[付録] ニュースと感想 (63)

[ 2004.3.10 〜 2004.3.19 ]   

  《 ※ これ以前の分は、

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● ニュースと感想  (3月10日)

 「年金問題」について。
 3月05日(2) では、こう述べた。「高度成長期には、人々が各人の富を減らして、社会の富を増やした。富を社会に渡して、社会の富を蓄積した。過去の世代が、子孫のために、富を贈ってくれた」と。── この事実を理解すれば、いわゆる「年金問題」の問題は、大したことはないとわかる。
 「現在の高齢者は、払った金の何倍も受け取れるが、現在の若者(将来の高齢者)は、払った金と同額程度しか受け取れない。不公平だ。年金制度が破綻する」
 というふうに問題視されている。しかし、この問題は、根本的な勘違いの上に成立している。
 そこにある議論は、「払った金の何倍を受け取るか」ということで、損得を考えている。しかし、現在の高齢者は、もともと所得が少なかったのである。得るべき所得を得ずに、社会に渡していたのである。
 現在の高齢者は、自分の富を減らして、社会に富を与えた。手に入れる富はわずかであり、かわりに、社会全体に富を与えた。企業や社会資本という形で。……換言すれば、現在の若者たちは、ろくに働くこともなく、(社会的遺産としての)企業や社会資本を利用して、多額の所得を得ている。つまり、もともとの所得のなかに、過去の世代からの贈り物が含まれている。
 ところが、現在の若者たちは、ここを勘違いする。「おれが月給で 20万円をもらえるのは、おれがその分、優秀だからだ。成果を出しているんだから、その分の成果を受け取るのは、当然だ。企業が稼ぎ出した金は、全部、おれたちだけの力で稼ぎだしたものなんだ」と自惚れる。彼らは、自分一人では何もできないということを理解できない。日本にはホンダやソニーやキヤノンが自分たちの生まれる前から存在して、社会的遺産が莫大に蓄積されているということを理解できない。自分たちが過去からの贈り物を利用して所得を得ているということを理解できず、単に、自分たちだけの力で金を稼いでいると思い込んでいる。傲慢不遜。自惚れ天狗。
 彼らが本当に「おれの力だけですべてを生み出したんだ」と思うのであれば、途上国の若者たちと同様にするべきだ。つまり、日本の高度な企業を利用することもなく、日本の高度な社会資本を利用することもなしに、どこかの無人島で、独力で稼ぎを出すべきだ。そして、そうできないのであれば、当然、社会の富を利用しているのだから、その利用料を払うべきである。つまり、過去の世代から贈られたものに対して、その贈り物に対する返済をなすべきだ。(さもなくば、泥棒か乞食だ。)
 そういう真実を理解しないで、「おれの金はおれのもの」なんていう主張は、あまりにも自惚れが甚だしい。彼らは、過去からの贈り物に気づかず、自らが受け取ったものに気づかず、自らが愛されたことを忘れてしまっているのだ。
 なるほど、現在の若者は、払った金と同程度しか、年金をもらえないだろう。しかしそれは、悲しむべきことではなくて、喜ぶべきことなのだ。なぜなら、それは、「所得が多い」ということを意味するからだ。「得るべきもの以上のものを得ている」ということを意味するからだ。
 結局、問題などは、何もないのだ。問題と見えることは、経済学的な無知に基づいて、勝手に勘違いしているだけのことなのだ。
 なお、どうしても問題を解決したけば、問題を解決することはできる。それには、どうするか? 若い世代は、高齢者の世代を羨ましがっているのだろうから、立場を交換すればよい。つまり、かつて高齢者の世代がなしたように、「得るべき所得を得ず、低所得に甘んじて、おのれの富を将来の世代に送る」というふうにすればよい。具体的に言えば、こうだ。現状は、「 20万円の給料を得た上で、年金負担に5万円を払って、あとで 10万円を受け取る」というふうになっている。倍率は、2倍だ。これをやめて、かわりに、こうする。「 3万円の所得を得た上で、年金負担に1万円を払って、5万円を受け取る」と。倍率は、5倍だ。それがいいというのなら、そういう人生を選べばよい。そのためには、日本を脱出して、タイやマレーシアあたりで、月給3万円の極貧生活で暮らせばよい。
 外国だと具体的なイメージがうまく湧かないといのなら、とりあえず、過去の日本人を見習って、極貧生活をしてもらいましょうか。ボロ家に住みながら、イワシと漬け物だけを食べて、クーラーも自動車もなしに暮らしてほしいものだ。ちびまる子ちゃんやサザエさんみたいにね。そういう貧しい生活をしていれば、あとで、払った金の何倍も受け取れるようになります。何しろ、もともと受け取れる給料が少ないんだから。
 要するに、生活の絶対レベルを理解せずに、「払った金と受け取った金の倍率」だけを考えるのは、阿呆の計算なのだ。経済学というのは、阿呆の計算をするためにあるのではない。

 [ 付記1 ]
 昨日(9日)以降、読売・朝刊に、東京オリンピックや万博などの担当者の回想録が連載されている。当時、貧しかった日本が、いかに社会資本の充実に心血を注いできたが、よくわかる。東京オリンピックの前の東京は、高速道路も高層ビルも何もなかった。それが今では先進国らしい大都会となっている。現在の日本の繁栄が、どれほど過去に負うているか、よくわかる。
 ときどき聞くが、「高速道路は、償還したら、料金をゼロにするべきだ」という主張がある。先人の遺産をタダで使いたい、という発想だ。それはそれで一つの発想だが、だったら、その分、先人に対して何らかの負担もまた課されるべきだ。「遺産はタダでもらいたいが、老人は山に捨ててしまいたい」というのは、人でなしの発想だ。たとえば、あなたの息子が、そう言いだして、あなたを山に捨てたがったとしたら、どうする? それと同じことを、今の若年や中年たちは言い出しているのである。鏡で自分の姿を見るといいだろう。どんなに醜い姿をしているか、よくわかる。── その鏡が、本項だ。

 [ 付記2 ]
 本項のポイントは、「年寄りに感謝しろ」という道徳的なことではない。経済学的なことだ。つまり、「高度成長期においては、(社会的な)投資が増えて、消費が減る」ということだ。
 そのことを、言葉を換えて表現すると、「投資を増やして、消費を減らしたから、高度成長を実現した」つまり「過去の世代が自己犠牲をしたから、現在の日本は豊かになれた」となるわけだ。3月05日 の話を参照。
 だから、私が言いたいのは、「年寄りに感謝しろ」ということではなくて、「すべてが自分の実力でもたらされたものだと自惚れるな」ということだけだ。つまりは、「事実を知れ。事実を誤認するな」ということだけだ。
( → 2月05日 [ 付記4 ]以降 )


● ニュースと感想  (3月10日b)

 前項の続き。「少子化と経済・文化」について。
 「少子化」というのは、大きな問題だと思える。日本の生産人口がどんどん減っていけば、大変なことになりそうだ。特に、出生率があまりにも急減すると、日本には生産者がいなくなってしまって、大変なことになるかもしれない。しかし、実をいうと、少子化が極端に進んでも、たいしたことはないのだ。(経済的には。)
 仮に、出生率がゼロになったとしよう。子供は一人もいなくなる。だとしても、ちっとも問題ではない。かわりに、外国人を導入すればいいからだ。単純労働者ばかりでは困るが、世界中には莫大な人口がいるのだから、そこから優秀な人々に来てもらえばよい。インドや中国やバングラデシュなどから、適当に選抜して、優秀な人に来てもらう。そうすれば、経済を維持していくことは可能だ。

 また、高齢の日本人は、残る短い人生だけを生きればいいのだから、日本の土地をすべて売り払ってしまえばよい。日本の莫大な国土を、外国人に売り払ってしまえば、莫大な富を取得できるから、それで高齢者をまかなうことができる。
 3月05日に述べたように、過去の世代は、日本に莫大な社会資本を残している。だから、それを外国人に売り払えば、贅沢ができるわけだ。こうすれば、「少子化で年金をまかなえなくなる」なんて大騒ぎすることはなくなる。
 では、将来の日本は、日本人だけのものにするか、あるいは、外国人を大量に流入させて日本を売り払ってしまうか? そのどちらにするかは、将来の日本人が決めることだ。現在も生きている人々にとっては、関係がない。どうせそのころには、われわれはみんな死んでいるのだから。

 ただし、だからといって、「少子化には何も問題はない」ということにはならない。経済的には何も問題がないとしても、日本から日本人が消滅してしまえば、日本語や日本文化が消滅してしまう。日本は中国に編入されてしまうかもしれない。そうなると、やはり、問題だ。
 結局、少子化は、経済的には大きな問題はないとしても、文化的には大きな問題がある。だから、その意味で、少子化はなるべく避けるべきことなのである。日本の文化を護るために。

( ※ 経済的にも、まったく問題がないわけではない。少子化にともなって、生活水準の下落は起こる。だから、経済的な意味でも、少子化は無害ではない。少子化は経済的には、世間を騒がしているほどの大問題ではないが、やはり、あまり好ましくないことだ。)
( ※ なお、少子化が好ましくないからといって、正反対の多子化が好ましいわけではない。「日本は人口が過大だ」ということは、かねて言われていた。狭い日本に人口が過剰である。そのせいで地価の急上昇などの弊害が起こる。自然破壊も甚だしい。……というわけで、「多子化・人口増にはデメリットがある」と言える。そして、それは、「少子化・人口減にはメリットがある」ということだ。少子化は、それなりのメリットも、結構あるわけだ。)
( ※ 長期的には、どうか? 日本の適正人口は、8千万人ぐらいだろうから、なだらかに少子化が進んでいくことが好ましい。つまり、少子化それ自体が問題なのではなくて、速度が急激すぎるのが問題であるわけだ。……ついでに言えば、地球の人口は過剰である。中国やインドなどが、先進国民としてのエネルギー多消費生活をしたら、地球は破滅しかねない。こっちの方が心配ですね。)


● ニュースと感想  (3月11日)

 「外国人労働者」について。
 3月10日bで述べたように、たとえ少子化が極端に進んでも、日本の富を外国人に売り払えば、高齢者には何も問題はない。たとえば、日本の国土や社会的な富を、外国人に売り渡して、それを少数の高齢者で配分すれば、少子化(つまり人口減少)が極端に進んだとしても、たいして問題ではない。
 ただし、である。外国人に有償で売り渡すのであれば問題はないが、無償でプレゼントするのであれば問題はある。それは「日本を外国人に乗っ取られてしまう」ということだ。たとえば、外国人が3千万人ぐらい流入して、生産活動をして、莫大な所得を得る。その一方で、日本人の高齢者(1千万人ぐらい)は、低所得の貧しい生活を送る。
 そして、そういうことは、現実に起こりうる。それは「外国人労働者を日本にどんどん流入させる」という政策だ。この場合はまさしく日本を外国人にプレゼントすることになる。外国人は大喜びだが、その分、日本人は貧しくなる。

 ここで、本質を考えよう。3月10日に再掲したとおり、3月05日では、こう述べた。
 「高度成長期には、人々が各人の富を社会に渡した」
 と。このことが肝心である。
 過去の人々は、富を社会に蓄積した。では、その社会の富を享受するべき人々は、誰か? もちろん、子孫である。
 ただし、外国人が流入すると、事情は異なる。日本人がどんどん減って、外国人ばかりになってしまえば、社会の富を受け継ぐのは、過去の人々の子孫ではなくて、外国人となる。
 外国人の立場から見れば、こうだ。自国には、社会の富がない。だから、貧しい暮らしをするしかない。しかし、日本に行けば、社会の富の分け前にあずかれる。自分たちが立派に働くから高賃金を得るのではなくて、過去の日本人が社会に富を蓄積してくれたおかげでその社会の富の分け前にあずかる。だったら、自国にいるよりは、日本に行った方が得だ。
 かくて、貧しい途上国の人々は、誰もかもが、日本に入りたがる。そうして日本にもぐりこみ、日本人が少子化で消えたあとでは、日本を乗っ取ってしまう。寄生虫というよりは、宿主を食い尽くすエイリアンみたいなものだ。

 ここで、朝日のような経済音痴のエセ人道主義者は、「外国人を流入させよう。そうすれば国際化が進む。ららら……」と旗を振る。(朝日・朝刊・社説と特集 2004-03-03 )
 これは一見、まともなことをいっているようだが、しかし彼らは、「外国人の無制限の流入」を主張しているわけではない。当然だ。無制限の流入では、中国人やバングラデシュ人が10億人以上も入り込んで、日本はあぶれてしまう。だから、彼らエセ人道主義者は、「外国人を流入させよ」と主張しながら、「ただし受け入れ人数の制限をする」と主張する。では、どうやって? 「クジ引き」だ。
 要するに、外国人に対して、「日本に蓄積された社会の富を分け与えるための、クジ引きをする」ということだ。で、その結果、当選したごく少数の人々は、日本に蓄積された社会の富を分けてもらって、大喜び。はずれた人々や、途上国に残る人々は、貧しいまま。……それでも日本人は、「おれたちは分け前を与えてやったのだから、立派なことをしたな。おれたちは偉い」と、いい気でいられるのである。(エセ人道主義者。)

 では、どうするべきか? 
 この件については、前にも述べた。「クジ引き」なんていう馬鹿げたことはやらない。
 第1に、「資格制限」にする。高度な技能を持ち、日本に貢献する人々のみを、数量制限なしに受け入れる。資格制限はしても、数量制限はしない。……このことは、経済学的な原理だ。需給曲線で説明できる。買い手と売り手のバランスが取れないときには、クジ引きで配給するなんてことはやめて、市場原理に任せる。最も高度な技能を持つ種類の集団から順に受け入れれば、うまくバランスが取れる。
 第2に、外国の貧しい人々に対しては、ODAなどの「海外援助」の形を取る。「クジ引きで少数の人々を富豪にする」なんていうことよりは、「平等に全員を少しずつ豊かにする」ことの方が正しい。同じく社会の富を配分するにしても、税と海外援助の形の方が、ずっと好ましい。……朝日のようなエセ人道主義者には、経済学のことはまったくわからないのだろうが、「外国人の受け入れ」と比較すべきは、「外国人の受け入れをやめること」ではなくて、「海外援助をする」ということである。彼らは自分たちが「海外援助を減らす」と主張していることに、気づかない。少数の外国人に社会の富をたんまりと分けてしまったら、日本国民はその分、貧しくなる(所得水準が低下する)から、海外援助に回す金が減るのだ。そういう経済学的な効果を理解するべきだ。日本人が1兆円の金を失うにしても、その1兆円を、特定の少数の外国人に配分するか、世界中の貧しい人に配分するかは、二者択一である。そして、前者を主張するのが、エセ人道主義者である。

 なお、方法としては、上の二つが大事だが、もっと基本的なことがある。それは、「外国人労働者を多大には流入させない」ということだ。あくまで有能な少数に留めるべきであり、多大な数を流入させてはならないのだ。なぜなら、日本には、それをまかなうだけの富がないからだ。いくらでも無制限に富をばらまくことなどはできないからだ。
 「自分たちの豊かさを外国人にも分けてあげよう」とエセ人道主義者は主張する。しかし、自分たちの豊かさというのは、自分たちで稼ぎ出したものではない。過去から贈られたものなのだ。あなたの豊かさは、あなたが作り出したものではなくて、先祖があなたに贈ってくれたものなのだ。そして、それは、無限にあるのではなくて、有限である。なのに、先祖から受け継いだ遺産を、勝手にどんどん他人にプレゼントして、それでいい気になる人々のことを、「ごくつぶし」と言う。
 もし「自分たちの豊かさは、自分たちで稼ぎ出したものだ」と信じるのであれば、過去からの遺産の存在しないところで働くべきだ。たとえば、途上国に行って、無の上で生産活動をするべきだ。そこには、道路も電気も水道も十分にはない。イラクのサマワのようなものだ。そういうところで、自分の力だけで稼ぎ出せばよい。……もしそうするのであれば、私は尊敬する。逆に、先祖から受け継いだ遺産を勝手にプレゼントしたり、日本国民の富をサマワだけに集中的にプレゼントしたりして、それで善人顔をするようであれば、私は尊敬などしない。ごくつぶしの輩を尊敬することなど、ありえない。(朝日と小泉のことを言っているんですよ。)
 とにかく、「外国人を日本で働かせよ」などと主張する人は、そのかわりに、まず自分自身が途上国に出て行くべきなのだ。自分が崇高なことを主張していると思うのであれば、まず自分が崇高な行動を取るべきなのだ。海外青年援助隊にでも、すぐさま応募するべきだ。まかり間違っても、「他の日本人の財布の金を奪ってプレゼントしよう」なんて思うべきではない。それを善行とは言わない。

 [ 付記1 ]
 朝日は「日本人が就きたがらない職種がある」と主張する。とんでもない勘違いだ。いわゆる3K(キケン・キタナイ・キツイ)には、日本人労働者は就きたがらない。しかし、その理由は、「低賃金」だからである。「高賃金」にすれば、いくらでも労働者は現れる。たとえば、昔、船員(特に漁船の)は日本をずっと離れていて、家族とろくに暮らせず、毎日もひどい労働環境だった。命を落とす人々も多かった。それでも、労働者はたくさんいた。なぜか? 非常に高賃金だったからだ。
 不人気な職業は、高賃金にすれば、労働者は現れる。これが本質だ。朝日のような主張は、結局、「社会の底辺層の賃金を不当に切り下げよ」と主張しているのと同様だ。とんでもない。単純労働者の受け入れで、技術者や専門職は困ることはないとしても、社会の底辺層の人々は非常に困る。貧しい人々は、続々と失業するハメになる。
 これに対しては、何らかの補償が必要だ。だから、「単純労働者を増やせ」と主張するのであれば、当然、その分の失業者について、「日本人失業者の失業手当の分、国民一般に対して増税せよ」と主張するべきだ。また、不均衡でなくて均衡であれば、やはり同様に、「単純労働者の賃金低下の分、低所得者に対して所得補償をするので、中高所得者に対して増税せよ」と主張するべきだ。さもなくば、日本人の底辺層の人々ばかりが、割を食う。貧しい人々ばかりが富を奪われる。
 「外国人の単純労働者を流入させよ」ということは、「日本人の単純労働者を失業させたり賃下げさせたりせよ」というのと同様だ。なるほど、そうしても、それらの人々は経済的には日本経済に安定的に組み込まれるだろうが、日本人の底辺層の生活レベルは確実に低下するのである。最も困っている人々がさらに困るのだ。
 なのに、そういうことを理解しないで、自分の理想ばかりを掲げる輩が、朝日のようなエセ人道主義者だ。血も涙もない。彼らがいかに身勝手であるかは、「朝日の記者や論説陣に外国人を登用せよ」と主張しないことからもわかる。本来ならば、朝日の論説陣の半分ぐらいは、外国人にするべきなのだが。当然、現在の執筆者は、解雇される。当然だ。それが彼らの主張なのだから。

 [ 付記2 ]
 「中国人就学生の数が激減した。犯罪者抑制のため、預金証明や所得証明で人数制限したため」という報道があった。(朝日・朝刊 2004-03-07 )
 これについて、「そんなことはダメだ、優秀な就学生まで拒否してしまう」と朝日は主張している。なるほど、それはそうだ。では、どうすればいいのか? 
 朝日の主張に従えば、次のいずれかだ。
 「10億人を無制限で受容する」
 「貧しくても修学できるように奨学金を与える」
 「クジ引きで受容する」
 しかし、1番目と2番目は不可能だし、3番目はかえって悪くなるだけだ。(預金証明の方がまだマシだ。いくらか名分が立つ。)
 では、正解は? 先に述べたとおり、「資格制限」である。ただし、ここでは、「技能」が大事だが、就学生の場合、プロの技能はないだろうから、次の2点を重視する。
 ・ 若年者(まだ技能がない)の場合は、日本語能力。(TOEFL,TOEIC のような日本語技能試験で検定する。)
 ・ 成年(技術を導入する技術者など)の場合は、日本語能力と、技能証明(または所得証明・課税証明)。
 なお、現状で問題になっている犯罪者は、どちらでもない人々だ。つまり、「すでに成年でありながら、いまだに技能が低く、中国でも所得が少ない底辺層であるが、日本に来て一発山当てを狙い、しかし夢やぶれて、仕方なく犯罪に走る」というタイプだ。能力のある人ならば、自分の能力に頼るから、犯罪には走らない。能力のない人々は、犯罪に走るぐらいしか、金を得る方法がない。だから、外国人による犯罪が起こる。
 こういう現状を無視して、「無制限に流入させよ」とか、「クジ引きで」とか、そういうデタラメな方法で対処しようとしても、外国人による犯罪を回避できないのだ。きれいごとばかりを言っていれば、社会に矛盾が蓄積しする。かくて、社会不安が高まり、外国人排撃の世論が高まる。欧州のドイツその他のように。
 現実を無視して、夢ばかりを見て、エセ人道者としての声を上げれば上げるほど、かえって日本の国際化を阻止する結果になるのだ。

 [ 付記3 ]
 「老人介護」における人手不足の問題は、どうするべきか? 外国人を日本に流入させるよりは、日本人を外国に運ぶべきだろう。( → 2月20日5月18日 「シルバーコロンビア」)
 ただしこれは、強制ではなくて、任意選択とする。国内で劣悪なサービスを受けるか、海外で優良なサービスを受けるかは、本人の自由だ。ただ、いずれにせよ、かけるコストは同等にするべきである。
 老人介護というのは、単なる福祉政策の問題ではなくて、コストの問題でもある。「いくらでも金をかけていいから福祉を充実させる」なんて考えていては、国家経済が破綻してしまう。先に出せる金があり、その出せる金の範囲内でサービスを得るしかない。話を逆にしてはならない。
( → 2月20日b にも、本項と同趣旨の話。)


● ニュースと感想  (3月12日)

 「外国人労働者と犯罪」について。
 外国人労働者の犯罪が急増しているという記事があった。(朝日・夕刊 2004-03-11 )
 これは、当然であろう。留学目的ではなくて、単純労働だけを目的に、日本に来る。しかし日本は不況であり、単純労働者はあぶれている。とすれば、残る道は、餓死するか、犯罪に走るか、二者択一だ。当然、犯罪に走るしかない。
 結局は、彼らもまた「単純労働者を日本に入れよ」なんていう笛に踊らされた大勢の一人であったわけだ。
 では、どうするべきか? 「国外追放にする」というのも手だが、だったら最初から、日本に入れなければよい。そうすれば、彼らは、日本で無駄に人生をつぶさずに済む。
 もう一つの手は、彼らに失業手当や生活保護を施すことだ。つまり、「何もしないで遊んでいてください。そのためのお金は日本人が恵んであげます」というふうにすることだ。そして、そのための費用は、日本人への増税でまかなう。……つまり、日本人がせっせと働いて、遊んでいる外国人に金を恵んでやればいいのだ。
 馬鹿げた話のようだが、これしか方法はあるまい。「単純労働者を流入させよ」となったなら、「犯罪」か「無為徒食」か、どちらかをやらせるしかないのだ。日本はデフレなのだから。そして、たとえデフレを脱出したとしても、将来、景気悪化のたびに、そうするしかない。
 狂気の政策ではある。しかし、そもそもの話、「単純労働者を流入させよ」というのが、狂気の政策なのである。最初に狂気の政策を選択したならば、その後も狂気の政策を選択するしかない。そして、そうしないから、日本は今、外国人犯罪者によって、金や命を奪われているのだ。馬鹿丸出し。狂気のかわりに、馬鹿をあえて選んでいる。……そして、それを「素晴らしいこと」と称するのが、エセ人道主義者だ。

 [ 付記 ]
 人道主義者とエセ人道主義者の違いは、何か? それは「身銭を切るかどうか」ということだ。
 「外国人は貧しいから、職と金を恵んであげよう」という主張は、わかる。ただし、そのためのコストをまかなうために、自らの身銭を切るべきだ。不況で職を得られない外国人のためには、彼らの生活費をまかなうために、自らの身銭を切るべきだ。そうすることができるのであれば、真の「人道主義者」と呼べる。世間一般の人々がどうするかには関係なく、自らの身銭を切ればいい。たとえば、朝日の社員の給料から1割を天引きして、日本にいる外国人失業者のための生活費をまかなうために使う。
 一方、「身銭を切りたくない」というのが、エセ人道主義者だ。「そのためのコストは、国が払えばいい」とか、「金持ちだけが払えばいい。おれは貧乏だから払いたくないね。新聞記者というのは、年収がたったの千万円ぐらいで、非常に貧乏なんだから」とか、そういうふうに勝手な主張をするのが、エセ人道主義者だ。彼らは、「金は他人の財布から出してもらいたいが、おれはかわりに口を出す」という立場だ。それで善行をしたつもりになっている。
 言っておきますがね。そういう人たちは、自分では善行のおかげで、天国に行けるつもりだろうが、逆に、地獄に堕ちますよ。

  【 追記 】
 基本的なことを、追記的しておく。(当り前だと思えたので、特に記さなかったが。)
 「外国人労働者に職を与えよ」という主張は、「職を与えるのであれば、金を与えるのとは違う」という錯覚に基づいているようだ。「金を与えるのは、富の損失であるが、職を与えるのであれば、富の損失ではない。外国人労働者は、働いて金を得るだけだから、日本人は誰も損しない。誰も損しないで、外国人労働者が幸福になるのだから、これはうまい方法だ。これを阻止しているのは、差別主義者だけだ」と。
 あまりにもお粗末な主張である。こんなことを考えている人は、このホームページの読者にはいないだろうが、世間にはこういうメチャクチャな理屈を信じている人もいるようなので、念のために注記しておこう。
 外国人労働者が、知的な職業に就いているのであれば、その主張は正しい。日本では、技術者などの知的な職業の人々は、彼の能力による経済効果に比べて、彼の得ている所得はわずかだ。だから、こういう知的な職業の人が日本にどんどん入ってくれば、日本の経済力はどんどん高まり、日本にとって有利である。
 しかし、彼が単純労働者であれば、話は違う。単純労働者は、日本人でも外国人でも、たいして違いはないのに、ただ日本にいるというだけで、外国にいる人々よりも、圧倒的に高い賃金を得られる。ゴミ掃除だとか、商品販売だとか、あるいは農業の稲作だとか、これらと同じ仕事をしている人々は、途上国では低賃金だが、日本では高賃金である。つまり、日本にいる単純労働者は、非常に恵まれている。だから、本来ならば、彼らの賃金は、非常に低額であってもいいはずなのだ。しかし、それだと、彼らはまともな生活ができない。そこで、低所得の単純労働者に、相応の額以上の高い額の賃金を与える。これは一種の福祉政策のようなものだ。……ところが、ここに外国人の単純労働者が入ると、需給のバランスが崩れてしまう。低所得の単純労働者は、労働力の過剰のせいで、どんどん低賃金になっていく。結局、外国人の単純労働者が入ると、そのしわ寄せを受けるのは、日本人の単純労働者なのだ。つまり、日本の底辺層の人々なのだ。換言すれば、「外国人の単純労働者を幸福にせよ」ということは、「日本人の単純労働者を不幸にせよ(賃下げせよ)」ということだ。
 こういう事情は、経済学のイロハである「需給関係」を理解していれば、簡単にわかる。つまり、「供給が増えれば、価格は下がる」と。なのに、こういうイロハも知らない人々が、「外国人の単純労働者を入れるのは、人道問題だ」とだけ考えて、経済問題であることを無視してしまうのだ。経済音痴は、最も苦しい人々をさらに苦しませ、さらには貧しい人々を自殺させる。自分を天使だと自惚れている阿呆は、悪魔も同然なのだ。


● ニュースと感想  (3月12日b)

 「少子化・年金の問題と定年延長」について。
 少子化・年金の問題がある。「少子化が進んで、少数の現役世代が、多数の高齢者を支えられなくなる」という問題だ。
 これはこれで、問題となる。たとえば、少子化が極端に進んで、日本人がまったく消えてしまうとしよう。この場合、「日本を売り払う」という形で、経済的には解決が付く。しかし、文化が消えてしまう。( → 3月10日b ) こういうのはいわば、日本が外国に乗っ取られてしまうのも同然だ。( → 3月11日 ) だから、老人を養うかどうかという問題は別として、少子化というのは問題だ。(急激かつ極端であれば。)
 これに対して、「少子化を改善しよう」という意見もあるが、超長期的にはともかく、今さら少子化対策をしても、今後、30年ぐらいは、どうにもなるまい。となると、「少子化」を前提とした社会を模索するしかあるまい。

 少子化に対応するとしても、少子化がそこそこであれば、何とかなる。(前述の通り。)しかし、あまりにも少子化が極端に進んだり、日本がひどい不況になったり、大地震が起こったりすると、日本経済は破滅的になる。こうなると、「年金問題なんか、ぜーんぜんダイジョーブ」なんてお気楽には言っていられなくなる。なんとかしなくてはならない。では、どうするか? その道は、二つだ。

 第1は、「年金水準の切り下げ」だ。これはこれで、別に問題ない、と思える。高齢者に必要なのは、衣食住だけだ。この点ならば、現在の給付水準の半分に低下しても、たいして問題はない。その水準でも、昭和三十年代(ちびまる子ちゃんのころ)に比べれば、はるかに豊かな生活ができる。当時と比べれば、日用雑貨品は、輸入品のおかげで、信じられないくらい安くなっている。
 ただし、問題があるとすれば、住居費だ。この問題は、「老人は地方へ」というふうに移転させることで、解決が可能だ。だいたい、大都市の交通至便なところに老人がたくさん住んでいて、交通の不便なところに若夫婦が暮らして長時間通勤する、なんてのは、話が倒錯している。逆であるべきだろう。そして、そうすれば、高齢者は自宅を高額で手放して、多額の現金を入手できるから、一石二鳥である。「住み慣れたところに暮らしたい」という気持ちはわかるが、だったら、そういう贅沢のためには、年金の受給を断念してもらうしかない。遊び人の贅沢のために金をプレゼントし、働く人からは多額の税金を吸い上げる、なんてのは、本末転倒であるからだ。国がなすべきは、贅沢への補助ではなくて、最低限の衣食住の保証だけである。「地方に暮らせば豊かな暮らし」となるのであれば、それで十分だ。「住めば都」と言っておこう。

 第2は、「定年の延長」だ。昔に比べれば、栄養状況が改善したせいか、最近の高齢者は、非常に元気だ。だから、「60歳定年」なんてのを廃止して、「定年なし」にするべきだ。
 だいたい、「定年」なんて制度は、かなりメチャクチャな制度である。昔は「55歳定年」であったが、十分に働ける55歳で解雇する、というのは、メチャクチャだ。ただし、当時は失業者が過剰であったから、「若手を優先して雇用する」という趣旨であっただけだ。現在でも、60歳ならば、まだまだ十分に働ける。こういう人々が、どんどん社会に出て働いて、70歳ぐらいまで働くようにすれば、年金問題は大幅に改善する。
 ただし、企業が「そんなのはいやだ」と反対するだろう。そこで、ここでは法律が登場するべきだ。なるほど、「60歳定年」というのは、企業の内部の問題であるから、企業がそういう制度を用意するのも、あながち法律違反とは言えない。しかし、だとすれば、その制度を、企業自身が厳守するべきだ。現実には、どうか? 「60歳定年」と口に出していながら、「ただし経営者は別です」と尻抜けのことを言い出す。冗談ではない。こういうのは、「泥棒はいけないことだけれど、自分が泥棒するのは許されます」というのと同様だ。
 だから、「60歳定年」という制度を整えた会社では、経営者も全員、「60歳定年」を厳守するべきだ。当然、現在、経団連にいるような年寄りな会長たちは、全員、会長の職を辞して、定年退職してもらうことになる。当然である。
 たぶん、彼らは、「われわれは個別の事情で、能力があることが確認されている」と主張するだろう。それならそれで、同様のことを、従業員にも認めるべきだ。そして、そうしないとしたら、完全な差別である。「自分だけは泥棒をしてもいい」というのと同じであるから、公序良俗に違反するし、明白な差別条項であるから、憲法にも違反する。
 というわけで、「経営者と従業員との差別の禁止」という形で、「定年の延長」を実施するといいだろう。
 なお、この件については、最近、追い風となる状況がある。それは、「定昇廃止」「成果主義」という企業の主張だ。この主張に従えば、当然、「年功給の廃止」「能力主義」につながるから、「能力のある高齢者」は、むやみやたらと解雇されなくなるはずだ。

 [ 付記 ]
 なお、経団連としては、この方針(高齢者の雇用)を、どんどん推進した方がいいだろう。次のメリットがあるからだ。
 しかし、「途上国に移転した方が、賃金を下げられる。だから、途上国に工場を建てた方がいい」と思う経営者もいるだろう。その場合は、さっさと途上国に工場を建てればいい。日本にいる必要はないから、途上国に出て、途上国の会社として存続すればいいだろう。そのうち、経営者も途上国の人になるはずだ。
 なお、「従業員は途上国で、経営者は日本」というのは、最悪である。意思の疎通がなくなるので、競争で負けてしまう。典型的な例が、アイワだ。この会社は、そういう路線を取って、低価格製品を出したあげく、技術の進歩がなくなり、製品が売れなくなり、今では会社が消滅してしまった。
 キヤノンの例で言うと、「技術水準が低くて労働集約的な製品は、中国で。技術水準の高い先端製品は、日本で」というふうにしている。これが最適だろう。そして、この方式をとる限り、日本国内には日本人労働者の採用される余地は、十分にあるのだ。「国内では人件費が高い」なんて主張する経営者は、帳簿を見る能力があるだけであって、経営能力がゼロなのであるから、さっさと定年退職した方が会社のためである。
( ※ 老人経営者が会社を滅ぼした例には、枚挙に暇がない。ダイエー、そごう、武富士、西武、……いずれも、壮年時代に会社を急成長させたトップが、老年ぼけをしたあとでも居座り続けて、ワンマン経営を続けたあげく、せっかく伸びた会社をぶちこわしてしまった。彼らが老年ぼけをする前に、さっさと引退しておけば、日本はずっとよくなったはずなのだ。)

 [ 補足 ]
 本項は、別に、「老人を徹底的にこき使え」と述べているわけではない。「働きたい人は働けるようにしよう」と言っているだけだ。
 「働いて、金を稼いで、忙しく暮らしながら、社会貢献もする」という生き方と、「働かないで、貧しい生活を送るが、のんびりと暇な時間を楽しむ」という生き方と、二つある。そのどちらを取るかは、各人に任せるべきだ。
 現状では、後者しか選択肢がない。だから「選択肢を増やせ」というのが、本項の主張だ。
 なお、後者のライフスタイルこそ正しい、という主張が、しばしば朝日新聞に見られる。そういう発想はあってもいいが、だからといって、押しつけがましいのはやめてもらいたいものだ。だいたい、自分自身が忙しく暮らしているのだから、言っていることとやっていることが矛盾している。本気でそう思うのならば、新聞記者なんていう職業をやめるべきだ。
 私が思うに、こういう主張は、たぶん、記者にとっての「見果てぬ夢」または「ユートピア」なのであろう。ただし、夢を夢と自覚せずに、夢と現実を混同しているところに、彼らの狂気と錯乱がある。(酒とコーヒーををいっしょに飲みながら記事を書いているせいだろう。)

  【 追記 】
 上記で、「セル生産」について述べた件は、私の認識が不足していたようだ。読者からのご教示を得たので、訂正しておく。
 第1に、「セル生産」という用語が正しく、前に記述した「ユニット生産」という用語は正しくない。(修正済み。)
 第2に、「セル生産」は、現実には、低能率の人のためというより、高能率の人のためにある。「低能率な人もゆっくり」というのではなくて、「非常に高能率の人がてきぱき」というわけだ。この点、ベルトコンベア方式だと、最も作業能率の悪い人に速度を合わせざるを得ないので、効率が低下する。
 第3に、「セル生産」が有効なのは、「余分な在庫を出さない」という「カンバン方式」に近い意味がある。
 その他、あれやこれやで、私が先に述べたことは、あまり適切ではなかったようだ。高齢者にとっては、単純な作業の続くベルトコンベア方式の方が適しているかもしれない。
 こういう話は、生産現場の人々の方が、私などよりも詳しいだろう。新聞記事やテレビ番組を鵜呑みにした私なんかよりは、現場を知っている人の方が、ずっと正しい。どのような生産方式がベストであるかは、たぶん、ケースバイケースであろう。そして、その知識は、現場の人々が、一番よく知っている。マクロ経済学者とか、経営コンサルタントなんてのは、生産技術のためには、何の役にも立たないのである。
( ※ ただしまあ、こういう話は、本項の趣旨からは、逸脱してしまっている。私の言いたいことは、「老人を遊ばせるよりは、働かせた方が、本人にとっても社会にとっても、有益だ」ということだ。最適の生産方法をどうするべきかは、当事者にお任せする。)


● ニュースと感想  (3月13日)

 「円安の本質」について。
 円安介入や中国通貨の為替介入については、少し前に述べたが、その本質を示しておこう。
 少し前に、こう述べた。( → 3月05日 の最後 )
 「1ドル=360円のころに、せっせと金を溜め込んでいたのに、今はドルの価値が3分の1以下まで低下してしまったから、稼いだつもりの金はほとんどが泡と消えてしまった」
 「いっぱい働いて、金を稼いでいるつもりでも、その金は外貨資産になっているから、現金に戻すときに、暴落してしまうわけだ」

 だから、「円安で輸出が増えた」と喜んでも、何の意味もないわけだ。仮に、「輸出が増えることが大事」と思うのであれば、すべてをタダで輸出すればいいわけだ。そうすれば、いくらでも多量に輸出できる。どうせ金を得ても「泡と消えてしまっても構わない」と思うのであれば、タダで輸出すればいいことになる。
 冗談のようだが、現実には、これが半分ぐらい当たっている。それどころか、「1ドル=360円」から「1ドル=120円」に急上昇した時期には、3分の2が泡と消えてしまったのだ。
 では、円安は、輸出産業にとって損なのか? いや、そうではない。自動車産業や電器産業は大儲けしている。では、誰が損をするのか? 日本国民全体だ。円安を通じて、高価な輸入品を購入することで、富を失う。
 だから、円安というのは、「日本国民全体の富を、輸出産業に与えること」という配分変更をともなうのである。円安が進めば進むほど、輸出産業は儲かる。この意味では、円安派の主張は正しい。ただし、彼らは見失っているが、その反面で、国民全体は富を奪われるのだ。(たとえばガソリンや肉などの値段が上がる。)
 デフレのときには、円安介入による輸出超過で、GDP増加の効果はある。たしかに景気回復効果はある。ただし、このとき、輸出産業は過剰に利益を得ているのである。輸出増加による利益だけでなく、国民全体の富を奪うという利益も得ているのだ。
 だから、今、「自動車産業や電器産業が輸出増加で大儲け」という報道を見ても、それを「景気回復の証拠」と理解してはならない。輸出産業が儲けているということは、あなたが富を奪われているということなのだ。たとえば、泥棒があなたの金を奪ったとき、「泥棒の富が増えたから、私も嬉しい」と思うのは、馬鹿げている。なのに、それと同様のことを主張しているのが、今の古典派経済学者なのである。
( ※ 「でも僕たちも給与が増えているよ」と思うかもしれないが、それは、少しはおこぼれが回ってきているというだけのことだ。輸出産業がボロ儲けして、輸出産業の労働者もかなり儲けて、その消費を受けて他の人々もおこぼれをもらう。その反面で、輸入価格の上昇を通じて、大損する。……ただし、この大損は、デフレの最中には発現しない。デフレ脱出後に、莫大な貨幣供給量による物価上昇という形で、発現するのだ。「損をしていない」のではなくて、「今は損が猶予されている」わけだ。)


● ニュースと感想  (3月13日b)

 「円安介入の条件」について。
 円安介入について、私は否定的に述べてきた。ただし例外的に、「円安介入は善」と言えることがある。その条件を示そう。

 (1) 景気悪化が浅い場合
 景気悪化が浅い場合には、「円安介入は善」と言える。では、なぜか? 
 「円安介入は善」と言えるのは、「それによって景気回復が可能になる場合」である。換言すれば、数兆円程度の輸出増加によって、不均衡から均衡へと転じることができる場合だ。それは、「景気悪化が浅い場合」である。
 ただし、こういう場合には、「公共事業の追加」や、「中規模の減税」などでも、同様に数兆円の需要増加があるから、別に、円安に限らなくても、他の政策でも同等の効果を得る。また、「インフレ目標」によっても、ほぼ同等の効果を得るだろう。
 いずれにせよ、需給ギャップが数兆円の規模である場合には、数兆円の規模の需要増加によって、景気回復が実現する。その場合に、そういう政策のどれを取っても有効であるし、そういう政策のどれもが正しい。
 しかるに、需給ギャップが 30兆円という大きな規模である場合には、上記のいずれもが、有効ではないし、正しくない。この場合には、「大規模な減税」だけが有効である。
 需給ギャップが大きいときに、やたらと円安介入をすると、副作用が大きくなりすぎる。この話は、すでに述べたとおり。

 (2) 思惑の投機への対抗としての場合
 海外の投機資金からの過剰な流入がある場合には、円安介入は正しい。たとえば、以前、1ドル=85円 ぐらいになったことがあるが、この場合には、円安介入は正しい。こういう場合は、「為替相場の安定」が基準となる。
 では、「為替相場の安定」が基準となるのは、どういう場合か? そんなことは、経済学の常識に照らし合わせれば、すぐにわかるだろう。次のような諸点が判断基準となる。  これらの諸点に照らし合わせれば、最近の円相場については、次のように判断できる。  現実を見れば、あらゆる指標において、「円高・ドル安」が当然である。ただ一つ、例外があるとすれば、「円の貨幣供給量の増加(貨幣価値低下)」があるはずなのだが、現実には、デフレであるから、円は「貨幣供給量の増加」と「貨幣価値低下」とが、等価でない。だから、この点は、無視してよい。

 まとめ。
 「円安介入は善」と言えるような例外的な場合もある。ただし、現在の日本は、そういう例外的な場合に当てはまらない。現在の日本においては、「円安介入は善」と言えない。
( → 2月13日 にも、同じ話題で述べた。)


● ニュースと感想  (3月14日)

 「景気予想と円安介入」について。
 景気の予想については、私は「四月以降は景気悪化」と予想した。ただし、現在の状況を見ると、この予想を先延ばしした方がよさそうに思える。つまり、「四月以降」ではなくて、「夏以降」または「秋以降」の景気悪化である。
 では、なぜか? 仮に、景気回復が本物であれば、「四月以降」を訂正するのではなくて、「景気悪化」そのものを「景気回復」に訂正しなくてはならないことになる。しかし、そうではない。その理由は、日銀の「円安介入」の継続である。
 私が先に景気を予測したときには、「円安介入」は、昨年の冬ごろでおしまいだと想定していた。ところが現実には、3月になってもいまだに日銀は大規模な介入を続けている。当然、輸出はその分、増える。おおざっぱに言えば、日銀が毎月3兆円の円安介入をすれば、輸出は毎月3兆円増える。日銀が3兆円を米国に貸して、米国がその3兆円で日本の輸出品を購入する。……この毎月3兆円という規模は、きわめて莫大であり、需給ギャップを解消するに足る金額だから、景気に大きく影響して、不況脱出に近い効果をもたらす。
( ※ ただし、現実には、3兆円がそのまま直接的に効果をもたらすわけではない。日本の貿易黒字は1兆円程度。

 さて。ここで、問題だ。ともあれ、そういうふうに、「円安には景気回復の効果がある」と言える。だとしたら、こういう「円安介入」を景気回復策として「是」と認めるべきだろうか? ここで、立場が別れる。
 古典派(マネタリストなど)は、「是」と認める。「外国為替市場における金融介入で景気が回復するのだから、これこそ貨幣政策の成功であり、古典派経済学の勝利である。パンパカパーン」というわけだ。
 ただし、この主張は、実は、ケインズの「公共事業」政策とそっくりである。ケインズの「公共事業」政策は、「公共事業を増やせば景気は回復する」であり、「円安政策」は、「円安介入を増やせば景気は回復する」である。そのどちらも、「景気回復」というメリットだけを見て、おのが主張を正しいと主張する。
 ここで、注意しよう。私が「円安介入」に反対しているのは、「それが効果がまったくない」という意味ではない。効果はある。ただし、それにともなう副作用が問題なのだ。
 以下では順に説明しよう。

 (1) 効果
 円安介入には、その金額の分の何割かは、「輸出増加」の効果があり、「GDP増加」の効果がある。この件は、すぐ前に述べたとおりだ。
 ただ、私は先に、「せっかく得た金が所得に回らなくては、金は滞留するだけだ」と述べた。ただ、これは、真偽が半々だ。輸出企業が得た金は、多くは企業の懐に滞留するとしても、残業手当などを通じて、労働者にもかなり配分される。
 実を言うと、先日の週刊誌の調査によると、トヨタやホンダはかなり高額の賃上げを実施しているそうだ。建前の上では自動車業界では日産だけにベアがあったはずだが、労働者の側で給料を調べると、日産よりもトヨタやホンダの方がずっと高額の賃上げがあったらしい。つまり、「ベアゼロ」と言って世間をだましておいて、自分たちはこっそり賃上げをしているわけだ。
 というわけで、何やかんやの理由で、輸出産業の労働者の所得も増えるから、所得増加の効果もいくらかはあり、GDP増加の効果もいくらかはある。どうせ年に 30兆円も投入するのであれば、消費増加のための「減税」に全額を投入した方が、よほど効果的ではあるが、輸出増加のための「円安介入」に全額を投入しても、効果はいくらかはあるわけだ。
 というわけで、全国民の所得向上を通じた本質的な景気回復にはならないとしても、カンフル剤を持続的に注入することによって、一時的な景気回復を長々と継続することはできるわけだ。かくて、本質的な治療であるかどうかを別とすれば、効果はいくらかはあることになる。

 (2) 副作用
 問題は、効果の有無ではなくて、それにともなう副作用だ。
 古典派の経済学者ならば、「(円安介入で)景気回復さえなされればいい。他のことは知ったこっちゃない」と言うだろう。ケインズ派の経済学者ならば、「(公共事業で)景気回復さえなされればいい。他のことは知ったこっちゃない」と言うだろう。どちらにしても、「景気回復」という効果だけを見て、自身の政策を「成功」と見なす。そして、それにともなう副作用を無視する。
 では、副作用とは、何か? 「公共事業」にともなう副作用は、「赤字の蓄積」ないし「借金」であった。では、「円安介入」政策にともなう副作用は、何か? それは、先にも述べたように、「通貨危機」である。( → 2月09日
 つまり、景気回復にともなって、「不均衡」から「均衡」に転じると、「薪に火がつく」形になって、一挙に需要が増えて、「物価上昇」が異常に発生する危険が高い。これは、マネタリストの主張するとおり、「貨幣供給量の増加が物価水準を上昇させる」からである。
 ここで、「薪に火がつく」という形で、急激に状況が変動するのは、「投機需要」がある。この「投機需要」のせいで、金融政策によるコントロールが困難になる。(ハイパーインフレは制御しがたい、という説の通り。)(なお、投機需要については → 1月30日
 結局、大規模な「円安介入」は、「景気回復の効果がない」という問題があるのではなくて、(一時的ではあるが)「景気回復がある」ということ自体に問題があるわけだ。景気回復効果が緩慢であるうちは、人々のインフレ予想は弱いから、「薪に火がつく」ことはなくて、需給のバランスは取れている。ところが、ある時点を境に、人々のインフレ予想が高まる。とたんに、「薪に火がつく」形で、投機需要が急激に進み、物価上昇が急激に進む。これを抑制しようとして、金融を引き締めれば、「効果不足で物価上昇」か、「効果過剰で景気悪化」か、「効果が半々で物価上昇と景気悪化の共存」となる。現実には、最後の場合になる可能性が、最も高い。これが「スタグフレーション」である。
 前にも何度も述べたが、過剰な量的緩和は、景気回復後に過剰な量的緊縮を必要として、スタグフレーションをもたらしやすい。そして、それは、「円安介入」が過度にあると、現実化しやすいのである。

 まとめ。
 「円安介入」の件は、現状について、「景気回復の効果があるだろう」と楽観するべきではない。むしろ、将来について、「景気回復の効果がまさしくあったとしたら、景気の本格回復のあとで、大幅な物価上昇が一挙に押し寄せて、日本経済が破壊されるだろう」と危険視するべきなのだ。なぜなら、莫大な貨幣供給量は、まさしく大幅な物価上昇をもたらすからだ。とにかく、莫大な貨幣供給量というものは、巨大な竜のごとく、暴走しがちであり、制御が困難なのである。
 現状を見て、「円安で景気が回復している。嬉しいな」なんて浮かれている人々は、あまりにもおめでたい。彼らは、「貨幣供給量が物価上昇をもたらす」という説を、デフレのときには信じて、デフレ脱出後には信じないのである。本当はその逆なのに、真実とは逆のことを信じているのだ。日本経済は、狂気の政策によって運営されている。


● ニュースと感想  (3月15日)

 「通貨安の違い」について。
 通貨安について、すでに述べたことをまとめると、各国間で、次の通りになる。
 これらを見ると、あるときには「過度の通貨安はダメ」と述べたり、あるときには「過度の通貨安も良い」と述べているように見える。そこで、これらの違いについて、説明しよう。

 (1) 円安
 過度の円安介入は好ましくない。なぜなら、貿易黒字が出ているからだ。貿易黒字が出ているのに円安介入をするというのは、当然、経済の原則に反する。
 マクロ政策として「円安」政策を取るというのは、本質からはずれている。マクロ政策の問題は、マクロ政策で対処するべきである。マクロ政策の失敗の尻ぬぐいを、円安でまかなおうというのは、本質からはずれており、状況をいびつにする。一面では効果があるが、同時に副作用が生じる。

 (2) ドル安
 米国は巨額の貿易赤字が出ているのだから、当然、もっとドル安にするべきだ。現実には、ドル安が進んでいるというより、ドル安が不足しているのである。過去に比べればドル安だが、あるべき水準に比べればドル高だ。そして、その理由は、円安介入と元安介入がなされているせいだ。そのせいで、介入のない対ユーロのドル相場ばかりが過度に変更される。
 だから、米国としては、対日赤字を縮小するために、円安介入を中止させるのが正しい。日銀が円安介入をするなら、反対介入をするべきだ。両方が合わさると、両国で貨幣供給量が増えるが、米国では、それは低金利と物価上昇をもたらすだけだから、あまり問題ではない。日本では、貨幣供給量の過剰な増加により、破滅的な通貨危機が押し寄せかねないが、日本が破滅しようが、米国の知ったことではない。だから米国としては、円安介入に対する反対介入をなして、貿易赤字を縮小するのがベストである。
 そもそも、それで日本が破滅したとしても、円安介入なんかをやっていることが諸悪の根源である。日本としては、円安介入をやめれば、それで済む。日本が「景気回復のために円安介入を」なんてやっているのは、麻薬中毒と同じようなものである。今は気分がハイになっているが、あとで禁断症状に苛まれるだけだ。

 (3) 元安
 元安は、ほったらかしておいても、日本も米国も損はしない。そもそも、本来の均衡点から逸脱するように介入したとすれば、そういう余計な介入をやった方が損するに決まっている。元安で困るのは中国であるから、中国としては、元安を是正して、過剰な貨幣供給量を抑制して、物価上昇を抑制するのがベストだ。しかし、日本や米国は、中国が損をしようと知ったことではないから、放置しておいて構わない。
 たしかに、元安によって、中国からの輸入は増える。だとしても、それで競合する産業は、もともと低能率な雑貨や繊維などの産業であるから、元安が少しぐらい是正されたとしても、たいして効果はない。先進国の人件費に比べて、中国の人件費はもともと数十分の1であるから、元安がちょっとぐらいぶれたとしても、競争力としては、たいして変動はない。中国製品と米国製品・日本製品とでは、ほとんど競合しないで、たがいに補完関係系にあるのだ。

 結語。
 通貨の問題を見るには、貿易の赤字・黒字に着目するべきだ。
 日本は、貿易黒字が出ているから、原則として円高にするべきだ。対中国圏(香港を含む)では、貿易のバランスが取れているから、あえて元安にする必要はない。
 米国は、貿易赤字が出ているから、原則としてドル安にするべきだ。対中国では大幅赤字が出ているが、それよりは、対日赤字とか、世界一般を相手にした赤字の方が問題だ。だから、中国だけを相手にするより、世界全体を相手にして、黒字化を図るべきだ。つまり、ドル安政策を取るべきだ。こちらが本筋である。
 中国は、貿易黒字が出ているから、原則として元高にするべきだ。ただし、無理に元安にするとしても、それで損をしているのは、中国自身である。途上国ならば、外国らか借款を得て、外国の資金を受けるのがベストである。その逆に、自国の富を外貨預金の形で先進国に投資するというのは、中国が先進国に借款を与えるということであり、話が逆だ。あえて逆にしているなら、それで損をしているのは中国なのだから、先進国としては、放置しておいて構わない。かつて日本の円が、「1ドル=360円」から「1ドル=120円」に急上昇したときに、富を大幅に失ったように、中国もまた、同じようにして富を大幅に失う。中国がいくら多大な輸出をしているとしても、それは自国の富をタダでプレゼントしているのと同様である。
 だから、もし米国や日本が、「中国は元安で輸出を増やしてけしからん」と思うのであれば、自国の製品も同様に、ほぼ無賃労働で輸出すればいいのだ。つまり、輸出補助金を出して、大幅に輸出を増やす。そのための資金は、増税でまかなう。つまり、国民に大幅な貧困生活を強制して、そういう形で、輸出を増やす。……これならたしかに、中国同様、輸出は大幅に増える。そして、中国同様、極貧の生活を送る。それをすばらしいと思うのであれば、そうすればいいのだ。

 [ 付記 ]
 結局、話のポイントは、「通貨レートが現状よりも高いか低いか」ではなくて、「貿易収支の均衡点からずれているかどうか」である。
 米国は、貿易赤字。日本は、貿易黒字。中国は、貿易黒字。この違いから、各国の通貨ごとに、上がるべきか下がるべきかが決まる。一律に「上がる方がいい」とか「下がる方がいい」とかいうことはない。ごくごく当り前の話だ。
 そしてまた、均衡点からずれるように介入すれば、介入した国が損をするのである。ただし、長期的な損得と、短期的な損得とは、異なる。そのせいで、「短期的な得をめざして、長期的な損を受ける」という政策を取ることがある。それが「自国通貨安のための介入」という政策だ。経済学を理解しない人がやると、こういう政策を取る。麻薬中毒の患者と同様。今だけ気分が良ければそれでいい、というわけ。


● ニュースと感想  (3月16日)

 「現在の消費性向」について。
 日銀が、2003年の資金循環統計を発表した。( → 日本銀行のサイト
 それによると、2003年の家計の収支は、貯蓄がプラスでなくてマイナスだという。これは 1990年の統計調査開始以来、初めてのことだという。というか、通常、家計は貯蓄するものであり、企業は融資を受けるものである。なのに、こういう通常の状態が逆転してしまっている。企業は投資をせずに、せっせと有利子負債を返済し、家計は貯蓄を取り崩して、消費に回す。
 ここまでは、新聞報道の通り。( 2004-03-15 夕刊、翌日朝刊 )
 ただ、ここで注目すべきは、「平均消費性向が1を上回っている」ということだ。これは、何を意味するか? そのことは、先にも述べた。それと同じ話を、また繰り返せば、こうだ。
 「平均消費性向が1を上回っている」ということは、「消費性向を上げれば、景気が回復する」という普通の命題が、成立しなくなっている、ということだ。とすれば、「消費意欲を刺激すれば、景気が回復する」ということは、ありえないのだ。
 通常の景気悪化の局面では、消費意欲が縮小している。だから、ここでは、消費意欲を刺激すれば、景気回復が可能だ。しかし、消費意欲はもともと上限に達してしまっているのであれば、いくら消費意欲を刺激しても無駄である。何しろ、稼ぐ金以上を消費しているのであるから。
 とすれば、ここでは、なすべきことは、「消費意欲の向上」ではなくて、「所得の向上」なのである。そして、その方法は、「給与アップ」または「減税」のいずれかでしかない。そして、企業の側が「給与アップ」を拒むのであれば、残る道は「減税」しかないのである。

 [ 付記 ]
 実は、本項の平均消費性向のデータは、昨年の末ごろには、すでに明らかになっている。だから、その時点で、本項と同じ話を述べてある。( → 11月29日b
 だから、本項の話は、あらためて書くまでもなかった。ただ、日銀が確定データを示したので、あらためて再論しておくことにした。
 なお、詳しい理論的な話については、前回の 11月29日b の方を読んでほしい。( → 前年3月16日 も参照。)

 [ 補足 ]
 景気悪化にともなって、平均消費性向は1に近くなる。そのことは、修正ケインズモデルから、明らかだろう。グラフの左下に近づくほど、初期定数の効果ばかりが出て、限界消費性向の効果が小さくなる。
 ただし、あまりにもグラフの左下に近づくと、平均消費性向が1を大幅に上回るようになる。これは不自然だ。そこで、あまりにもグラフの左下に近づくと、平均消費性向が上昇するかわりに、初期定数が低下していくのである。グラフないしモデルが修正されてしまうわけだ。これは不況が慢性化した状態だ。そして、現状は、それにあたる。
( ※ こういう話もひっくるめて、先の 11月29日b で示した。)
( ※ たとえて言うと、こうだ。人は飢餓状態になると、体内の脂肪がそげ落ちてしまう。これは急性症状である。ここでは、脂肪がそげ落ちただけだから、食事を取れば、すぐに元の状況に戻る。ところが、この状態が長く続くと、脂肪がそげ落ちるだけでなくて、筋肉そのものがそげ落ちてしまう。これは慢性症状である。ここでは、食事を取っても、元の状態には戻らない。体のシステムそのものが変更されてしまったのだ。こうなると、もはや単なる栄養補給だけでは回復はしない。システムそのものを作り直す必要がある。……経済で言えば、所得という基本的な体力そのものを、十分に備えさせる必要がある。消費意欲を刺激して消費性向を上げるだけでは、ダメなのだ。換言すれば、物価上昇による「アメとムチ」だけでは、ダメなのだ。当然、インフレ目標も、ろくに効果はない。「早く買った方が得だ」と人々が思ったとしても、手元に金がなければ、どうしようもない。人々は、「買う気がなくなっている」のではなくて、「買う金がない」のである。)


● ニュースと感想  (3月16日b)

 「発明者報酬」について。
 中村修二の訴訟で、発明者報酬の判決が出た。では、理系の技術者は、どうするべきか? これからは、巨額の発明者報酬を求めて、一発を狙うか? 
 人生論の立場でいえば、中村修二のように一匹狼の天才タイプなら、そういう生き方もいいだろう。ただし、99%以上の人々は、天才タイプではない。そういう人々に、私から勧告しておこう。一発などは狙わない方がよい。最適の道は、ゴマスリである。
 つまり、仕事の上で研究成果を上げようとするよりは、人間関係で組織に適合した方がよい。組織においてまじめにゴマスリをいればいいのだ。仕事はそこそこやっていればいいのであって、要は、仕事をうまくやるよりは、仕事をうまくやったというふうに上司に評価してもらうことである。いくら仕事で成果を挙げたとしても、中村修二のように社長と喧嘩したりしては、ダメだ。青色半導体レーザーを開発するよりは、社長のご機嫌取りを取る方が、ずっとうまく出世する道である。
 
 もっとはっきりしたデータがある。日本では、大卒の理系のサラリーマンよりは、文系のサラリーマンの方が、かなり高給なのである。理系でせっせと成果を上げても、たいして給料は良くならない。それよりは、優秀な部下を得て、部下を管理している方が、ずっと楽だし、簡単だし、高給を取れる。
 だから、あなたが経済的に高給を取るのが生きがいであれば、何らかの独創的な仕事を成し遂げるよりは、他人が独創的な仕事をなすのを期待して、その成果を上司として横取りするのが、一番利口なのだ。

 そして、これは、今の日本の会社システムなのである。日本の会社システムがそうなっているのだから、そういう会社システムに適合するのが、最も利口なのである。本来ならば、会社システムが変更されるべきなのだが、そんなのを待つのは、百年河清を待つようなものである。戦後60年を経て、まったく変わらないシステムが、今さら変わるはずがない。そもそも、変えようとする意思すらない。独創性などは、会社にはまったく評価されず、独創性のある人々を管理することだけが、会社にとって大切なのである。
 では、誰もがそうしようとしたら、どうなるか? もちろん、かつての英国病と同様に、日本は没落する。「いくら努力しても報われない? とんびに油揚げをさらわれる? け、馬鹿らしくて、やっていられるか」と技術者が反乱を起こしたら、日本は英国病のようになる。
 そして、実は、日本の経営者は、あえてその道を取りたがっているのだ。平凡な人々に対しては「成果主義」と主張するが、独創性のある人々には、「成果主義なんて嘘だよ。本当は協調性と共同性が大事なんだよ」と主張する。二枚舌だ。
 とにかく、日本の会社というのは、メチャクチャである。あなたに独創性があるのなら、徹底的に反抗するだけの意思があれば儲かるが、そうでなければ、成果を会社にかすめ取られる。あなたに独創性がないのなら、ゴマスリと管理に努力すれば、独創性のある社員の成果を横取りできる。
 とにかく、今の日本の会社システムでは、独創性を発揮することよりも、ゴマスリと管理が大事なのだ。あなたもその道を進むといいだろう。日本は没落しても、あなたは儲けることができる。

 [ 付記 ]
 「構造改革」というのも、実際に何かを改革することが大切なのではなくて、「構造改革」という言葉だけをぺらぺらと出して、何もしないことが大切なのである。実際、それをやった小泉は、無能ではあるが、いつまでも総理をやっていられる。最近では稀に見る長期政権になれそうだ。
 国民に対するゴマスリと、自民党内における管理能力が、とてもうまいだけ。そういう口先だけの無能男が、日本ではいかに優遇されるか、いい見本だ。日本は没落しても、彼だけは儲けることができる。


● ニュースと感想  (3月17日)

 「フリーターの増加」について。
 フリーターの増加が社会問題となっているという。これについて考察してみよう。
 社会問題としては、たしかに、フリーターの増加は、困った問題だ。若者が技能を獲得できないから、いつまでたっても低所得状態となる。一国全体を見ても、低能率な人々ばかりが増えていることになる。いわば日本が途上国化していることになる。
 一方、労働問題としてみると、単純労働者の需要が増えるというのは、それはそれで問題はないとも思える。もともと単純労働者は、需要よりも供給が過剰であるから、単純労働者を雇う企業が増えることは、好ましいことだとも思える。(たとえば、外国人の単純労働者を雇う企業が出ても、日本人の単純労働者が失業しないで済む。)
 では、本当は、どうなのだろうか? 

 物事を表面的に見るだけなら、「単純労働者の労働需要が増えることは好ましい」と言えるだろう。古典派経済学者ならば、いかにもそう言いそうだ。しかし、それでは、物事の本質を見失っている。
 「単純労働者の労働需要が増える」という現象は、それが単独で発生するのであれば、好ましい。しかし、全体との関連を考えれば、それが単独では発生していないとわかる。では、正しくは? 「技能労働者が失業して、単純労働者に置き換えられている」というのが、現実だ。
 これはいわゆるリストラである。高賃金・高技能の正社員を解雇して、低賃金・低技能のフリーターや派遣社員に置き換える。そのことで、人件費の総額を減らす。特に、社会保険料の負担を免れる効果は、とても大きい。(短時間労働のフリーターは、企業の社会保険料の負担がない。たとえば、厚生年金ではなく、国民年金になる。健保も同様。)
 結局、「単純労働者の労働需要が増える」という現象が単独で発生するのではなくて、「技能労働者が失業して、単純労働者に置き換えられている」というふうになっているわけだ。このことで、一国全体の生産システムが、虚弱になってしまっている。
 では、なぜか? 不況だからだ。不況のときには、企業にとっては、企業を成長させることは最優先の課題ではなくて、企業を存続させること(倒産させないこと)が最優先の課題である。そして、そのためには、企業の体力を強化することが大切なのではなくて、企業を維持するためのコストを減らすことが大切だ。人間で言えば、たくさん食べてたくさん働くことが大切なのではなくて、少ししかない食料に合わせてエネルギー消費を最小限にすることが大切だ。
 だから、不況のときには、企業がそういうふうにリストラをしたりフリーターを増やしたりするのは、当然のことなのである。そのことで一国全体の生産システムが虚弱になるとしても、そんなことは企業にとっては二の次なのだ。まずは自分が生き残ることが大切なのだ。
 
 こうして、現状は説明された。では、対策は、どうするべきか? 
 不況という現状においては、リストラが進んでフリーターが増えるのは、当然なのである。つまり、日本で低賃金の未熟練労働者が増えるのは、当然のことなのである。日本は縮小均衡をめざしているのだから、それに合わせてどんどん身を小さくしていくわけだ。
 だから、対策は、「企業はフリーターよりも正社員を雇え」と主張することではなくて、「不況という現状そのものを変更すること」である。つまり、GDPを拡大することだ。そして、そうすれば、企業はもはや倒産の恐れはないのだから、自己の身を大きくすることが最優先の課題となる。すると、単純なことしかできない未熟練労働者よりは、創意工夫で企業をどんどん成長させてくれる熟練労働者を大切にするようになる。かくて、自然に、フリーターは減り、正社員が増える。ここでは、別に、「正社員を雇え」などと音頭を取る必要はない。正社員を雇うことが企業にとって利益になるから、自然に、企業は正社員を雇うようになるわけだ。

 結論。
 フリーターの増加というのは、たしかに社会問題である。ただし、この問題を解決するには、単に「フリーターの増加・正社員の減少」という表面的な現象を眺めていても、ダメである。その奥には、「不況」という本質がある。これが原因だ。だから、この原因を解決することが、抜本的な対策である。
( ※ なお、「放置すれば最適化する」という古典派的な説は、成立しない。「放置すれば最適化する」というのは、「不況という状況においては、放置すれば不況という範囲内で最適化する」だけであり、それはつまり、「縮小均衡」をめざすだけだ。そして、その現象が、「フリーターの増加・正社員の減少」なのである。)

 [ 参考 ]
 景気の悪化については、消費性向と関連して、前々項でも述べた。
 単純労働者と外国人の話については、3月10日b 以降の数項目でも、あれこれと述べた。


● ニュースと感想  (3月17日b)

 時事的な話題。「人名漢字の拡張」について。
 「人名漢字を拡張して、千字ぐらい増やす」という、おおよその方針が出た。最高裁で「人名漢字を制限しすぎるのはおかしい。『曽』という字ぐらいは許容するべきだ」という判決が出たのを受けてのこと。(朝刊各紙・2004-02-11 )
 これについて、コメントしておこう。

 まず、「曽」の字について言えば、これは、「僧」「憎」の部首に当たるから、たしかに平易である。この字を書けないということは、原理的にはありえないわけだ。
 一方、拡張の候補になっている「蜜」のような字は、たとえ読めるとしても、誰もが書けるわけではあるまい。しかし、である。人名漢字になったならば、国民全体が書けるようになる必要があるのだ。たとえば、病院では、患者の名前にこのような文字が氾濫するわけだから、書き違えなどがあったら、人命が失われる恐れがある。
 だから、どうしても人名漢字を拡張したいのであれば、それを国民全員に「書けるようにする」つまり「必修とする」べきだ。そして、この条件でのみ、私は「人名漢字の拡張」に賛成する。
 逆に、「書けもしない文字が許容された結果、人名の誤記があちこちで氾濫する」なんていう事態は、最悪である。「おれは書けるよ」なんて思っても、病院の看護婦さんが診察票の書き間違えをしたら、あなたの家族の命は消えてしまうかもしれないのだ。それでもいいんですかね?

 ついでに一言。「親には子供の名前を命名する権利がある」という主張がある。これは完全な勘違いだ。
 親であれ、誰であれ、「他人のものを好き勝手に扱う権利」などはない。たとえば、親は子供の金を奪い取ったり、子供を軽く殴ったりしても、法的に罰せられることはない。しかしそれは、親に「そうする権利がある」ということではない。「罰せられない」ということと、「権利がある」ということは、異なるのだ。親であれ何であれ、他人の人生に干渉する「権利」などはないのだ。
 誰の人生についても、その人生は本人だけのものである。たとえば、あなたの人生はあなたのものであり、あなたの親にはあなたの人生を左右する権利はない。あなたの親はあなたを育てたとしても、あなたの職業を決める権利も、あなたの結婚相手を決める権利も、あなたの名前を決める権利も、何もない。どんな権利であれ、権利というものは、自分のものに関する権利であって、他人の人生に関する権利などはないのだ。たとえ相手が自分の子であっても、だ。
 親にできることは、「子供のために」と思って、最適の名前を考えてあげることだけだ。それは決して、「親が自分のために、自分好みの名前を選んで、命名ごっこをして楽しむ権利」なんかではないのだ。子供は親のペットではないのだ。勘違いしてはいけない。
( ※ どうしても自分好みの命名をしたければ、ペットに名前を付ければいい。犬や猫の名前ならば、「悪魔ちゃん」と呼ぶのも勝手である。そこのところを勘違いして、自分の子供を犬や猫のように扱っている人が多すぎる。)
( → 文字講堂のページ も参照。名前の本質についての話がある。ただし、エッチな話が含まれるので、真面目な人は読まないでください。)


● ニュースと感想  (3月18日)

 「プライバシー保護と個人情報」について。
 田中真紀子・元外相の長女のプライバシーを暴露する週刊文春に、裁判所が出版差し止め命令を出した。これに対して、「表現の自由や報道の自由が脅かされる」と危惧する声がある。(2004-03-17 朝刊・夕刊)
 この件については、私は前に、「公人でない人々のプライバシーを保護せよ」と主張したことがあった。( → 5月28日9月22日b12月10日b
 今回の話も、同様に言える。政治家の家族が私人であるということは明らかであるから、出版者側の意見は成立しない。
 なお、もう少し法律的に考えてみよう。「表現の自由」と「報道の自由」は、分けて考える必要がある。
 第1に、「表現の自由」とは、自分の生み出した情報を公開する自由である。他人の情報を公開する自由ではない。この点では、たとえ政治家のような公人であれ、その人の情報を、「表現の自由」という名目で他人が公開することはできない。たとえば、小泉のもつ情報(個人アルバムの写真など)を勝手に公開することは、「表現の自由」とはならない。一方、小泉の似顔絵を描くのは、描いた人の情報であるから、これを公開するのは、「表現の自由」となる。一般に、各人の保有する蔵書やCD音楽などを勝手にコピーしてばらまくのは、著作権の侵害となる。これを「表現の自由」と呼ぶことはできない。なぜなら、その情報は、彼自身が生み出した情報ではないからだ。……というわけで、他人の情報を暴露するのは、それがプライバシーであれ何であれ、「表現の自由」には当てはまらないのだ。たとえば、マスコミが小泉についてさんざん悪口を言うのは「表現の自由」だが、マスコミが小泉個人の手持ちの情報(たとえば息子からの私信)を郵便箱から盗み出して公開するのは「表現の自由」ではない。この両者を混同するような主張は、「後者を禁じる」という名目で、前者を禁じることの、口実になりかねない。自分で自分の首を絞めるようなものだ。狂気の沙汰である。
 第2に、「報道の自由」とは、社会的な意義のある人物を対象とする場合に限られる。換言すれば、相手が社会において大きな影響力を持つ場合に限られる。一方、政治家の家族というのは、何ら公的権力を持たないし、社会において影響力もない。とすれば、「公共の利害」には関係がないのだから、このプライバシーを暴露することは、「報道の自由」には当てはまらない。仮に、こんなことが許されるのであれば、あなたのような一般の人々のプライバシーを暴露することまで、「報道の自由」で許されることになる。たとえば、「南堂久史は、『小泉の波立ち』というホームページを公開していて、社会的な影響力があるから、彼の女性関係を暴露してやろう。Junko の正体を探って、公開してやろう」なんていう主張が出る。あるいは、あなたがホームページを公開していても、やはり同様の意見が成立する。……はたまた、一般の市民は、みんな、何らかの社会的な存在であるから、その個人情報を暴露してもいいことになる。

 ここまで考えると、昨今の「電子的な個人情報の漏洩」と話はそっくりだ、と気づく。
 そうだ。「個人のプライバシーを勝手に報道してもいい」という主張は、「コンピュータにある個人情報を盗み出して公開してもいい」という主張と、ほぼ同様なのだ。五十歩百歩。目くそ鼻くそである。どちらにしても、個人情報を勝手に暴露している。(違いがあるとすれば、「報道の自由」という建前を口に出すか否か、ということだけだ。)
 要するに、政治家の家族という私人のプライバシーを週刊誌で暴露するのも、コンピュータにある個人情報を盗み出すのも、どちらにしても、出歯亀的な犯罪行為なのである。ストーカーとよく似ている。
 ただし、行為自体はそっくりだが、態度は極端に違う。コンピュータにある個人情報を盗み出す人々は、自分たちが悪いことをしていると、認識している。(だから決して「自分がやりました」とは言わない。)一方、週刊文春や、彼を弁護する人々は、自分たちが悪いことをしていると、認識していない。それどころが、「おれたちは正しいんだ」と強弁する始末だ。泥棒をしたあとで、「泥棒をするのは正しいんだ」と強弁するのと同様だ。盗人猛々しい。
 今回の件から、偉そうなことを言っているマスコミの連中が、いかに悪質な犯罪者集団であるか、よくわかる。彼らはしょせん、自分たちの金のために、悪事を働く下賤な輩なのである。ヤクザ連中とたいして違いはない。
( ※ ま、新聞記者なんて、もともとヤクザと同類ではあるが。……その証拠に、どちらも、「おれたちは社会のために頑張っているんだ」と自己弁護する。)
( ※ ついでだが、私は別に、マスコミを非難するだけが趣味ではない。今回の事件を他山の石として、「私たちマスコミは反省しなくては」と自戒する記事を書く記者がいたら、尊敬しよう。しかし、そんな記者が、どれだけいるんですかね。少しはいるかもしれないが、堂々と論陣を張るだけの勇気のある記者は、一人もいないだろう。たぶん。)

  【 追記 】
 18日朝刊の朝日新聞社説を読むといいだろう。本項の話がうまく当てはまる。「表現の自由」をしきりに主張している。
「社会に関わり、物事を判断しながら生きていくには、さまざまな情報に接し、価値観の異なる多様な考えが社会のなかに存在するのを知ることが、欠かせない」と。
 なるほど、「表現の自由」の狙いは、その通りだ。しかし、このような「表現の自由」は、自分で生み出した情報(思想)を表現することに適用されるだけだ。他人のプライバシーを覗き見することには当てはまらない。同様に、コンピュータにある個人情報を盗み見ることにも、女湯を覗き見することにも、当てはまらない。
 朝日の主張は、女子トイレを盗撮して公開する犯罪者の主張と、同様である。
「社会に関わり、物事を判断しながら生きていくには、さまざまな情報に接し、価値観の異なる多様な考えが社会のなかに存在するのを知ることが、欠かせない。……だから、女の裸を盗撮する必要がある」というわけだ。
 なぜ彼らは、こんな馬鹿げたことを主張するのか? たぶん、彼らの主張する平素の論説自体が、盗撮と同じレベルの、無内容で無価値のものであるからであろう。実際、今回の朝日の社説は、犯罪行為を助長するという意味で、女子トイレの盗撮と同様、非常に悪質なのである。朝日というのは、異常性愛の犯罪者も同然なのだ。そのことが、今回の無反省な社説から、見て取れる。
( ※ 「表現の自由と私人のプライバシーの権利のかねあいは難しい問題だ」と社説は主張している。とんでもない。両者は全然無関係のものである。両者ははっきりと別領域の話だ。そのことは本項で示したとおりだ。混沌としているのは、事実ではなくて、朝日の頭である。)

 [ 補足 ]
 なお、本質的なことを、示しておこう。「表現の自由」というのは、政府や権力に対する、言論人の武器である。それは、強者に対してのみ向けられるものだ。なのにそれを、弱者である一般市民に向けることは、対象の取り違えである。いわば、「敵軍と戦うには武器が必要だ」と言ったあげく、その武器を一般市民に向けるようなものだ。ほとんどテロリストである。彼らは一種の言論テロリストなのだ。
 一般原則で言えば、「力をもつものは、自制する心をもて」ということだ。これができない人は、強大な力をもつと、やたらと力を奮いたがる。粗暴な荒くれ者は拳銃をぶっ放したがるし、ブッシュは軍事力を行使したがるし、フセインや金正日は独裁権力を発揮したがる。それと同様なのが、日本のマスコミだ。いずれも、同じ穴のムジナである。
 私のポリシーは、「強きを挫き、弱きを助く」だ。それとは逆に、「自由」というものを履き違えて、弱い者いじめをするために力を行使するのが、無反省な日本のマスコミだ。

( ※ 数項目あとの 3月27日 の箇所にも、関連する話題がある。個人情報保護の話。)

  【 追記2 】
 3月31日に、高裁では少し異なる判断が出た。プライバシーの侵害は認定するが、出版差し止めの仮処分は取り消す(厳しい条件を満たす場合にのみ仮処分を認めるが今回は該当しない)、というもの。
 これはこれでともかく、翌日の朝日の朝刊は前回とは趣旨の異なる主張を述べている。「表現の自由は、権力に対抗する場合にこそ輝きを増し、私人のプライバシーの侵害をするのでは、世論の共感を得ない」という趣旨。つまり、私の意見と同じ。前回とはほぼ正反対の意見だ。短期間のうちに、かくもがらりと主張を変えてしまっている。(「小泉の波立ち」を読んだから?)
 それにしても、かくも豹変するというのは、まったく納得できないですね。前回の主張との矛盾・齟齬について、何らかの釈明をするべきだろう。最低限、前回の主張を取り消す旨、注記するべきだろう。そういうことをしないから、朝日は読者の信頼をなくす。「何かを言っても、翌日にはまた正反対のことを言うんじゃないの?」と。
 そういや、ブッシュや読売もそうだ。「大量破壊兵器があるから、イラクを攻撃せよ!」→ 「大量破壊兵器なんか、どうだっていいじゃない」
 まったく、やってられんね。


● ニュースと感想  (3月18日b)

 「電子犯罪」について。
 「おれおれ詐欺」や「脅迫メール」や「個人データ流出」などの電子犯罪が増えている。ハッキング(クラッキング)という単純な侵入行為ではなくて、それを使って経済的に利益を得よう、という、犯罪らしい犯罪だ。
 ここでは、被害は、非常に甚大である。「おれおれ詐欺」や「脅迫メール」では数百件の被害、「個人データ流出」では数十万ないし数百万もの被害が出る。ところが、それに比して、刑罰は軽微である。通常、詐欺罪になるだけだから、懲役2〜3年ぐらいだ。
 一方、通常の犯罪と比べてみよう。たとえば、空き巣が個人宅に侵入して、十円を盗んだとしよう。この場合、初犯で懲役半年ぐらい、累犯なら懲役2〜3年ぐらいだ。一方、その千倍の被害者から百万倍の金を奪っても、やはり、懲役2〜3年である。全然、バランスが取れていない。
 電子犯罪の罰は、かくも軽微である。だから、「犯罪は割に合う」とばかりに、電子犯罪が増えて、やたらと被害者が続出する。
 ここでは、法制度が現実に追いついていないのだ。電子犯罪は莫大な被害者を出すのに、それぞれを1件と考えずに、まとめて1件と考える。だから、かくも軽微な刑罰となる。
 本来ならば、判例で修正するべきだが、裁判所というのは、時代にはとうてい追いつけないことになっている。いつも時代遅れだ。となると、やはり、法律的に制度を整えるしかあるまい。電子犯罪については、被害が甚大であるゆえに、通常の詐欺などとは別の法で罰するべきだ。また、対象の範囲も、新たに制定するべきだ。
 なお、「授業員が勤務先のデータを盗む」という犯罪行為に対して、「企業はきちんと対処するべきだ」という主張もある。しかし、企業は、仕事の規則を定めることはできるが、犯罪の規則を定めることはできない。企業は被害者なのに、「企業はしっかりするべきだ」というのは、本末転倒だ。
 たとえば、あなたの家に空き巣が入って、あなたの財産を盗んだとする。そこで、「盗まれた方が戸締まりをしっかりしなかったから、こんな犯罪が起こるんだ。盗まれた方を処罰せよ」なんて主張して、盗まれた被害者であるあなたを非難して牢屋にぶち込む、なんていうのは、とんでもない話だ。
 電子犯罪は、明白な犯罪なのである。これについては、企業に対処を求めるだけではダメであり、法的にきちんと整備することが必要だ。「何でもかんでも企業が悪い」なんていう主張は、時代遅れの左翼思想にすぎない。
 たとえば、あなたが○○電器に勤務していたとする。そこであなたの職場仲間である従業員Aが、○○電器の顧客データを盗んで、他人に売りつけたとしたら、それは、○○電器の社内システムが間違っていたからではなくて、その従業員Aが犯罪をする気になったからなのだ。一般に、どんな状況であれ、犯罪をすることは可能である。医者は毒殺をすることが可能だし、警官は拳銃で撃ち殺すことが可能だし、トラックの運転手はトラックで人を轢き殺すことが可能だ。ここで、そういう犯罪が起こらないのは、犯罪を起こさないように社内システムが整備されているからではなくて、犯罪を起こせば厳しく処罰されるからだ。
 しかるに、電子犯罪だけは、ほとんど野放しなのである。だからこそ、電子犯罪を甘やかすべきではないし、そのための法律を整備するべきなのだ。百万人から盗んでも、一人から盗んでも、同じようにしか処罰されない、なんてのは、とんでもない話だ。百万人を殺しても、一人を殺しても、同等の罪だ、というようなものである。バランス感覚が欠落している。

 [ 付記1 ]
 政府の方針については、最近もいくらか報道されている。どうやら、「企業がどうしているか、実態を調査したり、報告させたりする」とか、「情報保護の義務規定を制定する」とか、そういう程度のことであるようだ。(2004-03-16 朝刊など。)
 はっきりしたことは決まっていないらしいが、ともあれ、「厳しい刑事罰」という方針は、まったく念頭にないようだ。
 それでも、マスコミなどでは、警鐘を鳴らす声もあるし、欧州でもコンピュータ犯罪を取り締まる動きがあるようだ。
 私としては、もっと厳しい体制を希望する。はっきり言って、今の政府は、頭が古臭すぎて、情報犯罪をやる人々に、弄ばれているのだ。そしてまた、マスコミの一部は、「政府の規制に反対」と言うばかりで、狡猾な犯罪者にうまく利用されているのだ。
( ※ ずる賢い犯罪者は逮捕されないが、「企業の情報管理はこんなにずさんだ」と実物で指摘した研究者は、「やりすぎだ」と言われて、逮捕されてしまった。馬鹿丸出し。「王様は裸だ」と叫んだ人を逮捕するから、王様はいつまでも裸のままなのだ。)

 [ 付記2 ]
 「政府の個人データ管理に反対しよう」という主張がある。これに関しては、私はかねて、こう主張していた。
 「政府の管理する個人情報など、たいしたことがない。それより、民間の管理する情報方法が、非常に重要である。こちらの情報漏洩をこそ、規制するべきだ」
 と。ところが、現実には、人々は、「政府の個人データ管理反対! 政府の個人データが漏洩する!」と騒いでいるばかりだった。その間に、民間の個人データが、どんどん漏洩して、世間にひどい被害を撒き散らすことになる。
 「猫が怖い、猫が怖い」と大騒ぎしている間に、ライオンに食い尽くされてしまうのだ。危険視する対象を間違えている。

  【 追記 】
 その後、個人を罰する方向に、法律が進みつつあるようだ。個人情報保護の個別法案で、産業分野ごとに規制が実施され、情報漏洩の犯罪行為を罰するらしい。また、企業にも情報保護を義務づけられるようだ。これは当り前だが。(2004-03-26 朝刊。)
 ただし、効果があるかどうかは、別問題である。軽い刑罰ならば、「犯罪は割に合う」とばかりに見なされ、効果はないままだろう。どうなるんですかね。ひょっとしたら、「報道目的は許容」という理屈で、野放し同然になるかも。


● ニュースと感想  (3月19日)

 「文字コードの規格」について。
 文字コードの新しい規格について、情報がある。ちょっと時期遅れの話だが。
   情報処理学会の 符号化文字基本集合 - 日本コア漢字
   経済産業省の JIS X 0213 改正
   ほら貝 の解説  ( Feb12 と Feb25 の箇所。)

 [ 付記 ]
 TRONでは、「Windows や Mac や Linux で共通に使える20万文字の規格」というのが提案された。ucode という。
 これは、文字コードというよりは、アプリに近い。外字として文字を使う。ただし外字を管理する共通サーバがあり、外字の混乱を防ぐ。
 一般の人向けというよりは、政府などの業務が対象であるようだ。「何が何でも多種の文字を使いたい」というための、強引な方法である。参考情報は、ウェブ上にあるので、興味のある人は、適当に検索するといいだろう。

 [ 余談 ]
 ついでに述べておくと、私がかねがね主張していた「処方箋の電子化」については、実現の方向にあるそうだ。2月5日ごろの読売の朝刊1面にデカデカと記事が出ていたが、6日には正式に決まった。( → 読売のサイト日経のサイトgoogle 検索首相官邸
 ただし、上記のほら貝のページで示されているように、各省で使う文字コードが別々である。とすると、とんでもない事態が起こるかもしれない。
( ※ なお、処方箋やカルテが電子化されると、非常に大規模な疫学データベースを構築可能である。そうなると、「どの薬が有効で、どの薬が有害か」ということも、いちいち統計的に調査しなくても自動的に判明する。国民の人命も非常に救われるようになる。こういうことが、情報処理の正しいあり方だ。……個人情報は刃物のようなものである。使い方を間違えればきわめて有害だが、ちゃんと使えばきわめて有益だ。)

  【 追記 】
 上記の話には不正確なところがあったので、補足しておく。(読者からの指摘。)
 この電子処方箋は、私がかつて提案したICカード型ではなくて、「病院から薬局にメールで送信する」方式である、ということだ。
 メール方式であっても、いちいち人手で入力し直すことはないから、無駄や誤記の恐れはなくなり、相当のメリットがあるだろう。その意味では、十分に有益だ。
 ただし、薬物の相互作用や、向精神薬の乱用についての、チェックは十分にできないようだ。(読者からのご指摘。)
 細かな話ではあるが、一応、補足しておく。


● ニュースと感想  (3月19日b)

 「携帯電話の迷惑メール対策」について。
 迷惑メールに社会が困っている。では、どうすればいいか? 私の提案は、「有料制」だ。
 以下は、情報技術者向けの話。特に読まなくてよい。
 携帯電話のメールについては、発信者に対して、有料を原則とする。無料で送信されたメールは受信を拒否する。有料を受け入れたメールだけが受信される。このとき、有料を受け入れたメールには、送信者に対して、課金される。
 例。太郎が au に加入している。そこにドコモに加入している花子からのメールが送信されてくる。このとき、花子のメールは受信されるが、その分、ドコモに対して課金される。ドコモは課金された分を花子に請求する。(1通当たり数円程度。)
 一方、太郎に迷惑メールが来る。迷惑メールは au と課金契約をしていないので、au は課金しようがない。そこで、迷惑メールは、受信されないで廃棄されるか、送信者に戻される。大量に戻されるような送信者に対しては、「一括してお断り」というメール1通だけを au が送信者に返送して、一括廃棄する。以後、この送信者からのメールは、au においては自動廃棄される。となると、手間がかかるだけ無駄なので、迷惑メールの送信者は、もはや携帯電話宛には送信しなくなる。(たとえ送信しても、自動的に廃棄されるだけだ。)

 以上は、携帯電話の分だけだ。では、インターネットメールについては、どう対処するか? 大量送信する会社に対してのみ有料にする、という案がある。ただし、これだと、パソコン会社からの送信も不可能になることもあって、問題かもしれない。「大量送信する会社は登録制にする」という案もある。まともな会社だけがシステムに登録して、そこを経由したメールだけが大量送信を可能とし、他の大量送信は自動的に廃棄される、というふうになる。これだといいかもしれない。
 たとえば、まともな会社がそろってシステムに登録して、同時に、会費を払う。保証金も払う。迷惑メールを発したら、保証金を没収される。このシステムに登録していない会社から大量のメールが発送されたら、各個人の属しているプロバイダが、自動処理して、この大量のメールを廃棄する。たとえば、あなたが Nifty とか biglobe に属していたら、これらのプロバイダが、大量メールを受けたときに、システムに登録されているかどうかをチェックした上で、自動的に廃棄する。(システムに登録されているかどうかは、ヘッダを見るだけではなくて、システムのサーバーと連絡を取り合って確認する。たとえば、ヘッダに「システム経由」を意味する偽のヘッダが記述されていても、システムにそのメールの発行が登録されていないことがばれてしまえば、偽のヘッダであることが判明する。)







「小泉の波立ち」
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