[付録] ニュースと感想 (49)

[ 2003.5.11 〜 2003.8.11 ]   

  《 ※ これ以前の分は、

    2001 年
       8月20日 〜 9月21日
       9月22日 〜 10月11日
      10月12日 〜 11月03日
      11月04日 〜 11月27日
      11月28日 〜 12月10日
      12月11日 〜 12月27日
      12月28日 〜 1月08日
    2002 年
       1月09日 〜 1月22日
       1月23日 〜 2月03日
       2月04日 〜 2月21日
       2月22日 〜 3月05日
       3月06日 〜 3月16日
       3月17日 〜 3月31日
       4月01日 〜 4月16日
       4月17日 〜 4月28日
       4月29日 〜 5月10日
       5月11日 〜 5月21日
       5月22日 〜 6月04日
       6月05日 〜 6月19日
       6月20日 〜 6月30日
       7月01日 〜 7月10日
       7月11日 〜 7月19日
       7月20日 〜 8月01日
       8月02日 〜 8月12日
       8月13日 〜 8月23日
       8月24日 〜 9月02日
       9月03日 〜 9月20日
       9月21日 〜 10月04日
       10月05日 〜 10月13日
       10月14日 〜 10月21日
       10月22日 〜 11月05日
       11月06日 〜 11月19日
       11月20日 〜 12月02日
       12月03日 〜 12月12日
       12月13日 〜 12月24日
       12月25日 〜 1月01日
    2003 年
       1月02日 〜 1月13日
       1月14日 〜 1月24日
       1月25日 〜 1月31日
       2月02日 〜 2月11日
       2月12日 〜 2月22日
       2月23日 〜 3月07日
       3月08日 〜 3月16日
       3月17日 〜 3月25日
       3月26日 〜 4月06日
       4月07日 〜 4月14日
       4月15日 〜 4月24日
       4月25日 〜 5月10日
         5月11日 〜 8月11日

   のページで 》



● ニュースと感想  (5月11日)

 【 用語の変更 】
 「ユニバーサル・モデル」という用語を、今後は、次のように改めます。

     「ユニバーサル・モデル」
         ↓
     「トリオ・モデル」

 ( ※ 用語変更の理由は、第1に、「トリオモデル」という用語は、すでに他の分野で使われている用語であり、混乱を招きやすいということ。)
 ( ※ 用語変更の理由は、第2に、「ユニバーサル」というのは、もともと実態をうまく示していないということ。三本の線を使うのが基本なのだから、「トリオ」という用語の方が適切だと思える。)
 ( ※ 既存の文書は、当面、現状の用語を保持しますが、将来的には、全箇所を変更します。)
 【 後日 注記 】
 すでに全文書において、変更済みです。


● ニュースと感想  (5月11日b)

 【 完結 通知 】
 長らく続いた「小泉の波立ち」も、これで、一応、完結しました。
 明日以降、更新はありません。

 なお、十日間ほどの休みが続いたあとで、新たな論考「秩序理論」を一挙に掲載します。
 ( ※ 掲載予定日は、5月20日ごろ。まったく未定です。)

 その後は、補充的に、ときどきページをメンテナンスすることがあるかもしれません。

 【 弁解 】
 次回の予定が大幅に遅れて、申し訳ありません。原稿はできているのですが、現在、非常に多忙につき、原稿のファイル化などに時間がかかります。

 【 予告 】
 なんでそんなに多忙なのかといえば、(経済学でない)書籍用の原稿をまとめるのに手間取っているからです。
 この書籍は、「新たな知」という意味で、非常に感動的になります。これまでの原稿は無料公開でしたが、今度の書籍は莫大な金を払っても購入する価値のあるものです。私だったら、「必要な生活費以外の全額を払っても、惜しくはない。他のすべてを捨てても、これだけは知りたい」という感じ。そして、読後は、圧倒的な感動につつまれることを約束できます。私自身、読み返しながら、深い感動を味わいました。
 内容のあらましは、刊行の決定後に、告知します。

 【 他の予告 】
 これまでに述べた経済学の話についても、書籍として刊行する予定です。
 これまでの話は、断片的な内容だったので、体系化した上で、刊行します。ただし、こちらの執筆はまだなので、予定日などは告知できません。まだまだ、何カ月か先の話になりそうです。
 ともあれ、こちらも、書籍の刊行が決まったら、このページでも告知します。

 【 お詫び 】
 これまで、誤字・誤変換が、結構たくさんあって、済みませんでした。推敲不足のせいですが、時間がないゆえ、やむを得ない面もありました。それでも、失礼でしたので、最後にお詫びいたします。


● ニュースと感想  (5月15日)

 【 告知 】

 (1) この文書の冒頭に、「更新日付」を入れます。

 (2) 新しい理論を公開すると予告しましたが、20日ごろの予定が、大幅に遅れて、月末ぐらいになりそうです。(多忙なので。すみません。)

 (3) ニュースと感想。「セザンヌの名画」について。
 セザンヌの自画像が、オークションで 20億円で落札された。これは 1937年以降、行方不明だったもの。01年まで、出光興産が所蔵していた。(朝日・朝刊・文化総合面 2003-05-15 )
 感想。
 人類の宝となる傑作をずっと隠していたわけだ。おまけに、ずっと日本にあったのに、もはや米国に渡って、ついに日本国民の目には触れなかった。ひどい話だ。ほとんど犯罪に近い。
 そこで、提案。こういう例はまだあるはずなので、再発を防ぎたい。
 第1に、未公開品を公開するシステムを用意する。担当は、保険会社が好ましい。各種保険料と保管料をタダにして、おまけに一定の料金を払ってあげる。かわりに、保険会社が自由に作品を公開する。保険会社は、美術展などに貸与して、貸与先から料金を受け取る。受け取る料金と、払う料金との差額が、利益となる。
 第2に、盗難品の返納リスクも保険会社が担当する。「盗難品と判明したら、盗難元に無償で返却する」という半強制的な慣習がある。つまり、「盗難品と判明したら、巨額の財産がパアになる」わけだ。これでは、怖くて、公開したがらない。そのリスクも、保険会社が負えばよい。
 それにしても、セザンヌの名画! 私は生きているうちに見られるだろうか?


● ニュースと感想  (5月18日)

 時事的な話題。「IT振興」について。
 「ITで大成功」という実業家の新聞記事が出ている。いつもは大企業の社長ばかりにインタビューしているのだが、今回は街中のベンチャーの社長の例だ。大変良い記事である。(朝日新聞週末特集「Be」の青版。2003-05-17 )
 化粧品の口コミ掲示板を作成して、データを集積し、それを化粧品会社に売りつける、という商売。大成功して、数億円の売上げを出すようになり、この先、どんどん儲かるようになるらしい。IT産業の大成功の典型らしい。
 ただし、である。これほどの大成功でも、年収は、夫婦で 1000万円。それも、メチャクチャに神経をすり減らして働いた結果だ。最初のころは、無給どころか、マイナス給であったようだ。つまり、手持ちの財産を社員に渡す。現金がないので、現物供与までする。あとちょっとで自己破産、というところだったが、ITバブルなどの影響で、うまくベンチャーが資金を出してくれたので、かろうじて倒産を免れた、とのこと。そして、ようやく、このたび軌道に乗ったらしい。
 新聞記事に載るほどの大成功の例でも、これほど厳しいのだ、とわかる。つまりは、ちょっとしたアイデアと運と努力があっても、ITでビジネスをするのは、非常に厳しい、ということだ。
 簡単に言えば、こうだ。「ITで金儲けをしてやろう」と思っている人は、非常に多い。そういうなかで、ちょっとしたアイデアがあるぐらいでは、なかなか大儲けはできないのである。ITで大儲けができるとしたら、条件がある。私見では、以下の二つの、いずれかだ。
 第1は、IT勃興の時期に、他人に先んじて、市場に参入することだ。アップルにせよ、マイクロソフトにせよ、(ゲームソフトの)エニックスにせよ、まだ市場が萌芽状態のころから、参入した。だからこそ、市場の急拡大に乗って、自社も急拡大した。インターネットで言えば、Yahoo,楽天などが当てはまるだろう。一方、もはやインターネットが急拡大したあとでは、ITに参入しても、上記の例のように、儲かるのは非常に困難だ。私だったら、こんな苦労をして、人生を賭けるよりは、のんびりサラリーマンでもしていた方がずっといい。サラリーマンなら、最低限の収入はある。また、人の二倍を稼いだからといって、二倍幸せになるわけではない。むしろ、時間を奪われるだけ、不幸になりそうだ。「金を得るが、知性を喪失」なんてのは、私の好みではない。
 第2は、自分で市場を作り上げることだ。つまり、独自技術を開発することだ。これは、ただのアイデアだけでは済まず、独自のヒラメキや知性が必要となる。私の近親者の例を挙げよう。「カセットへの録音業務」という産業はもともとあったが、MDへの録音は困難なので、技術的に今問題をクリアして、「MDへの録音業務」ということを仕事にする会社を興した。資金は割と少なくて済み、ベンチャーキャピタルには頼らず、自分の貯金だけで済んだ。市場をほぼ独占しているので、利益率は非常に高く、初年度から、大幅な黒字である。……ここでのポイントは、「誰もがやりそうなことをやって、競争の嵐に飛び込む」ではなくて、「ニッチを開拓して、市場をほぼ独占」である。そのためには、「独自技術の開発」がカナメとなった。

 教訓。
 「アイデアだけで一攫千金」なんてことを望む人が非常に多いが、世の中、そんなに甘くはない。競争者のたくさんいる状況で、大成功を収めるのは、非常に困難だ。
 逆に言えば、「IT振興で景気回復」なんてことをとなる「構造改革主義者」なんてのは、ただのホラ吹きである。騙されて、気軽に市場に参入すると、痛い目に遭うだろう。


● ニュースと感想  (5月18日b)

 時事的な話題。「オフィス過剰問題」について。
2003年のオフィス過剰問題のあとで、2010年にもオフィス過剰問題が再発するらしい。理由は、団塊の世代が急速に退職して、労働者数が急減するため。( 2003-05-18 )
 これは、少子化問題の一つである。解決法も同じで、「女性・高齢者の雇用を増やすこと」だ。今みたいに男性ばかりが1日に 14時間ぐらい働いているから、あらゆる面に歪みが出る。長時間労働、失業者、女性の就職困難、GDP縮小など、あれこれと問題が出る。
 解決法はあるのに、放置するから、こうなる。「問題が起こるから大変だ」という記事の趣旨は間違い。「問題を放置するから大変だ」と書くべき。悪いのは、世界ではなくて、人間の頭である。


● ニュースと感想  (5月19日)

 時事的な話題。「りそな国営化」および「金融危機」について。
 りそなが経営危機を起こして、事実上の国有化となった。この「銀行の国営化」の意味を、整理しておこう。
 第1に、銀行の国営化は、原則としてするべきではない。
 第2に、銀行が正常経営をできなくなったら、倒産よりは、国営化を選ぶべきだ。

 この二点を混同しないように注意しよう。実質倒産した銀行について「国営化は絶対にいけない」とは言えないし、また、正常な銀行については、「国営化するべきだ」とは言えない。

 ところが、この二点を逆に主張している意見もある。朝日がそうだ。次のような意見を取る。
 「ペイオフを実現するべきだ。つまり、経営悪化した企業は、市場から退場させるべきだ。政府による保護など、もってのほかだ。そんなことをすれば、モラルが荒廃する。厳しい態度を取れば、銀行経営はまともになる。ゆえに、ダメな銀行に、手を差し伸べてはならない。」
 「正常な銀行には、予防的に、国営資金を投入せよ。そうすれば、金融システムへの信頼が増す。」

 まったく、メチャクチャの極みである。この二つは、明らかに矛盾するが、最近は、後者の意見ばかり主張して、ちょっと前まで「ペイオフ実施!」と主張していたのを、すっかり忘れてしまったようだ。健忘症。

 朝日の社説(2003-05-18)を見よう。ここには、典型的な論理矛盾がある。
 「銀行は危ないという不安のために、家計は預金を減らして預金に自宅に残し、企業も銀行の借り入れを減らして手元の現金を増やそうとする。その結果、景気が悪化する」
 これぞ論理矛盾だ。まず、「銀行は危ないという不安」があるとしよう。ならば、家計はどうするか? その金を、安全な銀行か、郵貯か、タンス預金か、そのいずれかにするだろう。それが正解だ。つまり、「預金先を移転する」というのが正解だ。そして、その意味は、「消費を減らす」ではない。
 朝日は「タンス預金が増える」と主張している。なるほど、タンス預金も増える。しかし、タンス預金が増えるとき、減るのは、銀行の預金だ。消費が減るわけではない。朝日の論理は、最初は「銀行預金減 = タンス預金増」であり、次は、「タンス預金増 = 消費減」である。そして、この等式をつないで、「銀行預金減 = 消費減」と定式化している。なるほど、面白い論理だ。「赤=青」かつ「青=黄」で、ゆえに「赤=青」、という論法だ。狂人の論理とは、このことだ。
 では、正しくは? 「金融危機だから、消費を減らす」ではない。「所得減少と、将来の所得減少の不安から、消費を減らす」だ。

 朝日の翌日の経済記事(2003-05-19)を見ると、そのことがよくわかる。記事の内容は、「貯蓄率が急低下している」だ。1985年ごろに 18%ほどあったのをピークに、その後、一貫して低下して、96年から98年にかけて一時的に持ち直したあと、2000年からは断崖から落ちるかのごとく急低下している。
 その原因は何か? 90年までは、所得の上昇があったから、単に「貯蓄低下・消費増」だ。これは、「消費過剰のバブル景気」を意味する。過剰消費だから、その後、消費を減らさなくてはならなかった。そして、そのことで、90年以降に景気が冷えると、今度は所得低下のせいで、貯蓄率が低下してしまった。ここ2年ほどは、その「所得低下」が急激であったことを意味する。
 さて。このデータは、何を意味するか? 近年は、まさしく「所得低下があった」ということであり、「貯蓄の増加」などはなかった、ということだ。朝日は前日の社説で、「貯蓄が多すぎるから景気が悪いのだ」と主張していたが、そんなことはまったくないのだ。社説の愚かさを、翌日さっそく、現実のデータで否定するとは、朝日もなかなか大したものだ。(自社の社説をコケにするというのは、なかなかできるものではない。意図してやっているのであれば、表彰してあげたくなる。)

 なお、悪口の対象は、朝日だけではない。「デフレは貨幣的な現象だ」などと主張しているマネタリストも同罪だ。「金は余っているのだから、金を使わせればいい」という愚かな主張だ。違う。正解は、「金は余っている」ではない。「金融市場には金は余っているが、国民の財布には金はない」というのが正解だ。だからこそ、デフレの解決には、貨幣的な政策は無効であり、所得的な政策だけが有効なのだ。貨幣政策も財政政策も無効であり、所得政策だけが有効なのだ。
 このことから、景気回復の時期を、予想できる。景気回復の時期は、「所得政策だけが有効だ」と政府が気づいたときだ。その時期が明日であれば、明日になる。その時期が十年後であれば、十年後になる。その時期がもっと遅くなれば、……長期的には、われわれはみんな死んでいる。


● ニュースと感想  (5月24日)

 時事的な話題。「個人情報保護」について。

 (1) 問題点
 罰則が不完全だ。「事業者の公開」ぐらいでは、無意味だろう。ゴミ・メールがわんさと届いてくる状況が、この法案でいくらかは解決されるかと期待したこともあるが、罰則なしでは、どうしようもない。ゴミ・メールを送るのは、たいていは個人だから、存在もしない事業者名を公開しても、何の意味もない。
 もう一つ。先日、朝日新聞が北朝鮮帰還者の夫の住所を掲載した。これを「個人情報保護」という観点からとらえた認識はなかった。朝日自体、このことを反省しておらず、単に「配慮が足りなかった」と述べているだけだ。冗談ではない。道徳心が足りなかったという問題ではないのだ。個人情報をないがしろにするという社会的行為が問題なのだ。泥棒や殺人が悪であるのは、道徳心が足りないからではなく、相手に実害を与えるからだ。マスコミはそのことを全然、理解していない。マスコミというのは、犯罪者集団なのである。いや、間違えた。犯罪者は、犯罪を反省するし、処罰もされる。マスコミを犯罪者と呼んだら、犯罪者が怒るだろう。マスコミというのは、悪魔や鬼畜のような集団なのである。(だから自分たちをご都合ばかりを述べ立てて、個人への配慮がまったく欠けている。朝日の一件も、そのことの表れである。)

 (2) 対案
 個人情報を二本立てすることを提案する。
 (a) 「氏名と住所」……この二つだけは、入手を比較的、容易にする。統一のセンターのようなものを作る。ただし報道はしない。つまり、読者に一方的に情報を送りつけるようなことはしない。他者が情報を入手した際、その情報入手の履歴が記録され、それぞれの個人ごとに管理される。小原庄助さんの情報を入手した社があれば、その入手が小原庄助さんに通知される。(ただし、入手者が個人の場合は、年5件ぐらいなら、無記録でもいいかもしれない。微妙。)
 (b) 「国民総背番号」……これは、政府の部門ごとに管理して、管理を厳密にする。流出不可。ただし、個人認証のために、「IDカードとして見る」だけならば可。民間では、顧客台帳に手書きで記録するだけならば、たぶん可。電子化は不可。


● ニュースと感想  (5月24日b)

 【 告知 】

 新しい理論を公開すると予告しましたが、月末ごろの予定が、大幅に遅れて、6月中旬以降になりそうです。(どうにも多忙なので。現在のかかりきりの仕事が、予想を超えて、非常に大規模になったためです。多大な成果が挙がったのはいいのですが、その分、既存の仕事の公開手続きの時期が遅れてします。すみません。……ただし、時期はいくらか遅れますが、私の手元から読者に届けられるものは、予定を超えてすばらしいものになりますから、結局は、喜んでもらえると思います。)

( ※ なお、「待ちきれないぞ」とお思いの方のためには、下記のページを紹介します。
         http://green-forest.hp.infoseek.co.jp/
   生物学の「進化論」のページですが、とても良いサイトなので、紹介しておきます。 )


● ニュースと感想  (5月25日)

 時事的な話題。朝日の新聞記事について。
 また小林慶一郎がデマを流す。いい加減、やめてもらいたいものだ。「これは私の個人的な見解です」と述べるのならともかく、「これぞ経済学の標準。教えてやる」とばかり、偉そうな口調で、堂々とデマを流す。おかげで、私に余計な負担がかかる。困りものだ。

 (1) 「お金を作る」
 銀行の信用創造を「お金を作る」と表現している。比喩だとしても、「いわば」という言葉ぐらいは付けてほしいものだ。銀行は「お金を作る」ことはない。そんなことをするのは「日本銀行」だけだ。銀行はお金を貸すことで、「信用を創造する」のであって、「お金を創造する」のではない。この2点を間違えるようなら、高校の社会科で、ペケ点をもらう。落第生の典型のような答案だ。

 (2) 信頼性への不安
 「資本不足で、銀行経営が不安になり、預金が減る。だから(投資が減って)デフレになる」という説明。この件は、3月18日b の[ 補足1 ]でも、小林慶一郎の同じ主張を、否定しておいた。また、つい先日の 5月19日 でも、朝日の社説を批判した。そちらを参照。
 経済学的な説明はそちらを読んでもらうとして、一方、現実を見ても、彼の説明がおかしいことがわかる。彼の主張が正しいとすれば、われわれは多大なタンス預金をもっていることになる。しかし、そうか? あなたは手元に何百万円も置いているか? まさか。手元に多大な現金を置く阿呆はいない。銀行とは、「お金の保管庫」なのだ。そこに預けるに決まっている。保管料がタダなら、なおさらだ。その際、金利は関係ない。たとえ微小なマイナスの金利でも、預けるはずだ。(泥棒を歓迎する趣味の人は別だが。)
 彼の主張するように、「経営不安だから預金を引き出す」とすれば、その金は、タンス預金ではなくて、健全銀行か郵貯に向かうはずだ。「不健全な銀行がどこかにあるから、健全な銀行から預金を下ろしてタンス預金を増やす」ということは、ありえない。そんなことをするのは、腐ったリンゴとまともなリンゴの区別のつかない阿呆だけだ。
 現実には、「不健全な銀行 → 健全銀行 or 郵貯」という資金の移動は、ほとんど起きていない。では、なぜか? ペイオフ延期のおかげだ。ここが肝心だ。
 だから、正しくは、「ペイオフをやるな」というのが結論である。「(ペイオフをやるために)公共資金を投入せよ」というのは、狂った結論なのだ。論理の倒錯。(彼の主張は、すべてそうだが。)

 (3) 不良債権との関連
 「不良債権処理をしなくてはならない。そのためにはどうしても公的資金の注入が必要だ」と彼は最後に結論している。これも論理が正しくない。
 「A ゆえに B」ではなくて、「A ならば B」だ。つまり「不良債権処理をしなくてはならないから、〜」ではなくて、「不良債権処理をしなくてはならないとすれば、〜」である。そして、この「A」という前件は、真でなく偽である。ゆえに、命題全体が無意味となる。
 正しくは、「不良債権処理をしなくてよい。だから公的資金の注入は不必要だ」である。

 (4) 基本
 そもそも、基本を述べておこう。彼は「デフレの原因は資金が循環しなくなったことだ」と考えている。これは「GDPの縮小は投資の縮小による」と考えていることになる。違う。正しくは、「GDPの縮小は消費の縮小による」だ。そして、だとすれば、預金の縮小はちっとも問題ではない。「預金を減らして消費を増やす」とすればいいからだ。
 そもそも、現実の統計を見るがいい。家計の貯蓄額は、減少しているのだ。この「貯蓄額」には、タンス預金も含まれる。「人々はタンス預金を増やしている」と彼は主張するが、実際には、貯蓄総額が減っているのだ。しかも、消費も減っている。
 とすれば、デフレの原因は、ただ一つ。「総所得の減少」である。これがデフレの本質だ。そして、そのことは、マクロ経済学を理解すればわかる。マクロ経済学とは、「国民所得を分析すること」だ。換言すれば、「GDPを分析すること」だ。なのに、小林は、マネーの量ばかりを分析して、GDPという概念がまったく欠落している。
 この「根源の無視」に原因がある。マクロ経済学とは、一国全体の「貨幣総量」の分析のことである、と思い込んでいる。「総生産」も「総消費」も無視している。そうやって、大新聞上で国民をだましているのだ。デマの流布。

 [ 付記 ]
 この人の話への解説をすると、論理学の解説のようになる。この人は、健全な常識を持たず、机上の論理ばかりをこねくり回すから、現実無視の論理ごっこをやるわけだ。官僚出身者の典型だ。
 「理論は現実から遊離してはならない。理論は現実によって検証されねばならない」── そのことを、彼に勧告しておこう。


● ニュースと感想  (6月10日)

 【 告知 】

 新しい理論を公開すると予告しましたが、さらに大幅に遅れて、7月下旬以降になりそうです。(理由は同じで、現在の研究の方で、どうにも多忙なので。)
 すみません。でも、サボっているわけではなくて、成果は続々と上がっています。現在の研究では、非常に豊かな成果が出ているので、その分、時間を取られて、遅れてしまっているわけです。
 「待たされるほど、果実は大きい」と思って、ご期待ください。


● ニュースと感想  (6月20日)

 「電力危機」と「電力自由化」について。
 夏の電力需要のピークに供給不足を起こして、日本経済がマヒしそうだ、という「電力危機」が予想されている。この問題は、なぜ、解決できないのだろうか? 
 また、「電力自由化」は、なぜ、アメリカにおいて、停電の続出を起こして、経済をマヒさせ、大失敗したのだろうか? 「国鉄民営化」や「電電公社民営化」は成功したのに、「電力自由化」は、どうして成功しなかったのだろうか? 
 一般的に、市場経済に任せれば、需給の調整はうまく行くはずなのに、なぜ、電力では、うまく行かないのだろうか? 
 ── これらの問題に答えよう。その答えは、「電力の問題は、不況の問題と同じである。だから、市場における自由化では、解決がつかない」ということだ。
 
 一般に、「市場に任せれば、需要と供給は、最適の点で決まる」という市場原理が成立する。ただし、そのことには、前提がある。どんな前提か? それは、「需要曲線と供給曲線が変化しない」ということだ。この前提が満たされる限りは、市場原理が成立する。つまり、古典派の主張するとおり、「自由化によって、状態は最適化する」と言える。
 ところが、それが成立しない場合がある。
 第1は、不況だ。需要が急減すると、下限直線割れを起こすと、均衡点(最適点)に達することができなくなる。(この話は、すでに何度も述べた。)
 第2は、上限均衡点の突破だ。需要が急増するか、供給が急減すると、上限均衡点を突破する。この場合も、均衡点(最適点)に達することができなくなる。
 いずれの場合も、均衡点に達することができなくなる。だから、「放置すれば最適化する」ということは、成立しないわけだ。そして、そうなったのは、需要曲線や供給曲線そのものが変化したからだ。つまり、古典派の発想の前提が成立していないからだ。これは、マクロ的な問題である。
 特に電力の場合について言えば、こうだ。電力危機とは、電力市場において、総需要が急激に上昇した場合である。これは、総需要が変化したわけだから、配分を最適化すればいい、という問題ではない。つまり、「配分の最適化」をめざす「自由化」では、解決がつかない問題なのだ。
 こういうとき、放置すると、どうなるか? 電力会社は、利益の最大化を求める。すなわち、電力危機が起こるときのために莫大な設備投資なんかをしないで、電力危機が起こるに任せる。電力危機が起こっても、損をするのは、需要家であって、電力会社ではない。むしろ、需給が逼迫するから、電力危機が起こる方が、電力会社にとっては得なのだ。うまく行けば、すこぶる高値で、電力を販売できるので、儲かる。国民が以下に大損しようと、自分たちだけは少し儲けることができるわけだ。となれば、電力危機なんかほったらかして、何もしないのが最善である。(電力会社には。)
 実は、「産廃の不法投棄」でも、似たような事情がある。不法投棄して、会社を倒産させる。これで会社役員は大幅な利益を得るが、産廃を残された地元は大損する。ここでも、他人に大損をさせて、自分たちだけが少し儲けることができる。

 結語。
 「放置するのが最善だ」という古典派的な主張は、ミクロ的な「配分問題」については、成立する。しかし、総需要が変動する場合には、成立しない。また、「他人に損をさせても自分が儲ければいい」というふうになる場合にも、成立しない。(つまりは、泥棒的な行為には、「自由がベストだ」ということは成立しない。)
 そして、こういう前提を無視して、やみくもに「自由こそベストだ」などと信じるから、不況やら、電力危機やら、産廃やら、泥棒やらが、はびこるのである。

 [ 付記 ]
 では、どうすればいいか? 
   ・ 不況 → マクロ的に、総需要を調整すればよい。
   ・ 電力 → マクロ的に、総需要を調整すればよい。 ( → 5月10日
   ・ 泥棒 → 刑法による規制。(自由化の正反対。)
   ・ 産廃 → 刑法による規制。(自由化の正反対。)
 最後の二つは、「規制こそ大切」となる。つまり、良いことならば放置してもいいが、悪いことは放置してはならない。こんなことは、子供でもわかるが、古典派は、やたらと「規制緩和」と主張しており、子供でもわかることを理解できない。
 電力にしても、「放置すれば何とかなるさ」なんて考えていると、猛暑が押し寄せたとき、あちこちで停電が起こり、信号がストップして交通事故が発生したり、病院の電力がきれて病人が死んだりする。「コンピュータがストップしたせいで大事故が起こった」ということもありそうだ。
 アルカイーダが発電所を1箇所だけ爆破すれば、「けしからん!」と怒る。しかし、政府の無策のせいで、あちこちで多発的に停電が起こっても、「規制はしないのが好ましい」と主張する。テロリストよりも危険な狂信家が、古典派経済学者なのだ。そして、そういう狂信者が、今は政府の中枢を占めている。
 「北朝鮮のテポドンが怖い」と確度の低い危険に脅えるくせに、「電力がストップする」という確度の高い危険を無視する。マスコミにしても、報道の順序を、間違えている。マスコミにとって大切なのは、日本の運命ではなくて、タマちゃんなのだろう。


● ニュースと感想  (6月21日)

 前日分の続き。「電力危機を解決するにはどうするべきか」について、もう少し補足しておく。
 要するに、マクロ的に電力の総需要が、大きく変動することが問題である。これは、景気変動と同じ問題だ。これに対して、「市場に任せよ」という古典派的な政策は無意味だし、「供給を拡大せよ」というサプライサイドの政策も無意味である。答えはただ一つ、(電力における)「総需要の管理」だけだ。
 ただし、不況の場合とは、方向が反対となる。「需要を増やせ」ではなく、「需要を減らせ」となる。そして、それが根本的な解決策だ。あとは、そのための手段である。
 どんな手段か? それは、いろいろと考えられる。「一時的に料金を過大にする」とか、「夏期料金を設定する」とか、需要抑制の方法は、いろいろと考えられる。そして、方法はどうであれ、「需要抑制こそが大切だ」と理解することが大事だ。換言すれば、需要を減らした社が得をして、需要を減らさない社が損をするシステムが必要だ。
 こういう根本さえ理解しておけば、対処は簡単だ。とはいえ、電力会社は、そのことをちっとも理解しない。「夏期の電力削減にご協力ください」とキャンペーンをしているだけだ。馬鹿げている。こういうのは、「お金をください」というキャンペーンと同じである。他人の善意に頼ろうとするわけで、乞食根性である。それで世の中が済むと考えているところに、経済観念を無視した愚かさが現れている。
 とはいえ、「自分が破産寸前だ」と理解しているだけ、電力会社は、マシかもしれない。そのこともろくに理解しないで、奈落の底に突き進もうとしている政府とマスコミは、頭がイカレているとしか思えない。そのときになってからでは、遅いのだ。死んでから「しまった」と後悔しても、遅いのだ。


● ニュースと感想  (6月21日b)

 「貯蓄の減少」について。
 「1400兆円といわれる個人金融資産が急減して、1400兆円割れ。ずっと上昇基調だった個人金融資産が、とうとう下落しはじめた」という報道。(読売・朝刊・経済特集 2003-06-21 。ネタ元は、日銀の資金循環統計。)
 つまり、「金はあるのに、金を使わないから、不況になるのだ」というマネタリズムの主張が、はっきりとデータで否定されたわけだ。
( ※ では、正解は? もちろん、「総所得の減少」である。それこそがマクロ経済に影響を及ぼす。経済の実態とはGDPであり、帳簿の残高である数字ではないのだ。)


● ニュースと感想  (6月26日)

 「電力危機」について。
 近ごろ、ようやく、マスコミも電力危機について報道するようになった。しかし、まったくの見当違いである。そのことを指摘しておく。
 最近、報道で目立つのは、「電力危機を避けるために、節電しよう」という記事だ。しかし、節電など、まったく意味がない。電力危機というのは、最大電力供給量を、消費量が上回ったときに、起こるものだ。消費量が、最大電力供給量を下回っているときに、いくら節電しても、危機回避の意味はまったくない。むしろ、「気温上昇や照明低下のせいで、生産効率が低下する」ということの方が問題だ。
 たとえば、あなたが、節電しようとして、クーラーを切ったり、照明を切ったりして、ひどい環境で仕事をすれば、生産能率は非常に低下する。ほんのわずかの節電をして、大幅に損をする。愚の骨頂。
 電力危機を回避するために、なすべきことは、節電ではない。猛暑のときに、工場をストップすることだ。つまり、夏休みだ。
 不況で供給過剰のときに、夏休みもろくに取らずに働くのは、愚の骨頂である。欧州では、不況ではないのに、長いバカンスを取る。いや、長いバカンスを取るから、供給が減って、不況にならないのだ。
 新聞は、「節電しましょう」なんていう馬鹿げた報道を、やめるべきだ。むしろ、「自分で自分の首を絞めるのをやめましょう。休むべきときに働くのをやめましょう」と報道するべきだ。
 国民がなすべきことは、二宮尊徳を見習って、ひもじくすることではない。小原庄助を見習って、朝寝、朝湯に、朝酒をやることだ。私みたいにね。


● ニュースと感想  (6月28日)

 「国債暴落」と「スタグフレーション・スパイラル」について。
 国債の大量増発にともなって、将来の国債暴落が懸念されている、との記事があった。(朝日・朝刊・経済面。2003-06-28 )
 この懸念自体は、前から言われていることだ。ただ、記事では、「将来的には、暴落した国債を、日銀に買い支えてほしい」という希望が出ている。
 では、もしそうしたら、どうなるか? それを考えてみよう。
 国債が暴落しているとする。つまり、金利は上昇している。当然、物価も上昇している。(物価が上昇していなければ、現在と同様だから、金利は低いはずだ。) さて。この時点で、国債を買い支える。つまり、買いオペをする。すると、資金がさらに市場に供給されることになる。すると、ますます物価は上昇する。その物価を下げようとすれば、今度は、高金利政策を取ることになる。つまり、売りオペをすることになる。矛盾。かといって、売りオペをしなければ、物価は上昇し、国際はますます下落する。

 結局、その本質は、何か? 
 「国債暴落に対して、国債を買い支える」という金融政策は、その時点では、効果を奏して、国債の暴落を防ぐことができる。しかし、そのとき供給した資金のせいで、じわじわと物価上昇の効果が出て、ますます物価が上昇し、ますます国債が暴落する。だから、国債の買い支えというのは、「一時しのぎの鎮痛剤」にすぎないわけだ。病気の根源を無視して、一時しのぎで表面的な痛みだけをなくそうとする結果、ますます病気が悪化する、というわけだ。そのあげく、どうなるか? 高金利により生産量は縮小し、同時に、物価は急上昇する。つまり、スタグフレーションだ。しかも、その最初の原因は、デフレを脱出したこと(物価が上昇してスタグフレーションになったこと)である。つまり、スタグフレーションになったあと、日銀が「国債の買い支え」をすると、スタグフレーションがますます悪化する。これを、「スタグフレーション・スパイラル」と呼ぼう。

 スタグフレーション・スパイラルは、インフレ・スパイラルや、デフレ・スパイラルとは、根本的に異なる点がある。それは、「日銀の政策によって引き起こされる」という点だ。インフレ・スパイラルや、デフレ・スパイラルは、自然発生するスパイラルだ。それは、修正ケインズモデルにおける「循環的な過程」に従って、マクロ経済的に必然的に発生するスパイラルである。放置すればかからずそうなるから、マクロ的にはそれを抑制することが大切だ。一方、スタグフレーション・スパイラルは、自然発生するスパイラルではない。日銀が余計なことをするから発生するだけだ。放置すれば、発生はしない。つまり、スタグフレーションはスタグフレーションのままであり、スタグフレーション・スパイラルにはならない。

 では、どうすればいいか? その質問に対する回答を与えよう。
 第1に、国債暴落については、放置しておいて構わない。長期国債の市場取引というのは、プロのやるギャンブルなのだから、ギャンブルの損得には国が面倒を見る必要はない。個人投資家は、こんなギャンブル商品を買わなければよい。手堅いところでは、普通預金をすればよい。欲があれば、最近売りに出されている変動金利型の国債を買えばよい。最悪でも、長期国債を買ったあと、途中で換金せずに、最後までもっていればよい。いずれにせよ、損は出ない。たとえば、「年利1%で10年」の国債なら、途中で換金すれば大損だが、最後までもっていれば、最初の契約通り、10年後に元本を返してもらえる。「契約通りなのは、けしからん」と思う個人投資家がいるとしても、頭が狂っているのだから、放置しても構わない。
 第2に、スタグフレーションが発生したあとは、マネタリズム的な手法を捨てることが大切だ。景気をマネーだけで調節しようというマネタリズムの手法には、限界がある。特に、スタグフレーションに対しては無力だ、ということは、歴史的に完全に実証済みだ。デフレから脱出した直後は、物価が上昇し、所得があまり増えないから、スタグフレーションになる。このとき、「金利を上げよう」などと考えると、IMF流の大失敗となる。では、どうすればいいか? 基本としては、「増税」だ。それによってスタグフレーションを解決できる、ということは、すでに何度も述べたとおりだ。ただし、現在の日本に当てはめて言えば、「増税」は、景気回復の芽を摘む。だから、正解は、「何もしないこと」である。それでは、物価上昇が起こって、問題か? いや、物価上昇が起こるのは、当然だし、むしろ、好ましいことなのだ。なぜなら、タンク法の概念によれば、その前の時点で、「大幅な減税」がなされているからだ。「最初に減税で得をして、そのあとで物価上昇で損をする」、つまり、「減税で得をして、物価上昇で損をする」。これなら、差し引きして、損得なしだ。しかも、景気回復を果たすことができる。そのことが、そもそも、タンク法の狙いである。(それがイヤなら、いつまでも物価上昇なしを続けるしかない。つまり、デフレを続けるしかない。)
 第3に、現在の対策としては、量的緩和をしないことが大切だ。そもそも、異常な物価上昇や国債暴落が発生するのは、現時点において過剰な量的緩和をしているからだ。その場合、市場では、過剰な資金が眠る。そして、経済が「不均衡」から「均衡」に変化したときに、その眠っていた資金が、いきなり目覚めて、急激に物価上昇と国債暴落を引き起こす。これが、そもそもの原因だ。だから、過剰な量的緩和をやめれば、そもそもの話、物価上昇も国債暴落も起こらないのだ。すべては杞憂に終わる。だから、一番正しい政策は、現時点において、すぐさま量的緩和をやめることだ。そして、かわりに、減税をすることだ。そうすれば、市場の金利は正常な状態に戻るから、暴落の余地がなくなる。

 まとめ。
 結局、すべての病根は、「マネタリズム」にある。「経済はマネーの調節だけで済む。GDPなんかどうでもいい。経済とは、いかに生産するかではなくて、いかにマネーを操作するかなのだ。生産量なんか無視してしまえ。働くことなんかよりも、マネーを操作することが大切なのだ」という、マネー至上主義。それが、すべての病根なのだ。
(思えば、バブル時代も、こういうマネー至上主義がはびこっていた。マネー至上主義は、バブルを膨張させて日本経済を破壊し、そして今また、日本経済を破壊しようとしている。……経済学とは、経済を健全化するためにあるのではなくて、経済を破壊するためにある妄想宗教なのだ。少なくとも、今日までは、そうだった。)


● ニュースと感想  (7月03日)

 「規制緩和」について。
 規制緩和によって大型トラックの参入を自由化したら、過剰な競争が起こって、事故が続発しているという。(朝日・朝刊・3面 2003-07-03 )
 これは、「規制緩和で経済はバラ色になる」という古典派の主張とは矛盾する。では、本当は、どうなのか? 
 古典派の主張は、たとえば、「超大型トラックへの規制緩和をせよ。そうすれば、余計な制約がなくなり、経済は最適な状態に落ち着くはずだ。現状では、規制のせいで、最適になっていないから、経済が悪化している」というものだ。一見、もっともらしい。
 しかし、そもそも、規制はなんのために存在したのか? 役人が無駄な仕事をつくためにか? まさか。役人や国会議員は、「国民のため」と思って規制を実施したのである。ただ、その規制が、時代錯誤になったりして、現実とのズレが大きくなっている面もある。そこに弊害が生じた。
 だから、正しい対策は、「規制緩和」ないし「規制廃止」ではなくて、「規制改定」であるわけだ。間違った規制は正すべきだが、「廃止してしまえ」というのは行き過ぎだろう。これが現実的な対処だ。

 さて。理論的には、どうなのか? 規制というものは、全廃するべきなのだろうか? あらゆる規制は、経済の自由を阻害するものなのだろうか? 「その通り。だから規制を全廃せよ」と古典派ならば主張するだろう。
 しかし、理論的には、この問題への解答はすでに出ている。経済学の教科書に書いてある。「公共経済学」という章を読めばわかるとおり、「経済活動を完全に自由化すれば、犯罪行為がはびこる」のである。たとえば、公害がそうだ。
 「自己の利益だけを目的にする」ということを至上目的とすれば、公共の利益が失われることがある。その例が、公害だ。実は、「大型トラックの事故続発」というのも、同様である。運送業者が自己の利益だけを狙って過当競争をした結果、それぞれの運送業者は1万円ぐらいの利益を得るが、ときどき、大事故が起こって、億円単位の損害が発生する。しかし、損害が発生しても、その損害を負担するのは、運送業者ではなくて、保険会社である。保険会社はそのツケを契約者に回すから、結局、損をするのは、国民だ。
 つまり、ここでは、「規制緩和」の結果、「各企業は得をするが、国民は大損をする」という結果になっている。「公共の財産を泥棒すると、泥棒をした人は得をするが、国民全体は損をする」となっているわけだ。それが問題であるわけだ。
 この問題を扱うのが、公共経済学だ。なのに、古典派の経済学者は、「公共経済学」という章を全然読んでいないわけだ。そのあげく、「競争が進めば、経済は最適化するはずだ」と勝手に主張している。公共財産への泥棒を奨励しているわけだ。

 結語。
 「規制緩和は正しい」という古典派の主張は、原理的にまったく正しくない。それは公共経済学を無視した、初歩的な間違いだ。昔、同じことを主張した人々が、「公害は正しい。国土を以下に破壊し、国民の健康を以下に破壊しても、経済の発展こそが大事だ」と主張して、やたらと公害を発生させた。今、同じ経済的な宗教を信じている人々が、「規制緩和」を主張しているのである。

 [ 付記 ]
 ついでだが、「構造改革」というのも、この経済的な宗教である。教祖はもちろん、あの人。これを布教して国民を洗脳したのがマスコミ。そのあげく、現状がどうなったかは、周知の通り。……北朝鮮には金正日がいて国民生活を破壊し、日本でも同様な人がいて国民生活を破壊する。どちらがひどいか? 北朝鮮なら、金正日が倒されれば、改善する。日本では、小泉が倒されても、あとに続く古典派が山のようにいるから、改善の見込みはまったくない。古典派が押しのけられるまで、日本はひどい状況が続く。


● ニュースと感想  (7月04日)

 「最近の株高」について。
 最近、株価が上がり、長期金利も上昇している。一方、実体経済は悪化したままだ。このことを、どう理解するべきか? 本質を考えよう。
 株価が上がっている理由は、欧州からの資金流入だ。このことは、新聞にも解説記事が出ている。とはいえ、私なりに、詳しく説明しておこう。
 米国の金利引き下げにともなって、欧州通貨であるユーロが上昇している。つまり、ドル安・ユーロ高だ。一方、日銀は、ドルに対してだけ安定させようとしているから、円もドルに連動して、円安になる。その結果、円安・ユーロ高となる。ここでは、「円安介入をしている」という点が重要だ。この介入は、相当の規模になっている。
 この介入のおかげで、輸出産業は欧州への輸出が好転した。売上げも伸び、利益も増えた。それを見て、株式市場でも、輸出産業を中心に株価が上がった。とはいえ、株式市場には、輸入産業もあるから、差し引きすれば、円安の効果はあまり大きくない。
 肝心なのは、欧州からの資金流入だ。円安にともなって、欧州から資金が流入して、日本の株を買う。なぜか? 株高を期待している、という意味もあるが、大事なのは、為替差益だ。円が安いときに日本の株を買い、あとで円が高くなってから日本の株を売る。株を100円で買って100円で売ったとしても、円とユーロのレートが異なるから、手取りのユーロの額を見ると、利益が出る。つまり、為替差益が出る。これが狙いだ。

 さて。欧州は、こうして、濡れ手で粟で、為替差益を得る。一方、これを日本の側から見ると、どうなるか? 
 今は「円安にせよ」という円安論者の主張に従って、日銀がせっせと円安介入している。円が資金流出している。そのせいで、たしかに円安になっているが、一方、欧州の業者は、馬鹿な日銀をせせら笑って、反対介入しているわけだ。その分、日銀の円安介入効果は弱まるが、それでもけっこう効果が残るから、円安になっている。
 そして、将来、この無謀な介入が消えたとき、円安は修正される。そのとき、欧州の業者は、濡れ手で粟で、莫大な為替差益を得る。株価がまだ上がっているうちに売るから、株の投資利益も得るが、もともと、それにはあまり期待していない。とにかく、為替差益を得る。そして、欧州の業者が為替差益を得た分、日銀が為替差損をこうむる。
 その損失は、誰が負担するか? もちろん、日本国民だ。形としては、物価上昇という形で負担する。
 企業はどうか? 円安のおかげで、多くの輸出ができて、ホクホクだ。しかも、ろくに賃上げをしないから、経営も黒字になる。企業の稼働率も、輸出のおかげで向上するから、失業者も減る。つまり、「企業業績の向上と、失業の減少」が起こる。これはまさしく、円安論者の主張の通りだ。
 しかし、このとき、物価上昇によって、国民には多大な損失が発生するのだ。国民は、輸出できる分、一生懸命働くが、物価上昇のせいで、実質所得が向上しない。つまり、「失業の解消」というのは、「タダ働き」をすることなのだ。(奴隷になるようなものだ。)
 では、国民がタダ働きでこうむった損失は、どこへ行くか? それは、欧州の業者だ。彼らは、日銀に対して反対介入をしたおかげで、莫大な為替差益を得る。彼らは「不労所得」を得たことになる。
 そして、日本の国民が「タダ働き」でこうむった損失と、欧州の業者が「不労所得」で得た利益とは、うまくトントンになるのだ。金は天からは降ってこない。誰かが金を失えば、誰かが金を得る。日本が金をどんどん捨てれば、欧州が金をどんどん拾う。それが、今の「株高」という状況だ。
 この状況を見て、「ほう、それじゃ株を買おう」と思って、提灯買いをする連中が出てくるだろう。彼らが株を買って、株価が上がる。景気も少し上向く。物価も上昇する。そこで日銀は、「物価安定のため」と称して、円安介入をやめる。そのとき、欧州の業者は、手じまいする。株を高値で売り、円高状況で円をユーロに替える。投資利益と、為替利益を得る。このとき、日本人は、株価と円レートの変動に、大あわてする。株は暴落し、円安終止にともなって輸出企業の業績も悪化する。あとに残るのは、物価上昇だけだ。このとき、国民の所得は増えないから、物価上昇の分だけ、損をしていることになる。デフレから、スタグフレーションに変わったわけだ。状況は非常に悪化する。そして、日本が大損した分、欧州の業者は得をしたわけだ。
 結局、日本は欧州の奴隷となって、金を貢いだわけだ。円安というのは、もともと、そういう制度だからだ。経済においては、通貨は、一定の状況で均衡する。なのに、無理に通貨安にするというのは、その国の富を奪い、その国を植民地化する、というのと同然である。だから、欧州が日本を植民地にしたら、日本の通貨レートを下げて、日本人をこき使うだろう。それと同じことを、今は、日銀がやっている。だから、日本は、自らはタダ働きして、欧州に不労所得を与えることになるわけだ。

 [ 付記 ]
 これが本質だ。つまり、株価とか長期金利とかは、あくまで、経済の指標にすぎない。
 一番の本質は、ここでは、貨幣にある。その貨幣は、閉鎖経済ではなくて、開放経済で考察するべきものだ。「開放経済において、強引な介入をすると、国家間で富の移転が起こる」── これが大切だ。
 なお、この「富の移転」を無視すると、「日本は円安にしても、富の損失がない」ということになる。そして、「労働量が増えるから、所得も増えるはずだ」と思い込む。つまり、「開放経済を閉鎖経済だと仮定すれば、円安によって所得が増える」ということになる。つまり、間違った命題を仮定して、間違った結論を出しているわけだ。それが、円安論者の主張だ。

 [ 補足 ]
 「じゃ、どうすればいいか?」という疑問が起こるだろう。それに、答えておこう。
 実は、何もしなければいいのである。つまり、開放経済における介入など、やめればよい。円安介入など、やめればよい。そうすれば、たちまち、もとの状況に戻る。株価は下がり、長期金利も下がる。
 「株価が下がると困る」と思うかもしれないが、強引な貨幣政策のせいで株価を上げるというのは、バブルの発想そのものだ。強引な介入をやればやるほど、あとで破裂したときの被害が大きくなるだけだ。
 要するに、実体経済そのものを改善しないで、株価や国債価格だけを調整しよう、というのが、根元的に間違っている。大切なのは、実体経済そのものを改善することだ。経済の指標は、体温計の数値である。そんなものをいくら改善しても、病気そのものの治療にはならない。


● ニュースと感想  (7月08日)

 「最近の長期金利上昇」について。
 長期金利が上昇している。この件については、6月28日の箇所でも述べたが、少し補足しておこう。
 長期金利の上昇というと、「景気に悪影響がある」という懸念が新聞などに出る。しかし、景気への悪影響など、たいしてないのだ。
 長期金利とは、何か? 長期的な投資の利率のことではない。長期的なギャンブルの利率のことだ。ここを勘違いしてはならない。
 投資というものは、そもそも、変動金利のもとで実施するのが基本である。換言すれば、短期金利の継続だ。景気の悪いときには、低金利となる。景気の良いときには、物価が上昇して、高金利になるが、同時に、企業収益も向上している。これだと、不況のときには金利が減免されて損失が減って、好況のときには金利負担が増えるが利益も拡大する。……だから、リスクは最小となる。
 一方、変動金利でなく、固定金利にすると、リスクは非常に大きくなる。不況のときにも固定金利のせいで大損するし、好況のときには固定金利のおかげで大儲けだ。見通しが当たるか、はずれるかで、大きく異なる。はずれれば、大損だが、当たれば、大儲けだ。見通ししだいで、大きく損得が異なる。……これは、ギャンブルである。
 だから、固定金利で投資を実施するような企業経営者は、会社の金を使って、ものすごいギャンブルをやっていることになる。投資というものは、本来、固定金利とは関係がない。つまり、長期金利が上がろうが下がろうが、投資には関係がないのだ。投資に関係があるのは、短期金利だけだ。(せいぜい、3〜4年ぐらいの中期金利までだ。)

 では、マクロ的には、どうすればいいか? 
 経済学者ならば、長期金利の変動など、まるきり無視すればいい。そんなものは、実体経済には関係なく、投資市場のギャンブルの動向でしかないからだ。ギャンブルの動向が、実体経済に、いくらか影響はあるとしても、非本質的である。
 政府ならば、長期国債なんてものは、発行しないのがベストだ。長期国債を発行してもいいのは、景気が安定していることが予想される場合だけである。現状は不況であるから、「不況がこの先も十年ぐらい続く」ということが、予測される場合だけだ。
 しかし、その予測が当たるとしたら、まさしく悲惨である。その予測が当たることは、あってはならないのだ。何としても、その予測がはずれるように、努力しなくてはならないのだ。

 結局、不況のときに政府が長期国債を発行するというのは、自己矛盾である。一方では、不況の解決に努力し、一方では、不況の不解決を前提として国債を発行する。頭が狂気錯乱しているのでない限り、こんな矛盾した政策を実行するべきではない。(つまり、長期国債の発行をやめて、中短期の国債だけを発行すればよい。)
 そしてまた、「長期金利が上がった、下がった」と騒ぐマスコミは、「政府が狂気錯乱している」ことを前提として議論しているわけだから、これもまた狂気錯乱している。マスコミは、長期金利について騒ぐよりは、政府が長期的に狂気錯乱していることについて騒ぐべきなのだ。騒ぐ対象を間違えている。だからこそ、多くの人々は、不況のどん底のときに、「長期金利が上がった、株が上がった、これで景気回復の芽が出た」などと、とんでもない勘違いをしているのである。

 [ 付記 ]
 最近の株高について、言及しておこう。
 「株が上がると、景気が回復する」のではない。「景気が回復すると、株が上がる」のである。景気が回復しないまま、株だけが上がる現象は、「バブル」である。バブルが膨らめば、いつかは破裂する。これは、かつて、過剰な量的緩和にともなって発生したのと、同様のことだ。
 かつては、日銀の量的緩和にともなって、株価が異常に上昇した。現在は、海外資金の流入で、株価が異常に上昇している。いずれの場合も、流れ込んだマネーは、いつかは引っ込められる。そのとき、バブルは破裂する。
 最近、株価が上がっていることは、「景気回復の芽が出たこと」を意味するのではない。「実体経済が拡大しないまま、ミニバブルが発生したこと」を意味しており、将来的には、「バブルが破裂して、株価がひどく下落する」ことを意味する。実体経済が悪いまま株価が上昇することは、喜ぶべきことではなくて、憂慮するべきことなのだ。
( ※ ただし、私がそう述べても、現在の主流であるマネタリストたちには、なかなか理解してもらえない。彼らにとって大切なのは、あくまで、名目的なマネーだけであって、実体経済がどうなるかはほとんど考慮の外なのだ。彼らにとって関心があるのは、マネーサプライだけであり、GDPではないのだ。というか、「マネーサプライが増えればGDPも増える」と、まったく根拠なしに、デタラメな空論を信じているのだ。一種の経済宗教である。)


● ニュースと感想  (7月17日)

 【 告知 】

 新しい理論を公開すると予告しましたが、さらに大幅に遅れて、8月下旬以降になりそうです。(理由は同じで、どうにも多忙なので。)
 すみません。でも、現在の研究も、肝心なところは完成したので、次回の告知では、非常に重要なことを告知できるはずです。

 人類にとって未解明の科学的な分野は、三つあります。
 一つは、量子力学。ただし、これは、特に問題なし。少しずつ進展している。
 一つは、経済学。これは、問題がある。従来の学説は、まったくのデタラメであり、そのデタラメさは、経済学者も自覚していた。
 そして、残る一つは? 従来の学説は、まったくのデタラメであって、学者もそのことを自覚している、という分野が、もう一つある。その分野の話。
(ヒント → 5月24日b


● ニュースと感想  (7月17日b)

 「電力危機」について。
 この夏の電力危機は、一応、回避される見込みだという。原発が稼働したため。
 それにしても、今のところ、涼しい夏ですね。こちらの方の影響もありそうだ。天の恵みか。
 さて。実は、電力危機は、地域的な問題にすぎない。関東地方だけに電力不足の危機があり、他の地域は余力がある。そこで、「他の地域の電力を関東地方にもってくる」という方法があるが、いかんせん、困難だ。というのは、西日本の60Hzの電気を50Hzに変換する変電所を作るには、発電所を作るのと同じぐらいのコストがかかるからだ。
 そこで、電力危機の回避のために、一案を示しておこう。「揚水発電所の活用」だ。西日本の揚水発電所で、水を60Hzで揚水して、そのあと50Hzで発電して、東日本に送る。これだと、変電所を作る必要がない。揚水発電所を作る必要はあるが、どっちみち、揚水発電所を作ることはあるのだから、その周波数を60Hzでなく、50Hzにするわけだ。
 この方法は、「揚水発電所と変電所を両方作る」というかわりに、「新タイプの揚水発電所だけを作る」という形になる。だから、コストがゼロというわけではないが、既存の方法よりは、コストを削減する効果がある。コスト半減とまでは行かないが、無駄を減らせる。
 実現性がどこまであるかはともかく、一考に値するだろう。
 教訓。努力が必要なときは、汗をかくより、頭を使おう。
( ※ 参考記事 → 2003-07-17 朝日新聞・朝刊・特集記事 )


● ニュースと感想  (7月17日c)

 「サマータイム」について。
 夏になると、「サマータイムを」という意見がよく出る。「節電のためになる」という意見もあるし、「余暇の時間を楽しめて、景気回復になる」という意見もある。「サマータイムで景気回復」というのは、ほとんど、「風が吹けば桶屋が儲かる」という感じだが。
 さて。欧州ではサマータイムが実施されて、好評を博しているが、その理由は、次の本を読むと、よくわかる。
 「イギリスは愉快だ」(林望・著。文春文庫。箇所は「四季」の章。)
 簡単にまとめれば、こうなる。欧州でサマータイムが歓迎されるのは、高緯度の地域である。といっても、南欧のスペインでさえ、日本の北海道と同じぐらいであるから、欧州の全域が高緯度と言ってもいい。こういう地域では、冬は日が短く、夏は日が長い。イギリスでいえば、4時には日没となり、それ以後は長い暗闇が続く。そういうふうに暗黒の冬が続くと、光というものが待ち遠しくなる。やがて、春になり、日が長くなる。そして、夏には、日がとても長くなる。しかも、夏といっても、日本の夏のように熱帯のようになるわけではない。非常に過ごしやすい時期なのだ。一年のうちで最も過ごしやすい時期である。
 直感的にいえば、欧州の夏は、日本の初夏に当たる。五月の初旬を思い浮かべよう。それまでは寒かったり、春らしくなったりしたあとで、五月の初旬になると、光があふれ、万物が活気づく。光は多くなり、日が長くなる。しかも、汗ばむほど暑くはない。とても過ごしやすい時期だ。
 日本の初夏は短い。まもなく、五月の下旬になると汗ばむようになり、そのあとはジメジメした梅雨となり、そのあとは熱帯並みの暑苦しい日々が続く。しかし、欧州では、そうではない。欧州の夏とは、いわば、「永遠の初夏」なのだ。欧州の「サマー」は、日本の「夏」ではないのだ。
 ここを誤解してはならない。欧州の「サマータイム」を日本に導入して、「夏時間」を実施しても、そこでもたらされるものは、まったく別のものである。欧州の「サマータイム」とは、「最も過ごしやすい時期において、光にあふれるパラダイスのような時間帯を過ごすこと」である。日本の「夏時間」とは、「最も暑苦しい時期において、その暑苦しさの地獄に苦しむ時間を増やすこと」である。パラダイスと地獄。意味が正反対だ。
 日本で、夏において最も過ごしやすい時期は、夜である。ようやく暑苦しさから逃れて、一息つく。昔ならば、縁側で夕涼みをしたものだ。ところが、夏時間を実施すると、その幸福な時間帯が奪われる。涼しくなる時間帯にも、いつまでも暑さが残る。深夜になって、ようやく涼しくなるはずなのに、夏時間のせいで、いつまでも暑さが続き、なかなか寝付かれない。仕方なく、クーラーをかける。かくて、電力需要が急増する。その排熱で都市はますます暑くなり、ますますクーラーが唸りを上げる。無駄の極致。
 だから、仮に「夏時間」を実施するのであれば、日本では、むしろ、逆方向にした方がいい。一日の開始を早めるのではなく、一日の開始を遅らせる。普通ならば八時に出社するべきところを、九時か十時に出社するように、1時間か2時間ぐらい遅らせる。そして、夜になって帰宅したら、涼しい夜を楽しむのである。ビールと枝豆とナイターというのが典型だ。(一方、夜が暑苦しければ、クーラーをガンガン効かせるしかない。こうなると、冷たいビールもうまくない。無念。)
 欧州のサマーにおいては、幸福なのは光のある時間帯である。日本の夏においては、幸福なのは光のない時間帯である。夜を増やせば、照明コストは増えるが、冷房コストは減る。だから、欧州ふうの「サマータイム」は歓迎できないが、逆方向にずらした「夏時間」であれば、歓迎できるだろう。
 朝が遅くなれば、朝寝と朝湯ができて、幸福になれる。ね? 皆さんも、そう思うでしょ?
( ※ サマータイムについては、前にも述べた。 → 2002年6月28日b


● ニュースと感想  (7月17日d)

 「入学金返還」について。
 大学への合格辞退者には、入学金を返還しなくてよい、という判決が下った。これは、重大な意味があるので、喚起しておく。
 そもそも、こうしても、受験生としては、何の得もない。「金を返してもらえる」と喜ぶかもしれないが、その分、大学は損する。その赤字を埋めなければ、大学は倒産する。だから、大学は、入学金を上げる。つまり、辞退した大学で200万円を返してもらっても、入学する大学では200万円余計に払わされる。受験生としては、何の得もない。
 問題は、それにともなう混乱だ。「消費者保護」というのが判決の理由だが、これは、法の趣旨を取り違えている。入学金というのは、「品物を購入する代金」ではなくて、「定員内の席を予約する代金」である。品物ならば、誰かが解約しても、誰かがかわりに購入できる。しかし、定員のある席は、誰かが解約しても、誰かがかわりに購入することはできない。
 仮に、この判決が定着したら、定員のある商品は、軒並み、大変なことになる。たとえば、航空機の席とか、映画の席とか、野球場の席とかは、定員がある。これらも、大学の定員と同様だ。仮に、「キャンセルしたら、全額返してもらえる」となったら、ダフ屋がすべてを買い占めるだろう。現在、ダフ屋がこれらを買い占めないのは、キャンセルすればキャンセル料を取られて、全額を返還してもらえることがないからだ。なのに、全額を返還してもらえるとしたら、定員のある商品は、すべてダフ屋に買い占められる。ダフ行為は法律上は犯罪だが、実際にはチケット屋が合法的に存在しているわけだから、もちろん、チケット屋が、これらの席を買い占めることになるわけだ。仮に、それを取り締まっても、個人的に買い占める人が出てくるだろうし、彼らがチケットをインターネット上で販売するだろう。何十万人もの人々がそんなことをやり出したら、警察はとても取り締まれない。(著作権違反の犯罪者を取り締まれないのと同様だ。)
 すると、どうなるか? 当然、航空機の席とか、映画の席とか、野球場の席とかは、ダフ屋に買い占められるから、普通の人々は、定価でこれらを買うことはできない。買いたければ、定価の何倍もの金を払う必要がある。払える人だけが払って、ダフ屋は大儲けだ。一方、席の大半は、ほとんどが空席のままだ。しかし、空席は、今度の判決のおかげで、ちゃんと全額を返還してもらえるから、ダフ屋は少しも損をしない。
 結局、席の売り手である興行主も、席の買い手である客も、どちらも大損をする。ダフ屋だけが大儲けする。正常な経済は回らなくなり、アングラ経済だけが回るようになる。
 経済の原則というものを理解せず、法律だけを振り回すと、こういうふうに国家経済を破壊することになる。
 あなただって、他人事ではない。そのうち、「新入社員を雇用する」と約束して、大量に雇用を約束したあとで、そのすべてをキャンセルする、という企業が続出するかもしれない。たとえば、あなたを「年収2000万円でヘッドハンティングする」という約束で、前の会社を退職させる。そのあとで、勝手に約束をキャンセルする。あなたは路頭に迷う。そこで、「じゃ、年収200万円で雇用してやる」と言い出す。
 今回の判決の趣旨は、それと同じだ。「約束なんか破ったっていいんだ」ということを、おおっぴらに認めるからだ。「約束を破る」ということを、「社会の約束」としての法律が認めるわけだ。ほとんど自己矛盾である。

 古典派の経済学者は、国家経済を破壊するのが仕事である。
 裁判所の裁判官は、法的秩序を破壊するのが仕事である。


● ニュースと感想  (7月17日e)

 「株価上昇」について。
 最近、株価が上がっている。これについての見通しは、どうか? 簡単だ。2000年ごろの株価上昇の再現だ、と思えばよい。
 当時も、景気はマイナス状態ではあったが、マイナスの度合いが弱まってきた。ほとんどプラスになる寸前まで行った。日銀などは、ゼロ金利を解除したほどだ。かくて、株価は、急上昇していった。とはいえ、最終的には、株価はふたたび下がった。
 なぜか? 株価だけは、海外資金の流入などで、急上昇していったが、実体経済そのものは、「わずかに回復」という程度にすぎなかったからだ。そして、ここが肝心なのだが、経済は基本的には「不均衡」のままだったのである。いったん「均衡」を回復すれば、経済は正常化する。しかし、「不均衡」のままであれば、いくら「不均衡」の度合いが減ったとしても、しょせんは、景気は正常化しないのだ。
 2000年の株価急上昇は、しょせんは、ミニバブルにすぎなかった。実体経済が「不均衡」のまま株価だけが上昇しても、そのバブルはやがては破裂するしかない。株価が真に上昇過程に乗るには、実体経済が「均衡」を取り戻すことが不可欠なのだ。
 今回もまた、同様である。実体経済が「不均衡」のまま株価だけが上昇しても、そのバブルはやがては破裂するしかない。それは原理的に不可避なことなのだ。
 だから、マスコミがなすべきことは、「これはバブルだからいつかは破裂する」と警告することだ。「景気は回復するかも」なんていう記事は、ハーメルンの笛吹と同じで、信じた人々を破滅に導くだけだ。
 前回、バブルが破裂したとき、マネタリストは、「日銀がゼロ金利を解除したからだ」と、日銀のせいにした。しかし、今度は、その責任転嫁はできないだろう。マネタリストは、今度のバブル破裂のときこそ、自らの誤りを理解するべきだ。
 なお、私の説明を聞いて、初めからマネタリストの誤りを理解しておけば、そういう読者は、ヤケドを負わずに済むはずだ。

 [ 付記 ]
 ただし、ヤケド寸前で、火遊びをしたい、というのならば、それは、その人の勝手である。ハイリスクを負えば、ハイリターンを得ることもある。火遊びというのは、そういうものだ。これは、まともな人間のやることではない。
 「ネット取引の急増」なんてのを持ち上げる記事もあるが、たぶん、バクチ大好きの記者が書いたのだろう。新聞記者というのは、たいていがそうだが。彼らのやることは、足で調査して書くことではなくて、仕事をサボって競馬ですってんてんになることだ。そして、その味を、読者にも体験させようとすることだ。


● ニュースと感想  (7月21日)

 「ITと医療」について。
 医療の情報化についての提言がある。(朝日・朝刊・投書コラム 2003-07-21 )
 遠隔医療などの医療情報システムを整えれば、遠隔地でも高度な医療を実現できるので、地方の人がいちいち都会に出向かなくても済む、という主張だ。
 これは、もっともだ。ただし、実現の主体が問題だ。個々の病院だけでは、無理だ。政府が推進・補助するというのも、「国頼み」で好ましくない。むしろ、民間が自発的に行なうべきだろう。では、どうやって? 
 実は、ここには、情報産業全般の問題がある。「個人または企業に向けて、市場で大量販売する」という方法と、「注文を受けて作成する」という方法の、二つがあるが、その中間がないのだ。
 旅行業の場合だと、うまくやっている。「大量販売」と「オーダーメード」の中間に、「企画旅行」(いわゆるツアー)というものがある。潜在需要に向けて、企画を立案し、一定の客を募って、需要を創出する。
 医療の情報化についても、同様のことがなされるといいだろう。客が来るのを待っているのではダメだ。客を自ら呼び寄せるのだ。そのためには、「この指、止まれ」と指を立てる必要がある。具体的には、医療情報システムを企画立案して、一定のグループを作成し、そこで医療情報のやりとりをすればよい。日本全部で、二つか三つあればいいから、最初に指を立てた社が圧倒的に有利になれるだろう。
 私は前に、「処方箋の電子化」を提案した。( → 第2章 ) このことも、「医療の情報化」の一環として実現できる。そのシステムに加わることで、病院と薬局が電子的にオンラインでつながるから、いちいち処方箋を手動で入力する、という手間が省ける。大幅なコストダウンになるだろう。また、入力ミスも防げる。
 IT化とは、単なるソフトウェアの開発のことではない。情報システム全般の開発のことだ。そのめざましい成功例は、iモードである。単なるソフトでもハードでもなく、全般的なシステムを開発することで、大成功した。携帯電話の市場は、固定電話の市場を上回る規模であり、固定電話時代のNTTをしのぐ。それほどの巨大な市場が出現した。それというのも、ITというのを、単なるソフトやハードと見なさずに、情報システムとしてとらえたからだ。
 今の日本に必要なのは、ハード産業でもなく、ソフト産業でもない。システム立案の産業だ。ハード産業とソフト産業は、そのための下請けにすぎないのである。システム立案の産業が頭脳であり、ハード産業とソフト産業は手足にすぎないのだ。
 ここを勘違いしているから、たいていのIT企業は成功を収めることができず、過当競争で苦しむのである。


● ニュースと感想  (7月24日)

 「景気動向」について。
 最近、株価が上昇したり、企業業績が回復したりして、「景気回復の芽か?」というような観測が出る。そこで、私の解釈を示そう。
 景気がよくなるか否かは、企業業績の良し悪しとは、直接的には結びつかない。企業業績が悪くなれば、景気は悪化する。しかし、企業業績が良くなるからといって、景気が良くなるとは限らない。なぜか? そこに、マクロとミクロの関係がある。
 最近の企業業績が良くなっているのは、企業がリストラをしたからだ。経済が縮小しているのに応じて、解雇などをして、企業規模を小さくすることで、赤字体質から黒字体質になった。肥満体質のスリム化だ。これはこれで当然だし、企業業績が回復していくのも当然だ。
 しかし、これは、「縮小均衡」に向かう道だ。個々の企業の業績は回復していっても、マクロ的に経済が縮小すれば、何にもならない。一時的に小康を得るだけであり、やがては「売上げ減少」というツケ払いのような時期がやってくる。

 景気が回復するには、企業業績が回復する(赤字が黒字化する)だけではダメだ。それは「これ以上は悪化しにくい」という底打ちを意味するだけであり、回復を意味しない。回復を意味するには、マクロ的に経済規模が拡大する必要がある。
 つまり、企業が縮こまって黒字化をしているだけではダメであって、企業が投資を増やして、国家経済の規模を拡大するようになって、そのとき初めて、景気回復を宣言できるのである。
 ところが、現状では、企業が投資をすれば、せっかくのリストラがパアとなり、赤字になるから、企業が投資をすることはない。そして、その根本的な理由は、企業体質がどうのこうのというより、市場そのものが縮小していることだ。市場そのものが縮小しているときには、企業の業績がいくら改善しても、企業は投資をしない。
 だから、結局は、「市場の拡大」つまり「マクロ的な需要の拡大」が起こらない限りは、真の景気回復にはならないわけだ。
( ※ 企業が業績の改善を進めれば進めるほど、リストラを通じて、「マクロ的な需要の縮小」が起こるので、かえって逆効果となる。)

 [ 付記 ]
 景気が現実に回復しているか否かを知るには、株価なんかを見てもダメだ。企業の決算表を見てもダメだ。マクロ的に経済規模が拡大しているかどうかを見るべきだ。それには、市場金利を見るといい。市場金利がゼロ金利よりも上がっていれば、企業の投資意欲が上がっていることになる。その場合は、少なくとも投資の分は、経済規模が拡大しつつあることになる。逆に、市場金利がゼロ金利であれば、まだまだ投資は拡大せず、経済規模が拡大していないことになる。現状は、こちらだ。
 なお、企業の投資意欲があるときに、日銀が量的緩和をしていると、ゼロ金利の状態が続くが、同時に、猛烈な物価上昇が発生する。この場合、「物価が上がったぞ。デフレを脱却した、景気が回復した、万歳!」と叫ぶべきではなく、「物価が上がったぞ。スタグフレーションになった、景気がさらに悪化した、苦しい!」と悲鳴を上げるべきだ。
 なお、こういう最悪の悪夢への対策は、株を買って、物価上昇に対抗することだ。もしかしたら、株価が上がったのは、日銀のせいで日本経済が破局に至ることを予想した人々のせいかもしれない。とすれば、日本経済は、回復しつつあるのではなく、破局という棺桶に足を入れかけていることになる。
 「所得の増大なしに、物価だけが上昇する」という悪夢の日は、目前に迫っているのかもしれない。


● ニュースと感想  (7月25日)

 「国民年金の納付率」について。
 国民年金の納付率が低く、6割程度にすぎないという。ただし、払わない人の半数は、民間の年金に加入して、金を払っているという。(朝日・朝刊 2003-07-25 )
 国は、「納付率が半分ぐらいになると、年金制度が崩壊する」と大騒ぎしている。しかし、大騒ぎすればするほど、国民は不安になって、金を払わなくなる。崩壊のスパイラル現象だ。では、どうすればいいか? 
 「強制納付」なんていう案も出ているが、国民の半数近くを犯罪者まがいに仕立てようというのは、狂気の沙汰と言うしかない。刑務所に入れるとすれば、刑務所がパンクする。
 ここでは、物事の根本を考えるべきなのだ。なぜ、国民は、年金を払わないか? なぜ、国民は、莫大な金を持っているのに、年金納付には回さず、民間年金に加入したり、貯蓄したりするのか? 
 そう考えれば、理由は自明だ。国民年金という制度自体に欠陥があるからだ。こんな欠陥制度を信じて、金を払うのは、よほどの間抜けだけだ。「小泉は正しい」と政府を信じる人は、国民の半数ぐらいはいるから、そういう半数ぐらいの間抜けが、政府の年金制度を信じているわけだ。

 はっきり言おう。年金制度というのは、詐欺の制度である。「金を寄越せ。あとで金を払うよ」と言って金を吸い上げて、最後には、「やーめた。金をやらないよ」と言い出す。つまりは、国民は払った金の全額を、巻き上げられてしまう。こんな制度のために金を払うのは、よほどの間抜けだけだ。
 今の年金制度では、まともに年金をもらえる保証は、ほとんどない。ま、ゲームのすべてのステージを見事クリアすれば、年金をもらえる。しかし、このゲームをそれほどよく研究している人が、どれだけいるのか? ちょっとでも失敗すれば、たちまち、全額を失ってしまう。
 あなたが金を毎月納付しても、その金が年金となって戻ってくる保証はまったくない。国民年金であれば、非常にさまざまな支払い条件があり、そのすべてをクリアしている保証はまったくない。厚生年金であれば、企業がその金を国に納めていないせいで、金が戻ってこない可能性がある。(先日もその事件が報道された。)
 一方、民間の場合は、まったく別だ。民間年金ならば、たとえ途中で解約しても、払った分の金は戻ってくる。預金ならば、いつ解約しても、払った全額が利子付きで戻ってくる。なのに、国の年金の場合は、失業などで納付しなかった期間があると、払った全額を一挙に失ってしまう可能性がある。詐欺も同然だ。

 では、解決策は? こんな詐欺の制度は、やめるべきだ。国民に信頼される制度に立て直すべきだ。すなわち、次のようにする。
 そもそも、年金とは、何か? 「途中死亡した人は、金を返してもらえない。ただし、生き残った人は、金をもらえる」という制度だ。つまり、「生き残った人は、途中死亡した人の分だけ、利益を得る」という制度だ。ところが、現在の制度は、「途中脱退した人や、納付不完全の分までは、利益を奪い取る」という制度だ。そして、その利益を、国が召し上げる。まさしく、詐欺だ。
(実を言うと、国もまた赤字となる。黒字になるのは、特殊法人と土建業者だ。官僚と悪徳商人が、数十兆円もの金を食い物にする。超大型の詐欺である。)

 [ 付記 ]
 本日の報道によると、経済的な理由で自殺した人が、昨年もまた、8000人も出たという。彼らは、年金をもらえなかった。彼らは、もし国民年金を解約できたならば、金を手に入れて、生きていられただろう。つまり、彼らは、国民年金に加入せずに、民間に預金しておけば、いざというときに金を手に入れて、死なずに済んだだろう。なのに、国民年金という制度に加入していたせいで、生きるか死ぬかの瀬戸際に、どうしても必要な金を手に入れることができなくなり、せっぱ詰まって、自殺したわけだ。
 そして、政府は、「自殺者が増えたから、支払対象者が減った。うれしいな。これでまた、儲かった」と大喜びするわけだ。自殺者が出れば出るほど国が儲かる制度、なんてものが、まさしくこの世に存在するわけだ。


● ニュースと感想  (7月26日)

 前日の続き。
 「国民年金の保険料は、強制納付にするべきだ」という意見もある。これは、よく聞く意見だし、私もある程度は、賛成する。たとえば、いわゆる「基礎年金」の部分については、消費税を財源として、実質的な強制納付にするのが好ましい、と考える。
 ただし、前日分で述べたのは、それとは別のことだ。国民年金を、次の二つの部分に分けて考える。
 このうち、福祉分については、すぐ前に述べたとおり、基礎年金という形で、税を財源として、公平に供与することが好ましい。(貯蓄に対する利息というプレミアムも、ほぼ同様だ。)
 一方、貯蓄分(元金)については、あくまで個人の貯蓄として位置づけて、いつでも本人に返却可能とすることが好ましい。そうすれば、誰もが安心して、金を拠出するようになる。元金の没収なんて、とんでもないことだ。(これが、前日分で述べた話だ。)

 現実の意見は、この両者をごっちゃにしている意見が多い。貯蓄分について、福祉の分のように扱って、「途中解約したら全額不払い」なんていうふうにしている。しかし、福祉分についてなら、そうすることは正当だが、貯蓄分までそうやって没収することは、詐欺も同然であろう。
 そして、だからこそ、今の年金制度は、国民の信頼を失っているわけだ。かわりに、「途中解約では積立金を返却します」という、民間の年金が拡大しているわけだ。
 私としては、この「政府年金の縮小と、民間年金の拡大」というアンバランスを、解消したいわけだ。そして、そのために、「ユーザー無視」をやめて「ユーザー重視」という根本に立ち返れ、と主張しているわけだ。
 とにかく、現在、国民は莫大な額の「貯蓄」と「年金積み立て」を行なっているのだ。ただ、その金が、政府の部門ではなくて、民間の部門で、貯蓄されているわけだ。そういうアンバランスがある。そこに問題がある。それが本質なのだ。

 [ 付記 ]
 「国民年金を強制徴収しないと、生活保護費をアテにして、貯蓄をしないで消費ばかりする享楽主義の若者が増える」という心配がある。しかし、これは、杞憂というものだろう。
 第1に、「貯蓄しないで消費ばかりする」なんてことは、ありえない。むしろ、そうなってほしいものだ。現実の日本は、消費不足で、デフレになっている。若いときには、クレジットカードで、さんざん浪費をしても構わないのだ。中年になってから、その借金を返せばよい。むしろ、そうしてほしい。その方が、景気は回復する。現実には、それとは逆で、誰もがやたらと貯蓄をする。そのせいで、貯蓄額ばかりがやたらと増大し、消費が縮小し、経済が縮小し、所得が縮小する、という悪循環になっている。仮に、現在、人々が100万円ずつ借金をして、消費を拡大すれば、たちまち、景気は回復する。また、100万円を消費しても、いっぱい働いて200万円ぐらいの所得を得ることができるから、返済も可能だ。(ここでは、打ち出の小槌が使われているわけではない。「タダで金をもらう」のではなく、「働いて金をもらう」のだ。しかるに、現在は、そうしたくても、そうできないのだ。)
 第2に、「生活保護費をアテにする」なんて人は、まずいないはずだ。生活保護というのは、どのレベルか、わかりますか? クーラーも何もない最低限の生活だ。あなたは今、この文章をインターネットで見ているが、そういうことも許されない。文明国における人間の尊厳を脅かされるレベルだ、と考えてよい。「もらえる年金は生活保護費よりも少ない」と思って、年金をもらうかわりに生活保護を受けようと思ったら、とんでもない勘違いだ。もしあなたが老後に生活保護を申請したら、その時点で、あなたは全財産を売却する必要がある。不動産も、パソコンも、自動車も、すべてを売り払って、スッカラカンになる必要がある。そうなるまでは、生活保護費をもらえないのだ。今、多くの老人は、生活保護費よりも少ない年金をもらっていても、悠々自適ができる。なぜか? 自宅をもち、貯蓄をもち、生活費は自分でまかなえるからだ。もらった年金は、せいぜい、小遣いになるだけだ。だから、生活保護費よりも少ない年金をもらっていても、幸福なのだ。警告しておこう。生活保護費なんてものを受けて暮らしたら、まず、まともな精神状態を保てない。人間としての生活は送れず、オリに飼われるサルのような状態となる、と思った方がよい。実際、名実とも、国家に飼われているわけだが。(とはいえ、国家に飼われることを好む人がいることも、事実だが。)

  【 追記1 】
 国民年金は、保険料の徴収にかかる経費が1割にもなるという。(読売新聞・朝刊・解説面 2003-07-26 )。
 呆れた話だ。こんなに経費がかかっては、もはや、システムの体をなさない。保険料を徴収する役人を雇用するために保険制度がある、と言ってもよい。
 この上、「強制徴収を」などということになったら、経費がかかりすぎて、保険料に回す金はほとんどゼロになるだろう。根本的に間違ったシステムを維持しようとすれば、途方もない無駄が発生する、ということだ。愚行の極み。しかも、この愚行は、恐ろしいほど巨額の無駄を生む。

  【 追記2 】
 国民年金に、厚生労働省が、「強制徴収も辞さず」という方針を出した。(読売・夕刊・1面 2003-08-04 )
 こんなことをしても、取れる金はたいしたことはないし、一方、徴収コストは莫大になるから、まったく無駄、というしかない。国民をやたらと犯罪者に仕立て上げるだけだ。
 記事によると、「先がどうなるかわからないから」という不安が大きいようだ。一方で、国民の貯蓄は、運用先に迷っていて、利子がちょっと高いだけでも、殺到する。1%どころか、0.5%ぐらいの利子でも、貯蓄が殺到する。
 これを、国民年金と比較すると、いかにアンバランスか、よくわかる。そして、このアンバランスさこそ、私の指摘することだ。
 だから、私は、繰り返し、主張したい。国民年金は、「貯蓄型」にするべきだ。「払った金がどうなるかは未確定」とか、「払った金を没収することもある」とか、そんな不安を与える運用をやめて、「あなたの支払額はこれこれです。その分は元金として貯蓄されています」と常に明示的に示す口座を設けるべきだ。
 たとえば、ときどき支払い停止をしながら、30年のうち、23年支払った人がいるとする。この人は、現状では、25年の受給資格を満たさないので、まともに年金をもらえない。たぶん、払った分の一部分を没収されるのだろう。こういう不安を与えるのを、やめる。払った分は、あくまで、元金として、その人のものとする。解約する時期も、任意とする。たとえば、58歳のときに、リストラによる失業で全財産をなくして、首吊り自殺するしかないと思い詰めたような場合には、解約できるようにする。彼の金は、彼のものであり、彼がどう使おうが、彼の勝手なのだ。……国の行なうことは、彼の貯蓄にたいして、補助金の額を変えるだけだ。誠実に一定の支払いをした人には、高率の利子補給をする。いい加減に気まぐれに支払いをして、最後には満期日の前に勝手に解約した人には、利子補給をほとんどしない。国のなすべきことは、この「利子補給」の分だけだ。この分だけを可変的に変更して、国民の行動を一定方向に導く。……これは、「経済的な誘導」である。
 「経済的な誘導」は、非常に効率が高い。たとえば、今のように貯蓄の運用先に人々が迷っているときなら、「国民年金の料金を払うと、年5%の利子をもらえる」と判明すれば、人々は喜んで料金を払うだろう。一方、「強制徴収」なんてことをやれば、莫大なコストがかかり、かつ、年金に対する信頼をいっそう失わせる。……何をどうするか、よく考えるべきだ。


● ニュースと感想  (7月27日)

 「文化の破壊」について。
 私は怒っている。何にか? 文化の破壊にだ。経済についてなら、たとえば小泉に対しても、私は怒ることはない。無知と勘違いに、呆れるだけだ。しかし、文化の破壊については、怒る。
 かつて、タリバンが仏像を破壊したときにも怒った。これは人類の文化における取り返しの付かない愚行だった。最近でも、アメリカは、メソポタミア文明という貴重な遺跡を大量に破壊したり、博物館から消失させる結果を招いたりした。考えてみれば、かつてアメリカは、ドイツの都市を爆撃して、人類の貴重な文化資産を大量に破壊してしまった。印象派の絵画など、唯一無二のものも、このころ、大量に破壊された。とてつもない蛮行と言えよう。(こういう国を大好きな人々もいますがね。)

 さて。これほど大規模ではないが、小規模な文化の破壊を目にしたので、記述しておく。それは、「人類における最高の恋愛小説の抹殺」である。
 人類における最高の恋愛小説と言えば、エミリ・ブロンテの「嵐が丘」だ、と私は判断する。少しは私の独断もあるが、ベスト3に入るのは間違いない。匹敵するものと言えば、ゲーテの「ウェルテル」ぐらいだが、こちらは恋愛小説という分野には収まらないようだ。
 ともあれ、この「嵐が丘」は、これまで、田中西二郎の名訳で、新潮文庫にあるものが読めた。ところが、このたび、新潮社はこれを絶版にしてしまった。かわりに、「新訳」と称して、別の翻訳をラインアップした。
 「あれほどの名訳をしのぐものができるのか?」と疑いながら、ひもといてみた。呆れた。絶句。最低の翻訳だ。田中訳にある文学的な芳香がすべて吹っ飛んでしまって、ハーレクインのような下品な大衆文学になってしまっている。文体は最低で素人丸出しだし、言葉遣いは現代のはすっぱな若者ふうだ。よくもまあ、これほどひどい翻訳を出せたものだ、と感心する。よほどの蛮勇がなければ、これほど低レベルな翻訳を出そうという気にはなれまい。
 とはいえ、どんなに低レベルの翻訳でも、あればあるだけの価値は、あるだろう。耳かきいっぱいぐらいは。だから私は、この翻訳を出すこと自体には、反対しない。問題は、元々あった旧訳を絶版にしてしまったことだ。ゴミを世に出すのは構わないが、だからといって宝を捨てるのはとんでもない。これこそ、文化の破壊である。こんなことをすれば、今後、日本の若い世代は、世界最高の恋愛小説を(翻訳で)読む機会がなくなる。

 ともかく、興味のある人は、「嵐が丘」の旧訳・新訳を、比べてみてほしい。どの2〜3行を読んでも、まったくレベルが異なる。「最高」と「最低」ぐらいの、ひどい差がある。文学センスが少しでもあれば、簡単にわかるはずだ。
 そもそも、新潮社というのは、日本最高の文芸出版社であった。なのに、このひどいていたらくになるとは。文学の良し悪しも判別できないような、最低の編集者ばかりになってしまったようだ。
 なぜ、新潮社は、文学センスがゼロになったのか? 私が思うに、たぶん、担当者と訳者が文学音痴の女性であったからだろう。文学性とか言葉とか、そういう基本を理解せず、文学というものをただの女性向けファッションとしてとらえる、というのであれば、こういう変更をするのもわかる。
 ちなみに、訳者解説を読むと、嵐が丘の美点は「カメラワーク」だ、と訳者は言っている。文学というものを、ただの映画のストーリー本だ、と勘違いしているのが丸出しだ。はっきり言っておこう。嵐が丘の美点は、ストーリーではない。言葉だ。(詩的言語と言ってもいい。)
 なのに、文学とは言葉によって成り立つ芸術だ、ということを理解できない人々がいる。そういう人々が、文化の破壊行為を行なうわけだ。

 [ 付記 ]
 こうなれば、仕方ない。田中西二郎の訳を、他の出版社がかわりに出版することを希望する。「世界最高の恋愛小説を出版しよう」という意気のある出版社は、是非、出版してほしい。
 ついでに言えば、法的には、まったく問題はない。なるほど、出版社には、「自社だけが出版できる」という出版権がある。しかし、出版社が勝手に刊行をやめた場合、その出版社のもつ出版権を、著作権者は取り上げることができる。そしてかわりに、他の出版社に出版権を渡すことができる。これは著作権法に規定されている。
 新潮社が出版をやめた時点で、新潮社の出版権は自動的に消滅したことになる。


● ニュースと感想  (7月28日)

 「イラク復興支援」について。
 イラクの話はもう、うんざりしてきたので、書く気はなかったのだが、小泉が一国の首相のくせにとんでもない嘘ばかりを言っているので、そのデタラメを指摘しておく。

 (1) 復興支援
 「民主党はイラク復興支援の方針だったのに、復興支援の法案に反対するのはおかしい」と小泉が言い出した。まったく、勘違いも甚だしい。
 民主党のいう「支援」とは、イラクに対する支援だ。日本政府のやる「支援」とは、米国に対する支援だ。まったく、意味が異なる。
 政府や保守派がやりたいのは、米軍が復興活動を通じてイラクにおける支配権を確立することを、支援することだ。米国は別に、善意でイラク復興活動をしているわけではない。支配権を確立し、親米政権を成立させ、石油権益を米国寄りにすることが目的だ。政治と金、一石二鳥だ。ところが、「フセインを倒せばたちまち親米政権ができる」という思惑に反して、手こずっている。そこで、「おい、そこのポチ、ご主人様の身を守れ」と手招きして、ポチの方は「はいはい、ワンワン」と吠えているわけだ。
 ポチの方は、それでご主人様のご機嫌を取って、評価を上げたがっている。ところが、米国の方は、どうか? 「日本も自衛隊を出せば、大リーグで活躍することになる」などと言っている。つまり、「イラクはおれの庭だよ。おれの庭に入って、ご主人様の身のまわりを世話をするようになるんだ。えらぞ」とポチの頭を撫でてやるつもりでいるわけだ。あくまで、ご主人様と犬、というポジジョンである。米国も日本も、その関係を疑わない。
 自衛隊というものを勘違いしてはならない。自衛隊員は、「日本人の生命を守るために、自分の生命を危険にさらそう」という覚悟をもったのであって、「米国の尻ぬぐいをするために自分の生命を危険にさらそう」としているわけではない。小泉は、心ある自衛隊員の命を、ないがしろにしているのだ。はっきり言えば、国民の命を米国に貢いで、歓心を買おうとしているわけだ。つまり、売国奴である。
 私は別に、「あらゆる戦争に反対」とは言わない。「侵略者が来たら戦え」という気持ちはよくわかる。しかし、そのために戦う覚悟をした自衛隊員の命を、バーゲンプライスで安売りする、という気持ちには、とうていならない。小泉は、日本という国を、米国に安売りして、自分の点数だけを上げようとしている。まさしく、売国奴であり、国賊なのだ。

 (2) 対案
 では、どうすればいいか? 簡単だ。米国支援をせずに、イラク支援をすればよい。具体的には、金と物資を送ればよい。自衛隊は、復興のためには意味がなく、米国支援のためにだけ意味がある。こんなものは、送る必要はない。
 具体的に言おう。給水だの病院だの、ほとんどのことは、自衛隊はまったく不要である。現地には、人員も物資もある。ないのは、金と物資だ。たとえば、給水なら、自衛隊の給水車を何台も送るよりは、簡易浄水器を大量に送付した方がいい。給水車など、何台あろうと、イラク全土に回すことはできない。一方、簡易浄水器ならば、あちこちに大量に頒布できる。とりあえずは、塩素の消毒セットを送るのが急務だ。現地にすぐに必要なのは、「きれいな真水」ではなくて、「汚染されてない水」なのだ。泥と雑菌を除くのが急務であり、きれいな真水を数カ所だけで頒布してもろくに意味はない。
 その他、さまざまな作業も、現地で物資を購入したり、頒布したり、人員を雇用したりすればよい。そのための行政官も、現地の言葉を理解しない自衛隊員など、邪魔なだけだ。
 本当に支援をするのであれば、イラクのためになることをやるべきだ。なのに、現実には、米国のためになることをやっているだけだ。小泉がどちらを向いているか、よくわかるだろう。
 小泉は「平和のために復興支援しよう」などと言っているが、本当は「米国のイラク支配(侵略)のために復興支援しよう」と思っているのだ。意味は正反対だ。黒を白と言いくるめている。「支援」という言葉に騙されないように、注意しよう。

 [ 付記 ]
 宮城の地震で、ライフラインが寸断されて、断水などの被害が生じた。自衛隊の給水車もいくらか出動したが、まだまだ給水車が不足して、病院の治療もうまくできないという。(朝日・朝刊・社会面 2003-07-28 )一方、その間、首相は日曜日の休みを取って、一日中、何もせず。(同・政治面)
 国家の危機という大事件なのに、何もせずに休んでいるわけだ。たぶん、国民の生命など、まるきり眼中にないのだろう。いかに米国のご機嫌を取るかだけ、ずっと頭を悩ませているのだろう。
 それとも、給水車を米国向けに用意したので、日本向けのがなくなっちゃったんでしょうかね? 


● ニュースと感想  (7月29日)

 「経済的な誘導」について。
 政策手段として、「経済的な誘導」というものがある。ある政策を推進するのに、法律で義務づけるかわりに、アメとムチという形で特定方向に誘導するものだ。
 こういうことをすると、「姑息だ」とか、「金で片付けるな」とか、そういう感情的な反発が出やすい。しかし、「経済的な誘導」というものの本質は、「効率性」である。同じことをやるのならば、この方法が最も効率的なのだ。つまり、無駄がないのだ。
 その最もめざましい成功例が、排ガス規制だ。30年ぐらい前、日本の自動車はものすごい排ガスを出していた。「規制せよ」という国民の声に対して、「絶対に無理だ」と自動車メーカーは反発した。ところが、「義務的な規制」という立法的な政策のかわりに、「排ガスの少ない車には減税」という行政的な政策で対処したら、あらら、世界最先端の技術開発を行なって、排ガスは急激に低減されていった。メーカーは、「絶対に無理だ」と言っていたくせに、その不可能な水準をはるかに下回る水準まで、排ガスを下げていった。そして、現在では、最高の水準の車では、排ガス量は、マイナスである。つまり、排ガスを含む空気を吸い入れて、それを浄化して排気する。空気清浄機みたいになっているわけだ。
 ディーゼル車も同様だ。「ディーゼルの排ガスを減らすのは絶対に不可能だ」とか、「そんな装置は付けない」とか言っていたくせに、「目標を達成すると減税」という方針にしたら、たちまち、目標をクリアしてしまった。今や、安易すぎる目標が、逆に、環境改善の努力を無意味にしている感じだ。
 一方、こういう成功例とは逆に、「義務的な規制」にしたら、どうか? いくら努力してもアメは得られず、いくらサボってもムチで打たれない。となると、誰もがサボるので、目標は絵に描いた餅となるだろう。
 結局、「経済的な誘導」というのは、もっとも確実で効果的な方法なのである。しかも、経済原理に従うから、最も効率的である。「開発社に資金援助する」という方針では、血税が無駄になるだけだが、「成功した商品には、減税する」という方針では、すこぶる大きな効果があるのだ。

 さて。「そんなことはわかっている」という声も出るかもしれない。しかし、現実には、多くの政策は、「経済的な誘導」ではなく、「義務的な規制」である。そのせいで、ほとんどの政策が無効になっている。
 例を挙げれば、キリがないが、とりあえず、次の二つの例を示しておこう。

 (1) 少子化対策・女性差別対策
 これらは、現在、企業への「義務づけ」または「奨励」となっている。そのせいで、まったく、実効が上がっていない。ま、当然である。「やればやるほど、その企業が損する」というのでは、やりたがらないのが自然だ。むしろ、「やればやるほど、その企業が得る」というふうに、制度を改善するべきだろう。たとえば、従業員の子供の人数や女性社員の人数を調べて、その比率に応じて法人税を減税する、という方針だ。(現実には、むしろ、まったく無意味な減税や補助金を出して、企業に無理な投資をやらせて、その投資を無駄にして企業を倒産させる、というようなことをやっている。)

 (2) 公衆電話
 「携帯電話の普及にともなって、公衆電話が撤去されている。テレホンカードも使えなくなった」という苦情が出ている。とはいえ、赤字の公衆電話が廃止されるのは、企業経営としては、当然だろう。赤字を垂れ流すことはできないからだ。
 この問題を解決するのは、簡単だ。公衆電話の料金を、値上げすればよい。3分10円ぐらいのはずだが、もっと高くすればよい。
 実は、ずっと昔は、公衆電話の料金は、一般電話よりも高かった。一般電話には、電話の設置料や、機器料金や、月ごとの固定費がかかるのだから、それのない公衆電話の料金は、一般電話よりも高くして、やっとバランスが取れる。なのに、それをやめてしまった。当然、公衆電話は、大赤字になる。だから、大赤字の公衆電話を次々と撤去する。
 公衆電話が撤去されるのは、単に、経済的な原則に従っているだけだ。これに対して、「義務的な規制」で対処しようとするのは、愚の骨頂である。莫大な赤字が出るだけだ。
 一般的に、「義務的な規制」で対処しようとするのは、社会主義的な方針であり、非効率の極みである。莫大な無駄が発生する。効率的に対処するには、「経済的な誘導」という策を取るのがベストなのだ。
 かつて、愚かな国民は、「安ければいい」と信じて、公衆電話の料金を低く設定した。しかし、いくら安くしても、その金が空から降ってくるわけではない。何かを無理に安くすれば、その分、赤字が発生する。その赤字を、どこかで、償わなくてはならない。それが、「公衆電話の撤去」という、最も被害の出る方法を取らせたのである。経済的な手段に頼らなかったから、最も非効率な方法を取るハメになったのだ。

 結語。
 経済というものは、とても大切だ。それは、単なる金銭的な損得の問題ではなく、効率の問題でもあるのだ。理系の研究者が、いくら研究開発において1%単位で効率向上に励んでも、社会のシステムが非効率であれば、1%単位での効率向上など簡単に踏みにじられてしまうのだ。

  【 追記 】
 上記の記述は不正確なところがあったので、修正・加筆しておく。
 「3分10円ぐらい」と記述したが、正しくは、ここ数年の間に値上げがなされていて、「1分10円」であった。( → NTTの料金表のページ
 とすると、上記の論旨は、正しくないだろうか? いや、論旨の基本は、変わらない。どのくらいの料金が適正であるかを、試算してみよう。
 まず、電話のコストは、固定費がほとんどだ、ということに注目しよう。コストは一定であるから、利用者数と料金とは反比例させる必要がある。(ここが一般の物品とは違うところだ。一般の物品ならば、固定費以外の要素が大きい。)
 では、利用者数は、どのくらい減ったか? 携帯電話の個人普及率は、うろ覚えだが、8割ぐらいあったような気がする。また、この数字は別として、そもそも、公衆電話を利用する人は、家庭の主婦や定年退職者ではなくて、戸外を歩く労働者や学生だ。彼らの間の携帯電話普及率は9割ぐらいになるだろう。また、利用者のうち、特定のヘビーユーザーが大量に利用していたはずだが、彼らは当然、携帯電話に移ったはずだ。となると、公衆電話の利用頻度(利用者数ではない)は、1割以下に激減した、と推定される。となると、料金を10倍以上に値上げしないと、採算割れになる。
 もう一つ、別の要因がある。現在、いくら利用者が増えても、彼らは、過去のテレホンカードを使うことが多い。となると、利用者が増えても、単にテレホンカードの度数が減るだけであり、NTTの売上げは増えない、ということになる。(テレホンカードの過去の黒字は、過去の公衆電話の赤字で食いつぶされたから、残っていない。)
 結局、あれやこれやで、どう見ても、料金は元の10倍以上の水準にしないと、とうてい採算に乗らないだろう。公衆電話の半分ぐらいを撤去するとしても、やはり、10倍ぐらいの料金を設定しないと、赤字が出るだろう。しかし、そんなことをするのは、世論が受け入れない。だから、NTTは、せっせと公衆電話を撤去するのである。
 私の予想では、将来的には、普通の公衆電話は、ほぼ完全に消えてしまうと思う。(残るとしたら、インターネットを使うIP電話だが、これは別の話。)
 では、どうすればいいか? 私の案は、「ほぼ10倍への値上げ」である。元は「180秒で10円」だったから、「18秒で10円」ぐらいにする。とはいえ、一挙に10倍もの値上げをすると、たいていの人は、「とんでもない値上げだ! 許せん!」と怒り狂うだろう。しかし、である。少なくとも私は、ちっとも困らない。たとえば夕方に電話するときは、
 「飯は食っていくから、夕飯はいらないよ」
 「はい。わかりました」
 「じゃあね」
 「はい」
 という具合で、5秒か10秒で済むから、値上げしてもちっとも困らない。ごく稀に、「家族が事故だ!」というような緊急の連絡のために、長話になることもあるだろうが、そういうときには、3分間の連絡に千円という高値を払っても惜しくはない。連絡が付かないよりは、ずっとマシだ。
 ところが、私と違って、たいていの人はケチる。「30円ぐらいで、一時間ぐらい無駄話していたいのよ。値上げなんて、絶対反対!」と言い出す。だからこそ、公衆電話は、次々と撤去されるハメになるのだ。
 「無駄話を優先させて、必要な連絡をおろそかにする」という方針が、「低料金」という制度だ。かつて、そのせいで、公衆電話は女子高生のおしゃべりに占拠されていた。そういう馬鹿げた制度に比べれば、「高めの料金を払う人だけが確実に利用できる」という制度の方が、ずっとまともである。(高めといっても、10円ですけどね。)
 しかし、まともな制度は、今の日本には受け入れられない。人々は、まともな状況よりも、超安値を求めるからである。

( ※ もちろん、直感的には、「一挙に10倍もの値上げ」というのは、暴挙に思えるだろう。しかし、携帯電話の普及という特別な事情があるのだから、文句を言いたいのであれば、NTTに文句を言うより、携帯電話の利用者に文句を言うべきだ。「そんなもん、使うな! 固定電話を使え!」と。……また、どうせそういう文句を言うのであれば、電車のなかで使っている人に言ってほしい。彼らは携帯電話の電波によって、心臓のペースメーカーを異常にして、人命を危険にさらしている。……とはいえ、たいていの人は、自分の10円玉のためには文句を言うが、他人の人命のためには文句を言わないのである。)


● ニュースと感想  (8月02日)

 「入試改革」について。
 若い年齢層の学力低下が問題視されている。これは、経済力の点からも、大きな問題だと言えよう。「戦後に灰と化した日本が、世界最高水準の経済力をもつようになったのは、なぜか?」という問いに対して、「日本人が優秀だからだ」という説を出す自惚れ屋もいるが、正しくは、「日本の教育水準が、世界最高水準だったから」であるにすぎない。「学歴こそ大切」と人々が信じて、やたらと受験競争をやった。もちろん、それには、弊害もあったが、何もしないで遊んでいるよりは、ずっとマシだった。その間、欧米では、何をやっていたか? 「思考力が大切」という訓練はしていたが、しょせんは、遊び時間がやたらと多かったのである。夏休みも、週末も、日本よりもはるかに多かった。これで同じ成果が上がったとしたら、その方が不思議である。「遊んで頭が良くなる」という方法はないのだ。
 ところが、これを勘違いした教育関係者が、「ゆとり教育」というものを打ち出して、遊び時間をやたらと増やした。つまり、「遊んで頭が良くなる」と信じたのである。で、その間に、韓国や台湾や中国では、「勉強して頭が良くなる」と信じて、かつての日本のように、必死で勉強した。そのせいで、これらの国は、急速に日本に追いつきつつある。その間、日本は、遊んでいただけだ。かつての欧米と日本の図式が、ここに成立する。「ウサギとカメ」ですね。

 さて。では、どうすればいいか? もちろん、「遊んで頭が良くなる」はずはないから、真面目に勉強するように、方向づけをすることが大事だ。とはいえ、単に「勉強しろ」と言っても、ケータイとテレビゲームしかしていない子供たちには、蛙の顔にションベンだろう。また、かつての詰め込み教育ばかりをやっても、効果が薄いだろう。
 ヒントは、インドの大学入試だ。数学の入試では、日本の共通一次のような穴埋めテストをやめて、全部、記述式にした。すると、生徒はそれに向けて対処したので、インドの数学水準は、世界トップクラスになった。
 アメリカや欧米の社会科教育も参考になる。歴史や地理や哲学などで、大量の文献を読ませて、記述式の論文を書かせる。このことも、生徒の思考力を大幅に高めた。一方、日本では、穴埋め式や選択式のテストが多いので、能動的に解答を提出する生徒が少なくなり、受動的に解答を選択するだけの生徒が多くなった。
 こういう点を見て、「小論文」という形式のテストも現れたが、これはこれで、あまりにも主観的すぎるので、教育には良くとも、選抜のためにはあまり適さなかった。


 以上の点をかんがみて、私の提案を示そう。
 すぐ上の3点について言及しておこう。
 この方式で大切なのは、「大量の文書を読める能力」と、「じっくりと考える能力」である。前者は、言うまでもあるまい。後者は、解説しておこう。
 「制限時間内で高速に解答する」というのは、知能指数のような能力を調べるには、適している。だから、数学や物理や語学の能力を調べるのには、適している。しかし、文科系の能力は、知能指数なんかとは関係ない。「手早くさっさと解答を出す能力」なんかよりも、「ゆっくりでいいから正しい解答を出す能力」が大切なのだ。
 「とりあえず手早く正解を出せ」なんていうことばかりを評価してきたから、日本には、小賢しい官僚ばかりが増えて、まともな思考能力のある人間が排除されてしまったのである。小泉もまた、この例だ。「構造改革をします」なんていう言葉を出すことだけは素早かったが、その実行力は最低である。自分で最大の目的としていた「郵政民営化」さえ、まったくメドが立っていない。逆に、中曽根康弘は、のんびりと構えていたが、国鉄も電電公社も確実に民営化した。
 「手早くさっさと解答を出す能力」と、「ゆっくりと正しい解答を出す能力」の、どちらが大切か、よくわかるだろう。今の日本では、「手早くさっさと解答を出す能力」ばかりが重視されているから、「ゆっくりと正しい解答を出す能力」を養えなくなってしまっているのだ。

  【 追記1 】
 この方式のミソは、「受験生の答案のすべてを採点するわけではない」ということ。すべてを採点すると、手間がかかって、大変だ。だから、一次テストで下位と上位を採点の対象からはずして、合否のボーダーラインにいる集団だけを、採点対象とするわけだ。
 同じ発想で、いくつかの工夫を付け加えることもできるだろう。たとえば、同じ科目の問題を2問出して、1問目で下位と上位を採点の対象からはずし、残りだけを対象に2問目の採点をする。1問目は比較的簡単な記述式として、2問目はかなり長文の記述式とする。受験生としては、どの段階で合否が決まるかはわからないから、長文の記述式への対策をせざるを得なくなる。結果的に、大量の文書を読んだり、自分の頭で考えたり、という訓練をせざるを得なくなる。

  【 追記2 】
 別の工夫もできる。「長文の読解」と「記述式」とを分離して、「長文の読解」のみを客観式のテストにする。
 例。200枚程度の長文を読ませて、それを対象に客観式のテストをする。「次の文章は何ページにあったか。ページ数を記せ」というような。
 こういう客観テストは、読解の速度が重視されるので、時間制限があった方がいい。2時間かけて、読ませて、かつ、テストする、というふうに。
 一方、純粋な長文の記述式は、時間制限はない方がいい。つまり、執筆量にたいして、解答時間はたっぷりと与える。「早く書くこと」は全然必要ではなく、「じっくりと考えて書くこと」が必要だからだ。「早く書くこと」が大切なのは、時間に追われている作家や記者だけである。彼らは、金をもらうために、大量の文章を書き散らす。そのせいで、ゴミみたいな文章が、やたらと世間に氾濫する。彼らが「ゆっくり考えてから書く」能力を獲得したら、どれほど日本は良くなることだろう。


● ニュースと感想  (8月05日)

  【 追記2 】 と記した箇所を、次の2箇所に記した。
   ・ 7月26日 【 追記2 】 (国民年金の強制徴収)
   ・ 8月02日 【 追記2 】 (長文読解テスト)


● ニュースと感想  (8月06日)

 「地震予知」について。
 先日の宮城の地震について、地震の予測に大失敗した件を、読売の記事が調査している。「気象庁は、1日に3回の地震のうち、最初の1回を本震と見なして、続く地震は起こらないと予測したが、実は最初の1回は本震ではなく、前震だった」というもの。(読売・朝刊・科学面 2003-08-05 )
 何を言っているんだか。「本震ではなく前震だった」というのは、単に分類を変えているだけのことだ。学者の都合でしかない。人々にとって肝心なのは、「このあとどうなるか」なのに、単なる分類の話をして、それで弁解したつもりになっている。
 はっきり言えば、地震学者というのは、無意味な存在ではなくて、有害な存在なのである。いない方がずっとマシだ。いなければ、人々は自分の判断で考える。「地震があったぞ。もしかしたら、またあるかもしれない。危ないな」と思う。なのに、地震学者が、「もう地震は起こらないでしょう」とデタラメな予測を出すから、それを信じた人々が多大な被害を受ける。

 話の根源に移ろう。
 地震学というものが地震を予測をできないということは、もはや完全に実証されている。「予測できるかもしれない」ではなくて、「予測できない」ということが、この数十年の調査から判明したのだ。
 では、なぜか? 地震学というものは、地質学・力学に基づいている。「まず微弱な前震があるから、それを高性能の検知器で検出すれば、次に起こる本震を予測できるはずだ」と学者は予想した。しかし、その予想が完璧に間違っている、ということが、ここ数十年の研究では判明したのだ。つまり、微弱な前震なしで、いきなり本震が来ることがあるのだから、どんなに高性能の検知器で微弱な前震を検出しようとしても、ありもしない微弱な前震を検出することはできないのだ。

 では、予測は、まったく不可能か? そうではない。地質学・力学に基づく方法では不可能だが、電気的・磁気的な方法でなら、可能だろう。ただし、その検出には、非常に高感度の検出器を、多数用意しておく必要がある。一方、それとは別に、生物に頼る方法もある。生物は、電気的・磁気的な異常を容易に検知するから、地震の前には大騒ぎすることがあり、それで地震を予測できる。百発百中とまでは行かなくても、「事実とは正反対の予測をする」という地震学者に比べれば、ずっとマシだろう。
 ただし、地震学者は、その方法を断固として否定する。彼らは言う。「電気的・磁気的・生物的な方法で、予測できることはあるかもしれない。しかし、その方法では、100%確実に予測できる保証がない。100%確実に予測しなくてはダメだ。さもないと、オオカミ少年のように、信頼をなくすからだ。予測の空振りがあったりすると、列車の運休などで、世間に金銭的な損害が多大に発生する可能性がある。だから、電気的・磁気的・生物的な方法は、絶対にダメだ」と。
 つまり、的中率が 50%だとダメだ、というわけだ。そして、かわりに、的中率がゼロどころかマイナスであるような方法を採用するのである。予測の空振りで金銭的な損失が出ることは許されないが、予測をしないままで人的な損失が出るのは構わないのだ。
 では、なぜか? なぜ、地震学者は、電気的・磁気的・生物的な方法を、そんなに毛嫌いするのか? それは、彼らが失業するからである。彼らはずっと、力学的な研究ばかりをしてきた。なのに、電気的・磁気的・生物的な方法を取れば、彼らは一挙に失業してしまう。だからこそ、彼らは、絶対に当たらない方法にこだわるのである。予測が当たるかどうかが問題なのではない。彼らが失業するか否かが問題なのだ。「自分たちの方法は無効です。他の人たちに任せてください」なんて、言うはずがないではないか。
 そして、そのことは、どの分野でも同様である。たとえば小泉は、「構造改革という自分の方法は、景気回復には、まったく無効です。他の人たちに任せてください」なんて、言うはずがない。世の中、すべて、そういうものだ。


● ニュースと感想  (8月09日)

 「体内コンピュータ」について。
 コンピュータを生体内に組み込むことは、可能だろうか? こう考えると、いかにもSFじみているが、実は、ある前提のもとで、可能である。
 まず、「コンピュータは脳の代替となる」(コンピュータは脳のようなものだ)ということを前提とするなら、答えは「不可能」である。コンピュータと脳とは、そもそも、まったく異質のものだからだ。「コンピュータを脳に組み込んで、人間の記憶容量を上げる」というSFを書いた人がいるが、そんなことは原理的に不可能だ。記憶と思考は密接に結びついているし、コンピュータと脳とは原理がまったく異なる。(CPUには百万単位のトランジスタが組み込まれているが、電極はたったの500本ぐらいしかない。一方、脳は、トランジスタにあたる部分は数十億であるが、電極にあたる部分はその倍もあるのだ。つまり、構造がまったく異なる。「脳に電極を組み込んで、脳を操作する」なんていう発想をするとしたら、お笑いぐさだ。脳は、電極で操作できるような単純なものではないのだ。CPUは、電極で操作できるような単純なものだが。)

 ただし、である。コンピュータは脳に組み込むことはできないが、太い一本の神経にならば組み込むことが可能だ。具体的には、次の例が考えられる。

 (1) 聴覚神経に組み込んで、音声を聞かせる。たとえば、空中で指を動かして、「MEMORY」とタイピングする動作をする。
 すると、その体内における運動神経の電気信号を認識して、聴覚神経に、「なにがおのぞみですか」という声を聞かせる電気信号を出す。この電気信号を受けて、本人にはその声が聞こえるのと同様となる。以後、タイピングの動きに合わせて、本人の質問と、コンピュータの回答する声とが、交互に続く。かくて、実質的に、コンピュータのデータを入手できる。
 つまり、脳に電極を埋め込むかわりに、運動神経や聴覚神経に電極を埋め込むことで、脳とコンピュータとの間でデータのやりとりをするわけだ。大量のデータは、脳に組み込まれるわけではなくて、聴覚を通じて出し入れするわけだ。
 ただし、そうすることに、どれほどのメリットがあるかは、また別の話である。別に、体内に組み込まなくても、体外に腕時計型か指輪型のコンピュータを装着していても(そしてイヤホンで聴いても)、同じことだからだ。たいていの人は、体内コンピュータなんて、いやがるだろう。というわけで、技術的には可能だとしても、ビジネスにはなりそうもない。

 (2) 聴覚のような感覚器に作用するのではなくて、運動器官に作用するコンピュータというのも考えられる。たとえば、手の根元に、コンピュータを付けておく。本人がちょっと手を動かそうとしたら、コンピュータの出す電気信号に従って、手がちゃんと動く。
 利用者となるのは、半身不随になった人々である。通常は、3年ぐらいをかけてリハビリをするが、半身不随になるのは、たいてい、脳梗塞などで脳出血をした老人だから、リハビリをしている期間が長すぎて、余命のほとんどを食われてしまう。これでは、割が合わない。だから、リハビリ期間を短縮するために、手足を動かすための体内コンピュータを使うといいわけだ。
 とはいえ、普通の人には、こんなものは必要ない。どっちみち、精密な動きの制御はできないからだ。というわけで、これも、ビジネスにはなりそうもない。

 以上、コンピュータの応用例を示したが、「情報科学技術の進展による、バラ色の未来」というものは、せいぜい、この程度である。「コンピュータによって世界は劇的に変わる」ということは、あるまい。
 振り返ってみるに、ここ30年ぐらいの間に、世界はほとんど変わっていない。固定電話が携帯電話になって、テレビよりもパソコンがもてはやされるようになったことぐらいだ。その結果はといえば、バラ色の社会どころか、暗黒の社会だ。携帯電話は人々の時間を奪うし、パソコンも人々の時間を奪う。ここ30年ぐらいの間に、人々の睡眠時間は1時間ほど減り、過労死は激増し、失業や自殺者もやたらと増えた。幸福になったことといえば、おいしい食事を取れるようになったことぐらいだが、そのかわり、かつてはほとんどなかった糖尿病や肥満などの成人病で苦しむことになった。
 とすれば、将来、体内コンピュータなんてものができたら、どうなることやら。とてもバラ色にはなりそうもないですね。たとえば、寝坊していたら、頭のなかで、上司の「出社しろ」なんていう声が聞こえてくるかもしれない。コンピュータがユビキタスになればなるほど、人間はコンピュータに支配されるのである。そのことは、携帯電話を見れば、明らかだろう。


● ニュースと感想  (8月11日)

 「戦争と平和」について。
 終戦記念日が近づいてきたので、戦争と平和について考えてみよう。
 「第二次大戦は回避できたか?」という問題提起がある。それに対して、「回避することは可能だった。日本軍の独走を阻止すれば、戦争を回避できた」という主張がある。なるほど、それはそうかもしれない。そうすれば、戦争は回避できたかもしれない。しかし、戦争を回避できたからといって、それが最善かどうかは、また別の問題である。
 「平和こそ最善だ。戦争は是が非でも回避するべきだ」という主張がある。しかし、本当に、そうだろうか? これについては、現代の価値基準でいえば、「イエス」だろう。しかし、現代の価値基準とは、「戦争は莫大な損失をもたらす」という教訓を得たすえに、獲得した価値基準である。その価値基準は、莫大な損失を代償として得たものなのだから、その莫大な損失を経験していなかった時代には、まだ誰も信じていなかったのだ。実際、その手痛い代償を味わった日本も、中国も、ソ連も、欧州も、その教訓を得たが、その手痛い代償を味わなかった米国だけは、その教訓を得なかった。米国は、「平和こそ最善だ。戦争は是が非でも回避するべきだ」とは考えず、「戦争こそ自由の砦だ」と考えている。人類の長い歴史では、こういう好戦的な考え方が、ずっと連綿と続いていたのだ。平和主義というのは、人類の長い歴史では、1945年以降に生じた、きわめて歴史の浅いものにすぎない。

 では、1945年以前の価値基準では、どうだったか? もちろん、現代のアメリカと同様な価値基準が世界的に支配的だった。欧米では「白人こそ優秀な人種であり、有色人種は猿のようなものだ。顔を見てもわかる」という考えが主流だった。そのせいで、アジア人を「黄色い猿」と呼んだり、アフリカ系の米国人を奴隷にしたりした。人種差別は、悪いことではなくて、むしろ、良いことだったのだ。逆に、異なる人種間の結婚などをすれば、それこそ、人間が猿と結婚するような、背徳の悪行だったのだ。(刑務所にぶち込まれる例もあった。)
 実は、生物的には、極東の黄色人種が最も進化していると言える。日本人や韓国人の脳の容量と、白人の脳の容量と、アフリカ人の脳の容量を比較すると、この順で優れている。差はわずかであるが、統計的にはっきりと有意の差が出ている。逆に、体力面で言うと、この逆である。ついでだが、ネアンデルタール人は、これらのどれよりも体力は優れており、かつ、知力は劣っている。
 別に、私は、「黄色人種優位論」を唱える気はないが、少なくとも、「白人こそ優れた人種である」なんていう説が、根も葉もないデタラメであることは、この事実からもわかる。なのに、こういうデタラメが、1945年以前の欧米では主流であったのだ。

 さて。話を戻そう。こういう差別主義がのさばっている時代に、日本のような新興国家が登場すると、どうなるか? 当然、旧来の国家は、地位を脅かされるので、圧迫にかかるだろう。そのことは、今の米国を見てもわかる。ちょっとでも自己を脅かそうとする国家が出ると、たちまち、たたきつぶそうとするのだ。
 たとえば、イラクでは、大量破壊兵器などは実際には存在しなかった、ということがわかってきた。少なくとも、「大量破壊兵器が存在する」という根拠が捏造であったことは証明された。つまりは、こういうふうに事実を捏造してまで、自己を脅かす危険のある国家をたたきつぶそうとするのだ。それが、その時代の帝国国家のなすことだ。帝国国家は、決して、「平和主義」なんかを信じてはいないのだ。
 かつて、米国は新興国家である日本に対し、極端な屈服を強いた。たとえば、石油の禁輸なんていうのも、そうだ。「こうすれば屈服せざるを得まい」というわけだ。こんなことは、事実上の宣戦布告なのだが、こういう圧迫を加えて、「これでおれ様に屈服するだろう」という発想そのものが、帝国国家の発想である。(たとえば、今でも、北朝鮮に対して「経済封鎖」をして屈服させよう、という案がしばしば出される。ついでだが、逆に、北朝鮮が日本や米国を経済封鎖したとしたら、どうなる? そう想像しただけでも、米国の発想には驚かざるを得ない。)

 こういう「屈服を強いる」ということをしたのは、米国だけではなかった。歴史上、しばしば、あった。日本でも、豊臣秀吉が大名に服従を強いたり、徳川幕府が外様大名に参勤交代を強いたりして、屈服を強いた。
 最も典型的なのは、古代のローマ時代における、ローマとカルタゴやコリントの例だ。( → 本項末の【 後日記 】へ移動した。)

 現代人はしばしば、「ナチスドイツは悪だった」とか、「日本軍による中国人虐殺は悪だった」とか、そういう話を言う。しかし、ナチスの例は、裕福なユダヤ人を狙って、その富を奪うのが目的の半分であった。日本軍の例は、中国兵が兵服を着ないで市民の姿をして攻撃するということ(国際法違反の行為)をしていることに、原因があった。いずれも、完全に正当化はできないとしても、合理的な理由がいくらかはある。ところが、ローマの例や、米国の例は、まさしく悪魔的な殺戮であったのだ。
 そして、その悪魔的な精神が、矯正されずに、米国にはずっと根づいているのである。こういう国を相手にして、「平和主義」を唱えることは、非常に危険である。もし平和主義を唱えるのであれば、米国に対して完全に屈服する以外には、生き延びる道はない。
 実際に、小泉や読売新聞を、見るがいい。彼らは犬のごとく、米国に向かってシッポを振っている。なぜか? 犬のごとくふるまわなければ、米国が攻撃してくることを感じているからである。だから彼らは犬としてふるまうのだ。

 結語。
 われわれが生き延びる道は、次のいずれかしか、ありえない。
 (1) 米国の犬としてふるまう。(米国が「戦争をしたい」と言えば、正か悪かに関係なく、「はいそうです」と従う。思考の自由をなくす。)
 (2) 平和主義を捨てる。(「何が何でも平和」とは考えず、ある程度の武力を備える。つまり、反論できるだけの腕力を備える。ただし、それまでは、屈服せざるを得ない。)
 (3) 米国を正気にさせる。(欧米などといっしょに、時間をかけて、米国の愚かさを教える。……とはいえ、そのためには、愚かな人物が国家指導者となる「大統領制」という制度を、あらためる必要がある。)

 このうち、どれがいいか? (3) が良さそうだが、実現性は非常に小さい。
 私の見込みでは、人類というのは、非常に愚かな生物種である。猿並みの判断力しか備えていないのに、武器だけはやたらと高度なものを使えるようになっている。気違いに刃物、という状況だ。馬鹿にハサミ、と言ってもよい。こんなことでは、気違いや馬鹿は、他人を殺そうとしたあげく、自分を殺してしまうのが、関の山だ。
 終戦記念日のころにおける私の予想は、「人類の滅亡」である。カルタゴの滅亡は、その前兆であったのだ。

 [ 付記 ]
 なお、私の感想を言っておこう。われわれが今、思考の自由を保てるのは、昔の人々が命を投げ出して、米国と戦ったからである。
 米国は当時、日本のことなど、「黄色い猿」としか考えていなかった。なのに、初期には、圧倒的な敗北を喫した。このことで、日本人に対する差別感情を弱めたのである。(恨むことはあったが、差別することはなくなった。危険な敵と見なしたとき、猿と見なして軽蔑することをやめた。)
 仮に、日本が平和主義を取っていたら、日本は米国に徹底的に屈服するしかなかった。すなわち、まさしく猿としてふるまうしかなかった。はっきり言えば、米国または英仏の植民地となるしかなかった。その結果、日本はベトナムやシンガポールなどと同様に、本来の言葉(日本語)を失い、英語や仏語を話すしかなくなっただろう。考え方も、欧米を中心として考え、何でもかんでも欧米に従うしかなくなっていただろう。つまり、言葉を失い、かつ、思考の自由をなくしていただろう。
 われわれは、今、戦争狂の米国に対して、「彼らは間違っている」と指摘することができる。そして、そういうふうに正常な判断ができるのは、日本が米国の植民地ではなかったからだ。つまり、日本語を備えて、日本人として思考できるからだ。そして、それは、昔の人々が、命をかけて、欧米の属国となることを拒んだからなのだ。
 日本はかつて、平和主義を取らなかった。そのことで、莫大な人命を失い、広大な領土を失った。しかし、そのかわり、欧米からの尊敬ないし認知を得たのだ。すなわち、猿と見なされることがなくなり、対等な人間として扱われるようになったのだ。われわれが今、欧米流に染まっていない言葉で自由に思考できるのは、かつての戦争のおかげなのだ。
 われわれの自由は、先人の血によって得られたものだ。そのことを理解しよう。理解できない人々は、米国に向かってシッポを振っていなさい。「I am sorry. I am 総理」というふうなチャンポン英語でね。

( ※ ただし、先人には予想外のことが起こった。せっかく先人が子孫に自由を与えたのに、子孫はそれを自ら捨てようとしているのだ。しきりにカタカナ英語を使って。流行歌はそうだし、映画の題名もそうだし、学者や官僚の使う用語もそうだ。「英語は先進的だ」と信じているようだ。日本人はふたたび、黄色い猿になりたがっているのである。「せっかく俺たちが血を流したのに……」と先人が嘆きそうだ。)

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【 後日記 】
 以下の記述をしましたが、原文を流し読みしていたせいで、誤読していた箇所が多々あります。話の要約としては不正確なので、取り消します。
<以下の説明は誤りです。ごめんなさい。世界史の勉強が不足していて、根本的に間違いがありました。>ローマが繁栄していたころに、新興国家であるカルタゴが勃興した。これは、米国と日本の関係に、たとえることができる。巨大な領土と経済を誇っていたローマの前に、急激に勢力を増したカルタゴが登場した。カルタゴの繁栄は、ローマにとって、目の上のタンコブだった。それまでは自国が世界最高の国家だと自他共に認めていたのに、すばらしい技術などを発揮して急速に繁栄していったカルタゴは、目障りで仕方なかった。 ローマは何度も、カルタゴに対して、屈服を強いた。無理難題を、何度も押しつけた。(これは、第二次大戦前の米国と日本の関係にそっくりだ。) そのあげく、カルタゴは、無理難題を受け入れることができなくなり、ついには、立ち上がった。ポエニ戦争の勃発である。カルタゴは、小国家であるにもかかわらず、 名将ハンニバルのもとで、当初は連戦連勝であった。(これも、太平洋戦争に似ている。)ところが、やがては、地力が出た。小国家の カルタゴは、人的にも余裕がなく、やがてはローマに敗れた。そして、問題は、その敗れ方だ。ローマ人がカルタゴになした処置は、空前絶後のものだった。国家を完全に消滅させたのである。それまでの戦争では、「××という国家が滅亡した」という記述がしばしば見られるが、それは、政府が滅亡したという意味であり、人民が消滅したという意味ではない。ところが、ローマ人がカルタゴになした処置は、まさしく人的にも物質的にも消滅させたのである。女も子供も皆殺しにして、地面に埋めた。建物はすべて崩して、ガレキにした。かくて、地上の楽園とも呼ばれた最も美しい国家であるカルタゴは、ただの更地になってしまった。これほどにも極端な処置は、歴史上には、類を見ないものだった。正確に言えば、似た例は、あと一回だけあった。それは、米国による、広島・長崎への、原爆投下だ。これもまた、カルタゴにおける例と同様、極端な破壊行為であった。

 [ 付記 ]
 カルタゴの話は、塩野七生の著作「ローマ人の物語」に依拠した。興味があれば、本屋さんでカルタゴのところを読んでみてください。日本の歴史を知るには、日本のことだけを見ていればいいわけではない。古代ローマの話も、非常に参考になるのだ。
 上記の話では、カルタゴとコリントが混同されています。この件については、下記の指摘があったので、引用します。
  「ローマ人の物語(U ハンニバル戦記)」(以下「物語」)を拝見したところ、
いくつか管理人様の御記述と内容が一致せず、疑問を覚えた点がありました。
 ──

 「最も典型的なのは、古代のローマ時代における、ローマとカルタゴの例だ。
 ローマは何度も、カルタゴに対して、屈服を強いた。無理難題を、何度も押しつけた。
 (これは、第二次大戦前の米国と日本の関係にそっくりだ。)
 そのあげく、カルタゴは、無理難題を受け入れることができなくなり、ついには、立ち上がった。
 ポエニ戦争の勃発である。
 カルタゴは、名将ハンニバルのもとで、当初は連戦連勝であった。(これも、太平洋戦争に似ている。)
 ところが、やがては、地力が出た。カルタゴは、人的にも余裕がなく、やがてはローマに敗れた。
 そして、問題は、その敗れ方だ。
 ローマ人がカルタゴになした処置は、空前絶後のものだった。国家を完全に消滅させたのである。」
 との御記述でしたが、
 
 「物語」の記述では、ハンニバルが活躍したのは、
 第二次ポエニ戦争(紀元前219年〜前201)
 で、開戦の契機となったのは、カルタゴによるローマの同盟都市サグントへの攻撃
 
 カルタゴが滅亡したのは、第二次ポエニ戦争より約50年後の
 第三次ポエニ戦争(紀元前149年〜前146)
 で、開戦の契機となったのは、ローマによる首都カルタゴの沿岸から内陸部への移転要求
 
 となっておりました。
 御記述では、両者が混在しておられませんでしょうか?
 
 ──

 「それまでの戦争では、「××という国家が滅亡した」という記述がしばしば見られるが、
 それは、政府が滅亡したという意味であり、人民が消滅したという意味ではない。
 ところが、ローマ人がカルタゴになした処置は、まさしく人的にも物質的にも消滅させたのである。
 女も子供も皆殺しにして、地面に埋めた。建物はすべて崩して、ガレキにした。
 かくて、地上の楽園とも呼ばれた最も美しい国家であるカルタゴは、ただの更地になってしまった。」

・「物語」では、第三次ポエニ戦争勃発直前の状況について、以下の記述がありました。
 『この状態がつづくことへの危機を感じたのは、首都カルタゴよりも、
  カルタゴ第二の都市のウティカをはじめとする、カルタゴ国内の諸都市の住民たちである。
  これらの都市は代表をローマに送り、もしもローマとカルタゴの間で
  戦争状態が再発した場合には、自分たちはローマ側につくと宣言した。』
 
 これから考えますと、領域国家としてのカルタゴは戦争が始まる前に既に崩壊しており、
 首都カルタゴを除く、領土のほとんどの人民には戦火が及んでいないということになるではないでしょうか?
 
・また、カルタゴ陥落時の状況について、以下の記述がありました。
 『降伏勧告を拒否して闘った市民の、落城後の運命は決まっている。
  奴隷にされたカルタゴ市民は、子供まで入れて五万にのぼった。』
  
 「女も子供も皆殺しにして、地面に埋めた。」との管理人様の御記述とは、合致していないように思われます。
 
 ──

 「これほどにも極端な処置は、歴史上には、類を見ないものだった。
 正確に言えば、似た例は、あと一回だけあった。
 それは、米国による、広島・長崎への、原爆投下だ。
これもまた、カルタゴにおける例と同様、極端な破壊行為であった。」
 との御記述でしたが、

 「物語」の「カルタゴ落城」の章に、カルタゴ陥落と同年のギリシアの都市国家コリントの最後について、
 以下の記述がありました。
 
 『コリントに急派されたローマ軍によって、コリントは徹底的に破壊され、美術品は没収されてローマに送られ、
  住民は老若男女を問わず奴隷に売られた。
  すきとくわで地表をならし、街そのものが消滅してしまったコリントは、
  不遜なギリシア人全体への見せしめであったのだ。』
 
 「歴史上には、類を見ないものだった。正確に言えば、似た例は、あと一回だけあった。」との御記述とは、
 合致しない部分かと思われます。
 
 
 「物語」に依拠されたというには、内容の異なる御記述が散見されましたが、
 あるいは管理人様は、「物語」に加えて別の資料にも依拠されたのでしょうか?
 もしそうでしたら、元の資料の内容に関する誤解を招きかねませんので、
 どの部分はどの資料に依拠されたか、明記された方がよろしいのではないかと愚考いたします。






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「小泉の波立ち」
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