[付録] ニュースと感想 (29)

[ 2002.10.05 〜 2002.10.13 ]   

  《 ※ これ以前の分は、

    2001 年
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         10月05日 〜 10月13日

   のページで 》




● ニュースと感想  (10月05日)

 以下は、10月01日 に記したもの。順序の都合上、ここに移動した。(日付番号変更と移動。)

     *  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *

 本項では、これまでの記述を、おおざっぱに振り返ってみよう。
 上限均衡点よりも右上については、次項(10月05日b)から考察しよう。
( ※ 「そこはインフレだろう」と思うかもしれないが、残念ながら、はずれ。)


● ニュースと感想  (10月05日b)

 「上限均衡点よりも右上の状態」について考えよう。(上限均衡点は、図では 45度線上の M に相当する。なお、下限均衡点よりも左下の状態を考えたのは、9月26日。)
 さて。そもそもの話、もし「上限均衡点」というものがなかったらどうなるか、を考えよう。

 次の図からわかるとおり、消費性向が 0.8 → 0.9 というふうに高まるにつれて、(傾き 0.8 〜 0.9 の)消費性向の直線と、「 C = Y−I 」という直線との交点は、右上に移動していく。
 では、もし、上限均衡点がなければ? 消費性向が 0.9 よりもさらに上がるにつれて、交点は、限度なしに右上に移動していくだろう。つまり、無限のものを生産して、無限のものを消費することになる。
 しかし、もちろん、そんなことはありえない。人の欲望は限りないが、人の能力は限りがある。無限のものを消費することはできるが、無限のものを生産することはできない。かくて、生産の制約によって、上限が定まる。
 この制約が何であるかは、特にこだわる必要はない。労働者の数であれ、資源であれ、社会資本であれ、土地面積であれ、環境問題であれ、とにかく、生産を制約する上限がある。そのことだけを理解しておけばよい。

     修正ケインズモデルの領域の図

 さて。こうして生産の上限に達すると、どうなるか? それが問題だ。
 これは、「上限均衡点よりも上」の問題だが、実は、これは、「下限均衡点よりも下」と話と、ほぼ同様な事情になる。ただし、原理はそっくりだとしても、話の方向が反対だ。
 「下限均衡点よりも下」の場合は、需要が頭打ちになった。「上限均衡点よりも上」の場合では、生産が頭打ちになる。
 表にすると、こうなる。

 下限均衡点よりも下  需要不足   C+I < Y   水色の領域 
 上限均衡点よりも上  需要超過   C+I > Y   桃色の領域 

 図を見よう。
  ・ Bにいたときに、同じ生産(Y)のまま、消費性向が下がると、水色領域に移る。
  ・ Mにいたときに、同じ生産(Y)のまま、消費性向が上がると、桃色領域に移る。
 そういうことがわかるはずだ。

 「下限均衡点よりも下」の場合については、すでに詳しく説明した。今度は、「上限均衡点よりも上」の場合について詳しく説明しよう。
 今、図の M にいたとする。このときの消費性向は 0.9 である。
 そのあと、さらに消費性向が 0.9 を上回ると、直線「 C = Y−I 」との交点は、上限均衡点 M よりも右上になるはずだ。しかるに、生産量は、Ym が上限であり、それよりは増えない。だから、M よりも右上には行けない。かくて、消費性向が 0.9 を越えると、生産量が頭打ちであるゆえに、直線「 C = Y−I 」を離れて、桃色の領域に移動することとなる。
 図で言えば、M の少し上に M’ という点を書く。消費性向の上昇にともなって、M → M’ と移動する。均衡状態ならば、45度線上の上で、右上に移動するはずなのだが、生産量の制限があるゆえ、そうはならない。

 こういうふうに、消費性向の上昇にともなって、45度線の上から、桃色領域に移動するわけだ。そして、その桃色領域の状況が、「需要超過」である。つまり、「生産力以上に需要がある」という状況である。

( ※ 「需要超過」の状況は、ケインズ流に言えば、「インフレギャップ」である。つまり、生産以上の需要が発生することで、その分、物価上昇が起こる。しかし、私の考えでは、そうはならない。つまり、「 需要超過 ≠ インフレギャップ 」である。この件は、次項で述べる。)
( ※ とにかく、ここでは、「需要超過」が発生することだけを理解すればよい。「インフレ」が発生するかどうかは、まだ考えないでよい。詳しくは後日。)
( ※ 供給の「上限」を決めるものは、労働力だけに限らず、他の要素も考えられる。上の本文中で述べたとおり、資源、社会資本、土地面積、環境……などの問題がある。これらが制約条件となる。それゆえ、「上限」となる状態は、「完全雇用」という状態ではない。つまり、「 上限均衡点 ≠ 完全雇用状態 」である。この件は、もう少しあとで、「雇用問題」として、まとめて述べる。)

 [ 付記 1 ]
 上限均衡点は、生産能力の上限( Ym )を決める。そして、この点までは、均衡状態が続くから、「需要 = 生産」が成立する。── つまり、均衡状態においては、「供給が需要を決める」という、「セイの法則(の後段)」が成立するわけだ。
 そしてまた、「需要と供給は一致する」という、「セイの法則(の前段)」も成立する。( → 9月12日
 結局、均衡状態(区間 BM )では、セイの法則は、すべて成立するわけだ。(そこでは、古典派の主張が成立する。)
 ただし、「上限を決める」という意味では、セイの法則は成立するが、「実際の生産量を決める」という意味では、セイの法則は成立しない。実際の生産量を決めるのは、市場原理である。……次の [ 付記 2 ] を参照。

 [ 付記 2 ]
 トリオモデルとの関係を示そう。
 トリオモデルでは、上限均衡点は、どう示せるか? それは、「生産量 = Ym 」という垂直線である。下図を参照。「 」という形の右側にある垂直線がそうだ。(この垂直線を「上限直線」と呼ぶ。)

  



 
 |
 
  


    → 量

   ・ 需給曲線は、「 」という形の、交差する曲線で示せる。
   ・ 下限直線は、「 _ 」という形の、水平線で示せる。
   ・ 上限直線は、「 | 」という形の、垂直線で示せる。

 価格については、「下限直線」という下限がある。生産量については、「上限直線」という上限がある。いずれも、均衡状態の範囲を制約するものだ。── そして、この二つの直線があるからこそ、均衡状態は一定範囲(区間 BM )に限定され、その範囲の外では古典派の主張が成立しなくなるわけだ。
 逆に言えば、この二つの直線に制約されない状況では、均衡状態となるので、古典派の主張が成立するわけだ。
( ※ この説明では、古典派とケインズ派の統合がなされている。下限直線と上限直線による制約の有無で、古典派的であるか否かが決まる。)

 [ 補説 ]
 上では、「上限直線」というものを提出した。これについて、少し述べておこう。
 上限直線は、供給曲線を制約する。とすると、上限直線の近辺では、供給曲線は、いったいどうなっているのか? 
 直感的には、供給曲線は右上で、「 丿 」という形になりそうだ、と思える。つまり、供給曲線は、上限直線という垂直線に近づくにつれて、価格が上昇していき、上限直線のすぐそばでは、価格が無限大に上昇する、と。
 そういうモデルも成立するだろう。しかしながら、現実には、そうはならない。なぜなら、「無限の価格」というものは、払いようがないからだ。では、どうなるか?
 実際には、「需要が増えると、価格が上昇するが、むやみやたらと上がるわけではなく、そこそこ価格が上昇した時点で、売り切れる(品切れになる)」というふうになる。つまり、「丿」という形で、「上限直線への漸近線を取る」のではなくて、「ノ」という形で、「上限直線にぶつかる」という形になる。そして、上限直線にぶつかると、(需要を生産が満たせないので)品切れになる。品切れになれば、品物が消えた以上、価格もまた消える。無限の高値にはならず、価格は存在しないのである。あるとすれば、闇市場だが。
( ※ この件、従来の経済学でも、いくらか考察されている。「固定価格モデル」「可変価格モデル」という用語で、教科書を調べるといいだろう。とはいえ、たいしたことではない。)


● ニュースと感想  (10月06日)

 上限均衡点の意味を考えると、「需要超過 ≠ インフレギャップ」ということがわかる。つまり、この両者は異なる。以下で説明しよう。

 「需要超過」という状況は、需要が生産を上回る状況である。つまり、「 需要 > 生産 」である。記号で書けば、「 C+I > Y 」である。そして、このことはもちろん、図で「 D > Y 」という桃色の領域で示せる。( 「 C = Y−I 」 という直線の左側。)
 この状況それ自体については、私もケインズも、同じように考える。「需要が生産を上回る」と。ただし、そのあとの考え方が異なる。

     修正ケインズモデルの領域の図


 ケインズの考え方では、「需要超過」という状況を、「インフレ」と見なす。その考え方は、(教科書的な考え方によれば)次の二つの骨子をもつと考えられる。
  1.  「需要が生産よりも多いのだから、物価が上がるのは当たり前だ」(市場原理
  2.  「需要超過というのは、需要が生産よりも多いことだ。たとえば、需要が 550兆円で、生産が 500兆円。となると、その差の 50兆円は、物価上昇で埋め合わせるしかない。これなら、生産は変わらないまま、名目上の需要の額が増えるから、帳尻が合う」(貨幣数量説
 いずれも、もっともであると思える。ただし、それぞれが「市場原理」と「貨幣数量説」という別々の論拠に依拠していることに注意しよう。
 さて。私の見解では、これら二つの考え方には、ともに難点がある。
  1.  市場原理では、「需要が増えると価格が上がる」ということが成立するが、それは、均衡状態においての話だ。均衡状態( Y = C+I )では、少し需要が増えると少し価格が上がる、という形で、需要増加が価格上昇をもたらす。しかし、そのことは、不均衡状態( Y ≠ C+I )では成立しない。需要超過というのは、もはや価格調整が不可能となった状態である。つまり、価格は、上昇するのではなく、(品切れゆえに)消失する。逆に、価格が消失せずに存在しているのならば、どんなに高価格であれ、その価格で均衡していることになる。(つまり、需要超過ではなくて、需要と供給が一致する。)
  2.  貨幣数量説では、「物価上昇で 550兆円の需要と 500兆円の生産とのギャップが埋められる」というふうになる。しかし、これは、おかしい。名目価格と実質価格の違いを考慮していないからだ。
    •  物価上昇により、需要が名目価格で 500兆円から 550兆円の拡大するのであれば、同じく、物価上昇により、生産が名目価格で 500兆円から 550兆円の拡大する。つまり、物価上昇は、需要だけの増大をもたらすわけではなく、需要と生産の双方の(名目価格上の)増大をもたらす。需要だけが上昇するわけではない。逆に言えば、物価上昇が起こったからといって、需要超過という状況を打ち消すわけではない。そもそも、名目価格でなく実質価格で見れば、状況は何も変わっていない。単に物価上昇が発生しただけであり、需給の数量は少しも変化しない。
    •  一般に、モデルを名目価格で考慮すると、物価変動が起こるたびに、需要や生産がモデル上で増減することになる。これでは話が面倒になる。だから、モデル上では、名目価格の変動は無視して、実質価格(物価上昇率の分を補正した価格)で考えるべきだ。つまり、名目価格が物価上昇でいくら増えようと、そんなことは無視してよい。結局、物価上昇がいくらあろうと、そのことは考慮する必要はないのだ。物価上昇そのものが物価上昇率の分だけ、直接的に需給の数量を増やす、ということはないのだ。(なお、「アメとムチ」という間接的な需要促進策はあるが、これは全然別の話。)
 はっきり言おう。需要超過と、物価上昇とは、同じではないのである。論理的には、まったく別のことである。── なるほどたしかに、需要が増えると、物価が上昇する。そういう傾向は見られる。しかし、それはあくまで、均衡状態のときの話である。需要超過のときの話ではない。
 こんなことは、現実の市場を見ればわかる。何らかの商品(例:タマゴッチ)が、非常に需要があるとする。需要超過。このとき、価格は上昇するか? いや、商品が市場から消えてしまうことで、価格が消えてしまう。一方で、闇市場では、バカ高値で取引がなされる。しかし、ここでは、バカ高値で均衡しており、需要と供給とは一致している。需要超過ではない。
 「物価上昇」というのは、あくまで、均衡状態における話だ。前項のトリオモデルで言えば、右側の上限直線よりも左側の領域(均衡領域)の話だ。そして、「需要超過」というのは、この均衡状態の領域とは別の領域(上限直線よりも右側の領域)のことなのだ。

 では、「需要超過」というのは、インフレではないとしたら、何なのか? その答えを言おう。それはまさしく、「生産以上に需要がある」という状況だ。具体的には、次の三つが考えられる。
  1.  品切れ状態。市場で、商品がすべて売り切れてしまって、需要だけが残る場合だ。ここでは、価格が成立しない。(先のタマゴッチの例。)
  2.  在庫を取り崩している状態。過去の生産物を取り崩している限りは、生産以上の需要があっても均衡を保てる。(ただし、あくまで、一時的な話。あまり本質的ではない。)
  3.  経済システムが、閉鎖系ではなく、開放系である場合。つまり、一国全体では「需要 > 生産」だが、輸入をすることで、生産の足りない分をまかなうことができるので、市場における「需要 = 供給」が成立する。── ここでは、経済システムにおいては、「需要 > 生産」だが、市場においては「需要 = 供給」となる。
 この三つのうちでは、最後の 3. が大切だ。
   (a) 「需要 > 生産」というのは、経済システムの問題である。
   (b) 「需要 = 供給」というのは、市場の価格調整の問題である。
 そして、物価上昇を起こすかどうかを決めるのは、このうち、 (b) であって、(a) ではないのだ。両者を混同してはならない。
( ※ ケインズの考え方は、両者を混同している。前者における「需要超過」という問題を、後者における「価格上昇」に結びつけてしまっている。「需要増加」と「需要超過」とを混同している。)

 上の (a) ,(b) の、「経済システム」のことと、「市場の価格調整」のこととは、別のことである。だから、食い違うことがある。── その良い例がある。レーガノミックスだ。
 レーガノミックスでは、この両者の食い違いが、まさしく発生した。次のように。
 そういうわけだ。つまり、需要超過が発生しても、インフレは発生しなかった。需要と生産のギャップを埋めたものは、物価上昇ではなくて、輸入だった。(本質的には、「借金」で豊かな生活をしていたわけだ。国民はけっこう幸福だった。その時点では。)
 ここで、注意すべきことがある。このとき、生産力は余裕があったのだ。つまり、生産量は上限均衡点に達していなかったのだ。なぜなら、需要超過は、需要の増加によってもたらされたというよりは、生産の縮小(稼働率の低下)によってもたらされたからだ。輸入が増えた分、競争力のない産業で、生産が縮小したわけだ。(実際、レーガノミックス時代、失業率は高めだった。もちろん、設備もかなり遊休していた。)
 結局、こう言える。「需要超過は、上限均衡点に達しなくても、発生する」と。これは、ケインズ説(上記)を否定している。ケインズ説では、「生産能力を超えた需要があるから、需要超過が発生する」となる。しかし、本項の説明では、「生産能力を超えなくても、単に需要が生産を上回るという状況(需要超過)が発生することがある」となる。そして、現実は、それを実証する。(レーガノミックスという例。ケインズ説に対する反例。)

 まとめ。
 さて。以上のまとめから、結局、何が言えるか? 
 それは、「デフレギャップというものは存在するが、インフレギャップというものは存在しない」ということだ。
 では、なぜ、デフレギャップは存在するのに、インフレギャップは存在しないのか? 両者の本質を対称的に示せば、次のようになる。
  1.  デフレギャップ
     需要不足のとき、下限直線によって、価格がもはや下がらなくなる。だから、市場において価格調整が不可能になって、市場における需給調整ができなくなる(不均衡になる)。……ここでは、まだ市場は機能しているから、需給の差であるデフレギャップは存在する。
  2.  インフレギャップ (閉鎖系)
     需要超過のとき、上限直線によって、供給がもはや増えなくなる(品切れになる)。だから、市場において数量調整ができなくなって、市場における需給調整ができなくなる(不均衡になる)。……ここでは、品切れのせいで、もはや市場は機能していないから、インフレギャップは存在しない。(需要はあっても、供給が消えている。価格調整のしようがない。)
  3.  インフレギャップ (開放系)
     閉鎖系でなく、開放系である場合には、事情は異なる。需要超過のとき、外部からの輸入や、過去からの持ち越し[在庫]で、需給の差を埋めることが可能である。しかし、このときは、物価上昇は発生しない。物価上昇もないし、ギャップもないから、このときはインフレギャップなどは存在しない。単に需要超過があるだけだ。
 最後に、オマケ。本項で述べたことは、わかりにくいかもしれないので、たった一言で、核心を述べておこう。それは、こうだ。
 「需要超過とは、物価上昇のことではなく、借金することだ
 ( ※ 「借金」とは、「所得以上に支出すること」だ。それが国家規模でなされているわけだ。)
 ( ※ とにかく、本質的には、需要超過は国民所得の問題だ。一方、物価上昇は均衡した市場における価格調整の話だ。両者は全然、分野が異なる。)

 [ 付記 1 ]
 本項の話では、「上限均衡点に達しないうちに、需要超過が発生することがある」という点が重要だ。
 「需要超過」とは、単に「 C = Y−I 」という直線の上側か下側か(桃色領域か水色領域か)、というだけの問題にすぎない。生産額が上限 Ym に達しているか否かという問題ではないのだ。……そこを勘違いしてはならない。

 [ 付記 2 ]
 「需要超過」という状況が現実にある、ということを理解することも大切だ。
 米国では、1990年代に、「消費性向が1を上回る」という状況が発生したことがあった。これは、ほとんど理解しにくい状況である。(このとき物価上昇は特に発生していなかった。「需要超過が物価上昇をもたらす」ということはなかったのだ。注意!
 ただ、本項の説明を読めば、事情は明らかになるだろう。「消費性向が1を上回る」という状況は、「各人が、生産(所得)よりも多く、消費する」ということだ。つまり、「消費超過」だ。そして、それは、「借金」によって可能なのである。
 借金には、二種類がある。第1に、他人からの借金。住宅ローンや自動車ローンが該当する。第2に、自分からの借金。株式バブルのもとで、株価が上昇する。すると、自分の資産が増えて得をしたと錯覚して、貯蓄を取り崩す。(そのあと、バブルがはじけると、貯蓄を取り崩したという事実だけが残るので、借金が露見する。なお、次項の (2) も参照。)


● ニュースと感想  (10月07日)

 前項の続き。「需要超過」というものを、前項で示した。その具体的な例を、いくつか見よう。現実の例を見て、前項の原理的な話と比較するわけだ。(原理ではないから、特に重要な話ではない。)
 特に本項では、「過剰消費」として、二つの例を見る。「レーガノミックス」および「バブル」である。

 (1) レーガノミックス
 レーガノミックスは、「開放系における需要超過」の例となる。
 レーガノミックスは、「強いドル」という政策のもとで、「豊かな消費」および「低めの物価上昇率」という二律背反を達成した。これをレーガンは自画自賛した。次のように。
 「ケインズ政策のもとでは、豊かな消費をしようとすれば、需要拡大で物価上昇が発生した。これでは、いくら不況にならなくても、インフレなので、幸福ではない。しかし、強いドルという信念のもとで、金利を高めにして、かつ、減税を実施した。すると、減税で需要拡大(生産拡大)をもたらし、かつ、高金利で物価上昇率を低めに抑制した。かくて、国民はインフレなしに豊かな生活をできて、幸福になった」
 それは、たしかにその通りなのである。ただし、そこには、代償があった。「双子の赤字」である。
 レーガノミックスというのは、本質的には、「巨額の赤字」つまり「巨額の借金」である。それを国ぐるみで実行したわけだ。たしかに、借金をすれば、人は豊かな生活を送ることができる。生産以上の需要があるわけだから、稼ぐ以上に金を使っていたことになる。それでも、借金によって穴埋めできたから、生活は幸福になった。
 もちろん、これは、まともな政策ではない。「借金漬け」で現時点で楽しい思いをすれば、将来時点で苦しい思いをしなくてはならない。それが当然だ。
 しょせん、「需要 > 生産」という政策は、まともではない。それは、サラ金人生なのであり、いつかは借金取りが押し寄せるに決まっている。
 レーガノミックスは、借金人生だが、それは二つの意味がある。第1は、「海外に対する借金」だ。これは貿易赤字となって現れる。第2は、「将来に対する借金」だ。これは、減税による財政赤字となって現れる。いずれもマクロ的に発生する。つまり、借金を負っているのは、国民全体である。(そのツケは、増税などで支払う。)

 (2) バブル
 バブル期の日本も、「需要超過」つまり「需要 > 生産」という現象が起こった。その原因は、「資産インフレ」であった。
 「資産インフレ」というのは、前にも述べたように、「妄想による過剰消費」である。富を得ていないのに富を得ていると錯覚する。実際に富を得ることができる人は、市場で高値売却できたごく少数の人に限られる。なのに全員が、自分も高値売却できると思い込んで、自分は富を得ていると妄想する。あげく、過剰消費する。その後、富を言えていないという事実が判明して、貯蓄が減ったという事実だけが残る。……これは、「将来の自分に対する借金」である。
 これは、レーガノミックスに似ているが、違うところもある。レーガノミックスでは、借金を負ったのは、国民全体である。バブルでは、借金を負ったのは、資産インフレを信じて過剰消費した個々の人々である。(ただし、銀行もまた不良債権という形で多額の損失を負ったから、銀行預金している預金者は、利子の低下を通じて、損をこうむったことになる。)

 [ 付記 ]
 レーガノミックスには、他の問題もある。「高金利」は、「需要の抑制」をもたらして、「物価上昇」を抑えるが、それは、「消費の抑制」ではなくて「投資の抑制」をもたらす。これは、均衡状態では、「生産能力拡大の抑制」を意味するから、悪影響がある。また、投資が抑制されることで、職場が減り、失業も増える。
( ※ とにかく、投資と消費のバランスは最適にする必要がある。レーガノミックスのように、投資をやたらと減らそうとするのも問題だし、不況期の量的緩和論者のように、投資をやたらと増やそうとするのも問題だ。何事も、ほどほどに。)
 レーガノミックスには、さらに別の問題もある。「高金利」は、外国への借金い対して、多額の利子を外国に払う、という形で、富の流出を招く。年に7%もの高金利を外国に払う、なんてことをやっていては、国内の富が大幅に流出することになる。
 レーガノミックスは、結局、失敗に終わった。過剰なドル高が続いたあと、ドルは暴落した。1985年の「プラザ合意」のあと、ドル安が続き、1995年には一時的に 1ドル = 79円 という高値になった。この超ドル安は、実態を反映したというよりは、過去の反動であろう。


● ニュースと感想  (10月08日)

 前々項では「需要超過」というものを示した。その例として、「過剰消費」というタイプに当てはまる例を、前項で二つ示した。本項では、さらに話を進めよう。
 先に示した話では、まず「上限均衡点を上回る状態」を考え、その状態が「需要超過」であることを示した。
 しかし、この逆は成立しない。つまり、「需要超過」とは、「上限均衡点を上回る状態」のことではない。上限均衡点を上回らなくても、「需要超過」となることはある。そのことは、図を見ればわかる。── つまり、均衡状態でも、不況期においても、「需要超過」という現象は起こることがある。

     修正ケインズモデルにおける領域の図

 前項における「レーガノミックス」および「バブル」というのは、「均衡状態における需要超過」と考えていいだろう。(図で言えば、区間 BM より少し上の桃色領域。)
 一方、「不況期における需要超過」というのも考えられる。(図で言えば、下限均衡点 B より左の桃色領域。)
 しかし、こういう状態は、一見、不思議に思える。「不況のときに需要超過が起こる」というのは、単純に考えた限り、ありえそうもないからだ。そもそも「不況」というのは、「需要不足」の状態なのだから、「不況における需要超過」というのは、矛盾だと思える。── しかし、現実には、そういう状態はあり得る。それは、「開放系」を考えた場合だ。
 「開放系」を考えれば、「不況における需要超過」というのは、十分にあり得る。それは次のような状態だ。
   ・ 生産がひどく縮小している。(設備不足または稼働率低下)
   ・ 需要はいくらか縮小している。
   ・ 需要を生産でまかなえない分は、借金による輸入でまかなう。
 これは、先の「レーガノミックス」の状況に似ている。
 
 では、どうしてこういう状況が起こるのか? 需要不足でなく需要超過であるのなら、なぜ、生産が増えてその需要を満たさないのか? ── これは一見、不思議に思える。しかし、これは、トリオモデルを考えれば、理由がわかる。
 生産が増えるには、「価格が下限直線以上」であることが必要なのだ。逆に「価格が下限直線以下」(原価割れ)であるならば、生産を増やせば増やすほど、赤字が増えるから、企業は生産を増やさない。── そして、そういう状況は、実際にある。それは、「外国製品が低価格で流入して、価格競争力がない」場合だ。たとえば、日本の鉄鋼に対抗できなくなった米国の鉄鋼産業。
 本来ならば、マクロ的には、こういうことはありえない。たとえ特定の産業が国際競争力をなくしても、他の産業は国際競争力を保つように、自動的に為替レートが変動するからだ。つまり、不況のときに需要超過となれば、自動的に平価が切り下げられて、輸出が増え、輸入が減り、バランスが取れる。かくて、需要超過の状態は解消する。それが原則だ。
 ところが、その原則が成立しない場合がある。「強いドル」とか、「固定レート」などによって、平価を過剰に高くしている場合だ。こうなると、通貨高のせいで、供給が抑制され、需要超過となる。(レーガン時代の米国や、1990年代のアルゼンチンに、その例が見られる。)
 
 結語。
 「需要超過」という現象が発生するのは、「生産量が上限均衡点を上回った状態」だけに限らない。普通の均衡状態や不況状態の生産量のときでも、そういう現象は発生する。
 「需要超過」という現象は、需要が生産能力を上回ったときに発生するとは限らず、需要が実際の生産量を上回ったときに発生する。たとえ生産能力が十分でも、稼働率が大幅に低下すれば、生産量は需要を満たせなくなる。かくて、需要超過という現象が発生する。
 そういうふうに奇妙な現象が起こるのは、平価が過剰に高い場合である。そういう場合には、経済が自然な動きを阻止される。そのせいで、開放系において、輸入超過(貿易赤字)という形で、「需要超過」という現象が発生する。


● ニュースと感想  (10月09日)

 「需要超過」の例をいくつか示してきた。もう一つ、「需要超過」をもたらす別の状況がある。それは、「上限価格」がある状況だ。具体的に言えば、「統制経済」という状況だ。
 前に「下限価格」というものを説明した。(トリオモデルの箇所。)── つまり、「下限価格」というものがあるせいで、需給の均衡が成立しなくなる。
 同様に、「上限価格」というものがあれば、やはりこれのせいで、需給の均衡が成立しなくなる。
 具体的には、「統制経済」において、「上限価格」が制定されている場合だ。たとえば、戦争中の日本のように、米などの配給品があり、闇市場を禁じている場合。(闇市場が堂々と成立するのであれば、「上限価格」などはない。闇市場が禁じられているからこそ、「上限価格」はある。)
 「上限価格」があれば、欲しい人がたくさんいるのに、供給される分量は少ない。つまり、「需要超過」の状態が発生する。
 これは、トリオモデルを見れば、状況がよくわかる。

     トリオモデルの図

 以前は、この図で、直線を「下限直線」と考えたが、今は同じ図を使って、この直線を「上限直線」と考えよう。(価格における「上限直線」。)
 初めは左側の図の状態だったとする。均衡点は、上限直線よりも下にあるから、均衡は成立する。
 次に、供給が削減され、供給曲線が左シフトして、右の図のようになったとする。こうなると、均衡点は、上限直線よりも上にある。だから、そこには達しえない。そのせいで、上限直線の上では、「需要超過・供給不足」の状態となる。(需要曲線と上限直線の交点は、右の方にある。供給曲線と上限直線の交点は、左の方にある。)

 結語。
 「上限直線」というのは、「統制経済」のもとであるぐらいで、普通はない。しかし、もし「上限直線」というものがあれば、「下限直線」と同じような原理で、経済に対して働く。「下限直線」が「需要不足」という不均衡状態をもたらすように、「上限直線」は「需要超過」という不均衡状態をもたらす。
( ※ こういうふうに、対称性がある。こういう対称性を理解すると、物事を統一的に理解できるようになる。)
( ※ 本項で述べた「上限直線」は、「価格における上限直線」である。一方、「生産量における上限直線」というのもある。こちらは、価格の上限を決める物ではなく、生産量における上限を決める物である。トリオモデルにおいては、上に引かれる水平線ではなくて、右に引かれる垂直線である。 → 10月05日b

 [ 付記 ]
 上限価格が存在するのは、実は、国の「統制経済」のときに限らない。個別企業の統制力が働いて、疑似的に「統制経済」になったときにも、同じ現象が起こる。実際、「品切れ」(需要超過)という現象が発生することはしばしばあるし、そこでは一種の疑似的な「統制経済」が行なわれているのである。
 例は、次のようなものだ。
  ・ 「サッカーW杯のチケット
  ・ 人気歌手のコンサートのチケット
  ・ 急に人気の出た新製品(タマゴッチなど)
  ・ レアもののブランド品
 いずれも、「品切れ」という現象が発生し、しかも、「市場による価格調整で均衡」ということがなされない。
 面白い例としては、自動車がある。日本では、人気の新車は、先着順で販売する。ここでは、価格がメーカーに支配されているので、特に価格は上昇しない。そのせいで、品切れが発生して、「半年待ち」というような状況が発生する。米国では、人気の新車にはプレミアム価格が付く。ここでは、メーカー系列の販売店ではなく、独立系の販売店が価格を決めるので、定価よりも高いプレミアム価格になることもある。そのせいで、特に品切れは発生せず、金さえ払えば、好きな車に乗れる。すべて金しだいというわけだ。……両国の国民性が現れているようだ。


● ニュースと感想  (10月10日)

 時事的な話題。新聞記事から。
 オタク・アニメふうのキャラクター像で著名な村上隆が、ルイヴィトンの新デザインを発表。(読売・夕刊・1面 2002-10-08 。記事ページ もある。パリコレ・ページ から「村上隆」ページに移ると、いろいろと画像を得られる。)
 たいしたものだ。こういうふうに、センスのある日本人はたしかにいる。しかし、である。それを生かすシステムが日本にない。せっかく日本的な土壌から生まれた、普遍的な価値をもつ人がいても、日本の会社はそれを生かすことができない。情けないですねえ。才能のある人間を生かすシステムがないわけだ。これだから日本はますますダメになる。
 
 余談。
 私もちょっとデザインを考えた。日産マーチの改善デザイン。
 この車は、ホントに下品な顔をしている。どこを直すべきか? 口だ。口は、「前歯を二本出して、横に大きく開いた口」という形であり、「ネズミが、ガハハハ」と笑っている、というデザインだ。下品。
 私の提案は、平べったい U 字形(上下反転した ⌒ 型)のような形の口だ。幅は狭くする。これなら、おちょぼ口でにっこり笑った感じで、かわいらしくて、上品だ。こうすればいいのにね。
 でもまあ、日産というのは、ダメな企業体質だから、まともなデザイナーを生かすシステムはない。下品なデザインの好きな人しか、客としないのだろう。
( ※ どうせなら村上氏にデザインを頼めばいいのに、という気もするが。そうすれば、バカ売れの車ができるのにね。日産のデザイン部長のひどいセンスには、本当に呆れる。)

 また余談。
 ついでだが、デザインというものを本格的に重視している会社は、私の見たところ、1社しかない。頭文字が C の情報機器会社。この会社は、デザインの失敗例もあるが、全社的にデザインを重視するシステムができているから、失敗を直すことが可能だ。他の会社は、ときどき単発的に傑作が出ることもあるが、たまたま個人の力量でそうなっただけであり、全社的にデザインを重視するシステムができていない。
 ひどい例では、「Will」という異業種交流デザイン連合がある。最低だ。なぜか? デザインというものは、個を最大限に発揮することで得られる。なのにこれは、「寄らば大樹の陰」というのを発展させた考え方だ。いわば、弱者連合だ。こういうところからは、決して、真に独創的な発想は生まれないし、単にニッチを狙う駄作が生まれるだけだ。独創性重視とは正反対の、「寄らば大樹の陰」という経営方針というのは、有害無益ですらある。


● ニュースと感想  (10月10日b)

 ノーベル物理学賞を、小柴昌俊氏が受賞。ニュートリノ研究の成果。
 一方、同時受賞で、ジャコーニ氏が受賞。X線天文学の成果。

 マスコミは、小柴昌俊氏ばかりを持ち上げているが、肝心なことを報道していない。X線天文学とニュートリノ研究は、似ているが、同じ分野ではない。もし同じ分野だとするなら、一番の人物は、「すだれコリメータ」を発明した、小田稔氏だ。
 ただし、氏は、故人である。そのため、ノーベル賞を受賞できなかった。しかし、もっとも独創的かつ偉大な成果を挙げたのは、小田稔氏だ。
 小田稔の「すだれコリメータ」は、医療の分野に応用されて、CTやPETという副産物を生んだ。この副産物の方を開発した人(一種の亜流)は、ノーベル物理学賞を受賞した。( cf.  門下生のページ
 小田稔氏をこそ、称えるべきだ。マスコミの無知と無学を悲しむ。
( ※ インターネットで検索するには「小田稔 すだれコリメータ」という用語で。)


● ニュースと感想  (10月10日c)

 時事的な話題。新聞記事の手抜き法。
 新聞記事は、「足で書く」ことが鉄則である。あちこちに体を運んで、汗をかいて、いろいろと話を聞いたりして、最前線から情報を入手する。
 では、手抜きをするには? 
 一番簡単なのは、インターネットで検索したり、図書館で調べたりして、それをそのまま抜き書きすることだ。子供でもできる。お手軽。……さすがに、これをやる記者はいないようだ。(最低限の基礎情報として、下調べにするのならば可。下調べで得た情報は、常識だから、なるべく、記事から省く。つまり、記事に書くためではなく、記事に書かないために、情報検索するわけだ。)
 二番目に簡単なのは、新聞社の資料整理室に行って、先輩記者の調べたデータを丸写しすることだ。これも、お手軽。「でも、そんなことをやる新聞社は、ないよね」と思うかもしれないが、あにはからんや。それで紙面をつぶしている新聞社もある。朝日新聞の「訃報記事」というのがそうだ。
 「この人が死んだのか。これでもう、資料ははいらないな。在庫分は不要なので、ゴミとして処分する。ただし最後にゴミを利用して、記事を書こう。お手軽だな」
 という信念のもとで、訃報記事だけで、紙面1面を塗りつぶす、ということをしょっちゅうやる。生きているうちには記事にせず、死んで報道価値がなくなったら記事にするわけだ。
 なぜ? 足で書く手間がゼロで、お手軽だから。まったく、新聞記者として、どのような魂をもつか、よくわかる。
( ※ だから情報量が少なく、必要な記事が書けない。例: サッカーで中田・稲本・中村の記事は、毎度毎度、通信社から買って転載しているだけ。スカパーのテレビを見て記事を書く、という手間すら惜しむ。最低の、超ものぐさ新聞社。)


● ニュースと感想  (10月10日d)

 時事的な話題。新聞記事批判。(朝日・朝刊・経済面 2002-10-09 )
 「インフレ目標」についての記事がある。そこでマネタリーベースのグラフがある。「前年同月比でこれこれ」というグラフ。 2000年末までは 10%程度の伸び率だったが、以後、一時的にマイナスになったあと、2001年3月から「量的緩和政策」を実行し、うなぎのぼりに上昇。2002年3月には 40%近くになり、以後、なだらかに低下している。……というグラフ。
 無意味なグラフである。馬鹿げている。たとえば、「一時的にマイナス」というのを見ると、「ほう。伸び率がマイナスになったのか。何で日銀は伸び率をマイナスにするなんていう、変な政策をしたのか」と疑問に思うだろう。しかしこれは、統計上の問題にすぎない。ちょうどその前年同月に急上昇があったから、その反動で、前年同月比の伸び率が低下しただけだ。実際には量が減ったわけではない。
 「前年同月比」というのは、まったく無意味である。マネタリーベースというものの変化を見るには、絶対値の変化だけを見ればよい。「伸び率」だけを見るのは、書いた記者と新聞社が、経済学的な素人であることを示す。

 類例もある。企業利益の「前年比の伸び率」というやつだ。これもまた、馬鹿げた話だ。たとえば、本年の利益が 101億円だとしよう。前年が 100億円なら、伸び率が 1% となり、前年が 1円なら、伸び率が 101億% となる。「101億% の伸び率をした企業はすばらしい驚異的な成長をした」なんて述べるべきなのだろうか? 馬鹿げた話だ。さらに馬鹿げているのは、前年度の利益がゼロであった場合だ。「無限の高成長をした!」とでも述べるつもりだろうか? ……朝日には、こういう「伸び率」記事がよく出るが、いかに経済音痴であるか、よくわかる。
 では、正解は? 「売上高比の利益率」の増減をポイントで示すのが正しい。たとえば、
   前年 …… 売上高比の利益率が 0.1%
   本年 …… 売上高比の利益率が 1.0%
 だったとする。ここでは、「 1.0% − 0.1% = 0.9% 」という引き算をして、「利益率は 0.9 ポイント向上した」と述べるのが正しい。(愚かな記者は、「利益率は前年度比で 900% の伸び率を示した、すごい!」と大騒ぎする。)
 まったく。書きながら呆れてくるが、これが朝日新聞の実態だ。幼児レベル。

 [ 付記 ]
 同じ記事には、インフレ目標についての誤解もある。インフレ目標はインフレを直接的に引き起こす力はない。そのことを日銀幹部が「実現する手段はない」と言った。すると記者は勝手に補って、「(インフレ目標は)実現する手段はない」と書いた。間違い。「(インフレを)実現する手段はない」と書くのが正しい。記者もデスクも、頭がイカレているようだ。


● ニュースと感想  (10月11日)

 田中耕一氏がノーベル化学賞を受賞。
 さて。「ノーベル賞に便乗して、国の金をいただいてしまえ」という輩がいる。「企業に研究開発減税を」という意見だ。
 「研究開発に減税をするのは、いいことだろう」と思うかもしれない。しかし、勘違いしないでほしい。研究開発費は、現在、損金として扱われ、完全に無税である。1円も税金を取られない。そもそも、減税しようにも、減税のしようがないのだ。
 では、巷で言われる「減税」というのは、何か? 「研究開発費の分を法人税から減免する」というものだ。これは、「減税」という名ではあっても、本当は「補助金」である。だったら堂々と「補助金」と名付けるべきだ。ゴマ化さないでほしい。詭弁。
( ※ 研究開発費に対しては、企業が国に税金を払うのではなく、国が企業に補助金を与えるわけ。)

 さて。そもそも、研究開発費をどうするかは、企業の経営方針しだいだ、と私は考える。ノーベル賞の田中耕一氏のいる島津製作所は、研究開発費が7%で、非常に高い。10月10日分で記述した「C社」も、研究開発費が非常に高い。これらの企業は、「補助金を得たから、研究開発をたくさんやった」わけではない。自らの独自判断のもとで、そうしたのだ。優れた企業には、それだけの判断力があった。
 「バカに金をやれば、バカが利口になる」と思うのは、早計だ。「バカに金をやっても、バカが浪費をする」となるのが落ちだ。大事なのは、金をやることではないし、また、金をかけることでもない。ノーベル賞をもらった各人が、金のおかげで研究したのかどうか、よく考えてみるがいい。莫大な金をかけたカミオカンデでさえ、米国の同種施設に比べて、数分の一のコストで済ませた。(それでいて、成果ははるかに上。)
 繰り返して言う。「金をやれば、いい研究ができる」と思うのは、とんでもない勘違いだ。特に、「補助金をやる」つまり「研究開発費の必要性も理解できないような、バカな企業に金を贈って、無理にやらせる」というのは、どちらかと言えば、無駄である。つまり、本四架橋などの公共事業と同じだ。「金をかければ、その分の効果が出るさ」と勝手に思い込んむ。そして壮大な浪費をするわけだ。「大金をかけたのだから、きっとすばらしい効果が出るさ」という信念をもつ。「その金で何をやるか」ではなく、「いくら金をかけたか」だけを考えるわけだ。
 経済学バカとしか、言いようがない。「脳減る賞」を差し上げる。

( ※ 「じゃ、研究開発を進めるには、どうすりゃいいんだ?」と思うかもしれない。簡単だ。大学などへの科学研究費を増やせばいい。「劣悪な企業に金をめぐんで、意味もわからないような研究をやらせる」なんてことより、「最優秀の研究者が金欠で悩んでいる分野に、欧米並みに金をつぎこむ」方がずっといいに決まっている。常識。こんなのは、誰でもわかるイロハである。ただ、それがわからないのが、エコノミストという非常識人たちだ。……なお、景気刺激効果は、どちらも同じくらいある。)

 [ 付記 ]
 冗談半分だが、「Ig Nobel prize」(逆ノーベル賞)のニュース。
 経済学賞が決定。エンロン、ワールドコム、アンダーセンの幹部らが受賞。授賞理由は、「ビジネスの世界に虚数の概念を導入した功績」とのこと。
( → 該当ページ )

 竹中・小泉も、もらえそうだなあ。「空から金が降ってくる」「不良債権処理のための金は湧いて出てくる」という政策を実行しているのだから、「政治・経済の世界に、四則演算の不成立という概念を導入した功績」がある。(猿並みだから引き算ができないだけ、という解釈もあるが。)

  【 追記 】
 研究開発減税は、減税でなく、補助金に相当する。これは「特殊法人廃止」「補助金廃止」という「構造改革」に逆行する。── このことを示そう。
 本日分の本文では、すでにこう述べた。
 「研究開発費は、現在、損金として扱われ、完全に無税である。1円も税金を取られない。そもそも、減税しようにも、減税のしようがないのだ」
 そうだ。だから「研究開発減税」というのは、「減税」ではなく、「補助金」なのだ。企業が1億円の研究開発をしたとき、今は1円も税金を取らないが、税金を取らないだけでなく、さらに「数百万円の補助金を上げましょう」というふうにするわけだ。
 しかし、「補助金漬け」を廃止する、というのは、そもそも「構造改革」の目的だったはずだ。現在の「補助金漬け」というのは、別に、まったく無駄なことをやっているわけではない。非効率なだけだ。たとえば、民間ならば 100円で可能な郵便配達を、郵政省が 110円をかけて実施している、というふうな。あるいは、自立できない農家に、1割ぐらいの農業補助金を与えて、農業をやらせる、というふうな。
 そういうふうにちゃんと自立的にできない経済活動を無理やらせて、国家的な経済効率を下げる、という点に、補助金の問題があったわけだ。だから、「補助金なしではできないような経済活動」は、さっさと廃止して、かわりに民間で自立できるものをやらせることで、経済効率を高めればいいわけだ。それが小泉の「構造改革」の狙いだった。
 ところが、「研究開発減税」というのは、それとは正反対だ。およそ採算にも乗らないような無駄な研究開発を、あえて無駄にやらそうとする。これは「効率悪化」「構造改悪」とも言うべき、メチャクチャな政策だ。
 はっきり言おう。企業がどういう経済活動をするべきかは、企業そのものが決めるべきだ。たとえば、流通業ならば、「研究開発費をかけて、ノーベル賞をもらえるような研究をする」なんてことよりも、単純に流通システムのコスト低減を図った方がずっといい。研究開発費など、かければかけるほど、無駄になる。酒屋のオヤジだってそうだ。「新しい酒を研究しよう」だの、「新しいフランス料理を研究しよう」だの、そんなことに研究開発費を投じるよりは、サービスの向上で接客態度を良くする方がずっとマシだ。
 企業がどういう経営をするかは、企業自体に任せるべきなのである。国が勝手に「こういう経営をせよ」という方針で、「研究開発をせよ。そのために補助金を与える」というのは、国による民間経営への介入であり、経営効率を低下させるだけなのだ。
 「でも、補助金をもらえるなら、もらえるものはもらいたい」と企業は思うだろう。そういうふうにして、国にすがるようになり、自立する気概が失われていく。軟弱。最低。腰抜け。……そういうふうにして、企業を劣悪化するように誘導するわけだ。
 だから、どうせなら、「研究開発減税」なんかよりは、「法人税減税」の方が、はるかに筋道は立っている。どうせ企業に金を渡すにしても、ヒモをつけないで渡した方がずっとマシだ。企業は自ら判断して、最善の金の使い方をするだろう。
 なお、「研究開発費は大事だ」という意見は、それはそれで、理解できる。しかし、それなら、「企業の研究開発費」でなく、「国の研究開発費」を増やすべきなのだ。大学の研究開発予算は、非常に微小な額なのだから、ここにこそ金を投入するべきだ。企業が「不況のどさくさにまぎれて、国の金をもらってしまおう」なんて考えているとしたら、それは、火事場泥棒と同じである。
 泥棒は、「それで私は得するから、いいことだ」と主張するが、その分、他人は盗まれるのだ。泥棒が血税と需要を盗めば、その分、国民の金と需要は奪われる。景気回復にはならない。
 火事場泥棒に、血税を渡すな! そしてまた、火事場泥棒を推奨するようなエコノミストにだまされるな! 私はそう言いたい。

( ※ おまけ。では、「研究開発投資」よりも、いい手はあるか? ある。それは、「優秀な人材の雇用」だ。設備に金をかけるよりも、人間に金をかけるべきだ。たとえば、中村修二のように、日本企業からはみ出すような人材を雇用すればよい。それができない日本企業体質が問題なのだが。……なお、この方式の成功例は、日産のカルロス・ゴーンに見られる。日産はゴーン社長を年収 5000万円プラス成功報酬で招いた。その結果は、数百億円規模の収益改善だった。非常に投資効率が高い。逆に、日産が研究開発投資を追加していたら、数十億円の追加のあと、そのすべてを回収できないままとなり、数十億円の赤字増加だけになっていただろう。)
( ※ そもそも、研究開発投資というのは、「直接的には利益を生まない支出」なのである。収益改善が急務の不況の時期に、そんな無駄金をどんどん出すような経営者は、経営者失格である。経済学者は、そこを勘違いしているようだ。「研究開発費を増やせば、企業体質が向上して、収益が改善する」と。こんな説を、企業がまともに信じたら、その企業はすぐに倒産する。何しろ、帳簿の収入の欄だけ見て、支出の欄を見ないのだから。馬鹿丸出し。)
( → 5月13日 「研究開発費はなるべく一定」)


● ニュースと感想  (10月11日b)

 時事的な話題。ペイオフが2年延期。
 2年ぐらい延期しても、今のままでは不況は解決しない(不良債権処理のせいでかえって悪化する)から、2年後にまた騒ぐだけかもしれない。そうなりそうだ。「不況解決後に実施」と述べるべきだった。
 ついでに言えば、「不良債権処理も不況解決後に」と決めるべきだった。
 政府は頭が錯乱しているようだ。「ペイオフが景気に悪い」と言うのなら、「不良債権処理も景気に悪い」と認識するべきだ。だから、「ペイオフを延期」と決めるのなら、「不良債権処理も延期」と決めるべきだ。さもなくば、論理的に統一が取れない。一方では景気悪化を防ぐ措置を取り、一方では景気悪化を進める策を取る。アクセルとブレーキを同時に踏んでいる。
 「不良債権処理を進めるには、ペイオフはまずい」と述べている人が多いようだが、自分で何を言っているか、わかっていないようだ。彼らはどうも「不良債権処理」が絶対的な信念であり、これだけは聖域として不可侵としているようだ。教条主義。妄想。狂信。


● ニュースと感想  (10月11日c)

 前項の続き。「ペイオフ延期」と「朝日新聞」。
 朝日社説(2002-10-09)は、ペイオフ延期について、「政策転換は必要だが、説明が必要だ」と述べている。呆れる。ついこの間まで、「ペイオフは必要だ」と述べていたのは、朝日社説自身ではないか。自分でも提言する政策を(政府の後追いで)実施して、その説明をしない。これでは読者は戸惑う。「説明せよ」という言葉を、自分自身に向かって言うべし。
 まったく、朝日というのは、気骨がない。「ペイオフ実施を」と述べるのなら、それを貫徹するべきだ。なのに、小泉が「実施」と言えば、「はいそうです」。小泉が「延期」と言えば、「はいそうです」。そして読者が「説明せよ」と言えば、「当社のかわりに、小泉が説明すべし」だって。何だ、この新聞は。朝日の読者は、朝日に購読料を払っているのであり、小泉に購読料を払っているのではない。勘違いしないでほしい。
 朝日がどうしてこんなに愚かなのか、その説明をしておこう。それは、朝日が、自分が何を考えているかを、自分で理解していないからだ。朝日の取る立場は、「古典派」「サプライサイド」と分類できる。竹中と同じである。だから竹中と意見がそっくりになる。これはまた、超保守派のレーガンとほぼ同じ考え方だ。朝日は経済学の分野では、ウルトラ右派なのだ。
 なのに、そこを理解しない。「自分は世の中の中央に位置している」とか、「世界は自分を中心にして回っている」と信じている。自分が世の中でどのように位置づけをされるかを理解しない。なぜか? それは、「経済学全体」というものを見る、広い視野をもたないからだ。自己流の唯我独尊の考えに凝り固まっているから、世界全体を見渡せないのだ。
 米国のブッシュは、「自分は世の中の中央に位置している」とか、「世界は自分を中心にして回っている」と信じている。自分が世の中でどのように位置づけをされるかを理解しない。それは、「世界全体」というものを見る、広い視野をもたないからだ。自己流の唯我独尊の考えに凝り固まっているから、世界全体を見渡せないのだ。
 朝日とブッシュは、一卵性双生児なのである。

( ※ なお、本項でわかったのは、経済学の分野における立場の逆転だ。朝日はどうやら、超右翼の保守派だ。読売の方はどうやら、共産主義の超左翼を歓迎しているようだ。次項(2) を参照。)


● ニュースと感想  (10月11日d)

 時事的な話題。「不良債権処理」について。論者の意見を、二つ。

 (1) 竹中・木村
 竹中の主張がある。(朝日・夕刊 2002-10-05 ,読売・朝刊 2002-10-06 )
 「大きすぎて、つぶせない、ということはないぞ。どんなに大きな銀行でも、つぶした方がいい。劣悪な銀行・企業はつぶした方がいい」
 木村剛も、
 「劣悪な企業はどんどんつぶした方がいい」
 と。同じように、二人とも主張する。
 しかし、不況というのは、あらゆる企業が劣悪になる状態だ。(なぜなら、企業にとっては、均衡点が採算ライン以下になる。) ── だから、二人は、「あらゆる企業をつぶしてしまえ」と主張しているわけだ。つまり、「日本は劣悪だ、日本をつぶしてしまえ」「日本を崩壊させよ」と。
 結語。
 劣悪なのは、竹中たちである。彼らこそ、最悪の不良債権だ。「不良債権処理」を唱えるなら、まず、自分をクビにするべきだ。── この意味でのみ、「不良債権処理」には賛成する。

 (2) 渡辺孝
 元銀行マンの大学教授である渡辺孝へのインタビュー。(読売・朝刊・経済面 2002-10-09 )
 「日銀考査役時代の 97年に、銀行に『融資は厳しくせよ』と述べたのに、銀行は甘い融資をしていた。しかし、その企業は、いまだに経営不振の状態から抜け出していない。日銀は正しいことをしているのに、銀行は企業を甘やかしている。銀行はダメ銀行ばかりだから、国有化してしまえ。銀行の自主性を尊重するのはダメだ。」
 という意見。
 呆れた話だ。そんな理屈が成立するなら、堂々と「銀行国有化」とか、「企業国有化」とかを、主張すればいい。「私営企業は放置すればダメであり、国有化こそ最適だ」という共産主義だ。それにしても、読売が「銀行国有化」をデカデカと掲載するとは、びっくりしたね。いつから共産主義を推進するようになったんだろう? 
 正解は? 
 「その企業は、いまだに経営不振の状態から抜け出していない」という前出の発言は、「その企業が劣悪だからだ」ということを前提としている。しかし、実際には、「その企業が劣悪だからだ」ということはなく、単に「マクロ的に総需要が縮小しているから、あらゆる企業が劣悪になる」というだけのことだ。それが不況という状況だ。
 結局、彼は、「需給関係」というものを理解できないのである。「需要不足で物が売れない」という「需給関係」をまったく無視して、単に「金融政策だけですべては片付く。そして金融政策はすべて発動している。だから政府・日銀には何も問題はない」という理屈だ。
 要するに、現実に合わせて意見を出すのではなく、意見に現実を合わせようとしているのである。そして、それがうまく行かなくなると、「共産主義にすればよい」という暴論を出すわけだ。
 マネタリストは、経済のうち、金融しか理解できない。需給というものを無視する。デタラメな理屈からは、デタラメな結論しか出ないわけだ。


● ニュースと感想  (10月12日)

 株価の暴落が世界的に進んでいる。米国も、欧州のドイツなども。(読売・3面 2002-10-11 )(なお、その後、一時的に反発したが、長期的な大幅低落傾向は明らかである。)
 これについて、「世界同時株安か。だから、日本だけが悪いんじゃない」という政府の責任放棄の声も聞こえてきそうだ。しかし、そんな言い分は通らない。「米国の好況はいつかしぼむのだから、そのまえに不況を脱出せよ。残された時間は少ない」と数年前から言われてきた。そして、ついに、タイムアウトとなったわけだ。「そのうち何とかなるさ」と述べて、景気対策を取らなかった責任は、きわめて甚大だ。下手をすると、世界恐慌の再来だ。

 さて。本質的に考えよう。なぜ世界同時株安が進んでいるのか? 日本だけが経済政策を失政したのならば、日本だけが不景気になるはずなのに、なぜ世界中が不景気になるのか?
 その答えを言おう。それは、世界中が失政をしたからだ。では、どんな? それは「マネタリズム」だ。「金融政策だけをしっかりやれば、景気はちゃんと制御できる」という言い分だ。
 なるほど、その言い分は、インフレ対策には、成立する。しかし、不況には、成立しないのだ。「金利を上げること」は、投資を抑制できるが、「金利を下げること」は、投資を十分に増やせるとは言えないのだ。そういう非対称性に、マネタリズムは気づかない。
 欧州の不景気は、過剰な「財政均衡主義」(物価抑制策)によって、財政を引き締めすぎたことによる。これは明らかにマネタリズムの失敗だ。米国の不景気は、直接的にはバブルが破裂したことによるが、いったんバブルが破裂すれば、もはや金融政策は効果が不十分なのに、あくまで金融政策にこだわったというのが、急激な景気悪化の理由だ。
 1年前には、NYテロで株が暴落したあと、「どうせ1年後には景気は回復するさ」と楽観していたのが、ほとんどの経済学者だった。「楽観するな」と警鐘を鳴らしたのは、私を含めて、ごく少数だった。そして、たいていの経済学者が、自分の見通しがまるまるハズレたことを忘れて、今も「ああだこうだ」と勝手に吠えているのである。自分のいったことを忘れる、健忘症。

 結語。
 世界同時株安は、不思議でも何でもない。起こるべくして、起こったのだ。間違った経済運営をしてきたから、そういう結果となったのだ。なすべきことは、「では、どんな対策を取るべきか?」と未来について考える前に、「なぜ間違ったか?」と過去について考えることだ。自己反省することだ。過ちて改めず、これを過ちという。── この言葉を、「金融教」信者のマネタリストに贈ろう。

 [ 付記 ]
 マネタリズム批判を述べておく。
 本質的に見よう。経済とは、生産活動だ。どれだけ生産し、どれだけ需要があるか、ということだ。なのに、そういう実体経済をすべて無視して、「金だけがすべて」なんて考えてはダメなのだ。
 「デフレとは金融的な現象である」とマネタリストは言う。(竹下も最近、そう言っている。) しかし、違う。デフレとは、実体経済そのものが縮小していく現象である。単なる金融だけの現象ではないのだ。金の動きが鈍くなっただけではなく、実質的な生産や所得が縮小していく現象なのだ。そこを見失ってはいけない。
 これについては、「金のめぐりが悪くなったから、生産が縮小したのだ」というマネタリストの説もある。違う。生産が縮小したから、金のめぐりが悪くなったのだ。そのことは、簡単に証明できる。仮に、マネタリストの説が正しければ、金のめぐりだけを良くすればよい。つまり、「土地転がし」「商品転がし」だけを振興すればよい。業者間だけで、土地や商品を転がしていく。こうすれば、金のめぐりは急速に良くなるが、しかし、生産は少しも増えない。それでデフレは片付くのか? もちろん、片付かない。デフレを片付けるには、金のめぐりだけを良くしても、何の意味もない。実体経済そのものを拡大する必要があるのだ。
 こういう本質を理解せず、単に数字だけをいじくる帳簿主義が、マネタリズムだ。「帳簿上で売上げがどんどん増えればいいのだ。実際の生産が増える必要はない」という発想だ。本質的とは正反対の、皮相的な発想である。
 最近、ノーベル賞が話題になっている。そこで、一言述べておこう。真実をつかむには、物事の表面だけを見てはダメで、物事の本質をつかまなくてはならない。そのことは、どのノーベル賞学者も言っている。
 そして、そういうことができないで、いつまでも表面の数字ばかりをいじっているから、たいていの経済学者は真実にたどりつけないのである。


● ニュースと感想  (10月12日b)

 株が暴落の一途。平均株価が一時 8200円割れ。
 さて、そこで記事が出た。「株安と、それによる銀行の自己資本比率低下の問題をどうするか?」という記事だ。(朝日・朝刊・経済面 2002-10-10 )
 ああだこうだ、と凡庸な意見を言っている。よく見る意見であり、特に間違っているわけではない。しかし、そこでは大切なものが欠如している。
 記事が言っているのは、「株安を何とかせよ」「自己資本比率低下の問題を何とかせよ」ということであり、そのために、「株安の問題には、株価刺激策を」「自己資本比率低下の問題には、公的資金の注入を」というようなことだ。しかしそれらは、あくまで対症療法にすぎない。
 株価が下がれば「株を上げよ」、自己資本比率が低下すれば「自己資本比率を上げよ」、失業率が上がれば「失業者をセーフティネットで雇用せよ」、企業利益が減れば「法人税を下げよ」、投資が減れば「投資減税をせよ」、……まったく、キリがない。あとからあとから症状が現れ、そのたびごとにどんどん対症療法をやろうとするが、やってもやっても新たな症状が現れる。
 彼らは、表面だけにとらわれていて、本質を見抜いていない。帳簿や統計数字ばかりにとらわれて、本当の原因を見抜いていない。だから無駄な対症療法をいくつもいくつもやろうとするのである。
 風邪を治すには、どうするべきか? 喉や鼻や熱などの個別の症状を一つ一つ治せばいいか? 違う。風邪のウイルスを根治することだ。それなしに、いくら対症療法をやっても、一時的に症状はよくなるように見えても、本質的な病状はかえって悪化するばかりなのだ。実際、そうだ。上記の「セーフティネット」などの対策をするには、財源がいるが、そんな無駄なことに財源を使えば使うほど、日本経済の体力は低下する。上記のような対策は、一見、景気回復策であるように見えるが、一時的には病状を良くしても、結局はかえって病気を悪化させるのである。(一時しのぎに麻薬を打つようなものだ。今日は良くても、明日はひどく悪い。)
 本質は何か? もちろん、総需要の縮小だ。この一つの本質が、上記のような数多くの症状をすべて生み出す。この「本質と症状」という関係を理解することが、マクロ経済において肝心なことである。
( ※ とはいえ、多くの経済学者は、マクロ経済を理解できない。マクロ経済を個別企業の総和と考える。経済学音痴。)


● ニュースと感想  (10月12日c)

 「銀行経営の刷新」について。(企業統治「コーポレート・ガバナンス」という言葉も使われる。)
 銀行株が暴落している。そこで「公的資金を注入」という案があるが、前提として、「銀行の経営を刷新せよ」という意見がある。「不良債権処理が発生するのは、銀行経営がダメだからだ。公的資金を投入するなら、経営責任を問うべきだ」というわけだ。
 同様に、「銀行はしっかりした経営をするべきだ。不良債権を増やさないように、融資を厳しくするべきだ」という主張もある。(こちらは日銀の勧告。読売・朝刊・経済面 2002-10-11 )
 どちらも、もっともな意見のようだ。しかし、完全に間違っている。というか、自己矛盾している。厳格な経営をして、融資を厳しくすれば、投資はどんどん減ってしまうからだ。

 そもそも、銀行の経営が悪化したのは、急に銀行経営が下手になったからではない。どちらかと言えば、合併したり、融資審査を厳しくしたりで、経営は良くなっている。では、なぜ、銀行の経営状態は悪化しているか? 「経営方針ががまずいからだ」と論者は言う。違う。融資先の企業がどんどん倒産していくからだ。
 不況になれば、融資先の企業がどんどん倒産して、融資が回収不能になる。(それを確定するのが、「不良債権処理」ということだ。) とにかく、相手先企業が倒産したら、融資が回収不能になるのであり、そのことは、銀行の経営をどうこうしようと、かわりはしないのだ。「銀行の経営方針をいっそうすれば、融資先の企業が倒産しないで済む」ということはない。
 だから、根源は、「不況」という状況なのである。(次項でも述べるが。) とにかく、個別の各症状について、「これは誰それの責任だ」と考えながら、「企業が悪い」「銀行が悪い」「株主が悪い」「消費者が悪い」などと述べても、ダメなのだ。「不況」という根源の状況を知ることが大切だ。
 だから、銀行の経営悪化も、責任があるとしたら、それは、銀行の経営者に責任があるのではなく、政府に責任があるのだ。世の中に、「優秀な銀行と、不良な銀行」があるのならば、不良な銀行の責任は経営者にあるが、「あらゆる銀行が不良になる」としたら、責任は、経営者にあるのではなく、政府にあるのだ。(論理的に当然。)
 これが真実だ。そして、この真実を見失うと、どうなるか? 「責任は銀行にある。銀行の経営を正せ」と主張することになる。その結果は、「倒産しそうな企業に対する、融資の厳密な審査」である。それは「投資の縮小」を招き、経済をさらに悪化させる。
 結局、彼らの主張は、こうだ。
 「景気回復のためには、融資を増やすべきだ。それには、不良債権処理をするべきだ。そして、不良債権処理をするなら、銀行経営を健全化するため、融資を厳しくするべきだ。つまり、融資を減らすべきだ」
 つまり、「融資を増やすために、融資を減らせ」と主張しているわけだ。(その中間に「不良債権処理」というのが入るわけだ。) 呆れる。完全な自己矛盾である。

( ※ なお、「個々の企業(銀行)が努力すればするほど、状況はかえって悪化する」というのは、「合成の誤謬」と説明される。 → 次項[翌日分]を参照。)

 [ 付記 ]
 「不良債権処理を実質簿価で買い入れる」という方針について。
 「不良債権処理のため、時価よりも高い実質簿価で、RCCが購入」という奇怪な方針が進むらしい。(読売・夕刊 2002-10-10 )
 この政策は、何を意味するか? 「銀行経営改善のため、国の金を銀行にプレゼントする」ということだ。公的資金の注入ならば、銀行に金を渡しても、代償として株式を得る。だが、上記の「実質簿価で」というのは、代償なしに金をプレゼントすることだ。狂気といってよい。
 これは、前述の「企業経営の刷新」というのとは、正反対の方針だ。ひたすら銀行を甘やかす、というもの。
 そもそも、こんなことをやって、どれだけ景気回復の効果が出るのか? 数兆円〜数十兆円という莫大な金を銀行にプレゼントすることになる。銀行はその金を得るが、国はその金を失う。国全体で見れば、国から銀行に金が移るだけだ。景気改善の効果など、まったくない。帳簿いじりにしかならない。(本当は、もっと悪い。)
 「銀行がつぶれそうだから、金融システムの保護のため」というのならば、まだわかる。それならば、理屈が立つ。しかし、それは、「劣悪な金融企業を保護するために金を与える」という方針だ。つまり、「劣悪な企業をさっさと倒産させよ」という「不良債権処理」とは、正反対の方針だ。自己矛盾。
 「公的資金の注入」というのは、良くはないが、害も比較的少ない。莫大な金が消えてしまうということはない。しかし「不良債権処理のため実質簿価で」というのは、莫大な富が消える。国民の富が大幅に失われ、その一方で、「不良債権」というクズをもっていた人々が、クズを高値で国に売りつけることで、大儲けする。国から数兆円の金を盗めるわけだ。それを推進するわけだから、狂気の政策。(換言すれば、国民一人一人が、数万円の金を奪われる。)


● ニュースと感想  (10月13日)

 「不良債権処理」と「投資」における「合成の誤謬」について。
 不良債権処理について、次のような意見がある。
 「銀行は、『不良債権処理を先送りすればいい。そのうち景気が回復するので、不良債権問題は解決する』と信じてきたが、実際には、景気が回復しなかったので、不良債権処理は増えるばかりだった。銀行の体質が生ぬるい」
 この意見は、次の意見と矛盾する。
 「企業は投資をするべきだ。今は景気が悪くとも、企業が投資をすれば、景気が回復するのだから、景気回復を信じて、企業は投資するべきだ」
 両者がどう矛盾するかと言えば、銀行には「景気回復を信じたのが悪い」と批判し、企業には「景気回復を信じないのが悪い」と批判していることだ。いったい、どちらなのか? 景気回復を、信じればいいのか? 矛盾。

 では、正解は? 
 これは「合成の誤謬」(の逆)に当てはまる。
 「個別には適切なはずの行動を、全員がそろって同じ行動を取ると、かえって不適切になる」
 というのが、「貯蓄のパラドックス」だ。その逆が、
 「個別には不適切なはずの行動を、全員がそろって同じ行動を取ると、かえって適切になる」
 というのが、「合成の誤謬」(の逆)だ。
 だから、結論としては、こうなる。
 「『景気回復を信じる』という個別には不適切なはずの行動を、全員がそろって同じ行動を取ると、かえって適切になる」
 つまり、「景気回復を信じる」というのは、個別的には現況では間違った行動である。1企業だけとか、1産業だけとかが、個別に実施しても、その企業や産業が損するだけだ。(銀行業で不良債権がたまって経営が悪化する。) しかし、全国民と全企業がそろって「景気回復を信じる」というふうにすれば、それは正しい行動となる。(消費や投資が増えるので、景気は回復する。)

 これは「合成の誤謬」の問題である。このことを理解することが大切だ。
 「不良債権処理をすれば景気は良くなる」という意見は、もちろん、「合成の誤謬」を知らない経済音痴の意見だ。
 「量的緩和をすれば景気は良くなる」という意見も、もちろん、「合成の誤謬」を知らない経済音痴の意見だ。
 そういうふうに、銀行だけとか、投資したい企業だけとか、経済全体の一部分だけを刺激してもダメなのだ。そんなことをすれば、個別の企業の状況が悪化するだけだ。銀行ならば、不良債権処理をした銀行が経営悪化するだけだし、企業ならば、投資した企業だけが経営悪化するだけだ。
 不況のときには、「合成の誤謬」の状況になる。こういうときには、個別にいくら適切な処置を取っても、かえって状況を悪化させるだけだ。
 大切なのは、マクロ政策である。個別の銀行・企業の行動をどうこうするかということではなくて、国全体の状況(「合成の誤謬」が働く状況)を変えることが大切なのだ。── そう理解することが、「マクロ経済学を理解する」ということだ。
 残念ながら、今のエコノミストは、マクロ経済をまったく理解できない。単に個別の銀行や企業を体質強化しようとばかりする。そのせいで、全体としては、状況はかえって悪化していくのである。
 「木を見て森を見ず」── それが今のエコノミストの状況だ。

 [ 付記 1 ]
 「合成の誤謬」とはどういうものであるか、はっきりと理解しよう。古典派の人々は、自らが「正しい」と思うことを進める。「生産性向上」「リストラ」「不良債権処理」……など。しかし「正しい」ことをすればするほど、状況はかえって悪化していくのだ。これはほとんど言語的な矛盾と思える。しかし実は、矛盾ではない。彼らが「正しい」と信じているのは、「個別企業にとって正しい」という意味にすぎないからだ。それは「国全体にとって正しい」という意味ではない。そして、この両者の違いを明らかにするのが、「合成の誤謬」という概念だ。
 たいていのエコノミストは、経済学音痴だから、このことを理解できない。

 [ 付記 2 ]
 では、正しい政策は? 「合成の誤謬の逆」である。つまり、「個々の企業が正しいことをすると、マクロ的には状況はかえって悪化する」のだから、「個々の企業が正しくないことをすると、マクロ的には状況はかえって向上する」わけだ。
 今は、企業にせよ、国民にせよ、「財布を引き締めずにゆるめる」という正しくない行動をすることが大切だ。そうすれば、不況から脱することができる。
 そして、このことは、銀行にも当てはまる。前項のように、「銀行の経営責任を問え」「銀行の企業統治を」などという意見があるが、こういうのは、「合成の誤謬」になる。むしろ逆にすればいいのだ。「銀行は経営を甘くせよ」「先行きの見通しが楽観でいない企業にもどんどん貸し出せ」「倒産しそうな企業から資金を引き揚げるな」というふうに、大甘経営をすればいいのだ。
 そういう大甘経営は、間違いか? 通常時ならば、間違いだ。しかし、不況のときは、そういう大甘な方針を取ることで、景気が回復するから、危ない企業もうまく健全化していく。つまり、個別には間違った方針であっても、全員がやれば正しい方針となる。それが「合成の誤謬の逆」だ。
( ※ だから、「不良債権処理は、やらなければやらないほどいい」「むしろ、不良債権処理になりかねなくても、融資をどんどん増やすべきだ」と結論できるわけだ。……ただし、前提がある。1企業だけがやってもダメだ、ということ。銀行だけがやってもダメだ[国全体で需要拡大策を取るべきだ]、ということ。)
( ※ 逆に言えば、国がいくら減税をやっても、銀行が「不良債権処理」と言い立てて、融資を縮小するならば、減税の効果は削減されてしまう。)


● ニュースと感想  (10月13日b)

 「不良債権処理」と「セーフティネット」について。
 「不良債権処理を進めるべきだ。しかし、それだけでは、倒産・失業という問題が発生する。だから、中小企業対策や失業対策など、セーフティネットもやるべきだ」
 という意見がある。(朝日・読売の記事や社説など。)
 一見、まともな主張だと思える。しかし、その主張は、自己矛盾を起こしている。そのことを示そう。(「不良債権処理」と「セーフティネット」との矛盾。)

 「不良債権処理をせよ」というのは、「効率改善が必要だ。だから、劣悪な企業を倒産させよ」ということだ。それはつまり、「劣悪な企業を倒産させてしまえ。そうすれば、その経営資源は、他の企業に移転する。かくて、全体の効率が向上する」ということだ。
 しかし、そういう主張が成立するのならば、「セーフティネットを」などと主張する必要はないのである。経営資源は自然に優秀な企業に吸収されるはずだからだ。むしろ、セーフティネットがあれば、経営資源が優秀な企業に吸収されるのが阻害されるだけだから、やらない方がいいのだ。

 「でも現実には、倒産・失業は発生するぞ。経営資源が優秀な企業に吸収されることはないぞ」
 と思うだろう。それが正常だ。たしかに、その通りだ。それは何を意味するか? 「不良債権処理で状況が自然に改善する」という原理が成立しないから、「セーフティネットが必要だ」というふうになるわけだ。つまり、自己矛盾を起こしているのである。

 根本的に考えるがいい。「劣悪な企業を倒産させよ」と述べるのなら、そうしたあと、倒産した企業の経営資源はどうなるのか、考えてみるがいい。それは他の企業で有効利用されるのか?  以上のようになる。
 結局、「不良債権処理をやれ、かつ、セーフティネットをやれ」と述べるのは、自己矛盾を起こしているのだ。そして、こういう矛盾した理屈に従って、「不良債権処理とセーフティネットを」という狂気の政策が、進んでいるわけだ。
( → 10月04日 の最後の方にも、似た話。)

 [ 付記 ]
 倒産企業の経営資源が有効利用されるか否か、上では、二つのケースを示した。実際には、どちらなのか? もちろん、有効利用されない。(だから不良債権処理をするべきでない。)
 では、「有効利用されない」のならば、それはどうしてか? 理由を、以下で示す。

 (1) 生産効率
 「たとえ有効利用されなくても、劣悪な企業は倒産させた方がいい」と思うかもしれない。しかし、そうではない。なぜなら、倒産させたあと、その経営資源が有効利用されなくなれば、「平均以下」の生産効率だったものが、「ゼロ」という生産効率に変わるからだ。赤字企業は、たとえ赤字を1割ぐらい出しても、9割ぐらいはまかなえる。しかるに、失業者は、生産がゼロだ。つまり、「90%の生産効率から、0%の生産効率へ」ということになる。「劣悪な企業をつぶしたあとで、劣悪な荒廃状態へ」ということになる。── だからこそ、「有効利用される」ことが必須であるわけだ。そのことなしに不良債権処理を進めれば、経済システムが荒廃していくだけだ。
( ※ 「セーフティネットを」という意見は、ここを理解していない。セーフティネットにより、失業者への対策はできる。しかしそれで、失業者の「生産効率ゼロ」という状態が改善するわけではない。失業者の所得を、他の人々が負担するだけだ。失業者の財布はふくらむが、他人の財布はしぼむだけだ。「セーフティネットを」というのは、福祉策にはなっても、マクロ経済においては無意味なのだ。……そこを理解しないで、「セーフティネットを」と主張するのは、つまりは、「金は空から降ってくる」という発想だ。ど素人。── だいたい、「セーフティネットで失業が片付く」なんて、そんなことが可能であれば、実際まさしく、日本中の企業を全部つぶしてしまえばいい。そのあと、日本中の全国民は、遊んでいるだけで、失業手当がもらえる。少しも働かないのに、次々と生産がなされる。これぞパラダイスだ。こんなことが可能であると、本気で信じているのだろうか? まったく、妄想をもつ狂人というのは、始末が悪い。)

 (2) 不況という状況
 もう一つの理由もある。「劣悪な企業は、真に劣悪ではない」ということだ。デフレのときはそもそも、あらゆる企業が赤字になる。そんなときに「劣悪か否か」を論じること自体が、無意味である。赤字企業も、不況を脱すれば、赤字でなくなるからだ。
 「ダイエーをつぶせ」という意見もある。しかし、こんなことを言うのなら、ソニーも日立もNECもみんな倒産させる必要がある。日本に残る企業は、ほとんど何もなくなる。ただ荒廃が残るだけだ。「不良債権処理」というのは、そういう狂気の政策なのである。「不良と優良があるから、不良をつぶせば優良が残る」と信じる。「デフレ下では、すべてが不良である」という状況を見抜けないまま、「不良をつぶそう」とする。かくて、「すべてをつぶそう」ということになるわけだ。
 これは冗談ではない。現実を見よ。ふざけたことを言っているのは、私ではなく、政府である。私は冗談を冗談として言うが、政府は冗談を正気のつもりでやる。


● ニュースと感想  (10月13日c)

 政府の新方針。「雇用保険の給付を引き下げる。かわりに、再就職をした人には、失業保険の3割を給付する。そうして失業者が就職することを促進する」という新方針。(読売・夕刊・2面 2002-10-10 )
 つまり、「失業者はすべて、自発的失業者である。彼らは働きたがらず、遊びたがっているだけだ。だから、遊ぶ人には金をやらず、働く人に金をやれば、人々は働くようになるはずだ」という発想だ。
 つまり、「彼らが働かないのは、働く気がないからだ」という「自発的失業説」に従っているわけだ。

 しかし、これも、失業というものについて、「需給」を無視している。失業者は本当に、怠け者ばかりなのか? 違う。人々は、働く気はあっても、職場がないのだ。労働市場において、供給過剰で、需要不足なのだ。これが真実だ。
 では、正しい失業対策は? 失業者に「金をやるから働け」と命じることではない。職場を提供することだ。つまり、企業に対して、求人を増やさせるべきだ。
 現実には、企業の求人を減らしたまま、失業者に「働け働け」と命じる。「求人は 1人、失業者は 10人」という状況において、「補助金を出せば、10人全員が就職できるはずだ」と思い込む。
 「1 cc の容器には 10 cc の水は入らない。」── そういう常識が、彼らにはわからないのだ。「水が容器に入らないのは、水に入る気がないからだ。だから、どんどん水に圧力をかければいい」と思い込む。愚かというほかない。

 結語。
 労働市場においても、「需要と供給」という関係を理解するべきだ。「今や、供給過剰で、均衡できない」と理解するべきだ。── 「圧力をかければ、水はいくらでも容器に入る」なんて思い込むべきではない。世の中には、「不均衡」つまり「水がコップからあふれる」という現象があるのだ。






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「小泉の波立ち」
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