[付録] ニュースと感想 (32)

[ 2002.11.06 〜 2002.11.19 ]   

  《 ※ これ以前の分は、

    2001 年
       8月20日 〜 9月21日
       9月22日 〜 10月11日
      10月12日 〜 11月03日
      11月04日 〜 11月27日
      11月28日 〜 12月10日
      12月11日 〜 12月27日
      12月28日 〜 1月08日
    2002 年
       1月09日 〜 1月22日
       1月23日 〜 2月03日
       2月04日 〜 2月21日
       2月22日 〜 3月05日
       3月06日 〜 3月16日
       3月17日 〜 3月31日
       4月01日 〜 4月16日
       4月17日 〜 4月28日
       4月29日 〜 5月10日
       5月11日 〜 5月21日
       5月22日 〜 6月04日
       6月05日 〜 6月19日
       6月20日 〜 6月30日
       7月01日 〜 7月10日
       7月11日 〜 7月19日
       7月20日 〜 8月01日
       8月02日 〜 8月12日
       8月13日 〜 8月23日
       8月24日 〜 9月02日
       9月03日 〜 9月20日
       9月21日 〜 10月04日
       10月05日 〜 10月13日
       10月14日 〜 10月21日
       10月22日 〜 11月05日
         11月06日 〜 11月19日

   のページで 》




● ニュースと感想  (11月06日)

 「修正ケインズモデルの限界」について。
 「修正ケインズモデル」について、より広い立場から、見下ろしてみよう。

 今まで、「修正ケインズモデル」を使って、いろいろと調べてきた。調べた事柄は、景気の変動だった。
 さて。たしかに、修正ケインズモデルは、景気の変動をうまく説明することができた。(特に、「需要 − 生産 − 所得」という「相互影響」を見ることで、動的に調べることが可能だった。) しかし、だからといって、「修正ケインズモデル」が、あらゆる経済的な変動を説明できるわけではない。そこには、限界がある。
 では、どんな限界があるか? 適用範囲はどこからどこまでか? これは本質的な問題だ。このことを考えよう。

 「修正ケインズモデル」は、「景気の変動」を示すためのものであって、「経済の変動」を示すものではない。つまり、中期的な変動を示すものであって、長期的な変動を示すものではない。── その違いはどこから来るかと言えば、修正ケインズモデルでは、「供給能力は一定である」と仮定していることだ。
 わかりやすく言おう。式で書けば、
    供給能力 × 稼働率 = (実際の)生産量
 となる。そして、修正ケインズモデルでは、「供給能力」は一定であると仮定して、「稼働率」だけが変化すると考える。そうして、実際の生産量の変化を考える。
 比喩的に言おう。「供給能力」とは、コップの容量だ。「稼働率」とは、コップに入っている水の割合だ。200cc のコップに9割の水が入れば、実際の水の量は 180cc となる。 200cc のコップには 200cc の水が入るが、だからといって、常に水がいっぱいになるわけではない、という点が肝心だ。(もっと良い比喩では、「自動車のエンジン」だ。いくらパワーがあっても、燃料がなくて回転を高められないのでは、パワーは発揮されない。能力は眠ったままだ。)
 かくて、稼働率が大切となる。では、稼働率の変動は、どこから生じるか? それは、需要の変動からだ。需要の変動によって、稼働率が変動する。9割になったり、8割になったりする。── 特に、需要が一定限度よりも下まで減ると、稼働率が下がるだけでなく、市場価格の低下にともなって、「原価割れ」となる。(これはトリオモデルの「下限直線割れ」に相当する。) こうなると、赤字のせいで、倒産や失業が発生する。それが「不均衡状態」だ。逆に、たとえ価格低下が発生しても、赤字にならないでいる範囲が、「均衡状態」だ。
 修正ケインズモデルでは、そういうふうに説明してきた。ここで、ポイントとなるのは、(需要の変化にもとづく)「稼働率」の変化だった。しかし、一方、「供給能力」の変化というのも、長期的には考えられる。

 では、この両者を、どうとらえるべきか?
 答えは、簡単だ。「両者は別々のことである」と考えればよい。つまり、「供給能力の変化と、稼働率の変化は、別々のことである」と考えればよい。それだけのことだ。
 ところが、これを混同している人々が多い。それが「サプライサイド」だ。

 「サプライサイド」の人々は、「供給能力の向上で経済が成長する」と考える。つまり、「供給能力の向上で、実際の生産量が向上する」と考える。しかしそれは「稼働率」というものを、まったく無視した考え方だ。(コップの例で言えば、常にコップの水がいっぱいになる、という考え方だ。エンジンの例で言えば、常に最高出力状態になっている、という考え方だ。)
 わかりやすく示そう。「供給能力」というのは、「供給可能な上限」なのである。その「上限」に常に達するわけではない。稼働率は常に 100% であるわけではない。設備は常にフル稼働しているわけではないし、労働者は誰も失業しないで全員が働いているわけではない。……そういうことをまったく無視しているのが、「サプライサイド」だ。
 つまり、「サプライサイド」は、「供給能力と、実際の供給量とを、混同する」という誤りを犯している。

 とはいえ、「供給能力の向上を重視する」という立場は、それはそれで、悪い発想ではない。それは、「景気の調節」のためには、まったく無効だが、長期的な「経済成長」のためには、有益である。
 サプライサイドの人々はしばしば、「供給能力の向上は、長期的には有益だ」と述べる。たしかに、そうだ。長期的には、有益だ。しかし、問題は、「当面の景気調節にとってはまったく無効だ」ということを理解しないことだ。「景気対策を」と求められて、「長期的な供給力の向上」と答えるのは、「経済対策をせよ」と求められて、「宗教的振興を教える」というようなもので、まったく見当違いなのだ。(宗教家が経済政策を実施するようなものだ。)

 「供給能力の変化と、(実際の)生産量の変化とは、別々のことだ」── このことを、理解しよう。このことは、以前も、次の図を使って説明した。

     景気と経済成長の図

 長期的な経済成長は、図の点線のような形で与えられる。中期的な景気変動は、図の実戦のような形で与えられる。
 もう少し正確に言えば、図の点線は、実線よりも上に位置する。実際の生産は、実線のように波打つ形になるが、長期的な供給能力は、生産量の上限であるから、それよりも上に位置する。(伸び率だけを見るなら、絶対量は問題にならないから、どっちにしても同じことだが。)

 ここで、話を戻そう。
 「修正ケインズモデル」がとらえるのは、この「波打つ実線」の部分だけであり、「なめらかに伸びる点線」の方ではない。つまり、「稼働率の変動」という「中期的な変化」だけであり、「供給能力の向上」という「長期的な経済成長」ではない。

 結局、経済学の問題は、次の二つがある。
    (a) 中期的な変化。景気変動。(稼働率の変動)
    (b) 長期的な変化。経済成長。(供給能力の向上)
 この二つを区別することが肝心だ。ごっちゃにしてはならないわけだ。(サプライサイドは、ごっちゃにするから、間違った結論を出す。)

 以前、「経済成長」について説明したことがあった。( → 6月14日 )そこでは、「資本蓄積の黄金律」や、「消費のターンパイク定理」などについて話した。それらは、上記の (a) (b) のうち、 (b) の方に相当するわけだ。── そういう位置づけを理解することが大事だ。

 また、以前、「迂回生産」について説明した。( → 10月22日b ) そこでは、「当面は消費を減らして、投資を増やすと、成長率を高めることができる」と述べた。このことも、 (b) の方に相当するわけだ。つまり、 (a) の「景気調節」とは別のことだ。
 なお、迂回生産については、しばしば誤解がなされるので、注意しよう。「消費よりも投資を増やす方が、経済成長率を高めることができる。だから不況のときは消費よりも投資を重視するべきだ」という説がある。しかしこれは、上の (a) (b) をごっちゃにして考えている。「消費よりも投資を増やす方が、経済成長率を高めることができる」というのは、あくまで、「供給能力」つまり「生産の上限」の話である。なるほど、現況が均衡状態であれば、その説は正しい。消費よりも投資を重視することで、高い成長率を得ることができる。しかし、不況のときには、そもそも「稼働率の低下」が問題となっているのだ。それが不況のあらゆる病状の根源となっているのだ。こういうときに、「供給能力の拡大」などを実施すれば、「稼働率の低下」がますますひどくなるだけだ。状況は良くなるどころか、悪くなるのだ。(需給ギャップがどんどん開いていって、均衡状態を回復できなくなる。)
 わかりやすく例示すれば、こうだ。供給能力が 100 で、稼働率が 80% なら、生産量は 80 だ。ここで消費を 20 拡大すれば、生産量は 80 から 100 に増えて、稼働率は 100% となる。だから状況は解決する。(たとえば採算ラインが稼働率 90% であれば、その水準をクリアできる。) 一方、ここで(消費を 20 拡大するかわりに)投資を 20 拡大すれば、供給能力は 120 となるが、消費は 60 のままだ。稼働率は 60/120 で、50% となる。だから状況は前よりも悪くなる。(なぜかと言えば、まったく働かない設備を新規に増設したからだ。「最新鋭の設備を導入したぞ」と喜ぶが、売上げが伸びないので、その最新鋭の設備は、宝の持ち腐れとなる。仮にその最新鋭の設備を稼働させることができても、その分、旧設備が稼働できなくなるから、同じことだ。結局、ゴミを買ったのと同じだ。一方、そのゴミは無料ではなくて高額だったから、代金の返済を迫られる。かくて企業には、大幅な赤字が発生する。)
 ついでに言えば、こういう問題は、均衡状態では発生しない。たとえば、供給能力が 100 で、稼働率が 100% だとする。このとき、20 の投資をして、供給能力を 120 にしたとする。このとき、うまくやれば(つまり無謀な投資でなければ)、供給過剰とはならずに、均衡状態が持続する。つまり、供給能力が 120 になったのに応じて、実際の生産も 120 となり、所得も 120 となり、需要も 120 となる。ここでは、「需要 − 生産 − 所得」という「相互影響」がうまく働いている、ということに注意しよう。
( ※ トヨタのように、「企業の生産が増えても、労働者の賃金は上げない」という方針だと、この「相互影響」が断ち切られる。それゆえ、供給能力が拡大しても、所得が増えず、需要が増えない。かくて、設備が遊休する。……マクロ経済を理解しないと、企業は得をしようとして、かえって損をすることになる。)

 ともあれ、以上のように、「景気変動」の話と、「長期的な経済成長」の話とを、区別することが大切だ。

 [ 余談 1 ]
 上に述べた「中期的な景気変動」と「長期的な経済成長」の区別を、比喩的に示そう。……
 「景気対策というものは、病気を治すものであって、健康な人間の体力を向上させるものではない。病気を治すには、それなりの処置が必要である。それは、健康な人間の体力を向上させるための方法とは、まったく異なる。健康な人間は、トレーニングをすることで、体力が向上する。しかし、病人がそんなことをすれば、はかえって有害である」
 この比喩は、前にも何度かあちこちで述べたことがあった。

 [ 余談 2 ]
 また比喩を示そう。
 サプライサイドに属する竹中大臣は、「長期的には、供給重視が正しい」と主張している。たしかに、長期的には、供給能力の向上をめざすべきだろう。つまり、上限均衡点を上昇させるべきだろう。しかし今は、需要不足なのだ。つまり、下限均衡点が問題となっているのだ。これを比喩的に言うと。……
 人々が「今のこの不況を何とかしてくれ」と叫んでいる。すると、竹中大臣は「十年後のインフレ問題を解決します」と主張する。人々が「火事だ! 家が燃えてしまいそうだ。何とか火事に水をぶっかけてくれ」と叫んでいるときに、竹中は「火事が解決したあとが大切です。十年後の家の収容量を増やすために、材木が必要です。さあ、材木を投じましょう」と主張する。
 かくて、水が必要なときに、材木を加える。火事はどんどんひどくなるばかり。

 [ 補記 ]
 サプライサイドの人々は、以上のように勘違いをする。単に「供給能力を増やせば、実際の生産量が拡大する」と考える。「供給能力」だけを考えて、「稼働率」を考えない。では、なぜか? 
 それは、彼らが、「古典派」であるからだ。古典派は「常に需給は均衡する」と考える。つまり、「常に稼働率は 100% に近い」と考える。そう前提した上で、「供給力が拡大すれば、(実際の)生産量も増える」と主張する。
 結局、ここでは、「常に需給は均衡する」という前提そのものが間違っているわけだ。(このことは、これまでも何度か、述べてきたことだが。トリオモデルなどの箇所を参照。)
 そもそも、経済というものは、「均衡状態」と「不均衡状態」とが、ともにある。不況期には不均衡となり、普通の状況では均衡状態になる。そのことを理解することが大切だ。
 経済学には、二つの立場がある。「経済は常に、均衡状態となる」というのが、古典派だ。「経済は基本的に、不均衡状態となる(例外的に、生産量が極限に達する完全雇用状態もある)」というのが、ケインズ派だ。そして、そのどちらも、正しくない。……これまでの経済学は、古典派もケインズ派も、「均衡と不均衡」のうち、片方だけを前提とした上で、成立していた。それはつまり、「間違ったことを前提としていた」ということだ。だからそれらは、砂上の楼閣だった。
 古典派もケインズ派も、半分正しくて、半分誤っていて、ついに真実には到達できないのは、当然のことなのだ。


● ニュースと感想  (11月07日)

 前項の続き。前項で書き落とした補足的な説明を  [ 付記 1 ] 〜 [ 付記 4 ] として記す。

 [ 付記 1 ]
 均衡状態のもとでは、経済の成長率は、供給能力によって決まる。このとき、需要および生産は、(上限としての)供給能力に一致するから、「供給が需要を決める」という「セイの法則」が成立する。 (詳しくは → 7月29日
 逆に言えば、「セイの法則」が成立するのは、長期的な供給能力が問題となる場合だけのことだ。供給能力よりも需要の縮小が問題となる場合については、話が及ばない。

 なお、「セイの法則」については、補足しておくことがある。7月29日 でも述べたことだが、「セイの法則」が成立するのは、「数量の増加に応じて、価格が低下すること」が必ず成立する場合だ。つまり、原価割れが発生しない(下限直線がない)場合だ。それはつまり、「原価がゼロ」である場合だ。( ∵ 経済学の教科書にある「一般均衡モデル」などを見ればわかる。「数量の増加に応じて価格がゼロまで下がること」が前提とされている。)
 現実には、「原価ゼロ」ということは、ありえない。では、「セイの法則」はまったくの間違いか、といえば、そうでもない。そのままの形では間違いだが、次のように補正すれば大丈夫だ。
 「『原価割れしない範囲での供給能力』が需要を決める」
 つまり、需要を決めるものとして、単なる「供給能力」でなく、「原価割れしない範囲での供給能力」とすればいいわけだ。こう書き直せば、ちゃんと成立する。(不況で不均衡にならない限りは。)

( ※ このことから、「供給能力をどんどん増やせば無限に生産が拡大する、というわけではない」とわかる。なぜなら、やたらと供給能力を増やせば、市場価格の低下にともなって、原価割れになってしまって、『原価割れしない範囲での供給能力』という条件を、満たさなくなるからだ。……なお、単純な形の「セイの法則」だと、このことが言えないことに注意せよ。つまり、『原価割れしない範囲で』という条件が付かないと、「供給能力をどんどん増やせば無限に生産が拡大する」というふうになってしまう。これは、おかしな結論だ。)

 [ 付記 2 ]
 「長期的な経済成長」については、「生産性の向上」が大切となる。
 さて、「生産性の向上」と「景気変動」とでは、関連が生じる。「生産性の向上によって、供給能力が向上すると、その分、需要が増えなくてはならない。さもないと、需要不足で、不均衡が発生する」ということだ。
 これについては、前に「需要統御理論」のところで説明した。

 [ 付記 3 ]
 「貨幣数量説」ふうの考察は、「修正ケインズモデル」には特に含まれていない。つまり、これについては、別の話となる。
 「貨幣数量説」ふうの物価上昇は、二つの場合で発生する。
 第1に、供給が制限されたときに発生する。「上限均衡点の突破」でもそうだが、上限均衡点にまで達していなくても、ストライキや大地震や原材料不足などで、供給の拡大が不可能になれば、需要の拡大に供給の拡大が追いつけないので、「需要の過剰」が発生して、それにともなって「物価上昇」が発生する。……ここでは、「不均衡状態」(需要超過)が発生しているように見えるが、正確には、そうではない。「需要超過」というのは、「市場が消えること」または「輸入」のことだ。供給の制限によって「需要の過剰」で発生するのは、「需要超過」という現象ではなくて、「供給の頭打ち」という現象だ。つまり、供給の数量の上限直線(トリオモデルにおける右側の垂直線が、左側の方によってきたことで、供給直線が垂直になったため、発生する現象だ。……これは、当然、「貨幣数量説」的な「物価上昇」となる。
 第2に、まさしく「貨幣量の増加」によって発生する。貨幣の増加があると、貨幣数量説の式によって、自然に物価の上昇が起こる。次の式がそれだ。( → 2月22日
    (貨幣供給量)= × (物価水準)×(実質国民総生産)
 この式は、「均衡状態」において成立する。「需要不足」という「不均衡状態」では、金は滞留するので成立しないが、「均衡状態」では、ちゃんと成立する。(貨幣供給量の変化が、物価の変化にすっかり行き渡るまでには、1年半程度のタイムラグがあるのが普通だ。)
 「貨幣数量説」ふうの物価上昇については、「タンク法」でも説明される。これは、「貨幣量の増加」がただちに「消費の増加」に結びつく場合(金融市場を経由しない場合)である。これは即時的な景気調節効果がある。しかも、このことは、「修正ケインズモデル」に結びつけて説明できる。この件は、以前の記述を参照。 ( → 9月01日

 [ 付記 4 ]
 前項では、「迂回生産」の説明として、「消費を減らして投資を増やすと、成長率を高めることができる」と述べた。
 一方で、「経済成長」についての以前の話では、「消費も投資も、生産性向上率の数値で、同じ率で伸ばすべきだ」とも以前述べた。( → 6月14日 の 1. )
 この両者は矛盾する。では、どちらが正しいのか? それについて考えよう。
 実を言うと、その答えは「状況しだい」つまり「ケース・バイ・ケース」である。場合分けすれば、次のようになる。
  1.  途上国など
     慢性的な生産力不足の国(途上国など)では、当然、生産力の拡大をめざすべきだ。つまり、需要を抑制して、投資を増やす方がいい。そうすれば、成長率が高まる。供給能力が急速に高まるので、「今は我慢すれば、将来よくなる」というふうになる。
  2.  先進国など
     生産力が十分にある国(先進国など)では、途上国とは事情が異なる。そもそも、需要をまかなううだけの生産力は、すでにあるのだ。こういう状況で、やらと生産を増やすと、供給過剰となる。供給能力ばかりをどんどん伸ばしても、需要がそれに追いつかないのだ。かくて、需給ギャップが発生する。すると、これは「均衡状態」が崩れることで、一種の「病気」の状態となる。そのせいで、「稼働率の低下」が発生するので、いくら供給能力を増やしても、実際の生産はかえって減ってしまう。── ここでは、供給力(上限均衡点)は問題とならず、需要(下限均衡点)が問題となる。
 結語。
 「需要」と「供給」は、あくまでもバランスを取って、いっしょに伸びることが大切だ。「供給能力だけを増やせばいい」という単純な話ではないのだ。
 なるほど、途上国ならば、「供給能力を増やせばいい」という話が成立する。それは、人々の欲求が満たされていないので、需要がもともと供給能力よりもずっと巨大だからだ。しかし、先進国では、そうではない。需要はもともと供給能力とほぼ同じぐらいしかない。こういう状況で、生産能力ばかりを増やしても、意味がない。
 たとえて言えば、こうだ。船で荷物を運ぶとする。大きな荷物があるなら、「大きな船が必要だ」となる。しかし、もともと荷物がないときに、船ばかりを大きくしても、船は空荷となって、バランスを失って、転覆してしまうのだ。そういうふうに、何事も、バランスが大切なのだ。
 結局、大切なのは、需給の均衡なのである。供給能力の拡大は、インフレのときには必要だが、デフレのときにはかえって有害である。同様のことは、「消費よりも投資を」という主張にも当てはまる。昔の日本は、供給力不足だったから、消費を減らして、貯蓄を増やして、投資を増やすべきだった。しかし今の日本では、供給力は不足どころか過剰なのだから、むしろ、消費を増やすべきなのだ。「貯蓄は美徳」というのは、もはや時代遅れなのである。

 [ 余談 ]
 比喩を述べておく。前項では最後の方で、次の比喩を述べた。
 「病人の体調を正常化するには、そのための処置が必要であり、健康な人間の体力を向上させるための方法は、病人にはかえって有害となる」
 さらにもっとうまい比喩を、新たに思いついたので、追加しておこう。
 「風邪で下痢をしている患者に、『栄養を与えよ』と、どんどん食物を与えても、状況はかえって悪くなるばかりだ」
 つまり、「栄養(見当違いの直接対策)をやればやるほど、下痢(病状)がひどくなる」わけだ。
 この比喩について、具体的な例を挙げよう。以下の通り。
 (1)「不良債権処理」── 不良債権を処理すればするほど、不良債権処理はかえって増えていく。
 (2)「財政健全化」── 財政赤字を解決しようとして、増税すればするほど、財政赤字が拡大する。
 (3)「生産性向上」── 生産性を向上させればさせるほど、稼働率が下がり、失業者が増え、需給ギャップが開く。(注釈:生産性の向上には、もちろん、メリットもある。ただし、均衡状態ではメリットだけが現れるが、需給ギャップがあるときには上記のようなデメリットが同時に強く出る。)
 (4)「企業向けの減税」── 財源が一定であるもとでは、企業向けの減税(供給拡大のための減税)をやればやるほど、需要拡大のための金が食われる。つまり、消費者にとっては実質増税だ。そのせいで、需給ギャップがどんどん開いて、状況が悪化する。(これは、「長期的な供給力拡大を重視して、現在の稼働率向上をめざさない」という、典型的な例だ。)


● ニュースと感想  (11月08日)

 本日別項で示すように、今後、「失業」についての新シリーズを始める。
 ただ、「失業」に関しては、前々日に述べたことがいくらか関係するので、ここで関係を示しておこう。

 失業というのは、労働者の現象としてみれば、どれもこれも同じようなものだと見える。つまり、「労働者が働けない」(働く職場がない)ということだ。
 しかし、労働者の現象としては同じでも、設備まで考えると、二つに区別することができる。次のように。
  1.  設備が稼働していないせいで、失業する。
  2.  設備が稼働しているのに、失業する。
 この違いに注意しよう。これは根本的な違いだからだ。
 まず、「失業とは何か?」を考えよう。それは、単純に「労働者が余っている状況」と理解することができるかもしれない。しかし、より根本的には、「生産量が不足している」ことに原因がある。労働者はたくさんいて、生産量を増やせるのに、どういうわけか、労働者が余っていて、生産量を増やせないのである。── ここに根本原因がある。
 そこで、「生産量が縮小している」という点に着目すると、上記の a ,b は、次のような違いとして説明できる。
  1.  設備が稼働していないとき ……
     これは、前々項の「稼働率」が低下したせいで、生産量が低下したからである。
  2.  設備が稼働しているとき ……
     これは、前々項の「供給能力」が低下したせいで、生産量が低下したからである。
 この両者の違いは、本質的な違いだ。なぜか? 失業の原因が、正反対であり、対策も正反対であるからだ。
 a の方は、「稼働率の低下」が原因である。これは、「不況」(デフレまたはリセッション)という状況である。これは「消費不足」に原因がある。したがって、失業問題の対策は、「消費の拡大」である。
 b の方は、「供給能力の不足」が原因である。これは、「好況」(インフレ)に似ているが、失業が問題となっているから、「スタグフレーション」という状況である。これは「投資不足」に原因がある。したがって、失業問題の対策は、「投資の拡大」である。

 この二つは、根本的に異なる。対策法は、正反対である。
 a の方では、通常のデフレ対策と同じく、「消費拡大」をめざせばよい。「投資拡大」は、やってもいいが、たいていは金融政策があまり効かなくなっているはずだ。(金利の低下だけで需要が増えて失業が解決するのであれば、そのときはもはや、不況ではないし、失業問題も解決していることになる。つまり、「金融政策が有効である」場合には、とっくに問題はすべて解決しているはずだ。)
 b の方では、「金利の低下」という方法を取るのが普通だが、そうすると、状況は失業とは別のところで悪化する。もともと供給能力が不足しているところで、単純に金融緩和をやれば、失業は減っても、インフレがどんどんひどくなるので、一国経済が破滅に向かう。(例としては、ひどいインフレに見舞われたアルゼンチンなど。) こういうときは、IMF流では、逆に、インフレ抑止をめざして、「金利の引き上げ」をやるが、そうすると、インフレを止めることができるかわり、失業率はひどく上昇する。また、「利用可能な経営資源(労働力)が遊休する」という形を取るから、成長率は鈍化して、問題の解決はかえって遠のく。……では、どうするべきか? こういうときは、「投資の拡大」をめざして、「金利の引き下げ」を実施するべきなのだ。と同時に、「消費」の拡大による「物価上昇」への対策として、「増税」を実施するべきなのだ。こうすれば、「物価上昇」と「失業率増大」の二律背反を解決することができる。(以前、「ポリシー・ミックス」の箇所で述べた。 → 4月下旬のあたり。)

 まとめ。
 失業には、二つのタイプがある。「消費不足」による失業と、「投資不足」による失業。前者では、「稼働率の低下」が見られ、後者では、「稼働率の頭打ち」(供給能力の不足)が見られる。前者への対策は、「消費拡大」のための「減税」であり、後者への対策は、「投資拡大」のための「金利引き下げ」(および増税)である。

 [ 付記 ]
 以上とはまったく別のタイプの「失業」もある。それは、「生産量の不足」に原因があるのではなくて、「労働力の配分が偏っていること」による失業だ。つまり、働いている人々はやたらと働き過ぎとなり、その一方で、働けない人々が出てくる。「富の偏在」ならぬ「労働量の偏在」である。
 これはもちろん、こういう「偏在」をなくせばよい。つまり、「ワークシェアリング」を実施すればよい。……ただ、これは、「経済学」の問題ではなくて、「労働政策」の問題である。経済学的にどれほど正しい政策をやっていても、労働政策がメチャクチャであれば、(現象としての)失業問題を解決することはできない。

 [ 余談 ]
 「失業」を経済学的にとらえる、というのは、本項で述べたことが本質的だ。つまりは、「失業」を「生産量の不足」に起因するものと見なして、「生産量の不足」がどうして発生するかを考えるわけだ。(すると、上記のような結論となる。)
 一方、従来の経済学では、「自発的失業・非自発的失業」なんていう区別をすることがある。この区別は、まったく不適切な区別である。「やっても意味がない」のではなくて、「やればやるほど害悪がある」という種の区別だ。……この件については、後日また述べる。悪口たっぷりで。  (^^); 

  【 追記 】
( → 失業に対する古典派の説については、12月13日 以降の「失業シリーズ」。1月02日 以降の「古典派批判」。自発的失業については、1月12日


● ニュースと感想  (11月08日b)

 【 予告 】
 「景気変動」については、ここまでにいろいろと述べてきた。これで話はいったん完結している。
 ここまで述べてきたのは、「修正ケインズモデル」を使った説明だった。それは、「需要 − 生産 − 所得」という関係を通じた話だった。ただし、そこで抜けていた話題もある。それは「失業問題」だ。
 というわけで、今後は新たなシリーズとして、「失業問題」について考察する。

 ( ※ その前に、時事的な話題も、いくらか取り上げる。)
 ( ※ このあとは数日間、ペースを落とします。多忙につき。)


● ニュースと感想  (11月09日)

 すでに述べたとおり、肝心なことは「実体経済を拡大すること」である。そのためには、生産設備をいじる必要はなく、「稼働率を上げること」が肝心である。
 ここを勘違いすると、「金融危機を緩和すればいい」とか、「不良債権処理をすればいい」とか、おかしな意見が出る。

 若手の政治家へのインタビュー記事がある。(朝日・朝刊・経済面 2002-11-08 ) おかしな主張なので、解説しておこう。

 (1) 銀行国有化
 「銀行国有化をせよ」という主張。(民主党・枝野幸雄。由起夫も悠紀雄も、ユキオというのにはろくなのがいないようだ。)
 「金融機関は経営危機だから、貸し出しを抑制している。国有化して、貸し出しを正常化せよ」という主張。
 ところが一方で、「(バブル期に)ゆがんだ担保主義による過剰投資のせいで、不良債権を生んだ」とも主張する。これはまあ、正しい。
 しかし、この両者は、矛盾する。「過剰融資をすれば不良債権になる」とわかったはずだ。ならば、「過剰融資をやめる」というのが正しいはずだ。実際、今は投資過剰で、設備は遊休しているのだから。なのに、「景気回復のために、どんどん投資をさせよ」(そのために銀行が貸し出しを十分にできるように国有化せよ)と主張する。
 いったい、どちらなのか? 不況の今、過剰投資を、するべきなのか、するべきでないのか? 「過剰投資をする」ならば、さらに不良債権が発生する。銀行国有化をすれば、莫大な不良債権が国民の負担となる。「過剰投資をしない」ならば、銀行国有化などは必要ない。
 自己矛盾。

 (2) 不良債権処理
 不良債権処理は、そもそも、効果がない。企業に資金需要がないからだ。仮に資金需要があったとしても、「投資増大」という若干効果のあとは、「それらの投資が無駄となって遊休する」というふうになるから、「不良債権がかえって拡大する」という結果になるだけだ。状況は悪化する。倒産の拡大。
 一方で、国民は、「不良債権処理で不安になる(倒産・失業の危機を感じる)」ようになる。先に述べたこととの関連で言うと、「所得が減る」という予想をもつ。「所得の減少」という最大の原因を、解決するどころか、悪化させる。だから消費はかえって減る。

 (3) 不良債権処理と通貨増発
 「150兆円の日銀マネーで不良債権処理をする」という案。「日銀はいくらでもお札を刷れるから、そのお札で不良債権処理をすれば、マネー拡大のインフレ効果と、不良債権処理と、両方ができて、一挙両得だ」という説。
 これは、榊原英資の案とそっくり。通貨の発行主体が日銀か政府か、という違いがあるだけで、実質的に同じ。だから、その評価も、同じとなる。( → 7月01日b
 簡単に言おう。これは実は、効果がある。150兆円も投入すれば、まず間違いなく、ハイパーインフレになる。その意味で、デフレ脱却はできる。一つの地獄から、別の地獄へ。(そしてハイパーインフレのあとは、ふたたびそれが破裂して、ふたたびデフレとなる可能性が高い。)
 では、150兆円でなく、もっと小規模なら? たとえば、30兆円ぐらいなら? その場合は、かなり不安定である。大量の資金が発行されるが、その多くは「不良債権処理」をしたあとは、滞留するだろう。デフレが続きそうだ。そして、あるとき何らかのきっかけで、それまでにあった30兆円規模の量的緩和とあわさって、60兆円規模の資金が一挙に活性化する。薪に火がつく。やはり、ひどいインフレとなる。(資産インフレの可能性もある。) ……それを止めれば、やはりひどい反動が来る。
 しかも、道義的な問題もある。この案は、結局は、「大量の減税」と同じなのだ。ただし、減税の対象を、「不良債権を持っている人」に限っている。「バブル期にさんざん浮かれて余計な金を使いまくって、そのツケに苦しんでいる阿呆」「デフレを起こした張本人である最大の罪人」に限って、減税する、ということだ。つまりは、「犯罪者だけに大量の金をプレゼントしよう」というのと同じだ。
 なるほど、これもまた減税であるから、たしかに、効果はあるだろう。しかし、愚の骨頂である。たぶん、彼らは、こう言いたいのだろう。「世の中で最大の悪人は、政治家だ。だから最大の悪人である政治家に、最大の金をプレゼントするべきだ。そういう原理を取ろう。だから、同様に、最大の悪人である不良債権の発生者に、金をプレゼントしよう」と。
 狂気。


● ニュースと感想  (11月09日b)

 「経済財政白書」。書店で発売中。
 この白書がひどい出来だということは、あちこちで話題になっているし、解説もあちこちで見られるから、特に言及しない。ゴミについては、言及したくない。


● ニュースと感想  (11月10日)

 「不良債権処理の本質」について。
 不良債権処理については、ここ1カ月ほど、政府やマスコミでいろいろと話題になった。私としても、10月25日 で、いくらか言及した。本項では、肝心の核心を述べることとしよう。
 まず、これまでの話では、次のように述べた。
  1. 不良債権処理というのは、そもそも、帳簿処理にすぎない。そんなことをしても、需要も供給も、直接増えることはない。実体経済を拡大する措置(減税や金利低下など)とは異なる。
  2. 不良債権処理をすると、銀行は帳簿上で身軽になる。だから、融資を拡大する余裕はできる。この意味で、実体経済を直接動かすことはなくとも、金融体制を健全化するという間接的な意味はある。
  3. 不良債権処理をすれば、たしかに、銀行は融資を増やす能力を得る。しかるに、もともと、銀行の融資能力は余っている。なぜか? 不良債権の存在により、銀行の融資枠は縮小しているのだが、それにも増して、資金需要が縮小しているからだ。その証拠が、金融市場における「金利ゼロ」である。
  4. 仮に、「不良債権処理をすることで融資が増える」という説が成立するのであれば、もともと市場では資金需要があるわけだから、金利は高くなっているはずだ。また、企業は、銀行から借りずに、社債で資金を得るはずだ。しかるに、実際には、企業は資金を投資には回さず、逆に、銀行に返済するばかりだ。(有利子負債の圧縮。)
  5. 結局、不良債権処理には、効果はない。つまり、そんなことをいくらやっても、投資は増えない。つまり、不良債権処理は、有益でない。(無効である。)
  6. その一方で、不良債権処理は、有害である。
  7. なぜなら、不良債権処理にともなって、倒産や失業が発生するからだ。
  8. ここで問題なのは、倒産や失業が発生すること自体ではなくて、そうして発生した経営資源が、転用されずに遊休することである。
  9. そのせいで、一国全体の経済は、どんどん縮小してしまう。状況は、かえって悪化する。しかも、そのことが、スパイラル的に拡大する。(癌細胞の増殖のようなものだ。)
  10. 倒産や失業の発生に対しては、「セーフティネットで」という主張もある。しかし、そんな対症療法的な方法では、ダメなのだ。1国経済をどんどん縮小させているときに、「倒産や失業が発生したから国が面倒を見ます」というような考え方だと、結局は、生産の縮小が放置されて、最終的には、生産がゼロになってしまう。つまり、全員が失業だ。そうなっては、セーフティネットなんてものが、意味をなさない。
 さて。不良債権処理は、このように誤っている政策だが、それにもかかわらず、世間では「不良債権処理をするべきだ」という説が出回っている。では、なぜか? 不良債権処理は、なぜ、それほど重視されるか? 
 実は、「不良債権が経済成長を阻害する」とか、「経済の正常な発展には不良債権処理が必要だ」とか、そういう言い分は、たしかに正しいのである。その主張自体は間違っていない。
 では、何が間違っているか? それは、その話の、(暗黙裏の)前提だ。すなわち、「経済が正常な状態(均衡状態)であれば」という前提だ。この前提のせいで、すべてが逆転してしまう。
 「経済が正常な状態(均衡状態)であれば」という前提。この前提のもとでは、たしかに、「不良債権処理をするべきだ」と言える。不良債権処理をすることで、邪魔なものを除去すると、金の流れが良くなり、資源が適正配分される。だから高い成長が可能となる。もともとプラスの成長率があるときには、さらに高い成長率を得ることができる。
 しかし、それはあくまで、「もともとプラスの成長率がある」ときの話だ。つまり、「経済が正常な状態(均衡状態)であれば」という前提が成立する場合のことだ。(このときには、古典派の「市場原理で最適化」という主張の通りになるわけだ。)

 では、その前提が満たされなければ? その場合、古典派の主張は、すべて崩れてしまう。資金にせよ、労働力にせよ、経営資源にせよ、もともと余っているのだから、「劣悪なものを排除する」必要などはないのだ。「劣悪なものを排除する」という方針では、「少しでも稼働していたものがまったく稼働しなくなる」という形で、状況は悪化するばかりだ。── たとえて言えば、「病人は半分生きているだけだから、無駄だ。死んだ方がマシだ」という主張だ。冗談ではない。たとえ半分生きているだけであろうと、死ぬよりはマシだ。そして、そのことを理解しないで、「どんどん殺せ。どんどん切り捨てよ」と主張しているのが、「不良債権処理」論者だ。
 不均衡状態では、供給過剰であるがゆえに、生産力の最適配分という問題は発生していない。ここで、無理にそんなことをめざして、既存の(劣悪な)供給体制を削減すれば、「所得の減少」というマイナス効果だけが発生する。そのことがマクロ的に状況を悪化させる。

 結局、大切なのは、「均衡か/不均衡か」ということなのだ。そして、「不良債権処理で経済成長」というのは、「均衡状態」のときには成立するのだが、「不均衡状態」では成立しないのだ(むしろ状況を悪化させる)。この点を理解することが大切だ。
 ( → 8月10日 「不均衡状態では市場原理で最適化されない」 )
 
 [ 付記 ]
 企業に資金需要がないのは、投資意欲がないからだが、それは、不況のときは、そもそも、「供給能力の拡大」は必要ないからだ。必要なのは、供給能力の増大ではなく、稼働率の向上である。これは、先に述べたとおり。


● ニュースと感想  (11月11日)

 「デフレと不良債権の悪循環」という説について。
 「デフレと不良債権が悪循環している。だから、不良債権処理をして、不良債権を一挙に片付ければいい。そうすれば、悪循環を断ち切って、デフレを解決できる」
 という説がある。(「経済財政白書」にある記述。また、竹中大臣もそう主張している。)
 一見、「もっともだ」と思えるが、この説は間違いだ。実際には、「不良債権処理をすればするほど、不良債権が増える」という現実がある。つまり、不良債権処理は、「する」よりも「しない」方が、不良債権の発生を抑制できる。
 では、上の主張は、どこが間違っているのか? それを考えてみよう。

 上の説における悪循環というのは、「デフレ → 不良債権の発生 → デフレ → 不良債権の発生 → ……」というものだ。これは、次の二つに分けて考えることができる。
   ・ デフレ → 不良債権
   ・ 不良債権 → デフレ
 この二つのうち、どちらが間違っているのか? 
 実は、どちらも、完全に間違っているわけではない。部分的には正しいところもある。そのことが、事情を見えにくくしている。以下で詳しく考察しよう。

 (1) デフレ → 不良債権
 この過程は、部分的に正しい。「デフレが不良債権を発生させる」という命題は、真か偽かと問われれば、「真」であると言える。(論理的に。)
 ただし、である。実際には、デフレが発生させるものは、「不良債権」だけではない。デフレが発生させる症状には、他のものもある。つまり、「消費縮小」、「投資縮小」、「所得減少」、「失業増加」などだ。これらの症状もまた、デフレとは悪循環の関係にある。
 だから、「悪循環を止める」という主張をするのであれば、これらの症状についてもまた、個別に悪循環を止める必要が出てくる。つまり、「消費の拡大!」「投資の拡大!」「所得の拡大!」「失業の縮小!」など。(政策としては、補助金やら、セーフティーネットやら。)
 たとえ「デフレと不良債権の悪循環」を断ち切っても、また「デフレと失業」とか、「デフレと投資縮小」とか、そういう別の悪循環が残ることになる。それでは決して、「不良債権をなくせば、デフレは解決できる」ということにはならない。
 結局、「デフレ → 不良債権の発生」という命題は正しいのだが、だからといって、「悪循環をつぶすには、不良債権を消せ」という主張が正しくないわけだ。そこにはとんでもない論理の飛躍がある。(論理的な思考ができない人は、このメチャクチャ論理にだまされるが。)

 (2) 不良債権 → デフレ
 これはそれなりに正しい。たしかに、不良債権は増えれば増えるほど、デフレは悪化する。だから、不良債権を増やさないことが大事だ。
 ここで、注意せよ。「不良債権を増やさない」という点について、「増やさない」という言葉の意味だ。
 不良債権については、「新規発生」を抑えるということは大事だ。一方、既存の分を「処理」することは、別問題だ。ここを勘違いしてはならない。
 不良債権の処理論者は、「不良債権が悪いなら、不良債権を処理して消してしまえばいい」と考える。しかし、処理すればするほど、新規の発生が増えるのだ。穴のあいたバケツのようなものである。穴があいたまま、どんどん水を入れれば、水の漏れる量がどん増えるばかりだ。ここでは、「水を入れる」ことよりも、「水の漏れをなくす」ことが大事だ。それと同様だ。不良債権がどんどん発生する、というデフレ状況(≒ 穴)を放置したまま、次々と不良債権処理をして企業を倒産させれば、デフレ状況はさらにひどくなり、処理した分以上に新規発生が出る。注いだ水以上に、漏れる量が増える。(このことは統計的に明らかである。)
 結局、「新規発生」と「処理」との区別をしていないことが間違いなのだ。「新規発生」を増やさないことは必要だ。しかし、すでに発生した分を「処理」して強引に減らすことは、かえって逆効果なのだ。処理すればするほど、新規発生がどんどん増えるのだ。
 たとえれば、こうだ。肝臓病の患者がいる。肝臓が悪い。このときは、「病気の悪化」を防ぐことは大切だ。しかし「処理」という「強引な削除」は必要ではない。なのに、「悪い病巣は根元的に削除することが大事だ」と主張する人がいる。「肝臓が悪いのか。ならば、肝臓を手術で削除すれば、肝臓病は消える。それが根本的な処置だ」と。しかし、そんな主張に従えば、患者は、肝臓を失って、死んでしまう。
 あるいは、こうだ。「風邪」という原因のせいで、喉や鼻が腫れた。ここで「喉や鼻が悪化したのが問題だ。喉や鼻を削除するのが、根本的な対策だ」という主張に従えば、喉や鼻をなくして、その患者は死んでしまう。ここでは、喉や鼻の部分を削除することが大切なのではなくて、風邪という病気そのものを治療することが大切なのだ。
 なのい、そういうことを理解できないのが、「不良債権処理」論者という、無知な輩だ。
 正しい治療とは、「悪い」ものを「良い」状態に治すことだ。「悪い部分を削除すれば、残りは健常な部分だけになる。これで病気は解決する」というのは、あまりに短絡的な暴論だ。幼児レベルだとも言えるし、狂信的だとも言える。

 結語。
 (1) からわかるように、症状のうちの一つだけに着目しては、ダメだ。病気の症状を消すには、病気そのものを治すことが大事だ。つまり、根源たるデフレを治すべきだ。(「不良債権」という症状だけを治そうとしても無意味だ。)
 (2) からわかるように、悪いところは削除するべきではなくて、そこは保留したまま、病気そのものを治療するべきだ。「ダメなものは切り捨てればいい」というのは、あまりにも粗っぽすぎる。

 [ 補説 ]
 粗っぽい「市場原理」を信奉して、大失敗したのが、ロシアだ。
 ロシアでは、「優勝劣敗」を信じて、次々と企業を倒産させた。それで状況は好転するはずだった。しかし実際には、「優」たるものが存在しなかったので、「劣」の退出だけがなされて、生産力がすっかり消えてしまった。(一方、それとは逆に、「劣」を「優」に変えようとしたのが、中国だ。)
 今の日本の政策は、ロシアと同じである。「優勝劣敗」を信じて、次々と企業を倒産させ、経済を崩壊させようとする。それがつまり、「構造改革」やら「不良債権処理」やらの、盲目的な「市場原理」主義者のやっていることだ。今の日本は、ロシア化しつつある。

 なお、「優勝劣敗が成立しない」ということは、「劣者が消えても、その分、優者が増えるわけではない」ということだ。それはつまり、「劣者が消えると、マクロ的に総和がいっそう縮小して、状況はかえって悪化する」ということだ。
 それはつまり、状況が「均衡状態ではなく、不均衡状態だ」ということになる。ここでも、「均衡/不均衡」という区別が本質的となる。そして、均衡状態では正しいはずの政策を、不均衡状態で実施すると、状況は悪化していくのである。


● ニュースと感想  (11月12日)

 「企業再生」について。
 不良債権処理に関連して、「不良債権となった企業をRCCが企業再生すればいい」という主張がある。
 つまり、「倒産したのは、個別企業が劣悪だからだ」という理屈のもとで、「だったら国が面倒を見ればいい」というわけだ。
 まったく、呆れはてた話だ。それはまさしく、社会主義の考え方そのものだ。「企業が倒産するのは、市場原理だから」と資本主義を信奉する一方で、「企業を育成するのは、国の仕事だ」と社会主義を信奉する。自己矛盾だ。どちらかにしてもらいたいものだ。
 だいたい、国の企業再生がそんなにすばらしいものであるとしたら、郵政事業や道路公団は、さぞかしすばらしい企業体質になっているはずだ。しかるに、そうなっていない。「構造改革」の話題といえば、「民営化」が最大の話題であったはずだ。それを忘れてしまったのだろうか? 一方で「銀行や倒産企業は劣悪だから国営化すれば良くなる」と主張し、他方では「郵貯などの国営事業は劣悪だから民営化すれば良くなる」と主張する。自己矛盾。

 正解を言おう。民営化しようと、国営化しようと、個別の企業をいくらいじっても、ダメなのだ。総需要が縮小した状態では、供給力はどこかが余る。
 仮に、国の方針がうまく行って、「企業再生」が成立したとする。とすれば、その分、他の民間企業がつぶれるだけだ。なぜなら、しょせんは、供給力が余剰だからだ。
 結局、対策は、「総需要の拡大」しかない。供給の側をいくらいじっても、「稼働率の低下」という問題は解決しないのだ。

 [ 付記 1 ]
 竹中大臣へのインタビューがある。(11日発売の「週刊現代」) ── ここで、変な主張がある。「企業再生の機構の設立は、国有化・国営化ではない。民間人をトップに据えるからだ」という主張。
 どうも、大臣は、根本的に勘違いしているようだ。機構のトップを民間人にするか公務員にするかが問題なのではない。トップの経歴が民間出身かどうかが問題なのではない。そんな本人の履歴書など、全然関係ないのだ。経済問題というのは、履歴書のことではないのだ。(頭がイカレているとしか思えない。)
 「企業再生の機構」というものが問題なのは、組織形式や経営者の問題ではなくて、そういう機構が存在すること自体なのだ。
 大臣が言っているのは、要するに、「これは国営の組織ではなくて、三セクだから経営がしっかりしています」ということだ。しかし、三セクなんてものが、どれほど莫大な失敗を出してきたか、よく考えてみるがいい。
 だいたい、根本的な発想が間違っているのだ。「民間が自由にやったら失敗したから、国または三セクの主導で、うまく管理すれば良くなるはずだ」という思想。それは結局は、「社会主義」と同じことになる。(ちょっと毛色が違うだけだ。)
 大臣は「サプライサイド」に属して、「市場原理で最適化」を信じているはずだ。ならば、それを貫くべきなのだ。そしてまた、私としても、個別企業の経営については、「市場原理で最適化」を信じている。
 問題は、個別企業の経営ではなく、マクロ的な総需要にある。そのことを理解するべきなのだ。

 [ 付記 2 ]
 企業再生は、たとえうまく行っても、不況の解決にはならない。そのことに注意しよう。(症状の緩和にはなるが、根本的な解決にはならない。)
 「不況期(不均衡期)にリストラ」という形で、企業再生ができたとする。そのことで、企業収益が好転するので、倒産は防げる。しかし、「リストラ」によって、失業者が莫大に出たままなのだ。倒産は減るが、失業は増える。
 つまり、倒産を回避できるので、「全員解雇」ではなくなったが、リストラが行なわれるので、「部分的解雇」となる。状況は、最悪ではなくとも、やはり悪いままなのだ。マクロ的には、不況が解決することにはならないのだ。
 企業再生は、最悪を防ぐという意味しかない。「倒産」を防ぐことはできても、「失業」を防ぐことはできない。そして、「失業」を防ぐには、マクロ的に総需要を回復する以外にはないのだ。

 [ 付記 3 ]
 企業再生の例を考えよう。うまく行った例はある。たとえば、日産だ。これは典型的だ。
 日産は、企業再生が、うまく行った。とすれば、他の赤字企業も、日差のゴーン社長のような人物が現れれば、どの企業でも、企業再生が成功するか? 
 そう思うとしたら、勘違いである。日産の場合は、「日産だけがダメだった」のだ。トヨタもホンダも莫大な利益を出していたのに、日産だけが莫大な赤字を出していた。つまり、自動車業界では、需給は均衡状態にあった── こういう状況では、需要に原因があるわけではないから、日産も経営体質を改善することで、トヨタやホンダのようになることが可能だ。
 他の業界では、そうは行かない。同業他社が皆そろって赤字になるときには、経営体質を改善したところで、急に収益が良くなるわけではない。
 同様にして、たとえ日産がどんなに体質を改善したとしても、自動車の需要が今から半減したら、日産だって倒産するだろう。
 結局、企業再生というのは、悪いことではないし、やればやっただけの効果はあるが、「不況解決」というのとは、まったく別のことなのだ。「日本中の企業を再生すれば、景気が回復する」などと思ったら、とんでもない間違いだ。下手をすれば、「残っている企業は皆黒字だが、切り捨てられた失業者が今の数倍」というふうになりかねない。企業は再生されても、国民は自殺するばかりかもしれない。
 大切なのは、個別の企業ではなくて、マクロ的な経済なのだ。


● ニュースと感想  (11月13日)

 「企業再生の機構設立」という考え方のどこに間違いがあるか、説明しよう。
 前日分の記述では、「個別企業をいじってもダメで、マクロ的に総需要を拡大するしかない」と述べた。では、なぜ、そうなのか? 
 それは、「均衡・不均衡」という考え方で、説明できる。以下の通り。

 本来ならば、「市場原理」が働いて、「優勝劣敗」によって、状況は最適化するはずだ。つまり、いちいち国が「ああせよ、こうせよ」などと介入しなくても、放置するだけで、状況は改善するはずだ。ダメな企業は、倒産して、その経営資源が、別の企業に移る。倒産企業に残存価値があるなら、倒産ではなく買収されて、より好ましい状況になる。……つまり、政府が「企業再生の機構」でやろうとしていることが、もっとうまく「市場原理」においてなされるのだ。(ここで政府がかわりにやろうとしていることは、「民間に任せてはダメだから国がやる」という、社会主義である。それを、前項では批判した。)
 さて。本来ならばそうなるはずなのに、現状ではそうならない。なぜか? 状況が不況だからだ。ここでは、「市場原理」が働かない。ある企業が退場しても、その経営資源が、他の企業で有効に生かされない。……それはつまり、状況が「均衡」ではなく、「不均衡」だ、ということだ。「均衡」であれば、状況は釣り合っているわけだから、何かが退場すれば、その分、何かが入場する。失業が千人増えれば、雇用が千人増える。マクロ的には状況は変わらない。しかるに、「不均衡」では、そういうことが成立しない。失業が千人増えれば、その人々は雇用先がないので、単純に失業者が千人増えるだけだ。かくて一国の生産と所得は減少し、そのことで需要もまた減少し、状況はスパイラル的に悪化する。
 こういうふうに、「均衡」と「不均衡」の違いに留意することが大切だ。

 現状は「不均衡」となっている。たとえば、労働者は過剰となっているし、設備は余剰になっているし、金は金融市場で余っている。(つまり、失業率上昇・稼働率低下・金利ゼロ。)こういうふうに、何かが過剰になって、均衡が成立していない。こういうときには、その過剰なものをさらに増やそうとする政策をしても、意味がないのである。── だからこそ、失業者をさらに増やそうとする「不良債権処理」や、設備をさらに増やそうとする「投資推進」や、金をさらに増やそうとする「量的緩和」は、意味がないし、むしろ、状況を悪化させる効果すらあるとも言える。

 結語。
 「企業業績の悪化」は、不況の原因ではなくて、結果である。「企業業績を良くすれば、景気が良くなる」ということはないし、「劣悪企業を再生すれば、景気が良くなる」ということもない。また、そのようなことを国がやるという、社会主義的な政策は、状況をかえって悪化させかねない。(武家の商法だ。三セク並みの失敗が目に見えている。)
 大切なのは、国が直接的に、個別企業に介入することではない。「国が介入しなくても、市場原理で自然に最適化する」という状況を整えることだ。それは、「不均衡から、均衡へ」と状況を改善することだ。それがつまり、マクロ的な総需要管理である。

 [ 付記 1 ]
 総需要が減ったままでは、たとえ個別の企業を再生させても、その分、既存の企業が劣悪になって退場するだけだ。たとえば、1兆円の需要しかない市場には、1千億円の売上げを必要とする企業が 12社も入ることはできない。2社が退出する。退出した2社を再生させれば、既存の2社がかわりに退出する。それだけだ。
 なお、既存の各企業が規模を2割ずつ減らして、「貧しさを分かちあう」という形もある。これは一見、好ましいようにみれる。しかし実は、全然、解決になっていない。
 (1) そのような形だと、各企業が需要不足で採算ラインを割って、すべての企業が赤字化し、あらゆる企業が倒産寸前になる。(実は、これが、現状に近い。)
 (2) たとえそのような形で、各企業が生き残ることができても、しょせんは、総生産が少ないのだから、「縮小均衡」でしかない。このとき、「失業」問題は解決しない。なぜなら、企業や生産は縮小が可能だが、人間の数は縮小できないからだ。その意味で、「縮小均衡」は、何ら解決になっていない。
 結局、生産が縮小したときは、生産を元の水準まで拡大するのが正解である。「縮小均衡」というのは、正解ではない。「総需要の拡大」による「生産の回復」が正解である。

 [ 付記 2 ]
 「産業再生機構の担当相である谷垣へのインタビュー。(朝日・朝刊・経済面 2002-11-12 )
 「本来、民間で行なわれるべき、退場すべき企業は退場するということがうまく働いていない。それが不良債権処理の遅れでもある。だから、ある程度、行政が乗り出す必要がある」
 と述べている。これが間違った考え方であることは、上に述べたとおりだ。彼はつまり、マクロ経済学というものを、理解できないわけだ。「状況がおかしいから、状況がうまく働かない」ということを認識できず、「状況がおかしいなら、政府が介入すればいい」と考えているわけだ。
 こういう間違った考え方を、上で批判してきたわけだ。

 [ 付記 3 ]
 竹中はこの「企業再生」という方針に反対している。彼は徹頭徹尾、「市場原理」の信奉者であり、「劣者は退場させればいい、国が介入する必要はない」という方針である。(参考記事 → 朝日・朝刊・総合面 2002-11-12 )
 だからこそ竹中は、「不良債権処理」を推進する。つまり、企業をどんどん退出させ、失業者をどんどん増やそうとする。これはこれで、首尾一貫している。
 この両者の意見が対立していることからもわかるとおり、この両者の意見は対立する。
  ・ ダメな企業を退出させよ。市場原理!
  ・ ダメな企業を再生させよ。国家介入!
 という二つの政策だ。
 「退出させたあとで、再生させよ」ということらしいが、それならそれで、最初から、「退出」だの「不良債権処理」だのを、しない方がマシだ。「いったんつぶしてから再生させる」よりは、「つぶさないまま再生させる」方がずっといいはずだ。
 通常、銀行は、そういう方針を取っている。そこへ国が出てきて、「銀行はダメだ。いったんつぶしてから、再生させるべきだ。銀行は再建が下手だが、国の主導なら再建がうまく行く。銀行は経営のことなんか何もわかっていないが、国ならば経営のことをよくわかっている」と主張するわけだ。
 愚の骨頂。国がこれまで、国鉄・電電公社・郵政省・道路公団などで、何をやって来たか、考えてみるがいい。
 「プロはダメだが、素人は最適」という極論。

 [ 付記 4 ]
 「企業再生には、日産のゴーン社長のような人物を投入することが必要だ。人材を集めよう」という主張。(朝日・朝刊・社説 2002-11-12 )
 ひどい夢想だ。ゴーン社長というのは、日産が世界中をかけずり回って、ようやく見出した唯一の人物だ。そんな人物がやたらとたくさん転がっているわけではない。「人材が必要だ」というが、「人材はいない」のだ。日本中には、倒産した会社は、莫大にある。その莫大な会社に入れる莫大な人材などは、どこにもない。
 「企業再生をするべきだ。それには人材が必要だ」という主張は、論理が倒錯している。「そんな人材などはいないのだから、手元にある人材でやりくりするしかない」というふうに現実を直視するべきだ。だいたい、今までろくに経営も企業も知らなかった人物が、いきなり未知の企業に入って、たちまち企業を建て直す……なんてのは、ほとんどマンガか映画の世界である。朝日の論説室は、マンガの読み過ぎだ。夢ばかり見ていて、現実を見失っている。
 日産は、ゴーン社長の見出したが、あくまで幸運な例外である。たいていの企業は、そうは行かない。たとえば、(ドリキャスなどのゲーム機の)セガは、経営再建のため、本田出身の優秀な人材を得たが、結局は、たいしたこともできないままだった。セガはゲーム機分野からは撤退を余儀なくされた。そごうにしたって、西武から徹底的な経営支援を受けたが、それでもいくらか業績が改善したという程度にすぎない。マイカルや長崎屋などでは、ろくに再建計画も実施されていない。

 [ 付記 5 ]
 日産については、前項でも記述したが、ついでに言及しておこう。
 日産が再生できたのは、ゴーンという人物が、魔術的な才能をもっていたからではない。自動車業界というものが、「日産以外の他の企業も、莫大な利益が上がる」という、恵まれた状況にあったからだ。他の業界では、そうは行くまい。
 特に、日産は、もともと再建がしやすい状況にあった。というのは、「技術者などの人材は一流がそろっていたし、会社の資産もたくさんあったし、外資からは膨大な出資を得た」という、至れり尽くせりの状況だった。日産に欠けていたものは、経営者だけだった。「ボケ老人のような社長」という状況が、何代も続いた。(トヨタやホンダとは大違いだ。)
 こういう状況だったから、経営者の首をすげ替えるだけで、企業を再建できた。他の企業でも同じことができると思ったら、大間違いだ。マイカルにせよ、そごうにせよ、土建ゼネコンにせよ、日産みたいに「東大・早稲田・慶応卒の技術者がありあまっている」というような状況ではない。状況を甘く見て、楽観してはならない。

 [ まとめ ]
 「企業を再生すれば解決する」というのは、ひどい夢想にすぎない。そのことは、日産を例外とした、無数の再建中の企業が、証明している。
 結局、原因がマクロにあるときは、個別企業がいくら努力しても、むなしい「あがき」にすぎない。そのことを理解することが大切だ。
 たとえ話で示しておこう。
 嵐の川で、激しい濁流に呑み込まれたら、個人がどんなに抵抗しても、流されてしまう。「一人一人が努力すれば抵抗できる」とか、「そのために一人一人の体力を向上させればいい」とか、そういう主張は無意味だ。
 なのに、こういうマクロ的な事情を理解できないで、個々のものの能力ばかりに着目しようとするのが、今の政府やマスコミだ。判断力の喪失。そして、リーダーが判断を誤ったグループは、全員が死に向かって進むことになる。

 [ 余談 ]
 別のたとえ話を示そう。
 嵐の海で、救命ボートに乗ろうとしたとする。このとき、ボートの定員が 10人であれば、 20人も乗ることはできないのだ。「腕力の強い 10人が乗った。だから、他の人々も腕力を強くすれば、20人がみんな乗れるだろう」というのは、とんでもない錯覚である。個別の人間がいくら腕力を強くしても、しょせん人員の交替が起こるだけだ。全員が乗るためには、ボートの容量自体を大きくするしかない。

 この比喩について説明すれば、次のようになる。
 「不良債権処理」論者の主張。── 「弱い人間を切り捨てよう! そうすれば、残りの人間は助かる。だから全員が健全化する」。……このとき、全員というのは、生き残った人々のことだけである。切り捨てられた人々は、無視されてしまう。
 「セーフティネット」論者の主張。── 「切り捨てられた人々を、政府が援助しよう。そうすれば、彼らは助かる」。……だったら、「劣者退場による健全化」という最初の目的を達せられなくなり、自己矛盾を起こす。「劣者退場」という方針そのものが無意味となる。そもそも、仮に、その方法で状況が改善するのであれば、全員を失業させて、全員に失業手当を与えればよい。日本人は全員、働かないで、金を得られる。天国のような状況だ。(馬鹿げた話。底抜けの論理だ。)
 「企業再生」論者の主張。── 「切り捨てられた人々を、政府が手助けして、彼らがボートに乗れるように支援しよう。そうすれば、全員がボートに乗れる」。……しかし、仮にそれが実現しても、しょせんは定員オーバーなのだから、彼らが政府の支援でボートに乗ったら、すでに自力でボートに乗った人々が、はみ出されてボートから落とされるだけだ。また、そもそも、政府の支援など、邪魔になるだけなのだ、関の山だ。「ボートに乗るのを助けよう」として、「足を引っ張るだけ」となるのが目に見えている。(そのつもりでやっているんですかね? ほとんどジョークの世界だ。)

 【 追記 】 (2002-11-16)
 「企業再生」の実例。倒産したスーパーの「ヤオハン」を、イオングループが再生した実例が零細記事になっている。(読売・朝刊・経済面 2002-11-15 ごろ)
 この連載記事を見ると、いかに企業再生が大変かがよくわかる。イオンという、業界で最も収益性の良い企業が全面的にバックアップして、あの手この手で経営指南をして、それでようやく、数年後に黒字化して、再建を果たすわけだ。(もちろん、一番最初は、「会社更生法」などで、大半の債務を免除されている。そうして身軽になったあとでさえ、これほどの努力が必要となる。)
 可能な限りの最大の支援を得て、ようやく企業の再生がなる。これが現実だ。不況下では、それほど大変なのだ。なのに、政府がそんなことをやったとして、どうなる? たとえば、政府の設立した「企業再生機構」が、流通業のノウハウをまったくもたないままに、適当に一人か二人だけのプロだけを送り込んで、イオンのような大会社の支援なしで、何ができる? よほどの魔法使いでもなければ、まともな再建は不可能だろう。
 だから、政府主導による限り、「企業再生」などは、やればやるほど、状況が悪化するのだ。そういうことは、政府主導ではなく、民間主導でやるべきなのだ。それが「市場原理」である。あるいは、「資源の最適配分」というミクロ経済の原理でもある。……たしかに、個別企業をどうこうするということは、民間に任せるのが最適であり、政府が口出しするべきではないのだ。社会主義的な政策は、やればやるほど、悪くなるのだ。
 政府がやるべきことは、ただ一つ。「民間に任せれば解決する」という状況を整えることだ。「民間じゃダメだから、優秀な俺たちがやれば片付く」なんて自惚れることではないのだ。
 だから、本来ならば、小泉や竹中などの劣者が退場することこそ、最大の景気対策なのである。

 【 追記 】 (2002-11-17)
 「企業再生」の外資系ファンドの記事がある。
 不良債権処理で売却された債券を購入して、企業を再生させ、健全化したところで売却する、ということをめざす外資系ファンドが活躍している。ノウハウがあるので、結構うまくやっているようだが、それでも「必ずうまく行く」というほど甘くはなくて、長崎屋では再建に失敗した。(朝日・朝刊・経済面 2002-11-17)
 なかなか面白い話だ。長崎屋の件は、上記のヤオハンとは好対照だ。いくらノウハウがあるといっても、その業界でプロ中のプロであるトップ企業に比べれば、まだまだ甘ちゃんだということだろう。
 そして、それよりもはるかに甘ちゃんなのが、政府である。そういう甘ちゃんにやらせようというのが、「企業再生の機構」というやつだ。
 たしかに、「企業再生」というのは、やらないよりはやった方がマシである。それで倒産企業が再生できるのならば、それに越したことはない。しかし、そもそも、そういうことは非常に困難である。当の企業がいくら頑張ってもできなかったことを、外部の人材があっさりと簡単に建て直すことができるはずがない。そうできると思うとしたら、あまりにも考えが甘すぎる。(それは、「資源の最適配分」を主張する「市場原理」の否定だとも言える。)
 日本中には、たくさんの破綻企業がある。それらのうちでは、例外的にいくらかは、再生が成功する例もあるだろう。もともと経営者だけがダメで、しかもその経営者が退陣したあと、他社からの全面的なバックアップを得られた場合だ。(日産・ヤオハンなど。)
 しかし、そういう幸福な少数の例外を除けば、日本中の莫大な企業(赤字化している企業は半分以上になる)について、そのすべてに魔術的な経営指南をすることなど、不可能に近い。だいたい、政府の主導による経営指南など、やればやるほど状況が悪化するのが、目に見えている。
 結語。
 企業再生は、政府主導よりは、民間主導の方が好ましい。その意味で、「企業再生の機構」よりは、「外資系の企業再生ファンド」の方が、ずっと好ましい。(市場原理で最適化されるからだ。)
 しかし、それさえも、本質からは完全にずれている。問題は、経営がまずかったことではなくて、デフレという「総需要縮小」にあるのだ。こういうときは、デフレを解決することが先決なのだ。それなしに、何をやろうと、対症療法にすぎないし、「無駄なあがき」に近い。上の「ボートのたとえ話」を参照。


● ニュースと感想  (11月14日)

 「銀行国有化」に関連して。
 「銀行の経営者には責任がある」という朝日の記事がある。(朝刊・経済面・解説コラム 2002-10-31 。また、少しあとの夕刊コラム「窓」でも、同趣旨の「経営者に責任を取らせろ」という感情的な意見が出ている。)

 こういうのを、「素人の感情論」という。「経済学」ならば、「こうすればこうなる」とか、「こうしたからこうなった」とか、学問的かつ論理的に述べるものだ。なのに、それとはまったく別のところで、素人的に「あいつがけしからん、あいつのせいで国の金を出さなくちゃならん、おまけにあいつらは高給をもらっていやがる、だからあいつを懲らしめよ」というふうに。論理ではなく、感情で語る。そういう扇情的な記事を書く新聞社が、国を破壊する。
 同じような例は、歴史にもずいぶんあった。「資本家がけしからん。資本家を懲らしめよ」と主張した共産主義は、帝政ロシアを破滅的な状況に導いた。単なる「あいつがけしからん、だから懲らしめよ」という感情論ではダメなのだ。

 前口上が長すぎた。話を戻す。感情論ではなく、経済学的に考えよう。
 「銀行の国有化」は、実施するべきだろうか? 
 実は、これは、前々項と前項の話と、根っこが同じである。前々項と前項で示した政府方針は、「ダメな企業を、国の主導で再建しよう」というものだった。「銀行の国有化」は、「ダメな銀行を、国の主導で再建しよう」というものだ。対象が違うだけで、政府の方針は、同じところから生まれている。そして、それゆえ、問題も同じようになっている。
 当然、「ダメな銀行を国有化すれば問題が片付く」というような社会主義的な発想は、間違いである。このことは、前々項と前項で述べたとおりだ。

 ただ、「銀行の国有化」に関しては、それとは別の問題がある。「銀行の経営悪化の責任は誰にあるか」という問題だ。
 「企業の経営が悪化したら、それはその企業の責任だ」というのは、ある程度は正しい。マクロ政策の失敗による総需要縮小の分を除けば、ある企業の経営悪化の責任はその企業の責任にある。
 では、銀行についても、同様に言えるか? つまり、「銀行の経営が悪化したら、それはその銀行の責任だ」と言えるか? 

 「イエス」と答えるのが、「銀行の国有化」に賛成する人々だ。「銀行の経営が悪かったから、銀行に不良債権が溜まったのだ。そのせいで、国が不良債権処理やら公的資金投入やら、余計なことをしなくてはならないハメになった。国がそういう金を出すのにはやぶさかでないが、銀行の経営者は、ちゃんと責任を取ってもらいたい」と主張するわけだ。
 しかし、その主張には、矛盾がある。「企業の経営が悪化したのは、その企業の責任だ」というのはいい。そして、それならそれで、責任は、その企業にあるのであって、銀行にあるのではないのだ。「銀行の経営が悪いから、融資先企業の経営が悪化した」のではなくて、「融資先企業の経営が悪いから、融資先企業の経営が悪化した」のだ。背金は、当該企業にあるのであって、銀行にあるのではない。

 「不良債権がたくさん生じたのは、銀行の責任だ」と、論者は主張する。勘違いだ。不良債権というものは、銀行から見れば「不良債権」と呼ばれるが、しかし、実質的には、各企業の経営悪化のことだ。そして、各企業の経営悪化については、責任は、各企業にあるのであって、銀行にあるのではない。
 もう少し細かく見よう。マイカルという企業の経営が悪化して、マイカルへの融資が不良債権と化した。これは銀行の責任か? 違う。一義的には、マイケル自身の責任だ。人間で言えば、マイカルの経営者と資本家と労働者の責任だ。二義的には、マクロ的に政策運営を失敗した国の責任だ。── つまり、マイカル関係者と国に、倒産の責任がある。なのに、それを「銀行のせいだ」と見なすのは、とんでもない責任転嫁である。国がそんなふうに主張するとしたら、自分の失敗を他人になすりつけていることになる。「盗人たけだけしい」と形容したくなる。

 ここでは、銀行を弁護しているように見えるかもしれない。そこで、注釈しておこう。もちろん、銀行に責任がまったくないわけではない。銀行の責任がすべて免責されるわけではない。しかし、銀行に責任があるとしても、せいぜい脇役のそのまた脇役程度の責任でしかない。犯罪で言えば、下っ端の従犯のようなものだ。そして、主犯は、別にいる。銀行ばかりを非難すれば、主犯を見逃すことになる。
 銀行の責任について、もう少し細かく見よう。たしかに、銀行には、「個別企業を見抜く目」が必要とされる。その程度の責任はある。とはいえ、一般的に言えば、銀行の負担するリスクは、あまり大きくはない。それが「資本主義」のルールだ。
 資本主義では、リスクは、資本家が一義的に負う。銀行は、「ハイリスク・ハイリターン」ではなく、「ローリスク・ローリターン」である。それが、「担保を得て、融資する」という融資形態だ。
 現状では、その融資形態が無効になっている。担保の価値が激減して、融資枠を割ってしまっているからだ。しかし、それは、「担保となる資産価格の大変動を起こす」という、国の経済政策が悪かったことが主因である。個々の銀行の経営が悪かったからではない。個々の銀行のせいで、バブルが膨張して、バブルが破裂したわけではない。個々の銀行のせいで、担保価値が膨張して、担保価値が縮小したわけではない。そういうことが起こったのは、国の責任なのだ。

 世の中には銀行がたくさんある。そのうちの一部だけの銀行で、業績が悪化したのなら、その銀行の経営がまずかったからだろう。しかし、あらゆる銀行で、業績がいっせいに悪化したのなら、もはや、「個々の銀行の経営がまずかったから」というふうに片付けることはできない。
 また、世の中には企業がたくさんある。そのうちの一部だけの企業で、業績が悪化したのなら、その企業の経営がまずかったからだろう。しかし、あらゆる企業で、業績がいっせいに悪くなったなら、もはや、「あらゆる企業の経営者がそろって愚かになったからだ」と片付けることはできない。
 本当の理由は、「国のマクロ政策が悪かったからだ」というふうになる。そのことを認めるしかない。

 結語。
 不良債権が巨額になった(そして、銀行が経営悪化して、金融システムの危機を迎えた)。では、その責任は、誰にあるか? 当の銀行には、ほとんどない。不良債権と化した各企業には、いくらかある。しかし、最大の責任は、国にある。国こそが、不良債権を膨大に発生させた、張本人である。
 なのに、責任のあまりない銀行を責めて、「銀行が悪い」とか、「悪い銀行を国有化して、懲らしめよ」と主張するのは、論理が正反対になっている。それはいわば、「悪人が善人を『悪人だ』と批判して、悪人が善人を牢屋に入れる」というようなものだ。
 景気悪化の真犯人は、国である。その国が、無実の銀行を「悪人だ」と非難して、「国有化」という形で乗っ取る。世の中の善悪が正反対になっている。悪が国を支配する。狂気と倒錯。

( ※ そして朝日のようなマスコミが、こういう狂気を世間に伝染させようとする。注意しよう。彼らはあくまで「善意」と「正義感」で行動する。しかし、無知な人間が妄想を信じて、「善意」と「正義感」にしたがって行動すると、とんでもないことになる。その例が、ナチス・ドイツだ。朝日はますます、ナチス・ドイツに似てきた。)

( ※ 私の主張は、極論に思えるかもしれない。しかし、よく考えてみよう。国のデフレ政策のもとでは、各企業は次々と赤字化するしかない。そして、各企業が赤字化して、どんどん倒産していったなら、個々の銀行がいくら努力しても、不良債権の発生は避けられないのだ。マクロ的な経済現象の責任を、銀行の数人だけになすりつけるわけには行かないのだ。)


● ニュースと感想  (11月15日)

 前項の続き。
 前項では、「銀行の国有化」について批判した。そこで述べたことは、「不良債権発生の原因は、銀行の経営がまずかったせいではなく、融資先の企業の業績が悪化したからだ。そして、各企業の業績が悪化したのは、国のマクロ政策が失敗したからである」ということだった。
 この件に関して、補足しておくことがあるので、以下の [ 付記 1 ]〜[ 付記 3 ] に記しておく。

 [ 付記 1 ]
 「銀行にだって責任はあるぞ。銀行がまったく免責されるはずがない」という意見が出るだろう。
 しかし、勘違いしないでほしい。世の中にはたくさんの企業がある。そのうち一部の企業だけが業績悪化して、そういうダメな企業だけをことさら選んで融資したのだとしたら、銀行の経営が劣悪だったことになる。しかし、あらゆる企業が業績悪化するときには、「銀行のせいだ」ということにはならない。( → 前項の最後も参照。)
 「業績の悪化するような企業には、融資するべきではなかった。そういうダメ企業に融資したのは、銀行の背金だ」という主張もある。しかし、そんな主張に従えば、デフレ期には、銀行はあらゆる企業への融資を中止するほかない。
 では、そうするべきか? デフレ期には、銀行はあらゆる企業への融資を中止するべきか? なるほど、そうすれば、銀行は安泰だろう。しかし、そのかわり、融資先の企業は、資金枯渇を起こして、倒産する。一部の銀行を守った結果、国全体が病んでしまう。これでは本末転倒だ。
 その意味で、銀行の経営が劣悪化すればするほど、それは日本全体にとっては好ましいことなのだ。デフレのときに、銀行がおのれの体力をあえて越えて、無理に融資をしてくれるからこそ、日本は破滅せずに生きながらえることができる。こういうときに、無理に「金を返せ!」と主張するのは、血も涙もない悪徳な高利貸しのようなものだ。デフレ期には、貸し剥がしをするようなことは、厳に慎まなくてはならない。
 とにかく、「危ない企業に融資すること」というのは、悪いことではないし、むしろ、良いことだ。仮に、「危ない企業に融資してはいけない」という理屈が成立するとしたら、銀行は、「安全確実な企業だけに融資をする」ということになる。それはつまり、「中小企業には融資せず、優良な大企業だけに融資をする」ということだ。「金が足りなくて困っている企業には融資せず、金がありあまっているトヨタのような大企業だけに融資をする」ということだ。しかし、それは、銀行の責任の放棄である。そんなことをしたら、銀行の機能が喪失する。一国の金融システムはマヒする。そして、日本中の多くの企業は、融資を受けられなくなって、ほとんどが倒産する。銀行だけは救われるが、他のすべての企業は救われなくなる。
 結局、銀行を健全化するよりは、日本を健全化するべきなのだ。そして、そのためには、当面は銀行に、生贄(いけにえ)になってもらうしかない。
 その意味で、「銀行の健全化」を狙うことは、「日本の不健全化」を狙うことになり、本末転倒である。

 [ 付記 2 ]
 「業績の良くない企業に融資するなら、そのリスクを考慮して、リスクにふさわしい高い利息を得るべきだった」という意見もある。しかし、その意見には矛盾がある。
 「融資の利率を高くすれば、銀行収益が向上する」というのは、たしかにそうだ。しかし、その分、融資を受ける企業の収益は悪化するのだ。両者の損得は同額である。ここに注意しよう。
 左手から右手に金を渡すとしたら、右手に金が増えても、左手で金が減る。総和は変わらない。右手だけを見て、「金が増えた、金が増えた」と喜ぶのは、早計だ。
 融資の利率を高くすれば、銀行の収益は向上する。不良債権処理をしても、銀行には抵抗力が付く。しかし、かわりに、利息をたくさん支払う各企業は、収益悪化のせいで、余計に倒産する。不良債権処理をする銀行の体力は付くが、不良債権の発生額が激増する。たとえば、不良債権処理をする銀行の収益は 5000億円増えるが、処理しなくてはならない不良債権の額が 5兆円ぐらい増える。これでは、逆効果だ。

 ついでに、「融資の利率は高い方がいい」という説について、言及しておこう。日本の銀行は、欧米の銀行よりも、ずっと低い利率で融資してきた。(ざっと見て、年利 2% ぐらい低い。) そういう事実はあった。そして、これを批判する人がいる。「銀行はもっと高い利率を得るべきだった。そうしなかったから、日本の銀行は、収益体質が悪い。量ばかりでデカくて、質が劣る」と。
 しかし、である。銀行が低い利率を融資してくれたから、企業は低い利率で融資を受けることができたのだ。そうして多大な投資をして、高い成長と低い失業率を実現することができた。── これは、かつて途上国だった日本の、成功モデルである。逆に、欧米は、銀行が高い利率で融資してきたから、低い成長率と高い失業率に甘んじてきた。そういう欧米の方がいい、ということにはなるまい。
 なるほど、欧米では、銀行の収益性は非常に高い。しかし、その分、一般企業は多くの融資を受けることができない。銀行員の給料は非常にいいが、一般民衆は失業に悩んでいる。そういう欧米の銀行をすばらしいと考えるのは、愚の骨頂だ。

 [ 付記 3 ]
 日本の銀行は、欧米の銀行よりも、低い金利で融資してきた。そして、それは、「リスク主義」よりも、「担保主義」を取ってきたからだ。そのことが理由だ。
 さて。これはこれで、理屈になっている。これまではずっと、この方針で成功してきた。現実には、「リスクに応じて高い金利で」ということも、もっとあった方がいいかもしれないが、それはそれで、「出資」という形の「ハイリスク・ハイリターン」の選択肢もあった。「ミドルリスク・ミドルリターン」という形の銀行融資が、あまりなかったのは、好ましいことではなかったかもしれないが、特にひどい問題があったわけではない。(担保主義を取らない欧米の銀行が、高い金利を取りすぎることの方が、問題があったかもしれない。欧米の銀行の「利益至上主義」は、銀行員ばかりを肥えさせ、国を痩せさせた。)
 日本の銀行の「担保主義」は、これまでのところ、特に悪い問題は起こさなかった。ところが、今、どうして大問題が生じているかと言えば、バブル破裂が起こって、担保価値が激減したからだ。(だから担保の意味がなくなった。)
 では、それは、銀行のせいか? 違う。バブル破裂は、銀行のせいではない。何のせいかと言えば、その前に、バブルが異常に膨張したせいだ。そして、その理由は、銀のせいではなくて、日銀のせいである。……つまり、銀行は銀行でも、銀行が違う。根元的な責任は、民間銀行にあるのではなく、日本銀行にある。
 「民間銀行が悪いんだ。その責任を取らせて、民間銀行を国有化してしまえ。そのための資金は、日銀に出させればいい」というのは、とんでもない発想だ。「悪人が善人のフリをする」というのも、ここまで来ると、ひどすぎる。

( ※ バブル膨張は、もちろん、日本銀行の責任である。やたらと量的緩和をしたから、銀行は手持ちの資金を眠らせておくわけには行かなくなって、やむを得ず、異常な貸し出し競争を行った。「バブル期には銀行がやたらと貸し出しをしたのが悪い」と主張する人もいるが、ひどい勘違いだ。銀行が悪いのではない。異常な量的緩和をやった日銀が悪いのだ。……にもかかわらず、今また、異常な量的緩和をめざす人々もいる。懲りない人々。日本を何度破滅させれば、気が済むことやら。)


● ニュースと感想  (11月16日)

 「不良債権処理」についての補足。(11月10日 以降の話の続き。)
 金子勝が新聞で次のように主張している。(朝日・夕刊・文化面 2002-11-14 )
 「不良債権処理には、15兆円の公的資金導入では足りない。金融再生法上の不良債権公表額だけで 52兆円あり、より広い意味の問題債権は 130兆円を超えているからだ。ゆえに、特別立法によって、公的資金投入枠を 60〜70兆円にして、強制注入するべきだ」
 「何のために大量の公的資金を投入して、引き当てを積むのか。銀行に貸し渋りや貸し剥がしをやめさせ、企業に資金が流れるようにするためだ」

 まったく、うじゃうじゃと、うるさい。全然、理屈になっていない。
 仮に、彼の理屈に従うとしよう。銀行が資金不足になっていて、不良債権処理をできないまま、貸し渋りや貸し剥がしをしているとしよう。
 しかし、それならそれで、特定の1銀行だけに公的資金を投入すればいいはずだ。その1銀行だけがどんどん融資をすれば、それで融資は拡大する。
 たとえば、水道管が 100本あって、そのすべてが詰まっているとする。ならば、水を流すには、その 100本すべてで「詰まっている」のを直す必要はない。1本だけ直せば、それで足りるのだ。そして、「1本だけではまかないきれないほど噴出する」という状況になったら、他の水道管の「詰まっている」のも直せばいい。一方、1本だけ直しても、そこから水が全然出てこないのだとしたら、そもそも、「水道管が詰まっている」という説は成立していなかったことになる。水が流れなかったのは、別の理由があったことになる。(たとえば、水道管ではなくて、その先の蛇口[= 資金需要]が詰まっていた。)
 
 もう一度言う。不良債権処理や公的資金注入が必要だとしても、すべての銀行でそうするやる必要はなく、特定の1銀行だけでやれば間に合う(A銀行と仮称しよう)。前銀行に対して 60〜70兆円も注入する必要はなく、(もともと健全な)A銀行だけに 1兆円ほどを注入すれば足りる。当面は、それでいいはずだ。そして、そのあと、資金需要が実際に増えるか、見てみるがいい。……もちろん、いくらA銀行が健全であっても、肝心の借り手がいないから、融資量は増えるはずがないが。
( → 10月25日 にも同趣旨。)

 現実を見るがいい。金利はゼロになっている。これは資金需要が非常に少ないということを意味する。もし資金需要があるなら、多くの企業が借りているから、金利は高くなっているはずだ。
 たとえば、A銀行が、「過去2年間は黒字経営だった企業には、健全な投資計画に対して、いくらでも融資します。金利は市場金利よりも少し高めで」と表明したとする。ここで、新たに借り受ける企業などは、ほとんどないはずだ。なぜか? そもそも、過去2年間は黒字だったという企業は、ろくにない。また、負極が続くのに、健全な投資計画などはほとんどない。また、仮にそんなうまい話があったとしたら、すでに既存の銀行が喜んでせっせと貸し出しているはずだ。だから、当の企業が、市場金利よりも高めで借りようとするはずがない。
 「市場金利より高めなのが問題だ」と反論かもしれない。しかし、それなら、「金利が高い」のが理由であって、「銀行が目詰まりしている」というのが理由ではないのだ。つまり、「不良債権処理をしないのが原因だ」という初めの主張が、根本的に崩れることになる。

 [ 付記 1 ]
 「金利が高いから、融資が増えないのだ。もっと下げればいい」
 という主張もあるかもしれない。しかしそれは、全然理屈になっていない。いくら高いと言っても、せいぜい2%ぐらいだ。普通の景気のときなら、5%ぐらいにはなっているのだから、とても「高い」ということにはならない。
 そもそも、「金利が高い」というのが問題になるとしたら、「もっと金利を下げればいい」ということになる。そして、それは、需給曲線から明らかなとおり、「資金需要が少ない」ということを意味しているだけだ。つまり、「金利が高い」というのと、「資金需要がない」というのは、同じことなのだ。……このことは、一般商品と比べればわかる。ある商品について、売れない理由を考えるなら、「値段が高いからだ」というのと、「(その値段にふさわしいだけの)需要がない」というのとは、同じことなのだ。
 そして、価格(金利)をどんどん下げても売れないとしたら、それは、価格(金利)の下げ方が足りないからではなくて、もともと需要がないからだ、ということになる。そこを勘違いして、「限度以下まで、強引にどんどん下げればいい」というのは、経済の原理を無視した、暴論でしかない。

 [ 付記 2 ]
 「2%という名目金利は、デフレの物価下落も考慮すると、実質金利が4%ぐらいになるから、やはり高すぎる」
 という主張もあるかもしれない。しかし、この主張には、難点がある。
 第1に、今はデフレでも、1〜2年ぐらいで物価下落が解決すれば、実質金利は軽くなる。たとえば、「2%で5年間」という固定金利なら、3年目以降に物価上昇率が3%ぐらいになったとして、非常に軽い金利(マイナスの実質金利)となる。ちっとも問題ではない。
 第2に、名目金利がいくらか高めになるのは、「倒産のリスク」があるからだ。そのリスクの分だけ、金利を高くせざるを得ない。そして、その理由は、状況が不況であるからだ。……だから、名目金利を下げるには、「倒産のリスク」をへらすこと、つまり、不況という状況を解決することこそ、大事なのである。
 結局、「不況を解決すること」が先決なのだ。そうすれば企業は自然に投資を拡大してくれる。「不況のさなかで融資を拡大させよう」という狙いそのものが、根本的に間違っているのだ。
 このことは、「加速度原理」という用語で、簡潔に説明できる。景気が拡大するときには、投資はその何倍にも増加傾向が出るものだし、景気が縮小するときには、投資はその何倍にも減少傾向が出るものだ。 ( → 5月12日c の 「増幅作用」。 なお、6月10日 も参照。)

 [ 余談 ]
 実を言うと、いちいち公的資金などを注入しなくても、しっかりしたまともな銀行は、ちゃんとある。株式欄を見ればわかるとおりだ。大銀行だと、大暴落した銀行も多いが、地方の中小銀行だと、安値の銀行に混じって、高値の銀行がチラホラとある。武蔵銀 3770円、岩手銀 3820円、清水銀 5010円、池田銀 5220円、愛地銀 6630円、などだ。
 これらは、すべてかどうかはわからないが、健全な経営状態にあるものと思える。(つまり、バブル期に、異常な不動産融資をしなかったから、焦げ付かなかったわけだ。) こういう銀行は、不良債権の問題はないはずだから、いくらでも融資できるはずだ。しかるに、融資をしない。としたら、やはり、資金需要が不足しているからだろう。「詰まっている、詰まっている」と騒ぐ経済学者は、これらの銀行に行って、実態を見ればいいのだ。(詰まっているのは、銀行ではなくて、愚かな経済学者の頭である。彼らの頭が詰まっているから、詰まらない説を出す。)


● ニュースと感想  (11月16日b)

 「企業再生」について、11月13日の分に、追記した。( → 該当箇所
 なお、そのすぐ直前の比喩も、少し書き直した。


● ニュースと感想  (11月17日)

 「株式課税」について。
 「株価が低迷しているから、株価を上げるため、株式取引には課税するな」という説がある。
 呆れた話だ。株式取引への課税減免は、「買い」の促進だけでなく、「売り」の促進にもなるから、「株価引き上げ」だけに効果があるわけではない。
 一般的に言えば、「やたらとちょいちょい株式取引をする、株マニア」だけが特をする。「長期的に株式を保有する」という一般人には、あまり関係がない。一般国民の長期的な株式保有を促進するのならば、単なる減税よりは、課税形態を分離課税にすることの方がずっと効果がある。
( ※ だから、「株式取引への減税を」と主張しているのは、証券業界の人々ばかりだ。メチャクチャな理屈で、我田引水をしている。どさくさにまぎれて、理屈にならない理屈で、自分の懐を潤わそうとする。「株式保有を拡大させよ」と主張するが、実際に求めているのは「取引回数の拡大」つまり「手数料収入の増加」である。だまされてはいけない。)

 私としては、どういう意見か? 上記の通り、「長期保有を促進する」という立場から、「分離課税を」というのが、最も適切と考える。そこで、以下に私案を示す。

 だいたい、株式投資というのは、ギャンブルなのである。ここで、ギャンブルの損得に応じて、「得をしたなら、分け前をこっちに寄越せ。もっと税を払え」とか、「損をしたなら、税を負けてやる」とか、そういうふうにギャンブルに加担するのは、国のやるべきことではない。
 では、どうするべきか? 「損得にかかわらず、一定の利益を得た」と見なすのが、最も正当であると考える。では、その「一定の利益」とは? 当然、「銀行預金の利率」である。通常、公定歩合と同程度と考えていいだろう。
 つまり、100万円で株を買って、1年間保有していたとしたら、その人には、「100円の金を、銀行に1年間預金していて、利息を得た」と見なせばいいのだ。そして、その利息に対するのと同じ分だけ、分離課税をすればよい。
 こういことは、非常の細かい計算が必要だが、ソロバン時代ならともかく、コンピュータの発達した現在では、あっというまに片付く。
 各人の損得で言えば、「株式投資で、うまく運用した人は得。下手な引用をした人は損」となる。そして、全員について言えば、「銀行預金と同じ程度の利益を得たと見なされる」というふうになる。誰が得して、誰が損したかは、あくまでギャンブルの損得であるから、そんなことに国は関与しない。得した人から余計に税を取ることはしないし、逆に、損した人に税を負けてやることもしない。


● ニュースと感想  (11月17日b)

 「相続税」についてのメモ。
 相続税の最高税率は、70% だが、そうなるのは、評価額が 20億円を超える部分だけ。それほど多額の相続遺産がある人は、年に十人前後であるらしい。また、20億円というのは、相続人一人あたりの額だが、「妻と子供3人がいた場合、全員が 70% が適用されるの遺産総額は 120億円だ」とのこと。( 20×3 + 60 = 120 )
 以上は、朝日の記事からの引用。(夕刊・2面・コラム 2002-11-15 )

 なお、不動産や株式の場合だと、評価額は実勢価格よりもだいぶ下がるから、実際には、上記の額よりもずっと多い額となる。ざっと見て、遺産総額が 200億円以上の場合が該当する。200億円以上! お札にして重ねると、どのくらいになるか、私には見当も付きません。

 さて。「相続税を 70% から 50% に減免しよう」という主張が出ている。その主張は、上記のような超リッチな人々のために減税しよう、というわけだ。で、その分、他の一般人には、増税( or 減税中止)となる。
 ざっと試算しよう。超リッチな人々のために、年 1300億円を減税するとして、それを一般人が負担する額は、一人あたりで 1000円。4人世帯で 4千円。
 結局、各世帯から4千円ずつ奪って、その莫大な金を超リッチな人々にプレゼントするわけだ。

 ふうん。そういうことがすばらしいと思うのであれば、ケチケチせずに、もっと大規模にやればよい。たとえば、一般人には 200万円ぐらい増税して、その金をすべて、特定の少数の人々がもぎとればよい。国民総生産 500兆円の半分ぐらいを、特定の人々がもぎとるようになる。他の人々は、ほとんど奴隷だ。
 奴隷国家、日本。少数の王と貴族が、莫大な奴隷を支配する。けっこう、マンガチックで、おもしろそうだ。


● ニュースと感想  (11月17日c)

 「企業再生」について、11月13日の分に、また追記した。( → 該当箇所
(外資系ファンドの話。)


● ニュースと感想  (11月18日)

 「生産性の向上」について。
 労働生産性は、日本は先進国7カ国中で最低。額は 51129ドル。(1位の米 71923ドル。)伸び率日本は十年間で、年平均 1.1% で、49カ国中の32位。(朝日と読売・朝刊・経済面 2002-11-13 )
 一方、日本の競争力は非常に高く、技術力は5位。特に、企業レベルでの技術革新では1位、特許では2位。(朝日・朝刊・経済面 2002-11-13 )

 さて。この二つの情報を並べてみると、不思議に思うかもしれない。
 「労働生産性が低いのか。日本は技術力が劣っているのだな」と思ったら、そのあとで、「実は日本の技術力はトップレベル」と知らされる。「あれれ」とキツネにつままれた気分になるだろう。
 正解を示そう。「労働生産性」を「生産技術の向上」というふうにとらえるのは、誤りである。「労働生産性」というのは、あくまで、「国民総生産を労働者数を割った値」にすぎない。それは、一国の技術水準に依存するだけでなく、収益水準にも依存する。
 「国民総生産」というものは、一国全体の生産額であり、それは「付加価値の総額」である。おおざっぱに言えば、「労働者の賃金 + 会社の利益額」という総和である。そして、不況のときは、労働者の賃金も、会社の利益も、低下している。だから、技術水準に関係なく、生産性は低くなる。
 逆に言えば、生産性を高めるには、技術水準を高くする必要などはない。「需要不足」という病的な状態を、健常な状態に治すだけでいい。そうすれば、労働者の賃金は上がるし、企業の収益も上がるので、生産性は一挙に急速に向上する。

 もう一つ、日本の生産性が「低い」と見なされる、統計的な理由がある。それは「為替レート」だ。この影響は、非常に大きい。国民総生産(労働生産性)は、ドルで表示される。それは円安の影響をもろに受ける。1割の円安になれば、国民総生産(労働生産性)も1割だけ減る。
 逆に言えば、今の日本の労働生産性が低く示されているということは、「実態以上に円安になっている」ということでもある。労働時間の長さなども考慮すれば、(時間あたりの賃金でなく)一人あたりの賃金は、日本は欧州諸国を上回っていていいはずだから、年収は6万ドル〜7万ドルが適切だろう。となると、2割 〜 3割程度の円高があるのが自然だということになる。適切な為替レートは、1ドル = 90円 〜 100円程度だろう。
 そして、現状がそうなっていないのは、「日本の技術水準が低くて競争力がないから」ではなくて、「日本の景気が悪いから」である。景気が好転すれば、輸出も輸入もともに増えて、特に輸出入のバランスは大きく変わらないまま、為替水準だけが大きく円高になるだろう。と同時に、ドル表示された日本の労働生産性も急上昇するだろう。

( ※ 以上の話は、これまでに述べたことの焼き直しである。新味はない。ただ、今回の記事から、円レートの適正水準がだいたい明らかとなるわけだ。「1ドル = 120円」という現況を見て、「円安ではない。もっと円安にするべきだ」と主張する人もいる。しかし、本当は、「現状は2〜3割ぐらいの円安になっている」と見なすのが正しい、とわかるわけだ。そしてまた、将来の円レートも予測できるわけだ。)
( ※ ついでだが、「景気回復のために円安に導こう。外債を買えばいい」という主張に従えば、こうなる。「外債の買いすぎで円安になる。1ドル=150円 でドルを買う。将来は 1ドル=100円 でドルを売る。差し引きして、数年間で、手持ちの 150円が 100円になる。莫大な為替差損の発生だ。たとえば、日銀が 15兆円で買って、10兆円で売る。5兆円の損失。国民一人あたり4万円。4人家族で 16万円。これだけの損失が発生する。……ただし、世界全体で見れば、損失はなく、帳尻はトントンである。人類の富の損失が発生するわけではない。富の移転が起こるだけだ。つまり、愚かな日本人が5兆円の損をして、がめつい通貨ディーラーが「濡れ手に粟」とばかり電話一本で5兆円を得する。……愚かな政府が国民の富を外国にプレゼントしてくれるから、ソロス氏のような人々が電話一本で巨額の金を得るわけだ。)


● ニュースと感想  (11月18日b)

 マネー滞留の量。(朝日・夕刊・株式面コラム「経済気象台」2002-11-07)
 日銀の通貨発行量は、90年代前半には 30兆円〜 40兆円だったのに、最近は 68兆円になっている、とのこと。

( ※ そんなに金が出回っているのだから、「貨幣数量説」にしたがえば、物価上昇が起こっていいはずだ。なのに、そうなっていないのは、どこかで「滞留」していることになる。通常の資金流通経路の外で、眠っているわけだ。では、その場所は? 個人のタンス預金。金融市場における滞留資金。)

( ※ これらの金は、眠っているだけだ。いったん物価上昇が発生すると、ただちに目覚める。「薪に火がつく」わけだ。莫大な金が金融市場に流れ込み、30兆円程度の量的緩和を一挙にやったのと同じ効果が出る。均衡状態でそれをやるのだから、たちまち、ひどいインフレとなる。……そういう危険を避けるには、あらかじめ、滞留資金を減らしておくことが大切だろう。「ゼロではない小額の金利」を設定することが有効だと思える。ケインズの「流動性の罠」でも、金利は完全にゼロにはならないことになっているし、完全なゼロというのは、ちょっと不自然なところがある。現状では、1000万円を預金しても、普通預金の金利は完全なゼロと同様になっている。これでは、金融機関の資金集積機能がマヒするのも同然だ。)

( ※ 「金利ゼロ」というのは、そういう意味で、非常にまずい。そんなことをやるのは、イスラム社会のようなものだ。経済学者はイスラムを笑っていたものだ。「イスラムは、利息を取るのを禁止しているんだって。近代経済をはずれているな。愚の骨頂だ」と。しかし、イスラムを笑っていたら、いつのまにか、日本がそうなってしまったわけだ。金利ゼロ。日本経済のイスラム化。)


● ニュースと感想  (11月19日)

 「公共事業と減税との比較」について。
 公共事業と減税との比較については、「減税は一部が貯蓄に回るが、公共事業はすべてが生産活動に回るから有効性が高い」という説が教科書にある。これについては、これまで何度か批判的に説明してきたが、ここで繰り返すと、次のようになる。
  1.  たとえ経済的に生産増加効果があっても、それが国民にとって有益だとは限らない。(タヌキ専用道路や本四架橋などの無駄なゴミばかりを建設することがある。それではただの無駄遣いだ。だから「投資効率」を考慮するべきだ。) 一方、減税ならば、使途は国民の各人が決めるので、必ず有益である。
  2.  公共事業では、あとに莫大な財政赤字が残る。当面は景気拡大効果があるとしても、将来、財政赤字をつぶす必要があり、あとで増税が来る。となると、国民としては、現在の消費拡大に消極的にならざるをえない。
 ここで、上の b. に関連して、いくらか付言しておこう。
 公共事業は、財政赤字を残す。しかし減税は、そうではない。今は減税して、将来は増税する。そういう形で、金を回収できて、元に戻せる。つまり、減税は、可逆的である。
 公共事業は、財政赤字を残す。ただ、あとで増税をして、その財政赤字を埋めることもできる。「だったら増税で赤字を埋めるのだから、減税と同じではないか」と思うかもしれない。しかし、違うのだ。
 国の立場で見れば、同じだろう。今は減税だろうと公共事業だろうと赤字だから、どっちの赤字でも同じことだ。また、将来は増税で、どっちも黒字だ。
 しかし、国民の立場で見れば、まったく別だ。今は、減税なら自分のために使えるが、公共事業ならば他人のために使うことになる。減税ならば、自宅を新築したり、自動車を買ったりするが、この場合、将来には、自宅を新築したり、自動車を買ったりする必要度が減る。「今は減税で、将来で増税」というのは、単に消費の先取りであり、未来の消費を今現在においてなすだけだから、国民は別に損得はないし、不満もない。一方、公共事業ならば、将来の自分の消費の分を、今現在の国が横取りするだけだ。
 そういうふうに、公共事業には、国民の富を奪う効果がある。その意味で、「公共事業は無駄だ。馬鹿げた公共事業を減らせ」という最近の論調は、正しいわけだ。イカレているのは、ケインズ派の経済学者だけである。(ここでも、平凡な国民より、経済学者の方が経済学的に間違っている、という状況が見て取れる。マクロ的な数字だけを見る結果、細かな本質を見失うわけだ。)

 「減税の方が無駄がない」ということは、「可逆的か否か」ということに着目すると、よくわかる。
 たとえば、今は2兆円の減税をして、5年後に2兆円の増税をしたとする。差し引きしてチャラである。減税して、増税すれば、元に戻る。可逆的だ。ぐるりと一周して、元に戻るだけであり、何も問題は発生しない。無駄にはならない。
 「金額」よりも「効用」に着目すれば、無駄でないどころか、有益となる。なぜか? 貧しいときの1万円は、豊かなときの1万円よりも有益だからだ。不況のときの1万円は、好況のときの1万円よりも価値があるからだ。だから、「不況のときに減税、好況のときに増税」というのは、個人にとってもありがたいことなのだ。しかも、そのことで、国は1円も損をしない。
 公共事業は、そうではない。本四架橋を建設したあと、本四架橋を破壊すれば、物質的な状況は元に戻るが、金は戻らない。戻らないどころか、建設費と破壊費とで、二重の無駄が発生する。つまり、可逆的でない。ここでは純然たる無駄が発生する。
 結局、増減税は可逆的であって、無駄が生じない。一方、公共事業は可逆的でなくて、無駄が生じる。また、増減税は、単に国民と政府との間の金のやりとりであるから、「国民と政府」の合計を見れば、無駄は発生しない。一方、「穴を掘って、穴を埋めて、あとで増税する」だと、国の帳尻は損得なしでも、国民の帳尻には2度分の赤字が計上される。それだけの損失が「国民と政府」の合計に発生する。国と経済学者は、「これで景気が回復するぞ」と喜んでいられるが、国民の肩には国の浪費のツケがずっしりとのしかかるのだ。
( ※ そのツケは、通常、「増税」にかわる「インフレ」という形で、国民が支払うハメになる。ケインズ派の学者は「将来のインフレ」のことを、まったく忘れている。これは、しばしば非難されてきたことだが、いまだに反省ができない。相も変わらず、「今はこれで不況脱出」と、今のことばかり主張している。計画性の欠如。幼児レベル。)

 [ 付記 1 ]
 公共事業には、無駄なコストがかかる。── このことを、ケインズ派は理解しない。彼らは経済的な効果ばかりを見ていて、コストを見落としている。あまりにも底抜けの論理だ。だからこそ、底抜けの「穴掘り」が大好きなのだろう。

 [ 付記 2 ]
 「穴を掘って埋めてもいい」という主張に従うのであれば、あちこちでダムや道路などを建設するより、日本中の建築物を破壊していけばよい。本四架橋やら、東京湾横断道路やら、次々と破壊していけばいい。そうすれば、破壊費の分だけ、経済的な効果が出て、景気は良くなる。……ケインズ派の主張に従えば、そうなるはずだ。
 だから、テロリストというのは、ケインズ派の説を実行しているだけなのだろう。日本の景気をよくするには、ケインズ派の主張に従って、ビンラディンを日本に呼び寄せるべきだ。彼に日本中の高層ビルを破壊してもらおう。景気はきっと良くなるはずだ。……ケインズ派の主張に従うならばね。

 [ 付記 3 ]
 「公共事業は可逆的でない」という主張に、異論があるかもしれない。「作ったあとで破壊する、というのではなくて、別のやり方もある。つまり、今現在は公共事業費をたくさん払って、将来では公共事業費を払わない」というやり方だ。
 なるほど、これだと、(可逆的ではなくとも)無駄はないように見える。しかし、無駄はある。
 第1に、普通の公共事業は、数年単位で実施する。「今は払うが、将来は払わない」という形だと、未完成の工事がたくさん残ることになる。「半分だけできた橋」「半分だけできた堤防」「半分だけできたダム」など。こういうものは、途中で投げ出したら、環境を破壊するだけだ。あるだけ邪魔なゴミにすぎない。状況はかえって悪化する。こんなものは、むしろ、破壊した方が、ずっとマシである。そうすれば環境だけは元通りになるのだから。
 第2に、1〜2年で可能な公共事業ならば、意味があるかもしれない。しかし、そういうものは、いくら集めても、たかが知れている。たとえば、「小学校の建設」ならば、意味がありそうだ。しかし、現在、すでに小学校はたくさんあるし、新たに建設するとなると、既存の分をぶちこわすしかない。これこそ無駄だ。そもそも、少子化が進んでいるし、新規建設の必要が少ない。……結局、公共事業というものは、長期的な計画のもとで少しずつ実施するのが、最も効率的なのだ。一時的に多大な支出をしようとしても、無駄にしかならない。
( ※ 実際、そういうことは、どこの家庭でも見られる。たとえば、長期的な観点から支出するのであれば、教育費とか、家賃とか、自動車のローンとか、そういう有意義な新たな使途が見つかる。毎月少しずつ、それらの出費を増やせばよい。しかるに、2000万円ぐらいの大金を渡されたとして、「1カ月で全部使い切れ」と言われても、まともな使い道は見当たらない。酒場で女遊びをするとか、ギャンブルですってんてんになるとか、そんなものだろう。……公共事業も同様だ。「今年は 5兆円、余計にやる。だからその金を、すぐに全部使いきれ」なんて言われても、まともな用途が急に出てくるわけではないのだ。かくて、無理に支出を増やそうとすれば、莫大な無駄が発生する。)

 [ 補足 ]
 関連して、ちょっと別の話も述べておく。
 「公共事業の方が、減税よりも、経済的な効果が大きい」
 という説がある。理由は、「減税では、一部が貯蓄に回るからだ」というものだ。── しかし、この説は、必ずしも正しくない。
 なるほど、不均衡状態(金利ゼロ)では、需給ギャップがあるから、政府の公共支出により、需給ギャップを埋めることはできる。その場合には、ケインズ派の言うようになる。(良いか悪いかは別として、経済的な効果だけに着目すれば、ケインズ派の言うようになる。)
 しかし、均衡状態(金利がゼロ以上)では、そういうふうにはならない。「公共事業の方が減税よりも効果が大きい」ということはない。その理由は、「クラウディングアウト」を考えてみるとわかる。── 公共事業をすれば、その分、民間の支出が減るだけだ。逆に言えば、公共事業をやめて、減税にすれば、民間の支出が増えるだけだ。つまり、減税をすると、その一部が、消費されずに貯蓄に回るのだが、その貯蓄に回った金は、(金融市場を通じて)投資に向かう。結局、「消費 + 投資」の総額は、減税の総額と同じになる。「貯蓄の分だけ効果が減る」ということはない。その減少した分は、「貯蓄 → 投資」という形で、投資の増加となるからだ。── というわけで、「減税よりも公共事業の方が、経済的な効果が大きい」ということは成立しないわけだ。(均衡状態では、だが。)








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