[付録] ニュースと感想 (57)

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● ニュースと感想  (1月17日)

 「マクロ経済学の基本」について。
 前項では、「不均衡状態では、金融市場がうまく機能しない」と述べた。では、金融市場がうまく機能しないときには、どうすればいいのか?
 この問題については、すでにいろいろと説明した。新たに付け加えるべきことはないのだが、すでに述べた話をまとめる形で、改めて説明しておこう。

 基本としては、「不均衡」状態では、金融市場がうまく機能しない(金利がうまく下がらない)ので、消費が減っても、投資の増加が、不十分にしかなされない、ということがある。 ( → 9月12日
 そこで、この「不均衡」状態を解決するために、状況を「均衡」にしよう、というのが、タンク法である。すなわち、減税によって、消費を拡大し、そのことで、消費と投資をどちらも拡大する。

 タンク法の考え方は、「状況を変化させる」ということだ。つまり、「一つの均衡点のある状況から、別の均衡点のある状況へ、状況そのものを変化させる」ということだ。(換言すれば、「均衡点を移動する」ということでもある。)
 一方、「原因と結果」という考え方もある。「悪い状況があるとしたら、悪い原因があるからだ。その悪い原因を解決すれば、悪い結果もなくなる」という考え方だ。この考え方によると、「不況」という悪い結果になったのには、何らかの悪い原因があったことになる。

 タンク法の考え方では、「需要 → 生産 → 所得 → ……」という循環的な過程のすべてが縮小していることが、不況の理由である。この縮小した状態で、安定してしまっている。だから、この縮小した状態から、拡大した状況へと、一挙にジャンプさせれば、問題は解決する。(そのために「大規模減税」を用いる。)
  一方、「原因と結果」という考えでは、不況になったのは、悪い原因のせいなのだから、その悪い原因を探し出して、問題を解決せよ、ということになる。一種の「犯人捜し」である。
 で、その犯人は? あれやこれやと容疑者が浮かんでいる。
 こういうふうに、「犯人」を求めて、あれこれと容疑者を挙げている。しかし、その容疑者を逮捕しても、現実には、問題は少しも解決しない。  要するに、不況という状況に、何らかの「原因」があると見なすのは、正しくないわけだ。
 景気の変動というものは、何らの原因の結果であるというよりは、一つの状況なのである。ここでは、「需要 → 生産 → 所得 → ……」という循環的な過程があって、この三項目は相互依存して、相互関連している。だから、「それぞれの項目がその値になっているのは、これこれという単一の理由があるからだ」と見なすのは、正しくないのだ。
 「デフレとは、一つの状況である」ということを理解しよう。そしてまた、経済には「需要 → 生産 → 所得 → ……」という循環的な過程があることを理解しよう。マクロ経済学を理解するというのは、そういうことだ。

 [ 付記1 ]
 誤解を避けるために、注釈しておこう。
 「不況になる」ことには、原因がある。ある経済状況から、不況に変化したとしたら、その変化には、何らかの原因があっただろう。(その原因は、ただの「人々の心理」であることも多いが。)
 一方、「不況である」ことには、原因はない。たとえば、「縮小均衡」というのは、それ自体、一つの安定した状況である。どんなに失業者が出ているとしても、その時点で経済が安定してしまっていれば、そこから脱することはかなり困難だ。現状は、こういう状況である。

 [ 付記2 ]
 たとえて言おう。それまでは平地で、楽に歩行していたのに、あるとき以降は、どん底に落ちてしまった。そのまま、元に戻れない。なぜか?
 どん底に落ちたことには、何らかの原因があったはずだ。地震とか、土砂崩れとか、歩行ミスとか。
 しかし、どん底に落ちたあとでは、そこから元の高さに戻れないことには、何の原因もいらないのである。どん底はどん底で、一つの安定した状態であるからだ。
 このとき、「自分がどん底にいるのは、自分の体に何らかの欠陥があるからに違いない」と思って、自分の体をいくら調べても、決して原因となる欠陥は発見できない。彼を正常に働かせるには、彼をどん底から平地に引き上げてやればよいのであって、彼の欠陥を治そうとしても無意味なのだ。
 そして、そのことを理解できずに、ありもしない原因に対処しようとばかりしているのが、現在の経済学者たちである。


● ニュースと感想  (1月18日)

 前項では、デフレの「容疑者捜し」という話をした。
 一方、デフレの原因は、「金融市場がうまく機能しないこと」である。
 とすれば、「金融市場がうまく機能しないこと」の原因を捜す、という立場もあるだろう。これは、次のように分類できる。

 (1) 原因は、金融市場における何らかの問題点である。
 (2) 原因は、金利がゼロよりも下がらないことである。

 (1) の方は、「原因と結果」という考え方に基づく。古典派流の考え方である。「本来は、放置すれば最適状態になるはずなのに、放置しても最適状態にならないとしたら、何らかの阻害要因があるからだ。その阻害要因が問題だ」と考える立場だ。
 (2) の方は、「金利はゼロよりも下がらないから、金利による投資促進の効果は頭打ちである」と考える立場だ。

 まともに考えれば、どうしたって、(2) の方になる。一方、(1) の立場もあるが、こちらは、論理がメチャクチャになる。(たとえば、資金の「供給不足」によって、「金利の上昇」が起こることになり、「金利の低下」が起こっている現状と、矛盾する。)

 さて。この考え方によれば、「金融市場がうまく機能しないこと」の原因は、「金融システムに何らかの問題点があったから」であり、対策は、「金融システムを正常化すること」である。この立場には、次のような主張がある。
 これらの主張には問題がある、ということは、すでに何度か述べたから、いちいち繰り返さない。
 なお、これらはすべて、「供給重視で需要無視」という共通点がある。これらの主張のどこがおかしいかは、銀行ではなくて、一般商品(たとえば衣料品)で考えるとわかるだろう。次のようになる。  こんなことをいくらやっても、衣料品業界の企業がどれもこれも健全化するわけではない。ここでは、むしろ、「衣料品業界全体の需要が縮小している」というのが最大の原因なのだから、「衣料品業界全体の需要が拡大する」というのが最大の対策なのだ。そして、あらゆる業界でそうなるようにするには、「日本全体の総需要を拡大する」というのが最大の対策なのだ。
 今、自動車産業などが非常に好調だが、それは、もちろん、米国景気の拡大にともなって、輸出が増加したからだ。ここでは、「米国の総需要が拡大した」ということが、業績回復の理由であったわけだ。別に、「不良在庫処理」「外部資金注入」「企業の倒産」などが、自動車業界で急になされたわけではない。(なお、円安ユーロ高も、欧州市場の需要が拡大したのと同じ効果がある。)

 結語。
 マクロ経済学とは、需要と供給の関係を大きなレベルで考える学問である。マクロ的な現象を、個別企業の責任に還元することではない。
 金融市場がうまく機能しないのは、金融システムに何らかの原因があるからではない。ここでは、何らかの原因によってそうなっているのではなくて、マクロ的な状況が「不均衡」のまま保たれているのである。(前項で述べた通り。)


● ニュースと感想  (1月19日)

 前項では、「金融市場がうまく働かない」ということについて、「原因を探す」という立場の主張を紹介した。
 一方、別の立場の主張もある。それは「金融市場がうまく働かない」ということを無視して、「金融市場がうまく働く」と強弁する立場の主張である。その主張を「マネタリズム」と呼ぶ。

 マネタリズムによれば、「金融市場がうまく働く」ということになる。すると、「投資が拡大していない」という現状を変えるには、「金利を下げればよい」となる。金利がゼロ金利になっているときには、これ以上は下げる余地がないから、かわりに、「量的緩和をすればよい」となる。
 さて。たとえ量的緩和をしても、そもそも金の借り手がいない状況では、量的緩和は無効であるはずだ。(一般商品市場で言えば、こうだ。売れない品物がだぶついているときには、生産を拡大しても、売れる量は増えない。単に在庫が増えるだけである。それと同じことだ。)

 では、なぜ、彼らは量的緩和を主張するか? その理屈は、次の通りだ。(「インフレ目標」に従う。)
 「金利を下げることができないというのは、名目金利を下げることができない、というだけのことだ。実質金利を下げる余地はある。名目金利がゼロでも、実質金利をマイナスにすればよい。そのためには、物価上昇を起こせばよい」
 「そのためには、物価上昇の期待を持たせればよい。それには、日銀が物価上昇を予告すればよい。企業は、日銀の予告を信じて、実質金利が低下する予想が立てて、投資を増やすだろう」
 なるほど、もっともらしい理屈だ。というわけで、今の経済学者の大半は、このもっともらしい理屈を信じている。
 かくて、これらの経済学者の理屈を受けた日銀は、どんどん量的緩和を実施している。ところが、あにはからんや、いくら量的緩和を実施しても、投資はちっとも増えないし、むしろ、減るばかりである。
 そこで、経済学者たちは、最後のよりどころに従って、「日銀が物価上昇を明白に宣言すればよい。日銀が物価上昇を明白に宣言すれば、たちまち、状況は変わる」と主張する。つまり、「今の日本は、言葉一つだけで、デフレを脱出できる」というわけだ。

 しかし、である。私はこういう考えには批判的である。
 だいたい、日銀が「物価上昇」を予告するだけで物事が解決するはずがない。「物価上昇を起こします」と予告することは、「デフレから脱出させます」と予告することである。そんなふうに、ちょっとした言葉で予告しただけで、デフレから脱出できるのであれば、経済学などは、不要である。
 どうせなら、信頼性の薄い日銀なんかより、もっと信頼性の高い予言者か魔術師を一人呼べば、それで事足りる。これからの国家運営は、経済学なんか使わずに、魔術か呪術の言葉によって、「デフレ」または「インフレ」を予言してもらえばよいのだ。そして、呪術師の予言の通りに、経済は動くのである。
 これはまったくの冗談ではない。昔のアフリカやニューギニアの未開社会では、呪術師が村落の政治を決定していたのである。日本もそうするのがいいだろう。もしマネタリズムを信じるのであれば。日銀を信じるのも、呪術師を信じるのも、大同小異である。

 私がこう述べると、マネタリストは反論するだろう。
 「いや、違うぞ。日銀は、お札を刷れる。だから現実に、物価上昇を起こす力があるぞ」と。しかし、である。「お札を刷って物価上昇を起こす」という力が有効なのは、金融市場がうまく機能しているときだけだ。一方、デフレのときには、そもそも、その力が無効であるのだ。
 だから、マネタリストの論理は、一種の循環論法になっているのである。
 「日銀は、物価上昇を起こせる。なぜなら、物価上昇が起こっていれば、日銀の量的緩和によって、物価上昇が起こるからである」
 この理屈は、もちろん、成立しない。物価上昇が起こっているときには、この命題は真であるが、物価上昇が起こっていないときには、この命題は無意味であるからだ。
 要するに、マネタリストの主張は、「物価上昇が起こっているときには、日銀の力が有効だから、物価上昇を起こせる」ということだから、「物価上昇が起こっているときには、物価上昇を起こせる」ということであり、「AならばAである」という無意味な命題なのだ。なぜ無意味であるかと言えば、「Aでない」という状況では、その命題は、何も意味しないからだ。
 現状では、日銀の力は無効であるし、日銀は物価上昇を起こすことはできない。だから、マネタリストの主張は、まったく無意味なのである。
 ここではまず、「金融市場がうまく機能しなくなっている」という状況そのものを、理解するべきなのだ。

 [ 付記1 ]
 クルーグマンの「インフレ目標」について、解説しておこう。この政策は、正確に言えば、こうだ。
 「デフレを脱出した時点で、高めの物価上昇(インフレ)を起こす、ということを公約する。そのことで、デフレの最中にも、近い将来の物価上昇を期待させる」
 なるほど、この政策は、無意味ではない。ただし、それが有効であるのは、「現実にデフレ脱出が予想されるとき」つまり「デフレが浅いとき」だけである。
 一方、現在の日本は、デフレが深い。つまり、需給ギャップも非常に大きいし、消費性向もすでに十分に高い(貯蓄率が下がっている)ので、「家計の消費が急増する」見込みもないし、「企業の投資が急増する」見込みもない。つまり、「総需要が急増する」見込みがない。となると、「インフレ目標」という政策が有効である状況には、なっていないのである。(「手遅れである」と言うべきか。)
 インフレ目標が有効であるのは、「近い将来の物価上昇」が予想されるときだけだ。現実には、せいぜい「遠い将来の物価上昇」ぐらいしか予想されない。こういうときには、インフレ目標は無効なのである。

 [ 付記2 ]
 ついでに言えば、インフレ目標の本質は、「投機的な需要を起こすこと」であるから、経済政策としては、邪道である。それは「一時的な悪化」を救う効果はあるが、「慢性的な悪化」を救う効果はない。一時的に倒れた人を、カンフル剤で救うことはできるが、慢性的に衰弱した人は、体力を根本的に鍛えるしかない。一時的に悪化した浅い不況は、「インフレ目標」で治せるが、長年かけて悪化した深い不況は、「インフレ目標」では治せない。後者を治すには、カンフル剤なんかではなく、根本的な処置が必要だ。 ( → 1月09日
 なのに、なぜ、マネタリストは、あくまで投機的需要に頼ろうとするか? それは、マネタリズムというものが、マクロ的な根拠をまったく欠いているからである。マクロ的な経済現象というものを、GDPや総所得の変動を含むモデルとして考察することなく、単に個別企業の投資活動としてだけ考察する。「これこれの変数を動かすと、GDPがこう変動する」というようなモデル的な考察をすることなく、「それぞれの企業の経営者は(売上げ予想なんか無視して)実質金利という単一の指標のみに従って行動する」とだけ考える。
 要するに、「すべてはマネーが決める」とだけ考えて、マネーを離れた品物における「需要」も「所得」も「供給」もすべて無視する。「お金一辺倒」主義である。彼らは、お金のことしか考えないし、お金のことしか信じない。一種の宗教なのだ。
 そして、経済学ではない宗教というものが、正しい結論を出せなくても、別に、不思議ではないのである。
( ※ こう批判すると、マネタリストは怒り狂うだろうから、彼らの息の根を止める一言を言っておこう。「経済学というものは、乗数効果や合成の誤謬などをも扱えなくてはならない。つまり、ケインズ的な「マクロ経済学」と、古典派的な「ミクロ経済学」とを、統合していなくてはならない。なのに、その統合ができていないような主義は、不完全であるのだ。この不完全さに気が付けば、「マネタリズムは不完全である」というのは、当り前のことなのだ。そして、不完全な物を不完全と認識できず、GDP変動も扱えないで平気でいるようでは、そのような立場を取るマネタリストは、そもそも自己認識ができていないのである。マネタリズムに救いがあるとすれば、「自分たちの思想は不完全だ」と認識することが先決だ。そう認識すれば、マネタリズムの成果の一部は生き残る。しかるに、「自分たちは完全だ」と認識すれば、自分たちの不完全さを認識できないまま、事実を誤認して、論理破綻することになる。)

 [ 補足1 ]
 参考データを示しておこう。
「日銀は量的緩和をどんどん実施しているが、 マネーサプライ(貨幣供給量・通貨供給量)の伸び率は、高まるどころか下がっている」という事実がある。
 マネーサプライは、ここ十年間ほど、年率 2.0% 〜 3.5%の伸びを示してきた。量的緩和を大幅に実施したのは、この2年間ほどだが、その間、マネーサプライの伸び率は、高まるどころか下がっている。2001年には 3.4%ぐらいだったのだが、2002年は 2.5%で、2003年は 1.7%だ。つまり、「 3.4% → 2.5% → 1.7% 」というふうに、伸び率が鈍化している。(読売新聞・朝刊・経済面 2004-01-14 )
 マネタリズムの考え方に従えば、これはどうにも不自然であり、納得が行かないだろう。しかし、私の考え方に従えば、これは当然のことである。マネーサプライとは、実際に市中にある金(= 現金 + 預金など)であるから、日銀がいくら量的緩和をしても、市中に出回らない金が増えるだけなのだ。ここでは、金融市場が無効になっているのである。
 これが現実だ。つまり、現実は、「マネタリズムは正しくない」と教えているのだ。
( ※ 新聞には「マネーサプライを増やす政策を日銀に求める声が強まるだろう」などという解説が出ているが、とんでもない話だ。日銀には、マネーサプライを調節する能力はない。金融市場が無効になっているときには、日銀の手は封じられているのだ。そこを理解することが先決だ。日銀は決して全能の神ではない。「日銀の力が回復する」というのは、「デフレを脱出する」というのを同義であるから、「日銀の力に期待する」というのは、「デフレ脱出を期待する」というのと同義である。それはつまりは、「何もできないで、神頼み」ということなのだ。)

 [ 補足2 ]
 もう一つ、参考データを示しておこう。「銀行の貸出残高が減っている」というデータだ。
 同じ日の記事(読売)によると、銀行の貸出残高は、1991年の調査開始以来、ずっと低下している。91年から 97年までは、ほぼ 500兆円で増減なしだったが、98年からずっと一貫して低下しており、03年には 405兆円まで下がってしまった。
 「銀行の貸出残高が減っている」ということは、「日銀がいくら量的緩和をしても、融資量が増えない」ということである。つまり、「金融政策が無効になっている」ということだ。ここでは、「金融政策が不足しているから、伸び率のプラスの幅が小さい」のではなくて、「金融政策が無効だから、伸び率がマイナスになっている」のだ。
 この違いを理解できない人々が、「量的緩和が不足している」と結論して、「だからもっと量的緩和をやれ」と主張する。ひどいトンチンカンだ。
( ※ たぶん彼らは数学音痴なので、「増分」という概念とか、「Δy/Δx」というような数式とかを、理解できないのだろう。「微分値がゼロのときには、 x を増やしても y は増えない」ということが理解できず、「微分値がゼロのときにも、 x を増やすと y が増える」と思い込んでいるのである。かくて、「 y を増やすために、x をもっと増やせ」と主張するのである。哀れなるかな。)
( ※ 一般的にいえば、古典派経済学者というのは、ものすごく高度な数式を見事に操作するが、微分法の基礎原理[高校レベル]さえ理解していないのである。物事の根源を理解しないまま、表面的な論理・数式の操作だけが上手、というのが、彼らに共通する特徴だ。例: → 1月16日


● ニュースと感想  (1月20日)

 「デフレの定義」について。
 デフレのときには、金融市場が正常に機能しない。そのことが、デフレの本質である。とすれば、逆に、このことをもって、「デフレ」という言葉の定義としてもいいかもしれない。

 「デフレ」という用語は、普通は、「物価の下落する状態」と定義される。ただし、この定義は、経済状態の定義としては、実はあまり適していない。なぜか? 物価下落という状況を、単純に「供給超過・需要不足になっている」というふうにも見なせるが、それ以外の状況だとも見なせるからだ。
 これらは、単一商品の下落だが、これと同様のことが全商品にわたって起こったせいで、物価下落が起こった、ということも考えることもできる。
 こんことは、「一国全体のGDPの縮小」に似ている。ただし、「一国全体のGDPの縮小」は、単なる景気後退でも起こるかもしれない。だから、「一国全体のGDPの縮小」をもって、「デフレ」と定義するのはあまり適切でない。

 また、「スタグフレーション」という状況がある。ここでは、物価の上昇が起こっているが、これをもって「デフレ脱出」と見なすことはできない。「スタグフレーション」というのは、「インフレの仲間」ではなくて、「デフレの仲間」なのである。「インフレ」ならば、単なる金融引き締めでたやすく解決するが、「デフレ」と「スタグフレーション」は、金融政策だけでは解決ができないのだ。

 デフレの本質は、物価の下落ではない。では、何か? 一つは、状況が「均衡」でなく「不均衡」になったことである。もう一つは、その状況が、金融政策ではもはや解決できなくなってしまったことである。こういうことが、経済における特別な状況なのだ。単なる物価上昇率の変動は、たくさんある経済指標の一つにすぎないが、金融市場が正常に機能しないということは、ただの経済指標の一つではなくて、特別な状況なのである。
 だからこそ、「金融市場が正常に機能しないこと」つまり「ゼロ金利でも景気が回復しないこと」を、特別な状況と認定して、その状況に、特定の名称を与えることがふさわしい。そして、その名称としては、「デフレ」という言葉が最適であろう。

( ※ 「景気が回復しているか否か」は、「GDPが拡大しているか否か」で判別する。)
( ※ ゼロ金利による状況判断の前提として、金融政策は機敏に実施するべきだ、ということがある。 → 7月11日
( ※ 本項の話の、理論的な根拠としては、修正ケインズモデルにおける「下限均衡点割れ」という話がある。そこでは、モデル論的に説明される。 → 9月11日b 「下限均衡点」)

 [ 付記 ]
 本項では、「デフレ」という用語に、新しい定義を与えている。そして、このような定義は、従来の経済学(特に古典派)には、まったく反する内容をもつ。このことに注意しよう。
 「金融市場が正常に機能しないこと」というのは、「金融政策が無効になる」ということであり、「日銀の介入が無効である」ということである。それはまた、「マネタリズム的な手法が無効になる」ということであり、「マネタリズムが無意味になる」ということである。
 とすれば、マネタリズムの概念からは、本項のような定義が出てくるはずがないのである。なぜならば、「金融政策が無効になる状況」というのは、「自分たち(マネタリスト)が阿呆になる状況」のことであるから、自己矛盾になるからだ。
 いわば、「ここに書いてあることは嘘です」という命題と同様である。マネタリストが「私の言っていることは嘘です」と言っていることになる。そのような言明は無効である。ゆえに、本項のような定義は、従来の経済学からは、出てこないのである。
 では、なぜ? その本質は、明らかだろう。古典派経済学は、「経済は常に均衡状態にある」ということを前提とする。とすれば、「不均衡状態」というものを考えることは、本質的に自己矛盾を含むのである。
( ※ ついでに説明しておこう。古典派経済学は、「需給曲線は常に交点をもち、そこにおいて需給は均衡する」と考える。一方、私の考え方は、これを否定する。なぜならば、下限直線によって、交点への到達が阻止されるからだ。この件は、何度も説明した。 → 7月27日 「トリオモデル」 )


● ニュースと感想  (1月20日b)

 「デフレと現状」について。
 前項 では「デフレ」という用語を定義した。ただし、そこで述べたことは、ただの用語の定義だけではない。重要な意味がある。それは、「現状はデフレか」という問題に、回答を出すのである。
 現在、さまざまな経済指標が好転しているので、「デフレを脱しつつある」という見解が出回っている。特に、政府は楽観主義者(もしくは自惚れ屋)が多いらしく、楽観的な見解が有力だ。では、本当に、そうなのか? 
 物価上昇率などの、普通の経済指標を見るだけならば、そのような見解を取るのが自然だろう。しかし前項では、「金融政策が無効になったこと」をもって、デフレの定義としている。そして、現時点では相変わらず、ゼロ金利なのである。しかも、GDPはほとんど拡大していない。とすれば、現状もまた「デフレ」だ、ということになる。

 問題に対する解答はかなり微妙であるが、私の見解を言えば、こうだ。
 われわれの目的は、単に「物価上昇率を上げること」ではないし、「企業の倒産が減ること」でもないし、「失業率が悪化しないこと」でもない。それらのすべては、「縮小均衡」という状況で達せされる。しかし、「縮小均衡」という状況は、「多大な失業者が残っている状況」であるから、好ましい状況ではないし、目的とはならないのだ。
 われわれの目的は、「GDPを拡大すること」によって、「縮小した経済を、元の水準に戻すこと」である。めざす状況は、現状の「底打ち」の状況ではなくて、元の状況であるのだ。
 そして、この目的を達するには、「急速な経済成長」が必要である。具体的には、5%を上回る経済成長率だ。しかも、このことは本来、可能なはずである。なぜならば、遊休していた設備を稼働し、遊休していた人員を働かすだけのことだからだ。つまり、元の状況に戻すだけのことだからだ。(何もなかった途上国状態から何かを新規に建設するのとは異なる。)
 では、「元の状況に戻す」ことは、可能か? 均衡状態ならば、金融政策だけで、可能であるはずだ。というのは、金融政策で、企業の投資を拡大して、需給を均衡させることが可能であるからだ。

 ここで、現状との対比をしよう。
 現状は、金融政策を最大限に発揮している。では、金融政策によって、需給を均衡させることができているか? あるいは、投資を急速に拡大することができているか? 
 「需給の均衡」という点では、ある意味では、実現しているかもしれない。しかし、「急成長を起こすだけの需要(投資需要)」は、いまだに生じていないのである。
 つまり、「供給の採算ラインをまかなうだけの需要」ならば、すでにあるのかもしれないが、「経済の急成長を満たすだけの需要」は、いまだに生じていないのだ。「縮小均衡に近づきつつある程度の需要」はあるとしても、「元の水準に急速に戻るための需要」は生じていないのだ。

 現状は、金融政策が無効になっている。金利は下げられないし、量的緩和は効果がない。銀行の貸出残高は、増えるどころか、減っている。 ( → 1月19日[ 補足2 ]
 こういう状況では、どんな金融政策を取ろうと、目的としての「急速な経済成長」は達成されない。だから、現状は、相も変わらず危機的な状況なのであり、相も変わらず金融政策が無効なのであり、相も変わらずデフレなのである。この状況を、「景気が回復しつつある」と認定するべきではないのだ。つまり、現状は、「深いデフレ」から「浅いデフレ」へと、いくらか好転しただけにすぎない。
( ※ 厳密に言えば、こうだ。金融市場で、均衡点の金利は、いまだにゼロ金利以下であり、その意味では同じだが、ただし、そのマイナスの深さは、以前よりも浅くなっている。以前は非常に深いマイナスだったのが、今は浅いマイナスとなっている。 → 4月30日b

 [ 付記 ]
 上記が、私の認識だ。一方、政府や多くのエコノミストは、逆の認識をしている。つまり、「現状は景気が回復しつつある」と。
 こう認定したとすれば、「このまま放置していい」となるだろう。すると、「微弱な成長」という状況がこのままずっと続くことになる。すなわち、多大な人々が失業状態を続けることになる。「現状は景気が回復しているんだ。あせらず、気長に待ちなさい」と言われるだけで、22歳から30歳ぐらいまでの時間が過ぎてしまう。……しかし、そんなことでは、困るのだ。人生には限りがあるのだから。
 日本経済を正常化するには、今すぐ、GDPを急速に拡大して、失業者を急速に解消する必要がある。これこそ目的だ。この目的を見失ってはならない。仮に、物価上昇率が微弱なプラスになったとしても、そんなことには何の意味もないのだ。大切なのは、GDPの拡大なのだ。……マクロ経済学を理解すれば、そうわかるはずだ。

( ※ 次項に続く。)


● ニュースと感想  (1月21日)

 「金融政策の意味」について。
 金融政策というのは、何を意味するのか? それは、公共投資や減税とは、どう違うのか? この問題を、本質的に考えよう。

 「公共投資」や「減税」ならば、その経済的な効果は、修正ケインズモデルに現れる。「これだけの額を投入すると、これだけの生産量増大がある」と示すことができる。( → 8月25日b9月01日
 また、企業の「投資」も、「投資」( I )として修正ケインズモデルに直接的に現れる。投資自体が変数となる。
 一方、金融政策の指標である「金利」は、修正ケインズモデルには現れない。

 では、金利は、(修正ケインズモデルに限らず)経済モデルにおいては、「計量可能な数値」として表れないのだろうか? 投資 I や、消費 C や、生産量 Y は、計量可能な数値として表れるのだが、金利は、計量可能な数値として表れないのだろうか?
 実は、意外かもしれないが、それには「イエス」と答えていい。そして、その理由は、先の「IS-LM」の説明で示したとおりだ。( → 7月25日 以降。)

 「IS-LM」という経済図式は、金利の影響を計量的な数値で示したものである。その意味では、「金利は計量的な数値で示すことができる」と言えそうだ。しかし、そうして示した「IS-LM」という経済図式そのものが、成立しないのだ。
 たとえば、「ある金利に対して、対応する生産量」というものが決まる。しかし、そんな対応関係は、グラフには書けるとしても、現実には成立しない。例示すれば、「3%という金利に対応する生産量」なんてものは、グラフには書けても、現実には決まらない。
 結局、「金利と生産量との関数関係」というものは、ない。それゆえ、金利を変数として、修正ケインズモデルのような経済モデルを描くことはできない。金利は変数とはならないのだ。
( ※ 金利の影響というものは、短期的・局所的には成立しても、長期的・大局的に敷衍(ふえん)して、グラフを書くことはできないのだ。)

 では、「金利」が変数とはならないとしたら、金融政策においては、何が変数となるか? それは、「金利の増分」である。金利そのもの( x )ではなくて、金利の増分( Δx )が変数となる。 x に対する関数 f (x) は存在しないが、金利の増分( Δx )に対する生産量の増分( Δy ) は存在する。
 
 わかりやすく言えば、こうだ。金融政策は、金利の絶対水準によって、生産量の絶対水準を決定することはできない。(たとえば、金利を3%にすると、生産量が 520兆円に決まる、というふうにはならない。) しかし、金利の上げ下げを通じて、生産量の上げ下げを決定することはできる。(たとえば、金利を下げると、生産量を増やせる。)
 そして、金利の上げ下げの幅を調節することで、生産量の上げ下げの幅を調節することができる。これが肝心だ。たとえば、金利の下げ幅を大きくすることで、生産量の上がり幅を大きくすることができる。換言すれば、金利の調節の幅を通じて、経済成長の速度を決めることができる。たとえば、大幅な金利低下によって、経済成長を急速にすることができる。
 ここでは、金融政策によって、生産量の絶対水準が決まるのではなく、経済成長の速度(つまり経済成長率)が決まるのである。

 たとえば、GDPが 520兆円で、めざすべき水準が 550兆円であるとしよう。(なお、デフレを脱して、金融政策が有効であることを前提とする。)
 このとき、金利を大幅に下げようが、金利を小幅に下げようが、どっちみち、 520兆円から 550兆円へと拡大が可能である。ただし、速度が異なる。金利を大幅に下げた場合には、速度が速くなるので、 550兆円に達するまでの時間は短くて済む。一方、金利を小幅に下げた場合には、速度が遅くなるので、 550兆円に達するまでの時間は長くかかる。……こういうふうに、金融政策は、生産量拡大の速度を調節するのだ。(生産量の絶対水準を調節するのではない。)

 「公共投資」や「減税」は、どうか? こちらは、速度ではなくて、絶対水準を決める。どちらも、「乗数効果」の段階的な過程をたどって、初期の投入額の何倍かの効果をもたらす。たとえば、5兆円の投入によって、その2倍の10兆円の効果がある。ここでは、「多くの額を投入すれば、効果が多くなる」のだ。一方、で金融政策では、「多くの幅で金利調節すれば、効果が速くなる」のだ。
 両者は明らかに異なる。この違いを理解しよう。「IS-LM」では、この両者を混同してしまっている。「金利を多く下げれば、生産量の絶対水準が多くなる」と思い込んでいる。しかし、そんなことはないのだ。「金利を多く下げれば、生産量拡大の速度を速めることができる」だけであって、生産量の絶対水準を左右することはないのだ。

 [ 付記 ]
 このことからもわかるとおり、金融政策というものは、小刻みに変動させるべきものである。状況に応じて、ちょいちょい上げたり下げたりしていいのだ。また、そうするべきなのだ。金融政策というものは、短期的にのみ使うものであって、長期的に安定させるべきものではないのだ。
 むしろ、金融政策では、「出し遅れ」が問題となる。そのことは、次の図を見れば、明らかだろう。

     安定構造/不安定構造の図

 景気変動は、右側の図に相当する。頂点で安定していたあと、左右のどちらかにぶれたとする。すぐに「元に戻せ」という力を加えれば、力はわずかで済む。しかし、ぶれる量が大きくなってからでは、玉は転げ落ちる速度が高まっているから、その速度を止めるためには、大きな力が必要となる。
 景気が少し悪化した時点では、少し金利を下げるだけで対処できるが、景気が大幅に悪化した時点では、大幅に金利を下げても対処できない。
 バブル前後で言えば、バブルの途中で「少しずつ金利を上げる」というのと、バブルの破裂後に「少しずつ金利を下げる」というのが、日銀の政策であったが、これは最悪であった。変化の前に、なるべく早い時期に、「やりすぎるぐらい大幅に金利を上げる」とか、「やりすぎるぐらい大幅に金利を下げる」とか、そういうふうにするべきだった。つまり、常に景気の中立を保つべきであった。
 金融政策は、景気の加速と減速をなすが、その力は、限られているのである。景気がほぼ中立の状態では、金融政策は有効だが、いったん大幅に坂を転げ落ちたあとでは、もはや加速の力が不足してしまうので、金融政策は無効になってしまうのだ。


● ニュースと感想  (1月22日)

 「増税と成長速度」について。
 前項では、「生産量の絶対水準」ではなくて、「生産量拡大の速度」に着目した。これは、「金融政策」の観点からの話だったが、もっと広く、経済政策一般について、「生産量の絶対水準」と、「生産量拡大の速度」との、違いに着目するといいだろう。
 なぜか? それというのも、このことをまったく理解していないのが、現在の経済学者であるからだ。(政府もそうだが。)

 現在、「財政赤字の解消のために、増税をするべきだ」という論調が出ている。次のように。
 しかし、このすべては誤りである。なぜか? 「生産量の絶対水準」ばかりに着目して、「生産量拡大の速度」を見失っているからだ。

 なるほど、「デフレの最中には、増税をしないが、デフレを脱したら、増税をしてもよい」というのは、もっともらしく思える。しかし、それは、「生産量の絶対水準」ばかりに着目した考え方である。そこでは、「生産量拡大の速度」を見失っている。
 では、「生産量拡大の速度」に着目すれば、正解はどうなるか? それは、こうだ。
 「まずは増税をしないで、経済成長率を最大限に高める。そうして生産量が元の水準(550兆円)に戻る時期を、なるべく早くする。そして、いったん生産量が元の水準(550兆円)に戻ったなら、以後は、景気の過熱を防ぐために、増税をする。すなわち、経済の成長率を、鈍化させる。そのことで、供給不足によるインフレ(高い物価上昇率)を抑制する。金融政策も、この目的に添って実施する」
 このことは、比喩的には、次のようにたとえて言える。

 (1) 自動車の運転にたとえて言おう。目的地まで最短時間で行くには、どうすればいいか? まずはアクセルをめいっぱい踏んで、最大限に加速するべきだ。そして、制限速度に達したら、加速をやめて、一定の速度にする。(逆に、加速を弱めて、少しずつ加速していけば、負担は軽くて済むが、目的地に達するまでには、長い時間がかかる。)
 (2) 病気の治療にたとえて言おう。健康状態まで最短期間で回復するには、どうすればいいか? まずは治療を最大限に受けて、健康体に戻るべきだろう。そして、健康体に戻ったら、治療を終了して、普通に働く。(逆に、半分ぐらい治りかけた状態で、少しずつ働いて、金を稼げば、その日その日の支払額は少なくて済むが、いつまでもダラダラと病気が続くので、なかなか病気が完治しない。結局、完治までには長い時間がかかる。支払総額も多額になる。)

 景気回復策も同様である。「経済がちょっと回復したから、まだ病み上がりではあるが、さっそく借金返済をしよう。そのために増税をしよう」というのは、一見、まともな考えのように見えるが、それは、賢明ではないのだ。早めの増税をすれば、正常な状態に回復するまで、長い時間がかかるし、その間の損失も莫大になる。具体的に言えば、大量の失業者があふれている状態が続くので、日本の生産力は損なわれた状態が続く。毎年、少しずつ借金を返すが、借金を返せば返すほど、自分の体力が損なわれるので、いつまでたっても完済することができない。
 これはいわば、「不健康な人間が、病み上がりのまま働いて、必死に借金を返すが、低所得の状態が続くので、いつまでたっても住宅ローンを完済できない」という状態である。このときは、どうせなら、「借金返済を休んで、さっさと健康を回復して、健康に戻ってから、高所得を得て、あとで急速に借金を返済する」というふうにするべきなのだ。
 景気対策で言えば、こうだ。病み上がりの景気の状態で、早めに増税をするのは、好ましくない。まずは景気を急速に回復させて、そのあとで、大幅に増税をして、急速に借金を返済するべきなのだ。「半病人が少しずつ借金を返済する」というのは、道徳的ではあるとしても、経済的には愚の骨頂なのだ。そんなことをすれば、完済までには長い期間がかかるし、借金の総額はふくらむし、下手をすれば、完治するまでにふたたび、病気で倒れてしまうかもしれない。
 健康な人間であれば、「少しずつ返済する」というのは、道徳的である。しかし、半病人は、「返済する」という行動よりも、「返済できる能力を獲得する」ことの方が、先決である。能力もないのに、過度に返済をすれば、体力を損ない、回復を妨げる。
 半病人は、何よりもまず、健康の回復を最優先にするべきだ。「借金の返済」(増税)は、そのあとの話なのである。われわれが、道徳に従うのではなくて、経済学に従うのであれば、そう結論できる。

( ※ 初めに四つの「増税論」を示した。彼らは、経済学者ではなく、ただの道徳家なのだ。今の日本経済は、経済学に従って運営されているのではなく、道徳に従って運営されているのだ。ちょうど、未開社会が「神のお告げ」や「先祖伝来の因習」で運営されるように。病気の治療に、医学ではなく、まじないを使うように。……さて、日本が文明社会となるのは、いつのことだろうか?)

 [ 付記1 ]
 増税の時期は、いつにすべきか? この問題については、すでに述べたとおりだ。つまり、景気が過熱して、物価上昇が起こって、景気を冷やすべきとなった時期だ。( → 1月12日 「Q 増税をするとしたら、その時期は?」)
 なお、景気がなかなか加熱しないときには、金利の引き下げを実施して、景気を過熱させる。つまり、「増税 プラス 低金利」である。これは「ポリシー・ミックス」である。(ポリシー・ミックスについては、すでに詳しく述べた。その成功例は、クリントン時代に見られる。)
 逆に言えば、低金利でもいまだに景気が過熱していない状況では、増税は、決して実施してはいけないのである。無理にやるのは、自殺行為である。

 [ 付記2 ]
 本項で述べたことは、実証が可能である。過去に例がある。それは「橋本増税」だ。当時、景気が回復しかけていたが、橋本政権は楽観して、「増税可能」と見なした。そして、大幅な増税を実施し、浮上しかけた日本経済を、ふたたび沈没させて、どん底に落とした。
 これを、あとから見た経済学者たちは、「橋本の増税策は大失敗だった」と非難の大合唱をした。「日本がこんなにひどい不況になったのは、橋本の愚劣な増税策のせいだ」と。ところが、その舌の根も乾かないうちに、橋本増税と同じことを繰り返そうとしているのである。
 経済学者というのは、他人が失敗すれば非難するくせに、そのことをすぐに忘れてしまうような、健忘症ぞろいなのだ。だから、他人が落ちた同じ落とし穴に、自分が落ちてしまうのである。










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「小泉の波立ち」
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