[付録] ニュースと感想 (56)

[ 2004. 1.03 〜 2004. 1.16 ]   

  《 ※ これ以前の分は、

    2001 年
       8月20日 〜 9月21日
       9月22日 〜 10月11日
      10月12日 〜 11月03日
      11月04日 〜 11月27日
      11月28日 〜 12月10日
      12月11日 〜 12月27日
      12月28日 〜 1月08日
    2002 年
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       2月04日 〜 2月21日
       2月22日 〜 3月05日
       3月06日 〜 3月16日
       3月17日 〜 3月31日
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       4月17日 〜 4月28日
       4月29日 〜 5月10日
       5月11日 〜 5月21日
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       6月05日 〜 6月19日
       6月20日 〜 6月30日
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    2003 年
       1月02日 〜 1月13日
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       3月08日 〜 3月16日
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       4月15日 〜 4月24日
       4月25日 〜 5月10日
       5月11日 〜 8月11日
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       11月29日 〜 12月12日
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    2004 年
         1月03日 〜 1月16日

   のページで 》




● ニュースと感想 (1月03日)

 「これまでの概観」について。
  すでに示された経済理論(南堂説)は、たくさんあって面倒だが、ざっと概観するには?
  次の下記の箇所に一覧があるので、参照するとよい。
→ 秩序理論「既存の知識1」

 その他、次の箇所も。
( ※ 以上は、主な項目を示しただけである。関連する話は、他にもある。では、どのページのどこに? ……実は、探そうとしても、あちこちにたくさんありすぎて、私にもちょっと見当がつかなくなっています。 (^^); )


● ニュースと感想 (1月04日)

 「タンク法の基礎」について。
 タンク法とは何かについて、おさらいしておこう。(初心者向け。)
 タンク法とは、「増減税による貨幣量調節」のことである。その意味は、次のように理解できる。

 (1) マクロ政策
 マクロ政策としては、「貨幣量の調節」を、金融市場を通じた「投資増加」によってなすかわりに、家計の所得を通じた「消費増加」によってなす。これによって、金融市場における「貨幣の滞留」すなわち「流動性の罠」の問題を回避できる。
 換言すれば、タンク法が有効なのは、金融市場が無効になったとき、つまり、ゼロ金利になって「流動性の罠」に嵌まったときである。(この状態では、伝統的な金融政策は無効であるから。この点に対する解釈が、マネタリズムとは異なる。)

 (2) 財政政策
 財政政策としては、「減税」の財源を、「民間引き受けの国債」のかわりに、「日銀引き受けの国債」によってなす。これによって、「財政に穴があく」ことを防ぐことができる。
 通常、「減税はダメだ。今はいい思いをできるが、後で困ったことになる。サラ金と同じだ」と言われる。それは、「民間引き受けの国債」については、当てはまる。民間引き受けの国債」の場合は、国債を買った人が、現時点では富を渡して、将来では富を奪う。その分、一般国民は、現時点では富を渡されて、将来では富を奪われる。
 しかし、「日銀引き受けの国債」については、こういうことは当てはまらない。誰かが得して誰かが損をするのではなくて、国民全体で富を分かちあう。富の配分の変更は起こらない。単に貨幣価値が変わるだけだ。
 ここでは、いわば、巨大な「タンク」から、貨幣の量だけを、出し入れしていることになる。それは「貸し借り」とは別のことである。
 ここでは、貸し借りがないから、富については変動がない。より正確に言えば、こうだ。貨幣の量を増やしたとき、人々の所得は増えるが、その増えた所得は、誰かから与えられるのではなくて、自分が働くことによって得るのだ。── すなわち、タンク法では、損得の変動はなくて、マクロ的なGDPの変動だけがあるのだ。

( ※ 国債による「貸し借り」の意味については → 4月03日 以降。)
( ※ タンク法では、人々の間の「貸し借り」がない。人々ではなくて、[想像上の]巨大なタンクを使っているだけだ。そういうことを意味するのに、「タンク」という言葉を用いている。だから、「タンク」に対応する逆概念は、「国債購入者の財布」である。普通の減税[民間引き受けの国債による]では、人々の間の「貸し借り」があり、「国債購入者の財布」を財源としている。それゆえ、財源の問題が発生する。)
( ※ タンク法では、財源がないから、金を得ても、誰も得をしない。最初は名目所得の増加によって、「得をした」と感じるだろうが、その後で、「増税」または「物価上昇」によって、「損をした」ことに気づく。結局、差し引きして、損得はチャラである。)
( ※ ただし、物価が上昇した分ではなくて、働く量が増えた分だけは、実質所得の増加が確実にある。これが実質GDPを増大させる。ここに、タンク法の意味がある。)
( ※ では、なぜ、そうなるか? 普通の状況では、「働いてから金を得る」となる。タンク法では、「金を得てから働く」となる。正常な景気では、どっちも同じだ。ただし、景気が不況になったときには、前者は不可能であり、後者のみが可能となる。なぜか? 前者をやりたくても、働く場がないので、最初の「働いて」というのが不可能だからだ。そういう「どんづまり状況」が、「不況」または「不均衡」という状況である。そして、その「どんづまり状況」を解決する方法が、タンク法である。)

 結語。
 タンク法とは、「減税」を意味するように思えるが、普通の意味の「減税」とは異なり、損得がない。貨幣量の変動は、所得の変動をもたらすが、それは、労働量の変動として生じるのであって、損得として生じるのではない。
 タンク法は、あくまで、GDPを変動させる経済政策である。つまり、修正ケインズモデルにおいて、均衡点を移動させる政策である。そして、その方法として、増減税を通じて、貨幣量を変動させるのである。

( ※ 「均衡点の移動」については、先に詳しく説明した。とても一言では言い切れない。初心者は、基礎から体系的に勉強する必要がある。修正ケインズモデルを使った説明を、詳しく読んでほしい。すでに理解した人が思い出すならば、次の箇所を読むといいだろう。「タンク法による減税が、均衡点を移動させて、GDPを増大させる」ということを、数理的に説明してある。 → 9月01日

 [ 付記1 ]
 たとえば、現状では、均衡点が480兆円ぐらいのGDPのところにある。均衡をめざせばめざすほど、GDPが縮小していく。そこで、均衡点を550兆円ぐらいに移動させるための方法が、「タンク法」だ。これに対して、「とにかく均衡を達成せよ」と主張して、「縮小均衡」の点をめざして、GDPをどんどん縮小させようとするのが、古典派[特にサプライサイド]である。

 [ 付記2 ]
 マネタリストは、サプライサイドよりも、もっとお気軽である。「日銀が公約を口にするだけで、たちまち景気が回復する」と主張する。彼らは、GDPを無視して、単に「均衡を達成させればいい」と考えている。そこにはマクロ的な認識が欠けているが、それよりももっとひどいのは、「口先だけで経済が動く」と信じていることである。

 [ 付記3 ]
 マネタリストについて、もう少し説明しよう。
 タンク法では「GDPを変動させる」と述べたが、これは、物価上昇による効果ではない。このことに注意してほしい。
 物価が上昇するから、需要が増えるのではない。逆である。需要が増えるから、物価が上昇するのだ。(マネタリストは、ここを誤解しているが。たいていは、「物価が上昇すると予想するから、需要が増える」と主張する。)
 正しくは、どうか? 減税をすると、名目所得が増える。名目所得が増えるから、需要が増えるのだ。
 そして、このことは、修正ケインズモデルによって、モデル的・数理的に示すことができる。「このくらいの量の減税で、このくらいの量のGDP増加が起こる」と数値で示せる。
 一方、マネタリスト流の考え方だと、「物価が上昇すると予想するから、需要が増える」となるので、予想の仕方しだいで、GDPの変動が起こることになる。「物価上昇の予想が高まれば、需要が増える」というわけだ。この心理的な要因に注目したのが、「インフレ目標」だ。この理屈によると、日銀が「インフレ目標」を設定すると、人々は急に「物価は上昇する」と信じて、需要を増やす、ということになる。つまり、経済政策としては、日銀の口先三寸だけでいい、ということになる。あまりにもお気楽であろう。
( ※ マネタリストというのは、たぶん、「政府や日銀の言うことを国民はみんな盲目的に信じる」と思っているに違いない。政府や日銀を、無謬のものとして、神のごとく崇めているのであろう。共産主義にそっくりである。私みたいに疑いがちな人間とは、正反対ですね。)
( ※ 口先三寸のことを「公約」または「マニフェスト」と呼ぶ。こんなもの、誰が信じるんですかね。自民党がこのまえの選挙で出したマニフェストが実現すると信じている人なんて、いるんですかねえ。たとえば、「道路公団民営化」というマニフェスト。……私は、二枚舌の人間は信じないことにしているんですが、なぜかマネタリストは、二枚舌の人間のマニフェストを信じるようだ。)

 [ 付記4 ]
 私としては、「マネタリストはちゃんと、自分の政策に責任を取るべきだ」と主張したい。責任の取り方は、次の通り。
 「マネタリスト信認法案という法律を制定する。その後、日銀に、インフレ目標を口先三寸で実施してもらう。その後、一カ月以内に消費が急増すれば、それで良し。一方、誰も日銀の口先なんかを信じないで、消費が急増しなければ、マネタリストを全員、追放する。岩田、竹森、深尾、伊藤M、野口Aなど、そういう教授をすべて、人心惑乱のカドで、解職する」
 どうです? 彼らは、喜んで、この提案に載るはずだ。まさか、自分でも自信のない説で、500兆円もの経済を動かそう、というつもりではあるまい。
( ※ マネタリストの主張によると、「物価上昇が見込まれると、国民はどんどんサラ金から借金して、消費を増やす」となる。一方、私の主張によると、「手元の金がなければ、国民はサラ金から借金してまで消費を増やすことはない」となる。……私は、サラ金なんか大嫌いですけど、上記の教授たちは、サラ金が大好きなんでしょう。たぶん、レオタードのダンスに、目がくらんだんでしょう。)
( ※ 彼らの説によると、物価が上昇すると、「来年の分の食事を今のうちに2倍食べる」とか、「来年分の電気やガスを今のうちに2倍使う」とか、そういうことになる。あまりにも馬鹿げた話ではあるが、彼らは断固として、こう主張するのである。「ランチは今年は700円で、来年は720円だ。今年のうちに食べれば、20円得する。来年のランチを、今年のうちに食べれば、20円だけ得するので、人々は今年のうちに2倍食べて、来年は食べずに済ますだろう」と。……ふん。私は来年の分まで食べて、デブになりたくありません。マネタリストは、勝手に来年の分まで食べて、デブになってください。あとで飢えても知らないよ。)( → 5月21日11月24日

[ 次項に続く ]


● ニュースと感想 (1月05日)

 前項の続き。「タンク法の位置づけ」について。
 タンク法は、他の経済政策に比べて、どう位置づけられるか? そのことを示しておこう。
 タンク法以外に、他の経済政策と言えば、何があるか? 「金融政策」と「財政政策」がある。ただし、そのいずれも、デフレのときには無効になる。このことが現在、問題となっている。

 「金融政策」は、普通の景気のときなら、有効である。「金利を下げる」という政策は、金利がゼロ以上のときならば、可能だからだ。
 「財政政策」は、小さな不況(景気後退)のときなら、有効である。公共事業を増やすことは、小規模な金額ならば、政府の裁量の範囲だからだ。
 しかし、デフレのときは、そうではない。デフレのときは、普通の景気でもなく、小さな不況でもないから、「金融政策」も「財政政策」も無効となる。それが、デフレの状況だ。(今の日本がそうだ。)
 そこで「経済学は無効になった」という結論が出る。しかし、本当は、そうではない。「金融政策」でも「財政政策」でもない、第3の政策がある。それが「タンク法」だ。

 タンク法は、「貨幣量の調節」という意味では、「金融政策」に似ているが、「金融市場」を通さず、「増減税」を通す、という意味で、伝統的な金融政策とは異なる。
 タンク法は、「増減税」という意味では、「財政政策」に似ているが、「民間資金」を財源とせず、「貨幣量の増加」を財源とする、という意味で、伝統的な財政政策とは異なる。
 タンク法は、このように、「金融政策」でも「財政政策」でもない、第3の道だ。そこで、「この第3の道を考慮せよ」というのが、私の主張だ。

 [ 補足 ]
 なお、誤解してほしくないので、注釈しておこう。私は別に、「タンク法だけが正しくて、金融政策や財政政策は間違っている」とか、「マネタリストやケインズ派は間違っていて、自分だけが正しい」とか、そう主張したいわけではない。
 では、どう主張したいか? 「金融政策と財政政策のほかに、第3の道もあるのだから、二つだけでなく三つ目も考慮せよ」と主張しているわけだ。
 たとえて言えば、「色には三原色があるのだから、赤と青だけでなく第3の色も考慮せよ」と主張しているわけだ。それに対して、「いや、第3のものなんか、考慮したくない。二つだけでいい」と主張しているのが、反対派である。いわば、色盲的な思想である。
 なお、古典派やケインズ派との比較で、注釈しておこう。古典派(特にマネタリスト)は金融政策重視であり、ケインズ派は財政政策重視である。その意味で、この両者は、対立的である。この両者が喧嘩しているときは、右と左という両極端で対立していることになる。私は、異なる。タンク法は、古典派やケインズ派に対立するものではない。両者を含み、両者よりも広いのである。「古典派やケインズ派は間違っている」と主張しているのではなくて、「古典派やケインズ派は狭すぎる」と主張しているのである。「金融政策や財政政策は間違っている」と主張しているのではなくて、「金融政策や財政政策は狭すぎる」と主張しているのである。つまり、「真実はもっと広いのだから、狭いところを見ていてはダメだ。二次元ではなく、三次元を見よ」と主張しているのである。この点を誤解しないよう、注意してほしい。私は決して、古典派やケインズ派を全否定しているわけではない。
 ともあれ、私としては、「すべてを考慮せよ」あるいは「もっと広く見よ。真実はもっと広い範囲にある」と主張しているわけだ。
( ※ しかし、である。こういう考え方は、世間にはなかなか受け入れられないものだ。たとえて言えば、二次元世界の人間には、三次元のものは見えないのである。三次元の人間には、二次元世界がよく見えるが、その逆は成立しないわけだ。かくて、「真実を見よ」と耳に聞かせても、馬には念仏がわからないのである。)
( ※ 世間のこういう傾向は、最近のベストセラーでも話題になっている。「バカの壁」という。つまり、「自分の理解したいことしか、理解しようとしない。他のことには目をふさぐ。自分との間に、壁を築く。この壁が、バカの壁だ」と。……まったく、そうですね。一般的に言って、専門家ほど、こういう壁を築きます。なぜなら、彼らは「自分たちだけが正しい」と思い込んでいるからです。)
( ※ 古典派やケインズ派の政策は、正当である場合もある。古典派の政策が正当であるのは、普通の景気の場合だ。ケインズ派の公共事業が正当であるのは、途上国におけるインフラ整備の場合だ。[ → 4月08日 ] ……ただし、そのいずれも、先進国におけるデフレ対策としては、適していない。古典派やケインズ派の主張が当てはまる範囲は、あまりにも狭いのである。)

 [ 付記1 ]
 前項では、「マネタリストはちゃんと、自分の政策に責任を取るべきだ」と主張した。ただし、マネタリストとの公平を期すために、タンク法についても、次のようにしよう。
 「南堂信認法案という法律を制定する。その後、タンク法を実施する。20兆円ないし30兆円の一律減税を実施する。その後、一カ月以内に消費が急増すれば、それで良し。一方、消費が急増しなければ、どんどん減税を追加する。たとえば、誰も消費を増やさなければ、あなた一人がどんどん減税を受けて、あなた一人が30兆円を使い果たす。これで絶対確実に、景気は回復する。あなたは30兆円を使えて喜ぶし、他の人々は景気が回復して喜ぶ。めでたし、めでたし」
( ※ なぜ「絶対確実」と言えるか? その「あなた」というのが、私つまり南堂であるかもしれないからだ。もし私が30兆円もらったら、絶対確実にその30兆円を使い果たすことを公約いたします。その使途は、本項の最後で示すとおりです。)
( ※ 実際には、そうならないだろう。「一人で使い果たすなんて、そんなうまいことができるのか。だったら、南堂ばかりに、甘い蜜を吸わせてたまるか。おれにも金を寄越せ。おれも消費するぞ」と思う人が、いっぱいいるだろう。だから、現実には、「一人だけが消費を増やす」ということは、ありえない。国民全体が、消費を増やす。ただし、古典派経済学者だけが、置いてきぼりだ。なぜか? 「合理的期待形成仮説」を信じているからだ。 → 4月09日

 [ 付記2 ]
 「一人だけの消費」というのを、強引に実施する方法もある。その「一人」というのが、「政府」である場合だ。つまり、国民全員にかわって、政府が勝手に30兆円を使い果たすわけだ。
 これは、財政政策を最悪の形で実施したことになる。そして、その方法を「ケインズ政策」と呼ぶ。つまり、ケインズ政策とは、財政政策を最悪の形で実施することなのである。
 すると、どうなるか? この政策によって、景気は回復するだろうが、莫大な無駄が発生する。景気は回復するが、人々はみんな借金漬けで不幸になる。
 ケインズ政策は、たとえて言えば、「戦争は、勝てばいいんだ。自国民が全員死んでもね」という発想だ。本末転倒。

 [ 余談1 ]
 ケインズ政策の典型的な結果は、「国民全体が奴隷となる」ことだ。その場合、全員が(超低賃金で)雇用されるが、働いても働いても、その所得は借金返済に奪われる。そういうふうに奴隷化した状態を見て、ケインズは「成功した」と主張するのである。「見ろ、失業者は一人もいなくなったぞ。物価も、超インフレだから、デフレを脱したぞ!」と。
 かくて、人々は、失業者から奴隷へと転じるのである。すなわち、穴を掘ったあとで、穴に落ちて、自らの墓穴とするのである。墓碑銘は、「ケインズ政策の犠牲者、ここに眠る」。

 [ 余談2 ]
 ケインズの場合は、金を使う分野は、公共事業としての土建業だけだ。一方、あなたの場合は、どうせ30兆円を使うにしても、もっとまともな金の使い方をするといい。私のお勧めは、女遊びである。
 「本四架橋」や「有明海干拓」のような公共事業であれば、金は空中に消えてしまうも同然だ。しかし、女遊びならば、その金のほとんどは、人件費となる。女遊びをしても、その金は、あなたの財布から、他の女の財布に移るだけだ。だから、金が空中に消えてしまうような公共事業よりも、ずっと無駄が少ない。というわけで、ぜひ、女遊びをするといい。
 ただし、ケインズの「穴を掘る」または「穴を埋める」というのが、女遊びの意味であるならば、ケインズもまた、私と同じことを主張していたことになる……のかもしれない。(下品でごめんね。)
( → 第3章 女遊びの経済学的な意味
( ※ 30兆円の全額で女遊びをしてもいいだろう。どれだけの数の女になるか、計算してみてください。)


● ニュースと感想 (1月06日)

 前項の続き。「タンク法と減税」について。
 私の主張を「減税」と解釈している人もいるようだ。しかし、そうではないので、注釈しておく。単なる「減税」については、私は反対である。
 「減税」については、通常、「これまで何度もやったが効果がなかった」とか、「あとには財政赤字が残っただけだ」とか、反対される。たしかに、その通りだ。その主張は、まったく正しい。だから、単なる「減税」には、私は反対する。……この点、誤解しないでほしい。
 では、単なる「減税」と、私の主張とは、どこが違うか? それを説明しよう。

 (1) 財政赤字
 減税の財源となる国債が、借金となるかどうかが、問題だ。
 民間引き受けの国債を財源とすれば、今はいい思いをできるが、「ツケ」が残るので、将来はツケ払いを迫られる。サラ金人生だ。これだと、減税をしても、「あとには財政赤字が残っただけだ」となる。(使途を「減税」でなく「公共事業」とするケインズ政策も同様だ。)
 一方、タンク法では、「ツケ」が残らない。つまり、あとで「損」を受けることがない。なぜなら、現時点でも「得」がないからだ。現時点では、一時的には「得」があるように見えるが、すぐに物価上昇が起こるから、結局、減税をしても、ちっとも得ではない。何度も述べたように、タンク法の増減税は、損でもなく得でもないのである。単に貨幣価値が変わるだけだ。 ( → 2002年2月22日4月29日

 (2) 効果
 タンク法であれ何であれ、「減税」をやるにしても、その効果が問題だ。減税については、「やればやった分だけ効果がある」ということはない。ある一定の量が「閾値」となる。その値に達するかどうかが問題だ。その値に達すれば、効果が出て、景気が回復する。しかし、その値に達しなければ、効果が出ずに、景気は回復しない。(特に、民間引き受けの国債の場合は、効果がないまま、財政赤字だけが残る。金を借りて、無駄遣いしてしまうようなものだ。)
 この「閾値」は、どう決まるかと言えば、モデル的に、「不均衡を脱するか否か」で決まる。
 これは、比喩的に言えば、人工衛星の打ち上げのようなものである。ロケットが重力圏を脱するためには、「第1宇宙速度」と呼ばれる一定速度に達する必要がある。ロケットがこの速度に達すれば、重力圏を脱して、人工衛星は地球を周回する軌道に乗る。しかるに、ロケットがこの速度に達しなければ、いくら上昇しても、重力圏を脱せないから、上昇したあとで、やがては燃料切れにともなって、落下していく。あげく、地球に落ちて、元の木阿弥となる。残るのは、無駄に費やされた金の赤字だけだ。
 というわけで、減税には、一定額以上の規模が必要なわけだ。これを「最初の一撃」または「最初にドカン」という言葉で説明してきた。
( ※ 詳しい数理モデルは → 9月03日

 結語。
 以上の二つの理由で、単なる減税については、「これまで何度もやったが効果がなかった」とか、「あとには財政赤字が残っただけだ」とかの、反対が成立する。だから、単なる「減税」には、私は反対する。……そして、それゆえ、「タンク法」を提唱するのである。


● ニュースと感想 (1月07日)

 「タンク法と財政赤字」について。
 現在の財政赤字は、巨額である。国家歳入の45%を、国債という借金でまかなっている。( → 12月21日
 では、財政赤字を埋める財源となる国債を、「民間引き受け」と「日銀引き受け」にするのとでは、どう違うだろうか? ── これが問題となる。この問題は、タンク法の考え方から出される問題でもある。
( ※ 前にも似たような問題を考えたことがあった。ただし、そのときは、使途が「減税」であった。今回は、使途が「政府支出」である。特に、「公共事業」ではなくて、「一般支出」である。)

 まず、現状を見よう。財政赤字を埋める財源としての国債は、現状では、「民間引き受け」となっている。ただし、同時に、日銀が量的緩和によって大量の買いオペをしている。とすると、形の上では「民間引き受け」だとしても、実質的には「日銀引き受け」と同じことになっている、と見なせるだろう。(なぜならば、金は、「日銀 → 民間 → 政府」と移っていることになるからだ。この件は、先にも述べた。 → 4月21日
 とすれば、現状は、「日銀引き受け」で財政赤字をまかなっているのと同じだ、とも見なせそうだ。ただし、そう簡単に言い切ってしまうのは、短絡的すぎる。もっと考察する必要がある。
 
 前述の問題については、以前、似たことを考察したことがある。そのときは、次のように述べた。「大量の国債発行で政府支出をまかなっているということは、『日本が現在、所得以上に過剰消費している』ということを意味する。だから、好ましくない」と。 ( → 12月20日
 それはそうだ。とはいえ、このことは、前述の問題への回答とはなっていない。

 ここで、タンク法の意義を考えよう。タンク法の意義は、「減税によって国民の名目所得を増やすことで、個人消費を増やし、GDPを増大すること」である。そして、このことは、現在ではなされていない。減税もなされず、名目所得の増加もなされず、個人消費の増加もなされず、GDPの増大もなされない。
 では、何がなされているかと言えば、「金を政府支出(財政支出)に回すこと」がなされているだけだ。そして、そのことは、タンク法の意義としての、「金を個人支出(個人消費)に回すこと」とは、別のことなのである。「需要を増やす」という意味では同様だが、支出する主体が異なるからだ。
 この違いは、主体において「政府/国民」という区別もできるし、需要において「官需/民需」という区別もできるし、政策において「ケインズ政策/タンク法」という区別もできる。
 というわけで、財政赤字を「民間引き受けの国債と量的緩和」でまかなうのは、結果的には、財政赤字を「日銀引き受けの国債」でまかなうのと同様になるが、経済政策としては、このことはタンク法とは異なるわけだ。なぜなら、支出の形態が、「財政支出」と「個人消費」の差があるからだ。(財源は似ていても、支出の仕方が異なる。)
 とはいえ、このことも、前述の問題の回答とはなっていない。

 ここで、あらためて考えてみよう。
 財政赤字があるとしたら、本来ならば、増税して、財政均衡を達するべきである。これが標準的な状態だ。
 にもかかわらず、現状では、財政赤字が発生している。それは、つまり、本来ならなすべき増税をしていないといことだ。だから、その差し引きの分は、「増税をしていない」という意味で「減税」をしていることになる。ここでは、「増税をしていない」という形で、消極的な意味の減税をなしていることになる。
 一方、積極的な意味の減税というのも、考えられる。これは、国民に直接金を渡すことで、国民に名目所得の増加をなすことだ。しかし、こういう形の減税は、現在はなされていない。
 そして、消極的な意味の減税であれ、積極的な意味の減税であれ、その減税の財源が「民間引き受けの国債と量的緩和」という形で、「日銀引き受けの国債」になっているのであれば、その分は、タンク法の減税をなしていることになる。

 まとめて言えば、こうだ。
 財政赤字が発生しているとしよう。その財政赤字は、増税で埋められるべきだ。なのに、「増税をしない」という意味で、消極的な減税をしているのであれば、その分だけ、部分的なタンク法を実施していることになる。(十分な量的緩和をしているのであれば。)
 一方、「現金を渡す」という意味の、積極的な減税はなしていない。つまり、本来の意味のタンク法は実施していないことになる。
 こういうふうに「消極的な減税をするが、積極的な減税をしない」という状況は、「景気悪化を防ぐ」という消極的な景気回復策はしているが、「景気好転をもたらす」という積極的な景気回復策は取っていない、ということになる。

 ただし、以上は、ごくおおざっぱな話だ。
 より正確に考えると、どうなるか? 「消極的な減税」はなされているが、そのうち、どのくらいの割合が「民間引き受けの国債」でまかなわれ、どのくらいの割合が「日銀引き受けの国債」でまかなわれているかが、問題となる。
 なるほど、たしかに、量的緩和はなされている。しかし、「消極的な減税」のうち、その全額が量的緩和の金でまかなわれている、ということはあるまい。
 なぜか? 仮にそうだとすれば、物価は上昇していていいはずだからだ。つまり、量的緩和による日銀資金だけで財政赤字がまかなわれているのだとすれば、民間資金は実需に向かっているはずだから、GDPは増えるはずだし、金利は上昇しているはずだからだ。
(デフレでなくて普通の景気のときに、こういうことが起これば、「クラウディング・アウト」となる。普通のときには、民需の拡大によって資金が逼迫することが問題となるが、逆に、デフレのときには、民需の拡大によって資金が逼迫することがないということが、問題となる。 cf. → 4月21日

 というわけで、財政赤字のうち、ある程度は民間資金でまかなわれているのだが、ある程度は日銀資金でまかなわれている(タンク法と同様になる)ことになる。
 では、両者の割合は、どのくらいであろうか? ── 実は、そう考えると、最初の問題に回答を出すことができるようになる。
 つまり、最初の問題は、次の問題に置きかられる。
 「財政赤字が出ているときに、その財政赤字をまかなう資金は、民間資金と日銀資金が、どのくらいの比率で分担しているか?
 この問題は、最初の問題とまったく等価というわけではない。ただし、この新たな問題を解くことにより、最初の問題にも答が出てくる。
 そこで、次項では、この新たな問題を考察しよう。


● ニュースと感想 (1月08日)

 前項の続き。「比率の不安定さ」について。
 前項では最後に、次の問題を提出した。
 「財政赤字が出ているときに、その財政赤字をまかなう資金は、民間資金と日銀資金が、どのくらいの比率で分担しているか?
 この問題を、以下で考えよう。

 さて。いきなり回答を言えば、「正解はない」というのが正解である。これはちょっと、ひねくれた回答かもしれない。もう少し詳しく言えば、こうだ。「正解となる一点はグラフ上には存在しない」のである。
 では、なぜか? 状況が、「均衡」ではなくて「不均衡」であるからだ。

 一般に、「均衡」状態であれば、何らかの等式が成立する。ニュートンの「作用・反作用の法則」であれ、「万有引力の法則」であれ、「電磁気学の方程式」であれ、右辺と左辺は等号で結ばれているが、ここでは、右辺と左辺で何らかの力が釣り合っていることになる。(つまり「均衡」状態にある。) そして、複数の等式をともに成立させる特定の数値に相当するのが、「グラフにおける交点」となる。それが、正解となる。
 しかし、「不均衡」状態であれば、そういうことはない。なぜなら、そもそも、何らかの等式が成立しないからだ。「不均衡」状態とは、等式の成立する状況ではなく、不等式の成立する状況である。とすれば、そもそも等式が成立しないのだから、複数の等式を成立するような特定の数値も存在しないし、それに相当する「グラフにおける交点」も存在しない。

 そして、このことは、 乂 型の需給曲線でも当てはまる。
 「均衡」状態であれば、 乂 型の需給曲線の交点(需要曲線と供給曲線の交差する点 )が、正解となる。その特定の一点が決まるとき、需要の量も供給の量も決まる。
 「不均衡」状態では、そういうことがない。なぜなら、交点が存在しない(成立しない)からだ。このことを知るには、すでに述べたトリオモデルを、思い起こせばよい。

トリオモデルの図

 この二つの図がある。右側の図が、普通の経済状況に相当し、左側の図が、不況(デフレ)に相当する。
 右側の図では、交点は、下限直線の上にある。だから、別に問題なく、その交点が実現する。
 左側の図では、交点は、下限直線の下に存在する。ゆえに、交点に達しようとしても、下限直線に阻害されて、その交点に達することはできない。(たとえば、これを金融市場の図と解釈すれば、金利ゼロという下限直線に阻害されて、マイナスの金利の領域にある交点には達しえない。)

 では、左側の図では、交点に達しないとすれば、どうなるのか? この件は、先に説明したことがある。すなわち、下限直線状の二つの点(左点と右点)の間で、右往左往するのである。( → 7月29日
 こうして右往左往しているときは、状況は不安定であることになる。つまり、一つの状況だけが「最善の状況」決定的に決まるわけではなくて、「どれも最善ではない状況」のままで、さまざまな状況がコロコロと変化するのである。( → 8月04日
 一般市場で言えば、こうだ。左下がりの供給曲線上で、右上から左下へと下がっていくが、右点で、下限直線にぶつかる。そこよりも下には、もう下がれない。すると、売れ残りの在庫が過剰になる。やむなく、生産を縮小して、左点に移る。しかしそこでも、やはり赤字が出る。しかも、生産量の縮小で、コストがアップする。やむなく、賭に出て、量的拡大をめざす。つまり、ふたたび右点に戻る。しかしそうしてもやはり、赤字のままである。こうして、右往左往する。……こういう話は、モデル上の話だけではない。現実に、そうである。たとえば、マクドナルドは、何度も値上げしたり値下げしたりして、右往左往した。最適な値段をめざして、価格を上げたり下げたり、量を増やしたり減らしたりした。しかし、しょせんは、赤字が出た。
 結局、デフレのときには、最適点は存在しない(成立しない)のである。どこもかもが最適点ではなく、均衡点ではない。どの点を取っても、不均衡状態なのである。

 同様のことは、金融市場にも当てはまる。すなわち、ゼロ金利で量的緩和をしたときには、大量の資金が滞留している。その滞留した資金が、浮遊して、あっちに行ったり、こっちに行ったりする。あるときは国債を売るが、あるときは国債を買う。あるときは現金を日銀の当座預金口座に預けるが、あるときは現金を引き出して、国債を買ったり、株式を買ったり、ドルを買ったりする。そういうふうに、資金が右往左往する。
 こういうふうに不安定な状況になるのは、最適の「均衡点」が存在しない(成立しない)からだ。モデル的には、その最適の「均衡点」は存在するが、それは「マイナスの金利」の領域にあるから、決して実現しない。現実には、金利はゼロ以下にはならない。そこで、金利がゼロのまま、資金は右往左往する。
 そして、こういう不安定な状況では、「民間引き受けの国債」と「日銀引き受けの国債」の比率を決める交点もまた、不安定なのである。「その比率はこれこれだ」と明示するような点は、決まらないのだ。状況が不均衡だからである。

 では、具体的には、どうなっているか? 
 「『民間引き受けの国債』と『日銀引き受けの国債』の比率が、不安定である」
 ということは、
 「『日銀引き受けの国債』の量が変動する」
 ということである。それは、
 「『日銀引き受けの国債』を増やすための『買いオペ』の量が、実質的に変動する」
 ということであする。それは、
 「『買いオペ』を無効にする現象が起こる」
 ということである。それは、
 「『買いオペ』で得た資金が、日銀に預金される」
 ということである。

 結局、こうだ。
 日銀は、買いオペによって、金融市場に大量の資金を供給する。それによって、「民間引き受けの国債」が減少し、「日銀引き受けの国債」が増えることになる。これが原則だ。(ただし、国債発行額は既定値であるとする。)
 この原則は、通常の景気のときには、もちろん、成立する。しかし、デフレのときには、成立しない。なぜか? 日銀が資金を供給しても、その資金は、民間には出回らず、ふたたび日銀の当座預金口座に入ってしまうからだ。この当座預金口座の権利証を「定期預金証」と同様のものと見なせば、民間としては、「政府発行の国債」を渡して、かわりに、「日銀発行の定期預金証」を受け取ったことになる。要するに、満期の期限が異なるだけで、民間としては、しょせんは大量の預金証をかかえていることになるわけだ。
 要するに、デフレのときには、日銀がいくら買いオペによって資金を供給しても、その資金はふたたび日銀に戻ってしまう。買いオペで資金を渡しても、当座預金で資金を受け取る。民間の権利証の名目が変わるだけで、資金の実態は何も変わらない。資金は、「日銀 → 民間 → 日銀」というふうに、ぐるりと一周するだけだ。
 こういう状況では、資金は、国債に行ったり、当座預金に行ったり、株式に行ったり、外貨投資に行ったり、あちこち右往左往する。だから、「民間引き受けの国債」と「日銀引き受けの国債」の比率は、不安定であって、決まらないのである。

( ※ 政策として言えば、こうだ。買いオペをやっても、それで供給された金は、ふたたび日銀の当座預金口座に戻るから、買いオペなんか、いくらやっても無効なのである。貨幣の発行量が増えても、流通速度が低下するだけなのだ。……マネタリストは、このことを理解できないが。)
( ※ 次項に続く。)


● ニュースと感想  (1月09日)

 前項の続き。「デフレ脱出の状況」について。
 前項で述べたように、デフレの最中には、金融市場は不安定である。ただし、いつまでも不安定であるわけではない。やがて、デフレを脱出するときには、不均衡から均衡へと状況が移る。そのとき、さまざまな数値も一義的に決まる。(もちろん、前項で問題となった比率も決まる。)
 
 では、デフレ脱出のときには、金融市場は、どのように定まるだろうか?
 それについて考えるには、先のトリオモデルを思い浮かべるといい。トリオモデルでは、不均衡のときには、均衡点は下限直線の下にあった。そして、いつかデフレを脱出するときには、均衡点が下限直線の上に出てくる。ちょうど、水面から頭を出すように。では、そのとき、均衡点は、左点と右点の間の、どこから頭を出すだろうか? ── これが問題となる。
 これに対する答としては、次の三つが主要である。(他の答は、これらの折衷と見なせる。)

  1. 左点
     左点から均衡点が頭を出す場合が考えられる。これは、「資金供給も資金需要も縮小したまま、資金の需給が均衡する」という状態である。(金融市場における「縮小均衡」である。)……しかし、これは、金融市場においては、ありえない。なぜならば、デフレを脱出するときには、資金需要が増えて、需要曲線が右シフトするからだ。当然、左点を通ることはありえない。
  2. 中点
     左点と右点の中間的な点を「中点」と呼ぼう。中点から均衡点が頭を出す場合が考えられる。これは、「デフレ脱出時に、資金需要に必要なだけの量の資金供給があって、資金の需給が均衡する」という状態である。……すると、これは、最も標準的な状態であると言えよう。
  3. 右点
     右点から均衡点が頭を出す場合が考えられる。これは、「デフレ脱出時に、資金需要に必要なだけの量よりも多い資金供給があって、資金の需給が均衡する」という状態である。……すると、これは、やや不自然な状態であると言えよう。
 この三つのうち、3番目が問題となる。
 たとえば、デフレ脱出時に、600兆円の資金需要と600兆円の資金供給があったとしよう。これが、ゼロ金利で釣り合っていて、うまく需給が均衡しているとする。これはこれで、問題ない。これは「中点」から均衡点が頭を出す場合である。
 さて。600兆円の資金需要に対して、720兆円の資金供給があったとしよう。そして、この状態で、資金の需給が均衡しているとする。これは「右点」から均衡点が頭を出す場合である。(つまり、3番目の場合だ。)では、これは、何を意味するか? 

 本来ならば 600兆円の資金需要しかないのに、720兆円の資金需要が生じたとしたら、差額の 120兆円の資金需要は、実需としての資金需要ではなくて、投機的な資金需要である。たとえば、「物価が上昇する」という予測が立てば、投機者は、金を借りて、物や資産を購入しようとする。そういう投機的な資金需要が発生する。
 そして、いったんそういう余分の資金需要が発生して、資金の需給が均衡すると、どうなるか? 余分の 120兆円の分だけ、貨幣価値が下落するのだ。たとえば、600兆円分の物があるときに、600兆円の資金があれば、何も変わらないが、600兆円分の物があるときに、それを上回る 720兆円という資金が活動すれば、貨幣価値は、2割低下する。つまり、物価は2割上昇する。(細かいことを言えば、マネーサプライやハイパワードマネーなどを区別する必要がある。 → 3月18日b
 物価が上昇すれば、当然、金融引き締め(資金の縮小)がなされるので、金利は上がる。すると、当然、国債価格は暴落する。かくて、「国債暴落」という混乱が発生する。

 ここで、注意しよう。最初から 600兆円の資金供給がなされていた場合には、「物価上昇」「国債暴落」という混乱は発生しない。金利はゼロから少しずつ上昇していくだけだ。しかし、最初に 720兆円の資金供給がなされていた場合には、そのあとで資金供給を 600兆円または 650兆円程度まで絞っても、もはや手遅れであって、「物価上昇」「国債暴落」という混乱を収束できないのである。
 なぜか? それは、最初に 720兆円の資金供給がなされていた場合には、投機的な資金需要の分だけ、資金需要が拡大しているからだ。たとえば、資金供給を 600兆円程度まで絞って、高金利にしても、まだ投機的な資金需要が 40兆円ぐらいは残る。それを残したまま、資金の需給を均衡させるとしたら、実需としての資金需要を抑制するしかない。だからといって、実需としての資金需要を満たすだけ、資金供給を増やせば、貨幣価値が低下して、物価がやたらと上昇する。
 結局、右点を通って資金の需給を均衡させた場合には、投機的需要という余計な需要が発生するせいで、「物価上昇」「国債暴落」という混乱が引き起こされる。そして、その混乱を避けようとすれば、高金利政策によって、経済規模が縮小する(つまり不況になる)。
 そして、この高金利政策が、これまで何度も経験されてきた、「IMF的な処方の失敗」なのである。

 まとめ。
 デフレを脱出するとき、金融市場も、不均衡から均衡へと移行する。この際、必要十分な資金供給がなされていれば、中点を通って、スムーズにデフレを脱出する。しかるに、必要十分な量を上回って、過剰な資金供給がなされていると、「貨幣価値の低下」が発生する。すると、「物価上昇」が発生する。この物価上昇を抑制しようとして、高金利政策を取れば、経済は不況になる。
 
 結語。
 では、どうすればいいか? デフレを脱出するときには、必要十分なだけの資金供給があればよく、それを上回るような過剰な量的緩和をしなければよい。── 経済政策としては、そう結論できる。
( ※ これは、おおざっぱな結論である。もっと細かな話は、次項以降で示す。)
( ※ これと逆なのが、マネタリズムの政策である。つまり、「不況のときには過剰な量的緩和を行なえばよく、また、不況のあとで物価上昇が起こったら過剰な高金利にすればよい」と。こういう政策は、経済に大幅な振幅をもたらすので、正しくない。経済運営というものは、「急激にアクセルを踏んでから、急激にブレーキを踏めばよい」というものではないのだ。過剰なことはなるべく避けるべきなのだ。……運転手が下手だと、乗客がさんざん苦労する。それが今の日本である。)

 [ 付記1 ]
 「必要十分な」という量は、どのようにして決まるか? 換言すれば、「中点」の位置は、左点と右点の間で、どこに決まるか? 
 これは、モデル的にはともかく、現実にその値を知るには、金融市場における金利を見ればいいだろう。
 具体的には、短期金融市場での金利を見る。この金利が、ゼロ金利であれば、必要十分な量よりも多くの量の資金が供給されていることになる。どのくらい多いかはわからないが、とにかく、量が多すぎることはたしかだ。だから、短期金融市場での金利は、ゼロ金利よりも少し上であることが好ましいのだ。
 マネタリストならば、逆に主張するだろう。「ゼロ金利よりも少しでも上回るのは、けしからん。ゼロ金利解除には、絶対反対!」と。しかし、本当のことを言えば、「 0.3% 程度の金利上昇があっても、一国経済が大きく変動することはありえない。景気刺激のためには、正常な金利よりも 0.3%ほど金利を下げて、ゼロ金利を維持しても、ほとんど効果はないはずだ。そんなことよりも、減税の方がずっと有効である。
 要するに、ゼロ金利政策というのは、「百害あって一利なし」ではないにしても、「百害あって一利あり」にすぎないのである。一利を得るために、百害を甘受するのは、馬鹿げている。
 ともあれ、ゼロ金利よりも少し高めの金利を維持しておけばよい。そうすれば、資金供給量が過剰になることはないから、自然に「中点」を通って、不均衡から均衡へ移行することになる。

 [ 付記2 ]
 インフレ目標との関連を示しておこう。
 インフレ目標というのは、実は、「ほんの少しだけ、過剰な量的緩和をする」ということに相当する。たとえば、必要十分な資金供給量が 600兆円であったとしよう。これに対して、 720兆円の資金供給をしたとすれば、 120兆円が過剰となり、大幅な物価上昇(20%)が発生する。しかし、 720兆円の資金供給のかわりに、 630兆円の資金供給をすれば、大幅な物価上昇が起こるかわりに、小幅の物価上昇(5%)が起こるだけだ。だから、特に大きな被害は発生しない。
 そこで、「将来、過剰な量的緩和を実施します」と公約することで、「将来、物価上昇が起こるだろう」と推定させる政策が、「インフレ目標」である。(ただし量は小幅である。)
 この政策は、やはり、投機的な資金需要を発生させる。ただし、もともとが不均衡であるときに、この政策を実施すると、不均衡から均衡に移行することが可能となる。(投機需要のせいで。) しかも、量は小幅であるから、物価上昇の弊害も少なくて済む。というわけで、経済政策としては、なかなか筋の通った政策である。金融政策だけで不況を解決しようとするのであれば(つまりタンク法のように「減税」を使わないのであれば)、これが唯一の政策であろう。
 ただし、である。インフレ目標が有効となるには、一定の条件がある。それは、「デフレが小規模であれば」という条件だ。デフレが小規模であれば、均衡点は、下限直線のすぐ下の浅いところにあるはずだ。下限直線という水面のすぐ下にあるわけで、水面よりはるか下の深いところにあるわけではない。だから、小幅の量的緩和によって、小幅の物価上昇を予想させて、ちょっと投機需要を増やすことで、水面から脱することが可能となる。これが「相転移」だ。( → 2月18日
 一方、デフレが小規模でなく大規模であれば、均衡点ははるか深いところにある。こうなると、投機需要がちょっと増えたぐらいでは、水面から脱することはできない。また、物価上昇も、小幅ではなく大幅となることが必要だ。というわけで、デフレが大規模であれば、インフレ目標は有効ではないし、もし有効であれば有害なのである。(なぜか? 本質的に言えば、実需が増えないまま、投機需要ばかりが極端に増えて、経済がいびつになるからだ。それは一種のバブル経済であり、その先にはバブル破裂がある。)
 インフレ目標が有効かつ有益であるのは、あくまで、デフレが小規模である場合だけだ。このことを理解しよう。(そういうことが、本項の説明からわかる。)

 [ 付記3 ]
 デフレを脱するとき、中点と右点の、どちらを通るか? それが問題となる。
 政策としてなら、中点を通るべきだ。しかし現実には、右点を通るかもしれない。(マネタリスト的な処方がなされれば、右点を通るはずだ。)
 将来どうなるかは、今現在という時点では予想がつかない。そして、だからこそ、不均衡である時点では、状況が不安定になるのだ。「右点を通るだろう」と予測する人は、そのための最適行動を取るだろうし、「中点を通るだろう」と予測する人は、そのための最適行動を取るだろう。かくて、人々は、右往左往して、状況が不安定になるのである。(前項で述べたとおり。)

 [ 付記4 ]
 本項の内容は、次項に続く。1月07日 に出した最初の問題については、次項でようやく、答が与えられる。なお、本項で述べたことは、おおざっぱすぎて、やや不正確なので、次項以降では少し補正される。


● ニュースと感想  (1月10日)

 前項の続き。「比率の確定」について。
 デフレを脱出するときには、不均衡から均衡へと移行する。このとき、さまざまな数値が一義的に確定する。(つまり、不安定な状態を脱する。)
 このときもちろん、財政赤字をまかなう資金を、民間資金と日銀資金がどのくらいの比率で分担するかということも、確定する。
 では、どういうふうに確定するか? この問題を考えよう。

 不均衡から均衡へと状態が移行するとき、均衡点は下限直線の下から上へと移行する。このとき、その均衡点が、中点と右点の間のどこに位置するかが、決まる。(中点と右点というのは、以前の不均衡状態のときの中点と右点である。)
 その位置がどこであるかを、次のように場合分けしよう。
 なお、この両者の中間として、「その位置が、中点と右点の途中地点である」という場合も考えられる。しかし、それは、上記の二つの場合の折衷と考えてよいだろう。だから、上記の二つの場合を考えれば、それで考察は十分である。(状況が折衷的ならば、結論も折衷的になるだけだ。)

 では、この二つの場合に、それぞれどうなるか? 
 ここでは、「過剰な量的緩和」というものの意味を考えることが必要だ。前項でも述べたが、過剰な量的緩和があれば、その分、貨幣価値の下落が起こる。すなわち、物価上昇が起こる。(貨幣数量説による。)── このことが、どれだけ起こるかが、問題となる。以下では、上記の二つの場合に即して、考えよう。

 第1の場合は、過剰な量的緩和はなされていない。とすれば、日銀は、民間市場で必要な資金だけを提供していたことになる。つまり、財政赤字の分を、日銀は負担していない。とすれば、財政赤字の資金としては、民間資金がすべてであったことになる。つまり、「デフレのときの財政赤字をまかなう資金として、民間資金がすべてであって、日銀資金の分担はゼロであった」ことが確定したことになる。
 第2の場合は、過剰な量的緩和はなされている。とすれば、日銀は、民間市場で必要な資金よりも多くの資金を提供していたことになる。つまり、財政赤字の分を、日銀も負担していたことになる。つまり、「デフレのときの財政赤字をまかなう資金として、民間資金のほかに、日銀資金の分担もあった」ことが確定したことになる。そして、日銀の分担した量は、過剰な量的緩和の分である。

 では、それぞれの場合で、状況はどうなるか? 
 第1の場合は、過剰な量的緩和はなされていない。だから、物価上昇は発生しない。この点だけを見れば、好都合だ。しかし、何もかも好都合だというわけではない。「日銀資金の分担がない」ということは、「民間資金の分担がすべてだ」ということだ。そして、「民間資金が分担する」ということは、「国債が民間引き受けである」ということであり、「債権者が金を出して、他の人々が金を受け取る」ということである。とすれば、他の人々は、デフレのときには金を債権者から借りていたことになるから、デフレ脱出後には借りていた金を債権者に返さなくてはならない。つまり、増税が必須となる。
 第2の場合は、過剰な量的緩和がなされている。その量に応じて、日銀資金が分担しているわけだから、その分、民間資金が減っていることになる。だから、その分、増税が少なくて済む。この点だけを見れば、好都合だ。しかし、何もかも好都合だというわけではない。日銀が金を出した分は、過剰な量的緩和となる。だから、物価上昇が必然となる。

 まとめ。
 過去に財政赤字があれば、その赤字分は、「増税」または「物価上昇」の形で、あとで支払うことになる。そして、「増税」と「物価上昇」のどちらになるかは、過去の財政赤字を、「民間資金」と「日銀資金」でどう分担していたかによって、決まる。
 両者の分担比率がどのくらいになるかは、過剰な量的緩和がどのくらい実施されていたかによって、決まる。

 過剰な量的緩和がゼロならば、民間資金がすべてである。すると、返済方法は「増税」がすべてである。
 過剰な量的緩和がゼロよりも増えれば、その分、民間資金の分担が減る。するとその分、返済方法は、「増税」のかわりに「物価上昇」が増える。
 いずれにせよ、「増税」または「物価上昇」によって、過去の財政赤字のツケ払いをする必要がある。そして、そのどちらになるかが決まる時期が、デフレ脱出のときである。このとき、借金は借金として露見する。

 概観。
 これまでの数項目の話を振り返って、わかりやすく示そう。
 ここ十数年、巨額の財政赤字を出している。この財政赤字は、無視できない。財政赤字とは、過剰消費である。過剰消費をしていれば、その過剰消費をした分、借金が溜まるのである。
 ただし、財政赤字が溜まっても、デフレの最中には、その負担が現実のものとならない。借金の形が定まらないからだ。借金が「民間資金」でまかなわれていれば、いつかはその分の「増税」が必須だが、借金が「日銀資金」でまかなわれていれば、「増税」はあまりしなくて済みそうだ。また、日銀が金を貸してくれているのであれば、デフレの最中には、借金の返済が猶予されるから、借金のことを無視していられる。
 しかし、その間も、借金は確実にどんどん増え続けているのである。今年も 30兆円、翌年も 35兆円、……というふうに、どんどん巨額の借金がふくらんでいくのである。
 そして、あるとき、デフレを脱出する。そのとき、すべてが確定する。と同時に、借金も、借金であったことが確定する。借金は返済を迫られる。
 その借金の返済方法には、「増税」と「物価上昇」の、二つの方法がある。二つの方法があるが、どちらにしても、国民の一人一人にとっては、損である。この損を免れることはできない。
 これは、当然のことだ。打ち出の小槌などはない。魔法の宝箱などはない。過去において過剰消費をしてきたならば、その分、将来になってそのツケを払う必要があるのだ。
 ただし、そのツケの払い方には、選択の幅がある。「増税」と「物価上昇」のどちらにするかを、自由に選択することができる。「すべて増税でまかなう」のでもいいし、「増税と物価上昇を半々でまかなう」のでもいいし、「ほぼすべてを物価上昇でまかなう」のでもいい。そして、その比率を決める方法が、「過剰な量的緩和をどのくらいやるか」ということなのである。

 [ 付記1 ]
 では、「増税」と「物価上昇」を、どのくらいの比率で実施すれば、最適になるか? この問題は、次項で考察する。
( ※ 前項の考え方に従えば、「すべて増税で」というのが良さそうに思える。しかし、そういう結論は粗っぽいので、いくらか補正を要する。)

 [ 付記2 ]
 「増税」と「物価上昇」を合わせたツケ払いの総額は、過去に過剰消費した総額と同じである。つまり、借金した分だけ、ツケ払いをするわけだ。(実際には、利子も支払うから、借金した以上の金を、ツケ払いする。)

 [ 付記3 ]
 デフレ脱出時について、かなり悲観的なことを述べた。しかし現実には、デフレ脱出時に、必ずしも破局的な事態が発生するわけではない。
 どうしてか? それは、「借金の繰り延べ」という方法が使えるからである。すなわち、デフレ脱出時に「民間引き受けの国債」を多量に発行すれば、当面は、増税も物価上昇も、なしで済ますことができる。ただし、これは、自転車操業のようなものであるから、かなり危険である。
 また、この際、大量の国債発行にともなって、金利が大幅に上昇すると、民間投資に資金が回らなくなり、GDPの成長が阻害される。すなわち、クラウディング・アウトが発生する。これは、「タコが自分の足を食う」ようなものである。つまり、今はいい思いをしていられるが、しょせんは自分自身の身を削ることになる。
 ともあれ、「借金の繰り延べ」という方法は、当面の一時しのぎにはなるが、根本的な解決方法にはならない。それは単に「解決を先に延ばす」だけのことだ。しかも、罰金つきで。
( ※ 「じゃ、どうすればいいか?」という質問には、次項で答える。)

 [ 補足 ]   ( 細かな話だから、読まなくてもよい。)
 「過剰な量的緩和」というのは、「必要十分な量」に対する過剰な分である。では、「必要十分な量」というのは、どれだけか? 一義的に決まるのだろうか? それとも、唯一の値とはならず、一定の許容幅のある値となるのだろうか? 
 この問題について考えるには、前に述べた「緑色領域」というのを思い出せばよい。一般に、普通の均衡状態では、金融政策には裁量の幅がある。一定の範囲内(均衡を保つ範囲内)の資金供給は、どの値であっても、「必要十分な量」となる。その可能な範囲内で、金利を上げたり下げたりして、景気を冷やしたり熱したりする。
 ただし、均衡と不均衡との境界では、金融政策には裁量の幅がない。許された選択肢は、「ゼロ金利」だけである。それより金利を上げることも下げることもできない。もちろん、それに相当する資金量を増やしたり減らしたりすることもできない。このときの値以外の値はすべて不適切である。
 だから、均衡と不均衡との境界では、「必要十分な量」というのは、一義的に決まるのである。
( → 9月16日 以降。 「緑色領域と金融政策」 )


● ニュースと感想  (1月11日)

 「増税と物価上昇の、どちらが好ましいか」という問題について。
 前項で示したとおり、デフレ脱出時には、「増税」または「物価上昇」が必須である。これは、過去の財政赤字に対するツケ払いであるから、避けることはできない。
( ※ どうしても避けたければ、過去において財政赤字を出すのを我慢する必要がある。しかし、そうすると、今度は肝心の「デフレ脱出」が不可能となる。……たとえて言えば、「病気なのに、薬代を出すのを惜しんで、いつまでも病気のままでいる」ということだ。愚の骨頂といえよう。ただし、ケチケチ主義の財務省は、この愚かな選択をして、日本をいつまでも病気にしておこうとする。)

 では、「増税」または「物価上昇」が必須であるとして、どちらが好ましいだろうか? これが、問題となる。
 この問題に対して、前々項では、こう答えた。
 「増税の方が、物価上昇よりも、好ましい」
 その理由は、こうだ。(トリオモデルで、デフレ脱出時の状態を考える。)
 「中点を通るときが、増税である。右点を通るときが、物価上昇である。物価上昇が起こるというのは、過剰な量的緩和があったときであるが、過剰な量的緩和があると、物価上昇が起こる。過剰な量的緩和が、あまりにも大幅であると、物価上昇もまた、あまりにも大幅になる。あまりにも大幅な物価上昇があると、それを抑制しようとして、金融引き締めがなされて、大幅な高金利となる。その結果、GDPが縮小して、不況となす。だから、過剰な量的緩和は、あまりにも大幅であるのは好ましくない」

 これは、大筋としては、正しい。ただし、ここで述べたことは、あまりにもおおざっぱにすぎるのである。
 ここで示したのは、あくまで、おおざっぱな対比だった。すなわち、「増税」と「あまりにも大幅な物価上昇」という、極端な対比である。いわば、「白か黒か」という両極的な対比である。しかし、現実には、その中間的な場合もあるだろう。
 では、中間的な場合とは? それは、「増税 および 小幅の物価上昇」である。それはトリオモデルでは、「中点と右点の中間」を通ることによって、実現される。
 そして、結論から言うと、これが最適なのである。つまり、「増税だけ」も「物価上昇だけ」も最適解ではなくて、「大部分は増税だが、小幅の物価上昇も」というのが最適解なのである。(いわば、白でも黒でもなく、白っぽい灰色が、正解である。)
 以下では、このことを説明しよう。

 まず初めにお断りしておくが、「あらゆる難点を解消するベストの案」というものは、存在しない。タナボタのような好都合な案は存在しない。いずれの案をとるにせよ、ツケ払いは必須であり、ツケ払いを免れる方法などはない。このことを自覚しておこう。
 その上で、「難点を最小にする案」というのを、求めることになる。ただし、どの案も、「一長一短」つまり「あちらが立てばこちらが立たず」である。「増税」を拒めば、「物価上昇」がある。「物価上昇」を拒めば、「増税」がある。「増税も物価上昇もなしで済ます」という好都合な案は、存在しない。
 しかし、だからといって、「じゃ、何でもいいや。煮て食おうが焼いて食おうが、勝手にしてくれ」と投げやりになるべきではない。選択肢があるのであれば、そのなかで最適の選択肢を選択するべきである。
 では、どの選択肢を選択するべきか? 

 最も標準的なのは、「増税だけ」という案だ。これは、財務省あたりが推奨しているし、財政健全主義者も推奨している。また、「借金を返済するというモラルが大事だ」と考えるモラリストも推奨している。また、「物価上昇は根源的な悪である」と考える物価至上主義者も、「物価上昇」を排するために、「増税」を推奨する。
 逆に、お気楽な人々のお好みは、「増税はいやだ」という案だ。「小さな政府」を唱える人々や、ケチな財界の人々や、ケチな消費者などは、こぞって「増税反対」と主張する。そして、増税をしないせいで「物価上昇」が起こったら、そのときは、「政府のせいだ」「日銀のせいだ」と他人のせいにして、自分があえてその案を選択したということを、忘れてしまうのである。(そういう無責任だから、「お気楽」なのである。)
 ともあれ、主義主張によって、「増税」「増税以外」という区別ができるわけだ。

 一方、経済学的に、「誰が負担するか」という点に着目して、区別することもでききる。
 「増税」という案では、国民全体がほぼ平等に負担する。特に誰かが多く負担するということはない。もちろん、増税の仕方を変えれば、特定の人々が多く負担することになるが、その場合、あえて意図的にそうしたわけであるから、それはそれで、また別の話となる。普通は、「消費税の増税」のような形を取るから、国民全体がほぼ平等に負担することになる。
 「物価上昇」という案では、原則として、金融資産の債権者が負担することになる。「物価上昇」とは、「貨幣価値の下落」である。つまり、金融資産の価値が下落することである。だから、金融資産をたくさんもっている人ほど、たくさん負担することになる。たとえば、1億円の国債を持っている人は、10%の物価上昇で、金融資産の価値が 10%減ってしまう。つまり、1千万円の損失である。一方、金融資産をまったくもっていない人は、負担がゼロだ。また、借金をしている人は、借金の返済額が減ったのと同じことになるから、損するどころか、儲けてしまう。

 以上の諸点をかんがみて、結論としては、次のように言えるだろう。
 「単なる増税も、単なる物価上昇も、どちらも好ましくない。両者の中間が好ましい。具体的には、どのくらいか? それは、『小幅の物価上昇があり、残りは増税』である

 ここでは、「小幅の物価上昇がある方が好ましい」と結論している。その理由は、先に別の論考で述べたとおりである。すなわち、「アメとムチ」である。( → 需要統御理論・簡単解説
 物価上昇には、「アメとムチ」効果がある。つまり、「消費を多くなした人ほど得をして、消費を少なくなした人ほど損をする」という効果だ。そして、この「アメとムチ」効果によって、消費を促進して、景気回復を急速に起こすのである。
 デフレという状態では、GDPが縮小している。こういう状態では、消費促進による景気回復が、何よりも大切なのである。「物価上昇」には、デメリットもあるが、そういうデメリットを甘受してでも、デフレから脱出する必要がある。病気のときには、「薬代を払う」というデメリットを甘受してでも、病気から脱出する必要がある。この薬が、「物価上昇」による「消費促進」なのである。
( ※ 景気が正常であるときには、そうではない。健康な人は、薬を飲む必要はない。やたらと薬を飲んでも、副作用があって、金がかかるだけだ。飲むとしたら、せいぜい、ビタミン薬ぐらいだ。)

 では、「アメとムチ」は、どの程度が好ましいだろうか? つまり、「物価上昇率」は、どのくらいが好ましいだろうか?
 この問題については、「おおむね5%程度の物価上昇率」と答えることができる。もう少し正確に言えば、正常の景気のときには2〜3%程度が好ましく、不況脱出時には5%程度が好ましい。つまり、不況脱出時には、5%という高めの物価上昇率を設定して、「アメとムチ」の効果を大きめにすることが好ましい。
 では、この5%という値は、どこから出てくるか? 

 そもそも経験的に、このことは明らかであろう。
 2%程度の物価上昇率は、せいぜい「現状維持」ぐらいの効果しかない。普通の景気のときならば、「現状維持」でもいいだろうが、いったんGDPが縮小した状態では、「現状維持」ではまったく困る。たとえ「縮小均衡」という均衡が達成されていたとしても、その均衡状態の枠の外に置かれた、多大な失業者が社会に残っている。就職している人は、「物価上昇なんかいやだ」と文句を言うだろうが、失業中の人は、「仕事をくれ!」と求めるだろう。
 要するに、2%程度の物価上昇というのは、「縮小均衡」というGDPの縮小した状態にあっては、不正義なのである。「自分さえ良ければいい」というエゴイストならば、「失業中の人なんか知ったこっちゃない、彼らが失業しているのは彼らの責任だ、勝手に飢え死にしてしまえ」と主張するだろう。しかし、そういう血も涙もない経済政策は、不正義なのである。(実際にはこう主張する経済学者が非常に多い。私見では、彼らは間違った経済政策を主張しているのだから、すべて解雇されるべきである。こうして失業者となれば、彼らは自分の主義に従うことになるのだから、満足するであろう。「失業して飢え死にするのは、すばらしいな」と。)
 一方、10%を越えるような大幅な物価上昇率は、どうか? これはこれで、社会的な弊害が多く出すぎる。
 たとえば、1970年代の石油ショックの直後には、20%とか 30%とかの、大幅な物価上昇率が起こった。これは「狂乱物価」と呼ばれる。このとき、大幅な物価上昇率にともなって、社会が大混乱を起こした。あげく、大混乱を収束しようとして、大幅な金融引き締めを実施したら、今度はひどい経済停滞を起こして、莫大な倒産や失業が発生した。
( ※ この「狂乱物価の収束」を、マネタリズムの元締めであるフリードマンは、著書「選択の自由」で、自画自賛している。「金融引き締めによって大幅なインフレを引き締めたのは、マネタリズムの有効性を証明している」と。つまり、マネタリズムというのは、莫大な倒産や失業が発生しても、それを「成功」と見なすような、トンデモな学説なのだ。)
( ※ 参考のために言えば、「狂乱物価の収束」のためになす正解は、「金融引き締め」ではなくて、「金融引き締めと増税の併用」である。このことを理解しないのが、IMFである。彼らはいつも、インフレ対策として、金融引き締めばかりを実施して、経済を萎縮させてしまう。……こういう話は、「ポリシー・ミックス」として、詳しく説明したことがある。 → 4月25日 以降。)
( ※ 実を言うと、本項で述べている「増税と物価上昇」というのは、「増税と過剰な量的緩和」のことであるから、「ポリシー・ミックス」の政策そのものなのである。だから、本項で述べている「どのような比率にするのが最適か」という問題については、4月25日以降の「ポリシー・ミックス」のシリーズを、読み直すといいだろう。)

 話を戻そう。とにかく、経験的に言って、5%ぐらいの「小幅の物価上昇率」がよい、と言えるわけだ。(デフレ脱出時には。)
 だから、過去の財政赤字のツケ払いの方法としては、「許容幅となる5%程度までは、物価上昇を許容する。それでは済まない残りの分は、増税でまかなう」というのが、最適解となるわけだ。
 話を整理すると、この最適解には、次の意味がある。これが結論だ。
 [ 付記1 ]
 物価上昇があると、なぜ、増税が少なくて済むのか? それは、「借金の踏み倒し」をするからだ。借金をした人々(一般国民)が、返すべきものを返さないでいるからだ。
 たとえば、国債所有者は、1億円の国債を購入したあとで、1億円プラス利子を返してもらえるはずだった。ところが、貨幣価値の下落のせいで、(実質的に)9千万円しか返してもらえない。
 つまり、国債所有者は借金の踏み倒しのせいで、大損をする。そして、その大損をする分、借金をしていた人々(一般国民)は得をするわけだ。かくて、増税を免れる。

 [ 付記2 ]
 だったら、物価上昇をどんどん起こせばいいのだろうか? 「借金の踏み倒し」をどんどん行えば、金持ちが損するだけで、他の一般国民は得をするのだろうか? 
 そうではない。なぜなら、金融資産をもっているのは、国債を買った資産家だけではないからだ。実は、大部分の国民は、金融資産を蓄えている。あなただって、「銀行預金」「生命保険払い込み」「年金払い込み」などの形で、巨額の金融資産がある。だから、「借金の踏み倒し」があれば、大多数の国民は損をするのである。
 結局、国民は、財政赤字についての借金を踏み倒すことで、「儲けた」と喜んでいられるが、その一方で、自分の金融資産の分についても踏み倒されてしまうのである。
 ただし、「借金の踏み倒し」は、「誰かが得をすれば、誰かが損をする」ということだ。大多数の国民が損をするとしたら、その分、誰かが儲けているはずだ。では、それは、誰か? 
 それは、「預金よりも借金の方が多い者」である。具体的に言えば、住宅ローンの残額が多い人と、一般企業である。こういう者は、「借金の踏み倒し」ができることで、とても得をする。「しめしめ」と舌なめずりしているだろう。とはいえ、その陰で、大多数の国民が泣くのである。増税ならば、十万円を奪われるだけのはずだった。ところが物価上昇ならば、十五万円を奪われ、そのうち十万円は国庫に入るが、残りの五万円は舌なめずりをしている輩の財布に入るのだ。
 だから、物価上昇というものは、不公正なのだ。メリットはあるが、同時に、デメリットもあるわけだ。

 [ 付記3 ]
 では、公正にするには、どうすればいいか? もちろん、「全員が平等で」というのがよい。全員が平等でツケ払いをすることこそ、最も公平である。そして、それが、「増税」なのだ。
 ただし、公正さを犠牲にしても、もっと優先するべきことがある。それが「デフレ脱出時における経済の拡大」である。それゆえ、一定の枠(5%)をはめた上で、小幅の物価上昇を許容するわけだ。これは一種の必要悪である。
 公正さばかりを教条的に優先したあげく、デフレ脱出に失敗すれば、元も子もない。それは、「平等に貧しくなる」ようなものである。それは好ましくないのだ。
 そういうことを、本項では明らかにしたわけだ。そして、最適の政策とはどのようなものであるかを、具体的な数値で示したわけだ。

( ※ 1月07日 以降の問題については、本項で一応、肝心な話は完了した。次項以降では、書き落とした細かな話題を取り上げる。)


● ニュースと感想  (1月12日)

 Q&A (第1回・基本編)

 Q ここまでの話を、まとめて言うと? 
  次の通り。(箇条書き。)
 Q 増税が必須だと言うが、増税をしないとどうなるか? 
  「増税」と「物価上昇」は、二者択一である。「増税」を拒めば、「物価上昇」が起こる。なお、「物価上昇」を強引に抑え込もうとして、「高金利」という政策を取れば、成長が阻害されるので、最悪の結果となる。
( ※ 三つを並べれば、「増税」「物価上昇」「高金利」の三者択一である。しかし最後の「高金利」は、「一国経済の破壊」を意味するから、まともな選択肢には入っていない。これを選択するのは、阿呆とIMFだけである。)

 Q デフレ脱出の直後は、たとえ増税をしなくても、物価上昇は起こらないはずだが。
  そのとおり。デフレ脱出の直後という時期は、「健康」ではなく、「病み上がり」である。病気は完治していないのだから、「増税」は不要である。「増税」が必要となるのは、病気が完治して、食欲(需要)が旺盛になってからのことだ。

 Q 「増税」をするとしたら、その時期は? 
  「物価上昇」が起こってからでいい。つまり、供給力が上限近くに達して、需要を抑制するべき時期になってからでいい。
 だから、「物価上昇」が起こる時期までは、「需要の抑制」よりも、「供給力の拡大」が優先する。(この件については、「景気拡大」の話として、前に述べた。「上限均衡点」に達するまでは、景気拡大が可能である。 →  10月05日 以降。)
 具体的に言おう。物価上昇率が5%を越えるまでは、増税も高金利も、ともに不要である。(せいぜい、「物価上昇率 − 2%」という金利を設定すればよい。この意味で、物価上昇率が2%にならないうちに、ゼロ金利を解除するのは、あまり好ましくない。とはいえ、微弱なプラス金利ならば、特に問題ないが。)
 その後、物価上昇率が5%を越えかけたら、増税または高金利を実施するべきである。通常、すぐさま高金利を実施して即応し、少し遅れてから増税を実施して、高金利の弊害を弱める。これがベスト。

 Q 需要が旺盛になって、景気が過熱する時期は、必ず来るのか? 
  当然、来る。ただし、それは、「景気循環」という単純な「行ったり来たり」のせいではない。
 増税が必要なのは、民間引き受けの国債の分である。その国債には、国債を買った債権者がいる。彼らは、国債を買った時点では、金を貸すから、消費をしない。しかし、金を貸した人々が、「いつまでも預けっぱなしでいいよ」と言うことはありえない。必ずいつか、「預けた金を返してくれ」と言い出す。そして、彼らが「自分の金は自分で使う」と言い出したとき、その需要が発生する。
 このとき、債権者の需要と、他の人々の需要とが、加算される。すると、需要が過剰になる。かくて、景気が過熱して、物価上昇が起こる。だから、「需要過剰」による「物価上昇」が起こるのは、当然なのだ。

 Q 物価上昇は、なるべく抑制したい。
   そのためには、需要を減らす必要がある。とはいっても、たくさん金を持っている債権者に、「自分の金を使うな」と言うわけには行かない。
 となると、債権者の需要を減らすかわりに、他の人々の需要を減らす必要がある。そこで、他の人々の金を奪って、債権者に返済させるわけだ。つまり、「増税」をするわけだ。これは、「借金の取り立て」であるから、不可避である。
( ※ ただし、不可避だとしても、先に繰り延べることは可能である。)

 Q 「借金の繰り延べ」は、可能か? 
  ある程度は、可能である。本来ならば、債権者が「いつまでも金を返さないでいい」と言うことは、ありえない。ただし、社会の高齢化が急速に進んでいる状態では、高齢者がどんどん貯蓄を増やすから、一国全体の貯蓄もどんどん増えていく。となると、「借金の繰り延べ」も可能である。
 実は、これは、最近の日本の状況でもある。高齢者がどんどん貯蓄をしてくれているおかげで、一般の人々はデフレのさなかでも、借金して、過剰消費していられるわけだ。
( ※ 高齢者が貯蓄をやめたら? 国債の引き受け手がなくなるから、困ったことになる。増税をするか、過剰な量的緩和をさらに増やすか、どちらかだ。前者の場合、ただちに景気が急速に悪化する。後者の場合、当面は景気の悪化を免れるが、デフレ脱出後には、ものすごい物価上昇が起こる。それを避けようとすれば、一挙に莫大な増税をするか、一挙に超高金利にするか、どちらかだ。いずれにせよ、ツケ払いを一挙に迫られ、一国経済が破滅的になる。)
( ※ 現在、「高齢者が貯蓄を増やすから、デフレになる。だから高齢者に、どんどん消費させよ」という声がある。これは、トンチンカンの極みである。高齢者が、普通の人より貯蓄率が高いとしても、当然だ。一般に、不況の原因は、高齢者が貯蓄を増やすせいではなくて、壮年者が消費を減らすせいである。「壮年者二人が消費を 10万円減らしたから、高齢者一人が消費を 20万円増やせば、バランスが取れる」なんて考えるのは、阿呆の計算にすぎない。高齢者が無駄遣いをして、スカンピンになったら、誰が彼の生活費を払うのか?)

 Q 財政赤字の解消には、増税や物価上昇よりも、構造改革で無駄をなくす方が大切では?
  たしかに、財政を均衡させるには、収入を増やすことのほかに、支出を減らすことも有効である。ただし、である。それはあくまで、長期的な課題であって、中短期的な財政問題や景気対策とは別のことだ。この件は、次の[ 付記 ]で詳しく説明する。

 [ 付記 ]
 「構造改革をどう評価するべきか」という、小林慶一郎の解説記事がある。「構造改革で財政赤字の解決」というような案を示している。(朝日・朝刊・経済面 2004-01-11 ) これは、相当メチャクチャな経済記事であるので、コメントしておこう。
 「構造改革は、政府支出の無駄を減らす。そのことで、不況脱出にも効果があり、財政赤字の解消にも効果がある」という説がある。
 なるほど、小泉はそう信じているだろう。世間の素人も、そう信じているだろう。話半分のお茶のみ話としては、面白い。しかし、この説は、まるきりのデタラメであるから、信じてはならない。(記事はこういう説を、経済学の常識であるかのごとく述べているが、とんでもない。)
 そもそも、「政府の無駄を少なくすれば、万事がすべてうまく行く」というのは、「小さな政府」主義と呼ばれる。これは、経済学の標準的な主張ではなくて、むしろ、経済音痴の保守派の主張である。なぜか? 単純に足し算と引き算をしてみればよい。政府支出の半分近く財政赤字になっている。これほど巨額の赤字を、「政府の無駄をなくすこと」だけで解決できるはずがない。つまり、36兆円の赤字を、1兆円の黒字で、解決できるはずがない。「 36−1=0 」という引き算は、成立しないのだ。わかりますね?
 また、財政赤字が拡大したときだけ、政府の無駄が増えたわけではない。どちらかといえば、財政赤字が縮小したときほど、政府の無駄は多かったのである。たとえば、バブル期に財政黒字になったのは、政府の無駄が少なかったからではないし、むしろさんざん無駄遣いをしていたのである。
 では、正しくは? 「政府の無駄をなくすこと」は、たしかに必要なことではある。しかしそれは、長期的な課題である。中短期的な観点から、「不況のときには財政赤字が拡大するから、政府の無駄を減らすが、不況を脱したら財政赤字がなくなるから、政府の無駄を放置する」というふうにすべきではない。不況であれ、好況であれ、長期的に少しずつ着実に、政府の無駄を減らすべきである。
 要するに、「政府の無駄をなくすこと」は、中短期的な問題である「景気変動」や「財政赤字」とは、まったく関係がないのだ。「政府の無駄をなくすこと」は、「景気変動」や「財政赤字」の問題を解決するためには、ほとんど無意味のだ。道路公団や郵政事業の問題を解決して、政府の無駄を1兆円減らすことは、それはそれで意味があることだが、当面の問題である「36兆円の財政赤字を解決すること」には無効であるし、「30〜50兆円も縮小したGDPを正常な水準まで回復させること」にも無効であるのだ。
 とにかく、「政府の無駄をなくすこと」が必要なのは、財政の「収入と支出のバランスを取るため」ではない。では、何のためか? 「政府と民間の取り分を正常化させるため」(民間の取り分を増やすため)だ。( → 2月13日 の [ 付記 ] )
 では、財政のバランスを取るためには、どうすればいいか? それが、ここまで数項目で述べてきたことだ。つまり、「景気回復後の借金返済」である。借金をしたら、借金を返済しなくてはならない。一方、「構造改革をすれば、それで済むさ。自分は払わなくても、政府が払ってくれるさ」なんていうお気楽な発想は、「小さな政府」主義の妄想である。ほとんど「棚からボタモチ」という発想だ。小原庄助流である。まともな経済学者の発想ではない。だからこの記事はトンデモであるわけだ。
 「毎年30兆円以上も赤字を出して、赤字の累計が数百兆円にもなっている。その巨額の赤字を、どう解消するか」という問題は、マクロ経済的に考察すべき問題なのだ。だから、ここまで延々と、考察してきたわけだ。経済学というのは、そういうものだ。「コーゾーカイカク」と叫ぶだけで、数百兆円もの赤字が消えるわけではない。
( ※ なお、記事では、「財政赤字の解消には、景気回復が大切だ」と述べている。そんなことは、馬鹿でもわかる。問題は、「どうすれば景気回復が実現するか」だ。記事はそのために、例のごとく、「銀行システムを健全化すればよい」と主張している。つまり、「銀行が詰まっているから資金が流れない」という主張だ。これについては、過去の項目を参照。 → 基本は 9月24日b1月14日c , 小林慶一郎批判は 5月25日 。また、次の [ 補記 ] も参照。)

 [ 補記 ]
 「企業が投資しないのは、銀行から借金できないからではない」ということは、統計からも明らかになっている。つまり、「企業は資金不足になっていない。企業は、借金ができなくて困っているどころか、金が余って貯蓄をしている」という現実がある。
 このことは、内閣府の「国民経済計算」で統計的に示されている。貯蓄から投資を差し引いた「貯蓄投資差額」という数値を、GDP比で見よう。すると、家計はずっとプラスだが、2000年以降、6%弱から2%強へと、急速に低下している。一方、企業は、たいていはマイナスの値を取っている(投資の方が多くなっている)ものだが、1998年には突然5%のプラスとなり、そのあと 99年から 01年まではゼロ近辺で横ばいであったが、02年になると 3.5%のプラスとなっている。
 つまり、最近の企業は、資金が余っているわけだ。銀行から借金できないのではなくて、銀行に預金しているのだ。こういうふうに、「家計は貯蓄が減っているが、企業は貯蓄をしている」という現実がある。
( ※ この数値は、読売新聞・朝刊・経済面・コラム 2004-01-11 の記事による。読売は記事の最後で、「企業の利益が家計に届くかどうかが景気回復のカギだ」と述べている。これは正しい。一方、朝日の上記記事は、事実とは正反対のことを基礎情報として示していることになる。「朝日新聞」は、「朝日デマ広報」もしくは「朝日虚報」と名称変更するべきだろう。)


● ニュースと感想  (1月13日)

 Q&A (第2回・詳細編)

 Q 「物価上昇率は5%程度が最適だ」ということの、根拠は何か? 
  先に示したのは、「経験的にそうだ」ということだった。2%程度では、現状維持ぐらいの力しかなくて、経済成長力が弱い。10%以上では、弊害が出る。── そういうことが、「経験的にわかっている」ということだった。
 一方、「理論的」にも、このことはいくらか説明できる。以下で示そう。
 最初におおざっぱな結論を言えば、「好ましい物価上昇率」には、「極大値」がある。つまり、一定の値を頂点として、「好ましさ」には凸状の曲線を描ける。その「一定の値」というのが、だいたい5%あたりなのである。
 では、なぜ、極大値があるのか? その理由を示そう。
 まず、物価上昇には、そもそも、メリットとデメリットがある。そして、「好ましさ」は、「メリットとデメリットの差」として理解される。メリットも、デメリットも、物価上昇率が上がるにつれて、どんどん増えていく。しかし、「メリットとデメリットの差」は、一定の値で極大値を取る。
 なぜか? それは、メリットとデメリットの曲線を見ればわかる。これらは、物価上昇率を変数 χ としたとき、どのような関数になるか? 
 「デメリット」の方は、χ の一次関数であると理解していいだろう。 / のように右上がりの直線である。簡単に言えば、「物価上昇率が2倍になれば、デメリットも2倍になる」というふうになる。
 「メリット」の方は、どうか? これは、χ の一次関数とはならない。むしろ、頭打ちの関数となる。最初は、 / のように右上がりの直線となるが、やがて傾きが減り、ついには傾きが平坦になってしまう。では、なぜか? 
 デメリットの方は、単なる害悪であり、非人間的なものであるから、機械的に比例関係が見られる。「アメとムチ」の「ムチ」が2倍になれば、デメリットも2倍になる。
 メリットの方は、GDPの増大であるが、こちらは人間行動の関与するものであるから、機械的に「どんどん無限に増える」ということはない。「アメが2倍になる」からといって、「人間行動が2倍になる」ということはない。だんだん頭打ちになる。
 たとえ話を示そう。「百円奪われたときの痛み」に比べると、「3百円奪われたときの痛み」は、ほぼ3倍である。一方、「百円やるから、1メートル跳べ」と言われれば、実行できるだろうが、「百円の3倍やるから、1メートルの3倍跳べ」と言われても、まず無理だろう。
 経済活動は、人間の行動である。アメが2倍になったからといって、アメに釣られて経済活動をする量は2倍にはならない。物価上昇率が2倍になったといって、経済成長率が2倍になるわけではない。
 というわけで、「メリットとデメリットの差」は、一定の値で極大値を取る。その「一定の値」が、ほぼ5%になるわけだ。つまり、5%ぐらいまでは、人間はアメに釣られてどんどん経済活動を増やすが、5%を越えると、アメに釣られて経済活動を増やすという傾向は鈍化するわけだ。

 Q 増税の幅と物価上昇の幅は、同じか? たとえば、5%の増税を断念すれば、5%の物価上昇が起こるか? 
  もちろん、そんなことはない。両者は別々の数字である。
 国民所得は、500兆円程度。適切な貨幣供給量は、600兆円程度。とすれば、両者はほとんど同じだから、所得が 10%奪われるのも、物価上昇が 10%起こって実質所得が 10%減少するのも、ほとんど同じことかもしれない。……一見、そう思えそうだ。
 しかし、である。現実には、そうはならない。なぜなら、物価上昇が起こると、「賃上げ」が起こって、「名目所得の減少」を相殺するからだ。また、「賃上げ」が起こらなくても、労働者のかわりに企業や資本家に所得が溜まるから、国民所得は減らない。物価上昇が起こっても、国民所得はなかなか減らないのだ。
 では、国民所得が減るのは、どういう理由か? 「税の自然増収」という形で、政府が金を奪うことと、「実質価格の低下」という形で、返済負担が減ることだ。(後者は「借金の踏み倒し」に相当する。)そのいずれも、増税ほどの大きな効果はない。
 だから、現実には、10%の増税に匹敵するのは、(おおざっぱに言って)30%ぐらいの高率の物価上昇だろう。このくらいの大幅な物価上昇があれば、「税の自然増収」という形の「所得低下」と、債権者に対する「借金の踏み倒し」とで、帳尻が付きそうだ。
 逆に言えば、30%ぐらいの高率の物価上昇が起こっても、それを収束するためには、30%の増税は不要であり、10%程度以下の増税があればいいのである。
( ※ ここで言う「10%の増税」というのは、「税額が10%増える」という意味ではなくて、「税率の上がる分」である。たとえば、「所得税率が 20%から 22%へ上がること」ではなくて、「所得税率が 20%から 30%へ上がること」である。それも、国民一律で。仮に全部を消費税でまかなうのであれば、消費税率を 5%から 15%に上げることに相当するだろう。「そんなのは、とんでもない」と思うかもしれないが、これは、「30%という高率の物価上昇率が発生するときに、そういう問題を解決するため」である。別に、必須だというわけではない。)

 Q 「5%」の「物価上昇率」をもたらすとして、それに対応する「過剰な量的緩和」の量は、どのくらいだろうか?
  この問題は、簡単に計算できる。必要十分な量(正常な貨幣供給量)が 600兆円だとすれば、その5%は 30兆円である。だから、30兆円の「過剰な量的緩和」をやればよい。
 逆に言えば、「過剰な量的緩和」は、やるとしても、30兆円で十分であり、それをずっと越えて、 70兆円も 100兆円もやっても、有害無益なのである。
( ※ 現状では、さんざん「買いオペ」をやったり、「過度の円安介入」をやったりして、100兆円を大幅に超えるような「過剰な量的緩和」を実施している。円安介入だけでも、70兆円を越えているようだ。困ったことである。「アクセルを踏みすぎても、あとでブレーキを踏めばいい」と信じているのだろう。勘違い。 → 1月09日

 Q 「過剰な量的緩和」の量が、30兆円であればいいとすれば、タンク法の減税規模も、30兆円だということになるのか?
  その通り。前にも何度か、「減税は 20兆円〜 30兆円」と述べたが、それとは別に、本項(上記)の根拠からも、30兆円という数字が出てくるわけだ。
 ただし、この「過剰な量的緩和」の 30兆円というのは、あくまでも「最大規模」である。現実には、その額には達しないだろう。なぜか? 現実には、「減税による消費拡大だけ」ではなくて、「量的緩和による投資拡大」も併用されるからだ。
 というわけで、実際には、「いきなり 30兆円の減税」ではなくて、「8兆円の減税を何発か」という具合に段階的に実施し、うまく景気回復軌道に乗ったところで、以後の減税を中止すればよい。
 なお、最悪の場合には、いくら減税をしても、なかなか企業が投資を増やさないこともあるだろう。その場合には、「減税だけ」で 30兆円を実施する必要がある。そして、そのことを保証することで、「消費拡大」と「景気回復」が企業に確信されるから、企業は安心して「投資拡大」を実施できる。つまり、「最悪の場合には 30兆円の減税を実施しますよ」と保証することで、現実には減税の規模を最小限にすることができる。
( ※ それと逆なのが、財務省の方針である。減税を最小規模で実施しようとするから、いくら減税をやっても効果がない。つまり、「最小の減税」を狙うことによって、逆に、「最大の減税」を迫られる。……そういう阿呆を「ケチ」とを言うんですけどね。)

 Q タンク法で「 30兆円の減税」を公約したのに、景気が回復したからといって減税をやめたら、国民は「だまされた!」と怒り狂うのでは?
  逆である。国民は、「減税をされなくなった」と大喜びするのである。なぜか? 「減税をされない」ということは、「減税をしなくても、その分以上の所得増大があった」ということだからだ。
 わかりやすく言えば、こうだ。「 10万円の減税のあとで、さらに 20万円の減税が予告されていたのに、その追加分の減税は実施されなくなった」となる。その理由は、「政府が減税をケチったから」ではなくて、「国民が、いっぱい働いたので、20万円どころか、もっと多くの所得増加があったから」である。つまり、減税で 20万円もらうと思っていたら、実際には給料で 30万円もらったわけだ。
 どうです? 「減税で 20万円もらうが、あとで増税で 20万円返済する」のと、「給料で 30万円もらって、あとで1円も返済しなくていい」というのと。もちろん、後者の方が、ずっといいでしょ? だから国民は、「減税がなくなった!」と、大喜びするのである。
( ※ むしろ、減税をすれば、国民は怒り狂うだろう。しなくてもいい減税をすれば、過剰な物価上昇が起こるからだ。「減税をしたせいで、政権がひっくり返される」ということは、十分に考えられる。例:田中角栄内閣。)
( ※ なお、選択肢は、「減税をして、原資は将来の増税」か、「給料をもらって、原資は働くこと」か、どちらかしかない。「打ち出の小槌」みたいに、「何もしないで金だけもらう」という選択肢は、存在しない。……阿呆な人は、「減税は、打ち出の小槌だ」と思っているようだが。しかし、打ち出の小槌なんかがあれば、経済学は必要ありません。いちいち経済なんかを考えないで、打ち出の小槌だけを振っていればいいんです。……ま、そういう阿呆は、いますけど。小泉という人がそうだ。「コーゾーカイカク」という旗を振るだけで、小判がざくざくと湧いてくる、と信じているんです。)


● ニュースと感想  (1月14日)

 Q&A (第3回・オマケ編)

 Q 物価上昇は、高所得者ほど有利で、低所得者は不利だ。だから、景気回復のためには必要だとしても、不公正だと思う。
  その通り。先に述べた不公正さは、「借金をした人ばかりが利益を得る」つまり、「一般国民と、借金をした人との間で、不必要な所得再配分が起こる」ということだった。
 一方、「高所得者と、低所得者の間で、有利・不利の差が生じる」ということもある。これは、「所得が多いほど有利である」ということが必然的に発生するわけではなくて、統計的にそういう傾向が見られる、というだけのことだ。とはいえ、現実には、そういう傾向がある。だから、不公正である。もちろん、好ましくない。
 では、どうすればいいか? そのような有利・不利を打ち消す措置を取ればよい。それが、「全員一律」(全員同額)の「減税」である。
 タンク法による減税は、単に「日銀引き受けの国債による減税」であり、配分法については言及していないが、その配分を「全員一律」にすることで、上記の不公正さの問題を回避できるわけだ。
 つまり、もともと何らかの偏向が加えられているときには、その偏向とは逆方向の偏向を加えることで、プラスマイナスが帳消しとなり、全体の偏向が消えるのである。
 これと比較すれば、「所得税の減税」は、好ましくないことになる。なぜなら、「高所得者ほど減税額が多い」というふうになるからだ。
 従来の考え方では、「多く払った人ほど、多く減税を受けるのは、当然だ」とされた。そして、「全員一律」(全員同額)の「減税」は、「不公正だ」とされた。「払った分以上に還付されるのは、道理が通らない」というわけだ。なるほど、所得税だけを見れば、その通りだ。しかし、「物価上昇」というのは、政府の失政に起因するものである。そして、政府の失政のせいで、所得が不自然に再配分されてしまった(低所得者が損をした)のであれば、その失政を帳消しにする方向で、税による所得再配分を行なう(低所得者が得をする)としても、公正なのである。つまり、「公正」と見えたのが不公正であり、「不公正」と見えたのが公正であるのだ。
( ※ 他の根拠もある。「所得税」だけを見れば、「低所得者は税をほとんど払っていない」と見えるが、消費税も含めれば、「低所得者もたっぷりと税を払っている」のである。年収 300万円の低所得者が、5%にあたる15万円の消費税を払っているのであれば、15万円までは「税の払い戻し」をしても、不自然ではない。3年分をまとめて減税するのであれば、45万円までだ。)
( ※ 景気回復の効果を見ても、低所得者に手厚く減税をするほど、効果が大きい。 → 「第3章 「所得税減税」 ,11月29日b 「初期定数」)

 Q 僕は正義の味方だ。不公正なことは、一切、許せないぞ。物価上昇がちょっとでも不公正であるなら、物価上昇なんか絶対に許せない。物価上昇、大反対! 景気なんか回復しなくてもいい。清貧に甘んじよう! 
  物価上昇が不公正だからといって、物価上昇をやめれば不公正でなくなるわけではない。別の不公正が発生するのだ。
 それは何か? 「不況の継続」だ。これもまた不公正だ。しかも、こちらの不公正の方が、ずっと大きい。
 物価上昇は、人々にまんべんなく小さな損を与えるだけだ。一方、不況は、倒産や失業者を発生させる。特定の人々に、極端に大きなシワ寄せが行く。不況は、人の金を奪うだけでなく、人の命を奪う。不況は、「清く貧しく」とはならず、「汚れて貧しく」となる。
 小さな不公正を拒むのであれば、大きな不公正に襲われるのだ。

 Q 「物価上昇」を避けて、「増税」だけにしても、どうせいつかは、景気は回復するはずだ。だったら、焦らずのんびりと、「増税」だけで景気回復をめざす方がいいな。
  それは、「時間がかかっても、結果が同じならばいい」という主張だ。なるほど、一定の条件のもとでは、それは正しい。その条件は、「人間が無限の寿命を持てば」という条件だ。
 しかし現実には、人間の寿命は、有限である。焦らずのんびりと景気回復を待っていれば、その分、人間の人生は無駄に消えてしまう。実際、すでに十三年間も、不況が続いている。つまり、多くの失業者は、人生の十三年間を、不況に奪われてしまったのだ。しかも、この先、景気回復のメドは立っていない。下手をすると、人生の大半が不況期間で終わってしまう。(彼の人生は、清く貧しい失業人生だ。)
 こういう長期の不況があると、最大の被害を受けるのが、現代の若者である。彼らは、人生において最も大切な修業期間である二十代の人生を、失業やアルバイトや派遣業などに奪われてしまったので、正しい技能を習得する機会を奪われてしまったのだ。
 そして、現代の若者たちが、能力アップの機会を奪われているとすれば、現代の中高年もまた、その被害を受けることになる。なぜなら、将来、彼らが年金生活に入るとき、現代の若者たちの生産能力に、原資を負うているからだ。
 最悪の場合、現代の若者は、すべてが単純労働者となる。将来の日本は、高度な技術者がいなくなって、高度な企業もなくなって、途上国となる。そして、そのころ先進国となった中国などの、下請けをするしかなくなるのである。ものすごい円安が起こって、ひどい低賃金で働いて、高価な中国製品を買うようになる。一年以上も必死に働いて、中国の電器製品を一つ買うだけだ。現在の日本と中国の関係が逆転するわけだ。
( ※ ま、そうなっても、不思議ではない。現在、中国の子供は受験競争で必死だが、日本の子供はテレビゲームで遊んでいるだけだ。中国の若者は必死に働いているが、日本の若者は失業しているだけだ。先がどうなるかは、予測が付きそうだ。)
( ※ とはいえ、若者が働かずに遊ぶのは、政府のせいなんだから、中高年者がひどい目に遭うのも、自業自得かもしれない。若者たちにすれば、「小泉や自民党なんかに政権を委ねた中高年が悪い!」と言うだろう。……はい、そうです。政府が馬鹿だとしたら、馬鹿な政府を選んだ国民のせいなんです。妻や夫がダメなやつだとしたら、ダメなやつを選んだ自分のせいなんです。人生、苦しいですね。)

 Q 5%の物価上昇が起これば、当然、金利も上昇するはずだ。最初は3%ぐらいだろうが、やがては5%ぐらいとなり、景気が過熱すれば7%ぐらいとなる。それにともなって、国債が暴落するだろう。国債を買った人は、大損だ。困る。どうすればいい?
  損を諦めればよい。それだけのことだ。
 はっきりと言っておくが、「長期国債」というのは、「安全確実な投資」ではなくて、「投資バクチ」である。つまり、一種のギャンブルである。そのことをわきまえておくべきだ。
 経済というものは常に変動する。とすれば、その変動に応じて、金利も変動する。それが本来の姿だ。だから、債券投資をするにしても、せいぜい3年程度の中期債券に限定するべきだ。それが「安全な投資」である。
 ひるがえって、十年程度の「長期国債」というのは、「投資バクチ」である。「今後の金利はこの程度だ」と勝手に予測して、その予測が当たる方に金を賭けるわけだ。
 もし「不況が十年間続く」と予測したならば、「長期国債」を買って、金を賭けてもよい。その予測が当たれば、金利に相当する金額を儲けることができる。たとえば、十年前、長期国債を買った人は、利子を得たので、大幅な利益を得た。彼は、「政府の経済政策は失敗する」という目に賭けて、その目が当たったのである。そして、大儲けをしたわけだ。(一方、安全確実を狙った人は、中短期の債券を買っただけなので、ろくに金利を得られなかった。)
 逆に、もし「不況は短期的に解決する」と予測したならば、「長期の借金」をして、金を賭けてもよい。その予測が当たれば、金利に相当する金額を儲けることができる。たとえば、十年前に、固定金利の住宅ローンを組んだ人は、「このあと金利は上がる」と予想したのに、実際には金利が下がったので、大損をした。おまけに、所得も少しも上がらないので、ローンを払いきれなくなり、自己破産するハメになる。彼は十年前に、「政府の経済政策は成功する」という目に賭けて、その目がはずれたのである。そして、大損をしたわけだ。
 結局、長期の固定金利を維持するというのは、預金するにせよ、借金をするにせよ、大金をかけるバクチなのだ。まともな人間は、こんなバクチをするべきではない。預金するなら、中短期にするべきだし、借金をするなら、変動金利にするべきだ。これが安全確実である。
 とすれば、「長期国債を買った。利子を得て得をすると思ったら、国債暴落で大損した」という人が出ても、彼は、自分の予測がはずれて、ギャンブルで損をした、というだけのことだ。いちいち面倒を見てやる必要はない。
 ギャンブルではずれて損をした人を救いたければ、馬券場で金をばらまけばいいのだ。長期国債を買った人だけを対象に、「ギャンブルで負けたら救ってあげます」なんていう慈善事業をする必要はない。どうしても救ってあげたければ、彼がギャンブルをする前に、「ギャンブルはやめなさい」と言うべきだったのだ。

 Q 僕は南堂さんを信頼しているんです。投資のアドバイスをしてください。今、長期国債は、買うのと売るのと、どっちが有利ですか? こっそり教えてください。安全確実じゃなくてもいいから、なるべく当たりそうな予想を。
  このような予測は、無意味である。なぜなら、自然現象や社会現象についての予測ではなくて、政府の行動についての予測だからだ。
 政府の行動は、首相の気持ちしだいで、いくらでも変わる。彼がどう決めるかだ。間違った方法を選べば、なかなか景気は回復しないが、正しい方法を選べば、すぐに景気は回復する。……具体的に言えば、「構造改革」「財政再建」「不良債権処理」「量的緩和」「リストラ」なんてことをいくらやっても景気は回復しない(むしろ悪化する)が、「大規模減税」をやれば、あっというまに景気は回復する。
 そして、首相の気持ちなんてものは、他人が予測しても無意味である。小泉ってのは、「私は平和と音楽が好きです」なんて言っていたくせに、ブッシュが命じれば、とたんに「私は戦争が大好きです」と言い出す輩だ。本人でさえ、自分の気持ちの予測がつかないのだろう。彼の気持ちはただ一つ、「米国の犬になること」だけである。そして、犬の気持ちというのは、猫の気持ちや、女の気持ちと同じで、気まぐれに変わるものなのだ。風のなかの羽根のように、いつも変わる。 ♪♪
 さて。ブッシュは減税をして、景気を好転させた。ならば、米国の犬である小泉も、そのうち減税をして、景気を好転させる可能性はある。だから、彼がライオンのふりをしないで、もっと犬らしくふるまうことを、期待しよう。

 [ 付記 ]
 もうちょっと真面目に理論を述べておこう。
 先に述べたように、不均衡状態では、状態が不安定である。均衡状態では、安定するが、どう安定するかは、当面は予測が付かない。日銀の量的緩和の量によって、状況がどうなるかが決まるとはいえ、日銀の量的緩和がどのくらいの量になるかも、この先いくらでも変動しそうだ。
 大切なのは、われわれが政府の行動をどう予測するかではなくて、政府がわれわれにどう予測させたがっているかだ。政府は、われわれ国民に、「景気は確実に回復する」という予測が立つようにすればよい。それが「大規模減税」なのだ。
 逆に、われわれが政府をどう予測するかというのは、まったく無意味である。それはあくまでギャンブルだ。
 確率的に言えば、「大多数の人間(国民全体)の行動」というのは、予想がつくが、「たった一人の人間(首相)の行動」というのは、予想がつかない。「大数の法則」に似たことが、ここでは成立する。
( ※ 似た話は、「シュレーディンガーの猫」としても述べた。「数多くの現象については、確率は意味があるが、唯一の現象については、確率は意味がない。 → シュレーディンガーの猫


● ニュースと感想  (1月15日)

 「借金の返済の原資」について。
 財政赤字を埋めるためには、「増税」または「物価上昇」が必要である。このことは、すでに述べたとおりだ。また、両者の最適な比率も、すでに述べたとおりだ。また、両者の総額は、「過去の過剰消費」の分である。
 では、「増税」などによる「借金の返済」は、「富を奪われる」という形で行えばいいのだろうか? 答えは、「否」である。このことは非常に重要なので、注意を喚起しておく。

 現在、政府や経済学者は、「財政赤字が溜まっている」という理由で、「将来の増税が不可避だ。増税には、消費税の増税がいい」というふうに述べている。しかし、その結論は、正しくない。むやみやたらと増税をすれば、マクロ的な所得減少のせいで、GDPが縮小して、景気が悪化する。その時点でいまだに不況を脱出していなければ、破滅的な事態体となる。
 では、どうすればいいか?
 
 いきなり結論を言おう。「過去の赤字をまかなうため、増税を実施するで」というのは、形としては正当である。ただし、その「増税」とは、「富を奪われる」という形であってはならない。「富を奪われる」のではなくて、「労働を奪われる」という形であるべきだ。奪われるべきものは、「富」ではなく、「労働」であるべきだ。
 わかりやすく言おう。政府や経済学者の説では、「財政赤字が溜まっているから、増税せよ」となる。つまり、「金を奪え」となる。たとえば、GDPが 500兆円のときに、財政赤字が毎年 30兆円ずつ出ている。そこで、「毎年 30兆円の増税をすればいい」と結論をする。ところが、30兆円であれ3兆円であれ、増税をすれば、GDPはどんどん縮小する。そのとき好況であれば、過熱した景気が冷えるだけだが、そのとき不況であれば、不況がどんどん深刻化してしまう。(下手をすれば、赤字は減るどころか、逆に増えてしまう。小泉の経済政策を振り返るとわかる。「国債 30兆円枠! 財政緊縮で、財政の健全化!」と主張したら、景気の悪化で、逆に財政赤字は 36兆円にふくらんでしまった。)
 では、かわりに、どうするべきか? まずはGDPを 500兆円から 550兆円程度に増やして、そのあとで、増税をする。つまり、富の総額を 50兆円増やしてから、その増えた分である 50兆円のうちの大部分(たとえば 30兆円)を、赤字解消のために奪えばいいのだ。すると、国民にとっては、どうなるか? 「 50兆円分働いて、50兆円の所得を得て、そのうち 30兆円は増税で奪われる」というふうになる。(ちょっとおおざっぱな論理だが。)
 この場合、国民は、「富を奪われる」という形にはならない。手元に残る富は 20兆円、増えているからだ。では、何を奪われるか? 30兆円分の労働を奪われるのである。その分は、「働いたのに、富を得られない」という形で、「タダ働き」をすることになる。こうして、増税によって、「富を奪われる」かわりに「労働を奪われる」ことになるのだ。(差し引きして、の話だが。)
 そして、この場合には、GDPは縮小しない。だから、「不況の深刻化」という問題は発生しない。

 結局、将来の「借金返済」の原資は、「タダ働きすること」が、正しい政策であるわけだ。それは、経済学的に言えば、「景気回復後の増税」である。その意味は、「GDPが拡大したあとで、拡大した分から借金返済すること」である。
 一方、それとは反対の政策が、「富を奪われること」である。この政策を取れば、GDPを増やさないまま増税をすることになる。その結果、所得を奪われて、GDPが縮小する。かくて、経済は破滅的な事態となる。そして今、政府と経済学者は、この破滅的な道を選ぼうしているのである。

 結語。
 正しい経済学を理解すれば、破滅は避けられるが、正しい経済学を理解しなければ、破滅は避けがたい。

 [ 付記1 ]
 特に名指しはしなかったが、ここで「間違った経済政策を取る者」として批判されているのは、政府だけではない。「赤字解消のために、将来の増税」を唱える人々は、すべて当てはまる。たとえば、「年金赤字解消のための、消費税増税」を唱える民主党や読売新聞。「財政赤字解消のための、所得税増税」を唱える公明党。
 彼らはいずれも、間違っているのだ。なぜか? 「増税すれば、カタが付く」と思い込んで、「富を奪う」ことを狙っているからだ。

 [ 付記2 ]
 多くの経済学者は、なぜ間違うか? 実は、そこに本質がある。
 彼らは単に「赤字が出たなら、赤字を埋めればいい」とだけ考える。そのとき、「赤字を埋めるためには、国民の富を奪えばいい」と考える。なぜか? それは、彼らが古典の思想に従って、「配分の変更」だけを考えるからだ。
 「配分の変更」だけを考えるのであれば、「国民に多く配分しすぎている」という現状を見て、それを改めるために、「国民の配分を減らせ」と結論する。そして「増税せよ」と主張する。
 しかし、正しくは、「配分の変更」ではなくて、「全体の量」が問題なのだ。「パイをいかに配分するか」が問題なのではなくて、「パイを大きくすること」が問題なのだ。 ( → 12月22日
 ただし、「パイの大きさを変化させる」というのは、マクロ経済学の問題である。それは、「パイの配分を最適にする」というミクロ経済学では解決が付かない。そのことを理解しないまま、「パイの配分を最適にすれば、問題は解決する」と信じている人々が、古典派経済学者なのである。現在の経済学者の多くは、この立場に属している。それゆえ彼らは間違った結論を出すのだ。「増税をしよう。赤字を解消して、健全化するには、パイの最適配分をすることが大切だ」と。そうしてパイをどんどん小さくさせてしまうのである。
( ※ 彼らは、「増税がGDPの縮小をもたらす」ということを理解できない。なぜか? そもそも、「所得とGDPの関係」というマクロ経済学の原理を理解できないからだ。かわりに、「GDPは一定だと仮定すれば」という、ありえない仮定の上で議論を進めるからである。……実は、そういうマクロ経済無視が、古典派経済学の特徴なのだ。)

 [ 付記3 ]
 本項で述べたのは、財政赤字という赤字の問題だった。一方、年金会計の赤字という問題もある。そして、これについても、同様の結論を出すことができる。すなわち、「赤字を解消するには、増税をするべきではない。むしろ、働く量を増やすことが大切だ」ということだ。
 このことは、「年金会計の赤字」の解消策として、前に述べたことがある。( → 12月25日b

 [ 付記4 ]
 最近のニュースによると、「大卒の内定率が 73.6%で、前年同期を 3.2ポイント下回り、過去最低である」(12月1日の時点で政府調査)とのことだ。(読売・朝刊・1面 2004-01-14 )
 働く量は、増えるどころか、どんどん減っているわけだ。現状を「景気は回復しつつある」と認識して、「国民は働かなくてもいいのさ。とにかく政府が金をぶんどって、財政赤字さえ解消すればいいのさ」なんて考えていると、とんでもないことになるだろう。新卒者の4人に一人が働かなくても構わないでいるのなら、そのうち、新卒者の半数が働かなくなるかもしれない。……クリスティの推理小説の題名をもじれば、「そして誰もいなくなった」。
(参考:若者の失業 → 前項の一部


● ニュースと感想  (1月16日)

 前項の続き。(細かな話を補足する。)
 まず振り返ろう。なすべき策として、前項では、こう述べた。
 「 GDPを 500兆円から 550兆円程度に増やして、そのあとで、増税をする。つまり、富の総額を 50兆円増やしてから、その増えた分である 50兆円のうちの大部分(たとえば 30兆円)を、赤字解消のために奪えばいい」
 「つまり、 50兆円分働いて、50兆円の所得を得て、そのうち 30兆円は増税で奪われるというふうになる」
 この論理は、おおざっぱなものである。もっと正確に考察しよう。(つまり、前項の一部を、補正する。)

 そもそも、増税で 30兆円の富を国民から奪ったとしても、その 30兆円が国全体から消えてしまうわけではない。つまり、国民は増税で 30兆円を失うように見えるが、実際には、増税というのは、単なる「配分の変更」にすぎないから、「誰かが損すれば、誰かが得する」わけで、国民全体を見れば、総所得の縮小を意味しない。では、正確には、どう考えるべきか? 

 この件は、もちろん、「国債所有者」と「他の人々」に分けて考えればよい。( → 4月03日
 「増税で 30兆円の富を奪われる」というとき、それは主として「他の人々」(一般国民)のことなのである。たとえば、国民の1億人が 30万円ずつ奪われて、計 30兆円。一方、国債所有者も、30万円ずつ奪われるが、そうして集めた 30兆円を、国債所有者だけが受け取る。だから、全体としてみれば、「他の国民から、国債所有者へ」という、配分の変更があることになる。(「増税」=「借金の返済」によって。)
 このとき、国債所有者は、「借金の返済」として多額の金を受け取るが、他の国民は、「増税」によって富を奪われるだけだ。つまり、「配分の変更」があると、ほとんどの国民にとっては、「富の減少」が起こるわけだ。
( ※ なお、この「富の減少」は、たとえ「イヤだ」「好ましくない」と思っても、不可避なのである。なぜなら、過去に借金をしたなら、借金の返済は必要だからだ。逆に言えば、国債所有者が「富の増大」を得るとしても、それは当然なのである。彼は単に、過去に貸していた金を、返してもらうだけだ。彼は、他人の金を盗むのではなくて、もともと自分のものである金を、自分の懐に戻すだけだ。)

 さて。このあとの話が肝心だ。
 国債所有者が、貸していた金を返してもらうのは当然であるし、他の人々が、借りていた金を返すのも当然である。だから、財政赤字を出したあとで、増税をするのは当然である。では、なぜ、当然のことである「増税」をすると、「不況が悪化する」という問題が発生することがあるのだろうか? 
 実は、ここには、「均衡/不均衡」の差がある。

 まず、「均衡」状態では、どうなるだろうか? 
 増税があると、他の人々は、借りていた金を返す。すると、国債所有者は、貸していた金を返してもらう。ここまでは、すでに述べたとおりだ。そのあと、どうなるか? 国債所有者は、返してもらった金を全額使い果たすことはない。手元に戻った金は、その大部分を、ふたたび貯金するはずだ。そして、その金は、金融市場を通じて、企業の投資に向かう。……これが「均衡」状態の現象である。

 一方、「不均衡」状態では、どうなるだろうか? 
 話の途中までは、やはり同じような現象が進むだろう。ただし、最後が問題だ。いったん金融市場に入った金は、企業の投資に向かわない。すなわち、金は滞留する。……これが「不均衡」状態に特有の現象である。
 このとき、金融市場に入った金は、眠ることになる。その眠った分だけ、金のめぐりが悪くなり、GDPが縮小する。つまり、「不均衡」状態では、金が眠るせいで、GDPが縮小するのである。
 もう少しわかりやすく言えば、こうだ。本来ならば、「消費の変動を、投資の変動が補う」というふうになるはずなのだ。なのに、「不均衡」状態では、金融市場がうまく機能しない(金利がうまく下がらない)ので、消費が減っても、投資の増加が、不十分にしかなされないのだ。 ( → 9月12日

 まとめ。
 デフレ期における増税は、景気の悪化をもたらす。その理由は、「所得が奪われることだ」と見える。しかし正確には、そうではない。増税は、国民全体の総所得を低下させない。増税は、一般の人々の金を減らすが、国債保有者の金を増やす。両者の合計額は変わらない。両者の間で、配分の変更が起こるだけだ。
 この配分の変更が起こったとき、「均衡」状態では問題がないが、「不均衡」状態では問題が起こる。なぜなら、国債保有者の金は、増えた分がうまく使われないからだ。その金は、金融市場に入ったあとで、企業の投資には向かわず、金融市場で眠ってしまう。
 結局、デフレ期における増税が景気の悪化をもたらす理由は、「一般の人々の所得が奪われること」自体ではなくて、「そうして奪われた金が金融市場で眠ること」である。

 [ 付記 ]
 前項では、「おおざっぱな論理」と述べたが、その意味は、ここで明らかになるだろう。話は繰り返しになるが、数字を使って説明しよう。
 デフレのときに 30兆円の増税があると、景気は悪化する。しかし、それは、国民全体の所得が 30兆円奪われるせいではない。国民全体の所得は、増税によっては奪われないのだ。(国民全体の所得は、国民全体の生産した量であるから、それは増税には関係ない。)
 では、30兆円の増税で、どうなるか? このとき、一般国民の金は 30兆円奪われ、国債所有者の金は 30兆円増える。そして、その金が、企業の投資に向かわないせいで、GDPが縮小する。
 つまり、「 30兆円の金が国民から奪われるからGDPが縮小する」のではなくて、「 30兆円の金が眠るからGDPが縮小する」のである。それが増税の意味だ。
( ※ だから、単に「所得が減るから」というのは、不正確である。とはいえ、不正確ではあっても、間違いではない。たしかに、一般国民は所得を減らして、消費を減らすのだ。ただ、本来ならば、それを補うものがあるはずなのに、それが働かないのが、本質的な問題であるわけだ。)
( ※ たとえて言えば、こうだ。子供が「ママに百円取られたら、パパが百円くれるはずだった。なのに、ママに百円を取られたあと、パパはぐっすり眠っていて百円をくれない。困ったなあ」という状況だ。ここでは、本質的には「パパが眠っている」というのが原因だ。こういうときには、「ママに百円を取られない」か、「パパを眠りから覚ます」か、どちらかを選ぶべきだ。……つまり、「増税に金を取られない」か、「金融市場を眠りから覚ます」か、どちらかを選ぶべきだ。とはいえ、ママは、「百円寄越しなさい」とうるさいんですよね。で、そのせいで、子供は必要な百円を奪われて、お昼を食べられずに餓死しかけているんです。哀れな子供、ニホンちゃん。うるさいのは、政府ママ。ママは自分の財布ばかり気にしているから、子供が餓死しかけてもほったらかしなんです。……なお、パパは眠っているんだけど、「パパの行動を信じよ」と主張するのが、マネタリスト。「パパが金を与えないのは、パパが眠っているからだ」という現実を無視して、「パパが金を与えないのは、パパの財布に金が足りないからだ」と思い込んだすえ、「パパの財布にどんどん金をつぎ込め」と主張する。で、パパの財布に、莫大な金をつぎ込む。それでも効果が全然ないので、「不思議だなあ」と首をひねっている。)








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