[付録] ニュースと感想 (34)

[ 2002.12.03 〜 2002.12.12 ]   

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    2001 年
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         12月03日 〜 12月12日

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● ニュースと感想  (12月03日)

 「プチ・マクロ」について。
 マクロ経済学を最小限にモデル化してみよう。(たとえ話。クルーグマンの「子守組合」の話と似ている。クルーグマンの話では、「物価上昇」を話題にしたが、以下では「景気変動」を話題にする。)

 状況としては、孤島を考える。そこで、最小構成として、4軒の家があるとする。2軒は肉屋で、2軒は八百屋。(いずれも製造と販売をする。農業と商業を兼業する。)
 肉屋は、肉を作って、八百屋に売る。八百屋は、野菜を作って、肉屋に売る。
 現在、双方が2軒ずつあるので、釣り合っている。(均衡状態。)
 あるとき、八百屋の1軒が、土地投機で大儲けしたあと、バブル破裂でスッテンテンになった。しかたなく、1カ月は、肉を買わずに、自分の野菜だけで過ごすことにした。ベジタリアン。
 その一カ月間、以前は肉を買ってくれていた八百屋が半分になった。そのせいで、肉屋は、需要半減で、売上げも半減。売れ残った肉は、捨てるしかない。多大な赤字が発生した。
 肉屋は2軒とも、倒産しそうになった。焦って、値を下げた。しかし、いくら下げても、買ってくれる人は八百屋の1軒しかない。しかも、価格が暴落しているので、収入は激減だ。肉の生産コスト(飼料費)もまかなえず、利益ゼロどころか、作れば作るだけ赤字だ。
 結局、肉屋は、1軒が倒産した。(そちらの方が優秀だったが、貯蓄が少なかったので、財務体質が原因で、先に倒産した。「優勝劣敗」の反対となった。)
 倒産した肉屋は、もはや野菜を買うことはできなくなった。かくて野菜の需要も半減した。残った1軒の肉屋は、どちらの八百屋で買ってもいいのだが、当然、自分の肉を買ってくれる方の八百屋とだけ取引をした。かくて、ベジタリアンの八百屋は、売上げがゼロになって、ついに倒産した。
 ここで、1軒の肉屋と、1軒の八百屋が残った。他の肉屋と八百屋は、失業者となった。
 営業中の2軒(肉屋と八百屋)は、相互に取引をして健全だった。休業中の2軒(肉屋と八百屋)は、失業状態であり、金がない。ごくわずかな貯蓄を食いつぶすだけだった。……4軒は、この状態で、均衡した。(縮小均衡。これは一時的な均衡である。失業者は、貯蓄を食いつぶしたときに、餓死する。)
 これは、「不況のどん底」の状態である。ここで、「どうするべきか?」と経済学者の意見を聞くことにした。
  1.  市場原理を信奉する経済学者
     「不況の原因は、劣悪な企業があるからだ。劣悪な企業を退出させよ!」
     ……しかし現状が、そうなっている。状況に耐えきれなくなった2軒は退出している。なのに、不況は解決しない。(市場の内部は健全化したが、市場の外部が不健全なままである。ただし、退出した2軒の人が死んでしまえば、この問題は解決する。)
  2.  構造改革の政治家
     「不況を解決するには、痛みに耐えよ。構造改革が大事だ!」
     ……その説はほとんど意味不明だったが、とりあえずはパソコンを導入して、ハイテクでIT化した。しかし肉屋や八百屋の生産は何も変わらなかった。(帳簿の事務を合理化することはできたが、それだけ。合理化といっても、「ペーパーレスになる」と主張したくせに、現実には、膨大な紙が出回るようになった。結局、無駄な事務が増えただけだった。すばらしいデータベースを構築したが、それはほとんど何も産出しなかった。)
  3.  サプライサイドの経済学者
     「不況の原因は、企業が劣悪になったからだ。生産性を向上せよ!」
     ……その説に従った。生産性を向上させて、2倍の生産をするようになった。しかし、需要は1軒ずつであり、生産に応じて増えない。生産だけが2倍に増えても、増えた分の商品は、余るだけであり、捨てるしかない。結局、生産量は同じままだった。変わったのは、労働時間が半減したことだけだった。それはそれで好ましいことだったが、不況は解決しないままだった。(1軒だけで2軒分の生産をまかなえるので、将来的には、失業者がもう1軒増える可能性もある。労働時間が減るかわりに、失業者が増えるわけだ。)
  4.  不良債権処理の経済学者
     「不況の原因は、不良債権があるからだ。それを処理するべきだ!」
     ……その説に従った。「不良債権処理協同組合(RCC)」を結成して、休業中の2軒の赤字をすべてRCCに引き継いだ。これで、2軒の赤字は消えた。めでたしめでたし。……しかし、である。それは単に帳簿の処理をしただけにすぎない。帳簿で赤字をつける項目を変えたにすぎない。島全体の赤字そのものが消えたわけではない。実体経済は何も変わらない。また、本質的には、休業中の2軒の赤字を、営業中の2軒(または将来の4軒)が負担することになる。営業中の2軒は、将来の課税を悲観して、消費を減らした。そのせいで、2軒はともに売上げが縮小し、この2軒も倒産してしまった。(「全員倒産」という、最悪の縮小均衡。)
  5.  マネタリズムの経済学者
     「不況の原因は、貨幣の量が足りないからだ。貨幣の量を増やせ!」
     ……その説に従った。貨幣を大量に印刷した。しかしその貨幣のすべては、タンス預金に回ってしまった。(あるいは金融市場で滞留するだけだった。)結局、何一つ変わらず、時間だけが浪費された。
  6.  インフレ目標の経済学者
     「『インフレになっても金融緊縮をしない』と当局が宣言すればいい!」
     ……その説に従った。ところが、「インフレになったら」という前提が、そもそも満たされそうもなかった。なぜか? 失業中の2軒は、もともと金がない。だから、たとえインフレの見込みがあっても、自分たちは財布の金がなくて、買うことができない。また、「失業者の財布にも金がない」とわかっているので、需要増加が見込めないので、営業中の2軒は、投資を増やさない。だから結局、需要(消費 + 投資)はちっとも増えない。需要が増えないから、インフレにもならない。しょせんインフレにならないのだから、インフレ目標は「絵に描いた餅」でしかない。「もしもインフレになったら」という夢ばかりを見続けるだけで、現実は何も変わらない。
    ( ※ これは、説としては嘘を付いているわけではないのだが、何かが抜けているのである。具体的には、「最初の一撃」が抜けている。)
  7.  減税の経済学者
     「金がないなら、金を貸してやればいい。当面は貸して、将来は返してもらう。つまり、当面は減税で、将来では増税だ!」
     ……その説に従った。休業中の2軒は、借りたお金で、とりあえず買おうとした。急に需要が2倍になったので、供給が不足した。そこで休業中の2軒も、営業をするようになった。営業すれば、金も入る。金が入ったら、借りた金を返せる。かくて、元の正常な状況に戻った。
  以上のようになる。
  さて。以上のように述べるだけだと、「減税」論者の手前ミソのように思えるだろう。そこで、肝心のことを考えてみよう。以上の話の核心は、何だろうか? それは、次の3点だ。

 (1) 実体経済
 帳簿の金額や数字をいじるだけでは、本質的ではない。あくまで、実体経済を動かすことが大事だ。つまり、休業中の2軒を働かすことが大事だ。働く人を減らそうとするより、働く人を増やそうとするべきだ。(だから、「不良債権処理」なんてのはダメだ。倒産しかかった赤字企業をつぶせば、失業がかえって増えるだけだ。)

 (2) マクロ的な不均衡
 経済は、単にバランスを崩しただけだ。「4軒で釣り合ってる」という均衡状態から、「2軒だけで釣り合っている」という別の均衡状態に移動した。このとき、アンバランスな状態になってしまった。ここでは、バランスの調整だけが大事なのだ。個々の企業(肉屋や八百屋)の体質が劣悪になったわけではない。原因は、個別企業にあるのではなく、マクロ的な経済状況にあるのだ。(だから、「企業体質の強化」とか「生産性の向上」とかの、個々の企業について「どうこうせよ」とめざすのは、見当違いであるわけだ。)

 (3) 所得
 バランスを崩しているなら、バランスを回復するには、どうするべきか? 単に「需要と供給」だけに着目して、その差である「需給ギャップ」を埋めるように政府が直接行動すればいいか? 違う。「需要が減っているなら需要を直接増やせばいい」というのは、あまりにも短絡的な考え方だ。(ケインズはそうしたが。)
 ここで大切なのは、マクロ経済学における動的な変化だ。経済の動的な変化は、「所得」を通じてなされる。「需要 − 生産」という二つだけで関連するのではなく、「需要 − 生産 − 所得 − 需要 − 生産 − 所得 − ……」というふうに「所得」を通じてスパイラル的に関連する。(前にも述べたとおり。)
 普通は、このスパイラルが働く。ところが、(一時的な気分で)需要の低下が長く続くと、所得の減少が深刻となる。するともはや、(一時的な気分で)需要を増やすことができない。たとえ「将来はインフレだな」と考えて、「消費を増やそう」と思っても、肝心の金がないので、消費を増やせない。
 つまり、上のスパイラルという連鎖的な関係のなかで、「所得」の箇所で、連鎖が途切れてしまうのだ。ミッシングリンクのように。
 では、どうすればいいか? もちろん、「所得」のところに金をつぎ込んで、連鎖が正常に進むようにすればいいわけだ。そして、いったん連鎖が正常化すれば、つぎ込んだ金は、あとで回収できるわけだ。

 マクロ経済を正しく理解すれば、以上のようなことがわかる。

 [ 付記 ]
 本項で述べたことは、先の「供給能力/稼働率」という区別を考慮すると、よく理解できる。
 「経済のバランスが崩れる」というのは、「稼働率の低下」が起こった状態だ。供給能力があるならば、その分は本来ならば稼働しているべきなのに、ちゃんと稼働しない。それが「不況」という状態だ。
 では、なぜか? それは、「需要の低下」が発生したからだ。需要というものは、人間心理や自然現象などの「外生的な要因」によって、たやすく変動する。そのこと自体はどうしようもない。そして、いったん「需要の低下」が発生したあとが問題だ。
 「需要の低下」が短期的であれば、人々は「消費が減ったが、その分、貯蓄が増えた」というぐらいのことで済むから、将来に消費を増やす。だから、多少の景気変動が発生するだけで済む。
 「需要の低下」が中長期的であれば、事情は異なる。人々は「消費が減ったが、その分、貯蓄が増えた」と思っているが、やがて、「生産が減った分、所得が減った」という事態に直面する。さらには、「勤務先が赤字になり、倒産して、生産活動ができなくなった。そのせいで所得がゼロになった」という事態に直面する。……こうなると、「消費が減ったが、その分、貯蓄が増えた」ということにはならない。なぜなら、「所得の減少」があるからだ。
 結局、「所得」が肝心なのだ。「所得の減少」があるせいで、不況のどん底から抜け出せなくなる。政府は「景気対策」として、通常の経済政策を実施する。それは、以前ならば効果があったはずなのに、不況のときには効果が出ない。なぜなら、「所得」のところで、「景気回復のスパイラル」が断ち切られているからだ。「均衡状態」ならば、スパイラルがどんどん進むが、「不均衡状態」では、「所得」のところで連鎖が切れているので、そのスパイラルが進まない。
 「所得」が肝心だということ。それはつまり、単純な「需要 − 供給」という関係では話は済まないということだ。なのに、「供給能力を改善せよ」とか、「人々の消費意欲を掻き立てよ」とか、「企業の投資意欲を掻き立てよ」とか、そんなことを言ってもダメなのだ。先立つものがなくては、どうしようもないからだ。
 結語。
 「マクロ経済においては、所得に着目せよ!」── この標語を覚えておこう。換言すれば、こうだ。「需要と供給だけを考えれば、それですべては片付く」なんていう古典派は、マクロ経済というものを全然理解していないわけだ。

 [ 参考 ]
 マクロとミクロの違いは、次のように言える。( cf. → 8月14日
  ・ 部分市場における「需要 − 供給」の静的な関係を見るのが、ミクロ。
  ・ 全体市場における「需要 − 供給 − 所得」の動的な関係を見るのが、マクロ。
( ※ 標語的に言えば、こうだ。「マクロ経済学の3要素は、『需要と供給と所得』である。色の3原色のように。需給だけを見る『市場原理』という主義は、そのうちの2要素しか見ていない。」)
( ※ すぐ上では「静的」「動的」という言葉を使った。さて。これに対しては、「需給曲線を使って考える方法でも、動的に考えることはできるぞ」という反論もありそうだ。しかし、それは、「曲線のシフト」という形で表示されるものだ。その際、曲線そのものを時間中で動かす必要がある。アニメーションのようなものだ。一方、「修正ケインズモデル」では、時間的な変化が図形的に「点の移動」として示される。時間的な移動が空間的な移動の形で表示されるわけだ。図形そのものを時間中で動かす必要はない。……そういう意味で、「需給曲線」や「トリオモデル」は本質的に「静的」であり、「修正ケインズモデル」は本質的に「動的」である。)


● ニュースと感想  (12月04日)

 前項の関連。
 前項で述べたのは「小さなマクロ」だったが、「ミクロ」ではどうなるか? つまり、一国全体ではなく、特定産業だけでは、どうなるか? それを考えてみよう。
 「米作の問題」を例として、取り上げる。
 米は供給過剰状態にある。需給がアンバランスだ。需要は縮小し、供給は過剰であり、失業者があふれている。ここでは「不況」と似たような状況が現れている。
 これを解決するには、どうするべきか? 次の四つの案がある。
  1.  農家へ補助金を出す。(ケインズ派)
  2.  農家へ低利融資する。(マネタリスト)
  3.  生産性を向上させる。(サプライサイド)
  4.  需要を増やす。 (需給ギャップ注目)
 a. は、「補助金を出す」という「ケインズ派」の主張。これは現実に政府がやっている。とりあえずは失業を防げるが、莫大な赤字が発生する。小泉に気概があれば、大反対して、「構造改革!」と叫ぶだろう。(実際には小心だから言えないが。)……もちろん、こんなのはダメだ。論外である。(いちいち細かな説明はしない。だいたい、いくら説明しても、ケインズ派はこういう「赤字発生」の難点を理解できない。)

 b. は、「低利融資つまり「金利引き下げ」という「マネタリスト」の主張。「金利に補助金を出す」という形もあり、これは「インフレ目標」に相当する。これも現実に政府がやっている。「農家は大規模投資で、経営の効率化」というのが目論見だ。しかし現実には、いくら投資をしても、その機械が半分ぐらい遊休する。たとえば、でかいコンバインなどを購入しても、土地面積がアメリカに比べて圧倒的に狭いから、機械を働かせる期間が短く、設備の償却ができない。かくて、大幅な赤字だけが残る。つまり、「いくら投資しても、設備が遊休するので、投資が無駄となり、状況は悪化する」ということだ。……もちろん、こんなのはダメだ。論外である。(いちいち細かな説明はしない。だいたい、いくら説明しても、マネタリストはこういう「設備遊休」の難点を理解できない。)

 c. は、「生産性の向上」という「サプライサイド」の主張。「農家の生産性が低いのだから、農家の生産性を高めればいい」というわけだ。実は、これは正しい。実際、生産性が劇的に向上すれば、日本の農家はアメリカの農家のように小人数で大量の生産ができて、コストも下がるから、状況は一挙に解決する。……ここで肝心なのは、「マクロとミクロは違う」ということだ。マクロ的には、「生産性の向上」は、失業者の増大を起こし、需給ギャップを拡大させるから、状況を悪化させる。しかし、ミクロ的には、特定産業で失業が発生しても、他の産業で吸収されるはずだから、状況を改善させるはずだ。ミクロでは、「失業発生」という問題を、他の産業になすりつけることができて、その産業では考慮しなくていい。だから、ミクロにおいては、「生産性の向上」というのは、一応は正しい。マクロでは正しくなくても、ミクロでは正しいのだ。
 ただし、である。「本当に生産性の向上をすればいいか」というと、難点が二つある。次のことだ。
 上の二つの難点があるので、簡単ではない。しかし、逆にいえば、上の二つが可能であれば、これが最適の方法である。つまり、「景気を正常化して」「農家の生産性の向上が現実に起こる」というのが、本当は、最適である。(それが可能であるかどうかは、ここでは問題としない。)

 d. は、「需要を増やす」という「需給ギャップ注目」の主張。米の消費を増やせば、米策の需給ギャップは解決する。……ただ、マクロ的にはそうなのだが、ミクロ的には、これは必ずしも最適な方法ではない。「パンや肉を食うな、米を食え」と強制するわけには行かないからだ。とはいえ、強制の問題を別にすれば、あるとき急にブームが起こって、米の消費が増えれば、とりあえずは問題は解決する。

 [ 付記 ]
 本項で述べたことは、「マクロ」のたとえ話としては、最適ではない。前項のようなマクロのモデルとなる話とは異なって、あくまで「ミクロ」の話にすぎない。だから、 c. d. では、うまく「たとえ話」にならないところがある。
 ただ、 a. b. では、たとえ話もうまく進んでいる。ケインズ派やマネタリストへの批判としては、本項で述べた話でも、うまく進む。


● ニュースと感想  (12月04日b)

 「中小企業向け融資」について。「ミクロとマクロ」に関連する話題。
 「中小企業向け融資」を民間で行なうように政府が誘導する、「Jローン」と仮称する構想が出された。(朝日・朝刊・1面 2002-11-29 )
 これは、「投資を拡大すれば、その分、経済が拡大するはずだ」という考えによる。
 さて。今までの私の考え方に従えば、「一部の産業を拡大しても、他の産業が食われるだけだから、無意味だ」となりそうだ。それが第一勘だが、もう少しよく考えてみよう。

 この案では、「中小企業向け」という形になっている。これは、「特定の一産業」ではないから、「ミクロ」ではない。しかし、実質的には、「ミクロ」と同じことだ。なぜなら、「中小企業向け」というふうに、経済の一部分だけを対象とするからだ。
 その本質は? 「所得の効果がない」ということだ。政府の資産では、将来的に 10兆円規模。当面の規模はおそらく 2兆円ぐらいだろう。これは、530兆円になるGDPの規模に比べれば、まったく無視できる程度の規模でしかない。( 0.4% )
 ここで、多めに見積もって、1%(5兆円)の拡大があったと仮定しよう。それによって、中小企業はそれだけ投資を拡大したとする。しかし、その5兆円は、まるまる所得に回るわけではない。多くは原材料費などのコストに食われて、人件費に回る分は、せいぜい、2割の1兆円ぐらいだろう。それが他の産業に波及する分だ。つまり、普通の既存企業の人にとっては、多くても 0.2% の売上げ増加しか見込めない。……この程度は、誤差の範囲内である。

 結語。
 景気拡大には、ミクロ的な政策は無効であり、マクロ的な政策のみが有効である。特定の産業( or 特定の部分)だけを拡大しても無効であり、国全体の産業を拡大することのみが有効である。なぜなら、国全体の産業を拡大することのみが、国全体の「所得」ないし「消費」を拡大するからだ。
 国全体の「所得」ないし「消費」を拡大しないまま、特定の産業の「供給」だけを増やしても、その「供給」が増えた分、他の「供給」が減るだけだ。中小企業融資によって、中小企業の投資や雇用は拡大するが、その分、他の大手企業で投資や雇用が縮小するだけだ。
 結局、「所得」に着目して、国全体の「所得」を増やさない限り、需給ギャップを解決することはできないのだ。小さな部分をいくらいじっても、国全体のマクロ経済を動かすことはできないのだ。


● ニュースと感想  (12月05日)

 「生産性の向上」の関連。「サービス産業では生産性が低い」という話について。
 生産性についてよく言われる話だが、「サービス産業では生産性が低い」という話がある。たしかに、統計的には、そうだ。製造業の6割ぐらいの生産性でしかない。
 こういう話を聞いたあとで、「だったらサービス業で生産性を高めればいい。そうすれば不況は解決する」なんて主張をする経済学者も出てくる。まったく話の核心を理解していないようなので、説明しておく。

 生産性というものは、金額で計る。ここが肝心だ。「サービス業の生産性が低い」というのは、「サービス業の労働者が怠けている」とうことを意味しているのではなくて、「サービス業の労働者が給料をあまりもらっていない」ということを意味しているにすぎない。話を勘違いしてはいけない。
 製造業ならば、生産能率と給与はだいたい一致する。たとえば、1人あたり20個の製品を作る会社と、1人あたり10個の製品を作る会社とを比べれば、後者は前者の半分の生産能率なので、給与は半分となって当然だろう。しかし、サービス業では、そういう形での生産能率は計れない。単に金額で計るしかない。
 では、サービス業の生産性を上げるには、どうすればいいか? 労働者に給与をたくさん払えばいいか? 実は、そうではない。

 本当の核心を言おう。生産性は「時間あたりの給与」として計られる。だから、「労働時間を減らすこと」が、生産性向上の方法なのだ。
 このことは、実状を見ると、よくわかる。最近も新聞記事に出ていたが、調理師として職場を求めると、次のような条件を提示された。
 「年収 300万円。拘束時間 12時間で、無給の中休み 3時間で、合計 15時間。帰りは終電に間に合わないこともある」
 通勤に2時間かかるとして、合計17時間。1日24時間のうち、残りは7時間。これでは睡眠時間もまともに取れない。ほとんど奴隷並みの長時間労働だ。

 さて。労働時間を増やすと、所得は増えるだろうか? 個々のサービス業の企業を見れば、たしかに労働時間と所得は比例するだろう。しかし、一国全体を見れば、人々がサービス業全体に払う金は同じである。スーパーが1日に何時間営業しようと、人々が食費などの日用品に払う総額は変わらない。「営業時間を長くすれば、サービス業全体の総所得が増える」ということにはならないのだ。
 全体を見れば、サービス業の労働者がもらう所得は、労働時間が多くても少なくても同じなのだ。ここが肝心だ。
 だから、サービス業の生産性を高めるには、サービス業で労働時間を削減すればよい。たとえば、1日に10時間までしか労働してはいけない、と決める。そうすれば、サービス業における労働時間は激減する。一方、人々がサービス業に払う総額は変わらない。だから、サービス業の生産性は、劇的に向上する。
( ※ ただし、いいことずくめではない。労働密度は、上昇する。たとえば、店の営業時間は減少しても、来る客の数は変わらないから、遊んでブラブラしている時間は減る。とはいえ、それがすなわち、「労働密度の上昇」つまり「生産性の向上」ということになる。)

 これが真相だ。なのに、ここを理解しない経済学者は、とんでもないことを主張する。
 「サービス業の生産性が悪いのが問題だ。サービス業では生産性を高めるために、もっと機械化を進めよ! ロボットなどを導入せよ!」
 しかし、仮にそんなことがうまく行ったとしても、サービス業で職場が消えるだけだ。これは失業者が増えるだけの効果しかない。もちろん、長時間労働が放置されている限り、生産性は低いままだ。
 本質を見失うと、こういう見当違いの処方を出す。
( ※ 特にひどいのが、「外形標準課税」というやつだ。これによって、「機械化」という「失業増加」に補助金を払うことになる。失業を増やした企業には、補助金を出す。一方、失業を減らした企業にも、雇用援助という補助金を出す。アクセルとブレーキを同時に踏む。矛盾した狂気の政策。)


● ニュースと感想  (12月05日b)

 「不況対策としては、物事の本質を見るべきだ」ということを訴えるために、ダメな政策の例を示す。──外形標準課税」と「投資減税」について。

 「外形標準課税」という制度が推進されている。「労働者給与の総額」などに比例して課税する、というものだ。(読売・朝刊・経済面 2002-11-30 など。)
 「投資減税」という制度も推進されている。「設備投資」に比例して、法人税を減免する、というものだ。これは、「減税」という形を取っているが、実際には「補助金」である。(もともと設備投資の減価償却費は、損金と認められ、無税だから、これ以上は減税のしようがないから。)

 さて。この「外形標準課税」と「投資減税」を合わせて考えると、どうなるか? 政府は次のことを推進していることになる。
 「労働者を解雇して、その分、機械化をすればよい。そうするたびに、補助金を出す」
 換言すれば、こうだ。
 「機械化のかわりに、労働者を雇用すれば、そうするたびに、課税する(罰金を課する)」
 つまり、政府は、このデフレのさなかに、どんどん失業者を増やそうとしているわけだ。

 原理的に考えよう。そもそも、ある作業をするのに、人間がやるか、機械がやるかは、企業が独自に判断するべきことだ。人間の給与として年間 500万円払うか、機械のリース代として 500万円払うかは、企業が自分で決めるべきことだ。そして、コストの低い方を選べばよい。人間ならば 500万円で済むところを、わざわざ機械でやって 600万円もリース代を払うのでは、経営がおかしくなる。
 ところが、政府は、このおかしなことをあえて推進する。上記のように、「人間を解雇して、機械に代替する」ということのために、あえて補助金を出すのだ。
 よく考えて見よう。そもそも、人間が雇用されていれば、所得税を払う。しかし、その仕事を機械がすれば、機械は所得税を払わない。これは不公平だ。しかも、こんなことを推進すれば、政府の歳入はどんどん減る。
 たとえば、上記の政策を徹底したとする。日本中の労働者は全員が解雇されて、全員が失業する。政府は所得税の収入がゼロとなる。一方、機械化促進のために、大幅に補助金を出す(法人所得税を減免する)から、その分、政府支出が増える(法人所得税の収入が減る)。しかも、失業者が増えるから、失業保険の支出が増える。……国家財政の破綻だ。
 
 馬鹿げた話だ。「人間から機械へ」という移行をするために、あえて国が金を出すというのは、まったく間違ったことだ。そういう移行をするか否かは、あくまで企業が自分で決めるべきであって、政府が税制などで優遇して促進するべきことではないのだ。特に、「失業を増やすことに補助金を出す」なんてことは、まったく馬鹿げている。
 
 結語。
 物事の本質を見失うと、自分が正気とは逆の狂気的な行動をしても、そのことに気づかない。
( → 6月07日b 「外形標準課税」)


● ニュースと感想  (12月06日)

 「現在の所得税減税と、将来の消費税増税」という案について。
 私が提案した「中和政策」は、「現在の減税と、将来の増税」だった。ここでは、減税は「均等」であり、増税の時期は「景気回復後」だった。
 似た案で、次のようなものがある。
 「減税は 10兆円規模の所得税減税。増税は、毎年の逐次的な消費税増税。2年目に1%アップ、3年目はさらに2%アップ、4年目はさらに2%アップ」
 ( 朝日・朝刊・オピニオン面・投稿 by 5人の経済学者の連名 2002-11-23 )
 
 この案は、他のメチャクチャな案に比べれば、かなりまともである。ただし、いかんせん、経済学的な理論に裏打ちされていない、ただの思いつきにすぎない。そのため、弱点をかかえている。その弱点をいくつか示す。

 (1) 所得税減税
 所得税減税というのは、つまりは、金持ち減税のことである。高所得者には数百万円の金が与えられるが、並みのサラリーマンは3万円ぐらいしかもらえない。平均以下の所得の人々は、ほとんどゼロかスズメの涙程度だ。これでは、ありがたみは全然ない。むしろ、その後の数年間の消費税増税があるから、大部分の人は、大幅な増税になる。
 結局、高所得者は喜んで消費を増やすが、国民の大部分は実質的に増税になるから、消費を減らすしかない。たとえば、国民の3分の1ぐらいを占める高齢者は、所得税減税の効果がほとんどゼロで、消費税増税だけがあるから、必ず消費を減らす。
 ゆえに、景気回復のメドは立たない

 (2) 駆け込み効果
 「段階的に消費税を上げれば駆け込み需要が増える」という論旨だ。しかし、そうか? その説が成立するのは、「所得が変わらなければ」という前提が成立する場合だ。つまり、「景気が回復して名目所得が上昇すれば」という前提が成立する場合だ。しかし、その前提は、(1) ゆえに成立しない。たぶん、「景気は回復しないで、名目所得も上昇しないまま、消費税だけが段階的に増税される」というふうになる。となると、「実質所得の減少」になるから、たいていの人は、消費を減らすしかない。
 論者は「駆け込み効果」というものを誤解している。論旨では、「デフレ下で先行きの値下げが見込まれるから人々は消費を遅延させる」と主張している。馬鹿げた話だ。「来年には1%の値下げになるから消費を1年遅らせる」なんて考えている人は、ほとんどいないはずだ。買いたければ買うし、買いたくなければ買わない。1%ぐらいの損得などは、ほとんど影響しない。(人が永遠の生命をもっているのならば、そうしてもいい。しかし、人の寿命は限られている。今の楽しみを我慢すれば、その分、人生の価値が失われてしまうのだ。だいたい、損得勘定だけで言うのならば、「何も消費しないで全部貯蓄して現金を増やす」のがベストだ。しかし、そんな守銭奴は、この世に一人もいない。にもかかわらず、「人々は全員、損得だけを計算する守銭奴だ。人々は永遠の生命をもつ」と前提しているのが、上記の論旨だ。)
 人々が今、消費を減らしているのは、「来年になれば1%値下げをするから」ではない。今まさしく、景気が不安だからだ。来年には物価がどうのこうのというより、会社が倒産するか、自分が解雇されるか、賃下げされるか、ボーナス減額されるか、とにかく、来年の所得について非常に悲観的になっている。「将来の所得への不安」が、消費を減らしている根本原因なのだ。注目するべきは、物価下落ではなくて、所得なのだ。
 人々は消費を将来へ遅延させているのではない。消費意欲そのものが減退しているのだ。だいたい、「消費を遅延させる」という理屈は、デフレに入って1〜2年目には成立するかもしれないが、12年も不況が続いているときには、もはや成立しない。「12年間も消費を遅延させる」というのは、「消費そのものが縮小している」ということであり、「消費が遅延されている」ということではないのだ。
 ここを誤解した人が、「駆け込み需要」などという妄想を打ち出す。ま、そういう効果は、少しはあるかもしれない。しかし、「所得の不安」を解消することが、先決だ。それなしには、「駆け込み需要」などは無意味なのだ。もともと消費は遅延されているわけではないからだ。
 とにかく、肝心なのは、「消費の遅延をなくすこと」ではなくて、「消費の縮小を減らすこと」である。そして、そのためには、「所得の拡大」が必要なのだ。ここを見失って、「駆け込み需要」などを主張しても、ダメなのだ。

 (3) 増税
 「将来の増税」を論者は主張しているが、それが可能になる保証はない。だいたい、「増税」というものは、もともと困難である。経済学者が「将来の増税」を主張しても、それが可能である保証はない。
 特に、(1) のような「所得税減税」をしたのでは、減税の恩恵を受けるのは高所得者だけだから、一般大衆の反発は目に見えている。増税は、ほとんど不可能だろう。私だって、大反対だ。頭に来る。「大衆の金をもぎとって、高所得者にプレゼントする」というのと同じだ。
 しかも、そのときには、物価上昇が発生しているから、人々の所得は減少しているのと同じことになる。「減税で得したかと思ったら、物価上昇で損している。どんどん損しているときに増税なんか、とんでもない!」という素朴な反発が来る。その反発に対して、経済学者は説得の論拠がない。
 要するに、ただの思いつきではダメなのだ。経済学には、理論が必要なのだ。
 だからこそ、「タンク法」という理論が必要となる。この理論を使えば、次のようになる。
 なお、このことからもわかるように、増税をするのは、物価上昇が過度に発生したあとである。過度の物価上昇が発生したときに、その物価上昇を抑制して景気を冷やすために、増税をするわけだ。
 物価上昇の発生しないうちに、さっさと増税をするような案は、経済学的にメチャクチャである。それは単なる財政均衡主義という帳簿屋のやることであって、経済学者のやることではない。「帳簿さえきれいになればいい、ふたたびデフレに突入してもいい」というわけだ。馬鹿げている。
 増税は、「財政均衡」のためにやるのではない。財政屋のモラルのためにやるのではない。「物価上昇」という弊害をつぶすためにやるのだ。そこが根本だ。
 とにかく、「タンク法」という根元的な理論を理解しない限り、ちょっと正しそうでも半可通の意見を出すことになる。「効果がありそうで、実は下手な策」という案だ。

( ※ もう少し厳密に示そう。増税の時期は、物価上昇率と金利がともに十分に高くなったあとである。少なくとも金利は4%を上回っている必要がある。それ以前に増税をすれば、景気回復が遅れる。増税なしなら3年で景気回復ができるような場合でも、途中に増税を挟めば、延々と 15年ぐらいかけて少しずつ景気回復が進むことになりかねない。この場合、早めに増税をしたせいで、経済拡大が遅れるから、トータルでの財政赤字はむしろ拡大する。逆効果だ。……たとえ話で言おう。病人が少し回復したからといって、病み上がりのまま、急いで長時間労働をすれば、かえって健康になるのが遅れて、総計では損をする。病人は、まずは健康を回復するのが先決であり、すっかり健康を回復したあとで、長時間労働をすればいいのだ。このことを理解しないケチなせっかち経済学者は、金を得ようとして、金を失うことになる。「急がば回れ」という教訓を理解するべきだ。)

 [ 付記 ]
 この案のどこがまずいか、簡単にまとめておこう。
 (a) 所得税減税
 「均等」に比べて、高所得者優遇に偏りすぎる。国民の一部分にしか恩恵が届かない。現在では経済拡大効果が少ないし、将来では恩恵を受けられなかった人々が増税を不満に思う。
 (b) 消費税の逐次的増税
 年に1%ぐらいでは、消費についてはほとんど促進効果がない。この程度の促進効果は、「物価上昇」でやればいいのであって、多大な手間をかけて毎年税率をいじる、なんてことをやるべきではない。
 年に1%ぐらいでも効果があるのは、「消費促進」ではなくて、「投資促進」の場合だ。企業の投資ならば、もともと利益率は年に5%ぐらいしかないから、年に1%でも、大きな差となる。しかし、投資については、もともと「消費税」は免除されている。つまり、どんなに消費税をいじろうと、投資促進効果はない。
 だったら、単純に物価上昇だけを通じて投資促進をすればいいのだ。「消費税の逐次的増税」なんてのは、クルーグマン説をつまみ食いしただけの、素人的な生かじりの案にすぎまい。
( → 11月21日 の [ 付記 2 ] )

 [ 補記 ]
 いろいろと弱点を上げたが、全体的には、そう悪い案ではない。満点ではないが、「優良可」のうちの「可」ぐらいにはなる。
 上の案では、「十分な経済成長が3年以上続けば、企業の投資は増えるだろう」と述べている。これは、正しい。
 景気回復軌道に乗った場合、初めのうちは、遊休していた設備の稼働率が高まるだけである。そして、その稼働率が目一杯に近づいたころになって、ようやく設備投資が増える。……このことは、過去の不況脱出後の統計を見ても、明らかである。
 不況脱出策には、いろいろあるが、「設備投資を拡大せよ」なんて主張をするマネタリストや、「公共事業を増やせ」なんて主張をするケインズ派に比べれば、今回の案は、「消費を増やすべきだ」という核心をとらえているわけだ。その分、かなり正しい。60点を上げよう。(満点からはほど遠いが。)


● ニュースと感想  (12月07日)

 「世間で言われる不況解決の方法」について。その1。
 世間で言われる不況解決の方法には、いろいろある。小項目で、二つ示す。(本項は、やや重要な話。)

 (1) 生産性の向上
 「生産性の向上が大事だ」という説がある。「生産性の向上で、企業収益を向上させ、労働者の給与を上げ、景気を回復させる」というわけだ。
 さて。「米国の労働生産性が急激に向上した」という記事があった。01年度はおよそ1%以下と低かったのに、02年度には急上昇して、年率6%近くになっている」という米労働省の発表。(細かく言えば、4半期ごとの調査で、段階的に上昇している。なお、記事は、朝日・朝刊・経済面 2002-12-06 )
 では、このように急激に生産性が向上したことで、上述の論理のごとく、景気は回復したか? 否。逆である。2002年の初め以降、特別ローンなどで消費を先食いしてきたが、最近では消費が息切れしてきて、景気が悪化しつつある。「良くなる」ではなく、「悪くなる」のだ。経済学者の説とは正反対になっている。では、なぜ? 
 正解を言おう。「生産性が向上しているのに景気が悪くなる」という判断は正しくない。「景気が悪くなるから生産性が向上する」(無駄や余裕がなくなる)のだ。ここを勘違いしてはならない。供給主義の古典派は、供給能力がすべてを決めると思い込んでいるが、景気変動というのは、需要の変動に起因するのだから、古典派の主張は根本的に本末転倒なのだ。
 基本を考えよう。真の意味での生産性というものは、そもそも、長期的に少しずつ上昇するものであって、短期的には変化しない。何らかの個別の技術で生産性が上がることはあるが、一国全体で見れば、「あるとき急に国中の企業でそろって特別な技術が発明され、そのあとでは急に国中の企業でそろって技術開発が消える」なんてことはありえない。しかし、である。にもかかわらず、統計では、短期的に生産性が変動する。なぜか? もちろん、統計のいたずらである。真の意味の生産性は変化しなくても、数字の上でだけは生産性が変化する。なぜかと言えば、労働時間や生産量が変化するからだ。
 たとえば、自動車会社で、1日に 1000台生産していたとする。景気が悪くなるという見込みが立ったので、在庫調整で、生産を 900台に減らす。この時点で、生産性は 10% ダウンする。次に、生産が 900台に減ったので、それに応じて、従業員を 10% 解雇する。この時点で、生産性は、10%( or 11% )上昇する。
 そういうことだ。生産システムは何も変わらないまま、景気変動に応じて、単に生産量や労働者数を変化させただけで、生産性は変化する。それが真相だ。
 今回の記事を見ても、そのことは明らかだろう。1年目には生産性が激減し、2年目には生産性が急上昇する。「2年間で生産性がすばらしく上がった」と記事は主張しているが、実は、「2年間のトータルを見れば、前半では悪く、後半では良く、平均すれば、生産性の向上はいつもと同じ3% 程度である」となる。つまり、単に景気変動に応じて、生産性の変動が生じただけだ。
 結局、短期的には、統計的な数値で変動が生じた。しかし、中長期的には、真の生産性はちっとも変動していない。大騒ぎしているのは、半可通のエコノミストだけだ。
 結語。
 統計の数字にだまされてはいけない。物事の本質を見抜くべきだ。

( ※ 景気が良くなるときには、将来の成長のために、生産力の余裕をもつので、一時的に生産性が悪くなる。景気が悪くなるときは、その逆で、一時的に生産性が向上する。いずれにせよ、一時的なものだ。……ここでは、技術が進歩したりするわけではなくて、統計上、短期的・一時的な変動が発生するだけだ。)
( ※ 数字の変動の要因としては、「在庫調整」というのも考えられる。在庫は、「売れてない商品」だ。だから、在庫を増やせば増やすほど、「働いても所得が増えない」状況となる。逆に言えば、景気が悪化したとき、在庫を減らせば「働かなくても金を得る」状況となる。だから、景気の悪化の曲面では、生産性が一時的に向上することになる。……ただし、「在庫」というのは、GDPの計算の際に、計数処理の仕方がいろいろとある。統計の取り方で、数字がいろいろと変わる。単純に「ああだこうだ」とは断定しにくい。 → 詳しい話を知りたい人は、GDPの計算方法について自分で調べてほしい。かなり面倒くさい話だ。「クズネッツ」などがキーワード。)

 (2) 円安
 「円安を」という説がある。(読売・朝刊・経済面 2002-12-06 )
 円安とは、本質的には、何か? 「輸出で有利になること」だと思い込んでいる人がいるが、とんでもない見当違いだ。単純に国家間で「有利不利」などを考えるのは意味がない。円安にしたからといって、日本に外国からの富が流れ込むわけではない。外国が日本に富をプレゼントしてくれるわけではない。このことは、これまで何度か、いろいろと批判してきた通りだ。
 正解を示そう。円安とは、「国家規模での賃金切り下げ」と同じだ。個々の企業で労働者の賃下げをするのではなくて、国全体で労働者の賃金を切り下げる。その結果、輸出企業は競争力を増やし、消費者は購買力が衰えて輸入を減らす。
 では、それは、好ましいことか? そこが核心だ。
 ここでも本質を考えよう。論者(たいていは古典派)は、輸出企業だけをミクロ的に見るから、「円安は有利だ」と主張する。しかし、マクロ的には、「賃下げ」は「所得の減少」を意味する。国民は、減った所得で、商品を買う。国内産の品については変動が少なくても、輸入品は値上がりしているから少ししか買えない。「輸入品なんか買わなくてもい」と論者は主張するのだろうが、必須の輸入品は非常に多い。石油・電力(石油などから)・肉類・紙・木材・鉄鉱石・パソコン ……など、莫大にある。それらがみんな値上がりする。かといって、電力やガソリンの消費量を急に減らすわけにも行かない。結局、国民の生活が苦しくなるだけだ。
 しかも、労働生産性も低下する。労働生産性は、ドルで表示されるから、2割の円高で、労働生産性は2割の低下を起こす。……しかも、呆れたことに、彼らはたいていサプライサイドなので、「円高を」と叫ぶと同時に、「生産性の向上を」と叫ぶのだ。矛盾した説の主張。ほとんど狂気である。
 正しい方策を示そう。不況というのは、「需要の縮小」である。この「需要」は、「内需」のことだ。ここで、「外需を増やせば、需要の総計は増える」と主張するのが、「円安」論者だ。そして、「そのためには国民の賃金を大幅に切り下げればいい」と主張するわけだ。
 話の筋を完全に取り違えている。物事の本質を見失っている。単に「需給のバランスを取れば不況は解決する」と主張しているだけで、何が減ったかを理解できずにいる。あげく、「賃下げで不況は解決できる」と、ひどい主張をする。(考えてもみるがいい。政府のマクロ政策の失敗で不況になったのに、なぜ、国民全員が莫大な賃下げを受けなくてはならないのか? そう考えてみれば、いかに本質を逸らしているかがわかる。)
 図式的に示そう。内需が縮小したときに、論者は、次のように主張する。
 いずれも、「国民の消費(内需)」が減ったときに、別のものを増やして、バランスを取ろうとする。彼らはみな、物事の核心を見失っているのだ。そのあげく、「国民の富を奪えば不況を脱出できる」と主張する。本末転倒だ。
 たとえ話。病気で患者の体重が減った。これを見て、「だったら肥満させて体重を増やせばいい」と主張する。つまり、数字だけのバランスを取ろうとして、肝心の病気という本質を見失っているわけだ。

 [ 付記 ]
 さまざまな提案のなかでも「円安」というのは、一番、タチが悪い。なぜなら、まったくの机上の空論にすぎないからだ。「理屈倒れ」と言ってもよい。
 「公共事業」や「設備投資」の増加ならば、まだしも、効果があるかもしれない。しかし、「円安」というのは、効果がない。
 仮に、1ドル=180円になったとしよう。それでGDPの10%を占める輸出が、2割ほど上昇したとしよう。それでもGDPはたったの2%しか増えない。これでは、需給ギャップを解消することはできない。
 論者は、「輸出はもっと増えるぞ」と主張するかもしれない。しかし、そんなことはありえないのだ。なぜか? 固定相場制ではなく、変動相場制を取っているからだ。仮に、輸出が大幅に増えれば、円高になって、輸出の増加を打ち消す。(それが変動相場制というものだ。経済学の初歩である。素人でなければ、すぐにわかる。)
 しかも、論者は忘れているが、円安のとき、国民所得は急減するのだ。輸入商品の値上がりのせいで、国民の実質所得は減っている。(それこそが「円安」の狙いだ。)しかし、実質所得が減少すれば、購入できるものも減る。外国の石油などを高値で購入すれば、その分、金がなくなるので、国内製品を買う金を減らすしかない。つまり、さまざまな産業で、急激に国内需要が減る。(所得減少の効果。)
 とにかく、マクロ経済で肝心なのは、「所得」だ。なのに、「円安」論者は、「所得」についてまったく考慮せず、単に貿易市場での需給だけを見ている。恐ろしいほど小さな視野しか持っていない。ごく小さな部分だけを見て、そこで需給を均衡させることに熱中して、経済全体の相互関連する変動をまったく見失っている。
 ちなみに、「円安」を主張するエコノミストをみてみるがいい。そこにはまともな経済学者はほとんどいない、とわかるはずだ。たいていは、証券会社の社員とか、銀行員とか、文化批評家とか、新聞記者とか、そういう二流の人々ばかりである。「経済」をまともに勉強した人はほとんどいない。……彼らのほとんどは、「輸出企業のコンサルタント」のようなものであって、経済をマクロ的に見る能力が根本的に欠落しているのだ。

( ※ ついでに言えば、「円安」は、輸出を激減させる可能性がある。たとえば、円安で一番輸出が増える先は、米国だろう。しかし、現在の日米の貿易は、日本の大幅な出超だ。これをさらに拡大すれば、当然、わがままな米国は「対日課徴金」を下す。以前の例では、対米輸出を増やした鉄鋼や自動車は、対日課徴金のせいで、輸出が激減した。同じことを繰り返す可能性がある。……なお、この場合、「対日課徴金」という形で、日本の富が米国に流出する。おまけに対米輸出は激減だ。だから日本の不況はさらに悪化する。)(「円安」の教訓は「舌切り雀」である。「欲張り婆さんは、得をしようとして、かえって大損しましたとさ」。)


● ニュースと感想  (12月07日b)

 前項の続き。
 「世間で言われる不況解決の方法」について。その2。
 世間で言われる不況解決の方法には、いろいろある。小項目で、二つ示す。(本項は、あまり重要ではない話。)

 (3) IT推進
 「構造改革で景気回復」という説がある。その類型として、「IT産業の推進で景気回復」とう説がある。以下の通り。
 「日本はIT産業が遅れている。ADSLは米国や韓国よりもずっと遅れている。こういう通信基盤を整備することで構造改革が進み、景気は回復するぞ」。
 さて。
 現在、ADSLは、日本は世界で最も安価で提供されている。頭打ちの米国や韓国とは違って、今まさしくこの産業は急成長している。IP電話なども提供されていて、成長力はめざましい。つまり、まさしくIT産業が成長している。……で、景気は回復したか? 否。むしろ悪化している。
 結局、個別の産業がいくら成長しも、無意味なのだ。ADSLのために年間5万円ほどの支出が増えれば、その分、他の支出が5万円減るだけのことだ。
 個別の支出をいくら増やしても無意味であり、全体の支出を増やす必要がある。── そう理解するのが、マクロ経済学だ。それを理解できない人々が、「IT化の推進」などという愚かな妄想を持ち出す。

 (4) 雇用の流動化
 「失業対策には、雇用の流動化が必要だ」という説がある。
 ま、雇用の流動化は、ないよりはあった方がいい。しかし、それは、マクロ経済とは関係がない。むしろ、ミクロの話である。「市場の流動化を進めれば、市場の最適配分が進む」というだけのことだ。
 失業問題について言えば、「雇用のミスマッチ」はいくらか減るだろうが、失業者の総数を減らすことにはならない。失業問題を解決するには、「労働者が最適の職場に就けること」をめざしても意味がなく、雇用の場の総数を増やすことのみが意味をもつ。
 この件は、数日後、「失業」シリーズで、詳しく再論する。

 [ 参考 ]
 「雇用の流動化」についての関連。
 特許を出した技術者への報酬については、しみったれた日本企業が多い。しかし、キヤノンでは、「成果に応じて、何億円でも出す」と社長が言っているそうだ。で、その方針を受けて、多大な技術者が中途採用のために応募しているとのことだ。(朝日・朝刊・経済面・特集欄 2002-12-06 )
 キヤノンという会社は、私は昔からよく知っているのだが、ソニーなんかよりもずっと先進的であった。たとえば、次のような点がある。
  ・ 「週休二日制」を世間に先んじて何十年も前から実施した。
  ・ 「他社と同じことはやらない」という開発方針。
  ・ 技術開発費を莫大に投資している。(普通の企業の倍。)
  ・ 「特許を重視し、米国での特許出願件数で、毎年トップ5入り」
 つまりは、独創性というものを、非常に重視している。この点では、日本企業のトップだろう。(上記の社長が偉いのではなくて、昔からそういう経営方針だった。)
 で、どうなったか? 昔は、日本光学( Nikon )よりもずっと劣るカメラ会社にすぎなかったのだが、今や収益率でも企業規模でも世界で一流と目される会社となった。成長神話で言えば、「ホンダ」「ソニー」「キヤノン」となるだろう。(ただし、キヤノンには、カリスマ創業者はいなかった。そこがちょっと違うので、マスコミ受けはしないので、目立たないが。マスコミなんてのは、人物本位のワイドショーしかやらないから、物事の本質なんかには目を付けないのだ。)
 話を戻そう。上記のように、「多大な発明報酬を出す」という方針を出せば、その会社には、独創性のある優秀な技術者が押し寄せる。かくて、その企業は、急成長ができる。一方、「社員には金を出さない」という会社には、クズ社員ばかりが集まる。(例を言えば、古臭い体質である、東芝や日立がそうだ。昔は超一流の家電会社であったが、今や家電の分野では次々と撤退している。給与をケチるから、こんな会社には優秀な社員は集まらず、会社そのものが衰退するわけだ。)
 結語。
 「中途採用でも優秀な人をどんどん採用します」という個別企業は、どんどん成長するし、経営の効果はある。つまり、「雇用の流動化」は、マクロ経済には関係ないが、個別企業には関係がある。

  【 追記 】 ( 2002-12-09 )
 「能力主義」について、ちょっと皮肉を言っておこう。
 「能力主義で、実力に応じて給与を払うべきだ」という主張がある。しかし、これは、矛盾に満ちている。なぜなら経営者は、こう主張するからだ。
 まったく矛盾した主張だが、これを相手に応じて使い分ける。
 普通の人々には、「きみは優秀ではないから高給は与えない。高給がほしければ、優秀な業績を上げたまえ。すばらしい業績を上げれば、たんまりと払うよ」と主張する。
 一方、優秀な人々には、「いくらきみが独創的な発明をして特許を得たとしても、その裏には、生産や販売に関わる多くの人々がいるのだよ。きみ一人の力じゃない、多くの人々の見えない貢献があるんだ。だから、きみには高給を払わない。どんなにすばらしい成果を挙げても、スズメの涙で我慢したまえ」と主張する。
 ひどい二枚舌だ。
 ( → 9月21日b にも同趣旨。)


● ニュースと感想  (12月08日)

 前項の続き。
 「世間で言われる不況解決の方法」について。その3。
 「デフレは貨幣的な現象である」という説について。
 そういう説が、よく言われる。マネタリストの説だ。「経済のすべては貨幣で説明できる。何でもかんでも貨幣で済む」という貨幣崇拝主義者の主張だ。(拝金主義の末裔かもしれないが。)
 そこで、この説について、検証しよう。

 「インフレは貨幣的な現象である」というのは、マネタリズムの祖であるフリードマンの主張だ。そして、これは、原則的に正しい。フリードマンの「選択の自由」で示しているように、たしかに、「貨幣量の増大によるインフレ」という現象はあるし、そういう現象に対しては、「貨幣量の減少によるインフレ退治」が有効となる。田中角栄時代のインフレを福田の処置で解決したのは、有名な例だ。

 さて。では、フリードマンの説を逆転させて、「デフレは貨幣的な現象である」という説を唱える人々が出てくる。自説では独創的な説を出せない学者というものは、必ず、他人の主張をちょっとだけ自己流にアレンジして、「これが私の説でございます」と主張する。その流儀だ。で、実際、その通りになるか? 
 「貨幣的な現象としてのデフレ」というものがあるとすれば、そこでは、「貨幣量の縮小」が起こっているわけだから、金融市場では、貨幣が不足する。となると、高金利になる。金融市場で高金利になるせいで、財市場(一般商品市場)で生産が縮小する。……こういう現象は、たしかにある。たとえば、アジア危機のあとのアジア諸国や韓国がそうだ。IMFの処置に従って、金の流出を防ぐため、非常に高金利にした(貨幣量を縮小した)が、そのせいで、生産が激減して、デフレになった。
 だから、「貨幣的な現象としてのデフレ」というものは、たしかに、ある。それは、「IMFふうのデフレ」である。では、「(例外なしに)あらゆるデフレは貨幣的な現象である」と言えるか? それが問題だ。
 特に、現況の日本のデフレは、「IMFふうのデフレ」であるか? その答えは、否である。今のデフレは、「IMFふうのデフレ」ではない。なぜか? 「高金利」という現象が見られないからだ。仮に、「高金利」になっているのならば、現在のデフレは、「IMFふうのデフレ」であるから、「貨幣量の増大」によって、金利を低下させることで、デフレを解決できる。しかし、そもそも「高金利」にはなっていないのだ。つまり、貨幣量の縮小は見られないのだ。ここが肝心だ。
 結局、デフレには、二種類があるわけだ。
 この二つを区別することが肝心だ。前者は、貨幣的な現象である。これは、「貨幣量の縮小」が原因だから、「貨幣量の増大」によって解決できる。後者は、貨幣的な現象ではない。これは、「貨幣量の縮小」が原因でないから、「貨幣量の増大」によって解決できない。
 今の日本の不況は、貨幣的な現象ではないし、貨幣に原因があるわけではない。では、何が原因か? もちろんは、これまで何度も述べたとおりで、生産そのものが縮小していることだ。(そして、それをもたらしたのは、消費の縮小だ。)
( ※ なお、上の二種類のデフレは、「マネタリズム的なデフレ/ケインズ的な不況」と区別することもできる。)

 結語。
 「貨幣的な現象」としてのデフレは、たしかにある。しかし、現況のデフレは、別の種類のデフレだ。つまり、「貨幣的な現象」ではないデフレだ。これへの対策として、貨幣的な処置を取っても、無効である。つまり、いくら金をジャブジャブにしたところで、単に金が倉庫に滞留するだけであり、何の効果もない。(なぜなら、もともと金は不足していないから。)


● ニュースと感想  (12月08日b)

 前項の続き。
 「世間で言われる不況解決の方法」について。その4。
 サプライサイドという経済学派は、「もっともらしい嘘をつく学派」と見なしてよい。本当を言えば「学派」と呼ぶにはふさわしくない。彼らは直感と思いつきだけで経済を主張し、学問的な裏付けはほぼゼロだからだ。
 それでも、「一言で済む理論」というのは、素人受けするから、けっこう、人気がある。しかし内実は、矛盾に満ちている。その例として、「規制緩和」という主張がある。
 「規制緩和はすばらしい」という主張は、たったの一言で済むし、いかにもサプライサイドらしい主張だ。しかし、それが矛盾に満ちている。なぜなら彼らは、こう主張するからだ。
 一方では「政府は介入するな」、他方では「政府は介入してくれ(助けてくれ)」だ。まったく、ご都合主義も甚だしい。
( ※ これに似た矛盾の例もある。「郵貯は民営化せよ」「銀行は国営化せよ」という主張だ。国民は嘲笑っているが、サプライサイドの人々は自己矛盾に気づかない。)

 サプライサイドの人々は、「企業を強化すれば経済は成長する」と主張する。昔、社会党や共産党は、「企業は労働者の敵だ」と主張する愚かさを示したが、今や、サプライサイドの人々は、「企業は経済成長の神様だ」と主張する愚かさを示す。
 馬鹿げた話だ。企業とは、敵でもないし、神様でもない。単に「労働の場」としての組織にすぎない。そういう組織はたしかに大切だが、だからといって、国民の富を奪って、この組織にばかりつぎこんでも、状況はちっとも改善しないのだ。
 企業にとって大切なのは、個別企業において生産の効率を改善することだ。つまりは、生産性の向上だ。そして、それは、個別の企業が自分自身でなすことなのである。
 政府がなすべきことは、個別の企業のなすことに介入することではなくて、各企業が効率的に動けるように、経済の場をマクロ的に整えることだけだ。つまりは、マクロ的な需要管理をすることだけだ。需要管理さえ適切ならば、あとは、政府が何もしなくても、市場原理で自動的に最適化されていく。
 「供給を重視せよ(優遇せよ)」というサプライサイドの主張は、それ自体が市場原理に反しており、市場原理を重視する自己本来の主張に対して、自己矛盾を起こしているのである。

 [ 付記 ]
 これに似た話は、各企業の経営についても当てはまる。
 優秀な経営者とは、何か? 社員一人一人に最適の仕事を教えることか? 違う。社員一人一人に最適の仕事環境を与えることだ。社長が各人の仕事をいちいちすべて指図するようなワンマンな会社は、必ずつぶれる。優秀な社長は、社員一人一人が最大限の能力を発揮できるようにする。たとえば、権限委譲をしたり、組織の風通しを良くしたり。
 そして、それと同じことが、国の経済政策にも当てはまる。国は個別の企業に「ああせよこうせよ」と介入する必要はない。たとえば「投資を増やせ」とか「生産性を向上せよ」とか介入する必要はない。単に需給を均衡させて、経済を正常化させるだけでいい。余計なことはするべきではないのだ。


● ニュースと感想  (12月08日c)

 前項の続き。
 「世間で言われる不況解決の方法」について。その5。
 世間で言われる不況解決の方法には、次のようなものがある。
  ・ 失業対策( ≒ 労働者対策)
  ・ 不良債権処理( ≒ 銀行の健全化)
 しかし、私は、これらを否定してきた。「本質的ではないからダメだ」と。では、どうして本質的ではないか、その核心を示そう。
 この二つについて言えば、ひとことで言えば、「あちらが立てばこちらが立たず」だ。つまり、二律背反がある。次の (1) (2) のように。

 (1) 労働者と企業
 失業対策は有効か? 企業に労働者を無理に雇用させれば、労働者は職を得てメリットがあるが、その分、企業は余剰な労働力をもつことになるから、デメリットがある。(生産性の低下やコストの上昇など。)
 つまり、労働者と企業とは、利害が相反する。労働者は、多く雇用してほしいし、企業は、少なく雇用したい。どちらをめざしても、状況は改善しない。
 にもかかわらず、政府は、一方では「失業者を雇用しよう」と叫び、一方では「余剰労働力を解雇しよう(生産性を向上させよう)」と叫ぶ。矛盾。

 (2) 銀行と企業
 不良債権処理は有効か? 銀行が劣悪な企業をどんどん倒産させれば、銀行はこれ以上の不良債権の拡大を防げるのでメリットがあるが、その分、企業は、否応なしに倒産されられるので、デメリットがある。(倒産・失業の発生。)
 つまり、銀行と企業とは、利害が相反する。銀行は多く不良債権処理をしたいし、企業はなるべく不良債権処理をしてほしくない。どちらをめざしても、状況は改善しない。

 結語。
 パイが小さい限り、その小さいパイのなかで奪い合いをしても、状況は少しも改善しない。「こっちのパイが大きければいい」「いやこっちを大きくしろ」と叫んでも、どうにもならないのだ。「パイを大きくすること」以外には、解決策はない。
 この本質を見抜くことが大事だ。つまり、解決策は、「総需要の拡大」だけである。このことを理解しないで、パイの切り分け方だけをあれこれと主張しているのが、愚かな経済学者の政策だ。「セーフティネット」だの「不良債権処理」だの、いかに馬鹿げた日本質的な政策であるかは、以上のことからわかるだろう。
 比喩でなく、直接的に言えば、こうだ。GDPが縮小しているときには、何をどうしようと、失業はあふれるし、企業は赤字になって不良債権と化す。GDPを正常な値にまで拡大する以外には、いくら失業対策をしようと不良債権処理をしようと、まったく無意味なのである。


● ニュースと感想  (12月09日)

 前項の続き。
 「世間で言われる不況解決の方法」について。その6。
 「政府系金融機関が民間金融機関と競合している」とのこと。たとえば、中小企業に対し、政府の中小公庫が設備投資として年利 0.95% で 10返済、という条件。銀行はリスクや利益も考慮して 2% 台が限度。しかし長年の顧客を政府介入なんかで失いたくない。やむなく、既存の融資を大幅に引き下げることで、顧客を引き止めた。(朝日・朝刊・経済面・特集コラム 2002-12-08 )
 これは、良い記事である。「足で書け」(空疎な理論よりも事実を調べよ)と私は何度も述べてきたが、その良い例となっている。褒めておこう。

 さて。この記事からわかることは、次の (1) (2) の2点だ。

 (1) 金詰まり
 「金詰まりがあるから不景気になるのだ」という説を主張する経済学者がいる。次の両者だ。
  1.  不良債権処理論者
     金融システムが金詰まりになっているから、景気が悪い。金融システムを健全化して、金のめぐりを良くすれば、景気が良くなる。(だから不良債権処理や公的資金注入を!)
  2.  マネタリスト
     金が不足するから、景気が悪い。金を増やせば、景気が良くなる。(だから量的緩和を!)
 しかし、そんなことはないのだ。金詰まりもないし、金不足もない。そのことを上記の記事は明らかにしている。
 また、その証拠となる例は、もう一つある。「低金利」だ。仮に、不良債権処理論者やマネタリストの主張するように「金詰まり」「金不足」があるとしたら、「高金利」になっているはずなのだから。

 (2) 不良債権処理
 記事の本質をマクロ的に考えよう。
 「政府金融であろうと、低利で融資するのであれば、それで中小企業の方は楽をする。だから、それでいいではないか」
 と思う人が出てくるだろう。地元企業に口利きをする政治家ならばそう思うだろうし、弱者救済や中小企業救済を主張する左派のエコノミストもそう思うだろう。しかし、そこでは、計算が尻抜けになっている。彼らが気づかないことがある。それは、「右手から左手に金を移しても、片方が得する分、他方は損をするだけだ」ということだ。
 金利を低利にすれば、中小企業は得をする。しかし、その分、融資する側は損をする。そして、その分が、「不良債権」となるのだ。
 上記の記事では、たとえば、中小企業は低利のおかげで、1億円ぐらい得するかもしれない。そして、その分、銀行は利益を失ったわけだから、1億円の損だ。銀行としてはリスク管理を考えてギリギリでやっているわけだから、それより低利にするということは、赤字になるということだ。融資事業で赤字を出すということは、「不良債権」の増加と同じことだ。つまり、中小企業が1億円得した分、銀行の赤字(不良債権)が1億円増えることになる。(その分は、一般国民に、ツケ回しされる。)
 では、銀行ではなく、政府の中小公庫が融資したら? やはり、同様の理由で、政府の赤字(不良債権)が1億円増えることになる。(その分は、一般国民に、ツケ回しされる。)
 結局、政府が融資を拡大すればするほど、民間の不良債権は減るが、その分、政府の不良債権は増える。国が銀行の不良債権を肩代わりするだけだ。
 それでけではない。マクロ的には、こういう無理な金利引き下げを実施することで、無理な融資を拡大するから、倒産した企業に融資した総額は、どんどん増える。たとえば、上記の中小企業は、「そんなに高い金利ならば融資を受けない」と思ったかもしれない。それならばどうということはない。しかし、「そんなに金利を下げてくれるなら融資を受けよう」と思う。そうして予定の倍も融資を受けることにする。そのあと、倒産してしまえば、不良債権が倍に増えただけとなる。
 無理な金利引き下げをして設備投資を増やすことが大事なのではない。マネタリストは、それで喜ぶだろうが、そんなことをしても、当の企業が倒産してしまえば、不良債権が増えるだけのことだ。
 大切なのは、赤字企業に対して、融資を増やすことではない。企業に客が来るようにすることだ。つまり、総需要を増やすことだ。── なのに、それを理解できない人々が、「融資を増やせ」「設備投資を増やせ」と主張し、そのあげく、不良債権だけを増やしていく。

 結語。
 「不良債権処理」論者も、マネタリストも、彼らの主張は事実に反している。そのことを、上の記事は明らかにする。

( ※ なぜ彼らは愚かなのか? 「消費」「所得」というものが、頭からすっぽり抜けているからだ。GDPの6割は消費なのに、それを無視して、他のところばかりを見ている。底抜けの理論だから、結論も底抜けとなる。……そういう愚かな人々には、たぶん、今回の記事は説明不可能だろう。その意味で、今回の記事は、なかなか有益である。)


● ニュースと感想  (12月09日b)

 「不況解決策」の根本について。
 「不況解決にはどうすればいいか?」という問題が、ずっと話題になっている。これに対して、私の立場を、ごく簡単に示しておこう。
 私が言いたいのは、何か? 「核心をつかめ」ということだ。
 風邪を引くと、さまざまな症状が出る。それと同じように、不況になると、さまざまな症状が出る。たとえば、収益悪化、赤字化、倒産、投資縮小、賃下げ、失業、……など。
 こういうさまざまな症状が出るが、それらの症状に対して、個別に対症療法をしても、仕方ない。たとえば、
 こんな個別の対症療法は、いくらやっても、ダメなのだ。
 不況の本質は、「需給ギャップ」の発生だ。つまり、「総需要の縮小」だ。この根本原因に対処することだけが、唯一の解決策である。
 だから、個別の対症療法としての景気対策は、すべて無意味なのだ。たとえば、次のような政策は、すべて無意味だ。
 これらはすべて、狙いそのものが間違っているわけだ。

( ※ だから、これらは、効果がない。「風邪の患者には、熱を下げるために、頭を氷で冷やし、体を冷水に入れよ」というようなものだ。根本の原因を見失うと、こういうことになる。)

 では、どうするべきか? 
 根本は、「総生産 = 総需要 = 総所得」という値の、GDPを増やすことだ。それ以外にはない。
 ここで、「だったら、生産を直接増やせばいい。たとえば公共事業や設備投資を増やそう」という考え方を、上では批判してきたわけだ。では、正しくは、どうするべきか? 
 GDPの内訳を考えよう。公共事業や設備投資は、GDPの内訳は、さほど大きくない。個人消費が6割ほどを占める。だから、個人消費を直接増やすことが肝心である。しかも、個人消費というのは、上の等式(3面等価の原則)のうち、「総需要」のところに含まれる。これを刺激するには、「生産刺激」ではなくて「消費刺激」が必要となる。
 公共事業は? これについては、すでに何度も批判してきた。ここでは繰り返さない。
 設備投資は? これについては、つい先日の「インフレ目標」のところなどで説明してきた。つまり、投資促進は、あくまで「金利引き下げ」によって行なうべきであり、金利をゼロまで引き下げることである。そして、それ以上に金利を下げることは、無駄な設備投資をやらせることになるから、まずいのだ。( → 11月22日
 というわけで、公共事業も設備投資も、手詰まりとなる。だからこそ、個人消費の促進だけが残るわけだ。

 要するに、こうだ。「個人消費の促進」が先に結論としてあるわけではなくて、「GDPの拡大」が先に結論としてある。(個別の対症療法ではなくて、根本対策として、そのことがある。)そして、GDPの拡大を実現する方法としては、「金利引き下げ」が無効であるときには、「個人消費」との拡大しかない。(「公共事業」は、好ましくないので、最初から除く。)
 そのようにして、「個人消費の拡大」が結論として出るわけだ。そして、手段としては、「減税」という政策が導き出されるわけだ。

 [ 付記 ]
 「GDPの拡大? 当たり前じゃないか!」と思うかもしれない。しかし、残念ながら、そうではないのだ。
 ケインズ派ならば、まがりなりにも、45度線のグラフを使って、総生産というものを考察してきた。しかし、古典派では、そうではない。古典派は、あくまで「需給の均衡」というものだけを考えており、「総生産の拡大」というようなことを、ろくに考えていないのだ。実際、モデル的に定量的にGDPを考察したりはしない。
 だから古典派は、変な結論を出す。たとえば、「賃下げをすれば失業は解決する」と。ここでは、「賃下げをすれば総所得が減る」という可能性を考慮していない。「賃下げをすれば、失業者が減る。だから、その新規雇用の分も考えれば、総所得はたぶん増えるだろう」と曖昧に予測するだけであり、定量的なモデル的考察はまったくなされないのだ。(ケインズとは雲泥の差だ。ほとんど子供の感想であり、とても経済学説とは呼べない。)
 また、たとえば、「マイナスの金利を実施すれば、企業は得をするので、設備投資をする」と主張する。しかし、「マイナスの金利」というのは、「企業の得」であると同時に、「個人の損」である。したがって、「企業の得」と「個人の損」を同時に公約する政策を実施しても、そのことは必ずしも「総需要の拡大」という結論にはならないはずだ。……このとき、将来の資産減少という所得の効果を、古典派の論者(マネタリスト)は十分に考えていないわけことになる。
( → 11月25日

 [ 補記 ]
 「個別の対症療法は効果がない」と述べた。実は、効果がないだけでなく、弊害がある。金を無駄につぶすことで、国家経済を弱体化させるのだ。
 たとえば、「セーフティネットを充実させよ」という主張がある。単にそう主張する人もいるし、不良債権処理にともなって失業が発生するから、その対策としてセーフティネットを主張する人もいる。
 しかし、そういう対症療法は、表面的な症状を抑えることはできても、病状をかえって悪化させる。経済そのものが弱体化してしまうからだ。
 考えてもみるがいい。「景気回復」というのは、「失業」という無駄を解決することだ。「失業者に金を与えればいい」ということではないのだ。仮に、そんなことで話が済むするのであれば、全員を失業させて、全員をセーフティネットで救済すればよい。遊んで金儲け。この世の天国だ。
 しかし、そんなことは馬鹿げている。「全員失業」について、経済学者は「遊んで金がもらえますよ。天国ですよ」と主張するが、その実態は、経済の破綻であり、「地獄ですよ」となる。
 失業者に金を与えることが大切なのではない。失業者に職を与えることが大切なのだ。その本質を見失った人が、経済の縮小という実体を無視して、「セーフティネットを充実させよ」と主張する。「どんなに経済が縮小しても、セーフティネットを充実させれば大丈夫」と。
 物事の本質を見失うと、こういう本末転倒を主張するようになる。そして、自分の説のどこが本末転倒であるか、理解できなくなる。


● ニュースと感想  (12月09日c)

 一昨日分に、「能力主義」についての「追記」を加えておいた。 → 該当箇所


● ニュースと感想  (12月10日)

 「道路公団民営化」について。これに対する私の見解を、簡単に述べておく。
 民営化推進か否か? 私の意見は、どちらでもない。「地方に決定権移譲する」というのが、私の主張だ。
 具体的には、こうだ。
 上記のようにした場合、各州は、「公共事業または福祉」という選択肢を得る。公共事業を増やせば、その分、福祉が削られる。どちらを重視するかは、各州に任せればよい。
 私だったら、公共事業を重視する州からは逃げ出して、福祉を重視する州に引っ越す。引っ越すことができなければ、その州の長を選挙で落選させる。
 なお、バリエーションとしては、次のようなことも考えれられる。
 ともあれ、これで、万事カタが付く。公共事業をたくさんやりたい州または市町村は、やりたいだけ、どんどんやればよい。ただし、その分、福祉が削られて、実質増税となる。それだけのことだ。
 「道路建設」についても、こうすればいいわけだ。(道路建設のほか、ダム建設、箱もの建設、橋の建設、なども同様。)

 [ 付記 ]
 現状の問題点は、どこにあるか? 「一地方の公共事業を、日本全体でまかなう」ということだ。ここに無駄が発生する根本原因がある。たとえば、本四架橋は、無駄ではあるが、四国の人にとっては利益がある。なぜなら、その金は、四国の人が払うわけではなくて、日本国民全体が払うからだ。
 そこで、この本質を理解した上で、「他人の金で公共事業」という仕組みを改め、「自分のことは自分の金で」という仕組みにするわけだ。ここに、上記の主張の根拠がある。

 [ 補足 ]
 なお、過去の建設物については、負債と所有権をいっしょにして、各州に引き渡せばいいだろう。「そんなのイヤだ、欲しくない。赤字の本四架橋なんか不要だ」と拒否する州があったら? その分は、国家管理すればよい。つまり、四国州が自己管理を拒否するのであれば、四国州の独自行政権を奪って、国家が管理する。これはこれで問題ない。単にその州が独自行政権をなくすだけのことだ。四国の人々が自己管理するかわりに、霞ヶ関の「四国局」の人々が管理するわけだ。実質的には同じことになる。役人だけが、四国人ではなく、東京人になる。それだけのことだ。


● ニュースと感想  (12月10日b)

 「個人情報保護」法案について。
 修正したあとで、次の国会で成立の見込み。修正内容は、「報道目的の個人情報の取得を認める」というもの。つまりは、マスコミは対象から除外する、ということだ。
 これについては、私は何度も批判した。「マスコミだけを除外する」というのは、ただの業界エゴにすぎない。自動車産業が「道路を作れ」、建設産業が「公共事業をやれ」というのと同種だ。国民に迷惑を掛けて、自分が利益を得よう、という発想だ。
 こんなことを許容すれば、状況はますます悪くなる。たとえば、こうだ。
 「『個人情報の宝庫』という新雑誌を発行します。ここには個人情報がたっぷりと掲載されています。これは報道目的だから、個人情報をいくら載せても構いません。さあ、人々の秘密を暴露しましょう。住所、生年月日、学歴、病歴、犯罪歴、行政処罰歴、恋愛歴、彼女いない歴、……何でもかんでも、プライバシーを暴露しましょう」
 こういう雑誌が堂々と公刊されるようになる。
 「馬鹿な」と思うかもしれない。しかし、これは、現在でも法律上、違法ではないのだ。そしてまた、上記の修正案が通れば、堂々と公認されることになる。
 実例を示す。「噂の真相」という暴露雑誌がある。これは、公権力のプライバシーを暴露するだけでなく、一市民のプライバシーをも暴露する。小林よしのりという漫画家が、政府やマスコミにものすごく噛みついている。それを「気に食わん」と思った編集長は、小林よしのりを調査したが、うまいアラ探しができない。そこで、当人でなく部下に噛みついた。無名の部下を調査すると、過去の恥ずかしい経歴を発見した。恥ずかしいとはいえ、違法ではないのだから、別に問題はないのだが、「プライバシーの暴露」という形で、この部下(若い女性)を攻撃した。そのあげく、小林よしのりは、部下をこれ以上のプライバシー攻撃にさらされないようにするため、泣く泣く解雇した。暴露雑誌の方は、「小林よしのりの重要な戦力を奪ってやったぞ!」と凱歌を上げた。しかし、若い女性が、プライバシーを暴露されて、非常に傷ついて、一生の職業(生きがい)を失ったことには、目もくれなかった。一人の人間の人生を破滅させて、それを正義と称する。
 これがマスコミというものだ。一般市民をいくら傷つけても平気でいる。暴露雑誌だけではない。一般の新聞でも、似たようなことはときどきある。(だから新聞オンブズマンの必要性が叫ばれる。)
 ついでに言えば、「伝記作家」というのも、同様だ。相手が有名だと言うだけで、何の罪も犯していない人々について、あれやこれやとプライバシーを暴露する。ワイドショーと同じだ。「誰それがどこそこの女といいことをした」というようなことを一生懸命調べて、暴露する。私としては、お下劣の極みとしか思えないが、こういうお下劣を法律上で守って、本人のプライバシーをぶっつぶすのが、今度の法案だ。
 私だって心配ですよ。「南堂という奴は、政府とマスコミを攻撃してばかりで、けしからん!」と右翼団員が思うだろう。「こいつを殺してやりたいが、銃は必要なくなった。今度の法案が、プライバシーの暴露を許容したからな。こいつのプライバシーを徹底的に探ろう。私立探偵を雇って、一日中、ずっとつきまとっていればいい。きっと何かボロを出すだろう。たとえば、立ち小便をして、軽犯罪法違反を犯すかもしれない。あるいは、プロの女性を派遣して、誘惑すれば、興奮してチョッカイを出すかもしれない。そうなったら、デジカメで撮影して、雑誌上で報道してやろう。こうすれば、奴は社会から抹殺されて、もはや政府やマスコミの悪口を言えなくなるだろう。しめしめ」というわけだ。

 わかった! 今度の法案の方針は、「小泉の波立ち」を閉鎖させるためにあるのだ!

 [ 付記 ]
 では、どうすればいいか? 対案は、次の箇所。 → 11月30日b
 その内容は、簡単に言えば、こうだ。
 「調査目的の、個別の個人情報取得は、認める。/営業目的の、一括の個人情報取得は、認めない。」
 つまり、調査目的であれば情報を取得してもいいが、そいつを勝手に暴露報道してはいけないわけだ。報道よりは、プライバシーが優先する、ということになる。
 今回の修正案は、ここのところが問題だ。プライバシーの暴露報道を許容しているのだから。とはいえ、マスコミは、プライバシーの暴露報道こそ、やりたいわけだ。金のために。
 業界エゴである。誰か、マスコミという犯罪組織に、鈴を付けてくれませんかねえ。

 [ 余談 ]
 悪口を言っておこう。
 マスコミというのは、真の意味で、犯罪者集団なのである。なぜなら、ダイアナ妃を追っかけて殺した、という前歴もある。しかも、業界人みんなで、それを正当視する。人殺しをしても、反省しないだけ、並みの殺人犯よりも、ずっとタチが悪いのだ。
 ついでに、若い学生に助言しておこう。「マスコミに就職したい。正義の味方になれるから」なんて思ってはいけない。マスコミというのは、正義の味方ではなく、悪の巣窟なのだ。入社したら最初に訓示されるのは、こういうことだ。
 「思いやりとか、優しさとか、そういった人間的な感情は捨てよ。それができないというのならば、報道には向いていないのだから、報道の場から去れ!」
 わかったかな? マスコミに就職するということは、暴力団に就職してカツアゲをするというのと、同様のことなのだ。つまり、「俺たちのやっていることは正義だ」と口にしながら、悪の限りを尽くすのだ。両者の違いは一つ。暴力団は剣を使うが、マスコミはペンを使うということだ。ペンは剣よりも強し。
( → 5月28日 マスコミの横暴 )


● ニュースと感想  (12月11日)

 「首相公選制」について。
 よく言われる「大統領制」または「大統領制ふうの首相公選制」というのは、実にまずい制度だ。ポピュリストふうの愚かな為政者が選ばれる危険性が非常に高い。その例が、ブッシュ大統領だ。
 今回のイラク向けの戦争というのをよく見ると、先に「フセイン攻撃」があって、それを実現するための「違反」をやたらと見つけだそうとしている。「違反があるから攻撃する」のではなく、「攻撃するために違反を見出す」となっている。論理が逆転している。本末転倒だ。
 この伝で逆に言えば、「攻撃をしないから違反には目をつぶる」となる。対イスラエルがそうだ。核兵器を持っていようが、化学兵器を持っていようが、目をつぶる。国家テロでパレスチナ人を虐殺しても目をつぶる。国連決議違反をしても目をつぶる。「イスラエルを攻撃したくないからイスラエルの違反には目をつぶる」というわけだ。
 結局、ブッシュは何をしたいのか? 独裁者を攻撃したいのではない。(だいたい自分自身や米国が独裁的なエゴイストだ。) ブッシュがやりたいのは、「父親の続き」だけである。それですべては氷解する。米国景気の回復という、世界経済にとって喫緊の課題をほったらかして、イラクに目を奪われる。戦争をすれば景気が悪くなる、とわかっているのに、あえて戦争をしたがる。
 ここまで愚かな大統領は、めったに見られない。相当、知能指数が低い、と推定される。そして、実際、そのことは大学時代に実証されている。(最低の成績だ。お情けで卒業しただけ。)
 はっきり言おう。ブッシュは、大統領制だからこそ、父親に顔が似ているというだけで、当選した。議院内閣制だったら、大臣にもなれそうにない。こんな愚かな人物は、首相が大臣に任命するのを拒否するだろう。
 大統領制というのは、きわめて危険なのである。今、日本が大統領制を実施したら、どこかの石頭な都知事が立候補して当選し、ただちに戦争をぶっぱじめる可能性がかなりある。

 [ 補足 ]
 私が米国批判をすると、「おまえは反米派だな!」と批判する人物が出そうだ。そこで、注釈しておこう。私は、頭のいい米国人は、尊敬する。たとえば、クリントンだ。彼は非常に優秀であり、そこらの国の首相よりもはるかに立派だ。クリントン時代の米国は大好きである。
 クリントン前大統領は、イラク攻撃を批判している。「米国はイラク攻撃に国内が一致している」というわけではない。また、米国民でも、マスコミ調査によれば、かなりの割合で反対する国民がいる。ある日本人の話だと、身近な友人たちに聞いたところでは、ほとんどが反対しているとのことだった。(たぶんインテリが多かったせいだろう。)
 まともな頭のあるクールな人々は、反対しているのだ。頭の熱くなる人々だけが、子供時代の延長で、戦争ごっこに浮かれているだけだ。もしかすると、テレビゲームのやりすぎのせいかもしれない。


● ニュースと感想  (12月11日b)

 コンピュータの話。「バーチャルリアリティ」について。
 バーチャルリアリティは有効か? 有効だ、と私は考える。例は、次のようなものがある。
  ・ フライト・シミュレーション (飛行機の操縦の訓練)
  ・ ドライブのシミュレーション(自動車の運転の訓練)
 これらは実際に有効だし、だから訓練にも使われている。航空会社では数億円のフライト・シミュレーション機器を使うし、自動車教習所でもドライブのシミュレーション機器を使う。(そのへんの安っぽいテレビゲームなんかとはレベルが違う。)

 さて。ここまでは、当たり前だ。問題は、次のことだ。
  ・ 殺人のシミュレーション(人殺しの訓練)
 これは有効か? もちろん、同様に有効である。実例は、新聞記事で報道されている。殺人ゲームに熱中したあげく、現実と虚構との区別がうまくできなくなり、妄想気分で、人殺しをした、と。(読売新聞・朝刊・社会面 2002-12-08 )
 こういう話を聞くと、ゲーム産業の関係者は、「そんな馬鹿な!」と主張する。しかし、それは、論理矛盾である。バーチャルリアリティが自動車の訓練に役立つなら、人殺しの訓練にも役立つはずだ。両者を区別する理由はない。
 「現実と虚構の区別がつかなくなるはずはない」と思うかもしれないが、それは、人生経験の豊かな大人の場合だ。現実と大きな接点を持っていれば、そうだろう。しかし、人生経験が少ない子供の場合には、まだ人格が十分に形成されていないから、混乱や混同が起こることもあるだろう。(全員がそうだということはなくて、ゲーム中毒の少数の子供はそうなることもあるだろう。世界中で何億人もの子供がいるのだから。)

 もう少し心理学的に言おう。たとえゲームであれ、殺人を繰り返していれば、殺人そのものについて「慣れ」が生じる。「免疫」のようなものだ。抵抗感がなくなる。普通の人ならば、相手を傷つけて血を流させることに生理的な嫌悪感を覚えるが、ゲームで殺人を繰り返していれば、「慣れ」ゆえに「免疫」がついて、抵抗感なく、楽々と殺人を遂行できるようになる。
 その証拠もある。ゲームセンターで暴力ゲームをやっている子供たちにインタビューをしてみるがいい。誰もが「ストレスを解消できる」と言う。人を傷つける行為で、ストレスを解消できる。この時点で、もはや、その子供は人格が歪んでしまっているのだ。
 なぜか? 普通の子供ならば、「喧嘩」をして、「相手を傷つける」と同時に、「自分も傷つく」という痛みを知る。ところが、テレビゲームでは、「痛み」を知ることがない。だから「ストレス解消」という自己本位の意見が出てくるのだ。
 まともな現実体験があれば、「暴力はストレス解消になるから良いことだ」なんて言ったとたんに、「じゃ、おれのストレス解消の相手になれ」と言われて、ボコボコにされる。それが正常なあり方だ。そして、そういう正常さを理解できない子供たちが、「ストレス解消」のつもりで、楽々と現実世界で暴力や殺人を起こすようになる。

 結語。
 殺人ゲームの影響は、何か? 殺人をそのものを誘発することではない。殺人に対する抵抗感をなくすことだ。そういうふうに人格を歪めることだ。バーチャルリアリティは、良いことに使えば良い影響があるが、悪いことに使えば悪い影響がある。当然だ。良くもなるし、悪くもなる。ナイフと同じようなものだ。うまく使えば有益だが、下手に使えば人を殺す。
 「コンピュータゲームは無害である」と主張する人々は、そう主張する時点で、もはや人格が破壊されている。麻薬中毒のようなものだ。中毒者は必ず「麻薬は無害である」と主張する。
 だから、あなたに子供がいるのならば、子供を麻薬から遠ざけよう。あなたがすでに麻薬中毒であるのならば、もはや手遅れだが。

( ※ ついでに言えば、金儲けのコツは、麻薬を配る麻薬組織を形成することだ。プレステとか X-box とか、そういうものを売りまくれば、大儲けができる。世界中の人間を廃人にして、自分は大儲けするわけだ。なお、麻薬組織の親分は、絶対に麻薬をやらない。上記の会社の社長に聞いてみるがいい。絶対にテレビゲームに、はまっていることはないはずだ。たぶん、自分ではやらずに、他人がやっている画面を眺めるだけだろう。彼らは麻薬の危険をよく知っているから、自分には麻薬を打たないのだ。)


● ニュースと感想  (12月11日c)

 前項では、コンピュータと教育との関係を述べた。テレビゲーム論のようなものである。
 こんなことを私が書くと、「経済とは関係ない話だな」と思う読者もいるだろう。違う。関係がある。今は時期がクリスマスに近いので、関連して話を述べておこう。
 「金だけが大事だ」という発想をしていると、「金のためには何でもする」というような人格になる。プレステや X-box で儲けている犯罪的なマフィアのような会社を、「金儲けをするから立派だ」と褒めるようになる。たいていのマスコミは、そうだ。マスコミは自社が広告をもらえるから、企業の金儲けを褒め称える。彼らマスコミ人は、悪魔に魂を売り渡しているのである。
 だからこそ私は、「金儲けが至上の目的ではない」と警鐘を鳴らしているのだ。「金をたくさん儲けた人ほど立派だ。あれこれと優遇しよう。そうすれば社会が活性化する」などと主張する拝金主義者を批判しているわけだ。
 金儲けなどは、人間の目的としては、下の下である。そういう自覚がないようならば、そもそも、経済を語る資格がないのである。そのことがわからない人は、たとえば、「ベニスの商人」とか「クリスマス・キャロル」などの文学を読むがいい。といっても、何が書いてあるかも知らないでしょうけどね。守銭奴には、人間的な愛や優しさは、無縁なのである。
 ついでに言えば、クリスマスというのは、魂に関する何かのためにあるのであって、金儲けやプレゼントのためにあるのではない。世の中の大半は、そういうことも理解できない拝金主義者ばかりだが。彼らは人間性が破壊されているのである。

( ※ こういう人間性の破壊された人々は、テレビゲーム中毒よりも、さらに始末が悪い。テレビゲームで人殺しをするには飽きたらずに、現実に戦争を起こして、現実に人殺しをしたくなる。ほとんどゲーム感覚で、イラクやパレスチナの罪もない民衆を殺したがるようになる。世界最大の拝金国家の大統領がそうだ。「人殺しは楽しいな、うっひっひ」という声が聞こえてきそうだ。)
( ※ 彼がいかに愚かかということは、経済学的考えてもわかる。他国を破壊したつもりで喜んでいるが、そうやって戦争を起こして、不況を悪化させることで、自分自身を破壊することになる。爆弾で他国を破壊すれば破壊するほど、自国が破壊されるのだ。そういうことのわからない愚かさ。……下手をすると、世界恐慌に突入しかねない。奈落の底に向かって突き進むのだから、米国も日本も、もはや、レミングの集団自殺のようなありさまになってきている。)


● ニュースと感想  (12月12日)

 明日以降、「失業」について、理論的に述べることにする。ただ、それに先だって、「失業」に関連して、別のことを述べる。それは、「需給ギャップの算定方法」である。
 明日以降で述べるように、失業の解決には、「生産の拡大」が必要となる。では、「生産の拡大」は、どのくらいの額が必要か? 換言すれば、こうだ。不況を脱出するためには、需給ギャップの解消が必要だが、その需給ギャップは、どのくらいあるか?

 需給ギャップの算定方法には、さまざまな方法がある。いずれも推定によるものだから、あまり厳密な根拠があるとは言えない。
 たとえば、みずほ総合研究所によると、2002年春ごろの時点で、需給ギャップは「13兆円」とのこと。(読売・朝刊・経済面 2002-11-28 )── しかし、私見では、これはあまりにも小さすぎる値だと思える。
 まず、日本経済の現在のGDPは、530兆円である。これはここ 10年ぐらい、ずっと変わっていない。これを基本とした上で、「失業」との関係から、次の (2) のような根拠を示すことができる。
 ただ、その前に、(1) の算定方法も示しておく。

 (1) 生産性向上
 生産性向上により、成長が可能である。バブル以前のように 年 1.0% 程度の低成長率が続いたと仮定すれば、12年後には積算して 13% となる。67兆円だ。(GDPは 597兆円。)
 この 67兆円という値は、なかなか納得できる数値だ。日本経済が正常に成長していたら、今ごろ、これだけの産出増加をなしていただろう。
 しかし、これは「正常な成長をなしていたならば」という前提に基づく数字だ。「需給ギャップ」というのは、「均衡を保つ最低ライン」との差だから、もう少し少な目の数値となる。

 (2) 失業
 需給ギャップをなくす最低ラインとしては、「失業の解決」が大切だ。ただ、日本の失業率は、低めに出ていて、データが信頼できない。「就職活動をした失業者」だけが統計に現れ、「最初から就職を諦めた失業者」(新卒予定だった留年者・高齢者・中年女性)などは、初めからデータに含まれない。こういう分を考慮すると、失業率の実態は 8%±1% ぐらいになると見込まれる。好況のときにもある失業率は 2% ぐらいだから、その 2% を引いて、6%±1% つまり 5% 〜 7% ぐらいが、解決するべき本来の失業者の率となる。( → 前項を参照。)
 そして、そのためには、生産量が同じだけ増える必要がある。530兆円に 5% 〜 7% を乗じると、27兆円 〜 37兆円の 生産増加が必要だ、となる。そして、これが、最低ラインの「需給ギャップ」となる。
 生産量をこのくらい拡大すれば、かろうじて、需給ギャップがなくなって、経済は回復軌道に乗るはずだ。しかし、それはまだまだ弱含みであり、いつ倒れるかもわからない状況だ。こういう状況では、消費性向が十分に高まるとは予想できない。いつまた不況に戻るかもしれないのだから、消費者は安心して消費を増やせない。消費心理が不安定であるゆえに、消費がどうなるかも不安定であり、状況も不安定である。(消費性向は、0.7 〜 0.8 のどのような値にもなりそうだ。)
 
 結語。
 「需給ギャップ解決」の最低ラインは、27兆円 〜 37兆円と見込める。これによって、失業の解決が一応は可能となり、当面は需給ギャップが消える。
 しかし、この先どうなるかは、いまだ見通し不明である。ふたたび不況に逆戻りするかもしれないし、好況に進むかもしれない。見通しが不明であるゆえに、消費態度も不安定であり、景気の状況も不安定である。
 「需給ギャップ解決」から、さらに「景気回復」へと着実に進むには、もっと大きな生産拡大が必要となるだろう。ざっと見て、40兆円 〜 50兆円 と見込める。
 結局、景気回復軌道に乗せるには、最低でも 27兆円 〜 37兆円(GDP比で 6%±1% )、できれば 40兆円 〜 50兆円の生産拡大をめざすべきだ。これより小さい場合だと、いったん生産が拡大しても、また不況に逆戻りする可能性がある。(たとえ逆戻りしなくても、成長の速度が遅すぎるので、大量の失業者がいつまでもあふれることになり、好ましくない。)

 [ 付記 1 ]
 9月04日 では、需給ギャップを「60兆円」と見込んで、それを解決するのに必要な減税の額を「12兆円」と見込んだ。
 上記では、60兆円のかわりに、40兆円 〜 50兆円 という数値を出した。だから、この新たな数値に従えば、同じ理由により、必要な減税の額は、8兆円 〜 10兆円 ということになる。

( ※ ただしこれは、最低限度である。つまり、「インフレ目標」「インフレ告知」などを併用した場合の値である。何も併用しないで、単に減税だけを実施する場合には、もっと巨額が必要だ。また、減税をするにしても、「均等バラマキ」ではなく、「所得税減税」や「法人税減税」などにするのならば、効果が減じる分、額をもっと大幅に増やす必要がある。たとえば、「所得税減税」ならば、20兆円程度は必要となるだろう。「公共事業」でも、ほぼ同等の額が必要となる。 → 9月04日
( ※ また、現況が非常にひどい不況だと見なされると、景気回復が信じられなくなるから、その分、減税の効果も減じる。だから、減税の額は、なるべく大きめにした方がいい。少ないのは無駄になる危険があるが、多いのは後で増税で回収できるから、多すぎて困るということはない。上記では 8兆円 〜 10兆円 という数字を出したが、これがベストであるわけではない。── 私が首相だったら? 最低レベルでは失敗する可能性があるし、成長速度も遅いので、まずい。だから、私ならば、「6兆円+6兆円+6兆円」にする。「まず6兆円」、そして「半年後に6兆円を追加」、そして「まだ効果が十分でなければ6兆円を追加」というふうにする。場合によっては無制限に追加することを公約する。)
( ※ なお、6兆円は、国民1人当たり5万円。4人家族で 20万円。ただし、「均等」の場合である。「所得税減税」だと、低所得者はゼロ円。……ついでに言えば、低所得者も「消費税」という形で莫大な税を払っている。「低所得者は税を払っていない」などという馬鹿げた主張をする経済学者にだまされてはいけない。)

 [ 付記 2 ]
 インフレ目標では、物価上昇率は5%を目標とする。これに届くまでは、増税をしない。物価上昇率が2%程度では、まだまだ失業者が大量に残っているはずだから、引きつづき、景気拡大策を取る。「そろそろ増税」なんてことをやると、ふたたび不況に逆転しかねないので、5%程度の十分な物価上昇を2年程度は継続する。この期間中は、物価上昇が起こるのと同時に、生産の拡大も急激に起こるはずだ。高度成長政策である。それによって、失業を解決する。物価上昇の痛みはあるが、失業の痛みに比べればずっとマシだ。「物価上昇はけしからん」と反対する人がいたら、彼の上司に頼んで、失業させてしまおう。

 [ 余談 ]
 上では、(1) で成長率を考えるときに、年 1.0% という値を取った。なお、生産性の向上が年 2.5% あるとして、成長率も年 2.5% だとすると、12年後には積算して 35%になる。530兆円を乗じると、180兆円だ。(なお、年2.0% と見ると、27% で 142兆円 となる。)……この数値は、過大すぎるだろう。これは「バブル最後の時点からずっと好況が続いたとすれば」という前提にもとづく数字だ。現実には、バブル時点での生産拡大が永続するはずもないから、年 1.0% という低成長の方が、信頼できるだろう。

 [ 参考 ]
 需給ギャップの算定は、とても大切である。なぜか? その額に満たない景気刺激策では、不況脱出ができないで、また元の状況に落ち込んでしまうからだ。( → 9月03日9月04日
 なお、ここを理解していないのが、最近の政府の「先行減税」案だ。これは一見、「現在の減税と、将来の増税」という中和政策に似ている。しかし、減税は、額が小さすぎる。また、増税は、時期が不適切だ。「04年度に増税」というのが政府の方針だが、一方で、見込みでは、「不況脱出は05年度」である。つまり、「不況脱出ができないうちに増税」である。
 となると、いくら減税しても、不況を脱出しないままであり、その間は、減税の額はほとんどが貯蓄に回るだけとなる。消費性向は上がらないままだし、 景気は回復しないままだ。財政赤字だけが拡大する。そして、そのあとで、増税が来る。それによって景気はまた悪化していく。……最悪のシナリオだ。
 なすべきことは、何か? 
  ・ 減税は、十分な額で。
  ・ 増税は、景気回復後に。
 という二点だ。これをしない政府の「先行減税」というのは、まったく無効なのだ。

( ※ マスコミはこの肝心なことを報道しないで、「先行減税がああだこうだ」と報道しているが、まったく無意味なゴミ記事にすぎない。読むだけ無駄。)
( ※ もう少し説明しておこう。最近、「先行減税」がかなり話題になっている。しかし、その効果は、ゼロである。理由は、上記のように規模が小さすぎるからだ。特に、「相続税減税」や「法人税減税」と組み合わせて、「発泡酒造税」「社会保守料金引き上げ」などを実施すれば、普通の人はかえって増税になるから、効果どころか逆効果があって、デフレは悪化する。また、政府の方針を改めて、「3兆円の住民税減税」ならば、比較的マシだが、それでも景気回復に目が出たあとで、また元の不況のどんぞおに戻る。なぜなら、そこが「収束点」であるからだ。ケインズの用語で言えば「均衡点」であり「縮小均衡」の状態である。下限均衡点に達して完全に不況脱出しない限り、いつかはここ[元のどん底]に逆戻りする。そして、その実例が、99年ごろの一時的な景気回復だ。「小規模な減税は、一時的に経済が拡大するが、そのあとで、また落ち込む」というのは、歴史が実証している。)


● ニュースと感想  (12月12日b)

 明日以降、「失業」について、理論的に述べることにする。ただ、それに先だって、失業の実状についてデータを示しておく。
 「失業率は本当はもっと高い」という記事。(読売・夕刊・1面 2002-12-02 )
 統計上の失業率は、低めに出る。「就職活動をした失業者」だけがデータに現れ、「最初から就職を諦めた失業者」(新卒予定だった留年者・高齢者・中年女性)などは、初めからデータに含まれない。
 就職していないが、就職活動もしていない人々は、「失業者」ではなく、「無業者」と呼ばれる。世間の俗語では「プー太郎」だろうか。本来ならば就職しているはずだが、就職できず、かといって、就職活動もしない。これは「潜在的な失業者」とも見なされる。
 こいう「潜在的な失業者」も「失業者」として数えると、失業率の実態は、もっと高めになるはずだ。この分を考慮する数字がほしいと私は前から思っていたが、それを試算した数字が、この記事に出た。

 厚生労働省によると、今春の高校・大学は、卒業生が186万人、うち 26万人( 14% )が進学も就職もしなかった。これを「潜在的な失業率」と見ていいだろう。
 一方、15〜24歳の完全失業率は 8.8% である。
 また、政府発表の9月の完全失業率は 5.4% である。

 以上のデータから、私が計算すると、5.4% という完全失業率は甘すぎて、本当は、5.4% × ( 14% ÷ 8.8%)= 8.6% である。これが私の推計値だ。
 一方、記事では、別の推計値を出している。第一生命経済研究所の試算。15〜34歳だけを考えると、無業者が 61万人いるので、これを失業者に加えると、失業率が 6.3% になるという。しかし、ここでは、35歳以上の無業者の分は、まったく数えていない。ほとんど無意味な数字だ。なぜこんな中途半端な数字を出すのか、ちょっと不明である。
 「35歳以上ならば、切実度が高いので、必ず就職活動をしているはずだ」と思い込んでいるのかもしれない。しかし、女性労働者については、そんなことはない。「女性は働かないで家で専業主婦をしていればいいのだ。だから失業者には数えない」と思っているのだろうか。とんでもない発想だ。
 はっきり言おう。先進諸国はどこもかも、女性の就業率は非常に高い。日本だけが異常に低い。こういうふうな「世界標準からずれた状況」こそがおかしいのだ。こういう状況を是認しているようでは、「男尊女卑」「男女差別」の封建的な発想と見られても仕方ない。「人種差別」も「男女差別」も、ともに犯罪的な行為である。そのことを理解しよう。
 私見では、パートであれ何であれ、すべての女性は働くのが自然である、と考える。週に1日でもいい。どれだけ働くかは、その人の自由だ。しかし、「まったく働かない」というのは、社会がどこか狂っているのである。「まったく働かない」という状況が当然となるのは、妊娠中とか病気療養中とか、特別に制限された人たちだけだ。
 男ならば誰しも、まっとうな仕事を必要とする。ならば、女性でも、そのことは同じだ。「男は育児だけしていればいい、仕事なんかしなくていい、妻に養ってもらえ」という発想は、明らかにおかしい。そして、同じことは、女性にも当てはまる。
 私のこの意見は、欧米ではきわめて当然の常識だ。その常識が、なぜか、日本では奇異にに感じられる。日本という国は、あまりにも時代錯誤なのだ。






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