[付録] ニュースと感想 (59)

[ 2004. 2.02 〜 2004. 2.08 ]   

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● ニュースと感想  (2月02日)

 「マクロ経済学の回顧」について。
 借金返済や財政赤字についてのシリーズは、昨日までで終了する。これにて、マクロ経済学の話題は、一応完了することになる。以前(2003年の春ごろ)にも、「一応完了」と述べた。一方、昨日までのシリーズでは、そこでは言及しなかった話題について、新たに補充的に追加したわけだ。
 そこで述べたことは、「デフレ脱出」の方法自体ではなくて、「デフレ脱出」のあとの、景気回復期のことだった。図式ふうに示せば、次のようになる。
  1. 景気後退(リセッション)
  2. 景気悪化(不況の深化)
  3. デフレ (ゼロ金利 : 不況脱出能力の喪失)
  4. 縮小均衡
  5. 景気回復途上(緩慢)
  6. 景気回復
  7. 景気過熱
 このうち、1.〜4. が、以前、いろいろと考察してきたことだ。デフレ脱出には「タンク法」による「減税」が有効である、と示した。また、「中和政策」では、「景気回復後の増税」を示すことで、7.についても言及した。

 このうち、5.〜7. が、昨日までのシリーズで考察してきたことだ。デフレ脱出後には、「景気が回復している」と喜んでいるだけではダメで、「借金返済」の必要がある。そして、その方法として、「物価上昇」と「増税」という2種類があることを示した。また、「増税」にも2種類があることを示した。すなわち、「借金返済」を意味する「民間向けの国債償還」と、「貨幣供給量の縮小」を意味する「日銀向けの国債償還」である。

 さて。語るべきことはすでに語ったのだが、まだいくつか、取りこぼした話題もある。そこで、落ち穂拾いふうに、いくつかの話題を取り上げていこう。特に重要な話題ではないし、前に述べたことの再論ふうでもあるのだが、話の整理も兼ねて、いくつかの話題を取り上げていく。


● ニュースと感想  (2月02日b)

 「均衡と借金」について。
 前日までのシリーズを振り返りつつ、経済学を学ぶ人々に注意を喚起しておく。
 経済学者にはしばしば、ひどい勘違いが見られる。それは「均衡こそ大事だ」という勘違いだ。古典派であれ、ケインズであれ、「均衡こそ大事だ」と思い込む。自分の学説に「一般均衡理論」なんて題名を付けて、鼻高々になっている。しかし、とんでもない勘違いだ。均衡というのは、一つの状態であって、目的でも何でもない。
 簡単に言えば、均衡とは「安定状態」のことである。そこでは物事は状況は安定している。しかしそれが「良い」ということにはならない。「良い」状態は安定しているが、安定しているから「良い」とは言えない。(例:デフレのどん底である最悪状態としての「縮小均衡」は、安定しているが、良くない。)
 古典派は、(需給の)「均衡」ばかりを重視して、マクロ的なGDPの変化を無視する。この点については、すでに何度も批判した。
 ケインズ派も、同様の難点を抱えている。「公共事業によって需給を均衡させればよい」とだけ考えて、「そのための資金は、借金でまかなうので、当面は均衡を達成できても、あとでひどい目に遭う」ということを理解できない。……ここでは、「GDPの拡大による均衡」という点で、古典派の難点はないが、それでもやはり、「均衡ばかりを重視して、物事の本質を見失う」という難点があるのだ。
 そして、この難点は、ここ数日のシリーズを知ることで、よく理解できただろう。「当面の借金は、不況脱出後の返済を迫られる」のであって、「永遠に返済を先延ばしできる」わけではないのだ。ケインズの方法は、不況脱出の最中だけを見ていれば素晴らしいことと見えるが、不況脱出の後まで見れば苦しいことになると判明するのだ。

 [ 付記 ]
 すぐ上のことと重複するが、さらに説明しておく。
 ケインズならば、「どんなに赤字をこさえても、それで均衡すれば、それでいい」と言うだろう。しかし、それは正しくない。財政赤字とは、借金なのだ。その借金は、今は支払わなくてもいいが、将来は支払う必要がある。なのに、ケインズは、そのことをすっかり忘れている。
 「ケインズ政策ではインフレが起こる」と、しばしば言われる。その通りだ。不況のさなかはともなく、景気回復後には、借金の返済を迫られる。その時点で、「増税」または「物価上昇」という形で、富を失う必要がある。それが「インフレ」だ。
 「穴を掘って埋めても、不況を脱出できる」とケインズは言う。なるほど、それは正しい。ただし、それには、代償がある。そのとき、莫大な借金を生じるのだ。そして、その借金は、デフレ脱出後に支払う必要があるのだ。
 借金というものを無視してはならない。借金は、いつか返済する必要がある。それが、昨日までのシリーズで、長々と述べてきたことだ。


● ニュースと感想  (2月02日c)

 「均衡と健全」について。
 経済においては、「均衡」と「健全」(正常な景気であること)とは、異なる。このことに注意しよう。
 現在の日本経済を見て、「景気回復過程にあるから、先行きは楽観できる」と主張する人々がけっこういる。政府や小泉が代表的だ。
 なるほど、GDPは微増の状態だし、各種の経済指標も微増のようだ。その一方で、倒産や失業率は高いから、「縮小均衡」の状況とも言えるが、それはともかく、「景気回復過程にある」という見方も、成立しなくはない。10の状態から7の状態に落ち込んだあとで、「10の状態に戻ったから嬉しい」とか、「10の状態に戻らないから悲しい」というのならわかるが、欲のない人であれば、「7の状態から 7.1 の状態になったから嬉しい」と思うだろう。まともな人間であれば、「政府または泥棒に 100万円奪われて、70〜71万円しか戻ってこない」となったら、怒り狂うだろうが、小泉のようなお気楽者ならば、「70万円しか戻ってこないはずだったら、71万円も戻ってきた。予定より1万円も多い。万歳!」と大喜びするだろう。「元の基準と比較すれば、29万円も失われている」ということは無視して、単に「現状と比較すれば、1万円多い」ということだけ見るわけだ。(阿呆と言うべきか、あえて国民をだまそうとしているべきか。……ま、だまされる方も、だまされる方だが。)
 しかしまあ、ここは百歩譲って、政府・小泉流の価値判断をすることにしよう。では、そういう価値判断に従えば、「景気は回復途上にあるから、前よりもマシである」と言えるのだろうか?
 たしかに、「前と比べればマシである」と言える。ただし、ここでは、「景気は回復途上にある」とか、「景気は良くなりつつある」とかは、言えないのだ。景気の状況は、「マイナスからゼロ近辺に戻った」ということは、決していない。「ものすごく深いマイナスから、ほんのちょっとだけマイナスが浅くなった」というだけにすぎない。
 では、なぜか? それは、「巨額の財政赤字」があるからだ。つまり、莫大な借金をしているからだ。

 現状は「莫大な借金をすることで、かろうじて成立している景気安定」なのである。この状況で、莫大な借金(財政赤字)をやめれば、たちまち、奈落の底に落ち込む。このような形の景気回復は、まったく無意味なのである。
 とにかく、現状は、「借金しながらの景気回復」であるのだから、とうてい楽観できる状況ではないのだ。
( ※ 仮に、こんなもので楽観できるのであれば、莫大な財政赤字をこさえて、莫大な公共事業を実施して、景気回復すればいいのだ。いわゆるケインズ政策だ。しかし、そんなふうに「莫大な赤字をともなう景気回復」など、意味がない。小泉は、そういう財政赤字政策を批判しているはずだったのに、こと現状に関しては、「莫大な借金をともなう景気回復だ」ということに気づいていない。「おんぶにだっこ」で立っているにもかかわらず、「自立している」と錯覚している。途方もない幼児的症状と言うべきだろう。)

 [ 余談 ]
 たとえて言おう。ある男が生活をしている。彼は収入が 30万円で、支出が30万円だ。収支はトントンである。「だから僕と結婚してくれ」と女に求愛した。女の方は、「ふうん。経済力はあるのね。あたしも彼と同じように、収入が 30万円で、支出が30万円だから、二人でいっしょに暮らせば、うまく行きそうね」と思って、結婚を承諾しようとした。ところが、念のため、区役所に行って、「所得証明」(課税証明)を受け取りに行った。すると、意外なことが判明した。彼の収入は、月収 20万円だったのである。差額の 10万円は、知人からの借金であった。つまり、毎月、赤字が 10万円ずつあったのだ。彼がまともに生活していられたのは、借金のおかげだったのだ。
 彼は主張した。「借金していようが何だろうが、僕は収支トントンで、均衡している。しかも、来年は定昇が 3000円あるから、状況は改善する。こうして毎年毎年、少しずつ改善しつつあるんだ。僕の景気は回復中だ。だから、楽観してくれ」と。
 女はヒジ鉄を食わせた。「冗談じゃないわよ。莫大な赤字を出しているくせに、改善している? 赤字が 10万円から、9万7千円になったから、楽観できる? 頭がイカレているんじゃないの? 莫大な借金をしても収支トントンになればいい、と思うのなら、すべて借金で暮らせばいいでしょう。そうしたら? あんたにはそれがお似合いよ」と。そして去ってしまった。
 男はしょげた。「変だなあ。『コーゾーカイカク』とおまじないを唱えていれば、万事、うまく行くはずだったのだが。このまえはこれで国民をだませたんだけどな。どうして、この女はだませないのかな。……ちぇっ。たぶん、どこかのホームページでも読んでいるんだろう」と。


● ニュースと感想  (2月03日)

 「均衡とGDP」について。
 マクロ経済学において、特に大切なことは、「需給の均衡」だけでなく、「GDP」(生産量が多いか少ないか)にも、注目せよ、ということだ。
 従来の古典派ふうの経済学では、この点がかなり軽視されている。「放置すれば均衡点に達するのに、何らかの理由で均衡が達成されないから、経済状況が悪化するのだ」というふうに主張される。
 そして、均衡が達成されない阻害要因があると考えて、その阻害要因(犯人)を捜そうとする。あげく、「不良債権が原因だ」とか、「生産性の悪化が原因だ」とか、「マネーの不足が原因だ」とか言い出す。……しかし、そのすべては、勘違いである。正しくは、デフレとは、「原因から生じる結果」ではなくて、「一つの状況」なのだ。ここを勘違いしたのが、上記の諸説だ。( → 1月17日
 ただ、犯人捜しとは別に、他の勘違いもある。そもそもの話として、「均衡か否か」というのが、勘違いである。「均衡が達成すれば状況は良くなる」ということは、ないのだ。むしろ、「均衡を達成しようとすればするほど、状況が悪化する」のである。それが、「縮小均衡」という概念である。
 「均衡に近づくにつれて、GDPがどんどん縮小していく」というのが「不況」という状況だ。ここでは、「均衡に近づくこと」と「GDPがどんどん縮小していく」ということとは等価であるから、「均衡に近づいている」と言って喜ぶべきではなく、「GDPがどんどん縮小していく」と言って悲しむべきなのだ。たとえ企業の業績がどんどん回復していっても、マクロ的にGDPが縮小していくのでは、かえって困るのだ。(→ 12月22日b
 「均衡か不均衡か」よりも、「GDPの大小」こそ、大切なのだ。このことに注意しよう。
( ※ 次項でさらに説明する。)


● ニュースと感想  (2月03日b)

 「縮小均衡」について。
 縮小均衡は、なぜ好ましくないか? たとえ均衡が達成されるとしても、同時に、GDPがどんどん縮小していってしまうからだ。ここでは、「均衡か不均衡か」よりも、「GDPの大小」こそ、大切なのだ。 (→ 前項12月22日b
 このことを示すのに、たとえて言おう。縮小均衡になるというのは、いわば、「半病人ばかり 100人」という状況から、「生者 50人と死者 50人に分離する」ということだ。縮小均衡に達すると、健康になった生者の数は、0人から50人に増えるが、生きている人間の数は、100人から50人に減ってしまう。(ここでは、黒字企業と赤字倒産企業をたとえている。)
 では、これは、良いことか悪いことか? 生き残っている人だけを見れば、「生きている人は全員が健康になった」ということになるから、「すばらしい!」ということになる。しかし、ここでは、死者を無視しているのだから、そんな計算は無意味である。
 そこで、死者も単純に平均値を取れば、トントンである、となる。良くも悪くもないように見える。
 しかし、である。もし最善の処置を取れば、「半病人ばかり 100人」という状況において、「病気を治して、生者 100人」という状況に戻せたはずなのだ。なのに、いったん縮小均衡になったあとでは、死んでしまった 50人は、もはや元に戻らない。かわりに、一人また一人と、新たに誕生させていくしかない。これは、驚くほど、非効率な方法である。いったん「均衡になるため」といって 50人を殺して、そのあとで今度は「人間が足りなくなった」と言って新たに誕生させる、というのは、愚の骨頂である。
 具体的に言おう。「均衡を達成するために、設備を廃棄する」といって、余剰設備をどんどん破壊する。その後、「均衡に達したから、供給能力を向上させる」と言って、新規設備にどんどん投資する。これは、「穴を掘って埋める」ようなものだ。愚の骨頂である。だったら、最初から、何もしなければ良かったのだ。
 要するに、「均衡の達成」ということばかりにとらわれて、「GDPの大小」というものを無視すると、単に「均衡の達成」ばかりをめざして、「いったんGDPを縮小させてから、今度はGDPを拡大する」というふうになる。これは、「破壊してから築く」という無駄である。だからこそ、「均衡の達成」よりも、「GDPの大小」をめざすべきなのだ。そして、そうすれば、正解がわかるはずだ。すなわち、「均衡であれば何でもいいからめざせ」ではなくて、「正しい均衡をめざせ」と。

 [ 付記1 ]
 上のたとえ話では、「半病人ばかり 100人」という状況から、「生者 50人と死者 50人」という状況に変化した。ただし、これは、極端すぎる例だ。普通の状況では、「半病人ばかり 100人」という状況から、「生者 10人と半病人80人と死者 10人」というふうになるだろう。少し時間がてば、死者10人は消えるから、今度は残りの90人から始まって、「生者 10人と半病人 80人」という状況から、「生者 20人と半病人 60人と死者 10人」というふうになるだろう。ここでも死者10人が消えるから、その次は残りの80人から始まって、「生者 20人と半病人 60人」から、「生者 30人と半病人 40人と死者 10人」というふうになるだろう。……こうして、最終的には、「生き残っている 50人全員が生者」となる。ただし、その下には、死体が 50人分ある。結局、「生者 50人と死者 50人」となる。
 ここで、「生き残っている全員(50人)は半病人でなくなった」という状況を、喜ぶべきかどうか、というのが、問題となる。古典派ならば、「全員健康になった」と喜ぶ。私ならば、「50人死んだ」と悲しむ。
 なお、世論調査をするならば、生き残った全員が「これで良かった」と答えるはずだ。なぜなら、死者は、世論調査の対象とはならないからである。
( ※ 似た話は、フセイン政権崩壊後のイラクにも言える。「アメリカの攻撃は良かった」と答える人々がとても多い。当り前だ。生き残ることが決まっているなら、そう答えることができる。たとえば、頭にリンゴを載せて、ウィリアムテルの弓で打たれるとする。あなたがそれで生き残って、賞金を得たなら、「これで良かった」と答える。あなたが死んだら、「これで悪かった」とは答えることができない。かくて、命を賭ける蛮行は、事後になれば、必ず正当化される。)
( ※ 似た話は、インディアン虐殺のアメリカ史についても言える。「インディアン虐殺は正しかったか」という質問には、ほぼ全員がイエスと答える。なぜなら、「ノー」と答えるべきインディアンはほとんど死んでしまったからだ。同様に、「日本人虐殺することは正しいか?」という質問には、今の日本人ならば「ノー」と答えるだろうが、今の日本人が全部死んでしまったあとでは、残った人々は「イエス」と答えるだろう。)
( ※ 要するに、ここには、論理の欺瞞がある。こういう欺瞞を用いているのが、ブッシュやら、古典派経済学者やらだ。たいていの人は、コロリとだまされる。)

 [ 付記2 ]
 現状の日本は、どうか? 最近報道されている現状は、こうだ。「大企業はいいが、中小企業はダメ」「大都市の企業はいいが、地方の企業はダメ」。
 すぐ前のたとえ話で言えば、「生者」となるのは、「大企業」と「大都市の企業」であり、他は「死者」となる。そして、こういう状況において、「生者」だけを見て、「景気が回復しつつある」と喜んでいるのが、政府や小泉だ。


● ニュースと感想  (2月04日)

 前項の続き。「縮小均衡の問題」について。
 「縮小均衡には難点がある」ということは、何度も示したことだが、もう少し続けよう。ただし、すべて細かな話題なので、[ 付記 ]の形で記述する。
 なお、「縮小均衡」の本質は、「均衡の達成」を代償とした、「生産力の喪失」である。「均衡」ということは達成されても、経済力そのものがどんどん破壊されていってしまうのだ。

 [ 付記1 ]
 私の主張は、「縮小均衡はGDPの縮小を意味するから好ましくない」ということだ。これは、従来の経済学とは、正反対である。
 従来の経済学では、「均衡こそ大事である」とされる。ゆえに、「不況のときには、余剰な生産設備を廃棄せよ」と主張される。「そうすれば、需給が均衡して、状況は改善する」というわけだ。なるほど、古典派的な立場では、需給の均衡が何よりも大切だから、そういう主張が出る。
 しかし、「不況だからといって、せっかく築いた生産設備を廃棄してしまうのは、もったいない」と思うのが、素朴な感想だろう。実際、「不況のときに生産設備を廃棄し、不況を脱したら生産設備を新規購入する」というのでは、「穴を掘って埋める」ようなもので、二重の無駄だ。
 だから、素朴な感想の方が、正しいのである。にもかかわらず、従来の経済学は、正しい結論を得られなかった。なぜか? 需給の均衡ばかりにとらわれて、マクロ的なGDPの変化を無視してきたからである。

 [ 付記2 ]
 たとえて言おう。
 「縮小均衡」に近づきつつある今の日本は、いわば、「病んだ先進国」である。病んでいるということは、病んでいる部分があるということだ。
 しかし、いったん縮小均衡に達すると、どうなるか? 病んだ部分は失われ、生産力が失われる。するともはや、「病んだ先進国」から、「健康な途上国」になるだけだ。そして、健康な途上国は、いくら健康であっても、成長のためには、ゼロから建設して行かなくてはならない。「病んだ先進国」ならば、眠っている設備を稼働させたり、遊んでいる国民を働かせるだけで済むが、「健康な途上国」ならば、設備をいちいち大金をかけて購入したり、無能な労働者をいちいち教育して一人前の技術者に育てなくてはならない。
 だから、日本は、「健康な途上国」にならないうちに、いまだ「病んだ先進国」であるうちに、薬を飲んで、健康を回復するべきなのである。「健康な途上国は、健康であるから、病んだ先進国よりもマシだ」と思うのは、とんでもない勘違いなのだ。

 [ 付記3 ]
 ここで懸念している現象は、現実に起こりつつある。実際、若年の人々は、正規に就業しないで、アルバイトやプータローなどをしながら、技能なしに生活している。彼らは、獲得するべき技能を獲得していないのだから、その分、日本の生産力は損なわれていることになる。
 本来ならば、彼らは、技能を獲得して、日本の生産力を拡大するべきなのだ。なのに、現在、GDPが縮小しているせいで、彼らの能力が生かされていない。やがて、現在の中高年が退色したとき、かわりに生産力をになうべき人々には、生産力を維持するための技能が備わっていないので、生産力を維持できなくなる。……すると、日本は、「無技能な人々ばかりがいる」途上国と、同様になってしまうのである。
 だから、「そのうち景気は回復するさ」なんて楽観していてはいけないのである。一刻も早く、GDPを拡大して、働くべき人々を働かせるべきなのだ。
( ※ 実は、このことは、失業率の高い欧州にも当てはまる。ただし、欧州は、人的には生産力が余っているが、設備では生産力が余っているわけではないから、現在の日本に比べると、状況は悪い。日本は「悪化しつつある」状況だが、欧州は「悪化してしまった」状況である。日本は大規模減税によってGDPを拡大することは可能だが、欧州は大規模減税をしても、悪性インフレになる懸念がある。日本は大規模減税で一挙にGDPを拡大することが可能だが、欧州は小規模減税で少しずつGDPを拡大していくしかあるまい。……そして、日本も、現在のように不況を放置し続けると、やがては欧州のように、急成長の能力を失ってしまうのである。)

 [ 付記4 ]
 私が縮小均衡について説明したこと(あえて経済を破壊して、その後に拡大すること)は、馬鹿馬鹿しいので、信じられないかもしれない。しかし、人類の愚行は、枚挙に暇がない。他にも例がある。
 それは、現在のイラクだ。「正義の武力行使」と称して、大金をかけて国土を破壊しつくしたあとで、あらためて「復興事業」と称して、大金をかけて国土を再建する。破壊するために大金を使い、建設するために大金を使う。まさしく狂気の沙汰である。
 それと同様なのが、現在の日本だ。不良債権処理やら、公的資金投入やら、セーフティ・ネットやら、財政赤字やら、とんでもないことに、莫大な金を兆円単位で投入している。それで景気が良くなるならまだしも、ちっとも良くならない。
 間違った経済学に従えば、途方もない巨額が奪われるのである。イラクの戦争であれ、日本の不況対策であれ。

 [ 付記5 ]
 これほどにも馬鹿げた「縮小均衡」であるが、阻止するには、どうすればいいか? もちろん、それがマクロ経済学の課題である。そして、すでに、「こうするべきだ」という景気回復策なら、何度も示してきた。
 一方、放置すれば、状況は最適化されるだろうか? 実は、個別企業を見る限りは、「縮小均衡」をめざすことが、最適行動である。たとえば、余剰な生産設備を廃棄したり、余剰な人員を解雇したりして、余剰な供給力を解消し、固定費を削減すること。つまり、リストラだ。
 だから、その会社の社長が私だったとしても、やはり、最適行動をめざして、リストラを実施するだろう。さもなくば、企業が倒産して、不良債権と化して、国民全体に迷惑をかけることになる。(たとえば、マイカルの社長のように、リストラとは逆の行動を取って、その企業を倒産させて、巨額の赤字を国民全体に押しつける。)
 というわけで、個別企業としては、リストラをして、縮小均衡をめざすことが、最善なのである。しかるに、個別企業が最善の行動を取れば取るほど、一国全体では、かえって状況が悪化してしまうのである。すなわち、「合成の誤謬」である。
 だから、こういう状況では、個別企業に対して、「最適行動をせよ」などといくら言っても無駄なのである。大切なのは、「その状況で各人が最適行動をすること」ではなくて、「状況そのものを変えること」である。
 こういうことを理解するのが、マクロ経済学を理解するということだ。そして、それを理解しないで、あくまで個別企業や個人のレベルに還元するのが、古典派である。


● ニュースと感想  (2月04日b)

 「均衡とテロ」について。(たとえ話。)
 前項では、「縮小均衡は好ましくない」と述べた。このことを示すたとえ話をしておこう。真面目な話ではないので、特に読まなくてもよい。

 もし「縮小均衡がよい」ということになれば、「生産力の廃棄が好ましい」ということになる。とすれば、そのための最善の方法は、日本の生産力をどんどん破壊することだ。すなわち、日本の生産設備を狙ったテロを実施することだ。あちこちの生産設備を、テロによって、どんどん爆弾で破壊していく。これによって、日本の生産力は1割か2割、低下する。すると、たちまち、供給力不足となって、需給は均衡する。すなわち、「縮小均衡」が達成される。
 このとき、古典派経済学者は、快哉を上げる。「万歳! 縮小均衡という形で、均衡が達成された! これで日本はデフレを脱出できる! 万歳!」と。
 あるいは、こうなることを狙って、テロリストを日本の総理大臣に迎える。「自衛隊は、日本中の生産設備を、どんどん破壊せよ!」と。
 あるいは、北朝鮮に頼む。「日本を好況にするために、テポドンをどんどん落としてください」と。
 あるいは、アメリカに頼む。「イラクにばっかり爆弾を落とさないで、日本にも爆弾を落としてくださいよ。そうすれば、ものすごい物価上昇が起こるので、日本はデフレを脱出しますから」

 要するに、「均衡」ばかりを重視して、GDPの大小を無視すると、こういうテロリストの発想になる。古典派経済学者というのは、テロリストと同様なのだ。
( → 4月17日 の [ 補足 1 ] 。「経済テロ」として、同趣旨の話がある。)

[ 付記1 ]
 古典派経済学者は、こういうふうに、「縮小均衡」について勘違いをする。では、なぜか? 
 古典派経済学では、「均衡か不均衡か」だけを考え、「均衡さえ達成されれば、万事うまく行く」とだけ考える。そこでは、「これこれの変数を動かすと、GDPがこう変動する」というようなモデル的な考察をすることがない。単に「GDP拡大かGDP縮小か」を二者択一的に考えるだけであり、GDPの定量的な変化を無視する。モデル的な考察をすることがない。つまり、修正ケインズモデルのような定量的なモデルが存在しない。そういう未熟な不正確な考え方をするから、とんでもない結論を出すのだ。
( ※ 「そんな馬鹿な」と思う人がいるかもしれない。そして、「古典派だって、GDPの定量的な変化を考察できるぞ」と思うかもしれない。しかし、「GDPの定量的な変化を考察する」というのは、「マクロ的に考える」ということであり、「所得の効果を考える」ということであり、「需要と供給の相互影響を考える」ということであり、「需要曲線と供給曲線の変化を考える」ということである。となると、「需要曲線と供給曲線は一定であると前提する」という古典派の定義に反してしまう。だから、「GDPの定量的な変化を考察できるぞ」と思ったなら、その時点で、その人はもはや古典派ではなくなったのである。……たとえば、マネタリズムでは、「毎年3%の貨幣供給量と、毎年3%の経済成長」というふうに一定の成長率で考えるだけであり、「景気変動」なんてものは考察外である。)
( ※ こういう古典派のデタラメさは、実は、経済学の内輪では常識である。だから、経済学者はしばしば、自分たちを皮肉る。「経済学ではまず、何かを前提とする」と。その通り。「これこれが定数であると前提すれば」という話が、古典派経済学では、至るところに現れる。そして、その前提は、すべて成立しないのである。── なぜか? さまざまな数は、定数ではなく、変数だからだ。そして、そのことを理解することが、マクロ経済学なのである。だから、古典派流の前提を捨てたとしたら、その人はもはや、古典派を脱して、マクロ経済学者になったことになる。)
( ※ この点では、ケインズは、実に偉大であった。マクロ的な考察をしたのは、ケインズをもって嚆矢(こうし)とする。たとえ不正確な点があったとしても、マクロ経済学という分野は、ケインズが切り開いたのだ。それは、古典派には決して届かない領域であった。)

 [ 付記2 ]
 古典派経済学者の例として、サプライサイドとマネタリストがある。
 サプライサイドは、やたらと「供給の質的向上」を唱える。そのついでに、「ダメな企業を倒産させれば、残りは優秀な企業ばかりになる」と唱えて、次善の企業をどんどんつぶそうとする。「供給力破壊のテロリスト」の最右翼である。
 マネタリストは、自分自身は「供給力破壊のテロリスト」ではないようだが、テロリストを擁護する一派である。彼らは単に、「物価上昇が起これば、GDPは拡大する」と主張する。つまり、「テロリストが次々と生産設備を破壊すれば、物価上昇が起こるので、GDPが拡大する」ということになる。しかし、とんでもない。
 では、正しくは? 「物価上昇が起こればGDPは拡大する」ということが成立するのは、あくまで、供給力に余剰がある場合に限られる。供給力に余剰がない状況では、供給量を増やしたくても増やしようがない。(そのために余剰設備を廃棄したのだ。)
 だから、余剰設備を廃棄した「縮小均衡」の状況では、たとえ物価上昇が起こっても、GDPはなかなか拡大しないのだ。単に「悪性インフレ」が起こるだけだ。
 この状況で、新たに投資をすることはできるが、成長力は弱々しい。決して、「遊休設備を稼働させて、遊休人員を働かせるだけ」というように、お手軽に急成長することはできないのだ。
 だから、供給力に余剰がない状況では、貨幣供給量を増大させて、物価上昇を起こしても、単に「貨幣数量説ふうの物価上昇」が起こるだけであり、生産量はちっとも増えないのだ。つまり、「景気回復」のかわりに、「悪性インフレ」が起こるだけだ。
 だからこそ、「生産力の廃棄」をめざす「縮小均衡」は、好ましくないのだ。「どんな形であれ均衡していればいい」ということはないのだ。

( → 9月27日b。「縮小均衡」の数理モデル。)
( → 12月03日。たとえ話がある。「孤島モデル」ないし「プチ・マクロ」である。)


● ニュースと感想  (2月05日)

 「不均衡からの脱出後」および「タンク法の限界」について。
 タンク法は、これまでの伝統的な経済政策である「財政政策」(公共事業)および「金融政策」と並んで、第3の方法として示された。( → 1月05日
 さて。タンク法は、たしかに有効な経済政策ではあるが、だからといって、万能ではないはずだ。つまり、限界があるはずだ。では、タンク法の限界とは何か? それを考えてみよう。

 そもそもタンク法とは、「増減税による貨幣供給量の調節」のことである。その目的は、「景気調節」である。すなわち、「不況」または「景気過熱」という状況において、「減税」または「増税」を通じて、景気を調節して、景気を安定させるわけだ。その際、もちろん、伝統的な経済政策である「財政政策」および「金融政策」を併用してもよい。
 ただし、それでも、ここで可能なのは、「景気調節」だけである。それ以外の分野は、対象にしていない。では、対象外であるのは、何か? それは、「中期的な経済変動である景気」ではなくて、「長期的な経済変動である経済成長」である。

 「経済成長」が目的となる場合は、二つある。
 ・ 先進国などで、消費不足のまま、失業率が高い場合。
 ・ 途上国などで、投資不足のまま、失業率が高い場合。
 このうち、「先進国」の方は、タンク法の「減税」で解決できる。一方、「途上国」の方は、タンク法では解決できない。では、どうすれば解決できるか? 
 この問題については、先に述べたことがある。ここでは、「均衡」が成立しているのだから、「均衡」を保ったまま、最大の成長率を保つようにすればいいのだ。そして、この問題は、古典派経済学の理論で、すでに解明がされている。すなわち、「資本蓄積の黄金律」や「消費のターンパイク定理」などとして知られることだ。( → 6月14日

 すなわち、正解は、「投資と消費をともに経済成長率に一致させて向上させること」である。(なお、このときの経済成長率は、生産性の向上率に一致する。)
 こうすれば、景気変動なしのまま、最適成長がなされる。逆に、「投資過剰」または「消費過剰」となると、景気変動が起こって、「生産しても売れない(買う金がない)」とか、「買う金があっても生産物がない」とか、そういうアンバランスな状態が起こるので、成長がそがれる。(前者はデフレで、後者はインフレ。)

 さて。現実の日本は、どうであるか? 
 まず、不況の最中では、「消費不足の先進国」の状況に相当する。たとえば、欧州を見よう。欧州は、「物価上昇」を病的に拒んで、貨幣供給量の安定ばかりに目をとらわれた結果、高率の失業率を甘受している。彼らは、「物価安定のためには高い失業率もやむを得ない」と思い込んでいるのであれば、それは一つの人生観であるから、あえてその道を取っていることになる。「自分の信念のためには経済的には最悪の状況を受け入れる」というのは、それはそれで一つの信念である。ただし、「物価安定を保てば最適の経済状況となる」と思い込んでいるのあれば、それはマネタリズム流の錯覚であるにすぎない。つまり、物価安定を保っているとき、「だから貧しくてもいい」と思っているのであれば正気だが、「だから豊かになれる」と思っているのであれば狂気である。(さて。日本はどちらか? さすがに、こういう狂気はないようだ。「物価安定こそベスト」なんていう妄想は、昔はあったようだが、デフレで苦しむと、さすがになくなったようだ。)

 さて。不況脱出後では、どうか? ここでは、「縮小均衡」か、「普通の均衡」かで、分かれる。
 まず、「縮小均衡」であれば、倒産企業が続出して、供給力は損なわれていることになる。とすれば、これは、「投資不足の途上国」の状態だ。この場合には、前述のように、「最適成長」の路線をたどればよい。
 一方、「普通の均衡」であれば、金融市場ではゼロ金利を脱して均衡に達しているが、一般商品市場ではいまだ不均衡の名残を留めている。これは、「均衡」とはいえ、「不完全な均衡」である。(これは、「消費不足の先進国」の状況とも、「投資不足の途上国」とも、異なる。いわば「病み上がり状態」である。)
 「不完全な均衡」というのは、「縮小均衡」とは異なる。ここでは、供給力は損なわれていない。だから、当面は、投資を増やそうとする必要はなく、どんどん消費を増やすだけでいい。なぜなら、設備は、いちいち投資しなくても、もともと存在しているから、単に遊休設備と遊休人員を稼働させるだけでいいからだ。(ここのところを理解していない人々が、「投資促進」だの「量的緩和」だのを唱える。)
 そして、この場合には、消費を増やすための政策が必要であるが、それには、引きつづき、「不況脱出」の政策を継続すればよい。すなわち、以前実施した「タンク法」の路線を、そのまま持続すればよい。単純に言えば、「減税」はしないとしても、「増税」なんかはしない。景気回復が進んだとしても、「増税」ないし「借金返済」はしない。当面はともかく、消費拡大に専念する。物価上昇は甘受する。そして、こういう路線が成立するのは、この時点では、いまだに「需給ギャップ」がいくらかあるからだ。多大な生産設備と労働者がいて、いまだに稼働していないからだ。
 不完全な均衡のときは、たとえ金融市場で「不均衡」という状況を脱したとしても、労働市場では「不均衡」という状況を脱していない。というわけで、手綱を緩めず、さらに「景気回復」路線を取り続けるわけだ。
 その後、生産量の拡大が続いて、労働市場でも「不均衡」という状況を脱したら、そのときようやく、完全な均衡が達成されたことになる。この時点で、タンク法とは別の路線に切り替えるといい。それが、先の「最適成長」の路線だ。
( ※ 「均衡状態における成長」については → 10月25日c 以降。)

 [ 付記1 ]
 「不完全な均衡」を含めて、「均衡」状態では、一時的な「需要超過」(在庫減少)が発生する。そのことで、生産量が拡大していく。
 ただし、「不完全な均衡」では、「需要超過」に対して、すぐさま「供給拡大」が可能である。というのは、生産設備は十分にあり、単に稼働率を上げるだけでいいからだ。そして、この「稼働率を上げる」ということが、景気の好転そのものを意味する。
 デフレの状態で「稼働率の向上」が進むと、一般商品市場では「下限直線割れ」(原価割れ)が解消する。つまり、均衡状態になる。その後、さらに「稼働率の向上」が進むと、「稼働率の頭打ち」に近づいて、「投資の拡大」が必要となる。この時点で、金融市場でも、「下限直線割れ」(ゼロ金利)が解消する。
 現在の日本は、どうか? 一般商品市場では「下限直線割れ」が解消しつつあるが、金融市場ではいまだに「下限直線割れ」が解消していない、という状況である。「縮小均衡」または「不完全な均衡」に近い。いずれにせよ、さらに生産量の拡大が必要であるが、金融政策は無効である。

 [ 付記2 ]
 均衡状態における最適の成長路線は、「消費と投資がともに生産性向上率に一致して成長すること」である。ここでは、「一致して」ということに注目しよう。
 最適の成長路線は、投資と賃金を、ともに「生産性の向上率」に一致させて増やせばいいのだ。このとき、「経済成長率」は上限に達する。逆に言えば、そうでないときには、経済成長率は上限に達しない。たとえば、投資不足・賃金過剰ならば、インフレになる。逆に、投資過剰・賃金不足ならば、生産したものが余って売れなくなる。そのいずれも、経済成長率は、潜在的な成長率(生産性の向上率)に達しない。
 ここを理解していないのが、経団連だ。経団連は、「生産性基準原理」という名目で、「賃上げは生産性の向上率以下に抑える」と主張してきた。
 そして、その報いが、現在の不況なのである。つまり、「消費不足・供給過剰」という状況だ。だから、現在の不況は、起こるべくして起こったのだ。経団連は、「企業の利益の取り分を増やせば、企業の利益が増える」と思い込んだ。なるほど、企業が労働者の取り分を奪えば、相対的には企業の取り分は増える。しかし同時に、労働者の購入力が減る。その結果、マクロ的には、消費が縮小して、経済が縮小して、不況となる。かくて、会社の売上げはかえって減るのである。
 経団連や会社経営者がマクロ経済学を正しく理解できないで、目先の自己利益ばかりを見ているから、現在の不況が起こったのだ。正しくは、「賃上げは、生産性の向上率に比べて、それ以下ではなく、それと同じ」なのだ。……こういうことを理解しないと、この先、何度でも、不況を招くことになるだろう。
( ※ 優れた経営者は、会社の体質を改善して、企業の利益率を高め、従業員の賃金を上げようとする。ダメな経営者は、会社の体質を改善しようとせずに、企業の利益率を高めようとするので、手っ取り早く従業員の賃金を下げようとする。優れた経営者は、会社そのものを改善させようとするが、ダメな経営者は、会社の帳簿だけを改善しようとする。……してみると、経団連というのは、ダメな経営者の連合であろう。こういうダメな経営者がそろっていると、日本経済はますますダメになる。何とかならないですかねえ。とはいっても、まともな経営者は、経団連なんていうヤクザな集団に参加しようとするはずがないですけどね。)

 [ 付記3 ]
 均衡状態の成長路線は、「消費と投資がともに生産性向上率に一致して成長すること」である。ただし、それには、例外がある。それは「輸出主導の成長路線」だ。つまり、「消費を抑制して、投資を増やして、輸出主導で成長する」ということだ。
 この場合、「消費を抑制して、投資を増やす」という行動は、「供給過剰」という状況を生み出すが、その分を、輸出に回すことで、バランスが取れる。また、投資ばかりに重点的に金を回すことで、「投資が投資を生む」という形(再投資)で、非常に高速に成長していくことができる。
 ただし、こういう「例外」(つまり「投資」偏重による急成長)は、常に可能なわけではない。途上国では可能だが、先進国では不可能だ。なぜか? 
 途上国では、そもそも、社会資本が未整備である。港湾や道路などの社会基盤も未整備だし、肝心の商業生産をするための機械設備も未整備だ。こういう状況では、とりあえずは、さまざまな社会資本を整備することが優先となる。消費は後回しだ。つまり、投資偏重でよい。
 一方、先進国では、事情は異なる。すでに消費と投資がバランスの取れた状況で安定している。ここで、過剰に投資をすれば、バランスが崩れてしまう。つまり、供給過剰で不況となる。企業は生産した商品が売れないので、続々と倒産する。つまり、いくら生産力があっても、無駄である。
 というわけで、投資偏重による急成長は、途上国では可能であっても、先進国では不可能である。だから「例外」なのだ。
( ※ ついでに言えば、「縮小均衡は途上国状態だ。だから、いったん縮小均衡になってから、投資偏重にすれば、急成長ができるぞ」と思うのは、勘違いである。すでに縮小均衡になったあとではそうだろう。しかし、大切なのは、「縮小均衡にならないこと」である。「機械をぶちこわしてから、投資偏重で急成長すること」が賢明なのではなくて、「機械をぶちこわさないで元に復帰すること」が賢明なのだ。)

 [ 付記4 ]
 さて。途上国の立場になって考えてみよう。途上国にとっては、どうか? 「投資偏重」というのは、最も理想的な成長路線か?
 単に「経済成長」だけを目的とするのであれば、これが最も理想的である。ただし、それには、代償がある。それは、「国民生活が苦しくなる」ということだ。
 国民は、今日の食事を我慢して、明日のために金を投資する。そうすることで、金はどんどん増えていくが、彼の人生は大幅に貧しくなる。たとえば、20歳から60歳までを貧困で暮らして、60歳になってからようやく果実を得る。しかし、そのときにはもう、彼の人生は終わりかけているのだ。今さら金を得ても、デート代にも使えないし、スキーやサーフィンや美食やエステにも使えない。かなり悲惨な人生である。「人生を捨てる」と言ってもいい。
 しかし、過去の日本は、この路線を取った。それゆえ、高齢者は、彼らの人生を犠牲にして、今日の日本の繁栄を築いた。では、彼らはなぜ、そのような路線を取ったのか? 自分たちは貧しさを我慢して、自分たちの人生を犠牲にしてまで、なぜ、そのようなことをしたのか? 彼らは金を増やすことばかりを考えるガメツイ守銭奴であったからか? 違う。彼らがそうしたのは、彼らが子孫を愛したからである。彼らは、おのれの人生を犠牲にしてまで、「わが子のため、わが孫のため」と思って、貧困に耐えた。自分の娯楽のためには金を使わず、社会資本形成や子供の教育のために金を使った。そのおかげで、日本は、敗戦後のガレキ状態から、今日の繁栄した経済大国となれたのである。
 このような路線を取った国は、世界を見ても、他にはなかった。欧州であれ、南米であれ、アフリカであれ、アメリカであれ、彼らはいずれも、「その日その日で、自分の人生を充実させよう」とだけ望んだ。そのおかげで、彼らは楽しい人生を送れたが、彼らの子孫は、彼らと同じような生活しか送れなかった。日本だけが、急成長をした結果、子孫が豊かな生活を送れるようになったのだ。そして、それは、われわれよりも過去の世代が、貧困に耐えたからだ。われわれが、アジアの最貧国に生きるのではなく、世界の先進国に生きることができるのは、過去の世代の人々が自らを犠牲にしてまで、子孫に多くのものを贈ってくれたからなのだ。つまり、われわれは、彼らから愛されたのである。その大きな愛を受けた結果、今日の豊かな生活を享受できる。
 しかし、そのことを理解できない人々が多い。「今日の日本の繁栄は、おれたちだけで維持しているのだ。高齢者の恩恵なんか、まったく受けていない。おれたちは年金料を払うばかりで損をしているが、高齢者は年金をたくさんもらって得をしている。だから、高齢者の金を、減らしてしまえ。おれたちの金を、もっと増やそう」と。
 彼らは、大きな愛を受けても、その愛を忘れてしまったのである。だから、最も悲しむべきことは、今日の人々が、いくばくかの金を損することではなく、忘恩の輩となってしまうことだ。「愛を贈ってくれてありがとう。恩返しに、ぶん殴ってやります」というようなものだ。金を失うだけらなら、貧乏になるだけだ。しかし、人間らしい心を失えば、もはや人間ではなくなってしまうのである。
( 成長路線 → 6月10日6月21日10月22日b12月25日
( 高齢者の恩恵 → 1月05日b


● ニュースと感想  (2月06日)

 時事的な話題を二つ。つまらない話なので、どちらも「余談」としておく。

 [ 余談1 ]
 米国の大統領選挙の話。
 民主党の予備選で、ケリーおよびエドワーズが勝ち残ったようだ。今後、いずれが勝ち残るにせよ、ブッシュとの対決では、勝利しそうだ。そして、ブッシュとの戦いで民主党候補が勝利した場合、米国の対イラク政策は、正反対に向かうことになる。
 つまり、「イラク戦争は間違っていたと認定する」わけだ。その後は、「撤退」もしくは「国連およびイラク政府への委譲」となるだろう。ともあれ、米国民がどんどん殺されているような状況からは変わって、軍隊が大幅に減る。
 で、その場合、日本はどうするんですかね? 「ブッシュの政策は正しい!」と長らく主張していたあとで、日本だけが置いてきぼりだ。カッコ悪い。
 残る道は、二つに一つ。一つは、「やっぱりブッシュが正しい」と主張して、新大統領と全面対決する喧嘩路線だ。もう一つは、「今度は新大統領に従います。ブッシュなんかには尻を向けます」というふうに、シッポを振る路線だ。……で、どっちにしますか? 小泉さんも、読売さんも、今のうちに考えておきましょうね。だけど、あんまりシッポを振ると、シッポが振り切れますよ。
( ※ 私の予測では、次の選挙では、ブッシュは落選する。現在の予測では「ケリー対ブッシュでケリーの勝利」だが、これは、ケリーが人気があるというよりは、民主党員におけるブッシュ批判が強すぎるせいであるようだ。共和党員ですら、反ブッシュの感情が強い。知識人はたいていブッシュ嫌いであるようだ。そして、こういう嫌悪感というのは、投票率に結びつく。普通ならば投票しないような人まで、腹が立つと投票所に行く。一方、ブッシュ支持の人は、特に変わらない。というわけで、現実の支持・不支持以上に、不支持の人が反ブッシュ票を投じるだろう。……なお、次期大統領がケリーになるかどうかは、微妙だと思う。現在はケリー有利だが、私はエドワーズが急伸する可能性があると見る。理由は、クリントンに似ているから。なお、大穴でヒラリー。)
( ※ もう一つ予測すると、民主党の大統領になると、小泉や読売は、過去のことをすっかり忘れたフリをするのである。「ブッシュ支持でイラクに自衛隊を派遣? そんなこと、ありましたっけ」と。「ここはどこ? 私は誰?」と。)

 [ 余談2 ]
 情報のメモ。
 前に何度も述べた「電子処方箋」について、政府がようやく、実現に向けて方針を定めたようだ。(読売・朝刊・1面 2004-02-05 )
( ※ ついでに提案しておこう。電子処方箋と電子カルテをうまく融合すると、「薬剤や処置の効果率」などのデータベースを作成できる。そうすると、どのような処方が最善の効果であるかとか、どのような症状ではどのような病気になるかとか、さまざまな巨大なデータベースが構築できる。ただし、健康保険証のIC化が先決となるだろう。)


● ニュースと感想  (2月06日b)

 「米国の景気の予想」について。
 米国の景気は、ブッシュ減税による効果で、いくらかは回復過程にある。(低金利は以前からあったが、減税以前はほとんど効果がなかった。それでもブッシュ減税はいくらか効果があった。)
 この件は、肯定的な評価と、否定的な評価がある。

 (1) 肯定的評価
 ともかく減税によって、景気が回復しつつあるという事実がある。財政赤字や貿易赤字が巨額になろうと、とにかく景気は回復しつつある。金持ち減税であろうと、そのおこぼれを受けて、国全体では景気は回復しつつある。

 (2) 否定的評価
 減税をしたといっても、恩恵を受けたのは、金持ちだけだ。莫大な富が、一部の金持ちだけに回ってしまった。そのおこぼれが一般国民にも及ぶとしても、減税による借金を払うのは一般国民である。一般国民にとっては、「金を奪われて、金持ちに渡す」というのと同然だ。いくらか景気が回復しているといっても、全然、割が合わない。
 おまけに、財政赤字は貿易赤字は巨額になる。とんでもないことだ。
( ※ だから、「むしろ低所得者向けに福祉を充実させるべきだ」とまで言い切ると、民主党の意見になる。)

 (3) 中間派・懐疑派
 景気は回復しつつあるといっても、失業者が減っているわけではない。GDPは8%程度の上昇率だが、失業率は低下していない。きわめて特異な景気回復過程である。いわゆる「職なき回復」(ジョブレス・リカバリー)だ。( by スティグリッツ。読売新聞のインタビュー。2004-01-21 ごろの朝刊。また、同氏の最新刊の著作でも同趣旨。)
 経済成長の恩恵に浴しているのは企業と高所得層で、勤労者の所得はわずかしか増えていないという断絶状態があるが、一国の経済がぜいたく品の好調な販売だけで繁栄できるものかどうか。( by クルーグマン。ニューヨーク・タイムズの昨年末コラム。朝日・朝刊・経済面・コラム 2004-01-07 から孫引き。)

 まとめ。
 中低所得者向けの減税の方が好ましいのは、たしかだ。では、金持ち減税という現状は、好ましいのか否か? 
 私の意見を言えば、こうだ。「短期的には、景気回復効果が見られるが、中長期的には、赤字の蓄積に対する借金払いを迫られて、一国の経済体質を損なう。「最初に得して、あとで損する」だ。
 結局、朝三暮四みたいなものである。「朝に三つ、夕に四つ」のかわりに、「朝に四つ、夕に三つ」にした、というふうな。今はいい思いをしていられるが、後では「その分、減らされた」と気づく。
 問題は、差し引きしてどうかだ。トントンになるかどうか? 中低所得者向けの減税ならば、トントンではなくて、「差し引きして得」となりそうだ。(経済が拡大するから。しかも配分の変更があまりないから。) 一方、高所得者向けの減税だと、高所得者以外は、「差し引きして損」となりそうだ。
 一国全体を見れば、失業者が多大に残っている分、国全体の効率は改善していないことになる。国全体の生産力が損なわれていることになる。経済は質的に悪化したままでいることになる。となると、どうも、褒められた状況ではないようだ。
 とはいえ、「減税」という方針そのものは、間違ってはいない。評価はかなり難しい。「好況」という点では、好ましいが、「借金の蓄積」という点では、好ましくない。
 これは、ケインズ政策のようなものである。借金して、無駄な橋を造るかわりに、借金して、高所得者向けに金をプレゼントするわけだ。高所得者は、もともと多額の税を払っていたから、これは、必ずしも不正だとは言えない。たとえば、「今は減税で、後は増税」ならば、これはこれでいいことになる。
 結語。
 ブッシュ減税の是非は、今後しだいである。今後、市場金利の上昇しかけた時点で、「金持ち増税」および「金利引き下げ」をすれば、「やや良い」となる。今後、「金持ち増税」をしないで、「中低所得者向けの増税」とか、「財政赤字の放置」とか、「市場金利上昇の放置」とかをすれば、「悪い」となる。なお、市場金利の上昇が起こらなければ、「無効」となる。
( ※ 米国民主党の「低所得者向けの福祉重視」は、「やや悪い」である。規模が小さくなるし、いびつな所得再配分が起こる。福祉政策・財政政策と、貨幣政策とは、別のことなのだが、その区別がついていない。現在は「財政支出増加」が必要なのではなくて、「貨幣供給量の増加」「貨幣のバラマキ」が必要なのだ。ごく少数の人だけに集中的に援助を施すのは、財政政策・福祉政策としては悪くはないが、経済政策としては邪道かつ無効である。)

 [ 付記 ]
 では、「やや良い」や「やや悪い」ではなく、「良い」のは、どういう政策か? 最適の政策は、どういう政策か?
 現状を見よう。民主党の大統領候補の政策を見ると、「減税のうち、金持ち対象の分だけを廃止して、財政赤字を縮小する」という意見がほとんどだ。「減税全廃」という一人を除いて、全員がそうだ。(朝日・朝刊・海外面 2004-01-27 )
 しかし、この政策だと、「財政赤字の縮小」という点では効果があるが、「景気刺激」という点では効果がないので、元も子もない。これは先に批判した「景気回復途上での借金返済」という愚行である。「財政赤字の縮小」をめざす「借金返済」というのは、道徳的には正しいが、経済学的には正しくない。
 では、どうするべきか? ここでは、「タンク法の減税」が有効である。すなわち、「減税は、金持ち対象ではなく、低所得層向けでもなく、国民一律」であり、「財源は、借金ではなくて、物価上昇」である。これなら、借金がないので、「財政赤字の拡大」というデメリットはない。また、物価上昇によって、「アメとムチ」効果があるし、金融政策の裁量の幅も増える。(実質金利低下の余地が生じる。)
 なお、減税は「一律」が良い、という点については先に述べた。( → 第3章 「景気回復効果は、一般に、金持ちほどその効果を享受できる」 )

 [ 補説 ]
 ついでに言うと、「タンク法の減税」は「貨幣価値の低下」をもたらすから、「ドル安」をもたらす。そのおかげで、米国の生産力は高まる。米国としては、いいことずくめである。
 ただし、その分、外国は損をする。貨幣価値の下落があるのに、一律減税の金を受けられないからだ。
 たとえば、日本は、莫大な米国国債(政府証券)を保有しているが、その金が、ドル安によって、大幅に減価してしまう。本来ならば、減税によって帳消しになるはずだが、日本政府は米国国民ではないので、減税の金をもらえない。というわけで、日本は大損をするが、米国はその分とても得をする。だから、米国としては、「タンク法の減税」は一石二鳥のように賢明なのである。
 逆に言えば、そういう危険があるにもかかわらず、円安介入をして莫大なドルを貯め込んでいる日本は、愚劣なのである。米国がずるいのではなくて、日本が愚かなのである。米国国債(政府証券)なんてものをどんどん溜め込むことが本質的におかしいのだ。みんなが「ドルは先安だから売りたい」と言っているときに、そのドルを買い込めば、やがてはドル安で損失を受けるのは、当然である。「みんなが嫌がるものを無理に引き受ければ損をする」というのは、子供でもわかることなのだ。(「えんがちょ」だ。「円がチョ」みたいですね。)


● ニュースと感想  (2月07日)

 「最近の景気回復基調」について。
 最近、景気回復基調にあることが報道されている。企業業績が好転しているだけでなく、失業率も昨年後半はじりじりと改善しており、ついに5%を切るようになった。(夕刊・各紙 2004-01-30 )
 というわけで、実質的に、たしかに景気回復基調にある。では、このままずっと、景気回復基調が続くのか?

 まず、この景気回復基調は、円安によってもたらされた「輸出景気」であることに注意しよう。自動車や電器などで、輸出増加が起こるにつれて、その企業でも雇用が改善しつつある。それは事実だ。
 問題は、その規模である。その規模が日本全体のデフレギャップを打ち消すほど十分であれば、景気は「不均衡」から「均衡」へと移行して、正常な景気になる。逆に、その規模が日本全体のデフレギャップを打ち消すには不十分であれば、「デフレが浅くなる」だけに留まる。(つまり、「修正ケインズモデル」において、「下限均衡点割れ」の状況が浅くなるだけに留まる。スパイラルの落ち着き先である「縮小均衡」の点が、下限均衡点よりも左下である状況。)

 では、どちらか? もちろん、後者であろう。つまり、いくらかは景気が回復基調にあるとしても、「デフレ脱出」になるまでには至らず、「デフレが浅くなる」に留まる。もっともっと浅くなって、ついにはデフレを脱出してくれればいいのだが、いかんせん、総所得が小さいままでは、それは無理だ。
 具体的に言えば、こうだ。現状は、「タンク法の減税」の規模が、以前の 30兆円から、20兆円かそこら程度まで、改善したのである。それは、本質的な改善ではなくて、「外需」が 10兆円かそこらあったから、その分、改善したわけだ。この先、外需がさらに 20兆円ぐらい改善すれば、うまくデフレ脱出が可能となる。しかし、そんなことは、とうてい不可能だ。なぜなら、日本全体の赤字を、輸出産業の外需拡大だけでまかなうのは、とうてい不可能だからだ。そんなことをしたくても、円高になるから、しょせんは無理である。輸出増の効果は、いくらかはあるが、輸出産業だけで全産業の内需縮小を補うことなど、とうてい不可能だ。せいぜい、「いくらか補う」というふうにすることができる程度だ。
 結局、輸出頼みの景気回復は、「本来の景気回復」ではなくて、「カンフル剤による一時的効果」にすぎない。カンフル剤などをいくら打っても、病気そのものを根源的に治すことはできない。一時的に元気にさせることができるだけだ。
 「内需拡大」というのは、「総所得の拡大」であり、これはマクロ経済的な景気回復を意味する。「外需拡大」というのは、賃上げによる「総所得の拡大」に結びつけば効果があるが、そうでなければ効果がない。日本は、経団連の主導で、「賃上げ」どころか「賃下げ」に進んでいるから、輸出増加による「総所得の拡大」効果を、賃下げによる「総所得の縮小」効果で、打ち消してしまっている。こうなると、マクロ的には、景気回復の芽は、とうていない。
 というわけで、「外需拡大で企業業績の向上・失業者の縮小」と喜んでいることができるが、そのうち、円安介入のメッキ効果が剥がれたころに、ふたたび本来の総所得・総需要にふさわしい水準に落ち着くはずだ。そのころには、自然な円高による輸出縮小の効果が出て、景気は現状よりは悪化していくだろう。
( ※ だから、株高のピークは、3月まで。4月以降は、下落。……というのが、私の予想。)

 [ 付記 ]
 最近の景気回復基調というのも、けっこう疑わしいようだ。たとえば、昨年、倒産件数は減っているのだが、実状は良くない。以下のようになる。(朝日・朝刊・経済面 コラム 2004-02-01 )
  (1) 倒産の理由が、「放漫経営」タイプが減り、「真面目経営でもどん詰まり」対応が増える。(景気悪化が理由。)
  (2) 倒産後の形態が、「会社再建」タイプが減り、「企業清算」タイプが増える。(再建不可能。)
 つまり、倒産の統計データを調べると、量的には改善しているが、質的には悪化している、というわけだ。「景気は回復基調にある」というのは、楽観しすぎているようだ。
 なお、先日も述べたが、「貯蓄性向が悪化している」という現状がある。人々は、なけなしの貯蓄を取り崩して、かろうじて消費を支えているのだ。この先、急に消費が増えることはなさそうだし、景気の急速な回復も見込めまい。
 要するに、「所得なくして消費なし」「消費なくして生産なし」となる。つまりは、マクロ経済学の基本通りになるわけだ。


● ニュースと感想  (2月07日b)

 「本年の景気予想」について。
 2004年の景気予想については、昨年末の時点で、「来年の景気予想」として述べたとおり。「春闘のベアゼロによる総所得縮小」などを理由とする「景気悪化」だ。
( → 12月18日。なお、12月13日も参照。)
( ※ ベアゼロ・定昇廃止で、総所得が減少する理由は、定年退職者の所得[高賃金・多人数]が、新卒者の所得[低賃金・小人数]に、置き換わることだ。)

 ともあれ、4月以降、総所得が縮小する。総所得が縮小すれば、総需要も縮小するし、総生産も縮小する。かくて、景気は悪化する。これはマクロ的には避けて通れない道だ。(その推進者は、経団連である。特に、トヨタだ。参考記事:朝日・朝刊・経済面 2004-01-30 )

 なお、その後の情報などもあるので、以下に追記しておく。

 (1) 家計貯蓄率
 家計貯蓄率が6.2%となり、前年度より0.3ポイント下落したという。過去最低レベルだ。内閣府の「2002年度国民経済計算(確報)」による。12月25日に発表。(朝刊・経済面 2003-12-26 )
 なお、ピークの値は、1991年度で、15.0%だ。それに比べて、8.8%も下落したことになる。また、可処分所得(名目値)は、前年度比1.5%減。
 家計貯蓄率が低下したということは、消費性向が上昇したということである。これは、どういうことか? 景気が一時的に悪化したときには、一時的に消費性向が低下しただけだ。ところが、景気が長期的に悪化すると、所得が一定ではなくて、所得が減る。そのせいで、平均消費性向は上がるのだ。( → 11月29日b 「初期定数」)
 こうなると、「消費を増やして、景気を回復させる」という方法は、困難となる。何よりも、「所得」を増やす必要がある。何度も述べたとおり。

 (2) 増税
 今後、「所得」を増やすどころか、「所得」を減らす政策が、どんどん予定されている。下記の増税などだが、今後1年間の負担増加は、平年度ベースで2兆円前後の見込みだという。(なお、月数は開始月)
 結語。
 企業部門で若干の景気回復が見られても、それが家計部門に波及しない。たとえ少しは波及しても、国がそれを上回るほど吸い上げる。景気は回復するどころか、悪化しそうだ。(橋本増税では、9兆円の増税で、日本の景気回復を一挙にへし折った。それの二の舞に近い。)
( ※ 「増税」を「減税の縮小」と理解しても、話は同様である。先に述べたとおり。つまり、「10兆円の増税なら、その10兆円の分、減税の上積みが必要」となる。 → 2月01日

 (3) 外国人による株式投資
 外国人投資家のよる株式投資は、2003年は、8兆円の買い越しだったそうだ。(読売・朝刊・経済面 2003-12-27 )
 当然、売り圧力がある。2004年には、暴落の可能性がある。
 なお、外国人投資家の投資が増えたのは、「日銀の円安介入によって、海外資金が流入したから」である。「景気がまさしく回復しているから」と誤解してはならない。

 [ 付記1 ]
 本年の景気予想については、「個人消費が増えないからダメ」というのが、ほぼ定説となりかけているようだ。つまり、「景気回復はしそうにない」と判断して、その理由は、「個人消費が増えないから」と述べているわけだ。
 経済学者もようやく、いくらかまともな判断ができるようになったらしい。少し前までは、「量的緩和で投資を促進せよ」とばかり言っていたが、ようやく、「そんなのは無効な」という事実を理解したようだ。また、「不良債権処理」だの「構造改革」だのも、唱えなくなったようだ。この点は、慶賀すべきことだ。
 ただし、「個人消費を増やすにはどうすればいいか」という策を出せないところが、相変わらず、経済学者のダメなところだ。「個人所得を増やすには、企業が自発的に金を出すまで待つしかない」と思っているようだ。そして、「企業がベアゼロにするから、結局、どうしようもない」と結論するわけだ。「良い経済政策は空から降ってきません。景気回復も空から降ってきません」と言うだけだ。
 どの経済学者も、「現在の所得増加と、将来の所得低下」、つまり、「現在の減税と、将来の増税」という方法を、打ち出せない。相変わらず、頭の論理が詰まっているようだ。金は詰まっていないが、頭が詰まっている。かくて、日本経済は、どん詰まり。

 [ 付記2 ]
 政府は「景気回復しつつある」と主張しているが、こういうふうに「最悪状態からの脱出」ないし「上向き」を主張しても、ろくに意味がない。大切なのは、上向きか下向きかではなくて、絶対値である。
 現状は、企業業績は回復しつつあるとしても、失業率が高い。こうした状況は、決して放置してはならず、ただちに急速に回復する必要がある。この件は、先に述べたとおり。( → 1月20日b
 なお、失業率が高いということのほかに、「自殺者数が年間3万人」という状況が変化していない、ということもある。

( ※ オマケで一言。これほど多数の自殺者が出る、というのは、大問題だろう。イラクで自衛官に数人の犠牲が出るという問題とは桁違いだ。だったら、イラクの国家復興に必死になるより、日本の国家復興に必死になるべきなのだ。とはいっても、小泉は顔が米国の方しか向いていないんですよね。「イラクにいる米軍への側面援助こそ、われわれの最優先事項である! 日本国民の命? そんなの、関係ないね」と。……だって犬なんだもん。)
( ※ 「自殺なんて、オレはしないよ。だからオレには関係ない」と思う人は多いだろう。しかし、別の意味で、関係がある。自殺しない人は、自殺するかわりに、他人の人生を奪おうとする。つまり、泥棒や強盗や強盗殺人などだ。「オレオレ詐欺」もこの一種だ。実はわが家にも、空き巣が入った。……こういう意味で、「自殺」のかわりに、「犯罪」が増える。これは、「オレは関係ないよ」とは言っていられないのだ。最近、経済犯罪が非常に多い。これを抑制するには、刑罰を重くするだけではダメであり、「失業しないで済む」という状況を用意することが根本的に必要となる。「オレは自殺も犯罪もしないよ」と思っている人だって、いざとなったら、どちらかを迫られる可能性は、十分にあるのだ。何しろ、「生活保護費」や「失業手当」は、どんどん削減されているのだから。)


● ニュースと感想  (2月08日)

 「来年の景気予想」について。
 本年の景気予想はともかく、そのあとは? すなわち、本年後半から2005年にかけては、どうなるか?

 政府は楽観的な見込みを出しているようだ。ほんの少し前には、「2005年に景気回復」と言っていたが、最近になって、見通しの甘さを感じて、「2006年に景気回復」と言っている。とはいえ、こういうふうに、毎度毎度、少しずつ遅らせていくと、いつまでたっても、「2年後に景気回復します」と言い続けることになる。永遠に「2年後」だ。
 たとえば、2001年の秋に「2年後に景気回復」という予想を立てて、その結果がどうなったか、思い起こすといい。
( ※ 思えば、あのころ、竹中大臣は破竹の勢いだった。「景気は回復します。私に任せてください」と。しかし今や、誰にも相手にされないようだ。「オオカミが来る」と何度も嘘をついた少年は、そういうものである。)

 話が逸れてしまったようだ。話を戻す。
 2004年後半から2005年にかけては、どうなるか? 私の予想では、こうだ。── 政府は2005年に、「財政再建」と称して、増税を行なう。当然、奈落の底へ向かう。景気は、回復するのではなくて、悪化するのだ。

( ※ 政府が「景気回復する」という根拠は、「景気は自然に上がったり下がったり循環する。最近は、上向きだから、このままずっと上がるだろう」というわけだ。しかし、こういう「棒線グラフ」ふうの判断が間違いだと言うことは、先に示したとおり。 → 12月13日b
( ※ 正しくは? もちろん、棒線グラフなんていうヤマカンではなくて、ちゃんとしたマクロ経済学の理論である。ここでは「所得」が何よりも大事だ。何度も述べたとおり。そして、これを無視するから、景気回復はいつまでたっても、実現しない。)

 [ 付記 ]
 参考記事。(読売・朝刊・経済面 2003-12-26 より。)
 物価上昇率がプラスになる時期は、政府は2005年と見込んでいた。(12月19日の「改革と展望」の原案。)
 ところが、25日の経済財政諮問会議では、「中期展望」(改革と展望)という報告文書に書く文言として、2005年でなく2006年に変更しようという方向で検討中とのことだ。つまり、一年先送りである。
 なお、記事によると、IT関係の性能向上分を物価下落と見なすので、物価上昇率の数値が大幅に下落しがちである、とも述べている。で、消費者物価上昇率と、GDPデフレータ(包括的な物価上昇率)の、どちらを重視するべきか、という議論も生じているという。
 さて。私の考えでは、どうか? デフレの解決には、どちらの物価上昇率も考慮する必要はなく、単純に、GDPの名目成長率がプラスになればよい。( → 11月26日
 また、物価上昇率には、「コスト・プッシュ型」と「デマンド・プル」型とがあり、両者を区別せずに、単に「物価上昇率」だけに着目しても、無意味である。「コスト・プッシュ型」の物価上昇率は、起こると好ましいのではなくて、起こると好ましくないのである。( → 11月30日
 経済財政諮問会議の見方では、「ITの発達で性能が向上して、物価が下落する。ゆえに、デフレが解決しない」ということになり、「ITの進展は経済にマイナス」ということになる。しかしこれは、正しくない。「ITの発達で性能が向上して、物価が下落する。しかしこれは、コスト・プッシュ型の物価上昇率をマイナス値にすることであるから、好ましい物価下落である」と言える。物価下落が好ましくないのは、あくまで、デマンドの不足によって起こる物価下落であり、コストの下落によって起こる物価下落ではない。
( ※ 要するに、景気回復を知るには、物価上昇率に着目するのはダメなのだ。物価ではなくて、GDPの拡大に注目するべきなのだ。先にも述べたことだが。)


● ニュースと感想  (2月08日b)

 「再来年の景気予想」について。
 再来年のことまで予想すると、鬼に笑われるかもしれない。そこで、鬼だのみでなく、神頼みの予想をしておこう。嘘八百みたいだが、数学的には、当たる確率は 99.98%ぐらいあるらしい。(?)
 「聖書の暗号」(新潮文庫)によると、ヘブライ語の聖書にある文字をN字ごとに拾っていくと、何らかの有意義な文字が現れるという。ここで、数字のNは未確定であり、さまざまな整数を当てはめていく。実際には、面倒だから、コンピュータで探す。すると、有意義な文字が見出されるという。試しに聖職者の人物名で探ると、うまく見出せた。当然、「偶然だろう」と推測されて、さまざまな暗号解読かなどが批判しようとしたが、逆に、「偶然ではない」ということが数学的に証明されてしまった。「偶然ではない」確率は 99.98%ぐらいだ。一方、対比のために、「戦争と平和」のヘブライ語訳で調べると、このような偶然はまったく見出されなかった。

 さて。この「聖書の暗号」によると、ラビン暗殺やら、ケネディ暗殺やら、クリントンの大統領就任やら、湾岸戦争開始やら、阪神大震災やら、いろいろと予想されていて、すべて的中しているそうだ。これらは、過去の事実。
 では、将来は? 日本はどうなる? こうだ。「2000年から2006年の間に、大地震が襲って、日本経済は破滅的になる」という。
 これは、政府や小泉の予想とは、正反対である。つまり、日本経済は、回復途上にあるどころか、破局の危機に瀕している。

 さて。日本経済は、回復途上にあるように見えるのに、どうして、破局の危機に瀕していることになるのだろうか? この話(予想)は、ただの与太なのだろうか? 
 実は、そうではない。経済学的に考察すれば、日本経済はまさしく破局の危機に瀕している。なぜなら、あえてその道を取っているからだ。
 たとえて言おう。バクチをやって、勝とうとしたが、なかなか勝てない。勝ち負けで言うと、少しずつ負けている。最初は1万円ずつ賭けていたが、常に10円ぐらいずつ負けている。悔しくて、2万円、4万円、8万円、……というふうに、賭の額をどんどん増やしていった。それでもやはり、10円ぐらいずつ負けている。そこでさらにどんどん賭の額を上げていった。そして、今は、賭の額が100兆円を越えている。それでもまだ賭は勝てない。最近はときどき、微弱な額で買っているが、過去の負けを取り消すまでには行っていない。そこでさらに賭の額を上げよう、としている。「100兆円でもまだ効果がないのか。それならもっと賭の額を上げよう。どうせその金は、国民の金だ。どんどん賭けちまえ」と。
 かくて、日本は、100兆円を超える額の賭をやっている。これは、今のところ、何の損得ももたらしていない。しかし、将来は、わからない。うまく勝って、10兆円ぐらい儲かるかもしれない。それならそのとき、政府は「勝ち」を宣言して、賭をやめることができる。政府はそれを狙っている。しかし、「負け」になったら。……そのとき、政府は「負け」を宣言するだけだが、国民は膨大な損失に直面する。
 では、その具体的なシナリオは? 引き金は大地震かもしれないし、別のことかもしれないが、雪崩的に破局に至るとしたら、その経済学的な根拠は? ……それは、次項で説明する。
( ※ ついでに言っておくと、「破局」を説明するために、次項を書いたのではない。次項を書いたあとで、本項の内容を思いついたので、次項を書いたあとで、「前口上」ふうに本項を書き足したのだ。順序は逆になったが。)










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「小泉の波立ち」
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