[付録] ニュースと感想 (64)

[ 2004.3.20 〜 2004.4.12 ]   

  《 ※ これ以前の分は、

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● ニュースと感想  (3月20日)

 「望ましい経済政策」について。
 ここまで、景気の予想や、危険の予想など、いろいろと述べてきたが、かわりに、「どうするべきか」という対策を考えよう。
 これまでの話をまとめれば、次のようになる。
 なお、この種の「取るべき政策のまとめ」については、「需要統御理論」でも概説しておいた。「タンク法」の記述はないが、「物価上昇」の効果(アメとムチ)については、いろいろと詳しい話しもある。参照するといいだろう。
( → 「需要統御理論」の「需要統御政策の宣言」以降 )

 [ 付記 ]
 ここでは、経済というものの本質を理解しよう。
 経済を放置すると、景気は常に変動する。それが原則だ。「放置すれば自動的に安定する」ということはない。(古典派の否定。)
 理由は、たとえ(マネタリズム流に)貨幣供給量を一定にしても、人々の心理が原因となって、消費性向が変化して、消費が変動するからだ。そして、それにともなって、投資が加速度原理によって輪をかけて変動する。消費と投資の相乗によって、総需要が大きく変動するからだ。
 このとき、同時に、変動を抑制しようとする効果も生じる。それは IS-LM 流の効果だ。すなわち、
  ・「消費が拡大すると、貯蓄が縮小し、金利が上昇して、投資を抑制する」
  ・「消費が縮小すると、貯蓄が拡大し、金利が下落して、投資を促進する」
 という効果だ。こうして、消費の変動を補う効果が生じる。しかし、この効果は、限定的だ。たとえば、消費がとても拡大したときには、金利はあまり高くはできない。(たとえば、金利を20%にはできない。無理にやるとIMF流の措置となり、スタグフレーションを招く。)また、逆に、消費がとても縮小したときには、金利を下げたくても、金利はゼロ金利以下にならない。
 こういうふうに、自動安定の効果は限定されている。この効果が働くのは、せいぜい、景気がほぼ安定状態にあるときだけだ。(「立てた棒」のモデルで言えば、立てた棒がほとんど傾いていない状態のときだけだ。棒が大きく傾いたあとでは、無効である。)
 ともあれ、経済を放置すると、景気は常に変動する。だからこそ、放置せずに、最適の介入をすることで、経済を安定させることが必要なのだ。
( ※ 「立てた棒」のモデルで言えば、立てた棒を倒さないように、常に最適の操作をすることが必要なのだ。「立てた棒は、放置すれば、決して倒れない」ということはない。むしろ逆に、「立てた棒は、放置すれば、いったん傾いたあと、どんどん倒れていく」というふうになる。マクロ経済の本質は、そこにある。ミクロ経済とは違うのだ。)


● ニュースと感想  (3月21日)

 前項の続き。「望ましくない経済政策」について。
 前項では、「望ましい経済政策」を示した。それとは逆に、「望ましくない経済政策」を考えよう。
 では、何のために? それは、「戦争」にかわる代替措置としての「経済処分」の方法を示すためだ。いきなり砲弾をぶち込む、なんていうのは、あまりにも野蛮であり、文明人の取るべき方法ではない。(猿顔の大統領はいざ知らず。)というわけで、「人を殺さずに、国際問題を解決する」という方法を示すわけだ。  現在、主流なのは、「経済封鎖」という方法だ。しかし、これは、ほとんど無効である。ソ連にせよ、キューバにせよ、ミャンマーにせよ、北朝鮮にせよ、経済封鎖というのは、相手に自給自足経済を強いるだけであって、ほとんど効果がない。

 では、どうするべきか? 「縮小均衡」のかわりに、「経済変動」をもたらすべきだ。それこそ、最強の「国家破壊」政策である。ミサイルを一発も使わなくても、経済政策だけで相手国家を破壊することができる。そのいい見本が、日本だ。日銀にひそんだ某国スパイは、ミサイルを使わずとも、金融政策を操作するだけで、日本という国家を莫大に破壊させ、毎年1万人余りもの人間を(自殺という形で)殺した。十数年で20万人ぐらいになる。20万人! これほど大規模に死者をもたらした戦争は、第二次大戦以来、例を見ない。また、GDPの破壊も、十数年で 500兆円を越えるだろう。これもまた、例を見ない損害だ。しかも、これらは、兵器を一発も使わなかったのだ。核を爆発させるかわりに、バブルを膨張させて爆発させただけだ。実に文明的な(狡猾な)「国家破壊行為」である、と言えよう。
 とすれば、他国を破壊するときにも、この方法を使うといいだろう。具体的には、どうするか? まずは、日本の例を見よう。次の形になる。
  1.  過度のドル高。(レーガノミックス。次の効果を引き立てるため。)
  2.  過度のドル安・円高。(日本の輸出急減をもたらす。)
  3.  過度の量的緩和。(日銀による。輸出企業対策のため。)
  4.  過度の資産インフレ。(量的緩和のせい。)
  5.  過度のバブル膨張。(人々に妄想を見させる。)
  6.  バブルの破裂。(妄想から現実へ。)
  7.  経済の急激な縮小。
  8.  デフレのどん底。
 こうして、経済に大変動を起こす。これと同じことを他国にやれば、その国も、日本と同じように、経済に大変動が起こって、国家経済が破滅する。
 そのあと、ふたたび、「過度の量的緩和」を実行すれば、上記の番目以降が繰り返される。つまり、「バブルの膨張と破裂」が繰り返される。
 この場合、最初のうちは、量的緩和によって、「景気が回復したぞ」と浮かれているが、そのあとで、またもや「バブル破裂」という目に遭うわけだ。つまり、同じ轍を踏むわけだ。(阿呆というものは、何度でも同じ穴に落ちる。)
 もちろん、今の日本は、この轍を踏みつつある。たぶん、日銀にいる某国スパイが、いまだに権力を握っているせいだろう。だから阿呆な「量的緩和」なんてのを、いつまでも継続しているのである。日本を破壊するために。

 [ 付記 ]
 たとえば、北朝鮮を経済的に破壊するには、どうすればいいか? 「経済封鎖」なんてのは無効である。ひとまず、急激に北朝鮮経済を成長させて、そのあとで、北朝鮮経済を縮小させればよい。つまり、大変動をもたらせばよい。そういうことを、何度も繰り返すわけだ。
 それには、「経済封鎖の断続的な実施」という方法もある。( → 4月13日c )
 ただ、本項では、もっと強力な方法として、「為替介入の併用」というものが考えられている。たとえば、北朝鮮の通貨を大幅に通貨安にしてから、次に、大幅に通貨高にする。当局に介入させて、多大な量的緩和を実現させたあとで、北朝鮮の通貨を、(滞留させずに)現地の市場に流し込んで、資産インフレまたはインフレを引き起こす。そのあとで、通貨を吸い上げて、大幅な通貨安にする。
 以前、「アジア通貨危機」で海外投機資金がやったことを、日米などの政府が実施するわけだ。こうやって、「北朝鮮の通貨危機」を引き起こして、経済を破滅させるわけだ。
 そんなことはできない? いや、簡単にできる。そもそも、日本では、日銀が日本に対してやっているではないか。こうやって過剰な「量的緩和」を実施していれば、2月09日 のシナリオによって、日本は破滅する可能性が高いのだ。(つまり、日本が北朝鮮にやらなくても、某国がすでに日銀を通じて、日本破壊工作を実施しているわけだ。……某国? どこでしょうねえ。北朝鮮かも。あるいは「日銀は偉い」と褒めている英国かも。ひょっとしたら、「純ちゃんは偉い」と褒めている米国かも。)


● ニュースと感想  (3月22日)

 「量的緩和と国債暴落」について。
 現在、量的緩和が続いており、さらに、円安介入による同等の効果もある。この結果、国債暴落(金利上昇)という混乱が発生しかねない、という懸念が生じている。この件について、簡単に説明しておこう。

 (1) 現状は、量的緩和がなされている。円安介入も、円資金を大量に供給して、同等の効果がある。ただし、こうして資金がジャブジャブになっても、その資金のほとんどは、滞留しているだけだ。いわば、「薪が積み重なっているまま」という状況である。
 (2) いつか、滞留した資金が実需に向かえば、貨幣数流説に従って、急速に物価が上昇する。ここでは、タイプは、二つある。一つは、一般商品市場に資金が向かう場合であり、このときは、一般商品の物価(卸売物価・消費者物価)が急上昇する。もう一つは、資産市場に資金が向かう場合であり、このときは、資産価格(地価・株価)が急上昇する。……前者はインフレであり、後者は資産インフレである。
 (3) このうち、前者のタイプは、投機によって加速されることがある。特に、滞留している資金が莫大である場合には、投機が激しくなされるので、インフレが急速に進む。つまり、ハイパーインフレだ。いわば、「薪に火がつく」という状況である。
 (4) ハイパーインフレを制御しようとすれば、マネタリズムによる限りは、資金の引き締めがなされることになる。すると、高金利が発生して、国債は暴落する。同時に、高金利によって、多大な倒産・失業が発生する。

 以上が、混乱のメカニズムである。ただし、ここを誤解して、次のように解釈する人々もいる。
 「量的緩和が進むと、金融政策の先行きが不透明になる。そのせいで、市場心理が戸惑い、市場に混乱が起こり、何らかの不安をきっかけに、国債暴落が起こる。かくて、金利は急上昇する。金融市場はコントロール不能な状況になる。一国経済も混乱する」と。
 しかし、これは、まったく見当違いな解釈だ。国債暴落が起こるのは、市場心理が見通し不明になるせいではない。大量の資金があるから、貨幣価値の下落が起こるのは必然なのである。ただし、それまでは、資金があっても滞留しているせいで、貨幣価値の下落が起こらない。……結局、市場心理は、貨幣価値の下落を起こす原因なのではなくて、貨幣価値の下落を起こす引き金となるだけだ。
 たとえて言えば、大きな岩が落ちずに踏み止まっているとき、小さな止め石をはずすのが、市場心理である。ほんの少しのことをきっかけに、大きな岩が落ちる。しかし、何らかの被害が起こるとしたら、それは、小さな止め石のせいではなくて、大きな岩それ自体のせいである。「小さな止め石が問題だから、もっと別の止め石を使おう」としても、何の役にも立たない。時期を少し先延ばしするだけだ。問題の根本解決には、大きな岩それ自体を取り除くしかない。
 結局、莫大な資金があれば、その資金がいつか(眠りから覚めて)動き出すのは、しょせんは不可避なのである。つまり、貨幣価値の低下は不可避なのである。そして、それをマネタリズム的に制御しようとすれば、国債暴落は不可避なのである。ここでは、国債暴落が起こるのは、金融市場の市場心理のせいではないのだ。国債暴落は、気まぐれによって起こるのではなくて、必然のメカニズムによって起こるのだ。
 とすれば、国債暴落などの混乱を回避することも、十分に可能である。つぎのことだ。  [ 付記 ]
 本項の話は、前に述べたことの総集編である。詳しくは、1〜2カ月前に述べた、ミドル経済学の話を参照。
 また、国債暴落への対策については、少し前にも述べた。( → 3月07日


● ニュースと感想  (3月22日b)

 このあとしばらく、お休みです。4月か5月ごろ、再開する予定です。
 再開後の予定は、総集編。
 (それまでの間、たまには時事的な話題で更新するかもしれません。)


● ニュースと感想  (3月27日)

 「個人情報保護」について。
 個人情報保護の法案ないし閣議決定にともなって、「個人情報保護は大切だ」というマスコミの論調が出ている。(2004-03-26 各紙・朝刊)
 呆れますね。つい先日、「表現の自由が大事だから、プライバシーを暴露していい」と言っていたマスコミが、掌を返したように、今度は「プライバシーを守れ。個人情報を保護せよ」と主張している。つまり、こうだ。
 自分勝手な二重基準だろう。「他人には禁じるが、自分は禁じられない」という唯我独尊だ。ご都合主義の極み。
 仮に、そうでないとしたら、論理矛盾である。頭が錯乱しているのかもしれない。

( ※ つい先日、大企業の不都合な情報を公開すると称して、金をタカった総会屋がいた。企業のプライバシーみたいな情報をタネにして、金をもぎとろうという、あくどい輩だ。マスコミはこれを批判したが、マスコミが同じ穴のムジナだということに気づかないようだ。)


● ニュースと感想  (3月29日)

 「数学理論と経済学」について。
 数学者が「数学理論に従って経済は動く」と信じて、株式投資をしたら、大失敗して、大損をした、という話。
 以下、書評の引用。
 「著者はこれまで日常生活にまつわる数学上の勘違いを指摘する本をたくさん書いてきた。こんな簡単な数学もわからんのか、…(中略)…というような本だ。ところが本書では、その数学者自身が株に手を出して、ちっとも理論通りに動けずに大損をこいてしまいました、という実になさけない本。」
 「著者は……解説する。ケインズの美人投票理論から、…(中略)…カオス理論やゲーム理論の適用まで」
(朝日・朝刊・書評面 2004-03-28 。主語と述語の関係がおかしいのは、原文のまま。対象の著作は、ダイヤモンド社刊、ジョン・アレン・パウロス著、「天才数学者、株にハマる」。原題 A Mathematician Plays the Stock Market )

 で、何が大切か? 書評では、「利口ぶった数学者が大失敗するのがおもしろい」というふうに評されているが、別に、他人の失敗を見て喜ぶというほど、私は意地悪ではない。また、書評では、「理論すらおぼつかない人は儲かりそうもないかも」とか、そんな感想めいた話もあるが、別に、「理論を知っていれば儲かる」という話ではないことは、著書で示されているとおり。
 では、この話のミソは? 肝心なことは、「既存の数学理論は、経済を扱えない」ということだ。もっとはっきり言えば、「数学理論では、経済を予測できない」ということだ。つまり、いくら精密な数学理論を適用しようと、そのことによって経済の未来を予測することは不可能なのだ。そして、それにもかかわらず、「数学理論で、経済を予測できる」と信じた人々は、こういう馬鹿げた大失敗をやらかす、という見本を示したこと。それが、この話のミソだ。
 
 たとえて言えば、「経済予測をする数学理論」というのは、錬金術なのである。「こういうことをできる方法がある」と信じて、あれこれと方法を試すが、どんな方法を試しても、失敗する。にもかかわらず、いつかは方法が見つかるだろうと信じて、必死に方法を探す。
 本当は、錬金術というものは、原理的に存在しない。そのことは、近代科学で明らかにされている。「経済予測をする数学理論」というのも、同様だ。こういう方法は、原理的に存在しない。では、なぜか? そのことは、このホームページでも、すでに話題に取り上げた。
 簡単にまとめれば、次の通り。  自然科学は、自然現象について、将来を予測する。そして、将来を予測できることが、自然科学が正しいことの証拠となる。たとえば、万有引力であれ、量子力学であれ、化学反応であれ、事前に将来の現象を予測できて、その予測通りに現実が進む。「将来を予測できること」と「その学問が科学である」ことは、同義である。
 しかし、経済は、そうではない。経済現象は、原理的に、将来の予測が不可能である。その意味で、経済学は、自然科学ではない。経済学は、社会科学なのである。
 では、経済学は、将来を予測するかわりに、何ができるか? 「必ずこうなる」と客観的に予測することではなくて、「人がこの選択をすれば、こうなる」というふうに、選択肢の道ごとに、道の先を示すことだ。「この道を取れば不況。この道を取れば好況。この道を取ればスタグフレーション」というふうに。そういう意味でならば、将来を示すことができる。しかし、最初の道を変えれば、最終点もまた変わる。人が選択を変えれば、将来の先行きも変わる。そして、人の選択は、あくまで、心理的なものなのである。
 だから、「未来の予測ができる」というような数学理論は、いくら探しても存在しない。そのかわりに、「未来の予測ができない」という数学理論は、存在する。それは、「カタストロフィ理論」だ。……こういうことは、錬金術の場合と、同様だ。「錬金術は、こうすれば成功する」という科学理論は存在しないが、「錬金術は、どうやっても成功しない」という科学理論は存在する。
 数学は、「経済現象を数学的に予測できる」ということを示すためにあるのではなくて、「経済現象を数学的に予測できない」ということを示すためにある。それは、つまり、「数学は真実を知るためにある」ということだ。冒頭の数学者は、「数学は金儲けをするためにある」と信じた。そこに、根本的な勘違いがある。
 書評では、「金儲けのためにはどうしたらいいか」という観点から、理論を勉強することの是非を問題にしている。しかし、数学というのは、金儲けのためにあるのではない。真実を知るためあるのだ。

( → 7月22日2月23日4月02日 〜 4月06日b , 12月01日b[ 付記 ]〜 12月01日c ,3月28日[ 付記 ])

 [ 付記 ]
 真実を知れば、誤った行動を取って損をこうむることを、防いでくれるかもしれない。その意味で、マクロ経済学を理解することは、大切である。政府が誤った経済学を取れば、国民は大損をする。
 しかし、真実を知ったからといって、金儲けができるとは限らない。特に、物を生産する現場ならばともかく、株式投資というゼロサムゲームの場では、全員が真実を知って全員が儲かるということは、(短期的には)ありえない。
 株式投資の場で、金儲けをしたければ、真実を知るよりは、他人を出し抜くことだけを考えた方がよい。真実よりも虚偽を理解した方がよい。その意味で、学者というのは、株式投資の場には、あまり適していないのである。ケインズのように、中長期的には預金よりはマシな投資収益を稼ぐことはできるだろうが、短期的にボロ儲けを狙うのであれば、不正をするのが最善の道だ。そういうことを狙うのであれば、真面目に勉強するよりは、犯罪( or 犯罪スレスレ)の方法を勉強する方が、ずっと利口である。数学者を教師とするよりは、詐欺師を教師とするべきだ。
( ※ なお、経済学者というのは、たいていは詐欺師である。ただしこの詐欺師は、自分が詐欺師であることを自覚していない二流の詐欺師であるから、自分が自分にだまされて、自分が大損をする。……そこで、「だまされないように注意しましょう」と警告するのが、この「小泉の波立ち」だ。このホームページを読めば、だまされないようになることはできるが、だますようになることはできない。このホームページに書いてあるのは、真実であって、人をだます方法ではないし、金儲けをする方法でもない。「経済学を勉強して金儲けをしよう」なんて考えている人がいたら、考えを改めた方がよい。)

  【 追記 】
 あとで本書を手に取ったところ、「人間心理の影響で、経済は不確定であり、将来は予測しがたい」という趣旨のことが書いてある。つまり、著者自身、肝心なことはわかっている。
 ただし著者は、そのことを物事の本質だとは理解していない。あくまで「経済は本質的に予測可能になるはずだ」と思い込んでいる。つまり、経済を自然科学の一分野だと見なして、自然科学の方法が適用できると信じており、そうすることが正しいと信じている。
 私に言わせれば、こんなことを信じる人は、たぶん、「恋愛も数学で予測できる」と信じているのだろう。そして、現実の女性に対して恋愛行動を取るかわりに、「恋愛で成功する方法」という数学を賢明に研究しているのだろう。オタクですね。
 こういう「自然科学万能」主義者のために、大切なことを告げておこう。数学というのは、仮定(公理)の上に成立した、演繹的な体系なのである。それは、「現実に対して正しい」という体系ではなくて、「仮定の上で論理的整合がある」だけなのだ。
 「数学は純粋である。ゆえに子供を産まない」と有名な科学者が言った。(たぶんアインシュタイン。)……これが真実だ。
 「数学は最も厳密な学問である」というのは正しいが、「だから数学は最も正しい」と主張する人がいたら、その人はとんでもない数学音痴だ。むしろ、「数学は最も空虚である」と主張する方が、ずっと正しい。
 数学の厳密さと空虚さとは、裏表の関係にある。そのことがわからない人々が、「数学で経済を理解しよう」とか、「数学で金儲けをしよう」とか、とんでもないことを狙う。そして、カオスだのフラクタルだの、見当違いの数学を使うが、そのあげく、おのれの間違いだけを見事に証明するのである。


● ニュースと感想  (3月30日)

 「マクロ経済学と数学原理」について。
 私と古典派経済学では、その数学的な原理が根本的に異なる。このことは、これまでは言及してこなかったが、一応、言及しておこう。
 古典派経済学の数学的な原理は、「決定主義」である。これは、伝統的な「科学的方法論」とも言える。「世界のあらゆる現象は、数学的に決定できる」という立場である。換言すれば、「一定の数式により、未来の現象をすべて予測できる」ということだ。……こういう立場を「決定主義」という。
 決定主義は、長らく、科学の主流であった。しかるに、20世紀以降、この立場は破綻した。それは、量子力学が登場したからだ。量子力学によれば、「世界のあらゆる現象は、数学的に決定できる」ということはない。換言すれば、「一定の数式により、未来の現象をすべて予測できる」ということはない。では、かわりに、どう言えるか? 「決定的に予測できる」のではなく、「確率的に予測できる」だけである。たとえば、ある猫が1時間後に生きるか死ぬかは、決定的に予言はできず、確率的に予言できるだけだ。
 ここでは、「決定主義」のかわりに、「確率主義」とも言うべきものがある。しかし、「確率」というものは、本質的なことではあるまい。その底には、もっと根本的なものがあるはずだ。では、それは、何か?
 答を言おう。「決定主義」は、「個別主義」のことなのであり、一方、「確率主義」は、「全体主義」の一部分なのである。このことを、以下で説明しよう。

 「決定主義」とは、「個別主義」のことである。全体の現象は、一つ一つの個別の事柄が決まることによって決定される。そこでは、すべての個別の事柄が決定され、そのことで、全体が決定される。……科学者は、個別の事柄も、全体の現象も、ともに考察し、ともに理解する。
 これに対して、「全体主義」とも言うべきものがある。ここでは、全体の現象は決まるが、一つ一つの個別の事柄が決まることはない。そこでは、すべての個別の事柄が決定されなくても、全体が決定される。……科学者は、個別の事柄を考察することなく、全体の現象だけを考察する。なぜなら、個別の事柄は、そもそも原理的に考察不可能だからである。(統計学や確率論など。量子力学も。)

 後者の具体的な例を示そう。量子力学における「ボース粒子」がある。(詳しくは量子力学の本を参照。) ボース粒子という量子は、一つ一つはたがいに区別されない。たとえば、「粒子1」「粒子2」「粒子3」というふうに、番号を付けて、それぞれをたがいに区別することができない。このことは、人間が無知で無能だからそうなのではなくて、宇宙の原理として現実にそうなのである。仮に、たがいに区別できるとしたら、全体現象そのものが変化してしまう。(こういうことは、一見、不思議に思えるが、量子力学の世界では、そうなっているのである。)
 
 そして、実は、マクロ経済学というものも、これと同じ数学原理に立つ。マクロ経済学では、一人一人の個人行動や、一つ一つの企業行動は、決定されない。このことは、マクロ経済学が非力だからそうなのではなくて、現実における経済の原理がまさしくそうなのである。仮に、細かなことまで区別できるとしたら、経済学そのものが変化してしまう。
 経済学において、「すべては個別に決定される」という立場に立つと、「あらゆる経済現象は数値的に予測される」ということになり、「数学を厳密にすれば経済学は完成する」というふうになる。そして、「個人が最適行動をして、企業が最適行動をすれば、経済全体も最適化する」というふうになる。「経済全体が最適化していない(デフレやインフレである)としたら、それはあくまで、それぞれの個人や企業が、最善でない行動をしたからである。すべては、個人や個別企業の責任だ」ということになる。つまり、全体は個々に還元される。
 しかし、そんなことはないのだ。マクロ経済学では、原理的に、「すべては個別に決定される」ということはありえない。個々の行動は、決定不可能であり、予測不可能である。マクロ経済学にできるのは、あくまで、全体の量を扱うことだけだ。たとえば、GDPの変化についてはモデル的に予測できるし、国民全体が総体としてどう行動するかも予測できるが、一つ一つの企業や一人一人の個人がどう行動するかは予測できない。……だから、「あらゆる経済現象は数値的に予測される」ということはないし、「数学を厳密にすれば経済学は完成する」ということもない。もちろん、「個人が最適行動をして、企業が最適行動をすれば、経済全体も最適化する」ということはない。また、「経済全体が最適化していない(デフレやインフレである)としたら、それはあくまで、それぞれの個人や企業が、最善でない行動をしたからである」ということもないし、「すべては、個人や個別企業の責任だ」ということもない。全体の問題は、あくまで全体の問題であって、個々の企業や人間の問題ではないのだ。むしろ、個々の企業や人間が最適行動を取れば取るほど、全体の状況はかえって悪化してしまうことすらある。(それがデフレだ。)

 結語。
 古典派の人々は、経済学を科学的に扱おうとして、決定主義で数学的に将来を予測しようとする。しかしそれは19世紀的な古い科学観なのである。そういう古い科学観は、マクロ経済学には適用されない。マクロ経済学では、むしろ、量子力学と同じように、非決定的な科学観をもつ必要がある。そこでは、個別の事柄は決定されず、全体の量だけが決定される。個々の企業や人間の行動は決定されず、全体としてのGDPなどだけが決定される。
 そして、そういうことは、マクロ経済学が非力であるからそうなのではなくて、世界の原理そのものがそうであるからなのだ。なのに、世界の原理に逆らって、世界の原理とは別の原理を前提とすると、世界を正しく認識できなくなる。ちょうど、古典力学的な決定主義では、量子の世界を正しく認識できないように。
( ※ マクロ経済学を誤って理解する典型的な例が、「カオス理論やフラクタル理論という新しい数学理論によって、経済現象を細かく予測しよう」という立場だ。しかし、いくら特別な理論を用いても、熱運動のような統計的な現象では、個別の量子の運動は決定されない。そういうことは、本質的にそうなのであって、数学理論の問題ではないのだ。たとえカオス理論を用いても、個々の原子の動きを一つ一つ記述することはできない。それと同様で、いくら特別な数学を用いても、経済における個別のことまでは予測されない。)

 指針。
 では、経済学者は、どうすればいいか? 「個々の事柄をすべて決定しよう」という決定主義にとらわれなければよい。たとえば、「経済変動によって、どの企業が倒産して、どの企業が伸びるか」とか、「失業率が上がると、誰が失業して、誰が失業を免れるか」とか、そういう個別的な事柄を、一切無視すればよい。なぜなら、そういうことは、もともと決定可能ではないからだ。あえて決定しようとすれば、足を泥沼に踏み入れて、泥沼の底で窒息死してしまうからだ。
 マクロ経済学で考えるべきは、あくまで、全体としての経済量だけである。それ以外のものを考えてはならない。考えることができないのではなくて、考えてはならないのだ。無理に考えれば、余計なものが取り込まれて、その結果、毒が回って、マクロ経済学そのものが死んでしまう。……そして、その毒の回った経済学が、「古典派経済学」である。
 マクロ経済学を考えるときには、以上のことに注意しよう。

( ※ 「毒を含む理論」というのは、論理学で言えば、「一部に矛盾を含む体系」に相当する。一つでも矛盾を含むせいで、全体が瓦解してしまうわけだ。)
( ※ 数学の専門家向けの話 → 区体論[7] 以降。準関数の話。)
( ※ 予測と経済モデル → 4月01日b 以降 ,4月07日
( ※ 「誰が失業するか」という問題の例 → 1月12日

 [ 付記1 ]
 「個々の行動まで決定できない」というのは、「理論的には個々の行動まで決定できない」ということである。それはつまり、「理論的には個々が最適行動をしない」という意味であり、「理論的に最適行動が存在しない」ということであり、つまりは、「(理論的に最適行動が存在しないような)不均衡状態である」という意味である。
 この意味で、不況の状態では、予測はまったく不可能である。ただし、不況でなければ、予測は可能である。

 [ 付記2 ]
 一方、現実との乖離もある。これは「理論的には」ということではなくて、「現実的には」ということだ。つまり、「現実的には個々の行動まで決定できない」であり、「たとえ理論的には個々の行動まで決定できても、現実的には個々の行動は理論通りにはならない」ということだ。
 なぜか? それは、最適行動をしない人々が、錯乱要因として働くからだ。こういう人は、愚かな人ではあるが、現実には、不利な行動をあえて取る愚かな人々はけっこういるのである。(典型的なのは自殺者だ。)
 実を言えば、人間はみんな、多かれ少なかれ、愚かなのである。結婚した人はたいてい、自らの愚かさを悔いているだろう。その他、人生は、後悔でいっぱいだ。もちろん、私も愚かである。一円にもならないのに、こんな文章を書いているのが、その証拠。
( ※ この場合、「予測は不可能である」のではなくて、「予測はできるが当たらない」のである。にもかかわらず、「必ず当たる予測」というのを求めるのが、愚かな理論家たち。)

 [ 付記3 ]
 古典派では、「均衡」を前提とするから、当然、「全員が理想的に賢明である」ということを前提とする。かくて、「合理的期待形成仮説」なんてものが登場するのである。逆に言えば、「全員が理想的に賢明である」ということを前提としないと、理論と現実が食い違ってしまうのだ。
 実に馬鹿げている話だ、といえよう。「全員が理想的に賢明である」ということを前提とする古典派経済学者は、非常に愚かなのである。
( ※ ただし、このことは、論理的には矛盾を引き起こさない。経済活動を取る人々は賢明であるが、古典派経済学者はそこには含まれない[経済活動をしない]と見なせばいいからだ。たとえば、当の経済圏の外[外国や仙人境など]にいる、と見なせばよい。……とはいっても、彼らの愚かさがなくなるわけではない。)
( ※ → 4月09日 以降。「合理的期待形成仮説」)

 [ 付記4 ]
 マクロ経済学とミクロ経済学のほかに、ミドル経済学もある。これは、「投資」と「消費」の比率を考えるものだ。これは、広い意味では、マクロ経済学の分野に含めてもいいかもしれない。定義しだいである。
 ミドル経済学は、均衡を前提とするか? 前提することもあり、前提しないこともある。前提するときにはミクロ的に考察し、前提しないときにはマクロ的に考察する。ミドル経済学は、あるときにはミクロ経済学の一部と見え、あるときにはマクロ経済学の一部と見える。
 具体的に言えば、「投資と消費の比率の最適配分」という内部配分の点では、ミクロ経済学的だが、「投資と消費の総額の変化」という総枠変化の点では、マクロ経済学的である。
 なお、ミドル経済学は、従来の経済学の考察対象外にある。仮に、ミドル経済学がもともと存在していたとすれば、現在のように、「景気回復をしかけたら、少しは増税をしてもいい」なんていう主張は出てこないはずなのだ。こういう主張が出てくることからして、ミドル経済学の分野がまったく考慮されていなかったということがわかる。
( → 1月26日b 「ミドル経済学」 )
( ※ ついでに言うと、「マクロ経済学とは一国全体の経済を扱うものだ」なんていう素人論議は、正しくない。たとえば、欧州では、欧州経済が一体化した時点では、マクロとは欧州全体の経済を意味するのであって、国境は関係がない。また、孤島の孤立した経済では、そこは国ではなくても、そこにはマクロ経済が成立する。 → 12月03日 「プチ・マクロ」)

 [ 余談 ]
 オマケとして、「おれは偉いぞ」と思いたがる人のために、おもしろおかしく示しておこう。
 マクロ経済学の扱える範囲に限界がある、ということは、偉ぶっている経済学者には、不満に思えるかもしれない。しかし、「マクロ経済学は万能だ」と思ったら、もはや頭がイカレていることになるのだ。同種のイカレた人々には、次のようなものがある。
 というわけで、「マクロ経済学ですべての経済現象を扱える」と信じるイカレた経済学者と、「武力ですべてを決定できる」と信じるテロリストやブッシュは、頭の構造がそっくりなのである。頭がイカレると、自惚れたあげく、自分の力が万能であり、自分が神のごとく偉いと信じたがるものだ。狂人とは、そういうものである。注意しよう。
 とにかく、マクロ経済学で扱えるのは、マクロ的な経済現象だけであって、経済現象のすべてではない。それは当り前のことだ。(ただし、古典派経済学者と、狂人には、そのことが理解できない。)


● ニュースと感想  (3月31日)

 「自動回転ドアの事故」について。
 自動回転ドアに子供が挟まれて死亡する、という痛ましい事故があった。この原因究明をめぐって、「センサーの感度を鈍くしたのが原因だ」という趣旨の報道が、しばしば出ている。特に、朝日新聞がそうだ。
 しかし、こういうふうに、「こいつが一方的に悪い」という決めつけをして、先入観に基づいて、特定方向で報道を進めるのは、正しい報道の仕方ではない。それは、犯罪調査で言えば、「こいつが犯人に決まっている」と勝手に思い込んで、その先入観に従って証拠を集める、というのと同様である。こういう調査は、しばしば、冤罪を生む。
 正しくは? 専門家の意見を、あちこちで聞くことだ。警察の捜査本部ばかりに足を運ばないで、あちこちの専門家の意見を聞くことだ。それが「足で書け」ということだ。「思い込みで書く」のとは正反対である。
 そして、そういう方針を取れば、真犯人がわかる。では、真犯人は? センサーの誤作動なんかではない。センサーが誤作動をするのは、もともと当然なのであって、その誤作動を前提としていなかったシステム自体に、根本原因がある。では、真犯人の名は? 
 それは、「フェイル・セーフという思想の欠如」である。あらゆる重要機構は、正常に機構が作動しなかった場合にも、なおかつ最悪の事態を防ぐような「フェイル・セーフ」の思想が必要となる。自動回転ドアは、ちょっと見ればわかるとおり、人に危険感を与えるし、人に挟まれるケガをさせやすい。とすれば、最悪の事態を想定する必要がある。なのに、そうしなかった。それが真犯人だ。
 そして、真犯人がわかれば、対策もわかる。対策は、「センサーの感度を上げて、センサーを正確にすること」なんかではない。「万一挟まれても事故を起こさない」という仕組みを作ることだ。その方法は、いろいろとあるが、「一定以上の力が加わると、ドアが途中で二つに折れる」というような機構などが考えられる。図示すれば、こうだ。

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 実は、他の自動回転ドアは、これと似た仕組みがあった。図示すれば、こうだ。

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 なお、このタイプの自動回転ドアは、センサーがない。センサーがないから、フェイルセーフになっていた。センサーがある自動回転ドアは、センサーを過信して、フェイルセーフを怠っていた。
 結局、今回の事故の本当の理由は、ハイテク技術に対する過信である。ITはすばらしい、ハイテクはすばらしい」などと賛美していることが、根本原因なのだ。そして、そういう技術賛美の頭があるから、「センサーの誤作動」などに目が向いてしまうのだ。
 優秀な技術者は、技術というものを過信しない。技術音痴の人間ほど、技術というものを過信する。現代人の陥りやすい落とし穴を、今回の事故は教えてくれる。

( ※ 「経済の話と関係はあるか?」と思うかもしれない。ある。「不況対策には e-Japan 」と主張した人々がいる。2001年の経済財政白書にも書いてあった。「ハイテク技術で不況脱出」という発想だ。その結果は、ご存じの通り。ドアではなくて政策が、硬直していたせいで、子供が死ぬのではなくて、日本経済が半死状態になってしまった。)


● ニュースと感想  (4月01日)

 「国歌・国旗の問題」について。
 国歌・国旗について、起立しない教師を処分するという東京都の方針に対して、賛否両論がある。読売社説は、「サッカーなどで国歌・国旗を尊重するのは自然であり、これに従わない教師はおかしい」と主張している。朝日社説は、「起立するかどうかを厳密にチェックして、起立しないと処分する、なんてのは行き過ぎだ」と主張している。(2004-03-31 )
 話が噛み合っていない。朝日が批判しているのは、「国家国旗を敬うかどうか」という点ではなくて、「強制する」という点である。そして、この点では、朝日が正しい、と私は考える。
 では、なぜか? 「強制する」とすれば、それはもはや、金正日と同じだからだ。「将軍様は素晴らしい。ららら……」と国民に強制的に歌わせ、その歌を歌わない人間は、秘密警察が調べて、処刑する。それと同様なのが、東京都だ。「天皇陛下よ永遠なれ」という趣旨の歌を教師・生徒に強制的に歌わせ、その歌を歌わない教師は、秘密公務員が調べて、処分する。まったく、そっくりだ。
 
 読売は、「サッカーなどで国歌・国旗を尊重するのは自然である」と述べている。たしかに、そうだ。民族のアイデンティティ(自分性)を示す国歌・国旗は、国際的なスポーツの場では、日本の記号・象徴として敬われるだろう。しかし、日本の国歌には、二重性がある。単なる記号・象徴の意味と、「君主への忠誠」の意味だ。仮に、読売の主張が正しいとしたら、金正日が「将軍様は素晴らしい」と国民に強制的に歌わせ、その歌を歌わない人間は、秘密警察が調べて、処刑するという状況を、「自然であって、好ましい」ということになる。読売は、金正日と同じ思考構造をもっているのだ。もちろん、東京都知事も、同様である。

 と、ここまで書いて、「しまった」と思った。なぜなら、東京都知事と読売の社長が、金正日と同じであることは、天下の公然の事実だからである。どちらも日本に名だたる独裁者である。とすれば、彼らを「金正日と同じだ」と述べても、当り前のことでしかない。
 金正日は、「国旗・国歌を敬え」と主張する。東京都知事と読売の社長も、「国旗・国歌を敬え」と主張する。そして、その命令に従わなければ、ただちに処分されてしまうのである。北朝鮮国民ならば処刑されるし、東京都の教師ならば処分されるし、読売の社員ならば解雇される。
 日本は決して、「自由で民主主義の国」ではない。「物言えば唇寒し」の国だ。フセインのいたイラクや、金正日のいる北朝鮮と、同様なのである。

 ついでに言っておこう。言論の自由というものは、こういう「思想の自由」を表現するためにある。他人のプライバシーを覗き見するためにあるのではない。しかるに、日本のマスコミは、出歯亀行為を守ることばかりに熱中していて、「思想の自由」を守るためにはほとんど何もしないのである。

 [ 付記 ]
 ここでは、読売を批判して、朝日を擁護したが、総合的に言えば、ひどいのは朝日である。読売の方は、ただの阿呆な保守派であるから、これが阿呆なのは、誰にでもわかる。いちいち批判するまでもない。また、読売は、保守的ではあるが、事実を曲げて報道することはない。ところが、朝日の方は、事実を曲げて報道する。主張と報道とをごちゃまぜにして、変なキャンペーンを張る。
 中国や韓国では、国が国民を洗脳して、「日本批判キャンペーン」を実施していた。こういう洗脳キャンペーンは、批判して当然なのだが、朝日は日本にいるくせに、このキャンペーンに乗って洗脳されてしまった。あげく、日本国民まで、洗脳しようとする。あげく、小林よしのりが朝日批判をすると、とんでもないデタラメで小林よしのり批判などをする。大新聞が個人批判をするのだから、呆れるね。
 朝日のこの体質は、なかなか治らないらしい。サッカーでも「トルシエ批判」をしてトルシエをつぶしたが、トルシエよりもはるかに劣るジーコについてはしきりに擁護している。トルシエのチームには「世界ベスト8に入れなかったから、トルシエを解雇せよ」と主張し、ジーコのチームには「どんなに負けてもいいから、長い目で見守ってあげよう」と擁護する。
 結語。
 読売も朝日も、「マスコミの使命は、国民を洗脳することだ」と信じている。その点、金正日と同じである。読売は「国歌・国旗を敬え」と洗脳したがるし、朝日は「国歌・国旗を敬わなくてもいい」と洗脳したがる。注意しよう。

 [ 余談 ]
 なお、私の個人的な感想を言えば、こうだ。
 「国歌は、洗脳のために使うより、洗濯するべきだ。干す場所は、洗濯ロープに。」
 「国歌は『君が代』をやめて、『ふるさと』に変えるべきだ。すなわち、『うさぎ追いし かの山』」
 ( ※ こんなこと言うと、右翼に暗殺されるかも。……私が殺されたら、読売あたりは、「自業自得だ。ざまあみろ」と喜ぶだろう。金正日も、「日本も北朝鮮と同じだな。やっぱりね」と思うだろう。日本には、言論の自由は、ないんだね。命懸けでなけりゃ。)
 ( ※ なお、「アメリカに賛成する自由」とか、「アメリカにシッポを振る自由」とかなら、ふんだんにある。ただしこれは、「言論の自由」ではない。「言論の自由」とは、「政府に反対する自由」のことである。そして、これを、読売などのマスコミは必死につぶそうとしているのだ。読売は最近ではちょいちょい、世論調査の数字を操作している。マスコミの使命を完全に取り違えている。……どこを操作しているか? 調査項目を作った本人に聞いてみるがいい。いかに操作のために苦労したか、苦労談があるはずだ。ま、バレバレですけどね。)

 [ 補説 ]
 物事の本質を考えよう。国歌・国旗問題の本質は、何か? 
 それは、「戦争の記憶」である。国歌・国旗それ自体が問題なのではなくて、これらに付随するものが問題なのだ。それが「戦争の記憶」である。だからこそ、国歌・国旗がひどく感情的な対立をもたらす。
 保守派は、「先の戦争で戦った英霊を敬え」と主張し、左翼は「国歌・国旗への忠誠の名目で戦争に駆り立てた歴史を見よ。また戦争に引きずり込む気か」といきりたつ。
 私自身は、国歌・国旗それ自体を敬うことは、別に、問題でも何でもないと思う。ただし、これに「戦争の記憶」が付随するとなると、問題となる。
 では、解決策は? それは、次の二つが成立することだ。
   ・ 日本の自由化
   ・ 日本の民主化
 つまり、「自由」と「民主主義」の成立である。この二つが成立するのであれば、「国歌・国旗を敬え」という主張は、「国連憲章と国連旗を敬え」というのとほぼ同様になり、何も問題は起こらないだろう。
 しかるに、現実には、上の二つは成立していない。
 第1に、日本には自由はない。政府はやたらと過剰な指導や法律で国民を束縛するし、マスコミは事実を歪めて報道して国民を洗脳しようとするし、企業は社員を労働組合から遠ざけようとする。そもそも、日本という国自体が、アメリカの属国であり、独立国ではない。いみじくも保守派の論客がたびたび主張したように、日本には米国に「ノー」と言う選択肢はないのである。つまり、自由はないのだ。
 第2に、日本には民主主義はない。一票の格差は、参院では5倍超、衆院では2倍超。こういうひどい選挙制度のせいで、政権交替が事実上、不可能である。政権交替のない政治制度というのは、選択肢のない政治制度と同様であり、民主主義の名に値しないのだ。最低限、一票の格差を 1.5 倍以下にするべきだ。それができないとしたら、日本は民主主義国家ではなくて、エセ民主主義国家なのである。かつてのソ連や、現在の中国では、共産党の候補だけが立候補するエセ民主主義があった。そしてこれを「民主主義」と称した。それと同様なのが、今の日本だ。なお、保守派ならば、「日本は民主主義だ」と主張するだろうが、彼らは「日本は米国の属国であるべきだ」と主張しているのだから、民主主義の前提である「独立国」ということすら成立していないことになる。
 結語。
 自由も民主主義もない国では、「国歌・国旗への忠誠」は、「独裁政治への忠誠」とほぼ同義である。だから、国歌・国旗問題は、それ自体が問題なのではなくて、日本に「自由」と「民主主義」がないということが本質的な問題なのだ。……そして、いつの日か、日本に「自由」と「民主主義」が備わったなら、そのとき、国民は心から安らかに、国歌・国旗を愛するようになるだろう。ちょうど、桜や富士山を愛するように。


● ニュースと感想  (4月02日)

 「人類の進化と咀嚼筋」について。
 「初期の人類の化石と類人猿の化石を比較した結果、人類には咀嚼筋(そしゃくきん)の退化が見られる。だから、咀嚼筋の退化が、脳の大容量化をもたらしたのだろう」という報道があった。
 こんなものは、ただのトンデモだと思えたので、コメントする気はなかったのだが、まともに論争をしている人々がいるようなので、世間の誤解をほどくため、正解を記しておく。

 そもそも、「咀嚼筋の退化」が起こっても、それ単独では、「脳の拡大」は起こらない。「咀嚼筋の退化」と「脳の拡大」とは、別の遺伝子がになっている。前者の遺伝子と後者の遺伝子が同時に成立するのでない限り、進化は起こらない。
 そして、ダーウィン説では、「適者生存」なのだから、「咀嚼筋の退化」だけがあって、「脳の拡大」の方がない個体は、淘汰されてしまうはずだ。一方、「咀嚼筋の退化」と「脳の拡大」の双方の遺伝子で突然変異が同時に発生する確率は、限りなくゼロに近い。

 ただし、この「限りなくゼロに近い」という問題は、クラス進化論を用いれば、回避できる。「種の全体がいっせいに変化する」というダーウィン説を取らずに、「個体に遺伝子のバラツキがあって、さまざまな遺伝子が多様に存在する」(適者生存があまり起こらない)ということを前提とすれば、「咀嚼筋の退化」と「脳の拡大」の双方の遺伝子が集団内で同時に別個に存在することができるから、双方の遺伝子を一つずつもった個体同士が交配することで、双方の遺伝子を同時にもった個体が誕生する。( → 詳しくは、クラス進化論のページ。 )

 とはいえ、話を戻すと、冒頭の仮説は、話の順序が根本的に狂っている。「咀嚼筋が退化したから脳が拡大した」のではない。「脳が拡大したから、咀嚼筋が退化した」のである。
 このことは、最近の若者たちの骨格を見ると、よくわかる。柔らかいものばかりを食べて、咀嚼することが少なくなったので、顎が発達しなくなった。顎がどんどん小さくなってきている。そのせいで、歯並びが悪くなっている若者がとても多い。
 ここで、現代の若者たちの骨を調べた進化論学者は、こう結論するだろう。「現代の若者たちの顎は縮小しており、咀嚼筋が退化している。そのせいで、ITが進化したのだ。ITが進化した理由は、咀嚼筋の退化である」と。
 馬鹿げた話だ。本当は、文明の発達のせいで、柔らかい加工食品ばかりを食べたから、咀嚼筋が退化していったわけだ。また、これは、遺伝子レベルの話ではなくて、誕生後の骨格の発達の問題である。……とはいえ、誕生後の骨格の発達が不足すれば、長いうちには、遺伝子にも影響するようになるだろう。(これは別に、獲得形質遺伝説ということではなくて、役立たずの遺伝子は発現せずに消えていく、ということだ。シッポの骨などと同様である。)
 初期の人類も、同様である。咀嚼筋が退化したから、脳が進化したのではない。脳が進化したから、石器などの道具を使って、咀嚼の必要性が減っただけのことだ。たとえば、チンパンジーは、石を使って果実を割ることがある。初期の人類ならば、もっとずっと上手に道具を使っただろうから、咀嚼の必要性はずっと少なかっただろう。

 結語。
 二つの現象に相関関係があるからといって、その因果関係を逆にとらえてはならない。進化論の分野ではしばしば、この混同を起こしている。「AだからBだ」という現象を見て、「BだからAだ」と主張したがる。たとえば、「シッポが退化したから、脳が発達したのだ」というふうに。
 一般に、あらゆる進化において、最も基本となるのは、脳の進化である。脳の進化が最も困難かつ重要なのだ。だから、生物の進化の歴史とは、脳の進化の歴史である、と言っても過言ではないほどだ。下等生物から、魚類や両生類を経て、人類に至るまでの歴史とは、基本的には、脳の進化の歴史なのである。これが本質であって、手や足の形態は二次的な問題にすぎないのだ。(この件、詳しくは、クラス進化論で述べる。ただし現在、未公開。)
 とにかく、何事であれ、本質を理解することが大切だ。人はやたらと、目に見える形態から、話を進めたがる。しかし本当は、目に見えるものよりも、目に見えないものの方が、ずっと大切なのである。「星の王子様」に書いてあるとおり。

( 参考情報 → ほら貝 の Mar30 ,asahi.com


● ニュースと感想  (4月06日)

 「マスコミの横暴」について。
 プライバシー侵害の問題に関して、これを是とした朝日などを私は批判した。一方、読売などの一部のメディアは、「プライバシー侵害はけしからん」と主張している。ここでは、文春などを批判しているが、自分はまともな報道体制をもっていると信じているようだ。
 しかし、日本の新聞は、朝日も読売も、とんでもない横暴な体質がある。その実例を示す。
 「ダフ屋行為をした会社員二人を逮捕」という記事があった。「巨人阪神戦の切符を高値で売りつけたので、逮捕した」という記事を実名で堂々と報道している。(2004-04-05 夕刊。朝日・読売)
 こんなふうに実名報道をすれば、報道された人は、日本全国津々浦々に名前を知られるし、会社も即刻解雇であろう。とすれば、ダフ屋行為というのは、全国に知らしめるほどの極悪犯罪なのであるに違いない。
 では、ダフ屋というのは、どのような法律に違反しているのだろうか? 実は、普通の意味の法律には違反していない。刑法や商法はもちろんのこと、軽犯罪法にすら違反していない。では、何に違反しているかといえば、東京都の条例違反である。つまり、東京都では違反となるが、この条例のない県では違反とはならない。
 軽犯罪法違反といえば、立ち小便などがある。これは明白な法律違反であり、公共物を損壊するだ。また、交通違反といえば、スピード違反などがある。これは道路交通法違反であり、かつ、人命を奪う危険があるので、殺人未遂の軽度のものと見なせるだろう。では、ダフ屋行為は? 実は、これは、被害者が存在しない。強いていえば、「切符を買い損なった」という人が生じるが、彼は別に被害を受けたのではなくて、利益を得そこなっただけだ。「せっかくの楽しみを味わいそこなった」というふうにはなるが、何らかの被害を受けたわけではない。また、可罰性から考えても、千円で購入したものを十万円で売ればひどいが、今回は約3万円で購入したものを人気カードに限って4万円で売っただけだ。しかも、初犯だ。(また、そもそも「高値で転売する」というのは、座席チケット以外であれば、まったくの合法な経済活動である。たとえば、記念切手や人気自動車の高値転売。)
 結局、今回の犯罪は、まったくの微罪である。こんなものを報道するべきだとしたら、スピード違反や駐車違反(いずれも殺人未遂と同類)や、路上での喫煙(傷害未遂ないし既遂と同類)などは、はるかに重罪であるのだから、これらをすべて報道するべきだ、となってしまう。
 では、なぜ、今回は、こんなまったくの微罪を報道したのか? それはマスコミが横暴であるからだ。そしてまた、人権感覚がまったくないからだ。どうしても報道するとしても、本人の人生を破壊するような実名報道は避けて、匿名報道にするべきだろう。ところが、同じ日の紙面では、「おれおれ詐欺」を何十度もやった極悪人については匿名報道にして、ダフ屋行為いっぺんやった小悪人ばかりをおもしろおかしく報道する。
 これがマスコミの体質だ。自分がおもしろおかしい紙面さえ書ければ、報道された人々の人生がどうなろうと、知ったこっちゃないのだ。「おまえがそんなことをやったから悪いんだ」と正義漢ヅラをして、他人の小さな失敗を食い物にする。そういう自分だって、ときどき路上に紙屑や煙草を捨てたり、昼食を賭けたり、スピード違反をしたり、セクハラめいた言葉を言ったり、……と、同種の違反行為はさんざんやっているはずなのだが、「私は何一つ間違ったことをしていません」と聖人ヅラをする。
 こういう輩を、「厚顔無恥」と呼ぶ。それがマスコミの体質なのだ。朝日や読売がいくら偉そうなことをいっても、彼らはしょせんは、他人の失敗や秘密を食い物にして金儲けをする、ダニのような存在にすぎないのだ。
 以前、企業の小さな失敗を探り当てて、それを暴露しようとして、「公開されたくなければ金を寄越せ」と言って、逮捕された総会屋がいた。これとマスコミとは、まったく同類なのである。社会のクズだ。

 [ 余談 ]
 「じゃ、そういうおまえはどうなんだ?」と言われたら……。弁解すると:
 第1に、私は、批判することで金をいただいてはおりません。このホームページは無料ですからね。悪口を言って金を得ている朝日や読売とは違います。
 第2に、私は、自分がいつもヘマばかりしているのをわきまえています。他人がヘマをしたからといって、そのことで攻撃はしません。「嘘つけ!」と言われそうだが、勘違いしないでね。私は、朝日や読売などの団体だけを批判しているのであって、個人攻撃はしていません。(小泉などの権力者は別。) また、意見を批判することはあっても、個人情報を暴露することはありません。(たとえ相手が小泉であっても。)
 第3に、私は、聖人ヅラをしておりません。馬鹿ヅラをしております。こんなふうに →   (^^);
 あ! 私は自分の個人情報を暴露してしまった! 馬鹿ヅラであることがバレてしまった!


● ニュースと感想  (4月07日)

 「イラク戦争」について。
 イラクで戦闘が激化している。米軍はますます泥沼状態に引き込まれつつある。米国は当初の見通しがまったく狂ってしまったようだ。
 そこで、私は、この状況をまとめておこう。それは、こうだ。
 「イラク占領は、ベトナム戦争化しつつある
( ※ ケリーは「ブッシュのベトナム」と呼んでいる。朝日社説 04-08 は「ベトナム化の懸念」を訴えている。本項で述べるのは、「まさしくベトナム化しつつある」ということだ。……[ 04-08 加筆。])

 米国は「テロリストを倒す」と主張しているが、現状では、もはや、戦闘の相手は、アルカイダなどのテロリストではなくて、イラクの反米勢力である。その反米勢力は、特定の少数の過激派などではなくて、国民全体のなかに広く根づいており、莫大な数がある。そして、それらの反米勢力が、一般民衆にまぎれこんで、ゲリラ的に出没して、米軍を攻撃する。米軍は、そういう武装勢力を攻撃するとき、同時に、一般民衆をも大量に殺害し、ますます反感を受けて、ますます攻撃を受ける。米軍は「われわれは攻撃に屈しない」と主張するが、同時に、相手も「われわれは攻撃に屈しない」と主張する。かくて、戦闘のスパイラル的な悪循環が拡大する。
 こういう事情は、まさしく、ベトナム戦争の過程そのものだ。戦闘はどんどんエスカレーションしていき、死者数もエスカレーションしていく。そして、その理由は、双方のメンツなのである。メンツゆえに、双方がどちらも被害を拡大していく。「囚人のジレンマ」で言えば、「相手に得をさせたくない」という理由で、双方が最悪の選択肢を選択して、双方が最悪の状況に陥る。
 
 ここまで考えれば、どうするべきかもわかる。メンツなどを捨てて、小さな不名誉を受け入れることで、大きな実害を避けることだ。そうすれば、双方が大きな実害を避けることができる。
 しかし、現実には、そうはなるまい。愚かな人間というものは、痛みに耐えきれなくなるまで、とことん、その道を愚直に進むのである。過去のベトナム戦争においても、とんでもない損害を受けるまで、米国は道を改めなかった。
 そして、日本としても、同様だ。ベトナム戦争のときと同様に、米国が愚かな泥沼に入り込めば、日本はそれを黙ってみているだけなのだ。日本が米国の友人であれば、相手の友人が間違いをしたとき、「改めよ」と忠告できる。しかし日本は、米国の友人ではない。「日本は米国の友人である」と小泉や中曽根あたりは思っているようだし、しきりに首脳同士の友情関係を宣伝するが、とんでもない。日本は、米国の友人ではなくて、米国の犬である。だからこそ、相手が泥沼に引き込まれるときにも、忠告することはできず、黙って追従するだけなのである。
( ※ ただし、一般に、犬というものは、「自分はご主人様の友人だ」と思い込んでいるものだ。)

 [ 付記 ]
 歴史的にいえば、市民のなかにひそむ非正規兵というのには、さまざまな名称が付く。「ゲリラ」「レジスタンス」「便衣兵」など。こういうのを根絶しようとすると、一般民衆を巻き込む形となり、一般民衆からひどく反発を食う。特に、中国は今でも「昔、日本軍が市民を虐殺した」と主張しており、「便衣兵がいたから」ということをまったく無視して、一方的に恨んでいる。(日本人でも朝日などはそのお先棒を担いでいる。)
 とにかく、正しいとか正しくないとかいうことは別として、こういう非正規兵を根絶することは非常に困難なのである。無理にやれば、弊害が大きくなりすぎる。
 ただし、である。歴史的には、こういう非正規兵を根絶する方法が、一つだけある。それは、「圧倒的な軍事力専制政治」という組み合わせだ。単に圧倒的な軍事力があるだけでは、比較的有利になるだけであり、非正規兵を根絶できない。ただし、専制政治を組み合わせれば、非正規兵を根絶できる。その例としては、フランコ、フセイン、金日成などの独裁体制がある。
 だから、米国がイラクにおいて勝利しようとするのであれば、イラクにおいて専制政治を確立するしかない。そうして秘密警察を跋扈(ばっこ)させて、一般市民の生活を盗聴し、少しでも反逆の目を見出せば、徹底的に拷問や虐殺などで弾圧することだ。そうすれば、米国は目的を達成できる。……そして、そのとき、米国は第2のフセインとなるのである。独裁体制を倒したあとで、自らが独裁体制を築くわけだ。
( ※ 「馬鹿げている」と思うかもしれないが、この馬鹿げたことをやらない限り、米国はイラクでは勝利できない。異教徒による占領などは、しょせん不可能なのである。わかりやすく言おう。どこかの異教徒が「米国の解放」を唱えて、米国を占領したとき、米国民は素直に服従するだろうか? そう考えれば、すぐにわかる。)

 [ 補記 ]
 私にとって、興味深いことがある。それは、米国の犬の一匹である読売が、いつ変節するか、ということだ。
 このまま行けば、ブッシュが再選されることは、まずあるまい。当然、ケリーが大統領になり、ブッシュ政策を批判し、イラク政策を根本的に改める。そのとき、読売は、ケリーにたてつくことができるだろうか? 「米国は間違っている。イラク戦争を継続せよ」と主張できるだろうか? 
 つまり、犬は、飼い主が変わったとき、古い飼い主に忠義立てをして、新しい飼い主に噛みつくことができるだろうか? ……おもしろいですねえ。今からわくわくします。たぶん、犬は、しきりに悩むだろう。「おれは犬であるべきか、犬であるのをやめるべきか?」と。だから、ブッシュの支持率が低下して、ブッシュ再選の目がなくなるにつれて、読売の論調がどう変化していくか、見物である。
( ※ 私の予想では、「過去の主張をケロリと忘れる」である。イラク戦争開始前には、「大量破壊兵器ゆえに戦争を支持!」と主張していたが、今ではけろりと忘れて、「大量破壊兵器なんかどうでもいいのさ。とにかく戦争を支持することが大事なんだ」と主張している。変節漢というか、健忘症というか。……というわけで、ブッシュ再選の目がなくなったときにも、読売は見事に、変節漢ぶりと健忘症ぶりを発揮するだろう。)

 [ 余談 ]
 別件だが、靖国神社参拝に違憲判決が出た。(2004-04-07 夕刊・各紙)
 この件では、小泉は、「私は公人であり私人である」なんていう錯乱したことを述べている。公私混同どころか、公私錯乱である。頭の論理回路が錯乱しているようだ。「私は白であり黒である」というのと同様のことを主張しているのだから、狂人も同然である。
 また、「私は内閣総理大臣と記名したが、私人として参拝した」とも述べている。ただの私人が内閣総理大臣と記名したとしたら、それは、官名詐称にあたる。明確な違法行為である。(正確には軽犯罪法違反。)
 小泉は明らかな犯罪者なのであるから、警察が逮捕した方がいいだろう。牢屋にぶち込むべきだ。
 犬は犬小屋に。狂人は精神病院に。犯罪者は監獄に。


● ニュースと感想  (4月08日)

 「年金の財政問題」について。
 年金について、問題点を指摘する話がいろいろと報道されている。特に、読売は熱心だ。ただし、そこには経済学的な観点が、まったく欠落している。そのせいで、見当違いなことばかりを主張している。そこで、どこがどうおかしいかを、説明しておこう。

 (1) 従来の主張
 読売などの主張をざっとまとめれば、こうだ。
 なるほど、もっともな主張である。しかし、よく考えると、ここには経済学的な理解がまったく欠落している、とわかる。

 (2) 所得再配分の方法
 この主張では、結局、「高所得者への配分を減らせ」と主張しているだけだ。しかし、そんなことは、まったく無意味である。たとえば、年収5千万円の人に毎月6万円の年金支払いがあるとして、それを減額するとしよう。全額を減額するとしたら、これまでの年金支払いを全否定することになるので、制度の根幹が崩れてしまう。となると、せいぜい、国庫の負担分を減らすぐらいのことにしかならない。つまり、毎月3万円の減額、年に36万円の減額だ。しかし、これっぽっちの減額など、まったく無意味である。なぜか? 年収5千万円の人なら、所得税の支払いが1千万円ぐらいある。ならば、「所得税の税率の変更」があれば、納税額は百万円単位で変動する。それに対して、年金の36万円の減額など、まったく小額である。比べものにならない。
 たとえば、年金の36万円を減額して、「年金制度の赤字が減った」と喜ぶこともできる。一方、年金の減額はしないまま、高所得者に対しても年金をそのまま支払い、その一方で、所得税の増税をして、高所得者から百万円単位で増税することも可能だ。
 要するに、貧富の差の比較をするのなら、年金の支払額だけを見ても、社会的な公正は保たれない。年金の支払額と所得税の額をセットにして、その総額を見るべきなのだ。36万円を支払っても、200万円の増税をすれば、高所得者に対しては年金を減額した以上の所得再配分があったことになる。「高所得者に対する所得再配分のために、年金の支払額を減らせ」という主張は、足し算と引き算の計算もできないような、経済学音痴の発想ででしかないのだ。

 (3) 配分ではなくて総額
 上記のような経済音痴の発想が生じるのは、なぜだろうか? それは、物事を「配分」の問題とだけ考えるからだ。パイで言えば、パイを切り分けたときの、パイの配分だけを考えているからだ。そこには、「パイの全体」という発想が欠落している。
 パイの配分だけを考えるのであれば、上記のような発想が出るだろう。つまり、「高齢者/若年者/国民全体」という区別をしたり、「高所得者/他の国民」という区別をしたりして、どこかの配分を減らして、他の配分を増やそうとするだろう。つまり、「パイの最適配分」をめざすだろう。
 しかし、そういう配分の問題は、本質的ではないのだ。配分の問題は、「誰かが得して、誰かが損する」という問題である。それは、公正さを決める問題であり、政治の問題である。つまり、「力の強いものが勝つ」「力の強いものが多くをぶんどる」という問題だ。それは決して、経済学の問題ではないし、年金制度の根本問題ではない。
 では、本質的なのは、何か? それは、配分の問題ではなくて、総額の問題だ。パイで言えば、「パイをどう切り分けるか」という問題ではなくて、「パイの全体を大きくするにはどうするか」という問題だ。これこそが本質的なのだ。
 配分の問題では、誰かが得して、誰かが損するだけだ。しかし、総額の問題では、誰もが得をすることができる。こういう方法を探すのが大切だ。

 (4) 経済学の問題
 では、「誰もが得する」ということは、可能か? 一見、不可能なように思える。それは、「無から有を生み出す」という魔法のようであり、「空から金が降ってくる」もしくは「打ち出の小槌を振る」というような、ありえそうもない夢想だ、とも思える。
 しかし、経済学の発想を知れば、それは可能だ、とわかる。なぜか? なぜ、「誰もが得をする」ということが、可能なのか? それは、「働いて、金を得る」ということが成立するからだ。「無から有を生み出す」のではなくて、「労働が金を生み出す」のである。そして、これこそ、経済学の担当することだ。
 具体的に言えば、「GDPを増やすこと」だ。GDPを増やせば、一国全体の富が増える。とすれば、若年者も、高齢者も、ともに富を増やすことが可能なのである。これこそが正解なのだ。
 財源や支払額などについて考えるとき、「配分を最適化すること」ではなく、「総額を増やすこと」が、年金問題の正解なのである。

 (4) 経済学の政策
 では、「総額を増やすこと」は、いかにして可能か? 実は、それを示すことが、経済学の課題となる。「そのためにはどういう政策を取ればいいか?」ということだ。
 細かな話は別の箇所で述べたが、結論だけを簡単に言えば、次のようにまとめることができる。GDPを増やすには、次の方法を取ればよい。
 このようにすれば、GDPが増える。つまり、パイの全体が増える。総額が増えるから、配分に悩むこともない。(パイが小さければ、パイの奪い合いが起こるが、パイが大きければ、パイの奪い合いは起こらない。)
 だから、この三項目こそ、年金問題の正解なのである。「高所得者への年金支払いを減らせ」なんていう姑息な小手先の方法ではなくて、正々堂々と正面きって問題に立ち向かえば、上記の正解を得ることができる。
 経済学を正しく理解すれば、誤った結論を出さずに済むのだ。
( → 9月07日12月25日b にも同趣旨。)


● ニュースと感想  (4月09日)

 前項の続き。「年金制度の改革」について。
 前項では、年金制度の財源の問題を扱った。「赤字が出て制度が破綻するのを防ぐには、どうすればいいか」という経済学的な問題だ。
 一方、それとはまったく別の点で、年金制度そのものを「信頼のおける制度」にすることも大切だ。これは、「年金制度を信頼できるものにするには、どうするべきか」という問題である。現状の制度は、「どれが良いか」という以前で、「すべてが駄目」であって、お話にならない。
 江角マキコの問題でも明らかになったが、国民各人は、自分がどれだけの支払いをして、将来どれだけの金を得られるか、現状ではさっぱりわからない。年金受給のときになってようやく、自分がどれだけをもらえるかわかる。江角マキコの例で言えば、彼女が未納であったことが問題なのではなくて、未納であったことに自分で気づかなかったことが問題なのだ。あなただって、ひょっとしたら、自分の気づかないところで手続きミスがあったせいで、将来、「実は、年金納入手続きがなされていませんでした。だから、納入期間が一年不足しており、年金を受け取る資格がありません。全額没収です」と言われる可能性がある。
 こんなものは、欠陥制度であって、まともな「制度」の名に値しない。あまりにも馬鹿げている。
 なお、この問題の根本には、「莫大な年金を支払っても、そのすべてが没収されることがある」という問題がある。「最低でも20年」というような支払期間の制限があり、その期間を満たしていないと、支払った額が没収される。となると、最初の20年ぐらいは、いくら金を支払っても、「将来の受取額はゼロ」という状況が続くことになる。(厳密に言えば、基礎年金の分があるが、これは、支払額にかかわらずもらえる金だから、支払額に相当する部分はやはりゼロである。いくら払っても、無駄。)
 これでは、バカらしくて、やっていられない。だから、政府は、「将来の受取額の見通し」を公表できないのだ。「全額を没収」というような馬鹿げた仕組みがもともとあるせいで、年金制度そのものが欠陥制度となってしまっている。
 だから、まずは、「全額を没収」というような馬鹿げた仕組みを廃止することが必要だ。「少なくとも、支払った額は、全額が返済される」という「貯蓄」ふうの仕組みを整備することが必要だ。そして、こういう仕組みを採用した国もある。(シンガポールなど。)
 こういう仕組みを整えれば、国民は安心して、「貯蓄」のかわりに「年金」のために金を納付するようになるのである。少なくとも、「国の年金制度が信用できないから、民間への貯蓄や民間の年金制度に加入する」という現状を、改めることができる。
( ※ 年金問題の本質は、「国民が年金制度に加入しないこと」ではなくて、「国民が、国の年金制度でなく民間保険会社の年金制度に加入すること」である。この点を見失わないようにしよう。「強制的に加入させよう」なんていう策は、下の下である。数百万にも及ぶ未加入者に、いちいち強制的な措置を取っていたら、徴収コストが莫大になってしまって、それだけで国庫が破綻してしまう。)
( ※ たとえて言えば、こうだ。まずい食事を出して「これを食え」と強制するよりは、自分のつくる料理の味をまともにするべきなのだ。せっかくの食材をわざわざ不味くする自分の腕前をこそ改めるべきであり、「食わなければ罰金」なんていう制度をつくるのは狂気の沙汰である。)
( → 7月26日8月27日 にも同趣旨。)

 [ 付記 ]
 民主党の年金改正案がある。これについてコメントしておこう。
 これは、「制度を信頼のできるものに改正しよう」という制度改革案である。「年金制度の赤字をどうするか」という問題ではない。本項で言えば、本文の問題を扱うのではなくて、付記の問題を扱う。
 では、この提案された程度は、好ましいものだろうか? 全体的な方向はだいたい正しいが、具体的に見ると難点もいろいろとある。以下、詳述しよう。
 第1に、「基礎年金部分と所得比例部分」という根幹は、正しい。論議するまでもなく、これ以外にはあるまい。(逆に言えば、「定額制」という現在の国民年金は、所得とは無関係に保険料支払額が決まるので、馬鹿げている。)
 第2に、「所得比例部分」に対する補助が逓減になっているのは、好ましくない。なるほど、財政措置の上からは、「こうなるのが当然だ」と思えるだろう。しかし、「たくさん金を納めるほど損をする」というのでは、納入意欲が湧かなくなる。だから、「たくさん金を納めた人ほど、たくさん金をもらえる」というふうにするべきだ。たとえば、2万円を収めた人は4万円をもらえて、4万円を収めた人は6万円以上をもらえる。(納入額が2万円から4万円に増えたときに、納入額の2万円の増加に対して、受取額は2万円以上増える。民主党の案では、2万円未満しか増えないから、多く納入した人ほど損をする。これでは、バカらしくて、納入する気になれない。低所得者ならば、「2万円払って4万円をもらう」となり、倍率は2倍。高所得者ならば、「4万円を払って、6.5万円をもらう」となって、倍率は 1.625倍。高所得者は低所得者に比べて、もらえる倍率は低いが、もらえる絶対額は多くなる。こういう形が好ましい。さもなくば、納入意欲が減退して、制度が崩壊する。
 第3に、低所得者と高所得者との公正さのバランスを取るのは、年金制度にはよらず、税制度による。その基礎は、所得税と消費税だ。前者は所得に対する累進課税であり、後者は支出に対する比例課税である。こういう課税によって、貧富の差に対するバランスを取る。(逆に言えば、「人頭税」みたいな定額の税を廃止する。具体的には、地方の住民税だ。こちらでは、低所得者も高所得者も、ほぼ定額に近い税金を取られる。ここで貧富の差を拡大しているのだから、ここを無視して、年金制度の枠のなかだけで貧富の差の解消をめざしても、実効は上がらない。)……要するに、年金制度のうちだけでバランスを取ろうとするべきではなく、むしろ、税制度もいっしょに考えて、年金制度と税制度の全体のなかでバランスを取るべきだ。高所得者は、多くの税金を納めているのだから、多くの年金をもらっても、別に差し支えないのである。
 まとめ。
 民主党案では、基礎年金部分が逓減であるのが、まずい。また、所得比例部分の傾斜が低すぎるのが、まずい。もっと高所得者を優遇するべきなのである。と同時に、税制においては、高所得者をもっと冷遇するべきなのである。民主党案では、「税制では高所得者が優遇され、年金では低所得者が優遇される」というふうになる。これでは、高所得者は年金に入りたがらないし、低所得者は現在の納税額が高くなって現在において苦しむことになる。むしろ、高所得者が年金に入りたがるようにするべきだし、低所得者は現在の納税額が低くなるようにするべきなのだ。そうすると、高所得者は、現在においては高い納入をして、将来においては高い年金を受け取る。低所得者は、将来においてはそこそこの年金しかもらえないが、現在においてはあまり納付しなくて済む。

 [ 補足1 ]
 上記の第2の点では、高所得者ほど多くの利益を得ることになる。倍率では低いが、絶対額では多い。となると、「高所得者の方が得だ」と思ったり、「自分も多く払って多く受け取りたい」と思う人が出てくるだろう。
 そこで、自分が低所得者であるか高所得者であるかは、任意に選択してもいい、と決めてもいいだろう。実際には低所得であっても、「高い社会保障を望みたい」と思うのであれば、「たくさん払って、たくさんもらう」という選択を許容する。ただし、高所得者に対しては、「低所得者になること」を許容しないわけだ。

 [ 補足2 ]
 ここで、「許容しない」というのは、「違反者に厳罰を加える」というような形を取らず、「受け取る年金額をいくらか減額する」という形だけにする。罰を加えるのではなく、得を減らすだけにする。この点に注意。
 年金制度というのは、厚生福祉制度にすぎないのだから、これに加入しないことを犯罪行為と見なすことはしない。「利益を与えない」という程度の罰則はあるが、「損をさせる」というような罰則はあってはならない。ひどい罰則だらけの制度にしたら、専制政治になってしまう。
 たとえて言えば、スピード違反や飲酒運転は、他人に危害を加えるので、重い罰を加えてもいいが、シートベルト不着用は、他人に危害を加えることはないので、せいぜい小額の罰金ぐらいにするべきであり、重い罰を加えるべきではない。年金への非加入も、同様である。年金に加入しない人は、その分、国庫からの補助を受けなくなるので、国庫にとっては、かえって得なのである。加入しない人が損をするだけだ。年金の非加入者が増えると制度が崩壊する、というのは、また別の問題である。それは制度自体が欠陥制度であることに由来する。制度を欠陥制度にしたまま、罰則だけを重くしても、専制政治になってしまうのだ。

 [ 補足3 ]
 「長年にわたって納入した人を優遇するべきだ」という主張がある。それはその通り。だから、20年以上にわたって納入した人を優遇するのはよい。そのような人には、政府から補助金を与える形にすればよい。つまり、インセンティブだ。
 しかし、だからといって、「20年未満の人を冷遇するべきだ」ということにはならない。インセンティブはあってもいいが、罰則はあってはならないのだ。年金未加入は、社会の財産を損壊するような犯罪ではないのだから、そのようなことをした人の財産を没収するような罰則はあってはならないのだ。
 ある制度を勝手に構築して、その制度に加入しないと罰を加える、というような政治は、もはや、民主主義ではなくて、専制政治なのである。たとえば、「金正日賛美やフセイン賛美の歌を歌え。さもなくば、監獄行き」とか、「君が代を歌え。さもなくば、監獄行き」とか。
 重ねて言う。年金未加入の人には、インセンティブを与えないのは構わないが、罰を加えるべきではないのだ。

 [ 補足4 ]
 にもかかわらず、現実には、「罰を加える」つまり「全額没収」という形になっている。それゆえ、人々はそのような制度からは逃げ出そうとするのである。
 仮に、「最低でも、払った分の金は、必ず受け取れます」ということを保証すれば、人々は安心して、年金に加入するだろう。何しろ日本の民間貯蓄は、莫大にあるのだから。今や民間貯蓄は、利子がゼロで、インフレに対する元本保証がない。そんな民間貯蓄よりは、インフレに対する元本保証のある年金制度の方が、ずっと安心できる。だから、正しく制度を整えれば、年金未加入の問題は、自然に解決するのである。
 「間違っているのは、国民ではなく、政府である」と理解することが大切だ。


● ニュースと感想  (4月10日)

 前々項前項の続き。「年金制度の企業負担分」について。
 年金制度では、サラリーマンの企業負担分(本人と折半)がある。これについて、次の問題が指摘されている。
 「企業負担分が重すぎる。」
 「企業は、企業負担分を避けようとして、正社員を避け、派遣社員やパートなどを雇用したがる。つまり、年金制度のせいで、雇用形態を変更する圧力が働いている。これは一種の『正社員を解雇することへの補助金』だ。」
 「派遣社員やパートのかわりに、機械ないしロボットを使うと、企業負担分が免れる。これはおかしい。ロボットにも企業負担分を課した方がいいかもしれない。」
 なるほど、そういう問題がある。では、この問題に対して、どうするべきか?

 この件については、前にも述べたことがある。「人頭税」のような課税は、(特に正社員の)雇用を減らすから、そういう課税はやめた方がいいのである。( → 2月11日b6月07日b
 では、かわりに、どうするべきか? 「ロボット税」というのも一案かもしれないが、ロボットを個別に数えるのも大変だ。なぜなら、ロボットと単なる機械設備を区別する方法はないからだ。だから、正しくは、「企業の経済活動規模に応じて課税すること」である。「企業の規模」(人員・資産・資本金)に課税するのではなくて、「企業の経済活動の規模」に課税する。具体的には、粗利益に課税する。そして、それは、「消費税」と呼ばれる税である。(「売上税」と呼ばれたこともある。)
 だから、結論としては、次のように言える。
 「社会保障料の企業負担分は廃止する」
 「その分、消費税を増額する」


 ただし、これだと、消費税の上がる分が商品価格に転嫁され、一方で、社会保障料の企業負担分が減ることになる。すると、「企業の利益ばかりが増える」という懸念もある。
 しかし、経済学的に言えば、企業の利益がどのくらいになるかは、市場が決めるのであって、制度が決めるのではない。どの企業も利益を増やすのであれば、値下げの原資が生じるから、市場では競争によって、その利益の分だけ、価格が低下するはずだ。かくて、消費税の増額による値上げの分と、販売価格の低下による値下げの分とが、相殺されるはずだ。
 たとえば、社会保障料の企業負担分がなくなり、かつ、消費税が5%から6%に上がる。すると、本体価格 1000円の商品については、消費税が5%から6%に上がることで、1050円から 1060円に値上げする、と思える。しかし、実際は、社会保障料の企業負担が減った分だけ、本体価格が 1000円から 990円に値下げされるから、これに6%の課税が加わった額は、同じく 1050円であって、元と同じなのである。(端数は無視。)
 なお、ここでは、仮に値下げをしない企業があれば、その企業は、値下げをした企業にシェアを奪われて、大損することになる。そもそも、「値上げをすれば企業は得をするだろう」なんていう一般消費者の信念の通りになるとすれば、企業はあらゆる自社製品を大幅に値上げするだろう。しかし、現実には、大幅値上げをした商品は全然売れなくなるから、企業は大幅値上げなどをしない。消費者はよく、「値上げはけしからん」と主張するが、別に、「けしからん」と非難するほどのことはないのだ。消費者には、「値上げした商品を買わない」という選択肢があるのだ。「値上げはけしからん」と言えるのは、(郵便料金などの)独占商品だけであって、市場経済の商品については当てはまらない。
( ※ なお、それでもどうしても不安であるのならば、この分は企業負担分であることを明示して、「消費税」とは別の「社会福祉税」とでも名付けて、「消費者への転嫁は認めない」という通知を出せばよい。つまり、その分の本体価格の下落を義務づける。税込み 1050円の商品は、そのまま 1050円にすることを義務づける。税が 50円から 60円に値上げしたら、本体価格を 1000円から 990円に下げることを義務づける。……とはいっても、現実には、市場においては何も変わらない。総額表示の価格はずっと同じである。何か違いがあるとすれば、通知があるかどうかというだけのことだ。……そもそも、企業が商品価格を決めるときは、どの額が正当の価格であるかということは、誰にも決められない。だから、そんなことを議論するのは馬鹿げている。ただし、経済学を知らない主婦のためには、気休めの通知を出すと、反発を食わなくなる。そういう政治的な配慮である。)
( ※ なお、違いはないといっても、政府にとっては、違いが生じる。受け取る金の項目が、「社会保障料の企業負担分」から、「消費税の一部」または「社会福祉税」へと変わる。とはいえ、金に色がついているわけではないから、政府にとっても実質的には何も変わらない。)
  
 [ 付記1 ]
 以上のように、「企業負担の分は、廃止して、かわりに消費税でまかなう」という形にするのがベストだ。
 ただし、その金の使途については、留意しよう。この分は、原則として、基礎年金の部分に回すべきなのである。つまり、「低所得者は優遇して、高所得者は冷遇する」地という形だ。(とはいえ、「高所得者には逓減」というのはまずいから、「どちらも定額」というのがいいだろう。高所得者は、消費税を通じて、多大な額を支払うが、受け取れる金は、低所得者と同じだけ、というふうになる。)
 結局、年金制度は、次の二本立てにするべきだ。
 「基礎年金部分 …… 消費税を財源として、低所得者をやや優遇する」
 「所得比例部分 …… 納付額を財源として、貯蓄ふうにする」( → 前々項

 [ 付記2 ]
 なお、私の提案にしたがった場合、「基礎年金」の分は、かなり小額であることが好ましい。毎月2万円ぐらいでいいだろう。
 「それでは生活できない」という主張もあるだろうが、ここで言う基礎年金は、生活をまかなうためのものではなくて、せいぜい、小遣い程度であればよい。あるいは、インセンティブの分である。
 生活をまかなう分は、基礎年金ではなくて、所得比例の分(自分で払った金に対して還元される分)でまかなうべきだ。
 また、自分で金を払わなかった人に対しては、年金ではなくて、生活保護によるべきだ。つまり、財産没収と引き替えに金を渡すべきだ。
 だいたい、「巨大な土地資産をもっていて、年金への納付を怠っていた」という身勝手な人にまで、基礎年金を与える必要はない、と私は考える。資産家に金をプレゼントするために、貧しい若手が汗水を垂らして苦しむ、というのでは、本末転倒だ。
( ※ この意味で、基礎年金分を逓減制にする民主党案には、私は賛成しない。この案は、最低限の生活保障という生活保護的なものまで、年金制度に負担させようとしており、好ましくない、と考える。「生活保護は生活保護で、年金は年金で」というふうに分けるべきだ、というのが、私の考え方だ。)
( ※ ただし、現状の生活保護は、勤労所得の全額が奪われてしまうので、自立する意欲をなくす。だから、同時に、生活保護という制度も改定するべきだろう。つまり、給付金を逓減制にするべきなのは、年金ではなくて、生活保護の方なのだ。)
( ※ 結局、「基礎年金は逓減制で、生活保護は定額制で」というのを改めて、「基礎年金は定額制で、生活保護は逓減制で」とするべきだ。また、高所得者に対する処置は、年金給付の減額によってではなくて、所得税と消費税の徴収によって行なう。)

 [ 付記3 ]
 非加入への罰則について言及しておこう。
 基礎年金の分は、消費税であるから、支払いには義務がある。つまり、不払いへの罰則は必要である。ただし、実際には、消費税の不払いは、まず不可能だろう。(客としては。)
 所得比例の分は、貯蓄のようなものであるから、非加入への罰則は不要である。インセンティブ(加入利益)を減らすだけでよい。( → 前項の最後。)
( ※ 逆に言えば、納付率を高めるためにも、高所得者に対してもやはり何らかのインセンティブを与えるべきなのだ。「高所得者には減額」というような制度は、納付率を引き下げて、制度そのものを崩壊させかねない。前項で述べたとおり。)


● ニュースと感想  (4月10日b)

 「イラクの人質」について。
 イラクで邦人3名が人質になった。「自衛隊を撤退させよ」という要求が出ている。政府はこれを拒否した。マスコミはてんやわんやだ。では、どうするべきか? 
 これは、「あちらが立てばこちらが立たず」の問題だ。正解を出すのは困難だろう。こういうときは、物事の本質に立ち返ることが大切だ。いきなり選択肢に立ち向かうのではなく、物事の根本に立ち返るべきだ。すると、真実が見えてくる。

 政府(官房長官・公式記者会見)は、こう言った。「そもそもわが国の自衛隊は、イラクの人々のために人道・復興支援を行なっている。撤退の理由はないと考えている。」
 読売社説は、こう述べた。「卑劣なテロに屈するな。断固として、撤退を拒否せよ。」
 これは、一つの立場である。ただし、ここには、とんでもない矛盾ないし嘘八百がある。おわかりだろうか?

 そもそも、「イラクの人々のために人道・復興支援を行なっている」という建前が本当に正しいのであれば、「撤退すること」の理由にはならないが、「撤退しないこと」の理由にもならないのだ。
 たとえば、あなたが貧者に千円を恵んであげるとする。誰かが「金を恵むのをやめよ。さもなくば、おまえの家族を殺す」と脅迫したとする。そのときあなたは、どうするか? 「貧者に千円を恵んであげるために、家族を見殺しにする」と思うだろうか? まさか。「金を恵んであげて、恨まれちゃ、割に合わないね。金を恵むのをやめよう。そうすれば、千円を払わずに済むし、家族の命も助かるし、一石二鳥だ」と思うだろう。これが当然だ。
 だから、「イラクのため」というのが本当であれば、日本はいつでも気楽に撤退できるのである。意地を張ったりする必要は、さらさらない。読売みたいに、頭に血をのぼらせる必要もない。

 では、なぜ、保守派は「絶対に撤退しないぞ」と依怙地になるのか? そこまで考えれば、物事の本質がわかる。日本が自衛隊の派遣を断固として実施するのは、イラクのためではなく、米国のためだ。そして、米国が「自衛隊を撤退させるな。そうすればこちらが困る」と主張するからこそ、保守派は撤退を拒否するのである。
 つまり、「イラクの人道支援のため」なんていう政府や読売の主張は、とんでもない嘘八百なのだ。そういう嘘八百の上に、理屈をこねあげているのだ。── ここに隠された真実がある。政府や読売の主張を、額面通り受け止めてはならない。決して。
(ここでも、「政府とマスコミを信じるな」という私の日頃の主張が当てはまる。)

 さて。現実的な対処を考えよう。
 撤退を拒否すると、どうなるか? もちろん、3名は殺されるだろう。それで済むならいいが、実際には、バグダッドにかなりいる報道陣や日本大使館員も標的となる。そのあとでは、日本国内の市民が標的となる。(スペインと同様。)
 だから、「撤退を拒否する」というのは、何の解決案にもなっていない。「こちらはあちらをたくさん殺して、あちらもこちらを少し殺す」というふうに、殺しあいの連鎖が拡大していくだけだ。

 では、この連鎖を断ち切るには、どうすればいいか? ブッシュやシャロンは、「徹底的な攻撃」を選択した。その結果は、ご存じの通りで、殺しあいの連鎖の拡大である。莫大な死者が出る。しかし、ブッシュやシャロンは、その道を改める気がない。日本の保守派も同様である。
 だから、こういう強硬路線が続く限りは、連鎖は断ち切られない。中東では双方でどんどん死者が出ているが、それと同様のことが、日本や米国にも波及するわけだ。
 だから、「どうするべきか?」という質問に対しては、「どうしようもない」と答えるしかない。なぜなら、選択肢がどうであろうと、選択する人間が愚者である限りは、双方に莫大な損害が出るしかないからだ。
 では、正解は? 「選択肢をどうするべきか?」という質問をやめて、もっと根源から考え直すべきだ。そうすれば、正解がわかる。それは、「選択者を変えるべきだ」ということだ。つまり、愚者の首を据え変えることだ。つまり、ブッシュやシャロンや小泉といった首をはずして、別の首を据えることだ。そうすれば、パレスチナは平和になるし、イラクは平穏になるし、日本人は死なずに済む。
( ※ そうなれば、「小泉の波立ち」というホームページも、改称を迫られる。そのときこそ、世界は平和になるのだ。……最も楽観的な期待では、ケリーが大統領になったとき、ブッシュの首は取り替えられ、小泉や読売は自分で自分の首を取り替えるだろう。しょせん、犬ですからね。ご主人様しだい。)

 [ 付記1 ]
 もっと具体的に示そう。「私が首相ならどうするか?」という問題には、こう答える。
 第1に、そもそも、自衛隊を派遣しない。だから、この問題は、起こりようがない。「イラクの復興支援のため」なら、自衛隊ではなくて、国際NGO(日本人以外を含む)およびイラク人の民間人で、「イラク復興支援部隊」を、日の丸のもとで実行する。できれば、日本人と誤解してもらうために、アジア人を雇用する。要するに、「金は出すが人は出さない」だ。こうやると、アメリカは「けしからん」と半分怒るだろうが、「ま、何もしないよりはマシだ」と半分納得するだろう。イラク人は、軍隊が来ないで援助隊だけが来るから、喜ぶだろう。民間人だけだから、被害の可能性は少ないし、最悪の場合でも、日本人の人的損害はない。
 第2に、小泉首相が解任されたあとで私が首相になったとしたら、「自衛隊を撤退させる。このことは昔から表明済み。人質には関係ない」と発表して、自衛隊の撤退スケジュールを公表する。そして、かわりに、前述の民間人部隊を派遣する。
 この政策を、「日本人は犬じゃありません」政策と称する。

 [ 付記2 ]
 小泉の立場なら、どうするべきか? 前述の政策は、小泉は実施できない。小泉は「昔から表明済み」とは言えないからだ。(菅直人ならできるが。)……となると、二者択一で、迷いそうだ。
 ただし、実は、うまい手がある。「二枚舌」という手だ。具体的には、「表と裏」を使い分ける。
 表では、「断固として撤退せず」と世間に公表する。
 裏では、こっそりテロリストと妥協する。「先に人質を解放してくれ。そのかわり、1カ月後に、撤退を発表する。さもなくば、日本人をいくら殺してくれてもけっこうだ。もちろん、そうならないように、必ず撤退するつもりだ。……でもね。公表しないでくれよ。おれのメンツがかかっているんだから」と裏取引をする。
 もし相手が渋ったら、「じゃ、追加として、1億円あげるよ。どうせおれの財布の金じゃないし。な、いいだろ?」と金で片付ける。さらには、「オマケとして、日本製の裏ポルノをあげるよ。すごいぜ」と色仕かけで片付ける。
 これぞ権謀術策。


● ニュースと感想  (4月11日)

 「靖国参拝と政教分離」について。
 首相の靖国参拝に違憲判決が出たが、これを「理解できない」とだけ繰り返すのは、小泉の頭の理解能力がないだけであろう、と思っていた。ところが、読売までが社説で判決を批判する始末だ。「伊勢神宮参拝も許されないのか」と。(読売・朝刊・社説 2004-04-08 )
 そこで、答えておこう。「当り前だ」と。伊勢神宮だろうと何だろうと、許されない。宗教関連施設への参列は、一切許されない。もちろん、神道の結婚式場への参列も許されないし、仏式の葬儀場への参列も許されない。許されるとしたら、公的な立場を離れて、私人として参列する場合だけだ。(私人としてであれば、いずれも許される。)

 読売は何か勘違いしているようだが、靖国参拝が許されないのは、そこにA級戦犯がまつられているからではない。中国や韓国が「けしからん」と主張しているが、そういうのは、ただの政治問題であって、法律問題とは異なる。私としては、「そういうことをするのは、あまり好ましいことではないが、中国や韓国が口を挟むのは内政干渉になるので、もっと好ましくない」と考える。
 しかし、である。そういう政治問題とは別に、法律問題がある。それは、「宗教に政府が関与してはならない」ということだ。そのことは、憲法にも書かれている。そして、なぜ憲法に書かれているか、という理由を知ることが大切だ。
 その理由は、「政教分離」である。近代国家は、政治と宗教とを切り離した。それが当然のことなのである。もちろん、伊勢神宮参拝も、許されない。いくら「日本の伝統的な祭事」であるとしても、そこに宗教的な色彩がある以上は、政府は関与してはならないのだ。

 このことは、わかりにくいかもしれない。しかし、立場を変えれば、わかるはずだ。日本人の大部分は、仏教または神道になじんでいる。だから、これに従うのも、特に不自然ではない。しかし、イスラムならば、どうか? たとえば、日本人がマレーシアなどに出て、そこでいちいちイスラム教の儀式が行われて、毎日、「アラーは偉大なり」とひざまずいて頭を床にすりつけたり、ラマダンと称して断食をしたり、ということが、強制されるとしたら、どうだろうか? 「とんでもない」と思うだろう。
 保守派の人々は、「アメリカでも聖書に手をつけて宣誓する」と主張する。しかし、それは、「アメリカが先進国である」と信じている誤解による。政教分離ができていないのは、主要国では、アラブ諸国とアメリカだけなのだ。これらだけが、政教分離をできていない、後進国なのである。
 日本で唯一と言える宗教政党である公明党でさえ、建前上は「政教分離」ができている。それが世界の常識なのだ。まともな文明人は、「政教分離」という近代国家の理念を、正しく理解するべきなのだ。こういう近代国家の理念を理解できないのであれば、政治や歴史に対する認識力はゼロである、としか言いようがない。学生で言えば、落第点しか取れない劣等生だ、ということだ。(ブッシュが劣等生だったのは公然の事実だが。)
 なお、「政教分離」という原則は、なぜ生じたか? それについては、長い歴史的な事情がある。あまりにも多くの戦争や紛争が、宗教的な対立や非寛容から生じたからである。こういう歴史を知れば、「政教分離」は当り前のことだ、とわかる。

 公務かどうかについても言及しておこう。
 仮に、首相が靖国参拝を公務としてなしたのであれば、自分がやったことを公務員一般や国民一般に強制することも、当然だろう。そしてまた、その公的な命令に従わない公務員や国民を処罰することも、当然だろう。かくて、日本は宗教国家となってしまう。たとえば、公明党の首相が誕生したら、公明党の首相が宗教的命令を出したとき、その命令に従うべきだ、となる。「なんまいだぶとお経を唱えよ」と政府が命じたら、その命令に従うべきだ、となる。
 とはいえ、現実には、そうはならない。政府は宗教的な命令を下さない。それは、「政教分離」という原則が、憲法によって保証されているからである。なのに、読売は、「政教分離」を批判している。また、「仏教や神道は日本の伝統だ」とも述べている。ならば、問う。政府が政府権力を盾にとって、「少なくとも公務員は、なんまいだぶと唱えよ。さもなくば処分する」という方針を出したなら、それに唯々(いい)として従うべきだ、と思うのか? あるいは、キリスト教徒が「信教の自由」を主張して仏教作法を拒んだとき、彼に何らかの処分を下すべきだと思うのか? そして、そうでないと思うのであれば、「政教分離」という原則を大切にするべきなのだ。

 [ 付記 ]
 イスラム教徒が、頭に床をすりつけたり、断食したりするのを知ると、奇異に感じる人が多いだろう。そして、それと同様のことを主張しているのが、小泉や読売だ。彼らは、自分が非近代的な未開人であるということを、理解できないのである。靖国で手を合わせるのも、頭に床をすりつけるのも、どちらも同じく宗教的行為である。なのに、自分が慣れていることをやると、自分が奇異なことをしていることに気づかない。
 前近代的な人間というものは、そういうものだ。そして、だからこそ、彼らは「保守派」なのである。どうせなら、チョンマゲでも結えばいいのにね。いや、むしろ、原始人並みに、毛皮だけを着衣していればいいのだ。
 だいたい、彼らが靖国を敬うのは、トーテムポールを敬うのと、同じ理由である。政治と宗教儀式の混淆は、未開社会ではごく当然なのだ。
( → 4月07日 [ 余談 ] でも同趣旨の批判。)


● ニュースと感想  (4月12日)

 「イラクの人質の解放」について。
 イラクの人質が解放されるようだ。犯人側が解放を表明したので。( → Yahoo ニュース 2004-04-11 )
 世間の流れから、アラブでの「解放」を訴える放送などの効果があったようなので、私も「解放」を予測したが、その通りになったわけだ。ただ、ここで事情を見失うと、とんでもないことになるので、注意しておこう。
 たぶん小泉などは、「断固とした態度がテロリストを屈服させた」と主張するだろうが、とんでもないことだ。別に日本は力で弾圧したわけではない。だから、力によって勝利をしたわけではない。逆に、力を用いなかったから、成功したのだ。事情は反対である。
 力を用いる方針は、アメリカに見られるとおり、失敗の連続である。逆に、力を用いない方針が、成功するのだ。
 これは教訓だが、もう一つ、別の点がある。今回の事件で明らかになったのは、「アラブは文明人である」ということだ。「勝利のために民間人を殺したりはしない」ということが明らかになったからだ。
 逆に、「勝利のために民間人をあっという間に400人も殺す」というのが、アメリカであり、これを支持するのが、日本である。こういうのを、野蛮人と呼ぶ。
 アラブを後進国で、日米を先進国と見なす人々が多いようだが、とんでもない。逆である。彼らは文明人で、われわれは野蛮人なのだ。
 その典型が、「嘘を付いて戦争をしても、問題ない」と主張する人々だ。最低ですね。このことに気づかないから、イラクをパレスチナみたいな地獄にしてしまっていて、それを「成功」と賛美するのである。狂気。


● ニュースと感想  (4月12日a)

 「イラクの人質」について。
 12日に、イラクの人質をめぐる新聞号外が発行された。(新聞休刊日なので。)
 朝日の号外を読むと、この三人のうち、特にNGOの二人の、崇高な意思がわかる。高遠菜穂子さんは、戦争で孤児になった子供のたちのために、愛を与えるために出発した。一時帰国しようとすると、孤児たちが「菜穂子は僕らの母さんなんだろ」と泣き出しそうになったという。もう一人の今井さんは、劣化ウラン弾による被害で苦しむ子供たちの問題に取り組むために出発した。
 彼らはなぜ、危険なイラクに向かって出発したか? 危険を理解する頭がないせいで、無謀にも出発したのか? 違う。危険を理解した上で、苦しんでいる子供たちのために出発したのだ。わが身の危険を顧みずに。愛を与えるために。
 「命を賭ける」とは、こういうことだ。「国際協力のために出発せよ!」なんて言葉で自衛隊を無人地帯に送り出して、金で片付くような経済援助をすることではない。自分自身の命を危険にさらしてまで、戦争被害で苦しんでいる人々に愛を与えることだ。
 こういう人々をこそ、「崇高」と呼ぶに値する。

 一方、それとは正反対の説もある。引用しよう。
 「ただ、三人にも問題がある。イラクでは、一般市民を巻き込んだテロが頻繁に発生している。それを承知でイラク入りしたのは、無謀な行動だ。三人にも、自らこうした事態を招いた責任がある」(読売・社説 2004-04-10 )
 三人を、「お国に迷惑をもたらす馬鹿者め」と非難するわけだ。ひどいですね。
 では、なぜ、こうするか? こう非難する保守派には、しょせん、愛がないからだ。保守派は、イラクの人々を助けるのが大切なのではない。米国に頭を撫でてもらうことが大切なのだ。だから、戦争で苦しんでいる人々を助けるのではなくて、「戦争の被害なんかありませんよ」という顔をして、戦闘行為の全然ない地域で、給水設備などの経済援助ばかりをやっている。戦争の被害を受けた人々を助けるのではなくて、戦争の被害などなかったと思い込みたいのだ。だからこそ、戦争の被害で苦しむ人々を助ける三人を、口汚く罵るのである。
 最低ですね。こういう保守派を、何と呼ぶべきか? 「崇高」ではなく、「下賤」と呼ぶべきか? それでは足りるまい。愛をおとしめる人々にふさわしい呼称は、「馬鹿者」ではなくて、「悪魔」である。
 彼らは、「無辜の民間人を誘拐するのはけしからん」と言いながら、自分たちは、無辜の民間人を次々と殺戮していくのを正当化する。また、「フセインは核兵器を開発していそうだ」と非難しながら、自分たちは劣化ウラン弾で民間人を放射能で苦しめるのを正当化する。── こういうことは、愛のない悪魔であるからこそ、できることなのだ。

( ※ 「民間人が危険地帯に入るのは、無謀だ」という主張も、ありそうだ。しかし、では誰が、危険地帯に入るのか? 自衛隊は、サマワという安全地帯にいて、しかも、基地の壁のなかにひっそりと閉じこもっている。あまりにも臆病すぎる。だからこそ、民間人の子女が、最も危険な地域に出て行くのだ。そもそも自衛隊は、「イラクの復興が大事だ」と主張するのなら、サマワの穴蔵に閉じこもっていないで、400人も殺されるような危険な地域に出向くべきなのだ。……そのとき、武器を持たないで人質になってもいいし、武器を持って射殺されてもいい。どちらでもいいから、自衛隊が出て行けばいい。なのに、自衛隊が口とは裏腹に、あまりにも腰抜けぞろいだから、民間人が真にイラク復興のために出向くのである。……臆病者に非難されたくありませんね。どうせ自衛隊や保守派は、イラク復興のためではなくて米国への阿諛追従のために出向いているのだから、正直にそういえばいいのだ。そして、「本当は、復興に協力するフリだけをして、自分たちの命を大切にするのが一番大事なんだ」と。)

( ※ 仮に日本が侵略されたとしたら、どうか? 「お国のために戦え!」と大声で主張したあとで、自分の命が惜しくて、さっさと防空壕に飛び込むのが、保守派の輩である。だから首相官邸には、防空壕みたいなのが用意してあるわけだ。たぶん、読売の地下にもあるだろう。……それが保守派の本質である。)


● ニュースと感想  (4月12日b)

 「著作物の価格決定権」について。
 価格の決定権は、企業にある。企業はいくらでも値上げしてよい。なぜなら、消費者には、「値上げをした商品を買わない」という選択肢があるからだ。かくて、企業は、どんどん値上げをすることなどはできず、自然に市場価格が定まる。
 このことは、先に述べたとおりだ。( → 4月10日
 では、著作物については、どうだろうか? 先に述べたところでは、「普通の商品の価格は市場で決まる。しかし、郵便料金などの独占商品はそうではないから、勝手に値上げをしてはいけない」という趣旨のことを述べた。ここで、著作物は、一種の独占商品のように思えるから、やはり、「値上げはいけない」となるのだろうか? 

 答えを言おう。著作物もまた、市場原理が働く限りは、生産者ないし著作者が勝手に料金を決めてよいし、いくらでも値上げをしていいのである。
 たとえば、誰かが「株式必勝法」という著書を出版して、それに値付けをするとき、千円にしようが、二千円にしようが、五千円にしようが、百万円にしようが、著者や出版社の自由なのである。なぜなら、読者はそれを「買わない」という選択肢があるからだ。書籍というのは、別に生活必需品ではなくて、かわりの本はいくらでもあるのだから、読者はかわりの本を購入することができる。だから、生産者がいくら値上げしようと、それはそれで構わないのだ。「いや、おれはこの本を読みたいんだ」と思うのであれば、生産者の決めた価格に従うしかない。仮に、生産者の価格決定権を読者ないし国が決めることにするとすれば、それはもはや社会主義ないし共産主義となってしまう。あげく、「米は生活必需品だから米の価格は公定価格にせよ」とか、「パソコンは必需品だからパソコンの価格は公定価格にせよ」とかの理屈が成立する。かくて、市場経済は破壊されてしまう。
 一方、似ているようでも、教科書は、公的なものであり、一種の独占商品である。だから、これについては、国が価格決定をした方がいいだろう。逆に、「価格は自由です」などと言えば、教科書会社がべらぼうな値段を付けて、そのべらぼうな値段で買うことを義務づけられてしまう。そんなことはあってはならない。(教科書は、一般商品ではなくて、生徒にとって購入を義務づけられた商品であるから。)
 では、音楽CDや、パソコンソフトや、映画鑑賞券などは、どうだろうか? これもやはり、一般書籍と同様である。消費者は、その音楽CDや、パソコンソフトや、映画鑑賞券などを、購入しない自由がある。だから、生産者が勝手に値付けをして構わない。

 ところが、昨今、このことを理解しない報道や意見が増えている。特に、音楽CDについては、「輸入商品と国内商品の価格差を認めるのはけしからん」という主張がある。
 なるほど、主婦などがそう主張するのは、よくわかる。家庭の主婦である彼女たちは、消費するだけであって生産活動をしないから、単に「需要」のことしか考えていなくて、「供給と需要」という経済の基本原則を理解できないからだ。「消費者さえよけりゃ、それでいい」という発想だ。
 この尻馬に乗って、一部のエコノミストは、「こんなのはけしからん」とか、「価格を上げると、かえって購入量が減って、会社は損するぞ」などと警告したりする。
 しかし、そういうのは、経済学のことをまったく理解していない経済音痴の主張である。先にも述べたとおり、市場における「需要と供給」の関係で、最適な価格が決まる。「値下げすると、かえって得をする」というのが事実であるとしても、そうするかどうかを決めるのは、企業に選択権があるのであって、他人がとやかく言う必要はないのだ。そんなことをいちいち他人が口出しして決めるようでは、社会主義経済になってしまう。
 価格決定権は生産者にあり、そのあとで市場で数量が決まる。そういう過程を通じて、価格は自動的に調整される。── これが市場経済の原理である。この原理を見失わないようにしよう。(なお、これは、マクロ経済学ではなくて、ミクロ経済学の話。)

 [ 付記 ]
 では、現状は、どうか? 日本のCDの価格は、高すぎるだろうか? 
 なるほど、海外との比較で見れば、高すぎる。しかし、そんなことを言っても、ほとんど意味がない。なぜなら、たいていの洋盤は、英語圏の広大な市場を対象としているが、邦盤は、日本国内だけを主な市場としており、両者では、対象とする市場が異なる。
 また、単に内外価格の比較するだけなら、書籍は、日本の書籍はかなり安く、海外の洋書はかなり高いが、だからといって、「日本の書籍をもっと値上げせよ」という理屈にはなるまい。
 そもそも、日本のCDの価格がべらぼうに高いのだとすれば、CD会社はボロ儲けしているはずなのだから、他業種からどんどん音楽業に参入すればいいのだ。そして、そのような競争の激化を通じて、市場の価格は自然に下がるはずだ。だから、いちいち他人が口を挟む必要はないのだ。
 実は、CD会社はボロ儲けしていない。それどころか、青息吐息である。近年、インターネットのファイル交換ソフトの普及による違法コピーや、カセットテープでなくMDによる高音質の合法コピーや、CDレンタル店などによって、お金を払わない消費者(消費しない消費者?)が、どんどん増えている。そのせいで、CD会社は、毎年毎年、売上げが減っている。このままでは、音楽会社が倒産して、音楽産業が消滅しかねない。
 これは杞憂ではない。たとえば、百科事典産業は、今日では、産業としては成立しなくなってしまっているので、新たな百科事典が刊行されることは、今後ほとんどないと思える。昔なら、平凡社や小学館から、次々と新しい百科事典が刊行されたが、今では、過去の資産を食いつぶしているだけであり、新しい百科事典は生まれなくなってしまっている。(特別の事情のある例外は別として。)
 これと同種のことが、音楽産業にも当てはまるようになるかもしれない。昔の懐メロばかりが流通して、新しい音楽がプロによって作成されることはなくなるかもしれない。……だから、どうせ心配をするのなら、「CDが高すぎる」と心配するよりは、「音楽の無料流通が増えすぎて、良質な音楽文化が消滅してしまう」ことを心配するべきなのだ。

 [ 補足 ]
 似た事情は、パソコンソフトに見られる。マイクロソフトは、インターネット・エクスプローラーを無料配布することで、ネットスケープという会社をたたきつぶした。同様にして、マルチメディアの再生ソフトでも、他の会社をたたきつぶそうとしている。
 インターネット・エクスプローラーを無料配布したとき、阿呆な経済学者は「タダとは素晴らしい」と喜んだが、そのせいで、マイクロソフトの独占体制はますます高まり、ウィルスが蔓延し、世界はひどい迷惑をこうむることになった。「タダならいい」というものではないのだ。
 とはいえ、ビル・ゲイツのように悪魔的な策略に富む経営者は、「タダならいい」「安けりゃいい」と信じる愚かな消費者に乗じて、まんまと市場を独占するのである。そして、他社をたたきつぶして市場を独占したあとで、価格をいくらでも自由に決めるのだ。……かくて、マイクロソフトは、独占利益によって、べらぼうな利益を得ている。それもこれも、愚かな消費者が「タダならいい」「安けりゃいい」と信じたからなのだ。
 MS-DOSにせよ、インターネット・エクスプローラーにせよ、最初は無料で配布した。そうして市場を独占したあとでは、高値で売りつける。インターネット・エクスプローラーは、今では、OSとの抱き合わせの形で、高額で売っている。決して無料配布なんかはしていない。
 こういうことの教訓は、何か? 「安けりゃいい」などとは思わず、市場に多様な生産者が存在するようにすることだ。独占市場でなく、競争市場にすることだ。そして、そのためには、生産者に一定の利益が得られることを保証するべきなのだ。マイクロソフトのような「無料配布」というのは、むしろ、不公正な方法なのである。だから、まともな経済学者ならば、過去において、「無料配布をやめよ」と主張するべきだったのだ。そうなっていれば、今ごろ、多様なブラウザが存在していただろうし、われわれのメールが毎日ウィルスだらけになることもなかっただろう。
 「安けりゃいい」と人々が信じたせいで、人々は毎日、無料のウィルス・メールや広告メールを山のようにプレゼントされるようになったわけだ。これが「タダならいい」という主張の結果だ。







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「小泉の波立ち」
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