[付録] ニュースと感想 (14)

[ 2002.04.01 〜 2002.04.16 ]   

  《 ※ これ以前の分は、

    2001 年
       8月20日 〜 9月21日
       9月22日 〜 10月11日
      10月12日 〜 11月03日
      11月04日 〜 11月27日
      11月28日 〜 12月10日
      12月11日 〜 12月27日
      12月28日 〜 1月08日
    2002 年
       1月09日 〜 1月22日
       1月23日 〜 2月03日
       2月04日 〜 2月21日
       2月22日 〜 3月05日
       3月06日 〜 3月16日
       3月17日 〜 3月31日
         4月01日 〜 4月16日

   のページで 》





● ニュースと感想  (4月01日)

 本日以降、国債の「民間引き受け」について考察することにする。
 これまで増減税を示してきた「タンク法」では、国債は「日銀引き受け」とするものとした。理由は、簡単だ。貨幣量を調節することが目的なのだから、余計なことはしない方がいいのである。減税のときは、日銀が金を印刷して、国民に渡す。増税のときは、国民から吸い上げた金を、日銀に渡す。── これなら、国民には損も得もないまま、貨幣量の調節だけがなされる。
 これが基本である。
 では、日銀引き受けでなく、民間引き受けになると、どうなるか? 
 それを、本日から数日間、考察することにしよう。(本日は、前口上だけ。)

 すでに述べてきたところでは、次のようになる。
 民間引き受けだと、……
  (1a) 全体として、貨幣量の増加がない。
  (1b) ゆえに、物価上昇効果がない。
  (2a) 物価上昇効果がないのは、インフレ時には好ましい。
  (2b) 物価上昇効果がないのは、デフレ時には好ましくない。
  (3a) 勝手に紙幣を印刷しないので、財政規律上は好ましい。
  (3b) 勝手に返済できないので、増税(貨幣量縮小)には不便。

 なお、次の問題もあるが、未考察である。
  (4)  国債によって、世代間の所得移転があるかどうか?

 ここで、あらかじめ大略を言えば、こうだ。
 「日銀引き受けでは、減税は単なる貨幣量の増加のみをもたらし、増税は、単なる貨幣量の減少のみをもたらす。特に複雑に考えることはなく、シンプルである。一方、民間引き受けでは、国民の間で金を貸したり借りたりすることで、事情は複雑になる。」
 では、どんなふうに複雑になるか? それを、このあと考察することにする。


● ニュースと感想  (4月01日b)

 電子政府関連の情報。「住民基本台帳」の番号交付は、2002年8月で、ICカードの配布は、2003年8月。(朝日・朝刊・経済面 2002-03-29 )


● ニュースと感想  (4月01日c)

 「シュレーディンガーの猫 」のページで、後半に、「追記」を加えた。
 ( ※ この問題が、物理学の問題ではなく、確率の問題にすぎないことを示す。)


● ニュースと感想  (4月02日)

 リチャード・クーの論説。(朝日・朝刊・オピニオン面・コラム 2002-04-01 )
 ケインズ派からの主張である。私としては、何度か批判したが、繰り返しを厭わず、再度述べておく。
 ( ※ 茶色部分は、同記事からの要旨・引用。)
  1.  「1930年代の大恐慌時代に、財政出動の効果が判明した」  誤り。実際のニューディール政策で判明したのは、「大規模な不況には、財政出動は無効ないし効果不足である」ということだ。話が反対だ。ケインズ的な策が有効なのは、小規模な不況のときだけである。
    ( ※ 詳しく言うと…… 33年から 38年の同政策は、最悪を免れるという程度の効果はあったが、景気を本格的に回復させるには至らなかった。37年に増税と財政支出削減で財政赤字縮小をめざしたあと、37年から 38年にかけて恐慌に再突入した。[これは橋本政権に似ている。] そのあと、39年の戦争勃発による軍需景気により、ようやく不況を脱出した。)
  2.  「バブル崩壊後に財政出動(公共事業)の効果が出た」  これは一応正しい。たしかに、デフレは解決しなかったが、大恐慌を避けるぐらいの効果はあった。ただし、である。あとには莫大な財政赤字が残った。( → 後述)
     となると、将来の増税は不可避である。これが消費の縮小を招く効果もある。
  3.  「企業が投資しないのは資産デフレのせいだ」  誤り。個人消費の縮小のせいである。
     だいたい、データを見れば、すぐわかるはずだ。バブル崩壊直後(1991年)は、資産バブルははじけたとはいえ、バブル直前に比べれば、何倍もの資産膨張が残っていた。(株価も地価も今の 2〜3倍あった。) しかし、個人消費は急激に縮小した。つまり、資産インフレは大部分が残り、個人消費は急減。こういうときに、企業はどうしたか? 投資をしたか、投資をしなかったか? 考えてみるがいい。
  4.  「家計が貯蓄しているのに、企業が借りていない、という異常事態だ。ゆえに財政出動が必要だ」  論理が誤り。「貯蓄する = 消費しない」というのが経済学の基礎原理である。
     結局、「家計が貯蓄するのに、企業が借りていない、という異常事態」ではなくて、「家計が貯蓄する(= 消費しない)から、企業が借りていない、という正常事態」なのである。消費が縮小しているときに、企業が投資をして供給を拡大するはずがない。当たり前でしょう。「貯蓄=投資」という式が成立するのは、不況でないとき(均衡状態のとき)だけだ。
    ( ※ 論理が誤りだから、結論も誤り。「ゆえに財政出動が必要だ」ではなくて、「ゆえに個人消費拡大が必要だ」が正解。「民需縮小」が原因である以上、「官需拡大」ではなくて「民需拡大」が正解。)
 以上の通りだが、さらに付言しておくと……
 [ 余談 ]
 「国債の民間引き受け」の話は、一日遅れて、明日から連載します。(本項が長くなったので、今日は書かず。)
 なお、本項の分は、以後の「国債の民間引き受け」の話のうち、「金の使途」の話(何カ所かあり)と、関連します。一応、本日分も、よく理解しておいてください。


● ニュースと感想  (4月03日)

 民間引き受けによる国債発行について考える。
 まずは、基本的な原理について考察する。それには、単純化したモデルを用意しよう。これを「行列モデル」と称する。
     現 在  将 来 
 債権者  −10 +15
 他の人々 +10 −15
( ※ ここでは、物価上昇については無視する。また、利率や期間については、細かなことは無視する。また、現在における国債の使途は、減税または公共支出とする。将来における国債の償還は、増税でまかなうものとする。値が 10 と 15 で違うのは、もちろん利子の分の 5 が加算されたからである。)

 上の表は、次のことを意味する。
 見やすくするために、もう一度、同じ表を掲げよう。
     現 在  将 来 
 債権者  −10 +15
 他の人々 +10 −15
 この表は、次のように解釈する。
 以上の話を読んで、「当たり前だ」と思うだろう。しかし、この当たり前のことが、すべての問題に答えを与えてくれるのだ。  まず、すぐ上の4点を理解しよう。この4点から、次のことがわかる。
 「現在の時点では、債権者の支払った総額と、他の人々が受けた恩恵の総額は、同じである。つまり、全員を見れば、プラスとマイナスは中和する。」
 「将来の時点では、債権者の償還された総額と、他の人々の払った税の総額は、同じである。つまり、全員を見れば、プラスとマイナスは中和する。」

 この2点から、次のことを結論できる。
 「国債の発行があっても、現在の人々全員を見れば、金はその時点で帳尻が付く(プラスマイナスゼロである)。国債の償還があっても、将来の人々全員を見れば、金はその時点で帳尻が付く(プラスマイナスゼロである)。」
 つまり、次のように言える。
 「国民全体を見れば、現時点から将来時点へ、所得の移転は起こらない」
 つまり、
 「現在の国民全体が、将来の国民全体から、金を借りていることにはならない。金の貸し借りは、(現在であれ将来であれ)同じ時点の国民の間でのみ、生じる」

 結局、次のように言える。
 「『国債発行は、現在の人々が将来の人々に金を借りることになる』という説は、国民全体を見る限り、成立しない」

 これは、たぶん、読者の直感に反するように感じられるだろう。その直感は正しい。実は、話はまだ終わっていない。次のように話は進む。

 今の考察は、国民全体を見た場合だった。では、国民全体ではなく、債権者と他の人々を区別すると、どうなるか?
 このうち、債権者の方のことは、当然である。彼は、自らの意思で、国債を買って金を貸したのだ。だから、「現在では金を払って、将来では金を受ける」というのは、それはそれで当然である。
 では、他の人々は? 「現在では恩恵を受けて、将来では税を払う」となる。これは、当然ではない。われわれは、他人から金を借りたいわけではない。しかし、政府が「民間引き受け」をすることで、否応なしに、他人から金を借りることになってしまう。

 結局、以上をまとめると、どうなるか? 
 現在の人々と、将来の人々を、ひっくるめてみれば、現在の人々が将来の人々に借金をしていることにはならない。単にその時点で、配分の変更が起こるだけだ。(現在:「債権者 → 他の人々」,将来:「他の人々 → 債権者」)。
 しかし、この配分の変更を通じて、「債権の引き継ぎ(相続)」および「負債の引き継ぎ(相続)」が実質的に発生する。
 債権者は、現在においては 10 を失って、将来においては 15 を得る。そして、それとちょうど同じ額だけ、他の人々は、現在においては 10 を得て、将来においては 15 を失う。債権者には(あとで 15 を得る権利という)「債権の引き継ぎ(相続)」があり、他の人々には(あとで 15 を失う義務という)「負債の引き継ぎ(相続)」がある。
 債権者は、「国債所有」という「見える形」で債権を引き継ぐ。他の人々は、現在においては公共投資や減税という「見えない形」で富を得て、将来においては「増税」という「見えない形」で借金を払う。他の人々は、「国債券」とは反対の「借用証書」のようなものを所有しているわけではない。しかし、「増税の義務」を通じて、まさしく借金を負っているのである。

 では、本質的には、どうなるか? それは、こうだ。
 「民間引き受け」という形の国債は、政府が強制的に、他の人々に(債権者から)借金をさせることなのだ。つまり、「国民の間で強制的に貸し借りをさせる」ということなのだ。そこに本質的がある。 (そのことの是非は、また別問題であるが。)

 ともあれ、以上のことから、次のように言える。
 「『国債発行は、現在の人々が将来の人々に金を借りることになる』という説は、国民全体を見ると成立しないが、債権者以外の人々だけを見れば成立する」
( ※ この借金は、現在の人々が将来の人々から直接借りているわけではなくて、債権者と政府を通じて、間接的に借りていることになる。実際になされるのは、その時点での、富の配分変更だけである。)

 以上が、「行列モデル」から、理解できることだ。これを基本とした上で、次項からは、さまざまな問題について、いろいろと考察を進めよう。

 [ 付記 ]
 世間には、変な説を主張する経済学者がいる。「単なる配分変更だけがあるだけだから、誰も借金を引き継ぐことにはならないのだ」と。しかし、その説が成立するとしたら、逆に、「単なる配分変更だけがあるだけだから、誰も債権を引き継ぐことにはならないのだ」ということになる。それは、明らかにおかしい。
 債権者は債権を引き継ぐのだ。そして、それと同じ額だけ、他の人々が負債を引き継ぐのだ。その事実を理解しよう。

 [ 補足 ]
 上の [ 付記 ] のような変な説を出す経済学者は、たぶん、「富」と「債権」とを混同しているのであろう。「富」とは、現実に所有している財産である。「債権」とは、「将来において富を得る権利」のことである。「債権」は、将来の一定時期が来るまで、「富」とはならない。だから、両者を混同してはならない。
 国債によって、「富の配分変更があるだけだ」というのは、事実である。しかし、「富の配分変更」こそが、まさしく、「債権」「負債」なのだ。「富の配分変更があるだけだ。だから債権や負債はない」などという主張は、論旨が矛盾している。それは「太陽が照っているだけだから、晴れではない」というような、言語矛盾である。

 [ 余談 ]
 上の経済学者の説がへんてこりんである理由を、わかりやすく説明するために、たとえ話を示そう。
 「昔々、ある国に、王様がいました。王様はおかかえ経済学者を招いて、富の配分の講義を受けました。そこで、経済学者の説に従って、次のように公布しました。『増税は富の配分を変更するだけである。現世代の全員を見れば、損も得もない。だから、今後は、配分を変更することにする。つまり、増税して、国民の財産は、すべてわしのものにする。国全体を見れば、損も得もないのだ。わかったか。これが経済学というものだ。』」
 さて。この話を知って、先の経済学者の妻は、ハタと膝を打った。そして夫に、こう宣告した。
 「あなたのお小遣いは、今後、毎日 300円とします。それで昼飯も、全部まかなってください。残りのお金は、全部、私がブランド品を買うために使います。文句を言わないでね。一家全体を見れば、家庭内の配分変更があっただけでしょ。一家の金が外部に流出したわけじゃない。一家全体を見れば、損得はない。だから、文句は言わせないわよ。」


● ニュースと感想  (4月04日)

 「強制借金」について。
 前日分(行列モデル)で述べたとおり、「民間引き受けの国債」は、国民間に強制的な借金関係を生じさせる。つまり、国債所有者が債権者となり、他の人々が債務者となる。こういう借金関係が強制的に発生する。── これが一番肝心な点だ。
 それが小規模であるならば、たいして問題とはなるまい。しかし、大規模となると、どうなるか? つまり、政府が莫大な財政支出をして、莫大な財政赤字を残すと、どうなるか? それを考えてみよう。

 「タンク法」ならば、これは簡単だ。莫大な金を発行しても、それは国民に減税で行き渡る。同時にインフレが発生する。国民は損も得もしない。将来、増税で金を奪われるが、そのとき、物価上昇抑制によって貨幣価値が上昇するから、ここでも、損も得もしない。……このように、話はわかりやすい。
 「民間の引き受けの国債」では、どうか? 話は複雑になる。まず、現時点では、民間の間で金をやりとりするだけだから、総需要は増えず、インフレは発生しない。将来、増税しても、その分、債権者の金が増えるわけだから、貨幣量の変化もなく、物価上昇抑制もない。……結局、景気に対しては中立である。(単に、国民間で「分配」という調整が発生するだけだ。前日の述べたとおり。) ただし、である。景気に対しては中立であっても、国民にとっては、大きな影響が出る。国が財政支出を増やした時点で、「公共事業」または「減税」という形で、何らかの富を得る。一方、国が増税した時点で、富を奪われる。(「損得なし」のタンク法とは異なる。)

 このように、政府によって、強制的に、富を与えられたり、富を奪われたりするわけだ。
 しかも、である。「富を与えられる」というとき、一般的には、その富は、国民各人の自由にはならない。というのは、減税ではなく、たいていは「公共事業」という形になるからだ。
 たとえば、あなたが「パソコンをほしい」と思ったとする。しかし、政府が「パソコンを買うことは許さない。この金は、有明海を埋め立てることに使う( or 本四架橋を建設するために使う)」と指定したら、否応なく、そうするしかないのである。「自分の金は自分で使いたい」と思っても、ダメなのだ。あなたの金を、政府が使う。そして、その分の請求書は、「増税」という形で、将来必ず襲いかかるのである。
 つまり、「強制的な借金関係」には、「強制的な使途の指定」が付随しやすいのだ。(減税でなく公共事業に使いがちである。)
( ※ ここでは、金額的には損でなくても、価値的に損がある。買いたくもない物を買わされるのは、金を失うのと同様である。「20万円のパソコンがほしい」と思ったときに、「20万円分のコンクリートをやるぞ。これで環境を破壊しなさい。とにかく、これで 20万円分、きみに渡したからね」と言われるようなものだ。金額と価値とは異なるのだ。 20万円分の品物も、あなたにとって無価値であれば、あなたにとっては 0円分でしかない。……金というものは、使途が自由でなくては、意味がないのだ。このことに留意しよう。)

 さらに、である。使途だけでなく、返済時期についても、同様のことが言える。タンク法という考え方によらない国債だと、返済時期が自由にならないのだ。
 たとえば、不況のとき、「金がないから、今は借金を返済したくない」と国民が思ったとする。しかし、財政健全論者が政権を取っていれば、「不況のときこそ、借金を返せ」と言い出す。たとえば、「財政健全化」を唱える小泉政権は、現在、増税を企んでいるし、医療費の料金の増額も決めた。また、ニューディール時期の政権も、1937〜1938年に、財政健全化を狙って、増税をした。一般的に言えば、政府は経済学的に無知であり、経済学的になすべきこととは正反対のことをしがちだ。つまり、減税すべきときに、増税しがちだ。返済の時期は、最悪になりがちだ。……結局、「強制的な借金関係」には、「強制的な(返済)時期の指定」が付随しやすいのだ。
( ※ 「タンク法でも同じではないか」という疑問が来るだろう。しかし、そうではない。タンク法では、そもそも、「返済」という概念がない。金をタンクとの間で、出し入れしているだけであり、借りたり返したりするわけではない。細かく言えば、「国民全員から借りる」「国民全員に返す」という形を取るから、やってもやらなくても、貸し借り関係[損得]は発生しないのである。単に貨幣量が変化するだけだ。)

 [ 付記 ]
 「財政赤字縮小」というのは、財政健全論者がやりたがるものだ。しかし、よく考えてみよう。それは本質的に、何を意味するか?
 前日の「行列モデル」で言えば、それは、「将来」の「返済」を、今すぐやることだ。つまり、国民の金を増税で奪って、債権者に渡すことだ。国民から広く薄く金を奪って、少数の人に狭く厚く金を渡すことだ。……そのこと自体は、借金関係の清算であるから、良くも悪くもない。ただし、経済学的に言えば、一国経済を縮小する効果がある。……たとえば、国民から 20万円を奪えば、一般国民はそれに応じて消費を減らす。一方、国債の債権者は、何千万円も返済してもらっても、別に、その分だけ消費を増やすわけではない。ほとんどを貯蓄する。
 さて、貯蓄した金は、投資に回るはずだ。ただ、好況のときなら、貯蓄の金は投資に回るが、デフレのときは、貯蓄の金は投資に向かわずに滞留する。だから、結局、「財政赤字縮小」は、一国経済を縮小する(景気を冷やす)わけで、インフレのときにはプラス効果があるが、デフレのときにはマイナス効果があるわけだ。


● ニュースと感想  (4月04日b)

 新聞記事をメモしておく。内閣支持率と、韓国のバブル。(朝日・朝刊 2002-04-03 )
  1.  内閣支持率
     小泉内閣の指示・不支持が逆転。朝日新聞の世論調査で、支持 40%、不支持 44% 。
     支持・不支持の理由は、前回とほぼ同じ。統計誤差程度。( 前回の調査は → 3月05日d

  2.  韓国のバブル
     韓国でバブルが発生しかけているようだ。量的緩和を実行したすえに、過剰資金が流動して、土地や株価が急上昇。まさしく、日本がいつか来た道。
     [ コメント ]
     「だったら、金融引き締めをすればいい」と思うかもしれない。しかし、価格が上昇しているのは、土地や株のみであり、一般の商品ではない。つまり、資産インフレは発生するが、インフレは発生しない。金融担当者は、そこを正しく認識できないので、「まだインフレじゃない」と思って、資金をジャブジャブにし続ける。
     これが教訓だ。歴史は二度も繰り返した。日本では現在、「量的緩和を過剰にやれ」という意見があるが、それをやれば、歴史は三度も繰り返すことになる。
    ( → 1月06日b の (2)


● ニュースと感想  (4月05日)

 「世代問題」について。
 「国債の発行は将来世代へのツケ回しになる」という説がある。これについて、考察しよう。
 まず、原理としては、前日に述べたこと(行列モデル)がある。それが基本だ。
 つまり、国債は、現時点および将来時点における富の移転(所得の再配分)であり、そのことを通じて、債権者以外の人々にとっては、「現在の得と、将来の損」を意味する。その量は、債権者にとっての、「現在の損と、将来の得」の量と、同額である。(つまり、債権者が債権を将来に送る分だけ、債権者以外は負債を将来に送る。)

 さて、この「民間引き受けによる国債」では、「日銀引き受けによる国債(と減税)」と違って、損得が発生する、ということに注意しよう。後者[つまりタンク法]ならば、国債発行(と減税)をやっても、損得はない。全員に減税の恩恵が来て、全員にインフレの損が来る。
 しかし、民間引き受けでは、そうではない。金は民間の金を吸い上げるから、それによって貨幣量の増大はないので、インフレは発生しない。一方で、債権者以外の人々は、減税の時点では「得」をして、増税の時点では「損」をする。(「損得なし」のタンク法とは異なる。)
 このことについて、もっと詳しく考察してみよう。それには、償還期間を「短・中期」「長期」「超長期」に分けて考えてみる。

 (1) 短・中期
 短期的・中期的に国債を償還するのであれば、国債によって得をする人と損をする人は、ほぼ同じである。たとえば、今年は減税で得をして、5年後に増税で損をする、としたら、それぞれの時点で、減税を受ける人と、増税を受ける人は、ほぼ同じである。
 というわけで、原理的には、特に大きな問題はない。
 つまり、中短期で償還するのであれば、タンク法でなく民間引き受けであっても、特に悪いということはない。民間の金を吸い上げるので、景気回復効果が減るし、それはそれで好ましくはないが、善悪とは別の話である。結局、経済効果の点では「効果が低い」が、善悪の点では、「悪い」わけではない。
 [ 注記 ]
 ただし、細かく見れば、注意すべき点もある。
 それは、高齢者と若年者だ。高齢者は、今年は所得税減税を受けても、5年後には退職していて、所得税増税を課せられないかもしれない。若年者は、今年は学生で、所得税減税を受けられず、5年後には就職していて、所得税増税を課せられるかもしれない。
 だから、このような不公平を除く工夫がいる。それには、[所得税の減税・増税」ではなく、「均等額の減税」および「消費税の増税」がいいだろう。その他、細かく工夫してもよい。
 (2) 長期
 国債の償還期間が長くなると、1世代〜数世代ぐらいの時間が開く。こうなると、減税で利益を得た人と、増税で損をする人とが、別となってしまう。これは、問題だ。
 だから、「長期償還の国債の発行で減税をするのは、将来世代へのツケ回しになるから、やってはいけない」と言える。
 そもそも、タンク法では、増減税は、景気の波をなだらかにするためのものであった。つまり、中短期のものであった。それとは異なる「長期償還の国債」というのは、好ましくないのだ。それが「減税」のためのものであれば。
 ただ、好ましくはないとはいえ、「悪いことをして得するのなら、そうしたい」という考えも成立する。「将来の世代にツケ回ししてしまえ。今の自分さえ良ければ、それでいい」という考え方だ。これについては、翌日また述べる。
 なお、減税の財源としては好ましくはないが、インフラ整備の財源としてなら、好ましい。これについては、「使途問題」というテーマで、「インフラ整備」などを話題として、後日また述べる。
 [ 注記 ]
 上の結論は、いわゆる財政健全論者の意見と同様である。つまり、「(長期の)赤字国債の発行で減税なんかしてはいけない」というわけだ。
 そして、そのことは、「民間引き受けの長期国債」を財源とする限りは、正しいのである。つまり、現状の方法による限りは、正しいのである。
 一方、「民間引き受けの中・短期国債」であるならば、 (1) のようになる。つまり、「効果は低いが、悪くはない」わけだ。
 また、「日銀引き受けで、景気に応じた中短期の償還」(タンク法)であるならば、まったく問題はないし、むしろ、好ましいのである。 ( → 2月22日 以降 )

 (3) 超長期
 国債償還が超長期になる場合も考えられる。これは事実上の、「無限の先送り」である。現世代が、借金を次世代に渡す。次世代は、その借金を引き継ぐが、ちょうど同額の国債を発行して償還することで、自分の借金をその次の世代に渡す。その次の世代もまた……というふうに、無限に引き継ぐ。
 これがうまく行けば、結局、誰も償還しないで済むことになる。まるで夢のような話だ。
 なんだか、話が冗談みたいに聞こえるが、これは論理学で「無限パラドックス」として知られた有名な話である。
 [ 余談 ] 無限パラドックス
 架空の「無限ホテル」は、部屋数が無限にあった。しかも、無限の客が泊まっていて、1号室、2号室、3号室、……のすべてが満室である。
 そこへ一人、不意の客が来た。「満室なので泊まれません」とフロントは断った。不意の客は諦めて出ていこうとした。
 すると、ホテルの支配人が現れて、「大丈夫です」と請け合った。「1号室の人は、2号室に移ってもらう。2号室の人は、3号室に。3号室の人は、4号室に。……こうして次々と、n号室の人を、n+1号室へと、部屋を移ってもらえば、最初の1号室は空き室になる。その空き室に、泊まってもらえばいい」
 不意の客は無事、1号室に泊まれた。一安心。ただ、これで満室となった。
 そこへ新たに、また一人、不意の客が現れた。ここでもまた支配人は同じことを繰り返した。……というわけで、無限ホテルは、たとえ満室であっても、いくらでも、客を追加して泊めることができるのである。
( ※ これは論理的にはまったく正しい。無限というものが有限とは違う性質を持っていることを示すだけだ。)
 国債の償還も、無限ホテルと同様である。次々と先送りすれば、誰も償還の金を払わずに済む。
 では、まったく問題はないか? いや、ある。
 第1に、利子(名目金利でなく実質金利)を払わなくてはならない。償還はしなくても、利子ぐらいは払わないと、時間がたつうちに、借金が雪ダルマ式に拡大して、先送りはできなくなる。(厳密には、経済成長率との比較で。)
 第2に、借金を放置すると、景気が悪化したときに、破綻する可能性がある。その危険を理解しておくべきだ。(これについてはすでに述べた。→ 3月08日

 結局、超長期のことまで考えれば、あまり巨額にならない限りは、国債残高はかなり巨額であってもいいことになる。ただし、ここで言う「いい」というのは、「大丈夫」(破綻しない)ということである。「良い」「正しい」ということではない。
 善悪で言えば、先の世代から引き継いだ借金の利子ぐらいは払うべきである。ただし、払わないからといって、大問題が発生するわけでもない。特に、経済が急成長しているときであれば、借金もまた大幅に増加しても、特に大きな問題となるわけではない。
 もう少し具体的に言おう。日本の場合、20世紀の後半においては、経済は急成長していた。だから、国の借金が急膨張しても、さして問題ではなかった。その世代の人々が得をして、将来世代に借金を残したことになるが、とはいっても、平均的に見て、当時の人々よりも、現在のわれわれの世代の方が、ずっと豊かな生活を送っているのは確かだ。特に問題はあるまい。
 では、21世紀にはどうか? このあと、低成長が続きそうだし、借金を膨張させるのはまずいだろう。これまでの借金の膨張は、やむをえないとしても、今後は、借金をぼちぼち返済していった方がよさそうだ。ただし、それでも、「ぼちぼち」「少しずつ」で十分だ。急激に財政を好転させる必要などはない。「財政黒字はすばらしい」などと主張して、不況期に大幅な増税をしたりすれば、とんでもないことになるだろう。(今の政府はそれを狙っているようだが。ほとんど狂気。)

 [ まとめ ]
 本項は、かなり長くなったので、最後にまとめておこう。
 民間引き受けによる国債は、次の4点に注意。
   ・ 使途が減税で、中短期で償却するのは、特に問題ない。
   ・ 使途が減税で、長期で償却するのは、好ましくない。
   ・ 使途が公共事業だと、前日 の問題が発生する。
   ・ 超長期で償却するのは、3月08日 の点を考慮するべき。

 2番目では、「長期で償却するのが好ましくない」と述べた。では、なぜか? 世代間の負担差が生じるからだ。現在の世代が得をして、将来の世代が損をするからだ。(…… この点を含めて、世代問題の話はまだ続く。翌日分などで、追加的にさらに説明する。)

 [ 補足 ]
 前日分との関連も示しておこう。前日は、次のように示した。
  ・ 「強制的な借金関係」には、「強制的な使途の指定」が付随しやすい。
  ・ 「強制的な借金関係」には、「強制的な(返済)時期の指定」が付随しやすい。

 この「付随しやすい」というのは、「必ずそうなる」というのではなく、「そうなりやすい」ということである。だから、「そうならない」こともある。
 では、「そうならない」(= 問題を起こさない)のは、どういう場合か? それは、「使途が強制的でない」かつ「返済時期が強制的でない」場合である。つまり、「使途が減税であり」かつ「返済時期がインフレのとき」である。……それは上記の (1) の場合のことである。つまり、「不況時に減税 & インフレ時に増税」の場合のことである。民間引き受けでも、これならば、悪くはない。
( ※ これは、タンク法に似ているので、その分、悪くない。ただし、悪くはないとしても、タンク法そのものに比べれば、良さが足りない。なぜなら、タンク法と比較すると、財源の違いのせいで、総需要拡大の効果が出なくなっているからだ。詳しくは、後日。)


● ニュースと感想  (4月06日)

 「世代問題」について。(前日分のつづき)
 すでに述べたことを簡単に要約しよう。
 そこで、問題は、「長期」の場合だ。つまり、国債の償還が数十年になる場合だ。こうなると、世代間の損得が発生する。では、どうなるか? 
 このことは、前日分でも、ごく簡単に触れたが、本日分では、しっかりと考えよう。次の (1) 以降で順に述べる。

 (1) 原理
 この問題の原理は、先に「行列モデル」で述べたとおりだ。つまり、債権者以外の国民は、「現在」では富を得て、「将来」では富を失う。
 そして、この「現在」と「将来」の時間的期間が、「長期」の場合には、数十年になるので、富を得る人と富を失う人とが別々になる。そのせいで、世代間の「ツケ回し」が発生する。現在の世代は、一方的に富を得て、将来の世代は、一方的に富を失う。世代間で、損得が発生する。

 (2) 二つの立場
 この件については、次のように、二つの立場がある。
  1.  将来世代にツケ回しするなんて、けしからん。道徳的に、間違っている。そんなのは、他人の富を奪うのと同じで、泥棒のようなものだ。エゴイズムはダメ。
  2.  将来世代にツケ回しするなんて、得だなあ。道徳なんて、知ったこっちゃない。法律違反でなければ、何をやってもいいのだ。他人の富を奪って、法律違反にならないのなら、やるだけ得だ。エゴイズムって素敵。
 以上のように、二つの立場が世間にはある。両者が議論すれば、決して結論は出ないだろう。それは、善悪とか正誤とかいうよりは、人生観の問題だからだ。私としても、どちらが正しいなどと、判定を下すつもりはない。

 (3) 私の立場
 私の立場は、どうか? それは、上の a , b のどちらとも異なる。上の二つは、どちらにしても、「現在世代が得をするので(それが良い or 悪い)」というものだが、私の立場は、「現在世代は、表面では得をするようだが、本質的には得をしていることにはならない」ということだ。
 こういうふうに示すと、「また南堂がへんてこりんな説を言い出した」と思われるかもしれない。しかし、これは、別におかしくはないのだ。以下で詳しく説明しよう。

 たしかに、「現在世代は得をして、将来世代は損をする」という事実は発生する。しかしそれは「現在世代にとって、自分が得をする」ということにはならないのだ。
 なぜか? それは、将来世代というのは、他人ではないからだ。将来世代ないし子孫というのは、他人ではないし、抽象的な存在でもない。それは、あなたの子孫なのだ。そして、あなたにがあるならば、あなたの子孫の損はあなたの損だ。
 経済学に「愛」というものを持ち出すのは、場違いに思えるかもしれない。しかしそれは非科学的な考え方である。経済というものは、抽象的な設備や機械や鉄や石油が動かすものではなくて、人間が動かすものであるからだ。経済というものは、あくまで人間的なものであり、そこには人間的な要素が作用する。とすれば、実際に存在する要素を無視することは、非科学的となる。
 「人間にとって一番大切なものは金だ」と経済学者は考えがちだ。しかし、たいていの人々は、そうは考えない。「人間にとって一番大切なものは愛だ」と考える人々が多い。とすれば、その一番大切なものを、考慮するべきだろう。
 世代間の問題も、同様だ。人は、金のために生きるのではなく、愛のために生きる。次世代の富を奪って自分の世代で得しようとするのではなく、次世代に対する愛のために生きる。わかりやすく言おう。あなたは金を稼ぐ。その金を、あなたは自分のためだけに使うのが一番得だが、そうはしない。あなたは稼いだ金を、自分のためだけでなく、家族のために使う。特に、自分の子供のために使う。つまり、次世代のために。
 たいていの人は、汗水垂らして稼いだ金を、自分の子供のためにたくさん費やす。食費などはたいしたことはないとしても、学費は多大になるだろう。自分の昼食費や小遣いを削ってまで、子供の教育費にかける人が多い。それが普通の人間のすることだ。
 そういうことだ。あなたは子供に富を与えようとするのであり、逆に、子供の富を奪おうとはしない。国債でもそうだ。あなたが金を使って、そのツケを次世代に送るということは、あなたが自分の子供の富を奪うということだ。そんなことをして、あなたは「得をした」と満足できるだろうか? もちろん、できまい。
 そういうことだ。先の a の意見は「道徳的に良くない」であり、b の意見は「自分さえ良ければそれでいい」であった。私は違う。ツケ回しをするべきではないのは、「他人にとって損だから」でもなく、「自分にとって得だから」でもなく、「自分の子孫にとって損だから」なのだ。そして、それは、金が理由ではなく、(子孫への)愛が理由なのだ。……自ら愛するものに対し、損をさせたくないゆえに、ツケ回しをするべきではないのだ。

 結局、人間というものは、祖父、父親、子、孫、ひ孫、……というふうに、脈々と続くものなのだから、世代間の損得などは、考えてもあまり意味がないのだ。あなたが得して、子供が損したとき、「自分が得した」などと思うべきではないのだ。
 本当を言えば、ここでは、いちいち損得を考えても仕方がない。あなたの損は子供にとっても損だし、子供の損はあなたにとっても損だ。「あなたが得して子供が損した」なら、「誰が得した、誰が損した」と考えるよりは、「合計してチャラだ」と考えるのが正当だろう。

 [ 付記 1 ]
 以上の説明に当てはまらない場合もある。それは、子供を残さず、遺産も残さず、全財産を使いきって死んでしまった老人だ。そういう人は、真に得をする。いわば、借金をして蕩尽して、借金を返済しないまま、ポックリ逝ってしまったようなものだ。借金を他人にツケ回しするわけだから、得をする。(負債を受け継ぐべき子孫がいないから。)
 しかし、である。彼が運良く長生きすればいいが、運悪く早死にすれば、彼は大損をするのだ。なぜなら、彼は、遺産を残しても、その遺産は引き継ぐ子孫がいないからだ。彼の遺産は、彼の子孫ではなく、他人(国家)に奪われる。
 結局、一番得するのは、子孫のいない人たちだが、一番損するのもまた、子孫のいない人たちなのだ。彼が得するか損するかは、彼が長生きするか早死にするかで、左右される。とすれば、マクロ的に国全体を見れば、そのような違いは無視してもいいだろう。
 というわけで、こういう例外的な場合については、考慮しなくていいわけだ。

 [ 付記 2 ]
 「愛ゆえにツケ回しをするべきではない」と述べた。
 これを逆に言えば、「愛がなければ、ツケ回しをしてもいい」ということになる。「自分の子孫など、知ったこっちゃない。あとは野となれ、山となれ。自分さえ良ければ、それでいいさ」というわけだ。
 しかし、本当にそう思うのであれば、人々は、国債発行なんかするより、自分の子供に愛をかけることをやめるだろう。自分の子供を捨てて、孤児院にでも放り出すだろう。……なぜなら、それが最も「経済的な」方法だからだ。子供に教育費をかけるのを止めれば、高級車を買ったり、海外旅行に何度も行ったり、美食をさんざん味わったり、相当豊かな生活ができるはずだ。子供なんか、さっさと捨てた方が得だ。
 ただ、これは、まんざら冗談でもないようだ。最近、少子化が進んでいる。これは実は、「産めない」のではなく、「産まない」せいであるようだ。「子供は一人でいい」というのは、「子供のために、今以上、余計な金をかけたくない」というわけだ。そういう経済的な理由で、少子化が進んでいるのであろう。……つまり、少子化とは、われわれの愛が失われつつあることの証明でもあるのだろう。(少なくとも、部分的には。)

 [ 付記 3 ]
 親の立場から見て、「子供への愛ゆえにツケ回しをするべきではない」と述べた。これを逆に言えば、子供の立場から見て、「親への愛ゆえにツケ回しを認める」とも言える。……なぜなら、子供の方が豊かであるからだ。一般的に、どの年代で親子を比較しても、親よりも子供の方が、はるかに裕福な生活をしているはずだ。
 たとえば、史上最悪の不況の今でさえ、現在の若者は、親が若者であったころよりもずっと裕福な生活を送っている。(親が若かったころに流行った歌は、「赤ちょうちん」。歌詞は「三畳一間の小さな下宿」など、いかにも貧乏たらしい生活。)
 もうちょっと具体的に示そう。20年前と比べると、名目物価は今の方が低い。たとえば、雑貨品や食料品は、円高で輸入したせいで、20年前よりもはるかに安価になっている。だいたい半分の値段だ。耐久消費財も同様だ。自動車は同じ価格で性能が3割ぐらい上がっているし、電器製品はたいてい7割安ぐらいだし、パソコンは9割安かつ性能 100倍だ。それでいて名目所得は2倍だ。つまり、実質的に、4倍ぐらい豊かになっている。
 20年前との比較というのは、間に高度成長期を含んでいない。それでいて、4倍ぐらい豊かになれるのだ。とすれば、今後も、それに近い数値は見込めそうだ。今の若者が親になったとき、その子供は、4倍とは行かなくても、2倍ぐらいは豊かな生活を送れるだろう。
 とすれば、「子供の世代が親の世代にプレゼントする」ということが、多少はあっても、さして問題ではないわけだ。
( ※ とはいっても、それも程度問題である。やりすぎるのは、もちろん問題だ。)


● ニュースと感想  (4月07日)

 量的緩和のデータ。(朝日・朝刊・オピニオン面・コラム 2002-04-05 )
 「流動性の罠」と関連する、数値的なデータがあるので、メモしておく。
 さて。私見では、ざっと見て、量的緩和は明らかにやりすぎであり、正当な額の2倍〜3倍になっている。ここでインフレ期待が発生すると、物価は現在の2倍〜3倍になってもおかしくない。
 ま、そうなるとは断言できないが、年率換算 30%程度の物価上昇なら、十分に起こりそうだ。つまり、石油ショック直後の狂乱物価の水準だ。(下手をすると、年率 100% も、十分ありそう。)
 このような状態では、インフレ政策を取らない方が好ましい、と私は思う。当面、デフレを継続させた方が、まだマシだ。インフレ政策を取るとしたら、まず、その前に、過剰な資金を回収しておくべきだろう。「年率 100% の物価上昇」なんて、考えただけで、うんざりだ。


● ニュースと感想  (4月07日b)

 前日分( 4月06日 )に関連した余談。経済学における「」の話。
 経済学に「愛」なんてものを持ち出すと、「変なことを言うなあ」と思うかもしれない。しかし、これは非常に重要なことなのだ。ここを理解しないと、根本的に間違う。── その例が、最近の「相続税」や「生前贈与」論議だ。
 「高齢者は貯蓄して、消費性向が低いが、若者は消費性向が高い。だから、高齢者の金を若者が使えば、景気が良くなる。相続税を減免し、生前贈与を優遇しよう」
 という理屈だ。なるほど、いかにも経済学的な考え方である。しかし、これは、まったく間違っている。なぜなら、そこには「愛」が欠けているからだ。

 そもそも、「高齢の親の金を奪って、子供が使えばいい」なんてのは、まったく愛の欠けた人非人の発想である。私だったら、「自分の金を、高齢の親に与えよう」という考えはあっても、「高齢の親の金を奪って、自分で消費しよう」なんていう発想は微塵も湧かない。私の親も、貯蓄はたっぷりあるが、それとこれとは別問題だ。親にどんなに貯蓄があろうと、親にとってはそれは「安心」なのだから、使わない金がいくら増えていてもいい。
 道徳論だけではない。経済学的にもそうだ。だいたい、高齢者が消費しないで、貯蓄をたっぷりしていても、それは全然悪いことではない。なぜか? 経済学の基本は、「貯蓄 = 投資」だ。つまり、高齢者が消費しないで貯蓄をすれば、その金は、銀行を通じて、企業の投資に向かう。 (デフレでなければそれが成立する。) だから、消費しないで貯蓄することは、全然悪いことではないのだ。それは当たり前のことだし、それを生かすための経済的なシステムも構築されている。……そこを理解しない半可通の経済素人が、「親が使わないなら、おれが使ってやる」と言い出すわけだ。(通常、こういうのは、「どら息子」「放蕩息子」と呼ばれる。)

 文学でも、この問題は、大きな話題となっている。人類史上の最高傑作とも称される「リア王」がそうだ。そこでは、王が退位して、その財産を娘に生前贈与する。(まさしく経済学者の狙い通りだ。) で、どうなったか? 口先のうまい娘たちは、自分がいかに親孝行であるかを言葉も巧みに語ったが、それを信じて生前贈与した王は、無一文になったとたん、荒野に放り出された。「面倒を見てくれると言ったじゃないか」と王は娘を頼ったが、娘は掌を返したように、「子供の世話になるな」と言って、王を城から閉め出した。「何たることか」と王は嘆いたが、「そんな甘いことを信じるのは、王と阿呆だけだ」と道化に冷やかされる始末。王は、雨と風に打たれて、発狂した。
 これを読んだ読者は、「馬鹿な王だ」と呆れる。しかし、である。この馬鹿なことを推奨するのが、現在の「相続税減税」論だ。「親は子供を信じて、財産を子供に生前贈与すべし」と言い立て、「子は親の財産を奪って使い果たしてしまえ」と言い立てる。……まったく、「リア王」の悪徳娘みたいな発想だ。それが経済学というものらしい。

 [ 付記 ]
 「相続は1件あたりの金額が大きいから景気に効果的だ」という説がある。しかし、相続というものが発生するには、人が死ななくてはならない。国民の1%が毎年死ぬとして、1%だけが対象だ。国民全体を対象とした景気回復効果を発現させるには、日本中の高齢者にただちに死んでもらわなくてはならない。
 こうなると、もう、「リア王」の世界を脱して、「遺産目的」の殺人ミステリの領域になる。「親を荒野に放り出す」ではなく、「親殺し」だ。
 まったく、「相続税の減税で景気回復」なんて唱える人たちは、とんでもない神経構造の集団だ。「金が大事だ。金を使えば景気が良くなる」と、それだけを考えていて、それ以外の人間性を失ってしまうのである。人間の皮をかぶった鬼畜だ。
 だからこそ、私は「愛が大事だ」と唱えるわけだ。それが物事の核心なのだ。表面的なそろばん勘定だけにとらわれて、「金がすべて」なんて見なす発想は、いかにも経済学的に見えるが、頭の構造が根本的に狂っている。
( ※ 今の日本はイカレているから、リア王の娘が今の日本にいたら、計算上手な経済学者と見なされるかもしれない。同じ穴のムジナ。)

 [ 補足 ]
 頭の悪い経済学者のために補足しておく。
 減税をする財源は一定である。相続税の減税をすれば、その分、所得税・消費税などの減税が減る。そして、相続税というのは、減税対象としては、最も効率が悪い。得た金のほとんどは、貯蓄にまわる。(残りの人生で、毎年少しずつ消費するために。) つまり、消費性向は、非常に低い。他の減税と比べると、雲泥の差だ。
 ま、増えるものがあるとすれば、消費ではなくて、親に対する「早く死ね」という声だけだろう。


● ニュースと感想  (4月08日)

 前々日分( 4月06日 )のつづき。「使途問題」について述べる。

 「将来世代にツケ回しをするべきではない」と先に述べた。しかし、これはあくまで、原則論である。現実には、この原則は当てはまらない場合がある。それは、「投資効果」がある場合だ。
 「投資効果」とは何か? 「借金をして、何かに金を使う(投資する)と、より多くの富が生み出される」という効果だ。通常、企業がそういう投資をなす。一方、国がそういう投資をすることもある。それは、「インフラ整備」などだ。
 インフラが未整備のときに、国が公共事業でインフラを整備すると、使った金以上の効果が社会的にもたらされる。つまり、「投資効果」がある。ここでは、「将来世代にツケ回しをするべきではない」という先の原則が成立しない。なぜなら、将来世代も、その恩恵を受けるからだ。(現在世代が、現在の恩恵をすべて使い果たしてしまうわけではないから、「ツケ回し」ということにはならない。)
 このことを、いくらか考察してみよう。

 前々日分( 4月06日 )では、「世代問題」として、「短・中期/長期/超長期」という区別をした。そこで記したことを要約しよう。
 以上では、期間別に考えた。これを、「使途別」に考えよう。「使途問題」である。
 使途は、(1) 減税 (2) 公共投資 の二つがある。順に述べよう。

 (1) 減税
 減税は、「短・中期」的に償還するのであれば、特に問題はない。ただし、「長期」で償還するのならば、世代間の「ツケ回し」が発生するので、好ましくない。( 前々日分の 4月06日 で述べたとおり。)
 この意味で、「国債で減税するべきではない」という理屈は、たしかに成立するのだ。財務省あたりが、「減税なんかけしからん。金をばらまいたりするのは、財政規律をゆるがし、とんでもないことだ」と言い張るのは、たしかに、正当性があるのである。
 ただし、である。財務省あたりは気づいていないようだが、その説が成立するには、前提がある。次のことだ。
  (a) 国債が民間引き受けであること。
  (b) 償還が長期であること。
 この2点だ。 (a) は、民間引き受けだと、国民間に強制的な借金を生み出すからである。 (b) は、償還が長期だと、世代間のツケ回しを生み出すからである。
 さて。通常の国債は、上記の2点を満たす。だから、通常の国債を用いる限りは、「国債で減税をしてはいけない」と言えるわけだ。(将来世代にツケ回しすることになるからだ。)
 しかし、である。逆に見れば、この2点がなければ、「国債で減税をしてはいけない」と言えないわけだ。(将来世代にツケ回しせず、現在世代で負債を返済するからだ。)
 特に、(b) が成立しないと、「民間引き受けの短期償還」となる。これは、先に述べた通りだ。(この件については、翌々日以降でまた述べる。)
 また、(a) (b) がともに成立しないと、「タンク法」となる。これは、問題はまったくないし、むしろ、好ましい。(この件については、タンク法のところで述べた。 → 2月22日 以降 )

 (2) 公共投資
 有益なインフラ整備に長期国債を使うのは、特に問題ない。このことは、先に述べたとおりだ。ただ、もう少し、詳しく考えてみよう。
 「償還期間」および「民間引き受け」の2点が問題となる。

 (a) 償還期間
 償還期間は、通常、長期である。短期で償還されることは、まずない。「長い期間の効用があるのだから、長い期間で償還すればいい」というわけだ。これが「建設国債」の考え方だ。
 しかし、よく考えてみよう。この種の国債が問題ないとしたら、その受益者と負担者とが同じ期間でなくてはならない。さもなくば、やはり、世代問のツケ回しが発生してしまう。
 現実には、どうか? 建設国債は、10年ごとに6分の1ずつ償還し、60年で全部償還する。しかるに、現実には、インフラの効用が 60年間も続くことは、ごく稀だ。コンクリートというものは、30年 〜 40年程度の耐用年数しかないのが普通だ。となると、ここには問題がある。
 では、どうすればいいか? 耐用年数に応じて、償還するのがいいだろう。道路でいえば、「用地購入費」は「超長期」でもいいが、「道路建設費」は 30年ぐらいで償還するべきだ。他の建設物も同様である。(厳密には、事業ごとに、償還期間を定めるべきだろう。)
 先日、道路公団の借入金の償還期間が話題になった。実は、これはかなり大切なことだと言える。償還期間というのは、けっこう大切なことなのだ。今の「一律 60年償還」というのは、財政規律を逸している、とも言える。「建設国債ならば、問題ない」というのは、とんでもない勘違いである。それは「将来世代のツケ回し」を発生させる。
 そして、もう一つ。事業の効用は、事業完成の直後から発生するのだから、国債の償還もまた、事業完成の直後から開始するべきなのだ。道路ならば、完成したときから利用が発生して、効用を得るのだから、そのときから償還を開始するべきなのだ。(民間の投資事業と同じ。) 「10年目から」という現在の方針は、遅すぎる。それは「将来世代へのツケ回し」を発生させる。


 (b) 民間引き受け
 公共投資のための国債を、民間引き受けで発行することは、問題があるだろうか?
 先に述べたとおり、「民間引き受けの国債」というのは、「国民間の強制的な借金」である。では、これは、良いのか悪いのか? (日銀引き受けとの比較)
 実は、先に結論を言うと、これは「良い」のである。だから、「国債は、日銀引き受けではなく、民間引き受けにするべきだ」という、財務省あたりの説は、たしかに正当なのである。
 ただし、である。財務省あたりは気づいていないようだが、その説が成立するには、前提がある。「使途が、減税ではなく、公共投資であること」だ。
 公共投資に支出する場合に限っては、日銀引き受けではなくて、民間引き受けの方が好ましいのである。つまり、「国民間で強制的に借金させること」の方が好ましいのである。
 では、なぜか? 「民間引き受け」と「日銀引き受け」との差は、「債権者(国債購入者)が、金を出すか否か」にある。民間引き受けの場合は、債権者が金を出す。つまり、彼が自らの欲望を抑えて、支出(消費)をしない。その分、政府が支出するわけだ。
 このようにすれば、一般の国民は、特に損をしない。債権者が、たんまりある金で、ベンツを買ったり、ゴルフや酒場で放蕩するかわりに、国債を買う。その金で、政府は有益なインフラを整備する。……こういうのは、一国全体を見れば、好ましいことだ。それが「民間引き受けの国債による公共投資」である。
 一方、「日銀引き受けの国債による公共投資」では、どうか? 国民は誰も消費を抑制しない。そこに、政府の追加支出が加わる。となると、当然、その分、インフレが発生する。インフレとは、貨幣価値の低下であるから、国民は、その分、損をする。
 わかりやすく示そう。今、政府が道路建設費をひねり出すとする。第1に、民間引き受けの国債であれば、債権者が無駄づかいするのを我慢した金を使って、政府が支出する。他の人々は、特に影響を受けない。単に「道路建設」という恩恵を受ける。その恩恵の分の負債を、長い期間をかけて、少しずつ償還する。第2に、日銀引き受けの国債であれば、インフレが発生するので、その分、国民全体が損をする。国民全体が「道路建設」という恩恵を受けるが、その一方で、国民全体が「道路建設費の支払い」という支出もすることになる。これでは、単なる増税と同じことである。つまり、借金をしたことにはならず、「投資」にならない。
 「インフラ整備」というのは、投資であるべきなのだ。金がないから、金を借りて、社会資本を整備する。しかし、今すぐ、生活水準を落としたくはない。そういうふうに、「借金で投資する」という形を取るべきものなのだ。
 たとえば、昔の日本など、途上国では、世銀から金を借りたり、先進国から金を借りたりして、インフラを整備する。これは「投資」なのである。将来、豊かになるから、今のうちに金を借りるわけだ。そして、その恩恵を、現在世代と将来世代で、ともに負担を分かちあうわけだ。……もしそれがイヤなら、現在世代だけが「増税」で一方的に支払うことになる。貧しいのに、食糧もろくに取らず、病気になっても治療を受けず、ろくに教育も受けず、とことん金を削って、道路を作る。そして、現在世代が死んだあとで、道路が残るが、その道路を、将来世代が無料で利用する。……こういうのは、不当だろう。だからこそ、「投資効果」のあるものは、「借金」で行なうべきなのだ。それゆえ、「インフレ」=「増税効果」となる「日銀引き受け」ではなくて、「民間引き受け」で行なうべきなのだ。
 これが原則となる。(公共投資については。)

( ※ 関連する話題は、また明日。)


● ニュースと感想  (4月09日)

 前日分( 4月08日 )の補説として、次の4点を述べておこう。

 [ 補説 1 ]
 公共投資の種類について。
 公共投資は、「インフラ整備」だけではない。つまり、業界で言えば、建設業だけが、使途の対象とはならない。他の分野もある。
 では、どんな? 「投資効果」があるものは、すべてこの範疇に入る。要するに、「建物などの具体物だけ」というわけではなく、「目に見えないもの」でもいい。投資効果」さえあれば。── その際たるものは、「教育」であろう。義務教育には、使った金ぐらいの投資効果はある。その他、学術研究費なども、「投資効果」はあるだろう。
 ただし、である。「投資効果」があるといっても、「かけた金に見合うか」どうかは、また別問題である。それが「投資効率」の問題だ。義務教育ならばともかく、大学教育だと、多大なコストがかかるわりには、成果はあまりないようだ。特に、理系ならともかく、文系だと、「かけた金のほとんどが無駄」ということも、けっこうありそうだ。「図書館だけ一つ用意しておいて、あとは学生たちに自分で学ばせる」という、最小のコストをかける場合と比べて、「自主休講」の多い今の大学教育が、どれだけの効果を上げていることやら。……(ただし、まあ、大学には、「教育」だけでなく、「研究」の分もあるから、一概には言えないが。)
 なお、この「投資効率」という点は、公共事業でも、重視すべき点だ。本四架橋とか、北海道の空っぽの高速道路などは、投資効率が非常に低い。これは、「公共投資」ではなくて、「建設分野の消費」にすぎない。「穴を掘って埋める」というわけだ。有益なものは何も残らず、あとに残るのは、借金の山だけ。「将来世代へのツケ回し」である。
 だからこそ、「投資効率」を重視すべきなのだ。「公共事業であれば何でもいい」というわけではないし、また、「公共事業であれば何でも悪い」というわけでもない。「投資効率」しだいなのだ。
( ※ ケインズ派は、「乗数効果」を重視する。これは、「公共事業を消費と見なす」わけだ。それはつまりは、公共事業を食い物にしようという発想である。公共事業は、消費ではなく、投資である。だからこそ、「乗数効果」なんかはほとんど無視してよく、「投資効率」を重視するべきなのだ。 → 第3章 「投資効率」と「経済波及効果」

 [ 補説 2 ]
 国債残高との関連を示そう。
 今の日本には、巨額の国債残高がある。しかし、これは、必ずしも問題ではないわけだ。戦争直後の日本は、貧しかったが、インフラを整備することで、経済を成長させた。その恩恵は、たしかに、あとの世代に及んだわけだから、あとの世代が負担するのは悪くはない。経済を成長させる効果があったわけだから、「投資効率」が高かったことになる。
 ただし、である。戦争直後とか、高度成長期ならともかく、そのあと(石油ショック以降)では、経済の成長率もあまり高くない。「投資効率」の高い公共事業は、ほとんどなくなってきている。こうなると、「公共投資をして、将来世代にツケ回し」というのは、あまり好ましくないわけだ。まして、「投資効率の非常に低い公共事業」なんてのは、論外である。(例:本四架橋 ,関西空港 ,東京湾横断道路 ,有明海埋め立て)
 国債残高について言えば、高度成長期以前の分は正当だが、それ以後に急増した分は、かなりの部分が問題である。

 [ 補説 3 ]
 「公共事業に、日銀引き受けの国債を用いるのは、ダメだ。なぜなら、インフレをもたらす効果があるから」と述べた。
 では、デフレのときは、どうだろうか? デフレのときなら、インフレをもたらす効果があっても、かえって好ましいから、「日銀引き受けの国債」で、公共事業をやってもいいだろうか? 
 一見、それでいいように思える。たいていの経済学者は、そう考えるだろう。しかし、物事の本質を考えよう。本質的には、どうか? ── デフレであれ何であれ、公共事業をすることで、政府が国民の富の一部を奪う、ということには変わりはないのだ。そのとき、「生産設備が遊休しているから、それを使う」というのが、よくある説だ。なるほど、それによって景気回復効果はある。しかし、しょせんは、その分の富を、政府が奪っていることになる。その点は、変わりはない。
 日銀引き受けで国債を発行するにしても、「減税をする」ならば、その金を国民が使うので、国民が豊かさを実感する。 一方、「公共事業に使う」のならば、その金を政府が使うので、国民は豊かさを実感できない。……両者の差は、具体的には、こうだ。国民にとって、「自分の手にパソコンや電器製品が残るか」それとも「自分の行かない田舎に、タヌキのための高速道路ができるか」かだ。使う金額は同じでも、何が残るかが異なる。
 「デフレのときに政府が公共事業をしても、インフレが発生しない(所得が奪われない)」という説は、ある意味では、正しい。たしかに、物価は上昇しないから、手元の金が奪われたという実感はない。ただし、である。国が公共事業に金を使えば、その分、経済は拡大する。あなたの労働時間は、その分、増える。にもかかわらず、あなたの所得は増えないのだ。デフレのときに生じるはずの「物価下落」=「貨幣価値の向上」の効果を失うからだ。
 結局、「デフレのときの、日銀引き受けの国債による公共事業」は、金を奪われるかわりに、労働時間を奪われるのである。つまりは、タダ働きすることになる。そして、それは、形式的に「所得の損失」ではないが、実質的には、「所得の損失」と同じことなのだ。(タダ働きするから。)
 そして、これは、本質的に言って、当然のことなのだ。「日銀引き受け」というのは、しょせんは、国民全体が払うのと同じことである。国民全体が払って、国民全体が公共事業の分の仕事を得る。つまり、自分で費用を払って、自分で売上げを得て、何らかの仕事をするわけだ。それはつまり、タダ働きをしているのと同じである。
 さて、この「タダ働き」は、良いか悪いか? それ自体では、良いとも悪いとも言えない。たとえ無料奉仕の仕事であろうと、「洪水による堤防決壊を防ぐため、村の衆でそろって、勤労奉仕をしよう」というのと、同じようなものだ。タダで労働をするが、その成果もタダで得る。だから、問題は、「タダ働き」自体にあるのではなくて、「タダ働き」によって何が生まれたかということにある。それが「洪水防止」であれば、人々は「タダ働き」に満足する。それが「穴を掘って埋めること」やら、「タヌキのための高速道路」やら、「有明海の環境破壊」やらであれば、「タダ働き」はまったくの無駄となり、人々は不満となる。
 結局、公共投資は、それ自体に良し悪しがあるのではなくて、その効果がどれだけあるかによって、個別に良し悪しが決まるわけだ。

 [ 補説 4 ]
 前項に関連して、補足しておこう。公共事業は、実を言うと、「タダ働き」よりも、悪い点がある。それは、「売上げがそっくりそのまま、所得になるわけではない」という点だ。
 国が千億円の借金をして、千億円の公共事業をしたとする。「国が千億円の借金をしても、その千億円は国民の仕事となって戻ってくるから、国民は損ではない」と考える人がいる。しかし、そうではないのだ。
 千億円の公共事業をしたとき、仕事は千億円だが、その金は、国民ではなく、会社に売上げとして入る。会社はその金を、7割ぐらいは原材料費などのコストとして費やし、残りの3割ぐらいを人件費として従業員に払う。千億円がまるまる、国民の手に入るわけではないのだ。
 つまり、減税ならば、国民は千億円の借金をして、千億円の現金を得るが、公共事業だと、国民は千億円の借金をして、千億円分の成果(インフラ)を得て、3百億円ぐらいの所得を得る。「だったら千億円の借金と千億円の成果がチャラになって、残りの3百億円の所得が増える分だけ得だ」と思うかもしれない。しかし、さにあらず。「3百億円の所得がある」と同時に、「3百億円分の労働もある」のである。減税ならば、タダで金が手に入るが、公共事業では、働いて金を得るのだ。それではちっとも儲けたことにはならない。結局、公共事業では、国民に残るのは、金ではなくて、インフラ(建物)だけなのである。公共事業で仕事が増えて、金が入るので、得をするように感じられても、実際は、「労働して所得を得る」だけだから、1円も得したことにはならないのだ。(それでも、千億円分の借金だけは残る。)
 本質的に言って、千億円の無駄づかいをすれば、千億円の損が発生するのだ。「デフレのときには金を使おう、どうせ政府が払ってくれるさ」などと思っていると、将来、景気が回復したとき、物価上昇または増税という形で、そのコストを払う必要に迫られる。そのときになって「物価上昇はイヤだ」と言っても、デフレのときに無駄づかいした分は、あとで必ず支払う必要に迫られるのだ。── 「デフレのときに公共事業で無駄づかいして得しよう」という発想は、サラ金で借りる愚か者と同様である。「どうせ金を返すのは、将来のことさ。将来のことなんか、知ったこっちゃないね。今さえ良ければ、それでいいんだ」と思って、サラ金から金を借りる。しかし、今はそれで良くとも、将来、ツケ払いを迫られるのである。怖い顔した債権取り立て屋がやってくるのだ。 [ 彼の名は「物価上昇」または「増税」だ。]

( ※ 人件費の占める割合について、補足しておこう。── 上では、「3割」と概算した。ただし、詳しく言うと、残りの7割にも人件費が3割ぐらいあり、そのまた残りの7割にも人件費が3割……というふうに考えると、乗数効果のようなものがある。ただし、ここでは、それをひっくるめて、3割と見なしている。実際には、企業の売上げのうち、人件費の占める率は、3割にもならないことが多い。サービス業では、大半が人件費となるが、自動車・電器などの産業では、人件費は5%程度だ、というデータがある。ま、機械化やロボット化が進んでいるから、これは当然だろう。)

 《 結語 》
 本項で述べたことを、簡単に要約すれば、どうなるか? 
 それは、「公共事業には、コストがかかる」ということだ。コストがかかる。だから、その「投資効果」は十分必要だし、また、その「借金」はあとで支払う必要がある。(国債の償還。)
 つまり、ケインズ流に、目先の「経済効果」などにとらわれるべきではないのだ。それは、コストを無視した話であり、「金は空から降ってくる」という考え方である。そんな考え方が成立するなら、日本人は、自動車もパソコンも、あらゆる民間の生産活動をやめて、かわりに毎日、穴を掘って埋めていればいいのだ。それで景気は回復するし、失業者もいなくなる。だからケインズ派は「大成功」と叫ぶだろう。しかし、何一つ生産しないから、何一つ得られない。最後に飢え死にするだろうが、そのとき、穴は墓穴として役立つかもしれない。それだけが唯一の効用だ。
( ※ 「少しは効果があるぞ」という声もあるが、少しではダメなのだ。あとで借金を支払うのだから。結局、投資効率は1以上であることが必要。つまり、コストに見合う効果が必要。)

cf. 同趣旨の話は、次も参照。 → 4月02日
cf. 公共投資における損得については、次も参照。 → 2月13日


● ニュースと感想  (4月10日)

 前日の話題に関連して、公共事業の話を、少し追加しておこう。
( ※ 国債の話とは関係ない。国債の話は、本日は一休み。)

 (1) 地方振興
 「公共事業は、地方振興のために必要だ」
 という説がある。しかし、これは勘違いだ。地方振興と、公共事業とは、何の関係もない。実際には、公共事業は地方に多く配分されてきた。しかしそれは、自民党の利権政治の都合であって、経済政策とは何の関係もない。
 地方振興のためには、公共事業をする必要は全くない。単に、地方に重点配分すればよい。つまり、あらかじめ地方団体ごとに、総枠を与えておく。その総枠内で、公共事業にするか他の使途にするかは、自由にさせればいい。
 たとえば、島根県民と佐賀県民に、ともに一人あたり 100万円を配分する。島根県民が金を公共事業に使いたければ、そうすればよい。佐賀県民が金を減税(バラマキ)に使いたければ、そうすればよい。島根県民は、会社に 100万円分の仕事が入り、労働者は 30万円分の仕事をして、30万円の収入を得る。佐賀県民は、何もしないで遊んで、100万円の金を得る。……どちらがいいかは、県に任せるべきだろう。
( ※ 私だったら、遊んで金をもらえる県に移住する。)

 (2) 乗数効果
 「乗数効果は減税よりも公共事業の方が高い」
 という説がある。しかし、これは間違いである。( ※ 乗数効果というのは、使った金の何倍の経済効果を生むか、という倍率のこと。)
 公共事業の乗数効果は、どのくらいか? これは、政府が調査して推計している。3年の合計値で、 2.1 ぐらいである。(昔は 2.7 ぐらいあったが、最近は小さい。なお、データは、インターネットで「乗数効果」を検索すれば、簡単に入手できる。)
 さて、減税の乗数効果は、どのくらいか? 実は、ちゃんとしたデータがない。減税というものは、そう何回もやるわけではないから、実証データがない、ということもある。しかし、本質的に、データは得られないのだ。なぜなら、一定の値にならないからだ。そのことは、次のように示せる。
 今、小額の減税を実行したとする。不況のときであれば、「タナボタ」のハシタ金を無駄に使う気にはなれないから、貯蓄する。つまり、限界消費性向がゼロであり、乗数は 0 に近い。(「地域振興券」がその例。)
 一方、私の主張する「中和政策」(景気回復がなされるまで無制限に減税を実行する)であれば、必ず、景気は回復する。つまり、平均消費性向が、0.7 から 0.9 ぐらいまで上がる。これをモデル的に計算してみよう。1世帯の年収が 500万円だと仮定すると、平均消費性向が 0.2 上がるので、消費は 100万円増える。これが3年間で、300万円。減税が1世帯あたり 50万円だったとすれば、 (300万円÷50万円)= 6 だから、乗数は 6 となる。(厳密には、賃上げによる所得増と、減税による所得増との、双方の所得増による消費増の分もある。だから、乗数は、6 ではなくて、7を少し上回る値となる。)
 つまり、減税は、景気回復効果が出れば、乗数が7ぐらいになるわけだ。公共事業よりも、はるかに乗数は高い。
 ついでに言えば、「小額の減税で景気回復」というのは、あまりにも甘い夢である。地域振興券は、7000億円で、1世帯あたり2万円以下。これで、前述と同じ景気回復効果が出れば、乗数は 200弱 となる。 200弱 ! そんな馬鹿でかい乗数など、ありえるはずがない。「地域振興券は景気回復効果がなかった」という説は、「地域振興券に乗数 200 を期待したのだが、そうならなかった」というようなものだ。無謀な夢など、しょせん、実現するはずがないし、そんな無謀な夢は、あぶくのごとく消えて当然なのだ。
( ※ もうちょっとわかりやすく言おう。国民に 100円ずつ配っても、景気回復効果などはゼロである。そんなハシタ金など、無視される。当然だ。小額の減税も同様だ。減税が景気回復効果をもつには、ある程度のまとまった金額が必要なのだ。)

 (3) 分野
 ケインズ流の政策を取るにしても、政府支出が公共事業である必要は、まったくない。つまり、使途となる産業が「建設業」に限定される必要はまったくない。
 前日にも述べたが、使途は、建築物ではなく、教育のためであってもいい。ハードだだけでなく、ソフトも含めていい。むしろ、その方がいいのだ。そもそも、不況というのは、建設業だけが縮小したのではなく、全産業が縮小したのだから、全産業に渡る使途の方がいいわけだ。
 「未来開発型の公共事業」なんていう提案もあるが、これも、建設業(など)に話が限られているのが難点だ。使途はもっと、全分野にひろげるべきだろう。
 たとえば、業界では、工業、農業、商業、サービス業、など。使途では、教育・芸術・福祉・公共サービス……など。(ただし、それを徹底すれば、減税と似てくる。)

 [ 付記 ]
 私の個人的な見解を述べよう。政府資金の使途として、お勧めすべき分野がある。高等教育(高校・大学)だ。ここに、政府資金をつぎ込むべきだ、と思う。理由は、本日別項。「少子化」の項。


● ニュースと感想  (4月10日b)

 少子化と不況について。
 「少子化のせいで不況になった」という説もある。しかし、私は、あまり賛成できない。むしろ、「教育費に金がかかるから」だと思う。日本の大学教育は、やたらと授業料がかかり、一方で、奨学金は先進国で最低だ。こんな状態では、人々は、消費をやめて、貯蓄しがちである。
 「子供が多いと、教育費が大変だ。だから、産む子供の数は、一人だけにして、コストを抑えよう」と思うわけだ。つまり、教育費が高いせいで、少子化と貯蓄率向上(消費縮小)とが、同時に発生するわけだ。
 外国とも比較してみよう。外国でも少子化はいくらか進んでいるが、外国の貯蓄率が高いわけではない。一方、高等教育費が馬鹿高いのは、日本だけであり、しかも、ここ 20年ぐらいのことだ。この時期と、日本で少子化が進んだ時期とが、ほぼ一致する。
 結局、「少子化だから不況になった」のではなくて、「政府が人々を不安にさせたから、少子化と貯蓄率向上が、同時に発生した」のである。少子化自体は、根本原因ではなく、少子化と貯蓄率向上をもたらすような、政府の経済政策があったわけだ。
 つまり、不況になったのは、「政府が間違った経済政策をして、人々を不安にさせたから」なのである。「国民男子の精力が衰えたから」ではないのだ。「愛の営みの回数が減ったから不況になった」というのは、ちょっと信じがたい。

( ※ なお、80年代も、少子・高齢化は進みつつあったが、このとき発生したのは、不況ではなく、バブルであった。)
( ※ 少子化の原因としては、女性の雇用環境が悪いこともあるだろう。残業は長いし、産休は取れないし、休めば出世できないし、……少子化・晩婚化は、女性の目から見れば、必然と言えよう。とにかく、政府の経済政策・労働政策のせい。夫の愛が足りないからではない。)


● ニュースと感想  (4月10日c)

 アルゼンチン情報。(読売・朝刊・経済面 2002-04-09 )
 1ドル=3.8ペソ という、通貨大暴落。(私の記憶では以前は 1ドル=1ペソ 近辺だったはず。うろ覚えだが)。 で、金融規制をしたので、当面は 1ドル=2ペソ で小康を保っているが、放置すれば大暴落するだろう、という見込み。3月のインフレは前月比で4%の物価上昇。(年間では、毎月4%の物価上昇が 12回続くと仮定すると、 12倍になるのではなく、累乗効果が出る。)
 さて、である。これほどのインフレだから、景気は急速に回復しただろうか? 失業率は急速に低下しただろうか? いや。同記事によると、失業率は、毎月2〜3%も急上昇し、今や 25% である。まもなく 30% を突破しそうだ、と予測されている。(金融引き締めのせいだが、金融引き締めをやめれば、物価上昇率はさらに数倍になるだろう。)
 これが現実だ。「通貨安は(普通の)インフレをもたらす」のではなく、「通貨安はスタグフレーションをもたらす」のだ。

( ※ この件、何度も主張したとおり。 : 「円安でスタグフレーション」
    → 9月29日11月07日12月15日12月27日 )

 [ 付記 ]
 では、なぜ?
 通貨安とは、基本的には、「富が外国に流出すること」だから、損をして当然なのだ。国の帳簿はきれいになるが、その分、国民の生活は苦しくなる。
 これは、「増税すれば、国の帳簿はきれいになるが、国民の生活は苦しくなる」というのに似ている。だから、「円安万能論者」と「財政健全論者」とは、けっこう似ている。「経済の数字をきれいにしよう。国民の生活なんか破壊されてもいい」というわけだ。


● ニュースと感想  (4月11日)

 「高齢化」について。
 「少子化・高齢化が、消費性向の低下をもたらし、不況の原因となる」という説がある。このうち、「少子化」については、前々項で、否定的な見解を示した。一方、本日は、「高齢化」についても、否定的な見解を示そう。つまり、「高齢化は、不況の原因とはならない」と主張する。

 「高齢化が不況の原因となる」というのは、「高齢者は貯蓄に頼って生きるから、社会全体で貯蓄率が高くなる。つまり、貯蓄が増えて、消費が減る。だから不況になる」というシナリオだ。「少子化が不況の原因となる」というのも同様で、「勤労世代が減り、高齢世代が増えるから、同様の理由で、社会全体の貯蓄率が上がる」というわけだ。
 これは、ある意味では、正しい。勤労世代は、老後のためにせっせと貯蓄をする。高齢世代は、先が不安だから、貯蓄をあまり取り崩さない。だから「消費が減る」というのは、正しい。
 しかし、である。これは、不況の原因とはならないはずだ。なぜか? 一国だけでなくて、開放経済系を考えるべきだからだ。
 本質的に考えよう。少子・高齢化の進む国では、貯蓄率が高まる。では、その金を、どうするか? 原理的には、外国に投資するはずだ。自国では金が余っているから、金の足りない途上国に貸す。高齢者の多い先進国から、若手の多い途上国に貸す。低成長の国から、高成長の国に貸す。……これが、当然だ。
 ここでは、資本の流出が発生する。国際会計の原則から、「資本の流出」=「貿易黒字の発生」である。(資本の流出が進むと、その分、円安となり、その結果、貿易黒字が発生する。) つまり、日本は外国に金を貸し、同時に、外国は日本から借りた金で、日本の品物を買う。……こうして、帳尻は合う。
 この結果、どうなるか? 日本の高齢者は、金を貯蓄し、外国に貸す。外国は、その金で、日本の品物を買う。日本の勤労者は、その分、生産活動をする。……だから、日本の現在の生産活動は、ちっとも減らないわけだ。つまり、いくら高齢者が貯蓄をしても、その貯蓄は、無駄にはならず、外国に貸すことで、外国の人々が日本製品を購入するから、日本は別に生産は減らないわけだ。(内需は減っても、外需が増えるわけ。総需要は変わらない。)

 となると、問題は、「資本の流出」が進むか否かだ。日本は「貯蓄過剰・消費過小」なのだから、その分、「資本の流出」(外国への資本投資)が起こって当然なのだ。それが起これば、円安となり、貿易黒字が拡大し、「消費過小」という問題は生じないはずだ。……そして、長期的には、たしかにそうなっているはずなのだ。為替相場は、うまく適切なところで調和するはずだからだ。
 だから、結局、長期的に見れば、「高齢化(による貯蓄率向上)」は、少しも問題ではないわけだ。

 残る問題は、次の二つだ。
  (1) 現実には、なぜ今、不況となるか?
  (2) なぜ、資本流出(円安)が、もっと進まないのか?
 その解答は、次のとおり。

 (1) 現在の不況は、長期的な要因が理由ではなく、「需要の縮小」という短期的な要因が理由である。後者の要素が大きい。前者の要素は小さい。(というか、前者の要素は、先の理由で外需によって帳消しになるから、無視してよい。)
 (2) 資本流出には、為替リスクがともなう。今は不況だ。不況期には、短期的な要因で、過度に円安になる。つまり、長期的に見れば、あとで円高が進む。今すぐ資本流出をすれば、将来の円高により、為替差損が発生する。(例:今は 130円払って1ドルを得て、将来は1ドルを払って 100円を得る。差し引き、30円の為替差損。)……だから、不況期には、資本流出は抑制されるのだ。(歴史的に見ても、資本流出が過剰に発生したのは、円高のときだ。)

 結語。
 現在の不況は、「高齢化」という長期的な要素に原因があるのではなく、「消費の縮小」という短期的な要素に原因がある。こういう状況では、「資本流出による貿易黒字(生産拡大)」という、帳尻あわせの効果が減じてしまって、不況がさらに拡大する。
 だから、マクロ経済学者としては、「高齢化のせいで不況になった」と騒ぐべきではなくて、「さっさと不況を解決しなさい。そうすれば、高齢化にともなう問題はなくなります」と語るべきなのだ。(理由は、貯蓄率向上の問題は、開放経済系のなかで、うまく均衡状態で落ち着くから。不況でなければね。 ← (2) )

( ※ 「高齢化は不況とは関係ない」というのは、事実からも裏付けられる。日本以外でも、高齢化の進んだ国はあるが、別に、不況にはなっていないはずだ。もう少しはっきり言えば、国家間の比較で、高齢化の程度と、経済の悪化の程度には、まったく相関関係は見られない。むしろ、逆の相関関係さえ、見られるだろう。平均寿命の低い途上国だと、高齢者は少なくて若手が多いが、失業率が高く、景気は悪いことが多い。)

 [ 付記 ]
 資本流出をすれば、上の (2) の問題は解決される。しかし、為替差損の危険があるので、資本流出をしてほしいと思っても、なかなか進まない。強引に進めても、為替差損を誰かが負担しなくてはならない。…… 一見、どんづまりだ。しかし実は、これを解決する方法がある。それは、「借款」だ。
 途上国に借款を供与する。そうすれば、資本流出が進む。円安効果で、日本の輸出は増える。(特にヒモ付き援助にする必要はない。)
 これは、円安論者の言う「外債購入」に似ている。ただ、「外債購入」とは、いくらか異なる。外債購入だと、資本流出の行き先は、途上国ではなく、先進国となる。これは、私としては、お勧めしない。理由は、それで利益を得るのは、途上国ではなく、(外債を発行する米国などの)先進国であり、利益を与える相手が間違っているからだ。
 第1に、(無理な資本流出によって)為替差損が発生するが、それで得をするのは、途上国ではなく、先進国である。
 第2に、政府契約でなく、民間契約だと、巨額のマネーが、無謀な流動を起こしやすくなる。例は、「アジア通貨危機」だ。「外債購入」により、日本の巨額のマネーが米国に向かった。米国の銀行はその金をアジアに投資した。ここまでは市場原理でうまく進んだ。しかし、その後、信用不安が生じると、マネーは一挙にアジアから引き上げられた。かくてアジア経済は破綻寸前に追い込まれた。……民間ではなく政府が貸し付けをしていれば、急にマネーが引き上げられることはないのだが。

( ※ というわけで、「外債購入」のかわりに「借款」が良い。しかしそれだと、アメリカの銀行が悔しがる。日本とアジアを食い物にすることができなくなる。だから、アメリカの銀行としては、「黄色人種は、米国の債券を買え」と主張するはずだ。その音頭取りに乗って、黄色い経済学者たちが「外債購入を」と騒いでいるわけだ。なんだか、猿回しみたいだが。)
( ※ ついでに言おう。日本はこれまで、借款をかなりやってきたから、経済成長が進んだ。しかし最近、借款を減らしている。その分、経済成長も減っているわけだ。つまり、「不況だから、借款を減らす」と言って、自分で自分の首を絞めているわけ。外需であれ、内需であれ、需要を減らせば、その分、経済は縮小するのだが。)

 [ 補記 ]
 ここでは「資本流出」を勧めているが、前に述べた「円安」批判との関連を述べておこう。
 本項で述べたのは、「国内投資に向かわない過剰資金を、外国に貸せばいい」ということ。この量は、短期的な変動を含まない、長期的に一定の量である。(さもないと為替差損が発生するので。)
 さて。景気が悪いと、国内資金が過剰になるので、大量の資金が余る。では、これを外国に出したら? ……その場合、「量的緩和」は効果をもたず、単に資本流出だけが進む。これが極端に行き過ぎると、「大幅な円安」となる。たとえば、1ドル= 200円。こうなると、さまざまな弊害が発生する。ついでに、為替差損も発生する。……それを、私は批判しているわけだ。
 つまり、「当然の資本流出は当然の円安をもたらすので好ましいが、過度の資本流出は過度の円安をもたらすのでダメ」ということだ。何事も、程度しだい。


● ニュースと感想  (4月11日b)

 「資産担保年金」という制度について。
 高齢者の消費性向が低い、という問題がある。高齢者が貯蓄すること自体は、悪くはない。ただ、消費性向が低すぎる。どうしてかというと、死んだときに、遺産が余りすぎるからである。自分で稼いだ金は、自分で全部使いきった方がいい。子孫に残す必要などはない。そういうふうに自分で使い切れば、消費性向も上がる。(「親の金を子供が使え」という最近の議論には賛成できないが、親が自分の金を自分で使うことには賛成する。)
 では、そのためには、どうすればいいか? 普通にやれば、高齢者は、自分がいつ死ぬかわからないから、「死んだときにきっちり使い果たす」ということは不可能だ。自分の死期を予測できるのならともかく。
 そこで、「資産担保年金」という制度を用意するとよい。次のようにする。
 これに似た制度は、他国で実現済みである。たしか、イタリアだったと思うが、個人がこういう制度をやれるようになっている。たとえば、高齢のAさんが、「死んだら土地を渡す」と決め、若手のBさんが「死ぬまで年金を払う」と決め、二人で契約する。Aさんが長生きすれば、Aさんの得。Aさんが早死にすれば、Bさんの得。
 イタリアでは、Bさんが個人だが、これを、民間の保険会社などが引き受ければいいだろう。こうすれば、とにかく、国全体で見たとき、高齢者は自分の財産を使い果たして死ぬことになる。遺産は残らず、すっかり使い果たす。つまり、消費性向は高まる。

( ※ 提供する原資は、土地に限る必要はなく、現金を含めてもいいだろう。)
( ※ 「資産担保年金」というのは、私の造語だが、適切な言葉もありそうだ。「担保」というよりは、「交換」と称するべきか。イタリアではたぶん、既存の言葉があったはずだ。私は失念したが。)
( ※ なお、この制度は、バブル期のころに、新聞でも話題になったことがある。土地高騰を防ぐ話の関連だったと思う。)

  【 追記 】
 これとほぼ同様の制度を、日本の自治体がすでに実施[予定]しているそうだ。「リバース・モーゲージ」という制度。(この件、読者からのご連絡による。)
 私の見解は? それを「福祉政策」と見るのではなくて、「景気対策」として見るといいだろう、ということ。(ただし、効果はそこそこ。)


● ニュースと感想  (4月12日)

 「少子化」について。
 少子化というのは、必ずしも悪いことではない。世間で喧伝するように、「少子化で日本が破綻」というようなことはない。なぜか? たしかに、生産力は減るが、同時に、一人あたりの資産配分(遺産相続)が増えるからだ。
 わかりやすく言おう。出生率が 2 から 1 に減ったとする。生産力は(生産性向上の分を除くと)半減する。半分の若手で、高齢者を養うことになるので、若手の年金負担は倍増する。……ここまでは、論者の主張するとおり。
 ただし、である。同時に、若手が引き継ぐ資産は倍増するのだ。たとえば、子供が2人なら、親の遺産を半分ずつ引き継ぐが、結婚すれば半分ずつを合わせることができる。結局、親の世代の不動産を、夫婦でちょうど引き継ぐことになる。一方、子供が1人なら、夫婦で二つの親の不動産を引き継ぐ。倍増だ。
 これは、モデル的な論法だ。今度は、マクロ的に見てみよう。戦後の50年間で、人口は 8000万程度から1億3000万程度に、激増した。ほぼ5割アップ。さらに、戦後の貧困な住環境を向上させる必要もあった。その間、土地は大幅に開発された。夏目漱石のころは、東京は緑の森で覆われていたのだが、今はその名残は皇居ぐらいしかない。丹沢の方に出掛ければわかるが、山のふもとまで宅地開発されている。あらゆる平野部は宅地開発されている、と言えそうなほどだ。当然、不動産価格は、急上昇した。高齢者世代の場合、生涯賃金のかなりの部分を、不動産取得に費やした。
 しかし、である。高齢者世代はそうでも、その次の世代はそうではない。自分で不動産を購入する必要はなく、親の不動産を引き継ぐことができる。しかも、今後は、少子化が進むので、若手は二つの親の不動産を引き継ぐこともできるようになる。
 結局、親を養う費用も増えるが、親から引き継ぐ不動産も増えるのだ。差し引きして、トントンぐらいだろう。
 さらに、現在の高齢者と、それ以降の世代とを比べれてみよう。「親の不動産を引き継ぐ」ということが、現在の高齢者世代だけは(ほとんど)できなかったことになる。だから、実際には、一番損しているのは、現在の高齢者世代なのである。彼らは、自分の親からは不動産を引き継がないで、自分の子供には不動産を引き継がせる。差し引きして、大損だ。
 だから、現在の高齢者世代が、年金の分で、かなり優遇されているとしても、それは帳尻あわせのようなものであり、たいして問題ではないのである。

 [ 付記 1 ]
 このことは、生活水準を見ればわかる。現在の高齢者は、食事もろくに取れない飢餓時代の人生を送ってきた。今の若手は、若いころから飽食だ。(必要なのは、栄養ではなく、ダイエット。) どちらが得をしているかは、一目瞭然。
 「若い世代から高齢者に所得移転が起こる」と、経済財政白書は述べているが、計算の根本が狂っているのである。自分の都合のいい数字だけを取り上げて計算しているから、現実とは懸け離れた結論を出すことになる。
 はっきり言おう。「高齢者よりも若手ははるかに得である」と言える。なぜなら、高齢者は、若手のために、不動産だけでなく、すばらしい経済システム(日本経済そのもの)を残してくれたからだ。若手がもらった量は、若手が負担する量より、はるかに多い。それが信じられないのなら、文明の及ばぬ荒野か途上国に行きなさい。何も受け取らず、何も負担しない。それが良ければ、そうするがいい。

 [ 付記 2 ]
 ここで述べたのは、あくまで、マクロ的に見た話である。個別の各人については、「うまく親の遺産を引き継げる」とは限らない。親は貧乏かもしれないし、親は資産を使い果たしてしまうかもしれない。
 ただし、まあ、現実には、親は自分の不動産を残すことが多い。そういう現実に従った上での話だ。統計的に話を進めるのであれば、それでいいだろう。
 あなたの親が遺産を残してくれなかったら? それはまあ、仕方ないですね。文句があるなら、「生まれてこなければよかった」と思って自殺しましょう。あなたの妻の親が、遺産を残してくれなかったなら? それはまあ、ありがたいことですね。親が貧乏でも、あなたはその妻を選んだ。それだけ魅力的な妻だった。それがいやなら、遺産のたっぷりある最低の女性と結婚しましょう。

 [ 付記 3 ]
 少子化は、良いのか悪いのか? マクロ的に考えてみよう。
 日本はたしかに、人口過密である。過剰に自然を開発しており、自然破壊が進んでいる。長期的には、人口を減らした方がいい。だから、少子化は進んだ方がいいと言える。(「人口過密で自然破壊する国」よりは、「適度な人口で自然豊かな国」の方がいいだろう。明治時代には、東京も自然が豊かであった。夏目漱石の日記などを読むとわかる。)
 ただし、である。少子化がいいといっても、それも程度問題だ。あまりに急激に少子化が進むと、生産力の急低下という問題が発生する。たとえばの話、出生率が 0.1 ぐらいになったら、とんでもないことになるだろう。
 だから、急低下にはならない程度で、社会的に受容できる程度で、ゆっくりと少子化が進むのが好ましい。具体的には、出生率が 1.8 前後という数字がメドだ。
 現状は、出生率が 1.3 〜 1.4 ぐらいになっている。これは小さすぎる。少子化が急激すぎる。出産増加のための、国家的な政策が必要だろう。
( ※ 念のために言うと、必要な政策は、「児童手当」とか「雇用環境の整備」などである。「夫婦で愛しあおう」というキャンペーンではない。)

 [ 付記 4 ]
 少子化を実質的に防護する方法もある。「今からやっても、今後の対策にはなっても、これまでの少子化の対策にはならない」と思うかもしれない。しかし、そうではない。対策はある。「外国人労働者」の流入だ。アメリカなどのように、外国人労働者を流入させれば、若手の年代を増やすことができる。
 では、それでうまく行くか? 功罪なかばする。たしかに、生産力は増える。しかし、その分、人口が増える。つまり、土地価格が上がる。そのコスト上昇の分は、日本人全体で分かちあわなくてはならない。
 「地価が上がれば、資産インフレで得をする」と主張する経済学者が多い。しかし彼らは以前は、「日本は土地代がかかるから、高コストで、国際競争力がなくなる」と主張していたはずだ。
 地価の上昇は、メリットでもあり、デメリットでもある。売るときは得だが、買うときは損だ。農民などの土地提供者にとっては得だが、工場を建てる生産者や、自宅を建てる一般国民には損だ。
 ま、「日本人が足りないから、外国人を入れればいい」というのは、あまりにも場当たり主義的で、対症療法的で、あまり好ましいものとは言えない。「子供が足りないから、外国から養子を入れよう」というようなものだ。話が本筋から逸れている。

 [ 付記 5 ]
 余談だが、「少子化」には、「環境ホルモン」の影響も、考えられなくはない。男子において、いわゆる「タネ」の減少が生じているらしい。その原因として、「環境ホルモン」が疑われている。
 つまり、いくら夫がせっせと妻を愛しても、夫が「タネなし」に近くなっているわけだ。だから、産みたくても、産めない。そういえば、さる高貴な家庭においても、なかなか世継ぎが生じず、国民をやきもきさせたことがあった。
 「少子化」というのは、単なる「出生率の低下」ではなくて、「人類の存続能力の低下」を意味しているのかもしれない。 (別に冗談を言っているわけじゃないんですけど。冗談じゃないよ、まったく。)


● ニュースと感想  (4月13日)

 相続税について、追記ふうに、いくつかの点を指摘・解説しておく。( cf. 4月07日b 。「リア王」などの話。)

 (1) 減税の原資
 「相続税であれ、何であれ、減税には効果があるはずだ」
 という意見がある。しかし、これは勘違いだ。先に一定額の減税の原資があり、その減税を、所得税・消費税・相続税などのうち、どれに振り分けるか、ということが問題となっているのだ。
 だから、「相続税をやれば、その分、減税の効果がある」のではなく、「相続税をやれば、その分、他の減税が減る」ということになる。
 相続税減税のための金は、空から降ってくるわけではない。相続税を減税すれば、その分、他の減税が減るか、あるいは、所得税や消費税を増税する必要がある。帳尻を付ける必要があるのだ。
( ※ 経済学を知らない素人だと、「何でもいいから、減税をすれば得だ」と考えがちだ。それは、「金は空からは降ってくる」という、コスト無視の素人理論。今の政府はそうらしいですけどね。)

 (2) 親ではなく、子に課税される、ということ。
 「自分の子供に相続させるのは、当然だ。国がそれをかすめ取るべきではない」
 という批判がある。しかし、これは、勘違いだ。相続税は、親には課税されず、子に課税されるのだ。(だいたい、課税したくても、親はもう死んでいる。)
 では、子の立場から見ると、どうか? 国民が払う税金は、一定である。となると、相続税を払うのがイヤなら、その分、所得税を多く払う必要がある。相続して大金を一挙に手に入れた不労所得に対して、税金を払いたくなければ、労働所得に対して、毎年少しずつ増税を受ける必要がある。
 「不労所得に対して減税せよ」と主張するなら、「労働所得に対して増税せよ」と主張する必要がある。
( ※ 素人だと、「税金はなるべく払いたくない」と思いがちだ。これも「金は空から降ってくる」という理屈。)

 (3) 普通の人には課税されない、ということ。
 「でも普通の庶民の遺産ぐらいには、課税してほしくない」
 という意見もある。これも、勘違いである。実際、そうなっている。普通の庶民の遺産には、相続税は課税されない。課税最低限は、かなり高い。詳しく調べたわけではないのだが、1億円程度の不動産と、数百万円程度の現金なら、ほとんど課税されないはずだ。第1に、土地の価格は、実勢価格よりも、はるかに低く評価される。第2に、妻(未亡人)に対する相続税は、もともと無税である。
 たとえば、1億円の不動産があったとして、土地は時価の半額以下の評価。建物はほとんどゼロの評価。その不動産は、妻と子供で半々で相続するが、妻の相続の分は、もともと無税。妻が死んだあとで子供が相続するが、ここでも課税最低限があるから、やはり、たいしたことはない。
 ま、それでも、いくらかの課税はなされるかもしれない。しかし、それは、所得税などと比べれば、圧倒的に低い。年収1千万円の所得があれば、何割かの所得税がかかる。しかるに、1億円の相続が発生しても、そこにかかる税金は、ごくわずかだ。1割にもならない。……だから、普通の人にとっては、相続税などは、ほとんど無視していいのだ。
( ※ 1億円の相続で、2% ぐらい課税されるかもしれない。しかし、その程度は、やむをえまい。98% を受け取れるのに、「税金が高い」とわめくのは、強欲すぎる。)

 (4) 一部の金持ちに課税される、ということ。
 では、普通の人には課税されないのに、なぜ、今、相続税が話題となっているか? それは、一部の特定の金持ちのためである。遺産が十億円以上あるような、ごくごく特別な金持ちのためだ。こういう金持ちの税金を免除してあげよう、というのが、最近の自民党の論調だ。
 しかし、「相続税減税」なんていうのをやりたければ、こんなことをやるより、もっとわかりやすい方法を取った方がいい。それは、次のことだ。
 つまりは、国民全体の金をかすめとって、金持ちのボンボンだけで分配するわけだ。ボンボンたちにとっては、まことにありがたいことだ。わかりやすく言えば、あなたの財布から金を奪い取り、ダイエーのボンボンや西武のボンボンにプレゼントする、ということ。

( ※ 「中小企業の息子に相続させるため」という説もある。しかし、無能な息子に相続させるべきではないのだ。馬鹿息子が相続すると、放漫経営で、会社をつぶすことになるだろう。ダイエーのボンボンみたいなものだ。国全体では、不良債権をどんどん増やすことになる。……では、正しくは? 相続税をかける。一方、株式は、息子には相続させず、広く一般に株式を開放する。経営の世襲をやめて、資本と経営の分離をする。これが、当然。「相続税減免で世襲させよ」なんて、封建主義的な発想だ。)

 (5) 所得再配分
 相続税が高額であるのには、実は、経済学的に正当な理由がある。所得の再配分だ。これは、「庶民のやっかみ」が理由ではなくて、一国経済を活性化するためである。
 なぜか? 資本主義というものは、「所得は能力に比例する」わけではないからだ。
 ここを誤解している人が多い。「所得は能力に比例する。有能な人ほど、多くの収入を得る。さもなくば、それだけの金を、会社が払うはずがない」と。しかし、それは誤りだ。その説は、一般労働者には当てはまるが、資本家には当てはまらないからだ。
 労働者なら、所得と能力は、ほぼ比例するだろう。しかし、資本家は、そうではない。遊んで、所得を得る。それが資本家のあり方だ。
 「金持ち父さん 貧乏父さん」という本が売れている。そこには、金持ちになるコツが書いてある。どうすればいいか? 「いっぱい働いて、給与を上げてもらう」のではなくて、「自分では働かないで、他人を働かせる」もしくは「金をうまく運用して、金に金を生ませる」というのが、金持ちになるコツである。普通の人は、働いて金を得るが、金持ちは、自分では働かず、金や他人を働かせて、金を得る。そういうものだ。
 今の社会システムというものは、そういうものなのだ。つまり、富める者はますます富み、貧しい者はますます貧しくなる。だから、放置すれば、富の偏在は、ますます激しくなる。……今のアメリカを見るがいい。国民のごく少数が、富の大半を握っており、一般の大多数の人々は、低い年収で我慢している。なぜか? 米国労働者の生産性が劣るからか? そうではない。彼らの所得が、金持ちに吸い上げられているからだ。……ここでは、「資本家による搾取」と唱えたマルクスの考え方が、かなり的中していることになる。
 別に、マルクスが立派だとは思わないが、たしかに事実はそうなっているのだ。マルクスの主張を否定したければ、日本も、「反・共産主義」のアメリカのようにすればいい。つまり、一般労働者の賃金を、一律2割減にする。その分を、ごく少数の資本家たちが没収する。資本家といっても、別に、有能な人のことではない。たまたま幸運な星の下に生まれて、巨額の遺産を相続しただけの人のことだ。
 たとえば、昔の貴族制度を復活させる。一般労働者の年収を2割り切り下げて、その分の金を、貴族たちで分配する。貧富の差の拡大である。
 こうすれば、日本もアメリカナイズ( or 英国化 )されるだろう。労働者の賃金が下がるから、「賃下げで国際競争力が付いた」と喜ぶ経済学者も出てくるはずだ。(実際には、総需要縮小で、経済は弱体化する。)

( ※ 「貴族制度」というのは、たとえ話だが、極端すぎるかもしれない。穏健な方法もある。大企業の経営陣の給料を、べらぼうに上げることだ。たとえば、社長などの経営陣の給料を上げる。アメリカでは、年収 30億円なんて、ざらだ。日本では、大会社の社長でも、年収 5000万円程度。だから、次の春闘で、給料改定し、このとき、「能力主義」の名目で、普通の社員の給料を、一律2割カットする。その分を、経営者にプレゼントする。これでアメリカナイズする。たいていのエコノミストは賛成するだろう。「これで能力主義が進むから、日本経済は活性化する。労働者は、賃金が低下すれば低下するほど、やる気を起こす」と。これはまあ、「日本人 = マゾ」という論理である。)
( ※ 権力者の所得を上げる、という方法もある。たとえば、遊んでばかりいる公務員や、口喧嘩ばかりしている国会議員や、日本を不況にする首相など。彼らの給料を、大幅に引き上げる。原資は、国民の減税用の資金。つまり、国民のための金を、権力者にプレゼントするわけ。……ケインズ派なら賛成するだろう。「これだって、有効需要の増加効果は、普通の減税と同じだ」と。そして、乗数効果を計算し出すかもしれない。)

 (6) 封建制
 前述の理由で、「富の再配分」は必要だ。(貧富の差が過剰に拡大するのを防ぐためだ。)
 では、富の再配分をしないと、どうなるか? つまり、国家がそういう機能を果たさないと、どうなるか? それは、歴史を見ればわかる。近代以前においては、どの国も、封建制であった。欧州もそうだったし、中国も、日本も、封建制であった。(中国は始皇帝のころから。日本は古墳時代のころから。欧州ではハプスブルク家が延々と続いた。どこでも、封建制。)── では、なぜか?
 そもそも、封建制とは、何か? 社会の特定階層が富を収奪するシステムのことだ。通常、貴族と王である。彼らは、元々は、ただの金持ちにすぎなかった。しかし、金持ちはますます金持ちとなり、貧乏人はますます貧乏人となる。しかも、それが、相続される。長い年月のうちには、貧富の差は極大にまで開く。金持ちは、単なる金持ちになるに留まらず、国家をわがものとして、王として君臨する。制度はすべて王の家系のためとなり、次いで、貴族の家系のためとなる。一般国民は、課税されて、自分の富を、王や貴族に貢がなくてはならない。それが世襲されて、延々と続く。……そういう社会システムが、封建制である。
 そういうことだ。「放置すれば最適状態になる」という、市場原理主義みたいなことは成立しない。「放置すれば、極端に偏った状態で固定される」のだ。
 そして、それを否定するのが、近代の市民社会の成立だ。だからこそ、近代社会では、富の偏在は許されないのだ。各人は、「働きに応じて正当な額」を得る資格はあるが、「金持ちという家系に応じた額」を得る資格はないし、「他人の富を収奪する権利」を相続する資格もないのだ。息子は一応、遺産を相続する資格をもつが、その相続には高率で課税される。……それが、近代社会というものだ。
 「相続税を減免せよ」というのは、封建国家の思想であり、資本主義以前の思想であり、前近代の思想である。そんなことを長年続ければ、ふたたび、王が登場して、国家を支配することになるだろう。

( ※ 蛇足。最後の文句は、もちろん、誇張表現である。「王が登場するはずがない」というふうな反論はしないでほしい。ま、頭のカタイ人でなければ、すぐわかるだろうが。……で、本項の最後では、何が言いたかったか? ジョークである、というのは嘘である。本当は、史観だ。「封建制という歴史的制度さえ、経済学的な要素があり、経済学的に説明ができる」ということだ。
( ※ 余談。封建制は、経済の歴史を見る上では、かなり重要な位置を占める。「貨幣経済を準備した」とも言えるし、「資本主義が成立するには、封建制が前段階として必要だ」という説もある。……ただ、今さらそこに逆戻りするわけには行かないが。)


● ニュースと感想  (4月13日b)

 「夫婦別姓」問題。賛否両論が激しく対立。各党とも、党内でさえ意見が真っ向から対立して、まとまらない。(読売・朝刊 2002-04-11 )
 では、どうするべきか?
 こういうふうに「対立」が発生したときには、なかなかまとまりにくいし、また、どちらを取っても禍根を残す。だから、解決策は、ただひとつ。双方が譲歩することだ。つまり、妥協だ。
 具体的には? 私が提案するのは、「副姓」制度。二つの意見を足して二で割ったようなものだ。たとえば、「山田花子」と「鈴木太郎」が結婚する。「山田」と「鈴木」のどちらに決めても、他方が不満だ。そこで、両方を残す。「山田・鈴木・花子」または「鈴木・山田・花子」だ。ミドルネームを用いるわけだ。
 これを単純に実行すれば、「ミドルネーム」制度もしくは「合姓」制度。
 ミドルネームをカッコに入れれば、「山田(鈴木)花子」または「鈴木(山田)花子」だ。これは「副姓」制度。……こちらの方が、妥協の度合いが高い。実現性を考慮すると、こちらの方がお勧め。
( ※ 私個人は、ミドルネーム制度の方が好みだ。しかし、これだと、反対派の声が強まり、実現は難しくなりそうだ。)


● ニュースと感想  (4月14日)

 世代間の損得。
 具体的な値は、どのくらいになるか? これを計算したデータもある。政府の「経済財政白書」などを見るといい。( → 説明ファイル( pdf )
 これ以外にも、いろいろなデータがある。ともあれ、将来世代は、現在の世代に比べて、消費税や社会保険料の増大など、多額の負担を強いられることがわかる。
( ※ とはいっても、高齢者が得た金は、遺産となって、若手があとで相続する。この損得は、あまり意味がない。)

 [ 付記 ]
 なお、この数値は、単純な計算値である。若手にとって、「おれの稼いだ金は、おれが独力で稼いだのだ」という、傲慢不遜な考え方を前提としている。「社会システムを先人(高齢者)が作ってくれた」ということを忘れた、恩知らずな発想。
 戦後の日本は、瓦礫の山だった。今の日本は、世界最高水準だ。無から有を生み出す。世界中で、ただ日本だけがなしえたことだ。(途上国と比べてみるがいい。)
 はっきり言おう。このようなことをするのは、強力な意思と精神力が必要である。今の高齢者世代だからこそ、なしえたことだ。同じことを、今の若手の世代に「やれ」と言っても、絶対に無理ですね。たぶん、「どうせ無理じゃん」とプーたれて、地面にしゃがみ込んで、ケータイとゲーム機をやり出すだろう。だいたい、読書もろくにしないような人々が、まともなことをできるはずがない。
( ※ 「若者の悪口を言うな!」という批判も来そうだ。ま、褒めたければ、いくらでも褒めてあげますけどね。嘘の言葉で褒められて、浮かれているようじゃ、話になりませんね。高齢者世代は、逆境でこそ、発奮したのだ。── 小泉じいさんだって、獅子奮迅 or 猪突猛進だ。進む方向はともかく。)
( ※ 「少子化」よりも問題なのは、「少知化」かもしれない。これこそ日本を衰退させる。……この言葉、思いつきだが、面白いですね。宣伝してください。)
( ※ “日本経済が衰退したのは、「少子化」ならぬ「少知化」のせいである”と言えるか? う〜ん。適当に考えてください。)


● ニュースと感想  (4月14日b)

 高校の社会科教育について。
 「学習指導要領」や「教科書検定」が話題になっている。「ゆとり教育をめざす」とのこと。是認派は、「知識の詰め込みを配して、考える力を身につけさせる」と主張する。(各紙朝刊 2002-04-10 )
 これ自体の是非は、世間で大騒ぎなので、私自身が述べることはない。ただ、これに関連して、別の感想を言おう。特に、社会科教育だ。「歴史偏重を排して、政治経済を重視するべきだ」ということだ。(私のページの読者なら、賛成する人も多いだろう。)
 歴史教育は、やたらと偏重されている。私は、「歴史教育なんか無用だ」とは言わないが、せめて、偏重はやめるべきだと思う。つまり、「政治経済」を、歴史並みに重視するべきだ。また、「倫社」を「哲学思想」と改称して、これも重視するべきだ。
 今のように、「政治経済」や「倫社」を、おまけ扱いするのは、好ましくない、と思う。これらはまさしく「考える力」を養う。一方、「歴史」なんて、ただの「知識の詰め込み」に近い。文部省の言う、「ゆとり教育・考える力重視」なんて、聞いて呆れる。
 また、大学の現状を見るがいい。歴史学なんて、文学部の隅っこにあるだけだ。一方、法学部・政治学部や、経済学部は、花形だ。どちらが重要かは、言わずもがなだろう。大学の実情はこうなのに、これを無視しているようでは、高校教育は、イカレている。
( ※ 具体的には? 「政経の単位数を増やす」「入試で政経を必ず選択できるようにする」の二つだ。受験科目に政経を選択できない大学や学部は多い。)

 [ 付記 ]
 「歴史も考える力を養う」という説もあるだろう。私も、それには部分的に同意する。ただし、そのためには、今のような試験制度ではダメだ。試験には、資料の持ち込みを許容するべきだ。教科書とか、歴史事典とか、年表とかを、見てもいいことにする。
 これなら、「鎌倉幕府成立は何年か?」なんていう、馬鹿げた知識クイズは廃止されるはずだ。かわりに、「封建制度はなぜ発生したか? 論述せよ」というような、まともな試験が出るようになるだろう。
 結局、「いいくに(1192)つくろう」なんていう、語呂合わせの馬鹿げた勉強を強いているから、日本は、いい国にならず、ダメな国になるのである。

( ※ 注釈。「論述式は、採点が大変だ」という意見がある。これは、勘違い。全量を採点しようとするから、大変なのだ。あらかじめ客観式テストで、合格と不合格の大半を決める。残りのボーダーラインの受験生のみ、論述式で合否を決めればよい。これなら、ごく少数を採点するだけで済む。……だいたい、どうせ合格するのに決まっている高得点者や、どうせ不合格になるのに決まっている低得点者の分を、さらに採点するのは、無駄。経済学的に、採点の効率を考えるべきだ。大学って、頭悪いですね。)

 [ 余談 ]
 余談だが、「考える力」を身につけるには?
 いろいろあるが、基礎の基礎として、まず、「読書」を習慣づけることが必要だ、と私は考える。ろくに読書もしないで、ろくに本も読まないで、「考える力」なんていうのは、論外である。未開人がいくら考えても、ろくな考えは生じない。本を読んで、さまざまな思考を知ることで、自分もまた自分なりの思考ができるようになる。
 「朝の読書」運動というのがある。これはめざましい効果を上げている。子供たちは急速に頭の能力が向上していく。逆に言えば、昔の子供なら当たり前にやっていたことが、今の子供たちには当たり前でなくなってきているのだ。知識の基礎体力が大幅に低下している。
 その証拠が、最近の「本を読まない大人」だろう。40代以上は読書しているが、30代以下だと、若いほど読書しない。子供時代の影響が及んでいる。……ついでに言えば、これは、テレビゲームの普及と軌を一にしている。
( ※ こう主張すると、ゲーム産業から文句が来そうだ。しかし、子供の時間は限られているのだ。一度に二つのことはできない。となれば、当然の論法だ。「ゲームをやらせたって、子供は馬鹿にならない」という主張をする親もいる。いかにも物わかりがいい。しかし実際は、「子供の時間は限られている」ということがわからないわけで、数も数えられないのだ。猿知恵の親。子供をスポイルしている。)
( ※ 「ゆとり教育」で関連して言おう。使った教科書が薄っぺらなら、頭も薄っぺらになって当然かもしれない。円周率 3.14 も消えてしまうらしいし。「サンテンイチヨン」も覚えられないようじゃ、「サイテイヨ」。)

 [ 参考 ]
 文藝春秋・最新号。国語教育についての話がある。(斉藤という人の論説。p.168.)
 「理想の国語教科書」というのが提案されているが、「とても良い」と思った。生徒にこびたりおもねったりしない。語彙に制限を付けず、総ルビにして、正統的な作品を適切に選んでいる(例:小林秀雄やゲーテなど。) ……最近の作家のチャラチャラした文章を載せている教科書とは、雲泥の差だ。
 若者が愚かになっているのは、やはり、文部省や教科書の責任が多大だ。「ゆとり教育」だの、「チャラチャラした文章」だの、そんなことをやっている現状は、ほとんど、「ウケ狙い」の漫才と同様だ。


● ニュースと感想  (4月15日)

 「相続税」と「愛」の話。これは、経済学的な話ではない。ただの雑感である。
 私の個人的な感想を言おう。「相続税減免」で一番好ましくないのは、愛の問題だ。
 相続税を減免すると、どうなるか? 貧富の差が拡大する。しかも、金持ちの息子は、生まれながらにして金持ちである。となると、愛の問題は、今のアメリカのようになる。女性たちの目的は、「魅力的な人と愛をする」ことではなくなり、「莫大な遺産をもつ金持ちの御曹司と結婚すること」となる。アメリカの現状を見るがいい。テレビドラマにせよ、恋愛小説にせよ、大衆向けの恋愛ドラマは、「精神的な愛」なんてほったらかして、「いかにして金持ちの御曹司の目を振り向かせるか」ということの、一本槍だ。「これぞアメリカンドリーム」というわけだ。
 大学でも、素敵な女性たちは、みんな金持ちの御曹司のほうを向く。男子学生が素敵な女性に交際を申し込んでも、「あなたの父親の財産は?」とまず訊かれる。人間の価値は、すべて相続財産で決まるのである。
 しかし、それも当然だろう。何千億円ないし何兆円もの財産を相続する男と、貧乏人の息子とで、人間性に大差があるわけではない。まともな経済観念のある女性なら、金持ちの御曹司を選ぶに決まっている。万一、結婚生活が破れても、財産の半分を慰謝料として受け取ればいい。「愛があれば、お金なんかいらないわ」と言っている女性だって、千万円ぐらいならともかく、何千億円ともなれば、一夜にして前言をひるがえす。
 アメリカンドリームというのは、そういう社会だ。そういうのが好きな人は、アメリカのテレビ番組(ソープオペラ)を見ればいい。または、ハーレクイン小説を読めばいい。愛と金と裏切りがたっぷり。特に、清純な誠実な女性が、大金を見て変節するところが、視聴者に大人気。……私としては、同じ恋愛ドラマにしても、こういう趣味は、うんざりだ。
( ※ 私の個人的な感想だから、人に強要はしませんけどね。)


● ニュースと感想  (4月15日b)

 イスラエル問題。
 中東でまったく、うんざりする状態が続いている。私の意見は? これは、政治的または軍事的よりも、経済的に解決するのがベストだ、と思う。簡単に述べれば、以下の通り。

 (1) 当面は、イスラエルに「経済制裁」をする。かつてイラクに対して実行したのと、同様だ。イスラエル製品の輸入を全面禁止する。輸出も原則禁止。……これは、各国が個別にできるので、日本だけでも、さっさと行なうべきだろう。
( ※ なのに、「経済制裁」を言えない政府もマスコミも、まったく、だらしがない。相手がフセインやビンラディンなら、正義感ぶった顔をできるのに、相手がイスラエルだと、知らんぷり。かつて「正義」を唱えていた人たちが、いかにデタラメであるか、よくわかる。彼らを一言でいえば、「偽善者」だ。)

 (2) 長期的には、イスラエルがパレスチナに「経済援助」をすることが好ましい。これなら、双方が得するし、それゆえ、対立状態も収束する。イスラエルは、援助をすることで、パレスチナに対しては「謝罪」の意味を出し、世界に対しては「善人」の意味を出し、自分に対しては、「平和の配当」を出す。このことで、一番金を払うのはイスラエルだが、一番得するのもイスラエルだ。……こういう平和政策こそ、経済学的というものだ。
( ※ 現状は? 単なる血と血の流しあい。これを「狂気」と呼ぶ。平気で見ている人たちも、また同様。)

 [ 付記 ]
 中東情勢は、他人事ではない。「知ったこっちゃない」と思うのは、勘違い。原油価格の高騰が生じている。これであなたも何万円か損することになる。(ガソリン代・電気代・物流コストなどが、みんな上昇する。その分、可処分所得が減る。)

 [ 参考 ]
 とっぴな話のようだが、この愚かしい中東の状態は、相続税と関係がある。
 世界中の誰もが「イスラエルの横暴が悪い」と言う。国連で議決すれば、「130 対 1」ぐらいで賛否が決まる。で、その「1」が、米国だ。米国がイスラエル支持だから、いつまでたっても解決ができない。
 では、なぜ、米国はイスラエル支持か? 米国内のユダヤ人勢力が多大な影響を及ぼしているからだ。といっても、人口比率では、数%程度だから、たいしたことはない。問題は、金だ。ロスチャイルドなどのユダヤ系の財閥が、多額の金を献金して、政党を牛耳っている。
 これらの財閥は、相続税があまりかからないから、どんどん富を膨張させて、巨大な勢力を占めるようになったのである。(その典型が、昔のハプスブルグ家だ。家系と各国政府がほとんど一体化する。)
 今の米国は、ハプスブルク家ふうになってきている。巨大な富をもつユダヤ系の財閥が、国家政策に多大な影響力を及ぼす。そうしてこの地上に、狂気の紛争を発生させるわけだ。
 物事は、マクロ的に見るべきだ。「相続税を減免すれば、個々の金持ちが得する」というのは、あくまでミクロ的な見方だ。もっとマクロ的に、国家的・世界的な影響を見るべきなのだ。
( ※ 個々の金持ちの損得などは、本当はさして問題ではない。巨視的な歴史的影響こそが、大問題となる。先日の「封建制」など。)


● ニュースと感想  (4月15日c)

 「電子カルテ」。世界初の本格的なシステムが鳥取で稼働。大幅な業務効率化を達成。(朝日・朝刊・経済面 2002-04-14 )
 良い話だ。「e-Japan」なんて口先だけで言う政府と違って、ちゃんと実行して、実績を上げている。
 ここを勘違いしている役人が多いようだが、政策というのは、作文のことではない。実行のことだ。「e-Japan によるバラ色の未来」なんて作文をする暇があったら、さっさと一歩、行動を取るべきだろう。(実際には、作文をして、それでおしまい。上記の例とは、月とスッポン。)
cf. 電子カルテ → 第2章

 [ 付記 ]
 なお、政府の電子化について、一言述べておこう。
 あちこちの自治体がバラバラでやっては、無駄の極致である。無駄を電子化しても、電子的な無駄が発生するだけだ。
 たとえば、公共事業の受注システム。こんなのは、一括して、「受注ドットコム」でも作れば、それで済む。なのに、日本中の何百もの自治体が、バラバラで、受注システムを構築しようとする。何考えているんだか。莫大な浪費。
 受注システムというものは、電子的なのだから、自治体の所在地に置く必要はないし、海外に置いても構わないのだ。だから、すべての自治体の分を統一して、ひとつのサイトに置けばよい。そして、その「玄関口」から、どこの自治体に対しても、受注に参加できるようにする。参加の方式は、全自治体に対して、共通となる。自治体は、それぞれの別種のシステムを作らず、統一したシステムのなかで、単にデータだけを出す。(日付・種別・規模・条件などのデータ。)……こうすれば、受注企業にとって、メリットがある。
 従来の受注システムを単に電子化しても、意味がないのだ。電子化するなら、それなりの、ふさわしい方法を取らなくては。


● ニュースと感想  (4月16日)

 「相関関係」と「因果関係」について。
 「相関関係」があれば、「因果関係」があるのだろうか? ここのところを誤解している人が多いようなので、解説しておく。

 (1) 逆方向
 原因と結果とが、想定とは逆になることがある。
 たとえば、「熱が上がること」と、「風邪を引くこと」に、相関関係を見出したとする。ここでは、「風邪を引く → 熱が上がる」という因果関係で理解するのが正しい。しかし、「熱が上がる → 風邪を引く」という因果関係で理解する説も考えられる。これは、原因と結果を逆にとらえている。すると、次のような珍説が出る。
 「熱が上がるから、風邪が悪化する」
 「だから、熱を下げれば、風邪は治るはずだ。たとえば病人を、寒気にさらして、強引に体温を 35 度以下にすれば、風邪は治るはずだ」
 「そこで、それを実行した。するとまさしく、体温は急激に下がった。調べたら、もはや風邪ではなくなっていた」
 彼はそう言って、病人のデータを見せた。そこには「被験者:死去」と書いてあった。
 結局、相関関係があるとき、そこに因果関係があるとしても、その因果関係の方向を逆にとらえてはならないわけだ。

 (2) 並行関係
 Aという人物とBという人物の行動には、高い相関関係が見られる。とすると、この二つの行動は、因果関係があるだろうか? 
 実は、この二つの人物は、夫婦であり、単に、二人でいっしょに行動していただけであった。因果関係があるわけではない。「二人は夫婦である」という根本の原因があり、それが、二人の行動を一致させているだけのことだ。
 ここでは、二つの行動は、「共通の根をもつ並行関係」と理解できる。

 さて。以上の (1) (2) をわざわざ述べたのは、経済学でも、こういう点を誤解している人が多いからだ。次に例を示す。

 (a) 貨幣の流通速度
 景気が悪いときは、貨幣の流通速度が下がる。これを見て、「貨幣の流通速度が下がるから、景気が悪くなる」と主張する人がいる。(マネタリスト)
 しかし、これは、原因と結果を逆に捉えている。正しくは、「景気が悪いから、貨幣の流通速度が下がる」のである。理由は、ケインズの「流動性選好説」で理解できる。景気の悪化にともなって、量的緩和して、金利がどんどん下がると、預金の魅力が減る。だから人々は、預金せずに、現金でもつようになり、貨幣の流通速度が下がるわけだ。
 その極端な場合が、ケインズの「流動性の罠」だ。金利ゼロでは、預金のメリットがなくなるので、現金の魅力が無限大になる。さらに、投資家にとっても、金利ゼロのときは投資がまったく魅力でなくなっている。かくて、どれほど量的緩和しても、まったく効果がなくなる。ここでは、「量的緩和をすればするほど、計算上、貨幣の流通速度が下がる」というふうになる。(実質的には、「滞留」という現象。)
 ここを理解しないと、「貨幣の流通速度が下がるから、景気が悪くなる」と考えることになる。あげく、「貨幣の流通速度の低下の分を上回るように、大量に量的緩和をすれば、景気は回復する」と言い出す。「流動性の罠」を理解できないわけだ。
 こういう人は、実は、相関関係を見たとき、因果関係を逆方向にとらえているのである。そして、相関関係を証明したことで、「因果関係を証明したぞ」と勘違いしているのである。論理的な倒錯。
cf. 1月07日c

 (b) 並行関係
 「少子化」と「不況」とに、相関関係があると見なす。そして、「少子化 → 不況」という因果関係を考える。
 しかし本当は、別に、根元的な事実があって、それが「少子化」と「不況」との双方を、同時に発生させたのだ、と理解できる。この件は、先に述べたとおり。
( → 4月10日b

 [ 付記 ]
 特に、「因果関係が逆」というのは、大きな問題だ。今の日本の経済運営を見るがいい。「因果関係が逆」というのが、広く見られる。
 つまり、「不況 → 需要縮小 → 供給縮小」が現実なのに、「供給縮小 → 需要縮小 → 不況」だと勝手に認識して、「供給能力拡大 → 需要拡大 → 不況解決」というシナリオを立てる。サプライサイド、生産性重視、量的緩和、……いずれの説も、この逆論理に染まっている。


● ニュースと感想  (4月16日b)


 現在の不況の原因は、誰のせいか? 「政府のせいだ」「マスコミのせいだ」と私はこれまで述べてきた。しかし、こうも長い間、ずっと無策が続くと、「経済学者のせいだ」という気もしてくる。経済学者は、おおむね、次の3種類に分類できる。

 (1) 視野縮小タイプ
 「生産性低下」「企業収益悪化」「中国製品の流入」「不良債権処理の不足」……などを、不況の理由として挙げる。しかし、部分的なマイナス要因をいくら列挙しても、それは「全体でのマイナス」を意味しないのだ。そのことに気がつかない。「木を見て森を見ず」というタイプ。部分的なマイナス要因を指摘しただけで、不況の全体を説明した気でいる。
 こういう主張をする人は、すべて、マクロ経済を知らないエコノミストばかり。たいていは、ミクロ経済学者である。「構造的要因」を唱える小泉もまた同様。無知の典型。

 (2) 半可通タイプ
 半分だけ正しいことを言うというタイプ。まったくのデタラメではないのだが、半分だけ正しいことを言っていて、残りの半分が間違い。部分的には正しいことを言っているのだが、何かを見失っているわけだ。
 第1に、ケインズ派。有効需要の創出を主張をするが、それにコストがかかるということを失念している。現在の不況脱出だけを主張し、将来のツケ払いを忘れている。
 第2に、量的緩和派。量的緩和を主張するが、現状が「流動性の罠」にあることを見落としている。「無駄はいくら多くしても無駄のままだ」ということを理解できず、「無駄も増やせば無駄でなくなる」と勝手に妄想する。

 (3) 泥棒タイプ
 「構造改革とマクロ政策とは別のことだ」と主張する。その意味で、私の主張と同じ。主張自体は、間違っていない。
 しかし、その主張は、私が 2001年の8月からずっとインターネット上で公開してきたことだ。それを丸写しした( or 水で薄めた)ようなもの。
 まったく、お手軽ですね。インターネット上に公開されている周知の主張にそっくりのものを、4か月遅れで出版して、「自説です」と言って、堂々と威張っている。無知のせいだか、泥棒しているんだか。……経済学者が泥棒? これじゃ、シャレになりません。
( ※ その著作 → 「構造改革論の誤解」)
( ※ ついでだが、この本、エコノミストにかなり人気がある。「泥棒は立派」と褒めるエコノミストが多い、という、摩訶不思議な世の中。)
( ※ ただ、本当は、泥棒ではなくて、インターネットを使ったことがないのだろう。泥棒と言うよりは、時代遅れの化石。)

 結語。
 以上のように、デタラメな経済学者たちのせいで、いつまでたっても不況が続くわけだ。
 「政府は間違っている」と唱える経済学者たちこそ、最も無知であり、デタラメであり、最悪の張本人と言えるかもしれない。「間違っている」という主張自体は、間違っていないが、「間違っている」とする、その理由が間違っているのだ。(……早口言葉みたいで、済みません。)

 [ 付記 ]
 なお、一言。私は別に、「自分の論説だけが正しい」と主張しているわけではない。私の論説を批判したければ、いくらでもどうぞ。賛成であれ、反対であれ、議論すること自体は好ましい。それは経済学の前線を、一歩先に進めることになるからだ。
( ※ 批判すべきは、インターネットも使えない人々が、日本経済を動かそうとする、その無知と時代錯誤である。)


● ニュースと感想  (4月16日c)

 明日からまた、マクロ経済および景気回復の話。
 さて、初めのころ以来、ここまでに述べたことを、ざっとまとめておこう。

  1.  小泉は「構造改革で景気回復」と唱える。
  2.  しかし、それは誤りである。構造改革と景気回復は、何の関係もない。強いて言えば、プラスの効果ではなく、マイナスの効果がある。(余剰人員発生による失業発生など。)
  3.  構造改革は、それ自体は、大切なことである。しかしそれは、景気回復とは関係ないし、むしろ逆効果があるのだ、ということを、理解するべきである。「良いことは、何に対しても良い効果がある」と思うことは、妄想である。Aということに良い効果があるからといって、Bということに良い効果があることにはならない。「構造改革と景気回復は、独立した問題である」と理解するべきだ。
  4.  それゆえ、景気回復のためには、構造改革をいくらやっても無効である。景気回復のためには、正しいマクロ政策が必要だ。
  5.  ただし、その「正しいマクロ政策」というのが、現在、認識されていない。ケインズ流の公共事業(有効需要創出)は、効果はあるにしても、多大な無駄(副作用)を発生させた。マネタリズム流の「量的緩和」は、「流動性の罠」の状態で、無効となった。
  6.  つまり、従来のケインズ派や古典派(マネタリズム)の経済学は、無力となった。それゆえ、新たな方法が必要とされているのである。
  7.  では、新たな方法は、あるか? ある。それは「タンク法」である。すなわち、「増減税による、貨幣量の調整」である。
  8.  では、「タンク法」の経済学的な論拠は? ── それが、現在、テーマとなっていることだ。
 [ 付記 ] 初心者向け解説
 Q なぜ構造改革は、景気回復に無効か? 
 A 質の向上は、量の問題とは別のことだからである。( → 2月08日
 たとえ話で示そう。靴の需要が 80 で、靴の供給が 100 であると、需要不足で、不況になる。このとき、「もっと良い靴を作れ! 良い靴を作れば、売れるようになる!」と言っても、ダメなのだ。総需要が同じままでは、良い靴が売れても、その分、他の靴が売れなくなる。「劣る靴が売れないのは当然だ」と言い張って、それで説明したつもりになるが、結局、不況という問題は解決しないままである。
 こういうときは、「靴の質を良くせよ」というのは、不況対策としては、まったく見当違いの話となる。大切なのは、80に急減した需要を、元の 100 に戻すことだ。それが本質なのだ。
 「経済の質を良くせよ」「構造改革せよ」というのは、まったく見当違いの政策であるわけだ。肝心なのは、一つ一つの靴の状態を見ることではなくて、一国全体における靴の過不足を知ることだ。……それがマクロ経済というものだ。一国経済を調節するには、一国経済全体を量的に知るべきである。靴の質を向上させる問題は、政府ではなく、個別の靴屋に任せるべきなのだ。






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