[付録] ニュースと感想 (55)

[ 2003.12.27 〜 2004. 1.02 ]   

  《 ※ これ以前の分は、

    2001 年
       8月20日 〜 9月21日
       9月22日 〜 10月11日
      10月12日 〜 11月03日
      11月04日 〜 11月27日
      11月28日 〜 12月10日
      12月11日 〜 12月27日
      12月28日 〜 1月08日
    2002 年
       1月09日 〜 1月22日
       1月23日 〜 2月03日
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       12月13日 〜 12月24日
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    2003 年
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       2月12日 〜 2月22日
       2月23日 〜 3月07日
       3月08日 〜 3月16日
       3月17日 〜 3月25日
       3月26日 〜 4月06日
       4月07日 〜 4月14日
       4月15日 〜 4月24日
       4月25日 〜 5月10日
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       8月19日 〜 10月23日
       10月24日 〜 11月28日
       11月29日 〜 12月12日
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       12月18日 〜 12月26日
         12月27日 〜 1月02日

   のページで 》




● ニュースと感想  (12月27日)

 「可変制御」について。
 世の中にはさまざまな問題があるが、それらは「可変制御」という概念で解決ができることが多い。
 社会的な制度は、たいていは、固定的である。「常にこうする」というふうに、対応が固まっており、臨機応変な処置ができない。せいぜい、「この場合にはこのようにする」というふうに、選択肢がいくつか用意されているだけだ。あくまでマニュアル的な対応である。
 しかし、あらゆる場合において、設定を可変的に変更するようにできると、問題はたやすく解決するものだ。正確に言おう。現実の状況の変化に応じて、人間の対応を可変的に変動することで、状況と対応とのギャップを、最小限にできる。かくて、「最適化」がなされる。
 モデル的に言えば、「常に傘をもつ」に比べれば、状況(天気予報)に応じて「傘あり/傘なし」を変化させた方が、効率的である。

 具体的な例を挙げよう。
 第1に、機器の制御だ。たとえば、気温や負荷の変動に応じて、エンジンの制御を変動させる。これは、商品開発の現場では、当たり前だ。
 第2に、消費者の需要の変動に応じて、生産する商品の種類や量を変動させることだ。これも、商品生産の現場では、当たり前だ。
 第3に、マクロ的な変動に応じて、経済政策を変動させることだ。これは、「金融政策」では当り前である。財政政策では、ケインズ政策が該当する。(「常に無策」という古典派政策は該当しない。それゆえ、古典派政策は、愚策である。)
 第4に、情報制御だ。これが最も現代的だ。情報の流れを調べることにより、無駄を最小限にする。原始的な例は、データベースを利用したり、カンバン方式を利用したりして、無駄を最小限にすることだ。もっと高度な例としては、無駄を減らすかわりに、効用を最大にしようとする例がある。ところが、これは、あまりなされていない。

 第4の例を示す。
 たとえば、テレビのコマーシャルは、スポットコマーシャルは可変的だが、たいていの連続番組のコマーシャルは固定的だ。それというのも、テレビ局がスポンサーにコマーシャル枠を販売して、その融通が利かないからだ。これを可変的にすれば、効用はかなりアップする。たとえば、一社提供番組があるとして、複数の会社の間で、自社の枠を融通しあえば、同一番組だけを提供するのに比べて、広告効果は増す。たとえば、
 「うちの『世界の美術館』と、おたくの『すばらしい音楽会』とで、来月だけコマーシャル枠を交換しない?」
 「年末にうちの新製品が発表されるから、おたくの『珍問難問』の枠をくれない? かわりにあとで、うちの『迷探偵シリーズ』の枠を上げるからさ」
 というふうに。

 とにかく、たいていの物事は、固定的にせずに、可変的にすることで、効用をアップできるものだ。そのことに留意しよう。
( ※ この考え方は、原理的には、「サイバネティックス」という用語で呼ばれる。)
( ※ この考え方と正反対なのは、「運命の手に委ねる」という考え方である。経済における「神の見えざる手」というのも、同様である。いずれも、「無為」を最善だと思い込んでいる。……換言すれば、「状況は常に ∪ 型の安定構造を取る」と信じていて、「状況が ∩ 型の不安定構造を取る」という場合があるのを無視する。)

 [ 付記 ]
 本項で述べたことには、二つの意味がある。
 一つは、「可変化」だ。つまり、「物事を固定的に考えるな」ということだ。……多様な変数があるのならば、多様な変数をそれぞれ可変的にすればよい。たとえば、自動車ならば、「可変バルブタイミング」とか、「可変気筒数」とか、そういう「可変化」の方法が知られている。CPUでも、電圧を可変化したり、いろいろと可変化する方法が知られている。工業技術の分野では、一つの確立した手法である。(ただし、通常、技術的に困難である。ゆえに、「わかっちゃいるけど、なかなかできない」というのが、普通だ。で、たいていの人は、諦める。しかし、発明意欲のあるエンジニアは、頑張る。で、しばしば、「画期的な新技術」と称して、可変化の技術が登場する。とはいえ、「物珍しさ」で終わることも多い。それでも、生き延びて、標準的な位置を占めることもある。「インバーター」という技術は、今日では、エアコンや照明ではなくてはならない可変化技術だ。)
 もう一つは、「最大の努力」だ。つまり、「なし得る限りのことは、最大限に行なう」ということだ。……「一つか二つ試して、失敗したから、もうやめた」と諦めるのではなくて、徹底的に最後まで頑張る、ということだ。これは、無数の失敗の上に立ち、なおかつ、挫けない、ということなので、非常に強い意思を必要とする。普通の人には、ちょっと無理だ。面白い例としては、ディック・フランシスの推理小説の主人公が、典型的だ。どんなこんなにぶつかっても、決して挫けず、最後まで努力する。たとえば、悪漢に誘拐されて、真っ暗闇な船倉に閉じ込められる。出入口は密閉され、脱出するすべはない。ときどき食事を与えられるだけだ。ここで、どうするか? 普通の人なら、一応の努力をして、諦める。「ジタバタしても、傷つくだけだ」と思う。しかし、この困難のなかで、彼は超人的な意志を発揮して、脱出に成功した。彼は別に、手品を使ったわけでもないし、無限の力があったわけでもないし、素晴らしい技術があったわけでもない。彼にあったのは、「なしうる限りのことをなそう」という、「不屈の意志」だった。その不屈の意志が、彼を、死から生へと脱出させたのだ。……今日の日本に必要なのは、これである。そして、これがないから、「なすがままになれ」「放置こそ素晴らしい」という態度で、無為のままでいるのだ。
( ※ この小説は、ディックフランシス著の「障害」である。ハヤカワ・ミステリ文庫。)
( ※ ここでは、主人公は、脱出のための知恵を働かせる。そのあげく、針の穴のごとく小さな可能性を探し当てて、脱出に成功する。彼は、「不屈の意志」によって、「最大の努力」をなして、「あらゆる手段」を探そうとしたのである。)
( ※ マクロ経済でも、具体的な例がある。「税率を景気に応じて可変化する」という方法がそうだ。「減税のあとで増税」という中和政策やタンク法が、この考え方を取る。ここでも、「不屈の意志」によって、「最大の努力」をなして、「あらゆる手段」を探そうとするわけだ。)
( ※ 一方、「可変化」の例としては、「エスカレーターの片側通行」の問題がある。 → 12月09日b


● ニュースと感想  (12月27日b)

 「思考力と入試」について。
 「最近の子供は、情報処理の能力は高まったが、思考力が弱まった。そこで、入試では、思考力を問う問題が出されるようになった」ということだ。(朝日・1面・特集コラム 2003-12-24 )
 これ自体は、好ましい傾向なので、特にコメントすることはない。ただ、参考となる話を記しておく。

 (1) 現状の教育の問題点
 上記の話とは逆に、「学校現場では情報能力の訓練を高めようとしている。問題だ」という指摘。
    → がんばれ!ゲイツ君  最新コラム(204)

 ワードやエクセルを教育の場で教えることに、反対している。私も同意する。教育の場は、実務の場ではないからだ。ワードやエクセルを教えるとしたら、教育の場ではなくて、実務の場だろう。たとえば、下働きの事務要員を養成する専門学校での講義。……で、小学校や中学校は、下働きの事務要員を養成する場ではなくて、管理職になれるような思考能力を養成する場なのだから、ワードやエクセルを教える必要などはない。
 だいたい、ワードやエクセルなんて、勉強するものではない。必要な時期が来たら、いつでもすぐに覚えられる。必要でないときは、覚える必要はない。どうしても覚えるべきものがあるとしたら、エディタなどの基本的な操作法だが、こんなものは、いちいち覚えなくても、誰でもできる。とにかく、アプリの操作法なんて、適当にいじっていれば、あとで覚えられるから、子供のころに学校で勉強するべき事柄ではない。
 私の考えでは、小学校や中学校でたたき込むべきは、一にも二にも、ブラインドタッチである。アプリの操作法などは、いちいち教えなくてもよい。では、教育として教えるべきものがあるとしたら、何か? プログラムだ。Basic か FORTRAN か perl のような言語。これは、ソフトを作るために必要なのではなくて、マクロを作るための基礎知識として必要だからだ。マクロを作れると、コンピュータの操作能力は大幅に向上する。あとは、HTML タグの基礎知識だ。……ただ、これらは、子供には無理だから、高校になってからの話。
 そもそも、小学校や中学校で勉強するべきことは、実務家になる方法ではなくて、基本的な素養としての、国語・算数である。上記ページでも記されていることだが。
( ※ だけど、小泉くんみたいなトンチンカンな政治家は、「IT化」を唱えて、パソコンを教えたがる……じゃなかった、小泉くんはパソコンの操作ができないんでしたね。すみません。間違えました。小泉くんなら、実務学校でパソコンの操作を覚えるといいでしょう。どうせアメリカのための、下働きの事務要員ですしね。)
( ※ なお、一国の宰相は、パソコンの操作法なんか、覚える必要はない。政治と経済さえ、しっかりやってくれれば、十分だ。しっかりやってくれれば、ね。……ところで、小泉くんの職業って、何でしたっけ? たしか、犬小屋に関係する職業だったと思いますが。このページもそのうち、改題するかも。「小泉の立ちション」とかね。)

 (2) 企業の採用の問題点
 新卒学生の採用にあたって、「独創性と思考力のある学生がほしい」と企業が叫ぶが、実際の採用の場ではそんな採用はしていないぞ、という話がある。
 読売には月曜日に、別刷りの就職特集版があるが、これによると、就職活動中の学生の体験談に、面白い話があった。
 「面接の場で、独自の意見をとうとうとまくしたてた。『御社の経営にはこのような問題点があるから、このように改善するといいだろう』と提案した。すると採用担当者(経営者)は、自分が非難されたと思って、怒りだした。『当社では、経営者の方針に、素直にハイハイと答えるイエスマンの社員がいればいい。上司の命令を素直に聞いていればいいのだ。自分の主張なんかを言い立てる生意気な社員は、不要だ。おまえなんか、採用しない』と。かくて、採用は不合格」だって。
 これはまあ、本音でしょうね。だって、経営者にたてつく社員が、優遇されているか左遷されるかを、調べてみるといい。たいていの社長は、「遠慮なく自由に意見を言ってくれたまえ」と太っ腹らしく言うが、実際に欠点を指摘されると、社長はたちまち怒り狂う、というのが、よくある例だ。
 考えてもみてください。「独創性と思考力のある学生がほしい」と叫ぶ企業がいるとしたら、その時点で、その企業はダメな企業だ、ということがわかる。まともな企業は、そんなことを主張しない。「独創性と思考力のある社員を優遇している」と述べる。「これがほしい」と自社の希望を述べるのではなく、「こう実行している」と自社の現状を示す。
 要するに、「独創性と思考力のある学生がほしい」と叫ぶ企業がたくさんあるということは、「独創性と思考力は自社にはない」と告白しているのも同然である。「自分にはないから、新入社員に何とかしてもらいたい」と告白しているわけだ。「私は阿呆ですから、素人に助けてもらいたい」と告白しているわけだ。
 結局、「独創性と思考力のある学生がほしい」と要求する企業は、最低の企業であるから、独創性と思考力のある学生は、そんなところには就職しないものだ。「こういうのがほしい」と叫べば叫ぶほど、そんなところには寄りつかなくなるのだ。自分はよほどモテモテだと自惚れているようだが、いくらモテても、阿呆にモテるだけである。
 比喩。「美人と結婚したい」と叫ぶ醜男は、最低の男であるから、美人は、そんな男には近づかないものだ。立派なモテる男なら、「美人と結婚したい」と叫ばなくても、自然に美人が集まってくるのである。(ホントだよ。)


● ニュースと感想  (12月28日)

 「コンピュータ・ウィルス」について。
 市役所のLAN内に、ウィルスが感染したという。原因は、一台のパソコンをNECに修理に出したら、そのパソコンがMSブラストに感染したため。OSのアップデートをしたときに、インターネットに接続して、そのとき、感染したらしい。復旧には多大な手間がかかったという。(読売・朝刊・社会面 2003-12-17 )

 さんざん、手間暇かけて、ご苦労さんでした。馬鹿みたいだけど。
 何度も言うが、ウィルスの処置には、「善玉ウィルス」を使うのが最善である。人間がいちいち復旧作業するのは、馬鹿げている。
  1.  ウィルスが世間に登場する。
  2.  ワクチン(善玉ウィルス)を作成して、このワクチンを、あらかじめ、全パソコンに接種しておく。
  3.  ウィルスが侵入したら、ワクチンが検知作動する。「ウィルスが侵入しました」とアラームを鳴らし、同時に、ウィルスを削除する。
  4.  すでにウィルスが侵入済みであれば、同様に、アラームを鳴らして、ウィルスを削除する。
  5.  ウィルスをすっかり削除した時点で、バックアップから復旧する。
 簡単ですね。ほとんど自動化できます。うまくやれば、ワンクリックで、すべて片付きます。経費は、ワクチンソフトを購入する代金だけ。数万円程度。記事のように、「40人が徹夜込みで三日間もかける」なんてのは、時間も金も、大幅に無駄にする。
 善玉ウィルスこそ、ウィルス対策の本命なのだ。(あくまで私見ですけどね。)

 [ 付記 ]
 善玉ウィルスというのは、「ファイル名とファイルサイズで悪玉ウィルスを探し出す」という程度のことをすれば十分だ。「危険ですよ」と警報を鳴らして、危険度が高いときに悪玉ウィルスを削除すればよい。医者じゃないんだから、完全に治療する必要はないし、見落としがあっても構わない。そのかわり、あちこちで広く働く。
 これは、つまり、「個別に完璧な治療をする」ことが目的のアンチ・ウィルス・ソフトとは別個のものであり、「集団におけるウィルス存在率を下げる」ことが目的のものだ。……現状では、この目的のものは、存在していない。アンチ・ウィルス・ソフトやワクチン・ソフトは、あくまで、悪玉ウィルスを個別撃破することを狙っている。だから、その撃破を受けないものが多くて、悪玉ウィルスが世間に蔓延するわけだ。
 どんなに優秀な医者がいても、医者の絶対数が少なければ、病気は蔓延する。そういうときには、金のかかる医者を増やすよりも、簡単な予防薬を全員に配布すればいいのだ。


● ニュースと感想  (12月28日b)

 「Windows のセキュリティ・ホール」について。
 ネット上でもさんざん話題になっているが、相変わらず、Windows のセキュリティ・ホールが続発していて、いつまでたっても解決しない。モグラたたきみたいで、一つつぶせば、次のが出る。MS-IE を使っている限りは、いつまでたっても危険である。
 こういうのは、しょせんは、限度がないようだ。仮に、すべてが解決しても、次のOS(新版 Windows )では、最初からまたやり直しだからだ。
 「Windows を捨てよ」という提案がよく出るが、ま、それはそれとして、Linux や Opera でもけっこう、セキュリティー・ホールは出る。Windows は、あくまで、「程度がひどい」というだけのことだ。要するに、現状では、「確実に安全」と言えるのは、「パソコンを使わないこと」だけだ。ひどいですね。
 やはり、根本的な対策を取る必要があるだろう。

 [ 細説 ]
 専門家向けの、細かな話。特に読まなくてもよい。

 (1) 対処法
 通常、最も安全なのは、「物理的な孤立」である。ネット接続用のパソコンと、日常業務用のパソコンとを、物理的に遮断する。これなら、ネット接続用のパソコンがいくら汚染されても、日常業務は妨害されない。
 両者の間で、何らかのデータ受信をしたければ、いちいちファイアーウォールを介して、個別に情報伝達すれば、比較的、安全である。
 ただし、両者を物理的に隔てるというのは、はなはだ不便だろう。困る。
 そこで、私が提案したのが、先の「マルチOS」という方法だ。これなら、一台のパソコンを複数のパソコンのように扱えるから、比較的、安全である。
 たとえば、Windows を起動している。その一方で、別のOS(たとえば特殊ブラウザ専用のOS)を起動して、そこにおいて特殊ブラウザを起動する。ふだんは、ネットに接続するときは、この特殊ブラウザで接続する。万一、この特殊ブラウザが汚染されても、その影響はあくまで、特殊ブラウザのあるOSの範囲内に留まる。だから、Windows は汚染されない。汚染されるとしたら、両者の間で何らかの通信がなされた場合だから、そこをしっかりチェックして、さらに監視しておけば、問題は非常に起こりにくくなる。
( ※ マルチOSについては → 12月12日c の「補説」)
( ※ マルチOSと正反対の概念が、MSの主張する「OSとブラウザの融合」という発想だ。ブラウザをOSに組み込んだため、使い勝手は向上したが、危険度は飛躍的に高まった。一般に、MSは「高機能」を追求するが、私は、「コンパクトで堅牢」を希望する。「高機能だがウィルスに感染しやすい」なんていう病弱で寝てばかりの奴は、大嫌いだ。)

 (2) 根源
 セキュリティホールの責任は、誰にあるか? 一義的には、そのソフトの開発者である。つまり、そのアプリやOSの開発者だ。
 しかし、彼らだけを責めても仕方ない。彼らは悪意でやっているわけではなくて、単に能力が足りないだけであるからだ。「おまえたちは無能だ」と批判するのはたやすいが、そう批判する自分は彼ら以上のソフト開発力がある(対抗ソフトを出す)わけではないのだから、批判にも限度がある。(「対策を出せ」と言われたら、黙るしかないですからね。) また、そもそも、阿呆に向かって、「阿呆!」と批判しても、「どうせ私は阿呆ですよ。で?」と居直られたら、どうしようもない。
 そこで、もっと根源的に考えよう。
 本来ならば、MS-IE や Opera (ともにアプリだが)が危険であるならば、そのアプリを使わなければいいだけの話だ。実際、昔は、MS-IE のかわりに Netscape や他のブラウザを使うことが多かった。しかるに、現在、そういうふうにはならない。なぜか?
 それは、HTML があまりにも高度化してしまったので、対応できるアプリを開発するのが非常に困難になったからだ。特に、スタイルシートというのができると、ブラウザは単なるワープロよりも、はるかに高度なアプリになってしまった。
 ワープロでさえ、開発できるソフト会社は非常に少ない。今や、MSの独占状態だ。なのに、ワープロよりも高度な機能をもつブラウザとなると、MSに伍して開発できる会社はほとんどないだろう。( Opera でさえ、Netscape 社の技術を基盤にしている。)
 だから、諸悪の根源は、HTML があまりにも高度化してしまったことだ。特に、スタイルシートというものを制定してしまったせいだ。そのせいで、ブラウザは非常に高度化して、普通のソフト会社の開発能力を超えてしまって、MS-IE のライバルが消滅してしまった。(昔はそうではなかった。JustView などの各種ブラウザもあったし、ワープロ専用機付属のブラウザもあった。百花繚乱だった。)
 「 HTML を高度化すれば、インターネットなどの情報処理能力が高度化して、素晴らしい情報社会ができる」とコンピュータ技術者は夢想した。しかし、そういう甘い夢想のしっぺ返しが、ウィルスなのである。人間が、自分の能力を過信して、手に扱えないほどのものを望んだ結果、手に扱えないウィルスが蔓延するようになったのだ。(バベルの塔みたいですね。天に届こうとしたあげく、神の怒りに触れて、崩壊した。)
 なお、誤解を招かぬよう、ポイントを指摘しておこう。高度な機能をもつブラウザが登場すること自体は、少しも悪いことではない。また、技術が発達することも、少しも悪いことではない。では、何が悪いか? 高度な機能を「標準」として、必須にすることである。私の考えでは、「標準」となる部分は、なるべくコンパクトであるべきだ、と思う。OSであれ、アプリであれ、通信規格であれ、HTML規格であれ、「標準」となる部分は、なるべくコンパクトであるべきだ、と思う。一方、それに追加される高度な部分があってもいいが、それはあくまで「オプション」であるべきだ。OSにおけるマルチメディアとか、アプリにおける修飾的なデザイン機能とか、HTMLにおける緻密なスタイルシート規格とか、そういう細々としたものは、あくまで「オプション」として、必須からは除外するべきだ。
 私としては、HTML は昔のようにシンプルなものにするべきだ、と思う。せいぜい、文字のサイズと色と行間だけでいい。あとは、表と図とリンクぐらいだ。それ以上の、スタイルシートや JavaScript なんて、邪魔なだけだ。
 今、あちこちの企業ホームページは、スタイルシートや JavaScript なんてものをさんざん使って、MS-IE でなければまともに表示できないようなホームページにしてしまっている。そういうふうに「MS-IE 限定」のような状態にしてしまった現状を放置して、「MS-IEはダメ」なんて主張しても、ほとんど自己矛盾である。
 というわけで、私の個人的な趣味も含めて、ここで言明しておこう。「スタイルシートや JavaScript なんて、大嫌いだ。そいつを使うホームページも、大嫌いだ。デザイン過剰のホームページも大嫌いだ。ホームページ作成業者の自己満足みたいなホームページは大嫌いだ」と。
( ※ 「そういうおまえもスタイルシートを使っているな」と言われたら、ちょっと困るが。……実は、私のページは、スタイルシートをごく限定的に使っているだけだ。非対応ブラウザでも、ちゃんと見えます。消える情報は、どうでもいい書式情報だけです。だから、怒らないでくださいね。)
( ※ とにかく、スタイルシートみたいなものは、使うことはあっても、あくまで「オマケ機能」として使うべきである、というのが、私の立場だ。対応ブラウザではちゃんと見えるが、非対応ブラウザでも十分に見える、というふうにするべきだ。非対応ブラウザではちゃんと見えないページが多い、なんていう状況になってしまったことが、諸悪の根源だ、と私は考える。)
( ※ でもね。こういうふうに主張すると、スタイルシートの信者が、すごく怒り狂うんですよね。困ったもんだ。こういう信者がいっぱい繁殖するから、ウィルスがいっぱい繁殖するんじゃないんですかねえ。)
( ※ 彼らの問題は、どこにあるか? 「理想を追求する」ということはいいのだが、「自分の理想を、全員に強引に押しつける」というところだ。こういう例は、よくありますよね。あまりお友達になりたくないですね。)
( ※ ただし、個別アプリをどんどん高機能にする開発者は、大好きです。「選択肢を増やす」というふうになるわけだから。いやなら使わなければいいだけだし。)
( ※ ついでですけど、私のホームページは、私専用の世界唯一の HTML ソフトで記述しています。高機能で、操作が簡単で、超便利。だけど、公開はしません。サポートが面倒だから。それに、どうせ、HTMLを毎日いっぱい書く人なんて、私ぐらいしかいませんからね。……なお、ワープロ用の高機能ソフトは、公開中です。 → 知の道具箱



● ニュースと感想  (12月28日c)

 「住基ネット侵入」について。
 住基ネット侵入のテストを、長野県が行なった。ネット上では、毎日新聞「住基ネット特集ページ」や、ほら貝 「Dec17」 や、「中村正三郎のページ」の「乳の詫び状(2003/12/20) (2003/12/26)」などに詳しい情報がある。
 簡単に言えば、本体ではなくて周辺を迂回することで、住基ネット侵入が可能だ、ということ。政府の「安全」という宣伝は嘘八百だ、ということ。
 なお、この事情が知られてきたので、総務省は、調査の方針を出した。( → Yahoo ニュース

 この件は、コンピュータ技術者関係で、あちこちで情報が出回るだろう。だから、私としては、技術的には細かなことは言及しない。簡単にメモしておくだけにする。
 ただ、少しだけコメントしておこう。このことは「住基ネットはダメだ」とか、「国民総背番号制はダメだ」とか、そういうことを意味するのではない。住基ネットや国民総背番号制をやめても、問題は少しも解決しない。なぜなら、自治体の情報がやはりネット攻撃に弱いからだ。国民総背番号制などはなくても、それぞれの自治体の独自の番号と独自のシステムを通じて、国民の情報を盗むことができる。
 では、どちらが問題か? 「どっちも問題だ」というのが正解だろう。国民総背番号制だと、いったん破られたあとは、盗まれ放題だが、いったん破るためには、いくらかの手間がかかる。国としても、現在はともかく、将来的には、いくらか制度を整えるだろう。一方、それぞれの自治体が独自にやっている現状は、かなりお寒いものである。なにしろ、無線LANで接続している自治体もあるくらいだ。いわば、制度に「鍵をかける」ことすらしていないわけだ。「泥棒さん、いらっしゃい」と言っているわけだ。
 ついでに言えば、危険なのは、国と自治体だけではない。民間もそうだ。銀行であれ、クレジット会社であれ、個人情報を扱っている。ここにネット侵入すれば、多額の金を盗むことも可能かもしれない。(クレジットカードの悪用なんていう例なら、掃いて捨てるほどある。で、その犯罪者による損害の分、クレジットカード利用者は年間利用料として、いくばくかの金を払っているわけだ。あなたもネット侵入者に、間接的にお金を奪われていることになる。「おれはそんな金を払っていないぞ」と言える人は、ごくわずかだろう。何しろ、インターネット接続プロバイダへの支払いは、たいていの人がクレジットカードなんだから。)

 なお、国民総背番号制と、ネット対策とは、一応、別である。たとえば、国税庁の納税情報とか、医者の診療情報とか、そういう情報があるが、これらの個人情報は、「国民総背番号制があると、そのせいで情報が漏洩する」とはならない。なぜなら、それぞれの情報所持機関が、個別に情報対策をしていれば足りるからだ。
 たとえば、国税庁が、孤立したデータベースを確立する。大学病院などの医療機関が、それぞれ孤立したデータベースを確立する。こういうふうに、孤立したデータベースを確立しておけば、どこかの悪質なハッカーが自治体にアクセスしても、住民番号を入手したあと、あちこちの孤立したデータベースに到達する手段がないから、彼は機密情報をいきなり入手することはできない。(各人の医療情報は、各人の所有するICカードにすればいいだろう。これは物理的な情報隔離。)
 要するに、統一した国民背番号があっても、統一したデータベースがなければ、「情報を一網打尽で入手する」ことは、物理的に不可能であるわけだ。

 [ 補説 ]
 なお、住所・氏名・生年月日・性別ぐらいまでは、情報公開してもよい、と私は考える。さもないと、人物の特定が困難だからだ。下手をすると、ある人物が別の人物になりすます、ということが可能になってしまう。
 「生年月日や性別を知られたくない」「住所を知られたくない」という人もいるだろうが、社会における犯罪を減らすためには、そのくらいは我慢してもらうしかない、と思う。
 ただ、誰でも勝手に情報にアクセスできると、面倒だから、ある程度の手間はかかるように、あえて面倒さを処置しておくのもいいだろう。ハッカーが知るのは、商売上で知るのと同様で、特に禁じる必要はないと思うが、ネット上に情報を置いて、おしゃべりな奥さん連中の覗き趣味を満たす、というのは、やりすぎだと思える。一方、商業的な目的で、貸金業者やクレジット販売業者やネット販売業者などが、客の身元を確認するのは、許容されるべきだろう。(これを禁じるために複雑な処置をすれば、一般の善良な客の手間と面倒が増える。さもなくば、ネット詐欺などが横行する。)
 具体的に例を示す。先日、銀行で、客が行員に、免許証の提示を求められて、そのコピー(複写)を取ることを要求された、という例がある。私の個人的な見解は、こうだ。
 「入金・出金ぐらいならば、コピー(複写)を要求するのは、やりすぎであり、不可」。
 「口座開設ならば、身元確認を要求するのもやむを得ない。犯罪防止。さもないと、オークション詐欺や脅迫メールでの入金が可能となるから」。
 「光学的コピーは許容するが、電子化によるデータベースへの組み込みは不可」。
 商業利用でなく、個人利用の例もある。たとえば、「おれは離婚歴がある中年だが、初婚のフリをして、年齢を詐称して、若い独身女性をたぶらかしたい。だから秘密を守れ」と思う男もいるだろうが、「そういう詐欺男にだまされたくないから、個人情報を開示せよ」と思う女もいるだろう。だから、あらゆる個人情報を秘密にすればよい、というものではないのだ。

 [ 付記 ]
 ついでに言及しておこう。長野県の今回の実験からすると、「長野県は偉い」と評価できる。これはもちろん、田中康夫知事が偉いということである。(作家としては石原慎太郎とは比較にならなかったが、知事としてはずっと上回っているようだ。というか、石原慎太郎というのは、知事としては最低ランクかもしれないが。ディーゼル微粒子の規制だけは業績だが。それだけ。)
 だが、褒めてばかりいても仕方ない。文句を言いたいこともある。それは、民主党の松沢・神奈川県知事だ。この人は、さんざん期待を持たせたあげく、何にもしていない。困ったものだ。浅野とか北川とか、まともな業績を上げている人はいるのに、松沢は何もしていないのだ。
 こんな知事は、どうしようもない。民主党としては、党を挙げて、まともな政策ブレーンを付けて、補佐するべきだろう。さもなくば、民主党自体が、愛想をつかされる。
 多くの人は、がっかりもいいところだろう。「なんだ、民主党が権力を取っても、自民党と代わり映えがしないのか。だったら、民主党に投票しても、不安定になるだけ無駄だな」と思いそうだ。
 愛想をつかされた知事を何とかしなければ、民主党自体が愛想をつかされるだろう。そうなったら、田中康夫を党首に迎えるしかないかもね。みっともない話だが。
 「プロの政治家は、全員失格です。小説家失格になったアマチュアの方が、政治はずっと上手です」
 となる。そうなったら、失業した政治家は、小説でも書くしかないね。

  【 追記 】  ( 2004-01-01 )
 「共通ID」問題について、追記しておこう。(情報技術者向けの話。)
 「各データベースに共通するID番号を備えると、データが盗まれやすい」と主張して、「だから国民総背番号制はダメだ」と主張する意見がある。しかし、この主張は、問題を混同している。この意見のうち、最初の主張は正しいが、後者の主張は正しくない。
 たしかに、共通IDがあると、データが盗まれやすい。しかし、共通IDと国民総背番号制とは、原理的には別のことである。国民総背番号制を実施しても、共通IDを実施しないことは、可能である。そのことを理解しよう。
 たいていの人は、「国民総背番号制 イコール 共通ID」と理解しているようだ。しかし、必ずしもそうではない。この両者を分離しておくことは可能である。というより、共通IDを廃止して、分散型のIDだけにすることが可能である。そのためには、それぞれの分散IDと国民総背番号制の番号を結びつけるものを、各人のIDカードだけにしておけばよい。

 以下は細かな話。
 たとえば、あなたの国民総背番号制の番号は、「 333-333-333-333 」という12桁の数字であるとする。一方、国税庁における番号や、健保における番号や、他の番号もある。それらの番号は、「 333-333-333-333 」という数字とは別の数字であり、関連がない。関連づけは、あなたのIDカードのなかだけに蓄えられる。外部の人には見られない。……こうすれば、あなたの情報が網羅的に盗まれることはない。
 ただし、あなたのIDカードを物理的に盗まれると、あなたが困る。その場合は、さっそく、盗まれたIDカードの関連を廃棄して、新たな関連を付ける必要がある。というわけで、関連づけを管理するデータベースが一つだけ必要となる。……この中核的なデータベースにネット犯罪者が侵入したら、大変なことになるので、ここについては、非常に厳重な管理をする必要があるだろう。軍事組織並みの厳重な管理が必要となる。そして、一般の政府組織からは、ここには入れないようにする。国民の一人一人は、自分のデータについてのみ、自分にも見えない形で、IDカードを受け取るだけだ。
 以上のようにすれば、「共通ID」という問題は、回避できる。つまり、国民総背番号制と共通IDとを、一致させないことが可能である。
( ※ 一般に、情報の制御については、メリットとデメリットとがある。メリットだけを享受して、デメリットをなくすように、最大限の努力をすることが大切だ。当り前の方法では、「二律背反」と思えるようなことも、うまく工夫すれば、メリットとデメリットを分離して、メリットだけを得ることが可能となる。……物質については「あちらが立てばこちらが立たず」ということはよくあるが、情報の管理では、「あちらもこちらも」という欲張りなことが可能になることが多いものだ。国民総背番号制というのは、国民一人一人にも、それなりのメリットがあるのだから、「危険だ、危険だ」と叫ぶだけでは、メリットを享受できなくなってしまうのである。)
( ※ 「メリットとは何か?」と問われるだろうが、現時点では、たいしたことはないだろう。しかし、将来的には、大きなメリットが得られるはずだ。銀行のカードも、最初は、「金の出し入れがちょっと簡単になるだけ」と思われたが、やがては、電子マネーという形にも発展するだろう。国民総背番号制にも、それなりのメリットはあるはずなのだ。教育であれ、福祉であれ、減税であれ、国民はさまざまな公的サービスを受けるからだ。)
( ※ 情報技術者に頼みたいことは、単に「危険だ、危険だ」と騒ぐことではなくて、「危険をなくす方法」を提案してもらいたい、ということだ。一般に、現実世界でも、犯罪者はいるが、社会は犯罪を抑止する方向に進んでいる。「犯罪者がいるから、商業活動をすべて廃止せよ」とか、「犯罪者がいるから、クレジットカードの利用を一切やめよう」とか、そういう消極的な態度では、文明の利便さを享受できない。情報分野において「メリットを増やしてデメリットを減らす」という目的を実現するために、情報技術者は存在しているのだ。頑張ってほしい。)
( ※ 分散IDを使うことで、危険を減らそう、という技術者の努力がなされている。下記のページに紹介記事がある。
        http://d.hatena.ne.jp/HiromitsuTakagi/20030907
 うまいアイデアだ、と感服したので、このページを紹介しておく。)
( ※ さらに細かいことを言えば、セキュリティは暗号などの問題とも関連する。個人の住民番号は「RSA暗号」の「公開鍵」のように、一般に公開してもよさそうだ。一方、パスワードなどは、暗号鍵として、非公開にする。この暗号鍵がないと、政府機関でさえ個人情報にアクセスできない、というふうにしておくとよさそうだ。)
( ※ なお、一般的に、パスワードは、4桁ぐらいではまったく不十分であり、もっとずっと多くの桁が必要だ、と私は思う。多くの桁を簡単に扱う方法については、別項で述べた。 → 2月15日
( ※ 暗号について言えば、RSAやDESのような暗号は、あまり強力ではない。今後30年間、安全である保証はまったくない。そこで、別の数学を用いる暗号方式も提唱されているが、五十歩百歩である。私としては、根本的に異なる暗号方式がいいと思う。それは「(固有の)暗号鍵をもたない方法」である。具体的に言えば、「アルゴリズム自体に暗号をかける」という方法である。通常の暗号は、一定のアルゴリズムを用意して、そこに何らかの(固有の)暗号鍵を当てはめる。しかし、それとは原理が異なり、「アルゴリズム自体に暗号をかける」という方法がある。これだと、各人ごとにどんなアルゴリズムが使われているからわからないから、通常の方法では解読できない。アルゴリズム自体を解読しようとしても、まず無理である。一方、暗号鍵がわかっていれば、演算処理は少しで済むので、本人にとっては解読の速度が速い。なお、アルゴリズム自体にかける暗号というのは、演算処理によって得られるものではない。ごく小量の通信によって得られる。……という話は、細かくなりすぎるから、ここで打ち切り。)



● ニュースと感想  (12月29日)

 「イラクへの自衛隊派遣」について。
 何度も繰り返したので、あらためて主張する気はない。ただし、せめて、嘘ではなく本音(真実)の上で議論してほしいものだ。
 自衛隊を派遣したいのなら派遣したいと主張すればよい。それはそれで一つの主張だ。ただし、「イラク復興のため」なんていう虚偽を理由とするのは、やめてほしいものだ。読売社説(19日)などは、「浄水・医療・学校建設のため」などと美談らしく仕立ててている。だが、マスコミというのは事実を報道するためにあるのだから、虚偽を報道するのはやめてもらいたいものだ。
 「浄水・医療・学校建設のため」であれば、自衛隊などはまったく必要なく、イラクの業者や外国の業者にでも可能である。自衛隊などが出掛けていけば、テロのなかった地域にもテロが生じかねないので、かえって有害である。だいたい、浄水ならば、巨大な設備なしで手軽な浄水器があれば済むし、医療ならばNPOなどでもできるし、学校建設などは火急の問題ではない。どうも、イラクのことを発展途上国と勘違いしているようだ。イラクは途上国ではない。すでに立派なインフラがある。道路さえもないアフガンとは全然異なるのだ。
 では、自衛隊が行く必要があるのは、なぜか? 「軍隊の派遣」そのものが目的であるからだ。そうして「米国への協力」をするわけだ。自衛隊員が死ななくてはならないとしたら、イラクの感謝を得るためではなくて、米国の感謝を得るためだ。
 つまり、自衛隊派遣の目的は、「イラクの復興」ではなくて、(イラクの復興を通じて)「米国の占領政策に協力すること」である。だからこそ、民間業者ではなくて、自衛隊を派遣する必要がある。民間業者がやったのでは、「日本は米国の占領を支持しています」と宣伝できないからだ。── これが真実だ。とすれば、賛成であれ、反対であれ、この真実の上に立脚して、賛否を論じるべきだ。
 なのに、現実には、「イラク復興の是非」とか、「イラク国民の感謝を得ることの是非」とかを論じているのが、保守派だ。蜃気楼の上で、議論をしている。
 結局、イラクでは独裁体制が消えて、民主主義が芽生えたが、逆に、日本と米国では、独裁体制がのさばって、民主主義が消えかけているのだ。真実は隠蔽され、虚偽ばかりがまかり通る。

 [ 付記1 ]
 「他国の復興のために、日本国民の命を賭ける」なんてことは、本当にありうるのだろうか?
 どんな国であれ、自国の利益が第一である。他国のために自国民の命を犠牲にする、なんてことは、ありえない。たとえば、日本はこれまで、外国の経済援助を助けるために、自国民の命を進んで差し出したことがあるだろうか? まったくない。それどころか、最近では、ODAをどんどん削減している。イラクへの援助が増えた分、イラク以外の国への援助を大幅に削減している。こうやって、イラク以外の国の復興を阻害しているのが、実状だ。
 「他国の復興のために、日本国民の命を賭ける」なんてことは、ありえない。そもそも、そうする気すらないはずだ。「自国の金が惜しいから、他国に回す金をなるべく減らしたい」と思っているのが、本心だ。わずかなODA資金さえも惜しむのに、貴重な命を投げ出すはずなど、ありえない。
 「他国の復興のために、日本国民の命を賭ける」なんてのは、いかにも美名らしく聞こえるが、ひどい自己陶酔である。狂人の発想そのものだ。だから私は何度も書くのである。「真実を見よ」と。
( ※ では真実は? もちろん、「イラクのための奉仕活動」ではなくて、「米国のための奉仕活動」ですけどね。)

 [ 付記2 ]
 「危険な地域だからこそ、自衛隊が行く」という主張もある。しかしこれは、話を根本的に取り違えている。イラクにいるべきなのは、イラク国民だ。イラク国民は、危険な地域だからといって、そこから去ることはできないのだから。つまり、「自衛隊か文民か」ではなく、「自衛隊かイラク国民か」なのだ。
 「危険地域には軍隊を派遣するべきだ」と主張するのであれば、かわりに、イラク国民を危険地域であるイラクから引き離す必要がある。つまり、イラク国民全員を平和な日本に引き取る必要がある。(できっこないが。)
 重ねて言う。イラク国民は、危険な地域だからといって、そこから去ることはできない。とすれば、そこで働くべきは、イラク国民であって、自衛隊ではない。「自衛隊が危険地帯で働けば、イラク国民は危険地帯にいないで済む」というような論旨は、欺瞞そのものだ。

 [ 付記3 ]
 そもそも、外国軍がいるから、危険でない地域まで危険になる。かくて、イラク国民がとばっちりを食う。「軍隊としての自衛隊は歓迎されていない。歓迎されてるのは金だけだ」というのが、事実である。
 「軍隊で経済復興ができる」なんていうのは、妄想もいいところだ。自衛隊が百人程度の給水や建設をしても、イラクの復興には九牛の一毛ほどの影響もない。経済学的に言えば、それが事実である。まったく無意味な行為なのだ。(ただし、「アメリカへの協力」という象徴的な行為にはなる。これが政府の本音。)
 なお、「軍隊で経済復興ができる」なんていう妄想を信じるのであれば、自衛隊に日本で公共事業をやってもらえばいいだろう。自衛隊が東北の寒村で、小学校を一つか二つ建設すればよい。そうすると、不況のどん底にいる日本が、たちまち景気回復する、というわけだ。……こういうのは、日本で主張すれば、狂気そのものだ、とわかる。イラクでばかり自衛隊の効果を宣伝しないで、日本で自衛隊の効果を宣伝してもらいたいものだ。どうせ阿呆をやるなら、日本国内だけで阿呆をやった方が、世界に向けて恥をさらさないで済む。
( ※ 特に、読売は、社説でそう主張してもらいたいですね。「不況脱出のために、自衛隊が働いて、日本を復興させよ」とね。……そうすれば、自衛隊員は、大喜びで働くと思いますよ。「塹壕訓練の成果を出すときだ! 穴掘りをしよう!」とね。……でも、ケインズの政策によると、せっかく穴を掘っても、今度は埋めなくちゃね。)

 [ 付記4 ]
 「復興のため」というのは、まるきりの嘘である、というのを証明する事実がある。韓国もイラクに派兵しているが、復興事業を中心としようとしたところ、治安維持要員を増やしてほしいと米国に要請され、三千人のうち、半数近くを戦闘部隊が占める見込みだという。(朝日・朝刊・3面 2003-12-24 )
 もちろん、日本もこうなる。米国としては、「ほしいのは戦闘部隊だが、いきなりというのは日本には無理だろうから、今はまず復興事業で」と思っているだけだ。だから早晩、日本も米国の要請に従って、戦闘のための部隊を派遣することになる。これが本音なのだから、こうなるのが当然だろう。
 ま、そうなっても驚くには値しないが、「戦闘のためではなく復興のため」と叫んでいた保守系マスコミが何と弁解するかが、見物である。楽しみに、期待していましょう。
( ※ 予想すれば、たぶん、知らぬ顔の半兵衛でしょうね。「大量破壊兵器ゆえに戦争賛成」と言っていたのに、ほおかむりするのと同様だ。こうして、彼らは、自分自身への信頼をなくしていく。二枚舌マスコミの末路。)
( ※ 「治安維持要員の派遣」は、早晩、必ず米国から要求される。そのことを、あらかじめわきまえておこう。保守系マスコミは今のところ、ごまかしているが、ごまかされてはならない。イラク戦争のときも、「日本は派兵しない」なんて言っていて、今になって「やっぱり派兵します」と言い出す。大量破壊兵器も「存在する」なんて言っていて、今になって知らんフリ。保守系マスコミというのは、とにかく、その場しのぎで、嘘ばかりついているものだ。)
( ※ さっそく、ニュースが飛び込んだ。イラクに派兵されたタイとブルガリアの部隊に、攻撃が加えられ、死者数名。[朝刊・各紙 2003-12-28 ]……これは、近い将来の自衛隊の運命であろう。今のうちに、しっかり覚悟しておこう。)

 [ 付記5 ]
 「他に選択肢がないから仕方がない」という主張もある。これも、本当は嘘ではある(選択肢はある。例:ドイツやフランス)。とはいえ、事実ではなくて、行動としてなら、「選択肢はない」という主張は成立する。つまり、「たとえ選択肢が存在しても、その選択肢を取る気がない」のであれば、その選択肢はないも同然である。
 これはつまり、「他の選択肢を取る気がない」ということだ。もっとわかりやすく言えば、「ご主人様の命令には逆らえない」ということだ。要するに、「日本は対米従属のほかには選択肢はない」ということであり、「日本は米国の犬である」ということだ。
 これはこれで、一つの主張である。実際、小泉は米国の犬であるし、日本の保守派は米国の犬であるから、彼らが「日本は米国の犬である」と主張するのは当然である。
 だから、そう主張する人々には、勧告しておこう。「選択肢がないから仕方がない」なんて、もってまわった言い方をしないでほしい。もっと簡単に、誰にでもわかる言い方をしてほしい。「日本は米国の犬である」と。
 犬には犬にふさわしい言葉がある。犬には「おまえは犬だ」と言ってやればいいのであって、犬に向かって「選択肢」なんていう言葉は使わないでほしい。犬がキョトンとしてしまう。
( ※ ま、国民をわざとゴマ化すつもりなら別だが。とはいえ、保守派の論客というのは、悪事を美化するのが仕事ですけどね。彼らが、いかに美名を掲げて、殺人を正当化するか、興味をもって、修辞を聞くといいだろう。「いざ戦わん。奮い立ていざ。ああ、インターナショナル……」って、保守派の宣伝ですけどね。)


● ニュースと感想  (12月29日b)

 「イランの地震とイラク問題」について。
 イランで地震が起こって、数万人の死者。早急に災害救助の支援が必要。(各紙 2003-12-26 )
 だったら、ちょうど自衛隊が派遣されるところだから、当面は、イランに行くといいですね。それなら、「人道支援・復興支援」の役に立つし。まずはイラン、ついで、イラク。その順序でやれば、「人道支援・復興支援」には自衛隊派遣の意味がありますしね。
 え? やらない? なんで? アメリカが嫌がるから? あ、そりゃそうですね。もともと「人道支援・復興支援」が目的じゃなくて、「アメリカ支援」が目的でしたからね。
 嘘つき男の本音が何であるかは、行動を見ればわかる、という見本。

 [ 付記 ]
 支援を送らないと、地震が消えたあとの、二次災害の恐れがある。特に問題なのは、衛生面だ。死体が放置されると、伝染病が蔓延する恐れがある。イラクは熱帯地方だから、冬とはいえ、危険度は高い。かつて、黒死病(ペスト)が蔓延しとき、場所は欧州だったが、人口がほぼ半減した。
 地震は小泉のせいではないが、自衛隊をイラクに送ってイランに送らないとしたら、責任は小泉にある。
( ※ ま、彼はもともと、人道支援も復興も関係なくて、アメリカのご機嫌取りしか気にしていないんですけどね。保守系の人々なんて、みんなそうです。たとえば、読売の記事を見てごらんなさい。いかに偉そうなことばかり書いていることか。「人道支援」とか「復興」とか。……読めば読むほど、ちゃんちゃら笑ってしまう。ヘソでお茶を沸かせます。省エネのためですかね? 紙面の記事をジョークだらけにするつもりらしいが、今は正月にはなっていないし、まだ早いんですけどね。)

 [ 後記 ]
 かなり時間がたってから、小泉はようやく、「自衛隊派遣の検討」を指示した。ずいぶん、遅れましたね。こんなことで、日本が地震になったとき、大丈夫なんですかね。いちいち米国大統領のお伺いを立てないと、何もできないんじゃないですかね。
 なお、27日の小泉の指示は、あくまで「検討」である。このあと、検討から実行までには、どれだけの時間がかかることやら。
 また、派遣内容も、ごく小規模であるようだ。現地ではガレキの山の下に、大量の遺体(腐敗しかかっている)が眠っていて、処理が必要なのだから、重機のある自衛隊(の工作隊)が必要なのだ。なのに、軽装の医療団や毛布の派遣で済まそうとしている。
 あのねえ。医療団や毛布の派遣なら、自衛隊は必要ないんですよ。普通の人にはできないような作業だから、自衛隊が必要なんです。場合によっては、爆破も必要だしね。
 でもまあ、自衛隊は、イラクで給水することが大切なんですよね。給水車で、テロを撲滅できるんですよね。水鉄砲でも使うんですかね。私にはわかりませんがね。


● ニュースと感想  (12月30日)

 「パレスチナ問題とイラク問題」について。
 イスラエルが「過激派テロリストの殺害」をしたら、たちまちイスラエルで報復の「自爆テロ」が起こった。(朝日・夕刊 2003-12-26 )
 昔は、過激派のテロが起こったとしても、ごく稀に起こるだけだった。ところが、イスラエルのシャロン政権が「過激派弾圧」を名分に、パレスチナの弾圧に乗り出したところ、双方で攻撃がエスカレートして、双方に多大な死者が発生するようになった。
 武力のエスカレーション。これが、「テロ撲滅」という政策の効果である。

 ブッシュと小泉は、「テロ撲滅」を名分に、イラクに派兵した。では、それで本当に、テロがなくなるのか? 暴力によって暴力を弾圧することが可能なのか? そのことを、イラク問題で論じる前に、パレスチナ問題で論じるべきだろう。
 彼らはパレスチナ問題になると、口を閉ざすが。まったく、ご都合主義もいいところだ。「真実に目を向けよ」と言われたとき、彼らは「はい、目を向けます」と言いながら、片目をつぶる。

 「武力では何も解決しない」── このことを肝に銘じるべきだ。それがわからなければ、イラクに調査団を派遣するのではなく、パレスチナに調査団を派遣するべきだ。
( → 12月11日


● ニュースと感想  (12月30日b)

 「イスラエルの核疑惑」について。
 ひそかに核開発をしていたリビアが、圧力に屈した。これを見て、「核開発の疑惑のある北朝鮮にも、圧力をかけよ」という声がある。保守派は、たいていそう考えている。(読売・社説 2003-12-22 )
 一方、「イスラエルが核兵器を持っているのは、公然の秘密である。なのに、イスラエルが核拡散防止条約に加入しないで、査察を受けない。これについて、けしからん、とアラブが怒っている」という話もある。(朝日・朝刊 2003-12-22 )

 この二つを比べると、保守派ってのは、やはり、「見たくないものは見ない」という性癖があるようだ。「リビアや北朝鮮については見るが、イスラエルについては見ない」というわけだ。「右目はよく見るが、左目は閉じる」というわけだ。
 ま、これは、当り前かもしれない。いちいち言うまでもなさそうだ。ただ、次の「余談」は、ちょっと面白い話なので、追記しておく。

 [ 余談 ]
 イスラエルの核物資は、どうやって入手したか? ここにも、公然の秘密がある。
 通常の方法では、もちろん、核物資を入手できない。で、どうしたか? 大量のウランを運んでいる貨物船が、公海上で、突然、行方不明になったのである。
 これが本当に「行方不明」であれば、「すわ一大事、テロリストやテロ国家の手に、核物質が渡るかもしれない」と、大騒ぎになっていいはずだ。しかるに、ちっとも大騒ぎにならなかった。
 なぜか? 「行方不明」というのは、建前上のことである。偵察衛星のある時代に、貨物船みたいにデカいものが「行方不明」になるはずがない。もちろん、アメリカは、行方を知っていた。行方を知っていたから、騒がなかった。むしろ、他国が騒ごうとするのを、抑制した。なぜ? 「*****にウランが渡るぞ」と、騒がれては困るからである。
 その*****がどこかは、言うまでもないですよね。これが真相である。だから、「公然の秘密」なのだ。
( ※ ついでだが、この貨物船は、テロリストや海賊にシージャックされたわけではない。「行方不明」というのは、自作自演である。公然と輸入するわけには行かないから、「行方不明」という形で、こっそり核物質を運び込んだわけだ。つまり、自分で自分のものを盗んだわけだ。足取りを隠すために。これが「自作自演」である。……なお、自作自演というのも、秘密ではあるが、公然の秘密である。何しろ、私だって知っているんですからね。あなたも知っているしね。)
( ※ 公然の秘密というのは、建前上はあくまで秘密である。だから、アメリカや日本は、「そんな事実は確認できていない」と言って、否定するのである。だからイスラエルは、建前上は、核兵器を持っていないことになっている。)
( ※ ここで、皆さんに役立つ教訓を、一つだけ言っておこう。それは、「浮気をしたら、徹底的にシラを切れ」ということだ。たとえバレても、「公然の秘密」にしておこう。そうすれば、あったことでも、なかったことになるのである。正直者は「事実は事実だ」と思うだろうが、そんなことでは、まずい。たとえ事実でも、「違う、違う」と言っていれば、いつかは嘘が真実と見なされるようになるのである。……そのことを、アメリカとイスラエルは教えてくれる。)


● ニュースと感想  (12月31日)

 「ミサイル防衛網と効用」について。
 ミサイル防衛網への支出(米国からの購入)を、政府が決定した。配備費と維持費で、計1兆円。北朝鮮のテポドンに対抗するためだという。(各紙・朝刊 2003-12-20 )
 ふうむ。テポドンのせいで、日本は1兆円の損失である。一発も着弾していないのにね。で、もし着弾したら? 一発ごとに、十億円ぐらいの損害だろう。割が合わないと思うんですけどねえ。
 実は、テポドンは、日本に着弾する能力はない。距離的にも不十分だし、命中精度は最低だ。東京を狙っても、太平洋か森林に落ちる可能性が高い。
 つまりは、張りぼてみたいなミサイルで、日本に1兆円も損害を与えたのだ。これほど効率の高い武器は、いまだかつて一度もなかっただろう。臆病者を脅すには、オモチャの鉄砲でも足りる、という見本。

 [ 付記1 ]
 そもそも、朝鮮のミサイルは、恐れるべき対象だろうか?
 たとえば、日本が他国を攻撃するとする。日本には北朝鮮のテポドンよりも、はるかに高性能なロケット(H2など)が、いろいろとある。これに爆弾を搭載すれば、テポドンよりもはるかに強力なミサイルとなる。(ロケットとミサイルは原理的には同じものである。規模で言えば、「ロケットの小さいものがミサイルだ」と言える。)
 で、この強力なロケット改造ミサイルを使って、日本が他国を攻撃したとして、それで、日本にメリットはあるだろうか? たとえば、中国かロシアに、数発のミサイルを撃ち込む。すると、中国やロシアは、たちまち降参するだろうか? とんでもない。爆撃機や戦闘機が大挙して押し寄せてくるだろうし、下手をすれば核ミサイルが飛んでくるだろう。
 要するに、たった数発の非核弾頭ミサイルなんて、まったく意味がない。戦術的な効果は、ゼロも同然である。どうせ恐れるならば、もっと現実的な効果のある攻撃を恐れるべきだろう。(たとえば、密入国者による、毒ガスのテロ。)
 結局、テポドンの意味は、何らかの破壊をなすことではなくて、「日本を脅かすこと」だけだ。「怖いぞ、怖いぞ」とおどかすだけの「伝家の宝刀」である。そして、それを実際に使うことはない。なぜなら、実際に使ってみれば、それは「張り子の虎」も同然であることが、判明してしまうからだ。
 テポドンが日本に落ちれば、たいていは、無人の場所に落ちる。うまく人口密集地に落ちても、数百万円から十億円程度の損害だし、人的被害は最大で十人程度だ。その一方で、一兆円もの費用をかければ、それだけ増税によって不況の度合いが高まるから、数百人の自殺者が発生する。また、「北朝鮮が怖いから、イラクに派兵する」なんてことをすれば、イラクで自衛隊員にかなりの人的被害が発生する。
 ミサイル防衛網なんていうのは、どう考えても、割が合わない。「1円が惜しいから百円を失う」とか、「一人の命を救うために、十人の命を犠牲にする」とか、そういうものだ。足し算と引き算のできる小学生並みの頭があれば、差し引きしての損得がわかる。しかしまあ、日本には、それだけの頭はないのだろう。米国の飼い犬だからね。純ポチに「足し算と引き算をせよ」と言っても、無理ですね。
( → 2月22日b2月22日e

 [ 付記2 ]
 より根本的な問題もある。それは、完成時期だ。
 ミサイル防衛網が完成するのは、ずっと先だ。仮に技術が完成したとしても、日本全国に配備するには、十年かそこらはかかる。首都圏だけ防備しても、関西も中京も九州も取り残される。全国に配備しなくては意味がないのだが。
 そして、全国に配備したころには、金正日は高齢のせいで、引退または死亡している。ミサイル防衛網が完成したころには、まったくに役立たずになっている。すべて無駄。これじゃ、オモチャを買ったようなものだ。兵器マニアの楽しみとなるだけのオモチャ。
 テポドンも、ミサイル防衛網も、どっちもオモチャなんですねえ。

 [ 付記3 ]
 ミサイル防衛網は、たとえ配備しても、まったく無効になっている可能性が高い。
 第1に、命中精度が著しく低い。実験では、相手のミサイルが一発だけ来ることを想定しているが、現実には、相手のミサイルは数十発がまとめて来るはずだ。そのまとめて来る数十発を、一発ずつ、ちゃんと狙いを定めなくてはいけない。それぞれのミサイルが整然と並んで来ればともなく、軌道が交差したり、速度がずれたりすれば、予測は非常に困難となる。(なお、数十発のミサイルのうち、ほとんどは「おとり」である。)
 第2に、「盾と矛」の関係で、「盾」が進歩すれば、必ず「矛」が進歩する。相手のミサイルは、現在はただの弾頭だが、ミサイルがロケットになって、推進力を可変化すれば、軌道は可変化するから、撃墜はまず不可能だ。
 第3に、多弾頭ミサイルへの対処は、まったくできていない。多弾頭ミサイルは、軌道が途中で変化するから、撃墜しようとしても、まず不可能である。だからレーガンは「レーザで撃墜」という「スターウォーズ計画」を立てた。夢物語ではあるが、これなら理論上は撃墜が可能である。これでなければ、無意味だ。
 第4に、現技術の水準でも、まだまだ未完成である。米AP通信によると、軍事専門家がそう判断している。(読売・朝刊・2面・コラム 2003-12-30 )

 [ 付記4 ]
 「じゃ、どうすりゃいいんだ」という対案には、次のように言える。
 当面は、日米安保を信頼しよう。これを信頼できないというならば、さっさと安保を廃棄するべきだ。
 将来的には、巡航ミサイルの配備でもいいが、これは効果があまりないから、やはり、ステルス爆撃機の配備が大事である。陸上自衛隊や海上自衛隊なんてのは、ほとんど無意味であるから、すべて廃止して、ステルス技術の開発に専念するべきだ。
( ※ ステルス爆撃機は、局所的な攻撃能力をもつが、侵略能力はもたない。侵略能力をもつのは、むしろ、陸上自衛隊や海上自衛隊である。)
( ※ ステルスについては →  2月22日e

 [ 付記5 ]
 効用の点で言えば、ミサイル防衛網なんかよりも、ずっと火急の要事がある。それは、災害対策だ。地震や台風で、洪水が都市圏を襲う可能性は、非常に高い。北朝鮮のミサイルが遅う可能性よりも、はるかに高い。しかも、いったんそうなった場合の被害も、桁違いだ。
 テポドンが一発届いても、せいぜい、十億円の損害である。この程度は、日本にとっては、蚊に食われたぐらいの痛みしかない。どうせミサイル防衛網には1兆円も使うのだから、十億円なんてまったく痛みにならない。
 一方、洪水の被害は、大変だ。江戸川などがあふれて、下町の地下鉄に水が流れ込んだら、地下鉄の穴を通じて、首都圏のあらゆる地下鉄がすべてマヒする。穴がつながっているからだ。
 これへの対策は、絶対に必要である。しかも、費用対効果で見ると、非常に効率が高い。特別に高度な技術や機械は必要ないからだ。せいぜい、それぞれの出入口に防水シャッターを用意したり、あちこちの駅(トンネル部)に、ファイアー・ウォールならぬウォーター・ウォールという隔壁を用意しておけばよい。全部配備しても、1兆円もかからない。しかも、これで守れるものは、巨額だ。なぜなら、首都圏の地下鉄がマヒするということは、日本経済そのものがマヒするということだからだ。その場合の損害は、テポドン一発の比ではない。
 結局、「ミサイル防衛網を配備せよ」と主張することは、「洪水防衛網を配備せよ」と主張することを隠蔽することで、日本を破滅させようとする巧妙な陰謀なのだ。そう主張する保守派は、たぶん、北朝鮮の協力者なのだろう。そうして日本の目を北朝鮮だけに向けさせて、日本を破滅させようと狙っているわけだ。そして、その陰謀は、うまく成功した。日本はどんどん経済破滅の道をたどりつつある。
( ※ とすれば、経済無策で日本を経済破滅させる小泉も、北朝鮮の協力者なのかもしれない。ふうむ。ブッシュに協力するフリをして、金日成に協力しているわけだ。すごい役者だな。二重スパイか?)


● ニュースと感想  (12月31日b)

 「ミサイル防衛網と日米安保」について。
 前項で述べたように、ミサイル防衛網というのは、効用が最低だ。そこで、ミサイル防衛網にかわる対案が出ている。「巡航ミサイルの方がいい」という意見だ。
 では、巡航ミサイルにするべきか? あるいは、私の以前の意見のように、ステルスにするべきか? ……ま、兵器の配備としては、これらの方がずっとマシだ。何らかの兵器を配備しなくてはならないとしたら、これらの方がいいだろう。
 しかし、である。莫大な費用をかけて、これらの兵器を配備する必要が、あるのだろうか?
 保守派は常日頃、日米安保の必要性を唱えている。日米安保は、何のためにあるんですかね。いざというとき、米国なんてのは、信頼できないものなんですかね。巡航ミサイルなんてのは、米軍の空母や日本の米軍基地に配備されているが、日本が頼んでも、米軍はその巡航ミサイルを惜しんで、発射しないんですかね。それで、日本は自分で開発しないといけないんですかね。

 となると、米国なんてのは、いざというとき、信頼できないということなのだろう。これは、問題である。
 思えば、イラク問題でも、「自衛隊を派遣しないと、いざというとき、米軍は助けてくれないかもしれない」という声があった。ということは、保守派は本音では、「いざというとき、日米安保なんてのは、信頼できない。米国は条約を守って、日本を助ける、とは限らない」と思っているわけだ。そして、こんな信頼できないわがままな国に、一国の安全保障を委ねようとしているわけだ。とすれば、「米国は信頼できる友人ではない」と、保守派ははっきりと主張するべきだ。さもなくば、自己矛盾に陥る。(特に、小泉さんはね。)

 [ 付記1 ]
 こんなふうに米国が信頼できない国であれば、日本の運命は、海の藻屑である。たとえば、米国が日本に、「大量破壊兵器を開発していた証拠を出せ」と言ったとする。日本は、「大量破壊兵器なんか、開発していない。国連の査察を受ける」と主張して、国連(実は米国のCIA)の査察団を受け入れる。しかるに、もともと存在しないものは、発見できない。
 すると米国は、「大量破壊兵器を開発していたという証拠を隠蔽している。不誠実だ。日本は世界のテロの温床だ」と主張して、日本を爆撃するのである。
 え? おかしい? いや、おかしくないでしょ。イラクでは、そうしたんだから。そして、この論理は、日本自身がイラクに向けて主張した論理と、同様である。当然、日本も攻撃されてしかるべきだ。「大量破壊兵器を隠している」という理由でね。

 [ 付記2 ]
 「自衛隊をイラクに派兵しないと、米国が北朝鮮から日本を守ってくれない」という主張があるが、この主張は、どう考えても、帳尻が合わない。
 テポドンで死者が出るとしても、せいぜい十数人。最も高い確率では、ゼロ人。(命中精度も飛距離も悪いから。)また、そもそも、北朝鮮が日本と交戦する可能性は、限りなく低い。(なぜならそうなれば、世界で最貧国の北朝鮮は、簡単に負けるから。もちろん、金正日はフセインのごとくさらしものになる。北朝鮮に襲われる可能性を信じるくらいなら、火星人に襲われる可能性を信じた方がマシだ。)
 一方、自衛隊がイラクで殺される可能性は、非常に高い。27日も、タイやブルガリアの兵士が殺された。
 ついでに言えば、イランでは数万人が死んで、水も食料も医薬もなく、次々と人が瀕死の危機に喘いでいるのに、小泉はほとんど知らぬ顔の半兵衛だ。
 ありそうもない少数の死者を恐れて、多大な死者を確実に出す、というのは、どう考えても、合理的ではあるまい。
 昔、オーソン・ウェルズが、ラジオ・ドラマで「火星人が襲来した!」と迫真のニュースを語ったところ、それを事実と信じて、米国人はパニックになった。現代の人々はそれを笑う。後世の人々も、現在の日本人を笑う。「テポドンに怯えていた? じゃ、花火のロケットも怖いんだね」と。
 ついでに言えば、花火ではこれまで多大な死者が出てきた。テポドンに怯えるくらいなら、花火を禁止する方がずっと死者を減らせる。


● ニュースと感想  (1月01日)

 「入試と教育」について。
 朝日新聞に「変わる入試」という特集・連載が続いていた。入試改革が進む状況をレポートしていた。(12月28日まで。朝刊・1面)
 これは、「調べて書く情報」であり、非常に好ましい企画であったと言えよう。褒めておこう。ついでに、私の意見を、少し述べておく。
 一般に、入試を見ると、最後の項目の点で、非常に問題が多い。国語の小説問題では、勝手に主人公の心理を想像させているが、人間の心理というものを勝手に決めつけないでほしいものだ。断言しておくが、これらの小説問題では、作者は必ず満点を取れない。「主人公がこういう行動を取ったのは、こういう気持ちだったからです」なんていう正解答案を見たら、作者は、「冗談じゃないぜ。そんなに単純なわけがないだろう」と怒り狂うはずだ。あげく、入試担当者から、「あなたは小説の読解力が足りないだけです。本校には入学する資格がありません」と決めつけられて、排除されるのである。(……これは、嘘ではない。丸谷才一の「日本語のために」という著書に、国語入試問題の批判があるから、参考にするとよい。「入試は文学づくな」などと、ほぼ同趣旨の内容が示してある。ただし、私ほど過激なことは言っていないが。)
 社会でも、細かな知識ばかりを問うのは、困りものだ。これだから、教授になっても、細かな問題ばかりを扱う小物になってしまう。巨大な視点で物事を論理的に考察する、という能力が欠けてしまう。……とはいえ、まともな問題を作る能力が、そもそも、教授にないのかもしれない。
 なお、以上の問題点は、多くの人が指摘しているようだ。だから、解決に向かう方向も見られる。京都大学の入試は、記述式を重視しており、好ましいようだ。だから、あの大学は、ノーベル賞が頻出するのかもしれない。ではなくて、ノーベル賞が頻出するまともな大学だから、まともな入試ができるのかもしれない。
(入試関連 → 8月02日

 [ 付記 ]
 ついでだが、東大の入試は、非常に良問であるが、あくまで、「優れた事務能力」のあるサラリーマンを輩出するための入試である。週刊「モーニング」というマンガ雑誌に、「馬鹿でも東大に入学できる方法」というマンガが連載されているが、けっこう、納得できる。
 実際、東大に行くとわかるが、最近の東大生というのは、服装からして、アホの仲間がいっぱいいるね。偏差値だけは高いが、まともな論理力などはなさそうな連中が、いっぱいいる。(たぶんそういうのが政府に入るのだろう。)
 1世代前には、東大というのは、服装からして真面目な優等生ぞろいだったし、書籍売場のベストセラーは真面目な教養書ばかりだったが、今では隔日の感がある。日本が没落しつつあるのは、東大を見ると、はっきり実感できる。
(とはいえ、「東大なんかぶっつぶせ」というのが世間の論調だから、それはそれでいいのかもしれない。かくて日本は阿呆だらけになって没落する。目的通りですね。)

 [ 補足 ]
 なお、「年食ったオジサンの感情論」だと見なされると困るので、裏付けを述べておこう。
 各種のデータを見ると、学力でも、知力でも、さらには体力でも、それぞれの年で継続的に調査をしたデータを見ると、ほぼ一致したデータが出ている。戦後、それぞれの能力は、ほぼ継続的に、なだらかに上昇していった。ところが、1955年生まれのころをピークにして、その数年後から、急激に低下していった。その低下の度合いは、ほぼ一貫しており、最近ではひどい低レベルである。実際、読書の量や勉強の時間からして、あまりにも低いレベルである。これでいて、まともな学力が保てるはずがない。
 さて。かくも急激に低下した理由は、何か? 推定できる理由は、ただ一つ。テレビゲームだ。初期のファミコンが流行ったころから、これにとらわれた生徒を中心として、学力と体力は急激に低下していったようだ。さもありなん。
 だから、生まれた年はともかく、テレビゲームやケータイをやらないで、読書をしっかりやっていれば、悪影響から免れることができるはずです。注意しましょう。
 教育に大切なのは、情報処理能力を高めることではなくて、情報遮断能力を高めることなのである。多くの情報を得ることではなくて、多くの情報に汚染されないことなのである。現代の情報のほとんどは、ウィルスのようなものであるから、それに頭を汚染されないようにすることが大切なのだ。

 [ 余談 ]
 本項では、「好ましい入試」というものを示したが、逆に、「好ましくない入試」というのも示せる。それは、「面接」だ。
 「人間性を見る」というのが理由だが、だいたい、人間同士のお見合いじゃあるまいし、「人間性を見る」ことなどは、好ましいどころか、不要である。たとえば、それによって、誰が選ばれ、誰が選ばれなくなるか? アインシュタインみたいに無口な男や、ニュートンみたいに攻撃的な男は、毛嫌いされて、入学を拒否されるだろう。逆に、口先三寸のおべんちゃらばかりの男や、愛想ばかりの良い詐欺師のような男が、ホイホイと入学できるようになるだろう。音楽家で言えば、モーツァルトは不合格で、サリエリは合格だ。
 もっと一般的に言えば、まったく同じ人間性をもっていても、ハンサムや美女が好印象を与え、顔の悪い人は悪印象を与える、という傾向がある。実際、企業の入社に際しては、そのことが実証されている。同じ女性が、最初はどこにも入社できなかったが、整形したら、どこにも入社できるようになった、という例がある。
 だから、入試で面接が重視されたら、整形手術がはやるだろう。これは当たり前のことだ。そして、整形に金をかける人ほど、うまく入学できるようになる。要するに、マイケル・ジャクソンのように整形をすることが流行る。また、広末のように、顔だけの色情狂が「わが大学にぴったり」ということで、歓迎される。(で、スーフリみたいになる。)
 「面接」というのは、さまざまな選抜方法のなかでも、最悪なのである。こんなことで入試をするくらいだったら、家柄や財力で決める方が、はるかにマシであろう。それなら、人々をマイケル・ジャクソンのように整形に走らせる、というような、悪影響は出ないのだから。


● ニュースと感想  (1月01日b)

 12月28日c の「住基ネット侵入」の項の最後に、加筆しておいた。(「共通ID」問題 )
   → 12月28日c [ 追記 ]



● ニュースと感想  (1月02日)

 「邪魔な情報」について。
 前日分では、次のように述べた。
「教育に大切なのは、情報処理能力を高めることではなくて、情報遮断能力を高めることなのである。多くの情報を得ることではなくて、多くの情報に汚染されないことなのである。」
 ただし、これはもちろん、文字通りの意味ではない。単純に「どんな情報でも遮断するべきだ」ということではない。「邪魔な情報のみを遮断するべきだ」ということだ。
 では、「邪魔な情報」とは何か? それを考えよう。

 近年、電車内暴力が急増している、という記事があった。(朝日・朝刊・社会面 2004-01-01 )
 電車内暴力は、1999年から2002年にかけて、2倍半へと、短期間に激増している。そして、これは、プレステ2の普及期にもだいたい一致している。(プレステ2だけでなく、もっと前から街頭ゲームもあったが。)
 プレステ2(など)では、暴力ゲームが盛んだ。十代の若者が暴力ゲームにいそしむ。プレステ2は、ほとんどバーチャルリアリティの世界だから、ここで暴力をふるえば、現実の世界でも暴力をふるうようになるだろう。
 彼らの頭がイカレている証拠は、あるか? ある。彼らがそういう暴力ゲームをする理由として、「ストレス解消のため」と称する。それを恥ずかしがって反省するのかと思ったら、それを正当化しているのだ。たとえば、そこらの暴力団員が、「腹が立ったから、ストレス解消のために、カタギをぶんなぐった」なんて告白したら、そのあとは反省するだろう。しかし現在の若者は、暴力団員と違って、自己の粗暴さについて、反省するかわりに、正当化するのである。明らかに、頭がイカレている。
 ストレス解消のために暴力ゲームをやる、なんてことを、バーチャルリアリティの世界で繰り返していれば、やがては現実世界でも同じことをやるようになる。抵抗感がマヒするからだ。かくて、テレビゲームは、社会を荒廃させるのである。マフィアは麻薬を使って人心と社会を荒廃させるが、テレビゲーム会社(ソニーが代表的)はハイテクを使って人心と社会を荒廃させるのである。使う物が異なるだけだ。

 では、われわれは、どうするべきか? 
 心ある人々は、麻薬を拒否する。それと同様に、心ある人々は、テレビゲームを拒否するべきなのだ。
 そして、もう一つのことがある。実は、こちらが肝心である。

 現在、IT関連会社は、「情報伝達速度を高めよう」と競っている。ADSL や光ファイバーや無線LAN などの通信設備。CPU の処理速度。携帯電話の伝達速度。ここでは、「文字だけでなく画像も」「静止画だけでなく動画も」と考えて、大量の情報を伝えることをめざしている。では、それは、本当に大切なのか? 
 実は、逆である。情報伝達速度を高めれば高めるほど、情報の伝達量は逆に低下してしまうのである。では、なぜか? ここに本質がある。
 画像で伝わる情報というのは、実は、非常に少しの情報量なのである。なぜなら、そこに形として表示されたものだけでしかないからだ。逆に言えば、形として表示されるものしか伝達されないからだ。
 「本当に大切なものは、目には見えない」
 と「星の王子様」(サン・テグジュベリ)に書いてある。その通りだ。愛であれ、平和であれ、経済概念であれ、大切なもののほとんどは、抽象的なものであり、目には見えないものである。自分の目の前にある百円玉なら目に見えるが、日本中にある金の全体は目に見えない。
 真に大切なものは、目に見えないし、形にもならない。しかし、それは、扱えないわけではない。言葉を使えば、扱うことができる。たとえば、「平和」という言葉があり、「GDP」という言葉がある。これらは、言葉によって、表現できる。しかし、画像によっては、表現できない。

 われわれにとって大切なのは、大量の画像情報を扱えるように、情報処理能力を高めることではない。抽象的な言葉を扱えるように、思考能力を高めることだ。そして、そのためには、現在のマルチメディアのハイテク機器など、有用であるどころか、有害なのである。
 「自宅に ADSL を導入して、情報処理能力を高めたから、私は利口になる」と思う人がいたら、その人は、何か錯覚していることになる。 ADSL で大量の画像を見ることなら、猿でもできる。しかし、抽象的な言葉で、平和やGDPについて考えることは、猿にはできない。
 大切なのは、大量の情報量によって、眼前の小さな世界を認識することではない。ごく少数の情報量によって、多大な世界を認識することだ。……にもかかわらず、現在、人々は、その逆をめざしている。それはつまり、人間が猿に近づきつつあるということだ。だから今年は、猿年なのだろうか。
( → 12月11日b





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「小泉の波立ち」
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