[付録] ニュースと感想 (40)

[ 2003.2.02 〜 2003.2.11 ]   

  《 ※ これ以前の分は、

    2001 年
       8月20日 〜 9月21日
       9月22日 〜 10月11日
      10月12日 〜 11月03日
      11月04日 〜 11月27日
      11月28日 〜 12月10日
      12月11日 〜 12月27日
      12月28日 〜 1月08日
    2002 年
       1月09日 〜 1月22日
       1月23日 〜 2月03日
       2月04日 〜 2月21日
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       3月06日 〜 3月16日
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       7月11日 〜 7月19日
       7月20日 〜 8月01日
       8月02日 〜 8月12日
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       12月03日 〜 12月12日
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       12月25日 〜 1月01日
    2003 年
       1月02日 〜 1月13日
       1月14日 〜 1月24日
       1月25日 〜 2月01日
         2月02日 〜 2月11日

   のページで 》






● ニュースと感想  (2月02日)

 Q 量的緩和は、無限の効果があるか? つまり、日銀が量的緩和を無限に実施すれば、企業は無限に投資を増やすか? 
 A 無限ではない。日銀がいくら量的緩和をしても、企業が投資をする額には、一定の限度がある。その一定の額を超えた分は、どこにも行かずに、金融市場で滞留する。

 上に述べたことは、当たり前である。「企業が投資額を無限に増やす」なんていうことは、ありえない。にもかかわらず、マネタリストはこう主張するのだ。そこで、解説しておこう。
 最近もあちこちでマネタリストが「量的緩和をせよ。そうすれば景気が回復する」と主張している。それに対する批判は、「資金が滞留する」(流動性の罠が発生する)というものだ。ところが、マネタリストは、これを無視する。「流動性の罠なんか、発生していない。量的緩和をすれば、必ずインフレ効果が出る」と。これはつまり、「デフレ下でも、量的緩和をすれば、必ず効果がある」ということであり、「量的緩和は無限に有効だ(限度がない)」ということだ。
 彼らがそう主張するのは、彼らの信じる「貨幣数量説」に従っているせいだ。つまり、現実に立脚してるわけではなくて、「モデルではこうなるから、現実もこうなるはずだ」という主張である。「シッポが犬を降る」ふうの、本末転倒の論理である。

 彼らの主張は、現実を無視している。どこが? それは、「誰が、何のために、どれだけの額を借りるか」を、よく見るといい。彼らは、「量的緩和をすれば、企業が無限に金を借りる」と主張する。では、いったい、どの企業が?
 たとえば、トヨタであれ、日産であれ、ソニーであれ、イトーヨーカドーであれ、たいていの優良企業には、銀行が「融資を受けてくれ」と日参している。銀行は、金を眠らせていては金を稼げないから、何とかして金を融資したいが、不良債権になって全額を失うような企業には融資したくない。だから、上記のような優良企業には、「金を借りてくれ、金を借りてくれ」としきりに日参して頼んでいる。まさしく、マネタリストの望んでいるように、銀行も望んでいる。しかし、である。当の企業が、融資を受けてくれないのだ。なぜなら、設備投資額は必要な分だけをするのであって、いくらか金利が低いからといって、無駄な投資をどんどんする企業はないからだ。たとえば、自動車が 200万台売れるなら、それだけの設備がいいのであって、「金利が低いから、400万台分の設備投資をしよう」と思う阿呆な企業はない。しかも、である。デフレのときには、財務体質の改善が大切だから、企業は融資を拡大するどころか、融資を縮小しようとする。つまり、既存の融資をどんどん返済しようとする。実際、日産自動車は、ここ数年で、2兆円以上の融資を、ほぼゼロにまで減らした。トヨタに至っては、もともと「トヨタ銀行」と言われるほどで、融資を受けるどころか、貯蓄をしている(つまり、他の企業に融資をしているのと同じだ)。
 そういうことだ。デフレのときには、資金需要そのものが、急激に縮小している。あらゆる企業は、「固定費削減」「財務体質の改善」をめざして、急激に借金を減らしている。それが正しい経営方針である。(借金を増やしているのは、優良企業ではなくて、借金がないと首が回らなくなった劣悪企業である。これらには、金を融資しても、不良債権となる可能性が高い。)
 実際、古典派でも別系統の経済学者は、「投資拡大」どころか、「過剰な設備の廃棄」を主張している。マネタリストとは正反対だ。彼らの方が、マネタリストよりも、正しい。彼らの方が、企業経営というものを、理解している。たとえば、「投資拡大」というマネタリストの主張を受け入れた企業がある。マイカルだ。マイカルは、もともと、赤字体質ではなかった。しかし、「景気回復」を信じて、莫大な設備投資を実行した。ところが、設備投資にもかかわらず、不況のせいで、売上げが伸びない。「200万台しか売れないのに、400万台分まで投資を増やした企業」と同じである。かくて、積極的な経営方針がたたって、倒産した。(ついでだが、もし景気が好況であったならば、マイカルは高成長をなして、勝者になることが可能だったろう。)
 話は、マイカルだけではない。今、どの企業にとっても、なすべきことは、「有利子負債を減らすこと」である。量的緩和論者は、「融資を増やせ」と叫ぶ。しかし、「融資」とは、企業にとっては、「有利子負債」のことなのだ。まともな企業ならば、現在、これを減らす努力をするのが当然だ。さもなくば、倒産しかねないからだ。売上げが伸びるどころか減るときに、投資をするなんていうのは、狂気の沙汰である。強引にやれば、マイカルのように、倒産するだけだ。

 結局、不況のときには、それゆえ、資金需要そのものが縮小している。これが大事だ。実際、このことは、「誰が、何のために、どれだけの額を借りるか」を、見ればわかる。量的緩和論者は、たいていの企業が、「無意味な目的のために、莫大な額を借りる」と主張する。しかし、そんなことはないのだ。当たり前だ。前述の優良企業は、「金をいくらでも貸してくれる」と言われたとき、「借りたくない」と銀行を追い返しているのだ。なのに、「銀行が金を貸そうとすれば、企業はいくらでも借りてくれる」と信じるのは、正気をなくした妄想である。
 つまり、企業が融資を受ける額は、決して無限にはならない。一定の限度がある。そのことを理解することが大事だ。そして、そう理解したなら、「量的緩和は無限に効果がある」などと信じることはなくなるだろう。

( ※ 「誰が、何のために、どれだけの額を借りるか」の、正解は? 言わずもがなだが、記しておこう。量的緩和で投資[融資受領]を増やすのは、誰かといえば、nobody である。つまり、誰も投資[融資受領]を増やさない。そして、増えた金は、単に滞留して、死に金となる。それが正解だ。)

 [ 付記 1 ]
 量的緩和が有効となる範囲は、どのくらいか? つまり、上記の「一定限度」というのは、どのくらいの額か?
 この範囲は、クルーグマン流の「流動性の罠」で説明できる。
 簡単に言えば、こうだ。金融政策が有効になるのは、「金利ゼロ」になるまでの範囲である。つまり、景気が悪化したとき、量的緩和をすると、金利が下がると同時に、融資額が増える。また量的緩和をすると、また金利が下がり、また融資額が増える。こういうことがどんどん続く。しかし、それが続くのも、金利がゼロになるまでだ。金利がいったんゼロになると、量的緩和をしても、金利は下がらないし、融資額も増えない。余分の金は、市場で滞留するだけだ。
 ここでは、「均衡点は、金利がマイナスの領域にあって、均衡が実現しない」というふうになっている。そのことを、前述のようなマネタリストは、理解できないわけだ。
 結局、「金利がゼロになった」ということは、融資の需要がもはや増えないということなのだ。だから、金利がゼロになった時点で、もはや量的緩和は無効となっているのだ。「量的緩和が有効である範囲は、金利がゼロになるまでだ」と、はっきり理解するべきである。

 [ 付記 2 ]
 「金利がゼロ」というのは、「資金需要が不足」ということのほかに、「資金供給が過剰」ということをも意味する。つまり、量的緩和によって、国債を買って金を渡しても、人々は逆に、その金で国債を買い戻す。結局、(長期)国債を買って、(短期)国債を売る。金は市場をぐるぐる回っているだけで、量的緩和の効果は消えてしまう。それを意味するのが、「金利がゼロ」だ。
( ※ 量的緩和論者は、このことを理解しない。「出して入れれば、差し引きしてチャラ」ということがわからず、出せば出しただけの効果がある、と思い込む。「短期国債の買い手が莫大にいる」という現実を、まったく無視する。ま、現実無視で、空論ばかりを出すのは、経済学者の性癖ですけどね。)

 [ 付記 3 ]
 同じことは、商品市場でも言える。つまり、「市場で価格がゼロになった商品は、もはや販売量を増やせない」となる。
 たとえば、豆腐の「おから」は、小量ならば買い手がいるかもしれない。しかし、市場で価格がゼロになったら、もはやそれ以上は販売量を増やせない。「生産量を増やせば、いくらでも販売量が増える」ということにはならない。余った分は在庫となるだけだ。金融市場でも、まったく同様である。
( → 2002年1月06日 でも同じたとえ話。)

 [ 付記 4 ]
 金利ゼロについて、細かく言うと、短期金利と長期金利を区別することもできる。短期金利がゼロになったあとも、さらに量的緩和を実施すると、長期金利がどんどん下がっていく。そういう現象が見られる。(当たり前だが。)
 これはこれで、いくらか考察する意味はあるが、別に、本質には関係ない。あくまでオマケ的な話題にすぎない。
( ※ ただ、長期金利が下がることは、「将来の金利が下がること」を意味するから、「インフレ目標」に似た効果をもつことがある。)

 [ 参考 ]
 以上に関連して、「金利ゼロに対応する生産量」というふうに、話をマクロ的に進めることもできる。それは、前に「修正ケインズモデル」で詳しく説明したとおりだ。→ 9月16日 以降の、「緑色領域」の話。)


● ニュースと感想  (2月03日)

 前項の続き。
 「量的緩和の効果が出た場合の予測」をしてみよう。
 前項で述べた結論は、「(量的緩和は)効果なし」であった。ただし、よく考えると、これは最善の場合である。うまく行けば、効果はゼロだ。金は滞留するだけで、死に金となり、景気に対しては、プラスもマイナスもない。(将来的には、「薪に火がつく」という形で、ハイパーインフレが生じる可能性もあるが、当面は、金は眠るだけだ。)
 一方、最悪の場合も考えられる。それは、「量的緩和論者の希望が実現した場合」である。論者は、「量的緩和が効果を発揮すれば、投資が増える」と期待する。それをすばらしいことだと信じている。しかし、「量的緩和によって投資が増える」という、彼らの望む事態こそ、最悪の事態である。なぜか? 投資は増えるが、増えるのが投資だけであるからだ。
 投資が増えれば、そのことで、景気は一時的には上向く。所得も少しは増える。しかし、結局は、所得の増大はわずかに留まるから、消費はたいして増えない。需給ギャップが少し縮小するだけで、均衡には達しない。
( ※ なぜか? 需給ギャップが非常に大きく、また、GDPの大部分は投資とは無縁のサービス業だからだ。投資拡大によるGDPの拡大効果は、不況時には、たかが知れている。国全体で大幅に経済が縮小しているときに、一部の企業だけが支出だけを増やしても、大部分の企業や個人は支出をろくに増やさないから、巨大な需給ギャップは解消しない。)

 結局、需給ギャップの縮小は、小規模で短期間のものに留まる。そして、そのあとは、投資拡大にともなって、前にも増して巨大な需給ギャップが発生する。
 個別企業を見れば、こうだ。投資を拡大すると、投資増大にともなって、あちこちの企業で、少しだけ売上高が増える。しかし、従業員に対する賃金は、ほとんど上げない。残業は少し増えるが、サービス残業にして、賃金をほとんど増やさない。労働者は、所得が増えない。だから、消費も増えない。ここで、企業は、青ざめる。せっせと投資をしたのに、一時的な売上げ増加のあとは、ちっとも売上げが伸びないのだ。にもかかわらず、投資をしたことで、有利子負債が増えて、財務内容は非常に悪化している。銀行は「金を返せ」とせっつくが、売上げが伸びないのだから、金を返すどころではない。借金で、首が回らなくなっている。あげく、倒産。(つまり、マイカルの二の舞だ。)
 かくて、量的緩和論者のもくろみどおり、投資は増えるが、そのことで、有利子負債が非常に増え、かつ、企業の赤字が非常に増える。企業がどんどん倒産していく。日本中の企業が、不良債権と化していく。これまでは劣悪な企業ほど倒産していったが、今度は成長力のある優秀な企業ほど(投資拡大のせいで)倒産していく。
 というわけで、量的緩和論者の希望(投資拡大)が実現すれば、それは逆に、最悪の事態なのである。彼らが「夢が実現した」と思って、「幸福になった」と感じたときには、逆に、現実は地獄になっていくのである。ただし、言っている本人は、死ぬまでそれに気が付かない。
 昔から、格言がある。「馬鹿は死ぬまで、治らない」


● ニュースと感想  (2月03日b)

 「量的緩和の効果の予想」をしてみよう。今度は、最もありえそうな結果を予想してみる。
 前々項では、「効果なし」であり、前項では、「投資拡大」であった。そういう予想をしたが、最もありえそうなのは、別のことだ。それは、「効果が出ないまま、どんどん量的緩和を拡大して、そして、あるとき突然、インフレ期待が発生して、ハイパーインフレが発生する」という「暴走型」の進行である。
 このことは、先日も、次のように述べた。
貨幣供給量を増やしても、そのほとんどは滞留するだけだから、貨幣価値は下がらない。単に貨幣供給量が(眠ったまま)莫大に増えていくだけだ。そして、あるとき急に、その眠っていた金が目覚めて、効果を発揮し、ハイパーインフレが発生する。しかし、その突然の強大な変化は、もはや収束することができないのだ。 ( → 1月30日b
 下り坂に置いた荷物が、なかなか動かないので、力を加えていったあと、あるとき急に動き出して、暴走する、というイメージである。

 さて。イメージだけでは物足りないので、具体的な数値を挙げてみよう。
 2002年4月07日 の記述では、量的緩和が行き過ぎていることの実証データをまとめたすえに、「 42兆円であるべきところ、96兆円ものマネーがあふれている」と結論した。現在ではもう少し上回っているだろうが、上記のデータによるとしても、必要量の2倍以上の金が流通していて、そのうち、差額に相当する 54兆円が、余分な金として、滞留している計算になる。
 ここで、「さらに過剰に量的緩和をやれ」というのは、「 10兆円ぐらいやれ」という生ぬるいではなくて、「さらに 50兆円ぐらい追加せよ」ということなのだろう。
 さて。それでもなお、インフレ期待は生じないはずだ。それでもとにかく、あるとき突然、インフレ期待が生じたとすれば、その時点で、3倍以上のマネーがあふれることになるから、物価は一挙に、3倍ぐらいに上昇することになる。

 あるいは、別の形の危惧もある。
 景気回復策として、最適の方法は、何度も述べたとおり、「減税」である。「減税」を十分にやれば、必ずインフレ期待は発生する。では、そのとき、量的緩和の効果はどうなるか? 
 具体的な数値で考えよう。減税をやるなら、その規模は、前にも述べたとおり、10兆円〜 20兆円の規模だ。この額を国民に渡す。
 さて。このとき、どうなくか? 国民の消費が増えて、景気は回復する。それだけではない。量的緩和によって滞留していた 54兆円分の金が問題だ。この大量の金は、どうなるか? 
 金は、そのまま寝かせていたのでは、物価上昇率の分だけ、価値が下がる。だから金は、資産や原材料に向かう。そのことがさらにインフレを拡大する。追加された 10兆円〜 20兆円の金が効果を発揮するだけでなく、もともとある量的緩和の 54兆円分の金が急に目覚める。10兆円〜 20兆円と54兆円との合計の需要が発生する。となると、一挙に物価が2倍〜3倍ぐらい、上がりそうだ。
 ここで、「貨幣を吸い上げよ」とマネタリストは主張する。しかし、いったん物価が上がってからでは、市場に出回っている金を回収することは難しいのだ。物価が2倍に上がる(物価上昇率が 100%である)ときには、市場から金利を吸い上げるには、120%程度の高金利が必要だ。120%である! こんな超高金利では、金利を払えないせいで倒産する企業が、あちこちで莫大に発生するだろう。経済はメチャクチャになる。混乱の極みだ。国家混乱のスタグフレーション状態である。
 結局、現状程度の量的緩和をやっているだけでも、「減税」を実施したとき、ハイパーインフレが発生して、それが制御不能になる可能性が十分にある。(「薪に火がつく」という形だ。)
 だから、「どんなに量的緩和をしても大丈夫だ。マネーは市場からいくらでも吸収できるのだ」なんていうマネタリストの主張は、机上の空論でしかない。それはまったく現実を無視している。ほとんど「理論倒れ」と言ってよい。こんな空論に任せて、莫大な量的緩和などをやれば、日本経済はアルゼンチン状態になる。デフレは解決しても、制御不能なスタグフレーションとなって、国家は破綻する。

[ 付記 ]
 逆に、正しくはどうすればいいかを、考えよう。
 それは、「過剰な量的緩和をやめる」ということだ。「減税」によって需給を均衡させることが絶対に必要だが、だとすれば、そのとき、もはやゼロ金利を解除する(市場金利で定まるようにする)ことが必要だ。
 具体的には、0.1% 程度か、もっと上の金利で、市場金利が成立するようにする。(日銀の過剰な介入でゼロ金利にへばりつかせることは、金融市場において「市場原理」が機能停止になることを意味する。それはもはや市場経済の否定である。国家管理経済となる。それは正常な状態ではない。)
 そして、そのような「ゼロでない金利」を成立させると同時に、滞留していた金を消去する。この滞留している金こそ、市場を機能停止にさせ、かつ、インフレを発生させる危険な金である。それをすべて吸い上げる。(金が滞留している状態では、金は実物市場に流れ込んでいないので、金を吸い上げることは可能である。)
 こうして「ゼロでない金利」における健全な均衡状態で、少しずつ経済を成長させていけばよい。この場合は、均衡状態が続くから、経済が暴走することはない。何も問題はない。
( ※ 逆に言えば、「ゼロ金利」を続けて莫大な金を滞留させておけば、あとでハイパーインフレが発生する可能性がある。また、ハイパーインフレが発生したあとでは、滞留していた金が目覚めるせいで、金を吸い上げることもできないまま、状況が暴走することになりかねない。)


● ニュースと感想  (2月04日)

 前項の続き。
 全銀行の貸出残高が、91年以来、過去最低に落ち込んだ。── 詳しく言うと、前年比 4.7%減。6年連続で、前年割れ。(読売・夕刊・1面 2003-01-14 )
 これはもちろん、「資金需要がないこと」を意味している。(「銀行が貸してくれない」という企業側の嘆きも聞こえるが、同じことである。それは単に「倒産しそうな危険な企業には、低い利率では貸してくれない」というだけのことだ。不良債権になりそうな危ない企業は、高利率で借りればいいだけのことだ。「高利率が払えない」のなら、それはそれで仕方ないが、そのことを「銀行が貸してくれない」と言い換えても、言葉の置き換えにすぎない。)

 さて。ここで注目すべきことは、何か? 「量的緩和」との関連だ。論者はやたらと「量的緩和をせよ」とだけ主張している。それが貸出残高の拡大につながることを無視している。「量的緩和さえやればいいのだ。マネーサプライさえ増やせばいいのだ。銀行の貸出残高なんか、知ったこっちゃない」というわけだ。あまりにも現実無視の空論と言えよう。
 「貨幣数量説」を採るのであれば、見るべき金は、眠った金であってはならず、生きた金である必要がある。つまり、滞留している金をいくら増やしても無意味であり、実際に銀行の貸出残高が増えなくてはならない。……つまり、(経済の実態を示す)指標となるのは、マネーサプライよりも、銀行の貸出残高なのだ。
 なのに、彼らは、それをまるきり無視する。「マネーサプライだけが大事だ。市場に金をたらふく積めば、それでいいのだ。その金が使われないで眠っていようと、知ったこっちゃない。企業がその金を使わなくても、構うことはない。大事なのは、帳簿の数字だけ」というわけだ。
 換言すれば、こうだ。「印刷された紙幣の数が増えれば、それだけでいいのだ。実体経済としての生産量なんか、無視してしまえ」というわけだ。── 実際、量的緩和を主張する人の概念には、貸出残高がないだけでなく、総生産も総需要も総所得もない。そういうマクロ的な指標をまるきり無視して、単に紙幣の枚数だけを数える。ひどい話だ。

 量的緩和論者は、楽観することもある。「金をいっぱい出せば、金が増えるだけでなく、実際に投資が増える」と。しかし、そこには、肝心なものが欠けている。それは、企業の「売上高」だ。
 不況のときは、売上高が伸びない。売上げが伸びないときに投資を増やすのは、企業にとって自殺行為である。いくら経済学者が「投資をすべし」と勧めたって、企業はそんな自殺行為は取らないのだ。(やれば死ぬだけだ。)
 だから、まともな経済学者ならば、「売上高が伸びる見通しを、まず立てよ」と主張するはずだ。つまり、「マクロ的に総需要が拡大する見込みを、まず立てよ」と。実際、マクロ的に総需要が拡大すれば、売上高が伸びる見込みが立つ。そうなれば、企業は投資をできる。
 なのに、量的緩和論者は、「マクロ的な総需要なんか意味がない」「消費も所得も意味がない。投資だけを増やせ」と主張する。つまり、「売上高を伸ばさなくてもいい、投資だけを増やせ」と主張する。そして、「売上高が伸びないのに、投資だけを増やす」ということの論理的な結論は、「在庫の急増」である。「過剰な生産をして、売上高が伸びない」というのは、「在庫の急増」である。そして、このとき同時に、有利子負債も、急増する。(金の回収ができないからだ。)

 結局、量的緩和論者の主張しているのは、「金をどんどん貸せばい。その先は知った凝っちゃない」ということだ。もっとはっきり言えば、「金をどんどん貸せばいい。それを全部不良債権にしてもいい」ということだ。
 ひどい話だ。彼らは、マクロ経済というものを、根本的に理解できない。── なぜか? マクロ的な総需要も総所得も無視して、ミクロ的に金融市場だけで資金の需給だけを考えているからである。(だからこそ、投資の伸びだけを見て、売上高の伸びを無視する。)


● ニュースと感想  (2月04日b)

 前項の続き。「貨幣供給量のほかに、コストを見るべきであること」を述べる。
 頭の悪いマネタリストのために、経済学の初歩を講義しておこう。

 マネタリストは、「デフレは貨幣的な現象である」とか、「景気は貨幣量の調節だけをすれば十分だ」と主張する。その際、他の要素を、まったく無視している。「マクロ的な面(総所得・総需要)を無視するのが問題だ」と、これまで私は批判したが、もっと簡単なことも、無視している。それは、経済学の初歩である。

 「金利を下げたり、量的緩和をしたりすれば、投資が増える」とマネタリストは主張する。しかし、投資に際しては、金利や貨幣供給量を見るばかりではなく、投資のコストというものを見るべきだ。このことを強調しておこう。(初歩的すぎるが。)
 マネタリストは、経営というものを、借金することだけだと思い込んでいるようだ。違う。経営では、借金することのほかに、生産することが大事である。そして、その際、何よりも大切なのは、「利益」である。そして、「利益」は、「販売価格」と「コスト」との差として計算される。
 このうち、「販売価格」は、市場で決まるものであり、企業側が操作できない。(せいぜい、商品の魅力を高める「差別化」をすることくらいだ。しかしこれは、経営そのものの話であり、経済学は関係ない。)
 一方、「コスト」は、企業の側が操作できる。だからこそ、不況のときには、赤字を解消するために、企業は必死でコストを切りつめる。
 では、どうやって? ここで注目するべきことは、経済学の初歩にあるように、「平均コスト」と「限界コスト」の違いだ。両者の違いは、どこにあるか? 固定費負担を入れるかどうかだ。そして、「限界コスト」の方は、経営方針ではどうにもならないが、「平均コスト」の方は、経営方針で低下させることができる。固定費を削減することで。──
 だからこそ、企業は、「平均コスト」を低下させるために、固定費を削減しようとするのだ。そして、「固定費の削減」は、「投資の削減」を意味する。
 つまり、不況のときには、「投資の削減」こそが、何よりも大切なのだ。そうして固定費や有利子負債を減らす。別の言い方では、遊休設備を減らし、無駄を減らす。そうして赤字の発生を免れようとする。これが、正常な経営である。
 平均コストと限界コストの違い。固定費負担の有無。── たいていの経営者は、このことを理解できる。一方、マネタリストは、このことがわからないようだ。ならば、経済学の教科書を開いて、「コスト」の章を読み直すべきだ。


● ニュースと感想  (2月04日c)

 前項の続き。「マイナスの金利という補助金」について。
 「投資に際しては、金利や貨幣供給量を見るばかりではなく、投資のコストというものを見るべきだ」と前項で述べた。
 これをわかりやすく言えば、こうだ。マネタリストは、「実質金利が高いから、融資が増えない」と主張する。「だから、実質金利を下げて、融資を増やせ」と。(「マイナスの実質金利」ないし「インフレ目標」だ。)
 これは、金融政策の立場で、上から見れば、そういう理屈になる。では、この理屈を、企業経営の立場で、下から見れば、どうなるか? 融資を受けたら、返済をしなくてはならない。そのうち、金利の分は、すでにゼロだ。なのに、融資をもっと受けるとしたら、元金の分まで負担してもらいたい。
 たとえば、100万円を借りたら、金利をゼロにしてもらうだけでなく、元金の返済を 90万円まで減らしてもらいたい。できれば、「返済を遅らせれば遅らせるほど、元金の返済が免除される」というふうにしてもらいたい。そして、そのための資金は、国(または銀行を通じて国民全体)に、出してもらいたい。つまり、国民全体の金を、自分に与えてもらいたい。
 そして、それを実現する方法が、「マイナスの金利」だ。「マイナスの金利」が実現すれば、「元金の免除」が、まさしく実現することになる。そして、それだからこそ、融資の総量を増やすことができる。(この意味では、「マイナスの金利」という主張は、成立する。)
 しかし、である。本質を考えてみよう。そうすれば、論者の主張するとおり、融資の量は増える。投資の額も増える。しかし、そんなことに、何の意味があるのか?
 わかりやすく言おう。「マイナスの金利」は、「不良債権処理」とそっくりなのである。どちらも、企業の生み出した赤字を、国民の金で補填することになる。
 「不良債権処理」では、過去の赤字の分を、国や銀行が補填する。「マイナスの金利」では、将来の赤字の分を、国や銀行が補填する。どっちみち、そうやって、莫大な無駄の尻ぬぐいをする。
 実を言えば、「不良債権処理」の方が、まだマシである。これは、過去の失敗に対する補填であるから、補填したからと言って、不良債権がさらに増えるわけではない。「不良債権処理をするのか。それなら、うちの企業も赤字倒産させて、不良債権処理をしてもらおう」と思って、わざわざ企業を赤字倒産させる、というような阿呆な経営者はいない。「マイナスの金利」は、違う。やればやるほど、無駄が増えて、補填額が増える。「元金の1割を補填してもらえるのか。それならば、融資を受けて、投資しよう」と思って、融資を受ける。そうして無駄な設備を増やす。もちろん、赤字を出す。しかし、赤字を出しても、補填してもらえる。だから、国中で、非効率な赤字事業が増える。やればやるほど、国や国民の余分な出費が増える。百害あって、一利ありだ。
 本質を見抜こう。「マイナスの金利」というのは、「金利の値引き」のことではない。「元金の免除」のことだ。そして、それは、一般商品で言えば、「売れない商品に、国の金で補助金を与えて、無理やり売ること」だ。大失敗した社会主義とそっくりだ。ソ連は、そうやって、赤字を補填して「国民への福祉」と称したが、結果的には、赤字企業をのさばらせるだけだった。国全体の経済体質をどんどん悪化させた。「マイナスの金利」も同様だ。そうやって赤字を補填して、「企業への福祉」あるいは「投資の拡大」と称するが、結果的には、不採算の投資を拡大させるだけだ。国全体の経済体質をどんどん悪化させていく。── どちらにしても、経済原理を無視して、無駄なことを強引に押し進める。

 ここで、考えよう。
 なぜ、かくも愚かな方策を、論者は提案するか? なぜ? それは、大いなる錯覚をいだいているからだ。「たとえ非効率な赤字事業でも、やった方がいい。国中でそうやれば、GDPが拡大するから、景気はよくなる」と。
 これは、もっともらしい意見だが、実は、大いなる錯覚である。なぜか? このことが成立するのは、「均衡」のときだけだからだ。つまり、こうだ。
 (1) 「もともと均衡であるとき」または「投資の拡大によって均衡を回復できるとき」(小さな不況であるとき)には、そのことが成立する。投資の拡大で、GDPが拡大し、成長路線をたどることができる。
 (2) 「もともと大きな不均衡であるとき」には、そのことが成立しない。投資の拡大がいくらかあっても、いまだ不均衡は埋められない。となると、借金をして供給能力を拡大した分が、まるまる無駄となる。需給ギャップはいっそう拡大する。状況はいっそう悪化する。
 彼らの主張が成立するのは、「均衡」のときだけであり、「不均衡」のときはそうではない。なのに、「不均衡のときも、均衡のときと、同様になる。投資の拡大は、生産量の拡大をもたらす」と信じるのが、彼らの錯覚である。
 この件は、重要なので、次項で詳しく説明する。

 [ 付記 ]
 上の (2) の具体例が、マイカルだ。たとえマイカルという1企業が、いくら投資を拡大しても、国全体の巨大な需給ギャップを埋めることはできない。かくて、売上げが増えないのに投資を拡大したせいで、倒産に至る。
 つまり、需給ギャップを埋められないまま(総需要が増えないまま)、投資だけを拡大すると、投資の分が、まるまる無駄になるのだ。


● ニュースと感想  (2月05日)

 前項の続き。
 なぜ、量的緩和論者は、間違うか? その根本的な理由は、「均衡」と「不均衡」を区別しないからだ。
 彼らの狙いは、「投資の拡大が、GDPを拡大する」ということだ。なるほど、それは、「均衡」のときであれば、成立する。しかし、「不均衡」のときは、成立しないのだ。
 なぜか? 「投資の拡大が、GDPを拡大する」という道筋を考えよう。それは、「投資増加(= 投資需要増加) → 生産能力増加 → 生産量増加 → 所得増加」という道筋だ。こうして最終的に「所得増加」が達成されれば、そのこと自体が需要増加をもたらすから、拡大のスパイラルが進んで、GDPが拡大する。
 この道筋は、「均衡」状態では、成立する。当初は「所得増加」がなくても、「投資需要の増加」があるので、「不均衡」に落ち込むこともなく、拡大のスパイラルが進む。
 しかし、大きな「不均衡」状態では、成立しない。なぜなら、「生産能力増加 → 生産量増加」が不均衡のせいでは成立しないからだ。そして、それゆえ、最終的に「所得増加」が起こらないので、需要増加が起こらず、拡大のスパイラルが生じない。
 ここでは、マクロ的に「所得」が関与していること注目しよう。「所得」が道筋の途中で関与しているからこそ、最初と最後を結びつけて、「投資拡大 → GDPの拡大」という結論となる。なのに、その途中を省略して、「投資拡大 → GDPの拡大」というふうに直接の因果関係があるように見るのは、あまりにも短絡的である。(字義通りで、論理が短絡[ショート]している。)
 量的緩和論者は、経済のマクロ的な原理を理解していない。つまり、総所得や総需要や消費というものを理解していない。それがいかに現実を無視した架空の話であるかは、次のたとえ話からわかる。
 たとえ話。量的緩和論者は、「投資だけを考えればいい。消費のことなど考えなくていい」と主張した。そこで、孤立した無人島で、莫大な投資をした。次々と生産設備を拡大して、ロボットによって自動車やパソコンを次々と生産した。「どうだ。すごいだろう。これで無人島国家のGDPは急に拡大したぞ」と主張した。たしかに、投資をした分、無人島国家のGDPは拡大した。しかし、無人島国家には、消費者がいないし、所得もない。だから、買い手がいない。どんどん自動車やパソコンを生産するが、一つも売れず、単に在庫が拡大するだけだ。それでも、GDPが拡大するので、「景気はいいのだ。不況ではないのだ」と量的緩和論者は主張した。しかし、である。その投資はすべて、借金でまかなったのだ。そしていつか、とうとう、赤字を支えきれなくなり、破綻した。最後には、莫大な赤字が残った。その赤字の額は、「拡大した」と喜んだ投資の額とちょうど同額だった。結局、「投資の拡大」とは、「赤字の拡大(負債の拡大)」のことだったのだ。
 このたとえ話は、冗談ではない。現状を極端化しただけだ。同じ事情が、ある程度は、現状にも当てはまる。
 結局、大事なのは、マクロ的な効果である。「投資」だけでなく、「所得」や「消費」を考える必要がある。GDPは、消費が6割を占めるのであって、投資の占める割合は少ない。なのに、消費を無視して、投資だけを考えても、意味がない。
 なすべきことは、投資だけを増やして、生産量を少しだけ増やすことではない。消費を増やして、生産量を大幅に増やすことだ。「大幅に」とは、「需給ギャップを解消する水準まで」ということだ。そして、「需給ギャップを解消すること」ができなければ、投資の拡大は、有効であるどころが、有害になるのだ。(負債の拡大だけが残る。)
 ここで、大事なのは、何か? 「需給ギャップを解消すること」それ自体ではなくて、それがゼロ金利に先立つ、ということだ。── 換言すれば、「金融市場の不均衡」を解決するなら、まず、「商品市場の不均衡」を解決しなくてはならない。ここで、「商品市場は常に均衡する」と勝手に仮定して(妄想して)、「金融市場の不均衡さえ解決すれば、生産量の縮小が解決するぞ」と思い込むのが、マネタリストである。そして、その思い込みの結末は、「景気回復」ではなくて、「在庫の拡大」である。

 まとめ。
 以上を簡単にまとめれば、こうだ。「投資の拡大で景気回復」というのは、「均衡するとき」つまり「増産した物が売れるとき」に限る。「均衡しないとき」つまり「増産した物が売れないとき」には、増産すればするほど、状況は悪化する。……結局、「均衡」のときと「不均衡」のときでは、話は異なるのだ。

( ※ こんなことは、常識だ。「不況のときに増産するべきではない」ということは、経営者ならば、誰でもわかる。にもかかわらず、マネタリストは、それを理解できず、不況のときでさえ、しきりに「増産せよ」と主張する。なぜなら、「常に均衡」を信じる古典派だから。)
( ※ とにかく、財市場における「均衡」と「不均衡」の区別をすることが、物事の本質だ。それを見抜くことが大切であるということを、「財市場は常に均衡する」と妄信するマネタリストの錯誤が明らかにする。)

 [ 付記 ]
 「不況下では(消費の拡大に先立って)投資を拡大するべきではない」というのが、私の結論だ。
 しかし、この結論をどうしても信じられない人もいるかもしれない。そういう人は、自分の勤務先の社長に、「投資を拡大せよ」と進言するといい。「日銀が量的緩和をしたので、投資を拡大しましょう」と。すると、社長は、どうするか? 「売上高が縮小しているときに、投資拡大? おまえ、わが社を倒産させるつもりか!」と、あなたを追い返すだろう。あなたは、しょげる。── しかし、それは、運がいい場合だ。運が悪い場合は、社長は、「きみの進言はすばらしい」と、進言を聞き入れる。あげく、投資を実行したすえに、大幅赤字を出して、倒産する。その場合、あなたは失業する。そのころになって、「南堂があんなことを言っていたな」と思い出しても、後の祭りである。
 その実例を示す。高島屋だ。業績回復を狙って、店内改装を実施して、投資を拡大した。だが、売上げが増えない。収益性が悪化した。そのせいで、社長は退任し、社員は人員削減、とのこと。一方、他の百貨店は、投資拡大とは逆に、負債の返済に励んだ。収益性が向上して、業績回復。[朝日・朝刊・1面 2003-01-15 ] なお、朝日の記事は、高島屋について「経費率が高い」(収益率が悪い)と解説しているが、ピンボケである。高島屋というのは、もとも、屈指の利益率を誇っていて、経営体質は抜群だ。「にもかかわらず、投資拡大にともなって、固定費負担が増えたせいで、経費率が上がった」というのが正しい。つまり、「投資拡大」(のせいで経費率が上がった)というのが、本当の理由である。経営体質の問題ではないのだ。数字を見てもわかる。前年比 24億円も投資を拡大したので、利益が8億円に激減した。身の程知らず。狂気の沙汰だ。たぶん社長は、量的緩和論者なのだろう。
 とにかく、マイカルや高島屋のようなイカレた企業は別として、まともな企業は、(総所得や総需要の増えない)不況の最中では、有利子負債を削減しているのだ。それが正常なのだ。本項の冒頭で述べたことからもわかる。量的緩和論者は、経済の実態をまったく理解できない。「金だけがすべて」と思い込むマネタリストは、現実経済の動きを見ることができない。

 [ 補足 ]
 とにかく、「量的緩和」をやるとしたら、「流動性の罠」を理解するべきだ。つまり、「金融市場における貨幣量増大」では無効だ、と。そして、そう理解すれば、有効なものがわかる。それは、「国民各人における貨幣量増大」である。つまり、「減税」だ。前者は投資拡大を狙っても無効になるだけだが、後者は消費拡大を狙って有効になる。その証拠が、資金の滞留という状況、つまり、「流動性の罠」である。


● ニュースと感想  (2月05日a)

  【 追記 】  2003-02-21
  「量的緩和のまとめ」を、後日、次の箇所に記述した。
    → 2月21日b


● ニュースと感想  (2月05日b)

 「金融政策と財政政策の併用」について。
 「量的緩和」だけでは不十分だということが知られてきたようだ。そこで、「金融政策だけでなく、財政政策も併用せよ」という声が出てきたようだ。
 一つは、日銀の意見で、「金融政策だけに責任を負わされたくない」というもの。(朝日・朝刊・経済面 2003-01-30 )
 もう一つは、自民党の政調会長の意見で、「都市型の公共事業をやろう」というもの。(読売・朝刊・2面 2003-01-30 )
 発言者の意見を見れば、どちらも我田引水ふうの趣がある。それでもともかく、「金融政策と財政政策の併用」というのは、正しい一歩ではある。そこで、これを聞いて、「財政政策もやるのか。じゃ、景気回復も遠くないな」と思う人もいるだろう。しかし、その楽観は正しくない。財政政策は、単にやればいいというものではないのだ。

 (1) 規模の問題
 不況脱出を果たすためには、正しい方向に歩むことだけでは足りず、その規模が問題となる。規模が不十分であれば、いくらか改善したあと、ふたたび不況の底に落ち込む。そして、これは、これまで何度も通ってきた道である。
 不況脱出を果たすためには、財政政策をするとして、十分な規模が必要となる。そして、その規模は、「乗数効果が出たあとで下限均衡点を越える」ようになるだけの規模が必要だ。つまり、不均衡状態を脱出して、均衡状態に移るようにすることが必要だ。
 そのための規模は? 具体的に言えば、生産量で 40兆円程度の拡大をもたらすことができるような規模である。公共事業ならば 20兆円程度以上、減税ならば 10兆円程度以上だ。( → 9月04日12月12日
 とにかく、これだけの規模が必要だ。規模を無視して、少しばかりの財政措置をして、「これで景気が回復します」と思うようでは、いつまでたっても同じ道を循環しているだけだ。それでは、永遠に景気は回復しそうにない。

( ※ 上記のことからわかるように、「乗数効果が出たあとで下限均衡点を越える」ことが必要となる。下限均衡点を超えるまでは、景気回復が続いてもゼロ金利を続けるべきだ。ただし過剰な量的緩和は、不要かつ有害だ。財政政策は、特に継続する必要はなく、「少しずつ継続」という出し惜しみよりは、むしろ「最初にドカン」という形の方が有効である。)

 (2) 使途の問題
 財政支出をするとして、その使途が問題だ。
 タンク法との違いを考えよう。タンク法では、「国民全員への減税」を行なう。これは、誰かが得するとか損するとかいうことはなくて、単に「(実効的な)貨幣供給量の調節」をしているにすぎない。ここが肝心だ。(つまり、減税は得でもなく損でもなく、単に物価上昇が発生するだけだ、ということだ。メリットは、損得とは別で、生産量の増大[つまり不況脱出]である。)
 一方、「国民の一部だけが得する」という形の財政政策もある。「都市部への公共事業」とか「特定階層への減税」とかだ。こういうことを主張する人々は、「それが効果が高い」と主張する。そこに根本的な勘違いがある。
 なるほど、そうすれば、その人たちには得をする。しかし、それ以外の全員が損をするのだ。減税は損でもなく得でもない。特定の一部の人々が得をすれば、他の全員が損をする。一部だけで景気刺激効果が発生するが、他の全員で「所得を奪われる」という形の損失効果も発生する。(「将来の増税を予測して貯蓄する」という形だ。)
 とにかく、「国民が金を使わなけりゃ、おれが国民の金を使ってやる」というのは、泥棒と同じなのだ。泥棒がいくら金を使おうと、その金は、国民のものであり、国民は金を奪われる一方である。そんなことでは、まともな景気回復効果は発生しない。
 「最適の金の使い方を国が決めてやる」というのは、傲慢以外の何物でもない。国民の金を使うのは、国民であるべきだ。そしてまた、国民全員が金を使ったときに景気は回復するのであって、特定の一部だけが金を使うという形では景気回復は困難なのだ。
 「単に金を使えばいい」というのは、「泥棒して金を使えばいい」というのと同じで、根本的に間違った考え方だ。金は、「単に使えばいい」というものではなくて、その使途が問題となる。この根本を踏まえておくことが大事だ。泥棒の意見にだまされてはいけない。


● ニュースと感想  (2月05日c)

 「金融再生」について。
 木村・竹中の二人が「激辛コンビ」という漫才みたいな名称をもらってる。たいそう評判が悪い。(最近はコンビを解消したという話もあるが。)
 さて。この二人を、量的緩和論者が批判することもある。ただ、よく聞いてみると、目くそ鼻くそである。呆れたものだ。
 激辛コンビの主張は、「金融システムが詰まっているから、金融システムを正常化せよ」というものだ。これは、「投資が増えない」という状況を見て、「銀行のせいだ」と主張しているわけだ。
 量的緩和論者は、激辛コンビを批判しているが、自分だって、同様である。「金融システムのせいだ」とは言わないが、「金のめぐりが悪い」(だから金をどんどんつぎ込め)と主張している。似たり寄ったりである。目くそ鼻くそ。

 彼らが主張するのは、「金のめぐりが悪いから投資が増えない」というものだ。しかし、それは、現状を説明していない。たとえば、日産自動車は、史上最高の決算を出しており、銀行は「いくらでも借りてくれ」と言っている。なのに、現実には、金を借りるどころか、有利子負債を大幅に返済している。

 物事の根源を見抜くべきだ。景気を良くするには、生産量を増やす必要がある。もともと生産過剰のときには、投資を増やすよりは、消費を増やす必要がある。そもそも、GDPの6割は消費で、1割は公共投資で、民間投資は残りの分だけだ。たいして大きな比重を占めていない。民間投資だけを増やしても、消費が増えないままでは、在庫が増えるだけだ。

 もう一つある。銀行を健全化させようが、量的緩和をしようが、そんなことは、一般国民の消費を増やす理由にはならない、ということだ。たとえば、「ほう。今月は日銀のマネーサプライが3%向上したな。それでは消費を増やそう」なんていう国民はいない。「ほう。今月は銀行の自己資本比率が向上したな。それでは消費を増やそう」なんていう国民もいない。だから、いくらそんなデータを改善しても、何の効果もないわけだ。
 国民が消費を増やす理由は、ただ一つ。「自らの財布の金が増えること」である。今すぐ増えるのでもいいし、将来増えると予想されるのでもいい。いずれにせよ、「財布の金が増えること」が必要だ。それなしに、いくら「消費を増やせ」と主張しても、「ない袖は振れない」のである。
 マネタリストは、銀行の倉庫にある金だけを数えて、国民の財布の金を数えない。そこに彼らの根本的な思考欠陥がある。

( ※ だから、激辛コンビや量的緩和論者に対しては、彼らの給料をゼロにしてやるのが、最適である。どうせデタラメばかり言っているのだから、無収入で当然だ。で、彼らは、自分の主張さえ成立すれば、財布が空っぽになっても、どんどん消費を増やすつもりなのだろう。……サラ金にでも行くのかな?)


● ニュースと感想  (2月05日d)

 雑談。「スペース・シャトルの事故」について。
 「救う方法はなかったか? なかった」という解説記事が新聞に出ている。とんでもない。今回の7人の命を救う方法はあった。では、どうやって? 
 簡単だ。「発射時にシャトルに巨大な物体がぶつかった」ということが判明した時点で、帰還を延長すれば良かった。実際、宇宙ステーションには、まだ残っている宇宙飛行士がいる。彼らといっしょに帰還すれば良かった。
 また、シャトルにはカメラをつけることができて、タイルの損傷を確認できる。以前、そうふうにして、「損傷なし」を確認したことがあった。今回、そのカメラがなかったから、確認できなかったが、そのカメラをはずさなければよかったのだ。

 教訓。
 シャトルは危険なものであるということを前提とした上で、「故障したら、故障を発見した時点で、宇宙ステーションに留まる」というシステムを整えるべきだ。
 そして、今回の事故は、宇宙ステーションの有益性を、いっそう実証したことになる。


● ニュースと感想  (2月06日)

  【 予告 】
 「小泉の波立ち」の最終点が見えたので、予告しておく。
 完結の予定は、約2カ月後である。そのとき、いわば、山頂に立つ。

 長らく経済について考察してきたが、ついにその山頂がわかった。つまり、経済学の核心を、ついにとらえることができた。それは何か? 「不均衡/均衡」の違いを、原理としてとらえることである。その際、ある新しい理論(数学的な理論)を用いる。

 これまで、不均衡のような現象を示す説としては、「カオス」やら「ナッシュ均衡」やら、何やら、さまざまな理論が提出されてきた。しかし、そのすべては、不均衡を説明するには、的はずれである。ある新しい理論が必要となる。
 そして、その新しい理論によって、「カオス」も「ナッシュ均衡」も、さまざまな経済モデルも、すべては、統一的な原理によって再配置される。すると、ジグソーパズルの断片がつながるように、一挙に完成する。古典派もケインズ派も、完璧に統合される。そして、すばらしい眺望が見渡される。それは感動的な数学的体験だ。私自身、今は感動にひたっている状態だ。

 私がひたすら求めてきたのは、何らかの新しい学説ではない。真実だ。そして、そのために、さまざまな学説や理論を検証してきた。そして、そのはてに、ついに真実に到達することができる。
 真実というものは、非常にシンプルで美しい。それは物事の核心として、奥にひそんでいて、すぐには目につかないが、いつかは姿を現すものだ。
 そのことを、ここに予告しておこう。

 ( ※ 今、ひとことだけ言っておけば、こうだ。「不均衡を理解できない経済理論は根本的に無意味であり、不均衡を無視する経済理論は根本的に間違っている」と。……仮に、この世に「均衡」しかなければ、世界のすべては単純に安定的に動くだけだろう。しかし、「不均衡」があるせいで、単純な原理から非常に複雑な動きが発生するのである。)
 ( ※ 新シリーズが始まるのは、半月後。山頂に立つのは、2カ月後。)


● ニュースと感想  (2月06日b)

 新聞記事への批判。「インフレ目標」および「デフレの原理」について。
 インフレ目標については、何度も説明したし、誤解についても説明した。しかし、またまたひどい記事が出たので、批判しておく。記事の著者は、小林慶一郎。(朝日・朝刊・オピニオン面・特集 2003-02-03 )
 とにかく、この記事は、最初から最後まで、徹底的に根底から間違っている。経済学の基本を無視していると言うだけでなく、学者としての最低限の倫理も無視している。あくまで独りよがりの誤解と独断である。(いかにも朝日らしいといえば、その通りだが。……)
 以下、順に、示していく。

 (1) 見出し
 最初に、余談ふうに述べよう。そもそも、記事の見出しからして、おかしい。「インフレターゲット」と書いてあるが、今は「インフレ目標」という用語が普通だ。「カタカナにすれば、専門家っぽくなるだろう」と思い込んでいる心根がいやしい。「難しい内容をわかりやすく」という態度はなく、「やさしい内容を難しく」という基本態度だ。
 まったく、この人の著作からしてそうだが、「ケムに巻こう」という態度が、至るところに現れている。「物事の本質を突こう」というのとは、正反対だ。やたらと細かな論理を使って、人をだまそうとする。しかし、素人はだませるとしても、利口な人間はだませまい。
 どうしてまた、こういうふうな、ひねくれた心根を持っているのか? あまりにも学者らしくない。学者ならば、真実を求めるはずなのに。……と思って、経歴を調べたら、官僚出身であった。なるほど。「カタカナ大好き」「細かな論理ばかり」「本質を逸らす」「ケムに巻く」というのは、通産官僚の体質である。してみると、当然か。

 (2) インフレ目標
 インフレ目標とは何かを、根本から誤解している。そもそも、「流動性の罠」という一番肝心な基本用語が抜けている。「流動性の罠があるから、インフレ目標」という論理なのに、その一番肝心な概念が抜けている。だから、それ以後は、もう誤解ばかりである。
 論者(小林)が批判しているのは、単なる「量的緩和論」である。つまり、「ミニインフレ論」「調整インフレ論」だ。「むやみと量的緩和をやって、強引にインフレを起こそう」という主張だ。
 そして、これは、論者の主張するとおり、間違っている。しかし、間違っているのは、「量的緩和論」であって、「インフレ目標論」ではないのだ。
 むしろ、「量的緩和論が正しくないから、インフレ目標論がある」というべきだ。換言すれば、「(流動性の罠ゆえに)現在の量的緩和が無効だから、将来の量的緩和を公約しよう」ということになる。それがインフレ目標論だ。
 なのに、論者は、この両者を混同している。クルーグマンが「無効だ」と批判した「現在の量的緩和」を、「クルーグマンが提唱した」と記事に書いてある。つまり、事実とは正反対の、事実無根のことを、勝手に主張している。呆れて、ものが言えない。
 これではっきりしたのは、論者は「クルーグマンの説を理解してもいないし、読んでもいない」ということだ。世間にある二種類の「インフレ目標論」を勝手に行動して、マネタリスト流の「現在の量的緩和論」を、クルーグマン流の「将来の量的緩和論」と、混同している。
 こういうデタラメな記事は、やめてもらいたいものだ。そもそも、学者であれば、「批判する相手の説を読んで理解する」ことが、最低限、必要だ。そのくらいのことは、やってもらいたいものだ。
( ※ 記事にはわざわざ、「メモ2」という解説があるが、肝心のこと[上記]が抜けている。)

 (3) 信用創造
 「日銀の金だけが使われるのではなくて、信用創造によって金の効果が何倍にもなる」と解説している。このこと自体は、間違いではない。しかし、このことは、「信用創造」なんていう(頻度の低い)用語を使うまでもない。単に「資金が循環しない」とだけ述べればよい。「ケムに巻く」ようなことは、しないでもらいたいものだ。
 「日銀が現金供給を増やしても、信用創造が行なわれない」と書くのではなく、「日銀が現金供給を増やしても、資金が循環しない」と書けばよい。つまり、「資金が滞留している」と書けばよい。
 国民が金を使わないで貯蓄していることを、「信用創造が行なわれていない」と書くのでは、わけがわからない。単に「金を使わないので金が循環しない」と書けばよい。「信用創造」という用語は、銀行になら意味があるが、家計には意味がない。そんな用語で、家計の行動を説明しないでもらいたいものだ。
 また、銀行が資金を貸し出さないのは、「過小資本だから」ということはない。もしそうならば、単に公的資金を注入するだけで、資金の融資が増えるはずだ。また、金融市場では「供給不足、需要過剰」だから、金利が高くなっているはずだ。論者は、ここでも、自己流の主張ばかりを書いていて、世間から来る批判をまったく理解していない。そうして矛盾したデタラメを放置する。

 (4) 資産インフレ
 「もちろん、日銀がどんどん土地や株を買えば、インフレになるかもしれない」と書いている。違う。それで起こるのは、「資産インフレ」であって、「インフレ」ではない。資産インフレは、実物経済を上昇させる効果は少しはあるが、その何倍も何十倍も、資産インフレを起こす。そして、そのあとで、破裂する。
 論者は、「資産インフレとインフレとを混同している」という過ちを犯している。これは、量的緩和論者の過ちだが、それと同じ過ちを犯していて、気づかない。同じ穴のムジナ。

 (5) 株価と物価
 「インフレを起こすと、どのくらい株が上昇するか」という試算をしている。ここでは、「株価上昇率が物価上昇率に比例する」と仮定した上で、「株価が元の水準に戻るためには、とても高率な物価上昇が必要だ」と主張している。
 ひどい話だ。メチャクチャだ。何でまた、こんなデタラメな仮定に基づいた試算をするのか? 呆れて、ものが言えない。
 仮に、この話が成立するとしたら、バブル期に株価がどんどん上昇していたときには、物価もどんどん上昇していたことになる。また、バブル破裂後に、株価が5分の1に下落したが、同時に、物価も5分の1に下落することになる。
 もちろん、そんなことはありえない。株価と物価とは、比例しない。当たり前だ。
 株価は、どうやって決まるか? 基本的には、「株価収益率」によって決まる。つまり、企業の「売上高」ではなくて、「利益率」によって決まる。「企業の売上高が2倍になると、株価も2倍になる」のではなくて、「企業の収益率が2倍になると、株価も2倍になる」のだ。(PERという用語を理解していれば、すぐにわかる。)
 なお、株価や地価では、単純な「株価収益率」や「土地収益率」のほか、「投機」のための売買もある。これが、バブルを生む。
 現実には、現在の株価や地価は、「株価収益率」や「土地収益率」にだいたい見合っており、特にひどい水準まで下がっているわけではない。株価や地価が低いのは、経済水準が低迷しているから、それを反映しているだけだ。
 「経済水準が低迷しても、株価や地価を上げよ」というのは、「バブルを発生させよ」というのと、同じである。そういうのは、経済を歪める(市場原理を否定する)ことになるから、無視してよい。
 とにかく、株価や地価を回復するには、株や土地を買い占めるのではなくて、経済そのものを健全化して、企業の収益性を向上させることが、本質的だ。このことを指摘するのが正解だ。論者のように、「それじゃあまり効果が上がらない」なんていう試算は、無意味である。

 (6) 需給曲線
 記事では一番最初に、デフレの原理を示すものとして、「需給曲線による価格決定の仕組み」を示している。「 」型の曲線が交差するものだ。  これは、経済学の基礎ではあるが、ここを、論者は根本的に誤解している。デフレという価格下落の理由を、「供給が増えたから」と説明している。(つまり、「需要が減ったから」という正解とは、反対の説明をしている。)
 すると、どうなるか? 「供給が増えたから価格が低下した」というのは、そこまでなら、成立するかもしれない。しかし、その先が問題だ。
 記事ではモデル的に説明しているが、「供給過剰で価格が下落すると、それまで 100万個生産していればよかったのに、今度は 140万個生産する必要がある」と述べている。つまり、「デフレになればなるほど、生産数量を増やす必要がある」というわけだ。だから、「デフレになればなるほど、生産数量がどんどん増えて、さらに価格低下を引き起こし、生産数量の増加と価格低下の悪循環が起こる」というわけだ。
 これは、事実とは、正反対だ。生産数量は、増加しているのではなく、縮小している。たとえば、デフレによる物価下落よりも、GDPの下落幅の方が大きい。
 そもそも、「供給過剰のときに、さらに供給を増やす」なんていう行動を取っている企業は、一つもないはずだ。そんなことをすれば、在庫が増えるだけだ。
 また、デフレの根源も、理解していない。そもそも、バブルが破裂したとき、急激に需給ギャップが開いたが、それは、需要が縮小したからか、供給が増えたからか? この年、たったの1年間で、大幅に景気が悪化した。それは、人々の消費心理が急激に萎縮したからか、それとも、企業が大幅に設備投資を増やしたからか? 
 言うまでもない。消費心理というものは急激に変化するが、企業の供給能力というものは急激に変化しないのだ。たとえば、どんな国であれ、その国全体の生産能力を1年間で 10%も増大させるという方法などは、ありはしない。そんな夢のような方法は、ありえないのだ。
 にもかかわらず、論者は、この夢のようなことがあったと主張する。ほとんど狂気に近い。彼は、「需給調整」という、経済の基本原則について、正反対の方向に、勘違いしている。このような説明は、読んだ人に誤った経済知識を植え付けるだけだ。有害であること、このうえない。
 論者の主張に従えば、「供給過剰だから、供給能力を削減せよ」ということになる。つまり、「日本の貴重な生産設備を、次々とぶちこわしてしまえ」ということになる。これは、もう、経済テロだ。アルカイーダは、アメリカのビルを二つほど崩壊させただけだったが、この記事の論者は、日本中の生産設備を損壊させようとしている。恐ろしいテロリストだ。
( ※ 正解は? もちろん、供給を減らすことではなく、需要を増やすことだ。そして、その正解にたどりつくには、「デフレの原因は、需要縮小だ」と理解することが先決だ。なのに、正反対のこと[供給過剰]を原因だと考えると、間違った結論を出して、とんでもないテロリストになってしまう。)

 (7) 合成の誤謬
 不良債権処理の促進論の意見からも、別の誤解が見出される。「(債務デフレになると、企業の経営がダメになるので、)実体経済の活動が非効率になり、経済の成長率が鈍る」と述べて、これを「合成の誤謬」と述べている。
 違う。「個々の企業が非効率になり、そのせいで、国全体の成長率が鈍る」のではない。「個々の企業が効率化をめざすと、かえって、国全体の成長率が鈍る」というのが「合成の誤謬」だ。前者は、古典派の意見。後者は、ケインズ流の意見。論者は、ケインズ流の意見を、古典派流に勝手に解釈している。正反対の誤解だ。
 不況がどんどん悪化する(一国全体の状況が悪化する)のは、古典派の主張するように、「個々の企業が非効率になるから」ではない。「個々の企業が効率化をめざすから」なのだ。そして、そういう倒錯的な状況を、「合成の誤謬」と呼ぶ。
 論者のような古典派の主張では、不況脱出のためには、「個々の企業が効率を向上させればよい」となる。しかし、「合成の誤謬」のときには、そんなことをすればするほど、状況は悪化する、とわかる。
 だから、「合成の誤謬」のときには、解決策は、「そのような状況そのものを改善すること」だ、とわかる。つまり、マクロ的な政策をすることだ。そのことを、「合成の誤謬」という概念は教えてくれる。
 論者は、「合成の誤謬」というものを理解していない。「個々の企業の効率を向上させよう」という自己の主張に、勝手に「合成の誤謬」という用語を着せている。他人のフンドシを盗むようなものだ。ほとんど錯乱的である。
( ※ ついでに、補足しておく。なぜ、個々の企業が効率化をめざすと、かえって状況は悪化するのか? それは、「縮小均衡」に近づくからだ。ここが肝心だ。縮小均衡に近づくにつれて、個々の企業は収益性が良くなっていくが、総所得[≒ 総需要]が減るせいで、生き残る企業の数が減る。生き残った企業だけは健全化するが、生き残らなかった企業がたくさんある。生き残った企業の効率だけは向上するが、国全体の効率は低下する。……つまり、働いている部分だけを見れば効率は向上しているが、働いていない部分が増えているから、国全体では、状況は悪化するわけだ。それが真の原因である。「個々の企業が非効率になったから」ではないのだ。)


● ニュースと感想  (2月07日)

 経済論説への批判。「負債デフレ効果」について。
 「デフレは悪である」という、東大教授(岩井克人)の主張があった。(朝日・夕刊・文化面 2003-02-04 )
 この主張は、「デフレは悪である」という点で、基本的な方向は間違っていない。「生産性の向上は、賃金の上昇があっても物価水準を下げる効果があるから、好ましい。インフレでもデフレも同様だ。デフレのときだけ物価下落が悪い、ということはない。」という意見は、耳新しく、興味深い。
 とはいえ、フィッシャーの「負債デフレ効果」による「デフレは悪だ」という主張は、なかなかもっともらしい解説なので、ついつい「なるほど」と思ってしまいそうだが、正しくはない。
 詳しく言おう。「デフレ(物価下落)があると、債務者にとって不利益であり、そのせいで需要が減る」というところは、正しい。しかし、そのことを「好ましくない」と主張するのは、正しくない。
 論者は、「需要がどんどん減るのはいけないことだ」というふうに無条件に主張している。しかし、需要が減ることや生産量が減ることは、それ自体は、良くも悪くもないのだ。ここを勘違いしてはならない。
 論者の立場は、「常に成長だけが正しい」という「成長至上主義」である。そういう立場を取るから、反対者に、「成長なんて不要だ」と反駁される。
 具体的に言おう。バブル期の最後には、景気は非常に過熱していた。労働時間は長かったし、過労死は続出していたし、設備は稼働率が高すぎるぐらいになっていた。(稼働率が高くなりすぎると、古い低能率の設備まで稼働して、生産性が低下する、というデメリットがある。) ……こういう景気過熱の状態のときは、需要を減らして、生産量を減らすべきなのだ。それが正しい。つまり、「生産量を減らしてはならない」という主張は、正しくない。

 話の核心は、何か? 「生産量が減るか増えるか」ではない。「均衡か不均衡か」だ。
 均衡である限りは、生産量が低下したとしても、それは、経済政策の選択の範囲内である。「働き過ぎをやめて、のんびり働いて、シンプルライフを送りたい」と思うのであれば、それはそれでいいのだ。むやみやたらと「馬車馬のごとく働け」という立場だけが正しいわけではない。
 しかし、不均衡になったら、そうではない。そのときは、生産量が低下することは、ただちに状況の悪化を意味する。
 個々の企業で示そう。収益性が黒字である限りは、高収益であろうと低収益であろうと、別に問題はない。総需要が減って、低い稼働率で低い収益性であるとしても、特に問題が発生するわけではない。しかし、いったん赤字になったならば、そうではない。存続が脅かされる。さらに総需要が減れば、やがては倒産してしまう。── それが、「黒字と赤字」の違いであり、「均衡と不均衡」の違いなのだ。

 結語。
 デフレの本質とは、価格低下でもないし、生産量の縮小でもない。「不均衡」だ。この肝心な点を見失って、価格低下や生産量縮小を論じても、それは、完全な間違いとは言わないまでも、不正解なのである。
( ※ モデル的には、トリオモデルを使うと、わかりやすい。)

 [ 付記 1 ]
 論者の主張がどういうふうにおかしいかを、うまくつかむ方法がある。その主張のすべてが、「デフレ」だけでなく、「景気後退」にも当てはまる、という点を理解すればよいのだ。
 物価上昇率が下がるので実質金利が上がるとか、そのせいで債務者が損をするとか、自己責任のない人々が損をするとか、不良債権が発生するとか、状況がスパイラル的に悪化するとか、そういうことをあれこれと、論者は指摘する。そして、そのすべては、「デフレ」だけでなく、「景気後退」にも当てはまる。しかし、だとしても、「景気後退」は、悪いことではないのだ。
 論者が主張しているのは、「曇りのときは晴れほど得ではない」ということだ。たしかに、そうだ。しかし、だからといって、「常に晴れにするべきだ」ということにはならない。曇りも晴れもあるのは、仕方がない。特に、猛烈な晴れのあとには、晴れでない方が好ましい。
 なるほど、曇りのときには、晴れほど得ではない。しかし、それは、「借り手にとっては」ということだ。「貸し手にとっては」つまり「貯蓄をする一般国民にとっては」、話は反対だ。
 論者が書いているように、「借り手にとっての損」は、「貸し手にとっての得」であって、両者を合わせれば、トントンなのだ。借り手が損をするということは、貸し手が得をするということだから、良くも悪くもないのだ。需要が減るということも、それ自体は悪いことではないのだ。(稼ぐ金が減るということは、同時に、休む時間が増えるということだからだ。特に悪くはない。)
 悪いのは、「ある一線を越えて需要が縮小すること」である。天気で言えば、「曇り」でなく、「雨」になることだ。この場合は、「借り手にとっての損」では済まなくなり、「借り手が死んでしまう(倒産する)」という状況になる。だからこそ、「ある一線を越えて需要が縮小すること」は、悪い。しかし、そうでない限りは、需要が縮小することは、悪くはない。
 なるほど、「景気後退」が起これば、「倒産」「失業」というマイナスが発生する。しかし、注意しよう。「景気後退」のときは、まだ均衡状態にあるわけだから、マイナスを補うためのプラスがどこかで発生する。倒産があってもかわりに他の企業が生まれるし、失業者は他の企業で就職できる。しかるに、いったん「不況」になると、もはや均衡状態ではないから、いったん生じたマイナスを補うことができなくなってしまう。つまり、倒産は連鎖的に拡大するし、失業者はいつまでも就職できないでいる。
 結局、核心は、「需要が縮小すること」ではなくて、「ある一線を越えること」、つまり、「不均衡になること」なのだ。ポイントを逸らさぬように、注意しよう。

 [ 付記 2 ]
 論者の主張がどういうふうにおかしいかを、うまくつかむ方法が、もう一つある。その主張のすべてが、「インフレ」を肯定している、という点を理解すればよいのだ。
 論者の主張に従えば、インフレであればあるほど、好ましいことになる。そして、その結論は、「途方もないハイパーインフレこそベスト」という結論になる。実際、年率 1000% ぐらいのハイパーインフレ(たとえば往時のブラジル)になれば、借り手はとても有利だ。物を持っているだけで、物の価値がどんどん上がる。ボロ儲けだ。(そして、その分、一般国民は損をする。)
 結局、論者の主張は、「借り手の損得」だけを見ていて、それ以外のすべてを見失っているわけだ。だからこそ、「途方もないハイパーインフレこそベスト」という結論を導き出すような論旨になっているわけだ。

 [ 付記 3 ]
 本項では、論理的な欠陥を指摘した。ちょっとした論理パズルのようなものである。それを読んで、「なるほど、おもしろい」と思った読者もいるだろう。しかし、ここに示したのは、論理パズルとしての小話ではない。
 論者の主張には、論理的な欠陥がある。問題は、彼がそういう欠陥論理を出したことではない。そういう欠陥論理を出していて、自分でも気づかない、ということだ。そこが問題だ。
 では、なぜか? それは、彼が、単に部分的な「収益悪化」「倒産」という現象を見ているだけで、マクロ的な(全体的な)視点がまったく欠落している、というところに、原因がある。
 「収益悪化」「倒産」という現象は、たしかにある。しかし、デフレの本質とは、そういう表面的な現象面ではないのだ。そういう表面的な現象ならば、デフレ以外の、景気後退のときにもある。そこに気づくことが大切だ。
 要するに、物事の表面を理解するだけではなくて、物事の本質を理解することが大切なのだ。表面にある現象を、一つ一つと数え上げることではなくて、そういう現象の奥にあるもの、つまり、それらの現象を生む根元的なものがある、と知ることが大切なのだ。
 彼の論理的な欠陥を知ることが大事なのではない。彼の論理的欠陥をもたらす根元的な態度を知ることが大事なのだ。そして、その根元的な態度とは? それは、「マクロ的な考え方をしていない」ということだ。個別企業の「収益悪化」「倒産」「損得」ということばかりを見ていて、一国全体のマクロ的な状況を見ていない。そこに根元的な欠陥がある。
 そして、マクロ的な状況を見れば、「デフレの核心とは不均衡だ」と理解できるはずだ。そして、この核心を理解することが大切なのであって、この核心を見逃してしまうと、論理だけが上滑りになるわけだ。つまり、「均衡と不均衡」を区別できないままだと、間違った認識をすることになるわけだ。
( ※ こういうふうに「均衡と不均衡」を区別しない認識は、古典派の認識である。たいていは、マネタリストだ。今回の論者も、そうだ。だから、貨幣の需要があるかどうかも理解しないで、やみくもに「量的緩和をせよ」という結論にたどりつく。間違った認識ゆえに、間違った結論にたどりつくわけだ。)
( ※ 「景気後退」と「デフレ」との違い → 10月29日
( ※ 「量的緩和」と「均衡/不均衡」 → 2月05日

 [ 参考 ]
 参考として、「インフレとはどういうものか」を示そう。その危険性を理解していない人が多いからだ。
 マネタリストは、「デフレは悪だ」と主張するが、ひるがえって、「インフレはすばらしい」「どうせインフレは制御可能だ」と主張する。しかし、そんな甘いものではないのだ。その例を示す。
 「国家の近代化を進めよう。封建的な体制から、近代的な体制へ。アメリカ的な自由な体制をめざそう。そのための金は、たっぷりとある」
 と主張したのが、イランのパーレビ国王だった。彼の先進的な思想は、知識人から拍手を持って迎えられた。そして国家の近代化を次々と進めていった。(ちょっと小泉みたいだ。)
 この場合、「打ち出の小槌」があった。それは、石油である。たらふくある金を使って、次々と国家建設を進めていった。(この点は、日本よりもはるかに有利だった。)
 しかし、である。ここでは、ひどいインフレが発生した。しかも、利益を得たのは、一部の官僚や軍人や商人などのエリート層だった。一般の大多数の国民は、置き去りにされた。彼らにあるのは、激しい物価上昇だけだった。(この点は、日本も似ている。「低所得者に苦しくなる税制や給与制度」を、どんどん進めている。たいていの国民は、苦しくなるばかり。)
 で、最終的に、どうなった? デモが起こり、警官隊が発砲した。それをきっかけに暴動が起こった。映画館焼打ち事件で、死者 500人弱。さらに 50万人〜 100万人のゼネスト。さらに事態は悪化して、首都の中心街が火の海となって、完全な無政府状態となった。国王は国外に脱出して、政権は崩壊した。そのあと、イスラムのホメイニが主導して、革命政権を樹立した。これは国民が選任した議会や政府よりも、イスラムが上に立つ、という宗教国家である。イランは現在、国民が選任した大統領がいても、権力を持てず、いまだにイスラム主導の国家となっている。(宗教的な独裁とも言える。)
 この教訓は、こうだ。人は、どんなに貧しくなっても、その苦しみに耐えられる。しかし、インフレには耐えられないのだ。インフレは、怒りを生み、国家を崩壊させることすらある。
 「物価上昇は金融政策で制御可能だ」というマネタリストの主張は、完全に間違っている。その失敗例は、スタグフレーションだったあちこちに、あふれている。たとえば、アルゼンチンのスタグフレーションは、金融政策では決して制御できない。「インフレはすばらしい」とか、「物価上昇は楽々と制御可能だ」とか、そんなことを言って「極端な量的緩和」をめざすマネタリストは、日本をイランやアルゼンチンのように崩壊させようとしているのだ。
( → 2月03日b 「過剰な量的緩和」)


● ニュースと感想  (2月08日)

 「デフレの悪化」について。
 デフレがどんどん悪化している、というデータが出ている。
 あらゆるデータが悪化を示している。
 ただ、ここで、注意しよう。上の4項目のうち、4番目の「物価下落」こそがデフレの本質だと思っている人が多いが、違う。4番目の「物価下落」だけが、デフレの本質とは関係ない。
 デフレの本質とは、「物価下落」ではなくて、「過剰な物価下落」である。つまり、「収益性悪化」ないし「原価割れ」となるような「物価下落」(価格低下)のことだ。 ( → 1月24日
 だから、新聞記事(2003-02-01)の言うように、「パソコンや家電の価格が大幅に下落している」という現象を指摘しても、それ自体には、何の意味もない。パソコンの価格は、世界中でどんどん下落しているが、そのことはデフレとは何の関係もないし、また、悪いことでもない。(むしろ良いことだ。)
 だから、「物価下落」というのは、それ自体は、良くも悪くもなく、経済指標としては、特段の重みを持たない。「過剰な物価下落」が起こっていることを暗示するためのヒントとなるぐらいの意味しかない。

 では、何が肝心か? それは、「総需要の縮小」だ。そのことを見るには、百貨店や大型小売店などの各種の売上高を見てもいい。ただ、これは、現時点のデータであり、原因とは異なるから、将来の予測にも役立たない。(1番目の「一致指数」が該当する。)
 注目するべきは、「総需要」でも「総生産」でもなく、「総所得」だ。これこそが、将来的に「総需要の変化」をもたらす。総所得が増えるか減るかを見れば、将来の総需要が増えるか減るかがわかる。
 そして、総所得のデータを見るには、「平均賃金」と「就職率」(失業率の逆)を見ればよい。失業率が5%から6%に上がれば、就職率は 95%から 94%に下がる。平均賃金は、時間賃金と労働時間との掛け算から得られる。……そして、現状を見る限り、総所得について、すべての項目が悪化している。それどころか、そのすべてを悪化させようと、しきりに努力している。
 企業は、こういうことをめざして、どんどん努力している。そして、それだからこそ、デフレはどんどん悪化していくのだ。

 結語。
 デフレの解決のためには、「現状がどうなっているか」を分析するだけではダメだし、放置するだけでもダメだ。「間違った方向をめざしている」という現状を正しく認識することが大事だ。そして、そう認識すれば、政府が何をするべきかもわかるはずだ。

 [ 付記 ]
 正解は? 「間違った状況において最適化をめざす」という状況(「合成の誤謬」の状況)を改めることだ。そのためには、「総所得」を増やせばよい。ただし、企業は、「賃上げ」が不可能だ。となると、「減税」しか方法はない。……結局、「減税」は、単なる景気刺激策の一つというよりは、「総所得」という肝心なものを増やす、核心的なものなのだ。


● ニュースと感想  (2月08日b)

 「総所得の減少」について。
 前項では、「総所得の増加が必要だ」と述べたが、現実は、「総所得の減少」が見られる。そのことのデータが出た。
 ボーナスを含めた給与総額は、昨年は「下落」と判明した。名目値で前年度比 2.3%減(34万円余)で、 物価下落の分を差し引きしても、1.2%減となる。(各紙・夕刊・2面 2003-02-03 。また、Yahoo ニュース も。)
 また、来週の春闘の結果についても、「賃下げ」の予測だ。(読売・朝刊・経済面 2003-02-07 )
 というわけで、勤労者の実質所得が低下していて、さらに、失業者が増えている。だから、国全体の「総所得」は、どんどん縮小しているわけだ。となると、この先、デフレはさらに悪化するはずだ。

 ついでだが、「量的緩和をすればいい」なんていう主張は、まったくの戯言(たわごと)に聞こえるだろう。買い手の金が減っているのに、どんどん生産していけば、どうなることやら。

 [ 付記 ]
 「残業時間の増加・残業手当の増加」というデータも、ここにある。これは、「リストラで解雇したあと、残った従業員をこき使う」という形だろう。ワークシェアリングの反対だ。で、労働者は、残業して残業手当はいっぱいもらっているのだが、実際に手にする総所得は減っている、という情けないありさま。タダ働きよりも悪い。(ただし、その分、失業者は遊んで金をもらっているが。)

 「異常な残業時間の増加・賃金不払い」という記事も、別にある。(朝日・朝刊・2面 2003-02-04 )
 サービス残業をした企業の経営者が逮捕された、という話もある。ならば、小泉や塩爺も、逮捕されてしかるべきだ。(公務員はサービス残業をしているのだから。)トヨタの会長も同様だ。
 これらの泥棒たちを一掃すれば、日本の景気も少しは良くなるだろう。

( ※ と書いたあとで気づいたのだが、「サービス残業というタダ働きをやめよ」という主張が、読売・社説 05日に掲載された。これは、本日別項の朝日の記事[2件]に比べると、立派である。読売は、企業の犯罪的行為を非難する。朝日は、政府の犯罪的行為を擁護する。……なんだか、いつのまにか、立場が反対になったようだ。)


● ニュースと感想  (2月08日c)

 「デフレ賛美」について。
 「デフレは悪くはない」という論説があった。(朝日・夕刊・コラム 2003-02-05 )
 例によって、素人っぽい意見である。「デフレは価格下落があっていい。成長にとらわれるな。むしろインフレの方が怖い。価格下落があって、経済が安定しているのなら、こんなにいいことはない」という主張だ。
 これが勘違いだということは、何度も否定した。「デフレで安定的であればいい」なんてお気楽なことを言うのは、経済音痴の妄想である。デフレならば、安定的ではないのだ。
 デフレの本質は、価格下落が本質ではない。生産量の縮小だ。単なる縮小ではなくて、限度を超えた縮小だ。── このとき、「倒産」「失業」が発生する。経済が崩壊していく。人間で言えば、「元気が弱まること」ではなくて、体の一部分が壊死して脱落していくのだ。なのに、自分が次々と崩壊しつつあるのを知らずに、「安定的だ」などと思うのは、とんでもない妄想だ。
 
 そもそも、国民の大多数が「デフレは悪だ」と言っているのに、新聞社の一部のエリートだけが勝手に「デフレは悪くはない」と主張しているところに、ひどい思い上がりがある。「国民無視、政府擁護」ばかりをやっているのでは、マスコミとしては最低だ。「あっても意味がない」のではなくて、「あるだけ迷惑」だ。

 さて。なぜ、こうなのか? 
 そこで、はたと気づく。新聞は、デフレの損失を受けていないのだ。というのは、リストラも賃下げもないからだ。なぜなら、「定価販売制度」(再販制度)に守られているからだ。この日土井経済状況のなかで、しんぶんだけは「デフレ」や「市場原理」の外にあるわけだ。だから、いまだに、ちっとも料金を下げない。
 だから、新聞料金を下げるように、制度を改定させよう。それには、新聞の「定価販売制度」を廃止するべきだ。つまり、「本社が価格を指定する」のを禁止し、各販売店が独自で価格を決めるようにするべきだ。これなら、各販売店がいくらでも値引き交渉に応じるわけだから、価格がどんどん下がるはずだ。たぶん、1割ぐらいは下がるだろう。つまり、販売店が「これじゃやっていけない。赤字が出る!」と悲鳴を上げる水準まで、価格は下がるはずだ。
 そして、そのときようやく、新聞社は、デフレの痛みを知るのである。さしずめ、「デフレはすばらしい」なんて主張している論説委員は、「部数アップの邪魔」という名目で、クビになるだろう。そして、そうなれば、日本の景気も少しはよくなるだろう。

( ※ それにしても、新聞料金を少しも下げない新聞社が、「デフレはすばらしい」なんて、よく言うよ。厚かましいにも、ほどがある。最低限、記者を1割ぐらい解雇して、料金をいくらかでも下げるべきだ。だから、ぬくぬくと過ごしている朝日新聞に、贈りたい言葉がある。── 「わが身をつねって、人の痛さを知れ」。)


● ニュースと感想  (2月08日d)

 「不況の無視」について。
 今の不況という現状をまるで無視するのが、朝日新聞だ。呆れたので、書き留めておく。(朝刊・社説 2003-02-06 。引用文は、一部短縮した。)
 「ホームレスは、それぞれの人生に固有の例も多いが、最近の急増は、長期的な不況が背景にある」
 「ホームレスの多くが求めているのは、仕事の機会であり、問題のカギは仕事ということを理解する必要がある」
 「(ゆえに)地方自治体は、……支援の仕組みを作っていく必要がある」

 第1項、第2項は、まことにその通りだ。そして、だとすれば、「ホームレス解決のためには、不況を解決することが、何よりも必要だ」とわかる。それが論理的に必然だ。
 なのに、そういう論理を無視する。「政府は不況をそのまま放置していていい。地方自治体が支援の仕組みを作ればいい」と主張しているのだ。
 だいたい、(就職への)支援とは、何のことだ? 失業者があふれているのは、仕事の口がなくて、就職できないからだ。特に、ホームレスは、五十代、六十代の高齢者が多い。彼らにどうやって仕事が回るように支援するというのだ? この不況のさなかで。

 朝日は、認識を、根本的に改める必要がある。不況そのものを解決しない限り、どんなに小手先の対処をしてもダメなのだ。日本経済がひどい病気になっているなら、「病気なんて治さなくてもいい。対症療法をすればいい」ということはない。病気そのものを根治させる必要がある。そのことを理解するべきだ。


● ニュースと感想  (2月09日)

 「企業再建」の話。
 「そごうが健全化したら、西武がダメになった」とのことだ。ただ、西武の方は、「過去の負債があるだけで、収益性はあるから、有利子負債を減らせば再生できる」という見方が多いとのことだ。(朝日・朝刊・経済面 2003-01-31 )
 ここでも、「有利子負債を減らせば」ということが指摘されている。とにかく、不況期には、有利子負債(つまり融資)を減らすことが大事だ。融資を受けていいのは、経済が高成長しているときだけだ。これは常識だ。経済学の用語で言えば、「加速度原理」(増幅効果)となる。 ( → 5月12日c
 とにかく、このことを理解しよう。不況のときに「融資を増やそう」なんていう量的緩和論者の意見は、まったく無意味なのだ。
( ※ それでも彼らが量的緩和を主張するのは、論理が未完成だからである。金を金融市場に入れることだけを考える。その金がどこで使われるかを考えない。かくて、金は市場に滞留するばかりだ。)

 [ 付記 ]
 そごうに関連して、不良債権処理についても言及しておこう。「不良債権処理で景気回復」という主張への批判である。
 そごうは再建できたが、それは、特に有利な状況があったからだ。つまり、「西武という強力な後ろ盾があった」ということだ。一般の倒産企業では、そうは行かない。何万件という倒産企業にすべてで、同じような強力な後ろ盾が現れるわけではない。ほとんどの企業は、単純に見捨てられる。
 しかも、そごう債権の陰では、二つのデメリットが現れた。
 第2の点で大事なのは、二つある。
 第1に、人員整理をすれば、その企業は有利になる。しかし、失業者が雇用されなければ(つまり不況であれば)、失業者を含めた全体では、状況はかえって悪化したことになる。
 第2に、マクロ的に経済を縮小させてしまう。つまり「縮小均衡」だ。企業の収益性は向上して、需給は均衡状況になるが、生産量は縮小していく。
 以上の2点を合わせれば、こうだ。不良債権処理をすれば、個別企業はどんどん良くなるが、国全体ではどんどん悪くなる。働いている部分は良くなるが、働いていない部分が拡大していく。(だから全体では悪化していく。)

 最後の点が大事だ。「不良債権処理で景気回復」というのは、「働いている部分だけを見て、そこを向上させようとする」ということなのだ。「働いていない部分が拡大していく」ということを見失っているのだ。
 たとえれば、病人で、感染部分がどんどん拡大していくときに、それを無視して、健全な部分だけに注目する。「肝臓が病気になったのか。だったら肝臓を切り捨ててしまえば、もはや肝臓病ではない」という発想だ。そうやって、身体の各部をどんどん切り捨てていくから、本人の体は次々と失われていくわけだ。


● ニュースと感想  (2月09日b)

 「不良債権処理」および「企業再生」について。
 不良債権処理や企業再生という政策については、私は何度も否定してきた。ただ、直感的には、わかりにくいところがあるかもしれない。
 「そのどこが間違っているのか?」
 「間違っているとしたら、なぜ、人々はそれを信じるのか?」
 「問題の核心はどこにあるのか?」
 そういう疑問があるだろう。そこで、一発で核心を答えておこう。

 人々がそれを信じるのは、「赤字は個別企業の責任だ」と考えるからだ。つまり、赤字発生について、「マクロ的な総需要縮小が原因だ」とは考えず、「個別企業が劣悪だからだ」と考えるからだ。
 なるほど、もしその考えが正しいとすれば、次のような結論に結びつく。
「劣悪な企業は、赤字を発生させて邪魔なだけだから、さっさと整理した方がいい」
「民間がうまく整理できないのなら、国が関与して整理すればいい。(RCCや産業再生機構を利用すればいい)」
「こうして劣悪な企業を次々と整理していけば、優秀な企業だけが残る。だから、経済悪化の問題は解決して、景気は良くなる」

 この論理は、すべて正しい。不良債権処理論者の意見は、けっこう論理的だとも言える。
 彼らの根本的な間違いは、論理でなく、それ以前にある。「原因は個別企業にある」という点だ。その前提が間違っているから、以後の論理はすべて砂上の楼閣となる。
 結果的に、どうなるか? 彼らは劣悪な企業を次々と整理していく。すると、残ったのは、優秀な企業だけとなるはずだ。それが彼らの理屈だ。しかし、現実には、そうならない。不良債権処理を進めれば進めるほど、不良債権は増えていく。
 では、なぜ? なぜ、不良債権処理を進めれば進めるほど、不良債権は増えていくのか? それは、優秀な企業が、劣悪化していくからだ。では、なぜ? 

 ここで、不況の根本が問題となる。不況とは、個別企業の責任で生じるのではない。マクロ的に総需要が縮小していることが原因だ。
 となれば、劣悪な企業を(再生させて)優良化すれば、他の優秀だった企業がかわりに相対的に劣悪となり、今度は、別の企業が倒産するだけだ。
 では、劣悪な企業を解消すれば、どうか? 余剰な供給が消えて、供給と需要のバランスが取れて、均衡に近づくか? そうは言えない。劣悪な企業を解消すれば、その分、失業が増える。総所得が減り、総需要が減る。だから、「単に供給が失われた」ということにはならず、「供給と需要が同時に失われた」ことになる。これもまた、経済を縮小させ、不況を悪化させる。
 たとえれば、こうだ。5人乗りのボートには、5人しか乗れない。はじき出された1人を救えば、他の1人がはじき出される。だから、単に1人ずつを救っても意味がないのだ。また、はじき出された1人を殺すと、それが重みとなってボートを沈下させる。その分、ボートの収容量が1人分減って、5人から4人へと収容量が減る。状況は改善しない。

 結局、ボートの収容量に限界があるという全体的な原因があるときには、個別の人間をどういじろうと解決はできない。ボートの収容量そのものを拡大するしかない。(たとえば、何らかの手段で、浮力を上げて、5人から6人へと収容量を上げる。こうすれば、根本的な解決となる。)
 経済でも同様だ。「総需要が縮小している」という全体的な原因があるときには、いくら個別企業をいじっても、問題は解決しない。それが核心だ。
 にもかかわらず、「状況が悪いのは、個別企業のせいだ」と人々は妄信する。そして、それゆえ、「個別企業を何とかしよう」「劣悪な企業を何とかしよう」と主張する。あげく、個別企業をいじった結果として、全体をどんどん沈下させていく。(何もしなければまだしも、余計なことをするから、状況の悪化する速度が加速度的に進んでいく。ほとんど自殺行為だ。)

 結語。
 個別企業だけを見るという認識は、「木を見て森を見ず」である。経済で大切なのは、個別企業の操作ではなく、マクロ的な操作である。「不良債権処理」論者は、マクロ的な認識ができないから、個別企業だけを見る。あげく、砂上の楼閣としての論理を築き上げ、その妄想に従って、自殺的な行動に走る。
 不良債権処理論者は、日本を救おうとして、薬を飲ませているつもりで、毒薬を飲ませているのである。認識ミスゆえに。
( ※ 根元的に言えば、「すべては個別企業のせい」という考え方は、古典派の考え方である。「放置すれば市場原理でうまく行く」「問題があるとしたら、市場原理ではなくて、個別企業のせいだ」というわけだ。マクロ経済を無視してミクロだけを考えるという古典派の立場そのものが、根本的な原因となる。)
( ※ ほとんどの企業が赤字になっているときには、「劣悪な企業を退出させよ」という議論は成立しない。このことを理解することが大切だ。昔教わった無意味な原理だけを唱えても、現実無視であって、無意味なのだ。)

 [ 補足 ]
 上のたとえ話を、経済に戻して示す。(初歩的な解説。)
 「ボートの収容量」というのは、「総需要」のことだ。総需要が縮小すると、各企業の生産量は減る。すると、採算割れになる。このことが肝心だ。
 どんな企業であれ、その価格で採算を保てる生産量がある。それ以下の生産量になると、採算割れになる。たとえば、それまで 10万個生産していたあと、需要が縮小して、8万個しか生産できなくなると、採算ラインが上がる。10万個の生産なら、1個 100円でも採算が合うが、8万戸の生産なら、1個 105円の生産でないと採算が合わない。なのに、市場では、需要不足によって、価格がかえって低下している。
 こういうふうに採算ラインが上がるのは、固定費の負担があるからだ。だから、企業は、固定費の負担を減らすため、遊休設備を廃棄したり、人員を解雇したりする。それを「リストラ」と称する。
 とにかく、「総需要が縮小する」という状態では、あらゆる企業の採算性が悪化する。その原因は、マクロ的なものであって、個別企業の優劣の問題ではないのだ。それが核心だ。そして、その核心を理解できない人々が、「不良債権処理で景気回復」という見当違いの主張をする。

 [ 参考 ]
 「企業再生」という考え方が無意味であることを示す記事がある。
 全国の倒産件数は2万件弱。一方、産業再生機構が手がけるのは、大企業や中堅企業など、30社だけ。(朝日・朝刊・オピニオン面・特集解説 2003-01-17 )
 つまり、焼け石に水。こういう無意味なことが、政府の堂々とした政策となる。呆れた話だ。

 [ 付記 ]
 ついでだが、「銀行経営がひどいありさまになっている」という現実もある。「不良債権処理を進めよ」という論者の主張に従ったら、銀行そのものが不良債権になってしまった、というわけだ。ほとんどジョークである。
 ただ、このジョークみたいなことも、上記の説明を読めば、すぐにわかる。やればやるほど、状況は悪化していくからだ。このことがわからないのは、不良債権処理論者だけだ。彼らは、「不良債権処理を進めよ」と主張しているが、そのためにコストがかかる(経済に負担がかかる)ということを、無視している。結局、彼らは、「金は空から降ってくる」ということを前提として、論議を進めているのだ。正気ではない。ただ、妄想にとらわれる人間というのは、そういうものだ。


● ニュースと感想  (2月10日)

 「90年代の米国景気」について。
 書評。「良い政策 悪い政策── 1990年代アメリカの教訓」(アラン・ブラインダー、ジャネット・イェレン)という本について書評する。(参考記事は、朝日・朝刊・書評面 2003-02-02 )( → 書籍サイト
 内容は、「1990年代の米国経済は、すばしい経済的繁栄を享受した。力強い成長と低インフレである。これはアメリカの経済政策が正しかったからではない。ITの生産性向上の認知の遅れなど、偶然ないし一過性の理由による。いつまでもこういう幸運に頼り続けることはできない」
 一読してわかるとおり、まったく非科学的な主張である。ただの1年間だけの変動ならば、「偶然」と見なすこともできる。その程度のブレは、経済に発生する。しかし 10年間にわたって特定の状況が続いたならば、それはもはや確率的な意味で「偶然」と見なすことはできない。著者は「確率」とか「偶然」とかいう概念をまったく理解していない。
 また、「IT」なんていうものは、世界中の各国で起こったのだから、米国だけに適用することはできない。ここでは論理的な錯誤が起こっている。
 さらにまた、最も基本的なことだが、「生産性の向上」という用語の意味を誤認している。たとえば、今まで1日1台の自動車を生産していた労働者が、ITのおかげで1日2台の自動車を生産できるようになったとする。上記の著者なら、「生産性が2倍になった」と思うだろう。違う。生産性というものは、物の量ではなくて、金額で計るものだ。上記の場合、通常、1台あたりの金額が半分になるから、生産性はまったく変わらない。
( ※ 現実には、むしろ逆だ。生産量が増えて市場価格が低下するから、生産コストは半額になっても、供給過剰の分だけ均衡点が移動し、総売上は減少するので、生産性はかえって悪化する。……現在のIT業界が、まさしくそうだ。技術が進歩し、原価が低減するにつれて、IT産業は儲からなくなって、次々と企業が倒産していく。)

 著者の意見は、「経済学者の間違い」の典型的な例だ。では、正解は? 

 (1) ITの影響
 ITは、世界中で発生したわけだから、生産性を向上させる効果はほとんどなかった。それは数量的には経済を拡大させたし、また、コストダウンを通じて、物価上昇率を下げた。しかしそれは、金額的な意味の「生産性の向上」とは関係がない。経済成長とも関係がない。マクロ的には、何の意味もない。単に人々の生活の質を向上させただけだ。(それはそれでいいことだが。)
 なお、ITの効果でひとつだけあるとしたら、「ITバブルを発生させたこと」だろう。これの影響は大きく、ヤフーやAOLの株価を暴騰させ、あちこちでIT景気を築き上げた。そして、そのあとで、破裂した。かくて、大きな影響が出た。
( ※ ということは、いわゆる「IT景気」というものは、「生産性の向上」ゆえではなくて、「バブルゆえ」だったことになる。「富が増えた」わけではなくて、「富が増えたと錯覚した」だけのことだったのだ。一時的に各種の経済指標は好転したが、そのあとで、ツケ払いをするハメになった。日本の 80年代のバブルとそっくりだ。)

 (2) IT以外の生産性の向上
 IT意外の分野での、生産性の向上もあった。とりわけ大きな影響を生んだのは、「品質改善運動」(QCあるいは「カイゼン」)である。これは、めざましい影響を生んだ。それは、「不良品の発生頻度の低下」である。たとえば、不良品の発生頻度が、5% から 1% に減れば、それだけで利益率が4%も向上したのと同じ効果がある。この効果は、非常に大きい。しかも、そのための努力は、それほど大きなものではない。技術者がいくら技術革新をしても、同業他社もどうせ同じようなことをやるから、利益率を他社よりも4%も上げるというのは、非常に困難である。それができるのは、ソニーやベンツなど、世界でも限られた超一流ブランドのある企業だけだ。しかるに、「品質改善運動」は、あらゆる企業で可能なのだ。しかも、そのためには、技術者が「画期的な発明」などをする必要はなく、一般の労働者や平凡な技術者が地道に努力すればいい。田中耕一さんのようなスーパーマンは必要なく、普通の人々が少しずつ頭を使えばいい。つまり、これまでは眠っていた「小さいけれどたくさんある力」を、目覚めさせればいい。それには確実な効果がある。(「塵も積もれば山となる」というニュアンスではなくて、「人は石垣、人は城」というニュアンスである。エリート至上主義の欧米は、このことを理解できなかったので、失敗したわけだ。)
 この「品質改善運動」は、80年代には、日本の独擅場だった。アメリカは圧倒的に劣っていた。ところが、日本企業の米国進出にともなって、アメリカでも「品質改善運動」がなされるようになった。さらには、一歩進んだ「TQC」ないし「TQM」という運動までなされるようになった。
 こういう形の生産性の向上があった。しかも、それは、米国だけでなされたのだ。(日本や韓国は、もともとやっていたから。)そして、そのことは、他国と比較した上での米国の経済力を高めた。ドル高をもたらし、低い物価上昇率をもたらした。だから、マクロ的に意味があったのだ。
 かくて、「品質改善運動」による「生産性の向上」は、「ドル高」を通じて、低い物価上昇率のもとでの成長をもたらした。
( ※ なお、このドル高は、為替操作による人為的なものではない。そこがポイントだ。)
( ※ ただし、換言すれば、その分、日本の優位性は失われた。だから 1990年代は、「米国は繁栄したにもかかわらず、日本は繁栄しなかった」のではなくて、「米国が繁栄したゆえに、日本は繁栄しなかった」のだ。相対的な問題である。)

 (3) マクロ政策
 一番肝心な話を述べておこう。それは経済政策の意味だ。  「生産性の向上」は、経済学者がよく話題にするが、実は、これは、経済学の問題ではない。なぜなら、経済的に制御可能な量ではないからだ。せいぜい、「生産性を向上させましょう」と口先で叫ぶぐらいのことだ。そんなふうに叫んだことの影響は皆無である。なぜなら、いちいち叫ばなくても、どの企業もそんなことは知っていて、毎日「生産性の向上」つまり「収益の向上」のために努力しているからだ。
 経済政策にとって大切なのは、何かを向上させることではなくて、それを邪魔するものを排除することだ。具体的には、景気変動を排除することだ。前にも述べたが、次の図がある。

     景気と経済成長の図

 点線のように潜在的な経済力はなめらかに向上していく。そして、それは、経済学の関与することではない。一方、現実の経済は、実線のように上下変動する。この上下変動をなくすことが、経済学の目的だ。
 著者は、この違いを、理解できない。「1990年代のアメリカの成長は、点線のようになったが、それは経済政策のせいではない」と主張するようなものだ。無意味な主張だ。潜在的な成長力が上向きなのは、当たり前のことなのだ。いちいち主張する必要はない。
 大切なのは、「1990年代のアメリカの経済は、実線のようにならなかった」ということだ。つまり、「上下変動がなくて、点線のようになった」ということだ。それは、「マクロ政策が最適だった」ということを意味する。最悪だった日本とは正反対だ。
 繰り返す。経済政策の目的は、経済を成長させることではない。潜在的な成長率がまさしく実現するように、邪魔な変動要因を排除することだ。そして、それが、米国ではできたが、日本ではできなかった。
 経済政策の重要性は、なくはない。まさしく、ある。1990年代のアメリカで経済がうまく行ったのは、決して偶然ではない。正しい経済政策があったからだ。では、何か? 
 それは、「好況下のポリシー・ミックス」だ。つまり、「増税と低金利」だ。そして、これを推進したのが、クリントン政権だ。(その主導者は、スティグリッツだった。)
( ※ このことは、上の著書も重要性をいくらか指摘している。「1993年の予算合意」という箇所だ。その点だけは良い。)
 
 結語。
 「経済政策は無効である」というのは、古典派らしい主張である。「市場原理に任せるのが最善であり、政府は何もしなくていい、神の見えざる手に経済を委ねよう」というわけだ。
 しかし、それは、「経済学の否定」でもある。しかもまた、危険ですらある。なぜなら、真実とは逆のことを主張しているからだ。
 たとえて言おう。病気の患者に対して、医者が正しい処方をすれば、病気は治る。しかし、古典派の経済学者は、それを否定する。「医者の処方などは不要だ。これまで医者の処方で治ったのは、医者の処方が正しかったのではなく、ただの偶然にすぎなかった。病気というものは、放置すれば、自然治癒力で回復するものなのだ。神の手に委ねるのが、ベストである」と。
 こういう「医学否定論」ほど危険なものはない。それでは、治せる患者も、みすみす殺してしまうことになる。── だからこそ、現在、日本は瀕死の状態のまま、正しい処方を受けられないのである。

 [ 余談 ]
 「経済学は無効である。何の意味もない」というのは、著者の主張する経済学についてなら、正しい。確かに、彼らの主張する経済学は、何の意味もない。成果も不成果も、ほとんどは偶然の産物にすぎない。
 だから、自己の愚かさの告白としてなら、彼らの意見は正しい。

 [ 補足 ]
 上のように、ひどく批判してきた。では、古典派の経済学者(特にサプライサイド)は、なぜ、このように間違うのか? 
 それは、「生産性の向上は、各企業にとって利益になる。だから、各企業が生産性の向上で利益を上げれば、全体も生産性の向上で利益を上げる」と信じるからだ。
 しかし、実際には、そうはならない。ある特定の企業だけが生産性の向上を果たせば(たとえばコストを2%下げれば)、市場競争力を増して、シェアを大きく奪うことができる。しかるに、業界全体で生産性の向上を果たせば、各企業の有利さは相対的に消えてしまうから、生産性の向上があっても、さして効果はない。むしろ、逆効果すらある。たとえば、IT産業は急激に技術革新をすることで、業界全体の売上高が年1割ぐらいの率で減ってきている。
 つまり、「1企業だけの生産性向上」と「全企業そろっての生産性向上」とは、意味合いが異なるのだ。前者はその企業に利益の向上をもたらすが、後者は全企業に利益をもたらすわけではない。
 この両者を混同してはならない。混同するとしたら、「パレート最適」や「市場原理」というものと、誤解しているのである。(この二つの概念は、「資源の最適配分」の方法を示しているにすぎない。この二つに似た考え方を、「生産性の向上」に適用しようとするのは、頭が混乱しているせいである。)


● ニュースと感想  (2月11日)

 「輸入デフレ」について。
 「中国の低賃金の輸出のせいで、輸入デフレが起こる」という説がある。これについて再論しよう。(前にも述べたが。 → 1月29日c ,1月30日)
 これについて、面白い意見がある。( → 野口悠紀雄の新刊書
 「空からお金が降るように、空から土地と人間と技術が降ってきたとしよう。これで生産をすれば、既存の生産者に対して、圧倒的に有利になる。だから、新規参入者が市場のシェアを奪う分、既存の生産者はシェアを奪われる。── これが現在、中国製品が日本製品のシェアを奪っているという状況だ」と。

 これはまったくの珍説だ。なぜか? 上の説は、「中国製品の有利さ」を否定しているだけでなく、「生産性の向上」をも否定しているからだ。
「空からお金が降るように、空から画期的な新技術が降ってきたとしよう。これで生産をすれば、既存の生産者に対して、圧倒的に有利になる。だから、新規参入者が市場のシェアを奪う分、既存の生産者はシェアを奪われる。」
 最後の結論部を除けば、着色部の字句が違っているだけだ。だから、著者の論理が正しいとすれば、「画期的な新技術による生産性の向上」というものを否定していることになる。なぜなら、そうすればそうするほど、既存の生産者はシェアを奪われる。その一方で、新規の生産者はシェアを奪う。シェアの損得はゼロサムだが、新規の生産者は、高能率で生産するゆえに、生産高も雇用者も少ないからだ。── つまり、一国全体では、生産性が向上すればするほど、生産高も雇用者もどんどん縮小していくことになる。そうしてデフレが進んでいくことになる。
 ただし、この結論は、実は、間違いというわけでもない。デフレという不均衡状態であれば、生産性の向上はまさしくデフレを悪化させる。( → 2001年9月26日
 しかし、均衡状態では、そうはならない。生産高の減少は、インフレ抑制を意味するし、雇用者の減少は、労働時間の短縮を意味する。どちらも好ましいことだ。

 結局、どうなのか? 
 大切なのは、マクロ的な認識だ。上記の論者の意見は、ミクロ的な認識ばかりするから、話の根源を誤る。
 第1に、均衡か不均衡かを区別するべきだ。不均衡であれば、生産性の向上も、輸入製品の影響も、どちらもデフレを深めて、状況を悪化させる。しかし、それは、「デフレを加速させる」という意味があるだけだ。それは、デフレそのものを生むわけではなくて、デフレがあるときにデフレを加速させるだけだ。そして、デフレでないとき(つまり均衡であるとき)には、生産性の向上も、輸入製品の影響も、どちらもインフレを抑制するので、状況を改善する。……結局、状況を悪化させるか改善するかは、そのときの状況しだいである。生産性の向上も、輸入製品の影響も、それ自体がデフレを発生させるわけではないのだ。
 第2に、所得の効果を理解するべきだ。新技術の生産者にせよ、中国にせよ、それによってシェアを奪うが、だからといって経済全体が縮小するわけではない。なぜなら、その生産者は、所得を得るので、新たな需要を生み出すからだ。新技術の生産者ならば、新たな所得を得て、どんどん需要を増やす。これは好ましいことだろう。実際、古典派の学者は、「そうせよ」と主張しているはずだ。また、中国も、同様だ。たとえば、中国が輸出を 1兆円増やしたなら、そのせいで日本は 1兆円のシェアを失う。しかし、その分、中国は輸入を 1兆円増やすから、日本は新たに1兆円の新規市場を得る。差し引きして、トントンである。……結局、いずれにしても、「空から生産力が降ってくる」という形で、新たな市場参入者が出現したからといって、何も問題はない。彼らは、既存の市場から1兆円分を奪うが、かわりに、新たに1兆円分の新市場を作り出すからだ。── これが、「所得」を通じた、マクロ経済学的な理解だ。(ミクロ経済学者は、このことが理解できない。)

 [ 付記 1 ]
 中国が日本に対して「輸出超過」になると、上記の意見は成立しないように見える。しかし、問題はない。しょせんは二国間だけではなくて、世界経済でとらえればいいからだ。日本は対中赤字はあるが、対米黒字もある。貿易収支を全部ひっくるめれば、 日本は現在、貿易黒字である。だから、何も問題はない。
 問題があるとしたら、巨額の貿易赤字を垂れ流している米国である。その一方で、巨額の貿易黒字を出している中国もある。しかし、これは、日本の関知することではあるまい。米国は今、お札を印刷するだけで、中国の製品をいっぱいもらっていることになる。お札と製品との交換だ。ボロ儲けのようなものだ。中国がそれでいいと思っているのなら、それでいいだろう。
 ただ、将来的には、それは清算される。中国はドル札を払って、米国製品を購入しよう等する。しかし、そのころには、中国の通貨は大幅に通貨高になっているから(つまりドル安になっているから)、実質的に購入できるものは少しになる。今すぐ手中のドルを使えば中国で2元の価値があるのに、将来になってドルを使えば1元の価値にしかならない。結局、通貨安にしていて損をするのは、中国だ。「貿易黒字で金が溜まった」と喜んでいられるのは、今だけだ。その金は、使うときには、価値が減じているのである。しょせん、「通貨安」というのは、自己の財産を安売りすることでしかない。それは幸福とは正反対の効果があるだけだ。
 たとえて言おう。失業した技術者が、職場がないからといって、自分の労働力を日雇い労働のために提供すれば、低賃金で働くことになる。労働力の安売りだ。これで、失業よりはマシになる。しかし、本来の技術力を提供して高賃金を得ることに比べれば、マシとは言えない。労働力の安売りは、失業よりはマシだが、好ましい状況ではないのだ。「労働力の安売りこそすばらしい」と考えるのは、見当違いだ。一般的には、通貨も労働力も、市場原理に任せるのが最適だ。そうすれば、無能な人間には、それにふさわしい低賃金が付く。つまり、低賃金が付くのは、無能な人間だけだ。「低賃金の労働者には競争力がある」なんてことにはならないのだ。

 [ 付記 2 ]
 関連する記事があったので、メモしておく。(読売・朝刊・経済面 2003-01-07 )
 「中国の経済状況の最新統計。2002年について。外貨準備は、1年前に比べて、35%増で、2900億ドルほど。貿易黒字は 33%増で、年間で約 300億ドル。海外からの直接投資も、14%増で、約550億ドル。」(記事の数字は 11カ月間の調査なので、12カ月に換算しておいた。)
 つまり、「莫大な貿易黒字と、莫大な直接投資(資金流入)」という現象がある。貿易収支を見るだけでなく、資本収支も見るべきだろう。


● ニュースと感想  (2月11日b)

 「量的緩和」と「インフレ目標」と「資産インフレ」を主張する岩田規久男の意見。(朝日・朝刊・経済面・インタビュー 2003-01-22 )
 例によって、例のごとくの意見だ。何度も繰り返したことだから、あらためて述べるまでもないが、ざっとまとめておく。
 要するに、彼の理論は、単に「物価上昇と資産価格の上昇で総生産が増えるだろう」と、漠然と考えているだけだ。そのモデルのどこにも、「総生産」という厳密な項目がない。もちろん「総所得」もないし、「総需要」もない。「量的緩和をこのくらいやると、所得がこのくらい増えて、投資がこのくらい増える」というモデル的な話がまったく欠落している。
 そういうマクロ的なことをまるきり無視したまま、単に「マネーの影響」というものばかりを見ているだけだ。まったく底抜けである。「マネーしか見ない」というマネタリズムの根源的な欠陥だ。あまりにも素朴である。
 だいたい、彼は、「流動性の罠」という現象を、理解しているのだろうか? 今、マネーは莫大に流通しているが、そのマネーは、株にも土地にも回らず(株価も地価も上昇させず)、金融市場に滞留するばかりだ。「量的緩和のプラス効果が不足である」のではなくて、「いくらやっても効果はマイナスのまま」なのだ。そのことを「流動性の罠」という言葉が示す。経済学の基本用語を、少しは理解してもらいたいものだ。

 [ 付記 ]
 より根元的に言えば、「量的緩和による効果」のモデルさえもない。「1兆円の量的緩和によって、これこれの効果が出る」という定量的なモデルがまったくない。当たり前だ。そんなモデルをつくろうとすれば、「量的緩和ではまったく効果が出ていない」という現状を説明するモデルでなくてはならず、だとすれば、ほとんど無意味なモデルとなる。
 つまりは、量的緩和主義者の主張は、あまりにもどんぶり丼勘定なのだ。定量的なモデルがないだけでなく、定量的な思考そのものがないのだ。それでいて、マネーという数量的なものを扱うのだから、ほとんど自己矛盾である。

 [ 補説 ]
 「実質金利の低下による、投資の拡大」という考え方の、どこがまずいかを、簡単に示しておく。

 (1) 実質金利の低下
 実質金利の低下があれば、融資を受けた人は得をする。しかし、融資を受けた人は得をするが、預金者は損をする。その額はトントンだ。投資をする人々には何兆円かの金が与えられるが、預金をする人々は何兆円かの金を失う。なのに、前者だけを見て、後者を見ないのが、上の考え方だ。つまり、「右手の得だけを見て、左手の損を見ない」というわけだ。あまりにも底抜けの論理だ。(たぶん、「金は空から降ってくる」と思っているのだろう。)

 (2) ボトルネック
 「ボトルネックがあるときには、そこを改善することが大切であり、他の箇所を改善しても無意味だ」という考え方がある。TOCという考え方だ。前にも示したとおり、参考書がある。 ( → ザ・ゴール
 現在、景気が良くならないのは、消費がボトルネックになっているからだ。生産能力はボトルネックになっていない(むしろ過剰である)。なのに、消費拡大をしないまま、生産能力の拡大だけをする、というのは、「部分最適化」の失敗の見事な見本だ。「全体最適化」をするには、ボトルネックを解消することが大事なのだ。……こういう考え方を、上の参考書を読んで、よく理解するべきだ。

 結語。
 上の(1) (2) のことを、合わせて考えるといい。実質金利が低下することは、一般の個人(つまり預金者)の実質所得を低下させるから、消費を減らす効果がある。実質金利の低下を起こすことは、「投資優遇 & 預金冷遇」の意味がある。そのことは、消費がボトルネックとなっているときには、ボトルネックでない部分を改善して、ボトルネックである部分をいっそう悪化させる効果がある。改善するべき箇所を間違えているせいで、状況をかえって悪化させてしまうわけだ。壮大な勘違いである。── そして、その原因は、「右手の得だけを見て、左手の損を見ない」という、底抜けの論理にある。

( ※ 具体的に例を示そう。物価上昇によって食費が上がるとしよう。この場合、人々は、「今は消費を増やそう」、つまり、「今のうちにいっぱい食べて将来は何も食べまい」とするのではなくて、「将来でも食べられるように、今のうちに消費を減らそう」とする。結局、「消費の先食い」が不可能なものについては、「実質所得の低下」だけが影響する。)






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「小泉の波立ち」
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