[付録] ニュースと感想 (20)

[ 2002.06.20 〜 2002.06.30 ]   

  《 ※ これ以前の分は、

    2001 年
       8月20日 〜 9月21日
       9月22日 〜 10月11日
      10月12日 〜 11月03日
      11月04日 〜 11月27日
      11月28日 〜 12月10日
      12月11日 〜 12月27日
      12月28日 〜 1月08日
    2002 年
       1月09日 〜 1月22日
       1月23日 〜 2月03日
       2月04日 〜 2月21日
       2月22日 〜 3月05日
       3月06日 〜 3月16日
       3月17日 〜 3月31日
       4月01日 〜 4月16日
       4月17日 〜 4月28日
       4月29日 〜 5月10日
       5月11日 〜 5月21日
       5月22日 〜 6月04日
       6月05日 〜 6月19日
         6月20日 〜 6月30日

   のページで 》





● ニュースと感想  (6月20日)

 サッカーW杯で日本がついに敗退。祭りは終わった。……楽しい夢を見せてもらった。選手も監督も、ありがとう。
 最後に泣いていた選手たちよ。きみたちは美しい。別の試合ではしゃいでいた小泉首相よ。きみはみっともない。
 走り回った選手たちよ。きみたちは4年間の努力で、見事な成果をなした。椅子にふんぞりかえっていた小泉首相よ。きみは1年間の無為無策で、景気を悪化させただけだ。成果と言えば、ただひとつ。「感動した」と言ったことだけだ。国民としては、きみを勘当してやりたい。

 [ 私見 ]
 「ここまでやったのは立派だ」とか、「できればもう一つ勝ちたかった」とか、「惜しかった」とか、そういう意見が新聞などに出ている。しかし、私の考えは、そうではない。
 われわれ観客は、何一つ努力していない。ただ見ているだけだ。せいぜい旗を振って、騒ぎ立てるぐらいだ。懸命に努力をしたのは、選手たちである。だから、喜びも悲しみも、その栄光のすべては、選手たちのものなのである。汗をかいた人間だけが、涙を流す資格をもつ。われわれ観客にできることは、それを見て、無言で拍手することだけだ。

 [ 講評 ]
 W杯に関して、徹底的にダメだった組織が、ひとつある。朝日新聞だ。
 新聞というものは、情報を載せるべきだ。なのに朝日では、肝心の試合の情報は不十分。かわりに、お話ばかり載せている。「サッカー文化論」「サッカーをめぐる人生論」「選手の昔日の人情話」というようなものばかり。
 そんなものは、ただの埋め草記事だ。ニュースではない。試合の翌日に掲載するべきではない。かくて、余計なものばかりを載せるから、他社の新聞に比べて、圧倒的に情報量が少ない。ここ1カ月ぐらい、ずっとそう思ってきたが、最近は、特にひどい。
 たとえば、イタリアが敗退したが、これに関する記事も、ごく少ない。(「審判の誤審が敗因かも」という話が朝刊では抜けている。)
 とにかく、朝日というのは、情報が徹底的に少ない。新聞としての本分を忘れている。かわりに、主観的な意見ばかりがあふれる。汚い掲示板みたい。
( ※ 特に、「読者に教えてやろう」というふうに、一段高いところから説教する態度が、鼻持ちならない。いったい自分を、何様だと思っているのだろう。「おれの考えに従わせよう」というだけで、「読者のために奉仕しよう」という態度がまったく見られない。……これは、スポーツ面に限らず、政治でも経済でも、朝日のすべてに共通する体質だ。傲慢不遜。自分を最高の賢者だと思っている愚者。)
( ※ こんな新聞を購読している私も、最低の阿呆だな。さっさと購読中止するのが利口だと思うが。)
( ※ ただし、朝日がさんざんデタラメをやるおかげで、私はここに書くネタが見つかる。猿がいないと、猿回しはできない。)

 [ おまけ 1 ]
 それとは別に、トルシエの話。
 日本が負けたのを、トルシエ采配のせいにする声もあるが、それは、お門違いでしょう。「トルシエなんかダメだ」と大批判していた人と言えば、加藤・柱谷などの人がいる。「トルシエは阿呆だ。おれの方が利口だ」という主張。これらの人は、Jリーグ監督になったら、連戦連敗で、あっさりクビ。
 歴史を見よう。トルシエよりも前に、多くの有名外国人が日本代表監督になったが、いずれもそろって大失敗だった。
 「トルシエのあとは、別の有名監督を」というのが、日本サッカー協会の方針だが、歴史にならえば、次も5年前と同じで、大失敗だろう。「技術はあるが、本番に弱い」というやつ。日本の伝統ね。4年後は、アジア予選リーグで敗退、というのが、私の予測。
( ※ 朝日は2年ほど前、「トルシエを解任せよ」というキャンペーンをやっていた。今はもう、けろりと忘れてしまっているが。どうせならあのころ、「柱谷と加藤を監督に」とキャンペーンしていればよかったのに。予選リーグ全敗という新記録を樹立できたかも。……ま、4年後に、そうなるかもね。)

 [ おまけ 2 ]
 さて。それはさておき。
 トルシエは、トルコ戦の前日に、「喜んで浮かれていてはダメだ」と、中田や小野を例に挙げて批判した。この件について。
 トルシエはなかなか頭のいい人物である。怒ってばかりいるように見えるが、しっかりと計算ずくだ。世間の人々は、ついつい、誤解するだろう。
 上記の「喜んで浮かれていてはダメだ」という批判も、そうだ。このトルシエの言葉を聞いて、「勝って兜の緒を締めよ、だな」と納得した人も多いだろう。しかし、それはちょっと、勘違いである。
 トルシエの話のミソは、何か? そういうふうに檄を飛ばしたのが、トルコ戦の前日だった、という点だ。つまり、そのときまでは、喜んで浮かれていたのを容認していたのだ。
 なぜか? 喜んで浮かれているのは、リラックスできるので、疲れを取るのには、最適なのだ。死力を尽くした試合のあとで、疲労困憊したときには、リラックスさせる。しかし、いつまでもリラックスのしっぱなしでは困るので、試合の前日に、「おまえたちはたるんでいる!」と檄を飛ばす。
 緩急の切替。それが見事だ。ここが、日本人には、なかなかできないところだ。たとえば、4年前には、城彰二選手が、試合中にニタニタ笑っていて、批判された。本人は「リラックスするために、わざと笑っているんです」なんて言っていたが、試合中にリラックスしてもらっては困る。かといって、妙に緊張して固くなっても困る。
 試合中には、闘争心を発揮する。試合後は、リラックスする。試合の直前には、ふたたび緊張と闘争心を高める。そういうふうに緩急の切替が大切だ。……ここを見抜けないと、「常に闘争心を発揮せよ。絶対に休むな!」と命令するので、あげく、チームは疲れ切ってしまって、負けてしまう。(日本人監督だと、よくあるケース。いわゆる「ど根性」路線。)

 [ 余談 ]
 「緩急の切り替え」というのは、経済にも応用が利きそうだ。不況期と好況期には、なすべき政策は異なる。
 しかし、ここのところを理解しない経済学者が、ほとんどだ。たいていは、不況期の今、インフレ対策の経済政策を主張する。「構造改革」「生産性向上」「設備投資」……など。需要の拡大が必要なときに、供給の向上をめざすわけ。(ど根性路線?)

 [ 蛇足 ]
 W杯の収支報告。
 予想以上の成果を上げたトルシエ監督に対する報酬は、「解雇」。
 選手の4年間の血のにじむような努力に対する報酬は、たったの 750万円(各人)。年間、188万円だから、パートタイマー並み。
 協会とバイロム社の不手際によるチケット未販売の損失は、莫大。ただし協会は、責任を問われず。減俸ゼロ。また、「トルシエなんかダメだ」と言い張った協会役員(会長以外の全員)は、昇格やボーナス。


● ニュースと感想  (6月20日b)

 「経済成長の必要性」について。
 「なぜ高い成長率が必要か?」という疑問がある。そのあげく、「成長なんか必要ない」という意見が出たりする。素人っぽい主張だ。これについて、簡単に回答を与えておく。(あまり重要な話ではない。すでに述べたことと重複する点もある。)

 (1) 生産性の向上
 生産性の向上があるから、その分、経済成長は、自然に発生する。だから、その分、経済成長はどうしても必要なのだ。もし経済成長がなければ、生産性の向上の分、失業が発生する。( → 需要統御理論
 失業の問題を避けたれば、「労働時間の削減」(時短)によって、成長率を鈍化させるしかない。そして、それはそれで構わない。(低成長)
 ただ、生産性の向上分を上回って、過度に「労働時間の削減」をすれば、実質賃金が低下する。これは、一国全体の生産量の縮小をもたらす。(低成長ではなく、マイナス成長。) こうなると、多くのひずみをもたらすだろう。(次の (2) など。)
 ただ、「労働人口の増大」があれば、話は別だ。たとえ(一人あたりの)時短があっても、労働人口がそれを上回って増えれば、労働力は増える。だからで、経済は拡大する。これはこれで、問題はない。(少子化によって労働人口が減っても、その減少を上回る率で、女性や高齢者の労働人口が増えれば、一国全体の労働人口を増やすことはできる。)

 (2) 生産規模の縮小
 本来の成長率から、急に成長率が低下すると、いろいろとひずみが生じる。
 一国全体の経済規模が縮小するのだから、当然、あぶれる分が発生する。労働者は、失業する。設備は、遊休する(効率低下を起こす)。
 これが「需給ギャップ」の弊害と見なされるものだ。こういうふうに、今までの正常な状況から、異常な状況(ギャップのある状況)に、変化すること。── これが問題であるわけだ。
 では、望ましいのは、何か? 高成長か? 低成長か? どちらでもない。望ましいのは、「一定の経済成長」「変動しない経済成長」である。毎年、同じように成長するのが、最も好ましいのだ。それがつまり、「景気の安定」である。
 逆に、年ごとに、急に多めに成長したり、急に少な目に成長したりして、変動するのは、好ましくない。そんなことになれば、投資計画が狂うから、供給過剰になったり、供給不足になったりする。つまり、インフレになったり、デフレになったりする。つまり、ひどい物価上昇が起こったり、ひどい失業発生が起こったりする。
 だから、「成長率が低い」ことが問題なのではなくて、「成長率が急に下がる」ことが問題なわけだ。「高い/低い」が問題なのではなくて、「高くなる/低くなる」という変化が問題なわけだ。

 結局、「なぜ高い成長率が必要か?」という疑問は、その疑問自体が間違っているわけだ。求められているのは、高い成長率ではなくて、成長率の安定なのである。

( ※ 似た話は、すでに述べたことがある。 → 時短とシンプルライフ消費と環境


● ニュースと感想  (6月21日)

 「経済成長と高齢化」について。
 「高齢化にともない、若年世代から老年世代に、所得の移転が起こる。これは負担の不公平を招き、問題だ」
 という説がある。しかし、「経済成長の理論」をよく理解すれば、問題などはまったくない、ということがわかる。

 前に「経済成長の理論」を示した。そこでは、「途上国では、(労働分配率を下げることで)、消費を抑えて、投資を増やすことで、高度成長ができる」ということを示した。そして、これはまさしく、日本がたどった道なのである。
 高度成長期(1960年代:年率 10%の成長)および円高期(1971年〜1985年ごろ:ドル表示GDPの急成長)には、日本経済は急成長した。それは人類史上に類を見ない急成長であった。一人あたりの国民所得(ドル表示)は、貧国レベルから、米国を上回るまでに、急上昇した。敗戦後という同じ状態にあったドイツと比較しても、日本の成長は際立っていた。
 その理由は? 日本だけが、「設備投資重視」つまり「消費の抑制」つまり「低い労働分配率」に甘んじていたからである。いくら働いても、人々は、自分の本来の取り分を取らず、成長のために投資した。この行動は、家庭においても見られた。親は、いくら働いても、自分のためにはあまり金を使わず、子供の教育のために金を使った。(これもまた一種の投資。)
 つまり、当時の世代が、自分のためには金を使わず、将来世代のために金を使った。だからこそ、日本経済は急成長したのである。(逆に、ドイツは、戦後、住宅建設などの消費のために金を使った。いくら住宅建設をしても、それは生産力とはならないから、特に急成長はできなかった。)

 ここまで言えば、答えは明らかだろう。若年世代が高齢者世代にいくら金を払おうと、それは、すでに受け取ったものを返済するだけのことなのだ。所得の大部分を高齢者に渡すとしても、そもそも、その所得自体が、高齢者の犠牲のおかげで得たものなのだ。
 もし高齢者世代が、かつて我慢をしてくれなかったら? (つまり、消費に金を使って、投資に金を渡さなかったら?)── その場合、高度成長はなかったことになるから、日本は今ごろ、貧しい生活を送っていなくてはならない。たとえば、実質賃金が、今の半分。そして、そのなかで、少しの割合の金を高齢者に渡す。
 どちらがいいか、よく考えてみるがいい。
  ・ 年収 400万円で、その3割を高齢者に渡して、残りの280万円(7割)を得る。
  ・ 年収 200万円で、その1割を高齢者に渡して、残りの 180万円(9割)を得る。
 このどちらがいいかは、自明だろう。割合ではなく、額が大事なのだ。
 しかるに、多くの経済学者は、「若手から高齢者に金を渡すのは不公平だ」などとほざく。そういうのは、経済学がわかっていないのだ。誰のおかげで高度成長がなされ、誰のおかげで若手が高所得になったのかが、理解できないのだ。
 どうしても公平にしたいのなら、話は簡単だ。かつて我慢した高齢者たちに、「日本が高度成長をしたことの配当」として、配当金を渡せばいい。上記の例で言えば、若手の所得が 180万円になるように、残りの金のすべて(220万円)を高齢者に渡せばいい。それこそが公平なあり方だ。
 なぜ公平か? 高齢者の生活を見ればいい。彼らは若いころ、ろくに食事も取れなかった。今の若手世代は、生まれたときから飽食だ。とすれば、公平を保つには、若手世代に大幅に課税して、高齢者への年金を大幅にアップすればいいのだ。そうして高齢者が毎日、グルメ三昧・温泉三昧の贅沢を楽しめるようにすればいいのだ。貧しい青春期と、贅沢な晩年期。かつては子供たちに金を与え、今では子供たちから金をもらう。そうしてこそ、彼らの人生の帳尻は合う。これが公平ということだ。
 これも理解できずに、「高齢者に金を払うのは不公平だ」などと唱えるのは、忘恩のドラ息子である。金持ちの家に生まれて、贅沢をするが、それが親の稼いでくれた金のおかげだということを忘れて、親の金を奪って自分が贅沢をしようとする。……今の経済学者が主張しているのは、こういうことだ。経済成長の理論もわからないまま、過去の歴史を忘れ、現時点だけで帳簿の勘定をする。称して、「ドラ息子経済学」。

 [ 付記 ]
 サッカーの選手でも見習うといい。選手たちは、自ら血のにじむような努力をしたゆえに、成果を上げた。今の若手世代は、何も努力しないまま、高齢者の血のにじむような努力の成果だけを受けようとする。
 高齢者は、必死に勉強して、日本の水準を高めたが、若手世代は、必死にゲームで遊んで、日本の水準を低めようとする。高齢者の蓄積を食いつぶそうとしているだけだ。(市場調査でも、今は、読書をするのは、中高年だけ。)
 トルシエに文部大臣になってもらいたいですね。「ゆとり教育なんか、あり得ない。遊んでいて、実力は付かない。努力した者だけが、栄冠を得る。やる気のない者は去れ!」と。
( ※ でも、手遅れかも。たいていの若者は、ぐだぐだとトルシエの悪口を言いながら、ジベタリアンになって、ぷーたれているだけかも。)


● ニュースと感想  (6月21日b)

 時事メモ。「日銀審議委員」について。
 日銀審議委員は、ずっと「7対1」のような形で、反対者が一人だけいた。その「紅一点」(?)みたいな感じの反対者は、中原伸之委員であった。彼は、今現在では、任期切れになったらしく、委員ではなくなっている。
 中原委員のあと、日銀委員に就任したのは、元東京電力副社長と、元三井物産副社長。この二人が、衆院財務金融委員会に呼ばれて、抱負を求められた。その抱負は、独自の意見は何もなくて、「勉強します」という言葉であった。以下、引用。(朝日・朝刊・経済面 2002-06-16 )
「日銀執行部の方々のお考えをよく聞き、また自分でもよく勉強して参りたい」
「一生懸命執行部と勉強し、……討議していきたい」

 つくづく呆れた。無知な学生レベルの抱負である。日本経済を決定するための、最高レベルの学識が求められているはずだ。その委員として、最低レベルの素人が就任するわけだ。「自分は無知だから、勉強します」と本人が告白しているくらいだ。
 実は、「素人」というのは、謙遜ではない。彼らは長年、企業の経営をしていた。しかし、「経営」と「経済」は異なる。まして、マクロ経済学となると、ミクロ経済学とも相当異なる。

 彼らは、上記の抱負からして、「自分は素人だ」と認識しているのだろう。だとしたら、就任しないか、ただちに辞任するべきだ。それが筋というものだ。
 なのに、そうしない。としたら、彼らは、まともな常識もわからないわけで、非常識であることになる。無知だけでなく、非常識。凡人以下。ひとことで言えば、「阿呆」である。
 こういう阿呆たちが関与して決定するから、日銀は、メチャクチャな結論を出すのだし、日本経済はオモチャにされてしまうわけだ。

( ※ たとえて言えば、経済学者がサッカーのワールドカップに出場して、サッカーの選手が日本経済を運営するようなものだ。最悪。)
( ※ そもそも、日銀委員になる人には、あらかじめ、テストを課すべきだろう。例:「加速度原理とは何か」「合成の誤謬とは何か」「流動性の罠とは何か」という記述式テスト。その答案を、インターネットで公開するべきだ。……ついでにいえば、現委員にも、この手のテストを課すべきだ。ま、反対されるでしょうけどね。劣等生は常にテストをイヤがるものである。)


● ニュースと感想  (6月22日)

 「IT革命は、バブルだと言われるが、そんなことはない。すばらしい経済成長をもたらすぞ」という主張がある。(朝日・朝刊・オピニオン面 2002-06-17 )
 普通ならば、こんな意見は無視するところだが、言っているのが高名な経済学者である。ローレンス・サマーズ(前・米財務長官、ハーバード大学学長)だ。仕方ない。誤りを指摘しておこう。

 だいたい、主張の前提からして間違っている。「投機的なバブルではない」と批判しているが、バブルとは投機的な現象のことを言うのではない。妄想のことを言う。そもそも、「IT革命は投機的だ」なんて主張した人は、一人もいないはずだ。「ITバブル」というのは、「半導体分野の投機」ではないし、「資産バブル」でもない。まったく、何をトチ狂って批判しているんだか。勝手に幻影を作り上げて、幻影を批判している。ドン・キホーテ。

 ま、それは枝葉末節だから、話を本論に戻すと。……
 「IT分野では、急激な技術進歩が発生している。1年半ごとに半導体の密度場倍になる、という『ムーアの法則』がある」
 というのは、正しい。たしかに、急激な技術進歩は発生する。(これは理系の分野の話。) しかし、である。
 「急激な技術進歩は、急激な価格低下をもたらす」
 というのは、完全な間違いである。100%、間違っている。これは、経済学の分野の話だが、サマーズは、経済学の分野のことをろくに理解できないようだ。
 以下で、詳しく説明する。
 より本質的に考えよう。
 「技術の進歩は、経済を成長させるか?」
 その答えは、「否」である。(つまり、冒頭の説を、全否定する。) 理由は、次の通り。
 結語。
 経済学の目的とは、「技術進歩で経済成長がある。将来はバラ色だ」と夢をふりまくことではない。
 技術進歩(生産性向上)は、変動要因である。そして、その変動要因から経済を守るために、処置をする必要がある。それが経済学の役割だ。── 「技術進歩は、供給能力の向上をもたらし、供給過剰を招きがちだ。ゆえに、供給過剰(需要不足)が生じないように、マクロ的に需給を調整する必要がある」ということを、指摘するべきだ。
 逆に、「経済学者が何もしなくても、神の見えざる手により、経済はうまく行くぞ」などと主張するのは、真実であるどころか、有害な嘘である。
 経済学者には、責任がある。なのに、「将来はバラ色だ」などと夢をふりまくのは、自らの責任を放棄して、嘘をつくに等しい。だったら、何もしないで口をつぐんでいる方が、まだマシだ。

( → 1月26日 (v) 「1990年代のIT化」)
( → 2月08日 「経済における、量と質」)
( → 3月23日 「生産性向上と生活の質」)
( → 第2章 IT化」 かなり長い詳しい説明。)

 [ 付記 ]
 「技術進歩で経済成長」という主張が誤りであることは、次のことからも、簡単にわかる。
 今、技術進歩により、生産性が大幅に向上したとする。今までは 100人の労働者が必要だったのに、無人で労働できるようになったとする。(労働生産性は無限大だ。)機械ばかりが、莫大な生産をなす。……こうなると、あらゆる労働者は、解雇され、失業者となる。
 さて。その生産によって生じたものは、販売に出される。しかし、労働者は失業中で、無給なので、誰も買えない。かくて、莫大な生産物は、在庫の山となる。企業も倒産。
 というわけで、技術進歩による供給能力増大に対して、正しい需要管理ができないと、経済は成長するどころか、悪化していくことになる。

( ※ だいたい、「政府は何もしなくていい」なんて主張するのだとしたら、経済学なんてものは不要だし、経済学者も不要だということになる。だったら、自説に従って、さっさと辞職するがいい。「技術進歩もあるし、神の手もある。マクロ政策は何もしなくても、経済はうまく行く。この世に不況は、存在しない。だから、経済学者は、不要です」と言って、経済学者の肩書きをはずし、辞職するべきだ。……それとも彼らは、「世間をだますのが経済学者の仕事です」と思い込んでいるのだろうか?)
( ※ 結局、「何もしなければいい」のではない。なのに、そのことがわからない経済学者がほとんどだ、というのが、問題なのである。真の問題は、経済学自体にあるのではなく、経済学者たちの頭にあるのである。……だから、経済を良くするための最善の策は、経済学者たちに精神病の治療薬を飲ませることかもしれない。とりあえずは、「妄想防止剤」を。)


● ニュースと感想  (6月23日)

 「輸入デフレ」説。(前日分 との関連)
 「中国などから低価格品が輸入されると、輸入品につられてどんどん物価が下がるから、デフレがますますひどくなる」という説がある。
 一方、本日別項では、「技術進歩があると、価格低下と数量増加が起こるので、経済は成長する」というふうになる。
 この両者は、矛盾する。

 ま、別々の人が両者を言っているなら問題ない。しかし同一人物が両者を主張すると、矛盾する。
 実際には、多くのエコノミストは、古典派だから、自己矛盾を起こしていることになる。「途上国のせいでデフレになった! 対抗するために、技術進歩を! 技術進歩があれば、コストダウンができて、価格低下と数量増加により、経済は成長する!」と。つまり、「価格低下が起こると、デフレになる。でも、価格低下が起こると、(売上げが増えるので)経済は成長する!」というわけだ。結局、「デフレで経済成長」という珍説。「GDPが縮小すればするほど、GDPが拡大する」という論理矛盾。……ま、古典派の原理からすれば、そうなる。古典派というのが、いかに支離滅裂であるかという、見本となる。
(論理学で言えば、「間違った原理からは、間違った結論しか出ない」ということ。)

 正しくは? 

 (1) 輸入デフレ説については:
 個別商品の価格が低下することと、一国全体で物価水準が低下することとは、別である。( → 1月04日
 政府が需給管理をしっかりやれば、問題ない。実際、他国ではそうしているから、輸入デフレは発生しない。( → 1月04日b1月26日1月29日 。)

 (2) 「技術進歩による経済成長」については:
 → 前日分

 核心は? 
 「価格低下で数量増と売上げ増」なんていう見込みは、必ずしも成立しない、ということ。それがデフレだ。(本日別項には、デフレのほか、IT分野の例もある。)


● ニュースと感想  (6月23日b)

 米国で株が急落。日本でも同様。
 さて。「2002年の7月には米国景気は回復」と、多くのエコノミストは予測していた。何の根拠があったかは知らないが、そんな予測をしたエコノミストは、尻をまくってもらいたいですね。
 「米国景気は必ず回復するから、財政健全化のため、減税の必要はない」と主張した米国民主党も、またしかり。
 
 なお、日本の株式について、解説しておく。2月から5月にかけて、日本の株価は不自然に上昇した。「景気は回復していないのになぜ?」というのが大方の感想だった。しかし、政府を含む一部エコノミストは、「景気がこれ以上悪化しなくなったからだ(底打ちしたからだ」とか、「政府の施策が支持されたからだ」とか、ホラを吹いていた。)
 本当は? 株式関係者ならば、誰でも知っているが、この時期、海外資金が大幅になだれ込んできたからだ。海外からは、大幅な買い越し。ところが最近、ちっとも日本の景気が回復しないのに嫌気が差して、買うのをやめて、海外資金が紙上から手を引き始めた。だから、下落。……結局、景気に実情とは関係なく、思惑だけで、上がって、元に戻っただけ。

 ついでに言えば、ドル安のせいで、円相場がまた元に戻ってきた。(一時期、1ドル=135円まで円安になったが、今はまた 120円。)
 で、この数カ月間、円安によって、景気は回復したか? 答えは、ノーだ。たしかに、企業業績は、輸出増加で、回復した。しかし従業員の給与は、上がるどころか、下がった。結局、国内の総需要は、増えないまま。(企業業績の向上分、企業の銀行預金が増えただけだ。金の滞留が増えただけ。)
 「円安で景気回復」なんて主張したエコノミストも、尻をまくってもらいたいものだ。少なくとも、「円安でこれこれになりました」という自説の検証ぐらいは、してもらいたいものだ。「ほおかむり」というのは、まったく無責任である。
( ※ 「企業業績が向上しても、賃上げがないと、景気は回復しない」「労働分配率の低下でなく上昇が必要」ということは、先週あたり、いろいろと述べた。)

 [ 補足 ]
 「円安のときに日本株式を買い、円高のときに日本株式を売る」のであれば、海外からの投機は成功したことになる。彼らが得をした分、ちょうど同額、日本の富は奪われる。どういう形で? 「円安介入」というのと同等の投機をした人々だ。彼らが無理に相場を動かそうとした結果、それに反対介入をした人々が得をするわけだ。( → 5月26日 「不安定化」)
 「景気回復のために、もっと円安を」と叫ぶ人々は、「国民の金を奪って、海外投機筋にプレゼントしよう」というのと、同じことを言っているわけだ。(「国民に減税するのはダメだが、外国に日本の金をプレゼントするのはいい」というわけ。一種の売国奴。)

 [ 付記 ]
 経済財政諮問会議は、あいかわらず、税制改革などの「中期的な目標」に向けて論議しているだけ。
 愚かなだけでなく、不誠実な人々だ。「中期的な目標」ということは、「短期的には何も効果のあることはやらない」ということだ。つまり、「景気対策は何もしていません」ということだ。
 ならばそのことを、はっきりと言明するべきだ。そうすれば、少なくとも、誠実にはなれる。(愚かではあっても。)

 [ 参考 ]
 経済財政諮問会議の発表文書が、インターネット上にある。「経済財政運営と構造改革に関する基本方針」(2002.6.21)
  → [本文概要]


● ニュースと感想  (6月23日c)

 「優秀企業の共通点は?」という報告が経済財政諮問会議に報告された。「これこれの経営方針がある」という指摘。(読売・朝刊・1面 2002-06-21 )
 もっともらしい経営分析のような報告を読んで、「なるほど」と思う人が多いだろう。しかし、この報告は、まったくの嘘っぱちである。なぜなら、マクロ経済の視点が、すっぽりと抜けているからだ。

 詳しく見よう。例示された企業は、次の9社。
 キヤノン、信越化学工業、任天堂、シマノ、マブチモーター、ホンダ、ヤマト運輸、セブンイレブンジャパン、花王。
 「これらに共通する点は? どんな経営方針か?」と探して、うまく答えを見つけたつもりらしい。しかし、そういうふうに探すこと自体が、間違っている。探すべき場所は、経営ではない。マクロ経済的な需給だ。それを調べれば、次のことがわかる。

 (1) 世界シェアが非常に高く、日本一国の不況の影響を受けない。
 ……キヤノン、信越化学工業、任天堂、シマノ、マブチモーター、ホンダ。
( ※ ホンダ以外は、世界的なIT分野自体の市場が拡大している。つまり、総需要が拡大している。)

 (2) 国内産業だが、デフレによる需要縮小の影響をあまり受けない分野である。(日常必要度が高いサービス業。遊休設備の発生による巨額の固定費負担に悩む製造業とは異なる。)
 ……ヤマト運輸、セブンイレブンジャパン。

 (3) その他
 ……花王

 結局、「デフレによる(国内の)総需要縮小の影響を受けない」という分野の企業ばかりだ。だったら、(世界的な総需要が縮小しないので)デフレの影響をあまり受けないのは、当たり前だ。マクロ経済学で考えれば、ごく当たり前のことなのだ。
 だから、これらの企業ではなくても、同種の企業は、どれもこれも、デフレのときに成功している。
 例:キヤノンでなく、エプソン。任天堂でなく、プレステ(ソニー)。ホンダでなく、トヨタ。信越化学工業・シマノ・マブチモーターでなく、各分野の世界1位企業。
 例:ヤマト運輸でなく、他の宅配便会社。セブンイレブンでなく、他のコンビニ会社。

 もし冒頭の報告が正しいとしたら、上記の同業他社は、デフレのときに、経営悪化しているはずだ。実際には、そうではなく、上記の同業他社も、好決算だ。つまり、「需給のせい」だけで話は片付くのだ。「9社における経営のせい」なんてのは、お門違いなのだ。
 そして、こういうデタラメな報告に基づいて、政府は、どう結論するか? こうだ。

「他の企業は、これら9社を見習え。そうすれば、経営はうまく行く」
「デフレの理由は、需要の縮小ではなく、企業経営の劣悪さである」
「責任は、民間企業にある。政府には、責任はない」
「だから政府は、何もしないでいい。すべては民間の自助努力に任せよ」
「好況のときは、日本中の経営者はみんな賢明になる。不況のときは、日本中の経営者はみんな愚劣になる。それが景気変動の理由だ」
「デフレ解決には、愚かな民間企業に、賢い経営を教えてやればいい」
「これにてデフレは解決。政府って、すごく賢明だなあ」

 まったく、呆れた話だ。経済政策における自分の無為無策を正当化するため、勝手なデタラメ報告ばかりを採用する。
 すべては、国民をだますためだ。だから私は毎日、忠告しているわけだ。「政府のおかかえエコノミストにだまされるな!」「政府とマスコミの嘘に洗脳されるな!」と。

 [ 付記 ]
 花王だけは、上記の (1) (2) の理由に当てはまらない。実は、この企業は、今回の報告(「多角化はダメ」)とは逆に、多角化をすることで成功した。「花王石鹸」という石鹸会社が、界面活性剤の技術を使って応用することで、IT分野に進出して、成功した。
 ま、こういう「多角化」の成功例も、少しぐらいはあるだろう。例外的に成功する企業も、少しはあっていい。その陰には、多角化で大失敗した無数の企業があるわけだから、この件は、あまり参考にはならない。あくまで、レア・ケース(稀な事例)であろう。


● ニュースと感想  (6月24日)

 朝日新聞の記事の講評。(2002-06-23 朝刊・経済面・コラム「経済漂流」)
 「量的緩和」について批判している。朝日にしては珍しく、まともな記事。
 ただ、今回の記事も、核心が抜けている。「デフレの原因は、需要不足」ということだ。それを抜きにして、あれこれと述べても、肝心要のものが抜けていることになる。アンコのないアンパンのようなものだ。
( ※ 銀行には無駄な金がたくさん滞留し、朝日の紙面には無駄な記事がたくさん滞留している。量的緩和。)


● ニュースと感想  (6月24日b)

 コンピュータの話。「TRON」について。
 最近、TRONが話題になっている。読売新聞の連載などで取り上げられているせいだろう。そこで、私の見解を述べておく。(興味のある読者向け。)

 「TRONは優秀なOSなのに、産業的な思惑から、横ヤリが入って、不遇になった」という悲劇的な論調が多い。しかし、私の見解は違う。「身から出たサビ」である。自分の欠点に気づかないと、いつまでたっても、普及はしないだろう。
 だいたい、TRONを Windows や Mac と比較するのは、おかしい。(この二つは元もと普及していた。) 比較するなら、Linux などだろう。では、Linux と比べて、TRONは、どこが違うか? 使いやすさで言えば、TRONの方が上かもしれない。しかし、決定的な違いがある。それは、「TRONは、坂村健の独裁体制のもとにある」というところだ。
 コンピュータというものの本質は、その自由さにある。どのようなハードであれ、ソフトを載せ替えることにより、ユーザの思うがままに自由に設定できる。何種類あろうと、困ることはない。単に切替をするだけで済む。たとえば、キーボードなら、標準的な英文配列であれ、DVORAK 配列であれ、JISカナ配列であれ、五十音配列であれ、ソフトの切り替え(設定の切り替え)で、簡単に、ユーザが好みの設定を使える。
 ところが、TRONは、このようなことを禁じる。何から何まで、「TRON仕様」によって決められる。ユーザが独自の仕様を用いようとしても、坂村健という独裁者が認可しない限り、ダメなのだ。そういうふうに、がんじがらめな仕組みになっている。
 たとえば、「齋藤」という名前の人がいる。「齋」の字は、百字以上の異体字(たいていは誤字)があるが、それをコンピュータで使おうとして、その人が独自に外字を作成したがるとする。Windowsなら、「外字」ソフトを使えば、可能だ。ワープロ専用機でも、可能だ。しかし、TRONでは、坂村健が許可しない限り、ダメなのだ。
 「何人かの要望があれば、文字の規格に採用する」と坂村健は言っている。しかし、「自分一人だけ」の用途のためであれば、規格に採用はされない。そもそも、規格に採用されるとしても、おかしな話だ。その文字は、世界中でただ一人しか使わない文字なのだ。そんなものを、いちいち規格に採用する方がおかしい。
 要するに、「何もかも規格で決めよう」という方針そのものがおかしいのだ。それはコンピュータの自由さを奪う。コンピュータの本質に反するのだ。
 特にひどいのが、削除用の DEL キーが使えなかったり、挿入用の INS キーが使えなかったり、Ctrl+Z や Ctrl+V でカットやペーストができなかったりすることだ。操作体系が Windows とは異なり、独自の操作体系に凝り固まっている。( → 使用体験記
 本来ならば、こんなことは、ソフトの設定次第で、いくらでも変更が可能になるはずなのだ。Windows の操作体系を使いたい人は、そうすればいいし、TRONの操作体系を使いたい人は、そうすればいい。ユーザが自由に切り替えればいい。しかし、それを禁じる。こういうのは、まったくのユーザ無視であり、押しつけである。独裁体制だとも言える。……だからこそ、「コンピュータは自由だ」というコンピュータ技術者に嫌われたのだ。
 「TRONが不人気なのは、いじめっ子がいたせいだ」とマスコミは言う。違う。TRONが不人気なのは、TRON自体に欠陥があるせいだ。使いにくいものが不人気なのは、当然なのである。
 そして、その原因の根本は、「独裁体制」にある。普通なら、規格の決定には、人々が衆知を集めて、多数決で決める。そうして人々の合意を得る。TRONは違う。何もかもが、ただ一人が独裁的に決める。だから、こういうものは、信頼されないのである。

 [ 付記 1 ]
 上記の問題は、解決されることはあるか? まず、ない。なぜなら、それが坂村健の哲学だからだ。
 「コンピュータの操作体系は、ただ一種類に定めるべきだ。自動車だって、アクセルとペダルは、共通だ。何種類も操作体系があると、どの操作体系を使えばいいのかわからなくなって、ユーザが混乱する」
 という主張である。
 なるほど、設定の切替が不可能ならば、そういうことが好ましい。しかし、コンピュータは、自動車とは違うのだ。設定の切替が可能なのだ。こういう「コンピュータの自由さ」を坂村健は理解していない。
 そして、もう一つ。そもそも、「操作体系を一種類に定める」のであれば、現在のほとんどの人が使っている Windows の操作体系に一本化するべきだろう。なのに、そうしない。勝手に、別の操作体系を取っている。つまり、言っていることと、やっていることが、正反対である。矛盾。
 で、自分の矛盾に気づかないような人の作成したソフトなど、信用できそうにない。あちこちに矛盾が発生して、バグだらけになりそうだ。

 [ 付記 2 ]
 以上、私は、TRONの悪口を言っているように見えるかもしれない。違う。改善法を示しているのだ。このOSは、技術的には、優れているし、普及する価値が十分にある。ただ、技術的には優れていても、商品的には全然ダメなのだ。
 技術者による独裁体制を改め、技術をよく知った経営者をトップに据えるべきだ。そして、何をどうするかは、開発者の意見ではなく、ユーザの意見に従うべきだ。そうしない限り、TRONはいつまでたっても、ユーザから見放されたままだろう。
 とにかく、組織をちゃんと動かすには、優れた経営者が必要だ。マイクロソフトのビル・ゲイツも、アップルのジョブズも、技術者としては二流だが、経営者としては(一応)超一流だ。TRONは、正反対だ。坂村健は、技術者としては超一流だが、経営者としては三流だ。ここを理解しない限り、TRONは、どうしようもない。市場で受け入れられないまま、博物館にでも飾っておくしかあるまい。

 [ 付記 3 ]
 「提案者と、決定者は、別人でなくてはならない」
 これは、経営の鉄則だ。「自分で提案して、自分で決定する」というのでは、もはや、独裁となってしまう。……自分が提案したいのであれば、決定の座を降りる。自分が決定したいのであれば、提案の座を降りる。これが鉄則だ。そして、こんなことは、たいていの管理職の人が、ちゃんと理解している。
 坂村健だけは、このことを理解しない。かくてTRONは、暴走する。

 [ 付記 4 ]
 TRON側は、やたらと「外圧のせいだ」と主張するが、こういう被害妄想は、いい加減、やめてもらいたいものだ。WindowsCE や PalmOS のような携帯端末とであれば、自由に競争できたはずだ。BTRONというのは、それにふさわしい能力も備えていたはずだ。なのに、これらにさえ負けてしまったのは、外圧のせいなんかじゃない。TRONというのは、そもそも、市場の意向というものを、まったく無視した、技術優先の独善的なシステムにすぎなかった、ということだ。
( ※ CTRONだけが成功したのは、象徴的だ。これは、ユーザというものを無視して、専門技術者だけを相手にしていればよかった。そういうふうに、ごく狭い専門世界に閉じこもったものであれば、技術面での優位さによって、TRONも成功する、ということだ。)
( ※ 実際には、「技術的に優れているのだから、普及するはずだ。普及しないのは、外圧のせいだ」とばかり叫んでいますけどね。哀れ。自分を見えない道化。……独裁者ってのは、たいていそうですけどね。日本の首相も、そっくりだ。「構造改革は絶対に正しい! これで必ず景気は回復する! 景気が回復しないとしたら、自分のせいじゃない!」と。)

 【 注記 】
 本項のTRON批判は、記述が不正確なので、次項で追記・修正する。



● ニュースと感想  (6月24日c)

 前項( 6月24日b )の追記・修正。
 [ 本項は、番号は 6月24日c だが、記述したのは 6月26日。]

 前項では、TRONについて批判したが、情報が古かったようだ。読者からの情報を得て、次のように訂正します。

 (1) 基調
 TRONは、以前は坂村健が何でもかんでもやっていたが、最近では、あちこちの人が参入している。その意味で、「独裁」というような表現は、誇張のしすぎであった。
 外部からの参入があるのにともなって、外部の意見が取り込まれるようになってきている。以前はともかく、最近では、硬直した傾向は、だいぶ和らげられてきている。

 (2) キーボード
 以前はともかく、最新版では、キーボードのキー配列を自由に変更できるよう、最初からシステムが整えられてきている、とのことだ。つまり、Windows のキー操作法でも使える。
 この点で、私の記した情報は、古すぎたようだ。(換言すれば、Windows の操作法が使えない、という旧来の体系は、あまりにもひどすぎたので、現在では、修正されている。つまり、この問題は、解決済み。)

 (3) 初期のTRON
 私の説明の根拠となったのは、坂村健による初期の著作である。たとえば、「TRONからの発想」(岩波書店 1987)など数冊。
 これらの著作では、坂村健は、「操作法の統一」の必要性を述べて、従来型のキー配列をひどく批判している。「QWERTY配列はダメ」「JISカナ配列はダメ」「50音配列はダメ」という主張である。
 普通の発想なら、これらの配列を批判することはあるまい。「優劣がありますが、いろいろ使えますから、お好みのをどうぞ」と言うはずだ。あるいは、「そういうのは、OSとは別の話だから、関与しません。勝手にどうぞ」と言うはずだ。
 しかるに坂村健は、「これらは劣る。TRONの独自配列は優れている」と主張する。そして「TRONは操作法を統一する」と主張する。あくまで自己流の操作法だけを押し進めようとする。
 ただ、実際に初めて商品化されたときは、TRONキーボードは使わず、普通のキーボードを使った。そのことがニュースになったくらいだ。(普通のキーボードを使うことがニュースになる、というのは、TRONならではの話。)
 どうも、このころから、坂村健の方針は、「TRONの独自路線」を捨てて、「操作法の統一」も捨てて、「カスタマイズの受容」「多様な操作法」という方針を取ってきたようだ。……となると、私の情報は、ちょっと古すぎたことになる。15年前の情報だった。実際には、10年ぐらい前には、方針は変更されつつあったようだ。(ただし、カット・ペーストなどに至るまで、そういう新たな方針になったのは、つい最近であるようだ。)

 (4) 文字の登録
 「坂村健が許可しないと、文字を使えない」というのは、誇張または不正確であった。正しくは、「坂村健の公認した(委任した)団体が許可しないと、文字を使えない」であった。その団体は、坂村健自身ではなくて、 http://www2.tron.org/ の、文字収録センターである。

 [ 付記 ]
 ただし、「外字を使えない」という問題自体は、そのまま残っている。「外字なんか使えなくても、画像で代用すればいい」という意見もある。しかし、私は、賛成できない。次の二つの理由による。
  ・ そんなことを言ったら、「多くの難解文字も画像でいい」となり、矛盾。
  ・ そもそも、画像では、検索・置換・IME呼び出し、などが不可能。
 つまりは、文字を画像として扱うこと自体に、根本的な難点がある。
 外字例: 丸数字ならぬ丸英字や丸漢字。 ●a や ◇a の合成文字など。

 [ 余談 ]
 新聞記事 2002-06-25 によると、携帯端末のザウルスの新タイプは、OSに Linux を使うという。
 なるほど。賢明な選択だ。Windows みたいに重くならない小さくて高性能なOSを、携帯端末に使うわけだ。前項で「TRONはこうすべし」といったことを、Linux 陣営が着々とやっているわけだ。

 [ 参考 ]
 「アプリ上における、(機能の)キー割り当てのカスタマイズ」というのは、Windows では、ほとんどの有料ソフトで可能である。MS-Word でもエクセルでも一太郎でも、たいていのソフトでできる。Windows というOS上におけるキー配列のカスタマイズ、というのは、あまり意味がないので、やる人はほとんどいないが、一応、可能である。vector にソフトがある。

 [ 悪口 ]
 最後に、悪口を述べておこう。
 このようにして、操作法が Windows と共通化できるようになったら、TRONというものは、ちゃんと使えるか? 
 私の個人的意見では、「ノー」である。たしかに、操作法という最大の問題は、キーカスタマイズによって解決可能だろう。
 しかし、基本的な態度の問題がある。坂村健は、常日頃、「私は Windows なんかいっぺんも触ったことがない」と自慢している。
 こういう態度を、衒学的という。まったく、辟易する。唯我独尊と紙一重だ。
 はっきり言おう。どんな分野であれ、何か新規のことを開発しようとしたら、既存のライバルを十分に研究することが必要だ。「Windows なんか使ったことはない」と自慢するのではなくて、「Windows の長所も短所も知り尽くしています」と言うべきなのだ。
 なのに、それができない。自分の城に閉じこもって、その外に出ようとしない。つまりは、独りよがりなのだ。……こういう人の作ったソフトというものは、その人にとっては最適のソフトとなるだろうが、他人にとっては最適とは限らない。
 おそらく、坂村健は、「最適のものは一種類しかない」と思い込んでいるのだろう。違う。利用者の環境がさまざまである以上、各人にとって最適のものは異なる。
 彼は、そういうことを、理解しない。あくまで自己中心的な思想で凝り固まっている。だから私は、彼の作ったものを、信用しないのである。

( ※ オマケ。さんざん悪口を言ってきたが、実は、私は、TRONという技術は好きである。Windows なんかよりも、よっぽど好きだ。技術的には、とてもいいと思う。ただし、技術者としての坂村健は最高だが、組織のトップとしての坂村健は最低だ。自分の技術を鼻にかけて、勝手にユーザーを自分の思うがままに動かそうとする。「ユーザーのために奉仕する」なんてことは、ひとことも言ったことがない。「おれの言っていることが最高なんだから、みんなおれに従え」と言うばかりだ。……この点は、Windows とは、正反対。こちらは、技術は最低だが、少なくともユーザの好みを取り入れる。たとえば、Mac の評判が高いと、さっそくそれを物真似する。ネットスケープの評判が高いと、さっそくその物真似をする。MS-DOSからして、よその二番煎じだった。TRONみたいに独自路線にこだわらない。その日和見主義は立派。)


● ニュースと感想  (6月25日)

 「電子投票」が実施された。(朝刊 2002-06-24 )
 前にも述べたが、「機器は、新規購入だと膨大になるので、銀行や郵便局のATMを使うべきだ」というのが、私の見解。
 これなら、機器のコストはかからない。また、利用者はすごく便利。全国どこでも投票できるからだ。指定投票所に行かなくてはならないのでは、時代錯誤的。
( → 2月28日

 なお、私の予想では、機器を新規購入しても、実際に使用されるのは、1回ぐらいだと思う。2回目のころには、IDカードが普及しているので、それから「カードリーダー」を使って、職場や会社などから自由に投票できるようになる。パソコン上から自由に投票できるのだから、専用機器は不要。投票所でも、パソコンが使われるので、専用機器はすべてお蔵入りとなる。
 今のうちに、専用機器の廃棄法を、考えておいた方がいい。どうせすべてはゴミになるのだから。


● ニュースと感想  (6月25日b)

 「IT教育」について。
 前にも何度か言ったが、IT教育は遅々として進まない。1教室1台のレベルにすぎない。1人1台は夢のまた夢だ。
 そこで、提案。不要になって廃棄される旧式コンピュータがたくさんある。これを回収して、教育用に使うといいだろう。うまくやれば、費用は非常に少なくて済む。

 [ 付記 ]
 以下、手順の詳細。(読まなくてもよい。)
 コンピュータ本体は、廃棄されるはずの業務用パソコンを使う。2002-06-20 の朝日朝刊(ベタ記事)によると、デスクトップで 20万台がリサイクルに回されている。リサイクルといえば、聞こえはいいが、要するに破砕して再生するから、ほとんどは無駄となる。コンピュータとして、そのまま再利用すれば、価値は残る。
 ソフトは、すべて、フリーソフトを使う。OSは、Linux か、TRONを使う。(TRONならば、完全無料ではないが、しょせんは国の税金で開発したものなのだから、ほとんど無料に近い金額で利用できるはずだ。)
 Windows との互換性は取れないので、実用的なアプリの使い方までは、うまくできない。しかし、IT教育として、コンピュータ操作の基本を学ぶだけなら、これで十分。若手ならば、Linux ,TRON ,Windows の三つを同時に使うことも、難しくないはずだ。(だいたい、「アイコンをクリックするだけ」という操作法だから、どれでも操作法は大した違いはない。)
 なお、もしTRONを使えば、「TRONの普及」もできる。MSが対抗上、OSの無料サービスを始めるのなら、それもまたよし。
 ま、とにかく、国としては、OSの決定は末端に任せて、ハードの「再生」ならぬ「再利用」を促進するべきだろう。
( ※ ハードディスクのデータ抹消は、いったん初期化したあとで、高校生のITクラブのボランティアに任せるといいだろう。これも無料。なお、初期化だけなら、誰でも簡単にできる。)
( ※ 高校生のかわりに、失業者を利用する、という手もある。失業者はありあまっているのだから、彼らに、遊んで金を渡すかわりに、国家のために少し働いてもらうといい。)
( ※ なお、データの抹消は、ソフトの入ったフロッピーまたは CD-ROM を入れて、クリック一発で済むから、田舎の婆さんでも簡単にできる。必要なのは、画面の前でじっと待っている忍耐力。)

 [ 補足 ]
 朝日新聞・土曜版 be ( 2002-06-22 )では、「個人が無料でハードディスクのデータを消去するには、ハードディスクをはずしてぶちこわすしかない」などと述べている。
 こういう変な情報に惑わされるといけないので、正しい処置を述べておく。
 ハードディスクは、本体からはずしたあと、特にぶちこわす必要はない。いったんフォーマットしたあとで、そのまま機器を保存しておいてよい。将来、別のパソコンに「第2ハードディスク」として利用可能である。

( ※ なお、単純な「フォーマット」でも、全然しないよりは、ずっとマシである。また、比較的安価にデータを抹消するソフトもある。私だったら、バッチファイルで、大量のデータを上書きすることで、大部分のデータを抹消する。部分的に痕跡が残るが、そんなのは気にしない。どうせ機器は手元に置くのだから。)
( ※ 「下手に保存しておいたら、盗まれるかも」なんていう心配はあるが、心配は不要である。普通の泥棒がハードディスクの専門的知識をもっているとは思えない。どうせなら、現金の盗難の心配をした方がマシだ。だいたい、はずしたハードディスクのデータばかり気にしても、仕方がない。現在使用中のパソコンのハードディスクには、機密情報がたくさん入っているからだ。「情報守秘のためにハードディスクをぶちこわすしかない」と思うのなら、今使っている方のパソコンをぶちこわすべきだ。)


● ニュースと感想  (6月25日c)

 「IT化のおかげで、すばらしい未来になる」という説がある。しかし、私が思うに、「IT化のおかげで、真っ暗な未来になる」とも思える。
 その理由は、「少化」だ。テレビゲームやコンピュータを使うようになって、子供たちはどんどんIT能力を高めていったが、その一方で、肝心の頭脳の力が退化している。電脳が進化すると、人間の脳が退化する。
 最近、本を買うのは、中高年ばかりだ、という。若い世代はどんどん文盲に近づきつつあるのだ。
 だいたいね、「IT化で人間の頭脳が発達する」なんていう意見は、「自動車の普及で、人間の脚力が強化される」というようなものだろう。メチャクチャである。
 もうちょっと、現状に対して危機感を持たないと、大変なことになるかもしれない。

 例。
 「ロボットでサッカーのW杯を」という意見がある。「人間チームに勝てるようになるのが目標」だという。
 正気ですかね? ロボットと人間がサッカーで闘ったら、ロボットの頭突き(ヘディング)で、人間の頭はかち割られてしまう。ロボットのタックルで、人間の足は骨折してしまう。……こういうことも理解できないのだから、IT関係者というのは、狂人の集まりなのだ。コンピュータというものは、人間を白痴化させるのだ。

( ※ ただの道具として使っているうちはいいが、「すばらしい道具だ」と崇拝するようになると、道具に人間が使われるようになってしまう。……私の周辺にも、コンピュータの奴隷と化した人々は、たくさんいる。)
( ※ 新聞の書評欄では、「コンピュータは思考の道具」というようなタイトルの新刊書の書評が出ている。そんな妄想を信じていると、「わたしゃ、コンピュータの道具」と化しかねない。)

 [ 付記 ]
 「高齢化」との関連を言おう。
 少子・高齢化が大変だ、という意見が多いが、「少知化の方がずっと大変だ」というのが、私の見解である。だいたい、少子・高齢化なんて、今さら騒いでも、すぐには解決しない。20歳以下の若手世代の数が不足しているのは、もはやどうしようもない。騒いでも、手遅れである。今から多子多産を奨励しても、それらの若手世代が 20歳までの年齢層を占めるようになるまで、20年間もかかるのだ。
 緊急の課題は、少知化である。これは、手遅れということはない。すでにレベルが低下しているとしても、放置するのがいい、ということにはならない。どんなに阿呆でも、教育の効果はある。たとえ猿でも、教育の効果はある。ろくに言葉も知らないような若手の新人類(つまり猿人)たちに、しっかりと教育を施そう。

 [ 余談 ]
 「若者の悪口を言うな!」という批判があるかもしれない。しかし、そういう批判こそ、若者を不幸にするのだ。
 人は誰しも、生まれながらの能力がある。それは、本人は気づかないまま、眠っている。その眠っている能力を、十全に開花させてあげることこそ、親が子供になしてあげる最大の贈り物だ。
 サッカーの選手は、自らの能力を最大に発揮したからこそ、その喜びを得る。誰もがそうであるはずだ。「若者には、ゆとりを」と唱える人は、若者の才能に「封印」をしていることになる。それこそ若者への虐待なのだ。


● ニュースと感想  (6月26日)

 「少化」の話題。
 サッカーのW杯が話題だが、囲碁のW杯(のようなもの)も行なわれた。そこで日本が惨敗したとのことだ。(朝日・朝刊・オピニオン面・コラム 2002-06-13 。元ネタは「週刊碁」)
 世界各地の代表 32人のうち、日本代表は 13人。うち9名が1回戦で敗退。韓国が圧勝。
 日中韓台の団体戦では、日本は1勝9敗で最下位。優勝の韓国は10戦全勝。(注釈 : 人口は、日本が1億2700万人。韓国が4650万人。台湾が2190万人。
 囲碁というのは、数学的な思考力を要する。1国全体で見れば、頭の出来と、だいたい一致する。昔は日本はとても強かったが、今は断然ペケ。
 教育の退化は、こういうふうに、まずは国際テストやゲームに現れる。それが蓄積して、ある程度の時間がたつと、経済力の低下となって現れる。そうなったときには、もう遅い。20年後、日本の経済力が低下してから、あわてて教育を推進しても、手遅れである。途上国(将来の日本)が、いくら教育を整備しても、すぐには結果は現れない。途上国民として、貧しい生活を甘受するしかない。貯金しておいても安心できない。大幅な円安で、輸入物価が上昇するからだ。

 「学力の低下なんてあるの?」と思うかもしれない。同じ日の高校生の投書を読むといい。(朝日・朝刊・声欄 2002-06-13 )
 県立高校生の意見。週休二日制となり、土曜日が休日になり、喜んでいた。しかし、私立高校に進学した友人と会うと、焦った。友人は、土曜も勉強している。彼我を比較して、勉強量の違いを痛感させられる。「だから、もっと勉強する環境がほしい」とのこと。
 こういう「もっと勉強する環境がほしい」というのは、途上国では、よく聞かれることだ。「勉強したいんだけど、制度がダメで、できないんだ」と、小さな子供たちが悲しむ。それと似た状況が、今の日本では現実化しているのである。つまり、日本はまさしく、途上国化しつつあるのである。

( ※ 「遊べば、頭が悪くなる」というふうに、遊びと知能とは、トレードオフ関係にある。そこを理解しないと、「ゆとり教育」とか、「遊んでも勉強はできる」と思い込む。……実は、経済学者もまた、こういう勘違いをあちこちでやっている。 → 5月07日


● ニュースと感想  (6月26日b)

 「少知化のスパイラル」について。
 経済では、いったん好況または不況の傾向が出ると、それが加速する。(加速度原理。) このことは、少知化にも当てはまる。
 いったん勉強しなくなると、テストの成績が悪くなり、ますます勉強をしたがらなくなる。そのせいで、どんどん学力が低下する。しかも、一人だけがそうなら、成績悪化」が顕在化するのに、全員が学力の低下を起こすと、相対的には成績悪化が顕在化しない。かくて、成績の悪化が、ますます進行する。
 さらに、学力が低下するだけなら、「これはダメだ」と反省するのだが、学力と同時に判断力まで低下すると、「これはダメだ」と反省できなくなる。猫やライオンは反省ができない。というわけで、学力の低下を反省しないまま、現状を是認するので、どんどん学力が低下していく。
 かくて、学力低下のスパイラルが発生する。
( ※ 冗談みたいだが、真面目です。)

 [ 付記 ]
 似た話に、「学校の週休二日制」がある。
 私立の学校は、週休二日制を実施しない。そのせいで、私立と公立とで、格差ができる。金持ちの子供は、私立に通い、良質の教育を受けて、ますます金持ちに。貧乏人の子供は、公立に通い、粗悪な教育を受けて、ますます貧乏ちに。……かくて、貧富の格差が、スパイラル的に拡大する。
 ま、これを見て、「貧富の差が拡大することはすばらしい」と唱える保守派の人も出てくるだろう。彼らは、国民全体が賢くて豊かになるのがイヤなのだ。だからあえて、一部の人々を除いた大半の人々を、愚かで貧しくなるようにするのだ。日本貧困化計画。


● ニュースと感想  (6月26日c)

 正誤訂正。
 6月24日に記したTRON批判には、不正確な記述が多くあったので、訂正します。
 次の箇所に、独立して示します。

   → 6月24日c


● ニュースと感想  (6月27日)

 教育問題。「絶対評価」と「相対評価」について。
 この言葉について、世間では完全に誤解があるので、指摘しておく。
 世間では次のように理解されているようだ。
  ・ 相対評価 …… 生徒間の、相対的な順位関係を示す。
  ・ 絶対評価 …… 相対的な順位に関係せず、絶対的な学力を示す。
 これは、勘違いである。

 絶対評価というものは、絶対的な学力を示すものではない。たとえば、同一人物に対して、絶対的な唯一の評価が与えられるわけではない。教師Aと教師Bとでは、まったく異なった評価が与えられることもある。世間で「絶対評価」と呼ばれているものは、実は、絶対的な評価ではなくて、単なる「主観評価」(教師の主観による評価)のことでなのである。これは、普通の「相対評価」とは、異なるが、だからといって、絶対的な値が出るわけではない。ここを勘違いしてはならない。

 もし「絶対的な唯一の評価」というものを望むのであれば、「全員を対象としたテスト」(いわゆる「統一試験」)が、その名にふさわしい。これなら、クラスに優秀な人がたくさんいても、全国レベルのなかで評価されるので、多くの人が「最優秀ランク」という評価を得ることもある。

 相対評価と呼ばれているものは、実は、「相対的な評価」のことではなくて、「クラス内だけの相対的な評価」のことなのである。これだと、クラスに優秀な人がたくさんいると、多くの人が「最優秀ランク」という評価を得ることはできない。そういう問題がある。だから、これは、あまり好ましくはない。

 結語。
 絶対評価というものを、「絶対的な評価をすることだ」と勘違いする人が多い。しかし、いわゆる絶対評価というのは、実は、ただの「主観評価」のことなのだ。言葉に惑わされるべきではない。注意しよう。

 [ 付記 1 ]
 「これぞ絶対評価」と称するものもある。たとえば、あらかじめカリキュラムを用意しておいて、そのカリキュラムを達成したら、達成度に応じて点数を与える、という形。
 しかし、カリキュラムに対する配点法は、教師の主観による。だから、これもまた、主観評価であることには変わりない。
 また、カリキュラムや試験問題や配点法まで、すべて統一してしまえば、「統一試験」そのものになってしまう。

 [ 付記 2 ]
 「統一試験」というものは、あまり好ましくない。年度末試験だけならともかく、毎度毎度の細かな試験まで、すべて統一するべきではない。
 もし、そんなことをしたら、すべての学校のカリキュラムを統一することになる。つまり、「全国一律」ふうに、「学校の均一化」を進めることになる。
 こうなると、学校の個性は、消えてしまう。日本中の店がすべてコンビニになって、同じような商品ばかり売るようなものだ。「規格統一された生徒の大量生産」なんて、気持ち悪い。
 しかし、である。日教組とか、教育委員会とかは、こういう「規格統一された生徒の大量生産」というものを、推進する。
  「生徒に学力格差があってはならない」
  「すべての生徒を均一化せよ」
  「集団の統制と協調性こそ大事だ」
 などと。── ついでに言えば、これは、歩兵の養成としては、きわめて理にかなった方針である。目的が戦争であるならば、この方針は正しい。(そのつもりなんですかね?)

 [ 補記 ]
 細かな話。(読まなくてもよい。)
 絶対評価に近い例として、次のような案を提案しておく。
  ・ 生徒間に学力差があることを認める。
  ・ 学校間に学力差があることを認める。
  ・ 学校間の学力差を、統一テストにより、測定する。
  ・ 「学校間の格差」と「学校内の生徒間の格差」を見る。
  ・ 「各生徒の成績」 = 「学校の偏差値 + 生徒の偏差値」÷2
    (例:偏差値で、前者が 55、後者が 43 なら、98÷2 = 49 )
 これだと、「統一試験」とはならない。


● ニュースと感想  (6月27日b)

 「競争原理」について。
 市場経済で「競争原理」があるように、学力の場でも、「競争原理」がある。「みんなで怠ければ、全員が学力の低下を起こす。競争があれば、切磋琢磨して、全員の学力が上がる」というわけだ。

 これはこれで当たり前である。「遊んで高給」なんてのを夢見る阿呆以外は、「金がほしけりゃ努力は必要」というのを理解するだろう。
( ※ ただし、一部の人は、「遊んで高給」というのを信じて、全然勉強しないで大人になり、そのあとで、「努力しないで金儲け」を夢見て、ギャンブルに走る。「勉強推進」の反対は、「バクチ推進」である。

 さて。「競争原理」を批判する意見もある。
「弱肉強食の社会のもとで、貧富の差を拡大するのは、好ましくない。むしろ、人々の間の思いやりで、助けあうべきだ」
 という考え方だ。しかし、これは、ひどい間違いである。

 第1に、「思いやり・助けあい」と主張するとき、その人は、自分が「思いやり・助けあい」を受ける側だと思い込んでいる。「自分は遊んで怠けて、気楽に生きよう。そして、せっせと働いた人の助けを受けよう」というわけだ。そういうのを、妄想という。
 「思いやり・助けあい」というのを受けるのは、高齢者や身障者や病人など、特別な人だけだ。一般の人は、「思いやり・助けあい」というのを、与える側になる。そして、その制度を、「税金」という。だから、「思いやり・助けあい」と主張するなら、「もっと税金を上げよう」と主張すればいいのだ。
 「税金を上げる」「そして助けあう」というのは、つまりは、高福祉・負担の社会である。それはそれで、論理が通っている。しかるに、前記の主張をする人は、「高福祉・負担」を夢見ているようだ。つまり、「空から金が降ってくる」と思い込んでいるわけだ。ひどい妄想。というより、無知・白痴。(たぶん、教育を受けていないせいで、まともな判断力がないのだろう。子供時代に遊んでいたツケが出るわけ。)

 第2に、「弱肉強食の社会」を禁じるというのなら、日本を社会主義にするしかないだろう。しかし、それは不可能だ。とすれば、結局、彼らの主張は、こういうことだ。
「勉強の場で競争原理にさらすと、苛酷な勉強を強いられる。それでは子供がかわいそうだ。どうせ大人になれば、社会で競争原理の場にさらされるのだから、せめてそれまで、子供時代はのんびりと過ごさせてあげよう」
 つまり、こういうことだ。
「子供時代は、温室で保護しよう。甘やかして、ひ弱にしよう。もやしっ子にしよう。そのあとでいきなり、競争原理の社会にさらそう」
 こんな方針では、子供をスポイルする(甘やかしてダメにする)ことになる。子供時代は、いろいろと苛酷な訓練を与えて、成長させるべきなのだ。なのに、そういうことを放棄するというのは、大人が子供になすべき義務を放棄していることになる。
 実を言うと、こういう親は、枚挙に暇がない。「子供が生まれました。愛情たっぷりで、優しく育てます」という。そのあげく、子供は、甘やかされて、わがままになる。しつけを受けることないので、体だけがデカい赤ん坊のようなものになる。親のペット(愛玩動物)にされてしまったわけだ。
 こういうひどい親は、いっぱいいる。そして、それが社会的に声を上げると、「子供を甘やかそう」という主張になるわけだ。

 結語。
 「子供を甘やかそう」という人々には、真の「愛」が欠けているのである。愛とは、相手を好きになって甘やかすことではない。本当に相手のためになるようにすることだ。
 スポーツ選手であれ、職人であれ、学術研究者であれ、どんな分野でも、一人前になるには、苛酷な努力が必要だ。そして、そのための基礎訓練は、子供時代にしか受けられない。そういうチャンスを奪い、子供をペット(愛玩動物)にして、勝手に自己満足するような親には、真の「愛」が欠けているのである。

 [ 付記 ]
 誤解されると困るのだが、私は別に、「スパルタ主義」を唱えているのではない。「血みどろの特訓で鍛えよ」などとは唱えない。「甘やかすな」と言っているだけだ。
 現実の世界は競争社会である。ならば、現実のあるがままに社会に適応できるように育てるのが、教育というものだ。「現実から隔離して温室保護せよ」などという狂気に反対しているだけだ。
 うまくない比喩だが、野菜でたとえよう。「温室保護はやめて、風雨にさらして野菜を育てよ。それが自然だからだ」と述べているわけだ。別に、「特別に寒風にさらして、肥料も水も与えるな」と述べているわけではない。
( ※ 「自己に対して厳しい人こそ、弱者への優しさをもつ。弱者に厳しいのは、自己を甘やかす人だ」という説がある。どこかの政治家のことを言っているわけではないが。)


● ニュースと感想  (6月27日c)

 「人間としての優しさが大事だ。しかし日本は全然ダメ」という話。(初出は読売日曜版。)
 http://www.yomiuri.co.jp/tabi/spain/20020616se01.htm


● ニュースと感想  (6月28日)

 林業問題。「針葉樹ばかりにしたことで、日本の林業は崩壊した」という記事。(朝日・朝刊・土曜版 be 2002-06-15 )
 悪い記事ではないのだが、記者は、自分が何を言おうとしているか、わかっていないようだ。論旨が錯乱している。
 「針葉樹ばかりにしたせいで、日本の森林は崩壊した」というのは、正しい。私があちこちで何度か言ってきたことだ。( → 第2章「林野庁改革」
 しかし、「林業が崩壊した」というのは、別の話である。また、「林業を振興させねばならない」というようなことはない。日本には、経済的に先端産業は必要だが、経済的に林野産業は必要はない。必要なのは、林野産業ではなくて、林野の環境保全だけだ。
 環境保全は、たしかに必要だ。それによって国土が荒廃していくことで、莫大な損害が発生する。花粉症、洪水、土壌流出、海の汚染、……など。環境保全にかかる金は、たいしたことはないが、環境悪化したあとで、それを元の環境に直そうとすれば、ものすごく多額の金がかかる。自然破壊(または破壊防止)はたやすいが、いったん破壊された自然を原状回復することは非常に困難だ。……というわけで、環境保全は大切だ。
 しかし、林業は、必要でもないし大切でもない。今の林業は、補助金なしでは、やっていけない。収益率は、マイナスである。なぜかといえば、間伐などにかかる費用は莫大であり、一方、森林の育成によって得る収益率は年1%程度だからだ。差し引きして、マイナス。
 これだったら、何もしないでおいた方が、よほどマシである。林業をやれば、収益率はマイナスである。一方、何もしないでいれば、針葉樹を植えずに、ブナなどの広葉樹林のままとなり、自然環境は保たれ、かつ、収益率はゼロである。(ただし、その金を長期預金すれば、利息を得るから、年に2%程度の、プラスの実質利回りを得る。)
 
 以上が、経済的な考察だ。
 ただ、本質的に言えば、次のように言える。
 日本は、温帯である。温帯には、温帯の森林(広葉樹林)が適切である。なのに、そこに、寒帯の森林(針葉樹林)を育成しようとすれば、自然に逆らい、無理をすることになる。自然改造計画だ。ひどい思い上がり。その結果、森林は荒廃するし、花粉は飛び散るし、生態系はバランスを崩すばかりだ。
 すべては林野庁の「自然改造計画」のせいである。「自然を改造すれば、森林をビジネスにできて、大儲けできる」という、金に目がくらんだ欲張りな計画。その結果、自然に逆襲される。黒字のかわりに、赤字を得ることとなる。毎年、数百億円の利益を狙った結果、花粉症による薬代やら、補助金やら、自然破壊やらで、毎年、数千億円〜数兆円の損失。「欲張りはかえって損をする」という見本。

 [ 付記 ]
 環境破壊の例。(朝日・朝刊・オピニオン面・投稿 2002-06-16 )
 クマゲラ(「幻のキツツキ」とも呼ばれる稀少種の鳥)が絶滅寸前。残存個体数はわずか 50羽。もともとブナ林に棲息するのだが、ブラ林が伐採され、杉林ばかりになったせい。
 実は、クマゲラだけではない。日本では多くの鳥類や昆虫類や植物などが、絶滅に近づいてきている。

 [ 付記 ]
 朝日はよく、「森林の荒廃を防げ」とか、「間伐で自然環境を守ろう」とか、「林業振興のため、国がしっかりとした林業政策を取ろう」とかいう記事を書く。しかし、完全に、見当違いなのである。だいたい、杉林というのは、「自然」ではない。それは「自然林」ではなく、「人工林」なのである。こういう「人工的な自然」を維持するために、莫大な金をかける、というのは、話の根本が狂っている。
 「森林の荒廃」というのは、実は、「人間の浅知恵が自然に逆襲されていること」なのだ。荒廃しているのは、人間の精神の方なのである。


● ニュースと感想  (6月28日b)

 「経済波及効果」の試算の嘘について。
 何らかの政策をするとして、「この政策による経済波及効果は、これこれ」という試算がなされることがある。たいていは、嘘である。フィクションというよりは、まったくのデタラメである。そこでは、プラス効果だけが計算され、マイナス効果が計算されないからだ。
 たとえば、「サマータイムの実施により、消費が増えて、経済波及効果は1兆円の消費増加」という試算がある。(読売・朝刊・サマータイム特集 2002-06-24 )。「サマータイムを実施すると、ナイターや観劇や外食などの娯楽消費が増えるので」という理由だ。
 馬鹿げた話だ。仮に、そういうことに消費が増えたとしても、その分、他の消費が減るだけだ。そういうことを考慮していない。単にプラス効果だけを計算し、マイナス効果を計算しない。たいていの「経済波及効果の試算」というのは、そういうものだ。
( ※ 「右手で得して、左手で損したとき、右手だけを見る」という猿知恵。エコノミストは、こういうのばかり、よくやる。財務省の外郭団体や、民間のシンクタンクなどは、こういうのが得意。数字をもてあそんで、世間を混乱させる。)

 [ 付記 ]
 サマータイムに関しては、さらに2点、次の問題がある。

 (1) 余暇時間
 サマータイムというのは、余暇時間の増加を意味しない。単に、太陽の運行が、1時間遅れるだけのことだ。
 1日の時間は 24時間だし、労働時間もちゃんとある。とすれば、太陽の運行が遅れたぐらいで、余暇時間が増えるはずがない。「明るくなると、人々の余暇時間が増える」というのは、まったくの妄想である。それは、「明るくなると、1日が 25時間になる」というようなものだ。── そういう仮定の下に、経済波及効果は計算される。
( ※ しいて言えば、家庭内の娯楽が戸外への娯楽に移行するかもしれない。しかし今の大人や子供は、暇なとき、昼間でさえ、家に閉じこもりたがっている。こういう生活習慣は、容易には変わらない。)

 (2) 余暇の種類
 「ナイター・観劇・外食などが増える」と論者は主張する。頭のネジが狂っているとしか思えない。外食や観劇は店内(室内)でやるのだから、戸外が明るいかどうかには無関係だ。サマータイムの効果は、ゼロである。(効果があるとしたら、路上レストランや野外劇場だけだ。これらは、明るいと増える。ただしその分、室内の分が減る。)
 一方、ナイターは、戸外が涼しいからこそ、球場に行くのである。明るくて暑ければ、球場には行かない。だから、ナイターに行く人は、増えるどころか減る。当たり前でしょうが。明るいナイターなんて、うんざりだ。(明るいナイターなんてものを考えること自体が、錯乱している。明るい闇。昼間の夜。白い黒。)

 以上のように、論者の言う「サマータイムの経済効果」というものは、虚偽ばかりである。まったく、経済学の分野というのは、ウソとデタラメばかりがまかり通る。

 [ 補足 ]
 「欧州ではサマータイムのおかげで、夜9時過ぎまで、ずっと明るい」と論者は主張することもある。馬鹿げた話だ。日本では、そうはならない。
 欧州は高緯度。日本は中緯度。緯度の差があるから、日没時間も異なる。高緯度では、白夜のようになり、日没時間が遅くなる。日本では、そうはならない。夏の日没は、7時ごろであり、1時間ずらしても、8時ごろだ。9時ではない。(日没時間は、新聞の地方版に書いてある。東京近辺では、6月末日には 7時02分ごろ。 )
 また、欧州は夏の夜は涼しいので、戸外活動に適する。日本の夜は蒸し暑いので、室内でエアコンをガンガンかけて涼むしかない。
 「サマータイムで欧州並みの生活を」という望みは、気候や自然の差を無視しているのである。「何でも欧州はすばらしい」という欧州崇拝論者の夢想。
 彼らに言っておこう。「いくら日本が欧州の真似をしても、日本の気候は欧州の気候にはならない。そしてまた、あんたは黄色人種のままであり、あんたの憧れる白人にはなれないのだよ」と。


● ニュースと感想  (6月29日)

 「遷都」および「電子政府」を結びつけた提案。称して、「e都」。
 「遷都するとして、どこに遷都するべきか?」という議論が、5月末〜6月初めごろ、なされていた。しかし、私の考えでは、「遷都」というものは、もはや時代遅れである。「どこか1極に集中しよう」というのが、「遷都」の考え方だが、もはや、「1曲集中」の必要はない。なぜなら、IT時代になって、通信環境が劇的に改善したからだ。
 もはや交渉などは、直接対面する必要はない。ブロードバンド時代で、テレビ電話も実現している。一般家庭はともかく、特定の職場同士をテレビ電話で結びつけることは、すでに実現している。(たとえば、コンビニにテレビ電話を置いて、遠隔地の専門家と、テレビ電話で対面相談する、というサービスが実現している。)
 解像度の問題も、数年で解決するだろう。ハイビジョン・テレビも普及しつつあるし、ブロードバンドも普及しつつあるからだ。
 また、画像や音声を必要としない、単なる文字レベルの通信ならば、もっと速く実現する。たとえば、政府は、「電子政府」という号令のもとで、あらゆる出願手続きを、電子的にできるようにする方針である。( → 読売夕刊 2002-06-07 )
 「ホントかね?」と疑う向きもあるかもしれないが、別に、こんなことは、面倒でも何でもない。書類を電子形式にするのは、ソフト業者に任せれば、簡単にやってくれる。(私が毎日ホームページを更新しているのも、似たようなものだ。たいして面倒ではない。自動変換ソフトを使えば、HTML言語を知らない素人でもできそうだ。)また、電子形式の書類を整理するのは、それこそ簡単至極であり、紙の書類を扱うよりも、もっと簡単だ。
 「書類の電子化」なんてのは、ごくごく簡単なことなのだ。コンピュータ・アレルギーの人には、難しそうに思えるかもしれないが、実際には、大した問題ではない。
( ※ 問題が起こるとしたら、コンピュータ・アレルギーの人が、「国民総背番号は国民の個別官吏を意味する悪夢だ」と大騒ぎする場合ぐらいだろう。彼らは、「個性や住民票や税金などを、手書き文字で管理するのは問題ないが、電子文字で管理するのは問題だ」と叫ぶ。……本当は、問題は、電子化するか否かではなくて、管理体制の方にある。悪いのは、コンピュータ・システムではなく、人間の方である。しかし、コンピュータ・アレルギーの人は、「悪いのは何でもコンピュータ」と、コンピュータのせいにする。)

 さて。私の提案は、具体的には、こうだ。
  ・ 出願書類は、すべて、電子化する。
    (問い合わせも、電子メールでできるようにする。)
    (特に複雑な問題は、電話や、テレビ電話で。)
  ・ 各地(例:各県・県庁所在地)に、テレビ電話を設置する。
    数十台〜数百台の規模。それを中央省庁と結ぶ。

 こうして、日本中のどこであっても、中央省庁と、実質的に対面相談ができる。
 そして、こうなると、中央省庁は、もはや東京に設置する必要はない。特定の一箇所に設置する必要もない。あちこちに分散してもいい。また、各地を点々としてもいい。たとえば、夏は北海道、冬は九州に、と。(「分都」および「転都」)
 こういう「都」は、もはや、電子的なものであり、バーチャルなものである。これを「e都」と名付けよう。これが私の提案だ。

 [ 付記 ]
 (1) メリットは? 
 遷都みたいに、大がかりな建設が必要ないから、コストがあまりかからないことだ。高層建築物をいくつも作ったりすると、土地買収費も含めて、兆円レベルの金がかかる。しかし、ハイビジョンテレビを設置して、各県の余った建物を賃借するくらいなら、たいして金はかからない。

 (2) 影響は? 
 1極集中がなくなる。ゆえに、地価の暴騰や渋滞地獄などもなくなる。1極集中にともなうさまざまな弊害が消える。

 (3) 人々の生活は? 
 1極集中がなくなるので、職住近接により、通勤地獄がなくなる。また、所得の多くを家賃に取られることもなくなる。つまり、通勤時間が減って、可処分所得が増える。少し働いて、多くの給与を得る、というのと同じ。
 なんだか、話がうますぎるように思えるだろう。しかし、これは、欧米人なら、誰でも満喫していることだ。私の友人も言っていたが、欧米で暮らしていたときは、夜は仮定にいたし、生活は楽だった。しかし日本に帰国してからは、夜は残業だし、金の大部分は住居費に消える。日本暮らしの辛さ(馬鹿らしさ)が身にしみる、とのこと。
 哀れな働きネズミたち。

 [ 補足 ]
 「夏都」というのも考えられる。夏だけの都だ。これは、コストが非常に安く済む。
 たとえば、北海道に、苫小牧工業団地というのがある。数千億円をかけて、工業団地用の土地を造成した。しかし、進出企業がなくて、広大な空地が余っている。で、ここを「夏都」にするとよい。6月から9月まで、ここで過ごすことにする。涼しいので、能率が上がる。
 官庁は、いちいち高層ビルなんか建てないで、高級プレハブの2階建て。1年間で、全省庁を作る。住居も、公務員宿舎として、プレハブで十万人規模を1年間で建てる。ここにほぼ家賃ゼロで、公務員を住まわせる。交通機関は、無料バス。エレベーターのかわりは、無料自転車。あれもこれも無料。ただし、コストは低い。むしろ、電車の路線を建設したり、高層ビルを建てたりすれば、莫大な金と時間がかかるし、ほぼ無理だろう。そういうのは、実現性がない。
 十年ぐらいたって、発展してきたら、プレハブは解体して、別のところに持っていってもいい。バスや自転車も、他に使い道がある。無駄にはならない。
 なお、十年か二十年たって、この付近が発展してきたら、遊休していた土地を、民間企業向けに、高値で手放す。数兆円の利益。
 差し引きして、マイナスどころか、プラス。最初に無料パスなどを出しても、ちゃんと元を取れる。長期的には、コストはゼロ程度で済むか、もしくは、逆に利益を出す。

( ※ 上記のやり方は、ちょっとせこいかもしれない。しかし、経済的にコストを考えれば、こういうのが自然だ。ただ、ケインズ派の人々は、逆のことを言うだろう。「いきなり高層建築を建てよ」「無人の荒野に、いきなり 100階建ての高層ビルを建てよ」「そこに、当初、住む人がいなくても、関係ない。経済効果だけが大切だ」「穴を掘って埋めるかわりに、高層ビルを建てて、朽ちさせて廃墟にしてしまえ。そのあとで解体処理する。穴を掘って埋めるのと同じだ」……てなふうにね。やはり、こういうのは、非能率の極みですね。だから、「ステップ・バイ・ステップ」、という漸進的な建設をお勧めするわけ。公共事業を食い物にするダニ政治家には喜ばれないでしょうけど。)


● ニュースと感想  (6月29日b)

 6月18日 に述べたように、経済政策としては、「減税」だけでなく、「金利操作」も必要となることがある。そして、この双方は、「ポリシー・ミックス」として、相互に関連する。
 となると、総合的な経済政策を実施する組織が必要になるだろう。
 現況では、「減税」は財務省が担当し、「金利操作」は日銀が担当する。こういうふうにバラバラになっている。しかし、一元的に経済政策をになう体制が必要だ。

 こういう組織は、今は、なくもない。強いて言えば、「内閣府」(元は「経済企画庁」)がある。しかし、内閣府という組織は、ちょっと弱体すぎる。財務省や日銀とは、対等に張り合えない。まして、双方を指揮下に置くことはできない。

 「経済財政諮問会議」というのもある。これは政府内の組織ではないが。ただ、これは、何と言っても、議員の人選が悪すぎる。人選は首相好みで恣意的に行なわれるため、現況のようにひどい人物ばかりが選任されがちだ。しかも、頭のボケたような、老人ばかりで、活力のある若手は参加しない。

 というわけで、「内閣府」や「経済財政諮問会議」とは別の、もっとまともな新組織が必要だろう。

 [ 付記 ]
 私の提案。
 「内閣府」のなかに、「新・経済企画庁」を新設する。
 これは、日銀および財務省を指揮下に置く。(双方への人事権を有する。ダメな日銀総裁やダメな事務次官をクビにできる。)
 この組織の最高委員は、数人程度。景気の安定に、全責任を負う。信賞必罰。失敗した場合は、無給で追放。大成功した場合は、超巨額の成功報酬。たとえば、デフレから脱出させたら、成功払いで、5億円ぐらい払う。……仕事は、難しそうだが、ごく簡単。「タンク法を実施しろ」とひとこと言えば、それだけで5億円もらえるわけ。ただし、タンク法を理解する必要があるから、馬鹿でもできるわけではない。(たとえば、小泉や速見には、とうてい無理。)
 組織の長は、民間から選任することとし、国会の承認を要する。委員の選任は、組織全員の投票で決めてもよい。うまく景気を安定させれば、組織全員に成功報酬(ボーナス)が来るから、まともな委員を選任するようになる。(速見みたいなのを選任すれば、成功報酬はゼロ。)


● ニュースと感想  (6月30日)

 「特殊法人」と「天下り」の問題。その解決法。
 特殊法人があるのは、天下りの必要性があるからだ。定年前の高級官僚を退職させるので、どうしても天下り先が必要となる。
 では、なぜ定年前の退職をさせるかと言えば、賃金が抑制されているからだ。民間企業による「人件費抑制のための肩たたき」と同じである。こういう高給の人々を退職させることで、その分、残った人々は、いっせいに少しずつ昇進して給与が上がる。逆に言えば、定年前の退職をやめることにしたら、残った人々は、いっせいに少しずつ昇進が遅れて給与が下がる。
 「公務員の給与を下げよ」というだけでは、話は進まないのだ。誰だって、「給与を下げよ」と言われて、喜ぶはずがない。給与を下げれば下げたで、無能な人材しか集まらなくなるから、仕事の能率が下がって、馬鹿な人材を大量に雇わなくてはならなくなる。それではかえって、税金が無駄だ。

 そこで、提案。
 もともと、天下りするはずの人間は、きわめて頭のいい人々である。民間企業でも立派に勤まるはずだ。ただ、50歳以上で天下りするから、なかなか引受先がない。だから、天下りをする年齢を、40歳にすればいい。こうすれば、最も有能な時期だから、「引き受けたい」という企業はどんどん出てくるだろう。それらの企業に、有料で売り飛ばせばいい。(人身売買みたいだが。)
 とにかく、これで、国庫に金が入る。優秀な官僚を民間に売れば売るほど、国庫に金がどんどん入る。天下りは、国民に損ではなく、かえって得になる。

 [ 付記 ]
 詳細は、次の通り。
 この方式のミソは? 「試験雇用」と「仮入社」があること。その間、本人には、政府から給与が支払われ、雇用は保障されている。気にくわなければ、政府に戻れる。だから、本人は、安心して、民間企業で試験的な入社ができる。また、民間企業も、本人の能力を確かめてから入社させるので、安心できる。安心できるから、人材をもらい受けるに際して、大金を払える。その分、政府としては、大金をもらえる。


● ニュースと感想  (6月30日b)

 東京都が中高一貫教育の学校を大量建設の予定。一挙に 10校。伝統的な有名校を中心に選定。(朝日・朝刊 2002-06-28 )
 私立の真似。で、私立は、「それじゃ私立を侵害する」を憤慨。
 さて。中高一貫というのは、有益なのだろうか? 5年間で6年分のカリキュラムを実施し、残りの1年は受験専門、というわけ。5年の間は、密度が6分の5に薄まるわけだから、別に、得をしているわけではない。あまり意味はないと思うんですけどね。
 ただ、「中学時代を(平凡な公立校でなく)エリート校で過ごす」というのは、明白に効果がある。この点は、厳然たる事実だから、論議の対象外。(ついでに言うと、私は、エリート校に入って差を付けた方ではなくて、差を付けられた方。)

 さて。私の見解は? 
 「むしろ、小中一貫校をつくるべきだ」というもの。その理由は、次の通り。
 (1) 中高一貫では、上記の通り、さして効果があるわけではない。単にカリキュラムの順序を変えるぐらいの違いしかない。
 (2) 小中一貫では、カリキュラムの抜本的な改革が可能である。特に、小学生時代から、英語の教育が可能である。
 (3) 英語は是非とも、小学生時代に、基礎をたたき込むべきだ。人間の脳は、音声において音素の弁別をする機能が形成されるのが、幼児期に限られている。また、文法的な構造を自然に形成するのは、14歳程度までに限られている。その時期を過ぎると、脳における言語習得能力は、極端に落ちる。つまり、同じ時間をかけて勉強しても、すごく無駄。どんな学習にも、最適の時期がある。老人になってから外国語を習得しようとしても、非常に困難である。それと同様だ。
 (4) 現在では、中学時代に、大量の英語教育をまとめて詰め込む。これをやめて、小学時代と中学時代にかけて、なだらかに少しずつ教えるのがよい。
 (5) 小学・中学時代は、英語・国語・算数を中心に、基礎能力だけをたたき込むべきだ。理科や社会は、分量を大幅に少なくしてよい。「理科的な興味をもつ」「社会生活の基本知識を入れる」ということだけで十分。だいたい、化学の化学反応とか、歴史の細かな年代とか、そういうことを覚えている大人は、あまりいないだろう。つまり、中学時代の膨大な知識の詰め込みは、ほとんどが無駄である。その一方で、必要とされる基礎的学力(言語能力・数学的論理力)は、いい加減だ。

 以上のように、日本の教育には、根本的な欠陥がある。小中一貫教育で、この問題を解決した方がいい。
 ただ、小学1年からではなく、小学5年〜中学3年までの5年間一貫教育がいいだろう。(あまり早くから始めるのも、問題だ。小学1年生だと、電車に乗せるには小さすぎて、まずい。もっと成長してから。……つまり、小学・中学という、制度的な区切りには、こだわるべきではない。)


● ニュースと感想  (6月30日c)

 「少子化」の話。
 テレビで5日ほど前に報道していたが、「アメリカのテロ事件のあとで、人々が出産行為に励んだらしく、最近、急にベビー・ブームになった。マタニティ・ウェアなどの出産関連用品の売上げが、3割増〜2倍増になった店が多い。街頭にも、妊婦がたくさん」という話。
 だからどうだ、というわけではないが。
 なお、この伝で言うと、9カ月後には、出産が減るな。W杯の効果。


● ニュースと感想  (6月30日d)

 サッカーの「韓国 v.s. トルコ戦」は、トルコの勝ち。内容的には、トルコがかなり優勢だったように見えた。(私見では。)
 となると、「日本と韓国はどちらが強いか?」「ヒディングとトルシエはどちらが偉いか?」といった議論が起こりそうだ。

 [ 付記 1 ]
 日本 v.s. トルコ戦。
 世間では、「日本がトルコ戦で、用兵を変えたのは、けしからん! そうしなければ、日本はトルコに勝てたはずだ」という意見が多い。こういう意見はたいてい素人の与太だ、と思った方がいい。なぜか? 選手の状態は、監督以外には、わからないからだ。監督は情報を得ていて、他人はわからない。なのに、他人が、あれこれ言う資格はないのだ。
 だいたい、一人一人の選手を見れば、トルコの選手の方がずっと実力は上ですけどね。ただ、日本は、トルシエのおかげで、組織力があるから、何とか五分五分ぐらいで戦えただけだろう。
 なお、日本はトルコ戦では、コーナーキック以外では失点しなかった。韓国はトルコ戦では、ぶざまな形で3点も取られた。

 [ 付記 2 ]
 W杯の直前に、「メンバーを固定するべきだ。もはやメンバーをいじくるべきではない」と言っていた評論家たちがいる。しかし、それはつまり、「森岡を出せ。宮本を引っ込めよ」と主張することだ。もしそんなメンバーで固定していたら、どうなる? 森岡が故障したあと、いきなり宮本を出していたことになり、日本の守備は破綻していただろう。

 [ 付記 3 ]
 「トルシエはサッカー協会とあつれきを起こすからダメだ」という意見がある。しかし、サッカー協会というのは、とんでもない阿呆の集まりなのだ。こんな阿呆たちと、そりの合うような監督だったら、最悪だ。
 トルシエのすばらしさは、「中田なんかダメだから、私のチームには不要だ!」と叫んだことだ。こんなふうに中田を叱れる監督が、他のどこにいる?
 結局、中田は、トルシエに完全に屈服した。それまでの唯我独尊・傲慢不遜な態度を改め、チームプレーに徹した。まわりの仲間たちは、「ヒデはまったく別人になった」と驚いた。そして、そのおかげで、日本のチームは組織として機能するようになった。専門記者もチームメートも激賞している。
 中田はトルシエによって生まれ変わった。だから日本は好成績を上げたのだ。そこらの監督では、とてもこうは行かないだろう。
 「トルシエは中田と喧嘩するからダメだ」と言っていた健忘症の評論家よ。頭を剃れ。いや、頭を半分剃って、モヒカンにしろ。






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「小泉の波立ち」
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