[付録] ニュースと感想 (33)

[ 2002.11.20 〜 2002.12.02 ]   

  《 ※ これ以前の分は、

    2001 年
       8月20日 〜 9月21日
       9月22日 〜 10月11日
      10月12日 〜 11月03日
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      12月11日 〜 12月27日
      12月28日 〜 1月08日
    2002 年
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● ニュースと感想  (11月20日)

 「インフレ目標」の問題点について、核心を示しておこう。
 最近、「インフレ目標」について、賛成する意見がかなり強まっているようだ。経済学者やエコノミストや財界人などの間でも、賛成論がかなり聞かれる。新聞記事のもそういう賛成意見がけっこう掲載される。
 しかし、私としては、警告を鳴らしておこう。「インフレ目標で景気回復」というアイデアは、現状を甘く見すぎている、と。── それはどういうことか? 賛成意見を批判しているということか? 違う。「過大な期待をも過ぎるな」と注意を促しているのである。
 簡単に言えば、こうだ。「インフレ目標」は、景気回復のために、必要条件だが、十分条件ではない。景気回復をするためには、「インフレ目標」を実施するべきだが、実施したからといって景気回復が実現するわけではない。 景気回復のためには、「インフレ目標」のほか、もう一つ、「最初の一撃」も必要だ。
 
 別の言い方をしよう。
 「インフレ目標」が約束するのは、「将来のインフレ」であって、「現在のインフレ」ではない。そして、「将来のインフレを約束すれば、そのことを信じたとき、人々は現在でも金を支出するはずだ」というふうに論理を立てる。
 ここで問題なのは、「そのことを信じる」というところだ。現実には、そのことを信じられない。なぜなら、「将来のインフレ」というのが、いつのことなのか、わからないからだ。
 なるほど、「インフレ目標」で、「将来のインフレ」が約束されたとしよう。では、それは、いつのことなのか? 今日か? 明日か? 1週間後か? 1カ月後か? ……全然、見当がつかない。見当がつかなければ、「とりあえずは様子を見よう。実際にインフレになるのが確実になってから金を支出しよう」と思うだろう。そして、そういう「様子見」がずっと続けば、いつまでたっても、インフレは来ないで、デフレが続く。そして、「デフレが続く」という結果になったなら、「今すぐ支出する」という行動を取った人は損するのである。
 ここには確実性の問題が発生する。先のことがわからないまま行動に走った人は、最悪のリスクを負う。一方、先のことが判明してから行動に走った人は、出遅れの損を負うが、それは無視可能なほど微小である。── たとえば、「インフレが来る」と予想して設備投資をした会社は、その設備がすべて遊休して倒産しかねないし、「資産インフレと賃上げが来る」と予想して家を購入した人は、失業したら破産しかねない。逆に、「インフレが確実になった」あとで、設備投資しようと、家を購入しようと、出遅れたことによる損は、無視できる程度の小額だ。
 結局、よほど愚かな人でない限り、「インフレ目標を実施したから金を支出する」という行動は取らない。「実際にインフレになったあとで支出する」という行動を取る。
 とにかく、「インフレ目標」と、「インフレ」とは、別のことなのだ。「インフレ目標」を実施したからといって、実際の「インフレ」が確実に約束されたわけではないのだ。「将来のインフレ」というものが漠然と約束されるだけであって、その「将来」というのがいつのことなのかはさっぱりわからないのだ。

 というわけで、「インフレ目標」は、それ単独では有効ではない。もう一つ、「最初の一撃」が必要となる。

 [ 付記 1 ]
 「最初の一撃」を加えるとどうなるか? 以後、スパイラルふうに、景気が上昇していく。そのことは、すでに述べた。( → 9月03日

 [ 付記 2 ]
 「最初の一撃」が必要でない場合もある。それは、需給ギャップがもともと小さい場合だ。需給ギャップが小さいときには、そこを乗り越えることが容易である。小さな溝を跳び越えることが容易であるように、小さな需給ギャップを跳び越えることは容易だ。こういう場合には、「インフレ目標」だけで、不均衡状態から均衡状態へ回復できる。( → 2月18日「相転移」)
 具体的な成功例は、ニュージーランド(1998年末 〜 1999年)に見られる。
 ( ※ ただし、ニュージーランドの例は、あまり適切でないかもしれない。というのは、そこでは、金利はもともと6%ぐらいあって、「金融政策が無効」という状況ではなかったからだ。「インフレ目標」とは関係なく、単なる「金融緩和」だけでも十分に状況を解決できたはずだ。というわけで、「相転移」の適切な例とは言えないようだ。)

 [ 付記 3 ]
 「今はデフレ期待があるからデフレなのだ。ゆえに、デフレ期待をなくして、インフレ期待を持たせることが大切だ」という主張もある。つまり、「インフレ期待を持たせる」というかわりに、「デフレ期待を消す」という言い方をするわけだ。
 しかし、これもしょせんは、同じことを言っているにすぎない。同工異曲である。(あるいは、全く同じことを別の言葉で言っているだけだ。)
 とにかく、「インフレ期待」を持たせることは大切だし、その必要性を否定はしない。しかし、それだけでは、不十分なのだ。日銀が「目標の率をこう設定します」と口約束だけで言っても、それによる物価上昇などは信用されないのだ。将来的にはその物価上昇率になるだろうが、今現在はその物価上昇率にはならない。だから今すぐには景気は回復しない。今すぐ景気を回復させるには、「インフレ目標」とは別の力が必要なのだ。


● ニュースと感想  (11月20日b)

 前項の続き。
 「インフレ目標」政策について、ざっとまとめておこう。
 すでに何度か「インフレ目標」について述べてきたが、そのあと、「修正ケインズモデル」とか、「マクロ経済における所得の効果」などを知るようになった。こういう知見を得たあとで、「インフレ目標」について、あらためてまとめておこう。
  1.  ミクロ経済では、「需要 − 供給」関係だけを考えていればいいが、マクロ経済では、需要と供給のほかに、「所得」を考えるべきだ。
  2.  「所得」が作用すると、景気変動には、スパイラル効果が現れる。好況はさらに好況を増し、不況はさらに不況を増す。
  3.  不況が悪化すると、均衡状態が失われ、不均衡状態となる。金融政策が無効となる。(流動性の罠)
  4.  そこで、「短期の景気悪化を、長期のインフレ期待によって、補おう」というのが、「インフレ目標」政策である。
  5.  では、その長期のインフレ期待によって、需給ギャップを乗り越えることができるか? 需給ギャップが小さければ、可能だが、需給ギャップが大きければ、不可能だろう。
  6.  需給ギャップが大きいときは、いったんそれを乗り越えるだけの大きな力が必要である。そして、いったん乗り越えたなら、そのあとは、インフレ期待によって、成長路線をたどることが可能だろう。
  7.  結局、「インフレ目標」が有効であるためには、「不均衡が小さいこと」もしくは「不均衡でなく均衡であること」が前提となる。この前提が満たされれば、「インフレ目標」は有効だが、この前提を満たすための力は、「インフレ目標」にはない。そういう力は、別の力を必要とする。それが「最初の一撃」だ。
  8.  この「最初の一撃」は、巨大な財政支出が必要となる。具体的には、公共事業または減税だ。そして、その両者のうち、減税の方が好ましい。(公共事業が好ましくないということは、前項を参照。)
 というわけで、「インフレ期待」は、たしかに大事だが、それだけではダメであって、「減税」による「最初の一撃」も必要なわけだ。
( ※ 「インフレ目標政策には、需要を直接増やす仕組みがない」というふうにも言える。)


● ニュースと感想  (11月21日)

 「インフレ目標」については、実は、論者が見落としている肝心な点がある。それは、「所得の効果」だ。
 前項でも述べたとおり、マクロ経済では、「所得」の影響が非常に大きい。にもかかわらず、「インフレ目標」論者は、このことをまったく無視していることが多い。
 たとえば、「インフレになれば、早く買った方が得だから、需要が増える」というふうに主張する。なるほど、支出だけを見れば、そうだ。ただし、そこでは、「所得が変わらなければ」ということが前提されている。つまり、「インフレになれば、物価上昇率と同じだけ名目賃金が上がるから、実質賃金は変わらない」と。
 しかし、現実には、その前提が成立する保証はまったくない。つまり、「インフレになっても、名目賃金が据え置かれて、実質賃金は物価上昇率の分だけ下がってしまう」というふうになりやすい。── 特に、不況脱出の直後は、そうだ。
 現実にも、そういう傾向が見られる。たとえば、2002年4月の春闘がそうだ。円安のおかげで、輸出企業の収益性は向上した。自動車産業を始め、電器産業では軒並み黒字化した。そして春闘では、電器産業がプラスの賃上げの回答を出した。ところが、電器産業以上に大幅に収益性を向上させていたトヨタが、賃上げをゼロにした。それを見た電器各社は、数時間前に妥結したばかりのプラスの賃上げを、あっさりホゴにして、賃上げをゼロに改訂した。「輸出による収益好転は、一時的な外需頼りのものであり、不確実だから、とりあえずは賃上げを中止する」というふうに論弁した。
 つまり、そういう「一時的な収益好転に対しては、賃上げをしない」という態度が、基本的には、企業側に見られるわけだ。そして、そういう態度が逆に、賃上げを抑止して、国内の消費拡大を妨げ、現実にデフレ脱出を妨げるわけだ。(だから企業側は、「賃上げをしないで良かった」と思っていることだろう。愚の骨頂。)

 とにかく、「企業の収益が好転すれば、労働者の賃上げは起こるはずだ」ということは、ありえない。不況でないときならば、その主張の通りになるだろうが、不況を脱出した直後には、その主張の通りにはならない。
 だから、不況でないときには、物価上昇率と同じだけ名目賃金は上がるだろうが、不況を脱出した直後には、物価上昇率と同じだけ名目賃金は上がるという予測は立ちにくい。
 こういうふうに、賃金が素直に上がりにくいことは、「賃金の上方硬直性」と呼ぶこともできる。不況を脱出した直後には、少しぐらい景気が回復しても、賃金はなかなか上がらないのだ。
 そして、賃金が上がらない限り、いくら物価上昇率が上がっても、そのことは「支出の増加」どころか「支出の減少」をもたらしかねないのだ。

 結語。
 景気回復のためには、「物価上昇の期待」だけではダメで、「名目所得上昇」の期待も必要である。また、「実質所得が減少しないこと」も保証するべきであり、できれば、「実質所得が増えること」も保証するべきである。
 そして、それが、「賃金の増加」という形で保証されないときは、国が「減税」によって保証するべきだ。── それが、「減税」という「最初の一撃」だ。これがどうしても必要不可欠となる。

( ※ 余談だが、私自身、自分がどうするかを考えれば、上記のような方針を取る。つまり、政府や日銀が「インフレ目標」政策で物価上昇率を設定しても、そんなことでは、支出を増やす気にはならない。支出を増やす気になるとしたら、「手元の財布の中身」が増えることが確実になったときだ。つまり、次の春闘で、賃上げが決定されたときだ。── それまでは、いくら「早く買った方が得だ」としても、肝心の財布に金がないので、どうしようもない。「早く買った方が得か損か」で支出行動を決めるのではない。「買うだけの金があるかないか」で支出行動を決めるのだ。自分の財布の金も考えずに、やたらと消費に走るほど、私は無謀ではない。……そして、多くの国民も、そうするはずだ。「物価上昇が予想されれば、消費を増やす」なんて行動を取るのは、「インフレ目標」賛成の経済学者だけだろう。彼らだけが、勝手に支出を増やして、そのあとで賃上げがなされないと判明して青くなり、借金の重みで破産すればいいのだ。)

 [ 付記 1 ]
 実を言うと、もう一つ、肝心のことがある。それは、「増税の予想」だ。
 仮に、「インフレ目標」で、景気が回復したとしよう。その場合、将来は「増税」がなされるはずだ。たとえば、「消費税が 10% になる」というふうに。(どうして「増税」がなされるかと言えば、当たり前だ。巨額の財政赤字があるからだ。そもそも、現状は、過大な財政赤字を起こすほどの減税がなされているから、減税を中止するだけでも、相当の増税となるはずだ。)
 「将来の増税」は、二つの効果がある。一つは、「消費税がそんなに上がるのなら、今のうちに消費してしまえ」という態度。もう一つは、「消費税が上がると、実質所得が減るから、今はせっせと貯蓄しよう」という態度。
 消費税の増税ならば、そのように二つの相反する効果がある。一方、所得税の増税ならば、単純に「消費縮小」という効果だけがある。(将来の増税を予測しての、現在の消費縮小。……合理的期待形成。)
 というわけで、「増税による所得の減少」が予想されるから、その分、「支出の減少」も見込まれる。「物価上昇が起これば、それで支出が増える」というだけで、単純に話が片付くわけではないのだ。

 [ 付記 2 ]
 上の「増税」に関連して、余談ふうに述べておこう。
 「所得の効果」を考えないと、おかしな案が導き出される。それは、「消費税増税で景気回復」という案だ。
 「遅く購入するほど損になるようにすればいい。そのためには、物価上昇でもいいが、消費税の増税でもいい。毎年少しずつ、消費税を上げることにしよう。そうすれば、需要が喚起されて、景気が回復する」という主張だ。( → 4月19日b
 思考実験をしてみよう。もし、この説が正しいのであれば、少しずつとは言わず、一挙に増税すればいい。1カ月後は消費税を 30%、2カ月後は消費税を 50%、3カ月後は消費税を 100%、4カ月後は消費税を 200%、というふうに、急激に大幅に上昇させればいい。
 で、それで、人々は消費を増やすか? たとえば、3カ月後の食事を、今のうちに済ませて、「今日はたくさん食べて、3カ月後には何も食べない」というふうにしてくれるか? まさか。むしろ、逆だろう。「3カ月後の食費をまかなうため、現在では急速に消費を切りつめる」というふうになるだろう。
 では、上記の「消費税の逐次的な増税」というのは、どこが間違っていたのか? もちろん、冒頭で述べたとおりだ。「所得の効果」を考えていないからだ。「所得の効果」を忘れてはならない、ということを、「消費税の逐次的な増税」という思考実験が、明らかにしてくれる。

 [ 補足 ]
 「賃金の上方硬直性」というものを、上で述べた。これは、「賃金の下方硬直性」とは、反対のことのように見える。しかし、実を言うと、同じことの裏返しの表現にすぎない。(単に「賃金の硬直性」と呼ぶだけで足りる。)
 たとえば、元の賃金が 100 であったとする。不況になると、企業が赤字化して、適正賃金が 80 になる。賃金を 80 まで下げたい。しかし、「賃金の下方硬直性」ゆえに、90 ぐらいまでしか下げることができない。
 そのあと、業績がいくらか好転して、適正賃金が 90 になったとする。このとき、業績が好転したからと言って、賃金を増やすわけには行かないのだ。もともと十分に下げていなかった( 80 にしていなかった)のだから、「 90 から 91 へ上げる」という具合には行かないのだ。……ここでは、「賃金が上がらない」というふうに見えるが、実際には、「賃金が下がらなかった」から、その結果として、「賃金が上がらない」というふうに見えるだけだ。
 ともあれ、ここでは、所得は 90 から 90 へと無変化のままである。そして、名目所得が変わらないのに、物価上昇率が高まれば、実質賃金は低下する。実質賃金が低下すれば、国民は消費を減らすだろう。
 ただし、企業は、収益性が好転するので、企業は楽になる。「そうか。ならば、企業の収益性が好転することで、企業の設備投資が増えるだろう」という予想が立ちそうだ。しかし、残念ながら、その予想の通りにはならない。不況脱出の直後は、企業はかろうじて赤字を脱したとはいえ、まだまだ設備はいっぱい遊休している。とても新規の設備投資をすることにはならない。実際、過去の例を見ても、企業の設備投資や銀行の融資が増えるのは、不況脱出の直後ではなくて、不況脱出後3〜4年後ぐらいである。
 結局、「労働者の賃上げによる、消費の増加」も、「企業の収益性の向上による、設備投資の増加」も、どちらも見込めない。だからこそ、「減税」が必要なのだ。


● ニュースと感想  (11月21日b)

 「インフレ目標」の話の続き。「インフレ目標と欧州」について。
 「インフレ目標は景気回復には有効ではない」という実証例がある。それは、欧州だ。
 賛成論者は気が付かないようだが、「インフレ目標」は、すでに日本以外の国でも実質的に導入されているし、しかも、それで失敗している。その例が、欧州だ。
 欧州では、すでに実質的に「インフレ目標」が実施されていると考えてよい。なぜか? 恒常的に、物価上昇率が 2〜3% に保たれているからだ。そして、この物価上昇率は、日本の多くの「インフレ目標」賛成論者の唱える率と、ほぼ同じである。
 欧州では、こういう物価上昇率が実現している。ということは、それに応じた金融政策がなされている、ということでもある。仮に、現況が引き締めすぎであるとすれば、物価上昇率は 2〜3% ではなくて、もっと低い値となっていただろう。逆に言えば、物価上昇率が 2〜3% であるということは、金融政策は実質的に「インフレ目標」が実施されていると考えてよいわけだ。

 では、「インフレ目標」が実施されている欧州では、経済は正常な状態にあるか? もちろん、否だ。ドイツやフランスや北欧諸国では、非常に高い失業率に悩んでいる。(失業率は 10% 前後。若年者に限れば、20% 前後。日本よりも、はるかに悪い。)
 欧州では、ここ数十年間、慢性的な景気悪化に悩んでいるのだ。決して「インフレ目標で景気改善」とか、「インフレ目標で失業問題が解決」というふうにはなっていないのだ。このことを見失ってはならない。

 インフレ目標は、やらないよりはやった方がいいが、やったらといって、あらゆる問題が一挙に解決するわけではない。そのことは事実によって証明されているのだ。このことを見失ってはならない。

 [ 付記 ]
 ここでは、インフレ目標が成功しなかった例として、欧州の例を示した。
 もう一つ、別の例がある。それは、バブル期の日本だ。日本はバブル期に、インフレ目標(と同じ政策)を実施したことがある。すなわち、「一定の物価上昇率になるまで量的緩和」という政策を実施したのだ。
 インフレ目標の考え方によれば、こうだ。「インフレがどんどん進むまでは、いくらでも量的緩和をしていい。インフレになっていないということは、まだ量的緩和をするべきだ( or していい)だということになる」。そして、実際、日銀は、この説を信じた。だから日銀はどんどん量的緩和をした。
 で、その結果は? 「物価上昇」ではなくて、「資産価格上昇」だった。つまり、いくら量的緩和をしても、「資産インフレ」が起こるだけであって、「インフレ」は起こらなかったのだ。
 結局、「物価上昇率」を指標とした「インフレ目標」は、無効である、ということが、バブル期に判明したわけだ。
 なお、これに対して、反論がある。「だったら、物価上昇率に資産価格も含めて、インフレ目標を定めればいいではないか。そうすれば、貨幣数量説がちゃんと成立するぞ」と。
 なるほど、それならそれで、貨幣数量説は成立する。しかし、インフレ目標の目的は、貨幣数量説の成立を検証することではなくて、景気の回復だ。ここを勘違いしてはならない。本末転倒になってはいけない。
 「物価上昇率に資産価格を含める」という形でインフレ目標を実施したら、どうなるか? 「資産インフレだけが発生してインフレが発生しない状況」(バブル期ふうの状況)では、まだ物価が上昇しないうちに、資産価格の上昇だけを見て、金融を引き締めることになる。これでは、何をかいわんや、である。── 「インフレ」をめざして量的緩和をしたら、「資産インフレ」が発生して、それを見てあわてて量的緩和を停止する。こんなことを何度やっても、バブルの膨張と破裂を繰り返すだけだ。景気は少しも回復しない。生産は少しも回復しない。物価は少しも上昇しない。単に資産インフレと資産デフレを繰り返すだけだ。そして、その無駄な繰り返しの結果は、不良債権をどんどん増やすことだけだ。愚の骨頂と言えよう。
( ※ バブル期のインフレ目標については → 5月20日(4)

 [ 余談 ]
 「減税、減税」とばかり、何度も主張してきた。そのせいで、私のことを、ブッシュ流の「単純な減税論者」「小さな政府の信奉者」と誤解されかねない。それではまずいので、言い添えておこう。
 私は別に、「減税」だけを主張しているわけではない。「不況期には、減税」と主張しているだけだ。逆に、「好況期には、増税」と主張する。
 古典派は、「好況のときには、金利引き上げて、投資を抑制せよ」と主張する。しかし、私は逆だ。ポリシーミックスを主張する。「好況のときには、(やたらと上がった)金利を、むしろ引き下げ気味にした方がいい。総需要の縮小には、加熱した消費を減らすべきだ。そのために増税するべきだ」と。
 「物価上昇には高金利を」という政策が、供給の減少を招いて、ひどいスタグフレーションを起こした、……という失敗例は、IMFが世界中で、あちこちでやっている。そしてまた、その亜流が、逆の形で、日本で現れているわけだ。「物価下落には低金利を」という政策だ。(まったく、「金融万能」論者という奴は、手に負えない単細胞だ。)

 [ オマケ ]
 欧州の失敗例を、本項では示した。では、欧州は、正しくはどうするべきか? 
 この件については、先日、言及した。( → 9月24日
( ※ 簡単に言えば、「通貨統合をやめてタンク法を実施すること」および「ポリシー・ミックスを実施すること」だ。「失業と物価上昇」という二律背反を解決するには、ポリシー・ミックスをやるしかない。


● ニュースと感想  (11月22日)

 「インフレ目標」の話の続き。「投資と消費の比率」について。
 「インフレ目標」については、実は、根本的におかしなところがある。それは、「あくまで金融面だけにとらわれている」というところだ。では、それがなぜ、おかしいのか? そのことは、「投資と消費の比率」を考えてみれば、わかる。

 そもそも、「インフレ目標」のめざす「(実質)金利の低下」とは、何をめざすか? 「投資の拡大」である。それは、「投資という需要」の拡大であると同時に、「供給能力の拡大」である。しかし、「供給能力の拡大」は、不況のときには必要ないのだ。「稼働率の向上」こそが必要なのだ。(稼働率が下がっているときに、供給能力を拡大しても、無駄になるだけだ。償却ができず、赤字が拡大するだけだ。)
 このことは、11月16日にも示したように、「加速度原理」という用語で説明できる。景気が拡大するときには、投資はその何倍にも増加傾向が出るものだし、景気が縮小するときには、投資はその何倍にも減少傾向が出るものだ。 ( → 5月12日c の 「増幅作用」。 なお、6月10日 も参照。)
 つまり、「不況のときに投資を拡大させよう」という狙いそのものが、根本的に間違っているのだ。不況のときにめざすべきことは、「投資の拡大」ではなくて、「消費の拡大」である。(換言すれば、「供給能力の拡大」ではなくて、「稼働率の向上」である。)
 そして、そのためには、「金利の低下」は、まったく無意味なのだ。なぜなら、もともと投資意欲がないからだ。そして、そのことを、「金利ゼロ」という状況は示すのだ。
 というわけで、「投資意欲がないのならば、投資意欲を増やす(消費を増やす)」というのが正しい政策である。「投資意欲がないのならば、投資を有利にすることで投資意欲を掻き立てる」というのは、金利がゼロ以上であるならば有効だが、金利がゼロになれば無効である。(「流動性の罠」だ。)

 クルーグマン流の考え方では、ここで奇手を出す。「均衡点の金利がマイナスならば、物価上昇率を上げることで、実質金利をマイナスにしてしまえ」と。
 なるほど、そうすれば、均衡は達するだろう。しかし、「マイナスの実質金利」というのは、「投資に補助金を与える」というのと、同じことだ。それはつまり、「補助金をプレゼントして、無駄な投資に強引にやらせる」ということだ。
 実は、これこそ、ケインズ流の(穴を掘って埋めるというような)無駄な公共事業と、同じ発想に立つ。「マクロ的にバランスが取れればいいのだ。そうやって均衡を回復すればいいのだ。そのためには、どんなに無駄を発生させても構わない」というわけだ。
 結局、次のようにまとめることができる。  そういうことだ。どちらにしても、巨額の無駄遣いが発生する。彼らは、単に「マクロ的に均衡を達すればいい」ということばかりを考えていて、それにともなう無駄の発生を忘れているのだ。ケインズ派に従えば、巨大な橋などの無駄な建築物がたくさんできる。クルーグマンに従えば、遊休設備という無駄な機械がたくさんできる。それだけの違いだ。── そして、そのツケ払いは、国民に回される。
( ※ この意味では、「無駄な事業はなくす」という小泉の方が、よほどまともである。)
( ※ なお、「設備投資は無駄にならないぞ」という反論もあるかもしれない。しかし、である。無駄にならないのであれば、そういう投資は、とっくに実現しているはずだから、いちいちマイナスの金利などを実施する必要はない。実際には、遊休して、無駄になる。どんなに優秀な設備も、使わなければ、宝の持ち腐れだ。そのことに気づかない机上の理論の信奉者が、「設備投資の拡大」を主張する。……一般的には、古典派は、みんなそうだ。サプライサイドにせよ、マネタリストにせよ、やたらと「設備投資の拡大」を唱える。彼らは、「設備の遊休」という現象自体を、理解できないのだ。)

 結局、「インフレ目標」による「マイナスの金利」というのは、不自然すぎる。それは、単に「奇手」というだけではなくて、「物事の本質から逸れた歪んだ経済政策」なのである。まともな発想ではない。得るものだけを見て、失うものを見ていない。「代償」とか「コスト」とかいう概念が欠けている。(……「風邪を治すためには、足の指を凍傷で失ってもいい」という狂人の発想に似ている。また、「人殺しをしてでも、金儲けをしよう。他人が損しても、自分が得すればいい」という犯罪者の発想に似ている。後者は、まるきりの比喩でもない。「企業に無駄な投資をさせよ、そのための費用は国民の金を盗め」というわけなのだから。)
 とにかく、こういうふうに「目的のためには手段を選ばず」というのは、常軌を逸している。こんな政策を取るべきではない。

 では、どうすればいいか? まずは、本質を見るべきだ。
 不況の本質は、何か? それは、「消費」が縮小して、「稼働率」が低下していることだ。だから、ここを元のように戻せばよい。つまり、「消費」を拡大して、「稼働率」を向上させればよい。それが正解だ。
 ひるがえって、「消費が減ったなら、投資を増やせばいい」というクルーグマン流のあり方は、非本質的であり、物事の核心を逸らしているのだ。

 まとめ。
 物事は本質的に見るべきだ。「金利低下」は、「投資拡大」を意味するが、それはデフレ解決の本来のあり方に比べると、むしろ、逆の方向に進んでいる。
 投資の拡大は、「補助金をつける」という形で無理矢理やらせるべきではなく、「需要が増えたから投資をしたくなる」という形で自然にやらせるべきだ。(たとえば、満腹な馬には、欲しくもないニンジンを強引に突っ込むべきではなくて、腹を空かせて自然に欲しがるようにするべきだ。)
 というわけで、総需要の拡大には、無理な「投資の拡大」よりも、自然な「消費の拡大」をめざすべきなのである。そして、それとは逆のことをめざす「インフレ目標」という政策は、現況においては、最適な方法ではない。

 [ 余談 ]
 「インフレ目標」は、このように問題点があるが、世間の経済学者には、結構人気がある。なぜか? それは、彼らが、基本的には「マネタリスト」に属するからである。「経済はすべて金融でカタが付くし、金融だけでカタをつけるのが正しい」と信じ込んでいる。
 日銀やIMFもそうだし、これらを批判するクルーグマンなどの新興勢力もそうだ。たがいに批判しあっているが、しょせんは、「金融主義」というコップのなかの嵐にすぎない。彼らは経済に「財政面」とか「増減税」とかいうものがあるのを、すっかり忘れているのだ。
 井の中の蛙、大海を知らず。コップのなかにいる限り、外の世界を知ることはできないし、「自分たちはコップという狭い領域のなかだけで考えているのだ」という自らの限界を知ることもできない。

 [ 補足 1 ]
 本項で述べたことは、クルーグマンの説を全否定するものではない。
 クルーグマンの主張がほぼ完璧に正しくなる状況もある。それは、「弱いデフレ」になった場合だ。……この場合には、「減税」というような時間のかかる手間をかけたりせずに、中央銀行が機動的に対応することで、将来の量的緩和を公約し、現在の「弱いデフレ」から速やかに脱出するべきだろう。そうすれば、「デフレスパイラル」が拡大しなくて済むので、コストも少なくて済む。
 とはいえ、「弱いデフレ」ではなくて、「深いデフレ」(今の日本のような状況)になったら、そうは行かない。

 [ 補足 2 ]
 本項で述べたことは、「インフレ目標」政策を全否定するものではない。
 「不況脱出のためのマイナスの実質金利」というのは、好ましくない。(弱いデフレの場合は除く。この件、上述。)
 しかし、不況ではないとき、つまり、物価上昇率がすでにプラスであるときには、「マイナスの金利にならない範囲で」という条件のもとで、「インフレ目標」という「物価上昇率の安定化」は、好ましいと言える。
 こう言うと、「話が矛盾しているのではないか?」と思われそうなので、解説しておこう。
 不況脱出後、物価上昇率が2%程度になったとしよう。クルーグマン流に言えば、「マイナスの実質金利を実現せよ! 名目金利を0%に保て!」ということになるだろう。私の考えでは、そうはならない。実質金利は、常にゼロ以上にするべきだ。ごくわずかならば、「マイナスの実質金利」も容認できるが、「大幅なマイナスの実質金利」というのは容認できない。それは経済の状況をいびつにする。(無駄な投資を続発させ、経済体質を悪化させる。)
 これは、「劣者の退場」とは逆に、「劣者をあふれさせる」という政策だ。こんなことをするくらいだったら、まだしも、「法人税の減税」の方がずっとマシである。(これは「優者だけを優遇する」ことに相当する。)
 いずれにせよ、最適なのは、供給側を優遇することではなくて、需要側を優遇することだ。それが「不況」のときの基本的な対策だ。

 [ 付記 ]
 金利について言えば、こうだ。不況のときは、やたらと金利を下げて、ゼロ金利にするよりは、むしろ、ゼロよりも少し上の金利をめざした方がよさそうだ。そうやって「ゼロでない金利」をつけることで、「マネーの滞留」という不自然な状況を脱出させることができる。そのことで、金融システム(金の流れ)を正常化させることができる。
 「ゼロ金利」というのは、こういう金の正常な流れを阻害する。それはイスラム社会と同様だ。実にいびつな状況である。 ( → 11月18日b
( ※ 「日銀が以前、ゼロ金利を解除したとき、景気の回復が腰折れした」という説もある。しかし、これは承服しがたい。「ごくわずかの金利引き上げが、大きな景気変動を生んだ」という因果関係は認めにくい。これは単なる偶然の一致である可能性が高い。……なお、この時期、マネーサプライは大幅に減少したが、それは、当たり前のことだ。ゼロ金利の解除は、マネーの滞留をなくすから、マネーサプライが減少するのは当然である。なお、「マネーサプライが減少すると、景気が悪化する」というのは、全然正しくない。均衡状態では、「マネーサプライが減少すると、金利の上昇が起こるから、景気が悪化する」と言えるが、ゼロ金利のときは、「マネーサプライが減少しても、金利の上昇はほとんど起こらないで、単にマネーの滞留が減るだけだから、景気が悪化することはほとんどない」と言える。)


● ニュースと感想  (11月22日b)

 「設備廃棄が進んでいる」という新聞記事。
 電器・素材などの、設備余剰な産業では、設備を次々と廃棄しているという。無駄な過剰設備を廃棄して、固定費を削減し、稼働率を高めて効率アップを図るため。こうして収益率の向上を狙う。(朝日・朝刊・経済面 2002-11-21 )
 まっとうな経営方針だ。「稼働率の低いときには、過剰設備を廃棄する」というのが、当然である。
 さて。「金利をマイナスにして、設備投資を促進しよう」というのが「インフレ目標」の方針である。すると、企業は、「設備を廃棄して、同時に、設備投資をする」ということを迫られることになる。
 「穴を掘って埋める」のと同じだ。無駄の典型。

 [ 付記 ]
 あまりにも馬鹿らしいのだが、この馬鹿らしさがわからないのが、「インフレ目標」賛成論者だ。そこで、説明しておく。(前にも何度か述べたので、繰り返しになるが。)
 設備投資には、「加速度原理」(増幅効果)が働く。設備投資は、たとえば、償却期間が7年なら、毎年、7分の1ずつ更新すればよい。設備総額が 700億円なら、毎年、100億円だ。さて、ここで、需要が少し増えると、その需要増加をまかなうために、設備投資を、たとえば 50億円追加する。すると、設備の投資額は、100億円から 150億円へと、急増する。
 こういうふうに、景気のわずかな変動にたいして、設備投資額は過大な変動を起こす。それが「加速度原理」(増幅効果)だ。
 だから、設備投資を促進するには、金利などをいじるよりは、総需要を少し拡大する方がよほど効果的であるわけだ。また、逆に言えば、総需要が縮小している状況では、もともと設備が余剰なのだから、いくら金利をマイナスにしても、効果はほとんどないわけだ。
( → 5月12日c6月10日


● ニュースと感想  (11月23日)

 「インフレ目標」と「量的緩和」について。
 「インフレ目標」と「量的緩和」とをごっちゃにしている人が多いようだ。この両者の違いについては、とっくの昔に、解説しておいた。( → 「インフレ目標」簡単解説
 ただ、あらためて、核心を解説しておこう。

 クルーグマンの説は、二つの骨子からなる。
  ・ 短期の金融緩和は、無効・不可能である。(流動性の罠)
  ・ 長期の金融緩和は、有効・可能である。(インフレ目標)
 この二つをまとめて、こう主張する。
「現在は、ゼロ金利となっており、金融緩和は無効となっている。しかし、金融政策がまったく無効になったわけではない。短期の金融政策は無効になっても、長期の金融政策は有効だ。だから、長期の金融緩和を公約することで、将来の物価上昇を、現在に波及させよう」

 ここでは、「現在の金融緩和は無効だ」(だから将来の金融緩和をする)という論理になっている。この点に注目するべきだ。
 「今すぐに量的緩和をすることが大切だ」と主張している人々は、クルーグマンの説を正しく理解していないことになる。あろうことか、「クルーグマンは現在の量的緩和が無効だなんて言っていないぞ」なんて主張したりする。
 こういう勘違いをしている人々は、クルーグマン自身の言葉を、読み直した方がよい。
 ( → 「インフレ目標」簡単解説 の最後の、 《 参考 》 の箇所にある、引用文。)


● ニュースと感想  (11月23日b)

 インフレ目標については、ここ数日分より前にも、あちこちでいろいろと言及した。ざっと示すと:
 それぞれの箇所(および続く箇所)を、参照するといいだろう。
 (もちろん、昨日までの、数日分も。)


● ニュースと感想  (11月24日)

 「インフレ目標」と「マクロ経済」について。
 前項までに、「インフレ目標」について、いろいろと批判的に述べてきた。そこでは個別に、政策の有効性を問題としてきた。

 もう一つ、本質的に考えよう。
 「インフレ目標」には、実は、重大な欠点があるのである。それは、あくまで「需給」の問題だけを考察していて、「所得」の問題を考察していない、ということだ。
 すでに何度か述べてきたように、マクロ経済においては、「所得」の問題が非常に重要である。( → 11月06日 など)
 しかるに、「インフレ目標」を考えているときは、原則として金融市場について考えているだけだ。「IS-LM」などのグラフを使うこともあるが、これもしょせんは金融市場における需給を示したグラフの変形にすぎない。そういう考え方においては、「所得」というものが考慮されていないのだ。当然、「消費」というものも考慮されていない。
 ということは、つまりは、「インフレ目標」という考え方は、マクロ経済を考察するには、あまりにも視野が狭すぎるのである。それは物事の半分ぐらいしか見ていない。
 具体的に例を示そう。「インフレ目標をやれば景気が回復する」という説がある。仮に、それが正しいとしよう。では、ここで、莫大な増税(消費税や所得税の増税)をしたら、どうなるか? もちろん、実質所得が大幅に減少するから、需要は大幅に減少して、景気は大幅に悪化する。……しかし、こういう「所得減少による需要減少の効果」というのは、「IS-LM」などのグラフを使う考え方では、説明ができないのだ。そこには「所得」という概念が欠けているからだ。

 上の例では、「増税」ということが問題となった。それに対しては、「増税をしなければいいだろう」と思うかもしれない。しかし、それは勘違いだ。「増税をする」ということを取り込めないようなモデルで考えている限り、そこには致命的な思考欠陥がある。
 それがはっきりと例となるのが、11月21日 のことだ。そこでは、インフレになったときに、「名目賃金が据え置かれて、実質賃金は物価上昇率の分だけ下がってしまう」という例を示した。
 そうだ。こういう場合には、「インフレ目標」は、うまく働かない。なぜなら、「実質所得の低下」が発生するからだ。「インフレ目標が有効である」という主張には、「実質所得が低下しなければ」ということが暗黙裏に前提されている。そして、その暗黙裏の前提は、成立する保証がまったくないのだ。
( ※ 理由は、11月21日 で示した通り。つまり、インフレになっているときであれば、物価上昇率の分だけ名目賃金は上がるはずだが、デフレの直後では、企業はいまだに収益体質が弱いから、名目賃金が上がる見込みは立たない。)

 「インフレ目標」を唱える人々は、「実質所得が低下しない」と信じ込んでいる。というより、実質であれ名目であれ、「所得」についてはもともと考察外であるから、「所得は変化しないと仮定すれば」というふうに、勝手に前提している。
 しかし、論理学は、次のことを明示する。「前提が間違っている命題は、もともと無意味である」と。

 結語。
 「インフレ目標で景気は回復する」という説では、「所得」のことが考察されていない。そこでは「インフレにつれて同じだけ名目所得が上昇する」ということを、勝手に仮定している。しかし、その仮定が成立する保証は、何もない。それどころか、不況脱出の直後には、名目所得の据え置きがなされて、実質所得が減少する見込みが高い。
 こういうふうに「所得」を考慮していない主張は、間違いを前提とした上に立つわけで、導き出される結論はすべて砂上の楼閣にすぎない。「インフレ目標」という政策は、しょせんは、マクロ経済学と呼ぶには値しないのである。

( ※ インフレ目標については、「完全に間違いだから捨ててしまえ」とは言わない。だが、少なくとも、「所得」について考慮に入れるべきだ。そして、「所得」について考慮するのであれば、「所得の増加」をもたらすために、「減税」ないし「最初の一撃」が必要だ、という結論になるはずだ。)
( ※ 逆に言えば、「減税」ないし「最初の一撃」が必要でない状況もある。それは、企業が自主的に名目賃金を上昇させる場合だ。つまり、政府が減税で金をばらまくかわりに、企業が自主的に大幅な賃上げを実施する場合だ。……しかし、そんなことは、夢物語にすぎない。そして、この夢物語が実現しない限りは、「インフレ目標」は有効にならないのだ。)
( ※ 日経連も、「来年の春闘は賃上げゼロにする」と主張している。[朝日・朝刊・政治面・ベタ記事。 2002-11-23 ] デフレ下では労組の力は弱いから、実際、賃上げゼロになるはずだ。最近、企業収益は好転しているが、それが労働者に還元されることはあるまい。)

 [ 余談 ]
 ここまで述べたことは、経済理論なんか使わないで、自分自身の実感からも、わかるはずだ。
 来年度から、物価が上昇するとする。しかし、企業は赤字なので、賃金は上がらない。実質賃金は下がる。……そういう状況で、あなた、今のうちに消費を増やしますか? 「来年になって買うより、今のうちに買う方が得だ」と思って、来年の分の食費や電気代を、今のうちに払いますか? まさか。「今年は2倍食べて、来年は食べない」とか、「今年はパソコンを2倍使って、来年はパソコンを使わない」なんてことは、できない。そういうふうに、「消費の先取り」は、できない。
 「消費の先取り」が可能なのは、自動車などの耐久消費財だけだ。そんなものに支出する割合は、普通の家計では、1割ぐらいにすぎまい。他の大部分は、「消費の先取り」は不可能なものなのだ。となれば、来年になってそういうものの消費をするためには、今のうちにせっせと節約するしかない。
 結局、名目所得が上昇しないと見込まれる状況では、「消費の先取り」はありえないのだ。
 換言すれば、こうだ。物価上昇というものは、「アメとムチ」の効果があるならば消費促進の効果があるが、名目所得向上なしの「ムチ」だけでは、痛みがあるばかりだから、消費は減るだけだ。


● ニュースと感想  (11月24日b)

 ここまで「インフレ目標」の批判などを述べてきた。そして私が対案ふうに主張したのは、次のことだ。
 「景気対策には、金融政策だけでは不足だ。増減税も必要だ」
 ( cf.  増減税については → 2月22日2月23日 「タンク法」)

 ところが、これに対しては、反論がある。
 「金融政策は、日銀が簡単にできるが、増減税は立法が必要で、大変だ。機動的な運用ができない」
 なるほど、その反論はもっともだ。
 しかし、注意しよう。これは、学問的な問題点ではなくて、あくまで、制度上の問題だ。「今の制度では、そういうことはできません」と言っているだけだ。だったら、制度の方を変えればいい。それだけのことだ。

 そこで、提案しよう。
 「経済政策を運用するために、金融政策をになう日銀のほか、タンク法の増減税をになう新機関を設立すべきだ」
 と。そして、こういう新機関ができれば、増減税は金融政策と一体的に運用されて、最適なポリシーミックスを運用できる。これこそ、究極の経済運営だ。

 ただ、ここでは、注意が必要だ。それは、次のことだ。
 「この新機関が扱うのは、タンク法の増減税に限る。つまり、国民にとって損得のない増減税に限る。特に、国民にとって損をもたらすような増税(たとえば戦費や一般経費や公共事業費などを使途とする増税)は、禁止する」
 そして、このことの前提となるのは、「タンク法による増減税は、国民にとって損得はない(景気を冷やしたり熱したりする効果だけがある)」と理解することだ。
 逆に言えば、国民がこのことを理解したとき、新機関が設立される。そうなれば、もはや景気の変動という現象は起こらなくなる。そういう現象が起こりかけても、すぐにつぶすことができる。失業・倒産の発生する不況は、すっかり消える。人類は経済の悪夢から開放される。
 それは、今すぐにでも可能なのだ。真実を知る気概さえあれば。


● ニュースと感想  (11月25日)

 「インフレ目標」の批判で、一つ、言い落としたことがあるので、付け足しておく。それは、次のことだ。
 「マイナスの金利を実施すれば、企業は得をするので、設備投資をする」と言われる。なるほど、「マイナスの金利」というのは、「企業の得」であるが、しかし同時に、「個人の損」でもある。つまり、企業が得を予測すれば、それと同額だけ、個人は損を予測することになる。
 「インフレ目標で、将来の得が予測されるから、今すぐ企業は投資を増やすはずだ」というのが、論者の主張だ。たしかに、そうかもしれない。しかし、同時に、個人は「金利低下」(預金の損失)を予測するから、「将来の損失を予測して、現在の消費を減らすはずだ」ということにもなりそうだ。
 このように、物事の波面だけでなく両面を見るべきだろう。「右手で得した」とだけ喜ぶべきではなく、「右手で得して、左手で損した」とはっきり理解するべきだろう。
( → 5月15日b9月20日 でも述べた。)

 [ 付記 ]
 ここで、注意。
 「現時点での金利引き下げ」ならば、景気刺激効果はある。それは「投資が得」ということだけでなく、「貯蓄の得が減る」ということを通じて、「消費を増やす」という効果もある。
 「将来時点での金利引き下げ」ならば、そうは言えない。「将来の貯蓄の得が減る」ということを通じて、「将来の消費を増やす」ということはあるが、「現在の消費を増やす」ということにはならないのだ。なぜなら、ゼロ金利のときは、もはや金利が下がらないから、「金利引き下げで貯蓄が損」ということはないし、そのことを通じた「貯蓄縮小」つまり「消費拡大」の効果はないからだ。
 「金利引き下げが貯蓄冷遇で消費を増やす」というのは、あくまで、現時点での話であって、将来の時点の金利引き下げ(資産減少)は、むしろ消費欲を冷やすことになる。……なお、これは、「所得の効果」である。(古典派はこのことを考えないが。)

 [ 補足 ]
 もう一つ、言い落としたことがある。
 「インフレ目標」には、(減税に比べて)「効果が遅い」という問題もあるのだ。減税ならば、即効的な効果があるが、インフレ目標だと、「投資拡大」→「所得拡大」というという経路を経るため、一週遅れになり、時間がかかる。……この問題は、インフレ目標だけでなく、公共事業にも当てはまるが。
( → 5月14日


● ニュースと感想  (11月25日b)

 「法人税減税」について批判しておく。
 「法人税の減税」は、今回の政府案( → 次項 )には含まれなかった。このことをまず断っておく。ただ、法人税減税をするべきだという意見が、産業界に強い。そこで批判しておく。

 そもそも、何のために「法人税の減税」をするのか? 「景気対策」として、企業向けの「投資拡大」を狙うのか? もしそうであるならば、法人税の減税なんかよりも、金利の引き下げを実施するべきだ。当たり前だ。金利の引き下げこそは、「投資をした企業ほど得をする」という「投資促進」効果がある。これが正統的な経済政策である。
 そもそも、企業の経営方針としては、「規模拡大」と、「収益体質の向上」とがある。そして、この二つに対応する促進策も、二つある。
 この違いを理解しよう。そして、一般的には、「規模拡大」と「収益体質の向上」は、相反する。「利益よりも規模拡大」をめざす企業もあるし、「規模拡大よりも利益」をめざす企業もある。(両方できればいいが、世の中、そう甘くはない。)
 さて。このどちらをめざすかは、景気の状況も依存する。普通は、こうだ。
 ところが、である。このことは、好況のときはそれでいいとしても、不況のときはそれでは困る。企業としては、そうしたがるのだが、マクロ経済的には、むしろ、逆であってほしいのである。つまり、「利益率向上」よりも、「規模拡大」をめざしてほしいのである。
 たとえば、不況のとき、「金を借りて、投資を増やし、労働者を雇う」というふうに。しかるに、現実には、逆にする。つまり、不況のとき、「金を借りず、投資をしないで、労働者を解雇する」というふうにする。
 企業が自らの利益を狙って行動する結果、マクロ的には状況がますます悪化するので、企業はかえって自らの利益を減らすことになる。── これは「合成の誤謬」だ。そういうことが、「不況」のときには成立する。

 では、どうするべきか? 不況のとき、企業は「収益体質の向上」をめざすが、むしろ逆に、「規模の拡大」をめざした方がいいのだ。それは企業自体には損に見えるが、すべての企業がそうすれば、状況はかえって改善する。「損して得取れ」となる。

 だから、国の政策としては、不況のときは、「収益体質の向上」をした企業よりも、「規模の拡大」をした企業を、優遇するべきだ。それが基本方針だ。
 しかるに、「法人税減税」は、その基本方針に逆行する。そんなことをしても、景気対策にはならないし、むしろ、逆効果があるのだ。「法人税減税」をやれば、企業はますます、「収益性の向上」をめざすようになるから、「有利子負債を返済し、投資を縮小し、従業員を解雇する」というふうになる。それが「リストラ」だ。そして、そういうことをやればやるほど、景気は悪化していく。
 結局、「法人税減税」は、「景気回復策」というよりは、「景気悪化策」なのである。

 [ 付記 1]
 もちろん、「法人税減税」にも、景気回復効果がないわけではない。「何もしないこと」と比べるのであれば、財政赤字を拡大することによって、その分の需要増加効果はいくらかあるだろう。
 しかし、財政支出の額を先に決めるのであれば、その枠内では、「法人税減税」をやればやるほど、他の有益な施策が食われるから、景気悪化効果が出る。もちろん、普通の国民向けの減税の方が、「消費増大」の効果があって、ずっと好ましい。
 このことは、これまでも何度か繰り返して述べてきた通り。

 [ 付記 2 ]
 企業向けに減税するにしても、「法人税減税」よりは、「投資減税」の方が直接的な効果はある。「マイナスの金利」に相当するからだ。これは、「インフレ目標」と同じ狙いである。
 ただし、「投資減税」が好ましいかと言えば、「ノー」である。それは、「補助金をもらわなければやっていけないような劣悪な事業を、あえてやらせる」と言うことで、国全体の経済体質を劣化させるからだ。……その意味では、「優勝劣敗」の「法人税減税」の方が、筋は通っている。(前にも述べたことがある。)
 では、結局、どうなのか? 「法人税減税」と「投資減税」の、どちらが好ましいか? もちろん、「どちらもダメ」というのが正しい。
 そもそもの話、「供給過剰」で「消費不足」でデフレが発生しているのに、「企業に(現在の)減税して、個人には(将来の)増税」というのでは、話が正反対である。多年度中立であろうと、先行減税だろうと、とにかく、「企業に減税、個人に増税」では、景気はますます悪化するだけだ。そのことを理解するべきだ。
 企業は、「企業向けの減税があれば、それで自分たちが得する」と思っているようだが、景気が悪化すれば、どんなに国から金をもらおうと、肝心の製品を買ってくれる人がいないのだから、かえって自分が損することになる。「目先の得にこだわると、かえって大損する」ということだ。
 こういう愚かな企業経営者たちには、「舌切り雀」の昔話でも読んで聞かせた方がいい。全国にいる幼稚園児たちよ。愚かな企業とマスコミのために、絵本を読んで、経済学を教えてあげよう。


● ニュースと感想  (11月25日c)

 時事的な話。政府が「多年度中立」とか「先行減税」とかの案を提出した。(朝刊・各紙 2002-11-20 以降、ほぼ連日。)
 これについては、私は前にも批判した。ざっと再掲しておくと、次の通り。
  1.  増税の時期を「5年後」などと明示するべきではない。増税の時期は「景気回復後」とするべきだ。
  2.  減税の額が不足する。1兆円程度では全然不足だ。「最初の一撃」には、十分な額が必要だ。その額は、経済学的に算定できる。減税ならば 12兆円。公共事業ならば 25兆円。この程度が絶対に必要だ。 ( → 9月04日
  3.  増減税は、対象を同じにするべきだ。つまり、どちらも国民を対象とするべきだ。「企業や資産家に減税して、一般国民に増税する」というのでは、消費を抑制するので、逆効果になる。
  4.  企業向けには、減税よりも、金利の引き下げが有効である。また、それが正当な経済政策だ。
 このうち、最後の d. については、説明を追加しておいた方がいいと思える。それが、前項の、「法人税減税」への批判である。(前項を参照。)


● ニュースと感想  (11月26日)

 「景気の見込み」について。(朝刊・経済面・ 2002-11-23 )
 2003年度の成長率について、たくさんある民間研究機関の予測が出そろった。政府は「2003年度は景気回復」なんて、オオカミ少年みたいなことを言っているが、民間の予測は異なる。
 ざっと見ると、成長率は、名目でマイナス1%程度、実質でプラス 0.3% 程度、という予測となっているようだ。なお、2002年度は、それより 0.5%ほど良くなる見込み。
( ※ 誤差は最低でも、プラスマイナス 0.5% ぐらいは見込んでおくといいだろう。)
( ※ 上の予測は、つまりは、「来年度は今年度よりも、もっとひどい景気になる」ということ。)

 さて。数値の読み方を説明しておこう。
 「実質成長率はプラスになるのか。じゃ、本年度は、デフレは脱出しているのだな」
 と思うかもしれない。しかし、とんでもない。現状は、たとえプラス1%ぐらいの実質成長率があっても、マイナス 0.5% ぐらいの名目成長率だし、実感からして、ひどいデフレである。
 そこで、説明しておこう。

 インフレのときであれば、物価上昇率を差し引いて、名目成長率から実質成長率を産出することに、意味がある。それは貨幣価値の低下を調整する。
 デフレのときであれば、そうではない。ここが肝心だ。デフレのときには、名目成長率の方が大事なのだ。なぜか? 「名目成長率がマイナスなのに、実質成長率がプラスだ」としたら、その差は、「マイナスの物価上昇率」が埋めていることになる。そして、「マイナスの物価上昇率」というのは、まさしくデフレのことだ。それが増えれば増えるほど、計算上の実質成長率は上昇するが、現実には状況はどんどん悪化していくばかりだ。ここでは、「マイナスの物価上昇率」というのは、「貨幣価値の上昇」を意味しているのではなくて、「収益体質の悪化」「経済体質の悪化」を意味しているにすぎない。つまり、企業や人々は、生産を増やすことができるとしても、それは、わが身を削ることによって可能になっているわけだ。

 結局、デフレのときには、「名目成長率がマイナスなのに、実質成長率がプラスだ」というのは、「実質的に成長を意味するから、好ましいこと」なのではなくて、「物価上昇率がマイナスになってデフレがひどくなるから、好ましくないこと」なのだ。
 「物価上昇率による補正」は、こういうふうに、インフレのときとデフレのときとで、意味が異なる。この違いに、注意しよう。

( ※ もう少し詳しく言うと、こうだ。「実質成長率のプラス」は、本質的には、「生産性の向上」によってなされる。企業はそのおかげで、売上げを増やす。しかし利益は上がらないから、能率が向上した分、不要人員の解雇も増やす。マクロ的には総所得と総需要の減少効果が発生する。だから、その分、企業の収益体質は悪化する。「デフレのときは、生産性が向上するほど、状況は悪化する」ということだ。前にも述べたとおり。 → 昨年9月26日10月14日

 [ 補足 ]
 景気回復の見通しについては、民間の研究所だけでなく、企業の経営者による見通しもある。それが調査された。( → 朝日・朝刊・特集 2002-11-24 )
 この調査によれば、次の結論となる。
  ・ 政府は先行きを楽観しているが、民間経営者は悲観的である。
  ・ 景気対策としては、「補正予算」「減税」を望んでいる。
  ・ 金融緩和を望む人はほとんどいない。

 なお、「減税」というのは、企業としては、「企業向けの減税」を望んでいるのだろう。しかし、これが効果がないということは、前々項で示したとおり。(「法人税増税」への批判。)

 [ 余談 ]
 「企業経営者は、金融政策なんか望んでいない」というのは、なかなか示唆的だ。
 経済学者はマネタリストが多く、やたらと「金融緩和を! 量的緩和を!」と叫ぶ。
 竹中も「銀行が悪い。経営者を退陣させて、公的資金投入!」と叫ぶ。
 マスコミも「銀行が悪い! 俺たちは苦しんでいるのに、銀行員はぬくぬくと高給をもらっている!」と魔女狩りのようなことをしている。
 まったく、どいつもこいつも、金融ばかりにとらわれている。「実際の生産活動が縮小しているのが原因だ」というのを見失って、何でもかんでも、紙幣のせいにしている。紙幣というものに、魔術的な効果があると信じているらしい。
 今のエコノミストたちは、「マネー」という妄想を信じすぎているのである。しかるに、実際の経営者たちは、「経済とは、マネーじゃない、生産活動そのものだ」と見抜いている。素人の方が玄人よりもはるかに真実を見抜いている。情けないですね。

  【 追記 】 ( 2002-11-26 )
 銀行がリストラを実施中。従業員削減のほか、賃下げや賞与カット。みずほでは、1割程度の年収減。なお、リストラ前の現状は、みずほの平均月収は 49万円。りそなの平均年収は 670万円。みずほの例では、1700億円のコスト圧縮。(朝日・朝刊・3面 2002-11-26 )

 で、その効果は? みずほの例では、1700億円のコスト圧縮だから、日本中の銀行全部でやっても、1兆円にはとても満たないだろう。これでは、スズメの涙である。なぜなら、不良債権処理には 50兆円〜130兆円が必要だともいわれているのだから。( → 11月16日 必要額)
 まったく、ほとんど無意味なことをやって、「これをやっています」なんて弁明しても、意味がない。銀行のコスト圧縮なんていう、貧乏人のヤッカミみたいなことばかりやっているから、肝心の赤字倒産発生の大量続出を放置することになる。底抜けだ。まったく、本質を見失うと、ろくなことはない。
 不良債権の原因は、銀行の不良経営ではなくて、融資先の不良経営なのだ。さらにその原因は、政府の経済政策である。そういう本質を理解しない限り、銀行にツケを追わせて、ほおかむりすることになる。目に見えるところだけを見て、経済の本質を見失っている。これを経済学音痴と称する。(今のマスコミは、みんなそうだ。)
( → 11月14日 不良債権の責任 )


● ニュースと感想  (11月26日b)

 前項の続き。
 「デフレのときは、生産性が向上するほど、状況は悪化する」
 と前項で述べたが、この主張には、疑問を感じる人も多いだろう。そこで、注釈しておく。
 「生産性の向上は、景気回復効果がない」というのが上記の主張だが、実は、反対に、「生産性の向上が、景気回復効果がある」という場合もある。それは、「生産性の向上で、労働者の所得が増えた場合」である。
 この場合は、所得が増えるから、それだけでも総需要は増える。また、賃上げの予想で、先行きを楽観するようになって、財布のヒモをゆるめるようになり、消費性向も向上するから、二重の意味で総需要は増える。

 ただ、問題は、そういう「場合」が、実現するかどうかだ。これが実現するためには、次のことが必要だ。
  ・ 「生産性の向上で得た利益を、消費者に回さず、生産者(企業 + 労働者)の側がほぼ独占すること」
  ・ 「生産性の向上で得た利益を、企業が自分では得ず、労働者にほとんどを渡すこと」
 の2点である。
 現実には、この2点は、生じそうもない。デフレのときは、生産性の向上で得た利益は、消費者と企業でほとんどを得てしまって、労働者にはあまり回らない。消費者に回る分は、国民にとって「物価下落」という形で還元されるが、それを上回る量の失業や賃下げが起こるから、国民の所得は減るばかりだ。(それがデフレだ。)
 というわけで、生産性の向上で得た利益は、あったとしても、「企業の赤字解消」もしくは「内部蓄積にして金の滞留」という形になる。どちらの場合でも、眠る金が増えるだけであって、総需要の拡大には結びつかない。(その証拠が、金利の異常な低下である。)

 結語。
 生産性の向上で得た利益を、労働者にほとんどすべて渡せば、所得の拡大により、景気は回復する。しかしデフレのときには、そうならない。所得は減るばかりだ。だから、デフレのときには、生産性の向上があればあるほど、状況は悪化する。
( ※ 好況のときには、そうではない。生産性の向上があれば、必ず、労働者に利益は渡る。だから好況のときには、生産性の向上があれば、所得の向上を通じて、景気や生産量はさらに上昇する。……好況とデフレとでは、事情は異なるわけだ。)

 [ 補足 ]
 納得が行かないかもしれないので、わかりやすく示そう。
 今まで 100円で作っていたものを、90円で作れるようになったとする。これは通常なら、好ましいことだ。しかし、90円で作れるということは、その分、労働費が下がったということでもある。10人を雇用して 100万円を払っていたのが、9人を雇用して 90万円を払うようになる。
 このとき、1人はあぶれて、失業者となる。その失業者が、他の産業で雇用されれば、全体としては効率アップする。しかし、その失業者が雇用されなければ、総所得が1割減るだけだ。となると、総需要も総生産も1割減ることになる。……これは状況を悪化させる。
( → 2001年9月26日10月14日
( ※ 本項で述べたことは、上記2箇所でも、かつて述べた。ただし本項では、「所得」に着目するべきだ、ということを強調しておいた。)

 [ 付記 ]  《 重要 》
 では、生産性を悪化させれば、景気は改善するか? イエスである。
 ただし、「だから生産性を悪化させよ」という結論にはならない。なぜか? 効果はあっても、逆効果(副作用)もあるからだ。「生産性の悪化」という方法では、景気は改善するが、状況は改善しない。
 その具体的な例は、ケインズの、「穴を掘って埋める」という方法だ。これは、次のことを意味する。
  ・ 「生産性ゼロの仕事をどんどんやる」
  ・ 「国全体の生産性を低下させて、失業を解決する」
  ・ 「失業者は減るが、労働者一人あたりの実質所得は減る」
  ・ 「遊休は減るが、無駄が増える」
  ・ 「景気は改善するが、状況は改善しない」
 だから、この方法は、「最悪」を免れることはできるが、「次悪」になる。とても「状況が改善する」とは言えないのだ。
( ※ そもそもの話、「生産性の悪化では問題は本質的には解決しない」ということは、素人でも直感的に理解できる。理解できないのは、ケインズ派の人々だけだ。)


● ニュースと感想  (11月27日)

 政治の話。北朝鮮の話題。
 北朝鮮に渡った日本人妻らは、日本からの仕送りを受けられる人と、仕送りを受けられない人とが区別され、仕送りを受けられない人は、1995年ごろ、ほとんどが餓死したそうだ。その数は全体の3割ぐらい。(読売・朝刊・社会面 2002-11-20 )
 これから想像するに、一般国民でも、やはり、大量の餓死者が出たものと思われる。また、最近は食糧事情が悪いから、餓死・凍死がこの先もどんどん発生しそうだ。

 さて。日本の北朝鮮政策には、「北朝鮮が譲歩しなければ、交渉を中断すればいい。そうすれば北朝鮮は国家崩壊するしかない」という強硬論がけっこう出ている。
 私はそれほど楽観的ではない。相手の首脳が正常であれば、「餓死者続出」に対して対策を取るだろうが、狂気であれば「餓死者続出」でも平然としていられるだろう。日本の強硬派は、「北朝鮮の首脳は、狂気ではなく、正気だ」と信じているようだが、あまりにも甘すぎると思える。だいたい、日本の首相からして、「構造改革なくして成長なし」と主張しているのだ。「失業者や自殺者が続出しても、国家の改革のためにはやむを得ない」というのが、小泉・竹中の主張である。(不良債権処理もその一例だ。)日本の首相が狂気なのに、北朝鮮の首脳が小泉よりと違って正気だ、と思い込むのは、あまりにも甘すぎる。
 ただ、もっと大事なことがある。それは、日本の国民全体が狂気だ、ということだ。だいたい、北朝鮮の首脳が狂気だからといって、北朝鮮の国民が狂気だと言うことにはならない。彼らはむしろ、圧制者の被害を受けた被害者だ。日本では首相のせいで国民が被害者となり、北朝鮮でも首脳のせいで国民が被害者となる。それだけの違いだ。
 にもかかわらず、「北朝鮮を崩壊させよ」「北朝鮮国民を餓死させよ」というのは、もはや、無実の人々を圧殺するテロリズムのようなものだ。いや、テロリズムそのものだ。
 そういうことだ。北朝鮮の政府を批判するのはいい。しかし、北朝鮮の国民を餓死させようとするのは、もはや大量虐殺行為であり、テロリズムなのである。そして、今は、マスコミも国民も、こういうテロリズムで染まっている。日本はテロ国家なのだ。
 イラクのフセインは今、査察を妨害するだけで、他国民を殺そうとはしていない。この点、フセインは、日本人に比べれば、ほとんど天使のごとく慈愛に満ちているとさえ言える。


● ニュースと感想  (11月27日b)

 政治の話。イラクの話題。
 イラクが査察妨害をして、これを理由に「国連決議違反だ! イラクを爆撃してしまえ。国連の決議は不要だ」というのが米国の見解だった。
 さて。日本は北朝鮮との間で、「拉致された帰国者は、帰国後にまた北朝鮮に戻す」と約束していた。その約束を反故にして、「やっぱり帰すのや〜めた」と前言をひるがえした。
 これは約束違反なのだから、米国流の見解に従えば、「日本は悪だ! 日本を爆撃せよ!」ということになりそうだ。
 
 ついでに言えば、「イラクは国連決議違反をしている! イラクは核兵器の査察を受けない!」というのが爆撃の理由なのだが、だったら、同じ理由で、イスラエルも爆撃の対象となるはずだ。
 同様に、「アルカイダはテロリストだから、爆撃してしまえ!」というのが米国の理屈なのだから、「イスラエルはテロリストだから、爆撃してしまえ!」となってもいいはずだが、そうは言わないようだ。
 そしてまた、イラクも含めて、世界中のどの国も、「核の先制使用」を主張していないのに、米国だけが、「今までの約束は破る。わが国は核の先制使用をする」と主張しているのだ。世界で最も危険なテロ国家は、まぎれもなく、米国なのだ。米国は自国を爆撃するべきだ。

 結論。
 約束違反や核兵器やテロリズムが、「悪」とされる。しかし、本当はそれ自体が悪なのではない。それをやるのが米国の敵対国家であることが「悪」なのである。それをやるのが、米国自身または親米国家であれば、約束違反も核兵器もテロリズムも、いくらでもやり放題なのだ。
 「他人は悪だが、自分は善だ」「他人が泥棒をすれば悪だが、自分が泥棒をすれば善だ」── これが米国の基準である。そしてまた、日本も、そうなのだ。

 [ 付記 ]
 イラクや北朝鮮のことを「悪の国家」と思うのは、米国の宣伝に乗りすぎた単細胞的な思考である。本当は、「善悪」の問題ではなくて、単なる経済的な問題にすぎない。
 イラクが査察妨害をするのは、イラクが悪であるからではなくて、「経済封鎖を解いてもらいたいから」であるにすぎない。(経済封鎖をやめれば査察妨害をやめる、と前から何度も言っている。)
 北朝鮮がやたらと条約違反やら兵器開発やらをするのは、北朝鮮が悪であるからではなくて、「それらをやめるかわりに援助がほしいから」にすぎない。
 どちらも、単なる金ほしさの、いやがらせにすぎない。貧乏だから、やっているだけだ。しょせん経済の話なのに、「悪」だの「悪魔」だの、大騒ぎするのは、あまりヒステリックすぎる。カリカリしない方がいい。
 だいたい、「貧」を「悪」と呼ぶことにするのならば、貧した日本もまた「悪」と呼ばれかねない。
 いいことを教えよう。「北朝鮮やイラクは悪だ!」と騒いでいる人に、すべての問題を解決する、最善の方法を教えよう。それは、そう騒ぐ本人が、精神安定剤を飲むことだ。
( ※ ブッシュの場合は、アルツハイマー病の治療薬も飲んだ方がよさそうだ。)

 [ 補足 ]
 米国の悪口をさんざん言ったせいで、「貴様は反米だな」と思われそうだ。そこで、誤解を招かぬよう、補足しておく。
 私は、米国に反対しているのではない。弾圧に反対しているのだ。だから、「米国 + イスラエル」のパレスチナ弾圧に反対するだけでなく、中国によるチベット弾圧にも反対するし、ロシアによるチェチェン弾圧にも反対する。(当地で弾圧がなされていることを無視する日本のマスコミにも反対する。)
 チベットであれ、チェチェンであれ、弾圧されて何万人(日本に換算して何百万人)も殺されても、従属はしない。気概のある国民というものは、そういうものだ。「強い大国には従属せよ。そうすれば得だから」と主張するのは、エコノミックアニマルと呼ばれる日本だけだ。これも経済学?


● ニュースと感想  (11月27日c)

 不良債権と銀行責任について、前日分に、追記した。( → 該当箇所
 なお、今日と明日と明後日は、経済は一休みして、政治とジョーク。

 ( ※ 最近、あちこちに漢字変換のミス(誤変換・誤入力)が目立ちますので、適当に直しておいてください。私自身、気づきしだい直していますが、行き届かなくて。……)


● ニュースと感想  (11月28日)

 政治の話題。「対米協調」について。
 先日、岡崎という親米家が、日本の外交路線は「対米協調」にするべきだ、という論説を述べていた。(読売・朝刊・1面コラム。日付は11月中旬ごろ。)
 これはなかなか卓見である。
 前項 でも述べたとおり、「これが善だ、これが悪だ」というような主張をすれば、たちまち、論理破綻する。「テロ国家のやっていることは悪だ」と言ったとたん、それを米国がやっていることが判明する。
 だから、論理破綻しない方法は、ただ一つ。「米国のやっていることはすべて正しく、米国の敵国のやっていることはすべて悪である」という、対米協調(対米従属)しかない。
 簡単に言えば、「自分の頭で考えることはやめよ」「白痴になれ」「米国の犬になれ」ということだ。
 なるほど、これなら、米国の大統領に、とても好まれるだろう。何しろ相手は、大学時代から落ちこぼれた劣等生だったのだ。彼に好まれるには、彼以上に愚かになるしかない。ときどきワンと吠えて、シッポを振れば、とても喜ばれるだろう。
 ま、犬の真似でなくても、ライオンの真似でも、同じことだが。

 [ 参考 ]
 米国の対外理解度。(朝日・朝刊・天声人語 2002-11-22。調査はナショナルジオグラフィック協会による。 → 記事ページ
 米国の若者の、対外理解は、世界最低レベル。世界地図で、日本がどこにあるかを正解できるのは、42% だけ。他の国や太平洋についても、どこにあるか、ろくに知らない。(米国国民以外の調査では、こんなにひどくない。米国国民だけが、無知。)
 だから、愚かなのは大統領だけではない。米国民全体が愚かなわけだ。(日本は米国の犬だが、米国は犬以下の知能しかない。動物園ができる。)

 [ 余談 ]
 ジョーク。
 「もしもし、小泉です。ブッシュさん、北朝鮮に一発、爆弾を落としてください」
 「オーケー。場所はわかっている。すぐに爆弾を落としてやるよ。見ていたまえ」
 一時間後、爆弾は、東京に落ちた。

 [ 付記 1 ]
 「対米協調」の本質は、何か? それは、「米国の独裁を認める」ということだ。
 だから、論者の意見は、まったく論理矛盾を起こしている。「独裁国家たるイラクや北朝鮮をやっつけるために、独裁的で国連を無視する米国に従おう」と言うわけだ。「独裁を認めないために、独裁を認めよう」というわけだ。論理矛盾。
 イラクを「国連決議違反」との理由で爆撃するなら、国連の分担金をずっと払わないで地球温暖化防止条約をつぶす米国を、先に爆撃するべきだろう。だから、私は「イラクを爆撃するな」と主張するのではない。「イラクと米国の双方を爆撃せよ」と主張するのだ。(誰が? もちろん、米国自身が。爆弾ごっこが好きなのは、米国だけだ。)

 [ 付記 2 ]
 私の基本的な立場を示しておこう。「親・独裁」ではなく、「反・独裁」だ。「独裁国家を米国から守れ」と言っているのではなく、「独裁国家を支援する米国を蹴っ飛ばせ」と言っているのだ。
 米国は「独裁者を懲らしめる」と主張しているようだが、勘違いも甚だしい。これまで独裁者をずっと支援してきたのは、米国である。その背後には常に「反共」があった。古くはフランコ支援、ヒトラー支援などがあった(もう忘れたようだが)。さらには、アルゼンチンでも、パナマでも、あちこちで独裁者を支援してきた。もっと身近な例では、韓国もそうだ。戦後ずっと、軍事独裁体制を支援してきた。(「朴」体制。)
 過去だけではない。現在もだ。韓国は「日本についての言論の自由を封殺する」という半独裁体制にある。中国も共産党のもとで同様だ。これらを米国は支持している。(日本もそうだ。援助したり。)
 独裁体制を支持している(民衆を弾圧している)のは、米国や日本なのだ。だからこそ私は、正義ヅラをする米国や日本を笑うのである。悲しみながら。
 そして、もう一つ。「米国による一極支配」という独裁を受け入れようとする、その独裁支持の奴隷根性をも悲しむのだ。

 [ 付記 3 ]
 米国を批判すると、日本では「反米」と見なされやすい。私は、別に反米ではないので、誤解を避けるため、注釈しておく。
  ・ 欧州では、米国に反対しても、問題ではない。ここに注意。
  ・ 米国自体、昔の「ベトナム戦争」については反省している。
   (ベトナム戦争当時、米国を批判すると、「反米」と見なされたが。)
 米国はベトナム戦争では、無実の市民を莫大に殺した。女や子供までも無差別に殺した。さらに「枯れ葉剤」を散布し、シャム双生児などを多大に発生させた。人類史上、最大の悪魔的な行為である。もう一つ、「原爆」という悪魔的な行為をやったのも、米国である。
 だから、「米国にすべて従おう」などというのなら、「過去にやったことを、もう一回やっても構いません」とアドバイスするがいい。「ほお、そうか」と答えて、ふたたび日本に原爆を落としてくれるだろう。

 [ 教訓 ]
 格言ふうに言おう。「良き友人」というのは、忠実な犬のことではない。何でも「ワン」と言って服従すればいいのではない。相手の耳に痛いことも、気兼ねなく言えるのが、真の友人だ。
 犬になることしかできない友人は、見下されることはあっても、尊敬されることはない。
( ※ ここまで言えばわかるだろうが、私は「日本は米国と敵対しろ」と言っているわけではなくて、「良き友人となれ」と言っているわけだ。)


● ニュースと感想  (11月28日b)

 政治の話。憲法改正について。
 「憲法改正を」という考え方が出ているという。「憲法9条2項は、国の軍隊保有を禁じている。しかし、これでは自衛隊が違憲になる。だから憲法を改正せよ」というわけだ。(読売・朝刊・政治面 2002-10-16 )
 たしかに、自衛隊は軍隊である。だから論理的に言って、「自衛隊廃止か、憲法改正か」という二者択一になる。
 で、世論調査だと、「自衛隊を許容」という意見が8割ぐらいで、「廃止」という意見は非常に少ない。だから「憲法改正」という結論となるのだろう。

 しかし、である。どうするべきかとは別の問題がある。実務的な問題だ。
 憲法改正には、多大な手間がかかる。国会で3分の2以上の賛成が必要で、これが難関だ。大論議になることは間違いないし、まず不可能だろう。不況の今、こんなことで大論議をしてほしくない。「憲法改正はできました、日本経済は破綻しました」では、シャレにならない。

 そこで、私がうまい提案をしよう。それは、「自衛隊のレンタル」だ。これによって、実務的な問題だけでなく、あらゆる問題を一挙に解決できる。今は何でもかんでもレンタルが可能なのだから、自衛隊だってレンタルでいいはずだ。
 
 憲法は「軍隊の保有」を禁じている。この「軍隊」のところに着目して論議してきたのが、これまでの経緯だ。しかし私は、「保有」に着目する。国が保有せずに、何らかの民間団体が保有すればよい。それを国がレンタルで借り受ける。── つまり、実質的には国が保有しているのと同じだが、書類の上では形式上は「借りているだけ」となる。
 法律というのは、形式さえあっていれば、それでよい。今は、「自衛隊を廃止するか否か」が問題となっているのではなく、「形式的な合法性」をどうするかということだけが問題となっている。そこが本質だ。だから、形式的な問題を解決するには、形式的な対処だけをすればいいのだ。
 「自衛隊を実質的にどうするべきか」という実質的な問題は、それはそれで、また別問題となる。
( ※ 国民の大多数が「現状維持」に賛成しているのだから、私個人の考えは、重みはあるまい。)

 [ 余談 ]
 「自衛隊のレンタル」だが、これには「道義的にけしからん!」という主張もありそうだ。
 しかし、である。「自衛隊のレンタル」というのは、「恋人のレンタル」とか、「女房のレンタル」とか、そういうのに比べれば、すっとまともである。(かつてバブルのころには、「愛人クラブ」というのが流行だった。あのころは華やかだったなあ……。溜息。)
 人類最古の職業と呼ばれる職種がある。つまりは、「一夜妻」のことだが、これも「レンタル妻」と同じだ。そして、世の中の男性たちのうち、非常に多くが、この「レンタル妻」を利用した経験がある。
 だいたい、「自衛隊は必要だ! 合憲にせよ! 憲法改正だ!」と鼻息の荒い連中に限って、女性に対してはリスのごとく臆病であって、ろくに口も利けなくて、レンタル妻を利用したがるものだ。そうじゃないんですかね? 


● ニュースと感想  (11月29日)

 政治の話。自衛隊についての私見。
 自衛隊について、私個人は、どう考えるか? 前項のオマケとして、述べておこう。
 私の意見は、実は、非常に珍しい意見である。自衛隊に「賛成」でも「反対」でもない。
 普通、「賛成」は親米だし、「反対」は反米だ。そして、賛成論者も反対論者も、目的は「自国の利益」である。
 私はそうではない。私の目的は、「世界の利益」であり、「世界の平和の実現」である。そのためには、自衛隊に「賛成」でも「反対」でも、ダメなのだ。(たとえば、賛成論者は、「米国の一極支配で世界平和の実現」と主張するが、現実には、パレスチナでは、ずっと闘争が続いていて、平和は実現しない。「米国主導の圧政で被支配者を弾圧すれば、平和は実現する」という説は成立しないのだ。)

 では、どうするべきか? 実は、私が書かなくても、もっとうまく書いている人がいる。かわぐちかいじという漫画家の、「沈黙の艦隊」というマンガだ。その再収監の当たりに、詳しい論理的な説明がある。それを読んでほしい。私とほとんど同じ意見だ。
 これは、マンガなのだが、そこいらの論説に比べて、はるかに論理的な意見が示してある。(主人公が言葉で論述する。絵で示しているわけではない。)

( ※ 注釈。「マンガを読め」と言っているが、ジョークではない。真面目である。政治家なんかより、漫画家の方がずっと政治家向きなのだ。)(政治家は、顔だけは、マンガ向きだ。)


● ニュースと感想  (11月29日b)

 政治の話。「平和を実現する方法」について。
 前項まで、米国の批判をしたが、批判ばかりでは建設的でないので、提案をしておこう。「平和を実現する方法」だ。
 北朝鮮にせよ、イラクにせよ、これらの独裁国家を相手にするときは、「アメかムチか」つまり「北風か太陽か」という利害損得で政策を決めようとした。「すべては損得勘定で決まるはずだ」という考え方だ。これでは、政治ではなくて、経済だ。あほくさい。経済を政治によって考えるのはダメだし、政治を経済によって考えるのもダメだ。どうも、あらゆる政府は、ここを逆にしているので困る。

 では、どうすればいいかを、示そう。それは「現在とは反対のことをやればいい」ということだ。つまり、「現在の政策を取る自分たちはまったくの阿呆だ」と自覚することだ。なぜ阿呆か? 現実にイラクや北朝鮮で独裁体制が続いている。これこそが、米国などの政策が間違っていたことを、如実に示す。なんだかんだいっても、独裁体制を存属させてきたのだから、大失敗だ。「ソ連を崩壊させたのは大成功だった」などとうそぶく保守派もいるが、「50年もかかったのは大失敗だった」と反省するべきだろう。

 一方、それとは逆に、大成功を収めた例がある。それは、何か? 田中角栄の日中国交正常化だ。このときまで、中国は、北朝鮮やソ連とそっくりな体制だった。しかるに、田中角栄以降、日本と中国は友好関係を結んだ。中国では、トウ小平以降、「改革・開放」政策が進んで、世界経済に組み込まれた。今や中国が日米と戦争をする危険性など、誰も考えない。もし中国が日米と戦争をすれば、中国自体が経済的に崩壊してしまうからだ。
 ここに注目するべきだ。独裁国家を正常化する唯一の策は、「その国を世界経済に組み込むこと」なのである。孤立した国を、もはや孤立できないようにすることなのである。その第一歩が、「国交の正常化」だ。

 なのに、日本も米国も、このことをまったく理解しない。逆に、「国交の正常化は、北朝鮮やイラクにとって有利だから、封鎖状態にしておけ。そうすればやがては音を上げるだろう」などと、勝手な妄想をいだいている。そうやって独裁体制をいつまでも継続させている。北朝鮮に至っては、戦後 60年ぐらいたっても、いまだに独裁が続いているのに、「どうせそのうち崩壊するさ」などと 60年も言い続けている。妄想を信じる愚かさ。

 肝心なことを言おう。北朝鮮をいくら貧しくさせても、それだけでは効果がない。なぜなら、彼らは、自分たちが貧しいことをろくに知らないからだ。餓死寸前になって、ようやく貧しさに気づく。しかしそれまでは「首領様のおかげで幸福な生活が送れます」と洗脳されている。なぜか? 情報が遮断されているからだ。
 だから、「国交正常化」や「経済交流」を通じて、情報を流すことが最も有効となる。「貧しくさせること」ではなく、「貧しいと知らせること」が有効なのだ。そこを勘違いしてはならない。

 [ 付記 ]
 小泉は、「景気回復」をめざして、財政健全化やら不良債権処理やら、正反対の政策をやって、あげく、景気悪化を招いてきた。それと同様に、日本と米国の政府は、「独裁国家打倒」をめざして、「孤立化」を実施し、国際経済から孤立させ、あげく、独裁体制の継続を招いた。
 経済にせよ、政治にせよ、やるべきこととは正反対のことをやり続けている。その結果が、経済における「デフレ」と、政治における「独裁国家の継続」だ。目的とは正反対の結果を招いておきながら、少しも反省しないのだから、日本も米国も、指導者は独裁者も同然である。

 もう一つ。日本でも情報遮断や洗脳は行なわれている。特に、中国・韓国という半独裁国家の宣伝に乗って、あれこれと昔の日本を持ち出して、日本批判をしているマスコミがそうだ。「言論の自由のない半独裁国家の、反日プロパガンダが正しい」という主張だ。これがひどい洗脳である理由は、まともな反論や討論を許さず、「おれが正しい! 黙れ!」と強圧するところだ。北朝鮮では政府が洗脳と弾圧を行なっているが、日本ではマスコミが洗脳と弾圧を行なっている。それだけの違いだ。
( ※ だから私は、これまで何度も、マスコミ批判を言っているわけだ。)

 [ 補足 ]
 ついでに言えば、中国は、言論の自由はないし、国家主席を批判すれば逮捕されるし、チベットでは侵略・虐殺をするし、ひどい独裁国家である。おまけに莫大な核兵器を持っている。しかしそれでも、世界経済に組み込まれたことで、外国に対する危険性はなくなっている。だから日米とも、中国を冷遇するどころか、最恵国待遇をしている。
 独裁や核兵器が危険なのではない。孤立していることが危険なのだ。そこを見失っている政治家がやらたと怒りっぽくなる。だからこそ、世界の平和のためには、精神安定剤が有効なのである。


● ニュースと感想  (11月30日)

 「戦争の経済学」について。
 「イラクを攻撃せよ」なんていう威勢のいい言葉があちこちで出ているが、警告しておこう。「戦争は高くつく」ということだ。すなわち、現在のデフレという状況を、いっそう悪化させる。下手をすれば、世界同時恐慌となる。そのことを理解するべきだ。
 まず、「戦争で株安」という見込みが、あちこちで出ている。こういう見込みは正しい。たしかに、戦争は損失なのだ。なぜなら、何かを生産するかわりに、何かを破壊することに金を使うからだ。破壊されるのは、イラクだから、米国には関係ない。しかし、戦費は、米国や日本が払う。まさしく多大なコストがかかるのだ。戦争は景気を悪化させる。
 ただし、こう述べると、「戦争は景気回復効果がある」という説と矛盾するように思えるだろう。そこで、解説しておこう。

 最初に結論を言えば、こうだ。戦争による景気回復効果は、次のように二分される。
 (1) 第一次ないし第二次の世界大戦のような、大規模戦争
 こういう大規模な戦争ならば、莫大な戦費の支出がなされる。年率3割ぐらいのひどいインフレが発生するが、同時に、需給ギャップは解消する。人々は、自動車や電器製品を生産してそれを得るかわりに、戦車や電子兵器を生産して政府に与える。人々の生活は少しも豊かにならないが、とりあえずは、需給ギャップは解消する。失業も解消する。

 (2) 湾岸戦争のような、小規模戦争
 こういう小規模な戦争ならば、出費はたいしたことはない。たとえば、湾岸戦争のとき、日本の支出は、160億ドル。2兆円。これでは、たとえ日本自身が戦争したのだとしても、景気回復効果はほとんどない。2兆円の公共事業と同じようなものである。
 なお、さらに決定的な違いがある。湾岸戦争(今回のイラクも)では、日本は生産拡大のメリットは全くなく、デメリットだけがある、ということだ。湾岸戦争のとき、160億ドル(2兆円)の対米贈与は、増税でまかなった。2兆円の増税だ。そして、その莫大な金は、日本国内で公共事業などの建設などのために使ったのではなく、米国が好き勝手に使った。日本にとっては純然たる損失である。
 日本国民は、2兆円の増税を受けたが、所得の増加はなかった。単に2兆円の所得を奪われただけだった。(1) の場合には、「政府と国民」の損得だったから、日本全体を見れば、国全体で損得は中和された。(2) の場合には、「日本と米国」の損得だから、日本全体を見ても、純然たる2兆円の損失である。(逆に言えば、米国にとっては、2兆円の得だ。しかし、得した分は、戦費となって、空中に消えてしまって、何も残らない。)

 結語。
 大規模な戦争であれ、小規模な戦争であれ、その分の無駄な支出がなされる。その金は空中に消えてしまう。ただし、戦費を国内で支出するのであれば、無駄を代償として、「不均衡から均衡へ」と、状況を移転させることができる。これは、「穴を掘って埋める」というケインズ政策そのものだ。莫大な無駄を代償として、不況を脱出できる。
 小規模な戦争であれば、そういう不況脱出効果(不均衡から均衡へ)は、ない。規模他小さすぎるからだ。あとには「穴を掘って埋めた」のと同じく、無駄が残るだけだ。単に無駄が残るだけだ。
 さらに、戦費を自国でなく他国で支出する場合は、最悪だ。それは、生産拡大効果がなく、単に所得を奪われるだけにすぎない。ひどいデフレ発生効果がある。

 [ 付記 ]
 湾岸戦争は 1991年1月から発生した。これ以後、日本はデフレに突入した。多くの人々は、「日本の景気悪化は日銀のせいだ」とだけ主張する。違う。戦争のせいでもあるのだ。戦争は非常に高くつく。日本はそれ以後、12年に渡って不況が継続し、せい踏み込みでは 15年も続きそうだ、という。その間、不良債権処理や失業などを通じて、失った生産額(つまり富)は、莫大な金になる。100兆円を大きく超えるだろう。
 戦争は非常に高くつく。にもかかわらず、「イラクを攻撃せよ」と主張する愚か者がいる。はっきり言おう。「イラクを攻撃する」ことで、破壊するのは、イラクではなくて、日本経済や世界経済なのだ。自殺行為である。
 私の意見を「反米的だな」と思う人もいるだろう。しかし、そういう「親米派」の意見に従って、湾岸戦争を起こしたら、結局は、今のようなひどいデフレが続いたのだ。
 そういう私の説を「こじつけだ」と思うのであれば、これから毎年、2兆円ずつ増税して、その金を米国に贈るがいい。そして米国はその金を、有意義なことには使わず、イラクの石油施設でも爆破することに使えばいい。石油価格の高騰を通じて、世界経済は莫大な損失を受ける。2兆円を捨てることで、100兆円の損失を得る。投資効率は 50倍ぐらいになる。これほどすばらしい投資は、めったにない。投資減税などより、はるかに有効だ。だかか、デフレを悪化させたいのであれば、どんどん戦争をすればいいのだ。


● ニュースと感想  (11月30日b)

 時事的な話。「個人情報保護法案」について。
 この法案は、廃案・出直しの見込みだという。野党は、「マスコミの報道目的利用を規制対象外とせよ」という主張。(朝日・朝刊・1面 2002-11-29 )
 私はこれについては、前にも批判した。「マスコミだけが偉いと思うのはとんでもない」と。ただ、対案は示していなかったので、ここで示す。

 私の案はこうだ。
  ・ 調査目的の、個別の個人情報取得は、認める。(報道など)
  ・ 営業目的の、一括の個人情報取得は、認めない。(ダイレクトメール用など)

 
 この区別で、すべてカタが付く。
 新聞社などが個人情報を取得するのは、調査対象としての特定個人(政府や企業の要人)についての、個別の情報だ。
 販売会社などが一括して取得するのは、営業目的としての一般大衆についての、一括の情報だ。
 この両者は、異なる。だから、区別して、前者を許容し、後者を禁じればよい。

 ついでに言えば、「電子化を禁止」という方法もある。これも、ほとんど同じだ。電子化する必要があるのは、大量のデータ。電子化する必要がないのは、個別の少数のデータ。だから、こういう区別の仕方でも、同じ結果となる。

 なお、「報道目的ならばよい」というのは、曖昧すぎる。「報道目的を装った恐喝」というのも考えられるが、目的が何であるかは本人の気持ちしだいだ。本当は恐喝が目的でも、本人が「報道目的です」と言えば、それで通る。「報道目的ならばよい」ということになれば、暴力団や総会屋は、「報道目的」を装って、堂々と犯罪活動をするだろう。
( ※ そもそも、今のマスコミは、暴力団や総会屋と似たような存在だ……とイヤミも言いたくなるが。)


● ニュースと感想  (11月30日c)

 時事的な話。「ディーゼル車」について。
 「欧州ではディーゼルが推進されているから、日本でも見習うべきだ」という声がある。こういう「欧州の真似をせよ」という論調は、欧米崇拝論者にはよく見られる。そこではたいてい、国情の違いを無視している。で、注釈しておこう。
 国情の違いというものがある。何でもかんでも欧米の真似をすればいいというものではない。先日は、「サマータイム」というものを、批判した。日本と欧州とは、緯度も気候も違うのだから、欧州でサマータイムをやって成功したからといって、日本ではそうはならない、ということだ。 ( → 6月28日b

 ディーゼルも同様である。欧州でディーゼルが有効なのは、次の3点に理由がある。
 ・ 日米と違って、ひどい人口密集や渋滞がない。
  (だから排ガスの問題がひどくない。)
 ・ 日本と違って、高速道路の長距離利用が非常に多い。
  (だから高速燃費が重要)
 ・ 米国と違って、燃料代がとても高い。
  (だからコストにうるさい)

 こういう欧州の特殊事情では、都会でのディーゼル排ガスはあまり問題にならず、むしろ、郊外での燃費向上のメリットが高い。だから、ディーゼルが有効だ。
 日本は逆だ。都会での排ガスが問題となっている。燃費も都会の渋滞が問題だ。こういう状況では、ディーゼルは、メリットよりもデメリットの方が大きい。「欧州の真似をすればいい」というわけには行かない。

 正解を言おう。
 日本のような事情で最適の回答は、「ハイブリッド」である。環境ではディーゼルやガソリン車をも上回る。(渋滞では電気自動車に近くなるし、変人の回転数も変化しないから、環境には非常に優しい。)
 ハイブリッドにした場合、「排ガスゼロ」または「排ガスマイナス」(吸気よりも排気の方がきれいになる)が可能である。また、燃費はディーゼル並みだ。
 さて。では、なぜ、ハイブリッドが普及しないか? 税制の違いだ。ディーゼルは、軽油などで、運用コストが圧倒的に優遇されている。「排ガスを多く出すほど、税金が減免される」というのが、日本の状況だ。
 というわけで、日本は毎年、ディーゼルエンジンで、莫大な花粉症患者を出し、莫大な花粉症治療費を支出していることになる。無駄な出費をして経済を拡大しているわけだから、「穴を掘って埋める」ケインズ的政策を実施していることになるのかも。いや、もっと悪い。患者を出して苦しめてばかりいるのだから、「日本中穴だらけにしてまともに歩けなくする」ために金を出しているようなものだ。狂気というか、愚かというか。……自殺的行為。


● ニュースと感想  (12月01日)

 記事のメモ。「投資減税」について。
 投資減税がなされても、投資を増やすつもりがない、ということを、各企業が言明している。「減税で負担が軽減されれば、投資はしやすくなる。ただ、それで投資を増やすかどうかは、別問題だ」と。政策減税が効果を発揮するのは、景気の拡大期であって、不況期ではない。投資は計画的に5年度などでなされたり、売上高比6%などの目安でなされ、減税によって増減はしない。そういう考えで一致しているとのこと。(朝日・朝刊・経済面 2002-11-27 )
 なお、例外的に、「思いきった投資減税を、わが産業だけでやってくれれば、少しは投資を増やす」という声もある。NECの社長がそうだ。……しかし、呆れた話だ。「減税を自分の産業だけで独り占めしたら」「投資の半額ほどの莫大な補助金をもらえたら」という自分勝手な発想が、どうして出るのか、不思議でならない。

 以上は、記事の内容だ。(これは私が何度も主張してきたことでもある。)
 サプライサイドは「投資減税を」と主張し、マネタリストは「マイナスの実質金利を」と主張する。どちらも、その主張の意味は「投資に補助金を」ということだ。
 しかし、企業自身は、「そんなことをしても投資を増やさない」と言明しているのだ。つまり、「いくら金をもらっても、遊休する設備というゴミのために、大金を出費するつもりはない」ということだ。彼らは正気だ。経済学者とは異なる。

 さて。今回の記事は、これまでの自社(朝日新聞社)の政策記事を否定する内容になっている。朝日はこれまでさんざん、「投資を拡大せよ」というインタビューなどの記事を掲載してきた。5〜6日ほど前にも、自社の編集委員の主張として、「投資減税を」というコラムをデカデカと掲げた。そういうふうに「投資を拡大せよ」という記事を山のように掲載してきたが、「実はそれはまったくの無意味であった」と、ここで明らかになったわけだ。
 今回の記事は、朝日には珍しく、非常に良い出来である。私は朝日の悪口をよく言うが、正しい記事は正しいとはっきり評価する。
 さて。今回の朝日の記事は、なぜ正しいか? それは、「ブランド」を信じなかったからだ。朝日は非常にブランドに弱く、「××大学教授」というブランドを盲目的に信じる。正しいか否かではなくて、ブランドで決めるのだ。だから、ブランドがデタラメを言えば、それをそのまま掲載する。検証などは、一切しない。かくて、これまで、さんざんデタラメを掲載してきたわけだ。
 しかるに、今回は、ブランドを信用したりはしないで、足で書いた。自ら企業経営者の意見を聞いて回った。「本当に投資減税で投資を増やすんですか?」と。狂人の妄想をそのまま掲載するのではなくて、生のデータを直接検証しようとしたのだ。だから、今回は、正しい記事を書けた。(こういう例は、過去にも、2回あった。社会部と家庭部の記者だ。彼らは足で記事を書いた。 → 昨年11月17日昨年11月20日

 私の意見と、世間の経済学者の意見とでは、多くの点でほとんど正反対となる。そのどちらが正しいかを、実際に検証していけば、今回の記事のように、正しい情報を提供できる。一方、反省もしないまま、机上の空論ばかりを繰り返しているのなら、またしても、「投資減税、投資減税」と無駄なことばかりを主張するようになるだろう。
 少なくとも、これまで「投資減税」と主張していた経済部記者は、今回の記事を見て、反省するべきだ。……なお、反省すらもできないようなら、猿以下でしかない。

 [ 付記 ]
 記事には「過去の所得税減税は効果がなかった」という記述もある。まったく、経済学音痴の記者には、困りものだ。「過去の所得税減税は効果がなかった」というのは不正確だ。「過去の所得税減税は規模が小さすぎて効果がなかった」というのが正しい。
 「減税はいくらであっても効果がある」というようなことはない。たとえば、国民一人あたり百円玉一つを渡されても、そんなことでは景気は回復しない。子供だってわかるはずだ。それがわからないような記者には、百円玉一つだけやって、それでこきつかえばいいのだ。
 ちゃんと経済学を理解するべきだ。「景気は不安定構造をもち、小額の景気刺激策では、また元の状況に落ち込んでしまうのだ」と。減税として必要な額は、バラマキなら 12兆円。(なお、公共事業ならば 25兆円。)この程度が絶対に必要だ。 ( → 9月03日9月04日
 しかも、これ単独では不十分であり、「将来も金融緩和を続ける」という「インフレ目標」や、当面の見通しを示す「インフレ告知」を併用することが必要である。 ( → インフレ告知


● ニュースと感想  (12月01日b)

 ノーベル経済学賞の受賞学者(ショールズ)が「不良債権処理をせよ」と主張している、という記事。(朝日・朝刊・経済面 2002-11-29 )
 まったく、例によって、朝日のメチャクチャ記事には困る。一番肝心なことが書いていない。「画竜点睛を欠く」ではなくて、「中身のない卵」に近い。
 ここでは、「ノーベル賞学者が不良債権処理をせよ」と言っているが、それが肝心なのではない。「彼(彼ら)が受賞した理由は、『デリバティブ』であり、これにノーベル賞を授けたのは汚点とされている。また、彼(彼ら)が経営に参与したデリバティブの会社は、すばらしい業績を一時的に上げたが、そのあと、大赤字を出して破綻した」ということだ。
 つまり、「甘いことを言ったすえに破綻させる」のが、彼(彼ら)なのだ。だから結論は、「甘いことを言ったすえに破綻させる、という前歴のある人が、『不良債権処理をせよ』と言っていますよ」と警鐘を鳴らすことなのだ。まったく、話が正反対である。

 [ 付記 ]
 注記しておこう。デリバティブとは何か? 本質的にはただのバクチにすぎないことを、ものすごく高度な数学を使って、ケムに巻くことだ。数学音痴の人ほど、数学に弱いから、だまされる。
 物事の本質を考えず、上面の数字だけを見る、というタイプの人ほど、こういう数学を扱いたがる。本当のことを言えば、「数学の世界では実力がないから、独自の業績を上げられない。そこで、経済学の分野に出てきて、数学を使って業績を上げた」というのにすぎない。本当の数学者の目から見れば、デリバティブなんてのをやっている経済学者は、ただの「数学者の落ちこぼれ」にすぎない。というか、「数学を使って世間をたぶらかす山師」である。
 ま、朝日には、こういうのがピッタリではある。
( ※ 読売はノーベル経済学書受賞の優秀な学者に何度もインタビューをしている。私は朝日に「それを見習え」と勧めたことがあった。ところが、よりによって、ノーベル賞の面汚し or 汚点と言われている、デリバティブの人物を選ぶとはね。呆れました。「美人を選べ」と言われて、間違ってまぎれこんだ超ブスを選ぶようなものだ。朝日のセンスは、いったい、どうなっているんでしょうねえ。)

 [ 参考 ]
 ノーベル経済学賞の特集記事。(朝日・朝刊・週末特集 be 2002-11-30 )
 次の文面がある。
 「98年には、前年に経済学賞を受けたばかりの二人の学者が経営参加した米有力ヘッジファンド、LTCMが破綻。賞自体の権威に傷がつく事態になった。」
 「97年受賞者  マートン ,ショールズ」
( ※ 結局、以上を見ると、朝日は自分で自分のアホさを、さらしていることになる。ボケとツッコミ。漫才だね。朝日の社員は、吉本に入りなさい。)


● ニュースと感想  (12月01日c)

 経済学における「予想と数学」について。(初心者向け講座)
 「経済学で高度な数学を使えば、株価などの予想がうまくできて、大儲けできるのではないか?」
 という発想がある。数学のノーベル賞ともいわれるフィールズ賞受賞の某数学者(H.H.)も、こんなせこいことを考えたようだ。
 実を言うと、こういうセコいことは、アメリカの経済学者がよく考える。「経済学で金儲けしてやろう」というわけだ。「高度な数学を使って、株価を予想してみよう。株価はちょっと無理でも、金融相場ならずっと簡単なはずだし、うまく儲かるはずだ」と考えるわけだ。
 で、それを非常に高度な数学を使ってやったのが、「デリバティブ」だ。(話題になったので、よく聞くだろう。)

 さて、「デリバティブ」で、どうなったか? 理論をうまく構築した人は、ノーベル賞。理論を駆使して金を動かした人は、大儲け。……というふうになった。
 これを見て、「日本もバスに乗り遅れるな! 日本の銀行は頭が悪い! さっさと数学を使ってデリバティブをやれ!」という声が出た。
 しかし、である。アメリカでは、その後、どうなったか? 好調なときは、大儲けした人も多いが、局面が変わると、次々と大穴に落ちていった。ノーベル賞学者が経営首脳になった会社は、大赤字を出して破綻した。(ノーベル賞の面汚し。) あちこちの銀行もけっこう破綻した。最近では、エンロンというでかい会社も、デリバティブのせいで破綻した。
 結局は、「ハイリスク・ハイリターン」であることが明らかになったわけだ。

 結語。
 数学は(過去に依拠する)確率を示すことができるが、(未来に依拠する)予測はできない。結局は、相場予想に数学を使うということ自体が、根本的に間違ったことなのである。
 では、予想のためには、数学ではなく、何を使うべきか? 「高度な総合判断」である。
 では、「高度な総合判断」とは? それは、数式で書けるような単純なものではなくて、複雑で言葉にしにくいものだ。「数式で書けば厳密になる」と思うのは、浅はかに過ぎる。実は、数式で書けるようなものは、ごく単純なものに限られるのだ。
 そしてまた、経済というのは非常に複雑で込み入ったものである。(そこに入り込む変数は、億や兆のレベルをはるかに超える。)こういうものについて、「数式で書けば正確になる」と思うのは、数学かぶれの単細胞な人だけだ。

 [ 付記 ]
 例を挙げれば、こうだ。「ゴーン氏を新社長に迎えた日産は、将来の業績が向上するか?」という質問には、日産の過去の株価の動きをいくら調べてもダメであり、ゴーン氏というものがどれだけの能力があるかを正しく判定することが大事だ。調べるべきことは、日産の過去の株価や業績ではなく、日産の外にいたゴーン氏の過去の業績( ≒ 将来の能力)なのである。それは決して数式では表せず、むしろ言葉によって表されるものだ。


● ニュースと感想  (12月02日)

 「銀行は、量的には巨大化したが、収益性は悪い」という新聞記事。(朝日・経済面・特集コラム「経済漂流」 2002-12-01 )
 これについては、前にも説明したことがある。また繰り返すと……
「銀行の収益性が悪いということは、利率が低いということだが、それは企業にとっては逆に好ましいことだ」となる。( → 11月15日 の [ 付記 2 ],6月05日b の [ 付記 ])
 この点について、さらに付言しておこう。

 (1) 無意味
 「銀行の収益性を良くせよ」というのが記事の論旨だが、まったく無意味である。
 記事はたぶん、「不良債権が生じたのは、銀行のせいだ。銀行が収益性を良くすれば、不良債権の問題は発生しなかった」と思っているのだろう。まったく愚かしい考え方だ。「銀行が金を得れば、その分、企業が金を失う」ということを見失っている。「パイの切り分け方」だけを考えて、「右手の取り分を多くすればそれで済む」と考え、「左手の取り分が減る」ということを見失っている。
 猿知恵。

 (2) 逆効果
 「銀行の収益性を良くせよ」というのが記事の論旨だ。しかし、これは、無意味であるだけでなく、逆効果がある。
 銀行が収益性を良くするためには、高い金利が必要だ。しかし、そんなことをすれば、企業は高い金利を払わなくてはならない。だから企業はどんどん倒産していく。たしかに、企業は、「リスクに見合った高金利」を支払うのが本筋だ。しかしそれは、「好況のとき」だ。好況のときには、リスクの高い企業ほど、高い金利を払うべきだ。また、払えないような企業は、退場するべきだ。
 しかし、「不況のとき」は違う。不況になったのは、その企業のせいではなく、政府のマクロ政策のせいである。一般的には、新興企業ほど、企業基盤の弱くて、リスクは高い。一方で、在来型の企業ほど、企業基盤が強くて、リスクは低い。こうなると、「在来型の企業に低金利、新興企業には高金利」となる。これでは、あるべく姿とは、正反対だ。不況時には、経済の拡大こそが必要なのに、それとは正反対のことをなす。
 では、なぜ、そういう倒錯した状況になるか? それは、「政府の経済失敗」のツケを、個別企業に払わせようとするからだ。そういう形の「市場原理」は、不況のときには、ますます状況を悪化させる。
 だから、「好況のときには、リスクに応じた高金利にする。しかし、不況のときには、景気の分のリスクまでは、個別企業には負担させない」というのが正しい。
 記事の論旨は、その正反対だ。まったく、マクロ経済的に、間違っている。あるべき姿とは正反対だ。

 (3) 自己矛盾
 「銀行は収益性を良くせよ」というのが記事の論旨だが、実は、これを批判する大々的なキャンペーンをやっていたのが、朝日だ。まったく、健忘症も甚だしい。
 「銀行は収益性を良くせよ。そのために、リスクに応じた金利を取れ」というのが、記事の論旨だ。たしかに、正論だ。特に、好況時には、そうするべきだ。
 しかし、朝日はどうしていたか? バブル時に、銀行がそうしようとしたら、大々的に批判したのだ。当時、銀行の貸出金利は、制度的には固定されていたから、相手企業に応じた金利を取るには、形式的に別の形を取ることが必要だった。つまり、「100万円融資して、7%の利率を取る」というのが標準だとしたら、このままでは「7%」にしかならないので、「100万円のうち20万円を強制的に預金してもらう」という形にして、「80万円融資して、100万円×7%の利息を取る」という形にした。これはこれで、金利を実質的に 25% 上げる(7%× 1.25 )のと同じことであり、特に問題はない。単に融資利率を上げただけのことだ。しかし、朝日は、「これは銀行の暴利だ! けしからん!」と大々的にキャンペーンをした。……つまり、「銀行はリスクに応じた金利を取れ」というのを批判してきたのが、朝日なのだ。すっかり忘れてしまったようだが。もうろく。
 もう一つ。以上の話は、バブル期という十年以上も前のことだから、「前任者の話でしょ。私は関係ない」と朝日は弁明するかもしれない。だから、はっきり指摘しておこう。「リスクに応じた金利を取ってはならない」と主張したのは、一年前の朝日である。昔ではない。たった一年前のことを、もう忘れてしまっている。
 朝日は今では一年前の自分を忘れて、偉そうなことを言っているが、一年前には、正反対のことを主張してきたのだ。「中小企業にはどんどん低金利で融資せよ」と主張したのだ。それに対して、「リスクに応じた金利を取るのが正常だ。危険な企業にむやみやたらと融資すれば、不良債権が増えるだけだ」と主張したのは私である。
 次の箇所を参照。 → 2001年11月03日2001年11月23日b


● ニュースと感想  (12月02日b)

 「良い物価下落と、悪い物価下落」あるいは「物価下落とデフレ」について。
 「物価下落とデフレ」との関連を示しておこう。物価下落とデフレとは、同じことではない。では、どう違うか? このことは、トリオモデルを使うと、うまく理解できる。
 「デフレ」というのは、トリオモデルにおいて、「価格低下」が起こったあと、「原価割れ」が発生した事態である。ここでは、単なる価格低下だけでなく、企業収益が赤字となるという事態が発生している。
 「物価下落」というのは、単に市場における「価格低下」だけであり、「需給の均衡点の低落」を意味するだけだ。そして、その原因には、二通りがある。

  ・ 需要の縮小(需要曲線の左シフト)
  ・ 原価の低下(供給曲線の右シフト)

 前者ならば、通常の景気悪化である。ある程度までは、企業収益が縮小するだけだが、さらに進むと、企業収益が赤字となって、デフレになる。
 後者ならば、単純な「生産性の向上による価格低下」にすぎない。パソコンなどの電器製品ではよく見られる。ここでは、価格がいくら低下しても、それが原価の低下[ 生産コストの低下 : 技術革新 ]によるものである限りは、企業収益の悪化を意味しない。むしろ、価格が低下すればするほど、企業収益が好転することすらある。(1990年代後半のIT景気のころがそうだ。)

 そういうことだ。結局、市場における価格の低下自体は、特に何も意味しない。
 (1) 「原価が同じであれば」という仮定のもとでは、「価格の低下」は、「需要の縮小」を意味する。消費者は、「価格が下がった」と喜んでいるが、そのあとで、「所得も下がった」という結果を迎える。さらには、失業となる。一つ得して、二つ損して、ひどい目に遭う。それがデフレだ。
 (2) 「原価が下がったから」という理由のもとでは、市場価格の低下は、もちろん好ましいことだ。消費者は安く買えるし、企業は黒字が増える。

 この (1) (2) は、まったく別のことだ。だから、「価格低下は良いか悪いか」という設問は、まったく無意味な設問なのだ。表面だけにとらわれて、肝心な点を見逃しているからだ。(そんなことは、何にでも当てはまる。たとえば、商品購入のときも、「価格は安い方が良いか悪いか」と問われて、「安ければ良い」ということにはならない。「安かろう悪かろう」では何にもならない。表面的なプライスタグではなく、その奥の肝心な点に着目するべきなのだ。)

 結語。
 経済現象を見るのに、単に「今はパソコンなどの価格が下がっているか」という統計を調べても、何の意味もない。パソコンなどは、昔も今もどんどん価格が低下しているが、だからといって、それが常にデフレを引き起こすわけではない。パソコンの価格低下は、むしろ、IT景気などの好況要因とすらなる。(価格低下による市場拡大。パソコンでも携帯電話でも、普及の初期にはこういう現象が見られた。)
 大事なのは、商品価格ではなくて、企業収益だ。企業収益が向上しているならば、好況。企業収益が悪化しているならば、景気後退(不況)。そう理解できる。
 では、なぜ、そうなのか? トリオモデルを見ればわかる。肝心なのは、「均衡点の価格」自体ではなくて、「均衡点の価格」と「下限直線」との距離である。それは、企業収益を意味する。たとえ均衡点の価格が低下しても、それ以上に下限直線が低下すれば、企業収益は増大する。「価格低下 = 景気悪化」ではないのだ。そのことをトリオモデルは教えてくれる。

( ※ 「デフレのもとでは、いくら価格低下が起こっても、それを上回る所得低下が発生するから、好ましくない」というのが結論だ。もう少し正確に言えば、「生産性の向上があるから、その分、所得増加があるはずなのに、それがすっかり消えてしまっている」、というところに問題がある。実際、デフレの続いているここ 10年ぐらい、国民の実質所得はまったく増えていない。

 [ 付記 1 ]
 実は、本項で述べたことは、「良い物価下落と悪いデフレ」という説で、以前から広く知られている。ここではちょっと整理しただけだ。
 ただし、である。「原価の低下による物価下落は、良い物価下落だ」と言えそうだが、それはあくまで、「状況が均衡状態であれば」つまり「企業収益が黒字であれば」という条件が付く。
 この条件が成立するならば、「原価の低下による物価下落は、良い物価下落だ」と言える。価格低下のメリットを消費者は享受できるし、企業は黒字のまま生産を拡大できる。企業はボロ儲けはできないが、一国全体では最適の水準となる。
 しかし、この条件が成立しないときは、そうではない。不況のときには、「原価の低下による物価下落は、良い物価下落だ」と言えない。「原価の低下」つまり「生産性の向上」は、失業者をどんどん増やすから、一国全体の不均衡(需給ギャップ)は、ますます拡大してしまうのだ。かくて、状況はかえって悪化する。……この件は、前にも説明した。 ( → 2001年9月26日10月14日

 [ 付記 2 ]
 「企業収益の向上が大事だ」と、上の本文の最後で述べた。このあと、「では、企業収益を良くするにはどうすればいいか?」という質問につながるだろう。
 それに対しては、「マクロ的に需要を増やすこと」という回答が出る。
 一方、「生産性を向上させればいい」というサプライサイドの意見も出る。しかし、この意見が間違いであることは、すでに何度も述べた。その意見は、均衡状態では成立するが、不均衡状態で成立しないのだ。また、年に1%程度の小さな力ならばあるが、年に5%ぐらいの大きな力はないのだ。また、そもそもの話、不況のときには、本質を逸れた話なのだ。「生産性の向上」は、あくまで長期的な「供給能力の向上」だけを意味しており、「中短期的な稼働率の変動」とは関係がないのだ。

 [ 付記 3 ]
 「生産性の向上がどうして悪いんだ」と不思議に思うかもしれない。簡単に言えば、「生産性の向上には、(小さな)メリットもあるが、(大きな)デメリットがある」ということだ。「個別企業は(小さな)利益を得るが、マクロ的には(デフレ悪化という巨大な)マイナス効果がある」ということだ。あくまで「不況期には」という限定が付くが。
 この件は、すでに何度も述べた。( → 11月26日 など。)

 [ 付記 4 ]
 「生産性の向上はかえって状況を悪くする」ということは、明日の「プチ・マクロ」からもわかる。
 今、均衡状態だとする。生産性が2倍になれば、生産物が2倍になって、人々はそろって豊かになる。肉や野菜の需要が頭打ちなら、減った労働時間で椅子でも作っていればいい。とにかく、生産性の向上で、豊かになる。(あるいは労働時間が減る。)
 一方、不均衡状態だとする。肉を買う八百屋が1軒なのに、肉を生産する肉屋が2軒ある。このとき、2軒の肉屋が半分ずつ生産するなら、たとえ原価割れでも、当面は生きながらえるだろう。ところが逆に、「コスト低下」をめざして、2倍働いて、2倍の生産をしたら、どうなるか? 需給の関係は、元は1対2だったのが、1対4になった。初めは、作った生産物の半分を捨てるだけだったが、今度は作った生産物の4分の3を捨てることになる。状況は悪化する。かといって、需給が釣り合うように生産を半減させれば、それはそれでいいとしても、生産性は低下するから、「生産性の向上」というお題目は成立しない。
 結局、生産性を向上させても、生産性を低下させても、どちらでもダメなわけだ。では、「生産性を現状維持にする」ならば大丈夫か? いや。それはそれで、不況という現状が続くので、それもダメだ。
 では、どうするべきか? 生産性は、「向上」も「低下」も「現状維持」も、すべてダメだとすると、何が残るのか? 
 答えを言おう。そもそも、「生産性をどうこうする」という前提が間違っているのだ。需要が縮小したときには、供給側をどういじっても、問題は解決しない。問題を解決するには、「需要が減った」という根本原因を正常化するしかない。つまり、「需要の拡大」だ。それこそが本質だ。だからこそ、私は何度も口をすっぱくして、「本質を見よ」と告げているわけだ。








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「小泉の波立ち」
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