[付録] ニュースと感想 (66)

[ 2004.4.24 〜 2004.4.25 ]   

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● ニュースと感想  (4月24日)

 「人質問題と世間」について。
 人質問題自体ではなくて、問題を論じる世間についての話。その他、関連する話も。

 (1) 人質問題とイタリア
 イタリアでも人質が三人。未解放。世論は人質の安否を気遣う意見があふれる。思いやりがいっぱい。日本なら、「自己責任で」とか、「国に迷惑をかけた」とか、「救出費用は自弁で」とか、そういう意見があふれるだろうが、そういう風潮は皆無だ、ということ。もちろん、そんなことを言う政治家もいない。(朝日・朝刊・投書欄。2004-04-23 )
 イタリアは、日本とは、月とスッポンほどにも違う。まるで、別世界ですね。たぶん、かの国には、正気の人たちだけが住んでいるのだろう。信じられないくらいだ。そんな国があるとは。

 (2) 人質問題と米国
 米国も同様。米国では民間人が実際に殺害された。しかし、「自己責任だから死んでも当然」とか、「彼らは国に迷惑をかけた」とか、「彼らを救出に向かった米軍の費用を遺族は払え」とか、そういう意見は、米国では出なかったようだ。(朝日・朝刊・オピニオン欄。2004-04-23 )
 大統領が狂気的でも、国民は狂気的ではない、ということ。日本とは違いますね。ブッシュは支持率が下がる一方だったが、小泉は人質を見捨てたことで男を上げ、支持率が急上昇。

 (3) イスラエルの核兵器
 イスラエルが核兵器を開発しつつあることは、もはや完全なる事実として国際的に認知されているようだ。核開発をした人が内部告発したからだ。また、イスラエル政府も、核兵器を開発したことを公式に認めたも同然である。(というのは、内部告発をした人を、秘密漏洩という理由で18年も監獄に入れたから。仮に、核がなければ、内部告発は罪にならない。ただの嘘となるにすぎない。)
 このたび、彼が18年ぶりに牢獄から出るということが、報告された。(4月20日ごろの読売夕刊。日付は未確認。ネット上にも何らかのニュースがあるかも。)
 で、何が言いたいか? 「大量破壊兵器をもつ」ということが確認されても、イスラエルは処罰されるどころか優遇される、ということだ。つまりは、「大量破壊兵器をもつ」ということは、もともと、罪でも何でもなかったわけだ。(当り前だ。当の米国がそうしているのだから。)
 「大量破壊兵器をもつ」というイラク攻撃の理由そのものが、もともと理由にならなかったわけだ。大量破壊兵器の有無に関係なしに。つまり、戦争の理由は、二重に重ねられた虚偽だったわけだ。……そのことが、明々白々になったわけだ。
( ※ ついでに言えば、この内部告発者は、ヨーロッパに脱出して、余暇を楽しんでいた。そのホテルに、イスラエルの諜報機関モサドが強襲して、彼を拉致して、イスラエルに運んだ。そして、18年の有罪を宣告した。さらに、出獄後も、自由を剥奪している。……北朝鮮と同様であるか、もっとひどい。そして、こういう拉致国家を支持するのが米国であり、その米国を支持するのが日本である。)
( ※ だから、「大量破壊兵器は許されない」とか、「拉致は許されない」とか、そういう主張を自分では言えない国があるとしたら、当の犯罪国であるイスラエル以外では、米国があるだけだ。その米国が、イラクに戦争をふっかけたり、北朝鮮を脅したりする。……究極の倒錯。それを支持する国は、なんて言うんだったかな。たしか、ポチとか何とか。……)
( ※ 悪魔のような嘘つきは崇拝され、天使のような奉仕者は国中で非難される。そういう国は、何て言うんだったかな。最初の一文字は J のはずだが、「地獄」だったかな。)

 (4) 人質問題と日本
 例の人質が帰国してからも、まだ大騒ぎしているが、いつ収束するか? 
 人々は今は、いきり立っている。とはいえ、日本人には、「冷めやすい」という素晴らしい美点がある。いつもそうだ。「タマちゃんが心配だ」と国中で大騒ぎしたこともあったが、今はけろりと忘れている。だから、「人質のせいで心配させられた」と大騒ぎしても、やがてはけろりと忘れるだろう。そして、それまでにかかる期間は、どのくらいか? たぶん、七十五日である。(噂の期間。)
 ついでに言えば、人の死を忘れるための期間は、四十九日。比較的短く、忘れてしまう。
 やっぱり、人の死を悲しむより、噂を話す方が、好きなんですね。

( ※ 余談。日本人のこの健忘症ぶりを利用しているのが、小泉だ。次から次へと新しい嘘を乱発する。嘘を付いて、嘘がばれたら、新しい嘘を付く。「また嘘だろう」なんて、誰も思わない。なぜなら、前の嘘が嘘だったことは、国中が忘れているからだ。たとえば、「2年後には景気回復」というのを毎年毎年、口に出す。一年たったら、また「2年後に」と。「e-Japan」やら「構造改革で情報産業を振興して景気回復」やら、そんな嘘は誰も今は信じていないが、かつてはその場しのぎの効果があった。いつも目先だけを取りつくろおうとする。……この手を利用して、戦争を続ける口実を出すのが、ブッシュだ。二人は、似た者同士。だまされる日米の国民も、似た者同士。)

( ※ 前日分の最後に、イラク関連の話を、ちょっとだけ追加しておいた。たいした話ではないので、特に読まなくてもいいが。 → [ 注釈 ]


● ニュースと感想  (4月24日b)

 「ダイムラーの三菱自動車からの撤退」について。
 この件、大騒ぎのようだ。では、なぜダイムラーは撤退したか? 
 普段の私なら、こう言っただろう。「脱輪などの事故を隠す企業体質が身を滅ぼす」と。ひょっとして、これは朝日あたりも言うかもしれない。(夕刊を読んだ時点では、まだわからないが。)
 ただし、脱輪事故はトラック部門(別会社)だから、乗用車部門とは関係ない。乗用車部門は、トラック部門とは別に、にっちもさっちも行かない状況に陥っていた。ここが問題の根源だ。
 実は、こうなることは、予見不可能ではなかった。要するに、「いつまで意地を張るか」の問題にすぎなかった。現状のままでは、三菱の破綻は必然であり、いくらダイムラーが援助しても、泥沼に入るばかりだったのである。はっきり言って、ダイムラーが援助してからというもの、三菱は悪化するばかりだった。三菱自体のためには、ダイムラーが手を引いた方が、はるかにマシである。三菱が必要としたのは、ダイムラーの資金だけであって、技術でもないし経営手腕でもない。そんなものは、自前の方が、ずっと良かったのだ。
 具体例を挙げよう。三菱車の顔には、三菱マークのデカいマークがついている。あまりいもデカいマークなので、デザインが破綻してしまっている。では、なぜ、こんな破綻したデザインが登場したのか? 三菱は本来、ずっと前のギャランのように、けっこうまともなデザインが多かった。ちょっと前のギャランも、けっこうまともなデザインだった。なのに、なぜまた、こんな醜悪なデザインで統一するようになったのか? 
 それは、ベンツから出向した社長が、独断で決めたからだ。「こうせよ」と。その理由は、「ベンツ車は、ベンツマーク(円と三方星)が、鼻にデカくついている。だから、三菱車も、その真似をせよ」というわけだ。
 かくて、一事が万事、すべてドイツ流を押しつけた。「オレ様だけが正しい」と信じて、その方針をことごとく現場に押しつけた。現場の事情もへったくれもなく、技術やデザインも無視して、すべては「ベンツの真似をせよ」だ。一種の植民地統制である。……その結果は? クライスラーも三菱も惨憺たるありさまだ。結局、こんなことをやっていては、いつかは必ず破綻する。その破綻の時期を、資金力で、先延ばししていただけだ。ドイツの黒字を、日本と米国の赤字につぎこんでいただけだ。愚の骨頂。

 で、その理由は? ドイツ本国のベンツの会長が、こういう独断専行であったからだ。そして、そこから送り込まれた人物も、日本の会社で独断専行を続けた。三菱の社員は、独裁社長の鼻息を窺うだけだった。
 ひるがえって、日産のゴーン社長はどうだったか? 彼は就任に当たって、「従業員の声を聞く」として、会社全体を回った。そのあとは、横断的な「改革組織」を作って、従業員全員が下から改革を盛り上げていった。これは、上から改革を押しつけるベンツ流とは、正反対だった。
 もちろん、結果も、正反対だった。ゴーン流は、会社全体の組織と人員を活性化させて、業績を短期間に急上昇させた。ベンツ流は、会社の組織と人員を「社長の言うとおりにせよ」というふうに硬直化させて、業績を短期間で悪化させた。
 なんのことはない。ベンツがやったのは、会社を「古い日産」のようにしただけだ。だから、マツダやスバルなどが業績を好転させるのとは逆に、三菱ばかりが業績悪化していったのだ。

 結語。
 独裁経営は、会社をつぶす。経営とは、「会社を自分の思うように切り回すこと」ではないし、「会社を自分が正しいと信じるとおりに動かすこと」でもない。会社とは、いわば、馬のようなものだ。馬のことは、馬が一番よく知っている。騎手が「こういう走り方をしろ」と勝手に決めても、それが最善になる保証はない。馬がどう走るかは、馬に任せるのが最善だ。騎手がなすべきことは、馬がちゃんと走れるようにすることだけだ。ケガをしていればケガを治し、(目などに)ゴミが付いていればゴミを取り、腹が減っていれば腹を満たし、馬が全力を発揮できるようにすることだけだ。「こう走れ、こう走れ」と命じるだけでは、馬は騎手のことばかり気にかけて、走り方がわからなくなり、足を絡ませて、倒れてしまうのである。……それが三菱だ。経営音痴の独裁者は、企業をつぶす。
 経営とは、社長が部下に命じることではなくて、社長が部下に奉仕すること(意向に沿う職場環境を整えること)である。企業活動とは、企業が消費者に売ってやることではなくて、企業が消費者に奉仕すること(意向に沿う商品を出すこと)である。……どちらも同じことだ。それに成功した企業だけが、市場において勝者となる。三菱は、勝者となることをめざしたから、勝者になれなかったのだ。金をめざしたから、金を失ったのだ。もし三菱の社長が、部下や消費者を最優先していたなら、三菱は決して没落することはなかっただろう。

( ※ 「従業員の意向に沿う職場環境を整える」ことで勝者となった成功例がちょうど報告された。例のCG会社の「ピクサー」である。「会社のなかはきちんと能率的に整然とせよ」というのが普通の会社の方針だし、ピクサーもできたときはそういうオフィスだった。しかし、その無味乾燥に辟易した社員が反抗して、社内は今や、「おもちゃ箱をひっくり返したような」ありさまだ。[読売・夕刊・特集 2004-04-23 による]……そうだ。こういう企業こそ、勝者となる。なぜか? その理由がわからない人は、経営者の資格がない。)
( ※ なお、本項の話と、次項の野党党首の話は、ともに独裁経営の話である。)


● ニュースと感想  (4月24日c)

 「民主党の暴走」について。
 民主党の経済政策が暴走している。正確には、菅直人が暴走している。
 民主党の経済政策は、党で決めているのではなくて、菅直人が思いつきで決めているらしい。その思いつきというのは、山崎という世間的には無名のビジネスマンの発想であり、それがいかにも面白いので、菅直人がさっそく飛びついて、これを勝手に党の政策にしてしまったという。それまでの党の政策を勝手に破棄して、一人で政策を決定しているという。その政策は、「高速道路の無料化」と「農業のフランチャイズ化」である。(読売・朝刊・政治面 2004-04-20 )

 「高速道路の無料化」というのは、かねて、比較的まともな民主党の政策のなかで、黒一点、汚点が付いていた。これこそまさしく「民営化の正反対」であり、「共産主義化」政策である。つまり、「国営化による無償供与」というやつだ。タダでもらえる国民は喜ぶが、その背後で莫大な非効率が蓄積し、国民に莫大な損失を押しつける。例は、ソ連のさまざまな無償配給制度。北朝鮮でもやっている。……現代では、ほとんど狂気の政策である。
 わかりやすく説明すると、「高速道路の無料化」とは、「その分の減税をやめる」ということである。本来ならば、莫大な金額の減税が可能なのに、それをすべて道路公団につぎこむ。逆に言えば、現状に比べて、莫大な金を増税して、そのあとで「高速道路を無料化しました。皆さんは得をしましたよ」と言う。
 この手を使うと、あれこれとどんどん増税をしていくことになる。「橋がタダで利用できますよ」「ピラミッドがタダで利用できますよ」という話がどんどん続くが、その結果、ものすごい増税が課されることになる。
 詐欺師の政策。人をたぶらかす悪魔の政策。

 「農業のフランチャイズ化」というのも、「フランチャイズ制」の実態を知らない人の発想だろう。「フランチャイズ制」では、その企業が莫大な利益を得る。コンサルタント料という名目で、ほとんど何もしないまま、ただのカンバン料だけで、莫大な利益を吸い上げる。マルクスならば、「何もしないで金を吸い上げるのならば搾取だ」と言うかもしれない。とにかく、このおかげで、コンビニ各社は、ほとんど何もしないまま、莫大な利益を上げる。一方、その陰では、「フランチャイズ制」の加盟店は、ものすごく苦しんでいる。利益の大部分を本部に吸い上げられ、まともに生活ができない。「こんなに儲かりますよ」といわれて加盟したあとで、全然生活できないので、自殺する人すら出てくる。だいたい、ここで雇用されるのは、アルバイトのような、最低賃金の労働者だけである。結局、何のことはない。経済体質が改善したというよりは、労働賃金を切り下げて、その利益を本部が吸い上げているだけだ。これが「フランチャイズ制」の実態だ。莫大な黒字の陰には、莫大な不幸がある。
 さて。こんなのは、流通業では、常識だ。だから、「フランチャイズ制」なんてのは、一国経済の立場から見れば、阿呆の発想でしかない。「全員が幸福になる」という制度ではなくて、「他人の幸福を奪って、自分だけが幸福になるための制度」でしかない。流通業界の常識。
 どうせやるなら、「農業の民営化」(株式会社の参入)だけを単純にやればよい。そうすれば、そこで雇用された社員が、必死に努力して、日本の農業全体が効率アップするだろう。しかし、「フランチャイズ制」なんていうのは、単純労働者ばかりが増えて、農業生産は質的に改善するどころか悪化する。……ただし、それでも、本部だけが他人の利益を吸い上げるので、本部だけはボロ儲けができる。マルクスの言う「搾取」をうまく実行するだけだ。
 国全体の経済を悪化させて、自分だけが儲けようとする。そういう経済体制をめざすのが、民主党の独裁者である。もっと他人の意見に、耳を傾けるべきだ。そうしないから、メフィストフェレスの声に、たぶらかされてしまうのである。「これで幸せになりますよ」という声に従って、しらずしらず、魂を抜き取られてしまうのだ。

 教訓。
 女たらしで懲りたら、反省するべし。反省しないと、自分が経済音痴であることを理解できない。かくて、ふたたび身勝手な欲望の声に耳を傾けて、暴走する。
 彼に何より足りないのは、反省する能力だ。だから、女たらしの事件のときにも、女房に批判された。「脇が甘いのよ」と。……うまく言うね。

 [ 付記 ]
 「フランチャイズ制」のすべてが悪いのではない。そこに公正な競争があるのならば、フランチャイズ制を取った企業も競争のなかでうまく揉まれて、市場全体が最適化するだろう。その点では、古典派の言うとおり。たとえば、競争の激しい飲食業では、フランチャイズ制によるファミレスやチェーン店が、サービスを向上させている。おいしいものが安く食べられるようになり、従業員も高所得を取れるようになった。
 一方、農業だの流通業だのは、公正な競争があるとは言えない。ここでは圧倒的な会社優位の条件下で、従業員が劣悪な環境にさらされることは、想像に難くない。会社はどんどん儲かるだろうし、その産業も発達するだろうが、それが日本全体を幸福にするかどうかは、また別の話である。
 特に、「法律の遵守」や「独禁法の強化」は、絶対に必要だ。現状では、会社側の無法行為がはびこって、詐欺みたいな契約違反もざらだが、フランチャイズ制の加盟店は訴えることもできず、泣き寝入りすることが多い。
( ※ なお、「法律の遵守」や「独禁法の強化」に反対しているのは、経団連。このことは私も何度も述べたが、21日ごろの朝日社説もようやく私と同趣旨の経団連批判を述べている。……朝日社説担当者は、ネタに困ったら、私のページをご覧ください。ちょっと書き直すだけで、いくらでも論説を書けます。)


● ニュースと感想  (4月25日)

 「マスコミの暴走」について。
 イラク人質問題で、マスコミが相変わらず暴走している。人質だった三人の詳細な住所が掲示板に掲載されたが、この最初のネタ元は日本経済新聞社だという。それが掲示板に転載され、管理者による削除後も何度も何度も書き込まれて消えないらしい。日本経済新聞社は「自社のホームページでは削除しました」と言って平気の平左でいるが、その後のすべての「情報の増殖」は、この社に責任がある。それはいわば、ウィルスの作成と同じだからだ。作成した犯人が「私はウィルスを一回感染させただけです。その後の増殖は、私の責任じゃありません。ウィルスに感染された人の責任です」と言うのと同様だ。責任感がまったく欠如している。
 また、週刊新潮に至っては、完全に居直っている。経歴などを勝手に報道した上で、「記事がプライバシーの侵害かどうかは、読者が判断すべきだ」ということだ。で、「プライバシー侵害だ」と判断したら、どうなんですか? 記事を掲載するのをやめるんですか? しかし、掲載するのをやめたら、読者は判断できなくなる。あちらが立てばこちらが立たず。こちらが立てばあちらが立たず。結局、論理矛盾を起こしている。これを解消する唯一の策は、タイムマシンを作成することだ。「読者がプライバシー侵害だと判断したので、タイムマシンに乗って、一週間前に戻り、記事の掲載をやめます」と。これまた狂気。
 特に責任が重大なのは、日本で最大の発行部数を誇る読売だ。社説や記事で人質非難をキャンペーンのごとく行なって、日本中に狂気をふるまいた。大きな責任があるが、今では知らぬ顔の半兵衛だ。自省ゼロ。いわば、人殺しのような犯罪行為をそそのかしておいて、「え? 私はそんなことをしましたっけ?」という立場だ。無責任の極み。本当は「殺人幇助(ほうじょ)罪」みたいな犯罪に相当するんですけどね。

 マスコミ各社に言っておこう。犯罪を犯したならば、犯罪を停止するだけでは足りない。「ごめんなさい」と誤るだけでも足りない。自らの罪を告白し、贖罪(しょくざい)をする必要がある。「私たちは無辜(むこ)の民をこれほどまでに苦しめました」という事実を、新聞上ではっきりと表明する必要がある。また、自社ではやっていないとしても、他社であるマスコミがそういう狂気状態であることを報道する必要がある。現在、これをやっているのは、一部の週刊誌と、朝日新聞ぐらいだ。
 ただし、朝日もまた、「記者会見の見通しが立たない」などと平然として述べている。何か、勘違いしているのではないか? 元人質は、記者会見の義務など、さらさらない。なぜなら、公務員ではないし、何ら権力をもっていないからだ。記者会見をして、マスコミの攻撃の槍で刺される義務など、さらさらないのだ。公務員ならば、自己の業務について記者会見することも、その給料によって支払いを受けるわけであり、義務だと言えよう。しかし、元人質は、記者会見をしても一円も入らないのだ。それどころか、記者会見をするホテルなどの会場を予約すれば、数十万円の持ち出しとなる。なぜ、そんなことをする義務があるのか? 元人質は、宣伝してもらって利益を得るタレントとは違うのだ。(ついでだが、過去最高の記者会見というと、貴乃花の婚約の会見らしい。ホテルの会場費は 200万円ぐらいかかったそうだ。……でもまあ、本人にとっては、払う価値があったのだろう。披露宴の費用に比べれば、格安だから、けっこう安上がりな宣伝だったことになる。ま、河野景子は美人でしたし。……話が逸れてしまった。)

 話を戻す。たとえ話をしよう。今、あなたがホームページをもっているとする。すると、こうなる。
 「あなたのホームページを見て、大変興味を覚えました。すばらしいホームページですね。日本中があなたのホームページに関心をもっています。だから、あなたの住所を、ネット上に勝手に公開させていただきました。また、あなたの経歴も、報道させていただきました。さて。ついては、読者の興味を満たすために、記者会見を設定していただきたい。ホテルの会場代は、あなたの名義で、すでに予約しておきました。飲食物も、あなたの名義で、すでに発注済みです。客のタクシーも、何十台も予約済みです。全部、支払ってくださいね。あなたは日本中に関心を呼び起こしたのだから、あなたにはそれらのことをする義務がある」
 もちろん、あなたは拒否する。馬鹿げたマスコミなんかに、付き合っていられない、と思う。次々と請求書が寄せてくるが、必死になって断る。すると、こう非難される。
 「不満であれ何であれ、全部あんたが悪いんだよ。そもそもあんたが、ホームページを開設したのが悪いんだよ。こういうことがあるとしても、その危険を軽視したあんたが甘すぎたんだ。マスコミなんてのは、凶暴な野獣のようなものなのに、その危険を無視して、野獣のいる檻に入ったあんたが、軽率すぎたんだ。おまえが悪いんだ。おまえが悪いんだ」
 こういう非難が、日本中から、山のように浴びせかかる。外に出れば、卵をぶつけられる。会社に出れば、「おまえは会社に迷惑をかけたから、今日限りやめてもらう」と言われる。
 「誰か助けて」と叫べば、それをマスコミが「被害者が叫んでいる」という記事にして、おもしろおかしく書いて、またボロ儲け。苦しんでいる姿をテレビは放送して、これもボロ儲け。「しめしめ。出演料がゼロ同然で、視聴率を稼げたぞ。こんなに素晴らしいことはない。やっぱり、メーク・ドラマだな。事件がなければ、事件を作れ」
 結局、マスコミは誰も、あなたを助けてくれない。味方をしてくれるのは、せいぜい、どこかの変人の書いたホームページだけだが、いかんせん、このホームページは「変人が書いた」として有名なので、誰もまともに受け取ってくれない。
 やはり、日本脱出しか、道はないですね。

 [ 補足 ]
 ちょっと話が混乱してしまったが、ジョークが言いたいわけでもないし、マスコミの悪口を書いて憂さ晴らししたいわけでもない。マスコミが阿呆なのは、公然の事実。それは誰もが知る秘密。
 ええと。つまりは、「マスコミは責任を果たせ」ということです。犯した罪は、取り消せない。ならば、せめて、「罪を罪として認めよ」ということです。「記者会見を要求する」なんていうふうに、罪の積み重ねは、もうやめてもらいたい。一度傷つけた人を、さらに傷つけるのはやめてもらいたい。どうしても記者会見をしたいのであれば、まず、過去の攻撃のお詫びをして、記事にしたことの出演料をちゃんと払ってからにしてほしい。許可なく勝手に写真を撮ったりして報道したのだから、肖像権料など、莫大な金額を払うべきだ。それができなければ、「泥棒みたいな権利侵害をしました」と告白するべきだ。
 「報道のためだから無償でいい」と主張するだろうが、冗談は休み休みにしてほしいものだ。マスコミは、政府の公的業務について報道したわけではない。ただの私人を一方的に人身攻撃するために報道したのだ。たとえその意図はなかったとしても、結果的にそうなったのだ。現状を見ればわかる。
 わかりやすく言おう。交通事故で、人を殺したら、補償金を払う必要がある。「私は轢き殺す意図はありませんでした」なんてのは、弁解にならないのだ。意図がどうであれ、結果的に轢き殺したなら、補償金を払う必要がある。それが社会の常識だ。(法律的に言えば、過失責任。)
 今回の人質事件で、人質を苦しめたのは、テロリストと呼ばれる誘拐犯ではない。日本のマスコミと政府だ。
( ※ マスコミに踊らされた人々は? もちろん、責任はあるが、これは「阿呆」と呼ぶだけで足りる。自分の頭で考えることができないから、マスコミと政府の言うことを鵜呑みにするだけだ。……本来ならば、政府は、米国国務長官のように、「三人は立派だった」と称賛すれば良かったのだ。そうすれば、ここまで問題はこじれなかった。実際には、政府は三人を非難し、日本中の阿呆がその指示に従って踊り狂った。……まだ盆踊りの時期じゃないんですけど。)

 [ 付記 ]
 別の話。アメリカの志願兵がアフガンで戦死したという。プロ・スポーツの選手で、チームから「3年で4億円」の申し出があったが、断って、軍に志願したという。国内では追悼して勇気を称える声も出たという。(朝日・夕刊・社会面 2004-04-24 )
 日本なら? 「命を粗末にした馬鹿者め」と非難される? かもしれない。が、自衛隊員は、危険な地に出向いても、ちっとも非難されなかったですよね。不思議。……やはり、危険な地に出向いたかどうかが問題じゃなくて、政府に従うか逆らうかが問題なんですよね。
 たとえば、「政府が『危険だ』と渡航禁止勧告をしたのに、勧告に逆らってイラクに行った民間人はけしからん」という論調だ。一方で、自衛隊については、「政府が『安全だ』と志願勧告をしたので、それに応じて志願した隊員は立派だ」という論調だ。……日本中、政府べったりで、二枚舌。
( ※ 念のために言い添えておくと、私は自衛隊員を批判したことは一度もありません。派遣した政府は批判するが、派遣に応じた自衛隊員は批判しません。だいたい、仮に批判したくなったとしても、個人攻撃はしません。特に、相手が女兵士だったら、絶対に批判しません。自分が戦地に出向きもしないのに、戦地に出向いた女兵士を非難するなんて、男として最低だ。クズだ。ええと。ところで、今回、女性ボランティアに対して日本は……)


● ニュースと感想  (4月25日b)

 「日本人の狂気度」について。
 ネットで検索しているうちに、たまたま見つかった話。( → その日記ページ
 イラク人質問題に対する感想の比率を、楽天の日記サイトで調査すると、こうだったという。
    非難:中立:擁護 = 56:16:28
 この非難の率は、世論調査における小泉支持率とほぼ同じ。(前にも示したとおり。)……ひどい国。というより、情けない。日本人であることを、こんなに恥ずかしく思ったことはない。

 [ 付記 ]
 ところで、あなただったら、同じように政府に拉致されるとして、拉致された先は、どちらがいいでしょうか? 
   ・ 北朝鮮 …… 独裁者一人が狂気だが、他の国民はほぼ正気。
   ・ 日 本 …… 政府だけでなく、国民の6割が狂気。(命の危険あり。)
 どっちがいい? どっちもイヤだ? 前者なら、餓死。後者なら、迫害死。どっちも殺されそうだ。

 [ 補足 ]
 日本がひどい国であればあるほど、国民は国家から離反する。となると、国家への忠誠を強制する必要がある。だからこそ、国旗・国歌問題が生じたのかもしれない。日本も、北朝鮮も。……結局、北朝鮮も日本も、国民にことさら強制しなければ敬愛されないような、ひどい国家になっているわけだ。似た者同士。
 「アメリカでは、人々は国旗・国歌を敬愛するぞ」という意見が、読売あたりにある。ぷぷぷ。これぞ、もてない男の論理。……「おれを愛せ」と強制して、「いやよ」と言った女をぶん殴るようなひどい男が、「おれは女に愛されるハンサムと同じだな」と、勝手に自惚れている。あげく、「女をぶん殴るなんて、おれはなんて雄々しく勇敢なんだろう」と胸を張る。それを見ると、まわりの人々は、拍手する。「女は養われているのだから、男に殴られても、文句を言うべきではない。殴られて、当然だ。女は男に何を命令されても、言う通りにしろ」と。
 げっ。気持ち悪い。これ、どこの国? 



 【 追記 】 (2004-04-26)
 週が替わって月曜日になると、週刊誌に続報が出ている。人質狂想曲をめぐる話。
 なかでも「週刊現代」が出色。その他、「AERA」、「Yomiuri Weekly」、「週刊アスキー」などにも細かな情報がある。
 いろいろまとめてみると、人質非難の根拠はすべて嘘だった、と判明したことになる。「20〜30億円の出費」というのは、実は千万円程度だった。なぜなら残業手当は支払われないから。「自作自演・狂言・演出・ヤラセ」というのも、嘘。「日本人が関与していたらしい」というのも、勘違い or 妄想。
 ま、これだけなら、「阿呆ばかりだった」ということで、話は済む。問題は、事後の態度だ。人々は、間違いだと気づいたあとも、知らんぷり。公明党の党幹部に至っては、「費用を払え」と主張したことについて、インタビューを申し込んだところ、必死に逃げ回っているらしい。
 「過ちて改めず、これを過ちという」。間違いを犯したならば、「間違えました。済みません」と修正するべきだ。そして、修正できない人々は、いまだに間違え続けていることになる。彼らはいまだに人質非難を続けているも同然だ。
 特に、読売の罪は重い。日本最大の発行部数を誇り、人質非難のキャンペーンをしておきながら、今では「そんなこと言いましたっけ?」という態度だ。これでは、インターネットに棲息する掲示板マニアと同然だ。結局、読売新聞は、謝罪も修正もしないことで、自分をゴミ掲示板と同列にしてしまった。間違いを修正しないことで、ゴミ新聞になってしまった。
( ※ もちろん、インターネットのホームページには、非難したことを忘れて、知らんぷりをしているページは、山のようにある。しかし、それらはしょせん、ゴミである。自己批判できないページは、ゴミなのだから、ゴミを批判しても、仕方あるまい。しかし、読売新聞は、自己反省しないことで、自らをゴミにしてしまったのだ。……新聞紙というものは、しょせんは古びてゴミになるが、今回は、配達される前から、ゴミになってしまったのだ。「ゴミを配達するなら、金返せ」と言いたいね。)
( ※ 朝日は、今回は、正しかったことになる。ただし、それで自惚れたら、大間違いだ。インターネットの世界で非難が出回ったことには、朝日にも大きな責任がある。常日頃、朝日は経済学の分野では、嘘とデタラメばかり書いていた。だから、インターネットの世界では朝日は「トンデモ」扱いである。実際、トンデモだ。かくて、インターネットの世界では、朝日はまったく信頼をなくしてしまった。だから、朝日が「人質擁護」を訴えても、まったく受け入れらなかった。……これは、オオカミ少年と同じである。いつも嘘ばかりついているから、信頼をなくしたのだ。とすれば、今回の日本の狂気にも、朝日は一役買っていたことになる。嘘つきのオオカミ少年が、「人質非難をやめましょう」なんて言えば言うほど、かえって逆効果になったわけだ。朝日もまた、常日頃の嘘つきぶりを反省するべきなのだ。……この件、4月28日に、デタラメぶりをふたたび指摘する。)



 【 追記2 】 (2004-04-28)
 元人質の三人およびその家族に、政府から費用の請求があって、すでに金は支払い済みだという。総額 250万円ぐらい。(朝日・朝刊 2004-04-28。なお、 200万円という報道もあるが、大同小異。)
 さもしいね。情けないです。
 なお、産経新聞系の ZAKZAK ではいまだに人質非難を続けていて、「何億円もかかったのだから、もっと支払え。自己責任だ」というような口調だ。( → ZAKZAK
 なんだか、言葉を間違えている。「自己責任」というのは、「自分で決める」ということであり、「政府はほったらかす」ということだ。第1に、解放までは、何も関与しない。(これはたしかに実行した。)第2に、解放のあとも、何も関与しない。つまり、「犯人がバグダッドで解放したあと、三人が日本大使館まで来てから先は何も関与しない」ということだ。……なのに、現実には、勝手に強引に介入して、その全費用を押しつける。これじゃ、自己責任どころか、過剰介入である。

 例。あなたが会社で、ぶらぶらと仕事をしないで、休んでいる。それを見た会社側が頭に来る。「ぶらぶらしているとは、何事だ! そんなことをしていると、おまえの給料が下がる恐れがある。ゆえに、おまえのために、おまえをビジネス学校に派遣する。必ず行け! 拒否は許さん」と命令して、勝手にビジネス学校に登録する。あなたは「仕方ないや」と思って、社命に従う。その後、会社から、費用の請求書が来る。「かかった費用は 250万円(または 200万円)。全額請求します」と。「え? どうして? 会社の命令でしょ?」とあなたが質問すると、「自己責任です」と会社は答える。「え?」とあなたが驚くと、「おまえの給料が下がらないために、やってやったんだ。おまえのためにやったんだから、おまえが払え。本来、おまえが払うべき金なんだから、当然払うべし。これが自己責任」と会社は答える。
 どこがおかしいか、わかりますか? 政府と保守系マスコミは、わからないんですけどね。……なお、私だったら、「自己責任」と呼ばずに、「政府の責任転嫁」と呼びますけどね。
 例。「自己責任だから、三人は金を払うべし」→「政府の責任転嫁のために、三人は金を払うべし」

( ※ ひるがえって、自衛隊はどうか? 何百億円もかけているが、それでやったのは、給水車の電源を入れたことぐらい。あとはずっとサマワの宿舎でバカンスを楽しんでいるだけ。「危険な地に出て行かないから、偉いでしょ」と威張っている。しかし、そもそも、何のための軍隊派遣なのだ? これぞ無駄の極み。……例。伊良部家で、火事があった。さっそく消防隊を派遣した。しかし、火事の現場に近づかず、遠巻きにして眺めているだけ。「なぜ?」と見物人が問うと、「火事の現場は危険だからです。危険を冒さないから、偉いでしょ」と消防隊が威張る。国中も、拍手大喝采。「この消防隊は、実に立派だ。消火活動をしないで、危険を冒さないんだから。私たちは安心していられる」と。かくて、火事は衰えない。伊良部家では、女と子供が続々死んで、数百人が犠牲になる。日本中、大喜び。「いくら死んでも、構うことはない。燃えたあとで、建設をすればいい。そうすれば、復興に協力できる。公共事業にもなる。おれたちも儲かる」と。……狂気の極み。やむなく、NGOの人が救出に向かおうとすると、人々が非難する。「余計なことをするな! 政府に任せておけ! 危険を冒すな! 全部、自己責任で! おれたちに迷惑をかけるな! おれたちを巻き込むな!」と。それでも飛び込もうとすると、火の粉がかかって、服が焦げた。それを見て、「助けよう!」という声が上がったが、消防隊は、何もしない。仕方なく、NGOの人は、ほとんど自力で脱出した。やっと脱出したあとで、消防隊員がつかまえて、両腕をかかえて、否応なしに、超高級ホテルに連れていった。そして、「費用を請求します。衣服のクリーニング代、タクシー代、ホテル代、人間ドック代、全部合わせて、250万円。払ってくださいね」と。「何で」と聞くと、「自己責任なんだから」という返事。やむなく、払った。しかし人々は、不満タラタラ。「消防隊員の派遣代も、政府の心配代も、全部、払わせろ! 20億円、払わせろ! おれたちの血税だぞ!」と。……呆れるね。ケチなんだか、狂っているんだか。それとも、ケチだから狂っているんだか。)

 [ 訂正 ]
 「日本政府は、人質救出のために、何一つしていない。実効ゼロ」というふうに述べたが、あとで思い返すと、これは正確ではないので、訂正します。正しくは、以下の通り。
 川口外相は、「人質三人は、平和目的でイラクに来た」と述べてから、「自衛隊も同じです」と述べて、「人質三人と自衛隊とは、同じ目的でイラクに来た」というふうに強調した。その言葉が人質三人に危険をもたらすと指摘されて、「自衛隊も同じ」という主張を削除するように要求されたが、外相は断固として「自衛隊も同じ」という言葉を削除するのを拒否した。(この箇所、誘拐直後のころ、朝日新聞に掲載された通り。)
 つまり、「人質三人を、自衛隊員と同じように扱ってほしい」と主張して、人質三人が戦闘要員と同様であると述べて、三人が殺害される結果になることを促した。
 日本政府は、人質救出のために、何もしなかったわけではなかった。あの三人が殺害されるように努力した。自国民を、放置したのではなくて、殺害されるための偽情報を出したわけだ。
 実は、こういうことは、冷戦中にはよくあった。「あいつは政府には都合が悪いな」と政府が思うと、その人物を特別親善員などに仕立て上げて、ソ連に派遣する。その後、「あいつはスパイだよ」という偽情報を流す。するとソ連がこっそり、その人物を殺害する。……これと同じ手だ。政府が自国民を殺害する。(すごい人でなしのようだが、こんなのは不思議でも何でもない。よくあることだ。たとえば、私なんかにも、イスラエルみたいな危険国家への招待状が来そうだ。で、そのあとで、政府が偽情報を流すわけだ。今回の川口外相みたいに。)
 というわけで、政府はまったくの無為無策だったわけではない。三人の救出のために、最大限、マイナスの努力をしたのだ。
( ※ ただし結局のところ、この努力は、水泡に帰した。人質三人は、「自衛隊とは異なる目的でイラクにやってきた」という理由で、解放されてしまったのである。政府は、当てはずれ。で、悔しまぎれに、「費用を払え」なんていうふうに世論を掻き立てているのだ。)
( ※ 実は、政府は、アメリカにも要請した。「人質を救出してほしい」と。つまり、「アジトを特殊部隊で強襲してほしい」と。そのとき、テロリストを皆殺しにするついでに、人質三人が殺されても、「やむを得なかった。テロに屈しないためなのだから、仕方ない」と弁解するつもりだったのだろう。……やはりここでも、人質殺害のために、最大限の努力をしていたことになる。)



 【 追記3 】 (2004-04-29)
 27日に、例の三人とは別の、二人の人質(一時拘束されただけ?)が、記者会見をした。マスコミから、「自己責任」をめぐって集中砲火がかかったらしい。( → ZAKZAK
 マスコミというのが、いかに自己矛盾を起こす阿呆連中であるか、よくわかる。指摘しよう。
 そもそも、「自己責任」かどうかは、理論的な問題であって、イラクに行った計5人の行動とは、何の関係もない。彼らが「自己責任」と思うかどうかは、彼らがイラクでなしたこととは関係ない。「自己責任」かどうかをめぐる論議は、政治的・理論的な問題であり、日本にいるわれわれの問題だ。彼らが「こう思います」と主張したとしても、それは、彼らの論客としての問題であり、彼らの行動者としての問題ではない。
 だから、彼らに「私はこういう意見を持ちます」という発言を聞きたいのであれば、記者会見なんかではなくて、トークショーを開いて、そこで論客として出席してもらえばいいのだ。(もちろん、論客としての出演料も払うべきだ。)
 しかも、である。人質たちを非難した人々は、「人質や家族が日本の国策を左右している」と非難した。とすれば、むしろ、「国策に影響するような論説は言うな。政治的な発言は慎め。ただ黙って行動しろ」とだけ言うべきなのだ。なのに、今になって、今度は「自己責任をどう思うか」という政治論争に巻き込もうとしている。かつては「政治的な意見を言った」という理由で家族を批判し、今度は「政治的な意見を言え」と注文する。完全な自己矛盾だ。
 マスコミはあの5人に、政治的な意見を求めるべきではない。尋ねるとしても、現場証人として、ただ事実のみを尋ねるべきだ。それならば、わかる。しかし、現実には、政治的意見を求めて、政治的論争に巻き込もうとする。マスコミとしてなしてはならないことをなす。何の政治的権力もない市井の一個人を、国家レベルの政治的な大論争に巻き込もうとする。……その理由は、ただ一つ。事実を知りたいのではなくて、5人を吊し上げたいだけなのだ。記者会見では、5人から何かを聞き出したいのではなくて、5人を自分たちの言葉でいじめたいだけなのだ。何かを聞くために記者会見があるのではなく、何かを聞かせるために記者会見があるのだ。
 かくて、「事実の報道」を目的としていたマスコミが、いつのまにか、「無償出演のタレントに意見を言わせてバッシングする」というだけのワイドショーに化けてしまった。彼らは、5人については「自己責任」を唱えながら、自分たちマスコミの「自己責任」を放棄してしまった。だからこそ、あんなにも無責任に、電波や活字を私物化して、個人への誹謗中傷という犯罪行為を重ねているのである。狂気。
( ※ 実は、これは、マスコミのプライバシー侵害と、まったく同根である。)
( ※ プライバシーと言えば、政府は、大臣の年金情報を公開せよという要求に、「個人情報だから」という理由で拒否しようとした。ちゃんちゃらおかしい。……それでも平気でいるのがマスコミだ。政府を擁護し、市民を攻撃する。強きを助け、弱きを挫く。……最低ですね。)

 なお、家族の「自衛隊撤退の要求」についても、言及しておこう。
 家族の要求については、「国策に影響するので、行き過ぎだ」と非難する声が多かった。しかし、何か、勘違いしている人が多いようだ。家族は別に、国会議員として、政府権力を勝手に行使して、強引に国策を変更したわけではない。家族として、何が何でも命を救いたいがために、精一杯の声を上げただけだ。
 家族を非難する人々は一体、家族にどう言えばよかったと言うのか? 「イラクにいる姉( or 娘・息子)を見殺しにしてください。お国の方針が大切です」と言ってほしかったのか? まさか。そんなことを言う家族は、人間としての心を失っている。
 だから、たとえ政治的には間違っているとしても、家族としては血のつながった近親者を最優先するだろう。それが人間として当然の心だ。そしてまた、政治権力のない家族には、どんな声を上げることも許される。
 マスコミは、本来なら、家族には政治方針に関する意見は求めなければよかったのだ。「こうしてほしい」という政治的な要望があっても、報道しなければよかったのだ。なぜなら、その政治的な決定権は、家族には権限外のことだからだ。一個人としての家族がどう思うかは、一個人としての私がどう思うかと同様で、いちいち報道すべきことではなかったのだ。
 かくて、マスコミは、なすべきことをなさず、なしてはならないことをなしたのである。報道すべきことを報道せず、報道してはならないことを報道したのである。……今回の大騒動の根源は、マスコミが自らの倫理を失ったことだ。人質たちが自己責任を忘れたのではなくて、マスコミが自己責任を忘れたのだ。
 ただし、国民の態度も、問題だ。マスコミの報道態度を別にしても、今回の国民の態度は、まったく常軌を逸している。家族が市井の一個人として、政府とは正反対のことを主張したからといって、日本中から非難を浴びるようでは、もはや、民主主義というものは成立しなくなる。独裁体制を築くしかなくなる。たとえば、私は政府に異を立てて「こうせよ」とか「景気回復策を取れ」とか述べているが、そのせいで、日本中から非難を浴びることになるのかもしれない。ひょっとすると、特高に逮捕されて、拷問を受けることになるのかも。……そして、そういう体制を望んでいるのが、今の日本国民なのだ。狂気。
 重ねて言う。家族が何を政府に要求しようが、それは家族の自由である。一方、政府の方針を決定するのは、閣僚の仕事である。両者は別のことだ。家族は政府の方針を決定する権限はない。実際、今回も、家族の意向は完全に無視された。なのに、家族が政府の方針に反する意見をしゃべったからといって、日本中の非難を浴びなければならないとしたら、今後、あなたも政府の方針に反することを主張したとき、日本中から非難を浴びなくてはなるまい。そこにあるのは、言論封殺だけだ。
 とりあえず、人質の家族を非難する人々に言っておこう。仮に、あなたの最愛の家族が人質になったとき、「何が何でも救ってくれ」と思わずにいられるか? 「お国のためなら死んでもいい」と平気で見殺しにできるか? ……ここでは、政治家としての声が問題なのではない。人質の家族としての心が問題なのだ。もし平然と「最愛の家族が死んでもいい」と思えるようであれば、あなたはもはや人間的な愛を失っている。



 【 追記4 】 (2004-04-29)
 私のページを初めて見る人も多いようなので、過去の話を振り返って、基本的方針について解説をしておく。
 「イラクに対してどうすればいいか?」という問題に対しては、「自衛隊を撤退させよ」とは述べているが、「自衛隊はまったく無効である」と述べているわけではない。「イラクの復興に協力するな」と述べているわけでもない。
 「どうせ同じ金を使うなら、もっと有効に使え」と述べているのだ。莫大な金をかけて、ほんのわずかの給水と、ほんのわずかの土木建設なんていうのは、まったくの無駄である。ただの宣伝効果ぐらいしかない。(ただし、「ただの宣伝効果だけ」というのが、政府の狙いだが。)
 イラクには失業者がわんさといるのだ。彼らは生きていくための金に窮乏しているのだ。だったら、同じ金を使うのなら、彼らを雇用すればいいのである。なのに、イラク人百人を雇用するのをやめて、かわりに自衛隊員一人を雇用する、というのは、あまりにも無駄である。(まったくの無効ではないが、ひどく無駄である。なにしろ、自衛隊員一人は、イラク人一人よりも、働かないからだ。なぜなら、基地の外に出ないからだ。馬鹿丸出し。)
 たとえ話。日本で地震があった。「助けてくれ!」と各国に求めたら、各国から次々と救援物資が来た。米国から二百億円。英独仏中から各百億円。……など。ところがロシアだけは違った。やはり百億円を送ってきたが、その百億円は、自国の軍隊を派遣する費用とした。「百億円かけて、給水事業をします。土木建設もします」と述べて、微々たる給水事業と土木建設をした。日本人は怒り狂った。「そんなことをやっても、おたくの軍隊を雇用するばかりだ。日本人がやれば、その百倍の人間が助かる。馬鹿げたことは、やめてくれ。軍隊なんか、いらないから、とっとと帰ってくれ」と。すると相手は反論した。「たとえわずかでも、給水事業と土木建設をしているんですよ。われわれは人道的支援をしているんだ」と。「人道的支援? だったら民間NGOに任せなさいよ。その方が百倍も有効だ。人件費もゼロだしね」「いやいや、勘違いしないでほしい。百億円は、日本のために払うんじゃない。われわれの人件費のために払うんだよ。実はね。人道支援というのは、相手の人道のためじゃなくて、われわれの人道のためさ。百億円で何をするかが問題じゃない、百億円を払うってことが大切なのさ。きみたちがいくら死んでも、関係ないね。とにかく、軍隊を派遣するのが、第1優先。人道支援というのは、正確に言えば、われわれのために人件費を払って、同時に、きみたちのために人道支援をしていると宣伝することさ」
 こんなこと言われたら、被災者は怒り狂うでしょうね。で、怒り狂った被災者にぶん殴られたときに、その被災者を銃殺するために、軍隊を派遣するわけだ。ファルージャを見ればわかる。

 結局、「自衛隊の派遣がまったく無効」と述べているわけではなくて、「相対的に非効率すぎる」と述べているわけだ。「 100円払って、100円の効果」ではなくて、「 100円払って、1円の効果」である。無駄の極み。とにかく、人道支援のためには、軍隊を派遣するより、金だけを送る[イラク人を雇用する]のが最も効率的だ。軍隊を派遣するというのは、いわば、イラク人を雇用するための金を勝手に食いつぶすということなのだ。それは、人道支援ではなくて、ただの対米支援なのである。支援の相手を偽っている。だまされてはいけない。

 なお、簡単に言えば、次の不等号が成立する。
   「自衛隊派遣」 「イラク復興への協力」
 この不等号が重要だ。なのに、保守派は、この不等号を等号のように扱う。つまり、
   「自衛隊派遣」 「イラク復興への協力」
 というふうに主張する。しかし、「自衛隊のかわりに民間人がイラク復興に協力する」という事実を見れば、保守派の主張が成立しないことがわかる。
 つまり、「民間人がイラク復興に協力する」という事実が判明すると、 “ 「自衛隊派遣」 = 「イラク復興への協力」 ” という主張が嘘であることがばれてしまう。政府の嘘がばれてしまう。
 つまり、先の高遠さんたちは、政府の嘘をバラしてしまったのだ。その意味で、「国家反逆罪」にすら相当する。ヒトラーのような人物が国民を洗脳しようとしているときに、天使やナイチンゲールのような女性が愛を振りまくことで、真実を教え、人々を洗脳から目覚めさせるのだ。そして、だからこそ、独裁的な政府は、この女性をひどく危険視するのである。この女性をすばやくイラクから隔離して、ふたたび国民をプロパガンダによって洗脳しようとするのだ。そして、国民は、まんまとこの洗脳作戦にはまってしまった。かくてふたたび、「自衛隊派遣とは、イラク復興への協力のことだ」という嘘を信じるようになるのだ。何と多くの人が、この嘘を信じていることか!
( ※ この嘘は、世界中でふりまかれたが、世界各国の国民は、もはやこんな嘘を信じていない。ただし、日本国民だけは、政府の嘘をいまだに信じているのである。)
( → 12月29日 に詳しい論説。)

 [ 注記 ]
 「自衛隊派遣」賛成派の人々に言っておこう。
 私はあなたたちを非難しているわけではないし、あなたたちの善意を疑ってはいない。あなたたちには、善意がある。ただし、その善意を、利用されているのである。
 政府は、「イラクのため」「人道支援のため」という名分で、殺人のための武器を備えた軍隊を送る。「平和のため」という名目で、「戦争のため」の部隊を送る。そこにはとんでもない欺瞞があるのだ。「その欺瞞にだまされるな」と言っているのだ。「あなたたちには善意がない」と述べているわけではないし、「イラクを放置せよ」と述べているわけではない。「善意を利用されるな」と述べているのだ。
 たしかに、あなたには善意がある。あなたは税を通じて、平和のために金を使った。しかしその平和のための金は、詐欺師によって、軍隊のための金に化けてしまっているのである。そのカラクリを見抜くことが大切だ。彼らは、あなたたちから、平和のための金を奪いながら、それを軍隊のために使っていることで、一種の詐欺をしているのである。だからこそ私は「だまされるな」と主張しているのだ。
 私はあなたたちに、「私の言うとおりの政治的意見をもて」と命令しているわけではない。ただ「目を開いて、真実を見るべし」と促しているのだ。「ある意見を取れ」と命じているのではなくて、「自分の頭で考えるべし」と促しているのだ。……ただし、「自分の頭で考える」というのは、それこそ、政府が最も恐れていることだ。逆に、政府の言うことを丸ごと信じるのは、ごく簡単にできる。
 私は政府のように、「こうせよ」とは命じない。私の意見は、あなたが考えるための、一助にすぎない。あなたがどうするかは、あなた自身で決めることだ。
( ※ ただし、あなたが自分の頭で考えるということは、政府にとってはきわめて都合の悪いことである。そのことだけは、理解しておいた方がいい。なお、損得で言うならば、政府の言うことを鵜呑みにするのが、あなたにとっては一番得である。ナチス時代のドイツ国民は、ナチスに協力する人が得をした。損得を考えるのならば、あなたもそうするといいだろう。というか、すでにそうしているはずだ。……そして、それゆえ、ナチスに協力しない人々は、あなたにとっては非国民だと思えるのだ。)



 【 追記5 】 (2004-04-30)
 人質問題を振り返って、他の「自作自演説」などをいくらか調べたところ、非難する人々がどうして勘違いしたか、ようやく判明した。彼らは言葉にだまされたのである。
 彼らの主張はおおよそ、「テロ行為にしてはあまりにも不自然だ」という点にある。ずさんで、非論理的で、いい加減で、実効性がなくて、文章はメチャクチャで。……こういう点は、緻密なテロ犯にはまったくふさわしくない。ゆえに「テロではない」と彼らは結論した。
 彼らの論理は、こうだ。
  「テロであるとする ならば 矛盾」 ゆえに 「テロではない」
 その論理は、まったく正しい。まさしく、テロではない。ただし、テロではないからといって、一挙に「自作自演」に行きついてしまったところに、論理の飛躍がある。
 すでに事実から判明したとおり、今回の実行犯は、高度なテロリストではなくて、田舎の荒くれ者(「悪人」という意味ではなく「血気盛ん」ぐらいの意味)である。どの町にも荒くれ者がいるように、イラクの田舎にも荒くれ者がいる。そういう荒くれ者が、普段はただの市民だったのに、戦乱のさなかで、銃を取って、ゲリラ的に行動して、日本人を誘拐して、ひとりよがりな声明を発したわけだ。
 そこには、知的なリーダーなどはいないし、まともな組織もない。当然、犯行は行き当たりばったりだ。まったく、メチャクチャの極みである。とはいえ、戦乱の混乱社会では、こういうことは起こりうる。平和な穏やかな先進国で実行される冷徹なテロとは、雲泥の違いだ。
 ところが、日本の人々は何を血迷ったか、彼らを(緻密な)「テロ犯」と思い込んだ。そして、日本の(緻密な)テロ犯と同じように、知的なリーダーのもとで、計画的で統制された武力活動をしている、と思い込んだ。イラクの現実とはおよそほど遠い状態を、勝手に想像した。そして、その勝手な想像に現実が一致しないからといって、「おかしいぞ」と判断した。
 おかしいのは、現実ではない。勝手な思い込みだ。そして、そういう勝手な思い込みをするのは、「彼らはテロリストだ」と信じたことによる。そして、そう信じたのは、「テロ」という言葉にだまされたからだ。本当はテロではないものを、テロだと思ったから、そのあとの論理が迷走したのだ。
 だから、私は一番最初に、こう言ったのだ。「テロという言葉にだまされるな」と。「言葉が思考を歪める」と。……そして、言葉に思考を歪められた見事な見本が、今回の自作自演説であったわけだ。
 結局、人間がいかに言葉にだまされるか、今回の事件はよい教訓となるだろう。
( → 4月14日b 追記4月19日b

( ※ もう一つ、「数字にだまされるな」とも注意しておこう。人質救出費用に税金が かかったという説で、20億円などの数字が一人歩きしている。実際には「飛行機代込みで1千万円程度」らしい [ → 前述 : 週刊現代による] のだが、「 20億円」とか「 30億円」いう数字を勝手に算出して、勝手に世間に広めようとする。なぜか? 「大金がかかった」とおおまかに言うだけだと信用性がないが、「 20億円かかった」と細かく言うと正当な根拠があると思い込ませることができるからだ。かくて、「数字を使え」というのが、詐欺師の手口となっている。とにかく、政府やマスコミは詐欺師だから、やたらと嘘八百の数字で国民をだまそうとする。だまされないように注意しよう。……逆に言えば、こうだ。あなたが人をだましたくなったら、なるべく数字を使うといい。嘘であればあるほど、なるべく数字を使うといい。さて。私はこのホームページの維持費に、毎年、多大な出費がかかっています。金額は、31500円[税込み]です。信じます?)

 [ 補足 ]
 人質非難が、いかに論理的な矛盾に満ちているかは、簡単に例証することができる。それには、奥参事官の事件(外交官二人が殺害された事件)と比較するといい。
 奥参事官は、人質三人よりもはるかに危険な行動を取った。民間人は殺害が予想されていなかったが、政府関係者は殺害が予想されていた。にもかかわらず、バグダッドを抜け出て、危険な北部領域に向かった。ほとんど自殺行為である。そして、実際、殺害された。(イラク民兵ではなくて米軍に殺害されたという説もあるが、どっちにしろ、殺害される危険を冒して、まさしく殺害された。)
 これほど向こう見ずな行為はあるまい。また、日本大使館の中枢が殺害されたことで、日本大使館の情報収集能力はマヒ同然になってしまった。かくて、日本政府に大幅な損失をもたらした。また、自動車が銃弾で蜂の巣に破壊されたことで、自動車代の損害ももたらした。
 では、奥参事官は、「危険を冒した」とか「政府に損失を与えた」とか日本中に非難されただろうか? 「無責任で馬鹿だから殺されたんだ。自業自得だ」と罵られたり、「政府の自動車が破壊されたんだから、費用を弁済せよ」と請求されたりしただろうか? いや、逆だった。「危険を顧みず、崇高な行為をなした」と政府に顕彰された。実際、死亡時点にさかのぼって肩書きが昇格した。そして保守系のマスコミは、口をそろえて、奥参事官を称賛した。
 なぜ、こうも違うのか? それは、相手が異なるからだ。一方は国家公務員で、一方は民間人。だから、同じようなことをしても、国家公務員には称賛を浴びせ、民間人には非難を浴びせる。前者には「危険を冒したから、その勇気を称えよう」と称賛し、後者には「危険を冒したから、その無謀さをとがめよう」と非難する。
 ここには、論理もへったくれもない。同一の論理を適用するということができていない。「体制側か/非体制側か」という対象の区別をした上で、前者には白の論理を適用し、後者には黒の論理を適用する。二枚舌を使って、論理にならない論理をこねまわす。
 そしてまた、国民は、政府の音頭に従って、右向きに踊ったり、左向きに踊ったりするのだ。
 「政府が称賛しろと言ったから、みんなで称賛しよう! パチパチパチ!」
 「政府が非難しろと言ったから、みんなで非難しよう! ゴーゴーゴー!」
 とにかく、政府は、人々を操り人形のごとく、右や左に踊らせようとする。それはそれで、不思議ではない。政府というものは、いつもそういうものだ。
 ここで、大切なのは、われわれがそういう音頭に乗せられないようにすることだ。政府のご都合主義の欺瞞にだまされないようにすることだ。そのために、曇りなき目をもつことだ。そして、それは、狂気のさなかでは、すこぶる困難なのである。
( ※ 半世紀前の戦中の人々が、いかに世間の狂気に抵抗するのが困難であったか、現在の日本からしても、推察できる。現状は戦中の日本に近い。……で、こういうとき、どうすればいいか? 私から、勧告しておこう。「勇気なき者は、長いものに巻かれよ。あるいは、口をつぐめ」と。)



 【 追記6 】 (2004-05-01)
 人質二人(男性)の記者会見があった。(4月30日のNHKニュースより。)
 これを見て、心を打たれたので、感想を書き留めておく。

 (1) 高遠さん
 今回の非難騒動では、高遠さんへの風当たりが一番強かったようだ。「世間に役立つジャーナリストでもないくせに、勝手にオママゴトで出掛けやがって」という調子だ。しかし、記者会見で判明したのは、次のことだ。
 三人が拘束されて、「スパイか」と問われて、命が風前の灯火となった。そのとき、高遠さんが自分の仕事を説明した。「イラクの病院で奉仕している」と。それを聞いて、イラク人たちは急に和やかになり、態度を一変させ、すぐさま「命を保証する」と告げた。つまり、政府が出るまでもなく、高遠さん一人の影響力で、三人の命を救ったわけだ。まさしく天使のようだ。
 仮に、男二人であれば、スパイの嫌疑をかけられ、「子供を殺された恨み」で、あっさり銃殺されていたかもしれない。結局、日本政府が束になってもできなかったことを、たった一人の女性の力でなしたわけだ。愛の力で。これぞ女の鑑(かがみ)

 (2) 男性二人
 マスコミは「自己責任か?」という下らない質問を出したが、男性二人は記者会見で堂々とこの質問を否定した。「自分たちには当てはまらない」と。そしてまた、「今後も事実の調査や報道などに努力したい」と述べた。つまり、「ごめんなさい、もうやりません」なんて頭を下げたりせず、断固として、自己の信念を貫き通した。
 ご立派。「世間がうるさいから、とりあえず頭を下げよう」なんていう政治家とは、全然違う。「国民には威張り散らすが、米国にはペコペコする」なんていう政治家とは、全然違う。
 正しいと信じている道を、堂々と進む。世間がこぞって槍を向けてきても、ひるんだりはしない。百万人といえど、われ行かん。これぞ男の鑑(かがみ)

 (3) 危険について
 記者会見とは関係ないが、人質問題で別の話に言及しよう。
 「三人は危険を冒した」という非難がある。しかし、危険を冒すことがいけないのであれば、あらゆる正義は行えなくなる。
  ・ 拳銃を乱射する強盗を逮捕しようとする警察官
  ・ 火事場で消火活動や人命救助をする消防士
  ・ 伝染病の患者に近づいて治療する医師
 これらの人々を「危険なことをする」として非難するのであれば、社会からは危険を冒す正義の活動が、すべて消えてしまう。
 それでいいのか? 警察官も消防士も医師もいなくなっていいのか? あるいは、警察官も消防士も医師もすべてが、安全な陣地に閉じこもったまま、危険な活動から尻込みしていてもいいのか? ……もちろん、そうなれば、社会はマヒしてしまう。
 要するに、「三人は危険を冒した」という非難をする人々は、自分の都合を主張しているだけなのだ。「自分はイラクに出向かないから、他人も出向くな」と。「自分は臆病だから、他人も臆病であれ」と。
 こういう人々は、威勢だけはいいが、本当は腰抜けだ。そんなところまで、小泉の真似をしなくてよい。

 (4) 責任感
 もう一つ、別の話題。
 座頭市を演じた映画俳優(監督)が、ある週刊誌で今回の事件に言及した。「勝手に危険なところに行って、助けくれと叫ぶなんて、わがまますぎる」という趣旨だ。(彼だけの意見というわけではなくて、非難する典型的な意見だが。)
 ここには、ひどい勘違いがある。人質三人は、「助けてくれ」なんて求めなかった。求めたのは、家族だ。家族と人質本人を、混同している。論理的錯誤。(なお、家族の声については、前述した。)
 もっとひどいのは、「わざわざ危険な地に出向くな。日本でホームレスでも救済していろ」という主張だ。「人々が死ぬ戦争のさなかに身を置く」という崇高な平和活動を、「有閑マダムの気まぐれボランティアごっこ」と混同している。お遊びで平和活動をしていると思っている。何たる事実誤認。何たる無責任。
 そもそも日本には、米国のイラク人大量殺害に加担したという、責任がある。なのに、その責任を知らんぷりして、逃げ回ることだけを考えている。普段が威勢がいいくせに、いざとなったら命が惜しくて、逃げることだけ考えている。
 座頭市のつもりでいる映画俳優に言っておこう。三人は、遊びに行ったのではない。日本人全員のかわりに、贖罪(しょくざい)に行ったのだ。「贖罪」という言葉は、座頭市には、理解できないだろうから、別の言葉で言おう。三人は、おとしまえを付けに行ったのだ。日本人が無責任で、きゃんきゃんとシッポを振って逃げ回ってばかりいるから、かわりにおとしまえを付けに行ったのだ。
 だから、勇敢な人を非難するくらいだったら、臆病な自分がおとしまえを付けろ。女におとしまえを付けてもらうかわりに、自分でおとしまえを付けろ。さもなきゃ、座頭市が泣くよ。

 (5) 現状認識
 「危険な地には行くべきではない」と主張して、逃げることばかり考えている人々は、現状認識がまるでできていないようだ。「逃げれば安全だ」と思っているようだが、逃げても何も解決しないのだ。逃げても逃げても、平和は来ない。逆に、死体ばかりが積み重なる。
 「自分さえよけりゃ、それでいい」と思うのであれば、小泉のように日本で宴会を開いていたり、自衛隊のように安全な穴蔵に閉じこもっていれば、それで戦争を見ぬフリをしていられるだろう。しかし、まともな人間ならば、現実を見る。日本がイラク戦争に責任がある、という現実を。
 われわれ日本人は、日本国の一員として、政府がアメリカに加担したことの責任がある。虚偽の理由で戦争を起こして、莫大な人命を奪ったことの責任がある。なのに、この戦乱のさなかで、平和のためには何一つ努力しないで、逃げることばかり考えている。そんなのは、ただの無責任な臆病者の発想でしかない。
 われわれ日本人にとって大切なのは、逃げることでもなく、戦争を見て見ぬフリをすることでもなく、政府を通じて戦争に加担しているという事実を知ることだ。日本人が小泉ゆえに不況で経済的に苦しんでいるように、イラク人が小泉(とブッシュ)ゆえに戦争で命を奪われている、という事実を知ることだ。
 われわれ日本人の手は、血塗られている。いくら逃げても逃げても、自分たちの責任からは逃げることができない。われわれは今こそ、臆病な態度を捨てて、戦争を直視するべきであり、自らが殺人に加担しているという事実を直視するべきなのだ。逃げることなく、現実を直視するべきなのだ。

 (6) 死の現実感
 人質たちに「自業自得」などといっている人は、たぶん、死というものがよくわかっていないのだと思う。たぶん、映画とかテレビゲームとか、そんなバーチャルな世界のなかでしか、死というものを感じたことがないのだろう。だから平気で、「死んで当然」というような言葉を口に出す。
 しかし、あの三人は、まさしく死と隣り合わせの世界に行ったのだ。彼らのまわりのイラク人たちは、たいていが家族を失った。自らも銃を取って、明日にも死ぬかもしれない。彼らにとって死はあまりにも身近だ。そして、そこに出向いた三人もまた、死を身近に感じていたに違いない。
 三人を非難する人々に言っておこう。死をまさしく味わえ、と。自分にとって大切な家族や恋人を死なすとか、交通事故などで自分が死ぬ寸前の危険に瀕するとか、そういう死と直面する体験をありありと味わうがいい。そのあとで、死を意味する言葉を口にするがいい。なのに、死とは何かもわからないまま、死を意味する言葉を口にするのは、あまりにも軽薄だ。
 私は彼らにひとまず勧告しておこう。非難するのなら、まず、自分の目の前にナイフを置いて、目を突き刺す仕草を何度もせよ、と。死の恐怖をありありと味わえ、と。そしてまた、ほんの一滴でいいから、指をわざと切って血を流してみよ、と。

( ※ 私? 1カ月前に、手を切って、血が止まらなくなったことがありました。いくら傷口を押さえても、血が止まらない、というのは、すごく怖い。失血死するかと思った。必死に止血したら、何とかなったけど。……あなたもとりあえず、体験してみたら?)



 【 追記7 】 (2004-05-02)
 人質の記者会見で、ようやく一段落付いたと思ったら、読売が堂々と「自己責任論」を打ち出してきた。保守派の居直りである。ま、何を言うのも勝手だが、メチャクチャなデタラメな論理で世論をミスリードするのは、やめてもらいたいものだ。以下、指摘する。

 (1) 記者会見の報道
 まず、記者会見を正確に報道するべきだった。NHKニュースでは、こういう会見内容がそのまま放送された。「スパイの容疑をかけられ、小銃を向けられ、殺されるかと思った。だが、高遠さんが、イラクの病院で奉仕していると事情を打ち明けたら、その場の雰囲気がなごみ、『命を保証する』と言われた」と。
 ところが、読売は、この記者会見を、勝手に切り貼りをして、捏造(ねつぞう)している。読売は、(人質がスパイ容疑を否定すると)「相手はソーリーと謝って、『命を保証する』と言った」と書く。これでは順序が逆だ。本当は、上記のように、「高遠さんの説明 → 命の保証 → ソーリー」である。なのに、「ソーリー → 命の保証」というふうに逆順で説明している。
 つまり、ここでは、「命を保証する」と言った理由が、「人質がスパイ容疑を否定すると(……した)」というふうになっている。これでは、人質が「ノー」と否定しただけで、イラク側があっさり「ソーリー」と謝ったことになる。デタラメも甚だしい。絶対にありえないことがあったかのごとく報道している。
 本当は? 相手が「命を保証する」と態度を急変した理由は、高遠さんの説明であった。高遠さんの説明(単なる言葉というよりは過去の実績)が三人の命を救ったのだ。なのに、そのことが、すっぽり抜けている。というより、わざと抜かしている。
 この展開については、NHKのニュースではちゃんと放送されていた。朝日はごく簡単に報道していた。一方、読売は捏造している。特に、高遠さんのおかげで命が助かったということは、今回の記者会見で一番肝心なことなのに、読売はまったく報道していない。自社に都合の悪いことはカットしているわけだ。あげく、構成を変えて、捏造する。「人質を救出したのは、人質自身である(政府ではない)」という事実を、ことさら隠蔽するわけだ。
 今回、私はNHKのニュースを見たから、読売の捏造が判明したが、そうでなければ、そのまま信じてしまうところだった。読売は、「事実の報道」という新聞の使命を果たしていないし、それどころか、公器を私物化して、偽情報を振りまいている。
( ※ もう一つ、大事なことがある。「ソーリー」と謝った理由は、誘拐したことに対してではない。読売はそういう趣旨で書いているが、そうではない。正しくは? 例の「演技」を強制させるときに暴力をふるったことに対してだ。今までは「命の保証をする」と言っていたのに、急に、髪を引っ張ったり、刃物を当てたり、蹴飛ばしたり、殴ったり、恐怖感を与えるために暴力をふるった。今井さんは殺されるかとも思ったらしいし、高遠さんは怖くて泣き出してしまった。女を泣かせたわけだ。そこでビデオの撮影後に、「ソーリー」と紳士的に謝ったわけだ。読売の記事では、ここのところの説明が抜けていた。そりゃまあ、そうでしょうね。イラク民兵は紳士的だったが、粗野な人でなしである読売は女を泣かせても平然としているんだから。事実が判明すると、まずいんでしょうね。)

 (2) 記事と論説の関係
 記事のすぐあとで、「自己責任」を問う論説コラムがある。しかし、これには問題がある。
 そもそも、この論説コラムは、上記の記事のすぐそばにあり、上記の人質の声明を掻き消す目的でなされた。実際、上記の記事と同等の文字数を与えられている。国民の重大な関心事と同等の文字数だ。事実をそのまま報道すると、自分の都合に悪いものだから、必死に事実を打ち消そうとしているわけだ。冗談も休み休みにしてほしい。重大なニュースがあるたびに、それに自説で反論する新聞が、どこにある? 新聞の使命は、報道であって、論説ではないのだ。どうせ意見を主張するのなら、別の論説欄で、堂々と論説を張ればよい。また、肝心の報道のための紙面スペースを削除する、というような姑息な手段はやめてほしい。
 このコラムは、何かを報道するためにあるのではなく、何かを報道しないためにある。あまりにもひどい。事実の報道は、マスコミとして、最低限の責務だ。読売は、新聞人としての、自己責任を完全に捨ててしまっている。

 (3) 論説の内容
 いよいよ、肝心の論説だ。世間では「自己責任論」の風向きが悪くなったようだ。そこで、居直りの論説を出している。社会部長の署名入りで、社会面に堂々と出している。ま、何を言おうが、言論の自由があるから、言うのは勝手である。しかし、ここには、とんでもない論理の錯乱がある。まずは、本文を直接引用しよう。
 「家族とその周辺では、政府批判や自衛隊の撤退を求める声が相次ぎ、実に手際のよいデモや署名集めも行なわれた。一方で、自らの責任についての言及はほとんどなかった。他に責任を転嫁する前に、まず自らの責任を明らかにするべきではないのか。つまり、責任転嫁との対比で厳しく問われたのが自己責任だった」
 もっともらしい意見だが、ここには論理の錯乱がある。
 (i) 政府批判や自衛隊の撤退を求める声は、人質がやったのではない。人質とは無関係の人々がやったのだ。これについて、人質が非難される理由はない。
 (ii) 「実に手際のよいデモや署名集めも行なわれた」などと皮肉たっぷりに批判しているが、とんでもない。日本は言論の自由があるのだから、デモや署名集めは、何ら悪ではない。読売が主張しているのは「自社がさんざん政府支持をするのは良いが、国民が政府批判のデモや署名集めをするのは駄目だ」ということだ。「政府支持だけが正しく、政府批判は悪だ」ということだ。とんでもない主張だ。民主主義の否定と、言論の圧殺を主張している。
 (iii) 「他に責任を転嫁する前に、まず自らの責任を明らかにするべきではないのか」と読売は批判するが、誰が誰に責任を転嫁したというのか? 人質は、何も要求していない。日本にいる家族や反戦派は、何の責任もない。イラクに行った人と、自衛隊撤退を求める人は、別なのだ。勝手に混同している。別のものを同一視している。だから、「責任転嫁」なんていうメチャクチャな理屈が出てくる。論理の錯乱。
 (iv) 読売は4月10日の社説で、「こうした事態を招いた責任がある」と人質三人を非難している。これでは、人質三人が誘拐事件をことさら引き起こしたかのようだ。何か、勘違いしているのではないか? 今回の誘拐は、人質が引き起こしたのではない。イラク民兵が引き起こしたのだ。(たとえば、世界各国の数十人が人質になったが、それは、イラクの民兵が引き起こしたのであり、人質たちが引き起こしたのではない。)そして、こういう危険な状況を招いたのは、政府と米国なのだ。……読売の社説では、まるで、三人が勝手に危険な火山口にでも向かったような口ぶりだ。とんでもない。平和で安全だったイラクを、(人為的に)危険にしたことには、政府と米国に責任があるのだ。その自己責任をまるきり忘れてしまっている。── たとえて言えば、こうだ。放火犯が民家に放火する。消防車が来たが、消防士は怖がって、助けに行かない。「助けよ」と人々が言うと、「危険を冒せない」と穴蔵に閉じこもっている。やむなく、勇敢な民間人が救助に向かう。すると、放火犯が、「馬鹿者め」と非難する。「危険を冒すな。死ぬなら死ぬで、勝手に死ね。自分の引き起こす結果を受け入れるように、自己責任を取れ」と。……つまり、自分が放火したという責任を忘れて、その責任をかわりに引き受けてくれた人を非難する。気違いじみている。
 (v) 人質には、何らかの責任はある。それは、「自分の行動の結果は、自分で引き受ける」という責任だ。つまり、「イラクに出向いたら、それによって死ぬのは自分であり、他人が死ぬのではない」ということだ。そして、その責任は、まさしく果たした。彼らは自らの命を危険にさらしたのであり、他人の命を危険にさらしたのではない。
 (vi) ひるがえって、人質とは別のところを見よう。人質は自らの命を危険にさらしただけだが、逆に、他人の命を危険にさらした人々もいる。それは、政府と読売だ。政府の川口外相は、国の利益のために、人質の命を危険にさらした ( → 前述 )。読売は、自己の政治信念のために、人質批判をして、三人の身辺を危険にさらした。そのせいで、今井さんはいまだに精神が不安定らしいし、高遠さんに至っては、心理ショックで、外出もできないありさまだ。イラク兵は三人を傷つけなかったが、政府と読売は三人を傷つけた。さらには、取る必要のない金(250万円)を奪うという、泥棒まがいのことをやった。それでいて、政府も読売も、自己責任を取らない。
 まとめ。
 まとめて言おう。要約すれば、こうだ。
 人質三人は、危険なイラクという地に出向いた。そのことは、危険を冒すゆえに、無謀だと思えた。しかも、そのせいで、「政府は政策を変更せよ」という声にさらされた。そこで、「おまえたちのせいで、政府の政策を変更させられたんじゃ、たまったもんじゃない。おまえたちの行動で、政府に影響を及ぼすな」というふうに、政府支持者は考えた。それが「自己責任」論だ。
 しかし、ここには、錯誤がある。
 第1に、「危険を冒す」というのは、無謀なことではなく、勇敢なことなのだ。なぜなら、その危険を引き起こしたのは、政府と米国であり、いずれもが、自己責任を取るどころか、状況を悪化させているからだ。(危険については、前述の話を参照。 → 奥参事官
 第2に、政府の政策を変更するか否かは、人質には何の関係もなく、単に日本国内で「言論の自由」を認めるかどうかの問題だ。読売は、三人と政府批判派とを混同しているが、両者は別の人間の別のことである。日本国内の問題を、人質に責任転嫁するべきではない。
 第3に、日本国内の政策論議について、「人質がいるから政府への批判が起こったんだ」などと人質を非難するのは、見当違いだ。政府と読売は、言論弾圧と言論統制をめざしていたのに、人質のせいで阻害されたことになるので、「くそっ」と思って、「おまえのせいで独裁が阻害されたんだ」と人質を非難する。しかし、日本国内の事情を、人質に責任転嫁するべきではない。そんな独裁的な方針は、人質が責任を負うべきではないし、むしろ、それが阻害されたことで、日本人が感謝するべきことなのだ。
 第4に、今回、人質自身の命を奪われかけたのであり、その意味で、人質は完全に自己責任を取っている。むしろ、平和への貢献をしたことで、外国への宣伝となり、多大な国益をもたらした。無責任呼ばわりをするのは、やめてもらいたい。無責任なのは、イラクで多大な市民が死ぬのを放置・促進している、政府と読売の方だ。自己責任を取ってもらいたい。

 結語。
 「勝手なことをして、勝手な要求をしている」と読売は非難する。しかし、「勝手なことをした」人質もいるし、「勝手な要求をしている」反戦派もいるが、「勝手なことをして、勝手な要求をしている」という人物はいない。人質と反戦派は別なのだ。イラクで誘拐された人質と、日本で自衛隊撤退を要求する人々は、別なのだ。その別のものを、あえて同一視して、非難する。そこには論理の錯乱がある。
 なるほど、「勝手なことをして、勝手な要求をしている」のならば、倫理的に問題だ。しかし、「勝手なことをする」のは、自分の命については問題ない。また、「勝手な要求をする」のは、言論の自由があるならば問題ない。
 「勝手なことをして、勝手な要求をしている」のが悪いのは、権力のある人物の場合だ。たとえば、「勝手にどこかで美食を食べて遊び回って、そのツケを政府に回す」という場合だ。ここでは、自分勝手のために権力を行使している。しかし、これは、小泉ならばさんざんやったことがあるが、国民は一度もやったことはない。(私も自腹でなくて美食を食べたいですけどね。)
 読売は、混乱した論理に従って、国民を非難し、政府を擁護する。政府反対の意見を言う人々に対して、直接的に面と向かって反論を言うのではなくて、背後にいる三人を攻撃する。こういうふうに「正面から立ち向かわず、背後の弱者を狙う」というのは、まさしく誘拐犯と同じ発想だ。
 読売は、「自己責任論は悪か?」と問う。しかし、弱者を狙った自己責任論が許容されるのであれば、弱者を狙った誘拐もまた許容されることになる。これは、悪かどうかの問題ではない。卑怯かどうかの問題だ。そのことは、わきまえておくべきだ。
 なお、「自己責任論は悪か?」という問いには、こう答えよう。
 「自己責任論は、そう語る自分自身が、自己責任を取らずに、他人に責任転嫁している。その主張自体が、自己責任を忘れて、責任転嫁している。おまけに、言論機関によって、言論弾圧を狙っている。だから、自己矛盾を犯しているのだ」と。
( ※ 特に「かどうか」と問われれば、言論の自由がある以上、悪でも善でもない。好き勝手に、何でも主張していい。私は読売みたいに言論弾圧をしない。)

( ※ 余談だが、読売は最後に、馬脚を現している。今回の問題で人質擁護をする意見を、「政府は悪、民間は善とする、思い込みだ」と主張している。やれやれ。呆れるね。ゲスの勘ぐりはやめてもらいたい。「政府はそれ自体が悪だ」と主張するのは、アナーキストだけだ。人質を擁護する人々は、アナーキストではない。ここでは、「政府そのものが悪だ」と決めつけているのではなくて、「政府は悪をなしてはいけない」と主張しているのだ。「政府は国民を守れ。国民を攻撃するな」と主張しているのだ。……こんなことは、誰でもわかる。なのに、読売は、勝手にゲスの勘ぐりをする。なぜか? そういう自分が、「政府は善だ」と決めつけているからだ。あげく、「政府は善だ、政府が日本国民を攻撃するのは善だ」と主張する。さらには、「政府批判(自衛隊撤退論)の声を上げてはならない」と主張する。つまり、政府批判の言論があったとき、「その言論は間違っている」というふうに論理に対して反駁するのではなくて、「政府批判したこと自体がいけない」というふうに個人に対して攻撃をする。……こういうことは、自分が「政府はいつも善だ」と決めつけているからだ。馬脚を現している。)
( ※ よくわからないだろうから、読売のために説明しておく。私はここでは、「読売の論理は間違っている」というふうに批判している。しかし、「読売は口をつぐめ」と主張しているのではないし、「読売自身が悪である」と主張しているのでもない。読売社内の社員が何を主張しようが、それは勝手である。私は意見を批判しているのであって、意見を言う個人を批判しているのではない。今回も、意見を言った個人を批判しているのではなく、「読売」という抽象的な相手を批判している。……人質を個人攻撃するような政府や読売とは、私は異なるのだ。)
( ※ 上記の読売コラムは、こうも述べている。「(現状を)日本の言論状況が未熟なためだとする議論が一部で強まっている。誰も考えていない脅威を持ち出して危機感をあおる」と。これはまるで、私への批判みたいだ。そこで、説明しておこう。……一般人でなく言論状況について言えば、マスコミの意見が未熟なのではなくて、世間を特定方向に操作しようとするマスコミの情報操作の態度がおかしいのだ。政府やマスコミは「情報操作や情報統制をするな」と批判されているのだから、話をそらさずに、批判を素直に聞けばよい。……結局、読売は、自己への反省がまったくできていない。自己認識ができておらず、自分が言論機関として何をしているか理解できていない。そういう態度が、未熟なのである。そして、そのことを批判されたにもかかわらず、「自分たちの(態度でなく)意見のどこが間違っているのか」と居直っている。……繰り返す。政府やマスコミの意見が問題なのではなくて、政府やマスコミの自己認識の欠如が問題なのだ。まともに政策を論議するかわりに、相手を個人攻撃しようとする態度が問題なのだ。)
( ※ ナイショで言おう。実は、政府や読売が人質を個人攻撃するのには、理由がある。なぜか? 政府がおのれの無為無策を批判されないためだ。「政府が悪いんじゃありません、人質が悪いんです」と。「イラクで戦争が起こったのも、イラク人がいっぱい死んでいるのも、みーんな人質が悪いんです。郵便ポストが赤いのも、電信柱が高いのも、みーんな人質が悪いんです」と。これこそ責任転嫁。……責任転嫁をする最良の方法は、「あいつは責任転嫁をしている」と他人を非難することである。……なお、小泉は国会答弁で、いつもこの手を使う。たとえば、「政府の責任はどうなんだ?」と問われると、「そういう民主党の責任はどうなんだ」と反問で答える。責任放棄がうまいですね。何もしないで、高支持率。今回も「おれはなーんにも責任がないんだ。みーんな人質のせいさ」で国民をだます。これが真相。……なお、今回、世界各国の数十人が人質になったが、こんなオチャラケを言った首相は、日本の首相だけだ。)
( ※ 最後に一発、言っておこう。読売は、人質擁護論を「けしからん」というふうに批判している。しかし、読売はそもそも、人質擁護論を、まったく掲載していない。政府べったりの方針のもとで、人質攻撃論ばかりを掲載して、人質擁護論をちっとも掲載していない。言論統制だ。人質擁護論を批判したいのなら、人質擁護論をいったん掲載して、その上で反論をすればよい。なのに、いきなり「人質擁護論はけしからん」などと述べても、読者は戸惑うだけだ。読売はマスコミとしての最低限の節度を失っている。それとも、これはオチャラケですかね?)

 [ 補足 ]
 ではマスコミは、どうしたらよかったのか? 読売は、わからないのだろう。そこで、正解を教えておく。
 (1) 人質批判論と人質擁護論があれば、双方をともに掲載する。
 (2) 政府が人質批判論を大々的に述べた場合には、人質擁護論を多く掲載する。(政府の問題点を指摘する。)
 (3) 自社の意見があれば、意見として、意見の面に掲載する。(意見と記事とを混ぜない。)
 (4) 政府の国策と、国民の声とを、区別する。政府が「要求に応じない」という決定をしたら、それを政府の決定として示す。人質は何の決定権もないし、声さえ上げていないのだから、「人質が政府の国策を決めた」というニュアンスでは報道しない。むしろ、政府は「要求に応じない」という決定をしたのだから、「人質が政府の国策を決めるということは皆無だった」と事実を報道する。
 (5) 日本にいる家族は国策に影響しそうなことを言った。しかし、彼らが何を言おうと、そこには言論の自由がある、ということを明示する。たとえ自分勝手に見えようとも、そのような自分勝手な主張をする自由がある、ということを明示する。(決定権は政府にあるのだから。)
 (6) 自分勝手と思える意見に対しては、意見への反論を許容するが、個人攻撃は許容しない。政府によるプライバシーの侵害も許容しない。政府によるプライバシーの侵害があればそれを報道する。
 (7) 自分勝手と思える意見があったとき、その意見を出す人と、その意見の原因となった人とを、区別する。「こいつの反政府的な意見が生じたのは、そもそも根源に人質があるからだ。こいつの意見は気に食わないが、まずは手っ取り早く、こいつの陰にいる人質を攻撃してやれ」なんていう誘拐犯みたいな態度を取らない。政府を批判する意見が日本国内にあったとき、国外にいる人質を指差して「おまえたちの責任だ。おまえたちが悪い」という見当違いな攻撃を展開しない。
 (8) 人質たちは、他人の命を危険にさらしたわけではなく、自分の命を危険にさらしだのだ。その意味で、自己責任を果たしている。この事実を報道する。虚偽を報道しない。
 (9) 同じく危険な地に向かうにしても、民間人に対しては「自己責任論」を展開し、大使館員に対しては「自己責任論」を展開しない(「無謀だ」でなく「勇敢だ」と賛美する)という二枚舌を、やめる。
 ── 以上だ。言論人として当り前のことばかりだ。しかるに、読売は、このすべてに違反している。言論人としての自己責任を果たしていない。

 オマケで言っておこう。
 私が政府や読売で気に食わないのは、そのまったく無責任な態度だ。自分たちで勝手に戦争を起こしておきながら、戦争の尻ぬぐいもせず、逆に、尻ぬぐいをしてくれる民間人を非難する。無責任にもほどがある。「自分のケツぐらい、自分で拭け」と言ってやりたい。
 自分のやったことに対して、まったく見て見ぬフリをしていいのか? 「大量破壊兵器があるから戦争支持」と言っておきながら、それが嘘だと判明したあとでは、ケロリと忘れたフリをしていいのか? そんな健忘症だから、ケツを汚しっぱなしなのだ。
 政府や読売は、あまりにも責任感が欠落している。どこまで無責任でいられるんだか。厚顔無恥。そして、そういう輩に限って、自分の責任をほったらかして、他人の責任をやたらと咎めるのである。



 【 追記8 】 (2004-05-03)
 「自己責任」論に関連する話を、いくつか。

 (1) 前日分の補足
 「自己責任論」というのは、結局、何か? その本質を、簡単に示しておく。
 保守派は「人質は自己責任を取れ」と主張する。しかし、人質は自らの命を危険にしただけなのだから、自己責任を取っている。他人の命を危険にしたわけではない。
 では、なぜ、政府はそんな主張をするか? それは、「政府が責任を取りたくないから」だ。つまり、「自己責任論」とは、「人質責任論」であり、それは「政府の責任を、人質に負わすこと」である。
 要するに、「自己責任論」とは、政府の「責任転嫁」なのである。自分たちが戦争を起こして、一切の問題を引き起こしたのに、それをすべて人質になすりつけようとしているのだ。「おれたちのせいじゃないよ。みーんな人質が悪いんだよ」と責任転嫁しているのだ。
 責任転嫁。これが本質だ。「自己責任論」と呼ぶよりは、「責任転嫁論」と呼ぶべきだ。政府のゴマ化しに、だまされてはいけない。

 (2) 問題の核心について
 自己責任論について長々と書いてきたが、あまり長々と書いたので、話がわかりにくくなってしまったかもしれない。また、自己責任論の論理矛盾ばかりを突いていて、全体的な見通しがわからなくなってしまったかもしれない。そこで、話を戻して、全体的な見通しを示しておく。
 「人質は責任を取れ」という主張が、まさしく成立する場合がある。それは、「政府が国策を変更した」場合だ。つまり、「人質の命を救うために、自衛隊を撤退させる」と決断した場合だ。
 この場合は、「人質のせいで、こんな影響を受けたんだ。あんたたち、国策変更の責任を取ってくれ」と政府は文句を言える。日本中の(保守派の)人々も、「たった三人のせいで莫大な国民が影響を受けてしまったぞ。あんたたちのせいだ。国策変更の責任を取ってくれ」と文句を言える。
 しかし、現実には、そんなことはなかった。国策は変更されなかった。つまり、人質からは、何の影響も受けていないのである。とすれば、政府や保守派は、「国策変更の責任を取ってくれ」と文句を言う資格はないのだ。
 もし政府が文句を言うとしたら、せいぜい、事実に対して文句を言うのではなく、「人質のために自衛隊を撤退させよ、と要求された」ことに文句を言うだけだ。つまり、要求の言葉に文句を言うだけだ。そして、「要求の言葉に文句を言う」としたら、それは、「要求の言葉自体を悪と見なすこと」、つまり、「政府批判の言葉を悪と見なすこと」になる。それは、つまり、「言論の自由を否定すること」になる。
 結局、政府や保守派は、言葉と現実とを区別できなかった。言葉のなかのバーチャルな世界で自衛隊撤退を要求されたら、現実の世界で自衛隊撤退がまさしく実現されたと思い込んだ。あるいは、その両者を区別できなくなった。あげく、(「自衛隊撤退を」という)要求の言葉を禁じようとしたり、言葉を発した人(人質家族)をとがめようとした。かくて、言論の自由を弾圧しようとした。「人質と政策についてどうするか」というのが問題であったはずなのに、いつのまにか「言葉を発する人々の是非」へと問題をすり替えてしまった。かくて政府批判の言葉を一切禁じようとした。
 これが問題の核心だ。そして、それゆえ、自己責任論は、言論の危機なのである。そしてまた、それは、言葉と現実とを区別できなくなるという、狂気の発症なのだ。

 (3) 常識と狂気
 本質を探るために、細かな面倒くさい理屈なしに、直感的に考えてみよう。
 一国の首相が先頭に立って、たった三人の個人を非難するという状況。国中の国民やマスコミなどがそろって、たった三人の個人を非難するという状況。国中でよってたかって弱いものいじめをする、という状況。こういう状況が、正常だろうか?
 この三人が、サリン事件のオウムのように、多数の人命を奪ったというのなら、非難すべきだろう。しかしこの三人は、多数の人命を奪ったのではなくて、逆に、多数の人命を救おうとしたのだ。また、他人の生命を危険にさらしたのではなく、自分の生命を危険にさらしただけなのだ。この三人は、加害者ではなく被害者なのだ。……なのに、国中でそろって、この被害者を攻撃する。こういう状況は、まともなのか? 
 もちろん、常識があれば「おかしい」と気づく。なのに、ふだんなら気づくことに気づかないとしたら、われわれが狂気に染まっていることになる。
 わかりやすく実例で示そう。わが身を顧みず、あえて危険を冒す例としては、次のような例が考えられる。
  ・ 雨の高速道路で運転して、スリップして事故死してしまった運転者。
  ・ ケガをしているのに無理に出場して、力士生命をつぶしてしまった横綱。
  ・ 川で溺れた子供を救助しようとして、自分が死んでしまった人。
  ・ 山で遭難した登山者を救助しようとして、自分が遭難死してしまった人。
 こういう人は、他人から見れば、「愚劣なことをやった」「馬鹿なことをやった」と見なされるだろう。他人が判断を求められれば、「そんなことはすべきではなかった」とか、「それは間違ったことだった」とか、否定的に判断するだろう。
 しかし、どんなに愚劣で馬鹿げたことだと見えても、本人がその行為をやることを、他人が非難するべきではないのだ。その行為をやるかどうかは、本人に決定権がある。どんなに愚劣で馬鹿げたことでも、自分の人生については、本人に決定権がある。それが「自由」ということだ。
 「自由」とは何か? 自分の人生に関する限り、自分に決定権があるということだ。どんなに愚劣で馬鹿げたことでも、本人に決定権があり、他人には決定権がない。それが「自由」だ。なのに、このことを否定して、他人や国が個人の人生に介入することを許せば、「自由」というものを否定することになる。
 たとえば、私自身の言論行動だ。こんなことをしゃべれば、国に睨まれるし、いきりたった世間に攻撃されるかもしれない。小泉が「南堂をいじめろ」と命令して、読売が「南堂は悪だ」というキャンペーンを始めるかもしれない。そういう状況になるかもしれないので、周囲の人は私に勧告するだろう。「黙っていろ。お上には逆らうな」と。「長いものに巻かれよ。口をつぐめ」と。さらには、「おれたちに心配をかけさせるな、おれたちを巻き込むな」と。しかし、いくら他人に勧告されても、私は損を覚悟で、危険を冒して、おのれの正しいと信じることを語る。それが自由だ。
 逆に言えば、「やった方が得なこと」をやるのは、自由でも何でもない。読売のように、政府べったりの言論を張ることは、政府のお墨付きを得ているのであり、言論の自由でも何でもない。だから彼らにとっては、「言論の危機」などは存在しないし、「言論の自由」を必要としない。一方、私のように政府に反論する人間には、「言論の危機」があるし、「言論の自由」を必要とする。
 結局、私がこれほどにも声を大にして訴えかけるのは、「自由を守れ」と語っていることになるからだ。「共同社会が大事だ、自由を踏みつぶせ、長いものに巻かれよ」というのは、日本の伝統的な慣習だが、私はそういう社会的な慣習に逆らっているわけだ。
 自己責任論の問題は、決して小さな問題ではない。それは、社会の狂気を是認するかどうかの問題であり、近代社会がせっかく獲得した自由を守るかどうかの問題なのだ。それは、社会の根源の問題であり、人間精神の根源の問題なのだ。
 今、この状況を放置すれば、そのうち、政府に異を立てる人物は抹殺されるようになりかねない。そして、現実に、あの三人はなかば抹殺されかけているのである。今井さんも高遠さんも、激しいストレスを受けて、精神の安定をそこなわれてしまった。社会が個人を、言葉の爆弾で破壊しようとしているのだ。この状況を、どうして放置できる? 
 だからこそ、私は声を上げているのだ。「狂うな。正気に戻れ」と。

 (4) 裏目に出た場合
 私が「狂気」という過激な言葉を使うと、眉をひそめる人もいるだろう。読売のような保守派は、「そんな過激な言葉を使って世間を煽動するな」と批判するかもしれない。しかし、私はレトリックで過剰な言葉を使っているわけではない。最も正確でぴったりとした言葉を使おうとして、「狂気」という言葉を使っている。これを「過剰」と見なすとしたら、そう見なす人の認識が現実に追いついていないのだ。
 そのわけを示そう。それには、事実が裏目に出た場合を考えるといい。つまり、人質殺害がまさしく実行された場合だ。
 この場合、どうなるか? 小泉だったら、自己責任を唱えて、次のように主張するだろう。
 「三人が死んだのは、自己責任だよ。勝手に出向いて、勝手に死んだだけだ。国には何の責任もないね。国にとっては迷惑なだけだ。おまけに、棺を国内に搬送するのに、手間がかかる。霊柩ジェット機をチャーターするから、ちゃんと費用を払ってくれよな。まったくいい迷惑だよ。棺の運送費 250万円と、棺の代金 30万円、合計 280万円を必ず払えよ」……そう非難して、ぺっ、と唾を吐く。(そのあとで、国民の高支持率を受けて、続投する。)
 一方、私だったら、次のように主張する。
 「三人を死なせてしまって、申し訳ない。あなたたち三人を死なせたのは、国家の決断である。なかんずく、首相である私の決断である。一切の責任は、首相である私が負う。三人には何らかの責任があるとしても、国民は三人を非難しないでほしい。彼らは国家の決断ゆえに死んだのだ。非難するのなら、三人を死なせると決断をした私を非難してほしい。すべての非難は、私が負う。私は哀悼の意を表明する。私以外の人々も、できれば、哀悼の意を表明してほしい」……そう詫びて、涙を垂らして、頭を下げる。(そのあとで、国民の低支持率を受けて、辞任する。)
 両者がある。そして、前者を狂気と感じないようなら、その人はまさしく狂気になっている。狂人は狂気を見ても、それを狂気だと思わないものだ。
( ※ 読売が自分を「狂気」と認めないのであれば、質問しよう。あなたたちは本当に、三人が殺害されたあとでも、三人を非難する気なのか? また、三人を非難する小泉を支持する気なのか? 胸に手を当てて、よーく考えてほしい。その回答が、あなたたちの正気と狂気を決めるのだ。)
( ※ 高遠さんが心理ストレスになってしまったのは、当然のことだ。「おまえは死んだ方がよかった、と周囲の人々が自分を責めている」というのは、普通なら狂人の妄想である。しかし今の日本では、それが正真正銘の現実なのだ。狂気の現実で生きているのは、正気の人にとっては途方もなく苦しいことなのだ。今の日本には、正気である人を正気であるがゆえに非難する狂人が、わんさといる。たとえば、某新聞とかね。)

 (5) 「自由」についての補足
 「自由」について述べたが、誤解されるとまずいので、補足しておく。
 私は別に、「自由は至上目的だ」と述べているわけではない。「個人の自由のためには、他人や国家に迷惑をかけてもいい」と述べているわけではない。
 また、同じく自分自身の自由だとしても、下らないことをする自由を勧奨しているわけではない。たとえば、「合法麻薬」「ギャンブル」「パチンコ」「テレビゲーム」「ケータイ中毒」「ロリコンごっこ」「ネット不倫」なんかを、「自由だからやっていいんだよ」と勧奨しているわけではない。たとえ合法だとしても、馬鹿げたことは馬鹿げたことだ。
 とはいえ、それらのことをやる人を、あえて逮捕して、強制収容所に入れて、矯正する、なんてことはするべきではないと思う。また、国中で非難して個人攻撃をする、なんてこともするべきではないと思う。馬鹿げた行為の被害を受けているのは、何よりもまず本人であるからだ。他人はいちいち過剰なおせっかいをするべきではあるまい。
 同様に、さまざまな芸術活動についても、「芸術なんか、どうせ失敗するから、やめろ」というふうにおせっかいをするべきではあるまい。「芸術なんか、たいてい金にならないし、実用品を生産するわけでもないから、ただのお遊びだ」という意見は正しいだろうし、芸術なんかをやるのは馬鹿げている。しかし、どんなに馬鹿げているとしても、彼がリスクをかけるのは、彼自身の人生であるがゆえに、彼はその道を進む自由があるのだ。絵画であれ、文学であれ、演劇であれ、音楽であれ、小泉の大好きなオペラであれ、あらゆる芸術の歴史は、そういうものだ。芸術と自由は、不可分だ。だからこそ、近代社会は、自由というものを尊重する。
 ま、それはそれとして、もっと肝心なことがある。同じく本人にとって無益な行為だとしても、その行為が社会にとって有益であれば、それはむしろ、称賛に値するのである。たとえば、前述の、川で溺れた子供を救う行為や、山で遭難した人を救う行為。これらの行為は、たとえ本人には無益だとしても、社会にとっては有益であるがゆえに、称賛に値する。そして、これらの行為は、「自己犠牲」と呼ばれる。
 人類は古来、自己犠牲の行為を、称賛してきた。イラクで犠牲になった外交官についても、そうだった。だからこそ、次に述べるように、称賛するための制度もある。

 ( ※ ただし、例外的に、ごく稀だが、自己犠牲をする人々を称賛するどころか非難することがある。それは、社会が狂気に染まったときである。では、どうして、こういう狂気が生じたか? その理由を示そう。……実は、「社会のため」ないし「社会への貢献」ということの意義をめぐって、国論が割れたからだ。政府は、「社会への貢献とは、米国への貢献だ」と考えた。NGOは、「社会への貢献とは、イラクで苦しんでいる人々を救うことだ」と考えた。政府は、「米国に褒めてもらうことが目的であり、参加することに意義がある」と考えたから、イラクでは何もなさないことが「社会貢献」である。NGOは、「イラクの人々を救うことに意義がある」と考えたから、何かをなすことが「社会貢献」である。国民も政府と同じで、「何もしないことこそ社会貢献だ」と信じた。「自衛隊が穴蔵に閉じこもっていると、イラクはどんどん復興して幸福になる。だから何もしないのが社会貢献だ。危険を冒さないのがベストだ」と信じた。……とはいえ、高遠さんのような人が現れると、国民と政府は、恥ずかしい。「偉そうなことを言っているが、本当は怖がって何にもしていないんだな」と図星を刺されそうだ。だから、図星を刺される前に、相手を徹底的に攻撃するのである。ヤクザというものは、口で言い返せなくなったら、口を出さず、手を出して、暴力をふるう。国民とマスコミによる言論の暴力もまた同じ。……これが狂気の正体だ。)

 (6) 「勲章・褒賞」について
 話は変わって、時事的な現実的な話題。むごい話のあとで、お口直し。
 勲章・褒賞についての解説記事があった。(読売・夕刊・子供特集面 2004-05-01 )
 おおざっぱに言うと、勲章は、公的地位のある人の職務に与えられるもの。褒賞は、民間人の社会的貢献に与えられるもの。天皇が内閣の助言と承認により授与する。
 褒賞のうち、「紅綬褒章」というのが興味深い。これは、自分の危険を顧みないで人命救助をした者に与えられる。(記事による。
 さて。「自分の危険を顧みないで」(危険を冒して)というのが、問題だ。このことゆえに、小泉も保守派も、「自己責任」論でさんざん非難した。とすれば、紅綬褒章の受賞者にも、この事情は該当するのだから、当然、受賞者を非難するべきだろう。天皇の前で。
 さあ。小泉くん。読売くん。受賞者を非難してくださいね。「おまえは自分の危険を顧みずに、そんなことをした。危険を冒した。あまりにも無謀だ。あまりにも自分勝手だ。褒賞をもらうのは、言語道断だ。自己責任なんだから、褒賞なんかもらうべきではない」と。
 ちゃんと、自己のポリシーを貫徹してほしい。天皇が紅綬褒章を授与するとき、天皇の前で、「天皇は褒賞を授与するべきではない」と堂々と主張してほしい。新聞社なら社説で、「天皇は褒賞を授与するべきではない」と天皇の行為に文句を付けてほしい。
 小泉くん。読売くん。さんざん「自己責任」論を主張してきたんだ。いざというときにも、ちゃんと主張してほしい。天皇の前でね。逃げるなよ。

 シミュレーションしてみよう。
 役人 「この若者は、線路に落ちた酔っぱらいを救助するため、自己の危険を顧みず、線路に下りて、すばやく人命を救いました。ゆえに、紅綬褒章に値します」
 天皇 「よろしい。褒賞を授与する」
 読売 「異議あり! 酔っぱらいが線路に落ちたのは、自分のせいだろう。だったら、自己責任を取るべきだ。こんなのが死んでも、政府の責任じゃないね。こんなのを救助するために、危険を冒すのは、無謀すぎる。もし死んだら、どうするんだ。危険を冒すべきではない。どうしてもやるなら、自己責任で。やったらやったで、結果は全部、自分が負うべきだ。やったからといって、天皇が顕彰するべきじゃないね。彼に褒賞を与えるのは、間違っている! 紅綬褒章を与えるのは、みんな間違っているんだよ!」
 ちゃんと天皇に面と向かって言ってくださいね。期待していますよ。

 [ 補足 ]
 ついでだが、高遠さんに紅綬褒章を授与するといいだろう。
 先に記した記者会見で明らかになったとおり、高遠さんのおかげで、他の男性二人は命が保証されたのだ。もし高遠さんがいなかったら、何らかの事情から、他の男性二人は殺されていたかもしれない。
 日本政府や川口外相 は人質を見殺しにしようとした。人質救出のために、実効性のある手段を何一つ取らなかった。しかし、高遠さんは「自分の危険を顧みないで人命救助をした」というのに該当するだろう。(目的論ではそうでなくても、結果的にはそうなっている。自分はともかく、他の二人の命を救ったのだから。)
 ゆえに私としては、紅綬褒章の授与を進言したい。

( ※ なお、一般的に言えば、臆病な人間ほど、勇気ある人間を非難するものだ。ほら、あなたのまわりにも、一人ぐらいはいるでしょ? 会社の誤りを公然と批判する勇気ある男を見ると、陰でこそこそと悪口を言う奴が。「あいつのせいで、こっちに余計な負担がかかるんだよな。迷惑だぜ」とか、「あいつはどうせ、栄誉がほしいだけなんだよ。ええかっこしいしやがって」とか。あげくは、「あいつのせいで、会社に余計な費用がかかったんだから、その分、自腹で金を払わせろ」とネチネチいじめたり。ネチネチ。いじいじ。……思えば、インフルエンザの鶏肉の会社も、欠陥ハブのトラック会社も、そうやって勇気ある人間をつぶしたのでは? 腐った会社というものはそういうものだし、腐った国というのもそういうものだ。250万円も強制徴収しておきながら、褒賞一つ与えない。)
( ※ オマケで言うと、褒賞は、芸術家に与えられることが多い。金を稼ぐためにせっせと勤勉に働いた真面目な労働者には与えられず、社会に馬鹿にされて損をしながらも芸術を探求した無謀な人に与えられることが多い。なぜでしょうかね?)

 [ 参考 ]
 (a) 先日の説明(人質の記者会見)に、加筆しておいた。
    → (1) 記者会見の報道
 (b) 関連情報やリンクを列挙したサイトをたまたま見つけた。一応、メモしておく。
    → 該当サイト
 ( ※ これは、掲示板。今はそのまま見られるが、将来的には過去ログに移るので、その場合は、ページの巻末で、過去ログの 1700番台を指定するとよい。)



 【 追記9 】 (2004-05-04)
 「無謀だ」という非難の深層心理について。

 リスク負担について
 「無謀だ」という非難については、すでにこう説明してきた。「本人の人生は、本人が決めていい。それが自由だ」と。
 ここで論じたのは、「他人が干渉することの是非」であった。それはそれでよい。ただ、それとは別に、「自分が同じ立場だったら?」と考えてみよう。
 自分が同じ立場だったら、どうするだろうか? イラクに行くだろうか? 
 もちろん、たいていの人は、「ノー」だろう。「自分だったら、イラクに行かない。行くのは無謀だ」と思う。それはそれで、一つの判断だ。そう判断するのは本人の勝手だし、私が口を挟む必要もない。
 ただ、そう信じている人に、たった一つ、大事な真実を告げておこう。次のことだ。

 「リスクを避けていては、冒険はできない」── これが大切だ。
 危険というものは、必ず、成功と失敗とがある。青酸カリを飲むとか、頭に銃弾を撃ち込むとか、そういう行動は単なる自殺にすぎない。しかし、「川でおぼれかけた子供を救う」とか、「イラクで苦しんでいる孤児を救う」とか、そういう(危険の感じられる)行為には、必ず、成功と失敗とがある。
 ここで、事後的に見ると、成功または失敗が判明する。成功したとなれば、「だったらおれもやればよかったな」と思う。失敗したとなれば、「だから言わんこっちゃない。無謀なことをするからそうなるんだ」と思う。後知恵で勝手なことを言う。
 しかし、結果がわかっていれば、「リスクを負担する」という行為は成立しない。先が見えないからこそ、「リスクを負担する」という行為が成立する。そして、経済においては、株式投資にせよ、新規起業にせよ、そこには必ずリスク負担があるのだ。あらゆるリスク負担を避けていては、何も冒険はできないし、大きな果実を得ることもできない。
 今回の事件でも、「イラクに行かなければ安全だ」と言う人がいる。しかしそれでは、自分は安全だが、イラク人を救うことはできないのだ。つまり、何のリスクも負わなければ、何の成果も得られないのだ。(たとえば自衛隊を見よう。安全のために穴蔵に閉じこもっているから、成果はほとんど皆無である。焼け石に水。)
 人には二つの生き方がある。リスクを避けて、安全な道だけを生きること。逆に、リスクを負担して、失敗覚悟で大成功をめざすこと。……そのどちらを取るかは、人それぞれだ。そしてまた、人それぞれであるべきだ。他人が口を挟むべきではないのだ。「無謀だ、愚劣だ」と他人がいちいち口出しするべきではないのだ。まして、リスクを負担したということだけで、他人が口汚く非難するべきではないのだ。そんなことでは、社会からあらゆる活力が失われてしまう。
 また、倫理的にも、そんなふうに非難するのは、ほとんど犯罪的な行為である。たとえば小泉と読売は、先頭に立って、高遠さんと今井さんを精神的に傷つけた。これはまったく犯罪的な行為だ。(類似的な例を示そう。どこかの変態男が、かわいい少女をつかまえて、チャーターした自動車で拉致して、監禁する。かくて、ひどく精神を傷つける。こうすれば、「とんでもない卑劣な男だ」と世間から指弾されるだろう。そして、それと同様のことをやっているのが、小泉と読売だ。)
 今の日本は、狂気に染まっている。そして、その根本にあるのは、日本人の臆病さだ。あらゆるリスクを取ることに怯え、ひたすら安全な道を取りたがる。「失業が怖い、倒産が怖い、ひたすら安全に生きよう」と思い込む。一切の冒険を避けようとする。そして、それゆえ、リスクを負担する勇気ある人々が、この上なく憎たらしく思えるのだ。自分のもっていない素晴らしいものをもっているゆえに。……あげく、非難する。口汚く。
 日本の経済的な貧しさが、日本の精神を貧しくしてしまっている。

 [ 参考 ]
 参考情報。イラクの人質事件についての狂態について、New York Times が批判的に報道した。その抜粋・転載。
  → 日記ページ ( 2004-04-25 の箇所。)

( ※ New York Times がどうして、こう書くか? 彼らは、嘘つき大統領を非難しているのである。で、「日本のマスコミもやはり、嘘つき首相を非難しているんだろう」と推測して、遠く日本を覗いてみたら、ありゃりゃ、どっち向いて非難しているんだか。)

 この New York Times の記事では、口汚い悪罵が引用されている。小泉も政府高官も読売も、自分が口汚い言葉を使っていることに気づかないようだが、海外の目から見ると、いかに口汚い言葉で使っているか、はっきりと見て取れるようだ。社会による個人へのリンチと言ってもいいだろう。
 一般に、被害者に口汚い悪罵の言葉を使った時点で、もはや狂気なのである。たとえば、ある個人が社会にサリンをぶちまけたのであれば非難されるべきだが、ある個人が人命救助にともなって自分自身が危険にさらされたのならば同情されるべきだ。狂気でなく正気の人間ならば、そう思うだろう。なのに、日本最大の新聞は、同情するかわりに、口汚く悪罵するのである。世界中で物笑いになっていることにも気づかずに。
 もちろん、これは読売だけではない。日本中の至るところに、口汚い非難の言葉があふれている。「そうしなければよかったね」と語るのではなく、「そんなことはしてはならなかった」と犯罪者のことく扱って、口汚い言葉を大量の銃弾のように浴びせて加虐行為を行なう。……これを狂気と理解しないようであれば、もはや正気を完全に失っているのだ。
 「自分は狂っている」と理解している狂人は、軽度の狂人。「自分は狂っている」と理解していない狂人は、重度の狂人。軽度の狂人は、「自分は狂っている」と理解しながら、他人をためらいがちに傷つけることがある。重度の狂人は、「自分は狂っている」と理解しないまま、他人を平気でどんどん傷つける。……今の日本は、どちらですかね?



 【 追記10 】 (2004-05-09)
 いくつかの話題で述べる。三日分以上の分量があるので、ゆっくりお読みください。

 (1) 小林よしのり
 小林よしのりの論説マンガ(ゴーマニズム宣言)が、月刊誌「SAPIO」に掲載してあるので、言及する。二つの論点で語ろう。
 第1に、米国の利益。人質だった高遠さんの平和活動が、米国の占領活動にとって利益になる、という指摘。このことを非常に重視しているようだ。しかし、この問題は、枝葉末節だろう。たしかに米国の占領活動にとって利益になるが、高遠さんは軍事活動をしたわけではなくて平和活動をしただけだ。軍事活動ならば、米国の利益とイラクの利益は矛盾するが、平和活動ならば、米国の利益とイラクの利益は両立する。「米国の利益だからけしからん」という論理は成立しない。だいたい、考えてみるがいい。「米国の占領活動にとって利益になることはすべて駄目だ」となったら、真面目なイラク人の存在そのものが米国の利益になるのだから、真面目なイラク人をすべて抹殺しなくてはならない。また、さまざまな発電所や道路や政府施設もすべて爆破しなくてはなるまい。これではメチャクチャだ。ビンラーディンみたいな無差別テロの発想そのものだ。狂信的。(結局、平和活動と軍事活動を区別しないから、こういうふうに論理の破綻を起こすわけだ。より根源的に言えば、小林には人間らしい「愛」がないのだ。だから、「愛」のある高遠さんのような活動をまったく理解できない。「愛」ゆえの活動を、単に政治的な損得でしか認識できない。人に「愛される」ことばかりに熱中していて、人を「愛する」ことができない。胸に「優しさ」や「愛」がない。かわいそうな男。……これは小林への非難ではなくて、憐れみである。)
 第2に、日本人の心配。小林は、「人質は日本人全体に心配させたから無責任だ」と述べて、小泉の肩を持っている。というか、これは、小泉の発想そのものだ。いつもの小林流のゴーマンな意見が消えて、日本伝来の集団主義にあっさりと付和雷同している。まったく小林らしくない。そこで、私がかわりに小林ふうに、ゴーマンな意見を言っておこう。……日本人には、どんどん心配させればいいのだ。イラクで何百人も民間人が殺されているというのに、「オレたちは関係ないもんね」「日本にいる限り関係ないもんね」とお気楽な日本人たちに、「世界は太平楽ではなく戦争状態なのだ」と教えてやればいいのだ。もっともっと心配させて、もっともっと真実を教えてやればいいのだ。では、心配させるのは、悪か? 日本人が本当に心配しているのならば、悪だ。では、日本人は本当に心配していたか? もし「イエス」ならば、人質たちが解放されて帰国したとき、「大変だったね」といたわっただろう。現実には、逆だった。非難が殺到した。「馬鹿野郎。イラクで死ななかったなら、日本で死ね」というふうに。小林自身、それと似た意見を言っている。そんな人々が、「心配した」と言えるのか? たとえば、小林自身はどうか? 人質の生命のことなど、最初からこれっぽっちも心配していなかった。それでいて「おれたちは心配させられたぞ」と言い張っている。善人面をするのはやめてもらいたい。ゴーマンならゴーマンらしくふるまえばいいのだ。エゴイストならエゴイストらしくふるまえばいいのだ。小林であれ、日本人であれ、人質のことを心配していたわけではなくて、自分のことを心配していただけだ。「事件はどうなることか」とハラハラしていたが、そのときハラハラしていたのは、政治的ななりゆきであって、人質の生命のことではなかったのだ。だから、人質の生命が助かったと判明すると、喜ぶどころか、怒り狂うのである。

 まとめて言おう。結局、日本人は、臆病すぎるのだ。イラク人が大量に死んでもビクビクしないくせに、人質がちょっと誘拐されただけでビクビクする。人質が帰ってくると、「もうこんな思いはしたくないから、もうイラクには行くな」と非難する。つまり、イラクでは莫大な死者が出ることに対して、あくまで、見て見ぬふりをしたがるのだ。あくまで、現実に目をふさぎたがるのだ。
 しかし、勇気ある女性は、現実を見る。イラク人に多大な死者が出ているという現実を。その状況に日本は責任があるという現実を。……だから、最も責任感があって勇敢なのが、高遠さんたちなのだ。そして、最も無責任で臆病なのが、日本人全体なのだ。なのに、無責任な人々が、責任感のある人々を非難する。「自己責任」という言葉で。
 なぜか? 今、無責任で臆病な日本人は、現実との回路を遮断したがる。現実との回路を遮断しておけば、現実の悲惨さに立ち向かわずに済むからだ。そして、そのためにこそ、現実との回路をつなげる人々を非難するのだ。
 日本人は、引きこもり症候群に陥っているのだ。テレビゲーム・オタクや、インターネット・オタクと同様で、引きこもりになっているのだ。だからこそ、世界中で笑われている。そして、そんな引きこもり野郎たちには、現実との回路をつなげてやればいいのだ。すなわち、自ら命を賭けて危険な地に向かい、そういう勇気を持つ人間がいることを実証してやることで、ビクビクして引きこもっている日本人全体に、もっともっと心配させてやればいのだ。もっともっとビクビク・ハラハラさせてやればいいのだ。

( ※ ついでに一言。小林に勧告しておこう。小林は「遺書を書け」などと人質三人を攻撃している。しかし、そんなふうに他人の人生に干渉するのはやめてもらいたいものだ。三人にはもともと「死を覚悟する」ぐらいのことはできている。日本でぬくぬくとしていて口先だけで威勢のいい甘ちゃんの小林などは、人間の器が違うのだ。「昔の日本兵は大義のために命を賭けたから立派だ。自分も同様だ」などと口先だけで言っているが、現実には「世界平和という最高の大義のために命を賭けた三人を攻撃することしかできない」という自己矛盾をする小心者とは、人格が違うのだ。三人は口先だけでなく身をもって行動できるのだ。だいたい、「死を覚悟する」のは本人が内心で思えばいいのである。無関係の人間がいちいち「遺書を書け」などと強要・干渉するのは脅迫以外の何物でもない。……そもそも、そんな干渉を許容するとしたら、小林自身、他人から干渉されるべきだ、となる。小林はかつて、政府やオウムに恨まれたり、オウムに拉致されそうになったりした。自己の危険を顧みずに行動した。とすれば、小林の言論を政府やマスコミが封じようとするかもしれない。「おまえの生命を心配させるな。だから口を閉じよ」と。それでいいのか?)
( ※ なお、注記しておこう。私は別に、小林を個人攻撃しているわけではない。「普段の主張と矛盾しているぞ」と指摘しているのだ。小林は世間に逆らうゴーマニストだが、人質三人も世間に逆らうゴーマニストなのである。元祖ゴーマニストが、他のゴーマニストたちを「ゴーマンだから駄目だ」と批判するのでは、自己矛盾だ。だから私は、小林に言いたい。「それじゃゴーマンさが全然足りない」「もっとゴーマンさを主張せよ」と。「なぜならおまえは、小泉と同じでキン○が小さすぎるからだ」と。)

 (2) マスコミと私人
 今回、マスコミは人質三人の個人情報を勝手に報道した。明らかなプライバシー侵害となるものもあり、グレーゾーンとなるものもある。ここでマスコミからは「三人は事件の渦中の人物だから、ただの私人ではない」というような意見も出ているようだ。そこで、私は私なりに、ここで見解を示しておく。
 報道対象者が私人であるか否かは、マスコミが決めるべきことでもなく、マスコミが報道したあとで読者が決めるべきことでもない。これは法律的な問題であるから、裁判所が決めることだ。このことは法治国家の常識である。(わかりやすく言えば、ある人が殺人をしたり泥棒をしたりしたとき、その行為を犯罪と見なすかどうかは裁判所が決めるべきことであり、マスコミや読者が決めるべきことではない。)
 ここで、法律的に決めるとしたら、何らかの客観的な基準が必要となる。では、それは、何か? 私は次のように考える。
 報道対象者が私人でないのは、次のいずれかに該当する場合である。
 (i) 公的権力を持ち、国民に対する説明義務がある場合。(首相、国会議員、知事など。)
 (ii) マスコミ関係者として、普段からマスコミを利用していて、自らマスコミ上で発信能力をもつ場合。(テレビタレントやテレビ評論家など。)
 以上のいずれにもまったく当てはまらないのが、一般の私人だ。ここでは、誰かが何らかの報道をされても、反論のすべがまったくない。一方的に殴られるしかない。たとえば、週刊文春がプライバシー侵害となる報道をしたが、これに対して私人としては反論することがまったくできない。
 これはもはや社会的なリンチである。たとえて言えば、私人をつかまえてロープでぐるぐる巻きにして、抵抗するすべを奪ってから、なぶり殺しにするようなものだ。それでいてマスメディアの側は、「正当な戦いだ」と弁明する。
 冗談も休み休みにしてくれ、と言いたい。政府が相手なら、政府の方が圧倒的に巨大な情報発信能力をもつ。しかし、市井の一個人が相手なら、マスコミの方が圧倒的に巨大な情報発信能力をもつ。一つのマスコミが私人を攻撃すれば、なぶり殺しも同然だ。
 だからこそ、政府批判は許され、私人批判は許されない。強きを挫くことは許され、弱気を挫くことは許されない。「報道の自由」なんてものが無制限に許されるわけではないのだ。
 では、今回は、どうだったか? 人質三人は、何の情報発信能力もなかった。「記者会見をしろ」というマスコミの声はあったが、記者会見の場では、マスコミの側に情報の取捨選択権がある。つまり、人質の側には好き勝手に自分の情報発信をする権利はない。だから、人質三人は、しょせん、ただの私人だったのだ。とすれば、マスコミには、勝手に報道する権利もないし、勝手に攻撃する権利もないのだ。そんなことをするのは、手足を縛られた捕虜をなぶり殺しにするのも同然だ。
 今回、イラク民兵は、(演出のとき以外では)人質三人を、とても丁重に扱った。ところが日本のマスコミは、人質三人を、手足を縛られた捕虜をなぶり殺しにするように扱った。特にひどいのが、(産経新聞という二流のクズ新聞を除けば)読売新聞だ。読売は、プライバシー侵害問題のときには、けっこうまともな意見を言っていた。しかし、いくら意見が立派でも、やっていることは最低だ。「私人の権利を守れ」と唱えて、私人の権利を踏みにじる。高邁な理想と、愚劣な行動。……こういうのは、すばらしい公約を掲げたあと、政権を握ってから公約を破る、という嘘つき政治家と同様だ。一番タチが悪い。
 なお、私があまり批判すると、読売が怒り狂うかもしれない。そこで、具体的に実証しておこう。
 第1に、大新聞たるものが、私人を攻撃するべきではなかった。
 第2に、私人を攻撃するのであれば、反論を許容するべきだった。すなわち、反論のためのスペースを紙面に用意するべきだった。(さもなくば一方的なリンチだ。)
 第3に、人質攻撃以外に、人質擁護の意見もあるのだから、それも同等のスペースで掲載するべきだった。換言すれば、人質攻撃の意見だけを掲載して、人質擁護の意見を一切排除する、という一方的な報道管制をするべきではなかった。
 これらの点をかんがみると、報道が偏向しているという点ではイエロージャーナリズムであり、一方的な個人攻撃をしているという点ではブラックジャーナリズムである。実際、読売というのは、体質が根本的にブラックジャーナリズムだ。たとえば、かつてはダイエー批判をしていたのに、小久保をタダでもらったら、とたんに恩義を感じて擁護する側にまわった。
 要するに、読売の言説を左右するには、袖の下を使え、ということだ。やたらと他人を攻撃してくるが、金や権力をもらえばへいこらする。これが、この社の体質だ。
( ※ 痛いところを突いて、ごめんね。)

 (3) マスコミ一般
 さて。人質騒動も、一段落ついたようだ。世間は早くも、この騒動のことを忘れかけているようだ。アザラシのタマちゃん騒動をさっさと忘れるように。そして、それは、人質になった三人にとっては、好ましいことだろう。
 とはいえ、この事件の影響は、いまだにはっきりと残っている。どういう形で? それは、治癒したあとの傷跡というより、腕や足をもがれたあとの欠落のような形だ。
 今回の騒動の意味は、非常に大きい。それは、日本が「自由」と「言論」を喪失した、ということだ。

 一つは、行動の自由だ。すでに何度か述べたように、人質になった三人には、リスクを冒して、自己の生命を危険にさらしてまでも、平和のために尽くす権利がある。その権利は、自衛隊員にもある。イラクで殺害された外交官にもある。あの三人にもある。これが「自由」の権利だ。それが、今回、徹底的に弾圧された。
 もう一つは、言論の自由だ。すでに何度か述べたように、人質の家族は、自分自身は危険をさらしたわけではないのだから、何を言おうが問題ないはずだ。政府を勝手に動かすのは犯罪だが、政府に「こう動いてほしい」と語るのは犯罪ではない。それは言論の自由として保証されている。それが、今回、徹底的に弾圧された。

 さて。以上のように、二つの自由が弾圧された。「行動の自由」が弾圧され、「言論の自由」が弾圧された。ここでは、自由が弾圧された。
 このとき、言論機関は、何をしたか? 読売は、政府に加担して、個人攻撃に励んだ。政府に反対する意見が世間にあっても、それを報道しないように、報道管制を敷いて、抹殺した。一部の週刊誌などは、これに抵抗して、政府の横暴ぶりを批判したが、あくまでも一部にすぎなかった。毎日新聞は批判的だったし、朝日も少しは批判的だったが、どちらも、あまりにも腰が引けていた。政府と正面から対決することはなく、結局は、政府の弾圧を見て見ぬフリをしたようなものだ。
 朝日で言えば、まともに政府を批判したのは、夕刊のマンガが二回あっただけだ。高橋源一郎の批判は、態度としては好ましかったが、あまりにも論理が不足しており、論説文とはならず、せいぜい小説家の個人的な感想文(つまりエッセー)にすぎなかった。とうてい、説得力はなかった。(たぶん、「あ、そう」で片付けられてしまっただろう。)
 
 ここで、私は、責任の追及をしたいと思う。今回の騒動で、一番罪が重いのは、朝日を代表とするリベラル派の新聞だ。国中が狂気に染まっているときに、なすべきことをしなかった。それは、正気の人間こそ、一番罪が重いのだ。
 なぜか? 狂気の人間は、狂気ゆえに、罪を問われないからだ。小泉や読売に「狂気だ」と指摘しても、狂人に狂気だと指摘することになるのだから、何の意味もない。彼らは自覚することができない。猫に「馬鹿」と悪口を言っても、猫は理解できずにキョトンとするだけだ。
 しかし、朝日を代表とする正気の人々は、世間に狂気が渦巻いていると理解しながらも、ほとんど行動を取らなかった。いつもの日常業務の一環として、さえない社説を書いたぐらいで、お茶を濁してしまった。「これでやるべきことはやったよ」と免罪符を得たつもりなのだろう。とすれば、彼らは、なすべきことをなさなかったゆえに、あまりにも罪が重いのだ。
 たとえて言おう。ヒトラーがユダヤ人を非難するキャンペーンをして、強制収容所に入れて、虐殺した。こういうときには、「それはいけない」という逆キャンペーンをする必要はないが、「それはいいのか?」と世論に問うことが必要だ。あちこちで意見を掻き立てることが必要だ。そのために、賛否両論について、深く考察する意見を、たくさん掲載することが必要だ。
 ところが、朝日は、何をしたか? 事実上、何もしなかった。マンガだけは有効だったが、新聞社の代表的な論説が四コマ漫画二つだけ、というのは、あまりにも情けない。小説家のエッセーはあったが、論理が不足しすぎて、説得力が全然ない。
 結局、朝日は、マスコミとして、なすべきことをまったくなさなかったのである。奥にある真実についての情報量が全然なく、表面的な事実を簡単に報道するだけだ。こんなマスコミなど、あっても意味がないし、自己を無価値にしてしまっている。
 本当なら、今からでも遅くはないから、人質事件の狂態を分析して、狂った世間の目を開くべきなのだ。しかし、自分では、そのことがまったくできない。せいぜい、フランスのル・モンドなどの記事を伝えるだけだ。そのときだけは、真実を伝えようとしているが、そういうふうに他人のフンドシを引用する形でしか、真実を伝えようとすることができない。
 朝日などのリベラル派のマスコミは、今回、あまりにも臆病だったのだ。小泉などの保守派は、おのれの臆病さゆえに、「危険を冒すな」「閉じこもっていろ」と主張した。朝日などのリベラル派は、おのれの臆病さゆえに、ほとんど口を閉じていた。保守派が恐ろしい勢いで攻撃してきたとき、真っ向からぶつかる勇気がなく、腰が引けた態度しか取れなかった。
 今の日本にあるのは、狂気と臆病だけだ。日本は、ある大切なものを失ってしまったのである。

( ※ 狂気ゆえにヒトラーがユダヤ人を弾圧したとき、多くのドイツ人は臆病ゆえに見て見ぬフリをした。狂気ゆえに小泉が特定個人を攻撃したとき、多くの日本人は臆病ゆえに見て見ぬフリをした。どちらも事情は同じなのである。とすれば、「こういう現状は危機だ」と、理解する必要があるのだ。読売は「危機などはない」と言い張るが、そういう政府べったりの大政翼賛会ふうの方針が、かつて、国を救おうとして、国を滅ぼしたのである。第二次大戦中の日本もドイツもそうだった。今の日本も同様の道をたどっている。)
( ※ 愛国心について述べておこう。国が間違った道を歩んでいるとき、「国を愛せ」「国旗・国歌を愛せ」と叫ぶことは、言葉とは逆に、国を滅ぼすことになるのだ。読売のような保守派は、結局は、日本という国を愛しているのではなく、日本という国を滅ぼす政府を愛しているにすぎない。ヒトラーを愛したあげくドイツを滅ぼしたナチスと同様である。……なお、こういう人々に限って、国旗・国歌への忠誠をやたらと強要する。かつては「ハーケンクロイツを敬え!」「世界に冠たるドイツ、を歌え!」と強要した。今も日本では、「日の丸を敬え!」「君が代を歌え!」と強要する人々がいっぱいいますね。そういう人々が、今回も狂気をふりまくのだ。そしてそのまわりで、臆病な人々は黙っているのである。危険を冒したくないから。)
( ※ だから、その意味では、「国旗・国歌の強要」は、一定の成果を挙げたことになる。日本人は見事にその洗脳効果で、政府に対して忠実にふるまうようになった。「国旗・国歌の強要」は、それ自体が目的なのではなくて、国民を政府の犬となるように仕向けることが目的なのだ。……今回、実に多くの人々が、政府の犬となった。しかも、その行動を自分が自発的に取ったと思い込んでいる。洗脳の効果は着々と出ている。)
( ※ 最後に、誤解を避けるために、注釈しておく。私は別に、「反政府キャンペーンをやれ」と主張しているわけではない。それはそれで、別の意味の洗脳行為だ。私が主張しているのは、「マスコミはマスコミの本分をなせ」ということだ。ただの表面的な細かな知識を伝えるだけでなく、物事の本質を伝える情報を提供せよ、ということだ。自分のところで意見が書けないのであれば、外部の識者から意見を仰げばよい。そういうことをやったマスコミもいくらかはある。毎日新聞はサンデー毎日に米原万里の論説を掲載した。朝日は夕刊のマンガで現状を皮肉った。しかし、単発的に小さな意見が掲載されただけだ。論争にもならなかった。政府やテレビからは大量の人質攻撃の言葉が流されるのに、人質擁護の声はあまりにも小さかったし、現状分析の論説はほとんど皆無だった。どちらかと言えば、自作自演説のような目くらましのことを報道して、話を本質から逸らすことばかりに熱中していた。だからこそ、今、「マスコミはマスコミの本分をなせ」「出すべき情報を出せ」と私は主張しているのだ。今のようなマスコミは、ほとんど意味がない。ほとんど政府の飼い犬のようなものだ。)
( ※ で、小泉ばかりが、大喜びだ。「これでまた、おれの無能を隠せたぞ。しめしめ。続投できる。マスコミを利用して、世間をだますのは、ちょろいものさ。うひひ」と。)

 [ 参考 ]
 人質攻撃派の意見について。(下らない話なので、読まなくてもよい。)
 朝日は、バランスを取るためか、政府擁護派の意見を掲載したことがある。(夕刊・論説欄。国際政治学者の意見。日付は失念。)
 これで論争を生じることができればまだよかったのだが、政府擁護派にしてはその意見があまりにも現実離れしているので、まったく無意味だった。いくら依頼した原稿だとしても、このような無意味な原稿は、掲載するべきではなく、ボツにするべきだったろう。仮に、そこらの大学生か大学院生がこの論考を提出したなら、落第点になるのは確実である。「現実認識が不足だから、人様に読ませられるようなものじゃない。根底から書き直せ」と突き返されるはずだ。
 詳しく言おう。その意見の内容は、「NGOの貢献はあるにしても、民間人がやるのは、危険だし効率が悪い。海外援助は政府がやるのが最も効率的だ。だから、民間人がいちいちでしゃばることはない」というもの。
 これは、日本(の素人)では主流の意見だろうが、世界レベル(国際政治レベル)で言えば、あまりにも傍流の意見である。
 第1に、NGOは世界中で活躍しており、政府と同等の貢献がある、ということは、世界的に認識されている。
 第2に、政府の援助は非常に非効率で無駄が多く、NGOの方がずっと効率的だ、ということも、ひろく認識されている。
 第3に、今回のイラクに限定しても、自衛隊はまったく無効であり、NGOやイラク人の方が有効だ、ということが判明している。たとえば、自衛隊はサマワでは給水車を稼働させているだけだが、こんなのは数人程度の意味しかない。一方、水を実際に配給しているのはイラク人である。また、給水量でも、自衛隊をはるかに上回る量をNGOが給水している。はっきり言って、自衛隊の貢献は「焼け石に水」程度でしかない。このことが判明したので、もはやサマワでは自衛隊について賛否がほぼ拮抗している。「有効だ」という意見と「無効だからさっさと帰ってくれ」とが、ほぼ半々だ。しかも、「有効だ」というのは、「今の時点で有効だ」というのではなく、「将来はたぶん有効になるだろう」というふうに期待しているだけである。「現時点で有効だ」という意見はほとんど皆無だ。一方、高遠さんはたった一人で、「日本人の民間人がイラク人のために奉仕している」ということがイラク中に知れ渡った。彼女に感謝しているイラク人はたくさんいる。例の誘拐犯ですら、高遠さんに感謝してすぐに人質3人の命を保証した。
 結局、「自衛隊は無効、民間NGOは有効」なのである。これは完全に実証されている。政治学的にも、イラクの世論調査でも、完全に実証されている。これに反対しているのは、小泉とブッシュぐらいだ。この二人が事実に反する嘘を主張している。そして、この嘘を、上記の政治学者は堂々と主張する。
 事実に反する論説などは、まったく意味がない。朝日がやったのは、こういう馬鹿げた無意味な論説を掲載することぐらいで、それ以外には、ほとんど何もやっていないわけだ。
( ※ 朝日は「社説では人質擁護をしたぞ」と言うだろうが、社説というのは、社の意見であるだけだ。それは一種の個人的意見だから、何の普遍性もない。もっと広く世間の各界からの意見を集めることこそが、マスコミとしての使命だ。その使命を忘れて、自分の意見だけ言って事足れりとしている、というところに、朝日の意志薄弱さ・臆病さがある。朝日は自分を「善人だ・正気だ」と見なすべきではなく、「善人で正気だが、わかっていて何もできない臆病者だ」と見なすべきなのだ。どちらかと言えば、狂人よりも、始末に負えない。狂気は治療可能だが、臆病さは治療不可能である。)

 [ 余談 ]
 朝日の社説(2004-05-05)は、米軍がイラク人捕虜を虐待したことに言及しているが、その結論は「これでは自由も民主化も無理だ。悲しい」と嘆じているだけだ。しかし私なら、こう書きたいね。
 「ブッシュは、イラク国民を虐待した責任があるので、フセインと同罪である。ゆえに、フセインと同じく、国際法廷で裁判にかけるべきだ。当面は、逮捕して、監獄にぶち込むべきだ」
 というわけで、「ブッシュを日本に招待すること」を提案したい。で、来たら、逮捕して、人質にする。米国国民が文句を言ったら、「危険な地に来るのが無謀なんだ。ブッシュの自己責任だ」と言う。……冗談ですけど。

 (4) 週刊文春
 「マスコミが個人攻撃をするなんて大げさだ」と思っている人も多いようだ。「ちょっと批判的に報道しているだけであって、攻撃しているわけじゃない」と。特に、読売あたりは、そう思っているようだ。しかし、違う。
 5月7日発売の週刊文春は、「まだ謝罪しない人質」という記事で、いまだに三人を非難し続けている。「謝罪しないのはけしからん。謝罪せよ」と。これはあまりにもひどい。
 第1に、「謝罪すべきだ」と思うのは勝手だが、「謝罪しないのはけしからん」「自分の思うとおりに行動しないのはけしからん」と攻撃する権利は誰にもない。なぜなら、謝罪すべきかどうかは単なる見解の相違であるからだ。「謝罪しない」のは、違法行為ではないし、また、権力に付随する義務でもない。(違法行為とか、権力に付随する行為なら、謝罪する必要はあるだろうが。)
 第2に、こういうふうに攻撃するのは、明白な犯罪である。「強要罪」や「誹謗中傷罪」に該当する。文春の行為こそ、違法行為なのだから、謝罪すべきだ。
 第3に、非難するときに、匿名である。どうせ非難するなら、堂々と署名して、自らの意見として主張すればよい。ところが、自分は署名せずに、文春という名の陰に隠れて、こっそり姿を隠している。意見を言うときに、顔を出すこともしない。これほど卑怯な行為があるだろうか? 
 これこそまったく悪質な個人攻撃であろう。これを個人攻撃と呼ばなければ、マスコミによる個人攻撃はこの世に一切ありえないことになる。それは「人を殺しても殺人ではない」と主張するのと同様だ。にもかかわらず、多くのマスコミは現状を放置している。
 読売は、「週刊文春が勝手にやっているだけで、おれたちは関係ないね」と思うかもしれない。しかし、プライバシー侵害事件のとき、読売は何と言った? 週刊文春のプライバシー侵害を、マスコミの非道として、厳しく批判したはずだ。しかし今回は、まったく批判しないで、口を閉じている。(その理由はわかるけどね。)
 週刊文春というのは、ゴロツキのようなものだろう。しかし、こういうマスコミがのさばっているのは、小泉や読売などが人質非難をしたからだ。ヤクザの世界でも、親分が誰かを非難すれば、手下がドスをもって当人を攻撃する。ここで親分は「おれが殺せと命じたわけじゃない」とシラを切るとしても、誰に責任があるかは明白だろう。それと同様だ。
 今のマスコミ界には、ゴロツキのようなマスコミがいっぱい出回っている。小林よしのりは人質に「遺書を書け」と強要しようとするし、週刊文春は「頭を下げよ」などと強要しようとする。これが脅迫という犯罪でなくて何なのか? 仮にチンピラがそこらの市民とぶつかったあとで、「遺書を書け」とか「頭を下げよ」などと強要すれば、あっさりと逮捕されて監獄行きだ。なのに、今のマスコミには、こういうゴロツキが堂々とのさばっている。そして、それを見て見ぬフリをしているのが朝日などの臆病なリベラル派であり、それをどんどん推奨しているのが読売などの狂った保守派だ。
 そしてまた、こういう非道なマスコミの状況を見ても、多くの人は「おれには関係ないね」と口を閉ざしているのである。

 (5) イラクの現状
 ここで、イラクの現状を見てみよう。最近、ファルージャの騒動はほぼ収束している。部分的な戦闘は各地で起こっているが、大規模な市民虐殺や大規模な戦線拡大は起こっていない。そして、そういう鎮静化をもたらしたのは、米国の方針転換(戦闘停止・国連主導)であるが、この方針転換をもたらしたのは、人質騒動である。(それまでは国連主導を断固として拒否していた米国が、人質騒動以後、まるで人が変わったかのように、一転して方針を転換した。)
 これは好ましいはずだ。しかし、日本国内にあった「テロに報酬を与えるな」という理屈に従えば、この現状は、イラクに報酬を与えることになるのだから、断じて許せないはずだ。だとすれば、元の状況に回帰することを訴えるべきだ。
 「テロに報酬を与えるな」と。「イラクに平和が来ると、人質事件を許容したことになる。だからファルージャではもっともっと市民を虐殺せよ。イラク民兵と米軍は大規模に殺し合え。米国は国連主導をやめて、元のように米国独裁体制を取れ」と。
 しかし、そうしない。人質事件の最中には、「テロや誘拐に報酬を与えることになるから、徹底して強硬路線を取れ」と言っていたくせに、「テロや誘拐に報酬を与えることになる戦闘停止」にはちっとも批判しないのだ。まったくの自己矛盾であり、まったくの二枚舌だ。嘘つきなのか、狂気なのか、論理錯乱の阿呆なのか。……
 正解を言おう。「テロに報酬を与えるな」という理屈は、まったく正しくない。それは「ゼロ・サム」の戦略にすぎない。正しいのは、「プラス・サム」である。つまり、「ともに報酬を得る」ということだ。そして、それが、「平和」である。平和とは、相手と自分とが、ともに報酬を得ることだ。そして、「テロに報酬を与えるな」という理屈は、この正解を破壊し、「ともに報酬を得る」かわりに「ともに損失を得る」という選択をすることになる。それは最悪の選択なのである。(詳しい理論は「タカ・ハト」ゲームの話。 → 4月14日c
 「テロに報酬を与えるな」という理屈で、たがいに殺しあいをするだけだと、ファルージャのように、イラク側にも米軍側にも、莫大な被害が生じるだけだった。しかし、そういう狂気を捨てて、人質の生命を守るために、米軍がファルージャで戦闘を止めたとき、イラク側は人質を解放したし、米軍への大規模な反撃も止めた。ここでは人質のおかげで、「たがいに報酬を与えあう」という道を選択した。その結果、大規模な殺しあいが収束したのである。
 ともあれ、われわれは現在、イラクにおいて小康を得ている。そして、それは、人質になった人々のおかげなのだ。狂気だった世界は、人質となった人々によって救われたのだ。
 しかし、にもかかわらず、世界のなかで日本だけは、いまだに狂気のさなかにある。「人質事件のあとで戦闘が鎮静化したのは好ましい」と世界中が喜んでいるさなかで、日本だけが人質だった三人を非難する。「こいつらのせいで心配させられた。だからこいつらに謝罪させろ」「こいつらのせいで心を痛めた。だから仕返しに、こいつらの心を痛めつけてやれ」「こいつらを救いたかった。だからこいつらを傷つけてやれ」と。かくて、世界の人々を心配させているのだ。この憤慨する狂人たちは、決して世界の人々に謝ろうとはしない。
( ※ 一般に、「謝れ謝れ」と憤慨する男は、自分からは謝ったりしないものだ。家庭でも、そうでしょうね。奥さんが、可哀想ですね。そう考えると、小泉が離婚したのも当然かもね。「謝れ謝れ」と言い張るばかりの男と、いっしょに暮らしていける女性がいるわけないですよね。……私なんか、謝ってばかりですけどね。あなたは、どう? 小泉流? 南堂流?)

 (6) 注釈
 最後に、誤解を招くといけないので、注釈しておく。(言わずもがなのことだが。)
 私はここで、人質擁護の意見を出している。しかしここでは、「彼らを見習え、彼らの真似をせよ」と主張しているわけではない。「日本人は誰しも、彼ら三人のように、イラクに出向け」と主張しているわけではない。「行くか行かないかは個人の自由だ」と主張している。あなたについては、あなたの自由。彼らについては、彼らの自由。そして、「行ったのは、けしからん」と非難する人々の態度について、「その非難は、行動の自由を侵害し、かつ、言論の自由を抑圧する」と批判しているのだ。
 つまり、「人質を非難するのがいけない」と問題視しているのであり、「人質の行動に賛成せよ」と強要しているわけではない。人質の行動の是非を語りたいわけではなくて、世間の態度の是非を語りたい。
 ここのところを、誤解しないでほしい。「南堂はイラク問題について対米批判の論陣を張りまくっているな」と思ったら、とんでもない勘違いだ。私自身は対米批判の方針を取るが、それを世間に強要することはない。保守派の人々が対米追従をするとしても、それはその人の政治的な自由だから、私はそのこと自体を非難するつもりもない。
 繰り返す。イラクに対してどうするべきかという件で、保守派の論説(対米追従)を「狂気だ」と非難しているのではない。国内においてどうするべきかという件で、保守派の態度(個人弾圧)を「狂気だ」と非難しているのだ。そして、それゆえ、この問題は、人質たち三人の問題というよりは、私たちの問題なのだ。
 私はに、「政府は悪/政府は善」という立場の話をした。しかし、政府の善悪というのは、個人が政府をどう感じるかの問題であるから、いちいち論じるまでもない。政府に賛成であれ、政府に反対であれ、どんな立場を取るかは、その人の勝手である。私は政府擁護をする保守派の立場を、正当な権利として認める。しかし、保守派の人々が、政府批判をする立場の人々に対して、言論弾圧や行動弾圧をすることを、正当な権利として認めることはできない。私が語りたいのは、そのことだ。政治的立場ではなくて、自由について語っているのだ。
 なお、ここで「弾圧」という言葉を使うには、根拠がある。強者が弱者をいたぶっているからだ。仮に「弾圧でない」と主張するのであれば、最低限、相手にも同等の力を与えるべきである。すなわち、政府が相手を非難するのであれば、相手にも対等な政治的権力を与えるべきだ。また、読売や文春が相手を非難するのであれば、相手にも同等の記事スペースを与えるべきだ。その相手は、人質自身でもいいし、代理としての人質擁護論者でもいい。しかし、相手を無力にしたまま、一方的に攻撃するのであれば、それは手足を縛られた人間をなぶり殺しにするのも同然であり、「弾圧」にほかならないのである。
 なお、私の言っていることがどうしてもわからない人がいるのなら、その人は、自分の身に置き換えて理解するといい。あなたが慈善行為をしたら、非難される、というストーリーだ。次の通り。
 あなたが電車に乗った。そこでは老人二人が、悪ガキたちに殴られていた。一人はすでに血を流して死ぬ寸前だ。もう一人は殴られていないが、もうすぐ殴られそうだ。そこであなたは、悪ガキを止めようかな、と悩んだ。── ここから先では、道は二通り。
 一つは、「やめろ」と言って、介入する道。すると、悪ガキたちと口論になり、殴り殺されそうになる。だが寸前で、電車が停車して、助かった。しかしその後、日本中から非難される。「危険を冒すな。おれたちに心配をさせるな」と。あるいは、「どうせ、ええかっこしいの自作自演だろ。違うというなら証明せよ」と。ついには総理に「身を守る覚悟もないのに、いい加減にしろ」と怒鳴られ、読売などに「無謀だ」と非難され、週刊文春に「駅員を派遣した費用を弁済せよ」と非難される。針のむしろだ。会社に行っても、「会社に迷惑をかけやがって」と白い目で見られるばかり。
 もう一つは、こっそり逃げる道。「おれは知らんもんね。関係ないもんね」と言って、さっさと逃げ出す。ただし、脇からこっそり見ていて、あなたのかわりに誰かが老人を救おうとするのを見る。そして、その人が殴られそうになったら、みんなといっしょに非難する。「危険を冒すな。おれたちに心配をさせるな」と。
 今の日本中は、後者の意見ばかりだ。私は? 「南堂は前者の立場を取れと言っている」と思い込んでいる人もいるようだが、全然、違う。「どちらにするかは、各人の自由」と言った上で、「前者の立場を取る人を攻撃してはいけない」と言っているだけだ。私が守ろうとしているのは、暴力事件の被害者たる老人ではなくて、言論事件の被害者たる前者(老人擁護)の人だ。……この違いを、よく理解してほしい。私は「イラク人を守れ」と言っているのではなくて、「日本における自由を守れ」と言っているのだ。

( ※ なお、誰かが「人質はけしからん」と思うとしても、私はそれ自体をとがめない。どう思おうと、それは各人の勝手である。ただし、思うのはいいが、攻撃してはいけないのだ。「馬鹿め」と内心でなじるのは構わないが、「馬鹿め」と口に出して攻撃してはいけないのだ。私が言いたいのは、そのことだ。もっと端的に言えば、「殺してやりたい」と思うのは勝手だが、実際に殺すのはいけない、ということだ。……そして、この違いがわからないのが、今の狂気に染まった日本である。)
( ※ ついでだが、私は必ずしも「自衛隊撤退」を主張しているわけではない。「国連主導下」という条件では、派遣に一応賛成する。ただし、「米軍占領下」という条件では、派遣に反対する。……では、なぜ? 自衛隊はサマワではどうせ何もやっていないのだし、ただ穴蔵に隠れているだけだ。イラク国民からは反対されているし、サマワ住民ですら賛否半々だ。それでいて派遣に 400億円もかけている。莫大な無駄。……なのに国民は、「無駄にした 400億円返せ」とは言わない。こちらの方は放置して、人質たちにばかり「無駄にした 20億円返せ」と要求する。「 400 < 20 」という不等式。狂気の計算。)
( ※ に「高遠さんに紅綬褒章を」と提言した。これはつまり、「人々は高遠さんの真似をせよ」という意味ではなくて、「人々は臆病で何もできないのだから、おのれの命や金を差し出すかわりに、1億人全部合わせて、勲章一つだけぐらいは与えよう」という非常にケチな提言である。まったくケチですね。私が提言できるのは、それくらいでしかない。私もまた多くの人々と同じく、勇気のない人間であり、電車で老人を救うことはできない。ただし、電車で老人を救おうとした人を、日本中の攻撃から守ろうとすることはできる。そこが、多くの人々とは異なる。)
( ※ 「紅綬褒章を」と提言は、実にケチな提言だ。たとえばあなたが「勲章をやるから戦地に行け」と言われたら、「それだけ? おれの命はそんなに安くはないぞ」と憤慨するだろう。そのくらい、ケチな提言だ。ただし、今の日本人は、それほど小さなものさえ与えたがらない。ケチ以下である。というより、250万円をふんだくるのだから、強欲または強盗と呼ぶべきだろう。ケチは人に与えるものを惜しむだけだが、強盗は人から奪い取る。そして、そういう輩に限って、「被害者が悪い」「被害者が安全措置を取らなかったのが原因だ」と非難するのである。)

 (7) 自作自演説の崩壊
 自作自演説はもはやとっくに崩壊しているのだが、いまだにこんなデタラメを信じている人もいるようだ。私の批判の根拠は先に示したが( → 4月20日b )、もっと明確な根拠もあるので紹介しておく。
  → 「イラク日本人人質事件・被害者自作自演説疑惑」の「根拠」を検証するページ

 ついでだが、「犯行声明には、日本人が書いたのではないかという疑惑がある。人質三人は、これに答える義務がある」という非難がある。特に、記者会見を要求したマスコミ関係者。
 馬鹿じゃないの? 被害者に対して、加害者としての説明を要求している。狂っているとしか思えない。
 たとえば、北朝鮮に拉致された人や、ロリコンオタクに誘拐された少女がいる。ここでは、被害者と加害者がいる。ここで、被害者に向かって、「加害者の犯行声明について、さまざまな疑惑を説明する義務がある」なんて要求するのは、狂っている。被害者に加害者の内情など、わかるはずがないではないか。わかりもしないことは、答えようがない。なのに、マスコミは、「答えない」と非難する。被害者を加害者と見なした上で、「加害者としての説明が不足する」と非難する。
 日本のマスコミは、ここまで常軌を逸している。
( ※ たとえば、どこかの不明な凶悪犯が、こういうマスコミの記者を誘拐したとしよう。そして、解放後に、「犯人がなぜ誘拐したか説明せよ」と日本中の人々が要求する。もし記者がちゃんと説明できなかったら、被害者である記者が吊し上げられる……というふうになる。)

 (8) 年金未納問題
 人質事件とは関係ないが、年金未納問題にも言及しておこう。ここにも狂気がある。
 だいたい、国民年金の未納率が4割なのだから、こんな問題で「職を辞せ」となったら、日本中の大多数の人々が「職を辞せ」となる。あなただって会社で年金納付の実績を調査されて、「過去に未納があったから懲戒解雇する」なんてなったら、大変なことになる。日本は暗黒国家になってしまう。そして、そういう暗黒国家を招こうとしているのが、今の日本全体なのだ。
 そもそも、根源を考えよう。ここでは、問題なのは、「国民の大多数が守れないような悪法」である。悪法が悪いのであって、罠にはまる国民が悪いのではない。
 ここでは、「未納の閣僚は、職を辞せ」というのは、論理がすっきりしている。なぜなら、閣僚は「悪法を悪法のまま推進する」という態度であるからだ。「嘘を付いてはいけない」と言った人間が嘘を付くのでは問題がある。
 一方、未納だとしても、この悪法を改正しようとした人が未納だったなら、別に問題がない。たとえば、「嘘を付いたら死刑」という過激な悪法があったとする。この悪法を廃止しようとした人が、本人も知らないうちに嘘を付いたことがあった、と判明したとする。このとき、世間が彼を「おまえは嘘つきだから死刑になれ」と主張するのでは、世間の各人自身も、自分が知らないうちに嘘を付いたことがあったと判明したとき、「おまえは嘘つきだから死刑になれ」と政府に命じられるだろう。
 本来なら、知らず知らず嘘を付くように罠をかけた政府こそが、非難されるべきなのだ。しかし世間は逆に、罠にはまった人々を非難しているのである。ここには、加害者を非難するのではなく、被害者を非難する、という構図がある。イラク人質問題の場合に、よく似ている。
 国民にとって最善の選択は、何か? 「悪法がある」という状況に対して、「悪法を正す」という人々を支援することだ。そうしてまさしく、悪法を正すことだ。ところが現実には、「悪法を正すという人々も、悪法に違反したから、悪人だ。彼らにも責任がある」と非難して、悪法を正す人をあえてつぶしてしまっている。かくて、悪法がずっと維持される。国民は目先のことにとらわれて、最悪の選択をしている。自分たち自身を、悪法によってあえて悪人に仕立てようとする。これもまた狂気だ。
 ともあれ、本質的な問題を見失ったあげく、枝葉末節のことばかりにとらわれて、ギャーギャーと騒いで、特定個人ばかりを非難する、というところに、日本の狂気がある。
( ※ たとえ話。増水した川がある。サソリが渡れないで困っている。すると、カワウソが「乗せてあげますよ」と言って、サソリを乗せて、向こう岸に泳いでいった。ところが途中で、サソリがカワウソを刺してしまった。「どうして?」とカワウソが尋ねたら、「おまえは無免許だろ? おれを乗せる資格がないんだよ」だって。かくて両方とも、溺れて死んでいく。)
( ※ このたとえ話を聞いた首相のコイ罪氏は、さっそく行動を開始した。「嘘を付いた国民には罰金百万円」という悪法を制定したのだ。とたんに野党党首のカン尺玉氏が反対した。「おまえの仲間のブーフーウーだって、嘘つき三兄弟だ。だからこの悪法を廃止せよ」と。すると国民は野党党首に、拍手喝采するどころか、大非難を浴びせた。「そういうおまえだって、嘘を付いたはずだ。政府に引っかかって、四月一日に嘘を付いただろ。だからおまえは、悪法について論じる資格がない。黙っていろ! 引っ込め!」と。かくて、悪法は維持される。国民は大損害。悪賢い首相ばかりが「ひひひ」と喜ぶ。「国民をだますのはちょろいものさ」と。)
 
 [ 参考 ]
 年金問題について、私の見解を示せば、以下のようになる。
 世間の意見は、こうだ。「年金制度は相互互助の仕組みだ。これを崩壊させないためにも、保険料の支払いが必要だ。納入している人は立派で、納入していない人は悪い」(朝日・朝刊・社説 2004-05-08 など。)
 しかし、私の考えでは、「納入している人は立派で、納入していない人は悪い」ということはない。悪法を守ることは立派ではないし、悪法に違反した人は悪くはない。悪いのは悪法そのものであり、悪法を守ること自体は善でも悪でもない。「そんなことでは制度が崩壊する」という意見もあるが、私に言わせれば、悪い制度は崩壊させた方がいいのである。悪い制度を崩壊させてこそ、正しい制度が導入できる。
 今の年金制度には、莫大な国費が投入されている。この制度が崩壊したならば、それだけで、莫大な国費が浮くのだ。逆に言えば、莫大な国費を投入しても、なおかつ人々に嫌われたあげく維持不可能となるような制度は、根本的に狂っている。(たとえば、同じように国費を投入するにしても、「人々に毎年十万円をプレゼントする」という制度なら、簡単に維持できる。なのに、同じように莫大な国費を投入しても、みんなに嫌われているのが、今の制度だ。朝日などの主張は、「国から十万円ををもらう人は立派で、国から十万円をもらわない人は悪い」というわけだ。論理としてはメチャクチャだ。)
 年金問題では、この狂った制度を立て直すことが急務だ。「誰に悪法を正す資格があるか」なんてことを問題視して、「資格のない奴は黙っていろ」なんてとがめていれば、いつまでたっても悪法は正されないままだ。……自分が被害を受けているとき、自分を救ってくれる人を攻撃すれば、自分は救われないのである。
( ※ ただし、「狂人には悪法がふさわしい」「狂人は自ら損する道を選ぶ」とは言えるから、現状はそれはそれで、「当然のことだ」と納得できる。では、今、なすべきことは何か? それは、われわれがまず、狂気から脱することだ。そうしない限り、いつまでたってもギャーギャーと「あいつが悪い」と非難するばかりで、泥沼から足を脱することができない。日本人は自らの狂気のツケを払う形で、莫大な損をこうむっている。制度をどんどん崩壊させながら、その崩壊する制度にものすごい巨額の国費を投入している。……狂人はあえて最悪の道を選ぶ。自らの狂気を理解しないゆえに。)
( ※ なお、現在の年金制度のどこに根本的な難点があるかを、二つ指摘しておく。一つは、「25年納付」という条件で、これを満たさないと、納付した金のかなりの部分が没収される。もう一つは、「サラリーマン家庭では妻は専業主婦」という条件で、これを満たさない家庭[共働きの家庭]では、妻の納付した金がほぼ全額没収される。「サラリーマン家庭と自営業者とで、世帯間の間の格差はない」という説明がなされることがあるが、「サラリーマン家庭同士では、専業主婦と共働きとで格差がある」というのが正しい。共働きの夫婦は大損だ。 → 朝日・土曜版 be・青色版・b4 面・コラム 2004-05-08 )





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