[付録] ニュースと感想 (24)

[ 2002.08.02 〜 2002.08.12 ]   

  《 ※ これ以前の分は、

    2001 年
       8月20日 〜 9月21日
       9月22日 〜 10月11日
      10月12日 〜 11月03日
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      12月11日 〜 12月27日
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    2002 年
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       6月05日 〜 6月19日
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       7月11日 〜 7月19日
       7月20日 〜 8月01日
         8月02日 〜 8月12日

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● ニュースと感想  (8月02日)

 本日以降、動的に考えることとしよう。
 すでに「トリオモデル」というものを提出した。そこでは、次の図を示した。

     トリオモデルの図

 右側は、「均衡状態」であり、左側は、「不均衡状態」である。
 そして、均衡状態と不均衡状態がどういうものであるかも、7月29日に説明してきた。つまり、
  古典派の世界   ……  均衡状態。供給が需要を決める。
  ケインズ派の世界 …… 不均衡状態。需要が供給を決める。
 そしてまた、次のようにも述べた。
古典派の世界とケインズ派の世界の違いは、『下限直線が均衡点よりも、上にあるか下にあるか』という相対的な位置関係の違いによる。相対的な位置関係が変化することで、両者は相互に移行的である
 そこで、問題は、次のことだ。
均衡から不均衡への移行は、どのようなものか?
右側の図から左側の図への変化は、どのようなものか?
 それがつまり、動的に考えるということだ。

 さて。
 これで、テーマは提出した。このテーマのもとに、今後、いろいろと考察していくこととなる。
 本項では、そういう考察とは別に、まず、核心的なことを述べておこう。それは、分類に関することだ。次の二点がある。
  ・ 均衡状態から不均衡状態へという変化には、三つのタイプがある。
  ・ その三つのタイプは、本質的には、いずれも同じである。
 この二点は、次のことを意味する。
  ・ この変化は、三つのタイプに分類可能である。
  ・ この変化は、分類しなくてもいい。(分類不要。)
 つまり、「均衡から不均衡へ」という変化は、区別しようとすれば区別できるが、いちいち区別するまでもない、ということ。実質的には同一の現象ではなくて、三つのタイプに分類されうるが、その三つのタイプは本質的には同じ事情にあるから、いちいち区別しなくてもいい、ということ。
( ※ たとえれば、白猫も黒猫は、細かく言えば別のものだが、ネズミを捕るものと見なす限りは、本質的に同じものだと考えてよい、というわけ。猫は犬とは違う、というところだけが大事。)
 ともあれ、以下では、順に説明しよう。

 (1) 均衡状態から不均衡状態へという変化には、三つのタイプがある。

 均衡状態から不均衡状態へという変化(右側の図から左側の図への変化)には、次の三つの場合がある。
  ・ 需要の急減  (需要曲線の左シフト)
  ・ 供給の急増  (供給曲線の右シフト)
  ・ 原価の急上昇 (下限直線の上シフト)
 いずれの場合も、右側の図から左側の図へと、移行する。そのことは、簡単にわかるはずだ。
( ※ 最初の場合について、詳しく説明すれば、こうだ。右側の図において、需要曲線が左側にシフトすると、均衡点は供給曲線の上で、どんどん左下に移動していく。そしてついには、均衡点が下限直線よりも下に位置するようになる。そうなると、左側の図と同じ形になる。……つまり、下限直線が上方に上がった場合と比べると、グラフとしてはまったく同じ形となる。ここでは、三本の線の相対的な位置関係だけが問題となっている。)

 この三つのタイプがある。この三つは、細かく見れば、もちろん、違いはある。それぞれについて、具体的に例を示そう。
 (2) その三つのタイプは、本質的には、いずれも同じである。
 以上のように、三つのタイプがある。しかし、(需給関係について考えている限り、)本質的には、そのいずれも同じことなのである。つまり、本質的には、いずれも「均衡状態から、不均衡状態へ」つまり「右側の図から、左側の図へ」という変化なのである。(三本の線の相対的な位置関係だけが問題となるから。)
 このことに注意しよう。「需要の急減」「供給の急増」「原価の急上昇」というのは、現象的には、まったく異なったことである。上の例でいえば、「タマゴッチのブームが去ったこと」と、「原材料の価格の上昇というコストアップ」は、全然別のことだ。しかし、まったく異なった三つのことが、いずれも本質的には同じことであるのだ。(需給関係について考えている限りは。)
 しかも、である。ここでは、三つのタイプを示したが、一方、別の三つの場合もある。
 それは、7月27日7月28日に示したように、「金融市場」「労働市場」「商品市場」という三つの場合だ。(下方硬直性で言えば、「名目金利の下方硬直性」「賃金の下方硬直性」「価格の下方硬直性」という三つの場合。) ……ここにも、三つの場合がある。
 結局、現象としては、「三つのタイプ」×「三つの場合」で、計、九通りあることになる。
 そして、その九通りについて、「それらはいずれも、本質的には同じことだ」と言えるのである。(なぜなら、三つのタイプは本質的に同じであり、三つの場合は本質的に同じであるから。)
 これは重要なことだ。一見したところ、まったく別のことと見えても、それらは、どれも本質的には同じなのである。たとえば、「石油価格の急上昇による不況」というのも、「流動性の罠による不況」というのも、実は、本質的には、同じことなのだ。
 では、その「本質的に同じこと」というのは、いったい、何のことか? ── それを一言で要約すれば、「需給ギャップの発生」となる。
 そうだ。これが核心だ。「右側の図から、左側の図への変化」(均衡状態から、不均衡状態への変化)というのは、「需給ギャップの発生」なのである。
 いったん均衡状態にあっても、何らかの原因によって、状態が、均衡状態から不均衡状態へと変化させられる。── その変化が、「需給ギャップの発生」なのである。
 不況というものは、さまざまな形で現れる。とはいえ、核心はすべて同じなのだ。そのことを、トリオモデルは教えてくれるのである。

 [ 余談 ]
 この変化が本質的にはどのようなものであるかは、すでにわかった。
 そこで、明日からは、この変化が具体的にはどのようなものであるかを、考察していくことになる。

 [ 付記 ]
 均衡から不均衡への変化は、なぜ生じるのか? 原因は、何か?
 実は、原因については、モデル論では特に考慮する必要はない。三つのタイプとして、「需要不足」、「供給過剰」、「原価の上昇」、という三つのタイプがあるが、それぞれにおいて、原因としては、いろいろと考えられる。
 ただ、一般的に言えば、それらは、「外生的な原因」であることが多い。( → 7月24日 ) つまり、もともとは均衡状態であったのだが、そこへ、何らかの外生的な力が押し寄せて、需要曲線・供給曲線・下限直線のいずれかをシフトさせる。かくて、状態は、均衡状態から不均衡状態へと変化する。
( ※ ここでは「均衡点からの逸脱」が発生している。そして、それが大切だということは、7月24日 に強調しておいたとおりだ。つまり、従来の経済学のように、「均衡点を得たから、それでおしまい」ではなくて、「均衡点を得たあと、そのあとどうなるかが問題となる」のである。均衡点を得るということは、話の最終点ではなくて、出発点なのである。)


● ニュースと感想  (8月03日)

 時事的な話題。最近の米国景気について。(特に読まなくてもよい。)
 米国景気は良くない。前年同期比で、本年の第一四半期は若干のプラスだったが、第二四半期以後はマイナス。最近の店頭の売上げを聞いても悪い話ばかりで、回復どころか悪化の見込み。米国の不正経理事件のあと、株価バブルが破裂したこともあって、とにかく、消費心理が冷え込んでおり、個人消費の回復の見込みがない。FRB金利も年 1.5% と、きわめて低い水準に落ちている。さらに下げても、あまり効果が見込めないため、特に下げる予定もないらしい。(読売・朝刊・経済面 2002-08-01 )

 さて。昨年の時点で、「2002年の夏には米国景気は回復するだろう。それにつれて日本経済も上昇過程を取るだろう」と予測していたエコノミストたち。彼らは、自分の予測が外れたことを、はっきりと明言するべきだ。そしてまた、「米国はこれ以上は減税などの景気刺激策を取る必要はない。そんなことをしなくても景気は回復する」と主張していた人々(米国民主党など)もまた、自分の間違いを認め、米国景気をここまで悪化させた責任を取るべきだ。
 私はかねて警告しておいたはずだ。「米国景気は、回復するかもしれないが、回復しないかもしれない。回復するだろうと勝手に見込んで、一国経済を賭けたバクチをするべきではない。回復しない場合を考えて、安全策を採るべきだ」と。
 そして、「減税を」と主張していたのだが、この「減税」案は、葬られてしまった。そのあげくが、今のこのざまだ。(ブッシュというのは、政治的にはメチャクチャばかりをやっているが、経済的には正しいことをやろうとした。なのに米国は、政治的にはブッシュで、経済的には反ブッシュ。最悪である。)

 では、今のこのひどい時期となってしまっては、どうするべきだろうか? 
 「金利引き下げを」という案がまず浮かぶだろう。しかし、昨年の時点ならともかく、今の時点ではもはや手遅れだ、と私は考える。すでに 1.5% まで下がっており、それでいて効果が十分に出ない。このあとの下げる余地は、最大でも 1.5% だ。それだけやっても、効果は十分ではあるまい、と私は予想する。ま、ゼロ金利まで下げるのも、悪くはないので、すぐさまやった方がいいだろう。しかしそれでは十分ではない、と私は考える。(現状は金融政策が無効になりかかっている。すでに「流動性の罠」に近い状態になっている)
 では、減税をするべきか? 普通の減税は、効果はもちろんあるが、十分ではない、と私は考える。なぜなら、次の二点があるからだ。
  「財政赤字の懸念から、規模が小さくなる」
  「国債を使うので、その分、他人の貯蓄が増える(消費が減る)」
 では、どうすればいいか? 「タンク法しかない」と私は考える。これなら、上記の問題を二つともクリアできる。(理由は以前に述べたので省略。)
 タンク法によれば、財政赤字は拡大せず、かわりに、物価上昇が生じる。物価上昇は、「アメとムチ」の効果で、消費や投資を拡大する。今のように冷え込んだ景気の状態では、「需要を増やすこと」が何よりも必要であり、とすれば、「需要拡大」をめざす方策を取るしかないのだ。つまり、「需要統御理論」による「物価上昇によるアメとムチ効果」だけだ。

 [ 付記 ]
 以上の処置は、「経済成長率がマイナスになる」というような急激な景気悪化を防ぐためのものである。1990年代の過剰なほどの好況を維持するためのものではない。
 1990年代の米国経済は、バブルであった、と私は思う。なぜなら、当時から指摘されてきたとおり、一時的には、消費性向が 100% を上回っていたからである。「稼ぐ以上に消費する」わけだ。こんな状態がいつまでも続くはずがない。それは自明ではないか。
 当時、どうしてそんなに過剰消費していたかと言えば、株価バブルのせいだ。株価が上昇したので、「自分は金持ちになった」と錯覚して、「稼ぐ以上に消費する」という状態が続いた。しかし、株価というものは、本来の価値(株価収益率による)があり、それを上回る分は、バブルなのである。当時は、そのバブルがふくらんだが、今や、そのバブルがはじけた。Yahoo にせよ、AOL にせよ、ITバブルは完全にはじけた。本来の価値に戻った。夢は覚め、夢のなかの紙幣も消えた。手元には何もないという現実に気づいた。── それがバブル破裂だ。つまり、バブル破裂とは、金が消えることではなくて、夢のなかの金が消えることであり、夢から現実に戻ることである。そして、そうなれば、「稼ぐ以上に消費する」ということはしなくなるだろう。とすれば、今後、以前のバブル時代のような好況が続くはずはないのである。そのことはちゃんとわきまえておいた方がいい。たとえどんなに経済学を使おうとも、無から有を生み出すことはできないのだ。「無から有を生み出すと見せかけること」ならば、可能だが。(借金によって。)

 [ 補説 ]
 1990年代の米国経済は、バブルであった。── こう理解しておくべきだ。当時の米国を「IT化によるすばらしい経済成長」と主張する人もいるが、見当違いだ。「100% 程度の(おおむね 90%以上の)消費性向」というメチャクチャな状態のせいだ、と思った方がいい。(妄想による借金漬け生活。)
 なお、1990年代の米国経済は、特に優れたものだったとは思えない。1990年代には、欧州では「東西の壁」が破れたことの混乱があったし、日本ではバブル破裂の影響があった。だから、米国は、相対的に有利に見えただけだろう。(逆に 80年代は、相対的に、米国は不利だった。)
 また、米国経済というものは、本質的に、さして優れたシステムだとは思えない。なるほど、米国なりに、良い点はある。しかし、基本的には、成長をそぐ要素がある。それは、貧富の格差だ。一部の金持ち階層に、極度に富が集中しすぎている。一般国民には、あまり金が回ってこない。これでは、十分な経済成長は、しにくくなる。(金持ちがどんどん貯金をするだけで、一般国民の消費はあまり増えにくい。金持ちの貯蓄が設備投資に向かえばいいが、アジアなどに向かえば、アジアなどの成長を促進するかわりに、自国の成長をそぐ。)

 [ 余談 ]
 ついでに、皮肉ふうに、述べておこう。
 米国が他国に比べて、歴史的に優位を保ってきたのは、米国が優れていたからではない。資源があるからだ。広大な土地と、莫大な資源。それが農業や鉱業や石油などで富をもたらした。
 また、中西部では地下水のくみ上げにより、砂漠化を進めている。本来ならば、地下水で森林化を進めるべきなのに、穀物を作って水を金に換える。で、自分の世代は得をするが、あとの世代には砂漠ばかりが残る。こういうふうに地球を食いつぶして、金儲けをしているわけだ。別に、米国の経済システムが優れているわけではない。(タコが自分の足を食っているようなもの。)
 なお、米国が、広大な土地と、莫大な資源を得たのは、なぜか? 神がそれを与えたからか? 違う。彼らがインディアンのものを奪ったからだ。原住民を虐殺して、その土地と資源を奪った。日本は、中国や韓国から「侵略をした・虐殺をした」と責められるが、米国は、原住民をほぼ滅亡させたから、責められることもない。……これはまあ、昔から、米国の一貫した立場ではあるが。(ベトナム空爆でも、広島原爆でも、東京大空襲でも、とにかく戦闘員ではなくて一般民衆を徹底的に皆殺しにしようとした。米国の伝統。こうすれば金持ちになれる、という見本。そういう米国を崇拝して、「米国を見習え」と主張する日本人はけっこう多い。)

 [ おまけ ]
 おもしろい記事がある。朝日・夕刊・社会面 2002-08-01 による、「恐竜絵画に見る、日米国民性の違い」。
 二つの絵画を見せて、好きな方を選ばせる。
   ・ 勝った恐竜が、負けた恐竜を足で踏んづけて、吠えている絵。
   ・ 勝った恐竜が、自分も傷つきながら、背を向けて遠ざかる絵。
 前者は、「おれが勝ったぞ、ガオー」という感じ。後者は、「勝った方も寂しい」という感じ。
 米国人が好きなのは、前者。日本人が好きなのは、後者。日米で国民差が現れる。なるほど。
 ただし、調査をした当人は、絵の違いがわからず、「恐竜の種類が異なるせいだろう」なんて、ピンボケなことを言っている。絵画の鑑賞能力がゼロ。いかにも米国人。(勝ち負けばかりにこだわり、人間的な優しさをもたないわけ。自分の損得ばかりが気になり、他人の悲しみが理解できないわけ。……だから小泉や、たいていの経済学者は、アメリカを見習いたがる。)


● ニュースと感想  (8月03日b)

 前日(前々項)に述べたことは、前口上のようなものだった。いよいよ今日から本格的に、トリオモデルを用いて「動的」に考えることとしよう。

 まずは、「静的」な考え方との対比をしよう。
 これまでに述べたのは、二つの図(右側の図と左側の図 : 均衡状態と不均衡状態)を並べて、「こちらから、あちらへ」というふうに示しただけだった。つまり、「最初から最後へ」というふうに示しただけだった。その中間が省略されていた。
 そこで今後は、最初と最後だけではなく、中間も含めて、どのように変化していくかという過程を「動的に」たどっていくことにしよう。それはまた、「時間的に」変化をたどるということでもある。

 さて。ここで、戦略を立てておこう。
 時間的に変化を見るといっても、大別すれば、その方針は、二通りがある。
   (a) 大局的。……おおざっぱに変化をとらえる。
   (b) 逐次的。……一刻一刻の時間を追って詳細にとらえる。
 この二つは、はっきり区別されるわけではないのだが、とりあえずは戦略として、一応の区別ができる。ある何か未知のものを調べようとするとき、いきなり細かく分析していくよりは、まず、おおざっぱに概略を調べておいた方がいいことがある。
 そこで、「まずおおざっぱに調べる」という方針を取り、そのあとで、「細かく調べていく」という方針を取る。
 つまりは、「均衡から不均衡へ」という変化を、まずはおおざっぱに理解して、そのあとで、もっと細かく理解しようと努める。── これが今後の戦略となる。

 では、まず、おおざっぱに理解することとしよう。
 そもそも、「均衡から不均衡へ」という変化とは、どういうものか? 
 それはつまりは、需要曲線、供給曲線、下限直線という三つの線が、時間的にシフトしていくと、状況がどのように変わるか、ということだ。
 ただ、前日に述べたことに注意せよ。この三つの線の変化の仕方は、当然、三種類があるが、そのいずれにおいても、状況は本質的には同じなのである。つまり、それらの相対的な位置関係だけが大事なのである。だから、いちいち、
   「需要曲線が左シフトした場合は……」
   「供給曲線が右シフトした場合は……」
   「下限直線が上シフトした場合は……」
 というふうに、三つを区別して考える必要はない。そのいずれも、需給関係に関する限り、本質的には同じことである。だから、そのうちのどれか一つだけを考慮すれば、それだけで足りる。(それが、前日に述べたことの意味だ。)
 となると、とりあえずは、代表的な例として、「需要曲線が左シフトした場合は……」というふうに考えることとしよう。
(翌日分へ続く)


● ニュースと感想  (8月04日)

 前項の続き。
 前項で立てた方針は、「まずは、おおざっぱに調べる。特に、需要曲線が左シフトした場合について」というものだった。そこで、この件を、本項では調べよう。

     トリオモデルの図

 また同じ図を掲げた。(トリオモデルの図)
 初めは、右側の図の状態にある。(均衡している。)
 このあと、需要曲線が左シフトして、左側の図の状態へ変化する。
 この変化は、もちろん、一挙に起こるわけではなくて、需要曲線がだんだん左シフトして行くにつれて、なだらかに起こる。(途中では、三つの線が一箇所で交差するような状況も起こる。)
 そして、左側の図の状態では、「需給ギャップ」がの発生している。需給ギャップは、右点と左点との距離に相当する。( 「∀」の形の水平線に相当するのが「需給ギャップ」である。 → 7月29日

 ここで、二つの問題が考えられる。
   ・ 需給ギャップが発生するというのは、どういう状態か? 
   ・ 需給ギャップが発生すると、不均衡となるが、それは、どういう状態か?
 この二つの問題について、順に考察してみよう。

 (1) 需給ギャップが発生するというのは、どういう状態か? 
 需給ギャップが発生するというのは、需要と供給が一致しない状態である。本来ならば、需要が減れば、供給も減って、一定の低い価格で均衡するはずなのだが、下限直線があるせいで、低い価格(均衡点の価格)に届かない。だから、その価格に相当するほど需要は増えないし、その価格に相当するほど供給は減らないわけで、需要と供給のギャップが生じる。(ここまでは、すでに説明したとおり。)
 では、このような状態では、いったい、どうなるのか? 生産過剰となり、余剰在庫が発生するのだろうか? いや、そうではない。簡単な答えは、先に7月29日で説明した。再掲すれば、次の通り。
「まず最初は、生産過剰で、在庫が積み増される。しかし、一定期間後には、在庫調整が終わって、供給量が減る。つまり、実際には右点の生産能力があっても、左点の量しか生産しない。(その分、設備の稼働率が下がり、設備が遊休する。)」

 このことをもう少し詳しく説明しよう。
 需要は、次のように進む。
 供給は、次のように進む。
 さて。ここまでは当たり前である。
 ただ、先に疑問を発したとおり、このままでは、生産過剰となり、余剰在庫が発生する。しかるに、現実には、そうはならない。最初のうちは、たしかに余剰在庫が発生するが、企業はいつまでも余剰在庫をかかえておく訳にはいかないから、在庫を減らすために、生産調整をするようになる。
 この「生産調整」というのは、図で言えば、右点から左点へ移動することだ。(「∀の水平線で言えば、右の交点から左の交点へ移動すること。」)

 この事情を、グラフではなくて、現実に即して説明しよう。
 というわけで、需給ギャップが発生すると、需要も供給も、(需要曲線の上にある)左点に落ち着くわけだ。
 ただ、このあと、次の (2) で述べる疑問が湧き起こる。

 (2) 需給ギャップが発生すると、不均衡となるが、それは、どういう状態か?
 需給ギャップが発生すると、左点に落ち着く。── そのことが上の (1) でわかった。
 さて。ここで、疑問が湧き起こる。「左点というのは、安定した状態なのだろうか?── という疑問である。
 左点では、一応、需要も供給も一致している。だから、「左点で安定している」と見なすことができそうだ。また、現実に、不況のとき(たとえば今)は、その状態で小康を得ている。
 しかし、たとえここで小康を得ているとしても、ここは均衡点ではないのだ。均衡点ではないとしたら、「安定している」と見なすことはできないはずだ。一応は安定しているようでも、真に安定していることにはならないはずだ。では、いったい、どうなっているのか? 
 現実の状況を見よう。左点では、どんな状態になっているか? それは、次のような状況だ。
   ・ 企業の多くは赤字となる。
   ・ 倒産する企業がどんどん出てくる。
   ・ 失業する人々がどんどん出てくる。
   ・ 自殺者が多数。
   ・ 生産設備は過剰。稼働率が下がり、生産性が低下。
   ・ 税収減で、国の財政は悪化。国債残高は急上昇。
 経済的には最悪と言っていい。現状よりももっとひどい状況(恐慌)もあって、そこに落ち込まないだけマシではあるが、しかし、「ここからは一刻も早く脱しなくてはならない状況」なのである。とうてい「安定した状況」とは呼びがたい。
( ※ それはいわば、「罠」とか「落とし穴」とか「蟻地獄」とか、そういった状況だ。さっさと脱したいのだが、どういうわけだか、脱することができずにいる。)
( ※ くだらない比喩で言えば、こうだ。夫と妻が幸福に愛しあっているならば、いつまでもその状態に留まっていたいので、それは「安定した状態」である。夫がひどい妻から一刻も早く離れたがっているのに、どうしても別れられないのは、「安定した状態」ではなくて、「落とし穴」のような状態である。)

 こういう状態(左点に落ち着いているような状態)は、本質的には、どういう状態なのか? それは、次の二点で示せる。
  ・ このとき、均衡状態にはない。
  ・ このとき、下限直線の上で、不安定になっている。
 以下で、順に説明しよう。

  (a) このとき、均衡状態にはない。
 左点では均衡状態にはない。このことに注意するべきだ。
 企業が左点に留まろうとするのは、過剰在庫を発生させたくないからである。売れもしない物を生産しても仕方ないから、生産量を落とす。
 しかし、生産量を落としたからといって、それで話が片付くわけではない。別の問題がまだ残る。
   ・ 設備の稼働率低下
   ・ 余剰労働力の発生
   ・ 赤字の発生
 という問題だ。特に最後の「赤字の発生」が、何よりも問題である。たとえ左点に移動しても(生産調整をしても)、その状態では、いまだに赤字なのである。もっと悪い状態になるのを避けているという意味で、マイナスを減らしているが、しかし、しょせんは黒字を出していないのだから、ちっともプラスにはなっていない。そして、プラスになっていない限りは、そこは安定的ではないのである。
 左点というのは、一刻早くそこから離れたい状況である。何とかしてそこから離れようとしているのだが、「前門の狼、後門の虎」といったありさまで、どちらに行っても障害物にぶつかり、撥ね返されてしまう。やむなく、現時点では左点に留まっているが、そこにいつまでもいられるわけではない。そこにいつまでもいれば死んでしまうからだ。
 左点にいると、現時点では、過去の蓄積利益を食いつぶして、生きながらえている。しかし、それも、いつまでもそうしていられるわけではない。やがては、耐えきれなくなった企業から順に、一つずつ落ちこぼれて死んでいく。(それが倒産だ。)
 結局、左点というのは、「安定的に持続可能な状態」ではなくて、「一時的にのみ持続していられる点」のことだ。企業はそこにいれば、とりあえずは赤字を最小化することができるが、いつまでもそうしていられるわけではない。やがては赤字に耐えきれなくなって、倒産する。
 古典派の経済学者ならば、「不況のときもそこで安定的に均衡している」と言うかもしれない。しかし本当は、企業にとっては、そこは「安定した地点」ではなくて、「倒産に至る過程の途中状態」にすぎないのだ。
( ※ たとえ話。吊り橋から落ちそうになって、必死に綱にしがみついている旅人がいた。これを見て、古典派の経済学者は、こう言った。「この人は落ちもしないし、戻りもしない。この状態で均衡している。均衡しているのだから、この状態がベストだ。放置するべし」と。そして、通り過ぎてしまった。そのあとで、旅人は、力尽きて、谷底に落ちてしまった。)

  (b) このとき、下限直線の上で、不安定になっている。
 均衡点ならば、そこで安定する。そこにいるのが最善であり、そこから離れると悪くなるので、そこから離れたくない。
 しかし、左点は、そうではない。とりあえずは、最悪を避けるという意味で、その状態に留まっているが、何とかしてその状態から脱したい。だから企業は、左点から離れようとして、さまざまな行動を取って、ジタバタしがちだ。
 たとえば、一時的に左点から離れて、右点に移動しようとすることもある。そうすれば、過剰在庫が発生することはわかっていても、あえてそうしようとすることもある。「過剰在庫が発生しても、値引きして売れば、前よりはマシになるかもしれない」という発想だ。そして、それが失敗すると、また元の左点に戻る、というようなことをする。
 またたとえば、あえて値上げをすることもある。「販売量が減っても、1個あたりの利益率が上がれば、前よりはマシになるかもしれない」という発想だ。そして、それが失敗すると、また元の左点に戻る、というようなことをする。
 以上のようなことは、実際、不況のときにはよく見られる。たとえば、マクドナルドがハンバーガーの大安売りをしたり、それをやめて値上げをしたり、それが失敗してまた値下げをしたり。航空会社が、原価無視の大安売りをしたり。
 金融市場でも、同じようなことは行なわれている。量的緩和をしても、金が滞留する(在庫が溜まる)だけなのに、あえて無駄な量的緩和をする(無駄な在庫を積み増す)。すると、滞留した金が、行き場を失い、短期国債をわんさと買ったり、普通預金口座にわんさと流れたり、円を売ってドルを買ったり。
 「均衡点」がないと、こういうふうに、状態が不安定になるのだ。それというのも、現状から離れたがっており、しかも、行きつくべき「最善の場所」が見つからないからだ。

 [ 補説 ]
 本項で述べたことは、「不均衡状態というのは、安定的な状況ではない」ということだ。
 このことは、「ああ、そうか」とは思っても、直感的には核心はつかみにくいと思う。そこで、解説しておこう。
 本質的なことは、「均衡状態」との対比だ。均衡状態ならば、特定の均衡点があり、その1点に落ち着く。しかし、不均衡状態では、そういうことはないわけだ。── ここで肝心なことは、「不均衡状態は、これこれである」ということではなくて、「不均衡状態は、均衡状態ではない」ということ、つまり、「不均衡状態では、均衡状態で成立するはずのこと(常識的なこと)が成立しない」ということである。
 既存の経済学を信じている人々は、「経済は常に均衡状態にある」と信じて、均衡状態で成立することがいつでも成立すると思いがちだ。しかし、そうではないのだ。普通の経済学では常識的であることも、不均衡状態では成立しないことがあるのだ。
 「不均衡状態というのは、安定的な状況ではない」というのは、単に「状況がふらふらする」ということだけではなくて、普通の経済学の常識が成立しないということをも意味する。── このことは、かなり大事なので、念頭に置いてほしい。本項で述べたことは、今後、ふたたび言及される予定だ。
( ※ なぜ普通の経済学とは違う結論が得られるか? それは、すぐにわかるはずだ。既存の経済学は、需給曲線による均衡を前提としている。しかし、トリオモデルでは、下限直線があるゆえに、[不況のときは]需給曲線による均衡が成立しない。そのせいで、均衡のときには見られない現象が発生するのである。)


● ニュースと感想  (8月05日)

 前項の続き。
 前項では、左点について、「そこは安定的な状態ではない」「むしろそこから脱したい」と述べた。このことを、もっと詳しく説明しよう。
 左点は、「そこから脱したい」状況である。ただ、そこから脱すると、もっと悪くなる。たとえば、右点に向かって移動すれば、その分、売れない生産物が在庫となって増える。かえって状況は悪くなる。その意味で、左点は他の状況よりも「マシ」だと言える。
 ただし、である。これは、下限直線が「水平線である」という仮定のもとに、成立する。
 実際には、どうか? 金利や賃金ならば、下限直線は水平線であることもありそうだ。しかし、商品価格ならば、下限直線は、厳密には、水平線ではなくて、ゆるやかなU字状の曲線となる。
 このことは、「下限直線とは何か」を理解すればわかる。それは「限界費用」または「平均費用」である。これらは、平べったいU字状またはV字状の曲線となる。(記号 ⌒ を上下反転させたような形。)

 「限界費用」または「平均費用」については、ここでは解説しない。経済学の教科書には必ず書いてあるから、そちらを参照してほしい。(下限直線と似たような話もいくらかは書いてあるだろう。)
 一般的には、平べったいU字状またはV字状の曲線の一番低い箇所は、左点よりも右の位置にある。だから、下限直線は、平べったいU字状またはV字状の形の左半分にあたる。ゆえに、その形は、「 ___ 」という水平線よりは、「 \__ 」という感じの右下がり曲線となる。
 つまり、左点の位置は右点の位置よりも高い。(量が減ると、限界費用や平均費用が上がる。) だから、左点に移ると、コスト上昇により、採算がいっそう悪化することになる。
 結局、こういうことだ。── 右点にいると、在庫が溜まるので、生産調整をして、生産量を減らして、左点に移る。それで在庫が減って、一息ついたと思った。しかし、生産量が減ると、今度は、生産コストが上昇してしまった。……結局、右点よりも左点がマシだと思ったら、実はそうでもなくて、どっちもひどい状態だった、ということになる。
 というわけで、「左点が右点よりも、いくらかマシだ」とは言えないのである。左点も右点も、どちらも困った状態なのである。

 [ 補説 ]
 下限直線は、「限界費用」と「平均費用」の、どちらなのだろうか? ── この問題を考えよう。
 実は、下限直線としては、両者をともに考慮するのが正しい。
( ※ 以下で説明するが、これは特に目新しい話ではない。「限界費用」と「平均費用」に関連して、経済学の教科書にも似たような話は書いてある。)

 (1) 長期的には、「平均費用」
 長期的に言えば、企業は、「平均費用」だけを考慮する。ある生産活動をして、トータルで赤字を出すか黒字を出すか、ということだけが意味をもつ。だから、「平均費用」だけを考えればよい。
( ※ トータルの費用を販売数量で割ったのが平均費用。)

 (2) 短期的には、「限界費用」
 短期的には、企業は、「限界費用」をも考慮する。たとえば、今、市場価格が低下して、価格が平均価格よりも低くなったとする。このとき、「生産をやめた」と決めても、固定費用は残る。
 一方、このとき、生産を続けると、平均費用はまかなえなくても、限界費用はまかなえることがある。それなら、生産する方がいい。固定費用のすべてをまかなうことはできなくても、一部分を撒かなくことができるようになるからだ。トータルとしての赤字は残るが、その赤字を縮小することができるからだ。
 というわけで、短期的には、限界費用だけを考える(そして平均費用以下でも生産する)のが好ましい。
( ※ とはいっても、ここでは、固定費の赤字は残る。だから、企業は、固定費の削減にやっきになる。というわけで、不況のときは、企業は次々とリストラという名目で従業員を減らし、固定費となる人件費を減らそうとするのである。)

 [ 付記 ]
 上の「固定費を削減しようとする」ということから、次のことがわかる。
 「不況期には、企業は、設備投資をしたがらない。(既存設備の稼働率向上が優先課題となる。新規に設備投資をしても、その分、売上げが増えるはずがないので、投資を回収できない。固定費が増えて、赤字が増えるだけだ。)」
 「だから、不況期には、投資減税はほとんど効果がない。(通常の更新分の設備投資に対する減税として、企業の財務内容を改善する効果はあるが、新規の設備投資を増やす効果はない。つまり、需要増加という景気回復の効果はない。1兆円の減税をしても、1兆円の投資が増えるわけではなく、需要増加はほとんどゼロに近いだろう。乗数効果は最低。)」
 「ただし、好況期には、投資減税( ≒ 金利低下)は、大きく効果をもつ。わずかな金利の上げ下げで、投資の増減に大きく影響する。」
 「こういうふうに、金利(≒投資補助金)による投資への影響は、不況か好況かで、大きく異なる。景気の振幅に比べて、設備投資の振幅は増幅される。不況期には投資意欲が急減し、好況期には投資意欲が急増する。このことは、『加速度原理』というふうに理解される」( → 6月11日 の (2) 。「調整速度」の差。)
 「逆に言えば、『加速度原理』の理由が、トリオモデルの下限直線を考察することで、根拠づけられるわけだ」

( ※ 最近、「投資減税」「法人税減税」というのが主張されているが、こういうのは、ろくに効果がない、とわかるわけだ。)

  【 追記 】
 本項で述べたことは、8月21日において、もっと詳細に説明する。そちらを参照。


● ニュースと感想  (8月06日)

 前々日の関連。「左点からの脱出方法」について。(特に重要な話ではない。)
 「左点からは脱したいのだが、脱しにくいので、ジタバタしている」と前々項では述べた。では、左点から脱するには、どうすればいいか? 
 これは、もちろん、「不況を解決するには、どうすればいいのか?」という質問と同じである。答えは、容易ではない。それでも、簡単に答えを言えば、次の通り。  ここでは、「需要を増やす」という方策を示した。
 一方、トリオモデルの原理からすると、需給ギャップを解消する方法は、次の三つがあるはずだ。
   ・ 需要を増やす
   ・ 供給を減らす
   ・ コストを下げる
 この三つについて、以下で考察しよう。
( ※ あらかじめ結論を言えば、三つのうち、「需要を増やす」のみが有効で、他の二つはほとんど無効だ、となる。)

 (1) 需要を増やす
 不況は通常、需要が急速に減ったことに起因するのだから、需要を増やすのが最も本質的な対策である。
 需要を増やすには、需要として、三つの分野がある。
   ・ 官需   (公共事業)
   ・ 企業投資 (金融緩和による)
   ・ 個人消費 (減税などによる)
 そのうち、どれを増やすのが好ましいか、という問題については、これまでさんざん論議してきた。だから、ここでは再論しない。

 (2) 供給を減らす
 供給を減らせば、たしかに、需給ギャップは解決する。だから、「過剰設備を廃棄せよ」という主張をよく見かける。
 なるほど、エチレンとか造船とか、ある分野で世界的に供給過剰である場合には、そういうことは成立する。なぜなら、その過剰設備状況は、今後ずっと解決しないはずだから、たしかに過剰設備を廃棄することは有意義だからだ。(必要もない設備を過剰にかかえて、そのせいで投げ売り合戦するのでは、愚かしい。)
 しかし、マクロ的には、この「設備廃棄」「供給削減」という方策は、愚の骨頂である。なぜなら、いったん供給を削減して、不況が解決したならば、ふたたび供給を増やす必要があるからだ。
 「設備を捨てて、そのあとでまた設備を購入する」── これでは、金をドブに捨てているのと同じことだ。「穴を掘って埋める」というのと同じくらいの無駄だ。
 「供給を減らすべし」という説が成立するのは、「供給を減らしたあと、その状態がずっと続く」という前提が成立する場合だけだ。つまり、「縮小均衡」をめざす場合だけだ。
 では、実際には? 不況期には、「縮小均衡」をめざすのではなくて、「もとの正常状態での均衡」をめざす。「失業者が 400万人近く」という大量の失業状態を維持したままでの縮小均衡をめざすわけではなく、失業を解消させる(経済を拡大させる)ことをめざす。……となると、「供給を減らす」という方策は、見当違いの方策なのである。

 (3) コストを下げる
 これは、悪くはない。実際、マクドナルドや吉野家では、コスト削減で、商品価格を下げ、客を増やして、経営を好転させた。また、自動車産業では、コスト削減運動で、コストを大幅に削減した。
 しかし、こういうのは、そういつまでも続くものではない。「1年でコストの 20%削減」なんてのは、1回ぐらいはできても、何年も持続するわけには行かない。また、特定の産業でなら可能だろうが、あらゆる産業で同様のことをすることはできない。
 しかも、これらの産業でコスト削減をしても、マクロ的には、見かけほど効果が上がっていないことが多い。たとえば、自動車産業はコスト削減で多大な利益を上げることができたが、下請け会社の利益や従業員の給与は削られてしまった。自動車産業は「パイの取り分が増えた」と大喜びだが、他人は「パイの取り分が減ってしまった」と嘆いているわけだから、マクロ的には、たいしてメリットがあるわけではない。場合によっては、悪影響すらある。たとえば、下請け会社がどんどん倒産してしまうと、自動車会社が得た利益以上の損失を社会にもたらす。自動車会社がコスト削減で1億円の利益を出すが、下請け会社は倒産して 10億円の負債を発生させて、赤字を社会にばらまく、というふうに。……こうなると、社会に 10億円の損失を発生させて、自動車会社が1億円の利益を得たわけだから、「社会から泥棒している」ようなものだ。
 「生産性の向上」によるコスト削減ならばいいが、それは非常に難しい。一方で、「他社の利益を食いつぶす」という形のコスト削減はたやすいが、マクロ的には益よりも害の方が多いこともある。
 というわけで、「コストを下げればいい」というのは、そう簡単な話ではないのである。
( ※ ただし、エコノミストは、「生産性の向上こそ不況脱出の決め手だ」と主張しがちである。まったく、彼らは自分では何も生産しないから、口先だけで「生産性向上」と唱えるのである。口先だけで「生産性向上」と唱えれば、それで生産性向上が実現できる、と思い込んでいるらしい。度しがたい人々だ。彼らも少しは、汗をかいて働いてみればいいのだが。そうすれば、「生産性向上」というのがいかに困難か、よくわかるだろう。この世に「打ち出の小槌」などは存在しないのだ。チョイチョイと小槌を振れば、それでたちまち生産性が向上、なんてことはありえないのだ。)

 [ 付記 ]
 「供給削減」に関連して、「縮小均衡」について述べておこう。

 (1) 最善ではないこと
 「縮小均衡」は、需給ギャップの発生を止めることができるので、不況に比べれば、マシではある。しかし、マシではあっても、最善ではない。
 たとえれば、こうだ。あなたはもともと 100万円を得ていた。デフレのせいで、100万円が 90万円に減って、嘆いていた。そこへ「損を減らして、95万円にしてあげますよ」と言われた。……これでは、悲しみは減るが、喜びは生まれないのである。

 (2) ワークシェアリング
 それでもどうしても「縮小均衡」をめざしたい、というのであれば、方法を選ぶべきだ。つまり、無駄の多い「設備廃棄」よりは、「ワークシェアリング」の方が好ましい。こちらなら、「穴を掘って埋める」ようなことよりも、弊害が少ないからだ。(労働時間を減らしたり増やしたりしても、無駄は生じない。設備を減らしたり増やしたりするのとは違う。)
 ただし、である。「ワークシェアリング」というのは、即効性がない。法律を作って、民間会社に促進しても、それが世間に十分に普及するには、数年ないし十数年の時間がかかるだろう。とても「不況解決」の策とはならない。やればやったなりに微々たる効果はあるだろうが、あくまで、微々たる効果でしかない。400万人近くいる失業者のうち、1%ぐらいはこれで雇用が増えるかもしれない、という程度だ。
( ※ 「ワークシェアリング」というのは、一種の労働政策として、長期的に実現をめざすべきものだ。景気対策とは異なる。景気対策としては、もっと即効性のある政策を選択するべきだ。減税など。)

 (3) インフレを呼び起こすこと
 「縮小均衡はそれなりにすばらしい」という意見もある。「やたらと過剰消費して、資源を無駄遣いするよりは、倹しく暮らす方がいい」という意見である。
 なるほど、それはもっともな意見だ。しかし、そういう意見は、デフレのときではなくて、インフレのとき(過剰消費しているとき)に言うべきことだ。「過剰消費をやめましょう」と。……だから、言う時期が正反対である。
 なるほど、デフレのときに「縮小均衡はいい」と思うのは、一種の現状肯定である。慰めにはなる。しかし、そんな慰めをあなたが信じていても、他人は信じない。人間というものは、根本的には、贅沢が好きなのだ。金さえあれば、誰だって好き勝手に使いたがる。
 いったん供給を削減して( or ワークシェアリングをして)、縮小均衡を達成したとしよう。それでデフレは解消した。そして、どうなる? あなたは「さあ、このまま縮小均衡を続けよう。倹しく暮らそう」と叫ぶ。しかし人々は、そんな言葉は聞かない。「もう失業の不安はなくなったぞ。やっとまともな暮らしができるようになったぞ」と安心するので、普通の生活に戻る。つまり、元の水準まで、消費を増やす。(縮小均衡の拒否。)
 このとき、どうなるか? 供給は削減され、消費は増える。供給不足と、消費過剰。── たちまち、インフレの発生である。大幅なデフレを無理矢理解消した反動で、大幅なインフレが発生する。人々は「値上がり前に我先に」と購入活動を開始するので、インフレがインフレを呼び、インフレスパイラルとなる。
 それで話が済めば、まだいい。このとき、インフレを抑止するために、金融を引き締めれば、大量の倒産や失業が発生する。となると、元のもくあみである。
 はっきり言おう。「供給能力の削減」というのは、「経済体力の破壊」であり、「二本のアルゼンチン化」である。アルゼンチンを見るがいい。供給能力がないせいで、ひどい経済状態に苦しんでいる。物価上昇と高金利と失業と倒産。── こういう道をあえて望む、というのは、狂気の沙汰だ。

 [ 余談 ]
 もっとひどい論説の例は、朝日・朝刊・社説 2002-08-03 に見られる。「設備投資の促進」および「過剰設備の廃棄」という正反対のことを、「同時になせ」と主張している。「設備を買って、設備を捨てる」べきだ、と。「そのために国費を大幅に投入するべきだ」と。
 自分で自分の言っていることがわかっているのだろうか? 矛盾というより、狂気。

 [ 補足 ]
 左点では、需給は一応、量が一致している。その意味では、「準・均衡状態にある」と見なせなくもない。たとえ「縮小均衡」ではなくても、それに似た状態と見なせなくもない。……だから、「これでもいいじゃないか」という意見も出てくるだろう。
 しかし、やはり、左点からは脱するべきなのだ。ミクロ的には(i.e. 特定産業だけでは)、このような状況は許容されても、マクロ的には、このような状況は許容されないのだ。なぜなら、マクロ的に需給ギャップが発生していると、「失業」問題が発生するからだ。── これは、商品市場ではなくて、労働市場の問題である。
 商品市場ならば、企業が「採算ギリギリ」ないし「若干の赤字」という状態でも、存続可能だ。だから、「ただちにそこから脱しなくてはならない」ということにはならないかもしれない。しかし、労働市場では、「大量の失業の発生」という状況は、どうしても避けなくてはならないのだ。
 なぜか? 設備が余剰であるなら、設備を廃棄することもできる。しかし、人間が余剰であるなら、人間を廃棄するわけには行かないからだ。── 余剰だからと言って、人間を死なせるわけにはいかない。
( ※ しかるに、現実には、年間3万人以上の自殺者が出ている。 → 2月15日bzakzak によると、「生活苦」を直接の理由に挙げた例は 6000人。間接的な影響も含めて考察すれば、平常時の景気に比べて、倍増しているから、1万5000人程度が不況による増加。)
 人を不幸にしたり死なせたりする「失業」は、絶対に避けなくてはならないのだ。だからこそ、マクロ的に「需給ギャップ」のある状態は、一刻も早く、そこから脱しなくてはならないのである。── 個々の企業の赤字解消のためではなくて、国民の生命を救うために。
( ※ 「ワークシェアリング」をすれば、失業の問題は回避できる。つまり、労働力において「供給削減」をして、「縮小均衡」を得ることができる。ただし、それは、実現性がない。たとえばパソコン産業で、一人あたりの労働時間を2割減らして、従業員を2割増やす……というのは、実現はできない。なぜなら、職場の机と椅子もないからだ。同様のことは、あらゆる職場で成立する。仮に、職場の机と椅子を増やしても、景気回復後には、それらは不要となるのだから、そんなものを企業が用意するはずがない。先にも述べたように、ワークシェアリングというのは、長期的に少しずつ実現するべきものであって、短期的な効果は見込めないのだ。)


● ニュースと感想  (8月07日)

 時事的な話。政府の最近の景気対策について。(特に読まなくてもよい。)
 政府の景気対策として、「先行減税」という案がだいたい固まってきたようだ。当初の経済財政諮問会議の方針は、「歳出削減を財源として、1兆円の法人税減税を」という案だった。その後、財務省の方針で、「将来の増税を財源として、1兆円の法人税減税を」という案になったようだ。増税時期はまだ曖昧だが。(朝刊・各紙 2002-08-04 )
 さて。ここでは基本的には、「現在の減税と、将来の増税」という私の初期の提案( 中和政策 )が、一応実現に向かっているように見える。これはこれで、好ましい。ただ、私としては、いくつか点を指摘しておこう。皮肉ふうに。
  1.  小泉首相へ
     小泉はこれを述べるにあたって、「単年度の財政均衡を求めず、多年度の財政均衡を求める」と威張っている。まるで自分のアイデアであるような口ぶりだ。しかし、呆れた話だ。1年前までは「多年度の均衡なんかダメだ。単年度の均衡こそ大事だ」と強く主張していたのだ。自分の言ったことを忘れないでほしい。「君子豹変」どころか、「ムネオ・マキコばりの健忘症」だ。(ボケかかっているんですかね?)
     頭がボケているのでなければ、自己反省を表明するべきだろう。「以前の態度は間違いでした。だから態度を改めます」とね。なのに実際には、「単年度にせよ、多年度にせよ、どっちにしろ財政均衡だから同じことだ。以前から変わっていない」などとうそぶくのでは、人格を疑われる。
  2.  経済学者へ
     経済学者も、同様だ。「現在の減税と、将来の増税」ないし「単年度でなく、多年度での財政均衡」── こういう案があるのに、少しも言及してこなかった。単に、「量的緩和」「インフレ目標」「不良債権処理」「公共事業」「円安」といった、そんなことばかり言及してきた。反省するべきだ。
     そもそも、こういう「減税と増税」について、反対してきたのなら、それはそれでまだわかる。それはそれで一つの立場だから、異なる立場として尊重しよう。しかし、「まったく言及してこなかった」というのは、経済学者として、失格だ。賛成であれ、反対であれ、とにかく言及しておくべきだった。なのに、肝心かなめのことについては口をふさいで、見当違いのことばかりに言及してきた。
     自らの無知を恥じるべきだ。今からでも遅くはない。「自分はこれまで、これについて言及してきませんでした」と告白して、賛成なり反対なり、「意見を表明します」として、遅ればせに語るべきだ。(政府に先行して提案するのではなく、政府の後追いをするべきだ。)
  3.  マスコミへ
     マスコミも、同様だ。現在の減税と、将来の増税」ないし「単年度でなく、多年度での財政均衡」── こういう案があるのに、少しも報道してこなかった。単に、「量的緩和」「インフレ目標」「不良債権処理」「公共事業」「円安」といった、そんなことばかり報道してきた。反省するべきだ。
     マスコミの責務とは、何か? 情報を報道することだ。ならば、「やる、やらない」はともかくとして、「こういう案がある」ということを、マスコミは報道するべきだったのだ。今回の方針は、最も有力であるにもかかわらず、マスコミは会えてこの方針を報道してこなかった。かわりに、上記のような「量的緩和」etc. といった、無効となる政策ばかりを、さんざん報道してきた。必要な情報よりも、不要な情報ばかりを報道してきた。
     だから私は繰り返して、批判してきたのだ。「現在の不況の最大の責任者はマスコミだ」と。「現在の減税と、将来の増税」と今になって小泉が言い出すぐらいなら、1年前にマスコミが報道すればよかったのだ。なのに、そうしなかったから、政府は方針を決めるのに、1年も無駄にしてしまった。
     1年前に、私はすでに「中和政策」を明示していた。マスコミもこのことはちゃんと理解していたはずだ。無断引用もするぐらいだし。だいたい、無断引用ぐらいならば、私への裏切りで済むが、肝心の情報を提示しないというのは、国民への裏切りである。
     しかも、である。政府はいまだに、減税の「時期と方法」を、正しく理解できずにいる。どういう時期でどれだけの規模でやるべきか、全然わかっていない。(間違った案を出している。)
     だから、ここでマスコミは、自らの責務をなすべきなのだ。「これこれの時期で、これこれの規模で」という情報を、正しく示すべきなのだ。その情報は、ちゃんと、このホームページに書いてあるのだから。( → 2月04日b
     だいたい、「現在の減税と、将来の増税」ないし「単年度でなく、多年度での財政均衡」というのは、このホームページが元祖元来だ。なのに、そこに書いてある経済学的な根拠を無視して、単に思いつきだけで、「現在の減税と、将来の増税」というふうに済ませようとする。ここでもまた、マスコミは「情報提供」という自らの責務を放棄している。
     繰り返して言う。マスコミのなすべきことは、「情報提供」だ。政府が「どの時期にどの規模で」ということで勘違いしているのなら、その正しい解答をしっかりと情報提供するべきだ。
    ( ※ ついでに、朝日新聞批判。朝日・朝刊・社説 2002-08-03 では、上記の情報について「政府は具体案を示すべきだ」と述べている。しかし、勘違いしてはいけない。具体案を情報提供するのは、政府よりもマスコミの責務である。政府のなすべきことは、具体案を提案することではなくて、既存の具体案のなかから最適のものを選択することだ。政府は経済学者ではないのだから、最適の経済政策などを立案する必要はない。単に既存の案のなかから、ベストのものを選択すればよい。提案するのは、経済学者の役割だ。経済学者の提案を報道するのは、マスコミの役割だ。また、政府が間違った政策を出したなら、正しい対案というものを示すことで情報提供するのも、マスコミの役割だ。……まったく、自らの本分を忘れないでほしい。マスコミというのは、情報を提供するのが仕事であり、首相の代理をやるのが仕事ではないのだ。(どうも、首相の代理をやりたがってばかりいるようだが。)
  4.  経済財政諮問会議へ
     今回の政府の方針の書記の案は、下記の経済財政諮問会議の方針に基づく。
       a. 財源は政府の歳出の削減で
       b. 1兆円規模の減税
       c. 法人税減税 

     このうち a の「歳出削減」は、上記のように、「現在の減税と、将来の増税」というふうに改められた。それでも一応、この初期の方針について批判しておこう。( b ,c については、後述する。)
     財源を、歳出減でまかなえば、どうなるか? 結局、「こちらで需要を増やして、あちらで需要を減らす」となるだけだ。差し引きして、総需要は増えない。だから、マクロ的には効果はない。経済学のイロハである。
     だから、このち a で判明したことは、「経済財政諮問会議の連中は、マクロ経済学の初歩を知らない」ということだ。まったく、呆れた話。(この点では、小泉や財務省の方が、まだマシである。ただ、b ,c については、小泉や財務省も誤りを訂正できないままである。)
 上の b ,cについて、これらは、経済財政諮問会議の方針が、そのまま維持されて、政府の方針となった。これらについて、批判をしておこう。(かつて述べたことの繰り返しになるが。)

 1兆円規模の減税
 規模が1兆円程度では、全然足りない。
 需給ギャップは、数十兆円の規模なのに、1兆円程度では、規模が小さすぎて、焼け石に水である。
 そもそも、このことは証明済みだ。「小規模の減税が無効である」ということは、この十年間で数度の(それぞれ)数兆円規模の減税で、実証済みだ。1兆円規模というのは、それよりももっと小さい。これっぽっちの減税で、効果があるのならば、何年も前に、とっくに景気回復が実現しているはずだ。
 過去を見よ。過去を学べ。歴史から教訓を得よ。……数年前の過去も忘れてしまったのなら、健忘症なのだから、政権の座から降りて、アルツハイマー病の治療院へ行くべきだ。小泉さん。あなたのいるべき場所は、首相官邸ではなくて、老人病院か精神病院だ。

 法人税減税 
 法人税減税というのは、狙いがズレている。そもそも、企業の設備投資が不足しているのではなくて、個人消費が不足しているのだから、企業向けに減税をしても、あまり意味がない。
 設備投資を増やすには、金利の低下を行なえば十分だ。今のゼロ金利という状況では、企業に設備投資意欲がないからそうなっているのだから、これ以上は無理なことは何もする必要はない。何かしても、ほとんど無効である。
 だいたい、設備が過剰であるときに、無理に設備投資をさせると、投下資本が回収できずに、倒産が激増する恐れすらある。消費を増やさないまま、供給能力だけ増やしても、意味がないのである。
 はっきり言おう。「投資促進」というのが必要なのは、「供給不足」のときだ。たとえば、途上国とか、アルゼンチンとかだ。そういうふうに「供給不足」がはっきりしていて、物価が急上昇しているときには、「投資促進」によって、「供給拡大」が必要となる。しかし、今は逆に、設備が過剰である。「設備投資」よりは、「設備廃棄」の方が有効であるのだ。「投資促進」というのは、めざす方向が逆である。
 たとえば、どうなるか、予想してみるがいい。こうなるだろう。── 「設備投資をしたら、設備を生産する機械産業が一時的に潤った。しかし、その設備によって生産することはできない。(需要が不足したままだから。) かくて、自動車もパソコンも、少しも生産が増えないまま、設備が遊休して、投下資本を回収できなくなる。かくて、1年後には、自動車産業やパソコン産業で、企業が次々と赤字化して、不況がいっそう深刻化していく」。

 [ 付記 1 ]
 「法人税の減税がまずい」というのには、別の理由がある。将来の増税が、「法人税の増税」にはならないから、「国民から企業へ」という所得移転が起こる。そのせいで、現在の消費をいっそう縮小するのである。── つまり、景気回復とは逆の効果がある。
 「現在の減税と、将来の増税」というのは、政府の方針では、「現在の企業向け減税と、将来の国民向け増税」である(らしい)。つまり、「減税の分は今すぐ企業に与え、増税の分は将来に国民から奪う」というわけだ。差し引きして、国民は、金を奪われるだけだから、当然、将来の増税を見越して、今は消費を減らさなくてはならない。
 一方、企業としては、減税で得た金を、従業員には与えずに、単に銀行預金するだけだ。(そのことは、円安による増益のときに証明済み。)
 結局、法人税の増税というのは、マクロ的には、国民は個人消費を減らして、一方、企業は投資をろくに増やさずに貯蓄ばかりを増やす。だから、景気はかえって冷える。
( ※ これは誇張ではない。実際、国民のパソコンや自動車の購入は抑制される。企業の設備投資は少しは増えるかもしれないが、しょせんは国民のパソコンや自動車の購入が減るのだから、「需要縮小」と「供給拡大」のダブルパンチで、需給ギャップはいっそう開いていく。せっかく増えた設備は何の役にも立たずに、遊休するから、ガラクタも同然だ。結局、「設備投資」というのは、「ガラクタ投資」と同じになる。── 「遊休設備でパソコンや自動車を生産する」(経済活動を正常化する)というのが、不況脱出の方法なのに、それとは逆に、「遊休するはずのガラクタ設備ばかりを生産する」(経済活動を悪化させる)ということをやる。狂気。)
 結局、「企業向けの減税」(国民に増税)というのは、効果が最悪なのだ。効果がゼロではなくて、効果がマイナスなのだ。こんなことは、やらない方がマシなのである。やればやるほど、景気が悪化するだけだ。

 [ 付記 2 ]
 「将来の増税は、国民からではなく、企業から」という案もある。つまり、「現在の減税も、将来の増税も、ともに企業を対象に」という案だ。
 これは、別の問題が発生する。「リカードの等価性」ないし「合理的期待形成仮説」が働くのだ。
 企業というのは、「完全に合理的」というふうに見なしてよい。そして、合理的な企業は、将来の法人税増税が予定されていれば、今すぐ減税があっても、ホイホイと浮かれて投資を増やしたりはしないのだ。(当たり前だ。企業はちゃんと投資計画を練る。)
 だから、「現在の減税と、将来の増税」というのは、企業向けの法人税の増減税では、効果はないのである。効果はゼロだ。(マイナスではないが。)
( ※ 投資減税ならば、効果はゼロではない。実際に投資を増やす企業は出てくるだろう。ただし、たった1兆円では、景気は回復しない。景気は回復しないのに、投資を増やした企業は、赤字が拡大して、倒産する。ゆえに、効果は、ゼロではない。「当面は若干のプラスで、将来は多大なマイナス」である。)

 [ 付記 3 ]
 「1兆円を大きく上回る大規模な減税はできない。あとで増税が困難だから」と竹中大臣が述べている。(読売・朝刊・2面 2002-08-05 )
 しかし、これは、「法人税減税」だからだ。「今は企業に金を渡して、将来は国民から金を奪う」というのは、一種の泥棒のようなものだから、困難に決まっている。
 だからこそ、今も将来も、国民を対象とした増減税でなくてはならないわけだ。竹中大臣や政府はどうも、自己矛盾に気づいていないらしい。「困難だ」と思うのならば、「企業向け減税」なんていう馬鹿げたことは、さっさとやめるべきだ。(先にも述べたとおり、それは景気回復効果どころか、景気悪化の効果しかない。景気悪化の効果のある政策が困難なのは、当然のことだろう。)

 [ 付記 4 ]
 結局、どうすればいいか? 
 「現在の増税と将来の増税」をするにしても、まともな方法は、一つしかない。すなわち、「国民向け」および「大規模で」という2条件を、ともに満たさなくてはならない。それによって個人消費が急激に拡大して、物価も上昇し、景気は拡大基調に乗る。
 ただ、「先に減税」という中和政策に対しては、財務省の強力な反対があるかもしれない。それに対しては、妥協案として、次のような方策もある。
   ・ 来年4月から消費税を増税する。(5% → 10%)
   ・ 消費税の増税の4年分にあたる金額を、来年4月に一挙に減税。
 おおざっぱに試算してみよう。GDP が 500兆円。個人消費が 6割。消費税の増税分(歳入増)は、 500兆円 × 6割 × 5% × 4年間 = 60兆円。だから同額の 60兆円、減税ができる。国民一人あたり 50万円ぐらいを渡す。(そのうち半分は、各種の社会保険料の強制徴収で、国が先に徴収しておいてもよい。国民の手取りの減税は、半分に減るが、将来の義務負担が減るから、どちらにしても 50万円をもらうことには変わりない。)
 来年春に 50万円をもらう! これをやれば景気回復は確実! 


● ニュースと感想  (8月08日)

 時事的な話。マネタリスト批判。(特に読まなくてもよい。)
 私はこれまで小泉をさんざん批判してきたが、小泉にも一つは美点がある。それは、自民党に属している、ということだ。
 自民党というのは、企業から金をもらって、企業のために尽くす政党である。医療費やら何やら、国民からさんざん金を奪って、法人税減税をして、国民から企業に所得移転を起こす。── これは、自民党の成り立ちを考えれば、当然するほど当然だ。矛盾はない。(こんなことをすれば、景気が悪くなるので、しょせんは企業は損をするのだが、企業は頭が悪いのだから、それでいいと自分たちが思っている。自分たちが損する道を選ぶわけだから、その道を選ばせて損をさせてやればいいわけだ。とにかく、彼らのしたいようにさせてあげる。)
 とにかく、小泉は自民党に属しているのだから、いかに国民の金を奪って企業のために尽くすとしても、それはそれで当然であり、立場に矛盾はないわけだ。(「小泉は国民のために尽くしてくれるだろう」という国民の期待の方が、もともと妄想にすぎない。そんなのは「悪魔は天使だろう」と期待するようなものだ。)

 さて。小泉はそれでいいが、問題は経済学者の方だ。特に、マネタリストだ。
 マネタリストというのは、そもそも、保守派である。企業寄りである。
 こういうふうに、マネタリストというのは、保守派であり、企業寄りである。この点では、自民党と同じ根源にある。
 それでも、「企業に金を与える」というのが、景気回復効果をもつのであれば、まだ「経済学的だ」と言えるから、正論となるだろう。しかし、今のように個人消費不足のときには、「企業に金を与える(国民に実質増税する)」というのは、個人消費を縮小させ、景気回復をかえって遅らせる。逆効果なわけだ。経済学的には逆効果のことを、あえて推進しようとする。── それというのも、彼らが「保守派」「企業より」であって、経済学的な真実に目を向けることができないからだ。
 
 結局、マネタリストというのは、正しいとか正しくないとかいう以前に、自己矛盾を起こしているのである。小泉のように、「企業のため」という立場を取って、企業のために尽くすのならば、矛盾はない。しかしマネタリストは、口先では「国民のため」という立場を標榜して、実際には企業のために尽くす。「景気回復効果を出す」ということを口先では語って、「景気悪化効果を出す」という方策を実際に示す。── まったく矛盾しているわけだ。
 特に矛盾しているのは、彼らが政府批判をすることだ。「小泉は血も涙もない」とか、「政府はデタラメな無効な政策を示している」とか。……呆れた話だ。「血も涙もない」政策を取っているのは誰か? デタラメな無効な政策を示しているのは誰か? マネタリスト自身ではないか。
 彼らは自分が保守派企業の手先にすぎないことを、自分で認識できないのである。自分で自分の姿が見えないのである。自分は本当は悪魔の姿をしているのに、自分は天使の姿をしていると思って、小泉という悪魔を詰っているのである。
 「鏡を見よ。自分の姿を知れ」── 私は彼らに、そう忠告したい。そして、そのための鏡として、私はしつこくマネタリストを批判しているのである。
( ※ しつこすぎて、すみません。でもまあ、相手は巨大な主流派ですから。手強い相手を見ると、どうしても歯向かいたくなってしまうんです。へそ曲がりなもので。)


● ニュースと感想  (8月08日b)

 雑感。「地球温暖化」について。(夏休み関連の話題。お暇な人向け。読まなくてもよい。)
 南太平洋のツバルという島国が、地球温暖化で、水没の危機にあるので、全島民が国外に移住を希望しているが、受け入れる国がない、とのこと。(朝日・朝刊 2002-08-06 )
 これは、解決は簡単。国民の一部ではなく全員を、日本が受け入れればよい。と同時に、領土も受け入れる。
 これによって日本は、南太平洋に広大な領海と経済水域を得ることができる。土地はリゾートランドとして利用できる。
 水没の危機? そんなのは、大丈夫。日本またはオーストラリアから土を運んで、土地を盛り上げればよい。ごく小さな領土なのだから、運ぶ土の量はたいしたことはない。海面の上昇は、年に3センチ程度でしかないのだから、毎年3センチずつ、土地を盛り上げればよい。

 [ 付記 ]
 ツバルと比較して示そう。
 (1) 北方領土
 北方領土を返還してもらった場合、ロシアに対して、数十億ドルの援助が必要となるだろう。また、返還してもらった土地は、国有財産とはならず、すべて旧島民の子孫のものとなる。一方、ツバルの場合、かかる費用はずっと少なくて済むし、土地はすべて国有財産となる。受け入れた島民も、別に、日本の東京に住む必要はなく、小笠原などの離島にでも住んでもらえばよい。(そこに住宅を建てる。)
 (2) 三宅島
 三宅島では火山爆発のあと、ここに莫大な国費を投入している。旧島民1人あたり、1千万円程度をプレゼントしている計算になる。それだけの金をかけても、土地も何もかも、国有財産にはならず、すべて島民のものになる。莫大な税金の浪費。しかも、20年後にはまた火山が爆発する予定なので、20年後にはふたたび莫大な国費を投入する必要がある。ほとんどシジフォス的な浪費。


● ニュースと感想  (8月08日c)

 時事的な話。新札発行について。(特に読まなくてもよい。)
 政府は、紙幣を新札にすることを予定しているという。さて。これに関連して言うと、「どうせならデノミ(の逆)をやればいい」という説を掲げておこう。(ただし本気ではない。)
 「百円」を「1円」と呼び直すデノミとは逆に、「1円」を「2円」と呼び直すことにするとよい。(逆デノミ。)── で、どうなるか? 人々は、手持ちの金の名称が2倍になるので、富が2倍になる。国の財産が一挙に2倍になる。だから、人々はみんな大金持ちだ。これで景気は回復するだろう。すばらしい名案! 

 これはもちろん、冗談だ。しかし、この冗談と同じことを、多くの経済学者は本気で言っている。それは「資産インフレで景気回復」という説だ。「資産デフレが起こったのだから、資産インフレを起こせば、景気が回復する」という説だ。
 これはまさしく、上の「逆デノミ」と同じ説だ。なぜなら、資産インフレというのは、しょせんは、「貨幣量の増加」にともなう「貨幣価値の下落」にすぎないから、「逆デノミ」と同じことなのである。
 資産インフレが起こっても、富は少しも増えない。実際、土地の面積は少しも増えない。土地の利便性もまったく向上しない。単に取引価格が上がるだけだ。このとき、それまで 100円で売買していたものを、200円で売買したとすれば、売り手が得をして、買い手が損をする。一国全体では、富は少しも増えない。なのに、売り手だけを見て、「富が増えた」と主張するのが、「資産インフレ」論者だ。


 もう少し正確に示そう。「資産インフレ」と同じことをもたらしたいのであれば、単に「逆デノミ」をするだけでなく、ついでに、非資産家から資産家に、所得移転を起こすといい。(たとえば、資産家に特別減税をして金を与え、一方、消費税を増税して国民全体から金を奪う。平均すれば、非資産家から資産家へ、所得が移転する。) こうすれば、資産家は金を増やし、同時に、非資産家は金を減らす。
 このとき、愚かな経済学者は、こう主張するだろう。「資産家が金を増やした。資産家が消費を増やすから、国の景気は回復するだろう」と。……まったく、馬鹿げた話だ。しかし、この馬鹿げた話を、「資産インフレによる景気回復」という説で、彼らは主張するのだ。彼らは、片目を開いて、片目をつぶって、「富が増えた」と錯覚しているのである。

 結局、愚かな経済学者の説を信じるのならば、「逆デノミ」を起こし、同時に、非資産家から資産家への所得移転を起こせばいいのだ。彼らの主張に従えば、このとき、実際には1円も富が増えなくても、国全体の富が何百兆円も増えたことになるだろう。紙幣の名称を変えるだけで、国全体の富が何百兆円も増えるのだ。これほどうまい話はない。ぜひぜひ、「逆デノミ」をやってもらいたいものだ。
( ※ ついでに言えば、「資産インフレ」によって、たしかに資産家の富は増える。ただし、それときっちり同額だけ、非資産家の富は減る。なぜなら、国全体の富は、「資産インフレ」によっては変化しないからだ。あちらが増えれば、こちらが減る。右手で増えれば、左手で減る。)
( ※ とにかく、今の日本の経済学者というのは、こういうレベルの連中ばかりなのだ。いちいち名前は挙げませんけどね。「インフレターゲットつき量的緩和」と言っている連中が、だいたい該当する。)

 [ 付記 ]
 余談だが、「デノミ」 denomination というのは和製英語。正しくは redenomination downward もしくは change of denomination である。


● ニュースと感想  (8月08日d)

 「首相公選制」についての最終報告がなされた。
 → 該当ページ


● ニュースと感想  (8月09日)

 「首相公選制の私案」の最後に、加筆した。
 前項で示した報告への批判を、追加した。(あまりにもひどい報告なので。)


● ニュースと感想  (8月09日b)

 時事的な話。米国経済の株価バブルについて。(特に読まなくてもよい。)

 不動産インフレについては、前項を含めて、私もあれこれと何度か指摘してきた。株価バブルについては言及が足りなかったが、サミュエルソンがうまく指摘している。(読売・朝刊・1面コラム 2002-08-05 )
 サミュエルソンは、次のようにいろいろと指摘している。──
 米国の不正経理の本質は、「企業と会計事務所の馴れ合い」である。
 さて。ストックオプションのせいで、経営者は莫大な所得を得るようになった。労働者の平均給与に比べると、1980年代には 40倍だったのに、2002年には 400倍にもなった。
 マネタリストたちは、こういう状況を歓迎した。彼らがこのように高所得を上げるようになったのは、それだけの利益を生むようになったからだ、というわけだ。しかし、こういう傾向が、結局は、最近の不正経理を招いて、エンロンやワールドコムなど、どんどん会社を破綻させるようになったのである。

 ここで大切なことは? サミュエルソンの言葉を引用すれば、こうだ。
「インチキな企業利益をでっち上げて、株価を上げてから、うぶな買い手を相手にして売り抜けることで、何百万ドルもの儲けを出す」。それが「オプションから利益を引き出すための手法である」。そして、彼らは儲かるとしても、「それによって痛手をこうむるのは、従業員と債権者である」

 ここでは、私が何度も指摘したのと、同じ論法が使われている。株価を勝手に釣り上げること(資産インフレを起こすのと同様なこと)をして、名目価格を上げても、それで実際の富が増えるわけではない。単に帳簿の上で利益が発生すると見えるだけだ。見かけの上で利益が出るだけだ。そして、その利益を、一部の人(株主・資産家・経営者)が食いつぶす。彼らが利益を食いつぶせば、その分、他の人が損をする。そして、このとき、経済学者は、利益を得た人だけを見て、「利益が出た、すばらしい」と称賛するのである。
 資産インフレにせよ、不正経理にせよ、実質的にはゼロサムのもとで、誰かが利益を得て、その分、誰かが損する。その基本構造は、変わっていない。(土地で言えば、地価上昇により、売り手が1億円を得すれば、買い手が1億円を損する。)── そして、こんなことは、善良な人間ならば、誰でも気が付くことなのだ。空から金は降ってこない、ということなのだから。
 しかるに、善良でない人間は、帳簿の上でだけ利益を発生させたのを見て、「利益が出た」と吹聴する。「富が増えた、富が増えた、万歳」と吹聴する。そういう粉飾決算ないし不正経理の構造がある。そういう粉飾と不正のために、多くの経済学者(マネタリスト)は寄与しているのである。(たとえば、「資産デフレで千兆円もの富が失われてしまった。だから資産インフレで千兆円の富を増やそう。そうすれば景気が回復する」と主張する。まさしく、粉飾と不正の手口。)

 [ 参考 ]
 本項と同趣旨のことは、以前も述べた。( → 7月14日b

 [ 付記 ]
 不正経理について。
 この件、米国でもクリントン時代には厳格処理の方向だったが、ブッシュ政権では甘やかしの方針となり、それが今回の不正事件に結びついた、とサミュエルソンは指摘している。
 この件、ついでに言えば、私の対案は、次の通り。
 「企業の監査をする会計事務所を、企業が雇うというのは、泥棒が警察官を雇うようなものである。泥棒は自らを逮捕する警察官を自由に選択できて、その給料を払う、というわけだ。馬鹿げている。警察官は泥棒から分離しなくてはならない。会計事務所の選択は、企業ではなくて、証券市場か国が行なうべきだ。そして、その費用だけは、企業が払う。また、会計検査を受けていない会社は、脱税をしてみると見なして、高額の見なし課税を実施する。例:売上げの 10% を利益と見なす。」


● ニュースと感想  (8月09日c)

 前項の続き。
 米国の不正経理事件で重要なことは、何か? ただの帳簿問題か? 違う。「米国はIT先進国だから景気がいい」という説が、実は妄想にすぎなかった、ということだ。
 「米国はITで一人勝ちだ。だから景気がいい。日本も真似をせよ」というふうに主張する経済学者が多い。しかしそれは、まったくの嘘っぱちだったのだ。
 かつて米国のIT産業が隆盛しているように見えたのは、一時的にすぎなかった。Yahoo も AOL も、株価は急激に上昇したあとで、急激に下落した。いわゆる「ITバブル」である。
 そして、そのバブルがはじけたあとで、「不正経理」事件が発覚した。これによっても、他企業でも、株価が実態以上になっていたことが判明したわけだ。

 不正経理は、一部の企業だけの問題か? 違う。前項の記事でサミュエルソンが指摘したように、そもそも、「ストックオプション」という制度自体が、不正経理と言える。本来ならば損金として扱う部分を、将来に回すことで、当面の利益を計上する。これは、「労働者から借りた借金を帳簿に計上しない」と言い換えてもよい。とにかく、「不正経理」と同等だ。
 「ストックオプション」という制度は、例外的には、認められてもいい。今は利益を上げられないが、急成長が約束されているようなベンチャー企業。こういう企業では、時間的な凸凹を平均的にならす効果があるからだ。しかし、すでに成長した大企業(時間的な凸凹のない企業)では、「ストックオプション」という制度は、不正経理と同等である。
( ※ 百歩譲って、認めるとしても、期間はせいぜい3〜5年だ。それだけの期間がたったなら、権利を強制的に行使させて、その分の損金処理を顕在化させるべきだ。そうしなければ、これはもう「不正経理」そのものだ。)

 結局、米国の「IT景気」というのは、「ITバブル」と「不正経理」の所産だったわけだ。こんなものを信じて、「米国の一人勝ち」なんて主張する経済学者は、頭がイカレている。
 そもそも、「米国の一人勝ち」ということはありえない、ということは、数字的にも簡単にわかる。仮に、そうなっているとしたら、「米国は大幅な貿易黒字」となるはずだ。しかし、実際には、逆だ。「米国は大幅な貿易赤字」となっている。
 日米間だけを見てもいい。日米間で貿易収支を見れば、明らかに「日本の圧勝」と言える状況だ。
 IT分野だけを見ても、別に、「米国の一人勝ち」という状況にはなっていない。日本はノートパソコンなどのハードを輸出し、米国はソフトやCPUを輸出しているが、別に、「米国の一人勝ち」ということはない。「持ちつ持たれつ」という関係だろう。

 より本質的に言えば、IT分野だけにこだわる必要はまったくない。マクロ的に経済全体を見て、貿易収支だけを見ればよい。そこでは、前述のように、「米国は大幅な貿易赤字」「米国の対日赤字も大幅」という状況がある。

 結局、「米国はIT先進国だから、好景気になる」というのは、「米国は穀物の大量輸出国だから、好景気になる」というのと同じで意味不明な論説である。また、「米国はIT先進国だから、好景気になる」ということ自体が、「不正経理」という実態によって崩れてきている。

 結論。
 「米国はITで好景気」などと主張してきた( or 主張している)経済学者は、みんな、間違っている。世の中のほとんどの経済学者は、間違ったことを主張しているのである。
 
 [ 付記 ]
 この手の間違いは、「IT景気」だけでなく、他にもいろいろとある。次のように。

 2001年秋:
   「米国のテロ不況は、2002年の夏に解消するだろう。また好況になる」
 1989年:
   「日本のバブル景気は、日本式経営のおかげだ。好況は永続する」
 2001年夏:
   「小泉の構造改革は、成功するだろう。状況はだんだん良くなる」

 こういうことを述べた経済学者たちは、みな、嘘つきである。だから、私は、読者に勧告しておこう。読者がもし、
 「南堂の言うことなんか、信用できないね。他の多くの経済学者の言うことの方が信用できる。多数決だ」
 と思うのであれば、私と反対のことを主張する、上記の経済学者たちを信じなさい。彼らは私とは反対のことを言ってきて、ことごとく予想がはずれてきた。そういう嘘つきを信じたければ、信じなさい。
 ただし、嘘つきを信じてから、あとで「だまされた」と思うのだけは、やめた方がいい。何度も嘘をついた人が、また嘘をつくのは、当たり前のことだ。


● ニュースと感想  (8月09日d)

 時事的な話題。「インフレ目標」と「資産インフレ」について。(特に読まなくてもよい。)
 私が資産インフレについて、あれこれと批判してばかりいるので、読者はうるさく感じているかもしれない。そこで、解説しておく。(前言の繰り返しになるが。)
 私がマネタリストを批判するのは、彼らが「貨幣数量説」をまともに理解できていないからだ。彼らは単に、「貨幣の数量を増やせば、物価が上昇する」と思い込んでいる。しかしこれは、誤解だ。正しくは、次の通り。
 こういう傾向があるのだ。この15年間の日本では。「全面的に」というほどではないが、かなり強い度合いでそう言える。
 なのに、マネタリストは、そういう傾向をまったく無視する。「流通速度の低下」ないし「資産価格の上昇」が起こるのだが、それを無視して、「物価上昇が起こる」と主張する。

 たとえば、「インフレ目標は、年3%ぐらいを目標とする。だからハイパーインフレは起こらない」などと主張する。しかし、そうか? 
 歴史を見るがいい。バブル期には、一般物価の上昇率は低かったが、資産インフレは急激に発生した。株価も地価も、年 10% を大幅に上回る上昇率を取った。これはまさしく「ハイパー」と言える過剰な上昇率だ。そういう過剰な上昇が、過剰なマネーサプライによって生じたのだ。つまり、「インフレ目標で、年3%を目標とすると、ハイパー資産インフレが発生した」と言えるのだ。

 また、たとえば、デフレ期に過剰なマネーサプライが生じていることを無視している。なるほど、デフレ期には、物価上昇率はマイナスだ。しかし、デフレの今、過剰なマネーサプライを放置すれば、将来、バブルの二の舞となる可能性が高い。つまり、ハイパー資産インフレの発生だ。(そのあとはふたたび、バブル破裂だ。)
 だから、今は、過剰なマネーサプライを減らす必要がある。需要を大幅に超過して滞留する資金を吸い上げる必要がある。なのに、マネタリストは、「まだマネーサプライが足りない。もっとマネーサプライを増やせ」と主張する。あげくは、「資産インフレは素敵だ。それで景気は回復する。資産インフレを狙って、マネーサプライを増やそう。バブルを再現させよう」などと主張する。ほとんど狂気である。

 こういう狂気を、多くの経済学者が主張する。「インフレ目標は、年3%ぐらいの物価上昇をめざすだけだから安心です」などと言って、人々をたぶらかす。彼らはおそらく、不動産業者の手先なのだろう。本来は1千万円の価値しかない土地を、人々に1億円ぐらいで売りつけようとする。「これで私は 9000万円の儲け。あなたも1億円の価値のものを1億円で買っただけだから損はしません。みんなハッピー。国の富は急激に増えた」と悪魔のようにささやく。そうやって人々の手元から、9000万円を奪い取ろうとする。……なるほど、人々は、夢が続いているうちは、自分がだまされたことに気づかない。しかし、夢から覚めたとき、自分がだまされたことに気づくのだ。「1億円だと思っていたものは、本当は1千万円の価値しかない」と。つまり、「鉛に金メッキをつけた小判は、純金ではなくて、ただの鉛にすぎなかった」と。
 この手の経済学者は、「資産デフレで、富が失われた」と大騒ぎする。違う。富が失われたのではない。単に夢が覚めただけだ。消えたのは、富ではなくて、夢や妄想なのだ。
 「インフレ目標で物価上昇が起こる」とか、「資産インフレで景気が回復する」とか、そういう説を主張する経済学者は、悪魔の手先なのだ。だからこそ、私は警告するのである。「悪魔の手先に、だまされるな」と。「金メッキをした小判をいくらもらおうと、そんなものには価値はないのだ」と。「名目価格がいくら上昇しても、数字ばかりがどんどん増えるだけで、富はちっとも増えないのだ」と。── それはつまり、「貨幣数量説を正しく理解せよ」ということだ。

 [ 付記 1 ]
 念のために言うと、「インフレ目標」そのものを批判しているわけではない。「インフレ目標を実施すれば、それだけで物価上昇が起こる」とか、「マネーサプライを増やせば、それだけで物価上昇が起こる」とか、そういう安直な説を批判しているのだ。需給ギャップに注目せず、個人消費も増やそうとせず、企業の生産も増やそうとせず、単に貨幣の数量だけを増やして、「それで大丈夫」と思うような、安直な思考法を批判しているわけだ。( → 「流動性の罠」)
 大事なのは、貨幣でもなく、帳簿の価格でもなく、実際の生産活動なのだ。

 [ 付記 2 ]
 「資産インフレ」というのは、「生産活動の増大」を意味しない。単に「取引価格の上昇」を意味するだけだ。
 ここを勘違いしている経済学者が多い。「資産インフレが発生すれば、富が増大する。資産家の富はたしかに増える」と。馬鹿げた話だ。たしかに、資産家の富は増える。しかしその分、非資産家の富は減るのだ。資産インフレというのは、土地を持たない一般大衆から金を奪って、土地を持つ資産家にプレゼントすることだ。マクロ的には、富は少しも増えはしない。( → 前日の「逆デノミ」でも同趣旨。)
 デフレの今、失業した人々は生活が苦しいが、それ以外の人は、けっこう気楽に暮らしている。「デフレもけっこういいじゃないか」と思う人も多い。それはそれで、一理ある。このとき、資産デフレにともなって、「資産家から非資産家への所得移転」が発生しているからだ。「資産デフレで資産家は富を減らした。大変だ!」と経済学者は騒いでいるが、実は、その分、非資産家は得をしているのだ。
 私の身辺では、この数年間に、自宅を購入した人がけっこういる。彼らは、資産デフレが発生したからこそ、東京近辺に一戸建てを購入することができた。バブル期であれば、とうていそんなことは不可能だったろう。資産デフレのおかげで、彼らは何千万円も得をした。── そういうことだ。資産デフレによって、資産家は大損をしたが、非資産家は得をした。(たとえ不動産を購入しなくても、家賃の値上げがないことで得をする。) だから、「資産デフレで資産家は富を減らした。大変だ!」と騒ぐ経済学者は、馬鹿か、狂気か、嘘つきであるか、そのいずれかなのだ。


● ニュースと感想  (8月09日e)

 これまであれこれと述べたが、政府や経済学者は、間違った政策ばかりを打ち出す。では、なぜか? 彼らは頭が狂っているのだろうか? 
 答えを言おう。実は、彼らは狂ってはいない。狂っているのは、彼ら自身ではなくて、彼らの信じている経済学説である。間違った経済学説が、間違った結論を出す。それだけのことだ。
 彼らは、経済学説に従って、こう考える。
「不況の原因は、企業の生産性の低下だ。だから、生産性の向上のため、市場原理に従って、劣悪な企業を排除して、優良な企業を伸ばせばよい。そうして競争を激しくすれば、生産性が向上して、不況から脱出することができるはずだ」
 これは、「市場経済によって状態は最適化する」という考え方だ。近代経済学の根幹をなす。
 しかし、この考えは、実は、まったくの間違いなのだ。そのことを、トリオモデルを使って、はっきりと説明することができる。
 この件は、明日、詳しく言及する。

( ※ 上記のことに、ケインズは気づいていたが、しかし、うまく説明できなかった。彼は、不況のときには市場原理がうまく働かないことに気づいていたが、どこがどう働かないのかは、うまく説明できなかった。しかし、トリオモデルを使えば、これをはっきりと説明することができる。)
( ※ 本項は、とりあえず、予告編としての前口上。肝心の話は、翌日分。)


● ニュースと感想  (8月10日)

 本項では非常に大切なことを述べる。「トリオモデル」というものを使って、いろいろと説明してきたが、本項では非常に重要なことに言及する。それは、次のことだ。
   「均衡状態のときには、市場原理によって最適化がなされる。」
   「しかし、不均衡状態のときには、市場原理によって最適化がなされない。」

 これは、非常に重要なことだ。ここでは、「市場原理は万能だ」「不況が発生するのは市場原理がうまく働かないからだ」「市場原理をうまく働かせれば不況は解決する」という古典派の考え方を、正面きって否定している。
 それはまた、「神の見えざる手」という、(アダム・スミス以来の)古典派の基本的な概念を正面から否定している。

 ただ、衝撃的な説ではあるかもしれないが、物事の本質を考えれば、直感的には、すぐに納得できるはずだ。
  「阻害物がなければ、最も安定した状態に落ち着く」
  「しかし、阻害物があれば、最も安定した状態に落ち着くとは限らない」
 というのは、数学的に言えば、まったく当たり前のことだからだ。たとえば、ドンブリに鉄球が入っているとする。何も邪魔するものがなければ、鉄球はドンブリの一番低いところで落ち着く。何か邪魔するものがあれば、鉄球はドンブリの途中に引っかかって、最も安定した状態(一番低いところ)には届かない。── つまり、阻害物があるせいで、最適化されない。

 同様のことが、トリオモデルでも言える。下限直線がなければ、均衡点に届く。しかし、下限直線が邪魔をすれば、均衡点に届くことができない。(最適化されない。)

 では、そのことは、経済学的には、どういう意味をもつか? 
 実は、以前も、似たような話を述べたことがある。たとえ話として。── それは、次のような話だ。
「健康な人なら、体力トレーニングをすることは有益だ。しかし病人は、無理な体力トレーニングをすれば、死んでしまう」
 それは、こういう意味だ。
普通の経済状態なら、市場経済を推進することで、適者生存・劣者退場により、状況は向上していく。しかし不況のときは、市場経済を推進することで、全員が劣者として退場を迫られ、状況は悪化していく
 このことを、以下ではトリオモデルを使って説明しよう。

     トリオモデルの図

 ここで、右側の図は均衡状態であり、左側の図は不均衡状態である。

 まず、右側の図の状態だったとする。そのあと、需要曲線が左シフトして、左側の図のようになるとする。
( ※ 右側の図を見たあと、需要曲線を少しずつ、ずらしてみてほしい。供給曲線との交点が、供給曲線上でだんだん左下に移っていくのがわかるだろう。)
( ※ 右側の図から左側の図へと移行する途中では、三つの線が一箇所で交差する時点がある。そのときは、二つの直線と下限直線が1点で交差する。* という形を横に寝かせたような形になる。)
( ※ 左側の図では、右側の図に比べて、下限直線が上方に移動したように見える。しかし本当は、下限直線は不変のまま、需要曲線だけが左にシフトするわけだ。ただ、相対的な位置関係を見れば、左側の図と同じことになる。)

 上の二つの図で、具体的な数値を当てはめてみよう。
   ・ 下限直線の価格      …… 100円
   ・ 右側の図で、均衡点の価格 …… 105円
   ・ 左側の図で、均衡点の価格 ……  95円
 というふうになっていると想定する。

 右側の図では、「下限直線の価格よりも、均衡点の価格が高い」から、普通に均衡点に達する。(均衡状態)
 右側の図では、「下限直線の価格よりも、均衡点の価格が低い」から、均衡点に達しおうとしても、下限直線に邪魔されて、均衡点に届かず、下限直線のところでへばりつく。(不均衡状態)
 
 以上は、静的な考え方だ。ここで、動的に考えてみよう。
 動的に考えると、時間的に、需要曲線は、左側の状態から右側の状態へと、だんだん左へシフトしていく。その過程で、均衡点は、「 105円 → 100円 → 95円」 というふうに下がっていく。(下限直線が上がるのではなくて。)
 第1に、均衡点が「 105円 → 100円 」と下がっていく過程では、特に何事も起こらない。単に均衡点が下がるだけである。(均衡状態)
 第2に、均衡点が「 100円 → 95円 」と下がっていく過程では、新たな事態が発生する。均衡点は下がっても、下限直線に阻害されて、実際の市場価格は下がらないのである。価格は下がらないまま、供給と需要のギャップだけが広がっていく。(不均衡状態)

 さて。ここまでに述べてきたことは、当たり前のことだ。単に状況の変化を描写しただけにすぎない。トリオモデルを理解している人なら、誰でもわかることだ。
 問題は、そのあとだ。このように変化していく過程では、いったい、どんな事態が起こるのか?それは、次の2点だ。
  1.  均衡状態における価格低下のとき
     均衡点が「 105円 → 100円 」と下がっていく過程では、供給が減っていく。では、どの部分の供給が減るのか? 
     このとき、供給曲線の上で、右上から左下に移動することで、供給量が削減されていく。それはつまり、競争力のない生産者(その価格では赤字を出す生産者)が生産を減らすことになる。劣悪な生産者が、劣悪さの度合の順で、一つまた一つと順に脱落していく。
     このとき、「適者生存・劣者退場」の原理が働く。だから、市場全体の状況は向上していく。赤字を出すような劣悪な企業は倒産して、経営資源を開放し、その開放された経営資源が、別の優秀な企業のもとで利用される。……ここでは、「競争による向上」ということが成立する。つまり、「市場原理による最適化」が成立する。
  2.  不均衡状態における価格低下のとき
     均衡点が「 100円 → 95円 」と下がっていく過程では、どうか? ここでも供給は減るが、どの部分の供給が減るのか?
     それは、需給ギャップを意味する水平線の上で、右点から左点へ移行することで、供給が減る。では、どの生産者が、そうするか? 競争力のない生産者か? 違う。不況のときは、ほとんどの企業が赤字になるから、ほとんどの企業がいっせいに生産を減らす。一部の劣悪な企業だけが生産を減らすのではなくて、優良な企業も含めて、ほとんどの企業がいっせいに生産を減らす。一部企業の倒産ではなくて、全企業の稼働率低下が起こる。
    ( ※ このとき、優秀な企業と劣悪な企業の差は、もちろんある。優秀な企業は、生産を落とす率が少ない。劣悪な企業は、生産を落とす率が多い。そういう違いはある。しかし、いずれも「稼働率を下げる」という点では、変わらないのだ。どんな優秀な企業でも、総需要が縮小しているときには、自社の売上げを落とす。売上げの落ち方を減らすことはできても、とにかく、売上げがある程度は落ちるのは避けがたい。また、赤字の発生も避けがたい。)
     そして、このとき、「適者生存・劣者退場」という原理は成立しない。総需要が縮小したとき、あらゆる企業は、いっせいに生産を落とし、いっせいに赤字になり、いっせいに劣者となり、いっせいに退場を迫られる。
     ただし、退場を迫られても、実際に退場するとは限らない。過去の蓄積があれば、一時的な赤字の発生に耐えることができる。……このとき、「退場するか否か」は、何によって決まるか? 「適者か劣者か」によって決まるか? 違う。「過去の蓄積があるか否か」つまり「財務体質が良いか悪いか」で決まる。
     ここでは、「適者生存・劣者退場」の原理は働かないわけだから、市場全体の状況は向上しない。
    ( ※ わかりやすく示そう。優秀な企業と劣悪な企業があるとする。好況のときなら、優秀な企業は黒字を出し、劣悪な企業は赤字を出す。このとき、劣悪な企業が赤字に耐えかねて退出する。一方、不況のときなら、優秀な企業は小幅の赤字を出し、劣悪な企業は大幅の赤字を出す。このとき、劣悪な企業から退出するとは限らず、単に財務体質の悪い企業から退出する。……鉄棒にぶら下がっている状態でたとえると、体力の弱い順に落ちるのではなくて、背中に負っている負担の重い順に落っこちる。)
    ( ※ 一般に、最先端の新興企業ほど財務体質は悪く、古臭いが歴史のある企業ほど財務体質は良い。だから、優秀な企業ばかりが退出する、というふうになりかねない。実際、優秀な技術があっても財務体質が貧弱なベンチャー企業は、次々と倒産する。いろいろと研究開発投資をするが、いまだ十分な売上げには結びつかないからだ。)
    ( ※ 銀行にしても、総需要が縮小している状況では、新興企業に融資をしたがらないだろう。銀行が新興企業に融資をしたがるのは、総需要が拡大しているときである。総需要が拡大しているのであれば、その拡大する分に、新興企業が食い込む余地がある。不況のときは、そうではない。だから、不況のときは、新興企業が勃興しにくい。)
     結局、こうなると、「競争による向上」ということは成立しない。つまり、「市場原理による最適化」は成立しない。別に、「劣悪な企業ほど生き残る」というふうに、逆の原理が働くわけではないのだが、「優れた企業ほど生き残る」ということは成立しないのだ。ここでは単に、「ともに劣悪になり、ともに貧しくなる」というふうになる。(その本質は、稼働率低下で、生産性が低下したことにある。そしてその根源は、需要不足である。)
     ( ※ なお、市場全体の効率は、向上しないが、一方で、赤字倒産があちこちで発生し、その負債を他の企業が分担して負担することになる。つまり、赤字の拡散だ。だから、全体としては、状況は悪化するばかりだ。向上どころか、悪化がもたらされる。)
 結語。
 「市場原理によって最適化する」ということは、均衡状態では正しい。しかし、不均衡状態では正しくない。
 
 [ 補説 1 ]
 次のような反論が来るかもしれない。
 「たとえ不均衡状態でも、『適者生存・劣者退場』は成立するはずだ。優秀な企業は利益率が高く、劣悪な企業は利益率が低い。だから、優秀な企業ほど、赤字幅が小さいから、不況への抵抗力があって、生き延びる。劣悪な企業ほど、赤字幅が大きいから、すぐに倒産する。」
 なるほど、もっともな説と思える。しかし、これは正しくない。理屈が粗雑すぎるのだ。
 上記のような説が成立することもある。それは、トリオモデルで言えば、「右点」にいる場合だ。ここに留まっているのであれば、上記の説は成立する。「右点において優秀か劣悪か」は、「均衡状態において優秀か劣悪か」と同義である。このとき、均衡状態において劣悪な企業ほど、右点においても劣悪である。だから、右点において劣悪な企業から順に倒産することで、状況は最適化していく。
 しかし、「左点」にいる場合は、どうか? ここでは、稼働率が大幅に低下している。このとき、赤字になるか否かは、企業が均衡状態において優秀であるか否かには依存せず、「固定費負担が大きいか否か」に依存する。たとえば、均衡状態のとき、企業Aは新規設備を使って、限界費用も平均費用も大幅に低下させたとする。企業Bは、既存の古い設備を使って、限界費用も平均費用も高価だとする。となると、均衡状態では、企業Aは優秀であり、企業Bは劣悪だから、企業Bが赤字を出して退場するはずだ。しかし、不均衡状態では、どうか? 企業Aが大量に生産したくても、需要がない。仕方なく、企業Aは稼働率を落とす。すると、稼働率の低下につれて、限界費用も平均費用も上がる。(なぜなら固定費負担が大きいからだ。)一方、企業Bは、稼働率が低下しても、限界費用も平均費用もさして低下しない。なぜなら、古い設備を使っており、減価償却は済んでいるからだ。(固定費負担はゼロだ。)
 結局、右点においては、企業Aは優秀で、企業Bは劣悪。左点においては、企業Aは劣悪で、企業Bは優秀。── そして、「均衡状態において優秀か劣悪か」と比べると、右点の場合は一致しているが、左点の場合は一致していない。
 つまり、均衡状態での「適者生存・劣者退場」と、不均衡状態での「適者生存・劣者退場」とは、異なるのだ。不況(不均衡状態)のときに、強引に「適者生存・劣者退場」を推進すれば、本来は劣悪な企業が生き残り、本来は生き延びるべき企業が退場する。
 実例を示そう。スーパーのマイカルとダイエーだ。マイカルはあっさりと倒産したが、ダイエーはなかなか倒産状態に至らなかった。では、なぜか? マイカルよりもダイエーの方が優秀だったからか? 違う。マイカルは積極的に設備投資をしていたが、ダイエーは設備投資をろくにしていなかったからだ。
 マイカルは、「まさか十年も不況が続くことはあるまい」と見込んで、攻撃的な経営方針のもとで、複合型店舗など、実に先進的な経営をしていた。もし景気が回復していたら、こういう先進的な経営をしていた会社は、大勝していただろう。しかるに、景気が回復しなかった。客足は伸びなかった。(西武系のデパートが不振だったのに似ている。)かくて、投資の固定費負担ばかりが重くのしかかって、ついには倒産した。
 ダイエーは、逆だ。頭のボケた経営者のもとで、十年一日のごとく、昔ながらの経営を続けた。店舗は古いばかりで、店内に入れば薄暗くて雰囲気は悪い。売上げもどんどん低下する。しかし、ろくに投資をしなかったおかげで、固定費の負担はマイカルほどは悪くはならなかった。
 そういうことだ。右点における「優秀か劣悪か」と、左点における「優秀か劣悪か」は、異なるのだ。左点の状態にあるときに、強引に「適者生存・劣者退場」を推進しても、右点ないし均衡状態においての「適者生存・劣者退場」を推進することにはならないし、むしろ、逆効果さえあるのだ。
 この両者の違いを、理解するべきだ。
 
 [ 補説 2 ]
 次のような反論が来るかもしれない。
 「ほとんどの企業が劣者になる、ということはあるまい。不況のときでも、全企業がいっせいに劣悪になることはなく、優秀な企業と劣悪な企業がともに存在するだろう。両者に色分けされるので、まだら模様になるだろう。」
 しかし、そうではないのである。不況のときは、あらゆる企業が一つ残らず劣者となるはずだ。(原理的にそうだ。)なぜか? それは、背理法でわかる。
 もし劣者でない企業があるとする。とすると、その市場においては、その企業だけが黒字で、他の企業はすべて赤字となる。赤字企業は「優勝劣敗」のもとで退場する。結局、残った優秀な企業だけが、シェアを独占する。そして、黒字状態を保つ。(もし黒字でなければ赤字であり、劣悪企業だから、仮定により、黒字である。)
 そして、こういうことがあらゆる市場で成立するとすれば、あらゆる市場で赤字企業は退出して、黒字企業だけが生き残るから、赤字企業は一つもなくなる。かくて、不況は存在しない。……しかし、これは、「現状は不況である」という仮定に反する。
 というわけで、原理的には、あらゆる企業が劣悪となるはずなのだ。
 ただ、実際には、不況の今、赤字の企業も黒字の企業も、ともにある。まだら模様になる。それは、次の二つの理由による。
 「赤字を出した企業も、赤字の幅が少なければ、短期的には、赤字のまま存続できる。その分、黒字企業がシェアを奪うことができない。ゆえに、赤字企業と黒字企業が併存する」(短期的には、それが可能。ただし、長期的にいつまでも赤字を垂れ流すわけには行かない。)
 「特定の産業では、景気が良いこともある。たとえば、自動車産業では、多くの企業が黒字だ。そういうふうに、産業ごとのまだら模様はある。」(企業間のまだら模様はなくとも、産業間のまだら模様はある。)

 [ 付記 ]
 ついでに、「適者生存・劣者退場」(市場経済による最適化)を実現する方法を述べておこう。
 すでに述べたように、不均衡状態のときにはそれが不可能であり、均衡状態のときにはそれが可能である。だから、均衡状態にすることが必須である。
 ただ、「均衡状態なら何でも同じだ」というわけではない。いろいろと差を出すことができる。── つまり、「適者生存・劣者退場」(市場経済による最適化)を強く推進する方法と、それを弱める方法がある。
 小泉流なら、「不況にすればいい。それで劣者が退場する」と言うだろう。しかし、それが間違いであることは、すでに示した。では、どうすればいいか? 
 税制によってそれが可能である。「黒字企業は優遇。赤字企業は冷遇」という方法だ。具体的には、法人税率を下げて、外形標準課税を強めればよい。(メリハリを付けるわけ。)
 ただし、単純に「法人税減税」というのは、好ましくない。(メリハリを付けずに、単に甘やかすだけでは、まずい。) 「法人税減税をすれば、企業の国際競争力が付く」という論法だが、これはどうも、「金は空から降ってくる」という考えのようだ。
 たしかに、金が空から降ってくるなら、そうすればいい。しかし現実には、「企業に金を渡す」というのは、「国民から金を奪う」ということになる。そんなことをやればやるほど、個人消費が落ち込むから、総需要の不足しているときに、ますます総需要が縮小する。だから、国民も企業も、ともに貧しくなるばかりだ。
 まったく、マスコミの論法の多くは、「金は空から降ってくる」というものだ。無知蒙昧(むちもうまい)。この点、「財源を考えよ」と主張する財務省の方が、よっぽどまともだ。


● ニュースと感想  (8月11日)

 前項では、次のように述べた。
 「市場原理によって最適化する」ということは、均衡状態では正しい。しかし、不均衡状態では正しくない。

 さて。このことから、政府の取るべき施策もわかる。
 政府は景気回復策としては、どうするべきか? あれやこれやと、細かなことをなす必要はない。単にマクロ的に、「不均衡状態を脱して、均衡状態に移ること」のみを、めざせればよい。なぜなら、いったん均衡状態になれば、あとは自動的に状態は最適化していくからだ。

 実際には、政府はそうしない。肝心の「需給ギャップの解消」というマクロ的な施策は採らずに、細々としたことばかりをなして、市場に介入しようとする。次のように。
 こうやって個別企業の経営方針に介入しようとする。企業がどの分野に進出するとか、投資や研究にどれだけ出費するとか、そういうことは、企業が自主的に判断するべきことなのに、政府が勝手に「これをやるべし」と決めつけて、強引にニンジンをちらつかせて動かそうとする。
 これは、市場原理主義とは正反対で、国家計画経済である。そして、こういうものがたいていは失敗する、というのは、歴史的に見ても明らかだろう。
 しかも、話がおかしいのは、こういうことを主張するのが「古典派経済学」を信奉する人々だ、ということだ。普段は「市場経済万能。供給重視」と唱えているくせに、一転して、「市場経済よりも、国家計画経済で」と唱える。自己矛盾である。

 では、正しくは、どうするべきか? それは、物事を本質的に考えればよい。
 たしかに不況期には、新分野への進出が不十分だし、投資が不足する。しかし、原因と結果を勘違いしてはならない。正誤は、次のようになる。

  ×  新分野への進出が不十分で、投資が不足するから、不況だ。
    不況だから、新分野への進出が不十分で、投資が不足する。

 たいていの経済学者は、この正誤を勘違いしている。( × の方を正しいと見なしている。) つまり、因果関係を逆に考えている。それゆえ、次のように主張する。
 「不況解決のために、政府はあれこれと介入せよ。新分野へ進出させ、投資を拡大させよ。民間企業が愚かだから、不況なのだ。ゆえに、賢い政府が、企業経営を正しく導くべきだ」
 これが古典派とされる(らしい)経済学者たちの説だ。しかしこれはもはや、社会主義である。古典派経済学というよりは、マルクス経済学だ。つまり、日本の経済学者のほとんどは、自分では古典派だと思っているが、本当はマルクス経済学者も同然なのだ。
 だいたい、彼らの主張するように、「民間企業が愚かで、政府が正しい」と思うのならば、経済は民間企業なんかに任せずに、全部政府がやればいい。日本をまさしく社会主義経済体制にすればよい。それならば、彼らの論旨は一貫する。そして、そう主張できないとしたら、彼らの論旨は自己矛盾を起こして破綻しているのである。

 もちろん、本当は、彼らの主張は間違いだ。上の × は正しくなく、  が正しい。本項の冒頭で述べたことを、ふたたび記せば、次のとおり。
 “ 政府は景気回復策としては、どうするべきか? あれやこれやと、細かなことをなす必要はない。単にマクロ的に、「不均衡状態を脱して、均衡状態に移ること」のみを、めざせればよい。なぜなら、いったん均衡状態になれば、あとは自動的に状態は最適化していくからだ。”

 そもそも、「市場原理による最適化」が機能する限り、政府は個別の経済政策で介入する必要はないのである。なのに、なぜ不況のとき、状態が好ましい状態になっていないかと言えば、「市場原理による最適化」が、不況のときは正常に機能していないからだ。「市場原理による最適化」は、均衡のときには正常に働くが、不均衡のときには正常に働かないのだ。( → 前項で述べたとおり。)
 だから、不況のとき、政府がなすべきことは、何よりもまず、マクロ的に不況を解決することである。つまり、マクロ的に(減税などで)需給ギャップをなくすことである。そして、そうして需給ギャップが解消すれば、均衡状態になるから、あとは自動的に、状態は最適化していく。
 不況のとき、政府は企業に、「あれをやれ、これをやれ」と介入する必要はないのである。企業が投資をしたがらないときに無理矢理に投資をやらせたり、企業が進出したくない分野に無理矢理進出させたり、そんなことを推進するべきではないのだ。
 政府のやるべきことは、マクロ的な需給管理だけであり、個別企業への経営介入ではない。── そのことをはっきりと理解することが大切だ。(ここを逆に理解すると、百害あって一利なしだ。)

 [ 付記 1 ]
 「市場原理による最適化」ないし「神の見えざる手」については、「パレート最適」などの用語で説明される。経済学書を参照。(アダム・スミスの用語では「見えざる手」 invisible hand )
 この件については、後日また考察する。(前項とは別の観点で。)

 [ 付記 2 ]
 「規制緩和」について。
 「不況対策には、規制緩和が大切だ。規制緩和をすれば、阻害物が消えるので、状態が最適化される。かくて、新規産業が伸びて、景気が良くなる」
 という説がある。これもまた、同様の問題を含んでいる。
   × 「状態が最適化されないから、不況である」
    「不況だから、状態が最適化されない」
 この両者の正誤を、勘違いしてはならない。つまり、原因と結果を勘違いしてはならない。
 規制緩和をすれば、「競争の激化」は進む。状態は最適化される。生産性も向上する。しかし、それが景気に好影響を与えるという保証はない。急激に競争が激化したせいで、敗者たる企業が次々と倒産したり、リストラで次々と失業者が発生したりすることもある。── 実例は、銀行や農業で見られる。銀行規制が緩和されたり、農業規制が緩和されたりしたが、その結果は、少数の勝者と、多数の敗者である。
 規制緩和は、一般に、「生産性の向上」を急激にもたらす。そして、「生産性の向上」というのは、1企業だけが実施するならその企業だけが利益を得るが、同じ分野の全企業が実施するならどの企業にとっても利益にはならない。(競争が激しくなるだけだ。)しかも、このとき同時に、生産性の向上にともなって、失業が発生する。( → 詳しくは「需要統御理論」)
 こういうことが「好ましい」と言えるのは、「発生した失業者が、他の産業で吸収されて、国全体で見れば効率化が進む」という場合のときだ。つまり、均衡状態のときだ。しかるに、不均衡状態のときは、「発生した失業者が、他の産業で吸収される」ということはない。失業者は失業者として残るので、失業が拡大する。
 「規制緩和」にせよ、「生産性の向上による失業発生」にせよ、それが「好ましい」と言えるのは、均衡状態のときだけだ。不均衡状態のときは、そんなことをやればやるほど、状況は悪化していくのである。

( ※ 関連して、メチャクチャな説を紹介しておこう。「IT産業や携帯電話では、規制緩和により、産業規模が拡大した」という説である。── これはもう、牽強付会(けんきょうふかい) と言っていいだろう。たしかに、IT産業や携帯電話では、規制緩和も進んだし、産業規模も拡大した。しかし、この両者には、因果関係などはない。そのことは、諸外国と比較すれば、すぐにわかる。1995年以降、世界中の各国で、どの国でも同じように、IT産業や携帯電話が大幅に伸びた。では、各国がそろっていっせいに、規制緩和を進めたのか? まさか。……単に技術的にブレークポイントを超えたからだ。そのせいで、機能が向上して、価格がダウンしたので、需要が増えただけだ。「政府が規制緩和したから、携帯電話が急成長したのだ」などと主張したら、携帯電話の技術者たちがいっせいに怒り出すだろう。「おれたちがこんなに努力して、必死に成果を上げたのに、その成果を勝手に横取りするな!」と。……つまりは、「規制緩和のおかげ」と主張する経済学者は、他人の成果を盗む泥棒であるわけだ。経済学者と泥棒は、よく似ている。)

 [ 付記 3 ]
 失業についても、同様のことが言える。
 政府や経済学者は、次のように唱える。
 「ある分野で失業が発生して、他の分野で人手不足が発生する。ここでは、雇用のミスマッチが発生する。だから、政府が職業訓練をして、労働者を特定の方向に流れさせばいい」
 こういう産業政策のもとで、中年のおばちゃんに無理にパソコン技術を習得させたり、優秀な機械技術者に介護労働を習得させたりする。馬鹿げているとしか言いようがない。(国家計画経済の馬鹿らしさの見本。「パレート最適」とは正反対。)
 では、どうするべきか? もちろん、個別の失業者の就職に介入する必要はない。単にマクロ的に需給ギャップを解消すればいい。そうすれば、人手不足の会社は自然に高給で人を雇うようになる。だから、失業者は自分の技能と照らし合わせて、最善のところに就職するようになる。……たとえば、中年のおばちゃんが介護産業に就職したり、優秀な機械技術者がIT産業に勤めたりするようになる。たいていは、彼らの技能を高く評価するところに勤務するようになるだろう。そうして市場経済のもとで最適化していく。
( → 7月03日 にも同じような話がある。「構造的失業と需要不足失業」など。)

 [ 付記 4 ]
 ペイオフについても、同様のことが言える。
 ペイオフ賛成論者は、次のように主張する。
 「ペイオフは、一種の規制緩和だ。政府による庇護をやめて、銀行間に激しい競争を引き起こさせよう。劣悪な銀行を退出させよう。そうすれば、全体として、銀行業界は効率が向上していくはずだ」
 一見、正しいように見える。しかし、やはり、これが正しいのは、「均衡状態」のときだけなのである。均衡状態のときには、「適者生存・劣者退場」で、市場は最適化していく。しかし、不均衡状態のときには、そうではない。
 
不況のときには、あらゆる銀行が劣悪である(赤字化する)。また、不況のときに「優秀」「適者」であるものが、本来の意味での「優秀」「適者」であることにはならない。単に赤字に対する抵抗力があるにすぎない。( → 前項で示したとおり。 )
 こういうときに、強引にペイオフを実施すれば、「あらゆる銀行が倒産の可能性がある」と見なされかねない。特に、黒字経営をして優良であっても、内部蓄積が少ない(不良資産に対する準備金が不足している)というだけの理由で、「劣悪」と見なされかねない。(実際、最近の海外の格付け会社は、この方針で格付けしている。たとえば、毎年数千億円の黒字を出す優良銀行が、「毎年大幅赤字」という南米の劣悪銀行と同じ格付けとなる。)── こうなると、間違った憶測に基づいて、取り付け騒ぎが起こる可能性がある。
 だからこそ、不況期(不均衡状態のとき)には、ペイオフを実施するべきではないのだ。ペイオフを実施するなら、まず、不況(不均衡状態)を解決しておく必要があるのだ。
( ※ では、彼らがなぜこのような狂気の主張をしているか? それは、「市場原理による最適化」「神の見えざる手」を妄信しているからだ。そして、この妄信が間違いであることを、トリオモデルは理論的に示したわけだ。)

 [ 注記 ]
 注記しておこう。国による保護をするとしても、別に、国が民間にお金をプレゼントする必要はない。単に「預金保険」という「保険」を利用すればいいだけだ。倒産すれば、補償する。倒産しなければ、保険料をもらうだけ。── 保険というものは、そういう概念に基づく。なお、「ペイオフ」と「預金保険」というのは、ちょっと状況が入り組んでいる。建て前と本音がごちゃごちゃになっているようなところがある。ここではあまり細かく言及しないでおく。
 ついでに言うと、「ダメな銀行は退場させる」ということと、ペイオフとは、同じことではない。ペイオフ以前でも、ダメな銀行は退場させられていた。長銀など、いくつかの銀行は、すでに倒産している。「ペイオフを延期すると、企業経営の倫理がマヒして、モラルハザードが起こる」というようなことはない。両者は別のことだ。たとえペイオフを実施しても、モラルハザードが起こるときには起こる。「ペイオフを実施すれば、銀行経営者が急速にモラルを回復する」なんてのは、妄想である。(私は断言しておくが、銀行では今後もずっと、無能な老人経営者が経営陣に居座り続けるだろう。日産自動車や韓国の企業のように、若手の経営者が経営することにはならないはずだ。モラルはずっと荒廃しっぱなしだ。)


● ニュースと感想  (8月12日)

 真夏の納涼のため、スリラーを記しておこう。題して、「日本破産」。
 これは決してジョークではない。ジョークは、読めば笑うだけだが、スリラーは、読めばひんやりする。

 日本が破産する可能性はあるか? 「まさか」と思うかもしれない。しかし、論理的に考えれば、「その可能性はある」と言える。これはジョークではない。そのことを以下で示す。
( ※ 注釈しておけば、「国債残高の膨張で日本破産」というシナリオは、全然、関係ない。)

 たとえば今、「景気回復が必要だ」ということで全員が一致している。しかし、小泉は景気回復には全然無効な政策ばかりを打ち出しているし、マスコミも同様である。衆愚状態だ。こういう状態では、「最善の道」どころか、「最悪の道」を選択する可能性も十分にあるだろう。
( ※ 「そんな馬鹿な! なんだって最悪の道を選ぶのだ!」と思う人は、頭が夏ボケしている。政府が賢明だったら、なぜ政府は「最善の道」を取らないのか? なぜ政府は十年も不況を続けているのか? ……こういう現状を見れば、最悪の道を取る可能性もあることは歴然としている。)

 では、日本破産の可能性を、論理的に示そう。以下は、荒唐無稽な話ではない。

 そもそも、破産とは、どういう状況か? 「赤字が発生して、赤字を払いきれない」という状況だ。そして、そういう状況が国家規模にひろがったのが、国家破産だ。
 たとえば、エンロンにせよ、ワールドコムにせよ、実際には赤字状態であったのにもかかわらず、そういう現実に目をつぶり、勝手に帳簿を不正処理して、黒字のごとく見せかけた。そうして赤字を拡大させていったすえ、赤字が処理しきれなくなった。そのあげく、破産した。
 国家の破産も、同様である。具体例は、アルゼンチンに見られる。国家規模(国民全体)で、大量の消費をした。実際に生産している以上の額を、消費した。収入以上の額を、支出した。そのせいで、国家規模で、莫大な赤字が蓄積されていった。……そして、それを糊塗していられるうちはよかったが、やがて糊塗しきれなくなると、赤字が表面化して、一挙にツケ払いを迫られた。

 これが破産ということの本質だ。「赤字」とは、「生産以上の支出」である。個人であれ、企業であれ、国家であれ、同様だ。それに目をつむっていられるうちは、楽しい思いを享受できる。しかし、あるとき、「ツケを払え」と言われたとき、ツケを払えないので、破産する。

 では、こういう状況は、日本では起こるだろうか? つまり、日本の「アルゼンチン化」は、起こるだろうか? 
 人は鼻で笑うかもしれない。「日本のアルゼンチン化なんて、ありえないね。先進国の日本は、途上国のアルゼンチンとは違う。生産力も十分にあるぞ」と。
 しかし、それは、勘違いだ。生産力が十分にあるかどうかは、関係ない。単に、「生産力以上の支出」があるかどうかの問題だ。莫大な収入があろうと、それを上回る支出をすれば、赤字となる。どんなに高所得があろうと、それを上回るひどい浪費をすれば、赤字となる。
 では、そういう状況は、起こるだろうか? それが問題だ。

 普通は、そういう状況は、起こらない。日本は、倹約と貯蓄の美意識のある国であり、浪費をすることなどは、ないからだ。しかし、過去を見れば、例外もあった。それは、「バブル期」だ。
 バブル期には、日本中が浮かれて、さんざん浪費をしてきた。高級料亭のグルメ料理やら、超高級車やら、ブランド品やらが、飛ぶように売れていた。
 ただし、である。この程度の浪費ならば、国家を破産させるには至らない。こんなことでは、日本は破産しない。単に浪費癖が縮小したぐらいでは、日本の景気はそんなにひどく悪化しない。
 では、なぜ、今はひどい不況なのか? 

 今、不況なのは、単に好況がしぼんだからではない。バブルが破裂したとき、莫大な赤字が発生したのだ。国家破産を招きかねない「莫大な赤字発生」。それがまさしく発生したのである。バブル破裂のときに。
 このときは、何が起こったか? 「資産デフレが起こった。それで富の消失が起こった」と言う人もいる。違う。「資産インフレが元に戻った。それで富の増大という夢が覚めた」のである。
 バブルが膨張して、バブルが破裂した。膨大な資産インフレが発生して、膨大な資産インフレが消えた。このとき、富が失われたのか? いや。もともと富は増えていなかったのだ。だから、単に元の状態に戻っただけであり、富は少しも失われてはいない。単に、夢が覚めただけだ。「富が増えた」と思ったのが、「実は富は増えていなかった」と判明しただけだ。
 では、このとき、何が起こったか? 夢が覚めるのにともなって、赤字が露見したのである。

 これは、エンロンや、ワールドコムや、アルゼンチンと、同様である。いずれにせよ、現実を偽って、粉飾して、「富がある」と思い込んでいた。その思い込みの上で、さんざん浪費してきた。
 しかし、実際には生産量は増えなかった(真の収入は増えなかった)のだ。だから、浪費すればするほど、赤字が蓄積した。帳簿の上では粉飾して黒字のように見せかけることができたが、実質的な赤字はどんどん蓄積した。そして、米国のバブル破裂にともなって、粉飾が暴露されたとき、隠されていた赤字が露見したのである。

 日本のバブル期の資産インフレも同様だ。資産インフレがいくら進もうと、生産は拡大しないし、真の所得も増えない。なのに、帳簿を粉飾して、「富が増えた」と信じて、さんざん浪費してきた。働いて浪費するのならば、構わない。しかし資産インフレのときは、働きもしないで、「土地の価値が上がった」と信じ込んで、遊びながら浪費した。
 もちろん、真面目に働いた人もいる。そういう人は、労働して、生産を増やして、消費を増やした。それは別に問題ではない。
 しかし資産家は、少しも働かず、少しも生産をせず、土地や株だけを手元に置いたまま、「富が増えた」と信じて、浪費だけをした。「浪費してもいいのだ。遊んで支出してもいいのだ。なぜなら土地や株の価値が上がったのだから」と信じて、さんざん浪費した。「無から有が生じるのだ。打ち出の小槌があるのだ」と信じて浪費した。
 そして、あるとき、その夢が覚めた。「生産せずに浪費すれば、赤字が蓄積する」という真実が、とうとう発現したのだ。

 そして、このとき、どうなったか? 資本主義の世界では、赤字企業は、自己責任を持たない。というか、責任の限度がある。企業がつぶれれば、それでチャラだ。
 バブル期には、資産家がさんざん浪費をした。しかし、そのツケを払うべき資産家は、企業を倒産させて、おしまいだ。紙屑に近くなった土地証書や株券を、融資元の銀行に渡して、自分はさっさと手を引いて、おしまいだ。莫大な黒字は自分のものにして、莫大な赤字は銀行に渡すわけだ。── そして、銀行の渡された「紙屑に近くなった土地証書や株券」を、「不良債権」と呼ぶ。

 以上をまとめれば、こうだ。バブル期に、資産家はさんざん浪費して、赤字を蓄積した。その赤字は、企業を破産させることで、銀行に「不良債権」として渡した。かくて赤字は、資産家たちから、銀行へと移転した。その赤字を、銀行を通じて、国民全体で引き受けるわけだ。( → 5月26日

 結局、資産インフレは、「富が増えた」と錯覚して、支出を増やすことである。それはつまり、生産を増やさないまま、どんどん浪費して、赤字を蓄積するということだ。
 そして、それが国家規模で進めば、「日本破産」に近い状態となる。その一例が、1980年代の、「バブルの発生と破裂」であったわけだ。実際、この「バブルの発生と破裂」によって、日本経済は、ひどく損なわれた。そのことは、現状を見ればわかるだろう。

 さて。過去のバブル期以前には、日本はまだ健康であった。しかしそのあと、「バブルの発生と破裂」によって、ひどく健康を損なわれた。
 そして今や、日本は病人である。ここで再度、「バブルの発生と破裂」が起こったら、日本は今度こそ破産してしまうかもしれない。その可能性は、十分にある。「バブルの発生と破裂」は、原爆のような効果をもって、日本経済を半分叩きのめした。もう一発、同じような効果をもつものが落ちれば、日本経済は本当に叩きのめされるかもしれない。

 では、そういうことは、あるか? 二発目の原爆のようなものが、日本に落ちることはあるか? 
 その可能性は、十分にある。まことにひんやりする話だが、幽霊とは違って、こういう恐怖は、現実性があるのだ。
 なぜなら、マネタリストが、「そうせよ」と叫んでいるからだ。「インフレ目標つきの量的緩和をせよ」と。

 「インフレ目標つきの量的緩和」。それは、どんな効果があるか? それとともに減税をして、消費を増やすのならば、物価を上昇させるだろう。しかし、それだけを(減税なしで)実施すれば、インフレよりも、資産インフレをもたらすだろう。
 そして、これは、バブル期の道だ。物価上昇が起こらないまま、「まだまだ物価上昇率が低いぞ」と思って、どんどん量的緩和をして、金をジャブジャブにして、資産インフレを発生させる。── これは、バブルを発生させたメカニズムと、まったく同じだ。
 それと同じことを、マネタリストは、再度やろうとしている。つまり、「バブルの発生」と同じことを、再度やろうとしている。そして、その行きつく果ては、再度の「バブル破裂」だ。( 歴史を忘れたマネタリストは、同じ失敗を何度でも繰り返そうとするものだ。)
 
 そして、再度の「バブル破裂」は、何をもたらすか? 赤字の露見である。そして、赤字の露見は、企業で起これば企業の破産。国家で起これば、国家の破産。
 アルゼンチンでは、国家の破産が現実化した。日本ではバブル破裂のときに、国家の破産に近いショックが与えられた。あのときは、まだ健康だったから、衝撃に耐えて、国家の破産を免れた。しかし今や、病人だから、そうは行かないだろう。衝撃を受ければ、「日本破産」がまさしく起こるかもしれない。「日本破産」が現実化するかもしれない。
 そして、そうするには、どうすればいいか? 「インフレ目標つきの量的緩和」を、減税なしで実施すればいいのだ。
 しかも、恐ろしいことに、日本では多くの経済学者が、「そうせよ」と勧めている。多くの経済学者が、「日本破産」に至る道を勧めているのだ。
 そして、悪魔のような彼らの言葉にたぶらかされて、それを実施すれば、「日本破産」は夢想ではなくて、現実となるのだ。

 [ 付記 ]
 私がどうして、こうしつこく繰り返すかというと、愚かな経済学者が日本を誤った方向に導こうとしているからである。その典型は、次の文書に見られる。
   岩田規久男の公述  ( 原文は 政府 公聴会の議事録
 これを一読すれば、メチャクチャの一語に尽きる。論旨が狂気である。たとえば、次の通り。

 (1) 本質
  ・ 「デフレが一番深刻になっている年というのは、生産も拡大しないから、だれも設備投資も何もしないわけです。」
 と述べているが、これは、正しい。しかし、それなら、「インフレターゲットつき量的緩和なんて効果がない」という結論になるはずだ。ところが、ここで論理をするりと変えて、
  ・ 「インフレターゲットつきで量的緩和をやれば、みんながインフレになると信じてやるかどうかという点でありますが、これは、最終的に言えば、やってみなければわからないという答えしかないわけであります。」
 と結論している。唖然。「そんなことをやっても、生産も拡大しないし、設備投資もしない」と自分で述べたばかりではないか。そのくせ、次に、「大丈夫」と言って、そのあとで、「でも本当は、やってみなくちゃわからない」とゴマ化す。支離滅裂。自己矛盾。
( ※ 「やってみなくちゃわからない」というのは、まったく無責任な話だが、それよりももっと無責任なのは、過去の事例に目をつぶっていることだ。「バブル期にはインフレ目標をやったら、インフレではなく資産インフレを招いた」というのが事実だ。それを忘れている。「やってみなくちゃわからない」どころか、「やってみたら失敗したという事実が、わからない」わけだ。……これでも経済学者なんですかね?)

 (2) 高橋財政
  ・ 「高橋是清大蔵大臣のもとに……強烈なデフレからマイルドなインフレに反転いたします。……マイルドなインフレ政策あるいはリフレ政策への金融政策のレジーム転換がはっきりする」
 と述べたあとで、
  ・ 「このような例から、今金融政策のレジーム転換こそが非常に重要だ」
 と結論している。唖然。自分の述べたことがわかっていない。高橋財政は、軍事支出の拡大などの実需拡大により、「強烈なデフレからマイルドなインフレに反転」させたのだ。そこが肝心なのだ。そして、そのあと、金融政策によって、マイルドなインフレをインフレにした。そこは、金融政策だ。── この両者は、別々のことだ。なのに、その両者を混同して、後者にだけ有効の「金融政策」を、前者にも有効だ、と結論してしまっている。論理のすりかえ。

 以上のように、経済学的な無知と、倒錯した論理による、デタラメがまかり通る。そういうメチャクチャな考え方が、日本経済に影響を及ぼしているのだ。だからこそ、私は警告するのである。「無知とデタラメにだまされるな」と。






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「小泉の波立ち」
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