[付録] ニュースと感想 (42)

[ 2003.2.23 〜 2003.3.07 ]   

  《 ※ これ以前の分は、

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   のページで 》




● ニュースと感想  (2月23日)

 このあとは、「モデル論」について新シリーズを始める。

 これまでのことを振り返ってみよう。
 「トリオモデル」および「修正ケインズモデル」という二つのモデルを、提出してきた。この二つのモデルによって、マクロ経済を説明してきた。
 しかし、「これこれのモデルを出しました」と言って、それでおしまいにするべきではない。もっと根元的に考えてみることが大切だ。そういうモデルを出すことには、どういう意味があるのか?

 物理学を見よう。物理学では、モデルが大事である。たとえば、「万有引力の法則」というのを、数式で公式化できる。この公式は、モデルとなっている。そして、現実の質量物体が、このモデルに従うということが、実験的に明らかとなっている。その精度は非常に正確である。たとえば、惑星の運行は、万有引力の法則で厳密に示すことができて、将来への予測も正確に可能である。
 経済学では、そうではない。何らかのモデルを出したからといって、現実がそのモデルに従うとはとても言えない。予測したとしても、誤差は非常に大きい。たとえば、政府が「景気は回復基調にあります、楽観できます」などと言った翌月に、現実には景気がどんどん悪化していく、なんてことは、日常茶飯である。

 経済学のモデルは、一般的に、不正確だ。その理由としては、「変数が多すぎる」ということも一因となる。万有引力ならば、位置と速度と質量だけで、話は片付くし、他の変数を考慮する必要はない。しかし、経済の場合だと、(外生的やら内生的やら)あまりにも変数が多すぎる。そのせいで、予測が困難となる。
 しかし、である。本当の原因は、別のところにある。それは、これまでの経済学では、モデルそのものが正しくなかったことだ。まったく間違ったモデルを出していたから、間違った結論を出したのだ。しかも、そのモデルが間違っているということに、気づかなかった。単に「モデルを出しました、あとは現実との適合性を確認してください」という、無責任な態度だった。
 そこで、私は、そういう無責任な態度とは別の態度を取ることにしたい。つまり、すでに示した二つのモデルについて、さらに検証を加えたい。これまでは、「なるべく正しいモデル」として、「トリオモデル」および「修正ケインズモデル」を提出してきた。しかし、それが正しいという保証はない。今までのモデルよりも正確度は上かもしれないが、だからといって、真に正しいと言えるかどうかは、まだ判然としない。だから、そのことを調べたい。

 では、「真に正しい」かを調べるとは、どういうことか? それは、モデルの外部から見て、モデルがどういう意味をもつかを、分析することだ。
 換言すれば、こうだ。トリオモデルや修正ケインズモデルは、「これまでのモデルに対して、単に部分的な補正を加えて、現実との合致度を上げただけ」なのか? それとも、「物事の本質を突くということが、今まではできなかったのに、今度はできるようになった」のか?
 そのことを検証するわけだ。

( ※ 次項では、まず、「トリオモデル」について考える。その後、「修正ケインズモデル」に移ろう。そういうふうに、順に述べていく。)

 [ おまけ ]
 前日分の最後に、「北朝鮮問題」の話を追加しておいた。特に読む必要はないが。
 ( → 該当箇所


● ニュースと感想  (2月24日)

 前項の続き。
 まずは、「トリオモデル」について検証しよう。(「修正ケインズモデル」については、もっとあとで。)
 トリオモデルは、次の図で示せる。

     トリオモデルの図

 その核心は何か? 「需給の均衡」を考えるとき、「需要曲線」と「供給曲線」だけでなく、「下限直線」というものもあるということだ。この第3の要素(下限直線)があることが大事である。
 そして、「需要と供給が市場で均衡する」という素朴な信念(古典派の信念)が、成立しないことがある、ということが、この第3の要素によって、説明されるわけだ。

 ここで注意すべきことは何か? 「下限直線」は、「(需給曲線への)補正要因」としてあとから追加されたのではない、ということだ。「需要曲線と供給曲線だけでも、そこそこ正確だが、正確さが不足するから、あとから補正要因を加えた」というのではない。物事の根源として、この3つの要素がどれも必要なのである。
 それはいわば、「色の3原色」のようなものである。色では、「他の2色では鮮やかさが不足するから、3色目を加える」のではない。「3色か否か」が根元的なのだ。実際、3色あれば、カラー表示が可能である。そのあと、4色目、5色目、6色目、……などがあっても、鮮やかさの度合いがほんの少し上がるというだけで、本質的には差がない。また、3色目がなくて2色印刷だと、それは単に「モノクロ印刷に1色が追加されただけ」であって、カラー印刷とは雲泥の差がある。そういうふうに、色については、「3色あるか否か」が根元的なのだ。
 同様に、「市場における需給関係」を見るときも、この3要素があるか否かが根元的なのだ。つまり、「下限直線がある」ということは、「もともと十分に正確だったモデルが、さらに正確さを少し増した」ということではなくて、「もともと不正確だったモデルが、正確なものに一変した」ということなのだ。
 需給関係で根元的なのは、この三つであり、二つでは足りない。そしてまた、三つあれば、さらに何か(四つ目や五つ目)が補充的に追加されても、ほとんど意味はない。核心的になものは、この三つだけなのだ。
 以下では、もっと細かく説明する。

 (1) 要素が二つでは足りない
 「要素が二つだけ」では足りない。つまり、「需要と供給だけを考える」というのでは足りない。にもかかわらず、そうするのが、古典派だ。
 そして、そういう古典派の立場が間違いだ、ということは、これまでいろいろと説明してきた。「トリオモデル」で「下限直線」がどんな作用をするか、ということで、あれこれと論証してきた。 ( → 7月27日 以降。)
 たとえば、「価格が下がらない」という現象がある。これに対して、古典派は「均衡点では、価格がもっと下だ。なのに、価格が下がらないから、需給が均衡しないのだ。価格を下げよ。そうすれば、需給は均衡して、問題は解決する」と主張した。(労働市場における賃下げでも同様。)
 しかし、実際には、そうは行かない。なぜなら、「下限直線」というもの(第3のもの)があるからだ。商品の場合で言えば、下限直線は「原価」だ。価格をもっと下げたくても、下げられない。なぜなら、原価を下回る価格で販売しても、赤字が増えるからだ。たとえ数量は増えても、赤字額が増える。売上高は上がっても、利益は大幅赤字となる。これでは、企業は存続できない。たとえ需給が均衡しても、それ以前の前提として、企業の存続が不可能となる。
 古典派のモデルでは、下限直線を無視している。それは、「原価がゼロ」のときには、成立する。しかし、現実には、原価はゼロではない。それゆえ、価格の低下を妨害する「下限直線」が存在するのだ。この「下限直線」を無視して、「需要と供給の二つだけを考えればいい」ということは成立しないのだ。
( ※ ここでは、「均衡か不均衡か」に注意。不均衡状態では、ほとんどの企業が赤字となる。均衡状態ならば、一部の劣悪な赤字企業だけが退出すればいいが、不均衡状態ならば、そうは行かない。「ほとんどの企業を退出させればいい」という理屈は成立しない。……そして、均衡か不均衡かは、下限直線を使ったモデルで明らかとなる。)

 (2) 要素は三つあれば足りる
 「需要」と「供給」と「下限直線」の三つがあれば、需給関係については、十分に説明ができる。特に、不均衡について説明できる。そのことは、すでに「トリオモデル」による説明で、あれこれと示してきた。── だから、他のもの(第4のものや第5のもの)は、特に必要としないわけだ。
( ※ 三つだけあれば、きちんと整合的に説明できる、ということが肝心だ。特に説明できないことはない。)
( ※ 二つだけだと、説明できないことは多大にある。「需要と供給は市場原理で均衡する」という古典派の理屈だと、「不均衡」を説明できない。その他、たくさんの不整合があるが、そういうことも、「不均衡」を説明できないことから発生する。……これまでいろいろと指摘したとおり。たとえば、「スタグフレーション」やら、「資産インフレ」やら、「デフレ」やら。うまく行ったのは、「インフレ対策」だけだったが、これは、「インフレ」が、均衡状態の話だったからだ。他の現象は、不均衡が大きな問題となるので、古典派の理屈では、うまく説明できない。特にひどいのは失敗例は、IMFと日銀がたくさん見せている。)

 結語。
 市場における需給関係については、「需要」と「供給」と「下限直線」の三つがある。三つのどれもが欠かせず、しかも、その三つがあれば十分だ。(四つ目は特に必要ない。)そして、それゆえ、トリオモデルは、「物事の本質をとらえている」と言えるわけだ。
 かくて、「トリオモデル」に対しては、「お墨付き」を与えることができるわけだ。つまり、「これは正しいかもしれないが、このあとまた何らかの補正要因が現れて、話をひっくり返されるのではないか?」と不安になることはなく、安心して、全幅の信頼を置いていいわけだ。
( ※ 将来、何らかの補正要因が現れるとしても、単に「正確化」のための微修正にすぎない、ということ。)

 [ 付記 ]
 「トリオモデル」とはどういうものかを、簡単にまとめておこう。前に述べたことの要約である。
 [ 補足 ]
 すぐ上では、「需要を増やすこと」が正解だと述べた。ただし、「需要拡大」のほかに、別の方策もある。それは、「下限直線を大幅に下げること」だ。換言すれば、「生産性を大幅に向上させること」だ。もしそれが可能であるならば、それが最も好ましい。
 しかし、現実には、そんなことはありえない。生産性の向上というものは、毎年、2.5%ぐらいであり、急激な変化は起こらない。また、不況のときには、稼働率の低下(生産資源が無駄に遊ぶこと)によって、ただでさえ生産性が悪化する。
 「生産性の向上が大事だと叫んだら、それだけでたちまち生産性が5%も上昇した」ということが可能ならば、それが一番いい。しかし、現実には、「口先だけで生産性が向上する」なんてことはありえない。そんなことがあるのならば、経済学などは必要ない。九官鳥が一羽いれば、不況はすべて解決する。(現実には、サプライサイドの経済学者は、九官鳥のかわりをやっている。まともな経済理論を唱えるよりも、九官鳥の真似をする方がいい、と信じているらしい。ま、たしかに、彼らよりは、九官鳥の方がマシかも。)
( ※ ただし、例外的な場合もある。九官鳥の効果が出ることがある。たとえば、日産自動車のゴーン社長が「コストカット」と叫んだら、それだけでたちまち部下がコストカットに励んで、コストを大幅に低下させた、という現象が発生した。かくて、自動車産業では、大幅な収益向上を果たした。……とはいえ、同じ手が、すべての産業で成立するわけではない。自動車産業は、系列取引のせいで、無駄なぜい肉がいっぱいあったから、それが可能だったというだけのことだ。たとえば、ゴーン社長の指摘では、日産の部品調達コストは、ルノーよりも大幅に高かった。だから、コストカットが可能だった。一方、他の産業では、同じ手は使えない。もちろん、「日本の全産業で大幅なコストカット」なんてのは、夢のまた夢である。そんなことを信じているのは、サプライサイドの経済学者と、九官鳥だけだ。)


● ニュースと感想  (2月25日)

 前項の続き。
 前項では、「トリオモデル」について説明した。そこでは、対象分野として、三つあることを示した。「商品市場」「金融市場」「労働市場」の三つだ。
 この三つのうち、「労働市場」については、「失業」問題として、これまで説明してきた。古典派の主張する「賃下げ」では問題は解決しない、ということだ。(この件については、トリオモデルだけでなく、修正ケインズモデルによるマクロ的な話も大きく関与する。)
 さて。「労働市場」のほか、「商品市場」と「金融市場」もある。この二つでも、トリオモデルによって、説明が付く。ただ、この二つでは、経済学的な意味合いが少し異なる点もある。そのことを補足的に説明しよう。

 まずは、現象的に見よう。すると、次のように言える。つまり、同じく「下限直線による不均衡の発生」があっても、両者には違いがある。
  ・ 商品市場で …… 価格の下限としての原価
  ・ 貨幣市場で …… 金利の下限としてのゼロ金利

 つまり、「価格」「金利」の違いがある。そして、こういう表面的な違いがある一方で、より本質的には、次のような違いもある。
  ・ 商品市場で …… 不況が発生する
  ・ 貨幣市場で …… 不況解決の金融手段がなくなる (流動性の罠)

 この違いが大事だ。商品市場(財市場)での不均衡は、不況そのものを意味する。しかし、金融市場での不況は、不況そのものを意味するのではなくて、不況解決の金融手段がなくなることを意味するだけだ。
 たとえて言おう。毒薬とは、人を殺す手段である。治療薬がないというのは、人を救う手段がないということである。両者は、異なる。
 ここを勘違いしてはならない。たとえば、デフレだ。デフレとは、単に価格低下が起こることを意味するのではない。単なる価格低下(不況なしの物価低下)なら、むしろ好ましいことだ。つまり、均衡状態を維持したまま、物価だけが下落して、失業もなしに生産量が拡大するのならば、それは好ましいことなのだ。
 デフレの本質は、「価格低下」ではなくて、「生産量の縮小」である。単に商品価格が下落することだけではなくて、「生産量が縮小する」(それにともなって倒産や失業が発生する)ということが問題なのだ。── つまり、デフレは、貨幣的な現象ではなくて、生産量についての現象なのだ。ここを勘違いしてはいけない。(マネタリストは、「デフレは貨幣的な現象だ」と主張するが、勘違いしている。)
 だから、肝心なのは、「価格下落をどう解決するべきか」ではなくて、「生産量の縮小をどう解決するべきか」なのだ。そして、この問題を解決するには、どうするべきか? 弱い景気悪化のときには、金融手段で足りる。つまり、商品市場での不均衡を、金融市場の均衡を通じて、解決できる。ところが、である。デフレになると、それができなくなる。あまりにも状況が悪化しているので、商品市場で不均衡が発生するだけでなく、金融市場でも不均衡が発生する。金利がゼロとなり、もはや下げることができなくなり、金融市場での均衡を実現できない。(投資を拡大できない。)── つまり、「不況解決の金融手段」がなくなる。それが、金融市場における、デフレの意味だ。

 まとめ。
 トリオモデルによって、「商品市場」と「金融市場」における不均衡を説明できる。ただし、不均衡の意味は、両者では異なる。
  ・ 商品市場で …… 不況が発生する (生産量が縮小する)
  ・ 貨幣市場で …… 不況解決の金融手段がなくなる
 そういう違いがある。この両者を混同しないことが大切だ。デフレのときは、両者が発生するが、両者は同じことではない。マネタリストは、「後者がデフレだ」と主張するが、本当は、「前者がデフレだ」というのが正しい。デフレの本質は、価格の下落ではなくて、生産量の縮小なのである。ミクロ的な市場調整の問題ではなくて、マクロ的なGDPの問題なのである。
 マネタリストは、ミクロ的な手法でのみ、均衡を実現しようとする。そこには根本的な勘違いがある。
 「市場原理で解決せよ」という主張は、市場原理が正常に機能しているときには、正しい。しかし、市場原理が正常に機能していないときには、無意味である。だから、市場原理が正常に機能していないときには、市場そのものに国家介入する(経営指導したり補助金を出したりする)べきではなくて、マクロ的に市場原理を正常化させるべきなのだ。すなわち、トリオモデルにおける「不均衡状態」から「均衡状態」へと、マクロ的な状況を変化させるべきなのだ。具体的には、需要曲線を右シフトさせるべきなのだ。そういうことを、トリオモデルから理解することができる。
( ※ この件は、以後の修正ケインズモデルの話で、いっそう鮮明になる。)

 [ 付記 1 ]
 「商品市場」と「金融市場」では、異なる面もあるが、似ている面もある。それは、「需給ギャップの発生する理由」である。いずれも、「原因は需要側にある(供給側にはない)」と言える。
 「商品市場」では、「供給側を改善せよ」とよく言われる。しかし、そもそも需要が足りないのだから、供給能力をいくら増やしても、実際の生産量は拡大しない。単に無駄な在庫が増えるだけだ。
 「金融市場」では、「貨幣の供給量を拡大せよ」とよく言われる。しかし、貨幣需要が足りない(≒ 金利ゼロである)のだから、いくら日銀が貨幣を供給しても、貨幣の実際の流通量は増えない。単に無駄な滞留が増えるだけだ。
 結局、需給ギャップが発生しているとき(供給過剰のときのとき)には、供給側をいくらいじっても、意味がないのだ。まして、「投資を増やす」というのは、「さらに供給を増やすための設備を整える」ということだから、かえって逆効果になるわけだ。
( ※ 設備投資は、短期的には需要となるが、中期的にはその何十倍もの供給増となる。仮に、そうならなければ、投資を償却できず、不良債権となる。……現実には、このコースを取っている。マネタリストが「投資を増やせ」というので、どんどん投資を増やしたら、消費が増えずに投資だけをしたせいで、投資がどんどん不良債権となってしまうわけだ。「消費拡大なしの投資拡大」の結果である。)
( ※ 以上のことを理解しないのが、古典派だ。「供給を増やせば需要が増える」と思い込んでいる。つまり、「供給量が生産量を決める」と思っている。── そういうのは、均衡状態では成立するが、不均衡のときには成立しないのだが、このことがわからないのだ。)

 [ 付記 2 ]
 古典派というものは、どれも似た考え方をする。不均衡という現象を見ても、それを「不均衡」とは認識せずに、「均衡が阻害されているだけだ」と見る。そして「だから均衡を実現するように、阻害要因を除け」と主張する。
 その典型的な例が、新ケインズ派だ。「価格の硬直性」とか、「賃金の硬直性」とか、そういう「硬直性」というものが構造的に存在すると主張する。
 サプライサイドも、同様である。「市場がうまく働かないのは、規制のせいだ。規制緩和をせよ。構造改革!」というふうに主張する。(最も非論理的であり、最も素人向けである。国民受けはいい。)
 不良債権処理論者も、同様である。「金が詰まっているから、投資が増えないのだ。金詰まりをなくせ。それには、不良債権処理をすればいい」というわけだ。(これはマネタリストの一変形と見なせる。)
 量的緩和論者も、同様である。ただ、これは、話が少し洗練されている。「金が詰まっている」というのを、「貨幣の流通速度が低下した」というふうに理屈っぽく言い換えている。で、「流通速度が低下した分、量を増やせ」と主張する。(これは正統的なマネタリストである。その欠陥については、先に示した。 → 1月22日 以降。)
 不良債権処理論者も、マネタリストと同様に勘違いしている
 貨幣供給量を拡大しても、実際の貸し出しが増えない。それを見て、不良債権処理論者は、「何らかの阻害要因があるからだ。そのせいで均衡しないのだ。ゆえに阻害要因をなくせばいい」と主張する。この点、不良債権処理論者は、新ケインズ派と同種である。
 では、その錯誤の理由は、どこにあるか? それは、「原則として均衡が成立する」ということを信じていることだ。それゆえ、「本来ならば均衡になるはずなのに、そうならないとしたら、阻害要因があるからだ」というふうに論理を進める。そのせいで、「経済にはもともと均衡と不均衡の双方があるのだ」ということを理解できない。── 誤った前提に立つ限り、すべてを色眼鏡で見ることになるので、事実をありのままに見ることができない。そこに、彼らの根本的な欠陥がある。


● ニュースと感想  (2月26日)

 「トリオモデル」に関連して、別の話を示しておこう。それは、「下限つきの供給曲線」だ。(特に重要な話ではない。ただ、研究好きの人のために、参考として示す。本項は、読まなくてもよい。)

 先に、「トリオモデル」を示した。次の図のとおりだ。(ここでは、左側の方の図に着目。)

     トリオモデルの図

 この図では、供給曲線は「 」という形をしている。
 一方、「 __ 」という形の供給曲線を考える立場もある。つまり、水平線の左の方から、水平線上を右の方へたどっていき、「 」という曲線との交点にぶつかったら、そのあとはその曲線上を右上にたどっていく、という形だ。……この説明では、水平線から曲線へと交替したが、初めから一つの線が「 __ 」という形になっているという、そういう供給曲線を考えるわけだ。
 この「 __ 」という形の曲線を、「下限つきの供給曲線」と呼ぼう。
( ※ 出典は、"Principles of Economixs" by Roy J. Ruffin and Paul R. Gregory. 1988 。ただし M.スコーセン著「経済学改造講座」日本経済新聞社 131頁より、孫引き。)
( ※ なお、供給曲線は、「 」という形のかわりに、「 __ 」という形になっているが、需要曲線は、「 」という形のままである。)

 このモデル(下限つきの供給曲線)は、私の示した「トリオモデル」に似ている。「同じじゃないか」と思う人もいるかもしれない。しかし両者は根本的に異なる。
 上記のモデルは、特別な形の供給曲線を使っているが、あくまで、均衡を求める立場だ。一方、「トリオモデル」は、「均衡と不均衡」を説明するモデルだ。前者は、均衡だけ。後者は、均衡と不均衡。前者は均衡を説明するモデル。後者は均衡と不均衡の違いを説明するモデル。そういう根本的な立場の違いがある。(グラフだけ見ても、違いがある。前者は、交点が成立する。後者は、交点が[下限直線以下の領域にあるので]成立しない。)
 両者で、似ている点もある。それは、「価格が一定限度以下には下がらない」という点だ。しかし、このことは、たいして重要ではない。価格の説明がどうのこうのという程度のことだ。(数学的に言えば、トポロジー的に、上記のモデルは旧来のモデルと同じである。どちらも「×」という形だ。トリオモデルは、トポロジー的に、まったく異なる。「∀」というふうな形になる。)
 このモデル(下限つきの供給曲線)は、結局は、不況や不均衡という現象を説明しない。そこが肝心だ。供給曲線が少し違った形になっていても、それはそれで、そのときには「均衡」が成立する。つまり、「不均衡」は発生しない。企業に赤字は発生しないし、倒産や失業も発生しない。経済が異常だという状況にはならない。

 具体的に適用してみよう。今は、不況だ。こういう現実を見て、「これはこれで均衡しているのだから、現状で正しいのだ」(単に価格があまり下がらないだけだ)と主張するわけだ。つまり、「企業が倒産するのも、人々が失業するのも、そうなったら、その企業は倒産するべくして倒産したのだ。多くの企業が倒産するのは、それが正しい状態だからだ。なるべくようにしてなったわけだ」と主張しているわけだ。
 こういう主張は、明らかに現実に適さない。ソニーのような超優良企業でさえ、赤字化していくのだ。( → 2002年10月15日c ) 「ソニーが赤字化したのは、ソニーが劣悪だからだ。ソニーは倒産した方がいいのだ」とか、「ソニーにも及ばないような日本の電気機器企業はすべて倒産させてしまった方がいいのだ」とか、「日本に必要なのは、不況に強い農業だけだ」とか、そんなことを主張するのは、完全に間違っている。
 上記のモデルは、「均衡」を説明するモデルだ。一方、「トリオモデル」は、「均衡」と「不均衡」の違いを説明するモデルだ。前者は、「不況は正常な状況だ」と見なして、不況をそのまま放置することを結論する。後者は、「不況は異常な状況だ」と見なして、不況から一刻も早く脱出することをことを結論する。
 というわけで、両者は、形の上では似たところはあっても、根本がまったく正反対であるわけだ。表面に惑わされないようにしよう。形は似ていても、内実はまったく異なるのだ。(上のトポロジー的な説明が、本質を突いている。)


● ニュースと感想  (2月26日b)

 ついでに、言及しておこう。経済学の教科書にある「平均費用と限界費用」のことだ。
 「赤字生産」をもたらす「不採算」には、二つの状態がある。「平均費用割れ」および「限界費用割れ」だ。
 そして、企業としては、「平均費用割れ」であっても、「限界費用割れ」でなければ、生産を増やす。(その方が、生産中止よりは、赤字幅を縮小できるからだ。)かくて、平均費用割れでも、生産がなされることになる。それゆえ、不採算の生産を行なって、赤字経営となる。 ( → 8月05日
 たとえば自動車で、平均費用が 100万円で、限界費用が 70万円であれば、企業は赤字覚悟で、90万円という価格でも生産をするはずだ。「90万円だと赤字だな。じゃ、生産するのはやめた」と決定すれば、かえって赤字幅が拡大する。(固定費をまかなえないから。)
 このような例は、現実に見られる。半導体メモリーだ。この商品は、固定費が大きく、限界コストが低い。そのため、市況が低落しても、やたらと生産して価格低下を起こしやすい、という傾向をもつ。実際、原価割れ(平均費用以下だが限界費用以上)で市況が安定している、という期間が、かなり長く続いた。
 以上のように、「平均費用以下」の領域でも、生産がなされる。すると、どうなるか?
 90万円という価格になったとする。このとき、90万円という価格でも採算に合う企業は、そのまま生産するだろう。(少数の優良な企業は、そうできる。)一方、他の劣悪な企業は、赤字覚悟で、90万円で生産する。そして、しばらくは耐えているが、やがて、耐えきれなくなったところで、巨額の債務を残して、倒産する。
 こういう状況では、市場では一定の価格が成立したとしても、その価格はもはや(企業の採算に合うような)「均衡価格」ではないのである。したがってそこでは、真の「均衡」は成立していないのである。単に「一時的な小康状態」が続いているだけだ。その一時的な状態は、赤字企業が赤字に耐えきれなくなったところで、おしまいとなる。
 こういう不均衡な状態(小康状態)では、「供給曲線」というものは、そもそも成立しない。なぜか? 「供給曲線」というのは、「この価格で生産できる」という供給力を示すものだ。下限直線以下の領域では、そういう曲線は成立しない。かわりに、別の曲線が成立する。それは、「この価格では本来生産できないのだが、やむを得ず一時的に生産する」(赤字生産する)という供給力を示すものだ。

 このとき、「市場原理」はまともに働いていない。にもかかわらず、「市場原理」による解決をめざすところに、古典派経済学者の根元的な錯誤がある。ありもしないものを前提としているからだ。

 [ 付記 1 ]
 こういう「不採算な生産」に対して取るべき態度は、二つある。
 第1に、均衡状態ならば、「不採算な生産」を行なう企業(劣悪な企業)を、さっさと倒産させるべきだ。どうせ赤字を発生させるだけであるから、赤字が拡大しないうちに、生産をやめた方がいい。必要な生産は、他の優良な企業がやるから、心配することはない。
 第2に、不均衡状態ならば、「不採算な生産」を行なう企業(ほとんどの企業)を、さっさと倒産させるべきではない。そんなことをしたら、国中のほとんどの企業を倒産させることになる。しかも、赤字の企業をすべて倒産させてしまえば、今度は逆に、生産力が不足する。たとえば、9割の企業が赤字のときに、9割の企業を倒産させてしまえば、残りの1割の企業があとの需要をまかなええるというわけではない。木村某というエコノミストは、「銀行はみんな劣悪だからみんな倒産させてしまえ」と主張しているが、そのあと、銀行がなくなってしまったら、日本経済は金融システムがなくなって、崩壊してしまう。そんなことはするべきではない。
 結局、「不良債権処理をするべし」という主張は、均衡状態と不均衡状態とでは、良し悪しが異なるのだ。同じことをしても、状況によっては価値が変わるのだ。

 [ 付記 2 ]
 では、どうすればいいか? 「市場原理」というミクロ的なものが正常に働いていないときには、それが正常に働くように、状況そのものを正せばよい。つまり、総需要を増やせばよい。それがマクロ経済学というものだ。(すでに何度も述べたとおり。)
 にもかかわらず、マクロ的なことを理解しないのが、古典派だ。彼らは、あくまで市場原理にこだわる。そして「市場原理がうまく働いていないのなら、市場原理がうまく働くように、国家が介入せよ」と国家介入主義を唱える。結局、「国家の介入しない経済がすばらしいから、国家が介入せよ」というわけだ。メチャクチャである。市場原理を信奉する彼らが、社会主義的な政策を主張する。
 だからこそ、私は口をすっぱくして、指摘するのである。「ミクロとマクロを区別せよ」と。「ミクロのことは市場に任せて放置し、マクロのことには国が介入せよ」と。
 なのに、古典派は、逆のことをしようとする。マクロ的なことはやらないで、ミクロ的( or 個別的)なことをやろうとする。総需要の調節はしないで、個々の市場に介入しようとする。「公的資金投入・不良債権処理・RCC・補助金・セーフティネット・職業訓練」などを細かに主張する。こんなことまで事細かに国が指図しなくてはならないとしたら、政府はどんどん巨大化していくだろう。
 社会主義はもはや恐竜のごとく滅びたと思えたが、実際には、「古典派」という形で生き延びていたのである。何という皮肉。マルクスもびっくり。

 [ 付記 3 ]
 「不採算な生産」と先に述べたが、それに対する抵抗力は、企業で異なる。しかも、それは、「優勝劣敗」ではない。
 均衡状態ならば、「赤字企業と黒字企業」があるので、赤字企業から倒産していく。つまり、「優勝劣敗」だ。
 不均衡状態では、「優勝劣敗」ではない。どうせ、どれもこれも、赤字である。ここでは、生き延びることができるのは、「収益性の高い企業(優秀な企業)」ではなく、「財務体質の良い(赤字に耐えられる貯金のある)企業」である。この観点で見ると、通常、長い歴史のある古い企業ほど有利であり、新興企業ほど不利である。
 というわけで、不況のもとでは、優秀な新興企業よりも、劣悪な老舗企業の方が、生き残る可能性が高い。「優勝・劣敗」ではなくて、「旧勝・新敗」または「大勝・小敗」だ。つまり、「旧産業から新産業へ」という「構造改革」とは、まさに正反対の路線だ。
 だから、「構造改革」を唱える竹中や小泉は、実は、口とは正反対のことをやっているわけだ。頭は前をめざしながら、足は後ろに歩んでいるわけだ。(狂人というものは、みんなそうだが。)


● ニュースと感想  (2月26日c)

 「トリオモデル」の位置づけをしておこう。
 トリオモデルは、「 」という形の「需給曲線」を修正したものに相当する。これは、元のモデルよりは正しい。しかし、だからといって「万能だ」ということにはならない。これひとつで経済のすべての現象を、残るくまなく説明できるわけではない。(当たり前だ。)
 トリオモデルで説明できるのは、あくまで、「市場における需給関係」だけだ。つまり、ミクロ的な調整のことだけだ。(この際、需要曲線や供給曲線は、所与のものとして与えられている。)
 そこでは、何が欠けているか? 「需要曲線や供給曲線そのものが変動する」という問題だ。
 それは、動的な問題であり、マクロ的な問題である。そういうことは、トリオモデルでは扱えない。そういうことを扱うには、「修正ケインズモデル」を必要とする。
 そこで、このあとでは、修正ケインズモデルについて考察することにする。

( ※ トリオモデルの話は、これでおしまい。明後日から、修正ケインズモデルの話。)


● ニュースと感想  (2月27日)

 モデル論はお休みして、「均衡」について。
 本項では、原理的なことを述べる。「均衡」と「不均衡」のことだ。

 日銀の総裁が交替したのにともなって、勇ましい論調が出ている。次のように。
 という理屈だ。いわゆる「マネーサプライ万能信者」の主張である。そして、これが今日、経済学者の主流となっている。

 私はこれらについて、「無効だ」とか、「資産インフレを招くので有害だ」と批判している。ただ、その理由については、「ゼロ金利になったなら、量的緩和は効果がない」と述べるだけだった。つまり、「流動性の罠」という観点から、金利と関連させて述べるだけだった。それ以上は特に詳しく解説してこなかった。
 そこで、本項では、「均衡と不均衡」という観点から、新たに説明しておく。

 経済学における「均衡」という概念は、科学や力学や熱力学における「平衡」という概念と、ほぼ同じである。英語ではどちらも同じ用語で、「equilibrium 」だ。( → なお、百科事典の「平衡」という用語を参照。)
 たとえば、濃い食塩水と、薄い食塩水がある。四角い容器に入っていて、右半分と左半分に分かれていたとする。すると両者の接する境界で、食塩の分子が、濃い方から薄い方へと、移動する。そうして最終的には、均一な濃度になる。これが「平衡」(濃度平衡)の状態だ。
 こうして「平衡」になった状態では、「平衡」から少しズレると、元の「平衡」に戻ろうとする。たとえば、右半分に食塩を振りまくと、食塩はそこで溶けて、濃い食塩水ができる。その濃い食塩水が、薄い方へと移動する。そうしてふたたび「平衡」が実現する。(ただし、前よりも、少し濃い濃度で。)
 しかし、この「平衡」は、いつまでも続くわけではない。食塩水の濃度には、上限がある。つまり、ある濃度で飽和する。その濃度を「溶解度」という。
 いったん溶解度に達すると、もはやそれ以上は、食塩は溶けない。ここに注意しよう。「食塩を振りまけば、濃度が上がる」とか、「食塩を振りまけば、その食塩は溶け込む」というのは、飽和していない溶液には成立するが、飽和している溶液には成立しないのだ。
 このとき、溶液のなかでは「平衡」が実現している。しかし、振りまいた固体の食塩と、溶液との間では、「平衡」が実現していないのだ。── そして、これが、「不均衡」の本質だ。

 まとめれば、こうなる。
 「食塩の濃度が上限に達しているときには、濃度はもはや上がらない。つまり、さらに食塩を振りまいても、その食塩は溶液に吸収されない。超過した分は、沈殿する」
 そして、このことは、経済に戻って言えば、次のことと同じである。

 「商品需要が上限に達しているときには、商品需要はもはや上がらない。つまり、さらに商品を生産しても、その商品は市場に吸収されない。超過した分は、在庫となる」
 「資金需要が上限に達しているときには、資金需要はもはや上がらない。つまり、さらに資金をつぎこんでも、その資金は金融市場に吸収されない。超過した分は、滞留する」

( ※ 「商品需要が上限に達する」のは、価格が下限に達していて、もはや価格が下がらないからである。「資金需要が上限に達する」のは、金利が下限に達していて、もはや金利が下がらないからである。)

 結語。
 「景気回復のためにマネーを金融市場につぎこめ」という意見は、まったくの間違いである。それは「食塩をどんどんつぎこめば、食塩はどんどん溶ける」というのと同じであり、まったく非科学的な間違いだ。
 飽和した溶液に、いくら食塩をつぎこんでも、沈殿するだけである。飽和した市場にいくらマネーをつぎこんでも、滞留するだけである。── 「不均衡」とは、そういう状況だ。
 こういう場合は、「どんどんつぎこむこと」を主張しても、解決策にならないのだ。なのに、そのことを理解しないのが、マネタリストなど、今の経済学者たちだ。

 [ 付記 ]
 では、正しい解決策は? 「溶解度」を上げることである。たとえば、食塩でなく砂糖ならば、溶液の温度を上げることで、溶解度がどんどん上昇していく。それが根元的な解決策だ。経済も同様である。資金需要が上限となっているのならば、資金需要をどんどん増やして、資金需要の上限を上げることが根元的な解決策だ。そして、「資金需要を増やす」ための方法が、「消費を増やすこと」なのである。
 消費を増やす策を取らずに、投資ばかりを増やそうとすることは、「飽和した溶液に食塩をふりまくこと」と同じとなる。
 均衡と不均衡の違いを、はっきりと理解しよう。

 [ 補足 ]
 具体的には、何が言いたいのか?
 「消費を増やすこと」には、「減税」が必要である。それは、財政政策であって、金融政策ではない。だから、「日銀は何とかせよ」というのは、まったくお門違いの要求なのだ。「日銀は景気を回復させよ」と望むのは、「日銀は天気を晴れにせよ」というのと同じで、無意味である。
 要するに、マネタリストというのは、「日銀は天気を晴れにする義務がある。そのために、取れる政策をすべて取れ。ゆえに、天候回復のために、量的緩和をせよ。外債などを買え」と言っているのと同じなのだ。トンチンカンの極み。

 [ 補説 ]
 マネタリストのどこがおかしいか、指摘しておく。
 「貨幣供給量を増やすと、物価が上昇する」というのが、彼らの主張だ。なるほど、貨幣供給量を増やして、その貨幣がすべて市中に出回れば、そうなる。しかし、不均衡状態では、貨幣は市中には出回らない。滞留する。食塩が沈殿するように。
 だから、この状況では、「貨幣供給量を増やすと、物価が上昇する」ということは、成立しないのだ。「貨幣供給量を増やすと、物価が上昇する」というのは、「食塩を増やすと、濃度が高まる」というのと同じで、ある程度までは成立する。しかしやがて、上限に達する。そして、上限に達したならば、いくらやっても効果はないわけだ。
 「貨幣数量説が成立するのは、その上限に達するまでである」ということを、理解しよう。そして、上限に達したか否かは、金利がゼロになったか否かで、判断できる。( ∵ 金利がゼロ = 需要が増えない = 需要が上限 )

 [ 注釈 ]
 念のために注釈しておく。「インフレ目標」とは、「現在の莫大な量的緩和」のことではなくて、「将来の量的緩和をすることの公約」である。クルーグマン説を勘違いしてはならない。 ( → 「インフレ目標」簡単解説 の最後。)

 [ 余談 ]
 なぜ私は、かくもマネタリストを批判するのか? 彼らを嫌っているからか? 違う。どちらかと言えば、彼らを哀れんでいる。
 私がマネタリストを批判するのは、日本を正しい道に戻したいからである。今、二つの道がある。右に行けば、永遠の回り道。左に行けば、正しい脱出口。こうして二つの道がある。正しい方もわかっている。なのに、日本はあえて、間違った道に行こうとしている。
 「右が正しい、右が正しい」と人々は大騒ぎしている。また、「なかなか脱出口に達しないのは、馬の力がたりないからだ。馬はもっと力を出せ」と叫んでいる。しかし、そんな道をいくら全力で進んでも、しょせんは袋小路なのだ。間違った道をいくら大馬力で進んでも、決して脱出口には達しえないのだ。
 だからこそ私は指摘しているのだ。「そちらではない、こちらが脱出口のある道だ」と。そしてまた、「馬の力が足りないのではない、人の知恵が足りないのだ」と。


● ニュースと感想  (2月27日b)

 時事的な話題。「北欧と韓国の不良債権処理」について。
 「北欧と韓国では、不良債権処理で経済回復に成功した」という調査記事がある。(朝日・朝刊・経済面 2003-02-26 )
 なんだか、もっともらしい話だが、「構造改革派」の典型的な誤解となっているので、解説しておく。

 「不良債権処理は常に間違い」ということはない。だから、「不良債権処理で成功する」という例は、たしかにある。その例が、北欧と韓国だ。ただし、その成功例は、日本にはまったく当てはまらない。ここが肝心だ。「不良債権処理は正しい」という例はあるが、「不良債権処理は常に正しい」とは言えない、ということだ。

 (1) 北欧
 北欧では、不良債権処理は成功した。それは当然だ。なぜか? 不良債権の規模が小さかったからだ。つまりは、デフレという「不均衡」ではなかったからだ。不均衡でなく、均衡であるときには、不良債権処理をした方がいい。そこでは古典派の主張が成立する。
 ただ、そのことは、日本では当てはまらない。日本はデフレという「不均衡」状態にある。だから、「まず不均衡を均衡にするべきだ」という主張が成立する。
 そのことをわきまえず、単に「不良債権処理をせよ」と主張しているのが、「構造改革派」だ。病人と健康人の区別もできずに、単に「真面目に働け」と主張して、いっそう病気をこじらせてしまうわけだ。それというのも、「病人を無理に働かせる」ということの、どこが間違っているかを、理解できないからだ。

 (2) 韓国
 韓国では、不良債権処理は成功した。それは当然だ。なぜか? やはり、もともとデフレという「不均衡」ではなかったからだ。
 韓国では、たしかに、多大な倒産や失業が発生した。しかし、それは、「需要の縮小」というデフレによって発生したのではない。アジア通貨危機によって発生したのだ。この際、韓国通貨の暴落による悪影響(資本流出やインフレ)を抑えるために、年率 25% というマネタリズム的な処方をなした。その猛烈な高金利のせいで、多大な倒産や失業が発生した。
 ここでは、「猛烈な高金利」という状況があった。一方、日本は、ゼロ金利であり、「猛烈な低金利となっている。状況は正反対だ。
 通貨にしても、韓国では「下がりすぎた」という問題が発生して、「もっと上げよう」という主張になったが、日本ではどちらかと言えば、「もっと下げよう」という主張になっている。
 簡単に言えば、韓国の状況は、スタグフレーションのような状況である。一方、日本は、デフレである。「倒産や失業の発生」とか、「不良債権」の発生とか、そういう状況だけを見れば似ているが、原因はまったく正反対なのだ。
 なのに、異なる病気に対して、「どっちも病気だろう。だったら同じ処方をすればいい」というのが、「構造改革派」の、「不良債権処理」論者だ。ヤブ医者の典型である。間違った処方をすることにより、病状をますます悪化させる。体温の冷えた投資寸前の患者に対して、「風邪には熱を下げることだ」と主張して、氷枕と解熱剤を与えるようなものだ。

 結語。
 大切なのは、「どの対策を取るか」ではない。原因を見極めて、それに対する最適の処方をすることだ。そして、その際には、「均衡か不均衡か」という違いに着目するべきだ。均衡に対しての処方を、不均衡に対して処方すれば、正しい治療とはならないのである。

  【 追記 】
 連載2回目(2003-02-27)で記載されているが、北欧の経済危機は、「金融危機」だった。銀行が経営悪化で、不良債権をふくらましただけだった。マクロ的な総需要が縮小したわけではなかった。
 その違いがわからないのが、記事だ。話の根幹を無視して、「不良債権がたまった」という点だけを見ている。「あっちもこっちも、どちらも同じ症状が出るから、同じ病気だ」という主義。経済音痴の極み。

 [ 付記 ]
 本日別項の竹森俊平は、その著作では、「不良債権処理」を肯定している。これは、「均衡を実現するため」という趣旨だ、と考えてよい。で、どこが間違っているかというと、その金の出所だ。彼の主張には、コストという概念がない。「金は空から降ってくる」ということになっている。なるほど、もしそうなら、不良債権処理をした方がいい。しかし、実際には、金は空から降ってこない。国民全体から奪う必要がある。となると、その分、総需要は縮小し、状況は悪化する。
 ここが、「不良債権処理」論者の根本的な難点だ。 ( → 不良債権物語


● ニュースと感想  (2月27日c)

 時事的な話題。竹森俊平へのインタビュー記事。(朝日・朝刊・経済面 2003-02-26 )
 この人の意見は、「まともである」という世評があり、なかなか好評らしい。菅直人も、この人の著作を読んで、感心したらしい。朝日は、「構造改革派」なので、この人の意見とは反対のはずなのだが、今回は、この人の「構造改革批判」を広く紹介している。この点は、好ましい。
 ただ、新聞記事として見れば、まったく失格である。その点を指摘しておく。

 そもそも、この人の意見は、学界の定説でも何でもない。独自の意見でもない。ただの自己流の勝手な解釈にすぎない。「下手な解説記事」のようなものである。こういう勝手な解釈を堂々と記事にするのであれば、それを批判する意見をも掲載するべきだろう。たとえば、同時に、リチャード・クーでも掲載すれば、面白い論戦になっていたはずだ。
 なのに、そうせずに、自分の研究成果をもたない論者の、自分勝手な解釈ばかりを掲載する。困ったものだ。以下、事例を具体的に示す。

 まず、基本を示そう。この人の主張は、「シュンペーター対フィッシャー」である。世間の凡人は知らない人名だから、「なるほど」と専門知識を拝受した気分になるかもしれない。しかし、本当は、ただの「サプライサイド対マネタリズム」のことである。うんざりするほど出回っている意見だ。「マネタリズムの立場からのサプライサイド批判」というのは、現在の経済学者の大半が主張していることだ。ごくごく平凡な意見にすぎない。虎の威を借る狐にすぎない。そこが根幹だ。
 そして、この根幹を知れば、非常に重要なことに気づく。それは、「ケインズ派の解釈がない」ということだ。不況を解説するとき、ケインズを無視するというのは、まったく呆れてものが言えない。どうせ解説をするのならば、ケインズにも言及するべきなのに、まったく言及されていない。ま、それは、理由がある。マネタリストは、ケインズの主張を理解できないからだ。……ともあれ、竹森の主張には、「一番肝心なところが抜けている」と理解するべきだ。クリープと水しか入っていないものを「コーヒー」と称するようなものだ。
 サプライサイドにせよ、マネタリズムにせよ、「市場原理でうまく行く」とか、「貨幣供給量を一定にすればうまく行く」とか、「自由主義経済では不況は起こらない」ということを主張する。なのに、現実には、不況になった。そのあとで、あれこれと弁明しても、ただの言い訳にすぎないのだ。不況そのものを根本的にとらえようとしたケインズとは、天と地ほどの距離があるのだ。
 要するに、「不況」という現象が「天」だとすれば、「地」において争っているのが、サプライサイドとマネタリズムだ。サプライサイド(構造改革派)を批判するマネタリズムの主張として、竹森の意見はたしかに正しいが、しょせん、「コップのなかの嵐」にすぎないし、「地」における虫ケラ同士のもめ事にすぎない。「不況」という「天」とは全然関係ないところで争っているにすぎない。
 「天」とは、不況の根源である。つまり、需給ギャップのことだ。ケインズはこれをとらえた。サプライサイドとマネタリズムはこれを無視する。単に供給側だけを問題として、需要側を無視する。「供給体質を改善せよ」というのが「構造改革派」であり、「貨幣供給量を増やして設備投資を増やせ」というのが、マネタリズムだ。そのどちらも、「消費」とか「所得」とかいう概念がまったく欠落している。つまり、不況の根源を認識できていない。要するに、まったく見当はずれの、トンチンカンにすぎないのだ。
 なるほど、「公共事業を」というケインズ的な処方は、たしかに最善ではない。しかし、不況そのものを理解するには、ケインズ的な認識が欠かせない。サプライサイドとマネタリズム(つまり古典派)には、この認識がない。それゆえ、根本的に間違っているのだ。

( ※ 「そんなことはないぞ」というマネタリストの批判があるかもしれない。しかし、彼らは、自分の言ったことを顧みるがいい。「デフレは貨幣的な現象だ」というのが、彼らの主張だ。そこには、貨幣数量の話があるばかりで、所得や消費の定量的な分析はまったく欠落しているのだ。特に、生産量の動的な変化が、まったく考慮されていない。もちろん、彼らの理論には、デフレスパイラルという言葉さえ現れない。「ないない」づくしだ。だからこそ、「貨幣のことばかり考えていればいい」なんてほざいて、自分たちをマネタリストと自称するのだ。よくもまあ、恥ずかしくもなく、言えるものだ。)

 [ 付記 ]
 以上を読むと、なんだか、ひどい悪口に聞こえるかもしれない。「南堂ってのは、他人の意見に聞く耳を持たないんだな」と思われるかもしれない。そこで、注釈しておく。
 私は、他人の意見は、尊重する。たとえ反対派の意見でも、そこに独自の知見があるならば、十分に尊重する。たとえば、フリードマンというのは、私とはまったく異なる見解の古典派の親玉だが、私は尊敬する。彼は、独自の知見を提出したからだ。
 しかし、近ごろの日本のマネタリストは、そうではない。独自の知見を出すどころか、勝手な自己流の解釈をするだけだ。どうせなら各学説を、公平に解説すればいい。なのに、公平な解説をしないで、自己流の解釈をするばかりだ。
 学説なら学説。解説なら解説。そのどちらかにしてもらいたいものだ。「独自の学説」なら、立派だ。「公平な解説」なら、有益だ。なのに、実際にやっているのは、「独自の解説」という有害なものと、「陳腐な学説」というゴミみたいなものだ。

 [ 補記 1 ]
 竹森は、記事の最後の方では、「公共事業」「減税」も提案している。そのこと自体は間違いではないが、自分の支持する「貨幣供給量の拡大」とい政策とは、何の関係もない。脈絡なしに出てくる。そういう政策を取るなら取るで、その根拠を、ちゃんと述べるべきなのに、そうしない。あまりにご都合主義である。

 [ 補記 2 ]
 彼のマネタリストとしての主張には、細かい点でおかしいところがいっぱいあるが、それらについては、「マネタリスト批判」として、これまで何度も記述してきたから、本項では省略する。

 [ 参考 ]
 「不況を理解するには、ケインズ的な認識が欠かせない」ということは、このあと、修正ケインズモデルの解説を読めば、わかるだろう。


● ニュースと感想  (2月28日)

 このあとは、「修正ケインズモデル」について。
 これまでは、「トリオモデル」について再考察してきた。そこでは、「需要曲線」と「供給曲線」のほか、「下限直線」がある。この三つがあることで、市場原理を正しく理解できるようになった。(市場原理を説明するためのモデルとして。)
 しかし、トリオモデルには、限界もある。次のように。
 こういう難点がある。大きな難点と言えそうだ。
 ただ、よく考えてみると、上記の点はすべて、「マクロ的な視点」である。欠けているのは、そういうものだけであるわけだ。
 つまり、トリオモデルというのは、ミクロ経済を説明するモデルであって、マクロ経済を説明するモデルではない。そう要約できる。
 そして、以上の諸点を説明するモデルとして、トリオモデルのかわりに、修正ケインズモデルが登場するわけだ。修正ケインズモデルは、マクロ経済を説明するモデルである。そこでは、上記の諸点はすべて解決されている。
 では、修正ケインズモデルは、トリオモデルよりも優れたモデルなのか? そうではない。修正ケインズモデルは、トリオモデルで説明できないこと(マクロ的なこと)を説明できるが、かわりに、トリオモデルで説明できること(ミクロ的なこと)を説明できない。たとえば、下限直線の効果を説明できない。
 だから、トリオモデルと修正ケインズモデルは、両者が合わさって、初めて完全な経済モデルとなるのである。いわば、球の右半分と左半分のようなものだ。どちらが欠けていても、不完全である。

 こう考えると、古典派とケインズ派が長らく対立してた理由も、明らかとなる。彼らは単に喧嘩をしていたのではない。どちらも半分ずつ正しかったのだ。古典派はミクロ経済を突き止めようとした。ケインズ派はマクロ経済を突き止めようとした。どちらもそれなりに、正しいアプローチをしていたことになる。ただ、アプローチは正しかったが、道を途中までしか進まなかった。両者が道を最後まで行きつけば、両者は交わる。その山頂としての一点では、ミクロ経済とマクロ経済とが融合する。── そのことを、トリオモデルと修正ケインズモデルは示すわけだ。
( → 8月14日「ミクロとマクロ」)


● ニュースと感想  (2月28日b)

 前項の続き。
 以下では、修正ケインズモデルについて、再考察する。
 ただ、それに先だって、「修正ケインズモデルとはどんなものだったか」ということを、振り返っておこう。すでに述べたことの要約だ。 ( → 8月17日 以降。)

 生産と消費と投資には、次の関係がある。
   C = Y − I

 消費と生産とには、 次の関係がある。
   0.8Y + C1
 ここで、 0.8 というのは、限界消費性向である。この値は、 0.7 〜 0.9 ぐらいの値を、可変的に取る。
( ※ 限界消費性向が可変的な値を取るのが、修正ケインズモデル。逆に、一定の値を取るのが、ケインズのモデル。前者は後者を拡張した[修正した]ものにあたる。)

     修正ケインズモデルにおける領域の図

 限界消費性向が変化すると、第1の直線(45度の線)と第2の直線(ゆるやかな傾斜の線)の交点は、B と M の間で変化する。
 B は、下限均衡点である。M は、上限均衡点である。その両者の間の、区間 BM が、均衡区間である。

 限界消費性向が低下するにつれて、交点は M のあたりから B のあたりまで、移動していく。この間では、均衡を保ったまま、生産量が縮小していく。(限界消費性向の低下につれて。)

 一時的に需要が縮小して、需要不足になると、  第1の直線(45度の線)が成立しなくなることがある。つまり、「 C = Y − I 」が成立せず、「 C > Y − I 」または「 C < Y − I 」になることがある。前者は、桃色の領域を意味し、後者は、水色の領域を意味する。(グラフから明らか。)
 水色の領域(つまり「 C < Y − I 」となる場合)では、移項して、「 C + I < Y 」となる。これは「需要不足」を意味する。このとき、金利を下げることで、投資 I を拡大させることができる。すると、いったん45度の線を離れたのに、ふたたび 45度の線に戻ることができる。(つまり、需要不足によって不均衡になったあと、投資の拡大によって均衡を回復することができる。……それが金融政策の意味である。)( → 9月12日
 金融政策が有効な領域は、次の緑色領域として示せる。

     修正ケインズモデルにおける領域の図(詳細)

 長さ JK が、金融政策によって投資を拡大できる量である。この量は、生産量が縮小するにつれて、減少する。そして、下限均衡点 B のところまで生産量が縮小すると、もはや金融政策によって投資を拡大することができなくなる。
 下限均衡点 B よりも上では、投資の拡大によって均衡を回復できる。しかし、下限均衡点 B よりも下では、投資の拡大によって均衡を回復できない。つまり、いったん需給ギャップが発生すると、そこから上方に移動できない。つまり、同じ生産量を保ったまま均衡を回復することができない。状況は放置される。
 状況が放置されると、デフレスパイラルが発生する。すなわち、下図のようなデフレスパイラルが発生する。
 ここでは、次のような過程で、スパイラルが発生している。
  「需要の縮小」→「生産の縮小」→「所得の縮小」→「需要の縮小」……

     修正ケインズモデルにおける景気悪化の図

 ここで、注意しよう。これは「スパイラル」である。つまり、循環的な過程である。点 B から 点 A に向かって進んでいくが、それはあくまで、時間をかけて循環的に段階を踏む。この1段階ごとに、ある程度の時間がかかる。もちろん、十分な時間をかければ、最終的には、点 A に至るだろう。しかしそれには、何年も何十年もかかるかもしれない。
 この過程は、「ワルラス的調整過程」(市場原理で均衡点に達する過程 → 8月15日 )とは、まったく異なる。市場原理で価格の均衡点に達するのは、短期間(早ければ1日ぐらい)で急速に進む。しかし、上記のスパイラルの過程は、まったく異なる。階段の1段ずつを、一定の時間をかけて踏むようなもので、ある程度の長期の時間がかかる。── これは、「均衡点が最も安定だからそこに近づこうとする」過程ではなくて、あくまで、1段ずつ進行する循環的な過程なのである。

( ※ 以上は、すでに述べてきたことの、要約である。次項からは、修正ケインズモデルについて、あらためて吟味していこう。)
( ※ 特に、すぐ上の「循環的な過程」については、次項で詳しく考察する。)


● ニュースと感想  (3月01日)

 修正ケインズモデルの本質を考えよう。
 修正ケインズモデルは、基本的には、二つの直線から構成される。では、この二つの直線は、何を意味しているのか?

 傾斜の緩い方の直線は、「 0.8Y + C1 」である。これは、「消費 C が所得 Y に依存する関係」を示している。(この直線を「消費直線」と呼ぼう。)
 45度の直線は、「 Y = C + I 」である。これは、「生産 Y が消費 C に依存する関係」を示している、と見なせる。投資 I は定数と見なせる。(別の意味でも解釈できるが、この意味で解釈することにする。その理由は、次のことからわかる。)(この直線を「生産直線」と呼ぼう。)

 二つの直線は、上記のような関係にある。まとめて言えば、こうだ。
   ・ 消費直線 …… Y が C の関数である。
   ・ 生産直線 …… C が Y の関数である。
 つまり、Y と C は、ともに相手の関数となっている。だから、この両者は、循環的な関係にある。つまり、
    「 Y →  C  → Y →  C  → Y →  C  →  ……」
 というふうに循環する。換言すれば、スパイラルをなす。
 この循環関係(スパイラル関係)は、それぞれの Y と C に番号を付けて区別すれば、数列として示すことができる。次のように。
    「 Y1 → C1 →  Y2 → C2 →  Y3 → C3 →  ……」
 こうして、数列をなす。そのことがよくわかるだろう。

 こういうふうに「循環して数列をなす」ということが、修正ケインズモデルの本質だ。 この本質を理解すると、次の (1) (2) に気づく。

 (1) Y の二重性
 Y は、二つの意味がある。
 消費直線では、消費 C を決める要因である Y は、「所得」である。
 生産直線では、消費 C から決まる結果である Y は、「生産」である。
 どちらも Y で示されるが、その意味は、「所得」および「生産」というふうに、別の意味がある。このことに留意しよう。
 ただ、意味は異なっても、値は同じである。「 総所得 = 総生産 」という等式が成り立つからだ。とはいえ、意味が違うことは、理解しておこう。  逆に言えば、こうだ。修正ケインズモデルで、上記のような循環が生じるのは、二つの Y がどちらも同じ値を取るからである。もし二つの Y が別々の値を取るようになれば、上記のような循環は生じない。
 このことは、次の (2) と関連する。

 (2) 所得の効果
 修正ケインズモデルでは、需要と供給の動的な変化を見ることができる。たとえば、前項に示したような(階段状の)「デフレスパイラル」の過程を示すことができる。
 そして、この動的な変化がどうして起こるのかといえば、それは、「需要」と「供給」(生産)のほかに、「所得」があるからだ。ここが肝心である。
 「供給」は、「需要」に依存する。このことは、トリオモデルで示すこともできる。たとえば、需要曲線が右にシフトすると、均衡点が、供給曲線上で、右上に移動する。こうして、需要の変化に応じて、均衡点の生産量が変化する。
 しかし、「需要」が「供給」に依存することは、トリオモデルで示すことはできない。つまり、ミクロ的に示すことはできない。「需要」が「供給」(生産)に依存するのは、「供給」が「所得」に一致するからである。つまり、「供給」が増加すると、それに応じて、「所得」が増加する。その「所得」の増加が、「需要」の増加をもたらす。
 ここでは、「所得」というものが関与している。そのことが大事だ。実際、「所得」というものが関与しているからこそ、「需要」と「供給」の循環的な関係が生じるのである。
 このことをよく理解するには、この循環的な関係が断ち切られた場合を考えるといい。仏ならば、「生産」の増加は、「所得」の増加を意味する。しかし、例外的な場合がある。それは、「生産が増加しても、所得が増加しない」場合である。そういうことは、均衡状態ではあり得ないが、不均衡状態では、あり得る。
 たとえば、トヨタだ。トヨタは、多大な生産をなして、生産を増やした。このことは、「収益の向上」という形で、「所得」の増加をもたらした。ここまではいい。しかし、そうして得た利益を、株主にも労働者にも配分しないで、社内留保という形で、貯蓄した。
 で、貯蓄した金は、どうなるか? 通常(均衡状態)ならば、問題ない。その金は、金融市場を通じて、「貯蓄 → 投資」というふうに、他の企業で生産を増やす。この場合、金は、生産をまさしく増やしている。その意味で、生きた金となっている。しかし、不況期(不均衡状態)には、そうは行かない。貯蓄した金は、他の企業の投資を増やすことがない。この場合、金は、生産を増やしていない。その意味で、眠った金となっている。つまり、「所得が増えた」という意味や効果はどこにもなく、眠った金が滞留する(倉庫で積み重なる)だけだ。
 こうして滞留した金も、統計上では、「所得」として数えられる。しかし、統計上のつじつま合わせはそれでいいとしても、実質的には、その金は眠っている。使われもせず、貸されもせず、単に滞留しているだけだ。実質的な「所得」となっていない。
 結局、所得というものが大事なのだ。生産したら、所得を得る。金を稼いだら、金を使う。そういう経路があるからこそ、経済はスパイラル的に変化していく。これが、「需要と供給の(所得を通じた)相互影響」である。ここに、マクロ経済の、核心がある。
( → 8月14日 「相互影響」)

( ※ 「所得」があるからこそ、トリオモデルでは示せなかったことが、修正ケインズモデルでは示せるようになったわけだ。つまり、供給曲線と需要曲線が影響しあってシフトしていく過程が、修正ケインズモデルからわかるわけだ。その具体例は、このあと、「縮小均衡」の箇所で示す。)

 [ 付記 ]
 上記の核心を理解した上で、ケインズのモデル(45度線分析)との違いを考察しよう。
 ケインズのモデルは、基本的には、修正ケインズモデルと同じである。だから、修正ケインズモデルで述べた「循環」や「スパイラル」を、原理的には含意している。
 ただ、モデルの解釈が問題だ。ケインズ本人や、その後のケインズ派の人々(サミュエルソンなど)は、上記の解釈をしなかった。単に「二つの交点が均衡点である」というふうに解釈するだけだった。
 このことを、以前、批判したことがある。「交点 A は、均衡点ではなく、収束点である」と。(モデル論的に重要なことを示しているので、是非、再読してほしい。 → 8月17日 ,8月18日,8月18日b )
 ケインズ派が「均衡点」という言葉を使うとき、「そこが最も安定的な点である」と解釈した。それは「ワルラス的な均衡点」と同種の意味であった。
 しかし、本当は、そうではないのだ。そこは「最も安定的な点」というよりは、単に「数列の収束する点」にすぎない。「最も安定的な点」ならば、少しでも早くそこに達しようとするだろう。実際、「ワルラス的な均衡点」ならば、そうなる。しかし、「収束点」に達するには、一定の時間が必要だ。それは、「 Y → C 」という段階でも、「 C → Y 」という段階でも、一定の時間がかかる。
 たとえば、賃上げは年にいっぺんである。企業の生産が拡大して、業績が向上しても、それが賃上げという所得増加に結びつくには、次の春まで待たなくてはならない。「生産増加 → 所得増加」には、それだけの長い時間がかかる。また、「所得増加 → 需要増加」も同様だ。春に5%の所得増加があったからといって、春に5%の支出増加が起こるとは限らない。初めは景気回復を疑いながら、おっかなびっくりで少しずつ消費を増やすだけだろう。そして、景気回復を信じられるようになって、ようやく5%の支出増加をする。それまでは、5%の所得増加があっても、いくぶんかは貯蓄に回る。(このことが、「減税はあまり効果がない」ということの根拠になっている。たとえ所得増加があっても、心理的な壁が取り払われない限りは、支出はあまり増えないのだ。そういうわけで、私は「所得税減税」や「消費税減税」を批判して、「最初にドカン」を主張してきているわけだ。)
 とにかく、スパイラルの落ち着き先は、「均衡点」ではなくて、「収束点」である。換言すれば、「安定的な点」ではなくて、「数列の収束点」である。わかりやすく言えば、「その点に達しようとする力がたえず働く」わけではなくて、「状況が変化していく先が、たまたまそこである」というだけのことだ。
 たとえて言おう。 のような形で2枚の壁に挟まれた領域がある。この領域で、右上からビリヤードの球を放り込むと、その球は、壁に何度も跳ね返ったすえに、角(2枚の壁の交点)の1点に収束する。このとき、別に、その交点に引きつける引力が働いているわけではない。外から見ると、その1点に引力が働いているように見えるかもしれない。しかし、そんな引力などはない。ビリヤードが勝手に進んでいったら、壁のせいで、その1点に行きつく、というだけのことだ。
 数学的に言えば、こうだ。ワルラス的な意味での、需給の「均衡点」は、ポテンシャル的な「安定点」である。そこから離れようとすれば、そこに戻ろうとする力が働く。しかし、景気の落ち着き先としての「収束点」は、そうではない。そこに向かおうとする力が働いているわけではない。単に、行きつく場所が、そこだけに限定されている、というだけのことだ。(ビリヤードの球と同じ。)

 [ まとめ ]
 結局、修正ケインズモデルでは、次のことが大事である。
 [ 補説 ]
 「数列の収束点である」ということは、次の (1) (2) (3) をも意味する。

 (1) 連続と離散
 数列が変化する途上では、二つの直線(消費直線と生産直線)のすべてを通るわけではなくて、階段状に進むたびに、ぶつかった点を取るだけである。つまり、直線上のすべての点を取るわけではなくて、ごく一部の点をとびとびに取るだけである。これは「連続と離散」というふうにも考えることができる。モデル的に考えるときには、こういう区別もしておくといいだろう。

 (2) 時間
 数列の1段階(階段状に進む1段階)ごとに、時間がかかる。これもまた、数列の特徴である。具体的な話は、少し上の「賃上げ」の話で述べた。

 (3) 収束
 収束するというのは、数列の必要条件ではない。数列は、収束せず、発散することもある。だから、この「収束する」ということが、重要な意味をもつ。なぜか? デフレスパイラルは、必ずしも収束する保証がないからだ。たとえば、どんどん景気が悪化したすえに、最終的にはすべてが崩壊してしまう(生産量がゼロになる)かもしれない。……実は、そういう可能性は、ないわけではない。それは、消費性向の直線が特別な形をしていて、収束点の位置が、原点(生産量がゼロの点)になる場合だ。そして、そういうことは、たとえ特別な場合だとしても、あることはある。そして、それがどんな場合であるかも、考察することができる。
 この際には、「そこ(原点)が収束点だ」というふうに認識することが大切であって、「そこ(原点)が均衡点だ」というふうに認識してはならない。「経済が完全崩壊に向かって収束していく」と考えることは意味があるが、「経済が完全崩壊において均衡するので、その安定な状態に向かっていく」と考えるのは無意味である。
 たとえて言おう。われわれが破滅にむかって歩みつつあるなら、その歩みを理解することに意味がある。理解すれば、回避もできる。しかし、「破滅こそ安定的な状態だ」と思って、「そこに落ち着くのが自然だ」と思うのは、話が正反対である。地獄を天国と認識するようなものだ。


● ニュースと感想  (3月02日)

 「縮小均衡に至る過程」について。
 修正ケインズモデルは、経済の変化を動的に示す。すると、経済には「所得」を通じた「循環的な進行」(スパイラル)があるとわかる。── それが、前項で示したことだ。
 さて、このことを理解すると、トリオモデルにおける「需要曲線」と「供給曲線」の関係がわかる。それは、非常に重要なことだ。古典派的な景気対策法を根底から覆す結論を出すのだ。

 まず、最初に、命題を立てる。
 「修正ケインズモデルとトリオモデルとは、どういう関係にあるか?」
 これに対しては、答えはすでに出した。すなわち、次の通りだ。
 「修正ケインズモデルでは、需要と供給の変化がわかる。その変化は、トリオモデルでは、需要曲線と供給曲線がシフトしていくことに相当する。」

 では、修正ケインズモデルの考え方にもとづくと、トリオモデルにおいて、需要曲線と供給曲線は、どうシフトしていくのか? それぞれがシフトする際に、たがいにどういうふうに影響するのか? ── それが問題だ。

 具体的な例として、「縮小均衡」の例を取り上げよう。
 「縮小均衡」は、修正ケインズモデルでは、「下限均衡点を割ったあと、交点 A に落ち込むこと」と理解できる。 ( → 8月17日8月21日
 一方、トリオモデルでは、「供給曲線が左シフトして、右点から左点に移行すること」と理解できる。( → 8月04日。ま た、数日前にも述べた。)
 いずれの場合も、そこにおいて需給が均衡することがわかる。第1に、修正ケインズモデルでは、二つの直線がそこで交差する。第2に、トリオモデルでは、供給曲線が左にシフトして、三つの線が1点(左点)で交わる。……そのいずれでも、需給はそこで均衡する。(つまり、需給ギャップは解消する。)

 さて。今述べたことを、さらに注意深く見よう。
 トリオモデルを見ている限りは、縮小均衡に至る途上では、単に供給曲線が左シフトするだけだ、と見える。しかし、修正ケインズモデルもいっしょに見ると、このとき同時に、生産量も減少しているとわかる。そして、生産量の減少は、総所得の減少であり、総需要の減少でもある。
 つまり、こうだ。縮小均衡に至る途上では、供給だけが縮小しているのでなく、需要も縮小しているのだ。
 そして、このことをトリオモデルで言えば、「供給曲線が左にシフトしていくにつれて、需要曲線も左にシフトしていく」となる。

 これは、重要なことだ。供給と需要とは、「追えば、逃げる」関係にある。需要が少ないからといって、供給を減らせば、需要はその場で待っていてくれることはなく、逃げるようにして、減っていく。減った需要を追って、供給をさらに減らせば、需要はまた減っていく。……そうして供給をどんどん減らしていけば、最終的には、需要に追いつく。しかし、追いついたときには、とんでもない状況になっている。生産も需要も、どちらも大幅に縮小しているのだ。
 たとえ話で言えば、こうだ。階段にいながら、警官が犯人を追いかける。警官が追えば、犯人は逃げる。警官が2段下がれば、犯人は1段下がる。警官は、どんどん追い続けるので、最終的には、犯人に追いつく。しかし、追いついたときには、両者はどちらもひどく下がっている。もはや地獄の領域に入ってしまっている。

 こういうことは、古典派の認識とは、まったく異なる。
 古典派は、「生産力が余剰なら、生産力を減らせ」と主張する。そう信じて、各企業は、余剰な設備を廃棄したり、余剰な人員を解雇したりする。そうやって生産能力をどんどん削減していく。そのことで、均衡に近づけると信じる。
 しかし、その間、需要はじっと待っていてはくれないのだ。生産力を削減すればするほど、失業の増加を通じて、総所得が減少し、総需要が減少する。かくて、「均衡点に近づいた」と思ったら、その均衡点が逃げていく。そこで仕方なく、ふたたび生産力を削減する。「今度こそ均衡する」と思ったら、また均衡点が逃げていく。……そういうことを何度も繰り返しているうちに、国全体の経済はどんどん縮小していく。企業は次々と倒産し、失業者も次々と増えていく。ただ、その間、需給ギャップは縮小するので、企業の収益性はいくらか向上する。企業の収益性だけを見れば、徐々に好転しつつあるが、現実には、GDPがどんどん縮小しているのだから、状況は悪化していることになる。生き残った企業はかろうじて一息継げるが、もはや死んでしまった企業は苦しみの声さえ上げることができない。死者に声なし。
 それが、「縮小均衡に近づく」ということだ。そして今現在、日本はこういう状況にある。なるほど、収益性だけはいくらか改善している。しかし、失業者数を見ても、倒産件数を見ても、死屍累々といったありさまである。
 そして、そういうふうにひどい状態になっていくのは、均衡をめざしているからなのだ。「均衡」さえ実現すればいいと信じて、「生産量」を無視するから、均衡に近づいて需給ギャップが縮小するかわりに、生産量は大幅に縮小していくのだ。
 ここでは、古典派的な経済対策に、根本的な間違いがあることがわかる。そして、そのことが、修正ケインズモデルとトリオモデルとの関連を考えることによって、理解できるのである。
( ※ 需要を拡大するべきなのに、供給を縮小しようとすると、縮小均衡というひどい状況になるわけだ。「均衡」だけを重視していると、両者の違いに気づかないが。)

 まとめ。
 「不均衡」(需給ギャップ)が発生しているときは、需要の縮小によって、生産量が縮小している。こういうとき、供給力を削減する形で「均衡」をめざすと、需要も生産量もさらに縮小するので、状況がいっそう悪化する。だから、こういうときは、「均衡」をめざすことにとらわれてはならない。
 では、どうするべきか? めざすべきは、単なる「均衡」ではなく、「均衡」プラス「生産量の拡大」なのである。そして、それは、供給力の削減によっては達成されず、需要の拡大によってのみ達成される。(「縮小均衡」ではダメである。)

 [ 余談 ]
 「縮小均衡」について、直感的にわかるように、たとえ話を示そう。
 これは、「病気」と「症状」の関係に似ている。「症状」は「不均衡」であり、なるべく解消したい。しかし「症状」が消えることと、「病気」(生産量縮小)が治ることとは、同じではない。「症状」が消えるのは、「病気」が治る場合と、「病気」が最悪になった場合(死んだ場合)との、二つがある。
 古典派は、そのことに気づかない。「症状(不均衡)を消すことが大事だ」とだけ主張して、「病気(生産量縮小)を消すこと」を無視する。その結果、症状を消そうとどん努力して、病気を悪化させ、患者を死なせてしまう。それでも、死んでしまえば、症状は消える。だから古典派は、「症状は消えました、患者は死にました」という結末を知って、「大成功」と喜ぶ。
 そこで、私は、「症状だけを見てもダメであり、病気を見よ」「症状を消すことが目的ではなく、病気を消すことが目的だ」(不均衡から均衡へ移ることが目的ではなく、生産量を拡大することが目的だ)と主張するわけだ。

 [ 付記 1 ]
 「縮小均衡」をめざす方針の具体例を示そう。それは「リストラ」だ。
 サプライサイドの経済学者は主張する。「生産性の向上を!」「収益性の向上を!」と。それは、具体的には、何を意味するか? 不況のときには、「リストラ」を意味する。つまり、「固定費の削減」だ。
 不況のときには、需要が縮小している。つまり、供給が過剰である。そこで、「供給過剰だから、供給力を削減しよう。そのために、設備を廃棄して、人員を削減しよう。そうして、固定費を削減しよう」というわけだ。
 なるほど、そうすれば、固定費は削減され、収益性は向上し、生産性も向上する。(生産性は、平常時よりも向上するわけではないが、いったん悪化したあとで、いくらか回復するので、その分、向上する。理由は、遊休していた人員がいなくなり、無駄が消えるから。)
 その意味で、「リストラ」は、「生産性の向上」や「収益性の向上」を実現する。経済体質は質的に向上する。しかし、そのとき同時に、国全体の生産量は下がる。そうして「縮小均衡」に至る。
 以上は、すでに示してきたとおりだ。では、ここで問題なのは、何か? 「設備の廃棄」か? それとも、「人員の削減」か?
 第1に、設備の廃棄。── これは、特に問題ない。どうせ遊休していた設備だ。廃棄したからといって、別に問題は起こらない。かえって、維持費が削減されるから、固定費が少しだけ減る。そういう意味で、メリットはある。(ただし、話は、現時点だけのことである。現時点では、設備は無駄だから、廃棄してもいい。しかし、「設備廃棄」の目的である「均衡」が実現したら、そのあと、景気回復にともなって、「設備拡張」が必要となる。つまり、「設備廃棄」をするのは、「設備拡張」のためなのである。自己矛盾である。まったく、何をやっていることやら。穴を埋めるために、穴を掘る、というのと同じだ。無計画の極みだ。狂気の沙汰である。)
 第2に、人員の削減。── これは、問題がある。本質的な問題だ。人員の削減をすれば、個別企業は人件費の削減によって、赤字を削減できる。しかし、マクロ的には、「所得」が失われることで、総需要も総生産も減少する。この「所得」の効果が、マクロ的には大きな意味をもつのであり、そういうことを、修正ケインズモデルは示してきたわけだ。
 具体的には、こうだ。企業は人員を削減して、赤字を削減する。これで一息ついたと思う。しかし、そのとき同時に、総需要の縮小によって、売上げが低下して、新たな赤字要因が追加される。「いくらか赤字を縮小したら、新たに別の赤字が追加された」というわけだ。これは、先の「警官と泥棒」の比喩に似ている。「追えば、逃げる」という関係だ。そして、不況の悪化に応じて、さらにリストラを追加すれば、それによってますます、不況が悪化する。やればやるほど、当面の収益性は向上するが、同時に、生産量も縮小して、状況はどん底に向かって落ちていく。……そういう過程をたどるわけだ。
 結局、「リストラ」というのは、「人員の削減」を通じて、「所得の減少」をもたらすところに、マクロ的に景気を悪化させる効果があるわけだ。

 [ 付記 2 ]
 「リストラ」は、悪いことなのか?
 個々の企業にとっては、良いも悪いもない。そうせざるを得ないのだ。そうしなくては、倒産に迫られる。たとえば、「全員のために、おまえが死んでくれ」と言われて、「はい死にます」と頷く人はいない。誰であれ、生き延びるためには、自己にとって最善のことをするだけだ。
 しかし、全員がそうすると、マクロ的には状況が悪化する。だから、「リストラ」は、良いとか悪いとかではなくて、マクロ的に「好ましくない」のである。できれば、「リストラ」は、なるべく遅らせたい。そして、個々の企業が赤字に耐えて頑張っている間に、政府が適切なマクロ政策を実施して、総需要を拡大すればいい。それが正解だ。

 [ 付記 3 ]
 上記では、「リストラ」による「供給力削減」を批判した。そのことで「縮小均衡」に近づくからだ。
 さて。「供給力削減」は、状況を「縮小均衡」に近づけるが、だからといって、何もしないで放置していても、現状に安定しているわけではない。何もしないでいても、縮小均衡に近づく。それが「デフレスパイラル」というものだ。
 では、無為でいるのと、「供給力削減」とは、どう違うか?
 答えを言おう。「供給力削減」というのは、縮小均衡に向かう速度を早めるのである。本来ならば、循環的な過程を、1段階ごとに、少しずつ進むはずだ。企業は、需要の縮小にともなって、少しずつ倒産していくはずだ。そういう形で、徐々に「供給力削減」がなされるはずだ。しかるに、「リストラ」をすると、その「供給力削減」の速度が増す。たとえば、本来ならば1年間に1%の企業が倒産して、1%の所得が奪われるだけかもしれないが、「リストラ」をすると、1年間に2%ぐらいの解雇がなされて、2%ぐらいの所得が奪われるかもしれない。そうして「総所得縮小」と「総需要縮小」の速度を増す。

( ※ 話は次項に続く。いっそう興味深い実例を示す。)


● ニュースと感想  (3月03日)

 前項の続き。
 前項では、「縮小均衡ではダメだ」と述べた。そして、「縮小均衡」をめざす策として、「リストラ」(人員削減)を例示した。
 実は、「リストラ」(人員削減)以外にも、「縮小均衡」をめざす策はある。「賃下げ」および「不良債権処理」だ。
 この二つが好ましくないということは、私は何度も示してきた。「そんなことをやっても、マクロ的にはかえって悪化する」というふうに説明してきた。しかし、古典派経済学者は、この二つの策を推進する。なぜか? それは、前項の「縮小均衡」の説明を理解すると、わかりやすい。
 「賃下げ」および「不良債権処理」という二つの策は、ともに、「縮小均衡」をめざしているのである。古典派経済学者が、「賃下げ」および「不良債権処理」をめざすのは、そうすることが、「均衡」に近づくことを意味するからだ。
 彼らは、「均衡に近づけば、状況は改善する」と主張する。しかし、実際には、たとえ均衡に近づいても、生産量はどんどん縮小していくのである。
 彼らは、その食い違いを、理解できない。「均衡に近づけば近づくほど、生産量はどんどん縮小する」のだが、逆に、「均衡に近づくから、生産量が拡大するはずだ」と主張する。そうして、「景気回復には、賃下げを」とか、「景気回復には、不良債権処理を」とか、主張する。その結果、生産量がどんどん縮小しても、「企業体質は改善しているのだから、これでいいのだ。状況は良くなっているのだ」と主張する。かくて、GDPがどんどん縮小していく状況を見て、「これは正しいのだ」と主張する。
 以下では、「賃下げ」と「不良債権処理」について、一つずつ順に示していく。

 (1) 賃下げ
 「賃下げ」には、二つの意味がある。
 一つは、人件費の削減だ。これは、企業にとってコストを下げることになり、「人員削減」と同じ効果をもつ。で、「人員削減」ならば、前項で述べたとおりだ。だから、ここでは再論しない。
( ※ なぜ、「賃下げ」が、「人員削減」と同じ効果をもつのか? たとえば、1割の人員を解雇して失業者にするのも、1割の賃下げをして1割の人員を遊休させるのも、どちらも同じことである。失業者が社外にいるか社内にいるか、という程度の違いでしかない。(細かく言えば、失業手当の分があるが、それは当面、話の外に置く。失業手当のかわりに、別の手当を企業がもらうと考えれば同じことだ。)
 もう一つは、失業問題解決としての「賃下げ」だ。これは、先に「失業特集」のシリーズで、新ケインズ派への批判として述べた。新ケインズ派は、「賃金の下方硬直性」を主張して、「賃下げ」を主張する。(マネタリストも、似たようなものだ。) とにかく、彼ら古典派は、「賃下げ」を主張する。で、その効果は? 現時点では、「価格低下による数量増加」という市場原理が働いて、雇用量が増えるだろう。しかし、時間が立てば、「賃下げ」による「総所得の減少」が起こるから、マクロ的には、総需要と総生産が減少する。かくて、失業はますます増える。
 例示的に示そう。1割の「賃下げ」をしたら、労働需要が増えた。そして、「失業者を4人雇う」という結果になった。「しめしめ」と思ったら、1割の「総需要縮小」が発生したせいで、「失業者が新たに2人追加発生した」というふうになった。この追加発生した分の失業者を雇うために、また1割の賃下げをした。すると、その2人の失業者は雇用されたが、また1割の「総需要縮小」が発生したせいで、「失業者がまた新たに1人追加発生した」というふうになった。そういうふうに、どんどん循環していった。……最終的には、「縮小均衡」となって、失業者は非常に少なくなったが、そのときには、1割の「総需要縮小」を何度も繰り返したせいで、GDPが極端に小さくなっていた。また、人々は、ひどい低賃金になっていた。気が付いてみたら、日本は、生産能力のほとんどを失い、GDPが途上国レベルとなり、賃金も途上国並みとなっていた。それでも、失業は解決しており、企業も赤字状態を脱していた。
 経済学者は、これを見て、「大成功」と叫んだ。「もはや不況を脱した。企業はどれも黒字だし、失業者はいなくなった。万歳!」と。しかし、国民は、叫んだ。「なんだ、原始時代に戻っただけじゃないか。全員、低賃金で、農業をやっているだけだ。自動車もパソコンも衣服も住居も、みんな手放してしまった。食い物も、米と野菜だけだ。パソコンがほしくても、ものすごい円安のせいで、莫大な金を払わないと買えない。これじゃ、アフリカの最貧国も同然だ。いったい、どこがいいのか?」と。古典派経済学者は答えた。「どこがいいかって? 均衡状態になっているところがいいんだよ。それこそ、われわれの理想なのだ。均衡さえ達成されれば、生産量なんて無視してしまえ」と。国民は「生産量が減ったせいで、われわれはみんな貧乏になったぞ」と不平を鳴らした。すると、古典派経済学者は答えた。「貧乏になる? それこそ、目的なんだよ。もともと、賃下げをめざしていたんだから。つまり、経済学とは、貧乏になることを理想とする学問なんだ」と。

 (2) 不良債権処理
 不良債権処理論もまた、「縮小均衡」をめざす主張だ、と理解することができる。彼らは、「均衡」をめざすことで、「生産量の縮小」を招いているのである。
 ただ、「リストラ」(人員削減)や「賃下げ」とは違って、論者の主張しているものは、直接的な「人件費 = 所得」の縮小ではなくて、「企業」(= 設備 + 人員)の縮小である。……これだと、話は違うようだが、「供給力の縮小」という本質では、何ら変わりはない。
 修正ケインズモデルで肝心なのは、供給力と需要の相互関係である。供給力の縮小が、所得の縮小を通じて、需要を縮小させる。さらに、そういうことが循環してスパイラル的に進行する。これが、「縮小均衡に至る過程」だった。そういうことが、「不良債権処理」においても、成立するわけだ。
 話の基本はその通りだが、もっと細かく見ていこう。不良債権処理論の主張は、こうだ。
 以上は、「市場原理」を信奉している経済学者の理屈である。「市場原理に任せれば、優勝劣敗で、市場全体が最適化していく」というわけだ。
 しかし、である。そもそも「市場原理」が正常に働いているのであれば、状況は最適化されているのだから、不況は生じないはずだ。「市場原理」があれば生じないはずの不況を「市場原理」によって解決しようというのでは、自己矛盾を起こしている。(かといって、「市場原理を妨げるものがある」という「犯人探し」など、意味がない。もともと犯人などはいないのだから。)
 別の矛盾もある。資金や経営資源の最適配分は、それこそ、「市場原理」で最適化がなされるはずだ。とすれば、いちいち政府が「不良債権処理」なんて主張しなくても、自動的に最適化されるはずだ。政府が介入すればするほど、状況が悪化していくはずだ。それが「市場原理」というものだ。── そして、まさしく、そうなのである。たとえば、「劣悪な企業には資金を渡したくない」というのであれば、いちいち政府が「不良債権処理」で介入する必要はない。なぜなら、もともと市場において、「劣悪な企業には、金利が高くなる」「優良な企業には、金利が低くなる」という形で、自動的に資金が最適配分されるからだ。また、市場全体には、「一定の金利を払える事業だけが成立し、一定の金利を払えない事業は成立しない」という形で、収益率の低い(劣悪な)事業には資金が回らず、収益性の高い(優良な)事業には資金が回るからだ。こういうふうに、市場を通じて資金の最適配分がなされるのが、「市場原理」であり、「ミクロ経済における最適化」である。その意味で、古典派の主張通りになるのだ。にもかかわらず、「不良債権処理をしなくてはならない」「最適配分のために政府が介入しなくてはならない」という論者の意見は、「市場原理」を信奉する自らの立場に、矛盾しているのだ。(矛盾しているだけでなく、間違っている。実際、配分については、そういう介入をするべきではないのだ。政府がなすべきは、パイの大きさを決めることだけであり、パイの配分について口出しをするべきではないのだ。)

 では、なぜ、「不良債権処理」論者は、自らの信じる「市場原理」を否定するという錯誤と矛盾を犯してまで、見当違いな主張をするのか? それは、「市場原理」よりも優先して、「均衡」を信じるからだ。
 一般的に、古典派は、「市場原理」と「均衡」をどちらも信じるが、その優先の度合いが異なる。
 と色分けできるだろう。(私流の区別だが。)
 第1に、サプライサイド。こちらは、「市場原理」を「均衡」よりも優先する。そこで、「市場原理の貫徹」を主張して、やたらと企業を強化しようとする。需給のバランスなんてことは無視して、「とにかく供給力の強化」を主張する。不況のときには、需要が不足しているのだが、そういうことを理解せずに、供給力ばかりを向上させようとする。……これは、インフレのときには、インフレ退治の政策となるが、デフレのときにやれば、デフレを悪化させるだけだ。「市場原理を信奉する」せいで、「市場の需給バランスを無視する」というわけだ。ほとんど狂気的である。(「構造改革」や「生産性向上」をめざす主張が、これに当てはまる。)
 第2に、修正古典派(新古典派)。こちらは、「均衡」を「市場原理」よりも優先する。「市場原理」は、うまく働いていないと考えて、「市場原理」をうまく働かせるようにするべきだ、と信じる。(「新ケインズ派」もこの一派だ。) 彼らは、「市場原理」というものはあまり信じないが、「均衡」というものは神のごとく信じる。「何よりも均衡が大事だ。経済学の目的は均衡を得ることだ。均衡になれば自動的に最適な状態になる」と信じる。ま、その説は、ミクロ的な配分については正しい。パイの配分については正しい。ただし、彼らはさらに、「マクロ的にも均衡を得ることが大事だ。均衡を得ればマクロ的にも自動的に最適化する」と信じる。……しかし、実際にはそうではない。そのことを、前項で示したわけだ。つまり、「縮小均衡という均衡にいたろうとすれば、状況は改善するどころか、かえって悪化する」と。

 不良債権処理論者の特徴は、上記の2分類のうちの、後者に相当する。彼らは何よりも「均衡」を信じているから、「縮小均衡」をめざして、供給力を削減し、GDPを縮小させていくのである。批判者が「不良債権処理をすれば、失業者がどんどん増えて景気はさらに悪化する」と主張しても、「GDPが縮小しても、均衡に近づくのだから、経済は正常化していくのだ」と信じる。あくまで、「均衡」を「生産量」に優先させる。そうして、彼らは確信犯的に、GDPを縮小させる。つまり、不況を悪化させる。── 要するに、彼らにとっては、「不況が深刻化する」というのは、歓迎するべき自体なのである。不況が深刻化すればするほど、均衡に近づくからだ。GDPの縮小にともなって、企業がどんどん倒産し、労働者がどんどん失業していく。それを見て、不良債権処理論者は、「万歳! 景気は正常化していく!」と大喜びするのだ。
 結局、「縮小均衡とは何か」ということを、本質的に理解していないから、彼らは日本が破滅に向かっていくのを見て、喜ぶのである。


● ニュースと感想  (3月04日)

 前項の続き。
 「付記」の形で、いくつか追加しておく。

 [ 付記 1 ]
 不良債権処理論者の信じる「均衡」が、なぜいけないか? それは、前項 (1) の「賃下げ」のところで述べたとおりだ。「生産量の縮小をともなう均衡をめざす」というのは、「途上国化していくこと」だからだ。「途上国では、生産量が縮小しているが、均衡状態にある。それはすばらしい」というわけだ。
 本人は自覚していないのかもしれないが、彼らがめざしているのは、「低賃金・低所得」だ。「どんなにひどい状況になっても、どんなに低賃金・低所得になっても、均衡でさえあれば、それは天国だ」と信じているのだ。
 これはもはや、狂信的な宗教的信仰も同然である。彼らの信じる神の名を、「均衡」と呼ぶ。そして、今の日本は、この新興宗教のもとで、「不良債権処理」を実行し、彼らの信じる天国(本当は地獄)へと、状況を導こうとしているのである。
 不良債権処理論者は、「当面は苦しくとも、将来は極楽だ」と唱える。それは、他の宗教が、「現世は苦しくとも、来世は極楽だ」と唱えるのに似ている。……どちらにしても、一方的な信仰だけがあって、経済学的な論理などはない。

 [ 付記 2 ]
 「不良債権処理」の推進論者は、間違っている。では、「不良債権処理」の反対論者は、正しいか? 実は、そうも言えない。結論は正しいとしても、論理が不十分だからだ。
 「不良債権処理」の反対論者は、「そんなことをすれば景気はますます悪化する。失業も倒産もますます増える」と主張する。その主張自体は正しい。しかし、そこには、論理が欠けているのである。
 反対論者示すのは、論理ではなくて、統計的な数字だ。「これこれのようなデータがある」という実証的なデータだ。なるほど、それはそれで、有益だ。しかし、データだけでは、物事の本質をつかめない。
 物理学で言えば、実験的なデータをいくら集めても、物事の本質はわからない。どうしてそういうデータが出るのかを、理解できない。物事の本質を示すには、理論が必要だ。
 そして、その理論を、前々項が示したのである。つまり、「縮小均衡の意味はこれこれだ」と解明したのである。
 ここに、修正ケインズモデルの大きな意義がある。

 [ 付記 3 ]
 前項 (2) の初めでは、「不良債権処理」論者の意見として、次のことを示した。(4つのうちの、初めの2つ。)
 これが間違っていることを、たとえ話で示そう。
 学校のクラスで、風邪が流行っている。多くの生徒が病人になった。(企業で言えば、劣悪になった。)
 ここで、普通の医者は、「病気を治せ」と主張して、治療薬を与えた。
 一方、不良債権処理論者は、こう主張した。「病人は劣悪だ。劣悪な生徒を、みんな殺してしまえ。そうすれば、残った生徒は、優秀な生徒だけとなる」と。さらには、こう主張した。「いったん優秀な生徒だけとなれば、優秀な生徒だけが子供を産むので、優良な生徒の数が増える。かくて、劣悪な生徒が死んだ分を埋め合わせることができる。これで、万事解決」と。かくて、彼らは、「劣悪生徒処理」と称して、次々と毒薬を与えた。
 さて。ここで本質的に考えると、事態はどうであったか?
 そもそも、生徒が風邪を引いたのは、生徒が劣悪だったからではなかった。教師(政府)が教室に水をぶちまいたのが原因であった。間違っていたのは、生徒ではなく、教師だったのだ。また、病気になったのは、一部の生徒だけではなくて、ほとんどの生徒だった。「劣悪な生徒を排除せよ」という言い分を実施したら、クラスの大部分が死んでしまうことになる。また、そもそも、生徒が病気だからといって、いきなり殺してしまうというのは、あまりにも暴論だ。一時的に病気になったなら、病気を治せばいいだけだ。いきなり殺してしまえというのは、あまりにも狂気的だ。また、一人を殺したあと、人手が足りないから、新たに一人を生む、というのは無駄である。「穴を掘って埋める」のと同じだ。だったら、最初から殺さない方が、よほど無駄がない。
 「病人は、病気を治して、健康にする」のが正しい。「病人を殺してしまえ」という不良債権処理論者の主張は、あまりにもメチャクチャなのである。

 [ 付記 4 ]
 不良債権処理論者は、「均衡」ばかりを妄信するせいで、「市場原理」というものを正しく理解できない。そのことを示そう。
 「需給曲線」を見ると、「需要が縮小すると、均衡点が移動して、均衡点の価格と数量が減る」とわかる。
 それが意味することは、「経済が縮小すると、劣者が退場する」ということだ。そして、それを言い換えれば、「経済が拡大すると、劣者が参入する」というふうになる。
 このことが大事だ。経済が拡大したときには、優者が拡大するよりは、劣者が参入するのだ。なぜ? それは、劣者が「低利益」でも市場に参入できるようになるからだ。それ以前では、劣者は、採算ラインが高いので、市場価格では「赤字」を出すので、参入できなかった。しかし、経済が拡大すると、市場価格が上がるので、採算割れを脱するから、低利益ながらも市場に参入できる。
 では、そういうことの是非は? 実は、劣者が市場に参入するのは、好ましいことだ。一見、好ましくないようにも見えるが、本当は、好ましいのだ。なぜなら、ここで参入するのは、「遊休していた設備と人員」だからである。これらは、働かないで遊んでいたのが、働くようになった。たとえ十分な利益は出せないとしても、働かないよりは、働いた方がいいのだ。
 彼らは、劣者である(採算ラインが高い)ゆえに、低利益・低賃金を甘受しなくてはならない。そういう意味で、待遇は悪い。しかし、待遇の悪さは、彼ら自身が負っているのだ。消費者が負っているわけではない。彼らがどんなに劣悪であろうと、その劣悪さによる不利益を負担しているのは、彼らであって、社会全体ではない。そして、彼らがどうにも不利益(低賃金・低収益)に耐えきれなくなったら、市場を離れて、生産活動を停止すればよい。
 こういうふうに、「低賃金・低収益を避ける」という形で、劣悪な企業は縮小し、かわりに、優良な(高賃金・高収益)の企業が拡大する。劣悪な者から、優良なものへと、交替が進む。しかし、それはあくまで、供給側が「利益の大小」を見て、自己判断するべきことなのである。政府が勝手に「おまえは邪魔だ」と介入するべきではないのだ。そういう介入は、状況を悪化させる。
 たとえば、供給側の企業が、「たとえ低賃金・低収益でも、遊んでいるよりもマシだ」と思えば、そこで参入した方がいい。どんなに低所得でも、所得ゼロよりはマシだ。なのに、ここで政府が介入して、「おまえは劣悪だから市場から出ていけ」と強引に市場から退出させるのは、状況を悪化させるだけだ。市場原理の働くところには、政府は介入するべきではないのだ。
 ミクロ的な資源配分の問題は、あくまで市場原理によってミクロ的に解決するのが正しい。政府はそこに介入するべきではない。政府がなすべきことは、マクロ的なGDPの管理だけだ。── この根本を理解することが大切だ。
( ※ もう少し、解説しておこう。不良債権処理論者は、「市場原理がうまく働かないから、政府が介入して、市場原理を阻害する邪魔物を除去せよ」と主張する。しかし、本当は、邪魔物などはない。市場原理が正常に成立しないのは、邪魔物があるせいではなくて、状況が不均衡になっているからだ。なのに、彼らは、そのことを理解できない。彼らはあくまで「均衡」を信じているので、「不均衡による阻害」という認識ができないのだ。……トリオモデルの「下限直線」を理解すれば、「不均衡とは何か」を理解できるはずなのだが。とはいえ、宗教に凝り固まった人間は、洗脳されたも同然なので、真実に目を開くことは不可能なのだろう。行けに、彼らは常に、「均衡」という神を妄信するのである。)


● ニュースと感想  (3月04日b)

 北朝鮮とステルスの話題を追記した。 → 該当箇所 ( 2月22日e 【 追記 2 】)


● ニュースと感想  (3月05日)

 「所得の効果」について。
 話を少し戻そう。3月01日 では、「修正ケインズモデル」について解説したが、その (2) では、「所得の効果が大事である」と強調した。これに関連して、時事的な話を少し述べる。マネタリズム批判である。(前に述べたことの再論ふうになるので、特に読まなくてもよい。ただし、大事な話である。)

 マネタリズム批判として、「貨幣供給量の増大による物価上昇をめざすというのはダメだ」と何度も批判してきた。なぜかと言えば、貨幣供給量の増大を実施しても、資金は実物市場には出回らず、滞留するだけだからだ。そして、その滞留する資金が、あとで突発的にハイパーインフレを起こす危険がある。だから、「滞留する資金をどんどん増やそう」とする政策は無効かつ有害であり、なすべきことはむしろ、「滞留する資金を実物経済に出回るようにさせること」なのである。それが「減税」だ。  ここまでは、すでに述べてきたことだ。
 さて。ここで、「所得の効果」と関連させて、別のことを言っておこう。それは、「所得増加なしの物価上昇は、逆効果である」ということだ。

 マネタリストは、「物価上昇があれば、インフレの効果が出て、消費が増える」と主張する。彼らはいかにも堂々と主張するが、これは完全な間違いである。
 彼らは「物価上昇が起こる状態は、インフレである」と勝手に信じ込んでいる。とんでもない勘違いだ。「物価上昇が起こる状態」には、「インフレ」と「スタグフレーション」の2種類がある。
 では、その違いは? それは、こうだ。
 インフレとは、物価上昇があるだけでなく、それにふさわしい所得の上昇がある場合だ。たとえ物価上昇があっても、所得の上昇があれば、物価上昇の効果は減殺されるから、人々の生活は貧しくならない。とすれば、「物価が上昇する前に買った方が得だ」という「消費の先取り効果」が発生する。(これは、マネタリストの想定通り。)
 スタグフレーションとは、物価上昇があっても、それにふさわしい所得の上昇がない場合だ。物価上昇があるのにも、所得の上昇が不足するから、実質所得は減少してしまって、人々の生活は貧しくなる。とすれば、「物価が上昇する前に買った方が得だ」という「消費の先取り効果」は発生しない。耐久消費財についてなら、そういう先取り効果はいくらかはあるだろう。しかし、現実には、物価上昇につれて、この先の実質所得がどんどん減少していくのだ。とすれば、将来の日常生活費をまかなうため、現在の消費を切りつめるしかない。なぜなら、電気や食料やサービスなどは、来年の分を今のうちに消費することはできないからだ。かくて、将来の所得減少を見込んだ「消費の切りつめ」によって、現在の消費性向は、上がるどころか、下がってしまう。(これは、マネタリストの想定とは正反対だ。)

 結局、両者を分けるのは、「所得増加があるかどうか」だ。では、所得の増加は、実際には、あるのかどうか?
 それは、そのときの状況に依拠する。そのときに企業が黒字経営ならば、企業は物価上昇の分の賃上げを実施できる。当然だ。(しなければストで、かえって損をする。)
 一方、そのときに企業が赤字経営ならば、企業は赤字を避けるために、物価上昇に乗じて、これ幸いとばかり、実質賃金の切り下げをする。

 では、デフレのときには? もちろん、企業は赤字だ。となれば、たとえ物価上昇があっても、経営が黒字になるまでは、賃上げをしない。少しはするかもしれないが、物価上昇率よりは低めにして、実質的な賃下げをする。「デフレのときには、賃金の下方硬直性のせいで、名目賃金を下げることができなかった。しかし今や、物価上昇率がプラスになったのだから、賃金の下方硬直性もなくなったわけだし、実質賃金を切り下げることができる」というわけだ。

 かくて、実質賃金の低下が発生する。つまり、所得の減少が発生する。すると、修正ケインズモデルにしたがって、循環的な過程をたどるスパイラル効果が発生する。かくて、生産量と実質所得は、さらに低下していく。── こういう状態は、「物価上昇のもとでの不況」という状態であるから、まさしく、スタグフレーションである。
 つまり、こうだ。マネタリストは「貨幣供給量の増大による物価上昇」という説を主張する。なるほど彼らの言うように、量的緩和はいつか物価上昇をもたらすかもしれない。が、だとしても、物価上昇は、生産量の増大をもたらすのではなくて、生産量の縮小をもたらすのである。つまり、インフレをもたらすのではなく、スタグフレーションをもたらすのである。(物価上昇の分、「実質所得の減少」があるせいで。)

 では、スタグフレーションは、デフレと比べて、良いか悪いか? 実は、両面がある。
  1.  投資をする企業にとっては、物価上昇率の分、「実質金利の低下」という効果があるので、である。(クルーグマンの「マイナスの金利」説が成立する。)
  2.  耐久消費財の先食い消費をする人にとっても、投資をする場合と同じで、物価上昇率の分、である。(クルーグマンの「マイナスの金利」説が成立する。)
  3.  日常的な消費をする人々にとっては、物価上昇の分、実質所得の減少が起こるので、である。
 この三つの総合的な帳尻は、どうか?
 不況のときには、初めの二つは、ろくに効果がない。企業は、(もともと遊休設備をかかえているので)投資意欲が弱い。消費者も、(娯楽的な不要不急の)耐久消費財を買うほどの余裕はなく、日常的な必須の生活費をまかなうのに四苦八苦しているありさまである。となると、3番目の効果ばかりが強く出る。
 また、1番目の「投資拡大」という効果は、当初はうまく行っても、やがては「供給過剰」という状況をさらに悪化させるから、いっそう需給ギャップを拡大させる。そのせいで、景気を冷え込ませる結果となる。それというのも、いくら投資を増やしても、消費は冷え込むばかりだからだ。(下手をすれば、増えた投資の分は、すべて不良債権となって、莫大な赤字が発生する。)

 結局、こうだ。インフレのときには、物価上昇は生産量拡大の効果があるだろうが、デフレのときには、物価上昇は生産量拡大の効果がないのだ。むしろ、逆効果さえある。(物価上昇による、生産量の縮小。)
 マネタリストの処方(デフレのときの貨幣供給量増大)は、たとえ目論見どおりに、物価上昇を起こすことができたとしても、生産量に対しては、拡大よりも縮小の効果の方が強い。つまり、スタグフレーションをもたらす。これは、単なるデフレ(つまり物価下落のある生産量の縮小)に比べると、物価上昇が起こる分、所得縮小と生産量縮小がさらに悪化するわけで、その分、状況はいっそう悪くなる。

 結語。
 「所得上昇のない物価上昇」は、現状を改善するどころか、逆に、悪化させる。つまり、インフレをもたらすのではなく、スタグフレーションをもたらす。そして、マネタリストがそのことに気づかないのは、「所得の効果」を理解できないからなのである。

 [ 付記 1 ]
 以上のように説明しても、まだ納得できないマネタリストもいるだろう。そこで、わかりやすい例を示す。それは「輸入インフレ」だ。
 最近、イラク攻撃への懸念がひろがるにつれて、原油価格が暴騰している。日本から産油国へ、多大な金が流れていく。で、どうなるか?
 原油価格が上がれば、輸入インフレ効果がある。物価上昇の効果がある。マネタリストならば、「これで物価上昇が起こるから、消費は促進されるぞ」と喜ぶだろう。しかし、である。このとき、多大な金が流れていくにともなって、富を奪われるわけだ。それだけ損をしているわけだ。喜ぶどころか、悲しむべき事態だ。
 本質を見つめよう。輸入インフレでは、物価が上昇しても、所得は減るのだ。というか、物価が上昇した分だけ、きっちりと所得が減るのだ。(その分が、産油国に流れる。)
 こういうふうに「物価上昇によって所得が奪われる」という効果が発生した場合、実質所得の減少が起こる。そして、GDPは縮小する。景気は、良くなるどころか、悪くなる。こういうふうに、「所得の効果」がある。ここが核心だ。
 この核心を理解しない人が、次のようなことを言う。
  ・ 「中国の安い製品のせいで、輸入デフレが起こる」
  ・ 「物価上昇があると、需要が増えて、景気が良くなる」
 いずれも、とんでもない間違いだ、とわかる。その間違いに気づかない人は、「原油価格の暴騰、万歳!」と叫べばいいのだ。そして産油国にどんどん金を奪わればいいのだ。「もっと原油価格を暴騰させてくれ。そうすれば日本の物価はどんどん上がる。そうすればデフレを脱出できる」と。
 金を奪われて喜ぶのは、マネタリストだけである。

 [ 付記 2 ]
 「輸入インフレとは話は違うぞ。国内だけを考えているのだから」とマネタリストは反論するだろう。そこで、指摘しておく。実は、国内だけを考えていても、輸入インフレと同じなのである。なぜか?
 それは、物価上昇によって、「実質賃金の低下」が発生するからだ。これは、総需要の縮小をもたらす。では、「実質賃金の低下」によって浮いた金を、企業は、どうするか? 本来ならば、投資に回して、消費の減少を投資の増大が補うはずだ。しかし、不況という不均衡のときには、そうならない。どうせ消費が増えないのだから、企業は投資を増やさない。だから、「実質賃金の低下」によって浮いた金は、単に「滞留」に回るだけだ。
 結局、金も設備も人員も、遊休する部分ばかりが増えて、生産する部分はどんどん縮小していくのである。富は、外国に奪われるかわりに、眠るのである。
 たとえれば、手や足を、次々と怪獣に食われてしまうかわりに、次々とマヒ薬でマヒされていくわけだ。いずれにせよ、健康な部分は、次々と縮小していく。どちらにしても、大差はない。先にあるのは、死のみである。
 正しい策は、「健康な部分を拡大すること」つまり「生産量を増やすこと」である。そして、そのためには、「消費を増やすこと」をもたらすように、「所得を増やすこと」が必要なのだ。「デフレスパイラルをインフレスパイラルに変える」ためには、所得というものを注ぐ必要があるのだ。

 [ 余談 ]
 とにかく、マネタリストには、「ない袖は振れない」と言っておきたい。いくらマネタリストが対策をしても、財布に金がない限り、国民は消費を増やさないのだ。たとえ「物価上昇がありますよ」と脅迫されようが、「ない袖は振れない」のである。「脅迫すれば、国民は政府の言うことを聞くだろう」と思うのは、ブッシュやフセインの発想である。ふん。独裁者の言うことに、国民が従うと思ったら、とんでもない間違いだ。マネタリストには、そう警告しておこう。

 [ 補足 1 ]
 本項で述べたことは、簡単に言うと、こうだ。
 「量的緩和をすると、最も楽観的な場合には、ちゃんと効果が出て、物価は上昇するかもしれない。しかし、そうなったとしても、問題は解決しない。物価上昇によってデフレはストップするだろうが、デフレがスタグフレーションになるだけであり、状況はいっそう悪化するだけだ。大切なのは、物価がどうのこうのという貨幣的なことではない。生産量の増大こそ必要なのだ。」
 「なのにマネタリストは、生産量も所得も考慮せずに、単に価格面ばかりを見ていて、それで物事が解決すると思い込んでいる。平常経済であるときに物価上昇で生産量が上昇するからといって、不況であるときにも物価上昇で生産量が上昇すると思い込んでいる。平常経済であるときに物価上昇でインフレになるからと言って、スタグフレーションであるときにも物価上昇でインフレになると思い込んでいる。」

 [ 補足 2 ]
 本項では、マネタリズムの主張を否定している。つまり、こうだ。
 「『デフレは貨幣的な現象だ』というマネタリズムの主張は、正しくない」
 「デフレとは、単に物価が下がることではなく、生産量が縮小することだ。つまり、需要や実質所得が縮小することだ」
 「もし、デフレが貨幣的な現象にすぎないとすれば、物価を上昇させればよい。つまり、スタグフレーションを起こせばよい。それには、輸入インフレを起こせばよい。つまり、莫大な金を、産油国にプレゼントすればよい。そうすれば、スタグフレーションとなる。物価はどんどん上がり、実質所得はどんどん減少する。── そういうことが好ましいかどうか、よく考えてみるがいい。」

( ※ とにかく、デフレとは、「物価の下落」のことではなくて、「生産量の縮小」のことなのである。そして、「生産量の縮小」という問題を解決するには、貨幣的に「貨幣価値の下落」を起こすだけではダメで、「所得の向上」が必要なのだ。また、「貨幣価値の下落」は、当面は「所得の下落」の効果ばかりがあるから、逆効果なのだ。)


● ニュースと感想  (3月06日)

 前項の続き。
 「2種類のスタグフレーション」について。
 前項で述べたことの補足として、関連する話を述べておこう。(話は少し本筋から離れる。特に読まなくてもいいが、しかし、とても重要な話である。)
 前項で述べたことを理解しよう。すると、スタグフレーションには、次の2種類があるとわかる。
  1.   均衡 状態におけるスタグフレーション
  2.  不均衡状態におけるスタグフレーション
 この a の方は、すでに何度か述べたことのあるもので、普通のスタグフレーションである。ここでは、特に需給ギャップは生じていない。
 この b の方は、前項で述べたもので、やや特殊なスタグフレーションである。ここでは、需給ギャップが生じている。
 その違いは、どこにあるか? 次のようになる。
  1.  均衡状態では、需要過剰ないし生産不足がある。そのせいで、物価上昇が起こるが、それを制御しようとして、高金利にすると、ますます生産不足になる。悪循環に陥り、状況からの脱出が困難となる。
     だから正解は、「低金利 + 増税」である。すると、「生産拡大 + 需要縮小」が起こる。前者によって(供給要因の生産量不足による)失業問題を解決し、後者によって(ワルラス的な)物価上昇を抑制する。
  2.  不均衡状態では、需要不足ないし生産過剰がある。だから本来は、物価下落が起こるはずだ。なのに、物価下落が起こらないとしたら、「貨幣数量説的なインフレ」が発生しているせいである。つまり、「過剰な量的緩和」の結果として、物価上昇が起こる。そして、ここが肝心なのだが、たとえ物価上昇が起こっても、(所得不足のせいで)需要不足ないし生産過剰は解決されないのである。むしろ、その傾向がさらに拡大するのである。悪循環に陥り、状況からの脱出が困難となる。
     だから正解は、「ゼロ金利解除 + 減税」である。すると、「量的緩和停止 + 需要拡大」が起こる。前者によって(貨幣数量説的な)物価上昇を抑制し、後者によって(需要要因の生産量不足による)失業問題を解決する。
 以上の二つを比べてみると、正解となる対策は、まったく正反対となる。同じく「スタグフレーション」と呼ばれる現象であっても、原因も対策も正反対となるわけだ。物事の表面だけを見てもダメだ、という見本である。

 なお、本質的にいえば、どちらも「生産量の不足」という根本原因がある。これが状況を悪化させている。その上で、次の違いがある。
  1.  物価上昇のせいで、金利を下げられない状態である。生産量が低い水準のまま維持されている。
  2.  物価上昇の分だけ、実質所得が減少する。貨幣の滞留する分が増えるので、その結果、生産量はますます減少していく。
 前者の原因は、たいてい、「過去の借金のツケ払い」または「外国からの輸入インフレ」である。マイナス原因が押し寄せたとき、正しい対策を取れなかったことで、スタグフレーションが発生する。
 後者の原因は、過剰な量的緩和である。もともとは単なるデフレにすぎなかった。なのに、マネタリストの妄想によって、あえて状況を悪化させる。「あそこは天国だ」と信じて、地獄に向かって突進するようなものだ。

 [ 補説 ]
 もう少し考えて、本質を見抜くことにしよう。
 上記の二つのことを玩味しよう。すると、スタグフレーションの本質がわかる。スタグフレーションは、「金融政策の効果と、需給の効果との、せめぎあいによって生まれたもの」なのである。
 a の方は、「需給はインフレ」で、「金融政策は緊縮(超高金利)」である。
 b の方は、「需給はデフレ」で、「金融政策は緩和(貨幣数量説的なインフレ)」である。
 そういうふうに、需給と金融とで、二つの相反する力が働く。そして、その二つの力が、うまく調整されずに、アンバランスになる結果、「物価面では好況、雇用面では不況」という、一種のまだら模様となるわけだ。それも、悪い方向で。
 本来望ましいのは、「物価面では不況、雇用面では好況」という状況であり、これは、スタグフレーションとは正反対である。だから、上記の ab とも、その偏った状態を知って、その偏りを直せば、正しい状況に戻る。
 たとえて言おう。綱渡りのとき、右に傾きすぎても、左に傾きすぎても、落ちてしまう。「落ちる」という結果は、同じである。しかし原因は、正反対だ。正しい対策は、「右に傾いたときには左に戻すこと」であり、「左に傾いたときには右に戻すこと」である。単純に「右にしろ」とか、「左にしろ」とか、同じことを言ってもダメなのだ。状況に応じて、対策を変える必要があるのだ。
 そして、このことを理解しないのが、マネタリストだ。「物価が上がれば金融緊縮」、「物価が下がれば金融緩和」と、馬鹿のひとつ覚えのように叫ぶ。物事を金融という半面だけで理解するばかりで、需給という半面で理解することができない。(換言すれば、ケインズ的な理解ができない。)
 だからこそ、マネタリストは、スタグフレーションの状況で、常に失敗を重ねてきたのである。彼らの失敗した例は、歴史上に、山のようにある。そして、その総本山は、IMFだ。「自らのたどった道を振り返れ!」と彼らに忠告しよう。

 なお、もう少し正確に解説しておこう。
 需要と金融とで、それぞれ偏りが生じる。このとき、「需要の偏りがあるなら、金融の偏りを逆方向に加えることで、両方を中和すればいい。毒を消すには、逆方向の毒を加えよ」と考えるのが、マネタリストだ。そして、その結果、二つの相反する力に引っぱられて、真ん中にいる景気が左右に引き裂かれてしまう。それが「スタグフレーション」という状況だ。一方、「毒を消すには、毒そのものをなくせばいい」と考えるのが、私だ。この場合、左右に引く力そのものが解消する。
 マネタリストは、物事を貨幣だけで考える。彼らの頭には、デフレとインフレしかない。ゆえに、「デフレを解決するには、物価上昇を起こせばいい」と平気で主張する。つまり、彼らの頭には、スタグフレーションという概念がすっぽりと抜けているのである。

 [ 付記 ]
 量的緩和と不良債権処理との関連を述べよう。
 量的緩和論者と不良債権処理論者とは、実は、兄弟関係にあるのである。量的緩和論者は、不良債権処理論者を批判することが多いが、実は、これは近親憎悪にすぎない。どちらも「金融至上主義」という家族の兄弟なのだ。
 どちらにしても、不況の責任をすべて金融のせいにしている。しかし、本当は、どうか? 投資不足の原因は、資金不足ではなくて、消費不足である。消費不足の原因は、所得の不足のせいである。そして、ここが根源なのだから、金をつぎこむならば、ここにつぎこむべきなのだ。しかも、ここ(国民)につぎこんだ金は、将来、確実に返してもらえる。なぜなら、国民が全員死ぬことはないのだから。
 しかるに、不良債権処理では、どうか? 倒産企業の処理なんかに金をつぎこんでも、金を返してもらえる保証はない。量的緩和では、どうか? ゼロ金利でも金を借りられない企業に、無理矢理金を貸しても、金を返してもらえる保証がない。不良債権になるのがオチだ。
 要するに、こうだ。「量的緩和論者が金を貸し出す」 → 「その金が不良債権処理になった分の赤字を、不良債権処理論者が国民の金で埋める」。
 かくて、両者が力をあわせて、莫大な金を捨てていることになる。どちらも金融家族の兄弟だからである。一見、喧嘩しあっているようだが、やっていることは共同作業なのだ。血は争えない。


● ニュースと感想  (3月06日b)

 時事的な話題。「マイナスの市場金利」について。
 「マイナスの市場金利」がすでに実現しているという。ちょっと面倒な話だが、記しておこう。
 これは、為替先物取引の効果による。ドルが(物価上昇などで)先行きの下落が見込めていると、為替先物取引では円高傾向となる。そこで、円を借りて、いったんドルに替えてから、将来は円で返すと、最初と最後をつなげてみると円市場の話なので、金利はゼロ。一方、取引相手から見ると、先物取引の差額を手に入れる。ここで、と引き相手の方は、その差額が金利 1.5% で、かつ、ドルの市場金利が 1.3 だと、差し引きして 0.2% の利益となる。これは通常、「ジャパンプレミアム」と見なされるものだ。ところで、この 0.2% の利益を生む金は、円で運用されている。だから、この円をたとえマイナス 0.05% の金利で運用しても、差し引き 0.15% の利益を生むことができる。……というわけだ。(読売・朝刊・経済面・コラム 2003-03-03 )

 これは、日銀の金利操作によるものではなくて、為替先物取引によるものだ。一般的に「マイナスの金利」が出現しているわけではない。とはいえ、こういう「マイナスの金利」が現実に出現しているということは、まさしく、量的緩和が行き過ぎて、市場が不健全に歪んでいることを示す。

 [ 付記 ]
 この話の本質は、何か? 「無駄に滞留する金が莫大になっている」ということだ。そのせいで、この無駄な金を、変な方法で運用しようとする動きが出てくるわけだ。「金は健全に運用される」とか、「資源は最適に運用される」とかいう、古典派の原理(「市場原理」や「パレート最適」)とは正反対の結果となる。
 もはや古典派の主張は完全に成立しなくなっている。彼らの前提とする均衡という状態は消えて、不均衡という状態が非常に拡大してきている。そのことを理解しよう。


● ニュースと感想  (3月07日)

 3月05日の関連。マネタリズムへの批判。
 マネタリストは、「貨幣供給量を増やせば物価が上がる」というのを基本としている。貨幣数量説だ。
 しかし、である。貨幣数量説が成立するのならば、これまでの量的緩和によって、実際に物価上昇が発生しているはずなのだ。すでに旧来の2倍の水準にまで貨幣数量が増えているのだから。
 現実には、貨幣数量が2倍になっても、物価は少しも上昇しない。つまり、貨幣数量説は成立しない。今のマネタリストは、「貨幣数量説が成立しない」という現実を前提として、「貨幣数量説が成立する」という主張を結論としている。論理体に自己矛盾を含む。
( ※ 正解は? 「貨幣数量説は、均衡状態ではおおむね正しいが、不均衡状態ではまったく成立しない」だ。その理由は、「貨幣数量説の外にある滞留が発生するから」だ。)

 [ 付記 1 ]
 マネタリストのなかで素朴な誤解を示しておく。それは、こうだ。
 「マネーをたくさん供給すれば、いつかは量的緩和の効果が出るはずだ。何百兆円も出しても効果がないということはありえない。いつかはきっと、徐々に効果が出るはずだ」と。
 これは、「世界は連続である」という非科学的な考え方による。現実には、そんなことはない。たとえば、下りの斜面に石があるとする。力をどんどん加えても、石はまったく動かない。そして、あるとき突然、滑り始めて、暴走する。こういうふうに、不連続的なことがあるのだ。( → 1月31日b
 つまり、「徐々に効果が出る」のではなく、「突然効果が出る」のだ。こういう突発的な変化は、不均衡における特有の現象である。均衡状態では、いくらか差が生じれば、その差はすばやく埋められていくので、状態は徐々に変化する。しかし、不均衡状態では、そうではない。しばらく同じ状態が続いて、あるとき突発的な変化が生じるのである。
 では、正しい策は? もちろん、不均衡状態を解消することだ。石が滑らないときには、石を滑らせなくしている原因(摩擦 or 固定材)を取り除くことだ。それが本質的である。一方、「石が動かなければ、力をどんどん加えてやれ」というのは、突発的な変動を大きくするだけであり、かえって危険が大きいのだ。わかりやすい例で言えば、地震だ。今、関東・東海で、大震災の前の地殻の歪みがたまっている。こういうとき、好ましいのは、「小さな地震が何度か起こって、地殻の歪みを解放する」ということである。逆に、まずいのは、「地震が起こらないのなら、力をもっと加えよ。地震が起こるまで、どんどん地殻の歪みを増やせ」ということだ。

 経済に戻って言えば、こうなる。「量的緩和は、当面は効果がまったくない。しかし、莫大な量的緩和をすると、あるとき突然、ハイパーインフレが発生して、暴走する」 ( → 2月03日b
 だから、正しい策は、「量的緩和の規模を大きくすること」ではなくて、「量的緩和の効果を実際に発現させること」、つまり、「減税によって需要を拡大すること」なのである。
 思い出そう。そもそも、マネタリストはかつて、こう言っていた。「量的緩和がまったく効果がないということはない。何十兆円も量的緩和をやれば、少しぐらいは効果が出るはずだ」と。
 しかし、現実には、そうなっていない。何十兆円も量的緩和をやったのに、少しも効果が出ていない。効果は、不足しているのではなく、ゼロ(またはマイナス)なのだ。
 古典派経済学者の「世界は連続である」という非科学的な考え方ほど、有害なものはない。それは誤った前提となる。そして、真実を見る目を歪ませる。「世界は不連続のこともある」「世界は均衡状態のこともあるが、不均衡状態のこともある」と理解するのが大切だ。 ( → 2月27日

( ※ それにしても、「何百兆円も量的緩和して、効果が出ないはずがない」なんて粗雑な発想には、まったく呆れる。経済学者ならば、「これこれの量的緩和で、これこれの効果だ」と正確に示すべきだ。たとえば、「30兆円の量的緩和で、3%の物価上昇」というふうに。……ところが、彼らは、それができない。なぜなら、たちまち、現実に否定されてしまうからだ。「50兆円の量的緩和で、マイナス1%の物価上昇」というのが現実だからだ。というわけで、彼らは相も変わらず、勝手な夢想をほざくのである。「米国に行きたければ、東に行け。何万キロも東に行って、太平洋を渡れないはずがない」と叫んで、海に溺れるように。)

 [ 付記 2 ]
 マネタリストはやたらと、「貨幣、貨幣」と主張する。しかし、そういう説が、どういう結果を招いてきたか、過去の歴史を見るがいい。特に、物価上昇のときの処方だ。
 マネタリストの処方は、失敗のオンパレードだ。そして、今また日本で、別の失敗を繰り返そうとしている。
 その共通点は何か? 「経済を貨幣だけで考えること」つまり「実体経済としての生産量を無視すること」である。それだからこそ、彼らは、「物価上昇さえ引き起こせばいいのだ。生産量の縮小なんか知ったこっちゃない」と主張して、日本でスタグフレーションを引き起こそうとしているのである。
( ※ 「本当はインフレを狙っているんです」と主張しているだけ、タチが悪い。つまり、所得の向上がないのに、「所得の向上がありますよ」と吹聴しているわけで、ほとんどデマゴークである。彼らが言っているのは、「物価が上昇したら、企業はどんどん賃上げをしてくれます。たとえ赤字で倒産寸前でも賃上げをしてくれます。春闘の要求もないうちに企業が自発的に賃上げしてくれます」ということだ。大ボラ吹き。)


● ニュースと感想  (3月07日b)

 時事的な話題。「賃金デフレ」について。
 「日本の賃金水準が高すぎるから、企業の国際競争力が弱くなり、失業者が増える」という説がある。経団連あたりが主張している。さらに、新聞でも連載記事にしているところがある。(読売・朝刊・1面コラム 2003-03-04 〜 06 )
 しかし、これは、まったくのデタラメである。経済音痴の勘違いにすぎない。そのことを指摘しておく。

 基本としては、マクロ的な認識が必要だ。個別企業がどうのこうの、という問題ではないのだ。たしかに、論者の説明のような理由で、倒産する企業も出るし、失業者も出る。しかし、それは、マクロ的には何の意味もない。
 注目するべきは、賃金水準ではなくて、貿易収支だ。貿易収支が赤字ならば、国際競争力が減じていて、生産量が不足しており、労働機会も奪われている。こういう場合には、貿易収支を黒字にする必要がある。そのために、円安にする必要がある。すると、円安にともなって、賃金水準は自動的に下がる。……これが自然なあり方だ。経済学のイロハでもある。
 しかし、現実には、どうか? 貿易収支は、大幅な黒字だ。とすれば、対外的には、生産量が不足しているということはないし、労働機会が奪われているということもない。もちろん、貿易収支をさらに黒字にする必要もないし、円レートを円安にする必要もない。
 結局、今の倒産や失業は、対外要因とはまったく関係ないのである。純然たる国内要因の問題なのだ。国内問題にすぎないものを、対外要因に帰するのは、責任転嫁であり、論理の倒錯である。

 だいたい、論者の主張がおかしいことは、他のケースとの比較をすればわかる。
   ・ バブル期の日本との比較。
   ・ 現在の他国との比較。
 いずれにおいても、論者の主張は成立しない、とわかる。バブル期にも、日本の賃金水準は高かったが、日本の景気は非常に良かった。現在の他国も、中国よりは圧倒的に賃金水準が高いが、景気は日本ほど悪くない。

 結局、「賃金水準が高すぎるから」というのは、全然、理屈になっていないのだ。完全に間違った主張による、デタラメであり、世論を誤った方向に誘導するものでしかない。しかも、その誤った方向というのは、「デフレを悪化させる方向」だ。
 論者の主張するにように、「賃金水準を下げる」という方向に進めば、かえって企業の収益は悪化する。(「合成の誤謬」である。)

 先にも述べたが、デフレの本質とは、「生産量の縮小」なのである。そして、これを解決するためには、「所得の向上」が必要なのだ。なのに、「賃下げ」なんかをすれば、「総所得の減少」→「総需要の減少」→「総生産の減少」というふうになる。そうしてデフレをどんどん加速させる。
 マクロ的な認識こそ、何よりも大切なのだ。マクロ経済学のイロハを理解しよう。マクロ経済では、「狙ったこととは正反対のことが実現する」ということがある。そのことを理解することが大切だ。

 [ 補説 1 ]
 「賃金水準の高い国は、国際競争力が弱い」ということはない。その逆である。
 「賃金水準の高さ」は、「国際競争力の弱さ」を意味するのではなく、「国際競争力の強さ」を意味するのだ。ここのところを勘違いしている人が多い。
 国際競争力が強い国(たとえば日本)は、通貨高を通じて、賃金水準が高くなる。国際競争力が弱い国(たとえばフィリピン)は、通貨安を通じて、賃金水準が低くなる。だから、変動相場制のもとでは、賃金水準の高さと国際競争力の強さは、一致する。
 ただ、例外は、固定相場制の国だ。ここに注意しよう。
 「中国は低賃金だから、国際競争力が強い」という説があるが、まったくの間違いである。正しくは、こうだ。「中国は固定相場制のせいで、本来あるべき通貨相場よりも、現実の通貨相場の方が、元安になっている。つまり、ギャップがある。そのギャップの分だけ、国際競争力が強い。」
 つまり、中国の国際競争力が強いのは、絶対レベルとしての低賃金のせいではなくて、本来あるべき水準と比べて相対的に低賃金であるせいなのだ。この違いを理解しよう。
 なお、日本企業が賃下げをしても、無意味である。そのことで、国際競争力が強まるが、すると、円高となり、ドル換算で賃金が上がる。つまり、賃下げをすれば、賃上げが起こる。かくて、元の木阿弥となってしまう。

 [ 補説 2 ]
 「円高の是非」について、ついでに説明しておこう。
 「円高」というのは、「ドル表示の賃金の上昇」のことである。それは、企業にとっては不利だが、国民にとっては得である。強引な円高は、企業を倒産させるので好ましくないが、自然な円高ならば、国民にとって有益なのである。 ( → 6月01日12月07日 [ 付記 ] ,12月27日
 「円高では国際競争力がなくなる」と反対する企業もあるが、そういう企業は、さっさと市場から退場した方がいい。円高でも生き残れる企業だけが、存在する権利があるのだ。それが「市場原理」「優勝劣敗」である。
 すぐ上でも述べたが、「国際比較で日本の賃金が高い」というのは、単に円のレートを意味しているだけであり、日本の国際競争力の強さを意味しているだけだ。だから、「国際比較の日本の賃金」などを持ち出して、「賃下げをするべきだ」なんて主張するのは、本末転倒である。「日本の賃金が高い」というのは、「日本の競争力が強い」ということなのだから、それは、技術水準の高さを意味しているのであって、好ましいことなのだ。
 なお、上の [ 補説 1 ] の最後では、「賃下げをしても、その分、円高になるから、元の木阿弥だ」と述べた。実際、80年代には、そういう傾向があった。ただ、そのことの是非は、どうだろう? どっちにしても元の木阿弥ならば、賃下げは、してもしなくても、良し悪しは同じなのだろうか?
 実を言えば、賃下げよりは、賃上げの方が好ましい。賃上げをすると、どうなるか? 国際競争力の強い企業だけが賃上げをできて、他の企業は賃上げをできなくなる。国際競争力の強い企業には、優秀な労働者が集まり、劣悪な企業には、まともな労働者が寄りつかなくなる。かくて、自然に企業間の淘汰が進む。日本全体の効率化が進む。
 一方、賃上げをしないと、どうなるか? 賃金の格差が開かないまま、円高が進む。すると、国際競争力のある産業(自動車産業など)は円高で不利になる。その半面、国際競争力のない農業やサービス産業は、まったく不利にならないし、しかも、そこで働く人々は、円高のおこぼれをあずかって、実質賃金の上昇が起こって、幸福になる。結局、この場合は、強い産業が損をして、弱い産業が得をする。強い産業が得るべき利益が、「円高」を通じて、弱い産業に過度に分配される。つまり、「優勝劣敗」ならぬ「劣勝優敗」である。これは、好ましくない。
 なのに、こういうことをあえて進めようとするのが、当の自動車産業(トヨタ)の経営者だ。彼らはどんどん円高を招こうとしているわけで、自分で自分の首を絞めているのだ。呆れるほかはない。(思えば、昔も、似たことがあった。過度の輸出洪水をかけたすえ、課徴金を課されて、利益のほとんどを米国に奪われた。馬鹿丸出し。)
( ※ こういう経営者がいるから、トヨタというのは、会社の収益性が良くても、いつまでたってもブランドが確立できない。まったく、ひどい経営者だ。ソニーやホンダは、とっくに立派なブランドを確立したのに、はるかに規模の大きなトヨタは、まともなブランドを確立できない。高く売れるものを作ろうとするよりは、コストダウンばかりを狙ってセコセコとしている。そこに勤める労働者は、「働けど、働けど、なおわが暮らし、楽にならざり。じっと会社資金ばかりを貯める」である。)
( ※ トヨタの年間利益は、兆円のレベルだ。一方、春闘で賃上げをするのに必要な資金は、たったの十億円程度だ。その十億円程度をケチるために、ものすごいキャンペーンをやっている。そうやって日本経済をどんどん萎縮させていく。三流の田舎人の発想というのは、こういうものだ。)

 [ 参考 ]
 賃金の国際比較のデータには、いい加減なところが多い。だまされないように、注意しよう。
 「国際比較をすると、日本の賃金水準は高い。日本は一番高い」というようなことを主張する意見が出る。たいていは、デタラメである。
 賃金水準を見るには、どうすればいいか? 勝手なデータを信頼してはいけない。必要なものは、二つだ。(1) 国民所得 (2) 労働時間 ……この二つがあればいい。(産業別のデータがあれば、なお良い。)
 すると、どうなるか?
 (1) 国民所得は、日本は別に、世界トップではない。スイスやルクセンブルクの方がずっと高い。また、北欧諸国も日本と同程度に高い。英米独仏に比べると、日本の方が高いが、日本は別に世界トップではないのだ。なのに、恣意的に、日本が世界トップであるようなデータを出す人が多い。
 (2) 労働時間は、日本が上記の諸国のなかでは、非常に多い。特に欧州と比べると、圧倒的に労働時間が多い。ついでにいえば、サービス残業という、見えない労働時間まである。
 結局、両者を見れば、日本の労働コストが特に高いことはない、とわかる。読売の記事の見出しには、「日本の人件費は突出」なんでデカデカと活字になっているが、とんでもないデタラメである。
 なお、経団連の出したデータでは、「日本の労働コストがトップ」となっているが、これは、統計のゴマ化しによるものであると判明している。労組側(連合)の調査によると、このデータには欧米の側だけ、年休の分が所得として加算されていたらしい。実際には、該当産業で見ると、日本の賃金の方が低い。
 また、サービス残業の分を含めれば、実際の労働時間はさらに増えるはずから、ここでも統計のゴマ化しがある。
 とにかく、マクロ的に考えよう。同じ日本でも、現在の労働コストは、バブル期の労働コストよりも、大幅に下がっているはずだ。そして、バブル期には、今以上に高賃金であったが、失業者があふれるどころか、人手不足で困っていたのだ。

 [ 付記 1 ]
 読売の記事には、こうある。「安い人件費に引かれて、企業が中国へ進出するので、日本の雇用機会が奪われている」と。
 とんでもない勘違いである。こういう「中国デフレ説」がまったく成立しないのは、日本以外の欧米ではデフレになっていないことからも一目瞭然だ。
 ここでも、貿易収支を見るの形正しい。「安い人件費に引かれて、企業が中国へ進出するので、日本の貿易収支が悪化する(それだけ雇用が奪われる)」という現象は、たしかにある。しかし、日本の貿易収支は、黒字なのだ。「対外収支が原因で、失業者が増える」ということは、まったく成立しないのだ。特に、中国との関連で言えば、安価な雑貨類はどんどん輸入されているが、同時に、日本からは、高価な設備機械が大幅に輸出されている。日本と中国の貿易収支は、(台湾・香港経由の分を含めれば)、ほぼトントンである。日本は中国のせいで、失業者が増えているが、同時に、日本は中国のおかげで、雇用者が増えている。帳尻を見れば、貿易収支と同じく、ほぼトントンである。
 要するに、記事は、「右手で減って、左手で増えた」というときに、右手だけを見て、「減った、減った」と大騒ぎしているわけだ。はっきり言って、デタラメの誤報である。……もっとわかりやすく言えば、輸入と輸出があるとき、輸入の分だけを見て、「輸入で赤字が発生した!」と騒いでいるわけだ。輸出の分を無視しているわけだ。経済音痴の極み。

 [ 付記 2 ]
 読売の記事の最後には、エコノミストの主張として、こうある。「労働者は、高度な技術を持つ正社員と、そうでない非正社員とに2極分化するだろう」。
 なるほど、そうかもしれない。しかし、それは、非常に困った事態なのである。韓国でも、米国でも、正社員の数が激減していている。よく覚えていないが、韓国では国民の半数以上が、低賃金の非正社員になったらしい。
 しかし、「低賃金の非正社員」というのは、低技能のものであり、質の悪化をもたらす。そういうものこそ、途上国の人員に置き換えられやすい。
 日本がめざすべきことは、「国民を低賃金の非熟練者にすること」ではない。その逆だ。「国民を高賃金の熟練者にすること」なのだ。
 実際には、そのどちらも、選択可能である。前者は、縮小均衡の道。後者は、成長をともなう均衡の道。どちらでも均衡が可能だ。日本は、途上国として均衡することもできるし、先進国として均衡することもできる。そして、あえて「低賃金」の道を選ぶのであれば、日本はこの先、途上国として生きるしかなくなる。
 中国は今、せっせと「技術力増進」「内需拡大」をめざして、日本のようになろうとしている。一方、日本は、「社員の非熟練化」「低賃金による内需縮小」をめざして、中国のようになろうとしている。
 とすれば、そのうち、日本と中国は逆転するだろう。中国は先進国となって、高技術・高賃金となる。日本は途上国となって、低技術・低賃金となる。そして、そのとき、経団連やマスコミは、「中国よりも圧倒的に低賃金になったぞ。万歳!」と大喜びするのである。

 [ 余談 ]
 新聞は、「賃下げキャンペーン」なんかをするより、もっと大切なことがある。それは、「技術開発キャンペーン」だ。
 企業は今、目先の利益にとらわれる結果、研究開発費を削ってきている。そのせいで、質的にどんどん悪化してきている。「国際競争力をつけるためにはコストカットこそ必要だ」という理屈で、賃下げをしたり、研究開発費を削ったりしている。まったく間違っている。
 むしろ、高賃金で優秀な技術者を引きつけ、かつ、研究開発費を増額するべきなのだ。それこそ、国際競争力をつける方法である。
 本屋の店頭には、先端技術たる「有機EL」の開発を記した本がある。それを読んでみるといい。かつて液晶は、日本の独擅場だったが、今や韓国に負けている。次世代技術とされる有機ELも、ひところは日本の独走だったが、今や韓国に並ばれそうだ。それというのも、日本の研究開発費が少ないからだ。
 まったく、先が思いやられる。文部省は「ゆとり教育」で子供たちの学力を低下させ、企業とマスコミは「低賃金化」「低技術化」で日本経済の質を劣化させる。誰もかもが、日本を途上国化させようとする。

 [ おまけ ]
 まとめて言えば、こうだ。
 「賃金水準とは、円レートのことであるにすぎない。国際競争力が強いほど、円レートが上がって、名目上の賃金水準が上がる。それだけのことだ。……日本の賃金水準が高いのは、過去において、欧米以上に賃上げをしたからではなく、円レートが上がったからだ。ここを勘違いしてはならない」
 「円レートが高いとき、企業は、国際競争力を高めるには、技術開発力を高めればよい。一方、賃下げをしなくてはやっていけないような企業は、劣悪な企業なのだから、市場原理により、さっさと市場から退場した方がよい」
 「新聞記事は、『企業は技術開発力を高めよ』と書くべきだ。逆に、『賃下げをせよ』などという記事は、日本を劣悪化させようとする趣旨なのであるから、有害無益である」
 なお、どうしても賃金水準を国際比較したいのであれば、労働分配率を見るべきだ。日本の労働分配率は、他国よりも低めである。(不況期を除けば、明らかにそうだ。)そして、このことが、「消費不足」を招いて、景気を悪化させやすくするのである。






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「小泉の波立ち」
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