[付録] ニュースと感想 (52)

[ 2003.11.29 〜 2003.12.12 ]   

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● ニュースと感想  (11月29日)

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● ニュースと感想  (11月29日b)

 「消費性向と景気」について。
 私のこれまでの理論によれば、「景気変動は限界消費性向の変化によって起こる」とされた。そして、「景気悪化は限界消費性向の定価によって起こる」とされた。
 しかるに、昨今の情報によると、景気悪化にともなって平均消費性向が上がっているようだ。しかし、このことは、私が先に述べたことと、矛盾するように思える。そこで、このことについて、説明しよう。

 まず、現状を見ると、「平均消費性向が上がる」というのは、不思議ではない。必要な分の消費があるのに、所得総額が減る。すると、数値上では、平均消費性向が上がるわけだ。
 なお、これは、「低所得世帯ではエンゲル係数が高い」ことと、同じ事情にある。所得が下がると、必要な支出である食費が削れないので、数値上、エンゲル係数が上がるわけだ。このことから、「所得が低いほど、エンゲル係数が高い」とされる。同様に、「所得が低下すると、平均消費性向が上がる」とも言えるだろう。

 一方、私が先に示したのは、「限界消費性向が変化すると、景気変動が起こる」というモデルだった。( → 8月16日
 このモデル(修正ケインズモデル)は、次の式で書かれる。

    Y = C+I (つまり C = Y−I )
    C = 0.7Y + Ca

      ( …… ただし、 Y は生産。 I は投資。 C は消費。 Ca は定数。
           0.7 というのは、[限界]消費性向。別の値でもよい。)

 ここで、Ca という定数を、「初期定数」と呼ぶことにしよう。
 これまでは、限界消費性向の変化ばかりを考えて、初期定数の変化については考えなかった。しかし、より正確には、初期定数の変化についても考えるべきだろう。そこで、本項では、このことを考察する。

 まず、これまでの考察に従って、「初期定数が一定のまま、限界消費性向が変化する」という状況を考えよう。たとえば、初期定数が一定のときには、「限界消費性向が下がると、景気の悪化が起こる」と言える。
 この過程では、所得の減少にともなって、平均消費性向はどんどん上昇する。なぜか? 平均消費性向は、初期定数と限界消費性向によって決まるが、このとき、限界消費性向は1より小さい値(たとえば 0.7 )だからだ。
 今、限界消費性向が 0.7 だとしよう。所得が無限大なら、平均消費性向は 0.7 に近づくが、所得がゼロに近ければ、平均消費性向は無限大に近づく。かくて、所得が少ないほど、平均消費性向は上昇する。

 ここで、注意しよう。「所得がゼロに近ければ、平均消費性向は無限大に近づく」となったが、現実には、そんなことはありえない。つまり、所得がゼロに近ければ、最初のモデルとなった近似式は成立しなくなる。では、どうなるか? 初期定数がどんどん小さくなるのだ。
 「景気が悪化すると、初期定数が小さくなる」ということ── これが、非常に重要である。

 ケインズ流のモデルでは、消費性向の初期定数は変化しないものと見なす。なるほど、短期的な景気変動であれば、それは正しいと言える。しかし、何年にも渡るような中長期的な景気変動に対しては、「初期定数が変化する」と考えた方がよい。では、なぜか?
 初期定数というのは、(消費者に想定された)「基本給」と考えるとよい。そして、それ以外の「業績給」(会社の決算に連動するボーナスや、自分の能力に連動する成果給)が、限界消費性向の対象となる。基本給の分は常に一定額を支出し、業績給の分はその収入額の増減に応じて支出額も増減させる。前者が初期定数の部分に相当し、後者が限界消費性向の部分に相当する。
 通常の景気変動では、基本給の変動はないものと見なす。しかるに、不況が長く続くと、基本給が低下すると見なす。すると、消費支出の初期定数が低下してしまうのである。
 こうなると、修正ケインズモデルも、再考を迫られる。すなわち、初期定数の変化を、考慮する必要が出てくる。

 初期定数および限界消費性向については、修正ケインズモデルで、次の (1) (2) のように扱うべきだ。
 (1) 短期
 短期的な経済変動については、初期定数を一定と見なして、限界消費性向の変化だけを考えればよい。限界消費性向の変化によって、マクロ的な総生産が変動する。
 景気変動をなくすための経済政策は、限界消費性向の変化を打ち消す方向の政策を取ればよい。金融政策と財政政策と増減税(タンク法)という方法がある。
 (2) 中長期
 中長期的な経済変動については、限界消費性向が変化すると考えるだけでなく、初期定数もまた変化すると考えるべきだ。経済がいったん大幅に縮小したあと(縮小均衡に近づいたあと)では、限界消費性向を高める政策を取るだけでは不足であり、手元の金を増やすことが必要となる。手元の金がろくにない状況で、「金を使え、金を使え」と心理的に駆り立てるだけではダメであって、実際に手元に金を与える必要がある。そうすれば初期定数が上がる。
 では、初期定数を上げるには? 「全員一律の補助金」というのが有効だ。逆に言えば、「支出に応じた補助金」というのは、限界消費性向を高めるためには有効ではあっても、初期定数を上げるためには有効ではないから、効率的ではない。たとえば、不況のときには、「住宅補助」とか、「投資減税」とか、「研究開発減税」とか、一定の支出に対して補助金を出すことが好ましいとされがちだが、実は、そうではないのである。それは、特定の人々だけに補助金を与える方法なので、効率的に見えながら、実は、非効率な方法なのである。(大多数の人にはまったく効果がないから。)

 結語。
 不況が長く続くと、平均消費性向が上がる。すなわち、限界消費性向が1近い値にまで上がり、同時に、初期定数が下がる。このとき、限界消費性向を上げようとする政策を取っても、あまり効果がない。限界消費性向を1よりも上げる政策は、国民に無理を強いるからである。
 だから、不況が長く続いたあとでは、「国民一律の減税」が、景気回復には最も効果がある。「所得比例の減税」はダメだし、「特定産業の振興」という策もダメだ。そのことが、「初期定数」の考察から、判明するわけだ。
( ※ 不況が短期的であれば、初期定数はまだ変化していないから、限界消費性向を上げる政策も有効である。)

 [ 補説 ]
 理屈はわかった。では、現実には、どのような政策を取るべきか? もちろん「全員一律(同額)」の減税である。一方、好ましくないのは、次のようなものだ。
 第1に、「所得比例の減税」。これは、「限界消費性向」を高めるものだから、「全員一律(同額)」という「初期定数」を高める政策よりも、効率が悪い。同じ効果を出すためには、ずっと多額の支出が必要となる。(なぜなら、高所得者は、減税の多くを貯蓄に回してしまうから。)
 第2に、「特定産業の振興」。これは、次の [ 付記 1 ] に述べるとおりだ。つまり、一部の産業にしか効果がない。(前にも何度か述べたが。)
 第3に、「公共事業」。これは、次の [ 付記 2 ] に述べるとおりだ。(前にも何度か述べたが。)

 [ 付記 1 ]
 すぐ前の (2) で述べたように、「住宅補助」とか、「投資減税」とか、「研究開発減税」とかは、問題がある。それは、限界消費性向に作用するだけだから、効果が少ない。しかも、それは、国が勝手に支出を決める方法であるので、きわめて非効率である。
 直感的に言えば、それは、「国家主導の経済政策」であり、「共産主義的な国家計画経済」である。だかこそ、きわめて非効率なのだ。金をもらった人は得をするが、その分、金をもらわなかった人は損をする。その得と損の額は、トントンである。少数の人々が1兆円をもらっても、他の国民全員は1兆円を負担する必要があるので、1兆円の損をする。具体的には、将来の増税で負担する。かくて、全部ひっくるめて見れば、「国が勝手に支出法を指定した」という分だけ、非効率になるのだ。
 そもそも、「投資開発」への補助金が素晴らしいと思うのであれば、国が個別の企業を経営指導すればよいのだ。つまり、国が全企業を国営化すればいいのだ。そういう馬鹿げたことを主張しているのが、「投資減税」だの「構造改革」だの「 e-Japan 」だの、経済白書に並んだ施策だ。結局、日本の官僚は、ソ連の社会主義官僚と、何ら違わないのである。「民間は愚かだから、政府が経営を指導すればいい」と思い込んでいるわけだ。あげく、ソ連を崩壊させたように、日本経済を崩壊させつつある。……では、ソ連と日本との違いは? ソ連では、官僚だけが「国の指導は正しい」と主張していたが、日本では財務省と経済学者が、「投資減税」だの「構造改革」だの「 e-Japan 」だのを唱えて、民間の側が国の指導を望んでいる、ということだ。

 [ 付記 2]
 公共事業は、直接的に支出が出るという意味で、初期定数を上げるのと同じ効果がある。その意味で、景気刺激策としては、きわめて有効である。
 ただし、公共事業が有効だとしても、「額が少なければ」という条件が付く。額が多くなると、土建業界だけでは吸収できなくなるので、他の多くの産業には直接的な効果が出ないままなので、効率が悪い。また、むやみやたらと無駄な公共事業がなされることになり、国民にとっては損である。この点は、「公共事業批判論者」の主張するとおり。
 一般的に言えば、小規模な不況では、そこそこの「公共事業」をやるだけでも、複数均衡点の「悪い均衡状態」から「良い均衡状態」へと移行できるので、ケインズ的な政策が成功する。しかし、大規模な不況では、そこそこの「公共事業」をやるだけでは、複数均衡点の「悪い均衡状態」から「良い均衡状態」へと移行できないので、ケインズ的な政策は失敗する。つまり、複数均衡点の山を乗り越えられないので、失敗する。( → 11月27日 ) だから、大規模な不況では、大規模な減税が必要不可欠なのである。

  【 追記 】
 平均消費性向は、現在、どのくらいになっているだろうか?
 直接的には、家計の支出を見る調査があるが、これは、抽出されたモニター世帯に対するものであるので、誤差がきわめて大きい。テレビの視聴率の誤差と同様であり、数百世帯を調べるだけでは、2%程度の誤差は避けられない。これだと、マクロ的な景気調査(コンマ以下の精度が必要)には、まったく無効である。
 もっと正確な調査法もある。間接的に、国民の貯蓄度を調べるのだ。「支出が増える」のと「貯蓄が増える」のとは、ほぼ同義である。誤差は、タンス預金の分だが、それはほとんど変動しないと見なせるだろう。
 すると、どうか? 国民の金融資産は、近年、マイナス傾向にある。つまり、貯蓄を取り崩して、消費に回しているわけだ。これは、きわめて異常な事態である。通常、(所得の全額を消費に回すわけではないから、)貯蓄は年ごとに増える一方である。たとえば、日本の個人貯蓄残高は、終戦直後には、ゼロに近かったが、現在では、1400兆円とも言われる。それほど急激に増えてきた。にもかかわらず、近年、それが減少傾向にあるわけだ。
 では、個人貯蓄残高が減るというのは、何を意味するか? 平均消費性向が1を上回る、ということだ。これは、世界的に見て、きわめて異常なことである。「たくさん消費するのは好ましい」なんてことはない。生産する以上の消費を続けていれば、やがては、アルゼンチンのように、国家経済が破綻する。(その先にあるのは、デフレでもインフレでもなく、スタグフレーションである。つまり、「所得減少」プラス「物価上昇」だ。そういう「泣き面にハチ」の状況が、日本を待ちかまえているわけだ。……毎年、国家予算の半分も穴をあけているのだから、このままでは、日本がアルゼンチン化するのは、必然であろう。)

 結論を言おう。
 急進派のマネタリストは、「将来の物価上昇を約束して、消費を増やさせよ」と主張する。しかし、消費はすでに十分に増えているのだ。彼らの話の前提は、「消費が萎縮しているから、生産が萎縮する」となる。しかし、平均消費性向が1を上回っている状態を、「消費が萎縮している」と見なすことはできない。彼らの主張は、デフレになりかけたときには成立するかもしれないが、デフレが深刻化したあとでは成立しないのだ。
 デフレの本質を理解することが必要だ。デフレとは、「悪しき均衡(縮小均衡)に陥って、そこから抜け出せない状態」なのだ。このとき、単純に「均衡を回復させよう」という政策は、無効なのだ。それは単に状況を「悪しき均衡」(縮小均衡)に向かわせるだけだ。
 ここでは、単に「消費性向を上げさせよう」という政策を取っても、ダメだ。むしろ、所得そのものを増大させるべきなのだ。
( ※ そして、古典派もケインズ派も、そのことを理解できない。古典派は、マネーと供給力ばかりを見る。ケインズ派は、官需ばかりを見る。「生産・需要・所得」という三面のうち、ごく限られた面だけにとらわれて、全体を見ることができない。彼らはマクロ経済を扱うときに、マクロ経済的な視点を取ることができない。古典派もケインズ派も、本当はマクロ経済のことを何もわかっていないのだ。現状は、所得が減っているから不況なのに、古典派もケインズ派も、別のところに原因があると勘違いしているせいで、別のところでだけ対処しようとする。「マネーを増やせ」、「供給力を上げよ」、「官需を増やせ」というふうに。その間、国民の所得は、縮小したままだ。……だからこそ、いつまでたっても、不況が続くのである。)

 [ 注記 1 ]
 本質的にはどういうことか、解説しておこう。
 短期的に経済が縮小したときには、「消費性向を上げよ」という主張が正しい。短期の不況は、限界消費性向が低下したことによって生じるのだから、限界消費性向を上げることで、不況は解決する。
 中長期的に経済が縮小したときには、「消費性向を上げよ」という主張は正しくない。中長期の不況は、限界消費性向が低下したことによって生じるのではないのだ。というのは、平均消費性向は上がっているからだ。では、中長期の不況は、なぜ生じるか? 所得のうちの消費に回す分(消費性向)が低下したからではなくて、所得そのものが低下したからだ。
 とすれば、こういうときには、「消費性向を上げよ」という主張は無意味であり、「所得を増やせ」という主張が正しいことになる。

 [ 注記 2 ]
 複数均衡点との関係を、もう一度述べよう。(繰り返しふうになるが。)
 マクロ的な均衡点が一つだけあると仮定すれば、「均衡点に達せよ」「そのために消費を喚起せよ」「そのためにインフレ目標を設定してインフレを予想させよ」という主張が根拠をもつ。
 しかるに、マクロ的な均衡点が複数あるというのが現実であれば、そのような主張は根拠をもたない。なぜなら、そのような主張で達成されることは、「好ましい均衡点への到達」ではなく、「好ましくない均衡点への到達」をもたらすだけだからだ。こういう状況では、「均衡点への到達」をもたらす政策は無意味であり、「めざす均衡点を変更する」という政策が有効となる。
 結局、「縮小均衡」という均衡点を放置したまま、「均衡を達成させよ」と主張しても、無意味なのだ。そのような政策によって実現されるのは、「縮小均衡」というマクロ経済の萎縮だけであって、「不況からの脱出」ではないのだ。
 実際、現実が、それを裏付けている。企業業績は回復しつつあるが、マクロ経済は縮小したままだ。企業の業績が回復すればするほど、落後したものが増えて、失業率と倒産は増大し、GDPはどんどん縮小していく。
( ※ ここでは、均衡点が「一つある」「複数ある」と述べたが、正確には、均衡点が「一つのところに固定されている」「別々のところに移動する」と言うべきだ。これについては、11月28日b の [ 付記 1 ] に述べたとおり。)


● ニュースと感想  (11月30日)

 「消費者物価上昇と景気」について。
 消費者物価がわずかにプラス基調にある。これを見て、「デフレ脱却か」という観測もある。ただし、消費者物価がプラスになるというのは、需要が増えたからではなくて、米の不作で米価が上がったり、増税で商品価格が上がったり、ユーロ高で輸入品価格が上がったりしたため。(夕刊・各紙 2003-11-28 )
 要するに、いわゆる「コスト・プッシュ・インフレ」の傾向があるせいで、消費者物価が上昇していくわけだ。で、これを数字だけで見ると、「需要増加のインフレ」つまり「デマンド・プル・インフレ」と同じように見えるので、「景気は回復しつつあるのかも」という予想が発生するわけだ。
 もちろん、これは誤認である。「コスト・プッシュ・インフレ」と「デマンド・プル・インフレ」は、同じではないし、むしろ、正反対である。コスト増加のせいで物価が上昇すれば、同じ所得に対して、わずかの量しか購入できなくなる。したがって、生産の数量は縮小する。

 では、正しくは? 
 消費者物価指数というのは、経済の指標としては、あまり正確ではない。この指標は、「コスト・プッシュ・インフレ」と「デマンド・プル・インフレ」を、区別できないのだ。だから、「コスト・プッシュ・インフレ」による物価上昇が起こったときには、それを「デマンド・プル・インフレ」による物価上昇であると誤認してはならない。
 経済の指標としては、消費者物価よりも、むしろ、所得に注目するべきだ。通常なら、消費者物価と所得とは、ほぼ連動して増減する。インフレでも、デフレでも、同様だ。ただし、両者が乖離することもある。今回は、消費者物価だけが上昇して、所得は上昇していない。これは「景気回復過程」と見なすことはできない。
 消費者物価の上昇を見て、「もしかすると、インフレになるかも」という観測もある。しかし、そんな観測は無用である。所得の増加がない以上、たとえ日銀がどんどん量的緩和をしても、インフレにはなりえないのだ。なぜなら、どんなにお金を刷っても、そのお金は人々の手元に回らないからだ。

 過剰な量的緩和の結果として起こりそうなのは、インフレでなく、似て非なる次の二つである。
 第1は、「資産インフレ」だ。過剰な量的緩和のせいで、株や土地ばかりがどんどん上昇する可能性はある。ただし、その「おこぼれ」で景気はいくらか良くなるとしても、メリットよりはデメリットの方がはるかに大きい。下手をすると、ふたたびバブルの膨張と破裂が起こり、日本経済は壊滅的な打撃を受ける。
 第2は、「スタグフレーション」だ。所得の上昇がないまま、企業が在庫用の資材などを買い占めて、資材在庫を積み増す。しかし、生産は増えない。眠る資材と、眠る金が、どんどん増えるが、生産自体は増えない。ガソリンやトイレットペーパーなどが値上がりするが、国民の所得は増えないので、生活はどんどん苦しくなる。まさしく、スタグフレーションだ。
 
 結語。
 「所得が増えずに、物価が上がる」なんていう状況は、好ましいどころか、好ましくないのである。こんな状況を見て、「景気が回復しつつある。嬉しいな」などと思うのは、とんでもない勘違いである。「デフレよりは、スタグフレーションの方が悪い」と、はっきり認識するべきだ。

 [ 付記 ]
 同じ日(28日夕刊)に報道された記事によると、失業率は 0.1%、悪化したという。景気診断で言うなら、こちらの方を重視するべきだろう。要するに、「縮小均衡」に近づきつつあるのだ。企業業績は好転するので、「利益が出て、嬉しいな」と言っているが、マクロ的には経済はどんどん縮小する一方なのである。つまり、「悪しき均衡」に近づきつつあるわけで、その分、「良き均衡」はますます遠ざかりつつあるわけだ。……そして、それにもかかわらず、多くの経済学者や識者は、「企業業績が回復しつつあるから、景気は好転しつつある」なんていうふうに、誤認しているのである。
 タコが自分の足を食うと、腹を満たされる。「腹が満たされて、嬉しいな」と喜ぶが、その間、タコの体はどんどん小さくなるのである。

 [ 補足 ]
 じゃ、どうすればいいか? もちろん、何度も言ったとおりだ。企業業績やら消費者物価やら金利やら貨幣供給量やら、そんなものをいくらいじっても、無意味である。有効なのはただ一つ、「所得」を増やすことだけだ。
 そして、それにはっきりと効果があることは、実証済みだ。日本は今、「米国の景気回復を受けて、輸出が増大している」なんて、すっとぼけたことを言っている。肝心の米国でなぜ景気回復が起こったかを、すっかり忘れてしまっているようだ。米国の景気回復は、巨額の減税によってもたらされたのだ。それが「金持ち重視」という難点はあったとしても、とにかく、減税にははっきりとした効果があったのだ。米国では、何度も「利下げ」をしても効果は皆無だったが、減税には直接的で明確な効果があるのだ。
( ※ 「金持ち減税」というのは、富者優遇であるので、不公正ではあるが、しかし、「公共事業」という、土建業優遇よりは、ずっとマシである。富者はもともと高額の税を払っていたが、土建業はもともと税を払うどころか税を食うだけだ。)
( ※ なお、米国民主党の言う「貧者だけへの福祉」というのも、逆の意味で不公正である。公正なのは、「国民一律」だけである。これこそ最も経済学的な方策なのだ。そこには政治的な思惑や主義はない。)


● ニュースと感想  (11月30日b)

 「不良債権処理」について。
 銀行の不良債権処理が進んでいるという。(新聞各紙 2003-11-26 〜 27 )
 銀行によれば、「もはや不良債権は、貸し出しの足枷(あしかせ)にはならない」とのことだ。とすれば、「不良債権処理」論者の意見に従えば、融資が急激に増えていいはずだ。換言すれば、市場金利は急上昇していいはずだ。
 しかるに、現実には、そうはならない。融資はちっとも増えないし、市場金利はゼロに張りついたままだ。とすれば、結局、「融資が増えないのは、不良債権があるせいだ」という「不良債権処理」論者の意見は完全に間違っていたと、実証されことになる。
 「不良債権処理」論者は、さっさとケツをまくるか、頭を下げるべきだろう。(特に、朝日の論説室はね。「不良債権処理が進めば景気は回復する」とさんざん主張していたのだから。)

 [ 付記 ]
 銀行の不良債権処理が進んだというのは、別に、銀行の業績が回復したからではない。景気が一時的に好転しているせいで、帳簿がうまく赤から黒に変わっただけだ。
 一般的に言えば、銀行の帳簿は、累積の損失によって決まるわけではなくて、当期の景気の良し悪しによって決まる。つまり、たとえ不況のまっただ中であっても、前期よりも当期の方が、景気が好転していれば、帳簿は赤から黒になる。
 そして、その次の期に、景気の波の変動で、ふたたび景気が下降局面になると、帳簿はふたたび黒から赤になる。
 銀行は「もはや不良債権処理は峠を越えた」などと楽観しているが、とんでもない甘い楽観である。現在は、輸出と円安を中心にして、一時的に株高になっているから、うまく不良債権処理が進んでいるだけだ。やがて、過剰に流入した海外資金が普通の状態に戻れば、株高はいっぺんに消し飛び、ふたたび不良債権がたっぷりと溜まる。
 銀行の担当者は、楽観する前に、まず、自分の銀行の株を買うとよい。そうすれば、今度の3月期の決算のころには、たっぷりとスリルを味わえるだろう。


● ニュースと感想  (11月30日c)

 前々日分の 11月28日b の後半を、かなり書き直した。(わかりにくいので。)


● ニュースと感想  (12月01日)

 「銀行国有化」について。
 足利銀行が国有化された。好ましいことではないとはいえ、倒産させるよりは、マシであろう。倒産させるとは、預金者の預金をゴミにして、社会的な大混乱を起こすことだからだ。
 一方、「ペイオフ」論者の主張によれば、「ダメな銀行はどんどん倒産させよ」となる。これだと、社会的な大混乱が起こることになる。では、この主張は、どこがおかしいのか? それを説明しておこう。

 「ペイオフ」論者の主張は、要するに、古典派の基本そのものだ。「ダメな銀行を退出させることにすれば、資源(人や資金)が、ダメな銀行から、健全な銀行に移る。かくて、ダメな銀行が消えて、健全な銀行が残る。ゆえに、すべての銀行は健全になる」というわけだ。
 一見、もっともらしい。では、そのどこがおかしいのか? 
 ここでは、ミクロ経済学における「最適配分」をめざしている。なるほど、そうすれば、「最適配分」が可能だ。ただし、ここでは、マクロ経済学における「国全体の総生産(GDP)の変化」を考慮していないのである。
 「GDPが一定である」と仮定すれば、「最適配分」によって、状態の最適化がなされる。それは、古典派の主張だが、その論理自体は正しい。ただし、「GDPが一定である」という仮定そのものが、成立しないのである。
 「ダメな銀行を退出させれば、健全な銀行だけが残る」と古典派は主張する。なるほど、GDPが変化しなければ、そうだろう。しかし実際には、「ダメな銀行を退出させれば、GDPが縮小するので、健全な銀行もまたダメな銀行になってしまう」となる。

 結語。
 古典派は、マクロ的なGDPの変化を無視して、配分の最適化だけをめざす。それゆえ、誤った仮定の上に論理を築き上げて、正しいことを主張しているつもりになるのだ。こういう論理を、「砂上の楼閣」と呼ぶ。

 [ 付記 ]
 足利銀行の国有化について、「倒産させるよりはマシだ」と述べた。ここでは、「マシ」というのは、「良い」ということではない。当たり前ではあるが、混同しないよう、注意しよう。
 金融庁あたりは、「足利銀行を国有化することは正しいことだ」と思っているようだが、とんでもないことだ。これは「善」というよりは「必要悪」に近い。
 なぜか? 「経営状態の悪い銀行は、国有化するべきだ」(または公的資金を注入するべきだ)という理屈が正しいとしたら、不況が続くと、あらゆる銀行を国営化する必要が出てくる。「郵貯の民営化と、民間銀行の国営化」という、狂気的な策だ。
 「ダメな銀行はさっさと倒産させよ」という過激な主張に比べれば、「ダメな銀行は国有化せよ」という現実的な主張の方がマシではある。しかし、これを「正しい」と評価するべきではない。
 では、正しくは? そもそも、銀行経営が悪化した理由を知ればよい。銀行経営が悪化したのは、日本中の銀行がそろって放漫経営をしたからではない。日本中の銀行がそろって「不況」の只中に投げ込まれたからだ。金を貸した企業が赤字になって、次々と倒産すれば、銀行もまたその影響を受けるのは必至だ。
 だから、正しくは、「銀行が悪い」というふうにスケープゴート(いけにえ)をしつらえることではなくて、「政府の経済政策が悪い」と核心を突くことだ。そうすれば、何かをなすべきは、銀行ではなくて政府だ、とわかるだろう。そしてまた、政府が無策のままであれば、銀行を次から次へと国有化していくしかなくなる。日本がソ連に似てきて、最終的には崩壊することになる。……そして、それこそ、「構造改革」路線のめざすことなのである。


● ニュースと感想  (12月01日b)

 「中国の反日暴動事件」について。
 西安で起きた反日暴動事件について、詳しい情報が出た。(朝日の新聞上にもあるが、同社サイトにもある。 → 「 検証――中国・西安寸劇事件」)
 これは、朝日には珍しく、事実を追求した記事である。朝日は常日頃、「日本は軍国主義で間違っている。中国はすべて正しい」と、中国共産党の広報紙みたいなことばかりを記事にして、小林よしのりに批判されてきたが、今回の記事は、「読者を洗脳しよう」という意図はなく、「事実を探ろう」という意図がある。朝日には珍しく、報道記事になっている。褒めておこう。(新聞が事実報道をしたから褒める、というのも、何だか変な話だが。ま、朝日というのは、そのくらい風変わりな新聞社なのである。)

 さて。この記事で示されていること自体は、特に珍しい話ではない。要するに、「中国の国民は反日思想に洗脳されていて、まともな事実認識ができない」ということだ。
 こう書くと、「中国ってのは、ひどいな」と思う人も出るかもしれないし、あるいは逆に、「中国を批判するな」と反発する人も出るだろう。しかし、どちらも正しくない。
 洗脳されているのは、中国人だけではない。次のようになる。
 どれもこれも、似たり寄ったりだ。そして、その洗脳の被害を最も受けるのは、自分自身である。中国の「反日思想」は、別に、大騒ぎするほどのことはない。それは、彼らが真実を知ろうとする目をふさぐ、ということを意味する。
 中国で「反日思想」が席巻している限り、日本はアジアの最先端国の座を脅かされることはない。むしろ、恐れるべきは、中国で「反日思想」が消えることだ。そのとき、中国は、真実を自らの目で探る能力を獲得したことになる。となると、ゆとり教育で「円周率は3です」なんてやっている日本は、中国に蹴散らかされるだろう。

 [ 付記 ]
 そうなると、日本は惨憺たるありさまとなるが、古典派経済学者は大喜びするだろう。
 日本の輸出力が衰弱すれば、円は暴落して、日本人の人件費は劇的に低下する。すると、「これで日本の輸出力は強化された、企業の収益力は向上した」と、日本の古典派経済学者は大喜びするのである。彼らにとっての理想国家は、高賃金の先進国ではなくて、低賃金の途上国なのだ。彼らは、需要のことなどまるきり無視して、供給力のことしか考えていない。だから、賃下げをして途上国化することこそ、彼らの経済学の目標なのだ。(彼らの主張を聞いてごらんなさい。 → 1月29日 など。)


● ニュースと感想  (12月02日)

 小泉氏へのアドバイス。
 イラクで外交官二人が殺害された。それについて、首相は「テロに屈しない」と威勢を張っていたが、その顔を見て、驚いた。いかにも苦渋がありありである。
 小泉への悪口をたっぷり書くつもりでいたが、どうやら、その必要はないようだ。米国への忠義と、国民への孝との間で、板挟みになっているようだ。「忠ならんと欲すれば孝ならず、孝ならんと欲すれば忠ならず」と悩んでいるらしい。
 小泉自身、自分が間違ったことをしているのを、よく認識しているのである。「自分の言葉のせいで二人の人間が死んだ」ということを、はっきり自覚しているのだ。だからこそ、嬉々として殺人を犯すブッシュとは違って、平気ではいられず、悩んでいるのだ。悩みながらも、さらに人を殺すハメになるのを知っているので、苦渋しているわけだ。

 そこで、アドバイスしておこう。
 こういうときには、「何をなすべきか」を考える必要はない。「何をなすべきか」なら、理性的な判断が、すでに出ている。小泉はやたらと「国際社会」という言葉を使うが、国際社会ならば、「米国主導ではなくて国連主導」という正解が出ている。そして、そのことは、小泉だって知っている。ただし、その正解を取るだけの、勇気がないのだ。
 こういうふうに悩むときには、「何をなすべきか」を考えるよりは、「自分は何をなしてきたか」を考えるとよい。「大量破壊兵器がある」とか、「フセインが独裁者で国民を圧迫している」とか、そういう意見を取って、米国の戦争を指示してきた。しかし、その言葉は、真実だったか? 戦争後に、大量破壊兵器は見つかったか? フセインが消えたあとで、テロリストが消滅したか? 違う。大量破壊兵器はなかった。テロリストは、フセインのころにはイラクにいなかったのに、フセインが消えたあとでイラクに出てきた。……つまり、「大量破壊兵器を解消する」とか、「テロリストを撲滅する」とか、そういう言葉は、すべて嘘だった、と判明したのだ。
 米国の言葉は嘘であったし、それを信じた小泉の言葉も嘘だった。「自らの言ったことは完全に間違いであった」と、過去を認識するべきだ。間違いをなしたなら、その間違いを認識するべきだ。そして、それが、すべての出発点である。

 [ 付記 ]
 景気だって、そうだ。「構造改革で、2年後には景気を回復する」という言葉は、真実だったか? 「効果不足」どころか、「効果は皆無」もしくは「効果はマイナスでかえって景気が悪化した」というのが、現実だ。(株価も失業率もGDP悪化している。)……こういう事実を認識することが大切だ。すべての前提は、事実の認識なのだ。
 間違った行動の結果、狙い通りの効果が出なかった、としたら、その事実を認識することが、何よりも大切なのだ。


● ニュースと感想  (12月02日b)

 「テロに屈せぬ」という言葉について。
 「テロに屈せぬ」と小泉はよく言うが、話を混同しているようだ。整理しておこう。
 
 第1に、「テロへの対策として、イラクへの派兵」があるわけではない。逆である。イラクへ派兵したから、テロが生じたのだ。そもそも、イラクには、テロなどは存在していなかった。イラク人同士の内輪もめならばあったかもしれないが、米軍は存在していなかったのだから、存在しない米軍に対するテロも存在していなかった。だから、最大のテロ対策は、米軍や自衛隊がイラクからいなくなることだ。そうすれば、テロは完全に消滅する。逆に、米軍や自衛隊がいる限りは、テロはなくならない。「テロに屈せぬ」という言葉は、話が正反対だ。

 第2に、「テロに屈せぬ」という言葉は、米国や日本のものではなくて、イラクのものであろう。かの国から見れば、よそ者が来て、自国を占領する、という事態は、まさしく、国家テロであるから、「テロに屈せぬ」という言葉で、米国や日本の軍隊を攻撃するのは、当然である。とにかく、「テロに屈せぬ」「脅しに屈せぬ」というような言葉は、ベトナム戦争のときにも使われたし、昔の日本軍でも使われた。そういう意地の張り合いから、愚かな戦争というものが何度も起こり、かつ、解決不可能になってきた。

 結語。
 「テロに屈せぬ」という言葉は、テロリストの使う言葉である。ブッシュも小泉も、国家によってテロを行なうテロリストであるから、子供の喧嘩のように、「頭を下げるくらいなら喧嘩をやめない」と言い続けるのだ。「頭を下げて馬鹿にされてたまるか」と。
 真の政治家ならば、「こうすればこうなる」という現実判断ができる。「侵略(と見なされること)をしている限りは、必ず攻撃を受ける」という事実を認識できる。教条的な主義にとらわれず、事実認識と現実判断をすることこそ、真の政治家のなすべきことだ。……そして、それゆえ、真の政治家を欠いた米国も日本も、正しい選択をできないのである。


● ニュースと感想  (12月03日)

 11月29日b の項に、【 追記 】 を加えた。


● ニュースと感想  (12月04日)

 「イラクへの自衛隊派兵」について。
 12月02日でもすでに述べたが、「何をなすべきか」なら、正解はすでにはっきりしている。「米国主導ではなくて国連主導」ということだ。
 実は、この意見は、世界的に主流になっているという。最初はブッシュを支持していた米国の保守系の新聞も、ブッシュ支持は過ちであったと認めて、「国連主導」を打ち出しているという。(朝日・朝刊 2003-12-03 )
 このことからすると、「米国に同調して、自衛隊を派兵する」というのは愚策である。どうせ派兵するなら、「国連主導のもとで、国連軍の旗を付けて自衛隊を派兵する」というふうにするべきだ。── そして、このことが、現在の論点となっているはずだ。
 ところが、小泉や、読売のような保守系マスコミは、この論点を意図的にずらしている。「自衛隊を派兵しないのは無責任だ」というような論調だ。そこには「国連主導でなく米国主導で」ということの論拠は少しもない。まったく、論点をずらしている。
( ※ 読売に至っては、「国益のため」と主張している。つまり、「国益のために軍隊を派兵せよ」というわけで、旧日本軍も真っ青の主張だ。旧日本軍だってこれほど露骨な利益主動ではなくて、もうちょっとまともな大義名分があった。)

 さて。日本の論者は遅れているので、「派兵すべきか否か」を論争しているが、米国ではもはや、「いつ撤退するか」が争点となっている。つまり、「撤退するためには、どれだけの被害が蓄積することが必要か」だ。
 現時点では、被害を我慢できる。しかしやがて、ベトナム戦争と同様に、撤退を余儀なくされる。なぜなら、相手は一部のテロリストではなくて、イラク国民全体であるからだ。選択肢は、イラク国民の半数以上を殺害するか、米国軍が撤退するか、二者択一である。前者が不可能であれば、後者しかない。(ベトナムでもそうだった。)
 となると、真の親米家は、米国が被害を蓄積する前に、政策転換を促すべきだ。友人が泥沼に足を踏み込んだなら、いっしょに泥沼に入ることは無意味だ。「きみのやることはすべて正しい。泥沼に踏み込むのも正しい」とおべっかを言うよりは、むしろ、「泥沼から脱け出しなさい。引き返しなさい」と助言するべきだ。
 真の友人ならば、それができる。しかし犬は、あとを追って、いっしょに泥沼に入ることしかできない。犬は主人を助けることはできないのだ。

 最終的には、どうなるか? ブッシュと小泉は、どちらも政権から去るのだろう。それはそれで、戦争解決の一案である。……そして、そうなったとき、小泉はブッシュに頭を撫でてもらうのである。「ご主人様と没落をともにするとは、賢い飼い犬だな。よしよし」と。


● ニュースと感想  (12月05日)

 「ファイル交換ソフト」について。
 著作権を侵害する行為を可能にするためのソフトがあり、これを使ってネット上で著作権の侵害をした二人が逮捕された。このことについて、解説記事があった。(朝日・朝刊・第3社会面 2003-12-04 )
 このソフトは、ネット上でパソコン同士で網の目状に連絡しあう。いわゆる「ピアツーピア」方式をとる。そのため、「匿名性が強い」とされる。つまり、ネット上でどの経路をたどったか、識別が困難であるため、誰が著作権侵害をしたのか、判別しにくいわけだ。
 今回の逮捕では、この経路を直接たどったのではないらしい。単にホームページ上で違法コピーを公開していたのを見咎めただけらしい。というわけで、このファイル交換ソフトによる著作権侵害の行為は、野放しのままだ。つまり、「一罰百戒」の効果はなかったことになる。
 「うひひ」と思って犯罪行為を重ねる利用者が多いようだが、甘く見ない方がいい。原理的には、この手の犯罪は、容易に摘発が可能である。それは、「ウィルス」を使う方法だ。「違法コピーがありますよ」と警察がおとりを仕込んでおいて、それをダウンロードしたら、とたんに、ウィルスが稼働する。そして、「この日にダウンロードしました」という犯罪情報を記録しておいて、その犯罪情報を自動的に警察に送信する。かくて、ウィルスが仮想警察官となって、犯罪者を特定するわけだ。

 ウィルスというと、悪いことばかりをするように思えているが、使い方によっては、世の中のためになる行為も可能になるわけだ。( → 10月23日 「善玉ウィルス」 )

 [ 余談 ]
 「何でおまえは、警察の味方なんかするんだ」と非難されそうだが、仕方ないんです。私の好きな彼女が、ミニスカポリスなんですから。


● ニュースと感想  (12月06日)

 「景気の見通し」について。
 首相と財界人との懇談会で、財界人からは「景気が回復しつつある」との声が相次いだという。「需要に供給が追いつかない」などと。それを受けて首相は、「日本の経済は立ち上がってきていると実感した」と述べて、満足そうだったという。(朝日・朝刊・経済面・ベタ記事 2003-12-05 )
 また、同じ記事のそばには、日本銀行の委員が発言がある。「量的緩和の解除は、デフレ脱出にワンテンポ遅れるようにする」と述べている。これは、「2000年のゼロ金利解除が早すぎた」という批判を考慮したものであろう。

 さて。この二つの記事を並べてみると、考えられることがある。「景気回復の芽」という現象は、2000年の後半にもあったのだ。このときも、輸出が増えて、景気が回復しつつある、とされた。ところが、現実には、輸出の急増はいつまでも続かず、腰砕けになった。翌年からは、輸出が減り、同時に、「景気が回復しつつある」という期待もしぼんだ。「景気は回復する」という見通しははずれた。
 ただし、このときは、「ゼロ金利の解除」という事件もあった。だから、「景気が回復しなかったのは、日銀がゼロ金利を解除したからだ。ゼロ金利を解除しなければ、景気は回復したはずだ」という主張が、マネタリストを中心に、強く出た。

 この主張が正しいか間違っているかは、断言はできない。ただし、私としては、かねて批判的であった。「ゼロ金利解除」といっても、いきなり1%も上げたわけではない。よく覚えていないが、0.2%程度の上げ幅であったと記憶している。これによって、融資総額がどれだけ減ったかといえば、実質的には、変化なしである。というのは、もともと量的緩和が行き過ぎていて、融資の量はありあまっていたからだ。だから、効果としては、「投資額の減少」は微々たるものであり、単に「滞留している金の減少」があっただけだ。
 結局、「ゼロ金利解除」というのは、それによって投資総額を急激に減少させたわけではなくて、あくまで、「気分」の問題であったにすぎない。そして、その「気分」の影響というのは、「需要の伸びの予想」に比べれば、微々たるものである。たとえば、「需要が3%増える」という見通しがあれば、銀行から借りる融資の利率が0.2%ぐらい上がっても、関係なく、企業は投資を増やすであろう。一方、「需要が減る」という見通しがあれば、金利に関係なく、企業は投資を控えるだろう。
 現実には、輸出が青天井でずっと上昇することはなかった。一時的に輸出が増えたあとでは、円高になり、輸出の増加は抑制させられた。一方、国内の需要は、「輸出の増加」にともなう「企業の業績回復」を起爆剤にすればよかったのだが、企業の業績が回復しても、その分の賃金増加がなかったので、国内の需要は増えないままだった。(ここでは、「成果主義」だの「年功給の廃止」だの「ベアゼロ」などの見通しがあって、実質賃下げばかりが話題になっていた。)

 まとめ。
 現在、円安および米国景気ゆえの輸出増加が原因となって、企業の業績は急回復している。それを見て、企業も首相も、「景気は回復している」と認識している。しかし、この道は、いつか来た道である。2000年後半にも、輸出増加にともなく一時的な景気回復があった。その一時的な景気回復は、翌年には終わった。その理由を、「日銀のゼロ金利解除のせいだ」と、マネタリストは主張した。しかし、本当にそうか? 
 もしマネタリストの主張が正しいとすれば、今回、ゼロ金利を解除しないことによって、景気は回復するだろう。(ただし、もしマネタリストの主張が正しければ、これまで非常に巨額の量的緩和をしていたのだから、1〜2年前にとっくに景気は回復していただろう。)
 もしマネタリストの主張が正しくないとすれば、今回、ゼロ金利を解除しないとしても、景気は回復しないだろう。つまり、今回の景気の好転は、あくまで一時的なものであるにすぎない。ゼロ金利の解除などは、あってもなくても、もともと影響は微々たるものである。2000年の後半と同様に、一時的に景気が回復したあとで、やがてまた景気は悪化するだろう。その理由は、国内需要が増えないことだ。

 では、どちらが正しいか? 私の判断では、後者が正しいだろう。つまり、悲観的な見通しが成立するだろう。
 なぜか? 現在、国内需要が一時的に増えることがあったとしても、それは消費性向が一時的に高まっているだけのことだ。そもそも、所得の縮小にともなって、消費性向がかなり高くなっているのに、消費性向の高い状況がいつまでも続くはずがない。「有り金以上の金をどんどん使う」「貯蓄をどんどん取り崩す」という過剰消費の状況が、いつまでも続くはずがない。やがては、過剰消費の状況は、消えるはずだ。そのときが、景気がふたたび後退する時期だ。
 マクロ経済というものは、「所得」を中心にして考える。「所得」が増えれば名目経済は拡大するし、「所得」が減れば名目経済は縮小する。現状は、「所得」が減っているまま、消費性向だけが高まって、国内需要が一時的に少しだけ回復している状況だ。そういう状況は、継続しない。やがては過剰消費のツケが来るだろう。
 私の予想では、円高の進展にともない、景気は徐々に後退する。そのことがはっきりした時点で、企業は投資を差し控える。来年の春には、景気後退がかなりはっきりするだろう。……すなわち、今年後半から来年前半にかけての景気は、2000年後半から2001年前半にかけての景気と、同様であろう。いずれも、「一時的な輸出増加にともなう景気回復と、そのあとの輸出縮小にともなう景気後退」と要約できる。
( ※ 結局、「所得」を一定にしたまま、景気だけを動かそうとしても、無理なのだ。国民に金がない状態で、企業と市場にだけ金をふんだんに出回らせても、経済は少しも拡大しないのだ。それが本質だ。)
( ※ 過剰消費については、「消費性向」の話題で、数日前に述べた。 → 11月29日b

 [ 付記 ]
 最も楽観的なシナリオが成立するとしても、「微弱な景気好転がしばらく続く」というだけだ。高率の失業率は決してすぐには解決されないだろう。企業は楽観的な予想を立てているようだが、それはあくまで、「縮小均衡」に近づいているというだけのことだ。つまり、「生き残った企業だけは、比較的マシな状態になる」というだけのことだ。死んで消滅した企業が生き返るわけではない。つまり、労働者や金や設備などの経済資源が働き出すわけではなくて、相変わらず眠ったままだ。ほんの少しずつなら、目覚めていくかもしれないが。
 正しい政策は、「眠っている経済資源をすべて目覚めさせる」ようにすることだ。「少しずつでも目覚めていけばいい。長期的には、景気が回復する」なんてのは、とんでもない。そんなことでは、われわれの人生は終わってしまう。「長期的には、われわれはみんな死んでいる」のである。(ケインズの言葉。)
 「景気は回復基調にあるからいいな」なんて悠長なことをいっているべきではない。今すぐ直ちに、失業者を大幅に雇用させるべきなのだ。そのためには、タンク法による「減税」以外にはありえないのだ。この道を避けている限り、われわれの人生は一年ずつ削られていく。そうしてすでに、13年も削られた。


● ニュースと感想  (12月07日)

 「景気の現状」について。
 あちこちの情報を見ると、景気の現状は、次のようにまとめるべきだろう。  ここで、マクロ経済の本質を理解しよう。「景気がよい」というのは、「一部の企業が好業績になる」ということではない。一部の企業がどんなに好業績になっても、そのことは景気とはほとんど関係ない。景気というものは、国全体の経済の総和が拡大するか縮小するかで決まる。そして、そのことは、最も弱い部分がどうであるかで決まる。
 換言すれば、こうだ。100の企業のうち、95の企業は不況でも生き延びて、残りの5の企業が倒産するとする。すると、「不況」というのは、この5の企業が生きるか死ぬかで決まる。経済が縮小していれば、この5の企業は死ぬ。経済が拡大していれば、この5の企業は生き残る。(さらに、新たな企業が新規参入したり、既存企業が規模拡大をしたりするだろう。)── こういうふうに、95の企業が好業績になるかどうかは、あまり関係がないのだ。5の企業が生きるか死ぬかが問題なのだ。
 これまでは、どうだったか? 「 95の企業が業績悪化し、5の企業が死ぬ」という状態だった。これは、単純な「不況」であり、わかりやすい。
 現状は、どうか? 「 95の企業が好業績になり、5の企業が徐々に死んでいく」という状態だ。これは、単純な「不況」とは違って、わかりにくい。実は、これは、「縮小均衡」に近づきつつある状況だ。このとき、95の企業だけに注目すれば、「好業績になっているので、景気は回復しつつある」と誤認しやすい。しかし、5の企業に注目すれば、「景気は回復しつつあるとは言えない」とわかる。
 景気の良し悪しは、大企業の決算の良し悪しで決まるのではない。大企業の決算が好転したのは、経済が拡大したからというよりは、リストラによって規模を縮小したからだ。「質的な向上と、量的な縮小」を達成したからだ。それによって、企業は質的に良くなる。しかし、マクロ経済は、個々の企業の質的な良し悪しは問題ではなく、国全体の量的な規模が問題なのだ。企業がいくら好業績になっても、それが多大な解雇のおかげであって、多大な失業者が出ているようでは、とうてい「景気は回復した」とは言えないのだ。( → 2002年12月13日 以降。「失業の問題」)

 結語。
 現状は、「坂をどんどん転げ落ちている状況」ではない。その意味では、ここ2年間の状況に比べれば、好転している。しかしそれは、「悪化が止まった」というだけのことだ。絶対水準そのものは、低いままだ。とうてい「元の水準に回復していく」とは言えない。
 ここ2年間、小泉の政策は、「構造改革」という「坂をどんどん転げ落ちるようにする」という政策だった。企業は「生産性の向上」をめざして、労働者を解雇し、企業規模と国家経済を縮小させていった。そして、それを代償として、企業自身を質的に向上させていった。それこそまさしく、サプライサイドの方針であり、小泉の「構造改革」の方針だった。小泉が「構造改革」を唱えれば唱えるほど、企業は質的に向上して、国家経済は縮小していった。……そして、それが、今や一息ついたところだ。企業は量的には十分に縮小したので、質的には十分に向上した。しかし、国家経済を量的に見れば、最悪である。これ以上は悪くはならないとしても、「放置すれば自然に回復していく」ということはない。そんな「自由放任」主義では、このあと、まともな景気になるまで、さらに十年かかるかもしれない。
 人々は「馬鹿な」と思うかもしれないが、実質的には一千万人近い失業者が、一年ぐらいで一挙に雇用される、と思う方がどうかしている。そういうことは、放置するだけでは、決してありえない。しかし、そういうことは、まさしくなさねばならないのだ。すなわち、決して放置に任せてはならないのだ。さもなくば、多くの人々の人生は終わってしまう。


● ニュースと感想  (12月09日)

 「ロシアの下院選」について。
 ロシアの下院選の結果が判明した。与党勢力が80%の得票率。大統領派の圧勝。それというのも、大領側がマスコミを総動員して、与党側の宣伝ばかりをしていたせい。反対勢力は手足をもがれた状態で、なすすべもなし。また、別の理由もある。野党側は財閥勢力であるが、国民がこれに大反発したため。(2003-12-08 夕刊・各紙。)

 さて。論評しておこう。
 第1に、「政権側がマスコミを牛耳る」というのは、とんでもないことであり、民主主義を破壊しているも同然だ。しかし、これは、誰もがわかることである。いちいち私が指摘するまでもない。そもそも、これがとんでもないことだ、ということは、ロシア国民自身がわかっている。(とんでもないことだとわかっていて、なおかつそれを支持せざるをえない、というところに、ロシア国民の苦渋がある。)
 第2に、野党側が財閥勢力であることだ。ここに、問題の根源がある。政府側はアンチ財閥であり、そのために民主主義の破壊のようなことをしているが、それが国民にとっては、喝采の対象となる。つまり、民主主義をぶっつぶして、強権を発動することを、国民は望んでいるのだ。先進国からすれば、言語道断であるが、そういうひどい状況に、ロシア国民は置かれているのだ。そこに、本質がある。

 結局、根源は、ロシアの状況だ。それは「財閥による経済支配」と呼べる。これは、どういうふうにして、起こったか? 特定の富豪が、コネや賄賂を利用して、ほとんど非合法の手段で、国有財産をかすめとって、巨額の財産を築いた。それが国民の反発を買っているわけだ。
 では、このようなとんでもない「国家財産の泥棒行為」は、いかにして、生じたか? 実は、それは、ロシア国民が選択したのではない。IMFが指導したのだ。
 「自由主義経済こそ、社会主義国家から脱出する、最適の方法だ」
 と主張して、ロシア経済に、一挙に自由主義経済を導入した。すると、旧来の産業や生産力は一挙に崩壊した。一方、何も生産しないで、輸入などでうまく立ち回った人々だけが、莫大な富を得た。
 「彼らが儲けるのは、ちっとも悪いことじゃない。そうすれば経済は最適化する」
 とIMFは主張した。しかし、現実には、彼らのやったことは、「困っている人間の足元を見る」ようなことだ。彼らのやったことは、「市場のなかで最適状態をもたらす」ことではなくて、「市場が成立していない状況で、歪みをうまく利用する」ことだ。こんなことをいくらやっても、国全体の生産力はちっとも高まらない。

 結局、ロシア経済が崩壊したのは、IMFが「自由主義万能」という政策を、ロシアに無理やり押しつけたことだ。そのせいで、ロシアは今や、ガタガタになってしまったわけだ。
 要するに、「自由経済ですべてうまく行く」という古典派の妄想は、まったく正しくない。そのことが、ロシアの例からわかるわけだ。
( ※ この件は、すでに何度か言及した。 → 11月26日 など。)
( ※ ともあれ、そういう事情の結果としての例の一つが、今回の選挙結果であるわけだ。ロシアの惨状は、たくさんある。今回の結果も、その一つである。そして、悲惨な結果はたくさんあるとしても、原因はただ一つなのだ。)

 [ 余談 ]
 今回の件を、たとえて言おう。
 「人々が自由に競争すれば、最も公正で正しい状況になる」と教師が主張した。そして、「ヨーイ・ドン」と号砲を鳴らした。生徒たちはいっせいに駆け出すだろう、と教師は予想した。ところが、実際には、そうではなかった。ずる賢い奴が、あちこちで、他人の足を引っかけて、倒してしまった。倒れた相手を、助けるどころか、踏んづけて、ぶん殴った。こうやって他人を全部倒したあとで、彼はゆうゆう、賞品を一人占めした。他の人々は、怒り狂った。
 もう一つ、別のたとえを言おう。
 やはり、同じように、「ヨーイ・ドン」と号砲を鳴らした。生徒たちはいっせいに駆け出すだろう、と教師は予想した。ところが、実際には、そうではなかった。生徒たちはみな、病気で、ヨレヨレだったのだ。走り出す体力があるものは、一人もいなかった。ところが、ずる賢い奴がいて、レースの外にいる他人を呼び寄せて、おんぶしてもらった。彼は構わず、さっさとおんぶされてゴールして、賞品を独り占めした。他の人々は、「ルール違反だ!」とか、「ドーピングだ!」とか、大いに批判したが、「そんな法律はない。抜け目ないやつが勝つだけのことさ」と教師は平然としていた。他の人々は、怒り狂った。
( ※ いずれにしても、ひどい話だが、これが適用されるのは、ロシアだけではない。日本も、似た状態だ。「構造改革」「財政節度」なんていうIMFふうの処方を受け入れて、日本もずっと不況である。世界の二大阿呆国家は、ロシアと日本であろう。)


● ニュースと感想  (12月09日b)

 「エスカレーターの片側通行」について。
 「エスカレーターの片側通行をどうするか」という問題が話題になっている。「片側通行にして、急ぐ人が右側を通れば、急ぐ人には便利だ。しかし障害のある人は、右側にいるしかない。すると、怒鳴られたり、ぶつかられたりして、困る」という問題だ。(朝日・朝刊・投書欄 2003-12-06 )
 これは「あちらが立てば、こちらが立たず」という問題だ。この問題は、どう解決するべきか? 実は、経済学的な考え方を適用すると、この問題を解決できる。
 「主要な2割のものが、分布では8割を占める」というおおざっぱな経験則がある。 たとえば、パソコンのファイルでも、自動車の補充部品でも、よく使われるものは、全体の2割ぐらいであって、それだけで、頻度の8割ぐらいを占める。(「パレートの法則」ないし「2-8の法則」。経済学者のパレートが提唱した。野口悠紀雄の「超整理法」に言及がある。)
 この考え方を、エスカレーターにも適用できる。「右側通行で、どちらを優先するか」という問題については、「こちらだ」と一方に決めつけないで、「双方だ」と決めればよい。通常は、片側通行を実施する。たいていの場合は、それで済む。ただし例外的に、障害者が右側に来ることもある。この場合は、その人のところで、片側通行をやめる。後方に位置する人は、片側通行をできなくなるので、不便になる。しかし、そうなることは、頻度で言えば、めったにない。また、そういうことがあるとしても、せいぜい、エスカレーターが終わるまでだけの話だから、1分間も遅くなるわけではない。このくらいは、我慢できるだろう。(我慢してもらわなくては困る。)
 そもそも、この問題は、日本だけで発生する。外国ならば、目の前に老人がいて、エスカレーターの通行を邪魔していても、そこで足を止めて、じっと待つだろう。邪険にすることなどはありえまい。日本人があまりにもせっかちだから、こういう問題が起こる。

 結語。
 この問題については、「どちらが優先するか」という方法ではなくて、「場合ごとに切り替える」という方法、つまり、「障害者や老人が立ったときだけ、片側通行をやめる」という方法が、正しい解決策である。
 ただし、そのことが周知されていないと、通行人が相手を「マナー知らずの不心得者」と勘違いして、邪険にすることがある。ここでは、問題は、価値観の対立にあるのではなくて、正解が周知されていないという、情報伝達の欠如にある。
 問題が情報伝達の欠如にあるとすれば、なすべきことは明らかだろう。ここでは、通行人が何かをなすべきなのではない。鉄道組織が何かをなすべきなのだ。すなわち、正解となる情報を、エスカレーターの周辺に表示すればいいのだ。
( ※ 現実には、駅に氾濫している情報は、必要な情報ではなくて、広告という邪魔な情報ばかりだが。広告を表示するために、必要な情報を削除しているのかもしれない。本末転倒。)

 [ 付記 ]
 一般に、世の中のトラブルのほとんどは、人間同士の情報伝達が不足であることによる。現在は「情報化時代」と呼ばれ、機械による情報伝達はどんどん進んでいるが、人間同士の情報伝達は、かえって不足してしまうのだ。だからあちこちでトラブルが起こる。
 情報化時代において、最も大切なのは、大量の情報を処理することではなくて、人間同士で情報伝達能力がなくなってしまうことだ。「ケータイ」の発達は、そのことを暗示している。
( ※ ただのエスカレーターの話から、大きな文明論に進んだことになる。)


● ニュースと感想  (12月10日)

 「イラクへの自衛隊派兵問題」について。
 自衛隊の派兵が決まった。大騒ぎ。( 2003-12-09 夕刊 〜 翌日朝刊)
 国民の間では、反対の意見が大多数だ。また、識者の間では、「輸送機なんて遅くてデカいから、携帯ミサイルの格好の餌食だ」という指摘がある。「死者数十名」という記事が出ることは、覚悟しておいた方がよさそうだ。

 さて。ことの是非については、どうか? 民主党の前原と自民党の中谷の両代議士による、賛否両論が掲載されている。代表的な意見だろう。(読売・朝刊・特集 2003-12-09 )
 前原の方は、論旨がすっきりしている。「大量破壊兵器があるという虚偽のもとで、大義なき戦争をした米英が、そもそも間違っている。ここを正して、国連軍のもとでなら自衛隊を派遣してもよい。時間はいくらかかかるが、その方が結局は早く片付く」という意見。きれいな論理だ。この人、なかなか頭がよい。次期民主党のホープかもしれない。
 中谷の方は、論旨がメチャクチャだ。「テロを放置させぬために自衛隊を派遣する」と言うが、その一方で、「自衛隊は戦うためではなくて、人道支援・人助けのために行く」と言う。話が矛盾している。一方では「テロと戦うため」と主張し、他方では「誰とも戦わないため」と言う。一方では「テロとの対決のためには軍の派遣が必要」と言い、他方では「安全確実でテロのない地域に派遣する」と言う。さらには、「米軍主導でなくイラク人の自治に移行させる」と言うが、実際には、イラク人の自治や国連主導に大反対しているのが米国だ。
 保守派の論旨は、なぜ自己矛盾だらけなのか? 本当のことを言わないからだ。本心を隠して、きれいごとばかりで、取りつくろうとする。だから、ほころびだらけとなる。むしろ、本音を言うべきだ。「イラク人の自治に任せる」なんて気は毛頭ないのだから、そんなことは言うべきではない。かわりに、「親米政権を樹立させるため」と、はっきり言うべきだ。そして、その目的は、「イラクにおいて米国の利益と権益を確立するため」と、はっきり言うべきだ。つまり、「イラクのためではなくて米国のために自衛隊の派遣が必要なのだ」と、はっきり言うべきだ。
 そして、そういうふうに事実を正しく認識したとき、問題がどこにあるかもわかる。「米国の利益のため」という米国の占領政策に、イラク人が反発している、ということだ。
 ここを取りつくろって、「テロとの戦い」などと言うから、論理がメチャクチャになる。だいたい、自国の政権を相手にする闘争なら「テロ」だが、外国からの占領軍を相手にする闘争を「テロ」と呼ぶのであれば、あらゆる抵抗運動が「テロ」になってしまう。たとえば、ナチスに対するフランス人民の抵抗も「テロ」だし、中国進駐した旧日本軍に対する中国人民の抵抗も「テロ」になってしまう。何でもかんでも「テロ」と呼んで、それで済ませてしまうのは、思考停止状態である。頭が思考テロにさらされているようなものだ。

 [ 付記 1 ]
 論壇などでは、「好むと好まざるとにかかわらず、選択肢はこれしかない。日本は対米追従以外にないからだ」と主張する意見もある。しかし、この意見は、二重の意味で、欺瞞に満ちている。
 第1に、「そうするしかない」と主張するのなら、そのことをはっきりと明示するべきだ。つまり、「間違ったことではあるが、金のためには、やむを得ない」と。つまり、「金のために、魂を売り渡して、悪行を行なうのだ」と。このことを明示しないのはまったく卑怯である。たとえば、ヤクザものが、「兄貴に命じられたので、逆らえなくて、殺人したんです」と弁解することはあるが、それだって、「悪いとは知りながら、ついついやってしまいました」と正直に述べるものだ。「兄貴に命じられたから、しょうがないんです」と弁解しているだけで、悪を認めない輩は、人間として最低だね。はっきり言って、人間のクズだ。
 第2に、人間のクズなら「そうするしかないんです」と弁解するだろうが、世の中には、人間のクズ以外もいるのだ、と知るべきだ。フランスやドイツは、アメリカの大反発を買ってまで、戦争に反対した。「それしか選択肢がないんです」なんて、弁解するべきではない。選択肢は、ある。ただし、それを取るだけの気概がないのだ。ヒョーロクダマ。

 [ 付記 2 ]
 「選択肢はこれしかない」という人々は、「派兵しなかったら、米国が何をするか、考えてみるがいい」と主張する。それはつまり、「米国がものすごい復讐をするだろう」ということだ。
 彼らの主張は、要するに、「米国は民主主義を無視した独裁国家であり、殺人だろうと何だろうと、米国の言いなりになって、悪行をするしかない」ということだ。彼らは、非常に親米的であるように見えながら、実は、米国を「悪の帝国」「世界最強の独裁国家」と見ているわけだ。でもって、怯えているんですね。びくびく。ヒョーロクダマ。
 ふうむ。米国ってのは、そんなに悪い国だったのか。で、そう思うのなら、そのことを堂々と主張すればいいのにね。「悪に屈服せよ! 悪魔の手先になって殺人を行え!」と。
( ※ でもって、「悪魔の手先」に対して攻撃が加わる、というのがイラクの現実。)

 [ 付記 3 ]
 「派兵しなかったら、米国が何をするか、考えてみるがいい」という主張がある。しかし、あまり怯えない方がいいだろう。冷静に考えてみるがいい。別に、何も起こらないはずだ。
 その証拠は? 現実を見るがいい。アメリカは、フランスやドイツに対して、ほとんど何もしていない。一時、険悪な雰囲気にはなったが、別に、破局的になったわけではない。せいぜい、「フレンチトースト」という名称を、別の名称で呼ぶ、ということぐらいだ。
 私の予想では、日本が派兵しなくなった場合の影響は、たぶん、米国における SUSHI の売上げが若干減ることぐらいだ。自動車や電器製品の売上げ? 当然、変動はない。かつてフランス製品やドイツ製品の売上げが下がったわけではないのだから。(減少があるとすれば、目に見えない程度の微弱な量だろう。)
 ついでに言えば、今や米国ですら、派兵反対の声が強い。派兵を取りやめれば、かえって、売上げは増えるかもしれない。企業にとって、「米国」というのは、「政府」ではなく、「米国民」なのだ。米国政府がどう思うかではなく、米国民がどう思うかが問題なのだ。(日本の保守派は、ここのところを根本的に勘違いしている。)

 [ 付記 4 ]
 そもそも、本当の親米家ならば、友が傷つくのを見過ごすべきではない。このまま泥沼に突き進めば、アメリカは傷つくだけだ。ベトナム戦争のときを、思い出すがいい。「日本にはアメリカに追従するしか選択肢がない」と、今と同じことを言っていた。そして、そのあげく、アメリカはひどく傷ついた。ベトナム戦争のとき、日本がもっと誠実に忠告していたら、アメリカはもっと早く手を引くことができたし、もっと傷つかずに済んだはずだ。
 それとも、保守派というのは、親米家の振りをしていて、アメリカがもっと深く傷つくように、後押ししているのだろうか? たしかに、アメリカが今の道をどんどん突き進めば、アメリカはひどく傷つく。小泉も、保守派も、それを狙っているのだろうか? だとすれば、「大した策士だ」と感心するが。
( ※ 小泉はアメリカの衰弱を狙っているんですかね。へえ。なるほど。一種のテロリストだったんだ。で、来年の参院選では、ボロ負けして、自分も政権を投げ出すつもりですかね。じゃ、自爆テロだな。)

 [ 付記 5 ]
 アラブの指導者は、「自衛隊は武器を持たずに来てほしい。それなら歓迎する」と主張していた。なるほど、これは、一案である。中谷の言うように、「安全な地に人助けのために行く」のであれば、「武器を持たずに」というので、十分だろう。
 「自分たちの身を守るため」というが、市民でさえ武器なしで過ごしている以上は、自分たちだって武器なしで過ごせるはずだ。本当に「イラク人のため」の行動をするのであれば、そうできるはずだ。(実際には、「米国のため」だから、攻撃にさらされるだろうけどね。嘘をつくと、ろくなことはありませんね。)

 [ 付記 6 ]
 なお、私の提案は、「金の支援」である。これが最大の効果をもつからだ。たとえば、自衛隊の派兵のために、百億円をかけて、数百人を派遣したとする。それで得られる効果は、微々たるものだ。一方、同じ金をかけて、イラク人を雇用して、警察や建設業などを機能させれば、多大な効果を発揮する。イラク人にはとても感謝されるだろう。
 ただし、「米国のため」であれば、こんなことをやっても、無意味である。米国が欲しているのは、イラクの復興ではなくて、自国軍の安全だけだからだ。「おれたちを守るために自衛隊に来てほしい」と思っているわけだ。そして、自衛隊に来てもらったら、「この期に乗じて、うまく権益をいただこう」と思っているわけだ。
 日本政府が「イラクのため」「平和のため」と思っているとしたら、あまりにもお人好しすぎる。計算高い米国自体にすら、馬鹿にされるだろう。「お調子者を踊らせるのは、簡単さ。ホイと命じれば、すぐ踊る。三べん回って、ワンしなさい」と。

 [ 付記 7 ]
 だいたい、世論調査でも、国民の大多数(七割前後)が、派兵に反対しているんですけどね。日本の民主主義は、どうなってしまったんだろう。政府は、「イラクに民主主義を確立するため」と主張しながら、日本の民主主義を踏みにじる。頭が軍事政権そのものだ。
 特にずるいのは、選挙の最中はそれを隠しておいて、選挙が終わったとたんに「派兵する」と言い出したことだ。卑怯きわまりない。こんなことをやる小泉は、最低の下劣な人格の持主だ、と言われても仕方あるまい。(といっても、政治家なんて、みんなそうですけどね。)
 でもまあ、これで小泉の化けの皮も、完全に剥がれたな。ライオンの振りをしていたけれど、とんだキツネかタヌキであったわけだ。何かをしそうに期待させていたが、実は、人を化かすのがうまいだけ。


● ニュースと感想  (12月10日b)

 「正義が勝つ」という言葉について。
 しばしば「最後には正義が勝つ」と言われる。これは、マンガチックに聞こえるかもしれないが、科学的に根拠を与えることができる。
 なぜか? 話を逆にすればよい。仮に、不正義の状態があるとすれば、その状態は安定的ではないのである。なぜならば、人々は不正義を許さずに、反発するからだ。
 換言すれば、人々の反発を買うようなことは、不正義とされるので、安定しない。一時的には安定を得ても、その一時的な安定は最終的には崩壊する。
 というわけで、常に、「最後には正義が勝つ」と言えるわけだ。

 このことは、イラク問題についても、当てはまる。
 保守派の人々は、「(悪いことだとはわかっているけど)アメリカが言うから、やむなく、派兵するのだ。そうするしかない」と主張する。
 しかし、そんなことをしても、無駄なのだ。なぜなら、「最後には正義が勝つ」からだ。いくら強引に対米追従を押しつけようとしても、イラクの人々は決してアメリカに屈服しない。どんなに力で押さえつけようとも、決して悪には屈服しない。一時的に屈服しているように見えても、その状態では安定しない。最終的に安定するのは、イラク人自身が「正義」と感じる道を歩みはじめたときだ。
 アメリカがいくら口先で「イラクのため」と言っていても、パレスチナで次々とアラブ人を殺している限り、親米政権など、成立するはずがない。経済的にはアメリカと協調することはあっても、心情的に親米的になる(そしてアメリカを優遇する)ということは、決してありえない。そのことは、エジプトを見ればわかる。
 アメリカがパレスチナにおける虐殺を肯定している限り、そんな状況は安定しないのだ。「最後には正義が勝つ」という言葉を、今こそはっきりと理解するべきなのだ。決して、「力こそすべて」ではないのだ。

 [ 付記 ]
 小泉は、「イラクの復興」とか、「国際社会への協調」とか、「有言実行」とか、偉そうなことを言っているが、本気なんですかね? 自己陶酔しているだけじゃないの?
 本気で「自分は正しい」と思うのならば、「イスラエルのパレスチナ占領(侵略)は正しい」または「イスラエルに反発する住民の攻撃(テロ)は正しい」と、はっきり明言したらどうですか? そう言えば、二枚舌がはっきりして、便利なのだが。
 やっぱり、自己陶酔しているんでしょうね。だから、物事の半分しか見えない。本気で正義を唱えているつもりなら、パレスチナにも派兵するべきなんだが。……でも、どっちの側のために?


● ニュースと感想  (12月11日)

 「戦争と平和」について。
 私がイラク派兵に反対していると、保守的な人々は反発するかもしれない。「南堂ってのは、左がかっているな」とか、「南堂ってのはゴチゴチのリベラルだな」とか。……しかし、私は、ある意味では保守派以上に保守的な面すらある。簡単に右とか左とか決めつけないでほしい。立体的な形状を、右とか左とか呼ぶのは、無意味である。
 私がイラク派兵について反対する理由の根本を示そう。それは「戦争と平和」の問題だ。

 そもそも「武力によって相手を屈服させる」という方針が、成功した試しがあっただろうか? 歴史的には、次の例がある。  いずれの場合も、テロに直面したとき、どんなに圧倒的な武力を用いても、相手を屈服させることはできなかった。なぜか? 相手には相手の正義があるからだ。それは「侵略者の占領を受け入れない」ということだ。
 外部からの軍隊が来たとき、素直に屈服して奴隷のようになった民族は、いまだかつて一つもない。最終的に屈服することはあるが、それまでには、多大な血を流す。たとえば、ナチスドイツでも、旧日本軍でも、負けとわかったあとでも、戦って、多大な血を流した。日本では広島や長崎に原爆が落ちた。と同時に、アメリカの側にも、多大な死傷者が生じた。
 結局、「武力で屈服させる」という方針は、絶対に成功しないのだ。たとえ結果的にはその目的が達成されるとしても、それまでには、莫大な人命が流されるから、しょせんは「成功」とは呼べないのだ。
 
 イラクではどうか? アルカイーダなどを単純に「テロリスト」と呼ぶとしたら、その人の頭は盲目だ。彼らの目的は、アメリカの破壊ではない。アラブの自立だ。アラブの自立を邪魔するのがアメリカとイスラエルだから、その目を覚まそうとして、米国などを攻撃する。彼らは、米国の攻撃自体が目的ではなく、アラブの自立が目的なのだから、米国がイスラエルの支援をやめれば、彼らもテロをやめる。逆に、アメリカとイスラエルがアラブの自立を邪魔している限り、彼らのテロも収まらない。
 結局、自分の方ではさんざん暴力をふるっているくせに、「おまえたちの暴力は絶対に許さない」と言って、「武力で屈服させる」という方針を取っても、絶対に成功しないのだ。
 もう一度、繰り返して言う。「武力で屈服させる」という方針は、絶対に成功しない。自衛隊を派遣しようが、アメリカが武力を強化しようが、無駄である。そもそも、パレスチナにおけるイスラエルのテロ行為を支援している限り、アラブの人々は決して西側のテロを受容してくれないのだ。
 人類はこれまで、「武力で屈服させる」という方針を取って、おびただしい血を流してきた。にもかかわらず、いまだに、歴史から何も学んでいない人々が多すぎる。「テロに屈せぬ」とか、「対米協調」とか、小手先のお天気占いみたいなことをやって、風見鶏のようにフラフラしている。そんなことでは、ダメなのだ。「武力では何も解決しない」という真実を知るべきなのだ。

 [ 付記 ]
 ついでに、保守派の意見を批判しておく。10日の読売新聞の1面に、「論考」というコラムがある。これは保守派の代表的な意見だと思うので、個別に論点を指摘しておく。

 (1) 国連主導か米国主導か
 「国連主導など、実現性がなく、絵に描いた餅だ」と主張している。たしかに、その通りだ。しかし、その理由は、米国にあるのだ。その点を見失ってはならない。
 現状では、国連と米国とが対立している。そこで、「米国を捨てて、国連を取る、というのは無意味だ」というのが記事の主張だ。
 しかし、今は、そんなことはテーマとなっていない。「米軍が国連軍の指揮下に入れ」「米軍も国連軍の一員として行動せよ」というのが、世界の大多数の主張だ。
 ただし、これは、米国が断固として拒絶している。そして、その点こそが、論議となっているのだ。(米国に追従ばかりしていると、そういうことがわからないようだが。)

 (2) 復興への協力
 「復興への協力は非軍事の人道支援だ」「それを阻害するのがテロリストだ」という。
 違う。「復興」とは、「親米政権の樹立」のことである。そして、それに反対しているのが、テロリストないし抵抗派だ。
 ついでだが、米国は、「復興」なんか、目的にしていない。彼らの目的は、「治安の確立」だけだ。「米国を襲うようなテロリストをやっつけろ」というわけだ。そして、そのために、「テロリストをつぶすため」と称して、あちこちでイラク人の民家を破壊している。
 「人道的な復興」なら、建物を建設するべきだし、そのためには、パワーシャベルがあればいい。しかるに、米国がイラクで嫌われているのは、パワーシャベルのかわりに、爆弾ばかり使っているからだ。
 つまり、「復興」とは、たくさんのイラクの建物を爆弾で破壊することなのだ。どっちがテロリストだか、わかったもんじゃない。

 (3) 無為
 「日本だけが無為は許されない」と記事は主張している。しかし、派兵しない国など、世界中にわんさとある。
 そもそも、「無為」を主張している人などはいない。「国連主導でやり直せ」と主張しているのであって、「無為」を主張しているのではない。
( ※ ただし、話の目的は、根本的にすれ違っている。保守派の人々の目的は、「米国の歓心を買うこと」であり、そのための無為は許されないと考える。リベラル派の人々の目的は、アラブにおける平和の確立であり、そのための無為は許されないと考える。……前者の目的は自己の利益であり、後者の目的は世界の利益である。価値観が全然、食い違っている。)

 [ 余談 ]
 読売は、偉そうなことを言う前に、一年前の自社の論説を、読み返すとよい。「イラクには大量破壊兵器がいっぱいある。これを破壊しなければ、世界の平和は保たれない」と主張していた。あれは全部、ジョークだったんですかね?


● ニュースと感想  (12月12日)

 「情報操作」について。
 このところ、けっこう戦争非難などを述べてきたが、実は、そのこと自体は、あまり目的ではない。私が言いたいのは、「真実を見よ」ということだ。そしてまた、「マスコミや政府にだまされるな」ということだ。
 特に、保守派は、米国一辺倒で、事実を隠蔽しようとするし、事実を糊塗しようとする。そのことを忘れてはならない。典型的なのは、ジェシカ・リンチ事件だ。新聞などではあまり報道されていないが、テレビでは本人が登場して、「米国政府の報道はまったくのデタラメだった。私は政府に勝手に利用されただけだ」と述べている。
 要するに、米国政府の報道など、最初から最後まで、嘘ばかりだったわけだ。「大量破壊兵器がある」というのも、「戦争は簡単に終わる」というのも、「戦争のあとではイラク人が米国の味方になるので、親米政権が成立する」というのも、何もかも嘘であったわけだ。
 読売などでは、この手の情報操作が、けっこう多い。ついでに言えば、朝日もまた、雑誌のアエラで逆方向のデタラメを述べて、週間文春で攻撃されている。
 だから、私が警告するわけだ。「マスコミの情報操作に騙されるな」と。それはつまり、「自分の頭で考えるべし」ということだ。
( ※ 私の文章をよく読んでいる人だと、「この点に気をつけるようになった」という好意的な感想が出ることもある。私としても、そういう感想を聞くと、冥利に尽きる。……なお、念のために言うと、私は別に、自分の考え方を押しつけているわけではない。読売や朝日とは違いますからね。)


● ニュースと感想  (12月12日b)

 「食物連鎖」について。
 「食物連鎖」という言葉は、生物学者なら、誰でも知っているだろう。おおざっぱに言えば、「草食動物は肉食動物に食われる。前者は多く、後者は少ない。全体として、ピラミッドのような階層構造を取る」というような話だ。食物連鎖の頂点には、肉食動物がいる。(そのまた頂点には、人間がいるようだ。)
 さて。この基本概念をまったく理解しない専門家がいるようだ。呆れた話なので、紹介しておく。
 多摩動物園の池に、水鳥のガンがいる。これが、肉食の鳥であるオオタカに襲われて、犠牲がどんどん出ている。防護ネットを張ったら、オオタカが引っかかった。ガンを助ければ、オオタカがつかまる。動物園は困っている、という話。(朝日・夕刊・社会面 2003-12-11 )
 何を困っているのか? ここではごく当り前の現象が起こっているだけである。ガンは昆虫や貝類を食べるし、オオタカは小動物や水鳥を食べる。それだけのことだ。それを阻止する理由など、何一つない。どちらかと言えば、オオタカは絶滅寸前なのだから、ガンをどんどんオオタカに差し上げるべきなのだ。
 動物園側は、たぶん、「ガンがかわいそうだ」と思っているのだろう。しかしそれは、「食物連鎖」という自然の摂理を、理解できないせいだろう。
 幼稚園児は、アフリカのライオンがシマウマを食べるのを見て、「かわいそう」と思う。「シマウマがかわいそうだから、助けてあげて」と言う。しかし、「ライオンは草食獣を食べて生きているんだよ」と教えてあげると、納得する。とすれば、多摩動物園の専門家は、幼稚園で勉強をし直した方がいいだろう。

 [ 付記 ]
 私は別に、多摩動物園を批判したいわけではない。専門家というものがいかに無知ぞろいであるかを、例示したいだけだ。
 本当を言えば、生物学でなく経済学や政治の専門家こそ、批判すべき対象となる。動物園の飼育担当者が間違っても、鳥や動物が困るだけだが、経済学者や政治家が間違うと、人命が多大に奪われる。
 どうせなら、小泉を動物園の檻に閉じ込めた方がいいと思うのだが。……どうです? これで国民投票をやると、5割ぐらいが支持しそうだ。私も「イエス」に一票。さらに、この自称ライオンの入った檻を、イラクにプレゼントしたい。「復興に協力します」と言っているのだから、きっと大歓迎されるだろう。(たぶんゲンコツで。)


● ニュースと感想  (12月12日c)

 「電子書籍」について。オタク技術者向けの話。(一般向けではありません。)
 ソニーや松下などが、電子書籍の専用端末を開発した。文庫本ぐらいのサイズのモノクロ液晶画面で読むもので、消費電力はほぼゼロで、値段は4万円前後、という。大量生産すれば、2万円ぐらいになりそうだ。
 これだけを見れば、とても売れそうにない。400円の文庫で買えるものを、4万円にプラスして毎度毎度の料金を払うのでは、コスト高だからだ。運悪く、機械を壊したら、大変なことになる。
 というわけで、ちょっと見たところでは、とうてい普及しそうにない。ただし、別の観点からすれば、普及する見込みはある。それは、新刊の単行本を、これで発行することだ。
 新刊書は、現在、二千円前後。著者の印税が、1割の2百円。出版社の編集料が、1割の2百円。あとは、紙やインクなどの実費や、取次店の手数料などだ。さて。これを電子化すれば、必要なのは、著者と出版社の取り分だけだから、4百円で済む。残りの千六百円分は、紙から電子に切り替えたことで、節約できる。結局、大幅にコストダウンになるわけだ。電子化のために百円かかるとしても、2千円の本が5百円になるわけだ。
 「話題の新刊書を発売中。書籍版は2千円。電子版は5百円。お好きな方をお読みください」
 となるわけだ。これはこれで、魅力的だ。

 ただし、である。だからといって、専用端末に4万円も払う人は、ほとんどいないだろう。だいたい、ちっぽけな画面の文字では、読みにくくて仕方ない。どうせなら、パソコンの大画面で読みたい。
 しかし、である。パソコンの大画面で読めるようにすると、今度は、ファイルの違法コピーという問題が生じる。これでは、出版社は、乗り気になれないだろう。下手をすると、音楽CDのように、違法コピーが蔓延しかねない。
 そこで、これを解決する方法を、提案しよう。次の [ 補説 ]に示す。
( ※ ただし、専門的な話になる。パソコン関係者以外には、難しいので、読まなくてもよい。)

 [ 補説 ]
 私の提案は、「パソコンが専用端末になるようにする」ことだ。それにはどうするかというと、OSを切り替えるようにすればよいのだ。
 つまり、あるときは、Windowsのマシンとして起動するが、ちょっとOSを切り替えると、電子書籍閲覧機として動くようになる。さらにOSを切り替えると、Linux になる。さらにOSを切り替えると、TRONになる。
 こういうことは、原理的には、不可能ではない。ただし、現在の状況では、不可能である。それぞれのOSが、「OSの切り替え」に対応していないからだ。
 そこで、「OSの切り替え」を可能とするようなOSが登場することが好ましい。

 [ 細説 ]
 さらに細かな話をする。どうでもいい話なので、いちいち読まなくてもよい。
 「OSの切り替え」をするとして、その機能は、それぞれのOSが「切り替え」に対応している必要はないだろう。ただ一つだけ、基盤となるOSがあれば十分だ。
 たとえば、それを可能とする Windows ZZ というOSが新登場したとする。Windows ZZ は、普段は Windows マシンとして機能しているが、「マルチOS」のアイコンをクリックすると、他のOSを Windows のなかで起動できる。たとえば、電子書籍閲覧機のOSが起動する。すると、あとはパソコンが電子書籍閲覧機として働く。専用のハードディスク領域にアクセスして、専用のファイル形式から読み取る。利用を終えたら、このOSを終了する。するとふたたび、Windows の画面に戻る。
 この場合、一台のマシンが複数のOSで動くが、それぞれのOSの環境でデータのやりとりは、直接的にはできない。つまり、電子書籍閲覧機のなかにある文書を、コピーして、Windows の領域に送ることはできない。だから、違法コピーはできない。
 ただし、電子書籍閲覧機のなかにある文書のうち、公開された情報だけは、メールのような独立した文書にして、他の場所に送信できる。こうすると、そのOSから、Windows の領域へと、情報を伝達できる。
 以上が、「マルチOSマシン」の概念だ。これだと、ウィルスの問題も、かなり解決することができるだろう。たとえば、独立したOSにおいて少数派のブラウザ(たとえば Linux 版の Opera )を使っていれば、Windows を狙い撃ちするウィルスからマシンを防護することができる。なぜか? そもそも Linux 版のソフトは、 Windows用のウィルスには感染しない。また、Linux 領域にウィルスがまぎれこんでも、それが Windows 領域に移転するには、同一マシン内でいちいち通信する必要があるからだ。この通信にファイアーウォールを組み込んでおけば、感染は著しく困難となる。
( ※ 「では、Windows と Mac の共存も可能か?」と期待する人も出るだろうが、残念ながら、不可能だ。Mac は、CPU がインテルとは別のものなので、この「マルチOS」の対象外となる。マルチOSは、あくまで、同一の CPU を使って、OSを切り替えるだけだ。)
( ※ 「マルチOS」と同様のことは、現在でも、いちいちOSを再起動すれば可能である。たとえば、HDをパーティション分けしておいて、起動時にOSを選択することで、Windows や TRON や Linux などを、自由に切り替えることができる。……ただし、これは、あまりにも使い勝手が悪い。「いちいち Windows を終了して、別のOSを立ち上げて、その後、このOSを終了して、ふたたび Windows を起動する」……というのは、昔のシングルタスクのアプリケーションを使うのと同様だ。マルチタスクという概念を全否定する発想であり、使い勝手が悪いこと、このうえない。結局、現在のマルチタスクは、一つのOSの内部でしか達成されていないが、それを複数のOSで達成されるようにすることが、本項の提案だ。)
( ※ 「OSの切り替え」というのは、一部では実現している。「カーナビではすでに試作品ができた」と報道された。朝日・朝刊・経済面 2003-12-11。……ただし、私が言っているのは、カーナビなんかじゃなくて、パソコンのOSの話だ。パソコンもカーナビのように進化すればいいのだが。  (^^); )








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「小泉の波立ち」
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