[付録] ニュースと感想 (13)

[ 2002.03.17 〜 2002.03.31 ]   

  《 ※ これ以前の分は、

    2001 年
       8月20日 〜 9月21日
       9月22日 〜 10月11日
      10月12日 〜 11月03日
      11月04日 〜 11月27日
      11月28日 〜 12月10日
      12月11日 〜 12月27日
      12月28日 〜 1月08日
    2002 年
       1月09日 〜 1月22日
       1月23日 〜 2月03日
       2月04日 〜 2月21日
       2月22日 〜 3月05日
       3月06日 〜 3月16日
         3月17日 〜 3月31日

   のページで 》




● ニュースと感想  (3月17日)

 減税については、反対論があるようだ。「減税なんかして、財政赤字を拡大すると、国債暴落が大変だ」というふうに。
 こういうふうに「国債暴落が大変だ」という意見は、けっこう出回っている。新聞にも、そういうふうに騒ぐ記事がある。(たとえば、朝日・朝刊・経済面 2002-03-14 )
 そこで、このあと数日間、「国債暴落」をめぐる話題を述べよう。

( ※ 「国債暴落」ではなく、「国債残高の拡大」については、すでに説明済み。 → 3月06日b3月08日


● ニュースと感想  (3月17日b)

 国債暴落について。
 「国債残高が増えすぎると、大変だ。そのうち国債が暴落する! 日本経済が破滅する!」と大騒ぎする人たちがいる。「オオカミが来る、オオカミが来る!」とばかり、「大変だ、大変だ!」と叫ぶわけだ。本当に大変か? 本当にオオカミは来るか? ── そこで、以下で考察してみよう。

 (1) ボイコット
 書籍で、「日本国債」(幸田真音)という小説がある。ただの根も葉もないフィクションかと思ったら、新聞上では著者が本気で心配している。ということは、煽動をするとしても、金儲けのために嘘をついているわけではないわけで、根っからの悪人ではないようだ。単に頭が弱いだけだろう。他人をだまそうとしているというよりは、自分が自分にだまされているようだ。
 この小説の要旨は、次の通り。
 「国債の取引担当者たちが、国債乱発はけしからん、と思ったすえ、ついにぶち切れて、反乱を起こす。つまり、いっせいに入札をボイコットする。とたんに、国債は買い手が現れず、暴落する。金利は高騰。経済はメチャクチャになる」……というシナリオである。
 
 こんなことはあるか? 絶対にありえない。荒唐無稽というしかない。
 そもそも、考えてみるがいい。国債に限らず、どんな物品であれ、みんながそろって買うのをやめれば、暴落するのは当然だ。小麦だって、石油だって、何だってそうだ。「国債暴落」なんていう小説を書いて、人々の恐怖をあおるくらいなら、「小麦暴落」「石油暴落」という小説を書いたっていいはずだ。
 で、実際に、全員がいっせいにボイコットしての「小麦暴落」「石油暴落」ということがあるか? もちろん、ありえない。そういうとき、誰か一人が抜け駆けすれば、その人は巨利を得る。暴落した時点で買って、あとで売る。そうすれば巨利を得るのだ。だから、全員がいっせいにボイコット、などということはありえない。あるとすれば、何らかの強制力をともなったカルテルのようなものがある場合だ。「抜け駆けした奴は暗殺」というような。ま、そういう暗黒街の犯罪でもなければ、成立しない話だ。
 というわけで、「全員ボイコットによる国債暴落」なんてことは、現実には、ありえないのだ。たとえば、日本人がそろってボイコットしたら、例のソロス氏などの外国人投資家が安値で買い入れて、ボロ儲け、というふうになる。
 特に、国債の場合、「全員ボイコットによる国債暴落なんて絶対にありえない」と断言してよい。なぜなら、買い手に「日銀」という強力な政府機関があるからだ。民間人がいくら束になっても、日銀にはかなわないのだ。何しろ、いくらでもお札を刷れるんだから。「全員ボイコット」などがあったら、その代替を日銀が一手に引き受けることができる。さらにまた、政府自体が、一定価格以下の国債発行をやめることもできる。……というわけで、「全員ボイコットによる国債暴落なんて絶対にありえない」と断言していいわけだ。
 著者に進言しておこう。どうせ「暴落」をテーマにした小説を書くのなら、「牛肉暴落」「カイワレダイコン暴落」「ナタデココ暴落」の小説を書いた方がいい。こちらなら、まだ、荒唐無稽ではない。

 (2) ペイオフ
 さて、である。ヘボ小説家のお相手はこれで終わり。このあと、もうちょっとまともな話をしよう。
 国債暴落は、絶対に起こらないか? 「取引担当者の全員ボイコット」という形では起こらないとしても、別の形で起こる危険はないだろうか? 実は、ある。では、どんな?
 それは、「ペイオフ」である。ペイオフをきっかけとする国債暴落は、まったく考えられないわけではない。次のような仮想シナリオが考えられる。
 《 仮想シナリオ 》
  ペイオフ実施 → A銀行不信の噂 → 取り付け騒ぎが発生 → 人々が多くの銀行からいっせいに預金を下ろす → 多くの銀行から現金がなくなる → 各銀行は現金を得るために国債を売る → 国債価格が下落 → 日銀は国債下落に対処しようとしたが、例によって、決定までに何カ月もかかる → 日銀が対処しないので、国債はさらに暴落(つられて、株価も暴落) → 各銀行に巨額の含み損が発生 → 各銀行が資本不足で経営不能状態に → 人々は不安になり、郵貯からも預金を引き出す → 郵貯も国債を売る  → 国債は急激に暴落 → 日銀は「国債は安心です」と宣伝するだけで何もせず → 日本中の企業が倒産 → 日本全体が倒産も同然になって、国債の返済能力がなくなり、国債はただの紙屑になる(アルゼンチン同様のデフォルト)
 これは結構、可能性がある。だから、どうせなら、「ボイコットによる国債暴落」なんていう荒唐無稽なことよりも、「ペイオフによる国債暴落」を書けばいいのだ。その方がずっとリアルだ。
 なぜ前者よりも後者がリアルであるのか? 前者は、取引担当者について「全員がボイコットすれば」というのを仮定している。これはつまり、「全員が馬鹿であれば」というのを仮定しているわけだ。とうてい、ありえない。荒唐無稽である。一方、後者は、「国民が預金を引き出せば」というのを仮定している。これはつまり、「国民が合理的であれば」ということを前提としているわけだ。「全員が合理的に行動すると、国全体では非合理な行動となる」わけだ。つまり、「合成の誤謬」である。( → 合成の誤謬 2月18日b
 だから、「全員が馬鹿であれば」という仮定の上に立つ話よりは、「全員が合理的であれば」という仮定の上に立つ話の方が、ずっとリアルなわけだ。(経済学的にも、後者の方がずっと興味深い。)

 (3) 不良債権処理
 「不良債権処理」も、「国債暴落」の引き金となるかもしれない。この可能性は、十分にある。
 不良債権処理が進めば、赤字企業がどんどんつぶされていく。「供給過剰だから、供給を削減せよ」という声に従って、供給能力はどんどん縮小していく。そして、残る企業だけで、縮小均衡が実現したとする。
 このとき、需給のバランスが取れるので、デフレは解消する。政府も人々も、「万歳、デフレから脱出した」と浮かれる。
 とたんに、縮小していた消費が、元の水準にまで復活する。本来よりも5%ぐらい縮小したのが、元の水準に戻る。つまり、縮小均衡の状態よりも、5%ほど消費が増える。
 しかし、供給は急には増えない。消費の拡大は、ごく短期間で生じるが、供給の拡大は、ごく短期間では不可能だ。もし不良債権処理をしていなければ、供給を元の水準に戻すことは容易だったが、不良債権処理をしたので、供給能力がかなり削減されてしまっている。このときになって、「しまった、つぶさなければ良かった」と思っても、後の祭り。
 となると、この時点で、「5%の供給不足」というギャップが発生する。そして、インフレとなる。「デフレ脱出」と思ったのは、ほんの一瞬であり、そのすぐあとに、インフレが来る。
 インフレが始まれば、「インフレスパイラル」に乗る。物価上昇の「アメとムチ」効果によって、人々の消費意欲も、企業の投資意欲も、インフレのもとで急上昇する。需要は、本来の水準に戻っただけでなく、さらに拡大して、本来よりも5%ほど多くなるかもしれない。となると、本来より5%縮小している供給能力との差は、10%となる。
 結局、10% の供給不足だ。こうなると、もう、ひどいインフレとなる。年率 10% 程度のインフレ。それを防止するために、金利を引き上げる。年利 10% 程度の高金利。とたんに、国債は大暴落。(10年物国債は半額以下になる。)
 「ああ、あのとき不良債権処理なんかしなければ良かった」と国中で大懺悔をする。諸外国は、それを見て笑う。「バブルのときも、資産価値上昇に熱中して、そのあとで大反省。不況のときも、不良債権処理に熱中して、そのあとで大反省。懲りない国民だな」

 (4) 無制限な量的緩和
 「量的緩和」も、「国債暴落」の引き金となりかねない。「量的緩和」を無制限にやっていると、「薪に火がつく」という形の「ハイパーインフレ」が発生するだろう。( → 1月06日b ) そうなると、「ハイパーインフレを防ぐため」という形の高金利が必要となる。すると、国債も暴落するだろう。

 (5) 極端な円安
 「極端な円安」も、「国債暴落」の引き金となるかもしれない。これは、そもそも「極端な円安」の可能性が少ないが、仮に「極端な円安」になったら、「国債暴落」の可能性は十分にある。
 具体的なシナリオは、3月08日 の最後に述べておいた。再掲すれば、次のとおり。
 破綻の例 : 経済悪化 → 円安 → スタグフレーション → 金利上昇 → 税収減と高金利 → 国債の利払いが不能になる → デフォルト
( ※ ここで、国債暴落が起こる。アルゼンチンの国債が、デフォルトで信用をなくして暴落したのと同じ。)

 (6) 財政健全化
 「財政健全化」も、「国債暴落」の引き金となりかねない。その理由は、3月08日 に詳しく述べたとおり。つまり、財政健全化をめざして、デフレ期に財政緊縮策を採ると、経済が縮小するので、債務の返済能力をなくす。悪くすれば、デフォルトである。(アルゼンチン化。)
 先の小説の作者は、「国債残高が巨額なので危険だ、国債が暴落する! だから、国債暴落を防ぐため、財政健全化をせよ!」と主張した。しかし、その主張に従うと、かえって国債暴落を招くのだ。
 皮肉な話だ。それというのも、経済学を理解しないで、単に目先の数字だけを見ているからだ。無知ゆえに、あえて自分の手で、破滅を招くのだ。── もっとも、日本の政府も、そうなのだが。 ( ※ 経済財政諮問会議の委員もそうだ。ホンマに。 → 参考ページ参考検索

 まとめ。
 最初の (1) の「国債暴落」については、「荒唐無稽だ」と述べた。だからこれは、やたらと恐怖を煽るだけで、煽動だろう。では、「ペイオフ」「不良債権処理」「極端な円安」などによる国債暴落を心配する私は、煽動をしているのだろうか? 
 別に、宣伝して大騒ぎしているわけじゃないから、その意味で、もちろん煽動をしているわけではない。ただ、もうちょっと経済学的に考えてみよう。
 「国債暴落」の理由を考えたとき、(1) の「全員ボイコット」は、すでに述べたように、荒唐無稽のありえない話だ。
 では、(2) の「ペイオフによる恐慌」は、どうか? これは、少ないながらも可能性がある。可能性は少ないとしても、仮にそうなったらとんでもないことになる。だったら、そんな危険なところに、あえて足を踏み込むべきではないのだ。それはいわば、あえて地雷原を歩くようなものだ。「地雷は一つしかないから、たぶん大丈夫ですよ。死ぬ可能性は少ないでしょう」と言われたからといって、わざわざ死ぬ可能性を冒すべきではあるまい。
 また、(3) の「不良債権処理によるインフレ」や (4) の「無制限な量的緩和によるハイパーインフレ」や (5) の「極端な円安によるスタグフレーション」 (6) の「財政健全化による経済縮小」は、そうなった場合、国債暴落が起こるはずだ。しかも、この国債暴落は、形式的な理由によるのではなく、日本経済そのものが没落するという実質的な理由による。── となると、「不良債権処理や、量的緩和や、円安や、財政健全化によって、景気が回復します。問題は起こりません。バラ色になります」なんて主張する人の方が、むしろ、煽動をしていることになる。
 結局、私の前述のような意見は、煽動ではない。むしろ、人々を煽動から守ろうとしているのだ。実際、「不良債権処理を進めよう」「円安を進めよう」と主張する人々の、何と多いことか。彼らはデマによって、日本を破滅させようとしているのだ。だからこそ、私は警鐘を鳴らす。── しかし、そういうことをする私が、「煽動家」と見なされやすいのも、残念ながら、事実である。
 私の敵はあまりにも大きく、かつ巨大であり、私の味方はあまりにも少なく、ほぼゼロである。
( ※ 心理的に共感してくれる読者なら、いくらかはいるのですが。……やっぱり私は一人だけで風車に向かう、ドン・キホーテ状態。)


● ニュースと感想  (3月18日)

 国債暴落について。
 前項では、「全員ボイコット」「ペイオフ」「無制限な量的緩和」「極端な円安」など、そういう形の「大暴落」を想定した。これらは、一種のフィクションである。そういう場合での国債暴落は、可能性としては考えられるが、必ずそうなるというわけではない。
 一方、「必ずそうなる」という場合も考えられる。「大暴落」というほどではなくとも、「大幅な下落」が、必ず起こる場合がある。それは、どんな場合か? ──景気が回復したとき」だ。
 これについて、いろいろと考察してみよう。

 (1) 原因
 原因は、簡単だ。
 景気が回復したとする。すると、それにつれて、資金需要が強くなるので、金利がだんだん上昇する。金利の上昇と、(既存の)債券価格の下落は、同じことである。というわけで、必ず、国債価格の下落は起こる。(暴落ではないとしても、ある程度の幅で。)

 (2) 善悪
 国債価格の下落は、良いことか悪いことか? 単純に考えれば、ゼロサムであるから、誰かが得した分、誰かが損するわけだ。単純に「良し悪し」は言えない。
 原理的に言えば、債務者たる国は得するが、一方で、債権者たる国民は損する。
 しかし、損する人が出たとしても、それは当然のことだ。彼は「損するかもしれない」とわかっていて、あえて国債を買ったのだから、自業自得である。投機とは、そういうものだ。損することもあり、得することもある。景気が回復すれば、価格下落で損するが、景気が回復しなければ、高い利息をもらって得をする。彼のギャンブルの責任は、彼が負うべきだ。彼がギャンブルに負けたときだけを問題にしても、騒いでも仕方ない。
 結局、善悪は言えない。
 ただ、善悪を別とすれば、こういうギャンブルを国債でやらせること自体は、問題である。一国経済に、余計な変動要因は、持ち込まない方が好ましい。

 (3) 影響
 影響はどうか? ギャンブルで負けた人がたくさん出て、大きな影響が出ることはないだろうか?
 国債の購入者を調べると、個人所有はごく少なく、ほとんどが機関投資家の所有である。国債の実情を論じたページ によると、次の通り。……国債残高のうち、半分は、政府と日銀が所有している。民間の分は、目立つのは銀行で、35% だ。海外が 6% である。あとは、投資信託・証券会社・個人所有などもあるが、いずれも1%〜3% 程度だ。
 このことから、影響を考えてみよう。
 まず、政府所有。その原資は、郵貯と簡保だ。つまり、国民の金を政府が預かって、国債を買っているわけだ。ここでは、国債の下落があっても、損するのも得するのも政府である。だから、この分は、まったく損得なし。誰も影響を受けない。
 次に、民間所有。いろいろあるうち、考慮すべきは、銀行だ。多くもっている銀行ほど、多く損する。ただ、その銀行の損は、預金者と融資先企業を通じて、国民全体に拡散する。一方、同じ額の得も発生するが、得をするのは、政府であるから、この得も国民全体に拡散する。結局、損するのも得するのも、国民全体だ。結局、銀行の分は、影響があるにしても、あまり考慮しなくていい。たとえ銀行が千億円の損を出して破綻したとしても、その分、政府に千億円の得が入るのだから、心配はいらない。
 さて、民間所有のうち、個人所有の分がある。また、(国債の組み込み率の高い)投信の分もある。これらは、国債や投信を買っている個人だけが、明白に損をする。彼らは損をして、政府が(つまり国民全体が)得をする。
 この分の影響は、はっきりと現れる。ただ、この分は、運用の失敗があったとしても、彼ら自身に責任がある。この点は、先に (2) で述べたように、それはそれで自業自得ではある。しかし、一国経済においては、不安定要因になるだけに、好ましいことではない。

 (4) 対策
 結局、国債価格の下落は、善悪はないし、影響もさして大きくはないが、やはり、好ましいことではない。できれば、避けたい。
 そこで、国債価格の下落を、なるべく防止するよう、方策を取るべきだ。その具体的な策は、明日分 で述べる。(簡単に言えば、日銀が古い国債を買い上げる。)
 ともあれ、このようにして、国債の下落による混乱を、なるべく回避できる。

 (5) インフレ目標
 国債の下落による混乱を減らすのも大事だが、もっと根本的な策もある。それは、国債の下落そのものを、少なくする方法だ。では、国債の下落そのものを少なくするには、どうすればいいか? 金利の上昇を減らせばよい。そして、そのために登場するのが、「インフレ目標」だ。
 景気が回復しかけたときに、「インフレ目標」が取られていれば、当分の間、低金利が続くことになる。だから国債の下落は当分の間、起こらない。
 その後、景気回復が続いて、景気が過熱すると、インフレ防止のため、金利を上げる必要が出てくる。しかし、それは、かなり先の話となる。そのころには、景気過熱の予想も十分ついている。それまでに、人々は、(4) によって、古い国債を売り逃げることができる。だから、「急に暴落」という形の混乱は起こらないわけで、その意味で、混乱は回避できる。

 (6) 増税
 景気回復後、景気が過熱したときは、「増税」をしてもいいだろう。
 「タンク法」で増税をすれば、その分、物価上昇を緩和して、金利を下げることもできる。これもまた、「国債下落」を防ぐ方法となる。

 [ 補記 ]
 本項で述べたのは、「景気が回復したとき」の国債暴落を防ぐ方法だ。
 なお、「景気が回復していないとき」の国債暴落を防ぐ方法は、3月08日 に述べた通りだ。つまり、「不況のときは、さっさと景気を回復するべし」ということだ。なぜなら、さもないと、「景気の悪化 → 経済の縮小 → 返済能力の悪化 → デフォルト → 国債暴落」となりかねないからだ。


● ニュースと感想  (3月18日b)

 新聞報道によると、日産の新型マーチが爆発的な売れ行きだそうだ。発売後1週間で、予約は3カ月分で、ホンダのフィットを凌ぐという。(朝刊各紙 2002-03-16 )

 これは、マスコミ報道や統計数字がいかにデタラメであるかを示す好例である。こうやって統計的な数字を並べ立てて、人々をだまくらかすわけだ。
 この情報のどこがおかしいか? 数字自体は、おかしくない。その解説がおかしい。本当のことを言おう。マーチは、発売前から、1カ月半分ぐらいの予約を取っていたのである。発売後の「1週間で」予約を取ったのではない。マーチはモデル末期であったため、ここ3カ月ぐらいはろくに売れなかった。かわりに、人々は、予約を入れておいた。3カ月間で3カ月分の販売台数があった、というのは、当たり前のことだし、驚くには当たらない。
 では、なぜマスコミは大騒ぎするか? メーカーの狙いにはまったのである。メーカーはマスコミを操作するために、「発売後の1週間で」というふうに、わざと宣伝する。本当は嘘なんですけどね。日産では、発売の1カ月ぐらい前から、ちゃんと予約を受け付けていたんだし、それだけの時間をかけていたんだし。なのに、マスコミはその嘘に乗せられて、嘘の記事を示す。
 本来なら、「発売後の1週間だけで」ではなく、「発売前の1カ月の予約と、発売後の1週間分との合計で」が正しい。正式発売前から購入を受け付けていたマーチは、発売直後にいきなり大人気を博したフィットとは全然異なる。……そういう事実を報道せず、虚偽の情報を出すマスコミには、注意しましょう。

 なお、ついでに言えば、プリメーラもスカイラインも、発売直後は大人気だったが、半年たつと、ろくに売れなくなった。あのころも新聞は、「プリメーラやスカイラインが大人気」と書いていたんですけどね。
( → 3月10日b 「マーチのデザイン」 )

( ※ 余談だが、今度のマーチは、トヨタの初代 Will という車に、よく似ている。両方の実車を、前から見ると、そっくりな印象がある。真似したのか、影響されたのか。……それにしても、よくもまあ恥ずかしくもなく、トヨタの車のそっくり車を出す気になれますね。デザイナーとしてのプライドがゼロであることは確かだ。一種のカンニングかもしれない。独創性のないデザイナーというのは、まったく困ったものだ。)


● ニュースと感想  (3月19日)

 国債価格の大幅下落があると、混乱が起こる。そこで、これを最小限に食い止めるための方法を示す。(網羅するわけではないが、とりあえず、列挙する。……ただの金融操作の技術的な問題なので、あまり面白い話ではないが。)

 (1) 長期国債の買いオペ
 政府が経済運営に失敗して、ひどいインフレが起こると、金利の大幅上昇にともなって、国債暴落が起こる。政府の経済運営の失敗のツケが、二重に国民に及ぶ。それはまずい。
 そこで、この経済混乱を回避するため、あらかじめ、低金利の長期国債は、市場から吸い上げておくとよい。つまり、長期国債の買いオペである。
( ※ これは、大幅な価格下落を防ぐため。ただし、小幅の価格下落はやむをえない。その人は、ゼロ金利のときには、けっこう利息を得たのだから、あとで少し損したとしても、それはそれで当然である。)
( ※ 買いオペの際は、償還までの残余期間の長いものを優先して、吸い上げるといい。残余期間が短いものは、短期国債と同じになるから、当然のことだ。)

 (2) 短期国債の増発・発行
 長期国債を吸い上げる(現金を払う)だけでは、量的緩和と同じで、市場に資金があふれてしまう。デフレのときなら、市場にあふれた資金の行き場がなくなる。景気回復後なら、市場にあふれた資金は実需に向かって過剰なインフレを起こす。
 だから、それを防止するために、長期国債の買い上げと同時に、短期国債を発行するべきだ。そうして、市場にあふれた資金を吸い上げるべきだ。
 つまりは、(1) (2) で、「買って、売る」ことにより、「長期国債から短期国債への切り替え」を誘導するわけだ。
[ ※ このことを理解しない人がいる。「国債暴落を防ぐために買いオペをすると、資金過剰ゆえに、ハイパーインフレになる」と心配するわけだ。その心配は、 (1) だけを想定し、(2) を想定していないからだ。ちゃんと考えれば、(1) (2) をセットで実施することで、資金過剰を防ぐことができる、とわかるはずだ。]
[ ※ 「短期国債は、利回りが低いので、魅力がない」という反論がある。しかし、これは誤り。デフレのときは、物価が2%ぐらい下落しているのだから、名目利率がゼロでも、実質利率は十分高い。インフレのときだって、物価上昇率を引いた実質利率は1%ぐらいであるのが普通だ。(短期証券では、それ以下のこともある。) だったら、今の名目金利ゼロの状態も、十分に魅力的である。保管料を払わずに銀行金庫に預かってもらえる、と考えれば、非常にお得だ。]

 (3) 変動金利型の国債
 単に「短期国債への誘導」をするだけだと、「現在のように超低金利の短期国債は買いたくない」と思う人が多いだろう。そこで、「変動金利型の国債」というのを発行するといい。
 これは、すでに実現の方針が決まっている。半年ごとの金利改定をするタイプの十年国債。(読売・朝刊・2面 2002-03-10 )(なぜか、個人向け限定ということだが、将来的には法人向けにも販売するべきだろう。)
 これがどういうものか、詳細は不明だが、「短期金利に長期金利を連動させる」というタイプの長期国債であれば、好ましい。できれば、長期国債は、こういうタイプに一本化することが好ましい。そうすれば、「国債暴落」といった、無用な混乱要因が減る。
( ※ 買った人も、売った政府も、損も得も発生しない。固定金利に比べると、一方が得して他方が損する、ということはない。)
( ※ 「固定金利でないと、政府にとって、先の見通しが安定しない」という反論もある。これは二重の意味で誤りだ。第1に、国の支払いにとって大切なのは実質利率だけであり、名目利率は関係ない。なぜなら、税収は物価に連動するからだ。第2に、そのような主張は「政府がインフレやデフレを起こす」ということを前提としている。つまり、自分たちの無能を前提としている。とんでもないことだ。インフレやデフレなどの景気変動はなくすべきである。そもそも、自分たちが無能で失敗した場合のリスクを国民に負わせる、という考え方が、根本的に間違っている。)

 [ 付記 ] 変動金利と固定金利
 「固定金利型の国債」というのは、そもそも、好ましいものではない。名目金利は確定するが、実質金利が確定しないし、途中売却で損得が発生するから、ほとんどギャンブルのようなものである。正確に言えば、「逆張りのギャンブル」である。他の人が儲かるときに、自分は損する。他の人が損するときに、自分は得する。そういうギャンブルだ。しかし、ギャンブルをやりたければ、投機をすればいいのだ。国債でギャンブルをやらせるのは、本質的におかしい。だから、「固定金利型の国債」というのは、なるべく全廃するべきなのだ。
( ※ 「変動金利型の国債」というのは、金利の計算が面倒に見えるかもしれない。しかし、今のような情報時代なら、パソコンもあるし、インターネットで情報を得ることもできるから、たいした問題ではない。)

 [ 付記 ] 将来への懸念
 「変動金利型だと、将来、高金利になったとき、利払いが増える」という懸念がある。(*
 しかし、心配は不要だ。高金利になるとしたら、物価が上昇したときである。名目金利から物価上昇率を引いた実質金利は、たいして変わらない。そのときは、国家の支出も収入も、物価上昇率の分、上がる。すべてが同じ率で上がれば、実質は変わらない。さらに言えば、インフレのときは、税収は物価上昇率以上に増える(自動安定装置の効果)。……ゆえに、心配はいらないのだ。
 しかも、(*)の懸念は、論理矛盾を起こしている。「固定金利型だと、高金利になったときに国債が暴落する」のが、国債暴落への不安だ。(そのとき、国民が損して、政府が得するからだ。) だから、その不安をなくすのが、変動金利型だ。
 そもそもの話、いったい、どっちにしたいんですかね。「固定金利 = 国債暴落」と「変動金利 = 国債安定」の、どちらを選びたいのか? 前者は「国民は損で・政府は得」であり、後者は「国民は損せず・政府も損せず」である。どちらかを選ぶべきだ。「固定金利だと国民が損するぞ」と批判して、同時に、「固定金利なら政府が得できたのに」(だから変動金利はダメだ)と批判するのは、論理矛盾である。右なら右、左なら左であり、右と左を同時に得ることはできないのだ。「右と左の両方を得られないからダメだ」というのは論理矛盾である。

 [ 付記 ] 物価連動債
 「物価連動債」というものがある。(政府の緊急デフレ対策 2002-02-27 にも含まれている。)
 これは、物価上昇率に金利が連動するものだが、あまり良くない。第1に、物価上昇率の算定が面倒かつ曖昧だ。第2に、物価上昇率と短期金利との乖離が起こることもあるので、事情が複雑になりすぎる。あまりにも馬鹿らしいので、批判するつもりでいたが、私が批判するまでもなく、財務省のほうで気が付いたのだろう。だから、「変動金利型」という、まっとうな方式に変化したのだろう。


● ニュースと感想  (3月19日b)

 国債暴落をめぐる細かな話題を、Q&A 形式で説明しておこう。

(1) 価格の下落する国債を、日銀が買い上げると、国民は損するか? 
 日銀は損するが、政府は得する。だから、国民にとっては、チャラである。
 逆に言えば、国債暴落によって政府は得をするが、日銀がその国債をあらかじめ買ってしまえば、政府は得をできなくなる。
 国債暴落を放置すると、国債を持っていた民間人が損をして、国債を持っていなかった民間人が(政府を通じて)得をする。……これは、一種の富の再配分である。ゼロサムであるから、全体としてみれば損得はないが、社会的な混乱をもたらすから、もちろん、好ましいことではない。

 (2) 混乱回避は必要か? 
 損する人が出たとしても、それは、ある意味で、仕方ない。低金利のときに欲を張って、わずかに高金利の長期国債なんかを買うから、あとでひどい目に遭うわけだ。少し欲張って、大損する、というのは、あらゆる局面でよく見られる。こういうのは、愚かな人の愚かさが原因だから、「やむをえない」とも言える。自業自得。
 とはいえ、政府の目的は「国民の幸福」なのだから、欲張りな国民があえて墓穴を掘るのを、放置していていいということにはならない。まして、愚かな国民の愚かさに乗じて、その金を国が吸い上げる、というのでは、国が一種の暴力団か胴元になってしまったようなものだ。
 国債というものは、本来、安定的な貯蓄手段としてあるものだ。それが投機の対象となるようでは、話がおかしい。誰もが得せず、誰もが損しないような、そういう仕組みを整えるべきだろう。
 特に、素人だと、「国債とは価格変動しない安心できるものだ」と誤認している人が多い。こういう人に、あえてギャンブルをさせるようなことは、好ましいことではない。

 (3) 損得はどうか? 
 混乱回避のため、日銀が長期国債を買い上げるとする。しかし、いくら買い上げても、ある程度は、漏れが出るだろう。つまり、売らずにいた人が出るだろう。では、これは、問題だろうか? 
 あまり問題ではない、と判断していいだろう。
 第1に、その人は、時流に取り残されている人である。そういう人は、どうせ、国債を途中で売却したりせずに、最後まで持っているだろう。ならば、元金は保証される。利子も、少ないとはいえ、当初の約束通りにもらえる。つまり、「得をする度合い」が減っただけであり、「損した」わけではない。たいして問題ではない。
 第2に、そういう人(お金にこだわらない金持ち)がいると、彼は損するが、国はその分、儲かる。多少の損得にはこだわらない鷹揚な金持ちが損をして、お金に困ってピーピー言っている一般人が得をする。……ならば、国全体で見れば、好ましい所得再配分が起こったことになる。これはこれで、問題はない。(かえって好ましい。)
 第3に、こういう損失をする人は、国全体の中でごくわずかである。 に述べたように、国債を所有している国民はパーセントで言うと、ごくわずかである。そのわずかのうちで、買いオペのときに売り損なうような人は、さらにる人は、ごくわずかでしかない。ほとんど問題にはならない程度だ。ごく少数の金持ちについて、彼が間抜けなせいで利子の取り分が減ることを、いちいち心配することはない。そんなことをするくらいなら、不況のときの 400万人の失業者や、年間1万数千人の自殺者のことを、心配するべきだ。

 (4) 恐れるべきか?
 国債暴落は恐れるべきか?
 私は先に、「ペイオフなどは、可能性があるので、恐れよ」と述べた。では、国債暴落も恐れるべきだろうか? 特に、景気が回復した場合、国債のある程度の下落は、必ず発生する。とすれば、それを恐れるべきだろうか? 
 いや、逆である。むしろ、喜ぶべきなのだ。景気回復による国債の下落があるとしたら、そのときまさしく、景気回復が達成されているのだ。それにともなって、国債下落というマイナス面も発生するが、同時に、景気回復というプラス面も発生する。
 では、差し引きして、どうか? 国債下落は、「債権者の得」と「債務者の損」は、打ち消しあうから、国全体では損得がない。一方、景気回復は、国全体で大幅な得となる。(デフレの社会的な損失が消える。) となると、ごく少数の間抜けな金持ちが国債下落によって損するとしても、国全体では景気回復によって大幅に得をすることになる。
 だから、国債の下落は、大いに歓迎するべきことなのだ。「国債が下落したら、どうなることやら……」などと思うのは、心配のしすぎではなくて、楽観のしすぎである。
 まったく、そうだ。国債が下落していてくれたら、今ごろ、日本はどれほどすばらしいことになっていただろう。景気は回復し、倒産は激減し、失業者は消え、家庭崩壊もなくなり、自殺者も激減する。不良債権処理も急速に進む。……そうなっていたら、何とすばらしいことか。しかるに、現実には、そうではない。国債は下落しない。景気は回復しない。誠に残念なことである。


● ニュースと感想  (3月20日)

 国債問題に関係して、具体的な数値を示しておこう。
 2000年9月末の時点で、国の債務は 652兆円で、国の債権(金融資産)は 425兆円。差し引きして、純債務は 227兆円。一方、個人の総資産は、1300兆円もある。 ( 数字は、日銀の資料 から。)
 これを評価して、「日本の総生産は 500兆円程度だから、その半分程度だし、この程度なら、諸外国と比べても、大した問題ではない」という指摘がある。( → 黒木のなんでも掲示板 Feb 03 」)
( ※ 2000年9月 よりも新しい情報は、日銀のサイト の「資金循環」のところで公開しているが、どうも、わかりにくい。)

 [ 付記 ]
 話は飛ぶが、この 1300兆円の個人資産について。[特に読む必要はない。細かな話。]
 第1に、この個人資産は、個人の手元にあるわけではない。年金基金の積立金,生命保険の満期金,ゴルフ会員権なども含まれている。(上記の日銀ページから引用。)
 第2に、この個人資産に「課税する」というのは、好ましくない。「1300兆円もあるのか。それなら、20%課税すると、230兆円。これで、国の純債務は消える」などと、机上で計算する人もいる。しかし、とんでもない話だ。……預貯金などの金融資産に直接課税すれば、その金がアングラマネーになるだけだ。国民経済は大混乱を起こす。では、どうすればいいか? もちろん、課税の王道を進めばよい。資産に課税するのではなく、所得や消費に課税すればよい。ごく当たり前の話だ。各人は、課税されたことで、預金を取り崩し、1300兆円が減っていくことになるかもしれない。それはそれよい。別に問題はない。しかし、1300兆円に直接課税するというのは、とんでもないことだ。(こういう変なアイデア[机上の計算]に惑わされないよう、注意のこと。)
( ※ ついでだが、利子課税というのは、所得課税の一種だから、特に問題はない。)


● ニュースと感想  (3月20日b)

 国債残高の巨額化への対処。
 日本の国債残高は、ともかく、巨額化している。(タンク法とは違って、民間引き受けによる赤字。)
 この問題を、本質的には、どう考えるべきだろうか? たとえば、「日本には巨額の個人資産があるから大丈夫だ」というような意見は、成立するだろうか? 
 まず、国債残高を減らすには、増税するしかない。しかし、増税すると、景気は冷える。したがって、増税の前提としては、景気がいくらか過熱気味である状態が必要だ。
 では、景気は過熱気味になるか? そのためには、消費が増えなくてはならない。しかし現在、日本の個人の貯蓄率は極めて高く、所得が消費よりも貯蓄に向かっている。となると、前提となる「景気が過熱気味である」ということが成立しないし、だから、増税ができない。── ここで、どんづまりになる。

 そこで、考え直してみよう。結局、全体としてみれば、どうなるか? 個人がどんどん消費して、どんどん金を食いつぶしているわけではない。一方では個人が自分の口座の預金額を増やし、一方では個人が政府を通じた借金を増やしている。つまり、国民一人一人は、多額の黒字と、多額の赤字を抱えている。それだけのことだ。差し引きして考えれば、大幅黒字だから、特に問題があるわけではない。……そういう意味では、「個人資産がたくさんあるから、国債残高がたくさんあっても大丈夫だ」という説は成立するわけだ。
( ※ この点、アルゼンチンとは異なる。アルゼンチンでは、債務は対外債務であった。これは、国民に対する債務ではないから、国全体で見て[外国に対して]大幅な赤字であった。こういう体質は、きわめて危険である。一方、日本は、国全体で見れば、対外的には大幅な黒字だから、さして危険ではない。)

 では、まったく安心できるか? そうでもない。何らかの問題が発生することもある。それは、将来いつか、人々が自分の貯蓄を食いつぶしていったときだ。そうすると、個人資産は急減し、一方で、政府の借金は減らない。黒字は減り、赤字は変わらない。これは問題だ。……しかし、である。このとき同時に、過剰消費によって、インフレが発生する。となると、インフレ抑制のために、増税が可能となるわけだ。増税をすれば、インフレ(過剰消費)は収まるし、国債残高は急減する。だったら、それはそれで、特に困ることはない。「大変だ、大変だ」と心配することもない。

 結語。
 たとえ国債残高が多額であるとしても、個人の貯蓄率が高い(つまりインフレになっていない)限りは、問題はない。そのときは、黒字と赤字がともに拡大しているだけのことだ。いつか借金返済を迫られるとしても、そのときは、黒字と赤字がともに縮小するだけのことだ。
 ただ、考慮するべきは、個人が消費を増やしたとき、つまり、インフレになったときの、政府の対応だ。このときは、(個人の)黒字が縮小する一方、(政府の)赤字が縮小しないので、(政府の)赤字を縮小するため、増税するべきだ。── 結局、インフレのときこそ、増税して財政健全化するかどうかが、非常に問題となる。 このときこそ、政府は性根を据えて、踏ん張らなくてはならないのだ。
 ただし、インフレでないときは、あえて増税して国債残高を削減する必要はない。特に、デフレのときは、増税(財政健全化)をしてはいけない。それは経済の縮小をもたらして、財政破綻につながりかねないからだ。( → 3月08日

 [ 付記 ]
 インフレのとき増税をしないと、どうなるか? 当面は、問題ない。しかし将来、影響する。将来、景気が悪化したとき、国全体で赤字体質になったことゆえに、国債の返済能力に対して不信が発生し、デフォルトが発生しやすくなる。財政健全化とは、やがて来る不景気に対する対処なのである。 ( → 3月08日


● ニュースと感想  (3月21日)

 国債の大量発行について。
 財政赤字が拡大しているなかで、国債の償還が大量に必要となると、新規国債の大量発行が必要となる。すると、それが市中でそれを消化しきれなくなるのではないか? ── そういう疑問がある。それについて答えよう。
 初めに結論を言えば、まったく心配ない。以下、詳しく示す。

 第1に、今はどうか? 今は、デフレで、消費不足なのだから、貯蓄過剰である。こういうときには、国債は十分に消化される。(問題があるとすれば、長期国債が暴落する危険があって消化されないことだが、これについては、すでに説明したとおり。つまり、短期国債や変動金利国債で対処できる。)
 第2に、将来はどうか? デフレが解決したとする。国債の大量発行をすると、市中で民間の資金を奪うことになるかもしれない。そうすると、金利が急速に上がり、民間の投資を奪う。(クラウディング・アウト)……なるほど、そうなる可能性はある。しかし、そうなるとしたら、景気は完全に回復していることになる。金利が上がっても、なおかつ民間の資金需要が旺盛であるとしたら、それはインフレになりつつあるということだ。インフレになりかけているなら、高金利で、民間の投資需要を抑制して当然である。ただ、それが「国債の大量発行のせいで」だとしたら、問題だ。しかし、インフレになりかけているのだとしたら、もはや景気回復にともなって財政赤字は解決しつつあるのだ。しかも、タンク法に従えば、インフレ時には、増税をすることで、財政赤字どころか、財政黒字にするべきなのだ。……となると、「国債の大量発行」そのものが必要なくなる。
 第3に、「国債の大量発行」と言っても、「償還にともなう発行」がほとんどだから、「単なる借り換え」にすぎない。100億円新規発行するとしても、100億円の償還をした直後だから、市中には 100億円の余剰資金が滞留していることになる。結局、100億円償還して、100億円新規発行するだけだ。結局、「償還にともなう新規発行」の分は、まったく考慮しないでいいのである。単に「その年の財政赤字の分」だけを考えていればいいのだ。……当たり前。「大量に償還するから、大量に新規発行する分の消化が心配だ」という心配は、根本的に足し算・引き算の計算ができていない。小学校に入り直しましょう。


● ニュースと感想  (3月21日b)

 財政赤字の本質について。
 本質的に考えよう。財政赤字というもののは、真に、巨額の赤字を意味するのだろうか?

 財政赤字を解消するには、どうするか? 増税する。増税すれば、国民の富が奪われる。差し引きして、(政府の)赤字は消えるが、(国民の)黒字も消えるので、全体を見れば、トントンである。
 つまり、国の赤字が減るというのは、個人にとって(増税されるので)黒字が減ることである。逆に、国に赤字が溜まるというのは、個人にとって(増税されずに)黒字が溜まることである。いずれにしても、差し引きしてトントンだ。
 つまり、国民全体を見れば、財政赤字の拡大・縮小によって、国全体の富が変動するわけではない。結局、ゼロサムだ。金の勘定項目を、個人に付けるか、政府に付けるか、という帳簿上の問題にすぎないのだ。
( ※ もっとも、細かく場合分けしてみれば、個人の間でバラツキが生じるので、得する人が出たり損する人が出たりするが、それはそれで問題がないと言える。このことは、後日また述べる。)

 では、何が大切なのか? 
 それは、財政赤字の多い少ないではなくて、国の無駄の多い少ないだ。たとえば、国が無駄な公共事業に金を使ったとする。ここでは、金は無駄に消えてしまっている。ゼロサムではない。まさしく国民的な損失が発生しているわけだ。
 なお、ここでは、国民全体を見れば損であるが、その地方の人々とか、その事業を施行した会社とか、その会社から賄賂をもらった政治家とか、そういうごく少数の人だけを見れば、得をしている。十億円の金を使って、国民に八億円の損失をもたらして、少数の人だけが二億円の利益を得る。……こういう状況が発生しているわけだ。
 ここでは、財政赤字は関係ない。たとえ財政が赤字でなく黒字であろうと、この損はまったく同じように発生する。そして、この損は、純然たる損であり、帳簿上の問題ではないのだ。

 結語。
 財政赤字などに目を奪われるべきではない。それで政府に赤字が発生しても、ちょうど同じ額の黒字が国民全体に発生するのから、問題ではない。どこにも損は発生していない。それはしょせんは、帳簿上の問題である。個人にとっては、預金残高が1万円だけ増えて、借金も1万円だけ増えるだけだ。あとで増税がなされれば、預金残高が1万円だけ減るが、借金も1万円だけ減る。そういうことだ。どこにも損は発生していない。
 一方、公共事業などの無駄は、純然たる無駄である。そこでは真の損が発生する。個人の財布から1万円が奪われ、そのうち2千円は誰かの利益となり、8千円は空中に蒸発する。(穴を掘って埋めることによる無駄。ケインズ的な無駄。)
 だから、「財政赤字を減らせ」などと唱えるよりは、「無駄な公共事業を減らせ」と唱えるべきなのだ。それこそが、真に無駄を減らすことになるからだ。また、そうして無駄な公共事業を減らせば、その分、財政支出は減るから、それにつれて、自動的に財政が黒字化して、国債残高も減っていく。一挙両得。

 [ 付記 ]
 「公共事業には、有益なものもあるぞ。勝手に全廃するな」という意見もあるだろう。それはそうだ。
 だから私は、「公共事業を全廃せよ」と言っているわけではない。今の3割程度を残して、残りの7割ぐらいを削除するといいだろう。── では、この数字の根拠は? GDPにおける公共事業の支出を、諸外国と比較した数字である。先進国諸国に比べて、日本の公共事業費は突出して多い。諸外国に比べ、だいたい3倍ぐらいである。だから、現状から7割ぐらい減らすのが適当だろう。
( ※ 戦争直後ならともかく、以後 50年もかけて、莫大な公共事業費を投入してきたのだ。とっくに飽和してきているはずだ。実際、関西空港にせよ、東京湾横断道路にせよ、本四架橋にせよ、巨大な浪費でしかない。人類の愚行の象徴。バベルの塔のようなもの。本四架橋を、ピラミッドや万里の長城と比較したのは、昔の大蔵官僚。「人類の三大愚行」だったかな? うまいこと言いますね。本四架橋は三つあるから、五つのうち三つは日本が占めているわけだ。)
( ※ 「公共事業削減の方法がわからない。どうすれば地元の反発を抑えられるか」という意見がある。その問題は、簡単だ。予算を省別でなく、総合化し、道州別の割り当てにすればよい。たとえば、四国の公共事業が増えたら、その分、四国の他分野[福祉など]の予算を減らす。……とりあえずは、本四架橋の赤字は四国に回して、四国の人々でまかなってもらうべきだろう。関西空港は関西の人々で。東京湾横断道路は関東の人々で。「愚行をして、そのツケは国に回そう」という発想が根本的に間違っているのだ。)


● ニュースと感想  (3月22日)

 モラルについて。
 経済の場でモラルを語る人が多い。しかしこれは、不思議なことだ。そもそも経済学というのは、損得を扱う学問だ。物理学や数学や化学は、真実を研究するものだし、文学や美術は、美的なものを扱うものだ。これらに携わる研究者は、「お金のことなんか知ったこっちゃない」という感じで、いかにも高尚である。
 ひるがえって、経済学というのは、お金の損得を研究する学問である。あらゆる学問のなかで、最も下賤であろう。
 なのに、その経済学において、モラルを語る人が多い。単に「それはモラルに反するから、やってはいけないのだ」と単純に考えて、「こうすれば、こうなる」というふうに実証的に考えようとしない。つまり、損得を考える場で、損得以外のものを考える。まことに、摩訶不思議な学問分野である。

 ただ、理由はある。経済学というのは、あらゆる学問のなかで、最も複雑怪奇であるからだ。あることについて結論を出しても、ちょっと見方を変えると、たちまち結論が逆になったりする。そういうのは、経済学ではよくある現象である。
 たとえば、合成の誤謬だ。ミクロでは正しいことがマクロでは正しくなくなる。(不良債権処理など。)
 また、立場の差だ。「不況解決には需要拡大で」と唱える人がいる一方で、「不況解決には供給能力向上で」と唱える人がいる。(どう考えても、後者がおかしいが、後者が主流となって経済運営を行なう。)
 こういうふうに複雑怪奇な学問であるから、いちいち細かく考えたりできない人が多いわけだ。経済の複雑さに、人間の頭が追いつけないのである。だから、頭がこんがらかったあげく、思考を放棄して、単純に「善悪」だけで判断するわけだ。(考えれば、政治でもそうだ。やたらと「善悪」で物事を決めたがる国がある。「正義の自国」対「悪の他国」という図式だ。どこの国のことかは、言わずもがな。)

 さて。こういうふうに「モラルで語りたがる」という事情を、逆に利用することもできる。経済学において「モラルを語る度合い」によって、その人の経済学の能力を判断できるのだ。論理力のない人ほど、経済学を論理よりもモラルで語るだろう。
 そこで、これを調べる一覧表を作ってみた。以下で、あなたのモラリストぶりを、チェックしてみてほしい。
(もし全部にチェックを付けたら、あなたは聖人君子のようなモラリストである。世間の人々から、非常に尊敬されているだろう。お金のことなど、考えない方がいい。)



      《 モラリスト・チェック・リスト 》
    増税は悪だ。

    減税は悪だ。

    財政規律は、守るべきだ。

    財政赤字は、けしからん。

    国債残高の巨大化は、けしからん。

    国債の日銀引き受けは、けしからん。

    赤字企業は不良債権処理で、つぶしてしまえ。

    企業が赤字なのは、経営が劣悪だからだ。

    不況を解決するには、生産性を高めることが大事だ。

    不況を解決するには、構造改革が大事だ。

    物価上昇をなるべく減らすことが大事だ。

    ヒゲもじゃの経済学者は信用できない。

    変人っぽい経済学者は信用できない。

    大学教授以外の経済学者は信用できない。

    ジョークを言う経済学者は信用できない。

    経済の話で笑わせるような奴は、経済学者ではない。



● ニュースと感想  (3月23日)

 生産性が向上しても、なぜ労働時間は減らないか?
 そもそも、人類は、長い時間をかけて、生産性を大幅に向上させたのだ。ならば、労働時間は、激減してもいいはずだ。なのに、実際には、昔も今も同じくらい長く働いている。それは、なぜか? 
 その答えは、いくつかある。

 (1) 物の量でなく金額
 生産性とは、そもそも、物の量ではなくて金額で見るものである。「一人あたり何台の自動車を生産したか」ということを見るのではなく、「一人あたり何円分の自動車を生産したか」というふうに見る。そして、その金額を見れば、昔の人よりも今の人の方が、多くの金額の分を生産していることになる。
 たとえば、昔の農民は、1本 10円のニンジンを 100本生産していたので、1000円の生産。今の農民は、1本 50円のニンジンを 200本生産するので、10000円の生産。かくて、生産性は 1000円から 10000円へと、10倍になった、と計算する。(物価上昇の分は除く。)
 ここでは、実際の量は2倍にしかなっていなくても、生産性は 10倍になっている。どうしてかと言えば、昔のニンジンよりも今のニンジンの方が価値が高いからだ。というのは、まわりの人の生産性が高くなっているので、相対的に、農業をしている人の価値が高くなっているからだ。
 というわけで、物ではなくて金で計算するので、数字上、今の方がずっと生産性は高くなっていることとなる。実際には、そんなことはないんですけどね。
( → 第2章

 (2) 質の向上
 野菜ならば、昔も今も同様のものだろう。ただし、自動車ならば、昔と今とでは製品が異なる。今の製品の方がずっと質がいい。
 このことが、価格の上昇をもたらす。そして、価格の上昇が、金額的な生産性の向上をもたらす。
 つまり、「昔よりも今の方が生産性が高い」ということは、「自動車を2倍生産できるようになった」ということではなくて、「2倍の価格の自動車を生産できるようになった」ということなのだ。
 そうすると、自動車会社の社員の賃金が2倍になる。そのことで、社会の富が増えるので、彼の購入するものにも高い金を払うようになる。だから、自動車の生産性の向上のおかげで、前とまったく同じものしか生産しない農民も、おこぼれをあずかって、所得が増えるので、生産性が高まることになる。
 結局、自動車会社の社員にせよ、農民にせよ、生産性が高まったからといって、2倍の量を生産しているわけではない。単に価値の高くなったものを生産しているだけだ。
 最初と最後をつなげて、簡単に言えば、こうだ。「生産性の向上は、商品の質の向上となって現れる。商品の数の増加ではない。」
 だから、いくら生産性が上昇しても、労働時間は減らないのだ。(より多額のものを生産しても、より多額のものを消費するので、収入も支出も、いっしょに増える。)

 (3) サービスの購入
 人々の購入するもののが向上しただけでなく、購入するものの範囲も拡大している。特に、サービスの購入だ。
 そもそも、生産性の向上だけを見るなら、農業と工業の人口を見ればよい。戦後、農業人口は激減しており、次いで、工業の人口が減っている。つまり、農業の生産性は大幅に向上しており、工業の生産性もかなり向上している。だから、もし人々が、昔と同じ生活をするのであれば、農業人口と工業人口の減った分、総労働時間が減り、その分、遊んで暮らしてもいいはずだ。
 しかし、そうならない。なぜか? 第三次産業の人口が大幅に増えているからだ。人々はここで働いている。換言すれば、ここで働く人々から、各人はサービスを購入している。そういうふうに、かつては購入しなかったものを購入しているから、その分、各人は多く働かなくてはならなくなったのである。
 さて、ここで、サービスとは何かを、考えてみよう。次のようなものだ。
  1.  外食
     自分で弁当を作ればいいのに、昼飯を外食で済ませる。そういうサービスを購入するので、労働時間(金)が必要となるが、かわりに、弁当作りの時間が減る。
  2.  交通・運輸費
     電車やタクシーに乗ったり、宅急便で配達してもらう。そういうサービスを購入するので、労働時間(金)が必要となるが、かわりに、自分で歩いたり、自分で配達したりする手間と時間が減る。
  3.  娯楽費
     鬼ごっこか隠れんぼでもやっていれば金はいらないのに、ディズニーランドに行ったり、旅行に行ったり、パチンコをしたり、テレビゲームをしたり、酒場で散財したり、そういう高価な娯楽をするから、お金を取られる。かといって、それで手間が減るわけではない。(外食などとは違う。)
     ……となると、これが一番の問題かもしれない。人々は、なぜ労働時間を増やすのかといえば、遊ぶ金を稼ぐためなのだ。遊ぶために働く、と言ってもよい。なんか、矛盾していますねえ。
 まとめ。
 以上をまとめて言えば、こうだ。── 生産性の向上があるにもかかわらず、人々の労働時間が減らないのは、人々の金遣いが荒くなったからだ。質のよい高級品を望んだり、他人を下僕のごとくこき使うサービスを利用したり、必要もない遊興にふけったり。……つまりは、人々が贅沢な生活をするからである。贅沢をしたければ、いっぱい働く必要が出てくる。
 それが本質だ。ただ、このことは、身近な例でも、実感しているはずだ。あなたが労働時間を減らしたいとする。「金は少しでいい。つましい生活で、のんびり暮らしたい」と望んだとする。しかしあなたの妻は、「働け働け」と命じる。「いっぱい働いて、いっぱい稼ぎなさいよ」と。なぜなら、妻は贅沢をしたいからだ。バッグを買ったり、旅行したり、レストランで高級な食事を取ったり。……そういう妻の贅沢のために、あなたは毎日、汗水垂らして働く必要があるのである。

 [ 付記 1 ]
 まともな方法もある。「日本で働き中毒」でなく、「ヨーロッパでまともな暮らし」というやつだ。これが、お勧め。ワークシェアリングで、週 35時間労働。夏のバカンスつき。男女差別なしなので、妻は高収入。世帯収入は日本よりずっと上。……これが、あるべき姿だな。(だけど、日本の奥さん連中は、文句を言うでしょうね。ヨーロッパの普通の女性は、ルイ・ヴィトンのバッグなんか買いませんからね。)

 [ 付記 2 ]
 「自分は、うるさい妻はいないから、つましく暮らしたい」と主張する人もいるかもしれない。「昔の低品質の商品を安く買って暮らしたい」と。
 しかしながら、そうしたくても、そういう商品は売っていないのが実情だ。昔の低品質の商品を、昔の価格で売っていればいいが、そうは行かない。ま、自動車や衣服なら中古車や古着があるので、それで済ませるという手もある。とはいえ、昔の野菜はもはや腐っているし、電器製品もほとんどは廃棄されているし、家屋も電車も葉書も、昔のものを利用することはできない。酒場に入っても、マダムは昔の時代の女ではない。(ただし、お婆さんになっているなら、安いかも。)
 あなた一人だけが昔の生活をしたくても、そううまくは行かないのだ。今の時代に生きている限り、今の時代で買うしかない。「今の基準で働いて、昔の基準で払う」というのは、ちょっと無理なのだ。どうしてもそうしたければ、「日本で働いて、アフリカで金を使う」ということくらいかな。1000万円あれば、アフリカで一生、働かずに過ごせるでしょう。……では、お元気で。


● ニュースと感想  (3月24日)

 生産性が向上しても、なぜ労働時間は減らないか? (つづき。)
 前日に続いて、もう少し考察しよう。

 「生産性が向上しても、労働時間は減らない」ということはない。実際には、最近、労働時間は減っている。ただし、一人一人に平均して労働時間が減っているのではなく、特定の人々に集中して労働時間が減っている。── それが「失業」だ。
 「生産性が向上すればするほど、余剰労働力が発生する(労働力が余る)」ということは、たしかに成立するのだ。そして、その余剰労働力が、他の企業で雇用されるという「構造改革」の形を取らず、雇用の場からあぶれるという「失業」の形を取るのが、現在のデフレという状況である。( → 9月26日

 だから、最初の質問は、こう変えるべきだろう。
 「生産性が向上しても、一人一人の労働時間が減らず、特定の人々だけが失業するのは、なぜか?」
 である。その理由は、明らかだろう。ヨーロッパで可能なことが、日本では可能でないとしたら、理由は、人々が愚かだからである。
 では、人々とは、誰のことか? 第1は、経済学を知らない政府である。第2は、金を欲しがる経営者である。第3は、金を欲しがる労働組合や労働者である。(政府は、「構造改革」をめざしたすえ、「失業」をもたらす。企業は、「利益増」をめざして賃下げをしたすえ、不況を悪化させる。労働組合と労働者は、「賃上げ」をめざしたすえ、「時短」を失う。)
 結局、彼らが、ヨーロッパ人並みの頭を持たないから、日本では、一人一人の労働時間が減らず、特定の人々だけが失業するハメになるのである。

 [ 付記 ]
 本項は、前日分とは別の観点から、別の質問に答えている。
 ただ、内容的には、前日の [ 付記 1 ] といくらか重複する。


● ニュースと感想  (3月24日b)

 セガの元社長の回想談。(朝日・夕刊・ウィークエンド経済 2002-03-23 )
 ドリームキャスト(ドリキャス)にモデムを付けるか否か? これで、二人のオーナーが対立。
 威勢のいい方の大川オーナーは「これからはネット時代だ。モデムは絶対、付けるべし!」
 まわりの人々も、「今はインターネット時代だ。流れに取り残されるな!」という声が多く、「金がかかるぞ」という声は劣勢だったらしい。
 で、結局、モデムを付けることにした。しかし、使ったユーザは、3割だけ。ユーザにとっては、使いもしない役立たずの機能に、大金を払わされることになる。
 まもなくプレステ2が発売されるということもあって、消費者に見放され、予定の半分も売れなかった、とのこと。(現在では、生産中止である。セガという会社自体、ゲーム機製造から完全撤退した。)

 教訓。
 1. オーナーの意見ではなく、ユーザの意見を重視すべし。
 2. 「ネット時代」などと言って、流行に浮かれるのは、愚か者である。
    (今も「 e-Japan 」と浮かれている人もいるが。 → 1月11日b


● ニュースと感想  (3月25日)

 たいしたことではないが、ちょっと呆れてしまった、という話。
 村上流の経済サイト というのがある。(目次のページ が便利。)
 半年ぐらい前まで、ずっと次のような主張を続けていた。(私の主張とは正反対。日銀や小泉と同じ。)
 「インフレは悪だ」「インフレ目標は悪だ」「物価安定こそ大事だ」「不良債権処理をすることこそ善だ」「不良債権処理をすればデフレは解決する」

 ところが、最近、ちょっと見て、驚いた。主張が百八十度、反対になっている。数人の執筆者がいて、(全員ではないが)そのほとんどが、上記の主張から正反対の主張になっている。(つまり、私の意見とだいたい同じようになっている。)

 いったい、どうなっているんでしょうねえ。「間違った主張から、正しい主張に変わった」というのは、それ自体は、好ましいことではある。しかし、わずか半年で、こうも大転回されては、読者は戸惑うのではなかろうか?
 「昨日は黒と言っていたのに、今日は白と言う。いったい、どういうつもり?」
 と。まったく、私もわけがわかりません。主張を変える理由があるのなら、その理由を述べるべきだろう。「以前の自説はこれこれの点で間違っていた」などと。なのに、理由を示さず、単純に立場を百八十度、反対にしている。たとえて言えば、「私は軍国主義を支持する」と唱えた政治家が、半年後に「軍国主義反対!」と転向するようなものだ。人々は、口あんぐりである。

 ちなみに、このサイトの主宰者は、「だまされないために、わたしは経済を学んだ」という本を出している。タイトルが逆だと思うんですけどね。


● ニュースと感想  (3月25日b)

 「量的緩和は効果がない」という記事。(朝日・朝刊 2002-03-23 )
 これ自体は、事実報道であり、普通の記事である。
 ただ、どうせ書くなら、「時系列」で考えて書くべきだろう。朝日はこれまで何度も、「量的緩和で景気回復する」という意見を掲載してきた。政府やら、経済学者やら、自社の解説記事やら……。なのに、そういう意見についての言及がすっぽり抜けている。これまでさんざん報道してきたことをすっかり忘れてしまったかのようだ。
 こんなことでは困る。たとえば、「1%のインフレ目標と量的緩和で景気回復が実現する」と主張してきた経済学者に、こうインタビューするべきだろう。
 「0%のインフレ目標と量的緩和で、景気回復効果がまったくないのは、なぜなのか? あなたの主張に従えば、0%のインフレ目標と量的緩和で、少しは効果があるはずではないのか? あなたの主張に従えば、金は滞留するはずはないのに、なぜ金が滞留するのか? あなたの主張は、なぜ間違ったのか?」
 と。
 ついでに言えば、「流動性の罠という経済学用語も知っているのか?」とも聞いてみるといいだろう。

 では、なぜマスコミは、そう書くべきなのか? そう書けば、日本の経済運営がいかにデタラメな理屈でなされていたかが、青天白日のもとにさらされるからだ。逆に言えば、そう書かないから、日本の経済運営は、いつまでたっても、効果のないことをやり続けるのである。
 私の想像では、今後も「量的緩和をやれ」と言い続ける人々が出てくるだろう。学習効果のない懲りない人々。(たいていは、大学教授である。学習効果のゼロの人間が、学生に教えるわけだ。呆れた話。)

 おのれの過ちを直視すること。それができない限り、過ちから脱することはできない。
( → 3月13日 「量的緩和が無効なこと」)


● ニュースと感想  (3月26日)

 不良債権の担保不動産の処理についての記事。(朝日・朝刊・経済面 2002-03-24 )
 「不良債権の担保不動産の処理をする企業がある。海外のハゲタカ・ファンドに対抗する企業で、必要なものだが、まだまだ足りない」という記事である。
 記事内容自体は、事実報道であり、問題ない。
 問題なのは、書き方だ。「担保不動産の処理」を「不良債権回収」「不良債権再生」と称している。これでは、「不良債権処理」という問題を、あまりにも矮小化している。
 「担保不動産の処理」というのは、「不良債権処理」のうちの、ごく一部にすぎない。「不良債権処理」をして、マイカルとか青木建設とかを倒産させると、大量の失業者とか連鎖倒産とか、さまざまな大問題が発生する。それにともなって、「未回収の債権の回収」という問題も、一部で発生する。そのうち、ごく隅っこの方で、「担保不動産の処理」という問題が発生する。
 こうした多くの問題のなかで、「担保不動産の処理」というのは、非常に小さな問題である。不動産というものは、もともと、流動性が非常に高い。金さえあれば、誰でも買える。この点、企業の「機械設備」「技術」「のれん」というふうな、書い手の限られているものとは、全然異なる。唯一、問題があるとすれば、「不法占領者」がいて、不動産の買い手がつかない場合だが、これは、「不良債権処理」の問題ではなくて、住宅関連の問題である。(後述。)
 記事は、問題をあまりにも矮小化している。「不良債権処理」というのは、「担保不動産の処理」のことではないのだ。「担保不動産の処理」など、売値が少し上がるか下がるかの問題(売り手が少し得するか損するかの問題)にすぎず、マクロ的に見ればゼロサムであるから、いちいち考慮する必要はない。
 「不良債権処理」で大事なのは、「不況でなければ存命できる企業を、無理やり倒産させて、強引に大量の失業と赤字を発生させて、マクロ的に多大な損失を発生させる」ということなのだ。たとえて言えば、日立とか東芝とかNECとかを、「不況で赤字が溜まったから倒産させてしまえ」と言って、強引に倒産させ、日本から高度な技術や設備を廃棄してしまう、ということだ。
 そういう問題点を無視して、ただの担保不動産ばかりにとらわれているようでは、物事の本質をあまりにも見失っている、というほかない。

 [ 付記 ]
 担保不動産に「不法占拠」が現れるのは、なぜか? 日本の住宅関連法が極端に「借り手有利」になっているからだ。
 「アパートを外国人に貸さないのはけしからん。外国では日本人にアパートを貸すぞ」という批判が、しばしば出るが、事情を勘違いしている。日本では、いったん貸したら、もう追い出せないのだ。たとえば、外国人1人に部屋を貸したら、十人ぐらいが住み着いて、部屋でエスニック料理を作り、猛烈な悪臭を出して、まわりの人に迷惑を掛ける、というようなことがあった。こういう苦情が出ると、大家は当然、「迷惑だから出ていって」と要請するが、現在の法律では、強制的に退去させられない。仕方なく、まわりの人たちは退去する。アパートの大家は大幅な収入源となる。
 だから、「外国人に貸せ」と批判するくらいなら、自分でアパートを建てて貸すべきだろう。何百万円もの大幅な赤字を、自分でかぶることになるだろうが。善人ぶった主張をするなら、そのくらいの負担はするべきだ。

( ※ 私が嫌いなのは、コストというものを考えず、やたらと善人ぶった主張をする輩だ。自分で金を出して、援助するのは立派だ。しかし、自分では金を一円も出さず、口だけ出して、「あんたたちの金で、援助しなさい」と、さも善人ぶった主張をする偽善者は、大嫌いだ。他人に金を払わせて、自分が援助した気になるのだから、泥棒にも似ている。……とはいえ、経済観念がゼロのまま、コストを考えずに、「善行をしよう」と口に出して唱えるのは、言っている本人としては、とても気分のいいことだとは思う。だからこそ、朝日の意見に賛成する人がけっこう多いんだな。)


● ニュースと感想  (3月26日b)

 不良債権処理をめぐるモデル分析。財務省の下記ページ。
     http://www.mof.go.jp/jouhou/soken/kenkyu/ron018.pdf ( 573KB )

 「不良債権は、デフレの原因ではなく、結果である」という結論を導いている。
 つまり、「いくら不良債権処理をしても、次から次へと新規の不良債権が生じる。だからデフレを解決するのが先決」とも結論している。「金融仲介機能が阻害されるという説もあるが、銀行以外の金融経路もあるから影響しない」とも示している。
 この結論は妥当だ。私の主張とも合致している。(経済財政白書とは正反対。)

 さて、である。この結論自体は、上記で済むように、ごく短い結論である。「小泉の波立ち」の読者なら、「聞き飽きた」と思うかもしれない。
 私としても、いちいちここで紹介するまでもないとも思う。ただ、延々と大量のモデル分析をしている人もいるので、ここで簡単に紹介しておく。

 なお、モデル分析というのは、あくまで仮定の上に成立するものだから、どこまで正しいかは、はっきりとはしない。ただ、数値的な動きを定量的に見るには適している。概要が正しければ、定量的に見た数値的な動きも信頼が置けるだろう。

 ついでだが、ここには、モデル分析はあっても、物事の本質は欠けている。「なぜそうなるのか」という、肝心の理由だ。そこで、私が簡単に示せば、次の通り。
 (1) デフレについては:
 デフレだから大半の企業が赤字経営になるのであり、企業が赤字経営だからデフレになるのではない。根本理由は、消費の縮小である。
 (2) 不良債権処理の基礎分析は:
 → 3月09日3月14日1月15日c


● ニュースと感想  (3月27日)

 「国民年金の未納率が 27% にもなる。だから強制徴収せよ」という社説。(読売・朝刊 2002-03-25 )
 私は賛成しない。なぜか? 
 国民年金というのは、サラリーマンとは違って、雇用が比較的不安定な人の入る年金である。当然、所得が少なくて、保険料を払えない時期も出てくる。あるいは、厚生年金に入ったりして、手続きが面倒なこともある。「企業がすべて手続きをしてくれるので、自分は何もしないでいい」というサラリーマンの場合とは違うのだ。
 で、どこかで手続きなどを失敗したら? 下手をすると、全額、没収である。何百万円も納入していながら、1円も年金を受け取れない、という人は、続出している。また、手続きをし忘れて、何年間か年金をもらい忘れていたら、その分も、没収である。(無金利で後払いする、などという優しい処置は取られない。)

 こういうふうに、今の国民年金は、「払った金を没収」という仕組みが至る所に用意されている。それをすべてクリアした人のみが、完全に年金をもらえる。しかも、運良くすべてクリアしたとしても、もらえる金は、(現在の若者たちの世代にとっては)民間の年金と同程度(もしくはそれ以下)だ。

 今の年金システムは、国庫から多大な金を入れていて、なおかつ、民間年金よりも魅力のないシステムになっている。そういうシステムを改めることが先決だろう。
 最低限、次の3点が必要だ。
  ・ 払った金に対して、年利 1% 程度の実質利率を保証する。
  ・ 払った保険料の分は、没収されない。
  ・ 受け取り忘れた年金も、没収されない。

 この3点が整備されなければ、国民年金なんかに入らず、自分で貯金した方が利口だ。そして、それが、今の現状である。

( ※ 今の国民年金制度というのは、社会保障制度というよりは、一種の詐欺システムである。制度に疎い人々から金を収奪して、恵まれた立場の人たちだけが金をもらう。一方で、国庫の金を入れてもらって、それを食い尽くす寄生虫のような人々がいる、……というシステム。)

 [ 付記 ]
 以上の記述内容だが、全面的に正しい保証はない。私の数年前の記憶をもとにした記述である。
 実際にそうであるかどうかは、保証の限りではない。とにかく、普通の国民はそう考えるものだし、だから、保険料を払いたがらなくなるわけだ。
 実際の現在の年金制度は、どうか? 私は年金の専門家ではないので、よく知らない。だいたい、年金制度は、しばしば変更されるし、いちいち変更内容を覚えていられるものでもない。この点でも、「最初に契約すればそれでOK」という民間貯金とは、雲泥の差だ。たえず注意と心配を迫られる。ついうっかりすれば、すべてがパーになる。


● ニュースと感想  (3月27日b)

 「不良債権処理」にともなって、RCCによる「貸し剥がし」の実態。(週刊朝日・2002-03-26 発売号。)
 健全な貸し手に対して、「担保不動産の価値が下がった」という理由で、返済計画を一方的に変更し、25年返済を5年で返済するように求める。当然、無理。かくて、健全な貸し手が、「不良債権」と見なされ、強引に倒産させられる。
 この手でやられたら、日本中の健全な企業は、みんな倒産させられかねない。日本そのものも「不良債権」と扱われかねない。
 「不良債権処理でバラ色」なんていう妄想が、いかにデタラメか、よくわかる。

 それにしても、RCCというのは、とんでもないことをする組織だ。国民の財産を破壊し、かつ、自らのもつ健全な債権をゴミにしていく。かくて、国民には、莫大な損失がツケ回しされる。小泉の「特殊法人改革」の最大の成果は、これだな。「RCCを設立して、国民に数十兆円もの負担を上乗せしたこと」。
 たしかに、小泉は、「構造改革」を見事に成し遂げたのである。マイナス数十兆円もの効果を上げる、という見事な成果。こんなひどい首相は、歴代で、最悪だろう。公共事業ならば、数十兆円すべてが無駄になることはないが、不良債権処理というのは、数十兆円すべてが無駄になると言ってもいい。


● ニュースと感想  (3月28日)

 先金の税制論議について。

 (1) 減税先行
 「減税先行」という意見があるが、私はまったく賛成できない。「税制改革をして、増税と減税をして、そのうち、減税だけを先行する」という考え方では、あまりにも便宜的かつ姑息である。そこには何の理念もない。要するに、「思考力ゼロ」であり、経済学とは別の、ただの政治的な思惑による方法だ。
 私が唱えるのは、「増減税による景気調節」だ。しかもそれは、「タンク法」という、「貨幣量調節」がある。……これは、上記の便宜的な方法とは、まったく異なる。

 (2) レーガノミックス
 「レーガノミックスにおける減税の効果」というのを唱える人もいる。こういう人物が出るから、「減税」というものがいかがわしく感じられてしまうのだろう。
 はっきり言って、「レーガノミックスの減税」というのは、間違いである。なぜか? そこには「景気調節」という考え方はない。逆に、「好況のときにも減税」である。これは、結局、「双子の赤字」をもたらした。一時的な繁栄をもたらしたが、それは一種のバブルであったから、やがてはそれも破裂した。
 好況のときにはむしろ増税するべきなのだ。それによって成功したのが、クリントン経済だ。レーガノミックスは間違いなのである。「減税は常に効果がある」ということはない。「減税は不況のときのみ効果がある」のだ。
 ここを理解しないのが、レーガン時代のアメリカであり、小泉時代の日本である。好況のときに減税をしたり、不況のときに財政健全化したり。……愚かなところだけは、両国は似ている。

 [ 付記 ]
 最近、タンク法や財政理論の解説がありませんが、すみません。年度末で、多忙のためです。数日間、待ってください。


● ニュースと感想  (3月28日b)

 外形標準課税について。
 「給与」や「資本金」を基準に外形標準課税をする、という案がある。私は、賛成できない。

 (1) 給与
 個人給与には、ただでさえ個人所得税が課せられる。二重課税となる。しかも、これによって「雇用減」という逆効果が出る。たとえば、今、人間が車を掃除していたとする。彼は所得税を 20万円払う。この仕事を機械にやらせると、無税となる。(その他、自動販売機など。)
 こういうふうに、作業者が「人間か機械か」で税率が変わるのは、人間の仕事を減らし、かつ、税金を減らす効果がある。まずい。

 (2) 資本金
 資本金は、企業規模を正確に反映しない。当たり前。ゆえに、好ましくない。

 (3) 粗利益
 粗利益ならば、この問題はない。私としては、粗利益に課税するのが、最も好ましいと思う。例:粗利益に対し、5% の消費税と、1% の外形標準課税。
 さて、この例だと、企業は対策として、単価を1% 上げる。だから結果的には、6% の消費税をかけたのと、ほとんど同じことになる。「だったら最初から消費税を6%もした方がすっきりする」という意見も出るだろう。しかし、それを言い出したら、あらゆる法人関係税について、同じことが言える。
 ま、実際の効果はともかく、理念としては、「6% の消費税であっても、消費者に上乗せされるのは 5% だけ」という形になっているから、これはこれで問題あるまい。特に良いわけでもないが、特に悪くもない。 (1) (2) よりはマシであろう。

 (4) 固定資産税
 法人に対する固定資産税を大幅に上げる、というのも、いいと思う。これは、一極集中を避ける効果がある。
 ただ、この場合、都心の商業企業(たとえばデパート)が、極端に重税になる。これを避けるには、「逆人頭税」をかけるのが好ましい。つまり、人頭割で、税金を還付する。デパートなどの商業だと、人件費の占める割合はかなり大きいから、こうして還付を受ける金額も大きく、重税感は減殺される。
 そもそも、人件費の大きい企業は、個人所得税を通じて、多くの税を納税することになるのだから、バランス上、少し還付を受けても当然なのだ。逆に、「機械ばかりで生産」という企業は、経済活動を通じて、ろくに税も払っていないのだから、こういう企業こそ、多額の税を課せられるべきなのだ。

 結語。
 税の払い手が個人であるか法人であるかは、あまり関係ない。その経済活動がなされたことで、税がいくら払われるかが問題なのだ。税収の帳簿で、分類項目をどう分類するかが大切なのではなくて、額となる数字が問題なのだ。


● ニュースと感想  (3月29日)

 景気循環の周期について。
 景気循環については、「周期説」というものがある。
   10年 周期 …… ジュグラー・サイクル
   40カ月周期 …… キチン・サイクル
   約20年周期 …… クズネッツ・サイクル
   約50年周期 …… コンドラチエフ・サイクル

 などの学説がある。

 私の見解は? 
 こんなものは、すべて、統計のお遊びである。数の少ないサンプルを集めて、勝手に周期を見出しても、偶然以外の説明などは付きそうにない。だいたい、100年もたてば、経済構造は一変するのに、50年周期の景気循環を考えるというなんて、冗談だとしか思えない。そして、この冗談じみた「コンドラチエフ・サイクル」というのが、一番有名であるようだ。呆れた話。

 では、循環に規則性は、まったく見出せないか? いや、ある種の規則性は見出せると思える。私の見解では、科学的に言って見出せる周期は、ただひとつ。次のことだと思う。
   1/f 揺らぎ       (えふぶんのいちゆらぎ)
 これは、最近よく話題になる用語だ。どういうことか、知りたければ、適当に自分で調べてほしい。本屋の科学入門書などにも出ているかもしれない。
 ( ※ 簡単に言えば、こうだ。高周波の小さな波がひんぱんにあり、低周波の大きな波がときどきある。それらの組み合わせで、表現される。……たとえば、風や、海の波。自然現象の波動の大部分が、これに従う。この規則性は、周波数の分布について言うだけであり、将来への予測などはない。前述のような一定周期をもつ「〜〜サイクル」とは異なる。)

 なお、景気循環の周期については、「平凡社百科事典」を参考にした。


● ニュースと感想  (3月29日b)

 辻元議員辞職について。
 私の見解では、公設秘書の給与が高すぎるのが原因である。読売朝刊 2002-03-28 によると、政策秘書は、住居費補助込みで、年収 800万 〜 1200万。これでは、高すぎる。(そう思うでしょ? 民間の社長秘書は、こんなにもらっていません。)
 だから、議員としては、こんな高給の秘書を一人雇うよりは、薄給の秘書を二人雇いたがるものだ。ま、当然ではある。2倍払っても、2倍働いてもらえるわけではないのだから。
 実態を反映しない高給を国が払うのが根本原因。年収 400万円を限度とすればよい。(それ以上を払いたいときは、議員が負担することにする。)
 それにしてもねえ。秘書というのが、こんなに高給取りだとは、知らなかった。制度自体に欠陥がある。

( ※ だいたい、政策秘書ってのは、何でしょうねえ。政策なら、議員本人が立案するものだが。政策立案の補助なら、官僚や国立国会図書館がやってくれる。それとも、「議員は政策立案能力がないから、補助ではなくて、立案そのものを、秘書がやる」ということなのかな? だったら、議員の年収を 400万円にするべきだろう。)
( ※ 本項は、ずいぶん、チマチマとした話ですね。他人の給料をちょっと下げることばかり考えている。ケチな話。マクロ経済なら、数十兆円の話なのだが。)


● ニュースと感想  (3月30日)

 景気の先行きの見通し。
 「米国景気は回復しつつあるようだし、輸出も増加傾向にあるが、個人消費が回復しないので、年内の景気回復は見込めず。景気回復は来年以降」という見通しが多い、とのこと。(朝日・朝刊・経済面 2002-03-29 )
 それはまあ、そうだろうが、「来年には回復」というのは、甘い見込みではありませんか? 「米国景気の回復につれて、2002年の6月ごろから日本も景気回復」と唱えていたエコノミストたちは、自分の言葉を思い出してほしいですね。

 さて。失業率の情報も。
 総務省の発表によると、2月の完全失業者数は 356万人で、前年同月より 38万人増。昨年9月から増加傾向が続く男性に加え、女性の増加幅も拡大してきた、とのこと。
 景気は、回復どころか、悪化していくようですね。4月には賃下げも予定されているし。また、NECは4月から「定昇延期」とも報道されている。

 [ 付記 ]
 こういうふうに、景気の状況は悪いのに、政府は「3月期気は遠のいた。一安心」と考えて、経済財政諮問会議でも、景気回復の手を緩めようとしている。(cf. 本日別項。)
 ただでさえダメなのに、ますますダメにしようというのだから、困ったことだ。


● ニュースと感想  (3月30日b)

 政府のデフレ対策。経済財政諮問会議が 29日に「論点整理」を公表。内容は、「減税先行」など。(全般的には、景気回復の手を緩めている。)

 さて、「減税先行」について、私の評価は? 「やらないよりはマシ」ではなく、「やらない方がマシ」である。理由は:
 第1に、そもそもプラス効果はゼロである。たとえ減税を先行したとしても、その財源が「財政支出削減の分」であっては、結局、差し引きしてゼロである。政府が支出を1兆円減らして、国民が支出を1兆円増やしても、マクロ的には、デフレ解決効果はない。
 第2に、当たり前のことだが、国民は減税の分をすべて支出するわけではない。今のような不況期では、ほとんどを貯蓄に回すだろう。……限界消費性向を 0.2 と仮定すれば、1兆円の減税の効果は、2000億円だけだが、一方で、政府が支出を減らす効果は、1兆円がまるまる出る。……差し引きして、マクロ的には、経済を縮小する結果となる。(こういうことがあるから、ケインズ派は「公共支出を」と叫ぶわけだ。その主張は、この意味においては、一応正しい。)
 第3に、「所得税の課税最低限を下げる」のでは、国民のかなりの部分が実質増税となる。特に、金に困っている低所得者を直撃する。低所得者は当然、支出を減らす。一方、高所得者は、もともと金が余っているから、多大な所得に比べて少しばかりの減税を得ても、支出に回す分はほとんどない。(もともと限界消費性向が低い。) ……結局、国民全体を見れば、減税よりも増税の効果が大きく出るから、経済に対しては縮小効果が出る。

 結語。
 以上により、今回の「減税先行」は、「やらない方がマシ」であり、「やればやるほど景気は悪くなる」という結論になる。

 [ 付記 ]
 私の主張は、「現在の減税と、将来の増税」だ。なぜか? こうすれば、「現在の減税」の規模を大きくできるからだ。「現在の減税」だけでは、1兆円の減税しかできないとしても、「現在の減税と、将来の増税」ならば、20兆円でも 30兆円でも、減税できる。(どうせ将来、その分を回収するのだから。)
 また、財源は、赤字国債である。そうでなければ、インフレ効果をもたない。(この件、詳しくは、後日また述べる。)


● ニュースと感想  (3月31日)

 前項(前日分)の続き。
 経済財政諮問会議の「論点整理」では、「減税先行」を示す予定だったのが、最終的には、財務省の反対で、「減税先行」を削除された、とのこと。(朝刊各紙 2002-03-30 )
 これは、逆の意味でまずいな。財政健全主義。「帳簿さえ黒ければ、日本経済そのものが真っ赤でも構わない」という考え方。


● ニュースと感想  (3月31日b)

 「ペイオフ延期は多大なコスト負担がかかる。債権保護に 21兆円余」という記事。(朝日・朝刊・経済面 2002-03-30 )
 「コスト」というものを勘違いした、帳簿至上主義である。木を見て森を見ず。

 よく考えてみよう。債権保護に 21兆円余がかかったので、その分、政府の富は減る。しかし、その分、国民の富は増える。差し引きして、チャラである。「コストがかかる」ということはないのだ。国全体の富が 21兆円減るわけではないのだ。帳簿の勘定項目が変わるだけである。……これが、マクロ経済の見方だ。
 一方、ペイオフを実施すると、どうなるか? 政府の富は 21兆円増える。一方で、国民の富は 21兆円減る。ここまでなら、話が逆なだけで、マクロ的には同じだ。しかし、その先がある。……銀行破綻により、資産が消えるとなると、国民は不安になって、預金を引き下ろす。取り付け騒ぎである。いわゆる「信用収縮」が起こる。これの効果は、最善の場合で、ゼロ。最悪の場合で、莫大な経済損失が発生する。多大な倒産や失業が発生し、経済規模が急速に縮小し、下手をすると恐慌になる。(この件は、これまでも、何度も述べてきた。)……これは、マクロ的な損失である。このことで、数十兆円の金が、まさしく消えてしまうのだ。別に、その分、政府が得をするわけではなく、日本全体の富がその分だけ減ってしまうのだ。これこそが「コスト」なのだ。

 教訓。
 政府の帳簿だけを見ていて、国全体の富を見失うと、とんでもない結果を招く。いわゆる「病気は治りました、病人は死んでしまいました」である。「日本政府の財政は健全化しました、日本経済は崩壊してしまいました」である。

 [ 付記 ]
 「ペイオフ賛成」という朝日の考え方の底にあるのは、「おれは頭がいいから、おれだけ良ければいい」という考え方である。
 銀行経営というものは、ろくに情報開示されていない。そういう状態で、ペイオフを実施しても、困るのは一般国民だ。特に、知識のない国民だ。金のことばかり考えて生きているような人は、そんなに多くないのだから、多くの善良な人々が、国の無責任体制のせいで、莫大な損害を受ける。
 しかし朝日は、「それは不勉強のせいだ。ちゃんと毎日、金のことを考えていきていきなさい。頭が悪いやつは哀れだな。少なくとも、私は毎日、金のことを考えているから、損はしない。私が損しないから、他人が損しようと、知ったこっちゃない」という考え方。
 いわるゆる自己中心主義(ジコチュー)である。朝日の考え方は、すべてこれ。その底にあるのは、「おれは頭がいい」という尊大な考え方。頭の悪い人間ほど、こう思い込む。 (……私もそうですけどね。)


● ニュースと感想  (3月31日c)

 「ペイオフ」と「預金保険機構」。
 ペイオフに私は反対しているが、「それだと銀行経営が放漫になる」という反論があるだろう。そこで、私が示す代案が、「預金保険機構の保険料率の可変化」だ。
 預金保険機構の保険料率は、現在、一律だ。これを、銀行経営の良し悪しに応じて、可変化すればよい。良好な経営の銀行には、低率の保険料で。劣悪な経営の銀行には、高率の保険料で。……こうすればよい。
 銀行経営の実情は、一般の預金者にはわからず、政府にだけわかる。(監察権がある。) だから、こうするのが当然だ。

 「ペイオフ実施を」という意見は、責任を、国民に押しつけるものだ。「自己責任」と言えば聞こえはいい。しかし結局は、政府の責任を、国民に押しつけるだけだ。たぶん、「小さな政府」の信奉者なのだろう。こういう意見がのさばると、泥棒や詐欺師がまかり通るようになる。「詐欺師に自由を! 国民は自己責任で」というわけだ。……それを金融面で実施するのが、「ペイオフ」だ、と言える。(というのは、極論ですけどね。)
 で、何が言いたいのかと言えば、「ペイオフを実施すればすべてうまく行く」なんていう甘い夢想は成立しない、ということだ。 ( → 前項 3月31日b )






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