[付録] ニュースと感想 (48)

[ 2003.4.25 〜 2003.5.10 ]   

  《 ※ これ以前の分は、

    2001 年
       8月20日 〜 9月21日
       9月22日 〜 10月11日
      10月12日 〜 11月03日
      11月04日 〜 11月27日
      11月28日 〜 12月10日
      12月11日 〜 12月27日
      12月28日 〜 1月08日
    2002 年
       1月09日 〜 1月22日
       1月23日 〜 2月03日
       2月04日 〜 2月21日
       2月22日 〜 3月05日
       3月06日 〜 3月16日
       3月17日 〜 3月31日
       4月01日 〜 4月16日
       4月17日 〜 4月28日
       4月29日 〜 5月10日
       5月11日 〜 5月21日
       5月22日 〜 6月04日
       6月05日 〜 6月19日
       6月20日 〜 6月30日
       7月01日 〜 7月10日
       7月11日 〜 7月19日
       7月20日 〜 8月01日
       8月02日 〜 8月12日
       8月13日 〜 8月23日
       8月24日 〜 9月02日
       9月03日 〜 9月20日
       9月21日 〜 10月04日
       10月05日 〜 10月13日
       10月14日 〜 10月21日
       10月22日 〜 11月05日
       11月06日 〜 11月19日
       11月20日 〜 12月02日
       12月03日 〜 12月12日
       12月13日 〜 12月24日
       12月25日 〜 1月01日
    2003 年
       1月02日 〜 1月13日
       1月14日 〜 1月24日
       1月25日 〜 1月31日
       2月02日 〜 2月11日
       2月12日 〜 2月22日
       2月23日 〜 3月07日
       3月08日 〜 3月16日
       3月17日 〜 3月25日
       3月26日 〜 4月06日
       4月07日 〜 4月14日
       4月15日 〜 4月24日
         4月25日 〜 5月10日

   のページで 》




● ニュースと感想  (4月25日)

 【 予告 】
 前項、モデル論は、いったん終える。
 このあと、経済学について書き落とした周辺的な話題を、Q&A 形式で、さらに数日ほど続ける。
 そこで、いったん経済理論は完結する。
 長く続いた「小泉の波立ち」も、経済理論としては、これで完結だ。

 その後、新しい理論を述べる予定。これこそ、経済だけでなく、その奥にひそむ核心を明かすような、画期的な話である。
 連休に合わせて、多大な分量を、一挙に掲載する予定だ。できれば、連休の後半ごろ[日付未定]のスケジュールを、空けておいてほしい。これまでの「小泉の波立ち」の全体を上回るような、驚くべき理論が展開される。バラバラだった断片が、すべて統合される。そこでは、深い感動が得られることを、約束しよう。
 これまでは、真実に至るために、数多くの扉を開いてきた。そして、最後の一枚が、その理論において開かれるのである。このとき、真実は姿を現す。


● ニュースと感想  (4月25日b)

  ヒトゲノム計画が完了した。(2003-04-14 〜 16 の各紙。) これを、経済的には、どう評価するべきか? 

  「人種」という概念が否定された、という点が大事だ。これは、医療においては、人種間の相違を前提とする治験調査が無意味である、ということを意味する。効果的な新薬が許容され、無効な旧薬が排除される、というふうになるべきだ。

 「ヒトゲノム計画が完了した」という報道を受けて、経済的には、「新たな金儲けのタネができた」、と思う人が多いようだ。しかし、そんな考えばかりでは、つまらない。
 有益な記事がある。 ヒトゲノム国際機構会長である榊佳之(理化学研究所)へのインタビュー記事だ。( 2003-4-20 朝日・朝刊。) それによると:
 このうちの、「人種概念に生物学的根拠はない」という点に注目しよう。
 現在の医学は、逆である。「人種概念に生物学的根拠はある」と考えて、「異なる人種ごとに、副作用や薬効は異なるはずだ」と結論して、「だから異なる人種ごとに治験調査を行なうべきだ」と考える。その結果、日本人だけに限定した治験調査だけが信頼される。これが「厳密な調査」という意味であるなら、悪くはないが、実際には、欧米の治験調査はすべて無視され、アジアの治験調査も無視される。かくて、欧米で定評を得た効果的な新薬は、日本では事実上、使えない。
 では、何が使われるか? 「効果少なくて副作用のある古い薬」とか、「効果もないが副作用もない、気休めだけの薬」とか、そういったものだ。こういうものは、効果がないから、大量に使われる。新薬を使えば一発で治る病気も、新薬が許可されないせいで、他の無効な薬ばかりが使われる。かくて、医療費は、どんどん莫大に増えていき、一方、患者は治らないまま死んでいく。無駄の極致だ。われわれは、命を救うために金をかけているではなくて、命を無駄に捨てるために金をかけているのだ。
 そして、それは、「日本人は独自の人種だ」という、まったく間違った概念の上に、成立しているのである。ヒトゲノム計画の完結は、その愚かさを教えてくれる。

 [ 付記 ]
 「効果的な新薬は日本では許可されていないので使えない」という事実は、しばしば指摘される。「患者の数が少ない薬」というのは、代表的な例だ。それ以外にも、新しい薬は、たいていそうだ。日本でそれらが承認されるのは、欧米よりもずっと遅れる。十年以上も遅れるようなことは、結構ある。
 この問題については、世評の非常に高いマンガである「ブラックジャックによろしく」(週間モーニング連載)で、最近、集中連載されている。特に、本年4月中には、「癌の治療薬」という話題で、上記の内容が指摘されている。
 癌になったら、日本にいる限り、新薬で命が救われることはない。無駄な薬を飲まされ、苦しみだけを与えられ、死んでいくしかない。なぜ政府はそれを放置するか? それでも、別に問題はないのだ。いや、その方が好ましいのだ。さっさと患者が治れば、薬代がかからない。いつまでも患者が苦しんでいれば、薬代がかかる。薬代がかかればかかるほど、医者の儲けは大きくなる。そして自民党への献金も増える。また、医療費の赤字もどんどん増えるが、おかげで、財務省は、増税の口実ができる。
 だから、政府と自民党と財務省を喜ばすために、国民は死んでいくしかないのである。それがイヤなら、日本を出て、外国で治療を受けるしかない。私のお勧めは、アメリカの民間会社の「癌の医療保険」に加入することである。金はかかるが、命には替えられない。なお、癌になってからアメリカで医療を受けようと思ったら、料金が馬鹿高いので、下手をすると、破産する。
( ※ ただし、あわてて加入する必要はない。癌になるのは、高齢になってからだ。とはいえ、高齢になってからの加入だと、保険料が高くなる。損得は一概には言えない。親戚に癌が多いかどうかで、決めるといいかもしれない。……ついでだが、癌で死ななくても、人間は別の病気で死ぬものだ。)
( ※ 提案しておこう。米国の癌保険を購入するのは、面倒だ。そこで、「米国で医療を受けられる癌保険」というのを、日本の保険会社が開発するといいのだが。そうすれば、けっこう売れそうだ。ただ、厚生労働省へのイヤミになるから、許可はされないかもしれない。)


● ニュースと感想  (4月25日c)

  日銀が「準備金の積み立てを増やす」という方針を立てた。(各紙・朝刊 2003-04-22 ) これを、どう評価するべきか? 

  日銀の「財政健全化」というのは、政府の「財政健全化」と同じで、帳簿をきれいにしようという方針だが、経済に対しては、むしろ、悪影響が出る。この問題は、「財政健全化」を目的とするのではなくて、「タンク法」でマクロ的に考えるの正しい。

 「タンク法」を理解しないと、いかに経済処置を間違うか、という典型的な見本だ。
 財政政策では、「財政健全化」つまり「財政均衡」を図ると、不況のときには政府支出を縮小し、好況のときには政府支出を拡大する、ということになる。そして、その結果は、景気の振幅を大きくすることになる。デフレはいっそうデフレスパイラルを増し、インフレはいっそうインフレスパイラルを増す。「財政均衡」というのは、マクロ的には、メリットどころかデメリットがあるのだ。……こういうことは、古典派の失敗として、ケインズ経済学からも理解できる。
 日銀の財政についても、同様だ。「準備金の積み立てを増やす」というのは、日銀の帳簿をきれいにすることだ。好況のとき(金利が高い水準にあるとき = 資金需要が旺盛なとき)には、高い収益を得て、国庫納付金を増やす。不況のときは、その逆だ。それが、今回の方針である。しかし、これもまた、マクロ的には、すぐ上に述べたことと同様で、メリットどころかデメリットがある。ただ、そのメカニズムは、ケインズ経済学とは別の原理とによる。
 ここでは、タンク法で考える必要がある。「日銀の収益を政府に渡せば、政府はそれだけ利益を得る」と、人は思いがちだ。しかし、タンク法の考えに従えば、そんなことはない。同じ利益を、日銀が取ろうと、政府が取ろうと、国民にとっては、損得はない。では、どう違うか? 

 日銀の収益を、政府が取れば、その分、貨幣の量が増える。つまり、貨幣量の増加を理由とする、インフレが発生する。
 日銀の収益を、政府が取らなければ、その分、貨幣の量が減る(というか、増えない)。金は、日銀の倉庫に溜まるだけだから、その分、貨幣の価値が増す。つまり、インフレ抑制の効果がある。
 その違いを理解することが大事だ。「日銀の収益を政府が取れば、その分、政府が儲かる。濡れ手で粟だ」と人は思い込むが、そんなことはないのだ。政府が儲かったような気がするが、その分、インフレが発生するだけのことなのだ。そしてまた、逆に、「日銀の収益を政府が取らなけば、その分、日銀が利益を溜める」と人は思い込むが、そんなことはないのだ。黒字となる金を、政府が貯めようと、日銀が溜めようと、どちらにしても、国民にとっては同じことである。単に帳簿の項目が異なるだけだ。むしろ、貨幣数量の多少の方が、問題となる。「日銀が金を貯める」とすれば、その分、財政支出が減るから、貨幣数量が減るわけで、デフレ効果が出ることになる。

 さて。日銀は、「量的緩和」をやっている。とすれば、こちらのインフレ効果と、準備金の増加によるデフレ効果とで、打ち消しあうだろうか? いや、打ち消しあわない。「量的緩和」は、そもそも、「流動性の罠」ゆえに、まったく効果が上がっていない。一方、「準備金の増額」は、「政府収入の縮小」を通じて、翌年には、政府の支出を減額させるだろう。おそらく財務省は、次期の予算・補正予算で、いっそう緊縮路線を取るはずだ。現在、すでに、医療費や何やら、社会保障料関係では、あちこちで、実質増税が進んでいる。この傾向がさらに進むはずだ。
 となると、「準備金の増額」は、デフレ効果を増すばかりなのだ。そして、デフレのときに、そういう正反対の政策を取る、というのは、タンク法を理解できないからなのだ。( タンク法 → 2002年2月22日 〜 )
 かくて、日本は、奈落の底へ突き進む。

 [ 付記 ]
 「悲観的なことを言うなあ」と読者は感想をもつかもしれない。別に、私は、悲観的であろうとしているわけでもないし、逆に、楽観的であろうとしているわけでもない。私は別に、主観をまじえてはいない。単に政府と日銀が、そういう方針を取っているだけだ。
 政府と日銀が、どういう行動を取るかは、彼らが決めているのであって、私が決めているのではない。日本が悲観的な道を進むのは、日本があえてそうしようとしているからなのだ。私のせいではない。私は単に、彼らの行動を、鏡に映して見せてやっているだけだ。
 ブスが鏡を見てブスに見えるからと言って、鏡を非難するのは、お門違いである。


● ニュースと感想  (4月26日)

  前項の説明で、「タンク法」との関連は?

  財政支出の有無による貨幣数量の増減も問題だが、それだけでは単なる貨幣数量説になる。国民間の配分も問題となる。増減税とも、「広く薄く」というところに、ポイントがある。逆に、一点集中の支出をすると、国民間の配分が変更されてしまう。

 タンク法のポイントは、単なる貨幣数量説ではなくて、貨幣数量説に実効性をもたせる、というところにある。単なる貨幣数量説ならば、「量的緩和」だけを実施すればよい。しかし、それでは、資金は金融市場に滞留するだけで、実効性がない。そこに、マネタリズム流の貨幣数量説の難点がある。
 この難点を解決薄るのが、「タンク法」だ。ここでは、「広く薄く」という形で、国民間に配分の変更をもたらさずに、貨幣数量を増減させる。

 ところが、従来の経済学では、これとは正反対のことをやろうとする。たとえば、今、財務省は何をしようとしているか? 
 第1に、財政支出の拡大だ。「景気刺激のため」という名分で、財政支出を拡大しようとしている。ところが、その金の配分は、国民全体ではなくて、ごく特定の分野である。たとえば、「地方または大都市の公共事業」(建設業)、「IT」(情報産業)、「株取り引きの減税」(証券業)、「土地取引の減税」(不動産業)……など、ごく特定の産業だけだ。一般的には、GDPの大部分を占めるサービス業については、対象外だ。当然、ごく限られた産業だけは潤うが、他の大部分の産業は、ほったらかしだ。
 第2に、増税だ。「財政支出を増やす」と言ったあとで、「財政悪化を防ぐため」という名分で、増税をしようとしている。しかも、その「増税」は、「広く薄く」である。どちらかと言えば、もっと悪くて、「貧乏人から金を巻き上げる」という形である。たとえば、「発泡酒増税」、「医療費負担の増額」、「各種の社会保障の徴収増額」、「失業保険や年金への新規課税」など。……これらは、「広く薄く」であり、あるいは、「弱者に限って、広く薄く」である。そして、その効果は、「国民の消費を縮小させること」である。当然、民間の全産業が、売上げの減少に悩むことになる。デフレの悪化だ。

 結局、財務省のやっていることは、「特定の産業だけに金を渡して、その分、全産業から金を取り上げる」ということである。そして、それを、「景気拡大策と財政健全化の両立」と称する。狂気の沙汰だ。
 はっきり言おう。これは、デフレ対策ではなくて、インフレ対策なのである。インフレ対策ならば、似たような方針が、正しい。つまり、次のことだ。
 第1に、「広く薄く」という形で課税して、国民の過剰消費を抑制する。
 第2に、全般的には財政支出を切りつめるが、特定の部分だけは財政支出の切りつめから除外し、優遇する。では、優遇して良い部分とは? それは、「特定の産業」ではなくて、「特定の支出分野」である。具体的に言えば、「夜警国家」の義務支出となるような、国家としての根幹部分だ。つまりは、政府の一般歳出だ。

 とにかく、タンク法の考え方をするときは、単に貨幣数量だけを考えるべきではなく、国民間の配分を考えるべきだ。「広く薄く」という増減税は、明白に、景気に対する影響がある。一方、「特定部分に厚く」という財政支出は、ケインズ的な政策だが、あまり効果がないのである。── 要するに、「全員から金を奪って、特定部分を振興する」という方針は、経済を歪め、かつ、経済全体を縮小するのである。そんなことは、愚の骨頂だ。
 にもかかわらず、現在の経済学は、こういう愚を犯している。

 [ 付記 ]
 無駄な支出の例を示す。「IT講習会」だ。これについては、すでに何度か示した。「パソコン知識のないおばちゃんたちの、ただの暇つぶしの雑談会になっている。政府は無駄に金を出している」という話だ。
 ただ、もっとひどい例も報道されている。(朝日・朝刊・社会面 2003-04-25 )
 政府のパソコン講座で、「無駄になる金をパソコン代にする」という手口だ。パソコン講座が 35.5万円で、そのうち 30万円が政府の補助。この 30万円を、講座代ではなく、パソコン代にする、というわけだ。受講者は、参加の手続きをして、5.5万円を払う。すると、高額のノートパソコンをもらえる、という仕組みだ。受講者は、講習会に出なくても、格安でパソコンをもらえる。彼らは大喜びだ。一方、主宰者は、もっと大喜びだ。 30万円と、パソコン代(十数万円)との差額、十数万円を、がっぽりともらえる。受講なんか、もともと、たいしてやらない。結局、損をするのは、政府だけだ。かくて、莫大な金が、主宰者と会員という、両方の詐欺師に、奪い取られる。そして、これを、政府は「IT振興の構造改革」と称する。
 結局、特定の集団にいくら金を与えても、大部分の国民は損するだけだから、無意味なのだ。こんなことは、まともな人間なら、誰でもわかる。にもかかわらず、経済学者は、相も変わらず、「特定の部分に集中して支出せよ」「バラマキはダメだ」と信じているのである。かくて、詐欺師ばかりがはびこる。
 なお、詐欺師を責めてはいけない。彼らは、他の人々を、見習っただけだ。政治家はみな言っている。「公共事業を」あるいは「福祉を」と。マスコミだって、「××に金を出せ」と。彼らはみな同じ穴のムジナなのである。実は、詐欺師は、そのなかで一番罪が軽い。なぜならば、彼らは、単なる泥棒だからだ。国全体の富を減らしてはいないからだ。一方、「地方への公共事業」とか、「大都市への公共事業」とか、そういうのは、かけた金以下のものしか得られないから、国全体の富を減らす。東京湾横断道路や本四架橋など、現代のピラミッドと呼ぶべきものがそうだ。これらを作っても、単なるガラクタを建設したにすぎない。なのにそのために大金をかけることで、日本全体の富を減らす。こういう悪の権化たる経済学者に比べれば、詐欺師なんて、かわいいものだ。詐欺師が盗む金は万円単位だが、経済学者が無駄にする金は兆円単位だ。

 [ 補説 ]
 「一般歳出は、原則として、やたらと削減するべきではない」── このことを説明しておこう。
 そもそも、警察であれ、教育であれ、こういう分野は、やたらと金を切りつめるべきではないのだ。そんなことをすれば、泥棒が増えたり、教育水準が低下したりして、ひどくなる。「やたらと政府の支出を切りつめればよい」というのは、無政府主義であり、国家破滅主義だ。「政府は無駄な支出をなくせ」と叫ぶのはよい。しかし、無駄な支出をなくすことと、必要な支出を削ることとは、別である。「各省一律で削減」なんてことで、行政改革をしたつもりでいたら、とんでもない間違いだ。「税は下がりました、でも行政サービスはもっと下がりました」では、何にもならない。現実を見るがいい。公教育の水準は、どんどん低下しているから、人々は、私立校や塾のために教育費を使っている。結果的に、税で得した分以上に、何倍も損をしている。
 タコは、自分の足を食って、「得したぞ」と思うものだ。いつか自分の足がなくなってしまうとしても、タコはそれで満足なのである。タコはたぶん、経済学者の意見に従っているのだろう。経済学者は、「そうすれば得だぞ」と教えるからだ。


● ニュースと感想  (4月26日b)

  「インフレ目標」で物価上昇が発生したとき、物価上昇の分、賃金は上昇するのか、しないのか? 

  しない。「物価上昇の分、賃金も上がるはずだ」と思うかもしれないが、普通の景気のときにはともかく、不況のときにはそうならない。なぜなら、失業率が高いからだ。労働市場の需給関係から言って、労働者側が弱い。赤字企業は、「実質賃下げ」をしようとするし、実際、そうなる。結局、賃上げは、あるとしても、物価上昇率以下になる。

 だから、「インフレ目標で物価が上昇すると、所得も上昇するので、人々は幸福になる」なんていうことは、ありえない。人々は、物価上昇のもとで、実質所得が低下する。生活が苦しくなる。
 ただし、例外がある。それは、最初に「減税」をやった場合だ。この場合は、最初に莫大な得があり、そのあと、物価上昇による損が少しずつ発生する。差し引きして、得と損はチャラである。 ( → 3月17日3月19日
 しかるに、最初に「減税」をやらない場合には、物価上昇の分の損だけが発生する。で、その損の分に相当する得は、どこへ行ったかというと、企業へ行く。結局、国民の金を奪って、企業に金が行くわけだ。
 で、その金で、企業が設備投資をすれば、需給は均衡して、めでたく景気は回復する。しかし、通常、そうならない。供給過剰のときに設備投資をする企業はほとんどないからだ。企業は、その金を、資産投資に回す。となると、資産インフレが発生する。

 まとめれば、こうだ。「減税」では、国民の損得はない。「インフレ目標」では、大部分の国民は損をして、一部の資産投資をした関係者だけが得をする。そういう不心得者だけが、資産インフレで莫大な利益を得る。そのあと、ふたたび資産デフレ(バブル破裂)が発生するが、その損失は、不心得者は負担しない。企業を倒産させて、「不良債権処理」という形で、国民全体にツケ回しをする。同時に、デフレが発生して、国民全体が貧しくなる。
 結局、こうだ。「インフレ目標」を実施すれば、当面はデフレを脱出できるかもしれない。しかし、そのあと、一部の不心得者だけが資産インフレ莫大な利益を得て、大多数の人々は所得喪失で苦しむ。(スタグフレーションと同様だ。) しかも、そのあと、再度のバブル破裂が発生する。
( ※ バブルを破裂させない程度にすればいい、と思うかもしれないが、だとしたら、いつまでたってもデフレを脱出できない。物価上昇率を2〜3%ぐらいにすれば、資産インフレは 20%ぐらいになる。そのことは、バブル期に実証済み。当時も、急激な円高による輸入デフレを脱出しようとして、大規模な量的緩和を実施し、ひどい資産インフレを招いた。金融政策だけでデフレを脱出しようとすれば、どうしても大規模な量的緩和が必要となり、当然、ひどい資産インフレが発生する。年2%程度の物価上昇率をめざす「インフレ目標」政策は、まさしく、バブル期に実施されたのであり、その結果は、まさしく、「資産インフレ」であったのだ。)

 [ 付記 ]
 話の根源を勘違いしてもらっては困るのだが、クルーグマン流の「インフレ目標」は、個人の消費を増やそうというよりは、企業の投資を増やそうとする政策だ。つまり、「国民の富を奪って、企業に与えよう」という政策だ。そうやって、投資を増やそうとする。
 そのことは、別に、良くも悪くもない。共産党ならば、「労働者の富を奪うのはけしからん」と叫ぶだろうが、私はそんなことは叫ばない。企業に金を渡すか個人に金を渡すかは、単に、投資と消費のどちらを増やすか、という問題にすぎない。
 クルーグマンの立場は、「投資不足だから、投資を増やせ」というものだ。私の立場は、「消費不足だから、消費を増やせ」というものだ。どちらが正しいかという問題ではない。どちらが現状に適しているかだ。
 現状が「投資不足」のときであれば、クルーグマン流の政策が正しい。この場合は、消費を削ってでも、投資を増やすべきだ。
 一方、現状が「消費不足のデフレ」のときであれば、私流の政策が正しい。これは論理的な必然である。「消費不足」と「消費を増やすべきだ」とは同義だからだ。

( →  11月23日b に、参照先の一覧がある。一括した説明は、11月20日 以降にもある。)


● ニュースと感想  (4月27日)

  最近は、「バブル」ではなく、「逆バブル」が発生しているはずだから、政府や日銀が、株式や土地を買うべきだ、── という意見があるが、どうか? 

  逆バブルは、発生しているか? それは、断定できない。見方によっては、将来の成長が可能だから、長期的な観点から見れば、逆バブルが発生している、とも言える。しかし、現在の企業業績から見れば、適正だ、とも言える。── どちらが正しいかは、投資家が判断するべきである。政府が介入して、市場を操作するべきではない。

 こんなことは、当たり前だ。「株式が安すぎるから、国が介入して買い占めよ」とか、「株式が高すぎるから、国が介入して売り浴びせよ」とか、そんなふうに、国によるよる市場への介入は、市場原理の否定そのものだ。狂気の沙汰と言うしかない。
 「市場では逆バブルが起こっているから、買い占めて価格をつり上げるのが正当だ」と思うのであれば、自分が投資家となって、そうすればいいだけだ。勝手に自分の金で買えばよい。金がなければ、銀行または資産家から借りればよい。で、銀行や資産家が貸してくれないとしたら? それは、その人たちが、「逆バブルだ」という説を信じていないことになる。誰も信じないから、金を貸さないだけだ。
 そういうことだ。あくまで市場でカタが付く問題である。「逆バブルだ」という説が、市場で信じられているのであれば、市場参入者がどんどん買うから、価格は上がる。かくて、逆バブルはつぶれる。そして、そういうことがないとしたら、「逆バブルだ」という説が、市場で信じられていないことになる。そういうふうに、市場でカタが付く。
 ここで、「国が介入せよ」というのは、「市場の誰も信じていないことを、勝手に政府が妄想を信じて介入する」ということであり、価格が正当な価格から逸脱することになる。まさしく、市場原理の否定である。「市場で決まるのは最適な価格ではないから、政府が価格を決めればよい」という社会主義だ。それを突き進めれば、「あらゆる価格は国家統制すればいい。そうすれば、物価下落が収まり、デフレは解消する」という主張になる。
 しかし、いくら物価下落が起こるからといって、価格を国家統制するなんていうことをすれば、国家経済そのものが破綻してしまう。狂気の沙汰だ。
 「国家による市場への介入」というのは、それほど狂気的なことなのだ。にもかかわらず、現在、「日銀による株式や不動産の購入」などという説が、真顔で語られている。日本の経済学者たちは、日本をかつてのソ連のようにしようとしているのだ。そうして日本経済のシステムそのものを改変しようとしているのだ。
 こういう「自覚しない社会主義者」ほど、危険なものはない。デフレは、経済を病気にするだけだが、国家介入という社会主義は、経済システムそのものを崩壊させてしまうのだ。そのことに気づかない人々が、多すぎる。
 結語。
 とにかく、現在の価格が正しくないと思うのであれば、勝手に自分の責任で投資すればいいのだ。国にやらせるべきではない。

 [ 付記 ]
 私見では、現在の価格は、日本経済の実力に、ほぼ見合っていると思う。本当を言えば、少し安すぎるとは思うが、先を見通せば、景気はどんどん悪化していくはずなのだ。だから、将来を先取りして、実力よりも低めの価格になるのは、当然だろう。小泉と竹中の方針が続く限りは、常に実力よりも低めの価格になるはずだ。
 ついでだが、国が大規模な減税を実施すれば、景気回復の見込みが立つから、株価は一挙に反転して、大幅に上昇するだろう。
 だから、正解は、国家による介入で株価を強引に吊り上げることではなくて、減税によって株価を自然に上げることなのだ。

  【 追記 】
 なぜ現在の株価が適切か? 企業が利益を生まないからだ。利益を生まない企業の株価は、ゼロで当然である。実際には、ゼロでないとしたら、将来の成長性などを勘案しているからだろう。将来の成長も見込めない企業(たとえば建設関連の企業)では、現時点でも株価はゼロで当然である。現実には、30円ぐらいの価格がついているが、この価格は、明らかに高すぎる。長銀でも何でも、30円ぐらいの株価が付いたあとで、あるとき突然、ゼロになる。こういうのは、好ましくない。初めからゼロの方がマシだ。
 ともあれ、現在の普通の企業の株価は、利益を生まない企業の株価としては、高すぎる。現状の株価を見て、「低すぎるから、政府が介入して、もっと上げよ」というのは、あまりにも見当違いだ。
 では、どうするべきか? 「赤字企業の株を強引に吊り上げる」べきではなく、「赤字企業を黒字企業にする」べきだ。そのためには? 「企業を再建しよう」なんて思わずに、「総需要を拡大しよう」とするべきだ。何度も繰り返したとおり。


● ニュースと感想  (4月27日b)

  株式や土地の価格下落は、資産デフレ効果があり、経済を悪化させるから、やはり政府が買い支えるべきではないのか? 

  資産デフレは、デフレを加速させる。そういう効果は、たしかにある。しかし、それは、賃下げや企業赤字がデフレを悪化させるのと同様で、デフレスパイラルの一環にすぎない。病因と症状を混同してはならない。症状を消しても、病因は治らないのだ。

 「病因と症状とは異なる」── この肝心のことを、勘違いしている経済学者が多すぎる。
 仮に、「資産デフレは、デフレを悪化させるから」という理屈が成立するのなら、「○○は、デフレを悪化させるから」という理屈で、デフレのあらゆる個別症状にいちいち対処しなくてはならなくなる。たとえば、
 こんなことをいくらやっても、低能率な産業ばかりが育成され、その分、まともな企業がつぶるだけだ。総生産は同じまま、劣悪な企業の配分が増え、優秀な企業の配分が減るだけだ。状況を良くするどころか、悪化させる。

 マネタリストは、やたらと「資産デフレはダメだ。だから資産インフレを起こせ」と主張するが、肝心のことを理解していないようだ。それは、「資産インフレは何も生産しない」ということだ。
 人が働いて商品を生産すれば、それは純然たる生産活動である。労働によって、価値を生み出す。それが経済活動というものだ。ここでは富が生産される。
 資産インフレは、そうではない。資産インフレが発止すると、帳簿上の価格はどんどん増えるが、富はただの1円分も増えないのだ。仮に、資産インフレによって富が増えるのだとしたら、日本人は、誰も働かないで、市場で資産取り引きだけをやっていればよい。「資産取り引きソフト」というプログラムでも組んで、コンピュータが自動で的に市場で資産取り引きを続ければよい。なるほど、そうすれば、バブルはどんどん膨張するだろう。人々は、帳簿上の価格がどんどん増えるのを見て、大喜びするだろう。「土地や株の価格がこんなに上がったぞ。俺たちはこんなに大金持ちになったぞ」と大喜びするだろう。── しかし、そのとき、日本では、何も生産されていないのだ。どんなに金があっても、その金で買えるものは、何一つないのだ。つまり、その金は、無価値の金なのだ。通貨レート(つまり外貨との両替)を考えれば、円が暴落することに相当する。紙幣が紙屑になる。(ま、それでも、「円安になったから嬉しい」と喜ぶ阿呆がいるだろうが。)
 
 経済とは、富を増やすことであって、名目上の金額を増やすことではないのだ。そのことに気づかない経済学者が、マクロ的な総生産や総所得を無視して、ひたすら「金を増やせ」「資産インフレを起こせ」「価格を上げよ」とだけ主張する。そういう人々を、「マネタリスト」と呼ぶ。
 彼らの頭は、「子供銀行」の発行したオモチャの紙幣をいじっている子供と、まったく同じなのである。

 [ 付記 ]
 「最近の株価の下落で、 150兆円が消えてしまった」という話を、読売の社説は、しばしば書く。やめてもらいたいものだ。こういうデタラメを信じる人々が、「バブルを起こせ」と主張する。そもそも、バブル期には、「株価高騰のおかげで、財産が莫大に増えた」という妄想を信じ込んだから、過剰消費が起こったのだ。その過剰消費が、現在のデフレを起こしたのだ。
 帳簿上の富は、実質的な富を意味しない。そのことを理解するべきだ。そもそも、帳簿上の数字だけにこだわるのであれば、「デフレはすばらしい」ということになる。「物価下落のおかげで、マネーの価値が上昇した。万歳!」となる。
 ここでは、何が問題か? 「生産量」というものが無視されていることだ。結局、経済というものは、「生産量の安定」こそが、至上命題なのである。株価や物価の変動などは、二の次なのだ。生産量を無視して、株価や物価だけを操作しようとしても、無意味なのである。
 いくらシッポを振っても、本体は振れない。「元気な犬は、シッポを振る。だから、病気になった犬も、シッポを振れば、病気が治る」なんていう主張は、無意味である。にもかかわらず、それと同じことを主張するのが、「株価」「物価」を重視するマネタリストたちだ。(この点では、実体経済を直視するサプライサイドの方が、まだマシである。)


● ニュースと感想  (4月27日b)

  バブル期には、株式で大儲けした、という例がある。もう一度、同じことは起こらないかな? 自分も、大儲けしたいのだが。

  簡単だ。私が「私募株」というのを発行するから、それを購入してほしい。1株が1万円。10倍の 10万円に値上がりすることを、絶対確実だと保証する。しかも、この値上がりは、原理的に、永遠に続く。それを信じて、この株を買ってほしい。そうすれば、あなたの望みは、実現する。

 「そんな馬鹿な!」と思う人が多いだろう。もちろん、トリックはある。たしかに、上記のことは成立する。しかし、それで最終的に得をするわけではない。
 詳しく示そう。1株が1万円。それを 100株、買ってもらう。1万円で買った株を、10万円で払い戻す。── ただし、である。払い戻すのは、最初の1株だけだ。残りの 99株は、バブル破裂後に、倒産して、紙屑となる。
 結局、1株だけは、1万円で買って、10万円を払い戻してもらえる。残りの 99株は、99万円で買って、紙屑となる。
 「じゃ、どうして永遠なんだ」と思うかもしれない。簡単だ。99株は、売らないで、ずっと保有してもらうのである。ずっと保有してもらっている限りは、その株は「いまだに 10万円の価値があるな」と錯覚してもらえる。そして、ある日、残りの株を売るときになって、突然、株価がゼロになる。……とはいえ、「売ろう」と思わなければ、永遠に、その暴落は発現しないのだ。いつまでもいつまでも、ずっと錯覚しつづけていられるのだ。そして、そう錯覚していられる限りは、たしかに「永遠」なのである。

 実は、これは、バブルのメカニズムそのものである。「売るときまでは、一部の株だけが高値で売れるので、全部の株が高値だと信じる。しかし、実際に全部の株を売ろうとしたら、とたんに、株価は暴落する」というわけだ。
 バブルの本質は、そういうことだ。「一部分については得だが、大部分については損。一部分だけを見れば得だと信じていられるが、全体を見れば差し引きして損」ということだ。
 私が上記の条件で、株式を募集したとしても、詐欺にはならない。なぜなら、ここで、「最終的には損になる」とはっきり明示しているからだ。
 詐欺師がいるとすれば、私ではなくて、マネタリストである。「最終的には得になりますよ。得をしますよ」と彼らは甘美に勧誘する。これこそ、詐欺そのものである。経済学者とは、詐欺師なのだ。そして、国民の大部分は、その詐欺に騙されている。


● ニュースと感想  (4月28日)

  円安にすれば、輸出が増えて、経済が正常化するのでは? 

  輸出が増えれば、貿易黒字が出る。貿易黒字が出れば、円高になる。元の木阿弥。

 「円安」を主張するのは、「それで輸出を増やせ」ということであり、「内需が不足ならば、外需を求めよ」ということだろう。
 しかし、外需が増えれば、貿易黒字が出るし、そうなれば、自然に円高になる。とすれば、元の木阿弥である。
 どうしてもこの問題を解消したければ、資本赤字を増やすことだ。つまり、貿易黒字で得た金を、外国に資本投資する。あるいは、逆に、外国に資本投資することで、貿易黒字を出す。
 しかし、こういうことは、あまりにも姑息である。「国内に原因がある」というときに、その根本問題を解決しないで、別のところで解決しようとする。
 私の予測を言おう。その政策は、短期的には、成功する。たとえば、大幅な円安にして、日本の貿易収支を大幅に黒字にする。これによって、景気回復効果が出る。
 ただし、である。もともと日本では、経済における輸出入の割合は、たったの1割程度でしかない。「ちょっとだけ景気回復」という気休めならば、「小幅の輸出増加」でいいが、「デフレから脱出」のためには、「大幅な輸出増加」が必要となる。
 具体的に言えば、対米収支で、現在は日本の大幅黒字だが、この大幅黒字の額を、さらに数倍に増やす必要がある。つまり、ただでさえ双子の赤字で悩んでいる米国を、経済的に奈落の底に落とす必要がある。
 なるほど、そうすれば、米国経済は不況のどん底に陥り、失業者が急増するが、そのかわり、日本の景気は回復する。つまり、「不況の輸出」に成功する。
 しかし、そんなことをすれば、アメリカが黙っているはずがない。あるとき突然、「対日課徴金」という制裁を課すだろう。当然、日本は、ふたたび不況に逆戻りだ。しかも、今回は、「なだらかな変化」ではなくて、「あるとき突然の変化」だから、経済はメチャクチャに破壊される。

 結語。
 「総需要」という概念は、日本国内だけでなく、二国間や多国間においても適用される。日本と米国の総需要を一定に保ったまま、「日本が輸出をして、米国が輸入をすればよい」というのは、あまりにもご都合主義だ。それで日本は良くなっても、ちょうどその分、米国は悪化する。あまりにも自国本位の身勝手な主義だ。
 そして、身勝手な主義を、相手が優しく許容してくれると思うのは、幼児的な発想である。「ぼくはお菓子がほしいんだ。ほしいよ〜。ほしいよ〜」と駄々をこねれば、親のアメリカがきっとお菓子を与えてくれる、と思うのは、まさしく幼児の発想なのである。

 [ 付記 ]
 はっきり言っておこう。日本の経済学者は幼児的だが、アメリカの経済学者も幼児的である。日本がアメリカの金を奪おうとすれば、黙って見逃してくれるはずがない。アメリカというのは、世界で一番のやんちゃ坊主なのだ。
 円安論者のシナリオでは、こうなるはずだ。
 「円安 → 輸出増 → 外国の輸入増 → 日本は景気が回復して、外国は景気が悪くなる → 日本だけは良くなる。万歳!」
 これこそ、幼児的な夢想の極みだ。
 日本が病気のときには、日本自身が病気を治すべきなのであって、「日本の病気を他人に移して自分が治ればいい」と思うのは、とんでもない勘違いだ。そんな発想をすれば、毛嫌いされて、世界の除け者になるだけだ。
 考えてもみるがいい。アメリカや中国や欧州は、いずれも景気悪化に悩んでいる。これらの国が協調して、「国家介入による、自国通貨の切り下げ」をして、「強引な円高」を招いたら、日本は、「ハイハイ」と受け入れるだろうか? むしろ、怒るだろう。そして、それと同じことを、「円安」論者は主張する。
 「相手の立場になって考える」ということができないような、思いやりのない人々が、「円安」論者なのである。
 ちなみに、「円安」を主張している経済学者を、個別に見るがいい。どの顔も、みな、ひどいエゴイスティックな顔をしている。「思いやりのある顔」なんてものは、ひとつもない。そういう人物が、そういう主張をするのだ。エゴイストの極み。(とはいえ、たいていの経済学者は、「エゴイズムこそすばらしい」と主張する輩ばかりだが。)


● ニュースと感想  (4月28日b)

  自動車などの輸出産業が、もっと輸出を増やすには、どうするべきするべきか? 国際競争力を高めるために、賃下げをするべきか? 

  賃下げは無意味だ。賃下げをして輸出を増やしても、貿易黒字が出るので、その分、円高になる。輸出産業は不利になる。元の木阿弥だ。では、どうするべきか? 輸入を増やせばよい。輸入を増やせば、その分、輸出が増える。

 賃下げをすれば、貿易黒字が出て、円高になる。だから、「国際競争力を高めるために、賃下げをする(賃上げを抑制する)」なんて経団連やトヨタの主張は、まるきり成立しないわけだ。このことは、3月07日b の [ 補説 1 ][ 補説 2 ] で示したとおりだ。
 だから、輸出産業は、「賃下げしよう」なんていう無意味なことはやめた方がいい。むしろ、円レートを下げるために、輸入を増やした方がいい。円レートの均衡から考えれば、輸入を増やせば、その分、輸出が増えるはずだ。
 さらに、もう一つの効果がある。輸入拡大を商社なんかに任せずに、輸出産業が自分で手がけるようになれば、相手国の「国内障壁」という「自由を阻害するもの」を、乗り越えることができるのだ。
 一般的に言って、日本の輸出が伸びない理由は、相手国の「国内障壁」である。特に、「非関税障壁」である。具体的に言えば、「風習」「民族感情」などだ。これは、次のようなことだ。

 アジアやアメリカに対してならば、日本の製品は雪崩のごとく流れ込んでいる。だから、これ以上、輸出が大幅に増える見込みはない。自動車で言えば、日本企業のシェアは米国の 1/3 ぐらいになっている。これ以上やたらと増やせば、米国の市場の過半数を占めることになる。そんなことになったら、一挙に、輸入規制が行なわれるようになるだろう。アジアに対しても、似たようなものだ。
 しかし、である。対欧州に対してだけは、まったく事情が異なる。日本の自動車産業は、ろくにシェアを取れない。英国ではそこそこのシェアを取っているし、米国やアジアでは欧州車を蹴散らかしているから、日本の自動車の性能が特に悪いわけではない。やはり、ここは、民族感情が優先されているわけだ。実際、英・独・仏・伊などを見ても、自国の自動車産業が高いシェアを占めており、他国の会社のシェアは低い。
 では、どうすれば、この国内障壁を乗り越えられるか? 単に技術力や価格で勝負しようとしても、ダメである。そんなことは、もう何十年もやって、ろくに効果が出ないのだ。このあとさらに何十年もやっても、少しぐらいの成果が上がるだけだろう。今すぐ急にシェアを大幅に高めることはできない。

 しかし、である。別の方法を使えば、今すぐ急にシェアを大幅に高めることができる。それは、「相手国の商品を輸入すること」である。たとえば、イタリアの特産農産物を輸入したり、フランスの雑貨を輸入したりする。すると、貿易収支の効果以外に、直接的なメリットが発生する。それは、「相手国の関係業者が、業務関係から、日本の該当会社の商品を買ってくれる」ということだ。たとえば、フランスのワインを、日本のトヨタの商社部門が購入する。すると、フランスのワイン業者は、当然、日本のトヨタの自動車を買ってくれる。そうすればそうするほど、自分のワインが売れるのだから、当然である。「まさか」と思うかもしれないが、これは、当たり前のことだ。フランスのワイン業者の立場になってみればいい。トヨタに自分のワインを買ってもらうときに、トヨタの車に乗っているか、フォルクスワーゲンやベンツの車に乗っているかでは、違いが出るはずだ、と考えるはずだ。実際、違いが出るように、トヨタの商社部門が運営すればよい。「おたくは、うちの車じゃなくて、ベンツに乗っているんですか。ああ、そうですか」とイヤミを言えば、相手業者は、考え直すだろう。
 ま、こういうことをしても、フランスの愛国的な業者は、「いや、おれは(フランスの)ルノーに乗るんだ」と思うかもしれないが、少なくとも、「(ドイツの)フォルクスワーゲンに乗ろう」という業者の車を、トヨタ車に変えるぐらいの効果はある。……というわけで、こうやって、非関税障壁を崩すわけだ。

 経済というものは、必ずしも、理屈通りに動くものではない。とくに、「非関税障壁」というものは、非常に心理的な面が強い。こういうものに対しては、こちらとしても心理的な方法を取るべきなのだ。
 「経済とは数字だけで動くものだ。だから賃下げをすればよい」なんて考えるトヨタの経営者は、ろくでなしであり、モウロクしているわけだから、さっさと退場した方がいいだろう。

( ※ 自動車産業というのは、非常に巨大であり、輸出相手の先にも、巨大な販売網を持っている。とすれば、それを、輸入のための情報取得のために使うこともできるはずだ。)
( ※ 日本でも、「インターネットで注文したドイツの名産品を、トヨタの販売店で購入できます」なんてやれば、ほとんどコストも掛けずに、売上げを増やすことができる。また、集客効果もある。今のような時代に、自動車販売店で自動車だけを販売する、なんてのは、「郵便局では郵政関連の商品しか取り扱いません」という郵政公社と同じく、時代錯誤的な無駄なのである。)

 [ 付記 1 ]
 ついでに言えば、日本と欧州との貿易量は、もっと拡大するのが自然である。米国とばかり取り引きして、この二国間関係ばかりがいびつに巨大化しているところに、現在の日本の不幸がある。日欧関係が強化されれば、米国の独裁的な傾向も、かなり弱まるはずだ。今は、米国だけが、日本と欧州との間に緊密な関係を築き、日本と欧州との関係が弱い。そのせいで、イラク戦争でも、無知な米国が独走することになった。日本でも、「対米協調が日本の国益である」なんて堂々と主張する国際問題音痴が多すぎる。こういう音痴の目を覚まさせるためにも、日本と欧州の関係を、もっと緊密にするべきだろう。

 [ 付記 2 ]
 ただし、である。欧州との関係を高めるのは大切だが、次の二点には、注意するべきだ。
 第1に、英国は、欧州とは言えない。英国自身、「欧州」と「英国」とを区別している人が多い。日本はやたらと英国と関係を強化したがるが、アングロサクソンというのは、世界的に見ても、特殊な価値観を持っている唯我独尊的な民族だから、あまり英国にはこだわらない方がよい。
 第2に、ドイツは、あまり好ましい相手ではない。日本は、欧州というと、やたらとドイツと結びつきたがる。しかし、それは、「ドイツはすばらしい先進国だ」と思い込んでいるからだ。そして、日本がそう思い込んでいるのと同じだけ、ドイツは「日本は黄色い猿だ」と思い込んでいる。日本人がドイツ人と交際すると、見下されて、不快な感じになり、協力が失敗することが多い。肝に銘じるべきだ。例としては、日産がある。最初、「憧れのベンツ」の傘下に入りたがった。ところが、ベンツの突きつけた条件は、「当社の子会社になれ。100%、ドイツ人の言うことを聞け」という屈辱的なものだった。かくて、交渉は破綻した。そのあと、フランスのルノーと、対等的な関係を結ぶことができた。それで、成功した。一方、ベンツの傘下に入ったクライスラーは、ベンツの方針に従ったが、経営的には大失敗をした。……こういうことは、これからもあるだろう。はっきり言っておく。ドイツと提携したいのであれば、相手の奴隷となるのを覚悟しておくべきだ。ドイツの頭は、石頭なのである。

 [ 付記 3 ]
 ついでだが、私のお勧めは、ベルギーなどの小国である。また、イタリアやフランスというのは、実にいい加減な国民性の国だが、それゆえ、日本とは補完しあえる関係にある。たとえば、デザインを見ても、日本のデザインは遊び心がなくて全然詰まらないが、イタリアやフランスのデザインは良い。パソコンなんか、日本の無味乾燥な製品は、デザイン部門を、イタリアやフランスに置けば、製品競争力は劇的に向上するだろう。特に、富士通やNECや日立のように、野暮の極致である会社には、そう言える。松下は、デジカメのデザインで、欧州のデザインを使ったが、これは、日本製品には珍しく良いデザインなので、市場でも好評であるようだ。
( ※ 日本製品のデザインが急に良くなるとしたら、わくわくしますね。まったく、今の日本の製品は、没デザインばかりで、うんざりする。そういう経営をしている会社の社長が、「賃下げ」だの「コストダウン」だのばかりを主張する。経営者失格、と言っていいだろう。特に、トヨタのデザインは、野暮ばっかり。セルシオなんて、信じられない野暮だね。まったく。例外は、ヴィッツだが、これはトヨタでも例外的に、欧州トヨタのギリシア人がデザインしたもの。)


● ニュースと感想  (4月29日)

  原発は、どうするべきか? 

  是非は別としよう。仮に、促進するならば、その地方への公共事業をふりまくことなどは、無意味である。電気料金を下げるべきだ。

 原発の是非は、簡単には結論を出せない。「温暖化防止」というメリットもあるし、「核の危険性」というデメリットもある。両者は、同じ次元の話ではない。どちらを重視するかは、価値判断の問題である。単純に是非を決めることはできない。
 ただ、「促進すべし」という結論が出たなら、その方法については言える。「当の地方へ公共事業をふりまく」というのが、現状の政策だが、こんなことは、無意味である。その地方に公民館がいくらできても、誰も喜ばない。喜ぶのは、たかり体質の、政治家と建設業者だけだ。
 むしろ、当の地方で、電気料金を下げればよい。それも、原発に近い地域ほど、電気料金を下げればよい。これならば、住民にとって、メリットとデメリットがなかばする。反対する人は、遠くへ引っ越せばいいし、金がない人は、原発の近くへ引っ越せばよい。経済学的な原理である。
 こういう政策を取ると、「貧乏人は原発のそばで暮らせ、ということか」と憤慨する人が、必ず出るはずだ。しかし、それは、ただの勘違いである。「貧乏人は原発のそばで暮らせ」なんて、誰も言っていない。貧乏人も、今まで通りの暮らしをしていればいいのであって、原発のそばに住む必要はさらさらない。住みたい人だけが住めばいいのだ。「年に 10万円も電気代が安くなるの? それなら、そこに引っ越したい」と思う人だけが、そこに引っ越せばいいのだ。現実的には、原発のそばで事故が起こったことは一度もないから、そういうふうに引っ越した人は、10年間で 100万円も儲けたことになる。実害はゼロだ。
 これは、一種のギャンブルである。「絶対確実」とは言えないが、「まず間違いなく当選する」という宝クジのようなものである。ただ、「運が悪ければ、大損する」というだけだ。この宝クジを買うかどうかは、あくまで、各人の意思に委ねられる。
 ついでだが、現状は、「公民館建設」などだ。つまり、「当たりは無しで、ハズレだけ」である。こんなものは、反対されて当然だ。ただの無駄遣いにすぎない。国民の金を、政治家と建設業者が、食い物にしているだけだ。かくて、誰も使わない公民館ばかりが、いくつも建設される。


● ニュースと感想  (4月29日b)

  リニアモーターカーは、どうするべきか? 

  技術的には問題ないが、莫大な建設コストがかかるという問題がある、ということだ。(読売・朝刊 2003-04-21 )……この問題は、「不況のときこそ、公共事業費で」というケインズ的な立場もある。しかし、私の主張は、「これもガラクタの建設だ」となる。関西空港や、本四架橋や、東京湾横断道路の、繰り返しである。

 なぜ、リニアモーターは、ガラクタとなるか? その理由は、次の二点だ。
   ・ インターネットの普及
   ・ 少子化
 第1に、インターネットが普及している。だから、もはや、いちいち出張する必要はなくなっている。高速鉄道の目的の半数以上は、ビジネス用途だが、そのビジネス用途が、どんどん縮小する見込みである。実際、「東海道新幹線は、そのうち乗客過剰でパンクする」という予想があったが、その予想は、まったくはずれており、乗客数は、頭打ちだ。
 第2に、少子化がある。だから、今後、人口がどんどん減っているのと同じことになる。人口が減れば、乗客が減るはずだ。ま、高齢者だけは、どんどん増えるが、「高齢者が鉄道にどんどん乗る」という事態にならない限り、鉄道の乗客は減り続ける。実際には、高齢者には、鉄道は不向きである。私の高齢の両親は、団体旅行で、バスと飛行機に乗ってばかりだ。鉄道など、旅行のためには使わない。せいぜい、里帰りのときぐらいだ。

 リニアモーターカーを長距離で建設するとしたら、「東京−大阪」間ぐらいしか、需要はあるまい。しかも、その需要は、すでに東海道新幹線で、満たされている。ここで、リニアモーターカーを建設すれば、たとえそれで黒字になったとしても、既存の東海道新幹線が、大幅赤字になってしまう。これでは、何をか言わんや。ガラクタを建設するよりも、もっと悪いかもしれない。
 ただし、リニアモーターカーを建設する、唯一の用途が、なくもない。それは、「中・短距離の、新線建設」だ。たとえば、筑波と東京を結ぶ常番新線が建設されている。これは、中・短距離であり、かつ、新線である。これをリニアモーターカーにするのも、悪くはあるまい。── ただし、同じ線路で超特急と鈍行を共存させるのは難しい。だから、衝突の起こらないような、新システムを用意する必要があるだろう。この問題は、情報制御の問題だから、ハイテクを使えば、何とかなりそうだ。時速も、500キロを出す必要はなく、150キロ程度で十分だと思う。それでも、自動車よりは、速い。また、中・短距離であれば、飛行機と比べて、優位に立つ。こういう形ならば、リニアモーターカーも、あっていいだろう。(その長所を生かすことはできないが。)

 とにかく、長距離は、リニアモーターカーの出番は、ないと思う。既存の鉄道と比べるなら、すでに新幹線があるので、二重投資となる。また、飛行機と比べるなら、速度でも負けるし、コストでも負けるから、太刀打ちできそうもない。「将来は赤字になるとしても、とにかく莫大な公共事業費をつぎこんで建設せよ」なんてことになったら、整備新幹線の二の舞だ。馬鹿げている。
 「それでも、速度と新技術は、大切だ。せっかくの技術が、もったいない」と思う人も、いるだろう。私も、その気持ちは、よくわかる。しかし、技術者は、そう思ったとき、「怪鳥コンコルド」の運命を、噛みしめよう。技術優先主義でコストを無視すれば、社会のお荷物になるのである。
 金がかかっても、技術開発は、大切だ。リニアモーターカーの技術開発も、大切だ。しかし、その技術を実際に用いて、建設や生産をすることは、技術開発とは別の問題なのだ。それは、技術の問題ではなく、経済の問題なのだ。


● ニュースと感想  (4月29日c)

  デジカメは、今後、どうなるだろうか? 

  小型化していくのは、間違いない。薄型化がどんどん進んでいるが、レンズの限界があるので、むしろ、万年筆型トレンドになりそうだ。なぜなら、ペンといっしょに、胸のポケットに差し込めるからだ。

 デジカメが、「小型・軽量化」という方向を取ることは、私はかなり前から予測していた。なぜなら、それこそは、フィルムカメラにない圧倒的な利点だからだ。
 2000年ごろのカメラ会社のトレンドは、「いかにしてフィルムカメラに追いつくか」であった。しかし、私はむしろ、「デジカメの特性を生かすには、小型・軽量化こそふさわしい」と思っていた。そして、現時点では、この予測はまさしく的中しつつある。第1に、爆発的に売れているカメラは、2社の製品がある。実は、この2社の製品は、見かけは別のものだが、中身はこの2社で共同開発したもので、基本が共通化されている。他社は、この2社には、まったく追いつけていない。なぜか? 他社は、画質の性能ばかりに目を奪われ、小型・軽量化をなおざりにしてきたからだ。そして、第2に、携帯電話に付属するデジカメがある。
 デジカメというのは、フィルムカメラの代替品ではない。新たな分野の商品なのである。その特性は、画質よりも、小型・軽量化なのだ。
 では、それは、どこまで進むか? 電子部品は、際限なく、小型・軽量化されるだろう。しかし、レンズは、そうは行かない。どうしても、直径1センチ、厚さ1センチ程度は、必要である。となると、薄型化には、限度がある。
 これ以上薄型化を進めても、あまり意味はないと思う。どんなに薄くても、厚さが1センチ程度もあるのならば、名刺入れには入らないからだ。となると、ポケットに入れることになるが、それにしては厚すぎる。
 むしろ、万年筆形のデジカメが好ましい。これなら、ペンといっしょに、胸のポケットに差しておけるから、邪魔にならない。また、液晶を省略することで、非常に軽量化が進むはずだ。たぶん、30グラムぐらいになるだろう。
 万年筆形のデジカメには、他にはない独特の長所がある。それは、奥行きを利用して、「超望遠」が可能になることだ。だから、片方にレンズを置いて、反対側に接眼レンズと電子ビューアーを置けば、電子式の望遠鏡になる。デジタルズームも併用できるから、すごい倍率の超望遠になる。とてもおもしろそうだ。
 もっとおもしろくすることもできる。万年筆のように、キャップをはずして付ける形にすると、中からペン先が現れて、本当のペンになるのだ。つまり、一本の万年筆で、デジカメと望遠鏡とペンが、兼用だ。ついでに、時計機能をつけてもいい。
 悪のりすれば、携帯電話機能をつけてもいい。中からイヤホンが出てくれば、携帯電話にもなりそうだ。数字・文字のボタンがないから、用途は限定されるが、うまく工夫すれば、キャップをひねって、回転ダイヤルのようにすることもできそうだ。ただし、そこまでやると、スパイの小道具みたいになるので、007の特注品になるかもしれないが。
 女性向けには、口紅型というのも考えられる。(なお、「化粧コンパクト兼用」というのは、すでに似たタイプがあるようだ。カメラを自分に向けて、液晶を見れば、鏡になる。……だけど、解像度や色合いを考えれば、とうてい実用にはなりそうもない。)


● ニュースと感想  (4月29日d)

  情報化社会が進展している。大量の情報を処理するコンピュータが発達することで、私たちの社会は、飛躍的に向上するだろうか? 

  飛躍的に向上するのは、ハード的な処理能力と、飛び交う情報量だけだ。肝心の人間の判断力が、置き去りにされていては、仕方がない。

 具体的にいおう。新入社員のうち、3割ぐらいが、1年ぐらいで退社している。この不況の時期に、せっかく入社しても、「こんなところはイヤだ」といって、退社してしまう。
 これを見て、企業は、「新入社員はわがままだ」と批判する。しかし、人間を会社に従属させようとする発想そのものが、間違っている。
 はっきり言おう。これは単純に、情報処理の問題である。「組み合わせの最適化」というやつだ。現状では、そういう情報処理ができていないから、組み合わせが不適合となり、新入社員がどんどん退社していく。
 人は、それぞれ、「どうしても我慢できないこと」というものがある。たとえば、次のように。
 企業は、このすべてを社員に求めるが、すべてを満たすスーパーマンは、この世に存在しない。誰もが、一長一短である。だからこそ、「適材適所」が必要となる。
 そして、これは、情報処理の問題だ。そのためのソフトの開発は、簡単だ。単にデータベース処理をするだけだ。あるいは、社内で「人材の流動化」または「フリーエージェント制」を実施すれば、自動的に、適材適所がなされる。これはミクロ経済学の得意な「最適配分」の問題だ。(もちろんこの際、賃金も流動化する。)
 なのに、企業は、そういうことを、やる気がない。情報処理のためのハード(機械)が欠けているのではなく、ハート(心)が欠けているのだ。ハードだけが進んでも、ハートが旧時代的であれば、世の中は少しも進歩はしないのだ。そのことが、「新入社員の大量退職」という事実から、透けて見える。
 コンピュータの頭はシリコン時代になったが、人間の頭は石器時代のままなのである。


● ニュースと感想  (4月30日)

  教育の経営自由化は、教育の質的改善をもたらすか? 

  ほとんどもたらさない。「優秀なものが増える(シェアを増やす)という市場原理が、まったく働いていないからだ。

 「教育の経営自由化」と称する動きがある。民間人を校長に採用したり、権限を委譲したり、予算を分配して利する。しかし、そのすべては、ほとんど無効である。なぜなら、それは「経営の自由化」つまり「権限の委譲」であって、「経済の自由化」とはまったく別種のものだからだ。経営と経済は異なる。学校の経営法がいくら自由化されても、それだけでは意味がない。なぜなら、「優秀なものが増える(シェアを増やす)という市場原理が、まったく働いていないからだ。そのせいで、どんなに優秀なものがあっても、それは、その1校だけに留まり、学校全体にはひろがらない。製品ならば、優秀な製品が市場の大部分を占めるが、教育では、そういう効果が全くなくて、99%ほどは、優秀なものの影響を受けられない。
 
 では、どうするべきか? 優秀な校長は、校長職に留まらず、「校長たちを指導する統率者」のような位置を占めるべきだ。たとえて言えば、学校とは、販売の最前線たる支店である。優秀な支店長は、支店長に留まらず、全国販売部長としての重役の位置を占めるべきなのだ。
 だから、学校は、各校ごとにバラバラであるべきではなく、グループをなすべきだ。また、経営の良し悪しに従って、報酬を得るべきだ。たとえば、「最低限の教育」は無償とした上で、「追加のオプション」は有償とするべきだ。── こうすると、「金持ち優遇だ」という声も出そうだが、別に、現状よりも悪くはない。そもそも、「優秀なものが出るのはけしからん。全員が劣悪であるべきだ」というのは、社会主義の主張そのものだ。馬鹿げている。
 今のような状況だと、ソ連経済が崩壊したように、日本の教育も崩壊しかねない。いや、すでに、崩壊しつつある。そういう報道は、あふれている。「学級が崩壊している」「若者の学力が低下している」「ろくに国語力もないし、数学力もない。漢字も読めないし、計算もできない。円周率は、3としか覚えられない」と。もはや、猿に近い状態だ。


● ニュースと感想  (4月30日b)

  北朝鮮の核を、恐れるべきか? 

  恐れるべきかどうかではなくて、まず、事実を知ることだ。そのあとで、判断すればよい。恐怖に駆られて、目を曇らされては、判断を誤るだけだ。今のマスコミは、あまりにも事実情報が書けており、単に恐怖をあおっているだけだ。

 意見よりは、事実を列挙しておこう。
 以上をまとめて、私見を言えば、こうだ。
 北朝鮮の核兵器は、何の実験もしていないわけで、不発になる可能性が十分にある。そもそも、運搬手段がない。外に出したくても、出すための手段がないのだ。だから、爆発させるとしたら、自国内で爆発させる以外にはない。
 ま、そうなれば、日本にも核の灰が落ちる可能性はある。しかし、だからといって、「北朝鮮は国内で核爆弾を爆発させるだろう」なんて妄想するのは、狂気の沙汰だ。

 ついでに、もう一つ。「ゲームの理論」というのを、外交家はちゃんと理解しておくべきだ。「北朝鮮は恐怖ゲームをやっている」と批判する人がいるが、頭がどうかしている。外交というものは、すべて恐怖ゲームなのだ。「外交とは対米追従すること」としか信じていないから、自分の頭で考えることができなくなっている。米国の方針を見るがいい。つねに「恐怖ゲーム」である。つい先日は、「衝撃と恐怖」という戦争ゲームを実施したばかりではないか。同じ恐怖ゲームについて、自分がやれば「すばらしい戦略」と自画自賛し、相手がやれば「ひどい悪党」と批判する。頭がイカレている証拠である。
 ゲームの理論については、北朝鮮の方が、ずっと良く理解している。「ハト的選択肢」と「タカ的選択肢」をともに呈示する。双方が「タカ的選択肢」の場合には、双方が大損する。その大損の度合いを強めようというのが、北朝鮮の方針だ。
 では、なぜ? 「北朝鮮が狂っているからだ」と保守派は叫ぶ。しかし、そうではない。本当は、双方が「ハト的選択肢」を取るべきだ、と北朝鮮は主張しているのだ。
 そして、それにもかかわらず、米国は、「自分だけの勝利。北朝鮮の屈服」を求める。「双方の協調」という選択肢を捨てようとする。
 こういう頭のイカレた低脳の連中たちが、日米の政権を握っている、ということを、「ゲームの理論」は教えてくれる。狂気は、北朝鮮にあるのではなく、日米にあるのだ。

 [ 余談 ]
 サッカーの監督じゃないが、何でも「好き嫌い」で決めて、理性的に判断することができなくなっている。「北朝鮮の独裁者は悪だ」とわめくだけで、冷静に損得を実利的に考えることができなくなっている。本来ならば、マスコミがそれを是正するべきなのだが、マスコミは、そもそも基礎知識がまったく欠けている。軍事知識もないし、経済知識もないし、ゲーム理論の知識もない。あるのは「対米追従」だけだ。何でも他人任せにする結果、自分の頭で考える判断力がなくなってしまったのだ。
 だから、日本を滅ぼすのは、北朝鮮ではなく、日本自身なのである。テレビやコンピュータ・ゲームにうつつを抜かせている結果、言語力も思考力も骨抜きにされ、白痴化してしまった。日本を滅ぼすのは、「少化」なのだ。

 [ 補足 1 ]
 以上の批判をしたが、その後、現状は、いくらか改善したようだ。米国は、北朝鮮とは、戦争をするという方針を改め、平和路線を取ったようだ。北朝鮮の「核」誇示は、外交の効果を発揮したようだ。
 一方、日本の保守派のマスコミは、逆だ。「北朝鮮はけしからん。悪の帝国だ」と主張している。つまり、「だからイラクのフセインみたいにやっつけろ。あっちの独裁者も、こっちの独裁者も、やっつけろ。また莫大な人命をつぶせ」と言いたいわけだろう。だからこそ、「核」を見ると、ヒステリックに騒ぐだけであり、外交ゲームというものができないのだろう。この点では、米国の方が、ずっと大人である。

 [ 補足 2 ]
 その後、さらに事態は進展して、相互の譲歩で話がまとまる方向に進みつつあるようだ。つまり、「不可侵」(体制認知)のもとでの「核放棄」が北朝鮮の提案であり、米国もこれは一応認知できるだろう。となると、「独裁体制はけしからん」とヒステリックに喚くだけで、何ら解決策を提案しない日本の保守派は、取り残されつつあるようだ。こうしてみると、日本が「外交はすべて米国任せ」というのも、うなずける。もともと日本の保守派は、外交能力がゼロだからだ。ヒステリックに喚くしか能がないからだ。児戯。
 さて。私としても、提案しておこう。双方は「不可侵」と「核放棄」が最大目的だから、これで話はまとまる可能性は高い。日本は金だけ出されておしまい、というふうにもなりそうだ。しかし、私としては、最大目的は別にある、と思う。それは、「言論の自由」だ。なぜか? いちいち戦争なんかをしなくても、「言論の自由」があれば、自然に体制は内部から変化していくからだ。
 「戦争で体制を変えよ」というブッシュの方針は、愚の骨頂であった。フセイン独裁は、言論の自由の抑制があったからこそ、成立した。とにかく、どんな独裁体制であれ、「言論の自由」され認められていれば、自然に独裁は弱体化して、崩壊するものだ。そのとき、独裁者は、殺されるのではなくて、なだらかに退任するのである。この際、戦争は起こらないから、死者は一人も出ない。
 だから、「不可侵」と「核放棄」を絡めるだけでなく、「言論の自由」も絡めるべきだ。そして、これは、今だからこそ、可能になることだ。政策パッケージである。
 結論を言おう。「ヒステリックに喚くだけ」というかわりに、「ゲーム理論における、双方が妥協」という選択が好ましい。そして、ここでは、「政策パッケージ」によって、「言論の自由」を絡めるべきだ。── そうすることで、戦争を避けて、独裁打倒が無血革命によって実現できる。
 米国は「独裁打倒」「民主主義」こそ、至上命題だと思っているようだ。こういうのは、歴史音痴の無知な国民の発想である。「無血革命」というのは、日本でも英国でも、たどった道だ。日本では、無血革命があった。明治維新という。これは坂本龍馬の尽力があったからだ。英国でも、1688年に無血革命があった。名誉革命という。これによって王政は打倒され、議会のある立憲君主制となった。
 日本でも英国でも、昔の人間は賢かったのだ。一方、血を流すしか能のない現代の日・米・英は、何とその対極にあることだろう。

  【 追記 】
 「言論の自由」が大事だ、と上で述べた。その理由を示す。
 歴史を見よう。無血革命が実現するには、国内に対抗勢力が育っている必要がある。そのためには、「言論の自由」が必要なのである。
 逆に言えば、イラクや北朝鮮の独裁者は、「言論の自由」をつぶすことで、国内の対抗勢力をつぶしてきたわけだ。
 さて。これを知って、「イラクや北朝鮮の独裁者はけしからん」と憤慨するようなら、あなたの頭はイカレている。「言論の自由によって無血革命を実現する」という方針を否定しているのは、イラクや北朝鮮だけではない。米国や日本もそうだ。かの国の独裁者は、その国民を貧しくする。米国や日本は、その国民を大量虐殺する。どちらがひどいかは、一目瞭然だ。仮に、あなたがイラクや北朝鮮に生まれたとする。人は自分の生地を選べないのだから、あなたは否応なくその運命を受け入れなくてはならない。そのとき、あなたには、二つの選択肢がある。一つは、独裁者のせいで、貧しい暮らしを送ること。もう一つは、異国の民主主義国家のせいで、爆弾を落とされ、大量虐殺されること。……どちらがいいですか? お好みの方をどうぞ。
 ついでだが、「言論の自由」をつぶしているのは、日本も同様だ。朝日や読売が、いかに言論の自由を否定して、ひどい情報操作をしているかは、これまで何度も指摘したとおりだ。「日本はすばらしい! 言論の自由がある!」と思うようなら、あなたはすでに洗脳済みである。オウムの信者と同様だ。

 [ 補足 3 ]
 「南堂は甘ったるい平和主義者だ」と思われると困るので、シビアな現実認識を示しておこう。
 イスラエルは日本との外相対談で、核不拡散条約への参加を実質拒否した。(朝日・朝刊 2003-04-29 )
 イスラエルが核兵器を保有していることは、公然の秘密だが、今回、はっきりと確認されたわけだ。「イラクや北朝鮮は、核不拡散条約に参加しないから戦争を仕掛けてもいい。だが、イスラエルにはそうではない」というのが、日米の方針である。
 ついでに述べておこう。「イスラエルは、どうやって、ウラニウムを入手したのか?」という疑問があるだろう。これについては、判明している。大量のウラニウムを積んだ貨物船が行方不明になったことがある。これは、その現実離れしたほどの手際の良さから、国家規模の介入が予想された。そんなことができるとすれば、イスラエル以外にはなかった。しかも、この核物質の行方不明問題は、国際的には、少しも問題とならなかった。自作自演の可能性もある。公然とウラニウムを輸入するわけにはいかないから、ダミーに購入させた上で、「自分で自分のものを盗む」という形を取ったわけだ。(これは不確実だが。)
 とにかく、確実なのは、「大量の核物質が公海上で盗まれた」ということと、「米国はそれを少しも問題視しなかった」ということだ。そういう状況からすれば、盗んだのは、テロリストではありえないし、欧米やロシアでもありえない。可能性があるとすれば、日本とイスラエルだけだ。一方、日本は、核不拡散条約に参加しているから、日本に核兵器があることはありえない。
 消去法で言えば、大量の核物質をこっそり保有した国は、イスラエル以外にはありえないのだ。そしてまた、「核実験禁止条約には参加してもいい」と言っているから、核兵器の開発と配備は、すでに完了しているのである。
( ※ 上記の「イスラエル以外にはありえない」というのは、論理的な帰結。ただし、「イスラエルにある」という直接証拠は、ない。つまり、直接証拠さえなければ、核の保有は見逃されるのだ。イラクについては、直接証拠がなくても攻撃していいのだが、イスラエルならば、何でもかんでも許されるのだ。自分の好みで、誰を殺害するかを、勝手に決めていいのだ。人を殺そうが、国連を無視しようが、国際法を無視しようが、自分のやることでさえあれば、すべて正しいのだ。自分は正しいから、何をやっても構わないのだ。それが世界に冠たる、自称「民主主義国家」の方針だ。……自惚れってのは、楽しそうですねえ。おまけに、飼い犬もいるし。)


● ニュースと感想  (4月30日c)

  欧州の通貨統合は、どうするべきか? 
  経済政策を統合せずに、通貨だけを統合することには、無理がある。通貨を統合するなら、経済政策も統合するべきだ。結果的に、いくつかのグループに分けるのが好ましい。

 経済政策も統合することが必要だ。具体的に言えば、金融政策と財政政策だけでなく、財政支出や福祉も統合するべきだ。要するに、予算規模で、統合政府が必要だ。ただし、教育政策などは統合しなくてもよい。これは、地方自治の原則で、各国に委ねることができる。
 ただし、経済政策も統合するとなると、たやすくない。はっきり言えば、異質の経済水準の国同士では、困難だ。同じ経済水準(所得水準)の国同士で、統合するべきだ。さらに、「小さな政府・大きな政府」という国民性の違いもあるから、同じ福祉政策をもつ国同士でのみ、統合するべきだ。
 以上をまとめると、「北欧諸国」「英独仏など西欧諸国」「南欧・中欧」などのグループになるだろう。
 こうやって統合すれば、それぞれのグループ内では、経済政策を同一にできるから、問題は生じない。一方、異なるグループで無理に統合すると、歪みが出る。具体的に言えば、失業とインフレのどちらかの症状が発生する。詳しくは、下記。
( → 2002年1月02日c2002年9月23日b2002年12月25日


● ニュースと感想  (5月01日)

  「少子・高齢化」が進むと、貯蓄率が上がる。これは「消費の縮小」をもたらす。中短期的には、景気を悪化させるのでは?

  政府が無策であれば、もちろん、景気を悪化させる。しかし、「減税」をすれば、誰かが貯蓄をした分、誰かが消費を増やすから、バランスは取れる。

 「減税なんかやったって、どうせ将来、増税をするから、消費を増やす気はないね」と思う人がいるだろう。経済学の教科書を丸暗記しているようなタイプだと、そう思いがちだ。
 しかし、需要統御理論の考え方を使えば、そういう問題は起こらない。「消費をしないで貯蓄をする」という人がいればいるほど、その人は損をするからだ。
 極端な話を考えよう。減税をしたあと、国民の 99%が消費を増やさないで、残りの1%が消費を増やしたとする。ここでは、需給のバランスを取れるまで、どんどん減税をする。すると、その1%は、減税の金で、どんどん物を買える。しかも、ここが重要なのだが、他の人々が消費をしないおかげで、物価は上昇しないのである。1%の人々は、物価上昇なしに減税の恩恵を受けるから、丸もうけだ。いつまでも物価が上昇しなければ、そのまま寿命を迎えればよい。うまく行けば、一生、遊んで暮らせる。
 そして、その1%の人が遊んで暮らしている間、他の 99%の人々は、せっせと働く。減税の金をもらっても、貯蓄するだけだから、とにかくせっせと働かなくてはならない。いっぱい働くが、消費を増やすわけではないから、ちっとも幸福にはなれない。
 その 99%の人も、やがては寿命を迎えるので、「死ぬ前には金を使わなくちゃ。そろそろ貯蓄をはたいて、消費をしよう」と思う。すると、そういう人たちがいっせいに現れたせいで、物価が上昇する。
 それを見て、99%のうち、残りの人々も、いっせいに消費を増やす。物価上昇が莫大に起こる。
 ここで、政府は増税をして金を吸い上げるが、増税をしようがしまいが、どちらにしても同じことである。人々は、物価上昇で金を奪われるか増税で金を奪われるか、どちらかだが、どちらにしても、奪われる金は同額だ。
 結局、99%の人々は、せっせと貯蓄をしていたのだが、その貯蓄をした金をいざ使おうとすると、物価上昇または増税によって、貯蓄を吸い上げられてしまうのである。踏んだり蹴ったりだ。丸損だ。
 では、彼らが損した分は、どこへ行ったか? 最初に消費をした1%の人々に行ったのである。1%の人々は、他の 99%が消費をしないおかげで、物価上昇なしで減税の恩恵を受けた。丸儲けだ。1%の人々が丸儲けした分、99%の人々が丸損したのである。そして、両者の帳尻は、トントンである。国民全体をみれば、損も得もない。単に、速く消費をした人が得をして、消費しないで貯蓄をした人が損をするのである。
 結語。
 「高齢化社会では、貯蓄率が上がる。それは問題だ」と危惧することはない。それは、悪いことではなくて、良いことなのである。愚かな人々がせっせと貯蓄するおかげで、消費をする賢い人々が得をできる。愚かな人々は、「貯蓄がたっぷりあるぞ」と思い込んでいるが、彼らがその金をいざ使うときには、物価上昇または増税によって、その金は目減りしてしまうのだ。

 だから、貯蓄したい人は、消費しないで、貯蓄しなさい。どんどん貯蓄しなさい。あなたが消費しなかった分は、減税を通じて、他の人々が消費してあげます。あなたが自分の金で消費したくなければ、他の人々があなたの金で消費してあげます。あなたの金を勝手にどんどん使ってあげます。だから、どんどん貯蓄しなさい。そのかわり、あとで「物価上昇で目減りした」なんて、文句を言わないでください。目減りすることは、最初から告知されているのだから。
( → 2002年5月11日 「インフレ告知」 )

 [ 付記 ]
 「じゃ、金を外貨に替えよう。外貨預金しよう」と思う人もいるだろう。しかし、それは、浅はかである。「消費しないで貯蓄する」という国民が大部分であれば、外貨預金するべきだが、「減税の分はちゃんと消費する」という国民が大部分であれば、外貨預金することは為替リスクを負う。
 国民がケチな阿呆ばかりなら、外貨預金するべきだが、国民がケチな阿呆ばかりだということはありえないから、あわてて過剰に外貨預金すると、かえって損になる。ま、そこそこの金額ならば、問題ないが。


● ニュースと感想  (5月01日b)

  「少子・高齢化」が進むと、貯蓄率が上がる。これの長期的な影響を、どう考慮するべきか?

  たしかに、貯蓄率が上がり、消費性向が下がる。その結果、政府が国債を発行して財政赤字が拡大したり、需要が縮小して景気が悪化したりしそうだ。そういう問題が起こりそうだ。しかし、この問題は、一国だけでなく、海外との関係を考慮すれば、うまくバランスを取れる。高齢化の進む日本と、若者の多い途上国との間で、資金をやりとりすることで、うまくバランスを取れる。

 要するに、閉鎖経済でなく、開放経済を取れば、うまくバランスを取れるわけだ。
 それとは逆に、閉鎖経済だけでバランスを取ろうとすると、まずくなる。たとえば、高齢化が進むにつれて、貯蓄率が上がるが、その金を政府が公共事業で使う、というのが、今の日本だ。日本が途上国ならば、社会資本が整備されるので、「現在は、高齢者が貯蓄して、若者が社会資本を得る。将来は、若者が金を払い、高齢者が金をもらう」という形で、バランスを取れる。しかるに、日本は途上国ではないから、社会資本の整備は必要ない。無理に公共事業を拡大して、干拓を進めたり、自然を破壊しても、国の富は増えない。だから、将来、若者に「金を返せ」と言っても、「何の金を返すんだ? 自然を破壊してもらって、ありがとうと言って金を払うのか?」と皮肉られるだけだ。

 だから、ここでは、金は日本では使わずに、途上国に回すべきなのだ。現在は、高齢者が金を金融機関に貯蓄し、その金を金融機関が途上国に投資する。途上国は、その金で日本の製品を買う。将来は、途上国が金を日本の金融機関に返済し、金融機関はその金を高齢者に返済する。── こうすれば、国の財政赤字が拡大することもないし、日本の景気が悪化することもない。(国内需要は減っても、輸出が増えるからだ。)
 
 [ 付記 ]
 だから、金は、途上国に投資するべきである。たとえば、中国の通貨を買って、その金で、中国の資産を購入する。
( ※ 中国への投資については、 → 4月14日b


● ニュースと感想  (5月01日c)

  「少子・高齢化」が進むと、勤労世代から、高齢者世代へ、所得が移動する。かといって、この所得移転を防げば、福祉が低下する。この二律背反を、どうするべきか?

  「相続税の増税」をすればよい。高齢者は生存中、勤労世代から、金をもらう。しかし、死んだあとは、金が余って残る。虎は死して皮を残す。その金を勤労世代で配分すればよい。

 「高齢者は金をもらって、けしからん」というような意見もある。しかし、高齢者は、たいていは倹約家である。「もらった金を全部使い果たす」という人も、いるにはいるが、マクロ的に見れば、たいていは、金を使いきることなく、残す。だからこの金を、勤労世代で配分すればよい。これで、だいたい、帳尻は合う。
 この帳尻を打ち消す政策もある。それは、「相続税の減税」だ。この場合、多くの勤労世代が、高齢者に金を渡したあとで、その金を、高齢者の相続人である子孫だけが、もらい受ける。結局、国民の大多数が国に金を払ったあと、その金を、相続人である子孫だけが、ちょうだいするわけだ。あなたが税金を払ったら、その金はどこかの金持ちの相続人のポケットに入るのである。猫ババみたいなものである。
 だから本当は、「勤労世代から、高齢世代へ」と金が流れているわけではなくて、「国民の大多数から、特定の相続人へ」と金が流れているわけだ。勤労世代の間だけで、配分の変更がなされているわけだ。

 これについては、反論も考えられる。  第1に、「誰もが親を持つ。だから誰もが相続人になる」という反論だ。しかし、現実には、どの親も遺産を残すわけではない。たいていの親は、自分が生きるのに精一杯であって、特に巨額の金を残すことはない。勤労者は、誰もが相続人になることはなるのだが、しかし、残される遺産は千差万別である。遺産というほどの遺産をもらえない人も多い。そういう勤労者は、金を奪われるだけで、金をもらうことはない。
 第2に、「自分の子供に金を残したがるのは、人情だ。親の金を国が勝手に取り上げるべきではない」という反論だ。しかし、「親の金」というのは、親が稼いだ金ばかりではない。「年金」などの形で、国からもらった金も、たくさんあるのだ。そういうものを、「自分の稼いだものだ」と誤解して、「自分の子供だけに残す」というのは、道理が通らない。
 第3に、「大金持ちは、大部分が自分の稼いだ金だ。国からもらった金じゃない」という反論だ。たしかに、そうだ。大金持ちについては、本項の理屈は、適用されない。だから、私は、大金持ちについては、相続税をいくらか減税してもいいと思える。しかし、一般の場合については、現行よりも、相続税を大幅に上げてもいいと思う。ただし、現状では、一戸建ての住宅を残すぐらいでは、ほとんど相続税はかかからない。つまり、ほとんどのケースで、相続税はほとんどかかっていない。こういう一般的なケースで、私としては、相続税についても、所得税と同程度の税金を課してもいいはずだ、と思う。「タダでもらった金は無税」で、「勤労して受け取る金は重税」では、倫理的に、本末転倒だ。

 ここで、試算してみよう。一戸建てを残すぐらいの「中の上」ぐらいの高齢者は、年金として数百万円 〜 千数百万円ぐらいを、高齢者への福祉としてもらっているはずだ。とすれば、それと同額を、死亡時に「相続税」として回収してもいいだろう。別に、「個人の稼いだ金を勝手に取り上げる」ということにはならない。渡した金を、返してもらうだけだ。

 なお、どうしても「税を払いたくない」と思う人もいるかもしれない。たとえば、「私は無一文だ。税を払う余裕はない」と思う人もいるだろう。そういう人は、あっさり、相続放棄をすればいいのだ。1億円の財産を相続して、1千万円程度の税金を払うのをいやがるのであれば、1億円の財産をまるまる、相続放棄すればいいのだ。相続は、義務ではない。いやなら、いくらでも放棄できる。
( ※ ただ、大金を一挙に払うのは困難だから、「相続税の分割払い」も許容するべきだろう。現状では、「一括払い」なので、血も情けもない。「相続税の減税」よりは、「相続税の分割払い」こそ、大切なのだ。)

 [ 付記 ]
 上記の提案に対して、「どうしてもイヤだ」という反論もあるだろう。それならば、仕方ない。所得税と消費税を、将来、大幅に増税するしかない。相続財産を受け取った人が金を払わないのであれば、その分、他の人々がかわりに負担しなくてはならないのだ。
 とりあえず、あなた、どうです? 必要以上に多額の税金を払って、どこかの小金持ちの相続人に、プレゼントしてあげませんか? 小金持ちのドラ息子が、ふんぞりかえりながら、感謝しますよ。

 [ 余談 ]
 ついでだが、面白い話をしておこう。サプライサイドの人々は、「相続税を減税すると、勤労意欲が湧く」と主張する。しかし、いったん死んだ人間は、もはや働けない。働くとすれば、死後にも残る、子孫だけだ。しかし、死後に残る子孫は、遊んで暮らす金があれば、逆に、働かなくなるはずだ。「唐様に売家と書く三代目」だ。とにかく、「ドラ息子に大金を渡せば渡すほど、ドラ息子の勤労意欲が増す」というのは、馬鹿げた話だ。
 もう一つ、「人は、死後に多大な財産を残すために、勤労をするからだ」という説もある。これも、馬鹿げた話だ。自分の死んだあとのために、自分の生命を削る阿呆が、どこにいるのか? そう思う人は、さっさと生命保険に入って、自殺すればいい。もしその説が正しければ、人はみんな、保険金を死後に残すために、自分の生命を犠牲にして、自殺しているはずだ。珍説の極み。

 [ 補説 ]
 真面目に述べておこう。私が「相続税」に反対する理由を示す。
 歴史的に考えてみよう。そもそも、経済発達の源泉は、何か? 
 米国ならば、「自由だ」と言うだろう。だが、米国が経済発達した理由は、「自由」よりも、「資源」である。石油や金鉱や豊沃な土地という「資源」があった。それは日本にはとうてい無いものであった。日本がそれを得るためには、汗水垂らして、莫大な労働をなす必要があった。
 日本ならば、「教育」だと言うだろう。しかし、江戸時代の寺子屋はすばらしい教育をなしていたが、急激に進歩して、欧米に追いつくには、明治維新が必要だったのである。
 欧州ならば、「先進国としての長い歴史」だと言うだろう。しかし、その長い歴史ゆえに、欧州は停滞して、日本や米国という新興国家に、王座の座を明け渡してしまったのだ。
 最初は、欧州が圧倒的に優位であった。なのに、なぜ、欧州は、王座の座を明け渡したか? それは、「貧富の差」があったからだ。富は、最初は、国王に集中していた。それが終わったあとも、ハプスブルグ家など、貴族に集中していた。一般国民は、富を奪われていた。それ自体は、別に、良し悪しを論じる必要はない。しかし、一般国民が富を奪われていたということは、経済における「消費」が奪われていた、ということを意味する。それゆえ、正常な経済発展ができなかったのである。
 欧州が日米に王座を譲り渡したのは、当然だったのだ。その理由は、欧州の体制が古臭かったからではない。「消費」が萎縮していたゆえに、正常な経済発展ができなかったからなのだ。たとえて言えば、慢性的なデフレだったのだ。慢性的に、経済が萎縮状態にあったのだ。
 これを見ても、ケインズ派ならば、文句は言うまい。「王様が贅沢をして、多大な支出をすれば、経済は不均衡を脱する」と。なるほど、それはそうだ。しかし、そんな形で均衡を実現しても、経済は正常な成長路線を取ることはできないのだ。(正常な成長路線、というのは、ケインズ派のウィークポイントだ。古典派は得意だ。)
 王様というのは、癌細胞のようなものである。他の正常な細胞が、せっせと働いても、癌細胞が、すべての栄養を食い尽くしてしまう。それゆえ、正常な細胞が、成長できない。全体は萎縮したままである。
 経済が成長するためには、王様が贅沢をするのではダメなのだ。癌細胞が栄養素を食い尽くすだけではダメなのだ。正常な細胞が栄養素を取って成長する必要がある。だからこそ、実際に生産を行なう労働者たちが、富の配分を受ける必要がある。
 「相続税の優遇」というのは、それに反する。「王様」や「貴族」のかわりに、「大金持ちの子孫」が一般国民の富を奪う。いずれも「世襲」という不合理な理由による。そのことで、国全体の成長力がそがれてしまうのだ。── そのことを、欧州の没落という歴史が教えてくれる。
 日本も同様だ。明治維新のときに国家的に急成長したのは、武士や殿様の世襲の優遇を廃止し、国民を経済的に平等にしたからだ。戦争で破壊された日本がそのあとで急成長したのは、民主主義という政治のせいではなくて、農地解放や財閥解体や資産没収などで、国民を経済的に平等にしたからだ。
 「相続税の優遇」というのは、それに反する。だからこそ、私は、「相続税の優遇」に反対するのだ。それは、やっかみや平等主義からではない。日本の成長を望むからだ。
 ついでだが、「相続税の減税で、勤労意欲が湧く」と主張するなら、日本でも貴族制度を実施すればよい。そうすれば、貴族の勤労意欲が湧くはずだ。……どういう論理でそうなるのかは、私は知りませんがね。「子孫を遊ばせるために自分が働く」という理屈かな? そんな理屈にどの貴族が従うかは、理解不能だが。

 [ 別案 ]
 「相続税だろうと何であろうと増税はイヤだ」という声もあるだろう。ならば、別案も考えられる。
 「死後に徴収」ではなくて、「生前に徴収」という形にすればよい。具体的には、財産を持っている老人には、それを担保として、高福祉の権利を与える。現在は、タダで高福祉の権利を与えているが、有料にするわけだ。正確に言えば、現在は、他人の金で福祉を受けているが、自分の金で福祉を受けるようにするわけだ。とはいえ、いきなり金を奪うわけにも行かないから、「死亡時に清算」という形にすればよい。たとえば、1000万円の財産を持っていて、800万円分の福祉を受けたら、死亡時に清算して、その分を徴収する。……これだと、「相続税」と同じことになるが、理屈は通っている。
( ※ とにかく、今みたいに「金は空から降ってくる」と考えて、野放図に高福祉をしていれば、やがては財政が破綻して、とんでもない物価上昇が起こってしまう。……ま、それでも、莫大な遺産のある資産家のドラ息子だけは、大丈夫でしょうけどね。)


● ニュースと感想  (5月02日)

  会社再生( or 整理)の方法には、「民事再生法」「会社更生法」「産業再生機構の利用」「私的整理」などがあるが、どれが好ましいか? 

  どれも好ましくない。ただし、景気が回復したあとであれば、なるべく市場原理に従う方法が好ましい。

 「民事再生法」「会社更生法」「産業再生機構の利用」「私的整理」のどれが好ましいか、という新聞記事がある。いろいろと細かな説明もしてある。( → 読売・朝刊 2003-04-17 )
 しかし、こんなふうに法律比較をして、「一長一短」というような対照表を作っても、本質を見失ってしまう。「どれが倒産企業に便利か」なんてことを比較するのは、「死者の葬式法はどれが最適か? 火葬か、土葬か、水葬か、散骨か」というようなものであって、「死者を出さないためにはどうするべきか」もしくは「危篤の患者を救うにはどうするべきか」という根本からは、あまりにも懸け離れている。死者を出す方法は、どれであれ、好ましくないのだ。
 では、これらの方法は、「デフレが継続することを前提とした上で、倒産企業の最適な方法を探す」ということになっている。しかし、ペストが出回っているときには、葬式の方法なんかを考えるよりも、ペストそのものを解決することが優先される。葬式の方法なんか、二の次だ。「ペストが続くことを前提として」なんていう話も、とんでもないことだ。
 まずは、「死者を出さなくすること」つまり「デフレを解決すること」を最優先にするべきである。これが前提だ。
 そして、デフレが解決したあとで、「すでにある死体をどうするべきか」という問題を、ようやく考えるべきだ。そして、この時点では、「すでにデフレは解決している」ということが前提とされる。
 とすれば、「産業再生機構」なんていう国家介入の方針は、間違いだ。デフレを脱出したのであれば、もはや「均衡」が実現しているのだから、民間に任せれば、自然に最適化するはずだ。
 ただ、いろいろと阻害物があると、なだらかな動きがなされないから、そのための法整備ぐらいは必要だろう。「民事再生法」や「会社更生法」には、使いにくいところがあるから、そういう細かなところを、少し改正するといい。とはいえ、ごく細かな話だ。マクロ的には、ほとんど無視できる程度の影響しかない。また、「民事再生法や会社更生法を使いやすくすれば、デフレが解決できる」なんていう主張を言うとしたら、それこそ本末転倒である。
 なお、会社再生の、あるべき姿を述べよう。実は、何もしないで、ほったらかしておいても、構わない。どうなろうと、たいして差はないからだ。
 このような方法があるが、どれであれ、たいして差はない。通常、ほったらかしておけば、適当に、最善の方法が選ばれる。そして、どの方法を取るにしても、元の赤字そのものが消えるわけではない。誰かが負担をする必要がある。その負担の仕方を、どう決めようと、赤字そのものが消えるわけではないのだ。
 だから、すでに述べたように、「デフレを解決すること」の方が先決なのである。それこそ、「新たな赤字を生まなくすること」あるいは「赤字経営を黒字経営にすること」を意味するからだ。
 会社倒産は、「赤字の出血をその時点で止める」という効果はあるが、「赤字を黒字にする」という効果はない。今は何よりも、「デフレを解決すること」が最優先なのだ。


● ニュースと感想  (5月02日b)

  銀行の国有化をすれば、金融危機は解決するのでは? 

  その通り。全部国有化すれば、銀行は倒産しなくなるから、金融危機は完全に解決する。ただし、そのことで景気が回復するわけではない。むしろ、経済の社会主義かにともなって、状況は悪化する。銀行は倒産しなくなるが、日本そのものが倒産しかねない。

 これは「金融危機」を唱える人々への反論となっているが、さすがにこのくらいは、たいていの人も理解できるだろう。そこで、さらに、説明を追加しておく。
 このことは、「金融危機」説だけでなく、「不良債権処理」説への反論ともなっている。「不良債権処理が進まないから、金融危機が生じるのだ」というのが、彼らの主張だ。しかし、そこには、とんでもない勘違いがある。
 典型的なのは、朝日新聞社説(朝刊 2003-04-28 )だ。次のように述べている。
  1.  金融問題の根っこにあるのは、「不良債権」だ。
  2.  だから、不良債権処理が必要だ。
  3.  しかし現実には、不良債権は、大企業から中小企業へ、どんどん拡大している。問題は拡大している。
  4.  そのせいで「貸し渋り」「貸し剥がし」が増えている。
  5.  だから、政府系の金融機関が、貸し出しを増やしている。
  6.  しかし、政府系の金融機関での貸し出しも、設備投資のためではなくて、当座の運転資金のためだ。
  7.  当座の運転資金にも困るような企業は、ダメな企業なので、倒産しやすい。一方、当座の運転資金なんかを必要とせず、地道に経営改善の努力をする企業は、生き残りやすい。
 さて。このうちの、第1項と第2項は、論者の主張である。そして、そのための理由として、第3項以降では現実を認識している。(この現実認識は、正しい。)
 しかし、である。第3項以降の現実認識を読めば、結論は、こうなるはずだ。── 「結局、政府系の金融機関は、ダメな企業を生き残らせているばかりだ」と。
 とすれば、銀行経営を改善して、金融危機を解決しても(銀行をすべて国有化しても)、その結果としてもたらされるのは、「ダメな企業を生かすこと」だけであるはずだ。
 結局、論者は、自分の主張(第1項と第2項)を証明しようとして、第3項以降で現実認識をしたのだが、その結果は、自分の主張とは正反対のことを意味するのだ。そんなこともわからないで、「金融危機をなくせ」と主張しているのだ。「不良債権処理をしよう。金融危機をなくせ」と主張しているが、そのあとで、「金融危機をなくせば、ダメな企業を無理に生かすばかりだ」ということを認識しているのだ。頭が錯乱している。
 論者は最後に、「明日を担う企業を選別するために、金融機能を回復するべきだ」と主張している。頭がイカレているのではなかろうか? 「不良債権処理をして、金融機能を回復するべきだ」ということの論拠は、「融資を拡大するため」である。「明日を担う企業を選別するため」つまり「融資を縮小するため」ではない。話の方向が、正反対だ。「明日を担う企業を選別するため」に、「不良債権処理をするべきだ」というのは、論理がまるでつながらない。不良債権処理を進めて、銀行の融資枠を拡大するということと、「明日を担う企業を選別するため」に、銀行の融資枠を縮小することとは、正反対なのだ。
 矛盾もここまで来ると、感慨を覚える。

 [ 付記 ]
 これほどの狂気と矛盾を堂々と主張する人はと言えば、ただ一人しか思い浮かばない。論理の錯乱が大得意な、(朝日の社説担当になった)小林某氏だけである。やたらと論理をメチャクチャに振り回して、とんでもない方向に話を運び、物事の本質を見失う、ということが大得意な人物は、この人以外には、いないからだ。
 朝日はますます、狂気の道をたどりつつあるようだ。


● ニュースと感想  (5月02日c)

  不良債権処理の問題の核心は? 

  それが古典派的な考え方をしている、ということだ。つまり、「劣悪な部分を解消し、資源配分を是正すれば、状況は改善する」と思い込んでいることだ。そこでは、ミクロ的な「最適化」の考え方だけがなされ、マクロ的な景気変動というものが無視されている。

 「不良債権」というのは、劣悪な部分である。赤字ばかりを垂れ流す「劣悪な企業」と言ってもいい。そういう「病巣」のようなものを取り除けば、残りは健全なものだけになるから、全体状況は改善する、と考えるわけだ。
 これは、古典派的な考え方である。その考え方は、必ずしも、間違っているわけではない。経済が均衡状態にあれば(不況でなければ)、その考え方は成立する。資源にせよ、資金にせよ、労働者にせよ、劣悪な部分を削除すれば、その分、健全な部分が伸びる。差し引きして、増えも減りもしないまま、質だけが「劣悪」から「健全」へと改善する。
 しかし、それには、前提がある。経済が均衡状態にある、ということだ。そして、不況のときには、この前提が成立していない。
 では、どうなるか? 劣悪な部分を削除すれば、その分、総所得が減るので、かえって経済全体が縮小していってしまうのだ。これは、実は、「縮小均衡」へ至る過程である。悪い部分を切り取ることで、どんどん「均衡」に近づいて、質的には改善される。しかし、そのとき同時に、マクロ的な経済規模がどんどん縮小してしまうのである。
 つまり、「質的に改善すればするほど、量的には悪化する」ということだ。これが、マクロ経済の核心である。そして、このマクロ経済の核心を、古典派はまったく無視する。── 不良債権処理の問題で、着目するべき点は、ここにある。彼らがなぜ間違うか、これで説明できるはずだ。また、「不良債権処理を進めれば進めるほど、デフレが悪化する」ということも、これで説明できるはずだ。
 そして、上のマクロ経済の核心は、すでに「修正ケインズモデル」を使って説明したとおりだ。( → 3月02日

 [ 付記 ]
 古典派の説の多くは、このタイプである。
 いずれにしても、失業や賃下げの結果、マクロ的に総需要が縮小して、デフレが悪化する。企業の業績は、一時的には改善するが、中期的には悪化する。個別企業が努力すればするほど、企業全体は損をする。(「合成の誤謬」だ。)
 古典派のこういうデタラメには、古典派の内部でも批判が上がった。そういう批判をする人々を、「マネタリスト」と呼ぶ。一方、上記のようなデタラメを主張する古典派の人々を、「サプライサイド」と呼ぶ。
( ※ 次項に続く。)




● ニュースと感想  (5月03日)

  不良債権の発生で、銀行の経営が悪化しているが、これはやはり問題では? 

  もちろん、問題である。ただし、この問題を解決するには、銀行に直接介入しても仕方ない。融資先に介入しても仕方ない。マクロ的に対処するしかない。つまり、「総需要」「総所得」に介入するしかない。

 この点を根本的に勘違いしている経済学者(古典派)が多いようだ。「病気の症状が出た。だから症状を解決する対症療法をせよ」という理屈だ。本質無視。
 銀行はどんどん経営が悪化している。では、それは、銀行経営が下手だったからか? 違う。銀行の融資先が不良債権になっているが、それは、銀行の経営が下手だったからではなく、融資先が赤字になっているからだ。個々の銀行経営の問題ではないのだ。それが証拠に、全銀行の経営状況が悪化している。個々の銀行経営が問題ならば、まだら模様になるはずだが、全銀行が例外なしに悪化しているとしたら、個々の銀行の問題ではないのだ。
 そこで、「融資先の企業を再生せよ」という理屈が出る。これを正しい策だと思い込んでいる経済学者(古典派)も多い。しかし、総需要が縮小しているときには、個々の企業が努力しても、仕方ないのだ。これは、次項で述べる、器の問題である。1リットルの器には、2リットルの酒は入らない。500兆円の総需要には、550兆円の総生産は入らない。その差となる分は、あぶれる。個々の企業がいくら努力しても、あぶれる分は出るのだ。……個々の企業が努力すれば、「自分ではなく、他社があぶれる」という形で、生き残ることはできる。しかし、それでもやはり、他のどこかがあぶれるのだ。(それが「器の問題」だ。)
 「不良債権はいくら処理してもダメだ。ゆえに、融資先の企業を再生せよ」という理屈は、勘違いなのだ。「どんなに努力しようと、原理的に、1リットルの器には、2リットルの酒は入らない」と理解するべきなのだ。努力の問題ではないのに、「努力せよ」と主張するのは、見当違いなのだ。

 [ 付記 ]
 「あぶれる分があるなら、あぶれる分をカットしてしまえ」という主張もある。つまり、「余剰設備を廃棄せよ」という主張だ。
 これは、理屈は通っている。「1リットルの器に入るように、酒をもう造るな」というわけだ。「1リットルの器には、2リットルの酒は入る」なんていう主張をするよりは、よほど論理的である。しかも、その主張によれば、均衡は達成する。
 ただし、論理的だが、狂気的だ。そんなことをすれば、デフレはますます悪化するだけだからだ。論理的な整合性は達成されるが、デフレ解決という本来の目的とは正反対の結果をもたらす。(マクロ経済的に言えば、「縮小均衡」である。そこに向かえば向かうほど、状況は悪化する。)
 それでもどうしても、「縮小均衡がいい」と思うのであれば、ビン・ラディンかブッシュに頼むのがいいだろう。ニューヨークやイラクを破壊したように、日本の生産力を破壊すれば、日本は確実に、デフレを脱却する。
( ※ デフレを脱却して、ひどいインフレになる。しかし、たとえそうなっても、マネタリストは大喜びするだろう。「これで急成長するぞ」と。……彼らの主張によれば、高度成長の秘訣は、ものすごい貧乏になることなのだ。)


● ニュースと感想  (5月03日b)

  景気の問題の核心は? 

  マクロ経済的な認識をするべきだ、ということだ。一国全体の景気変動に対しては、マクロ経済的な認識をすることが大事であり、ミクロ経済的な認識をしてはならない、ということだ。

 マクロ経済に対して、ミクロ経済的な認識をすると、間違う。このことを、比喩的に示そう。
 マクロとは、器の問題なのである。この器は、「総需要」という名前が付いている。(この比喩は、本質を突いている比喩である。注意してほしい。「総生産」と「総需要」は、「中身」と「中身を収める器」という関係にある。)
 今、この器に、酒を入れるとする。酒の方が多ければ、少しあぶれる。それは仕方ない。しかし、あぶれるのは、上澄みやゴミのような、邪魔な部分だけだ。「邪魔な部分を捨てたから、酒はかえって純粋になった」と人は喜んだ。この場合、上澄みやゴミを捨てるのがもったいないからといって、金をかけて器をやたらと大きくするのは、クズを買うようなものであり、かえって無駄である。
 さて。あるとき、器が交換されて、今までの器よりも、もっと小さい器になった。容量は、2リットルから、1リットルになった。当然、酒がたくさんあぶれる。もったいない。金を捨てるのと同じだ。そこで大問題となった。経済学者が、カンカンガクガクの議論をした。
 古典派経済学者は、こう主張した。「最適化をもっと進めればよい。放置すれば、邪魔な部分が消えるだけだ。だから、もっと放置せよ。放置してもうまく行かないとしたら、政府か誰かが、余計なことをしているからだ。たぶん、器に棒でも突っ込んでいるんだろう。そういう余計なことをしなければ、最適化がもっと進むはずだ。余計なことをやめよ。自由万歳。それで、酒の全体が優秀になる。優秀な酒は瓶に入るはずだから、酒の全体が優秀になれば、酒はすべてが瓶に入るはずだ」と。かくて、「酒が優秀になれば、2リットルの酒はすべて1リットルの器に入る」と主張した。しかし現実は、彼らの理論通りにはならなかった。
 マネタリストは、こう主張した。「酒の値上がりを主張せよ。酒の値上がりを予測させれば、賢明な消費者は、酒をどんどん買うだろう。明日の分の酒を、今日のうちに飲むだろう。酒の売上げが、急に増えるはずだ」と。しかし現実には、飲んべえたちは、そうしなかった。マネタリストは、飲んべえたちが金持ちであることを仮定していたが、実際には、飲んべえの懐は寒かったからだ。飲んべえは「明日は値上がり」と思うと、「明日の酒を買うために、今日の酒を買うのはいくらか減らそう」と考えた。なぜなら、合計量では減って、合計量では損だとしても、明日は明日でまた飲みたいからだ。今日酒をいっぱい飲んだからといって、明日は酒なしで済ますわけには行かないからだ。かくて、今日の酒の売上げは減ってしまった。かくて、酒のあぶれる分が、かえって増えてしまった。マネタリストは、飲んべえを合理的な企業経営者としてふるまうと判断したが、実は、飲んべえは飲んべえの原理でふるまったのだ。
 ケインズ派は経済学者は、こう主張した。「酒に対して、器が小さくなったのが問題だ。だったら、あぶれる分を、政府が飲んでしまえばよい。こうすれば、あぶれる分はなくなる」と。実際、その通りである。関係者は、初めは、その説に従った。しかし、あるとき、急に気づいた。政府は、飲んでしまった分の金を、払ってくれないのだ。ツケはすべてこちら持ちなのだ。あぶれる酒はなくなったが、金の損失はまったく解決しないのだ。
 かくて、人々は、あぶれる酒を見ながら、困惑していた。
 そこで、南ちゃんというピエロが登場した。「おれも阿呆だが、あんたたちも阿呆だなあ。酒を捨てるのはもったいない。酒をタダで飲めるくらいなら、おれにもタダで飲ませてくれよ」と。
 人々は「タダ酒だと? ふざけるな!」と怒り狂った。
 そこでピエロは、代案を出した。「じゃ、真面目に言いますけどね。話は簡単だ。酒があぶれるなら、器を元の大きさに戻せばいいでしょ。器が小さくなったのが根本原因なんだから、その根本原因を解決すればいい。だから、器を大きくすればいい」と。
 すると人々は鼻で笑った。「それができるくらいなら、誰も悩みはしない。どうやって、器を元の大きさに戻すんだ」と。
 ピエロは答えた。「簡単さ。タンク法を使うんだ」
 人々は首を傾げた。「タンク法とは?」
 ピエロは答えた。「当面は、一時しのぎの器を使うんだよ。とりあえずは、紙の器でも使えばいい。紙の器に、あぶれる分の酒を入れる」
 人々は疑った。「そんな一時しのぎの方法で間に合うのか? 紙の器は、いつかは破れる」
 ピエロは答えた。「だから、一時しのぎだと言っているだろう。今はとにかく、紙の器に入れておく。それで一時しのぎをしていれば、手が空く。手が空くから、働くことができる。その間に、働けばよい。つまり、離れたところにある、元の器を運んでくればよい。それを、紙の器と交換すればよい。……こうしてバランスを取り戻す。あとは、最初と同じく、順調に進むはずだ」
 しかし人々はためらった。こんな方法は、前例がないからである。あまりにもトリッキーな方法だと思えた。ピエロのやることだから、手品のようなものだと感じたのである。そもそも、「容器はしっかりしたものを使え」という伝統的な家訓に反するのである。家訓に反することは、とでもできそうになかった。人々はどうしても、タンク法(紙袋を使う方法)に踏ん切ることができなかった。
 かくて、酒は、今日もまた、どんどんあぶれるばかりなのである。そして人々の損失は、どんどん拡大するばかりなのである。彼らは、「困った、困った」と嘆きながら、「どこかに、いい方法はないかなあ」と迷いつづけた。
 実は、彼らは、正解を得られなかったのではない。正解を得ても、それを捨ててしまったのである。欠けていたのは、知識ではなくて、知識を理解するオツムだったのだ。

 [ 付記 ]
 解説しておこう。「器」とは、「総需要」のことである。これを考えるのが、マクロ経済学である。その際、「総所得」を考えることが必須だ。
  一方、「器」としての「総需要」や「総所得」を無視して、単に[器のなかの]最適配分だけを考えるのが、ミクロ経済学であり、古典派の立場である。だからこそ私は何度も主張するのだ。「マクロ的に考えよ」と。「総需要や総所得を考えよ」と。しかるに、マネタリストは、「マクロ的に考えよ」と言われたときに、「貨幣総量」だけを考えて、それをマクロだと思い込んでいる。この錯乱に、今日の状況悪化の理由がある。
 日本がどうしていつまでもデフレを脱出できないか、その根本的な理由は、ここにあるのだ。相も変わらず、「量的緩和」なんてことばかりを言っているから、問題は解決しないのだ。

 [ 余談 ]
 たとえ話。
 船が沈没しているとき、ピエロは叫んだ。「船底に穴があいている。穴をふさげ!」と。しかしマネタリストは、反対した。「船が沈没するということは、水面が喫水線より上がっているということだ。だから、沈没を回避するためには、水面が喫水線より下げよう。そのためには、水面が喫水線より下がることを、日銀に義務づければよい。日銀には、その能力があるはずだ」と。
 かくて、「船底の穴をふさごう」というピエロの説は一蹴され、喫水線問題の解決を日銀に義務づけることばかりが政策とされた。海の水をバケツで一杯ずつ汲み出すというような、まったく無効なこと[無効な量的緩和]ばかりを、どんどん続けた。彼らの理屈に従えば、「無限に水を汲み出せば、いつかはきっと効果が出るはずだ」というわけだ。しかし、その間も、船はどんどん沈没していったのである。
( ※ なぜマネタリストは、そういう本質無視のメチャクチャを信じたのか? それが定義だからだ。そういうメチャクチャを信じる人々を、マネタリストと称するのである。宗教の一派である。宗教というものは、すべて、科学的根拠なしに、それぞれの神を信じるものだ。)


● ニュースと感想  (5月04日)

  古典派のなかでは、マネタリズムは、サプライサイドほどひどくないのでは? 

  マネタリズムには、サプライサイドの問題点はない。しかし、別の問題点がある。これもまた、「マクロ的な認識ができない」という点では、同じ穴のムジナである。しかも、もっとタチが悪い。

 マネタリストは、サプライサイドの問題点を、まさしく認識する。「市場原理」なんていう夢想に浮かれることはなく、現実を直視するできるからだ。
 しかしマネタリストは、現実を直視することはできるとしても、不況の根源を理論的に説明できない。そのせいで、「量的緩和」なんていう、まったく無効な説を主張する。
 なるほど、マネタリズムの主張は、サプライサイドの主張と違って、「縮小均衡」へ至る道ではない。デフレを悪化させる道ではない。その点では、サプライサイドよりは、マシだろう。しかし、マネタリズムには、別の難点があるのだ。
 なるほど、マネタリズムは、サプライサイドのように「縮小均衡」へ進めようとはしない。「量的緩和」というのは、今すぐには害悪をもたらさない。しかし、「量的緩和」は、今すぐでなく、将来の害悪を用意するのである。しかも、その害悪の規模は、サプライサイドの比ではない。サプライサイドによって、経済が縮小するとしても、年に1〜2%程度であるにすぎない。しかるに、マネタリストの主張の害悪は、途方もないものだ。
 マネタリズムの処方は、すでにマネーの量を、正常規模の2倍にしてしまっている。これは、貨幣数量説に寄れば、物価が2倍になることを意味する。今は不均衡状態だから、その問題が発現してはいない。しかし、やがて景気が回復すれば、将来、物価が2倍になるのは不可避である。100%というハイパーインフレの発生だ。
 マネタリストは主張する。「ハイパーインフレは、金融政策によって、避けることはできる」と。なるほど、理屈では、その通りだ。しかし、その際には、弊害が発生する。100%のハイパーインフレを抑えるためには、ハイパー級の高金利が必要となるが、その弊害が発生する。たとえば、100%というハイパーインフレを抑えるために、年 50%という超高金利にすれば、どうなる? 当然、金利を払えなくなった企業が、続々と倒産する。失業もものすごく発生する。それだけの大被害が発生するのだ。このとき、GDPの縮小は、年率1%程度では収まらず、大幅に縮小するのだ。サプライサイドの害悪の比ではない。
 この想定は、仮想の空論ではない。かつて、歴史上で、似た事件が発生した。田中角栄内閣のとき、列島改造論と石油ショックが重なって、年率 30% を越える大インフレが発生した。それを福田蔵相が、金融政策によって抑え込んだ。事後、マネタリストの大御所たるフリードマンは、「これこそマネタリズムの成功例」と威張った。しかし、である。この金融引き締めのときには、同時に、GDPは大幅に縮小したのだ。日本中で、ひどい不景気の風が吹きすさんだ。「あのとき見事に物価上昇を抑え込んだぞ」とマネタリストは主張するが、首を吊って自殺した人の数は、膨大だったのだ。マネタリズム殺人事件。マネタリズム大虐殺。そして、そういう虐殺が、マネタリズムの成功例なのだ。

 そして、今、マネタリストは、ふたたび同じ道を歩もうとしている。すなわち、「デフレ脱出のため」と称して、「量的緩和」を進めている。そのあとで待っているのは、ハイパーインフレであり、さらにそのあとでは、大幅な金融引き締めによる大不況だ。かくて、ふたたび大不況が必至となる。(仮に、大幅な金融引き締めをしなければ、小幅な金融引き締めをすることになる。その場合は、不況と物価上昇との併存である。つまり、スタグフレーションだ。ひどいインフレを防ごうとした結果、スタグフレーションを招いた、という例は、マネタリズムの失敗例として、歴史上に、山のように転がっている。そもそも、マネタリズムは、スタグフレーションに対する処方を持っていない。)
 マネタリストは、日本をふたたび、「バブル → バブル破裂」というのと似たような、大変動にさらそうとしている。しかし、彼らにとっては、それでいいのだろう。なぜか? 彼らにとって大切なのは、物価上昇率だけなのだ。物価上昇率さえ安定させれば、それで満足なのだ。GDPを無視しているから、どんなにGDPが大変動しても、どんなに失業者が発生しても、どんなに自殺者が増えても、物価上昇率さえ安定していれば、それで満足なのだ。彼らにとって大切なのは、「価格」だけなのである。国全体のGDPの増減を無視し、GDPへの影響を考えるモデルも無視して、単に物価上昇率だけを考える。そういう人々を、「マネタリスト」と呼ぶ。
( ※ この定義で言うと、「家庭の主婦」も当てはまりそうだ。国家経済を無視して、「あら、物価が上がったわ」ということしか考えないからだ。ただし、方向は、正反対である。物価上昇を見たとき、マネタリストは、「ほう。じゃ、家庭の主婦は、財布をゆるめるだろう」と思う。一方、家庭の主婦は、「あら。じゃ、財布を引き締めなくちゃ」と思う。)


● ニュースと感想  (5月04日b)

  景気はこの先、どうなるだろうか?

  まず、私の予想の信頼度をいえば、「賃下げで春から景気悪化」という予想をしていたが、これは当たった。今後の予想をいえば、「所得の増加」があるかどうかだ。それなしでは、好転する見込みはない。単に「物価上昇」があれば、「実質所得の減少」により、さらに状況は悪化する。ただの「デフレ」から、「ひどいスタグフレーション」へと移行する。GDPは急減し、失業や倒産は増大する。

 結局、良くもなるし、現状維持にもなるし、悪くもなる。そのどれになるかは、政府の取る政策しだいだ。そして、その根本は、「所得の増加」の有無である。「物価上昇率」ではない。
 
 まず、古典派たちの主張を見よう。「企業収益の向上のために、賃下げはやむを得ない」と主張していた。なるほど、それで、企業は目先の収益性を改善させた。しかしマクロ的には、総需要が縮小し、景気はさらに悪化することとなった。3月の消費動向調査によると、消費心理は急速に悪化した、ということだ。3月は昨年 12月から 2.0ポイント下がった 36.1 となった。その他の景気指標も、みな悪化している。(朝刊・経済面 2003-04-26 )
 こういう悪化は、私が前から予測していたとおりである。「賃下げなんかやれば、春から景気が悪化する」と、かねて警告しておいた。その意味で、私の予想は、ぴたりと当たった。その他の経済学者は、「賃下げで、賃金の下方硬直性が打破された。市場原理が正常に働くようになった。だから、状況は改善するだろう」と主張していたが、まったくハズレたわけだ。

 では、今後はどうだろうか? 古典派たちは、今度は「インフレ目標」を主張しているが、実は、それはクルーグマン流の「将来の物価上昇の公約」ではなくて、「現在の強引な物価上昇の実現」である。これは、需要の上昇による物価上昇ではなくて、物価上昇だけを単独で起こそうということだ。借金中の企業にとっては実質金利の低下となって有利だが、消費者にとっては実質所得の低下となって不利である。マクロ的には、総所得の低下の分、総需要の低下だけが発生する。
 これが、マクロ経済学の結論だ。そういるマクロ的なことを無視して、市場原理(需給曲線)だけを見て、ミクロ的に考えたすえ、「物価上昇は投資にとって有利だ」と主張するのが、古典派(マネタリスト)だ。
 繰り返しておく。所得上昇のない物価上昇は、実質賃金の低下をもたらす。それはマクロ的には状況をひどく悪化させる。しかも、物価上昇があるから、状況は「デフレ」ではなく、「スタグフレーション」となるのだ。
 彼らの説に従って、「デフレを脱出したぞ」となったとき、その脱出の先にあるのは、「インフレ」ではなくて、「スタグフレーション」なのだ。そのこともわからずに、デフレ脱出ばかりを夢想するのは、勘違いというしかない。地獄のなかで、「水責めを脱出したぞ」と喜んだすえ、「火あぶり」になるようなものだ。

 結語。
 日本がどうなるかは、経済政策しだいである。小泉流の構造改革ならば、緩慢に悪化する。新ケインズ派ふうの「賃下げ」ならば、どんどん悪化する。マネタリズム流の「強引な物価上昇」ならば、急激に大幅に悪化する。物価上昇率が 100% 程度になるハイパーインフレの可能性も十分にある。最悪のシナリオは、ハイパーインフレが起こったときに、それをつぶすIMF流の金融引き締めを実施することだ。その場合、大幅な高金利が発生して、日本の大半の企業がつぶれてしまうだろう。日産やトヨタのような無借金経営の優良企業さえ、売上げが激減するので、倒産する可能性は十分にある。もはや、地獄である。そして、その道をあえて歩むためには、(クルーグマン流でなく)マネタリズム流の「インフレ目標」を実施すればいいのだ。


● ニュースと感想  (5月05日)

  経済の入門書を読んだら、「デフレとは、世の中でお金が回らなくなることだ」と書いてあったが、正しいか? 

  正しいことは正しいが、それは経済学の裏付けがない限り、意味がない。

 たしかに、デフレのときには、世の中で金が回らなくなる。「消費する → 物が売れる(生産する) → 労働所得を得る → 消費する → ……」という循環があるが、その循環が、デフレのときは、縮小する。だから、その説明自体は、正しい。
 しかし、それは、現在の経済学の教科書には、まったく書いていないことだ。経済学の常識に反する。
 第1に、古典派経済学では、デフレとは、次のいずれかだ。
 そのいずれにも、「金が回らないから」という説は現れない。

 第2に、ケインズ経済学では、「民需の不足に対して、官需の増加をなすべきなのに、そうしなかったから」である。ここでは、民需の不足は、特に問題となっていないのだ。

 結局、いずれにしても、「金が回らないから」ということは、デフレの理由にはなっていない。換言すれば、「金が回らないから」ということが、デフレの理由になるとすれば、現在の経済学は、正しくない。
 つまり、上の説と、現在の経済学とは、二者択一なのだ。そのことも示さないで、「「デフレは、金が回らないことだ」と説明しても、経済学を無視した、素人論議となる。
 では、私の説明では? 簡単だ。「金が回らないから」という説は、正しい。それゆえ、「現在の経済学は間違っている」と指摘することが必要だ。そういう指摘があって初めて、論理的な破綻を免れる。
 デフレでは、金が回らなくなる。そのことは、私の説では、「修正ケインズモデルにおける、循環的な過程」として、何度も示してきた。そしてまた、「その循環的な過程をたどりつつ、経済がどんどん縮小していく」ということも示した。
 デフレとは、単に「金が回らなくなること」ではない。「金が回らなくなると同時に、経済がどんどん縮小していくこと」である。つまり、「デフレ・スパイラル」だ。それがデフレの本質だ。
 この本質を示すことができないから、古典派の主張も、ケインズ派の主張も、すべては机上の空論となるのである。

 [ 補記 ]
 デフレの本質は、デフレ・スパイラルである。このことは、修正ケインズモデルを使うと、理解される。しかるに、古典派も、ケインズ派も、こういう過程を説明できない。だから、間違う。
 古典派のうち、サプライサイドは、こう言う。「企業の体質を改善せよ。個々の企業がしっかりすれば、景気は改善する」と。
 古典派のうち、マネタリストは、こう言う。「貨幣を増やして、物価を上昇させよ。物価が上昇すれば、需要が増える」と。
 ケインズ派は、こう言う。「総需要が足りなければ、足りない分を、政府が補え」と。
 それらに共通する難点は、何か? 経済を、静的にのみとらえて、動的にとらえていない、ということだ。静的に「今は経済が縮小している」と認識するだけで、「どんどん経済が縮小していく」という動的なスパイラルの過程を無視している、ということだ。
 デフレ・スパイラルを無視した経済学は、すべて、間違いなのだ。そういうことを、「修正ケインズモデル」は教えてくれる。

 [ 余談 ]
 間違いの典型的な例を示そう。竹中大臣は、2001年の秋に、「株価がこんなに下がったから買い時だ」と主張した。そこで信じられたのは、「下がれば、そのうち上がる」という、単純な景気循環である。一種のヤマカンだ。そこには何の経済理論もない。
 修正ケインズモデルに従えば、「景気が悪化して、所得が減れば、さらに景気は悪化する」のである。つまり、「悪化すれば、もっと悪化する」となる。それがデフレ・スパイラルだ。「景気循環」なんていう説は、マクロ経済学とは正反対のものなのだ。
 無知は、間違った結論を出す。そして、間違った結論を出したことに気づいても、なおもそれを反省しないとき、無知は増幅する。無知は、スパイラル的に拡大するのだ。── 「真実を知ろう」という心がない限りは。

 [ 参考 ]
 朝日新聞の社説(2003-05-04)に、またおかしな話が書いてある。「金融システムへの信任が失われたのが、デフレの元凶だ」と主張して、「銀行、借り手の企業、投資家、預金者などが、おたがいに疑心暗鬼に陥った」と見なし、それで「経済の活動全体が縮こまっていく」と結論する。
 呆れた話だ。ここには、「消費者」という用語がまったく現れない。GDPの大部分を占める「消費」を無視している。単に「投資」だけで経済を片付けようとする。不況期には、供給過剰なのだから、「投資」を縮小するのが当然なのに、あくまで「投資」にこだわり、「消費」をまったく無視する。
 この主張は、「スパイラル」を主張しているように見えるが、「消費」や「消費者」の欠けたスパイラルである。奇妙キテレツと言うしかない。デフレスパイラルにおいて、消費を無視する、という珍説。経済を金融だけで片付ける、という、マネタリズム的な主張が、いかに物事の一面しか見ていないか、実によくわかる。

 [ 補説 ]
 最近、デフレの悪化が言われている。株価もどんどん低下している。その理由は、「消費性向の低下」だけでなく、「所得の低下」なのだ。ここに本質がある。この本質を見失って、ああだこうだと勝手にわめいているのが、現在の経済学者だ。
 彼らは、「金がなくても、金を使え」と主張しているわけだ。しかし国民は、「ない袖は振れない。財布が空なら、買いたくても買えません」と主張するしかない。それに気づかずに、痩せた馬にひどく鞭打っているのが、現在の経済学者だ。馬はそのうち、死んでしまうかもしれない。ああ、今日もまた、馬はひっぱたかれている。


● ニュースと感想  (5月05日b)

  農家に所得保障のため、直接補助金を出す、という案がある。農家向けのバラマキだ。こんなのは、とんでもないのでは?

  間接補助金よりは、マシだ。現在、土地改良費などの名目で、莫大な金を農家に渡している。農家に直接金を渡すのは名分が立たないので、土地改良費に 1000万円渡して、そのうち 900万円は土建業者に渡り、農家の実質利益となるのは 100万円分、……というような具合だ。つまり、100万を渡すため、その 10倍の国費を費やしている。これを改めるためであれば、はるかにマシだ。

 「農家にばっかり所得保障するなんて、差別だ。われわれは失業しても、金をもらえないぞ」と人々は主張するかもしれない。しかし、それは、当然なのだ。なぜなら、自民党に政権を渡したからだ。農家を優遇するのは、自民党の方針であり、この自民党に政権を渡している限り、文句は言えないのである。少なくとも、選挙で棄権をした人は、文句を言う資格はないのである。白紙委任をしたならば、他人の決めたとおりにするしかないのだ。
 農家優遇というのは、自民党政権が続く限りは、話の前提となる。そして、その前提の上であれば、私は、「間接補助金」よりは、「直接補助金」の方を支持する。額がずっと小額で済むからだ。
 ただし、である。私としては、条件を付ける。「代償として、土地を国に渡す」ということだ。つまりは、「土地を国が購入する」という形での所得保障だ。
 とはいえ、「土地を奪われたくない」というのは、農家の心理だろう。だから、「存命中に限り、低額で貸与」ということにしていいだろう。また、年齢制限も付ける。40歳未満であれば、他の産業に転出できるだろうから、この政策の対象から除外する。
 昔、「農地解放」のもとで、農民はほとんどタダで土地を手に入れた。その土地を、農民は、「おれのものだ」と思い込んでいる。今にして思えば、「農地解放」で土地を農民に渡したのは、大失敗だった。土地を無償貸与するべきで、所有権は渡さなければ良かった。
 私の住んでいる都市では、「土地成金」がいる。市内のあちこちの土地をいっぱいもっていて、それを切り売りすることで、莫大な資産を手に入れた。そして、その土地は、農地解放で手に入れたものだったのだ。国から勝手にもらったものを売ることで、莫大な財産を手に入れる。その分、国民は、重税や土地代で苦しむ。
 そして今また、同じような愚を繰り返そうとしている。国民は失業しながら重税を払い、農民は遊んで所得保障してもらえる。せめて土地を明け渡すならともかく、そうすることもない。やがて、景気が回復したころ、農民は土地を高額で売り払う。国民は、農民に所得保障のために金を渡したあと、土地の購入でふたたび金を渡す。かくして、貧乏人から資産家へと、富がどんどん移動していく。
 日本は歪むばかりだ。


● ニュースと感想  (5月06日)

  目先の景気への対策は、わかった。しかし、長期的には? 少子高齢化は、普通の経済政策では、解決できないのでは? 

  解決できる。心配する必要はない。「少子高齢化」を促進する現状の政策をやめればよい。そうすれば、ひとりでに、人類の出産は正常化する。異常な状態がいつまでも続くことはない。異常な状態が続いているとしたら、あえてそうしようとしているからにすぎない。その事実を知ることが大事だ。


 少子高齢化の問題は、少子化と高齢化に、分けて考えられる。

 (1) 少子化
 少子化という問題の解決は、簡単だ。単純に、出産奨励策をとればよい。現状は、「出産禁止策」を取っているから、少子化が進んでいるだけだ。この方針を改めればよい。
 この件は、すでにいろいろと述べた。( → 2002年4月12日2002年5月17日
 現状の問題は、次のように示した。( → 2003年1月25日d
 こういう「出産禁止策」を逆にすれば、少子化の問題は解決する。特に、経済政策で言えば、「タンク法」による「均等の減税」に、「児童手当」を上積みして、大人よりも子供に「減税」を与えるといいかもしれない。「税を払っていないのに減税か?」という批判も来そうだが、勘違いしてはいけない。国民は金を使う限り、必ず「消費税」を払っている。

 (2) 高齢化
 「高齢化は悪いことだ」という説については、すでに何度か否定した。( → 2002年4月11日2002年5月12日
 そもそも、よく考えてみよう。「高齢化社会」とは、「人間が長生きする」ということだ。長生きすれば、高齢者が増えるのは、当然だ。逆に言えば、「高齢化社会」になるということは、「人間がどんどん長生きする」ということなのだから、悪いことではなくて、良いことなのである。
 「高齢化社会」が問題だと思うのであれば、話は簡単だ。あなたは長生きしないで、さっさと死んでしまえばよい。そうすれば、自分が高齢になったときにも、「年金はもらえるのかな?」と心配する必要はない。死んでしまえば、年金の心配などは不要なのだ。また、さっさと死ぬのであれば、貯蓄をさっさと使い果たしてしまえばいいから、その間に、贅沢できる。たとえば、65歳で死ぬことにして、60歳から65歳の間に、全財産を使い果たせばよい。すばらしく幸福になれるだろう。すぐに死ねば、すばらしく幸福になれるのだ。
 ただし、たいていの人は、長生きしたがる。とすれば、その間、貧しくなるが、当然のことだ。どちらを選ぶかは、あなた自身の選択だ。もしかして、「働かないで、金だけもらいたい」と思うかもしれないが、そんなことを言い出せば、誰も働かなくなる。
 どうしても「金は空から降ってこい」なんていうことを思うのであれば、それが実現する方法はある。精神病院に入ることだ。何もしないで、飯だけもらえる。
 なお、「自分は早く死ぬから、年金の負担はしたくない」と思う若者もいるだろう。勘違いしてはいけない。「年金」とは、自分自身のために払う金というよりは、自分の両親のために払う金なのだ。自分が若いころに、両親の世代に、いろいろと育ててもらった。両親からは、衣食住を与えられたはずだ。(国からは、安全や教育を与えられたはずだ。) そういうことに対する返済が、年金なのだ。「そんなのイヤだ、親の面倒なんか見たくない」と思うかもしれないが、そういう人も、自分が高齢者になれば、「子供の世代に面倒を見てもらいたい」と思うはずだ。「子供は親の面倒を見る必要はない」と思うのであれば、自分が高齢者になってから、現役世代に向かって、そう言えばよい。それなら、高齢化の問題は、何もなくなる。

 [ 補説 ]
 なんだか、暗い話ばかりなので、明るい話も述べておこう。
 実は、高齢化による財政悪化の問題を、抜本的に解決する方法がある。それは、何か? 「給付の引き下げ」である。たとえば、年金を、半額ぐらいに減額する。あるいは、4分の1ぐらいに減額する。……ただし、である。それだけでは、高齢者が、生活できない。そこで、もう一つの方法と、組み合わせる。それは、何か? 「海外での居住」だ。物価の高い(通貨の高い)日本で暮らさず、中国か東南アジアで暮らせばよい。月に5万円もあれば、豪勢な生活を送れる。毎日、グルメ三昧をしても、まだ金が余る。
 「東南アジアなんか、暑くてイヤだ」と思うかもしれないが、さにあらず。少なくとも、東京よりは、夏にはずっと涼しい。東京というのは、夏には、世界でも指折りの熱帯地方となる。38度なんてのは、ざらだ。東南アジアならば、海のそばで暮らす限り、夏でも30度ぐらいだから、ずっと過ごしやすい。また、「30度でも暑い」と思うのならば、世界各地を転々として暮らせばよい。少なくとも、冬の寒い東京で暮らすよりは、ずっと長生きできるだろう。
 私だったら、そうしますね。老後は、月に5万円ぐらいで十分。自分の貯蓄で、航空費だけをまかなう。他の人々は、日本で苦しい暮らしを送っていればよい。「金が足りない、暮らしが苦しい」と思うかもしれないが、それは、あえて「日本で暮らす」という道を選んだからだ。自分で貧しい道を選んだのだから、自分の選択に文句を言わないでほしい。
 結局、少子高齢化で、問題となるのは、自分自身の偏狭さなのだ。経済的には、何一つ、問題はないのだ。
( ※ 高齢者が途上国で暮らせば、途上国は経済が発展するし、日本は資本輸出によって貿易黒字が増える。いいことづくめだ。)
( → 2002年5月18日 「シルバーコロンビア」)


● ニュースと感想  (5月06日b)

  サッカーの日韓戦では、日本が「1−0」で勝った。これは、好ましいか? 

  勝ったのは、相手のキックした球が、日本人に当たったあと、幸運にも相手ゴールに入っただけだ。オウンゴールに近い形だし、千に一つのような偶然にすぎない。「勝った」とは言えない。一方、話の本質を見れば、別の問題がある。このメンバーは、高齢者ばかりで、次期W杯ではすべて消えているからだ。

 はっきり言っておく。この試合は、戦う以前に、負けている。「ジーコ日本は、ようやく1勝をあげた。万歳!」というマスコミの論調があるが、まったく無意味である。
 トルシエもそうだったが、今回の韓国も、次期W杯を見越して、メンバーを若手ばかりに取り替えた。「日本は前回のW杯の韓国メンバーに勝った」と思ったら、とんでもない勘違いだ。
 一方、日本は、どうか? トルシエからも見放されたような高齢者ばかりだ。秋田、奈良橋、中山、など。次期W杯では、まず間違いなく、出場しない面々だ。たとえて言えば、引退2年前の横綱が、伸び盛りの小結と戦ったようなものだ。圧倒して、当然である。ところが、そうできなかった。双方が同じメンバーで、3年後に戦えば、日本のメンバーは現役引退をしたようなメンバーが何人もいるから、惨敗は必至である。
 まったく、ジーコというのは、何を考えているのか? いや、何も考えていないのだ。戦術からして、「監督は何も指示しないから、選手は自分で考えよ」だ。FKの方法をあれこれと教えたりしたトルシエとは正反対で、無為無策である。たった一つ、トルシエよりも優れているのは、選手を元気づけることだけだ。とはいえ、それがいいかどうかは、別の問題だ。トルシエ時代には、選手は打たれた雑草のごとく、強い精神力を備えるようになった。ジーコ時代では、選手は甘やかされるだけだ。「甘やかして、愛されることこそ、最高の教育だ」という親は、現代では、非常に多い。しかし、本来ならば、これは、「スポイルする」(甘やかしダメにする)という教育方針である。
 つまりは、阿呆はみんなジーコを支持するわけだ。「ジーコならば、負けても楽しいから、いい。だけど、トルシエならば、勝っても楽しくないから、ダメだ」と。まったく。甘ったれ集団だ。

 結語。
 ジーコなど、さっさと解任した方がいい。トルシエを招く方がいいと思うが、それもだめなら、マリノスの岡田監督がいいだろう。「次期監督」というのが、日本サッカー協会の方針であるようだが、前倒しした方がいい。
( ※ ついでだが、岡田監督は、世評に逆らって、トルシエを評価していた、数少ない識者の一人である。)

 [ 付記 1 ]
 この話は、経済でも、似ている。生理的なトルシエ嫌いが多いように、生理的な南堂嫌いもいるようだ。「南堂なんて、ふざけている野郎だから、こんな奴の言うことを聞くくらいなら、不況が続く方がマシだ」と思っている人も多いようだ。「ジーコならば、どんなに成績が悪くても、許そう」と思う人が多いように、「小泉ならば、どんなに不況が続いても、許そう」と思う人がけっこう多いようだ。

 [ 付記 2 ]
 アテネに向けたサッカーの若手新チームの評判が、さんざんだ。「このチームは、やる気がない。相手にぶん殴られてからでないと、目が覚めない。五輪に出場できなくても、ちっとも不思議ではない」という評価だ。(朝日・朝刊・スポーツ面 2003-05-04 など。)
 若手選手を批判しているようだが、とんでもないことだ。関係者は、自らを批判するべきだ。
 だいたい、上記のような性質は、現代の若者では、当然のことだ。というか、日本の選手は、だいたい伝統的に、そういうものだった。現在の稲本や中村や小野の世代だって、最小はそうだった。
 それを根本からひっくり返したのは、トルシエだ。「仲間内で仲良くするな。常に闘争心を発揮せよ」と主張して、怒り狂った。その結果、闘争心に燃え狂う集団ができた。
 ところが、評論家は、それを批判した。「監督は選手から愛されるようにするべきだ。仲良しのチームが大事だ。それこそ『和』のチームだ」と。いかにも日本的な批判である。そして、その結果、現在のように、「『和』のチームができた」というわけだ。彼らの狙い通りに、仲良し同士の、ふやけたチームができたわけだ。
 自分で自分の狙い通りになったからといって、若手選手を批判するのは、とんでもない間違いだ。自分自身を批判するべきだ。
( ※ 経済でも、このことは当てはまる。)


● ニュースと感想  (5月07日)

  「イラク戦争は、大成功に終わった」とブッシュが言っている。ならばブッシュに任せれば、日本はデフレから脱出するのでは?

  その通り。ブッシュのおかげで、イラクは独裁体制から開放された。保守派の言うとおりだ。同じことを日本にもやれば、日本も不況から確実に脱出できる。だから、イラク戦争を大成功だと思うのならば、ブッシュに日本を爆撃してもらえばよい。必ず、デフレから脱出できる。しかし、そのかわり、国家は破壊され、莫大な死者が発生する。おまけに、ひどいインフレになる。


 要するに、独裁体制の打倒であれ、デフレであれ、それだけが目的であるのならば、爆弾を落とせばいいのだ。問題は、その代償だ。経済基盤が破壊され、大量の人命が奪われる。
 それは困るか? イラクや日本国民は困る。しかし、米国は困らない。米国や保守派というものは、自分さえ「正義の味方」と威張れるのなら、それでいいのだ。
 だから、「ブッシュ万歳」と叫ぶがいい。たぶん、その頭に、爆弾が降ってくるだろう。おそらく、精密誘導弾で。命中率は 100%に近い。そのすばらしい命中率を、保守派は大得意で威張っているのだから。(でも、実際には、ハズレる率が多いんですよね。フセインの隠れ家を狙った爆弾も、30メートルはずれて、隣家の家族を虐殺しただけだった。)


● ニュースと感想  (5月07日b)

  日産自動車は、劇的に経営を改善した。そんなにすばらしい経営者なら、ゴーン社長に、日本経済を任せれば、景気は回復するのでは?

  個別企業とマクロ経済とは、まったく異なる。市場における「一勝一敗」は、勝者があるとき、敗者がある。日産が伸びれば、その分、トヨタやホンダのシェアが減る。要するに、個別企業がいくら伸びても、一国全体の経済規模を増やすことにはつながらないのだ。


 たしかに、日産の経営は、劇的に改善した。(各紙・朝刊 2003-04-24 ) しかし、話は景気とは別のことだ。
 マクロ経済というものは、総需要の問題である。個別企業の努力の問題ではないのだ。両者はまったく別のことなのだ。「ゴーン社長にマクロ経済を任せよう」というのは、「優秀長屋や音楽家やスポーツマンにマクロ経済を任せよう」というのと同じくらい、無意味なことだ。「松井やイチローに首相になってもらおう。そうすれば経済も好成績になる」と主張するようなものだ。
 マクロ経済を良くするには、マクロ的な需要を拡大するしかない。個別企業がどんなに努力しても、需要がなければどうしようもないのだ。買う人に金がなければ、売り手がどんなに努力しても仕方ないのだ。── それを理解でいない人々を、「古典派」と呼ぶ。
 たとえ話。食料があり、人間がある。「食料の配分は、腕力で決めよう。強い者が多く取れば、食料の最適配分ができる」と古典派は主張した。なるほど、食料が余っているときには、それでよかった。しかし、食料(≒ 総需要)が天候の具合で、急に縮小した。20人いるのに、15人分しかいない。ここでも、古典派は、同じことを主張した。「食料の配分は、腕力で決めよう。強い者が多く取れば、食料の最適配分ができる」と。しかし、人々は不平を鳴らした。「5人が飢える。5人分が足りない!」と。すると古典派は、こう主張した。「その5人も、懸命に努力すれば、必ず食料を取れるはずだ。彼らが飢えるとしたら、彼らの努力が足りないのだ。ゴーンくんを見よ。これまでは怠けていたから、飢える5人に含まれたが、もはや彼は強者となって、たっぷりと食べているではないか。だから、他の人々も、努力すれば、必ず腹を満たせるはずだ」と。そして、こう結論した。「食料が 15人分しかなくても、20人が腹を満たせる」と。

( ※ これは、逸話の「ほら吹き男爵」の論法である。谷間を渡るとき、ロープの長さは、谷間の半分であればいい。ロープを投げて、そのロープを伝って、谷間の半分まで渡る。谷間の中間に来たら、そのロープをたぐり寄せて、谷間の反対側に投げて、残りの半分を渡る。……メチャクチャな論法だが、古典派の主張は、これと同じなのである。古典派というのは、「ほら吹き男爵」なのだ。だから彼らは、こう主張する。「食料が 15人分しかなくても、20人が腹を満たせる。食料の増加は、必要ない」と。かくて、彼らは、食料という総需要[ or 総所得]の拡大を、あくまで無視するのである。)


● ニュースと感想  (5月08日)

  南堂久史の言うことは、信じられるか? 下手に信じると、危険があるのでは?

  前例を見て決めればよい。「南堂の説なんか、ダメだね」と思うようなタイプの代表には、小泉と竹中がいる。彼らを信じたければ、彼らを信じるがいい。二年前に信じて、その結果がどうなるか、思い出すがいい。一方、南堂の意見を聞いて、大成功した人もいる。日産自動車がそうだ。(詳しくは、以下で。)

 そもそも、信じるか信じないかは、読者の判断しだいだ。別に、宗教ふうに「こいつを信じよ」という問題ではない。読者が自分の頭を使って、「こいつの主張をどう判断するか」という問題であるにすぎない。「信じるかどうか」と悩むのは、判断力のない読者だけだ。
 ちょっとだけ判断力のある読者ならば、「南堂の言うことなんか、信じたくないね」と思いながら、小泉の「構造改革」路線を信じていただろう。経済白書にある「構造改革で、景気回復」というのを信じただろう。あげく、今となって、株価が暴落したのを見て、さんざん反省していることだろう。で、「なんだ、南堂の言った通りじゃないか」と思うのならば、遅ればせに、過去については理解したことになる。(未来についてはともかく。)

 一方、小泉とは違って、南堂の方針を採用した会社もある。日産自動車がそうだ。この会社は、南堂の方針(デザイン路線の転換)を取って、劇的に業績が改善した。
 ただ、注意しておこう。日産の経営改善の9割ぐらいは、ゴーン社長の功績である。「コストカット」というのは、それはそれで意味があるが、根本的に大切なのは、「組織の活性化」である。ゴーン社長は、これを、ほぼ完璧に成し遂げた。この点は、当時から、私は評価していたし、だから周囲には「日産の株を買え」と勧めていた。
 ただし、である。日産には唯一、弱点があった。それは、デザインである。だから、「デザインを何とかせよ。とくに、鼻の形を ▽ にするのは絶対にやめよ」と勧告した。
 これは、二年前の時点だ。当時、日産は、「コストカット」ばかりに集中していて、「デザイン」なんていう言葉はほとんど無視されていた。出す車は、鼻の形を ▽ にしたり、変なデザインだったりで、まったく売れなかった。プリメーラしかり、スカイラインしかり。
 しかし、その後、日産はデザイン改革に取り組んだ。鼻の形を ▽ にするのをやめ、まともなデザインにした。その結果、どの車も、売れるようになった。もともと、商品の出来具合は良くて、デザインだけが悪かったのだから、売れて当然なのだ。
 「いや、それは、南堂の意見を聞いたわけじゃないぞ。日産は当時から、デザインを重視していたぞ」という声もあるだろう。しかし、それは、正しくない。当時、日産は、デザイン重視という方針をいくらか立てていたが、まったく内実がともなっていなかった。その典型が、プリメーラとスカイラインだ。もし、デザイン重視にしていたならば、こんなデザインの車は、その時点で、発売を中止していたはずなのだ。そして、半年の時間をかけて、デザインをやり直しただろう。たとえば、プリメーラの鼻の形を変え、スカイラインの目と口と尻の形を変えただろう。内装も、安っぽいプラスチックをやめて、ごく普通の内装にしていただろう。そして、そうすれば、劇的に販売台数が増えていたはずなのだ。
 鼻の形を ▽ にするという日産の根本方針は、ついに、なくなったようだ。二十年ぐらい続いた自社のアイデンティティを、全面否定したわけだ。そして、そういうことをなしたからこそ、日産の業績は劇的に改善したのだ。たとえば、現在、ティアナという新車が大人気だが、この鼻の形を ▽ にしてみるがいい。販売台数は、一挙に激減するだろう。
 
 日本経済も、同様だ。古典派の考えに基づいた、「構造改革や金融政策重視」という根本方針を全面否定することが、躍進の鍵だ。
 それができれば、日本経済は、大躍進ができる。それができなければ、いつまでも停滞が続く。日産の場合、運良く、ゴーン社長がいた。日本の場合、運悪く、小泉がいた。

 「小泉の波立ち」の基本テーマは、「小泉純一郎の改革は、何をもたらすか?」だった。多くの人は、「小泉の打ち出した改革は、成功するだろうか?」と問題提起したようだ。しかし、そういう問題提起それ自体が、正しくないのだ。小泉の改革は、改革の方針そのものが、方向違いなのである。
 小泉の改革が成功するか否かは、小泉が自己を改革することに成功するか否かに、かかっている。それが、最後の結論となる。

 [ 余談 ]
 「南堂なんて、生意気な野郎のいうことなんか、聞きたくない。こんな野郎の言うことを聞くくらいなら、不況で沈没した方がマシだ」
 と思う人もいるだろう。ま、それはそれで、構わない。私としては、どっちだっていい。そういう方針も、人生観しだいである。「生意気な美人と結婚するくらいなら、ブスな古女房とひどい人生を過ごす方が、マシだね」と思うようなものだ。それはそれで、一つの人生である。
 ブスな古女房というのは、小泉だ。この人をよほど愛しているのなら、いっしょに心中するといいだろう。それはそれで、一つの人生である。私は何も強要するつもりはない。
 では、お幸せに。
── というのは、反対かな。「では、ご不幸に」と言うべきかも。不幸が好きなら、不幸になるといいだろう。私は別に、幸福を強要するつもりはない。)


● ニュースと感想  (5月09日)

 最後に、概括的に述べておこう。
 人が利益について考えるとき、大切なことは何か? それは、「利益を求めようとするな」ということだ。逆説的な言い方だが。
 「各人は利益を求めよ」と古典派は主張する。しかし、利益を求めるばかりでは、かえって不利益になることもある。それがマクロ経済において注意するべきことだ。(経済用語で言えば「合成の誤謬」と言ってもよい。)
 保守派はしばしば、「国益を求めよ」と叫ぶ。しかし、国益を求めるばかりでは、かえって国益をそこなうことがある。
 経済や国際政治については、十分に説明してきたから、別の例を挙げよう。それは、「外国人の公務員採用」だ。保守派はこれを批判する。「外国人に公権力を渡せば、国益を損なう」と。しかし、これは見当違いだ。それはあくまで「自分の利益を他人に渡したくない」という「ゼロサム」の発想に立っている。しかし、「損して得とれ」もしくは「急がば回れ」という例もある。

 具体的に言おう。外国人を公務員に採用した方がいい場合がある。たとえば、英語教師。大学の研究職。……こういう公務員に外国人を採用することは、かえって国益にかなうのだ。外国人を排除することは、かえって国益に反するのだ。米国を見るがいい。各種の研究職に、外国人を大量に採用している。だからこそ、米国には、優秀な研究者が集まって、米国の研究水準を、世界最高レベルにしている。一方、日本はどうか? 「外国人を排除せよ」と言って、世界レベルの優秀な研究者を排除する。それでいて、「研究開発のために、国はもっと金を出せ」という乞食根性を出す。話が本末転倒だ。自分の利益ばかりを追っているから、かえって、自分で自分に損をさせているのだ。
 こういうことは、外国人の研究者に限らない。一般の公務員にも、制約なく自由に能力主義で採用することで、行政の水準がアップし、そのことで、「お役所仕事」という非効率さがなくなる。外国人を公務員に採用しないから、いつまでたってもお役所仕事が続いて、国民全体が大損をしているのだ。

 そして、こういうことは、それだけに限らない。あらゆることに当てはまる。不況のとき、企業は「経営のために金を寄越せ」と叫び、銀行は「赤字処理のために金を寄越せ」と叫び、国は「財政赤字を縮小するために金を寄越せ」と叫ぶ。それぞれが、てんでに金を求める。そのせいで、国民は、どんどん貧しくなる。かくて、不況は、どんどん悪化する。……それが、現状だ。
 つまり、おのおのがてんでに利益を求めるから、全員が利益を失うのだ。利益を求めれば求めるほど、利益は減るのだ。
 そして、それがどうしてなのかということを、マクロ経済学は原理的に教えてくれる。そのマクロ経済学を無視する人々が、いつまでたっても、不況という蟻地獄から抜け出せずにいるのだ。というより、むしろ、状況をさらに悪化させていくのだ。
 大切なのは、真実を知る心であり、捨てるべきは、身にしみついた先入観だ。


● ニュースと感想  (5月10日)

  何だか、気の暗くなる話ばかりだが、この先、どうすりゃいいの? 

  希望をもとう。人類には叡智があることを信じよう。そう信じた上で、真実を求めよう。結果的に可能であるかどうかは、こだわるまい。大事なのは、諦めてはならない、ということだ。希望を失えば、その瞬間に、不幸からの脱出は不可能となる。希望をもち、そして、勇気をもって、前に進もう。

 不況に直面して、政府はしばしば言う。「不況脱出の特効薬などはない」と。そして「耐え忍ぶしかない」と不幸を受容させようする。
 これは、希望を失った考え方だ。だからこそ、不況からいつまでも脱出できなくなる。不況から脱出する方法がないのではない。不況から脱出する方法を見出そうとする、その意思がないのだ。諦めこそが、不幸の根源なのだ。
 
 実は、解決不可能と思える問題の大半は、「情報制御」によって解決可能である。たとえば、次のように。
 これらは、単純に「情報制御」で解決できる問題だ。
 一方、もっと広く「知恵のコントロール」というふうに考えれば、人類の問題のほとんどすべては、叡智によって解決可能なのである。解決できないとしたら、地震とか、台風とか、火山爆発とか、あまりにも巨大な自然の力に圧倒される場合だけだ。こういう場合には、人間の力は無力だから、ただ我慢するしかない。
 しかし、自然の問題ではなく、社会の問題ならば、そのほとんどは、原因が人間にあるのだから、解決もまた人間によって可能なのだ。原理的に、当然である。
 「不況を脱出する特効薬などはない」と主張するのは、不況を地震や台風と同類のものと見なす立場である。しかし、不況は、地震や台風とは違って、人間の生み出したものなのだ。それに対する解決策は、必ず、人間の手のうちにあるのだ。
 不幸をもたらす原因は、必ずしも、人間の意思ではない。しかし、不幸から脱出できない原因は、たいていは、人間の意思である。その意思を、「諦め」と呼ぶ。
 だからこそ私は主張する。「諦めを捨てよ。希望をもて」と。そして、真実を探ったあとで、勇気をもって踏み出せば、人は前進できるのだ。







「小泉の波立ち」
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