[付録] ニュースと感想 (43)

[ 2003.3.08 〜 2003.3.16 ]   

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● ニュースと感想  (3月08日)

 雑感。「アメリカと戦争」について。特に読まなくてもよい。

 アメリカ人はどうして、あんなに戦争が好きなのだろうか? 今は世界中の人々がイラク攻撃に反対している。英国など、一部の政府は賛成しているが、国民を見る限り、どの国でも圧倒的に反対が多数だ。なのに、アメリカの国民だけは、違う。なぜか?
 私はこう思う。「暴力で奪ったものは、暴力で奪われることを恐れる」と。
 アメリカという国は、世界でも稀なことに、暴力によって奪い取った国だ。インディアンのものであった国土を、「西部開拓」という名のもとで、次々と侵略していった。普通、戦争があっても、敗戦国にいる住民を殺すことはないが、アメリカは住民を大量虐殺して、ほとんど絶滅寸前にした。アメリカはまさしく、「暴力で奪った国」なのである。
 そして、だからこそ、それを「力で奪われること」を恐れるのだ。今でもアメリカ国民だけが銃を手放さない。それは、正しいとか何とかいうより、彼らが脅えているのである。自分の得たものは銃で奪い取ったものであるゆえに、それを誰かに銃で奪い取られることを恐れているのだ。

 似たことは、ソ連でもあった。共産主義者の信奉する「革命」というのは、「暴力革命」であった。彼らの国家体制は、暴力によって得たものだ。それゆえ、暴力で奪われることそ、為政者は恐れた。だからこそ、政府は人民を弾圧したのだ。かつて人民が政府を転覆させたゆえに、ふたたび人民が政府を転覆することを、為政者は恐れた。だから、共産主義国の政府が人民を弾圧するのは、必然であったわけだ。

 アメリカも共産主義国と同様である。彼らは、暴力で奪ったものを、暴力で奪われることを恐れているのだ。そして、それゆえ、自らを少しでも脅かすものを見つけると、過剰に反応するのだ。
 客観的に見れば、イラクや北朝鮮に戦争を起こす力などはない。仮に戦争が起こっても、たちまち圧倒されることは、自明である。恐れることなど、何もない。しかし、アメリカだけは、イラクや北朝鮮を、過剰なほど恐れる。
 なぜか? イラクや北朝鮮の実態が問題ではないのだ。アメリカの心が脅えているからだ。精神病的に脅えている心は、かすかな風の音を聞いても、幽霊や魔物を想像する。アメリカであれ、共産主義国家であれ、事情は同じだ。彼らは他人を殺して、それを正当化したとき、同時に、大切なものを失ってしまったのである。
 
 結語。
 アメリカの病的な攻撃性は、いつまでも続く。イラクをつぶしても、北朝鮮をつぶしても、いつまでも永遠に続く。地球上の他人をすべて圧倒するまで続く。── そして、それを避ける方法があるとしたら、ただ一つ。アメリカが自らの罪に気づくことだ。ほかならぬ自分たちこそ過去において悪魔的な行為をなしたのだ、ということを、彼らが自覚すれば、そのとき初めて、他者への病的な脅えもなくなるだろう。
( ※ トラウマを自覚することで、トラウマをなくす、というのは、精神医学における処方である。)
( ※ 「北朝鮮の次はイランだ」という見方もある。その次の攻撃対象は? 日本かも。)
( → 2月22日b 「ブッシュのトラウマ」)

 [ 付記 ]
 イラク攻撃の論理がいかにメチャクチャであるかは、論理をよく見るとわかる。
  ・「イラクを攻撃する理由は、イラクが国連決議を遵守しなかったからである」
  ・「イラクを攻撃するためには、特に国連決議は必要ない」
 つまり、一方では国連決議を絶対視し、その一方では国連決議をゴミ屑のごとく軽視する。イラクには「国連決議を尊重せよ!」と命令し、自国には「国連決議なんかどうでもいい」と言い張る。
 要するに、狂人は、イラクにもアメリカにも、一人ずついる。
 小泉にも、勧告しておこう。「米国支持」は、必ずしも、対米関係を守るために必要ではない。「ブッシュ支持」をしなければ、一時的には、米国政権との関係は冷えるが、ブッシュはいずれは退任するのだから、たいして気にするべきでもないのだ。2年後には、別の大統領になっている可能性もある。
( ※ 私の期待的な予想では、次の米国大統領は、ヒラリー・クリントンである。なぜかと言えば、彼女は利口でなくても、亭主による「内助の功」が期待できるから。……もしそうなった場合、ヒラリーが「イラク攻撃は間違っていた」と主張しそうだ。すると、日本の対米協調派もこぞって、「そうだ、そうだ」と付和雷同するのである。犬というものは、主人の指示に従って、あっち向いたり、こっち向いたりするのだ。)

 [ 余談 ]
 小泉や保守派は、「米国支持」という見解だ。まったく、軟弱で、情けない。本当に戦争に賛成するのならば、「支持する」と口先だけで言うのでなく、「自らの血を流して戦おう」と言うべきなのだ。他人に任せきりで、口先でキャンキャンだけ言うのは、情けないこと、このうえない。
 人は、何かを守るために、命を賭けることがある。たとえば、ヒトラーがこちらへ攻めてきたとき、愛する人を守るために、命を賭けることはある。あるいは、フセインが他国を侵略したとき、自由を守るために命を賭けることはある。
 では今、われわれが戦うとしたら、いったい、何を守るためなのか? そんなものは、どこにもない。強いて言うなら、たった一つだけある。それは「米国への忠誠心」である。これこそ、犬にとっては、命懸けで守るべきものだ。
 だから、論者は、こう言えばいいのだ。
 「さあ、今こそ立ち上がろう。命を賭けて、死地に赴こう。今こそご主人様への、忠誠心を発揮するときだ!」と。
 そのあとで、三べん回って、ワンと吠えるべきだ。


● ニュースと感想  (3月08日b)

 「拡大均衡」について。
 循環的な過程(スパイラル)を示すものとして、「縮小均衡」ではなく、「拡大均衡」について考えよう。
 均衡状態において急激に需要が縮小すると、需給ギャップが発生する。この需給ギャップを埋める方向(均衡する方向)に、経済は変化するが、このとき、均衡に近づくと同時に、生産量が縮小する。── これが「縮小均衡」への過程だ。
 それとは逆に、「拡大均衡」への過程がある。均衡に近づくと同時に、生産量が縮小する、という過程だ。
 「拡大均衡」という言葉は、耳新しいかもしれない。ただ、一般には、単に「均衡にいたる過程」として示されるものだ。そして、その過程の具体的な詳細も、すでに説明済みである。
 一番基本的なのは、「消費性向が向上する」ことによって生じる「景気拡大」だ。消費性向の低下によって、「縮小均衡」(またはそれに近い状態)に落ち込んだあと、消費性向の上昇があると、「需要超過」が発生し、それにともなって、均衡点が右上に移動していく。ここでは、「需要超過」が解消されていくにともなって、生産量が拡大していく。(下図で、水色の線が相当する。)( → 9月01日

     景気回復と乗数効果の図

 ほぼ同様のことは、上図の青色の線でも当てはまる。これは、「乗数効果」という言葉で示されるものだ。水色の線は、消費性向の向上によって進む過程だが、青色の線は、投資 I が拡大することによって進む過程だ。
 具体的に説明しよう。初めは点 A にいる。そのあと、投資 I が拡大すると、生産直線( 45度線)が、下方にシフトする。そのことは、消費直線が上方にシフトしたのと、同じ効果をもつ。(つまり、消費直線の傾きが上昇するのではなく、初期定数が上昇するのと同じ効果である。) その結果、循環的な過程を経て、点 A’ から、点 E へと移る。この E は「収束点」である。
( ※ なお、この「循環的な過程」は、先に示したことと同様である。つまり、需要の変動が、生産の変動をもたらし、それが所得の変動をもたらし、それがさらに需要の変動をもたらす。そういうスパイラル的な過程である。)
 「乗数効果」は、従来の経済学では、数列の和である級数として示される。しかし、修正ケインズモデルを使うと、上図のように、図形的に示されるわけだ。( → 8月24日b

 この際、循環が進行するにつれて、変化するものがある。
 第1に、需給ギャップがだんだん縮小していく。そしてついには、収束点において、需給ギャップがゼロになる。つまり、「均衡」が実現する。だから、「収束点」は、「均衡点」でもある。(この事情は、「縮小均衡」の過程と同様。)
 第2に、生産量もだんだん拡大していく。(この事情は、「縮小均衡」の過程と正反対だ。)

 「拡大均衡」には、上の二つのタイプがある。しかし、どちらも、基本的な原理は同じである。さらにまた、均衡状態での「インフレ・スパイラル」(好況)も、同じ原理である。( → 10月26日
 それは、「生産量と需要とが、所得を通じて、循環的に(スパイラル的に)増加していく」という原理である。これは、「縮小均衡」とは方向が逆なだけだ。

 「縮小均衡」と「拡大均衡」の対比を、わかりやすく説明してみよう。(青色の線の方。)
 今、生産量が Ya と Yb の中間にあるとしよう。しかも、需給ギャップが開いているとしよう。
 ここで、放置すると、先の「縮小均衡」のスパイラルに乗って、現在の点から、収束点 A に落ち込む。ただし、途中で(あるいは A に落ち込んでから)、公共投資をうまく増やすと、 Yb と同じ量まで生産量を回復することができる。そうなると、あとは均衡を保ったまま生産量を拡大していける。
 つまり、下限均衡点 B よりも低い生産量では、金融政策によって民間投資を拡大することはできないが、公共投資を拡大することができて、そのことで不均衡から脱することができるわけだ。

( ※ 以上は、すでに示したことだ。復習ふうのまとめ。話は、次項に続く。)


● ニュースと感想  (3月09日)

 前項の続き。「乗数効果の速度」について。
 前項では、「拡大均衡」の二つのタイプを示した。本項では、そのうち、青色の線の方について、言及しておくことがある。それは、「乗数効果の速度」である。
 ケインズ派の説では、「このようにして公共投資によって不均衡を脱することができる」ということを示すことができた。と、同時に、別のことを示している。「乗数効果として、これこれの経済的な効果がある」ということだ。いわゆる「経済波及効果」である。実際に支出した財政支出額に比べて、その何倍かの効果が出る。それは前述の循環的な過程による。「生産が所得を生み、その所得がさらに生産を生み、その生産がまた所得を生み、……」という過程だ。それが「乗数効果」として示される。
 なるほど、それは正しい。しかし、そこには、重大なものが欠けているのだ。そのことを指摘しよう。

 「乗数効果」を説明するときに、欠けているものがある。それは、「時間」の概念である。
 自動車でたとえて言えば、「距離」の概念はあっても、「時間」の概念がない。そのせいで、「速度」の概念もない。
 経済学に戻って言えば、「経済効果」という量的な概念はあっても、それにかかる「時間」の概念がない。そのせいで、効果の出る「速度」の概念がない。
 先に、修正ケインズモデルで「循環的な過程」というのを説明したときには、「一つ一つの段階があり、その段階を進むのには一定の時間がかかる」というふうに強調した。たしかに、そうなのだ。ケインズのモデルでは、不均衡が発生したあと、時間を無視して、「やがては均衡点に至る」というふうに説明する。しかし、時間を無視するわけには行かない。

 ここで、現実の経済政策に視点を移そう。
 二つの経済政策があるとして、その優劣を比較するときには、単に効果の「量」を金額的に比較するだけでは不十分であり、その効果が出る「時間」も比較しなくてはならない。
 たとえば、「2兆円の景気回復効果と、4兆円の景気回復効果とは、どちらの効果が有効か?」という質問は、意味がない。なぜなら、かかる時間が示していないからだ。額だけを見れば、「4兆円」の方が有効に見える。しかし、「1年で4兆円」というのは、「半年で2兆円」が二つ合わさっただけだ。どちらも同じである。
 笑い話を言おう。猿に、実を与えることにした。「1日に2つやる」と言ったら、猿はキーキー怒った。そこで、「2日で4つやる」と言ったら、猿はキャッキャッと喜んだ。
 「それがどうした」と思うかもしれない。「自分は猿じゃないぞ。そんな勘違いはしないぞ」と思うかもしれない。問題は、ここからだ。今の経済学者は、みんな猿と同じなのである。
 
 問題は、「公共投資」と「減税」の比較だ。この比較をするとき、猿と同じことを、たいていの経済学者はやっている。ナンセンスな主張をしていながら、自分でそのことに気が付かない。
 経済学者は、こう言う。「公共投資の方が、減税よりも、経済的な効果が高い。公共投資では、全額が需要に回る。減税では、限界消費性向の分しか消費に回らない。1兆円の財政支出をしたとして、公共事業ならば1兆円の効果があるが、減税では 7000億円の効果しかない。(限界消費性向が 0.7 の場合。) というわけで、1 : 0.7 の比率で、「公共投資の方が、減税よりも、経済的な効果が高い」と。
 このことは、経済学のたいていの教科書に書いてある。公式的な見解だと言えるだろう。
 しかし、この認識は、まさしく猿と同じで、かかる「時間」のことを忘れているのだ。

 では、「時間」を考慮すると、どうなるか? 
 いきなり結論を言おう。「公共投資」と「減税」とでは、循環的に段階を進む速度が違うのである。この速度の違いを無視するわけには行かない。どんなに額が大きくても、時間が長くかかるのであれば、「効果が大きい」とは言えないのだ。
 たとえば、こうだ。5兆円の財政支出をしたとする。その結果て、次のようになるとする。
  ・ 「公共投資」…… 3年後に、合計 10兆円の経済的効果
  ・ 「減税」   …… 1年後に、合計 7兆円の経済的効果
 このどちらが有効か? これだけでは、どちらとも言えない。額だけを見れば、前者の方が、額は大きい。しかし、これだと、景気回復は3年後になるかもしれない。一方、後者は、額は小さい。しかし、これだと、景気回復は1年後になるかもしれない。そして、景気がいったん回復すれば、そのあとは、財政支出とは別の効果が出て、3年後には 10兆円よりもずっと大きな経済効果が出るかもしれない。
 とにかく、「額」だけを見ているのではダメで、「時間」も大事なのだ。  
 さて。上では、「減税の方が公共投資よりも速度が高い」ということについて、「……かもしれない」というふうに示した。以下では、「……かもしれない」ではなく、まさしく「……である」ということを示す。つまり、「減税の方が公共投資よりも速度が高い」ということの、理由を示す。

 ここで、最初のモデル論に戻る。
 「修正ケインズモデル」のモデル論で見たとおり、ここでは循環的な過程が生じる。そして、「公共投資」であれ、「減税」であれ、2段目以降は、この段階的な過程は、「所得」と「生産」の相互影響的な過程(波及した分の過程)であるから、どちらも同じだ。問題は、1段目だ。
 まず、額だけを見よう。効果の額は、「公共投資」の方が「減税」よりも大きい。限界消費性向が 0.7 だとすれば、先に述べたとおり、1 : 0.7 の比率で、「公共投資」が「減税」よりも効果的となる。(「減税」の場合は、残りの 0.3 の分は、「貯蓄」となって眠る。量的緩和の金が眠ると同じである。)
 次に、時間を見よう。「公共投資」では、事業は1年間にわたって、毎月少しずつ実施される。「(年度の最初である)4月に全額の金を出す」という方法もあるが、しかし、金を出しても生産が増えるわけではない。たとえば、「4月に工事費である 20億円の全額を払う」ことにしても、実際に 20億円分の工事が4月中になされるわけではない。その金は銀行の口座に入って眠るだけだ。そのあと、人件費、原料費、燃料費、償却費、……などに、毎月少しずつ支出される。
 実は、同様のことは、普通の「減税」にも言える。「所得税減税」や「消費税減税」では、1年間をかけて、「減税」の額は徐々に渡される。だから、増える支出(個人消費)も、1年間をかけて、少しずつ増える。(「年末調整」という形だと、金を受け取るのが遅延されるので、効果も遅延される。)
 しかし、である。「減税」には、別の形もある。それは、「最初にドカン」という形だ。たとえば、減税で 12万円をもらうとして、毎月1万円ずつもらうだけなら、「毎月 7000円ずつ使おう」と思うだけだ。しかし、最初の4月に 12万円を一挙にもらうのなら、「毎月チビリチビリと使おう」とはせず、「最初にガバッと使おう」と思う人がたくさん出てくるだろう。たとえば、12万円を手にして、「これで最新のパソコンを 12万円で買おう」とか、「エルメスのドレスを 8万円で買おう」とか、大金をいっぺんに出そうと思う人がいっぱい出てくる。
 そして、そういうふうに最初の1〜2カ月間で多大な支出がなされれば、その波及効果もすぐに出るのである。たとえば、酒場や料理屋で大金を使えば、その金は酒場や料理屋の労働者の所得となり、その所得による波及効果が早くも出る。翌月には、波及効果のそのまた波及効果も出るだろう。となると、半年もすれば、波及効果が何段にも進んでいることになる。
 にもかかわらず、公共投資では、半年後の段階では、まだ1段目の財政支出が半分だけなされたにすぎない。その波及効果は、いくらかはあるだろうが、しょせんは、最初の1段目が半分しか支出されていないのだから、たかが知れている。
 というわけで、「最初にドカン」という「一挙に支出」というタイプの減税ならば、公共投資よりも速度がずっと速いのである。

 結局、速度まで考えれば、「公共投資の方が減税よりも効果が高い」ということにはならない。むしろ、「公共投資の方が、遅いだけ、景気回復効果がそがれる」というべきだ。
 何事であれ、かかる時間を無視するべきではない。ケインズ派は、「最終的には、公共投資の方が、効果の額は多くなる」と主張するかもしれない。しかし、「収束点」に達するのは、モデル的に言えば、「無限の段階を経たあと」であるから、そこに達するのには、無限の時間がかかることになる。近似的に「収束点」に近づくだけでも、かなりの長い時間がかかる。それでは、無意味なのだ。
 ケインズ派の学者には、ケインズの次の言葉を贈りたい。
 「長期的には、われわれはみんな死んでいる」
 このことを理解しない人々が、かかる時間を無視して、「公共投資の方が効果が高い」という無意味な主張をするのである。

 [ 付記 1 ]
 だまされたような感じがして、うまく理解できない人もいるかもしれない。そこで、核心を述べておく。
 「1年」という区切りには、特に根拠がないから、「1世紀」という単位を用いよう。そして、政策の区別をする。
 ケインズ派の学者は、こう主張した。「景気回復のためには、1世紀をかけて、少しずつ公共投資を増やそう。毎年1兆円で、1世紀の 100年では 100兆円。その乗数効果は、これこれである。たぶん、5世紀先には、300兆円ぐらいの経済拡大がなされるであろう」と。なるほど、それは確かに、ケインズの「乗数理論」に従った結論である。間違いはない。
 減税派の学者は、こう主張した。「今すぐ、10兆円を渡せ。額は 100兆円の 10分の1でいい。限界消費性向を考慮すれば、10兆円のうち、7兆円ぐらいが支出になると見込める。その7兆円だけでいい」と。
 これを聞いて、ケインズ派の学者は、高笑いした。「7兆円? これだから、減税派の学者は困る。7兆円は、300兆円よりも、はるかに効果が少ない。これじゃ、何の意味もないよ。7兆円と 300兆円。額の大小がわからないのかね。馬鹿なやつらだ」と。
 かくて、ケインズ派は、「単発 10兆円の財政支出よりも、1兆円ずつ継続する財政支出の方が効果的だ」と主張した。国民は、「10兆円よりも1兆円の方が効果がある」という説を聞いて、不審に思ったので、質問した。「で、いつ景気が回復するのですか?」と。するとケインズ派は、「そんなことは気にするな。長期的には、われわれはみんな死んでいる」と答えた。
 猿がキッキッと笑っていた。

 [ 付記 2 ]
 ケインズの乗数理論は、本質的には、どこがおかしいか? もちろん、先に述べたとおり、「時間の概念がない」ということだ。では、なぜ? なぜ、時間の概念がないのか?
 それは、ケインズもまた古典派と同じく、「均衡点」というものを(頭ごなしに)信じたせいである。「経済状態は均衡点に落ち着くのが自然だ」とだけ考えた。その際、「そこが、均衡点というよりは、収束点である」ということを見失った。同時に、「この変動の過程が、数列ふうの過程である。変動は、なめらかに進むのではなく、順次的に進む」ということをも見失った。同時に、「一つ一つの過程には時間がかかる」ということをも見失った。
 「均衡」という概念は、経済学をひどく毒している。そのことに注意しよう。理由は、なぜかと言えば、経済学者が生半可な数学マニアぞろいであるからだ。彼らはこう信じる。「直線の交点は数学的な解である。そういう数学的な処理をすることは厳密だし、厳密な解は絶対に正しい」と。このときり、「直線の交点とは何を意味するか」という本質的なことを忘れている。
 本当のことを言おう。「直線の交点」というのは、それ自体にはたいして意味はない。そもそも、直線というのは、何らかのモデルを意味する。そして、そのモデルにおいて「直線」が何であるかで、「直線の交点」の意味も変わる。修正ケインズモデルでは、直線は、一種の「反射」「変換」をするためのものである。消費直線は、「所得」を「消費」に変換する。生産直線は、「生産」を「所得」に変換する。両者が交互に組み合わさることで、循環的な過程を生む。そのことのために、二つの直線はある。
 こういう本質を忘れて、単に「均衡点を得ればいい」「数学的な解を得ればいい」というのでは、あまりにも幼稚すぎる。それは「連立一次方程式の解を得ればいい」というのと同じであり、中学生の数学レベルである。そういう幼稚な数学的解釈による自己満足が、本質を逸らさせて、これまでずっと、経済学をむしばんできたのだ。


● ニュースと感想  (3月10日)

 前項では、「乗数効果を考えるとき、速度が大切だ」ということを示した。
 では、なぜ、速度が大事か? その理由は、「ぐずぐずしていると、景気刺激の効果が蒸発してしまう」ということだ。だからこそ、ぐずぐずせずに、さっさと効果を上げることが必要なのだ。

 具体的に例を挙げよう。ここ十年間、何度も公共投資や減税を実施した。ケインズの乗数理論で言えば、その効果が出るはずだった。しかし、現実には、まったく効果が出ていない。「落ち込むのを弱める効果はあったぞ」という主張もある。なるほど、そうかもしれない。しかし、だとしても、それではケインズの「乗数理論が無効であること」を説明していないのだ。「乗数理論」では、必ず、投入額の何倍かの効果が出るはずだ。そこでは、「落ち込むのを弱める」なんて理屈は現れない。
 たとえて言おう。斜面をずり落ちていく人がいる。その尻を下から押したら、ずり落ちるのを弱めることはできる。しかし、乗数理論では、そういう説明はない。単に「下から押せば必ず上に登る」という説明をするだけであり、「下にずり落ちるのを弱める」という説明はないのだ。(そして、そういう説明のもとで、「公共投資は減税よりも効果がある」と主張する。)

 では、本当は、どうなのか? 正解を言おう。
 ケインズの乗数理論がそのまま成立するのは、「速度が無限大である」場合、つまり、「景気拡大にかかる時間がゼロである」場合だけなのだ。そういう場合には、乗数効果は、はっきりと現れる。当たり前だ。時間がかからないのだから、その分の効果は、すぐに現れる。
 しかし、現実には、時間がかかる。すると、どうなるか? 乗数理論の通りには進まない。(下図を参照。)

     景気回復と乗数効果の図

 乗数理論では、点 A’ から、点 E まで、時間ゼロで進むことが前提されている。しかし、実際には、時間がかかる。つまり、点 A’ を離れたあと、一挙に点 E に移るのではなく、その途中の、中間点にいる時期がある。
 この中間点にいる時期が問題だ。この時期は、乗数効果によって「右上に進もう」とする力が働く。と同時に、デフレ・スパイラルによって「左下に進もう」という力も働く。(下図を参照。)

     修正ケインズモデルにおける景気悪化の図

 結局、不況のさなかで景気刺激策(公共投資や減税)を取ると、二つの力が同時に働く。その景気刺激策によるプラス効果の力と、デフレ・スパイラルによるマイナス効果の力と。そして、その両者の力のせめぎあいによって、現実の経済がどちらに進むかが決まる。
 それが真実だ。しかるに、ケインズ派の考えでは、そういう認識ができない。単にプラスの効果だけを見て、マイナスの効果を見ない。だから、「景気刺激をしたのに、どうして景気は実際に回復しないのだろう。乗数効果の分だけ拡大するはずなのに」と不思議がる。また、「少なくとも、マイナスを打ち消したんだから、その分ぐらいは効果は出たんだ」と強弁する。
 違う。乗数効果によるプラス「額」と、デフレ・スパイラルによるマイナスの「額」とが、打ち消し合ったのではない。乗数効果による「力」と、デフレスパイラルによる「力」とが打ち消し合ったのである。そして、その「力」のせめぎあいの結果として、プラス方向に進むか、マイナス方向に進むかが、決まる。プラス方向に進めば、プラスの額が出るし、マイナス方向に進めば、マイナスの額が出る。
 この二つの力がある、と理解することが大切だ。額ではなく、力が肝心なのだ。
 最終的な額がどんなに大きくとも、プラスの「力」が弱ければ、マイナスの「力」に負けてしまう。その結果、マイナス方向に進むことになる。
 たとえば、「 100年間に 100兆円」というのは、「額」は多大だが、「力」が弱すぎるのである。なぜなら、「1年間1兆円」にすぎないからだ。むしろ、「1年間に 10兆円」にすればいい。それなら、額は小さくとも、「力」が大きいので、マイナスの「力」に打ち勝って、プラス方向に進める。

 そういうふうに「力」を理解することが大切だ。ケインズの「乗数理論」では、そういう「力」の理解ができなかったから、「景気刺激をしても、効果が蒸発してしまう」(元の木阿弥になってしまう)ということを、うまく説明できなかった。

( ※ なお、「力」を計るには、その「速度」を計ればよい。つまり、自動車では、「km / 時」という単位(時速)を用いるように、景気刺激では、「兆円 / 月」という単位を用いればよい。この意味で、前項で述べたように、「時間」の概念が大切になるのである。)

 [ 付記 1 ]
 関連する話を、前にも述べたことがある。
 額が不十分だと、上昇の収束点(E)の生産量が、下限均衡点(B)の生産量に達しない。そのせいで、ふたたびデフレスパイラルに落ち込んで、点 A または A’に落ち込む。元の木阿弥だ。
( → 9月03日9月04日

 [ 付記 2 ]
 結局、どうすればいいのか? 
 公共投資というのは、「速度が遅い」ことで、「力が弱い」ので、効果があまりでない。下手をすると、せっかくの景気刺激が、デフレスパイラルのなかで埋没して、元の木阿弥となってしまう。
 なすべきは、「大規模の減税」を「最初にドカン」という形で、いっぺんに実施することだ。いっぺんにやれば、速度は大きく、力も大きい。また、十分に大規模ならば、乗数効果の結果として、下限均衡点 B を越えて、均衡状態に入ることができる。
( ※ 逆に言えば、小規模の減税を、時間をかけてぐずぐずとやるのでは、効果がうまく出ない。こういう形の「おっかなびっくりの減税」は、最悪の場合、効果がゼロとなる。つまり、「景気の回復が予想されない」という理由で、「すべてが貯蓄に回る」という結果になる。(実際、「地域振興券」というのは、これに当てはまる。)……こういうふうに「効果ゼロ」になる「おっかなびっくりの減税」に比べれば、普通の公共投資の方が、まだはっきりと効果は出る。公共投資は、常にそこそこの効果が出る、堅実な策なのである。減税は、それとは逆で、うまくやれば多大な効果が出るが、下手にやれば全然効果が出ない。)
( ※ ケインズ派は、下手な減税を見て、「それ見ろ」と息巻く。「やっぱり、減税なんか、効果はないぞ。公共投資の方が効果が出るぞ」と。ま、下手な減税と比べれば、たしかにそうだ。……ただ、減税は、どんなに下手であっても、デメリットは出ない。最悪でも、「その金が貯蓄になって眠る」というだけであって、損失はまったく発生しない。単に、政府の口座に赤字が溜まり、国民の口座に黒字が溜まるだけだ。何も変わらない。一方、公共投資は、デメリットが出る。必要な公共投資ならともかく、たかが景気対策という名目で、不要不急の公共投資をいきなり増額すれば、必ず多大なデメリットが発生する。国民は当面は見て見ぬフリもできるが、あとでツケ払いの形で、莫大にな金を奪われる。)


● ニュースと感想  (3月10日b)

 前項の補足。
 前々項および前項で示したのは、「乗数効果を考えるときは、速度を考慮するべきだ」ということだった。そして、それゆえ、「公共事業が減税よりも効果的だ、ということはない」という結論を出した。
 ここで、補足的なことを述べておく。

 なぜ、速度が大切なのか? それは、もちろん、「ぐずぐずしていては効果が出ない」ということだ。そのことを、すでにモデル的に示してきた。ただ、モデルを離れて、本質的に考えると、どうなるか?
 「速度が遅い」ときには、「効果が出ない」ことになる。そして、「効果が出ない」ということは、「せっかく金を出しても、その金が眠っている」ということだ。そして、「金が眠っている」というのは、「金が(使われずに貯蓄されている」というのと同じことだ。── このことが本質だ。つまり、「速度が遅い」というのは、「金の一部が貯蓄されている」というのと同じことなのだ。(だから効果が小さい。)
 具体的に例示しよう。政府が 5兆円の公共投資をしたとする。しかし、その金は、すぐには効果を発揮しない。1カ月目には、12分の1だけ、たしかに支出されるが、他の 12分の 11 は、支出されない。使われずに、預金口座で眠っているだけだ。そして、その眠っていた金が、1月ごとに、だんだんと支出される。翌月にまた 12分の1、翌月にまた 12分の1、……というふうに。
 そういうことだ。金が眠っている(貯蓄されている)限りは、たとえ予算に計上しても、経済効果は出ない。そして、ケインズ派は、そのことを忘れているのである。単に予算に計上したからといって、金がすぐに支出されると思い込む。実際には、貯蓄に回されたままであり、1年間を通して言えば、平均して半額しか支出に回されないのだ、ということを忘れている。
 そういう「時間」概念のない論理で、「公共投資は減税よりも有効だ」と主張しているのである。底抜けの論理。


● ニュースと感想  (3月11日)

 前々項の補足。「限界消費性向の違い」について。
 限界消費性向は、公共投資と減税とでは、異なる。これは大事なことだ。ケインズ派の試算では、公共投資でも減税でも、限界消費性向は同じだ、と仮定する。しかし現実には、そうはならない。どうなるか? 公共投資をしたときは、減税をしたときよりも、限界消費性向が低くなる。
 そういう違いがある。
 現実には、さらに、「物価上昇の効果」が加味される。
 そういう違いがある。
 なお、物価上昇の効果については、次を参照。
( → 5月11日 の「インフレ告知」)
( → 9月01日9月04日 の、公共事業と減税との、限界消費性向の違い。および、乗数効果の違い。)

 [ 補説 1 ]
 「公共投資をしたときは、減税をしたときよりも、限界消費性向が低くなる」とすぐ上で述べた。このことについて、説明を加えておく。
 なぜそうなるか? 政府が勝手に無駄遣いすれば、そのツケ払いとして、いつか増税または物価上昇があるからだ。(将来の損失を恐れて、現在の支出が減る。合理的期待形成仮説ふう。)
 たとえば、5兆円の公共投資があって、乗数効果を込みにして 10兆円の経済効果があったとする。で、国民所得が 10兆円、増えたとする。それ終わるか? 終わらない。5兆円の公共投資の分を、増税で返済しなくてはならない。
 この返済は必須である。「将来に先送りする」という手は使えない。増税がイヤなら、物価上昇だ。どっちみち、同じである。国が金を使ったら、その分、民間が金の使途を減らすしかない。(さもなくば、無から有が生まれることになる。誰も負担をしないで、公共投資がなされることになる。それが可能ならば、こんなにうまい話はない。「空から公共投資が降ってくる」というわけだ。「本四架橋も、東京湾湾岸道路も、何の負担もなしに建設される」というわけだ。そんな「棚からボタモチ」は、現実にはありえない。)
 ここで、不思議に思うかもしれない。「 10兆円の生産をなしたのに、5兆円しか消費に回らないとしたら、残りの5兆円(増税または物価上昇の分)はどうなったのか? 消えてしまったのか?」と。
 増税ならば、基本的には、財政赤字削減のために償却される。物価上昇を抑えるために高金利にするなら、売りオペによってやはり日銀に償却される。どっちみち、貨幣量の縮小をもたらす。貨幣量の縮小がなければ、物価上昇が発生するので、その場合も、5兆円分の損失が発生する。
 結局、どっちみち、5兆円の損失が発生する。そして、それはどこ行ったのかと言えば、過去に浪費した5兆円の公共投資の費用をまかなうために使われたのである。
 過去と将来を通してみれば、こうなる。まず、5兆円の借金をして、5兆円の公共投資をする。そのことで、10兆円の経済効果がある。しかし、最初の5兆円の分は、返済しなくてはならない。国民は、10兆円分を働くが、そのうち5兆円は増税または物価上昇で奪われ、手元には5兆円しか残らない。となると、その5兆円の全額を消費しても、10兆円のうちの5兆円しか消費できない。だから、増税を考慮すると、(実質的な)限界消費性向は、「5/10」で、0.5 となる。現実には、その一部が貯蓄に回るから、(実質的な)限界消費性向は、せいぜい 0.4 ぐらいだろう。つまり、最初に仮定した「 0.7ぐらいの限界消費性向が保たれる」ということは、実質的には、ありえないのだ。(増税を考慮すれば。)
 結局、最初から最後までまとめると、こうなる。不況期には、5兆円の公共投資がなされる。「当面の負担なしに、社会資本が増えた。得をしたぞ」と思っていられる。ところが、景気回復後には、増税または物価上昇がある。そのとき、先に負担すべき分を、今になって負担することになる。ツケ払いだ。(これで帳尻は合う。無から有が生まれるわけではない。)
 で、ケインズ派の経済学者は、最初の公共投資を見て、こう主張する。「ほら、政府が金を出したから、どんどん需要が増える。すぐに効果が出るんだ。公共投資はすばらしいな」と。そして、このあとさらに、「乗数効果」で経済が拡大することを予測する。実際、不況を脱していない間ならば、負担を先送りできるので、しばらくは「増税」なしに、経済の拡大を楽しめる。しかし、やがては、不況を完全に脱する。そのとき、「増税」を迫られる。政府が使った無駄遣いの分を、国民が払う必要がある。すると、所得は増えても、大半を税で奪われて、消費に回せない。このとき、限界消費性向は、大幅に低下する。(たとえば 0.4 )
 ただし、である。これは、経済的に「増税を迫られる」というだけの話だ。現実には、増税を迫られても、増税は困難だ。すると、どうなるか? 物価上昇が発生する。政府が公共投資をしたのは、国債を発行したからだ。その国債の所有者が、「この国債を償還してくれ」と請求する。もちろん、請求に応じる。すると、彼らは、「過去に消費を我慢した分、今になって消費をするぞ」ということで、急激に消費を拡大する。(これは当然の権利である。)で、彼らが急激に消費増大を起こす分、他の人々が消費縮小を迫られる。それが「増税」なのだが、「増税」を拒む。すると、国債の償還を受けて、貨幣をたっぷりともらった人々が、どんどん消費をする分、物価上昇が発生する。他の人々は、増税による損失を受けなかったが、物価上昇による損失を受ける。
 この状況は、「悪い物価上昇」という意味の「インフレ」である。やたらと効率の物価上昇が発生して、国民生活は歪む。一部の不心得者は、物価上昇を利用して、うまく立ち回って、市場で差益を得る。しかし、その分、うまく立ち回れなかった普通の人々が、富を奪われる。真面目に働く人間が損をして苦しみ、小賢しく立ち回る人間ばかりが楽をして莫大な不労所得を得る。社会は歪む。
 結局、ケインズ的な「公共投資」のデメリットは、現在にあるのではなく、将来にあるのだ。だから、「現在はこんなにメリットがある」といくら強調しても、意味がないのだ。長所だけを告げて短所を告げない、自分勝手な広告のようなものだ。だまされてはいけない。たしかにケインズ的な「公共投資」には、現在のメリットがある。しかし彼らは、将来のデメリットを隠しているのだ。「穴を掘って埋めても、いいんです。それなりにメリットはあります」という主張を信じて、その説を信じたら、たしかに幸福になった。「うれしい」と思っていたら、あとになって、「穴を掘って埋めた代金」という莫大な請求書を突きつけられた。「そんなものは払いたくない」と放置したら、「物価上昇」という形で、いつのまに全財産を差し押さえられた。
 そういうことだ。ケインズ的な「現在の得を見て、将来の損を忘れる」というのは、あまりにも底抜けの経済学なのである。
( → 11月19日 にも、似た話。)

 [ 補説 2 ]
 ケインズ派の「公共事業が大事」という主張には、もう一つ、基本的な欠陥がある。それは「効用を無視している」という点だ。
 ケインズは、マクロ経済の本質をつかんだ。「所得を通じたスパイラル」という点である。それはそれでよい。しかし、マクロ経済にとらわれるあまり、それ以外のことを忘れてしまったのだ。それが「穴を掘って埋めるのでもいい」という主張だ。
 その主張は、マクロ経済だけを考えるのならば、とりあえずは成立する。たしかに、公共投資を増やすことで、総需要が拡大する効果はある。マクロ的には、そういう意味はある。
 しかし、それ以外の点が、まったく底抜けなのだ。特に、「効用」という点だ。
 この点は、ケインズも、理解していた。だからこそ、「穴を掘ってもいい。効用はゼロでもいい」と強調したわけだ。しかし、マクロ的にはそうだとしても、現実にはそうは行かない。なぜか? あらゆる経済活動は、すべて、「効用」のためにあるからだ。
 われわれが働いて金を稼ぐのは、何のためか? もちろん、その金で、何らかの効用を得るためだ。つまり、金を有意義に使うためだ。金をドブに捨てるためではない。
 しかし、ケインズの考え方では、そうではない。「われわれが働いて金を稼ぐのは、マクロ経済のためである。マクロ的に需給を均衡させるために働くのだ」と考える。それが「効用を無視する」ということだ。
 で、その結論は、どうなるか? 「効用を無視していい」というのは、「他人の効用を奪ってもいい」ということだ。つまり、「泥棒をしてもいい」ということだ。
 ケインズの考え方では、Aという個人が働いて金を稼いで、その金を自分で使ってもいい。あるいは、その金を、Bという人間が泥棒して、勝手に使ってもいい。どちらにしても、有効需要は同じだ。
 換言すれば、こうだ。「穴を掘って埋めるのでもいい」わけだから、Aという個人が働いて金を稼いでも、その金を強制的にドブに捨てさせていい。そして、Aの捨てた金を、Bが拾って勝手に使っても、構わない。その過程をぐるりとまとめれば、「Aの稼いだ金をBが盗んでもいい」ということになる。
 これは、おかしいか? マクロ的には、おかしくない。Aの稼いだ金を、Aが使おうが、Bが使おうが、マクロ的には、まったく同じだ。
 ここで肝心なのは、マクロ的なこと(総需要の問題)ではなくて、実質的な生活のこと(効用の問題)なのだ。
 ケインズの主張は、そこを理解していない。「マクロ的に正しければ、それで正しいのだ」とだけ主張して、泥棒を正当化している。
 この「泥棒」というのは、比喩ではない。上では、泥棒の名前を B としたが、彼の本名を教えよう。それは、「政府」だ。政府がまさしく泥棒となる。そして日本中の国民の金を強制的に奪って、勝手に本四架橋やら何やら、無意味なことに費やす。
 そして、政府がそういう泥棒行為をするのは、「泥棒は正しいことだ。それはマクロ的には正しいことなのだ」とケインズ派が主張するからなのだ。ここではもはや経済学は、泥棒を正当化するための理屈(屁理屈)に、成り下がっている。ひどいね。

( ※ ケインズ派の人々は、どうせなら、自宅に「私はケインズ派です」と看板を掲げておくべきだ。そうすれば、ピッキングなどをやる泥棒たちに便利だからだ。なぜか? たとえ泥棒に入られても、ケインズ派ならば、決して文句を言わないだろう。「私が金を使うのでも、私の金を泥棒が使うのでも、どちらでも経済効果は同じことだ。だから、盗まれたって、ちっとも構わないんだ」と思うはずだから。もしそう思わないとしたら、彼らは自説に反することになる。彼らの自説は、「経済効果だけが大事だ。効用なんかはどうでもいい」ということなのだから。)


● ニュースと感想  (3月12日)

 ここまで、ケインズの「乗数理論」について批判してきた。乗数理論は、基本的には正しいのだが、循環的な過程の1段目にあたる「公共投資」のところで、「時間」や「効用」の問題がある、ということを示してきた。
( ※ 2段目以降の経済波及効果については、おおむね正しい。ただし、「力」の大小の問題はあるが。これは、間違っていると言うよりは、相対的に正しさが不足しているという程度のことだ。)

 さて。ケインズの説には、それとは別に、もう一つの問題がある。こちらは、より根本的な問題だ。(こちらもやはり、「1段目」のところの問題だが。)
 ケインズの主張では、「公共投資では、財政支出の全額が、国民所得になる」と考えている。経済学のどの教科書にも、「乗数効果」のところで、そう書いてある。しかし、それは正しくない。そこには根本的な勘違いがある。
 簡単に示そう。5兆円の減税ならば、その5兆円がそっくりそのまま、国民の所得となる。しかし、5兆円の公共事業ならば、その5兆円は、企業の売上げとなるだけであり、企業の所得(利益)とはならない。つまり、「売上高」と「利益」とは異なる。売上高がそっくりそのまま、国民の所得になるわけではない。そこが根本だ。

 ここで、いくつかのタイプに分けて考えてみよう。「売上高がそっくりそのまま、国民の所得になる」という例外的な場合も含めて、類別する。
 基本的には、「外部への流出」の有無で類別する。ある企業が公共事業を受注したとして、そのうちいくらかを「材料費」などのコストに使えば、そのコストの分が外部に流出する。しかし、すべてを自社でまかなえば、流出はない。

 (1) 流出のない場合
 すべてを自社でまかなえば、流出はない。そういう例は、通常はありえそうもないが、例外的にはある。具体的には、「すべてが人件費」という場合だ。たとえば、「穴を掘って埋める」とか、「鉛筆で絵を描く」とか、「コンピュータのソフトを自宅で作成する」とか、そういうふうに、ほとんどが人件費だけで済む場合がある。
 この場合には、コストとして外部に流出することはないから、その全額が「所得」となる。ただし、このタイプも、さらに小分類できる。
  1.  労働なし
     「労働なしで金を得る」という場合がある。これは「減税」のことだ。企業であれ、労働者であれ、何もしないで国から金をもらう、というのが、「減税」である。
     この場合、金をもらっても、何も生産されない。何も生産されないのに、所得だけが増える。となると、物価上昇だけが発生する。国民としては、損も得もない。単に貨幣価値が変わるだけだ。
  2.  労働あり
     「労働ありで金を得る」という場合がある。これは、普通の公共事業である。これはさらに、二つに区別される。
    1.  成果なし
       「成果なし」という場合がある。これは「穴を掘って埋める」のと同じだ。労働をしても、何も生産されない。所得は増えるが、生産量が増えないから、貨幣量の増えた分だけ、物価が上昇する。生活水準は変わらない。労働者にとっては、せっかく働いても、富はちっとも増えないことになる。金は増えるが、物価上昇で相殺されるからだ。無賃労働と同じである。(その労働で何も生産されないのだから、当然だ。)
    2.  成果あり
       「成果あり」という場合がある。これは、まともな公共事業である。その成果は、「投資効率」によって計られる。「投資効率」が1ならば、金をかけた分だけの利益を社会全体で得る。「投資効率」が1以上ならば、もっと良い。「投資効率」が1以下ならば、もっと悪い。(通常、「景気対策としての公共事業」は、計画性もなしにいきなり追加されたものだから、投資効率は非常に低い。場合によっては、「投資効率がマイナスで、やらない方がマシ」という例もある。)
 結局、「流出のない場合」としては、「減税」と同じようなタイプだけが、「損得なし」に乗数効果を発揮できる。それ以外の公共事業では、流出はなくても、「無駄」が発生しがちだ。なお、
   「流出」がないこと = 経済効果が大きいこと
   「無駄」がないこと = 効用が大きいこと
 という関係がある。「流出」は、ない方が好ましいが、それとは別に、「無駄」は絶対にあってはならない。(この件は、「経済効果だけでなく、効用にも注目すべきだ」というふうに、前項で述べた。)

 (2) 流出のある場合
 コストとして外部に支払う分があれば、その分は外部に流出する。この「流出」の分は、そっくりそのまま「所得」と見なすべきではないのだ。
 たとえば、ある企業が 10億円の公共事業を受注したとする。この企業の売上高は、10億円増える。ただし一部は、原料費などのコストとして、外部に流出する。この企業だけの所得は、もちろん、10億円のうちの一部しか増えない。ただし、外部に流出した分も、外部の企業で所得となる。では、日本全体を考えると、10億円のすべてが所得となるか?
 これはかなり難しい問題である。具体的に考えてみよう。この企業は、10億円の売上げがある。そのうち 95%ぐらいは、人件費や原料費などの経費として支払われ、企業の所得(収益)になるのは、5%となる。(この分は、株主の所得となる。)
 ただ、95%のうち、人件費が 20% だとすれば、この 20% の分は、労働者の所得となる。この分は、先の (1) と同様である。
 95%のうち、人件費にあたる 20% の分を差し引いて、残りは 75% である。この分が、他の企業の売上げとなる。
 そして、他の企業でも、同様の論理が次々と進んでいく。「そのまた 75% が他の企業に払われ、そのまた 75% が他の企業に払われ、……」というふうに、次々と循環していく。(ただし、この循環は、無限ではない。取引は有限だから、どこかで停止する。)
 では、こういう循環のすべてを考慮すると、最初の 10億円は、その全額が人件費になるだろうか? もしそうなら、(1) と同じことになるが。
 実は、そうではない。そういうふうに、「すべてを人件費に還元できる」ということはない。理由は、二つある。次の通りだ。
  1.  輸入品の分
     コストの一部は、輸入品に払われるが、その分、所得が外国に流出するので、国民所得は増えなくなる。
     わかりやすく言おう。「公共投資に 100億円を払えば、その分、需要が増えて、所得が増える」とケインズ派は主張する。しかし、そんなことはない。たとえば、100億円で、パソコンや石油のような輸入品を買ったとする。需要はたしかに、100億円増える。しかし所得は、100億円も増えない。せいぜい手数料として、数億円が所得になるだけであり、残りのほとんどの部分は、外国に流出する。そして、所得が数億円だけだということは、そこから発生する乗数効果も、それに応じた分しかない、ということだ。とても 100億円分の乗数効果はないのだ。
     こういうことは、パソコンや石油という輸入品を、直接買った場合だけに限らない。直接は買わなくても、コストの過程の、何段もある多段の過程のどこかで、輸入品にぶつかる。たとえば、流通にはガソリンや軽油が必要であり、そこで「石油代金」が外国に流出する。その他、石油や鉄鉱石やアルミや繊維など、たいていの物品は、一部が外国に流出する。流出しないのは、純粋な人件費ぐらいだろう。(それならば、すべてが「所得」になる。)
     とにかく、たいていの場合、公共投資をしても、その全額が「乗数効果」に回ることはないのだ。「全額が所得になる」というケインズ派の主張は、まったく正しくない。
     結局、「公共投資はその一部しか所得に回らない」のに、「減税はその全額が所得に回る」というわけだ。そして、だとすれば、「公共投資の方が減税よりも大きな経済波及効果をもたらす」なんていう説は、まったく間違いだとわかる。
     たしかに、1段目だけは、公共投資の方が額が大きい。しかし、2段目以降の波及効果は、公共投資の方が少なくなるのである。このことを理解しよう。
     ( ※ 以上の説明を読んでも、まだ理解できないで抵抗するケインズ派の人もいるかもしれない。もしそうならば、公共投資として、「石油の備蓄」を主張するべきだ。代金のほとんどは産油国に流れることになるが、それでどれだけ日本のGDPが拡大するか、試算するがいい。)
  2.  遅延の効果
     「一部がコストとなり、そのまた一部がコストとなり、そのまた一部がコストとなり、……」というふうに進むとしたら、その多段の過程のすべてが完了するまでに、長い時間がかかる。公共事業を受注した最初の会社は、すぐに代金を得る。しかし、その事業のための原料や部品を納入した会社は、代金を得るには、一定の時間がかかる。さらにその次の会社も、代金を得るには、一定の時間がかかる。これが末端の方まで行くには、多大な時間がかかる。たとえば、
     「建設会社 → ブルドーザー会社 → 自動車部品会社 → 旋盤機器会社 → 機械部品会社 → 金属材料会社 → 金属精錬会社 → 鉱石発掘会社 → 爆薬会社 → 爆薬原料会社 → そのそばの料理屋」
     という過程がある。こういう多段の過程を取って、「建設会社に出した金の一部が、どこかの料理屋の売り上げとなる」までには、たっぷりと時間がかかる。
     かくて、時間がかかるわけだが、では、「時間がかかる」ということの意味は? それは、先に示したとおりで、「金が眠る」ということであり、「貯蓄になっている」のと同じことだ。
     つまり、10億円の公共投資をしても、その全額が所得になるわけではない。無限の時間をかければ、その全額が所得になるかもしれないが、当面は、その一部が眠っているので、実質的には、貯蓄されているのと同じことになる。たとえば、1年後の時点で、10億円のうち、5億円ぐらいしか、所得になっていないかもしれない。とすれば、その分、1段目の「公共投資 → 所得」という過程が遅れるのである。(これは、「支出」が「売上げ」になる遅れではなく、「売上げ」が「所得」になる遅れである。)
     この遅れは、重要だ。なぜなら、「時間がかかる」「速度が遅い」というのは、「金の一部が貯蓄されている」というのと同じことなのだ。(だから効果が小さい。)( → 前々項で述べたとおり。)
     減税ならば、この遅れはない。たとえば、10億円の減税をすれば、その 10億円がすぐに「所得」になる。そして乗数効果の2段目以降に進む。しかし、公共投資では異なる。企業が 10億円の売上げを得ても、 10億円のすべてが「所得」になるまでには、コストの過程の、多段の過程をたどらなくてはならない。そして、その過程がすべて完了するまでは、「10億円のすべてが所得になった」とのではなく、「一部が所得になっただけ」にすぎないのだ。
 結局、公共投資は、減税よりも、効率が悪い。「無駄が発生する」「効用が少ない」ということは脇に置くとしても、波及効果が少ない。
   ・ 国外への流出分
   ・ 途中で遅延している分
 この二つの分が、「所得」に回らないのだ。そのせいで、現実的には、効果が薄いのだ。

 [ 付記 1 ]
 従来の経済学がどうしていたかを示そう。
 政府の厚生白書(1999年版)では、経済波及効果を算出するのに、「産業連関表」を使って試算している。「この表によると、こうなっているだから、この数字とこの数字を掛けて足して」という試算だ。
 これは、ただの数字いじりである。現実経済からは、懸け離れている。なぜか? 「時間」というものをまるきり無視しているからだ。そして、「時間」というものを無視した算出がいかに無意味であるかは、少し前の項で示したとおりだ。
 結局、こういうふうにまったく無意味な試算をして、「公共事業は有効だ」という架空の結論を出しているのである。
 ま、これもまた、数多くある「経済学者の嘘」の一つだ。

 [ 付記 2 ]
 本項で述べたことは、細かな技術的な話のように思えるかもしれない。しかし、非常に重要である。現実経済との関連で、大きく影響するからだ。そのことは、具体的な例を見ればわかる。
 政府が5兆円の支出をしたとする。これが公共事業か減税かで、区別しよう。
 公共事業ならば、5兆円の支出を見て、「5兆円の経済効果が出るぞ」と経済学者が強調する。で、そのおかげで、どうなったか? たとえば、自動車やパソコンが売れるようになったか? 街の飲み屋の客が増えたか? なるほど、建設業に勤めている人の分ぐらいは、いくらか増えたようだ。しかし、その増え方は、「5兆円分」とはとても言えず、もっとずっと小額だろう。潤っているのは、建設業とその関連産業ばかりである。(たとえば、化粧品などの女性向け産業では、いつまでたっても売上げが増えないかもしれない。)
 減税ならば、違う。5兆円の減税をすれば、そのうち3兆円が消費に回ったまわったとして、3兆円分、あちこちの産業で売上げが増える。パソコンも自動車も、大幅に売れるようになる。街の飲み屋も、多くの客でにぎわう。そして、そのことがさらに、乗数効果を通じて、スパイラル状に拡大していく。
 そういうふうに、両者で大きな差が出る。そして、その差は、「政府支出が国民の所得になったか否か」で決まるのだ。
 結局、いくら政府支出が増えようと、それが「所得」にならない限りは、乗数効果は進まない。乗数効果のスパイラルは、「所得」を通じてのみ、なされる。── そう理解することが大切だ。そして、そう理解すれば、「公共事業」という効果の低いものを、「効果がある」と勘違いすることもなくなる。


● ニュースと感想  (3月13日)

 時事的な話題。特に読まなくてもよい。「読売新聞の提言(2003-03-12)について、簡単にコメントしておく。
 項目別に書けば、次の通り。
  1.  首相は政策転換を宣言せよ
     嘘つきが何を宣言しても、あまり意味がない。首相の宣言なら、「構造改革で景気回復」とか何とか、さんざん言っている。また、「景気重視」などの言葉なら、とっくに言っている。問題は、誰も、首相の言うことなど、信じない、ということだ。裏付けが何もないからだ。
    ( ※ おまけで言っておけば、「自分のこれまでの言い分は完全に間違っていました」などと、小泉が言うはずがない。読売だってそうだ。「自社のこれまでの言い分は完全に間違っていました」などと、言うはずがない。保守派というものは、自分の過ちを絶対に認めないのである。)
  2.  インフレ目標をためらうな
     やってもやらなくても、あまり意味はない。日銀はすでに「デフレを脱却する(物価上昇率がゼロになる)まで量的緩和を実施する」と宣言している。ほとんど同じことを言い直しても、意味がない。
     インフレ目標が有効なのは、弱い不況のときだけだ。もはやその段階を越えており、インフレ目標という口先政策だけでは状況を脱出できない。それほどまでに状況は悪化しているのだ。読売は、認識が甘すぎる。「言葉だけで景気回復」なんてことができるほど、経済は甘くないのだ。
  3.  10兆円補正で「救国事業」を。つまり、無利子国債で個人の金融資産を吸収し、その金で減税を。また、税制見直しで、資産デフレを抑制せよ。
     この項目の「減税」のみが、有効である。ただし、規模と方法が間違っている。やるべきことは、「10兆円以上の個人向け減税」だ。それだけだ。
     減税を企業などに回せば、その分、効果が薄れる。「5兆円の個人向け減税と、5兆円の法人税減税」ならば、後者の5兆円は貯金なって眠ってしまうだけだ。まるきりの無駄だ。個人になすべきことは、減税であり、企業になすべきことは、「金利を下げること」だ。この基本を理解しよう。なお、公共事業は、害悪がありすぎる。
     財源も、「無利子国債」なんてのは、逆効果だ。個人の金融資産を吸収したら、その分、消費が減ってしまう。今、必要なのは、個人の金融資産を吸収することではなくて、その逆だ。個人の金融資産を消費に向かわせることだ。
     基本的に言おう。「民間引き受けの国債」というのは、将来必ず償還しなくてはならない。大多数の国民は、将来、増税を迫られる。それはまずい。「日銀引き受けの国債」だけが、「将来の償還」を不要とするのだ。つまり、それだけが、「国債残高の膨張」や「財政赤字の拡大」を(実質的に)もたらさないのだ。そしてまた、それだけが、物価上昇をもたらすのだ。ここをちゃんと理解しよう。
  4.  不良債権処理は現実路線で。
     これは、基本的には正しい。ただ、「現実路線」というよりは、「不良債権処理はやってはいけない」と強く主張するべきだ。必要なのは、景気回復策であり、企業をつぶすことではない。つぶすべきだとされる企業も、景気が回復すれば、また必要となるのだ。「病人を健康にする」のは難しくないが、「病人を殺して、そのあとゼロから赤ん坊を育てる」のは非常に難しい。ここを理解しよう。
  5.  再生できる企業は淘汰するな。
     これは、基本的には正しい。ただ、この主張は、当たり前すぎる。いちいち書くまでもない。むしろ、正しくは、「再生できない企業も淘汰するな」と言うべきだ。企業は、劣悪なのではなくて、景気が悪いから無理やり劣悪にさせられているだけだ。大切なのは、「再生できない企業を、再生できる企業へと、変化させること」だ。そして、その方法が、「景気回復をすること」だ。
 結語。
 危機意識を持つのは、いいことだ。しかし、「大変だ、大変だ」と騒ぐだけではダメだ。「何とかしなくちゃ」とむやみやたらとあちこちに手を出してもダメだ。正しいことをなすには、正しい経済学的知識をもつことが必要だ。
 記事は全体としては、「需要を増やそう」という基調がある。これは正しい。しかし、その手法が、おかしい。
 税制をいじったり、貨幣の量を増やしたり、あれやこれやとやろうとする。しかしそのすべては無意味だ。そんなふうにあれやこれやと細かな提言をしても、「量的緩和を大規模にやれ」という提言に比べれば、スズメの涙ほどの効果しかない。そして、「量的緩和を大規模にやれ」という提言さえ、今や完全に無効になっているのだ。貨幣量を操作しようとする政策は、すべて無効になっているのだ。
 何か提言するなら、それがどんな効果をもつかを、理解するべきだ。「国債や税制をこれこれにせよ」と主張したなら、その結果が「金融量を1兆円だけ増やして、需要をゼロだけ増やす」というふうに、効果を正しく分析するべきだ。
 そして、そういう政策な分析をなしたなら、有効な方法はたった一つだとわかる。つまり、タンク法だけだ。
( タンク法 → 2002年2月22日 〜 )

 [ 余談 ]
 今回の記事を、たとえ話で言えば、こうだ。
 「オオカミが来る、オオカミが来る、大変だ」と少年は叫んだ。小泉村長はそれを「ふん」と無視していた。すると、実際に、オオカミがやってきた。少年は、「やれることは何でもやれ」と主張した。そして、ナイフや包丁や竹槍や銃など、さまざまな武器を用意して、すべてを行使した。銃に弾を込めたあと、四方八方に打ちまくった。「どうだ。こんなにたくさんやったぞ。できることは全部やった!」と主張した。特に、彼は金を信じているので、金をあちこちにたくさんぶちまけた。「金を無限にぶちまければ、必ず効果はあるはずだ」と信じて、やたらとぶちまけた。
 そこへオオカミが背後から襲いかかった。少年はゲンコツで殴って、オオカミにたんこぶを作ったが、それだけだった。オオカミはたんこぶをつくりながらも、少年を食い殺してしまった。
 オオカミは最後に笑った。「馬鹿なやつだ。銃があるなら、銃だけに集中すれば良かったのだ。一箇所に狙いを定めて、何発も打ち込めば良かったのだ。つまり、有効なことを一つだけやれば良かったのだ。なのに、あれやこれやと全部やるから、おまえは負けたんだよ。馬鹿なやつ。自分を利口だと思っているやつほど、馬鹿なのさ。欲張りなおまえには、ぴったりな言葉がある。『アブハチ取らず』だ。」

 [ 補足 ]
 最後に一言、言っておこう。日本がひどい不況なのは、不思議でも何でもないのだ。あえてそうなる道を選んでいるから、そうなっているだけのことだ。
 金融政策が無効になっていることは、もはや常識だ。小刻みな税制改革など、スズメの涙ほどの効果しかないことも、もはや常識だ。その一方で、絶対に確実だとわかっている政策もある。それは「大規模な減税」だ。
 だから、日本がひどい不況なのは、そこから脱する勇気がないだけなのである。不況から好況に移るには、大きな力を出して跳ぶ必要がある。その力を出す勇気がないだけなのだ。
 臆病者は、こう弁明する。「大規模な減税? 20兆円も減税したら、莫大な財政赤字が溜まって、大変だ。財政が破綻する」
 彼らはそう弁明しながら、この十年間というもの、毎年、数十兆円という莫大な赤字を垂れ流してきた。積もった赤字の総額は、この十年間で何と 200兆円だ。
 臆病者とは、そういうものなのである。前に進む力を出すくらいなら、後ろからオオカミに食われた方がマシだと思っているのだ。
 だから、朝日にせよ、読売にせよ、「大規模減税」だけは、怖くて主張できないのだ。


● ニュースと感想  (3月13日b)

 時事的な話題。特に読まなくてもよい。「タンク法の副作用?」について。
 タンク法による景気回復策とは、「日銀引き受けの国債発行による減税」だが、これと同等の方法が、新聞で紹介されていた。(朝日・夕刊・2面 2003-03-10 )
 「そういう方法が、政府内でも昨年の終わり頃に検討されたらしい」と報道したあとで、記事が勝手に自己流の解説を加えている。いわく、「円安や国債暴落という副作用がある」と。

 事実報道と自己主張をごちゃ混ぜにするのは、いつもの朝日の手口だが、だまされないようにしよう。以下に、正解を述べておく。

 (1) 円安
 「円安」ということは、ありえない。どちらかと言えば、「円高」になるはずだ。
 「円安」になるか否かは、貨幣供給量と物価上昇率と貿易収支に依存する。
 第1に、貨幣供給量は、増えない。過剰な「量的緩和」をやめることで、かえって貨幣供給量は減るからだ。具体的に言えば、減税を 20兆円やるとして、その分の 20兆円はプラスになるが、過剰な貨幣供給量である 50兆円程度を削減するから、差し引きして、貨幣供給量は、30兆円ほど減る。(これは、滞留していた分。)……ただ、景気回復にともなって、貨幣供給量はいくらか増える。とはいえ、それは、量が少ないので、誤差の範囲内だ。
 第2に、物価上昇率は、せいぜい年に2%ぐらいにしかならないから、円安が起こるとしても、誤差の範囲内だ。そもそも、外国だって、その程度の物価上昇は発生する。
 第3に、貿易収支は、かえって改善するはずだ。景気が回復すれば、日本の経済力が高まるからだ。過去においては、「景気悪化につれて円安になる(日本への悲観売りが増える)」という状況が続いたのだから、日本経済が病気から健康に戻れば、円もまた強くなるはずだ。

 (2) 国債暴落
 これは、二つのケースを混乱している。国債暴落には、二つのケースがある。
 第1は、実体経済が変わらないまま、貨幣的な要因だけで国債暴落が起こる場合だ。具体的には、「利上げ」「売りオペ」のことである。しかし、現実には、こんなことはありえない。日銀は必死に「利下げ」「買いオペ」をやっているのだ。現在、問題になっているのは、国債暴落ではなくて、国債暴騰である。……そして、ここに、上記の「減税と日銀引き受けの国債発行」という政策が追加されたとしても、特に状況は変化しない。なぜなら、国債発行は、日銀が引き受けるから、市場には影響しないからだ。そもそも、そのために、「日銀引き受け」にするのである。「日銀引き受けにしないと国債暴落が起こるから、日銀引き受けにする」のだ。記事は、話を、根本的に勘違いしている。
 第2は、実体経済が変わることで、国債暴落が起こる場合だ。これは、可能性がある。景気が回復すれば、経済は平常の状態となるから、金利も平常の水準まで上昇して、国債暴落が起こる。……では、それは、悪いことなのか? いや、良いことだ。だいたい、金利がゼロ程度の水準まで下がっているというのは、デフレというひどい状況になっていることであって、とても歓迎できない。「低金利はすばらしい」というのは、「デフレはすばらしい」というのと同じで、成立しないのだ。逆に言えば、「デフレ脱出はすばらしい」というのは、「国債暴落はすばらしい」ということなのだ。ひょっとして、記事は、「デフレ脱出と国債安定」との双方を願っているのかもしれない。しかし、それは、「金利上昇と金利低下」の双方を願っていることになり、論理矛盾である。
 結局、記事は、上の第1と第2のケースを、混同しているのである。たしかに、デフレを脱出すれば、国債は暴落する。それは当然だ。しかし、そこを勘違いして、「デフレを脱出しないまま、国債暴落と金利上昇が起こる」と思い込んでいるのである。
 なお、記事の主張のどこがおかしいか、簡単に示すには、記事の主張を言い換えればよい。こうなる。
 「景気が回復すると、金利が上昇するので、国債が暴落する。ゆえに、景気回復はダメだ。ひどい副作用があるから、景気回復反対!」
 まったく、馬鹿げた主張だ。
( ※ 初歩的に解説しておこう。「景気が回復すると、金利が上昇する」というのは、企業に資金需要が生じるからである。これは、当面は「インフレ目標」でしのげるが、2〜3年もすれば、景気が本格的に回復するので、資金不足は必ず発生する。つまり、金利上昇は必ず発生する。歴史的に見て、不況以外のどんな局面でも、金利は3%以上になるのが常識だ。つまり、景気回復後に、必ず金利は上がり、必ず国債は暴落する。……今の長期国債が暴騰しているのは、「日本経済は 10年間は景気回復しない」と見込んでいるからである。)
( ※ もう一つ、解説しておこう。「過度に大暴落する」ということを、記事は心配しているのかもしれない。なるほど、減税をやりっぱなしにすれば、「過度の物価上昇」や「過度の国債大暴落」は発生する。しかし、それは、インフレになったあとの話だ。そのときは今度は、「増税」をすれば、問題は生じない。つまり記事は、「減税をして、そのあとはやりっ放しにして、増税はしない」ことを前提として、心配している。しかし、偽を仮定した命題は偽なのだから、そんな心配は砂上の楼閣にすぎない。初歩的な勘違い。)

 結語。
 記事は、勉強不足に過ぎる。もっとちゃんと、「小泉の波立ち」のあちこちを読んで、勉強するべし。特に、「タンク法」および「国債」の箇所を参照。
( タンク法 → 2002年2月22日 〜 )
( 国債暴落 → 2002年3月17日 〜 3月19日b )


● ニュースと感想  (3月13日c)

 時事的な話題。特に読まなくてもよい。「新聞への文句」。
 新聞社は、素人の情報を書くのを、いい加減にやめてもらいたいものだ。最低限、識者のチェックを受けるべきだ。なのに、「自分は素人だ」と自覚している記者が、自分の気づいた素人知識を、堂々と記事にする。見るに堪えない。また、偽情報を世間に振りまくという点で、非常に迷惑である。

 これは、経済だけに当てはまる話ではない。特に、パソコン情報に当てはまる。朝日にせよ、読売にせよ、しきりにパソコン情報を掲載するが、素人の書いた記事であるせいで、間違いのオンパレードだ。

 例1
 「Windows のメモ帳の使い方」云々という記事がある。役にも立たない屁のような機能を「便利です」と紹介しているが、とんでもない。メモ帳というのは、開けるファイルもあれこれと制限されていて、まともなソフトではないのだ。正しくは、「フリーのエディタを使いましょう」である。そして、いくつかのソフトを紹介し、それをテキストファイルに関連づけする方法を書けばよい。ゴミのようなソフトを「こう使いましょう」なんていう記事は、有害無益であるし、間違ったパソコン利用法だ。

 例2
 「ファイルの削除を完全にするには」云々という記事がある。これもデタラメだ。「フォーマットとは、本で言えば目次を消去するだけだ」なんて書いてある。これは、フォーマットには2種類あることを、勘違いしている誤報である。また、「完全消去のソフト」として、市販品の紹介をしているが、これなど、読者に損失をかけるという点で、非常に有害である。正しくは、「無料のソフトを使いましょう」だ。記事を信じて数千円のソフトを購入した人には、損害賠償をするべきかもしれない。
( → 無料ソフトの入手先 )

 とにかく、新聞のパソコン記事というのは、1日に1箇所ぐらいは間違いが掲載されている。素人が書いたことが歴然としている。「プログラムを書けない初心者は、記事を書かない」ということを、鉄則とするべきだ。どうしても書くなら、プロか上級者のチェックを受けるべきだ。まったく、いい加減にしてほしいよ。
 経済の記事もそうですけどね。


● ニュースと感想  (3月14日)

 時事的な話題。特に読まなくてもよい。「読売新聞の提言」について(承前)。
 読売は 13日の朝刊でも、ずいぶんと威勢のいいことを言っている。「小泉はまったくダメだ」という主張。「景気が悪いといっても、株価はずっと 15000円 〜 20000円のボックス圏を保っていた。なのに、小泉政権になってから、半額に急落した」などと批判している。「構造改革」「不良債権処理」「ペイオフ実施」の3点を特に批判している。
 言っていること自体は正しい。つまり、他人への悪口だけは、十分に立派だ。しかし、自分自身は、どうなのだ? 小泉政権にこれまで、何と言ってきたか?
 「構造改革」「不良債権処理」「ペイオフ実施」の3点についても、読売はかつては支持してきたはずだ。たとえば、
「抵抗勢力に屈せず、断固として構造改革を実施せよ。それが景気回復への道だ」
「不良債権処理を進めて、日本経済のガンを押し出せ」
 などと主張してきた。ついでに言えば、読売だけでなく、たいていの経済学者も、2001年後半の時点では、そう言ってきたのだ。今は偉そうなことを言っているマネタリストも、当時はたいていは小泉に快哉を送り、「構造改革」路線を支持してきたのだ。
 私だけは、断固として批判してきた。「構造改革はダメ」「不良債権処理はダメ」「ペイオフはダメ」と、ずっと声高に指摘してきた。
 読売はそうではなかった。今さら、小泉を批判するなら、当時、小泉を支持してきた自分をも批判して反省するべきだ。
 そして、そういうことができていないから、今になっても、「量的緩和」だの、「公共事業」だの、とんでもないことを言い出してきている。なるほど、これらは、「デフレ脱出」の効果はある。しかし、景気回復後に、有害なインフレをもたらす効果があるのだ。「ひどいデフレを脱出したぞ。穴を脱出したぞ」と喜んだあとで、「ひどいインフレに落っこちたぞ」というふうになるのだ。一つの不幸から、別の不幸になるだけだ。
 何事も、基本が肝心だ。デフレなら、その発生の理由を分析する経済学的な根拠が肝心だ。それなしに、思いつきで、「なんでもやれ」なんていう路線では、素人療法で、薬と毒をいっしょに飲むようなものだ。
 だから、読売に、勧告しておこう。何かを主張するなら、まず、自分の過ちを直視せよ、と。

( ※ 読売は、どちらかというと、罪はあまり重くない。かなり早い時期から、小泉政権の経済政策には、疑義を呈示してきている。朝日のように「小泉政権べったり」とは違う。とはいえ、「構造改革批判」「不良債権処理批判」を、初期から明確に主張してきたわけではない。例としては、私の「ニュースと感想」の初期のページなどを参照。 → 96a_news.htm96b_news.htm


● ニュースと感想  (3月14日b)

 「不均衡の意味」について。
 修正ケインズモデルの循環的な過程について、これまでいろいろと説明してきた。「縮小均衡」または「拡大均衡」のいずれにおいても、循環的な過程があることを示した。ここで、特に留意すべきことを、二つ示そう。

 (1) 不均衡を解消する過程
 では、その循環的な過程で、本質的なことは、何なのか? それは、「不均衡の解消」だ。つまり、こういうことだ。
  1.  いったん不均衡が発生すると、その不均衡が解消する方向に、状況が変化する。
  2.  この変化は、「所得」を通じた、循環的な過程である。その行きつく先が「収束点」である。
  3.  この変化が起こると、不均衡は解消していくが、同時に、生産量も変化する。(つまり、単に需給ギャップが縮小するだけでなく、同時に生産量も変化する。特に、「縮小均衡」のときには、生産量が縮小してしまう。意図とは正反対のことが発生する。)
  4.  この変化では、「収束点」に向かうが、それは、「収束点」が「均衡点」として「安定的」だからではない。単に循環的な過程として進むだけだ。
    ( ※ その点が見えていて、その点をめざして進むのではない。先もわからないまま、どんどん進んでいくと、たまたまその点に達する、というだけだ。何をめざしているかわかっていないから、驚くこともある。現在の状況で言えば、「不均衡」をなくそうとして、リストラや不良債権処理で生産力を削減していくと、縮小均衡となる「収束点」にたどりつくことになるが、たどりついたあとで、生産量の縮小に気づいて、「こんなところに達するつもりじゃなかった」と驚くことになる。)
 上で強調した、「不均衡は解消していくが、同時に、生産量も変化する」ということが肝心だ。
 このことは、修正ケインズモデルで、グラフで理解するのがよい。

     修正ケインズモデルにおける景気悪化の図

 初めに B という点にいたあと、消費性向の低下にともなって、その下の点に移る。そして、本来ならば、生産量を保ったまま、均衡状態を回復するべきなのだ。つまり、 Y1 という生産量を保ったまま、均衡状態に戻るべきなのだ。そして、それは、元の B という点に戻る(上方に向かう)ことを意味する。
 しかし、現実には、そうはならない。 B の下方の点に移ったあと、上方に向かうことはなく、左方に向かう。45度線とぶつかる。ここで落ち着いてくれればいいのだが、消費性向が低下しているせいで、その生産量とその消費性向にふさわしい消費(縮小した消費)しか発生しない。そのせいで、また下方に落ち込む。……そして、こういうことが何度も繰り返されたすえに、ついには均衡が実現して安定するが、そのときには、生産量が極度に低下している。
 
 以上が、「循環的な過程をともなう変化」の核心だ。
 ここでは、留意すべきことが二つある。
  1. 「放置すれば、解決する」ということはない。
     「状況を放置すれば、自然に問題は解決する。神が状況を最適化してくれる」ということはないのだ。むしろ、「状況を放置すれば、状況はどんどん悪化する」のである。状況を放置すれば、たしかに、均衡に近づく。しかし、均衡に近づくということは、良いことではなくて、悪いことなのだ。
    ( ※ 病人で言えば、健康が悪化しながら変化していくのよりも、最悪の状態で安定している方が、ずっと悪い。最悪の状態とは、めざすべき点ではなく、脱するべき点なのだ。目的は、「安定すること」ではなくて、「健康を回復すること」なのだ。)
  2.  この変化は、「不均衡」が発生したあと、「均衡」をめざす過程において、発生する。
     ここでは、状況として、「不均衡」と「均衡」の二つがあることが肝心である。
 上の a. の点については、これまで何度も説明してきた。
 以下では、 b. の点について、説明しよう。

 (2) 「不均衡」と「均衡」
 この両者があること。それが肝心だ。
 古典派の主張では、「常に均衡状態となる。需要や供給が減るというのは、均衡点の変化が起こるだけだ」となる。しかし、そんなことはないのだ。
 「需要が減れば、価格が低下し、そのことで、需要が増える。必ずうまく均衡する」というふうにはならない。つまり、需給曲線による調整は、成功しない。なぜか? 需要の減少は、所得の減少をもたらし、需要曲線そのものをシフトさせるからだ。
 とにかく、そういう理由によって、「均衡」でなく「不均衡」が発生することがある。そして、「不均衡」が発生したあと、「均衡」に向かうとどうなるかが、上の (1) で示したことだ。
 ただ、ここでは特に、「不均衡状態がある」ということを強調しておこう。このことは、修正ケインズモデルでは、次の図で示せる。

     修正ケインズモデルにおける領域の図

 「均衡」という古典派の概念は、図の 45度線でのみ、成立する。一方、「不均衡」の方は、図の桃色領域および水色領域で、成立する。そして、修正ケインズモデルは、「均衡」と「不均衡」の双方を含む。つまり、修正ケインズモデルは、古典派の主張の領域を含む、より広い理論なのである。
 このことを、詳しく説明しよう。
 図で 45度線は、「 Y = C + I 」という直線(一次方程式または関数)を意味する。
 D を 「 D = C + I 」と定義すれば、上の直線は、「 Y = D 」となる。
 ここで、領域の意味を考えると、次のようになる。
  1.  45度線上
     「 Y = C + I 」つまり「 Y = D 」。
     供給は需要に一致している。
  2.  桃色領域
     「 Y < C + I 」つまり「 Y < D 」。
     供給は需要よりも少ない。(つまり需要超過)
  3.  水色領域
     「 Y > C + I 」つまり「 Y > D 」。
     供給は需要よりも多い。(つまり需要不足)
 こういうふうに、三つの領域がある。後者の二つが「不均衡」である。その領域は「桃色領域」および「水色領域」として示せる。
 結局、「均衡」と「不均衡」のすべての領域が、修正ケインズモデルでは図形的に示せるわけだ。そして、その上で、「不均衡から均衡に至る過程」が示され、「そのときどうなるか」ということがわかるわけだ。(どうなるかを示したのが、上の (1) だ。)

 [ 付記 ]
 以上の話のうち、「循環的な過程による生産量の変動」ということについては、不均衡状態だけに限らず、均衡状態にも適用される。それが、「インフレ・スパイラル」および「リセッション・スパイラル」だ。言わずもがなだが、気になるなら、以前の記述を参照するといいだろう。( → 10月26日10月29日


● ニュースと感想  (3月15日)

 前項の続き。「景気変動の核心」について。
 前項までにわかったことは、こうだ。
 まず不均衡があり、そのせいで、循環的な過程が発生する。このとき、(不均衡から)均衡に向かい、同時に、生産量が変化する。
 ここで注意しよう。「均衡をめざすから、循環的な過程が発生する」のではない。「循環的な過程が発生すると、そのとき、均衡に向かう(それと同時に生産量も低下する)」のだ。この両者を勘違いしてはならない。
 仮に「均衡をめざす」のが根源だとしよう。その場合、「縮小均衡」をめざす必要はなく、「拡大均衡」をめざしてもいいはずだ。しかし、そうはならない。また、古典派の学者ならば、「縮小均衡をめざすか、拡大均衡をめざすかは、五分五分だ」と主張するかもしれない。そういうこともない。「縮小均衡」をめざすか、「拡大均衡」をめざすかは、「循環的な過程」の種類に依存する。「需要不足」のときならば、「縮小均衡に向かう循環的な過程」となり、「需要超過」のときならば、「拡大均衡に向かう循環的な過程」となる。ここでは、単に「均衡をめざす」というわけではないのだ。ある過程が発生したら、それがたまたま、外部から見たとき、「縮小均衡」をめざすように見えたり、「拡大均衡」をめざすように見えたりする。現実には、単に循環的な過程が発生するだけであり、何かをめざすということはない。
 そもそも、経済には、心はない。人間的な意思はない。だから、何かをめざすということはない。石を投げれば、石は上昇して落下するが、それは、石が空をめざしたり大地をめざしたりするからではない。石は何もめざしていない。単に、力の働きによって、そういうふうに動いていくだけだ。経済もまた同様だ。均衡という状態をめざすことはない。単に、力の働きによって、循環的な過程を経て、次々と変化していくだけだ。

 結局、経済は、「均衡をめざす」ということはなく、何らかの力が働いているだけだ。そして、その力の働き方こそが、問題であるわけだ。
 では、どんな力か? それは、前項の (1) で述べたとおりだ。不均衡が発生したあと、消費と生産と所得との間で、循環的な過程が働く。その過程そのものが、一種の力と見なされる。

 では、その「循環的な過程」の本質は? それは、「消費が所得にふさわしいだけの水準に達していないこと」だ。
 ある生産量(= 所得)があり、それにふさわしい「消費」がある。普通はその状態で均衡している。
 ところが、あるとき、消費が上下に変動する。すると、需給ギャップが生じる。このとき、その需給ギャップを埋める方向に(均衡に近づく方向に)、「循環的な過程」が発生して、生産量が変動する。そして、そのあと、スパイラル的に進行していく。
 つまり、消費の変動が、「循環的な過程」を経て、生産量の変動をもたらす。ここが核心だ。「均衡か不均衡か」という原因が社会問題なのではない。「生産量が変動する」という結果が社会問題なのだ。ここに景気変動の核心がある。

 景気循環モデルというものがある。たとえば、「カルドアの景気循環モデル」や、「加速度原理によって景気振動するモデル」だ。( → 6月10日
 こういう従来のモデルは、「振動するモデル」「周期的に変化するモデル」であった。しかし、それは、まったく核心から離れている。経済は振動することもないし、周期的に変化することもない。単に不安定なだけだ。次の図のように。

     安定構造/不安定構造の図

 安定的な構造ならば、外部の力によって生じた変動があっても、自然に元の状態に戻る。しかし、不安定な構造ならば、外部の力によって生じた変動があると、自然に元の状態に戻るどころか、元の状態から離れていく。そして、いったん離れていったあとは、元の状態に戻るという保証はない。
 こういう「不安定的な構造」というのは、「カオス」というものに似ている。それは「振動」ないし「周期的な変動」とは、まったく別のものだ。
 以上をまとめて言おう。
 結局、景気変動の本質は、経済状況の「不安定さ」にある。そして、なぜそうなのかと言えば、「所得」を通じた循環的な過程があるからだ。それがスパイラルを生む。
 そして、ここまでわかれば、景気変動を解決する方法もわかる。

( ※ 次項に続く。)


● ニュースと感想  (3月15日b)

 前項の続き。「景気変動への対策」について。
 「景気変動の本質」については、前項で述べたとおりだ。そこで、対策を考えよう。

 まず、通常の場合(不況でない場合)を考えよう。
 通常は、「消費の変動」があっても、生産量の変動が発生するとは限らない。なぜなら、その変動を補うように、逆方向に「投資の変動」が発生するからだ。後者が前者を相殺する。
 たとえば、消費が縮小すると、貯蓄が増えて、市場金利が下がり、そのせいで、投資が増える。かくて、消費と投資とが相殺しあう。
 こういう原理は、たしかに働く。ただし、現実には、この働きは不十分である。消費が減ったからといって、ちょうどその分、うまく投資が増えてくれる、とは限らない。いくらかは不足気味になる。
 にもかかわらず、元祖マネタリストは、この原理を神のごとく絶対的に信奉する。その定式化が、「パーセント・ルール」だ。「消費の減少を、投資の増大が、かならずぴったりと補う。だから、マクロ政策は、何もしないでいい。単に貨幣供給量を一定に保つだけでいい」というわけだ。
 現実には、そうは行かない。その主たる理由は、「貨幣の流通速度」が変化するからだ。つまり、まさしくマネタリストの理論の内には、「パーセント・ルールは成立しない」ということが含意されているのだが、元祖マネタリストは、自説に含まれる「流通速度」の影響を理解できずに、「貨幣供給量」にばかり目を奪われ、間違った結論(パーセント・ルール)を出す。
 こういう元祖マネタリストは別として、現代の多くのマネタリストは、金融当局の介入を是認する。つまり、「貨幣供給量を一定に保つだけでは、消費減少を相殺する投資増大が不十分だから、貨幣供給量を増やす。そうして金利を引き下げることで、投資増大を促進する」と。
 これで話は一応、片付いたはずだった。実際、多くの場合、この方針で、解決ができた。ところが、日本のデフレは、この枠内に収まらなかった。なぜなら、「金利ゼロ」となったので、「貨幣供給量を増やすことで、金利の低下をもたらして、投資増大を促進すること」が不可能となったからである。

 そこで、苦し紛れに出てきたのが、「将来の実質金利をマイナスにすれば、投資増大の効果が出る」という「インフレ目標」だった。
 なるほど、それは、理屈の上では、正しく見えた。しかし、そこには、根元的な問題があった。それは、「あくまで金融市場でしか物事を考えていない」ということだ。
 そもそも、「消費の縮小を投資の増大で相殺する(補う)」ということが、不十分なのは、なぜか? 金利が下がっても、投資が増えないのは、なぜか? それは、「加速度原理」(増幅効果)で説明される。
 消費が減れば、その何倍も投資が減る。消費が増えれば、その何倍も投資が増える。そういう効果がある。それが「加速度原理」(増幅効果)だ。( → 5月12日c
 つまり、投資需要というものは、もともと、消費の変動と同じ方向に進もうとする。にもかかわらず、投資需要をあえて反対方向に進めようと強引に操作したがるのが、「金融政策」だ。そこには不自然さがある。企業が「右を向きたい」と言ったら「左を向け」と命じ、企業が「左を向きたい」と言ったら「右を向け」と命じる。そういう不自然さがあるのだ。
 そして、この不自然さがあるにもかかわらず、金融政策は、ある程度は、(何らかの犠牲を代償として)うまく行く。しかし、デフレという状況になると、もはや、うまく行かなくなる。いくら「こうせよ」と不自然な命令をしても、企業はうんともすんとも言ってくれない。(いくら「水を飲め」と命じても、腹が満杯な馬は水を飲まない。)

 ここで、「馬が水を飲まなけりゃ、強引に飲ませればいい」と主張するのが、「インフレ目標」論者だ。しかし、それでは、不自然さが増すばかりだ。そもそも、彼らは、物事の本質を理解していないのだ。「馬が水を飲まないのは、飲みたくないし、飲めないからだ」ということを。「そもそも、その行為が不自然なのだ」ということを。

 では、どうすればいいか? もちろん、物事の根元に帰るべきなのだ。つまり、「金融政策が有効か否か」というような小手先の問題ではなくて、「そもそも消費の縮小の不均衡の原因なのだ」という根元的な原因に帰るべきなのだ。
 そして、そこまで理解すれば、「根元的な対策は、消費を増やすことだ」とわかる。

 [ 付記 1 ]
 では、「消費を増やす」には、どうすればいいか? 
 普通は、直接的な方法がない。金利ならば日銀が操作できるし、公共投資ならば政府が操作できる。しかし、消費は、国民の一人一人がなすものだから、直接的には消費を操作する方法がない。
 とりあえずは、「消費を増やしてくれ」と頼んだり、各種の優遇措置を講じたりするが、それもうまく行かない。というのは、「縮小均衡」をめざすスパイラルが進むうちに、「所得」が減少してしまって、手元不如意になっているからだ。
 そこで、「所得」を政府がつぎこむばよい。つまり、「減税」をすればよい。そうすれば、「所得増加」の効果が出て、「拡大均衡」に至るスパイラルを発生させることができる。── そういうことを、正しい処方を示してきたわけだ。

( ※ ここで補足しておくことがあるとすれば、次の二点だ。第1に、「出した金は、あとで増税で取り戻すことができる」ということ。第2に、ここでいう「所得増加」の効果は、実質的な所得の増加を意味せず、消費性向の上昇をもたらすだけだ、ということ。換言すれば、減税は、貨幣量の増加を意味しており、「富の増加」ではなくて、「物価上昇」をもたらすだけだ、ということ。── 前者は、「中和政策」で、後者は、「タンク法」だ。詳しくは、それぞれ、該当の説明を参照。)

 [ 付記 2 ]
 以上では、「消費の縮小」を補うための方法として、「金融政策」を示した。
 他に、「公共投資」というケインズ的な政策もある。(これについては、先に「乗数効果」のところで説明した。)
 一方、私は、「減税」という政策を示してきた。
 以上の三つを、対比的にまとめれば、次のようになる。
  1.  消費が減った → 投資を増やせ  (マネタリスト)
  2.  消費が減った → 官需を増やせ  (ケインズ派)
  3.  消費が減った → 消費を増やせ  (私)
 これまでの経済学では a ,b  の主張がなされることが多かった。それでうまく行くことも多かった。しかし、そういう方法は、そもそも本質的ではないのである。単に「やりやすいから、やった」というだけのことだ。なるほど、金融政策は簡単だし、公共投資もそこそこ簡単だ。一方、増減税は、国会審議があったりして、大変だ。「だから面倒くさいのは、やーめた」というふうになった。しかし、そういうことでは、最適な経済運営はできないのだ。なぜなら、物事の本質を見失って、単に政治的な容易さだけを選んでいるからだ。
 だからこそ、私は何度も繰り返して主張するのである。「物事の本質を見よ」と。


● ニュースと感想  (3月16日)

 前項の続き。「景気変動と初期定数」について。修正ケインズモデルにおける初期定数について考える。(特に重要な話ではない。面倒なら、読まなくてもよい。)
 修正ケインズモデルでは、消費直線を決めるものは、「限界消費性向」と「初期定数」である。ただ、これまでは、「限界消費性向の変化」ばかりを見てきたが、「初期定数の変化」についても考察しよう。
 消費直線は、
     C = 0.8Y + C1
 である。ここでは、初期定数 1 もまた、消費に影響がある。では、その意味は?

 まず、最初に理解するべきことがある。「限界消費性向と初期定数は、相反する関係にある」ということだ。金は無限にあるわけではないから、
  1. 初期定数が上がれば、限界消費性向は下がる。
  2. 初期定数が下がれば、限界消費性向は上がる。
 というふうになる。グラフで言えば、こうだ。
  1. 初期定数が上がれば、消費直線は、高い位置で水平に近い形になる。
  2. 初期定数が下がれば、消費直線は、低い位置で45度線に近い形になる。
 では、その影響は? それは、次の図を見れば、すぐにわかるはずだ。

     修正ケインズモデルにおける領域の図
  1. 初期定数が上がれば、限界消費性向の変化に応じる区間 BM の幅は短くなる。
  2. 初期定数が下がれば、限界消費性向の変化に応じる区間 BM の幅は長くなる。
 これは、次のことを意味する。
  1. 所得に関係なく、消費の総額がいつもほぼ一定であるような生活態度(堅実な生活態度)を取る国では、人々の気分が変化しても、そのあとのスパイラル効果は小さい。その結果、生産量の変動の幅は、大したことがない。だから、景気変動は少ない。
  2. 所得のほとんどを消費に回すような生活態度(浪費癖の生活態度)を取る国では、人々の気分が変化したあと、そのあとのスパイラル効果が大きい。その結果、生産量の変動の幅は、大きくなる。だから、景気変動はとても大きくなる。
 わかりやすく言えば、こうだ。
 修正ケインズモデルでわかるように、経済には「スパイラル効果」がある。生産が増えれば、所得が増えて、そのことがさらに所得を増やす。逆に、生産が減れば、所得が減って、そのことがさらに所得を減らす。そういうスパイラル効果がある。ただし、それにも、国情により、強弱がある。「堅実な生活態度」の国では、所得が増えたからといって、すぐに消費を増やすわけではないから、スパイラル効果が弱い。「浪費癖の生活態度」の国では、所得が増えれば、その分どんどん消費を増やすから、スパイラル効果が強い。
 特に、景気悪化の曲面では、「所得が減ったからといって、その分、消費を減らす」という態度が少なければ少ないほど、景気は安定することになる。だから、政府としては、「所得が減っても、消費を減らさないでください。いつもと同じように消費してください」と国民に頼めばいいわけだ。
( ※ とはいえ、頼んだからと言って、国民がそうしてくれるとは限らない。「低所得者に厳しい増税」なんてのをやればやるほど、低所得者は急激に消費を減らす。減らしたくなくても、減らさざるを得ない。たとえば、社会保険料値上げとか、将来の消費税の増税の予告とか。……こう言われたら、財布の紐を締めるしかない。どうも、今の政府は、「景気回復策」よりは、「景気悪化策」ばかり取っているようだ。なお、一般的に言えば、「低所得者に手厚い減税ほど、景気回復効果が高い」と言えるだろう。)


● ニュースと感想  (3月16日b)

 「景気変動の本質」について。
 修正ケインズモデルについていろいろと述べてきたが、それらを全体としてみると、「景気変動の本質とは何か」がわかる。
 従来の考え方では、
   「インフレ(好況)のときは物価が上昇する」
   「デフレ(不況)のときは物価が下落する」
 というふうに、景気というものをとらえてきた。そして、「物価の安定」こそが最大の目的だ、とも見なされてきた。しかし、修正ケインズモデルを理解すればそうではない、とわかる。
 景気変動の本質は、物価の上下ではなく、生産量の上下なのである。── これが大切だ。

 インフレ(好況)とは、物価が上がる現象ではなくて、生産量が急に拡大する現象である。そこでは、「物価上昇にともなって、生産量(名目価格)が増大する」のではなくて、「労働時間の増加によって、生産量(実質価格)が拡大する」のである。そして、このとき、物価上昇は発生するが、その程度は微弱である。つまり、需給曲線のグラフで、「供給曲線上で均衡点が右上に移動する」という程度のものである。

 物価上昇率が高いと、上記のような「生産量の拡大」を発生させやすい。特に、設備不足で失業率が高い途上国では、物価上昇率が高いと、設備投資の拡大を招いて、高い成長率を実現させやすい。(高度成長期の日本や、現在のアジア諸国がそうだ。)
 ただし、それは、労働力が頭打ちでない状況に限られる。労働力が頭打ちである状況(たとえば好況の先進国)では、設備投資の拡大をしても、人員不足となり、人件費が高騰して、生産量の拡大はあまり見込めない。こういう労働力不足の状況では、物価上昇はデメリットばかりが強く出る。(貨幣数量説ふうのインフレ。上限均衡点の突破。)
 
 ともあれ、インフレ(好況)とは、生産量が急に拡大する現象であり、デフレ(不況)とは、生産量が急に減少する現象である。物価の上下が本質的なのではなくて、生産量の上下が本質的なのだ。
 そして、大切なことは、「景気はたえず変動すること」つまり「生産量はたえず変動すること」である。
 「放置すれば経済は安定する」ということはない。景気拡大の局面でも経済は均衡状態にあるし、景気縮小の局面でも経済は均衡状態にある。どちらも均衡状態である。どちらもそれなりに安定した状態である。とはいえ、そうした安定した状態というのは、ある程度の幅を持つ。その幅のなかで、景気はたえず変動しているものなのだ。(そして、その幅を超えて縮小したときに、不況が発生する。)

 ミクロ経済の場では、「放置すれば最適の点で安定する」ということは成立する。しかしマクロ経済の場では、「放置すれば最適の点で安定する」ということは成立しない。ミクロ経済では、価格と数量について、「ワルラス的な調整過程」というものが働いて状況は安定的になるが、マクロ経済では、生産量と所得について「スパイラル的な過程」というものが働いて状況は発散的・スパイラル的になる。
 ここに、マクロ経済の本質があり、また、景気変動の本質がある。






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