[付録] ニュースと感想 (39)

[ 2003.1.25 〜 2003.2.01 ]   

  《 ※ これ以前の分は、

    2001 年
       8月20日 〜 9月21日
       9月22日 〜 10月11日
      10月12日 〜 11月03日
      11月04日 〜 11月27日
      11月28日 〜 12月10日
      12月11日 〜 12月27日
      12月28日 〜 1月08日
    2002 年
       1月09日 〜 1月22日
       1月23日 〜 2月03日
       2月04日 〜 2月21日
       2月22日 〜 3月05日
       3月06日 〜 3月16日
       3月17日 〜 3月31日
       4月01日 〜 4月16日
       4月17日 〜 4月28日
       4月29日 〜 5月10日
       5月11日 〜 5月21日
       5月22日 〜 6月04日
       6月05日 〜 6月19日
       6月20日 〜 6月30日
       7月01日 〜 7月10日
       7月11日 〜 7月19日
       7月20日 〜 8月01日
       8月02日 〜 8月12日
       8月13日 〜 8月23日
       8月24日 〜 9月02日
       9月03日 〜 9月20日
       9月21日 〜 10月04日
       10月05日 〜 10月13日
       10月14日 〜 10月21日
       10月22日 〜 11月05日
       11月06日 〜 11月19日
       11月20日 〜 12月02日
       12月03日 〜 12月12日
       12月13日 〜 12月24日
       12月25日 〜 1月01日
    2003 年
       1月02日 〜 1月13日
       1月14日 〜 1月24日
         1月25日 〜 2月01日

   のページで 》




● ニュースと感想  (1月25日)

  【 予告 】   失業問題については、前日までで、おしまい。
  以後は、2週間ほど、周辺的な話題など。
  そのあとで、新たに重要なシリーズを始める。
  (いよいよ最終的な核心を示す。)



● ニュースと感想  (1月25日b)

 「改革か景気対策か」について。
 小泉と菅直人の討論があった。菅直人が優勢だったらしく、「菅勝」というダジャレで朝日が大騒ぎしている。まったく、うんざりだ。「小泉も好きだが、菅はもっと好き」という態度が、そのはしゃぎぶりに、露骨に現れている。新聞というものは、そんなに低品位であってはならない。(ま、朝日に品位を説くのは、馬の耳に念仏だろうが。犬に品位を説明しても、犬は理解できない。)

 ともあれ、記事では「改革か景気対策か」なんていう話が出ていたので、正解を示しておく。
 その問題提起時代が、間違いだ。景気対策は、経済の課題。改革は、政治の、課題。両者はまったく別々のことだ。「経済をやれば、政治をやらなくていい」というようなことはない。両者は別々に進めるべきだ。当たり前。
 ここを意図的に混同させているのが、小泉だ。「政治改革が景気を良くする」と主張して、道路公団やら郵政民営化やら何やら、改革を進めようとする。頭が錯乱している。損なのは、政治の問題であって、経済には何の関係もない。微々たる影響はあるとしても、莫大なGDPに比較すればスズメの涙だ。
 また、いわゆる「構造改革」は、ただのキャッチフレーズであって、経済面での実態は何一つない。去年の経済財政白書を見てもわかるとおり、「e-Japan」とかなんとか、無意味なキャッチフレーズを並べているだけだ。経済効果は、ほとんどゼロである。ついでに言えば、経済効果がほとんどゼロだということは、好ましい。政府の介入で、何らかの影響が出るとしたら、せいぜい、マイナスの効果でしかない。たとえば、公共事業。政府が無駄遣いすることで、何らかの景気刺激が出るが、莫大なツケがのしかかり、経済体質はかえって悪化する。
 結局、経済面では、政府は何も介入しないのがベストなのだ。やるべきことは、所得を国民に渡すことだけであり、その所得の使途は国民に任せるべきなのだ。
 結語。
 マクロ的な景気対策も、政治面での改革も、両方ともやればよい。二者択一ではない。ただし、両者を混同した「政治が経済に介入する改革」は、「構造改革」と呼ばれるが、やらない方がずっと良い。── なのに、やるべきことをやらず、やらない方がいいことをやろうとする。ここに、マスコミや国民の錯誤がある。

  【 追記 】
 国の主導による「経済改革」など、これまで成功した試しはない。「日本列島改造論」にせよ、「リゾート構想」にせよ、「三セク事業」にせよ、やればやるほど状況は悪化しただけだ。
 だいたい、国の主導で何かをやるとしたら、どうしても社会主義的になる。社会主義政策を否定する自民党がそんなことをやるのは、まったくおかしな話だ。
 どうしても何かをやるとしたら、「制度的な補助金」だけだ。たとえば、保育所に対する補助金。あるいは、保育所の利用者への補助金。……こういう方式ならば、経営は完全に任され、市場原理が働くから、効率化が進む。
 ここで、注意しよう。この補助金は、保育所産業を発達させるためにやるのではない。あくまで福祉としてやるだけだ。「IT産業を推進するために、IT産業に補助金を与えよう。そうして新規産業を伸ばそう」という「e-Japan」構想や「構造改革」路線は、考え方の根底からして、間違っている。営利ベースでやるべきことには、国が介入するべきではないのだ。国が介入するべきことがあるとしたら、営利ベースでは進まないことだけだ。たとえば、上記のような福祉関連とか、基礎科学研究とか、そういうことだけだ。

 [ 付記 ]
 「改革」で、やるべきことがあるとすれば、「特殊法人改革」だが、こんなものは、マクロ経済や不況とは、何の関係もない。
 ただ、この手の改革は、やらないよりは、やった方がいい。それでも、もう一つ、肝心なものが抜けている。「医療改革」だ。現在、救急医療体制はまったく不備で、人命がどんどん奪われている。夜間診療をする医師がいないのではなくて、医師を勤務させる制度がない。これは、単純に金でカタが付く問題だが、それができない。そのせいで、莫大な人命が奪われている。
 経済的な処理が下手だと、まさしく多大な人命が奪われるわけだ。「経済なんて金の問題だろう」なんて甘く見るべきではないのだ。なのに、こういうことを理解できない人間が、「成長なんて不要さ」とほざいたりする。


● ニュースと感想  (1月25日c)

 「成長の否定」について。
 「成長なんかは大切ではない」というガルブレイスの意見。(朝日・朝刊・インタビュー 2003-01-24 )
 この件は、何度も述べたとおり。簡単に再論すれば、次のようになる。
 高い成長率が必要なのではない。安定した成長率が必要なのだ。特に、成長率が不足したりマイナスになったときには、高い成長率で、元の生産水準に回復することが必要なのだ。いったん凹んだら、そのあとは凸になることで、状況を平坦にできる。安定した成長こそが大切なのだ。
 「高い成長は必要ない」という論者は、ここを勘違いしている。そういうことは、成長率の高いインフレ期には正しいが、成長率の凹んだデフレ期には完全に有害だ。かつて「成長神話」にとらわれたとき、その弊害を知ったが、今度は、「成長神話」にとらわれてしまっている。「あつものに懲りてなますを吹く」だ。
 こういう人間は、一言でカタが付く。「臆病者」だ。一度懲りたら、二度とやろうとしない。「相撲をいっぺんやって負けたから、もう二度と相撲なんかやるもんか」というタイプだ。
 高い成長が良いかどうかが問題なのではない。そんな硬直した考え方をしているようでは、現実の変化に柔軟に対応できない。インフレのときも、デフレのときも、同じ主張をしているようでは、頭がすでに老人性硬化を起こしている。
( 似た話は → 12月31日1月18日 [補足])


● ニュースと感想  (1月25日d)

 「少子化」について。
 少子化について、読売新聞で特集の連載が始まった。そこで、私としても、コメントしておこう。重要な点は、二つある。

 (1) 時間がかかること
 少子化の影響は、すぐには現れない。時間がかかる。
 たとえば、今、出産減があったとして、当面は、大した影響はない。せいぜい、子供用品などの売上げがいくらか減るだけだ。
 大きな影響が出るのは、彼らが生産年齢に達してからだ。20歳以降になって、生産活動をしたとき、彼らの生産力の低下が、大きな問題となる。たとえば、祖父母を養うだけの生産力がない。
 これは、「当面はひどい影響を受けないで済む」ということを意味するが、同時に、今すぐ対策をしても、その対策が効果を生むには 20年もかかる、ということだ。「ぐずぐずしてはいられない」ということでもある。
 なお、この「時間がかかる」ということは、別のことも意味する。「少子化が不況の原因である」ということはない、ということだ。現在の不況に影響しているのは、20年以上前の状況だ。そのころ、たしかに少子化は進みつつあったが、今ほどひどくはなかった。ひどくなるのは、今ではなくて、将来である。現在の不況は、現在の少子化とは別の理由による。
( ※ そもそも、バブル期にも、少子化の影響はあったが、状況は不況ではなくて好況だった。)
( ※ 同様に、今後、少子化が進んでも、好況を保つことは、十分に可能である。少なくとも、「平均寿命がどんどん延びていく」というようなことは、今後はありえない。)

 (2) 経済問題
 少子化は、問題だ。では、その原因は? これこそが最も問題だ。原因を知ってこそ、対策を取ることもできる。
 晩婚化・非婚化も、たしかに問題だ。しかし、これは、個人のライフスタイルに関する問題だ。たとえ問題だとしても、国の制御可能な操作の範囲には、入っていない。たとえば、強引に結婚をさせる、なんてことはできない。また、別の理由もある。晩婚化・非婚化は、ただちには少子化には結びつかない。「未婚で出産」ということもあるからだ。「同棲プラス出産」という形である。欧州では、こういう形が多い。これはこれで、特に問題はない。
 しいて言うなら、「夫婦同姓」の問題だ。これがあるせいで、結婚をためらっている人は非常に多い。たとえば、自民党の野田聖子議員も、この問題があるから、「事実婚」を選んで、「法的な結婚」をしない。こういう政治的な問題は、たしかにある。
 ただ、一番大きいのは、経済的な問題だ。列挙しよう。
 出産・育児に不利な態勢が、これほどにもそろっているのだ。まともな人間なら、あえて出産して被害を受けるようなことはしないだろう。出産は、今や、「非常に金のかかる趣味」になっている。
 そういうことに気づかないから、企業や財務省が、出産した人々にとって不利になる制度を整備していく。あれこれと値上げしたり、あれこれと賃金カットしたり。……そうやって、企業や国は、自らの懐に金を貯め込んでいくが、そのせいで、日本という国は、どんどん生産力を失っていくわけだ。
 「目先の金を追って、長期的に損する」── これは、企業や国が、よくやることだ。結局、彼らの根本的な態度が、日本を破滅に導きつつあるのである。「少子化」というのは、その根本的な態度の現れのうちの、一つにすぎない。不況にせよ、少子化にせよ、ほとんどの問題は、彼らの近視的な思考態度に原因がある。
( 少子化について → 4月10日b 以降 ,5月17日9月11日


● ニュースと感想  (1月25日e)

 「韓国の経済回復」について。
 韓国の経済状況が劇的に回復したことについて、「市場改革を進めたからだ」という記事があった。(朝日・朝刊・海外面 2003-01-24 )
 こういう意見は、古典派的な主張である。しかし、原因分析は、意見であって、事実ではない。誰かの主張を事実のごとく書くのはやめてもらいたいものだ。

 韓国の景気回復は、市場活性化のせいではない。まったく、ない。ミクロ的な状況を改善することで、マクロ的に大きく変化する、ということは、ありえない。マクロ的な景気変動は、マクロ的にのみ理由がつく。
 そもそも、韓国の景気悪化は、単に「アジア通貨危機」によって引き起こされたにすぎない。それによって「ひどい高金利」と「ひどい通貨安」が発生した。で、「ひどい高金利」の方は、もともと人為的に勝手に変なことをやっていただけだから、変な操作をやめるだけで、簡単に解消する。「ひどい通貨安」は、輸出増強の効果があるから、失業を解決する効果がある。……どちらにしても、ほぼ放置するだけで、自動的に不況は解決するのだ。
 では、なぜ? 韓国の場合、外部からの急激な「資金逃避」活動が発生したから、一時的に経済が揺らいだだけだ。もともと、韓国の経済自体には、何の問題もなかった。だから、単に元の状況に戻っただけだ。ただ、同時に、財閥解体などを経て、経済の効率化もなされて、輸出の増加なども可能になったが、そういう質的な向上は、単に韓国の通貨を高める(つまり、韓国の国民の生活水準を高める)効果があっただけで、マクロ的な景気問題(需給ギャップの問題)には、何の影響もない。
 つまり、こうだ。韓国の場合、経済体質の改善によって、「供給能力の向上」はたしかに発生した。しかし、それは、「需要と供給のギャップ」というマクロ的な問題とは、何の関係もないのだ。
 日本は、異なる。もともと「バブル膨張」があった。ここでは「資産インフレ」によって、「富が増大した」という錯覚をもって、過剰消費をした。過剰消費をすれば、そのあと、消費をその分減らす必要がある。換言すれば、「金が増えた」と思って金を使ったあと、「金は増えていない」と気づくわけで、そのとき、「金が減った」のと同じ効果が経済に発生する。過去において「所得が増えた」(と錯覚した)分、現在において「所得が減る」(という形で清算する)ことが必要になる。
 結局、日本では、バブル期の過剰消費の分だけ、「所得減少」が発生したのだ。これは、韓国と違って、実質的に経済を縮小させる効果がある。(不良債権というのもまた、この「所得減少」と同じ意味合いがある。過去の過剰消費のツケ払いだ。)
 日本では、「所得減少」があるから、「所得増加」というマクロ的な処置を取らないと、経済は回復しない。韓国では、「所得減少」がなかったから、「所得増加」というマクロ的な処置を取らなくても、経済は回復する。
 とにかく、マクロ的には、「所得」が大事なのだ。それこそが「需給ギャップ」を解消する。こういうマクロ的な認識なしに、「経済体質の強化」を唱えて、「供給能力の向上」をいくら実現しても、何にもならない。それでは、「需要不足」に起因する「需給ギャップ」という問題を、決して解決できない。
 経済の問題は、二つの種類がある。一つは、「供給不足」の場合。もう一つは、「需要不足」の場合。この二つの場合を、区別することが必要だ。「需要不足」のときに、「供給不足」への対処をいくらやっても、それは、状況を改善する効果は、まったくないのだ。


● ニュースと感想  (1月26日)

 「収益性を向上させる方法」について。
 「収益性を上げることが大切だ」と言われる。赤字を出すときには、それが当然だろう。ただ、問題は、その方法だ。たいていは、「リストラ」と称して、「固定費の削減」をめざして、人件費をカットしようとする。(「賃下げ」を主張する経団連などは、その代表だ。)
 ま、それはそれで、一理ある。しかし、「固定費の削減」だけが唯一の道ではない。もっと好ましい道がある。
 前項の話を見よう。「低価格のものが有利だ」ということは、必ずしも成立しない。商品には、価格以外の「非価格競争力」がある。そして、これを強めれば強めるほど、高い価格で売ることができる。
 つまり、収益性を向上させるには、「コスト・ダウン」のほか、「非価格競争力の強化」があるのだ。これが大事だ。

 具体的には、どうするべきか? 
 第1に、性能や品質の向上。……しかし、これは、どの企業だって、必死にやっている。今さら経済学者がしゃしゃり出て、「品質の向上をめざせ」なんて言っても、意味がない。(サプライサイドの経済学者なら、威張り顔で、そう言うだろうが。)
 第2に、趣味的な面の向上。具体的には、デザインの向上。……これは、非常に大事である。なぜなら、「デザインの向上」ということは、ほとんどの企業では、まともにやっていないからだ。
 具体的に言おう。まともなデザインをしていると言えるのは、パソコン関係では、アップルとキヤノンだけだ。ソニーのノートパソコンの「VAIO」は、一時、「デザインがいい」と評判を呼んだが、アップルの「iBook」と比べれば、月とスッポンである。(「iBook」のデザインがいかに優れているかは、「月刊アスキー」2003年2月号 268頁の感想記事を読むとわかる。)
 そのソニーはまだしもかもしれないが、富士通やNECのデザインはまったく野暮ったい。いくらかデザインはされているのだが、非常にレベルが低い。美術の専門家がやったというよりは、サラリーマンのやった素人レベルである。プロのレベルではない。
 特に顕著なのが、自動車のデザインだ。まったく、デザインの基本を無視した、愚かなデザイン破綻があちこちに見られる。ひどいものだ。イタリアのカロッツェリアのデザインと比べると、大人と子供ぐらいの差がある。(こういうデザインの破綻は、見ると気分が悪くなるから、消費者は「カッコ悪い」と思って、買わなくなる。デザイナーとしては、どこが破綻しているかを、具体的に理解するべきなのだが、そもそもサラリーマン・デザイナーだから、美的素養がゼロで、そういう破綻をうまく説明できない。「なんとなく変だなあ……」と思うだけで、「これとこれとで、線の延長線が食い違っている」というような具体的な指摘ができない。数学で言えば、微積分の素養もないようなものだ。そういう低レベルの連中が制作しているわけだ。)
 一般に、日本の企業の製品は、どれもこれも、「サラリーマンが職場でデザインしました」という感じのものである。あまりに野暮ったい。「芸術家がデザイン工房で発想した」というデザインなど、ほとんど見かけない。そもそも、日本企業のデザインの職場は、都会のビルにあって、静かなデザイン工房そのものが用意されていない。

 結語。
 日本の製品は、安くしないと売れない。それは、商品に非価格競争力がないからだ。特に、デザインが弱いからだ。そして、その理由は、経営者がデザインというものをまったく軽視しているからだ。
 というわけで、彼らは、今日も必死に「コストダウン」だけをめざすが、そうしてコストの低下を実現しても、その商品が買いたたかれて、利益を出せないでいるわけだ。つまり、低収益な企業体質を、自分自身でめざしていながら、そのことに気づかないでいるわけだ。


● ニュースと感想  (1月26日b)

 前項の関連。「収益性向上のための、企業体質改善」について。
 前項では、「企業の収益性を向上させる方法」について述べた。それとの関連で、似た話題を述べる。(雑談ふうだが。)
 日本企業の収益性が向上しないことの理由は、「デザインが悪いこと」だけではない。もっと根本的な理由がある。それは、企業体質そのものだ。
 「デザインを重視しない」というのは、たしかに問題ではある。しかし、それは、根源ではない。根源は、企業の体質そのものだ。あまりにも時代遅れなのである。賃金の「硬直性」ではなくて、経営発想の「硬直性」がある。つまり、頭が固いのだ。
 
 前項でも述べたが、収益性を向上せるコツは、非価格競争力を強めることだ。にもかかわらず、企業は、「コストダウン」ばかりを求める。あまりにも、頭が固いし、頭が古い。経営発想が硬直している。
 「収益力向上」と言われて、「賃下げ」としか答えられないような経営者は、そもそも経営能力がないのである。そういう経営者をこそリストラすることが、最善の策だ。つまり、「従業員の賃下げ」ではなくて、「経営者の解雇」が、最適のリストラなのだ。
 そして、かわりに、どうするか? 一番大切なことを実施する経営者を、外部から導入する。では、一番大切なこととは? それは、「企業体質の活性化」である。つまり、「生産性の向上が大事だ」なんて号令をかけるのではなくて、まさしく「生産性の向上」が実現するように、従業員の能力が最大限に発揮できる環境を整えることだ。
 その実例は、最近では、日産自動車のゴーン改革に見られる。決して満点ではないが、古臭い官僚的な企業体質を改革し、若手を登用し、権限を委譲し、大幅に体質を間然した。同様のことは、ソニーやホンダやキヤノンでも、昔から見られる。(この三社は、何が優れているかと言えば、社員が能力を発揮できる環境が整えられている点だ。従業員のレベルで言えば、そんなに高いレベルの人がいるわけではないのだが、組織としては、うまく機能している。ホンダもキヤノンも、20年前には、ごく小さなメーカーにすぎなかった。20年間に、非常に大きな成長を成し遂げた。)

  企業の収益性を向上させるコツは、「企業体質の活性化」だが、その具体的な方法は、「頭を柔らかくすること」だ。従来の慣習的な固さを脱することだ。新しい時代にふさわしい発想をすることだ。
 この点から見ると、ほとんどの企業は、落第だ。たとえば、「環境保護・リサイクル」にしても、「女性労働力の差別撤廃」にしても、たいていの企業は、まともにできていない。実際、環境で国際的な認証を受けているのは、キヤノンなど、少数だけだ。労働力の差別をちゃんと解消しているのは、IBMなど、少数だけだ。
 上記のことを重視するのは、「社会還元」のためではない。企業自身の収益性を向上させるためだ。そこを勘違いしている経営者が多すぎる。── 「環境保護・リサイクル」を重視しないということは、「目先の利益ばかりを追う」という頭の固さを示す。「女性労働力の差別撤廃」を重視しないということは、「社内の人事制度に封建的雰囲気を残す」という頭の固さを示す。そして、そういう古臭い体質そのものが、活性化を阻害し、企業自身をむしばむのである。
 「収益性の向上」をめざしても、封建的な体質の古臭い企業は、体質改善をできない。せいぜい「賃下げ」を唱えることぐらいしかできない。経営者が無能だから、従業員が犠牲になるしかない。そして、その無能な経営者たちの集団が、経団連だ。
 無能な人々が、自らの無能を棚に上げて、間違った政策を取るから、日本経済はどんどん悪化していく。

 [ 補足 ]
 こう書いたあとで、同趣旨の意見を見出した。(記事は、朝日・朝刊・経済面 2003-01-24 )
 「当社のデザイナーは優秀だが、デザイン面の経営がダメだった」という経営批判。言ったのは、意外なことに、社長自身であった。偉い。自己批判ができる社長は、めったにいない。自己批判は自らを向上させ、自己肯定は自らを停滞させる。
 この社長は、日産のゴーン社長。日本人ではない。やっぱり、というべきか。

 [ 付記 ]
 日本の企業経営のダメなところは、いろいろとあるが、「社会責任を果たさない」という点は重要だ。
 「企業は社会責任を果たせ」と言われると、「企業は、雇用を増やして、税金を払うのが、社会責任だ。それで十分だ」と答える経営者がいる。
 呆れた話だ。普通の労働者に言い直すと、「労働者は、真面目に働いて、税金を払うのが、社会責任だ。それで十分だ」となる。
 そんなことは、社会責任でも何でもない。単に「自分のために働いて稼いでいる」という利己的な行為にすぎない。「利己的な行為をしたら、それが社会にも有益になる」という古典派的な理屈は成立するが、それは立派なことでも何でもない。だいたい、納税というのは、立派でも何でもなく、ただの義務である。勘違いしないでほしい。そういう主張をする人物は、脱税犯と同じだ。「本当は、税金なんか払う必要はないが、特別に好意で税金を払ってやる」というわけだ。社会資本を利用したことを忘れている。他人からもらったものはすっかり忘れて、自分が与えたものだけをしっかりと覚えている。最低だ。
 そして、こういう最低の経営者たちが、社会還元も何もしないで、労働者や国の金をかすめることばかりを考えている。だから日本経済の質は劣化する。
 古典派経済学者の一部は、「硬直性」をしきりに言うが、たしかに、「硬直性」はある。しかしそれは、市場にあるのではなく、企業の経営体質にある。特に、経営者の頭にある。というのも、彼らの頭が老化しているからだ。頭も体も、年を取れば、硬直する。


● ニュースと感想  (1月26日c)

 「日本経済の質的な向上」について。そのために、企業のあるべき姿を示そう。
 米国の特許取得件数で、キヤノンが第2位になったのだそうだ。前年は3位だが、1つアップしたわけだ。(読売・夕刊 2003-01-14 )
 キヤノンというのは、あまり企業規模は大きくないが、トヨタやソニーのような大規模の会社をしのいで、こういう技術力を示している。その理由は? 研究開発投資が、非常に大きい。他社は売上高の3%〜5%ぐらいだが、キヤノンは 10% であり、傑出している。ほとんどベンチャー並みの、高い研究開発投資をしている。
 そして、これは、今にしてそうしたのではなく、長年ずっとそうしているのだ。その路線を強いた人物は、現社長ではない。「賀来龍三郎」という三代ぐらい前の社長だ。この人が、傑出した経営力を示して、経営方針を立てた。のちの社長は、その路線を踏襲している。
 「企業収益の向上」とか、「生産性の向上」とか、そういう「ごたく」を主張している経済学者は多い。彼らは、賀来龍三郎の爪の垢でも、煎じて飲むがいい。口先だけで言ってもダメなのだ。現実の経営行動が必要なのだ。勝手な主張ばかりを唱える経済学者など、ネジの一本ほどの価値もない。さっさとゴミ箱に捨てた方がマシだ。
( ※ とりあえずは、「構造改革」というごたくを主張する小泉・竹中を、ゴミ箱に捨てるといいだろう。日本にとっては、有害無益でしかない。)

( ※ なお、「技術力」は大切だが、それだけでは優良企業とはなれない。もっと大切なものがある。次項を参照。)


● ニュースと感想  (1月27日)

 日本企業の問題点の一つを指摘しておく。それは、製品開発におけるときの問題だ。「使い勝手を無視している」という状況がある。
 最近の製品をあれこれといじってみると、まったく、使い勝手が悪い。昔の製品ではそんなことはないのに、最近の製品は、たいてい、操作に戸惑う。見ただけでは操作法がわからないし、操作すればやたらと誤動作が発生する。
 なぜか? 理由を考えたら、わかった。「デザイン優先」である。たとえば、ボタンだ。格好のいいボタンを、整然ときれいに配列する。いかにもきれいに見える。で、その結果は? 使い勝手が、最悪になる。
 とにかく、最近の製品は、使いにくいこと、このうえない。どれもこれもだ。昔の製品とは、雲泥の差だ。テレビにせよ、パソコンにせよ、液晶にせよ、プリンタにせよ、台所製品にせよ、洗濯機にせよ、みんなそうだ。昔の商品は、いかにも野暮ったいデザインだったが、誤操作はしなかった。今の商品は、いかにも洗練されたデザインだが、誤操作ばかりだ。
 こういう開発方針を、「自己満足」「独りよがり」という。消費者は、まるきり無視されている。
 私の願いは、日本企業が、さっさと淘汰されて、全部つぶれてしまうことだ。そうすれば、素朴な途上国商品が、市場を席巻するだろう。少しぐらい故障が多くても、誤操作だらけで使いにくいよりはマシだ。
( → 2002年2月25日b 「冷蔵庫」)

 [ 付記 1 ]
 解決法 その1
 製品開発の場に、素人のモニターをもっと重宝するといい。とくに、女性モニターを利用するべきだ。
 やたらと使いにくいのは、技術マニアの男性社員がその商品だけをチェックしただけだからだろう。素人の女性が現実の場で使う、という形でのチェックがないせいだろう。だから、そういう「チェック無視」の開発体制を、改めるといい。
 実を言うと、これは日本企業の根元的な弱点と結びつく。もとも男女差別が残されているから、女性の意見が重宝されない。つまりは、「男女差別」「女性蔑視」という、封建的な体質に問題があるわけだ。いくら技術開発ばかりを先端化しても、肝心の企業体質が封建的では、どうしようもない。その結果が、「技術だけは一流だが、製品としては使いにくくて仕方ない」という結果になる。
 このままだと、男女差別ばかりしている日本企業は、世界的に取り残されてしまうかもしれない。何しろ、経団連からして、「男女差別撤廃は、企業の競争力をそぐから、反対だ」と主張しているのだ。頭が1世紀以上、遅れている。

 [ 付記 2 ]
 解決法 その2
 製品開発にあたっては、ユーザーの要望をもっと聞くべきだ。
 昔、「スピーカーなしのヘッドホン型のカセットテープレコーダーが欲しい(計量だから)」というユーザーの声があった。しかし企業の技術陣は、「ふん。スピーカーのないカセットテープレコーダーなんて、売れるものか」とつぶしてしまった。ところが、ソニーの社長が「トップ命令」を下して、強引に開発させて、売り出した。すると、爆発的に売れた。「ウォークマン誕生」である。
 そういうことだ。技術者は、自分が作りたいものを作るべきではなく、ユーザーの欲しいものを作るべきだ。
 一例を示す。携帯電話が盛んに使われているが、まったく使いにくい。こんなもので文字を打つのは、馬鹿らしいとしか言いようがない。なのに、「ちょっとまともなキーボード」のついた携帯電話はない。
 携帯端末(PDA)もそうだ。ちょっとまともなキーボードが付いているように見えるが、実は、アルファベットのキーしかない。つまり、ローマ字入力しかできない。つまり、カナの 50音入力ができない。2倍もキーを打たなくてはならないので、すこぶる不便だ。「 50音入力のできる携帯端末(PDA)で、携帯電話にもなる」というのがほしくても、どこにもない。(以前のシャープの電子手帳なら、50音入力ができたが。)
 注釈しておこう。パソコンのキーボードなら、両手で打つから、ローマ字入力でいい。しかし、携帯端末(PDA)では、1本指で打つのだから、ローマ字入力よりも 50音入力が圧倒的に優れているのだ。両者の事情は、まったく異なるのだ。
 また、パソコンにしても、「JISカナ配列」なんてのは、誰も使わない配列だ。たまに使う人がいるかもしれないが、その場合は、「使ってはならない配列だ」と教えて、すぐにやめさせるのが正しい。こんな配列があるのは、ユーザーを苦しめる落とし穴を用意してあるようなもので、百害あって一利なしだ。いわば「毒薬つきのパソコン」である。「毒薬も用意してありますよ。お好みで、毒薬も飲めますよ」というようなものだ。こんな「毒薬つきのパソコン」なんてものを販売するメーカーの正気を疑う。
 パソコンでカナ配列をするなら、 50音順配列であるべきだ。それがイヤなら、「JISカナ配列」なんていう毒薬だけは、せめて削除するべきだ。
 こういうふうにメチャクチャな使いにくい製品ばかりを販売していて、「パソコンはあまり売れないなあ」なんて、ぼやいている。こういうメーカーそのものが毒薬みたいなものだから、日本の企業のほとんどは、削除されてしまっても仕方ないのだ。
 DELETE キーを押すだけで、日本の企業を削除するソフトは、どこかにないかな? 
( → 2002年2月25日b 「パソコンのキーボード」)

( ※ こうしてみると、「市場原理」というのは、まともに働かないことがわかる。ダメな企業ばかりがそろっていると、「優勝劣敗」とはならず、「劣勝劣敗」となる。状況は、ちっとも改善しない。)


● ニュースと感想  (1月27日b)

 雑談ふうの話題。「収益性向上のための、犯罪的行為」について。
 パソコン販売には、詐欺的な手口がある。だまされないよう、注意をしよう。
 世界でもトップレベルの販売量を誇る「DE**」というパソコン通販会社がある。ほとんど連日のように、新聞に全面面広告を出している。「ずいぶん、景気がいいな」と思うだろう。しかし、詐欺師が多大な宣伝費を使うのは、当然のことなのだ。
 彼らは、詐欺的な手口を実行している。「わが社は、こんなに低価格でパソコンを販売しますよ」と主張する。価格を見ると、なるほど、けっこう安い。で、契約しようとする。そのときいきなり、「送料を 5000円いただきます」と来る。
 ユーザーは驚く。「え? 送料が 5000円? そんなこと、どこにも書いてないじゃないか!」と。「でも、世の中、そんなものですよ」と会社に言われて、「仕方ないな」と思って、払う。
 しかし、あとで気づく。「世間の相場は、送料 1000円だ。高くても、2000円だ。5000円だと、相場より 3000〜4000円も高い! これじゃ、ちっとも、安く買えたことにならない!」
 しかし、そのときはもう、後の祭りである。かくて、詐欺的な商法が成立する。というわけで、「高い商品を安く見せつける」という手口で、ボロ儲けするわけだ。
 では、なぜ、こういう手口が成立するか? だまされる人は、初心者だからだ。もともと、他社の商品と、あまり比べない。自分がだまされたことに、気づかない。また、本人は、必ずしも損をしたわけではない。「得をした」と思ったら、「実は得をしていなかった」と気づくだけである。別に、損をしたわけではない。
 かくて、この会社は、詐欺的な手口を用いて、急拡大するわけだ。「別に誰も損したわけじゃないから、いいだろ」とうそぶいて。
( ※ 私の話を聞いて、「ホントかね」と訝る人もいるだろう。しかし、新聞にほぼ連日、全面広告を出すなんて、まともな企業では、やれるはずがないのだ。超巨大な自動車企業よりももっと宣伝する、なんて、常識からしてみても、おかしいとわかるだろう。ちなみに、映画会社の映画広告は、けっこう目立つが、「文化割引」によって、広告代は、普通の商品の広告代よりも安い。また、映画産業では、売上げの半分程度が広告宣伝費に消える。パソコン販売なんてのは、本来、利幅が少ないはずなのに、あんなに巨大な宣伝費をかけているとしたら、どこかがおかしい、と気づくべきなのだ。「いっぱい宣伝費をかけているから、立派な企業だろう」と思うような人は、単純すぎて、詐欺にイチコロである。)
( ※ 新聞社は、このことを、決して報道しない。なぜなら、報道すれば、どんどん広告を出してくれる大切な客を失うからだ。この巨額の宣伝で、一番儲けているのは、新聞社なのである。新聞社もまた、グルなのである。警告しているのは、私だけだ。だから私は嫌われる。新聞社に。……ま、あまり嫌われないように、ここで謝っておこう。「新聞社の皆さん、詐欺で金儲けをするのを邪魔して、ごめんなさいね」と。)

 [ 参考 ]
 ちょっとは役立つ話も記しておこう。最近、パソコンが急激に安くなったが、買おうとするなら、AMD の Athlon プロセッサがお勧めである。同じクロック数の Celeron プロセッサよりも、ソフトの起動時間が圧倒的に速い。Pentium4との比較でも勝っているようだ。Celeron と Pentium4との比較では、後者は前者に比べて、同じクロック数では、1割弱の向上率であるようだ。……ま、厳密に測定したわけではないが、私だったら、「性能が高くて、値段が安い」というのを買いますね。
 ただし、市場では、逆になっている。intel 系ばかりが売れている。古典派の経済学者だと、「コストパフォーマンスが良いものが売れる」ゆえに「売れるものはコストパフォーマンスが良い」と思いがちだ。現実には、そうではない。
 で、結局、何が言いたいか? 「(良くて)安いものが売れる」のではなく、「宣伝上手なものが売れる」ということだ。換言すれば、「騙し方のうまいものが売れる」ということだ。古典派は、「(良くて)安いものほど売れる」と信じて、需給曲線に基づく市場原理を、絶対的なものと見なす。しかし、現実には、そんなことはないのだ。古典派が絶対的に信じている需給曲線というのは、きわめてあやふやなものなのだ。そのことを理解しておいた方がいい。
( ※ 経済学者は理解したがらないが、経済市場で一番大きな要素を持つのは「価格」でなく、「宣伝・ブランド」である。ちょうど、政治で一番大きな要素を持つのは「良し悪し」でなく、「宣伝・プロパガンダ」であるのと、同様だ。……「良いか悪いか」ではなく、「良いと思えるか悪いと思えるか」が大事なのだ。そのことを一番よく知っているのが、詐欺師である。)
( ※ ついでだが、古典派経済学者は、詐欺師の手口をまったく理解しない。そのせいで、コロリとだまされる。というか、自分で自分をだまして、そのことに気づかない。この件は、数日後に、「資産インフレと詐欺師」というようなテーマで語る。)


● ニュースと感想  (1月27日c)

 「定昇廃止」について。
 定昇を廃止する動きが出ている。たとえば、ホンダがそうだ。若年期は定昇をやるとしても、壮年期には能力給に一本化して、定昇を廃止するという。(朝日・朝刊・経済面 2003-01-26 )
 「なるほど、もっともだな」と思う人もいるかもしれないが、これは詐欺的な誤魔化しである。だまされてはならない。本当は、ただの「賃下げ」だ。
 だいたい、現実に、結果は「賃下げ」である。なのに、そういう現実を無視して、「なるほど」なんて思うようでは、どこかで論理的にだまされているのだ。そのことに気づくべきだ。
 では、どこが、論理的におかしいのか? 正解を言おう。「定昇」というのは、「能率給・成果給」に対する「年功給」の結果として生じる。すなわち、「若いときは安く、年を取ったら高く」という給与体系だ。昔は、それが企業にとって有利だった。なぜなら、企業は、成長の過程で、若手ばかりを採用することができて、平均賃金を下げることができたからだ。「高い給料を払うのは、将来でいい。今は若手ばかりを採用して、利益を上げよう」というわけだ。実際、高齢者は、炭坑だの国鉄だの農業だの、「低い生産性」と見なされる産業に集められ、若手は工業に集められ、その若手を低賃金で雇うことができた。そういう「当面は低賃金にする雇用制度」を「年功給」と呼んだ。
 しかし、時間がたつと、そのツケを払う時期が来た。かつての若手は、もはや高齢になっている。若手を採用したくても、景気が悪いし、少子化だし、とても若手を採用できなくなる。そこで、「年功給を排しよう」というわけだ。
 ここで、注意しよう。「年功給を廃止する」というならば、「能率給・成果給」にするわけだが、両者は賃金体系の変更だけを意味するのであって、総額は変わるべきではない、ということだ。換言すれば、「定昇をやめる」のであれば、「高齢者優遇」をやめるわけだから、「高齢者賃金の引き下げ」と同時に、「若手賃金の引き上げ」が必要となる。
 つまり、「定昇廃止」とは、「毎年少しずつ上げる」というのをやめるだけでなく、その対価として、「現在すぐに大幅に上げる」ことが必要となる。たとえば、「若手・中年・高齢」に対して、「30万、40万、50万」の金を払っていたとする。この場合、定昇廃止とは、「40万、40万、40万」にして総額を変えないことであり、「30万、30万、30万」にして総額を引き下げることではないのだ。
 とにかく、「定昇廃止」とは、賃金の平坦化をするように、賃金体系を変更することを言う。その場合、総額を一定にして、若手賃金を大幅に上昇させる必要がある。
 にもかかわらず、新聞は、ここを指摘しない。実態は「賃下げ」なのに、「能力主義に基づく定昇廃止」と呼んで、実態を糊塗する。
 だまされてはいけない。経営側とマスコミは、グルになっている詐欺師なのだ。彼らは、うまく言いくるめて、国民の所得を奪っている。そうして「総所得縮小」から「総需要縮小」をもたらし、日本の景気をさらに悪化させていくのだ。

( ※ 「賃下げ」が景気を悪化させることについては、先に「失業特集」で述べたとおり。それによって企業収益は向上するが、GDPはどんどん縮小していく。)


● ニュースと感想  (1月28日)

 「北朝鮮の言論の自由」について。
 「北朝鮮では言論の自由がない」というコラム。(朝日・朝刊・天声人語 2003-01-27 )
 淡々と事実を書いている。「北朝鮮はけしからん」なんてヒステリックに叫ぶ人々よりは、よほどまともだ。北朝鮮は狂気的だが、日本にも反対の意味で狂気的・ヒステリックな人々が多いので、困りものなのだが、このコラムニストは、冷静である。
 私も前に示したが、北朝鮮で本当に問題なのは、核や独裁者ではなくて、「言論の自由」がないことだ。( → 9月22日b ) だから、「核廃棄」などよりも、この点を要求するべきなのだ。「核を廃棄しました、それでよし」と思うようでは、本質を突いていない。

 [ 付記 ]
 ついでだが、「言論の自由」を求めるべき国は、北朝鮮だけではない。
 特に、日本のマスコミだ。まともな言論がなされていない。「構造改革」「企業体質の改善」「収益性の向上」「賃下げ」「不良債権処理」などを賛美して、政府を批判するどころか肯定し、結果的に日本を誤った方向に導いた。こういうことは、すでに何度も述べてきたとおり。日本のマスコミは正常に機能していないのだ。
 マスコミは、たまに悪口を言うことはあるが、まともな対案を報道したことはほとんどない。実際、「減税」というのは、景気対策の王道であるにもかかわらず、これを明示したことはほとんどない。たまに「法人税減税」なんていう、お門違いのことを報道するだけだ。日本のマスコミが、いかに機能不全になっているか、よくわかる。
 日本もまた、北朝鮮と似た状態なのである。(だから経済もひどい状態になっている。北朝鮮を笑えたものではない。目クソ耳クソふうだ。)(日本には独裁者はいないが、詐欺師がいっぱいいる。前日分の記述を参照。)


● ニュースと感想  (1月28日b)

 「需要曲線の傾き」について。
 「需要曲線は右下がりだ」(価格が下がると需要が増える)と言われる。ただ、その程度(曲線の傾き)がどの程度であるかは、あまり議論されていない。漠然と「右下がりだ」と言われるだけだ。
 そこで、解説しておこう。次のように、類別される。
  1.  店舗間
     店舗間の競争では、傾きは急である。つまり、少しでも価格が下がると、その店は急激に売上げを増やす。「他店よりも1円安い」というだけでも、日用品や食品の販売量が急増することがある。特に、大阪圏では、その傾向が強いようだ。
  2.  企業間
     企業間の競争では、傾きは普通である。もちろん、価格の低い製品の方が有利ではある。ただ、社が違うと、品質(性能)も異なる。同一商品ではないから、価格だけでは優劣が決まらない。「安かろう悪かろう」では売れない。ま、当たり前である。
  3.  産業間
     産業間の競争では、価格競争はあまり意味がない。そもそも別種のものだから、比較のしようがない。たとえば、暖房器具では、「電気は石油よりもずっとコストが高い」というデータがある。しかし、最近は、石油ストーブは減ってきていて、冷暖兼用のエアコンが優勢である。というのも、エネルギーコストのほかに、「手軽さ」「清潔さ」「便利さ」「快適さ」「安全さ」なども影響するからだ。質的(品質的)に大幅に異なるので、単に価格だけを見ても競争力は決まらない。購入者の価値観に依存する。
     同じエネルギーの産業間でさえ、そうなのだ。となると、まったく別種の産業では、競争はほとんど無意味になる。たとえば、「パソコンの価格が下がって、白菜の価格が上がった」というときに、「じゃ、白菜を買うのをやめて、パソコンを買おう」と思う人はいないだろう。ま、そういうことも、例外的にはあるかもしれないが、そういうことは非常に少ない。産業間の競争では、価格競争はほとんど成立しない。パソコンと野菜だけではない。一事が万事だ。
  4.  国全体
     国全体では、国内でどんな価格競争がなされていても、まったく関係ない。パソコンが値下がりしようが値上がりしようが、全然関係ない。関係あるのは、ただ一つ。総需要だけだ。一国全体の支出額が増えるかどうかだけが問題となる。パソコンが値下がりしようが値上がりしようが、また、パソコン値下がりの結果でパソコン産業全体の総売上げが伸びようが縮もうが、全然、関係ない。個別の商品や個別の企業や個別の産業が、どうなろうと、全然、関係がない。それらは、単に、個別のもの同士の配分比率が変わるだけだ。パイの切り方が変わるだけだ。一国全体で大切なのは、パイの大きさだけである。総需要だけである。
     総需要の伸びが十分なら、景気は良くなる。総需要の伸びが不足気味なら、景気は良くない。総需要の伸びがマイナスなら、景気はひどく悪い。
     そして、景気の良し悪しに関係なく、個別のものを見れば、まだら模様だ。店舗同士でも異なるし、企業同士でも異なるし、産業同士でも異なる。ただ、そういう違いは、国にとってはまったく関係のないことだ。国にとって大切なのは、国全体の景気だけである。
 [ 付記 ]
 具体的な例を挙げよう。
 最近(2003年1月後半)、一部の店舗を皮切りに、パソコンの価格が2割ほど低下した。先んじて価格低下を実施した店舗では、爆発的に商品が売れて、あっというまに在庫切れになった。
 これを見て、古典派経済学者は、「どうだ」と威張った。「2割の価格低下で、需要が爆発的に拡大するのだ。だから、失業者だって、そうだ。賃金を2割下げれば、労働需要が爆発的に拡大して、あっというまに失業問題は解決するだろう」と。
 しかし、これは、勘違いである。一部の店舗で爆発的にパソコンが売れたからといって、業界全体のパソコン販売台数が爆発的に増えたわけではない。売れる店があった分、売れなくなった店があるだけだ。全体としてみれば、いくらかは増えるだろうが、たいしたことはない。そもそも、ここ数年、パソコン価格は低下しているのに、総販売台数は頭打ち(むしろ減少気味)である。そのせいで、パソコン業界の総売上高は、どんどん低下している。最近のデータでは、ここ2年間、毎年1割ほど縮小しつつある。
 ただ、この傾向は、日本だけではなく、世界中どこでも同じだ。いわゆるIT不況である。そして、この傾向とは別個に、一国全体の景気が決まる。日本では不況だが、一方、世界各国を見れば、各国、それぞれである。低成長の国もあるし、高成長を謳歌している国もあるし、スタグフレーションで苦しんでいる国もある。パソコン業界の傾向は、どの国でも似たり寄ったりだが、景気の状況は、各国でまったく別個である。
 というわけで、上の 1. 〜 4. のことが、ここで例示されたわけだ。

 [ 付記 2 ]
  結局、「価格が下がれば需要が増える」なんて、単純に考えてはいけないわけだ。そういうのは、グラフにとらわれすぎた誤解である。
 特に、「労働需要」については、そうだ。一国全体で、賃金(労働価格)がどんどん低下しているときには、労働需要は、増えるどころか、減るのである。このことをしっかり理解しよう。
( ※ 「総需要」とか「総所得」とかいうマクロ的な概念がないと、ちゃんと理解できない。それが「古典派」である。)
( ※ 古典派にもわかるように、ミクロ的に言えば、こうだ。──「価格が下がると、需要が増える」のではなくて、「需要が減るから、価格が下がる」のである。前者は先に供給が決まり、後者は先に需要が決まる。現実がどちらであるかは、GDPを見ればわかる。)


● ニュースと感想  (1月28日c)

 「市場原理と進化論」について。
 古典派の信じる「市場原理」は、「進化論」にきわめてよく似ている。どちらも「優勝劣敗」というやつである。
 しかし、古典派は「市場原理」における「優勝劣敗」というのを盲目的に信じているが、「進化論」における「優勝劣敗」というのは、必ずしも成立しない。つまり、「環境に最も適している種だけが生き残る」ということは成立しない。勘違いしている人が多いようなので、注意しよう。
 ダーウィンの唱えた初期の進化論ならば、そういうことが成立するはずだった。しかし、その後、進化論の発展につれて、現実には、もっと複雑な事情が働くことがわかった。
 「種Aと種Bがあって、AがBよりも環境に適しているならば、Aだけが生き残る」というのが、初期の進化論だ。
 しかし、現実には、さまざまな種が共存している。たとえば、この地球には、人間が最適だとすれば、人間だけが生き残るはずだが、実際には、さまざまな生物が生きている。
 現在の進化論では、もっと複雑に考える。「種Aと種Bがあるとき、AとBとの比率が最も安定的になる状態で落ち着く」というふうに考える。その比率は、初期の進化論では、「0対1」または「1対0」に限られるが、現在の進化論では、もっと中間的な値も許容する。たとえば、「0.2 対 0.8」が最も安定的であれば、その値に落ち着く。
 つまり、単純な「優勝劣敗」「劣者退場」というのは、成立しないのだ。現実には、「オール・オア・ナッシング」ではなくて、多くのものが共存する状況になるのだ。── 換言すれば、強者だけにとって有利な状況が成立するのではなくて、種全体にとって有利な状況が成立する(安定的になる)のだ。その結果、場合によっては、強者が劣者を駆逐することもある。しかし、そうはならないのが普通だ。

 現実の経済学でも同様だ。強者の企業が市場のほとんどすべてを独占すると、「優者」としての地位を失う。だから、あえて市場に「劣者」を残して、自らは「優者」として「高い利益率」(利益総額ではない)を求めることがある。ソニーやベンツなどの戦略がそうだ。 ( → 2002年2月21日
 古典派の信じている「優勝劣敗」というのは、科学の分野から見れば、まったく時代遅れの考え方なのである。そして、そういう考え方に基づいて、いまだに「劣者の退場で、景気は良くなる」なんていう、見当違いの主張をする人が多い。で、日本全体に水をぶっかけて、日本全体を劣者にしようとする。そうすればそうするほど、状況が良くなると思い込んでいる。……こんなことだから、経済学は、いつまでたっても、「科学」としての地位を得られない。
( ※ 皮肉を言っておこう。経済学という分野だけは、「優勝劣敗」という原理がまったく成立しない。間違った理論ばかりが幅を利かせている。そうして日本経済を悪化させるばかりだ。経済学の分野では、「優勝劣敗」どころか、「劣勝優敗」になっている。クズな学者ほど、偉くなる。例として、竹中を見るがいい。……それでもなおかつ、彼らは「優勝劣敗」を信じる。呆れて、口あんぐり。)
 
 [ 付記 ]
 「共存する」ということについて。
 たとえば、馬でも牛でもカブト虫でもタンポポでも、多くの種類のものが共存する。ホモ・サピエンスというただ1種類のみに限られる人類は、きわめて特殊である。
 この人間だけの特殊性は、なぜか? 私見では、人間だけが「戦争」をするという、特別残虐な性質を持っていたことに由来する。その残虐性は、最近も、中東で存分に発揮されているようだ。これほど残虐な生物は、他には一つもない。最終的には、おそらく、相互的な残虐性のすえに、滅亡するだろう。
( ※ 参考文献は、ローレンツの「攻撃」)


● ニュースと感想  (1月29日)

 英国の「ユーロ導入」が不鮮明だという。ユーロ圏ではマイナス成長になりかけているのに、わざわざ困難な経済圏に参入するのには反対意見が強いという。
 この件については、私は先に述べた。「ドイツなどの先進国は、低所得圏と一体化してた通貨政策を取るべきではない。低所得圏に合わせて、物価抑制政策を取れば、成長が抑制され、失業問題を解決できない」( → 1月01日
 とはいえ、英国だけが孤立した通貨圏を取れば、それはそれで、「一体化した経済圏」のメリットを失うことになる。それも問題だ。
 この問題を解決するには、どうすればいいか? 

 実は、うまい解決策がある。それは、「完全なる一体化」でもなく、「各国別個」でもなく、「グループ化」である。「先進国グループと後進国グループとで、別々の通貨圏を取る」ということだ。たとえば、「英国・デンマーク」など、ユーロに未加盟の先進国で、共通グループを形成する。こちらの方が経済状況はいいから、オランダも参入したがるだろう。フランスや、東独を含むドイツは、失業率が高いので、別グループにしてもいい。ポーランドやスペインは、もちろん別グループとなる。
 こうしてグループ化したあとで、別個の通貨政策を取ればよい。
  1.  英国などの好調な先進国では、通常の低成長路線。
  2.  失業率の高い国では、低金利の拡張路線。
  3.  物価上昇率の高い国では、財政緊縮路線。(現状通り。)
 好調な英国や、失業率の高い独仏は、第3のタイプの「財政緊縮路線」を取るべきではない。そうすれば、物価上昇は免れるが、かわりに、景気悪化に陥る。
 金持ちと貧乏人は、同じ経済運営はできない。なのに、同じ経済運営をしたければ、金持ちが貧乏人に富を委譲して、金持ちであることをやめる必要がある。
 英国や独仏が、ポーランドやスペインと同じ通貨政策を取りたいのであれば、その前に、まず、自らの富をポーランドやスペインに大幅にプレゼントする必要がある。そうするつもりがないのならば、「欧州の一体化」なんていう夢想は持たない方がいい。現実と乖離した夢想は、現実を歪める。


● ニュースと感想  (1月29日b)

 「中国経済の停滞」について。
 最近、「中国経済が停滞している」と、しばしば言われる。実際、成長率が鈍化している。企業を見ると、「せっかく生産しても、売れない」という状況がある。つまり、「需給ギャップ発生」という、日本に似た状況にある。
 これは「供給過剰」である。しかし、「供給過剰なんてありえない」という反論もある。「洗濯機も自転車も自動車もテレビも、全然普及率が低い。民衆はほしくほしくて、たまらない。なのに、供給過剰なんてありえない」というわけだ。
 ただ、この反論は、的をはずしている。「供給過剰」というのは、「欲望」との比較で言うのではなくて、「需要」との比較で言う。そして、「欲望があっても需要がない」という状況はある。それは、「所得不足」だ。── 実際、これこそが、中国の成長不足の原因である。
 マクロ的な総所得の不足が成長を阻んでいる、という点では、中国は、日本と似た状態であるとも言える。
 さて。ここで注意しよう。日本では、この「所得不足」という問題は、本質的ではない。一時的に多大な減税をすることで、一時的に所得不足を解消すれば、あとは、元のように、正常な経済軌道に乗る。減税は、一時的な「需給ギャップ」を解消する分だけでいいし、あとになって増税で回収することもできる。
 中国では、そうではない。中国の所得不足は、中国経済の力の源泉力である「低賃金」と一体化している。やたらと所得を上げれば、「低賃金」という有利さを失って、輸出が減る。

 では、中国は、どうするべきか? 簡単だ。生産性の向上にともなって、賃金を上げればよい。そのことで、国際競争力は減じるが、正常な成長路線に乗ることができる。
 そして、それゆえに、中国の「低賃金」もしくは「通貨安」は、恐れる必要がない。中国が成長するためには、「低賃金」を捨てることが不可避なのだから、いつまでも「低賃金」であり続けるはずがないのだ。
 「中国の低賃金には、とうてい太刀打ちできない。やがては日本は中国に負ける」などと警鐘を鳴らしているつもりの経済学者は、オオカミ少年と同じである。中国の低賃金は、昔の日本の低賃金と同じで、少しも心配する必要はないのだ。
 むしろ、恐れるとしたら、中国が発展して(かつての日本のように急成長して)高賃金になることだ。それは、中国の技術水準が非常に増して、一方、日本の技術水準が相対的に低くなる、ということを意味する。そして、そうなる可能性は、かなりある。
 だから、真に恐れるべきは、中国が高賃金(高技術)になることなのだ。それは日本の衰退を意味する。
( ※ ただし、日本が衰退すれば衰退するほど、たいていのエコノミストは喜ぶ。「日本が低賃金になった! これで国際競争力が付く! 万歳!」と。……さしずめ、その代表は、経団連の会長であろうか。国家衰亡の推進論者。)


● ニュースと感想  (1月29日c)

 「輸入デフレ」について。
 「中国がデフレを輸出している」という説。「安価な人件費を利用して、低価格品を輸出し、相手国に価格低下を引き起こす」という理由である。(朝日・朝刊・2003-01-28 )
 もう少し背景を説明すると、「中国は失業者が多大である。そのため人件費が低い。そういうふうにデフレ状況を利用して、輸出力を強化するが、そのせいで、相手国はデフレになる」という説だ。

 この説は、「円安でデフレ解決を」という「円安」論者の意見の裏返しである。「円安にすれば日本のデフレを解決できる。だから円安にしよう。それはすばらしい」と主張する。その一方で、「中国が元安にすれば中国のデフレを解決できる。だから中国は元安にしている。それはけしからん」というわけだ。「同じことをやるにしても、日本がやるのはすばらしいが、中国がやるのはけしからん」というわけだ。ダブルスタンダード。もしくは、中国差別論者。もしくは、ただのエゴイスト。(これは倫理的な問題だ。)

 経済学的に考えてみよう。上記の意見は、論旨が破綻している。
 もっと本質的に考えてみよう。冒頭の意見は、「価格低下」と「デフレ」とを、混同している。
 結語。
 単なる表面的な「価格低下」だけを見れば、外国の「低価格」が日本にも影響するように見える。しかし、それは、表面的なものを見るだけで、本質的なことを理解していない。悪いのは、「価格低下」ではなく、「過度の価格低下」なのだ。そこを勘違いしてはならない。
 つまりは、自然に価格が下がるのは好ましいことだが、無理に価格が下がるのは好ましくないのだ。ここでは、ミクロ的な見方と、マクロ的な見方を、区別する必要がある。個別市場の価格調整を見るだけでなく、一国全体の総需要や総所得を見る必要がある。そして、そういうことができないと、冒頭のような間違いを犯すことになるわけだ。

 [ 付記 ]
 なお、仮に、「価格低下は悪い」となったら、「生産性の向上による価格低下は悪いことだ。生産性の向上はダメだ!」と主張することになる。ひどい話。しかしまあ、「円安主義者」というのは、そういう立場である。「日本を低賃金にしよう。日本を中国のような途上国にしよう」と主張しているわけだし、それは「生産性の低下」を意味しているのだから。
( → 6月23日1月11日

 [ 補足 ]
 正解を述べておこう。デフレの原因は何か? 「総需要の縮小」だ。
 これは、いくつかの試算があるが、30兆円〜50兆円ほどと見なされる。GDPの1割弱だ。それほど巨額の規模がある。
 一方、輸入品はどうか? 中国以外の国をすべて含めても、輸入額は 42兆円にすぎない。GDPに占める比率は8%だ。それが年ごとに変動する影響は、1%未満であり、ほとんど無視できるレベルである。
 雑魚にとらわれると、真犯人を見失う。

 [ 余談 ]
 新聞に苦言を呈しておく。
 こういう「もっともらしい嘘」を、まともな顔で記事にするのは、やめてもらいたいものだ。どうしても記事にするのならば、「一つの説」として書いて、「反論」もいっしょに掲載するべきだろう。そういうマスコミとしての節度がないから、この新聞社は煽動ばかりをする「デマ新聞」となる。
 とにかく、頭が悪くて間違ったことを書くのは仕方ない。しかし、「特定の意見だけを紹介する」というのは、正しいとか正しくないとか以前に、言論人としての最低限の節度ができていないことを意味する。
 そして、だからこそ、私は、何度も繰り返すわけだ。「新聞に洗脳されるな!」と。


● ニュースと感想  (1月30日)

 前項の続き。「輸入デフレ」について、言い落としたことがあるので、追記しておく。
 「中国から低価格の商品が流入するからデフレになる」というのが、論者の主張だ。
 しかし、ここで、経済学の基本原理を述べておこう。それは、「価格は市場で決まる」ということだ。生産者の指定した価格で価格が決まるわけではない。中国製品が安いとしたら、市場でそういう価格になる、というだけのことだ。たとえば、繊維製品が安いとしたら、それはそういう価格になるように市場で決まる、というだけのことだ。ここでは、原価は関係がない。非常に安い原価の中国製品があるとしても、その価格は市場で決まるだけだ。たとえば、日産マーチ(市場価格 100万円)のような自動車を中国が原価 10万円で生産できたとしても、別に、10万円で販売するというわけではなくて、100万円で売って 90万円の利益を得る、というだけのことだ。市場価格は、市場で決まるだけであって、原価は関係がない。中国製品の原価がいくら低くても、それは市場価格とは関係がない。
 関係があるとしたら、ただ一つ。原価の安さを利用して、市場を席巻して、自らの原価によって市場価格を決める場合だ。では、そうなっているか? 中国製品が市場を席巻しているか? 「イエス」と言えるのは、繊維製品と日常雑貨の低価格品だけだ。それ以外のすべてでは、「ノー」だ。たとえば、自動車、高級電器製品、建築、銀行、書籍、肉類、各種サービスなど、そのすべてで、中国製品のシェアはほとんどゼロに等しい。中国製品が市場を席巻することなどはまったくない。にもかかわらず、これらの業界はひどくデフレに悩んでいる。
 結局、中国製品の影響などはまったくないし、中国の価格低下の影響もないわけだ。あるとしたら、せいぜい、繊維製品や低価格の工業製品ぐらいであり、そんな部分的な市場のことは、日本経済全体のデフレとは何の関係もないのだ。
 歴史上、どんな国でも、産業には、優勢な産業と劣勢な産業がある。劣勢な産業では、他国に負ける。だからといって、「その国のすべての産業が他国に負ける」ということにはならない。一勝一敗は、世の常であり、人生の常である。「一敗したから、この世の終わりだ」と思うのは、悲観主義とも言えるが、むしろ、ほとんど妄想に近い。
 とにかく、日本は貿易黒字を出しているのだから、勝ちが負けを上回っているのだ。妙な悲観的な妄想をふりまく人は、世間に迷惑をかけるだけの狂人にすぎない。
( ※ だいたい、論者の理屈が正しいとしたら、対中国で大幅な赤字を出している米国は、1990年代に、ものすごいデフレになっていいはずだ。しかし、現実には、米国は1990年代に、世界でも有数の好景気に沸いていた。「中国製品のせいでデフレ」なんて、世界中で誰も信じないだろう。信じるのは、日本にいる狂人経済学者だけだ。)


● ニュースと感想  (1月30日b)

 「定昇廃止と円高」について。
 「定昇廃止」については、1月27日c にも述べた。そこで述べたのは、「年功制から能力給への変化ではない。賃金総額が低下するから、賃下げだ。だまされるな」ということだった。
 それとは別に、「国際比較」という手の込んだ主張がある。「労働者の時間あたり賃金は、製造業だと、日本の方が欧米よりも2〜3割ぐらい高い」という主張だ。(読売・夕刊・特集 2003-01-28 )
 この数字自体は、たぶん事実だろう。製造業に関する限り、この数値は信頼してもいいだろう。(ただし、サービス業では、「実働時間が非常に長い」という問題があるが。 → 12月05日

 さて。このデータや主張は、そっくりそのまま信頼していいのだろうか? 
 第1に、「だから国際競争力を付けるために賃下げせよ」という主張だが、これは明らかにおかしい。自動車産業にせよ電器産業にせよ、国際競争力は十分に強い。最近、「アジア各国の電気製品が競争力をつけてきた」という主張もあるが、まったく信頼できない。以前として、大きな品質格差があるからだ。アジア各国では、日本製品の需要は強い。一方、中国から鳴り物入りで輸入された低価格の「ハイアール」は、まったく売れていない。米国から輸入されたGEの冷蔵庫も、家電量販店で売られたが、もはや撤退同然となったようだ。( → 12月25日 「ハイアールの例」)
 第2に、「日本の労働者賃金は高い」という主張だが、これもおかしなところがある。仮に、それが本当だとしたら、労働者の生活水準は世界最高でいいはずなのだが、そうなっていない。なぜか? 地価がものすごく高く、所得の大部分を住宅費に奪われるからだ。しかも、ここが肝心なのだが、「所得の大部分が住宅費に奪われる」という状況を、経済学者は大歓迎してきたのだ。「地価が上がると、資産家が得するので、すばらしいことなのだ」と。なるほど、たしかに、資産家は得する。しかし、ゼロサムなので、資産家が得した分、労働者は損する。そして、そうなることを、経済学者は「すばらしいことだ」と大歓迎してきたのだ。
 結局、(古典派の)経済学者の主張によれば、「住居費を除いた可処分所得」は、少なければ少ないほどよいことになる。おまけに、賃下げも、すればするほど、日本にとっていいことになる。── こういう「国民の奴隷化」を推奨する経済学など、根本からしておかしい、とわかるだろう。(だいたい、そう思うのであれば、自分だけが奴隷になればいいのだ。)
 で、結論は? 地価が高い限りは、所得のうち、住居費として奪われる分ぐらいは、水増しして高い賃金にしておかないと、日本人はまともな生活ができない。まともな生活をするためには、「高賃金」か「低い地価」か、どちらかが必要だ。なのに、「低賃金」と「高い地価」を求めるのは、方向が正反対だ。

 なお、「それでは経済の原則にかなっていない。そんな金はどこにあるんだ?」と疑問に思うかもしれない。大丈夫。労働者に高賃金を払うための金は、ちゃんとある。どこに? それは、「給与の過度の格差をなくす」ということである。たとえば、アメリカの富の偏在は、非常に激しいものだ。国民のほんの一握りが、国民の富の半分ほどを占めている。彼らの所得を平社員にばらまけば、平社員の給与は倍ぐらいになる。ま、それほど過激にやると、共産主義になってしまうので、まずい。しかし、そこそこ適切に、「富の過剰な集中」を排除すれば、ほとんどの国民が幸福になれる。(ビル・ゲイツあたりは、怒り狂うだろうが。)
 そして、そのことは、不可能ではない。実際、今の日本が、そうなっているのだ。社長も重役も平社員も、せいぜい 10〜20倍ぐらいの格差でしかない。1万人の従業員がいる会社で、社長に平社員 20人分の金を払っても、たかが知れている。
 そういうことだ。「富の過剰な集中」を排除すれば、ほとんどの国民が高賃金になれる。それが、「日本の労働者賃金は外国よりも高い」ということだ。
 そして、それをいやがって、アメリカふうにしたいのであれば、めざすべき道は、「ただの賃下げ」ではなくて、「賃下げをして、それで得た利益で、経営者が莫大な富を独り占めすること」である。
 つまり、「(国際比較で)賃下げをするか否か」というのは、「労働者と経営者の、富の配分比率の問題」であるにすぎない。一方、「経営状態が悪いから賃下げする」というのは、まったく別の問題である。
 「経営状態が悪い」というのは、「(マクロ政策の失敗による)不況」に原因があるのであって、労働者の「高賃金」に原因があるわけではない。問題の解決を「低賃金」に求めてはならない。むしろ、「低賃金」を求めれば求めるほど、マクロ的には状況を悪化させる。
 
 結語。
 「国際比較の賃金水準を見て、経営改善のために賃下げを求める」という主張は、完全に間違っている。第1に、「国際比較」は、賃下げの理由とならない。第2に、経営改善を目的とするのであれば、賃下げはマクロ的にはむしろ逆効果である(不況を悪化させる)。

 [ 補足 ]
 「能力給」との関連で追記しておく。
 誤解されるとまずいのだが、私は「能力給」に反対しているわけではない。ただし、「能力給」と「経営者の高給」とは、まったく別のことである。ここを勘違いしている人が(特にアメリカでは)多いようなので、注意を喚起しておく。
 「能力給」というのは、たとえば、画期的な発明をした(多大な利益をもたらした)技術者に対する高給だ。これはちっとも問題ではない。
 「経営者の高給」というのは、それとはまったく別のことである。たいして業績を改善したわけでもない経営者が、帳簿操作などで当期利益を向上させた、というぐらいのことで、莫大な利益を得る。これがアメリカの現状だ。そしてまた、日本も、アメリカほどひどくはないものの、「無能な経営者が居座っている(無能なのに高給を得ている)」という点で、似た問題がある。
 だいたい、「賃下げ」を主張するような経営者は、経営悪化の最大の責任が自己にあるのだから、労働者よりも、まず自らについて、賃下げをするべきなのだ。労働者の解雇をするよりも、まず自らが退陣するべきなのだ。話の順序が狂っている。( → 1月21日b 「私が経営者だったら……」という話。)


● ニュースと感想  (1月30日c)

 「円安と賃下げ」について。「賃下げ」に関連して、「円安」の話を述べておく。

 「円安で景気を回復するべきだ」  という「円安論」がある。
 「実質賃金が下がることで、国際競争力がつくので、生産を拡大できる」というわけだ。
 これに対して、すでに述べた観点をまとめれば、次のように言える。
 「供給力不足の状況ならば、賃下げで供給力を増やすべきだ。(たとえば、途上国や、スタグフレーションの場合。)しかし、マクロ的に需要不足の状況では、円安には意味はない。かえって、実質賃金の切り下げで、総所得減少の効果があり、状況を悪化させる。不況のときに所得低下をもたらそうというのは、方向が反対だ。」
 ただ、もう少し正確に言えば、次のように言える。
 「円安によって輸出増加があり、しかも、それが企業収益の向上だけでなく、労働者の所得増加があれば、景気回復効果はいくらかはある。仮に、1ドル=150円の円安にして、輸入物価の上昇が(在庫などにより)発生しないで済んで、所得の増大の効果だけがあって、そういう所得増大の効果により、不均衡を脱出できるのであれば、円安政策は成功する」
 「しかし、現実には、そうは行かない。1年前の円安では、企業収益の向上は、労働者には回らず、所得増加の効果がなかった。また、仮に企業が収益を労働者に配分したとしても、輸出の総額は日本全体ではかなり小さく、いくらか輸出が増えて所得が増えたからといって、巨大な需給ギャップを埋めるほどの所得増加にはならない。つまり、円安による景気回復策は、失敗する。(現実にそうだ。)」
 「円安による景気回復策が失敗すると、そのうち、円安の効果で、所得上昇なしの物価上昇(インフレとは違う)が発生する。これはデフレ効果をもたらす。かくて状況をいっそう悪化させる」

 結語。
 円安による景気刺激効果は、いくらかはある。小さな不況であれば、それで需給ギャップを解消することが成功することもある。しかし、大きな不況では、どんなに円安にしても、輸出を倍増させることは不可能なので、需給ギャップは解決されず、かえって、実質所得の減少による不況悪化効果が現れる。
 だから、それを解決する円安を実施するとしたら、「永遠なる円安」だ。つまり、「まず1割の円高」を実施し、それでも解決しないので、「また1割の円高」を実施し、……というふうに、際限なく、どんどん円安にしていく必要がある。そういうふうにした場合のみ、急激な景気悪化効果を先延ばしすることができて、当面の一時しのぎを継続できる。そして、やがては、いつかは均衡状態に達することができるだろう。しかし、そのときは、強引な介入による莫大な通貨発行の硬貨で、すさまじいハイパーインフレが発生する。莫大な通貨発行の効果は、当面は「通貨の滞留」によって発言しないが、あるとき突然、「薪に火がつく」形で、ハイパーインフレが発生する。
 「円安」というのは、しょせんは、通貨政策の一種にすぎない。不況という現象を、単に通貨だけで片付けようとすれば、通貨システムそのものが歪んでしまう。それが「突然のハイパーインフレ」だ。不況というものは、需要と生産の関係に本質的な原因があるのであり、それを無視するべきではないのだ。通貨だけで片付けようとしてはならないのだ。やれば、とんでもない状況が押し寄せる。そのことは、「円安」であれ、「量的緩和」であれ、「インフレ目標」であれ、同様である。本質を見失えば、手痛いしっぺ返しを受ける。

 [ 付記 ]
 吉川洋[東大教授・経済財政諮問会議議員]が、朝日新聞・朝刊 2003-01-21 で、インタビューに答えて、「円安でデフレ脱出」を主張している。「輸入インフレが起こるから」という理屈。上記の「輸入インフレはインフレと違って、所得増加効果がない」という点を無視している。「所得」の影響をまるきり無視している。彼は、他の凡庸なマネタリストよりは利口だが、しょせんは論理が底抜けである。「所得」を無視すると、どうなるかを、彼の間違いが例示している。
 仮に、彼の主張通りにすると、どうなる? 「円安」は「消費税増税」とほぼ同じ理屈になる。「消費税増税はすばらしい。消費税増税で、物価上昇がある。だから、デフレを脱出できる」というわけだ。「円安」も同様の理屈である。「所得増加なしで、物価を上げればいい」というわけだ。「アメとムチ」ならぬ「ムチとムチ」という政策だ。サディスト政策とも言える。
 厳密に言えば、「円安」と「消費税増税」とは、違いもある。「消費税増税」は、単純に所得を減らすから、インフレよりもデフレ効果がある。「輸入インフレ」は、輸入産業の収益性向上の分が、労働者へ配分されない限り、所得を減らすから、その分、デフレ効果がある。それだけの違いだ。仮に、「輸出産業における賃上げ」があれば、「円安による輸入インフレ」は、メリットもあることになる。ところが、現実には、そうはならない。単純にデメリットがあるだけだ。その元凶は、もちろん、トヨタである。つまり、経済財政諮問会議と経団連で「賃下げ」を主張している奥田某というトヨタ会長だ。……だから、「円安による景気回復」を主張するのならば、この人物をどうにかするのが、先決だ。ま、どうにかしたからといって、それでプラスのメリットが出るわけではない。単にマイナスが消えるだけだ。しょせんは、円安は、景気にはたいして影響が出ない。大事なのは、総需要拡大だけだ。


● ニュースと感想  (1月31日)

 前項の続き。
 「円安の本質」について。
 円安については、何度も述べてきたが、ここで本質を考えよう。
 円安にせよ、円高にせよ、それが景気に影響を与えるかどうかは、「生産量を増やすか否か」で決まる。では、「円安」は、生産量を増やすのか? 

 前に述べた「需要超過」ないし「供給超過」の話を参考にすれば、「円安」は、解放経済系において、生産を増やす効果(貿易黒字効果)がある。その意味では、景気回復効果がある。
 しかし、現実には、貿易黒字が発生すれば、それを是正する方向に、「円高」圧力が働く。それが「変動相場制」というものだ。その「円高」圧力に対抗するような為替介入をすれば、何らかの効果が出るが、しかし、為替介入というのは、とんでもない結果を招くことは、歴史的な事実が証明している。

 はっきり言おう。為替介入というのは、「輸出産業に補助金を出して、輸入産業に課税する」というのと同じだ。それは、完全なる国家介入であって、市場原理の否定なのである。
 そういう国家介入をやれば、何らかの効果は出るが、そんなことをやればやるほど、経済は歪む。こういう「市場原理の否定」ないし「国家統制経済の崇拝」は、近代経済学を否定しているのも同然だ。

 一般的に言えば、「円安で景気回復」なんて主張しているのは、経済学者ではなくて、ただの経営コンサルタントにすぎない。マクロ的な生産量などをまったく考えず、個別企業の損得だけを考えているわけだ。マクロ経済というものからは、最も遠いところに位置する。
 彼らがいかに視野が狭いか、その説を検証しよう。

 (1) 円安による輸出産業の収益性向上
 たしかに、輸出産業では収益性が向上するが、その分、輸入産業では収益性が低下する。マクロ的には、トントンである。当たり前だ。

 (2) 輸出産業の収益性向上による景気刺激効果
 収益性が向上して、その金が労働者に配分されれば、総所得の拡大と、総需要の拡大が、見込める。しかし、現実には、トヨタの賃上げゼロに見られるように、総所得の拡大が見込めない。結局、輸出企業の収益性が向上しても、その利益は、銀行に眠るだけだ。景気刺激効果はまったく見込めない。(一方で、輸入産業における「収益性悪化」による景気冷却効果は、着実にある。)

 (3) 円安による輸出額の増大
 基本的には、変動相場制のもとで、輸出入はトントンになるはずだが、上記の通り、国家介入により、貿易黒字を拡大することはできる。これが成立する場合もある。アルゼンチンやロシアのような、破綻状態の途上国だ。供給力が縮小した状態では、通貨の切り下げで、供給力の拡大をめざすべきだし、それが正解だ。しかし、日本では、供給力不足ではない。むしろ、需要不足である。こういう状況では、「円安」は、本末転倒である。
 そして、もう一つ、根本的な理由がある。彼らは、何をめざすべきか、理解していないのだ。めざすべきことは、「輸入産業だけが利益を得ること」ではない。「国の全産業において生産量が拡大すること」である。そして、そのためには、「総需要の拡大」が必要である。さらにそのためには、「総所得の拡大」が必要である。これが根源だ。ところが、「円安」というのは、「ドル表示の総所得の減少」であって、「総所得の減少」を意味する。短期的には、輸出産業が利益を得る(輸入産業が利益を失う)が、長期的には、輸入物価の上昇を通じて、マクロ的に総所得の減少効果がじわじわと現れる。つまり、GDPの縮小だ。これは、めざすこととは、正反対だ。
 アルゼンチンのような途上国(生産力不足状態)ならば、通貨レートの切り下げによる実質的な賃下げがあっても、失業者が雇用されるから、生産量はかえって拡大する。しかし、日本のような先進国(需要不足状態)ならば、実質的な賃下げは、総所得の減少を通じて、生産量を縮小させる。
 こういうマクロ的な視点が大事だ。つまり、国全体の所得効果を考慮して、生産量の変化を見るべきなのだ。輸出企業が損するとか得するとか、そういう個別的な企業の経営の話をするだけでは、ダメなのだ。

 [ 付記 ]
 本質を示そう。
 景気が悪化するというのは、生産量が縮小した状況だから、生産量を拡大すればよい。ここで、「国内需要は増えなくても、海外需要が増えれば、生産量を拡大できる」というのが、「円安」政策だ。
 しかし、「生産量だけを拡大」というのは、「不況対策」としては正解ではないのである。ここでは、「需要の拡大」によって「需要不足」という不均衡を解消するべきなのであって、「内需が不足しているから、外需を増やせばいい」というのでは、本質を逸らした解決法なのだ。
 論者は、「アルゼンチンでは通貨安で生産量を増やした。だから日本も通過安で生産量を増やせばいい」と思い込む。そこでは、両者の違いを理解していない。「アルゼンチンでは供給不足であり、日本では需要不足である」ということを理解していない。だから、まったく正反対(インフレ・デフレ)の両国に対して、同じ解決法を適用しようとするのである。アルゼンチンには、「これで供給不足の問題が解決して、物価上昇が収まりますよ」と主張し、日本には、「これで需要不足の問題が解決して、物価下落が収まりますよ」と主張する。自己矛盾。
( → 12月27日1月06日b


● ニュースと感想  (1月31日b)

 前項の続き。
 「円安で何が起こるか」について。
 前項と前々項では、円安について否定的に述べてきた。「円安では景気回復効果がない」と。
 では、効果がないとして、何も影響はないのか? いや、影響はある。悪影響が。そのことを示そう。

 現在、ドル安が進んでいる。こういう状況で強引に円安政策を実行しても、市場の反抗を受けて、あまり円安効果はないだろう。そもそも、ドル安であろうとなかろうと、市場の反抗を受けるはずだ。
 しかし、それでも、強引に介入を続けたとしよう。ただ、1割程度の円安介入ではあまり変化がない。実際、1ドル=135円程度(1割程度)の円安にしても、輸出産業が少し潤ったぐらいで、景気への影響はまったくなかった。(労働者所得が増えなかったということもある。) で、2〜3割の円安介入をしたとしよう。
 ここでは、市場の反抗を受けるから、猛烈な貨幣供給量の増大が起こる。これは、非常に危険な状態であるが、マネタリストは、「まさしくそれが望んでいた状況だ。量的緩和と同じだ」と主張するだろう。
 しかし、貨幣供給量が増えても、インフレ期待が生じないうちは、貨幣は単に滞留するだけだ。つまり、現状通りだ。それがしばらく続く。何も状態は変わらないまま、市場に滞留する貨幣ばかりが積み重なっていく。
 ここで、いつか、人々の心理に不安が発生する。「こんなに滞留させていていいのか? 心配だ。とりあえずは、インフレの恐れがあるから、資産または原材料という形で、物の形にしておこう」と思う。そういう形で、需要が増加すると、資産や原材料の価格がいくらか上昇する。そして、特に原材料の市場で、均衡を回復したなら、そこで価格上昇が発生する。
 このとき、いわば、「積み重なった薪に、ついに火がついた」のである。すなわち、インフレ期待(という心理的な現象)が、ようやく発生する。そして、そのせいで、人々は一挙に滞留させていた金を市場に向ける。かつての「トイレット・ペーパー騒ぎ」のようなことが、あらゆる分野で発生して、さまざまなものがどんどん売れる。需要が莫大に増える。ハイパーインフレが発生する。(需要の増加は、年率5%程度で十分だ。かつてのトイレットペーパー騒ぎでも、その程度だった。ただ、「一瞬にして発生した」というところが肝心だ。そのせいで、一時的に、商品が市場から消えたわけだ。「薪に火がつく」場合でも、人々が瞬間的に消費を増やせば、そのとたん、すさまじいインフレが発生する。)
 ここで、マネタリストは主張する。「ハイパーインフレは、貨幣供給量を制御することで、収束させることができる。それこそ、得意技だ」と。
 なるほど、そうかもしれない。しかし、そういう処置は、なめらかな変化にはうまく応じることはできても、急激な(瞬間的な)需要増加には、うまく応じきれないのだ。たとえば、貨幣供給量が適正量の2倍になっていたとする。100%の金が現物市場で使われ、100%の金が滞留していたとする。その滞留していた金が、現物市場に流れ込めば、200%のハイパーインフレが発生する。
 さて。この過剰な金を、吸収すれば、ハイパーインフレは解決する。「だから、その過剰な金を、吸収すればいい」とマネタリストは言う。それはそうだ。しかし、そうすることは、現実には非常に困難なのだ。人々の手にある莫大な金を、一挙に政府が取り上げることなど、不可能に決まっている。たとえば、「消費税をいきなり 100%まで上げる」とか、「所得税をいきなり2〜3倍にする」というようなことは、できない。国会で審議するだけでも、長い期間がかかる。
 現実には、すぐさま可能なのは、金利の引き上げだけだ。だから、マネタリストは、「金利を引き上げよ。日銀は売りオペをせよ」と主張する。しかし、いくら売りオペをしても、しょせんは、現物経済のために使われている巨額な金のうち、半分ぐらいにもあたる巨額な金を、すぐさま吸収することなどは、とうてい不可能だ。また、金利を上げるにしても、30%とか50%とか、そんな途方もない金利にすることは、やはり不可能だ。また、仮にそんな超高金利にしたら、投資が不可能となり、経済がほとんど死んでしまう。それでは、過去の「アジア通貨危機」の再来だ。
( ※ だから、「強引に円安を実現」という主張は、「アジア通貨危機を日本でも再現させよう」というようなものだ。たしかに、アジア通貨危機では、通貨の暴落が起こり、経済は破綻した。それは、望まないのに、発生した。ところが、それをあえて望んで発生させようというのが、「円安」論だ。ほとんど自殺行為である。)

 結局、どういうことか? 
 「円安でインフレ効果を」というのは、均衡状態でなら、成立する。円安により、貨幣供給量を増加させれば、その分、貨幣価値が下がるから、インフレになる。これは、なめらかな変化だから、行き過ぎたら、なめらかに収束させることができる。均衡状態では、変化はすべてなめらかに進む。
 しかし、不均衡状態では、成立しない。円安にして、貨幣供給量を増やしても、そのほとんどは滞留するだけだから、貨幣価値は下がらない。単に貨幣供給量が(眠ったまま)莫大に増えていくだけだ。そして、あるとき急に、その眠っていた金が目覚めて、効果を発揮し、ハイパーインフレが発生する。しかし、その突然の強大な変化は、もはや収束することができないのだ。
 要するに、均衡状態では変化はなめらかで小規模だから制御可能だが、不均衡状態では変化は突発的で大規模だから制御不可能なのだ。

 イメージ的に言えば、こうだ。なめらかな下りの斜面があるとする。  第1に、普通の状態なら、少しずつ滑ることができる。何の危険もない。下向きの重力と、上向きの抵抗力とは、釣り合っている。少しぐらいの変動があっても、うまく制御できる。
 第2に、何らかのギクシャクさがあれば、そうは行かない。いくら重みをつけても、どういうわけか、ちっとも動かない。「変だな、変だな」と思いながら、どんどん重みをつけていく。「いっぱい重みをつければ、いつかは滑るはずだ」と。それでもなかなか滑らない。そして、あるとき突然、滑り始めると、暴走する。ものすごい重みがかかっているから、いくらブレーキをかけても、制御できない。「金融政策というシールの貼ったブレーキを使えば、ちゃんと制御できるはずだ」と主張するが、いくらブレーキを踏んでも、無効である。このブレーキは、普段ならば有効なのだが、莫大な勢いが付いたときには、もはや非力なのだ。
 そして、暴走した日本経済は、最終的には、破局に至る。そのときになって、「過剰な円安なんかやらなければ良かった。市場を強引に操作しようという、社会主義的な発想はしなければよかった」と後悔しても、後の祭りである。先に待ちかまえているのは、断末魔だけだ。

( ※ このたとえ話で、正解は、何か? まず原因を知るべきだ。「何らかの阻害物のせいで、事態がなめらかに動かない」とわかる。だから、その阻害物[所得不足]を取り除いて、事態がなめらかに動くようにすればいい、とわかる。なのに、それがわからないのが、マネタリストだ。彼らは、「重みを加えよ。どんどん重みを加えれば、いつかは動くはずだ」とやみくもに主張するばかりだ。物事の原因を考えず、荒っぽく力任せで解決しようとする。「粗暴」としか言いようがない。ほとんどゴリラである。力任せにぶんまわしたあと、大切なものを破壊してしまうだけだ。)


● ニュースと感想  (2月01日)

 記事のメモ。「商法改正」について。
 商法改正がなされて、それについて説明した記事が出たので、要約の形で、ここに簡単にメモしておく。(読売新聞・朝刊・経済面 2003-01-31 )(後日、朝日にも記事が出た。朝刊・経済面 2003-02-04 )

 従来は、次の形だった。
  「株主」→「取締役会」→「役員」→「従業員」
 つまり、株主が取締役会を選任し、取締役会が役員や管理職を任命し、彼らが従業員を指揮する。監査役会は、取締役会と対等であって、株主が選任して、取締役会を監査する。とはいえ、監査役会というのが、企業の都合で決まるから、事実上、チェック機能は不完全だった。

 新たな形は、「委員会等設置会社」というもので、次の形を取る。
  「株主」→「取締役会」→「執行役」→「従業員」
        「取締役会」={ 指名委員会 + 監査委員会 + 報酬委員会 }
 株主は、取締役会を選任するが、取締役会は、三つの委員会からなる。
    指名委員会 …… 取締役を選任する。
    監査委員会 …… 取締役・執行役を監査する。
    指名委員会 …… 取締役・執行役の報酬を決める。
 このシステムのポイントは、次のことだ。
 こうしてみると、わかることは? このシステムの長所は、「監査機能が健全化される」ということだ。
 一方、経営機能そのものは、「執行役は取締役としての仕事を免除される」ということぐらいで、たいして変化があるわけではない。新しい経営システムができるわけではない。そういうことは、あくまで、企業に委ねられていて、商法の外に置かれている。すばらしい経営形態というものがあるとしても、それは、各企業の独自の経営方針として、各企業が決めることになる。
 まとめて言えば、「商法改正」のポイントは、「経営の改善」ではなくて、「チェック機能の改善」である。「良いことができるようになる」というよりは、「悪いことができなくなる」というだけだ。
 たとえば、「無能な年寄りの社長がいつまでも居座っている」とか、「外部から有能な経営者を招聘できない」というような、日本企業の経営の問題は、今回の商法改正には、解決されるとは期待できないわけだ。もちろん、商法改正のおかげで日本経済が健全化する、なんてこともありえない。せいぜい、米国流の「不正経理処理」なんていう事件が発生しにくくなるだけだ。

( ※ ただし、若干の改善は、期待できる。「指名委員会」で外部の人間が過半数を占めるわけだから、「取締委員会の仲間内で派閥が形成されて、派閥間の力学で動く」というような従来の弊害は緩和されるだろう。「選ぶものと選ばれるものが同じ仲間同士」というのは、どうしても弊害がある。そういう難点を緩和する効果はある。経営を「良くする」ことはできないまでも、「悪くする」のを防ぐ効果はある。)
( ※ 本項で述べたのは、マクロ経済学でもないし、ミクロ経済学でもない。「経済学」でなくて、「経営」の話である。)


● ニュースと感想  (2月01日b)

 「量的緩和とマネタリズム」について。
 量的緩和について、このあと数日間、連続して述べることにする。ただ、それに先だって、本項では、大切なことを指摘しておく。「量的緩和論者は、マネタリズムの本家本元を裏切っている」ということだ。
 量的緩和を主張する人は、たいてい、マネタリストと呼ばれる種類の人々である。すなわち、「貨幣供給量だけを調節すれば、経済はうまく行く」と信じている人々だ。ただし、である。こういう主張は、マネタリストの元祖たるフリードマンの主張とは、矛盾する。
 元祖マネタリストであるフリードマンの主張は、むしろ、逆だ。「パーセント・ルール」である。すなわち、
 「貨幣供給量の伸び率は、毎年一定にすればいい。(一定の伸び率は、経済成長の割合程度。パーセント。) そういうふうに貨幣供給量をなるべく安定させるべきだ。そうして貨幣供給量を安定させれば、経済は安定する」
 というものだ。そして、これは、「長期的には正しい」という評価を得ている。
 私の意見を言えば、パーセント・ルールが正しいと言えるのは、次の二つの条件を仮定した場合だ。
 仮に、消費性向が変化しても、均衡状態を保っている限りは、「消費の縮小」を「投資の拡大」で相殺することができる。そして、フリードマンの主張によれば、そういう相殺を金融市場が完全に実現できるはずだ。(実際には、金融当局が少し助力をする必要があるだろうが。)
 ただし、である。消費性向が変化したあと、不均衡状態になると、もうダメだ。金融市場では、資金の滞留が発生するので、上記の相殺を実現できず、もはや経済を安定させることはできない。
 とはいえ、少なくとも均衡状態を保つ限りは、「貨幣供給量を一定にすればいい」という元祖マネタリストの主張が、おおむね正しいわけだ。── だから、私としても、上記の仮定(条件)のもとでは、元祖マネタリストの主張におおむね同意する。

 問題は、その仮定(条件)が成立しない場合だ。つまり、消費性向が低下して、不均衡状態になった場合だ。
 この場合は、もはや、元祖マネタリストの主張の範囲外である。彼らは口を閉じていればよい。
 ところが、最近のマネタリストは、元祖マネタリストの「貨幣供給量の安定」とは正反対のことを主張する。「貨幣供給量の安定」とは逆に、「貨幣供給量を途方もなく拡大せよ」と主張する。「量的緩和をしても効果がない」というデータが出ると、「効果が出るまで無限大にやれ」と主張する。もはや、メチャクチャである。

 そこで、彼らの主張がいかにメチャクチャであるかを、「量的緩和論者への批判」という形で、次項以降で示していくことにする。
 ただ、それに先だって、本項では一つのことを指摘しておいたわけだ。つまり、彼らは、マネタリストを名乗ってはいるが、元祖マネタリストの主張には真っ向から反している、ということだ。本家本元たるフリードマンの意見を発展させたわけではなくて、「金融の調節」という方法だけを自己流に勝手に歪めて解釈しただけだ、ということだ。
 フリードマンの意見は、あくまで、経済が均衡状態にあることを仮定(前提)している。なのに、「均衡状態ではこうなる」ということを、不均衡状態において適用しても、それは、ひどい拡大解釈なのだ。いわば、「晴れのときはこうだから、雨のときにもこうなんだ」というふうに、勝手な拡張をしているわけだ。そこにある矛盾を、このあと逐次、あばいていくことにする。

 [ 付記 ]
 ポイントを簡単に指摘しておこう。
 量的緩和論者の意見は、「貨幣供給量を増やせばインフレになる」というものだ。しかし、そういう説が成立すると仮定したら、現実が説明できない。
 結局のところ、彼らの言う仮定が間違っているわけだ。「均衡状態について成立することを、不均衡状態に適用している」という根源に気づかないから、彼らは間違うわけだ。
( ※ 結局、「貨幣供給量を増やせばインフレになる」という主張そのものが、[不均衡状態では]間違っていることになる。なのに、それを主張するのが、量的緩和論者だ。正しいことを主張しているつもりでいながら、本家本元の結論を裏切っていて、しかも、そのことに気づかない。タチが悪い。)




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