高賃金であるというのは、それだけ発展しているということだ。逆に言えば、ある会社が低賃金をめざす、ということは、つまり、高収益・高賃金・高能力の超一流企業(ベンツやソニーのような)となることを拒み、三流の劣悪な会社(低収益・低賃金・低能力)になりたがっている、ということだ。……ま、優秀な人間が低賃金の会社に入りたがらないのは、確実である。

 [ 余談 ]
 ついでに言えば、労組は、要求するものを間違えている。「賃上げを」と言うから、拒まれるのだ。「時短せよ。金のかわりに、時短を。どうせ競争力が弱って暇になるんだろうしね」と言えばよかったのだ。……それを言えないから、何ももらえない。金ばかりにこだわる欲張りは、得られるものさえも得られない、ということ。
 昔々、欲張り婆さんは、黄金の入った籠を欲しがって、ガラクタの入った籠をもらいましたとさ。


● ニュースと感想  (3月15日b)

 スーパーの西友が、米国大手スーパーのウォルマートに実質買収される。(朝刊 2002-03-15 )
 まあ、どうでもいいですけどね。どうせなら、ダイエーを買収してほしかった。たとえば、ダイエーが 100% 減資してから、ウォルマートに出資してもらうとか。……それなら、国民の負担はゼロで済んだ。
 なのに、そうしないから、銀行は債権放棄で莫大な金をプレゼントした。つまり、国民は、その分の金を奪われた。
( ※ 朝日の経済部記者は、「銀行は情報を得ていたから、金を払うのは当然だ」と主張する。しかし、情報を得ていたからといって、ダイエーの株を売るわけには行かないし、融資を引き上げるわけにも行かない。インサイダー取引をするわけではない。銀行は兜町の投資家ではないのだ。……で、朝日の奇天烈な主張に従うと、国民は莫大な金を奪われるわけ。「債権放棄」という不公正な手段のせいで。)
( ※ なお、「債権放棄」というのは、裁判に訴えられても負ける可能性が高く、ほとんど犯罪[業務上背任]に近い。朝日というのは、そういう犯罪的な行為を正当化する会社のようだ。)
( ※ ウォルマートの方針は、理解できなくもない。ダイエーを買収しても、元々日本一のシェアでは、成長の余地が少ない。西友を買収すれば、成長して、ダイエーのシェアを奪うことができる。投資効率が高くなるだろう。……ただ、小泉は「これで構造改革が進む」と喜んでいるようだが、つまりは、ダイエーが西友にシェアを奪われて、つぶされるだけだ。そこで「不良債権処理」がなされれば、莫大な赤字は、国民が支払うことなる。)


● ニュースと感想  (3月15日c)

 最近、減税が議論されているようだ。しかし政府や与党の税制担当者は、「減税なんかダメだ」と考えているようだ。
 この考えは、どこが間違っているか? それは、「税率を可変化する」という考えができない点だ。たとえて言えば、「金利を変動させるのはけしからん。金利は固定的にするべきだ」と主張するようなものだ。
 こういう「金利固定主義」というのは、今では完全に、時代錯誤で化石的な思考だろう。そしてまた、「税率を固定するべきだ」という考えもまた、時代錯誤で化石的な思考なのである。  なぜか? 現実の実体経済そのものが可変的であるからだ。── たとえば、自転車で直進しようとしたとき、自転車が左にふらついたら、ハンドルを右に切って修正しなくてはならない。そうしてこそ、直進できる。「ハンドルを動かすのはけしからん」などと考えていたら、少し左にそれかかったとき、そのまま修正されず、どんどん左に行ってしまって、ついには脱線する。
 そういうことが理解できないのが、前述の思考法だ。それは、方法が硬直しているだけでなく、自分の頭そのものが硬直しているのである。
( → 1月03日c 「サイバネティックス」 )


● ニュースと感想  (3月15日d)

 減税が提案されている。(相続税減税 ,住宅取得税減税 ,投資促進減税……。) しかし、その多くは、ダメである。国民全体への減税ではなく、特定集団への減税だからだ。
 第1に、対象者が特定集団では、額が少なすぎるので、効果がまったくない。これまで、所得税減税が何度も行なわれたが、結局は、景気回復効果がないまま、消えてしまった。いずれも、額が不十分だったからである。最近、提案されているものも、同様に、額が少なすぎて、効果はないだろう。
 第2に、それは国民間の(不合理な)所得再配分になる。減税の財源は、空から降ってくるわけではない。元はといえば、国民全体の金だ。それを、特定集団のために使ってしまえば、残りの国民は金を奪われることになる。人々は、「あいつらに減税の金をくれてやったら、あとで俺たちが増税で金を奪われることになる。悔しい」と腹が立つ。腹が立っても、どうしようもない。で、人々のできることはといえば、「将来の増税に備えて、消費を減らそう」と考えるしかない。それが合理的である。……となると、人々は、消費を減らすことになる。

 結語。
 減税のあとには増税が来る。特定集団のために減税をすれば、あとで国民全体に増税が降りかかる。これは、タンク法の増減税とは異なって、国民の間に所得の再配分をもたらし、富の不公平な分配をもたらす。結果的に、国民全体の消費を減らす。……というわけで、特定集団のための減税というのは、道義的にも、経済学的にも、まったくまずいのである。


● ニュースと感想  (3月16日)

 政府は最近、「景気は下げ止まった」と判断しているようだ。「先行きは明るいかも」と夢見るエコノミストもいるようだ。「どうかな」と迷う人も多いようだ。では、私の判定は? 
 株だけは勝手に上がっているが、これは思惑にすぎない。実体経済はどうか? 2月の倒産件数は、前年同月比で 18%増。しかも、12月,1月,2月……と急激に増えている。(読売・朝刊 2002-03-15 )
 2月は日数が少ないのに、倒産件数はかなり増えているのだから、2月の状況は相当悪い。さらに、である。4月以降は、賃下げがある(らしい)。いったん決まった春闘の金額をさらに下げるという、前代未聞の出来事だ。3月後半以降、4月、5月、と、消費心理が急速に冷えるのは、間違いない。3%の賃下げのあと、5%ぐらいの消費縮小が起こるかも。げっ。
 日本は本格的なデフレスパイラルに入りつつあるようだ。どう考えても、悲観的にならざるをえない。こういう状況を見ても、平気で楽観できる政府には、ほとほと感心する。「会社がつぶれたり、給料が減らされたりする。先行き、真っ暗。 だから、消費が増えて、経済が拡大する」ということなんでしょうか? すごい理屈。それはまあ、国民がやけっぱちになって自暴自棄になったときだけでしょうね。そうなるのかな? 

 [ 付記 ]
 なぜ各社は、春闘の直後になって、いきなり「賃下げ」を言い出したか? 時期的に、おかしくはないだろうか? 実は、理由がある。
 前日 のトヨタの話と関連する。トヨタは円安で好業績である。だから春闘で3%ぐらいの賃上げをすると見込まれていた。だから各社はそれとのかねあいで、ベア・ゼロと回答した。しかし、トヨタはベア・ゼロを回答した。となると、国内産業同士での比較から、トヨタ以外の各社は、トヨタよりも低いベアにせざるを得なくなる。……だから、トヨタの回答の直後に、各社は回答を変更したのだ。
 結局、トヨタは、自社のベア・ゼロによって、各社に大幅な賃下げを無理強いすることになった。各社はもともとベア・ゼロのつもりでいたのだが。
 だから、今春以後、不況が悪化したら、それはトヨタのせいだ、と言えなくもない。何しろ、日経連の会長ですからね。日本を大恐慌に引き落とすのが、日経連の会長の仕事なんでしょう。(なぜか? 日本が破綻すれば、日本は途上国となって、低賃金となるから。)

 [ 余談 ]
 悪夢のシナリオを記すと……
 「トヨタがベア・ゼロ → それで円高になる → 各社が賃下げ → それで円高になる → トヨタが真似して賃下げ → それで円高になる → 各社がまた賃下げ → それで円高になる → トヨタがまた真似して賃下げ → それで円高になる → 各社がまた賃下げ ……(以下、繰り返し)」
 賃下げと円高の循環。最後には、どうなるんでしょうかねえ。猿がタマネギの皮をむいているようなものかな。また一枚、また一枚、……

( ※ これは、半分ジョークのつもりであったが、すでに現実化しかけてきているようだ。16日・朝日・朝刊 によると、ホンダは他社の真似をして賃下げすることを検討中。デフレ・スパイラルならぬ、賃下げスパイラル。)


● ニュースと感想  (3月16日b)

 「流動の慣性」と「トービン税」について。
 トービン氏(1981年にノーベル経済学賞)が死去。あちこちで報道されている。特に、氏の提唱した「トービン税」が話題になっている。これは、外国為替市場での過剰な資金流入を防ぐための課税制度。取引に対して低率の課税をして、短期的な取引を抑制する。(税率がごく低ければ、長期取引にはあまり影響しないが、短期取引には影響するので、短期の過剰な資金移動を抑制することができる。)

 さて。「トービン税」を経済学的に考えると、どうなるか? 
 古典派などの「自由経済信奉主義」の人は、「自由経済を阻害する」と反対しているようだ。欧州では、賛成する人も多いようだが、上記の反論をくつがえすだけの理論的な根拠がない。単に「そうすればうまく行くだろう」という実利的な判断があるだけで、経済学的な深い理論的根拠はほとんどない。
 そこで、私が、「流動の慣性」という言葉で、経済学的に説明しよう。

 「市場経済」ないし「自由経済」という考え方では、放置すれば、市場は最適なところで均衡するはずだ。これが原理である。そして、「この原理さえ守れば、すべてはうまく行く」と古典派の人は信じ込む。
 しかし、そうなるとは限らないはずだ。モデル的に考えよう。── いま、半球形のサラダボウルのような器があるとする。この器に、端から水を注ぐことにする。もし水が少しならば、端から注がれた水は、いったん底に達して、そのあと勢い余ってさらに進むが、また戻って、最終的には底に留まる。これは、普通の状態である。さて。もし水が(少しではなく)大量であれば、どうか? 器よりも高いところから、勢いよく噴出された水は、いったん底に達したあと、勢い余って、反対側をどんどんよじ登って、器の外にあふれてしまう。こうなると、「底に留まる」という均衡が成立しない。
 では、なぜ、そうなるか? なぜ、均衡点たる底にとどまらず、反対側まで移るのか? それは、水には「質量」というものがあるからだ。── 質量があると、「慣性」が発生する。つまり、動いていたものは急には止まらず、その勢いが持続する。「車は急には止まれない」というわけだ。
 このことが、なぜ大切なのか? それは、「市場経済重視」という考え方には、「慣性」というものが考慮されていないからだ。換言すれば、静的なモデルだけを考えていて、動的なモデルを考えていないからだ。数学的な言葉で言えば、位置の値だけを考慮して、微分値を考慮していないからだ。
 静的なモデルでは、「水は高きから低きに流れる」と考える。単に「高い・低い」という位置の値だけを考える。しかし、位置の値のほか、「水の落下する速さ」や「水の質量」も考慮するべきなのだ。── それを考慮すると、「慣性」という概念が出てくる。

 では、慣性を考慮すると、経済学的には、どうなるか? 「急激かつ大量な変動が発生したとき、ただちに均衡点には収まらない。むしろ、勢い余って、反対側に行き過ぎる状況が発生する」ということだ。── たとえば、外国為替市場に資金が流入するとき、その額が小額であれば(平常通りの額であれば)、うまく均衡しているが、あるとき突然、巨額の流入が発生すると、まわりの資金までも巻き込んで、均衡状態になるのにふさわしい額をはるかに上回る額が流入したりする。そして、そのあとで、巨額の流出が発生する。……「資金は急には止まらない」わけだ。

 では、このような急激な移動を防ぐには、どうすればいいか? 先のモデルに戻って考えると、水の急激な移動を防ぐには、一種の緩衝装置(ダンパー)を付ければよい。ダンパーというものは、自動車のダンパーの内部構造を見ればわかるとおり、液体の流動を阻害するような抵抗構造を持つ。先のサラダボウルのモデルで言えば、器の中に細い棒をたくさん立てておくようなものだ。急激に流れ込んだ水は、細いたくさんの棒にぶつかり、勢いを失い、速度を弱める。すると、勢い余って反対側に移動することにはならず、底のところでなだらかに停止する。(つまり、急激な流動に対して、阻害する機能がある。ただし、ゆるやかな流動に対しては、ほとんど影響しない。「ダンパー」というのは、そういうものだ。)
 「トービン税」というものは、この「ダンパー」の役割を果たすのだ。つまり、急激な流動を阻害し、均衡に近づける。「自由を阻害することで、かえってうまく均衡させる」わけだ。(一見、逆説的だが。)
 結局、「市場経済」や「自由経済」という考え方の欠点を、トービン税は補っているわけだ。逆に言えば、「流動の慣性」を考慮しない古典派の考え方は、不完全であるわけだ。

 [ 付記 1 ]
 「流動の慣性」は、外国為替市場だけに見られるわけではない。普通の一般市場においても見られる。「みんながそろって同じ方向に進み、そのせいで行き過ぎる」という経済状況だ。たとえば、次の例では、いずれにおいても、均衡にならず、「過剰な行き過ぎ」が発生している。
 [ 付記 2 ]
 関連して、「硬直性」という概念も大事である。「動いたものが急には止まらない」のが「流動の慣性」である。逆に、「止まったものが急に動かない」のが「硬直性」である。たとえば、IT分野で専門労働者が不足しても、専門労働者をすぐに増加させることは不可能である。[雇用の硬直性]
( ※ → 「需要統御理論」における「硬直性」

 [ 付記 3 ]
 「流動の慣性」が発生する事情は、いろいろとある。ただし、大きな要因となるのは、心理的なものだ。先の外国為替市場の資金流入でも、メモリの投資でも、ナタデココのブームでも、人々がそろって同じ行動を取ることに原因がある。経済というものが、人間の営みである以上、こういう心理的な影響は避けられない。「放置すれば常に最適状態に落ち着く」という考え方は、現実無視の妄想にすぎない。
( → 経済と心理 3月11日 の「結語」 )

 [ 付記 4 ]
 「市場経済」というものが完全には成立しないことを示すものには、他に、「レモンの市場」というのもある。 ( → 10月17日2月21日


● ニュースと感想  (3月16日c)

 「ブロードバンドはすばらしい」という説について。
 音声や画像などの大量情報を高速に伝達できるブロードバンドを「すばらしい」と持ち上げる人々が多い。最近、雑誌でもよく掲載されるし、通信業者も大騒ぎする。また、「東大の電子博物館では、収録した音声や画像を世界中で体験できる」という主張もある。(これは、賛美というよりは、自分の携わった電子博物館の自慢。 → 談話のページ

 しかし、私は、こういう賛美を信じない。例の「ITはすばらしい」という賛美と同工異曲としか思えない。
 なるほど、ブロードバンドには、それなりのメリットはある。だから、「いくらかはすばらしい」というのなら、認める。しかし、「すごいすごい」と大騒ぎをするほどのことはあるまい。なぜか? どんなに通信能力が向上しても、肝心のデータを作成する人間の能力が追いつかないからだ。
 東大の電子博物館の担当者は、音声や画像の資料を公開している、と威張る。しかし、有意義な音声や画像を大量に公開できる能力のある人が、どれだけいるか? 公的機関なら、可能だろう。企業が金儲けのために大金をかけて作るのも可能だろう。しかし、素人が有意義な音声や画像を公開できるか? 非常に難しい。芸術としての絵画や音楽ならば、素人のへっぽこな絵画や音楽はただのゴミである。資料としての写真ならば、多少は意味はあるが、その程度のことだ。ま、普通の人にとって、はっきりと意味をもつのは、エロ画像だけかもしれない(?)。ブロードバンドで大きな効果をもつというのは、その程度のことなのだ。

 私の立場を言おう。情報伝達で一番大切なのは、音声や画像ではない。言葉である。たとえば、「坂村健」という一語で、本人を言葉で表現できる。一方、同じ人物を音声や画像で表現しても、だらだらと間延びした情報になるだけで、わずらわしいだけだ。言葉というものは、対象をたった一語で描写できるのだ。そこに、人間の高度な思考能力が発揮される。
 たとえば、あらゆる抽象物は、言葉によってのみ表現できる。経済力にせよ、軍事力にせよ、平和にせよ、優しさにせよ、抽象的なものは言葉によってのみ表現できるのだ。音声や画像では表現できないのだ。「星の王子様」にも、こう書いてある。「本当に大切なものは、目には見えないんだよ」と。そうだ。愛というものは、目には見えない。愛というものは、音声や画像では表現できない。喜びや悲しみも同様だ。(ここに芸術の困難と意義がある。)

 人間の最も高度な思考力は、言葉によって発揮される。そして、そのことは、今のIT環境で十分に実現できる。
 足りないのは、情報の通信容量ではない。情報を発信する力だ。ゴミのような情報をいくら大量に伝達しても無意味である。 有意義な情報を発信する力こそ、大切なのだ。クリエイティビティ(創造力)こそ、大切なのだ。そして、その力は、ブロードバンドやIT機器によっては達成しえない。むしろ、それらを離れて、自分自身で深く考えてこそ、達成できるのだ。

( ※ 上記のページでは、主張する本人の画像を大量に公開している。しかし、むさくるしいおじさんの画像なんて、見たくもないものを、無理に見せつけられても、見る方は、ちっとも嬉しくない。うっとうしいだけだ。)
( ※ 類似の話 → 1月26日 の一番最後 )

 [ 付記 ]
 ブロードバンドには、大きなマイナス点もあるのに注意しよう。それは「不法コピー」つまり「著作権侵害」だ。「タダで入手できる」と喜ぶ人も多いようだが、それは「タダでも構わない」という作品しか生き残らなくなることを意味する。プロのアーティストはみな無収入となって転職し、素人と公務員だけが生き残る。
 今は音楽でも小説でも、金を払って、まともなものを入手できるが、今後、下手をすると、そういうことが不可能になるかもしれない。つまり、素人と公務員の作品だけを、見聞きするわけだ。それでも、粗悪品をもらって、「タダで嬉しい」と喜ぶ人も多いでしょうけどね。ま、区別できない人には、それでいいんでしょうけどね。
 ついでに言えば、政府はこういう著作権侵害の違法状況をなかば放置したまま、「知的産業を振興しよう」と唱える。自己矛盾。






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「小泉の波立ち」
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