[付録] ニュースと感想 (37)

[ 2003.1.02 〜 2003.1.13 ]   

  《 ※ これ以前の分は、

    2001 年
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       9月22日 〜 10月11日
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      11月04日 〜 11月27日
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      12月11日 〜 12月27日
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    2003 年
         1月02日 〜 1月13日

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● ニュースと感想  (1月02日)

 本日から、古典派の説について言及する。(主題は「失業」である。)
 前日までは、ケインズについて言及して、批判してきた。しかし、ケインズは、「失業の解決のためには、生産量の拡大が必要だ」という核心を理解していた。細かな点ではいろいろと不完全なところがあったが、核心だけはちゃんととらえていたわけだ。(だから、私のケインズ批判は、あまり大きな批判ではない。)

 古典派は、どうか? 古典派の主張は、ケインズとは違って、「失業の解決のためには、生産量の拡大が必要だ」という核心を理解していない。その意味で、初めから最後まで、徹底的におかしい。
 では、なぜ? その原因は、「ミクロ経済学(需給曲線)で、マクロ経済学を説明しようとしている」というところにある。一番最初の前提が狂っているから、そのあとの説明のすべてが狂っている。
 とにかく、すべてが狂っているわけだから、「これがおかしい」というふうに、簡単に片付けることはできない。長々と説明をする必要が出てくる。このあと延々と長い話を続けることになる。しかし、それでは、理解しにくくなるだろう。そこで、初めに、全貌を簡単にまとめて示すことにしよう。以下で、箇条書きにする。

 ( ※ 「古典派」という言葉だが、ここには、「新ケインズ派」と呼ばれるのも含む。 → 後述の [ 付記2 ]を参照。)

 【 古典派の主張 】
  1.  失業は、(労働市場の)需給関係だけで決まる。本来、(労働の)需給は均衡するはずだが、均衡しないことがある。それが失業だ。
  2.  労働の需給は、価格調整で均衡するはずだ。つまり、賃金が十分に下がれば、需給が均衡するはずだし、失業は解決するはずだ。しかるに、そうならないとしたら、賃金が下がらないからだ。つまり、「賃金の下方硬直性」のせいだ。
  3.  「賃金の下方硬直性」の原因は、いろいろとある。
  4.  労働の需給が均衡しないのは、もう一つ、「雇用のミスマッチ」も理由だ。これについては、政府が「職種転換」を推進すればよい。
  5.  失業の原因は、誰にあるか? 労働者だ。労働者が、賃下げを拒んだり、職種転換を拒んだりする。だから、労働者が「賃下げ」を受け入れて、「職種転換」を受け入れれば、失業は解決するはずだ。失業があるとしたら、労働者のせいである。
  6.  「賃下げ」と「雇用のミスマッチの解消」で、失業問題は解決できるはずだ。
  7.  さらに、企業が経営努力をして、雇用の場を増やせば、状況はもっとよくなる。企業に経営改善を促すべきだ。特に「生産性の向上」を企業に促すべきだ。
 【 私の批判 】
  1.  失業は、(労働市場の)需給関係だけで決まるのではなく、「生産量」によっても決まる。生産量が増えるほど、労働需要(雇用の場)は増える。……ここでは、(労働市場で)「供給曲線が価格低下の方向にシフトすれば、均衡する」という結論にはならず、「需要曲線が量的に拡大する方向にシフトすれば、均衡する」という結論となる。
  2.  「賃金の下方硬直性」と見える現象はある。しかしそれだけに、すべての責を負わせるわけには行かない。特に、賃金を低下させたからといって、雇用量が増えるとは言えない。それどころか、マクロ的には、総所得の縮小が総生産の縮小をもたらすので、景気をさらに悪化させ、失業をさらに悪化させる。
  3.  「賃金の下方硬直性」とされるものは、核心をはずしている。本当は、核心は別のところにある。
  4.  「雇用のミスマッチ」は、失業率が高いことの理由とはならない。話が逆である。「雇用のミスマッチ」こそは、(ミクロ的な最適配分の問題であるゆえに)「価格調整」がなされるのだ。そして、本来の「失業」こそは、(マクロ的な総需要の問題であるゆえに)「数量調整」がなされないのだ。これを逆にとらえてはならない。
  5.  失業が発生するのは、労働者が賃下げを拒むからではない。失業者が雇用されないのは、労働者が雇用されることを拒むからではなくて、雇用者(会社側)が雇用することを拒むからだ。雇用や失業の決定権は、労働者にはなく、雇用者(会社側)にある。
  6.  失業問題を解決するには、「賃下げ」と「雇用のミスマッチの解消」なんかはまったく無意味だ。むしろ、「景気の拡大」ゆえの「生産量の拡大」によるのが本筋だ。
  7.  企業が経営努力をして、自発的に雇用の場を増やすかどうかは、あくまで個別企業の問題であって、マクロ経済には全然関係がない。はっきり言えば、あらゆる企業が何も努力しないとしても、それはそれで、ちっとも構わない。たとえば、国中の全員が努力しないで、昔ながらの農業をしていてもいいし、社会主義のように古い設備のまま低能率の工場を運営してもいい。それはそれで、全員雇用が可能となる。そこでは、「生産性の低下」という問題は発生するが、「失業」という問題は発生しない。「生産性」の問題と、「失業」の問題とは、まったく別のことだ。「生産性を向上すれば、失業も解決する」というのは、とんでもない妄想である。個別企業の問題と、マクロ経済の問題とは、全然関係がない。 (どちらかと言えば、生産性の向上は、失業を解決するどころか、悪化させるという、逆効果がある。 → 2001年9月26日10月14日
 以上で、古典派の説明を箇条書きにし、その各項目ごとに、私の批判を述べた。
 明日以降では、各項目ごとに個別的に、古典派の説と私の説を並べて説明していくことにする。(つまり、まず1項めについて古典派の説と私の説、次に2項めについて古典派の説と私の説、……というふうに、順々に。)

 [ 付記 1 ]
 上では、古典派の説が間違っている原因は、「ミクロ経済学(需給曲線)で、マクロ経済学を説明しようとしている」ことだ、と述べた。このことを説明しよう。
 景気回復については、以前、古典派を批判した。「ミクロ経済学(需給曲線)で、マクロ経済学を説明しようとしているのではダメだ」と。なぜなら、(商品市場の)「需要と供給」のほかに、(マクロ的な)「所得」を考慮する必要があるからだ、と。( → 12月03日 の最後。)
 失業についても、事情は似ている。(労働市場の)「需要と供給」のほかに、(マクロ的な)「生産量」を考慮する必要があるからだ。この一番肝心な点を抜かして、「需要と供給」だけで話を片付けようとするところに、古典派の根本的な間違いがある。もっと手厳しく言えば、マクロ的な問題をミクロ的な手法で説明しようとするところに、古典派の根本的な間違いがある。

 [ 付記 2 ]
 「新ケインズ派」というのがある。これは、上の定義(古典派の定義)からして、「古典派」の一派である、と見なされる。
 普通の経済学では、「新ケインズ派」は「古典派を否定していて、古典派とは正反対の立場だ」と見なされがちだ。しかし、それは、正しくない。「新ケインズ派」というのは、「市場原理だけですべてうまく行く」というのを否定しているだけにすぎない。「市場原理は完全だ」というのを批判しているだけであって、その批判は「完全」を批判しているにすぎない。「市場原理」そのものを批判しているわけではない。……たとえば、「粘着価格」とか、「価格の硬直性」とか、単に「市場は不完全だ」ということを示しているだけであって、しょせんは「市場原理で基本的にはうまく行く」というふうに信じているわけだ。それゆえ、彼らの主張は、「硬直性をなくせばいい」「市場がうまく働くように規制緩和をすればいい」というふうになるだけだ。
 ここでは、もちろん、「生産量」という概念は欠落している。だから、「失業解決のためには、マクロ的な生産量の拡大が必要だ」という考え方は、まったく出てこない。それゆえ、「新ケインズ派」は、古典派に含まれるのである。
( ※ ついでだが、ケインズは、古典派に含まれない。「(労働市場の)需給調整だけでは失業は片付かない。失業解決のためには、マクロ的な生産量の拡大が必要だ」という本質を見抜いているからだ。)

 [ 付記 3 ]
 古典派の考え方がいかにおかしいかは、次のことからもわかる。
 失業解決には、どうすればいいか? 常識的に言えば、「景気の回復」が必要である。景気を回復して、生産量を拡大して、労働の需要(つまり求人数)を拡大すればいい。こんなことは、素人でもわかる。
 ところが、古典派の経済学者は、そうは考えない。彼らは、失業を解決するのに、景気や生産量とは切り離して、労働市場だけで解決を図ろうとする。(例の「××が一定であると仮定すれば……」という、経済学者特有の底抜け論法を、ここでもやっているわけだ。「生産量が一定だと仮定すれば……」というやつだ。かくて、景気回復という大前提を無視して、砂上の楼閣のような無意味な説を勝手ににこねあげる。)
 彼らは、こう主張する。
 そう主張したあとで、次のように結論を下す。  というわけで、支離滅裂かつ論理矛盾を起こしている。それが古典派の主張だ。そして、その原因は、物事の本質を見失っているからである。
 失業の解決には、「景気の回復」つまり「生産量の拡大」が必要だ。そんなことは、素人でもわかるような、本質だ。そして、この本質を見失って、単に「市場原理による需給調整」なんてものだけを妄信しているから、古典派の意見はメチャクチャになるのである。

 [ 余談 ]
 オマケに言えば、古典派の主張をとことん突き詰めれば、次のようになる。
 ・ 労働者の賃金を、どんどん減らせ。
 ・ 賃下げで景気が悪化したら、もっと賃下げをやれ。
 ・ 賃金がゼロになってGDPがゼロになるまで賃下げをやれ。
 ・ 全員が賃金ゼロになれば、全員が死んで、均衡するはずだ。
 ・ 雇用のミスマッチの解決のためには、猫も杓子も、IT講習。
 ・ コンピュータを理解できないおばちゃんにも、コンピュータ講習。
 ・ おばちゃんたちの頭が混乱状態になると、失業者が減る。
 ・ 物覚えの悪い総理や大臣にも、コンピュータ講習。
 ・ 総理や大臣の頭が混乱状態になると、失業者が減る。


● ニュースと感想  (1月02日b)

 明日からは、前項の各項目( 1. 〜 7. )ごとに述べる。


● ニュースと感想  (1月03日)

 【 古典派 】 失業は、(労働市場の)需給関係だけで決まる。本来、(労働の)需給は均衡するはずだが、均衡しないことがある。それが失業だ。
 【 私 見 】 失業は、(労働市場の)需給関係だけで決まるのではなく、「生産量」によっても決まる。生産量が増えるほど、労働需要(雇用の場)は増える。……ここでは、(労働市場で)「供給曲線が価格低下の方向にシフトすれば、均衡する」という結論にはならず、「需要曲線が量的に拡大する方向にシフトすれば、均衡する」という結論となる。

 この件は、すでに何度か述べたとおりだ。失業解決の本質は、生産量を増やすことである。つまり、雇用の場(求人数)自体を増やすことである。
 一方、古典派は、そうは考えない。「労働力も、一般商品と同様に、需給関係だけで決まる」と考える。つまり、「賃金を上げれば、雇用が減り、賃金を下げれば、雇用が増える」と。
 古典派の考え方の、どこがおかしいのか? 「需給関係だけに着目していること」つまり「需給関係以外のことを無視すること」である。「市場原理しか見ない」と言ってもいい。古典派は、マクロ経済を考えるときには、「需給関係だけに着目する」という形で、「所得を無視する」という過ちを犯す。それと同様に、失業を考えるときには、「需給関係だけに着目する」という形で、「生産量を無視する」という過ちを犯す。(前日の [ 付記 1 ] で述べたとおり。)

 もう少しわかりやすく示そう。古典派の言うような「労働力についても、需給曲線が成立する」という考え方は、それ自体は間違いではない。間違っているのは、「需給曲線が固定している」と見なす点だ。
 一般商品であれ、労働力であれ、古典派は、こう考える。
 「商品や労働力が余剰なのは、価格( or 賃金)が高いからだ。価格( or 賃金)を下げれば、うまく均衡して、問題はなくなる」
 と。なんともまあ、お気楽な考え方である。何でもかんでも、「市場に任せればうまく行く」と楽天的に信じるわけだ。
 現実には、そう甘くはない。商品なら、「原価」があるゆえに価格をいくらでも下げるわけには行かない。原価割れをするほど価格低下を起こせば、赤字がひどくなり、企業はどんどん倒産する。労働力なら、マクロ的な「所得減少」の効果により、賃金を下げれば下げるほど、「総所得」=「総需要」=「総生産」 がどんどん縮小していく。単に「価格を下げればそれでうまく行く」ことはないのだ。つまり、「マクロ経済など無視して、国家経済にミクロ経済学を適用すればいい」ということはないのだ。

 マクロ的に考えるとは、どういうことか? 「需給曲線は変化するものだ」と考えるということだ。── 「需給曲線は固定したものである」と見なした上で、「需給の不均衡は価格低下が不十分だからだ」と見なすのが古典派だが、「需給曲線は変化するものだ」と考えるのがマクロ経済学だ。
 不況のときには、需要曲線そのものが左シフトする(数量的に減少する)。たとえば、商品では消費意欲は減退するし、労働力では企業の求人意欲が減退する。こういう「需要の縮小」そのものが本質なのだ。なのに、この本質を見失って、「需要の縮小」を固定的なものと見なすのが古典派だ。「需要が縮小したのか。それなら、その縮小した需要にふさわしく、供給側が価格を下げればよい」と考えるわけだ。根本を見失っているわけで、本末転倒と言える。
( ※ たとえ話を言おう。ギャングが街を支配したとする。このとき、正しい対策は、「ギャングを追放すること」である。それが根本対策だ。しかるに古典派は、「ギャングが街を支配する」という状況を前提した上で、「だったらギャングに金を貢げばいい。そうすれば状況は均衡する」と主張する。まったく、本末転倒だ。経済学でも、同様だ。「ギャング」を「不況」と読み替えればよい。)

 古典派は、こう主張する。
 「求人数が減少したなら、それに応じて賃下げをすればよい」
 「消費が減少したなら、それに応じて商品価格を下げればよい」
 そういう考え方では、労働者は「賃下げ」に苦しむし、企業は「利益低下(赤字化)」に苦しむ。いずれにしても、不況はさらに悪化するばかりだ。……結局、間違った状況を前提とした上で、その範囲内で最適化をめざしても、無意味なのだ。間違った状況そのもの(需要縮小)を改善することが本質的なのだ。
 正しい解決策は、間違った状況そのもの(需要縮小)を改善することだ。つまり、「需要縮小」という状態を改め、「需要拡大」をもたらすことだ。そして、失業問題においては、労働の「需要拡大」をもたらすのは、「生産量の増加」である。だから、「失業の改善には、生産量の増加が必要だ」と、何度も強調したのである。

( ※ 以上のことから、古典派の説がどういうときには成立するか、理解できるだろう。それは、「需給曲線による市場原理が成立するとき」、つまり、「需給関係だけで話が片付くとき」、つまり、「ミクロ経済のとき」である。たとえば、石炭産業だけとか、稲作産業だけとか、そういうふうに部分的な産業だけが衰退する場合である。この場合は、その産業だけが賃下げをすれば、その産業は生き延びることができる。たとえば、稲作農家が「月収1万円だけでいい」と賃下げを甘受すれば、稲作産業は立派に成立するし、多大な職場ができるし、稲作農家の失業は解決する。……しかし、「マクロ経済のとき」には、そうは行かないのだ。なぜなら、「総所得の減少」が発生して、それが無視できなくなるからだ。 → 8月14日 「ミクロとマクロ」 )
( ※ 結局、ミクロ的な市場にはミクロ経済学が適用できるし、マクロ的な市場にはマクロ経済学が適用できる。そういうことだ。当たり前のことだ。しかるに、「マクロ的な市場に、ミクロ経済の考え方を適用する」ということを、古典派はやる。そこに間違いがあるわけだ。)

 [ 補説 ]
 古典派の、もう一つの見解を説明しておこう。
 上記で示した古典派の見解は、「労働の需給は、(労働市場の)市場原理だけで決まる」という考え方だった。
 一方、「賃金低下がコスト低下をもたらす」という考え方もある。これは、次のような考え方だ。
 「賃金を下げれば、コストが低下する。コストが低下すれば、原価が下がり、商品価格を下げことができる。かくて、価格の低い点で、新たに均衡する。価格が下がれば、量的には増える。……結局、賃金の低下により、商品価格の低下と、商品数量の増加がもたらされる。生産量は増加する。だから、雇用の場も増える」
 なるほど、もっともらしい理屈だ。ほとんど「風が吹けば桶屋が儲かる」ふうである。
 しかし、もちろん、こんな理屈は成立しない。何度も述べたとおり、「総所得の縮小」が、「総需要の縮小」と「総生産の縮小」をもたらすからだ。
 上記の古典派の説は、一切のマクロ的な面を無視している。「賃金を下げても、総需要は縮小しない」と。それはつまり、「国民全員の賃金を下げても、その合計である総所得は減少しない」ということだ。小学生以下であり、狂気的である。
 もう少し具体的に示そう。「風が吹けば桶屋が儲かる」みたいな論理は捨てて、細かく数量的なモデルを作ってみれば、一目瞭然である。「賃金を W% 下げると、製造原価が C% 低下し、それによって商品数量が S% 増加する」というふうに。ここでは、本来ならば「総所得減少による総需要縮小」をマクロ的に計量するべきであるが、仮に古典派ふうにそれを計量しなくても、誤りは一目瞭然である。なぜか? 製造原価において人件費が占める割合は、非常に少ないからだ。たとえば、電器産業では、5% 程度である。電器産業の労働者の賃金を 10% 下げても、製造原価は 0.5% しか下がらない。この程度の原価低下では、「コスト低下による数量増」など、まったく見込めない。(一方で、マクロ的には、「賃金の 10% 低下」は、「総需要の 10% 低下」をもたらし、多大な影響が出る。)
 というわけで、上記の古典派の「風が吹けば桶屋が儲かる」ふうの論法は、数量的に計算してみれば、まったくの嘘八百だ、とわかるわけだ。仮に、そういう論法が成立する場合があるとしたら、「人件費がほぼ 100% 」というような産業だけだろう。たとえば、家庭教師、マッサージ、水商売、など。そういうサービス産業の分もいくらかはあるだろうが、国民の支出の大部分は、サービスよりは物に対する支出である。たとえば、食品、衣服、自動車、電器製品、電気、ガス、など。だから、基本的には、「賃下げで価格低下」という上記の論法は、ろくに成立しないわけだ。
(さらに、マクロ的な「総所得縮小」のデメリットが追加される。)


● ニュースと感想  (1月04日)

 【 古典派 】 労働の需給は、価格調整で均衡するはずだ。つまり、賃金が十分に下がれば、需給が均衡するはずだし、失業は解決するはずだ。しかるに、そうならないとしたら、賃金が下がらないからだ。つまり、「賃金の下方硬直性」のせいだ。
 【 私 見 】 「賃金の下方硬直性」と見える現象はある。しかしそれだけに、すべての責を負わせるわけには行かない。特に、賃金を低下させたからといって、雇用量が増えるとは言えない。それどころか、マクロ的には、総所得の縮小が総生産の縮小をもたらすので、景気をさらに悪化させ、失業をさらに悪化させる。

 この件は、基本的には、前項で述べたとおりだ。つまり、「賃下げによって、労働市場において市場原理で解決する」という古典派の説は正しくなく、「マクロ的に生産量の拡大を通じて、労働量の需要そのものを増やすべきだ」というのが正しい、と。また、「賃下げをすれば、マクロ的には、総所得の減少を通じて、かえって経済を縮小させる」と。
 基本的には、それで済んでいるのだが、もう少し、説明しておこう。「賃金の下方硬直性」の話だ。

 (1)  古典派
 古典派の基本的な考え方は、「労働市場では需給調整の市場原理が働く」、つまり、「価格(賃金)の低下にともなって、雇用の場はどんどん増える」ということだ。
 (2)  私
 古典派の考え方を全否定するのが、私の考え方だ。つまり、「労働市場では需給調整の市場原理が働く」という考え方そのものが間違っている、と。「それはミクロ的には成立するが、マクロ的には成立しない」と。(前項で述べたとおり。)
 (3)  新ケインズ派
 一方、古典派の基本的な考え方を認めた上で、それを若干修正する考え方がある。それは、「本来ならば、古典派の主張するとおりになるはずだが、賃金の下方硬直性があるために、実際には古典派の主張するとおりにはならない」という考え方だ。「不完全市場」の考え方と言ってもいい。……これは、古典派の亜流ではあるが、「新ケインズ派」と称される。
 私の立場から言えば、新ケインズ派の考え方は正しくない。失業の発生の理由は、「賃金の下方硬直性」なんかではない。「賃下げをすれば問題は解決する」なんてことはなくて、「賃下げをすればマクロ的にはさらに経済が縮小していく」となる。この「賃金の下方硬直性のせいだ」という考え方は、しょせん、古典派の土俵に立っているわけだから、古典派の間違いからは脱していないのである。
( ※ 「失業を減らすために賃下げを」なんて平気で主張する人々も、最近は多い。こういうのは、まともな経済学を知らない人々である。「失業を減らすために賃下げを」というのは、個別企業においては正しい。しかし、国全体でやれば、かえって状況を悪化させるのだ。「合成の誤謬」だ。結局、個別企業とマクロ経済とでは、事情が正反対となる。この違いを理解するようにしよう。)

 なお、「賃金の下方硬直性」については、細かな話もあるので、次に詳しく述べておこう。これは、話の本筋とは少しずれるので、[ 補説 ] として示しておく。

 [ 補説 ]
 「賃金の下方硬直性」について。
 需給曲線による単純な考え方(つまりマクロ的な要素を無視する考え方)を、労働市場にも当てはめると、「価格が下がれば需要が増える」というのと同様に、「賃金が下がれば求人が増える」という結論になる。
 この考え方の大枠のなかにおいて、「賃金の下方硬直性」を主張する意見がある。「原理的は需給曲線でうまく均衡するはずだ。しかし、実際には賃金が下がらないから、均衡が達成されず、失業が発生するのだ」というわけだ。── こう主張するのが、「新ケインズ派」と呼ばれる人々である。(「ケインズ派」の一部も含まれる。)
 この考え方は、「市場は完全である」という「市場原理の至上主義」を否定している点で、古典派を批判しているように見える。それで、「新ケインズ派」とも称される。しかし、である。この考え方は、しょせんは、「需給曲線だけで説明する」というミクロ主義であって、マクロ的な総所得の効果を無視している。その意味で、ケインズ本人の主張とは大きく違っている。「新ケインズ派」と称するよりは、「古典派の亜流」ないし「ケインズ風味で修正した古典派」と称するべきだろう。
 ここで、注意しよう。「賃金の下方硬直性」という概念を持ち出したのは、ケインズ本人である。しかし、ケインズ本人は、「賃金の下方硬直性」を、さして重視しなかったのである。たしかに、「賃金の下方硬直性があるから、古典派の主張するようにはならない」と主張した。ただし、それは、古典派への批判としての意味だった。批判は、アラ探しにはなっても、独自の主張にはならない。ケインズ本人は、独自の主張としては、マクロ的な面を重視したのである。すなわち、「賃下げはマクロ的に総需要の低下をもたらす。だから、賃下げは解決策にならない。ゆえに、賃金の下方硬直性はあるとしても、さして重要なことではない」と。(これは私の主張とほぼ同じ。)
 以上のことに注意しよう。「賃金の下方硬直性が問題だ」という意見がしばしば聞かれる。そして、このことを、ケインズの基本的な主張だと思う人が多い。しかし、そうではない。ケインズは、賃金の下方硬直性を指摘したが、そのことをさして重視しなかったのである。そのことを重視したのは、「修正古典派」とも呼ぶべき「新ケインズ派」だ。ケインズ本人が重視したのは、「賃金の下方硬直性」ではなくて、「総需要」ないし「生産量」なのだ。
 失業解決のためには、古典派は「賃下げをせよ」と主張する。実際、最近も、経営者たちは「賃下げ、賃下げ」と大騒ぎで主張しているし、多くの経済学者もそれを支持している。(批判しているのは、労働組合ぐらいだ。)
 失業解決のためには、ケインズは「有効需要を増やせ」と主張する。「賃下げをせよ」とは主張しない。むしろ、「賃下げするべきではない」というふうに否定的に主張している。このことを勘違いしないようにしよう。
( ※ ケインズは「賃金の下方硬直性」を指摘したぞ。だからケインズの考え方に従えば、「賃金の下方硬直性」を打破して、賃下げすることこそ、失業解決の決め手だ、……と信じている経済学者が多い。とんでもない曲解と言える。「マクロ経済」というものを全然理解できない人々は、こういうふうに勘違いしがちだ。)

 [ 補足 ]
 「賃金の下方硬直性」について、その理由を説明する学説がいろいろとある。この件は、またあとで述べる。いずれにせよ、「賃金の下方硬直性のせいで失業が発生するのだ。だから賃金の下方硬直性をなくそう」という立場から、いろいろと説明している。いくらか当たっている面もあるが、基本的には、勘違いの上に立つ説明である。あまり重要ではない。


● ニュースと感想  (1月05日)

 【 古典派 】 「賃金の下方硬直性」の原因は、いろいろとある。
 【 私 見 】 「賃金の下方硬直性」とされるものは、核心をはずしている。本当は、核心は別のところにある。
(労働の)需給が均衡しないのは、「賃金の下方硬直性」のせいではない。「賃金の下方硬直性」と見える現象はあるが、それは失業があることの理由とはならない。賃金が下がらない理由は、古典派の主張するような、「硬直性」つまり「柔軟性の欠如」ではない。賃金については、もっと別の性質がある。それは「(通常の)市場原理が成立しない」ということだ。(後述。)

 賃金の下方硬直性がある(賃金が下がりにくい)のは、なぜか?
 これについては、いろいろと考え方がある。
   ・ 「単に下がりにくい(現状維持をする)」という考え方。
   ・ 「多少は下がっても、もはや下がれない限界がある」という考え方。
 この2種類に大別されるが、それぞれで、「具体的な理由はあれこれ」という理由づけがなされる。その理由は実にたくさんあって、これだけで経済学の一分野ができてしまうほどだ。「古典派の限界」という、最前線の話題を扱っているつもりらしい。
 しかし、「賃金の下方硬直性」を重視するこういう考え方は、本質を逸らしている。本質は、もっと別なところにあるのだ。
 この件は、話が長くなるので、後日、改めて述べる。とはいえ、今ここで、簡単に要約を述べておこう。

 (1) 賃金の下方硬直性の理由
 この理由の説明としては、大別して、次の二つがある。

 (a) 新ケインズ派による説明
 「本来は均衡点に決まるはずなのだが、何らかの阻害要因があるために、均衡点に達しない」という考え方。理由は、次のようなものが主張されている。
  1.  労働者が賃下げに抵抗する。
  2.  経営者が賃下げに熱心でない。
  3.  賃下げをすると、労働者が怠けるから、無意味。
 こういう考え方に従うと、「賃金が自由に変化するようにすれば、自然に均衡点に落ち着くので、需給が均衡して、失業は解消する」という結論になる。つまり、「賃下げすればするほど失業は解決する」というわけだ。

 (b) 下限直線を用いる説明
 私が前に「商品市場の不均衡」を説明するために用いた「トリオモデル」の「下限直線」を用いる説明。「賃金の変化を阻害するものがある」という新ケインズ派の考え方とは異なり、「ある程度までは賃金の変化は可能だが、ある程度まで行きつくと、壁にぶつかる」という説明。理由は、次のようなものが考えられる。
  1.  最低賃金
     …… 法律で決まる最低賃金よりも低い額にはならない。やれば、法律違反。
  2.  不労所得賃金
     …… 失業手当または生活保護でもらえる額がある。これ以下の賃金では、働くのが損。
  3.  生活可能賃金(生存のために必要な賃金)
     …… 衣食住をまかなえる金額以下では、たとえ働いても、いつかは生存不可能となって、餓死する。
  4.  賃金ゼロ
     …… 赤字企業では、生産すればするほど赤字が出るので、労働者の賃金をゼロ以下(マイナス)にしなくては存立できない。このような職場に就職できても、何の意味もない。
 この4つのいずれも、賃下げの壁になる。後のものほど、額は低くなり、抵抗はいっそう強くなる。第1の壁(最低賃金)を破っても、さらにそのあと、第2,第3,第4の壁がある。
 たとえば、新ケインズ派の主張によれば、「月収 10万円ぐらいまで下げれば、失業は均衡するはずだ。最低賃金制度のせいでそこまで下がらないのであれば、最低賃金制度を改めればよい」とか、「失業手当や生活保護の額が高いからいけないのだ。これらの額をどんどん下げれば、働く気になるだろう」という主張になる。しかし、である。生活保護手当以下になれば、人は生存が不可能となる。「月収 10万円で家族4人、家賃と光熱費で7万円、病人の費用に3万円、残りの食費はゼロ」なんていう状況では、家族は4人で餓死するしかない。「家を出てホームレスになればいい」と新ケインズ派は主張するかもしれないが、それで雨露に打たれて病気になれば、やはり死ぬしかない。さらには、「賃金をマイナスにすればいい」なんていう主張に至っては、何をか言わんや、である。
 「均衡点に達するまで賃金をどんどん下げればいい」という主張には、「均衡点がどのくらいの額か」という視点が、すっぽり抜け落ちているのである。
( ※ 似た例は、「インフレ目標」にも言える。「マイナスの実質金利にすれば均衡するだろう」とだけ主張する。しかし、実際には、「均衡点が予想物価上昇率以下」であるときは、そうはならない。たとえば、均衡点がマイナス5%で、予想物価上昇率が4%ならば、たとえゼロ金利にしても、均衡点には達しない。……そういう定量的な視点が、彼らには欠けているのだ。数字を知らない経済学者。)

 (2) 雇用の継続性
 「賃金の下方硬直性」については、「市場がうまく機能しない」ということより、もっと本質的な原因がある。それは「市場がそもそも存在しない」ということだ。
 新ケインズ派は、「市場原理こそ経済の根幹だ」と考えて、「市場が存在する」と考える。そして、「市場原理がうまく機能しないから、均衡点に達しない」と考える。
 私は、そうは考えない。「そもそも市場がない」と考える。ここが基本的な違いだ。
 商品と雇用とで、まったく異なる点は、何か? それは、取引の有無だ。商品ならば、必ず、取引がある。たとえば、自動車でも、電器製品でも、野菜でも、レストランの食事でも、必ず、そのたびに取引がある。店でその商品を注文して、商品を受け取り、代金を払う。雇用は、そうではない。いっぺん契約をしたら、その雇用が継続する。いちいち契約交渉をしない。たとえば、普通のサラリーマンなら、入社のときにいっぺん契約をするだけであり、その後、毎月または毎年、契約改定をするわけではない。(こういうふうに雇用がずっと続くことを「雇用の継続性」と呼ぶことにしよう。雇用以外にも拡張すれば、「契約の継続性」とも言えるが。)
 こういうふうに、雇用については、いったんなした契約がずっと続く。つまり、毎度毎度の取引がない。毎度毎度の取引がないということは、「市場がない」ということだ。ここに注意しよう。
 では、この説は、正しいか? それについては、次の例で実証される。
 「雇用の継続性がない場合」……プロ野球の選手は、毎年毎年、契約改定交渉をする。そこでは、急激な賃下げや急激な賃上げがあるし、いきなりの解雇もある。つまり、賃金は自由に変動する。
 「商品において、料金の継続性がある場合」……「月極めの料金」で価格の決まる商品は、毎度毎度の取引がない。たとえば、月極め駐車場の料金、アパートなどの家賃、宅配の新聞など。これらは、いったん料金を決めると、それがずっと継続して、毎度毎度の取引がない。売り手としては、ほったらかしておいても、従来の価格で購入してもらえる。だから急激に価格が下がることはない。
 以上の例から、「雇用の継続性」(毎度毎度の契約交渉のないこと)が、賃金をあまり変化させないことの理由となる、とわかる。
 
 以上では、話の基本だけを述べた。この件は、話はさらに詳しい説明を要するので、後日、また述べる。


● ニュースと感想  (1月06日)

 前項に関連して、朝日の社説( 2003-01-05 )について言及しておこう。社説では、次のように主張している。
 「企業が不況対策で悩んだ。そこで、設備を稼働させるため、週末も工場を稼働させることにした。土日限定の社員を雇用することにして、高齢者を採用した。企業は、土日も設備を稼働させることができたし、払う賃金も低賃金で済んだので、成功した。雇われた高齢者としても、たとえ低賃金でも、働かないよりは働く方がいいので、喜んだ。これからの高齢化社会には、こういうあり方が好ましい」と述べたあとで、「こういうやり方で雇用を守ることができる」と結論している。
 これは間違いである。(マクロ経済学音痴の朝日らしい。)

 話の前段は、間違いではない。しかし、後段は間違いだ。「こういうやり方で雇用を守ることができる」ということはない。なぜか? 総需要が一定であるとすれば、この企業で雇用が守られた分、他の企業で雇用が奪われる。だから、差し引きして、失業は少しも解決しないのである。(右手で増えても、その分、左手で減るだけだ。右手だけを見て、「増えた増えた」と喜んでいるわけ。)

 さて。総需要が一定であるか否かは、状況が均衡であるか不均衡であるかに依存する。
 (1) 状況が均衡であれば、高齢者が雇用された分、彼の所得は増えて、総需要は拡大する。
 (2) 状況が不均衡であれば、総需要は一定のまま、この企業で生産が増えた分、他の企業の生産が減る。つまりシェアの奪い合いだ。シェアの拡大がない。

 このことは、トリオモデルで考えると、わかりやすい。 ( → 7月29日
 (1) 均衡状態では、この例は、優秀な企業が新規参入したことに相当する。均衡点は、価格が少し低下して、量的には拡大する。
 (2) 不均衡状態では、この例のようにしても、下限直線に阻害される。供給曲線が右シフトすれば、その分、需給ギャップが拡大するだけだ。優秀な企業は売上げを伸ばすことができるが、他の企業で生産が減るだけだ。実際の生産量は、需要によって決まる左点の値であり、供給側には左右されない。供給側の事情で左右されることがあるのは、状況が均衡していて、企業が「値下げによる生産拡大」が可能である場合だけだ。実際には、そうではない。

 だから、「低賃金雇用で雇用拡大」という主張は、均衡のときには成立するが、不均衡のときには成立しないわけだ。朝日の主張は、均衡(好況)のときには有効だが、不均衡(不況)のときには無効であるわけだ。
( ※ 仮に、朝日が、自分の主張は正しいと本気で信じているのであれば、まずは朝日の社説担当者を全員解雇するといいだろう。かわりに、低賃金で新規に高齢者を雇用すればいい。)

 結語。
 朝日の主張は、「高齢者」という形を取っているが、実は、古典派の主張そのものである。つまり、「失業者は、低賃金でも、雇用されないよりは雇用された方がいい。だから、どんどん賃下げをしよう。賃下げをすれば、失業は解決する。企業は賃下げで有利になる。失業者も、遊んでいるよりは低賃金で働いた方がいい」という理屈だ。
 しかし、そういう「賃下げで失業解決」という古典派の理屈は、全然間違いだ、ということを、前項までに指摘してきたわけだ。
( ※ 古典派は、「経済は常に均衡状態にある」と仮定するから、この間違いに気が付かないわけだ。)

 [ 付記 ]
 結局、どうすればいいか? 失業の解決には、「総需要の拡大により、均衡を回復すること」つまり「不況を解決すること」しかない。そうやって生産量を拡大することのみが、本質的な解決策だ。(全体の生産量が同じままでは、どこかの生産が増えても、他の生産が減るだけだ。)
 この本質を見失って、「賃下げで解決せよ」というのは、小手先のやり方であって、そんなことでは、目先の失業者は解決できても、国全体では何の解決にもなっていないのだ。

 [ 余談 ]
 悪口を言っておこう。だいたい、朝日や古典派の主張は、人間的な倫理というものがない。相手の足元を見て、「困っているなら、低賃金で働け。働けないでいるよりはマシだろう」なんていうのは、相手の弱みに付け込む、人でなしだ。
 こういう人間が、金貸しになると、高利貸しになる。「十日で一割の利息(トイチ)だ。いくらべらぼうな利息でも、借りられないよりはマシだろう。」と主張する。そうやって十万円ぐらいを貸したあとで、借金を千万円ぐらいにふくらませ、相手の人生を破滅させる。女房や娘を売り払わせる。
 「相手の弱み付け込んで、低賃金にしよう」なんて方法では、何の解決にもなっていないのだ。
 正しい解決策は? 「困っている相手には、まともな金を低利で貸す」ということだ。そして、それを、「中和政策」と呼ぶ。「所得が低下したときに金を貸し、所得が増えたときには金を返してもらう」という、国による低利融資だ。(そうやって総所得を拡大し、総需要を拡大し、総生産を拡大するわけだ。これこそ本質的な方法だ。)
 ところが、朝日はこれに反対する。「そんなことをすれば国の財政が(一時的に)悪化する」と。
 結局、経済学を理解できない人間は、小手先の(偽りの)解決策ばかりを主張して、国民を破滅させるだけなのだ。


● ニュースと感想  (1月06日b)

 ちょっと一休みして、時事的な話題。「米国の景気回復策」について。
 「米国景気が悪化したので、米国の金融当局(FRB)は、量的緩和を視野に入れている。金利はすでに 1.25% まで下がっていて、利下げの余地が少ないので」という記事。(読売・経済面 2003-01-05 )
 つまり、景気回復のために、金利低下だけでなく、量的緩和も、というわけだ。
 これは、別に悪いことではないが、過信しすぎない方がいい。そもそも、「金利が低下している」というのは、「金融政策が無効になりかけている」ということだ。金利が高いときであれば、金利を下げることに効果はある。しかし、金利が低いときには、いくらか利下げをしても、その効果はあまりないのだ。
 なぜか? 「金利が低い」というのは、「資金需要が少ない」ということを意味する。そういう状況では、金利をさらに下げたところで、大きな効果は出ない。金利が高いときであれば、資金需要は旺盛だから、金利を下げれば、多大な効果があるのだが。

 結局、「金融政策を過信するな」ということだ。「金融政策でインフレ退治ができる」というのは正しいが、それは、「高金利のときには金融政策が有効だ」ということであるにすぎない。高金利のときに有効であった政策が、低金利のときに有効であるとは言えないのだ。

 では、どうすればいいか? もちろん、最終目的は、「生産量の拡大」だ。では、そのためには、どうすればいいか? 
 ここでは、本質をつかもうとするのが、根本だ。米国の経済状況は、どうなっているか? それを探ろう。まず、単純に「需要と供給」という関係を見れば、単に、「需要が弱含み」というだけだ。さらに、「需要」を「投資と消費」というふうに分けてみれば、消費はそう落ち込んでいないが、投資がかなり落ち込んでいるとわかる。こういうときは、通常、金融政策で解決するべきだが、現状では、すでに低金利である。
 もっとよく見よう。米国は、標準的な経済状況と比べて、大きく異なる点がある。それは、「莫大な貿易赤字」という現象だ。これは、「需要にふさわしい生産がなされていない」ということだ。だから、米国のなすべきことは、「莫大な貿易赤字の解消」である。つまり、「輸入を減らして、その分、国内生産を増やすこと」である。
 では、その方法は? もちろん、「ドル安」だ。現状では、莫大な貿易赤字に対応するドル水準になっていない。これは、資金が米国に流れすぎていることによる。だから、米国は、資金を海外に流出させることで、「ドル安」をめざすべきだ。
 たとえば、ドル資金で日本やユーロやアジアの債券を買う。「1ドル=100円」ぐらいの水準になるぐらいまで、ドル安をめざすのがいいだろう。前にも述べたが、このくらいのレートが円レートとしては正当だからだ。 ( → 11月18日
 もちろん、こうなれば、日本の輸出産業は、ダメージを受ける。しかし、そのことは、さして問題ではない。日本自体が正しい景気回復策を取れば、日本の国内需要が急上昇するから、自動車産業は、輸出を減らして、その分、国内で生産を拡大すればよい。それだけのことだ。
 ただ、「円安論者」だけは、反対するだろう。彼らは、「内需拡大は必要ない。外需拡大だけで解決するべきだ」と主張するからだ。そして、彼らの主張をまさしく米国が採用すると、彼らは顔色をなくすのである。

 [ 付記 ]
 私の主張に対して、「矛盾しているのでは?」という批判が来るかもしれない。「景気回復策として、日本の円安には反対するくせに、米国のドル安に賛成するというのは、おかしいじゃないか」と。
 なるほど、表面だけ見れば、そう見えるかもしれない。しかし、誤解してはならない。私の主張は、「平価の切り下げをせよ・するな」ということではない。「状況の本質を見抜いて、状況に応じて最適の政策を取れ」ということだ。
 前にも述べたが、「景気悪化」といっても、「スタグフレーション」と「不況」では異なる。前者では平価の切り下げ(外需拡大・内需縮小)が必要であり、後者ではそうではない。米国の状況は、「(国内の)供給不足・需要過剰」(それを借金で補っている)であり、日本の状況は、「需要不足」である。米国の状況は、内外のアンバランスだから、内外のアンバランスを是正するために、通貨による調整が有効だ。日本の状況は、内外のアンバランスではなく、国内の需給のアンバランスだから、内外のバランスを変更して解決しようとするべきではなく、国内だけで需給のアンバランスを是正すればいいのだ。
 こういうふうに、物事の本質を知ることが大事だ。本質を見ずに、単に「景気が悪い」という表面的な減少だけを見て、単に「通貨安」とか「利下げ」とか、そういう一律的な対策をするのでは、「杓子定規」でしかない。── これは、たとえれば、「熱が上がったなら、アスピリン」という処置を、あらゆる患者に対してなすようなものだ。「風邪であろうと、結核であろうと、エイズであろうと、どれもこれも同じだ。体調が悪くなったなら、アスピリンで解熱すればいい」というわけだ。
 この種の意見は、マネタリストがよくやる。「何でもかんでも、アスピリン」と言うように、「何でもかんでも、金融政策だけ」と言うわけだ。彼らは、「需要と供給」というような、病気の根本原因をすべて無視して、「体調が悪ければこれこれ」というふうな、杓子定規の対策をやるわけだ。
 そして、その代表者が、FRBや日銀だ。

 [ 補説 ]
 実を言えば、「金利の上げ下げ」と「量的緩和」とは、そんなに違うことではない。金融市場では、「資金供給量を増やすと、金利が下がる」という関係があるから、「量的緩和をする」というのと、「金利を下げる」というのは、ほぼ同じことである。
 現実には、金利は、金融市場の需給関係だけで決まるわけではなくて、金融当局の指示する金利水準が大きくものを言うから、「金利水準」と「量的緩和の有無」とは、いくらかはずれる。
 とはいえ、基本的には、「量的緩和 ≒ 金利低下」と見なしてよい。「量的緩和をするから、FRBは新たな金融政策をするようになった」とは解釈しない方がいい。どちらかといえば、「金融当局が、金融政策の指標として、金利水準よりも貨幣供給量を重視するようになった」という程度の、判断の違いが出るだけだ。実体経済が変化するというよりは、(当局の)頭のなかの概念が変化するだけだ。あまり大騒ぎするほどのことではない。
 もう少し具体的に説明しよう。「金利を 0.1%引き下げるには、貨幣供給量を5%増やすのが同等」という状況があるとする。このとき、金融緩和の政策としては、「金利を 0.1%引き下げる」とアナウンスしても、「貨幣供給量を5%増やす」とアナウンスしても、どちらにしても、同じことである。新聞は、前者を「利下げ」と報道し、後者を「量的緩和」と報道するが、どちらにしても、金融当局は、「金融市場で買いオペを実施する」という同一の政策を取る。そして、その買いオペをどのくらいやるかという指標が、「金利を 0.1%引き下げるまで実行する」か、「貨幣供給量を5%増やすまで実行する」か、というだけのことだ。そして、仮定により、「金利を 0.1%引き下げるには、貨幣供給量を5%増やすのが同等」なのだから、どちらの指標を取っても、同じことである。
 結局、「利下げ」と「量的緩和」は、単なる指標の違いにすぎない。長さを測るのに、「メートル」で計るのと、「フィート・インチ」で計るのと、2種類あるとしても、同じ長さについては、同じ結果となる。指標や尺度の違いは、実質的な違いを意味しないのだ。何が違うかと言えば、せいぜい、新聞の見出しぐらいだろう。
( ※ 勘違いしている新聞記者が多いようなので、指摘しておく。「利下げだけがあって、量的緩和がない」ということはありえないのだ。「利下げ」は必ず「量的緩和」をともなうのだ。そのことは、当局の金利変更のたびに、貨幣供給量の変化を見ればわかる。「金利変更と貨幣供給量の変動は、連動する」というのは、経済学では常識だ。……ただし、連動するのは、「上げ下げ」だけである。「金利の絶対水準」と「貨幣供給量の絶対水準」が連動するわけではない。数学的にいえば、それらの関数が連動するのではなくて、関数の変動[差分]が連動する。)


● ニュースと感想  (1月07日)

 時事的な話題。前々項に続いて、朝日の社説への批判。( 2003-01-06 )
 「日本経済再生」をテーマとした社説。同じことをテーマとしても、朝日と読売はひどく対照的である。異なる意見があることはいいことだ。しかし、だからといって、嘘とデタラメを並べるのは、やめてもらいたいものだ。朝日の論説室には、経済学の知識がある人物は、一人もいないようだ。新人が加入してもね。 ( → 12月31日b 小林慶一郎 )

 「インフレ目標」について批判している。「インフレ目標」については、私も部分的に批判している(「過信するな」と警告している)。しかし、朝日のように、勘違いにも基づいてメチャクチャな全面否定をしてもらっては困る。
 「インフレ目標のせいでハイパーインフレになる」と朝日は批判しているが、これは事実とは正反対だろう。また、その前提としている「インフレ目標のせいで、日銀が土地や株式をどんどん買って貨幣供給量を増やす」というのは、インフレ目標とは何の関係もない。それはいわゆる「調整インフレ」ないし「ミニインフレ」説である。そういう強引な暴挙的な政策は、「インフレ目標」には含意されない。
 朝日の言っていることは、ただの「勘違い」ないし「難癖」にすぎない。医者が患者を治療しようとする行為を批判して、「この医者はメスを使って患者を殺そうとしている」と言っているようなものだ。勘違いゆえの難癖だ。こういうメチャクチャなことを言えば言うほど、自己の無知がさらけ出されるだけなのだが、まったく、どうしようもない。言論人の基本は、「相手を批判するなら、まず、相手の主張を聞く」ことだが、それがまったくできていない。「相手の主張を『こうだ』と勝手に決めつけている」だけだ。事実誤認にもとづく一方的非難。

 「不況は経済の血のめぐりが悪くなったからだ」という主張もある。これはマネタリズムの「貨幣の流通速度が低下した」というのを言っているらしい。実は、「貨幣の流通速度が低下した」というのは、単に「金融市場で金が滞留しているから」なのだが、それを理解できず、「銀行が金を融資しないからだ」と勝手に主張する。もしその説が正しければ、金利は高くなっているはずなのだが、そういう論理をすべて無視して、自説を正当化する理屈ばかりにこだわる。(だから、本当は、金のめぐりが悪くなっているのではなくて、彼らの頭の血のめぐりが悪くなっているだけだ。)

 また、「日本経済再生のカギは民間企業が握っている」とも主張している。つまり、「景気が悪化したのは民間企業が劣悪化したからだ」という主張だ。「悪いのは国民だ、政府には責任はない」というわけだ。こういうふうに、すべてを個々の企業の還元するのは、原始的な古典派の主張だ。「個の集積が全体である」というわけだ。ここにはマクロ経済の基本的な概念が欠けている。

 結局、朝日の主張は、「マクロ政策は何もしないでいい。個別の企業がしっかりしていればいい」ということだ。要するに、「放置すれば神の見えざる手で何とかしてくれる」という信念のもとで、「経済政策は何もしないでいい」と主張しているわけだ。換言すれば、「経済学とは、経済政策は何もしなくていいということを正当化するための学問だ」というわけだ。ほとんど自己矛盾である。(例。「数学とは、定理が無効であることを正当化することを学問である」というようなもの。「物理学とは、物理法則が成立しないことを証明する学問である」というようなもの。狂気的。)

 結語。  有害無益。デマゴーク。朝日は口を閉じているのが、最善だ。「国を再生させよう」と主張して、悔いを奈落の底に落とそうとするのは、やめてもらいたいものだ。

 [ 付記 ]
 「インフレになる(物価上昇が起こる)と、国債の価値が減価するので、国民の富が大きく奪われる」とも懸念している。これは、一理ある。しかし、本質的に考えても、そうなのか? 
 考えればわかるとおり、「国債の所有者の損」=「国の得」である。そして、「国の得」=「国民全体の得」であるから、結局、国全体を見れば、「国民が損して、国民が得をする」というだけのことであり、純粋な損失は1円も発生していない。単に、「国債所有者が損して、それ以外の人が得をする」という配分の変更が現れるだけだ。
 「企業が赤字を出す」ということは、純然たる損失であり、国全体を見ても損失だ。しかし、「国債所有者が損をする」というのは、その分、「貸し手である国(=国民全体)が得をする」ということだから、差し引きして、純粋な損得はないのだ。だから、「インフレだから大変だ、大変だ」と大騒ぎすることはないのだ。(これは、「資産インフレが、純粋な得をもたらさない」というのに似ている。1億円の土地が2億円に値上がりすれば、資産家は売ったときに1億円得するが、買った人は1億円損する。両者を合わせれば、損得はない。)

 もう一つ、別の観点がある。「インフレになれば、国民の富が奪われる」というのは、形の上では正しい。(国民の富が奪われて、国民に還元されるだけだが。)
 しかし、「インフレにならなければ、国民の富が奪われない」ということにはならないのだ。なぜなら、「インフレにならなければ、国債を返済するために、増税をする必要がある」からだ。結局、「物価上昇」または「増税」の、どちらかが必要だ。「物価上昇」を避ければ、「増税」が来るだけだ。いつかは莫大な国債残高を返済しなくてはならないからだ。「インフレを避ければ済む」という問題ではないのだ。「インフレによって国債を減らすのを避ければ、増税によって国債を減らす必要がある」のだ。
 朝日の上記の主張は、「インフレさえ避ければ、あとは天国さ」というものだ。あまりにも楽観しすぎである。しかも、である。朝日は別の社説では、「莫大な国債残高は問題だ」と国債残高を悲観視している。……あるときは国債残高を無視して、あるときは国債残高を大騒ぎする。あるときは「国債残高の急減があると、国民が富を奪われる」と批判し、あるときは「国民の富を奪って、国債残高を減らせ」と主張する。……二枚舌。自己矛盾。たぶん、言っている本人も、自分が何をいっているのか、わかっていないのだろう。
( ※ では、正しくは? そんなことを騒ぐことはないのだ。「国民全体が借りて、国民全体が貸す」というような場合には、純粋な損得は1円も発生していない。単に国民間の配分がいくらか変更されるだけだ。そんな無意味なことを騒ぐ暇があったら、不況という「純粋な損失の発生」を防ぐべきなのだ。こちらは、毎年数十兆円の規模で、純粋な損失が発生している。)


● ニュースと感想  (1月07日b)

 時事的な話題。前項に関連して、金融市場の話。
 読売新聞のコラムによると、次のような話がある。(読売・朝刊・経済面 2003-01-06 )
 「銀行の中小企業向け貸し出しが急減している」
 「その理由は? 資金需要の落ち込みかもしれないが、それだけでは説明できないほどの大幅な急減だ。だから、理由は、銀行側の事情だろう。銀行経営の健全化のため、貸出金利の引き上げをしようとする。利ザヤの拡大だ。しかし、貸出金利を引き上げれば、それに応じられない借り手は、融資を断念するしかない。かといって、貸し出し金利を下げれば、銀行の経営が不健全化する」

 この件については、私も前に言及したことがある。「金利を上げれば、借り手が困る。金利を下げれば、銀行収益が悪化する。だから単純に『金利を上げればいい』とか『金利を下げればいい』とか言ってもダメだ」と。( → 12月02日 およびそのリンク先。)
 そして、その解決策も示したことがある。「景気の回復が先決だ」と。つまり、「不況のままでは、倒産確率が高いから、リスクを考慮して、倒産確率の分だけ、金利を高くせざるを得ない。こういうときは、金利を単に上げても下げてもダメであり、倒産確率を下げることが大事なのだ。つまり、景気の回復が大事なのだ」と。 ( → 2001年9月23日
 また、こうも述べた。「政府のマクロ政策が不適切で、景気が回復しないでいるときは、銀行は経営の健全化を狙って融資を減らすのを、やめた方がいい。つまり、銀行は不健全な状態を受け入れた方がいい。個々の銀行が自己にとって最適化をめざせばめざすほど、国全体の状況はかえって悪化する」と。( → 11月15日

 結語。
 デフレ(国全体の需給ギャップの発生)という本質的な状況を無視して、単に金融の世界だけで最適化をめざしても、正解などはないのだ。貸出金利(銀行の利ザヤ)を上げても下げても、不況は改善しない。せいぜい、「とても悪い」「少し悪い」という「悪さの程度」の選択にしかならず、「良い」という選択肢がない。
 正解は、倒産しそうな企業に対する金利を「上げるか下げるか」という選択肢からの選択ではない。「倒産しそうな企業を、健全化すること」だ。そうすれば、倒産確率が減るので、リスクに対する上乗せの幅が縮小する。このとき、「銀行にとっては貸出金利が上がるのと同じ」「企業にとっては貸出金利が下がるのと同じ」という、夢のような状況が実現する。なぜなら、倒産リスクに取られる分が消えるからだ。
 逆に言えば、今は、その正解とは反対の道を歩んでいる。不況が深化して、倒産リスクが拡大している。こうなると、「銀行にとっては金利が下がるのと同じ」「企業にとっては金利が上がるのと同じ」という状況になる。この場合には、融資が無意味になるので、融資そのものが減少する。それが、現状だ。
( ※ いわゆる「金詰まり」というのは、このように説明される。つまり、「倒産リスクの拡大」である。だから、不況であればあるほど、融資は縮小することになる。こういう原因と結果を、逆にとらえてはならない。)


● ニュースと感想  (1月08日)

 【 古典派 】 労働の需給が均衡しないのは、もう一つ、「雇用のミスマッチ」も理由だ。これについては、政府が「職種転換」を推進すればよい。
 【 私 見 】 「雇用のミスマッチ」は、失業率が高いことの理由とはならない。話が逆である。「雇用のミスマッチ」こそは、(ミクロ的な最適配分の問題であるゆえに)「価格調整」がなされるのだ。そして、本来の「失業」こそは、(マクロ的な総需要の問題であるゆえに)「数量調整」がなされないのだ。これを逆にとらえてはならない。

 「雇用のミスマッチ」については、前にも言及したことがある。( → 7月03日 ) 要約すれば、こうだ。
 古典派(特にマネタリスト)は、「失業は雇用のミスマッチのせいだ」と主張する。なぜ、マネタリストは、そう主張するか? その主張自体に根拠があるわけではない。彼らはまず、「貨幣量を一定にすることで景気は安定する」と主張する。そして、「財政政策の拡張による景気刺激」を、ケインズ的な処方として、否定する。そして、貨幣量が安定していても失業が発生するという状況に対しては、「財政政策なんか無意味だ」というケインズ敵視をするために、「本当は別に理由があるのだ」と弁明する。そして、「賃金が十分に下がらないから」とか、「雇用のミスマッチがあるから」とか、そういう理由を適当に探し出す。つまり、「雇用のミスマッチ」を最初に主張するわけではなくて、自らの理屈を補強するために、適当に拾い上げただけだ。
 だから、そこには、理屈のほころびがある。彼らの主張によれば、「不況期に失業が急増する」という現象に対しては、「不況期には雇用のミスマッチが拡大したからだ」という説明が来る。しかし、それは、矛盾だ。なぜか? 
 第1に、「雇用のミスマッチは、不況期には急増して、好況期には急減する」なんていう現象は、どこをどう見ても、ありえない。こんなことは素人でもわかる。
 第2に、雇用のミスマッチが大きくなるのは、そもそも、不況期ではなくて好況期である。不況期には、経済構造があまり変化しないが、好況期には、経済の成長にともなって、経済構造が大きく変化する。つまり、好況期の方が雇用のミスマッチは大きくなるのだ。にもかかわらず、好況期には、失業が少ない。( → 1月02日 の [ 付記 3 ] でも述べた。)

 では、失業が増減することの、真の理由は何か? 雇用のミスマッチが増減することが理由ではないとしたら、何が理由か? 
 それは、もちろん、これまで何度も述べてきたとおりだ。つまり、生産量の増減である。換言すれば、必要とされる労働者数の増減である。(その指標は、求人数の増減である。)
 わかりやすく言おう。たとえ話だ。(モデルと考えてもよい。)
 工場に労働者を座らせるとする。ここで、席が 90人分しかなければ、100人が席に着くことはできない。当然のことだ。このとき、「この席は小さすぎて気にくわない」とか、「この席は固すぎて気にくわない」とか文句を言って、着席をためらう人はいる。そのせいで、90人分の席があっても、85人しか席が埋まらず、あとの5人分の席は、うまく埋まらないことがある。ここで、「席に着いて文句を言っているのが原因だ。彼らが文句を言わずに着席すれば、残りの席も埋まるから、問題は解決する」と主張するのが古典派だ。しかし、である。そこには定量的な視点が抜けている。数を数えことができないでいる。数えれば、わかるはずだ。残りの 15人のうち、席に着けるのは、最大限でも5人だけだ、と。つまり、いくらミスマッチを解決しても、それで解決できるのは、5人だけであり、他の 10人については解決できないのだ、と。そして、残りの 10人についても着席させるためには、ミスマッチを解決するだけではダメであり、席の総数を 90人分から 100人分に拡大するしかないのだ、と。
 古典派は主張する。「失業の原因は、雇用のミスマッチだ。だから、政府は、職業訓練所を増やして、職種転換を推進するべきだ。一方、経済そのものには、政府は何も介入しない方がいい」と。
 違う。話は正反対だ。上のモデルで示そう。「席が合わない」という「ミスマッチ」現象は、たしかにある。しかし、ミスマッチをいくら解決しても、それでは根本的な解決にはならないのだ。ミスマッチの解消で解決できるのは、全体のうち一部分だけにすぎない。「着席できない人(≒ 失業者)をなくす」という根本対策には、席の総数を増やす以外にはない。
 しかも、である。「ミスマッチ」という問題を解決するには、「政府がミスマッチ解消の推進をする」という必要はまったくない。放置して、市場原理に任せるのが一番いい。たとえば、小さな席を割り当てられた巨漢が、大きな席を割り当てられた人に、「100ドルで席を譲ってもらえないか?」と頼む。その交渉が成立しようと、成立しまいと、政府は関与しないでいい。成立すれば、それはそれで最適化する。成立しなければ、5人分の席があいたまま、座れる5人が立っていることになるが、それはそれで、本人がそれを選択したのだから、政府が関与することではない。(つまり、低賃金よりも失業を選んだ人がいるとしても、それはそれで、政府が関与することではない。ミスマッチがいくらか残るとしても、それはそれで構わない。あくまで市場原理に任せる。)
 まとめて言おう。政府がなすべきことは、席の総数を増やすこと、つまり、マクロ的に生産を拡大することだけである。着席者のミスマッチ、つまり、雇用のミスマッチがあるとしても、それは、価格交渉において最適化すればいいのであって、政府が関与するべきことではない。これが結論だ。

( ※ ただし、政府による「職種転換」推進の「雇用訓練」が、まったく無意味であるわけではない。たとえば、低技能の労働者に職業訓練をして、高技能の労働者に訓練することには、意味がある。しかしそれは、失業問題の解決のためではなくて、労働者のスキルアップにともなって彼の賃金を上昇させるためである。)
( ※ 高賃金の職種では常に人手不足気味であり、低賃金の職種では常に人手余剰気味である。この違いは、常に存在するが、賃金の差という価格調整によって数量調整をすればよい。つまり、市場原理に任せればよい。「政府が強引に数量調整をすればよい」という考え方は、社会主義そのものである。「IT産業が成長するなら、政府がIT産業の企業に出資すればよい。あるいは国営企業で参入すればいい」というようなものだ。馬鹿げている。政府は、数量調整には、介入するべきではないのである。「資源の最適配分」という問題は、「市場原理で最適化する」というのが、ミクロ経済学の根本原理だ。この根本原理を無視する古典派というのは、ほとんど自家撞着している。)
( ※ 同様にして、「セーフティネット」なんていうのも、ダメだ。「失業保険の拡充」というのも、福祉策としてなら意味はあるが、不況対策としては、何の意味もない。席に着けない人にお金を上げたとしても、一時的な慰みになるだけであり、「全員が着席する」という根本問題の解決にはならない。席の問題を解決するには、席の総数を増やす以外にはないのだ。)


● ニュースと感想  (1月09日)

 前項 の続き。(かなり重要なことを述べる。)
 前項では、「失業の原因は、雇用のミスマッチではない(生産量の縮小である)」と述べた。このことは、失業問題に関して、重大な結論を導き出す。

 ケインズであれ古典派であれ、失業問題については、「失業をなくすこと(完全雇用にすること)が目的である」と信じてきた。
 ところが、である。現実には、「失業がゼロになること」つまり「完全雇用」というのは、実現されたためしがない。どんなに景気が良くても、失業率はゼロにはならない。なぜなら、「雇用のミスマッチ」による失業が常に存在するからだ。── つまり、景気の良し悪しと、雇用のミスマッチの有無は、関係がない。「失業をなくすために、景気を過熱させよ」という主張を取るとしたら、どんなに景気を過熱させても、まだ失業は残る。つまり、いくら景気を過熱させて、いくらひどいインフレにしても、まだ完全雇用は達成されない。「雇用のミスマッチ」の分の失業は、景気刺激によっては、決して解決されないのだ。
 とすれば、景気を扱うマクロ経済学と、「雇用のミスマッチ」による失業の解決とは、別々の問題だ、ということになる。そして、前項では、その解決を「市場原理に任せよ」と主張した。(つまりマクロ経済学でなく、ミクロ経済学で扱う範囲内のこととなる。)

 では、マクロ経済学が「雇用のミスマッチ」による失業を扱わないとしたら、マクロ経済学は失業問題に対して、どのような結論を出すのか? 前には「生産量の拡大が必要だ」と主張したが、それとはどう関連するのか? ── その答えを述べよう。それは、こうだ。
 マクロ経済学の目的は、「実際に失業がゼロになること」ではなくて、「失業がゼロになりうる状態を得ること」である。
 もっと具体的に述べよう。「失業がゼロになりうる状態」とは何か? それは、「失業者よりも求人の方が多い状態」である。つまり、「求人倍率が 1.0 を上回っている状態」である。これは、「雇用のミスマッチを除けば、失業問題が解決している状態」と言い換えてもよい。
 席のたとえ話で示そう。100人いて、席が 90で、ミスマッチが 5 だとしよう。85人は問題ない。5人はミスマッチの問題がある。残りの 10人は、ミスマッチが解決してもなおも残る問題となる。これが本質的な問題だ。だから、席を 10増やして、席を 100にすることが根本的な解決策となる。そのとき、ミスマッチが 5か 6残るかもしれない。しかし、それは、最適化の問題であって、マクロ経済学の問題ではない。「席をどんどん増やせばいい、そうすれば残りの5人か6人もきっと席に座れるだろう」という主張もあるだろうが、しかし、それは、成立しにくい。なぜなら、この5人か6人は、非常に気むずかし屋で、もともと席に着く気がないかもしれないからだ。たとえば、小錦のような巨漢で、尻が席からずりおちてしまうかもしれない。尻に痔があったり、関節が曲がらなかったりで、もともと席に座れないのかもしれない。あるいは、スポーツマンで、立っているのが好きなのかもしれない。……とにかく、そういうふうに、個別の理由がある。そういう理由にかまわずに、「席の数さえ増やせば、彼らも全員が座るはずだ」という理屈は、成立しない。「全員が実際に座る」というのは、夢物語なのだ。結局、マクロ的に大切なのは、席の総数を 100人に対して 100席を用意することであって、ミスマッチの問題は、関係がないのだ。

 結語。
 「雇用のミスマッチによる失業」は、常に存在する。しかも、それは、マクロ的に解決する必要がない。解決には、あくまで、市場原理に任せて、放置するのが最善である。
 逆に言えば、こうだ。「雇用のミスマッチがあるから、失業があるのだ」という古典派の主張は、失業問題の説明になっていないのだ。「雇用のミスマッチによる失業」は、真の失業ではないのだから、あったとしても、ちっとも問題ではないのだ。(「自発的失業」とも言える。)
 席のたとえ話で言えば、こうだ。座りたくないから座らない人がいるが、この分は、放置していい。一方、座りたくても座れない人々がいる。これらの人々が座れないのは、席の総数そのものが不足しているせいであって、「座りたくないから座らない」のではない。これは放置できない。
 不況期には、多大な失業者が発生して、就職したくても就職できない。この失業は、「雇用のミスマッチ」のせいではない。このとき、「雇用のミスマッチのせいで失業が発生するのだ。職種転換のために職業訓練をすればいい」というのは、まったく見当違いなのだ。(次の [ 付記 ] を参照。)

 [ 付記 1 ]
 現状と対比して示そう。
 今、政府は、古典派の主張に従って、「失業解決のための職種転換」を推進している。「IT講習会」とか、「試し雇用を推進するための補助金」とか、あれやこれやと、ミスマッチの解決を減らそうとしている。しかし、それはすべて、無意味なのである。そういう失業対策は、本来、政府がやるべきことではない。民間が市場原理のなかでやるべきことだ。たとえば、IT技術者が不足しているのであれば、民間でIT技術者の賃金を上げればよい。高齢者への雇用が少ないのであれば、高齢者が自発的に希望賃金を下げればよい。そうして、賃金の高低によって、市場原理のなかで最適化するはずだ。

 具体例を示そう。造船産業が縮小して、造船技術者が失業したとする。このとき同時に、IT産業とコンビニ産業が拡大したとする。造船産業の技術者は、IT産業やコンビニ産業に就職するべきか?
 政府ならば、「これらの新規産業が成長するから、これらの新規産業に就職せよ。そのために補助金を出したり、職業訓練をするぞ。構造改革だ、e-Japan だ」と主張するだろう。しかし、そういうのは、国家指導の資源配分政策であって、社会主義そのものだ。こんなことをやれば、国全体の効率はどんどん低下する。
 では、正しくは? 放置することだ。放置すれば、失業した造船技術者は、最も高給のところで就職するようになるだろう。たいていは、何らかの機械産業だ。たとえば、自動車産業とか、電器産業とか。別に、これらの産業では、特に人手不足になっていないかもしれない。しかし、だとしても、優秀な造船技術者を雇用するということは、これらの産業にとって有益である。だから高給を払える。一方、造船技術者をコンビニの販売員として雇っても、何の意味もないから、ごく低賃金しか払えない。だから造船技術者は低賃金のコンビニなんかには就職しない。IT産業に就職しても自分の技能を生かせないから、IT産業にも就職しない。
 結局、彼は最も高給をもらえる企業に就職することで、自分の技能を最大に発揮して、最高の給料を得る。このとき同時に、資源配分の最適化がなされている。つまり、放置することが最適であって、国の「雇用のミスマッチ解決策」は、やればやるほど状況を悪化させるだけなのだ。(造船技術者をコンビニで雇うようなものだ。無駄。)
 大切なのは、「実際に失業がゼロになること」ではなくて、「失業がゼロになりうる状態を得ること」である。つまり、マクロ的に、席の総数を十分にすることだ。それは、つまりは、「生産量を十分にする」ということだ。

( ※ 「雇用のミスマッチの解決」を市場原理に任せると、「最適化」が可能となる。つまり、「優秀な造船技術者を機械技術者に」「若手の機械技術者をIT技術者に」というような、玉突き現象を起こすことができる。これは、席でいえば、「空いている小さな席に巨漢を座らせる」という形で「5人分の席だけで調整する」ことのかわりに、「最も無駄のない形になるように、100人全員を再配置する」ことに相当する。……一方、政府主導だと、「優秀な造船技術者を、慣れないIT技術者に」という形で、「5人分の席だけで調整する」ようになるので、かなりの不適合が発生する。)

 [ 付記 2 ]
 本項の要旨は、「失業をゼロにすることは必要なく、雇用のミスマッチの分はあっても構わない」となる。これは、換言すれば、「完全雇用は必要ない」ということだ。そのことは、前も述べたことがある。( → 12月24日
 失業を実際にゼロにしようとして、生産量をむやみやたらと増やせば、ひどいインフレとなる。雇用のミスマッチをなくそうとして、むやみやたらと補助金などを出せば、資源配分が歪んで、経済効率が低下する。たとえば、無知なおばさんをIT技術者にするように補助金を出せば、無能なIT技術者がやたらと増えて、ひどい効率低下を起こす。
 だから、失業を実際にゼロにしようとするべきではない。ある程度の失業者は、不可避である。たとえば、「ヘボ音楽家」「ヘボ役者」「ヘボ学者」など。こういう失業者は無視していいのだ。

 [ 補足 ]
 誤解を招かぬように、補足しておく。(前言の繰り返しになるので、読まなくてもよい。)
 上記では、「失業対策としての職業訓練」というものを否定している。しかし、「職業訓練」そのものを否定しているわけではない。「スキルアップ(技能向上)としての職業訓練」には意味がある。
 早い話が、「教育」だ。教育というものは、一般に、ただの趣味のためにあるのではなくて、職業訓練としての意味がある。教育制度がなければ、国民は十分な職業訓練を受けられないことになり、それは経済的にもマイナスだ。
 だから、教育を含めて、「職業訓練」というものは大切だ。政府が職業訓練所を整備することも大切だ。── では、こういう主張は、私の先の主張と矛盾するだろうか? いや、矛盾しない。
 私が否定したのは、「失業対策としての職業訓練」だ。「失業を減らすことを目的に職業訓練をしよう」ということを否定しているわけだ。失業解決をめざすのならば、職業訓練なんかではなくて、マクロ政策こそが大事だ、と述べた。また、雇用のミスマッチの解決をめざすのならば、何かをするよりも、何もしないで市場原理に任せるべきだ、と述べた。
 では、職業訓練は、何のためにあるのか? それは、スキルアップを通じて、個人の所得を増やすためだ。換言すれば、生産性を高めるためだ。つまり、国全体の効率を高めるためだ。……これは、雇用の「質」の問題を解決するためにある。つまり、「高賃金化」という目的のためだ。一方、「失業解決」というのは、雇用の「量」の問題だ。これは、個人のスキルアップなどによっては解決できず、マクロ的な政策によって解決するしかない。私としては、その違いを、強調してきたわけだ。
 「政府のマクロ政策の失敗を尻ぬぐいするために、個人がスキルアップする」というのは、どう考えても、本末転倒である。ま、政府としては、「景気が悪いのは、政府が悪いんじゃない。みんな国民が悪いんだ。国民がサボっているから、景気が悪くなる」と主張したいのだろう。しかし、本当は、国民がサボっているのではなくて、政府がサボっているだけだ。
( ※ そもそも、国民がサボっているとしたら、生産不足で、インフレになるはずだ。国民のせいにする説は、アルゼンチンのようなひどいインフレ[供給不足]の国では成立するだろうが、日本のようなデフレ[供給過剰]の国では成立しない。)
( ※ 「サボっている・サボっていない」というような単純な発想で言うなら、「供給過剰のときには、生産を減らすために、みんながもっとサボればいい。みんながもっと失業すればいい。失業者が増えれば増えるほど、供給が減って、供給過剰の問題が解決する」というふうになる。その結論は、「全員を失業させてしまえ」というふうになる。馬鹿げた話。)


● ニュースと感想  (1月10日)

 前項 の続き。
 前項の最後では、失業について、「国のせいではなくて、国民のせいだ」(だから国民に職業訓練をすればいい)という政府の主張を批判した。
 さて。こういう「国民のせい」「被害者のせい」というのを、堂々と主張しているのが、古典派だ。(たとえれば、放火した犯人が、責任転嫁するようなものだ。「私が放火しました」と責任を認めるかわりに、放火された人を指して、「こいつが放火したんだ」と被害者に責任をなすりつける。恥知らずの破廉恥漢だ。)

 古典派は、こう主張する。── 「失業とは、労働市場の不均衡だ。価格調整が不十分だから、数量的なギャップが生じる。ゆえに、賃下げをすれば、労働需要が増えて、需給が均衡する。かくて、不均衡は解消する。つまり、失業は解決する」と。
 そして、こういうふうに労働市場を批判する。── 「賃下げがなされないから、失業が解決しないのだ。賃下げがスムーズに進むように、市場を整えよ」と。
 さらに、こういうふうに労働者(国民)を批判する。── 「人々は賃下げを受け入れるべきだ。それなのに、賃下げを受け入れずに、高い賃金を要求するから、いつまでたっても失業しているのだ。彼らは賃下げよりも、失業を選んでいる。彼らは欲張りすぎるのだ。全員が賃下げを受け入れれば、全員が低賃金で雇用されるはずだ」と。
 さて。その論法が正しいとすると、どうなるか? 今、失業者が続出しており、失業ゆえに自殺している人が続出している。古典派の意見に従えば、「彼らは失業したいから失業しているのだ」ということになり、「彼らは自殺したいから自殺しているのだ」ということになる。「失業した労働者が自殺するのは、彼らが勝手に失業して、勝手に悲観して、勝手に自殺しただけだ。政府の責任じゃない」という結論となる。……こうなると、経済学というものは、毎年数万人の国民が自殺することを、正当化するための理論となる。いわば、政府が国民を殺人するのを、正当化するための理論となる。経済学は殺人のための、悪魔の理論となる。
 では、正しくは、どう理解するべきか? 
 
 (1) 市場原理
 古典派の根本的な間違いは、何か? それは、市場原理を妄信しているということだ。「市場原理ですべてカタが付く」と思い込んでいることだ。
 では、どこが間違いなのか? それは、マクロ的な観点を見失っていることだ。特に、「所得」の観点だ。
 古典派は言う。「全員が賃下げを受け入れれば、労働市場では、全員が雇用されるだろう。また、賃金が下がれば、労働コストが下がり、商品の価格も下がるので、商品の売り上げも増える。かくて、商品市場でも、生産量も増える。このことの効果もあって、雇用が増えるはずだ」と。
 しかし、そこには、「所得」の観点が抜けている。賃金が下がると言うことは、総所得が減るということであり、それは総需要の低下をもたらす。総需要の低下は総生産の低下をもたらし、必要な労働力も減る。つまり、失業が増える。……こういうふうに、古典派の主張とは正反対になるのだ。そして、これは、私の個人的な主張ではない。「デフレスパイラル」と呼ばられるものであり、今まさしく、現実の現象となっている。
 結局、「所得」の観点を抜きにして、「市場原理」だけで話を済ませようとしても、根本的に間違った結論となるわけだ。失業の考察には、市場原理だけではダメで、「所得」について考えることも必要なのだ。そして、「所得」について考えるということは、マクロ的に考える、ということだ。
 つまりは、古典派の考え方は、ミクロ的な視点だけがあり、マクロ的な視点が抜けている。そこに根本的な難点がある。

 (2) マクロ的な視点
 マクロ的に考えると、どうなるか? それについては、席のたとえ話がわかりやすい。
 100人がいるなら、席は 100だけ必要となる。なのに、席が 90しかなければ、どうしても 10人はあぶれてしまう。それが「失業」だ。だから、マクロ的に席の総数を増やすことが、根本的な対策となる。
 現実の経済に戻れば、求人の数を増やすことが、根本対策だ。そして、それには、「景気を良くして生産量を増やすこと」が必要となる。
 そして、そのためには、もちろん、「総所得の増加」が必要である。となると、「賃下げ」なんてのは有害だ、となる。
( ※ 賃下げは、個別企業にとっては[利益増加をもたらすので]有益だが、マクロ的には[総所得の低下をもたらすので]有害なのである。この違いを理解することが必要だ。)

 (3) 企業にとって必要な雇用者数
 企業としては、低賃金ならば、雇用する数を増やすだろうか? 否、だ。── このことを示そう。
 普通、消費者は、「消費物」を購入する。安ければたくさん購入したり、購入する気のなかったものを購入したりする。
 では、企業にとって、労働力は、同様のものか? 違う。労働力は、「消費物」ではないのである。つまり、「買った時点で満足して、それでおしまい」ではなくて、「買ったからには、その買った価格以上のものを生産しなくてはならない、生産財」なのである。── だから、「賃金が安いから、たくさん雇うことにした」とか、「賃金が安いから、雇う気がなかったのに雇うことにした」というようなことは、ありえない。そういうのが成立するのは、生産物を生む必要のない「消費物としての労働力」だけだ。(たとえば、「社長の愛玩物になる、秘書という肩書きの愛人」など。)
 わかりやすく示そう。企業が何かを買うとして、そのとき単に「安いから買う」ということにはならず、「買った価格以上で売れて利益を出す」ことが必要だ。たとえば、自動車を生産するとしよう。このとき、「タイヤが安いから、タイヤをいっぱい買おう」とか、「電気が安いから、電気をいっぱい消費しよう」とか、そういうふうに無駄なものを購入することはない。「タイヤが安いから、この自動車にはタイヤを 9本付けて、9輪自動車にしよう」とか、「電気が安いから、誰もいない工場で、無駄に冷房を利かせて、電気を浪費しよう」とか、そういうことはしないのだ。どの部品であれ、原材料であれ、必要な量だけを購入する。「安いからいっぱい買う」ことにはならないのだ。
 労働者も、タイヤなどと同様だ。たとえば、月産1万台の自動車を生産するならば、そのために必要な分だけ、労働者を雇用する。「賃金が安いから労働者を増やそう」とか、「賃金が高いから労働者を減らそう」とか、そういうことはないのだ。
 なるほど、長期的に見れば、賃金がいくらか影響することもある。しかし、(景気変動のある)中短期で見れば、賃金の変化は、それ単独では雇用量を左右する要因とはならない。雇用量は、生産量によってのみ決まる。そして生産量は、需要によって決まる。雇用や原材料は、「賃金が下がったから雇用だけが増える」とか、「タイヤ価格が下がったから自動車に車輪を9個付ける」とか、そういうふうに(完成製品の)生産量を無視して一部だけが増えることはないのだ。
 もっと正確に言おう。タイヤなどの原材料や部品についてならば、古典派の意見はいくらか成立する。つまり、「コストが低下したことで、市場価格が下がるから、生産量が増える」ということは、タイヤなどの原材料や部品についてならば、言える。しかし、労働者の賃金については、言えない。なぜか? コストの低下する割合を上回って、総所得(=総需要)が減るからである。そして、その割合は、価格に占める人件費の比率に一致する。……たとえば、価格に占める人件費の割合が 5% であるとする。人件費を 10% 下げたとき、コストは 10% × 5% にあたる 0.5% だけ下がる。このことは、少しだけの販売増加効果がある。一方、マクロ的には、総所得が 5% 減る。このことは、大幅な販売減少効果がある。……結局、賃金が下がれば下がるほど、売上げは減るわけだ。(マクロ的な「所得」の効果だ。)
 現実を見れば、よくわかる。「賃金が下がっている」というのは、デフレのときであり、マクロ的に総所得が低下しているときだ。そういうときには、景気の悪化にともなって、売上高も生産数量も減る。結局、「賃下げで生産増」という古典派の主張の通りになるどころか、それとは正反対になるわけだ。

( ※ 関連して、述べておこう。中短期的にはそうなのだが、長期的に言えば、「賃下げをすると生産量が増やす」という行動を、企業は取る。マクロ的に成立しなくても、「自社は賃下げをしても、国全体では総需要の変化はない」と仮定した上で、個別企業は、そういう行動を取る。……この件は、経済学では、「限界賃金率」などの言葉で、いろいろと説明されている。「労働の限界生産力が時間賃金率に等しくなるように、雇用量が決まる」というのが、ケインズの指摘した「古典派の第1公準」だ。……とはいえ、現実には、この説はあまり当てはまらない。製品価格のうち、人件費コストの占める割合は、非常に小さいからだ。電気製品では、5% ぐらいだ。たいていの工場では、人員はあまり多くなく、機械ばかりがわんさと稼働している。こうなると、生産量や雇用量を決める要素としては、人件費よりも、それ以外のものの方が大きな要素となる。)(このことは、前にも述べた。→ 1月03日


● ニュースと感想  (1月11日)

 前項 の続き。
 前項に関連して、もう少し述べておこう。これは「雇用のミスマッチ」に関することだが、「縮小均衡」と関連する。
 古典派の主張には、根本的な難点がある。
 「雇用のミスマッチを解消せよ」というのが古典派の主張だ。しかし、である。たとえ雇用のミスマッチを解消したとしても、そんなことには、何の意味もないのだ。なぜなら、現状が、不適切な状況だからだ。
 わかりやすく言おう。経済がいったん縮小したあとでは、その不況という状況においてミスマッチを解消しても仕方ないということだ。なぜなら、雇用のミスマッチが解決して、「最適化」が実現したとしても、それは、「不適切な状況における最適化」にすぎないからだ。(それが「縮小均衡」の状態だ。)
 具体的に例を挙げて示そう。
 【 例1 】 サービス業の例を示そう。景気が悪化すると、不要不急の産業は急激に縮小する。たとえば、旅行や豪華飲食業の売上げは激減して、その分野の雇用も激減する。そこで、たとえば板前さんが大量に失業する。で、彼らに、IT産業の技術を付けさせたとしよう。そこでいったん失業がうまく解決したとする。(そんなことはありえないが、あくまで古典派の主張に従って、うまく失業が解決したとする。)……で、そのあと、景気が回復したら、どうなるか? ふたたび板前さんが必要となる。IT産業に就職していた板前さんも呼び戻される。新人の役立たずのIT技術者として月収 20万円で雇用されていたのが、優秀な板前さんとして月収 60万円で雇用されるようになる。もちろん、彼は、板前さんとして復帰する。となると、彼をIT技術者として訓練したのは、まったくの無駄だったことになる。単に無駄な寄り道をしただけのことだ。
 【 例2 】 技術者の例を示そう。不況のときに、ITバブルが崩壊したからといって、富士通やNECがIT技術者を解雇したとする。そして彼らを好調な自動車産業で雇用したとする。彼らは自動車産業でエンジン技術者としての教育を受けた。これで雇用のミスマッチは解決した。ところが、景気が回復すると、今度はIT技術者を大量に採用する必要が出てきた。自動車産業で雇用された技術者たちは、引き戻されて、それまでのエンジン技術を捨てて、元のIT技術者として復帰した。結局、それまでにやった「雇用のミスマッチの解消」という「職業転換」は、まったくの無意味であったことになる。
 そういうことだ。結局、「雇用のミスマッチの解決」という名分で、失業者に職業訓練することなど、まったくの無駄なのである。たとえそのときは、うまく最適化をしても、あとで景気が回復すれば、無駄になってしまうからだ。

 本質を考えよう。そもそも、間違っているのは、景気であって、人間ではない。景気が「好況から不況へ」というふうに間違った方向に進んだ。ここで、「間違った状況に、正しい人間では、うまく適合しない」と考えて、「間違った状況に合わせて、人間を間違ったものに変えよう。そうすれば、間違い同士で、適合する」というのは、本末転倒なのだ。つまり、間違った状態に合わせて最適化をしても、何にもならないのだ。なぜなら、たとえその時点で最適化が済んでも、やがて状況が間違った状態を脱したとき、その最適化は無意味になるからだ。……というわけで、状況が間違っているときには、なすべきことは、「間違った状況に合わせること」ではなくて、「間違った状況そのものを正しくすること」だ。不況という間違った状況にあるときは、なすべきことは、状況そのものを変えることであって、人間を変えることではないのだ。
 結局、大切なのは、「景気の回復」というマクロ政策だけであって、「雇用のミスマッチの解決」という最適化などは、ほとんど無意味なのだ。

 [ 付記 1 ]
 上の例では、「失業問題」に関連して、人間の立場で考えた。つまり、「一人の人間を、不況に合わせて職種を最適化し、次に、好況に合わせて職種を最適化する」という、朝令暮改みたいなことをやっても、無駄である、と。
 さらに、同じことは、人間だけでなく、企業に対しても言える。つまり、「各企業が、不況に合わせて分野を最適化し、次に、好況に合わせて分野を最適化する」という、朝令暮改みたいなことをやっても、無駄なのだ。
 たとえば、不況のときに、「安くてもそこそこの質の商品を売る」という方針にして、そのための設備をたくさん整える。次に、好況になったら、「高くて利益率の高いものを売る」という方針にして、そのための設備をたくさん整える。具体的に言えば、デフレの今、軽自動車やリッターカーの設備を大量の整える。その後、景気が回復したら、それらの設備をすべて排気して、今度は高級自動車の設備を整える。その後、バブルが破裂したら、その高級自動車用の設備(余剰設備)を廃棄して、固定費削減をめざす。……まったく、馬鹿げたことだ。そして、こういう「捨てては買う」「買っては捨てる」という馬鹿げたことを、古典派は、「雇用のミスマッチ」とか「最適化」とか「構造改革」とかいう名分で、どんどん推進するのである。
 ケインズは「穴を掘って埋める」という無駄を主張した。古典派は、「設備を投資して廃棄する」という無駄を主張した。どっちもどっちである。似たり寄ったり。
 重ねて言おう。間違った状況に対しては、その間違った状況を正しくするのが、正解だ。間違った状況に対応する最適化を努めるなど、まったくの無駄なのだ。
 そして、にもかかわらず、今や、企業は「デフレに対する最適化」という方針を取っている。経済学者がミスリーディング(誤誘導)しているせいで、日本経済は質的にどんどん劣化しているのである。かつてバブル期に、「高級車が売れるのはいいことだ」と主張した経済学者が、今は「リッターカーが売れるのはいいことだ」と主張する。まったくの二枚舌なのだが、言っている本人は二枚舌だとは気づかない。彼らは「状況への最適化(均衡に進むこと)が進んでいる」とだけ信じる。「均衡」を神のごとく信じる古典派は、自分が矛盾することを主張しても、まったく気が付かないのだ。

 [ 付記 2 ]
 (4) の「不況に合わせた最適化」について、質的な問題点を示す。
 今、企業は、「固定費削減」のもとで、「技術者の新規採用を控える」とか、「低賃金の派遣労働者を増やす」とか、そういう後ろ向きの対策をしている。こういうことをどんどんやっても、日本経済の状況は悪化するだけだ。「不況に合わせた最適化」をやればやるほど、日本経済は(技術水準が低下して)弱体化していくのである。
 また、「生産性の向上を」と主張して、「そのために賃下げを」というのを実施すれば、高技能・高賃金の正社員が減って、低技能・低賃金の派遣社員やパートが増えて、国全体では質的に劣化していくのである。(当たり前だ。高技能の人材を低賃金で雇えるはずがない。仮に、それが可能だとしたら、通貨が上がるので、自動的に高賃金になってしまう。日本はかつてこの道をたどった。)……というわけで、「生産性の向上」をめざして、低賃金にすればするほど、経済は質的に劣化して、「生産性の低下」が起こるわけだ。
 正解を言おう。不況下では、なすべきことは、何か? 個々の企業や労働者がどうこうすることではなくて、マクロ的な需要拡大で不況を脱することだ。そうすれば、技術者を増やしたりして、日本経済は強化させる。
 にもかかわらず、たいていの経済学者は、「中国の低賃金が脅威だから、日本も賃下げで低賃金にすればいい」と主張する。一方、中国の方は、「技術を高めて、高技術・高賃金をめざそう。日本のようになろう」と主張している。このままでは、日本と中国が総取っ替えになる。日本が低賃金の途上国をめざし、中国は高賃金の先進国をめざす。
 だから、「中国が脅威だ」と叫ぶような人は、自分だけが中国に移住すればいいのだ。そこで、低賃金で生活すればいい。それが理想ならば、そうすればいいのだ。とにかく、自分だけが低賃金になればいいのであって、他の一般国民を道連れにしてほしくないものだ。「日本を中国のように低賃金の国にしよう」なんて、そういう馬鹿げたことは言わないでほしいものだ。
 こういうのは、いかにも馬鹿げた主張に思える。だが、マスコミには、しょっちゅう掲載される。たとえば、「経団連が春闘での賃下げを主張」とか、「円安で人件費コストを下げて競争力を付ける」とか。よく見る記事だ。そういう「低賃金政策」を、ろくに注釈も付けずに掲載する。そのせいで、「ほう、賃下げで不況を脱出できるのか」と国民は思うようになり、「じゃ、この先、どんどん賃下げになるから、消費を縮小しなくちゃ」と思うようになるので、不況はどんどん悪化していくのである。
 古典派の経済学者は、所得の効果を理解できないが、一般国民は、ちゃんと所得の効果を理解できるのだ。マクロ経済学については、古典派の経済学者よりも、一般国民の方が、ずっと正しく理解しているのである。

 [ 付記 3 ]
 上では、「企業が不況に合わせて最適化するのは無駄だ or 劣化する」と述べた。これは、私の結論である。ただ、これは、私だけの意見ではない。古典派の経済学者に従う企業は、「不況に合わせて最適化しよう」といして、リストラをして、どんどん技術者を解雇していく。しかし、まともな企業は、そんなことはしない。不況のときも、歯を食いしばって、従業員を解雇するまいと努める。(松下幸之助の社是でも、従業員の解雇を戒めるような文句があったはずだ。まともな経営者というもんは、そういうものだ。)
 これは、単なる人生哲学や福祉の問題ではない。企業自体における経営の問題だ。なぜか? その理由は、「いったん解雇した技術者を、あとになって雇用したくても、簡単には雇用できない」からだ。(このことを「雇用の不可逆性」と呼ぼう。)
 単純労働者ならば、さっさとクビにしても大丈夫だ。あとでまた、単純労働者を雇用することはできる。
 しかし、技術者は、そうは行かない。自動車のエンジン技術者をクビにしたあと、景気が回復したあとで、前と同じ賃金で雇おうとしても、それは無理だ。たとえ同じ人間が存在していたとしても、彼は、数年間のブランクがあるせいで、「腕が錆びた」状態になる。「景気が回復したから、また雇用してやるぞ」と呼び寄せても、もはや彼は以前の彼ではない。このとき、彼が錆びたことで、彼自身が損をしただけでなく、企業もまた損をしたことになる。貴重な人材を失ってしまって、補充が不可能だからだ。結局、数年間の小額の人件費を惜しんだばかりに、将来の成長力となる貴重な技術力を失ってしまったことになる。
 結局、不況のときに「不況に対する最適化」を実施しても、それは将来の好況に対しては「最適化」どころか「最悪化」になってしまったわけだ。短期的には「最適化」を果たしたつもりでいても、長期的には取り返しの付かない大失敗をしてしまったことになる。
 人間は生産できない。── ここが根本だ。商品ならば、余分なものは廃棄していいし、不足したものは生産すればいい。しかし、人間は、そうではない。「技術者が余ったから技術者を廃棄する」とか、「技術者が足りないから技術者を生産する」とか、そういう具合には行かないのだ。だから、需給関係だけで話を片付けるわけには行かないのだ。(商品ならば、話は違う。値下げしても売れない物は、在庫にしたり廃棄したりすればいいし、値上げしても需要があるなら、どんどん生産すればいい。価格も数量も可変的だから、需給関係だけでうまく均衡させることができる。)
 結論。
 人間は物ではない。自由に生産したり廃棄したりすることはできない。また、遊ばせておけば、質的に劣化する。だから、人間については、商品のように需給関係だけで片付けるべきではないのだ。人間と原材料とはまったく別のものだ。原材料についてはいくらでも可変的な扱いが可能だから、需給関係だけで話を片付けてもいいが、人間は可変的ではないから、需給関係にはよらずに安定的な処遇が必要となる。
 「失業についても、市場原理による最適化で解決する」なんていうのは、そのことを理解しない戯言(たわごと)にすぎない。


● ニュースと感想  (1月12日)

 【 古典派 】 失業の原因は、誰にあるか? 労働者だ。労働者が、賃下げを拒んだり、職種転換を拒んだりする。だから、労働者が「賃下げ」を受け入れて、「職種転換」を受け入れれば、失業は解決するはずだ。失業があるとしたら、労働者のせいである。
 【 私 見 】 失業が発生するのは、労働者が賃下げを拒むからではない。失業者が雇用されないのは、労働者が雇用されることを拒むからではなくて、雇用者(会社側)が雇用することを拒むからだ。雇用や失業の決定権は、労働者にはなく、雇用者(会社側)にある。

 この問題は、「個々の雇用」に関する問題だ。
 そもそも、失業問題というものは、一般に、マクロ的に考えれば足りる。個々の雇用について論議する必要はない。それでも、一応、古典派の主張の問題点を指摘しておく。
 古典派の考え方に従って、個々の雇用を見ることにしよう。すると、おかしなところに気づく。それは、「雇用の決定権」の問題だ。
 古典派は、「雇用の決定権は、労働者にある」と考える。「いくらでも好きなところに就職できるのに、えり好みして、適正水準以上に高い水準のところに就職しようとする。だから失業が発生するのだ」と。
 それはそれで、一つの説明にはなっている。しかし、あまりにも現実離れした説明だ。
 なるほど、好況のときならば、その説は成立するかもしれない。労働者は引く手あまただから、好きなところに就職できる。しかし、失業が問題となるのは、不況のときだ。不況のときには、たとえ労働者が「安月給で就職したい」と思っても、企業の方がそれを拒む。
 雇用の決定権は、企業にあるのだ。企業が労働者を採用するか否かを決定するのであって、労働者が就職するか否かを決めるわけではない。少なくとも、不況のときはそうだ。

 失業というのは、「労働者が失業したいから失業をする」のではない。換言すれば、「誰が就職して、誰が失業するか」という決定権は、労働者の側にあるのではなく、企業の側にあるのだ。
 失業して自殺する人は、どこにも雇ってもらえないから自殺するのである。どこにも就職する気がないから自殺するのではない。勘違いしてはならない。

( ※ 面白い例を示そう。それは、「美人ほど雇用される」という現実だ。女子労働者の場合、明らかに、「美人ほど雇用される」という現実が見られる。美容整形に関する人生相談を扱うテレビ番組では、「ブスのせいで就職できない」という女性の悩みがしきりに現れる。古典派ならば、これを見て、「ブスならばその分だけ低賃金にすれば就職できる」と主張するだろう。しかし、現実には、そうはならず、どこにも就職できない。……ま、これは、当たり前の話ではある。どこの企業でも、「当社はブスの賃金を下げます」なんて主張しない。「当社規定により優遇」であり、容姿に関係なく同様の賃金を適用する。ともあれ、この例からもわかるとおり、雇用の決定権は、労働者の側にはなく、企業の側にある。……なお、超美人の場合は、どこにでも就職できるので、「労働者の側に雇用の決定権がある」と言えなくもない。しかし、こういう超美人は、もともと失業するはずがないから、失業問題には関係ない。)(古典派というのは、就職できないブスに対して、「あの超美人はどんどん就職できているじゃないか。なのに、おまえが就職しないとしたら、おまえの心根が悪いからだ。すべてはおまえの心根のせいだ」と批判する人物のことである。)

 [ 付記 ]
 冒頭でも述べたが、「個々の雇用」に関する問題は、論議する必要はない。失業問題というものは、マクロ的に考えれば足りる。「誰が雇用され、誰が失業するか」という問題は、経済学では考える必要がない。つまり、経済学は、個々の労働者の顔を見る必要はない。
 「失業の問題」というのは、「失業者が何百万人いる」という数字の問題なのであって、「どこの誰が失業したか」という問題ではないのだ。「誰が就職して、誰が失業するか」というのは、それは個々の人々の人生にとっては大切なことであるが、経済学の側から言えば、誰が失業しようと就職しようと、問題とはならない。
 換言すれば、マクロ経済学は、個別の人間を区別しない。これはこれで、別に悪いことではない。単に「人は平等である」ということを意味しているだけだ。たとえば、「高貴な家柄の人の失業を重視する」とか、「政治家の指定の失業を重視する」とか、「首相の愛人の息子の失業を重視する」とか、そういった区別をしない。どの1人の失業者も、単に、「1人」とカウントされるだけだ。(あえて特定の個人を区別しようとするのなら、それは、経済学ではなくて、政治の問題である。たとえば、「うちの選挙区の失業者を優先して解決しよう」というふうな。)
 マクロ経済学は、各人の顔を見ない。これはちょうど、量子力学に似ている。古典力学は、一つ一つの粒子を区別するが、量子力学は、一つ一つの量子を区別しない。「量子には顔はない」のだ。

 この件は、先に述べた「席のたとえ話」で、よりはっきりとする。
 人が 100人いて、席が 90しかなければ、あぶれる人はどうしても 10人はいる。それが本質的な失業の分だ。それを考察するのがマクロ経済学だ。
 一方、85人は着席しても、空いた5の席に座る人がなかなか決まらない。「この席じゃね」と文句を言っている人がいる。そういう人が 15人いるせいで、5の席が空席となっている。
 ここで、私は、「15人のうち、5人は自発的な失業者だが、10人は非自発的な失業者である。5人は着席できるが、残りの10人は、席の総数を増やさなくては、着席できない」と主張する。(このとき、誰が座れて、誰が座れないかは、問題ではない。「 10人あぶれる」ということだけが大切なのだ。)
 古典派は、逆に、こう主張する。「 15人はいずれも自発的に席に着かずにいるのだ。自発的に席に着かずにいるのだから、席に着こうと思えば席に着ける。だから、彼らがつべこべ言わなければ、15人全員が着席できるはずだ。5の席に、15人が着席できるはずだ」と。
 要するに、彼らは、算数ができないのである。「 15 > 5 」という不等式が理解できないで、「 15 = 5 」と主張しているのだ。そういう人々を、古典派と呼ぶ。

 [ 付記 ]
 それにもかかわらず、古典派は、この個別的な問題を、けっこう話題にする。
 なぜか? なぜ、どうでもいい問題を、ことさら重視するのか? それは、古典派の立場のせいだろう。古典派は、「個々を集めたものが全体はである」と考えがちだ。「日本のマクロ経済を良くするには、個々の企業や個々の人々を良くすればよい。企業は生産性や収益性を向上させ、人々は賃下げを受け入れて、職種のえり好みをやめればよい」と考える。「個々の企業や個々の人々を良くすれば、日本経済全体も良くなる」と考える。そういうふうに、全体よりも個々を重視する。(やたらと「個人の自由」ばかりを唱えて、国家統制に反対する癖が付いているせいだろう。)
 というわけで、古典派は、どうでもいい個々の違いにばかり、気をとらわれるのだ。そして、その代償として、本質的なことを、見逃してしまうわけだ。「木を見て森を見ず」という言葉がぴったり。


● ニュースと感想  (1月13日)

 【 古典派 】 「賃下げ」と「雇用のミスマッチの解消」で、失業問題は解決できるはずだ。
 【 私 見 】 失業問題を解決するには、「賃下げ」と「雇用のミスマッチの解消」なんかはまったく無意味だ。むしろ、「景気の拡大」ゆえの「生産量の拡大」によるのが本筋だ。

 この件は、すでに何度も述べたとおり。
 あらためて、まとめて言えば、こうなる。(前言の繰り返しになるが。)
 古典派が言いたいのは、要するに、「市場原理でカタが付く」ということだ。しかるに、現実には、「失業が発生する」つまり「労働市場で需給が均衡しない」という状況がある。現実が自説を裏切る。そこで、「現実が正しく、自説が間違っている」と反省するべきなのだが、開き直って、「自説が正しく、現実が間違っている」と強弁する。そして、「現実が間違っている」ということを説明するために、「市場原理を阻害する邪魔物がある。それが、賃金の下方硬直性(賃下げ阻止)と、雇用のミスマッチだ。この両者のせいで、実現するはずの均衡が実現しない」と主張する。
 しかし、本当は、そうではない。間違っているのは、現実ではなくて、古典派の自説の方だ。
 では、どこが間違っているか? 論理が間違っているのではなくて、前提が間違っているのだ。「市場原理でカタが付く」つまり「需給関係の調整だけで済む」という前提が間違っているのだ。なぜなら、実際には、「需給関係の調整」というミクロ的な話では済まず、「生産量の増大」および「そのための総所得増大」というマクロ的な話が必要だからだ。
 結局、古典派の間違いは、マクロ的な問題を、ミクロ的な手法で解決しようとしたことにある。つまり、古典派の手法そのものが間違っていたことになる。

( ※ だから、古典派というものは、そういう間違った信念を持っている人々として定義できる。彼らは、知能が劣っているわけでもないし、政治的に偏っているわけでもない。間違った妄想を教条的に信じているのである。一種の宗教的な信者と考えてよい。オウムとか原理教などの、新興宗教の信者にも、きわめて知能の高い人物がいる。こういう人物は、頭が悪いのではなくて、どうにも手の付けられないほど、偏った信仰を持っているのだ。それと同様で、古典派というのは、「神の見えざる手」というものを崇拝している。そして、「これを信じれば必ず御利益があります」と確信して、「アーメン」や「なんまいだぶつ」のかわりに、「市場原理、市場原理」と唱えるのである。……その結果、上記のように、根元的な間違いを犯す。)


● ニュースと感想  (1月13日b)

 【 古典派 】 さらに、企業が経営努力をして、雇用の場を増やせば、状況はもっとよくなる。企業に経営改善を促すべきだ。特に「生産性の向上」を企業に促すべきだ。
 【 私 見 】 企業が経営努力をして、自発的に雇用の場を増やすかどうかは、あくまで個別企業の問題であって、マクロ経済には全然関係がない。はっきり言えば、あらゆる企業が何も努力しないとしても、それはそれで、ちっとも構わない。たとえば、国中の全員が努力しないで、昔ながらの農業をしていてもいいし、社会主義のように古い設備のまま低能率の工場を運営してもいい。それはそれで、全員雇用が可能となる。そこでは、「生産性の低下」という問題は発生するが、「失業」という問題は発生しない。「生産性」の問題と、「失業」の問題とは、まったく別のことだ。「生産性を向上すれば、失業も解決する」というのは、とんでもない妄想である。個別企業の問題と、マクロ経済の問題とは、全然関係がない。 (どちらかと言えば、生産性の向上は、失業を解決するどころか、悪化させるという、逆効果がある。 → 2001年9月26日b10月14日

 これは、だいたい、上に述べたとおりである。つまり、「生産性の向上」というのは、景気とは全然、関係がない。
 歴史を見てもわかる。昔は、今よりもずっと生産性が悪かった。では、ずっと不況だったか? 否。生産性が悪くても、別に不況にはならなかった。
 「景気が良いか悪いか」というのは、「需給ギャップがないかあるか」ということだけで決まる。つまり、需要と供給の相対関係で決まる。昔は、生産力が小さかったが、それに応じて、需要も小さかった。その小さな生産力と需要とが、バランスを保っていた。そして、そういうふうにバランスを保っていることが、大事なのである。
 そのバランスを失った状況が、景気の変動だ。
   「需要が過大」 …… 「インフレ」
   「需要が過小」 …… 「不況」
 というふうになる。あくまで、需要と供給の相対的なバランスによって決まるのであって、生産力の絶対水準には依存しない。
 だから、「生産性を向上させて、生産力を高めれば、不況も失業も解決する」というような理屈は成立しない。大事なのはあくまで、需要と供給の相対的なバランスなのだ。
( → 2月08日 「経済における、量と質」 ,6月22日1月25日

 [ 付記 ]
 実を言うと、古典派の主張には、おかしなところがある。「生産性の向上」とは、「供給力の拡大」を意味する。「不況」というのは、「生産力が過大である」という状況なのだから、「生産性を高めて生産力をもっと過大にする」というのは、状況を悪化させることはあっても、解決することはないのだ。
 「生産力を増やさなくても、生産数量は減らさないまま、コスト低下の効果があるぞ」という主張もあるかもしれないが、それならそれで、生産性の向上した分だけ、労働者は余剰になるから、失業が増える。失業が増えれば、総所得も減って、総需要も減る。結局、問題の解決にはならない。
 わかりやすく言おう。「生産性の向上が大切だ」というのは、実は、「インフレ対策」なのである。たとえば、アルゼンチンのように、猛烈な物価上昇が発生している国では、「生産性の向上が大切だ」というのが正しい。生産性の向上により、多大な製品を供給できて、供給不足という状況を解消できる。
 そういう「インフレ対策」の方法を、デフレのときにやれば、どうなるか? 火を見るよりも明らかだろう。結局、「生産性の向上を」という主張は、インフレとデフレの区別もできない人々なのだ。「インフレもデフレも同じだ。どちらも経済状況が悪いのだ。だから、経済状況を良くすればいいのだ」というわけだ。ひどい単細胞。「違いのわからぬやつ」と称せる。
( ※ ただし、である。こういう人々は、単細胞ではあるが、実は、あまり実害はない。なぜなら、「生産性の向上」といくら彼らが主張しても、実際には、「生産性の向上」は、まったく実現しないからだ。経済学者がいくら「生産性の向上」と叫んでも、その効果はゼロである。なぜなら、経済学者が主張するか否かにかかわらず、企業は、必死に努力しているからである。企業は収益性を高めるために必死に努力する。それが市場原理だ。そして、企業がそうすることこそ、すなわち、生産性の向上をめざすということだ。……経済学者が「生産性の向上」と叫ぶことの効果は、たった一つだ。人々が無駄な意見を聞いて、その分、肝心の仕事をやる時間が少なくなり、その分、生産性が低下することだ。阿呆な古典派の経済学者が口を閉じていることこそ、「生産性の向上」の最善の道なのである。別に、彼らが口を閉じたからといって、生産性が向上するわけではないが、少なくとも、邪魔をすることはなくなる。)
( ※ 誤解されるとまずいが、私は別に、「生産性を低下させよ」と主張しているわけではない。「経済には、量と質の問題がある。量の問題は、量によって解決するべきだ」と主張しているだけだ。「質を良くしても、量の問題は解決できない」とは言っているが、だからといって、「質を悪くすれば、量の問題が解決できる」と言っているわけでもない。「質を悪くすれば、量の問題が解決できる」と言って、日本を弱体化させたがっているのは、「セーフティネット」論者とか、「不良債権処理」論者だろう。彼らの言うとおりにすれば、どんどん日本経済は破壊されていき、質は悪化する。それで不況が解決するはずもないのだが。)


● ニュースと感想  (1月13日c)

 1月02日にまとめた「古典派批判」は、前項までで、いったん完結する。
 このあと、同じ「失業」というテーマで、さらに詳しい考察をしてみよう。
 (古典派を批判することを目的とせずに、古典派の主張を細かく吟味する。)






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