[付録] ニュースと感想 (31)

[ 2002.10.22 〜 2002.11.05 ]   

  《 ※ これ以前の分は、

    2001 年
       8月20日 〜 9月21日
       9月22日 〜 10月11日
      10月12日 〜 11月03日
      11月04日 〜 11月27日
      11月28日 〜 12月10日
      12月11日 〜 12月27日
      12月28日 〜 1月08日
    2002 年
       1月09日 〜 1月22日
       1月23日 〜 2月03日
       2月04日 〜 2月21日
       2月22日 〜 3月05日
       3月06日 〜 3月16日
       3月17日 〜 3月31日
       4月01日 〜 4月16日
       4月17日 〜 4月28日
       4月29日 〜 5月10日
       5月11日 〜 5月21日
       5月22日 〜 6月04日
       6月05日 〜 6月19日
       6月20日 〜 6月30日
       7月01日 〜 7月10日
       7月11日 〜 7月19日
       7月20日 〜 8月01日
       8月02日 〜 8月12日
       8月13日 〜 8月23日
       8月24日 〜 9月02日
       9月03日 〜 9月20日
       9月21日 〜 10月04日
       10月05日 〜 10月13日
       10月14日 〜 10月21日
         10月22日 〜 11月05日

   のページで 》




● ニュースと感想  (10月22日)

 時事的な話題に関して、先日に記述した分に、次の2点を補足しておく。

 (1) 経済の成長には、生産性の向上は必要ない。生産性の向上がないまま、「労働時間の増加」があれば、経済は成長する。そして、そのことが本道であり、「生産性の向上」は邪道だ。
   (詳しくは → 10月14日 の 【 追記 】 )

 (2) 研究開発減税は、減税でなく、補助金に相当する。これは「特殊法人廃止」「補助金廃止」という「構造改革」に逆行する。
   (詳しくは → 10月11日 の 【 追記 】 )

 [ 付記 ]
 この二つは、次のことを示す。
 (1) 「生産性の向上を」「古い産業から新しい産業へ」「そうして構造改革で景気回復」とういう主張があるが、まったくの間違いである。そんなことは景気回復のためには、まったく必要ない。ただのひとかけらも必要がない。
 (2) 「研究開発減税を」という主張が出ているが、そんなことは、やればやるほど、国家的に効率が低下する。つまり、「構造改革」とは逆の、「構造改悪」である。(1)では、「構造改革」を否定したが、だからといって、逆の「構造改悪」をしようというのも、間違いだ。

 結局、正しいと思うことをやればやるほど、かえって状況が悪くなる。その理由は? 「経済学音痴」の一語だ。阿呆が日本経済をいじると、もてあそんだすえに、ぶちこわす。「狂人に刃物」というわけだ。
( ※ 一番の責任者は、小泉ではない。阿呆はちっとも悪くない。阿呆は自分が阿呆だと理解できないのだから。阿呆に阿呆と告げないマスコミが、最大の責任者だ。今日もまた、新聞には、デタラメ記事ばかりが出る。かくて世間を誤った方向にミスリードする。ハーメルンの笛吹。……昔も、マスコミは、日本軍の暴走を擁護して、日本を破滅させた。歴史は繰り返す。)


● ニュースと感想  (10月22日b)

 「迂回生産」について。
 「当面は消費を減らして、投資を増やすと、生産能力が高まるので、結局は成長率が伸びる」という原理がある。(こうすることを「迂回生産」とも称する。)
 これは、正しい。だから、「消費を抑制して、投資に回した方がいい」とか、「消費よりも貯蓄を振興しよう」とかいうのは、正しい。実際、戦後の日本は、この路線を取って、高度成長を成し遂げた。
 ただし、それはあくまで、原則としてのことだ。例外となることもある。では、例外とは? 
 上の「迂回生産」の原理が成立するのは、「生産能力が遊休しない」ということを前提としている。生産能力があり、その生産能力で実際に生産をするのならば、たしかに、「迂回生産」の原理は成立する。
 しかし、「生産能力が遊休する」というときには、それは成立しない。単に「遊休設備」という無駄がどんどん増えるだけだ。

 以上の違いに注意しよう。世の中の多くの経済学者は、「投資を増やせ」と主張する。しかしそれは、「生産能力が遊休しない」ということを前提としているのだ。それは、普通の状況(均衡状態)では成立するが、不況という状況(不均衡状態)では成立しない。
 このことを理解できない人が、「消費不足」のときに「投資を増やせ」という見当違いのことを主張する。「稼働率の低下・設備の余剰」に困っているときに、「もっと設備を投資して、もっと設備の余剰を増やせ」と主張する。

 こういう経済学者たちは、とてもおもしろいことも主張している。「設備投資を促進せよ」というのと、「余剰設備を廃棄せよ」というのとを、同時に主張するのだ。「設備を作って、設備を廃棄せよ」というわけだ。まさしく「穴を掘って埋める」というのと同じだ。
 冗談のようだが、冗談ではない。本当だ。「古い設備を廃棄して、最新設備を買えばいい」と言っている。いかにももっとものようだが、償却の済んでいない設備を廃棄すれば、莫大な損失が発生する、ということに気づかない。
 彼らのデタラメさは、自分自身がそれを実行しない、ということでもわかる。もし彼らが正しいのならば、自分で実行すればいいのだ。つまり、家とか、自動車とか、パソコンとか、まだまだちゃんと使えるものを、すべて廃棄すればいい。そして新品を購入すればいい。金がなければ、借金すればいい。……実際に、そうすればいいのだ。有言実行。さっさと自分の家をたたきつぶしなさい。(私だったら、そんな馬鹿げたこと、する気はありませんがね。私は狂気じゃないので。)
 ついでに言っておこう。「まだまだ使えるとしても、女房だけは古いのを廃棄したい。新しいのを購入したい」と思う人もいるかもしれない。しかし、古い女房を廃棄するには、「離婚手当」という莫大な出費がかかるし、新しい女房を購入するにも、「結婚費用」という莫大な出費がかかる。世の中、甘くないのだ。


● ニュースと感想  (10月23日)

 「貨幣の意味」および「流動性選好説」について。
 先に、「流動性の罠」の解説のところ(10月17日の「追記」)で、こう述べた。
「貨幣とは、貯蓄して利子を得るためのものである。物を買うためのものではなくて。 」
 ただ、これは、不自然に聞こえるかもしれない。そこで、解説しておく。
( ※ 以下で述べることは、ちょっと専門的になる。「読んですぐわかる」ほど簡単ではなくて、頭を使って勉強する必要がある。頭を使いたくない人は、読まないでよい。)

 貨幣には、もちろん、次の二つ意味がある。
   ・ 物を買うための手段。
   ・ 貯蓄して利子を得る手段。
 このうち、前者に注目したのが「貨幣数量説」であり、後者に注目したのが「流動性選好説」である。

 では、どちらが正しいか? 
 一見したところ、「貨幣数量説」の方が正しいと思える。なるほど、たしかに、貨幣には「物を買うための手段」という面はある。ただ、それで物価水準が決まるというのは、長期的には正しいが、短期的には正しくないのだ。
 市場経済では、市場原理が原則だ。そして、一般商品市場にそれが当てはまる以上、貨幣についてもそれが当てはまるはずだ。そう考えたのがケインズだ。ケインズは貨幣の取引について、金融市場に着目した。金融市場では、貨幣が取り引きされる。とはいえ、貨幣を貨幣で買うわけにはいかないから、別のものが取引単位となる。それが「利子率」だ。
 貨幣の需要が高まれば、利子率が上がる。貨幣の需要が下がれば、利子率が下がる。……こういう現象が見られる。ここで、「貨幣の需要」というのは、正確には、「現在における貨幣の需要」である。だから、このことは、本質的には、「貨幣そのものの価値」を取り引きしているというよりは、「現在における貨幣と、将来における貨幣と」を取り引きしていると考えられる。いずれにせよ、現時点においては、利子率を通じて、貨幣が取り引きされる。人々は貨幣を買うことができる。その代金は、貨幣ではなくて、「将来の貨幣プラス利子」である。それが「債権」だ。(逆の立場で言えば、「債権」を買うことで、貨幣を売ることができる。)
 このことが、なぜ大切か? 金融市場における利子率が、市場原理で説明できる、ということだ。現在の貨幣需要が高まれば、利子率が上がる。現在の貨幣需要が下がれば、利子率が下がる。
 ケインズの「流動性選好説」は、以上のようにして、金融市場における利子率の決定のされ方を説明した。その意味で、「利子率は市場でいかに決まるか」という問題に、回答を与えたことになる。

 ただし、そこには、問題もある。ケインズの立場では、貨幣はあくまで、「貯蓄して増やすためのもの」だ。貨幣をもっている人は、「貯蓄するか/手元に保有するか」の二者択一である。しかし、現実には、そうではない。貨幣には「消費する」という面もある。そのことがケインズでは考慮されていない。そして、そのことは、貨幣数量説では説明可能だ。

 現在の経済学では、上の両方の立場を折衷している。二つの立場をともに取っている。しかし、この二つは、本来別々の原理に立つ。だから、場合によっては、矛盾する結論を出す。「両方とも取ればいい」という折衷主義では、矛盾して破綻してしまうのだ。
 その一例が、「クラウディングアウト」だ。貨幣数量説(古典派)の考え方では、クラウディングアウトは、必ず発生する。つまり、政府支出が増えれば、その分、民間支出が食われるだけで、生産の増加はゼロである。また、生産に影響を及ぼすのは貨幣総量だけから、利子率の変化が生産に及ぼす影響は皆無である。一方、ケインズ派の考え方では、クラウディングアウトは発生しない。利子率の変化が生産に及ぼす影響はある。(利子率が低いと生産が増える。)
 そして、現実経済を調べると、実際には両方の中間に正解があるらしい。

 では、私の立場は、どうか? 
 クラウディングアウトに関して言えば、この問題は、「均衡/不均衡」という考え方で、いくらか説明が付く。つまり、こうだ。
 さて。クラウディングアウトについては、上のようにして説明は済む。問題は、そのあとだ。
 そもそも、貨幣とは、何なのか? ケインズの考え方と、貨幣数量説の考え方を、すでに示した。しかし、本当は、どうなのか?
 私は、次のように考える。

 「貨幣とは何であるか?」という問いに対して、答えはない。貨幣というものは、「何であるか」を問うべきものではない。
 大切なのは、「貨幣とは何か」ではなく、「貨幣の増減とは何か」である。つまり、貨幣の静的な状態が問題なのではなく、貨幣の動的な変化が問題なのだ。
 貨幣が現状において、どんな意味をもっているか、そんなことを考える必要はない。考えるべきは、「貨幣を増減させたらどうなるか」である。

 貨幣数量説ならば、単に、増減する前と後とを比較するだけだろう。そして、たとえば、「貨幣が1割増えたから、貨幣の価値は1割減った」と結論するだろう。しかし、私の考えは、こうだ。
「貨幣が1割増えても、貨幣の価値が1割減ることはない。なるほど、貨幣がすべて使われたあとなら、貨幣の価値が1割減る。しかし、貨幣がまだ使われていないうちは、貨幣の価値は減っていない。つまり、富の総量が1割増えたと錯覚される。そのことで、需要を増やす効果がある。」
 これはつまり、「貨幣数量説は、長期的には正しいが、短期的には正しくない」ということだ。(たとえば、1割の貨幣増加は、長期的には、物価を1割上昇させるだけで、生産を変化させない。しかし短期的には、所得が増えたという錯覚で、需要増加と生産増加をもたらす。特に不均衡状態では、物価上昇はまったく発生せず、単に稼働率上昇による生産増加があるだけだ。物価の上昇は、不均衡[不況]を脱してから発生する。)

 利子率についてはどうか? これについても同様だ。7月25日以降で説明したように、「IS-LM」というのは、(グラフ上で)局所的な変化のみが意味をもつ。「利子を上げる・利子を下げる」という(動的な)変化は、局所的には意味をもつ。しかし、大局的には、「これこれの利子では、これこれの生産量」というような(静的な)関数関係は成立しない。あくまで、その場その場で、「利子を上げる・利子を下げる」ということの局所的な効果が発生するだけだ。
 これはつまり、「流動性選好説は、短期的には正しいが、長期的には正しくない」ということだ。

 というわけで、私の説は、先の二つの説を含んでいる。つまり、「足して2で割る」というような折衷主義とは別の形で、先の二つの説の切替が(長期と短期で)自然になされる。そしてまた、その二つの説の限界(適用領域)も、明らかにするわけだ。

( ※ 本項で述べたことは、以上だけでは理解し尽くせない。「貨幣数量説」および「IS-LM」について説明した該当箇所を参考のこと。 → 2月22日 [貨幣数量説],7月25日 [IS-LM]。また、その他、あちこちにも関連項目がある。)

 [ 付記 ]
 本項で述べたことは、かなり重要なことを結論する。それは、「貨幣数量説」ないし「マネタリズム的な手法」は、長期的には有効であっても、短期的にはあまり有効ではない、ということだ。
 「貨幣数量の伸び率を一定にせよ」という「パーセントルール」がある。これは、長期的には正しいが、目下の景気対策としては、あまり有効ではない。景気の変動は、「需要不足・需要超過」によって発生する。一方、均衡状態では、生産量の変動(および貨幣量の変動)があっても、単に労働時間が変化するだけだから、特に問題はない。「いっぱい働いて・いっぱい稼いで・いっぱい消費する」か、その逆にするかは、ライフスタイルの問題であり、別に問題はない。(均衡状態さえ保たれていれば。)……なのに、「パーセントルール」は、これを否定する。つまり、景気変動を需給関係からとらえず、貨幣総量だけでとらえる。だから、生産の変化に対して、無理に貨幣総量を維持することにより、貨幣不足や貨幣過剰をもたらして、物価を強引に変動させる、という逆効果が出る。(こういうときには、むしろ、利子率を一定にして、貨幣総量を変化させるケインズ的な政策の方が正しい。)
 特に、不況のときが問題だ。「貨幣数量説」ないし「マネタリズム的な手法」は、不況のときに、「量的緩和で景気回復」と唱える。しかし、不況のときは、そもそも金融政策が無効になっているのだから、そんなことをしても無意味である。彼らは自らの限界に気づかないのだ。「均衡状態では、量的緩和は、利子の低下をもたらして、投資を拡大する。しかし、不均衡状態[ゼロ金利]では、量的緩和は、利子の低下をもたらさないから、投資を拡大させない」ということに。

 [ 補記 ]
 マネタリズムのどこが間違っているか、その核心を示そう。
 「貨幣供給量を増やす」ということ自体は、間違いではない。問題は、それが金融市場に滞留することだ。マネタリストは、「貨幣供給量が増えれば、預金や現金が増えるから、人々は消費や投資や資産投資を増やす」と述べる。── 「預金や現金が増える」? まさか。大いなる幻想だ。これまで日銀は数十兆円もの量的緩和をしたが、国民の預金や現金はそのことで、ただの1円も増えていない。(不況で減るばかりだ。眠る金であるタンス預金や滞留資金だけは増えているが。)
 要するに、日銀が貨幣供給量を増やしても、それが国民の手元に渡る経路が断たれている、ということが肝心なのだ。増えた貨幣供給量は、金融市場に滞留するばかりで、ちっとも国民の手元に渡らない。だから物価上昇は発生しない。何にもならない。そこで、「貨幣供給量を増やすだけでなく、その金をまさしく国民の手元に渡せ」と唱えるのが、「タンク法」だ。── 両者の違いは、「金を国民の手元に渡すか否か」つまり「金を滞留させないか否か」である。
 なのに、「金を国民の手元に渡せ」ということを理解できないのが、マネタリズムだ。要するに、彼らは、「経済とは帳簿の数字だけだ」と思い込んでいるのである。「帳簿の数字を動かせば、それで景気はよくなる」と。一方、「帳簿の数字ではなく、実際に生産を増やせ」という「現実主義」を、タンク法は唱えているわけだ。

 [ 余談 ]
 悪口とイヤミ。
 上記のような「マネタリズム」は、机上の空論であり、「マネー教条主義」と言える。岩田規久男が代表者だ。
 これが「教条主義」たるゆえんは、何の理論的根拠もなしに、単に「量的緩和をすれば投資が増える。株式や土地を買う」とテープレコーダーのように繰り返していることだ。
 実際には、これまでずいぶん量的緩和をしたのに、効果は「プラスが足りない」のではなくて、「マイナス」だ。こういうときに、「数十兆円でも効果がないから、無制限にやれ」というのは、狂気というしかない。「数十兆円でも効果がない」というのは、「もともと原理的に効果がない」ということを意味するのだ。「規模が不足だ」ということを意味するのではなく、「自説が間違っている」ということを意味するのだ。馬鹿げた妄想を信じるよりは、少しは自己反省というものをしてもらいたいものだ。「数十兆円でも効果がない」というときに、「無制限にやれ」なんていうことをしたら、「数百兆円のマネーを市場に放出して滞留させる」ということになる。とんでもないことだ。その危険性が理解できないのだろうか? 
 真実を見るべきだ。量的緩和など、まったく無効だ。つまり、誰も投資を増やさないし、株や土地を買わない。だいたい、自分自身がそうでしょうが。自分ではそうしないのに、他人に勧めるのだから、煽動者と呼ぶべきかもしれない。
( ※ さて。なぜ岩田が実際にそうしないとわかるか? それは、仮にそうしていたら、とっくに破産していたはずだからだ。儲かりもしない投資をしたり、下がるばかりの株や土地を買っていたら、岩田はとっくに破産していたはずだ。自分は自説を実行しない、というところは、なかなか賢明だ。本当は、自説を信じて、痛い目に遭うべきだったのだが。)
( ※ 彼の主張は、論理的に破綻しているわけだ。「量的緩和が不足だ」という説だが、それが成立するには、「物価上昇が不足だ」という状況が必要だ。実際には、「物価上昇が不足」ではなくて、「物価下落」が起こっている。事実を見失っているわけだ。効果は、プラスでなく、マイナスである。……なお、ついでだが、「物価上昇が不足だ」という状況でなら、物価上昇率はプラスだし、利子率もプラスであるはずだから、そういうときは、量的緩和は有効である。つまり、均衡状態なら、金融政策は有効だから、量的緩和も有効である。)
( ※ 岩田の主張は → 読売・朝刊・1面 2002-10-22 ) 


● ニュースと感想  (10月24日)

 前日分との関連。「法人税減税」について。
 前日分では、タンク法とマネタリズムの関連を述べた。つまり、「国民に直接金を渡すのがタンク法で、滞留させるのがマネタリズムだ」と。これに関して、補足しておく。
 「法人税減税」というのは、すでに述べたとおり、「供給力改善」であるから、デフレのときには効果がない。ただ、良い効果がないだけでなく、悪い効果がある。
 「法人税減税」を唱えている人々は、「金は空から降ってくる」と思っているのである。だから、空から降ってきた金を法人に渡せば、景気が良くなると思っている。
 実際にはそうではない。金は空から降ってこない。法人に渡した金は、誰かが支払う。では、誰が? 
 通常は、減税の財源は、国債に頼る。すると、財政赤字が拡大する。財政赤字の拡大は、当面は誰も負担しないように見えるが、しょせんは国民が負担する。となると、中期的・長期的には、国民の金が企業に渡ることになる。これは「供給拡大」であるだけでなく、「需要縮小」の意味もある。── そうだ。財政赤字の拡大を通じて、(国民の)「需要縮小」という悪影響が出るのだ。それが「法人税減税」の悪影響だ。

 タンク法では、まったく異なる。金を負担するのは国民だが、金を受け取るのも国民だ。だから、国民の負担は増えない(得もしない)。誰も損ををせず、誰も得しない。(国民が損をして、企業が得をする、という「法人税減税」とは異なる。) また、財政赤字の拡大も発生しない。(政府には赤字が溜まるが、同額の黒字が日銀に溜まる。国民負担は、差し引きゼロ。)
 だから、同じような「減税」という形でも、「法人税減税」と「タンク法」とでは、まったく異なるのだ。そして、その違いは、「金は空から降ってくる」という説を、信じるか否かによる。狂気の信念は、狂気の政策をもたらす。

( ※ タンク法の原理については → 4月29日2月22日
( ※ 国債と国民負担については → 4月03日 の 「行列モデル」 )


● ニュースと感想  (10月24日b)

 前項の続き。「相続税減税」について。
 「相続税減税」が話題になっているが、これもまた、前項の「法人税減税」と同じである。「金は空から降ってくる」と思い込んで、一部の国民に金をばらまこうとする。しかし、本当は、「一般国民の金を奪って、特別な資産家にプレゼントする」というのと、同じことだ。経済学的には、「景気回復」よりも「景気悪化」の効果がある。
 たしかに「日本の相続税は諸外国より重い」という状況はある。しかしそれは、「日本の所得税は諸外国より軽い」という状況と一体化している。論者の理屈で言うなら、相続税を減税する分、一般国民に重税を課するべきだろう。(景気は悪化するが。)
 悪口ばかりでは困るから、まともな対案を示そう。それは「相続税減税」と交換の、「資産保有税」(富裕税)の創設だ。株式や土地などの資産を多大に保有している大資産家には、年 0.5% 程度の「資産保有税」を課するといい。この程度なら、利子の変動よりもずっと小さいから、さして問題はない。ただし、30年間複利で 20% ぐらいの課税にはなる。だから、その分、相続税の最高税率を 20% ぐらい下げることができる。
 これには、別のメリットもある。大資産家は、課税を免れたがるから、資産を保有しないで、なるべく使ってしまおうとする。というわけで、その分、消費が増える。つまり、景気回復効果が出る。


● ニュースと感想  (10月24日c)

 時事的な話。「銀行国有化」について。
 「銀行国有化」の方針が示された。「不良債権処理をして自己資本比率が低下した銀行は、経営がダメなのだから、準・国有化する。経営陣は総退陣」と。ただし、竹中金融相のこの案は、自民党に了承されず、ボコボコにされて、あっさり、ボツ。しかし竹中も再反撃。見通し不明。(各紙 2002-10-22 〜24。また、10月20日c も参照。)
 さて。これまで、私はこういう「国有化」というのを批判してきたが、「経営陣には責任を取らせる(総退陣させる)」というのは、案外、いいかもしれない。
 なぜか? いったん銀行を国有化した後なら、不良債権が増えた責任は、国にある。となると、責任は国が取るからだ。(あんたのことですよ、竹中さんと小泉さん。)
 だから、銀行を国有化したあと、不良債権がどんどん増えたなら、当然、竹中と小泉は責任を取って、総退陣する。かくて、景気は回復する。めでたし、めでたし。


● ニュースと感想  (10月24日d)

 時事的な話。ノーベル賞狂想曲。
 田中耕一氏ばかりが、テレビに出ずっぱりだ。朝日の週刊誌 AERA では全面カラーの表紙にしている。まったく、テレビも雑誌も新聞も、ワイドショー並みの大騒ぎだ。マスコミが「真実の報道」ではなくて、ただのワイドショーに堕してしまったことを、如実に示す。
 仕方ない。私がかわりに、マスコミの報道しない真実を記しておこう。

 (1) 田中耕一
 これについては、特に言及するつもりはない。

 (2) 小柴昌俊
 この件は、物理学上で、非常に重要な価値がある。とはいえ、独創性は、あまりない。なぜなら、まったく同じ研究を、欧州でも米国でもやっていたからだ。ではなぜ、日本チームだけが成功したか? 測定精度が抜群によかったからだ。ではなぜ? 機器を製造した「浜松ホトニクス」という会社が、日本チームだけに、特大サイズの計測菅を納入したからだ。こいつの精度が抜群によかった。実は、この会社は、欧米の研究チームにも、同種の計測菅を納入していた。ただし、(時期が古いせいで)小サイズだったので、計測制度が悪かった。日本チームは、最新施設で、最新の機器を使った。……結局、それだけのことだったのだ。
 私だったら、ノーベル賞は、浜松ホトニクスにあげますけどね。(ちょっと変だが。でも、本質は、こちら。)
cf.  参考文献。「メタルカラーの時代」山根一真著・小学館刊。)
( ※ 読売・朝刊 2002-10-22 にも、浜松ホトニクスの記事はあるが、上記の話はない。)

 (3) 小田稔
 ノーベル賞受賞者の報道をするなら、当然、同時受賞したジャコーニ氏についても報道するべきだった。そして、その報道をすれば、「ジャコーニ氏よりももっと核心的かつ独創的な業績を上げたのは、小田稔だった」と判明したはずだ。そのことを報道するべきだった。なのに、まったく報道しない。
( ※ 氏は、理研の所長をやったほどの大人物。「ノーベル賞は当然」という見方が多かったが、残念ながら、少し前に急逝された。タッチの差で受賞を逃した。 → 10月10日b

 結語。
 結局、マスコミは今回、小田稔について大々的に報道するべきだったのだ。それこそが本質的なことなのだ。なのに、実際には、「田中耕一氏がサラリーマンだった」というワイドショー的な情報ばかりを報道する。研究の内容がどうであるかというよりも、氏のサラリーマン的な生活ばかりを報道する。あげくは、「田中さんはサラリーマン。僕もサラリーマン。だから、僕もノーベル賞をもらえそう」なんていう、メチャクチャな声を報道して、「田中氏の受賞は、一般の市民に、自分もノーベル賞をもらえるという夢を与えました」だって。冗談ですかね。
 何事も、本質をそらして、下らない世間話や与太ばかりを報道する。それが今のマスコミの体質だ。そういう体質だからこそ、経済についても、「不況解決」の真実については報道せず、逆のデタラメな主張ばかりを報道しているわけだ。(たとえば、「生産性向上」だの、「不良債権処理」だの、かえって不況悪化をもたらすような説ばかりを報道する。)
 かくて、景気は悪化していくばかり。今のマスコミには、無名の田中耕一氏を発掘したノーベル賞委員会のような気概は、まったくない。

 [ 余談 ]
 スーパーカミオカンデが稼働再開するが、計測菅の密度は半分。(1つ置きに配置。)1年たっても、それだけで、なかなか完全復旧しない。完全復旧は数年後らしい。「なぜ?」と疑問に思うだろう。私が答えておく。上記の本の、浜松ホトニクスの話によると、計測菅を作るのは、機械ではなく人間である。口でぷーと吹きながら、ガラス管をふくらませる。「機械でやればいいのに」という質問には、「需要がないから、コスト的に無理」とのこと。かくて最先端技術は、年季の入ったベテランによる、ローテクによって支えられる。これは皮肉ではない。職人技術というのは、大したものだ。
 うむ。私だったら、この職人にノーベル賞をあげたい。 (^^)


● ニュースと感想  (10月25日)

 時事的な話。「不良債権処理」という竹中の路線が進む見込みらしい。朝日も一生懸命、提灯持ちをしている。そこで、この説の矛盾を示しておこう。

 (1) 金利
 「不良債権処理をすれば、詰まっていた金が流れるようになり、金融が正常化して、経済は正常化する」という主張だ。
 もしその説が正しいとしたら、現状は「金が詰まっている」ということになる。つまり、「企業は金を貸してほしいのに、銀行は金を貸してくれない」というわけだ。しかし、それが本当なら、金融市場では、需要過剰で供給不足なのだから、金利は上昇しているはずだ。実際には、そうなっていない。矛盾。── ゆえに、背理法により、最初の仮定は正しくない。(これまでも何度か述べたとおり。)
 なお、「金が詰まっている」という説は、まったくおかしい。なぜなら、いくら多くの銀行が不健全でも、一つか二つの銀行が健全ならば、その銀行がどんどん貸し出しを増やすはずだからだ。あるいは、企業は社債を発行して、どんどん資金を得るはずだからだ。
 実際には、どうか? たいていの企業は、社債なんか発行しない。当たり前だ。設備が遊休しているときに、設備投資なんかして、遊休設備を増やすはずがない。つまり、資金需要そのものがないのだ。そのことを「ゼロ金利」という状況が示している。
( → 後述の [ 付記 ]を参照。)

 (2) 銀行経営
 「銀行の経営は不健全だから、銀行を国有化して、経営者を総退陣させる」と言う。
 では、「銀行の健全化」とは、何か? 「赤字を出すような危ない企業には、融資しないか、融資金利を上げること」だ。しかしこれこそ、「デフレ強化策」だ。不況の今、中小企業の多くは、経営危機に瀕している。だから銀行は、融資を引き上げたり、あるいは、融資金利を引き上げたりする。なるほど、そうすれば、銀行の経営は健全化するだろう。しかし、そのかわり、経営の苦しい一般企業は、どんどん不健全になり、続々と倒産する。
 つまり、銀行を健全化すれば、一般企業が不健全になる。(倒産続出だ。) 一方、一般企業を倒産させまいと保護すれば、銀行が不健全になる。(不良債権の拡大だ。)
 今、論者の多くが言う。「銀行は、貸し剥がしをやめよ。企業が赤字だからといって、金利をやたらと上げるな」と。(読売・朝刊・1面コラム 2002-10-24 など。)── しかし、それはまさしく、「銀行経営の不健全化」なのだ。
 結局、銀行と一般企業の、どちらを健全化しようとしても、どっちにしてもダメなのだ。国全体に大赤字が発生しているときに、その赤字を、銀行にツケ回ししても、一般企業にツケ回ししても、どちらもダメなのだ。
 そのことを「不良債権処理」論者は理解できない。「不良債権処理をして、銀行を健全化すれば、金の流れが良くなり、経済は好転する」と思い込む。右手と左手のうち、右手だけしか見ない。愚かとしか言いようがない。
 本質を突こう。国全体で大赤字が発生しているときは、銀行であれ、一般企業であれ、どちらが赤字を他人になすりつけて自分だけ健全化しても、根本的な解決にはならないのだ。根本としての国全体の大赤字を解消することが、肝心なのだ。それを理解できない愚かな人々が、「銀行の健全化」を唱えて、「一般企業の不健全化」をもたらす。かくて、一般企業はどんどん倒産していく。

 [ 付記 ]
 「日産自動車の経営が改善」という記事。(読売・朝刊・経済面 2002-10-24 )
 これを見ると、経営が急速に好転した企業としては、日産が代表となるだろう。これほど経営が好転したのだから、さぞかし銀行から融資を受けて、どんどん設備投資を拡大していいはずだ。「金利を下げれば、企業の投資(銀行から見れば融資)が増える」という説を述べるマネタリストも、「日産では急激に投資が拡大した」と思うだろう。
 残念でした。日産の有利子負債は、この十年間で、激減している。2兆8千億円超から、ゼロ程度(完済)へ。つまり、金を借りるどころか、借りた金をどんどん返済している。
 「景気回復のためには、企業が投資を増やせばいい」と述べている論者は、「日産はもっと投資を増やすはずだ」という論拠を示してもらいたいものだ。もちろん、そんな論拠は、ありえない。日産は、無駄な投資(つまり無駄遣い)をしなかったから、利益を得たのだ。売上げ増加のない状態で、「投資を増やせ」と企業に強要することは、「利益を食いつぶせ」「放漫経営せよ」ということだ。
 結局、「銀行は融資を増やせ」「企業は投資を増やせ」という主張は、総需要が縮小している状況では、企業に対して、「放漫経営をせよ」「赤字を出して倒産してしまえ」というのと同じだ。狂気。
( ※ 日産が経営を正常化できたのは、経済学者の主張とは正反対のことをやったからだ。つまり、無駄な投資をせずに、借金をどんどん返済したからだ。)
( ※ もし日産が、経済学者の主張したがっていたら? そのときは、莫大な投資をして、生産設備を拡大し、その設備を遊休させて、今ごろは倒産していただろう。そのツケは、不良債権処理という形で、国民負担となる。4兆円の借金だとしたら、国民一人あたり3万円。ダイエーの分を入れると、国民一人あたり5万円。4人家族の世帯で、20万円。あなた、払いますか? 愚かな経済学者というのは、史上最大の泥棒なのだ。)

  【 追記 】 (2002-10-28 )
 時事的な話。朝日新聞批判。「不良債権処理」に関して。
 朝日の社説(朝刊 2002-10-26 )を読んで、呆れたね。日本中で総スカンを食っている竹中を圧倒的に擁護している。ひどい提灯持ち。政府べったり。
 銀行は、「既存の法律を勝手に途中で変更するな」と言っているが、それをも批判している。つまり、国民が法律を守っていても、政府が勝手に法律を変更することで、国民を犯罪者に仕立ててしまえ、というわけだ。つまり、法治国家でなくてもいいというわけだ。ひどい話。(ついでだが、今の銀行経営者には、バブル期の不良債権の責任はない。当時の経営者はみんなやめてしまったからだ。)
 一番ひどいのは、「他人の意見をまったく聞かない」という点だ。朝日は、どんなに政府べったりであろうと、そういう意見を言うのはいい。日本は言論の自由が認められているのだから、何を言おうが勝手だ。しかし、「他人の意見を聞かない」というのは、どうしようもない。「不良債権処理」という意見だけを主張して、「それ以外のまともな景気回復策は存在しない」と断じている。呆れた。「存在しない」のではない。「朝日が知らない」だけだ。というより、「他人の意見を聞こうとしない」だけだ。
 人間は、一つの口と、二つの耳を持つ。その意味は、語るよりも聞け、ということだ。(西洋の諺。)

 参考として、読売の記事(朝刊・1面 2002-10-27 )がある。不良債権処理について、よくまとまっている。とてもよい出来映えだ。日本総合研究所の調査を報道している。不良債権の発生が、銀行の責任ではなく、政府の不景気放置にあることを実証する。
 すなわち、「バブル崩壊の影響の薄れた96年以降の6年間において、不良債権は、処理額は 57兆円、新規発生額が 68兆円。いくら処理しても、それを上回る発生」。また、「不良債権発生額と景気とは相関関係がある。経済成長率が低いと不良債権発生額が増える、という統計データがある。つまり、不良債権を減らすには、単なる処理よりも、経済成長が有効だ」。
 マスコミがちゃんと責務を果たして、よそにある情報を調べれば、こういうことがわかるので、まともな記事を書ける。しかし、朝日は違う。他人の意見をまったく理解しない。社の方針がそうだから、経済部としても、偏向した記事しか出せない。── 朝日は社内で、言論統制されているのだ。まともな意見や情報は封殺されているのだ。そして、デタラメな思想のもとで、世論を特定方向に誘導しようとする。ほとんど北朝鮮並みである。読者は、洗脳されないよう、注意しよう。
( ※ とにかく、「社の方針に反してでも、真実を報道しよう」という気概をもった記者は、朝日には一人もいないわけだ。まったく、情けない。「長いものに巻かれろ」ということなのだろうが、初心を忘れてしまったようだ。朝日新聞は、社名の「朝日」を「御用」に変えるべきだ。)

  【 追記2 】 (2002-10-30 )
 上記の読売記事(日本総合研究所の調査)について、解説しておく。
 この調査が示すのは、「何が得策か」ということだ。政策には、コストというものがある。「景気対策」をするにしても、どの政策がコストが少なくて済むか、ということに、上の調査は答えを出す。
 政策にはコストが付きものである。つまり、何らかの政策をすれば、あとで国民の金によってまかなわなくてはならない。なのに、「不良債権処理」論者は、コストのことを忘れて、「金をどんどんつぎ込め」と主張している。「金は空から降ってくる」と思っているのだろう。そこで、以下で、説明しておこう。
 上の調査でわかることは、こうだ。「不良債権処理」という政策では、「10兆円をつぎこめば、10兆円のコストをかけて、その結果、不良債権を 10兆円処理できるが、同時に、12兆円の不良債権を新たに発生させる」。── ここで、「不良債権を 10兆円処理できる」というのは、「不良債権を減らせる」という意味ではない。「不良債権処理」というのは、不良債権そのものを減らす魔法の方法ではない(そうだと勘違いしている人が多いが)。不良債権処理というのは、単に「民間から国(RCC)へ」という、帳簿上の処理である。(一見、不良債権が減ったように見えるとしても、しょせんは、銀行にとっては、10兆円の不良債権が 10兆円の赤字として確定しただけだ。また、不良債権はRCCに残るから、不良債権そのものが減るわけではない。)
 結局、10兆円の不良債権は帳簿の項目が変更されただけであり、さらに、新規に発生する不良債権の分が 12兆円あるから、最終的に、合計 22兆円の不良債権が残る。(民間の分だけは 10兆円減るが、国全体ではその分は減らないで、新規発生の分だけ増える。) つまり、「10兆円をかけても、単に 12兆円の新規の不良債権を発生させただけ」となっている。「損するために金を使っている」となっている。企業会計ふうに言えば、「投資効率はマイナス(−120% )」ということだ。
(投資効率は、 100% 以上なら黒字。100% ならば損得なし。0% ならば売上げゼロで丸損。マイナスならば、自己破壊行為だ。不良債権処理は、その自己破壊行為になる。「金をかけて自分の財産を壊している」というわけだ。)
(なお、投資効率が −120% というのは、過去の分。今後の分については、別の試算がある。既存の 15兆円を処理すると、年間 2.9兆円の新規発生。04年度までに、22兆円の処理をして、8兆円の残り。結局、今後の分についても、投資効率は マイナスになる。以上の試算は、朝日・朝刊・経済面・ベタ記事 2002-10-29 の、第一生命経済研究所による試算。読売・朝刊・1面・コラム 2002-10-29 では、日本総合研究所の試算がある。竹中案がすべて実施されたという仮定のもとで、もっとひどい数字になる。最大で 90兆円超の貸し剥がしが起こり、330万人の失業発生と、GDPの 6% 低下。[つまりデフレ規模の倍増。この 10年間の景気悪化が倍になるわけだ。日本破綻計画。])

 別の政策として、「公共事業」もある。これは、非効率の極みだが、それでも、「10兆円をつぎこめば、5兆円の社会資本を得る」ということぐらいにはなる。たとえば、東京湾横断道路は、壮大な赤字を出すが、100%の赤字というわけでもない。半分ぐらいは回収できる。投資効率は 50% ぐらいだろう。こちらの方が、赤字発生ははるかに少なくて済む。

 別の政策として、「減税」もある。これは、最も効率的だ。10兆円の減税をすれば、国の帳簿では 10兆円の赤字が発生するが、国民の帳簿では 10兆円の黒字が発生するから、差し引き、チャラである。無駄はどこにも発生しない。投資効率は 100% となる。(ただし、財務省は、「国の帳簿が赤字になった」と大騒ぎする。彼らは国全体を見ることができないのだ。右手が左手に金を渡したとき、「右手の金が減った」ということしか理解できないのだ。)

 結語。
 不良債権処理は投資効率がマイナスで、公共事業は投資効率が 50% 程度で、減税は投資効率が 100% だ。つまり、不良債権処理は、やればやるほど赤字が増える(やらない方がマシだ)が、公共事業や減税は、やればやっただけ、それなりの効果がある。
 こういうふうに政策のコストを考えるのが、経済学というものだ。なのに、「帳簿だけきれいになればそれでいい、どんなに損失が発生してもいい(投資効率がマイナスでもいい)」とか、「経済波及効果だけが大事だ(投資効率が 50% でいい)」とか、そういう意見もある。そういう意見は、非効率の極みをめざすもので、エセ経済学というしかない。
(経済学ではなく、会計屋。企業がどんどん赤字を発生しても、帳簿処理で粉飾すればいい、というわけ。エンロンと同じ。それが今の政府だ。朝日も同様。……本質を見失った帳簿主義。)

 [ 補足 ](2002-10-30 )
 「不良債権を減らすことが必要だ」という意見がある。(朝日・朝刊・社説 2002-10-29 など。)
 ひどい勘違いである。こういう社説の勘違いを、経済部は指摘しておくべきなのだが、朝日は社内で言論圧殺が行なわれているので、経済部ではまともな意見を出せないようだ。仕方ない。私が教えておこう。
 「不良債権を増やせ」なんて、誰も言っていない。問題は、「不良債権を減らす方法として、不良債権の処理をするべきか」だ。賛成論者は、「処理をするべきだ」と主張する。しかし、処理をすればするほど、不良債権は増えるのだ。(上述の通り。)
 ここが議論の分かれ目なのだ。「不良債権については、処理をすればするほど、かえって不良債権の額が増える。だから、処理ではなく、別の方法で不良債権を減らせ」というのが反対論者の意見だ。つまり、「国全体の赤字発生額そのものを減らすべきだ。それこそが本質だ」という主張だ。それが「デフレ解決優先」という意見だ。
 なのに、処理の賛成論者は、「不良債権処理を進めれば、不良債権の額は減る」と主張する。「不良債権の発生額をどんどん増やしても、民間から国へ赤字を移せば、民間の赤字は減る」という理屈だ。「民間はどんどん赤字を増やしてもいい。それをみんな国が尻ぬぐいしてあげる。だから大丈夫」という理屈だ。「民間だけを見ていればいい、国の赤字は見ないでいい」という理屈だ。「帳簿で数字を動かせば、赤字は一挙に消える」という理屈だ。狂気。
 ま、世の中に少数の狂人がいるのは、仕方ない。問題は、マスコミが、それをスパイラル的に拡大することだ。ほとんどインフルエンザ並みの猛威だ。彼らが狂気を世間に撒き散らす。かくて日本の全身に猛毒がめぐる。


● ニュースと感想  (10月25日b)

 次項から、修正ケインズモデルの話。(以前の続編。完結編。)


● ニュースと感想  (10月25日c)

 「インフレ」つまり「物価上昇」について、考えよう。
 「需要超過」について、先にいろいろ述べた。( → 10月05日b10月09日 ) ただ、その話だけでは、すっきりしない感じが残るだろう。次のような疑問が出るはずだ。
 「需要超過とは、インフレのことではないのか?」
 「需要が増えると物価が上昇する、という現象はたしかにあるぞ!」
 というふうに。たしかに、そういう疑問が出るのも、もっともである。そこで、本項以降では、インフレ(物価上昇)について説明していこう。(「需要超過」との関連も示す。)

 さて。詳しい話は、次項以降で述べることにして、ここでは特に、トリオモデルとの関連で考えよう。インフレというものは、トリオモデルで考える場合と、修正ケインズモデルで考える場合とでは、とらえ方が異なるのだ。

 (1) トリオモデルにおける「インフレ」
 トリオモデルにおいては、「物価上昇」つまり「価格上昇」をもたらすのは、二つある。「コスト・プッシュ・インフレ」および「デマンド・プル・インフレ」である。
 「コスト・プッシュ・インフレ」は、下限直線の上昇または供給曲線の上シフトを意味する。(価格上昇と数量の縮小をもたらす。)
 「デマンド・プル・インフレ」は需要曲線の上シフトを意味する。(価格上昇と数量の拡大をもたらす。)
 いわゆる「需要超過」という状態は、「デマンド・プル・インフレ」に相当するだろう。需要の拡大は、物価上昇をもたらす。このことは、マクロ的にも言える。急激に需要が増えれば、そのとき物価上昇が発生する。

 (2) 修正ケインズモデルにおける「インフレ」
 修正ケインズモデルにおいては、「物価上昇」つまり「価格上昇」をもたらすのは、何か? 
 実は、修正ケインズモデルにおいては、「価格の上昇」は、グラフでは表示されない。グラフには「価格」という軸がないからだ。だから、たとえ「物価上昇」や「価格上昇」が発生しても、それはグラフでは表示されない。
( ※ なお、トリオモデルならば、グラフには「価格」という軸がある。均衡点の移動にともなって、均衡点の縦軸[価格]位置が変化する。そうして物価上昇は均衡点の上方移動として、グラフで表示される。)
 では、修正ケインズモデルでは物価上昇がグラフに表示されないとしたら、物価上昇をどう理解すればいいか? 
 修正ケインズモデルにおける金額(所得や消費や投資の金額)は、「名目価格」ではなくて、「物価上昇」を補正した「実質価格」である、と考えるといいだろう。
 たとえば、生産設備が戦争で破壊されて、供給不足になったとしよう。あらゆる生産が縮小し、所得も減り、失業者も急上昇する。しかし、貨幣の量は減らないから、物価上昇が発生する。このとき、生産や所得は、名目値では上昇するが、実質値では減少する。……こういう状態を、修正ケインズモデルで考察するには、名目値を見て「生産が拡大した」と考えるべきではなく、実質値を見て「生産が縮小した」と考えるべきなのである。
 ともあれ、修正ケインズモデルにおいては、「価格の上昇」は、グラフでは表示されない。しかしながら、「需要超過」という状態は、グラフで示せる。それは、桃色領域だ。── 「 D > Y 」つまり「 C+I > Y 」となる領域が、修正ケインズモデルにおける「需要超過」である。(このことについては、すでに記したとおり。)

 では、「インフレ」という状態は、「需要超過」とは、どう違うのだろうか? 
 この問題を、明日以降、考えていくこととしよう。(本日は問題提起のみ。)

     修正ケインズモデルの領域の図


● ニュースと感想  (10月26日)

 「インフレ」について。
 「インフレ」(物価上昇)とは、何か? それは「需要超過」とは、どう違うのか? この問題について、答えを与えよう。

 ケインズの考え方では、こうだ。
    「デフレ」 = 「需要不足」
    「インフレ」=「需要超過」
 こういうふうに、「デフレ」と「インフレ」を反対のものと理解する。(需要不足のデフレギャップがあるように、需要超過のインフレギャップがあると考える。)

 修正ケインズモデルの考え方では、こうだ。
    「デフレ」 = 「需要不足」
    「インフレ」≠「需要超過」
 つまり、「デフレ」を「需要不足」と理解するのはケインズと同じだが、「インフレ」を「需要超過」とは別のものとして理解する。つまり、「デフレ」と「インフレ」を反対のものと理解することはない。では、どう理解するか? こうだ。
    「デフレ」 ……「需要不足」という不均衡状態で発生する。
    「インフレ」……「需要超過」という不均衡状態で発生するのではない。

 では、インフレは、どういう状態で発生するか? まず、基本としては、次のように考える。
 インフレのとき、「需要増加」はあっても、「需要超過」はない。「需要増加」に対して、「生産増加」があるから、需要と生産は同じだけ増加する。(つまり、需要が生産を上回って増加することはない。)
 なぜか? 「市場原理」があるからだ。つまり、「価格調整による需要と生産の一致」である。仮に、少しでも需要超過が発生したら、ただちに価格上昇が起こって、需要と生産を調和させる。(需要を減らして、生産を増やす。)── そして、その「価格調整」が、「物価上昇」つまり「インフレ」だ。  つまり、「インフレ」とは、「需要増加」に対して、「需要超過」を発生させないための仕組みなのである。逆に言えば、もし「インフレ」がなければ、価格は安定するが、「需要超過」が発生する。(たとえば、北朝鮮やソ連。公定価格で価格は安定していたが、常に品不足で、店頭に商品がない。)
 というわけで、「インフレ」は「需要超過」という「不均衡状態」で発生するのではなく、「需給の一致(市場原理の成立)」という「均衡状態」で発生する。そうだ。「インフレは、均衡状態で発生する現象である── これが肝心な点だ。

 なお、「インフレ」と「需要超過」とが異なるということは、すでに述べてきたことからもわかる。つまり、「インフレ」が発生せずに「需要超過」が発生することがある。たとえば、生産レベルが非常に低い状態で、需要超過が発生することはある。数字で言うと、生産能力が 100 のときに、需要が 80 であっても、稼働率が 60% なら、生産は 60 だから、需要超過となる。具体的な例で言うと、同様の話は共産主義国では慢性的に起こった。生産能力があって、需要があっても、企業は利益を目的としないので、労働者の都合を優先する。夏休みや冬休みがあると、労働者が休暇を取って、生産を増やさない。かくて、需要超過が発生する。市場から商品が消える。このとき、公定価格があるので、物価上昇は発生しない。── 市場原理が働かなければ、そうなる。なお、共産主義でなくても、そうなることはある。たとえば、ベストセラー(村上春樹の最新刊)は、定価販売をやっているので、発売当初は、店頭から本が消えたことがある。(「当たり前だろ」と思うかもしれないが、当たり前ではない。書籍の定価販売をしない国では、品薄本には、書店が勝手に定価以上のプレミアム価格をつけるので、店頭から本が消えることはないはずだ。)

 さて。インフレは均衡状態の現象であるとわかった。では、均衡状態の現象であるとして、具体的には、どんな現象か? そのことを、詳しく説明しよう。
( ※ 個別商品なら、「需要増加で価格上昇が発生する」と言える。全商品を扱うマクロ経済では、「総需要増加で一般物価水準の上昇(インフレ)が発生する」と言える。)
( ※ なお、前項で述べたことも、参照にしてほしい。トリオモデルとの関連だ。ミクロ的な変化は、トリオモデルだけでも説明できるが、マクロ的な変化は、トリオモデルと修正ケインズモデルの双方による説明が必要だ。)

 インフレは、均衡状態の現象である。ただし、均衡状態であればインフレになる、というわけでもない。では、均衡状態のうち、どんな場合において、インフレは発生するのか? その答えは、こうだ。
  「均衡状態で、消費性向が上昇する場合」── これが、インフレの発生する状況(条件)だ。

 では、なぜ、均衡状態において消費性向が上昇すると、インフレ(物価上昇)が起こるのか? そのことを、修正ケインズモデルのグラフを使って、詳しく説明しよう。

     修正ケインズモデルの領域の図

 ここでは、消費性向が 0.8 と 0.9 の二つの直線が引かれている。そして、消費性向が 0.8 → 0.9 と上昇したとき、45度線との交点は、B から M へと移動する。
 ここで、B から M へと移行していく過程が問題だ。それは、どういうふうに移行するのか?
 ケインズならば、「最初は、点 B が二つの直線の交点だから、均衡点で、最も安定的だった。消費性向の上昇後は、点 M が二つの直線の交点だから、均衡点で、最も安定的だ。安定的な点に移動するのは、当たり前だ」と答えるだろう。しかし、修正ケインズモデルでは、そういうおおざっぱな考え方を取らない。もっと精密に考える。
 以前に示した次の図を参照してほしい。特に、水色の線を見てほしい。これは「景気回復の過程」を示すスパイラル的な過程だ。(最初は、点 A にいる。消費性向が 0.7 → 0.8 と上昇すると、水色の線をたどって、点 B まで移動していく。)

     景気回復と乗数効果の図

 これと同じようなこと(階段状の経路)が、B から M へと移動でも起こる。── つまり、交点 B において、消費性向が上昇すると、B のすぐ上に移動する。そこで、消費性向の直線とぶつかると、水平に移動して、 45度線にぶつかる。そこでまた、すぐ上に移動して、……というふうに繰り返す。
 さて、ここで考えてみよう。階段状の経路を取るとき、一時的に上方に移動して、そのとき、桃色領域に入ることになる。では、そのとき、「需要超過」(つまり「「インフレギャップ」)が発生するだろうか? つまり、生産量が不変のまま、消費だけが増えるだろうか? 
 そうなりそうだが、そうならない。なぜか? ここは、均衡区間だからだ。ここでは、均衡状態が保たれているからだ。つまり、需要が増加すると、生産が拡大して、需要の増加をまかなう。だから、「需要超過」にはならない。
 グラフで言えば、「 D > Y 」という桃色領域に移行すると、すぐに右へ移動して、また 45度線上に戻るので、「 D > Y 」ではなく、「 D = Y 」となる。

 たとえば、こうだ。生産が500兆円で、需要が550兆円だとする。
 このとき、ケインズならば、こう主張するだろう。「50兆円の需要超過は、価格調整(価格上昇)でまかなう。ゆえに、数量は(上限に制限されるので)変化しないまま、物価は1割上昇する」と。
 しかし、修正ケインズモデルの考え方ならば、こう主張する。「50兆円の需要超過は、 50兆円の生産拡大でまかなう。価格調整でなく、数量調整でまかなう。ゆえに、数量は1割上昇するが、物価はほとんど上がらない」と。
 結局、修正ケインズモデルによれば、こうだ。インフレのときは、価格調整ではなくて、数量調整がなされる。このとき、物価はあまり上昇しないで、生産量だけが拡大していく。
 そして、その生産量の拡大は、「点 B から点 M へ」という移動にともなって、 Yb から Ym へという水平座標における増加として示される。
 ただ、このとき、価格の上昇(価格調整)が、まったくなされないわけではない。いくらかは、なされる。価格調整と数量調整の割合は、「需給曲線」(トリオモデル)のグラフで示される。つまり、価格の上昇と生産の上昇は、同時に発生する。── ただし、通常は、供給曲線は、かなり横に寝ているものだ。つまり、価格の上昇が少し発生すると、かなり大幅に生産量が増大する。換言すれば、かなり大幅に生産量が上昇しても、価格の上昇はあまり発生しない。
( ※ なぜか? 理由は、こうだ。価格の上昇があれば、生産者は金儲けができる。金儲けのタネが見つかれば、多くの企業がわんさとそれに群がる。そして生産量が拡大する。逆に、金儲けのタネが放置される[つまり、一部の企業だけが莫大な利益を得て甘い汁を吸うが、他の企業は指をくわえてみているだけ]ということは、まずない。市場原理というものは、そういうものだ。そして、均衡状態では、市場原理が正常に働く。つまり、価格上昇よりは、数量上昇が発生する。)

 結局、まとめれば、次のように言える。
 インフレとは、「需要超過にともなって、その分、物価上昇が発生すること」ではない。インフレとは、「需要の増加によって、生産の増加が起こり、それにともなって、微弱な物価上昇が発生すること」である。
 この意味を誤解してはならない。たいていの人は、「インフレとは物価上昇のことだ」と思い込む。それは誤解だ。物価の上昇は、どちらかと言えば、二の次である。実際、「物価の上昇は微弱なまま、景気の拡大が発生する」ということは、しばしばある。バブル期の好況も、米国の好況も、物価の上昇は微弱だった。
 インフレにおいて大事なのは、物価上昇よりも、生産の拡大なのだ。このことを多くの人が誤解する。「インフレとは、物価上昇のことだ。それはけしからん。だから、インフレを招いてはならない」と。そういう主張のもとで、「生産の拡大」を否定する。しかし、インフレとは、物価上昇はオマケであって、生産の拡大の方が本体なのだ。価格調整よりも数量調整の方が肝心なのだ。
 ここを誤解している人々の最大のものが、日銀である。彼らは言う。「日銀は通貨の番人だ。物価を安定させることこそが日銀の義務である」と。違う。完全に間違っている。日銀の義務は、「物価の安定」ではなく、「生産の安定」である。── そして、ここを誤解するから、大失敗をした。つまり、バブル期には、「物価安定」という目標のもとで生産を過剰に増大させ(残業や人手不足や過労死の発生)、その反動として、バブルがつぶれたあとでは、「物価安定」という目標のもとで生産を過剰に縮小させた(倒産や失業の発生)。── いずれも、「物価の安定」だけを目的として、「生産の安定」を目的としなかった。
 繰り返して言う。インフレにおいて肝心なのは、物価の上昇ではなく、生産の拡大である。それこそが本質だ。物価上昇という表面的なものに目を曇らされてはならない。

 [ 注記 ]
 本項で述べたことは、補正を要する。このままでは話は完結していない。約1週間後に述べる補正の分まで、続けて読んでほしい。


● ニュースと感想  (10月27日)

 前項について、関連する話を付言しておく。
 前項では、インフレの本質として「生産量の増加」ということを示した。一方、それとは全然別の原理による「インフレ」というのもある。それは、「貨幣供給量の増大による物価上昇」だ。
 この物価上昇は、貨幣数量説で説明できる。つまり、貨幣の量を増やすので、貨幣の価値が下がり、物価が上昇するわけだ。
 ただし、こういうインフレは、別の話だ。前項で述べたインフレとは、全然別の事情によるインフレである。

 この違いに注意することが肝心だ。「インフレというものはどれも同じだ」ということはないのだ。需要増加によって発生するインフレと、貨幣供給量の増加によって発生するインフレは、別のものである。
 そして、この違いを理解できないのが、マネタリストだ。
 マネタリストは、「貨幣供給量を一定にすれば物価上昇を防げる」と主張する。しかし、そんなことはない。なるほど、「貨幣供給量を一定にすれば、貨幣供給量の増加にもとづく物価上昇を防げる」とは言える。しかし、「貨幣供給量を一定にすれば、需要の増加にもとづくインフレ(生産拡大と物価上昇)を防げる」とは言えないのだ。
 マネタリストは、ここのところを勘違いする。「貨幣の量だけをコントロールすれば、経済の現象をすべてコントロールできる」と。しかし、そんなことはないのだ。貨幣の量だけをコントロールしても、経済を安定させることはできない。そのときどきで変動する需要もまた、コントロールする必要がある。さもなくば、経済を安定させることはできない。そういう基本的な発想が必要だ。
( → 需要統御理論


● ニュースと感想  (10月27日b)

 前項までで、インフレの本質について示した。肝心なことは、すでに言い終えた。
 ついでに、「インフレ」と、「上限均衡点の突破」(ケインズの言う「インフレギャップの発生」)とを、比較してみよう。これらは、どう違うのか? 
 本質的なことを示そう。
 インフレでは、需要超過が発生したとき、数量調整がなされる。この数量調整が可能なのは、上限均衡点に達していないからである。── ここが、ケインズとの根本的な違いだ。ケインズでは、均衡点(上限均衡点)を上回った状況がインフレだ。しかし本当は、そうではないのだ。インフレというのは、均衡状態だから、そのときは、生産の拡大(数量調整)が可能なのだ。
 では、これは、単なる定義の違いだろうか? 「インフレ」という言葉を、ケインズと私とで、別の意味で使っているだけにすぎないのだろうか? そして、たとえば、ケインズのモデルで言う「インフレ」を「ハイパー・インフレ」と呼べば、それでケインズの考え方との違いを、片付けることができるだろうか? 
 違う。本質的な差がある。
 ケインズの考え方では、上限均衡点(完全雇用点)以下では、均衡を達成できず、不況となる。しかし、そんなことはないのだ。上限均衡点よりも下であっても、下限均衡点よりも上であれば、インフレは発生する。これが大きな違いだ。

 わかりやすく示そう。本質的には、次の違いがある。
   ケインズの考え方  …… 均衡は1点だけで成立
   修正ケインズモデル …… 均衡は一定の区間で成立
 こういう違いがある。そして、実際には、インフレとは、一定の区間のなかにおける変化のことである。それは、1点だけ(区間なし)を見るケインズの考え方では、とらえられない。だから、ケインズの考え方では、インフレという現象をとらえられないのだ。
 それが、「ケインズ政策はインフレに弱い」ということの理由だ。とらえきれないものは、説明のしようがないからだ。

 結語。
 インフレというのは、基本的には、価格だけが上昇する現象ではなくて、価格と数量がともに上昇する現象である。それは需給曲線において、均衡点の移動として示される。それはまた、「需要超過」とは別のことである。
( ※ 価格だけが上昇する現象は、貨幣数量説で説明できる。しかし、そういうのは、別の話だ。 → 前項を参照。)

 [ 付記 ]
 「需要超過」と「インフレ」とは、別のことである。これは、「(関連はあるが)相互に独立している」とも言える。
 「需要超過」があるとき、「インフレ」が起こるかどうかは、どちらとも言えない。これが大切だ。「インフレが必ず起こる」とも言えないし、「インフレが必ず起こらない」とも言えない。起こることもあれば、起こらないこともある。
 「需要超過」はともかくとして、「需要の増大」があれば、「インフレ」は起こりやすい。その意味で、「需要超過」と「インフレ」とは、いくらか関連はある。とはいえ、「インフレ」はあくまで均衡状態の話だから、「均衡か/不均衡か」という問題とは、別のことである。
 たとえて言おう。コップに水を入れる。水がどんどん溜まると、あふれる。ここで、「水が増えると、あふれやすくなる」とは言える。しかし、「水の量が多いか、どうか」は、「水があふれるか、どうか」とは、まったく別の問題だ。単純な人は、「水が増えたぞ、あふれそうだぞ」と大騒ぎするかもしれない。しかし、「水が増えたら、流入を自動的にストップする」という仕組みが用意してあれば、水が増えてもちっとも心配はいらない。── そういうことだ。「水が増えるか否か」ということと、「水があふれるか否か」ということは、まったく別の問題である。
 たとえとして、別の話もできる。広場の端に、断崖がある。それを見て、「広場の端に行くと、断崖から落ちてしまうぞ。広場の道の端には絶対に近づくな」と騒いで、1メートルまで近づくどころか、100メートルまで離れて身を引こうとする。別に、そんなに大騒ぎすることはないのだ。ある程度近づいたら、注意すれば、近づくのをやめることができるから、危険はない。限界にいくらか近づいたからといって、「危険だ、危険だ」と大騒ぎするべきではないのだ。大切なのは、限界に近づくか否かではなく、限界をはみださないようにする「予防措置」があるか否かだ。
( ※ たとえ話の方が、かえってわかりにくいかもしれない。具体的に言えば、こうだ。「需要の増大」ないし「消費の増大」が見られたとしても、生産可能な上限に達していなければ、「大変だ」と大騒ぎすることはない。「金利を上げる」とか「増税」とかいう形で、投資や消費を抑制することもできる。このとき、需要の増大と生産の増大にともなって、需給曲線上の均衡点が右上に移動していくから、ゆるやかな物価上昇は発生する。しかし、だからといって、「このままだと、生産可能な上限を突破してしまうぞ。ものすごいハイパーインフレが発生するぞ」などと、大騒ぎすることはないのだ。需要の増大は、いくらでも抑制できるのだから。)

 [ 補足 ]
 以下では、「上限均衡点の突破」については、特に考慮しなくてもいい、ということを示す。特に読まなくてもよい。
    *   *   *   *   *   *   *
 「上限均衡点の突破」という現象は、実際には、まずありえない。あるとすれば、次のいずれかだ。
   ・「人々がみな、収入以上に消費する借金人生を送る」
   ・「政府が、収入以上に支出する(紙幣を刷りまくって支出する)」
 前者は、レーガノミックス時代の米国や、バブル期の日本が、当てはまるように見える。たしかに、この意味(収入以上に支出すること)では、当てはまる。ただし、生産能力には、余裕があったから、「上限均衡点の突破」にはなっていない。人々はそう愚かではないから、収入以上に支出するということは、あまりやらないものだ。(資産インフレは別だが。)
 後者は、アルゼンチンなどの途上国や、昔の敗戦ドイツなどが、当てはまる。国民と違って、政府は愚かだから、収入以上に支出するということは、起こりやすい。あげく、生産が限度まで達したすえ、さらに紙幣を刷りまくって支出するから、過剰な物価上昇が起こるわけだ。……ま、こういう問題は、すでによく知られていることだから、いちいち説明はしない。
 要するに、「上限均衡点の突破」というのは、デタラメな経済運営をしていた昔ならば起こったが、現代では、貨幣供給量をやたらと増やしたりしないのが普通だから、あまり起こらない。
 なお、日本でも「石油ショック」という異常な物価高騰が発生したことがあった。この時期は、「石油」という資源の上限が急激に低下した。その意味では、「上限均衡点の突破」が起こった、とも言えるだろう。(もっとも、田中角栄内閣の「列島改造論」によるインフレ政策もあった。両者の相乗作用。)

 [ 補記 ]
 なお、インフレとは逆の状態が、「景気後退」(リセッション)である。これは、均衡状態における景気悪化のことだ。(詳しくは、次項。話はさらに続く。)


● ニュースと感想  (10月28日)

 前項までで、「インフレ」について説明した。そこでは「インフレ」と「デフレ」が反対のものではないことを示した。
 では、「インフレ」と反対のものは、何か? それは、「リセッション」(景気後退)だ。
 次のようにまとめることができる。
 

     \ 均衡状態  不均衡状態
 景気上昇  インフレ 需要超過
 景気下降  リセッション  需要不足(デフレ)

 インフレとリセッションは、どちらも均衡状態の現象である。
 一方、デフレは不均衡状態の現象である。これは、インフレとは反対の状態ではない。インフレと反対なのは、リセッションであって、デフレではない。
 なるほど、「物価上昇」「物価下落」という表面的な現象だけを見れば、インフレとデフレは反対のものと見える。しかし、両者には、「均衡」「不均衡」という決定的な違いがある。範疇が異なるのだ。(別の次元の話だ、と言える。)
 世間ではよく、「弱いインフレは好ましいが、弱くても強くてもデフレは好ましくない」と言われる。それは当然なのだ。「弱いインフレ」は、均衡状態の現象だから好ましいが、「弱いデフレ」は、たとえ弱くても不均衡状態だから好ましくない。勝者の違いは、「物価上昇/物価下落」という現象面の差に由来するのではなく、「均衡/不均衡」という範疇の差に由来する。

 では、「均衡/不均衡」という違いが、良し悪しの差をもたらすのは、なぜか? これは、次の理由による。
   (a) 均衡状態  …… 金融政策が有効。市場原理が成立する。
   (b) 不均衡状態 …… 金融政策が無効。市場原理が成立しない。
 インフレであれ、リセッションであれ、均衡状態ならば、(a) のようになる。つまり、正常な状態だ。一方、デフレは、(b) のようになる。つまり、異常な状態だ。(こういう違いがあるから、デフレは好ましくないのだ。)
 リセッションも、デフレ(不況)も、ともに景気の悪化をもたらす。ただし、そのときの状況が「均衡」であるか「不均衡」であるかという違いがある。ここが根本だ。

 「リセッション」と「デフレ」とについて、修正ケインズモデルで説明しておこう。「均衡/不均衡」というのを、修正ケインズモデルのグラフによって示すことができる。

     修正ケインズモデルの領域の図
( ※ 注記。上記では、簡単に「B から M へ」「M から B へ」と記述した。しかし、正確に言えば、「Bのそば から Mのそば へ」「Mのそば から Bのそば へ」となる。つまり、区間 BM の全幅を移行する必要はなく、区間の途中の一部分だけを移行するだけでよい。)

 [ 付記 ]
 冒頭の表では、右上の欄に、「需要超過」というのを示した。これは、「上限均衡点の突破」のことである。(「上限均衡点の突破」があれば「需要超過」が発生する。ただし「需要超過」があれば「上限均衡点の突破」が発生するわけではない。前項を参照。)

 [ 参考 ]
 用語解説をしておく。というのは、「リセッション」と言うこと用語には、ちょっと混乱が見られるからだ。
   「リセッション recession 」 = 「景気後退」 ≠ 「不況」
 というふうに私は用語を使っている。しかし、この用語の使い分けは、世間では厳密ではない。
   「景気後退」 ≠ 「不況」
 というのが、日本語では普通である。しかし英語では、「 recession 」という単語は、「景気後退」と「不況」の双方の意味で使われている。元祖はシュンペーターで、そこでは「 recession 」を「 depression 」と区別しているが、今日では、「不況」の意味でも、「 depression 」より「 recession 」の方がよく使われているようだ。
( → 英語の用例は 「英辞郎」のページで検索。)

 [ 余談 ]
 本項の話題とは関係ないが、時事的な話を、以前の項目に追記しておいた。
  → 10月25日【 追記 】


● ニュースと感想  (10月29日)

 「スパイラル」について示そう。
 ( ※ スパイラルは、景気の変動[ブレ]を拡大する、という現象。 → 不安定な構造

 すでに、「インフレ・スパイラル」というのを示した。
 それと反対のものとして、「リセッション・スパイラル」というものも、考えられる。
 その他、「デフレ・スパイラル」というのもある。
 では、これらは、どういう関係にあるか? 

 「インフレ・スパイラル」については、前々日に「水色の線」として示したとおりだ。そこで示した階段状の経路をたどって、経済がスパイラル的に拡大していく。
 「デフレ・スパイラル」については、すっと前に示したとおりだ。下に再掲する。ここで示した階段状の経路(青色の線)をたどって、経済がスパイラル的に縮小していく。

     修正ケインズモデルにおける景気悪化の図

 「リセッション・スパイラル」も、話は同様だ。同じような階段状の経路をたどって、経済がスパイラル的に縮小していく。
 では、「リセッション・スパイラル」は、「デフレ・スパイラル」と、どう違うか? それは、区間の違いだ。「デフレ・スパイラル」は、下限均衡点 B よりも左下におけるスパイラル的な過程である。「リセッション・スパイラル」は、下限均衡点 B よりも右上(区間 BM の中)におけるスパイラル的な過程である。そういう違いがある。

 では、その違いは、何を意味するか? もちろん、「均衡/不均衡」の違いである。そして、それは、「修正ケインズモデル」ではなくて、「トリオモデル」を使うと、よく理解できる。

 「リセッション・スパイラル」は、需給の均衡が成立した状態での、経済の縮小である。数量が減り、価格が低下するが、それでもとにかく、均衡は保たれている。それはとにかく「不景気」と呼ばれる状況だから、一般的には歓迎されない。しかし、必ずしも、悪い面ばかりではない。「劣悪な企業を市場から退出させる」というメリットもあるし、「景気過熱が行き過ぎた歪みを正す」(将来の急激な景気悪化を予防する)というメリットもある。また、「過重労働と大量消費の連鎖をやめよう。労働も生産も消費も少な目にしよう」というのだれば、ある意味では正しい方針だと言える。
 特に大事なのは、コントロール可能な状況である、ということだ。均衡状態であるから、金融政策しだいで(つまり金利引き下げで)状況を改善することができる。どうしようもなくひどい状況ではない。

 「デフレ・スパイラル」は、まったく異なる。そこではもはや、需給の均衡が成立しない。倒産や失業が発生すれば、病原菌が増殖するように、どんどんそれが連鎖的に増えていく。しかも、金融政策で景気を制御することもできない。── つまり、このスパイラルは、ストップが困難である。(金融政策だけではストップが不可能である。)
 実を言うと、「デフレ・スパイラル」は、もっと恐ろしいところがある。それは、「消費性向がさらに低下する」ということだ。「リセッション・スパイラル」ならば、消費性向が低下しても、それは一回限りのものであるから、さらに状況が悪化することはない。しかし、「デフレ・スパイラル」だと、いったん消費性向が低下したあと、倒産や失業が発生するのを見て、消費心理がさらに冷え込んで、消費性向がさらに低下する。そういう意味のスパイラル過程もある。これは状況を非常に困難にする。

( ※ 以上のことからも、「インフレとデフレの非対称性」がわかるだろう。インフレは制御可能だが、デフレは制御可能ではない。インフレと対称的(反対)なのは、リセッションであって、デフレではない。)

 [ 補記 ]
 なぜスパイラルが発生するか? これについては、根元的な理由がある。それは、「ミクロとマクロの違い」で示したとおりだ。「需要と供給の相互影響」というものが、ミクロにはないのだが、マクロにはある。マクロでは、需要と供給とは、「所得」によって循環的に結びつけられる。マクロでは、小さな需要の変動が、国全体の「所得」を通じて、どんどん拡大されていく。[それが上記の「修正ケインズモデル」のグラフだ。]
( → 8月14日 に、詳しい説明。)

( ※ なお、ケインズ理論との違いに注意のこと。ケインズ理論でも、スパイラルを説明できる。ただしそれは、「不均衡状態」つまり「需給ギャップのあるとき」のデフレ・スパイラルに限られる。一方、本項で説明したように、均衡状態でもスパイラルは発生する。……結局、修正ケインズモデルでは、均衡状態においてインフレ・スパイラルを説明できるが、ケインズのモデルでは、インフレ・スパイラルをまったく説明できない。[ ∵ ケインズのモデルでは、インフレが発生するのは、最大生産量に達したときである。だから、この先はもはや、実質所得の増加は発生しない。つまり、所得と生産の増加をともなうスパイラルは発生しない。単に貨幣数量説的な物価上昇が発生するだけだ。])

( ※ 余談だが、「市場原理」との関連もある。読売・朝刊・解説面・特集 2002-10-29 で、「市場原理」についての対談がある。「市場原理」至上主義を批判している。しかし、どうしてそうなのか、わかっていないようだ。── 答えを言おう。需給の「均衡/不均衡」という違いが、市場原理の「成立/不成立」の違いをもたらす。均衡のときには、市場原理が成立し、それで状況が最適化する。不均衡のときには、市場原理[たとえば不良債権処理で成長]が成立しないし、それで状況はかえってスパイラル的に悪化する。この件、詳しくは → 8月10日 )(読売の記事は、目の付けどころは良かった。しかし、「市場原理は万能ではない」という点に気づいただけで、正解まではたどりつかなかった。)

 [ 付記 ]
 インフレ・スパイラルのときの「物価上昇によるスパイラル効果」について。
 インフレ・スパイラルにおいては、生産量がスパイラル状に拡大する。ただし、インフレのときは、それとは別のスパイラル効果として、「物価上昇によるスパイラル効果(生産量の拡大)」もある。それは、需要に対する「アメとムチ」によるものだ。( → 「需要統御理論」簡単解説
 物価上昇には、需要に対する「アメとムチ」効果がある。つまり、物価上昇があると、「消費した人が得をして、消費しない人が損をする」ことになるので、物価上昇は、消費を促進する。だから、物価上昇があればあるほど、(消費増加で)さらに物価上昇をもたらすことになる。そしてそのことがまた、生産の増加(および物価上昇)をもたらす。── これもまた、スパイラル効果である。
 なお、このスパイラル効果は、修正ケインズモデルにおける「相互影響」(需要と供給の相互関連)とは別のスパイラル効果である。(だから、修正ケインズモデルを考えている限りは、この「アメとムチ」効果を考慮する必要はない。ただし、修正ケインズモデルを離れて、現実経済について、より広く考えるときには、このことを留意する必要がある)

 [ 注記 ]
 本項で述べたことは、補正を要する。このままでは話は完結していない。数日後の補正の分まで、続けて読んでほしい。


● ニュースと感想  (10月30日)

 「リセッションからデフレへの移行」について。
 前項では、リセッション・スパイラルについて説明した。いったんリセッションが起こると、どんどん景気が悪化していくわけだ。
 そして、そういうリセッション・スパイラルが起こると、場合によっては、リセッション・スパイラルのすえに、リセッションからデフレに移行することがある。
 リセッションは、いつまでもリセッションに留まっているとは限らない。下手をすると、経済の低落傾向に歯止めがかからず、ついには下限均衡点を割ってしまう。そして、リセッションからデフレに移行する。こうなると、大変だ。

 だから、経済政策としては、何としても下限均衡点 B を割らないように努力することが肝心となる。均衡区間においてどんどん経済が縮小していくときには、均衡区間に留まっているうちに、何とかする必要がある。── たとえれば、こうだ。坂を下落していくときは、その先の崖に落ちないうちに、必死にブレーキをかけるべきだ。崖に落ちてしまってからでは、遅い。まだ下り坂であるうちに、できる限りの措置をする必要がある。こういうときには、「ブレーキが利きすぎるとまずいぞ」なんて心配をするべきではないのだ。( → 第3章 「落ち込んだ場合」 ) 
 リセッションのときは、過剰なほど景気刺激を行なった方がいいだろう。それで逆効果が出て、物価上昇が発生したとしても、あとで元に戻すことはできる。しかるに、いったん下限均衡点 B を割ると、大変だ。そこは、もはや抜け出せない蟻地獄のようなものだ。そして、脱出法がわからないで、必死にもがいているのが、今の日本経済だ。
 デフレとインフレとは対称的(反対)ではない。デフレはインフレよりもはるかに困難な状況だ。そのことを理解しよう。そして、そう理解したらなら、リセッション・スパイラルの進んだはてに、デフレに落ち込まないように、注意しよう。

 さて。もう少し話を続けよう。
 結局、景気悪化のタイプには、次の三つがあることになる。
  1.  現状も、収束点も、ともに均衡区間にある。
  2.  現状も、収束点も、ともに下限均衡より左下にある。
  3.  現状は均衡区間にあるが、収束点は下限均衡点より左下にある。
 ここで注意すべきことは、何か? 
 上の三つのタイプで、本質的な違いはない。いずれも「消費性向の低下で景気悪化が起こる」という点で共通している。そして、単に状況の(グラフ上の)位置だけが異なる。だから、この点については、特に注意する必要はない。
 注意すべきは、「現状と収束点との間に、(グラフ上の)距離がある」ということだ。当たり前のように見えるが、実は、このことが肝心だ。
 前に、「均衡点と収束点とは異なる」と示した。( → 8月19日 ) 従来の経済学では、「均衡点(収束点)に落ち着くのは自然なことだ」という考え方をしてきた。しかし私は、「収束点とは、最悪の点である。そこにたどりつくのを、ぜひとも避けるべきだ」と述べてきた。
 そういうことだ。「収束点」という「最悪の点」にたどりつくまでには、猶予や余裕がある。だから、そういう猶予ないし余裕のあるうちに、何としても、景気回復の手段を取るべきなのだ。そして、そうしないでぐずぐずしていると、いつしか「下限均衡点」という境界を越える。その境界を越えてしまえば、もはや、金融政策は無効となり、景気回復は困難となる。
 「猶予ないし余裕がある」というのは、「下限均衡点にたどりつくまで、(グラフ上の)距離がある」ということだ。だから、それがまだあるうちに、適切な政策で、景気を回復させる必要がある。── 換言すれば、残されている「猶予ないし余裕」は、グラフ上の(下限均衡点までの)距離で示される。それはいわば、人の寿命を示すロウソクのようなものだ。ロウソクがどんどん短くなって消えたとき、その人の命は消える。ロウソクがまだあるうちに、何とかしなくてはならない。ロウソクが消えてから、あわてて何かをやっても、もはや手遅れなのである。

 結語。
 景気回復策は、迅速に行なう必要がある。ぐずぐずしていれば、下限均衡点を割ってしまって、処置が困難となる。(たとえれば、患者が死んだあとで投薬しても無意味だ、ということ。)

 [ 付記 ]
 責任問題について、言及しておこう。いったん下限均衡点を割ってしまえば、もはや金融政策は無効だから、そのあとは、金融当局に責任はない。
 ただ、十年不況については、日銀を擁護する意見や批判する意見も出せる。次の 13 だ。
  1.  日銀批判
     下限均衡点を割ったあとの処置でなく、下限均衡点を割るようになったことについては、金融当局に責任がある。「デフレを脱出できないのは日銀のせいだ」とは言えないが、「デフレになったのは日銀のせいだ」とは言えそうだ。
  2.  日銀擁護
     「バブル破裂の影響があまりにも巨大すぎた。たとえ迅速に金利をゼロにしても、デフレに陥ることは避けられなかった」という意見も出そうだ。もしそうであれば、金融政策の遅れは、ある程度は免責されそうだ。……ただ、本当にそうかは、微妙である。90年代前半は、2%程度の金利を保っていて、景気は悪かった。「ゼロ金利にするべきだった」とは言えるが、「ゼロ金利にすれば景気は回復したはずだ」と言えるかどうかは、微妙だ。(それでもまあ、ゼロ金利にするべきであったことは確かだが。)
  3.  日銀批判(バブル)
     「バブル破裂」は、直接的には日銀のせいではない。(バブル自体のせいだ。) とはいっても、そもそも、「バブル膨張」は、日銀に全面的に責任があった。となると、バブル全体(膨張と破裂)を見れば、日銀の責任は免れない。
 私としては、「日銀に責任はあるが、日銀だけの責任ではない」となる。少なくとも、今、「日銀が悪い、日銀が何とかすればデフレを脱却できる」というマネタリストの説には、反対する。「金融政策は万能だ」ということはない。それはマネタリストの妄想 の産物だ。


● ニュースと感想  (10月31日)

 前項では、「下限均衡点を割る」という例を示した。それは、リセッション・スパイラルのはてに、「リセッションからデフレへ」つまり「均衡区間から不均衡区間へ」と移行する過程だった。
 では、逆に、「上限均衡点を越える」(上限均衡点の突破)というのは、どういうことだろうか? 

 対称的に考えれば、次のようになる。
 「インフレ・スパイラルが進んで、上限均衡点を突破し、不均衡状態となり、そこで制御不能なハイパー・インフレが発生する」
 では、こういう状況としては、どういう場合があるだろうか? 一応、次のような場合が考えられる。
  1.  戦争その他の理由で、生産力が縮小する。上限均衡点が低下する。
  2.  それにもかかわらず、従来の生活を続けようとして、需要が減らない。
  3.  上限均衡点の突破が起こる。
  4.  物価が上昇する。(貨幣数量説)
  5.  物価上昇が起こると、「アメとムチ効果」で、「先に買った方が得」という状況が発生するので、さらに需要が掻き立てられる。
  6.  必要以上に需要が掻き立てられ、極度のインフレが発生する。
 これはまあ、経済が破綻した状態だ。具体的な例としては、次のような例がある。
   (a) 2001年のアルゼンチン
   (b) 敗戦直後のドイツ (1910年代。レンテンマルク以前)
   (c) 敗戦直後の日本  (1940年代。ドッジ・ライン以前)

 この (a)(b)(c) という三つの例を示したが、いずれも「異常」と言っていい状況である。普通は、こういうことは起こらない。
  (i) 供給力が急激に減る、ということは、普通は起こらない。
  (ii) 需要が急激に増えるときは、普通は高金利で制御できる。
 こういうわけだから、普通は、「インフレから、上限均衡点の突破へ」というふうには、まずならないものだ。(少なくとも、中央銀行が正気であれば、インフレを放置することはない。)

 結論ふうに言えば、こうなる。
 「上限均衡点の突破」というのは、よほどの不幸が重ならないと起こらないような状況であり、普通は起こらない珍しい状況である。「リセッションからデフレへ」、というのは、ちょっとしたミスで起こりやすいが、「インフレから上限均衡点の突破へ」というのは、よほど愚かな政策と不幸とが重ならない限り、まず起こらないものだ。
 とはいえ、いったん起こると、大変なことになる。「そうなったらどうするか?」という問題もがるが、とりあえずは、まともな判断力で、景気過熱時には早めに景気冷却をすることが肝心である。
( ※ それとは反対なのが、「好景気に浮かれる」というやつ。踊る阿呆に、見る阿呆。……水をぶっかけてやれ。)
 
 [ 参考 ]
 「上限均衡点」については、10月05日b 以降でいろいろと述べた。そちらも参照。

 [ 付記 ]
 バブル経済について。
 少し上では、「中央銀行が正気であれば」と述べた。しかし実際には、中央銀行が正気でないこともある。
 その例が、バブル期の日銀だ。インフレならぬ資産インフレが過剰に進んだが、状況を放置し、金利の引き上げを常にためらった。米国のFRBのように「一挙に大幅に金利を引き上げる」ということをしないで、小幅の出し遅ればかりだったから、常に後手に回った。「常にブレーキを少し足りなめにかける」というようなものだ。資産インフレはどんどん加速していった。どうしようもなくなって、ついに「総量規制」というブレーキを踏んだら、これが効き過ぎて、「自動車がスピンする」というふうに、経済は制御不能の状態となった。それがバブル破裂だ。
 景気というものは、下落時であれ、上昇時であれ、早めに対処するべきなのである。中央付近でフラフラと上げたり下げたりするのが、最も好ましい。ダメなのは、「金融政策の継続」というやつだ。つまり、「上げっぱなし」または「下げっぱなし」というやつだ。これは、「前回の金融操作の幅が不足していた」ということを意味する。「前回の操作が小幅すぎて失敗した」ということの証明だ。その最悪の例が、バブル景気のころに見られた。日銀は何度も何度も金利を引き上げたが、常に幅が不足していて、バブルは急速に膨張した。もう一つ。バブル破裂後にも正反対の状況が見られた。日銀は何度も何度も金利を引き下げげたが、常に幅が不足していて、バブル破裂は急速に進行して、景気は制御不能なほど落ち込んでしまった。


● ニュースと感想  (11月01日)

 「景気の制御」と「金融政策」について。
 本項では、かなり重要なことを述べる。それは、これまで述べてきたことの「補正」だ。以前、何度か、「あとで補正を要する」と述べたが、その補正をここで述べる。

 まず、前々項および前項を振り返ってみよう。そこでは、「リセッションからデフレへ」というスパイラルと、「インフレから上限均衡点の突破へ」というスパイラルとを示した。それははいずれも、景気制御にひどく失敗して、景気が暴走した場合である。(こういう「景気の暴走」は、人間の愚かさに起因する。だから、かなり発生しやすい。たとえば、現在、景気悪化のさなかで、「不良債権処理」だの、「財政健全化」だの、景気回復策とは正反対の策が取られている。つい先日までも、「ペイオフ」なんてのをやろうとしていた。これをやっていたら、金融恐慌が発生して、本格的な恐慌に至った可能性もある。)

 さて。「景気の暴走」とは逆のことが、「景気の安定」である。そのためには、適切な制御を行なう必要がある。
( ※ もちろん、「放置すればよい。放置すれば自然に最適化する」なんてことはない。また、「貨幣供給量を安定させれば自然に景気は安定する」なんてこともない。 → 10月27日
( ※ なぜ放置ではダメか? それについては、第3章で述べた。 → 不安定な構造

 では、適切な制御とは? もちろん、それこそが、「景気回復策」なのだから、最大のテーマである。これまでいろいろと詳しく述べてきたとおりだ。
 そのうちで、特に大事なのは、「金融政策」である。金融政策は、インフレやリセッションの発生する均衡状態では有効だ。だから、何よりもまず、金融政策に注目するべきだ。
( ※ このことは、これまで述べてきたマネタリスト批判とは、矛盾しない。私が述べてきたのは、「デフレという不均衡状態では、金融政策は無効だ」ということだ。一方、均衡状態では、金融政策は有効なのである。)

 さて。ここで、10月23日で述べたことを思い出そう。金融市場では、利子率は、貨幣の需給によって変動する。景気が過熱すると、貨幣の需要が増して、利子率が上昇する。そのことで、景気の過熱が抑制される。
 つまり、金融市場における利子率の変動を通じて、景気を安定化させることができる。(スパイラルを停止したり、逆方向に景気を改善したりできる。)

 このことが重要だ。そして、このことが、前に述べた「補正」の内容である。
 実は、これまで述べた「均衡状態の変化」では、投資の増減は考慮していなかった。つまり、消費性向の変化があったとき、投資 I は一定であると考えてきていた。つまり、投資 I の変動が発生するとは考えなかった。しかし、実際には、消費性向の変化にともなって、投資 I の変動が発生するのだ。(利子率の変化を通じて。)── そして、投資の変動は、消費の変動を打ち消す方向に働く。すなわち、消費が拡大したときは、投資が縮小する(貯蓄不足で金利が上昇するから)。逆に、消費が縮小したときは、投資が拡大する(貯蓄不足で金利が上昇するから)。

 ただし、である。この「景気安定化」の力は、放置するだけでは、十分ではない。つまり、消費の変動を十分に吸収するほど、投資がうまく逆方向に変動してくれるわけではない。10割にはならず、8割とか9割とか、その程度の値になる。── つまりも、「金融市場に任せて放置すれば、それでうまく行く」ということはない。なぜなら、仮にそうだとしたら、景気の変動というものは発生しないはずだからだ。(なのに、実際には、景気の変動が発生する。)( → [ 補説 ]
 そこで、金融市場に任せるだけではうまく行かないので、人為的にあえて金利を十分に上下させるべきだ。そうすれば、消費の変動をうまく相殺できるように、投資が逆方向に変動するようになる。── それが、(日銀による)「金融政策」の意味だ。

 この件については、先に 9月14日 で、「緑色の領域」として説明した。

     修正ケインズモデルにおける領域の図(詳細)

 この図で、緑色の領域が、「金融政策が有効な領域」である。そして、この領域では、景気悪化に対して、金利引き下げによる景気安定が可能である。
 なお、景気悪化については、「緑色の領域」というふうに限定が付くが、景気過熱については、領域の限定は付かない。なぜか? 金利引き下げについては「利率ゼロ」という下限があるが、金利引き上げについては「利率がこれこれ」という上限はない。いくらでも利率を引き上げることができる。だから、限界がないわけで、「ここまでの領域」というふうには限定されない。

 結局、以上をまとめると、次のようになる。
 これまでに述べたことについて、補正すべきこととは何であるかは、もはや明らかだろう。それは、「金融の効果」である。これまでは、金融の効果を考えていなかったが、金融の効果を考えるべきなのだ。
 ただし、そのことがあるからといって、これまでに述べた話が崩れるわけではない。「景気のスパイラル」というものは、原理的ないし根幹として発生する。ただ、それを打ち消す方向に、「金融の効果」が働くから、そのこともいっしょに考慮すればいいわけだ。

 [ 付記 ]
 本項で述べたこと(金融政策による景気安定)は、「均衡状態でのみ有効だ」ということに注意しよう。つまり、先の「補正を要する」ということは、「均衡状態では補正を要する」ということだ。
 「不均衡状態」では、そうではない。「景気はスパイラル的に悪化していく」という原理がそのまま働く。これに対して補正は必要ない。なぜなら、補正しようにも、この原理を打ち消す力がもともと働いていないからだ。つまり、投資の拡大がもともと発生していない(できない)からだ。
 その理由は、「流動性の罠」である。金融市場で、金利ゼロであるときには、投資拡大の力(消費縮小を打ち消す力)は、これ以上は生じようがないのだ。たとえ状況を放置していようと、たとえ状況を金融政策で操作しようと。
 こういうふうに、不均衡状態と均衡状態での違いがある。だから、均衡状態では、不均衡状態とは違って、本項のような補正が必要となるわけだ。

( ※ 次項に続く。)


● ニュースと感想  (11月02日)

 前項では書き足りないところがあるので、以下で [ 補説1 ] 〜 [ 補説3 ] として記しておく。

 [ 補説1 ] 金融政策の効力
 前項では、次のように記した。── 「消費の変動を十分に吸収するほど、投資がうまく逆方向に変動してくれるわけではない。10割にはならず、8割とか9割とか、その程度の値になる。」
 たしかに、放置した場合には、そうだろう。ただし、金融政策をすることで(つまり金利を人為的に操作することで)、放置した場合とは違って、金融政策をもっと多くすることもできる。たとえば、インフレのとき、放置すると市場金利が6%になるというときに、あえて金利を上げて、金利を8%ぐらいにすることもできる。(マネタリズムのいう「放置で十分」とは違って、積極的に裁量政策をするわけだ。)
 すると、その結果、どうなるか? いろいろとケースが考えられる。10割よりも少ない場合も考えられるし、きっちり10割である場合も考えられるし、10割を越える場合も考えられる。
  1.  10割よりも少ない場合は、スパイラルを弱めるが、スパイラルを完全に止めることはない
  2.  10割ならば、スパイラルをきっちり止める
  3.  10割を越えれば、スパイラルを止めるだけでなく、スパイラルを逆方向に進める。(生産縮小のときは生産拡大へ。生産拡大のときは、生産縮へ。)
 それぞれのケースについて生産の動きを見れば、
 そのどれになるかは、現実の金融政策しだいである。通常は、 a. の「やや不足気味」という金融政策が取られる。しかし、私のお勧めは、「やや過剰」である。この場合は、振動しながら、収束するはずだ。(やりすぎだと、振動しながら発散するのでまずいが、やりすぎでなければ、振動しながら収束する。なお、振動をめざしても、実際には「急速に収束」という形になるだろう。)

 [ 補説2 ] 加速度原理との対比
 さらに、関連する話を示しておこう。
 上記のように「振動」とか「一定」とか「収束」とかいうことを考えたことは、以前の項目でもあった。それは、「加速度原理」の箇所だ。( → 6月10日 以降。)
 そこで述べたことは、本項で述べたこととは、形の上では似ているが、まった別の話である。というのは、加速度原理の話では、「消費性向は一定である」と仮定しているからだ。「消費性向は一定のまま、投資の効果だけを考慮する」というふうに発想している。( → 6月11日
 一方、本項では、消費性向の変化を前提とした上で、「消費の増減を、投資の増減で打ち消す」というふうに発想する。これは、本質的には、「加速度原理」とは逆のことだ。「加速度原理」では、「消費の増減に対して、それと同じ方向で設備投資の増減がある」と考える。しかるに、本項では、「消費の増減に対して、それとは逆方向で設備投資の増減がある」と考える。(消費が増えたときには設備投資が減り、消費が減ったときには設備投資が増える。)
 企業というものは、本来、消費の増減に対して、それと同じ方向で(正の相関関係で)、投資を増減させようとする。しかるに、消費の増減に対して、それと逆の方向で(負の相関関係で)、投資が増減するようにと、金融政策が仕向ける。……そこには、「ねじれ」のようなものがある。やりたいことをやらせず、やりたくないことをやらせる。
 そういうことは、無理で不自然なことである。だから、「金融政策はすばらしいことだ」とか、「金融政策は経済学の本道だ」ということはないのだ。金融政策というのは、ある意味では邪道なのである。そこでは、「簡単か否か」ということがテーマとなっていて、「正しいか否か」とか「本質的であるか否か」とかいうことがテーマからはずれている。「消費が減ったときに消費を増やそう」という本道を取らずに、「消費が減ったなら投資を増やせばいい」と単純に決め込む。それは、「民需が減ったら官需を増やせばいい」というケインズ派と同じく、非本質的なのだ。
( ※ ここで述べたことは、かなり重要である。このことで、以前に述べた「タンク法」とか「ポリシー・ミックス」とかの話と関連がつくからだ。「修正ケインズモデル」の話は、こうして、そういう以前の話と結びつく。)

 [ 補説3 ] 金融政策の不自然さ
 金融政策は、「やりたいことをやらせず、やりたくないことをやらせる」という面がある。(すぐ上で述べたとおり。)
 そして、こういう不自然なことは、うまく行くこともあるが、うまく行かないこともある。「金融政策は必ずうまく行く」ということはないのだ。
 マネタリストは、「常にうまく行く」と主張する。しかし私は、そうでなく、こう主張する。「常にうまく行く、ということはない。うまく行くのは、均衡状態だけである」と。(このことは、「緑色の領域」という言葉で説明したことがある。 → 9月14日 以降。この領域でのみ、うまく行く。それ以外の領域では、うまく行かない。)
 なお、マネタリズムの「パーセントルール」というものがある。これは、「常にうまく行く」と主張することだ。その意味は、前述の [ 補説1 ] の「10割か否か」の話が、「必ず 10割きっちりになる」というのに相当する。つまり、「消費の増減を、投資の増減が、きっちり打ち消す。放置すれば自然にそうなる。だから金融当局の裁量は必要ない」というわけだ。
 私は、それを否定する。「きっちり 10割になることもあるが、10割以下になることもあるし、10割以上になることもある」というふうに幅広く考える。その意味で、私の主張は、マネタリズムよりも広い。
( ※ マネタリズムの主張と私の主張が、最も対立するのは、もちろん、「金融政策が無効になるとき」つまり「流動性の罠」のときだ。私は「金融政策の効果はゼロだ」と主張するが、マネタリストは「金融政策だけで大丈夫。効果は 10割だ」と主張する。)


● ニュースと感想  (11月02日b)

 前々項と、前項補説1〜補説3)とを、ざっとまとめておくと、こうだ。
 [ 付記 ]
 結局、大切なのは、「金融政策の限界」である。金融政策は、たしかに有効だが、限界もある。決して「金融政策は万能だ」ということにはならない。これはマネタリズム批判でもある。
 「消費が減ったら投資を増やせ」とか、「消費が増えすぎたら投資を減らせ」とかいうのは、マネタリズムの考え方だが、こういう考え方は、失敗の例が非常に多い。その典型が、IMF流のマネタリズムだ。( → 7月07日b7月08日
 では、金融政策でなく、どうすればいいか? それへの解答は、これまでに述べてきた。特に、4月下旬の記述を参照。「消費と投資の比率」などの話がある。── つまり、消費が減ったときは、「消費の減少を投資の増加で補おう」という金融政策ではなく、消費そのものを増やせばよい。そうすることが本質的だ。(それが「タンク法」だ。 → 4月21日 以降。)


● ニュースと感想  (11月03日)

 「資産インフレのスパイラル」について。(本筋から外れて、本項ではちょっと関連する別の話題に言及する。)
 すでに、いくつかの「スパイラル」を示した。次のように。
    ・ デフレ・スパイラル
    ・ インフレ・スパイラル
    ・ リセッション・スパイラル
    ・ 貨幣数量説的な、物価上昇スパイラル
      (上限均衡点の突破のあとで生じる)
 上の四つとは別に、「資産インフレのスパイラル」というものも考えられる。これについて示そう。

 「資産インフレのスパイラル」とは、どういうものか? それは、次のような過程を取る。
  1.  景気が良くなる。
  2.  支出の一部は、消費でも設備投資でもなく、資産投資に向かう。(土地・株など)
  3.  資産価格の上昇率が、一般物価の上昇率を上回る。
  4.  帳簿上の資産価格が上昇するので、人々は「富が増えた」と錯覚する。(実際にその価格で売却するまでは、富は増えていない。しかし誰もが、「高値で売れるはず」と想像して、「富は増えた」と錯覚する。)(資産家が得する分、ちょど同額、非資産家は損する。たとえば、土地の売り手は得するが、土地の買い手は損する。なのに、非資産家は、自分の損に気づかない。)
  5.  人々は、「富は増えた」と錯覚するせいで、支出を増やす。所得は増えなくても、支出が増えるので、消費性向が上昇する。(非資産家は富が減っているが、「富は変わらない」と錯覚するので、彼らの消費性向は下がらない。)
  6.  消費性向の上昇で、消費と生産が増える。だから景気はさらに良くなる。
  7.  景気が良くなるのを見て、株価はさらに上昇する。地価も「土地転がし」で上昇する。(土地転がしが続いている限りは、誰もが不動産取引で利益を得るので、不動産価格がどんどん上昇する。バブル破裂まではその錯覚が続く。)
  8.  以上の 6. 〜 7. の状況が、スパイラル的に進行する。
  9.  金融政策が不十分だと、スパイラルに歯止めがかからない。
  10.  やがていつか、スパイラルが停止する。とたんに、バブルがはじける。(「ゲーム終了」のチャイムが鳴るわけだ。)
  11.  バブルがはじけると、もはや高値づかみしたものを、他人に回せない。ババを他人に回せない。最後にババをつかんだ人が、大損する。
  12.  最後にババをつかんだのが、人であれば、その人が損を負担する。ただし、人ではなく企業であれば、損は企業自身では負担しない。(倒産するから。) かわりに、損は債権者に拡散する。(通常、「不良債権」という形を取り、銀行に回される。銀行に回された分は、さらに、「預金の利率の低下」という形で、国民全体に回される。このツケ回しを「不良債権処理」と称する。)
 上の 6. 〜7. のところが、スパイラルになっている。これが 「資産インフレのスパイラル」だ。(「バブル・スパイラル」 or 「バブル膨張」と呼んでもよい。)

 さて。こういうスパイラル的な現象は、たしかにある。ただし、このスパイラルは、これまでの修正ケインズモデルにおける「スパイラル」とは、事情が異なる。そのことを説明しよう。

 デフレ・スパイラルやインフレ・スパイラルやリセッション・スパイラルは、どういうものか? それらは、「需要 − 生産 − 所得」という相互影響(「所得」を通じた「需要と生産」の相互影響)によってもたらされる。しかし、バブル膨張は、そういう相互影響によってもたらせるわけではない。
 この違いが肝心だ。前者は、こういう相互影響があるゆえ、マクロ経済的な現象である。後者は、こういう相互影響がないゆえ、マクロ経済的な現象ではない。( → 8月14日 「相互影響の有無がマクロの違いだ」)

 では、バブル膨張は、何によってもたらされるのか? 人々の心理[妄想]によってだ。ここでは、経済がスパイラル的に膨張しているように見えるが、実際の生産がスパイラル的に膨張している部分は大きくない。(その分は、「インフレ」ないし「経済成長」として勘定される。) 大きいのは、生産の膨張ではなくて、資産価格の膨張だ。つまり、「地価」とか「株価」とか、そういう数字だけが著しく膨張する。
 資産価格の膨張は、実体経済の膨張を意味しない。帳簿における数字が膨張するだけだ。ここに注意しよう。たとえば、帳簿における資産総額が 1400兆円になったからといって、実際に 1400兆円の富を得ているわけではない。なぜか? 

 一般商品ならば、その価格は、「市場を通じて」決まる。自動車にせよ、野菜にせよ、その価格は、まさしくその価格で取り引きされることで、決まる。
 資産価格は、そうではない。その価格は、「市場を通じて決まる」のではない。「取り引きされないで決まる」のだ。たとえば、近所で坪 50万円の取引がなされたら、実際に決まった価格はその土地の分だけであるのに、その土地のまわりの誰もが「おれの土地も坪 50万円の価値がある」と思い込む。ここでは、取引なしに、価格が決まっている。この価格は、市場価格(取引価格)ではなくて、帳簿上の価格だ。……この二つの価格は、スパイラルが続いている限りは、違いがはっきりとしない。しかし、いったんスパイラルが途絶えると、売り手がわんさと押し寄せ、買い手がいないので、価格は暴落する。つまり、帳簿の価格と、市場の価格との、違いがはっきりとする。このとき、バブルの妄想が実は妄想だったと気づく。(それまでは気づかない。)
 土地でなく、株でも、同様だ。「株価収益率」に基づいた正当な株価ならば、その株にはたしかにそれだけの価値がある。ところが、スパイラルが続くと、「株価収益率」に基づいた正当な株価を大幅に超えて、株価がどんどん上昇する。「株式市場では1株 3000円だ。だから自分はそれだけの価値の株をもっている」と信じ込む。そして、いつかスパイラルがつぶれたとき、人々はその値段で売ろうとするが、売り手がわんさと押し寄せ、買い手がいないので、価格は暴落する。
 もう少しわかりやすく言おう。バブル期に、「日本の土地の総額は1200兆円なった。日本人はそれだけの資産家になった」という説がある。しかし、そうではないのだ。それは単なる帳簿上の数字にすぎない。「日本人はそれだけの資産家になった」というのは、日本のすべての土地を外国に売り渡すのならば、意味がある。しかし、この金額は、アメリカのすべての土地の金額よりも、はるかに大きい。日本の国土全体が、アメリカの国土全体よりも、はるかに高額である。そんな高額では、どこにも売れない。つまり、無意味な数字なのだ。……では、その高額で、日本人が日本人に売るとしたら? その場合は、「高値で売って得する」のも、「高値で買って損する」のも、ともに日本人だから、国民全体を見れば、ちっとも日本人は得していない。(たとえば、家賃を2倍に上げれば、家主は「儲けた」と喜べるが、店子の方は「損した」と悲しむ。両方を見れば、損得はトントンだ。全体の富が増えるわけではない。)

 結局、バブル膨張では、実体経済たる生産が膨張するのではなく、数字と妄想だけが膨張する。実体経済をともなわないから、急激に膨張しやすいし、急激に破裂しやすい。なめらかな制御は困難だ。御しがたい荒馬のようなものだ。ただ、この荒馬の制御は、上昇局面と下降局面では、少し異なる。
 資産インフレの上昇局面では、制御はいくらかは可能だ。地価や株価がやたらと急上昇して、土地収益率や株価収益率を上回る高値になったら、金融政策によって、資産インフレを抑制するべきだろう。(細かい方法は、「ポリシー・ミックス」の項を参照。)
 資産インフレの下降局面では、制御は非常に難しい。なぜか? 人々が妄想をもっているときに、「妄想をやめよ。正気に戻れ」と教えることは簡単だが、人々が妄想から正気に戻ったときに、「正気をやめよ。妄想に戻れ」と煽動することは困難だからだ。
 葉っぱを見て、「これは小判だ」と信じた人々が、大金を浪費する。彼らはあとで正気に戻って、「小判でなく、葉っぱだった」と気づく。そう気づいた人々に、「もう一回、葉っぱを小判だと思ってください」と頼んでも、ふたたび正気を失ってもらうのは非常に困難だ。
 資産インフレのスパイラルは、心理的なものだ。それゆえ、暴走しやすく、制御は困難だ。資産インフレは、普通のインフレやデフレよりも、ずっとタチが悪いのである。
( ※ 資産インフレについては、5月23日 の前後を参照。いろいろと述べた。)

 [ 付記 1 ]
 国民に「妄想をふたたび見よ」と無理強いするのは、困難である。しかし、困難であっても、それを強いる経済学者は多い。「バブルはこりごりだ。これからは資産を安全に運用する。無利子でも、銀行預金か国債購入だ」と手堅く進む人々に、対して、「ふたたび夢を半分見てくれ」と頼むわけだ。国民をバカ扱いしている。
 しかし、本当にバカなのは、バカにされた国民ではなく、バカにする経済学者の方だ。「葉っぱを小判だと信じよう」というキャンペーンを張って、それをまともに信じるのだから、まったく呆れる。
 彼ら経済学者に言っておこう。本気で自説を信じているのなら、自分で葉っぱを購入すればいい。自分で株を買うといい。
 特に、竹中大臣だ。彼がせめて千万円で株を買って、最近の株価下落で損をしていれば、自説のいい加減さがよくわかるはずなのだが。ちょうど1年前に、自分が何を言ったか、思い出してほしい。
( → 2001年 10月19日b に、竹中の発言がある。「十年後の日本の株価は最低でも3倍になる。私に何十億円もの資産があれば、絶対株を買う」と。)

 [ 付記 2 ]
 デフレ・スパイラルと比較しよう。
 (1) デフレ・スパイラルは、収束点 A に収束する。一方、バブル・スパイラルは、無限大近くまで膨張すると予想されるが、実際には予想外の一点において破裂する。
 (2) デフレ・スパイラルは、ただの所得減少だから、減税によって脱出可能である。バブルスパイラルは、それが破裂したあと、莫大な赤字が残る。(具体的には、不良債権のこと。バブル期に高級車や料亭で豪遊した人々が、あとで会社を赤字にして倒産させ、その赤字を銀行に尻ぬぐいさせ、それを国民が尻ぬぐいする。)


● ニュースと感想  (11月04日)

 「インフレ」と「貿易赤字」について。(本筋からは、ちょっとはずれた話。)
 前に「需要超過」について、いろいろと述べた。また、少し前には、「インフレ」のことも述べた。この両者の関連を示しておく。

 「インフレのときには、需要超過が発生して、貿易赤字が発生しやすい」と言われることがある。しかし、すでに述べたことからわかるように、「インフレ」と「需要超過」と「貿易赤字」は、関連はあるが、まったく同じではない。いっしょに発生することもあるが、食い違うこともある。

 「需要超過」が発生すると、どうなるか? 二つの道がある。
 一つは、修正ケインズモデルにおける「インフレ」の経路だ。均衡状態を保ったまま、需要の拡大に応じて生産が拡大し、そのことで、需要と生産がスパイラル的に拡大していく。ここでは、小さな需要超過が発生して、不均衡が発生しても、すぐに価格上昇と生産拡大が追随して、均衡が回復するから、本質的な需要超過(不均衡)は発生しない。
 もう一つは、開放経済における「貿易赤字」だ。需要超過に対して、国内生産の増加でまかなうことができず、「外国での生産」でまかなう。その結果、貿易赤字が発生する。

 この意味で、「インフレ」と「貿易赤字」は、同じことではなく、むしろ、反対のことである。「需要超過」という一つの現象に対して、超過した分の需要を、「インフレ」と「貿易赤字」が、奪いあうわけだ。一つの獲物を、虎とライオンで奪いあうようなものだ。

 「インフレ」と「貿易赤字」が食い違うことについては、具体的な歴史的事例が、いくつか見られる。次の (1) (2) に示す。

 (1) レーガノミックス
 レーガノミックスでは、「強いドル」のもとで、巨額の「貿易赤字」が発生したが、「インフレ」は発生しなかった。むしろ、高金利ゆえ、「インフレ」は抑制された。逆に言えば、「インフレ」でもないのに、巨額の「貿易赤字」が発生した。

 (2) 高度成長期
 日本や中国やアジアの新興国家では、高度成長期というものがあった(今もある)が、そこでは、年率7%程度の物価上昇(および生産拡大)の起こる「インフレ」が発生したにもかかわらず、「貿易赤字」は発生せず、むしろ、巨額の貿易黒字が発生した。過去の日本でも、ここ数年の中国でも、莫大な貿易黒字があった。ここでは、「インフレ」はあっても、「貿易赤字」はなかったのだ。

 結語。
 「インフレ」は均衡状態の話であり、「貿易赤字」は不均衡状態の話である。両者は別々のことだ。直接的には、関係がない。
 ただし、短期的に見ると、インフレ期には「需要の伸びに生産の伸びが追いつけない」という形で、「需要超過」および「貿易赤字」が見られることもある。こういうふうに、短期的には、「一時的なインフレ」と「一時的な貿易赤字」が、並行的に発生することもある。
 つまり、長期と短期とでは、事情が異なるわけだ。


● ニュースと感想  (11月05日)

 これまでに述べたことを振り返ってみよう。総合的にまとめてみる。[本日は、総集編だ。これまで長く続いた「修正ケインズモデル」の話も、今日でいったん完結する。]

 修正ケインズモデルの本質は何か? それは、「消費( C )と生産・所得( Y )との関係を、2次元のグラフで示す」ということだ。

( ※ このことは、グラフからもわかる。縦軸は、「 C」で示され、横軸は「Y」で示されるから、このグラフは明らかに「 C」と「Y」の関係を示している。)
( ※ ここにおいて特に大事なのは、「所得」という要素があることだ。それゆえ、「所得」を通じた「需要と生産の相互関係」がわかる。つまり、マクロ経済学的にわかる。「トリオモデル」のように、単なる需給関係だけを示したグラフでは、「所得」の要素がないので、こういう「相互影響」を考察できない。)
( ※ そもそも、修正ケインズモデルの目的は、景気変動の変化を動的に調べることである。それには、経済の変動を示すモデルが必要となる。そのためには、横軸に、「生産量」を取ることがいいだろう。縦軸は、何にするか特に必然性はないのだが、ここでは「消費」を取る。そして、そうすると、うまく表現することができるわけだ。)

     修正ケインズモデルの領域の図

 この図を使って、いろいろと考えてきたわけだ。その結果、次のことが明らかとなった。
  1.  「 C+I = Y 」が成立する状況では、C と Y から、 I がわかる。(「 I = Y −C 」だから。 I は投資。)
  2.  「 C+I = Y 」が成立しない状況では、「 C+I < Y 」または「 C+I > Y 」が成立するが、そのことから、需要不足または需要超過という状況がわかる。(水色領域と桃色領域。ただし、グラフでは、「 C+I 」を「 D 」と書いている。)
  3.  かくて、「需給の一致」と「需要不足」と「需要超過」の三つの状態が、グラフ上で示せる。(それぞれ、均衡、不均衡、不均衡。)
  4.  その三つの状態は、トリオモデルにおける三つの状態と一致する。(トリオモデルでも「需給の一致」と「需要不足」と「需要超過」の三つの状態が示される。)
  5.  均衡状態にあるときは、消費の変動があっても、投資の変動で補う(そうして生産量の変動を安定させる)ことができる。それは金利の調整による。金利の調整によって、「貯蓄 → 投資」という正常な流れを保つことで、「貯蓄 = 投資」を実現させ、「 I = S = Y−C 」により、「 C+I = Y 」を成立させるからだ。
  6.  需要不足は、少し起こっただけなら、金利の調整で元に戻ることができる。(下限均衡点よりも上で、小さな需要不足のとき。これは「リセッション」の状態。)
  7.  需要不足がひどくなって、下限均衡点よりも下になると、均衡区間から不均衡区間に移る。こうなると、金利の調整だけで均衡状態に戻ることはできなくなる。つまり、金融政策が無効になるわけだ。さらに金利を下げたくても、金利をゼロよりも下げることはできないので、投資が十分に拡大してくれない。そのせいで、消費不足を投資増加で補うことができなくなり、脱出困難な需要不足( C+I < Y )となるわけだ。
  8.  このことから逆に、下限均衡点がどこにあるかがわかる。それは、「金融政策が無効になったところ」である。つまり、「金利ゼロにしても景気回復が不可能になったところ」である。
  9.  この需要不足(需給ギャップの発生)は、トリオモデルにおける需要不足(需給ギャップの発生)と同じである。消費性向の低下は、需要曲線の左シフト(消費縮小)をもたらす。それを埋めるために、金利低下で、需要曲線の右シフト (投資拡大)をもたらすべきなのだが、しかるに、金利がゼロよりも下がらないので、そうできない。かくて、需要曲線の左シフトだけが残り、需給ギャップが発生する。
  10.  修正ケインズモデルにおける下限均衡点をもたらすのは、トリオモデルにおける下限直線である。(これは価格の下限を示す。) 修正ケインズモデルにおける上限均衡点をもたらすのは、トリオモデルにおける上限直線である。(これは数量の上限を示す。)
     下限直線を割ると、均衡しなくなる。価格が下がらないまま、数量だけが変動する。上限直線に達しても、均衡しなくなる。数量が上がらないまま、価格だけが変動する。(値上げが不十分だと、品切れとなって、市場そのものが消える。)
  11.  上限均衡点よりも右上では、もはやそれ以上は右(生産拡大)が不可能なので、右に行けずに、上にだけ行く。かくて、桃色領域に移り、需要超過となる。
  12.  需要超過は、インフレを意味せず、単に「生産以上の需要」を意味するだけだ。それは実質的には、「借金」(収入以上の支出)を意味する。過去または未来からの借金か、外国からの借金である。過去からの借金(在庫減少:過去の生産の食いつぶし)は、いつかは不可能となる。未来または外国からの借金は、当面は続くが、帳簿上の赤字が拡大するので、やがては信用危機を起こして、もはや不可能となる。そのとき、ツケ払いが必要となる。外国からの借金へのツケ払いは、通貨安をもたらし、それは低賃金労働(長い労働と少ない所得)となって結果する。未来からの借金へのツケ払いは、バブル破裂をもたらし、それは資産の急減となって結果する。(妄想で現実以上にふくらんでいた資産価格が、現実の大きさの資産価格に縮小する。このとき、富そのものが失われるわけではない。夢から現実に戻っただけだ。つぶれたのは、夢であって、現実ではない。)
  13.  均衡状態(下限均衡点と上限均衡点の間)では、需給の均衡が続く。ここでは、需給曲線による調整(ワルラス的調整過程)が成立する。需要の増加は、価格の上昇と数量の増加をもたらす。逆も成立する。
  14.  需要の増加によって、価格の上昇と数量の増加がある状態は、「好況」つまり「インフレ」である。その逆が、「景気後退」つまり「リセッション」である。……そのいずれも、均衡状態における現象である。
  15.  インフレとリセッションのどちらになるかは、需要を調整することによって可能である。一般には、金利の上下によって、金融市場を通じて「投資」を調整する。ただし、増減税によって、直接的に需要を調整する方法もある。(通常は、金融政策の方が簡単かつ即時的なので、金融政策が用いられる。しかし、本当は、両者を適切に組み合わせるべきである。場合によっては、両者を逆方向に行なう「ポリシー・ミックス」が必要となることもある。)
  16.  景気の調整は、簡単な方法があるわけではない。「パーセントルール」(マネタリズム)では片付かない。「インフレ対策もデフレ対策も常に供給力拡大」(サプライサイド)で済むわけでもない。状況に応じて、最適の政策を選択する必要がある。金利も、増減税も、最適な値にするべきだ。
  17.  景気の調整は、簡単にはできないし、放置して済むわけでもない。その理由は、経済が「不安定構造」をもつからだ。つまり、拡大または縮小の方向に少しブレると、それが増幅される。その理由は、直感的にも明らかだろうが、厳密にモデル的に言えば、(修正ケインズモデルで)景気の変動に「スパイラル的」な効果があるからだ。このスパイラルは、「乗数効果」とそっくりな過程をたどる。それは、需要と供給に「所得」を通じた「相互影響」があることによる、増幅過程だ。 ( → 8月24日8月24日b
  18.  このスパイラルは、早めに止めることが大事である。たとえば、景気悪化の場合。まだリセッションであるうちには、均衡状態なので、金融政策で景気悪化を止めることはできる。しかし、状況がスパイラルに進んで、もはやデフレという不均衡状態になってからでは、今さら金融政策を実施しても、もはや手遅れである。(下限均衡点を割っているので、金融政策が無効となる。)
  19.  このスパイラルは、上向きでもした向きでも、どんどん進行するが、進行するにつれて、幅が小さくなり、最終的には、ある点に収束する。限度があるわけだ。(底なしに進行していくわけではない。)
  20.  この収束する点(収束点)は、「均衡点」と呼ぶべきではない。「景気がここから変化しにくい」という意味では、安定的であるが、それは需給が均衡していることを意味しない。インフレやリセッションのときには、その収束点では需給が均衡する。しかし、デフレのときには、その収束点では、需給が不均衡になっている。ここは、好ましい状況であるどころか、最悪の状況(景気の底)である。 そして、ここが安定的だということは、最悪の状況から脱出することが困難だということを意味する。つまり、「放置すれば景気循環で回復する」とは言えず、「いつまでも最悪の状況に留まる」ことになる。(だから、自然放置では、景気は循環しない。そこから脱出するには、何らかの特別な力が必要だ。)
  21.  需給が均衡するか否かと、経営資源(設備・労働力など)がすべて利用されるかは、別のことである。需給が均衡していても、経営資源の一部が余剰になることはある。つまり、不況でなくても、失業者や遊休設備は発生する。(ケインズの言うように「不況でなければ完全雇用」ということはない。)
  22.  インフレのときは、価格上昇と生産量増加があるが、これは、全体のうちで効率の低い部分が稼働することによってなされる。逆に言えば、リセッションのときは、価格低下と生産量減少があるが、これは、全体のうちで効率の低い部分が稼働をやめることによってなされる。(このことは、トリオモデルを見ればわかる。生産コストの高いところが、市場の規模の変動に応じて、退出したり、参入したりする。そうして生産量の変動が起こる。)……その意味で、リセッションのときには、「優勝劣敗」が強く働いて、全体の効率は高まる。(ただし、失業が吸収される、ということが前提。)
  23.  均衡状態では、リセッションがあったとしても、原則として、失業の吸収が可能である。生産が縮小しても、倒産が続出しているわけではないし、労働時間が減っても、失業が増えるわけではないからだ。(方法は、残業減や、ワークシェアリング。ただし、これがスムーズに実現されないと、経済規模が縮小した分、失業者が発生するので、問題となる。経済政策と言うよりは、労働政策の問題。)
  24.  デフレのときは、価格定価と生産量減少があるが、これは、(リセッションのように)「全体のうちで効率の低い部分が稼働をやめる」ことによってなされるのではない。あらゆる企業が赤字となる。あらゆる企業の効率が低くなるのだ。つまり、デフレのときは、「優勝劣敗」による「劣者が退場」ではなくて、「全員が劣者となって、全員が退場」というふうになる。(たとえば、2002年現在、まともに生き残れる銀行は、ほとんどない。他はすべて、倒産・廃業の危機にある。2001年には、ソニー、富士通、NEC、東芝など、わが国を代表する先端産業が軒並み赤字を出して、劣悪となった。逆に、農業や土建や特殊法人など、国際競争力のない産業は、黒字を出した。政府は「銀行や電器産業の経営がまずいからだ」と主張するが、詭弁である。本当はマクロ政策が悪いのだ。)( → 8月10日
  25.  デフレという不均衡状態では、倒産が続出する。このとき、「劣悪な企業の分を優秀な企業で補う」という市場原理の形では、失業の吸収は困難である。とても手に負えない規模だ。(例: 370万人の失業。) そもそも、一部の低効率な産業でだけ失業が発生するのではなく、全企業が劣悪化して、全産業で失業が発生する。だから、失業の吸収先となる優良産業がない。(つまり、構造改革[による失業の吸収]なんていう考え方が無意味となる。そういう考え方が成立するのは、均衡状態のときのみである。)
 これまでに述べたことをまとめると、上のようになる。結局、「トリオモデル」と「修正ケインズモデル」を用いて、「均衡/不均衡」に着目すると、景気変化のマクロ的な現象を、すべてうまく説明できるわけだ。

 [ 付記 ]
 参考として、図を加えておく。
 上の 5. と 6. と 7. については、次の二つの図で説明できる。
 まず、「消費の変動を投資の変動で補う」ということは、次の図でわかる。(説明は → 8月24日b

     景気回復と乗数効果の図

 また、「消費の変動を投資の変動で補う」ということが可能な領域(金融政策が有効である領域)は、次の図の、緑色の領域で示せる。 (説明は → 9月14日

     修正ケインズモデルにおける領域の図(詳細)







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「小泉の波立ち」
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