[付録] ニュースと感想 (68)

[ 2004.5.12 〜 2004.5.19 ]   

  《 ※ これ以前の分は、

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● ニュースと感想  (5月12日)

 「イラク人質問題」のメモ。
 話題はだいぶ収束してきたようだが、「週刊現代」や「週刊朝日」に続報ふうの話が出ている。特に週刊朝日は、マスコミの狂乱ぶりを伝えていて、興味深い。
 日本のマスコミの狂乱ぶりは、世界各国で報道されたようだ。被害者である人質をバッシングするというのが、あまりにも異様に思えたらしく、「わが国ではありえない」とか、「ブッシュが人質を非難したら、マスコミは、支持するどころか大反発するだろう」というような話。
 ま、正気ならば、そうでしょうね。日本人だって、正気ならば、そうでしょう。正気じゃないところが問題なんですが。
 ただ、今になって、正気に戻る人もいるようだ。「私は以前、そちらに非難を寄せましたが、冷静になると、間違っていました。ごめんなさい」と人質家族に詫びる人も出てきたそうだ。
 そういう人は、やっと正気に戻ったようだ。良かったですね。でも読売や小泉は、いまだに狂ったままですけど。(頭がネットにつながれているせいかも??)

 ついでに言うと、次の話もある。
 「高遠さんは、ナイフを首に当てられたとき、恐怖のあまり、泣きじゃくった」(殺される恐怖をありありと感じた、ということ。)
 「今井さんは、帰宅後、非難を受けて、ストレスのあまり、あちこちに発疹ができてしまった」(生命機能が低下するほどのストレスを受けた、ということ。)
 彼らが言うのは、「イラクで危険な目に遭うのは覚悟していた。しかし、日本でこれほど危険に遭うとは覚悟していなかった」ということだ。
 さて。してみると、日本はテロリストよりもよほど危険だったわけだ。とすれば、人質を「危険を冒すな」と非難する人は、「イラクに行くな」と言うべきではなく、「日本に帰ってくるな」と言うべきだったのだ。さもなくば、論旨が通らない。

 なお、読売(2004-05-11)は、アフガンで戦死したスポーツ選手を賛美する米国雑誌の記事を、朝刊スポーツ面で転載する形で、大々的に取り上げている。カラー写真付き。「命を顧みずに祖国のために尽くした英雄」という話だ。
 「危険を冒した」という理由で米国人の兵士を賛美する。一方、「危険を冒した」という理由で日本人の人質を大非難する。「命を危険にさらした」という理由は同じでも、米国人にはへいこらして、日本人には威張り散らす。まったく、この社は腐っているね。「危険を冒してはいけない」と言っているくせに、「死んだ」と言っては賛美し、「死ななかった」と言っては非難する。どこまで狂っているんだか。読売の目的は、たぶん、日本国民を死なせることなのだろう。

( → イラクの人質問題の本質4月25日


● ニュースと感想  (5月12日b)

 時事的な話題。「ファイル交換ソフト」について。
 ファイル交換ソフトの Winny の作成者が逮捕された。ファイル交換ソフトの作成そのものが法律違反に問われるか否かが論議されるらしい。(2004-05-10 各紙・夕刊 〜 翌日朝刊)
 ファイル交換ソフトの是非については、「利用者に得」「著作権者に不利」という議論があるが、ここでは、それはそれとして、法律的な面から私の見解を示しておこう。
 よく言われることだが、「作成者と利用者は別だ」という法律論議がある。「利用者が犯罪に利用したからといって、ソフトの作成者が罰されるのはおかしい。罰されるのは、悪用した利用者であって、作成者ではない」という論議だ。例として、「よく切れる包丁を作ったからといって、包丁の作成者を罰するのはおかしい」という論拠がある。
 しかし、これらの論理は、論理としてはまったく狂っている。物事の是非は別として、論理としてはまったく狂っている。そのことを指摘しておこう。

 第1に、「作成者と利用者とは別だ」というのは、正しい。しかし、これは、「悪いのは利用者だ」という結論をもたらすが、「作成者は悪くはない」という結論をもたらさない。「作成者と利用者とは別だ」ということからは、「作成者は悪い」とも、「作成者は悪くはない」とも、どちらとも言えない。論理学を知っていれば自明のことだ。現実にはどうなるかは、この論理からは何も結論できないのである。たとえば、包丁ならば、作成者は悪くはない。しかし、サリンならば、作成者は悪い。作成者や指導者が「おれはサリンを作っただけであり、現実に被害をもたらしたのは散布者だけだ」なんて理屈をこねても、駄目なのだ。仮に、こんな屁理屈が成立するとしたら、最悪の首謀者である麻原が「実行犯ではない」という理由で、無罪となってしまう。馬鹿げている。法律の世界では、このようなことは「言い逃れ」として、まったく認められない。「作成者と利用者とは別だ」というのは、麻原の屁理屈と同様であり、ただの「言い逃れ」であって、法律の世界では、まったく認められないのだ。
 第2に、「よく切れる包丁を作ったからといって、包丁の作成者を罰するのはおかしい」というのは、比喩の例が不適切である。包丁ならば、主たる用途は調理であり、ごく例外的に犯罪行為が行なわれるだけだ。また、犯罪行為に使うのは、その犯罪行為をなした人だけだ。一方、 Winny はどうか? 主たる用途は、犯罪である。その証拠は、利用状況を見るとわかる。プロバイダにおけるネットの回線の利用状況は、ごく少数(数%)の利用者が、9割ほどの回線量ををほぼ独占している。これは、Winny などで一日中、回線をフルに利用しているからだ。仮に、自作のファイルの頒布だけならば、こんなに回線を使いっぱなしにすることはありえない。だいたい、自作のファイルなんて、作るには膨大な手間がかかるから、そう簡単に作れるものではない。作れるとしたら、自作のビデオ画像だろうが、凡人の日常スナップ画像など、誰も見るはずがないから、こんなのは無視していい。結局、主たる用途は、著作権のあるファイルの頒布、つまり、著作権違反という犯罪である。 Winny は主用途が犯罪なのだ。包丁とは異なる。

 さて。以上の論拠とは別に、根源的に考えてみよう。先の論拠はあくまで論理に基づくが、これはつまりは形式の問題である。その要旨は、「法律に違反していなければ泥棒をしてもいい」ということだ。それはそれで一つの立場だが、こんな説に従えば、「法律に違反していなければ殺人をしてもいい」ということになるし、「独裁政権が勝手に法律を作ればどんな国民弾圧も許される」ということになる。正気の沙汰ではない。
 法律はただの形式にすぎない。人々の判断が迷いがちなときに、法律によって形をはめて迷いをなくす。そういう便宜がある。しかしこの形式はたまに現実にそぐわなくなることがある。このとき、「形式の方が正しく、現実の方が間違っている」という立場を取るべきではない。「法律に違反していなければ殺人をしてもいい」ということはありえないのだ。ここでは、法律が間違っているのであり、法律の方を直すべきなのだ。物事の本質を見失って、「法律に違反していなければ殺人をしてもいい」というような主張をするときには、もはや人間性が論理の奴隷となってしまっている。人間が機械に従うようなものだ。「本末転倒」という言葉がぴったりだ。「シッポが犬を振る」というような状況だ。

 ここで、想定してみよう。仮に、このような屁理屈ふうの論理が成立するとしたら、どうなるか? とんでもない状況となるだろう。
 「作成者と利用者とは別だ」とか、「よく切れる包丁を作ったからといって、包丁の作成者を罰するのはおかしい」とか、そういう屁理屈が成立するのであれば、生物兵器についても同様のことが成立する。たとえば、狂犬病のウィルスがある。これは感染すると、致死率がほぼ 100%ほどだ。このような危険なウィルスを作成したり管理したりしていた人が、店頭に置いて、「ご自由にお取りください」としたら、どうなるか? 馬鹿なガキたちがさっそく面白半分で頂戴するだろう。そして、近所のよく吠える犬に感染させる。犬は狂犬病を発症して死ぬ。しかし、その前に、狂犬が狂ってヨダレを垂れ流して、そこらの人間に噛みつく。人々は狂犬病で死ぬ。
 別に、狂犬病に限らない。天然痘であれ、インフルエンザであれ、ペストであれ、コレラであれ、エイズであれ、何でもいい。こういうものを「ご自由にお取りください」として、「そのあとで犯罪が起こっても、犯罪を実行した人が悪いのであって、おれは関係ないからね」なんてことになってしまう。 Winny が許容されるというのは、それと同様なのだ。
 これらの病原菌は、生物兵器となる。生物兵器は、ただの包丁とは違って、大量破壊兵器となる。ここでは、「包丁と大量破壊兵器とはまったく異なる」という点が大事だ。犯罪者にとってはどちらも変わりはないが、社会にとっては被害の程度が雲泥の差だ。そして、 Winny は、包丁よりも大量破壊兵器に近いのである。生物兵器と同様に、莫大な数まで増殖していくからだ。包丁ならば、悪用された包丁は一つで済む。 Winny ならば、莫大な数が悪用に利用され、莫大な数の犯罪が生じる。包丁ならば、一つの包丁が一つの犯罪を生むだけだが、 Winny ならば、たった一つの Winny が数十万の Winny に増殖し、それらが数千万の犯罪を生む。その点では、たった一つのウィルスが増殖して、莫大な数の死者をもたらすのと同様だ。
 生物兵器でなく、毒物でもいい。青酸カリやサリンやマスタードガス(びらんガス)などがある。それを生産した人と、それを使ったテロリストは、たしかに別人だ。しかし、だからといって毒物を市中に放置した人がいれば、その人の責任が問われないでいいはずがない。法律的な是非はともかく、社会的に許されないはずだ。ずる賢い人がいれば、お菓子袋にサリンを入れて、路上に放置する。子供がそれを見つけて、こっそり盗んで、あちこちに逃げてから、お菓子袋を開ける。ボン。かくて、世の中にサリンがあふれる。ここで犯人は、「盗んだ子供が悪い。おれのせいじゃないね。作成者と実行者は別なんだ」と平然と居直る。
 Winny は、サイバーテロリズムの道具なのだ。Winny が破壊するものは、世の中にいる平凡な人々ではなくて、世の中にいる優秀な創造者(クリエーター)である。たいていの人は、平凡だから、「おれには関係ないもんね」と平然としていられる。むしろ、「創造者の作成したものを、無料で盗めるから得だな」と喜ぶ。しかし、創造者を破壊するということは、創造活動そのものを破壊するということだ。
 Winny は、愚者を破壊しない。賢者を破壊するだけだ。だからこそ愚者は喜ぶ。Winny は、現在の世界のなかで、最善の部分を破壊し、最悪の部分だけを増殖させる。いわば、癌のようなものだ。こいつを駆除しないと、世界そのものが崩壊していく。最悪の場合、この世からあらゆる知的な創造活動が失われ、人類はほとんど原始人のレベルまで退化していくことになる。そして、そのあとの世界には、猿のような人類と、賢明なコンピュータだけが生き残るのである。

 例。
 新聞もテレビも書籍も雑誌も、Winny などのソフトで無料聴取ができるので、新聞社も放送局も出版社も倒産する。会社の技術開発も、何か開発してもすぐにネットに流されてしまうので、あらゆる技術者が失業する。著作権法違反もやり放題なので、ソフトの技術者はすべて失業する。小説家も批評家も音楽家もみんな失業する。生き残るのはブルーカラーだけだが、彼らに指示してくれる技術者がいないので、粗悪品ばかりが製造されて、そのうち、エラーの蓄積により、自己崩壊していく。
 最後に生き残るのは、政府だけだ。政府だけは、売上げに依存しない。かくて、政府の広報機関としての新聞とテレビと書籍と雑誌だけが生き残る。
 そして、これは、仮想の話ではない。こういう国は、すでに実現している。北朝鮮がそうだ。技術者はないがしろにされ、ブルーカラーだけが優遇され、粗悪品を製造し、国民は餓死寸前となり、政府だけがマスコミを操作する。
 Winny がめざすのは、こういう世界だ。そして今、日本はまさしく、この道をたどりつつある。先の人質問題や年金問題を見ればわかる。世間は狂気的にふるまっている。政府の犬のようなマスコミがやたらと人心を操作する。
 さて。ここで狂気的にふるまう人の大半が、ネット・オタクであった、ということに注目しよう。ネットに熱中している人ほど、人質問題や年金問題で狂気的にふるまった。われわれはもはや、コンピュータのせいで脳を汚染されつつあるのだ。
 コンピュータやネットは、人々の間に、狂気と低脳化を増殖させる。その典型的な例が Winny なのだ。コンピュータやネットは、すばらしい利益をもたらしてくれたが、それと同時に、すさまじい害悪を撒き散らすこともできる。「技術の発達は常に善である」という素朴で牧歌的な信仰は、もはや成立しないのである。

 [ 余談 ]
 だから、「ふーん」なんて思っているだけじゃ、駄目ですよ。「 Winny は悪ではない」なんて論陣を張っている人々は、すでに頭を汚染されているのである。だからこそ、「泥棒は善である」というにも等しいことを主張して、平然としていられる。理屈は立派だが、肝心の倫理観が喪失してしまっている。そのことを反省すらしない。彼らは、自分が病気に感染しているのに、気づかないだけだ。
 じゃ、どうすればいい? ネットからは、なるべく離れましょう。ネットに接している時間が長ければ長いほど、あなたはすでに感染しつつあることになる。
 こいつは、脱することの難しい泥沼みたいなものだ。エッチな悪女みたいなものだ。「快感だ」なんて感じて、深みにはまっていると、魂が腑抜けにされる。……比喩みたいだけど、そうじゃないですよ。エッチにはまっているネット・オタクがいっぱいいるでしょ?

 [ 補足 ]
 法律論を述べる。(細かな話なので、読まなくてもよい。)
 法律論でいえば、ソフト作成者は、違法を免れない、と私は思う。なぜなら、Winny は自己完結していないからだ。Winny は、それ単独では、何もできない。たくさんいる利用者がネット上で協力して、やっと一つのファイル配布が可能となる。誰か一人が犯人なのではなく、利用者全体が犯人なのだ。となると、対比すべきは、「作成者一人と利用者一人」ではなくて、「作成者一人と利用者全体」となる。ここが、包丁とは決定的に異なる。
 「利用者全体」は、「作成者一人」とは無縁ではない。作成者は、こういう利用者集団が登場することを前提として、ソフトを作成した。誰か一人が勝手に変な利用をしたのならば、作成者は「それは例外的で予測不可能」という理由で免罪を得ることはできる。しかし、利用者全体が規定通りの利用をしたのならば、「それは例外的で予測不可能」という理由で免罪を得ることはできない。
 ゆえに、法律論でいえば、ソフト作成者は、違法を免れない、と私は思う。そして、その理由の根本的な事情は、毒物や生物兵器の配布と同様である。

 [ 付記 ]
 なお、法律一般について、言及しておこう。
 「合法的なズルをしよう」と思う人が、世間にはけっこう多い。しかし、法律というものをうまく利用しようとしても、普通はまず無理である。たとえ自分ではその理屈が通ると思っても、裁判所が認めてくれないのだ。法律というものは、けっこう緩く作られていて、あまり厳密ではない。理系におけるマニュアルなんかとは全然違う。基本だけが定められていて、実際の応用は判例に任せられる。それゆえ、社会の事情が変化するにつれて、判例もどんどん変わっていく。
 逆に言えば、その分、常識に反するような行為は、たとえ形式的には合法に見えても、違法と判決されることが多い。最もよく見られる例は、「脱税」である。経済界では、法律の網をくぐるような脱税行為が、しばしば見られる。法律に従えばどう見ても合法的と思えるのに、国税庁が「法の網をくぐろうとする行為」と見なすと、そのせいで、「違法」と見なされて、莫大な追徴課税をされる。
 つまり、法律の世界では、細かな論理よりも、常識の方が重視される。「合法的なズルをしよう」と思っても、そうはうまく行かないことが多いのだ。理系の人だと、ここのところを勘違いしやすいので、注意しよう。世の中、論理だけでは通らない。常識こそが優先される。もちろん、「法律に違反していなければ泥棒をしてもいい」というような論理は、裁判所は決して認めないのだ。法律をどんどん拡大解釈して、違法すれすれと見える泥棒も処罰する、というのが、普通である。
 世の中、悪いことはできないようになっているのだ。少なくとも小物は、必ず処罰される。
( ※ ただし超大物は別。だから、どうせやるなら、ブッシュのように、百人単位か千人単位で殺人しなさい。あるいは、小泉のように、数十兆円の規模で日本の富を破壊しなさい。それなら、国民から拍手大喝采です。何か政策で失敗しても、被害者に向かって「自己責任だろ」と言えば、国民は納得してくれます。)
( → 12月05日 ファイル交換ソフト ,4月12日b 著作権侵害 ,4月26日 転落教師 )


● ニュースと感想  (5月13日)

 前項の補足。「Winny」について。
 Winny にも、メリットはある。それは、「ピア・ツー・ピア」という方式(サーバーに依存しない方式)での、ファイルの自由な頒布だ。悪用されるとまずいが、メリットもある。
 この問題は、どう解決するべきか? 
 Winny の弁護側の主張だと、「メリットがあるから、全面的に認めよ」となる。しかし、それだと悪用のデメリットがある。この件は、前項で述べたとおり。

 では、どうするべきか? これについては、青酸カリと同様にすればいい、というのが私の判断だ。青酸カリは、毒物であり、人々を大量に殺す危険性がある。一方、メッキや写真現像などの工業的な現場には必要不可欠だ。青酸カリを社会から除去すると、今日の工業社会が成立しなくなってしまう。では、現実には、どうしているか? 青酸カリは「厳重な管理の下で許容される」というふうになっている。これに違反した者は、厳罰に処される。
 「ピア・ツー・ピア」のソフトも、このタイプであれば許容される、と私は考える。つまり、「厳重な管理」が条件である。この場合、著作権法違反の行為は、自動的に排除されるし、何らかの理由で人為的に違反をしたならば、厳罰に処される。
 現在の Winny は、この「厳重な管理」という条件が満たされない。青酸カリの広範な頒布と同様なことをしている。社会にひどい害悪を撒き散らす。こういう行為は罰されて当然だ、と見なしていいだろう。
( ※ なお、万が一、Winny の制作者が罰されないとしたら、今後、コンピュータ・ウィルスの制作者も罰されなくなるだろう。ウィルスを、感染させる形でなく配布して、「受け取った人が承知の上でウィルスを送信する」という形で、大量に頒布する。あるいは、ネット上に置いて、いくらでもウィルスを盗めるようにする。ここで、裁判所が「作製者と実行者は別であり、作製者は免罪される」なんていう判決を下したら、世の中、ウィルス天国だ。最近、やたらとウィルス・メールが来ているが、やがて、毎日1ギガバイトぐらいのウィルスが1億通ぐらい届いて、しかもそのすべてが国家に許容されている、なんていうふうになりかねない。……はっきり言えば、Winny なんてのは、「利用者が自分であえて感染するウィルス」みたいなものである。「コンピュータ・ウィルス」を「エイズ・ウィルス」とか「青酸カリ」とかに置き換えて考えれば、その理由がわかる。)

 [ 付記1 ]
 Winny については、きれいごとを言っている人もけっこういるが、勘違いしないようにしよう。この点では、作成者自身が、はっきりと言明している。彼の狙いは「著作権の破壊」である。「社会を破壊する」とか「財産権を破壊する」とか、そういう狙いのアナーキストふうのテロリストと同様で、完全な確信犯だ。少なくとも彼自身は、自分がテロ行為をしていることを、はっきりと自覚している。その上で、「おれはこうしたい」と確信しているわけだ。
 ここのところを誤解しないように注意しよう。テロリストが「財産権を破壊する」と主張すると、「そうか。これで金持ちの財産を自由に盗めるな」と貧乏人は喜ぶ。そしてテロリストは「しめしめ。社会を破壊しつつあるぞ」と喜ぶ。ここでは、人々はまさしく、テロリストの狙いに乗ったことになる。そのことを理解するべきだ。
 テロリストが「社会の破壊を狙いとしている」と言明しているのに、「社会の破壊があっても、この道具にはこういうメリットがありますよ」なんて弁明するのは、うまく踊らされている阿呆にすぎないのだ。Winny の作成者に喜ばれていると思ったら、とんでもない勘違いだ。作成者はたぶん、「馬鹿なやつらだ。勘違いして、喜んでやがる」と軽蔑しているだろう。
 思い出そう。かつて、過激派と呼ばれるテロリストが社会破壊活動をしたことがあった。ここで、「過激派にもそれなりのメリットがある」などと主張した社会評論家がいた。彼らの主張によれば、過激派の爆弾で死者が出て家族が悲しんでも、「爆弾という道具にもメリットがあるから、仕方ないじゃないか。爆弾を自由に使うのを許容しよう」ということになる。これと同様のことを主張している輩が、今の世の中にもいっぱいいる。勘違いの極み。
( ※ 正確に言うと、Winny の作製者は「著作権の概念を変えようとする」と言っている。これはつまり、「財産権の概念を変えよう」と言って泥棒や爆破をするとか、「生存権の概念を変えよう」と言って殺人をするとか、そういう手合いと同様である。違法行為を合法化しようとして、違法行為をふんだんに行なう。テロリストの発想そのものだ。)
( ※ オマケで言えば、こんなのは当り前のことである。ところが、政府は「イラクの民兵はテロリストだ」なんて詭弁を弄するから、本当のテロリストが何であるかがわからなくなってしまっている。イラクの民兵はレジスタンスであり、Winny の作製者はテロリストである。前者は、占領者から祖国を防護しようとするだけであり、自分のものを守ろうとするだけだ。一方、後者は、著作権者の著作権を破壊しようとするものであり、他人のものをぶちこわそうとしているのだ。両者はまったく異なる。テロという用語を正確に使おう。)

 [ 付記2 ]
 ついでだが、私の根本態度を示しておこう。それは「表面的な損得に惑わされるな」ということだ。誰が得だとか、誰が損だとか、そんなことはどうでもいい。その結果どうなるかということが大切だ。
 ここでは、「社会にとってどういう損得や効果が発生するか」という点も大事だが、もっと大事なことがある。それは、人間的な悲しみを理解する、ということだ。
 Winny の狙っていることは、著作権の破壊であり、著作者の権利を侵害することであり、著作者というものをこの世から抹消することだ。テロリストが権力者を嫌悪して排除するように、Winny を作成したプログラマの著作権を嫌悪して排除しようとする。なぜなら、彼は、公務員だからだ。自分の努力でプログラムを開発して生計を立てているのではなくて、国民の血税で生計を立てている。だから、他人が生計を立てる手段を破壊しても、何の損も生じない。それどころか、他人が損をするのを見ると、嬉しくて仕方ないのだ。他人がどんどん損をして、他人の生計手段がどんどん破壊されるのを見ると、嬉しくて仕方ないのだ。テロリストというのは、そういうものだ。
 ここでは、人々は、「それによって自分がどう損得をするか」ということは、忘れた方がいい。「それによって被害者がどれほど悲しむか」ということを、考えるべきだ。創作手段を失った音楽家・映像作家・小説家など。実は彼らは、あえて芸術という不安定な道を歩んで、自分の人生を賭けるという危険を冒すのであり、そして結果的に、われわれの人生を豊かにしてくれるのだ。……彼らの感情を察するべきだ。そのためには、人間的な愛や悲しみを、普段から十分に実感しておくことが大切だ。そして、それを忘れた非人間的な人々が、「自分さえ得すればそれでいいさ」とばかり、テロリストに加担するのである。
 ネットに入りびたっていると、人間的な感覚や感情を失いがちだ。そのことに注意しよう。
( ※ ついでに言っておこう。Winny の開発者は、著作権の破壊に熱中したあげく、自分の人生を破壊したことになる。彼が勤務先を懲戒免職になったあと、雇用してくれる民間企業がどれほどあることやら。うらわびしい人生が予想される。まともな結婚はまず不可能だろう。もし既婚なら、奥さんは逃げ出しそうだ。……やっぱり、悪いことはやめておきましょうね。一般に、悪いことをすると、社会を破壊するよりも、まず自分自身の人格を破壊するものだ。……あなたも、もし「 Winny はすてきだ」なんでどこかに書いたりすると、やがては開発者の二の舞になりますよ。最初に、ツラがいやしくなる。)

 [ 補足 ]
 法律論を少し述べよう。(別に読まなくてもよい。)
 法的に厳密に言えば、「作成者」と「配布者」とは区別される。
 たとえば、青酸カリを実験室で作成する科学者はたくさんいるが、ちっとも問題ではない。マスタードガスを作成する研究者や、エイズのウィルスを増やす研究者も、ちっとも問題ではない。問題なのは、それらのものを社会に広く配布することだ。つまり、配布することで、容易に犯罪に用いられるようにすることだ。「作成者」でなく「配布者」が問題となる。
 だから、Winny の作成者も、それを個人的にプログラムして個人的に楽しむだけならば、問題はない。ただし、それをネット上に置いて、誰でも自由に取得できるようにした段階で、犯罪となる。当然、Winny を雑誌付録に掲載することも、犯罪となる。
 作製したことが悪いのではなくて、配布したことが悪い。だから、ここでは、作製者が配布者を兼ねていたことがポイントとなる。なお、作製者と配布者が別人である場合も、作製者が悪意なく渡したなら、やはり犯罪の責任を負う。「厳重な管理」という義務を果たさなかったことになるからだ。青酸カリをいい加減に放置するのと同様である。
( ※ ただし悪意なしに手渡した場合、情状酌量の余地はある。……とはいえ、今回の場合、とうてい適用されない。Winny はもともと著作権違反を前提としたソフトだからだ。)
( ※ なお、違反にならないのは、「自分が自分に渡す」という場合に限られる。たとえば、 CD-R へのバックアップ。一方、他人同士であれば、違反である。たとえメールの添付ファイルで個人的に送付するとしても、当然、著作権法違反である。まして、不特定多数に渡すのは、配布と同様であるから、方法がピア・ツー・ピアであるかどうかは、関係がない。)
( ※ 週刊アスキー最新号によると、WinMX については、音楽の著作権団体が、利用者全員に警告文を送付したそうだ。私としては、どうせなら警告文でなく、ただちに損害賠償を求めればいい、という気もするのだが。……なお、Winny の場合、この開発者を助手として雇用した東京大学には、雇用者としての責任も発生しそうだ。「おたくの職員が研究業務の一環としてなしたことで、こちらは損害を受けたのだから、賠償を要求する」と求めれば、東京大学は莫大な金額の損害賠償の責任が生じるだろう。支払いが不可能なら、債務不履行で、倒産させるしかない。東大倒産だ。かくて、教授を全員解雇。……おもしろいかもね。)
( ※ 「Winny はすでに蔓延しているから取り締まりが困難だ」という説があるが、話が逆だろう。蔓延しているから、簡単に逮捕できるのだ。たとえば、駐車違反は蔓延しているから駐車違反の犯人を簡単に取り締まれるが、殺人はめったにないから殺人事件の犯人を逮捕するのは非常に困難だ。Winny なら、「罰金 20万円」と定めて、見つけしだい警察が請求書を送れば、ネットでソフトをちょっと稼働させるだけで、数百億円が国の収入になるだろう。ボロ儲けだ。……その分、減税してね。)


● ニュースと感想  (5月14日)

 「欠陥OS」について。
 Windows に欠陥があることを突いて、ウィルスが増殖している。これに対するマイクロソフトの見解。さっさと修正ソフトを入れるべし、という意見で、次の通り。
 「見るからに怪しい人物が外に立っていることを知っていながら、家のドアを開けっぱなしのままにしていれば、襲われた被害者の責任はゼロとは言えないはず。ネット社会も同じ」(読売・朝刊・社会面 2004-05-13 )
 両者が同じ? まさか。全然違う。
 このたとえでは、現状では、「家のドアを開けっぱなしのままにしている」のではない。「もともと閉まらないドアになっている」のだ。これが問題なのだ。つまり、欠陥OSであるせいで、閉めたくても、閉まらないのだ。でっかい穴ができているんだから。
 で、でっかい穴をふさぐためには、そのためのパッチを当てればいい。ところが、である。このパッチを当てることを、マイクロソフトは制限しているのだ。
 つまり、以前ならば、「ご自由にどうぞ」だったが、今では「いちいち許可を得る必要があります」というふうに変わってしまった。以前ならば雑誌のCD-ROMに修正ソフトが添付されていたが、今ではいちいちネットに接続する必要がある。ま、ADSL ならばそれでもいいが、ADSL の普及率はそんなに高くない。まだ数割ぐらいはダイヤルアップだ。これらの人々は、修正することが、物理的に不可能である。
 つまり、以前ならば他の人が「ドアにカギがかからないなら、私がカギをかけてあげますよ」だった。ところが今では、「おれたちの許可を得なければ、カギをかけるのは禁止する。なぜなら、この穴を作ったのは、おれたちなんだからな。直す権利も、おれたちだけにある」と威張っている。欠陥を作ったことを、詫びるどころか、威張っている。

 ふうむ。ゲイツも小泉も、よく似ていますねえ。自分が問題を起こしたときは、「ごめんなさい」と詫びるかわりに、「おまえが悪いんだ」と被害者を攻撃するのである。いわゆる「自己責任」論。(本当は、被害者への責任転嫁。)

 [ 余談1 ]
 この記事には、面白い話がある。メール・ウィルス「 I LOVE YOU 」を作成した学生が、ウィルス対策会社のトレンドマイクロに「雇用してくれ」と申し込んだという。「技術力がたっぷりあるよ」というつもりだったらしいが、「反社会的な人物を雇うことはありえない」と、同社はあっさりお断り。
 当り前ですよね。こんなのを雇用したら、会社の破滅だ。誰もトレンドマイクロの製品なんか買わなくなる。「自分でウィルスを作って、自分でワクチンを作る? ふざけるな」と顧客は怒り狂う。

 [ 余談2 ]
 上の話は、「自分でウィルスを作って、自分でワクチンを作って、大儲け」という話。マイクロソフトだって、これほどひどくはない。Windows のパッチは、有料ではないのだから。
 なお、仮に有料だとすると、Windows の欠陥はどんどん増えるばかり。欠陥が増えるほど、マイクロソフトが儲かる、という図式。……いくらなんでも、そこまでひどくはないですよね。
 いや。そうでもないみたいだ。歴史を見よう。Windows は今ままでずっと、ひどい欠陥OSで、「次のはもっといいから次のを買え」と言い続けてきた。しかし、現実には、加速度的にひどくなる。改善されたのは、Windows98 まで。以後は、違う。WindowsME は改悪されただけ。WindowsXP は、セキュリティホールが莫大にあり、メンテナンスの頻度は史上最悪で、史上最悪の Windows かもしれない。……どう考えても、Windows の欠陥は新しいものほど、どんどん増えるばかりだ。
( ※ となると、「毎度毎度、新しいパッチを当てる」よりは、「Windows98 のまま」というのが、個人レベルでは最善かもしれない。 → 9月12日


● ニュースと感想  (5月14日b)

 「ロボット」について。
 日本はロボット先進国であるといわれる。ただし、二足ロボットでは世界で最先端に位置しているが、それ以外のロボットではさほどでもない。医療用・災害対策用・探査用・軍事用では、欧米に劣っている。これは、すでによく知られた話だが、記事にも出ている。(朝日・朝刊・経済面 2004-05-13 )
 記事によると、二足ロボットでは日本は最先端に位置しているようだが、実際には、たいしたことはない。研究レベルに過ぎず、実用段階ははるか先だ。ホンダのアシモでさえ、あらかじめプログラムされたとおりに、床の上を歩いたり、階段を上下するのがやっとだ。「家庭で役立つようになるまでには、何年かかるか、わからない」とホンダの担当者は言っている。

 そこで、私が見解を述べておこう。何年かかるかは、わかる。現状のやり方を取っている限り、永遠に不可能である。つまり、現在の二足ロボットは、原理的に間違った方法で歩行しており、このような歩行方式をとる限り、実用段階に達することは原理的に不可能である。「何年かかるか」には「永遠に無理」と答えるしかない。
 では、なぜか? そもそも、現状の方法は、目的が間違っている。「平らな床の上を歩くこと」は目的にはならない。「凸凹の面を歩くこと」を目的とするべきだ。換言すれば、「床が少しぐらい凸凹していても、自動的に修正して、倒れないで歩くこと」が目的となる。
 そして、そのためには、「感覚センサー」が絶対に必要だ。この感覚センサーは、原理的には二通り必要である。さらにまた、感覚センサーから入力した情報をコンピュータに入力してフィードバックする仕組みも、二通り必要である。
 なぜか? それは、現実の生物がそのようになっているからだ。そして、この仕組みは、まともに歩くためには最小限、絶対に必要なものとなっている。また、コンピュータも原理的に異なるものが二種類必要である。そのうち一種類は、グラフィックボードみたいなもので、多数の感覚センサーからの情報をアナログ的・並列的に高速処理するために使う。
 結局、二種類の二通りのハード的な処理機構と、二種類のCPUが必要となる。現状では、そのすべてが備わっていない。だから、現状では、凸凹の床を歩くことは不可能である。そもそも、凸凹の床を歩くことは、目標とすらなっていない。……だから、現状の開発路線を取る限り、二足ロボットが実用段階に達することは、永遠に不可能である。
 ただし、逆に言えば、上記のシステムをすべて備えれば、二足ロボットはただちに実用化が可能である。そのためには、特殊な技術は、何も必要ない。既存の技術レベルで、新たにシステムを新設計するだけだ。私がチームリーダーでやれば、半年ぐらいで実現できると思う。(ただし、非常に優秀な部下が百人は必要だ。十人じゃ無理。)

 ともあれ、二足ロボットの開発方法を、ここに記しておいた。二足ロボットが実用化するかどうかは、主に経営方針によって決まる。卓抜なリーダーと、十分な資金。この二つが必要だ。部下は、ゼロでもいい。資金さえあれば、部下はいくらでも雇用できるからだ。とにかく、必要なのは、才能と金である。努力と汗ではない。……ここのところを勘違いしているから、どこでも自由に歩ける二足ロボットはなかなか実用化されないわけだ。

( ※ 参考文献は? ない。あるとしたら、とっくに実用化されている。参考文献は、本項だけにある。あとは、私の頭のなかだけ。)
( ※ ついでに言えば、超高速推論マシンの作成方法は、別途、数学のページを参照。……だけど、これは、原理を示しただけであり、実用化はものすごく困難だ。十年以上かかる。)


● ニュースと感想  (5月14日c)

 「単為生殖」(単為発生ともいう)について。
 単為生殖を人為的になした実験の記事が、先日報道された。また、解説記事も出ている。(読売・朝刊・科学面 2004-05-12 など。)
 新聞は面白おかしく、「子供の誕生に男は必要ない」などと語っているが、こういう三流ジャーナリズムに毒されると、真実を見失う。だまされないように、注意しよう。
 生物の最も基本的な違いは、「無性生殖か有性生殖か」である。前者は単細胞生物がほとんどで、後者はそれ以外のほとんどすべての生物が当てはまる。厳密に言えば、無性生殖の単細胞生物は、「半生物」とでも呼ぶべきものであり、普通の生物とはまったく異なる。この話は、進化論のページで説明しておいた。( → クラス進化論

 このことを前提とすれば、単為生殖というものの正体もわかる。
 単為生殖は、有性生殖をなす生物における、例外的な場合なのである。その種よりも古い種(祖先)では、普通の有性生殖がなされていたのだが、何らかの理由で、単為生殖をした方が有利な状況となり、その種に単為生殖という形式が備わった。と同時に、そこから先は、もはや進化する方法を失った。というのは、進化のためには、有性生殖が必要不可欠だからだ。
 
 では、今回の実験では? 
 単為生殖が人為的になされた。ここでは、「精子の遺伝子がまったく不要である」ということにはならない。なぜなら、哺乳類では、劣性遺伝の形の欠陥遺伝子が、数個ないし数十個はある、と推定されているからだ。当然、あなたも私も、誰もが欠陥遺伝子をもつ。しかるに、それらの遺伝子は、劣性遺伝であるから、ペアとなる遺伝子が正常であれば、異常が発現しない。
 単為生殖の場合は、そうではない。欠陥遺伝子があれば、欠陥遺伝子がそのまま発現する。つまり、ペアとなる正常な遺伝子がないせいで、劣性の欠陥遺伝子が二つそろうので、劣性の欠陥遺伝子がそのまま発現する。そのなかには致死的な遺伝子もかなり含まれている。
( ※ ここでいう欠陥遺伝子というのは、「ちょっと機能が劣る」というようなものではなくて、「生命維持に重大な障害をもたらす」というような遺伝子である。具体的にいえば、フェニルケトン尿症やガラクトース血漿という、劣性遺伝の遺伝病がある。)

 高度な生物がエラーなしに発生するためには、一対の遺伝子が存在することが必要だ。一方だけでは、エラーが生じたあとで、それを補修するすべを失う。「一方の遺伝子だけで済む」ということはない。また、二つの遺伝子があるからこそ、生物には遺伝子的に多様な個体集団が存在するのであり、そこから進化も生じる。( → クラス進化論 )
 「メスだけあればいい」なんて思うのは、素人のたわごとにすぎない。そんなことを言うのであれば、むしろ、「オスだけあればいい」と言うべきだ。オスならば、XとYの両方の染色体がある。ないのは、卵子の遺伝子ではなくて、卵子の栄養分(など)だけだ。そんなものは、他の生物からでも、代用できる。(たとえば、マンモスの卵子のかわりに象の卵子の栄養分を使っても、大丈夫かもしれない。この実験は、現実に予想されている。)
 だから、「メスだけあればいい」なんてことはない。そのような生物種は、たとえ現実に存在しても、やがてはエラーが蓄積して、絶滅する。どうせなら、「オスだけあればいい」と言うべきだ。それなら、一時的には「オスだけ」だが、その後、オスのX染色体からメスを誕生させることができるので、「オスとメスの共存」が可能となり、普通の生物種になれる。
( ※ だから、マンモス復活を狙うのならば、オスのマンモスであることが必要不可欠だ。メスのマンモスでは、Y染色体が入手できないので、マンモスはたとえ復活しても、一代で終わる。それでは真に復活したことにはならない。)
( ※ 今回の実験の意味も、その観点で理解するのが正しい。つまり、「メスだけあれば済む」のではなくて、「オスだけあれば済む」可能性がわかったわけだ。つまり、「メスを作る方法がわかった」ということだ。……ただし、「メスからメスを作る方法がわかった」だけであり、「オスからメスを作る方法」はまだ完全にはわかっていない。)
( ※ なお、「メスからメスを作る」というだけでは、「メスからオスを作る」ということが根本的に不可能なのだから、それだけ見れば、たいしたことではない。ギリシアの古典喜劇で「女たちが反乱して男なんかいらない」という、アリストファネスの「女の平和」があるが、しょせん、女だけというのは、喜劇の話である。「女だけの世界」も「男だけの世界」も、気持ち悪い。……ただし、「女だらけの世界に、男はたった一人。私だけ」というのは、最高に素晴らしい。あるいは、最悪のしんどさ。)


● ニュースと感想  (5月15日)

 「年金問題」について。
 年金問題について、あれこれと騒ぎになっている。納付率が低いのが問題だ。これについてあれこれと理由が述べられているが、結局は、「いくらもらえるかわからない」というのが、最大の理由だ。そして、これに対しては、「貯蓄の形にすればよい」というのが私の主張だ。

 「いくらもらえるかわからない」というのには、三つの理由がある。
 第1に、さまざまな条件がある。「納付は 25年」というような条件だ。そして、この条件を満たさないと、納付額が没収される。国民は非常に不安になる。たとえば、あなたが「自分はずっと真面目に払ってきている。20年も払ったぞ」と思っても、将来、失業して払えなくなったとき or 手続きミスで払わなかったとき、もらえるつもりだった全額を失う。確実にもらえるのは、すでに 25年間払った人だけだ。( 25年未満の場合、払った全額が没収され、1円も戻ってこない。……典拠は、読売・朝刊・くらし面 2004-05-12 の年金特集。)
 第2に、将来の給付額が未定である。たとえ「納付は 25年」というような条件をすべて満たしても、事情によっては、払った額よりも少ない額しかもらえないかもしれない。特に、共働きの家庭では、その可能性が強い。( → 98n_news.htm の最後のあたり。)
 第3に、基本として、もらえるとしても、もらえる額が払った額よりも多いという保証がない。払った額のうちの8割ぐらいの分は戻ってくるだろうが、残りの2割の分についてはもらえるかどうかわからない。(若手だと、基本的に、もらえない可能性が高い。ぼったくられるわけだ。)

 こういう不安から、人々は納付をしたがらない。それに比べれば、貯蓄の方が、ずっと安心できる。上の三つの問題はないからだ。まともな頭が働けば、年金よりは貯蓄を選ぶだろう。
 貯蓄だと、物価上昇に対するスライド制はないが、通常なら、物価上昇率とほぼ同等の金利が保証されるから、物価上昇のことはあまり気にしなくてもいいだろう。また、いざとなったら、貯蓄を解約して、資産(不動産・株)に投資すれば、インフレに対抗できる。また、最初から、貯蓄のかわりに株式投資をしていてもよい。

 というわけで、貯蓄(または資産投資)の方が、年金よりもマシである。というわけで、多くの人々は、年金への納付をやめて、貯蓄をするわけだ。
 この点に注意しよう。マスコミはしばしば、「納付額が高すぎるから納付できない」と主張するが、別に、そんなことはないだろう。もしそうならば、国民の貯蓄総額は減っているはずだ。現実には、莫大な貯蓄が形成されている。つまり、人々は「年金へ納付しないで金を使いすぎている」のではなくて、「年金へ納付しないで個人的に貯蓄をしている」のであり、これが問題なのだ。
 そして、ここまで現状を理解すれば、なすべきこともわかる。「年金に貯蓄の性格をもたせること」である。すなわち、次の三点だ。
 第1に、払った額は必ず、給付・返却してもらえること。つまり、「納付 25年」というような条件をなくす。
 第2に、払った額を上回る額を、給付・返却してもらえること。つまり、払った額よりも少しの額しか返却されない」という危険をなくす。共働き世帯に対しては減額措置を廃止し、若年層に対しては給付水準を確実に保証する。
 第3に、いざという場合の解約を認める。全額解除はともかく、半額ぐらいの解除は認めるべきだ。そして、その分は、将来的に増額で返済すればよいことにする。逆に言えば、年金を担保として、国からの借金を可能とする。(ついでに言えば、現状では、年金を担保として民間金融機関から借金することは禁止されている。)

 この三点を保証すれば、国民は安心して、貯蓄代わりに年金納付をすることができる。政府の資金援助があるし、物価上昇への補償もあるから、そこらの貯蓄よりもずっと安全かつ有利である。黙っていても、年金の納付率は上がる。これがベストだろう。

 さて。基本はそうだとして、具体的にはどうするべきか? 
 ここではまず、物事の本質を考える。それは、「年金は国民の互助制度だ」ということだ。そして、それは、「社会保障」とは別のことなのである。だから、「互助は互助、社会保障は社会保障」というふうに、はっきりと区別すればよい。これですべての問題は解決する。逆に、互助と社会保障をごちゃ混ぜにすれば、さまざまな矛盾が噴出する。それが現状だ。
 現状の問題は、次のことだ。
 互助である「年金」に、所得平準化という「社会保障」を組み込んだため、「年金料金を払えば払うほど損をする」という仕組みになっている。そのせいで、納付率が低下する。そこで、納付率を上げようとして、さまざまな義務を課するが、その義務に反すると罰が科されるので、ますます納入意欲を下げる。また、所得平準化をなす際、所得の把握が前提となるが、それが困難なため、不平等をもたらし、そのせいでやはり納入意欲を下げる。
 この問題は、互助と社会保障とを区別することで、完全に解決する。
 第1に、互助の仕組みは完全に平等化する。一部の人の金を他人に渡す、というような仕組みを取らない。金持ちの金を貧乏人に渡す、ということをしない。かくて、「払えば払うほど減額される」という制度をなくす。(所得平準化を年金制度に負わせない。)
 第2に、所得平準化は、年金にはよらず、税負担による。つまり、所得税の税率を高めることでまかなう。高所得者は、現役のときには高所得に対して所得税を多く払い、退職後は高年金に対して所得税を多く払う。これで所得の平準化はなされる。

 要するに、年金制度を「貯蓄」の形にする。政府による支援は各人に対して一定の額であることが好ましい。「貧乏人を優遇」ということはしない。「納入の真面目さに対して優遇する」ということはあってもいいが、「納入が不真面目だから全額を没収する」ということはあってはならない。そういうことでは、制度への不信が起こる。
 なお、「貯蓄」の形にした場合、「追納」も自由である。貧乏人がたくさん納入することも可能だし、中高年がたくさん納入することも可能だ。こうして、現在は銀行や郵貯への「貯蓄」の形で蓄えられている数百兆円もの資金が、一挙に年金制度に移行することになるだろう。かくて、年金問題は、一挙に解決する。政府も喜び、国民も喜ぶ。
( ※ ただし官僚だけは不満になる。制度が透明化されるせいで、官僚のサジ加減の余地がなくなり、天下りや年金会館建設などで甘い汁を吸うことができなくなるからだ。……というわけで、この案は、政府はまず認めないだろう。年金制度をどうするかという問題を考える前に、官僚をどうやって動かすかということを考えた方がよい。問題を解決する解答がわからないのではない。解答を実現する実行力がないだけだ。)
( ※ 「年金を貯蓄の形に」という案は、スウェーデンの例などを引き合いに、他でもしばしば言及されている。たとえば、朝日・朝刊・オピニオン面・特集コラム 2004-05-13 。ただし、「外国の真似をせよ」というだけでは、理念がない。「こうすればいい」とはわかっても、「なぜそうするのか」ということがわかっていないと、道を踏みはずす。だから、上記の通り、私が説明しておいたわけだ。「互助」と「所得平準化」を完全に区別する、という点が肝心である。)

 [ 補説1 ]
 以上のことから、論理的に帰結されることがある。低所得者への所得補助は、年金制度にはよるべきではない、ということだ。
 現状では、「低所得者に所得補助する」ということを、年金制度に負わせている。「長年年金を払った人には、たっぷりと所得補助をするが、あまり払わなかった人には、所得補助をしない」ということだ。そして、このことが、制度の全体を歪めてしまっている。
 だから、「低所得者に所得補助する」ということを、年金制度に負わせるべきではない。それは、社会保障制度の問題である。低所得者に対しては、年金に加入していようが加入していまいが、一定の所得補助をする。「年金を長年払っていた元金持ちには、遊んで贅沢できるほどの莫大な金を渡し、年季を払うゆとりもなかった元貧乏人には、徹底的に虐待する」というような制度を取らない。そういう制度は、「年金制度を維持しよう」ということのためにあり、年金制度の本来の目的である「国民への福祉」のためにあるのではない。制度は、国民のためにあるのであって、制度それ自体を維持するためにあるのではない。
 だからこそ、制度維持のための「貯蓄」と、社会福祉としての「所得補償」とは、区別するべきなのだ。所得の補償は、困窮度に依存するべきであり、国の制度への協力度に依存するべきではないのだ。
 とはいえ、もちろん、長年払った人に、一定の奨励金を与えるのはいい。しかし、正当な奨励金を上回るような巨額の奨励金を与え、その一方で、貧乏人に対して与えるべき金を削る、というのは、とうてい公正ではない。そんなのは、官僚にとっては公正だとしても、国民にとっては公正ではない。
 結局、年金はなるべく「貯蓄」の形に近づけ、そこに一定の奨励金を与えるだけでいい。納入したことの有利・不利は、あまり大きな格差を付けない方がよい。「有利」のために、長期納入した低所得者ばかり優遇するべきではないし、「不利」のために、全額没収なんてことをするべきでもない。「貯蓄」の形で、有利・不利をなるべく小さくする。その一方で、年金制度に投じるべき莫大な金を、社会保障制度に回して、社会保障制度を充実させる。
 現状は、「年金制度を維持するためには、年金制度に莫大な金をつぎ込め。数百兆円をつぎ込め」というものだ。あまりにも馬鹿げている。年金制度につぎ込むべきは、莫大な金ではなくて、知恵だけだ。知恵さえあれば、莫大な金をつぎ込まなくても、自然に年金制度は維持されるのである。そして、その知恵が、既存の「貯蓄」の金を「年金」の金に移すことである。そのために、現在の「年金制度」を「貯蓄ふうの制度」に衣替えすればよい。

 [ 補説2 ]
 とはいえ、年金は貯蓄とは違う。異なる点も、もちろん必要だ。それは、次の点であるといい。
 第1に、途中解約は、かなり不利になること。(とはいえ、元金の没収などはとんでもない。)
 第2に、毎月一定額の納入をするのを、かなり有利にすること。
 要するに、利子や奨励金のようなオマケを、変動させる。ただし、オマケはあくまで、オマケであるにすぎない。オマケが本体であるような顔をすると、制度が歪む。本末転倒。それが現状だ。

 [ 付記1 ]
 現行制度の欠陥(未納になる理由)については、「四つの落とし穴」という記事がある。(読売・朝刊・3面・特集 2004-05-14 )
 四つの落とし穴。何だかわかりますか? わからない人は、自分も落とし穴にはまっている可能性がある。
 さて。では、どうしたらいいか? この件は、すでに解決法を示したことがある。「ID口座」だ。これは、納税や減税や各種社会保障料もいっしょにした口座のこと。これを使えば、必ず、国民は漏れなく年金を納入するようになる。( → 2002年の2月28日b

 [ 付記2 ]
 ついでに言えば、現在、政府の取っている策は、「納入率を上げるための補助金」である。農協などに委託して、保険料の納付率を上げるために、補助金を交付する。その分は、徴収コストとなる。また、強制徴収という手もあるが、これは一件一件ものすごく手間をかけるので、徴収コストが莫大だ。
 結局、農協や公務員が、金を食い物にしている。「年金納付率を上げます」という名分で、国民の金を食い物にして、自分たちが賃金をもらっている。無駄な事業のために、大金をかけているわけだ。その分、国民の受け取れる額は減る。愚の骨頂。「年金会館」という無駄な建築物を大量に建築するよりも、はるかに悪い。建物が残るわけでもなく、単なる人件費だけのために、莫大な金が消えてしまうのだから。
  ( → 4月08日 〜 4月10日 にも、本項と類似の話。)

  【 追記 】 (2004-05-16 )
 年金料金の納付については、支払いの困難な低所得者に対して、「支払い免除」という制度はある。この指定を受ければ、「全額没収」という制裁を受けなくて済む。
 ただし、「原則として全額没収」であることには変わらない。また、昨今知られているように、「いつのまにか本人でも知らないうちに未納になっていた」ということもある。あるいは、「ついつい、やりそびれて」ということもある。
 ここでは、「落とし穴がある」というのが問題である。「落とし穴を避ける方法がある」ということはあまり問題ではない。「ちょっとミスをしたら、それまでの努力が全部パー」なんていう危険な道を、わざわざ選ぶのは、阿呆だけだろう。「納入手続きが不備だったので、これまでの納入期間の20年分は、すべて無効と見なされます。納入がゼロだった場合と同様です」なんて、冗談ではない。わざわざ落とし穴を作る必要などはないのだ。(理由は前述。)
 だから、民間の年金であれ、世界の多くの国の年金であれ、こんなメチャクチャな制度にはなっていない。日本の現行の制度が特別にへんてこりんなだけだ。
 とにかく、あなただって、これまでの納入した金がすべて没収される危険がある、ということは、十分にわきまえておいた方がよい。
( ※ なお、すでに未納期間が20年ぐらいある人は、今後 20年ぐらい納付しても、最終的な納付期間が25年に足りなくなりそうだ。つまり、今後 20年ぐらいずっと、没収されるための金を払うことになりそうだ。国家による泥棒と同様だ。)

  【 追記2 】 (2004-05-17 )
 未納者に対しては、小さな罰金(のようなもの)を科すのはいいが、大きな罰金を科すべきではない。ここでは、法的な「公正さ」が問われている。
 なるほど、たしかに、「未納」というのは好ましくないだろう。が、だからといって、「死刑」とか「無期懲役」とか、あるいは超高額の罰金とか、そうい極刑を科すべきではあるまい。「脱税」ですら、数十万円の脱税ならば、払わなかった額と同等程度の罰金刑程度で済む。一方、「未納」は、脱税をしたわけではなくて、単なる互助制度への非加入であるにすぎない。国の互助制度に加わらずに民間の互助制度に加入していた、というだけのことであって、脱税とは根本的に異なる。にもかかわらず、百万円単位の超高額の罰金を科すのは、どう考えてもバランスを失している。
 たとえ未加入者がいるとしても、「莫大な刑罰を科することで加入を強いる」というのでは、暗黒国家になってしまう。政府の失政のツケ払いを、極刑という形で国民に強いる、というのは、暗黒国家の発想だ。こんなことがまかりとおっては、政府が失政して、国民がとうてい守れないような制度を作るたびに、国民は極刑を強いられることになる。ほとんど北朝鮮や旧ソ連のような国になってしまう。
 私の提案では、「未加入」に対しては、「罰金が科せられる」ことはなく、単に「奨励金を受け取れなくなるだけ」である。実損が生じるのではなく、実益が減るだけだ。「加入していれば数十万円の奨励金を受け取れたはずなのに、加入しなかったのでその奨励金を減額される」という程度だ。そして、こういう政策が、「公正」と呼ぶにふさわしい。
 たとえて言えば、あなたが会社に出勤しなかったなら、給料を減じられることはあってもいいが、罰金を会社から徴収されるべきではあるまい。「無断欠勤のせいで会社は莫大な損をしたから、損失として1億円を払え」なんてことは許容されるべきではない。(実は、そういう法律は、すでにできている。良かったですね。)
 ついでだが、未納者がいるからといって、「制度が破綻する」ということはないだろう。もともと「貯蓄」型の制度にしておけば、自分が払った金を自分で受け取るわけだから、制度の破綻などはもともと起こるはずないのである。「未納者がいると制度が破綻する」とわめいているのは、制度自身に欠陥があることを隠蔽するためであり、政府の失政を国民に責任転嫁するためなのだ。
 とにかく、私の提案では、「貯蓄」型にする。この場合、未納者には、特に不利にはならない。単に有利さが減るだけだ。そして、こういうふうに、「誰にも不利にはならない」ということを保証することで、「加入しなくてもいいですよ」と示し、そのことで逆に、加入率を上げることができる。
( ※ ついでに言えば、これは、「女にモテる方法」とも見なせる。「おれを愛さないと、ひどい目に遭わせるぞ」と脅迫する男は女にモテない。しかし、「ぼくを愛さなくてもちっとも構わないよ。きみのしたいようにすればいい。だけど僕は、きみをあくまで愛するよ」と訴える男は女にモテる。……政府のやっていることは、どちらだか、わかりますね? 案の定だ。脅迫したあげく、どんどん嫌われている。)


● ニュースと感想  (5月16日)

 「年金問題と野党党首」について。(政局の話であり、あまり重要な話ではないので、読まなくてもよい。)

 年金制度に関連して、菅直人が年金未納の責任を問われて、民主党の党首を辞任した。さて。この件については、私は先にこう述べた。
 “「納入している人は立派で、納入していない人は悪」いということはない。悪法を守ることは立派ではないし、悪法に違反した人は悪くはない。”と。( → 98n_news.htm の最後のあたり。)
 この点で、菅直人が未納の責任で辞任する必要はさらさらない、と言える。むしろ、辞任しない方が国民にとっては利益になる。また、仮に、彼に「年金について議論する資格がない」という理屈が成立するのであれば、(民主党の党首としては辞任する必要はなく、かわりに、)国会議員を辞任するべきだ。同様に、他の国会議員も辞任するべきだ。さらには、他の公務員も辞任するべきだ。当然、他の民間会社の会社員も、会社から「年金未納だから」という口実でリストラ(解雇)されても当然であろう。
 では、菅直人は、まったく責任を問われないか? そうでもない、と思う。彼には未納の責任はないが、「自分は未納ではない」と主張した責任がある。換言すれば、「未納三兄弟」と批判して、「自分は未納ではない」という立場を取った責任がある。
 もう少し正確に言えば、「自分は未納ではない」と楽観して、「自分は未納である」という可能性を考慮しなかったところに、彼の甘さがある。責任というよりは、脇の甘さだ。
 仮に、私であれば、「自分も未納である」ということを十分に自覚していたはずだし、「私も未納かもしれない」と前もって公言していたはずだ。そして、「その理由は、現行制度が悪法であることだ」と示して、「悪法を改定せよ」と結論する。その上で、「悪法を現状維持しようとしながら未納なのはけしからん」と批判する。
 ここでは、「自分は未納かもしれないが、だからこそ、現行制度を維持しようとはせずに改訂する」と主張するべきなのだ。つまり、「自分は未納である」ということは、自分の立場を弱めるどころか、かえって強化するのである。
 ところが菅直人は、ここの戦術を誤った。敵のエラーを突っつくことばかりに熱中して、本当の問題が制度自体にあることを見失った。「国を良くしよう。国民のために尽くそう」という意思を失って、単に「自分が政権を取ればよい」という権力欲だけにまみれた。
 菅直人は初心を思い出すべきだ。彼が政治家になったとき、多くの若者が共鳴した。彼は「腐った政治を立て直す」という方針を掲げ、既存の政治家とは異なる目的を示した。すなわち、「権力よりも理想を求める」と。ところが、現実には、菅直人は今や腐った政治にまみれている。小沢流に「権力の獲得こそが大事だ」と信じ込んでいる。
 民主党が政権を取ることが最終目的なのではない。国民が幸福になることが最終目的なのだ。そのことを見失ってしまうと、目先の権力闘争ばかりに追われて、相手のエラーばかりを探そうとして、かえって自分のエラーで失敗する。
 彼の「脇の甘さ」は、本質的なものだ。決して、「今回はたまたまドジを踏んだ」というようなものではない。今後も何度も何度も、ドジを踏むだろう。そして、その理由は、彼が初心を失ったからなのだ。美しい理想を掲げた青年は、厚相のころまでは初心を失わなかったが、もはや老いて、若き日の理想を忘れてしまったのである。
 彼が復活できるか否かは、初心を思い出すか否かにかかる。

 [ 付記1 ]
 テレビの美人局アナ(つつもたせアナ、ではない)たちや男性キャスターなどが、年金未納が判明したので、仕事を休むそうだ。何を勘違いしていることやら。この人たちは年金制度には何の責任もないのだから、いちいち降板する必要はない。こんなことで降板していたら、日本中のすべての職場で同様なことが起こって、とんでもないことになる。狂気そのものだ。
( ※ なお、責任を感じる人がいるとしたら、みのもんただ。彼は菅直人をしきりに攻撃して「辞任しろ」と言っていたから。彼はどうなんでしょうねえ? どうせ自分で調べていたはずはないが、「あ、おれも」となるか、「あ、おれは運が良かった。ほっ」となるか。……ほとんどギャンブルだ。)
 さて。私も、年金未納がありそうなので、この「小泉の波立ち」をお休みします……なんてことはない。私もたぶん年金未納がありそうだが、だからこそ、ますます続けます。理由は、前述の通り。
( ※ 私はもともと、「年金未納がすごくいっぱいいる。完納している人は少ない」と述べてきた。当然、自分も未納の可能性があると思ってきたし、だからこそ、「25年給付を満たさないで受給できない可能性」を何度も指摘してきた。)
( ※ 私の場合、完納していた場合、「やめろ」と言われるかもしれない。……皮肉。)

 [ 付記2 ]
 自分の納付状況を調べるために、年金の事務所ではとんでもない混雑が続いているそうだ。これもまた、狂気的だ。イカレているのは国民ではなく政府。
 誰がどれだけ納付したかは、いちいち質問されるまでもなく、政府が国民各人に、毎年いっぺん、郵送で通知するべきだろう。コンピュータのソフトの開発なら、1万円ぐらいでできるはずだ。(データベースから、項目を抜き出して、差し込み印刷するだけ。年賀状ソフトと同様。普通のデータベースソフトなら、あっという間にできる。)
 このコストは、郵送代や人件費代を含めて、1通百円程度。このくらいは、当然、やるべきだ。国民各人が自分で問い合わせると、一日つぶれるので、1万円以上はかかりそうだ。無駄。
 こういう必要なサービスを提供しないから、ますます年金は嫌われて、加入者が減る。最低のサービスすらできていない。それでいて、余計なサービスをしているという。特定書式の用紙を印刷する特定仕様プリンタというものがあって、膨大な金を払っているそうだ。気違いじみていますね。パソコンとプリンタなら、事務所にあるのを使って、コストゼロで実行できる。
 また、そもそも、特定書式の用紙をあらかじめ用意して在庫にしておけば、パソコンやプリンタすら必要ない。……現実には、そうやっているそうだ。本部から用紙をもらってストック(在庫)にしているから、上記の特定仕様プリンタを稼働することはほとんどないという。無駄なサービスばかりやって血税を無駄にする。(なぜ? 発注先には天下りがいるから。当り前ですね。)
( ※ この特定仕様プリンタの話は、13日ごろの夕刊にあったような気がする。青色の四角い箱みたいなプリンタの写真付き。ま、どうでもいいですけど。)

 [ 補足 ]
 本項を書いたのは、数日前だが、金曜日になって、小泉の未加入まで判明した。ま、そんなこともありそうだ、と思っていたし、この件はどうでもいい。(読売は必死に隠そうとしているが。)

( ※ 前日分の最後に、少し補足しておいたことがある。 → 前日の追記


● ニュースと感想  (5月16日b)

 「靖国参拝」について。(あまり重要な話ではないので、読まなくてもよい。本項は個人的な見解であり、異論の余地は十分にある。ついでに言えば、裁判所の判例も割れている。私の見解だけが正しいということにはならない。)

 「靖国参拝」については、大阪地裁で新たな判決が出た。「内閣総理大臣という肩書きを使っても、公人ではなく私人であるから、合憲だ」とのこと。このような理由による合憲判決は初めてだそうだ。(夕刊・各紙 2004-05-13 )
 この判決は、法的にはおかしい。こんなことが法的に認められたら、公務員の横暴が何でも許される。たとえば、警察官が警察手帳をチラリと見せて、一般人の家を訪問する、というのは、よくある。ここでは、「警察官である」ということを示すのは公的業務であると見なされる。
 なのに、判決に従えば、「警察官である」というふうに職名を示したり、「麹町署の小林巡査長と申しますが」と身分を明かしたとき、それが私人としての行為であってもいい、ということになる。逆に言えば、私人として、公的な肩書きを使い放題だ、ということになる。公私混同が許容されてしまう。
 こんなのは、法律論から言えば、気違いじみている。実際、靖国参拝問題では、数多くの判決が出たが、こんな気違いじみた理由による合憲判決は初めてだ。逆に言えば、こういう気違いじみた理由を使わなければ、靖国参拝は合憲にならない、とも言えるかもしれない。
 ただし、今回の判決が特別異常なだけであって、もっとまともな理由で合憲になる可能性もある。最高裁は保守的だから、保守としての立場で、今回とは異なる理由で合憲判決を下す可能性はある。

 さて。法や裁判とは別に、もっと物事の本質を考えよう。
 この問題の基本は、「政教分離」である。この件は、先に言及した。( → 4月11日
 補足しておけば、政教分離を完全に実施した国は世界のどこにもないが、政教分離はあくまで近代国家の理念であり、それをめざす必要がある。たとえて言えば、完全なる「言論の自由」を実施した国は世界のどこにもないが、言論の自由はあくまで近代国家の理念であり、これを実現するために努力する必要がある。さもなくば、北朝鮮のように言論統制に向かうことになる。
 政教分離で言えば、マレーシアのようにイスラム教と一体化した国家となったり、昔の欧州諸国のようにキリスト教と一体化した国家となったりする。アラブで言えば、ほとんどの国はイスラム教と一体化しているが、エジプトだけは政教分離のもとで民主主義を確立した。だからこそエジプトだけがアラブのなかで近代化したのである。また、(ホメイニの宗教革命後の)イランについて言えば、形の上では民主主義があるが、実際には民主主義よりも宗教が上位に位置している。民選された議会や大統領が何を決めても、宗教会議の結論の方が優先される、と憲法に定めてある。
 逆に言えば、小泉のめざすものは、国家神道となかば一体化した「天皇」を頂点とする一神教の国家である。そして、多くの保守派は、「少しぐらいならいいじゃないか」と言って、日本を近代国家とは逆の道に進めようとするのだ。いわば、北朝鮮やイラクのような国家へ至る道へ。(今回の判決は日本をイランのようにするものだ、とさえ言える。)
 だからこそ、政教分離の原則は、何としても守る必要がある。「少しぐらいならいいじゃないか」というのを基本として、何が何でも合憲にしようとすると、冒頭のような苦し紛れのメチャクチャな判決となる。逆に言えば、こういうメチャクチャな判決が出るのは、「少しぐらいならいいじゃないか」という生半可な現実主義が人々の心に根づいていることによる。
 こういう現実主義は、唱える個人にとっては利益になるが、日本全体にとっては利益にならない。そのことは、先の人質狂想曲からも、わかる。何が正しく、何が正しくないかを、はっきりと峻別しておかないと、日本全体が狂気の渦に巻き込まれてしまうのだ。そして、そのあげく、いつかは北朝鮮やナチスドイツのような独裁国家となってしまうのである。……というか、すでに、半分ぐらいはそうなっている。「政策は駄目」と烙印を押された指導者が、間違った政策をどんどん押し進め、日本を破壊に導き、かつ、国民の圧倒的な高支持率を得ている。
 私はしばしば、「本質を見よ」と言う。そして、本質を見るためには、「現実世界とどう妥協するか」ということを考えるよりは、もっと巨大な空間と巨大な時間を眺めて、「広い世界の長い歴史のなかで、その問題はどういう経緯をたどってきたか」と見るといい。政教分離の問題も、こういう見方をすれば、本質を理解することができる。
( ※ この問題がわからない人がいたら、よくわかるように教えよう。たいていの人は、まず、無宗教だ。あなたもたぶん、そうだろう。そのあなたが、死後、自分の知らないうちに勝手に「創価学会」の宗教施設に収納されて、創価学会ふうに扱われたら、それで満足できるか? 創価学会は、仏教の一種であり、日本の伝統的な宗教の一つである。だからといって、死後、勝手に創価学会に入れられて、満足できるか? ……「イエス」と思うのならば、生きているうちに、さっさと創価学会に申告すればよい。さっそく、信者が押し寄せてくるはずだ。ついでに「お布施」も要求される。)
( ※ 仮にあなたが創価学会ならば、キリスト教の一派である原理教か何かに強制的に入信させられる、と考えればよい。ともあれ、こういうことを防ぐのが、「政教分離」の理念だ。これを実現していないアメリカでは、「学校教育の場でキリスト教に従って、進化論を否定し、創造説を教える」というような非近代的な出来事が発生している。)

 [ 付記1 ]
 日本の歴史を振り返れば、こうだ。
 靖国参拝は、国是でもないし自民党の伝統でもない。右翼の中曽根を含めて、多くの首相が靖国の公式参拝はしなかった。あくまで私的参拝に留めた。最近ではかなり問題になっているが、これは小泉の特異な体質が原因だ。
 日本全体で言えば、自民党の保守派も含めて、「無宗教の施設」を作るのが最善である、というのは、広く意見の一致を見ている。靖国問題がこうもこじれたのは、中国の言うA級戦犯がどうのこうのというよりは、小泉個人の宗教体質に原因がある。

 [ 付記2 ]
 小泉はなぜ、靖国参拝にこだわるのか? 英霊を大事にするからか? 違う。「英霊を敬う」という気持ちは、ほとんどかけらもないはずだ。
 先にも述べたが、たいていの人々や英霊は無宗教なのだから、勝手に特定宗教に染めるのは、たいていの英霊を利用・冒涜していることになる。
 真に「英霊を敬う」という気持ちがあれば、「英霊が国民全体に敬愛される」という姿を望むだろう。ところが、逆に、変な宗教問題をからめたせいで、英霊たちには宗教の色を付けられて、英霊たちは国民全体からは敬愛されなくなってしまったのである。「国のために死んでいった」人々は、もはや「小泉の宗教意識に利用されるだけの存在」に成り下がってしまった。尊敬されるべきものが、下劣な政府の犬になってしまった。
 小泉は、英霊たちを、自分のために勝手に利用し、ゴミ屑のようにしてしまったのである。国賊みたいなものだ。
( ※ 私だったら? 平和公園に立派な祈念碑を建立して、国民から毎日たくさんの花束が寄せられるようにする。人々はそこを訪れて心を捧げる。首相は年にいっぺんは「内閣総理大臣」という公的な肩書きで公式の声明を出す。私人として参加するのではなく、公人として参加し、内閣の閣僚全員にも参加してもらい、同時に、中国や韓国やアメリカなどの大使にも参加してもらう。過去の戦争を回顧し、未来の平和を誓う。……こういう姿を見れば、英霊たちも、「わしたちの死も無駄ではなかった」と安らかになれるだろう。)

 [ 付記3 ]
 A級戦犯を合祀するべきかどうか? その問題については、こう答える。これは、中国からの要求かどうかに関係なく、日本自身で決めることだ。そして、開戦自体の是非はともかく、終戦を遅らせて、莫大な被害をもたらしたことには、指導者の責任がある。それは外国に対する罪ではなく、日本国民(戦死者)に対する罪だ。
 たくさんの英霊たちは、指導者によって命を奪われたが、指導者は逆に、英霊たちの命を奪ったのである。事情は正反対だ。指導者を敬うということは、指導者と英霊たちを同列に扱い、英霊たちを侮辱するということだ。……ここまで考えれば、合祀されるべきかどうかはわかるはずだ。
 ついでだが、この指導者たちは、終戦時に割腹しなかった。責任感がまったくない。その点、不況に対してまったく責任を取らない小泉とは、よく似ている。
( ※ 私だったら? 終戦時には割腹してお詫びするし、不況解決に失敗したなら辞任する。「自己責任」論みたいな責任転嫁はしない。)

 [ 付記4 ]
 政教分離については、例外がある。首相の海外訪問のときだ。
 法律的には、外国では日本の主権が及ばないので、外国では小泉が「政教分離」をしなくても、問題はない。たとえば、キリスト教やイスラム教の様式の祭典などに出て、宗教的な儀式に従っても、問題はない。とはいえ、国内では、やるべきではない。
 わかりやすくいえば、日本の首相が個人的に「アラーは偉大なり」と床に頭をなすりつけるのは問題ないが、「私は日本の首相として公式にこの行為を行ないます」と宣言して、「アラーは偉大なり」と床に頭をなすりつけるのは、おおいに問題がある。
 こんな宗教行為を首相の行為としてテレビで放送して、日本中の子供に強制的に見せつける、なんて、ぞっとする。ほとんど北朝鮮だ。

 [ 付記5 ]
 経済との関連を示す。
 現在、日本の景気で一番大切なのは、対中輸出である。ところが、これを最も阻害しているのが、小泉である。記事から引用すると、
 「今、対中ビジネスの最大のリスク要因は小泉さん」と電器メーカーのトップが言ったという。(朝日・朝刊・オピニオン面・コラム 2004-05-13 )
 これはどういうことかというと、中国政府が検討中の超高速鉄道について、「小泉首相が靖国に参拝しなければ、日本の新幹線に決めるが、靖国に参拝するので、どうなるかわからない」(中国政府内で賛否両論だ)と言及したことを示す。
 中国はしょせんは共産主義の国だから、政府があれこれと決める。「小泉がこうだから駄目」と思えば、あちこちで日本企業が追放されかねない。かくて、小泉の言動が、最大のリスク要因となる。
 だから、経済ベースでいえば、首相の靖国参拝は、最悪である。保守派のよく言う「国益」という点で言えば、まさしく国益をそこなうのだ。

 [ 余談 ]
 日本海を「東海」と呼べ、と主張する勧告の主張に従って、その通りにしたドイツの地図出版社があったそうだ。(読売・朝刊 2004-05-15 )
 先方の言い分は、「それが中立だから」だって。ま、その理由はわかる。韓国がメチャクチャなことを言っても、日本が対して反論しなかったからだ。徹底的に論破すればいいものを、腰が引けているから、相手の歴史捏造を許す。
 小泉が靖国なんかで阿呆なことをやっているから、日本は韓国に対してまともに反論できなくなってしまうわけだ。「A級戦犯の戦争犯罪も正当である」なんていうふうにメチャクチャな主張をするから、自己の正当性が揺らいでしまう。かくて、まともに言い返せなくなってしまう。
 小泉の方針は、多いに国益を損ねている。このままだと、そのうち、韓国は日本を「東国」と呼べ、と主張し、世界各国が日本を「日本/東国」と併記するようになりかねない。すべては、小泉が阿呆なことをやって、世界の総スカンを食うせいだ。(イラク攻撃をする米国を支持することでも、世界中の総スカンを食っている。まったく、国益を損ねる首相だ。……ついでに言うと、最近、原油価格が高騰しているが、これもまた、イラク攻撃の余波による。日本は小泉のせいで、とんでもない損害を受けている。)


● ニュースと感想  (5月17日)

 「組織と個人」について。
 組織と個人のどちらを優先するべきか? この問題について考えよう。最初は、スポーツで。次に、企業経営で。
 組織と個人の問題は、スポーツでもしばしば提起される。たとえば、サッカー日本代表のジーコ監督の方針をめぐって、次のように議論される。(例。朝日・朝刊・特集 2004-04-30 )
 「組織重視のサッカーなんて、ちっとも面白くない。個人の個性が発揮されて、自由奔放なサッカーこそ、面白い。トルシエのサッカーは型にはまって詰まらなかったが、ブラジルのサッカーは自由奔放で楽しい。だいたい、学校でも企業でも、組織重視でがんじがらめになっていては、気が重いね。組織重視は、古臭い封建主義だ。個人重視のリベラリズムこそ、新しくて素晴らしい」
 「楽しければいいなんてのは、プロじゃない。勝負とは、楽しいかどうかではなく、勝つか負けるかだ。楽しいのが好きなら、アマチュアで遊んでいればいい。プロなら、勝負にこだわる。だとすれば、基本的な型が絶対に必要だ。型もなしに、バラバラに行動していれば、組織的なサッカーにはかなわない。実際、これまでの日本は、個人の体格の弱さなどを、組織的なサッカーで補ってきた。これこそ近代サッカーだ。組織無視なんて、半世紀遅れている。時代錯誤だ」

 まともに論議すれば、後者が正しいに決まっている。勝つことを目的とすれば、最低限の基本(つまり型)ぐらいは習得するのが必要だ。柔道ならば、技を習得する。技を習得しないで、好き勝手をやっていては、楽しいけれど、簡単に負ける。サッカーも同様だ。前者の意見は、たとえて言えば、柔道の指導者が、「好き勝手にやりなさい」と言って、柔道の技を教えない、というようなものだ。(実は、ジーコ監督は、何も教えるべきものがない[頭が空っぽだ]から、教えないのである。それを「自由の尊重」と信じているのが、素人っぽい評論家。「無為無策」と「自由」とを混同している。……小泉の経済政策もそうですけどね。)
 
 さて。それでも、前者の意見には、なにがしかの真実が含まれている。「組織重視でがんじがらめになっていては楽しくない」というのは、一面の真理を突いている。実際、何もかもが「組織重視」では気が詰まる。しかし、だからといって、「組織を無視せよ」「組織を解体せよ」と一挙に進んだところに、論理の飛躍がある。
 では、正解は? 組織を、解体すべきか、強化すべきか? いや、どちらでもない。「組織を活性化すること」が正解である。そこでは、個人は組織のなかで最大限の能力を発揮し、かつ、組織そのものが最大限に機能する。ここでは、組織と個人は対立するものではなくて、調和するものなのだ。

 企業経営も同様である。いわゆる「活性化」とは、そういうことだ。たとえば、上司が命令する(部下は命令される)だけならば、組織優先である。部下が勝手にやる(上司の命令は無視される)だけならば、自由奔放である。ここでは、部下と上司が対立している。こんな状態では、部下と上司のどちらを優先しても、会社はガタガタだ。正解は、部下と上司が調和することだ。それは、「たがいに我慢して妥協する」ということではない。「たがいに力を合わせて最大限の機能を発揮する」ということだ。上司は命令するのではなくて、促す。部下は命令されるのではなくて、自発的に動く。ただし、その動きは、自分勝手なものではなくて、組織のなかで最適化されている。
 それが「活性化」だ。サッカーであれ、企業であれ、組織と個人の関係のあるべき姿は「活性化」である。それが正解だ。
 なお、「活性化」と正反対の概念は、「硬直化」である。古臭い企業体質のままでいることだ。昔からの一定のことばかりをやって、状況に応じて柔軟に変更することができず、最適の道を取ることができない。いわゆる「お役所仕事」と同様である。……そして、こういう「硬直化」した体質を改めることこそ、何よりも大切となる。

 「活性化」が大事なのは、独創性が発揮される場である。具体的には、技術開発やデザイン。特に、デザインがそうだ。具体的な例を示そう。
 結論。
 「組織と個人のどちらを優先させるべきか?」という質問には、こう答える。「どちらか一方を優先させるべきではなくて、両者に有利となる道を選ぶべきだ。それが最善である。全体量を一定だと仮定した上で配分を最適化しようとする古典派的な発想を捨てて、全体量を拡大するマクロ経済的な発想を取るべきだ」と。

 [ 付記 ]
 いわゆる「カイゼン」は、生産現場における「活性化」のことである。日本企業は、これが得意だ。ただし、技術開発やデザインの現場における「活性化」は、非常に下手である。ここでは「組織重視」ばかりがある。……実は、中村修二の問題も、この問題に含まれる。
 こうして、サッカーの問題は、日本の企業経営全般の問題へと、拡張される。ここには一種の文化的な問題がある。そして、その問題を解決するためには、「組織か個人か」なんていう二者択一をしていては、駄目なのだ。

 [ 補足 ]
 話は戻って、サッカーの雑談。
 4月29日の対チェコ戦では、珍しく日本チームがうまく戦った。これには、実は、理由がある。トルシエ流を少し取り入れたのだ。
 第1に、これまでずっと頑なにこだわっていた4バックをやめて、3バックにした。
 第2に、これまでずっと頑なにこだわっていた欧州組重視をやめて、国内組と混ぜた。
 こうして、トルシエ流に戻した。つまり、ジーコ流を捨てた。かくて、日本はジーコ以前に戻ったわけだ。ジーコがひたすら悪化させていったチーム状況を、引き戻したわけだ。すると、こうなる。
 ただし、本来なら、トルシエ流を続けることで、今ごろはもっとずっと強くなっていたはずだ。悲しいね。「世界3位のトルコに負けたのはけしからん」と主張してトルシエを解任したあげく、今では世界50位ぐらいの実力だ。
 教訓。
 「欲張りは、すべてを失う」
 「唯我独尊は、自らを弱体化させるだけ」
 「遊んで得するという発想は、遊んで損するだけ」
 こういうことを、ジーコは身をもって教えてくれた。他山の石として。馬鹿をやることで。……それだけが成果だ。

 [ 余談 ]
 おまけで言えば、夫婦の関係も同様だ。夫が一方的に亭主関白になったり、妻が一方的にカカア天下になったりすれば、その夫婦は夫婦として十分な形にならない。最終的には離婚になりそうだ。
 むしろ、たがいのコミュニケーションを活発にして、たがいに相手の気持ちを理解し、自分の都合ばかりを主張せず、相手の都合を思いやるといい。そうすれば、「どっちが得か」「どっちが幸福か」なんていう競争をしないで、「二人とも幸福だ」というふうになれる。
 そう思ったら、さっそく、この話をお宅の奥さんに聞かせましょう。
( ※ ただし、……結果については、責任を持てません。「なんですって? だったら、独りよがりをやめて、もっと奉仕しなさい」と言われるかも。やぶ蛇?)


● ニュースと感想  (5月18日)

 「産業再生機構」について。(マクロ経済学ではなく、経営の話。)
 産業再生機構のトップに対するインタビューが、朝日新聞に掲載されていた。2件。

 (1) 帳簿主義
 9日のインタビュー。(朝日・朝刊・オピニオン面 2004-05-09 )
 どんな人物かかねて興味があったが、顔写真を見た段階で、あまり感心しないでいた。で、今回、意見を聞いて、その感を強くした。
 彼の方針は、要するに、米国のMBA流だ。つまりは、「帳簿主義」である。帳簿を見て、良い部門を伸ばし、悪い部門を切り捨てる。すると、良い部門だけが残るので、全体が良くなる……というわけだ。その発想は、古典派そのものである。
 馬鹿丸出しですね。こんな方針なら、子供でもできる。要するに、子供並みの知恵しかない人間が、産業再生機構のトップに居座って、「日本経済を立て直す」とか言い張っているわけだ。
 彼の発想のどこがおかしいか? わからない人が多いだろうから、説明しておく。

 まず評価しておけば、この方針は、「子供でもできる」という点で「簡単だ」というだけでなく、やるべきこととは正反対なのである。
 彼の方針は、不況でないときであれば、好ましい。しかし、不況であるときには、好ましくないのだ。何もしない方がまだマシであり、やればやるほど悪くなる。(古典派の特徴。)
 例示しよう。かつて、日産自動車は、非常に経営が悪化していた。経営資金に欠如し、業務の遂行が困難になった。新車の開発資金がまかなえず、莫大な赤字を出しつづけ、このまま放置すれば倒産は必至だった。
 ここで、上記のトップが産業再生機構として介入していたら、どうなるか? 次のように主張するだろう。
 「駄目な企業は放置すれば赤字を垂れ流すだけだ。さっさと解体して、売れる資産だけを売ればよい。そうすれば赤字は拡大せず、損失を最小限に留めることができる。」
 この処置を取ったならば、赤字は 5000億円程度。それを日本全体で分かちあう。さらには、連鎖倒産が発生し、莫大な失業や景気悪化が連鎖的に続く。日本経済は非常に悪化しただろうし、あなた自身も赤字の分担を迫られただろう。

 現実には、どうだったか? 日産には、ゴーン社長が就任した。彼の方針は、「悪い部分を切り捨てる」のではなく、「悪い部分を良い部分に変えること」(活性化)であった。その方針のもとで、企業体質は劇的に改善し、日本でも最高と言える利益率を上げるまでになった。(トヨタやホンダを上回る利益率。売上高比で 11%ぐらい。)
 別の例を示そう。三菱自動車はこのトップと同じような方針を取った。「帳簿の黒字化」を狙って、コストの削減を狙った。「利益につながらない余計な金をかけるな」という方針のもとで、開発コストを徹底的に削減した。その結果、必要な耐久試験を省略したせいで、トラックのハブが欠陥品のまま放置され、三菱のトラック部門は壊滅的な打撃を受けた。また、自動車部門でも、開発コストの削減が実施された結果、乗用車はどれもこれも不人気な車種となり、日本の自動車業界のなかで「一人負け」と言えるほどの大幅な売上げ減少を招いた。(この点では、日産とは正反対だ。日産は、下請けメーカーにはコストの削減を要請したが、自社では開発コストを削減するどころか増額して、魅力ある自動車を開発しようとした。)

 結語。
 「悪いものを切り捨てる」という方針は、病人を改善するどころか悪化させる。「悪いものを良くする」という方針こそ、正しい方針だ。なのに前者の方針を取るのが、MBA式の経営だ。帳簿だけを狙う経営だ。これが企業を衰退させることは、米国企業の実績からしてとっくに判明していたことだ。なのに、産業再生機構は、この方針を取る人物をトップに据えている。愚の骨頂。

( ※ このトップの人物は、コンサルタント会社に勤務していた。コンサルタント会社というのは、実際には経営の実績も経験もない人物が、MBAの教科書に従って口を挟むだけ、というのを業務としている。こんなのに多大な権力を与えよう、というのだから、どうかしている。)

 (2) 市場主義
 産業再生機構のトップへのインタビュー。その2。(朝日・朝刊・経済面 2004-05-17 )
 「われわれは一貫して市場的にふるまうことが大切なのだ」
 と彼は主張する。すると記者は反問する。「機構が市場的にふるまうなら、市場に任せればよいのでは?」と。(これは当然の批判だ。朝日には珍しく、まともな批判をしている。)……すると彼は答える。
 「そういう批判も受けてきた。できるだけ市場原理に任せた方が良いという点では議論の余地はない」
 ここまではいい。そして彼はさらに続ける。
 「しかし、バブルの膨張・破裂のように、市場は不完全で失敗するものである。事業再生の分野では明らかに市場は失敗している。不良債権問題・過剰債務企業問題を、10年以上に渡り解決できず、むしろ悪化させてきた。市場が機能していたなら、解決しているはずだ。」
 こう述べて、産業再生機構を正当化する。
 しかし、私のページの読者なら、これがとんでもない経済音痴の主張であることは、すぐにわかるだろう。彼の主張は、マクロ経済とミクロ経済を混同しているのだ。
 とにかく、「マクロには介入、ミクロには不介入」というのが正解だ。なのに彼は、この逆を主張している。とんでもない話だ。ソ連政府と同様である。
 
 ついでに言っておこう。このインタビューの続きには、「解説」の記事があり、ここでは「産業再生機構はいくらかの役割を果たした」と述べ、その証拠として「カネボウの株価が3割上昇した」と述べている。
 馬鹿げた解説だ。駄目な企業を「処理した場合」と「処理しなかった場合」とを比較しても、何の意味もない。そんな比較をしても、産業再生機構に意義があったことにはならない。比較するなら、「産業再生機構が処理した場合」と「民間が処理した場合」とを比較するべきなのだ。
 具体的な数字は、簡単に上げることができる。カネボウの化粧品部門の評価額は、産業再生機構だと4000億円弱で、花王だと4400億円。(数字はうろおぼえだが。)……これは、再生後の価値から逆算した評価額だ。つまり、産業再生機構にやらせるよりも、花王にやらせた方が、上手に再建できた、ということになる。(当り前だ。花王には再建のためのプロがわんさとそろっている。一方、産業再生機構には、トップの首を二人だけすげ替えることぐらいしかできない。雲泥の差だ。)
 放置すれば、カネボウは、花王が再建したはずだった。(さもなくば倒産する。その場合、カネボウにとっていっそう悪い条件で、花王が再建する。)……なのに、その市場原理を無視して、産業再生機構が介入した。かくて、状況を悪化させてしまったのである。

 結語。
 はっきり言っておこう。産業再生機構は、何もしない方がマシなのである。この組織は、存在すること自体が間違っている。
 一般に、カネボウに限らず、不良債権を銀行が押しつけたなら、次のいずれかにすればよい。
 (i) ただちに市場で売却する。(この場合、機構は存在しないのと同様。これがベスト。)
 (ii) 預かったものをそのまま何もしないでいる。倒産したら倒産したでいい。(あるいは、すぐさま倒産・清算の処理をしてもよい。)そして、そのツケを、銀行に払わせる。
 とにかく、余計な介入など、しない方がマシなのである。ミクロ的には、自由放任がベストなのだ。(マクロとは違う。)
 仮に、そうでないとしたら、倒産企業だけでなく健全な企業も、すべて国が経営すればよい。倒産企業は、民間ではまともに経営できないような困難な企業だ。そういう困難な企業を国が再建できるのであれば、健全な企業を国が経営するのは、もっと簡単だろう。だから、日本中の企業を、すべて国が経営すればいいのだ。そうすれば、日本はすべて最適な経営になるはずだ……というのが、彼の主張である。今ごろになってよみがえる、共産主義の亡霊。共産主義は、世界各国で滅びたが、日本ではゾンビのごとく復活したのである。このゾンビを産業再生機構と呼ぶ。

 [ 付記 ]
 ただし、ミクロ経済でなく、個別企業の経営について言えば、話は別である。
 企業内部における企業経営では、自由放任・無為無策がベストであるわけではない。経営方針としては、最善の道は、自由放任・無為無策とは別にある。それは、日産のゴーン社長のような人物を、よそから招くことだ。
 とはいえ、そういう人物は、非常に見出しにくい。少なくとも、日本には存在しないだろう。なぜなら、日本企業は、「経営者を育てる」という経営をしてこなかったからだ。
 となると、現実的には、方法は一つ。ゴーン社長の経営方法を徹底的に取材して、その方法をマニュアル化して、多くの人々が学ぶことだ。それを学んだ人々が、集団指導体制で経営する。天才一人のかわりに、秀才が複数、というわけだ。
 ただし、複数の秀才は、外部から導入するべきである。内部昇格は、まずい。既存のしがらみがあるからだ。この点、カネボウの新社長は、失敗するはずだ。なすべきことはわかっているだろうが、なすべきことをできるはずがないからだ。これまでお世話になった上司を、次々と解雇・降格させることができるか? できるわけがない。できたとしても、すごく悩む。まともな経営をできるはずがないのだ。……仮に、私だって、同じ立場になったら、すごく悩む。胃が痛くなる。企業を再建しようとして、自分の体がボロボロになる。(医者に再建してもらいますか。)
 ともあれ、ゴーン社長とは正反対の方針を取るような人物[内部昇格した小人物]が、カネボウなどのトップにいるようでは、どんな破綻企業であれ、再建はとうていおぼつかない、と言える。リップルウッドに任せた方がマシかもしれない。
 リップルウッドの方針は、「経営再建に最適の人物を世界中から探して、その人物に全権委譲すること」である。そして、その際、人物を見抜く目が非常に優れている。産業再生機構は、カネボウの社長には、内部からの昇格を選んだ。しかしこの選択は、あまりにもひどい。現状維持にはいいが、劇的な再建はまず無理だろう。(なお、私だったら、カネボウの化粧品部門は、花王に売り払う。前述の通り。)
( ※ 「三菱自動車も産業再生機構のお世話になるかも」という説があった。これは最悪だと思っていたが、新しい情報が出た。民間の再生用の投資ファンドであるフェニックスというところが、三菱株の大半を2000億円で取得して、筆頭株主になる、という方向だ。2004-05-14 の朝日朝刊・経済面による。……これなら、ベストだろう。責任はすべて民間にある。当然、「悪い部門を切り捨てる」なんていう産業再生機構の方針よりも、「悪い部門を良くする」という方針を取るはずだ。ま、どうしようもない部門は、切り捨てて方がいいが。ただ、三菱の場合、どうしようもない部門はないはずだ。せいぜい遊休工場の休止・集約ぐらいだろう。日産の場合、工場を廃止しても、従業員は解雇されずに配転だった。これなら問題はない。一方、「工場廃止にともなって従業員解雇」というのは、問題が大ありだ。)

 [ 補足1 ]
 現実には、産業再生機構の手がけた案件は、予想されたよりもずっと少ない。その意味で、害悪もあまりない、とは言える。
 とはいえ、「産業再生機構のおかげで景気回復が可能になる」という妄想を振りまくことには、ものすごい害悪がある。産業再生機構は、それ自体が悪をなすのではなくて、政府に正しいマクロ政策をさせる意欲を失わせる、という意味の悪がある。妄想は正しい判断を妨げる。
 たとえて言えば、こうだ。肺炎の患者がいるとしよう。まともな医者は、「これを飲みなさい」と治療薬を与える。それに従えば、すぐに肺炎は治るはずだった。しかるに、「まじない師が祈祷をすれば治ります」と思い込んで、まじない師だけに任せれば、治るはずの病気も治らなくなる。……妄想は病原菌と同じぐらい危険なのだ。
 日本は今、医者に頼らず、まじない師に頼っている。

 [ 補足2 ]
 UFJ銀行が大幅赤字を出した。不良債権処理の費用がかさんだため。(読売・朝刊・1面 2004-05-17 )
 これを見て、「不良債権処理をどんどん進めるべきだ」と主張するエコノミストが多いが、そんなことやればやるほど、ますます赤字がふくらむ。不良債権処理とは、「空からお金が降ってくること」ではない。「身を削って帳簿の赤字を埋めること」である。帳簿の赤字は埋まるが、その分、身が削られる。ここを勘違いしている人が多いようだ。
 では、どうするべきか? 融資先がどんどん赤字を出しているときに、赤字をうまく解消する方法などはない。つまり、空からお金が降ってくる方法などはない。銀行としては、不良債権処理をしようがしまいが、どちらにしても赤字は生じる。個別企業またはミクロのレベルでは、解決の方法はない。
 ただし、マクロ的には、解決の方法がある。景気をよくすることだ。そうすれば、融資先の経営が好転し、不良債権そのものが減少する。不良債権がなくなるので、「不良債権をどう処理するべきか?」という問題が消えてなくなる。
 そして、そのためには、銀行としては取るべき方法はないのだ。何かをなさなくてはならないのは、銀行ではなくて、政府なのである。── そのことを、マクロ経済学は教えてくれる。
( → 不良債権物語



● ニュースと感想  (5月19日)

 「トヨタの好決算」について。
 トヨタが好決算を上げたことについて、新聞各紙はしきりに称賛している。(朝刊・各紙 2004-05-12 )
 しかし、「儲かったからいい」と称賛するだけでは、「米国の後を追えばいい」という小泉と同じで、ただの飼い犬根性にすぎない。もうちょっとまともに批判的な目で見るべきだ。
 トヨタが高収益を上げたのは、「生産現場におけるカイゼン効果」というのが、衆目の一致するところだ。これは、経営が良かったという意味もあるが、本質的には現場の従業員の力である。経営は従業員の力をうまく引き出しただけであり、経営者の能力が優れていたというわけではあるまい。野球でいえば、選手の力をうまく引き出した優秀な監督ではあるが、チームの力の大半は選手のおかげである。監督ばかりを褒めても仕方ない。

 さて。トヨタの経営そのものを見よう。トヨタの経営の特徴は、「失敗をしないこと」である。失敗を確実に避けるから、他社に比べて、優位に立てる。では、「失敗をしないこと」の方法は? それは「物真似」だ。
 次のような物真似がある。
    ウィッシュ   ←  ストリーム
    ヴィッツ    ←  マーチ
    レクサス   ←  インフィニティ
    アルファード ←  エルグランド
    カローラ    ←  サニー

 いずれにしても、ライバル社が市場を開拓したあとで(あるいは市場を開拓すると方針を言明したあとで)、そのあとを追いかける。ライバルに市場を開拓してもらったあとで、その問題点をうまく研究して、対策をして、市場をかっさらう。
 これなら、リスクの負担をほとんどしないで、ライバルの成功例を見たあとで、真似をすればいいわけだ。特に、ウィッシュは、寸法サイズまでストリームとまったく同一であり、完全なコピーと言えよう。デザインもほとんどうり二つだ。よくもまあ恥ずかしくもなく、こういうコピー商品を出せるものだ、と感心する。普通だったら、ライバル社のコピー商品なんて、恥ずかしくて、絶対に出せない。

 結局、トヨタの成功の秘密は、「恥知らず」であることだ。田舎者だから、平然として、恥もなく、ライバルの真似ばかりしている。セルシオなんて、「グリルがクラウンである以外は、ベンツのデザインの真似」といわれながらも、恥ずかしげもなくそのデザインを継続した。
 そして、そういう物真似の方針でたんまりと儲けた金で、資金にものをいわせて、特定分野の開発競争でリードする。ハイブリッドがそうだ。
 ハイブリッドなんてのは、別に、新しい概念ではないし、大昔からあった。ただし、実用化するには、莫大な開発資金がいる。その資金をトヨタだけはもっていた。だからトヨタはこの道を進んだ。そして、「おれはすごいぞ」と威張って、そのあとをマスコミは称賛する。「トヨタの先端技術開発力はすごい、すばらしい」と。本当は、単に、開発資金に金をたっぷりと投入しただけのことだ。それというのも、莫大な金がありあまっていて、他に投資先がなかったから、ここに投入しただけのことだ。
 
 結語。
 トヨタの体質は、「恥知らず」と「金」である。金をめざして恥知らずにふるまって、その金にものをいわせて、さらに金を稼ぐ手段を得る。そこには単に「金儲け」という方針があるだけで、理念がない。
 どちらかといえば、日産の方が、ずっと理念があった。「小型車市場の開拓」「米国高級車市場の開拓」「ミニバン市場の開拓」「欧州市場の開拓」「前輪駆動への転換」「直6からV6への転換」……これらの歴史的な転換は、すべて日産が主導した。開拓者は日産だったのだ。しかし、開拓者が苦労したあとで、そのあとから、疲れた開拓者を、トヨタがさっさと抜いていったわけだ。
 この方式を、レース用語を転用して、「スリップ・ストリーム」と呼んでもいいだろう。ずるい方法ではあるが、いかにも自動車業界らしい、とは言える。
( ※ 勝つためには、この方法は有利だ。しかし、私は、こういうことをする人も会社も、嫌いですね。ついでに言えば、こんな物真似会社を礼賛するマスコミには、うんざりしますね。「独創性の重視」という普段の主張は、すっかり忘れてしまったようだ。)
( ※ だけど、日産の馬鹿さ加減にも、呆れるね。つい先日、サニーの後継者といわれる新車を予告発表したが、あまりにものカッコ悪さにのけぞった。気持ち悪いとしか言いようのないデザインだ。ゲテモノである。こんな醜い車を平然として出すというところに、トヨタとは異なる致命的な欠陥がある。スカイラインやプリメーラやティーノやパルサーやプレサージュで大失敗したあと、同じ失敗をまたも重ねようとしている。……日産の問題は、ゴーン社長が「自分はハンサムだ」と信じて、自分にそっくりな顔をした車ばかり出すことだ。この高慢ちきな自惚れを直さないと、「自分は醜男だ」と自覚した上で、「他人の真似をするしかないな」と思っている田舎者には、とうてい勝てないね。)
( ※ なお、日産デザインの唯一の例外はキューブであり、まともなデザインをすれば日産車は爆発的に売れるわけだ。逆に言えば、デザインの成功例はキューブしかない、というところに、日産の弱みがある。……だけどまあ、次のセドリックはカッコいいから、これだけは売れるだろう。これだけは褒めておく。実を言うと、この次期セドリックのデザインは、私が15年前に描いた「理想の乗用車」のデザインにそっくり。嘘みたいだけど、ホントです。ま、理想と突き詰めていくと、結局は同じようになる、ということ。……ただし、次期セドリックは、フロント・グリルだけは平凡すぎる。私のデザインでは、もっとアーティスティックだ。ガラス製の立体彫刻みたいな優雅な感じになる。オマケで言うと、日産にはフロント・グリルの専門デザイナーが一人もいない。片手間でやっているだけ。だからどれもこれも、平凡の極み。特に、「横桟グリル」は、最も昔のサニーやプレジデントのころからずっと同じ一通りのデザインを維持している。最低。)
( ※ 理念という点では、ホンダは称賛に値する。室内空間を最大化しようとして史上初の方針を次々と開拓していった。ここには「自動車の本質は何か」を追求しようとする強い意思と理念が見て取れる。これは技術者の理念だ。「売れる物を作ろう」というトヨタふうの商人の理念とは正反対の理念だ。三十年前のホンダはダイハツみたいな軽自動車専業のちっぽけなメーカーだったが、今では規模では日産と対等となっているし、世界ブランドでは日産をしのいでいる。たいしたものだ。……だけど、ポカが多いのが、ご愛敬。ポカをなくす工夫をすれば、もっと伸びるんだけどね。)

 [ 付記 ]
 先日、中国でトヨタの広告が大きく批判された事件があった。この件に対して、「トヨタが日本メーカーだから叩かれた。欧米メーカーならば叩かれなかっただろう」とトヨタの経営幹部は認識しているという。(朝日・朝刊・経済面・コラム 2004-05-13 )
 しかし、この件は、詳しくは先に示したとおりだ。( → 12月15日b
 問題は、こういうふうにはっきりと報道されているのに、トヨタはまったく問題を認識していない、ということだ。「ハブの欠陥を指摘されても放置する三菱自動車」とまったく同じ体質だ。呆れてものが言えない。
 おまけに、朝日も、どうかしている。この件は、朝日の紙面で詳しく指摘されたのだ。なのに、自社の紙面に出ていたことすら、すっかり忘れてしまって、トヨタの主張をそのまま鵜呑みにして報道するだけだ。たとえて言えば、「三菱自動車のハブに欠陥あり」と社会面ないし週末版で報道したあとで、「三菱自動車はすばらしい」と経済面で報道するようなものだ。最低。
( ※ 朝日の経済部は、素人の集団だ。だから、私は前からかねがね提案しているが、朝日は専門の経済部記者を育てるべきだ。各部を回るくだらないローテーションなんかをやっているから、いつまでも素人記事ばかりを書いている。たとえて言えば、日経の記事を東京スポーツのスポーツ記者が書くようなものだ。デタラメな経済記事ばかりになる。それが朝日の現状だ。)
( ※ どんな会社でも、専門的な技能を持つ人々は尊重される。半導体を開発できるような技術者であれ、エンジンを開発する技術者であれ、デザイナーであれ。……ところが朝日は、記者をローテーションで回す。これはつまり、専門技能を持つ人としては尊重せず、ただの下級の事務屋として見なしていることになる。「日本企業は独創性を尊重せよ」と記事にする朝日自体が、独創性や技能をまったく無価値なものとしてあしらっているわけだ。ひどいね。少なくとも、読売は、これほどひどくはない。読売の経済面には、素人丸出しの初歩的なミスは見られない。……ま、どこだってそうですけどね。朝日だけが例外。)



● ニュースと感想  (5月19日b)

 「国内の米軍基地」について。(ちょっと暴論)
 米国のイラク攻撃や、北朝鮮のミサイル問題に関連して、「いざというときには日本は米国に守ってもらう必要がある」という主張がある。その前提として、国内に米軍基地がたくさんある。ところが、米軍基地は、その大部分が沖縄にあり、しかも、沖縄は米軍基地が邪魔でみんなが困っている。
 そこで、提案しよう。沖縄の米軍基地を、本土に移転させよう。そうすれば、メリットがいろいろと生じる。
  ・ 「沖縄の人々は、うるさい基地がなくなって、せいせいする」
  ・ 「本土の人々は、基地がそばに来るので、守ってもらえる度合いが高まる」
 というわけで、「米軍に守ってもらえることこそベストである」という主張からは、「沖縄にある米軍基地を、本土に移転するべし」ということが結論される。(保守派の論拠による。)

 とはいっても、現実には、この案は無理だろう。そこで、私は強力な提案をする。次のことだ。(ちょっと暴論だが。)
 「沖縄を独立させよう
 沖縄を独立させれば、米軍基地を追放できる。そして、いったん追放したあとで、日本に復帰すればよい。日本がそれを拒めば、ずっと独立しっぱなしでもいい。あるいは、「中国か台湾かロシアに編入されてしまってもいいぞ」と言い出せば、周辺の領海を大幅に失うことになる日本政府が大騒ぎするに違いない。
 あるいは、米国に編入されてしまってもいい。いずれにせよ、米国は、沖縄が自分の領土の一部となれば、ここに莫大な基地を置くはずがない。現在、米国が沖縄に莫大な基地を置くのは、ここが植民地のようなものだと思っているから、威張りちらして、強権的にふるまっているだけだ。沖縄の人々が米国の市民権を持てば、米国は沖縄州の基地を縮小するに決まっている。
 
 ともあれ、沖縄を独立させるかどうかは別としても、本土に米軍基地を移転するべきだ。少なくとも、「北朝鮮から守ってもらうためには米軍が必要だ」と主張するのなら、本土に大量の基地を招くべきだ。
 まずは、保守派の人の住んでいるあなたの近所にも、爆弾の弾薬庫でも築くといいだろう。そこに生物兵器とか核兵器とかの大量破壊兵器を溜め込めばいい。日本のあちこちに、大量破壊兵器を備蓄するといい。ついでに、うるさい飛行機も。
 というわけで、本土に弾薬庫や基地を招こう。それが自己責任というものである。沖縄の人ばかりに責任を負わせるのは、日本国民が自己責任を忘れている証拠だ。

 [ 補足 ]
 細かな話。読まなくてもよい。
 米軍が大量破壊兵器を溜め込むことはない、と思う人がいるかもしれないが、あにはからんや。米国はこれまで、「生物兵器とか核兵器とかの大量破壊兵器を持っているのはいけない」なんて、いっぺんも言ったことはない。生物兵器とか核兵器とかの大量破壊兵器については、「イラクが持っているのはいけないが、米国が持っているのはいい」と言っているのだ。もちろん、現時点でも、いっぱい持っている。この点、誤解なく。
 大量破壊兵器のうち、生物兵器や核兵器については、世界のほとんどの国が禁止条約に調印したが、アメリカは禁止に反対すると表明している。ただし、化学兵器については、禁止に賛成している。
 米国は、生物兵器や核兵器については「禁止は反対」と主張して世界唯一の悪漢となるが、化学兵器についでだけは「禁止しよう」と言って善人面をする。……で、こういう二枚舌の悪漢を、「素晴らしい正義の味方だ。彼に守ってもらおう」と、どこかの腰抜け国家がへいこらする。
( ※ 法的に詳しく言えば、こうだ。化学兵器、生物兵器、核兵器については、それぞれ禁止条約がある。化学兵器についてだけは、米国は批准したが、生物兵器、核兵器については、米国は批准しない。ただし、世界のほとんどの国は、すべてを批准している。……だから、「ならずもの国家」というのがどこの国のことなのか、よくわかりますね。)
( ※ 化学兵器は別名「貧者の核兵器」であり、簡単に作成が可能だ。一方、生物兵器や核兵器は、かなり高度な技術が必要だ。つまり、高度な兵器なら、自分だけが持てる。これが、アメリカが二枚舌である理由。)







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「小泉の波立ち」
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