[付録] ニュースと感想 (30)

[ 2002.10.14 〜 2002.10.21 ]   

  《 ※ これ以前の分は、

    2001 年
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         10月14日 〜 10月21日

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● ニュースと感想  (10月14日)

 「生産性の向上」について。
 「日本経済を立て直すには、生産性の向上が必要だ」という古典派(サプライサイド)の考え方がある。たとえば、「構造改革」「優勝劣敗」という思想や、「法人税減税」「研究開発減税」という政策だ。また、「構造改革特区が緊急の課題だ」という主張もある。(読売・朝刊・社説 2002-10-06 )
 これらはひっくるめて、「生産性向上の信奉者」とも呼べる。そこで、「生産性の向上」について、あらためて述べておく。

 「生産性の向上」が有効であるのは、不況でないときに限られる。不況であるときには、「生産性の向上」は無効であるし、それどころか、有害でさえある。
 たとえば、100人で生産していたものを、90人で生産できるようになったとしよう。生産性は 10% 向上した。それでどうなるかを、そのとき不況であるか否かで、分けて考えよう。
 不況でないときならば、どうなるか? 余った 10人は他の産業で雇用される。だから、その10人が別の生産をするので、マクロ的な生産が 10% 向上する。めでたしめでたし。
 不況であるときならば、どうなるか? 余った 10人は他の産業で雇用されない。彼らは失業者となる。また、生産された商品の数は、前と同じだが、生産性の向上にともなって賃金の向上がなければ、「賃金 × 雇用者数」という所得は、前に比べて 10% 低下する。「総所得」=「総生産」だから、マクロ的には、生産額が 10% 低下することになる。
 つまり、不況のときは、生産性が向上した分だけ、総生産の額が減るのである。このことに注意しよう。

 「そんなバカな!」と思うかもしれない。しかし、これはバカなことではない。仮に、不況(不均衡状態)でなくて、均衡状態が保たれるのならば、これは良いことなのである。なぜならそれは、「同じ生産をなすのに、労働時間が1割減った」ということを意味するからだ。つまり、失業が発生するかわりに、労働時間が減ったわけだ。また、総生産額と総所得が減ったのは、経済が縮小したことを意味するのではなく、物価が低下して名目金額が縮小しただけのことだ。(品物としての生産量は変わらない。)
 パソコンであれ、デジカメであれ、携帯電話であれ、生産性の向上にともなって、単価が低下すると、市場規模は縮小する。それはそれで、特に悪いことではない。商品を安く買えるのだから、消費者にとっては好ましいと言える。── だから、生産性の向上は、普通の状況(均衡状態)では、好ましいことだ。
 しかし、不況のときは違う。生産性の向上が、起これば起こるほど、失業者がどんどん発生して、しかもその失業者が消えない。総生産と総所得はどんどん減るが、それは物価低下による名目金額の低下だけでなく、生産量の縮小による実質金額の低下をも発生させる。状況はどんどん悪くなるばかりだ。

 結語。
 「生産性の向上」は、不況でないときには好ましい。しかし、不況のときには、状況をかえって悪化させる。普通のときには「良薬」であったものが、不況のときには「毒」になる。
 だから、不況のときには、何よりもまず、「不均衡状態を改めること」つまり「需給ギャップを解消すること」が先決なのだ。そうしないで、「生産性の向上」などをめざせば、やればやるほど、状況はかえって悪くなるばかりだ。
 十分な栄養は、スポーツマンにとっては有益だが、糖尿病患者には、害悪だけがある。有益なものが、状況によっては害悪になる。そういう違いを理解しよう。
( ※ 前項でも、上の赤字強調部分に、似た結論がある。)
( → 「需要統御理論」によれば、こうだ。── 生産性の向上と同じ率で、需要が伸びる必要がある。生産性だけが伸びて、需要が伸びなければ、生産性が向上した分だけ、稼働率が低下して、状況はかえって悪化する。)

  【 追記 】
 経済の成長には、生産性の向上は必要ない。生産性の向上がないまま、「労働時間の増加」があれば、経済は成長する。そして、そのことが本道であり、「生産性の向上」は邪道だ。
 理由は、すでに述べたことから、明らかだろう。「修正ケインズモデル」で理解すれば、「消費性向の低下」にともなって、総生産 Y がグラフ上で縮小していく。それだけのことだ。(マクロ的に動的な変化。)
 ここでは、「需要が縮小し、生産が縮小し、所得が縮小する」という形で、経済全体が縮小していくわけだ。このとき、「労働時間の減少」が発生していることに注意しよう。「働く時間が減って、生産も減り、所得も減った」というだけのことだ。
 これに対して、「生産性の向上」というのは、「労働時間を減らしたままで、生産と所得を増やそう」ということだ。しかし、話があまりにも、うますぎる。それはいわば、「働かないで金儲けをしよう」というようなものだ。企業にとっては、「利益がどんどん泉のように湧いて出てくるようにしよう」ということだ。
 こういう説を信じてはならない。なぜなら、そんなことをめざすと、景気回復が達成されないからだ。「労働時間の増加による経済拡大」は容易に可能だが、「生産性の向上による経済拡大」は困難である(というよりほとんど不可能である)。労働時間を1割増やすことはすぐにもできるが、生産性を通常分よりさらに1%向上させることは非常に困難だ。
 景気悪化の理由は、本日分の本文ですでに述べたように、「稼働率の低下」(労働時間の減少)である。こういうときには、「稼働率の向上」(労働時間の増加)が本道なのだ。何かが減ったことが不況の原因なら、その何かを増やせば不況は解決する。全然関係のないことをいじってもダメなのだ。つまりは、「生産性の向上」というのは、不況の実態を見失った、トンチンカンな説なのである。それは、あまりにも邪道であり、本質をまったく見失っている。
 朝日の夕刊のマンガで、面白い話が出ていた。「日本経済の景気低迷は困った」という話のあとで、「わが家の景気回復には?」という話題になり、妻が夫に「あんたがもっと働け!」と叫んだ。夫は「はい」とうなだれた。
 実に賢明な夫婦である。彼らは「金を稼ぐためには働けばいい」と理解している。だから彼らは並みの経済学者よりも、ずっと頭がよい。なぜなら、並みの経済学者は、こう主張するからだ。
「金を稼ぐためには、働かなくてもいい。生産性の向上があればいい」
「景気回復には、一人一人は働きを増やさなくてもいい。生産性の向上があればいい」
 と。そして、経済学者が、こういう阿呆な説を唱える理由は、こうだ。
「生産性が向上すれば、すべてうまく行く。働きを増やさなくても、賃金は増えるし、企業の収益も増える。私自身は、働こうが働くまいが、生産性の向上率は変わらないから、私はいつも通りでいい。単に『生産性の向上』と唱えるだけでいい。それですべては、うまく行くのだ。景気もそれで回復するのだ。さあ、お経を唱えよう、『生産性の向上』と。そうすれば、金はどんどん湧いてくる」
 並みの経済学者は、かくも愚かである。「生産性の向上で景気回復」というトンチンカンな説を言うばかりだ。「働く時間を増やせ! 稼働率を上げよ!」という説を批判して、ひたすら「生産性の向上」とだけ唱える。
 なぜか? なぜ、そう唱えるのか? ── 実は、彼らは、マクロ経済を理解できないのである。あくまでも個別企業のレベルだけで見る。国全体の経済を見ない。ゆえに、不況そのものを理解できない。だから何も理解できない。
 そういうことだ。げに恐ろしきは、マクロ経済音痴なり。


● ニュースと感想  (10月14日b)

 前項のつづき。
 前項では、「生産性の向上にデメリットがあること」のみを示した。ただし、実際には、デメリットだけでなく、メリットもある。それは、次のことだ。
   ・ コストが低下することで、「下限直線の低下」が起こる。
   ・ 「下限直線の低下」は、「不均衡」を解決する方向に向かう。
   ・ コスト低下は、企業所得および労働所得の向上をもたらす。
 こういう効果は、たしかにある。そして、それは、「生産性の向上というものはすばらしいことだ」という直感に一致する。
 ただし、次のことに注意しよう。
  1.  こういうメリットは、「人員削減」と同時に発生する。
  2.  「人員削減」は、不均衡のときには、状況をさらに悪化させる。
  3.  だから不況期には、「生産性の向上」は、長所と短所が両方ある。
  4.  「生産性の向上」と「不況」とは、関係はあるが、別のことである。
  5.  「不況」を解決するには、あくまで、需給ギャップの解決が必要だ。
  6.  需給ギャップの解決には、生産面だけでなく、需要面が大切だ。
  7.  そもそも、「生産性の向上」は、達成しえない。年率2〜3%だけだ。
     政府がどんなに音頭を取っても、劇的に向上させることは不可能だ。
 特に、最後の点が大切だ。「生産性向上のために、ああせよこうせよ」などと主張して、「構造改革」「投資減税」「法人税減税」「研究開発優遇」などを唱える人が多いが、そんなことは、いくらやっても、スズメの涙程度の効果しかない。当たり前だ。そんなことで、うまく行くはずがないのだ。
 一方、「稼働率の低下」がある。これは、生産性を大幅に引き下げる。設備や人間が遊んでいれば、生産性は、パーセント単位ではなくて、1割以上も大幅に低下する。結局、「生産性の向上」だけを主張して、需給ギャップを無視すれば、生産性はかえって低下するのだ。(理由は、「稼働率の低下」)
 真実を見抜こう。「生産性が低下したから、不況になった」のではない。「不況になったから、生産性が低下した」のだ。ここを逆に理解している人が、何と多いことか! そしてまた、対策法を逆に主張している人が、何と多いことか!

 [ 付記 ]
 上のことからわかるが、生産性を大幅に向上する方法がある。不況期に限るが、そのときは生産性が大幅に低下しているわけだから、以前の生産性に戻すだけで、生産性を大幅に向上させることができる。
 では、どうやって? それは、「解雇」だ。別名、「リストラ」だ。
 不況のときには、生産が縮小している。一方、労働時間は同じだ。(たとえ工場で工員が働かないでブラブラしていても、勤務時間が同じならば、労働時間は同じだ。また、管理職や事務職など、非生産部門でも、労働時間は同じだ。) こういうふうに、「生産が縮小して、労働時間が同じ」という状況では、生産性は大幅に低下している。だから、「生産量を増やす」か「労働時間を減らす(賃金を減らす)」か、どちらかが必要だ。不況のときは、前者は無理だから、後者しかない。ゆえに、「解雇」が、「生産性向上」の唯一の方策となる。
 結局、不況のときは、「生産性を向上させよ」というのは、「労働者を解雇せよ」と言っているのと同じなのだ。── そして、それに従って、経営者は「リストラ」をする。かくて、失業者はどんどん増える。
 つまり、「生産性の向上」をめざせばめざすほど、失業者が増えるわけだ。
 しかも、である。失業者の生産性はゼロだ。だから、個々の企業が「生産性の向上」をめざせばめざすほど、マクロ的には、国全体の生産性はどんどん低下していくわけだ。(「合成の誤謬」である。)


● ニュースと感想  (10月14日c)

 「生産性向上で景気が良くなる」という意見がある。これを否定しておく。(再論。)
 「生産性向上で景気が良くなる」というのが、成立すると仮定しよう。
 さて、昔に比べて今は、ずっと生産性が向上している。だから、その分、好景気になっていいはずだ。しかし現実には、そうでない。矛盾。(背理法。)
 結局、「生産性向上で景気が良くなる」というのは、事実によって否定されるわけだ。

 では、正しくは? それは、こうだ。
  1.  生産性の向上は、同じ経営資源を用いての、「生産可能な量」を拡大する。
  2.  景気の良し悪しは、「生産可能な量が、実際に生産されるか否か」を決める。
 この ii では、「生産可能な量が、実際に生産されるか否か」と述べた。これは、「稼働率が十分か否か」つまり「供給能力に応じた需要があるか否か」ということだ。もし供給能力に応じた需要がないと、生産可能な量が実際に生産されない。稼働率が低下する。そうすると、採算割れ(赤字)となり、倒産・失業が発生する。かくて、経済システムが崩壊していく。(不均衡状態が拡大する。)……それが「不況」だ。
 そして、 i と ii はまったく別のことなのだ。このことに注意しよう。

 私は今まで何度も、「需給ギャップ」という言葉を用いてきた。そして、このこととの関連を示せば、次のように言える。
 「需給ギャップの発生」とは、「稼働率の低下」のことである。

 サプライサイドの経済学者は、「生産性の向上」「生産能力の向上」を唱える。それに対して、私は、「需給ギャップをなくすこと」つまり「稼働率の向上」を唱えているわけだ。
 そして、その二つの説の、どちらが正しいかは、現状を見れば判明する。「生産能力の向上」が必要なのだとしたら、今は生産能力が不足しているわけだから、インフレが発生しているはずだ。逆に、「稼働率の向上」が必要なのだとしたら、今は稼働率が低下しているのだから、デフレが発生しているはずだ。
 どちらが正しいかは、現状を見れば自明だろう。そして、こういうこともわからない無知な人々が、「サプライサイド」の考え方に従って、「供給能力の向上が長期的に必要だ」などとインフレ対策を唱える。無知な人間が権力を握って、現在のデフレをどんどん悪化させていくのである。

( → 第2章2月10日7月20日b にも、本項と似た内容を記述した。)
( → 11月28日1月25日 にも、「生産性向上」と「景気」の詳しい話がある。)

 [ 付記 ]
 個々の企業を見ても、証明できる。
 「企業が優秀になれば、景気は回復する」という説が成立するのであれば、優秀な企業の株価は、高くなっているはずだ。たとえば、ホンダ・キヤノンといった会社は、業績がどんどん向上しているのだから、株価は非常に高くなっているはずだ。しかるに、そうなっていない。他の企業に比べれば相対的にはマシだが、それでも株価全般の低落の影響を受けて、これら優良企業の株価も低落している。(当たり前だが。)
 では、なぜか? 当たり前だ。個々の企業がいくら優秀な製品を生みだしても、買い手としての客の財布に金がなければ、どうしようもないのだ。個々の企業がいくら頑張っても、マクロ的な状況(総需要)が改善しない限り、ダメなのだ。
 こんなことは、マクロ経済学の初歩だ。そういう初歩も理解できない無知な人々が、「企業を優秀にすれば景気が良くなる」という妄想をふりまく。


● ニュースと感想  (10月15日)

 前項 では、「生産能力の向上」よりも「稼働率の向上」が大事だ、と示した。つまり、サプライサイドに従って、「生産能力(供給力)の向上」を実現しても、「稼働率の低下」があっては、設備が遊休するだけだから、逆効果であるわけだ。最大可能量たる生産能力よりも、実際になされる生産量こそが大事なのだ。
 これは、サプライサイドへの批判だが、同時に、マネタリストへの批判ともなっている。このことに注意しよう。というのは、マネタリストはしばしば、こういうふうに主張するからだ。
 「消費よりも投資を増やすべきだ。消費はただの無駄遣いだが、投資は生産能力を高める。投資こそが大事だ。実際、歴史的にも、そうだった。ろくに貯蓄もしないで消費ばかりしている国では、成長率が低かったが、一方、戦後の日本のように、貯蓄の高い国では、消費を抑制して投資を増やしたから、成長率が高かった。消費よりも投資が大事なのだ!」
 これは、均衡状態では、正しい。均衡状態においては、「貯蓄 = 投資」が成立するから、貯蓄すればするほど、その金が投資に回る。そして生産能力の向上にともなって、成長率は高まる。
 しかし、不均衡状態では、そうはならない。第1に、「貯蓄 = 投資」が成立しない。ゼロ金利のときには、投資が頭打ちだ。つまり、消費を減らして貯蓄しても、投資は増えない。金は投資に回らずに、単に滞留するだけだ。第2に、稼働率が低下する。つまり、設備が遊休する。いくら生産能力を高めても、その生産能力は無駄となり、遊んでいる生産設備(つまり無駄)が増えるだけだ。しかも、消費が減ることで、売上げが減るので、実際には、生産量も所得も、循環的にスパイラル的にどんどん減っていき、状況はどんどん悪化していく。

 結局、サプライサイドも、マネタリズムも、「生産能力」ばかりに目を奪われ、「稼働率の低下」ということを、理解できないのである。生産可能な量ばかりに目を向けて、実際の生産量に目を向けないのである。彼らは、カタログ上の数値ばかりを見て、事実を見ることができないのだ。


● ニュースと感想  (10月15日b)

 「ペイオフ延期」について。(朝刊・経済面 2002-10-13 )
 「ペイオフ延期」について、朝日の記者が批判記事を書いているが、これは、色のついた記事である。署名もなしに、意見を示す。記事の場で、個人的意見を述べている。まったく、困りものだ。記事と自己主張との区別がつかない。
 「金融機関の選別を迫るペイオフは、そもそも全面解禁されているのが正常な状態だ」
 と記事で書いている。しかし、記者がそう思うのは勝手だが、だったら、「記者本人はそう思う」と、論者を明示するべきだ。個人的な意見を、あたかも事実のごとく記述するのは、報道倫理を逸脱している。
 それとも、そのことがわからないのだろうか? つまり、「これは事実ではなく個人的意見だ」ということがわからず、「世の中にはペイオフ賛成論と反対論の両方がある」ということがわからないのだろうか? つまり、「世の中はすべてペイオフ賛成論者だ」と思い込んでいるのだろうか? だったら、勉強不足だ。経済部記者失格だ。
 説明しよう。「金融機関の選別を迫るペイオフは、全面解禁されているのが正常な状態だ」ということはない。次の理由による。

 そもそも、「ペイオフ実施」の論拠となる(銀行の)「優勝劣敗」は、正常な経済のときにのみ成立する。不況という不均衡状態では、「優勝劣敗」は成立せず、すべてが劣者となる。( → 8月10日
 なのに、「優勝劣敗」を進めるのならば、東京三菱などを除いて、すべての銀行を倒産させる必要がある。「公的資金を投入せよ」というのは、「それらの企業が存続できないほど劣悪だ」ということを意味する。だから、「ペイオフ実施を」というのは、「ほとんどの銀行を倒産させよ」「金融システムを崩壊させよ」「日本経済の血脈を断て」ということなのだ。狂気。
 こういう狂気的な意見は、「古典派」特有のものである。古典派は「不況なんてものは原則としてありえない。うまく均衡するはずだ」と勝手に妄想して、理屈を組み立てている。そして、朝日の記者は、「自分が古典派だ」ということを理解していないわけだ。世の中にどんな経済学があるか、知らないわけだ。井の中の蛙。勉強不足。

 結局、記者は、自分で何を言っているのか、自分でもわかっていないのだろう。だから、「政府は政策転換の説明義務がある」などと、たわけたことを言っている。
 しかし、説明義務があるのは、政府ではない。マスコミだ。勘違いするべきではない。マスコミは、政策の選択肢と効果を説明する。政府は、政策の決定だけをする。それがあるべき姿だ。……そこのところを理解していないから、朝日は自分では十分な説明をしないまま、「政府は説明を」などと、うるさく何十回も記事にするのだ。だから私は、朝日に言いたい。「自分が不勉強で理解できないからといって、いちいち他人に質問するな。自分の仕事の範囲は、まず自分で勉強しろ。自分の仕事を、他人になすりつけるな」と。

 ついでだが、市場の声として、疑問が紹介されている。「いつになったら、ペイオフができるのか?」と。これはたぶん、反語のつもりで記事にしているのだろう。そこで、頭の悪い記者のために、私が答えを教えておこう。「ペイオフができる時期は、景気が回復したあとだ」と。それが正解だ。
 ただし、いったんペイオフを実施しても、そのあと景気が悪化したら、ペイオフはふたたび凍結するべきだ。不況のときにペイオフを実施すれば、金融不安が広がる。すると、かえって状況が悪化するからだ。
 なお、うまく納得できない人のために、わかりやすく説明しておこう。「市場経済は万能だ」ということはない。大切な原理がある。それは、次の原理だ。
 「 U 字状の状態においては、放置すれば最適の状態に落ち着く。しかし、∩ 字状の状態においては、放置すれば状況はかえって悪化する。後者のときは、放置するかわりに、ブレーキによって状況を固定するのが、最善である」
 下図を参照。

     安定構造/不安定構造の図

 [ 付記 ]
 「ペイオフを実施せよ」つまり「不良な銀行を淘汰せよ」という政策を、不況期に実施した例がある。それは、米国の大恐慌のときだ。
 ミルトン・フリードマンとアンナ・シュバルツによる名著「米国貨幣史」では、次の事実が指摘されている。すなわち、大恐慌のとき、米国の商業銀行の半分が倒産した。1929年から1933年の間に、マネーストックが三分の一以上減少した。
 なお、それというのも、前もって、連邦準備制度が強力なデフレ策を講じたからだった。金の流出を防ぐために、公定歩合を大幅に引き上げた。連邦準備制度が細分化されて、金融システムはきわめて脆弱であり、人々に信用されなかった。大銀行が一つか二つ倒産すれば、その余波がすぐに全米中に波及する可能性が懸念されていた。(M.スコーセン著「経済学改造講座」日本経済新聞社。 130頁より。)
 この教訓は、こうだ。
  ・ 不況のときは金融システムが崩壊しやすい。
  ・ だから、金融システムを安定化する保証が絶対に必要だ。
 逆に言えば、「ペイオフ」というのは、これとは逆のことをやって、人々の心に不安を掻き立て、そのことで結果的に金融システムの崩壊を引き起こしかねない。愚の骨頂。
 たとえ話。
 不況という「危険な綱渡り」をしなくてはいけないハメになったとする。ならば、綱の下方に安全用の網を設置したりして、安心させることが大事だ。安心すれば、ちゃんと綱を渡ることができるだろう。逆に、「ダメなやつは死ぬのが当然だ」などと、綱渡りをしている人間に叫べば、かえって不安になって、転落してしまう。「優勝劣敗」どころではない。十分に能力のある人間さえ、掛け声のせいで、死んでしまう。……「ペイオフ賛成論者」が、日本経済に対してやろうとしているのは、そういうことだ。
 もう一度言う。大恐慌時、米国の商業銀行の半分が倒産したのだ。

 [ 参考 ]
 関連はないが、別の話を示す。上記の、M.スコーセン著「経済学改造講座」という本からの引用。(123頁)
 「フィッシャーは、消費者物価が判定している限り、経済には何も深刻な問題はないと考えていたので、金融調節の目標は、物価の安定におくべきであると考えていた。20年代後半には、消費者物価の上昇は見られなかったので、フィッシャーは株式市場の崩壊も、景気の後退も、予測してはいなかった。」
 この引用部は、マネタリズムの楽観論である。日銀も同じ考え方を取って、バブル膨張とバブル崩壊という失敗を招いた、という点に注目しよう。
 「金融調節だけちゃんとやれば、物価は制御できる」と考えるわけだ。「それでインフレも制御できるし、デフレも制御できる」と思い込むわけだ。こういう人々には、大恐慌以前に、恐慌の到来が予測できなかったわけだ。
 一方、「オーストリア学派」と呼ばれる人々(ミーゼス,ハイエク,ソマリー)は、はっきりと予測していた。平均株価が7年で3倍にも上昇したというバブル発生を見て、こういうバブルの発生は、バブル破裂によって償うしかない、と考えていた。(同書。123-125頁。)
 こちらの人々は、私と同じ考え方をしている。「株価上昇が実態以上に膨張すれば、いつかはそれが破裂する」と。つまり、「金は空から降ってこない」と。
 一方、それに反して、「金は空から降ってくる」とか、「貨幣を刷れば富は増える」と信じるマネタリストが、こう主張するのである。「バブル破裂で数百兆円ものと実が減ってしまった」「だから、ふたたびバブル膨張を」「資産インフレで、景気回復を」と。……懲りない人々。いっぺん火傷しても、また火傷しようとする。バカは死んでも直らない。

( ※ 上記の本だが、いちいち探して読むほど、立派なことが書いてあるわけではない。他人への悪口が面白いが、自説は曲説に近い。とはいっても、古典派もケインズ派も曲説だから、似たり寄ったりか。)


● ニュースと感想  (10月15日c)

 「優勝劣敗」を否定する記事。
 ソニーの2001年度決算で、エレクトロニクス事業が、売上高は 3%減程度だが、営業利益は赤字に。連結当期利益も、ここ数年、激減。97年 2200億円、98年 1800億円、99年 1200億円と続いたあとで、大転落し、00年 200億円、01年 200億円、となる。(朝日・朝刊・経済面 2002-10-14 。数字は概算。)
 ソニーのエレクトロニクス事業は、営業赤字なのだから、優劣で言えば「劣悪」だ。古典派に従えば、当然、「劣者は退場」であるから、「ソニーのエレクトロニクス部門は市場から撤退するべきだ」となる。ソニーブランドと言えば、世界最強のブランドである。他の電器企業が利益率 5% のときに、ソニーだけは利益率 10% を誇っていた。世界でも最優秀の経営体質を誇っていた。それが「劣悪」となるのだ。
 不況とは、そういうものだ。「あらゆる企業が劣悪となる」のだ。(総需要が減れば、どんなに優秀な企業でも、設備が遊休するから。)
 こういうことがわからない人々が、「優勝劣敗」だの、「劣者退場」だの、「劣者から優者への交替を促す、構造改革」だの、デタラメを唱えるのである。
 「優勝劣敗」を唱えるのなら、「ソニーをつぶせ」「さらに全企業をつぶせ」と唱えるべきだ。それができないようでは、自己矛盾の、二枚舌だ。

 余談。前項の [ 付記 ]では、「大恐慌のとき、米国の銀行の半分をつぶした」という歴史的事例を見た。「こういうふうに全部つぶせ」と言うのならば、少なくとも、二枚舌ではない。(狂気だが。)


● ニュースと感想  (10月16日)

 「経済の質と量」について。(再論ふう。)
 私はこれまで、「量的な話」だけを述べてきたわけだが、それでは片手落ちではかかろうか? 経済における「質の向上」も大切ではなかろうか? ── そういう疑問も出るだろう。そこで、解説しておく。
 ここ数日、「生産性の向上」や「優勝劣敗」を述べてきた。「生産性の向上」は、経済において(製品の)「質の向上」をもたらすはずだ。「優勝劣敗」も、経済において(企業体質の)「質の向上」をもたらすはずだ。これらにも意味はあるのではないか、と思う人もいるだろう。
 一方、私が述べてきたのは、「量的な話」だった。「均衡と不均衡」というのも、「量的な話」だ。

 ここで、本質を考えよう。そもそもの話、テーマは、何だったか? 「不況対策」だ。そして、不況の理由を探したとき、そこには、「(需給の)不均衡」つまり「需給ギャップ」というものが見出されたわけだ。これは「量的な現象」である。
 そういうことだ。私が「量的な話」をしたがっているわけではない。私の気持ちが私の話の方向を決めているわけではない。事実の方が、私の話の方向を決めているのである。「不況」という事実が「量的なもの」だから、私の話も「量的なもの」を扱うことになるわけだ。

 では、「質的なもの」は、おろそかにしていいか? 別に、おろそかにする必要はない。ただ、それは、景気やマクロ経済とは全然関係のない話だ。一般的には、個々の商品の質的な向上は、個別企業の「経営」の問題であって、「マクロ経済」の問題ではない。
 どの製品が(質的に)優れているか劣っているかは、あくまで相対的なものだ。別に、自社製品を急速に優秀にしなくても、他社製品が急速に劣悪になれば、結果は同じことだ。逆に言えば、自社製品が急速に優秀になっても、同時に他社製品も急速に優秀になれば、何の意味もない。(絶対的には優秀的になっても、相対的な優位性がなくなるから。)
 実例はある。パソコンだ。CPUやメモリやハードディスクは、恐ろしいほど、急速に性能が向上している。しかるに、これらを生産する各社が急激に利益を伸ばしているわけではない。90年代後半には、各社も急成長したが、99年以降は、急速に統廃合が進んでいる。パソコンの性能自体は、昔に比べてどんどん優秀になっているが、パソコン産業全体の総売上げは、最近では頭打ちどころか低落傾向にある。
 別の実例もある。朝鮮特需だ。朝鮮戦争のとき、米軍が日本国内の物資を買い上げたので、品不足となり、それまでゴミとして捨てていたような劣悪な布袋まで、どんどん売れるようになった。それまでドッジラインで不況のどん底だったのに、日本中が好景気に沸くようになった。このとき、商品の品質が急激に向上したわけではないし、むしろ、平均的な品質は悪くなっていった。
 こういうことは、不思議だろうか? 不思議ではない。経済の原則に則っている。景気はあくまで、需給の関係によって決まる。需要が増えれば好況、需要が減れば不況。品質の面で言えば、量が増えれば増えるほど、その増えた分は、相対的に劣悪な供給源が加わることによってまかなわれる。だから、好況になればなるほど、平均的な品質はかえって劣化していく。

 結語。
 マクロ経済で大切なのは、製品の質ではなく、金額という数字だけだ。そして、金額のバランスを正常化すること(需給調整)だけが大事だ。質の向上というのは、マクロ経済には何の意味もないのだ。質の向上というのは、人間生活や個別企業には意味があるが、マクロ経済とは別のことなのだ。もちろん、景気とも関係がない。
 わかりやすく比喩で示そう。「質の向上」は、人間で言えば、「体力や知力の向上」に相当する。それをめざすのは、大切なことだ。一方、「需給調整」というのは、「バランスを崩して異常になった経済を直すこと」つまり「病気を治すこと」だ。病気の人間に対しては、まず病気の原因を突き止め、その病気の原因に対処することが大切だ。「ウィルスを根治せよ」「病巣を取り除け」などと。……こういうときに、「体力や知力を向上させよ」「病気を治すために、運動をして本を読め」と述べても、それはまったくお門違いのことなのだ。言っている本人は、正しいことを述べているつもりなのだろうが、まるで見当違いなのだ。ひとことで言えば、トンチンカンである。

( ※ 話がピンと来ないかもしれない。「優秀な製品を作っている会社は儲かるじゃないか」と。そこで、もう一度補足しておくと、こうだ。たしかに、優秀な製品を作っている会社は売上げが増える。しかし、その分、他の会社は売上げが減る。だから、マクロ的には、何の意味もない。)
( ※ このことは、次の箇所でも説明している。 → 3月11日

 [ 参考 1 ]
 本項で述べた問題は、「経済における量と質」として、かつて何度か、述べたことがある。
( →  2月08日 ,2月09日 ,6月22日

 [ 参考 2 ]
 細かく言うと、「質」には、「製品の質」と「企業の質」がある。
 「製品の質」と「企業の質」は、別である。「製品の質」がどんどん向上しても、「企業の質」がどんどん劣化することがある。たとえば、パソコン産業。製品は急速に向上したが、企業は競争激化で赤字化して体質が劣化していった。これはなぜかと言うと、1企業だけでなく全企業で「製品の質」が発生したから、相対的には各企業の「製品の質」が向上しなかったからだ。(絶対的なレベルでは「製品の質」が向上したのだが、それが打ち消されてしまったわけだ。)
 企業の収益(「企業の質」)にとって肝心なのは、相対的な「製品の質」を向上させることだけだ。そして、相対的な「製品の質」は、ある企業が優位に立てば、他の企業が劣位に立つ。全体としてみれば、意味はない。(そのことを、パソコン産業の赤字かが示す。)
 なお、生産性の向上も同様だ。1企業だけで生産性の向上があれば、1企業だけで製品の質があったのと同じで、その企業は相対的に優位に立つ。しかし、全企業で生産性の向上があっても、全企業で製品の質があったのと同じで、全企業が収益を増やすということはない。(単に価格が下落するだけだ。得をするのは、企業ではなく、消費者だ。)
 とにかく、「生産性の向上」であれ、「魅力ある商品作り」であれ、1企業だけなら、収益の向上に結びつくが、全企業でやれば、国民の生活レベルが質的に向上するだけであって、景気や収益という量的なことには関係がないのだ。
( ※ この件は、第2章でも言及した。)
( ※ 「個の総和が全体ではない」── このことをしっかりと理解しよう。これは、マクロ経済の基本だ。経済学の誤りの多くは、この勘違いから発生する。竹中が典型的だ。個別企業を強化することに熱心で、日本経済をどんどん崩壊させていく。合成の誤謬。そして、その原因は、「不均衡状態(需給ギャップ)における、市場原理の不成立」である。……そのことを、私はこれまで、詳しく説明してきたわけだ。)

( ※ 「生産性向上」については、少しあとの 10月18日c でも言及する。)


● ニュースと感想  (10月16日b)

 「土地流通課税を軽減」という自民税調の方針。「地価の下落に歯止めをかけるため」という。(読売・朝刊・政治面 2002-10-14 )
 また勘違い。経済学音痴。呆れてしまう。
 そもそも、「土地流通課税の軽減」というのは、「土地流通を活発化させる」ということを意味する。それは、地価を上げることも下げることも意味しない。単に流動性をよくすること、つまり、価格変動をなめらかにして起こりやすくするだけだ。
 つまり、地価について、上昇傾向のときは上昇を早めるし、下落傾向のときは下落を早める。単に価格変動を加速するだけだ。そして、今は、(デフレが悪化しているので)地価は下落傾向にある。こういうときに、土地の流通を促進すれば、地価の上昇ではなく、地価の下落が、どんどん進むだけだ。
 似た話は、クルーグマンにもある。「地価が下げ渋っていると、土地取引がうまくなされないで、市場が停滞する。だから、どんどん地価を下げてしまえ。そうすれば取引が活発化して、市場が正常化する」という話だ。( → 経済合理性と不動産不況
 これはこれで、納得できる。「どんどん地価を下げてしまえ」というわけだ。そして、そのために土地流通課税を軽減するのであれば、納得はできる。しかし、「地価の下落を加速するため」でなく、「地価の下落に歯止めをかけるため」というのは、理屈が反対だ。むしろ「地価を大幅下落させるため」と、めざすべきなのだ。
 はっきり言っておこう。土地流通課税を軽減すれば、土地保有者は土地をどんどん売るようになるから、地価はどんどん下がるのだ。そんなことも理解できないで、反対のことを狙うというのは、頭が狂っているとしか言いようがない。

 [ 付記 ]
 ただし、マネタリズムを信じているのであれば、趣旨は一貫する。
 マネタリズムは、「土地の流通速度を速めれば経済は拡大する」と信奉する。だから、「土地転がしをどんどんしよう」というわけだ。そのためには、たしかに、「土地流通課税の軽減」は、役立つ。それによって「土地転がし」はどんどん進むだろう。 ( → 10月12日 の [ 付記 ])
 それにしても、「実際の生産を増やす必要はない、土地を転がせば人々は幸せになる」と信じるとは、まったくおめでたい人々だ。車輪のなかを駆け回っているハツカネズミ並みの知恵だ。
 はっきり言おう。土地を転がそうと、あるいは、地価を上げようと、そんなことは、何の意味もないのだ。また、「地価が上がれば土地の担保価値が増えて投資が増える」という理屈も成立しないのだ。企業に投資意欲がないとき、つまり、設備が稼働していないとき、つまり、不況であるときは。── 大切なのは、実際の生産を増やすこと、ただそれのみなのだ。表面的な数字に惑わされて、数字いじりをしてはならない。本質を知るべし。

 [ 付記 ]
 補足しておこう。「資産効果」について。
 「資産効果」(資産価格上昇による景気刺激効果)というものは、たしかにある。しかし、日本では、その効果は非常に小さい。
 米国では個人資産の半分ほどが株式だが、日本では1割以下だ。(読売・朝刊・経済面・コラム解説 2002-10-14 ) 土地にしたって、持ち家の人は多いが、売る予定のある土地をもっている人は少ない。株や土地が上がったり下がったりすることの影響はあることはあるが、米国に比べればごく小さいのだ。
 多くの人々が消費を減らしているのは、「株価が下がったから」「売却予定の土地の価値が減ったから」なんていうぜいたくな理由からではない。「失業して来年の生活の予定も立たないから」という切実な理由によるのだ。大半の国民が生活苦で苦しんでいるときに、株や土地を余るほどもっている少数の金持ちのために減税をしても、そんなことに大して意味があるはずがない。
 これが現実だ。こういう現実も理解しない人々が、空論で数字をもてあそんでいるだ。「地価や株価が上がれば、日本の富は数百兆円も増えるぞ」などと。帳簿上で数字だけをいじって、経済をもてあそんでいる。そうして現実経済を破壊するわけだ。
 チャップリンの「独裁者」は、地球の形をした風船をもてあそんでいた。手ではじいたり、足で蹴ったり、尻で突っついたり。……今の経済学者が、現実経済に対してやっているのは、こういうことだ。


● ニュースと感想  (10月16日c)

 「電子決済」について。
 韓国では日本よりも、はるかに電子決済が進んでいる。JRの「Suica」カードはJR専用だが、勧告のカードは市バス、私鉄、地下鉄、タクシーなど、すべてに使える。のみならず、レストランでもコンビニでも何でも、ほとんどの店で使える。なぜなら、これは専用カードではなくて、普通のクレジットカードだから。つまり、クレジットカードが電子マネーのように使える。超便利。現金を持ち歩く必要がない。一方、日本では、一流レストランでもクレジットカードが使えなかったりして、非常に不便だ、とのこと。
 筆者の意見では、これは「韓国では国民総背番号制度があるせいだろう。すべての契約・取引・登録が、この番号に基づいて行なわれるから、不正の追及が用意だ。だから不正が行われにくく、電子化が可能だ」というわけだ。
 以上は、新聞のコラム記事による。(読売・朝刊・デジタル面 2002-10-14 )

 感想。なかなか面白い指摘だ。「国民総背番号制度は危険だ。絶対にダメだ」という意見が、いかに化石的な思考か、よくわかる。そう言えば、「電車の改札は、機械化はダメであり、人間がやるべきだ」と言い張った記事も、以前、けっこう見たものだ。化石的。
 世の中はどんどん進歩していく。それに対して、「長所を見ずに、短所だけを見て、批判する」という保守的な立場は、いつも存在する。時代遅れな石頭は、いつも存在する。老人病の一種だ。そういう古臭い硬直した思考が、社会の変化を停滞させるわけだ。

( ※ ついでだが、こういうふうに電子マネーが普及すると、善良な人間は便利になるが、脱税などをする犯罪者は困る。だから犯罪者のための新聞は、国民総背番号制度に反対キャンペーンを張るわけだ。善良な人々のためではなくて、自分と同類の犯罪者のために。)


● ニュースと感想  (10月16日d)

 朝日新聞記事について。(読まなくてもよい。)
 朝日はここのところ、「個人情報のゆくえ」という連載をして、紙面を埋めている。よほど立派な調査をしているつもりだろうが、馬鹿げている。こんな連載はやめてもらいたいものだ。紙面の無駄。金返せ。
 「政府の個人情報の遺漏がある。1件あたり数万円で、警察関係者などが外部に流す」と述べて、大騒ぎしている。「個人情報の遺漏だ、大問題だ」という大騒ぎ。
 くだらん。この程度の小さな犯罪は、日本中に山のようにある。駐車違反やスピード違反と同じくらいある。なお、駐車違反やスピード違反は、年間、数百人ぐらいの人数を殺しているが、個人情報の遺漏など、人命には関わりがない。ずっと微罪だ。
 はっきり言おう。「1件数万円での情報遺漏」というのは、あるとしても、それだけの情報価値が、対象にあるからだ。つまり、対象がそれほど後ろめたいことをしているからだ。ちなみに、私について政府のもつ情報など、いくら遺漏されても、ちっとも困らない。私は犯罪などの、後ろめたいことをしていないからだ。

 朝日の主張は、「犯罪者にも人権があるから、犯罪者の人権を守れ」ということなのだろう。死刑廃止キャンペーンで、「殺人者の人命を守れ」「犯罪者の人権を尊重せよ」と、山のように主張するところからしてもわかる。しかし、犯罪者の人権ばかり重視するより、善良な市民の人権を考えてもらいたいものだ。
 今、情報遺漏で問題なのは、犯罪者の情報ではない。一般市民の情報だ。それを、悪質な企業が、一網打尽ふうに収拾している。目立つところでは、「メールアドレスの収拾」だ。おかげで、迷惑メールだの、ワン切りだの、一般市民が多大な迷惑をこうむっている。こういう個人情報こそ、保護の対象とするべきなのだ。「メールアドレス売ります。百万件で2万円」なんていう行為を厳しく取り締まるべきなのだ。
 なのに、朝日は、善良な市民の情報を守ろうとはせず、「犯罪者の情報を守れ」という大キャンペーンを張って、ずっと連載している。呆れる。たぶん、朝日自体が犯罪的だから、犯罪者の人権ばかりを守りたがるのだろうが。同じ穴のムジナ。
 とにかく、一般読者は、朝日とは違って、犯罪者じゃないのだ。だから読者に、金返せ。金を返さなけりゃ、朝日自体が泥棒みたいなものだ。
( ※ 泥棒から身を守るには、読者は朝日を購読中止するしかない。だから賢明な読者は、最近続々、朝日の購読をやめているようだ。当たり前ですよね。犯罪者と失政者のための広報紙なんか、金を出して読む価値はない。)
( ※ 無駄な記事ばかり出るから、肝心な重要な情報が掲載されない。 → 10月10日c の最後。)(ついでだが、女子の渋井と男子の高岡が走ったマラソンについては、朝日の記事には最低限必要な基礎データさえ出ていない。こんなのはもう新聞としての資格がない。記者のための、おしゃべり掲示板だ。)
( ※ 上の例では、「1件あたり数万円」という個人情報遺漏の例があった。ただし、政府のもつ個人情報で、漏れて一番困るのは、高額所得者の所得情報だ。ところが、これは税務署から公開されている。矛盾みたいだ。個人情報の[本人の許可なしの]遺漏を問題視するなら、「高額所得者の情報を守れ」とキャンペーンを張る方が、ずっと理にかなっている。なのに、新聞社は逆に、芸能人の所得を記事にする、という形で、個人情報を暴露している。下劣なタブロイド紙みたいなことをやっている。所得公開の本来の目的を逸脱して、ただの覗き見趣味だ。出歯亀。呆れる。)
( ※ だいたい、朝日には、上記のような情報遺漏を批判する資格がない。先日、自分自身でやったからだ。「安室の離婚情報」というやつだ。「これは区役所の戸籍課から情報を得ました」と朝日は堂々と公言している。つまり、自分自身が、役所の内部関係者を通じて、個人情報を盗み出したわけだ。なぜ、他人の同じ行為を批判して、自分の同じ行為を批判しないのか。自己矛盾。)


● ニュースと感想  (10月17日)

 朝日新聞記事について。8人のエコノミストに対するインタビューが掲載された。これらについて、批判しておく。
( ※ 特に重要な話ではないから、読まなくてもよい。批判ないし悪口である。読めば、「他山の石」とはなるかもしれないが。)(出典は、朝日・朝刊・経済面。(1)(2) は 2002-10-10。 (3)(4) は 2002-10-11。 (5)(6) は 2002-10-13。 (7)(8) は 2002-10-16 )

 (1) 減税 (保守党党首)

 けっこう、まともな意見である。「現在の減税と、将来の増税」だ。ただ、「投資・証券・土地」などに限定した小規模の減税、というところが難点だ。
 結局、たいていの国民は、「投資・証券・土地」などに対する減税のメリットは一つもなく、将来の増税だけがある。となると、人々は、今の時点では、消費を減らすのがベストだ。実際、私としても、そうするだろう。
 要するに、経済的効果を計量しないような、素人の意見。(政治家だから、経済学ができないのは、仕方ないか。政治家にしては、まともな意見である。ギリギリの合格点を与えよう。)

 (2) 法人税減税 (本田正明)

 「法人税減税で、企業体質の強化を」という説。これについては、前日分の記述を参照。「生産性の向上」という話で、いろいろと述べた。

 (3) 法人税減税 (キヤノン社長)

 「法人税減税で、企業の財務体質改善を」という意見。景気対策のどさくさにまぎれて、国の金を盗もうとする、泥棒根性だ。
 「法人税減税で設備投資が増えることはない(借金返済に回るだけだ)」ということは認めている。それで、「財務体質改善」と述べている。しかし、「財務体質改善」なんてしたって、少しも経済は拡大しない。それで投資が増えることもないし、消費が増えることもない。単に企業から銀行に金が流れるだけだ。
 こんなのは、理屈にも何もなっていない。経済学のイロハもできていない。頭がパーだとしか思えない。今はマクロ経済の話をしているのであって、各企業の帳簿を良くしようとしているのではないのだ。何を勘違いしているのだ?
 だいたい、記者は論者に、肝心のことを指摘するべきだ。「財務体質改善で、景気は回復するのですか? 経済は成長するのですか?」と。もし「ノー」という返答が来たら、論者の説は破綻している。もし「イエス」という返答が来たら、「あなたの企業は減税で投資を増やすのですか? あなたの企業はすでに財務体質はきわめて優良だが、本来必要な以上に投資を増やす気はありますか?」と。もちろん、「必要以上に投資する気などはない」という返答が来る。しかし、「各企業が必要以上に投資する」ということが必要なのだ。さもなくば、経済は現状維持となる。
 もっとまともに考えるがいい。「企業減税」をするとして、どのくらい、やればいいと思っているのか? たぶん「3〜5兆円」という返答が来るだろうが、それっぽっちの減税では、ろくに効果があるはずがない。一方、10兆円規模の減税となれば、国民所得の分配がきわめていびつになる。企業の所得ばかりが増えて、消費者の所得が減る。経済が歪んでしまう。ほとんど狂気だ。
 だいたい、マクロ経済を知らないような、1企業の社長なんかにインタビューするところに、朝日の間抜け体質がある。彼らは単に「金を寄越せ、国のことなんか知ったこっちゃない、おれだけ良ければそれでいい」という泥棒根性なんだから、1企業の社長なんかに、国家経済の政策を尋ねるべきではないのだ。
( ※ ついでにイヤミを言っておこう。劣悪な企業は「政府が頼りです、金をくれ」と要求するが、優秀な企業は「政府なんかに頼るものか」と考える。新日鉄のような慢性赤字の会社は、常に政府の支援を当てにしてきたが、ホンダ・ソニー・キヤノンといった会社は、政府から金をもらおうなどとはしなかった。しかし、今度のキヤノン社長は、なかば世襲のような形で就任しただけあって、メッキが剥げてきたようだ。こんなふうに「政府は金を寄越せ」なんて言い張る社長がいる会社は、先は明るくない。キヤノンは最先端グループから脱落するだろう。こんな社長がずっと続くとすれば。はっきり言おう。この社長には、成長企業に必要な「気概」がない。新日鉄の歴代社長と同じで、「腑抜け」だ。)

 (4) 公共事業 (リチャード・クー)

 ケインズ派の意見だ。「需要を増やせ」という点では正しいが、それ以外が底抜けである。(官需ばかりを増やそうとして、民需を増やそうとしない。)
 長くなるので、次項(明日分)にまとめた。

 (5) ケインズ派・左派 (京大教授)
 「財政出動をするべきだが、地方へのバラマキ公共事業はダメだ」という。「では都心への公共事業か?」と私は思ったが、「都心への公共事業はほとんどが土地代に消える」ということを知っているせいか、さすがに、そんな馬鹿げたことは言わなかった。かわりに、「福祉などで少子・高齢化対策を」と述べている。「長期的な公共計画で社会転換をもたらせ」と。
 この主張自体は、悪くはない。政治的な政策としてみれば、右派に対置する左派である。あるいは、アングロサクソン政治に対する、欧州政治である。私の好みで言えば、好ましい。
 しかし、である。それはあくまで政治としての方法だ。経済としての方法ではない。明らかに「長期的な」政策であって、「中短期的な景気対策」とは全然関係ない。つまり、「景気対策はどうするべきか?」という質問に、全然答えていないのだ。ピンボケ。
 「いや、福祉などの財政出動も、景気対策にはなる」と主張するつもりかもしれない。もしそうなら、ピンボケではなく、阿呆である。論理矛盾を起こすからだ。景気対策というのは、景気の変動に応じて、変化させるものだ。不況のときは景気刺激。好況のときはその逆。……とすれば、「不況のときに福祉重視」というのは、「好況のときには福祉削減」となる。(だからこそ景気対策となる。) しかし、福祉というものは、そんなふうに景気変動に応じてプラスマイナスを変えるべきものではないのだ。増減税や、金融政策は、景気変動に応じてプラスマイナスを変える。景気対策としての財政出動も、景気変動に応じてプラスマイナスを変える。そして、福祉への支出というものは、そういうふうに中短期的に変化させることにはなじまない。
 つまりは、論者は、景気対策と福祉対策(政治)とを、ごっちゃにしているのだ。大学に入って、論理学を勉強し直した方がいいだろう。

 (6) 財政均衡主義 (研究員。米国帰りの米国かぶれ)
 「景気対策は?」と問われて、「民主主義がどうの、改革がどうの」というふうに、経済とは別の方面に話題をずらしている。話にならない。論理以前。
 「財政赤字縮小に必要なことは?」という質問にも、まともに答えていない。私がかわりに答えておこう。「財政赤字縮小に必要なことは、財政赤字の拡大」である。
 「冗談だろう」と言われるかもしれないが、冗談ではない。こんなことは常識だ。現実を見るがいい。「財政赤字の縮小」をめざして、小泉や財務省が緊縮政策を取ったら、財政赤字はどんどん拡大していくばかりだ。これが現実だ。現実を見抜けない人には、正論が冗談に見えるし、冗談が正論に見える。「財政緊縮で景気回復を」なんて、正論の顔をした冗談の極みだ。
 小泉みたいなのは、「猪突猛進」と言って、頭の悪い単細胞の典型なのである。何でも直進すればいいと思っている。「急がば回れ」ということを知らない。こういう人間には、冗談と正論との区別がつかないのである。頭悪いね。

 (7) 株価PKO (学習院大教授)
 「株価を公的な年金資金で買って、株価を釣り上げよ」という意見。「資産インフレ派」の一種。「資産インフレを起こせば、そのおこぼれ効果で、インフレ効果が出る」というわけ。
 たしかに、そういう効果・影響はある。問題は、その規模が全然定量的に計算されていないことだ。いくらやればいいのか? たとえば、株価を2万円に釣り上げる。そこまではよい。で、それで、景気がすっかり回復するか? まさか。あまりにも小規模だからだ。たとえば、2兆円かけて、株価市場に投入しても、それによる「おこぼれ効果」は、せいぜい、5千億円だろう。あまりにも効率が悪い。効果も少ない。
 また、「国債PKOは効果がない」と述べながら、「株価PKOは効果がある」と述べるのは、自己矛盾だ。どちらにしても、企業の投資は増えない。なぜなら、今は「供給過剰」「稼働率低下」になっているからだ。
( ※ 株価維持策については、前日 10月16日b の [ 付記 ] でも言及して批判した。)

 (8) インフレ目標 (伊藤隆敏)
 「インフレ目標で」というクルーグマン流の説。悪くはない。ただし、「それは必要条件ではあっても十分条件ではない」という点が肝心。やらないよりはやった方がいいが、やったからといって魔法のごとく不況が解決するわけではない。そのことは、「インフレ目標」賛成論者のほとんどが言っている。「やってみなけりゃ、成功するかどうかは、わからない。保証はできない」と。
 インフレ目標というのは、「将来の低金利」だ。それは、浅い不況のときには、効果があるが、深い不況になると、効果はない。むしろ、「そんな先のことに構っていられるか。将来のことより、現在の財務体質改善が大切だ。今倒産してしまったら、将来の低金利なんか意味がない。だから設備投資を減らす」というのが正常な経営だ。はっきり言おう。「インフレ目標がある。だから、設備が遊休していても、どんどん設備投資をする」なんていう経営者がいたら、放漫経営の典型だ。そんな企業経営者は、ただちに追放されるべきだ。
 たとえば、ダイエーでも土建会社でも何でもいいが、赤字で仕方ないのに、「設備投資をするから銀行は金を貸してくれ」と頼んできたら、銀行は金を貸すべきか? まさか。絶対に貸すべきではない。では、銀行が貸していい会社は? 黒字の会社だけだ。しかし、不況のときには、そんな会社はほとんどない。ソニーでさえ赤字なのだから。しかも、そういう企業は、ゼロ金利のときには目一杯借りているから、これ以上借りてくれるはずがない。
 だいたい、歴史を考えてみるがいい。「企業が融資の必要はないというのなら、無理矢理強引に貸し出せばいい」というのが、インフレ目標だ。しかし、そういう無理な貸し付けは、バブル期にやったことだ。その結果が、莫大な不良債権だ。同じ失敗をまた繰り返そうとしている。「バブル期には金融緩和で景気がよくなった。だからまたバブルをふくらませればいい。歴史を繰り返そう」というわけだ。しかし、そのあとに来るのは、「ふたたび不良債権の山」だ。歴史は繰り返す。
 基本的には、「消費が減っている」というときに、「無理に投資を増やそう」という対策が、根本的に狂っているわけだ。

 結語。
 以上で、多くの説を示した。それらの説がいずれも間違っているとわかった。では、なぜ、それらは間違っているのか? 
 本質が問題だ。不況とは、「需給ギャップの発生」つまり「需要不足」だ。特に、「消費の縮小」だ。なぜなら、投資を拡大したくても、「流動性の罠」ゆえに無効だからだ。投資の縮小は、消費の縮小に起因しているのであって、高金利に起因しているのではないのだ。
 「消費の縮小」。そこに本質がある。これを見るべきなのだ。なのに、この本質を忘れて、「人々の消費が減ったら、かわりに国が無駄遣いすればいい」とか、「人々が金がなくて困っているのなら、かわりに企業が国の金をもらってやればいい」とか、「企業が融資の必要はないと言うのなら、補助金をやって強引に無駄な貸し出しをすればいい」とか、本筋をはずした主張をする。
 だから、本質を唱えるべきなのだ。「消費が減って不況になったのなら、不況対策としては消費を増やすべきだ」と。そこを見失っている限り、あらゆる経済政策は無効である。

 たとえば、「インフレ目標」というのは、「金利が高すぎるから投資が増えないのだ」と主張する。「金利がゼロというのは、あまりにも金利が高すぎるのだ」と主張する。馬鹿げた話だ。正解は、「消費が縮小したならば、金利がゼロでも金利が高すぎる」ということだ。「消費が縮小したならば」という前提にこそ、原因があるのだ。ここを見失うと、「タダというのは値段が高すぎる」という馬鹿げた主張になる。
 ここで、大切なことを、比喩で示しておこう。
 百万円の自動車がある。これを1円で売り出しても、買ってもらえないとしたら、その理由は、値段が高すぎるからではなくて、客に金がないからなのだ。そのことを理解するべきだ。「1円でも買ってくれないのなら、マイナス1円にすればいい」とか、「政府が補助金をつけてマイナス1円にすればいい」とか、そういう理屈で、「マイナスの価格なら需給が均衡する」なんて言うのは、狂気の沙汰である。経済学を逆用して、屁理屈をこねている。まともな人間ならば、「客に金がないのなら、いったん金を貸して、あとで返してもらう」と考える。そうしないで、売り手の側に金を貸そうとしたり贈ろうとしたりしているのが、今の政策だ。狂っている。
( ※ だから、朝日の記事は、「狂人による狂気の説の特集」なのだ。世間を戸惑わせるばかり。日本を迷走させるばかり。読売の方には、「需給ギャップを解決せよ」という肝心の説がときどき出るが、朝日は核心から、はずれっぱなし。あまりにも無能すぎる。経済学音痴過ぎる。最悪のデマゴーク新聞。)

 [ 付記 ]
 以上とは別件だが、政府は景気対策の新政策として、金融政策の新たな方針を立てる予定だということだ。これは、前記の諸説とは違って、「金融対策」という説。
 まったく、どれもこれも、見当違いで困る。繰り返すが、不況の本質は、「消費の縮小」である。だから、これを改善することが、景気対策の根本なのだ。そういう根本を忘れて、あれこれと細かな対症療法ばかりを繰り返すから、いつまでたっても見当違いの政策のせいで、景気は回復しない。
( ※ 「対症療法はダメだ、根本対策を」ということは、先日も述べた。 → 10月12日b

 [ 補足 ]
 朝日は、この日 2002-10-16 の記事の解説では、初めて、「流動性の罠」という語を使った。ただし、「ケインズが指摘した」と述べたのは、間違いである。ケインズの言う「流動性の罠」は、「金利ゼロだから、預金者が貯金しないで手元に置くこと(流動性選好説)」である。最近の「金利ゼロだから、投資拡大の金融政策の余地がない」というクルーグマン説とは、別のことだ。前者は貯蓄。後者は投資。貯蓄と投資の区別ができない間違い記事。デタラメを報道するのは、困ったことだ。

  【 追記 】
 「流動性の罠」について補足しておく。
 ケインズの言う「流動性の罠」は、現在話題の「流動性の罠」とは異なる。ケインズの説では、次のようになる。
  1.  貨幣とは、貯蓄して利子を得るためのものである。(物を買うためのものではなくて。)
  2.  利子率があまりにも低い(債券価格が高い)と、将来の利子率上昇(債権価格低下)が予測される。だから人々は、貯蓄しない。現金で保有する。(流動性選好説。)
  3.  こうなると、金融市場に金は入らず、タンス預金が増えるだけだ。だから、いくら貨幣量を増やしても、効果がない。債権はすべて売れ残り、金利は低下しない。
  4.  ゆえに金融政策はまったく効果がない。(市場では、金不足になり、利子が高止まりするから。)
 このうち、第3項以降が、すべて現実には合わない。債権はどんどん売れて品不足だし、金融市場では金はジャブジャブだし、利子率は高止まりどころかゼロだ。
 結局、「預金」の面では、ケインズのほぼ言うとおりになる(タンス預金が増える)のだが、「融資」の面では、ケインズの言うのとは反対のことになっている。
 ケインズの言う「流動性の罠」は、「預金」についてはほぼ正しいのだが、「融資」については当てはまらない。「融資」については、別の理屈が必要だ。それがクルーグマンの言う「流動性の罠」だ。
( ※ 「預金」についても、ケインズの説はまったく正しいわけではない。たしかに「タンス預金が増える」という面では正しい。しかし、「すべてがタンス預金になって、貯蓄が増えない」ということはない。金融当局が国債買い上げで現金を供給すると、その金はタンス預金には回らず銀行の手元に残る。一部はふたたび国債購入に回るが。……というわけで、ケインズの説明する「流動性の罠」は、現実にはあまり合わないのだ。)
( ※ ケインズの説では、利子率の下限が「流動性選好説」によって決まる。クルーグマンの説では、利子率の下限が「金利ゼロ」によって決まる。そういう根本的な違いがある。そのあと、「預金が増えない(金融市場の金が足りない)」 or 「融資が増えない(金融市場の金が余る)」という別の結論にたどりつく。最終的な結論は、「金融政策が無効」で、これは両者とも同じ。)


● ニュースと感想  (10月18日)

 前項の続き。リチャード・クーの意見。「ケインズ的な財政出動で」という説。これを批判しておく。
( ※ ケインズ流の公共事業なんてのは、不評さくさくで、誰にも相手にされない傾向がある。だから、本項は、いちいち読まなくてもよい。読むと、うんざりするかも。)
  1.  財源
     財政支出のことばかりを考えて、財源のことを考えていない。減税ならば、「今は国民に貸して、後で国民から返してもらう」だから、問題ない。公共事業は、使い切りで、返してもらう当てがない。実際、ケインズ派は、常に放漫財政で財政赤字とインフレを招いてきた。「将来のインフレ」という問題をすっかり忘れている。

  2.  効率
     「減税だと、一部は貯蓄に回るから、効率が悪い」という説だ。経済学のイロハを知らないようだ。「貯蓄 = 投資」だから、「貯蓄に回った分は、投資に回る」のであって、「効率が悪い」とか「金が眠る」とかいう説は、正しくないのだ。
     なるほど、「流動性の罠」のときには、金は眠る。しかし、減税によって消費が触れれば、「流動性の罠」を脱する。そうなれば、「金が眠る」ことはないのだ。そもそも、「消費と投資がともに増える」というのが、経済の正常な状態だ。そこをめざしているわけだから、政策が正しく軌道に乗れば、「投資が増える」つまり「金が眠らない」というふうになるわけだ。
     もう一度言う。「貯蓄 = 投資」という、経済学の初歩知識を学びなさい。

  3.  乗数効果
     ケインズ流の考え方は、「乗数効果」を考えて、「官需が最も効率的だ」と考える。しかし、彼らの説に従っても、せいぜい、乗数効果の分の需要しかでない。特に、初年度は、乗数効果がほとんど現れず、実際に支出した額ぐらいの景気刺激効果しか出ない。
     減税は? 「消費性向の分しか効果がなく、残りは貯蓄に回る」というのが、ケインズ派の意見だ。このうち、「貯蓄」の分は、すでに上で反論しておいた。
     一方、消費の分もある。ケインズ派は理解していないが、実は、消費は、消費性向の分だけが増えるのではない。減税額が大きければ、「いったん低下した消費性向が、元の消費性向に戻る」という効果がある。この分が非常に大きい。
     だから、「公共事業」よりも、「減税」の方が、ずっと効果が大きいわけだ。
    ( → 具体的な数値モデルは 9月04日

  4.  金の有効利用
     単に(景気刺激効果の)「効率」だけを言うのならば、「穴を掘って埋める」のでもいいはずだ。だから、論者は本来、「穴を掘って埋めよ」「無駄な公共事業をせよ」「ダムや本四架橋など、血税で大幅な無駄遣いをせよ」と主張するべきなのだ。ケインズ派の意見というものは、そういうものだ。
     しかるに、善人ぶって、「まともな公共事業をやればいい」などと述べている。しかしそれは本来のケインズ派の意見ではない。ケインズ派の意見は、「穴を掘って埋める」だ。そして、そういう意見を貫くことができなくなったところで、自説は破綻しているわけだ。
     ケインズ派の意見には、「金の有効利用」という意味の「効率」概念が欠落している。だから「どんなに無駄でも、やっていい」ということになる。そういう欠陥を理解しない限り、どうしようもない。

  5.  バランスシート
     「バランスシート(帳簿)が改善するまで、企業の投資は増えない」と述べている。しかし、そんなことを言ったら、いつまでたっても景気回復はしない。その意見は、「景気回復が実現するまで、景気回復の速度は上がりません」と述べているのと同じだ。無意味。
     必要なのは、「景気回復が実現していないときに、景気回復の軌道に乗せること」だ。目的を根本的に勘違いしている。
     必要なのは、「バランスシートが改善しないまま、企業の投資を増やす」ことである。そして、そのためには、「売上げが増加する」という見込み(総需要の拡大)を、企業に示すことだ。実際、「売上げが増加する」という見込みがあれば、バランスシートが悪くても、企業は投資をする。資本主義の原則だ。これも経済のイロハ。
 結語。
 この人は、他人への批判としては、鋭いところを突いているのだが、いかんせん、自説がダメ。ケインズ派の時代遅れになったところを、自分でちゃんと認識できていない。まあ、人柄は悪くないんですけどね。手持ちの道具が足りなすぎる。正しいことをしようとしたあげくの玉砕。


● ニュースと感想  (10月18日b)

 これまで、いくつかの説を批判してきた。ここで、総括的にまとめておこう。
  1.  サプライサイド
     「経済体質を強化しよう。それには供給を強化することが大事だ」と考えて、「生産性の向上」「収益性の向上」「企業体力の強化」などを唱える。この意見は、一見、もっともだと思える。しかし、まったくの見当違いだ。そもそも、「景気対策」というのが目的なのに、それとは全然関係のないことをめざしている。あげく、「まったくの無効果」もしくは「やればやるほど、逆効果」となる。不況の根本原因を分析すらしない。幼稚。無知。
  2.  量的緩和
     「流動性の罠」を理解していない。「効果はない」と自分でもわかっているのに、「やれば効果がある」と勝手に主張する。「好況のときに効果があることは、不況のときにも同じ効果がある」と信じ込む。「ものごとには限界がある」ということを理解できない。「限度」とか「範囲」とか、そういうことを理解できない。自信過剰。誇大妄想。
  3.  インフレ目標
     「投資の拡大」をめざすところが、見当違い。稼働率の低下が問題なのに、さらに稼働率を低下させよう、というわけ。消費が減っているのに、投資を増やそうとする。
  4.  公共事業
     民需が減っているのに、官需を増やそうとする。それ自体は、一応、もっともと見える。ところが、負担が問題。「国民が金を払って、国民が使う」とか、「政府が金を払って、政府が金を使う」のなら、まだわかる。ところが、「国民が金を払って、政府が金を使う」と主張する。人の財布の金を勝手に使うわけだ。泥棒と同じ。「泥棒が金を使えば、景気は回復する」という、泥棒主義。……なるほど、たしかに泥棒がどんどん金を盗めば、景気は回復するだろう。しかし、それは、本末転倒である。そもそも、景気回復が目的なのではない。国民の幸福が目的なのだ。「景気は回復しました、国民は不幸になりました」では、何の意味もない。「病気は治りました、患者は死んでしまいました」と同じだ。それがわからないから、ケインズ派は、「穴を掘って埋めれば景気は回復する」と主張する。ま、それはそうですけどね。まったく、何を勘違いしていることやら。
  5.  不良債権処理
     「帳簿をきれいにすれば景気が回復する」という帳簿主義。「実体経済なんか知ったこっちゃない、帳簿さえきれいになればいいのだ」と主張する。度の過ぎた潔癖主義。「潔癖症」という精神病の一種。
  6.  株価・地価の上昇策
     「帳簿の数字が上がれば景気が回復する」という帳簿主義。「実際の生産なんか知ったこっちゃない、帳簿の数字さえ増えれば富が増える」と主張する。帳簿の数字を書き換えて、勝手に富が増えたと思い込む。粉飾主義。現実を忘れて、夢想の世界に生きる、という妄想癖。精神病の一種。
 結語。
 不況はなぜ起こるか? この原因分析が最初に来る。
 生産効率は、別に、急激に低下したわけではない。
 資産デフレ・不良債権発生というのは、不況の結果であり、原因ではない。不況を加速ないし促進する効果はあっても、根本原因ではない。
 投資は、不足していない。(稼働率が低下しているから。)
 不況は、消費の縮小で起こる。消費が急速に縮小したから、経済の循環がおかしくなったのだ。これが、根本原因だ。
 この根本原因を理解することが大事だ。話のすべては、そこから出発する。


● ニュースと感想  (10月18日c)

 「サプライサイド」批判を少し述べておこう。「需給ギャップ」との関連で。
 すでに何度か述べてきたように、「需給ギャップがあると、生産性が低下する」という現象が発生する。次のような経路を取る。
    需給ギャップ → 稼働率低下 → 生産性低下    (*
 理由は明らかだろう。つまり、売上げが下がれば、稼働率が低下する。固定費の負担が重くなり、平均費用が上昇し、企業の収益性(生産性)が悪化する。

 以上の現象を見て、サプライサイドの学者は、「だったら逆にすればいい」と思い込む。つまり、次の経路を夢見る。
    生産性向上 → 稼働率向上 → 需給ギャップ縮小
 しかし、こういうことは、期待に反して、現実には起こらない。

 現実には、次の経路が起こる。
    生産性向上をめざす → 解雇 = 失業拡大 → 需給ギャップ拡大
 つまり、生産性向上をめざせば、固定費削減のために、リストラで解雇が進む。だから、生産性向上をめざせばめざすほど、総需要が縮小し、需給ギャップが拡大する。かくて状況はどんどん悪化する。

 結局、最初の経路 (*) は、非可逆的なのである。右方向には経路が進むが、左方向には経路が進まないのだ。ここを理解することが大切だ。(理解できないほど頭が悪い人を「サプライサイド」と呼ぶ。)

( ※ 理由を説明しておこう。「生産性の向上」の意味が問題だ。それは、均衡状態では、「技術革新」を意味するのだが、不均衡状態では、「解雇・リストラ」を意味する。同じ言葉が状況に応じて別の意味になる。……たとえば、「結婚」は、愛しあっている二人には幸福だが、憎みあっている二人には不幸だ。そういうことに気づくことが大事だ。単細胞な人には、理解しにくいだろうが。)


● ニュースと感想  (10月18日d)

 ケインズの「流動性の罠」について、前日分に追記した。( → 該当箇所


● ニュースと感想  (10月19日)

 朝日に続いて読売でも、エコノミストの「提言」が始まった。
 17日は、植草一秀。(読売・朝刊・1面 2002-10-17 )

 「減税を」という主張だ。これは、朝日に掲載されたデタラメ主張ばかりとは違って、おおむね正しい。だが、おおむね正しいが、いくらかは難点もある。次の通り。

 第1に、規模が小さすぎる。減税の規模は「3兆円」という主張。だが、それで景気が回復するくらいなら、これまで何度かやった減税で、とっくに景気回復しているはずだ。これっぽっちの規模では、結局は、「財政赤字の拡大」だけが残って、おしまいだろう。

 第2に、使途を指定するのでは、ありがたみがない。「パソコン購入費・英語習得費」だって。しかし、「減税されるまでパソコンを買わない」なんていう人に、無理に買わせたって、意味はない。「パソコンは必要だ」という人は、とっくに買っている。だいたい、上記の論者自身は、どうなのだ? 今、パソコンをもっているにせよ、もっていないにせよ、話がおかしくなる。 ( → 2月06日b 「使途は自分で決める」という話。)
 さらに、「土地減税」だの、「法人税減税」だの、あれこれと勝手に使途を指定しようとする。まったく、困りものだ。「自分こそ一番頭がいい」と思い込んでいるようだ。だから、「国民の金の使い方は、おれが決めてやる」というわけだ。傲慢不遜。
 ふん。それなら、自分自身の預金通帳を、どこかの他人に渡せばいいのだ。それでいくらか景気は回復しますよ。


● ニュースと感想  (10月19日b)

 「減税をするにも、財源が問題だ」という意見がある。たとえば、「増減税をどうするかが問題だ」という記事がある。諸説ふんぷんだが、混乱して、まとまらない。(朝日・朝刊・経済面 2002-10-16 )
 答えを言おう。増減税の方法は、ただ一つしかない。それは、
   「全員への減税と、全員への増税」
 だ。つまり、方式は、「今は減税、将来は増税」だが、その対象者は、今も将来も「全員」であるべきだ。
 それしかない。そして、これならば、公平性が保たれるから、規模をいくらでも大きくできる。
 「政策減税」というのは、立派なやり方のように見えるが、特定の人々を対象としたものであるから、不公平となる。それゆえ、好ましくない。規模も限られる。
 話を勘違いしてはいけない。「政策減税」というのは、一定の政策効果を狙うものであり、景気対策とは別のことなのだ。それはミクロ的な政策である。
 一方、景気対策というのは、マクロ的な政策である。それはマクロ的であるゆえ、「全員」を対象とするべきなのだ。
 ここを混同してはならない。ミクロ経済学者や古典派経済学者は、マクロ経済を理解できないので、こういう混同を犯す。
 「景気対策としての政策減税」というのは、正しいように見えるが、論理矛盾を起こしている。注意しよう。

 なお、「増減税」は、「タンク法」を用いれば、財源を考慮する必要はない。財源は、特定の増税によらなくても、「物価上昇」でまなかうことができるからだ。( → 4月29日

( ※ 朝日は記事では「所得税減税」というのを紹介している。しかし、課税最低限がかなり上昇したときに、「所得税減税」なんかをやっても、「金持ち減税」になるだけだ。無意味。第3章でも述べたとおり。この件、ノーベル賞学者のサミュエルソンも言っている。 → 昨年 11月06日b昨年 11月23日d


● ニュースと感想  (10月19日c)

 「減税の目的」について。
 減税をするにしても、減税の目的が何であるかを、たいていの人は勘違いしているようだ。だから、「法人税の減税(それで供給力改善)」とか、「資産インフレ誘導」とか、あれこれと見当違いのことを主張する。彼らはみんな、「減税とは、金を使うことだ」と信じて、「それならば最適の使途を決めればいい」と思い込む。
 違う。減税とは、金を支出することではない。たとえば、3兆円の減税をして、3兆円の支出を増やすことではない。
 では、何か? 減税の目的は、消費性向を上げることだ。3兆円なら3兆円で、その分だけの支出を増やしても、何にもならない。「3兆円 × 限界消費性向」という分の金が増えるだけだ。大して意味はない。一時的な効果があるだけだ。(だからケインズ派が「一部は貯蓄に回って効果がない」と批判するわけだ。)
 大切なのは、減税を呼び水として、経済を正常に回復させることだ。そして、経済が正常に回復すれば、消費性向が上がる。そうなれば、減税は、もはや一時的な効果ではなくなる。
 たとえて言おう。環状のチューブがあり、水が流れて循環している。ところがあるとき、チューブの1箇所が詰まってしまった。そこで、外から圧力をかけて、「ドカン」と勢いを付けた。すると、詰まっていたものがなくなり、ふたたびうまく循環するようになった。……こうすることが大事なのだ。
 もし減税の効果が一時的なものであるとすれば、「使途を決める」というのは、正しいかもしれない。「政府が最適の使途を決める」という説も、成立するかもしれない。しかし、減税の効果は、一時的なものであってはならないのだ。システム全体が正常化する必要がある。そして、そのためには、低下した消費性向が上昇しなくてはならない。
 では、低下した消費性向を上げるには? 「企業や政府が金を使えばいい」と主張する人もいる。しかし、企業や政府が金を使うということは、国民の金を奪うと言うことだ。しかし、国民は「金を奪われれば奪われるほど、消費を増やす」なんていうことはありえない。「財布が薄くなれば薄くなるほど、消費を増やす」なんていうことはありえない。「財布が厚くなれば厚くなるほど、消費を増やす」というのが常識だ。だからこそ、減税は、国民に渡すべきなのだ。どんどん支出してもらうために。そしてその勢いに乗って、経済を拡大して、消費性向を上げるために。

 結語。
 「不況とは何か」という根本原因を知ることが大切だ。そして、「消費性向の低下が根本原因である」と知ったなら、その対策を取ることが大切だ。一方、根本原因を知らないまま、「国が使途とを決めればいい」「国や企業が国民の金を勝手に使ってやればいい」というようなことでは、一時的な対処に留まり、真の不況対策とはならない。結局は、表面的な数字あわせにとらわれず、物事の本質を知ることが大事なわけだ。


● ニュースと感想  (10月19日d)

 朝日批判への弁明。
 私が朝日新聞に批判をしていることで、「おまえは保守派だな」と決めつけられそうなので、弁明をしておく。
 保守派なのは、私ではない。朝日である。勘違いしてほしくない。朝日の経済学的な立場は、「サプライサイド」である。別名、「レーガノミックス」だ。「市場経済に任せれば、それで万事うまく行く」「弱肉強食、優勝劣敗、弱者は市場から退場せよ」という単細胞的な理屈だ。経済学のなかでは、レーガンと同じく、超右翼である。
 ついでに言うと、この学派は、学問的には、空っぽである。同じく保守派でも、「マネタリズム」というのは、精緻な学問的な研究をしているが、「サプライサイド」というのは、「市場経済」「生産性向上」というたったの二語で済んでしまう。超お手軽だ。(だから、経済学の基礎的な勉強を全然していない人は、これを信じる。朝日も同じ。)

 もう一つ、私が朝日を批判する理由がある。それは朝日がマスコミとしての本分を忘れている、ということだ。なんであれ、マスコミというのは、政府に対してチェックを入れる必要がある。どちらかと言えば反対の立場を取って、チェックを入れて検証するべきだ。ところが、朝日は、このマスコミの役割を放棄している。単に政府の提灯持ちをやるだけだ。政府がサプライサイドという最低の経済主義を取っているのだから、それに批判を入れるべきなのに、逆に、それの提灯持ちをやっている。そうして国民を洗脳しようとしている。つまりは、「将軍様」を称えてばかりいる北朝鮮のマスコミとそっくりだ。
 だから私は朝日を批判する。朝日が自分の仕事を忘れているから、私が朝日の仕事を代替してあげているわけだ。また、朝日の経済記事はデタラメばかりだから、私が正誤訂正を記述してあげているわけだ。
 だから、私は、朝日を批判しているように見えても、本当は、朝日を助けてあげているわけだ。無料で補足記事を提供しているようなものだ。だから、私が朝日の悪口を言えばいうほど、朝日は私に感謝していいはずなのだ。
( ※ 世の中の夫は、みんなそうだ。妻が夫に文句を言えばいうほど、夫は妻に感謝しなくてはならない。「感謝しなさい。わかったわね、あなた!」という声が聞こえるでしょ?)


● ニュースと感想  (10月20日)

 首相の所信表明。(夕刊・各紙 2002-10-18 )
 「改革なくして景気回復なし」と言って、改革しないでいる。だから結局、「景気回復なし」となる。冗談うまいね。相変わらずだが。

 「あちこちの中小企業では、すばらしい技術の芽が見える。日本も捨てたもんじゃない。希望をもとう」
 という趣旨の話もある。しかし、日本経済が停滞したのは、日本中の企業がそろって急激に劣悪になったからではない。個別の企業経営が問題なのではなく、政府のマクロ政策が問題なのだ。個別企業の頭が問題なのではなく、首相の頭が問題なのだ。そして、個別企業がどんなに努力しようと、首相の頭が今のままである限り、マクロ政策は変わらないのだから、不景気は続く。政府が「希望をもとう」と促しても、お先は真っ暗だ。

 たとえれば、こうだ。
「船がちゃんと進まないのは、各人がちゃんと船を漕がないからだ。すべての責任は各人にある。だから皆、しっかり漕げ! あそこの数人は、ものすごく漕いでいるぞ」
 と船長が数人の真面目な船員を指差す。しかし他の全員は、うんざりだ。なぜなら、自分たちがいくら真面目に漕いでも、船長が進路を地獄に向けているのだから。漕げば漕ぐほど、地獄行き。「希望をもとう。2年後には何とかなるさ」と船長は叫ぶばかりで、自分の間違いを改めない。責任はすべて各船員にあると思い込んでおり、自分に責任があることに気づかない。
 無責任宣言。それがこの所信表明だ。結局、国民が受け取ったのは、「不況継続」の宣言だ。うんざり。

 教訓。
 狂気の船長は、船をわざと嵐に巻き込む。マクロ経済音痴の首相は、日本経済をわざと破壊する。


● ニュースと感想  (10月20日b)

 読売の、エコノミストの「提言」。18日は、文教学院大学教授。(読売・朝刊・1面 2002-10-18 )
 言っていることは、そう間違っているわけではない。ただ、概念に混乱があるようだ。
 「金融システム保護」と「不良債権処理」を、混乱して説明している。この両者は、同じではない。
 「金融システム保護」は、たしかに大事だ。「ペイオフ延期」というのも、その一環だ。「公的資金投入」「銀行の国有化」というのも、その一環だ。「好ましい」というよりは、「状況の混乱を防ぐには、状況によっては、やむを得ない」と考えるべきだろう。
 「不良債権処理」は、別の話だ。ここを混乱している人が多いが、「公的式投入」をしたからといって、「不良債権処理」が進むわけではない。「不良債権処理」をするには「公的式投入」が必要だが、「公的式投入」をやれば「不良債権処理」が進んで「不良債権がどんどん減っていく」ということはない。あくまで、両者は別のことだ。

 論者は言う。「やみくもに不良債権処理を加速させ、その結果、融資先の企業を安易に破綻に追い込むべきではない」と。また、朝日の社説も、「不良債権処理をするのはいいが、存続できる中小企業を無理に倒産させるべきではない」と。
 話が自己矛盾している。「不良債権処理」というのは、「融資先の企業を安易に破綻に追い込む」ことであり、「存続できる中小企業を無理に倒産させる」ことなのだ。勘違いしているようだ。もう少し正確に言おう。「普通の景気状況ならば存続できる企業が、不況という需給ギャップがあるせいで赤字化している。こういう企業を無理に倒産させるか否か」が、不良債権処理の本質的な問題なのだ。
 つまり、政府の失政でマクロ的に総需要が縮小している。そのせいで、個別の企業が赤字化して、不良になっている。このとき、どうするべきか? 
  ・ 政府の失政を認め、マクロ的な総需要を拡大する。
  ・ すべてを個別企業の責任にして、個別企業を倒産させる。
 この二つの道がある。
 前者を唱えるのが、私だ。つまり、「マクロ的に総需要を拡大することで、各企業を、不良から優良にすればよい。そうすれば不良債権処理は解決する」と。  後者を唱えるのが、「不良債権処理」論者だ。「マクロ経済学なんか知ったこっちゃない。すべては個別企業の責任だ。劣等な個別企業を退場させれば、市場に残る企業はすべて健全化する」という理屈だ。
 で、そういう後者の理屈に対して、私は、反論しているわけだ。「たしかに、市場に残るのは、健全な企業だけだ。しかし、市場の外に追放されたものはどうなる? つまり、失業した人々や、遊休した設備はどうなる? そういう問題は残るままだぞ」と。それに対して、「不良債権処理」論者は、こう答える。「市場の外にある失業者や遊休設備は、経済学の担当外だ。それは経済学者の責任じゃない。おれの知ったこっちゃないね」と。
 無責任。「自分の目に見えないものは、存在しないのと同じだ」と彼らは主張する。そうして目を閉じるのだ。彼らは事実を見ることを拒否しているのだ。


● ニュースと感想  (10月20日c)

 「銀行国有化」について。
 すでに投入した公的資金で保有している政府の株式を、優先株から普通株に転換せよ、という意見を木村剛が出したそうだ。実現すれば、国の株式保有率は、次の通り。三井トラストは 52% ,りそなは 38% ,UFJは 24% ,三井住友は 21% で、いずれも国が筆頭株主。準国有化みたいなものだ。 (朝日・朝刊・経済面 2002-10-18 )

 このことの善悪はさておき、これで思うことがある。他の説との矛盾だ。
 「劣悪な銀行は退去させよ。優勝劣敗」
 というのが、ペイオフ実施論者の意見だった。また、
 「劣悪な企業は退去させよ。優勝劣敗」
 というのが、不良債権処理論者の意見だった。

 とすれば、「劣悪な銀行は国有化せよ」つまり「劣悪な銀行は完全保護せよ」というのは、まったく正反対の(矛盾する)意見である。だいたい、「劣悪な企業を国有化せよ」という理屈が成立するのなら、ダイエーでも何でも、企業をつぶす(不良債権処理する)かわりに、どんどん国有化するべきだ、ということになる。
 「銀行だけは例外だ」と主張するのかもしれないが、だとしたら、その理由を述べるべきだ。先の「優勝劣敗」なんていう理屈では、矛盾する。銀行は破綻しなくても、論者の論理が破綻する。破綻した論理にしたがって行動すれば、日本経済を破綻させる。狂気。

 もう一つある。
 「不良債権処理をすれば、景気が回復する」という意見がある。つまり、「不良債権をRCCに渡せば、景気が回復する」と。だったら、「銀行を国有化して、その名称をRCCにする」のでも、同じことだ。RCCも銀行も、どちらも国の保有物なら、同じ国の帳簿の上で、右手から左手へ(銀行からRCCへ)、不良債権を移すだけのことだ。実質的には、何も変わらない。
 呆れますねえ。帳簿の保有者の名称を、国の「銀行部門」から、国の「RCC部門」へと、名称変更するだけで、日本の経済は一挙に回復する、という案だ。「改名するだけで景気回復!」だって。
 そりゃまあ、易者に運勢占いしてもらって、改名する人はいますよ。「これで運がよくなるぞ」と。これとほとんど同じレベルだ。今の国の経済政策は、こういう易者頼りみたいなことをやっている。狂気。
( ※ ついでだが、易者の名前が問題だな。木村……)
( ※ ロシアのエリツィンか誰かだったか、よく覚えていないが、易者にしたがって国の政策を取り、国を破綻させたという、ひどい権力者がいた。小泉はその二番煎じ。)

 [ 付記 ]
 「では正解は?」と疑問に思うだろうから、示しておこう。
 公的資金を投入しようが、不良債権処理をしようが、そんなことは、本質的な意味をもたない。「良いか悪いか」と問うこと自体が、間違いである。つまり、正解はない。
 「均衡状態では正しいことが、不均衡状態では正しくなくなる」
 という状況がある。それは「合成の誤謬」が働く状況だ。だから、まず、この状況を解決するのが根本対策だ。── 「需給ギャップの解消」。これが根本対策だ。これによって均衡状態が回復したあとで、ようやく、銀行国有化や不良債権処理について正解が出る。
 均衡状態が回復するまでは、正解はない。答えを無理矢理さずに、保留しておくべきだろう。(たとえば、「ペイオフ延期」というのは、「保留」を意味する。こういう「保留」が、最善だ。)


● ニュースと感想  (10月20日d)

 「不良債権処理」と「ダイエー」問題。
 ダイエーが8月の中間決算を発表。目標には達しないものの、順調に経営は改善されて、経常利益は増益。つまり、赤字ではない。今後の見通しはどうかと言えば、社長の話だと、「問題は家電部門に限定されている」とのこと。つまり、食品・衣料などの主力部門は健全だが、家電はダメ。だから、この部門を廃止すればよい。(朝日・朝刊・経済面 2002-10-19 )
 なお、家電を廃止して、売場をテナントに貸す、という動きは出ている。家電販売の「ヤマダ電器」や、100円ショップの「ダイソー」などが出店している。私の家のそばでも、2年ほど前からそうなっている。

 さて。この朝日の記事では、「ダイエーは生き残れるか?」という趣旨の記事だ。しかし、話が少しずれているようだ。
 今、不良債権処理が問題となっている。この典型的なケースとして、ダイエーを扱うべきなのだ。「不良債権処理をせよ」という意見が出ている。抽象的な意見ばかりを出す論者が多いが、具体例として、ダイエーを見るべきだ。
 「不良債権処理をせよ」というのは、「ダイエーをつぶせ」ということだ。「莫大な負債がある。自力再建は、微妙なところであり、銀行などの支援を得て、ようやく、かろうじて再建できそうだ」という会社。こういう会社を、「強引につぶすか否か」が問題となる。
 論者は言う。「自力再建ができないような会社は、さっさと倒産させた方がいい。放置すれば、赤字がどんどん蓄積して、状況は悪くなるばかりだ。ここでいったん赤字を確定すれば、もう赤字は増えない。だから、つぶしてしまえ。その金は、銀行がなければ国が出せばよい。これで万事、めでたしめでたし。赤字はもう増えないぞ」と。
 私はそれを批判する。「どうしようもない赤字会社を残せとは言わない。そんなひどい会社は、とっくに倒産している。問題は、自力再建ができるか否か、微妙な会社だ。こういう会社を、つぶすべきか? なるほど、つぶせば、その会社は、もう赤字を出さない。しかし、マクロ的には、失業者が発生する。失業者の失業手当は、新たな赤字要因となる。また、赤字は増えないが、減りもしない。倒産させれば、莫大な赤字を、国民が負担することになる。一方、倒産させないでおけば、当面は黒字も赤字も微量だが、やがて景気回復したときに、多大な黒字を出して、赤字を償却できる。赤字の償却は、国民がするのではない。ダイエーの社員が残っていたから、残っていた社員たちが自分で働いて、その金でやるのだ。彼らは失業しないで働いたから、赤字の償却ができるのだ。」
 結局、「不良債権処理」論者というのは、個別企業しか見ていないのである。「ここの企業は、赤字ならば、倒産させてしまえばいい。もう赤字は出さない」と。そのときに払う金は、国の金だが、国のことは考えない。彼らはマクロ経済のことを、まるきり考えていないのだ。
 彼らは、ダイエーが赤字なのも、「ダイエーの経営が悪いから赤字なのだ」とだけ考える。「国の政策が悪いんじゃない、みんなダイエーが悪いんだ」と考える。だから、「景気がよくなればダイエーは黒字化する」ということがわからない。「景気がよくなってもダイエーは赤字のままに決まっている」と信じ込む。「マクロ的な動きが、個別企業に及ぼす影響など、まったくない」と思い込む。「景気の変動は、個別企業の変動に影響しない。個別企業の変動は、景気の変動に影響する」と信じ込む。
 論理的な倒錯。「犬が尻尾を振るのではない。尻尾が犬を振るのだ」というわけだ。

 結語。「不良債権処理」論者は、マクロ経済を理解していない。(逆に言えば、マクロ経済を理解しないエコノミストは、「不良債権処理」論を信じるだろう。)

( ※ ともあれ、「不良債権処理」論者は、個別企業に即して論理を述べてもらいたいものだ。ダイエー、NEC、東芝、富士通など、赤字ないし赤字すれすれの会社は、たくさんある。というか、不況のときは、日本中のほとんどの企業がそうだ。つまり、「ほとんどの企業を倒産させるべきだ。そうすれば残りは優秀な企業だけになる」と。「9割の企業をつぶして、1割の企業だけを残せ。9割の労働者を失業させ、1割の労働者だけが働けばいい」と。狂気の論理。)


● ニュースと感想  (10月21日)

 週刊文春・最新号から、記事のメモ。

 (1) ロシア経済の崩壊。
 ソ連解体後に、エリツィン政権で、「共産主義経済から自由経済へ」という大転換がなされた。そのときの経済学は、フリードマン流の古典派経済学。その結果は? 教科書的な「市場原理」ばかりを実行したあと、ロシア経済の崩壊。「構造改革」を唱えて、「劣者退場」を唱えた。その結果、劣者の生産力がどんどん退場していくばかりで、経済は崩壊するばかりだった。これは「構造改革」を唱える小泉とそっくりだ、という話。
 感想。正しい指摘だ。
 「優勝劣敗」という市場原理は、局所的にはともかく、経済の大構造を変革するのには向いていない。
 ロシアに即して言えば、劣悪な企業をどんどん退出させることを目的とするべきではなく、個々の企業の体質を向上させることを目的とするべきだった。その方法は? 私見では、最適の方法は、中国の「トウ小平」のやった方法だ。漸進的な資本主義化である。歴史を見るといい。

 (2) 竹中の変節
 経済学的な主張をコロコロと変えている変節漢だ、という話。あちこちで何度も言われている有名な話。知らなかった人は、ご一読あれ。


● ニュースと感想  (10月21日b)

 雑談。ノーベル賞ではないが、「政府顕彰」の話。(特に読む必要はない。)
 政府は「優秀な経営者」として、三人の社長を顕彰した。トヨタ・日産・キヤノンの各社長。(朝日・朝刊・3面・ベタ記事 2002-10-16 )
 この三人の内訳は:
    トヨタ社長  …… 労働者の賃金を奪って、収益性を向上した。
   日産 社長  …… 下請けの利益を奪って、収益性を向上した。
   キヤノン社長 …… 収益性の向上のために「国の金を寄越せ」と主張する。
 なるほど、似た者同士だ。つまりは、泥棒こそ、最優秀な経営のコツだ。

 ついでに私の考えを言えば、「消費者の望むものを革新的な技術で提供する」ということをやったのは、ホンダだ。ところが、ホンダの社長は、顕彰されない。
 実は、ホンダの社長は、ちっとも目立たない。「おれがおれが」と、外に顔を出さない。ひるがえって、上記の三人は、やたらと顔を出して、威張り散らす。

 教訓。政府の表彰を得たければ、優秀な経営をするより、泥棒をしながら、マスコミにやたらと顔を売ればよい。「おれは優秀だぞ」と威張り散らすことこそ、政府に顕彰されるコツである。
 換言すれば、政府が顕彰するのは、そういう下品な人物ばかりだ。政府がいかに狂っているか、よくわかる。小泉に似ているのかもしれないが。
 一方、無名の田中耕一氏を表彰したノーベル賞委員会は、実に立派だった。日本政府とは正反対だ。

( ※ ついでに言えば、キヤノンの社長では、先々代のころの「賀来龍三郎」という社長は立派だった。ただし、政府に噛みついたので、政府の受けは悪かった。こういう立派な人物は、顕彰されることはないものだ。日本政府にはね。)


● ニュースと感想  (10月21日c)

 朝日新聞批判。
 新聞に関する特集で、自社の報道を検証している。(朝刊・新聞シンポジウム特集 2002-10-20 )
 「ほう。朝日も反省をすることはあるのか。猿よりは利口になったかな」と思って、期待して読んだら、……中田の誤報の件についての話がある。
( ※ 私も前に言及した。 → 6月09日
 この記事によると、
「6月に(誤報の)記事を出したら、読者から抗議が殺到した」そうだ。「これが誤報だったと、事実(ジーコ・チームに中田招集)により判明したので、先日、サッカーのページにスポーツ部長がお詫びを載せました」
 とのこと。
( ※ お詫び記事が出たとは、私は知らなかった。いつの記事か? そう思って、調べようかと思ったら、今回の記事には、お詫び記事の日付が記していない。隠そうとするのかね。)

 なお、このお詫び記事に対しては、読者から、「これではお詫びになっていない」という批判があったとのこと。
 また、今回の紙面では、識者が批判している。「謝罪が出たときには、朝日にしては珍しいなと思ったが、出すのならもっと早くせよ。ジーコジャパンの代表メンバー発表のときに、スポーツ面でこっそりとやっているという感じだ」と。
( ※ この人の発言のおかげで、お詫び記事の時期がだいたい推定できるが。)

 なお、朝日の編集局長は、こう弁解している。「サッカーを担当している記者は、あの記事は正しかったと確信しています」と。(だからお詫びの必要はない、と言いたいらしい。あるいは、仕方なかった、と思っているのかね。)

 さて。今回の記事に対する批判。
 呆れた。この編集局長を、朝日はただちに解任するべきだ。こんな人物が編集局長をやっているから、朝日は最低なのだ。
 思い出そう。先日、(時事か共同かの)通信社で、大誤報がなされた。「北朝鮮に拉致された人物がすぐに帰国する」という話。(よく覚えていない。もしかしたら、のちに「殺された」と判明した人物が、そこに含まれていたかもしれない。)
 で、これは、担当記者が「この情報は正しいと確信している」という話だった。しかし問題は、その取材源以外の他の取材源との、多重チェックを怠ったということだ。そのせいで、間違った情報であることが確認されず、そのまま報道された。結果は、大誤報。
 マスコミ報道には、鉄則がある。これまでの情報経緯に反するようなスクープ記事があったら、それには多重チェックが必要だ、ということだ。どこかの取材源が情報を出しても、他の情報との比較チェックが必要だ。たとえば、「大統領の陰謀」という映画・本で有名なニクソンのウォーターゲート事件でも、若手記者二人は、得た情報を単に報道するだけではなく、必ず複数の情報源で情報が一致することを確認してから、報道した。つまり、単一の情報だけでは、報道しない。これが報道の鉄則だ。
 朝日の編集長は、この報道の鉄則を理解していない。とすれば、朝日の記事は、すべて眉唾物だということになる。最低だ。この新聞は、もはや情報媒体としての体をなしておらず、ただの言いっぱなしの掲示板と同じだ。なぜなら、情報には、何の裏付けもないのだから。そのことを編集局長が公言しているのだから。
 先の通信社では、記者はクビにはならかったが、編集長はクビになった。当たり前だ。報道の鉄則に反したからだ。だから、こういうダメな人物は、朝日に就職すればよかったのだ。朝日以外では、どこでもクビになる。

 さらに、朝日の最悪の点は、別にある。情報源云々以前だ。朝日が報道したら、その当日に、中田が「そんなことはない」とインターネット上で発言し、そのことをあらゆるマスコミが報道した。(インターネットのニュース検索では、そういう情報がいっぱい引っかかった。) なのに、である。各紙は「朝日の誤報を中田が全面否定した」と大々的に報道したのだが、しかるに、肝心の朝日だけが、この件を報道しなかったのだ。誤報をしたのは朝日なのだから、当の朝日が一番報道する必要があったのにもかかわらず、朝日だけが知らんぷりで、知らぬ顔の半兵衛だ。── つまりは、「情報隠蔽」だ。

 このシンポジウムの記事では、他の雑誌やテレビなどでは、態度が対比的だ。間違いはちゃんと訂正するし、なぜ間違えたかの追跡記事さえも仕立てる。一方、朝日だけは、隠蔽体質だ。……で、「これが朝日というものだ」と言おうとしたが、ちょっと言うのが早い。
 朝日は社会面では、「個人情報のゆくえ」という特集で、政府や民間会社が情報に関して問題を引き起こしていることを報道している。冗談じゃない。大誤報をして、しかもそれを隠蔽する、という、北朝鮮並みの報道管制をしているのは、朝日ではないか。そういう自分自身については何も反省せず、他人ばかりを批判する。「反省しろ」と言われても、「担当者は今でも正しかったと確信しています(だから誤報は悪くはないんだよ)」と弁解する。つまり、猿のように反省することができない。「これが朝日というものだ」と言いたい。
cf.  10月19日d  「朝日批判についての弁明」)

 [ 付記 ]
 「サッカーを担当している記者は、あの記事は正しかったと確信しています」という編集局長の弁明について、解説しておく。根本的に狂っているからだ。
 「あの記事は正しかった」というのは、「情報は正しかった」ということであり、「中田が『代表出場はこれが最後だ』と関係者に言った」ということだろう。
 このこと自体は、実は、問題ではない。「中田がそう言ったか?」と私が訊かれたら、「実際に言っただろう」と答える。当たり前だからだ。なぜか? プロなら誰でも、肝心なときには、自分を徹底的に追いつめる。「これが最後だ」と思って、火事場の馬鹿力を発揮しようとする。とすれば、W杯の直前に、中田が「これが最後だ」「もうあとがない」と思ったとしても、それは当たり前のことだ。プロならば誰でも、そのくらいの気概が必要だ。以前、貴乃花がすごい形相をして優勝したことがあるが、そういうふうに、本気を発揮するときには、ものすごい精神力が必要である。中田だって、そのくらいの覚悟はしていただろう。だから、親しい身内に対しては、「これが最後だ」と漏らしただろう。
 だから、記者がそういう情報を得たとしても、その情報自体は、問題ではない。問題なのは、その情報を紙面に掲載したことだ。中田の言ったのは、本気ではなくて、単なる「覚悟」である。自分自身にそう言い聞かせていたのであって、他人に言い聞かせていたのではない。「そのつもりで」ということであって、「実際にそうする」ということではない。
 しかるに、そういう「自分に言い聞かせる」という内輪の話を、真に受けて、世間一般に報道してしまった。そこに新聞社としての、取り返しのつかないミスがある。
 たとえれば、こうだ。どこかの夫婦が、内輪で夫婦喧嘩した。夫が「おまえなんか死んでしまえ!」と叫んだ。その後、仲直りして、夫婦が愛しあっているときに、妻が「死んじゃう、死んじゃう」と叫んだ。こういう内輪の事情を朝日が取材して、「夫の殺人未遂! 妻が『自分は殺されそうになった』と衝撃の告白!」と記事に仕立てる。……まったく、馬鹿げた話だ。内輪の下らない与太を、真に受けて、文字通りに解釈して、報道する、というやつだ。
 要するに、本質を突かずに、上面の表面的なことばかり見ているから、こういうふうに、言葉にだまされるわけだ。朝日の愚かさは、こういうところによく現れる。
 たとえば、面白い話がある。マイクロソフトの、ビル・ゲイツが「大統領選に立候補しようと考えている」と内輪で語ったのだそうだ。それを聞いた関係者が、「本当かな、だったら大変だ」と心配していた。朝日が聞きつけたら、さっそく「スクープ! ビルゲイツが大統領選に立候補を考慮中!」と大々的に報道するだろう。……しかし、これはもちろん、酒の上の与太である。ゲイツはたぶん、本当にそう言ったはずだ。そして、そう言ったということ自体が、与太であることを証明する。なぜなら、本気なら、そんなことを軽々しく口に出すはずがないからだ。
 結局、朝日というのは、チェック機能が欠如しているだけでなく、そもそも人間認識ができていないのである。だから、与太を真に受けたりして、誤報を繰り返す。中田の話にしてもそうだ。私は、これを読んだとき、W杯の直前というまさにその時期からして、「本気ではない。自己鼓舞だ」と見抜いた。朝日はそれを見抜けなかった。だから当日中に本人に記事を否定される、という恥をさらした。

 与太の好きな朝日。思えば、朝日は長いこと、一つの与太をずっと信じてきた。それは小泉の「構造改革」という与太だ。そして今なお、経済学において、多くの与太を信じている。……どうやら、死ななきゃ、直らないようだ。


● ニュースと感想  (10月21日d)

 予告。
 時事的な話は、この日の分で、おしまい。
 明日からはまたマクロ経済学の話。
 基礎的な話を二回続けてから、以前の話の続きへ。








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「小泉の波立ち」
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