[付録] ニュースと感想 (38)

[ 2003.1.14 〜 2003.1.24 ]   

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● ニュースと感想  (1月14日)

 「賃金の下方硬直性」について詳しく考察しよう。
 このことについては、1月04日 および 1月05日 で、要約を述べた。さて。今また、そのことをさらに簡単に述べることとしよう。(「要約の要約」を述べる。)
  1.  「失業」とは、「労働市場における供給過剰」と見なせる。つまり、不均衡である。
  2.  市場は本来、均衡するはずなのに、不均衡になるとしたら、何らかの理由があるはずだ。
  3.  ケインズは、「賃金の下方硬直性」を指摘した。賃金は弾力的に下がらない。(それゆえ、不均衡が発生する。)
  4.  ケインズは、「賃金の下方硬直性」を、失業の根本原因とは見なさなかった。生産量の不足こそが失業の根本原因だと見なした。(45度線分析。「完全雇用の生産量が必要だ」と考えた。)
  5.  ケインズの意見を加味して、古典派の意見を修正したのが、新ケインズ派である。彼らは、「賃金の下方硬直性だけが失業の原因だ」と考えた。古典派の「市場原理万能」という立場に立脚した上で、「価格に弾力性がないから均衡が実現しない。価格に弾力性があれば均衡が実現する」と考えた。そして「賃下げをすれば失業は解決する」と主張した。
  6.  新ケインズ派は、ケインズふうのマクロ経済分析を取らない。「賃下げをすれば総所得が減って、総需要そのものが減少する」ということを無視して、「賃下げしても総所得は変化しない」と仮定し、そういう無意味な仮定の上で、「賃下げすれば均衡が実現する」と主張する。
  7.  新ケインズ派は、そういう主張のもとで、「賃金の下方硬直性こそが、失業の原因だ。では、賃金の下方硬直性をもたらすものは、何か?」と、犯人捜しに躍起になった。そして、あれやこれやと、いろいろと理屈を提出した。
  8.  しかし、私の考え方では、「賃金の下方硬直性」というものは、根本原因を考えたとき、「市場がうまく働かないこと(弾力性が不足していること)」が根本原因なのではなくて、「市場がないこと」が根本原因なのだ。── 「市場がない」というのは、「毎度毎度の取引がない」ということである。月極料金の商品(新聞代,家賃など)では、いっぺん取引がなされれば、あとはその料金が固定されたまま、売買がずっと継続する。賃金も同様である。ここでは、「雇用の継続性」(契約の継続性)がある。
 以上が、先に述べたことだ。
 これをさらに簡単にまとめれば、次のようになる。
 以上が、基本的な話の流れだ。
 こういうことを前提とした上で、新ケインズ派の考え方などを見ていこう。


● ニュースと感想  (1月15日)


 「価格の下方硬直性」を説明する、新ケインズ派の理屈を紹介しよう。
 彼らは、「本来は均衡点に決まるはずなのだが、何らかの阻害要因があるために、均衡点に達しない」と考えて、次のように説明する。( → 1月05日 で示した通り。)
  1.  労働者が賃下げに抵抗する。
  2.  経営者が賃下げに熱心でない。
  3.  賃下げをすると、労働者が怠けるから、無意味。
 このうち、1. は自明だろう。(労働組合がストライキなどをして抵抗する。)
 さらに、次の (a)(b) のような説もある。(このうち、 (a) は、上の 3. に相当し、(b) は、上の 2. に相当する。)

  (a)効率賃金理論
  ……「賃金を切り下げると、労働意欲を下げる」という説。(ソロー、スティグリッツなど。)
  (b) インサイダー・アウトサイダー理論
  ……「労働者を全員クビにして、新たに(低賃金で)雇用すると、余分なコストがかかる」という説。(サマーズなど。)

 さて。この (a)「効率賃金理論」 と、(b)「インサイダー・アウトサイダー理論」を、どう評価するべきだろうか? 
  (a) は、全然、理屈になっていない。「賃下げをすれば、働かなくなる」ということは、成立しない。逆に、「賃下げをすれば、いっそう働くようになる」のだ。一見、逆説的ではあるが、こちらが真実だ。
 なぜか? それは、景気の状況に依存するからだ。普通の状況ならば、「賃下げをすれば、働かなくなる」ということは、成立するだろう。しかし、不況期では、「賃下げをすればするほど、労働者は働くようになる」と言える。もう少し正確に言えば、「賃下げをせざるを得ないほど、企業が危機状態になれば、労働者は、失業を恐れて、必死に働く」というふうになる。
 「人は金目当てでのみ働く」と考えるのは、米国流の拝金主義のエコノミストの、悪い癖だ。実際には、「金をいっぱいやれば、労働者はいっぱい働く」とは限らない。たとえば、小原庄助さんなら、「金は少しでもいい。朝寝、朝湯に、朝酒が大好き」と思う。しかし、小原庄助さんでも、いざ失業の危機となれば、必死に働きかざるを得ない。
 「労働意欲は金に比例する」と思うのは、とんでもない間違いだ。早い話が、米国の社長連中を見ればわかる。彼らは、一般社員に比べて、何十倍もの高給を得ている。では、それで、何十倍も労働意欲があるか? 否。反対だ。彼らは、必死に働くかわりに、必死にチョロマカシをしようと努力する。ストックオプションとか、タックスヘイブンの利用による脱税・節税とか、会計操作による架空利益の計上とか、そういうことばかりに熱中して、肝心の本業はほったらかしだ。
 はっきり言おう。「労働意欲は金に比例する」と思うのは、「おれが働く気がないのは、給料が安いからだ」と不平を垂らしている、怠け者だけだ。彼らは自分のサボり癖を、自らの責任にせず、雇用者のせいにしている。それだけだ。……そして、そういうサボり屋の経済学者が、サボっている自己を弁護するために出した理屈が、上記の説だ。
( ※ ノーベル賞の田中耕一という例を思い出すがいい。彼は、金目当てで働いたか? 違う。安月給でも、熱心に研究した。安月給に不平を垂らして、その不平や与太を学説にまとめた、というお手軽な経済学者とは違うのだ)
( ※ 普通の人々でも、同様だろう。たとえば、企業や大学で研究職に就いている人々は、どうか。たいていは、「若いときは必死に働き、経験を積んだ中年以降はマイペース」になっているはずだ。それが成長というものだからだ。若いときは、必死にがむしゃらに働くが、なかなか成果が上がらない。中年以降は、必死に働かなくても、どんどん成果が上がる。それが人間の成長だ。……ここでは、「若いときは労働意欲は高いが低所得」であり、「中年期には労働意欲は低いが高所得」となる。一般に、高所得の人々は、「ことさら意欲がなくても、十分に成果を挙げられる」という高度な技術を習得しているものだ。結局、所得が高いか低いは、成果に依存するのであって、意欲に依存するのではないのだ。そしてまた、成果と意欲とは、直接の関係はないのだ。)
( ※ 実は、「賃下げすれば働かなくなる」というのは、成立する場合がある。それは、個別の人々に話を適用した場合だ。ある人だけを賃下げすれば、その人は、「おれだけ賃下げ? 馬鹿馬鹿しくてやっていられるか。クビにしたけりゃしろ」と思って、働かなくなる。しかし、赤字企業で社員全員を賃下げした場合や、国中の企業で賃下げした場合には、「賃下げで働かなくなる」ということはない。つまり、個別に適用されることが、国全体に適用されるとは言えないのだ。その違いが大切だ。どうも、古典派は、この種の勘違いをしがちだが。)

  (b) は、もっともらしい理屈だが、実を言うと、「メニュー・コスト理論」というのと同じ考え方にすぎない。「商品価格は、変更するのはコストがかかるから、変更しない」というのが「メニューコスト理論」である。( → 7月30日 ) 同様に、「雇用も、賃金を変更するとコストがかかるから、変更しない」というわけだ。
 しかし、この考え方は、実は、結論と理由が逆なのである。理由によって結論を示したのではなくて、最初に「硬直性」という結論を用意して、そのための理由を適当にこねあげたにすぎない。実際、その理由は、全然、理由になっていない。
 たとえば、メニュー・コスト理論では、「価格改定のコストがかかる(だから改訂しない)」と主張しているが、実際には、価格の改定など、どこでもしょっちゅうやっている。賃金の改定だってそうだ。毎年、春闘で、賃金の改定をやっている。雇用の改訂だって、そうだ。毎年、新規採用をしたり、中途採用をしたり、退職者を出したりしている。「希望退職」というのもある。「正社員を解雇して、派遣社員を雇う」という形もある。「高齢者を解雇して、若年者を雇う」という形もある。……とにかく、「人員の交替にともなう賃下げ」というのは、いくらでもやっているのだ。できる範囲で。

 結語。
 結局、(a) も (b) も正しくない。つまり、上の 3.  2. も 正しくない。 はっきり言おう。「賃下げ」の阻害となるのは、 1.  の「労働者が賃下げに抵抗する」ということだけだ。
 だから、労働者が賃下げに抵抗をしないとき、つまり、労働者が「いくらでも賃下げを受け入れます」と受け入れるときには、経営者は喜んで、どんどん賃下げを実施する。
 たとえば、2002年の春闘がそうだ。労組が抵抗しそうなので、経営者は初めのうちは微弱な賃上げを回答して、労使が妥結した。ところが、トヨタの賃上げが予想以下だったために、「トヨタさえそうならば、うちはもっと低くしよう」と思い直して、数時間前に出した回答を撤回して、さらに賃下げを申し出た。労組は抵抗せずにそれを受け入れた。そして、労組が受け入れたから、あっさり賃下げを実施した。(下方硬直性など、かけらもなかった。)
 最近でも、トヨタやその他の労組が「2003年のベアはゼロ」という方針を打ち出した。(2003-01-08 朝刊・夕刊 ) この「ベアがゼロ」は、莫大な企業収益や生産性向上を考慮すれば、「賃下げ」に等しい。(かくて企業ばかりが利益を溜め込む。)
 結局、労組さえ受け入れれば、いくらでも賃下げは可能なのだ。「賃金の下方硬直性」と言えるのは、「労働者の抵抗」だけなのだ。
 そして、賃上げについて言えば、労働者が「少しでも高い賃金を」と望むのは、好況であっても不況であっても同じことだ。だから、「賃金が下がりにくい」というのは、何らかの硬直性(変化のしにくさをもたらす構造的要因)があるからではなくて、単に、「労使の力関係で賃金が下がりにくいことがある」というだけのことだ。そして、不況がひどいときには、力関係で、労働者側が弱くなる。だから労働者がずるずると押し切られる。こういうときには、硬直性もへったくれもない。スムーズに賃下げがなされるだけだ。

 まとめ。
 「賃金は下がりにくい」という現象はある。その意味で、(ケインズの言う)「賃金の下方硬直性」という現象はある。しかしそれは、単に、労使の力関係でそうなっているだけのことだ。経済システムにおいて、「弾力性を阻害する構造的要因」があるわけではない。(しいて言えば、心理的な抵抗感だけだ。「賃下げは悪だ」という心理的な印象があるから、賃下げに対し、労働者は強く抵抗するし、経営者は申し訳なく思う。そういう心理的な壁があるだけだ。合理的な理屈を探すのは無意味だ。)
 新ケインズ派は、硬直性をもたらす実質的な原因があると想定して、「それのせいで市場が不完全になる」と主張する。それを「失業発生」の理由と見なす。
 しかし、そうではない。失業発生の理由は、ミクロ的な「市場の不完全さ」とは別のところにある。それは、マクロ的な理由だ。なのに、マクロ的なことを無視して、「ミクロ的に見て、均衡が阻害されているから、不均衡が発生する」という新ケインズ派の考え方は、物事の根本を見失っているのだ。( → 前項を参照。)

 [ 余談 ]
 たとえ話。
 相撲で、相手を「寄り切り」で押し出そうとする。負けそうになった力士は、必死で踏ん張るので、なかなか土俵を割らない。勝ちそうになった力士は、気が優しいせいか、負かしたら悪いと思って、あまり力が入らない。というわけで、土俵際で、延々と膠着状態になっている。
 それを見て、経済学者は、叫んだ。「土俵際には、下方硬直性がある! それが土俵の勝敗を不完全にしているのである。この下方硬直性をなくせば、なめらかに土俵を割るようになるので、簡単に勝負が付くはずだ」と。
 そう思って、下方硬直性をもたらすような、何らかの阻害要因を探そうとした。紐や壁などがあるのではないかと思って、鵜の目鷹の目で探した。しかし、何も見つからなかった。(俵がちょっとだけ高くなっているのを見出したが、それは下方硬直性を説明するには根拠が弱すぎた。)
 本当は、何らかの阻害要因があったわけではない。力士の心の問題があっただけだ。だから、「本気でやらないと、二人ともクビだぞ!」と理事長が一括したとたん、勝負はあっさり付くようになった。
 すると経済学者は、「土俵上で硬直性が消えたからだ」と主張した。……ふうむ。では、理事長の声がデカすぎて、硬直性が吹っ飛んだのだろうか? 吹けば飛ぶような硬直性。


● ニュースと感想  (1月16日)

 「賃金の下限」について。
 「価格の下方硬直性」については、前項で示した。これは、「価格が下方に変化しにくいこと」を意味した。
 一方、それとは別に、「賃金の下限」というものも考えられる。「その水準までは容易に下がるが、それ以上はどうしても下がりにくくなる」という、一種の壁である。
 これは、商品価格で示した、「トリオモデルにおける下限直線」と同様のものである。商品価格では、「原価」というのが、壁となる。原価までは値下げが可能だが、それ以下になると、赤字が発生するので、(一時的な例外を除けば)、原価割れの価格にはなりにくい。強引に原価割れの価格にすれば、もはや存在できなくなる(倒産する)。

 賃金においても、壁のごときものはある。「その額以下になると、もはや、存在できなくなる(餓死する)。だからその額以下を、受け入れない」というわけだ。これは心理的な壁を築く。
 では、その価格は、どう算定されるか? 次のような例が考えられる。( → 1月05日 で示した通り。)
  1.  最低賃金
     …… 法律で決まる最低賃金よりも低い額にはならない。やれば、法律違反。
  2.  不労所得賃金
     …… 失業手当または生活保護でもらえる額がある。これ以下の賃金では、働くのが損。
  3.  生活可能賃金(生存のために必要な賃金)
     …… 衣食住をまかなえる金額以下では、たとえ働いても、いつかは生存不可能となって、餓死する。
  4.  賃金ゼロ
     …… 赤字企業では、生産すればするほど赤字が出るので、労働者の賃金をゼロ以下(マイナス)にしなくては存立できない。このような職場に就職できても、何の意味もない。
    (例 :電力の需要量は、需要側で決まる。なのに、生産側が、「賃金コストがゼロ以下だから」という理由で余剰電力を発生させても、その電力はすべて無駄なので、捨てるしかない。ここでは、発電量拡大のためのコストとして、莫大な石油代がかかる。一方で、売上げの増加はゼロだ。莫大な損失が発生する。その損失の分を、労働者に払ってもらう必要がある。新規雇用を1人増やすとして、彼の賃金はマイナス1億円ぐらいとなるだろう。……現実には、そんな雇用はありえないが。)
 この4つのいずれも、賃下げの(心理的な)壁になる。後のものほど、額は低くなり、(心理的な)抵抗はいっそう強くなる。第1の壁(つまり最低賃金)を破っても、さらにそのあと、第2,第3,第4の壁がある。

 なお、通常言われるのは、以上のどれとも異なり(どれよりも高く)、次のような賃金水準だ。

  0. 予想将来賃金
    ……景気回復後にもらえると予想される賃金(正当な賃金)。

 自己を安売りしたがる人はいないから、これはこれで当然だ。仮に、これより低い額で就職すれば、いずれはまた転職することになる。それでは無駄だ。だから最初から、正当な賃金で雇用されたがる。
 ただ、不況という状況では、労働需要が縮小しているせいで、そうことが都合よく行かない。そのせいで、失業が発生する、というわけだ。

 さて。この「下限直線」という問題について、どう評価すればいいだろうか? 
 事情は、もちろん、商品市場における場合と、同様だ。(トリオモデルから、そうわかる。)
 商品市場の場合では、新ケインズ派は、こう主張する。── 「価格が下がりにくい(価格の硬直性がある)のが、不均衡の原因だ。もっと価格を下げよ。そうすれば均衡する」と。この主張では、「原価割れがあるので、価格を下げられない」(無理にやれば赤字拡大で倒産する)ということを、無視している。
 では、正しくは? 「需要の不足を放置したまま、価格を下げて、均衡を回復する」のではなくて、「需要を増やして、需要曲線をシフトさせる」ことだ。そうすれば、「原価割れでない価格が成立するところに、均衡点を移す」ことができる。
 労働市場の場合も、同様だ。正しくは? 「労働需要の不足を放置したまま、賃金を下げて、均衡を回復する」のではなくて、「労働需要を増やして、需要曲線をシフトさせる」ことだ。そうすれば、「下限となる賃金よりも高い賃金が成立するところに、均衡点を移す」ことができる。

 結語。
 「下限直線割れ」という現象が発生したときは、「何らかの価格硬直性があるから、均衡が成立しない」のではない。「下げたくても、もはや下がらない水準まで、下がってしまった」から、もはやそれ以上は下がらないのだ。
 そして、「下限直線割れ」という現象が発生したときは、ミクロ的な需給調整(市場原理)だけでは、問題は解決しない。「市場原理を完全にすればいい」つまり「硬直性を取り除き、価格や賃金を下げればいい」というのは、見当違いの方策なのだ。マクロ的に、「需要そのものを増やす(需要曲線をシフトさせる)」という対策こそが必要だ。

 [ 付記 1 ]
 「マイナスの賃金」というのは、理屈ではあるが、現実にはありえない(はずだ)。なぜなら、「賃金ゼロ」ならば、そこには誰も就職しないからだ。いわんや、「マイナスの賃金」のところに就職する人はいない。働いて金を奪われるくらいだったら、家で寝転がっていた方がマシだ。
 上記で「マイナスの賃金」というのを述べたのは、「均衡にするには、マイナスの賃金が必要だ」ということである。「現実にそういうことがある」ということではない。
 結局、「均衡点がマイナスとなるときには、賃金ゼロが下限となって、均衡しなくなる」というわけだ。これは、「均衡点がマイナスのと金は、金利ゼロが下限となって、均衡しなくなる」という「流動性の罠」と同じだ。金の場合には、「使われない金が余って滞留する」というふうになり、労働者の場合には、「使われない労働力が余って失業する」となるわけだ。状況的には、同様である。

 [ 付記 2 ]
 「マイナスの賃金」が成立する場合も、例外的にある。
 たとえば、ヘボ小説家やヘボ漫画家の会による同人雑誌。みんなが金を持ち寄って、同人雑誌を作るわけだ。あるいは、金持ちの道楽としての、自費出版。……こういう場合、賃金はマイナスとなって、そこで均衡する。
 ただし、である。こういうのは、「損を覚悟でやる」わけだ。となると、もはや、「仕事」や「経済」ではなくて、「趣味」「遊び」の話となるだろう。つまり、経済学の扱う話題ではなくて、趣味娯楽講座の扱う話題となりそうだ。
 逆に言えば、「マイナスの賃金」になったら、それはもう「失業」とは言えないのである。「マイナスの賃金になれば均衡するから、それをめざせ」と主張するのは、古典派経済学者だけだろう。
( ※ 何だか無意味な話に聞こえるだろう。たしかに、無意味だ。しかし、古典派経済学者の主張がそもそも無意味なのだから、話が無意味になるのも、仕方ない。)

 [ 補説 ]
 「最低賃金制度」について。
 上記では、「マイナスの賃金」というような極端な例を挙げて、問題視した。しかし、そうした極端な例を除けば、「最低賃金」というのは、最も甘い(高額の)「下限」となる。だから、新ケインズ派の立場からは、「最低賃金など廃止してしまえ」とか、「最低賃金をもっと下げよ」とか、そういう結論になるだろう。「下限があるから均衡しないのだ。下限をもっと下げれば均衡する」というわけだ。均衡至上主義である。
 しかし、こういう均衡至上主義は、問題となる。
 「最低賃金」というのは、普通は、「人並みの生活を送れる最低限度」の水準でしかない。「生活保護」というのは、「人並みの生活」ではなくて、「生存ギリギリ」であって、真夏にクーラーも使えないような生活である。昔の夏ならともかく、現代の都会の猛暑には、クーラーぐらいは必要だと誰もが思う。その他、最低限度の文化的な生活も送りたい。子供がいれば、義務教育の中学だけではなくて、せめて高校ぐらいにはやりたいと思う。……こういう水準が「最低賃金」のレベルだ。
 そして、そういう低レベルの水準を保証するのをやめてしまえ、というのが、新ケインズ派の意見だ。あまりにも非人間的である。
 仮に、最低賃金のレベルを下げれば、どうなるか? 通常は、失業手当をもらう。しかし、失業手当も、いつかは切れる。切れた時点で、貯蓄を取り崩すしかない。貯蓄を取り崩して、貯蓄がなくなれば、あとはどうなるか? 「生活水準をこれ以上は下げない」という前提のもとでは、サラ金に頼るか、犯罪に走るかだ。サラ金ならば、借金取りに追い立てられたあげく、最後には犯罪に走る可能性が高い。
 つまり、「最低賃金」とか「失業手当」とか「生活保護」とか、そういう福祉的な政策は、「弱者を甘やかす」という意味だけでなく、「社会の安定を保つ」という意味もあるわけだ。実際、こういう社会保障の外にある人々として、外国人の失業者がいるが、彼らは犯罪に走る率が非常に多い。「中国人の犯罪者がつかまったので、通訳として警察に呼ばれてみたら、つい先日までいっしょに働いていた同じ中国人の仲間だった。彼は失業したので、犯罪に走るほかなかったらしい」という例も新聞で報道された。
 「犯罪に走るのはけしからん」と保守派の人はいうかもしれない。しかし、犯罪というのは、古典派経済学者の意見に従っているのだ。なぜなら、それが最も合理的な行動だからだ。一般に、犯罪は割に合う。検挙率も今では低いし、検挙されて罰金を喰らってもたいしたことはない。また、逮捕されて監獄に入れられても、そこでは三食が保証される。一方、犯罪をしないで、餓死するのは、最悪だ。また、餓死しなくても、最低賃金以下では、監獄の生活も同然だ。「成功すれば薔薇色、失敗してもトントン、しかも、成功する確率が高い」となれば、その行動を取るのが最も合理的である。
 とにかく、「均衡を実現するためには、非人間的なレベルにまで賃金を下げればいい」という古典派の意見は、現実的な解決策にはなっていないわけだ。机上の空論と言える。
( ※ この件、より本質的には、翌日分の (2) を参照。)

 [ 参考 ]
 上記の「犯罪は割に合う」というのは、事実である。統計的な調査もある。たとえば、犯罪の検挙率は、6割から2割まで低下した。[読売・朝刊・社説 2003-01-09 ] また、犯罪の規模が拡大しているのに、罰金はきわめて小額だ。確率的な「期待値」を考えれば、今や、経済的に最も合理的な商売は、犯罪だと言えよう。特に、人身を傷つけない経済犯罪は、非常にお得である。「廃棄物の投棄」や、「軽油の不法精製」や、「ネット詐欺」や、「著作権侵害」は、ざらだ。「賃金不払い」ないし「サービス残業」ならば、多くの企業や国が実施している。これらはほとんど野放しである。経済犯罪ほど有利な商売はない。


● ニュースと感想  (1月17日)

 「雇用の継続性」について。
 「雇用の継続性」に付いては、先に示した。( → 1月05日 の (2)
 つまり、雇用については、普通の商品とは違うところがある。毎度毎度の取引がなされない。いったん契約がなされたら、その契約がずっと続く。そのせいで、「契約条件の変更」は起こりにくい。つまり、「賃金の硬直性」がある。ここでは、「市場で競争が不十分である」とか、「市場が不完全である」とか、そうふうに市場に欠陥があるわけではなくて、市場そのものがないのである。
 そのことは、次の二つから、わかる。
  1.  契約更改のある雇用
     契約更改が毎度毎度ある雇用では、賃金には十分に弾力性がある。たとえば、プロ野球選手の年俸交渉は、成績に応じて、大きく変動する。また、期間契約の派遣社員や、季節労働者の給与は、不況期には急低下し、好況期には急上昇する。(バブル期には、自動車産業の季節労働者の給与が正社員よりも高くて、話題になった。一方、今や、派遣社員の給与は、非常に低い水準にある。)
  2.  月極の商品
     新聞代や、月極駐車場代や、家賃など。これらは、いっぺんなされた契約がずっと続くので、デフレのときでも、なかなか下がらない。(だから、新聞社は、「広告代が減った」と騒ぐことはあっても、「購読者が減った」と騒ぐことはない。世間の「需要不足」ということを身にしみて知らずに、平気でいられる。仮に、宅配制度や月極料金を廃止して、駅売りだけにすれば、不況期には、購読者数が激減するだろう。とにかく、こういう契約制度のおかげで、新聞社は、世間の不況を見ても、けっこう平気でいられるわけだ。同じことは、アパートの大家についても言える。)
 こういうふうに、雇用については、一般の商品とは事情が異なる。単に「市場原理で、需給の調整だけをすればいい」(だから価格低下で量的拡大をすればいい)というふうにはならないのだ。
 雇用と一般商品との違いは、次のような点がある。
  1.  契約の継続
  2.  数量調整の困難さ
 (1) 契約の継続
 すでに示したように、賃金については、毎度毎度の取引(契約更改)がない。あるとしても、せいぜい、春闘ぐらいだ。そのせいで、賃金が大きく変動することはない。これが「硬直性」をもたらす。
 新ケインズ派ならば、「それは市場が不完全だからだ。賃金が大きく変動するように、柔軟な賃金制度を整えればいい」と主張するだろう。たとえば、「全員を年度契約の契約社員にすればいい。景気の良いときには高賃金。景気の悪いときには低賃金。こうすれば、うまく数量調整が進むので、失業は解決する」と。
 しかし、そんなことでは、ダメなのだ。つまり、「賃金の硬直性をなくして、賃金を弾力的にすることで、労働の需給を均衡させればいい」という考え方では、ダメなのだ。なぜか?
 そもそも、企業としては、賃金の硬直性を前提として経営方針を立てる以外にはないのだ。というのは、それが現実だからだ。企業は、現実を前提として、経営方針を立てる。古典派経済学者の空想論を前提として、経営方針を立てるのではない。古典派経済学者が、「景気の状況に応じて、賃金が自由に変動すればいい」といくら主張しようと、企業はそんな説をまったく信じないのだ。そんなことは、現実にありえないからだ。(現実にありえないことを前提として、「これこれの前提ならば、これこれである」と論理を組み立てるのは、「砂上の楼閣」と称する。これをやるのは、経済学者だけだ。まともな人間は、やらない。)
 たとえば、「不況期に低賃金」ということを前提したとしよう。それで、「低賃金で大量の労働者を雇用をして、大規模な工場を建設する」としよう。古典派の経済学者や、「どうだ、これで失業問題は解決する」と主張するだろう。しかし、である。当面は、それでいいとしても、将来、どうなるか? 景気が回復したら、どうなるか? 未知は二つだ。一つは、「雇用の継続性」によって、低賃金を続ける。となると、労働者はみんな逃げ出すので、工場は、もぬけの殻となり、生産が不可能となって、遊休する。もう一つは、「雇用の継続性」をやめて、低賃金から高賃金に改める。しかし、それでももはや、低賃金のメリットは消えるから、売上げの減少に悩み、やはり、工場は遊休する。……結局、いずれにしても、工場は遊休する。ただのゴミとなる。莫大な赤字が発生するだけだ。
 結局、「賃金の硬直性」を否定して、「不況期だけは低賃金」というのを前提しても、企業にとっては無意味なのだ。企業にとって意味があるのは、「ずっと低賃金」か、「ずっと普通の賃金」か、どちらかである。そして、「ずっと低賃金」というのは、景気回復後にはありえない。だから、そんなものを信じることはできない。ゆえに、「ずっと普通の賃金」というのしか、選択肢はないのだ。そして、「ずっと普通の賃金」ならば、「不況のときに低賃金」というのを前提とするわけには行かないのだ。(やれば、将来になって、工場が遊休するだけだ。)
 雇用というのは、ほぼ無変化で継続されなくてはならない。そして、それは、労働者にとって大切なだけでなく、企業にとっても大切なのだ。
 「不況期には、低賃金で大量に雇用すればいい」と古典派経済学者は言う。しかしそれは、「好況期には、高賃金または労働者難で工場が遊休する」ということを意味する。そんな経営をする経営者はいない。
 つまり、「賃金をなめらかに価格調整することで、労働の需要を数量調整する」という考え方は、成立しないのだ。「価格調整による数量調整」という考え方そのものが間違っているのだ。
 労働力は、単に「市場における需給関係」だけで決まるのではない。むしろ、「価格(賃金)はあまり変化しない」ということを前提とした上で、労働の需要曲線そのものをシフトさせることで、均衡させるべきなのだ。
( ※ なお、この立場は、一般商品についても言える。「均衡点に合わせるため、原価割れをするほど価格低下を起こせばいい」という説は成立せず、「総需要そのものを増やすことで、原価以上の価格に均衡点を移せばいい」という説が成立する。)
( ※ 新ケインズ派ふうの主張について、注釈しておく。「雇用の継続性があるのか。それが市場の不完全さをもたらすのだな。だったら、雇用の継続性を打破して、全員を派遣社員にして、雇用を流動化すれば、市場はなめらかになるので、不況は解決する」という主張がある。いわゆる「人材の流動化の促進」だ。それで景気が回復すると信じている。それは正しくない。「雇用の継続性」そのものは、景気悪化要因ではないのだ。また、余剰設備を廃棄するように、余剰人員を廃棄する[殺す]ことが解決策でもないのだ。正解は、「間違った状況に人間を合わせること」ではなく、「間違った状況そのものを正すこと」だ。 → 1月11日

 (2) 数量調整の困難さ
 上の (1) では、「労働市場は、一般商品市場とは違って、市場原理による需給関係だけでは決まらない」ということを示した。
 実は、似たようなことは、別の点でも言える。労働市場が、一般商品市場とは違う点は、他にもある。それは、数量調整の困難さだ。
 一般商品ならば、数量調整は、簡単だ。需要が低下したら、価格低下にともなって、生産を減らせばよい。需要が増えたら、価格上昇にともなって、生産を増やせばよい。そうやって、価格に応じて、供給量を変化させることができる。(その意味で、「市場原理によって、価格を通じて、需給を均衡させる」という考え方は、成立する。)
 しかし、労働市場では、そうは言えない。たとえば、労働需要が増えたからといって、労働者を増産することはできない。(生産力のない赤子を増やすことはできるが、大人を増やすことはできない。) また、労働需要が減ったからといって、労働者を減産することはできない。(余った失業者を死なせることはできない。)
 結局、「価格調整による数量調整」という「市場原理」は、労働市場では成立しないのだ。先に「数量」(全労働者数)という数字があって、それに合わせて、需給を均衡させることが必要なのであって、「均衡点に合わせて数量を調整すればいい」という考え方は、本末転倒なのだ。
 「市場原理で失業を解決しよう」というのは、「人間を物と見ている」のと同じだ。「人間のために経済がある」のではなくて、「経済学のために人間がある」というわけだ。「失業をなくすために経済状況を整える」のではなくて、「経済状況に合わせるために人間の事情を整える」というわけだ。
 古典派は、「均衡点」というものを信奉する。「均衡点に達することこそが大切なのだ。そのためには賃下げでも何でもやれ」と。違う。均衡点は、前提ではない。前提は、人間なのだ。均衡点に人間を合わせるべきではなくて、均衡点を人間に合わせるべきなのだ。そして、そのために、労働市場の需給曲線を変動させるように、マクロ政策を実施するべきなのだ。それが正解だ。
 「市場原理だけでカタが付く」と信じている古典派は、人間を商品と同じものだと見なしているのである。
( ※ もう少し説明しよう。人間は商品ではない。余ったからといって廃棄できない。だから、「需給を均衡させることが大切だ」「そのために価格や数量を均衡点に達するようにすればいい」という均衡至上主義は、成立しないわけだ。なすべきことは、「既存の均衡点に移ること」(均衡が実現するように阻害条件をはずすこと)ではなくて、「既存の均衡点を、正当な領域に移動させること」なのだ。それは、つまり、「(マクロ的な方法で)需要曲線をシフトさせる」ということだ。── なお、前にも、「間違った状況に人間を合わせるべきではなく、間違った状況そのものを正すべきだ」と述べた。 → 1月11日

 [ 付記 1 ]
 「賃金の硬直性をなくして、賃金を弾力的にすることで、労働の需給を均衡させればいい、という考え方はダメだ」と先に述べた。その理由を、「雇用の継続性」によって説明した。
 なお、このこと(賃金の硬直性をなくしてもダメということ)は、別の理由からも言える。
 すでに述べたとおり、「マクロ的な所得の効果」がある。「賃金の低下は、マクロ的な総所得の低下をもたらす。それゆえ、総需要と総生産を低下させる」となる。
 つまり、賃金の硬直性をなくして、賃金を下げても、単にデフレスパイラルを進めるだけであって、失業解決の効果はないのだ。
 換言すれば、個別企業にとっては「人件費抑制」によって収益性向上の効果があるが、国全体では全企業が売上高の縮小を起こす。こういうときには、賃金を上げても下げても、企業にとっては解決策とはならない。マクロ的な総需要縮小の問題は、個別企業の努力では解決できないのだ。(「合成の誤謬」だ。)

 [ 付記 2 ]
 「賃金の硬直性」に関して、「市場が不完全なのではなく、市場がないのだ」と述べた。このことについて説明しよう。
 言うまでもないが、これは、「市場がまったくない」という意味ではない。正確には、「市場はあまりない」ということだ。どういうことかというと、「毎度毎度の取引がないから、その分については、市場がない」ということだ。
 一方、それ以外の分については、市場が存在する。新規雇用や中途採用者の雇用がそうだ。
 後者の分については、市場が存在し、そこで決まる価格が、他の分にも波及する。とはいえ、この波及は、はっきりしたものではない。
 似たものに、野菜や魚などの市場がある。中央の市場で決まった価格が、地方の市場にも波及する。あるいは、株式市場がある。東証で決まった価格が、他の地方市場に波及する。
 しかし、労働市場では、そういう明確な関係はない。それというのも、労働力というのは、質の差が激しいからだ。中途採用者について、「このくらいの経歴でこのくらいの賃金」というのは決まるが、特定の企業で、「エンジンのピストンの開発の技術者で、一人で完璧な設計をこなせて、他社よりも優れたエンジンを開発した人材」という技術者がいたとして、その賃金を市場価格から反映させようとしても、そうすることはできない。なぜなら、そもそもそういう人材の市場がないからだ。
 結局、その技術者については、社内で「企業と本人」との契約交渉がない(市場がない)だけでなく、参考とするべき「他社と他人」との契約交渉もない(参考とする市場がない)。
 だから、普通の企業では、賃金というものは、なかなか変動はしにくいものだ。「能力給」なんて企業が主張しても、うまく決める指標がないわけだ。
 一方、もしもそういう市場があるのならば、適切な賃金はちゃんと決まる。(たとえば、プロ野球の選手。コンビニのアルバイトなどの、短期契約・単純労働。山谷の日雇い人夫。)こういう場合には、「賃金の硬直性がある」というような説は成立しない。しかし、だからといって、「失業者はみんなプロ野球選手になれ」とか、「失業者はみんな、単純労働者か、日雇い人夫になれ」という具合には行かない。
 さらに、より根本的な問題がある。たとえ「他社と他人」の例で、「参考となる市場」があるとしても、「それを波及すればいい、そうすれば適切な価格になる」とは言えないのだ。このことは、大切なことなので、強調しておく。
 こういう市場を「限界市場」と呼ぶことにしよう。(「限界」というのは marginal のことで、経済学ではよく使われる用語。「平均」と対になる。)
 「限界市場」の代表例には、不動産取引がある。実際に取り引きされるのは、不動産市場で取り引きされた価格だけである。一方、取り引きされない、大多数の不動産がある。
 この取り引きされない分については、次のように反映がなされることがある。
 このような「限界市場の相場を、他の大部分に波及させる」という方法は、通常はうまく行くが、場合によっては、うまく行かなくなる。特に、市場が急激に変動した場合がそうだ。
 たとえば、後者の担保設定だ。バブル期には、相場を参考にして、非常に高い担保価値を設定した。そのあげく、あとで担保価値が暴落して、融資した分は不良債権となった。
 一般に、全体のうちのごくわずかしか市場に出ない商品については、市場で成立する価格が最適だとは言えないのだ。市場の思惑によって、実態を無視した乱高下が発生することがあるからだ。……それが、「限界市場」の特性だ。
 そして、賃金についても、このことは当てはまる。国民の大部分については、本人の賃金を市場で正当に評価することができない。というのは、その分が、公開された市場には現れず、社内だけで決まるからだ。各人ができるのは、「不当に安い賃金だと思うから退社する」ことぐらいであって、「複数の会社から妥当な賃金を呈示される」ことではない。つまり、市場がない。
 以上が、「労働力については市場がない(ろくにない)」と述べたことの説明だ。たしかに、新入社員や、中途採用の分については、市場があるが、それは、「限界市場」にすぎないのだ。大多数の分については、市場はないのである。(労使交渉の「春闘」は、市場に似ているが、市場とは異なる。買い手が複数存在するわけではないからだ。)

( ※ 「限界市場」があるのは、どういう商品か? それは、「消耗しない商品」だ。たいていのものは、消耗する。たとえば、食品は消えてなくなるし、自動車やパソコンは古びて価値がなくなる。しかし、人間や土地は、消耗しない。入手したあと、すり減ったりすることなく、長期間にわたって価値が継続する。それゆえ、取引されない分が多大に存在して、取り引きされる分の割合を減らすのである。)


● ニュースと感想  (1月18日)

 「フィリップス曲線」について。
 「フィリップス曲線」というのが、有名である。これは、「失業と物価上昇率の相反する関係」を示す。
 この件については、すでに述べたことがある。次のように。(リンク先も参考のこと。)
  1.  成立と不成立
     フィリップス曲線は、だいたい成立すると見なされていた。しかし、スタグフレーションの時期にはまったく成立しないことが判明した。( → 5月02日b
  2.  物価上昇の種類
     物価上昇というものは、一律ではなく、次の3種類がある。
       (a) 「均衡点の移動」(均衡状態におけるインフレ)
       (b) 「上限均衡点の突破」
       (c) 「貨幣数量説的な物価上昇」
     これらは、「生産量の拡大」をもたらすかどうかで、次のように言える。
       (a) は「生産量の拡大」を十分にもたらす。
       (b) は「生産量の拡大」を全然もたらさない。
       (c) は中間的である。
     この3種類の「物価上昇」を区別することが大切である。単に「物価上昇」というふうに述べて、それが「失業」と関係するかどうかを考えても、無意味である。( → 12月16日
  3.  スタグフレーションの状況
     スタグフレーションのときには、「生産量不足が根源で、そのせいで、物価上昇が発生し、かつ、失業も残った」という状況だった。 ( → 12月26日
 以上をまとめて、核心をいえば、次のようになる。
  1.  インフレ(好況)
     通常のインフレ(好況)のときには、フィリップス曲線はおおむね成立する。すなわち、生産量の拡大をもたらすように景気を刺激すると、その刺激の強さにほぼ比例して物価上昇が発生し、同時に、失業も低下する。物価上昇と生産量拡大が関係するから、フィリップス曲線はほぼ成立する。
  2.  スタグフレーション
     スタグフレーションのときには、生産量が頭打ちである。そのせいで、物価上昇が発生している。ここで物価下落をさせるために、金利を引き上げても、投資減少で生産量不足はひどくなるばかりだし、また、生産量不足で失業も解決しない。つまり、物価上昇と生産量拡大が関係ないから、フィリップス曲線も成立しない。
  3.  ハイパーインフレ (上限均衡点の突破)
     貨幣供給量の過度な増大をともなうインフレでは、貨幣供給量が増大するのと比例して、貨幣価値が下落する。その程度がどのくらいになるかは、貨幣供給量の増大の程度に比例する。この際、貨幣供給量は、生産量の拡大をずっと上回っているから、特に失業を減らす効果があるわけではない。つまり、物価上昇と生産量拡大が関係ないから、フィリップス曲線も成立しない。
 こういうふうに区別されるわけだ。つまり、単に「失業と物価上昇とは、相反する関係があるか」と考えても無意味であり、三つの状況に分けて考えるべきなのだ。

 さて。以上は、これまでに述べたことのまとめと言える。本項では、さらに、大切なことを言おう。

 三つの場合のうち、第1の場合、つまり、「インフレ(好況)」の場合については、「フィリップス曲線はほぼ成立する」と示した。しかし、この表現は、実は十分に正確ではない。本当は、もっと正確な表現がある。
 何か? 実は、直接関係するのは、「失業率」と「物価上昇率」ではないのだ。これらには、おおまかな相関関係があるように見られるが、実は、間接的な関係にすぎない。そのせいで、他の雑音成分がまじって、不正確になっている。
 では、正しくは、何を見るべきか? それは、「経済成長率」と「失業の増減」である。

 第1に、労働需要は、「経済成長率」によって決まる。GDPが5%増えると、労働需要も5%増える。つまり、労働の需要を考えるとき、指標とするべきは、「経済成長率」であって、「物価上昇率」ではないのだ。
 第2に、「経済成長率」によって決まるのは、失業者の絶対数ではなくて、「失業者の増減」である。たとえば、「経済成長率がゼロ」というのは、一定の失業率(たとえば失業率が4%)というような、失業率の絶対水準を決めるのではない。「失業の増減がゼロになる」ということを決めるだけだ。元の水準が3%なら3%のままだし、元の水準が5%なら5%のままだ。そこからの変化がないということを、「経済成長率がゼロ」は意味する。(同様に、「経済成長率が3%」というのは、「労働需要が3%増える」ということを意味する。つまり、「失業率を3ポイント下げる効果がある」ということを意味する。)

 以上が、正解だ。ただ、現実には、これに加えて、「生産性向上の分」を考慮して、補正する必要がある。たとえば、「生産性の向上」が2%あれば、「経済成長率が3%」のときには、「生産性の向上」の2%の分を差し引いて、1%だけ失業率を減らす効果がある。(なお、「生産性の向上」は、あまり大きな変動はないはずだが、在庫計算などの統計処理の仕方により、短期的に大きな変動が出ることがある。このことには注意した方がいい。 → 12月07日
 ともあれ、直接関連するのは、「経済成長率」と「失業の増減」なのである。

 この正解と比べると、フィリップス曲線では、どちらについても、ずれている。
 第1に、「経済成長率」ではなく、「物価上昇率」を取っている。しかし、物価上昇率は、失業とは直接関係はない。普通の状況では、いくらか相関関係があるように見える。しかし、スタグフレーション期には、「物価上昇率が高く失業率も高い」という状況となる。逆に、資産インフレ期には、「物価上昇率が低く失業率も低い」という状況となる。(つまり、普通のときには齟齬が発覚しなくても、これらの時期には齟齬が発覚するわけだ。化けの皮が剥がれるようなものだ。)
 第2に、「失業の増減」ではなく、「失業率」という絶対値を取っている。一般的には、いくらか相関関係があるように見えるが、もちろん、失業率の絶対水準はあまり関係がない。たとえば、中国やアジア新興国では、物価上昇率が高いが、いまだに多大な失業が残っている。この意味で、フィリップス曲線は成立しない。ただし、成長率が高く、失業は急速に減ってきている。この意味で、私の主張は成立する。(なお、発達した先進国では、事情は逆になる。つまり、成長率も、物価上昇率も、失業率も、すべてが低いままである。)
 ここで、「途上国と先進国」という両者を比較すると、面白ことに気づく。フィリップス曲線とは逆の命題が成立するのだ。つまり、「物価上昇率の高い国では、失業率が高い。物価上昇率の低い国では、失業率が低い」と。
 フィリップス曲線を前提とすると、この事実は、何とも不可解に思えるだろう。しかし、私の主張を前提とすれば、この事実は、ごく当然のことだとわかる。なぜか? それは、こうだ。
 途上国では、「失業が多いから成長率が高くなる」と言えるのだ。なぜなら、失業者という遊休した生産資源が稼働するようになるからだ。たとえば、50〜60年代の日本やソ連がそうだ。かなりの高成長を成し遂げたが、それは、生産性が向上したからではなくて、失業者が働くようになったからだ。(このことは、クルーグマンの著作で示されている。)
 先進国では、事情は正反対となる。もはや失業者がほとんどいない。生産量の拡大は、失業者の吸収によっては成し遂げられず、生産性の向上によってしか成し遂げられない。どうしても低成長となる。当然、失業率の急速な低下も発生しない。(高成長期のあとの日本やソ連がそうだ。)

 結語。
 フィリップス曲線は、「物価上昇率」と「失業率」との間に、一定の関係を見出そうとする。しかし、それは、正しくない。通常の景気のときは、それが成立するように見える。しかし、スタグフレーションや資産インフレのときには、それはまったく成立しない。また、途上国と先進国を比較したときには、むしろ逆のことが成立する。
 本当は、「経済成長率」と「失業の増減」との間に、一定の関係があるのだ。この私の説明により、上記の例外的な現象も、すべてちゃんと説明が付く。
 そして、両者の違いはどこから生まれたかと言えば、次の点からだ。
  1. 「フィリップス曲線」……単に、手近な二つの統計を取って、比較しただけ。
  2. 私の説明 …… 本質的な理由を考える。「労働の需給の変化をもたらすのは何か」という根源から考える。
 そういう違いがあるからだ。

 [ 付記 ]
 本項で大切なのは、何か? 経済の指標として大切なのは、「物価上昇率」ではなくて、「経済成長率」だ、ということだ。「物価上昇率が高いと景気が過熱気味で、物価上昇率が低いと景気が悪い」というのが、従来の説だった。しかし、そうではないのだ。指標とするべきは、「物価上昇率」ではなくて、「経済成長率」なのだ。
 単に「物価上昇率」を指標として経済運営すると、そこを誤る。スタグフレーションのときには、「物価上昇率が高い」という状況を見て、「景気が過熱しているな」と判断し、「金利を上げよう」と判断する。また、資産インフレのときには、「物価上昇率が低い」という状況を見て、「景気が過熱していないな」と判断し、「金利を上げない」と判断する。……いずれも、大失敗してきた政策だ。これは、「物価上昇率を指標として、金融政策を運営する」という政策だ。別名、「インフレ目標」政策でもある。
 最近、「インフレ目標」政策が話題になっているが、この政策を取ることを公言しようとしまいと、これまではずっとこの方針が取られてきたのだ。そして、普通のインフレや景気後退に対しては成功してきたが、スタグフレーションや資産インフレに対しては失敗してきたのだ。
 その失敗の罪は、非常に大きい。日本ではバブルを膨張させて破裂させるという大失敗をやらかし、その後の不況を導いた。さらには、不況期にも、単に「金利を下げよ。解決しないのは、金融緩和が不十分だっただけだ」と主張して、減税を拒み、不況脱出を阻んだ。外国では、スタグフレーションになったり通貨危機になったりした途上国に対して、高金利政策を取らせ、成長を阻害した。欧州でも同様で、「財政健全化」を唱えて、成長を阻害し、失業の解決を阻害した。
 「物価上昇率」ばかりに着目していると、「経済成長率」を見失う。そのせいで、成長は阻害され、失業の解決も遅れる。それが今の世界各国の状況だ。
 経済学の目的は、経済を健全な成長路線に載せることだ。そうすれば、失業は解決するし、社会は安定する。そして、それは、「物価を安定させること」ではない。にもかかわらず、たいていの経済学者は、ここを根本的に勘違いしている。(だから「インフレ目標」などを主張する。)
 「物価の安定」というのは、一種の亡霊である。人々は、この亡霊にとりつかれて、これを信じ込んでいる。そのせいで、不況やら、失業やら、スタグフレーションやら、そういう問題を解決できないのである。……その代表者が、「日銀の目的は物価の安定だ」などと主張するマネタリストだ。
( → 12月31日 「成長の必要性」)

 [ 補足 ]
 「成長なんか必要ない」という意見がある。(たとえば、朝日・朝刊・署名コラム 2003-01-15 )
 つまり、「成長神話にとらわれるな。低成長でも豊かな社会を築くことが必要だ」という意見である。
 この意見は、実に皮肉である。「成長神話にとらわれるな」という神話にとらわれているからだ。「神話にとらわれるな」と望んで、逆の神話にとらわれている。
 では、どこが誤りか? それは「均衡」と「不均衡」を区別していないところだ。
 「均衡」状態ならば、低成長で構わない。むしり、高成長をめざせば、やたらと物価上昇が起こる危険さえある。その意味で、上記の意見は、「均衡」のときには成立する。
 「不均衡」状態ならば、そうではない。ここでは、「生産量の不足」ゆえに、「下限直線割れ」という減少が発生している。(トリオモデルからわかるとおり。)つまり、企業は赤字であり、倒産は続出し、失業者も多大である。だから、こういう状態では、少なくとも「均衡」を回復する水準(下限直線割れを脱する水準)まで、生産量を拡大する必要がある。
 だから、「むやみやたらと成長すればいいわけではない」とは言えるが、「必要最低限の成長は大事だ」と言える。特に、生産量の不足している不況のときには、そうだ。
 上記の論者は、そのことに気づかない。彼は「必要最小限の成長さえも必要ない」と主張する。それはつまり、「企業は赤字で、倒産は続出し、失業者も多大である」という状況を、放置することになる。悲惨な状況を放置するわけだ。
 そして、それをちゃんと理解した上で言っているのならば、人生観の問題があるにすぎない。悲惨な状況が好みなら、彼はただのマゾヒストであるだけだ。しかし、それをちゃんと理解しないで言っているのであれば、彼は悲惨な状況を、望み、かつ、望まないでいることになる。矛盾したことを主張していることになる。狂人に近い。
( → 12月31日 にも似た話がある。)

( ※ ここでは、「成長の必要性」を、「不均衡」のときについて述べた。ただ、「均衡」のときでも、失業解決のためには、ほぼ同じことが言える。成長なしには、失業は解決しない。)


● ニュースと感想  (1月19日)

 「失業の解決法」について。(最後のまとめ。)
 今までは、原理的なことを経済学的に述べてきた。ここではさらに、失業の解決法(または対策法)を、列挙して示しておこう。見通しが良くなるだろう。
  1. 生産量の拡大
     これこそが本質的な解決法である。つまり、正解だ。GDPを増やせば、当然、生産のために必要な労働需要が増えるので、失業は改善する。逆に言えば、GDPが縮小したのを放置したまま、他の面で解決しようとしても、真の解決にはならない。
    ( ※ たとえば「企業収益の向上」をもたらす均衡は、「縮小均衡」でも成立する。しかし、そんなのをめざせば、失業はどんどん悪化していく。単に「均衡」をめざしてもダメであり、「生産量(GDP)の拡大をともなう均衡」でなくてはならないのだ。)
  2. 政府の財政支出
     ケインズ派の方法だ。「生産量の拡大をめざすこと」つまり「不況を解決すること」という本質はつかんでいる。ただ、そのための具体策が好ましくない。めざしているものは正しいのだが、方法が良くない。(とはいえ、公共事業が不足しているような途上国であれば、これはこれで正解である。また、大きな不況でなく、小さな不況[景気後退]であれば、公共事業の増額で済むこともある。最適ではないにせよ。)
  3. 賃下げ
     古典派の方法だ。「市場原理による需給の均衡」にもとづいている。しかしこれは、めざすものが根本的に間違っている。なぜなら、マクロ的な「総需要の縮小」を理解していないからだ。実際には、「賃下げ → 総所得の縮小 → 総需要の縮小 → 総生産の縮小 → 失業の増加」となる。つまり、賃下げを実施すればするほど、かえって失業は増える。実際、今の日本がそうだ。
     ただ、「賃上げをすればいいか」と言えば、そうも言えない。無理な賃上げをすれば、企業収益が悪化して、倒産が増えるだけだ。(現実には、企業は収益の向上をめざして、賃下げを実施し、そのせいで、当面はいいが、総需要の縮小で、景気を悪化させ、自分で自分の首を絞めている。)  結局、不況のときは、賃下げをしてもしなくても、状況は好転しない。どっちもダメなのだ。不況のときは、「こうすればいい」という選択肢はなく、不況そのものを解決するしかない。
    ( ※ 「どっちもダメ」と言っているが、「賃下げ」は、明らかにマイナスの効果の方が強い。実際、2002年の春闘で、賃下げの方針が打ち出されると、消費心理が冷え込んで、経済状況を悪化させた。この時期、企業は「円高効果だ」とか「人件費低下で収益性改善だ」などとうそぶいて、「景気は回復しつつある。投資を増やそうか」なんて楽観していたし、政府も楽観的な見通しを出していた。しかし、「賃下げ」の効果で消費心理が冷え込んだために、夏以降、企業は、明らかに業績悪化に悩むようになった。自分で自分の首を絞めたわけだが、それにも気づかないわけだ。で、経団連は、「来年はもっと労働者の首を絞めよう」と主張することで、自分の首を絞めている。)
    ( ※ 古典派の説が成立する場合もある。それは、「不況ではないとき」だ。マクロ的に不況でないときには、一部の劣悪な企業は、賃下げをすることで、倒産を免れることができる。このときは、「賃下げで失業を減らす」と言うことが可能だ。古典派の説は、マクロ的には成立しないが、ミクロ的には成立する。)
  4. 雇用のミスマッチの解決(職業訓練)
     効果がないとは言わないが、本質を逸らしている。ミスマッチの分だけは、それで何とかなるが、マクロ的な生産量不足という根本的な問題の解決とはならない。席の話で言えば、100人に対して 90席しかなければ、10人は必ずあぶれる。「席の配分を最適化すればいいのだ」とはならないのだ。(配分が不適切だと、90人のうち 85人しか着席しないかもしれない。だから、配分を最適化することで、90席を全部有効に利用することはできるようになる。しかし、絶対的な不足である 10人分の席は、それでは解決しないのだ。)
  5. 構造改革
     これも「雇用のミスマッチ」と同様である。いくらIT産業を増やそうが、全体の求人数が不足していれば、どうしようもない。経済構造の問題ではないのだ。GDPの問題なのだ。そしてまた、「構造改革をすればGDPが増える」ということにはならない。不況は、需要に原因があるのであって、供給に問題があるのではない。
  6. 生産性の向上
     「生産性の向上」は、質の改善をめざすものであって、量の意味はない。不況は、需要と供給のバランスが崩れたことに原因があるのであって、経済の質が悪化したことに理由があるのではない。実際、「途上国が不況で、先進国が好況」ということはない。また、「質の向上が量の拡大をもたらす」ということはない。個別企業ならば、「質の向上がその企業のシェアを増やす」と言える。しかし、全企業がいっせいに質の向上を果たせば、シェア拡大効果は消える。(シェアの総計は常に 100% であって、生産性の向上を果たしても、シェアの総計が 120%になったりはしないのだ。)
     生産性の向上は、むしろ、逆効果がある。「供給過剰」の不況期には、ますます供給を過剰にする。「失業が者があふれているときに」には、「労働力の削減」でますます失業者を増やす。
     生産性の向上が景気に有益なのは、「生産量不足」「人手不足」である好況期である。不況期には、改善効果よりは、改悪効果の方が大きい。そして、その理由は、「状況が不均衡であるから」だ。
    ( ※ 均衡のときには、生産能力の向上が、生産量の増大をもたらす。不均衡のときには、生産能力の向上が、生産量を増やすことにはつながらず、需給ギャップを拡大するだけでしかない。 → 詳しくは、翌日分を参照。)
  7. リストラ
     これは「生産性の向上」とほぼ同じである。企業は、次々と労働者を解雇する。そうして一定の生産量に必要な労働力を削減することで、生産性を向上させる。(つまり人件費コストを下げる。) そのおかげで、企業の収益性は、向上する。しかし、個々の企業を見ればそうだとしても、マクロ的には、失業者の増大により、総所得が減少して、総需要が縮小するから、不況が悪化するだけである。「企業が努力すればするほど、全体の状況は悪化する」わけだ。
     これは、「賃下げ」と同じ事情である。個別企業がそうしようと、そうしまいと、どっちにしてもダメである。「不況を解決する」というマクロ的な方法しか、解決策はない。そして、個別企業があがけばあがくほど、状況は悪化するわけだ。
    ( ※ ついでだが、「リストラによる生産性の向上」というのは、「サボっていた人が真面目に働くようになった」というよりは、単なる「サービス残業」であることが多い。「サービス残業」という名の「賃金不払い」を実施すれば、人件費が下がるから、会計処理上、生産性は上がったことになる。「生産性向上の最大の方法は、正当な方法ではなくて、違法な泥棒である」というわけだ。)
    ( ※ 「まともな生産性の向上もあるぞ」という主張もあるかもしれない。しかし、生産性の向上というのは、どんなに努力しても、年に 2.5% ぐらいであって、大きく変動しない。ちょっとした掛け声くらいで、急に生産性が向上することなど、ありえないのだ。そんな夢想を信じているのは、古典派の経済学者だけだ。)
  8. セーフティネット
     「失業者に金を与えよう」という政策は、福祉政策ではあっても、経済政策ではない。経済政策とは、「失業をなくすこと」つまり「失業者に職を与えること」である。「金を与えればいい」というのは、慈善行為にはなるが、経済政策とは関係ない。
     この種の主張をする人は、「国の金を勝手に使って、失業者に与えればいい」と思い込んでいるようだ。しかし、国の金とは、国民の金だ。結局、この政策は、「働く人の金を奪って、遊んでいる人にプレゼントしよう」というだけだ。こんな政策が本当に正当化されたら、国民は全員、遊んで暮らして、誰も働かなくなる。
     古典派は、「失業者はけしからん。働く気があるのに、勝手に失業している」と主張する。「セーフティネット」派は、「失業者はみんな善良だ。お金を上げて、遊ばせよう」と主張する。……どっちもメチャクチャだ。
     大切なのは、失業している人を、懲らしめることでもないし、優遇することでもない。ちゃんと働かせることだ。「セーフティネット」論者は、本質を見失っている。(おまけに、莫大なコストがかかるということをも、見失っている。そのせいで、莫大な財政赤字がたまって、それを、他の人が払うハメになる。)
  9. ワークシェアリング
     1人の仕事を2人で分ければ、たしかに、失業者は減る。それはそうだ。その意味で、失業解決の方法とはなる。前述の他の方法に比べれば、これだけは有意義だ。
     ただし、有意義ではあっても、実現は不可能だ。たとえば、「あらゆる職場で5%のワークシェアリングを実施する」なんてのは、とうてい不可能である。学校にせよ、国会議員にせよ、役場にせよ、そう簡単に、職員の数を5%増やすような制度変革はできない。だいたい、椅子と机の数を5%増やすには、その分、建物を増やす必要もあるが、建物の建設には数年間がかかる。到底不可能だ。
     一方、マクロ的に政策なら、ずっと簡単だ。たとえば、小泉が「10兆円の減税」を公約すれば、その翌日から、生産量が国中で拡大しはじめて、半年以内に不況を脱出する見込みが立つ。
     減税は、総理の口一つ。ワークシェアリングは、莫大な手間。どちらが簡単かは、言わずもがな。
    ( ※ ただし、ワークシェアリングは、長期的に少しずつ実施するのならば、意味がある。十年計画ぐらいで少しずつ実施するのがいいだろう。)
  10. 金利の調整
     「金利の調整」は大事である。これは、失業に対する直接的な施策ではないが、生産量を調節する景気対策としての意味があるので、間接的かつ根元的な失業対策となる。(その点では、正解である第1項と同じだ。)
     ただし、である。「金利の調整」は、「生産量の拡大」のためにあるのであって、「物価の調整」のためにあるのではない。ここを根本的に勘違いすると、景気対策を失敗する。「スタグフレーション」というのは、失敗の典型的な例だ。失業が増えていて、生産量の拡大が必要なときに、逆に、「物価が上がっているから金利を上げよう」と唱える。物価至上主義だ。いわゆる「インフレ目標」もそうだ。
    ( ※ 前項の「フィリップス曲線」を参照。)
 結語。
 失業というのは、「労働市場における需給ギャップ」のことである。これを解決するには、マクロ的に需要を増大すればよい。つまり、(労働の)需要曲線を、需要拡大の方向にシフトすればよい。そうすれば需給が均衡する。
 逆に、需要曲線をそのまま(縮小したまま)にした上で、その均衡点に達するように「各企業と各労働者が賃下げをすればいい」というような、個別の契約を最善にしても、ダメなのだ。(マクロ的に総需要が縮小して、デフレスパイラルになるからだ。)
 結局、マクロ的な問題は、マクロ的に解決するしかなく、個々の企業や労働者がいくら最善行動を取っても、解決はしないのである。つまり、いくら「均衡点」をめざしても、何にもならないのだ。「間違った状況における最善行動」は無効であり、「間違った状況そのものを直すこと」が必要なのだ。このことが根本原理だ。
 そして、この根本原理は、労働市場だけの話ではない。商品市場(財市場)でも同様だ。需給ギャップが発生しているときには、最適化のために、企業が経費削減のために従業員を解雇しても解決はしないし、個人が減った所得に合わせて消費を減らしても解決はしない。むしろ、企業や個人が最適化をめざせばめざすほど、状況は悪化する。── つまり、「市場原理による最適調整」という古典派の理念が、まったく成立しない。そして、それが、「不況」ないし「不均衡」ないし「需給ギャップ」という状況だ。
 だから、失業などの諸症状の解決には、この根本的な問題(「不均衡」)を解決するべきだ。「賃下げ」とか、「不良債権処理」とか、そんなことをしても、「不均衡」の解決にはならない。「インフレ目標」にしても、それだけでは「不均衡」の解決に至る道筋が不鮮明だ。「不均衡」を解決するためには、何よりも、「マクロ的な総所得の増大」が必要なのであり、その道筋を付ける政策のみが有効なのである。そうして「不均衡」を解決したとき、ようやく、失業や倒産や収益性悪化や不良債権などの問題もまた、一挙に解決の道に載る。

( ※ 政府は、失業や倒産や収益性悪化や不良債権などの問題について、個々の政策をする必要はまったくない。むしろ、有害である。「失業対策のセーフティネット」、「倒産防止の政府融資」、「収益性向上のための法人税減税」、「不良債権処理のための推進策」などは、すべて有害である。それらは、「間違った状況に対する最適化」をめざしているからだ。政府の今の対策は、根本的に間違った政策なのである。小手先ばかりの表面的な対策に過ぎず、一番肝心な根源を見失っているために、やればやるほど、状況は悪化する。)

 [ 付記 ]
 「均衡を回復したあと」について。
 すぐ上では、失業の根本的な解決策として、「均衡」を回復する必要性を示した。ただし、「均衡」を回復することが、即、失業の完全解決になるわけではない。
 「均衡」は、「莫大な失業者が一挙に消えること」を意味するのではなくて、「失業が減り始める」ことを意味するだけだ。失業者の大部分をなくすには、「均衡」を実現するだけではダメで、さらに、「均衡」のもとで、生産量を拡大させることが必要だ。つまり、不況を脱するだけではダメで、好況を持続させることが必要だ。
 この点は、ケインズの主張とはまったく異なる。先に述べたケインズ批判(古典派批判の前に述べたケインズ批判)のシリーズを思い出してほしい。ケインズの主張は、「完全雇用点に達するまでは、不均衡だから、常に景気刺激(財政支出)が必要だ」というものだった。しかし、そうではない。完全雇用点に達する前に、均衡は回復する。均衡を回復したあとは、常に景気刺激(財政支出)が必要だということはない。物価上昇率や失業率や他の指標を勘案して、最適の経済政策をすればいいのであって、むやみやたらと景気刺激をする必要はない。
 具体的に言おう。
 (a) 均衡状態でも、不況を脱出した直後ならば、まだ病み上がりのような状態だから、景気刺激を強めに実行するべきだ。物価上昇率が5%ぐらいの高めになってもいいから、金利を引き下げて、生産を拡大させ、失業者をどんどん減らすべきだ。
 (b) その後、不況を十分に脱出したら(景気が過熱気味になったら)、たとえ完全雇用に達していなくても、景気を冷やすべきだ。物価上昇率があまり高くないとしても、金利を高めたり、増税をしたりして、需要を冷やし、労働時間の急増を減らすべきだ。
 これが、あるべき姿だ。しかるに、実際には、そうしなかった。
  1.  たいていの「インフレ目標」論者は、「低めの物価上昇率」をめざしている。(これでは、不況脱出後も、失業者は多大に残って、なかなか解決されない。)
  2.  欧州では、失業者が多大でも、景気刺激をしないでいる。そのせいで、いつまでたっても、莫大な失業者が残っている。(物価上昇率にこだわりすぎているせい。)
  3.  バブル期の日本は、景気が過熱していても、「まだ完全雇用に達していない」とか、「まだ物価上昇率は上がっていない」とか言って、景気を冷やそうとしなかった。そのせいで、ひどいバブルが膨張し、過労死が続出し、企業は設備投資を無意味なほど多大に実施した。(あとで遊休設備という名のゴミになった。)
 結語。
 失業の解決策は、不均衡のときには、「まず均衡を回復すること」である。そして、均衡を回復したあとでは、それなりに最適の政策を実施する必要がある。ケインズ流に「やたらと財政拡大」でもダメだし、マネタリズムふうに「やたらと物価上昇率を重視」でもダメなのだ。
 正しくは? 「生産量」を重視して、最適の経済政策を実施するべきだ。
( → 前項の [ 付記 ] を参照。)
( → 12月24日 でも同趣旨のことを述べた。)


● ニュースと感想  (1月20日)

 前項では、列挙する形で示した。しかし、まだピンと来ない人もいると思えるので、話の核心を示そう。それは、「失業の解決には生産量の拡大が必要だ」ということの理由である。

 古典派は、こう楽観する。
 「賃下げをすれば、雇用が増える。だから、賃下げをしても、生産量は縮小するとは言えず、逆に、生産量が拡大するだろう」と。
 なるほど、そうなる可能性もある。しかし、本当に、そうなるか? そうなるには、「賃金額 × 労働者数」という総額が、増えている必要がある。本当に、そうなるか?
 たとえば、「5%の賃下げをしても、雇用数が6%増える」という場合なら、差し引きして、総所得は増える。では、そうなるか? そうならない。つまり、古典派の楽観は、成立しない。では、なぜ?

 それは、労働者は、「消費物」ではないからだ。ここが肝心だ。(前にも述べた。 → 1月10日
 消費物(パソコンや自動車など)なら、効用がある。「得れば得ただけ有益」となる。だから、価格が低ければ低いほど、需要が増える。しかし、労働者は違う。「得れば得ただけ有益」とはならない。では、なぜ?
 それは、必要な労働者の数というのは、生産量に依存するからだ。ある生産量に対して、必要な労働者数がある。たとえば、十万台を生産するには、100人の労働者が必要となる。そして、その必要な量を越える労働者は、いても意味がない。「得れば得ただけ有益」とはならない。むしろ、「いればいるだけ邪魔になる」となる。それでいて、たとえ低額にせよ、賃金を払わなくてはならない。馬鹿げている。
 消費物ならば、それなりにいくらかの効用がある。しかし、労働者というのは、必要な量を越えた分は、効用がゼロなのだ。ここが決定的に違う。
 消費物は、常に効用があるから、「安ければ買う」という需給曲線の関係が成立する。労働者は、必要な分には効用があるが、余分な分には効用がないから、「安ければ買う」という需給曲線の関係が成立しない。ゆえに、「市場原理で需給調整が付く」ということもないし、「賃下げすれば雇用が増える」ということもない。

 それでも古典派は抵抗するかもしれない。「5%の賃下げで、6%の雇用増加はなくとも、2% ぐらいの雇用増加はあるだろう。ならば、その分、失業者は減るはずだ」と。しかし、これもまた、正しくない。
 第1に、賃下げをしようがするまいが、生産量が縮小している状態では、雇用の増加などはありえない。「安く雇用できるから、2%ぐらいは雇用が増加するだろう」と楽観しても、現実には、「0%以下の雇用増加」でしかありえない。なぜなら、生産量が縮小しているからだ。総需要が縮小して、総生産が縮小しているときに、雇用を増やして生産量を拡大すれば、単に「売れ残り」の在庫が増えるだけだ。だから、生産量を増やさない。それゆえ、無駄な雇用を増やさないので、失業者も減らない。(前述の通り。)
 第2に、賃下げをすれば、生産量が縮小する。上記のごとく、「5%の賃下げで、2%の雇用増加」ならば、差し引きして、3%の生産量縮小(生産額低下)だ。それがまともな計算だ。古典派は、そのまともな計算ができない。「3%の総需要縮小によって、3%の生産量縮小があっても、雇用が2%増える」と主張する。頭がイカレているとしか思えない。しかも、である。仮に、そのようなことが成立するとしたら、「雇用が2%増えたのに、生産量が3%縮小した」というわけだから、「労働生産性が 5% 低下した」となる。こんなことを喜ぶのは、それこそイカレている。(これはつまりは、「奴隷化」である。「働いても金をろくにもらえない」というわけだ。「働くことはできるようになったが、金をもらわずに働く」というわけだ。こんな形で失業を解決しても、状況は、良くなるどころか、悪くなるだけだ。どこの誰が、「奴隷化すること」を喜ぶのか? せいぜい「失業者が奴隷になれば、失業者はいなくなる」と叫ぶ古典派経済学者だけだ。)……というわけで、「5%の賃下げで、2%の雇用増加」が一時的に成立しても、そのあと、「3%の生産量縮小で、3%の雇用減少」に至る。もちろん、企業としては、「2%の雇用増加のあとで、5%の雇用削減(解雇)をして、差し引き 3%の雇用削減に至る」なんていう二度手間はかけない。「雇用して、すぐに解雇する」なんていうのは、「穴を掘って埋める」のと同じで、無駄である。むしろ、最初から、雇用を減らすだろう。(古典派経済学者と違って、まともな経営力のある経営者なら、そうする。)

 古典派の間違いは、そのようにしてわかった。つまり、
   「価格だけを見て、効用を見ないこと」
   「需給調整だけを見て、生産量を見ないこと」
 である。では、そういう間違いを離れて、正解を得るには、どうすればいいか?
 それには、「ミクロ的な解釈」を離れて、「マクロ的な解釈」をすればいい。需給だけの解釈を離れて、総所得や総需要や総生産を理解する解釈をすればいい。
 ここで、注意を喚起しておく。
 私は「賃下げ」を否定したが、だからといって「賃上げ」を勧めているわけではない。個別の企業が賃上げをすれば、その企業は、市場で不利になって、倒産する。それでは何の解決にもならない。
 不況という状況では、個別の企業が「賃下げ」しても、「賃上げ」しても、どちらでもダメなのである。どうしようとも、正解はないのである。
 結局、マクロ的な問題は、マクロ的に解決するしかないのであって、個別企業が賃下げすればいいとか、賃上げすればいいとか、そういうことはないのだ。
 なすべきことは、個別企業が賃上げしたり賃下げしたりすることではなくて、政府がマクロ的な方策で不況そのものを解決することだ。── それこそが、失業解決の正解である。

 [ 付記 1 ]
 ここでは、新ケインズ派の言う「賃金の下方硬直性のせいだ」という意見も、批判していることになる。そもそも「賃下げをすれば問題は解決する」ということはないのだから、「下方硬直性のせいで失業が発生する」ということは成立しない。
 実際には、むしろ、逆である。「賃金の下方硬直性のせいで失業が解決しない」のではなくて、「賃金の下方硬直性のせいで失業の急速な悪化を防いでいる」のだ。企業に赤字が発生するが、赤字の発生は、余計な支出(= 支出過剰 = 需要過剰)と同じようなものである。企業に赤字が溜まるせいで、余分な支出(人件費)が払われ、その分、生産量の縮小を防いでいる。
 「賃金の下方硬直性」がなくなれば、急激に所得低下が発生し、急激に生産量縮小が発生するから、状況はあっというまに、奈落の底に落ち込む。(「収束点」をめざして。)
( ※ この「あっというまに……」というデフレスパイラルは、話を対称的にすると、わかりやすい。経団連は、インフレのとき、「賃上げ抑制」を主張した。「賃金に方硬直性を導入すれば、インフレ・スパイラルが邪魔されるので、経済は急激な変動を免れる」と。それは、正しい。だからこそ、話を対称的にして、「賃金に方硬直性を導入すれば、デフレ・スパイラルが邪魔されるので、経済は急激な変動を免れる」と主張するべきなのだ。)

 [ 付記 2 ]
 「ワークシェアリング」という方法も、本質的な解決にならない、とわかる。
 なるほど、ワークシェアリングによって、失業者の数を減らすことはできる。しかし、しょせんは、生産量を拡大しないのである。とすれば、本質的には、何の解決にもなっていない。
 2人のうち1人が失業しても、2人が半分ずつ失業しても、しょせんは同じことであって、何の解決にもならないのである。「痛みを分かちあう」というのは、一種の道徳的な美徳ではあるが、それだけのことだ。経済学的には、生産量の縮小を解決できないままであり、何の意味もない。
 たとえ話。泥棒が1軒の家に空き巣に入って、百万円を盗んだ。盗まれた家は、隣の兄弟の家に打ち明けて、五十万円を負担してもらった。彼らは「ワークシェアリング」論者だったので、こう主張した。「百万円の損害が、五十万円になった。損害は、半額になった。万歳!」と。

 [ 付記 3 ]
 本項の話を、モデル的にわかりやすく示そう。前に示した「孤島モデル」(プチ・マクロ)を使う。 ( → 12月03日
 孤島がある。肉屋が2軒あり、八百屋が2軒ある。肉屋と八百屋の双方で、肉と野菜を売買して、均衡している。
 ここで、あるとき、1軒の八百屋が肉の購入をやめた。肉の需要が半減した。肉屋の売り上げは半減して、肉屋の所得も半減した。そのせいで、八百屋の売り上げも半減して、八百屋の所得も半減した。
 ここで、古典派の経済学者は、主張する。「肉屋も八百屋も、賃金を半減せよ。現状では、企業が赤字を発生して、どちらも倒産する。賃下げすれば、雇用は守られる」と。
 その主張に従って、肉屋も八百屋も賃金を半減した。すると、古典派経済学者は満足した。「それでいい。肉屋も八百屋も、半分の所得を得て、半分の生産をしている。これでうまく均衡している」と。
 なるほど、その通りだ。肉屋も八百屋も、半分の生産をして、半分の所得を得て、半分の購入をする。それで、需給は均衡する。また、失業者はいない。企業も赤字にならない。そこで古典派は、「不況は解決したぞ! 大成功!」と大喜び。
 しかし、これは、「縮小均衡」の状態である。これではとても「正常化した」とは言えないのだ。肉屋も八百屋も、肉や野菜を半分しか購入できない。必要な栄養量を満たせない。それぞれの家族は、ガリガリに痩せてしまって、次々と餓死していった。
 息子は嘆いた。「生産能力はこんなに余っているんだよ。今の倍の生産ができるんだよ。なのに、どうして、生産しちゃいけないの?」と。
 父親は答えた。「古典派の経済学者が、そう主張しているんだよ。生産を増やしちゃいけない、と。生産を増やすと、縮小均衡を脱するから、それはダメなんだ。今はとにかく均衡しているし、失業者もいないから、この状態こそが最善なんだ。そもそも、こういう縮小均衡をめざして、生産設備に封印をしたりして、必死に努力してきたんだよ」と。
 かくて、親子で慰め合いながら、餓死していった。

 だからこそ、私は、強調するのである。「縮小均衡はダメだ」と。「縮小の方向で均衡させてもダメであって、拡大の方向で均衡させるべきだ」と。「大切なのは、均衡にすることだけでなく、同時に、生産量も拡大することなのだ。生産量に注目せよ」と。


● ニュースと感想  (1月21日)

 前項の続き。古典派の間違いについて、前項とは別の説明をする。
 古典派は、「価格を下げれば、需要が増える」と主張する。なるほど、それは、一般商品については成立する。さらに、「価格を下げても、販売数量が増えるから、総生産はかえって増える」ということが成立することもある。(現実には、そうなることもあり、そうならないこともある。パソコンは、普及の初期には、価格低下にともって、業界規模が急拡大した。しかし、いったん普及したあとは、販売異数量は頭打ちになったので、価格低下の分、業界規模が縮小するだけだった。いわゆる「IT不況」がこれである。携帯電話も、似た事情にある。)
 さて。商品価格については、「価格を下げれば、需要が増える」と言えるが、それは、「需要曲線が変化しないこと」を前提としている。
 しかし、この前提は、一般商品については成立しても、労働力については成立しない。なぜなら、一般商品は物を買わないが、労働力は物を買うからだ。ロボットや人形を買ったからといって、そのロボットや人形が勝手にお金を使うことはない。しかし、人間を雇用すれば、その人間は受け取った金で物を買う。つまり、労働者への賃金は、(購買力としての)「所得」となる。
 だからこそ、賃金は、「その価格を下げても、総需要は変化しない」ということはなく、「その価格を下げれば、総需要は下がる」となる。そういう「所得」の効果がある。ここが肝心だ。
 というわけで、「価格を下げれば、需要が増える」(価格の低下は総需要に影響しない)という古典派の主張は、一般商品については成立しても、労働力については成立しないのである。
( ※ なお、このことは、「ミクロとマクロの違い」に似ている。「価格の変動がマクロ的な総需要に影響しない」というのは、ミクロ的な立場である。古典派は、そういう立場を取るゆえに、「所得」の効果を見失うわけだ。 → 8月14日 「ミクロとマクロ」)

 [ 付記 ]
 「価格と総需要」の関係について、もう少し精密に言えば、こうだ。
 労働者に払った金は労働者に渡って、「所得」となる。国全体で賃金を下げれば、総所得も減る。一方、商品に払った金は、商品に渡らないが、売り主に渡る。国全体で商品価格を下げれば、総生産額が減るように見えるが、実は、その分、(商品種目を増やしたりして)購入する個数を増やせるから、総生産額が減ることはない。こういうふうに、「価格低下」の影響は、労働者と商品とでは異なる。
 その違いはどこから来たかと言えば、労働者を生産することはできないが、商品を生産することはできるからだ。結局、商品ならば、いくらでも増産できる。労働者は、増産できない。だから、均衡状態で言うと、商品の価格低下があったとき、総生産額が減らないが、労働者の賃金低下があったとき、総所得が減る。(労働者数が頭打ちになるので。)
 では、均衡状態ではそうだが、不均衡状態ではどうか? 不均衡状態では、労働者は余っているから、失業者を取り込むことで、実質的に増産する効果が出る。その意味で、古典派の主張が成立しそうだ。
 実は、この件は、前項で述べたとおりだ。「5%の賃下げをして、雇用数が6%増える」のならばいいが、「5%の賃下げをして、雇用数が2%増える」のでは、総所得は縮小してしまうのだ。しかも、不均衡期には、もともと生産過剰だから、「5%の賃下げをして、雇用数が2%増える」どころか、「5%の賃下げをして、雇用数が0%増える」となりがちだ。結局、不均衡状態では、賃下げをすればするほど、生産量が縮小して、需給ギャップが拡大していくのである。

( ※ 賃下げは、個別企業においては、倒産を予防する効果があるので、失業増加を防ぐ効果がある。しかしマクロ的には、総生産の縮小で、失業増加を促進する効果がある。……というわけで、賃下げは、当面は企業にとってありがたいが、やがてはボディーブローのようにじわじわと利いてくる。企業は賃下げをすると、初めのうちは、「コストが下がった」と喜んでいられるが、やがては「売上げが減ってきた」という現実に襲われて、青ざめる。)
( ※ 不況期の企業は、今すぐ一つを得て、後で二つを失っても、喜ぶ。「朝三暮四」の猿は、今すぐ一つを得て、後で一つを失ったときに、喜ぶ。企業は、合計して一つ損を喜ぶ。猿は、合計して損得なしを喜ぶ。どちらが利口だろうか?)


● ニュースと感想  (1月21日b)

 前項の続き。理論だけでなく、世間との関連を示す。
 前項で述べたとおり、「失業問題」で大切なのは、マクロ的な「総所得」だ。(他の箇所でも、何度も述べたが。) ここで、世間を見てみよう。
 現在、世間では、古典派的な処方がひろく提案されている。「賃下げをしろ」とか、「低賃金でも我慢して就職しろ」とか、「雇用のミスマッチをなくせ(人材の配置転換をせよ)」とか。……しかし、そういうふうに個別の対策をいくらしても、核心を逸らしている。
 大切なのは、個々の企業や労働者がどうこうどうするかではない。マクロ的に、総生産を拡大することだ。そして、そのためには、総需要の拡大が必要である。……普通なら、いちいちそういうマクロ政策の必要はないが、いったん不況という穴に落ち込んだあとなら、マクロ政策というロープをぶら下げて、落ちた者を引き上げてやるしかない。(いったん不均衡になったら、放置するだけでは解決できないので、マクロ政策で不均衡を解消するしかない。)
 そして、「総需要の拡大」のために大切なのは、「総所得の拡大」である。これなしには、「総需要の拡大」は困難である。

 今、インフレ目標論者は、「将来の物価上昇」を主張している。しかし、である。いくら「将来の物価上昇」が予測されても、「将来の所得上昇」が付随しなくては、意味がない。「所得上昇」なしの「物価上昇」は、むしろ逆効果である。(実質所得の減少を意味するから。)
 最近、経団連は、しきりに(次期春闘での)「賃下げ」を宣伝している。なるほど、そうすれば、個々の企業は収益性が向上する。しかし、「賃下げ」は、消費者にとっては「所得減少」であるから、「消費の引き締め」を行なうしかない。つまり、経団連は、「将来の賃下げ」をしきりに宣伝することで、消費者を不安にさせ、現在の消費をいっそう引き締めさせている。状況はますます悪化する。
 「将来の物価上昇」であれ、「賃下げ」であれ、そのいずれも、「所得」の効果を見失っている。ミクロ的に商品市場の需給のことばかりを考えて、マクロ的な総需要を拡大させることを見失っている。需給曲線の均衡のことばかりを考えて、マクロ的に需要曲線を(拡大方向に)シフトさせることを忘れている。だから、均衡をめざす結果、需給曲線がまずい方向に(縮小方向に)シフトしてしまうのである。かくて、状況はどんどん悪化する。

 今、企業は「自分が得して、労働者・消費者が損すればいい」と主張し、政府は「自分が得して、国民が損すればいい」と主張する。「将来の賃下げ」や、「将来の消費税増税」を、主張する。では、そういう主張の結果は? 消費心理を萎縮させて、総需要の縮小を招くだけだ。だから状況はますます悪化する。(賃下げや増税が、予想のみならず現実化すれば、もっと悪くなる。)
 結局、マクロ経済を無視する限り、デフレはひどくなるばかりだ。企業も政府も、自らを救おうとして、自らの首を絞めているのである。
 日本は今、誤った経済的認識ゆえに、自殺しつつあるのだ。ま、自殺するのは勝手だが、少なくとも、自分で自分を殺しつつあるのだということぐらいは、理解しておこう。

( ※ たとえ話。「自分の利益のためには、他人の首を絞めるのが最適だ」と判断した各人が、目の前にいる人物の首を絞めた。それが輪のように一巡して、全員が首を絞められる結果となった。「自分だけは生き残ろう」と各人が最善を狙った結果、全員が死ぬこととなった。……これは、単純な自殺ではないが、外から見れば、集団自殺と同じである。「皆さん。みんなでいっせいに死にましょう。そのために、たがいに相手の首を絞めましょう」と叫べば、同じことをするだろう。)
( ※ だから、経団連は、どうせなら、「賃下げしましょう」と言うより、「あらゆる企業の売上げをどんどん減らしましょう」「GDPを減らしましょう」「みんなで死にましょう」と言えばいいのだ。その方が、何をめざしているか、わかりやすい。)
( ※ 私が経営者だったら、どうするか? ない袖は振れない。しかし、労働者を脅迫するようなことは言わない。かわりに、こう言う。「会社の危機だ。雇用を最大限に守るために、済まないが、賃下げを甘受してほしい。もちろん、経営陣は責任を取って、率先垂範して、大幅な報酬引き下げを受け入れる」と。そして、「収益性が改善すれば、必ず、その分は、労働者に還元する。だから、いつか来る不況脱出の日のために、希望をもって働こう」と。── つまり、「おまえを殺す」というようなことは言わず、「ともに生きよう」と言う。要するに、経団連とは、正反対のことをする。)
( ※ とにかく、前項で述べたことを理解しよう。経営者は、賃下げをするとしても、それが正しいからそれをするのではない。やむを得ず、そうするのだ。つまり、「マクロ的に不況を悪化させるとわかっているが、それでも、当社は倒産しそうなので、当社は賃下げをするのだ。やむを得ない」というふうに、苦渋のすえにそれをするのだ。つまり、「国全体に迷惑をかけるが、自分だけは勝手なことをする」と自覚するべきなのだ。……不均衡のときには、「個別企業の最善行動が、市場全体の最適化をもたらす」という市場原理は成立せず、「個別企業の最善行動が、市場全体の悪化をもたらす」という逆の原理が成立する。「合成の誤謬」だ。このことを理解するべきだ。とはいえ、経団連は、理解できないが。)
( ※ そもそも、経団連というのは、言っていることが支離滅裂である。かつては景気拡大期に、「賃上げはインフレを招く(だからダメだ)」と主張してきた。だったらデフレのときには、「賃上げはインフレを招く(だから良い)」と主張するべきなのだ。なのに、そうしない。正反対のことをしている。まったく、矛盾している。健忘症なのだろうか? ま、年齢を考えれば、やむを得ないが。……)
( ※ ついでに、皮肉っておこう。最大の「構造改革」「企業の体質改善」の方法は、企業の経営者をそろってクビにすることだ。どれもこれも、老人ばかりで、頭が鈍いのだから。50歳ぐらいを定年にするといい。)


● ニュースと感想  (1月22日)

 「間違った状況に対して最適化してもダメだ」と、前に述べた。( → 1月17日1月19日
 これについて、たとえ話を示しておく。

 病気になった患者がいるとする。この患者は、「病気」という「間違った状況」にある。この場合、「間違った状況」そのものを治すのが根本であり、「病気」という「間違った状況」に対して最適化しても仕方ない。
 だから、医者の方針は、二つに分けられる。

 (1) 古典派医師
 古典派医師は、こう処方する。
 「均衡が大事である。均衡を実現すれば、問題は解決する。病人は、頭が鈍くなり、体力も衰えて、仕事の能率が下がった。こうなれば、実力以上の賃金を得ていることになる。だから、賃下げを受け入れよ。賃下げを受け入れれば、下がった能力に対して、下がった賃金となるので、うまく均衡する。これで、解決だ」
 「もし賃下げが実現しないとしたら、賃金の下方硬直性をもたらすような、何らかの阻害要因があるせいだ。ゆえに、阻害要因をなくせ。それには、規制緩和が大事だ」
 「結局、賃下げと規制緩和により、均衡が実現するので、問題は解決する」
 さて。その処方を受けた患者は、どうしたか? 解雇が怖いので、賃下げを受け入れた。すると、所得低下で、必要な物を変えなくなり、栄養失調になった。仕方なく、金を稼ぐために、長時間労働をした。……結局、栄養失調と長時間労働のせいで、病状はますます悪化した。そこで、さらに賃下げを申し出た。ますます病状は悪化した。そこでさらに賃下げを申し出た。また病状は悪化した。結局、死ぬまで、この循環(スパイラル)が続いた。
 実は、この状況は、今の日本の状況そのものだ。それを「デフレスパイラル」と呼ぶ。古典派医師(小泉・竹中・奥田)に従って、赤字企業を強引に倒産させたり、銀行を倒産させようとしたり、賃下げを実施したり、あれやこれやと、「不況に対する最適化」を実現しようとしている。このとき、医師本人は「最適行動をすることが必要だ」と信じている。しかし、「間違った状況」のなかでは、いくら最適行動をしても、やればやるほど、状況は悪化していくのである。医師の妄想のせいで、患者は死ぬわけだ。

 (2) 南堂医師
 南堂医師は、こう処方する。
 「間違った状況に対する最適化は、無意味だ。間違った状況そのものを改めるべきだ」
 「患者が病気なら、病気に対する最適化などは無意味だ。病気そのものを治療するべきだ」
 「だから当面は、休んで、治療を受けるべきだ。無収入になるし、治療代もかかるし、ひどい赤字を出す。その意味では、一時的には、損をする。しかし、一時的には損をしても、長期的には、病気そのものが治るので、得をする。当面をしのぐ金がなければ、借金をすればいい」
 この治療を受けた患者の一人は、まさしく「減税」(国からの借金)という特効薬を受けて、病気を回復した。そして、健康になったとで、「増税」(国への借金返済)を済ませた。うまく行った。
 それを見た、もう一人の患者である日本太郎さんは、「僕もそうしたい」と言った。「僕も減税を受けたい。後で返すから」と言った。ところが、である。潔癖主義者が、大反対した。
 「借金なんかダメだ! そんなのは財政健全化に反する! 問題を先送りしてはいけない。今すぐ問題に取り組むべきだ!」
 かくて、日本太郎さんは、治療を受けることができない。「モラルが大事だ、先送りするな、今すぐ金を稼げ!」と強制される。「借金して病気を治す」ことができない。かくて、日本太郎さんは、(1) の患者と同じく、病状悪化のスパイラルをたどって、死に向かっていく。

 [ 付記 1 ]
 以上は、たとえ話として聞き流せることではない。たとえでなく、直接的な例を示そう。
 「その状況において最適化する」というのを至上目的とすれば、景気の変動に対しては、まったく正反対の行動を取ることになる。企業ならば、
   ・ 設備は: 好況のときは拡大し、不況のときは廃棄。
   ・ 雇用は: 好況のときは拡大し、不況のときは解雇。
 しかし、これでは、「穴を掘って埋める」というのと同じだ。実際、日本のたどった道は、こうだった。たとえば、バブル期の最後に、莫大な設備投資をして、生産能力を拡大した。(「年産 250万台態勢を整えた」と豪語した自動車会社など。) で、そのあと、バブルが破裂して、車が売れなくなると、「年産 170万台でも赤字にならないように、リストラする。工場は売却し、人員は解雇する」とすると、逆の方向に進んだ。まさしく、「穴を掘って埋める」である。
 同様の事情は、金融機関にも当てはまる。バブル期には、融資を拡大するのが最善であり、不況期には、融資を回収するのが最善である。
 というわけで、景気が上下振動することに対して、個々の企業として最善の行動を取れば、その行動は正反対のものとなる。しかも、そういう個別の最善行動の結果、マクロ的には、景気の上下振動はさらに拡幅する。(デフレならばいっそうデフレがひどくなる。)
 結語。
 状況に応じて、右を向いたり左を向いたりする(穴を掘ったり埋めたりする)ことが大事なのではない。そういう正反対の行動を取らなくても済むように、状況を安定化させることが大事なのだ。「個々の企業はどうすれば最善か」を考えるのは、経営である。「国全体はどうすれば最善か」を考えるのは、マクロ経済学である。
 この違いを理解できない人々を、「古典派経済学者」と呼ぶ。彼らは、「個々の企業の最善行動が、国全体の最適化をもたらす」と信じる。個と全体の違いを理解できないわけだ。つまりは、マクロ経済学を理解できないわけだ。

 [ 付記 2 ]
 「間違った状況では、どう行動してもダメ」ということは、他の例も示したことがある。
  ・ 商品価格を上げても下げても、ダメ。
     …… 値下げすれば、数量は増えるが、採算割れがひどくなる。
  ・ 賃金を上げても下げても、ダメ。
     …… 企業収益を向上させれば、マクロ的に総所得や総需要が縮小する。
  ・ 融資の金利(利ザヤ)を上げても下げても、ダメ。
     ……銀行収益を良くすれば、借り手企業の収益が悪化する。( → 1月07日b
 結局、こういう状況では、「上げても下げてもダメ」であって、マクロ的に均衡を回復すること以外に、正解はない。


● ニュースと感想  (1月23日)

 失業問題の最後に、補足的な話を、二つ付け加えておく。(特に大切な話ではない。[ 補足 ] として、二つ示す。)

 [ 補足 1 ]
 「生産性の向上」について。前々項の関連で。(実は、前にも、似たことは述べたことがある。 → 2002年1月02日 など。)
 「生産性の向上」というのは、上記の通り、不況対策としては逆効果がある。このことが不思議に思えるかもしれない。「生産性の向上があるのに、何で、状況が悪化するのか?」と。
 そこで、本質的に示そう。実は、「生産性の向上は、やればやるほど、生産性が悪化する」と言えるのだ。不況のときには。
 なぜか? 「生産性」というのは、統計的には、働いた人だけを見て計算する。つまり、「労働者の1時間の労働によって、1000円の価値が生産された」というふうに。ここでは、「失業者の分」は考慮されていない。ここが肝心だ。
 今まで、2人の労働者が働いて、各人が 1万円の生産をしていたとする。合計、2万円の生産だ。そのあと、不況になって、企業の売上げが2万円から 1.5万円に減少したので、経営者は1人を解雇する。残りの1人が 1.5万円の生産をする。これで、生産性は、1万円から 1.5万円へと、5割アップした。このとき同時に、サービス残業を強制して、残業手当を払わなければ、経営者は1万円の給与を払うだけで済む。……こういう状況を見て、経済学者は、「すばらしい、生産性が1万円から 1.5万円へと、5割アップしたぞ」と主張するだろう。「その向上した生産性の分(0.5万円分)を、企業と労働者で、適当に分けあうことができるぞ」とも主張するだろう。(馬鹿げた話だが。本当は労働者の賃金が泥棒されただけなのだから。)
 ま、それはさておき、ここで、帳尻を考えよう。統計的に見れば、1人が 1.5万円の生産をしているわけだから、生産性は5割アップした。しかし、ここでは、失業者の分は考慮されていない。失業者の分も考慮すれば、「1人で1.5万円の生産」ではなくて、「2人で1.5万円の生産」である。前は「2人で2万円の生産」であったから、実質的な生産性は、かえって低下しているわけだ。
 というわけで、不況のときは、統計的な「生産性」はどんどん向上するが、実質的な「生産性」はどんどん低下するわけだ。当たり前だ。不況のときは、総生産がどんどん低下しているのだから、「生産性の向上があるのに、総生産がどんどん減りました」なんて主張するのは、無意味である。正しくは、「実質的な生産性が悪化しているから、総生産も減っている」となる。
 というわけで、統計的な「生産性の向上」を主張して、「リストラをせよ」と経済学者が主張しても、まったくの詭弁であるにすぎない。むしろ、「リストラをすればするほど(失業者を増やせば増やすほど)、国全体の経済効率は低下する」と主張するべきだ。つまり、「遊んでいる人が増えれば増えるほど、経済効率は低下する」と主張するべきだ。
 「遊んでいる人が増えるほど、経済効率が良くなる」なんて主張する経済学者は、統計の数字ばかりを見ていて、物事の本質を見失っているのである。

 [ 補足 2 ]
 「不況のあとは成長率が高くなる」という説について。
 そういう「不況礼賛論」がよく聞かれる。「不況は劣悪な企業を淘汰して、社会全体の生産性を高める。だから、不況のあとでは、生産性が高くなる」という説だ。
 しかし、これは、「失業の解決」や「遊休設備の稼働」を理解すれば、実状を理解できるだろう。
 不況のあとで成長率が高くなるのは、別に、急激に技術革新が起こったり、劣悪な者が淘汰されたからではない。単に、遊休していた生産資源が稼働したからだ。それだけのことだ。遊んでいた設備や人員が、まともに働くようになれば、経済は急速に成長する。それだけのことだ。
 ここでは、「遊んでいたものが働くようになった」ということで、「無駄が消えた」とか「社会全体の効率が向上した」というふうには言える。しかし、それは、「標準以上に良くなった」ということを意味するわけではなく、「いったん不況になって非常に低下した生産性が、元通りになった」というだけのことだ。
 たとえれば、「病気になったあとで、病気が回復したら、仕事がどんどん はかどるようになった」というだけのことだ。それは別に、「人並みはずれて利口になった」ということを意味するわけではなくて、「人並み以下の病人になっていたのが、人並みに戻った」というだけのことだ。

 ところが、不況礼賛論者は、このことに気づかない。「不況を脱したら、急速に能率が向上したのは、いったん不況になったからだ。不況のおかげだ。不況はすばらしい!」と主張する。つまり、「いったん馬鹿になると、あとで馬鹿よりもずっと利口になれる。だから馬鹿になろう。馬鹿はすばらしい!」と主張しているわけだ。
( ※ こういう論者は、もともと馬鹿に属するのだから、「馬鹿はすばらしい!」と自己賛美するのも、もっともである。ただし、その理屈で、まともな人々まで、馬鹿の道連れにしないでほしいものだ。「不況はすばらしい! 不況は優勝劣敗で効率を向上させる! もっと不況にしよう!」なんて主張で、国民を不況の泥沼に引きずり込まないでほしいものだ。)

 [ 余談 ]
 上の皮肉は、誰のことを言っているか、わかりますか? 小泉たちです。「痛みなくして改革なし」だの、「改革なくして成長なし」だの。
 日本では、一番失業してほしい人たちだけが、ぬくぬくと失業しないでいる。私はこれまで、「失業を解決するにはどうすればいいか」を考えてきた。しかし、「ダメな為政者を失業させるにはどうすればいいか」も考えるべきかもしれない。


● ニュースと感想  (1月24日)

 前項に関連して、「生産性の向上」「技術革新」について。
 「インフレ目標」を批判する榊原英資の意見。(朝日・朝刊・経済面・インタビュー 2003-01-23 )
 「インフレ目標」や「量的緩和」を唱えるマネタリストの主張を、一蹴する。「どういうプロセスで製品やサービスの価格が上がるのかという道筋が示されていない。積極派の人々はインフレ期待が生まれると言うが、道筋すら示していない」と批判する。マネタリズムの論理的欠陥を問題視しているわけだ。ここは、私と同じ指摘だ。

 彼のマネタリズム批判は、基本的に正しい。ただし、彼自身の主張がおかしい。
 「デフレの原因は? 構造的かつ世界規模のものだ。一つは、非常に速いスピードで起きている技術革新。もう一つは、グローバリゼーション(つまり低価格品による輸入デフレ)。」
 馬鹿げた話だ。「技術革新のせいで景気悪化」というのは、狂気的だ。だいたい、彼のような意見が成立するなら、人類は石器時代から進歩するにつれて、価格低下が起こり、かつ、景気が悪化することになる。ところが、産業革命の時期には、それとは正反対のことが起こった。機械化によって生産量が拡大し、人々は豊かになり、景気も良くなった。60年代の日本もそうだ。
 こんな狂気的な意見に比べれば、「技術革新のおかげで景気回復」というサプライサイドの意見の方が、よほどマシである。(どちらも間違いではあるが。)
 正解は? もちろん、「供給能力」と「需要」との区別である。技術革新は生産能力の向上をもたらす。それに需要が追いつけば、好況になる。需要が追いつかなければ、不況になる。「供給能力と需要のバランス」が大事なのだ。均衡か不均衡かが問題の核心なのだ。それを無視して、「供給能力を増やす(生産性を向上させる)」のが良いとか悪いとか、片面だけを論じても、まるきり無意味である。
( ※ 相撲でたとえれば、両者の強弱の比較で結果は決まるのであり、片方だけが強いとか弱いとか言っても無意味である。)

 彼はまた「デフレを脱却することはできない」という無力論を主張している。勝手に決めつけないで欲しい。「自分の理屈では」という留保をつけるべきだ。その上で、「だから自分の理屈はおかしい」と結論するのが正しい。
 正解は? 「価格」と「生産量」の区別である。たしかに、冒頭の二つの要因(技術革新と輸入デフレ)はある。それによって、価格低下は起こる。しかし、そんなことはどうでもいいのだ。価格低下が問題なのではない。「技術革新で価格低下が起こることは悪いことだ」なんて主張は、誰も主張していない。── 悪いのは、「価格低下」ではなくて、「生産量の低下」(GDPの縮小)である。生産量が低下して、いくら生産しても売れない。生産能力が余剰になり、失業者があふれ、所得が低下し、買いたいものも買えなくなる。そのせいで生産量がまた低下する。悪循環だ。そういうふうに、経済の歯車が狂っている。その狂った状態が問題なのだ。
 彼はデフレというものを、根本的に誤解している。価格低下が問題なのではなく、生産量の縮小が問題なのだ、ということ。そして、その生産量の縮小のせいで、価格が過剰に低下して、その結果、企業の利益が出なくなって、赤字や倒産や失業が発生していること。つまり、(価格低下という)症状が問題なのではなく、(生産量縮小という)病気そのものが問題だということ。── この本質を見抜くことが大事だ。

( ※ 逆に言えば、「物価を上げればいい」というマネタリストの主張も正しくない。「物価を上げれば、需要は増えるさ」なんて楽観的に主張するのは、甘すぎる。所得向上なしで物価が上がれば、実質所得は低下するから、生産量はかえって縮小するのだ。大事なのは、物価の上昇ではない。生産量を拡大することだ。そして、そのためには、所得の向上が不可欠なのだ。)

 [ 付記 ]
 たとえて言おう。患者がいる。病気になって、痩せて、寝込んでしまった。働けないので、金もない。栄養を取れないから、起きあがる体力がない。……悪循環だ。このとき、どうすればいいか? 処方は、三つある。
 (1) マネタリスト(インフレ目標論者)
 「寝込んでいることに、罰金を科すればいい。長く寝込んでいればいるほど、罰金が高くなる。早く起きあがらないと、損をする。そうわかれば、すぐに起きあがるようになるだろう。病人には、ムチでひっぱたいてやることが大事だ。どんどんムチでひっぱたいてやれ!」
 (2) 榊原英資
 「脱出する方法はない。諦めよう。病気で寝込んでいるという状況を受け入れるべきだ。病気で寝込んでいても生活できるようにするべきだ。働かなくても生活できるというのは、いいことだ。病気万歳!」
 (3) 南堂
 「寝込んでいる人間には、栄養と薬を与えてやればいい。金(所得)がないなら、当面は金を貸してやればいい。そうしてまず、病気を治させる。治ったら、そのあとで、金を返済してもらおう」

 さて。現状は? 上の三つのどの処方も取らず、単に放置しているだけだ。どの処方がいいのか、わからないからだ。かくて病状はどんどん悪化していく。哀れ。
( ※ ところで、上の三つのうち、最悪なのがどれかは、わかりますね? 病人をすぐさま死なせてしまうような経済政策。それは、サディストの処方だ。)


● ニュースと感想  (1月24日b)

 雑談。「GPS衛星」の話。(理系の人向けの、トピックス。)
 GPSという衛星システムがある。人工衛星で現在地の位置決めをするシステムだ。カーナビなどで使われる。これの新しい正確なシステムを構築しようと、日本が独自計画しているのだが、そのための資金をまかなうのに大金がかかって大変だ、という話がある。(朝日・朝刊 2003-01-20 )

 これは、どういうシステムなのか、興味があるだろう。3台の衛星を交替で使って、常にどれか1台が常に天頂付近にある、ということだが、ちょっと理解しがたい。
 私はどういうシステムなのか、想像してみた。単純に考えれば、3台では、まかなえるはずがない。1台では 360度のうち、120度をカバーするだけなので、常に天頂付近にあるはずがない。
 しかし、「静止衛星」の原理を使えば、できる。衛星を地球の自転を同じ方向に回転させる。通常は、赤道上空にあるが、これだと空のうち、南に寄りすぎていて、天頂には来ない。だから、北半球に持ってくればよい。しかし、北半球に持ってくれば、時間がたつうち、赤道上に戻ったり、南半球に移ったりする。1日のうちで周期的に(サイン・カーブを描いて)南北に振動する。そこで、3台を使って、交替で用いれば、かわりばんこに、どれか1台は北半球に移動しているので、常にどれかが、ほぼ日本上空に来る。

 そういう原理だろう。そして、だとすれば、このシステムは、日本だけが使えるわけではなく、経度の同じ国はすべて使える。中国や韓国のほか、南半球のオーストラリアやニュージーランドでも使える。(特に、衛星が南半球に移っているときは、衛星の機能は日本では使われないので、無駄となる。)
 だったら、何も、日本だけで費用を払う必要はなく、これらの国に費用を分担してもらってもいい。場合によっては、援助の形にしてもいい。あるいは、外国で民間会社に任せてもいい。
 とにかく、せっかくのシステムを、日本だけで使うのでは、宝の持ち腐れで、効率が悪い。そして、効率の悪い使い方を前提とした上で、「金が足りない」と騒ぐのは、本末転倒だ。足りないのは、金ではなくて、知恵である。

( ※ 余談だが、この衛星システムは、非常に実用性が高いが、国は金を中なかだそうとしない。一方、軍事用のスパイ衛星とか、アメリカとの国際共同研究をする実験棟衛星には、もっと巨額の金を出す。国民というものがいかに軽んじられているか、これでわかる。……日本では、何が偉いか? 1番目はアメリカで、2番目は政治家で、3番目は官僚で、4番目は軍隊で、5番目が企業で、最下位が国民だ。こういうシステムを「民主主義」と呼ぶ。)






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「小泉の波立ち」
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