[付録] ニュースと感想 (35)

[ 2002.12.13 〜 2002.12.24 ]   

  《 ※ これ以前の分は、

    2001 年
       8月20日 〜 9月21日
       9月22日 〜 10月11日
      10月12日 〜 11月03日
      11月04日 〜 11月27日
      11月28日 〜 12月10日
      12月11日 〜 12月27日
      12月28日 〜 1月08日
    2002 年
       1月09日 〜 1月22日
       1月23日 〜 2月03日
       2月04日 〜 2月21日
       2月22日 〜 3月05日
       3月06日 〜 3月16日
       3月17日 〜 3月31日
       4月01日 〜 4月16日
       4月17日 〜 4月28日
       4月29日 〜 5月10日
       5月11日 〜 5月21日
       5月22日 〜 6月04日
       6月05日 〜 6月19日
       6月20日 〜 6月30日
       7月01日 〜 7月10日
       7月11日 〜 7月19日
       7月20日 〜 8月01日
       8月02日 〜 8月12日
       8月13日 〜 8月23日
       8月24日 〜 9月02日
       9月03日 〜 9月20日
       9月21日 〜 10月04日
       10月05日 〜 10月13日
       10月14日 〜 10月21日
       10月22日 〜 11月05日
       11月06日 〜 11月19日
       11月20日 〜 12月02日
       12月03日 〜 12月12日
         12月13日 〜 12月24日

   のページで 》




● ニュースと感想  (12月13日)

 このあと、「失業」について考える、新たなシリーズを始める。
 初めに、序言ふうに、「どんな話を述べるか」ということを、ざっと予告しておこう。

 「需給が均衡するか否かと、経営資源(労働力など)がすべて利用されるかは、別のことである」と前に述べた。( → 11月05日 21. )……これが、大切なポイントとなる。
 「需給が均衡すれば(つまりデフレを脱出すれば)、失業問題も解決するはずだ」と人々は思い込みやすい。しかし、そうは言えないのだ。すなわち、需給が均衡しても、失業問題が解決するとは限らない。このことが非常に大事だ。
 実例は、次の二つがある。
  1.  欧州
     欧州では、別にデフレにはなっていない。物価上昇率は 2〜3% ぐらいだ。ここでは、需給は均衡している。にもかかわらず、莫大な失業者が発生している。そして、こういう高率の失業率は、欧州統合のせいではなくて、数十年前からずっと続いている現象だ。ドイツ・北欧・イタリア・フランスなどの各国では、ずっと失業問題に悩まされてきた。
    ( ※ ついでに言えば、このことからもわかる通り、「インフレ目標でマイルドインフレを実現すれば、デフレを脱出して、失業問題を解決できる」ということにはならないわけだ。実際、欧州がマイルドインフレで、失業問題を解決できていないのだから。)
  2.  最近の日本
     最近の日本(2002年の秋)では、あちこちの企業で、収益性が改善している。前年には大幅な赤字を出していた電器会社などは黒字化しているし、それ以外でも収益性の好転した企業が多い。では、それで、デフレは解決したか? いや、むしろ、悪化している。株価は大幅に下落しているし、企業の収益性を除く各種の経済指標は非常に悪い。倒産件数もずっと悪い状態が続いている。
     ここでは、企業が赤字状態を脱しているわけだから、トリオモデルにおける「下限直線割れ」という事態は生じなくなっている。また、それは、「不均衡」から「均衡」に回復しつつあることを示す。……こういう状況を見ると、一見、不況を脱しつつある(不況を解決しつつある)ように見える。少なくとも、状況の悪化は停止したと見える。
     では、なぜ、現実の経済状況はこれほど悪いのか? 不思議に思える。
 ここで、最初のテーマに戻る。本項の最初に述べたように、「需給が均衡しても、失業問題が解決するとは限らない」のだ。換言すれば、「需給が均衡しても、不況という問題が解決したことにはならない」のだ。では、なぜか? 
 それは、これまでに述べてきた「トリオモデル」と「修正ケインズモデル」の話を振り返れば、理解できる。
 景気の悪化は、次の3段階を取る。
  1.  需給ギャップの発生
     消費性向が低下することで、需給ギャップが発生する。
      ・ トリオモデルでは、下限直線割れが発生する。
      ・ 修正ケインズモデルでは、下限均衡点を割る。
  2.  需給ギャップの拡大
     生産の低下が、所得の低下をもたらし、スパイラル的に状況が悪化する。
      ・ トリオモデルでは、右点から、左点へ移動する。
      ・ 修正ケインズモデルでは、下限均衡点から、収束点へ移動する。
  3.  需給ギャップが最大化する
     スパイラルが最終的な収束点に落ち着く。
      ・ トリオモデルでは、左点に到達する。
      ・ 修正ケインズモデルでは、収束点に到達する。
 具体的に言えば、こうだ。(上記の各項に対応する。)
  ・ I 期は、バブル破裂時(1991年ごろ)。
  ・ II 期は、以後の十年余り。
  ・ III期は、2002年ごろ。

 そして、今は景気悪化の III期 に来ているわけだ。
 これは、どんな状況か? そのことは、すでに述べたことがある。「収束点」の状態、つまり、「縮小均衡」だ。( → 9月27日b

 では、縮小均衡とは、どういう状況か? 次の2点だ。
  ・ 需給は、均衡状態に回復する。
  ・ 総生産は、どん底まで落ちる。

 これを、良し悪しで言えば、企業と労働者では、異なる。
  ・ 企業にとっては、均衡状態になるので、赤字経営を脱する。
  ・ 労働者にとっては、総生産がどん底なので、失業は最大化する。

 つまり、良し悪しは、企業と労働者では、相反する。企業にしても、単純に「良い」と言えるわけではない。「残った企業にとっては良い」だけだ。他の企業は、不平を言おうにも、もはや倒産して消えてしまったから、「悪い」と不平を言えないだけだ。
( ※ これはつまり、「死者は文句を言えない」ということだ。このことを理解しないと、「文句を言う奴をみんな殺してしまえば、残った人々はみんな幸福になる」というメチャクチャな理屈になる。「市場原理」主義者というのは、たいていそうだ。)

 だから、「縮小均衡」というのは、「良し」「悪し」が両方あるわけで、単純に「良い」とは言えないわけだ。
 先の疑問では、「企業収益が好転したのか。縮小均衡になって、均衡状態が回復したのか。だったら、良くなったはずだが」というふうに考えた。しかし、それは、物事の半面しか見ていなかったわけだ。つまり、
  ・ 「均衡」を得た代償として、「総生産の最小化」をもたらした。
  ・ 「企業収益の赤字脱出」を得た代償として、「失業の最大化」をもたらした。
 というふうに、功罪なかばするのが現実であったのだが、そのうちの「功」だけを見て、「罪」を見失っていたわけだ。
( ※ たとえて言えば、不況になったとき、「企業が赤字になったのか。だったら、国民の金を奪って、企業に与えればいい。そうすれば、企業は黒字化する」というのと、ほとんど等価である。もちろん、これでは何の解決にもなっていない。)

 結語。
 不況になったあとで、いつかは、企業の収益性が向上する。しかし、単に「企業収益が黒字化すればいい」とか、「不均衡を脱して均衡を回復すればいい」とか、そういうふうに考えてはならない。それで達するところが、「縮小均衡」であっては、何の解決にもなっていない。企業は良くても、労働者は困る。
 不況の解決とは、「縮小均衡」に達することではないのだ。「元の生産状態に回復すること」なのだ。そして、それが必要なのはなぜかと言えば、「失業」を解決するためだ。
 企業の倒産という問題を回避するためだけならば、「縮小均衡」でもいい。しかし、「不況」の問題を真に解決するには、「倒産」を解決するだけではダメで、「失業」も解決しなくてはならないのだ。

( ※ このことは、わかりやすく例示できる。たとえば、国民全体のうち、99%の企業と労働者が倒産・失業して、残りの1%だけが稼働したとする。この場合も、均衡は達成されている。1% の企業だけは黒字を出して生き残るが、残りの 99%の企業は倒産し、99%の労働者も失業状態だ。……これでは、たとえ均衡状態が成立しても、問題はまったく解決していない。)

 [ 参考 ]
 失業問題については、11月08日 でも少し言及した。そちらを参照。なお、そこで述べたことは、次の区別だ。
   a. 設備が稼働していないせいで、失業する。
   b. 設備が稼働しているのに、失業する。
 この二つを区別することが必要だ、と上記箇所で述べた。 a. は生産力余剰。 b. は生産力不足。失業の理由は正反対である。(当然、失業発生のメカニズムも異なる。なお、不況時は、 a. が該当する。)


● ニュースと感想  (12月14日)

 前項の続き。前項の補足を述べる。
( ※ 話の本筋とは関係ない。あくまで「補足」であり、特に読まなくてもよい。なお、三つの話題があるが、それぞれ別の話である。)

 [ 補足 1 ]
 失業には、「均衡状態における失業」と「不均衡状態における失業」とがある。このことに注意しよう。(混同するべきではない。)
 前項では、初めの方で、次のように区別した。
   a. 欧州
   b. 最近の日本

  b. については、前項で説明した。つまり、「最近の日本は、縮小均衡に近づきつつある」ということだ。(需給ギャップは縮小しつつあるが、生産は減ったままで、失業も多い。)
 実は、a. も、話は、かなり似ている。これも「生産は減ったままで、失業も多い」という状況が成立しているのだ。
 ただし、次の違いもある。
   a. 欧州    …… もともと均衡している。(物価上昇率はプラス。)
   b. 最近の日本 …… 大きな不均衡のあとで、不均衡が徐々に縮小した。
               (物価上昇率はマイナス。)
 こういう違いがある。両者を比べれば、欧州は日本よりも、ずっと軽症である。(物価上昇率を見てもわかるが。)
 欧州の失業は、政府の力を借りなくても、労使交渉だけで解決が可能である。なぜなら、賃上げによる「コスト・プッシュインフレ」を起こすことで、インフレにすることが可能だからだ。一方、日本では、そうではない。そのことを示そう。

 日本では、「リストラ」という「供給力縮小」を行なっている。「労働者をどんどんクビにして、総生産を縮小して、その代償として、生き残った企業だけは黒字化する」というわけだ。「労働者を犠牲にして、企業体質を健全化する」というわけだ。(その結果として、「縮小均衡」に近づきつつある。)……さて。不況をマクロ政策で解決するには、「減税」による所得増加で可能だ。一方、マクロ政策なしで不況を解決しようとすれば、「賃上げ」が必要となる。では、「賃上げ」は可能か? もちろん、「リストラ」とは正反対であるから、非常に困難だ。たとえば、労働者が「賃上げを求めてストライキをするぞ!」と言えば、経営者は、「どうぞどうぞ。これでストライキ中の賃金を払わないで済むから、赤字が減るぞ」と大喜びだろう。というわけで、労使交渉では、解決は不可能だ。
 欧州では、事情は異なる。もともと均衡状態にあるから、単純にインフレを起こせば、物価上昇と生産拡大と失業解消が、同時に発生する。単純に言えば、微弱な「コスト・プッシュ・インフレ」だ。労働組合がストライキをちらつかせて賃上げを獲得すれば、微弱な「コスト・プッシュ・インフレ」が発生する。物価上昇率が高めになる。これは、企業にとっても労働者にとっても、好ましい状況だ。少なくとも、遊休していた労働力が稼働するようになる分、状況は好転する。(特に、増税と低金利を併用すれば、スタグフレーションを避けることもできる。)
 もちろん、副作用として、物価上昇の痛みはある。しかし、これは、「失業」の痛みに比べれば、はるかに小さい。物価上昇と増税により、人々は 10% の所得増加に対して、15% の増税になるかもしれない。しかし、実質所得は8% ぐらいは増える。特に不幸になるわけではない。失業のような大問題は起こらない。

( ※ ここでは、「コスト・プッシュ・インフレ」を推奨している。なぜか? 「コスト・プッシュ・インフレ」というのは、労働組合に責任があるように見えるが、実は、そうではない。労働組合が賃上げを求めたあと、インフレ気味になったとして、そこで金利を上げずに金利を下げることで、貨幣量が増大する。そのことが真の理由だ。「コスト・プッシュ・インフレ」というのは、本質的には、「貨幣数量説的なインフレ」の一種なのである。労働組合がいくら賃上げを求めても、買いオペなどで貨幣数量を増やさなければ、インフレにはならない。単に過剰な賃上げをした企業が経営悪化して倒産するだけである。……「コスト・プッシュ・インフレ」の本質は、「貨幣量の増加」に「国民に金を渡すこと」を組み合わせたのに等しい。単なる金利の引き下げは、企業に金が渡って投資を増やすだけだが、「コスト・プッシュ・インフレ」では、「賃上げ」によって国民に金が渡る。その意味で、マネタリストの主張する「単純な量的緩和」なんかよりは、よほどマシである。)
( ※ ただし、「コスト・プッシュ・インフレ」も、度が過ぎると、「微弱な物価上昇」ではなくて、「貨幣数量説的なインフレ」をもたらすようになる。これは問題だ。……では、もし「貨幣数量説的なインフレ」が発生したら、どうするべきか? もちろん、貨幣総量を縮小すればよい。通常は、マネタリズム的に、金融市場を通じて、金利引き上げを行なう。しかしこれは、「投資」の縮小を招く。その意味で、「ベター」ではあっても、「ベスト」ではない。「ベスト」のためには、「投資」よりも「消費」の方を縮小するべきだ。なお、その方法は、すでに「ポリシー・ミックス」のところなどで述べたとおりだ。)
( ※ スタグフレーションを避ける「ポリシー・ミックス」の方法は、こうだ。増税により、金利の低下と物価上昇率の低下をもたらす。消費を減らし、設備投資を増やす。そうして迂回生産によって、成長率を高める。……これは、不況脱出の問題ではなくて、経済成長の最適化の問題だ。古典派の得意な分野だ。)

 [ 補足 2 ]
 失業問題については、「セーフティネットで解決すればいい」という主張もある。しかし、これについては、何度も批判してきた。そんなのは、ただの対症療法に過ぎず、根本を見失っているのである。簡単に言えば、「底抜け」だ。
 たとえて言おう。船に穴があいて、傾いて、沈没しかかっている。何人かの人々は、甲板から滑り落ちて、海に落ちてしまった。ここで、経済学者は、次のように主張した。
 もちろん、これらのすべては間違いである。正解は、船の穴をふさぐことだ。船を修理して、船の傾きを正すことだ。そうすれば、落ちた人はボートで救えるし、残りの人は船に留まれる。
 一方、「セーフティネットで」などと主張しても、まったく無意味である。いくらボートを出しても、肝心の船がどんどん傾いていくからだ。それで船が沈没してしまっては、元も子もない。つまり、不況という根本原因そのものを放置して、失業だけを解決しようとしても、まったく意味がない。
 「セーフティネット」が無効なだけでなく、古典派の主張も無効である。落ちた人をいくら船に戻しても、船が傾いたままでは、「一人が船に上がって、一人が船から落ちる」という状況が続くだけだ。これもまた底抜けの主張である。
 失業を解決するには、セーフティネットなどではダメであって、不況そのものを解決するしかない。── そして、このことは、ケインズは正しく理解していた。その意味で、失業問題については、ケインズの方が古典派よりは、ずっと正解に近い位置にいる。(そのままで正解になるわけではないが。詳しくは、このあと、少しずつ述べる。)

 [ 補足 3 ]
 このあとのシリーズでは、「失業」というものを、マクロ経済学の問題として、本質的にとらえる。
 一方、それとは別の理由で、「失業」が発生することもある。次のように。
  (1) 個別企業における「経営の失敗」が原因。
    (ほとんどの企業は失業を出さないのに、ごく一部の企業だけで失業を出す。)
  (2) 労働政策がまずいせいで生じる「労働の偏在」が原因。
    (一部の人々はやたらと残業で過剰労働し、一部の人々は失業する。)
 こういう問題は、たしかに存在するが、マクロ経済学とは別の理由で発生するのだ。だから、対策もまた、マクロ経済学とは別の方法によるべきだ。
 たとえば、上記の「労働の偏在」を解消するには、「時短・ワークシェアリングの促進」や、「残業税」の導入などをすればいい。そして、それで解決ができる。
 不況の今も、「労働の偏在」は、たしかに存在する。多くの人々が解雇され、残った労働者がやたらとサービス残業をして残業するハメになる。こういう状況を放置して、単に「再就職の支援」などを、やっても、意味がない。アクセルとブレーキを同時に踏んでいるようなものだ。
 「再就職の支援」などで減税するよりは、「残業税」の導入で課税した方が、筋が通っている。なぜなら、それは「法律遵守」つまり「違法行為への罰金」にあたるからだ。

 [ 余談 ]
 以下は余談なので、読まなくてもよい。
 「残業税」の導入には、企業が反対するだろう。一種の増税になって、損をするからだ。しかし、「労働者の金を泥棒しなくては倒産する」ような企業は、倒産するのが当然なのだ。
 私はこれまで、「倒産・失業を避けるべきだ」と言ってきたが、だからといって、「泥棒してまで倒産を防げ」とは言わない。あくまで違法行為をしない範囲内でのことだ。
 この件を、マンガチックに、おもしろく説明すると、こうだ。
 これは、正義と邪悪との対決である。悪者は、企業の方だ。彼らは、サービス残業という「賃金不払い」をしても、ずっと黙認されていた。なのに、そういう違法行為を、見逃すまいとする「残業税」は、敵である。犯罪を犯す悪人にとっては、法律遵守は敵なのである。
 そして、経団連は、犯罪者の連合組織であり、マフィアのカルテルのようなものだ。彼らは無賃労働という違法行為を、当局に黙認してもらおうとする。そして、この犯罪者集団の親玉(ゴッドファーザー?)たる奥田某は、政府の経済政策決定の中枢たる経済財政諮問会議にも属している。日本という国家は、犯罪者に牛耳られているわけだ。

 残業を減らすこと(長時間労働をなくすこと)は、とても大切である。これは、経済学としての問題ではなく、それ以前の、人間としての問題だ。
 失業は偶然的に人を殺す。一方、長時間労働は必然的に人を殺す。失業者が自殺するとしても、それは例外的であって、ほとんどの失業者は自殺しない。しかし、長時間労働は過度になれば、かなり多くの人が自殺する。これは医学的にも明らかだ。疲れが溜まって睡眠不足になる状況が、長期間継続すれば、鬱病になる。鬱病になれば、自殺しがちだ。
 たとえば、今、あなたは自殺する気なんか、全然ない。しかし、上司があなたに長時間勤務を強いて、「イヤならクビだ。失業せよ」と命じたら、あなたは長時間勤務を強いられ、鬱病になり、自殺する可能性が高い。実際、世の中の自殺者の大半は、こういう状況だ。不景気になると、「生産性向上」の名目で、リストラという人員削減が行なわれたあと、過大な仕事が、残った少数の人々に回される。彼らは長時間労働を強いられる。かくて、普段は明るい生活を送っていた人が、鬱病となり、自殺する。
 「構造改革」「生産性向上」と唱えている人々は、何万人もの人々を殺しているのだ。主犯ではなくとも、共犯として。

( ※ オマケに言っておこう。先日、「サービス産業の生産性が低いのは、長時間労働のせいだ」と述べた。ここにも問題がある。 → 12月05日


● ニュースと感想  (12月15日)

 「失業問題」は、どうすれば解決できるか? 
 本項では、いきなり結論を示そう。根拠やら、現状認識やら、反対意見やら、歴史的意見やら、学界状況やら、そういう細々とした説明は、ことごとく省く。まず最初に、いきなり結論を示そう。(その方が見通しが良くなるからだ。)

 「失業問題を解決するには、景気を正常化してから、生産量をさらに拡大すればよい」
 これが結論だ。少しもおかしなところはない。当たり前すぎるとも思えるくらいだ。
 しかし、である。素人にとっては「当たり前」と見えるこの結論も、経済学では、まったく当たり前ではない。このような結論は、従来の経済学からは出てこないのだ。ケインズ派であれ、古典派であれ、このような結論は出さない。彼らはもっと別の結論を出す。
 では、どんな? ケインズ派と古典派の主張とは、どんなものか? それを簡単に示そう。

 (1) ケインズ派
 ケインズの考えに従えば、「不況の脱出」は、それすなわち、「完全雇用の達成」である。彼の考えに従えば、景気には、次の三つの状況しかない。
  ・ 不況  (失業者の発生)
  ・ 均衡  (完全雇用)
  ・ インフレ(労働者不足)
 だから、不況でないときには、失業は発生していないことになる。しかるに、現実には、そんなことはない。欧州では、物価上昇率が 2〜3% である。これは明らかに「不況」ではない。にもかかわらず、大量の失業を解決できない。
( ※ どちらかと言えば、「スタグフレーション」の状況に近い。もう少し金融緩和をすれば、高めの物価上昇率と、いまだに解決しない高い失業率との、二律背反に悩まされて、スタグフレーションの状況になるだろう。そして、それを避けている現況では、非常に高い失業率に悩むことになる。)

 (2) 古典派
 古典派の考え方に従えば、「労働者の需給は市場原理で均衡する」はずである。にもかかわらず、現実に失業が発生している。そこで、「それは、価格としての賃金が高すぎるからだ。賃金を下げれば、雇用の口が増えるので、需給は均衡するはずだ。つまり、給料を安くすれば、全員が雇用されて、失業問題は解決するはずだ」と彼らは主張する。
 いかにも古典派らしい、「需給曲線だけ」というミクロ的な考え方である。
 ここで抜け落ちているのは、「所得」の影響だ。たしかに、ミクロ的に考えるだけなら、「所得」の効果を無視できるので、「賃金を下げて、労働の需給が均衡する」というふうになるはずだ。しかし、マクロでは、そういう具合には行かない。国全体で賃金を下げれば、国全体で総所得が減る。総所得が減れば、総需要が減り、総生産も減る。それがスパイラル的に進行する。
 だから、「賃金を下げれば失業問題は解決する」のではなくて、「賃金を下げれば、失業はかえって増える」というのが正しい。

( ※ このことは、ちょっと説明を要する。無理に高い賃金を維持していると、企業が倒産して、かえって失業者が減るかもしれない。この場合は、賃金を下げて、雇用を維持した方がよい。しかし、その企業に限ってならそうだが、国全体については、そうではない。マクロでは事情は異なるのだ。……マクロ的に言えば、倒産寸前ではない企業は、しばらくの間、無理をしてでも、賃金を維持した方がいい。そのことで、景気のスパイラル的な悪化を防ぐことができる。逆に、個別の企業が、自分の会社だけの生き残りを図って、やたらと首切りや賃下げを実行すれば、その企業だけは生き残ることができるとしても、国全体では総需要の縮小を招いて、状況はスパイラル的に悪化する。「合成の誤謬」だ。……不均衡状態では、「個々の最適化が全体の最適化につながる」という「市場原理」が働かないのだ。)

 [ 補説 ]
 上で述べたことは、「失業と総生産とは直接的な関係がある」ということだ。これが何を意味するかは、これが何を否定しているかを考えると、わかりやすい。これが否定しているのは、次のことだ。
  × 「失業は、それ単独で決まる、独立的な問題である」
 この主張が間違いであることを示すために、冒頭に × 印を付けておいた。では、なぜ間違いか? ── 仮に、失業というものが独立した問題であるとすれば、直接的に介入して、強引に失業を減らせば、それで問題は片付くはずだ。しかし、実際には、そうではない。失業というものを、減らしても、増やしても、状況は改善しないのだ。次のように。

 (a) 失業を減らす
   → 失業率は低下するが、その分、企業は無駄な雇用を増やす。
   → 企業が赤字化する。倒産が増えて、失業はさらに増える。
     (だからこそ企業は、赤字化を防ぐために、解雇をする。)
 (b) 失業を増やす
   → 失業率は高まるが、その分、企業は赤字化を免れる。
   → 失業増加により、マクロ的に、総所得と総需要が縮小する。
   → 景気はさらに悪化する。失業もスパイラル的に増える。
     (これを少しでも避ける策が、「失業保険」という制度だ。)

 結局、人為的に失業を減らしても増やしても、景気はさらに悪化するのだ。
 では、何もしなければいいか? 何もしなければ、中間的となる。つまり、上の (a) (b) を「足して2で割った」ような状況となる。その場合もやはり、状況は悪化する。
 つまり、「失業の減少」に対しては、「是」と答えようと、「非」と答えようと、いずれにしても景気は悪化するわけだ。では、これは、矛盾だろうか? いや、矛盾ではない。「どちらもダメだ」というのが、解答だ。
 では、正しくは、どうするべきか? 「是」も「非」もダメだとすれば、そもそも、前提が間違っていたことになる。つまり、「人為的に失業を減らす or 増やす」というのが間違っていたのは、「減らす or 増やす」というのが間違っていたのではなく、「人為的に」というところが間違っていたことになる。
 そうだ。「デフレ」という根本原因を放置したままでは、どのような対症療法をしても(あるいは何もしなくても)、しょせんは、状況を悪化させるだけなのである。失業問題を解決するには、その根本にある「総生産の低下」という問題を解決するべきである。根本としての問題を放置したまま、症状としての失業問題だけをあれこれと操作しても無意味なのだ。── そういうことを、本項は示しているわけだ。

( ※ これは、古典派への批判ともなっている。古典派は、失業問題を、それ単独の問題と見なしていて、生産や所得からは切り離している。あくまでミクロ的・静的に認識しており、マクロ的・動的な視点が抜けている。)


● ニュースと感想  (12月16日)

 前項では、こう述べた。
 「失業問題を解決するには、景気を正常化してから、生産量をさらに拡大すればよい」
 このことについて、説明しよう。

 これは、実は、10月26日 に述べた「インフレ」と同じことである。すなわち、
 「均衡状態において、微弱な物価上昇をともないながら、生産量の拡大が起こること」
 である。ここで言う「微弱な物価上昇」というのは、「需要の拡大にともなって、需給の均衡点が、供給曲線上で右上に移動すること」を意味する。この際、生産量の拡大にともなって、微弱な物価上昇(価格上昇)が発生するわけだ。

 さて。上のことからは、
 「失業の解決のためには、インフレが必要である」
 という結論が出る。そして、それを聞くと、
 「フィリップ曲線のことだな」
 と思う人も出るだろう。つまり、
 「失業と物価上昇とは、相反する(両立しない)関係にあるということだな」
 と。しかし、そうではないのだ。

 正確に示そう。
 「失業とインフレとは、相反する関係にある」
 というふうになるが、
 「失業と物価上昇とは、相反する関係にある」
 ということはない。つまり、「失業解決」のために必要なのは、「生産量の拡大」であって、「物価の上昇」ではないのだ。ここを勘違いしないでほしい。

 ただし、生産量の拡大があれば、微弱な物価上昇は不可避である。そのことを、先に 10月26日に述べたわけだ。
 インフレというのは、単なる物価上昇のことではない。生産量の拡大のためには、均衡点の移動が必要であり、そのために、物価の上昇が不可避であるわけだ。なぜなら、それは、「需給曲線」という市場原理そのものであるからだ。
( ※ 10月26日 の記述は、かなり大切なことなので、できれば再読してほしい。)

 一方、上記で述べたインフレ(つまり微弱な物価上昇をともなう生産量拡大)とは別に、「単なる物価上昇」もある。これもまた、普通は、「インフレ」という言葉で呼ばれる。特に、ケインズ流の用語では、「上限均衡点の突破」すなわち「生産量の拡大がないまま価格だけが上昇すること」を「インフレ」と呼ぶ。── この両者を、はっきりと区別してほしい。
 同じく「インフレ」と呼ばれても、次のように区別される。

 (1) 私の用語では、「インフレ」とは、均衡状態の現象である。それは単なる「均衡点の移動」である。そこでは、「生産量の拡大と微弱な物価上昇」が発生する。(いわゆる「好況」のこと。)
 (2) ケインズの用語では、「インフレ」とは、不均衡状態の現象である。それは私の用語では「上限均衡点の突破」と呼ばれる。
 (3) マネタリズムの用語における「インフレ」もある。つまり、単なる「貨幣数量説ふうの物価上昇」である。これもまた「インフレ」と呼ばれる。(20世紀以前では、このタイプのインフレが多かった。)

 結局、「インフレ」という用語で示されるものには、上記の三種類があるわけだ。いずれも「インフレ」と呼ばれるが、実態は別のものである。現象としては、「物価上昇」という現象が見られるが、原理は異なっているわけだ。
 逆に言えば、「物価上昇」という現象が現れたとしても、それがどんな原理から発生したかは、異なるわけだ。

 最近の「インフレ目標」論者は、「微弱な物価上昇が好ましい」と主張する。
 私は、その延長上で、「生産性向上と同じ程度の需要拡大が必要であり、そのためには、生産性向上率と同じく 2.5%程度の物価上昇率が必要だ」とも述べた。( → 第3章 [付録4]「需要統御理論」最適な物価上昇率
 また、「消費の促進」のためには、物価上昇の「アメとムチ」効果を利用するべきだ、とも述べた。( → 「需要統御理論」簡単解説
 しかし今や、物価上昇の必要性については、別の原理から説明できるわけだ。すなわち、「生産量を拡大したいときには、均衡点の移動を起こせばよい。それはつまり、生産量拡大と物価上昇とが、ともに発生する状態(インフレ)である。このとき、微弱な物価上昇のもとで、生産量を拡大することができる」と。

 上で述べたことは、かなり大切なことだ。というのは、古い経済学では、「物価上昇率は、ゼロであることが好ましい」というふうになっているからだ。「そんなことは当たり前じゃないか。自明のことだ」と主張する経済学者がけっこう多い。しかし、そうではないのだ。「物価上昇率がゼロ」というのは、「総生産が拡大しない」ということを意味する。それは「失業問題を解決しない」というのと等価だ。そんなことでは、困るのである。
 なるほど、現状が「失業率ゼロ」という幸福な状況であれば、「物価上昇率がゼロ」というのが好ましいかもしれない。しかし、現状が「失業率ゼロ」でなければ(しかもまた生産性の向上がゼロでなければ)、「総生産の拡大」は絶対に必要であり、そのためには、「物価上昇率がゼロ」というのは、有害なのである。失業を放置するがゆえに。
( ※ このことを理解しないで「物価安定」だけを求める典型が、日銀だ。日銀関係者は、「中央銀行の目的は、物価の安定である」と堂々と公言している。しかし、それは、「中央銀行の目的は、景気の安定ではない」と主張するのと同じだ。景気の安定のためには、加熱したときには冷やすべきだし、冷やしたときには熱するべきだ。なのに、いったん冷えたものを「熱する」ということを禁じれば、冷えたものは冷えっぱなしになるしかないのだ。)

 結論。
 以上をまとめれば、次のように言える。
 オマケを述べる。関連した話だが、次のことも言える。(均衡状態ではない状況における「失業」について。)
 この2件は、「稼働率の低下」および「供給能力の低下」の話だ。それについては、すでに述べた説明を参照。 ( → 11月08日

 [ 付記 1 ]
 「フィリップ曲線」について言及しておこう。
 多くの経済学者は、「フィリップ曲線」というものを絶対的な真実のごとく信奉していて、「失業を避けるには物価上昇が必要だ」などと述べる。しかし、それは正しくないのだ。
 物価上昇というものには、上記のように、三つのタイプがある。つまり、
   (a) 「均衡点の移動」(均衡状態におけるインフレ)
   (b) 「上限均衡点の突破」
   (c) 「貨幣数量説的な物価上昇」
 である。これらをすべてひっくるめて、単に「物価上昇」と呼んでも、現象を正しくとらえることはできない。そしてまた、それが「失業解決」の本質たる「生産量の拡大」をもたらすかどうかでも、それぞれ異なる。── それぞれは、「物価上昇」にともなって、「生産量の拡大」をもたらすか?
   (a) は「生産量の拡大」を十分にもたらす。
   (b) は「生産量の拡大」を全然もたらさない。
   (c) は中間的である。
 だから、単に「失業と物価とは、相反する関係にある」(フィリップス曲線が成立する)などと述べても、そんな主張には、何の意味もないわけだ。

 [ 付記 2 ]
 フィリップス曲線は厳密には成立しない、ということは、実際に過去の統計を見ても明らかとなる。短期的には成立するように見えることもあるが、「スタグフレーション」の発生する状況まで含めると、長期的には、失業と物価上昇には特定の関係は必ずしも成立しない、とわかる。(非常にバラツキの大きい分布が見られる。)(フィリップス曲線の不成立については、フリードマンの説もある。教科書などを参照。)

 [ 付記 3 ]
 インフレ(物価上昇)には三つのタイプがある、と上で述べた。ただ、この三つのタイプは、完全に独立しているわけではない。相互浸透的である。
 たとえば、「上限均衡点の突破」が起こったときには、「貨幣数量説的な物価上昇」も起こるのが普通だ。
 また、「均衡状態におけるインフレ」では、「貨幣量の増加」がともなっていることが、よくあるから、ここでは、「貨幣数量説的な物価上昇」が発生していることになる。
 また、逆に、「量的緩和による景気刺激」という金融政策は、「貨幣数量説的な物価上昇」にともなう「アメとムチ」効果で、生産量の拡大(均衡状態におけるインフレ)を狙っていることになる。


● ニュースと感想  (12月17日)

 「失業」の解決法については、すでに述べた。すなわち、
  ・ 「景気を正常化してから、生産量をさらに拡大すること」
 だ。換言すれば、次のようにも言える。
  ・ 「均衡状態におけるインフレを起こすこと」
  ・ 「微弱な物価上昇をともなう、生産量の拡大を起こすこと」
 である。
 このことは、次の二つのグラフによって示される。グラフによって、理解しておこう。

 (1) 需給曲線による説明
 下の図でわかるとおり、需要曲線が右シフトするにつれて、均衡点は、供給曲線上で、右上に移動する。このとき、価格は上昇する。

  



 
 乂 
 
     このグラフで、
右上がりの曲線は供給。
右下がりの曲線は需要。
    → 量

( ※ ただ、一般的には、価格の上昇は微弱である。上のグラフでは、供給曲線は「」のような斜めの形になっているが、現実には、かなり水平に近い形となる。どんな商品であれ、需要が増えれば、短期的には価格は上昇するとしても、中長期的には供給も増加するので、価格の上昇はほとんど起こらない。かえって、コストダウンで、価格が低下することも良くある。)

 (2) 修正ケインズモデルにおける説明
 修正ケインズモデルによる「インフレ」の説明は、すでに 10月26日 で示したとおりだ。そちらを参照。
 ここで簡単にまとめれば、次のようになる。
 
 消費性向が上昇するにつれて、消費性向の直線と、45度の線(C=Y−I)との交点は、右上に移動していく。(たとえば、 のそばから、 のそばへ。) このとき、横軸の値も増えていく。(たとえば、 b ぐらいの値から m ぐらいの値へ。)

     修正ケインズモデルの領域の図

 まとめ。
 以上の (1) (2) では、二つのグラフで、「インフレ」というものを示した。こうして、同じ現象を別々のグラフで示した、という点に注意しよう。グラフは異なるが、示した減少は同じなのだ。どちらも「生産量の増加」をもたらす「インフレ」なのだ。
 そして、この「生産量の増加」が、「失業」の解決に役立つわけだ。

( ※ 本項では、グラフで説明した。「いちいち言わなくても、すでにわかっているぞ」と思うかもしれないが、我慢して読んでいただきたい。これらは、次項の準備となる。)


● ニュースと感想  (12月18日)

 「ケインズの説」について。
 「失業」の解決法について、肝心の結論はすでに前項までに述べた。それが私としての主張だ。
 このあとは、この結論だけではなくて、もっと深く考察することにしよう。とりあえずは、私の説以外に、「ケインズ派」と「古典派」の説を知ることとしよう。
 まずは、本項では、ケインズの説を見ることとしよう。

 ケインズの説は、かなり重要である。彼の説は、古典派の説と違って、うまく核心に近づいている。特に、次の2点が大事だ。
  (a) 失業の解決には、生産の増加が必要だ、ということ。
  (b) 需給の均衡点が、完全雇用点とは異なる、ということ。
 彼はこの二点を主張した。

 第1に、(a) の点だが、これは、私がこれまでに主張したことと同じである。「生産の増加こそが失業の解決に必要だ」と見抜いたわけだ。これは、古典派ふうの、「賃金を下げれば雇用は増える」という主張とは異なる。この点だけでも、ケインズの卓見はすばらしい。

 第2に、(b) の点だが、これは、そこそこ正しいのだが、かなり不正確である。それは、ケインズのモデル自体に由来する欠陥である。そこで、このことについて、以下で説明しよう。

     修正ケインズモデルの領域の図

 先に、上の図を用いて、修正ケインズモデルによる「インフレ」の説明をした。それによって、失業を解決する「生産量の増加」の説明をした。
 では、ケインズでは、同じことは、どうなるか? 

 ケインズのモデルでは、「修正ケインズモデル」とは異なるところがある。それは、ケインズのモデル「消費性向の変化」を考慮していない、ということだ。(具体的に示そう。修正ケインズモデルでは、消費性向は、[たとえば]0.8 〜 0.9 という値を取るので、その二つの直線に挟まれた領域が、可能な領域である。ケインズのモデルでは、消費性向は 0.8 という一つの直線であり、その直線上だけが、可能な領域である。)
 その結果、次のような違いが出る。
  (i) 需給の均衡は、1点だけで成立する。
    (修正ケインズモデルでは、区間 BM という幅がある。)
  (ii) 生産量が上限となる点でのみ、完全雇用が可能となる。
    (修正ケインズモデルでは、両者は別のこととなる。)


 この (i) (ii) のうち、問題となるのは、 (ii) の方だ。(なお、 (ii) の方が問題となる件については、すでに説明してきた。「景気変動」の話題の箇所で。)
 この (ii) は、どこが問題か? それは、次のことだ。
 ケインズは、生産量と雇用量とを、結びつけた。それはそれで卓見なのだが、あまりにも結びつけすぎるのだ。たしかに、雇用量の増加には、生産量の増加が大切だ。しかし、その両者は、必ずしも等号で結びつけられるわけではない。
 なぜか? 「生産量」と比例関係にあるのは、「労働者数」ではなくて、「労働時間」であるからだ。そして、「労働者数」と「労働時間」との食い違いは、「一人あたりの労働時間の変化」として現れる。具体的には、次の二つだ。
  ・ 残業 (一人あたりの労働時間の増加)
  ・ 時短 (一人あたりの労働時間の減少)
 この二つがあるゆえに、生産量の変化と、労働者数の変化とが、ぴったりとは比例しないのだ。たとえば、好況のときには、生産の増加にともなって、残業が増える。すると、その分、労働者数の増加が抑制される。(つまり、失業者の減少が抑制される。) また、逆に、不況のときには、生産の減少にともなって、残業が減る。すると、その分、労働者数の減少が抑制される。(つまり、失業者の増加が抑制される。)
 同様に、時短やワークシェアリングによって、生産量の減少が失業の増加をもたらさないようにすることができる。
 以上のことについては、「当たり前だ」と思うだろう。たしかに、当たり前だ。しかし、この当たり前のことを、ちゃんと留意しておくことが大切だ。なぜなら、ケインズの理論でも、古典派の理論でも、このことはまったく無視されてきたからだ。

 ケインズは、上記の「労働者数」と「労働時間」の区別をしなかった。そのため、間違った結論にたどりついた。それは、「完全雇用点」という考え方だ。( → 9月11日b
 ケインズの考え方では、「完全雇用」の状態があるものと見なされた。そのときの生産量は F である。この生産量が最大の生産量となる。これ以上の量は、生産できない。これ以下の量では、失業が発生する。最適の生産量はただ一つだけあって、それ以上でもそれ以下でも不適切である。需要が F に一致すればいい。しかし、
  ・ 需要が上回れば、「貨幣数量説的な物価上昇(過剰なインフレ)」が発生する。
  ・ 需要が下回れば、「失業」が発生する。
 ということになる。結局、あるべき生産量は F だけだ、ということになる。

 しかし、そんなことはないのだ。
 第1に、修正ケインズモデルでは、「上限均衡点の突破」があれば、同じように「貨幣数量説的な物価上昇(過剰なインフレ)」が発生するが、その「上限均衡点」は、「完全雇用点」とは異なる。「完全雇用」になったからといって、「生産量はもうこれ以上増やせない」ということにはならない。なぜか? 「労働時間の増加」によって、労働量を増やすことができるからだ。生産量の上限を決めるものは、設備量であったり、労働量であったり、資源量であったり、いろいろと制約があるが、少なくともそれは、「完全雇用」ということではないのだ。── 結局、F を需要が上回ったからといって、「貨幣数量説的な物価上昇(過剰なインフレ)」が発生する、ということにはならないわけだ。
 第2に、 (i) で述べたように、ケインズのモデルでは、需給が均衡するのは1点に限られるが、修正ケインズモデルでは、区間 BM という幅が許容される。この区間においては、上限均衡点に達していないからとしても、別に不況が発生しているわけではない。単に「好況気味」(生産量も労働量も多い状態)と、「景気後退気味」(生産量も労働量も少ない状態)との、2種類の状況があるだけだ。── そして、後者の状況は、決して「悪い状況」ではないのだ。なぜか? 「労働量が減る」ということは、悪いどころか、好ましい状況であるからだ。通常、十分な所得があれば、「長時間労働」よりは、「短時間労働」の方が好ましいに決まっている。働き中毒の人を除けば、誰だってそうだ。そして、「短時間労働」は、時短やワークシェアリングによって可能なのだ。つまり、時短やワークシェアリングがあれば、生産量の縮小に対して、完全雇用(失業発生なし)という状態を保つことができるわけだ。だから、需要が F を下回ったとしても、それがただちに「失業の発生」を意味するわけではないのだ。

 結局、「完全雇用点 F 」というものを想定するケインズの理論は、正しくないわけだ。
 はっきり言おう。「完全雇用点」なんてものは、存在しないのである。「生産量の上限」とか「労働量の上限」とかなら存在するが、「完全雇用」を意味する生産量などは存在しない。なぜなら、同じ生産量に対して、労働者数を変化させることができるからだ。それというのも、一人あたりの労働時間を変化させることができるからだ。
 というわけで、「完全雇用点」というものを想定するケインズのモデルは、捨てていいわけだ。
 かくて、ケインズのモデルに対して、否定的な結論を下したわけだ。

 [ オマケ ]
 最近は、「ロボット」というものがあることにも注目しよう。「完全雇用」に達したとしても、機械やロボットを使うことで、まだまだ生産を増やすことができるのだ。
 だから、「完全雇用」というのと、「生産量の上限」というのとは、同じことではないのだ。……ロボットの話などをすると、話が横道に逸れすぎてしまったかもしれないが。

 [ 付記 1 ]
 「いったい何が言いたいんだ? ロボットの話がしたいわけじゃあるまいし」
 という疑問に答えておこう。
 本項で示したのは、「失業問題」に対する説明として、ケインズの理論が不適切である、ということだ。特に、「完全雇用点」なんてものを考えてはならない、ということだ。つまり、ケインズ批判である。
 本項で述べたことは、あくまで、ケインズへの批判だけである。何らかの新しい発見を示したわけではない。
( ※ ただし、「批判」をしたのは、私が他人の批判をするのが趣味だからではない。……この批判を通じて、「失業問題」についての見通しを良くするためだ。実際、いろいろと、見通しの良くなったことがある。この意味でも、ケインズは、批判しがいのある立派な業績を上げたわけだ。古典派なんかとは、雲泥の違いだ。)

 [ 付記 2 ]
 「ケインズのモデルが間違っているというのなら、何が正しいのか?」
 という質問に答えておこう。
 もちろん、正しいのは、「修正ケインズモデル」である。「完全雇用点」なんてものは捨てて、「上限均衡点」と「下限均衡点」と「その間の区間 BM 」によって、景気の状況を考えればよい。
 そして、(景気の拡大で)生産量を拡大することが、失業解決の基本であるが、それ以外に、「一人あたりの労働時間を短縮する」という方法で、失業者を減らすこともできる。── そういうことを、本項では示したわけだ。 (これはまあ、当たり前の話ではある。先にも「当たり前だ」と述べたとおり。)


● ニュースと感想  (12月19日)

 時事的な話題。失業の話は、本日は一休み。
 次の3件を述べる。(それぞれ、独立した話。いずれも、読売・朝刊・経済面 or 2面 2002-12-18 など。)

 (1) 物価連動債
 物価連動債を発行する、とのこと。2003年度に千億円程度。
 これについては、以前も言及した。「元本保証がなく、デフレ期には物価下落に応じて元本割れをする国債」なんてものを、誰が買うのだろうか? 愚の骨頂。
 なるほど、「変動金利型」国債というのは好ましい。しかし、「物価連動債」ではなくて、「市場金利連動債」というのが、あるべき姿である。 ( → 9月07日3月19日 の最後。)

 (2) 来年度予算
 国債依存度は最悪で、44% になる。(国債発行額は 36兆円。国民一人あたり約 30万円。)
 財務省が「財政健全化」をめざすせいで、どんどん景気が悪くなり、これほどにもひどい財政状況となる。「財政健全化」をめざせばめざすほど、目的とは逆の結果になる。事実は判明しているのに、いまだに「財政健全化」をめざして、不況を持続させようとする。何という愚かさ。
 さて。それとは別に、「財政悪化」の意味を、本質的に考えよう。「財政悪化」というのは、国民にとって、意味はないか? ある。財政悪化は、今は痛みを感じないが、将来、景気が回復したときに、そのツケを払う。その形態は「増税」だ。「増税はイヤだ、ツケを払いたくない」と思えば、物価上昇が起こる。物価上昇で富を奪われようと、増税で富を奪われようと、しょせんは同じことである。借りたものはいつかは返さなくてはならない。当然だ。無から有は生まれない。
 ここまでは、自明だろう。では、「将来の損」とは、単純な損か? 違う。「将来の富を、今現在で使う」という形になっている。たとえば、公共事業で浪費をしたり、失業手当で現金をもらったり、減税で実質的に金をもらうのと同じことになったりする。……こういうふうに、「現在の得」が生じている。
 このことに注意しよう。不況という時期には、所得が減っているので、「得をした」という実感はない。しかし、実際には、得をしているのだ。つまり、今は少ししか損をしていないように見えるが、実際にははるかに大きな損を受けているのだ。
 たとえば、あなたの所得が百万円減っているとする。「百万円損したな」と思うかもしれない。違う。実際には、二百万円ぐらい損をしているのだ。その差額の損は、あなた自身ではなくて、国の帳簿に付けられている。だからあなたはその差額の損を実感しない。しかし、実際には、その損は発生している。だから、今は実感しなくても、あとでその損の分の金を支払わなくてはならない。
 上述の「財政赤字」というのは、実は、そのことを意味する。たとえば、本年分は、一人 30万円。4人家族で 120万円。それだけの赤字が発生している。その額があなたの借用証書に記入される。(5年で 600万円になる)
 こういう事実に注意しよう。デフレというのは、目に見える損失だけではない。あなたの給料の減額を意味するだけではない。国の赤字を通じて、目に見えにくい損失も発生しているのだ。
 世間では、「デフレはすばらしい」という主張をときどき聞く。「今は物価が下落しているから、過ごしやすい。少しぐらい賃金が下がっても、物価が下がっているから、生活はかえって良くなった」という主張だ。とんでもない勘違いだ。デフレの時に、従来並みの生活レベルを送れるのは、莫大な借金を発生させているからなのだ。つまりは、借金人生を送っているからなのだ。本来ならば、国の財政悪化にともなって、あなたは年に 100万円程度の増税を受けて、所得を奪われる必要がある。にもかかわらず、所得を奪われない。なぜなら、国を通じて、借金しているからだ。「デフレでは楽な生活ができる」というのは、「借金をすれば楽な生活ができる」というのと、同じことである。
 経済学を知らない人間は、表面的な損得にしか気づかない。しかし、経済学を知れば、隠れた本質的な損失に気づく。
 政府にせよ、国民にせよ、物事の本質を理解するべきなのだ。「財政赤字を減らして、財政健全化すればよい」という政府も、「財政赤字を増やして、お気楽生活を送ればよい」という国民も、ともに経済学音痴であり、状況を正しく理解できていないのである。

 (3) 春闘で賃下げ
 経団連が「来春の春闘では、賃上げではなく、賃下げ」という方針を出した。
 労働組合や新聞記事は、「そんなことをすれば、デフレがますます悪化する(かも)」という批判・解説をしている。一方で、「そうすれば企業の体質が向上するから景気は改善するかも」という意見もある。
 では、本当は、どうか? 解説しておこう。
 この件は、12月15日 の [ 補説 ]で述べたことに似ている。そこでは、
  「失業を、減らしても、増やしても、状況は改善しない」
 と述べた。これと同様で、
  「賃金を、下げても、上げても、状況は改善しない」
 となる。事情は、両者で、まったく同じである。失業ないし賃下げをすれば、企業は楽になるが、マクロ的に総所得と総需要は縮小する。逆に、過剰雇用または賃上げをすれば、企業はつらくなる(倒産も一時的に増える)が、マクロ的に総所得と総需要は拡大する。
 では、どうするべきか? 「不況脱出」だけを目的とするのならば、「過剰雇用または賃上げ」をするべきだ。しかし、そんなことは、したくてもできない。かといって、企業が賃下げをすればするほど、マクロ的には経済が悪化して、企業は自分の首を絞めることになる。(「合成の誤謬」だ。)
 だから、企業としては、取るべき方法はない。マクロ的な経済政策は、企業にはできず、政府がやるしかない。
 ただし、である。経団連は、「賃下げをせよ」と主張している。これは一種のマクロ政策である。そして、経団連が賃下げを促せば促すほど、総所得が低下し、総需要が低下し、総生産はさらに低下し、GDPがどんどん縮小していく。経団連はマクロ的な「不況悪化政策」を実施しているのである。そして、それは、「個別企業を救おう」という形を通じてのことだ。それぞれの企業が自らの利益だけをめざす結果、いずれもそろって大損する。(「合成の誤謬」だ。「パニック」的な状況でもある。火災の生じた劇場で、各人がそろって出口に殺到する結果、全員が死ぬ、というのに似ている。一人一人が利益の最大化を狙うと、全員が大損する。)
 経団連に、忠告しておこう。彼らは、マクロ経済学を理解するべきだ。しかし、頭が悪すぎて、理解できまい。ならば、最低限、経営倫理だけは理解するべきだ。彼らは言う。「雇用を守るためには、労働者は犠牲を我慢するべきだ」と。なるほど、そうかもしれない。しかし、である。彼らの主張する「市場原理」によれば、こうなるはずだ。「雇用を守れないような赤字企業は、市場において劣悪である。劣悪な企業は、労働者に賃下げを迫る前に、まず、経営者が劣悪経営の責任を取って、退職金ゼロで退陣するべきだ。責任を労働者だけに負わせるべきではない」と。
 まったく、「企業が赤字だから賃下げを」と主張する経営者には、呆れるほかない。どのツラ下げて、「自分は経営者だ」と言えるのだ。「黒字になれば、自分の手柄だ。赤字になれば、労働者のせいだ」とか、「黒字になれば、ストックオプションで何億円ももらいたい。赤字になれば、自分は高収入のままだが労働者は賃下げする」とか。……こんなことを言う経営者は、失格だ。長野県の田中知事などは、財政悪化を理由に、自らの給与の減額を申し出た。たいていの企業でも、同様にするべきだ。社長の年収は 1000万円程度まで切り下げるべきだ。それもできないような無責任な経営者は、労働者にぶん殴られても仕方あるまい。(面の皮が厚いから、殴られても痛くないかもしれないが。)
 ついでに、経団連の会長(トヨタ会長)に言っておこう。トヨタは莫大な黒字を出している。だったら、トヨタは、賃下げなんかではなくて、大幅な賃上げをするべきなのだ。莫大な黒字を出しておきながら、「労働者は賃下げを」なんて主張するのは、頭が狂っているとしか思えない。狂気でなく正気ならば、まず、「トヨタは大幅賃上げを」と主張するべきなのだ。さもなくば論理が破綻する。

( ※ 経営者は「賃下げで生産性の向上」なんてことも主張するようだ。馬鹿げている。「生産性」というのは、「時間あたりの生産額」のことだ。「賃下げ」で「時間あたりの賃金」を下げれば、単価切り下げにともなって、「時間あたりの生産額」も減るしかない。「生産性」と「賃金」とは、ほぼ比例関係にある。「賃下げで生産性の向上」なんていうのは、阿呆の戯言にすぎない。賃下げは、生産量の増加をもたらすことは可能だが、それは「生産性の悪化」と引き替えである。……ついでだが、「賃下げで生産量の増加」というのは、インフレ対策には有効である。しかし、デフレのときにそんなことをやれば、状況は加速度的に悪化するだけだ。)
( ※ とにかく、本質的には、先に示したとおりだ。つまり、不況という状況は、賃金を上げたり下げたりすることでは、解決しない。ここだけをいじってもダメなのだ。「総需要」という核心的なものを拡大しない限り、どうしようもないのだ。物事の本質を理解しない限り、枝葉末節的なことばかりをいじろうとする。あげく、勘違いのすえ、状況をますます悪化させる。)


● ニュースと感想  (12月20日)

 前々項では、ケインズの説について論評した。このあと、「ケインズの説への補足」を、いくつか述べておこう。 (その1)

 [ 基本 ]
 前々項で述べたことを簡単にまとめると、次の通り。
  1.  ケインズは、次のことを示した。(これは正しい。)
    •  (a) 失業の解決には、生産の増加が必要だ、ということ。
    •  (b) 需給の均衡点が、完全雇用点とは異なる、ということ
  2.  ケインズのモデルには、次の難点がある。
    •  (i) 「需給の均衡点が1点だけである」と見なしたこと。
    •  (ii) 「生産量が上限となる点でのみ、完全雇用が可能となる」と見なしたこと。
  3.  ケインズのモデルでは、次のことを混同している。
    •  労働者数
    •  労働量(労働時間)
  4.  ケインズのモデルでは、「完全雇用点」というものが想定されるが、それは正しくない。
    (なぜなら、生産量は、労働量(労働時間)だけに依存して、労働者数には依存しないからだ。逆に言えば、労働量が一定でも、時短やワークシェアリングによって、「完全雇用」を達成することは可能である。)
 [ 補足 1 ]
 上の 1. の (b) の「需給の均衡点が、完全雇用点とは異なる、ということ」については、ケインズの「45度線」のモデルでも、簡単に説明できる。「デフレギャップがあるときには、完全雇用の生産量よりも少ない生産量のところに、需給の均衡点がある」というふうに説明される。(つまり「縮小均衡」のこと。)
 その他、「総需要曲線」および「総供給曲線」を用いた説明もある。次の資料を参照。
 cf.  「平凡社百科事典」の「ケインズ理論」の項目。
   (「D‐D曲線」という言葉で説明されている。)

 [ 補足 2 ]
 上の 3. と 4. で示したように、「労働者数」と「労働量(労働時間)」とは異なる。そして、時短やワークシェアリングがあれば、失業を回避できる。── このことについて、補足しておこう。
 ここでは、時短やワークシェアリングを、高く評価している。しかし、それは、以前に述べたことと、矛盾しているように思えるかもしれない。私は以前、時短やワークシェアリングを、低く評価したからだ。(セーフティネットに関連した話。)
 そこで、誤解や混乱を招かぬように、次の (1) (2) (3) で説明しておく。

 (1) 失業対策と景気対策
 すぐ上で述べたことは、「時短やワークシェアリングは、失業対策としては、有効だ」ということだ。
 一方、私が以前述べたことは、「時短やワークシェアリングは、景気対策としては、有効でない」ということだ。
 この両者を、混同しないでほしい。
 時短やワークシェアリングは、あくまで、「失業対策」であって、「景気対策」ではないのだ。世間では、「不況解決のために、失業対策をせよ。セーフティネットをやれ」という意見が出ている。しかし私は、それに対して、「勘違いするな」と否定したわけだ。
 景気対策は、あくまで、総需要を拡大することによってしかなしえない。時短やワークシェアリングをすれば、失業者を減らすことはできるが、それは「一人ずつのパイの分け前を減らす」という形でなすことになる。パイそのものは変わらない。これでは、「総需要の縮小」という「パイが小さい」という根本問題を解決できないのだ。企業の赤字や倒産は防げないのだ。
 不況のときに、時短やワークシェアリングをすれば、特定の人々(失業者)に、痛みが集中することを防ぐことはできる。しかし、痛みそのものを消すことはできない。それでは景気の対策にはなっていないのだ。
 だから、不況のときに、時短やワークシェアリングをすることを、「やってはいけない」とは言わない。「痛みを全員で分かちあう」という意味はある。しかしそれは、基本的には、「福祉政策」であって、「経済政策」ではないのだ。
 福祉政策ならば、「ともに痛みを分かちあおう」と言えばいい。しかし、経済政策としては、「痛みそのものをなくそう」と言うべきなのだ。私はそう主張しているわけだ。

 (2) 実施の困難さ
 たとえ景気対策とはならないとしても、福祉政策として、時短やワークシェアリングを、やった方がいいだろうか?
 「イエス」と思えるが、現実には、それは困難だ。「やった方がいいか、どうか」ではなくて、「やることが不可能だ」ということだ。なぜか? あまりにも失業者が多すぎて、「焼け石に水」だからだ。
 現在、失業者は、370万人もいる。さらに、潜在的な失業者もいる。就職を諦めた主婦・高齢者や、未就職の学生(就職しないで留年したりする人々)なども含めれば、400万人以上は確実で、500万人程度になるだろう。これほど多大な失業者を、吸収することは、時短やワークシェアリングでは、とうてい不可能だ。
 今や、企業は、時短やワークシェアリングとは逆のことをやっている。「解雇して、人員を減らして、残った人員でやりくりする」という方式だ。これは、過重労働をもたらしているが、企業にとっては、固定費縮減の効果がある。そうやって企業は赤字を免れようとしている。そこへ、それとは逆のことを無理矢理やらせようとしても、まず無理だ。また、「税制で誘導する」というのも、無意味だ。もともと赤字の企業は、税金を払っていないから、減税の効果がないからだ。
 というわけで、時短やワークシェアリングは、福祉対策としてやろうとしたとしても、ほとんど成果が上がらないのだ。実際、政府はこの方針を出すことがあるが、それで時短やワークシェアリングを実施する企業など、スズメの涙程度でしかない。500万人の失業者には、全然影響しないのだ。
 500万人の失業者を一挙に消すには、時短やワークシェアリングなどは、あまりにも微力である。それに引き替え、「需要拡大」は、圧倒的に大きな効果がある。十分な額の減税をすれば、比較的短期間のうちに、大部分の失業は解消するだろう。

( ※ 関連する話を述べておこう。「福祉政策」でもなく、「景気対策」でもなく、「少子化対策」として、残業禁止・育児休暇などの「時短」を推進することがある。これは、「女性労働者が育児を可能とするように」という趣旨である。そして、この方針で、企業に義務づける法案が提出された。しかし、企業側の経団連は、大反対だという。[読売・朝刊・4面 2002-12-16 ]……ま、企業が反対するのは、当然だ。コストがかかるからだ。ここでは、政府は、政策ミスをしている。企業への「義務づけ」では、やればやるほど損する。むしろ、「やればやるほど得する」という「減税」をするべきだった。たとえば、時短を達成した企業に減税する。同時に、時短を達成しない企業には残業税を課する。不況のときには、マクロ的には残業は減っているから、差し引きして、大幅な減税になるはずだ。これはこれで、それなりに意味がある。「景気を急速に好転させる」というほどの影響力はないが、長期的には労働環境を好転させる効果があるだろう。五年ぐらいでいくらか効果が出そうだ。)

 (3) 均衡状態における時短やワークシェアリング
 上の (1) (2) では、時短やワークシェアリングには、否定的に述べた。しかし、これは、あくまで「不況」という「不均衡状態」における話だ。「均衡状態」では、そうではない。
 前項では、「時短やワークシェアリングによって、生産量の減少が失業の増加をもたらさないようにすることができる」と述べた。そのことは、たしかに、均衡状態では成立する。
 この両者を、混同するべきではない。不均衡状態において「不況脱出」をめざす時短やワークシェアリングは、有効ではない。しかるに、均衡状態において「景気後退」を受容する時短やワークシェアリングは、いくらか有効なのだ。
 特に、均衡状態において「成長」を抑え気味にする時短やワークシェアリングは、とても有効である。この件は、次の「余談」で述べる。
( ※ 時短やワークシェアリングは、短期的に急激に実施するのは困難なので、景気回復策としては有効ではないが、中長期に、ライフスタイルの変更としてならば、十分に有効である。)

 [ 余談 ]
 すぐ上で述べたとおり、時短やワークシェアリングは、不況のときには有効ではないし、また、景気後退のときには、いくらか有効だ。(ただし、デメリットもある。「稼働率の低下」による「生産性の低下」という無駄の発生だ。)
 しかし、均衡状態において「成長」を抑え気味にする時短やワークシェアリングは、とても有効である。これはつまり、「生産性の向上」の分を、所得の向上のかわりに、労働時間の削減に向けるわけだ。
 このことは、個人のレベルで言えば、「働き過ぎをやめて、シンプルライフにする」ということだ。ライフスタイルの変更である。これはこれで、なかなか好ましいことだ。失業を出さないことを目的にするにしても、「どんどん設備投資をして、いっぱい浪費しよう」なんていう途上国ふうの成長主義よりは、「労働時間を減らして、のんびり暮らそう」という方が、よほどまともである。
 昔に比べれば、科学技術は進歩したのだから、あくせくと働きすぎる必要はないのだ。「いっぱい働いて、いっぱい賃金を稼ぐ」というのは、昔ならば美徳であっただろうが、今は環境汚染をもたらすので悪徳だ、とも言える。
( ※ このライフスタイルの件については、以前、言及したことがある。面白い話。 → 3月23日
( ※ 日本人が働きすぎだ、ということは、統計的に明らかになっている。年間労働時間は、欧州では 1800時間ぐらいなのに、日本では 2100時間ぐらいになっている。典型的なのは、同じ会社の同じ社員が、赴任地によって労働時間が変わる、ということだ。ヨーロッパや米国で暮らしていたときは、人間らしいまともな勤務をしていたのに、日本に帰国してからは、毎日深夜まで働く、というふうになる。……あなたは、どう?)
( ※ ノーベル賞を取った田中耕一さんも、夜の九時ごろ連絡を受けたとき、会社にいたので、スウェーデンのノーベル賞委員会の関係者に、呆れられたらしい。こんな時間に会社にいる、なんてのは、前代未聞なのかも。……日本という奴隷国家の実態が、暴露されてしまったわけだ。これまではバレなかったのだが。)

 [ オマケ ]
 おもしろおかしい話。イソップ物語ふう。
 小原庄助さんは、失業したので、失業手当をもらって、貧しく暮らしました。一方、コマネズミ純一郎さんは、せっせと働いて、せっせとお金を貯めました。「遊んで貧乏より、働いて高所得の方が立派だ」と世間の人々は評価しました。
 そのうち景気が回復しました。小原庄助さんは、相も変わらず、遊んで暮らしました。朝寝、朝湯に、朝酒が大好き。一方、コマネズミ純一郎さんは、いっぱい働いて、いっぱい所得を得ました。景気が回復したので、いっぱい働いて、いっぱい収入を得ました。では、それで、幸福になったでしょうか? 実は、景気が過熱したせいで、不動産価格が急上昇しました。いくら収入を得ても、増えた収入は、家賃や住宅ローンに食われて、みんな消えてしまいました。結局、働いても働いても、少しも状況は良くならないのです。単に資産家が、土地売却代や家賃収入など、不労所得を増やすだけでした。
 このとき、景気は良くなるので、高級自動車やブランド品がバカ売れしました。経済学者は、「不況脱出万歳! 資産インフレ万歳!」と叫びました。しかし、高級自動車やブランド品を買えたのは、資産家だけでした。コマネズミ純一郎さんは、いっぱい働いても、ずっと同じ生活レベルでした。「これだったら、デフレ時代の方が、マシだったな」とつぶやきました。しかし、そう思ったときには、もはや手遅れでした。働き過ぎのせいで、倒れて、過労死してしまいました。

( ※ これを笑って受け止められる人は、幸福である。たいていの人は、笑うどころか、身につまされるだろう。私の周辺にも、過労死した人はいる。冗談ではないのだ。……失業も不幸だが、過労死も不幸である。)


● ニュースと感想  (12月21日)

 前項の続き。「ケインズの説への補足」(その2)。

 [ 補足 3 ]
 前項の 2. の (ii) の、「生産量が上限となる点でのみ、完全雇用が可能となる」と見なしたことについて、補足しておこう。
 ケインズは、「生産量が上限となる点でのみ、完全雇用が可能となる」と見なした。しかし、そんなことはないのだ。その理由について、前項では、「完全雇用になっても、(残業によって)さらに労働量を増やすことができるから」と述べた。
 しかし、理由としては、別の説明もできる。「上限均衡点」と「完全雇用点」とが異なることについては、次の (1) (2) のことがある。
( ※ このことは、ケインズ本人も認識していた。だから、ここで述べることは、ケインズ本人への批判というわけではない。)

 (1) 上限均衡点 < 完全雇用点 (途上国)
 途上国では、慢性的に、設備が不足である。一方、労働者は余剰である。
 これは、どういう状況か? 働きたい失業者はいっぱいいるのに、設備が不足しているので、雇用の場がないわけだ。たとえば、テレビや自動車を生産したくても、それを生産するための設備がなければ、どうしようもない。
 こういう状況では、生産量が少し拡大すると、たやすく上限均衡点に達する。そして、上限均衡点に達しても、なおも失業者が残っている。
( ※ このとき、「失業解決のため」と言って、物価上昇率をむやみやたらと上げても、何の解決にもならない。もちろん、フィリップス曲線などは成立しない。単にスタグフレーションが発生するだけだ。)

 (2) 上限均衡点 > 完全雇用点 (先進国)
 先進国では、設備は十分にあるものだ。失業が発生するとしたら、設備不足のせいではなく、稼働率が低下しているせいである。
 これは、(ケインズ的な意味での)「不況」と見なせる。「需要不足」が原因であるから、需要喚起策により、失業は解決できるはずだ。
( ※ 参考に言うと、「上限均衡点 > 完全雇用点」という不一致は、不況のときに発生するだけでなく、好況のときにも発生することがある。好況のときには、完全雇用でもまだ設備が余っているから、人手不足となる。不況のときには、上限均衡点は無関係に、単に稼働率が低下しただけで、完全雇用が達成されなくなる。)
( ※ このことを誤解すると、不況のときに好況のときの真似をして、「生産性の向上」を唱えるようになる。「生産性を向上して、供給能力を拡大すれば、雇用の場が増えるはずだ」と。実は、もともと、供給能力は不足していなかったのだが、そこを勘違いしているわけだ。)


● ニュースと感想  (12月22日)

 前項の続き。「ケインズの説への補足」(その3)。
 前項の 2. の (ii) の、「生産量が上限となる点でのみ、完全雇用が可能となる」と見なしたことについて、補足しておこう。これは、ただの「補足」というには重要すぎる話なので、「補説」としておく。

 [ 補説 ]
 失業に対するケインズの処方は、結局、どういうものだったか? それは、私なりにまとめれば、こうだ。
 「失業を解決するには、完全雇用が必要である。それには、生産力を拡大することが必要だ。(前項で述べたように)途上国の場合には、生産量を拡大するために、設備投資をどんどん拡大するべきだし、それで失業を減らせるだろう。しかし、先進国では、設備がすでに十分にある状態だ。ここでは、どうするべきか? 本来ならば金融政策で設備投資を促すべきだが、不況のときには設備投資をしても投資資金の回収ができない(売上げ増加を見込めない)から、設備投資をしたくない。金融政策は無効になる。だから、国家による介入が必要だ」
 こういう説明のもとで、「国家の介入」による公共投資を主張したわけだ。
 そして、その主張に従って、最近も、同じような意見が出ているわけだ。「公共投資」というのもそうだし、似た例として、「民間投資促進の補助金」として、「投資減税」「研究開発減税」「公共事業」などもそうだ。

 では、こういう主張について、私はどう批判するか? 次の通りだ。

 (1) 生産量の拡大
 生産量の拡大は、ケインズの説では、「完全雇用点」(上限均衡点)の拡大によるしかなかった。
 しかし、修正ケインズモデルでは、そうではない。均衡状態を保ったまま、「微弱な物価上昇と生産拡大」という「均衡状態でのインフレ」(つまり好況)を取ることが可能である。
 ケインズの説では、「貨幣数量説的なインフレ」は説明できるが、「好況」というものを説明できない。しかるに、修正ケインズモデルでは、「好況」というものを説明できる。そして、「好況」を保つことにより、「生産量の拡大」が可能なのだから、「失業」の解決もまた可能であるわけだ。
 ケインズの説では、「生産量の拡大」をもたらすためには、「設備投資の増大」が必要だった。しかし、修正ケインズモデルでは、「生産量の拡大」をもたらすためには、「設備投資の増大」は必要はなく、単に「稼働率の向上」があればいい。稼働率が上限に近づけば、自然に設備投資がなされるから、あえてケインズ流に「設備投資をせよ」と、国が民間の尻をたたく必要はないわけだ。
 結局、国がなすべきは、マクロ政策で「好況」(均衡状態でのインフレ)を導くことだけだ。それによって失業は解決できる。

 (2) 消費の拡大
 ケインズは「消費性向が低すぎるせいで不況になり、失業が発生する」と考えた。「だから消費性向を上げ、貯蓄性向を下げる政策が必要だ」と考えた。
 そして、この政策のもとで、現在、「貯蓄に税金を課す」とか、「株式投資や資産投資や相続税を減税する」とかいう説が出ているわけだ。
 しかし、こういうふうに直接的に、政府が国民の財布に介入する必要はないのだ。まして、「国民が金を津緩和ないなら、政府が金を使ってやる」という超・直接的な「公共事業」なんてことをやる必要はないのだ。
 消費の拡大には、「消費は得、貯蓄は損」という状況(制度ではなくて状況)を用意すればよい。それが「アメとムチ」としての「物価上昇」である。 ( → 「需要統御理論」 簡単解説
 ともあれ、修正ケインズモデルでは、「消費性向の向上」と「微弱な物価上昇」と「生産量の拡大」は、同時に発生する。それが好況だ。
 結局、政府がめざすべきことは、好況だけだ。「設備投資を促進しよう」「消費を増やそう」などと狙って、国民の財布に手を突っ込んで強引に仕向ける必要はないのだ。個別の優遇・冷遇による促進・抑制は不要なのだ。国民がどんなふうに金を使うかは、各人が決めることである。(それが経済学用語で言う「効用」の最大化だ。)
 政府がなすべきことは、失業などの問題が解決するようにマクロ的に状況を整えることだけであって、直接的に個別行動に介入するべきではないのだ。「企業は投資や研究開発を増やせ」「高齢者は贈与を増やせ」などという個別的な政策減税は不適切なのである。

 結語。
 政府がなすべきことは、修正ケインズモデルにおける「均衡状態でのインフレ」(つまり好況)である。しかるに、これについては、ケインズのモデルでは説明できない。「直接的にああせよこうせよと政府が介入するべきだ」という結論となってしまう。
 そういうわけで、「失業」解決のために、「生産量の拡大が必要だ」と理解したまではよかったのだが、その先の、「ではどうやって生産量を拡大するべきか」というところで、ケインズは間違えてしまったわけだ。(そう間違えた理由は、ケインズのモデル自体の不完全さである。不完全なモデルからは、不完全な結論しか出てこない。)
( ※ この件、詳しくは、次項で述べる。)

 [ 注記 ]
 念のため、注記を加えておく。
 以上で述べたのは、あくまで、「(需給が)均衡状態のときの、失業解決の方法」である。その場合には、「好況」が正解だ、と述べた。
 一方、(需給が)不均衡状態のとき、つまり、不況のときについては、話は全然異なる。
 不況のときには、失業は、あくまで「症状」の一つであるにすぎない。だから、めざすべきは何よりも「不況」である。ここを勘違いしてはならない。
( ※ 現実には、勘違いする人が多い。「不況で失業が発生したのか。それならば雇用促進制度を整えればいい」と考える人が多い。こんなことをやっても、まったくの無駄である。「一人雇用して、かわりに一人解雇」となるか、あるいは、「無駄に雇用して、企業そのものが倒産する」か、そのいずれかだ。ちっとも状況は改善しない。不況のときには、まず「需給ギャップ」という根本問題を解決するのが先決だ。)


● ニュースと感想  (12月23日)

 ケインズのモデルには、いろいろと問題がある、ということを、これまで示してきた。
 では、そういうふうに問題があるのは、なぜなのだろうか? どうしてそういう問題が出てくるのだろうか? それは、ケインズのモデルの問題の核心を知れば、理解できる。特に、ケインズのモデルを改良した「修正ケインズモデル」と比較すると、よくわかる。
 修正ケインズモデルについては、これまで、いろいろと示してきた。
 一方、「失業を解決するには、生産量を増やせばいい」ということも、これまで示してきた。
 そこで、「生産量」を基準にして、ケインズのモデルを理解しよう。それには、修正ケインズモデルにおける横軸()に着目すればよい。

     修正ケインズモデルの領域の図


 ここで、横軸にある b と m に着目してほしい。

 (1) 修正ケインズモデル
   ━━ b …… m ━━

 (2) ケインズのモデル
   ━━━━ F ━━━━

 上では (1) (2) という、2本の棒線図を示した。これらについて説明しよう。
 この (1) (2) は、いずれも生産量(つまり横軸)を示している。そして、ある点を基準にして、その領域がどんな状態であるかを示している。
   ━━ は、下限均衡点より左の区間である。
   ━━ は、上限均衡点より右の区間である。
   …… は、(需給の)均衡状態の区間である。

 (1) の、修正ケインズモデルでは、均衡区間(点線の部分)がある。このことが大切だ。
 この均衡区間において、需給の均衡を保ったまま、生産量を拡大することができる。そして、そうやって生産量の拡大を通じて、失業を解消していくことが、失業解決の最適な方法だ。 (均衡状態においての話である。不況時の失業については、また別の話となる。)

 (2) の、ケインズのモデルでは、あるのはただ1点の「完全雇用点」である。均衡区間(点線の部分)というものがない。このことが大切だ。
 これは何を意味するか? 「均衡状態を保ったまま生産量を増加させる」ということが不可能だ、ということだ。そのような概念は、元々ないのである。
 では、失業を解決するには、どうするか? 「完全雇用点」を維持することだけだ。つまり、生産量を F という特定の生産量だけにすることだ。
 なるほど、そのときの生産量では、完全雇用が達成される。しかし、である。それ以外の生産量は、不適となるのだ。
 つまり、「失業解決」のためには、「最大の生産量」を常にめざす必要がある。「もはやこれ以上は生産を拡大できない(しがたい)」ほどにも、非常に無理な生産拡大を強いられることになる。「失業を解決するには、生産量をどんどん増やせ」とだけ主張して、やたらと財政支出(公共事業など)を増やそうとする。
 その考えの、どこに問題があるのか? それは、二つの問題を、混同しているということだ。
 この両者を混同しているのだ。
 なるほど、不況のときであれば、失業解決は是非とも必要だ。というより、失業をもたらす不均衡(需給ギャップ)の解決が是非とも必要だ。そして、そのために、あれこれと政府が財政支出するのも、それはそれなりに意味がある。(「公共事業」は、最適ではないにしても、それなりに意味がある。)
 しかし、不況以外のときであれば、事情はまったく異なる。そこではもはや、不均衡(需給ギャップ)という根本問題は解決されているのだ。単に既存の失業者がいるだけであって、倒産や新規解雇が続出しているわけではない。このとき、「なだらかな生産拡大」という好況は大切だが、「なだらかな生産拡大」を実現すれば、同時に、弊害も出る。つまり、「劣悪な能率の生産力まで市場に参入する」という形で、全体の生産能率は低下していく。「失業」の解決と、「物価上昇」(生産能率低下)とが、同時発生する。というわけで、「なだらかな生産拡大」は、一長一短である。決して、「是非ともなすべきこと」ではない。

 結局、「生産量が低めである」というのは、2種類あるのだ。「不均衡」である場合と、「均衡である」場合と。そして、前者ならば、財政支出や減税で強引に景気を拡大することが必要だが、後者ならば、財政支出や減税で強引に景気を拡大する必要はないのだ。
 なぜか? 均衡状態では、財政支出や減税をしなくても、解決法は二つあるからだ。一つは、「金融政策」であり、もう一つは、「時短・ワークシェアリング」である。
 にもかかわらず、ケインズの理屈だと、「生産量が低めである」という2種類の状況(不均衡と均衡)を、区別できない。どちらも「不況である」(不均衡)と見なす。そして、「失業を解決するには、是非とも不況を解決せよ」と結論する。たとえ(需給の)均衡状態にあっても、「現状は失業が残っているのだから不況である」と強弁して、そのあげく、むやみやたらと財政支出(特に公共事業)をすることとなる。

 では、ケインズの結論がそういうふうに誤ったのは、なぜか? それは、「均衡区間」というものを考慮しないという、不完全なモデルを提出したからだ。そのモデルには、「均衡区間」というものが欠落しているゆえに、そのモデルでは、均衡状態をうまく扱えないのだ。というわけで、最初のモデルが誤っていたから、結論も誤ったものとなったのだ。
 そのことを、上の (1) (2) の棒線図を明らかにするわけだ。

 [ 付記 ]
 経済学の一般的な評価では、
 「不況についてはケインズの理論が正しく、不況以外については古典派の理論が正しい」
 となる。そのことが、ここでも、大まかに成立するわけだ。つまり、不況時の失業問題については、ケインズの理論はだいたい正しいが、不況脱出後の失業問題については、ケインズよりは古典派の方がだいたい正しいわけだ。


● ニュースと感想  (12月24日)

 「完全雇用」について。
 「失業解決」を目的とすれば、「完全雇用」が目的であると思われるだろう。しかし、実は、完全雇用というものは、必要ない。そのことを、以下で示そう。(納得しがたいことかもしれないので、よく理解してほしい。これは大切なことである。)

 ケインズの説では、「完全雇用は大切だ」ということになる。彼の説では、「失業の存在」は、「不況」そのものであって、「悪」である。失業者は一人残らず消えることが好ましい。
 しかし、前項で示したとおり、「完全雇用」と「不況」とは、別のことなのだ。「需要不足」という「(需給の)不均衡」が発生する状況は、「不況」であって、是非とも解決すべき状況である。しかし、いったんそういう状況を脱出して、「(需給の)均衡」が成立すれば、たとえ失業者が残っていても、それは、是非とも解決すべき状況ではない。たしかに、生産量の増加によって、失業を減らすことはできるが、それは同時に物価上昇などの弊害ももたらすから、一長一短である。どうするべきかは、現実の状況を見て、最適の政策を取ればよい。

 具体的に例を示そう。バブル期には、景気が非常に加熱していた。人手は不足していて、外国人労働者がもてはやされたし、あちこちで過労死が発生していた。こういうふうに「労働者不足」の状況にあった。ここでは、明らかに、生産量は増えすぎていた。もっと生産量を減らして、労働時間を減らして、普通の人間らしい生活をした方が、ずっと好ましかった。(これが正解だ。)
 しかし、それにもかかわらず、このとき、失業者はゼロではなかったのだ。ケインズ流の「完全雇用」をめざす考え方だと、「まだ失業者が残っている。まだ完全雇用が成立していない。まだ生産量の拡大が足りない。だから、もっと景気を過熱させよ! もっと財政支出をせよ!」ということになるだろう。それでは、正解とは反対の結論を出すことになる。

 結局、「完全雇用」は、目的とはならないのだ。不均衡さえ脱出すれば、いくらか失業者が残っていても、そういう失業者の存在は、是非とも解決するべき問題とはならない。解決するべきか否かは、あくまで、ケースバイケースである。
 具体的に示そう。(次の二つでは、(1) は読み飛ばしてよく、(2) が肝心である。)

 (1) 生産量不足
 たとえば、欧州だ。「需給は均衡していても、多大な失業者が存在する」という状況がある。
 こういう状況は、「生産量不足」と言える。だから、生産量の拡大をめざすべきだろう。ただし、「財政支出」は必要なく、(金利引き下げの余地がある限りは)「金融政策」だけでも足りる。さらに、増減税を組み合わせると、消費と投資の比率を最適化することもできる。
( ※  なお、「時短・ワークシェアリング」を実施すれば、生産量を変えないまま、失業を解決できる。しかし、これは即効的な効果はない。失業者があまりにも多大に存在する場合には、それをすぐに解決するには、「生産量の拡大」がどうしても必要である。)

 (2) 生産量過大
 失業率をやたらと低下させようとして、景気拡大策を取ると、物価上昇率がやたらと上がるようになるし、過労死も続出する。これは副作用が強すぎる。というわけで、失業率をゼロまで下げようとはしないのが、普通である。
 景気が過熱した状況では、たとえ失業者が残っていても、生産量の縮小をめざすことが必要だ。「完全雇用ではないから、生産量を拡大するべきだ」ということにはならない。このときは、「生産量過大」となっているわけだから、生産量の縮小をめざすべきだ。
( ※ 一般に、景気過熱期では、「人手不足」「残業の増加」が発生する。つまりは、「働き過ぎ」だ。過労死も続出する。「金を得るが、かわりに、生命や健康を失う」というやつだ。「所得が減るのはけしからん」と思う人々もいるだろうが、そういう人々には、率先して過労死してもらえばよい。なお、「過労死は避けるべきだ」という件は、先に述べた。 → 12月19日
( ※ 「生産量の縮小」を達成するには、どうするべきか? もちろん、「金融緊縮」や「増税」が有効である。ただ、金融政策としては、「利上げ」だけでなく、「貨幣供給量の縮小」も必要となることもある。たとえば「資産インフレ」のとき。)
( ※ 「資産インフレ」の例は、バブル期だ。バブル期には、物価は上がらなかったが、資産インフレが発生し、また、過労死が続出した。こういうときは、失業者が残っているとしても、景気冷却策を取るべきなのである。「完全雇用をめざせ」ということにはならない。わずかな失業者を救うために、バブルを膨張させて、あとで国家経済をパンクさせていい、ということにはならない。)

 結語。
 以上のように、生産量の変動に応じて、失業の量は変動する。だから、生産量を拡大すれば、失業者を減らすことはできる。
 しかし、「失業をなくすこと」(完全雇用)は、最大目的とはならない。「完全雇用をめざすために、むやみやたらと生産量を増やせ」ということにはならない。どのような生産量にするかは、失業率だけでなく、物価上昇率とか何とか、さまざまな状況を考慮した上で、最適の判断を下せばよい。失業の解決だけが目的ではないのだ。
 均衡状態においては、下限均衡点と上限均衡点の間では、そのすべてが選択肢に入る。そのうちのどの生産量を選択するべきかは、あくまで、ケースバイケースである。
( ※ 「完全雇用を実現しない方がいい」と言える状況は、たしかにある。それは、景気が過剰に過熱して、弊害が生じた場合だ。たとえば、バブル期がそうだ。少し上に述べたとおり。)

 [ 付記 ]
 景気過熱で人手不足になっているときに、なおも失業者が消えずに残っているのは、なぜか? それは、簡単に言えば、「雇用のミスマッチ」があるからだ。市場全体では労働力不足でも、一部の人々にとっては、適切な就職口がないわけだ。
 この件(雇用のミスマッチ)については、後日また述べる。今は、とりあえず、「完全雇用なんてものは、しょせんは不可能な絵空事だ」と理解しておけばよい。
 具体的な例を一つ示そう。「売れない下手な歌手」とか、「デタラメばかり言っている学者」なんてのは、いくら景気が良くなっても、就職口が簡単に見つかるはずがないのだ。「これらの人々が失業しなくて済むように、景気をもっと加熱させよ。そうすれば、彼らにも就職口が見つかる」というのは、とんでもない見当違いな主張だ。(ただし、経済学者だけは、デタラメばかりを言っていても、就職口が見つかる。世界の七不思議の一つ。)






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