[付録] ニュースと感想 (45)

[ 2003.3.26 〜 2003.4.06 ]   

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● ニュースと感想  (3月26日)

 このあとまた、モデルについての話をする。
 本日分(次項)は、とりあえず、既述分のまとめ。
 明日からまた、本格的に始まる。


● ニュースと感想  (3月26日b)

 基本的なことを、まとめておこう。修正ケインズモデルを、古典派およびケインズ派の意見と、対比する。(前に述べたことのまとめ。初歩的な話。)

 (1) 古典派との違い
 (2) ケインズ派との違い
 以上をまとめれば、こうだ。
   ・ 均衡状態には、古典派の主張が当てはまるように見える。
   ・ 不均衡状態には、ケインズ派の主張が当てはまるように見える。
 しかし、古典派もケインズ派も、いわば、光の「粒子説」と「波動説」のようなものだ。あるときには一方が正しく見え、あるときには他方が正しく見えるが、しょせん、どちらも不正確なのである。
 たとえば、均衡状態でも、古典派の主張が正しくない場合がある。(スタグフレーションがそうだ。) また、不均衡状態でも、ケインズ派の主張が正しくない場合がある。(「公共事業」とか「穴を掘って埋める」とかいうのがそうだ。)
 古典派もケインズ派も、しょせんは、不正確な理論なのである。古典派の信じる「需給曲線」のモデルは、「トリオモデル」の「下限直線」がないゆえに、不均衡の発生について正しく説明できない。ケインズのモデルは、限界消費性向が(固定していて)変化しないゆえに、均衡状態における生産量の変化について説明できない。

 以上の基本を理解した上で、さらに考察していこう。(次項以降。)

 [ 付記 ]
 ケインズのモデルについて、評価しておこう。
 ケインズのモデルでは、「循環的な過程」については明示されず、「均衡点へ向かう」という形で示唆されただけだった。しかし、少なくとも、「均衡点に近づくにつれて生産量が変化する」という点については、原理的には示されている。また、「循環的な過程」についても、不十分ながら、「乗数理論」という形で示されている。
 要するに、ケインズの理解[45度線分析]は、不完全なものではあったが、非常に重要な道筋を作ったことになる。それは、そっくりそのまま現実に適用するには不具合となる点が多いが、正解たる修正ケインズモデルを生むための重要な母胎となった。
 だから、ケインズのモデルの重要性は、いくら強調しても強調しすぎることはない。「ケインズの 45度線分析なんてダメだね」と主張する古典派学者もいるが、そういう学者は、ダイヤの原石を見ても、気づかずにポイと捨てるようなものだ。「こいつは光ってないから、このままじゃ指輪にならないな」と思って、それのもつ真の価値に気づかず、ポイと捨ててしまうわけだ。「慧眼」とは正反対だ。


● ニュースと感想  (3月27日)

 「修正ケインズモデル」と「トリオモデル」の関係について。
 少し前まででは、「不均衡」および「不均衡から均衡に至る過程」(循環的な過程)について、本質を見ようとしてきた。さて。ここで、「不均衡」および「均衡」について、「修正ケインズモデル」と「トリオモデル」がたがいにどう関係しているかを、見ることにしよう。(「修正ケインズモデル」と「トリオモデル」を別個に考えるのではなく、横断的に考える。切り口は、「不均衡」および「均衡」である。)
 以下では、(1) (2) (3) という三つの場合に分けて、考える。

 (1) 均衡
 需給が均衡しているときについて考えよう。
 二つのモデルでは、どうなっているか? トリオモデルでは、「下限直線」による阻害が生じないので、均衡点が成立して、常に均衡状態を保っていられる。そのことは、修正ケインズモデルでは、常に 45度線にいることを意味する。(桃色領域や水色領域には、いない。)

 均衡状態では、古典派の主張がだいたい正しくなる。
 均衡状態では、特に、「セイの法則」が成立する。つまり、「需要と供給が一致する」と言えるし、また、「供給が需要を決める」と言える。
 供給能力の拡大は、上限均衡点を上昇させる。(需給曲線で)供給曲線の右シフトは、均衡点の「価格低下」と「数量増加」をもたらす。
 均衡状態において大切なのは、「供給」の改善である。「投資」による生産設備の増強で量的に改善したり、「生産性の向上」によって質的に改善したりすることだ。
 このことが特に有益なのは、インフレ状態である。物価が上がるときには、「供給」を改善することで、状況を良くする。その意味で、古典派(特にサプライサイド)の主張は、インフレ対策になるものだ。

 金融政策においても、古典派(マネタリスト)の主張は、ほぼ成立する。「貨幣数量を一定に保てばいい」という「パーセント・ルール」は楽観のしすぎだが、適当に金融政策を実施することで、消費の変動を、(逆方向への)投資の変動で、相殺することができる。
 古典派の主張は、景気がインフレ気味であるときほど当てはまる。特に、「ハイパー・インフレ」であるとき(上限均衡点の突破があったとき)には、「貨幣数量説的なインフレ」が発生しているので、マネタリズム的な「貨幣数量の縮小」がぴったりと当てはまる。
 しかし、景気が悪化して行くにつれて、古典派の主張が当てはまる程度は弱まる。景気が弱含みになると、金融政策だけでは、あまりうまく制御できなくなる。実際、米国では現在、金融政策の効力が弱まっている。欧州では、どうやっても失業の発生をまったく解決できなくなっている。特に、景気が少しどころか大幅に悪い日本では、ゼロ金利になっていて、もはや金利を下げられなくなっているので、古典派(マネタリスト)の主張はまったく当てはまらなくなっている。

 (2) 不均衡 …… 需要不足
 需要不足のときについて考えよう。
 二つのモデルでは、どうなっているか? トリオモデルでは、「下限直線」による阻害が生じているので、均衡点に届くことができず、不均衡状態となっている。このことは、修正ケインズモデルでは、 45度線よりも下(水色領域)にいることを意味する。トリオモデルでも、修正ケインズモデルでも、どちらでも一定の幅の「需給ギャップ」が見て取れる。(トリオモデルにおける ∀ 上の水平線部分[左点と右点の距離]は、修正ケインズモデルにおいては長さ JK のような、「45度線との距離」に相当する。)
 修正ケインズモデルが示すのは、トリオモデルにおける曲線の、時間的な変化[動的な変化]である。そして、それは、「所得」を通じた相互影響によって生じる。
 たとえば、「縮小均衡」では、減った需要に合わせて、需給ギャップを縮小しようとして、供給曲線を左シフトすると、需要曲線は待っていてはくれず、左に逃げるようにしてシフトしていく。やがて、前者が後者に追いついたときには、どちらも非常に左の方へ移動している。……そういう変化が、修正ケインズモデルによってわかる。

 需要不足の状態では、ケインズ派の主張がかなり正しくなっている。
 需要不足の状態では、特に、「デフレ・スパイラル」や「インフレ・スパイラル」については、ケインズの 45度線分析を改良したモデル(修正ケインズモデル)が、きわめてうまく当てはまる。
 その本質は、「所得を通じた循環的な過程」である。そこでは、「均衡点(収束点)に近づくにつれて生産量が変化する」ということが大事である。

 金融政策は、「投資拡大」の効果がある。これは、総需要の面から見れば、「消費拡大」とほぼ同様の効果がある。(限界消費性向を上昇させるかわりに、45度線を下方にシフトさせる。どちらも似た効果がある。)
 ただし、それは、「消費が増えるから投資も増える」ないし「消費が減るから投資も減る」という自然な動きに反する、不自然な動きである。だから、無理があり、常に効果があるとは限らない。景気が悪化して行くにつれて、その効果は薄らぐ。
 金融政策は、下限均衡点以下[つまり不況]のときは、もはや無効となっている。
( ※ これには、理由は不要であって、ほとんど定義に近い。なぜなら、金融政策が無効でなければ、均衡状態になっているから、不均衡状態ではないのだ。たとえば、ゼロ金利で不況を脱出できるのであれば、まさしくそうすればいいのであるから、そのときはもはや不況ではない。ゼロ金利でもなおも不況を脱出できないときが、不況だ。)
( ※ もう少し正確に言おう。「需要不足」でも、下限均衡点よりも右上にいる状態では、金融政策が有効である。しかし、下限均衡点よりも左下にいる状態では、金融政策が無効となっている。逆に言えば、金融政策が有効であるか否かで、下限均衡点の位置が決まる。……ここで重要なのは、とにかく、そういう下限均衡点という1点があって、そこを境界として、領域が区別されるということだ。)
( ※ 金融政策が有効となる領域については、「緑色領域」という語で説明した。 → 9月15日
( ※ 金融政策が有効でない領域は、「緑色領域の外」である。だから、正確には、「下限均衡点の左下」というよりは、「下限均衡点の下の水色領域」となる。)

 金融政策が有効なときは、(消費不足によって)需給に不均衡が発生しても、その不均衡を打ち消す方向に、(投資拡大で)需要を拡大させることができる。しかし、「投資」の拡大は、当面は需要を拡大する意味があるとしても、しばらくたつと、(投資の結果として)「供給力の拡大」という効果が現れる。このことは、いまだ均衡を達成していない状態では、需給ギャップをいっそう拡大させる意味がある。

 需要不足の状態では、需給ギャップは、きわめて大きくなることがある。たとえば、GDPの5%というような、非常に大きな額になることがある。
 これはなぜかと言えば、消費心理というものは急激に大きく変化することがあるからだ。消費心理が変化して、消費性向が急激に低下すれば、需給ギャップはとても大きくなる。(この点、供給能力とは、異なる。供給能力は、急激に大きく変動することはない。急激に変化するのは、稼働率だけだ。……自身や戦争があれば、供給能力が一挙に壊滅することがあるが、そういうのは、例外的である。また、供給能力が一挙に拡大することは、絶対にありえない。空からお金が降ってくるならば別だが。)
 需給ギャップが大きいと、状態がスパイラル的に縮小する力も大きくなる。

 需給ギャップがあるとき、状態の急激な悪化を遅らせるものがある。それは、「賃金の下方硬直性」および「雇用の継続性」だ。本来ならば、企業は、賃金を急激に低下させたり、不要人員をさっさと解雇したいところだ。しかし、制度上、そういうことがなかなかできない。同じ賃金を維持したり、不要人員をかかえたりする。そのせいで、企業は赤字を出す。しかし、それは、企業が「過剰支出をする」というのと同様の効果をもち、所得や需要の急激な縮小を阻害する。そのせいで、マクロ的な「縮小均衡」の状態へと、急激に移るのが遅れる。
 ここでは、「均衡」に近づくのと、「生産量が縮小する」のと、双方が阻害される。
( ※ 逆に言えば、こういう阻害要因がなくなると、企業はとりあえずは赤字を出さないで済むようになるが、その後、GDPの急激な縮小が起こるので、売上げの急激な減少に直面する。当面のマイナスをしのごうとすると、将来の大きなマイナスを招く。)
( ※ なお、「縮小均衡」に達する途中と、達したあとでは、どちらがいいか? もちろん、達する途中の方が、まだマシである。そのことは、「デフレ・スパイラル」を示した階段状の図を見れば、わかるはずだ。収束点に達したあとで、下限均衡点まで戻るのは大変だが、収束点に達するまでの途中状況なら、下限均衡点まで戻ることはナントカできる。個別企業に即して言えば、こうだ。赤字企業が赤字であるうちは、総需要の拡大によって、元の均衡状態に回復できる。しかし赤字企業がいったん倒産してしまうと、総需要の拡大をしても、もはや生産設備は残っていないので、新規に設備投資しなくてはならず、多大なコストがかかる。「設備を廃棄して、設備を買う」わけだ。「穴を掘って埋める」のと同じ無駄が発生する。)

 (3) 不均衡 …… 需要超過
 需要超過のときについて考えよう。この状態は、需要不足のときとは、反対ではない。つまり、対称性がない。このことに注意しよう。
 二つのモデルでは、どうなっているか? トリオモデルでは、下限均衡点よりも上の状態であるから、下限均衡点による阻害はない。かといって、均衡状態であるわけでもない。
 ここで注意してほしいが、「需要超過」は、「上限均衡点の突破」とは異なる。後者の場合には、「貨幣数量説的なインフレ」は発生するし、価格は急上昇するが、ともかく、その価格で均衡している。これは、均衡状態[需要と供給が一致している状態]であって、需要超過ではない。単に、生産力が頭打ちのせいで、均衡点の価格が上昇しているだけだ。
 「需要超過」は、開放系では「輸入」の発生であり、閉鎖系では「在庫切れ」である。前者の場合は、考え方をひろげるだけで済む。後者の場合は、「市場が消失する」ということになる。この場合は、均衡点も消失する。
( → 10月06日
 需要超過があった場合、拡大方向の「循環的な過程」は、発生するか? つまり、デフレ・スパイラルのときの、縮小方向の「循環的な過程」と逆の過程が、発生するか? これは、ケース・バイ・ケースである。
  1.  下限均衡点以下で
     下限均衡点以下においては、生産をすぐに拡大することができる。単に設備の稼働率が低下しているだけであり、設備そのものはまだ残っているはずだから、「減税」によって「所得」を拡大すれば、拡大方向のスパイラルが発生する。(ただし、いったん縮小均衡になってしまうと、拡大の余力がしぼんでいる。こうなると、設備の稼働率向上だけでは話が済まなくなり、新たに投資をする必要が出てくる。だから、回復は遅くなる。「急激に回復」とは行かず、途上国のような「金をかけて投資する」という高コストな成長路線をたどる。)
  2.  均衡区間で(大ギャップ)
     均衡区間[下限均衡点と上限均衡点の間]において、需要超過があり、しかも、その幅が大きければ、在庫切れとなって、市場が消失する。これは、前述の通り。……このあと、企業が増産すれば、拡大方向の「循環的な過程」が発生する。とはいえ、そのためには、増産をまかなうための、「十分な投資」が必要である。これは、金融政策にかなり依存する。
     では、金融政策は、正常に働くか? 一般に、「需要超過」のときには「物価上昇」が発生するから、これを抑制させるためという名目で、金融を引き締める。すると、「十分な投資」なされなくなる。こういう問題がある。(この件は、マネタリズム批判として、何度も説明してきたとおり。正しい政策は、ポリシー・ミックスである。)
  3.  均衡区間で(小ギャップ)
      均衡区間[下限均衡点と上限均衡点の間]において、需要超過があり、しかも、その幅が小さければ、何も問題はない。この場合は、通常の「景気拡大」つまり「好況」が発生する。
     ここでは、「幅が小さい」ということがポイントだ。つまり、「少し需要が上昇する → 少し生産が上昇する → 少し所得が上昇する → ……」という循環が発生するが、これは、少しずつだから、阻害されることなく進む。(すぐ上に述べた例だと、少しずつではなくて大幅に需要が需要が増える。しかし、その場合は、需要の急激な増加に、生産のゆったりとした増加が追いつかない。だから、拡大の循環が、なめらかに進まない。)(だからこそ、需要超過の「幅が小さければ」ということが大事であるわけだ。)
     このとき、トリオモデルでは、どうなるか? 需要の増加にともなって、均衡点が供給曲線上で右上に移動する。だから、均衡点の価格が微弱に上昇する。つまり、「微弱な物価上昇」の発生だ。
     また、修正ケインズモデルでは、どうなるか? 限界消費性向の上昇にともなって、均衡点が、 45度線上で右上に移動していく。(区間 BM で、B の方から M の方へ移動していく。)
     こういうふうに、「微弱な物価上昇」および「生産量の拡大」が、同時に発生する。それが、「インフレ」ないし「好況」の基本原理である。( → 10月26日 「インフレ」 )
  4.  上限均衡点の突破
     上限均衡点を突破した場合は、需要超過もへったくれもなく、とにかく、生産量が不足している。市場が成立するならば、やたらと高い価格で均衡する。市場が成立しなければ、在庫切れとなって、均衡点が消失する。
     こうなったら、市場が成立すると科しないとか、均衡であるとかないとか、そんなことを言っても、無意味である。さっさと生産量を拡大するしかない。
     生産量の拡大ができない場合は、貨幣供給量を絞って、需要を縮小することで、物価の異常な上昇を抑えることが好ましい。(マネタリズムの手法。)
     ただ、このとき、金利の上昇が、設備投資を阻害し、生産量拡大を阻害するから、なるべくポリシー・ミックスで増税を併用することが好ましい。
     上限均衡点の突破は、修正ケインズモデルでは生産量の上限として示されるが、トリオモデルでは、「右側に立つ直線」という形の壁として現れる。つまり、「上限直線」だ。これは、生産量の上限を示すものだ。( → 10月05日b ) 一方、「下限直線」は、価格の下限を示すものであった。
     だから、この二つの直線は、対称的ではあるが、正反対のものではない。(「上と下」ならば正反対だが、そうではなくて、適用される分野が「価格」と「生産量」で異なっている。)
 結語。
 修正ケインズモデルとトリオモデルの関係について、「均衡」「不均衡」というそれぞれの状況ごとに、いろいろと横断的に見ていった。
 こういうふうにして、二つのモデルの家計がわかった。
 と同時に、「均衡」「不均衡」というそれぞれの状況は、修正ケインズモデルとトリオモデルの双方をともに使うことによって正しく認識できる、ということがわかったはずだ。
 古典派は、需給曲線(トリオモデルの母胎)だけで考えようとする。ケインズ派は、45度線のモデル(修正ケインズモデルの母胎)だけで考えようとする。……しかし、そのいずれも、正しくない。
 たとえば、「(古典派の)需給曲線をもっと正確化して、トリオモデルを取ればいい」ということはない。「(ケインズ派の)45度線のモデルをもっと正確化して、修正ケインズモデルを取ればいい」ということもない。そういう「もっと正確にする」という立場では、しょせん、物事の半面しか、見ることはできない。
 大切なのは、この二つのモデルと、両方とも使って理解する、ということだ。常のその双方を使うべきだ、ということだ。── それゆえ、この二つのモデルを、かつて「双子モデル」と名付けたのである。( → 9月15日

( ※ 「古典派とケインズ派は、どちらも半分ずつ正しかった。両者が合わさって、初めて完全な経済モデルとなる」と先に述べた。 → 2月28日 の最後 )


● ニュースと感想  (3月28日)

 「双子モデルの限界」について。
 双子モデル(修正ケインズモデルとトリオモデル)を、これまで示してきた。では、これらは、どの程度まで正しいのか? どこに限界があるのか? また、限界があるとしたら、その限界を超えて拡張するには、どうすればいいか? ── そういうことを考えよう。

 (1) トリオモデル
 トリオモデルについては、すでに述べた。( → 2月24日
 すなわち、トリオモデルは、「需要」と「供給」と「下限直線」という三つものがあれば十分であり、これ以外のものは特に必要ない、ということだ。
 ただ、オマケ的に言えば、次のように拡張してもいい。(しなくてもいい。)
  1.  上限直線
     生産量の上限を示す「上限直線」を、右側に追加してもよい。供給曲線は、右上に向かうが、いくらでも右上に向かうわけではなくて、上限がある。それがこの「上限直線」だ。……これが問題となるのは、「上限均衡点の突破」が生じるときである。また、途上国のように、生産設備が不足していると、たとえ完全雇用に達していなくても、生産量の上限に達する。
     なお、生産量の上限を決めるものは、さまざまな要因がある。「設備の上限」や「労働力の上限」だけではない。生産の過程のどれか一つでも上限に達すれば、それが決定的な要因となって、全体の上限を定める。それを「ボトルネック」と呼ぶ。普通、「ボトルネック」を改善することで、生産量の上限を向上させることができる。( → 「ザ・ゴール」という小説に詳しい解説がある。)
    ( ※ 余談だが、「流動性の罠」という現象も、この「ボトルネック」という概念で理解できる。通常、設備投資の上限を定めるものは、銀行の融資である。融資額がボトルネックとなっているので、いくらでも設備投資をするわけには行かない。一方、不況のときには、融資はボトルネックとならない。銀行はいくらでも貸してくれるが、今度は「投資の採算性」がボトルネックとなる。こちらのボトルネックを間然しない限り、いくら銀行が「どんどん融資します」といっても、無駄なわけだ。……「ボトルネック」という概念を理解すれば、こういうこともわかるのだが、マネタリストはそれがわからない。彼らは自らの信念に陶酔するばかりだ。)

  2.  傾きの変化
     需要曲線や供給曲線の傾きを、変化させることができる。
     一般的にいえば、需要曲線は右下がりの「 」というような形になるが、供給曲線は「 」という右上がりの曲線になるとは言えない。どちらかと言えば、そういう右上がりの曲線になるとしても、非常にゆるやかな傾きを持ち、ほとんど水平線に近いはずだ。換言すれば、数量の変化に関係なく、価格はほぼ一定となるはずだ。
     実際、そのことは、現実を見ればわかる。「よく売れると、高くなる」というのは、あまり成立しない。一時的に成立することはあるかもしれないが、長期的には、価格はほとんど変化しない。どちらかといえば、「よく売れたので、量産効果で、価格が下がります」というふうになる。また、短期的に言っても、「たくさん買ってくださるなら、大口購入となるので、値引きしますよ」というふうになることが多い。
     というわけで、数量の増加につれて価格が上がるか下がるかは、ケースパイケースなので、おおざっぱには、「右上がり」というよりは、「ほとんど水平線」になると理解した方がよさそうだ。
     とはいっても、話の核心が変わるわけではない。図形的にはいくらか変化するとしても、トポロジー的には同じだから、あれこれ騒ぐほどのこともない。
     とにかく、需要曲線や供給曲線が、どのような傾斜をもつかということは、細かな数値シミュレーションをするときを除けば、さしてこだわることはない。話の核心を理解するには、すでに述べたようなことで十分だ。

  3.  時間的変化
     需要曲線や供給曲線が時間的に変化すること。これは、非常に重要な意味合いをもつ。両者に相互影響があるからだ。そして、このことを深く分析したのが、「修正ケインズモデル」である。
 (2) 修正ケインズモデル
 修正ケインズモデルの基本は、二つの直線による循環的な過程だ。その二つの直線は、次の二つの式で示される。

     C = 0.8Y + C1
     C = Y − I
  1.  消費直線
     消費直線 「 C = 0.8Y + C1 」では、限界消費性向 0.8 と、初期定数 C1 は可変的である。この二つが変化することで、状況の変化が発生する。その意味で、消費直線は、修正ケインズモデルにおいて決定的に重要である。
     ここで、疑問が生じるだろう。「消費直線は、本当に、こんなに単純な一次直線で示せるのか? もっと複雑な曲線になるのではないか?」と。
     たしかに、そうだ。もっと正確にしたいのであれば、単純な一次直線ではなくて、複雑な数式にした方がいいだろう。そうすれば、いっそう正確になる。
     しかし、正確になっても、意味はない。これまでは直線で領域を決めたり、直線で囲まれた三角形の領域(緑色領域)を決めたりした。下図のように。

         修正ケインズモデルにおける領域の図(詳細)

     しかし、こういうふうに直線で区分した領域を、曲線で区分するように変えたとしても、話の根幹は何も変わらない。形が微妙に歪むというだけのことにすぎない。
     修正ケインズモデルで大切なのは、下限均衡点や上限均衡点があるということや、流域が区分されるということや、階段状に「循環的な過程」が発生するということだ。そういうことは、すべて、消費直線が直線でも成立するし、消費直線が曲線でも成立する。
     結局、具体的に細かな数値シミュレーションをする場合は別として、話の根幹を理解するためには、消費直線がいくらか別の形になっても、構うことはないのだ。
    ( ※ また、消費直線が外部からの外生変数の影響を受けるとしても、特に問題ではない。そういうことは、限界消費性向や初期定数の変化として、修正ケインズモデルのうちに吸収される。)

  2.  生産直線
     生産直線「 C = Y − I 」では、特に問題はない。この式は、必ず成立するわけではなくて、単に領域に線を引っ張っただけだ。一種の仮想線にすぎない。
     この式が成立する場合は、その領域がこの直線で示される。
     この式が成立しない場合には、「 C > Y − I 」または「 C < Y − I 」となるから、それぞれの領域が与えられる。
        C > Y − I  …… 需要超過 ……桃色領域
        C < Y − I  …… 需要不足 ……水色領域
     そういうふうに、式によって領域が区別される。それだけのことだ。生産直線については、それが正しいとか精確だとか、そういうことは意味がない。(しいて言えば、投資 I がどのような意味をもつか、だ。)

         修正ケインズモデルにおける領域の図
( ※ 話はさらに、次項に続く。)

 [ 付記 ]
 複雑な数式というものについて、コメントしておこう。
 経済学では、やたらと複雑な数式を使う人々がいる。特に、古典派のミクロ経済学の研究などを読むと、七面倒くさい数式がやたらと出てくる。こういうのを見て、「おお、すごい」と思う人も多いようだ。
 しかし、だまされないように、注意しよう。これは、詐欺師の手口なのである。
 経済学者の使う数式など、数学者の目から見れば、笑止千万である。そもそも、数学とは、何か? 真実をシンプルに示すことだ。非常に複雑な事実を、定理の形などにして、簡潔に示す。その途中の証明も、簡潔であればあるほどいい。
 しかるに、経済学の数式というものは、その正反対である。単純に曲線をグラフで描けば済むものを、やたらと面倒くさい数式でモデル化したりする。そうやって複雑な数式を使って、何がわかるかと言えば、グラフを見てすぐにわかることを、面倒くさく証明しているだけのことだ。
 結局、簡単な図形を、面倒な数式に直して、それを面倒くさく分析しているだけだ。(言葉は悪いが、)一種の自慰である。やっている本人が喜んでいるだけであり、まわりから見れば気持ち悪いだけだ。
 はっきり言っておこう。経済学におけるほとんどのモデルは、一次直線で近似できる。ちょっと複雑な場合でも、一次直線を領域化して、折れ線ふうの一次直線で近似すればよい。途中で角ができるところもあるが、そういうところはあまり気にしないことにすればよい。(角でなくてなめらかになっていると見なせばよい。)
 そして、一次直線で近似できるものを、やたらと複雑な数式で書いて得意がるのが、数学音痴の経済学者だ。
 たとえば、修正ケインズモデルの消費直線だが、これも、一次直線ではなく、もっと複雑な数式による複雑な曲線で書くこともできる。しかし、そんなことをしても、ほとんど無意味なのである。(この件、後日また後述する。)
 とにかく、大切なのは、本質であり、細かなズレではないのだ。真の数学者は、複雑な現象を、なるべくシンプルに表現する。なぜなら、シンプルに表現することで、そこに真実が現れるからだ。逆に、簡単な現象を、なるべく複雑な数式で示そうとする経済学者は、真実から遠ざかるばかりだ。彼らは、コンピュータの数学ソフトを使えば簡単に表現できるようなことを、いちいち手書きで数式化して、「おれはコンピュータみたいに頭がいいんだ」と威張りたがっているだけだ。彼らの頭は、コンピュータと同じ程度で、計算力ばかりがあり、思考力というものがほとんどないのである。
( → 7月23日b2月23日

( ※ ただ、単なる「複雑な曲線」というのよりは、もうちょっとまともなモデルもある。たとえば、「加速度原理による景気循環」というモデルだ。これは時間を考慮している。しかしこれも、しょせんは、モデルごっこにすぎない。この件は、後日また詳しく説明する。)


● ニュースと感想  (3月29日)

 修正ケインズモデルを見ると、弱点と思える点は、いくつか浮かび上がる。それは、次の項目が、十分に明確化されていないことだ。
   ・ 消費直線における「限界消費性向」および「初期定数」。
   ・ 生産直線における「投資 I 」
 いずれも、定数となっている。しかし、これらを定数と見なしてもいいのだろうか? 現実には、これらの要素は、いろいろと変化するはずだ。限界消費性向が明らかに変化するし、投資も明らかに変化する。なのに、これらを、定数と見なしていいのだろうか?── こういう疑問が生じる。

 いきなり結論を言おう。基本的には、次のようになる。
 「それらは、モデルのなかでは、定数として扱ってよい」
 となる。換言すれば、
 「それらは、モデルの外部の影響を受けるだけなので、独立変数と見なす」
 となる。

 たとえて言おう。万有引力の法則を見るときは、単に重力だけを考えて、理論を理解すればよい。たとえば、投げた石の軌道を考えるとき、基本的には万有引力の法則で考える。そのあとさらに、「空気抵抗」とか、「横風の影響」とか、「雨が降って抵抗となる影響」とか、「途中で鳥にぶつかった場合の影響」とか、そういう外部の影響を考慮することもできる。しかし、その場合は、外部からの影響をあとから追加的に考慮すればいいのであって、話の基本である万有引力の法則そのものが不正確であったということにはならない。基本そのものは揺るがない。
 修正ケインズモデルも、同様だ。ここでは、「消費」「生産」「所得」「投資」という要素だけで、モデルを組み立てている。ここでは、これらだけの相互影響を考えているのだ。このあとさらに、外部から何らかの影響が加わるとしても、それは、モデルの外の話である。そういうものがあっても、単にあとからモデルに追加されるだけだ。モデルそのものの基本は揺るがない。

 具体的に示そう。「外部の力がモデルに及ぼす影響」は、次のようにして、モデルに取り込まれる。
  1.  消費性向の変化
     モデルの外部の影響で、消費性向が変化することがある。
     たとえば、バブルの最中は、消費性向が高かった。バブルの破裂後は、一転して、消費性向が低下した。そういうふうに外部の影響で消費性向は変化した。……しかし、そのことは、あくまで、モデルにおいては「限界消費性向と初期定数の変化」として理解されるだけだ。
  2.  投資の変化
     モデルの外部の影響で、投資が変化することがある。
     たとえば、金融政策の影響で投資が変化したり、投資意欲の影響で変化したりする。ただ、それでも、「投資は消費には無関係の値(つまり独立変数)である」と見なしてよい。実際、金融政策は、日銀が勝手に操作するものであるから、消費意欲とは関係なく、独立的に勝手に操作することができる。
     特に、(民間投資でなく)公共投資は、政府が自由に変化させることができる。その意味で、消費とは独立している。
     だから、投資は、「消費には依存しない数値」と見なせるわけだ。
 さて。基本的には、以上のようになるが、もう少し細かく見ると、それだけでもない。「初期定数」と「投資」とに、分けて考えてみよう。

 (1) 初期定数
 これについては、すでに 3月16日 で示したとおりだ。簡単に言えば、国情による違いがある。
 (2) 投資
 これについては、加速度原理(増幅効果)を考慮する必要がある。その事情は、不均衡状態と均衡状態で、異なる。

 第1に、不均衡状態では、金利がゼロである。(金利が高いまま不均衡であるときは、まだ真の不均衡ではない。先に金利をゼロにするのが先決である。それでもまだ不均衡であるかどうかが問題となる。) そして、金利がゼロであるときには、増幅効果が直接的に出るはずだ。消費が増えれば、その何倍も投資が増えるし、消費が経れば、その何倍も投資が減る。そういう効果(増幅効果)が出るはずだ。だから、不均衡状態においては、「投資は定数である」と見なすべきではないはずだ。
 ところが、実際には、そうならない。というのは、不況のときには、設備は遊休しているからだ。まずは設備の遊休を解決するのが先決である。実際、不況から回復していく過程では、投資はなかなか増えない、というのが歴史的に見て取れる。投資が増えるのは、不況回復が始まってから2〜3年後になるのが普通だ。
 というわけで、不均衡(不況)のときには、「投資は定数である」と見なしていいわけだ。

 第2に、均衡状態では、事情は異なる。増幅効果は、直接的には出ない。むしろ、増幅効果と逆の効果さえ出る。それは、「金利」を通じた影響だ。
 不均衡状態ならば、もともと需給ギャップがあったから、消費を増えても、それに関係なく、投資を増やすことができた。ここでは金利はゼロのままで、定数だから、金利が影響することはなかった。しかし、均衡状態では、そうは行かない。消費が増えれば、貯蓄が減って、金融市場の資金が不足がちになり、金利は上がる。「消費が増えれば、投資が減る」というふうになる。つまり、「増幅効果」とは逆の効果がある。
 ここで、マネタリズム的に「貨幣供給量を一定にする」という金融政策を取れば、「総需要と総生産を一定に保つ」というふうになる。増幅効果と逆にする効果だ。そして、そのおかげで、物価上昇を抑制できそうだ。しかし、である。そこで抑制できるのは、「貨幣数量ふうのインフレ」だけである。以下、場合分けしよう。
 結局、投資については、金融政策によって変動する。投資意欲そのものは変化するのだが、実際に投資が増えるか否かは、金融政策に左右されるわけだ。だから、単純に投資を「増える」とか「減る」とか想定しても、無意味になる。だから、モデルの内部では、「定数である」と見なした方が簡単だ。その上で、別途、金融政策の影響を加算すればよい。
 とはいえ、それは、あくまで、便宜的な方法だ。事実がそうであると言うよりは、経済学者の都合で、そう考えているにすぎない。だから、いっそう正確に考えるには、上記のような事情(場合分けしたそれぞれ)を、細かく考慮するとよい。
 要するに、修正ケインズモデルは正確でないところもあるが、それは、モデルが正しくないとか不完全であるとか、そういうことになるわけではない。「より細かく考察すると、より正確になる」ということだ。

 結語。
 修正ケインズモデルは、「消費性向や投資がいかに変化するか」をモデルの内には含んでいない。しかしそのことは少しも問題ではない。そういう変化は、いったん生じたあとで、モデルの内に取り込めばいいからだ。
 ( ※ こうも言える。「消費性向を変動させる消費心理や、投資を変動させる金融政策は、外生変数であって、内生変数ではない」と。)


● ニュースと感想  (3月30日)

 前項の続き。「修正ケインズモデルと現実との対比」について。
 前項では、修正ケインズモデルにおける「限界消費性向」および「初期定数」を、「モデルのなかでは定数と見なしてよい」と述べた。
 ただし、実を言うと、より強く、「まさしく定数と見なしてよい」と言ってもいいようだ。そのことは、現実との比較からわかる。というのは、実証的に消費性向を調査したレポートがあるからだ。
 日本銀行のサイトに、「経済点描・個人消費は底割れしない?」というレポートがある。
 ( → 要約ページ  から pdf ファイルを入手可能。興味深いので、読むといいだろう。)
 このレポートによると、1990年〜 2002年で、次のことがわかる。
 つまり、所得は一貫して下落し、しかし平均消費性向はほとんど変わらないので、消費も所得と同じく一貫して下落する、というわけだ。
 ただ、バブル破裂期にあたる 1991年ごろのみ、所得の増加に消費の増加がともなわず、平均消費性向の低下がはっきりと見られる。

 以上のことは、修正ケインズモデルの妥当性をはっきりと示す。つまり、次のことだ。
 [ 付記 ]
   ただし、レポートは、例外的な現象を示している。それは、「2002年に、消費性向が急上昇している」ということだ。
 消費性向が急上昇するとしたら、理由は、二つ考えられる。一つは、消費意欲が急上昇したことである。もう一つは、所得が急減したことである。
 レポートは、後者のタイプが当てはまる、ということを示している。つまり、29歳以下の若年層では、失業増加や賃下げなどの急上昇で、所得が急減している。にもかかわらず、親のすねかじりができるので、携帯電話代などの支出を減らさずにいる。その分の金は、親の貯蓄を崩すことで当てている。結局、所得の急減があったのに、消費が減らなかったので、消費性向が上がったわけだ。
 レポートの予測では、「 2003年には、景気は悪化するだろう」となっている。これは当然の話だ。所得の消費はほぼ比例する関係にあるから、2002年だけ突出して消費性向が上がっても、そのあとは元の消費性向に戻るだろう」というわけだ。(景気の先行きが好転しない限り、この推測は当然だ。)

 さて。私の判断も、同様である。細かく言おう。
 2002年と言えば、年初の円安景気(輸出産業で)があったし、賃下げブームもまだひどくはなかった。先行きにいくらか期待ができた。だから、この年の前半ぐらいは、けっこう消費意欲があったはずだ。
 しかし、2002年後半以降、景気の先行きの見通しはどんどん悪化している。賃下げブームもひどい。
 2003年は、レポートの予測よりも、もっと悲観的である。2002年に一時的な過剰消費があったなら、そのあとでは反動が来る、と予想する。つまり、ツケ払いとして、過小消費気味になるはずだ。
 結局、2002年に消費性向が上がったことは、「消費の拡大を意味する」のではなく、「所得の縮小を意味する」わけだ。また、一時的に消費性向が上がったことは、その年だけは良くても、そのあとは反動で悪くなるだろう、と予想させるわけだ。

 [ 付記 2 ]
 2002年に消費性向が急上昇したことは、所得が急減したことに原因がある。所得が急低下しても、消費は急減しなかったから、消費性向が急上昇しただけだ。
 さて。所得が急減した、ということは、何を意味するのか? それは、修正ケインズモデルから言えば、こうなる。
 修正ケインズモデルでは、デフレスパイラルにより、所得と需要の悪化のスパイラルが生じる。ただし、賃金の下方硬直性があることで、所得の急減が発生しない。そのせいで、スパイラルの急速な進行を抑えることができる。
 しかるに、2002年には、企業の「賃下げブーム」が進んだ。このことで、「所得低下」が急速に進行した。それはデフレスパイラルの急速な悪化を予測させた。ところが、所得の低下は、本来ならば消費の低下をもたらすはずなのに、2002年には、従来通りの消費を続ける人々が多かったおかげで、消費の低下をあまりもたらさずに済んだ。
 とはいえ、それは一時しのぎにすぎない。人々はいつまでも過剰消費をしない。実際、データでは、貯蓄率がどんどん低下していることが見られる。これ以上、消費を続けたくても、手元不如意で、不可能なのだ。となると、2003年以降は、反動の分も含めて、景気は急激に悪化していくと見通される。
 結局、こうだ。
 「所得低下」により、デフレスパイラルの急速な進行が予想されたのだが、次の段階の「消費低下」が食い止められたおかげで、デフレスパイラルの急速な進行が実現しなかった。しかるに、それは一時的なものだから、やがてはデフレスパイラルがまたどんどん進むだろう。
( ※ 企業は、賃下げのあとで一時的に小康を得たが、そのあと、賃下げによる消費不足の影響を受けて、またしても売上げ低下に苦しむことになる。)

 [ 付記 3 ]
 とにかく、景気を考えるには、所得や消費を見ることが肝心だ。貨幣の量なんかは関係ないのだ。「金融市場にたくさんの金を入れれば、人々は無一文でも消費を増やす」なんて考えるマネタリズム流の考えを取っていると、いつまでたっても、景気回復は実現できない。
 個々人を見てもわかる。あなたは、どうするか? 手元に金がたんまりあれば、消費を増やす。一方、日銀が金融市場にいくら金を入れても、あなたは消費を少しも増やさない。むしろ、逆だろう。「市場金利が下がれば下がるほど、利息が減るので、消費を減らしたくなる」というのが、一般市民の感情だ。

 [ 補足 1 ]
 「限界消費性向」と「平均消費性向」の違いには、一応、留意しておこう。
 修正ケインズモデルで「一定」と見なしているのは、「限界消費性向」であり、「平均消費性向」ではない。「限界消費性向」が一定でも、所得が低下すると、「平均消費性向」は上昇する。2002年の現象は、そのことを示す。
 だから、レポートでの調べ方は、少し不十分である。「平均消費性向」ばかりを見ないで、「限界消費性向」の方を見る方が、もうちょっと核心を突く調査となったはずだ。

 [ 補足 2 ]
 このレポートの図表5を見て、肝心のことは、次のことだ。
 「前年比の伸び率で、1991年ごろに消費の急減があると、そのあと十年間、伸び率は一定である」
 つまり、こうだ。
 「限界消費性向がいったん低下したあと、その低下が持続する
 つまり、修正ケインズモデルにおいて限界消費性向が「 0.8 → 0.7 」と低下したあと、「 0.7 → 0.8 」というふうに回復しない。仮に回復すれば、その年には、「前年比の伸び率」が急上昇するはずだが、そういうことはない。「前年比の伸び率」はずっと一定である。

 [ 補足 3 ]
 以上から、「修正ケインズモデルは、現実と対比して、妥当である」と見なせるだろう。ただ、細かい点を見れば現実の経済はたえず微小に変動するから、そういう変動との対比を見れば、モデルと現実とのズレは見られる。
 また、「限界消費性向は一定である」という点も、完全に一定であると見なせるわけではなく、多少の変動やズレは考慮するべきだろう。
 「ズレがどのくらいか」というのは、実証すると、一つの研究にはなる。上記のレポートで、「平均消費性向」のかわりに「限界消費性向」を取って調べれば、かなり有益な調査となったはずだ。
 上記のレポートの調査は、「平均消費性向」を取っているが、それでは調査の仕方が不十分であり、むしろ「限界消費性向」を調べるべきだったのだが、そういうことも、修正ケインズモデルというものを理解して初めて、気づくことである。上記の調査は、修正ケインズモデルを知らなかったから、せっかくの調査が少しピンボケになってしまったわけだ。(とはいえ、結構有益ではある。)

 [ 補足 4 ]
 このレポートのタイトルは、「個人消費は底割れしない? 所得の減少に比べて消費が底固く推移してきた7 つの理由 」である。これは、認識からして、根本的におかしい、とわかる。
 不況とは、消費性向が低下することではないのだ。限界消費性向は一定のままである。むしろ、限界消費性向が一定であれば、所得の低下にともなって、その分、平均消費性向は少し上がることになる。
 不況とは、いったん限界消費性向が低下したあと、さらにどんどん低下することではなくて、低い限界消費性向が持続することである。それによって、所得と消費のデフレスパイラルが続くことだ。
 このことをはっきりと理解しよう。これが不況の核心であるからだ。この核心を理解しないと、上記のタイトルのように、変な勘違いをすることになる。あるいは、マネタリズムのように、所得の減少を無視して、貨幣の量ばかりを考えたりするようになる。
 修正ケインズモデルは、この核心を明らかにするわけだ。


● ニュースと感想  (3月30日b)

 時事的な話題。「失業率と景気」について。
 29日の夕刊各紙によると、最新調査では、失業率は 0.3% の改善だという。
 これを見て、「景気の悪化は底打ちした」と見る向きもあるかもしれないが、実は、悲観的になった方がいい。なぜなら、「賃下げ」が同時にあるからだ。
 そもそも、古典派の言うように、「賃下げがあると、失業率が下がる(雇用者が増える)」という効果が、あるはずなのだ。たしかに、そうだ。その結果が、上記の調査データとなったのだろう。
 ただ、失業率は減っても、賃下げもあるから、雇用者数と賃金との掛け算をした総額である「賃金総額」が増えるかどうかが、問題だ。ざっと計算してみると、上記の「失業率の低下」は、たったの 0.3% の改善にすぎない。一方、4月からは「定昇停止」にともない、実質賃下げ(各社における賃金総額の縮小)が発生する。
 結局、どう見ても、「賃金総額」や「総所得」は、減少するばかりだ。となると、当面は(古典派の言うように)失業率の改善が見られるものの、中期的には、総所得の現象の影響が出て、総生産はさらに縮小していきそうだ。

 まとめ。
 失業率の改善はあったが、それは賃下げによる一人あたりの賃金低下を補うには、ほど遠い。雇用者全体の賃金総額は、どんどん減る。そのせいで、総需要は減り、総生産も減る。だから、景気はさらに悪化するだろう。……つまり、「賃下げ」がある場合には、これっぽっちの「失業率改善」では、全然足りないのだ。だから、デフレスパイラルは、さらに進行する。


● ニュースと感想  (3月31日)

 時事的な話題。「イラク戦争」について。
 この戦争について、経済学的な立場から、コメントしておこう。
 戦争というものは、どれも狂気の沙汰だが、今回も、狂気の沙汰だと言える。「テロは絶対に悪だ」と言い張っていた人々が、今度は平気でイラクの市民を殺して「大義のためには、やむを得ない」と言い張っている。同じ人間が平気で、天使と悪魔の顔を使い分ける。狂気の沙汰だ。
 では、正気では、どうするべきだったか? 「独裁を放置せよ」とは言わない。フセインを退陣させることは必要だ。しかし、そのための方法が、戦争だとしたら、経済学的には、あまりにも愚劣である。莫大な金と莫大な命を失うが、その目的となるのは、フセインの身柄一つだ。こんなに高額の買物は、いまだかつてなされたことはない。愚の骨頂。
 根源を言おう。戦争を回避するには、「戦争をする/戦争をしない」という選択肢があることが必要だ。そして、前者よりも後者の方が有利であれば、後者を選ぶ。
 しかし、今回は、そうではなかった。フセインには、「戦争をする」しか、選択肢がなかった。戦争をしなければ、戦争犯罪人として裁かれる。そのことは、セルビアのミロシュビッチを見てもわかる。だから否応なく、戦争をするしかなかったのだ。(戦争犯罪人として処罰するという制度が、戦争を引き起こすわけだ。)
 戦争を回避するには、「自分だけが正しい」というような、ブッシュ流の正邪感情では、済まないのだ。むしろ、「何が得で何が損か」という、損得で考えるべきなのだ。そして、現在の人々は、あまりにも愚かであるので、あえて「損」である道を選ぶ。ブッシュは自己流の「正義」のために、莫大な金と莫大な人命を消す。フセインも自己流の「正義」のために、自らの命脈を断つ。一般国民は、「戦争に賛成だ/反対だ」と述べるだけで、戦争回避の代案を示さない。
 結局、誰もが、善悪だけで考え、損得では考えないから、全員が莫大な損失を受けるのだ。「ゲームの理論」で言えば、誰もが自己の最大利益を狙うから、誰もが最大の損失をこうむるのだ。
 人類というのは、かくも愚かな生物なのである。


● ニュースと感想  (3月31日b)

 時事的な話題。「対米追従」について。
 「日本は対米協調以外に生きる道はない。だから米国と必ず歩調を合わせるべきだ」という主張が、しばしば読売に掲載される。(読売・朝刊・1面コラム 2003-03-30 など。)
 しかし、これは、まったくのデタラメである。事実を見れば、すぐにわかる。
 世界には数百の国がある。そのすべてが対米追従をしているか? 否。対米追従をしているのは、建国途上にある、東欧諸国ぐらいだ。世界のほとんどの国は、対米追従をしていない。それでも立派に国を運営できる。フランスやドイツは、米国と対立しているが、それでも特に問題はない。ちょっと反感を買っているくらいだ。
 はっきり言おう。「日本は対米協調以外に生きる道はない」というのは、冷戦時代の化石的な思考である。ソ連が存在していたころならば、「ソ連が世界各国や日本を侵略する」という仮定のもとで、上記の主張は成立するだろう。(現実にはソ連はどこも侵略しなかったが。) そして、ソ連が消えたあとでは、日本は特に侵略される危険はないのだ。北朝鮮が「窮鼠、猫を噛む」ぐらいのことはあるかもしれないが、それは猫がネズミを追いつめるからだ。つまり、噛まれる状況を作るから、噛まれるだけだ。論旨が逆転している。
 「日本は対米協調以外に生きる道はない」というのは、冷戦時代の化石的な思考であり、妄想的な怯えである。世界最貧国である北朝鮮を「怖い、怖い」と脅えるのは、よほどのヒョーロクダマだ。そもそも、日本の自衛隊の方が何百倍も強いからだ。また、北朝鮮国民としては、対抗しても、どんどん餓死してしまうのだから。
( ※ テポドン? そんなのは、恐れることはない。小泉という核爆弾は、毎年、デフレで 7000人も自殺させているのだ。3年間で2万人の命を奪うのだ。こんな強力なウルトラ兵器に比べれば、テポドンなど、物の数には入らない。交通事故の1日分にもならない。)

 結語。
 「日本は対米協調以外に生きる道はない。ゆえに米国には絶対服従しよう」というのは、論理も何もない、奴隷根性にすぎない。彼らは、六十年前に戦争で負けたとき以降、日本人としての大和魂さえもなくしてしまったのである。誇りも勇気も尊厳も、すべてをなくして、ただの奴隷になり下がってしまったのだ。
 彼らは、「自由を与える」と言われたときに、自ら「自由」を捨ててしまったのだ。独り立ちする権利を与えられたときに、母親の胎内に逃げ込もうとしてるのだ。彼らを表現するのに適した言葉は、「保守派」ではなく、「 infant 」だ。


● ニュースと感想  (3月31日c)

 時事的な話題。「情報操作の方法」について。
 「情報操作」というのは、フセインと北朝鮮のやることかと思っていたら、日本でも堂々とやっているところがある。読売新聞だ。だまされないように、読者に喚起しておく。
 世論調査は、各社がやっているが、朝日でも毎日でも共同通信でも、結果はほぼ同様である。インターネット上には、次の記事がある。( → 毎日の調査共同通信の調査
 共同通信の調査によれば、戦争の支持・不支持は、27%と 67%で、内閣の米国方針の支持・不支持は、41%と 51%だ。(つまり、大多数は戦争には反対だが、内閣の方針についてはそれほどではなく、いくらかは理解できるという傾向もある、ということだ。それでも、全体としてみれば、戦争にも、内閣の方針にも、反対派が多い。)

 ところが、読売の調査(数日前)は、きわめて不自然である。次の通り。
 第1に、「戦争の支持・不支持」という調査項目がない。(どうせ「不支持」が圧倒的多数になることは、前回の調査からも明らかなので、あえて調査項目からはずしたわけだ。隠蔽工作。)
 第2に、「内閣の方針の支持・不支持」という項目が、歪められている。こういう形のすっきりした質問はなくて、「納得できる・やむを得ない・納得できない」という3項目になっている。(その結果、中間的な「やむを得ない」が圧倒的多数になってしまって、質問の意味がぼやけてしまっている。)
 第3に、「やむを得ない」を、勝手に「容認」と解釈して、「圧倒的多数が容認している」というふうに記事を組み立てている。── これこそまさしく、記事の捏造である。でなければ、頭がイカレているとしか思えない。
 「やむを得ない」というのは、「正しくないが、仕方ない」という意味だ。この意味でなら、私も「やむを得ない」という項目にマルを付けざるを得ない。「政府は米国支持をするべきではないが、対米追従が日本の国是なのだから、小泉としてはそうせざるを得まい。納得はできないが、政府の方針としてはやむを得ない」と思う。
 ところが読売は、これを勝手に「容認」と解釈している。さらには、内閣と戦争をごちゃ混ぜにして、「圧倒的多数は戦争支持だ」などと言い張っている。事実報道とは正反対で、虚偽の報道をしている。
 共同・朝日・毎日のどの調査でも、調査結果はほぼ同じなのだ。読売だけが勝手な(無意味な)形式のデータをつくりあげ、勝手な解釈をして、事実とは正反対の報道をする。……フセインや北朝鮮も顔負けだ。どれにも共通するのは、独裁者がいる、ということだ。

( ※ データの捏造をしたいときは、読売新聞の方法が参考になる。(1) 肝心の項目を調査しない。(2) イエス・ノーが出ないような形式で調査をする。(3) 中間派の回答を勝手に「イエス」または「ノー」に分類する。そうして自分の都合のいい方が多いことに決めつける。(4) 調査の結果をずらして、拡大解釈する。)

 [ 付記 ]
 こういう狂気のことをやっていれば、ニュース種になるのが必然だ。「洗脳記事を毎日書いている読売新聞」というのを、他社は報道するべきだ。なのに、ここ数日間、マスコミの様子を見たが、他社はみな黙っている。
 たぶん、自社もそういう傾向があるから、恥ずかしくて、言えないのだろう。日本のマスコミは、みんな腐っている。

 [ 補足 1 ]
 読売の報道は、まるで信頼ができない。「大本営発表」である。正しい情報を知りたければ、少なくとも、インターネットやテレビで、他の情報を得た方がいい。読売以外は、だいたい、似たような報道だ。読売だけが、偏向していて、事実の報道がなく、すべて着色記事である。「正義の米軍は、圧倒的な強さで、大進撃!」という調子。……馬鹿丸出しですね。
( → 他社の例 : 毎日の記事朝日の記事 )



● ニュースと感想  (3月31日d)

 ちょっとした話。医療問題で、「処方箋の電子化」について。特に読まなくてもよい。

 (1) 前に、第2章で、次のように書いた。(再掲する。)
 処方箋は、現在、どうなっているか? 
 「病院で電子化する」→「それを印刷する」→「それを薬局にもっていく」→「それを薬局で人間が再入力して、電子化する」
 というふうになっている。つまり、病院と薬局で、二度も手間をかけて同じことを入力している。実に馬鹿げている。ネットワークで連絡すれば一発で済む問題だ。保険証がICカードになっていれば、簡単に解決できる。なのに、そうしないから、患者や薬局でやたらと待たされるし、莫大な人件費が無駄になっているし、健保の赤字が増える。膨大な無駄である。日本全体でどれほど巨額になることか。
 ここを電子化することこそ急務なのだ。
 (2) これに関連して、読者から、次の情報を得た。興味深い話なので、許可を得て、引用させていただく。(本人は、薬学部卒の、医療関係者。)
 日本の医薬分業システムについて関心を持っているのですが、あんな非 効率なものはないと感じています。おっしゃるとおり、処方箋を電子化すれば薬剤師 の処方チェックの必要はないのです。現在は紙に書いた処方箋を患者に薬局まで手で 持ってきてもらって、過去の調剤記録と照らし合わせて、重複していないか、併用禁 忌はないかを人が確認しています。
 現在の保険調剤では薬剤師のフィーとして調剤料、情報提供料などが認められてい て、これは決して無視できないほどの金額となって保険財政を圧迫しています。情報 提供といっても説明書きをプリントアウトして渡すだけです。
 20年来議論されてきた薬学部の6年制化問題がようやく決着しようとしています。 いよいよ法案提出だそうです。内部事情を知っている人間に言わせるなら、こんな馬 鹿げた改革はありません。IT化するだけで要らなくなる人を養成する学科をさらに増 強しようとしているのです。6年も大学に通った人に薬品庫の倉庫番や薬の玉かぞえ をやらせるというのです。喜劇でしょう。

 補足します。
 国が推進している医薬分業制度は各患者が「かかりつけ薬局」を持つことを推奨し ています。複数の医療機関にかかっていても、調剤をひとつの薬局で行えば、薬局に 以前の処方記録が残っているから、薬の重複や併用禁忌をなくすことができるという のです。
 ところがこの制度だと、患者が病院から出て薬局へ行ってから問題がわかるので、 後から薬剤師が疑義照会を処方医に行わなくてはなりません。処方医に連絡が取れな ければ、疑義が解消されず、調剤はできません。
 保険証をIC化して、そこに電子化された処方箋を入れることにしておけば、過去の 調剤記録を医師が処方する段階で参照できますし、エキスパートシステムによって間 違った処方をはじくことも可能です。処方チェックのプログラミングはそれほど難し くありません。投与限界量と併用してはいけない薬の組み合わせをチェックするだけ ですから。
 向精神薬の乱用も電子処方箋で止めることができます。現在のシステムでは病院や 薬局に横のつながりがないので、精神科医をはしごするだけで、大量の向精神薬を医 療保険を使って安く手に入れることができます。保険証に処方記録が残っていれば、 そのようなことはできなくなります。
 なかなか興味深い話である。
 首相も、「構造改革」とか、「IT化」とか、口先だけで言っている暇があったら、さっさと処方箋の電子化をやってもらいたものだ。口先では「電子政府」という言葉を使っているが、せいぜいインターネットで宣伝用のホームページを作るぐらいしか、能がないようだ。困ったものだ。政府というのは、宣伝ばかりに熱中して、肝心の仕事をやろうとしない。
 「口先だけ」というのは、アホなマスコミを見習ったせいかな? 

 [ 付記 ]
 「電子カルテで医療が抜本的に変わる」という記事がある。(朝日・朝刊・特集 2003-03-30 )
 読んでみたが、ほとんど無意味である。カルテの電子化なら、すでに大半の医療機関が実施している。普通のオフィス事務の電子化と、ほとんど変わらない。
 羊頭狗肉である記事の見本。
 ついでだが、朝日の記事も、かなり前に電子化されたが、それ以前と比べると、情報量も内容も、ずっとレベルが下がっている。いくら業務の電子化を進めても、肝心のは人間だ、ということ。
 だいたい、毎度毎度、寒いダジャレの見出しを掲げる新聞というのは、どうにかならないものですかね。情報を問題とする新聞で、無意味なダジャレを出して、情報伝達を粗末にする、というのは、まったく、朝日の体質を示している。


● ニュースと感想  (4月01日)

 【 予告 】
 このあとさらに半月あまり、モデル論が続く予定。
 そこでいったん経済理論は完結する。

 その後、新しい理論を述べる予定。
 「不均衡とは何か」を、経済に限らず、一般原理として述べる。
 予習しておきたい人は、カオス、フラクタル、カタストロフィなど
 の本を読んでおくといいだろう。(読まなくても大丈夫だが。)

 ( ※ 上の理論で明らかになることは、経済の本質である。
     経済は、実は、不均衡という現象の典型にすぎない。
     不均衡とは何かを知ったとき、経済の本質もわかる。)


● ニュースと感想  (4月01日b)

 「株価の予測」について。余談ふうに。
 次項以降では、「正確な経済モデル」について話題にする。そこでは、「正確な経済モデルなどはありえない」という結論になる。
 ただ、あれこれと述べるのに先だって、具体的な例を示しておこう。それは、「株価の予測をする経済モデル」の話だ。

 「経済モデル」という話になると、「株価の正確な予測」というのを期待する人が必ず出てくる。「そいつで一儲けしてやろう」というわけだ。しかし、そんなうまい話を期待するのは、間違っている。── そのことを、余談ふうに、説明しておこう。

 次の二つの点が大事だ。

 (1) 経済学の目的
 経済学のモデルの目的は、何か?
 株屋や予測屋ならば、最終目的は「金儲けをすること」である。そのために「精確かつ確実な予想をしたい。そのためのモデルを得たい。それを使って金儲けしよう」と思う。
 そう期待するのは勝手だが、経済というのは、人間心理の入る出来事である。そして、人間心理の入る出来事に、「精確かつ確実な予想」などは、原理的にありえない。人間心理というものは、自然現象とは違って、もともと気まぐれなものだからだ。

 そもそも、経済学の目的は何か? 「精確な予測をすること」ではない。「最適の経済政策を選択する」ことだ。
 たとえば、「GDPがこのくらい成長し、物価上昇率がこのくらいになりそうだ」ということを、精確な数値で予測することが大切なのではない。「(おおざっぱに)景気が過熱しそうだから、このくらいの制御量で景気冷却の政策を取るべきだ」という政策判断が目的なのだ。未来の予想が当たるのが好ましいのではなくて、未来の不幸な予想が当たらないようにすること(そのために現在の最適の制御量を知ること)が大事なのだ。
 数値モデルは、あくまで、政策決定のための参考となる道具に過ぎない。道具と目的とを勘違いしないようにしよう。そんなことでは、本末転倒となる。

( ※ はっきり言えば、経済学のモデルは、それによって金儲けをするためにあるのではなく、誰もが儲からない[誰もが損しない]ように、なるべく変動を抑えることなのだ。目的が正反対だ、とも言える。株価で誰かが大儲けしたなら、その陰で、誰かが大損したはずである。そういうことのないようにするのが、経済学の目的だ。)

 (2) 株価予測の方法
 にもかかわらず、「株価で予測して金儲けをしたい」という人はあとを絶たない。
 ただし、これは、納得は行く。というのは、経済学者が利口ならば、景気変動は発生しないはずだが、実際には、経済学者が愚かであるせいで、景気変動が発生して、株価も大きく変動するからだ。となれば、愚かな経済学者の失敗に付け込んで、金儲けをしたくなるのも、わからなくはない。
 では、株価予測で大儲けするコツは、あるか? ある。そのコツを教えよう。それは、「精確なシミュレーションモデル」や「予測モデル」を作ることではない。次の二つだ。

 第1は、マクロ経済学を正しく理解することだ。(つまり「泉の波立ち」をよく読むことだ。) これは、マクロ的な経済の動きを理解する方法だ。愚かな経済学者が景気を変動させるのだから、その愚かさを理解すればいい。そうすれば、景気の変動が予測できるし、(個別企業ではなく)株価全体の動きを予測できる。……たとえば、過去の例を見よう。世間ではずっと、先行きを楽観していた。2002年の夏、小泉の「構造改革」で先行きを期待させた。秋には「経済財政白書」で「e-Japan で遠からず景気回復」と期待を持たせた。竹中は「私なら株を買う」と主張した。「不良債権処理で景気は良くなる」とも主張した。「量的緩和で景気回復」という主張もあった。……しかし、このページを見ればわかるとおり、一貫して、「そんなの経済方針は間違っている。こんなことをしていては、まったく改善しないし、むしろ悪化するばかりだ」と述べた。そして、現実に、株価はその間に、どんどん下落していった。12000円あたりから、8000円割れまで下がった。……だから、このページをよく読んで、「空売り」をしていれば、大儲けできただろう。
( ※ たとえば、2001年12月24日c で「ずいぶん下がったが、まだまだ下落」をおおざっぱに予測している。)

 第2は、個別企業の状況をよく知ることだ。一国経済全体でなく、個々の企業の状態を見るわけだ。競馬で言おう。過去の馬のデータなんかをいくら調べても、それでは予測は当たらない。あまりにもデータ不足だ。当日の馬の調子こそが最も肝心だ。それを知るには、現場に関するデータと情報分析が必要となる。
 株価も同様だ。株式投資で儲かる鉄則は、ただ一つだ。現実の個々の企業の状況をなるべく精密に知って分析することだ。厳密なバーチャル・モデルを作ろうとすることではなく、現実そのものを知ることだ。……たとえば、過去において、NTTの株が(民営化直後に)大幅に下落したことがあった。また、日産自動車の株が大幅に下落したあとで、(ゴーン改革で)上昇したことがあった。……こういうことは、これらの企業の情報を得て、正確に分析すれば、株価の動きは予測できたはずなのだ。実際、私は、正しく予測した。だから、「NTTの株は買うな。売れ」と勧め、「日産の株は買え」と勧めた。その勧告に従った人は大儲けをしたし、従わなかった人は大損をした。

 最後に言っておこう。ケインズは、株価の予想で、大儲けをした。彼がそうできたのは、なぜか? 株価予想のすばらしいモデルを作成して、未来を精確に予測したからか? 違う。現状そのものについて情報収集して、それを賢く分析したからだ。

 結語。
 経済のモデルを作ることは大切だが、それは、未来を精確に数値予測するためではない。現実の本質を見抜くためであり、物事の真理を知るためである。

 [ 付記 ]
 以下は余談だが、株式投資に関連する話題を述べる。(正しい例を述べるのではなく、間違いの例を述べる。特に読まなくてもよい。)
 「国民は(企業育成のために)株式投資を増やすべきだ」
 という主張がある。また、それを促進するために、
 「政府は学童に、投資教育をせよ」
 という主張もある。
 こういうのは、とんでもない勘違いである。そのことを以下で説明する。
 そもそも、投資というものは、利口な者だけが得をするのであり、全員が得をするということはありえない。たとえどんなに教育をしても、平均的には、「プラスとマイナスの平均ではゼロ」となるのだ。
 仮に「全員が得をする」と思うのならば、「投資信託を買いましょう」と主張すればいい。それだけのことだ。(それならば、平均株価を買ったのと同じだから、リスクは最小になる。)
 はっきり言っておく。投資というものは、「自分は利口だ」と自惚れている連中の騙しあいである。「自分は運がいい」と自惚れている連中が、トランプでギャンブルをするのと同じだ。そして、自惚れが正しかった人が得をして、正しくなかった人が損をする。全体では、ゼロサムだ。「トランプをやったら、全員が儲かるかもしれないから、トランプの技術を研鑽せよ」なんていうのは、論理が破綻している。
 投資というものは、あくまで、金持ちのゲームである。捨ててもいい余裕資金で、マネー・ゲームをやるだけだ。「老後の大切な生活資金を株式に回す」なんていうのは、狂気の沙汰だ。(バブルのころにそうやった人々が、最近はどんどん自殺している。)

 個別の人々の損得を離れて、企業設立の観点で言うこともある。その場合も、株式でまかなう資本金は、「ハイリスク・ハイリターン」を認識した資産家が出資するべきだ。あるいは、投資ファンドが出資するべきだ。
 一方、事業を実施・拡大するための資金は、資本金にはよらず、銀行が融資するべきだ。銀行は、十分な審査をすることで、利益を得る。国民は、銀行に預けることで、利益を減らすが、リスクも減らす。── こちらが正常な経済運営である。
 国民は、貯蓄を通じて、銀行経由で、企業に資金を提供すればよい。直接投資をする義務も必要もない。
 国民がなすべきことは、「マネー・ゲームをすること」ではなくて、「真面目に働いて生産すること」である。「毎日パソコンに向かって、株式売買をして、それで金を稼げばいいのだ」と主張するような人々は、頭がイカレている。はっきり言おう。そういうふうにマネー・ゲームをする人は、市場においては、カモなのである。平均的に見れば、彼らは大損をする。その分、カモをだます人々が、カモの金をかすめとるのである。
( ※ 本当のことを言おう。「国民は株式投資を増やすべきだ」という主張は、「カモが必要だ」と言っているのである。カモがいなければ、詐欺師が困る。だから証券業界の人々は、「国民は株式投資を増やすべきだ」と主張するのである。自分たちの財布をふくらますために。)


● ニュースと感想  (4月02日)

 「モデルの正確化」と「シミュレーション」について。

 すでに、「トリオモデル」および「修正ケインズモデル」を示した。これは、本質を突くためのモデルだ、とも示した。
 ただし、それは「正確さ」をめざしたものではない。この二つのモデルがめざしたのは、「経済の原理を本質的に理解しよう」ということであって、「今後の経済変動を正確に予測しよう」というものはない。
 では、「今後の経済変動を正確に予測しよう」とするなら、どうするべきか? それには、「シミュレーション」という方法が有効だ。

 対比的に示そう。
 トリオモデルでは、「 」という形で需給曲線を示した。しかしこれは、概念的にはわかりやすいが、正確さを期するのであれば、もっと厳密に曲線を指定するべきだろう。
 修正ケインズモデルでは、消費性向を一次直線で示した。しかし、正確さを期するのであれば、一次直線でなく、複雑な数式による曲線で示すべきだろう。
 そして、そういうふうに細かく曲線を指定すれば、その分、モデルは細かく決まる。現実とのズレを減らすように、数式を微修正していけば、非常に正確なモデルを作れるはずだ。
( ※ これは、一般の自然科学でも、適用される方法である。無限級数を使えば、どんな複雑な曲線でも示せる。一般的には、3次曲線[3次式]ぐらいまでで、十分に近似できる。)

 では、それで、話は片付くか? 片付かない。なぜなら、そういうやり方で、いくら正確なシミュレーション用のモデルを提出しても、現実の経済はフラフラと変動するものだからだ。
 たとえば、ある時期の経済的な変化を見て、シミュレーション用のモデルの係数を決定したとする。そのシミュレーション用のモデルで、将来を予測できるか? できない。将来になれば、また別の係数になるからだ。── ここが、一般の自然科学とは、決定的に異なる点だ。
 万有引力の法則であれ、電荷の法則であれ、化学反応の法則であれ、その法則における「係数」は一定であって、変化しない。しかし、経済においては、そうはならないのだ。自然科学においては、法則が事象を決定的に明示するが、経済学においては、法則は単なるメドにすぎない。(現実にはそのメドから大きくブレる。)

 要するに、シミュレーションは、できるかできないかではなく、できたとしても意味がないのである。いくら正確に予測しても、現実の経済がその正確な予測に従ってくれる保証がない。これは、シミュレーションが不正確であるからではないし、シミュレーションをもっと正確にすればいいという問題でもない。現実そのものが複雑すぎる動きをするので、シミュレーションが無意味になってしまうのだ。(比喩的に言えば、どんなにぴったりの服をあつらえても、本人の体つきがどんどん変わってしまうので、ぴったりとした服をあつらえる試み自体が、無意味。)

 結局、経済においては、精確なシミュレーションで精確に予測することが大切なのではなくて、大まかでいいから本質的な動きを予測することが大切であるわけだ── ケインズはこのことを、うまく表現した。「精確に間違うよりは、漠然と正しい方がいい」( I'd rather be vaguely right than precisely wrong. )と。これもまた、同じ意味である。精確さを狙って、精密な予測をしたあげく、間違ってしまったのでは、何にもならない。予測の信頼性が失われるだけだ。それよりは、おおざっぱでいいから、確実に正しく予測するべきなのだ。天気予報を例にすれば、「晴れ・曇り・小雨・雨」ぐらいのおおざっぱさでいいから、確実に予測できればいい。「明日の降水量は 10ミリでしょう」なんて精密に予測しながら、「降水量が5ミリの小雨でも、快晴でも、どちらもハズレなら同じこと」なんて弁解されたのでは、役立たずである。

 では、シミュレーションは、まったく意義がないのか? そうではない。「こうすれば、こうなる」という予測をすることは、それなりに意義がある。
 ただ、ここで注意しよう。「公共投資の効果」とか、「金利引き下げの効果」とか、そういう効果を予測することには意義があるが、だからといって、その予測が当たるという保証はまったくないのだ。なぜか? 経済の変動に最も大きな影響を与えるのは、消費性向の変化であるが、それは、心理的なものだからだ。それはモデルの外にある。
 「公共投資や金利引き下げで、こういう効果がある」と予測するのはいいが、同時に、政府が「消費税を増税します」と言ったり、企業が「賃下げをします」と言ったりすれば、消費心理は冷えてしまって、公共投資や金利引き下げの効果をつぶしてしまう。これでは、「公共投資や金利引き下げで、こういう効果がある」と予測しても、何の意味もなくなってしまう。
 景気を最も変動させるのは、心理的なものであるということ。公共投資や金利引き下げはGDPの数パーセントぐらいの変動しかもたらさないが、消費心理の変化はもっと大きな変動をもたらすということ。── こういうことに留意しておけば、「公共投資や金利引き下げで、こういう効果がある」と予測するのも、それなりに意義はある。
 つまり、「これは正しい予測だ」という主張は正しくないが、「これはあまり正しくない予測だ」という主張は正しい。たとえて言えば、「おれは正しい」と言い張る人物の意見は信用できないが、「おれはあまり正しくない」と謙遜する人物は信用できる。ま、そんな感じだ。(ちょっと違うが。)

 [ 付記 1 ]
 「複雑な数式モデル」というものを考えよう。
 「現実をなるべく正確にシミュレーションしたい」と考える経済学者は多い。彼らは、そのために、なるべく複雑な数式を用いる。そうすることで、現実を正確に記述したつもりになる。
 しかし、これは、とんでもない勘違いだ。複雑な数式を使ったからといって、モデルが現実にピタリと当てはまるわけではない。
 はっきり言おう。複雑な数式を使うことには、何の意味もない。単純におおざっぱなグラフを引く程度で構わない。たとえば、普通は、指数関数なんかを使う必要はなく、凸状のグラフを手書きで一本書くだけでいい。
 指数関数なんかを使うと、ついつい、微分して計算などをしたくなる。しかし、微分などをしても、たいして意味はない。なぜなら、現実の経済というものは、細かく上下に変動していて(グラフでいえば細かなギザギザがあって)、微分不可能であるからだ。微分不可能であるものを、微分可能であると仮定して(なめらかな曲線でないものを、なめらかな曲線であると仮定して)、その上に論理を組み立てても、ほとんど無意味である。(……というのは、ちょっと言い過ぎだ。モデルというものは、本来、実際の細かな変動を無視していいからだ。)
 ともあれ、大切なのは、あくまで、「おおざっぱに正しいこと」であり、「精確に間違うこと」ではない。「複雑な数式を使えば、現実を正確に認識できる」などと楽観するべきではない。「複雑な高度な数式を使うほど間違う」ということにはならないが、「複雑な高度な数式を使えば正しくなる」と思ったとしたら、ひどいトンチンカンである。
( ※ 余談を言っておこう。数学の世界では、同じことを証明にするにしても、複雑な数式で証明するのは不様であり、シンプルな方法でパッと証明するのがエレガントなのだ。数学的なセンスのない経済学者に限って、簡単な事柄を複雑な数式で説明して、勝手に得意がっている。みっともない。 → 3月28日 [ 付記 ] )

 [ 付記 2 ]
 シミュレーションについては、ここまで、否定的に記した。しかし、勘違いしてほしくない。「シミュレーションはまったく無意味だ」と述べているわけではないし、「モデル的な考察はまったく無意味だ」と述べているわけでもない。
 上でも述べたが、「精確に間違うよりは、おおざっぱに言い当てる方がいい」となる。だから、「精密に予測することは無意味だ」としても、「おおざっぱに正しく予測することは意味がある」のである。
 具体的に言えば、修正ケインズモデルだ。そのモデルによって、細かな数値まで精確に予測できるわけではない。しかし、「こうすれば、だいたいこうなる」ということはわかる。そして、それこそが、大切なのだ。そういうふうにわかれば、私たちに正しい道筋が見えてくるからだ。
 比喩的に言おう。砂漠の真ん中で途方に暮れているとき、オアシスのある方向を、「ほぼこの方向だ」と正しく知ることができれば、それは非常に有益なのだ。特に、今の日本のように、「どちらに向かうべきかもわからずに途方に暮れている」状態では、そうだ。砂漠の真ん中で現状に留まっていれば、ひからびて死んでしまう。だから、おおざっぱでいいから、正しい方向を知りたい。ここでは、厳密な数値で知る必要はない。「おおざっぱに正しい」ことが大切なのだ。
 具体的に言えば、「 10兆円〜20兆円の減税が有効であり、他の不良債権処理や量的緩和や賃下げは無効だ」ということがわかればいい。この際、「 10兆円〜20兆円」という規模を精確化して、「11兆2345億円」などと決める必要はない。そういう細かな数値は枝葉末節なのだ。
 「おおざっぱに正しい」ということが大切だ。それは、「本質をつかむ」ということでもある。そして、それが、私の狙ってきたことでもある。その結果として、「修正ケインズモデル」および「トリオモデル」があるわけだ。

 [ 補足 ]
 本項で述べたことは、一言で語れば、次のことだ。
 「物事の本質を突け。細部にとらわれるな」


● ニュースと感想  (4月03日)

 前項の続き。
 「シミュレーションの意義」について。
 シミュレーションとは何か? このことを、自然科学の分野との関連で示そう。
 自然科学では、典型的なのは、万有引力の法則だ。ここでは、現実世界において、投石の軌跡を得る。すると、うまく二次関数で軌跡を示せることがわかる。このことから、法則を二次関数で定式化することができる。それが「法則」だ。すると、現実のさまざまな現象が、この「法則」に従うことがわかる。将来についても、精確に予測できる。(この「法則」が「モデル」に相当する。)
 自然現象のいくつかは、この方法で「法則」による説明が可能だ。電磁気学などもその例だ。現在状態と数学的知識から、将来について精確に予測できる。
 しかし、もっと複雑な自然現象になると、そうも行かない。たとえば、万有引力でも、二つの物体ではなくて三つの物体になると、もうお手上げだ。(いわゆる「三体問題」である。) また、流体力学もある。空気の流れは、基礎的な流体方程式で示せる。しかし、その方程式から、具体的な流体の動きがわかるわけではない。(数学的に言えば、「微分方程式は常に解けるわけではない」とも言える。もっと一般化すれば、数学的な手法でうまく解けるのはリカーシブ関数という範囲に限られる。そして、自然現象のほとんどは、その範囲からはずれる。たとえば、稲妻の厳密な形は、とうてい予測ができない。)

 こういう複雑な現象については、数学的な手法では「厳密な解」は得られないが、コンピュータによる手法では、「近似的な解」を得ることができることも多い。そして、現実には、「近似的な解」で十分であるから、コンピュータによる手法は十分に有益であるわけだ。── これが、今日、「コンピュータによるシミュレーション」として、あちこちで話題になっている手法である。その適用範囲は非常に広い。たとえば、空気の流れ、気象の予測、天文学におけるブラックホールの説明、……など、いろいろな適用例がある。
 ただし、ここで注意しよう。これらのシミュレーションでは、「スパコンが高性能になったから厳密な解が得られるようになった」と説明されることもあるが、それは正しくない。スパコンの能力は、たしかに影響するが、それが決定的な要因ではない。スパコンがいくら優秀になろうと、経済のさまざまな現象がすべて精確に予測できるようになるわけではない。
 シミュレーションにおいて大事なのは、そのソフトである。そして、ソフトにおいて大事なのは、その元となる原理(モデル)である。ある原理(モデル)があるとして、それに従ってコンピュータによって大量の計算をしているだけだ。いくらコンピュータが高性能であろうと、ソフトがダメなら計算結果もダメだし、ソフトの出来が優秀でも、元の原理(モデル)が見当違いなら計算結果も無意味である。

 経済の場合もそうだ。たとえば、「IS-LM」なんていう見当違いなモデルに従って、「所得を無視して金融だけを考慮したモデル」を使って、スパコンで計算しても、何の意味もない。
 あるいは、「W杯の経済効果」というのをスパコンでシミュレーションしたとしても、「W杯に使った金」だけを考えて、「そのせいで使えなくなった金」を無視したのでは、何の意味もない。「W杯の経済効果」を1兆円と算出しても、「そのせいで減少した野球や他の娯楽費」の分を考慮しないのでは、まったく無意味なシミュレーションとなる。(世間の経済研究所のやるシミュレーションというのは、たいてい、こういう無意味なものである。)

 とにかく、経済においては、影響する要素があまりにも多大で複雑すぎるのだ。しかも、複雑な要素をいくら丹念に拾い上げてモデルに組み込んでも、そもそも「消費」というものが心理に依存する気まぐれなものだから、「モデルを精密化すれば結果も正確になる」とは言えないのだ。
 しかもまた、外生的な現象による影響もある。たとえば、地震や台風などの天変地異。企業の不正経理の発覚や、喧嘩好きの大統領による戦争。クーデターやゼネスト。……こういうさまざまな外生的な現象が発生する。そして、その多くは、自然現象ではなくて、人間の営みであって、人間心理に依存して突発的に発生する。こういうことは、経済に大きく影響するにもかかわらず、予測が非常に困難である。
( ※ そのことは、株価を見ればわかる。株式市場とは? 予測する人々の、予測ごっこの市場である。そこでは、予測が当たった人は儲けて、予測がハズレた人は損する。多くの人々の予測がどれも正確であるなら、株価は長期的な変動があるだけで、短期的にはまったく変化しないはずだが、実際には、短期的にも大きく変動する。これすなわち、経済における予測の困難さを意味する。換言すれば、経済に影響する事柄を予測することの困難さを意味する。── 要するに、「人は未来を予言できない」のである。もし未来を予言できるのであれば、経済分野においても、絶対確実なシミュレーションが可能だが。)

 こういう「予測の困難さ」を、数学的に表現することもできる。「カオス」だ。 ── カオスというのは、初期定数の微小な差が、結果に大きな変動がもたらすことを言う。万有引力の法則ならば、初期値の微小な差は、結果にも微小な差をもたらすだけだ。(たとえば投石の初速や角度の微小なズレは、到着地点の微小なズレをもたらすだけだ。)しかし、カオスにおいては、初期値の微小な差が、結果に大きな差をもたらす。(「北京の蝶々の羽ばたきがニューヨークの天候を左右する」という誇張した例がしばしば挙げられる。)── なお、このことは、数学的には、「初期値の変動範囲に対して、結果の変動範囲が、収束しないで、発散する」とも言える。「近傍」とか「連続」とかいう概念を使うと便利だ。)
 さて。この話を聞いて、勘違いする人が出てくる。「カオスとは、そういうすごいことがわかるのか。すごいな。じゃ、カオス理論を使えば、複雑な現象をうまく予測できるようになるな」と。── しかし、これは勘違いである。カオス理論というのは、「複雑な現象を予測する」ための理論ではない。「複雑な現象を予測できない」ということを示すための理論だ。何らかの可能性を示す理論ではなくて、何らかの不可能性を示すための理論だ。
 カオス理論によって知ることができるのは、将来についての精確な予測ではなくて、「将来について精確な予測をすることはできない」という、不可能性の事実である。
 ともあれ、経済現象というのは、あまりにも複雑だし、心理的な要因も加わるし、カオスふうの乱雑な現象である。ゆえに、たとえシミュレーションしても、たいして意味はないのだ。精確で確実な予測などはできないのだ。そのことを理解しておこう。

 [ 参考 ]
 「カオス理論」については、インターネット上の情報もある。
 ( → 平凡社「ネットで百科」で「非線形力学」「カオス」の項。)
 また、次項でも、少し説明する。


● ニュースと感想  (4月04日)

 「カオス」について。
 前項で、カオスの話題が出たので、「カオスとは何か」、その本質を示しておこう。
 カオスは、「正確に予測できないこと」「不確定さがあること」を示す。しかし、単に「……できない」という否定的な結論を出すだけではない。肯定的な結論も出す。それは、その「不確定さ」がどのくらいあるか、ということだ。つまり、バラツキの程度だ。単に「不確定だ」ということがわかるだけでなくて、「どのくらい不確定だ」ということがわかることもある。これは、それなりに意味のあることである。(精確な予測のために役立つわけではないが、別の意味で役立つ。)

 カオスの本質を示すために、他との比較を考えよう。次のようになる。
 第1に、古典物理学的なモデルがある。これは、一意的に決まる。 y f (χ) のような式でモデルを作るが、そこでは変数も関数も「点」で表される。つまり、それで示される現実の状況は、唯一のものである。
 第2に、確率的なモデルがある。たとえば、サイコロとか、量子力学のさまざまな事象とか。……ここでは、事象は、「点」ではなくて、ある程度の「幅」を持つ分布として決まる。
 第3に、カオス的なモデルがある。これは、確率的なモデルに似ているが、異なる点もある。確率的なモデルでは、元となる原理は、まったく平等である。サイコロの各面とか、量子の動きとか、そこでは、常に事情は平等であって、「このサイコロ」とか、「この電子」とか、そういう特定化はない。ところが、カオスでは、そうではない。一見、ランダムな分布があるように見えるが、それは、真にランダムなのではなくて、単に情報量が足りないからランダムに見えるにすぎない。たとえば、台風の進路の範囲は、コンピュータのシミュレーションによって確率的に示されるが、それは本当は確率によって決まるわけではない。単に複雑すぎて、精確に予測できないだけだ。だから、情報量が増せば、もっと精確に予測できるようになる。サイコロや量子力学の場合とは、根本的に異なる。

 では、カオスとは、何か? 
 その例として、雪の結晶を見よう。(フラクタルと言われる図形だ。)  雪の結晶の仕方は、一見、バラバラに不規則に結晶化しているように見える。どの結晶を取っても、一つ一つ異なるし、風変わりな結晶の仕方をしている。しかし、そこには、何らかの隠れた規則性がある。
 この規則性は、あとで判明してしまえば、フラクタルとして分類することもできる。ただ、まだフラクタルとして数学的に定式化されていない時点では、規則性が不明確であり、単に、「何らかの規則性がありそうだな」と思うだけだ。
 このとき想定された「隠れた規則性」は、確率的に処理することもできるが、それでは真に理解したことになるまい。
 カオスは、この隠れた規則性を、真に理解はしなくても、何らかのモデルによって疑似的に理解しようとするものだ。真実をつかまなくても、おおざっぱに事象を理解しようとするものだ。そうして真実に徐々に近づいていく。真実そのものに到達しなくても、ある程度は真実に近づく。── それが大事だ。
 そうしたからといって、完全なる予測ができるわけではない。しかし、ある程度の傾向ぐらいは、見通せる。「このようなバラツキになる」という予測はできる。それはそれなりに、大切なことなのだ。

 ただし、このことで、過度に期待したりするべきではない。
 バラツキのある事象を扱うから、カオスは、「これまで扱えなかった現象を扱えるようになる」と言える。その点では、科学の範囲を広げる。しかし、そのかわり、「正確さ」を失うのだ。
 科学はこれまで、「正確さ」を求めてきた。古典物理学もそうだし、量子力学もそうだ。一方、カオスは、「正確さ」を犠牲にして、理解の範囲を広げようとする。その意味で、普通の科学よりも広い力をもつが、かわりに、力の強さは弱まるのである。いわば、水中のインクのようなもので、拡散するにつれて、範囲は拡がるが、濃度が薄くなる。
 その意味で、カオス理論は、「物事の真実を完全に理解する」という普通の自然科学とは、毛色が違う。「何かをよく理解するため」ではなくて、「何かをよく理解できないことをよく理解するため」の理論なのだ。

 [ 付記 1 ]
 例を示そう。
 稲妻の形を「フラクタル」のような数式で定式化したとする。すると、稲妻はフラクタル図形として認識され、その分、理解が進んだことになる。それはそれで、理解が進んだわけだから、一歩前進である。
 しかし、実際には、稲妻は完全なフラクタル図形ではない。稲妻をフラクタル図形と見なすことは、真実に近づくことではなくて、真実から遠ざかることなのである。
 現実の稲妻は、フラクタル図形に似ているところもあるが、それですっかり済むわけではない。フラクタル図形でないものをフラクタル図形であると見なすことは、真実に近づくことではなく、真実から遠ざかることである。とはいえ、そう見なすことで、今までよりは、知識が増えたわけであるから、悪いことではない。
 正しくは、稲妻をフラクタル図形と見なすことではなくて、「稲妻をフラクタル図形と見なすと、この程度は正しく、この程度は正しくない」というふうに理解することだ。理論の限界を認識できたとき、理論の有効性が出る。逆に言えば、理論を完全無欠だと思えば、その理論は人を誤らせるだけだ。
( ※ このあたり、論語みたいでもあるし、なかなか面白い。現実世界で言えば、「自分は絶対に正しい」と主張しているブッシュや小泉こそ、この世で最も信頼できない存在だ。逆に、「自分は絶対に正しいと言いきれる人は、この女を石もて打つがよい」と述べたイエス・キリストは、最も信頼できる。)

 [ 付記 2 ]
 カオス理論では、個々の現象については予測できなくとも、バラツキを説明したりバラツキを予測したりすることはできるようになることもある。その意味で、それはそれなりに有効だ。近似的であれ、物事の核心に近づくことになる。
 しかし、それは、「核心を突くこと」「本質核心を知ること」とは別のことなのだ。剣道で言えば、骨を切ることにはならない。せいぜい着物を薄く切るぐらいが関の山だ。
 核心を知ったあとならば、「核心からどれだけずれているか」を知ることも意味がある。しかし、核心とは何かをまったく理解しないうちであれば、せいぜい、「核心はこのあたりにありそうだ」と見当をつけるくらいだ。
 周辺にある霞のようにぼやけたものを、いくらつかんでも、そのことで核心をつかむことはできない。核心をつかむには、まさしく核心をつかもうとする、「本質を見抜く目」が必要だ。話を逆に考えてはいけない。
 たとえば、量子のふるまいを示すのに、カオス理論でいくら説明しても、それでは近似的に理解したことになるだけだ。量子のふるまいを本質的に知るには、シュレーディンガー方程式という核心をつかむ必要がある。(この例は、話を簡単にしてある。)

 [ 補説 ]
 理系の人のために背景を説明しておこう。
 今、「規則性・法則性のまったくない事象」つまり「確率的な事象」を、「混沌」(いわば「真のカオス」)と呼ぶことにしよう。
 カオス理論を使うと、「混沌」である事象を、(疑似的に)うまく説明できる。単純な数式から表された結果が、「混沌」のように見えることがある。そこで、次のように考える人々が出てくる。
 「一見、混沌であると見える事象も、カオス理論を使えば、うまく説明できるようになるかもしれない。たとえば、気象や経済などの複雑な事象を、カオス理論でうまく説明できるようになるかもしれない。複雑な事象が簡単な数式で説明できるようになるかもしれない」と。
 しかし、こういう想像ないし期待は、あまりにも非科学的である。根拠もなしに勝手に妄想するのは、「科学」とは正反対の発想だ。それは無根拠な「占い」と同じで、非科学的と言うしかない。
 論理的に言おう。「混沌であると見えた事象がカオス理論で説明できる」という実例は、たしかにある。そういう一例は、いくらかはある。しかし、そういう一例があるからといって、すべての場合に当てはまるわけではない。「この男は泥棒だ」という一例があったからといって、「すべての男は泥棒である」とか、「たいていの男は泥棒である」とか、そんなふうに言える保証はまったくない。ごく稀な一例があったからといって、他の大多数に適用できる保証はない。
 たとえば、サイコロや宝クジだ。これらはまったくの確率的な事象だ。こういう確率的な事象は、カオス理論で説明できることは決してありえない。カオス理論は、決して、混沌を解明する王様のような理論ではないのだ。そもそも、混沌は、どうしても解明できないからこそ、混沌であるのだ。

 なお、次のような意見もある。
 「カオスは、秩序と無秩序との橋渡しをする」
 これはほとんど意味不明な命題である。「橋渡し」とは、何か? それが問題だ。
 「カオスは、秩序と混沌との間に位置する」
 と言うのならば、正しい。しかし、
 「カオスによって、秩序から混沌へと、理解を進めることができる。カオスはそのための一里塚になる」
 と言うのならば、正しくない。なぜか? 「秩序と混沌との間に位置する」ものは、カオス理論に限らず、他に、たくさんあるからだ。「確率」「統計」「エントロピー」「フラクタル」「非線形数学」「ファジー理論」「シミュレーション」……など、さまざまなものがたくさんある。「カオス理論」は、そのうちの一つにすぎない。カオス理論だけが、特別な重みを持つわけではない。

 なお、「経済」について言えば、カオス理論はあまり役に立たない。理由は、二つある。
 第1に、経済の変動には、外生的な影響が大きく関与する。(特に、人間心理というものが大く関与する。)
 第2に、「小さな変動を拡大する」という効果は、カオス理論にあるのではなくて、別のところにある。それは、すでに述べた話では、「スパイラル」とか「不安定構造」とか、そういう言葉で説明できる。
 このうち、第2の方が、より根元的である。ただ、詳しい話は、ここでは書ききれないので、あとでまた、まとめて詳しく説明する。(モデル論を終えたあとで、「均衡と不均衡」に関する話として、まとめて記す。)

 [ 注記 ]
 「カオス」という用語に注意しよう。「カオス caos 」は、本来的な語義は、「混沌」の意味であって、「無秩序」と同じである。これが原義だ。
 しかし物理学などでいう「カオス」とは、そういう意味ではなくて、「一見したところ無秩序・混沌に見えるが、実は単純な原理で構成されるもの」である。つまり、「見かけは無秩序・混沌だが、本当は無秩序・混沌ではないもの」である。……これは、本来の語義のカオスではないから、「疑似カオス」とでも呼ぶべきものだ。
 両者の違いに注意しよう。カオス理論をいくらいじっても、本当の混沌を解明できるわけではない。本当の混沌は解明できないからこそ、混沌なのだ。解明できたり予測できたりする混沌は、もはや、真の混沌とは言えない。


● ニュースと感想  (4月05日)

 「カオスとフラクタル」について。
 「カオス」や「フラクタル」は、「複雑性の科学」と総称されることもある。また、「確率」との関連を言われることもある。そこで、これらについて、対比的に説明しておこう。

 (1) 予測可能
 古典物理学で示される世界は、「予測可能」だ。たとえば、万有引力の法則など。初期定数がわかれば、あとは法則に当てはめて、未来の事象を精確に予測できる。
 ただ、そういうことが可能なのは、限られた範囲にすぎない。(そのことは、先に述べたとおり。たとえば、三体問題さえ、解決できない。)
 量子力学を使うと、事象を確率的に予測することもできるようになる。とはいえ、しょせんは、古典物理学の世界の延長上にすぎない。もっと複雑な世界は、お手上げである。

 (2) シミュレーション
 一定の原理と、複雑な数値計算により、将来について近似的に予測できるようになる。たとえば、空気の渦。
 とはいえ、これも、その原理が確実であることが前提だ。経済学では、そういう原理がないから、シミュレーションなどをしても、あまり意味はない[予測がろくに当たらない]ことが多い。(いくらかは参考になることもあるが。)

 (3) 隠れた原理
 何らかの原理があるのだが、その原理がつかめないまま、おおざっぱに姿をつかめることがある。
  1.  統計的周期性
     原理はわからないが、統計的に調べたら、周期性が見つかって、そのせいで、おおざっぱに予測できる、ということがある。……これは、あまり、科学的ではない。最初のうちは周期的に見えても、あるとき以降は非周期的になるかも知れないからだ。(経済学で言えば、「景気循環のサイクル」というのがそうだ。根拠不明なまま、統計的に調べているだけだ。)
     これは、あまり意味がないようにも見えるが、とにかく、最初のうちは、統計的に調べるしかない。さもないと、原理があるのかどうかも、わからない。
     こうして調べた統計的周期性というのは、理論というよりは、理論になる途中の未完成な処理データのようなものだ。
  2.  フラクタル
     長い間、原理が不明だったのだが、近年ようやく、いくらかは原理がわかった……という例である。一見、複雑な形をしているので、まったくメチャクチャであるか、あるいは非常に複雑な原理で成立していると思ったのだが、よく調べたら、実は、簡単な原理が複数回、積み重なることで、複雑な形が生まれるとわかった、というわけだ。
     自然界の多くの現象が、フラクタルによって説明できる。というのは、多くの場合で、「自己成長」という原理が働くからだ。たとえば、結晶がだんだん伸びたり、生物の発生の過程で細胞分裂によって組織がどんどん伸びたり。こういときには、単純な原理から、複雑な形が生み出されることが多い。
     とはいえ、実際には、その自己成長の過程で、ある種のランダムなパラメーター(介入する外部の力)が働くから、その結果として生まれる形には、かなりの変動がある。たとえば、雪の結晶の形にしても、だいたいは似たような形になりがちだが、現実には、温度その他で、いろいろとバリエーションが生まれる。
  3.  カオス
     原理がほとんど不明なのだが、下記の「確率的」のような場合と違って、「決定的」であることがわかっている。少なくとも、そのくらいは、事実が判明しているわけだ。その動きを、近似的にモデルで示すこともできることが多い。一種のシミュレーションだ。とはいえ、それで予測可能になるわけではない。「予測の不可能さ」がわかるくらいだ。
     当初、例とされたのは、初期定数の微小な差が、結果に大きな変動をもたらすような場合だ。これは、万有引力の場合とは、まったく異なる。(1960年代の初めごろから、物理学や数学で話題になった。詳しい話は、カオスについての解説書や、インターネットの情報を調べるといいだろう。)
     現実世界の例としては、気象がある。たとえば、台風の動きは、サイコロで決まるわけではなく、厳密に自然原理で決まるはずだ。にもかかわらず、その自然原理がわからない。仕方なく、気象シミュレーションなどを使って、推測する。それでも、その推測が当たっている保証はないので、「台風の予想進路範囲の確率」とか、「明日の降水確率」とか、確率を使うことがある。
 (4) 確率的
 「確率的」というのは、まったく「決定的」でない場合だ。たとえば、コインの裏表や、サイコロの目など。たとえば、コインの面が裏になるか表になるかは、まったく偶然であり、平等である。となると、予測することも不可能となる。それも、カオスのバイトは違って、原理的にまったく予測不可能である。(逆にいえば、そういう現象を「確率的」と呼ぶわけだ。)

 [ 付記 1 ]
 「確率的」な場合は、どうして「決定的」でないか? 
 それについては、「最初のあたりでカオス的な原理が働いているからだ」と考えるのが自然である。たとえば、コインの裏表だ。厳密にいえば、コインの動きは、古典力学や量子力学できちんと定義されるはずだ。しかし、実際には、カオス的な原理が働く。たとえば、空気の動きとか、コインをトスする力には、(量子力学その他の理由で)微妙なブレが生じるが、その微妙なブレが、カオス的な構造のうちで、爆発的に拡大する。となると、あまりにも複雑すぎてしまうので、もはやそれを「確率的」「非決定的」と見なしていいことになるわけだ。

 [ 付記 2 ]
 ランダムでない[確率的でない]にもかかわらず、「予測可能」または「法則化可能」とはならない現象とは、どのようなものか? 「カオス」が一例だが、他にも例がある。それは、次の二つの場合だ。
  ・ 部分的にランダムさが入り込む場合。(多くの自然現象。)
  ・ 人間心理が入り込む場合。(人間心理が、ランダムに見える。)
 経済という現象は、この双方があてはまる。それゆえ、「カオス」や「確率」とも異なる複雑さをもっているのである。

 [ 付記 3 ]
 「フラクタル」というのは、上記で述べたように、「単純な原理が複数回組み合わさって複雑な形を生む」というものだ。ただ、ここには、すぐ上で述べたように、「部分的にランダムさが入り込む」ということもある。だからこそ、「海岸線の形はフラクタル図形に似ている」ということは言えても、実際の海岸線の形をモデルによって予測することなどはできないわけだ。
 フラクタルを理解するということは、実際の海岸線そのものを理解することとは異なる。実際の海岸線そのものを理解するには、実際の浸食や隆起について調べる必要がある。その意味で、フラクタルを理解するということは、物事の真実を理解することとは異なる。とはいえ、物事の真実を理解するための助けとはなる。実際の浸食や隆起について調べるにしても、その結果、どうしてそういう形状になったかを知るときには、フラクタルの理論が何らかの形で役に立つこともあるだろう。

 [ 付記 4 ]
 「フラクタル」に触発されたらしく、それを拡張したような理論がある。
 「自然界の複雑な現象は、単純な数式の無限回処理でシミュレーションできる」という説だ。そして、これを、普遍的な原理とする。つまりは、「何でもかんでもスパコンでシミュレーションできる」というスパコン至上主義である。略称は「CA」であるそうだ。(2002-08-20 読売新聞)
 ま、そういうことをいう自然科学者もいるとしても、おかしくはない。そもそも、シミュレーションというのは、たかがシミュレーションであって、現実そのものではないのだから、いくらシミュレーションをしても、それはその人の勝手である。ただし、そのシミュレーションに、自然そのものが従ってくれる、という保証はない。
 当然のことながら、経済という現象が、彼のシミュレーションに従ってくれる保証などは、まったくない。

 [ 補足 ]
 直接は関連はないのだが、付け足しとして、用語解説をしておこう。
 上の「カオス」で、気象のシミュレーションという例を述べた。ここで、注意してほしいことがある。
 気象庁はここで、予報が当たる割合を示す数値として、「確率」という言葉を使っている。しかしこれは、「確率」ではない。
 そもそも、「確率」というのは、「平等な事象」についてのものであり、そこでは「大数の法則」が必ず成立する。たとえば、コインの裏表や、サイコロの目など。回数が多くなればなるほど、結果は、理論的に予測された確率の値に近づく。このことは、量子力学でも同様だ。シュレーディンガーの猫の生死も、一匹の猫についての実験では断言できないが、何百何千という猫について実験すれば、結果は、理論的に予測された確率の値に近づくようになる。(大数の法則だ。)
 しかるに、上記の気象のシミュレーションでは、違う。大数の法則は成立しない。何回も予測を繰り返せば、結果の分布がその「確率」のとおりになるとは言えない。たとえば、「明日の降水確率は 80% です」と気象庁が予測した日を取って、その翌日の結果を調べると、実際には、雨の降った比率は 80% とはかなり食い違っているはずだ。しかも、その食い違いは、「回数を大きくすれば小さくなる」ということも成立しない。
 このことは、すでに、統計的にも判明している。「気象の予測が当たった割合」というのは、各国の気象庁の予測を検証したデータがある。それによると、おおむね、スパコンの性能が高いほど(つまりモデルの格子点の密度が細かいほど)、結果は正確になる。優秀なスパコンを使った国では、「明日の降水確率は 80% です」という言明はだいたいその通りだと信頼できるが、劣悪なスパコンを使った国では、「明日の降水確率は 80% です」という言明はまるで信頼できない。……実際、「スパコンによる数値予報」というのが始まった当初は、スパコンの性能も劣悪だったので、そのスパコンがいくら「明日の降水確率は 80% です」と結論しても、その言明はまったく信頼ができなかった。


● ニュースと感想  (4月06日)

 「カオスと経済学」について。
 カオスは複雑な現象を扱う。そこで、「カオスを経済学に適用すれば、より広範な現象を扱うことができるようになるだろう」という楽観的な期待がある。これについて否定しておく。
 すでに前々項で述べたように、次のように言える。
 “ カオスは、「これまで扱えなかった現象を扱えるようになる」と言える。その点では、科学の範囲を広げる。しかし、そのかわり、「正確さ」を失うのだ。”
 “ カオスは、「正確さ」を犠牲にして、理解の範囲を広げようとする。その意味で、普通の科学よりも広い力をもつが、かわりに、力の強さは弱まるのである。”

 結局、こういうことだ。
 カオス理論を使うと、経済という複雑な現象を扱うようになれることもある。しかし、だからといって、経済のすべてを完全に解明し尽くせるというわけではない。
 カオス理論を使ったからといって、サイコロの確率的な動きを精確に予測できるようになるわけではない。サイコロはあくまで確率的なものであり、非決定的なものだ。同様に、経済というものは、心理的な影響が働くものであり、完全に解明することもできないし、完全に予測することもできない。
 カオス理論は、これまでの理論ではできなかったことも、いくらかは扱えるようになるかもしれない。しかし、それでできるのは、せいぜい、「シミュレーションの精度を少し上げる」という程度のことだ。「完璧なシミュレーションができる」などということは決してありえない。(上記の意見は、ここを勘違いして、楽観している。)

 もっと大切なことを述べよう。経済学であれ何であれ、シミュレーションをするに際して、一番大切なことは、スパコンの計算能力を上げることでもないし、すばらしいモデルを作ることでもない。その前に、まず、現実をよく理解することだ。現実をよく理解できないままでは、どんなモデルを作っても机上の空論がうまくなるにすぎないし、どんな高性能なスパコンを使っても嘘つきの能力が増すだけだ。真実を知ることとは、まったく関係がない。
 経済学においても、同様だ。カオスとか、フラクタルとか、シミュレーションとか、そういうモデル作りのための手法を磨くのもいいが、その前に、まず、経済とはどんなものであるかを、正しく知る必要がある。それなしには、一切は無意味なのだ。
 たとえば、「マネタリズムのモデル」とか、「IS-LM」とか、そういう理論に基づいて、どんなに精緻なモデルやシミュレーションを作っても、あるいは、そこに完璧なカオス理論を適用しても、そこに生まれる結果は、ただのゴミ屑にすぎない。なぜなら、 その原理となるモデル(「マネタリズムのモデル」や「IS-LM」)そのものが、「総需要」や「総所得」を無視した、根本的に間違ったものだからだ。

 シミュレーションをやるのもいいが、その前に、まず、経済そのものを正しく認識すること。それが肝心である。そして、そのための理論が、「修正ケインズモデル」および「トリオモデル」によって示されるわけだ。── この二つのモデルは、現実をシミュレーションしているわけではなくて、現実の本質を正しく捕らえるためのモデルだ。そこでは、細かな数値は関係ない。
 換言すれば、こうだ。「精確に間違える」ためにあるのが、そこらのシミュレーション・モデルである。それを使うと、精確に予測できるが、そのすべては無意味となる。一方、「おおざっぱに正しい」ためにあるのが、「修正ケインズモデル」および「トリオモデル」である。それを使うと、精確に予測することはできないが、物事の本質を突くことができる。


● ニュースと感想  (4月06日b)

 「完璧なシミュレーション」あるいは「バーチャル・リアリティ」について。
 前項に関連して、余談を述べておこう。SFふうの話題である。
 前項では、「完璧なシミュレーション」という話に言及した。こういう話を聞くと、コンピュータ・マニアの血が騒ぐだろう。「今のテレビゲームでは物足りないな。もっと高性能のコンピュータを使って、精度の高い画像がほしいな。そういうシミュレーションをして、バーチャル・リアリティを作り上げてくれないかな」と。
 さらには、「コンピュータの性能が限りなく向上すれば、いつかは完全なるシミュレーションができて、現実とは区別のつかないバーチャル・リアリティが出来上がるだろう」と。
 ま、予想はしないまでも、「できるのかな、できないのかな」と疑問に思うぐらいのことはあるだろう。

 「完璧なシミュレーション」あるいは「バーチャル・リアリティ」というものを話題にした小説がある。「クラインの壺」(岡島二人著・講談社文庫)という本だ。ここでは、「完璧なシミュレーション」のできる機械が登場する。視覚や聴覚だけでなく、触覚や痛覚や臭覚までもシミュレーションできる。登場人物は、自分が現実世界にいるのか虚構世界にいるのか、まったくわからなくなる。
 では、お話の世界は別として、現実には、こういう完全無欠な「バーチャル・リアリティ」は、可能だろうか? 換言すれば、「その虚構世界に入ったとき、自分が虚構世界にいるのか現実世界にいるのか、区別がつかなくなる」ということがあるだろうか?
 
 答えを言おう。区別はつく。区別をつける方法はある。それは、虚構世界の人物に対して、言葉以外の方法でコミュニケーションすることだ。
 たとえば、目の前に女性が現れたとして、その人にほほえみかける。現実ならば、相手は何らかの反応をする。しかし、虚構世界では、相手は何も反応しない。相手は、こちらから言葉で話しかければ反応するが、こちらがほほえみかけるだけでは反応しない。
 なぜか? こちらの「ほほえみかける」という行為に対して、相手が反応するには、こちらが「ほほえみかける」という行為をしていることを知る必要がある。しかるに、バーチャル・リアリティの世界では、それは不可能だ。なぜなら、相手は、こちらの表情の動きを理解しないからだ。
 換言すれば、バーチャル・リアリティが完璧であるためには、こちらに感じられる情報がシミュレーションされるだけでは不足しており、シミュレーションされる世界がこちらの行動(というよりは行動をしている感覚)を理解しなくてはならない。こちらに与える情報を作るだけでは不足しており、こちらが与える情報を理解しなくてはならない。そして、それが、不可能なのだ。なぜなら、虚構の世界の人間は、こちらの「意図」を理解することはできないからだ。
 たとえば、こちらが言葉で「きみが好きだ」と告げれば、虚構の相手は何らかの返答をするだろう。しかし、こちらが態度で「好きだ」という気持ちを示しても、虚構の相手はうまく反応できない。(こちらの顔の動きを感知すれば可能になるかもしれない、と思うかもしれないが、そんなことはありえない。バーチャル・リアリティは、夢のなかの世界である。夢のなかで、自分がにっこり笑ったとしても、それは自分の顔の動きではなくて、夢のなかの自分の顔の動きであるにすぎない。実体は何もない。)

 なお、仮に、上記のような完全なるバーチャル・リアリティができたとしたら、それは、「世界そのものを完璧にシミュレーションした」ということになり、「世界そのものの真実を完璧に理解した」ということになる。この世のあらゆる真実をすべて理解し尽くしたということになる。この世のあらゆる人の心理的な動きまで知っていることになる。各人がいつどこでどうするかを、あらかじめ知っていることになる。
 だから、「完璧なシミュレーションができる」というのは、「人間が全知全能の神になった」というのと同様だ。神ならば、世界を創造し、世界を制御できる。だから、完璧なシミュレーションも可能だろう。
 しかし、神ならぬ人間は、全知全能ではない。世界のうちの、少なくとも一部を、理解できない。そして、理解できないところでは、シミュレーションに破綻が起こる。そこを見抜かれて、虚構だとバレる。

 結語。
 このことは、経済学にも適用できる。「完璧なるシミュレーション」というものは、神ならぬ人間には不可能である。どんなに上手にやっても、どこかでほころびがでる。 「モデルが正確で、ソフトが立派で、コンピュータが高性能ならば、完璧なシミュレーションができる」と思ってはならない。そんなことができるのは、人間が神のごとく世界のすべてを理解し尽くしたときだけだ。そして、世界のすべてを理解し尽くしたのであれば、シミュレーションをするまでもなく、結果はとっくに見通しているのであるから、シミュレーションの必要はないのだ。
 つまり、「完璧なるシミュレーションが可能である」のは、「シミュレーションの結果をあらかじめ知っているとき」つまり「シミュレーションが無意味であるとき」だけだ。
 換言すれば、通常は、「シミュレーションの結果をあらかじめ知っている」ことはないから、そのシミュレーションは「完璧」とは言えず、どこかできっと現実との乖離が発生するはずだ。

( ※ 冗談のように聞こえるかもしれないが、冗談ではない。数学における「解の不存在の証明」というのと同様だ。「解が存在しないことを証明しても何の意味もないぞ」と思うのは、数学音痴である。上記の話を聞いて「冗談かね」と思う人は、数学音痴なのだ。)

 [ 余談 ]
 小説の話。(ただの余談である。)
 バーチャル・リアリティについて話題にした小説としては、上の本がある。ただし、これは、作者が文系の人間であるせいか、科学的にはお粗末すぎる話だ。こんなやり方でバーチャル・リアリティは実現できるはずがない。原理的におかしい。理系(医学系)の人間が読めば、矛盾を指摘できる。
 一方、「パラレルワールド・ラブストーリー」(東野圭吾・講談社文庫)という小説もある。こちらは、作者が大学工学部出身のせいか、ずっとまともな話だ。上記の小説のようなひどい見当違いではなく、正当な方法である。ただし、実現性があるという意味ではない。
 というわけで、どちらが正しいかと言えば、後者の方がはるかに正しい。しかし、正しいかどうかではなくて、小説として面白いかどうかで言えば、前者の方が面白いようだ。
 とはいっても、作者の小説全体を見れば、後者の方が、小説家としては上だろう。しかし、推理小説家としてみれば、前者の方が上かもしれない。で、私の趣味で言えば、二人とも好みのタイプだ。しかし、上の2冊は、どちらも駄作だ。ただのコンピュータ・オタクみたいな本だ。
 ……ま、こんなこと、どっちもでもいいんですがね。


● ニュースと感想  (4月06日c)

 時事的な話題。「朝日の間違い記事」について。
 3月13日c でも述べたが、朝日のパソコン記事は間違いだらけだ。05日の週末版「be」青色版の間違いを指摘しておく。

 (1) cookie の削除法
 cookie には個人情報が含まれることがあるので、削除した方がいいこともある。特に、外出先のパソコンを使った場合には、そうだ。
 ただし、記事では「 cookie を使わない」「 cookie を全部削除する」という方法を教えているが、正しい方法ではない。「特定の cookie だけを削除する」というのが好ましい方法だ。
 それには、Internet ブラウザのキャッシュ・フォルダを開いて、その URL にある cookie を個別に削除すればよい。IE ならば、 "C:\Windows\Temporary Internet Files" が初期設定値となっている。

 (2) 安い経路の切符
 鉄道料金を安上がりに済ませよう、という記事がある。その趣旨はいいのだが、方法が書いてない。自分の鉄道知識をひけらかしているが、とんでもない。
 正しくは、鉄道知識なんかには頼らず、インターネットで調べることだ。Yahoo など、3つの無料検索サイトがある。そこで、出発駅と、到着駅を指定すれば、どの経路が安くて早いか、一目瞭然だ。
 こんなことは、初歩的な知識だ。記事は、間違ったことを伝えているわけであり、有害無益である。

 [ 付記 ]
 とにかく、パソコン初心者の書いた解説記事、というのは、やめてもらいたいものだ。無知な初心者が教師役になって、誤った知識を拡大再生産するなんて、とんでもない。そんな誤報ばかりを書くマスコミは、有害無益であり、存在しない方がマシだ。
 そのうちブッシュが、「正義の味方」と称して、朝日に爆弾を落とすかもしれない。(れれれ ???)








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「小泉の波立ち」
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