[付録] ニュースと感想 (23)

[ 2002.07.20 〜 2002.08.01 ]   

  《 ※ これ以前の分は、

    2001 年
       8月20日 〜 9月21日
       9月22日 〜 10月11日
      10月12日 〜 11月03日
      11月04日 〜 11月27日
      11月28日 〜 12月10日
      12月11日 〜 12月27日
      12月28日 〜 1月08日
    2002 年
       1月09日 〜 1月22日
       1月23日 〜 2月03日
       2月04日 〜 2月21日
       2月22日 〜 3月05日
       3月06日 〜 3月16日
       3月17日 〜 3月31日
       4月01日 〜 4月16日
       4月17日 〜 4月28日
       4月29日 〜 5月10日
       5月11日 〜 5月21日
       5月22日 〜 6月04日
       6月05日 〜 6月19日
       6月20日 〜 6月30日
       7月01日 〜 7月10日
       7月11日 〜 7月19日
         7月20日 〜 8月01日

   のページで 》




● ニュースと感想  (7月20日)

 [ 予告 ]
 本日以降、経済学の超重要な問題。
 経済学を根本から作り直す。
 現在の経済学は現実を十分に記述できない、
 という認識のもとに、新たな経済学を打ち立てる。
 ケインズ派と古典派を対立させず、両者を包含する。

 今後の方針:
 モデルと現実との関係も考察する。
 そのあとで、まず、従来の経済学のモデルを見て、
 それから、新たなモデルを提出する。
 そのモデルにおいて、ケインズ派と古典派を包含し、
 マクロ経済学の現象に包括的な説明を示す。


● ニュースと感想  (7月20日b)

 経済学の基本としての「ミクロとマクロ」について。
 経済学を考えるには、ミクロとマクロの違いを理解することが肝心だ。── こう述べると、「そんなのはわかりきっている」と思うだろう。しかし、わかっているつもりでも、全然わかっていないのが、多くの経済学者だ。それはいわば、「目の前の穴に気づくことが大切だ」と言われて、「わかっている、わかっている」と言いながら、その穴に落ち込むようなものだ。

 初めに、結論を述べよう。次のことが肝心だ。
  ・ ミクロでは「市場原理に任せる」という考え方が正しい。
  ・ マクロでは「市場原理に任せる」という考え方が正しくない。

 なぜそうなのか、というのは、一言では言えない。今後、数日間をかけて、いろいろと説明していくうちに、わかるだろう。ただ、上のことは、漠然とは理解されているはずだ。
 簡単に説明すれば、次の通り。
  ・ 企業間の競争では、放置すると、弱肉強食の淘汰が起こり、業界全体は進歩する。
  ・ 一国経済全体では、放置すると、景気は変動して安定しない。

 ところが、である。これを逆に信じている経済学者が多い。つまり、こうだ
  ・ ミクロでは「市場原理に任せる」という考え方が正しくない。
  ・ マクロでは「市場原理に任せる」という考え方が正しい。

 彼らの主張によれば、次のようになる。
  ・ 企業間の競争では、放置すると、業界全体は悪化する。政府は、競争原理に任せず、介入するべきだ。
  ・ 一国経済全体では、放置すればいい。ほったらかせば、景気は安定する。

 こういう考え方を「構造改革主義」もしくは「サプライサイド」と呼ぶ。(古典派の一形態。) もう少し詳しく言うと、次のような考え方だ。
 「景気が悪いのは、日本企業が体質改革をサボっていたからだ。そのせいで、中国企業やアジア企業の台頭の前に、劣勢になった。それで景気が悪くなったのだ。このままでは、日本の経済は、どんどん悪化しかねない。下手をすると、二流国家になりかねない。今こそ、日本は、経済体質を改革するべきだ。そのためには、ほったらかしにはせず、政府が改革の音頭を取って、国家経済を根本的に改革するべきだ。たとえば、e-Japan などの計画を策定し、それを強力に推進するべきだ。そして、それのみが、景気回復策だ。政府としては、不況を解決するためのマクロ的な処置は(金融政策のほかは)不要であり、単に民間企業の体質改善だけを推進すればいいのだ」

 こういう考え方は、今の政府が信じているし、国民の多くも信じているし、さらに悪いことには、経済学者の多くも信じている。「生産性向上」を唱える人々がそうだ。実際、本屋を見てみるがいい。この手の「日本企業の体質改善」「生産性向上で景気回復」という経済本が、山のように並んでいる。
 しかし、これは間違っているのだ。「少し間違っている」「でも構造改革は少しは効果があるよね」というようなことではなくて、根本的に間違っているのだ。そのことは、先の「ミクロとマクロ」の違いを理解すれば、直感的にわかるだろう。

 また、次のことからもわかるだろう。
 実は、上の方策は、「デフレ対策」ではなくて、「インフレ対策」なのである。たとえば、戦後の日本とか、昨今のアルゼンチンとか、ロシアとか、経済の崩壊した体制に当てはまることだ。いったん経済システムが崩壊( or 劣化)してしまえば、放置するだけでは足りない。崩壊状態では、そもそも(資本蓄積がなくて)企業の芽が出ないから、企業が国家的な産業政策を推進して、経済システムを整備することが必要がある。……そして、それが成功したのが、明治維新以降の日本であり、また、ここ数十年のアジアだ。(一方、産業政策を行なわずに、停滞が続いた国としては、中南米や、アフリカや、ロシアなどがある。一般的に言って、IMFの指導に従って金融政策以外は何もしなかった国だ。これらの国では、インフレ対策として、金利を高めることばかりに熱中して、作業基盤の整備には努力しなかった。)
 そういうことだ。「産業基盤の整備」というのは、「供給能力の崩壊した状態」では、たしかに有効なのだ。先進国であっても、インフレやスタグフレーションの状態では、有効なのだ。しかるに、今の日本は、「供給能力の崩壊した状態」ではなく、逆に、「供給能力の過剰な状態」である。こういうときに、「供給能力の向上」をめざしても、見当違いなのだ。(まったく無意味だ、ということはないが、景気回復策としては、そっぽを向いている。質的には供給力を改善しても、量的には供給過剰をますます悪化させる。一面では小さな改善効果があるが、他面では大きな悪化効果がある。……例:「生産性向上で企業の収益が伸びたが、生産性の向上の分、余剰人員が発生して、リストラにり多大な失業を発生し、デフレがますます悪化する。)

 では、正しくは? 次のようになる。
 「マクロとミクロを区別するべきだ。」
 「景気が悪いのは、マクロ的な問題である。マクロ的な需給ギャップがあるから景気が悪いだけだ。マクロ的に需給ギャップを解決すれば、景気は簡単に回復する。いちいち日本企業の体質をいじる必要などはないのだ。」
 「一方、企業体質の改善は? それはたしかに大切だが、そのことは、政府が口出しをする必要はない。構造改革だの、e-Japan だの、そんなふうにして計画経済ふうに国家が介入する必要はない。企業体質の改善は、あくまで、市場経済に任せるべきだ。企業体質の改善のために、政府がなすべきは、市場経済がうまく働かないようなシステムを、市場経済がうまく働くシステムに、改善することだけだ。不完全競争から、完全競争へと、移行させることだけだ。たとえば、規制緩和とか、独占禁止とか、古臭い硬直的な商慣習の打破とか。」

 以上のことは、言われてみれば、「もっともだ」と思う人が多いだろう。しかし、言われても、まだ納得できない人もいるだろう。(小泉とか竹中とか。)
 実は、「構造改革」とか「サプライサイド」とかいうのは、経済的な「主義」「立場」「信念」ではあっても、「理論」ではない。単に「供給を改善すれば、万事うまく行く」という妄想にすぎない。「経済成長は供給能力の改善(技術革新など)によって進む」という考えを聞いて、「おお、なるほど」と膝を打ったすえ、それを妄信する。たしかにその考え方は、長期的には正しいのだが、「長期的に正しい」だけの理屈を、「短期的にも正しい」と思い込む。片面で正しいと知ったら、両面で正しいと思い込む。……そういう信念なのだ。そこには理論はなく、妄想だけがある。( → 11月28日

 そこで、こういう妄想狂のために、本日以後、ちゃんとした理論を示していくこととしよう。その理論を知れば、上記の結論を理解できるようになるだろう。
 この理論では、
  ・ ミクロとマクロは、どこがどう違うか。
  ・ 市場原理主義が、ミクロではうまく働き、マクロではうまく働かないのは、なぜか。
 という問題を扱うことになる。それはまた、次のことを意味する。
  ・ ミクロとマクロとは、どう接合するか。
  ・ ミクロの需給曲線とマクロの需給ギャップはどう関係するか。
  ・ 古典派の原理とケインズ派の原理は、どう関係するか。

 実は、このことは、経済学では、長年に渡って問題となってきたことだ。しかし、問題とはなったが、結論は得られなかった。ミクロとマクロは統合されず、単に併置されるだけだった。古典派とケインズ派は、統合されず、単に併置されるだけだった。
 しかし、本日以降では、これらの問題を解決する。

 [ 付記 ]
 「古典派 v.s. ケインズ派」というのは、光の原理について「波動説 v.s. 粒子説」というのに似ている。場合によっては、一方が正しく思えたり、他方が正しく思えたりする。実際、好況(インフレ)のときには古典派が正しく思えるし、不況のときにはケインズ派が正しく思える。だから、「場合によって切り替えればいい」なんていう折衷主義も生まれる。
 光の場合はどうだったか? 「場合によって切り替えればいい」なんていう折衷主義は、「ご都合主義だ」「そんなものは真実ではない」と物理学者は拒否した。「われわれはいまだ無知である。いつの日か両者を統合する真実の理論が現れるだろう」と予測した。そして、その予測は、当たったのである。
 「量子力学」がそうだ。これは「波動説」「粒子説」の双方の説明を見事に矛盾なく生み出す。光はある場合には波動として現れ、ある場合には粒子として現れるが、それは一つの根本的な原理に支配されており、その原理の現れ方が違った形を取るだけだ。二つの原理があるのではなくて、一つの原理が別の現れ方で見えるだけだ。
 経済学というものも、そうなのである。一つの根本的な原理がある。それが、場合によって、古典派のように現れるし、また、ケインズ派のように現れる。われわれにとって大切なのは、その根本的な原理を知ることだ。


● ニュースと感想  (7月21日)

 前日分 に関連して、「技術革新による成長」について、否定的に説明しておく。(ただの雑談だから、読まなくてもよい。学問的な話ではなく、一種のエッセイである。話の内容は、前日と同じく、サプライサイド経済学への否定。)

 「生産性の向上による経済成長」とか、「技術革新による大きな影響はすばらしい」とか、そういう説(供給重視主義の経済学)は、非常に根強い。シュンペーター以来、あちこちで言われている。小泉の「構造改革」だけでなく、「IT革命」というのもそうだ。
 さて。先日、古い本を整理していたら、「第三の波」という本が出てきた。「農業の波、工業の波に次いで、三番目の波が来る。それは情報の波だ」という主張だ。「産業革命が工業を隆盛させたように、情報革命が情報産業を隆盛させる。そして社会に大変革を引き起こす。産業革命がそうだったように」というわけだ。「IT革命」とほぼ同じだが、はるかに早く、1980年の刊行である。
 「IT革命」というのは、「情報革命」に似ているが、「コンピュータによる革命」ではなくて、「インターネットなどの通信による革命」という点がちょっと新しかった。インターネットが普及する以前の 1990年代前半ごろ、朝日新聞では「ものすごいことが起こるぞ。社会は根本的に大変革がなされるぞ」と大宣伝をしていた。
 ま、コンピュータもインターネットも、けっこう大きな影響を起こしたとは言える。ただし、予言に比べれば、はるかに小さかった、と言えるだろう。一番大きい影響としては、「携帯電話」が挙げられるだろうが、これはどうも、「第三の波」や「IT革命」では、あまり予想されていなかったようだ。また、社会的影響というのも、どうも、好ましい意味ではないようだ。(ま、便利ではあるが、便利すぎて、携帯の奴隷と貸す。)
 経済的影響はどうだったろうか? 「第三の波」やら、「IT革命」などがあったとすれば、1980年ごろに比べて、われわれは飛躍的に向上した経済状態にあるはずだ。しかし、どうも、現実にはそうではない。バブルのころには、高級車やブランド品が飛ぶように売れたが、今やリッターカーや 廉価品( 100円ショップや半額ハンバーガー)が人気になるばかりだ。工場どころか、明らかに大幅に低下している。20年近くかけて、このざまだ。
 ひるがえって、その 20年前はどうだったか? 1960年から 1980年への変化と言えば、間に高度成長を挟んでいたわけで、まさしく劇的と言っていい変化があった。1960年からの十年間は、高度成長によって、社会は途上国から準先進国へと、大幅に変化をなした。1970年からの十年間は、間に石油ショックによる停滞を含んではいたものの、1973年以降の円高により、輸入品の流入が進んで、国民生活は大幅に豊かになっていった。(たとえば、肉や果物が安くなり、繊維品や雑貨も安くなった。)
 また、1960年ごろの日本の都市情景は、みすぼらしい途上国といったふうだが、1980年のころの日本の都市情景は、今日と比べても大差はない。渋谷や銀座あたりは、1980年のころと比べても大差はない。(新宿も、高層ビルが次々と建って急激に変化したのは、最近のことではなくて、ずっと前のことだ。)また、われわれの生活水準を見ても、1980年のころと現在とでは、パソコンが導入されたということぐらいの差しかない。(1980年のころも、ワープロ専用機が普及しかけていたし、ワープロ専用機とパソコンでは、機能に大差があるわけではないから、この点も、たいして差があるわけではない。)
 若い世代の人に実感してもらうには、「ちびまる子ちゃん」や「サザエさん」を見てもらうといい。あそこに出てくる情景は、1960年代のころだ。ちゃぶ台などがあって、いかにも一昔前という感じである。しかし、1980年代となると、もう、現在とはほとんど変わらない。
 
 まとめ。
 1960年から 1980年への変化は劇的だったが、1980年から現在への変化は、ごくわずかである。「情報革命で大変化」などという経済学者の説は、真っ赤な嘘だったわけだ。
( ※ なぜそうか? 理由は、簡単だ。以前の変化は、「機械化」による変化だった。人間が農作業をしたり、人間が手作業で生産していたのが、機械がかわりに生産するようになった。だから劇的に能率向上が発生した。一方、情報革命は、機械による生産をいくらか能率向上させるだけだ。そんなものは、無駄を省くぐらいのことはできても、劇的な影響をもたすことはできないのだ。)

 [ 付記 1 ]
 以上の話を読んで、「当たり前だ」と思うかもしれない。しかし、当たり前のことを理解できないのが、経済学者だ。
 彼らは言う。「設備投資を増やせば、経済成長が起こる」と。なるほど、それは、途上国では成立する。まだ機械化が不十分な状態のときには、設備投資をして機械化することで、産業能率が大幅に向上するからだ。
 しかし、先進国では? 設備を投資をして、機械化が進むか? いや、機械化は、すでに十分になされている。となると、設備投資をする先は、既存の設備の更新だ。なるほど、そのことで、旧式設備から新式設備に交替するので、能率はいくらか上がる。しかし、「いくらか」だけだ。人力が機械化されたようには、大幅には能率アップしないのだ。(下手をすると、能率ダウンする。なぜなら、設備更新には費用がかかるが、更新後の能率向上が、更新費用をまかなうことができなければ、古い設備を使っていた方がマシだったからだ。)
 一般に、経済成長率の高い国(途上国)では、設備投資は有効だ。しかし、経済成長率の低い国(先進国)では、設備投資はあまり有効ではないのである。設備投資するよりは、人件費ばかりをたくさん払って、研究開発をしている方がいい、ということもある。
 「設備投資で経済成長を」という経済学者の主張は、少々、時代錯誤なのである。

 [ 付記 2 ]
 私がこう言うと、きっと、反発する経済学者が出てくるだろう。「そんなはずがないぞ。設備投資こそ成長の源泉だ」と。
 しかし、現実をよく見るがいい。今、優良な企業は、どうしているか? たとえば、ソニーやキヤノンという企業。これらの企業では、他社よりも設備投資が大幅に多かったか? 違う。研究開発費が他社に比べて大幅に多かったのだ。特に、キヤノンがそうだ。「研究開発費の比率を、他社の倍にする」という方針のもとで、技術者を大量に雇用した。かくて、小さなカメラメーカーだったのが、巨大な情報機器産業に変貌した。一方、「設備投資こそ大事」という方針を取ったのは、日立や東芝などだったが、これらの企業では、投資のやりすぎで、設備の遊休が発生して、工場の廃棄などをするようになった。……経済学者の主張が、いかに現実から遊離しているか、よくわかる。

 [ 付記 3 ]
 ついでに言えば、最近の日本と中国・韓国との差も、ここにある。
 中国・韓国では、技術者を大幅に雇用している。逆に、日本では、技術者の雇用が急減している。これでは、競争力をなくすのは、当然である。それでいて、「人件費が高いから競争力がなくなるのだ」とほざいている。ひどい自惚れだ。
 競争力がなくなったのは、人件費のせいではなくて、開発力のせいだ。その根源は、経営者の頭の違いだ。片や、技術開発力を伸ばそうとする若手経営者。片や、従業員の賃下げばかりに熱中する老人経営者。となると、結果は言わずもがな。
( ※ ただし、財務体質の改善ばかりを唱えるIMF流の経済学者にも責任はあるが。)

 [ 余談 ]
 誤解されるとまずいので、補足しておく。
 私は別に、「情報革命なんて全然たいしたことはない」とか、「コンピュータなんか習得する必要はない」とか、「コンピュータのない昔の生活の方がすばらしい」とか、そういう保守的な説を述べているわけではない。私は時代錯誤の石頭ではない。小泉みたいにコンピュータを操作できないわけではない。勘違いしないでほしい。
 私が言っているのは、「情報革命による経済的効果は、たいしたことがない」ということだ。つまり、「何でもかんでも金銭に結びつけて考える」という考え方を否定している。たとえば、「結婚はすばらしい。結婚をすると金を得するから」というような、金銭ずくの考え方を否定している。しかし、だからといって、「結婚はあらゆる面でまったくダメだ」と否定しているわけではない。結婚には、金銭的な損得とは別の意味がある。
 それと同様だ。「IT革命・情報革命は、経済的には大した影響はない」というふうに否定的に述べるが、社会的・文化的になら、大きな影響があると思う。
 たとえば、私が今、こうして自説を世間に述べることができるのは、インターネットのおかげだ。あるいは、読者が私の説をタダで読めるのも、インターネットのおかげだ。(「南堂の話なんか、タダでも読みたくない」という人は、今、この文章を読んでいないだろうから、この際、論外。)
 その他、インターネットやコンピュータによる恩恵は、たしかにある。専門家は仕事関係で、インターネット上から専門的な情報を得ることもあるが、そういうときには、こういうニッチ的な情報が無料で公開されていることに感謝するだろう。── そういう恩恵はある。それはそうだ。ただしそれは、経済的な意味とは別の意味だ。私がいくらコンピュータを利用して、情報を得ても、それは、牛1頭を耕耘機1台に変えるほどの大きな金銭的な効果はない。そういうものだ。「コンピュータが普及すれば、経済的に多大な影響を及ぼし、人々は大金持ちになる」なんていうのは、妄想にすぎない。そのことは、この20年間の現実を見ればわかる。
 情報革命による影響は、経済的なものではなく、社会的・文化的なものだ。その事実を理解しよう。そしてまた、社会的・文化的な影響といっても、良い影響ばかりではない。悪い影響も、結構あるのだ。
 たとえば、携帯電話が普及したせいで、まともに対話できずにメールを打つことしかできない若者が増えた。インターネットが普及したせいで、読書時間が大幅に減り、言語能力が大幅に低下した。テレビゲームをやる時間が大幅に増えたせいで、日本の若者は、勉強時間が大幅減少で、学力は大幅に低下。……こういう方面での影響は、たしかにあった。非常に大きく。

 [ 補足 ]
 私が本項で、ダラダラと述べたことの意図は、何か? 
 それは、「世間で信じられている説なんか、あまり当てにはならない」ということだ。特に、「××はすばらしい。××でバラ色の未来」なんていう説は、過剰な妄想であることが多い。なるほど、そういう面も少しはあるかもしれないが、あまりにも妄想がひどいのである。
 こういう点は、外国ではともかく、日本では特に顕著だ。国民がそろって、同じ方向に動き出す。先日も、国民がそろって、W杯に浮かれていた。この事実は、誰でもわかるだろう。それと同様のことが、至るところで発生する。バブル期には、「この好況は永久に続く。土地神話と株価神話は永続する」なんていう妄想が流行した。そしてまた、「IT革命」なんていう妄想も流行した。最近では、「構造改革でバラ色の未来」という妄想も流行した。
 こういう妄想を否定しているわけだ。なるほど、構造改革には、ほんの少しぐらいは効果があるかもしれない。日本全体の生産性を 0.001% ぐらいは向上させる力はあるかもしれない。しかし、そんなものに、過剰な期待をもつべきではないのだ。
 私が言いたいのは、「そういう妄想にだまされるな」ということである。
( ※ ついでに言えば古典派経済学というのも、ほとんどが妄想である。そのことは、このあと数日間、順に述べていく。)
( ※ 「資産インフレ」による「永遠のバブル」という妄想については、数日前に述べたばかり。)


● ニュースと感想  (7月21日a)

 前項では、「IT革命はすばらしい」という説への否定を述べた。その追記として、次の (1) (2) を補充しておく。

 (1) ITの効果はごく限られている
 「ITは革命的だ」という説がある。しかし、実際には、そんなにたいした効果があるわけではない。
 第1に、経済性の成長率は、もともと年 2.5% ぐらいはある。ここから急激に大きく伸びたというようなことはない。なるほど、アメリカ一国だけを見れば、90年代にIT化と経済成長率が、ともに伸びた。だから両者に相関関係があるように見える。しかし、実際は、単に「景気上昇による、設備の稼働率の上昇」があったにすぎない。それが証拠に、IT化が同じように進んだアメリカ以外の国(日本・欧州など)では、たいして成長率の上昇は見られなかった。(日本では、IT化が非常に進んだにもかかわらず、逆に成長率は低下した。これを見て、「日本はIT化が遅れている」という説を述べた人もいる。しかし、パソコンやインターネットが急速に普及していく状況を見たら、「IT化が進んでいる」と認識するべきであり、「IT化が退化している」なんて認識するべきではないのだ。頭がイカレている。あるいは、妄信。)
 第2に、同時期、アジア各国では急激な経済成長があったが、ここではIT化があったわけではない。たとえば、中国はこの時期、年7%ぐらいの高度成長をなしたが、それはIT化が進んだからではなくて、別の理由があったからだ。「IT化のあった国(先進国)では成長率が低く、IT化のなかった国(アジア諸国)では成長率が高い」というのが事実であり、その逆ではないのだ。

(2) IT化の時期が違っている
 私は上記のように、「IT化で経済成長」という説に対してまったく否定的だが、だからといって、「コンピュータの影響はほとんどない」と述べているわけではない。コンピュータの影響は、たしかにあった。しかし、それは、世間で言われている時期とは、まったく異なるはずだ。
 世間で言われている時期は、Windows95 の普及とインターネットの普及した1990年代後半を中心として、その前後数年を含めた時期だろう。では、その時期、急激にコンピュータの成果が出たか? 
 たとえば、自動車産業を見よう。自動車産業では、たしかに、現在、コンピュータの影響は非常に大きく現れている。設計ではCADが使われ、工場ではNC工作機が使われ、実験ではシミュレーション実験がなされる。会議も社内通信網で連絡がなされる。こういうふうに、あらゆる面でコンピュータの影響は現れている。それは事実だ。しかし、である。その時期は、いつだったか? ── 調べればわかるとおり、自動車産業で上記のようなコンピュータ利用が進んだのは、1990年代の後半ではない。CAD,NC工作機,シミュレーション実験,社内LAN,いずれも、1980年代から使われている。
 はっきり言おう。コンピュータ化が世間一般で進んだのは、1980年ごろからである。このころ、企業や大学研究室ではパソコンのPC-9801が普及し、家庭や企業事務ではワープロ専用機が普及しだした。そして、その影響は、非常に大きかった、と見てよい。研究室でパソコンが使えるようになったことは、研究分野に飛躍的な向上をもたらした。(それまでは計算尺や電卓を使っていた。) 事務などでワープロ専用機が使えるようになったことは、文書の伝達や保存に飛躍的な向上をもたらした。(それまでは手書きやガリ版やコピーを使っていた。)
 だから、1980年ごろという時期をもって、「IT革命があった。それ以後、飛躍的に社会も経済も進歩した」というのならば、私は一応は賛成する。実際、当時、ワープロ専用機を使うようになった私は、「悪筆の自分でもちゃんときれいな文書ができて、しかもいくらでも推敲可能である。こんな便利なものはない。感謝感激雨あられ」という感じであった。(これに匹敵する文明の利器としては、電話と自動車ぐらいだ。)
 では、1990年代後半の、Windows95 やインターネットは、どうか? ま、それはそれなりに便利ではあったが、たいして便利になったとは思えない。パソコンに関する限りは、ワープロ専用機に比べて、便利ではあるが、多大な習得時間とトラブル対処時間を考慮すると、どうも、マイナスの方が大きいのではないかという気がする。インターネットは、それによって得られた有益な情報の多大さと、下らない情報を得るために奪われた時間との多大さを比較すると、これもマイナスの方が大きいのではないかという気がする。まったく、インターネットなんてものがなければ、私はいかに豊かな時間をもつことができるだろう。昔は古典的な名著をじっくりと読んでいたものだが、最近はゴミみたいな情報ばかりを読んでいるありさまだ。まったく、情けない。

 結語。
 「IT化ですばらしい経済成長」なんてことはありえない。実際、そんな事実はない。ただし、コンピュータによる大きな影響はあったが、それは、1980年ごろに始まり、以後、20年以上をかけて、少しずつ進んでいっただけだ。1990年代後半IT化は、そこそこの効果はあったにしても、大した効果はなかった。(マイナスの効果ならば莫大にあったが。)

 [ 余談 1 ]
 IT化の影響はたいしたことはなかったが、ただし、IT化で大儲けした人たちはいる。「IT化ですばらしいぞ」というホラを述べた人。そういう著作を売ったエコノミストや、やがては下がる株を売った株屋。つまりは、詐欺師たち。……そして、この亜流が、「e-Japan」と唱える人たちだ。彼らは嘘を唱えて、景気回復を妨害し、自らの政権維持だけをたくらむ。(小泉と竹中。)

 [ 余談 2 ]
 最近、ワールドコムなどの不正経理の発覚で、米国株価が急落しているが、これは「米国でのバブルの破裂」「ITバブルの破裂」とも言われている。
 してみると、「IT革命」というのは、実は、「不正経理革命」のことだったのかもしれない。なるほど、この手を使えば、ありもしない架空の莫大な利益を計上できるから、計算上の(架空の)生産性は急上昇することになる。
 「IT革命」というのは、「Illegal Technique 革命」のことだったらしい。その意味でなら、「IT革命」は、たしかに存在したようだ。


● ニュースと感想  (7月21日b)

 [ 予告 ]
 本日は、一休みして、軽い話題。
 モデル論議は、明日以降。


● ニュースと感想  (7月22日)

 「経済学におけるモデル」について。
 本日以降、経済学における根本的な原理を述べる。そこでは、新たなモデルを使って理論を説明する。
 ただ、新たなモデルで説明する前に、根本的に考えてみよう。「モデルを使って説明するというのは、どういうことなのか?」と。

 「経済学の目的は、究極のモデルを作ることだ」と思っている人が多い。「あるモデルを提出する。それは完璧なモデルであり、あらゆる経済現象はそのモデルから導き出される」というふうに。── しかし、そうではないのだ。
 物理学ならば、「正しいモデルを作ること」が、そっくりそのまま、学問の目的となる。たとえば、ニュートン力学の原理。電磁気学の原理。相対論の原理。これらは、単純なモデルが数式で示される。そして、現実の事象が、このモデルに従う。予測も可能となり、その理論の正しさが実証される。
 経済学では、そうではない。「正しいモデルを作ること」は、学問の目的ではない。たとえば、「究極のモデル」ができたとしよう。このモデルが現実のさまざまな例に適合することが何度も実証されたとしよう。しかし、だとしても、そのモデルは「真実」ではないし、「学問の目的」でもないのである。そしてまた、そのモデルによって、将来を予測することも不可能である。
 なぜか? それは、「内生的/外生的」という考えからわかる。( → 6月12日
 物理学ならば、上記のような現象は、すべて内生的である。物理学の世界は閉じているから、その閉じた世界の中で話は完結する。経済学では、そうではない。ミクロ的な現象ならば、すべてが内生的と考えてもいいが、マクロ的な現象は、外生的な出来事の影響を大きく受ける。マクロ経済学の世界は、閉じてはいないし、その世界だけで話は完結するわけではないのだ。── ここが根本的に重要なことだ。
 そして、だとすれば、すべての要素を内生的なものだと仮定したモデルを作成しても、その仮定自体が間違っているのだから、意味がないことになる。つまり、「究極のモデル」というものは、たとえ作っても意味がない。(だから、「究極のモデルなどは存在しない」と言ってよい。)

 具体的に示そう。マクロ経済学で問題となるのは、景気の変動である。景気の変動というものは、経済システム自体のうちに必然的な発生の原因があるわけではない。たとえば、「カルドアの景気循環モデル」というものがあるが、こういうモデルは景気循環を説明するが、そのモデルに従って現実が規則的に景気循環を起こすわけではないことから、このモデルが完璧に正しいということはないのだ、とわかる。
 景気変動は、なぜ起こるか? これについては、第2章で示したとおりだ。そこで出した図を再掲すれば、次のようになる。

     景気と経済成長の図

 経済というものは、長期的には波線のように成長するが、実際の経済は、実線のように大きく変化する。ここでは、規則的な波動が描かれているが、実際には、もちろん不規則的に変化する。では、なぜか? 
 波線は、供給力だ。これは、短期的には変化せず、長期的に少しずつ変化する。設備投資をしたり、生産性を向上させたり。……こういうことは、急激には起こらず、時間的に少しずつ成長していくものだ。
 実線は、需要だ。これは、短期的に大きく変化する。日本中の人々がいっせいに消費意欲を上げることもあるし、日本中の人々がいっせいに消費意欲を下げることもある。
 なお、これに対して、反論もありそうだ。「そんなことはあるまい。確率的に言って、大数の法則が成立するはずだ。多くの行動は、多くの人数では、相殺される。そろっていっせいに動くことなどはない」という反論だ。しかし、これは誤りだ。そういうふうに「個々の差がたがいに相殺される。」ということが成立するのは、「確率的な行動」つまり「バラバラな行動」のみである。……たとえば、水だ。蒸発した水は、確率的にバラバラに拡散する。しかし、川の水は、いっせいに同じ流れを取るし、バラバラにはならない。それと同様だ。
 集団行動というものは、一挙に動くことがある。その実例は、最近もあった。W杯の騒ぎだ。非常に多くの人々がいっせいに大騒ぎをした。競技場では数万の人々が同じような衣服を着て、同じような応援をした。渋谷などの街頭では、多くの人々が大騒ぎを起こした。あちこちの家庭や会社でも、テレビにかじりついて騒いだ人がたくさんいた。……これが集団行動というものだ。
 そして、そういうことは、経済においても、成立する。人々がいっせいに消費意欲を上げた状態が、「好況」である。人々がいっせいに消費意欲を下げた状態が、「不況」である。ここでは、生産能力は、変化しておらず、消費行動だけが変化する。「日本の供給能力が急減したから不況になった」のではなくて、「人々がいっせいに消費意欲を下げたから、物が売れなくなって、生産力が余剰になった」のである。
( ※ こんなことは、論理的に、すぐにわかる。仮に、日本の生産力が低下したとしよう。ならば、たしかに国際競争力を失う。では、その結果は? 日本は貿易赤字を出すだろうし、国内では生産力不足でインフレになる。実際には、そうではなかった。不況のとき、生産力は余剰となって、貿易黒字が発生し、国内ではデフレになった。)
 ともあれ、景気の変動を引き起こすものは、人々の消費意欲の変化である。つまり、消費性向の変化である。── そして、消費性向の変化というものは、外生的なものなのだ。 なぜなら、それは、人間の心理の問題だからである。
 人間の心理というものは、モデルに組み込むことはできない。そのことに注意しよう。
 人によっては、こう反論するかもしれない。「だったら人間の心理も、モデルのうちに組み込めばいいではないか」と。しかし、それは、不可能なのだ。なぜなら人間は、ロボットではなく、自由意思をもつのだから。
 自由意思とは何か、というのは、哲学的な話題になるから、ここでは論述しない。しかし、自由意思があるということは、簡単にわかる。なぜなら、自由意思がなくて、すべてがモデルのうちに組み込まれているとしたら、人間の心理的な行動は、モデルから予測されることになってしまうからだ。……たとえば、歴史的な現象が、すべてモデルから予測されることになる。織田信長が謀反で死ぬとか、ナポレオンがロシア遠征をして冬将軍に撃退されるとか、原爆が日本に落とされるとか、そういう歴史的な現象がすべてモデルのうちに組み込まれることになる。(もしそうでなかったら、経済的な出来事は予測できなくなる。だから、そのモデルは、完璧だとは言えなくなる。)
 結局、「完璧なモデル」「すべてを内生的な要素とするモデル」というのは、社会現象のすべてを予測するモデルであり、いわば、人間が全知全能の神となることである。なるほど、そうなれば、すばらしいかもしれない。しかし、そんなことは、不可能なのだ。「われわれ人間は神ではない」── そのことを理解することが必要だ。
 結局、「経済学的に完璧なモデルを作ることはできない」というのは、「人間は神ではない」というのと同義なのである。そして、それは、人間にとっては避けえない力量の限界なのだ。

 では、「完璧なモデル」を作れないとしたら、モデルを作ることには意味がないか? いや、ある。── ここが肝心なところだ。
 すべての要素を「内生的」としたモデルを作ることはできない。だとしても、「外生的」な要素を組み込んだモデルを作ることはできる。そしてまた、そうすることには、意味がある。── この点を強調しておきたい。
 第3章で述べたように、経済構造というものは、「不安定的」である。右か左か、どちらかにズレれば、その傾向がいっそう助長される。それが景気の変動を拡大させる。
 そして、最初の変動のきっかけは、何でもいいが、たいていは、外生的なものである。通常は、消費性向の変化が原因である。その他、石油価格の急上昇とか、戦争の勃発とか、テロリストのビル突入とか、地震の発生とか、そういう外部の事情が理由となることもある。それらのいずれも、モデルの外にある。つまり、外生的である。
 こういう外生的な影響に対して、モデル論では、どうするべきか? 「それはモデルの外部にあるから、何もできない」とお手上げになるべきか? いや、違う。「外部からの攪乱要因による影響を最小限に抑えて、状況(景気)をなるべく安定化させる」ということができる。そして、それこそが、経済学の目的なのだ。
 経済担当者は、戦争の勃発や、テロリストのビル突入とか、地震の発生とか、そういう事件を、操作することはできない。しかし、そういう事件による経済的な影響を、最小限に抑えることはできる。── つまり、外生的な要素それ自体を操作することはできなくても、外生的な要素による影響を操作することはできる。そして、そうすることが、経済学の目的なのだ。
 換言すれば、こうだ。経済学のモデルというものは、必要である。ただしそれは、あらゆる社会的な事象を内生的にした「完璧なモデル」のことではないし、未来を予測するモデルでもない。求められるモデルとは、外生的な不安定的な事象が発生したあとで、それによる影響から経済を守るための仕組みを明らかにするようなモデルだ。
 たとえて言おう。自転車の操縦だ。自転車に乗って、道を進む。このとき、先には何があるかわからない。右から風が吹くかも知れないし、左から風が吹くかもしれないし、凹んだ穴があるかも知れないし、凸状の段差があるかもしれない。そういうふうに、先を予測することは不可能だ。この際は、「先を予測すること」「未来を予知すること」は、目的ではないのである。目的は、現実に受けた状態(横風や凸凹)を知ったあとで、それによる変動の影響を最小限に抑えるように、なすべき修正法を知ることだ。……たとえば、「右から風が吹いている。そのせいで自転車が左に曲がって進んでいる」と現状を理解したら、「ハンドルを右に切るべきだ」という修正法を知ればいい。
 こういうふうに、外部の力による変動の影響を最小限に抑えるように、修正するための方法を知ること。それが経済学の目的だ。
( ※ こういう考え方は、サイバネティックスにも似ている。たとえて言えば、船の船長の目的は、出発点から到着点まで船を安全に運航することであり、海の気象を完璧に予測すること[神になること]ではないのだ。)

 [ 付記 ]
 経済学の目的が何であるかを、ここまで述べてきた。こういう事情を理解することは大切である。さもないと、「なるべく完璧なモデルを出そう」とする。そのあげく、単なるモデルごっこをして、それで終わってしまう。内生的でないものまで、勝手に内生的な変数にして、現実離れした虚構のモデルを作って、独りよがりで喜んでしまう。
 モデルを作ることは、最終目的ではない。モデルによって、現実や理論の核心を簡略化することで、真実の一面を知ることはできる。しかしそれはあくまで、それだけのことだ。「完璧なモデル 真実」というわけではないのだ。その点、物理学などとはまったく違うのだ、ということを、わきまえておくべきだ。
( ※ 勝手にモデルを作って、それで現実を理解したつもりなっている人が、非常に多い。こういう人に限って、「モデルは現実を簡略化したものにすぎない」ということを理解できないまま、「現実がモデルに従う」とか、「犬がシッポに振られる」とかいうふうに考える。本末転倒。……マネタリストに多い。)

 [ 補足 ]
 本項で述べたことを読んで、「そんなの、わかっている」と思うかもしれない。しかし、たいていの人は、本当はわかっていないのだ。
 たとえば、フィールズ賞をもらった某数学者は、高度な数学を使うことで有名だったが、彼は、こう述べた。
「経済学においても、高度な数学を使えば、いつか、現実経済を完璧にモデル化できるはずだ。そうすれば、株価の予想もできるはずだ。かくて、大儲けできる」
 と。しかし、本項の考えを理解すれば、「そんなことはない」とわかるはずだ。つまり、「どんなに高度な数学を使おうとも、現実を完璧にモデル化することは根本的に不可能である」と。
 たとえばの話、最近の米国株価の動きを予想するには、米国のテロとか、エンロンやワールドコムの不正経理とか、そういう未来の出来事を、あらかじめ予測できている必要がある。そして、そんなことは、人間には不可能なのである。
( ※ ついでに言えば、仮に未来を予測できたとしても、意味はない。なぜなら、テロリストのビル破壊を予想できたなら、政府はそれを阻止するに決まっているからだ。ゆえに、予想は外れる。「未来を予想する」というのは、それ自体に矛盾があるのだ。)
( ※ 同じことだが、株価の先行きが完全に予測できるのならば、株価は変動しない。将来上がるとわかっていれば、みんなが今のうちに株を買う[今のうちに上がる]から、株はもう上がらなくなる。株価の先行きが完全に見通せるようになったら、株というものは意味がなくなるのである。)

 [ 余談 ]
 上の「補足」に関連して言おう。「デリバティブ」というのもある。これも、ちょっと似た話だが、けっこう怪しい話である。あんまり複雑なので、私もよく知っているわけではないが、次のことは、はっきりしている。
「デリバティブを高度に数学的に示した人は、ノーベル賞をもらった」
「その理屈を全面的に応用して、当のノーベル賞学者を社長にした会社は、一時的にはデリバティブで大儲けしたが、結局は、大損して、破綻した」
 ジョークみたいだが、歴史的な事実である。
( ※ ついでにいえば、デリバティブというのは、投機の一種である。得をしたときは、利益は彼らのものになる。損をした[破綻した]ときは、彼らに融資した銀行がその損を負担した。最高の詐欺。そのために、経済学は奉仕する。 → 7月14日 「投機がゼロサムであること」)


● ニュースと感想  (7月23日)

 前日分への余談。
 前日分(前項)のオマケふうの話を、以下に「余談」として述べておく。(特に読まなくてもよい。)

 [ 余談 ]
 物理学のモデルを、「完璧なモデル」というふうに、先に述べた。しかし、本当を言えば、物理学のモデルも「完璧なモデル」というわけではない。
 かつて、「分子」というモデルがあった。「これぞ絶対的な真理」と思ったが、そのあと「原子」というモデルができた。さらに「陽子・中性子・電子」というモデルができた。さらに「中間子」が加わった。そのあと、「クォーク」というモデルが出現した。さらには、「超ひも」というモデルも出てきた。まったく、キリがない。
 理論がどんなにすばらしいモデルを生み出そうと、モデルはただのモデルにすぎない。物理学の歴史とは、少しでもモデルを真実に近づけようとする、努力過程のことだった。
 一般的に、自然科学に弱い人ほど、「科学的」であろうとして、「モデル」というものを作りたがる。しかし、上記のことからわかるように、自然科学に強い人なら、逆の考え方をするはずだ。つまり、「モデルと現実とは、あくまで異なる」と。
 結局、モデルというのは、真実ではないのだ。真実を簡略化して示したものにすぎない。真実に近づこうとしたときに現れる、真実に似た別物にすぎない。それが役立つこともあるし、役立たないこともある。
 ともあれ、モデルというものは、最終的な目的ではない。その限界を、しっかりと理解しておいた方がいい。そういうふうに限界を理解してこそ、その限界の範囲内で、知りえたことが有益となるだろう。


● ニュースと感想  (7月23日b)

 前日分への、軽い付け足し。
 前日分(前々項)では、モデルというものの限界を示した。モデルはあくまでもモデルであり、現実そのものではないし、現実からはズレがあるのだ、と。
 ただし、それでも、モデルを作ることの意味はある。次の二点が主な理由だ。
 (1) 物事の核心を単純に示す。
 (2) 数量的に定量的に調べる。

 (1) は、明らかだろう。たとえば、万有引力の法則という核心を示すことで、物体の放物線運動という核心を理解する。現実がそれからズレるとしても、かなりの程度で正しい。(空気抵抗の効果などを考慮して、流体力学で細かく補正してもいいが、だとしても、万有引力という核心が消え失せるわけではない。)
 (2) は、モデルの限界をわきまえた上で、モデルの長所を利用するものだ。現実が必ずしもモデルに従うことはないとしても、数量的に理解することで、言葉では理解できなかったことが明らかになる。……こういうことは、経済学の各種のモデルで、当てはまる。教科書などで調べるといいだろう。

 私としては、このあと、モデルを使うが、(1) の方針を取る。つまり、「物事の核心を示す」ということのために、言葉では示しきれないことを、モデルや図によって示すわけだ。
 一方、(2) のように、数値的に定量的に調べるためにモデルを使う、ということもある。一種のシミュレーションである。これはこれで、別の用途で、有益だろう。私としては、これはあまり、こういうことはやるつもりはないが。

 [ 余談 ]
 定量的なモデルというのは、経済学の論文に、たくさん出ている。「数値をいっぱい出せばそれで学術的になる」とでも思い込んでいるようだ。まったく、不思議な話ですね。私としては、なるべく数字や数式を減らそうと、さんざん努力しているのだが。
 もしかしたら、「中身がからっぽだから、数字を出してゴマ化そう」と思っているのかな。いや、それは言い過ぎか。小泉や竹中じゃあるまいし。……


● ニュースと感想  (7月23日c)

 前項の「数値モデル」の実例。(本筋とは関係のない話なので、特に読まなくてもいい。話の内容は、マネタリストへの批判である。)

 前項の (2) では、「数値モデル」というのを示した。経済学では、よく使われる。その具体的な例として、「貨幣数量説」をもとにした数値モデルを、次に二つ、示しておく。

 (a) 量的緩和
 ごく簡単的な数値モデルとして、「貨幣数量説」がある。これについては、誰でもすぐにわかるはずだ。つまり、「貨幣の量に比例して、物価が上がる」、というわけだ。
 このモデルを、言葉ではなく数値で理解すると、より正しく認識できる。たとえば、貨幣が2倍になれば、物価は2倍だ。── こういうふうに、実際の数値で理解するべきだ。
 さて。量的緩和との関連で考えよう。今、日銀はものすごい量的緩和をやっている。しかし、「これではまだ足りない。さらに量的緩和をやれ。もっと量的緩和をやれ」と主張する人がいる。
 こういう人は、上のモデルを使って、定量的に理解するといいだろう。貨幣数量説によれば、「貨幣が2倍になれば、物価は2倍。」 しかるに、現実には、どうか? 現在、貨幣の量は、正常な量のほぼ2倍程度になっている。( → 4月07日 ) つまり、物価は2倍になっていいはずだ。なのに、そうなっていないのは、金が市場に出回らずに、滞留しているからだ。
 とはいっても、いつかデフレが解決すれば、これらの金の滞留は消えて、一挙に市中に出回るだろう。そして、物価上昇が発生する。どのくらいに? ここで、定量的な考え方が、便利になる。「2倍の価格になる」つまり「 100% の物価上昇率」である。
 つまり、「もっと量的緩和をやれ」という主張は、定量的に言えば、「 100% の物価上昇率では足りないから、200% か 300% の物価上昇率をめざせ」と主張していることになる。
 呆れた話だ。たぶん、彼らは、自分が何を言っているのか、自分でもよくわかっていないのだろう。そういう彼らの粗雑な思考を、定量的なモデルは、赤裸々に暴露するのである。つまり、「彼らは単に物価上昇率を上げよ」と言っているのではなく、「彼らはウルトラ級のハイパーインフレをめざせ」と言っているのだ、ということが。そしてまた、彼らは自分でも何を言っているのか、わかっていないのだ、ということが。

 (b) 円高
 最近、円高が進んでいる。1ドル=115円だ。これに対して、「円高は景気に悪影響を与える」と主張して、「だから政府は円安に誘導せよ。そのために、無制限の介入をせよ」と主張するエコノミストがいる。(2002-07-16 朝日・朝刊・経済面。彼はかねて、1ドル=180円を主張している。[ → 12月15日 ] ほとんど狂気だが、朝日はなぜか、この人の意見ばかりを記事に採用する。狂気と狂気で親和性が高いせいだろうか?)
 さて、「無制限の介入」なんてのをすると、どうなるか? それは、貨幣数量説などに応じて、モデル化するか、シミュレーションしてみるといいだろう。次のようになる。
 現在の円高は、単なるドル安の影響だから、日本だけが突出して「1ドル=180円」なんてのをめざせば(円売りをすれば)、経済の実態を大幅にズレることになる。となると、大幅な反対売買(円買い)が発生する。── こういうことは、市場現在の原理から言って、避けられない。なぜなら、現状の価格は、均衡点にある。均衡点から無理にずらそうとすれば、均衡点に近づこうとする大きな力が発生する。均衡点から少しズレるくらいなら、さして力は働かないが、均衡点から大きくズレると、戻ろうとする力は大きくなる。つまり、実態から離れた大幅な円高にすれば、海外から莫大な投機資金が流入してくる。日本政府が「無制限」を唱えるなら、海外資金もまた事実上「無制限」に近い資金がなだれ込んでくる。具体的には、千兆円を超えるだろう。
 さて。千兆円を超える金が日本に流れ込んできたとする。その資金は、ドルだ。それを日本政府がドル買い(円売り)をするわけだから、過剰な資金が国内に滞留する。海外投機資金は、その金を設備投資に回したりはしないから、常識的には、滞留させるか、資産投資に向かうか、いずれかだろう。いずれにしても、「インフレ発生」の可能性は十分にある。そして、「インフレ発生」を信じる人が一定量を超えた時点で(臨界点を越えた時点で)、莫大なインフレが発生する。
 通常、現金は 100兆円もいらないのに、1000兆円以上の金が出回っているわけだから、10倍(1000%)のハイパーインフレが発生するのが常識的だ。(貨幣数量説による。先の「2倍の金なら2倍の物価上昇」というやつ。) で、貨幣数量説に従えば、このとき、貨幣の価値は 10分の1になる。「資産インフレ賛成論者」は、「資産価格が 10倍になったぞ。うれしいな」と猿並みに喜ぶだろうが、実際には、貨幣価値が 10分の1になっただけだ。そして、このとき、貨幣価値の下落にともなって、円の相場は 10分の1になる。つまり、「1ドル= 1200円」前後だ。このとき、海外投機資金は、経済の崩壊した日本から、資金を引き揚げる。それまでの現金は、資産投資していたから、実質的には減価せず、10倍の名目になっている。それを売って、ドルに替える。
 このとき、もちろん、円売り(ドル買い)にともなって、海外資金の大幅な引き上げ(資金逃避・キャピタルフライト)が発生する。例の「アジア危機」の日本版だ。政府は、円高が大幅に進むのを阻止しようとする。単なる為替変動による円高なら、元に戻るだけだから、阻止する必要はないのだが、いったん大幅な物価上昇(貨幣価値の低下)が発生したあとでは、円高は「元に戻る」のではなく、まさしく「円高」の効果が発生する。で、政府の円買い(ドル売り)。
 結局、まずは、金余りによって大幅な物価上昇が発生し、経済が崩壊する。そのあとで、資金逃避で大幅な資金不足が発生し、通貨危機の状態となり、ふたたび経済が崩壊する。── 均衡点(最善の点)を逸脱する方向に、二度、介入するわけだから、二度、崩壊するわけだ。
 なお、以上は、最悪のシミュレーションである。現実には、こういうシミュレーションの通りになる懸念があるから、「無制限の介入」ということはありえない。つまり、現実には、政府は途中で介入をやめる。
 では、政府が途中で介入をやめると、どうなるか? おおざっぱに言えば、為替相場の変動により、日本政府が損して、その分、海外投機筋が得をする。日本政府は「均衡からはずれる方向」に金を使った。海外投機筋は、「均衡に近づく方向」に金を使った。となると、彼らは、得をするはずだ。……具体的には、こうだ。最初の円安介入のときには、1ドル=180円などの相場(日本政府の介入で決まる相場)で、円を買う。1ドルが 180円となる。介入が続いているうちはいいが、国内の円資金が過剰になると、物価上昇がだんだん発生するので、その危険を無視できなくなったところで、政府は介入をやめる。(実例はあった。日本が固定相場制を捨てる直前だ。かつて、1ドル=360円という固定相場を強引に維持しようとしたことがある。このときも、同様の事態となった。「無制限の介入」をしようとしたあげく、過剰な資金が氾濫して、持ちこたえられなくなった。歴史的教訓である。エコノミストなら、当然知っているべきだが。) ……かくて、「無制限の介入」はできなくなる。そして、そうなったところ(政府が介入をやめたところ)で、それまでの無理な円安相場を脱して、正当な円相場に戻る。つまり、1ドル=180円から、1ドル=120円に戻る。
 で、結局、どうなったか? 日本政府は 120円の価値のものを 180円で買い続けた。その分、損をした。海外投機筋は、120円の価値のものを 180円で売り続けた。その分、得をした。だから、せんじつめれば、日本政府が海外投機筋に、莫大な金をプレゼントしたことになる。そのプレゼントする総額は、政府の介入する総額に比例する。額の比率では、180円に対して、60円だから、3分の1。政府が3兆円の介入をすれば、1兆円を海外投機筋にプレゼントすることになる。かくて、海外投機筋は、ごく短期間で、莫大な利益を得たことになる。彼らは、日本政府の方針に逆らい、市場原理に従うことで、狙い通りの結果を得たわけだ。
 なお、以上のことは、特に不思議ではない。話が「円相場」だから、わかりにくくなっているだけだ。円ではなくて、黄金でも、綿花でも、小豆でも、何でもいい。とにかく、「ある商品の市場に介入して買い上げて、相場を一方的に釣り上げて、そのあとで手持ちのものを売却する」ということをすれば、高値で買い、安値で売ることになる。当然、大幅な損失が発生する。そして、それとは逆方向に売買した人が、得をする。── 円相場への介入というのも、同様なのだ。


● ニュースと感想  (7月23日d)

 7月21日a を、その箇所に追加しておいた。
 「IT革命」というのを否定する話の、補充。


● ニュースと感想  (7月24日)

 前々日分 では、「内生的/外生的」という区別を示した。それを読んで、「当たり前じゃないか」と思うかもしれない。しかし、当たり前ではないのだ。なぜか? 旧来のモデルでは、古典派にせよ、ケインズ派にせよ、そのモデルでは、あらゆる要素をすべて「内生的」ととらえ、「外生的」な要素については、ろくに考慮をしてこなかったからだ。
 ここで、古典派とケインズ派の、それぞれのモデルを、簡単に示しておこう。

 (1) 古典派のモデル
 古典派のモデルは、簡単だ。いわゆる「需給曲線」というやつだ。次のグラフで示せる。

  



 
 乂 
 
     このグラフで、
右上がりの線は供給。
右下がりの曲線は需要。
    → 量
 この図の交点が、需要と供給の均衡点である。この均衡点が最も安定だから、放置すればこの交点に落ち着く、というわけだ。(このような均衡を「ワルラス的均衡」と呼ぶ。「市場原理で最適化する」というのは、この「ワルラス的均衡」のことを言う。)

( ※ この「ワルラス的均衡」が常に成立する、という立場を取るのを、「古典派」と呼ぶ。それはまた、ミクロ経済の原理が、マクロ経済にも適用される、という立場でもある。実際には? ワルラス均衡以外の場合も考えられる。それについては、後日また。)

 (2) ケインズ派のモデル
 ケインズ派のモデル(需給ギャップのモデル)は、基本的には、次の式で示せる。

  Y = C+I (つまり C = Y−I )
  C = 0.7Y + Ca

    ( …… ただし、 Y は生産。 I は投資。 C は消費。 Ca は定数。
         0.7 というのは、[限界]消費性向。別の値でも良い。)
 1番目の式は、「生産 = 需要」ということだ。(需給ギャップなし)
 2番目の式は、仮定である。モデル化と言ってもいい。
 以上のことは、グラフに書ける。その具体的な形は、「45度線」というような話で、経済学の教科書には必ず書いてあるから、そちらを参照してほしい。(現代用語集の「イミダス」にも、グラフつきで説明がある。)
 さて。
 以上のように、古典派とケインズ派のモデルを示した。そこではいずれも、「均衡点」ということが重視されてきた。しかし、私は、そういう立場を取らない。
 大事なのは、均衡点を得ることではない。つまり、数学的な「解」を得ることではない。どうも、「数学的な解を求めること」=「均衡点を得ること」=「経済学の究極の目的」と考える人が多いようだ。しかし、そうではないのだ。
 では、何が大切か? 大切なのは、「均衡点からのズレ」である。ここを理解することが大事だ。
 
 先には「内生的/外生的」という区別をした。もしあらゆる要素が「内生的」であるのならば、「均衡点を得ること」=「経済学の究極の目的」と考えてよい。しかし、実際には、「外生的」な要素がある。それが状態を均衡点からずらす。そして、そのとき何が起こるか、ということこそ、経済学にとって大切なのだ。
 もう少し正確に言おう。ミクロ経済学では、あらゆる要素を「内生的」と見なして、均衡点を探るだけで話は片付く。しかし、マクロ経済学では、そうではない。「外生的」な要素が必ず入るのであり、それが状態を均衡点から動かすのだ。
 この意味で、マクロ経済学は、ミクロ経済学よりも、はるかに複雑である。そこではもはや、「数学的な解を求めること」=「均衡点を得ること」という考え方が成立しないのだ。
 とにかく、外生的な要素があるゆえに、均衡点を得たからといって、それで話はおしまいにはならないのだ。(そのあとさらに、変動・ズレが発生するから。)

 これに対して、従来の経済学の立場から、次のような批判も出るだろう。
 「従来のモデルでも、外生的な要素を扱うことはできるぞ。たとえば、古典派のモデルでは、消費性向の低下を、需要曲線の急激な低下として、扱える。また、ケインズ派のモデルでは、消費性向の低下を、消費の直線の傾きの低下として、扱える」
 と。なるほど、それはそうだ。たしかに、扱うことはできる。
 しかし、そこでは、求められているものは、「新たな均衡点」にすぎないのである。一つの状態から、他の状態に移ったとき、「新たな均衡点」を得て、それで解決したと思い込む。しかし、そんなことでは、ダメなのだ。むしろ、変化そのものを、重要な要素として、モデルの内部に組み込むべきなのだ。「最初と最後(二つの均衡点)さえわかれば、途中の変化なんか無視してしまえ」という立場ではなく、その途中の変化こそが大事なのだ。
 たとえて言おう。現在、平常な状態であるとする。そのあと、洪水やら噴火やら地震やらがあって、都市が壊滅したとする。このとき、「最初の平常状態」と「最後の壊滅状態」が、均衡点である。……これを見て、従来の経済学者ならば、「この二つの状態が均衡状態である。前者から後者へと、変化が生じた」と述べて、話を終わりにするだろう。しかし、私は、そうは考えない。洪水やら噴火やら地震やらでは、その変化していく途中過程こそが、最も大事なのである。その変化していく途中過程をこそ、分析するべきなのであって、最終的な均衡点がどうのこうのなどは、どうでもいいことなのだ。(むしろ、破滅的な均衡点は、避けるべきことなのだ。)
 経済に即して言おう。現在、平常な状態であるとする。そのあと、消費意欲が急激に縮小して、不況状態で一応の小均衡を保っているとする。このとき、最初と最後の状態だけに注目するべきではないのだ。一つの状態から別の状態へと変化していく、そのダイナミックな(動的な)過程そのものをとらえるべきなのだ。
 つまり、モデルというものは、変化そのものを扱う動的なものであるべきだ。「最初と最後だけを静的に見ればいい」というわけではないのだ。それはつまり、「均衡点を知ればいい」というわけではないということだ。

 ここまで述べてきたことを読んで、次のように思うかもしれない。
「静的でなく、動的なモデルにすればいいんだろ。そんなの、わかっているよ」と。
 しかし、そうではないのだ。私が主張しているのは、「静的なモデルから、動的なモデルへ」ということではない。「静的な思考法から、動的な思考法へ」ということだ。── だからこそ、「均衡点を得るのが目的だ」という考え方を否定していることになる。

 ここで、注意してほしい。「均衡点を得るのが目的だ」という考え方を否定しているが、均衡点そのものを否定しているわけではない。では、何を主張しているかと言えば、「均衡点とはどういう状態か」とか、「均衡点に移行するとはどういうことか」ということだ。その答えは、次の図で示せる。

     安定構造/不安定構造の図

 これは、第3章で用いた図だ。それを転用している。このうちの左側だけに注目してほしい。
 ドンブリのような凹状の器の中に、鉄球( ● )が入っている。これは、もっとも深い点が、安定的な点であり、均衡点である。そして、この均衡点からズレたところに鉄球が位置していれば、この均衡点をめざして移動していく。
 均衡点というのは、そういうものなのだ。つまり、「方程式の解」というような意味ではなくて、「最も状態の安定した点」つまり「ポテンシャル値が最小である点」なのだ。
 そして、われわれが知りたいことは、何か? 「均衡点はどこか」ということではなくて、「状態が均衡点からズレたときに、いったいどのような現象が発生するか」なのだ。── 要するに、均衡点とは、経済学の論議の最終点ではなくて、出発点なのである。「均衡点がわかったから、これでよし。話はおしまい」ではなくて、「均衡点がわかったから、話の出発点がわかった。では、このあと、話を開始しよう」というふうになるのだ。
( ※ 簡単に言えば、均衡点自体が問題なのではなくて、均衡点からのズレが問題なのである。)
( ※ 特に、「外生的な力が発生して、需給曲線の均衡点からズレるとどうなるか」が、以後の重大なテーマとなる。)

 [ 補説 ]
 本項が言おうとしていることは、何か? それをよく理解するには、逆に、本項が否定しようとしていることを、知るといい。
 本項が否定しようとしていることは、次の二点だ。
  (1) 「均衡は必ず実現する」という主張。
  (2) 「均衡は正しい状態であり、それ以外は正しくない状態だ」という主張。
 以下で説明しよう。
 第1に、「均衡は必ず実現する」ということは、ありえない。古典派の考え方では、均衡は必ず実現するに決まっているだろう。それ以外にありえないはずだからだ。しかし、現実には、不況のときは均衡が実現していない。資金にせよ、労働力にせよ、商品にせよ、いずれも供給が過剰となっている。つまり、需給ギャップが発生して、均衡していない。そういう現実があるのだ。
 第2に、「均衡は正しい状態であり、それ以外は正しくない状態だ」ということは、ありえない。数学ならば、解は、ただ一つとなることが多い。その場合、その解だけが真であり、それ以外は偽である。しかし、「均衡」と「不均衡」というのは、そういう「真」と「偽」のような関係ではないのだ。たとえば、上のU字状のモデルでは、鉄球は一番下にあるときに均衡する。とはいえ、鉄球は、その位置(均衡点)にあるとは限らない。均衡点の周辺で、ぶらぶらとしばらく揺れ動いているかもしれない。このとき、均衡点以外の状態は、「ありえない状態」とか「間違っている状態」とかではなく、単に「落ち着きにくい状態」であるだけだ。結局、均衡と不均衡とは、正反対の状態ではなくて、両者にいくらかの「差」があるだけだ。── そして、その「差」( or 不均衡点と均衡点との「ズレ」)こそが、考察の対象となるのである。
( ※ これからあと、大きな流れとしては、この問題を考察していくことになる。だから、この点を、留意しておいてほしい。明日以降は、とりあえず、いくらか別の話題に逸れるが、そのあとふたたび、上記の問題に戻る。)

 [ 付記 1 ]
 なぜ、「均衡点を知って、それでおしまい」とはならないか? 
 そのことは、マクロ経済学の対象を考えれば、すぐにわかる。仮に現在、均衡点にあるのならば、それはもう理想的な安定状態なのだから、経済学が口を出す必要はないのである。「現状は理想的な状態にあります。これ以上、何かやっても、悪くなるだけです。何もしないのが最善です」と言って、経済学者はさっさと引っ込むべきだ。
 つまり、古典派の言っていることが正しいのであれば、経済学は不要だし、経済学者も不要なのである。(小泉や竹中は、「不況対策には無為無策がベストです」なんて主張するよりは、自らの存在意義を否定して退陣するべきなのである。)
 マクロ経済学のなすべきことは、均衡状態からズレて不均衡状態になることがあるのだと理解した上で、不均衡状態から均衡状態へと、状況を回復することだ。つまり、需給ギャップを解消することだ。── そして、そのためには、均衡点を知った上で、さらに、「均衡点からズレるとは、どういうことか」ということを、よく理解する必要がある。

 [ 付記 2 ]
 「均衡点を知って、それでおしまい」というわけではない。── という私の主張は、これまでの古典派やケインズ派とは、相当異なる。ほとんどコペルニクス的な転回、と言ってもいい。まったく正反対な立場だ、とさえ言える。(特に古典派では、均衡点を知ることを、最終目的としがちである。)
 ただし、私の話でも、モデルは使う。モデルをまったく無視しているわけではない。
 これまでは、古典派のモデルとケインズ派のモデルについて、否定的に述べてきた。ただ、私のモデルは、このあとで述べることになるが、上記の二つのモデルを全面的に否定するわけではない。両者のモデルを部分として含むような、もっと広いモデルを提出する。そのモデルに従えば、あるときは古典派のように見えるし、あるときはケインズ派のように見える。── ちょうど、光が、見方によっては、波動と見えたり、粒子と見えたりするように。
 このモデルについては、もうちょっとあとで示すことにして、とりあえずは、現在の経済学で主流に近い「IS-LM」というモデルについて言及する。(明日・明後日で)


● ニュースと感想  (7月25日)

 「IS-LM 分析」について。(やや専門的な話。ここ数日のテーマと直接の関連はないので、面倒なら、読まなくてもいい。)
 IS-LM 分析というのは、経済学では、基礎的かつ重要だと見なされている。とはいえ、限界もある。「初歩的すぎて、現実にはあまり役立たない」というふうに、経済学の第一線では考えられているようだ。
 私の見解も、だいたいそうである。つまり、「初歩的すぎて、現実にはあまり役立たない」と思う。ただ、その理由の説明や、位置づけなどを、以下で示す。
( ※ 本項の前半の記述は、マクロ経済学の教科書に、もっと詳しく書いてある。そちらも参照。なお、本項で一番大事なのは、最後の [ 付記 ] の記述である。)


  



 
 乂 
 
     右上がりの曲線は LM
右下がりの曲線は IS
    → 金額

 (1) 初歩的な説明
 まず、初歩的に説明しよう。
  ・ IS というのは、 財市場 における総生産。
  ・ LM というのは、金融市場における 貯蓄。
 そして、この両者がどちらも、縦軸の「金利」と対応関係にある。だから、「金利」を変数として、投資と貯蓄の関係を示すことができる。(二つの曲線の交点が現実に均衡する点である。)……それが本質だ。

 IS 曲線は、右下がりである。つまり、利子が下がれば、総生産が増える。なぜなら、利子が下がると、投資が増えて、その乗数効果で、消費も増える。ゆえに総生産が増える。これは一応、当然だろう。(細かい点は無視する。)
 LM曲線は、右上がりである。つまり、利子が上がれば、貯蓄は増える。これは、当然とは言えない。
 ケインズの考え方では、利子が上がれば、貯蓄することが有利だから、貯蓄の総額が増えるはずだ。しかし、これには、次の反論がある。
 第1に、マネタリストの反論だ。マネタリストの考え方では、貯蓄の額は、利子には依存しない。単に貨幣の総量だけで決定される。(貨幣は取引価値だけがあると見なす。) この考え方によると、LM 曲線は、垂直になる。つまり、縦軸と並行になる。そして、この垂直線たる LM 曲線を決定するものは、貨幣総量だけである。量的緩和をすれば、(垂直の)LM 曲線が、そのまま右にシフトすることになるが、そのことは、IS 曲線上の交点を右下に移動させる意味をもつ。(つまり、金利の低下と投資の拡大。)
 第2に、私の反論だ。それは次の二点だ。
 結局、「利子が上がると、貯蓄が増える」という主張は、あまり正当とは思えない。上記のような反論が、十分に成立しそうだ。 (上記の反論は、完全に成立することはないとしても、ある程度は成立しそうだ。)

 では、実際には、どうか? 実証的な研究では、どうやら、両者の中間であるらしい。つまり、LM 曲線は、「ただの右上がり」というわけでもないし、「垂直な直線」というわけでもない。両者の中間ふうだ。「ちょっとだけ右に傾いた垂直な直線」という感じだ。次のような感じだろうか。


  



 

 
    
    → 金額

 結論。
「IS-LM 分析 では、LM 曲線は、右に少し傾いた垂直線に近い」ということになる。ゆえに、「ケインズ派とマネタリズムの説明の中間に、真実はある」ということになる。(折衷的、と言ってもよい。)

 IS-LM 分析 では、いろいろな経済現象に対して、説明がなされる。ここでは特に、「クラウディング・アウト」への適用を考えよう。
 マネタリズムの主張では、LM 曲線は垂直である。このとき、政府が財政支出を増やすと、IS 曲線を右にシフトさせることになる。しかし、二つの曲線の交点は、しょせん、垂直の LM 曲線上にある。つまり、横座標の位置は変わらないまま、縦座標の位置がいくらか上方に移動するだけだ。ということは、交点の水平位置(総生産の額)は少しも増えないまま、金利が上がるだけだ。
 これはつまり、貨幣の総量が一定である限り、政府の財政支出が増えても、その分、金利が上がることで、民間市場の金が食われてしまい、経済拡大の効果はゼロだ、ということだ。……つまり、完全なるクラウディング・アウト。
 さて、実際には、前述の通り、LM 曲線は、完全には垂直ではない。少し右に傾いている。だから、クラウディング・アウトは、完全ではなくて、少しは弱められる。つまり、政府が財政支出をすれば、いくらかは効果がある。とはいえ、弱められるとはいえ、クラウディング・アウトは、おおまかには成立するわけだ。政府が財政支出をしても、大部分は、民間投資の減少で相殺されて、経済拡大の効果はごく少ない。
 結局、クラウディング・アウトについては、「だいたい成立する」というふうに理解しておけばいいだろう。
( ※ クラウディング・アウトと景気との関連は、説明済み。 → 4月24日 )

 以上は、従来の経済学による考え方だ。

 (2) 私の見解
 私の見解は、どうか? 「IS-LM 分析は、経済をあまりにも単純化しており、役に立たない」となる。その理由は、次の通り。
  1.  IS 曲線の設定が単純すぎる。
     総生産を、「金利の関数」と見ているわけだが、ここでは「消費」を投資の乗数効果によって派生するものと見なしている。要するに、「消費性向は不変である」と考えている。
     しかし、現実には、そんなことはない。景気を大きく変動させるものは、消費性向の変化なのだ。なのに、一番肝心なそれを無視するのでは、話の核心が抜け落ちている。黄身のない卵のようなものだ。
     つまりは、IS 曲線なんていうものは、そもそも成立しない。総生産は、金利の関数ではないのだ。そういう面もあるにはあるが、金利だけで決まるようなものではないのだ。もっと複雑な要因で決まる。そういう複雑な要因を無視して、単に金利という要因(変数)だけで決まると考えるのは、話が単純すぎるし、事実とは乖離しすぎる。
    ( ※ では、どうすればいいか? 投資と消費の関連を深く考えればいい。そして、投資拡大と消費拡大の効果を状況ごとに分析するべきだ。実際にそうしたのが、これまでのタンク法の説明だ。投資と消費の区別もできないような IS-LM 分析 では、バブルもスタグフレーションも説明できない。ということは、インフレやデフレの説明にもあまり適さないということだ。)
    ( ※ ここでは、「増減税」という税の変数もない。)

  2.  物価上昇の効果を無視している
     IS-LM 分析には、「物価上昇」という変数がない。その分、不十分となる。このことは、すでに経済学者たちが指摘している。
     では、「物価上昇」による効果とは? それは、「アメとムチ」の効果だ。( → 需要統御理論 )

  3.  長期的変化の問題
     長期的な変化を考えると、大きな問題がある。これは、話が大きくなるので、明日分で独立して示す。
 結論としては、どうか? 
 IS-LM 分析なんてものは、あまりにも話を単純化しており、事実の半分もとらえることはできない。役に立たないので、さっさと捨てた方がマシだ。
 とはいえ、経済学を勉強したての初心者なら、物事を単純化して理解するのも、悪くはない。子供は、いきなり四則演算を覚えるよりは、まず、足し算だけを覚えた方がよい。現実には、「足し算だけで済む」というわけには行かないし、掛け算や割り算も必要となる。しかし、最初はまず、足し算を覚えるべきだろう。
 そういうふうに、「初歩の初歩」としてなら、勉強の役には立つ。しかし、それだけだ。IS-LM 分析なんかで、現実の経済が説明できると思ったら、大間違いだ。それはあまりにも事実を単純化しすぎているのである。それでうまく話を説明できることもあるが、説明できないことも多いのだ。(たいていは役立たず。)
 だいたい、「金利だけを変数として、すべてを説明する」なんて、考え方が幼稚すぎる。現実の経済に作用する変数は、もっとたくさんあるのだ。3次元の立体図形を、2次元の変数で記述するようなもので、簡略化しすぎている。

( ※ では、なぜこういう不十分な IS-LM 分析なんてものが広く用いられるか? それは、グラフ化しやすいからだ。われわれは、3次元の世界に住んでいるので、紙は2次元となる。グラフは、2次元で描くしかない。すると、ある1次元の量を決める変数の数は、1個だけだ。そうして合計2次元となる。結局、金利以外に、もっと多くの変数を使いたくても、そうは行かないわけだ。もしわれわれが、5次元の世界に住んでいれば、3次元の変数を使った4次元のグラフを書くことができるだろう。しかし残念ながら、この世界は3次元である。かくて、グラフは2次元だけの幼稚なものとなる。せめて、3次元のグラフを書けば、もうちょっと何とかなったのだが。)


● ニュースと感想  (7月26日)

 「IS-LM 分析」について、さらに述べる。(前日の続き。面倒なら、読まなくてもいい。)

 IS-LM 分析には、さらに大きな問題がある。IS-LM 分析は、単に「不十分」というだけではなくて、決定的かつ本質的な問題があるのだ。「黄身のない卵」というよりは、「殻だけあって中身のない卵」と言った方がいい。つまり、IS-LM 分析なんてものは、(一部を残して)ほとんどすべてを捨ててしまった方がいい。
 その理由を示そう。ひとことで言えば、長期的な問題があるからだ。

 IS-LM 分析では、右下がりの IS 曲線と、右上がりの LM 曲線を用いる。しかし、長期的には、これはまったく成立しない。むしろ、逆の事実が成立する。つまり、
  ・ IS 曲線は、右下がりとは逆の右上がりである。
  ・ LM 曲線は、右上がりとは逆の右下がりである。
 となる。(長期的には。)

 このことを説明しよう。
 IS 曲線は、先の説明では、「金利が下がると、投資が増えて、総生産が増える」と示した。たしかに、短期的にはそうだ。しかし、長期的には逆だ。つまり、「総生産が増えると、金利が上がる」のである。(インフレのときは金利が上がる。)
 このことは、過去の経済統計を調べれば、すぐにわかる。景気が拡大しているときは、総生産が増えるので、景気冷却のために、金利が上がる。逆に、景気が縮小しているときは、総生産が増えないので( or 減るので)、景気刺激のために、金利が下がる。……こういうふうに、金利と総生産の間に、正の相関関係がある(右上がりである)。なのに、先の IS 曲線は、負の相関関係がある(右下がりである)と見なしている。理屈が事実とは逆になっている。
 LM 曲線は、どうか? これも、同様だ。先の説明では、「金利が上がると、貯蓄が増える」と示した。しかし、長期的には、「貯蓄量が増えると、金利が下がる」のである。(デフレのときは、貯蓄が増えて、金利が下がる。)

 結局、長期的に見れば、IS-LM 分析における IS 曲線や LM 曲線は、まったく成立しないし、むしろ、逆のことが成立するのだ。その意味で、IS-LM 分析というのは、根底から間違った分析方法なのである。
 では、間違っているのだとしたら、なぜ、その間違っているものが、これまで経済学でいろいろと「正しい理論」と見なされてきたのだろうか? 問題の核心は、どこにあるのだろうか? 
 その答えを言おう。IS-LM 分析というのは、ごく短期的にのみ成立するのであって、長期的には成立しないのである。グラフで言えば、局所的にのみ成立し、大局的には成立しないのである。
 ある一点において、金利の上下変動があると、それに対して、総生産や貯蓄の上限変動がある。つまり、局所的には IS-LM 分析のとおりに成立する。しかし、局所的な動きを、大局的につなぎ合わせる[接続する]ことはできないのだ。なぜなら、曲線上を移動している間に、 IS 曲線や LM 曲線がどんどんシフトしていってしまうからである。
 たとえば、LM 曲線を右にシフトする。(これは量的緩和により、瞬間的にできる。) IS-LM 分析によれば、交点は IS 曲線上で、どんどん右下に移動するはずだ。しかし、実際には、そうならない。なぜなら、IS 曲線上で、どんどん右下に移動していく間に、IS 曲線そのものがどんどん右にシフトしていってしまうからである。すると、どうなる? 量的緩和により、短期的には金利が下がるが、その効果によって、景気が回復していくと、IS 曲線がどんどん右にシフトしていくので、均衡点は右下に行くどころか、右上に移動していく。……これが長期的な景気回復過程だ。

 「そういうふうに説明が付くなら、それでいいじゃないか」
 「IS-LM 分析を使いながら、曲線のシフトによって説明すればいいじゃないか」
 と思うかもしれない。しかし、そうではないのだ。IS 曲線 や LM 曲線が、勝手にどんどんシフトしていってしまって、その動きがどうなるかわからないのであれば、そもそも、最初のグラフが無意味だったということになる。そのグラフの曲線の上を動くのではなくて、勝手に全然別の動きを取ることになるからだ。……つまり、IS-LM 分析そのものが(ほとんど)無意味なのである。
 一番肝心なことは、「IS 曲線 や LM 曲線がどうシフトするか」ということだ。しかし、そのことは、IS-LM 分析では表現できない。(表現するには、別のパラメーターを必要とする。しかし、2次元のグラフでは、そのようなパラメーターを表示できない。最低限、3次元が必要だ。……通常は、それができないから、天下り的に勝手に曲線をシフトさせる。これでは恣意的すぎて、理論になっていない。)

 結局、IS-LM 分析は、「IS 曲線 や LM 曲線が変化しなければ」つまり「景気が変化しなければ」という前提の上でのみ、成立する。そして、「景気が変化しなければ」という前提の上で、「景気が変化したらどうなるか」というのを分析するのである。……つまり、自己矛盾しているわけだ。

    *   *   *   *   *   *   *   *   *

 IS-LM 分析が長期的には有効ではない、ということは、すでに示した。(その間に、曲線がシフトしてしまうからだ。)
 ただし、長期的には有効ではなくとも、短期的には有効である。短期的には、曲線は(ほとんど)シフトしないからだ。
 さて、短期的であれば、曲線上を移動する量も少しとなる。曲線上を大きく動くことはできず、ごく小さな範囲のみ動くことができる。つまり、局所的となる。
 この意味で、「IS-LM 分析は、長期的・大局的には有効ではないが、短期的・局所的には有効だ」と言えるわけだ。(パラメーターが不足している、という前日の話とは別。)

 では、「短期的・局所的には有効だ」とは、どういうことか? 
 これは、微積分の考え方を使えばわかる。縦軸の増分 ΔY に対応して、横軸の増分 ΔX が得られる。この増分の間に、一定の関係が得られる。それは関数となる。両者の比率である  ΔY /ΔX  という値は、極限値を取れば、もちろん、微分となる。
 局所的に ΔY と ΔX  という増分の比率を考えるということ。それは、微分(正しくは差分)を考えるというのと同じことだ。そして、IS-LM 分析においては、それのみが大事なのである。換言すれば、 Y や X の絶対値はほとんど無意味なのだ。

 では、このことは、経済学的には、どういう意味をもつか? それは、こうだ。
  (1) 総生産や貯蓄は、(大局的に)金利の関数ではない。
  (2) 総生産や貯蓄の変動は、(局所的に)金利の変動の関数である。
 この二つの意味は、こうだ。

 (1) ……
 総生産や貯蓄を金利の関数として(大局的に)グラフ化しても、まったく無意味である。そのグラフの通りにはならない。(曲線がシフトする。つまり、元の曲線が無意味になってしまう。)
 (2) ……
 金利の増分に対して、総生産の増分や貯蓄の増分を、局所的に分析することはできる。

 以上のことをわかりやすく例示すると、こうなる。
 総生産や貯蓄を、金利の関数として、対応づけることはできない。たとえば、金利が 5% ならば、総生産や貯蓄がこういう値になる、というふうに、金利に対応する値を固定的に決めことはできない。
 しかし、「金利を少し上げ下げしたとき、総生産や貯蓄がどのくらい上がるか下がるか」という、増分同士の対応づけはできる。つまり、「一定の金利変動に対して、景気変動がどのくらいあるか」という分析は、意味がある。

 [ 付記 ]
 上の最後に述べたことは、非常に重要である。
 たいていの経済学者は、景気を操作しようとするとき、「金利が高ければ経済は縮小する」「金利が低ければ経済は拡大する」と考える。そして「金利と経済は関数関係にある」と考える。
 しかし、そうではないのだ。金利の絶対値は、景気に対しては影響しない。「4%ならば景気拡大効果」などというふうに、決まっているわけではない。
 景気に対して影響するのは、「4%」というような金利の絶対値ではなくて、「 0.5% 上げる」とか「 0.25% 下げる」とかいうような、「金利の上げ下げ」の幅だけなのだ。
 「金利を 5% にすれば景気が冷える」というような法則はない。「金利をいくらか上げれば、経済はいくらか縮小する(または拡大する度合いが減る)」と言えるだけだ。「金利を 1% 上げれば、金利を 0.5% 上げたときの、倍ぐらいの効果がある」というふうに定量的にも言える。
 そして、話はすべて、局所的・短期的なのである。変動の幅が小さければ「変動を倍にすれば、効果も倍になる」とは言える。しかし、変動の幅があまりにも大きくなると、もはや、局所的・短期的ではなくなるから、予想はつきにくくなる。

 [ 補足 ]
 たとえ話で示そう。「景気」という名前の、大きな風船が浮かんでいる。それをあなたは一定位置に保とうとする。
 このとき、あなたがなすべきことは、風船を、右や左に流されないようにすることだけだ。つまり、「右に行き過ぎたら、左に打って戻す」「左に行き過ぎたら、右に打って戻す」というふうにして、常に、現在位置からズレないようにすることだけだ。── 結局、あなたができることは、風船に加速度としての力を与えることだけである。風船の座標位置を直接決める装置[風船を地面に結びつけた糸など]はないのだ。
 それと同様だ。景気というものは、たえず少しずつ、上げたり下げたりして、調節してやるべきものである。そして、そうすれば、景気はコントロール可能である。(宙に浮かんだ風船のように。)
 「景気は何かの関数であるはずだが、その変数が見つからない。人類はいつ、その変数を発見して、景気をコントロールできるようになるだろう」などと考える人もいる。しかしそれは、根本的な認識ミスである。そんな変数などは、元々ないのだ。景気というものは、何らかの変数の関数ではないのだ。
 もちろん、そういう変数を発見できないからといって、人類が景気をコントロールできないということにはならない。たとえれば、浮遊する風船を地面に結びつける糸が見つからないからといって、風船の位置をコントロールできないということにはならない。風船を左右に打つ手があれば、コントロールできる。
 具体的な例で示そう。金利が5%のときに、社会不安[テロなど]が起こって、急激に消費が縮小したとする。このとき、「この状況に最適の金利は 3% ぐらいだろう。ゆえに金利は 3% にしよう」などと考えるべきではないのだ。金利の絶対値は忘れる。かわりに、上げ下げの幅を決める。「今は経済が急速に縮小しつつある。経済を大幅に拡大する効果が必要だ。だから、大幅に金利を引き下げよう。金利の下げ幅を 2% にしよう」というふうに決める。……増分の量が大事なのだ。絶対値などは忘れていい。

 [ 注釈 ]
 数学的な注釈をしておく。
 ここで述べたことは、「所定の関数を微分する」というのとは、まったく別のことである。間違えないように、注意のこと。
 所定の関数があれば、それを微分して、微分関数を得られる。しかし、局所的に微分関数を得られるとしても、大局的にその微分関数を積分できるとは限らない。領域が異なる。
( ※ 微分関数を積分するとき、得られた関数には定数分の差が生じる。この「定数分の差」が「曲線のシフト」に相当するかもしれない。お暇な人は、考えてみてください。ほとんど無意味だと思うが。)

  【 追記 】
 「IS-LM」がダメである理由を、簡単にまとめておこう。(以上を読んだだけではすっきりしないかもしれないので、本質を記しておく。)
 「IS-LM」というのは、本質的に言えば、「総生産や貯蓄を、金利の関数と見なす」ことだ。そういう関数関係があると想定した上で、グラフ化する。
 しかし、本項の本文の最後の (1) で示したように、そういう関数関係はない。「これこれの金利に対して、総生産はこれ、貯蓄はこれ」というような関数関係はない。あるのは、「金利を上げれば、総生産は減り、貯蓄は増える」というふうな、増減の影響だけだ。(ΔY と ΔX  という増分の比率には、対応関係が[局所的には]ある。しかし、 Y や X の絶対値には、対応関係がない。関数関係がない。)
 「関数関係のないものを、関数関係があると見なして、グラフ化する」というところに、「IS-LM」がダメである理由はある。話が根本的に間違っているわけだ。
( ※ たとえ話。気温と、衣服の枚数には、関係があるように見える。気温が上がると、衣服を脱ぐ。しかし、気温と衣服の枚数に、正確な関数関係があるわけではない。「これこれの気温では、これこれの枚数」というようなことはない。そのときそのときで、着ている衣服の種類も違うし、気温への体の慣れも違うからだ。ある一日に限れば、「気温が上がると、衣服を脱ぐ」という話は成立するが、だからといって、長期的に、「気温と衣服の枚数には、関数関係がある」なんてことにはならない。)
( ※ もう少し、はっきり言おう。「需要や供給は、金利の関数ではない」のだ。なぜなら、「需要や供給は、金利だけの影響を受けるわけではない」からだ。実際には、需要や供給は、金利以外のさまざまな要素の影響を受ける。とすれば、話を「金利だけの影響で決まる」と前提した、その前提そのものが間違っていたことになる。)
( ※ もう少し、詳しく示そう。金利を上下させれば、その影響で、需要や生産などが変化する。そして、そうして変化した需要や生産が、経済の状況をさらに変化させるのである。ここには、相互的な影響がある。IS-LM というのは、そういうものを一切無視した単純な考え方を取っているのだ。そこに誤りがある。)


● ニュースと感想  (7月27日)

   さて。いよいよ、新たなモデルを登場させよう。
 このモデルは、実は、目新しいものではない。前にも述べたことがある。それは、「流動性の罠」に関連して、「下方硬直性がある」ということを示した箇所で、説明したものだ。
 1月18日1月19日 では、次の図を用いた。


  



 
 乂 
 
     このグラフで、
右上がりの線は供給。
右下がりの曲線は需要。
    → 量

 この図で説明したように、需給曲線については、需要曲線と供給曲線のほかに、水平線が引かれる。これは下限の直線である。この下限の直線と、需要曲線と供給曲線の交点との、位置関係が問題だ。 (下の図を参照。上の図と実質的には同じ。)

     トリオモデルの図

 右側の図では、下限の直線が、下にある。このときは、需給の交点は影響を受けないから、問題はない。
 左側の図では、下限の直線が、上にある。このときは問題が起こる。需給の交点に届こうとしても、下限の直線に邪魔されて、それよりも下には達することができない。つまり、需給の交点に届くことができない。つまり、均衡点に達することができない。
( ※ 経済学の用語を使えば、「下方硬直性がある」というふうに言い換えることもできる。)

 このことは、あらゆる需給問題について、適用できる。場合分けすると、次のようにもなる。(下限の直線は、「下限直線」と呼ぶことにする。)
  1.  金融市場
     金融市場で需給関係を見る。すると、需要は資金需要であり、供給は資金供給である。横軸は量、縦軸は金利。下限直線は、「金利ゼロ」を意味する。「金利はゼロよりも下がらない」(だから均衡点に達することができない)ということは、「流動性の罠」という用語で説明される。( → 1月10日
    ( ※ なお、「金利」とは、「名目金利」のこと。)

  2.  労働市場
     労働市場で需給関係を見る。すると、需要は労働需要(求人)であり、供給は労働供給(求職)である。横軸は量、縦軸は賃金。下限直線は、「賃金ゼロ」と見なせる。あるいは、「最低賃金」とも見なせる。「賃金は一定水準よりも下がらない」(だから均衡点に達することができない)ということは、「雇用における流動性の罠」という用語で説明される。( → 1月18日

  3.  商品市場
     商品市場(財市場)で需給関係を見る。すると、需要は商品需要であり、供給は商品供給である。横軸は量、縦軸は価格。下限直線は、「採算価格(原価)」と見なせる。「価格は採算価格(原価)よりも下がらない」(だから均衡点に達することができない)ということは、まさしく、「不況」という状態のことである。( → 1月19日
    ( ※ 下限直線を下回る価格で販売することもある。そうすると、赤字が発生し、倒産が発生する。このことは、1月20日 で説明したとおり。)

 さて。ここまでは、すでに説明したことである。それを今なぜ、ここで新たに説明したかというと、さらに話を進める前に、次の点に留意してほしいからだ。
  1.  このモデルは、基本的な原理を示している。
  2.  このモデルは、古典派のモデルとは、似て非なる。
  3.  このモデルは、不況という状況を、静的に説明している。
 (a) このモデルは、基本的な原理を示している
 このモデルをちょっと見ただけで話はおしまい、というわけではない。さらに話は続く。しかし、それでも、このモデルが基本的な原理となるのである。まずは、土台となるものを、はっきりと心に入れておく必要がある。

 (b) このモデルは、古典派のモデルとは、似て非なる
 このモデルは、古典派の「需給曲線」のモデルに似ているが、決定的に異なる。それは、「下限直線」というものがあるせいで、「均衡点には達することができなくなる場合がある」ということだ。
 これは、非常に重要な意味をもつ。ほとんど決定的といってもいい違いだ。なぜか? 古典派のモデルでは、原価というものを無視している。そのせいで、「売れなければ価格をどんどん下げればいい。需給ギャップがあるのならば、価格をゼロにすればいい」という結論となる。
 「売れなければ価格をゼロにすればいいだろう」という理屈。こんな理屈は、現実の経営では、成立しない。原価割れで赤字販売をするくらいなら、生産を中止する。「価格がゼロになるまでどんどん価格を引き下げる」なんてことは、現実にはあり得ないのだ。しかし、にもかかわらず、古典派経済学は、この変な理屈を前提としている。
 経済学の初心者には、信じられないかもしれない。しかし、経済学の教科書を読んでみてほしい。「一般均衡理論」などという、ものものしい理論がある。(一つの商品だけでなく、複数の商品について、一挙に均衡を考えるモデル理論。) この理論は、「経済学の究極の理論に近い」などと目されることもあるが、やはり根本的に間違っているのだ。なぜなら、この理論を見ればわかるとおり、そこでは、「売れなければ、価格をゼロまで下げる」という前提の上に立っているからだ。
 はっきり言おう。古典派経済学というのは、「売れなければ、価格をゼロまで下げる」という前提の上に立っており、つまりは、「原価がゼロ」ということを仮定しているのだ。(「原価を無視する」と言い換えてもいい。とにかく、これが、「下限直線がない」ということの意味だ。)
 なるほど、原価がゼロならば、いくら価格を下げても赤字にならないから、価格をゼロまで引き下げることができる。下限直線は価格ゼロのところに張りついているから、下限直線を無視することができる。それならば、均衡は必ず達成できる。……しかし、「原価ゼロ」という、その仮定自体が間違いなのだ。仮定が間違いなのだから、あとの理屈のすべては間違いだということになる。
 もう少し正確に言おう。古典派経済学の言う、市場原理による均衡(ワルラス的均衡)が達成できるということは、「下限直線が価格ゼロのところにある」つまり「原価がゼロである」というのと、同義なのだ。そして、それが真である場合には、古典派経済学は成立する。そして、それが真でない場合(つまり通常の場合)には、古典派経済学は成立しない。
 そのことを、「下限直線」を使ったモデルは、明らかにする。

 (c) このモデルは、不況という状況を、静的に説明している
 このモデルは、不況(不均衡)という状況がすでに発生している場合については、説明する。しかし、均衡から不均衡に移行する過程については、説明していない。静的には説明しているが、動的には説明していない。
 そこで、動的に説明することが、このあとの課題となる。
 ただ、それに先だって、基本的な状況を、静的に理解しておく必要がある。そこで、本項では、これまでに述べたことを、説明してきたわけだ。
( ※ 動的に説明することは、このあとだんだん行なっていく。)

 [ 付記 ]
 ここで示したモデルは、名前を付けておくと便利だろう。そこで、「トリオモデル」と命名しておく。


● ニュースと感想  (7月28日)

 トリオモデルで核心的なことは、「下限直線」というものがあることだ。では、下限直線とは何か?── そういう疑問が起こるだろう。そこで、一応、説明しておく。
( ※ 本項は、前日分への補足。特に重要な話というわけではない。)

 下限直線とは何か? 従来の経済学の用語で言えば、それは「下方硬直性」を意味するものだ。具体的には何を意味するかは、前々日の三つの場合(金融市場・労働市場・商品市場)で、それぞれ異なる。この三つの場合に即して、それぞれ説明しよう。

 (1) 金融市場 …… 名目金利の下方硬直性
 金利(名目金利)には、下方硬直性がある。「金利ゼロ」という水準だ。それが下限直線となる。
 「金利がゼロ以下にはならない」というのは、どうしてかというと、「資金供給量と金利とはおおざっぱには反比例関係にある」からだ。資金供給量が無限大に近づけば、それに反比例して、金利はゼロに近づく。しかし、ゼロ以下にはならない。これは、当たり前のことだ。(理由は、省略する。初歩的なので。)
( ※ なお、物価上昇率を考慮した「実質金利」では、均衡点が「マイナスの実質金利」となるところにあるようになる。この件は、クルーグマンの「インフレ目標」を参照。)

 (2) 労働市場 …… 賃金の下方硬直性
 賃金の下方硬直性については、すでに 1月18日 で説明した。つまり、「最低賃金」という下限がある。さらには、「賃金ゼロ」という二番目の下限もある。
 実を言うと、「賃金の下方硬直性」というのは、経済学ではかなり話題になっていて、昔からいろいろと議論されている。参考文献などもいろいろとあるようだ。
 私としても、あとでまたいくらか言及するつもりだが、とりあえずは、「最低賃金」とか何とか、そんなものだと理解しておいてほしい。
( ※ 「もっと正確に示せ」という要求があるかもしれない。しかし今は、そんなことに、こだわらなくてもいいのだ。実際に数値モデルでシミュレーションをするのであれば、下限直線を正確に明示する必要がある。しかし今は、モデル論を示しているところなのだから、「下限直線がある」ということだけを理解すればいいのだ。その具体的な値までは考慮しなくていいのだ。そういうことを考慮するのは、モデル論を完成させたあとのこととなる。)

 (3) 商品市場 …… 価格の下方硬直性
 価格の下方硬直性。実は、これこそが、肝心な話である。
 そもそも、金利の下方硬直性なら、「流動性の罠」としてクルーグマンが説明してきた。賃金の下方硬直性なら、ケインズが説明してきた。(失業の説明で。) しかるに、「価格の下方硬直性」については、これまでの経済学では十分に説明されてきてこなかった。
 しかも、「価格の下方硬直性」(下限直線の存在)が不況の本質であり、それゆえに需給曲線の均衡が不成立となるということは、これまで話題になってこなかった。── だからこそ、私がここで、強く主張しておくのである。
 では、価格の硬直性をもたらす「価格の下限直線」とは、何のことか? それは、先にも述べたとおり、「採算価格」(原価)のことだ。では、「採算価格」(原価)とは?
 従来の経済学の用語で言えば、それは、コストである。具体的には、「限界費用」または「平均費用」である。こう言えば、従来の経済学の枠組みで完全に説明される。
 では、「下限直線」とは、「限界費用」と「平均費用」の、どちらのことなのか? ── 実は、それは、細かな話となる。このモデル(トリオモデル)について、詳しく検討したいときには、そのことが問題となる。……しかし今は、「いずれにしても、とにかく、下限があるのだ」と理解しておけばよい。

 [ 付記 ]
 ここでは三つの場合を示した。この三つの場合において、いずれも「下限直線」というものでモデル化できる、という点が肝心だ。三つの場合で、具体的には下限直線が何であるかはともかく、とにかく本質的にはこの三つの場合が同じなのだ、と理解することが大事だ。


● ニュースと感想  (7月28日b)

 IS-LM モデルについて、追記しておいた。
  → 7月26日 の 【 追記 】


● ニュースと感想  (7月29日)

 いよいよ、最も重要な話を述べるときが来た。古典派とケインズ派の統合である。
 前項では、「トリオモデル」という新しいモデルを出した。これは、古典派の「需給曲線」に、「下限直線」というものを組み合わせたものである。そして、このモデルによって、古典派とケインズ派を統合することができるのだ。

     トリオモデルの図

 前出のトリオモデルの図を、上にふたたび掲げておく。
 ここには、右側の図と左側の図がある。この両者は、次のように区別される。
  ・ 右側の図 …… 下限直線が、需給の均衡点よりもにある。
  ・ 左側の図 …… 下限直線が、需給の均衡点よりもにある。

 両者を比較して、考えよう。
 右側の図では、下限直線は、需給の均衡点よりもにある。だから、この下限よりも下の領域に達せないとしても、もともとその領域に入るわけではないから、何ら影響は受けない。……これは、「均衡状態」の場合である。
 左側の図では、下限直線は、需給の均衡点よりもにある。つまり、均衡点は、下限直線よりも下の領域(達しえない領域)にある。だから、需給が均衡点に達しようとしても、下限直線に邪魔されて、均衡点に達しえない。均衡点に達しえないというのは、つまりは、不均衡だということだ。……これは、「不均衡状態」の場合である。

 上の二つを比較したあとで、次のように結論できる。
  ・ 「右側の図の状態(均衡状態)は、古典派の状態である」
  ・ 「左側の図の状態(不均衡状態)は、ケインズ派の状態である」

 この2点を、次に説明しよう。

 (1) 均衡状態
 ここでは均衡点は、下限直線よりもにある。つまり、下限直線による制限を受けない。自然に均衡状態に落ち着く。(需要が十分にある好況期には、そうなる。)
 ここでは、「セイの法則」が成立する。すなわち、供給が需要を決める。
 なぜか? 右下がりの需要曲線は所与だとする。そのあと、供給能力を増やせば、それに応じて、適当に均衡点が定まる。供給能力をどんどん増やせば、それに応じて、均衡点は需要曲線上を右下がりにどんどん移動していく。普通ならば、下限直線にぶつかって、そこで価格はもうそれ以上は下がらないので、需要の増加はそこで頭打ちになるだろう。ただし、ここでは「下限直線にぶつからないこと」つまり「原価がゼロであること」を仮定しているのだから、供給をどんどん増やせば、価格はいくらでもゼロに近づき、いくらでも需要は増えていく。
 まとめ。
 「原価ゼロ」が仮定されれば、下限直線の影響を受けないので、供給に応じていくらでも需要を増やすことができる。供給が需要を決定する。つまり、セイの法則が成立する。
 つまり、右側の図の世界は、古典派の世界である。
( ※ 例外もある。これについては、次項で解説する。)

 (2) 不均衡状態
 ここでは均衡点は、下限直線よりもにある。つまり、下限直線による制限を受ける。均衡状態にたどりつこうとしても、下限直線に邪魔されて、価格が下がらないので、均衡状態にたどりつけない。かくて、不均衡状態となる。(需要が不足する不況期には、そうなる。)
 ここで、左側の図を見ると、「∀」のような形になっているところがある。「∀」の一番下の頂点は均衡点であり、「∀」の中央の水平線は下限直線である。左側の斜めの線は、需要曲線であり、右の斜めの線は、供給曲線である。
 「∀」の左側の交点(斜めの線と水平線との交点)を、「左点」と呼ぼう。
 「∀」の右側の交点(斜めの線と水平線との交点)を、「右点」と呼ぼう。
 ここで、左点と右点との間の距離は、「需給ギャップ」を意味する。なぜかは、すぐにわかるはずだ。現在は、これより価格が下がらないので、この価格でへばりついている。右点の水平座標は、右点の「量」を意味し、それは、この価格における供給の量である。左点の水平座標は、右点の「量」を意味し、それは、この価格における需要の量である。両者は一致できればいいのだが、一致できない。供給の量は、需要の量よりも、大きい。その差が、「需給ギャップ」となる。
 かくて、需給ギャップが発生する。では、需給ギャップが発生すると、どうなるか?
 まず最初は、供給過剰で、在庫が積み増される。しかし、一定期間後には、在庫調整が終わって、供給量が減る。つまり、実際には右点の生産能力があっても、左点の量しか生産しない。(その分、設備の稼働率が下がり、設備が遊休する。)
 つまり、ここでは、生産される量は、需要の分だけだ。つまり、需要が供給を決定する。すなわち、ケインズの主張する通りになる。
 まとめ。
 不均衡の状態(左側の図の状態)では、下限直線の影響を受けて、均衡点に達しえない。需要の量と供給の量は一致せず、差が出る。つまり、需給ギャップが発生する。需給ギャップが発生すると、初めは右点に位置していた供給が、やがては左点に位置するようになる。こういう状態では、需要が供給を決定する。
 つまり、左側の図の世界は、ケインズ派の世界である。

 さて。
 以上の (1) (2) で説明したとおり、次のようになる。
  古典派の世界   ……  均衡状態。供給が需要を決める。
  ケインズ派の世界 …… 不均衡状態。需要が供給を決める。
 ここまでは、すでに示したとおりだ。ここで今、肝心のことを述べよう。それは、次のことだ。
古典派の世界とケインズ派の世界の違いは、『下限直線が均衡点よりも、上にあるか下にあるか』という相対的な位置関係の違いによる。そして、相対的な位置関係が変化することで、両者は相互に移行的である
 ということだ。

 説明しよう。
 相対的な位置関係だけが問題だから、三つの線のうち、どれを先に固定しても構わない。そこで、まずは、需要曲線と供給曲線を固定して、下限直線を下から上へ動かしてみよう。
  1.  初めは、均衡状態である。このときでは、下限直線が均衡点よりも下にある。(右側の図の状態。)
  2.  しかし、下限直線がだんだん上に移動していくと、下限直線と均衡点が交わるようになる。(「*」という形を横に寝かせたような形になる。)
  3.  さらに、下限直線をもっと上に移動していくと、下限直線が均衡点よりも上に位置するようになる。(左側の図の状態。)
 つまり、下限直線が下から上に移動していくにつれて、あるときまでは古典派の世界が成立したのに、あるとき以後はケインズ派の世界が成立するのである。
 このように、古典派の世界とケインズ派の世界は、まったく別々のものではなくて、相互に移行的なのである。
( ※ ここでは、下限直線を動かした。しかし、需要曲線や供給曲線を左右に動かしても、話は同様である。相対的な位置関係だけが問題だからだ。)

 ともあれ、このようにして、下限直線を導入することで、古典派の世界とケインズ派の世界は、統合されたことになる。

 [ 付記 ]
 数学的に言えば、「パラメータ」という考え方で説明できる。
 均衡点と下限直線との位置関係(i.e. 均衡点の価格と下限直線の価格との大小関係)を、適当なパラメータ μ で示すことができる。

    均衡点の価格 > 下限直線の価格  ……  μ > 0
    均衡点の価格 = 下限直線の価格  ……  μ = 0
    均衡点の価格 < 下限直線の価格  ……  μ < 0

 となるようにパラメータ μ を定めるとよい。そうすると、パラメータ μ が正の値から負の値に変化することで、均衡点は下限直線の上方から下方へと移動するので、状態は均衡から不均衡へと変化することとなる。そして、こういう変化を起こす過程を幾何学的に考えると、「カタストロフィの理論」となる。なお、変化を起こす境界となる点(特異点)は 「 μ = 0 」 で与えられる。

 [ 注記 ]
 ここで、話はいったん片付いたことになる。ただし、話はこれでおしまいではない。
 均衡状態と不均衡状態が、相互に移行できる状況だということはわかった。しかし、両者がどのように移行するかという、移行の具体的な過程はまだわかっていない。それを知るには、モデルを動的に考えればよい。
 静的ではなく動的に考えること。この問題は、以後、大きなテーマとなる。数日後から論議を始める。
 なお、「古典派とケインズ派の統合」という大きな目的も、ここでおしまいではない。このあとさらに、さまざまな問題をめぐって、いろいろと論議していく。それはもうしばらく先のこととなる。
 本項では、ともあれ、一番核心的なことを示しておいた。


● ニュースと感想  (7月29日b)

 前項(本日別項)の続き。
 前項の話に関連して、オマケふうに補足しておこう。「セイの法則」と「流動性の罠」の関連である。(たいした話ではない。読まなくてもよい。)

 「セイの法則」では、「価格をゼロまで下げれば、需要はいくらでも増える」ということになっている。しかし、実際には、そうならないことがある。それは、「均衡点がゼロ以下の領域にあるとき」である。
 こうなると、たとえ価格をゼロまで下げても、量は、ある程度で頭打ちとなる。どうしてかというと、量があまり多すぎると、その多い分は、価値がマイナスになるからだ。タダでも引き取ってもらえなくなるからだ。
 この「ある程度で頭打ちとなる」となる限界の量を、「飽和量」と呼ぼう。(その座標位置を「飽和点」と呼ぶ。) 「飽和量」を越えた分については、「価格を下げれば、いくらでも需要は増える」ということはないわけだ。
 例はある。豆腐のオカラだの、ホタテ貝の貝殻だの。また、金融で量的緩和が無効になるのも、同様である。( → 1月06日 ) ……こういうのは、「たとえ無料でも欲しくない」という状態である。
 これは、かなり特殊な状態である。(「価格ゼロ」という下限直線よりも下に均衡点がある状態。) ただ、特殊ではあるが、不自然ではない。不必要なものなど、あっても、邪魔になるからだ。(保管料がかったりするので。)
 ともあれ、こういうときには、たとえ「原価がゼロ」であっても、飽和量を超えた分に対しては、均衡は成立しない。つまり、セイの法則は成立しない。

 結語。
 「セイの法則が成立する」という前項の記述が成立するのは、
  「原価がゼロであること」
  「有限の飽和量が存在しないこと(飽和量が無限大であること)」

 という二つの条件がともに満たされたときのみに限る。そして、二つのうち、特に後者が成立しない状況もある。それが「流動性の罠」という状況だ。

 [ 付記 ]
 「流動性の罠」にはまっていいる状況(現実の量が飽和量を超えている状況)に対する対処法は? 二通りある。
 クルーグマンならば、こう言う。
 「価格がゼロでも均衡しないのならば、価格をマイナスにせよ。売り手は、客から金をもらうかわりに、客に金を払えばいい」と。
 私ならば、こう言う。
 「(急激かつ一時的な)需要不足による、需給ギャップが原因である。需要を元の水準まで戻せばよい。供給に応じて、需要を増やせばいい。そういうふうに、状況そのものを変えよ」と。

 [ 補足 ]
 関連して、「原価ゼロ」という点についても補足しておく。
 マネーについては、「原価はゼロである」ということは、ほぼ成立する。たとえば、千億円の国債や社債やCDも、それだけの紙を印刷するだけで済むから、原価はゼロも同然だ。(1万円札は、ちょっとだけコストがかかるが。)


● ニュースと感想  (7月29日c)

 【 予告 】
 トリオモデルによる最も重要な話は、本日までに記した。
 このあと三日間、補足的な話を続ける。特に重要ではないが、そこそこ有益な話である。
 それらの話が済んだあとで、静的なモデルから動的なモデルに、話をひろげる。


● ニュースと感想  (7月30日)

 「下方硬直性」について、7月28日で説明した。これに関連して、従来の経済学の話題を、参考として示しておく。( ※ ただの関連した話題である。特に重要な話ではないので、読まなくてもよい。)

 「価格の下方硬直性」についての説明として、従来の経済学では、「メニュー・コスト理論」というものがある。この説について、否定しておく。
 まず、最初に強調しておこう。私が「価格の下方硬直性」を述べたときは、「採算価格(原価)」を「下限直線」として示した。これは、「原価割れ」による「赤字の発生」を通じて、「倒産や失業の発生」をもたらすものとして理解される。
 一方、「メニュー・コスト理論」で示されるのは、「価格を変えると、そのためのコスト(メニューの書き換え費用など)が必要なので、価格を変えにくい」ということだ。それはつまりは、単に「価格を変えにくいこと」だけだ。
 というわけで、同じく「価格の下方硬直性」という言葉を使うとしても、その実態はまるきり異なるのである。
 そして、「原価割れ」というのは、不況を発生させるという巨大な意味をもつが、「メニュー・コスト理論」による効果は、ほとんど無視していい程度の効果しかもたないのだ。

 以下で詳しく説明する。いくつかの理由があるので、小項目を立てて箇条書きにしよう。

  1.  硬直性か否か
     まず、話の根本を述べておく。「メニュー・コスト理論」で示されるのは、「価格の下方硬直性」ではない。
     金利にせよ、賃金にせよ、価格にせよ、「下方硬直性」というのを話題にするときは、「その価格より下には下がらない」ということを意味する。「最低レベルがあって、それよりも下の領域には行かない」ということを意味する。
     しかるに、「メニュー・コスト理論」で示すのは、そういうことではない。「価格を変動させると、そのために余計なコストがかかるから、価格を変動させにくい」ということだ。つまり、「価格が変動できない」ではなくて、 「価格が変動しにくい」ということだけだ。……その意味で、これは、価格の硬直性の問題ではなくて、市場の柔軟さの問題である。「情報の不十分さ」とか、「規制の多さ」とか、そういうふうに「市場の柔軟さ」を阻害する要因のことである。イメージ的に言えば、「油が足りない」ことを意味するのであり、「壁がある」ことを意味するのではない。
    ( ※ この件、「固定価格理論」というふうな話題で議論されることもある。)

  2.  下方か否か
     上で示したように、これは、単なる柔軟性の不足にすぎない。「現状から変化しにくい」ことを示すだけにすぎない。だから、この作用は、「下方」だけに働くわけではなくて、「上方」にも働く。つまり、「価格は上がりにくい」という力としても働く。(メニューの書き換えのコストは、価格を下げるのでも、上げるのでも、同じ。)
     となると、メニュー・コスト理論にしたがえば、「価格改定のコストがかかるから、価格は上がりにくい。ゆえにインフレは起こりにくい」という結論となる。……しかし、これは、馬鹿げた話だ。インフレのとき、価格を上げても大丈夫だ、と判明すれば、経営者は、さっさと価格を上げるだろう。「価格書き換えの手間が面倒だから、損を覚悟で、価格を据え置く」なんていう経営者は、あまりいないはずだ。

  3.  改訂コストは多いか少ないか
     メニュー・コスト理論によれば、価格改定にはかなりコストがかかることになっている。しかし、実際には、価格改定のコストなんてものは、たいして要さないのが普通だ。近所のスーパーでも八百屋でも、価格はひんぱんに改訂がなされているはずだ。
     八百屋のオヤジは、経済学者の意見を、鼻で笑っているはずだ。

  4.  個と分布
     以上の点は、経済学的に、わりと当たり前のことだ。「自分もそう思っていたんだよな」と主張する人も出てくるだろう。それはそれでよい。ただ、もうちょっと、経済学的に、まともな説明をしておこう。それは、次のことだ。
     「メニューの改訂は、すべての店で実行する必要はなく、少数の店だけが実行すればよい」
     「その少数の店では、メニューの改訂をすることで、コストを上回る利益を得る」
     説明しよう。
     たとえば、10社があって、それぞれ同一の商品を、100円、101円、……109円、の価格で販売していたとする。100円の社が一番安いので、一番売れている。さて、そのうち1社が価格改定をして、 99円で販売したとする。このとき、その社が一番売れるようになる。すると、販売の分布の山全体が、1円分、安い方に動く。
     このとき、全社が1円ずつ価格改定をする必要はない。全社がメニューコストを払う必要はない。特定の(任意の)1社がメニューコストを払うだけで済む。そして、その社は、メニューコストを払ったとしても、売上げ増加により、莫大な利益を得るから、損ではない。一方、他の社は、価格改定をしなかったことで、メニューコストを払わないで済んだが、シェアを失って、少しずつ損をする。
     そういうことだ。市場において市場価格が変わるためには、全社がいっせいにメニューコストを払う必要はなく、特定の社だけが払えばいいのだ。しかも、払った社は、払った以上に利益を得るから、コストがどうのこうのということは関係ない。つまり、その行動が、抑制的ではなく、促進的になる。
     結局、「メニューコストを払った社だけが得をする」(メニューコストを払わなかった社だけが損をする)ことになるのだから、「メニューコストを払いにくい」というメニュー・コスト理論は、成立しないわけだ。
    ( ※ 数学的に言えば、「メニュー・コスト理論」は、統計的な思考法ができていないのである。「分布の山を動かすには、個々のものをいっせいに少しずつ動かす必要はない」ということがわからないのだ。)
 以上は、「メニュー・コスト理論」への批判である。結論を言えば、「こんな理論は馬鹿げているから、考慮しなくていい」ということ。
( ※ 「市場原理が完全になるのを阻害するものは、何か?」と思って、探したのだが、正解[採算価格]を見出せず、かわりに、お門違いのピンボケなものを手に入れたわけ。凡庸な学者がよくやることだ。)

 [ 付記 ]
 メニューコスト理論が正しくないことは、現実を見れば、すぐにわかる。
 日用品なら、スーパーでひんぱんに価格改訂がなされている。(毎週、チラシが新聞に挟み込まれる。)
 電器製品なら、家電量販店ではたいてい、「他店よりも1円でも高ければ値引きします」と宣伝している。また、「12,700」というふうに値段を消したり、「12,700 → さらに値引きします」というふうに表示しているところも多い。これらは値段を表示せずに、口頭で値引きするわけで、価格改訂コストはゼロだ。)
 こういうふうに、どこでもそこでも、ひんぱんに価格改訂がなされている。八百屋だけではないのだ。「価格改定が大変だから価格改訂をしない」という「メニュー・コスト理論」は、現実に成立していないのだ。
 そして、それにもかかわらず、価格には下方硬直性がある。「12,700円ではあまり売れないが、9900円にすれば売れる」とわかっていても、そこまで価格を下げられない。そして、その理由は、「メニューの書き換えが大変だから」なんていう理由とは、別の理由があるのだ。「そうすれば赤字が出るから、そうはできないのだ」という理由が。── それこそが真の理由なのだ。そこに気づくべきだ。


● ニュースと感想  (7月30日b)

 前項の続き。
 「価格の下方硬直性」に関して、前項では「メニュー・コスト理論」という従来の学説を否定的に紹介した。
 これに対して、もう少し説明を加えておこう。(特に重要な話ではない。)

 「メニュー・コスト理論」が示したいことは、「価格の下方硬直性が問題だ。そのせいで不況になる」ということだ。つまり、次のことだ。
 この説は、「なめらかに動けば均衡点に達するのに、なめらかに動かないから不均衡になる」という、古典派的な信念に従っている。そして、こういう素朴な信念を、私は否定しているわけだ。
 では、上の説は、どこが間違っているのか? もちろん、「下限直線を無視していること」だ。つまりは、「原価というものがあることを無視していること」だ。

 上の説に従えば、こうなる。
 「不況のとき、企業が赤字なのは、価格を下げないからだ。もっと価格を下げれば、数量が増えて、赤字にはならなくなるはずだ。」
 しかし、そうか? 
 考えてみよう。企業が赤字販売しているときに、価格をさらに下げれば、赤字の幅が拡大する。1個あたりの赤字幅が拡大して、さらに数量も増大すれば、トータルの赤字総額は、以前よりもさらに増えてしまう。つまり、先の説による「価格を下げればよい」という説は成立しないことになる。
 
 では、本当は、どうなのか? いよいよ、答えを言おう。
 「売れないときには、価格を下げればよい」という古典派の説は、均衡状態のときのみ成立するのである。つまり、「価格調整によって数量調整ができる」というのは、均衡状態のときのみ成立するのである。

 前々日に、こう述べた。「古典派の世界は、トリオモデルの右側の図(均衡状態のとき)のときだ」と。
 そうなのだ。「売れなければ、価格を下げればよい」という古典派の主張が成立するのは、均衡状態のときだけなのだ。不均衡のとき(すでに赤字が発生しているとき)には、その主張は成立しないのだ。
 メニュー・コスト理論と、私の説(トリオモデル)とを、対比させてみよう。次のようになる。
 現実には、どちらが正しいか? もちろん、後者だ。なぜなら、現実には、原価はゼロではないからだ。

 話を初めに戻そう。
 不況を発生させているものは、「価格の下方硬直性」(価格が下がりにくいこと)ではない。なぜなら、価格を下げたとしても、不況が解決するわけではないからだ。価格を無理に下げれば、むしろ不況は悪化する。
 「価格を下げれば均衡点に達する」というのは、「下限直線がない場合」( or 下限直線よりも上に位置する場合)だけなのだ。……そのことを、「下限直線」を使ったモデルは、明らかにする。

 [ 付記 ]
 「でも不況のときは、市場原理がうまく働いていないぞ」
 という反論が来るかもしれない。しかしその反論は、原因と結果を取り違えているのである。正誤を示せば、
  ×  「市場原理がうまく働かないから、不況になる」
    「不況だから、市場原理がうまく働かない」
 となる。前者は間違いで、後者が正しい。……この問題は、後日あらためて話題にする。
 また、次項(明日分)も参照。


● ニュースと感想  (7月31日)

 市場経済における均衡を阻害するものとして、トリオモデルでは、「下限直線」というものを示した。これがあるゆえに、需給曲線の均衡がうまく達成できない。
 さて、同じような働きがあるもの(市場経済における均衡を阻害するもの)として、従来の経済学では、別のものを示している。それらについて説明しよう。

 いきなり言えば、次の二つがある。
  ・ 情報の不十分さ
  ・ 不完全競争
 この二つも、市場経済における均衡(需給曲線の均衡)を阻害するものとなる。以下で順に説明しよう。
( ※ なお、「メニュー・コスト理論による価格の下方硬直性」というのもあるが、これについては、前々項で記述済み。)

 (1) 情報の不十分さ
 「情報の不十分さ」というのは、かなり有名な話である。ノーベル賞を受賞したアカロフ、スペンス、スティグリッツらの研究した話題でもある。私も前に解説した。( → 10月17日cf. 光文社文庫
 話の内容は、「品質差があるのに、十分な情報が出回らないので、商品がうまく流れにくくなる」ということだ。
 ま、ちょっと面白い話題ではあるが、情報が十分に流れている現代では、あまり意味がなさそうだ。
 そもそも、意味があるとしても、規模が小さすぎて、話がチマチマとしすぎている。あまり考慮する必要はなさそうだ。
( ※ 中古車や中古パソコンについてなら、いくらか話は当てはまるが、新車や新型パソコンには当てはまらない。新車や新型パソコンの情報なんて、うんざりするほどあふれているからだ。だいたい、いくら情報を豊かにしても、今のひどい不況が解決されるはずがない。また、情報が不足しても、好況のときは好況だ。「好況のときに商品情報があふれて、不況のときに商品情報が不足」というようなことは、まったくない。)

 (2) 不完全競争
 「不完全競争」というのは、経済学(特に古典派経済学)では、やたらと話題になる。話題になりすぎている。ちょっと問題が起こると、何でもかんでも、こいつのせいにされる。
 たとえば、「デフレになったのは、不完全競争のせいだ」とか、「インフレになったのは、不完全競争のせいだ」とか。「インフレもデフレも、みんな不完全競争のせいさ」というわけだ。とにかく、反対の状況であれ、なんでもかんでも、「不完全競争のせい」となる。たぶん、夏が暑いのも、冬が寒いのも、郵便ポストが赤いのも、電信柱が高いのも、みんな、不完全競争のせいなのだろう。ひとつのものだけをスケープゴートにする。
 そのあげく、古典派経済学者は、こう主張する。「競争が完全競争になれば、すべてはうまく解決するはずだ。ゆえに、規制緩和をせよ。それだけでいい。それで均衡を回復して、未来はバラ色さ」というふうに主張する。(お気楽ですね。)
 しかし、そんなことはないのだ。景気はときどき変動するが、それは、急に競争が不完全になったからではない。また、競争が不完全だという一つの原因から、デフレになったり、インフレになったり、二つの状況が発生するわけではない。信号機じゃあるまいし、赤になったり青になったり、簡単に切り替わるわけではないのだ。
 はっきり言おう。不完全競争がもたらすのは、均衡点に到達するのを遅くすることだけだ。状況の変化に応じて、すばやく別の均衡点に移ればいいのに、不完全競争のせいで、すぐに移ることができない。── そういう効果は、たしかにある。しかし、それだけだ。不完全競争なんてものに、景気を左右する効果はないのだ。なぜなら、不完全競争という状態は、それ自体はほとんど変化しないからだ。
 たとえば、「郵便や土木では、競争が十分ではない」という指摘がある。その指摘は正しい。しかし、「競争が十分でないから不況になる」というのは、正しくない。なぜなら、同じように競争が十分でない状態で、バブル景気という好況が発生したからだ。
 不況や好況は、数年単位で変化する。十年一日のごとく、ほとんど変わらない不完全競争のせいで、不況になったり好況になったりするわけではないのだ。……だいたい、不完全競争を問題視するなら、バブル期と現在とを比較してみるがいい。バブル期よりも、現在の方が、ずっと規制緩和は進んでいる。だから、バブル期に不況となり、現在では好況になっているはずだ。なのに、その逆である。

 結語。
 不況か否かは、需給ギャップがあるか否かによってのみ決まる。
 不況のとき、市場経済において均衡に達しえないのは、情報の不十分さとか、競争の不完全さとか、そんなことのせいではない。
 では、何のせいか? 下限直線のせいだ。下限直線こそが、まさしく、均衡に達することを阻害するのだ。
 情報の不十分さや、競争の不完全さらならば、均衡に達する速度を遅らせることはあっても、均衡に達することを阻害することはない。しかし、下限直線は、均衡に達することを強く阻害するのだ。ひとつの厚い壁となって。

 [ 付記 1 ]
 上記の (1) (2) の二つや、「メニュー・コスト」は、「新ケインズ派」と呼ばれる立場の考え方だ。これらは、市場経済における均衡が阻害されること」つまり「市場が均衡を達成できないこと」を考慮する。その意味で、完全な均衡を無条件に信じる古典派的とは、立場が異なる。
 ただし、「これこれの阻害がある。阻害が消えて、完全競争がなされれば、均衡が達成されるだろう。そして不況は解決できるだろう。自由競争万歳!」と考えている点では、古典派と同じである。
( ※ 本家本元のケインズ自身は、「自由競争」とか「完全競争」とかいうものを、頭ごなしに信じてはいない。「新ケインズ派」というのは、基本的にはケインズの立場とは逆であり、むしろ「ケインズの味をふりまいた古典派」とでも呼ぶべきものだ。)

 [ 付記 2 ]
 新ケインズ派の理屈(情報不足・不完全競争・メニューコスト)が、いかに馬鹿らしいかは、金融市場における「流動性の罠」を考えれば、すぐにわかる。
 金融市場で、「流動性の罠」が発生して、均衡が達成されないのは、なぜか? 情報不足のせいか? 不完全競争のせいか? メニューコストのせいか? ── いや、いずれでもない。
 本当は、「名目金利ゼロ」という下限があるせいだ。これが下限となって、金利がそれよりは下がらないから、いくら量的緩和をしても、均衡が達成されないのだ。(資金の需給ギャップが拡大するだけだ。)
 こういう本質に気づくことが大切だ。

 [ 余談 1 ]
 私なりにイヤミで言えば、「新ケインズ派」というのは、「古典派をちょっと修正すればいいだろう」という、小賢しい考えによる主張だ。
 どんな学問分野であれ、こういうことを考える小物はいる。「大きな問題があって、どうにも解決不能だ。それならば、既存のアイデアを、自己流でちょっと修正すればいい」という主義だ。「他人の偉大な業績を、自分流でちょっと味付けを変えて、それを自分の画期的な業績と称しよう」というわけだ。たとえれば、「ごちそうがほしいが、ごちそうがないのか。よし、ご飯にフリカケをかけよう。これこそ画期的なごちそうだ」という主義だ。
 こういうチョコマカとした考え方は、私は嫌いである。ま、ただの好き嫌いだから、人それぞれだろうが。いずれにせよ、私は、ご飯にフリカケをかけたようなものは、ごちそうだとは思わないし、そんなものは嫌いだ。ま、それで満足できる人は、それで満足すればいいだろう。勝手にすれば。
( ※ ちょっと反省すると、この悪口は、ひどすぎるかもしれない。適当に割り引いて読んでください。ま、そもそも、悪口なんてものは、言う人間の品格を落とすだけだから、読者としても、本気で受け取るべきではないのだが。  (^^); )

 [ 余談 2 ]
 「不完全競争」に関連して、くだらない皮肉を言っておこう。
 古典派は、こう主張する。「不完全競争が経済悪化の原因だ。不完全競争を排除すれば、すべてうまく行く」と。── とすれば、古典派というのは、一種の宗教なのである。
 彼らは、「自由経済」「市場原理」というものを信じている。神様として。この神様の言うとおりにしていれば、この世は楽園となるはずだ。なのに、この世は楽園にならないとしたら、神様を阻害するものがいるせいだろう。それは悪魔だ。というわけで、
 「神様を阻害する悪魔がいるから、神様の指示する楽園が実現しないのだ。悪魔を追放すれば、地上は楽園になるだろう。悪魔を、不完全競争を、排除せよ」
 と彼らは考える。一心不乱の盲目的な信仰である。それに対して、私は次のように主張する。
 「万能の神様なんか、ありえない。間違ったものを妄信しても、目が曇るだけだよ。何よりも、事実を見るべし。二本の線だけでなく、もう一本の線を見るべし」と。
( ※ ただ、こういう主張を言うと、古典派経済学者からは、「反逆者め!」と罵られて、火あぶりにされそうだが。)

 [ 補説 ]
 上記の (1) の「情報の不十分さ」には、関連する話題がある。2月21日(4) で言及しておいた「情報のタイムラグ」という考え方だ。
 そこでは不動産価格の下方硬直性について、「情報の不十分さ」のほか、「情報のタイムラグ」というものを考慮した。
 ただし、である。不動産不況と、一般の不況とは、明らかに異なる。たとえば、個人所有の不動産が売れにくくなっても、世間のあちこちで倒産や失業が発生するわけではない。在庫をかかえたからといって、在庫となる土地が腐ったり劣悪化するわけでもない。(だからこそ、値下げが起こらないわけだが。)
 また、そもそも、不動産価格には、原価というものがない。不動産は、取り引きされるだけで、新規には製造されないから、原価はないのだ。それゆえ、ここでは、トリオモデルは適用されない。トリオモデルが適用されるのは、あくまで、「原価」のある一般商品市場のみである。
( ※ ただし、既存の土地はともかく、造成費のかかる宅地開発とか、建造費のかかる建物部分については、「原価」があって「製造可能」だから、その部分については、トリオモデルが適用可能である。こういうふうにあくまでも原価に着目するのが、トリオモデルの考え方だ。古典派の考え方では、あくまで原価を無視して、「価格を下げれば均衡するだろ、さっさと価格を下げろ」というふうになる。)
( ※ 「土地だって、価格を下げれば取引が活発になる」という説は、あまり意味がない。なぜなら、いくら土地の取引が活発になっても、何一つ生産は増えないからだ。土地は、取引されるだけで、生産されるものではない。いくら取引が活発になっても、日本の総面積は少しも増えない。この点、一般の生産物とは異なる。一般の生産物なら、取引が活発になるとき、生産が増え、富が増え、個人の所得が増え、国民総生産が増える。土地は、そういうことはない。土地の値段が2倍になると、売り手は2倍の金を受けて得するが、買い手は2倍の金を払って損する。国全体の富は少しも増えない。国全体の面積も少しも増えない。土地製造産業[?]の労働者が増えて失業が解消するわけでもない。……土地取引と、一般生産物の取引には、特に類似はないのだ。)


● ニュースと感想  (8月01日)

 「下方硬直性」について、7月28日で説明した。これに関連して、従来の経済学の話題を、「メニュー・コスト理論」として、前日に参考ふうに示しておいた。また、関連する話題として、「不完全競争」についても、前項で参考的に言及しておいた。
 さて。ここで、「下方硬直性」に関して、従来の経済学との関係を説明しておこう。(全体配置を見通すわけだ。)

 下方硬直性を強調した私の説に対して、反論があるだろう。「そんなの、別に、目新しい話じゃないぞ。従来の経済学でもすでに、下方硬直性は話題になっているぞ」と。
 なるほど、「金利の下方硬直性」や「賃金の下方硬直性」についてなら、そのとおりだ。すでに従来の経済学でも、話題になってきた。(「金利ゼロ」とか、「最低賃金」とか、そういう下限となるものも、特に目新しい指摘ではない。)
 ただし、一番肝心なのは、「価格の下方硬直性」である。これこそが眼目なのだ。しかるに、これについては、従来の経済学では、ほとんど無視されてきた。
 それでも、「価格の下方硬直性についても、従来の経済学ですでに話題になってきたぞ。『メニュー・コスト理論』というのがそうだ」と。ただ、これについては、前日で否定的に説明しておいた。

 さて。ここで、肝心な点を示しておこう。
 私が特に主張したいのは、「下方硬直性があるぞ」という点ではない。「下限直線というものがあり、それが需給の均衡を制限する」という図式(トリオモデル)だ。そして、この図式において、下限直線を示すときに、「下方硬直性」というものが問題となる。それだけのことだ。── 何よりも示したいのは、図式そのものであって、図式の原因や根拠ではない。
 下方硬直性だけを示しても、ほとんど何の意味もない。それでは、水平線を一本示せるだけだ。大切なのは、需要曲線と供給曲線と下限直線という、三つの線による相互関係なのだ。特に一本の線だけを重視しているわけではないのだ。

 [ 付記 1 ]
 三本の線の図式についても、難癖を付ける人がいるかもしれない。
 「古典派の需給曲線の図式に比べて、二本から三本へと、線が一本増えただけじゃないか。たった一本の違いだけだ。たいした違いじゃないぞ」
 と。しかし、一本の違いがたいして差がないと思うのならば、二本の需給曲線から、一本の曲線を引いて、残りの一本だけで説明してみるがいい。どうなることやら。
 だいたい、2と3の区別がつかないようでは、ほとんど猿並みである。「毛が3本足りない」と言われても仕方あるまい。
( ※ とにかく、古典派の唱える、「二本の線による原理」というものは、根本的に間違っているのだ。正しいのは、「三本の線による原理」であるがゆえに。)

 [ 付記 2 ]
 「価格に下限(原価)のあること」についても、「どこかで聞いたことがあるぞ」という意見もあるかもしれない。
 それはそうだ。「原価割れでは販売しない(しにくい)」というのは、企業経営者なら誰でも知っていることだし、経済学者だって少しでもまともな頭があれば誰でもわかる。(実際、たいていの[ミクロ]経済学の教科書では、「限界費用」「平均費用」という箇所で、ついでに説明してあるはずだ。)
 だから、私としては、「下限直線がある」という主張を独自のものだと主張するつもりはない。
 繰り返して言う。私が主張するのは、「下限直線がある」ということではなくて、「下限直線を含めた三本の線によって、新たなマクロ経済モデルができる」ということだ。つまり、「このモデルによって、古典派経済学とケインズ派経済学が一つのものに統合され、さまざまなマクロ的な経済現象が統一的に説明できるようになる」ということだ。……この点、誤解なきように。
( ※ たとえば、不況発生のメカニズムが、この三本の線によるモデルからわかるようになる。二本の線によるモデルからでは、そのことはわからない。)

 [ 付記 3 ]
 「原価割れをしても価格がゼロになるまで、どんどん価格を下げる、なんてはずがないぞ。企業経営者なら、誰でも知っているはずだ」という主張もありそうだ。
 たしかに、そうである。そのことは、企業経営者なら、誰でも知っている。
 しかし、勘違いしないでほしい。上記の主張は、あくまで、「古典派の世界」である。「価格をゼロまで下げるはずがない」と企業経営者が思うのなら、その企業経営者は、単に、古典派経済学を信じていない、というだけのことだ。
 私が批判しているのは、古典派経済学者の主張であって、普通の企業経営者の主張ではない。
 古典派の世界というのは、「セイの法則」の成立する世界である。そこでは、「価格がゼロになるまで価格をどんどん下げる」ということが前提されているのだ。── もし読者が、このことを理解できないようであれば、古典派経済学の解説などを読むとよい。一般均衡理論などの解説で、ちゃんと「売れなければ価格ゼロまで下げる」というふうに説明してあるはずだ。
( ※ なお、ケインズ派経済学の解説を読んでも、ダメですよ。「価格ゼロまで価格を下げるべし」と主張しているのは、古典派であり、ケインズ派ではないのだから。ケインズ派の経済学者ならば、「価格をゼロまで下げるべし」なんてことは主張しない。もちろん、企業経営者も。)
( ※ まともな企業経営者と古典派経済学者の違いは、不況への対処法として現れる。まともな企業経営者は、不況のとき、価格を原価と同程度にしようとする。そうして赤字を最小化しようとする。一方、古典派経済学者は、こう主張する。「そんなふうに価格を下げないのはダメだ。価格に下方硬直性があるから不況になるのだ。価格を下げよ。そうすれば、需要が増えて、需給ギャップが消える。均衡するので、不況は解決する。さあ、価格をもっと下げよ。赤字の幅を増やせ。売れなければ売れるまで値引きせよ。価格をゼロに近づけよ」と。そうして利益を度外視して、需給ギャップを消そうとする。つまり、赤字を最大化しようとする。……冗談のようだが、どうも冗談ではないらしい。「赤字企業はどんどん赤字をふくらませて倒産させよ。そうすれば社会全体の効率は良くなる。さあ、どんどん倒産させよ。倒産万歳!」と古典派は信じているのだから。)


● ニュースと感想  (8月01日b)

 肝心なことを、補足しておく。それは、「トリオモデルが示しているのは、マクロ経済の世界のことである」ということだ。
 ミクロ経済学では、需給曲線を考えるついでに、「原価」を考えることもある。特に、「限界費用」とか「平均費用」とかを考えるときには、そうだ。(経済学の教科書で、これらの用語を解説してある箇所を読むといい。いくらか説明してあるはずだ。)……こういう場合は、ミクロ経済の世界で、「原価割れ」を考える。
 一方、私が述べているのは、マクロ経済の世界のことだ。特定の商品市場だけでなく、あらゆる商品市場で、「原価割れ」という状況がいっせいに起こっている場合(つまり不況)を、考察する。
 マクロ経済においては、「原価」というものを、座標軸上で表示できない。たとえば、自動車の価格とキャベツの価格とは違う。それぞれの原価も違う。だから「一国経済全体における原価」というものは、座標軸上では、表示できない。(たとえば「平均価格」とか「平均原価」とかを産出しても、まったく無意味である。自動車の原価とキャベツの原価を足して2で割っても無意味である。)……そういうわけで、マクロ経済では「原価」というものを表示しにくいゆえに、古典派は(需給曲線を考えるときに)「原価」というものを無視するのである。
 トリオモデルでは、どうか? 「自動車とキャベツでは原価が異なる」というのは、座標軸の単位を適当に変えることで、形をそろえる。(たとえば自動車の原価が 100万円でキャベツの原価が50円なら、それぞれの座標軸を適当に伸縮して、形をそろえる。)
 そして、このように形をそろえたあとで、3本の線による幾何学的な相互関係を考えることで、一国全体の経済のマクロ的な動きを見るわけだ。
  ( ※ この件は、「動的」な話と関連する。後日、また詳しく述べる。)

 [ 注記 ]
 マクロ的な「均衡/不均衡」と、個別産業での「均衡/不均衡」とは、一致するとは限らない。
 つまり、国全体でマクロ的に需給ギャップが発生しているとしても、個別産業で需給ギャップが発生しているとは限らない。── たとえば、日本全体が不景気に覆われているとしても、特定のいくつかの産業では景気がいいということもある。(たとえば、不況の今、自動車産業でトヨタも日産もホンダも黒字を出す、ということがある。そういう例外的な産業がある。)
 それはそれで、当然だ。「マクロ的に不況だ」ということは、「あらゆる産業のあらゆる企業が一つの例外もなく赤字だ」ということを意味しているわけではない。日本全体では赤字企業が多くて、莫大な失業者を発生しているとしても、特定の企業では、黒字になって従業員を増やしているところもある。……そういうふうに違いが出ることもある。それはそれで当然である。別にどうということもない。
 マクロ経済学の目的は、一国全体の経済状態を調整することだ。つまり、国全体で、赤字企業を減らして、倒産を減らして、失業者を減らすことだ。個別産業や個別企業については、どうのこうのと言うことはないのだ。
( ※ ただし、トリオモデルというものは、マクロ経済学だけでなく、ミクロ経済学においても成立する。ミクロ経済学においても、不完全競争とか情報不足とかよりは、下限直線の方が重要な意味をもつ。)


● ニュースと感想  (8月01日c)

 おしゃべりふうの雑感。デザインと経済学について。
 近ごろ、日本の自動車のデザインを見ると、どれもこれも、ひどいものばかり。デザインの文法の基本ができていない。イロハも知らない素人の作品ばかり。
 どこが悪いか? どれもこれも、局所的につじつまを合わせることばかり考えている。(デザイン用語では「インテグレーテッド」などと称する技法もその一つ。) で、局所的にはまとまっているが、離れて眺めると、全体としての統一が破綻しているのがわかる。
 これは、環境の違いもある。日本では、自動車を見るとき、数メートルの近い距離から見ることが多い。だから細部ばかりが気になる。欧米では、自動車を見るとき、数十メートルから百メートルぐらいの遠い距離から見ることが多い。だから細部よりも全体としての統一感が大事になる。
 こういうのは、デザイン作法としては基本中の基本なのだが、日本のデザイナーはそういうことが全然わかっていない。細部だけをまとめて、全体としては、ごちゃごちゃとした線が入り組んでいて、非常に醜いデザインばかりが氾濫する。

 さて。実は、これは、経済学にも共通する。
 「細部のつじつまだけを合わせようとして、全体のまとまりを見失う」というやつだ。
 どこがそうなのかは、ここ数日の記述を読んで、適当に考えてみてほしい。(ま、別に、経済学に限った話じゃないですけどね。「大局を見失う」というのは、あらゆる分野において、よく見られることだ。)


● ニュースと感想  (8月01日d)

 【 予告 】
 本日まではトリオモデルについて、静的な話を続けてきた。
 明日からは、動的な話をする。






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「小泉の波立ち」
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