[付録] ニュースと感想 (16)

[ 2002.04.29 〜 2002.05.10 ]   

  《 ※ これ以前の分は、

    2001 年
       8月20日 〜 9月21日
       9月22日 〜 10月11日
      10月12日 〜 11月03日
      11月04日 〜 11月27日
      11月28日 〜 12月10日
      12月11日 〜 12月27日
      12月28日 〜 1月08日
    2002 年
       1月09日 〜 1月22日
       1月23日 〜 2月03日
       2月04日 〜 2月21日
       2月22日 〜 3月05日
       3月06日 〜 3月16日
       3月17日 〜 3月31日
       4月01日 〜 4月16日
       4月17日 〜 4月28日
         4月29日 〜 5月10日

   のページで 》




● ニュースと感想  (4月29日)

 「タンク法」と「国債残高」について。
 タンク法と景気についていろいろと述べてきた。ここで、おおざっぱに振り返りながら、その本質的な点を示そう。
 タンク法の特徴は、何か? これまで述べたことを簡単に列挙すると、
 ここで、国債残高との関連を考えてみよう。
 「減税をすると、国債残高が溜まるので、大変だ」
 という説がある。しかし、本当にそうだろうか? 

 タンク法では、国債発行をして減税をする。ただし、その国債を引き受けるのは、日銀である。ここでは、国民間の貸し借りは発生しない。そのことに注意しよう。
 国民間の貸し借りは、民間引き受けの国債では、発生する。なぜなら、「貸し手 / 借り手」つまり「債権者 / 他の人々」という区別が、国民間に生じるからだ。( → 行列モデル
 そして、貸し手と借り手がいれば、借金と返済との時間的なズレが起こることによって、国民の間に損得が発生したりする。(現在で借りて、将来で返すとする。それぞれで世代が異なれば、現在世代は借りるだけで返さなくて済むし、将来世代はその逆。)
 日銀引き受けでは、国民間の貸し借りは発生しない。全員が借りるか、全員が貸すか、どちらかだ。ここでは、貨幣価値の変化が起こるだけであり、国民間の損得は発生しない。
 仮に、国民間の損得が発生するとしたら、国民は、減税を受けたときには得をするし、増税を受けたときには損をする。……しかし、そうはならない。減税は損でも得でもないし、増税は損でも得でもない。( → 1月30日1月30日b2月22日 以降。 3月11日b
 
 結局、日銀引き受けによる増減税だと、その損得の効果は、将来には波及せず、その増減税を行なった時点で、すべて帳尻がつく。その帳尻というのは、借金の返済ではなくて、貨幣価値の変更(物価上昇・物価下落)である。
( ※ たとえば、国民の手持ちの貨幣の枚数を1割奪うという「増税」をなすかわりに、国民の手持ちの貨幣の価値をそれぞれ1割ずつ減らすという「物価上昇」をなす。)

 では、国債残高はどうなるか? 
 減税をすることで、政府には国債残高が発生する。しかし、その債務としての赤字と同じ分だけ、日銀には債権としての黒字が発生する。
 だから、政府の帳簿だけを見て、「国債残高が拡大した、大変だ大変だ」と騒ぐ必要はないのだ。なぜなら、ちょうど同じ分だけ、日銀の帳簿には黒字があるからだ。そして、政府の赤字と、日銀の黒字の、そのどちらも、国民のものである。国民としては、差し引きして、チャラになるわけだ。だから、タンク法による減税で、いくら国債残高が増えても、それは全然問題ではないわけだ。(自分で自分に借りているようなものだ。)
 タンク法で減税をしても、それは真の借金にはならない。だから、あとで借金の支払いを迫られることはない。あとで借金の支払いをするかわりに、現時点で物価上昇を受けるだけだ。つまり、現時点で、富を得て、富を失うわけだ。そういうふうに、現時点で損得の帳尻がつく。将来になってから、借金の支払いをするわけではない。
 民間引き受けの国債ならば、いつかは借金を払わなくてはならない。しかし、日銀引き受けの国債ならば、永遠に借金を払わないで済む。なぜなら、借金の支払い(損すること)は、「物価上昇」という形で、すでになしてしまったからだ。

 人はこう思うかもしれない。
 「借金を支払わなくてもいいのか。それなら、いくらでも借金できるぞ」
 と。そして、そう思って、日銀引き受けの国債を無制限に発行して、無制限にどんどん減税をしたがるかもしれない。
 しかし、そうしたとしても、全然構わないのだ。それによって財政破綻が生じることはない。将来いつか、莫大な増税がのしかかることはない。現時点において、莫大な物価上昇が発生するだけのことだ。

 結局、国債残高というものは、本質的には、二種類のものがあり、その合計額となる。
  ・ 民間引き受けの国債による、国債残高
  ・ 日銀引き受けの国債による、国債残高
 後者の額は、日銀の保有する国債の量である。前者の額は、政府の国債残高の総額から、後者の額を引いた残りである。
 真の国債残高とは、前者の額だけである。これだけに注目するべきだ。
 しかし、通常は、前者と両者をひっくるめて、「国債残高」と呼んでいる。これは、不正確な考え方だ。問題視すべきものと、問題視すべきでないものを、ごっちゃにして、計算している。あまりにも不正確である。
 前者は問題だが、後者は問題ではない。そのことをはっきりと認識するべきだ。
( ※ 両者の計算法について。……「日銀引き受けの国債」というのは、もちろん、「民間引き受けの国債」と「量的緩和」をすることである。「量的緩和」つまり「買いオペ」で国債を買ったなら、その買った国債の分が、「日銀引き受けの国債」の分となる。そういう計算を行なえばよい。)

 以上のまとめ。
  1.  民間引き受けの国債による赤字は、純然たる赤字であり、将来、ツケ払いを迫られる。この分の赤字蓄積(国債残高)の拡大は、問題である。
  2.  日銀引き受けの国債による赤字は、実質的には赤字を意味しない。どんなに増やそうと、あとで借金の支払いを迫られることはない。(単に現時点で、物価上昇が発生するだけだ。)
  3.  両者を区別しないまま、「国債残高が拡大した、返済すべきだ、さもないと財政が破綻する」と大騒ぎするべきではない。
 さらに考えよう。
 以上のことは重大な結論を導く。それは「中和政策」との関連だ。
 第3章で述べた「中和政策」とは、「現在の減税、将来の増税」である。
 しかし、上に述べたタンク法の説明では、「減税で生じた財政赤字は、あとで増税で埋め合わせなくてよい」ということになる。つまり、「現在の減税だけあって、将来の増税なしでよい」ということになる。(日銀引き受けであれば。)
 つまり、「中和政策」と「タンク法」は、異なる。(実質的にどのくらい異なるかはともかくとして、形式的にはまったく異なる。)

 このことをよく考えてみよう。
 実は、中和政策では、財源となる国債の形式を、考慮していない。「民間引き受け/日銀引き受け」のどちらであるとも決めていない。そこで、両者を明示的に分けて考えてみよう。
 「民間引き受け」では? この場合は、以前( 4月05日4月08日 )も述べたが、「中短期の民間引き受け」の減税は、特に悪くはない。「今は借金して、数年後に返済する」という形になる。
 「日銀引き受け」では? この場合は、上に述べたとおりで、国民は借金をしたことにはならず、単に減税をした時点で物価上昇が発生するだけだ。

 この両者を比較しよう。「民間引き受け」では、「日銀引き受け」とは違って、物価上昇が発生しない。なぜか? 貨幣総量は変わらず、国民間で配分が変わるだけだからだ。債権者(資産家)が支出を抑えて、その分、他の人々が支出する。総額は同じだから、物価上昇は抑止される。人々は、物価上昇が発生しないので、現時点では得する。しかし、その得した分は、あとで損をしなくてはならない。(増税で)。
 「日銀引き受け」だと、そうはならない。国民間での配分は変わらない。現時点で、みんながそろって減税で得をして、みんながそろって物価上昇で損をする。現時点で損と得がチャラになる。だから将来における増税の必要はない。

 中和政策では、数年後に増税されることが予定されている。しかし、「タンク法」では、増税は必ずしも予定されていない。もし物価上昇が起こらなければ、いつまでも増税の必要がない。また、物価上昇を許容するのであれば、増税しなくてもいい。(日銀引き受けの分については、「増税しないと財政が破綻する」というような心配は不要である。)

 [ 付記 ]
 「物価上昇が景気回復後も起こらない」ということは、あるだろうか? 
 実は、こういう事態は、十分、考えられる。それは、景気回復にともなって、急速な「円高」が発生した場合だ。(急速な「円高」というのは、バブル期の直前と同じだ。)
 具体的なシナリオを考えてみよう。たとえば今、30兆円の減税をしたとする。とたんに、消費が急速に拡大して、景気が急速に回復する。企業は稼働率が急速に向上する。遊休設備による稼働は固定費負担ゼロで(つまり限界コストだけで)生産できるようになるので、大幅に黒字が発生する。もちろん、生産性も大幅に向上する。日本の経済力は、大幅に国際競争力を取り戻す。とたんに、大幅な貿易黒字が発生して、1ドル= 80円 ぐらいの円高になる。(このくらいの円高水準なら、過去にも起こったことだし、別に、不自然ではない。とはいえ、現在の 1ドル= 130円 という水準と比べれば、途方もない円高だ。)
 さて。大幅な円高があれば、輸入物価が急速に低下する。つられて、国産品も値下げを迫られる。輸入デフレの発生。
 さて。このとき、日本政府が愚かで、大幅な「量的緩和」を実施すれば、バブルの再現である。資産価格の暴騰。
 一方、このとき、日本政府が賢明であれば、輸入デフレをつぶすために、「量的緩和」と「減税」を適度に実施するはずだ。(やりすぎない範囲で。)……つまり、資産バブルが発生しない程度の(大幅でない)金融緩和と、消費拡大のための「減税」である。
 だから、このときは、「増税」ではなく、「減税」を実施するべきだ、ということになる。つまり、景気が回復しても、「大幅な円高」が来るようであれば、「増税」は必要ない。
 「増税」が必要なのは、「インフレ」のときである。つまり、人々の消費が過大になったときである。今の日本は、根本的に、貯蓄過剰・消費不足だから、消費過剰のインフレは、なかなか来ないかもしれない。そして、それならそれで、別に構わないのだ。「タンク法」による「減税」をどんどん実施すればいい。タンク法による国債残高は、インフレが来ない限り、どんなに膨張しても構わないのだ。……そしてまた、いつか「消費ブーム」が起こって、急激にインフレが発生したとしても、別に恐れることはない。そのときはタンク法で増税すればいい。たとえ増税しても、タンク法による限り、国民は損得がないのだから、増税で国民が苦しくなることはない。それはそれで、別に問題はないのだ。
 増税や減税で損得が発生するのは、あくまで、「民間引き受け」の国債による場合だ。「日銀引き受け」の国債を使う増減税であれば、国民に損得はなく、何も問題はないのだ。(単に物価の変動が起こるだけだ。)
( ※ 上記では、「大幅な円高」と述べたが、これは、「大幅な生産性向上」と述べても同義である。「円高」と「(国際比較をしての)生産性向上」は、ほとんど同義だからだ。そして、景気が回復すれば、遊休設備の稼働や失業者の解消により、生産性の大幅な向上は確実である。となると、その分、増税の必要性は薄らぐ。生産性が5%向上すれば、本来の 2.5% を上回る分が 2.5% だ。500兆円のGDPに対して、12.5兆円。2年間で、25兆円。この程度の減税であれば、将来の増税はなしで済ませることもできそうだ。換言すれば、生産性の大幅な向上ゆえに、物価下落効果が働くから、物価上昇を阻止するための増税は必要ないかもしれない。)

 [ 余談 ]
 ここまで述べてきたことは、驚くべきことだ、とも言える。
  (a) 国債残高がいくら膨張しても構わない。
  (b) 減税はやり放題であり、増税で返済する必要はない。
 このような主張は、従来の常識には反する。「そんな馬鹿な!」と批判する人が出てくるだろう。
 その批判は、「民間引き受けの国債」を前提とする限りは、正しい。しかし、「日銀引き受けの国債」であれば、その批判は正しくないのだ。むしろ、上記の主張がまさしく成立するのだ。
 とはいっても、あまりにも常識に反するから、「トンデモだ!」と思って、理解できない人も多いだろう。よく考えれば、「物価上昇を代償とする」わけなのだから、別に、不思議ではないのだ。打ち出の小槌を振るわけでもないし、得だけが生じるわけでもないし、借金だけを積み重ねるわけでもない。
 ただ、ここでは、もう一つのことも主張をしている。
  (c) 増税には損得がないし、減税にも損得がない。
 こういう主張も、たいていの経済学者には理解できないと思える。「減税は得だ、増税は損だ」というのが、従来の常識だからだ。
 ただ、よく考えれば、従来の経済学も、タンク法と似たようなことを言っている。「日銀引き受けの赤字国債の発行だと、インフレが起こるぞ」と。その通りだ。だから、上記の主張は、別に不思議ではないのだ。しかし、そうは言っても、上記の3点のような主張を、いきなり耳に聞けば、「そんな馬鹿な! トンデモだ!」と思う経済学者も多いだろう。
 私としては、「タンク法の概念は、理解しにくいだろう」と悲観している。あまりにも従来の価値観と反するからだ。
 実を言うと、私自身、「減税をするだけでよく、増税をしなくてもいい」という上記の結論に達したとき、意外感を覚えた。「本当にそうなのだろうか?」と疑った。しかし、論理的に考える限り、それ以外の結論はありえないのだ。
 私は、上記の結論を証明するために、論理を築いてきたのではない。論理を築いていくと、ひとりでに、上記の結論に達したのである。「中和政策」を唱えたころは、「現在の減税には、将来の増税が不可避だ」と思い込んでいた。「中期的に帳尻をつけるのが当然だ」と信じ込んでいた。しかし、タンク法を考えていくうちに、それとは異なる結論に達したのである。
 この一見奇妙な結論は、私自身、納得するのに、いくらか時間がかかった。普通の人には、理解することは非常に困難だと思える。
 だから、もしあなたがすっかり理解したとしたら、あなたは非常に卓抜な頭脳をもっていることになるだろう。(そういう人がどれだけいるか、まったく悲観的ではあるが。……「トンデモだ」と思う人がほとんどかもしれない。)

 [ 告知 ]
 タンク法に関する話は、これで一応、一区切り。
 明日以降は、もっと広い話題を取り上げる。


● ニュースと感想  (4月30日)

 前日分について、補足しておく。(誤解を招くといけないので。)
 「タンク法では、財政赤字を気にしなくてもいい」と述べた。しかしこれは、「放漫財政をしてもいい」ということではない。財政赤字は許容されるが、それは、「使途が減税であれば」という前提が付く。この前提をはずして、無制限に「財政赤字を気にしなくてもいい」と述べているわけではない。
 たとえば、20兆円の国債を日銀引き受けで発行して、政府が 20兆円の金を得る。それを減税として国民に渡すのならば、国民に損得はない。しかし、それを政府が勝手に使ってしまうのであれば、国民は損である。── なぜなら、その分、物価上昇が発生するからだ。国民は、直接的には金を奪われないが、物価上昇(貨幣価値の低下)を通じて、間接的に金を奪われる。
 具体的な例を示そう。減税以外の例として、国民にとって損なものは、次のようなものがある。
   ・ 国王や元首の戴冠式
   ・ 戦争を起こした経費
   ・ 環境破壊事業にかかった経費
   ・ 万里の長城のようなものの建設費
   ・ 穴を掘って埋める経費
 結局、「財政赤字があっても構わない」というのは、あくまで、「使途が減税であれば(国民のためであれば)」という前提が付くのだ。放漫な支出を許容するわけではない。

 [ 付記 ]
 減税でなく、公共事業ならば、どうか?
 これは、すでに述べたとおり。投資効率が問題である。20兆円を公共事業に使えば、その分、国民は(物価上昇を通じて)損をする。ただし、同時に、公共事業による「効用」を得る。差し引きしてどうかは、効用しだいだ。
 例1……「穴を掘って埋める」(投資効率がゼロ)ならば、効用がないので、20兆円がまるまる損。
 例2……「電力不足のときに発電所を作って工業生産を拡大する」というのであれば、効用がうまく行けば 30兆円になる。(投資効率が 1.5 )。この場合は、30兆円 − 20兆円 = 10兆円 だから、10兆円の得。


● ニュースと感想  (4月30日b)

 「流動性の第2の罠」について。
 クルーグマンは、「流動性の罠」について説明した。それを私がわかりやすく解説した。( → 3月14日 。図もある。)
 その意味を、ここに簡単に要約しよう。── 資金の需要と供給の曲線をグラフにする。すると、「乂」のような形となる。この交点(均衡点)は、景気が悪くなると、「金利ゼロ」という水平線よりも、下に位置することがある。しかるに、その領域(金利がマイナスである領域)には、達しえない。なぜなら、名目金利はマイナスにならないからだ。ゆえに、この状況では、均衡点を得られない。

 これが、クルーグマンの「流動性の罠」だ。
 さて。クルーグマンはここから、次のように結論する。「たとえ名目金利がゼロであっても、物価上昇率が上がれば、実質金利は低下する。つまり、実質金利がマイナスになる。こうなると、均衡点に達することができるはずだ。」

 さて、これは「お金をプレゼントしてまで(補助金を払ってまで)、強引に金を借りてもらう」ということになる。それが本質的におかしい、という点は、4月28日 の記述で指摘した。(結婚したくない男女を、無理に金の力で結婚させるようなもの。)
 ところで、それはそれとして、別の問題がある。もっと重要な問題だ。実は、上のクルーグマンの主張には、重大な論理ミスがあるのだ。
 以下で解説しよう。

 物価上昇率( or 期待インフレ率)が高まったとする。たとえば、クルーグマンのいうように、4%になったとしよう。そして、日銀がゼロ金利を続けたとすれば、実質金利は、マイナス4%になる。つまり、実質金利がマイナスの領域に移ったことになる。── ここまではいい。
 では、実質金利がマイナスの領域に移ったことで、均衡点に達するか? 実は、その保証はないのだ。なぜなら、均衡点は、「金利ゼロ」よりも下の領域にあるだけでなく、もっと下の領域の領域(たとえば マイナス8%のところ)にあるかもしれないからだ。
 そして、均衡点の実質金利がマイナス8%だとしたら、実質金利がマイナス4%になっても、いまだに均衡点には達しえないことになる。
 このとき、「金利がゼロ」という「第1の下限」のほかに、「金利が物価上昇率の負数(マイナス4%)」という「第2の下限」があることになる。そして、均衡点が「第2の下限」よりも下にあるとき(たとえばマイナス8%となるとき)は、たとえ実質金利がマイナスになっても、いまだに均衡点には達しえないということになる。
 このことを「流動性の第2の罠」と称することとしよう。


 「流動性の第2の罠」が発生するか否かは、均衡点がどこにあるかによって決まる。
 そういうことだ。クルーグマンは、「第2の下限」を考慮していない。つまり、「流動性の第2の罠」を考慮していない。そして、「物価上昇が予想されれば、デフレを脱出できる」と主張する。(「インフレ目標」政策。)
 しかし、たとえ物価上昇が予想されても、その幅しだいでは、デフレから脱出できないかもしれないのだ。つまり、「インフレ目標」政策は、無効になるかもしれないのだ。

 そして、それは、現実には十分考えられるのである。「かもしれない」というよりは、「きっとそうなる」(インフレ目標はきっと無効になる)と見込まれるのだ。
 なぜか? 均衡点の金利は、かなり低い(マイナス4%よりももっと大幅なマイナスだ)と見込まれるからだ。つまり、「流動性の第2の罠」が発生する、と見込まれるからだ。
 現状を見てみよう。今は、企業の投資意欲が、非常にしぼんでいる。なぜなら、莫大な余剰設備をかかえているからだ。たとえば、自動車業界では、国内販売台数が、バブル期の生産台数の3分の2にまで減ってしまった。需要が大幅に減少したので、設備が大幅に余剰である。設備投資の必要はほとんどないのだ。(もちろん、もともと必要な設備投資もある。研究開発投資など。しかし、そういう投資は、低金利のさなかで、とっくにやってしまっている。今さら、金利が少し下がったからといって、余分に付け加える分など、ほとんどない。)
 こういう状況では、企業は、実質金利がいくらか下がったからといって、おいそれと投資を増やすわけには行かない。設備を増やしても、どうせ遊休するだけなのだから。
 とはいえ、大幅に実質金利が下がれば、まったく必要のない投資も、渋々やるようになるかもしれない。としても、そうさせるには、2%程度の金利低下では全然不足するだろう。かなり大幅の金利低下が必要となるだろう。
 たとえば、企業はこう言う。「どうしても設備投資をしてくれと言うのかね? 全然やりたくもないのに、どうしてもしてほしいのなら、危険負担も考えて、たっぷりと補助金をもらいたいね。ま、たとえば、実質金利がマイナス8%なら、考えてみようか」と。
 ここでは、均衡点は、金利がマイナス8%となる。かなり大幅な値と思えるが、やむをえまい。もともと投資意欲のないところに、無理に投資させてもらうには、かなり大幅な補助金(実質金利低下)が必要となるはずだ。
 しかるに、その低い実質金利には達しえないのだ。なぜなら、実質金利は、物価上昇率よりは下がらないからだ。名目金利が0%で、物価上昇率が4%なら、実質金利はマイナス4%(まで)よりも下には届かない。マイナス8%にはならない。つまり、均衡点には、達しえない。……「流動性の第2の罠」。

 結語。
 デフレ期には、「流動性の罠」があるだけでなく、「流動性の第2の罠」もある。均衡点が非常に低いとき(つまり投資需要が非常に縮減しているとき)には、単に物価上昇率を上げてインフレにしただけでは、不十分である。それによって、「流動性の罠」から脱することはできるとしても、「流動性の第2の罠」から脱することはできない。
 投資意欲が非常に縮減しているときには、「インフレ目標」は、「流動性の第2の罠」ゆえに、役立たずとなるのだ。こういうときは、たとえ「インフレ目標」を実行しても、有効ではないわけだ。どうしても「インフレ目標」を有効にさせたければ、設定する物価上昇率を非常に高くする必要がある。(たとえば 10% という物価上昇率。)

 [ 付記 ]
 では、物価上昇率を高くすればいいか? たとえば 10% にすればいいか? なるほど、そうすれば、深い位置にある均衡点に達するだろう。その意味では、成功する。しかし、同時に、弊害が発生するのだ。ハイパーインフレふうの弊害が。
 また、あまりにも高い物価上昇率を設定するのは、世論の反対も出て、実行自体が不可能である。
 では、どうすればいいか? 
 そもそも、「投資の拡大」を狙うというのが、本質的におかしいのだ。むしろ、「消費拡大」を狙って、減税をするべきなのだ。そうすれば、自然に解決する。なのに、やたらと異常に物価上昇率を上げて、不自然な経済状態にする、なんていうのは、まともな経済政策ではない。

 [ 補説 1 ]
 実を言うと、上の説明は、厳密さが不足している。「実際よりも甘く見積もっている」のではなく、「実際よりも厳しく見積もっている」のである。
 「流動性の第2の罠」の下限は、現実には、マイナス4%ぐらいのところにあるのではない。マイナス2%ぐらいのところにある。つまり、実際には、均衡点がマイナス8%ではなく、マイナス3%であったとしても、「流動性の第2の罠」が発生してしまう。それほど容易に、「流動性の第2の罠」は発生するのだ。
 理由を述べよう。
 「物価上昇率が4%のときに、名目金利がゼロで、実質金利はマイナス4%」と見積もった。しかし、実際には、むしろ次のようになるだろう。
    物価上昇率が2%なら、名目金利は0%
    物価上昇率が3%なら、名目金利は1%
    物価上昇率が4%なら、名目金利は2%
 つまり、物価上昇率が上がるにつれて、名目金利はしだいに上がっていく。「物価上昇率がどんどん上がっても、名目金利はゼロのまま」ということは、まず、ありえまい。
 そして、もし上のようになるとすれば、実質金利は常にマイナス2%程度だということになる。(「物価上昇率が4%のときに、名目金利がゼロで、実質金利はマイナス4%」という見積もりは、成立しない。)
 こうなると、「第2の下限」は、「金利がマイナス2%」となる。だから、「流動性の第2の罠」は、容易に発生することとなる。

 [ 補説 2 ]
 上記の例では、実質金利は、常にマイナス2%であった。そして、これこそが企業にとって意味をもつのであり、物価上昇率自体が意味をもつのではない。
 だから、厳密に言えば、企業にとって有意義なのは、「インフレ目標で設定する物価上昇率」ではなくて、「日銀の運用指針となる、実質金利」なのである。
 それは、通常、「目標となる物価上昇率」の半分程度(の負数)である。たとえば、「インフレ目標」で「目標となる物価上昇率」が4%ならば、予想される実質金利は、マイナス2%だ。そして、これが、「第2の下限」となる。
 均衡点がこれ以下の領域にあれば、均衡点には達しえない。

 [ 付記 ]
 「インフレ目標に、賛成なのか、反対なのか? いったい、どっちなんだ?」
 という疑問が生じるかもしれない。そこで、解説しておく。私の立場は、インフレ目標について、
 「賛成である。しかし、デフレ脱出の効果はあるまい
 というものだ。

 (1) 賛成である
 物価上昇率を設定するだけなら、どこの国でも(明白に or 暗黙裏に)やっている。問題は、物価上昇率の設定だが、日本だけは 0% で、他国は 2%〜4% 程度だ。当然、後者を支持する。(理由は「需要統御理論」による。)……だから、「インフレ目標」それ自体には、賛成する。

 (2) デフレ脱出の効果はあるまい
 これは、本項ですでに述べたとおり。弱い不況のときならば、そこから脱出する効果はあるだろうが、「流動性の第2の罠」に陥ると、そこから脱出する効果はなくなるだろう。
 あえてデフレ脱出を強引にやろうとすれば、物価上昇率を 10% ぐらいに設定しなくてはならないかもしれない。……もしこうなるのであれば、「インフレ目標に反対」という立場を取らざるをえない。(当たり前。)
 はっきり言っておこう。「デフレ脱出」は、「インフレ目標」の役割ではなく、「減税」の役割である。「インフレ目標」でデフレ脱出ができるのは、せいぜい、小さな不況のときだけだろう。つまり、大きな消費縮小が発生していないので、投資をいくらか拡大するだけで済むような、そういう小規模な不況のときだけだろう。
( ※ いったん減税によってデフレを脱出したあと、均衡状態を回復したら、そのあとは「インフレ目標」による「金利低下」は、明らかに有効である。それは景気回復の効果を加速する。……ただし、あくまで、デフレを脱出したあとの話だ。また、うまくデフレを脱出させる効果をもつのも、デフレが弱いデフレであったときだけだ。)
( → 2月18日 「相転移」)


● ニュースと感想  (5月01日)

 「流動性の第2の罠」と「投資減税」の関係について。
 「流動性の罠」を脱するために、クルーグマンは「物価上昇」を期待させる「インフレ目標」を提案した。それは「マイナスの実質金利」を実現する効果があるからだ。
 しかし、「マイナスの実質金利」をもたらすためには、「物価上昇」以外にも、もっと有効なものがある。それは「投資減税」だ。
 たとえば、「投資に対して、その10%を補助する」という政策を打ち出せば、企業は投資意欲を掻き立てられる。1%ぐらいではほとんど効果はないだろうが、10%ぐらいを出せば確実の効果が出るだろう。
 この「投資減税」というのは、(物価上昇率の負数という下限のある)実質金利とは違って、任意に選択できる。つまり、「流動性の第2の罠」に嵌まっているような状況であっても、十分に効果を発揮するのだ。(たとえば均衡の実質金利がマイナス8%であるような状況でも、大丈夫。補助金をそれに相当する額にすればよい。[複数年にわたる返済だと計算は面倒だが。])
 さて。では、どのくらいの率ないし総額で、補助をすればいいだろうか? もちろん、均衡点に達する程度だ。
 しかし、その額は、実際に算定するのは、かなり困難である。そこで、ごくおおざっぱに見当をつけてみると、以下の試算では、必要額は 10兆円となる。(あくまで、おおざっぱな試算だが。)
 ともあれ、補助金の額として、10兆円という数値を得た。これだけの総額を、投資減税(補助金)として、企業にプレゼントするわけだ。
 で、効果はあるか? あるだろう。「効果あり」を前提として試算したのだから、効果はあるはずだ。
 だから、とにかく、これによって、景気回復の見込みは立つ。
 そういうわけだから、「今は設備投資が不足している。設備投資を増やせ」と思うのであれば、「インフレ目標」なんかよりも、「投資減税」を主張した方がいい。その方がずっと効果的だし、確実である。(「流動性の第2の罠」がありそうなので。)

 [ 注釈 ]
 誤解されるとまずいのだが、これは「インフレ目標」よりは「投資減税」の方が確実だ、と述べているだけである。「投資減税が最善だ」と述べているわけではない。
 何が最善かと言えば、もちろん、「国民への減税が最善である」となる。それが私の見解だ。なぜなら、投資はもともと余剰であり、消費が不足している。こうときには、消費を拡大するために、国民に直接金を渡すべきだ。つまり、国民への減税をするべきだ。(だいたい、消費が縮小しているときに、投資を拡大するために金を使うなんて、見当違いであろう。)
 ただし、世の中には、「拡大するべきは、消費ではなく、設備投資だ」と主張する人も多い(「量的緩和」をしたがるマネタリスト)。そういう主張をする人のために、「どうせ投資の拡大を目的とするのなら、投資減税をしなさい。そっちの方がまだマシですよ」と勧告しているわけだ。
( ※なぜなら、「インフレ目標」は、「流動性の第2の罠」ゆえに、たぶん無効であるから。効き目のない薬を「効き目がある」と勘違いして、いくらたくさん呑んでも、効き目はないし、病気はいつまでたっても治らない。そんな馬鹿なことをするくらいなら、少しは効き目のある薬を飲んだ方がマシだ。たとえそれが最善の薬ではないとしても。)
( ※ わかりやすく言えば、本項で述べたことは、「大馬鹿にならない方法」であり、「小馬鹿になる方法」である。利口な人ならば、こんな方法を取るべきではない。だから、利口な人は、本項の話を読む必要はない。利口にとっては、「小馬鹿になる方法」は、無意味である。本項はあくまで、マネタリストのためのアドバイスだ。)

 [ 補説 1 ]
 「投資減税」をすれば、企業は得をする。では、国民はどうか? それを考えてみよう。
 本質的に言えば、「企業と国民の損得」というのは、あまり意味がない。企業というのは、人格ではないからだ。たとえば、「K建設」という企業が利益を得たということは、その企業という抽象的な存在が利益を得て金を使うということではなくて、その企業で利益を得る人々全体(労働者・経営者・株主)の利益額が増えたということだ。単なる「企業と国民」という区別は無意味だ。
 だから、企業が得をすれば、失業者が減ったり、賃金が上昇したりして、国民が得をする。長期的には、そうだ。
 ただ、短期的には、企業と国民という区別をすることに意味もある
 企業に減税をしても、企業にどんどん金が溜まるばかりで、国民には回ってこない、ということがあるからだ。(たとえば1兆円の連結利益を得たトヨタは、利益を死蔵しており、労働者にも株主にも渡さない。単に預金通帳の数字が増えるだけ。金の滞留。) だから、短期的には、「(企業に金を与える)投資減税をしても、ろくに景気は拡大しない」ということになる。
 また、「景気が拡大すると、物価上昇が発生する。企業は、投資減税と、実質金利の低下で得をするが、ちょうどそれと同じ分、国民は、損をする。(減税なしの物価上昇と、実質金利の低下で)」ということにもなる。── ここでは、企業と国民との間で、損得が発生する。(これは、景気回復を遅らせる効果がある。)

 [ 補説 2 ]
 企業と国民の損得があるわけだが、その効果は、「マイナスの金利」と「投資減税」とで、異なるだろうか? 
 実は、両者で、効果は同じである。どちらも、家計から企業へ、富を移転させる。
 「マイナスの金利」(インフレ目標による)というのは、「金利を強引に下げる分、企業に得をさせて、家計に損をさせる」ということである。
 「投資減税」というのは、(タンク法で)「物価上昇」を起こすが、このとき、「企業には物価上昇を上回る利益を与え、家計には何も与えずに物価上昇による損だけを与える」ということだ。
 いずれにしても、家計から企業に、富が移転する。(「マイナスの金利」も「投資減税」も、どちらもそういう効果がある。)
 ただし、富の移転の方法が、異なるわけだ。
 ・ 「投資減税」……企業に現金を渡し、家計からは「物価上昇」で金を奪う。
 ・ 「マイナスの金利」……「金利低下」で、企業には富を与え、家計からは富を奪う。

( ※ 繰り返すが、この富の移転[家計から企業への移転]は、必然である。一方が得をすれば、ちょうど同額、他方が損する。金はひとりでに湧いてくるわけではないからだ。……どうも、ここを勘違いしている人が多いようだが。)
( ※ ただし、この富の移転を、良いとか悪いとか言っているわけではない。単に経済学的な効果を見ているだけだ。「国民の金を企業に渡すのはけしからん」などとは述べてはいない。「国民の金を企業に渡すべきか否か」は、状況しだいである。状況によって、良くもなり、悪くもなる。原則的に言えば、消費不足のときは国民に金を渡すべきであり、供給不足のときは企業に金を渡すべきである。……ここを勘違いしている人も多いが。)
( ※ 「企業と国民のどちらに金を渡すべきか」という問題は、「量的緩和と減税をどう配分するべきか」という問題と等価である。そして、この問題に対する解答は、先週に詳しく述べたとおりだ。「双方の可変的なコントロールが必要であり、最適になるように調整するべきだ。状況ごとにこれこれ」と説明した。)

 [ 補説 3 ]
 企業の投資を優遇することには、大きな問題がある。それは「不公平」という問題だ。
 設備投資をするのは、第二次産業の大企業が多い。それ以外の第三次産業の企業は、あまり設備投資をしない。(せいぜい店舗の改装ぐらいだが、赤字倒産の危機に、店舗改装なんかやる零細企業主はほとんどいないだろう。サービス業だと、もともと設備がほとんど不要である職業も多い。)
 というわけで、得は一部に集中し、損は国民全般に渡る。普通の減税に比べて、きわめて不公平と言えよう。

 [ 試算 ]
 前述の 「必要な投資減税の規模は 10兆円となる」という、おおざっぱな試算を述べる。以下の通り。(特に読まなくてもよい。)
 まず、景気回復のためには、最低でも GDPを 5% 拡大する必要がある。だから、500兆円の 5% で、25兆円の投資が必要。
 しかし、これだけでは十分ではない。 「減税なし」という条件の下では、消費者は物価上昇があっても、所得の上昇がないから、消費を切りつめる。おおざっぱに言って、投資拡大の半分ぐらいは、消費縮小で相殺されそうだ。となると、その相殺の分を埋めるためには、10% (50兆円)の投資拡大が必要となる。
 さて、これだけ巨額の投資を、いきなり企業に「やれ」といっても、まずは無理である。最低限のどうしても必要な投資の分は、すでに 0% 程度の金利のもとで、実行済みである。
 ここで、さらに1兆円を上乗せするのなら、2%程度の補助金で済むかもしれない。
 さらに10兆円を上乗せするのなら、5% 程度の補助金で済むかもしれない。
 しかし、50兆円となると、途方もない金額だ。ちょっとやそこらでは、なかなか必要額に達しない。そもそも、消費が拡大する見込みが立っているのならともかく、消費拡大の見込みがないし、それどころか、実質所得の縮小で、消費縮小の見込みさえある(長期的には拡大するだろうが、当面は消費は拡大しない)。また、設備投資は、ただでさえ大幅に遊休している。
 となると、「50兆円も設備投資を拡大させる」というのを有効にするには、20% つまり 10兆円ぐらいの補助金が必要だろう。

  《 明日の記述に続く 》


● ニュースと感想  (5月02日)

 前日分の続き。「投資減税」の話。(オマケふうの話なので、特に読まなくてもよい。後半の (6) だけ読むのでも十分。)

 前日分では、「インフレ目標(つまりマイナスの金利)」と「投資減税」との比較を述べた。では、「投資減税」と「普通の減税」との比較はどうか? つまり、どうせ減税をするとして、企業に減税するのと、国民に減税するのとでは、どちらが好ましいか? 

 初めに、結論を簡単に述べておこう。
  1.  「マイナスの金利」も「投資減税」も、ともに、同じ効果がある。つまり、企業に利益を与え、その分、家計に損をさせる。
  2.  「投資減税」と「普通の減税」の、減税の比率を可変的に変更することができる。つまり、比率を最適化できる。
  3.  「普通の減税」だけをしても、第2項と同じ最適化ができる。なぜなら、第1項ゆえに、「マイナスの金利」(量的緩和)を併用することで、実質的に、企業に利益を与えることができるからだ。
  4.  「投資減税だけ」をするのでは、この手は利かない。企業から家計に金を渡すことはできないからだ。(仮にやるとしたら、高金利だが、それは逆効果。)
  5.  「不公平」の問題(前述)を考慮すると、「普通の減税だけ」がベストである。景気刺激効果を考えても、やはり「普通の減税だけ」がベストである。(投資減税はしない方が好ましい。)
  6.  「将来の増税」を考慮しても、「普通の減税だけ」が好ましい。
 以下、順に説明する。[ (1) 〜 (5) は、読まなくてもよい。]

 (1) 「マイナスの金利」も「投資減税」も、ともに、同じ効果がある。つまり、企業に利益を与え、その分、家計に損をさせる。
 これは、前日に述べたとおり。一方に得をするが、その分、他方が損をする。富は湧いて出るわけではないからだ。

  (2) 「投資減税」と「普通の減税」の、減税の比率を可変的に変更することができる。つまり、比率を最適化できる。
 たとえば、企業に 10兆円の減税、国民に 15兆円の減税、というふうに配分する。
 ( ※ 配分法については、前日の [ 補説 2 ] の最後を参照。)

  (3) 「普通の減税」だけをしても、第2項と同じ最適化ができる。なぜなら、第1項ゆえに、「マイナスの金利」(量的緩和)を併用することで、実質的に、企業に利益を与えることができるからだ。
 たとえば、25兆円の減税を家計だけに渡しても、「マイナスの金利」で家計から企業に 10兆円を移転させれば、(2) と同じ結果になる。

  (4) 「投資減税だけ」をするのでは、この手は利かない。企業から家計に金を渡すことはできないからだ。(仮にやるとしたら、高金利だが、それは逆効果。)
 企業に 25兆円の減税を与えても、その分のうちのいくらかを、金利によって国民に渡すことはできない。無理にやろうとして、高金利にすれば、逆効果。

  (5) 「不公平」の問題(前述)を考慮すると、「普通の減税だけ」がベストである。景気刺激効果を考えても、やはり「普通の減税だけ」がベストである。(投資減税はしない方が好ましい。)
  これも、前日に述べたとおり。

  (6) 「将来の増税」を考慮しても、「普通の減税だけ」が好ましい。
 将来、インフレになったら、増税が必要となる。これについては、問題が発生する。この問題ゆえに、「投資減税」などを行なわず、「普通の減税」だけにするのが好ましい。詳しくは、以下のとおり。

 うまく景気が回復すると、将来、物価上昇が起こるかもしれない。もし物価上昇が起こったなら、「増税」が必要となる。
 さて、タンク法の増税は、国民にとって損得はない。だから、「損得はない」という説明を、国民に納得してもらえるはずだ。しかし、いったん投資減税をしたとなると、うまく納得してもらえないのだ。(これは、経済学的というよりは、政治的な問題である。その理由を、以下で説明する。)
 政府は、こう主張するはずだ。
 「タンク法の増税は、損も得もない。増税をするが、国民は損をしない」
 それはそれで正しい。ただし国民は、納得せずに、こう反発する。
 「嘘つきめ! 以前は、『タンク法の減税は損も得もない』と言ったではないか。しかし、あのときは、大損をしたぞ。家計から企業会計へ、10兆円も流出した。その分、企業は得をしたが、家計は損をした。損得はないだと? 嘘をつかないでくれ」
 なるほど、それはそうである。たしかに、「投資減税」をしていれば、家計はそのとき損をしたことになる。これに対してあれこれと説明をしたとしても、かつて実際に大損をさせた以上、何を言っても無駄である。
 となると、政府は、企業に対して、こう求めるしかない。
 「今、インフレなのに、家計が増税を受け入れてくれない。だから、企業に増税を受け入れてもらうしかない。企業に対して、増税をする。前は「投資減税」で金を与えたんだから、今度は金をいただく。企業の需要を冷やすため、「投資増税」だ。景気を冷ますために、増税を受け入れてくれ」
 しかし、こんなことを言い出せば、企業の反発を食う。
 「現状のインフレは、企業の投資が過熱しているからではない。消費が過熱しているからだ。消費が過熱していて、供給不足なんだ。こういうときに、投資をさらに減らしても、需要過大・供給不足の幅が開いて、物価はさらに上がる。その上、雇用が減って、失業率は上がる。スタグフレーション気味になる。本気で、スタグフレーション気味にするつもり? 物価が上がり、失業者が増えますよ。馬鹿じゃないの? いいですか。消費が過熱しているときは、消費を冷やすべきなんだ。企業に課税するのは、本末転倒だ。消費に課税するべし」
 と。これはまったくの正論である。その通りだ。インフレのときは、消費過剰なのだから、消費に課税するべきだ。
 そこで政府はふたたび、国民に「増税を」と要請する。経済学の理屈から言って、当然なのだから、きっと国民は受け入れてくれるだろう、と思う。しかし、国民は反発する。
 「インフレのときに消費に課税するというのは、たしかに正論だ。それは認める。しかし、デフレのときには、どうしたんですか? 消費に減税するべきだったのに、投資に減税した。二枚舌じゃないか。金を取るときは、正論を言う。しかし、金を渡すときは、嘘をついたじゃいか。あのときは嘘をついて、国民から金を巻き上げて、企業に渡した。冗談じゃない。こっちはそんなに、お人好しじゃないぞ。いいですか。ちゃんとはっきりと決めてくれ。投資と消費、どちらに増減税するべきなのか。投資なら投資、消費なら消費。どっちかだ。減税のときは『投資』と言い、増税のときは『消費』と言うなんて、そんな身勝手なことは困る。どちらか、はっきり決めてくれ」
 これも、正論だ。投資の増減は、金融操作で行なうべきものだ。消費の増減は、増減税で行なうべきものだ。なのに、投資の増減を、「減税」でやってしまうという過ちを犯したのだから、政府としては、今さら、申し開きができない。
 結語。
 インフレ期には「国民に増税」をすることが必要となる。だから、不況期には「国民に減税」をするしかないのである。さもなくば、あとでインフレ期に、正しい制御の方法(増税)を失う。


● ニュースと感想  (5月02日b)

 「フィリップス曲線」について。
 「物価上昇率と失業率の二律背反(反比例関係)」を、グラフで示したものを、「フィリップス曲線」という。(経済学の初歩的な知識だから、たいていの人は知っているだろう。)
 これは、統計的なものである。実際、過去の多くの年代で、この通りの事実がだいたい成立することが実証されてきた。
 ただし、これに反する時期もあった。石油ショック期以降である。物価上昇も失業率も、ともに上昇した。つまり、スタグフレーションである。
 これに対して、従来型の経済学は、二つの方法を示した。

 (1) ケインズ派
 ケインズ派は、こう主張した。「失業を減らすため、財政を拡張せよ。量的緩和して、金利も下げよ」と。実際にそうすると、失業はいくらか減った。しかし、財政拡張によって、ますます物価上昇率が上がった。物価上昇の期待から、人々は預金せずに資産投資などをしたので、資金需要が増え、量的緩和を帳消しにするほど、金利が上がった。(これを「フィッシャー効果」という。)
 そのせいで、民間投資は増えず、供給不足気味となり、ますます物価上昇が悪化した。増えたのは、政府の無駄な公共事業による、コンクリートの塊だけだった。
 かくて、大失敗。「失業率も物価上昇率もどちらも悪い」というスタグフレーション状態を、さらに悪化させた。

 古典派(マネタリスト)
 古典派(マネタリスト)は、こう主張した。「貨幣供給量を絞れ。そうして物価上昇を防げ」と。この方針は、見事に成果を収めた。物価上昇は、うまく収束した。その意味で、スタグフレーションを解決した。しかし、「フィリップス曲線」の問題は残った。物価上昇率は低下したが、失業率は上昇した。これに対して古典派は、「彼らは好き勝手に失業しているんだ。もうちょっと賃金を下げれば雇用されるのに、賃金を欲張るから、雇用されないのだ」と主張した。
 しかし、これは、ちょうど今の不況期に対する、古典派の主張と同じだ。「失業増加なんか、全然、問題じゃないね。いくら赤字企業が増えようと、いくら人々が自殺しようと、全然問題じゃないね」というわけだ。
 ケインズ派の失敗は、単に人々に痛みをもたらしただけで、生産そのものを縮小したわけではなかった。古典派の失敗は、単に人々に痛みをもたらすだけではなく、多大な失業と遊休設備を発生させ、経済そのものを大幅に縮小してしまった。たとえて言えば、病人に対し、「モルヒネで痛みを減らし、そのかわり、命そのものを削る」という政策である。
 古典派はこれを「成功」と称した。「人々がいくら失業したり、死んだりしても、それは彼らがそうしたがっているからだ」という理屈である。
 しかし、これはもはや、経済学ではない。ただの現状追認である。「これこれの問題がある。この問題を解決するには、どうするべきか」という主題が提案されて、みんながカンカンガクガクの議論をしているときに、「これは問題じゃないんだ。人々が自殺するのも、自分でそうしたがっているからだ。何も問題はないんだから、何もしないでほったらかしておけばいい」というわけだ。ほとんど宗教である。(実際、彼らは、「神の見えざる手」という言葉を使う。「古典派」というのは、経済学というよりは、一種の宗教なのである。)

 まとめて言うと、従来の経済学は、どうだったか? 
 ケインズ派は、失業率だけに着目して、不況対策の手法を用いた。そのため、スタグフレーションという状況(単なる不況とは異なる)に対する処置が見当違いとなり、状況をかえって悪化させてしまった。(解熱剤を飲ませるべきときに、加熱剤を呑ませるようなもの。)
 古典派は、物価上昇だけに着目して、これについては適切に処置したが、失業問題については経済学を放棄して、ただの宗教と化してしまった。

 本質的には、両者は、どこが根本的に間違っていたのか? それは、これまでに「タンク法」で述べてきたことを理解すれば、明らかであろう。
 経済政策というものは、「金融操作」と「財政操作」を、適切にコントロールして行なうべきなのだ。特に、スタグフレーションにおいては、この両者を逆方向に行なうべきなのだ。(相反型のポリシー・ミックス)
 実際には、そうしなかった。ケインズ派は、財政操作だけにとらわれた。古典派(マネタリスト)は、金融操作だけにとらわれた。どちらも、車の両輪のうち、片方しか使わなかった。だから、正しい方向に進むことができず、間違った方向に進んでしまったのである。(両者を一字で言えば、前者は「愚」、後者は「狂」。)

 「フィリップス曲線」は、絶対真理ではない。あくまで過去における、歴史的経験則である。そこから逸脱することは、可能である。「あちらが立てば、こちらが立たず」ということはない。「物価上昇と失業率上昇の二律背反」から逃れることは可能である。そして、その方法を、「相反型のポリシー・ミックス」として、先に示してきたわけだ。 ( → 4月25日

 [ 付記 ]
 今、不況のさなかで、「量的緩和をするだけでいい」と主張する人がいる。彼らは、スタグフレーションになっても、「金融操作だけでいい、金利を引き上げればいい」と言うだろう。そうして、失業率の上昇を、容認するだろう。
 今、「失業率が高いのはダメだ、量的緩和をせよ」と主張する人々も、スタグフレーションになったら、「失業率が高いのは仕方ない、量的緊縮をせよ」と主張するだろう。今は「失業による自殺者を出してはいけない」と善人面をしていても、スタグフレーションになったら、「失業による自殺者続出も仕方ない。国家経済を健全化するためだ」と主張するだろう。冷酷に。
 そういうダブル・スタンダードの人々を、「マネタリスト」と呼ぶ。


● ニュースと感想  (5月03日)

 「相反型のポリシー・ミックス」は、なぜ、必要となるか? 
 「相反型」というのは、逆方向に進むわけだが、これは、経済政策としては、形の上では矛盾していると見える。だから、不自然に思える。
 そして、そう感じるとしても、おかしくはない。実際、不自然なのである。なのに、なぜ、不自然なものが必要となるかと言えば、その前に、不自然なものを必要とする、いびつな状況が発生していたからである。あらかじめ、いびつな状況が発生していたから、いびつな状況を補正するため、不自然なものが必要となるのである。

 そもそも、正しい経済政策を取っているのであれば、「金融政策」と「財政政策」を、逆方向に行なう必要はなく、同じ方向で行なうだけでよい。そのとき、両者の配分を適当にコントロールするだけでよい。その配分は、0% 〜 100% であって、マイナスにはならないはずだ。だから、本来ならば、「両者を逆方向に行なう」というポリシー・ミックスは、必要ない。
 ただし、それは、あくまで、理論上のことである。実際には、政府が愚かな政策を過剰に行なうことがある。たとえば、景気が過熱したとする。このとき、投資と消費をともに減らすため、金利引き上げと増税を、半々の割合でやるべきだったとする。なのに、現実には、政府が金利引き上げだけを実行したとする。こうなると、景気は冷える(物価は下がる)が、失業が急増する。だから、そうなったら、「金利引き上げだけ」という状況を補正するために、「金利引き下げと増税」をするべきなのである。
 たとえば、金利が5%のときに、物価が上昇した。正しい政策は、金利を6%にして、増税をすることであった。にもかかわらず、金利を7%に引き上げるだけにした。すると、物価上昇は収まったが、失業率が上昇した。こうなると、状況を税制するためには、「金利を1%下げて、増税する」という、相反型のポリシー・ミックスが必要となる。
 相反型のポリシー・ミックスというのは、偏った経済政策を是正するためのものなのである。一見、金融操作と財政操作の方向が反対であるように見えるが、本質的には、反対ではなくて、単に「行き過ぎたのを直す」という調整にすぎない。

 [ 補説 ]
 具体的な例を示そう。
 2002年のアルゼンチンを見よう。スタグフレーションが発生している。高率の物価上昇と、高率の失業。ここでは、「投資拡大」と「消費減少」のため、「金利引き下げ」と「増税」が必要である。そういう「相反型」のポリシー・ミックスが必要となる。
 逆に言えば、今までは、それとは逆の政策をしていたことになる。つまり、「投資縮小」および「消費拡大」という政策を取っていたことになる。
 本当にそうか? 調べてみれば、すぐわかる。それまでは「通貨高」だった。そして、「通貨高」というのは、消費者にとっては外国製品を安く買えるので得であり、生産者にとっては安い外国製品と競合するので損である。つまり、消費者を優遇し、生産者を冷遇していた。
 「通貨高」というのは、上記のような相反型のポリシー・ミックスとは、逆の効果をもつ。だからこそ、その根本問題を相殺(毒消し)するために、それとは逆の効果をもつような政策(上記のような相反型のポリシー・ミックス)が必要となる。
 換言すれば、上記のような相反型のポリシー・ミックスは、「通貨高」と逆の効果をもつから、「通貨安」と同じ効果をもつことになる。
 本当にそうか? 消費者にとっては、「増税」も「通貨安」もどちらも損。生産者にとっては、「金利低下」も「通貨安」もどちらも得。……だから、たしかに、効果としては同じだ。
 では、どちらを取るべきか? ポリシー・ミックスの方だ。なぜなら、急激な通貨安は、混乱を引き起こすからだ。(たとえばアルゼンチンでは、取り付け騒ぎが発生して、金融恐慌の状態になっている。)
 通貨安と同じ効果をもつポリシー・ミックスを実行すれば、その分、通貨安の幅が少なくて済む。だからこそ、経済的な混乱を避けることができる。

 さて。ここから、もう一つの結論を得ることができる。
 日本では、バブル期には、急激な円高が進んだ。このときは、もうひとつのタイプの相反型のポリシー・ミックス(「金利高」と「減税」)を実行するべきだった、と言える。
 これは、先と同じ理屈で、「通貨高」の効果をもつ。だから、これを実行すれば、その分、円高の幅が少なくて済むことになる。かくて、急激な円高という、経済的な混乱を避けることができるわけだ。

 ここで述べたことは、重要である。
 ポリシー・ミックスと通貨相場というのは、まったく別のことだと思われている。しかし、実際には、ポリシー・ミックスと通貨相場は、かなり似た効果がある。たがいに代替関係にあるのだ。
 まったく別々だと思われている事柄にも、実は、見えない関係があること。……ここには、数学の定理のような、真実がある。


● ニュースと感想  (5月03日b)

 「金融操作」と「増減税」の実施方法について。
 「金融操作」と「増減税」の、実施方法を考えよう。いつ、どのくらい、実施するべきか?
 そもそも、増減税は、立法が必要である(租税法律主義)。となると、ときどきしか、実施できない。となると、いったん実施するとなると、必要量を満たすために、かなり「大幅に」実施することとなる。
 そして、「大幅に」実施するとなると、細かな調整はできなくなる。だから、その「細かな調整」は、金融操作で行なうこととなる。そして、その方向は、必ずしも同じ方向なのが最適だとは言えない。
 たとえば、インフレという状況に対して、景気冷却の効果を施すべきであったとしよう。まずは、ただちに、金利の引き上げだけで、即時的に対処する。しかし、放置すると、金利ばかりがどんどん高くなる。失業率の上昇をもたらす。まずい。そこで、「増税」を行なう。しかし、金利が高い状況で、いきなり「大規模な増税」をすれば、景気が急に冷えてしまう。そこで、「大規模な増税」と同時に、「金利引き下げ」を実施する。(ポリシー・ミックス)
 これで、状況が改善すれば、それでよし。さらにインフレが進むようなら、とりあえずは、金利を引き上げる。逆に、景気が冷えすぎてしまったのなら、金利をさらに引き下げる。そういうふうに、増減税という粗い操作のあとで、金融操作で微調整する。

 結語。
 金融政策というものは、小幅かつ即時的に行なうものである。増減税というものは、大幅かつ散発的に(時期遅れで)行なうものである。── だからこそ、両方が逆方向に進むことがある(相反型のポリシー・ミックスが必要となることがある)。

 [ 余談 ]
 このことを比喩でたとえてみよう。
 「大きな足」と「小さな足」がある。「大きな足」は、一度に5メートルずつ歩く。「小さな足」は一度に1メートルずつ歩く。1メートル、2メートルならば、「小さな足」だけで足りる。3メートルも、「小さな足」を3回で足りる。ただ、4メートルとなると、「小さな足」だけでは適切でない。いったん「大きな足」で5メートル進んでから、「小さな足」で1メートル戻る。
 これを外から見ると、「小さな足は、前に行ったり、後戻りしたり、方向が逆になっていて、何だか矛盾しているな」と見える。しかし、そういうふうに方向を変化させることこそが、最適なのである。
 こういうときに、「同じ方向だけでなくては」と思って、4メートル進むべきときに、大きな足で5メートル進むだけにすると、行き過ぎることになる。
 あまりうまい比喩ではないが、前述のことを理解するために、直感的に感じ取ってほしい。

 なお、「小さな足だけで足りるではないか」という意見もあるかもしれない。しかしこの問題は、何度も批判してきたとおり。マネタリスト流の「金融操作(量的緩和)だけ」というのは、副作用があり、最善ではないのである。
 金融操作は、「迅速」というメリットはあるが、操作自体は、最善のものではない。財政操作(増減税)は、好ましいが、迅速には実施できないから、そこを、金融操作で補うだけだ。

 [ 付記 ]
 ここで述べたことは、「増減税は迅速には実行できない」ことを前提としている。
 ただし、先に「ID口座」というものを提案した。( → 2月28日b
 これを使えば、細かな増減税を即時的に実行できる。だから、上記のような問題は起こらなくなり、相反型のポリシー・ミックスは必要なくなる。
 相反型のポリシー・ミックスが必要なのは、あくまで、不適切な経済操作を補正するためのものである。初めから、経済操作を最適に実行できるのなら、それに越したことはない。ID口座を使えば、それができる。
( ※ 「ID口座による増減税」というのは、いわば、経済政策のIT化である。どうせIT化を唱えるなら、「 e-Japan 」なんて言葉で大騒ぎするよりも、まさしく、政府の経済政策をIT化するべきなのだ。)


● ニュースと感想  (5月04日)

 「インフレ目標」と「バブル」の関連について。
 これまで、「流動性の第2の罠」によって、「インフレ目標が十分ではないこともある」と説明した。つまり、ひどい不況のときは、不況を脱するために、高めの物価上昇率(たとえば 10% )が必要となるが、そんな値は設定できないので、不況から脱出できないわけだ。(大幅なマイナスの金利が必要なのに、小幅のマイナスの金利しか実現できない。)
 また、「インフレ目標よりは、投資減税の方が有効である。ただし、普通の減税よりは悪い」とも述べた。
 また、「スタグフレーションのときは、金融操作だけではダメだ」とも述べた。

 本項では、別のことを述べる。「バブルのときは、金融操作だけではダメだ」ということだ。
 この件は、すでに先日にも述べた。( → 4月27日 ) そこでは、「バブルは、相反型のポリシー・ミックスで解決可能だ」とも述べた。
 では、相反型のポリシー・ミックスを使わず、従来型の金融操作だけをしたら? もちろん、先日に述べたように、単なる資産インフレが発生する。
 ここで、「バブル」と「インフレ目標」との関連を考えよう。

 バブル期に、量的緩和をすれば、資産インフレを膨張させる。これは当然だ。
 しかし、である。バブル期には、消費者物価はあまり上昇していなかったのである。( 具体的な数値は → 4月27日 の最後。)
 バブルの最中に、「インフレ目標」を実施していたら、どうなるか? 「物価上昇率は、まだあまり高くないから、もっと金融緩和をするべきだ」という結論となる。
 クルーグマンの設定する物価上昇率は、4% である。この値自体は、正当である。(私としては、短期的には、もう少し高めでもいいと思う。)
 ただし、この物価上昇率を目標として、単に「金融緩和だけ」をやれば、どうなるか? 資産インフレの最中に、ますます資産インフレを膨張させる。とんでもない事態となる。
 仮に、バブル期に、クルーグマンが日銀総裁をやっていたら、バブルはさらに急膨張していただろう。(そして、そのあとには、巨大なバブル破裂が待ちかまえている。)
 これは、過去への仮定だった。しかし、話は、未来にも適用できる。今は、過剰な量的緩和をやっている。こういう状態で、減税なしで「インフレ目標」だけを実施すれば、インフレは来ないで、資産インフレが来る。なぜなら、消費は減税なしのせいで抑制されたままだから、過剰な資金は設備投資でなく資産投資に向かうしかないからである。( → 4月27日4月28日 補説
 「インフレ目標」による量的緩和は、インフレではなく、資産インフレを起こすのだ。バブル期もそうだったし、今もそうだ。だから今、「インフレ目標で景気が回復する」と思うのは、あまりにも楽観的な妄想である。そういう妄想は、日本経済を、致命的に傷つける。
 クルーグマンは、利下げが過剰だったことと、利上げが過剰だったことを、こういう比喩で示した。「日銀は、日本経済を、車で前進して轢いてしまった。そのあと、ごめんなさいと言って、車で後退してまた轢いてしまった」
 まことに適切な比喩である。バブルで轢いて、バブル破裂で轢いた。そして今、「インフレ目標」を実施すれば、ふたたびバブルが発生する。となると、「ごめんなさいと言って、また車で前進して轢いてしまう」ということになる。三度目だ。
 話の根本は、何か? 「金融操作だけ」という間違った方法を取る限り、何度でも繰り返して、経済を轢き殺してしまうということだ。

 [ 付記 ]
 「バブル期には、金融引き締めが遅れた。もっと大幅に金融を引き締めるべきだった」という主張がある。
 「インフレ目標を実施するべきだ。年3%〜4%の物価上昇率を定め、それ以下の物価上昇率では、金融緩和するべきだ」という主張がある。
 この両者は、矛盾する。バブル期には、物価上昇率が低かったからだ。( → 4月27日 の 最後の表
 この矛盾に気づかず、両方を主張している経済学者が多い。彼らは、自らの論理矛盾に気づいていないのだ。


● ニュースと感想  (5月04日b)

 「資産インフレはすばらしい」と信じている人々がいる。あまりにも愚かというか、まったく懲りないらしい。そこで、説明しておく。
 資産インフレというのは、帳簿の価格が増えることだ。それは実質的な富の増加を意味しない。土地が莫大な価格となろうと、株が莫大な価格となろうと、それは富の増加を意味しない。なぜなら、自動車やパソコンがたくさん生産されるわけではないからだ。帳簿の価格がどんなに上がろうと、富自体は少しも変動しないのだ。
 生産物の増加は、富の増加を意味する。資産の増加は、富の増加を意味しない。たとえば、権兵衛さんの土地が1億円値上がりしたとする。これで日本の富は増えるか? いや、全然増えない。権兵衛さんは、1億円得するが、権兵衛さんの土地を買う人は、1億円損する。土地が値上がりすれば、売り手が得して、買い手が損する。差し引きして、トントンである。全体としての富は1円も増えない。(売り手に富が増えて、景気が良くなるが、同時に、買い手は余分な投資を強いられ、景気が悪化する。差し引きして、トントン。)
 株だって、同様だ。株主は、株を高値で売れば得するが、高値で買った人は損する。差し引きして、トントンである。
 結局、どんなに資産インフレが発生しようと、国全体としての富は少しも増えないのである。なぜなら、土地自体は、少しも増えないからだ。土地自体は、二倍にも三倍にも広くならないからだ。(長期的には、土地の利便性が増えるが、年に数パーセント程度だから、短期的には無意味。)

 ただし、資産インフレのとき、「錯覚」が生じる。国全体の富が増えないのに、増えたように思い込む。(たいていの経済学者がそうだ。)
 資産保有者も、錯覚する。資産を売るまでは利益が確定しないのに、あたかもすでに利益が確定したと思い込む。「すでに多額の資産をもっているのだ」と思い込む。こういう錯覚に基づいて、消費をする。しかし、売れてもいないものを売れたと思うのは、しょせんは錯覚にすぎない。( → 明日・明後日でも説明する)

 また、もう一つの錯覚もある。「資産上昇は永続する」という錯覚だ。こういう錯覚も、バブル期には続いた。しかし、その錯覚もまた、いつかは覚めるときが来た。(ただし、これは初歩的な錯覚だから、初心者以外は信じなかったが。)
 「資産上昇」は永続するか? もしそうなら、誰もが得をする。しかし、そんなことは、ありえないのだ。なぜなら、資産というものは、しょせんは、それにふさわしい価値しかないからだ。土地ならば、土地収益率。株ならば、株価収益率。それによって、正当な価格は決まる。
( ※ 正当な価格より高い分が、錯覚となる。ただし株屋は「錯覚」を「予想」と称する。)

 結語。
 「資産インフレはすばらしい」というのは、大いなる錯覚である。それは、土地収益率も株価収益率も知らない経済素人が、棒線グラフだけを見て、「過去においては上昇したなら、未来においても上昇するはずだ」と思い込んだすえ、「無限の上昇」という、ありもしないものを信じているだけのことだ。正気を逸した妄想である。
 そして、妄想は、いつか覚めるときが来る。

( ※ にもかかわらず、こういう狂気的な妄想を、多くの経済学者が信じている。そして「バブル破裂で多大な富が失われてしまった」などと、とんでもないデタラメを言い出す。あげく、「バブルを再現させよう」と言い出したりする。あるいは、「インフレ目標」を唱えて、「インフレ」を起こすつもりで「資産インフレ」を起こしてしまう。狂気と錯覚。……世の中の大半の経済学者が、こうだ。懲りない人々。)
( ※ バブル期以前には、経済学者はこう主張していた。「日本は地価が高い。だから、高コストで、企業には不利なのだ。日本経済活性化のために、地価を下げよ!)

 [ 余談 1 ]
 「資産インフレ」が国民の富を増やす、唯一のケースがある。それは、「土地を外国に輸出する」場合だ。
 土地が日本国内で取り引きされている限り、買い手も売り手も日本人だから、金が国内でぐるぐる回っているだけであり、富は少しも増えない。しかし、土地を外国に輸出できるのであれば、外国人から金を得て、日本人が金を得るので、日本国民は得をする。
 とはいっても、土地を飛行機に乗せて運ぶことはできない。また、アメリカに住んでいる人が日本の土地を買って別荘にするようなケースも想定できない。
 となると、唯一の方策は、日本の主権を外国に渡すことだ。たとえば、東京都の主権をアメリカに渡す。ここにアメリカ人が大挙入りこんできて、日本人から土地を買っていく。日本人は国外(東京の外)に追っ払われる。……こうすれば、日本人は、高値でアメリカ人に土地を売れるので、まさしく、得をする。
 じゃ、そうすればいいのかね? まさか。結局、「資産インフレは得だ」と主張する人々は、「主権を渡せ」とか「日本の土地を全部外国人に売り渡せ」というメチャクチャを主張しているのと同じである。「売国奴」という言葉がぴったり。
( ※ 彼らが売国奴であるならば、少なくとも、彼らの頭は正常であるし、まともな経済学ができる。しかし、彼らが売国奴でなければ、彼らの頭は狂っているし、経済学もできない。どっちですかね?)

 [ 余談 2 ]
 「株はどうだ? 株は、土地と違って、外国人に買わせることができるぞ」
 という意見もあるだろう。その通り。だからこそ、事態はいっそう悪い。
 土地ならば、マクロ的には、損得はない。誰かが高値づかみして損をしても、その分、誰かが他人に高値づかみさせて得をする。差し引きして、日本全体では、損得はない。
 株は違う。外国人に高値づかみをさせれば、日本人の得。外国人に安値づかみをさせれば、日本人の損。では、実際には?
 外国人は投資のプロであり、日本人のほとんどはアマチュアだ。勝負は自明だろう。日本人のアマチュアは、バブルの絶頂期のころに、高値で買った。外国人投資家は、バブル破裂の直後に、高値ですべて売り切った。結局、高値づかみをしたのは、日本人だった。ここでは、日本から外国へ、富の流出が生じた。
 その後、外国人は、経営の悪化した日本企業を買収しはじめた。日産、三菱、西友、携帯電話会社、……など。これを見て、マスコミは、「外国人の資金が入ることは良いことだ」などと吹聴した。しかし、その金は、元はといえば、日本人が外国人に、タダでプレゼントした金だったのである。結局、上記のような民間企業の株を、日本人は外国人に、タダでプレゼントしたことになる。(マクロ的にはそうだ。)
 今後、ふたたび「資産インフレ」を起こせば、いつかまた株バブルが破裂する。そのときふたたび、株バブルの破裂を通じて、日本から外国に富が流出する。
 下手をすると、そのうち、日本中の企業をすべて、タダで外国人にプレゼントすることになるかもしれない。そして、そうしたければ、「資産インフレ」を起こせばいい。そのために最も有効な方法は、何か? もちろん、「インフレ目標」政策を(減税なしで単独で)実行することである。
 今、多くの経済学者は、そうすることを勧めている。日本中の企業を外国人に、タダでプレゼントしようとしているのである。これもまた、「売国奴」と呼ぶにふさわしいだろう。
 いや、間違えた。「国を売る」のではなく、「国をタダでプレゼントする」のであるから、「売国奴」ならぬ「贈国奴」である。

 [ 余談 3 ]
 バブルのころ、「地価や株価の上昇はどんどん続く」と信じられてきた。なるほど、もしそういうふうに無限に上昇が続けば、誰もが得することになったかもしれない。
 しかし、それは、ある錯覚を前提としてる。「自分が高値づかみしても、もっと高値で売れる」という錯覚。つまり、「自分が愚かで高みづかみしても、もっと愚かでもっと高値づかみする人がいる」という錯覚である。
 なるほど、ババ抜きのババみたいなものだから、自分がババを引いても、他人にババを引かせれば、自分は損をしないで済む。うまく行けば、利益を得る。
 しかしそれは、しょせんは、「自分よりももっと愚かな阿呆がいる」ということを前提としており、ただの錯覚なのである。「自分は正気だが、他人は阿呆だ」と全員が思っているわけだ。どこに正気の人がいるんだか。
 彼らの信じるとおりになれば、バブルもまた無限に膨張するだろう。しかし、そんなことはありえないことぐらい、正気の人には、すぐにわかるはずだ。かくて、「バブルが無限に膨張する」という錯覚は、いつか覚める。
 結局、バブル破裂というのは、正気に戻っただけだ。破裂したのは、地価や株価というよりは、妄想だったのである。


● ニュースと感想  (5月05日)

 「資産インフレ」および「資産デフレ」について、細かな話題を述べる。

 (1) 錯覚
 「資産インフレが起こると、資産が増える。だから、消費が増える
 という説がある。しかしこれは、問題がある。
 そもそも、「資産が増える」というのは、錯覚である。(前日にも述べた)。
 つまり、たとえ帳簿の価格が上がっても、実際に売却するまでは、その高い価格は確定しない。
 「でも、どうせいつかその値段で売るんだから、同じことだろう。値下がりする前に、ちゃんと売り抜ければいいんだから」と思うかもしれない。しかし、残念ながら、それは成立しない。高値で売り抜けることは、根本的に不可能なのだ。
 なるほど、ごく少数だけなら、うまく高値で売り抜ける人もいる。しかし、国全体を見れば、売り損ねる人がほとんどとなる。ごく少数を除いて、ほとんどすべての人は、高値で売り抜けることはできないのだ。
 なぜか? 土地所有者は、たくさんいる。一方、土地の実際の取引市場では、売り手も買い手も、ごくわずかしかいない。ざっと見て、土地所有者の1%ぐらいだろう。この1%程度の人々だけで、相場が作られている。ここで、1% の売り手がうまく売り抜けたのなら、それはそれで問題はない。
 問題は、残りの 99% だ。これらの人は、「高値で売れる」つもりでいる。しかし、全員がそろって売りに出したら、99人の売り手に対して、買い手は1人。となると、土地は暴落する。
 全員が高値で売り抜けることは、根本的に不可能なのだ。にもかかわらず、全員が「自分は高値で売り抜けられる」と思い込んでいる。ここにはとんでもない錯覚がある。
 これはいわば、トランプで、複数のジョーカーがあるようなものだ。「ジョーカーを使えば、うまく勝利できる」と思って、たいていの人がジョーカーを使う時機を窺っている。しかし、誰か一人がジョーカーを使ったら、他の人のジョーカーはすべて無効になる。にもかかわらず、誰もが「自分はジョーカーをもっているから、いつでも勝てる」と思い込んでいるのである。
 資産インフレというのは、こういう錯覚の上に成り立つ。
( ※ 「バブル破裂で何百兆円もの富が消えてしまった。大変だあ」と騒ぐ経済学者が多い。彼らは、その何百兆円というのが錯覚だったという事実に、今なお気づかないのである。そして、いまだに夢から覚めやらぬまま、ふたたび錯覚をもちたがっているのである。妄想狂みたいなものだ。)

 (2) おこぼれ効果
 「資産インフレが起こると、資産が増える。だから、消費が増える
 という説には、上とは別の問題もある。
 資産インフレが発生すると、「自分は資産がある」と錯覚した人々が、消費を増やす。そういう効果は、たしかにある。しかし、あまりにも少ないのである。
 第1に、売却予定の土地をもっている人は、あまり多くはない。日本中でかなりの人々が自宅をもっているが、それは売る予定にはなっていない。だから、いくら資産価値が上がっても、それによって消費を増やすことにはならない。むしろ、「固定資産税が上がるな」と思って、消費を減らすかもしれない。
 第2に、株ならば、価格の上昇を錯覚して、金を使うだろう。しかし、彼らはたしかに、金を使うが、その金は、株式投資に向かう分が多い。「株が上がって儲かった」と思って、また株を買うのでは、普通の消費はたいして増えないことになる。逆に、「それなら俺も株を買おう」と思うアマチュアが出てきて、彼らは商品を買わずに株を買うようになる。その分、商品の売り上げが減る。
 いずれにせよ、「資産が上がるから商品が売れる」というのは、たしかにそういう効果はあるとしても、せいぜい、「おこぼれ」と言えるほどの、小さな効果でしかない。
 「バブルのころは、帳簿の資産が今よりも何百兆円も多かった。それがすべて消えたら、途方もないことになって当然だ」というのは、おおげさにすぎる。帳簿上で莫大な損失が生じようと、もともと帳簿で何百兆円も多かった分の効果が少なかったのだから、大騒ぎするほどのことはない。
 ついでに言えば、私の同窓生は、バブルのころ、土地や株で大儲けした人は、ほとんどいなかった。「土地が上がって大変だなあ。これじゃ持ち家は無理だな」と思った人が大半だ。で、「もう持ち家は諦めた。仕方ない、外食と旅行で楽しもう」というふうに消費した人が大半だ。
 これは、「資産インフレのおこぼれ効果」というよりは、「やけのやんぱち効果」とでも言うべきものだろう。「資産価格が上がってしたから消費した」のではなく、「資産価格が上がってしたから消費した」わけだ。こういうふうに、人々を自暴自棄にする効果なら、いくらかはあったようだ。(経済学者の説明とは、だいぶ違いますね。)

 (3) 効果の量
 「資産インフレが起こると、土地の担保力が増える。だから、設備投資が増える
 という説がある。しかしこれも、問題がある。
 だいたい、企業は今、設備投資を増やす気がない。ゼロ金利でも、投資を増やさない。こういうときに、「担保力がどうのこうの」と言っても、無意味である。
 仮に、担保力があったとしても、企業は設備投資を増やす気がないのだから、何も変わらない。

 (4) 銀行問題
 「資産デフレが起こると、土地の担保力が減る。だから、銀行の「貸し剥がし」が起こる
 という説がある。しかしこれも、ちょっとおかしい。
 たしかに、銀行は「貸し剥がし」をしている。(新聞で何度も報道されている。) しかし、これは、マクロ経済に問題があるのではない。銀行の愚かさに問題がある。
 だいたい、正常に経営していて、黒字の企業がある。ここで、「担保力が減った」という理由で「返済計画を変更して、一挙に返済せよ」と言い出したら、企業は倒産してしまう。倒産すれば、担保力の激減した土地を担保として受け入れることになるから、銀行は大損だ。
 欧米の企業なら、担保なんか無視して、企業の経営状態だけを見て、金を貸す。これが正常だ。日本の銀行は、企業の経営状態を見ないで(見る能力がなくて)、担保力だけを見て、金を貸す。そして、担保力がなくなったら、金を引き上げて、返済不能にして、激減した担保だけを受け取る。……つまり、わざわざ大損している。
 ここでは、問題なのは、担保力ではなくて、銀行経営なのである。 (足りないのは、土地の価値ではなく、銀行の頭だ。)
 思えば、バブルのころ、銀行は土地の担保力だけを見て、大幅に過剰貸し出しをした。そしてバブルが破裂したあとでも、土地の担保力だけを見て、貸し剥がしをして、大赤字を生んでいる。
 狂っているのは、銀行だ。そして、狂った銀行のために「資産インフレ」を起こそうというのは、狂人のために経済運営をしようということであり、それこそ狂気の経済運営である。銀行に輪をかけて、狂っている。狂気の二重奏。
 だから政府は、まともな頭があれば、資産インフレなんか起こそうとするより、さっさと減税して景気を回復させればいい。この先、景気が回復するなら、銀行は無理に貸し剥がしなんかしないはずだ。インフレのときは、銀行が手元に金を溜め込んでいれば、物価上昇率の分だけ、金は減価する。だから、銀行は、喜んで、金を貸し出すはずだ。貸し剥がしなんか、自然に生じなくなる。
 「物価上昇をもたらすこと」── これが正気の経済運営である。
( ※ しかし、日銀と金融庁は、正気とはまったく反対の経済運営をしている。どうやら、ここが狂気の総元締めらしい。となると、銀行が狂気なのも、当然かも。)


● ニュースと感想  (5月06日)

 「錯覚」について。(前日分の補足)
 「資産インフレによる所得増加が、錯覚であろうと何だろうと、構わない。錯覚万歳! とにかく消費が増えて、景気が良くなれば、それでいいのだ」
 という考え方がある。(麻薬でも配布するつもりですかね。)……しかしこれこそ、私が否定していることだ。
 だいたい、錯覚というものは、いつかは覚める。「財布が札束でいっぱい」と錯覚していても、あとになれば、「実は財布は空っぽだった」と気づく。事実に気づけば、消費は減る。「気づかなければいいだろ。永遠に錯覚していればいい」と思うかもしれないが、財布は空っぽだから、どうしても消費は減る。
 錯覚はしょせんは錯覚なのだ。そして、錯覚が生み出すものは、現在の消費急増と、将来の消費急減である。つまりは、景気の極端な変動である。資産価値の過剰な上昇が、一本調子で永続するわけではないのだ。
 バブルが大きくふくらめば、バブル破裂も大きくなる。そんなことは、まともな頭があれば、誰だってわかる。それがわからず、「バブルをどんどんふくらませれば、景気は無限に良くなる」なんて考える経済学者の方が、どうかしている。
 「錯覚に頼ろう」なんていうのは、まともではない。「狂気」なのだ。

 [ 付記 ]
 誤解を招くといけないので、注釈しておく。
 「資産価格を上げてはいけない」と言っているわけではない。現在は、資産デフレの状況だから、やがて資産価格が上がるのは当然だと思える。将来的には、地価や株価は上がるだろう。なぜなら、土地収益率や株価収益率が、将来は上がるからだ。
 しかし、その前提は、「土地収益率や株価収益率が上がること」である。つまり、「景気が回復すること」である。
 結局、景気が回復したあとなら、地価が株価が上がるのは、当然である。それはそれでいい。しかし、景気が回復しないうちに、地価が株価が上がるのは、不自然である。(市場経済のもとでは、ありえない。社会主義化して国家統制するなら別だが。)
 かといって、「地価と株価を操作しよう。地価と株価が上がれば、景気が回復する」というのは、論理が倒錯している。どうしてもそう主張したいのなら、「減税をやめて、日銀が土地と株を買い占めよ」と主張することになる。そう主張したければ、そう主張するがいい。それはつまり、「国民がパソコンや自動車を買う減税なんかやめよ。日銀が土地と株を買えばいい。そうすれば、土地をもっている資産家が、たっぷり散財するから、一般国民も、おこぼれをもらって、少しはパソコンや自動車を買えるだろう」という主張だ。
 そういう「おこぼれ」は、少しはある。しかし、「おこぼれ」狙いというのは、あまりに卑しいですね。
 経済学的に考えてみよう。このとき、貨幣量が増加するから、物価上昇が発生する。だから、国民一般は実質所得の減少となる。「おこぼれ」をもらうことで、労働時間と名目所得はいくらか増えるが、それに輪をかけて、物価上昇で実質所得を失う。一部の資産家は得するが、大多数の国民は損をする。(損は物価上昇を通じて。……ここを理解しない人が多いが。)
 「日銀による買い占め」なんて、あまりに破廉恥である。それはつまりは、「国民全員に減税するのをやめて、資産家だけに減税をしよう。きっと景気は回復するぞ。間違いなし」というのと同じだ。それはたしかに正しいですけどね。こんな理屈には、まともに付き合っていられない。

 [ 補説 ]
 私が資産デフレについて、「錯覚」とか「狂気」とか言うと、読者は疑うかもしれない。「また南堂が、大げさなことを言って、おもしろおかしく書いている。どうせ信じないけどね」と。
 そこで、そういう人向けに、厳密に説明しておこう。(鈍感な人向け。すでに理解している人は、以下は読む必要なし。)

 モデルを示す。
 1区画あたり千万円の土地が 100区画あったとする。
 さて、日本中でバブルが発生して、ここにも影響が押し寄せた。1区画を 1億円で買った人がいるとする。こういう取引事例ができたので、「このへんでは、土地は 1区画あたり1億円」となる。
 さて。この取引事例を見た残りの 99区画の所有者は、こう思う。「1区画あたり1億円だ。だからおれは1億円の土地資産を持っているぞ」と。
 かくて、1区画で 9000万円 儲けた人が一人いただけなのに、どういうわけだか、100人全員が、「おれは 9000万円 儲けた」と信じ込む。売れてもいないのに、売れたつもりになる。(妄想。)
 また、経済学者は、こう評価する。「1区画あたり1億円の土地が 100区画あるから、全部で 100億円の価値がある」と。そして帳簿に「全部で 100億円」と書き込む。
 さて。経済学者の説を信じた人々は、そろって、この土地をディベロッパーに売ろうとした。「まとめて 100億円で買いませんか?」と。もちろん、ディベロッパーは、追い返した。「馬鹿じゃないの? そんな金がどこにあるんだ。考えてみればわかるだろうが。1区画だけなら、特別な事情で高値を払う馬鹿もいるだろうけどね。全部まとめて買うなら、最初の値段。つまり、1区画、千万円だ」と。
 ここで人々は夢から覚めた。「何だ、あれは妄想だったのか。仕方ない。元に戻っただけだ。別に、損したわけでも得したわけでもない。気にすることはないな」。そう理解して、また真面目に働こうと考えた。何一つ、文句は言わなかった。人々は誠実だったのである。
 しかし、経済学者だけは、大騒ぎした。「 100億円 の富が 10分の1になってしまった! 90億円の富が失われてしまった! 大変だあ! 大変だあ!」

( ※ 最後の帳尻は、こうである。99人は損得なし。高値で売った人は、9000万円の得。高値で買った人は、9000万円の損。全部合計して、損得なし。……これを理解できない経済学者がほとんどだ。たいていの経済学者は、9000万円得した人だけを見る。そして「資産膨張の夢よふたたび」と唱える。)

( ※ この手の妄想は、枚挙に暇がない。次のような例もある。
 ・「宝くじの当選者に百万円 → 自分は運がいいので当選すると全員が思い込む」
 ・「美人が一番ハンサムな人と結婚 → 自分は一番ハンサムだと全員が思い込む」
 ・「カモが1羽現れる → そのカモは自分のものだと全員が思い込む」
 など。
 最後の例で言えば、カモが1羽現れて消えたとき、経済学者は「カモが 100羽減ってしまった! 大変だあ!」と大騒ぎする。)

( ※ この説明も、ジョークだと思われそうだ。そこで、真面目に注釈しておこう。……カモであれ何であれ、着目しているものを、まさしく得たのなら、それは錯覚ではない。しかし、「得たも同然だ」と思うだけで、結局は得られないのなら、それは錯覚なのだ。当然。……なのに、この当然のことを理解できないのが、世間の経済学者だ。帳簿に数字を書き込むと、その数字を現金だと錯覚する。)


● ニュースと感想  (5月07日)

 「錯覚」と「正気」について。
 前日までに述べた「資産インフレが錯覚である」ということを、ひろく一般化してみよう。
 実は、この手の錯覚は、経済学では至るところに見られる。── 「富が増える」と思い込む。しかしよく見たら、実は、「富の増大」があるのではなくて、「配分の変更」があるだけだ、と。
 つまり、誰かが得をすれば、誰かが損をする。全体では、チャラである。単に配分の変更があるだけだ。全体を見れば何も増えていない。なのに、得をした人だけを見て、「富が増えた」と勘違いする。
 そういう例が非常に多い。もちろん、それとは違って、まさしく全体の富を増やす政策もある。しかし、たいていの経済学者は、その違いを見抜けない。そして、「右手では得、左手では損」というふうに配分の変更が発生したとき、右手だけを見て、「得した」と大喜びするのだ。(猿並みですね。)
 以下、こういう猿知恵の例を示す。
  1.  バブル膨張神話(土地神話)
     バブルはどうせいつかは破裂するのだが、それを、永続すると思い込む。今は得しても、未来では損するのに、それに気づかない。(本来の値段は、土地収益率や株価収益率で決まる。)
  2.  バブル破裂神話(資産デフレ説)
     もともとバブルがふくらんだのは、ただの妄想だったのだが、その妄想を事実だと思い込む。過去の利益が妄想だったのだから、現在の損失も妄想なのに、それに気づかない。(本来の値段は、土地収益率や株価収益率で決まる。)
  3.  土地売買による得
     土地を高値で売買する(地価が高値になる)ことで、国民の富は増えた(多くの金を手に入れた)、と思い込む。実は、売り手が得すれば、その分、買い手が損するのだが、そのことに気づかない。
    ( ※ 信じにくいかもしれない。ならば、「土地」ではなく「大根」で考えるといい。1本 100円の大根を、倍の 200円で売買すれば、売り手は 100円の得、買い手は 100円の損。当然でしょ?)
  4.  おこぼれによる得
     資産家にたんまり金が入れば、そのおこぼれが回ってきて、一般庶民も金が儲かる、と思い込む。実際には、資産家に金が入った分、貨幣の総量が増えて、物価上昇が発生し、一般庶民は損するのだが、そのことに気づかない。
  5.  減税は得
     減税で物価上昇が発生すれば(タンク法であれば)、損も得もない。しかし、それを理解できずに、「得をした」と思い込む。(貨幣の枚数だけを数えて、貨幣価値の減少を無視している。)
  6.  増税は得
     増税で物価下落が発生すれば(タンク法であれば)、損も得もない。しかし、それを理解できずに、「損をした」と思い込む。(貨幣の枚数だけを数えて、貨幣価値の増大を無視している。)
  7.  公共事業は得
     公共事業をすれば、その分、仕事は増える。しかし、その分、赤字が発生する。だから、将来的には、その分、税金を多く払わなくてはならない。自分で金を払って、自分の売上げにする。ちっとも得していない。タダ働きしているようなものだ。
    ( ※ 実際は、タダ働きより、もっと悪い。かけた金のうち、何割かは、コストに消えてしまう。100万円払って、30万円しか受け取れないようなものだ。残りの70万円はコスト。それで完成した建築物が、100万円分の価値があればいいが、穴を掘って埋めるだけなら、骨折り損のくたびれもうけ。たいていは、そうだ。例:有明海)
  8.  小さな政府は得
     小さな政府だと、税金が安くなるので、得をする、と思い込む。実際は、社会保障制度が薄くなるので、国民の自己負担が増えるだけだから、ちっとも得をしていないのだが。国に保険料として1万円を払うと損だが、民間会社に保険料として1万2千円を払うと得する、という倒錯した発想。
  9.  円安による景気拡大
     円安により外需を拡大すれば、失業率を減らすことができる、と思い込む。それはそうだ。日本だけを見れば。── しかし、外国では、その分、需要を食われて、外国で失業が発生する。世界全体を見れば、チャラである。外需拡大は需要の総量を増やすことにならないのだ。
    (ゆえに、過度の円安は、実現が不可能である。相手国が反発して、反対介入するからだ。アルゼンチンに対してなら、自然な平価切り下げを通じて、大幅な貿易赤字の解消を許容するだろう。しかし日本に対してなら、自分勝手な平価切り下げを通じて、大幅な貿易黒字の発生を許容することはない。……両者は根本的に異なる。)
  10.  物価上昇は損
     物価上昇が起こると、その分、資産が減ってしまう、と思い込む。特別な状況ではそうなるが、普通の状況ではそうならない。なぜなら、普通の景気のときは、金利がちゃんと付くからだ。4% の物価上昇に対して、5% の定期預金金利が付けば、別に、損をするわけではない。なのに、「インフレは高齢者に損だ、不況は高齢者に得だ」と叫ぶエコノミストが多い。実質金利と名目金利の区別さえもできないわけ。これでよくまあ、「エコノミスト」を自称できるものだ。
 [ 付記 ]
 参考として、次の説も掲げておく。  冗談じゃないよね。「今は我慢すれば、将来はもっと悪くなる」のだ。そのことは、小泉政権発足後の1年間が、見事に証明している。経済の無策は、チャラになるのではなく、無策のスパイラルが発生する。
 経済学者が愚かだと、首相は輪をかけて愚かになる。これもまたデフレ期のスパイラルかもしれない。


● ニュースと感想  (5月08日)

 「円安の許容」について。
 なぜ円安は許容されないか? 中国は大幅な貿易黒字でも通貨安が許容されるのだから、日本も許容されていいのではないか? 
 その答えを言おう。中国と日本とでは、他国に対する影響が全然違うのだ。中国は途上国。日本は先進国。中国の通貨安は他の先進国にとって得だが、日本の通貨安は他の先進国にとって損である。

 こういうふうに違いが出ることを説明しよう。
 中国はしょせん途上国である。途上国の製品は、先進国の製品とは、真っ向から競合しない。一部で競合しているように言われるが、それは、先進国で最も遅れた部分と、中国で最も進んでいる部分との、競合である。(廉価品における競合。)こういう競合は、ある意味、当然である。先進国では、ハイテク分野がどんどん誕生しているのだから、古い分野は後進国に譲り渡すしかない。一般的に、古い技術による廉価品は、後進国に譲り渡すべきである。さもなくば、先進国は大幅黒字になってしまって、輸出入のバランスが取れなくなる。(この意味で、「空洞化」は必然なのだ。真ん中から外へどんどん流出するのは当然なのだ。なぜなら、真ん中で、次々と新しいものが産まれて、山が高くなっているからだ。結局、真ん中は、穴になるわけではなく、常に平らになる。何かが生まれたぶん、何かが流出する。チャラになるだけだ。)
 というわけで、途上国の製品と先進国の製品は、一般的には競合しない。先進国はハイテク製品を途上国に輸出し、途上国は人件費のかたまりのようなものを先進国に輸出する。両者は競合せず、分担するだけだ。
 こういう状況では、途上国の通貨が実態よりも安くなっても、先進国にとっては、別に損にはならない。しょせん競合しないのだから。相手がメチャクチャに安売りしていても、競合せずに買うだけの先進国は、得をするだけだ。
 逆に、安売りをやめたら? つまり、たとえば中国が、通貨を切り上げたら? 中国の黒字は減る。と同時に、日本は、中国製品を安く買うことができなくなる。たとえば、フリースを500円で輸入できたので、10枚買っていた。通貨切り上げのせいで、フリースが 700円になってしまった。仕方ないから、買う枚数を減らして、5枚にした。……こうすると、中国の売上げは、5000円から 3500円に減るから、中国の黒字は減る。しかし、日本は、もはや安く買えなくなる。その分、損である。しかも、中国の黒字が減ったからといって、しょせん、競合していないのだから、日本の産業が栄えるわけではない。(しょせん、大衆品のフリースなんていう低価格品は、国内では作っていないし、競合関係にないのだから、国内の生産が増えるわけではない。)……結局、中国の通貨切り上げで、日本は損するだけだ。(少しは例外もあるが。)

 さて。通貨切り上げをするのが、中国でなく先進国であれば、話はまったく別である。
 たとえば、アメリカの立場で見よう。途上国の中国でなく、先進国の日本が過度の通貨切り下げをしたとする。すると、アメリカはどう受け取るか?
 一方では、日本製品を安く買い上げられるので、得である。同時に、競合関係にある国内産業では、需要を失ったことにより、失業が発生する。もともとアメリカの需要が一定であるなら、日本からアメリカへの輸出が増えたとき、その分、アメリカでは生産が減ることになる。結局、日本で失業が解消した分、アメリカで失業が発生する。……そんなことをアメリカが許容するはずがない。「失業の輸出」を受け入れてくれる国は、世界中のどこにもない。「日本の失業者を 100万人減らすために、自国で失業者を 100万人増やします」なんていう国は、どこにもない。自国の需要を日本にまるまるプレゼントしてくれるような国はない。

 結局、競合関係の有無が問題となっているのだ。
 競合関係がなければ、途上国の通貨切り下げは、先進国の利益である。それによって途上国に黒字が溜まろうと、気にすることはない(自国そのものの貿易収支が赤字にならない限りは)。 一方、競合関係にある先進国の通貨切り上げは、他の先進国にとって損である。相手が失業を減らせば、その分、自国で失業が発生する。(少しは得もあるが、損の方がずっと大きい。)
 というわけで、過度の円安は許容されないわけだ。現状程度の円安は、自然だから、許容される。しかし、「為替市場に介入して、1ドル= 180円ぐらいにすれば、景気は回復する」なんていう主張は、ただの妄想である。それは、「日本の失業をアメリカやヨーロッパに輸出しよう」ということだ。なるほど、実現するなら、それはありがたい。しかし、実現しないのだ。相手国は「失業の輸入」を受け入れてくれないのだ。としたら、そんな妄想を、いくら主張しても、ただの無駄である。
 パイの大きさが変わらないのに、「他人の分け前を奪えば、自分の分け前が大きくなる」と思うのは、エゴイズムゆえの妄想である。「空から黄金が降ってくれば、きっと幸せになる」という妄想に似ている。妄想と夢想。

 [ 補説 ]
 中国の輸出拡大を心配する人が多い。「中国製品が、大幅に技術力を向上させたら、製品が大挙流入して、日本は大変なことになる」と。
 しかし、そんな心配は必要ないのだ。その主張は、「中国製品が、今の価格水準のままであれば」ということを前提としているが、変動相場制のもとでは、そんなことはありえない。貿易黒字が拡大すれば、通貨は切り上がるからだ。つまり、中国の競争力が高まれば高まるほど、通貨は切り上がり、製品価格は上がる。かくて、「今の価格水準のまま」という前提が成立しないから、中国製品が日本に大挙流入してくるようなことはないわけだ。
 さて。これは、変動相場制を前提としていた。では、固定相場制のときは、どうなるか? 
 答えを言おう。短期的には、そういう心配のような事態が発生する。しかし、長期的には、その心配はない。固定相場制によって損するのは、その固定相場制をとっている国である。
 原則を言おう。市場経済では、均衡が最適である。この均衡を阻止しようとして、無理に価格水準を決めれば、高くしても低くしても、損失が発生する。
 第1に、高めに設定した場合。これは、アルゼンチンに見られる。自国通貨を高めに設定したので、当面は物価安定(物価下落)という効果を得た。当面は得をした。しかし、その分、赤字がどんどん蓄積した。その赤字に耐えきれなくなったところで、破綻した。
 第2に、低めに設定した場合。これは、ちょっと話が複雑になる。たとえば、中国が通貨を実力よりも低く設定していたとする。当面は黒字が溜まって、得したつもりになる。さて。黒字が溜まれば、その溜まった金を、どうする? 国外に資金を出す(貯金する)ことになる。 これはつまり、後進国が先進国に資本投資するということだ。成長率の高い途上国が、成長率の低い先進国に、資本投資するということだ。馬鹿げている。
 で、馬鹿げたことをやると、どうなるか? 当面は、何も起こらない。しかし、やがては、貿易黒字の蓄積により、インフレが発生する。(物は輸出に回して不足し、輸出代金としての外貨を交換して得た金はありあまる。)そこで、インフレ退治のために、通貨を切り上げる。貿易黒字によるインフレに耐えきれなくなったところで、そうする。(これは日本もかつてやったことだ。)
 さて。通貨を切り上げると、どうなるか? 先進国に資本投資した分が、大幅に減価してしまう。たとえば、1ドル=6元 で資本投資していたあとで、1ドル=3元 に通貨切り上げをしたら、手元に戻る金が半額になってしまう。6元のはずが3元になってしまう。ということは、その分、自国は損して、先進国は得をする、ということだ。後進国が先進国に金をプレゼントする、ということだ。── それが、無理な為替レートを維持したことの帳尻だ。(当面は帳尻をしなくても、長期的には帳尻が必要となる。)
 具体的には、こうだ。今、中国通貨の過度の低評価がなされていれば、先進国は、中国に投資する。本来の為替レートでは、200万ドルで土地を買うべきところを、中国通貨の過度の低評価により、100万ドル払うだけで済む。そして、将来、過度の低評価が是正されて、通貨が切り上げられたら、その資産は 200万ドルとなる。これを中国人に売り払えば、差し引きして、100万ドルの得。── 結局、無理な為替レートを設定していたせいで、中国から先進国に富の移転が発生する。(長期的に。)
 結局、こうだ。自分を安売りすれば、自分をたくさん売れる。しかし、いくらたくさん売れても、安売りしたのでは、損である。市場には最適の均衡点がある。その均衡点まで価格を下げるのであれば、安売りは得だ。しかし、均衡点を下回る価格をつければ、たくさん売れれば売れるほど損するのだ。「たくさん売れれば得だ」ということにはならない。そう思っていいのは、当面だけの話であり、長期的には帳尻をつけるので、損なのだ。
 これは一種の猿知恵だとも言える。無理に低い為替レートを設定していれば、そのときは、「金が溜まった」と喜んでいることもできる。しかし、いざその金を使おうとしたとき、その金はすっかり減価しているのである。価値の減るはずの金をたくさん貯めて、金が増えたと喜んでいるとしたら、これもまた、一種の妄想と言えよう。

 [ 余談 ]
 たとえ話。
 猿と人間で、バナナの交換をすることにしました。猿は「中国バナナ」を渡し、人間は「熱帯バナナ」を渡します。初めは、バナナは1本と1本を交換することにしていました。しかし猿は突然、交換比率を変更しました。「中国バナナ2本と、熱帯バナナ1本とで、交換する」と。バナナ平価の切り下げです。固定レート制です。
 人間は大喜びして、中国バナナを受け入れました。熱帯バナナ1本をやれば、中国バナナ2本をもらえるのだから、得です。
 猿は猿で、猿知恵を働かせました。「これで中国バナナの輸出が急増する! 貿易黒字が大幅に発生する!」と。そして、たしかに、中国バナナの輸出は急増しました。自国にあった 100本のバナナをすべて輸出して、「こんなに輸出したぞ」と大喜び。しかし、かわりにもらったのは、熱帯バナナ 50本でした。バナナの総数は、 100本 から 50本に減ってしまいました。それでも猿たちは、「輸出が大幅に増えた! 外貨資産は大幅に増えた!」と大喜びでした。
 さて、その後、猿は自らの愚かさに気づきました。いくら輸出を増やしても、結局は損するばかりだと気づいたのです。「固定レートは、もうや〜めた!」と宣言しました。「中国バナナ1本と、熱帯バナナ1本とで、交換する」と。ここで人間は、また交換することにして、手元にあった中国バナナ 50本を渡して、猿の手元にあった熱帯バナナ 50本を受け取りました。
 結局、最後に帳尻を見ると、猿の手元には 100本の中国バナナがあったのが 50本の中国バナナになっただけでした。猿は、短期的には得をしたつもりでしたが、長期的には単にバナナの数を半分にしただけでした。

( ※ 念のために言うと : 猿というのは、中国人のことではない。「過度な円安はすばらしい」と主張する、どこかの猿知恵の経済学者のことである。)

( ※ 以上のことから、わかることがある。「中国にどんなに黒字が溜まっても、ちっとも問題ではない」ということだ。なぜなら、将来的に通貨切り上げがあったとき、手にしているものの価値が激減するからだ。中国は、現在の黒字が溜まれば溜まるほど、将来の損失が大きくなる。中国は今、やがて相対的に切り下げられるはずの外貨資産を、必死に溜めていることになる。中国の損失はどんどんふくらむ。逆に言えば、その分、先進国の利得はどんどんふくらむ。だから、中国の黒字がいっぱい溜まることを、恐れるべきではなく、感謝するべきなのだ。先進国に援助してくれる途上国というものは、めったにない。……このことの核心は、こうだ。中国が貿易黒字を溜めても、やがては半減する。そのとき、中国には、為替差損を通じて、膨大な損失が発生する。その損失の分、先進国は利益を得る。)

 [ 付記 ]
 本項の内容を簡単に要約すれば、こうだ。
 たとえ商品でなく通貨の相場であろうと、市場経済のもとでは、均衡点が最適である。この均衡点を強引に移動しようとして、無理な力を加えれば、均衡点を移動させることはできるが、歪みが生じるだけである。「市場に介入して、均衡点を移動させよう」なんていうのは、まともな経済学ではない。そうすれば、誰かが得して、誰かが損するが、しょせんは介入のためのコストが莫大になる。
 「市場を操作しよう」という発想そのものが、近代経済学から逸脱している。時代錯誤の化石的な発想である。

 [ 参考 ]
 cf. 週刊誌「アエラ」の、2002-05-07 発売号。中国製品の貿易の話。


● ニュースと感想  (5月08日b)

 【 後日追加 】 (2002-05-11)

 「反対介入」について。
 1国の平価が介入によって過剰に下がって、他国にとって不利であれば、他国が反対介入するので、正常な水準に戻すことになりそうだ。ただし、細かく見ると、次のように場合分けされる。

 (1) 先進国同士の場合
 日本政府が介入して、過剰に円安にすれば、欧米諸国がそろって反対介入するから、もちろん、円安は自然につぶれる。(もし反対介入しなければ、その国で莫大な失業者が発生するので、その政府は政権を失う。)

 (2) 先進国と途上国の場合
 中国政府が介入して、過剰に元安にしても、先進国は別に損ではない(むしろ得である)から、放置するはずだ。ただし、もし将来、中国が発展して、先進国と競合するようなれば、(1) によって、反対介入が起こるだろう。
( ※ 実際、先進国が自国にとって損だと思えば、いつでも反対介入して過剰な元安をつぶすことができる。たとえば日本が手持ちのドルで中国通貨を買いあされば、たちまち中国には過剰資金があふれ、中国はインフレ退治のために通貨切り上げに追いやられる。通貨切り上げ後に、中国通貨をドルに戻せば、日本には巨額の金が入る。これが可能なのは、日本に莫大なドルがあるから。同じことは、日本がやらなくても、民間資金でも可能である。)

 (3) 途上国同士の場合
 中国政府が介入して、過剰に元安にしたら、他の途上国は反対介入したがる。しかし、残念ながら、他の途上国には、反対介入するだけの外貨がない。ゆえに、そのまま。

 結語
 中国が過剰に通貨を安くしても、それが反対介入で是正されることは、ありにくい。しかし、日本が過剰に通貨を安くすれば、すぐに反対介入で是正されるだろう。……両者の差が出る理由は、反対介入する側が、そのための資金をもっているか否かによる。


● ニュースと感想  (5月09日)

   過日の箇所に、加筆しておいた。バブル期の「錯覚」について。
    → 5月04日b の [ 追記 3 ]


● ニュースと感想  (5月09日b)

 「人件費」と「国際競争力」について。
 中国の人件費が安いのを見て、「中国は国際競争力が強い」と思っている経済学者が多いようだ。しかし、話は、逆である。中国は、本質的な国際競争力が弱いから、人件費が安いのだ。
 なぜか? 「人件費」というのは、「所得」のことだからだ。所得の高い国ほど、国際競争力は強いに決まっている。
 一般的に言えば、次の等式が成立する。
   賃金水準 = 平価の強さ = 国際競争力
 日本やドイツのように、技術力が高ければ、輸出品を高価格(高利益)で輸出できるので、平価が強くなる。その結果、高い人件費でも成立するので、賃金水準が高くなる。人々は、高い所得で、外国の商品を安く購入できて、幸福になれる。こういう国が「国際競争力が強い国」と見なされる。
 中国を見て、「人件費が低いのが羨ましい」と思うのなら、話は簡単だ。日本も中国並みに、低能率な産業だらけにして、低所得になればよい。たとえば、年収 10万円ぐらいにする。
 方法は、いろいろとある。たとえば、自動車や電器やITなどの先端産業を、すべて中国にプレゼントする。かわりに、農業だけをやって、牛と鋤(すき)で、米や麦などを作る。……こうすれば、日本はたちまち、低所得の途上国となる。
 日本が今、「アメリカに遅れるな! 最先端の科学技術を振興せよ!」と叫んでいるのは、日本の人件費を下げるためではなくて、日本の人件費を上げるためなのだ。アメリカがどんどん高所得になってしまったあと、置いてきぼりにならないようにするためなのだ。
 「日本は最先端の科学技術を振興せよ!」と叫びながら、「日本の人件費が高いのは問題だ!」と叫ぶ企業経営者が多い。こういうのは、頭が矛盾しているのである。彼らの錯乱した頭は、最も初歩的な等式が理解できないのだ。それは、
    人件費 = 所得
 という等式だ。(言わずもがなの説明をすれば、……同じ事実を見て、企業が表現するか、労働者が表現するか、というだけの違い。)

( ※ 前日は、「妄想」と説明したが、本日は「錯乱」と説明したわけ。まったく、経済界というのは、妄想と錯乱と狂気の巣窟である。)


● ニュースと感想  (5月09日c)

 「空洞化」についての、簡単なまとめ。
 「途上国が発展すると、まずいのでは? 日本の生産力やシェアが奪われて、日本は空洞化しそうだ。他人の幸福は、わたしの不幸。」
 という心配がある。しかし、この心配は、不要である。(マクロ的には、「他人の幸福は、わたしの幸福」と思うのが正しい。)

 第1に、中国などの途上国の安い製品が流入するということは、その分、シェアを食われるが、消費者としては、安い製品を享受できる。生産者としては損だが、消費者としては得である。差し引きすれば、だいたい、少し得だろう。身のまわりに、中国製品はあふれているが、これをすべて国産品でまかなうとしたら、とてつもなく高コストになる。われわれの生活水準は、非常に下がってしまう。
 第2に、不況になったのは、中国製品のせいではない。日本以外のどこの国でも、中国製品のせいで不況になったりはしない。日本が不況になったのは、日本の経済運営がまずかったから、というだけのことだ。自国の愚かさを、他国の賢明さのせいにしてはならない。
 第3に、空洞化(ドーナツ化)なんか、全然発生していない。もし空洞化(ドーナツ化)が発生して、日本に穴があいているのであれば、日本は大幅な貿易赤字となっているはずだ。実際には、大幅な貿易赤字ではなく、逆に、貿易黒字である。ということは? つまり、中国製品に負けて赤字になった分野もあるが、それ以外で黒字になった分野もあるわけで、差し引きして、マイナスどころかプラスになっているわけだ。(ほぼトントン、と言ってよい。当たり前。それが「変動相場制」というものだ。)
 第4に、「空洞化(産業流出)は、ほんの少しでもイヤだ。競争力の低い産業も、途上国に渡したくない。すべてを自分で独占したい」というのであれば、それが実現したとき、大幅な貿易黒字が発生する。こういうことは、変動相場制のもとでは、ありえない。とはいえ、強引に為替介入すれば、あり得る。しかしこの場合は、前日にも述べたように、過剰な貿易黒字によって、恒常的なインフレとなる。それがずっと続いたあとで、あるとき突然、円高ショックが襲いかかる。
( → 空洞化 : 1月29日2月12日c

 [ 付記 ]
 「空洞化のせいで、失業者が増えるぞ」
 という主張がある。しかし、これは勘違いである。(個別の失業者は発生するが、マクロ的には失業者の総数は増えない。)
 たしかに、ある工場が海外移転したら、その分、失業者は発生する。しかし、それによって日本の生産が減るので、その分、貿易赤字が発生して、円安となり、その円安のおかげで、他の企業が輸出を増やす。そのおかげで新たな雇用が発生する。結局、変動相場制のもとでは、輸出入は均衡するから、雇用も均衡するわけで、何も問題はない。(通常、第二次産業で失業が発生して、第三次産業で新規雇用が発生する。第二次産業の失業だけを見ても、何の意味もないのだ。)
 実は、上記の主張は、5月07日に述べた「錯覚」と同じである。「右手では増えて、左手では減った」というふうになったとき、左手だけを見て、「減った、減った」と大騒ぎするわけだ。
 結局、貿易赤字が発生していないし、むしろ貿易黒字があるのだから、海外との関係においては、失業発生の理由はないわけだ。
 さて。それにもかかわらず、現実には、失業が発生している。では、なぜか?
 もちろん、それは単に、政府がマクロ政策を失敗したからだ。つまり、総需要の縮小。それだけのことだ。
 「空洞化のせいだ」と叫ぶのは、政府の無策を擁護するだけだ。世界中の先進国はどこでも空洞化が発生しているが、日本だけがデフレになっているとしたら、日本だけが特別な事情があるということだ。つまり、愚かな政府。
 そもそも、工場でいくらか雇用が失われたぐらいで、(サービス業を含めた)380万人という膨大な失業が発生するはずがない。数を数えれば、すぐわかる。これだけの失業が発生したのは、工場の従業員が何万人か減ったせいではなくて、日本全体で数十兆円も需要が縮小したからである。

 [ 余談 ]
 面白半分に述べておこう。
 空洞化について、心配はいらない。心配するべきことがあるとしたら、むしろ、逆に、空洞化が発生しなくなった場合だ。── つまり、中国の賃金が上がって、中国の価格競争力が弱まった場合だ。
 この場合は、中国は、価格競争力を失った。それで輸出入が均衡しているとしたら、その分、品質競争力を得たことになる。中国は高品質な製品を高価格で生産する。その一方で、日本は安かろう悪かろうの製品を低価格で作る。低い賃金で。
 となると、経済学者は「すばらしい。日本は賃金が下がったので、中国との価格競争力を取り戻したぞ!」と大喜びだろう。しかし、そのときは、円安となったのと同じだから、日本は中国から高額の製品を輸入しなくてはならない。われわれの生活水準は、一挙に落ちてしまう。もはや安い中国製品を買えなくなる。
 つまり、空洞化が発生しなくなったとしたら、日本が途上国化したということだ。
 では、そうなるか? あと二十年ぐらいは、そうなるまい。中国は日本に追いつけまい。しかし、今は日本は「ゆとり教育」をやって、遊びほうけているから、そのうち、中国に負けてしまうかもしれない。日本は、「遊んでいれば賢くなる。頭を使うのをやめよう」と信じているが、中国は、「勉強すれば賢くなる。頭を使おう」と信じている。結果は、自明。
 しかしまあ、そうなっても、「空洞化」は心配しなくてよい。そのときは、先進国たる中国で「空洞化」が発生し、途上国の日本に仕事が流れ込んでくるだろう。日本人は、遊びほうけて白痴化した頭で、単純労働でもしていればよい。テレビゲームしかできない低学力者でも、鋤と鍬(すきとくわ)ぐらいは使えるだろう。
 だいたい、勉強しないで、遊びほうけていれば、途上国になるのは、まったく当然のことなのだ。自業自得である。「小数点の掛け算は難しいから、円周率を 3.14 でなく 3 にしよう」なんていう、猿並みに愚かな教育制度は、経済学者の責任じゃありません。私の予想では、近い将来、日本人はチンパンジーに負ける。

( ※ これはまんざらジョークではない。最近、新聞記事ではあちこちで、「若者の学力水準が大幅に低下している」という事実が報道されている。これが事実だ。知っていますよね? 知らなければ、あなたはすでに白痴化しかけている。コンピュータのいじりすぎ? そういや、私も。……)
( → 4月14日4月14日b  「少化」 )


● ニュースと感想  (5月10日)

 「移民受け入れ」について。
 本日別項のこと(ネリカ米)に関連して、誤解されるとまずいので、補足しておく。
 私は別に、「移民排斥! 民族純化! 国民の富を国民で独占せよ!」と唱えているわけではない。そんなに偏狭ではない。私の対案は、「援助増加」だ。
 「移民受け入れを!」と唱える、正義面をした人々が多い。しかし、彼らは、嘘つきである。本当にそう唱えるのであれば、移民を無制限に受け入れるべきだ。たとえば、日本には、中国から5億人、インドから7億人、バングラデシュから1億人、……というふうに、世界各国から 20億人ぐらいを無制限で受け入れるべきだ。
 なのに、そうしない。たかだか 10万人ぐらいを受け入れればいい、と主張する。それで「移民受け入れをしました」と善人面をする。冗談じゃない。10万人ぐらいを受け入れたって、何も解決するわけじゃない。そういうのは、いわば、乞食に1万円をめぐんで、「自分は善人だ」と思い込む、大金持ちと同じだ。乞食に1万円をめぐんで、千万円を脱税する。貧者一人だけに善行をして、莫大な貧者に対する義務を忘れる。自分だけいい気分になって、勝手に得意になっている。
 はっきり言おう。「移民受け入れ」というのは、どうせやるのならば、無制限にやらなくては意味がない。そして、無制限にやることは、不可能だ。となれば、現実に可能なのは、ただひとつ。「無制限の数の相手に、少しずつ金をプレゼントすること」つまり、「対外援助」だ。これだけが正気の策だ。(他は誇大妄想の狂気。)
 今は、日本で運良く働いた人が、現地に戻ったあと、豪邸を建てて、金持ち生活をする。そのまわりには、貧民が餓死状態でうろついている。……こういうふうに貧富の格差をもたらそうとするのが、「移民受け入れ」策だ。
 「移民受け入れ」というのは、日本に来た少数の外国人に多額の金をプレゼントすることだ。それよりは、現地に留まっている人々全員に、少しずつの金をプレゼントすればよい。その方が公平だ。また、誰だって、生まれた国で家族と生活する方が幸福だろう。

 結論。
 移民の受け入れは、無制限ではなく一定の制限をし、その上で、途上国に多額の援助をするべきだ。
 第1に、学歴などの資格で制限することは、優秀な人を受け入れられるので、日本にとっても有益である。優秀な人が日本で成長してから帰国すれば、途上国にとっても有益である。(宝の持ち腐れにならない。)
 第2に、制限ではなくてクジ引きなんかで決めることは、不合理きわまりない。(なのに「クジ引きは公平だから人道的」と称するエセ人道主義者がすごく多い。バクチのどこが人道的なんだか。)
 第3に、援助で途上国を成長させることは、日本にとっても利益となる。
( → 4月11日 の[ 付記 ] : 借款などの資本流出による貿易黒字 )


● ニュースと感想  (5月10日b)

 時事ニュースへの感想。(朝日・朝刊 2002-05-01 )
 「ネリカ米」という「奇跡の米」が開発されたという。病害虫に強く、多収量で、農薬が不要で、栄養分が豊富。いいことづくめ。これでアフリカはバラ色の未来、という予測である。
 私は強く警告しておく。「バラ色の未来」というのは、途方もない錯覚である。「ネリカ米」は、逆に、人類を滅亡へ近づける効果がある。
 現状では、アフリカでは、食糧不足で、多くの人々が死んでいる。「だから食糧不足を解消しよう」という狙いだ。しかし、その狙い通りになれば、人口爆発となる。これまでは、たしかに多くの人々が死んでいたが、それでも人口は減少するどころか、均衡または増加していた。ここで、死亡率を下げれば、一挙に人口は爆発する。たとえ食糧を増産しても、しょせん食糧問題は解決しない。(マルサスの「人口論」。人口は累乗的に増えるが、食料は直線ふうにしか増えない。土地制約があるので。)

 ここでは、先進国の「少子化」とは逆の「人口爆発」問題が起こる。そして、「少子化」は人々の生活レベルを下げるだけだが、「人口爆発」は地球環境そのものを破壊する。
 単に死亡率を下げればいいというものではないのだ。その前に出生率を下げるべきなのだ。出生率と死亡率がうまくバランスしているときに、死亡率だけを引き下げれば、バランスが崩れ、とんでもないことになる。
 「死亡率を下げよう」という人道的な慈愛活動が、かえって人々を不幸にするのだ。そしてその影響は、世界規模で拡大する。途上国での人口爆発は、いずれ、先進国にも悪影響が届く。
 最近、フランスの大統領選挙に関連して、「移民排斥の右翼党首はけしからん」というマスコミの論調がある。しかし、人口爆発を放置したまま、単に「移民はけしからん」というのでは、いずれ、先進国はすべて、海外からの移民に乗っ取られる。アメリカを見るがいい。インディアンは、移民のアングロサクソンに乗っ取られた。さらにアングロサクソンは、黒人に押しやられつつある。黒人がヒスパニックに押しやられつつある。
 日本でも、「移民排斥はけしからん」「少子化問題を補うために海外労働力を受け入れよう」というマスコミの論調がある。それを信じて、移民をどんどん受け入れれば、日本はアメリカのように移民に乗っ取られてしまう。何しろアフリカや中国やインドでは人口が急増しているのだから。
 単なる慈愛活動で、すべてが解決できると思ったら、とんでもない間違いだ。「愛こそすべて」なんていうのは、ほとんど狂気である。
 経済学において、「愛」は大切である。同様に、「愛」においても、経済学は大切だ。経済学的な判断を忘れた「愛」などは、人々に破滅をもたらす。

 [ 余談 ]
 だから美人は皆こう言うのだ。
 「遊び相手ならともかく、結婚相手は、お金持ちでなくっちゃ。愛においては、経済学が大切なのよ。経済学を忘れた愛なんて、ありえないわ」
 実に賢明である。人はみな、かくあるべし。

 [ 補説 ]
 人口急増は食糧制約によって抑止される。── これがマルサスの主張の今日的な意義だ。
 論理的に考えれば、人口はたしかに累乗的に増えるはずだ。実際にそうならないとしたら、何らかの制限があることになる。それが「食糧不足」である。医学的に言えば、食糧の不足は、免疫力の低下を通じて、病気への抵抗力を減らし、死亡率を上げる。逆に言えば、食糧の不足が解消されれば、人口は急増する。
 このことが実証されたのが、19世紀のアメリカだ。世界各国は、人口増加は微増であったのだが、アメリカだけは、人口が爆発的に急増した。初めは少数の移民が訪れただけだったが、ネズミ算式に人口が増えて、本国を大きく凌駕するまでに急増した。なぜか? 肥沃な土地が大量にあったからだ。それゆえ食糧を大幅に増産できたからだ。
 食糧制限がなくなれば、人口は爆発的に急増する。それが歴史的な事実だ。アメリカならば、それを受け入れる広い大陸があった。しかしアジアやアフリカは、すでに人口が満杯である。なのに人口がさらに爆発的に急増すれば、ひどいことになるだろう。
 私の考えでは、人口を制約するものは、土地ではなくて、水である。降雨量はコントロールできない。これが上限となる。中東では水の奪い合いが本格化している。イスラエル・パレスチナ問題というのも、しょせんは、中東という半砂漠地帯で、降雨量のある唯一の地域をめぐる、土地の奪い合いである。(単に土地が欲しいだけなら、砂漠でもくれてやればよい。)
 将来、人口が急増すれば、水の奪い合いを起こして、世界各国で戦争が起こるかもしれない。ま、戦争が起これば、人口は減る。だから、そこで均衡することになるかもしれない。経済学者の大好きな均衡状態だ。……とはいえ、勝手に人口を急増させたあと、その人口を減らすために殺しあいをするというのは、まったく索漠とした未来像である。
 「奇跡の米」という愛ゆえの成果が、世界中で殺しあいを招く。「何とか避ける方法はないか?」と読者は思うかもしれない。しかし、避けてはいけないのだ。もし避ければ、地球環境の破壊を通じて、人類全体の滅亡を招く。戦争による殺しあいは、人類全体の滅亡よりはマシである。
 しょせんは、「食糧を増やせば幸福になる」なんていう妄想をもったところに、根本原因がある。……「金さえあれば幸福になる」という妄想をもつ美人と同様かもしれない。

( ※ 1トンの米をつくるには、プール何杯もの莫大な水を必要とする。穀物というものは「水のかたまり」といえるほど、多量の水を必要とする。今や世界各国では、水の枯渇が最大の問題となっている。カスピ海は、広さが日本の国土と同じだったが、それが急速に消えつつある。同様のことは世界中で起こっている。)
( ※ 人類の歴史とは、地球を砂漠化してきた歴史である。砂漠といえばサハラ砂漠を思い浮かべるだろうが、ここも昔は森林だったのだ。恐竜の化石が出てくるが、恐竜には森林が必要である。……人類は数千年ほどの歴史で、家畜に草を食わせ、大地から草を剥がすことで、次々と地上を砂漠化してきたのである。20世紀になると、熱帯雨林を次々と消滅させてきている。)
( ※ 人口の急増が世界を破滅に導く可能性は、ローマクラブが指摘した。1日に2倍に増える蓮が、池の全体を埋めるとして、池の半分が埋めつくされたと気づくのは、最後の日の1日前である。破滅が近いと気づいたときには、もはや遅すぎるのだ。)

 [ 余談 ]
 人口急増を防ぐ、最大の方法は? 私見では、テレビである。テレビが普及すると、人々は物欲を増やす。子供を欲しがるより、魅力的な商品を欲しがる。このことはだいたい統計的に証明されている。


● ニュースと感想  (5月10日c)

 パレスチナで殺し合いが続く。まったく、愚かしい。殺して、殺される。憎しみのスパイラル。(デフレスパイラルを真似したわけでもないだろうが。)

 ま、そんな愚かしさは、誰でもわかっている。ただし、これを無視するのが、小泉だ。殺し合いを見て、黙っているだけ。常に黙るのなら、まだわかるが、フセインやビンラディンが殺したときは、「殺すのはいけない」とさんざん大騒ぎした。なのに今や、米国の仲間が殺し合いの旗を振ると、急に黙ってしまう。
 まったく、気概がない。軟弱だ。腰抜けだ。こんな腰抜けだとは、思ってもいなかった。もっと勇気のある男だと思っていた。ライオン並みのハートがあると思っていた。(たとえ脳は足りなくても、ハートだけはあると思っていた。)

 まったく、見損なったね。結局、小泉は、弱い者には大声で吠えることができるが、強い者には尻尾を振ることしかできない。ライオンでなく、チワワにすぎない。(メルマガの題名も、「らいおん・はーと」でなく、「チキン・ハート」がふさわしいね。)
 こんな不誠実な男をちょっとでも信じたことで、私は自分を恥じねばなるまい。読者にも、お詫びします。「小泉の波立ち」という名前も、今となってはまずいという気がしてきた。この名前は、彼のヘアスタイルと、彼の変節しか意味しないようだ。

 [ 余談 ]
 ただ、まさか、「世界人口を減らすために、殺し合いを促す」というわけじゃないですよね? それだとしたら、一理あるが。……






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「小泉の波立ち」
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