[付録] ニュースと感想 (22)

[ 2002.07.11 〜 2002.07.19 ]   

  《 ※ これ以前の分は、

    2001 年
       8月20日 〜 9月21日
       9月22日 〜 10月11日
      10月12日 〜 11月03日
      11月04日 〜 11月27日
      11月28日 〜 12月10日
      12月11日 〜 12月27日
      12月28日 〜 1月08日
    2002 年
       1月09日 〜 1月22日
       1月23日 〜 2月03日
       2月04日 〜 2月21日
       2月22日 〜 3月05日
       3月06日 〜 3月16日
       3月17日 〜 3月31日
       4月01日 〜 4月16日
       4月17日 〜 4月28日
       4月29日 〜 5月10日
       5月11日 〜 5月21日
       5月22日 〜 6月04日
       6月05日 〜 6月19日
       6月20日 〜 6月30日
       7月01日 〜 7月10日
         7月11日 〜 7月19日

   のページで 》




● ニュースと感想  (7月11日)

 「金利調節」のあり方について。
 前項では、次のように述べた。
 「金利の過大な引き上げというのは、常にまずい結果を招くのである。実例は、IMFがさんざんやっている。」
 では、具体的には、どのくらいの金利までが許容されるか? 
 経済成長率は、長期的には 2.5% を大きくずれることはない。ただ、景気の良し悪しに応じて、設備の稼働率の変動が生じるから、それによって生産性の変動も生じる。(設備の稼働率が低下すると、生産性が悪化する。設備の稼働率が低下しているときに、景気が良くなると、生産性が向上する。)……この景気による変動を含めると、±1% ぐらいは想定してよそうだ。つまり、経済成長率の分は、 2.5% ±1% だ。
 その他、物価上昇率の分もある。これも、景気の変動を含めて、(物価上昇率)±1% だろう。
 合計して、「(物価上昇率)+ 2.5% ±2% 」というのが、名目金利の取るべき幅となる。
 バブル期には、物価上昇率は、0% から 3% ぐらいだった。( → 4月27日 の 最後の表
 となると、バブル期には、物価上昇率の変動に応じて、「( 0% + 2.5% ±2% ) 〜 ( 3% + 2.5% ±2% )」というのが、取れる幅となる。最大の幅は、「( 2.5%−2% ) 〜 ( 5.5% +2% ) 」だ。つまり「 0.5% 〜 7.5% 」だ。
 だから、金利調節は、「 0.5% 〜 7.5% 」というのが最大の許容量だ。この幅から逸脱すると、非常にまずいことになる。たとえば、年利0%が必要となる状況は、ひどい不況だし、年利8%が必要となる状況は、ひどいインフレだ。
 では、そうならないためには、どうすればいいか? 常に一定の幅で収まるようにすればいいのだ。つまり、「常に 4.5% 〜 5.5% 」(または 4.0% 〜 6.0%)という変動の幅に収まるようにすればいいのだ。
 それは可能か? 可能だ。景気の変動に応じて、常に先手を打てばいいのである。ちょっと景気が過熱すれば、すぐに多めに金利を上げる。ちょっと景気が冷えれば、すぐに多めに金利を下げる。……こうすると、金利の安定は得られなくなるが、そのかわり、景気の安定が得られる。
 これは、日銀などの政策とは、正反対だ。日銀などは、なるべく金利を変動させたがらない。「あとで金融政策を追加する余地を残す」という官僚的な発想による。もうひとつ、マネタリズム的な発想もある。「マネーサプライは、なるべく安定させるべきだ」という発想だ。
 私はこのマネタリズムの考え方を、全面的に否定する。「マネーサプライは、景気の変動に対して、過剰気味に変動させるべきなのだ。わずかな景気の上下に応じて、過剰にマネーサプライを変動させるべきだ。そうすれば、マネーサプライは安定しないが、景気は安定する」と考える。
 この考え方に従えば、金利は安定しない。金利はひんぱんに変動する。たとえば、「景気がちょっと悪化したから、金利を 4.5% にする。そうしたら、すぐに景気が回復してきたので、ちょっとだけ過熱気味になったところで、いきなり1%も利上げして、5.5% にする。そうしたら、過熱気味だった景気が失速したので、またいきなり 1%も利下げして、4.5% にする。」というふうに。
 こういうのは、傍目から見ると、「上げたり下げたり、フラフラして、何やっているんだ」と思われるかもしれない。しかし、こうやっている限り、景気の大変動は生じないのである。
 逆に、「景気がちょっと悪化したところで、0.25% だけ金利を下げたけれど、効果があまりない。仕方なく、追加して 0.25% だけ金利を下げたが、すでに景気がかなり悪化しているので、これも効果がない。そこでまた 0.25% だけ金利を下げたが、もはやひどく景気が悪化しているので全然追いつかない。……ということを繰り返しているうちに、あれよあれよと景気が悪化してしまった」というのが、通常の金融操作だ。先手を取れば、フラフラするだけで済むが、後手に回ると、大変動が生じるのだ。
 そして、それが典型的に現れたのが、1990〜1994年(バブル破裂後)の日本だ。7%程度から2%程度まで、4年ほどの時間をかけて、少しずつ金利を下げていった。まことに稚拙だった。この場合は、1990年のバブル崩壊(景気悪化)が非常に急激だったのだから、1990年の時点で、一挙に大幅に金利を下げるべきだった。── 仮に、私が日銀総裁だったなら、7%から2%へ、短期間で引き下げる。いっぺんに5% の変動というのは、過激すぎるので、1%の引き下げを、毎月1回、5カ月間やる。これで計5%引き下げとなる。で、最後のころに、景気回復効果が出るかどうかを見計らう。たとえ景気回復効果が少し出たとしても、すぐに金利を上げたりしないで、なお手綱を緩めずに低金利を継続する。そして、バブル崩壊の影響が完全に消えたのを見計らってから、金利を上げる。
 なお、景気が過熱した状態では、その逆のことをする。バブル景気のころであれば、少しずつ金利を引き上げたりしないで、一挙に大幅に金利を上げる。たとえば、5% から 6.5% へ一挙に 1.5% 引き上げる。(7%という最大値の範囲内であれば、異常な高金利とは言えないので、許容される。) そして、バブルがつぶれかけたとしても、すぐに金利を下げたりしないで、なお手綱を緩めずに高金利を継続する。そして、バブルが完全につぶれたのを見計らってから、金利を下げる。
( ※ なお、こういうふうにするべきだ、ということの根拠は、景気が「不安定構造」を取るからだ。この件は、先に述べたとおり。 → 第3章・前 「対策 ── 落ち込んだ場合」)

 [ 付記 1 ]
 上記では、「過剰に変動させるべきだ」と述べた。これは、「景気が小幅の範囲内で振動する」ということを意味する。ただし、「過剰」の幅があまりにも大きすぎると、「大幅に振動して、発散する」というふうになる。たとえば、
 ・「少し景気が悪化したところで、金利を大幅に引き下げすぎたら、そのせいで、景気回復を通り越して、インフレが暴走してしまった」
 ・「少し景気が過熱したところで、金利を大幅に引き上げすぎたら、そのせいで、景気冷却を通り越して、ひどいデフレと恐慌になってしまった」
 というふうに。こういうのは、やりすぎだ。だから、「過剰に」とはいっても、小さな幅の範囲内で「過剰に」ということだ。大幅なやりすぎを勧めるわけではない。
 ガイドラインとして、先に「4.5% 〜 5.5%」という数値を示しておいた。通常は、この範囲内で済むはずだ。
 ただ、この範囲内で済まないこともある。「早めの処置」を怠ると、すでに景気がかなり大きく変動してしまっているので、そういうときは、「過剰に対処」の幅も、上記のガイドラインを越えて、もっと大きな処置をする必要がある。……それが先の「バブル後」「バブル前」の例だ。そして、そうしなかった場合にどうなるかは、日本が示している。つまり、景気悪化や景気過熱に追いつけず、景気の状況が暴走する。(デフレやバブル。)

 [ 付記 2 ]
 モデル的なたとえ話。
 「つねにフラフラした方がいい」というのは、自転車運転がモデルとなる。自転車は、非常に遅い速度では、安定しない。(不安定構造である。) ここでは、放っておけば、自転車は右か左に倒れてしまう。そこで、たえずハンドルを調整しなくてはならない。ただ、ハンドルを調節して、元に戻しても、それで安定するわけではない。ハンドルを切りすぎることも多い。だから、たえず、フラフラとハンドルを動かす。
 ただし、たえず小刻みにフラフラとハンドルを動かしている限り、自転車は倒れない。道の真ん中へんで、小幅でフラフラしているだけだ。
 一方、「フラフラするのはイヤだ。なるべくハンドルを切るのを我慢しよう」という態度を取ると、倒れかかってから、大幅にハンドルを切る。となると、フラフラすることはないが、ものすごい酔っぱらいのように、ひどい右往左往をすることになる。道の右端の方まで行って、そこから逆転して左端まで行き、そしてまた右端の方まで行って、……ということを繰り返す。そして、あるとき、調節をやり損ねて、道から落ちてしまう。
 どちらがいいかは、言わずもがなだろう。
( ※ 「フラフラする自転車」というのは、本質的には、「立てた棒」というのと同じ。 → 第3章(前)

 [ 付記 3 ]
 上では、マネタリズムの方針に反対しているが、全面的に反対しているわけではない。
 「マネーサプライを安定させるべきだ」というマネタリズムの方針は、長期的には正しい。たしかに、その通りだ。しかし、長期的にその方針を貫くには、短期的にはその方針を取るべきではないのだ。
 たとえば、インフレ気味になったとき、「マネーサプライはあまり変えない方がいいな」と思って、マネーサプライを少しだけ減らす、というふうにするべきではない。「長期的にマネーサプライを安定させるには、インフレの芽を小さいうちに摘むべきだ」と思って、やや過剰にマネーサプライを減らすべきなのだ。小さな変動に対して、やや過剰に是正処置を取るべきなのだ。
 結局、長期と短期の違いである。長期的には、マネタリズムの主張は正しいが、短期的には、正しくない。── それが私の見解だ。
 このことは、「ルールと裁量」という問題にも及ぶ。マネタリズムは、「一定のルールに従い、マネーサプライを安定させるべきだ」と主張する。しかし、そんなことは正しくないのだ。
 もし金融政策だけで済ませようとするなら、一定のルールだけを守っていればいいだろう。しかし、金融政策だけでは済まないのだ。何度も述べたように、増減税や労働量調節なども必要となる。……つまり、変数は一つではない。現実には、景気に影響する要素としては、消費性向とか、物価上昇率とか、さまざまな要因がある。いずれも景気を動かす変数となる。しかも、相互に絡み合っている。これらを単純にモデル化することなどはできない。……となると、「(簡単な)一つのルールで済ませよう」なんていうマネタリズムの主張は、お気楽すぎるのだ。「景気の変動はマネーサプライの調整だけで済む」と唱えるマネタリズムの「パーセント・ルール」なんてのは、単細胞に過ぎるし、幼稚すぎるのだ。
 結語。
 長期的には、マネーサプライの安定が必要である。しかし、そのためには、短期的には、さまざまな経済要素を勘案して、(単純なルールでなく)高度な裁量をする必要がある。その裁量の基準(骨格)を明示することが、経済学の目的である。
( ※ 「ルールか裁量か」と単純に問うのは、その問い自体が間違っている。長期と短期とでは異なるからだ。)

 [ 付記 4 ]
 たとえ話。
 「一つのルールだけで、景気は安定する」とマネタリストは信じた。彼はそれを、息子に言い聞かせた。「一つのルール、一つのルール」と。
 さて、息子はそれを信じたので、こう考えた。「女を落とすには、一つのルールだけで済む。つまり、札束だけだ」と。彼はそれを信じて、札束をふりかざした。一番目の女には、それでうまく行った。「やはりこのルールは正しい」と彼は信じた。以後、札束を振りかざしたが、なぜか、女には嫌われるばかりだった。「おかしいな。一つだけのルールで済むはずじゃなかったかな?」と不思議に思った。
 実際には、女というものは複雑なものであり、マネーの量だけでは済まない。しかし、単細胞なマネタリストの息子には、女の複雑さが理解できなかったのである。
 親は経済の複雑さを理解できず、息子は女の複雑さを理解できない。親子そろって、単細胞。「マネーの量だけで片付く」と思い込む。……マネタリストの家系は、そういうものなのだ。

 [ 補足 ]
 話の見通しを示しておく。
 本項で述べたことは、「早めに過剰に金融政策をするべきだ」ということだが、それを言いたかったわけではない。「金融政策だけで済ませようとするなら、早めに過剰にするべきだ」ということだ。
 「4.5% 〜 5.5%」というガイドラインの幅で収まるのならば、金融政策だけで足りる。だから、それはそれでよい。
 しかし、その幅を逸脱したときは、そうではない。「4.5% 〜 5.5%」の幅を超えて、上記のように「 0.5% 〜 7% 」の許容幅のなかで過剰に金融政策をすれば、それなりに処置できるが、「そうするべきだ」と勧めているわけではない。「金融政策だけでやるなら、(やむをえず)そうするしかないが、本来は、別のやり方を取るべきだ」と主張している。そして、それが、「金融政策以外」(増減税や労働量調節)である。
 結局、「小幅の景気調節は、金融政策だけで足りる。しかし大幅な景気調節は、金融政策だけだと副作用が大きいので、金融政策以外のものも併用するべきだ」ということだ。それが本項で言いたかったことだ。


● ニュースと感想  (7月12日)

 「時短」について。
 前々項では、[金利操作だけではなくて、時短も大切だ」と述べた。マクロ経済的には、それで済んでいる。ただ、おまけふうに、時短に関連するいくつかの話題を述べておこう。……重要な話題ではないので、「付記1」〜「付記4」として、項別にまとめておく。

 [ 付記 1 ] 不況期と好況期の違い
 「時短」と言っても、不況期と好況期とでは、意味が異なる。区別すること。
 (1) 不況期
 不況期の時短は、総労働量を一定にしたまま、労働時間を減らす。その分、労働者の数を増やす。こうして失業者を減らすことが目的である。ワークシェアリングだ。……この場合、総労働時間は変化しないし、GDPも変化しない。
 (2) 好況期
 好況期の時短は、労働時間の減少が、そっくりそのまま、生産量の減少になる。……この場合、総労働時間は減少するし、GDPも減少する。

 [ 付記 2 ] 時短の具体的方法
 「時短」を実現する具体的な方法は? 
 これは、マクロ経済の理論というよりは、政治的な方法論である。特に言及する必要もないのだが、一応、言及しておこう。
 基本的には、「民間の主導」による方法と、「政府の主導」による方法とがある。前者は、後の「付記4」で述べることにして、ここでは後者について述べよう。
 「時短」を「政府の主導」でやるには、次のような政策が考えられる。
 などだ。
 ちょっと見ると、ものすごい影響がありそうだが、実際には、年間3%程度の時短があれば、それで十分。
 なお、この罰金や優遇は、景気の状況に応じて可変的であることが好ましい。たとえば、景気が過熱したときは、残業税を高くする。(とはいえ、たとえそうしなくても、こういうのは、自動安定装置 ( built-in stabilizer)の効果はある。)

 [ 付記 3 ] 時短の経済的意味
 政府が上記のような「時短」政策を推進しようとすれば、もちろん、企業の経営者は反対するだろう。「時短はコストアップになる!」と。
 しかし彼らは、マクロ経済が理解できないのだ。彼らは頭が悪いので、目先の利益を追い求めて、「賃上げはダメ」「時短はダメ」と言い張った。それで企業収益を上げたつもりだった。しかし、結果は、バブルの膨張が起こり、そのバブルの破裂が起こった。結局、小金を惜しんで、大金を失った。
 だから、こういう愚かな企業経営者のために、ちゃんと説明をしてあげよう。次のように説明すればよい。
  1.  時短は特にコストアップ要因にはならない。原料費が上がるのとは、わけが異なる。働く時間が減れば、その分の賃金も減る。第1に、残業が減れば、残業手当や残業税の支払いが減るので、かえって無駄なコストがからなくなる。第2に、毎月の月給は変化しないとしても、ボーナスを減らすことができる。ボーナス交渉の場で、「時短をしたから、その分、ボーナスを減らす」と労組に告げればよい。それだけのことだ。(もし労組が反対したら? 「じゃ、逆にする」と答えればよい。つまり、低賃金で、大幅に残業させる。「1日18時間働け! 残業手当もボーナスもあまり払わないが、名目賃金は上がるのだから文句を言うな! 低賃金の長時間労働だ。奴隷労働しろ!」と言って、こき使えばよい。)
  2.  マクロ経済的な意味もある。「個別企業が時短をすれば、その企業の経済規模が小さくなるだけだが、日本の企業全体が時短をすれば、日本の経済規模が小さくなる。その結果、輸出が減って、円安になる。その結果、輸出企業は、採算性が良くなる」ということだ。……こう説明すれば、経団連あたりの大企業は、「そうか、なるほど。時短で、為替差益が増えるな。企業収益は向上するぞ」と喜ぶだろう。
 特に、上の2番目の点が重要だ。
 バブル経済は、そもそも、急激な円高に基づいていた。「円高 → 量的緩和 → 資産インフレ」という経路である。ここでは、根源は、「円高」にあった。
 だから、上の2番目の方法で、「円安」をもたらすのが、最も根元的な方法だったのである。
 だから、バブル期への処置として、次のように結論を出せる。
 「バブルは、円高のあとで、量的緩和によって発生した。ここでは、バブルをつぶすには、『金利を上げればそれで済む』というわけではない。金利を上げれば、円高不況の効果が出る。また、金利引き上げによる、企業の収益悪化の効果も出る。ゆえに、金利引き上げというのは、問題だ」
 「だから、バブル対策としては、金利の引き上げでなく、時短を実施するべきだった。そうすれば、経済が縮小することで、インフレも資産インフレもつぶれる。しかも、円安になるので、根源の『円高』という状況が消える」
 というわけだ。これこそ、本質を突いた考え方だ。「円高」が原因なのだから、その「円高」という状況をつぶす。また、「働き過ぎ」という状況なのだから、「働き過ぎ」という状況をつぶす。……こうやって、偏った経済状態を、平常の経済状態に是正するわけだ。
 こういう本質を突いた考え方に比べて、「金利を引き上げればいい」という考え方は、いかにもメチャクチャである。金利を引き上げれば、その分、円高が進む。円高が進めば、元の円高状況がかえって悪化する。ついでに言えば、「金利引き下げ」という政策は、その逆となる。急激に通貨安になった状態で、「景気が悪いから金利を引き下げよ」なんて言えば、ますます通貨は下がる。
 一般的に言って、「金利調整だけで済ませよう」という考え方は、根本的にダメなのだ。マネタリズムの考え方は、根本的にダメなのだ。では、どうすればいいかと言えば、もちろん、経済の状況の本質を見抜いて、その本質に対して最適の処方をすればよい。
 例:
 (1) 急激な円高では → 時短により、経済規模を縮小して、円安にする。
 (2) 急激な通貨安では → 供給力の悪化が問題なのだから、供給力を急激に増やす政策を取る。(通貨安・金利引き下げも、供給を増やす効果はある。ただ、それ以外も必要。特に有効なのは、借款の供与だ。)

 [ つけたし ]
 「借款を供与する」というのは、可能か? もちろん、ただで借款を供与すると言っても、無理だ。そこで、うまい方法がある。それは、「香港方式」だ。たとえば、経済的に破綻したアルゼンチンに対して、100億ドル程度の借款を日本が与える。そのかわりに、アルゼンチンのいくつかの島か半島に対する、100年間の施政権を受け取る。ここは日本領土と同じ扱いとなる。(香港が英国領土と同じ扱いになったのと同じ。)……となると、日本国民は、ビザなしでここで遊べる。季節が反対となるから、なかなか楽しいだろう。ついでに、サッカーの訓練も受けられるかも。
 季節が反対となる南半球のリゾート地と言えば、オーストラリアと似たようなものだが、オーストラリアは、先進国だから、物価が高くて、魅力がない。経済破綻した国ほど、通貨が安くて、物価が安い。こういうところほど、投資のしがいがある。

 [ 付記 4 ]
 「労働組合のあり方」についても言及しよう。
 「時短」には、労働組合からも積極的に要求する必要がある。政府の施策に任せきりにするべきではないのだ。では、労働組合としては、どうするべきか? また、労働組合の役割とは、何なのか? 
 「労働組合の役割は、賃上げだ」と考えている関係者が多い。しかし、違う。
 「個別の労働組合の目的は、賃上げである。しかし、労働組合全体の目的は、最適の経済状態になるように、労働組合のなすべきことを、実際になすことだ。つまり、労働分配率時短を最適化することだ。それによって、景気を安定させることこそ、大事である。(マクロ的に、失業を減らし、生産性を上げることになる。)」
 このうち、労働分配率については、すでに述べた。( → 5月31日b6月02日6月18日 ) 再論すれば、次の通り。
不況のときこそ、労働分配率を上げて、マクロ的にコスト・プッシュインフレを促進するべきだ。逆に、好況のときは、労働分配率を下げて、マクロ的にコスト・プッシュインフレを抑止するべきだ
 また、時短については、次のとおり。
景気の良いときには、むやみやたらと賃上げを求めるのではなく、賃上げのかわりに時短を求めるべきだ。そうして景気過熱を防ぐべきだ。
 だから、労働組合の全国組織[= 連合]としては、「賃上げ率をこうしよう」なんていう名目賃金にとらわれた考え(インフレをめざす考え)を取らず、経済学的に最適な方策を取ればいいのだ。
( ※ しかるに、実際には、どうだったか? 労働組合は、バブル期には、「賃上げ」ばかりを要求して、「時短」を要求しなかった。その結果、所得は増えたが、景気はどんどん加熱したので、あげく、バブルが破裂して、景気の山から谷に一挙に転落していった。山を低めようとせずに、山を高めようとしたから、あとで来る谷も深くなった。自業自得。……つまり、自分で失業増加の原因を作っておきながら、「失業が増えて困った」と嘆くわけ。労働組合が経済学を理解しないと、こうなる。「自分で穴を掘って、自分で落ちる」わけ。自分がそうしていることを理解しないまま。)
( ※ 「景気が過熱したときに労働分配率をあまり上げるべきではない」という説は、一応、成立する。なぜか? 「インフレ・スパイラルをもたらさないため」という理由のほか、もう一つの理由がある。それは、「高金利を許容するため」だ。景気が過熱したときには、多めに金利を上げるべきである。しかし、あまり金利を上げすぎると、企業が倒産する。そこで、金利を上げる(企業の富を奪う)とき、同時に、労働者の富を企業に移転することで、高金利の副作用を抑止するわけだ。……結局、「単純な労働分配率の引き下げ」は問題だが、「労働分配率の引き下げと金利引き上げ」という併用なら、特に問題ではないわけだ。)
( ※ なお、金利をろくに上げずに、労働分配率ばかりを下げると、企業に余剰資金が溜まる。だから、資産インフレが発生する。これが、バブル期に生じた現象。 → 6月18日


● ニュースと感想  (7月13日)

 7月11日 の続き。「金融操作」について。
 バブル破裂直後の、なすべき金融操作としては、「急激に引き下げるべきだった」と先に述べた。
 ただ、金融操作というものは、あくまで力が限定されている(大規模減税や大規模公共事業ほどの大きな力はない)から、急激な金利引き下げで成功する保証はない。バブル破裂字も、もしかしたら、金融操作だけでは失敗したかもしれない。当時、たとえゼロ金利にしても、バブル破裂からデフレに移行することは、防げなかったかもしれない。
 ただ、ここで、一つ、重大なことを記しておこう。
 「金利の引き下げは、景気が悪化していないときほど、有効である
 ということだ。
 たとえば、金利を5%から1%に引き下げる、という金融操作。それは、いつでも同じ力を発揮するわけではない。現況が好況であれば、それはたちまち、インフレを引き起こすだろう。現況が不況であれば、それはあまり効果を発揮しないだろう。
 つまり、同じカンフル剤を打つにしても、その効果は、常に同じではないのだ。カンフル剤を打たれる方の体力に応じて、その効果もまた変わるのだ。
 比喩的に言えば、こうだ。元気な馬にたっぷりと食糧をやれば、それを食べて、馬はどんどん走る。元気のなくなった馬にたっぷりと食糧をやっても、食欲がなくて、食糧は食われずに余る(滞留する)だけだ。……これと同じことが、企業にも当てはまる。
 だからこそ、金融操作は、迅速に行なう必要があるのである。決して遅れてはならならない。だからこそ、「少しやりすぎ」ぐらいの方がいいわけだ。(前日に述べたとおり。)

 [ 付記 ]
 金利引き下げには、投資増大効果がある。では、消費増大効果は、どれだけあるか?
 これについて、「金利が下がるから、貯蓄意欲が減り、消費が増える。ゆえにその分、消費が増える」という説がある。しかし、これは、あまり考慮しなくていい。消費が増えるなら、その分、貯蓄が減少する。「貯蓄 = 投資」だから、貯蓄が減少する分、投資が減少する。結局、チャラとなる。
 だから、「貯蓄と消費の代替」という分は、考慮しなくてよいわけだ。
( ※ ついでに言えば、では、何が残るか? それは、金利低下を起こす「量的緩和」だ。これによる分だけが残る。これは、金利が下がることで、住宅ローンや自動車ローンなどの消費拡大効果はある。もちろん、投資拡大効果もある。……余りたいした話ではないが。)


● ニュースと感想  (7月13日b)

 「バブルとは、どういう状況だったか?── これを、簡単に記しておこう。経済学説と言うよりは、一種の初歩的な資料である。(特に読まなくてもよい。当たり前の話ばかりが続く。)
 初めに、1985年の「プラザ合意」により、急激な円高(ドル安)があった。これが根源である。
 円高は、それ自体は、メリットがある。なぜなら、人々の実質所得が上昇したのと同じ効果をもつからだ。実際、ドル表示の国民所得は、急激に上昇していったことで、輸入品を安価で買えるようになった。
 ただ、同時に、デメリットも生じた。つまり、輸出企業にとっては、製品価格が上昇して、国際競争力が弱まったのである。(これは、「所得の上げすぎ」と同じデメリットだ。所得が上がれば、労働者は得だが、企業は損。円高は、それと同じ効果をもつ。)
 さて。本来ならば、円高により、貿易黒字は減り、そこで安定するはずだった。ところが、いくら円高になっても、企業は「輸出を減らそう」とは思わなかった。「円高」という状況は、「輸出過剰」なのだから、輸出を減らさなくてはならないのに、「どうしても輸出を減らすのはイヤだ」と言い張った。そのために、必死に企業努力をして、生産性の向上に血道を上げた。企業は「ひいひい」言って努力したが、努力すればするほど、その成果が出て、貿易黒字が出た。かえってますます円高になった。
 まったく、何をやっているんだか。努力すればするほど、幸福にはならず、不幸になるのである。
( ※ 正解は「時短」による「円安効果」だ、ということは、先に示したとおり。 → 7月12日 の「付記3」

 財界はこういう苦しい状況に応じて、「金利を引き下げよ」と要望した。日銀は、「なるほど。円高をつぶすために金利を引き下げるというのは、教科書通りだな。また、物価は上昇していないから、金利を下げてもいいな」と思い込んだ。かくて、どんどん量的緩和をした。
 本来ならば、ここで、莫大な量的緩和に応じて、インフレが発生するはずだった。ところが、円高のせいで、物価は上昇しない。また、国内消費が急増するわけでもないし、たとえ国内消費がいくらか増えても、輸入の消費ばかりがどんどん増えるので、企業はろくに設備投資をするわけでもない。── となると、企業にしても個人にしても、量的緩和の行く末は、「消費の拡大」や「設備投資の拡大」ではない。残る道はただひとつ。「資産投資」だ。かくて、資産インフレが発生した。そしてそれがスパイラル状に拡大した。「土地ころがし」による土地投機がどんどん進んだ。また、株投機(財テクと称した)も進んだ。「株を買えばどんどん儲かりますよ。財テクこそ金儲けの手段!」と大騒ぎ。
( ※ 特に朝日新聞は、「財テク万歳」という趣旨の大特集を何度もやって、大いに浮かれて、世の中のバブルをどんどん膨張させるのに一役買った。「現状はバブルだから危険だ」という意見は、他のマスコミにはけっこう掲載されたが、朝日というのは言論統制がある成果、多様な意見は許容されないらしく、「財テク万歳」の一色であった。)
 バブルは危険なのだから、世の中では良心的なエコノミストは、いくらか警告していた。しかし大部分のマスコミは、警告を無視した。「株価は、株価収益率を無視しているが、1株あたりの土地資産価値を比べれば、まだまだ大丈夫」なんていう「資産バブルの上に成立する株価バブル」を正当化した。「日本式経営はすばらしい」という提灯持ち記事もたくさん掲載された。
( ※ こういう提灯持ち記事は、バブルの今も続いている。朝日の土曜版の特集 be というやつだ。企業経営者の賛美ばかりしている。私はこれを見たとき、どこかの企業の社内報かと思った。「わが社の社長に聞く」という提灯記事だから。まともな記事だとわかって、びっくらこいた。それともこれは、記事の形を取った、企業広告なのだろうか? たぶん、そうだな。こんなのが記事のはずがないものね。当たり前だな。)
 とにかく当時、マスコミは、「資産インフレによる富の増大」という記事を並べ、証券会社も「平均株価は4万円になる。もっと買おう。株価は無限上昇する」と宣伝していた。

 こうして日本中が夢と妄想にひたっていたが、夢から現実が乖離していく日が来た。このとき、賢明な人は、「その日が来たか」と思って、資産をいっせいに売却した。しかし、多くの人は、「夢はまだまだ続く」と信じて、「いつかまた株価は回復するさ」と信じて、資産を持ち続けた。
 そして、ついに奈落の底に落ちたあとで、愚かな人々は、こう思った。「さっさと売れば良かった。早めに売れば、損はしなかった。不良債権は、早めに処分するこそ、最善の方策だ」と。
 人々は、何もわかっていなかったのである。「一人だけが早めに処分するなら、その人は損をしない。しかし、全員がそろって一挙に処分しようとすれば、暴落する」ということを。── そして、「一人だけならその価格で処分可能だが、全員ではその価格で処分することは不可能だ」ということは、バブル崩壊時だけでなく、バブルの頂点のころから、いや、もっと前の、バブルの萌芽期から、ずっと続いていたのである。それが投機というものなのだ。
 結局、人々は、「バブルが続く」と信じていた当時も妄想にとらわれていたし、「不良債権は早めに処分するべきだ」と信じている現在も妄想にとらわれているのである。昔も今も、同じ種類の妄想を信じているのだ。そのいずれも、「投機」と「普通の市場取引」とを、区別できないことが理由なのである。(前々々項,前々項で述べたとおり。)


● ニュースと感想  (7月13日c)

 最近の「円高・ドル安」について。
 昨年は、1ドル=120円程度だった。これがだいたい、現状では正常な値であるようだ。その後、1ドル=130円となり、円安による輸出産業の景気回復効果があったが、最近、1ドル=116円程度の円高となっている。それで、(外需主導による)景気回復効果も、そがれつつあるようだ。
 ま、外需主導による景気回復効果というのは、無意味ではないにせよ、本格的な景気回復効果(内需拡大)には結びつかなかった、ということも、ほぼ明らかになりつつある。私が以前から主張したとおりだ。つまり、「いくら輸出産業が黒字を出しても、それを従業員に還元しない限り(賃上げゼロである限り)、企業の銀行預金が増えるだけであり、個人消費は増えず、まともな景気回復効果もない」ということだ。

 さて。それはそれとして、この「円高・ドル安」に対して、どう対処すべきか? 
 マネタリストならば、日本人に聞かれれば、こう言うだろう。
「とにかく、円安で、日本は外需主導の景気回復をめざすべきだ」
 さらに、米国人に聞かれれば、こう言うだろう。
「とにかく、ドル安で、米国は外需主導の景気回復をめざすべきだ」
 と。
 つまり、日本人には「円安で景気回復」と指導し、米国には「ドル安で景気回復」と指導する。「円安とドル安を同時に実行すれば、どちらも景気回復する」というわけだ。
 で、どのくらいの円相場(ドル相場)にすればいいのだろうか? 


● ニュースと感想  (7月14日)

 「資産インフレ」の本質について、肝心な点を二つ列挙しておく。
    ・ 「資産インフレ」と「資産価値上昇」との違い
    ・ 「資産インフレ」と「普通のインフレ」との違い

 以下で、順に説明する。

 (1) 「資産インフレ」と「普通のインフレ」との違い
 「資産インフレはすばらしい。資産インフレは富の上昇を意味するからだ」という意見がある。しかし、これについては、すでに否定した。正しくは、
 「資産インフレは、富の増大を意味しない。単に名目価格が上昇するだけである」
 となる。貨幣供給量が増大して、それが一般商品市場に流れ込んだ状態が「インフレ」であり、それが資産市場に流れ込んだ状態が「資産インフレ」である。いずれも、名目価格が上昇しているが、単に貨幣価値が下がっただけであり、富そのものが増大したわけではない。……たとえば、インフレのとき、賃金と物価が2倍になっても、富は増大しない。資産インフレのとき、保有する土地の売却代金が2倍になったとき、土地保有者は2倍の金を得て得するが、土地購入者は2倍の金を払って損をする。国民全体を見たとき、何らかの得が発生しているわけではない。一人が得をして、一人が損をしただけだ。( 100円の大根が 200円になれば、高値で売った人は得をするが、高値で買った人は損をする。)
 ここまでは、すでに示してきたことだ。
 さて。ここで考えられるのは、資産インフレのときは、資産と一般商品との相対価値が変化している、ということだ。そして、問題は、その相対価値の変化が、正当であるか否かだ。換言すれば、資産インフレによる価格上昇は、正当な価格であるか否かだ。……これについては、あとで (2) で説明する。
 もう一つ、問題がある。資産インフレと普通のインフレとは、本質的にはどこが違うか、ということだ。つまり、「資産」と「一般商品」とは、どう違うか、ということだ。
 このことについては、前にも説明したことがある。「資産は腐らない」と。( → 5月21日5月24日 の [補説2]。)
 もう一つ、違いがある。「資産は生産しにくい」ということだ。たとえば、株であれば、株式数を増やせば、単に株式分割をしたのと同じで、株価総額は増えない。土地だって、日本の総面積は限られているのに、やたらと土地を増やすことはできない。……ただし、まあ、「絶対に無理だ」ということにはならない。例外的なことはある。たとえば、土地ならば、外国を侵略して、土地を増やすことができる。あるいは、林野を開墾して、土地の利用価値を上げることで、利用可能な土地を増やすことができる。また、株式であれば、新規に企業を興して、何十年かかけて世界的な企業に育てることもできる。……とはいえ、こういうのは、あくまで、例外的な場合である。その分量は、圧倒的に小さな比率でしかない。つまり、資産の総量は、ほとんど変化しない。
 では、このことは、何を意味するか? 「投機が可能だ」ということだ。「値段が上がれば、供給が増える」という市場経済の原則が成立しない。だから、投機が可能となる。
 「実質的な富の上昇を狙わずに、投機による効果だけを狙うこと」── これは、バクチ打ちの発想だ。こういう「バクチ打ちの発想による経済学」というのが、けっこうあちこちのエコノミストの間で流行しているようだ。「もう一度バブルを」「もう一度ギャンブルを」というわけだ。
 この件については、次の (2) で示す。とにかく、こういうことが起こるのは、「資産は投機の対象になる」からであり、それというのも、「資産は生産しにくい」からなのだ。

 (2) 「資産インフレ」と「資産価値上昇」との違い
 資産インフレを考えるとき、対比的に考えるべきは、「資産価値上昇」である。「資産価値上昇」とは、次のようなことだ。
  ・ そばに駅や道路ができて、交通アクセスが便利になった。
  ・ そばに大学や会社ができて、人通りが多くなった。
  ・ そばに公園や防災設備ができて、環境が良くなった。
 こういう場合には、まさしく資産価値が上がったのであり、それに応じた「資産価格上昇」があるのは、当然である。それはまさしく「富の増大」を意味する。もう少しはっきり言えば、その土地を賃貸したときの賃料(土地収益性)が向上する。
 では、「資産インフレ」は? このような土地の価値の上昇はなしに、単に思惑などによって、土地の価格が上がることだ。つまり、「もっと高値で売れるかもしれない」という思惑による投機だ。
 こういう投機は、資産インフレの場合に限らず、さまざまな例がある。切手バブル。チューリップバブル。テレホンカードバブル。小豆相場や大豆相場のバブル。……こういうのは、明らかな投機だが、資産インフレというのも、本質的にはこういう投機と同じである。  たとえば、「切手バブル」というのは、額面で 10円ぐらいしかないような切手が、コレクターの間で、稀少性だけを「価値」と見なして、実際の「10円」という価値を大幅に超えて、価格が暴騰する。チューリップバブルや、テレホンカードバブルも、話は同様である。実際の価値を大きく超えて、はるかに高い価格で取り引きされる。そして、この事情は、土地も同様である。
 では、「投機」の本質は、何か? それは、「全体を取り引きする市場を離れて、特定の小さな市場でのみ成立する価格による取引」である。たとえば、切手というものは、普通の人には、額面通りの価値しかない。なのに、同じ切手が、マニア間で 100万円で取り引きされることがある。土地も同様だ。あちこちの土地をまとめて売却すれば、とてもそんな高値で取り引きすることなどは不可能なのだが、全体のうちでごく少数の取引例だけで、高値が付く。土地転がしをするマニアの間だけで取引がなされる。ここでは、実態の価格をはるかに上回る価格で取引をされていることになる。だから、最終的には、最後にババをつかんだ人が、すべての損失を払う。(通常、最後にババをつかむのは、投機をする地上げ屋ではなくて、土地を担保に融資した銀行である。そのツケが、今、「不良債権」となっている。)……投機とは、そういうものなのだ。
 結語。
 「資産インフレ」とは、「資産価値の上昇」による「資産価格の上昇」を意味するのではない。単に投機で価格が上がっているだけだ。その点、他の切手やチューリップなどの投機と、何ら変わりはない。
( ※ 土地や株だと、本来の価値がかなり多くあるので、それに目をくらまされやすいが、その本来の価値を超えた分は、すべて「投機」に相当する。)
( ※ ただし、正確に言えば、「資産インフレ」というのは、本来の価値の上昇と、投機の分との、合成である、と言える。バブル期には、投機の分が、非常にふくらんだ。そのせいで、投機の分がはじけると、急激に資産価格は低下した。これを「資産の本来の価格が低下したのだ」と見るのは誤り。投機の分がはじけただけだ。)

 さて。以上のことから関連して、次のことを考えてみよう。
 「資産インフレは良いか悪いか?」
 これに対して、「資産インフレは良い。それで景気が回復するからだ」という主張がある。しかし、そんな主張が成立するなら、「チューリップバブルは良い」「切手バブルは良い」というふうに、あらゆる投機は是認されてしまう。さらには、「ポーカーバクチは良い」などと、あらゆるバクチやギャンブルが是認されてしまう。こんなことがまかりとおれば、ビジネス学校というものは、バクチの養成所になってしまう。大学の経営学では、入れ墨をした紋々の怖いお兄さんが講義をするようになる。「丁か、半か」という講義だ。
 「資産インフレは、破裂しなければ良い」という意見も、ほぼ同様だ。それは、「投機は儲かれば良い」ということになる。そりゃまあ、「得をする」と最初からわかっている投機ならば、良いに決まっている。しかし、投機というものは、得するとは限らないのだ。原理的に、得をする額と、損をする額とは、同額である。ゼロサムである。何も生産しないのだから、当然だ。それでもなおかつ、「必ずバクチで儲かる方法」というのであれば、イカサマしかない。大学の経営学では、入れ墨をした紋々の怖いお兄さんが講義をするようになる。「イカサマのテクニックは……」という講義だ。
 結局、「資産インフレは良いか悪いか?」という問いは、「投機(バクチ)は良いか悪いか?」という問いと同じだ。質問自体が、馬鹿げている。こんなことを質問する人は、経済学なんか考えないで、バクチ打ちに入門でもした方がいい。
 なお、ついでに、ひとこと言っておこう。「バブル期は、株がどんどん上がった。投機による得は、すばらしい」と主張するのであれば、「バブル破裂期は、株がどんどん下がった。投機による損は、すばらしい」と主張するべきだ。……これは、ジョークのようだが、ジョークではない。真面目だ。だいたい、バクチ打ちというものは、損得ではなくて、バクチによるスリルそのものを喜ぶべきものなのだ。得をしたと言っては喜び、損をしたと言っては喜ぶ。それこそ、バクチの真髄だ。「得したときには良いと言い、損したときには悪いと言う」というのは、ただの結果論だけを言う日和見主義者だ。私は、こういう輩は、大嫌いだ。
( ※ W杯の最中には、こういう日和見主義者がいっぱいいた。「日本が一次リーグ全勝! 空前の快挙だ! トルシエはすばらしい!」 → 「決勝リーグで、三都主のFKのボールが、数センチはずれてバーを直撃したのは、トルシエのせいだ! トルシエなんか、解雇せよ!」 → 「トルシエがフランスの代表チーム監督になるなら、やっぱり、トルシエは偉いんだ!」)

 なお、「正当な価格」というものは、「株価収益率」や「土地収益率」によって決まる。「株価や地価は、バブル時に比べ、大幅に下落したから、もっと回復していいはずだ」という説もある。しかし、これは、「正当化な価格」というものを理解しない考え方である。
 バブル期には、「株価は株価収益率を無視したとんでもない価格になっている」「地価も土地収益率を無視したとんでもない価格になっている」というふうに、何度も指摘されてきた。当時の新聞や週刊誌などを読んでみるがいい。そういう話が、いっぱい出ている。「異常な資産価格になっている」ということは、当時からすでに大きく指摘されてきたのだ。
 そういう異常な価格を基準にして、「当時よりも下がっているから、当時に近づけよなんていう理屈は、メチャクチャである。異常と正常との区別がついていないわけだ。ほとんど気違いみたいな論理である。(気違いというものは、自分が気違いであることに気づかず、自分は正常だと思い込み、正常の人間を気違いにしようとする。それを経済の場でやろうとしているのが、気違いエコノミストたち。)


● ニュースと感想  (7月14日b)

 「資産インフレ」と「不正会計処理」について。
 米国で、不正会計処理が話題となっている。(エンロン・ワールドコム)
 不正会計処理とは、どういうことか? 「実態以上の好決算に見せかけること」であり、「それによって株価を、実態以上の株価にまで、釣り上げること」である。
 実態にふさわしい株価からの乖離。── こういう本質において、「不正会計処理」と「資産インフレ」とは、まったく同じだ。

 エンロンやワールドコムが粉飾決算をしたことで、米国の株価は実態以上に上昇した。そのことで、景気回復高価はあった。そして、その「化けの皮」が剥がれたあとで、株価が下落した。
 では、そういうことは、良いことなのか? 正しい価格を離れて、価格を強引に上げて、価格をまた元に戻すことは? 
 「資産インフレ」賛成論者ならば、「それは良いことだ」と唱えるだろう。「それで景気が良くなったのだから、粉飾決算による不正解系処理は、すばらしいことなのだ。バレたから、下がっただけだ。バレなければ、ずっと株価は上がっただろう。そうして実態以上の株価が付いて、景気刺激効果が出ただろう。永遠にバレなければ、何も問題はない」と唱えるだろう。そして、「だから、もっと粉飾決算をしよう。もっと不正会計処理をしよう。あらゆる企業で、実態以上の株価を付けよう。株価で資産インフレを!」と唱えるだろう。
 なるほど、そうすれば、たしかに景気刺激効果は出る。しかし、不正はいつか露見するものなのだ。「永遠にバレなければいい」なんていう考え方は、根本的に狂っているのだ。(無理を続けていれば、いつか金が払えなくなるし、そうなると、真実がさらけ出される。……この点、不正会計処理も、資産インフレも、ともに同じ。)

 結語。
 「資産インフレで景気回復ができる」とか、「資産デフレのせいで不況になった」とかいう説は、「粉飾決算はすばらしい」というのと同じだ。それがめざすのは、実態からの乖離、真実からの乖離だ。その学説自体が、真実とは正反対のものなのだ。こういうデタラメな学説を主張する経済学者こそ、悪の根源である。
 米国大統領は叫んだ。「こういう不正処理をした犯罪者は、監獄にぶち込め!」と。そうだ。「資産インフレで景気回復を」と唱える経済学者は、まさしく株価に粉飾をめざしているわけだから、犯罪者も同然だ。こういう経済学者たちを、監獄にぶち込むべきだ。
( ※ ただし、こういう経済学者は、あまりにも多すぎて、監獄からあふれてしまうだろう。それが心配だ。)

 [ 付記 ]
 マネタリストと、企業経営の関係。
 陰性のマネタリスト……
  ・ 国家経済には、「緊縮財政」を唱え、企業経営には、帳簿屋(会計屋)になる。
 陽性のマネタリスト……
  ・国家経済には、「資産インフレ」を唱え、企業経営には、「粉飾決算」を唱える。


● ニュースと感想  (7月15日)

 前日分の関連。
 「資産デフレのせいで不況になった」という説を否定しておく。

 「資産デフレのせいで不況になった」という説は、マネタリストを中心に、よく言われる。「不況の原因は、バブルが破裂したことだ。つまり、資産デフレだ。……だから、資産インフレを起こせば、景気は回復する。そのために、貨幣供給量を拡大して、資産インフレを起こそう」という考え方だ。
 しかし、この説は、いくつも難点がある。

 (1) 破裂の原因
 そもそも、バブルが破裂したのは、そのときに急激に貨幣供給量が縮小したからではない。1990年に景気は急激に悪化したが、これは貨幣供給量が急激に低下したせいではない。むしろ、この時期、金利はどんどん下がっていったから、貨幣供給量は増える傾向にあった、と見なしてよい。
 経済の状態を決めるのは、貨幣ではない。実際の生産だ。そして、実際の生産が急激に縮小したのは、需要が縮小した(消費性向が低下した)からだ。貨幣供給量の変化が原因ではない。

 (2) 名目価格
 貨幣供給量が増えるということは、単に名目価格が上昇したということであり、貨幣の価値が小さくなるということだ。
 それは、一般商品のインフレならば、「アメとムチ」効果によって、消費を促進する。しかし、資産インフレでは、そうはならない。資産は消費されるものではないからだ。資産は投機されるだけだ。……だから、「貨幣供給量が上がれば、消費が増えるかわりに、投機が進む」というふうには言える。しかし、消費の拡大は生産の拡大を意味するが、投機の拡大は生産の拡大を意味しない。いくら貨幣供給量を増やして、投機を増やしても、生産は拡大しないし、需給ギャップも解消しない。

 (3) 資産インフレとインフレとのトレードオフ
 「資産インフレが進むと、その分、インフレが食われてしまう」ということ。(この件、前にも述べた。)
 「資産インフレが進めば、資産が増えるので、消費が増える」という説がある。なるほど、そういうプラス効果も、少しはある。しかし、その何倍も、マイナス効果があるのだ。
 たとえば、あなたが今、1億円もっていたとしよう。その1億円で資産投資すれば、手元には1億円が残らない。だから、その分、普通の商品の消費が減る。
 仮に、限界消費性向が 10%だったとしよう。1億円のうち、10%を使うなら、1000万円の消費。一方、1億円を資産投資に回して、その資産が 1億2千万円になったなら、計算上の所得増加が2千万円で、そのうち 10% を消費するので、 200万円の消費。……結局、前者は 1000万円、後者は 200万円だから、前者の消費の方が大きい。
 「資産家は、資産投資する金は、貯蓄を崩すだけで、消費には回さない」という意見もある。しかしそれでも、話は変わらない。消費のかわりに、貯蓄をするなら、10% の消費と 90% の貯蓄のかわりに、0% の消費と 100% の貯蓄となる。ところが、経済学の原則により、「貯蓄 = 投資」である。つまり、消費しようと貯蓄しようと、金を使う人が消費者であるか企業であるか、という違いでしかない。どちらにしても、生産は増える。
 すると、反論が来そうだ。「だったら、資産投資も同じだろう。資産投資すれば、その金は、資産を売った人の貯蓄となる。だから、その貯蓄が、投資に回るはずだ」と。
 なるほど、普通は、そうだ。しかし、資産インフレのときは、インフレがあまり生じない。つまり、マネーが一般商品市場(財市場)には回らず、資産市場だけでぐるぐる回っていることになる。
 「資産を売った金を貯蓄する → その金で設備投資」
 とはならずに、
 「資産を売った金を貯蓄する → その金で資産投資」
 となる。資産市場のなかで、金がぐるぐる回るだけであり、資産価格ばかりがどんどん上昇していく。(それがバブル期だった。)
 こういうときには、いくら資産価格が上がっても、消費が増える効果は、あまりないのである。(全然ないわけではないが、ろくにない。) たとえば、貨幣量を 10兆円増やしても、ほとんどが資産市場に入って資産インフレを起こすだけだ。マネタリズムの狙うような景気刺激効果は、あまりない。そもそも、そういう状況を、資産インフレと呼ぶのだ。(貨幣量の増大が、物価の増大と生産の増大をもたらすような状況は、資産インフレではなくて、単なるインフレである。)

 (4) 株価
 「株価が下落したから、景気が悪くなったのだ」という説。
 どう考えても、論理は逆である。「景気が悪くなったから、株価が下落した」といのが正しいはずだ。「体温計の温度を下げれば、熱が下がる」というのでは、論理が逆である。
 そもそも、株をもっていない低所得の人だって、消費を減らしている。
 また、「株価が上がると、消費が増える」なんていることは、統計的にも全然示されていない。景気に関係なく、株価が勝手に上下することは、これまで何度もあった。
 一般的に言えば、株価は「先を見通す」から、「景気が悪くなる」と予測すれば、先んじて、株価は下がる。しかし、だからといって、「株価が下がったから、景気が悪化した」ということにはならない。
 また、(3) とも関連するが、「みんなが株を買えば、株を買う分、物を買わなくなる(消費は減る)」のである。だから、「貯蓄のかわりに、株を買おう(株価を上げることを狙おう)」なんてことは、景気回復の方法ではない。それでは、銀行預金が減って株になっただけだ。いわば、貯蓄の形が変わっただけだ。(銀行を経由する貯蓄か、株式市場を経由する貯蓄か、その違いがあるぐらい。いずれにせよ、企業に金は渡る。)……それは「消費を増やす」効果はないのだ。ゆえに、「売上げを増やす」効果がなく、「設備投資を増やす」効果もないのだ。
 「消費をやめて、貯蓄や株式投資をしよう」というのは、「設備投資不足」であるとき(インフレのとき)ならば、正しい。しかしデフレのときには、「消費を減らして、貯蓄・株式投資をしよう」なんて言うのは、景気を悪化させる効果があるだけだ。(「消費」を減らす効果ばかりが現れ、「投資」を増やす効果が現れないので、総需要を減らすことになるから。)
( ※ 現状ではそもそも企業に設備投資意欲がない。そのことは、次の (5) で示す。)

 (5) 土地の担保力
 「資産デフレで、土地の価格が下がって、土地の担保力が減ったから、設備投資が減ったのだ。資産インフレが起これば、土地の担保力が増えて、設備投資は増える」という説がある。
 これが間違いだ、ということは、何度も示した。今、そもそも、企業は融資を受けたくないのだ。有利子負債を減らしたいのだ。
 そもそも、企業に金を貸すのは、「土地担保主義」である必要はない。「収益性主義」で十分だ。黒字企業(または黒字の見込みのある企業)であれば、銀行は喜んで融資をする。銀行は、手持ちの金を金庫に寝かせていても、少しも利益を生まない。利子を取れるところには、喜んで融資するはずだ。
 ただ、問題は、黒字企業(または黒字の見込みのある企業)は少ないし、あっても金を借りようとしないことだ。ここが現在、問題となっているのだ。デフレのせいで収益性が悪化して、「借りる資格がない」企業が多くなっている。また、「借りる資格がある」企業は、「借りる気がない」。── そのせいで、資金需要そのものが縮小している。その証拠が、ゼロ金利だ。
 なお、ここで述べたことは、私の個人的な学説というわけではない。ただの事実だ。各企業の実態を見るがいい。日産にせよ、ダイエーにせよ、「経営再建のために、まず有利子負債の削減を」と狙った。「どんどん設備投資をしようとしたかったが、土地の担保力が不足しているので、設備投資ができなかった」などとは言わなかったのだ。
 「設備投資をしたいが、土地の担保力が問題となった」ないし、「土地の担保力次第で、銀行から金を借りられた」というのは、バブル期の話だ。今は、そうではないのだ。消費そのものが少ないので、企業の投資意欲がないし、また、仮に企業が無謀な投資計画を出しても、銀行に却下される。……しょせんは、資金需要がないのである。だからこそ、金利は低いままだし、土地の担保力増大や金利の引き下げが、投資増加の効果をもたないのである。
( ※ 水道で言えば、途中の間が詰まっているのではなくて、最後の蛇口が詰まっている。「水道管が詰まっているから水が流れないのだ」なんていくら主張しても無意味なのだ。本当は蛇口が詰まっているのだから。)
( ※ ついでに言えば、「インフレ目標」を唱える人で、「資産デフレ原因説」を唱える人もいる。これは、自己矛盾を起こしている。── 「インフレ目標」というのは、「借りたがる企業が少ない。だから、実質金利をマイナスにして、借りたがる企業を増やそう」ということだ。一方、「資産デフレ原因説」というのは、「借りたがる企業が多い。なのに、銀行が貸してくれない」ということだ。矛盾。……なお、「借りる資格がないだけだ」と言うかもしれないが、借りる資格の有無は、実質金利をマイナスにしても変わらない。「土地の担保力がなくて、銀行が貸してくれない」というのがデフレの原因であれば、いくら実質金利をマイナスにしても、やはり土地の担保力はないままだから、銀行は貸さない。つまり、実質金利をマイナスにしても、デフレの原因は除去できないことになる。だったら、「インフレ目標」を実施する意味がない。……正しくは、「不況の原因は資産デフレではなくて、設備投資意欲の縮小であるから、「インフレ目標」は設備投資に対していくらかは有効である」となるのだ。)

 [ 付記 1 ]
 資産デフレ(バブルの破裂)というものは、資産インフレよりも、急激に進むものだ。
 資産インフレというものは、動きは緩慢であるが、資産デフレというものは、動きが急速である。上がるのは遅いが、下がるのは早い。買うには金がいるので、買い手が一人増えるのに時間がかかるが、売るのは、全員がいっせいに売れる。そして、実際、全員ではなくても、大多数がいっせいに売りたがるのだ。なぜなら、ババを他人につかませるためだ。

 [ 付記 2 ]
 不良債権処理との関連を述べておこう。
 バブルの破裂は急激だが、一方で、土地の取引価格の下落は遅い。「まだ高く売れる」と思って、売り手がなかなか格を下げないからだ。その結果、取引例が非常に少なくなる。
 バブル破裂後に、少数の取引例を見て、「なんだ、あの価格で売れたのか。だったら、早く売っておけば良かった」と思う人が多い。特に、不良債権処理論者はそうだ。しかし、実際には、当時、その価格では売るに売れなかったのがほとんどだったのだ。取引は成立しなかったのだ。
( → 2月11日 の (4)

 [ 付記 3 ]
 「貸し剥がし」と「公的資金投入」について。(上記に関連する話題。特に読まなくてもよい。かつて述べたことの蒸し返しにすぎない。)
 銀行が新規に融資しないどころか、既存の融資を引き上げることがある。「貸し剥がし」という現象だ。たしかに、こういうことはある。「自己資本8%」というBIS規制による結果だ。( → 朝日・朝刊・経済面 2002-07-10 など。)
 この問題は、たしかにある。「融資を受けられない」という問題は、たしかにあるのだ。しかしそれは、「BIS規制のせい」なのであり、「地価下落のせい」ではないのだから、「地価上昇」によっては解決しない。地価上昇は、借り手にとっては与信枠[担保力]の増大だが、貸し手にとっては、与信枠の総額[BISで決められる額]の拡大を意味しない。(「株価上昇」ならば、自己資本比率が高まるので、いくらか効果があるが。)
 この問題に対する世間常識的な処方は、「公的資金の投入」(による自己資本比率のアップ)である。
 しかし、これは、当の銀行自体が反対している。なぜなら、それは「銀行の国有化」を意味するからだ。同じ理由で反対する経済学者は多い。(私もそうだ。「銀行の国営化と、郵貯の民営化」なんて、馬鹿げている。看板を付け替えるだけの方がマシだ。)
 では、「公的資金の投入」に反対するなら、代案は? 「ただちに減税して景気を回復すればよい」というのが基本だ。ただ、それとは別の方法もある。直接的に自己資本問題を解決する「ウルトラC」とも言える方法だ。
 その方法は、先に10月04日 で示した。ここで簡単に再論すれば、次の通り。
 「政府が公的資金を投入するかわりに、民間のペーパーカンパニー(持ち株会社)が、資金を投入する。その資金は、銀行自体が融資する。……銀行が自分で自分に出資していることになる。一種の数字的な操作だ。しかし、それでもとにかく、BIS規制の制限からは逃れることができる」
 なお、どうしても公的資金を投入したいのならば、このペーパーカンパニーに 1000億円ぐらい、公的資金を投入すればいい。(一方、銀行に公的資金を投入するのであれば、兆円単位の金が必要となりそうだ。それはまずい。)


● ニュースと感想  (7月16日)

 「資産インフレ」と「不良債権処理」について。
 この両者は、似たところがある。どちらも、同じ妄想の上に成り立つ。それは、
  「大量のものをいっせいに売却しても、市場価格は変わらない」
 つまり、
  「資産市場においては、市場原理は成立しない」
 という妄想だ。

 詳しく言うと:
 ・資産インフレ …… 「実際には高価格で取引されているのは一部である。もし全量を一挙にその価格で売却しようとすれば、価格は大幅に下落する」
 ・不良債権処理 …… 「実際には時価で売却可能なのは一部である。(取り引きされている量だけである。)もし全量を一挙に時価で売却しようとすれば、価格は大幅に下落する」

 そもそも、「莫大な量を売却しようとして、供給量を何十倍にしても、市場価格は変わらない」というのは、「市場原理」の否定である。
 「供給を増やせば、価格は下落する」というのが、市場原理だ。これはもちろん、資産市場でも成立する。こんなことがわからないのだから、論者の説はメチャクチャであるし、経済学に反する。
 あるいは、「資産市場で需要過大のときは、市場原理で価格が上昇する。しかし、資産市場で供給過大のときは、市場原理で価格が下落することはない」という半可通(半面的)の経済学だ。ほとんど矛盾しているようなものだ。
 彼らは言う。
「資産インフレがあれば、資産価値が上がる、資産家は金持ちになる。だから消費が増えて、景気が良くなる」
「不良債権処理をすれば、不良資産が現状の市場価格で現金になるので、損切りできる」
 などと。それは、経済学の「市場原理」を無視した暴論なのだ。つまりは、経済学音痴の空論。
( → 7月13日b にも、似た話がある。)

 [ 付記 ]
 この意味で、「景気回復には、不良債権処理で」というのに反対するのと、「景気回復には、資産インフレで」というのに賛成するのとは、立場が矛盾している。
 (1) 「不良債権処理に反対」……「いっせいに売却すると、下がりつつある地価がいっそう下落する」ということが理解できる。(ゆえに「不良債権処理はダメだ」と主張する。)
 (2) 「資産インフレに賛成」……「いっせいに売却すると、すでに上がった地価が下落する」ということが理解できない。(ゆえに「資産価格の上昇はただのバブルにすぎない」と主張できない。)
 結局、両方を主張するとしたら、その人は、首尾一貫していないわけだ。(こういう経済学者が多い。たいていはマネタリスト。)

 ただ、「資産インフレになると、資産額が増えたと錯覚する人々が消費を増やす」というのであれば、間違いではない。しかしそれは、「資産インフレ自体のせいで景気回復」というよりは、「資産インフレによる錯覚のせいで景気回復」という、「錯覚利用」主義だ。
 こんなふうに、人々の錯覚を利用して景気回復をしようと言うのは、まともな経済政策ではない。「人々が妄想に従うことを前提とした経済政策」というものは、人々が妄想に従うのであれば成功するが、あるとき人々が妄想から覚めて現実に気づけば、その経済政策は破綻する。……実際、バブル破裂とは、そういう現象だった。それがまた再来する。
 「人々が正気でないことを前提とした経済政策」というものは、それ自体が、正気の政策ではないのだ。


● ニュースと感想  (7月16日b)

 「ポリシー・ミックスは万能薬ではない」ということを指摘しておく。
 「既存の経済学がうまく適用できない状況でも、ポリシー・ミックスが有効になることがある」と先に示した。(たとえば、スタグフレーションのときや、バブルのとき。)
 ただし、ポリシー・ミックスが有効なのは、そういう状況のときだけであり、どんな場合でもポリシー・ミックスが有効になるわけではない。こいつは、万能薬ではないのだ。
 より本質的に言おう。状況が「複合的」である場合に、対策も「複合的」であることが有効となるのだ。状況が単純である場合には、単純な方策で済む。
 具体的に示そう。
 「状況が複合的」である場合としては、「スタグフレーション」(物価が上昇するのに景気が悪い)とか、「バブル」(物価が上昇しないのに資産価格が上昇)とか、そういう場合がある。
 「状況が単純」である場合としては、「単なるインフレ」とか、「単なるデフレ」とかがある。
 さて、現状は? もちろん、単なる「デフレ」である。こういうときには、単純に不況脱出策を採ればよい。あれこれと複雑な「ポリシー・ミックス」などを実施する必要はない。

 以上が正しい見解だ。
 ただし、世間の経済学者は、そうではない。彼らは「柳の下の二匹目のドジョウ」を狙うようだ。「過去の成功体験にとらわれる」というやつである。「以前、困ったときに、ポリシー・ミックスをやって、成功した。だから、今度も……」というわけだ。
 けっこう有名なエコノミストが、こういう主張をしている。

  http://www.japanknowledge.com/inose/0000130000000054.html
  http://about.reuters.com/japan/trader/backnumber/td_010102_78/p12.html

 これらはともに、次のように主張する。
 「ただの景気刺激だけじゃダメだ。金融政策は不況対策をするべきだが、財政政策は不況対策をするべきではない。つまり、量的緩和をして、財政緩和をしない(財政中立 or 緊縮)、というのがが好ましい。つまり、ポリシー・ミックス的な政策だ」
 「ポリシー・ミックスは、スタグフレーションに有効だった。だからデフレにも、有効なはずだ。今こそ、ポリシー・ミックスを実行しよう」

 彼らは、「これこれの経済学的理論ゆえに」と論証しているのではなく、「これをやったら、うまく行ったことがある。だから今度も」と単なる経験則を主張しているだけだ。「柳の下の二匹目のドジョウ」だ。
 「まったく異なる状況に対して、同じ対処が有効ではない」
 ということを、彼らは理解できないのだ。どんな病気に対しても、処方は一つ、というやつだ。
 上記のリンクのようなことを主張するのは、「ヤブ医者」のようなものであるから、「エセ経済学者」と呼ぶべきであろう。(……というのは、悪口がひどすぎたかな。本人の言葉を、ついつい流用してしまった。本当は、彼らは、ただの「経済音痴」もしくは「凡庸なエコノミスト」もしくは「素人」にすぎない。)


● ニュースと感想  (7月17日)

 「国債」と「世代間のツケ回し」について。
 この問題については、先に「行列モデル」で説明した。つまり、こうだ。
「民間引き受けの国債では、国債所有者と、他の人々とを、区別するべきだ。国債所有者が介入することで、他の人々は、現時点では富を受け取り、将来では富を失う。そういう形で、世代間のツケ回しが発生する」

 このとき、国債所有者と、他の人々とを、区別しないで一緒くたにすると、「現在の国民全体が、将来の国民全体に、ツケ回しをするのではない」という結論となる。しかし、それは無意味である。もともと正しくない命題を提出しておいて、それを勝手に否定しているだけだ。
 このことを誤解している人が多い。特に、ケインズ派の経済学者は、個々を誤解しているようだ。そこで、ふたたび解説しておく。

   この問題を、最も単純なモデルで示す。
 父と息子がいる。父が借金して、息子が返済する。借金の相手は、地主である。(字西のかわりに、銀行でもいいし、政府でもいい。)
 父が現在、百万円借りて、息子が将来、(利息込みで)百五十万円返済する。これを、どう考えるか? 
 ここではもちろん、「父から息子への、借金のツケ回し」が発生している。

 ところが、一部の経済学者は、これについて、次のように主張する。
「世代別に考えよう。父は地主から百万円を借りる。息子は地主の跡継ぎに百五十万円を返す。結局、『父から地主』『息子から跡継ぎ』へというふうに、同世代間で金が流れるだけだ。世代間のツケ回しなどは、発生していない」
 と。
 この理屈は、もちろん、正しい。たしかに、「父 & 地主」から「息子 & 跡継ぎ」へのツケ回しは発生していない。
 しかし、この理屈は、無意味なのだ。なぜなら、「父 & 地主」から「息子 & 跡継ぎ」へのツケ回しなんてものは、誰も最初から問題にしていないからだ。問題にしているのは、「父から息子へ」のツケ回しだけなのだ。
 つまり、「Aが問題だ」と行っているときに、「Bは問題ではない」なんて主張しても、トンチンカンであるだけなのだ。
 「問題Aを解け」と言われて、「問題Bを解答しました。えっへん」なんて威張っても、まったくの無意味なのだ。いくらその解答が正しくも、それは求められた解答とは無関係なのだ。

 もう少しわかりやすく示そう。
 「父から息子へのツケ回しが発生する」というのは、「地主から跡継ぎへの遺産が発生する」というのと、同義である。「借り手の側で、世代間の引き継ぎが発生する」のであれば、「貸し手の側でも、世代間の引き継ぎが発生する」のである。そして、その両者や、まったく同時期に同額でなされる。(当たり前だ。貸し借りという一つの事象を、借り手の側で見るか、貸し手の側で見るか、というだけの違いだ。)
 借金の貸し手(債権者)が、世代間で遺産を残すのは、まったく当然である。とすれば、借金の借り手が、世代間でツケ回しを残すのも、まったく当然なのだ。── ここでは明らかに、「遺産」と「ツケ回し」が、同時に同額で発生している。
 このとき、「両者をひっくるめれば、チャラになる。遺産とツケ回しの両方を合わせれば、プラスとマイナスが相殺されて、合計値はゼロになる」なんて言っても、まったく無意味なのである。いくら経済学者がそんなことを主張しようと、貸し手の側に「遺産」はあるし、借り手の側に「ツケ回し」はある。これらを無視することはできないのだ。

 なお、言っている本人も、実は薄々、わかっているらしい。だから、「世代間のツケ回しが発生しているわけではなく、同世代内で所得再配分が起こっているだけだ」などと主張する。
 これは、主張自体が間違っているわけではないが、無意味である。「同世代内で所得再配分が起こっている」ということが、すなわち、「ツケ回し」なのである。
 ここでは、誤解が発生している。「世代間のツケ回しとは、時間を超えたものだ」というふうに。つまり、「現在の人間が将来の人間から借金する」というふうに。
 しかし、「現在の人間が将来の人間から借金する」ということは、ありえないのだ。なぜなら、現在の人間が将来の人間と対面することはできないからだ。
 人はタイムマシンに乗ることはできない。現在の人間は、将来に移れない。将来の人間は、現在に移れない。人間は時間を超越できない。……だからこそ、「現在の人間と、将来の人間との間の、介在者」を要するのである。
 現在の人間は、「介在者」との間で、借金契約を結ぶ。そして、借用証書を次世代に引き継ぐ。将来の人間は、借用証書にもとづき、「介在者」にその借金を返す。……こういう形で、「介在者」を通じて、現在の人間と将来の人間との間で、「ツケ回し」を発生させる。
 この「介在者」を、「債権者」と呼ぶのである。先の例では、地主一家のことだ。国債ならば、「国債保有者」のことだ。

 国債では、「借金のツケ回し」が発生する。それは、国債を所有する債権者において、「遺産の相続」が発生するのと等価である。債権者の側で、「遺産の相続」が発生する以上、他の人々の側では、「借金のツケ回し」が発生するのだ。
 そのことを理解することが大切だ。「借金のツケ回しなんか存在しない」なんて主張して、「だから借金のやり放題だ。所得再配分は別のことで解決しよう。さあ、大盤振る舞いだ。タヌキ専用道路をいっぱい作ろう」なんていうケインズ派の経済学者は、論理が根本的に破綻しているのである。


● ニュースと感想  (7月17日b)

 ケインズ派への批判。
 ケインズ派の主張は、つまりは、
「個人が金を使わなければ、国が金を使ってやろう」
 ということだ。なるほど、そうすれば、たしかに、有効需要が増えて、需給ギャップは解決するだろう。しかし、「需給ギャップの問題さえ解決するならば、それでいい」ということにはならない。
 だいたい、そんなことが許されるのならば、国が金を使うのではなく、誰か一人が使ってもいいはずだ。たとえば、悪徳政治家に金をプレゼントして、彼が全部、その分の金を使ってもいいはずだ。それでもとにかく、有効需要は増えて、需給ギャップの問題は解決するからだ。
 もちろん、そんなのは、馬鹿げている。

 では、ケインズ派の間違いは、どこにあるか? それは、次の2点だ。

 (1) 公共事業の「効用」
 「効用」というのは、経済学の基本用語だ。効用なしに、金を使うのは、金をドブに捨てるのと同じで、まったくの無駄だ。
 ところが、この経済学のイロハを、ケインズ派は理解できない。「穴を掘って埋めてもいい」などと主張する。
 たしかに、「有効需要の発生」という一点だけを見るのならば、「穴を掘って埋めるだけでもいい」と言える。しかし、効用の面からいえば、そうは言えないのだ。
 「タヌキ専用道路」と、「有効な道路」とでは、異なる。前者は何も生産しない消費であり、後者は生産をする投資である。両者はまったく異なるのだ。
 結局、ケインズ派の理屈は、「効用」を無視したあげく、「消費」と「投資」の区別が理解できないことにある。
( ※ 上記のように、「効用」が大事であり、「無駄遣い」はダメだ、ということになる。これは国債の原則でもある。国債は、世代間のツケ回しが発生するゆえに、現時点で消費をしてはならず、将来への投資となるような用途にのみ、支出して良いのである。)
( ※ なお、「消費」と言っても、人に満足感を与える消費ならば、効用はある。「消費」が「投資」よりも悪い、ということはない。人は、金を稼ぐために生きているのではない。金を使うために金を稼ぐのである。)

 (2) 金の貸し借り
 ケインズ派の弱点は、財源について、十分考慮していないことだ。「金は国債で借りればいいだろう」とだけ考えて、金を返済することを忘れている。
 今、500兆円の生産で需給が均衡していたとする。ここで、需要が急に縮小して、480兆円になったとする。20兆円の需給ギャップ。
 さて。ここで、政府が 20兆円の公共支出をしたとしよう。そうすると、需給は均衡状態に戻る。では、これで「めでたしめでたし」だろうか? 
 国民の側から見れば、こうなる。これまでは、500円を稼いで、500円を支出していた。ところが、気分が変わって、480円を支出するようにした。すると、会社の仕事が減ったので、480円しか収入が入らなくなった。しかしまあ、480円を稼いで、480円を支出しているので、一応は、現状に満足している。ただ、会社は設備が遊休して、経営効率が悪化していて、倒産しそうなので、それが心配である。
 ここで、「それならおれが金を使ってやる」といって、政府が差額の20円を使うことにした。そのことで、会社には 20円の仕事が入り、会社は正常化した。経済も正常化した。本人の所得も、500円に回復した。「何もかも、元に戻った」と思った。
 しかし、そのあとで、政府から請求書が来た。「 20円を立て替えておきました。増税します」と。つまり、「何もかも、元に戻った」わけではなくて、政府が 20円を支出した分、20円の富が奪われるのである。500円の収入を得ても、そのうち 20円は、税として奪われるのだ。
 結局、ケインズ的な方法とは、総需要を増やすことというよりは、未来の個人支出を奪って、現在の公共支出を増やすことだ。……それが良いか悪いかが、問題となる。(現在の公共支出が正当なものであればよいし、不当なものであれば悪い。)
 ここを理解するべきだ。「総需要を増やすらなら、何でもいいんだ」ということはないのだ。「金の使途なんか知ったこっちゃない、とにかく金を使えばいい」というのは、放蕩息子の理屈である。

 [ 付記 1 ]
 どうしてもケインズ派の言うとおりにしたいのであれば、ただひとつ、次のような方法がある。それは、「穴を掘って埋める」という公共事業のかわりに、「何もしない」という公共事業をやることだ。
 「何もしないで、ただ金を払う」── これならば、「穴を掘って埋める」のと同じ経済効果があるし、しかも、実質的な無駄は発生しない。エネルギーロスもないし、環境汚染もない。だから、これならば、好ましいわけだ。
 そして、この「何もしない」という公共事業は、つまりは、「減税」と同じである。その減税の対象を、誰にするかは、社会的公正( fairness )の問題にすぎない。国民一般に金をプレゼントするか、土建産業だけに金をプレゼントするか。前者は公正だし、後者は不公正だ。しかし、どちらも、経済的効果はある。
 いずれにせよ、こういう形の「何もしない公共事業」の方が、「穴を掘って埋める」よりは、はるかに好ましい。
( ※ だから私は「減税」を勧めているわけ。)

 [ 付記 2 ]
 「減税では全額が需要に回らない(消費性向が 1 よりも小さい)が、公共事業ならば全額が需要になる」
 という反論もある。しかし、それならそれで、減税の額を多くすればいいだけだから、何も問題はない。半額が消費に回るなら、倍額を減税に回せばいいだけだ。使われない金は、消えてしまうわけではなく、単に貯蓄されるだけだから、何も問題はない。
 仮に上記のような反論が成立するとしたら、おかしな結論が出る。それは、
 「不況のときは増税すべし」
 という結論だ。つまり、「不況のときは、消費が減って、貯蓄が増えている。しかし、国民が金を使わないなら、政府が金を使えばいい。だから、増税して、個人の貯蓄を食いつぶしてしまえ。さあ、どんどん増税して、どんどん国民の富を奪え。国民の富をすべて奪って、全額を政府が勝手に使ってしまえば、景気は必ず回復する」と。
 なるほど、その通りだ。政府が国民の金を泥棒すれば、景気は回復する。しかし、そんなのは、本末転倒というものだ。「景気回復」は最終目的はない。「国民の幸福」が最終目的なのだ。
 だいたい、「景気回復のために、泥棒してもいい」なんて理屈がまかり通るのであれば、「政府のかわりに、おれが国民の金を奪って、おれがすべて好き勝手に使ってやる」と主張する独裁者が出てくるかもしれない。そして、彼の理屈は、ケインズ派によって、裏付けられているのである。たしかにそれで景気は回復するのだから。
 ケインズ派の理屈というのは、要するに、泥棒の論理なのだ。国家による泥棒を正当化する論理だ。「盗人にも三分の理」ですかね。


● ニュースと感想  (7月18日)

 ケインズ派批判の本質
 私がケインズ派の批判をすると、「でも、公共事業にだって、良いものはあるぞ」という反論が来るかもしれない。しかし、それは誤解である。注意してほしい。
 今、問題になっているのは、「有効な公共事業をするか否か」ではない。「有効な公共事業をやめよ」とは、誰も言っていない。私もまた、「途上国では有効事業は有益だ」とか、「日本もかつては公共事業が有効だった」とか、賛意を述べている。田中角栄的な土建事業も、昔ならば、たしかに有効だったのである。(その意味で、田中角栄の考えは、間違ってはいない。)
 問題は、「無効な公共事業は、やるべきか否か」ということだ。たとえば、莫大な赤字を出すアクアラインとか、本四架橋とか、タヌキ専用道路など。
 最近も、長野のダムが話題になっている。このダムが水力発電用であり、このダムを建設することで火力発電所の建設が不要になるのであれば、有効だろう。しかし、このダムは、水利用と災害防止のためだ。水利用は、当初の予測が間違いで、水の不足は発生しないことが判明している。災害防止は、「百年にいっぺん」のためだが、どう考えたって、「災害防止費用」のほうが、「災害で失われる金」よりも、大きくなっている。100億円の損失を防ぐために、200億円を費やす、という発想だ。(同種の発想は、三宅島の火山対策でも見られる。たかだか 3000人程度の小規模の財産を守るために、莫大な金を費やす。火山という巨大な自然力の前で、人間という微力なものが金を使って対抗しようとするが、火山防止もできないまま、ほとんど無力のうちに、金だけが消える。)
 こういうふうに、「金を捨てる」つまり、「穴を掘って埋める」ということを、やるべきかどうか、ということだ。── そして、こういうものを「正しい」として認めるとしたら、その理論そのものが間違っているのだ。
 私がケインズ派を批判しているのは、そういうことだ。本質を離れて、自分の間違った理論の上に立って、「有効需要を増やせば……」などと述べる。
 はっきり言っておこう。「間違った理論からは、間違った結論しか生まれない」と。


● ニュースと感想  (7月18日b)

 時事的な話題。細々とした話を、いくつか。

 (1) 郵政民営化
 郵政民営化というのは、小泉の唯一の美点かと思ったら、とうとう腰砕けになったようだ。ま、それはさておき……
 民営化反対論者は、「地方の郵便局の雇用の重視」というのを、反対の基盤にしている。だから、ここをうまく突かないと、郵政民営化は実現できない。小泉はどうも、策がないようだ。「地方の郵便局とコンビニの一体化」というのが、唯一の可能な策である。だから、郵政省をそのまま民営化するのではなくて、コンビニ・チェーンを利用することを考えるべきなのだ。
 私としては、まずは、郵政事業の民営化が必要だと考える。そうして郵政事業以外のコンビニ事業もできるようにしておく。実際、コンビニ事業を始める。そして郵便局とコンビニとの一体化が進んだ時点で、民間企業の参入を認めればよい。
 民営化が進まない場合は、人事院を利用して、給与を大幅に引き下げる。民営化することで2割ぐらいの給与増加が見込めるようにする。(NTTの場合と同様。)
 これなら、自然に、民営化は進む。
 ついでに言うと……
 コンビニとの一体化は、消費者にとっても有益である。なぜなら、今の郵便局は、日曜日は閉まっているし、夜間も閉まっている。不便きわまりない。こういう国民無視の状態は、コンビニとの一体化により、是正できる。
 ホント、私としては、日曜・夜間営業こそ、何よりもありがたいのだが。

 (2) 住民基本台帳番号(国民総背番号)
 住民基本台帳番号に反対する理由として、「国家管理による悪用が可能」という説が根強い。なるほど、それは事実だ。しかし、こういうのは、論理になっていない。
 「悪用が可能だからダメ」というのでは、あらゆる文明的な方法が拒絶されてしまう。そんなことは、国家ではなく、民間の実態を見れば、すぐにわかる。たとえば、銀行やクレジットカードの預金番号。「悪人がこういう番号を利用すると、個人の金を盗まれてしまう」という主張があるかもしれない。実際、クレジットカードでは、悪用されることで犯罪が生じている。しかし、だからといって、「銀行預金でコンピュータを利用するのはやめよ。クレジットカードも廃止せよ」というのでは、メチャクチャだ。馬鹿馬鹿しくて聞いていられない。「銀行預金カードのかわりに、貯蓄通帳と判子に戻せ」なんて、不便で仕方ない。「クレジットカードの利用はやめて、高額の買物には何百万円もの現ナマを使え」なんて、かえって危険だ。
 便利になればなるほど、悪用の危険は、たしかにある。しかしそれは、法制度などで対処すればよい。「自分に便利なものは、犯罪者にも便利だ。だから犯罪者に有利にならないように、自分も不便を我慢する」なんてのは、理屈になっていない。
 また、「共通の番号を利用することが危険だ」というのも、同様だ。「マスターキーのようなものを用意すると危険だ」という説があるが、マスターキーというものは現実に使われている、ということを理解するべきだ。ホテルにせよ、マンションにせよ、マスターキーというものはある。「マスターキーというものは悪用の危険があるから、マスターキーを廃止する」なんて言う人はいない。「マスターキーを悪用されると大変だから、マスターキーの管理をしっかりとする」というのが大事なのだ。
 だいたい、同じような「社会に有害なものはダメ」という極論が成立するのであれば、最初に廃止するべきものがある。それは、自動車だ。毎年、1万人以上の人命が奪われる。これほど社会に有害なものはない。自動車を廃止すれば、それだけの人命が助かるのだから、さっさと自動車を廃止するべきだろう。……しかし、それは現実的でない。たとえどれほど社会的に有害であっても、それを上回る利益があるのであれば、それは採用されるのだ。このとき、なすべきは、「自動車の安全性を高めよ」という是正策を示すことであり、「自動車を廃止せよ」という極論を言うことではない。
 「悪用の危険があるから、便利なものの利用をやめて、不便さを耐え忍ぼう」というのは、化石的な考え方である。悪用の危険があるのなら、悪用を防ぐ制度を整えればいい。それだけのことだ。
( ※ 別に、政府のヨイショをしているわけではないので、念のため。政府案は、「悪用を防止する制度」が不十分である。だから、改善するべきだ。しかし、改善ができていないからと言って、「全部つぶしてしまえ」という過激な策にも、賛成できない。そういうのは、「日本が気にくわないから、日本をつぶしてしまえ」という過激派と同様である。「日本が気にくわないなら、日本を直せ」という建設的な態度こそ必要だ、と私は考える。)
( ※ ついでだが、「政府案はダメ」という意見は、あちこちにある。特に重大な指摘は、「法的未整備」ではなくて、「コンピュータの未整備」。Windows という不安定なシステムを使っているということ。 → 中村正三郎のページ の7月17日。元ネタは「文藝春秋 2002年8月号」 )

 (3) 超音速機の実験失敗
 超音速機の実験失敗を見て、「こんな開発は、金の無駄だ、やめてしまえ」という意見がある。(朝日・朝刊・社説 2002-07-17 )
 なるほど、今回の失敗は、ボルトの付け方の失敗というのと同様の、初歩的なミスだ。まったく、情けない。しかしそれは、開発技術とは、何の関係もないのだ。技術者が高度な技術開発をしたら、自らの技術の失敗のせいではなくて、工場の下っ端の幼稚なミスのせいで、すべてがパーになる。そのあげく、「やめてしまえ」と言われる。技術者は、踏んだり蹴ったりだ。
 ま、技術者がかわいそうであっても、それは私の知ったこっちゃない。私としては、特に言うことはない。しかし、問題はある。「やめてしまえ」と主張する、朝日の態度だ。
 何という傲慢さ! 何という自己矛盾! 日頃は、「独自技術の開発をせよ」「基礎技術を重視せよ」「失敗を恐れるな」と紙面で主張していた。まことに立派なものだ、と私は感心していた。ところが、自分のその立派な主張を、すべてひっくり返してしまっている。
 今回の社説の主張は、こうだ。
「他社はエアバスなどをやっていて、超音速機開発などはやっていない。だから、やめよ」(つまり、他人と同じ研究だけをやっていれば良くて、独自の研究などはやめよ)
「いっぺんでも失敗したら、ダメだ」(つまり、失敗と試行錯誤が必然となる基礎的研究なんか、すべてやめてしまえ。失敗のない、実用化レベルの開発だけをやれ。)
 まったく、あいた口がふさがらない。こんな主張に従っていては、日本の先進技術開発は、すべてつぶされてしまう。
 はっきり言おう。企業レベルでさえ、先行技術というものは、十に一つしか成功しない。しかし、そういう困難なものに取り組んでいる企業こそが、成長するのである。安全確実なものばかりをめざす、という、そんな安易な軟弱なことでは、ダメなのだ。「十のうち、九は失敗するのか。だったら、先行技術開発なんか、すべてやめてしまえ」という、安全第一主義に従ったら、日本は独自技術のない後進国となってしまう。
 朝日の主張は、日本を崩壊させようとしているのだ。(ま、毎度そうですけどね。)── 言っておこう。失敗したときこそ、失敗を恐れぬ勇気が必要なのだ。失敗したら、ただちにびびって「中止」を唱えるというのは、最低の腰抜けだ。
( ※ コスト論にせよ何にせよ、反対意見を言いたければ、実験開始の前に言うべきだ。「失敗したのを見てから、結果論で批判する」というのは、ご都合主義だし、人間的に最低だ。……朝日は昔からそうだったが。「戦争前には、戦争賛成」「敗戦後には、戦争反対」)

 (4) 育児休業
 「育児休業」の男性取得率が低いので、数値目標を政府が示して促進する、とのこと。(読売・夕刊 2002-07-17 )
 これは単なる「数値目標による促進」だが、いっそ、「義務化」するといいだろう。一石六鳥になる。
  ・ 少子化対策
  ・ 父母への福祉
  ・ ベビー用品などの売上げ増
  ・ 女性への雇用差別の解消
  ・ 中高年層への雇用差別の解消
  ・ 休業の分、ワークシェアリング・雇用拡大
 とりあえず、出産前後に、6カ月(または半日出勤を1年)という育児休業を、義務づけるといいだろう。野党には「福祉促進」という名目で。与党には「国力の拡大」という名目で。反対する人はいないと思うのだが。
( ※ 育児休業による企業負担については、国庫が負担すればよい。となると、その分、国庫負担が増える。だから、財務省が反対するかも。……でも、「相続税減税」なんかよりは、筋が通っているはずだ。「人が死ぬことに対して減税」よりは、「人が生まれることに対して減税」の方が、ずっとマシだ。)

 (5) 相対評価と絶対評価
 相対評価と絶対評価については、先にも述べた。( → 6月27日
 さらに言い加えておこう。それは、次のことだ。
 「絶対評価を入試に使うのは、間違っている」
 ということだ。では、なぜか? 
 入試というものは、そもそも原理的に、相対評価なのである。一定の定員がある。たとえば、400人という定員だ。この定員の枠に嵌まるように、上位から、合格者が決まる。それはつまり、相対評価で合格者が決まる、ということだ。
 仮に、絶対評価の内申書を採用するのであれば、入試もまた絶対評価で合否を決めるべきだ。つまり、「これこれの絶対評価に達しているのであれば、定員にかかわらず、どんなに多数でも合格させる」というふうに。あるいは、「これこれの絶対評価に達していなければ、たとえ人員に余裕があっても、入学させずに不合格にする」というふうに。
 こうすれば、その年ごとに、判定者のさじ加減次第で、合格者は変動する。厳しい判定者のときは、合格者がゼロ。甘い判定者のときは、全員が合格して、合格者は3000人。3000人を収容するために、多額の税を投入して高校を建設するが、翌年、厳しい判定者となって合格者が5人だけとなってしまい、3000人を収容できる校舎はもぬけの殻。……こういう馬鹿げたことが起こる。
 だから、前回に述べたことを、もう一度繰り返しておく。「絶対評価には主観がまぎれこむ」という新聞報道は、まったく正しくない。「絶対評価」というのは、「主観評価」そのものなのである。「教師が自分の思い込みで自由にさじ加減する」というのを、うまく美名で飾ったのが、「絶対評価」というものだ。「絶対評価」なんて言葉は捨てて、「主観評価」という言葉に代えるべきだ。そうしてこそ、問題の是非がよくわかるはずだ。間違った言葉を使っている限り、言葉にだまされて、真実を理解することができなくなるのである。


● ニュースと感想  (7月19日)

 「自己反省」の勧め。
 という標題だが、別に、「反省しろ」と命令しているわけではない。誤解なきように。
 ここで言いたいのは、「他人や現状を批判する前に、そう批判する自分の足元を見つめよ」ということだ。大得意で批判していて、その批判する根拠自体があやふやなら、恥をかくだけだ。そういうふうに恥をかくことのないように、と助言しているわけだ。
 というのも、経済学者は、この手の「誤解による批判」というものが、非常に多いからだ。「○○がない! だから○○を増やせ!」というような理屈だ。
 例を挙げると:
 まあ、「○○がないから、○○を増やせ!」というのは、理屈としては、間違っていない。ただ、あまりにも短絡的なのだ。その短絡的な理屈が、実際に成立するかどうかは、頭を使って考えるべきだ。
 実際には、上の諸説は、成立しない。そんなことをやれば、即時的には狙いが実現するが、短・中期的には、まわり回って、逆効果となる。(例:賃下げをすれば、総需要が減って、かえって企業収益が悪化する。……「合成の誤謬」)

 さて。以上の例のようなことは、すでに何度も指摘した。本項では、さらに一つ、新たなことを指摘しておこう。
 「株式の個人所有率を上げよ」という主張がある。「米国や欧州では株式の個人所有率が高いが、日本ではそうではない。だから、日本でも、株式の個人所有率を上げるべきだ。そのために、投資優遇制度を整えるべきだ」という主張だ。
 一見、もっともだ。しかし、である。そもそも、なぜ、日本では株式の個人所有率が低いのか? ……この疑問を、自らに問いかけてみるべきだ。「ああだこうだ」と主張する前に、「なぜ現状はこうなのか?」と、よく考えてみるがいい。口先だけで意見を放つ前に、頭を使って、しばらく考えてみるがいい。インスタント食品だって、お湯を入れてから、3分間は待つものだ。3分間ぐらいは、目を閉じて、考えるべきだ。(そういうことをしないから、インスタントな未熟な主張ばかりが世にあふれる。)
 「日本では、株式の個人所有率が低いこと」── その理由は、昔から、何度も指摘されてきた。エコノミストなら、誰でも知っているとおりだ。「株式の利回りがきわめて低いこと」である。欧米に比べ、日本では、株式の配当が非常に低い。ま、それでも、将来の成長が見込めるのならば、我慢もできる。しかし、ろくに高成長も望めないような成熟産業でさえ、株式の配当が非常に低い。配当だけでなく、株価収益率もそうだ。株価収益率を見ると、日本では非常に悪い値だ。── 換言すれば、日本の株式は、もともと、あまりにも高すぎたのだ。「正当な価格に比べて、高すぎた。だから、買わない。」……そういう当たり前のことがあっただけだ。市場原理に従う限り、当然のことだったのだ。
 なのに、「買う人が少ないから、優遇制度を整えよ」というのでは、市場経済ではなくて、国家統制経済である。「粗悪品を大量生産したら、売れ残った。だから、粗悪品を買ってもらうために、補助金を出せ。そうやって、どんどん粗悪品を生産し、国庫の赤字を増やそう」という発想だ。── これは、経済的には、絶対に禁じられることだ。この意味で、上記のような株式優遇制度を整えるエコノミストは、狂気的である。
 日本の株式は、異常な高値が付いていた。それというのも、「株式持ち合い」で、企業が相互に、異常な高値で買いあっていたからだ。そういう仕組みが崩壊したからこそ、株価は下落していった。それは、異常から正常に戻る過程であり、当然のことだったのだ。
 だから、株式の個人所有率を高める方法は、簡単だ。粗悪品に補助金を出すことではなくて、商品そのものの魅力を高めることだ。つまり、株式の魅力を高めることだ。それは、具体的には、次の二点を意味する。
  ・ 株価を正当な水準まで下げる
  ・ 企業が十分な利益を出す。
 この二点は、株価収益率が向上することを意味する。だから、そうなれば、個人株主も自然に増える。
 「株価を強引に上げよう。そのために、個人株主を増やせ」というのは、市場価格の操作である。最悪だ。それはちょうど、「米価を上げるために、米価を政府が調整せよ」というのと、同じ発想だ。そういうふうに市場原理を無視して、異常な価格まで価格を釣り上げようとすれば、市場は歪んでしまう。そういうのは、まともな経済政策ではない。そして、そういう狂気的な経済政策が、今の日本では、堂々とまかり通っているのだ。
 だからこそ、私は主張するのである。「口先で言葉を出す前に、頭を使うべし」と。「インスタントな主張をする前に、3分間待つのだぞ」と。……それはつまりは、「他人に批判される前に、自分自身で自説を検証せよ」ということだ。

( ※ ただ、そうやっていると、時間を食う。……でもって、私もまた、自説の検証で、ここのところ、けっこう執筆が遅れているわけだ。弁解みたいで、すみません。)

 [ 付記 ]
 「自己反省の勧め」なんて言うと、「ふん」と思われそうだ。しかし、自己反省というものは、けっこう大切なことなのだ。特に、企業経営においては。
 経営に失敗したら、その理由を反省する。このことが絶対に必要だ。さもなくば、失敗を放置したまま、赤字が拡大する。
 その典型が、「すばらしい経営者」と称賛される日産のゴーン社長だ。「すばらしい、すばらしい」と称賛されるが、ひどいものだ。帳簿だけはきれいになったが、製品開発は失敗続きである。「今度の新製品で大躍進」と述べて出した車は、ことごとく失敗。スカイライン、プリメーラに至っては、月産 1000台程度。マーチは、そこそこ売れているので、失敗ではないが、成功でもない。ホンダのフィットやトヨタのイストに比べれば、台数では完敗である。だいたい、3年前までは、この市場では圧倒的な強みをもっていたのだ。なのに、完全に負けている。事実上の失敗と言えよう。
 それでいて、やたらと威勢のいい成長計画を出す。( → 5月11日d
 いいですか、ゴーンさん。「成功」というのは、ホンダのフィットやマツダのアテンザのように、ゼロから出発して、莫大な台数を売ることだ。あるいは、トヨタのイストのように、旧来の車をちょっとだけ変えるだけで、莫大な台数を売ることだ。それとは逆に、莫大な新車開発費をかけたすえ、ろくに台数も出ない、というのでは、「失敗」と呼ぶしかないのだ。そういう「失敗」をちゃんと認識することが必要だ。さもなくば、今後も、失敗を続けるだろう。
 だからこそ、経営者たるもの、「自己反省」が必要なのである。
( ※ ただし、ゴーン社長は、いずれ日産を辞めて、ルノーに転出するつもりらしいから、日産のことなんか、どうでもいいのだろうが。)
( ※ ところで、小泉はどうなんでしょうね。ちっとも自己反省の色が見られないが。だから不況が続く。)


● ニュースと感想  (7月19日b)

 南堂説の当否について。
 「南堂の説は正しいのだろうか?」という疑問をときどき聞く。また、「他の経済学者たちは、そんなに間違いなのかな?」と。
 私としては、別に、「自分の言うことだけが絶対だ」と主張するつもりはない。しかし、少なくとも次のことは、意見が正しいとか何とか言うよりも、ただの事実である。
 このあとは、まともな頭があれば、すぐに結論は出る。

   「量的緩和をしても、不況は解決できない。」
   (「流動性の罠にはまっている」と言い換えても同じ。)

 また、「公共事業をしても、不況は解決できない」というのも、すでに明らかだ。

 結局、「量的緩和をしても、公共事業をしても、不況は解決できない」ということだ。

 つまり、「マネタリストのやり方も、ケインズ派のやり方も、不況を解決しなかった」ということだ。
 要するに、マネタリストも、ケインズ派も、どちらも間違っているのだ。これは、私の説がどうのこうのではなくて、単なる事実なのである。実証済み。
 
 [ 付記 ]
 その他、小泉流の、次の説もある。(サプライサイド)
  「構造改革をすれば不況は解決する」
 これは、上記の2説とは違って、単なる事実ではない。正しいか正しくないかは、まだ検証されていない。なぜなら、小泉は、構造改革を全然やっていないからだ。やっていないのだから、「これをやれば不況は解決する」という説は、検証されていないことになる。(上記の2説とは違う。)
 私の見解は、「構造改革なんてのは、長い時間がかかりすぎるし、たとえやっても微々たる効果だから、当面の不況対策にはならない」ということだ。これが正しいか否かも、同様の理由で、事実かどうかは検証されていない。
 なお、最近の小泉を見ると、「構造改革そのものが小泉には不可能だ」と言えそうだ。(これは検証されつつある。) だから、「構造改革ができないから、構造改革による不況解決もない」というのが正しいかもしれない。つまり、「改革なくして景気回復なし」という小泉の説が、文字通りの意味で、証明されてしまったことになる。……この額面通りの意味では、小泉の説は正しかったことになる。
( ※ なんだか、ジョークみたいですね。小泉というのは、政治家ではなくて、漫才師だったのかも。「改革なくして景気回復なし」と唱えながら、改革をサボることで、景気回復の失敗を正当化する。「景気回復なしと言って、その通りになりました。どうです、私の言った通りでしょう。えへん」と自慢する。国民はそれに拍手喝采する。くだらないショーだ。)

 [ 余談 ]
 私のスタンスに対して、意地悪な突っ込みも来るかもしれない。
「他人の意見に対しては、たとえ同意しなくても、尊重します、と表紙ページに書いてあるが、他人の悪口ばっかり言っているじゃないか。全然、尊重していないぞ。南堂の嘘つきめ!」と。
 もっとものようだが、そうではないのだ。(誰のとは言わないが)尊重しない意見というものもある。それらについては、悪口を言うかわりに、無視するのだ。だから、実は、私が悪口を言っているのは、その意見を尊重しているからなのだ。(詭弁みたいだが。)
 たとえば、マネタリストの悪口ばかり言っているのは、マネタリストを尊重しているからなのだ。まったく、こういう阿呆がいなかったら、私は何を批判したらいいのかわからなくて、困ってしまう。阿呆というのは、必要不可欠な存在であり、それゆえ、私は阿呆を尊重するのである。
 はっきり言おう。私は経済学において、真実を探ろうとしているが、それは、無の上に、いきなり築き上げることはできない。ケインズ派やら、マネタリストやら、彼らがさんざん試行錯誤して、間違った道をたどってくれたからこそ、彼らの間違いを見通すことができるようになったのである。彼らの失敗は、偉大なる成果なのだ。だからこそ、私は、彼らの失敗を尊重するのである。
( ※ 私もそのうち、同じように言われるかもしれないが。「南堂という阿呆のおかげで」と。……ただし、私は「自分の間違っている可能性」に言及するが、マネタリストやケインズ派は、「おれたちは絶対間違いなし」と言い張っているようだ。その点が、異なる。)






   《 翌日のページへ 》





「小泉の波立ち」
   表紙ページへ戻る   

(C) Hisashi Nando. All rights reserved.
inserted by FC2 system