[付録] ニュースと感想 (69)

[ 2004.5.20 〜 2004.5.29 ]   

  《 ※ これ以前の分は、

    2001 年
       8月20日 〜 9月21日
       9月22日 〜 10月11日
      10月12日 〜 11月03日
      11月04日 〜 11月27日
      11月28日 〜 12月10日
      12月11日 〜 12月27日
      12月28日 〜 1月08日
    2002 年
       1月09日 〜 1月22日
       1月23日 〜 2月03日
       2月04日 〜 2月21日
       2月22日 〜 3月05日
       3月06日 〜 3月16日
       3月17日 〜 3月31日
       4月01日 〜 4月16日
       4月17日 〜 4月28日
       4月29日 〜 5月10日
       5月11日 〜 5月21日
       5月22日 〜 6月04日
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       7月01日 〜 7月10日
       7月11日 〜 7月19日
       7月20日 〜 8月01日
       8月02日 〜 8月12日
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       3月26日 〜 4月06日
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       4月25日 〜 5月10日
       5月11日 〜 8月11日
       8月19日 〜 10月23日
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       12月13日 〜 12月17日
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       12月27日 〜 1月02日
    2004 年
       1月03日 〜 1月16日
       1月17日 〜 1月22日
       1月23日 〜 2月01日
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       2月15日 〜 2月24日
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       3月20日 〜 4月12日
       4月13日 〜 4月23日
       4月24日 〜 4月25日
       4月26日 〜 5月11日
       4月26日 〜 5月11日
         5月20日 〜 5月29日

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● ニュースと感想  (5月20日)

 「成長率」について。
 1月〜3月の実質成長率が高かった、という統計データが出た。(夕刊・各紙 2004-05-18 〜 翌日朝刊)
 これについて いくつかコメントしておく。

 細かな解釈で勘違いがいくつか出ているので、指摘しておく。(以下、出典は、朝日・朝刊・経済面 2004-05-19 )
 その他、関連する話題として、4月29日 以降で述べた景気診断の話もある。これも参照するといい。


● ニュースと感想  (5月20日b)

 前項の続き。「成長率」について。
 1月〜3月の実質成長率が高かった、という統計データについての話。前項の続き。

 名目成長率と実質成長率の乖離が重要である。「物価下落がひどくなるほど、景気が回復していることになる」という主張は、まったく成立しないのだ。新聞などにあふれているそういう意見は、まったくの間違いである。……この件については、すでに述べたことがある。そちらを参照。 ( → 2月24日 以降。)

 さて。それとは別に考察すると。……
 景気は回復基調であるともいわれるが、では、どうして、物価がどんどん下落しているのか? 理由は、二つ考えられる。
   ・ 生産性が向上して、コストが低下している。(経済体質の好転)
   ・ 需要縮小にともなって、市場価格が下落している。(デフレの悪化)
 どちらもありそうだが、経済指標だけからは、どちらとも決めがたい。判断が難しい。何ともいいがたい。

 ただ、この二つ以外にも、物価が下落する要因はある。それは、「技術革新にともなって、旧製品の価格が下落するのを、物価下落と誤認する」ということだ。この件は、2月24日に述べたとおり。
( ※ つまり、こうだ。たとえば、パソコンが3カ月ごとに新製品に変わると、性能がいくらか向上するが、価格はほとんど変わらない。しかし統計を取るときは、「性能が向上した」というふうに見ないで、売れ残り商品だけを見て、「旧製品の価格が大幅に下落した」というふうに統計を取る。そのせいで、物価が大幅に下落した、という統計データが出る。ここでは、物価が大幅に下落したという統計データが出ても、何の意味もないわけだ。だから、「実質成長率が大幅に高く、物価が大幅に下落し、ただし名目成長率はほとんど変わらない」というのは、実は、「たいして何も変わっていない」というだけのことであるのかもしれない。……つまり、上に掲げた二つのことのうち、どちらでもないのかもしれない。ただの統計ミスであるのかもしれない。その可能性が高い。)
( ※ で、この統計から、何がわかるか? 「われわれの生活は好転した」と言えるだろうか? 失業率や所得の面から見れば、ほとんど変わっていない。さまざまな日常品の価格なども変わっていない。ただし、旧製品の価格だけは、大幅に下がっている。だから、「パソコンなどの旧製品を買えば、お得ですよ」とは言える。でも、そんなことに、意味があるんですかね? ……結局、単純に「ハイテク技術の進歩があった」と言うべきところを、「経済が好転した」と言い換えるのは、経済的な詭弁であろう。民間の理系の技術者の成果を、政府の文系の経済担当者が、「おれさまのおかげだ」と横取りしている。だまされないようにしよう。)
( ※ ま、いずれにせよ、「名目成長率はほとんど変わっていない」ということから、「強引な円安によって強引に輸出を増やしても、経済全体に対しては小さな効果しかなかった」ということだけは、はっきりとしたようだ。……ここでは、「景気は回復基調にある」なんて誤認しないことが大切だ。新聞は「高い成長率」なんて大々的に書いているが、だまされないように、注意しよう。「景気の底堅さ」「個人消費の強さ」というエコノミストの話もあるが、とんでもないことだ。事実とは正反対である。)
( ※ あとで気づいたが、読売の記事には、本項と同趣旨の指摘があった。引用すると、「設備投資に含まれるコンピュータなどの製品は、性能の向上分が価格下落と見なされ、下落幅を大きくしている」。……ま、趣旨は正しいのだが、用語がちょっと不正確。正しくは、「性能の向上による旧製品の価格下落が、物価の下落と見なされ、……」である。)
( ※ なお、朝日の記事には、エコノミストの解説として、「輸出が滞れば、企業や家計の支出も腰折れする。今回の景気回復はデフレ脱却にまでは至らずに終わるだろう」という判断もある。この判断自体は、まったく正しい。ただし、この人の提案は、「だから、家計の消費を増やせ」ではなくて、「だから、輸出を滞らさないために、大幅な円安政策を取れ。試算では『1ドル=180円』ぐらいの大幅な円安に」という、超過激な提案だ。 → 12月15日
( ※ このエコノミストの記事の隣には、政府の経済財政諮問会議の吉川洋の見解もある。「3.2%の実質成長は素晴らしい。十分だ。あとは持続性だけだ。それも期待が持てる。来春までは楽観可能だ。問題は金利の動向だけだ。財政政策は何もしないで、低金利さえ維持すれば大丈夫」という見解。要するに、無為無策政策。……小泉や竹中の主張とほぼ同様。初めから最後まで、全部狂っている。いちいち難点は指摘しない。一言で言えば、古典派丸出しで、マクロ経済学の無視。頭には「所得」の「しょ」の字さえも思い浮かばないようだ。よほどのボンクラ大学の教授だろう。ここで教わる学生が可哀想だ。……デタラメ経済学の拡大再生産。)


● ニュースと感想  (5月21日)

 「三菱自動車の再生」について。
 三菱自動車は、ベンツ主導のトップダウンの経営をやめて、若手チーム主体の組織活性化をめざす。日産のゴーン改革を見習う。主導するのは、企業再生ファンドのフェニックスキャピタル。(朝日・夕刊・1面 2004-05-20 )
 これは、私の先日(5月18日)の指摘そのままと言ってもいい。
  ・ 経営改革はゴーン流を見習う。
  ・ 企業再生は、産業再生機構ではなく、民間主導。
 である。
 もしかして、「小泉の波立ち」を読んで、それをやったのかな?
(ということは、ありえません。実は、上記は、王道である。まともな経営者なら、誰でもこうする。当り前のこと。……私が 5月18日 で指摘したのは、「産業再生機構は、この当り前のことができずに、存在自体が悪である」ということだ。産業再生機構なんてものがあるから、カネボウは、三菱と同じ道をたどることができなかった。かわいそうに。)

  【 追記 】
 産業再生機構は、カネボウの債権者である銀行に対して、千数百億円の債権放棄を求めているという。(朝日・朝刊・3面 2004-05-22 )
 千数百億円。この分は、銀行を通じて、まるまる、国民の負担になる。わかりやすくいえば、日本に千数百億円の無駄が発生して、その無駄を国民が自分の財布から払う必要がある。家族4人の世帯なら、5千円。
 これは、カネボウが花王に買収されていれば、発生しない無駄だった。産業再生機構は、あなたの財布からも、5千円を奪っているのだ。
( ※ もう少し正確に言うと、これは「詐欺」にあたる。千数百億円の債権放棄を要請するのであれば、カネボウを購入する時点で、千数百億円ほど低い価格を提示するべきだった。……仮に、このような詐欺がまかり通ったら、市場経済はメチャクチャになる。たとえば、ライバルよりも少し高値で購入する、と提示して、商品を買う権利を得る。その後、実際に払うときには、値切り倒して、はるかに低い金しか払わない。ズルですね。犯罪と言ってもいい。それをやるのが、産業再生機構だ。)
( ※ 「産業再生機構は、存在自体が悪である」と言った。そして、こういう余計なものばかりを作るのが、小泉の「構造改革」だ。「邪魔なものを改廃します」と言いながら、邪魔なものをどんどん設立する。言葉と行動が正反対。)


● ニュースと感想  (5月21日a)

 「政教分離とインド選挙」について。
 政教分離については、前にも述べた。( → 4月11日5月16日b
 さて。このたび、インドで選挙が行われた。ここで女性のガンジー総裁の率いる政党が勝利したが、彼女は首相を辞退した。その理由は新聞を見てもらうとして、彼女としては「すでに肝心な目的は果たした」と考えたらしい。その目的は「世俗主義である自党が勝利することで、ヒンズー教主導の宗教政党に政権を渡さないこと」である。(読売・朝刊・国際面 2004-05-20 )
 ガンジー総裁の家系の政治的な伝統は、「世俗主義」であり、「政教分離」である。これによって、宗教対立が起こるインドを安定させようとした。「政教分離」というのは、かくも大切な原理なのだ。それは民主主義と並ぶ原理である。
 だからこそ、近代的な国家はいずれも、民主主義と政教分離とともに大切にしようとした。このことを重視しよう。インドもまた、近代国家たらんとしたのである。

( ※ ただし、……残念ながら、日本は、そうではない。小泉は靖国の公式参拝を正当化して、日本を宗教に染めようとした。同時に、一票の格差を5倍まで認めることにして、民主主義も否定した。かくて、近代国家とは逆の方向をめざしている。)


● ニュースと感想  (5月21日b)

 「株で儲かる方法」について。その1。
 株で儲かる方法というのが、週刊ポスト最新号と、朝日新聞(夕刊・株式欄・コラム・17日)に掲載されていた。
 いかがわしい話だと思って読んでみたが、意外にまともで、拍子抜けした。要するに、うまい方法などはない。ちゃんと経済状況や情報を詳しく分析して、頭を利口に働かせれば、儲けることができる、という話。
 その他、初歩的な「間違いを犯さない心得」などはあるが、そういうのは「株式必勝法」などのタイトルで書かれた入門書には必ず書いてあるから、いちいち騒ぐほどのこともない。

 さて。この当り前の話を、私なりに書き換えれば、次のように言える。
 「こうすれば儲かります」というのを、ちゃんと実行すれば儲かるが、そういうことができる人は、ほんの一握りだ。プロ野球を見てもわかる。「こうすれば打てます」というのはわかっているが、それを実行できるのは、松井秀喜のような特別な才能のある人間に限られる。普通の人は、「わかっちゃいるけど、それができない」というふうになる。
 ここでは、知力やセンスが重要だ。そして、知力やセンスは、たいていの人が「おれは十分にあるぞ」と自惚れているけれど、実際には「全員が他人より優れている」ということはありえないのである。
 たとえば、私のすばらしいアドバイスがあるとして、たいていの読者は「なるほど。そのアドバイスに従って儲かるぞ」と自惚れるが、現実には、全員が儲かることなど、ありえない。しょせん、ゼロサムゲームなのだから。(少なくとも短期的には。)
 
 そこで、私から、最終的なアドバイスをしておこう。それは、こうだ。
 株式で必ず儲かる、という最適の方法はある。それは「儲けよう」と思わないことだ。欲得ずくになると、たいていの人は、目が曇って、損をする。むしろ、単なる数字ゲームとして、ゲームのつもりで冷静にやるべきだ。そして、その是非を分ける基準は、こうだ。「自分は金が欲しいかどうか?」
 もしあなたが「金が欲しい」と思うのであれば、やめた方が無難である。たいていは、詐欺師に引っかかって、大損をする。
 もしあなたが「金なんて下らない。ほしくもない」と思うのであれば、やっても大丈夫。しかし、そう思うのであれば、そもそも株式投資なんかしないはずだ。

 では、株式投資で儲けることができるのは、どんな人か? 非常に知性が高くて、しかも、株式投資を第一目的としない人だ。たとえば、「株式の本を書いて、その本でカモを釣ろう」と思う人。こういう人は、一種の詐欺師であるが、詐欺師であるがゆえに、儲けることができる。逆に、詐欺師の本を読んで「なるほど」と思う人は、カモであるから、たいていは損をする。
 「株式必勝法」を読もうと思ったら、その時点で、その人はカモなのだ。利口な人間は、「株式必勝法」を書いて、カモを釣り上げる。ほら、そこらにも、そういう詐欺師がいるでしょ?
 詐欺師は常に、人々の欲得を利用して、自分が利益を上げる。詐欺師が利益を上げるには、欲の皮の張ったカモが必要なのだ。……で、あなたは、どちらですか? 欲の皮が張ったカモですか? それとも、欲の張ったカモを釣り上げようとする詐欺師ですか?

 ま、どっちにしろ、株式というのは、まともな人間のやることじゃない、と思った方がいい。まともな人間は、金を増やそうと考えるよりは、まともな業績を上げようとするものだ。あなたの知能指数が 120以上(受験偏差値が 60以上)あるのならば、金にとらわれるよりは、充実した人生をめざして、もっと別のことで努力した方がいい。あなたの知能指数が 120以下(受験偏差値が 60以下)であるのならば、カモになるだけだから、株なんかは絶対にやめた方がよい。
 人々はしばしば、「知能が株の勝敗を決める」と思う。それは半分だけ正しい。残りの半分は「欲の皮の厚さが勝敗を決める」のである。欲張りほど、ひどい目に遭うものだ。そのことは、あらかじめ心得ておこう。……破滅する前にね。
 なお、株式必勝法を、私から一つだけ言えば、それは、こうだ。「自分は詐欺師としての人生を歩むことを決断し、人々の富をだまし取ることを人生の目的とする。うわべだけのおべんちゃらをうまく言うことを常に心がけ、善や真実をくらます技術に磨きをかけ、天使の顔をした悪魔になることをめざす」
 つまり、徹底的な悪人としての人生を歩む、ということだ。それができれば、大儲けできる可能性がある。逆に、善人ならば、カモになる可能性が高い。

( ※ ネットで株式投資がはやっているが、これで儲けようとは思わない方がいい。たしかに、儲けている人もいるが、そういう人も、やがては損することがある。しょせんはゼロサムゲームだから、儲けている人がいる半面で、損している人がいる。ある種の調査では、一定期間ごとにくくると、「儲かったり、損したり」というふうになって、「大幅に儲かりっぱなし」という例はごく少ない。ま、サイコロ博打をやるのと、たいして変わりはしない。誰もが儲けるというわけには行かない。)
( ※ ただし唯一、株をまともに扱う方法がある。それは、短期の投資でなく、長期安全投資である。もうちょっと利幅の多い方法では、「中期的に伸びる優良企業の株を買う」という方法だ。たとえば、ゴーン社長になった直後の日産自動車。私はこれを多くの人にお勧めしたが、その勧告に従った人は大儲けした。現時点で言えば、めぼしい株はあまりないが、しいて言えば、キヤノンでしょうか。あと3年ぐらいは大丈夫だろう。ソニーやホンダやトヨタは上がりすぎているので、お勧めしません。日産はまだ上がる余地はありそうだ。……以上、保証は何もありません。下手をすると、総崩れになるかも。安全策を狙うなら、「キヤノンと日産を買って、平均株価の先物を売る」かな。もちろん、これも保証なし。)
( ※ 唯一、お勧めしてもいいのは、前述の通り、長期または中期の比較的安全な投資。)

 [ 余談1 ]
 それにしても、金儲けだけが人生の目的だというのは、索漠として、もの悲しいですね。夫婦いっしょや子供と遊ぶ方が、ずっと幸福な人生を送れると思いますけどね。「夫がネット投資に熱中したせいで、妻と娘は外で不倫」なんて、結構ありそうな話だ。
 ただし、詐欺師になるのなら、幸福な人生を送ることは可能だ。人々をカモにして金を巻き上げて、自分だけは幸福な人生を歩む。……良心を代償とすれば、幸福になることは可能である。ま、そういう生き方をする人は、けっこういますね。私はそういう生き方はしたくないけれど。
 私はどういう生き方が好きか? 「1に仕事、2に恋愛」が私のモットーです。預金通帳の残額を増やすことより、預金通帳の残額を減らすことが好きです。もっと好きなのが、美人といっしょにいることです。……これじゃ、金が残りませんね。  (^^); 

 [ 余談2 ]
 あなたがもし女性ならば、株よりもうまい金儲けの方法がある。それは、売春婦になることだ。
 女なら売春婦。男なら詐欺師(あるいは、暴力団のやるようなアコギな商売)。どちらにしても、「楽をして金儲けする」ことが可能だ。ただし代償として、自分の人間性を破壊されるが。ま、そのつもりがあるなら、そうするといいだろう。一方、まともな人間であろうとするなら、こんな道に踏み込まない方がいい。金はたまるかもしれないが、お金といっしょに性病をもらったり、株でカモになって最後は一挙に大損したり。

 [ 補足 ]
 株について本質を示しておこう。「株とは、金儲けの手段だ」と思っている人が多いようだが、とんでもない勘違いである。しょせんはゼロサムなのだから、誰もが金儲けをすることなどはできない。だから、正しくは、「株とは、他人の金をかすめ取る詐欺のゲームだ」というのが正しい。だましたものが、だまされたものから、かすめ取る。正直者が損をして、詐欺師が得をする。……それが本質だ。そして、そのためには、良心なんかをさっさと捨てることが最重要だ。
 株をやれば、たしかに、金を儲けることはできるかもしれない。しかし、そのかわり、人間的な優しさや愛を失う。他人への思いやりを失い、自分だけが得をすればいいと信じ込み、他人の金を奪っても平然としていられるようになる。「かわいそうに」とは思わず、「あいつらが馬鹿だから金を失ったのさ。たとえ自殺しても、自業自得だ。ふん」と平然としていられるようになる。そして、自分の金の出所が、自殺した人々の金であっても、「金に色はついていないさ」と、喜んで札を数えるのである。
 あなたにとって一番大切なのは、何か? 金か? 愛か? 善か? そういうことをよく考えたすえに、選択をするといいだろう。
( ※ なお、先の人質の「自己責任論」というのも、こういうふうに人間性を破壊された人々が主張するようだ。「おれの金を少しでも奪われるのは、絶対に許せない」と思って、人質たちを口汚く罵る。「他人の命よりは、おれの十円の方が大切だ」というエゴイズム。意見というよりは、ただの汚い悪罵。……人間性を破壊された人々の意見は、ゴミ掲示板にあふれている。お暇な人は、お読みください。猿を見物するような感じです。)

( → 4月01日b4月30日 [付記],9月23日 [余談] にも、同趣旨の話。)


● ニュースと感想  (5月21日c)

 「株で儲かる方法」について。その2。(本項の記述は21日でなく、25日
 週刊現代の最新号(24日発売)に、前項の続編となる「株式必勝法」の話があるので、コメントしておく。この方法は、「儲かる方法」としては、正しくない。
 この記事で示した方法は、次のような例がある。
 「日産のマーチが売れている、という記事が出た」
 「日産のマーチがCMを大々的に出す、という記事が出た」
 これをもって「日産の株が上がる」と予測した、という例だ。

 これは完全に間違っている。正しくは、次の通り。
 「長期予測:日産の社長が、老年社長から、ゴーン社長に代わった。ゴーン社長は、日産を活性化するための諸施策を出して、日産の体質を抜本的に改革する、ということが判明した」(就任後1カ月の時点)
 「短期予測:日産が発売を予定した、キューブや米国大型トラックは、製品的に素晴らしいので、爆発的に売れることが予想された」(それぞれの発表時点)
 ここでは、「経営」や「商品」についての、価値判断がなされている。この価値判断が株式市場よりも適切であるときに、儲けることができる。
 一方、「すでに売れている」という記事や、「CMを大々的に展開する」なんていう記事は、何の役にも立たない。そのことについてはすでに株式市場は織り込み済みである。というか、こういう記事が出る前に、自分でその記事を書けるぐらいの情報を持っている人は、たくさんいる。なぜなら、新聞記事というのは、たいていが「古いニュース」であるからだ。たとえば、「すでに売れている」という記事が出る前に、「月間登録台数はこれこれ」という生の統計データが出ている。CMならば、新車発表にともなって大々的に展開されるのは、毎度のことであり、常識である。ニュースにすらならない。
 要するに、新聞記事というのは、それが価値判断を含む限り、何の役にも立たない。新聞記事に依存して価値判断を真似するというのは、最悪の方法である。この方法を取ると、「超短期的に小幅で儲ける」ことは可能だが、それはいわゆるデイ・トレーダーの道である。儲かることもあるが、損することもある。非常に危険だ。通常、やめた方がよい。どうしてもやりたければ、丁半バクチの方がマシである。(本質的にはどちらも同じだが、丁半バクチならば自分の馬鹿らしさを自覚できるだけマシだ。)
 株で儲けるためには、生データから価値判断をする力が必要だ。それができる人は、ごく少数だ。普通の人は、やめた方がよい。

 [ 付記 ]
 たとえば、三菱自動車では、どうか? ここでは「活性化」という正解を取っている。( → 5月21日 )その意味では、暴落したあとで、大幅に上昇する可能性がある。
 では、三菱は、日産のようになれるか? 私の判断を言えば、微妙である。なぜなら、方針自体は正しいが、船長がいないからだ。ゴーン社長と同等の人物がいない。リーダーなき会社は、迷走する危険性が高い。方針だけが正しくても駄目なのだ。
 三菱がどうなるかは、優秀なリーダーを獲得できるか否かによって決まる。それまでは、先行きは不明だ。
 一方、似た例でも、一時的な要因で暴落した例がある。たとえば、東芝がココム違反で米国の制裁を食ったり、日立がIBMとの特許紛争で負けたりして、株価が暴落したことがあった。(ずいぶん古い話である。十年よりもはるかに古い。)
 ここでは、株価は暴落しても、一時的な要因にすぎない。企業体質が変わったわけではないからだ。当然、一時的な要因が消えれば、株価は上昇する。( → 5月05日b 減衰曲線 )

 まとめて言えば、こうだ。
 次の二つの場合がある。
   ・ 企業の活性化・体質改善がなされる。しかも、良いリーダーがいる。
   ・ 一時的な悪影響のせいで暴落したあと。
 この二つの場合に当てはまる、と判断すれば、株を買ってもいい、と言えるだろう。ただし、正しく判断するためには、常人をはるかに上回る知性が必要だ。新聞記事を理解するレベルではなくて、日産の経営を立て直せるぐらいの知性が必要だ。それがない場合は、損をする可能性が高い。
 とはいっても、「正しいことをなす能力」と、「正しいことをなす人物を見分ける能力」は一致するとは限らないから、後者が特別優れている人であれば、株で儲けることもできそうだ。……でも、そういう人は、現実には、ごく少ない。自惚れると、痛い目に遭う。ご注意。
 教訓。
 株で損するコツは、「自分は利口である」と自惚れることである。


● ニュースと感想  (5月22日)

 「冬ソナ現象とネット中毒」について。
 「冬ソナ」現象が話題になっている。あちこちに評論などがあり、「現代の日本では失われた純愛の描写がある」というような趣旨の話も、しばしば指摘される。(例。朝日・朝刊・オピニオン面 2004-05-21 )
 さて。次項の最後には、「ネット中毒と人間性喪失」の話がある。ひょっとして、「冬ソナ現象」は、このことにいくらか関係があるかもしれない。
 冬ソナがかくも人気を得たのは、なぜか? 思うに、ただの純愛や懐旧だけではなかったはずだ。このドラマには、ある本質的なもの[深い人間性]があったからこそ、これほどにも人々の心を得たのだろう。
 問題は、なぜ、それが中高年の女性に限られていたかだ。男性にはあんまり人気がなかったのは、少女マンガっぽかったからだろう。しかし、なぜ、若い女性の心を得なかったのか。それは、たぶん、若い女性がネット中毒ないしケータイ中毒になっていたせいだろう。そのせいで、ある本質的なもの[深い人間性]を失ってしまった。
 わかりやすく言えば、こうだ。中高年は若き日に、男と女のつながりを、対話とデートによって得た。しかし今の若い女性は、男と女のつながりを、ケータイ画面とエッチによって得るだけだ。つまりは、今の若い女性にとって、ゴミ掲示板の上にあるような恋愛だけが、リアルな恋愛なのだ。そのあげく、「世界の中心で愛を叫ぶ」みたいなお子様ランチふうの恋愛が、圧倒的な共感を呼ぶ。
 つまり、冬ソナが若い女性の共感をあまり呼ばないということは、若い女性が本格的な恋愛の能力・体験を失いつつあるということを意味する。肝心の恋愛まで、コンビニふう or インスタント食品ふうの、お手軽なインスタント恋愛ばかりしつつある、ということだ。そのあげく、人間性を喪失する。
 日本の若者たちは、ひどく退行(幼児化)してしまっている。ケータイを捨てないと、どうしようもないですね。3Gケータイだと、「ケータイでネットに常時接続」だから、最悪の状況になりそうだ。

( → 5月13日 [付記2] の最後にも、ネット中毒の話。)
( ※ 19日のNHKニュースを見たら、「世界の中心で愛を叫ぶ」がベストセラーになった理由は、「これまで一冊の本を読み通したことがなかった若い人々が、初めて一冊の本を読めたという体験」だそうだ。今の若い人々は、なかば文盲化しつつあるわけだ。)

 [ 補説 ]
 本項のポイントを、簡潔に示しておこう。現代の若者は、コンピュータやネットを通じて、バーチャル・リアリティを得るようになった。「それは素晴らしいことだ、時空を越えて体験を味わえる」と思うようになった。しかし、疑似体験を得た代償として、現実の体験を失ってしまったのだ。バーチャル・リアリティを得たことで、真にリアルな体験を失ってしまったのだ。
 人質への誹謗中傷も、この観点から、理解できる。ネット中毒の人々はいずれも、人間性を失っている。人間的な愛や悲しみを失い、他人に対する思いやりを失っている。人道的な行動を取った人々を、精神失調を来すほどにも加虐し、その加虐行為を正当化する。このような加虐行為をするのは、ほとんど異常性格である。そして、それは、ふだんから人間的な愛というものを体験したことがないからだろう。
 まず断言してもいいと思うが、人質たちに攻撃を加えた人々は、女性にはまったくモテないはずだ。こういう人々は、コンピュータ・オタクの一種であるから、女性は気持ち悪がって、近づかない。かくて、女性に嫌われて、ますますネットにはまりこみ、ますます人間性を失う。ネットやゲームに接続する時間ばかりが異常に増えて、現実と接触する時間が稀薄になる。……ネット中毒の悪循環。


● ニュースと感想  (5月22日b)

 「マスコミと自己責任論」について。(下品で汚らしい話なので、心の清らかな読者は読まないでください。醜男向けの話。……ただし、マスコミ関係者なら、美醜にかかわりなく、お読みください。
 朝日新聞・週末版 be ・15日付に掲載されたコラムに、イラク人質問題と自己責任論についての論説がある。( asahi.com にもページがあるが、執筆者を個人攻撃するのが目的ではないので、リンクは示さない。知りたければ、朝日の紙面でどうぞ。

 読んで、呆れた。お粗末。まるで子供の議論である。「自由には必ず責任が伴う」という幼稚なことだけを、一所懸命、ぐちゃぐちゃと述べている。
 しかし、「自由には必ず責任が伴う」ということぐらい、子供でもわかっている。こんなことを本気で主張しているのだろうか? まるで「立ち小便をしてはいけません」とか「公共物を大切にしましょう」とか、小学校一年生でもわかることを、「独自の説だ」と称して、大々的に主張しているようなものだ。
 そもそも、「自由のやり放題で、無責任な行動を取ってもいい」なんて主張している人は、一人もいない。なのに、そういう主張があると勝手に思い込んで、それを仮想敵と見なして、批判している。ドン・キホーテそのものだ。妄想のあげく、ありもしない怪物を攻撃する。ほとんど滑稽ですらある。
 批判するなら批判するで、対象そのものをあらかじめ理解しておくことが、最低限、必要だろう。
( ※ google で 「イラク 人質」 または 「イラク 人質 自己責任」 を検索すれば、さまざまな意見や情報が見出される。このくらいは調べるのが、最低限、必須だろう。なお、より便利なリンク情報は、後述箇所にある。)


 では、この論説のどこがどう間違っているか? それを具体的に引用して示そうかとも思ったのだが、やめておくことにした。あまりにも見当違いのデマばかりであり、こんな汚い嘘ばかりの文章を引用すると、私のページが汚れてしまう。
 とはいえ、事実の例証なしに批判ばかりを書くと、私の品性が疑われるだろう。そこで、たくさんあるうちの一つだけ指摘しておこう。人質の払った金は 250万円。なのに論説では、それを「小銭程度」と虚偽で記述している。ひどいデマだ。……こういうことを、いちいちあげつらっていくと、私のページがどんどん汚れていくが。

 細かなことは別として、もっと大事なことを述べておこう。ここでは、問題の核心は何であるか、ということが肝心だ。
 今、世界で大きな関心になっているのは、イラクにおける戦争と平和である。あまりにも巨大な問題だ。このとき、「われわれの財布の金が1円ほど減るか」ということに目くじらを立てると、問題を歪曲化して、目を逸らすことになる。それが、自己責任論である。小泉のお得意な「争点を逸らす」という方法。阿呆な人ほど、猫だましをまともに食らう。
 簡単に一言で言っておこう。「自己責任論」が問題なのは、「政府とマスコミが、自分自身、自己責任を放棄して、人質に責任転嫁していること」である。たとえば、上記の論説は、自分の責任をまるきり放棄して、いやしい悪口の羅列になってしまっている。無責任の極み。新聞という公器を、個人攻撃のための落書き板だと勘違いしているようだ。仮に誰かの悪口を言いたいのだとしても、そのためには、どこかでこっそり言えばいいのであって、新聞という公器では特定個人への下品な悪口を言わないでもらいたい。新聞は落書き板ではないのだ。

 なお、私はここでは、執筆者個人を批判しているわけではない。同種の意見の人々は、日本人の大半であるから、これらの人々をすべて批判するならともかく、特定の一人を批判しても仕方ない。私は個人攻撃をするつもりはない。(この論説の筆者は、全国紙という公器を使って個人攻撃をしているが、私はたとえホームページ上であれ、そんなことをするつもりはない。ここではモデル・ケースとして取り上げているだけだ。)
 では、私は何を批判しているか? マスコミを批判している。そもそも、愚劣な意見が多いのは、世の常ではある。愚劣な意見があること自体は、問題ではない。それを書くことも、問題ではない。(「言論の自由」があるからだ。)
 問題は、こういうお子様レベルの幼稚な論説を、朝日新聞が掲載したことである。朝日の編集方針が問題だ。よくもまあ、これほど無内容で虚偽だらけの論説を、恥ずかしげもなく全国紙に掲載するものだ。
 この論説は、インターネットに大量にあふれているゴミ掲示板の殴り書きと、まったく同じ意見であり、まったく同じレベルである。内容は空虚で、見当違いの悪口があるだけだ。つまりは、便所の落書きと同じである。要するに、ゴミ掲示板の落書きを、そのまま掲載するほど、朝日新聞は落ちぶれてしまった。
 ま、意見だけなら、どんな意見を出そうと勝手である。しかし、意見ではなくて事実の提示において、事実とは正反対の偽情報を、事実であるかのごとく新聞上に掲載するのは、虚報であり、問題だ。朝日はとうとう、事実とは正反対のデマを掲載するほどに、落ちぶれてしまったのだ。ここが肝心。
 私は前に、「言論統制をする読売はゴミみたいだ」と述べたことがある。それにならえば、「デマを掲載する朝日は便所の壁みたいだ」と言えるだろう。バッチイ。読売との比較で言えば、「目くそ鼻くそ」ではなくて、「目くそ糞便」だ。
( ※ ごめんなさい。汚い話を取り上げたことを、お詫びします。……だから言ったでしょ。この話は醜男向けだって。)
( → 核心については  イラクの人質問題の本質毎日新聞サイト
( → 情報については  週刊現代の引用検証するページイラク・リンクCreative Space TOPICS 4月 など。)

 [ 付記 ]
 朝日は「社外執筆者が書いたから当社は関係ない」と言うかもしれない。しかし今回の論説は、虚偽報道による「誹謗中傷罪」という犯罪に当たる。こんなのを掲載した新聞社にも、犯罪の共同責任がある。このマスコミの責任こそ、本項で述べたいことだ。
 オマケで言うと……朝日には良心的な記者がたくさんいることはわかっている。個人的な感想では、「人質擁護」ないし「自己責任論の否定」の記事も、何度か出た。しかし、どれもが感想ふうのエッセーであって、自己責任論に正面から反駁する記事を出したことは一度もなかった。あまりにも腰砕けだった。かくて、自己責任論者のデマばかりをたびたび垂れ流しながら、真実の報道をただの一度もなさなかった。新聞としての機能を放棄してしまっている。ここに、朝日の無能さがある。……いくら良心があっても、行動しない記者は、無価値なのである。
 対比していうと、毎日新聞の人質報道は、かなりまともですね。ゴミでない新聞は、これだけかも。……そもそも、冷静に客観報道しているのが、ここだけだ。

 [ 参考 ]
 高遠さんの記者会見が 20日にあった。(当日のテレビ、および、翌日の各紙・朝刊・社会面。新聞では一部省略されている。読売はマシだが、朝日はピンボケ。)
 なかなか良かった。深い人間性と人間認識が感じられた。それというのも、死を十分に覚悟してイラクに出向いたからだろう。そこには死を覚悟している人間の強さがある。わけもわからずに誹謗中傷をする人々の話を読むと、げんなりするだけだが、高遠さんのような高潔な人間の話を聞くと、心を洗われる気がする。
 汚い非難の声が世間にあふれているなかでは、「はきだめに鶴」みたいな感じだ。言葉からして、他のいやらしい人々の言葉とは違いが歴然としている。言葉を見れば、人間性がわかるものだ。
( ※ 誹謗中傷をした人々の言葉を見ると、言葉が本当にひどいね。論理以前の問題だ。彼らは自分の言葉を紙に書いて、いつも自分の背中にべたべたと貼りつけていてほしいものだ。そうすれば、その人がどういう人間か、誰からもよくわかるだろう。「この男、凶暴につき」という感じだ。)
( ※ こういうふうに誹謗中傷した人が、かくも人間性を喪失してしまったのは、なぜか? どうも、ネット中毒と関連があると思える。ネット中毒度が激しい人ほど、言葉がひどいし、人間性の喪失もひどい。 → 本日別項

  【 追記 】 (2004-05-25 )
 本項に続いて、23日の各項も、関連する話題を述べているので、そちらも参照のこと。特に、23日c は重要である。


● ニュースと感想  (5月23日)

 「朝日の欠陥システム」について。
 前項では、朝日に誹謗中傷の記事(外部執筆者による)が掲載されてことを、批判した。これについて朝日は、釈明するかもしれない。「外部執筆者の記事だったから、たまたまチェックが不足した」と。
 しかし、そのような釈明は通用しない。この失敗は、朝日の致命的な欠陥システムに由来する。以下、理由を示すが、特に読む必要はない。

 なぜか? それは、この外部執筆者というのが、「前科一犯」であったからだ。つまり、誹謗中傷罪という犯罪を犯したのは、今回が初めてではなくて、前にもあった。たぶん一年かちょっと前だが、新聞に何度も報道された。マスコミ関係者ならば、覚えている人もいるだろうし、コンピュータ関係者や経済関係者でも、覚えている人がいるだろう。かなり話題になった事件だ。
 そのときもこの評論家は、誹謗中傷を行なって新聞で報道された。世の中には多数の評論家がいるが、誹謗中傷で新聞種になるような評論家は、ほかにはまず見当たらないだろう。そういう前科者であった。
 ま、前科者を雇うというのは、それはそれでいい。しかし、だとしたら、再犯を犯さないように、雇う側は厳重に注意するべきだった。それが雇用者としての責任だ。しかるに朝日は、その当然のことを、なさなかった。ここには根源的な欠陥システムがある。「たまたま注意不足で」というわけではないのだ。この誹謗中傷という犯罪は起こるべくして起こったのだ。
 たとえて言おう。毒薬殺人を犯した人がいるとする。その人を出所後に雇うこと自体は、別に問題ない。タクシー会社や建設会社が彼を雇っても、少しも問題ではない。しかし、薬局が彼を雇ったら、問題だ。なぜなら、この前科者はふたたび毒薬殺人を行なうかもしれないからだ。当然、雇った薬局には、厳重に注意する義務がある。
 しかるに、朝日は、当然の義務を怠った。だからこそ、この前科者は、ふたたび同じ誹謗中傷という犯罪を犯したのである。再犯だ。そして、再犯が許しがたいのは、それによって非常に苦痛を受ける被害者がいるからだ。

 朝日には責任がある。仮に朝日が良心を持つとすれば、このような誹謗中傷という犯罪を自社の紙面で行なったことに対して、「申し訳ありません」と詫びて、インターネット上からは記事を削除するべきだろう。しかるに朝日は、そうしない。「過ちて改めず、これを過ちという」がぴったりと当てはまる。

 先日、三菱自動車が、自社製品の欠陥を隠蔽しようとして、大きく話題になった。朝日の体質も、これとまったく同様である。犯罪を指摘されても、ほおかむりして、隠蔽しようとする。「黙っていればどうせ世間は忘れるさ」と、知らぬ顔の半兵衛だ。
 これが朝日という新聞社の体質だ。犯罪をなしても知らんぷりをする会社は、その会社自体が犯罪集団なのだ。そしてまた、「でも自分だけは良心的だよ」と自惚れている記者たちは、「自社の犯罪を知っても、黙っていることで、犯罪を隠蔽する」という共犯者なのだ。

 [ 余談 ]
 「そういうおまえは、朝日の悪口を言っているから、おまえも犯罪者だ!」
 と言われる? ぎくっ。
 でも、もしそうだったら、三菱を批判するマスコミはみんな犯罪者になってしまう。だから、まさかね。……でもまあ、一応、謝っておきます。「朝日さん、本当のことをバラして、ごめんね」と。


● ニュースと感想  (5月23日b)

 「自然災害と自己責任論」について。
 自己責任論については、私はかねてあげつらってきたが、別に、「人は責任を取らなくてもいい」と言っているわけではない。当然だ。(前々項参照。「無責任でいい」なんて言っていない。)
 そこで、イラク人質問題とは別のことで、自己責任論を展開しよう。それは、「自然災害に対する自己責任」のことだ。

 自然災害については、予知されないものと予知されるものがある。予知されないものの例としては、阪神大震災がある。予知されるものの例としては、雲仙や三宅島の大噴火がある。
 予知されないものについて、被害に補償するべきかどうかは、社会保障政策の問題だ。ここでは特に論じないでおく。
 問題は、予知されるものだ。予知される自然災害から、予知される被害が生じたら、国はどう対処すべきか? あるいは、被害者の自己責任はどうなるか?

 私の考えを述べよう。そもそも、火山というものには、「休火山」というものは存在しない。あらゆる火山は、「活火山」である。なぜなら、火山の噴火のインターバルは数万年であり、一方、有史以来の観測はたかだか二千年ぐらいだから、「二千年間、噴火しなかったから、今後も噴火しない」なんて、とうてい言えないからだ。(近年の常識。)
 だから、火山のそばに住むことは、危険性と隣り合わせである。明日にも噴火するかもしれない。そういう危険なところに住むとしたら、それは、「自己責任」となるだろう。つまり、火山被害には補償されるべきではない。補償されたければ、自分で保険に入っていればいい。そもそも最初から、火山のそばには住むべきではない。(国が「居住禁止区域」に指定してもよかった。)
 
 さて。問題は、そのあとだ。こうして危険な区域に住んでいる人々に対して、国は、何をしたか? 被害に対しては、ことさら補償しなかった。しかし、かわりに、「ふたたび居住するため」という目的で、国費を莫大に計上した。莫大な費用をかけて、雲仙や三宅島に「砂防ダム」を建設して、火山流を堰き止めようとした。
 これで火山流を堰き止めることができればまだしもだが、現実にはそうではなかった。巨大な自然に対して、人間の力はあまりにも微力である。空の上から見れば、人間はゴジラの万分の一であり、ゴジラは火山の万分の一だ。火山流は莫大な体積があり、一方、砂防ダムの容量はわずかである。だから、火山流の第一波を堰き止めるだけであり、第二波以降にはまったく無効である。第一波で砂防ダムが埋めつくされたあとで、第二波以降が砂防ダムを乗り越えて、人里を埋めつくす。砂防ダムには、何の意味もない。このことは実証済みだ。……こういう無駄なことのために、莫大な費用を計上した。その費用は、被災者1家庭あたり、3千万円程度だ。(3万円じゃないですよ。その千倍だ。)
 これこそ、血税の無駄であろう。しかも、この費用によって、人命が救われるのなら、まだわかる。逆に、この費用を計上することで、危険な区域から遠ざかった人々を、ふたたび危険な区域に居住させようとするのだ。人命を救うためではなくて、人命を失うために、莫大な費用を計上する。その規模が、被災者1家庭あたり、3千万円程度だ。(ついでに言えば、そこらの安全な街中に住んでもらうためなら、被災者1家庭あたり、はるかに小額で済む。砂防ダムなんかを建設しないで済むからだ。せいぜい、転職補助や生活支援などを払うだけでいい。)
 
 というわけで、「自己責任」や「血税の無駄遣い」というのを問題にするのなら、こちらこそ、問題視するべきだろう。しかし、たいていの人々は、逆である。必要もないのに火山のそばに住むわがままな人々には同情して大金を投入し、世界の平和のために出向く高潔な人々には非難を浴びせて金を奪う。
 ここにも、日本の狂気がある。

 [ 付記1 ]
 さらに言えば、火山近辺への居住については、自己責任であろうとなかろうと、それを禁止したい。
 なぜか? 三宅島は、今は火山活動が収束したとしても、数十年後に、ふたたび噴火する。そのとき、その家庭の子供が、災害死する可能性があるのだ。子供の命は、親の勝手な責任で、左右するべきものではない。……「子供を死なせる自由」を親に認めるような政策は、狂っている。国民も政府も、狂気ばかり。

 [ 付記2 ]
 イラク人質事件に戻って考察すれば、こうだ。
 「自分自身が死の危険を冒す」だけならば、その自由はある。また、帰国費用などはもともと自前で用意しておいたのだから、基本的には国税の負担はない。( → 週刊現代 ) だから、このことで他人が批判するいわれはない。
 一方、予知された自然災害の場合は、他人[家族]の命を危険にさらしたり、他人[国民]の金を莫大に奪う。だから、これは批判されても仕方ない。
 つまりは、「自己責任」という言葉を、まともに使え、ということだ。イラク人質事件における「自己責任」論者は、批判する対象を間違えている。
 念のために言っておこう。私はここで、「予知された自然災害」に対する「自己責任」を唱えているが、批判する相手は、その受益者(被災者)ではなく、余計な出費をする政府である。個人攻撃をしているのではなく、政府の政策を攻撃している。この点、誤解しないでほしい。
( ※ 「自己責任」論者は、「批判すべきは、受益者ではなく、政府や政策である」という節度を、見失っている。)

  【 追記 】 (2004-06-15)
 私の上記の意見について批判を耳にしたので、追記しておく。
 まず、基本としてあるのは、「火山被害者に補償をするな」ということではない。あくまで人質事件の被害者との比較の上で、バランスを失している、ということを強調している。「人質事件の被害者を攻撃するな」というのが主題であり、「火山被害者に補償をするな」ということが主題ではない。主と副の関係を誤解しないでほしい。(誰かを攻撃しようとしているのではなく、誰かを守ろうとしている。)
 その上で、さらに説明しておこう。
 「火山地帯以外のすべての日本地域は、プレートテクニクスの点から、すべて危険である」という反論がある。それはそうだ。しかし「少し危険」と「多いに危険」との差は、はっきりとある。ならば、あえて危険な地帯に住む必要はないし、そのために巨額の金を使う必要もない。
 たとえば、「原発のそばに住むのは危険度が高い」という事実がある。ここで、あえて原発のそばに居住させようとするために、「原発のそばに住む家庭に、一軒あたり 3000万円を補助する」というのは、どう考えてもおかしい。「だったら原発のそばは居住禁止にすればいい」というのが、私の案だ。(現実にそういう規制はある。)
 また、「火山地帯以外のすべての日本地域は、みな同じように危険だ」ということはない。たとえば、「雲仙のそばでは雲仙爆発の被害を受ける可能性があるが、雲仙から離れていれば雲仙爆発の被害を受ける可能性はない」という命題がある。私はこの命題に「イエス」と判定する。しかるに、反対論者は、「ノー」と判定する。つまり、「雲仙爆発の被害を受ける可能性は、雲仙のそばでも他の地域でも同じだ」ということになる。仮にこの説が正しいとすれば、「雲仙爆発の被害を受けるのは、雲仙のそばだけだ」という事実を予測した私は、ものすごい予言能力をもつ超能力者だ、ということになる。さらには、三宅島でも、三原山でも、私は見事に被害地域を予想したことになる。史上最大の超能力者かもしれない。
 もちろん、そんな主張は成立しない。「火山の爆発があれば、火山の麓でのみ莫大な被害が生じる」というのは、子供でもわかる常識だ。火山の溶岩は、麓に流れるのであって、遠く離れたところまで空を飛んでいくわけではないからだ。(火山灰ならば空を飛ぶが、熔岩は空を飛ばない。)
 さらに言えば、「避けられる危険はなるべく避けるべきだ」というのが、私の立場だ。あえて危険な地に居住する必要はないのだ。特に、自分一人だけならばともかく、自分以外の家族(妻子)の命を危険にさらす権利など、誰にもないのだ。
 結語。
 人は謙虚であるべし。自然をコントロールできるとか、自然からの災害は常に免れることが可能とか、そんなふうに人間の力を過信するべきではない。もっと自然を畏れ、自然の巨大さを自覚するべきだ。

 [ 補足1 ]
 上記の補足としての話だが、話題が広がるので、独立的に示す。「自然と人間」という話題である。
 人間は自然をコントロールできるだろうか? 土木技術者は「イエス」と答えがちだが、私は「ノー」と答えた。(前述)……これは、「公共事業をなすべきか」という問題とも関連する。
 私の見解は、こうだ。「土木技術で人間が自然をコントロールできるのは、数百年も前からなされていたことだけだ。つまり、平野部の堤防だけだ。それ以外のほとんどすべては、やらない方がマシである」
 実際、宍道湖でも、諫早湾でも、天橋立でも、土木技術の結果としての自然破壊が話題になっている。「土木技術で人間が自然をコントロールできる」という信念の結果は、「自然の破壊」でしかなかった。
 本項の「砂防ダム」に話を戻そう。「砂防ダム」といっても、風雪災害防止の小規模な砂防ダムなら、問題ない。対策すべき自然は小規模だから、人間の建造物も小規模で済む。実際、風雪災害防止の砂防ダムは、まさしく小規模の土砂を防止する効果がある。
 一方、溶岩流対策の砂防ダムは、ほとんど効果がない。「流れを逸らす効果がある」という主張もあるが、それは第一波の分だけだ。そもそも、溶岩流や火砕流の体積は、砂防ダムの容量に比べて、圧倒的に大きい。実際、雲仙または三宅島でも、砂防ダムが流出物の第一波によって埋まって、それを乗り越えた分が麓に襲来した、という例が報告されたはずだ。過去の砂防ダムは、今では何の意味もなく、堆積した熔岩や土石流のなかに埋もれているはずだ。貴重な金が無駄に埋もれた、と言ってもいいが。
 砂防ダムの土木技術者の「自然災害を克服したい」という意思は美しいが、「意思があっても力は小さい」と自覚する謙虚さを持とう。火山の砂防ダムの建設のための巨額の金は、全国民の莫大な血税から得ているのだ。金は湯水のようにあるわけではなくて、他の人々がおのが身を削ることによって得られるのだ。砂防ダムを造れば作るほど、他の人々の身が削られるのだ。そのことを理解するだけの謙虚さを持とう。
(そういう私自身も、あまり偉ぶって威張り散らさないようにしたい。……「嘘つけ!」と言われそうだが。  (^^); )

 [ 補足2 ]
 砂防ダムは、公共事業だ。これについて言おう。
 一般に、公共事業の問題については、私は原則として「受益者負担」を主張する。砂防ダムも、その費用を受益者で負担するべきだろう。そのような形の砂防ダム建設であれば、私は反対はしない。
 こういうことは、整備新幹線や本四架橋も同様だ。田中角栄事件のときの、信濃川の堤防も同様だ。
 原発の例で言えば、「どうしても原発のそばに住みたい」というのであれば、あえて禁止する必要はないかもしれないが、「原発のそばに住むから、そのための新築費用をすべてまかなってほしい。3000万円をくれ」というのは、どう考えてもおかしい。自分のわがままのために、国の金を当てにするのは、筋違いだ。
 血税を使うのであれば、その血税を出した人々がどれほどの苦労しているか、よく自覚するべきだ。その自覚がなければ、腹黒い政治家と同じになってしまう。
 「地方に金を与えよ」という意見には、私はまったく賛成しない。通勤地獄の都会よりは地方の方がずっと恵まれているからだ。「高齢者などの弱者に優しくせよ」という意見には賛成するが、「地方に住む人を優遇せよ」という意見は「強者を優遇せよ」という意見と同様なので賛成しない。そもそも、人は地方を脱することが可能だし、地方に住むのは人が自ら選択したことなのだ。
 「そこは危険だから」という理由で、「砂防ダムを造ってほしい」というのは、「自分の贅沢のために」という理由で、「金をもらいたい」というのと同じだ。私としては、たかり根性がイヤなんです。いやしいから。
 なお、「イラクの人々を救おう」とした人質たちは、自腹を切った。私の本項の主張を否定して、「砂防ダムは有効だ」と主張するのであれば、そのために、自腹を切って、砂防ダムを建設するといいだろう。それならば、私は尊敬する。
( → 菊池寛に「恩讐の彼方に」という名作がある。自腹を切って自分でトンネルを掘った、という人の話。青空文庫にあるので、読むといいだろう。)

 [ 補足3]
 火山周辺への居住について言えば、「居住を禁止したい」というのが趣旨ではない。「危険な地に居住するための費用を国にまかなってもらう」というのがおかしい、と述べている。「権利だけを主張して、費用はすべて国任せ」というわがままを問題としている。(原発の費用のたとえの通り。あるいは、たかり根性。)
 誤解されるとまずいが、私の基本的な態度は、「(居住についての)個人の自由を否定しよう」ではない。逆に、「権利を主張するときには、自らを省みる謙虚さをもとう」だ。ここでは、「権利を主張してはいけない」というふうに災害被害者を批判しているわけではなくて、「自分勝手な権利に応じて血税を無駄遣いをしてはいけない」というふうに政府を批判しているだけだ。
 なお、仮に、私が現地の居住者であれば、「居住禁止」という方針を支持する。火山周辺の居住は禁止となるが、そのかわりに、土地を高額で買い上げてもらう。また、私が子供なら、危険な地からさっさと脱出して、安全な土地に移り、奨学金を得て、寮生活を送る。親が熔岩で死んだあとも、子供だけは生き残れる。……これらの施策の場合、必要な金は桁違いに小さいから、国民全体としてもずっと嬉しい。(ただし、難点も、一つだけある。それは、砂防ダムの担当者が失業することだ。彼らには大反対されるだろう。)(一方で、大きな歓迎も得られるだろう。自然が保全されることで、自然を汚染する危険が免れるからだ。離島には固有の動物が多いから、それらを保護することも可能になる。)
( ※ 土地を失った人々をどこに住ませるか? 実は、日本の平野部には、居住可能な土地がありあまっている。まずは、何にも使われていない平らな土地が、莫大にある。それは、いわゆる「休耕田」だ。また、市街地にも「農地」がたくさんある。……そこで、この両者を交換すれば、休耕田は農地として有効利用され、その一方で、市街地では莫大な農地が住宅地に転用される。国民は大量の住宅地を入手でき、また、国は土地売却による莫大な税収を得る。)


● ニュースと感想  (5月23日c)

 「自己責任論の核心」について。(本項の記述は23日でなく、25日
 前項まで数項目で、自己責任について言及した。これらの記述から、自己責任論については、核心的なことがわかる。
 「人は自分の行動に自己責任を取れ」という主張(自己責任論)がある。それはそれで、原理的には(一応)正しい。では、この主張から、どんな結論が出るか? それは、次のことだ。
 「政府は何もしないで、ほったらかしておけばよい」
 つまり、イラクで人質が拘束されたら、政府は何もしなければよい。それだけのことだ。「人質に自己責任がある」という主張からは、「政府は何もしなければいい」という結論だけが出る。
 ここでは、主語は「政府」である。ところが、現実には、いつのまに主語が「政府」から「人質」に転じてしまった。「人質はイラクに行ってはいけない」とか、「家族は人質の命を救ってほしいと頼むことがいけない」とか、そういうふうに主語がズレてしまった。
 ここでは、話がすり替えられている。「政府が何もしないでいい」ということが、「人質がこれこれのことをしてはいけない」というふうに、話が別の話になってしまっている。論点のすり替えだ。
 そしてまた、主語が「政府」であれば、政府に向かって「こうせよ」と言うべきだったのだ。ところが、主語が「人質」に転じた。すると、本来ならば政府に向かって何かを言うべきであったのに、人質に向かって何かを言うようになった。
 もともと、話は、政府の政策をどうするかという問題だった。ならば、「政府」を主語として、政府に向かって言うべきだった。なのに、政府の政策について、「人質」を主語にして、人質にあれこれと言う。政府の責任で決断すべきことを、人質に原因を負わせている。

 では、こうなるのは、なぜか? それは、政府に責任感がないからだ。政府が自分で自分のことを決められないからだ。本来なら、政府は決然として、「何もしません」と言えばよかったのだ。「何もしません。ただし、何もしないことの結果については責任を持ちます」とはっきり宣言すればよかったのだ。( 例 → 【 追記8 】 の (4) )
 ところが、政府には、その責任感がなかった。自分の言動を自分で決めるという責任感をもてなかった。そのせいで、自分が判断できないことの理由を、人質に負わせようとした。かくて、責任転嫁をした。無責任にも。……この「政府の無責任」と「政府の責任転嫁」が本質である。だまされないように、注意しよう。

 「人質は救出費用を払え」という主張のどこが見当違いであるかも、以上のことからわかるだろう。
 「自己責任」を唱えるのであれば、「政府は何もしなければよかった」と語るべきであった。ならば、「救出のためと称して飛行機を飛ばさなければよかった」と語るべきだったのだ。どうせ飛行機などは何の役にも立たなかった。むしろ無意味な行為に高額な料金を取られるだけ、人質にとってはありがた迷惑である。
 とすれば、飛行機を飛ばしたことについては、「政府は無駄なことをしなければ良かった」「政府は余計なことをするべきではなかった」と、人々は政府批判をすれば良かったのだ。あるいは、「余計な出費をすると決断した小泉は政府に金を払え」と首相に注文すれば良かったのだ。なのに、どこをどう間違ったか、人質に矛先を向けてしまった。とんでもないマトはずれである。
 要するに、物事の核心を見失うと、話がすり替えられて、見当違いの相手を攻撃するようになる。それが「自己責任」論だ。
 結果的に、陰で喜んでいる人がいますね。「おれが無能であるがゆえに責められるはずだったのに、おかげであいつらが責められている。しめしめ」と。彼はほくそえんで、舌を出している。あまりにも愚かな人々が多いせいで。

 [ 付記1 ]
 以上のことから、根本的な矛盾がわかる。「自己責任」論者は、実は、「自己責任」とは正反対のことを主張しているのだ。
 政府のやったことは、「余計なおせっかい」である。ならば、「余計なおせっかいはやめろ」と言うべきだった。ところが、「余計なおせっかいをした政府は、悪くない。むしろ、余計なおせっかいを受けた国民が悪い」と言う。
 この主張に従えば、「余計なおせっかい」が正当化される。「余計なおせっかいはやめろ」と言うかわりに、「余計なおせっかいを、どんどんしろ」と言う。そして、「それにかかった費用は、余計なおせっかいを受けた国民が払うべきだ」となる。
 これは、「自己責任」論というより、「おせっかい肯定」論である。本当の「自己責任」とは正反対のことを主張して、「どんどん無駄なことをやれ」と主張している。
( ※ 救援機の派遣は、人質解放のためには、まったく役立たずであった。この点については、すでに何度か述べたとおり。人件費についても、すでに何度か言及した。 → 98m_news.htm

 [ 付記2 ]
 とにかく、政府の「責任転嫁」と「無責任さ」に注目しよう。
 仮に、政府のこういう方針がまかり通ったら、政府の失政はすべて、国民に責任転嫁されるだろう。年金の問題も、不況の問題も、何もかもが「国民の自己責任」になってしまう。あげく、「おせっかい肯定」論に従って、無駄なおせっかいのツケが回ってくる。
 たとえば、こうだ。政府は「不況脱出のため」と称して、莫大な無駄な費用をかけて、ピラミッドや天下り会館をたくさん建設する。そしてその費用を、国民にツケ回しする。「おまえたちのためにこれだけの金を使ったんだ。おまえたちのための出費なんだから当然、その分は払えよ。それが自己責任だ」と。
 無責任な政府を持つと、こういうハメになる。見当違いな政策をどんどん実行されて、そのツケがみんな国民に回ってくる。皆さんもそのうち、一家庭あたり、250万円を払わされるハメになるかもしれない。その最初の例が、あの人質たちだ。

 [ 付記3 ]
 もう一つ、暗黒のシナリオがある。それは、こうだ。
 不況という大問題が起こる。そこで私が「政府は正しい政策を取れ」と主張する。とたんに、日本中で、「自己責任」論という名目で、「不況肯定」論が起こる。こういうふうに。
 「不況になったのは、国民各人の責任だ。自分たちが原因なのに、政府に何とかしてもらおうなんて、虫がよすぎる。自分のことは自分で責任を取れ。政府に景気対策を要求するような奴は、わがまますぎる。もしそんなことをしたら、政府に金がかかって、困るじゃないか」
 かくて、「不況を放置しろ!」という名目で、私のところに攻撃が雨あられのような襲いかかる。そして、その陰では誰かが、「しめしめ」とほくそえんでいる。
( ※ 一般に、古典派の経済学者は、「自由放任」を主張し、「政府は無為無策がベストだ」と主張する。本当にそう信じるのであれば、「政府は何もしなければいい」と主張すればいいはずだ。ところが、どこでどうトチ狂ったか、「政府が何かをしたなら、それを要求する国民のせいだ」と言い出す。政府を判断力のない赤ん坊のように扱って、やたらと国民ばかりを非難する。こういうトチ狂った人々が、「自己責任論者」であろう。……こういう人々は、古典派の一派だろうか? いや、むしろ、古典派の落ちこぼれである。勉強しても、勘違いしたわけ。)
( ※ なお、マスコミの無責任さについては、これまで何度か説明したので、ここでは改めて言及しない。)

 [ 補足 ]
 本項で述べたのは、「自己責任」論の難点であり、「どうせなら正しい自己責任論を出せ」ということである。
 ただし、私自身は、どんな意味であれ、「自己責任論」を取ることはない。「おまえたちが勝手にやったんだから、おまえたちが最後まで責任を取れ」なんてことは言わない。なぜなら、それは、日本国民として、あまりにも無責任だからだ。どちらかと言えば、感謝の意を捧げたい。( → 【 追記8 】 の (6) 「紅綬褒章」。なお、理由は、殉職した外交官の場合と同様。)

 [ 余談 ]
 なお、「自己責任」を唱えてもいい場合が、一つある。それは「日本国民が小泉を選んだ責任」だ。国民が阿呆な首相を選んだせいで、日本は壊滅的な状況となる。これはまあ、自己責任でしょうねえ。やっぱり。
 面白おかしい話があります。新婚夫婦の自己責任。 ( → 12月26日


● ニュースと感想  (5月23日d)

 「自己責任論者の精神構造」について。(本項の記述は23日でなく、26日
 バグダッドも危険だ、という話がある。朝日記者の話。
 「バグダッドには、死が満ちている。支局の数キロ先で、つい先日も自爆テロがあり、七人が死んだ。支局の半径1キロ以内で、ここ数カ月間に、何発の爆弾が炸裂し、何十人が犠牲になったんだろう。支局に爆風が飛び込んだことも一度や二度ではない。今日も二発の爆発音がした。」(朝日・朝刊・国際面・コラム 2004-05-25 )
 これが現実だ。とすれば、「自己責任」論者は、こういうジャーナリストを非難するべきだろう。「危険認識が不足している」とか、「馬鹿だ」とか、「国民に心配をかける」とか、「捕虜になったら国に莫大な費用をかける」とか。
 しかし、そうなれば、われわれには重要なニュースが届かない。先に述べたことを再掲すると、次の通り。( → 4月20日b
 (……)現場の事実を知ることが必要だ。そして、そのためには、たとえ危険であろうと、現場に出向くジャーナリストが必要だ。
 1991年のイラク戦争のときには、バグダッドを空襲する状況を、CNNのピーター・アーネット記者が報道した。他のジャーナリストが「危険だから」という理由で逃げ出したのに、彼だけは残って報道した。その映像を、世界中のテレビが放送した。米軍でさえ、その映像を貴重な資料として利用した。その彼を「危険な地に出向いた馬鹿ものめ」と非難した人がいただろうか? なのに、今の日本では、イラクに出向いた日本人ジャーナリストを非難する。
 現在、イラクは危険だが、イラクから続々と情報が入ってきている。それは、危険なイラクに駐在するジャーナリストがいるからだ。イラクにいるジャーナリストのおかげで、情報を入手したり、映像を見たりする。なのに、日本にいる人々は、目ではジャーナリストの送る映像を見ながら、口では「危険な地に出向くな」と非難する。
 ここで、「ジャーナリストは立派な使命があるから、ボランティアとは事情が違う」という主張もある。しかし、何か勘違いしていないだろうか? 「自己責任」論者の「危険の認識」とか「国への負担」とかは、赴任の目的が「報道」であるか「ボランティア」であるかには、関係がない。ジャーナリストを別扱いしたいのであれば、まず、自らの論拠を捨てる必要がある。……とすれば、もともと「自己責任」論なんてのは、成立しないのだ。

 そこで、私が本当のことを明かそう。「自己責任」論者というのは、ただのエゴイストなのである。なぜか? 彼らの論拠は、もっともらしいようであるが、本当は、次のことなのだ。
 要するに、自分の損得だけで言っているのだ。世界の平和とか、イラクの莫大な死者とか、そういうことはすべて頭からシャットアウトして、ただ自分の財布の一円玉と、自分の見るテレビの番組の画像で、自分がちょっと得をしたいだけなのだ。世界中でどんなに大問題や多大な死者が出ようと、自分の目に入る画像と一円玉だけが、彼のすべてなのだ。(だからこそ、同じことをしても、ボランティアとジャーナリストに対して、正反対の評価をする。)
 そういうエゴイストたる人々が「自己責任」論者なのである。

 そして、これは、人の人生観の問題だ。自分の利益だけが大切なエゴイストは、他人の利益や世界の平和のために奉仕するボランティアの気持ちは決して理解できない。だからこそ、エゴイストは、ボランティアを非常に口汚く罵るのである。
( ※ さもなくば、あれほど狂気的に汚い言葉で悪罵できるはずがない。まともな論説を出すのではなくて、狂人としての残忍な悪罵を出す。酒鬼薔薇が人を切り刻むように、人質を苛もうとする。……そして、その例が、先日の朝日に掲載された論説だ。 → 5月22日b


● ニュースと感想  (5月23日e)

 「NGOと自己責任」について。(本項の記述は23日でなく、27日
 読売の論壇・月評が記者により執筆された。(読売・夕刊 2004-05-26 )
 これまた、呆れてしまった。便所の壁である。たしかに、論壇には、便所の壁みたいな意見はいっぱい出ている。しかし、よりによって、そういう汚らしいものばかりを選んで紹介すれば、読売自身が便所の壁になる。いくら朝日が便所の壁になってしまったからといって、そんな変なところまで真似しないでいいのだが。
 以下、具体的に示す。
 まずここで紹介されているNGO批判は、次のようなものだ。
  1. アマチュア的なNGOは、危機に際して自己解決能力をもたない。その点、プロフェッショナルなNGOとは異なる。能力不足なのだから、危険な地には出向くべきではない。
  2. アマチュア的なNGOは、独りよがりな気持ちでやるものであり、現地のニーズには応えていない。自分のナルシシズムでやっているだけだ。
  3. それはヒロイズムや自己満足が優先された「自分探しの旅」かもしれない。単に「必要とされたい」「名を上げたい」というような動機が先に立ってしまう。
  4. 今すぐできる行動ばかりをもてはやすよりも、反射的ではない熟慮に基づいた行動こそが求められる。
 いかにももっともらしい。しかしこれはすべて、「便所の壁」と同じである。なぜか? その理由を示そう。

 (1) 根源
 まず、根源がある。そもそも、論壇とは、何か? 政治な事柄を論理的に考察するところだ。では、上記の論説は、そういうことをしているか? 具体的には、イラクの戦争と平和について、何か建設的なことを言っているか? 否。ただの一言でさえ、イラクの戦争と平和については語ってはいない。
 では、何を語っているか? かわりに、個人的な動機である。「自分探しの旅」とか、「功名心」とか。……もっともらしい説明を付けているが、これこそ便所の壁である証拠だ。
 そもそも、「自分探しの旅」とか、「功名心」とかは、悪いことでも何でもないし、若い人ならば、ほぼ全員に当てはまることだ。人は誰しも、人生に悩み、考える。「どう生きるべきか?」「何をなすべきか?」と考える。それはまともな人間にとって当り前のことだ。別にNGOの人だけがそうしているわけではないし、ほとんどすべての人がそうしている。
 たとえば、松井秀喜がそうだ。彼は中学生時代に、柔道にすべきか野球にすべきかでいくらか悩んで、「野球の方が女性にもてそうだから、野球にした」と述べている。(読売・朝刊 2004-05-26 )
 これは、別に、悪いことでも何でもない。人間ならば誰だって、こういうふうに人生について悩むし、不純な(?)動機で人生を選択する。それが当り前なのだ。
 「自分はどう生きるか?」で悩まないのは、次のいずれかだ。
   ・ 頭が白痴で、何も悩まない人。
   ・ 「人生はお金だ」とか「人生は出世だ」とか、最初から決めつけている人。
 要するに、非人間的な人である。こういう非人間的な人は、人間的な悩みをもたない。単に「自分の利益になることをするのが自分の目的だ」と信じて、エゴイズムで突き進む。……こういう人は、他人が「どう生きるか?」ということで悩むと、馬鹿にする。それが、上記のような批判だ。
 つまりは、彼らは、人間性を喪失しているのだ。それゆえ、人間性について理解できないのである。
 のみならず、論点のすり替えを行なう。「イラクの戦争と平和」について論じるべきときに、「人質の行動の動機」というような個人的な気持ちへと、話をすり替える。ゲスの勘ぐりだ。
 たとえば、世間が「松井秀喜の大リーグ挑戦」ということを話題にしているとしよう。多くの人は「松井の努力と勇気」というようなことを話題にする。ところが、心根のさもしい人は、ゲスの勘ぐりをして、彼の動機だけを問題にする。「どうせ金だけが目当てさ」「どうせ功名心さ」「どうせ自分探しの旅をしているだけさ」……と。肝心の話からあえて話を逸らして、下世話な話に論点をすり替える。
 まったく、卑しいね。これが、読売の論壇時評だ。便所の壁。

(2) 前提
 NGOの行動が危険だと言われる。
 しかし、今回の行動が危険だということは本人が誰よりもよく知っているし、出掛ける前には家族に向かって「生きて帰れる保証はない」と言っている。家族との間で喧嘩になった例もある。だから、「人質たちが危険を無視していた」とか「危険を考えていなかった」とかいう批判は、事実とは正反対のことを前提とした非難なのである。要するに、論者の主張は、嘘なのだ。
 ただし、「前提は嘘だが、論理は正しい」というふうになっている。そのせいで、読む人はだまされてしまう。しかし、前提が嘘であるからには、あとの論理がいくら正しくても、その主張全体は虚偽なのである。

 (3) 各論
 次に、先の各論について、個別に難点を指摘しよう。

 1. アマチュア的なNGOは、危機に際して自己解決能力をもたない。その点、プロフェッショナルなNGOとは異なる。能力不足なのだから、危険な地には出向くべきではない。
 アマチュアがプロよりも能力的に貧弱である、というのは事実だ。しかし、その一方で、多大なメリットがある。それは「コストがゼロである」ということだ。
 ひるがえって、プロのNGOには、コストが莫大にかかる。たとえば、あなたが街角で「イラクの平和のために」とか、「貧しい人の救済のために」とか、「途上国の教育援助のために」とか、そういう募金に応じて、百円を投じたとしよう。その百円は、援助に向かうか? 否。その大部分は、人件費に消えてしまう。百円のうち、現地で相手国民に渡る金額は、多くて7割、少なくて0割である。つまり、残りの3割〜10割は、プロのNGOの事務局の人件費に消えてしまう。これでは、援助をしているのだか、自国で失業対策(または詐欺への協力)をしているのだか、わかったもんじゃない。
 また、そもそも、論点が狂っている。ここで問題になっているのは、「アマがやるか/プロがやるか」ではない。「アマがやるか/アマがやらないか」だ。論点が意図的に逸らされている。詭弁である。
 相手国民にとっては、プロであれアマであれ、援助をしてくれればありがたいのであって、「アマはプロよりも劣るから、アマはいらない」なんて贅沢は言っていられないのだ。
( ※ なお、危険性について言えば、NGOよりもはるかに危険なのが、外交官と自衛隊である。これらは殺害対象となっている。被害も出た。どうせなら、これらに懸念して、「自衛隊と外交官の撤退」を主張するべきだろう。危険性だけで決めるのならばね。)

 2. アマチュア的なNGOは、独りよがりな気持ちでやるものであり、現地のニーズには応えていない。自分のナルシシズムでやっているだけだ。
 どこからそういうデタラメが出るのだろうか? 事実を見ればわかるとおり、アマチュアだからといって、決して単身でやっているわけではない。現地で他のNGOと共同で行動することが多い。そしてまた、とても感謝されていることは、すでに報道されている。イラクの子供たちが、高遠さんに抱かれて喜んだり、「ナホコ行かないで」と寂しがって涙ぐんだり、という話が報道されている。
 イラクには父母を殺された孤児がたくさんいる。そういう孤児たちの悲しみがわからないのだろうか? 孤児の気持ちもわからないようでは、人間性を喪失している、としか思えない。
 さらに、事実認識の問題もある。イラクの国民は、「外国の軍隊は出ていってほしいが、外国の援助団体は来てほしい」と望んでいる。そのことは各種の世論調査で何度も報道されている。なのに、この事実と反対のことを主張するのは、どうかしている。
 とにかく、イラク国民のニーズは、軍隊による治安活動ではなくて、民間の援助なのだ。そして、民間の援助に対しては、大規模であれ小規模であれ、感謝する。実際に何かをしてくれるかということよりも、少しでも自国のために奉仕してくれることに感謝する。イラク国民は、日本人の論者ほど非礼ではないのだ。(逆に、論者は、「非礼」という言葉がふさわしい心根をしているだろう。こういう人々は、他人から親切をしてもらっても、「それじゃ足りないよ」と文句を言って、感謝の一言も言わないはずだ。)

 3. それはヒロイズムや自己満足が優先された「自分探しの旅」かもしれない。単に「必要とされたい」「名を上げたい」というような動機が先に立ってしまう。
 動機などは関係ない。それは先の松井選手の場合と同様だ。動機が何であるかよりは、行動が何であるかが問題だ。
 動機がどうであれ、現地で感謝している孤児がいるのであれば、その行動はとても価値があるのだ。論壇で論じるべきは、「動機が何か」ではなくて、「結果がどうか」なのだ。結果よりも動機ばかりを論じるのは、論壇というより、「ゲスの勘ぐりだけを書く、便所の壁」にすぎない。

 4. 今すぐできる行動ばかりをもてはやすよりも、反射的ではない熟慮に基づいた行動こそが求められる。
 何も行動しないで日本にふんぞりかえっている人間には、そんなことを言う資格はない。よくもまあ、恥ずかしげもなく、そんなことを言えるものだ。自分は平和な地でぬくぬくと寝転がっていながら、「熟慮に基づいた行動」なんてぬかしている。馬鹿じゃないの? 「熟慮に基づいた行動」ではなくて、「熟慮に基づいた無行動」でしょ? あんたたちは、いったいいつ、「熟慮に基づいた行動」をしたのだ? いったいいつ、イラクに出向いたのだ? 頭が錯乱しているとしか思えない。
 それとも、何ですか。自宅でテレビを見ながら酒を飲んで論じていることが、「熟慮に基づいた行動」なんですか? 冗談も休み休み言ってほしい。
 ついでにいえば、自衛隊もまた、サマワで穴蔵に閉じこもっているだけで、ちっとも外に出ないわけだから、「熟慮に基づいた無行動」である。これで平和が訪れる、と信じているところに、論者の妄想がある。
 根源的に考えよう。自分では何も行動しない人間は、他人の行動を非難する資格はないのだ。たとえ同意できないとしても、できることはせいぜい「沈黙すること」だけであって、非難してはならないのだ。それは人間としての最低限の節度だ。……たとえば、ゴミ掃除をサボった人間は、他人のやった掃除がいくら下手でも、その下手な掃除を非難する資格はない。それと同様だ。
( ※ 嘘だと思うのなら、奥さんの掃除や料理に、いちいち文句を言って、「おまえは下手だから、やめろ」と命令してみてごらんなさい。いったい、どうなることやら。……そのとき、身にしみてわかるはずだ。「自分では何も行動しない人間は、他人の行動を非難する資格はない。たとえ同意できないとしても、できることはせいぜい沈黙することだけだ」と。)

 結論。
 彼らの意見をまとめて評価すれば、次の通り。
 ・ 肝心の「イラクの戦争と平和」には、何も論じない。
 ・ かわりに、個人的な動機について、「ゲスの勘ぐり」をするだけ。
 ・ イラクでまさしく感謝されていても、その現実に目をふさぐ。
 ・ 「もっと有効な行動もある」と主張するが、コストを考えない。
 ・ 「もっと有効な行動もある」と主張して、無行動を是認する。
 要するに「平和ボケ」である。これはつまりは、「自分では何もしないで、テレビを見ながら寝転がっていれば、空から平和が降ってくる」という主張だ。そして、これは、「空からお金が降ってくる」という主張と同様である。経済学における古典派と、そっくりだ。(古典派の特徴は、個人のエゴイズムを是認し、愛を否定すること。)

 [ 補説 ]
 核心を示しておこう。
 こうしてわかるように、この論壇時評で紹介されている説は、すべて、「人質となった三人は、人生をいかに生きるべきか」ということを述べているだけだ。それは、ただの人生相談にすぎないのである。
 しかも、この三人が相談したわけでもないのに、勝手におせっかいを焼いて、他人の人生について「こうするべし」「こうしてはいけない」と、さしでがましい注文をする。しかし、本来、あの三人ががどう生きるかは、本人の自由であって、他人が口を出すべきことではないのだ。
 一方、論壇の論者が語るべきことは、「政府が何をするべきか」ということだ。たとえば、「政府は人質家族の要望を叶えるべきではない」とか、「テロリストの要求には応じるべきではない」とか。……そういうことなら、論じるに足りる。政府の政策なら、論じるに足りる。なのに、どこをどうトチ狂ったか、特定の三人の生き方について、あれこれと口を挟む。まったく、マトはずれだ。評論家としての資格がない。
 彼らは、論壇と人生相談とを、混同しているのである。

 このことをスポーツに当てはめてみよう。
 たとえば、サッカー日本代表としてジーコ監督が続投するべきかどうか、ということが問題となっている。ここでは、評論家が論じるべきは、何か? 「ジーコ監督が続投すると、日本代表チームは見事な結果を出せるかどうか」という、スポーツにおける結果である。
 一方、姑息な論者は、ゲスの勘ぐりをして、人生相談ふうに語るだろう。「ジーコ監督が続けたがるのは、彼が自分探しの旅をしているだけだ。選手生命を終えたあと、やることがないから、やりたいことにしがみついているだけさ。ファンのニーズには応えず、ナルシシズムでやっているんだよ。功名心に駆られているんだ。しょせんは監督としてはアマチュアなんだから、監督をやるべきじゃないね。監督を引き受けるかどうかにあたっては、反射的に決めずに、熟慮して決めるべきだったね。無思慮すぎだ」と。
 まったく、いやらしい批判ですね。どうせジーコを批判するなら、「無能だからやめろ。その無能である証拠はこれこれだ」と、正面から批判すればいいのだ。なのに、正面から批判するかわりに、足を横から引っかけるようにして批判する。肝心のサッカーについて語るのではなく、ジーコの個人的な動機についてゲスの勘ぐりをする。(憶測で。)
 結局、この読売で紹介されているような話は、ゲスの勘ぐりであり、便所の落書きであり、それを掲載する読売は、便所の壁なのだ。下品。汚い。バッチイ。

 とにかく、論壇は、政府の政策を論じればいいのであって、受益者の人生を論じるべきではないのだ。そのことをわきまえておこう。
 仮に、今回の論者のような非難が成立するとしたら、今後、とんでもないことになる。たとえば、あなたが年金をもらうする。まともな論者ならば、「政府はどうするべきか」を論じて、「年金制度をこうするべきだ」と主張する。しかし、デタラメな論者は、あなたの人生を論じる。「あなたはこれまで、勝手な人生を送ってきましたね。ろくに貯金もしないで、さんざん浪費をして。……今になって、年金をもらえると思っているようだが、とんでもない。年金だけじゃ、まともには暮らしていけないんですよ。もっと貯蓄をするべきだった。愚か者め」と非難する。朝日や読売が、民間人であるあなたの人生を特集して、「愚かな人生」といっせいに非難する。
 狂気の沙汰だ。マスコミが便所の壁になるというのは、そういうことだ。

  【 追記 】 (2004-05-31 )
 論壇は、政府の政策を論じればいいのであって、受益者の人生を論じるべきではない。(すぐ上に述べたとおり。)……では、その理由は? それは、次のことだ。
 「われわれ国民は、政府に金を払っているが、人質となった人々には金を払っていない」( → 5月29日b
 一般国民は、政府に税を払っているから、政府の政策に注文を付ける資格がある。しかし、人質となった人々にはただの一円も払っていない。また、「政府が人質三人の救出のために金を払った」という説が(仮に)成立するとしても、払ったのは政府であって、一般国民ではない。
 一般国民は、政府に対して「人質救出のために金を払うな」と注文することはできる。しかし、人質には直接的には金を払っていないのだから、人質に直接口を出す資格はないのだ。
 だいたい、こんなメチャクチャな方針が成立するとしたら、政府から金をもらっている国民に対して、いっせいに非難を浴びせることになる。
 「おまえは生活保護を受けている? ふざけけるな。金を返せ」
 「おまえは年金をいっぱいもらってる? ふざけるな。金を返上しろ」
 「おまえは政府から児童手当や医療費補助をもらっている? ふざけるな。金を返上しろ」
 こういうふうに、受益者に直接、文句を言うことになる。
 正しくは? 政府の政策が気に食わなければ、政府に対して「政策を変更せよ」と言えばよい。受益者に直接、文句を言うなんて、ほとんど暴力団だ。狂気の沙汰だ。そして、それが、「自己責任」論者なのである。
 先に示したが、朝日や読売に掲載された、「便所の壁」のごとき人質非難がある。これらの人質非難は、すぐ上に述べた受益者非難と、そっくりだ。受益者の人生が論者の気に食わないからといって、受益者の人生を非難する。その言葉はまさしく、暴力団の脅迫と同様なのだ。そして、こういうものを掲載したのが、朝日や読売なのだ。

( ※ なお、「政府を通じて間接的に金を払った」という説も、成立しない。この件は、前述。 → 4月22日 の (3)


● ニュースと感想  (5月23日f)

 イラクで新たに邦人2人が犠牲になったことについて。
  → 5月29日b5月29日c


● ニュースと感想  (5月24日)

 「北朝鮮との交渉」について。
 首相が北朝鮮で外交交渉を行ない、拉致者家族5人(だけ)の帰国、という成果を挙げた。(朝刊・各紙 2004-05-23 )
 これについての是非はともかく、保守派の論調をみると、人質バッシングに続いて、北朝鮮バッシングがなされているようだ。日本は相も変わらず、狂気の渦にある。このことを指摘しておく。

 私がこう言いかけると、「おまえは左翼だな」なんていう批判が早くも押し寄せてきそうだ。しかし私は、北朝鮮を弁護したいわけではない。誰がどういう政治的意見を取ろうが、それはその人の勝手であるから、北朝鮮を批判しようが弁護しようが、それはその人の勝手だ、と思う。別に、北朝鮮を批判する人が間違っているわけではない。
 私が問題としたいのは、次のことだ。
 「北朝鮮は悪者だ、と決めつけると、思考停止に陥ってしまう
 これは、先のブッシュのイラク非難と同様である。「イラクは悪者だ、だから攻撃してもいい」というメチャクチャな理屈で、攻撃する。最初は「大量破壊兵器があるから」という捏造の理由を挙げ、次には「独裁者がいるから」という理由を挙げ、その後、大量破壊兵器も独裁者も消えたあとでも、占領を続ける。かくて、戦争中よりもはるかにひどい戦闘を続ける。メチャクチャそのものだ。……そして、その根源には、「悪い奴をやっつけろ」という単純な発想がある。ほとんど子供じみている。ここでは「思考停止」状態になっている。
 以下、具体的に示そう。

 (1) 外交の基本
 「家族の帰国と引き替えに援助を渡すのは、とんでもない。北朝鮮は拉致さえも外交カードに利用している。けしからん」
 という保守派の批判がある。(読売の論調など。) しかし、これは、頭が狂っているとしか思えない。
 そもそも、外交の基本は、ギブ・アンド・テークである。相手が悪人であれ何であれ、この原則は適用される。「相手が悪人だから、こっちが奪うだけでいい」というのでは、「悪人からは泥棒をしてもいい」というのと同じである。「相手が悪人だからこちらも悪人になれ」というようなものだ。外交常識が欠落している。素人外交そのものだ。
 相手がそれまで悪いことをしていたとしても、そのことを反省して、少しはまともなことをしたならば、そのことに何らかの報酬を与えるのは当然である。ギブ・アンド・テークだ。さもなくば、相手から信用されなくなるだけでなく、あらゆる国際交渉において信用をなくす。「日本はギブなしでテークばかりをする国だ」と思われる。そして、これは、尊敬ではなくて軽蔑だ。「おねだりするばかりの子供だな」と思われる。まともな外交交渉の相手と見なされなくなる。外交能力のない幼児国だと思われる。ま、現状は、そうかもしれないが。……
( ※ 小泉の今回の成果が不十分であったことに、あちこちから批判が出ている。しかし、私は、今回の成果は一応「よし」と評価したい。なぜなら、外交の要諦は「ステップ・バイ・ステップ」だからだ。「一挙にすべてを得よう」という発想は、欲張りな素人の発想である。たとえ「こちらが完全に善、あちらが完全に悪」だとしても、「ギブ・アンド・テーク」を「ステップ・バイ・ステップ」でやるのが、外交である。これを無視した保守派の論調は、素人論議にすぎない。政治音痴の極み。……なお、この「外交の基本」を無視すれば、残るは「戦争による武力解決」しかない。)

 (2) 損得
 「(ギブ・アンド・テークという原則があるとしても) 相手が悪人であれば、悪人に援助を与えるのは、けしからん。金が無駄だ」
 という保守派の批判がある。しかし、これも、子供じみており、算数ができないとしか思えない。(子供以下だ。)
 第1に、多少の金を与えたところで、日本の北朝鮮に対する将来の援助額(戦後補償)からすれば、微々たるものである。将来、独裁者が消えて、日本と北朝鮮で正式に国交が成立した場合、日本は韓国になしたのと同等の援助額を与える方針であり、その額は、数兆円になる。これに比べれば、数億円〜数十億円規模の援助など、スズメの涙に等しい。……だいたい、保守派の論調に従えば、「悪人に援助を与えるのはけしからんが、善人に援助を与えるのはよい」となるから、「数億円の援助を与えるのはいやだが、数兆円の援助を与えるのは嬉しい」となる。子供の算数もできない。
 第2に、「核開発をするならずもの国家に援助するのはけしからん」という主張があるが、これも発想が狂っている。核自体は、悪でも何でもない。そもそも米国だって中国だってソ連だって核を所有している。核不拡散条約を批准していない国は、イスラエルやパキスタンなど、いろいろある。核自体は、悪ではないのだ。悪は、独裁である。この点を理解するべきだ。そして、核開発を停止させるために援助するのは、それはそれでいいが、しかしこれは、ただの外交交渉であって、善悪とは関係ない。ただの損得の問題だ。ここで「核開発は悪だ」なんて決めつけるのは、子供じみた「悪者論」にすぎない。思考停止に陥っている。ここでは「善悪」ではなく「損得」だけが問題となる。ちゃんと頭を働かせよう。
 第3に、損得で考えれば、北朝鮮に核開発をやめさせるためであれば、援助をするのは、損ではなくて、大幅に得である。なぜか? もしその援助をしなければ、数十億円の得をするが、同時に、1兆円の損をするからだ。というのは、ミサイル防衛システムに、1兆円かかるからだ。保守派の論調は、「数十億円を北朝鮮にやるのはもったいないから、かわりに1兆円をドブに捨てろ」というようなものだ。子供レベルの算数もできないようだ。( → 12月31日 ミサイル防衛網 )

 要するに、北朝鮮問題を考えるときは、「まともに冷静に考えるべきだ」ということだ。「こうすればこうなる」というふうに、頭を働かせればよい。「あいつは悪者だ」なんてことだけを考えて、何も頭を働かせないのでは、ブッシュや子供と同じである。そして、その先にあるのは、何か? イラクでは、途方もない混乱だった。北朝鮮でも、同じように混乱を引き起こしたいのか? 北朝鮮から韓国や日本に大量の難民が到来するようにしたいのか?
 狂気を捨てて、まともに冷静に考えてもらいたいものだ。

( ※ 北朝鮮に甘く出るか厳しく出るかは、それは、各人が考えればいいだろう。とにかく、私が言いたいのは、こうだ。外交方針では、「甘いか厳しいか」なんてのは、基準とはならない。「損か得か」があるだけだ。そして、損得については 「どちらが多く奪うか」だけでなく、「ともに得る」という道をも考慮するべきなのである。……冷静に考えるというのは、そういうことだ。今の保守派は、「ともに損する」という道を歩もうとしている。算数もできない。狂気の沙汰だ。北朝鮮と日本とでは、狂気の種類が違うだけで、どちらも狂気である。北朝鮮であれ日本であれ、保守派というのは常にそうだが。)
( ※ 一言で言えば、こうだ。「北朝鮮には金正日。日本には小泉純一郎。どちらも最悪の独裁者がいる。」……どちらも狂気で国民を洗脳し、洗脳された国民は独裁者を支持する。かくて、北朝鮮には金正日の太鼓持ちがいるように、日本にも小泉の太鼓持ちがいる。それが保守派だ。)

 [ 付記1 ]
 経済制裁について言及しておこう。
 「経済制裁をすれば独裁政権は崩れるだろう」という保守派の説がある。しかし、この説は、成立しない。そのことは実証済みだ。これまでずっと経済制裁を実施してきたが、「もうすぐ崩壊する」と言われながら、ちっとも崩壊しなかった。かわりに、数百万人の餓死者が出ただけだった。
 そして、餓死者のなかには、拉致された人々もいるのだ。つまり、拉致された人々を殺したのは、金正日ではなくて、日本の保守派なのだ。彼らこそが真犯人なのだ。そのことを自覚するべきだろう。
( ※ 拉致された人々の一部が死んだのは、飢餓のせいである可能性が高い。そもそも拉致したのは、日本語教師として役立てるためなのだから、殺害してしまっては、元も子もない。その点、飢餓のせいだとすれば、北朝鮮では数百万人が死んだのだから、拉致された人々の一部が死んでも不思議ではない。……どうも日本では、経済制裁のせいで[結果的に]数百万人が死んだということを無視しがちであるが、目が曇っているようだ。)
( → 11月13日 栄養失調・免疫力低下による死 )
( → 12月31日d 経済制裁の失敗 ,4月13日c 経済制裁よりも有効な方法 )

 [ 付記2 ]
 先の本文で示したのは、提案ではなくて、ただの「方針の明示」だった。「思考停止になるな」と述べただけであり、「こうせよ」と述べたわけではなかった。では、どうするべきか? 
 そこで、私なり北朝鮮政策を、提案として示しておこう。(これは、私なりの考えであるから、人々が同調する必要はさらさらない。ただの個人的な見解だと思ってほしい。)
 まず、基本的な立場から述べよう。私の立場を、「左翼」とか「平和主義の弱腰」と思っている保守派がいるだろう。しかし、とんでもない。保守派をこそ「弱腰」どころか「腰抜け」と呼びたい。なぜなら、保守派の主張というのは、こうだからだ。
 「テポドンが怖いよ。びくびく。小泉のせいで毎年1万人も自殺者が出るのは怖くはないけど、テポドンがたまたま日本に到着して十人の死者が出るのはすごく怖いんだ。交通事故で死ぬのは怖くないけど、テポドンで死ぬのは怖いんだ。怖いよ。びくびく。……だから、1兆円をかけて、ミサイル防衛網を築こう。そうすれば、テポドンが十発来たとき、そのうち、3発ぐらいは打ち落とせるだろうから。それで安心さ。あとの7発なんか、どうでもいい」
 私は、こうは考えない。北朝鮮が問題なのは、テポドンで日本を攻撃するからではなくて、飢餓によって自国民を数百万人もの規模で殺害するからだ。
 だから、独裁者を退陣させることを、最優先とするべきだ。そして、その結果として、日本にも平和が来るなら、それで言うことはない。では、その方法は? 「アメとムチ」が常道だろう。
 第1に、退陣した場合には、「アメ」を与える。多少の金を与えたとしても、ミサイル防衛網の1兆円よりはずっと安上がりだ。地位ならば、皇族のような地位を与えればいいだろう。(昔の日本も大名を華族・貴族にしたが、それと同様。)
 第2に、退陣しない場合には、「ムチ」を与える。「ムチ」は、上記の11月13日の「付記」に記しておいた。つまり、金正日の宮殿を予告爆撃することである。……死者を出さない戦争のようなものだ。これはかなり過激な案である。何らかの問題が生じるだろう。が、だとしても、「数百万人を見殺しにする」よりはマシだ、と私は考える。
 今の日本の保守派の意見は、「アメを与えるな」という意見であり、「独裁者の政権維持を不可能にするために、経済制裁というムチを加えよ」という案だ。しかし、このムチは、独裁者に向けられるのではなく、国民に向けられる。マトはずれだ。かくて、数百万人の餓死者を出すという結果を招く。こういう意見がまともなのだろうか? それとも、「死者を出さずに宮殿を爆破せよ」という私の意見がまともなのだろうか? どちらでしょう? よーく考えてください。
( ※ なお、私の言う「爆撃」を実施するには、相当の気概を必要とする。保守派みたいに臆病な腰抜けの人々には、とうてい実施できない。保守派はどうせ「怖いよ。びくびく」とおじけづくだけだ。)
( ※ 爆撃の方法は → 2月22日e ステルス爆撃機 )

 [ 余談 ]
 最後に、イヤミたっぷりの皮肉を言っておこう。
 「他国民を勝手に拉致して、拷問を加えて、殺害する」ということは、悪いことか? どうにも許しがたい国家犯罪か? 私は「そうだ」と思う。しかし、保守派の人は、「そうだ」とは思っていないのだから、善人面をすることはやめてもらいたいものだ。
 「他国民を勝手に拉致して、拷問を加えて、殺害する」ということは、これまで米国がさんざんやってきている。例の「イラクの捕虜虐待」というやつだ。まったく、ひどいですね。裸にして、むごい拷問を加えたり。また、新たに「8人が殺害されたらしい」という記事も出た。(朝日・朝刊・1面 2004-05-23 )
 だけど読売や小泉などの保守派は、知らんぷりだ。罪もないイラク人を、「テロリストである疑いがある」とか、「結婚式で空砲を発した」とか、そういうとんでもない理由で、逮捕したり、拷問をしたり、大量虐殺したり。……メチャクチャの極みだ。
 「拉致はいけない」と本当に思うのならば、はっきりと米国を非難するべきだ。なのに、米国には何もできない。強いものには、へいこらして、弱いものには、噛みつく。それだけだ。
 うんざりですね。彼らは、「拉致するのは悪いことだ」なんて思っていないくせに、善人面をする。いい加減、心にもない嘘を付くのは、やめてもらいたいものだ。本当は単に「虎の威を借りて、ネズミをいじめたい」だけでしょ? 保守派ってのは、いつもそうなんですよね。

  【 追記 】
 「拉致された人々を殺したのは、金正日ではなくて、日本の保守派なのだ」と上に記述した。(赤字の箇所。)しかし、これについて、反論が出そうだ。次のように。
 「殺したのは、金正日だ。彼が経済的に失政をしたから、大量の餓死者が出たのだ。日本の経済制裁のせいじゃない。根源的に悪いのは、独裁者だ」
 そうだろうか? 実は、ここでは、「殺す」(殺人)という言葉の意味が問題となる。
 金正日が失政で大量の餓死者を出したというのは、事実である。ただし、それは、小泉が日本で大量の自殺者を出したのと同様だ。規模は「数百万/数万(毎年1万人ずつ数年)」という違いはあるが、結果的に死なせた点では同様である。ただし、これは、故意の殺人とは異なって、法的には「過失致死」に当たる。「殺す」という言葉は、比喩的には成立するが、法的には成立しない。「殺意」がないからだ。……要するに、「殺そう」と思って悪意で殺したわけではなくて、無能だから結果的に死なせてしまっただけだ。
 一方、経済制裁は、どうか? ここでは、「悪意」と「殺意」が認められる。それは法的には「未必の故意」である。そもそも、経済制裁が狙っているのは、体制の崩壊である。とすれば、「体制崩壊を狙って、社会に損失を与える」わけであって、これは、テロリストの発想そのものだ。日本(保守派)が北朝鮮になそうとしているのは、経済テロなのである。過激派は、爆弾で社会を破壊して、大量の死者を出そうとする。日本の保守派は、経済制裁で社会を破壊して、大量の死者を出そうとする。
 もちろん、経済制裁というのは、合法的である。ただし、合法であれ何であれ、「殺意」をもって実行して、結果的に数百万人を死なせた、という事実は同様である。「合法である」というのは「裁判で有罪にならない」という意味であって、「正しいか悪いか」ということと同じではない。
 そして、今、保守派は「正しいか悪いか」ということを基準にして、外交政策を実行しようとしている。(本項で述べたとおり。) にもかかわらず、「正しいか悪いか」ということを無視して、合法的であればいいと考えて、大量の餓死者を出そうとしているのである。立場が矛盾している。一方では善人面をして、他方では合法的な悪人としてふるまう。
 とにかく、「悪い奴を懲らしめよ」と主張するなら、「死者が出るかどうか」あるいは「日本人の拉致被害者にも死者が出るかどうか」ということを考えるべきだ。経済制裁を主張するなら、その程度の頭は働かせてもらいたいものだ。合理的思考。

( ※ なお、オマケで言えば、私の主張は矛盾はしていない。「正しいか悪いか、とは関係なく冷静に考えよ」と述べているだけだ。「こだわりを捨てよ」「合理的に考えよ」と述べているだけだ。)


● ニュースと感想  (5月24日b)

 「北朝鮮にいる米国人脱走兵」について。(本項の記述は24日でなく、31日。重要な話ではないので、読まなくてもよい。
 北朝鮮にいる米国人脱走兵(拉致被害者の夫)について、麻生総務相が「無為無策でいい」と言明した。次の通り。
 「アメリカに訴追免除を頼むというのは、交通違反のもみ消しを頼むのと同じだ。本人が帰りたくないと言っている。なのに連れてくれば拉致になる」(朝日・朝刊・社会面 2004-05-30 )

 ひどい話ですね。たとえて言えば、次の通り。
 「トラックが暴走して、前方で停車中の乗用車にぶつかった。乗用車ははねのけられて、車線をオーバーして、乗員は大被害。そこへ警察が来て、車線オーバーで摘発。文句を言ったら、『トラックは麻生大臣のものだから、被害を訴えることはできない。文句を言うな』。かくて、トラックの問題は放置され、乗員ばかりが交通違反で摘発される。賠償は皆無。賠償を頼んだら、麻生大臣が『それは交通違反のもみ消しを頼むのと同じだ。文句を言うな』だって」

 ここで注目点は何か? 拉致では、国の「不作為責任」を問われている。国の無為無策がある。そのせいで、拉致被害者(曽我さんたち)は莫大な損失を受けた。小泉は「申し訳ありませんでした」と詫びるべきであった。なのに、あろうことか、自分の支持率を上げるために拉致被害者を利用して、あとはポイと捨てている。
( ※ 正確に言えば、国は何もしないわけではない。特別法に従って、1家族につき毎月二十数万円の支援金を払っている。ただし5年間限定。あとの本格支援は、地方自治体に任せられる。……ついでに言えば、これはほとんど「スズメの涙」のような小額だ。仮に、日本国内で誰かが誰かを拉致して、二十年間も閉じ込めていたら、その補償金は、1億円ほどになるはずだ。それも、一人あたりで、だ。)

 北朝鮮にいる夫(脱走兵)については、政府関係者は、「帰国しないのは、本人の自発的な意思だから」なんて弁解している。しかし、その主張は、「北朝鮮が素晴らしいから北朝鮮にいる」と主張していることになる。とんでもないことだ。それだと、政府の立場が矛盾しているでしょうが。
 仮に、「北朝鮮が素晴らしいから北朝鮮にいる」と本気で主張しているのなら、金正日といっしょに北朝鮮讃歌を歌えばいいのだ。そして「拉致被害者は北朝鮮にいるのが一番です。被害者を帰国させたのは、小泉が拉致したからです」と言えばいいのだ。……矛盾。

 では、本当は? 「彼の自発的な意思がそうなった理由」こそ、問題だ。つまり、ここでは、本人は、「日本も北朝鮮もひどいが、日本よりも北朝鮮の方がマシ」と述べているのだ。なぜか? 「逮捕されて米国に強制送還される」からだ。とすれば、当然、日本政府としては、この点を改善するべきだったのだ。

 では、「北朝鮮より日本はマシです」という状況にするには、どうするべきか? その方法を示す。
 まず、問題は、何か? 「北朝鮮の米国脱走兵を、米国に渡して脱走罪で処罰されるようにするべきか、北朝鮮に閉じ込めておくか」というふうに悩んでいる。そして、うまい解決法がない、と人々は戸惑っている。そこで私は、次のように提案する。
 この後、米国は「脱走兵の引き渡し」をあくまで要求するが、日本政府は「市民権と、被害補償の法的措置」を名分として、米国の要求を拒否する。米国は「日本が拒否したから、主権が及ばないので、諦める」と言う。……これは、あくまで法的な名分を通すための、ただのセレモニーだ。ともあれ、こうすれば、日米双方の顔が立つ。めでたし、めでたし。
( ※ 米国が諦めきれないという顔をしたら、「イラクに派遣している自衛隊を引き上げてもいいか?」と言えばいい。このくらいも言えないんだったら、何のために派遣したのかわかったもんじゃない。……というか、こう言えば、米国の顔が立つんだから、米国のためにも、こう言ってあげるべきだ。それが思いやりというものだ。)

 [ 付記1 ]
 なお、もっと手っ取り早い方法もある。
 「彼を日本に招く。ただし、米国には引き渡さないことを、政府として保証する。米国が引き渡しを要求した場合には、第三国(スイスなど)や北朝鮮に戻る権利を与える」
 これを法的・公的に確定する。また、もし米国が引き渡しを要求したら、第三国に出国してもらうか、北朝鮮に戻ってもらう。……もし北朝鮮に戻ると、北朝鮮は、「米国の悪質さと北朝鮮の正当性が、まさしく証明された」と大宣伝できる。また、本人としても、現状より悪くなるわけではない。むしろ、国家の英雄として、待遇がよくなるかもしれない。ブッシュは金正日に協力する。……だから、大丈夫。(でもあの猿顔大統領は頭が猿知恵だから、ちょっと心配だが。)

 ただし。……これを実行するには、首相に「米国の要求を拒否する」つまり「脱走兵を引き渡さない」という気概が必要だ。で、小泉は? 犬はご主人様に逆らえません。そこが問題だ。やはりすべての根源は、ここに帰着するのかもしれない。
 とにかく、米国の犬である小泉は別として、日本国民としては、こうだ。
 「脱走兵を米国に引き渡すかどうかは、米国の問題ではなくて、日本の問題だ── このことを、はっきりと理解しておこう。

 [ 付記2 ]
 今回、小泉は、何をなしたか? 次の通り。
 当人と面会して、説得した。「米国には行かせません。身の安全は保証します。日本国総理大臣の責任でやりますから」と述べて、「私は保証する」と書いた英文の紙を見せた。(読売・朝刊・3面 2004-05-24 )
 で、当人は、どうしたか? 当然、拒否した。なぜなら、これは外交で行なわれる「まやかし」の常道だからだ。「うわべだけの無意味な言葉」である。
 外交では、個人(首相を含む)の文書や発言は、非公式のものである限り、何の価値もない。価値があるのは、公式の文書だけだ。非公式のもの(私的文書)は、すべて、あとで「事情が変わったので」という理由で、取り消すことが可能だ。文句を言われたら、不履行のまま、賠償金を払うだけでいい。つまり、脱走兵を米国に追い出したあとで、不履行の賠償金を払うだけだ。本人は米国の監獄に入ったまま金をもらうだけだ。監獄で金をもらっても何にもならない。……かくて、当然、小泉の私的文書なんか、信じない。そんなものを信じるのは、だまされやすい人だけだ。
 小泉が「私は保証する」と書いたのは、最悪であった。それは「日本政府が保証します」ということではないゆえに、「日本政府は何も保証しません」というのと同義であるからだ。
 だから、本来は、法的に確定することが必要だ。立法措置を取るか、あるいは、裁判所で判決を受けて、確定させる。また、そこまで行かなくとも、少なくとも訪朝に先だって、「彼を米国には引き渡さない」と公的に声明を発しておくべきだった。
 現実には、首相は何もなさなかった。なしたのは、「日本は常に米国に従います。何事であれ、米国のおっしゃるとおりにします」という常日頃のアピールだけだった。
 結局、日本人は小泉にうまくだまされるが、賢明な米国人(脱走兵)は、やすやすとだまされないのである。

 [ 余談 ]
 この拉致被害者の夫であれ、自己責任論であれ、年金問題であれ、政府は失策続きだ。本来ならば、支持率は激減してもいいのだが、逆に支持率は上がっているという。(朝日・朝刊・1面 2004-05-30 )
 これというのも、民主党がだらしないから。いくら政府が失策をしても、まともに指摘できない。政府の間抜けさをとがめるどころか、隠蔽をお手伝いをしたり、いっしょに付き合っている。……何ともまあ、人のいい人たちがそろっている。せめて「小泉の波立ち」見れば、政府を攻撃できるのにね。このままじゃ、参院選では、小泉の圧勝になりそうだ。小泉を助ける最大の支持者は、民主党だ。……そういえば、3年ぐらい前には、そう言っていましたね。  (^^);

 [ 補足 ]
 「脱走兵」という用語について。(特に読む必要はない。)
 「脱走兵」という用語には、私は別に善悪のニュアンスを込めていない。もちろん、非難しているわけでもない。「ベトナム戦争」というのが、悪しき戦争であったからには、当然だろう。彼は、殺人を犯したわけではなくて、むしろ殺人を回避したのである。「良心的兵役中断者」と呼ぶべきかも。
 ここで、質問を出します。戦争中に上官が、兵士であるあなたに命令する。
 「女も子供も、全部テロリスト(ベトコン)だから、全員、虐殺せよ」
 と。さて、あなたは、この命令に従いますか? 従えば、殺人を犯すことになる。従わなければ、営巣に何カ月も閉じ込められるか、あるいは、最前線に投入されて、確実に死ぬ。……さあ、どうします? 
 脱走したくなるでしょう。実際、「戦争が起これば脱走すればいい」と思っている人が多いようだ。しかし現実は、そんなに甘くない。旧日本軍の場合は、良くて銃殺、悪くてなぶり殺し。「いつまでも隠れている」という方針を取ると、横井庄一や小野田少尉みたいに、何十年も密林に隠れて、人生はそれでおしまい。……その点、「北朝鮮に隠れている」というのは、けっこう名案である。北朝鮮はたしかにひどい国だが、米国だって同じぐらいひどい国だ。
 だから、北朝鮮バッシングをしている人々は、頭がバランスを失しているのである。結婚式をしている最高に幸福な新婚さんを、「空砲が出た」という理由で虐殺したり、捕虜を虐待したりする米国は、とても素敵な国だ、と思っているわけだ。あまりにも非人間的だ。正気じゃないと思った方がいい。酒鬼薔薇という狂人と同種の精神異常者が、北朝鮮バッシングと米国賛美をする保守派だ。
( ※ ついでだが、丸谷才一の小説に、脱走兵の問題を扱ったものがある。「笹まくら」だったかな?)
( ※ なお、北朝鮮バッシングが問題なのは、それがかえって拉致被害者などを苦しめるからだ。前項で述べたとおり。マトはずれの被害。)

  【 追記 】 (2004-06-04)
 小泉首相は 31日にはさっそく、前言をひるがえした。脱走兵について「私は保証する」と述べたことをすっかり忘れてしまったようだ。閣僚が正反対のことを主張してもとがめないし、「米国の方針には何も関与できません」と語るばかりだ。
 しかし、問題は、米国の方針ではない。「訴追しないでくれ」と頼んでも、無駄である。そんな頼みを聞けるはずがない。日本としてできることは、「米国に要求されても身柄を引き渡さない」という方針を立てることだけだ。
 なのに、自分で自分のことを決められない。相手に「要求しないでくれ」と頼むばかりだ。これでも独立国なのだろうか? 首相は、自分の言葉にも責任を持てない。首相の「私が保証する」という言葉は、羽毛よりも軽い。ひどい首相をもつと、情けないね。
( ※ なお、インドネシア政府は、「それなら、わが国が曽我さんたちを受け入れます」と述べている。理由は、「犯罪人引き渡し条約」が米国と結ばれていないので、米国に渡さずに済むこと。……要するに、北朝鮮が「拉致者の家族を渡します」と言っても、日本は「受け入れる態勢を整えられません」と述べているわけだ。インドネシアにはできることが、日本にはできないわけだ。……しかしまあ、これは不思議ではない。「人間にはできることが、犬にはできない」というのは当然のことだからだ。政府が犬だと、情けないね。それにしても、この犬は、自分では受け入れる能力がないくせに、「返せ」「寄越せ」と吠えているんですよ。どうなっているの? ……イソップ物語。骨をくわえていて、さらに骨を受け入れる能力がないのに、犬は水面に映った自分を見て、「ワン」と吠えた。とたんに、くわえている骨を落として、骨は水没してしまった。この犬は小泉そっくり。あとには波紋がひろがるのみ。小泉の波立ち。)


● ニュースと感想  (5月25日)

 (1) 「北朝鮮の大量餓死」についての追記を、24日(前項) の最後に、書き足した。(記述は25日)
   → 5月24日[追記]

 (2) 「自己責任」についての話を、23日c の項目として、追加した。(記述は25日)
   → 5月23日c

 (3) 「株で儲かる方法」についての話を、21日c の項目として、追加した。(記述は25日)
   → 5月21日c


● ニュースと感想  (5月26日)

 「日本のアニメ」について。
 カンヌ映画祭で、日本のアニメの「イノセンス」が受賞を逃した。非常に精緻な映像は、画期的であり、いくらか期待していたのだが、惜しくも駄目。では、なぜか? 
 よく考えてみると、「それも当然」という気がしてくる。ここには、技術的なすばらしさはある。しかし、芸術性が弱いのだ。
 このことは、同じアニメでも、先日NHKで放送された「火の鳥」と比較すると、よくわかる。こちらは、CGはそこそこの技術だったし、特に精緻な映像ではなかった。しかし、「美しい」という感動のある絵だった。技術は低くても、感動を生み出せた。一方、「イノセンス」の方は、技術は上でも、感動は少なかった。
 ストーリーに至っては、雲泥の差だ。「火の鳥」は人間の根源を探り、深い感動をもたらすことができるが、「イノセンス」の方は、あまりにもオタク趣味である。
 そして、こういうことの根っこには、もっと大切なことがある。それは「人間性」の問題だ。人間的な「愛」や「喜び」や「悲しみ」を、深く理解するかどうかだ。「火の鳥」には、それがあった。「イノセンス」には、それがなかった(全然なかったわけではないが、手塚治虫と比べれば雲泥の差だ。)
 ま、手塚治虫が偉大すぎたのかもしれない。とはいえ、同じくアニメでも、ピクサーのアニメには、世界の人々の心をとらえるものがある。「イノセンス」には、オタクの心をとらえるものがふんだんにあるだけだ。
 やはり、「人間性」を重視し、人間的な「愛」や「喜び」や「悲しみ」を重視する必要がある。オタク趣味から脱する必要がある。そして、その成功例としては、スタジオ・ジブリの作品がある。こちらは、技術水準は低くても、世界で称賛を得ている。
( → 4月18日b にも、似た話題。)


● ニュースと感想  (5月26日b)

 「外字エディタの使い方」について。
 パソコンの使い方講座。

 Q Windows で外字を作成するには?

 A 「アクセサリ」→「外字エディタ」で、外字エディタを起動する。
 使い方は、通常の使い方でいいが、コツがある。次の二点だ。
 (1) メニューの「ウィンドウ」→「参照」で、別画面を出せる。この別画面にある文字画像をコピーできる。その後、元の画面に戻って、貼りつければよい。
 (2) 編集するのは、外字エディタの画面では、面倒だ。操作性が悪い。そこで、普通の描画ソフト(MSペイントなど)を使って、画像を加工できる。
  ・ 外字エディタの文字画像をコピーできる
  ・ 描画ソフトに貼りつけることができる
  ・ 描画ソフトで加工した画像を、外字エディタに戻せる
    (コピーしてから貼りつけるだけ。)
 ここでは、注意することがある。描画ソフトの画像は、「64×64ドット」に範囲指定してから、「白黒画像形式」でいったん保存しておくことだ。その後に、加工すればよい。
 なお、画像ソフトの表示倍率は6倍にしておくといいだろう。そうすれば、ドットがはっきりと見えて、わかりやすい。

 おまけで言うと、たいていの難しい漢字は、シフトJISではなくてunicode の方に入っている。さまざまな記号も、unicode の方に入っている。これらをコピーして、シフトJISの外字ポイントに登録しておくと、あらゆるエディタなどでも特殊な文字を使えるようになる。(ただし他人との間でファイルのやりとりはできない。)
 unicode については、次のページを参照。 ( → 文字講堂  unicode の全文字もわかる。)

 なお、他人とのファイルのやりとりについても、コツを示しておこう。それは、上記の方法で文字の画像を作成したら、それを bmp または gif の形式で保存することだ。これなら、通常の画像だから、他人とやりとりできる。その後、相手のパソコンで、この画像を開いて、画像をコピーして、外字エディタの画面に貼りつければよい。

 以上、パソコン利用の知恵でした。「小泉の波立ち」は役立ちますね。(^^)


● ニュースと感想  (5月26日c)

 「自己責任」についての話を、23日d の項目として、追加した。(記述は26日)
   → 5月23日d

  ※ 自己責任論者がなぜ論理矛盾を起こすか、その舞台裏を明かす。


● ニュースと感想  (5月27日)

 「イラク人質問題」についての話を、23日e の項目として、追加した。(記述は27日)
   → 5月23日e

  ※ 論壇によるNGO批判のどこに難点があるかを示す。


● ニュースと感想  (5月27日b)

 「政教分離」について。
 政教分離について、次の問題がある。これは論理の問題として、非常に興味深い。「自分には論理力がある」と思う人は、よく考えて、自力で正解を出してみてほしい。

 設問。  次の主張を読んで、論理的にどこがおかしいかを、指摘せよ。
 「政教分離をなせ、という意見は正しくない。なぜなら、政教分離は、完全にはできないからだ。現実の出来事には、宗教性を帯びているものがたくさんある。たとえば、文化財としての仏像。宗教性を帯びた学校(仏教系・キリスト教系)。ここには国が補助金を出している。これが事実だ。……政教分離をなせ、という意見に従えば、仏像や学校に補助金を出してはいけない、ということになる。変だ。ゆえに、政教分離をなせ、という意見は正しくない。」(SAPIO最新号。小林よしのり「ゴーマニズム宣言」より。)

 解答は、翌日で。(ヒントは、ファジー論理 or 多値論理。)


● ニュースと感想  (5月28日)

 前日分の解答。(前日の設問を、先にご覧ください。)

 解答。
 「これが事実だ」というところまでは、正しい。まさしく話の前半では、事実を述べているだけだ。実際、政教分離は、完全には実行できない。現実の出来事には、宗教性を帯びているものがたくさんあるから、宗教性だけを完全に分離することは不可能だ。(事実認識。)
 ただし、その先がおかしい。
 設問の主張は、「政教分離をなせ、という意見に従えば、仏像や学校に補助金を出してはいけない、ということになる。」
 これは論理的に正しくない。正しくは、次の通り。
 「政教分離を完全になせ、という意見に従えば、仏像や学校に補助金を出してはいけない、ということになる。」
 こういうふうに「完全に」という語を挿入すれば、命題は正しくなる。そして、その命題から出る結論は、「完全に」を否定する形の命題となるから、部分否定となる。次の通り。
  ・ 「政教分離を完全になせ」という主張は、実行が不可能だ。
  ・ 「政教分離をなるべくなせ」という主張は、実行が可能だ。
 論理的に言えば、物事を「イエス/ノー」で2値的に考えるべきではなく、多値的に考えるべきなのだ。白と黒だけでなく、中間の灰色も含めて考えるべきなのだ。(さもなくば、中間的な値もある、という現実を誤認することになる。)

 わかりやすく、たとえて言おう。
 今、「嘘を付くべきではない」という原則があるとする。ところがこの原則を守ることは現実には困難だ。ここで、論理の錯乱を起こすと、次のように主張するだろう。(前項と同じ立場で。)
 “「嘘を付くべきではない」という原則を、完全に実施することはできない。現実には、嘘を付く人が、いっぱいいる。学校の生徒も、学校の先生も、これまで何度か嘘を付いたはずだ。これが事実だ。……だから、嘘を付いてもいいのである。どんどん嘘を付こう。いっぱい嘘を付こう。嘘は素晴らしい。首相は、率先して、どんどん嘘を付こう。”
 もちろん、これは詭弁だ。正しくは、こうだ。
 “「嘘を完全にやめよ」という主張は、たしかに成立しない。しかし、「嘘をなるべくやめよう」という主張は、成立する。嘘を付いた人々をことさらとがめることはしないが、首相はなるべく嘘を付くべきではない。”

 わかりやすく図式化した論理で示すと、こうだ。
 「黒は良くない」という原則がある。ここで、「灰色はなくせない」という現実を見て、「だから黒は良い」と結論することがある。これは詭弁だ。正しくは、「たとえ灰色をなくせないとしても、なるべく白くしよう」である。
 だから、結論は、こうだ。「白であることが好ましいが、現実には灰色がある。ここで、灰色を許容することはあるが、黒を促進することはない。まして、一国の首相が率先して黒を促進するべきではない」。

 政教分離に戻って考えよう。
 たしかに現実には、政教分離は、完全にはできない。それは事実だ。しかし、そういうことが多いからといって、「政教分離は不要だ。政教を一体化せよ」というような理屈は、成立しない。また、国民の各人・各団体について政教の一体化された例を許容することはあるが、一国の首相が率先して政教の一体化を促進するべきではない。
 結局、「灰色を許容する」ということと、「黒を促進する」ということとは、別のことなのだ。なのに、別のことを同じだと混同しているところに、先の設問の主張の、論理的な錯誤がある。
( ※ ここでは詭弁が用いられている。それは、「白を黒と言いくるめる」詭弁ではない。「灰色を白と言いくるめる」ことを拡張して、「黒を白と言いくるめる」というふうにする詭弁だ。……詭弁というものは、たいてい、このような方法を取る。)

 [ 付記1 ]
 最初に戻れば、論者の主張については、こう言える。
 仏像や学校への補助金は、灰色に当たる。これらは「許容」されるが、「促進」はされない。たとえば、宗教系の学校に補助金を出すことは許容されるが、「あらゆる学校を宗教色に染めよ」とか、「あらゆる学校を仏教系にせよ」とか、そういう理屈は成立しない。
 ところが小林よしのりは、そういう論法をしている。つまり、「国家の正式な追悼施設は、あらゆるものを靖国神社およびその系列に限定せよ。それ以外の宗教系もしくは無宗教の追悼施設は、一切認めない」と。国民を特定宗教に染めようとしている。そこが問題であるわけだ。
 だから、正解は、次の通り。
  ・ 国民には宗教の自由を認める。特定の宗教を強制しない。
  ・ 国の追悼施設は、あらゆる宗教にするか、無宗教にするか、いずれか。
  ・ 首相が率先して特定宗教に肩入れすることは不可。
  ・ 首相が個人的に(私人として)特定宗教に肩入れすることは可。
  ・ 宗教性を帯びた各団体に国が公的補助することは、許容されることもある。ケースバイケース。(仏像や学校ならばいいが、宗教団体は不可。宗教性と公益とのバランスのかねあいだ。)

 [ 付記2 ]
 ついでに言っておこう。論理ではなく、政治または精神の話だが。……小林よしのりは、英霊を冒涜しているのだ。
 彼の主張によれば、戦没者たちは「靖国にまつられたい」と言って、戦地に赴いた、ということになる。つまり、自分の宗教的な信念のために戦地に赴いた、というわけだ。(イスラムの狂信的テロリストと同様だ、というわけだ。)
 冗談ではない。戦没者たちは、自分の宗教心のために、戦地に赴いたのではない。内地に残る国民や、後世の国民のために、戦地に赴いたのだ。自分のために死んだのではなくて、多くの人々のために死んだのだ。おのれのエゴイズムのために死んだのではなく、人々への愛のために死んだのだ。
 小林よしのりは、これを逆にとらえることで、英霊を冒涜している。あげく、英霊たちを、靖国論争に巻き込んでしまっている。自分の信念のために、英霊たちを利用している。政治的利用だ。
 私が英霊だったら、呪ってやりたい。「おまえの宗教心や政治心のために、おれたちは死んだんじゃない。おれたちを勝手に特定目的で利用しないでくれ」と。そして、こう望みたい。「むしろ、国民全体から素直な気持ちで感謝されるようにしてくれ」と。
( ※ はっきり言えば、「英霊を政治目的のために利用すること」は、「肖像権の無断使用」という犯罪に近い。有名人の肖像を、特定企業の商業目的のために、無断で勝手に利用することがある。それと同様だ。あげく、「利用された方だって嬉しいはずだ」と居直っている。下品ですね。……まさしく「冒涜」だ。)
( ※ なお、小林は「戦没者たちはみな、靖国にまつられたいと言って、戦地に赴いた」と書くが、とんでもない嘘八百である。戦死者のなかには、キリスト教の信者もいたし、ユダヤ教やイスラム教などの信者もいた。彼らは、「靖国にまつられたい」なんて言わなかったのだ。嘘八百。そしてまた、靖国だけに参拝する小泉は、これらの英霊たちを無視 or 合祀することで、ひどい侮辱を与えているのである。……まさしく「冒涜」だ。)

( → 4月11日5月16日b8月11日 の最後。)

  【 追記 】
 小林よしのりは、のちに、態度を改めた。2006年4月に発売された雑誌 SAPIO のなかでは、前述の態度を改めて、本項の態度と同じ態度を取っている。つまり、「英霊は靖国のためではなく日本全体のために戦った。ゆえに、英霊のための靖国参拝という口実は正当化されない」というふうに述べている。
 これはこれで好ましいことだ。(どうして態度を百八十度変えたのかは、説明がないので、わかりませんけどね。)


● ニュースと感想  (5月28日b)

 「言語力と思考力」について。
 週刊マンガ雑誌「モーニング」の最新号に、「大学受験での国語力アップの方法」というのが記してあり、非常に良いことが書いてある。
 国語力のアップには、小手先の受験テクニックや、読解力向上の訓練なんかでは、まともな力は付かない。「思考力」「論理力」こそが重要だ。そのためには、思考対象について「なぜ?」という問いを発して、著者との間で思考のキャッチボール(対話・討論)をすることが大切だ。「なぜ?」という問いを発しないで、「そんなこと、どうでもいいだろ」と投げ捨てると、思考停止になってしまう。……という趣旨。

 これは正しい。そしてまた、私が常々言っていることと、合致する。
 私がいつも言うことは、「本質を見抜け」ということだ。これと、上記のこととは、ほぼ一致する。
 つまりは、表面的な言葉にとらわれず、言葉の奥にあるものを見抜け、ということだ。「言葉の意味を論理的に演繹的に動かすと、しっかりした論理ができる」と思い込んでいる人が多いが、これは完全に間違っている。論理の奥には、真理があるのであり、その真理を見抜くことが、何よりも大切だ。
 このことは、数学に適用しても、よくわかる。「数式や公式を演繹的に動かすと、正解にたどりつく」と思う人も多いが、それは数学の素人である。数学のセンスのある人は、そんなシラミつぶしの試行錯誤みたいなことは、決してやらない。手を動かさずに、目を閉じて瞑想する。そして、もやもやとした思考のなかで試行錯誤したすえに、一挙に正解までの経路を直感的に見出す。つまり、真理を見出す。……それが、数学的なセンスのある人間のやることだ。
 数学以外の社会学的な問題でも、同様である。表面的な言葉をいじっても、仕方ない。その奥にあるものを見抜くべきだ。つまり、本質を。

 では、本質を見抜くには、どうすればいいか? 
 第1に、心構えが大切だ。論理とは、直感的な結論を明確にするためにあるのではない。土中に埋もれている真実を掘り出すシャベルとしてある。表面に見えているものだけを述べるだけなら、論理はいらない。単純にべらべらとしゃべればよい。そして、多くの論者は、それだけだ。素人でもわかる表面的なことを、べらべらと饒舌に語るだけだ。それは落書き同然だ。しかし、真実を探るためには、工夫がいる。自分にも見えていないものを探るには、何らかの道具がいる。それを掘り出すための道具が、論理だ。論理を使って、少しずつ土を掘り下げて、埋もれている真実を探り出す。そういう道具が、論理なのである。要するに、曖昧な直感を正当化するために論理があるのではなくて、自分にとっても未知な真実を探り当てる道具として論理がある。論理は、詭弁のためにあるのではなく、真実のためにある。
 第2に、論理による、範囲の限定である。土中に埋もれているものを探るとき、おおまかに「このへんにあるだろう」と見当を付けるだけなら、素人でもできる。しかし、どんどん掘り進めるにつれて、真実がどこに埋もれているかがわかる。すると、「どこからどこまでが問題なのか」ということがわかる。
 たとえば、イラク人質事件で言えば、直感的に「けしからん」と思うだけなら、素人でもできる。「では、どこが問題なのか?」と問う。すると、「問題の範囲はこれこれだ」と限定され、同時に、「それ以外の範囲は問題ではない」ということがわかる。こうして、問題の範囲が明確に決定される。具体的に言えば、「論壇が語るべき対象は、政府の政策であり、人質の人生観ではない」ということだ。( → 5月23日e
 政教分離でも、同様だ。「では、どこが問題なのか?」と問う。すると、「問題(白・黒)の範囲はこれこれだ」と限定され、同時に、「白・黒・灰色を混同してはならない」ということがわかる。こうして、論理や命題の扱う範囲が明確に決定される。具体的に言えば、政教分離の適用される度合いは、「適用/不適用」ではなくて、「適用/中間/不適用」の三つがあって、それぞれを混同してはならない、ということがわかる。( → 前項

 物事の本質を見抜くには、対象を正しくとらえることが必須であり、そのためには、対象の範囲をはっきりと画定することが必要だ。そのために、論理がある。
 もちろん、物事の本質を見抜いたあとも、真実を表現するためには、言語が必要だ。しかし、真実を見抜かないままでは、いくら言語を用いても、そこで表現されるものは、ただの詭弁となる。論理が立派であればあるほど、立派な詭弁にはなるが、真実からはどんどん遠ざかるばかりだ。今の論壇にあふれているのは、こういった詭弁のための論理ばかりだ。
 真実にたどりつくためには、逸れた道に踏み込まないようにするべきだ。そのためには、たえず、心の羅針盤を働かせることが必要だ。それが、「本質を見抜こう」という意識なのである。
 山道で迷ったなら、足元や近辺の地形だけをいくら調べても、無駄である。しょせんは、はるか彼方の目的地は見えないから、あてどなく迷うばかりだ。そういうときは、いったん、目を閉じて、よく考える。そして、太陽や北極星を手がかりにして、全体的な配置を考える。自分がどこにいるかを探る。それは、自分がどう迷っているかを探るということであり、自分の誤りを探るということだ。
 論理を使うときに注意べきことは、何か? 「自分を正当化するために論理を使うこと」よりも、「自分の誤りを探り出すために論理を使うこと」を心がけるべきだ、ということだ。
 「本質を見抜こう」という意識と、「自己の誤りを探り出そう」という意識は、表裏一体なのである。その際、細部にとらわれず、全体配置に注意することが、有益である。


● ニュースと感想  (5月29日)

 「イラク戦争の出口論議」について。
 イラク戦争をどうやって収束すべきか、という議論がある。(朝日・朝刊・オピニオン面・コラム 2004-05-20 など。)
 米国は撤退すべきだろうが、撤退しても、他の国の軍隊が来そうもない。あとでは内戦が起こり、無秩序状態になるかもしれない。イラクは混乱の渦になりそうだ。これは難問だ……というような議論。
 これは、マクロ経済学的な発想を理解すると、解決案が浮かぶ。

 「軍隊が消滅すると、残った民兵が内戦を起こす」というのは、古典派ふうの発想である。つまり、「それぞれの要素は独立している。ある要素を消すと、残った要素だけが効果を発揮する」と。
 現実には、そうでないこともある。「それぞれの要素は独立していない。ある要素を消すと、残った要素も(影響を受けて)何らかの変動を起こす」というふに。……特に、ほぼ均衡した状態では、一方を消すと、他方は膨張することもあるが、逆に縮小することもある。

 具体的な例を示すと、次の通り。
 例:相撲の押しあいでは、一方が力を抜くと、他方がかさにかかってさらに力を加える。かくて、一方的な勝利となる。(軍事的な戦闘でも同様。)
 例:夫婦喧嘩では、一方が力を抜くと、他方も力を抜く。夫が優しくすると、妻も優しくする。逆に、夫がどんどん文句を言うと、妻が反撃して百倍の文句を返す。( → 実例

 では、イラクの場合は、どうか? 米軍が消えたなら、イラク民兵側は、膨張するか縮小するか? それは、次のことから判別される。
 「イラク民兵側は、それ自体で独立的に膨張する力があるのか、あるいは、米軍への反発としてあるのか?」
 それ自体で独立的に膨張する力があるのならば、米軍の撤退後に膨張する。米軍への反発としてあるのならば、米軍の撤退後に縮小する。
 ここまでは、論理的に、当然である。あとは事実認識だ。まともな頭で現状認識をすれば、次のように結論されるだろう。
 「アルカイーダなどの特定の武装集団は、それ自体で独立的に膨張するものとしてある。しかし、ほとんどの民兵は、米軍への反発としてあるだけだ」
 ここでは、「イラク国民のほとんどは、アルカイーダではない」という認識が大切だ。ここを誤認して、「イラク国民のほとんどは、アルカイーダである」と認識すると、「圧倒的な武力で鎮圧せよ」という結論となる。ブッシュがそうだ。そして、その誤認から、とんでもない混乱が生じた。それが現実だ。

 こういう事情は、年金問題と同様である。年金制度では、国が強圧的に「保険料を払え」「払わないとひどい罰を食わせるぞ」と強制すると、国民は不安になるので、かえって逃げ出す。逆に、「保険料を払わなくてもいいよ」「払わなくても罰はないよ」と任意にすると、人々は安心するので、小さな損得だけを見て加入する。
 戦争も同様だ。「米軍の支配に従わないと、ひどい罰を食わせるぞ」と強制すると、イラク国民は反発して、かえって抵抗する。逆に、「米軍の支配はやめます。イラク国民に任せます」と権限を委譲すると、イラク国民は安心して、必要もない抵抗をやめる。
 こういうことは、昔から、「北風と太陽」などの逸話で知られてきた。それがわからないのが、日米の保守派(強硬派)だ。
 たとえば、逆の立場で考えてみよう。「日本が北朝鮮にどういう政策を取るべきか」を日本の立場で考えるのでなく、「北朝鮮が日本にどういう政策を取るべきか」を北朝鮮の立場で考える。すると、北朝鮮の方針は、二つ可能だ。
 ・ 「おれたちの言うことを聞かないと、ひどい目に遭わせるぞ。テポドンをぶちこむぞ」(強硬派)
 ・ 「そちらがどうするかは、そちらのご自由に。ただし、こちらの協力の度合いは、そちらしだいです」(外交派)
 この二つがある。北朝鮮は日本に対して、どちらを取るべきか? さあ。相手の立場になって、よーく考えてくださいね。
 同じように考えると、「米国はイラクに対して、どちらを取るべきか?」という設問もある。
 では、これらの設問に、どう答えるべきか? どの国でも強硬派が優勢となると、たがいに「強圧政策こそベストだ」と回答するだろう。つまり、タカとタカのぶつかり合いとなる。あげく、最悪の結果となる。それが現状だ。
 
 結語。
 イラクであれ、北朝鮮であれ、「強気一辺倒」という強硬派の主張がまかり通っている。しかし、その先にあるのは、イラクであれ何であれ、どうしようもない破滅と混乱だ。タカとタカの対立は、失敗をもたらすだけだ。
 「譲歩してはいけない」というタカの論理には、根源的な欠陥がある。それは「たがいの関係を無視すること」であり、「双方が譲歩することが可能だ、ということを無視すること」である。つまりは、外交の基本を無視することだ。
 前にも述べたが、「タカ・ハト」ゲームというのが、外交交渉では成立する。「タカ」一辺倒というのは、外交の論理を知らない、素人の発想なのである。
 そして、素人の発想を取る限り、決して正解は得られない。「イラクではどうしたらいいか」という出口論議では、素人の発想を取る限り、いつまでたっても答えのないまま、堂々めぐりをするしかない。
 ついでに言えば、ここでは、「常にハト」というのは正解ではない。それはただの弱腰外交だ。物事の本質は、「どちらの選択肢を取るべきか」にはなく、「状況をどういう状況に変えるか」にある。
( → 4月14日c 「タカ・ハト」ゲーム )

 [ 付記1 ]
 私だったら、イラクでは、どうするか? 「たがいに傷つけあう」という政策を捨てて、「たがいに与えあう」という政策を取る。まずは、最初に、こちらから与える方針を示すことが大事だ。その後、与えあうスパイラルに移行する。
 基本的には、武装部隊としての自衛隊は、撤退または大幅縮小する。かわりに、文民としての自衛隊事務官を派遣して、サマワおよび周辺で、地方政府を確立する。独自の予算をつぎこんで、独自の経済政策を実施する。公共事業も実施するが、それよりは、金融支援を重視して、民間の投資活動・設備増強を推進する。かくて、この地方における経済的な生産力を、大幅に向上させる。その指標は、この地方のGDPだ。これを年に20%程度向上させることをメドにする。当然、失業者は大幅に減る。若者は、銃を持って戦うかわりに、工場で働いて金を稼ぐようになる。
 そして、最終的には、貸与した金を返済してもらう。また、発展した市場に、日本から大量に輸出したり、イラクの原油をたくさん輸入したりする。発展したイラクから日本も利益を得る。
( ※ ともあれ、平和の基礎は、経済なのである。これを理解する人が賢明だ。……小泉にはとうてい無理ですけどね。日本ですらできないんだから。  (^^); )

 [ 付記2 ]
 占領政策としては、第二次大戦後の米国の政策(対日支援)が参考となる。
 ここでは米国は、武力を行使して日本人を殺すかわりに、食糧を送って日本人の命を救った。兵士は、銃弾で市民を殺すかわりに、チョコレートやガムを配って、「ハロー」と言った。というわけで、「北風と太陽」は、どの時代にも有益な話となる。……もちろん、夫婦喧嘩でもね。夫婦喧嘩の解決法を教えてくれる「小泉の波立ち」。  (^^);

( ※ なお、舞台裏を言うと、当時の米国が食糧を送ったのは、自国で余っていた不要な農産物を、日本で処理したかったからだ、というのが事実だ。しかし、たとえ屈辱的であれ、それは間違ったことではない。余った農産物を、飢餓状態の国に送るのは、経済学的には、自然なことである。米国が上手だったのは、本当は有料で売りつけた農産物を、「好意でプレゼントしました」というふうに宣伝したことだ。当時の国民は「米国は農産物を贈ってくれた。ありがたや」と感謝した。「送ってもらった」ものを、「贈ってもらった」と誤解して、親切さに感謝した。かくて、脱脂粉乳を喜んで飲んだのである。)
( ※ しかし、それでも、脱脂粉乳には効果があった。その分、栄養状態は確実に改善した。あなたが 20代〜30代なら、その親も脱脂粉乳を飲んだだろうし、そのおかげで、あなたの体格も向上したことになる。もし脱脂粉乳がなかったなら、あなたの親はずっと貧弱な体格だったはずだし、あなたもまた今よりはいくらか貧弱な体格であったはずだ。)
( ※ というわけで、今の日本がかなり幸福なのは、当時の米国占領軍が、保守派ではなくてウルトラ・リベラルな人々で占められていたことだ。日本は実に幸運だった。仮に、当時の米国占領軍が、ブッシュ流であったならば、フセインのかわりに天皇を捕虜にして辱めたあとで、日本中で市民虐待に対する抵抗運動が起こって、今のイラクのようになっていたかもしれない。)
( ※ 当時の米国占領軍[GHQ]のリベラル度は、歴史上では他に見られないほどウルトラ級であった。「戦争放棄」という憲法を見てもわかる。こういうリベラルな憲法以外は、当時のGHQに許容されなかった。なお、当時の対日占領政策が、いかにリベラルな人々で占められていたかは、さまざまな著作で紹介されているから、本を読むといいだろう。)
( ※ だけど、最近の若者は、本をちっとも読まないんですよね。「菊と刀」なんて、題名も知らないかも。……米国のリベラル派は、戦後の日本に高度な教育と経済成長をもたらしたが、その末にあるのが、日本人の半・文盲化であるとは、思いも寄らなかっただろう。米国がイラクで勝利を収めたければ、大量の弾丸をぶち込むよりは、イラク国民にケータイを配布した方がいいはずだ。誰もが、銃を撃つかわりに、ケータイのボタンを打つのに熱中するようになる。)

 [ 付記3 ]
 自衛隊(および米軍)を撤退した場合、治安維持はどうするか? 
 それは、簡単だ。前に「国連軍」という案を出したこともあるが、イラクの場合は、もっとうまい方法がある。「イラク軍」を利用すればよい。以前のイラク軍の兵士を再雇用して、政府軍として、治安維持に当たらせる。
 この方法のメリットは、次の通り。
 (1) 米軍も自衛隊もいなくなるので、これらを対象としたテロ行為は、皆無となる。かくてテロを完全に撲滅できる。
 (2) アルカイーダなどがイラクで破壊活動をするかもしれないが、そんなことはまずあるまい。それはテロではなくて、ただの自虐行為である。放置してよい。われわれが心配することではない。それこそ「自己責任」だ。(実際には、自虐行為などするはずがない。)
 (3) イラク人の兵士は、自衛隊員よりもはるかに強力である。理由は、次の二点。
  ・ 実戦経験がある。銃の扱いもなれている。実弾発射の経験もたっぷりある。
  ・ 兵士の給与が十分の一だから、兵士を十倍雇用できる。(自衛隊員の給与は、戦場手当を含んで、日給3万円。べらぼうな金額だ。)
 要するに、自衛隊員一人とイラク人兵士十人が戦うと、どっちが強いか、という問題。後者の圧勝でしょう。だから、無能な自衛隊員は、いても無駄である。そもそも自衛隊員は、「戦わないため」にいる。イラク人兵士は、「戦うため」にいる。アマとプロの差がある。

( ※ それでも治安維持に失敗したら、その時点で、治安回復のために国連軍または多国籍軍を派遣すればよい。そのときならば、イラク人も占領軍を受け入れる。現状では、「イラクは自分では治安維持ができない」と馬鹿にしている。こういうふうに軽蔑しきっているところに、諸悪の根源がある。たとえば、あなたが「おまえはどうせ馬鹿だから、おまえの生活は全部おれが管理する」なんてアメリカ人に言われて、家を占領されたら、「ふざけるな。馬鹿にするなよ。出て行け」と追い出すだろう。それと同じ。)
( ※ なお、イラク問題の根源に立ち返ると、イラク問題の前に、パレスチナ問題がある。今日のアルカイーダなどのテロも含めて、そのさまざまな中東問題の根源には、パレスチナ問題がある。ここではイスラエルが圧倒的な弾圧を加えている、という現実がある。……この根源を解決しない限り、何をやろうと、平和は来ない。問題の根源を見失って、表面的に武力で取りつくろおうとする限り、人類は愚かなままなのである。)

 [ 補足 ]
 「タカ・ハト」ゲームについて補足しておこう。(特に読まなくてもよい。)
 「タカ・ハト」ゲームは、「囚人のジレンマ」と、よく似ている。
 まず、プレーヤーが二人のときは、「タカ・ハト」ゲームは、「囚人のジレンマ」と原理的には同じになる。(細かな設定は異なる。)
 ただし、プレーヤーが多数になると、両者に違いが出る。結論が異なるというのではなくて、新たな結論が追加される。次のように。
 「プレーヤーが二人のときは、たがいにハトとハトになるとよい。そうすれば、両者がともに利益を得る。これが最善だ」(なぜか? 一方がハトで他方がタカだと、サムがゼロ。両者がタカだと、サムがマイナス。両者がハトだと、サムがプラス。……そういうふうに条件が設定されている。ここではサムが変化するというのがポイント。)
 「プレーヤーが多数のときには、ハトばかりの集団のなかでタカが新たに生じると、その他かは、自分だけは利益を得ることができる。それを見て、タカがどんどん増える。しかし、タカが増えすぎると、タカ同士で傷つけあうので、タカは一定限度以上は増えない。かくて、タカは一定の割合で安定する」
 ※ なお、上記で示している「タカ・ハト」ゲームは、サムの配点が通常とは少し異なっている。その意味で、生物学的な「タカ・ハト」ゲームというよりは、戦争理論の「タカ・ハト」ゲームだ、と考えた方がよさそうだ。そういう意味では、ここで示した「タカ・ハト」ゲームは、メイナード・スミスのESS理論とは少しだけ異なるような、別の理論である、と考えた方がいいだろう。……ただし、結論は、ほとんど変わらない。
( さまざまなゲーム理論については → 参考文献


● ニュースと感想  (5月29日b)

 「イラクでの邦人2人の犠牲」について。
 イラクで邦人2人が犠牲になったそうだ。(夕刊・各紙 2004-05-28 )
 これについて、今回新たに言及することは、特にない。こういう危険性はもともと予測されていたからだ。予測されていたことが起こったというだけのことだ。
 実際、私は前にも、「仮にあの三人の人質が殺されていたら」という仮定の話をしたことがある。再掲しよう。
 (4) 裏目に出た場合
 ……(中略)……
 この場合、どうなるか? 小泉だったら、自己責任を唱えて、次のように主張するだろう。
 「三人が死んだのは、自己責任だよ。勝手に出向いて、勝手に死んだだけだ。国には何の責任もないね。国にとっては迷惑なだけだ。おまけに、棺を国内に搬送するのに、手間がかかる。霊柩ジェット機をチャーターするから、ちゃんと費用を払ってくれよな。まったくいい迷惑だよ。棺の運送費 250万円と、棺の代金 30万円、合計 280万円を必ず払えよ」
( → 【 追記8 】
 自己責任論者は、今回、やはり「自己責任」論を唱えて、上記のように非難をするだろう。つまり、「死者に鞭打つ」わけだ。
 ま、やりたければ、勝手にやるがいい。論者の狂気の度合いが、はっきりとわかるはずだ。
 ついでに言えば、私は、今回、論者がいくら「自己責任」を唱えても、制止はしない。なぜなら、死者には、すべては手遅れだからだ。死者は、悲しむこともないし、苦しむこともない。世間の攻撃を制止しても、何の意味もない。
 だから、自己責任論者は、今こそ、死者に向けて、「自己責任だ」と大々的に非難をするといい。つまり、上記の引用部のように、口汚く語るといい。あるいは、便所の落書きのように、悪罵を浴びせるといい。そうすれば、その口汚い言葉によって、彼らの精神の汚れが暴露される。「自己責任」論を語れば語るほど、論者の狂気の度合いが、はっきりとわかる。
 さあ。今こそ、語るがいい。おのれの狂気を赤裸々にするために。

 [ 付記 ]
 読者の正しい認識のために、物事の核心を示しておこう。ここでは、次のことが大切だ。
 こうして、「誰がリスク負担をして命を失ったか」「誰が利益を得たか」ということがわかる。とすれば、「リスク負担なしに利益を得た人々(国民)」は、犠牲者を非難する資格はないのだ。
 たとえて言おう。乞食が金持ちに金を恵んでもらったなら、相手に文句を言う資格はないのだ。「そんな無駄遣いをすると、後悔しますよ。お金を大切にしなさい」なんてことは、いくらまともそうな意見に見えても、言う資格はないのだ。金をもらっておきながら、相手を非難するなんて、正気の沙汰ではない。にもかかわらず、今の日本人の大半は、この乞食と同じで、正気を失っているのだ。

  【 追記 】
 読売の社説(朝刊 2004-05-29 )では、人質事件について、少し意見を変えている。「人質は無謀だった」という意見をやめて、かわりに「家族が自衛隊撤退を主張して、反戦団体が署名を集めたりしたのがいけなかった。だから大きく非難されたが、家族が黙ると非難も収まった」という意見になった。
 つまり、こう言いたいわけだ。  かくて、「言論の自由」というものを完全に否定しているわけだ。政府による独裁を肯定している。フセインや金日成と同じことを主張している。


● ニュースと感想  (5月29日c)

 「イラク問題とジャーナリズム」について。(本項の記述は5月29日でなく、6月04日
 邦人2人の犠牲が出た。このあと、私は、「自己責任論者は死者に対して、自己責任論を唱えるがいい。非難するがいい」と述べた。(前項)
 しかるに、どういうわけか、保守派は今度は黙りこくっている。せっかく「非難するがいい」と勧奨しているのに、「語れ」と言われると語らない。まったく、いい加減な連中だ。
 読売は先の人質三人に対する非難を思い出すがいい。「無謀だ」とさんざん非難したはずだ。だったら、今度の犠牲者二人には、もっと非難すればいいのだ。なぜなら、前回の三人よりも、今回の二人の方が、はるかに無謀だからだ。前回の二人は(ファルージャ事件という急激な変化を受けて)いきなり人質になったが、今度の二人はイラクがはっきりと危険になってから犠牲になったからだ。危険度は、今度の方がずっと高かったし、無謀さは今度の方がずっと無謀だった。だから、これらのジャーナリストを「無謀だ」と非難するべきだった。そうしないのは、まったく立場が矛盾している。前回はさんざん非難し、今回は沈黙。まったくデタラメも甚だしい。
 さて。以上のことは前口上だ。このあと、肝心の話に移ろう。語りたいことは、次の四点だ。

 (1) 自己否定
 フリージャーナリストであれ社員記者であれ、ジャーナリストに「危険を冒すな」「無謀なことをやるな」と非難するのは、自分もまたマスコミに属する一員として、自己矛盾を起こしている。第一次イラク戦争において、CNNのピーター・アーネット記者がバグダッドで報道した。他のジャーナリストが「危険だから」という理由で逃げ出したのに、彼だけは残って報道した。ここでは、彼はまさしく無謀ではあったが、ジャーナリストはみな彼を称賛したはずだ。
 彼は自分の命を危険にさらしてまで、世界中の人々のために尽くした。つまり、自己犠牲をなした。そういうジャーナリストに対しては、他のジャーナリストは称賛するべきであって、非難するべきではないのだ。たとえ世間の人々が「無謀だ」と非難しても、同じジャーナリストだけは彼を擁護するべきなのだ。
 なのに、読売などは、人質になったフリージャーナリスト(郡山さん)を非難した。これはつまり、ジャーナリストでありながら、ジャーナリストを非難しているわけで、ジャーナリストとしては自己否定していることになる。読売は、こんなふうに「無謀だ」と非難したことで、もはやジャーナリストとしての資格を喪失してしまったのだ。
 以後、読売のなすことができるのは、「イラク情報を紙面から抹殺すること」だけである。さもなくば、自己矛盾を起こす。

 (2) 自己矛盾
 現実には、読売は、イラク報道を続けている。つまり、自己矛盾を起こしている。
 たとえば、今回の邦人2人の犠牲を報道したのは、現地の特別通信員(アラブ人)と、共同通信の記者であった。(読売は自社の記者を引き上げたので。)
 読売としては、これで自己矛盾を起こしていないつもりなのだろう。「自社の記者を引き上げたから、無謀ではないぞ」と。
 とんでもない。自社の記者を使わなくても、特別通信員(つまりフリージャーナリスト)や、他社(共同通信)の記者を使っているのであれば、事情は同様だ。いや、もっと悪い。自社の社員の命を守ろうとして、他社の社員の命を犠牲にしようとしている。(
 読売としては、「フリージャーナリストがイラクにいるのは危険だ。無謀だ」と主張するのであれば、現地の記者からの情報を一切、紙面から削除するべきだったのだ。それが当然だ。
 なのに、このありさまだ。完全に自己矛盾を起こしている。二枚舌だ。
 「自社の社員の命を守ろうとして、他社の社員の命を犠牲にしようとしている」とすぐ前に述べたが、こういう奴は、戦場に必ずいる。危険な地に出向くと、仲間の背後に隠れる。仲間を弾よけにする。仲間を犠牲にして、自分が助かろうとする。自分が助かるために、仲間を犠牲にする。……それが読売だ。「うちの記者は危険を冒していませんよ」と自慢しているつもりだろう。しかし、自分の命のために、仲間の命を犠牲にしたことを、自慢しないでほしいものだ。……それに引き替え、自分の命を危険にさらしてまで、イラクの子供を救おうとした女性もいるのだが。なのに、話が逆転して、卑怯な野郎が勇敢な女性を非難する。それが日本だ。)

 (3) 自己利益
 以上は、ジャーナリズムの問題であった。そこで、読売としては、次のように態度を改めるかもしれない。
 「人質三人のうち、ジャーナリストだけはイラクに行く価値があった。日本全体の利益になるからだ。しかし、他の二人は違う」と。
 違う。実は、人質三人のうち、最も価値が低いのがジャーナリストだ。(今回の犠牲者2人を含む。)
 なぜか? ジャーナリストは、日本全体の利益になるが、他の二人は、日本全体の利益にならない。そして、それゆえに、他の二人の方が価値が高いのだ。
 ジャーナリストは、しょせん、日本人のためにイラクに行ったのであり、世界的なレベルで見れば、日本のエゴイズムにすぎない。しかし、他の二人は、日本人のためではなく、イラク人のためにイラクに行った。それは、日本のエゴイズムではなくて、世界的・人類的な愛の行為だった。エゴイズムよりも愛の方が高貴であるのは当然だ。それゆえ、ジャーナリストよりも、他の二人の方が、価値が高い。
 たとえて言おう。猿犬村と荒部村が、戦争した。猿犬村が嘘の名分で攻撃して、荒部村に莫大な被害が出た。その後、猿犬村から、三人が派遣された。一人はジャーナリストで、荒部村の状況を猿犬村に伝えるため。二人はボランティアで、荒部村の孤児(戦争で親を失った被害者)の世話をするため。前者は何かを得るためであり、後者は何かを与えるためだ。どちらの価値が高いかは、いわずもがなだろう。ただし、猿犬村のエゴイストたちは、「おれたちに得になることをした奴だけが偉いぞ」と言って、ボランティアを否定し、ジャーナリストだけに価値を認める。最初から最後まで、エゴむきだし。……けっ。

 (4) 退避勧告
 政府はイラクにいる報道記者に対して、退避勧告を出した。(読売・朝刊 2004-06-02 )
 「この勧告に従って、記者が退避すれば、犠牲者は出なくなる」と思っているのだろうが、とんでもない勘違いだ。日本人は退避できるが、イラク人は退避できない。イラク人の命を救うには、戦争そのものを解決するしかない。それが本質だ。
 なのに、「日本人がイラクから退避すれば、日本人の被害がなくなる」と思うのは、あまりにも視野が狭いし、あまりにも利己的だ。「犠牲者を出さなくするためには、退避勧告をすれば済む」と思うのであれば、イラク人全体に退避勧告をするべきなのだ。同時にイラク人全員を、難民として日本に受け入れるべきだろう。なのに、そうしないで、イラク人を見殺しにしておきながら、「退避勧告をすれば日本人の犠牲者が出ない」なんて思うのは、あまりにも身勝手であり、あまりにも無責任である。
 こういう無責任な連中が、先の人質事件でも、「さっさと退避するべきだった」などと主張する。戦争ないし大量殺人という核心を無視して、日本人の死者数という表面的な数字ばかりを取りつくろおうとする。「自己責任」論者というのは、かくも視野が狭くて、かくも利己的で、かくも無責任なのである。

 (5) 今後
 今後は、どうか? 最近、ふたたび情勢が悪化してきたようだ。あちこちの民間人に被害が出てきている。
 となると、「民間人は危険な地には出向くな」という主張に従うならば、米国の民間人に向かって「イラクから撤退せよ」と勧告するべきだろう。さもなくば、米国の民間人を非難するべきだろう。
 だから、米国人などの民間人で被害が続出するのを見て、政府や読売などの保守派は、「イラクに留まるのは無謀だ。さっさと撤退せよ」と、米国の民間人を非難するべきなのだ。
 なのに、そうできない。自国民の人質にはさんざん非難するくせに、米国の連中にはただの一言も言葉を出せない。また、自衛隊や米軍だって危険なのに、彼らには「さっさと撤退せよ」と非難できない。
 要するに、この手の保守派の論者たちは、「米国の犬」にすぎない。同じことをやっても、相手がかよわい日本人だとさんざん非難して、相手が強い米国人だと口にチャックをする。しょせんは弱いものいじめしかできない。いざ「米国を非難せよ」とけしかけられると、とたんに「国益、国益」と騒いで、口にチャックをする。そういう腰抜けの卑怯な連中なのだ。

 [ 付記1 ]
 最近、イラクの情勢がふたたび険悪化してきたようだ。それも、やむを得まい。「国連主導で」と語ったブッシュの方針は、まやかしであったことが判明してきたからだ。「国連主導だけど、指揮権や最高司令官は米軍に」とか、「イラクへ主権を委譲するけれど、親米派の傀儡を据える」とか。(6月02日の朝刊では、「暫定政権が発足したが、親米色が強くて、国民の反乱が強い。早くもバグダッドで爆弾テロ」と報道されている。)
 ここまでひとときは、ブッシュの「国連主導」という方針を見て、様子を見てきたイラク人たちも、最近では、「裏切られた」「やっぱり嘘か」とわかったので、最近になってふたたび攻勢を強めてきたのだろう。今後、情勢はさらに悪化しそうだ。

 [ 付記2 ]
 「自衛隊は撤退すべきだ」ということを、はっきり示しておく。(ジャーナリズムとの関連で。)
 朝日の報道では、「サマワの自衛隊員の待遇」という報道をしている。こんな苦労をしています、こんな危険もあります、こんな楽しみもあります、……という報道。(朝刊・社会面 2004-06-01 )
 呆れた。これではまるで「従軍報道」ではないか? 戦争中の日本軍に、金魚の糞のように付き従って、内地向けに報道した新聞があったが、それとそっくりだ。一番肝心の話が抜けている。
 肝心なことは何か? それは「イラクの戦争と平和」だ。自衛隊員の待遇がどうか、なんてことは、枝葉末節であって、箸にも棒にもかからない。本質からあまりにも懸け離れている。世界中の誰がそんなことを気にする?
 自衛隊がイラクに出向いたのは、そもそも、「イラクの平和の樹立」であったはずだ。で、そのために、どんな効果があったか? ひたすら陣地に閉じこもって、細々としたことを少しだけやっただけだ。どうせなら「イラク人はこのくらい感謝しています or 感謝していません」という報道をするべきだったのに、その一番肝心な点が抜けている。……かくて、結局は、下世話なワイドショーみたいな記事となる。
 こんな下世話な記事など、出さない方がマシだ。真実から目を逸らす効果しかないからだ。小泉流の目くらましにそっくりだ。
 では、真実とは、何か? それは、「自衛隊が金食い虫だ」ということだ。一人あたり1日3万円もの高給(うち戦地特別手当が2万1千円)を払って、イラク援助費用の大部分を自衛隊で食いつぶしている。本来ならば、イラク人が雇用されて、多大な援助効果が出るはずなのに、金を自衛隊が食いつぶすから、援助効果が消える。10万円があればイラクで多大な病人を救えるのに、自衛隊員が10万円でごく少数のイラク人を治療して「高度な治療を実現できた」と自己満足する。
 結局、自衛隊とは、援助の金を食いつぶす金食い虫なのだ。いればいるほど、イラクの復興は遅れる。さっさと撤退して、その金をイラク人に渡すべきなのだ。イラク人に渡るべき金をかっさらうべきではないのだ。
 これが「自衛隊撤退」の根拠だ。つまり、「何もするな」という意味ではなくて、「イラク人に任せよ」というわけだ。……そして、ここを勘違いするから、「自衛隊派遣」論者は、見当違いな説ばかりを述べているのである。(しょせんは「米国のための派遣」だから、そうなるんですけどね。)
( → 先日の 【 追記4 】 のたとえ話。)

 [ 付記3 ]
 先に「自作自演」を主張した人々がいる。今回、邦人ジャーナリスト2名が死亡したことについて、論者は「自作自演で死んだのだ」と言ってもよさそうなものだが、さすがに今回は口を閉じているようだ。
 まったく、腰抜けというか無反省というか。どうせなら、「今回も自作自演だ」と主張するか、あるいは、「前回の自作自演説は間違いでした」と自己批判するか、どちらかにしてもらいたいものだ。
 そもそも、どっちにしてもフリーのジャーナリストがイラクで被害になったことは同様である。相手の凶暴度は少し違うが、被害者にとっては相手の程度がどうであるかはただの運任せみたいなものであるから、どっちにしたって違いはない。本質的な差はない。だから、「どちらも自作自演」と意地を張るか、「どちらも自作自演でなかった」と反省するか、どちらかにするべきだ。
 なのに、今回の事件を見ても、過去に自分が「自作自演」を主張したということを、けろりと忘れている。まったく、無責任な連中だ。反省ということができないのだろか? 反省だけなら、猿にもできるのだが。
( ※ もちろん、「自作自演」以外に、「無謀なジャーナリスト」とか「自分探しの旅」とか批判した連中も同様だ。今度は口を閉じていて、自分の言ったことに責任を持たないのは、まったく無責任だ。評論家であれ、記者であれ、自分の言葉に責任を持つことは最低限の倫理だ。自分の言葉に責任を持てないような連中は、そもそも、マスコミの場で語る資格はないのである。ただの言いっぱなしならば、便所の落書きにすぎない。)

 [ 付記4 ]
 北朝鮮の拉致被害者の家族に、多大な非難が届いたという。(人質非難にそっくりだ。論者が同じだから。)
 ま、ありそうなことだ。とはいえ、これで「自己責任」論者の狂気の度合いが、いっそうはっきりする。
 拉致されたのは、「自己責任」か? 「被害者の自己責任だから、日本政府は何もしないでいい」ということか? つまり、「被害者は自分で勝手に北朝鮮に拉致してもらった」ということなのか? まさか。
 もちろん、ここでは自己責任なんてものは、どこにもない。しかし、家族に非難を浴びせるという点では、彼らの精神構造は「自己責任」論者とまったく同じだ。要するに、「自己責任」論者の狂気は、拉致被害者の家族を非難する人々の狂気と、まったく同じなのだ。
 結局、彼らは、問題を誤認している。間違っているのは政府なのに、被害者が間違っていると勘違いする。次のように。
  1. 政府が多大な出費をするのは、被害者の横暴のせいだ!
     ← 本当は、「政府が多大な出費をするのは、政府の政策決定である
  2. 政府に被害者が要求するのは、わがままだ!
     ← 本当は、「政府に対して何を要望しようと、それは国民の自由である。要望と決定とは違う。要望は国民の権利であり、決定は政府の権限である
    (どんな要求であれ、要求だけなら構わない。たとえば「整備新幹線」や「本四架橋」は数千億円の無駄だが、要望すること自体は悪ではない。「決定」が悪なのだ。反対者は、政府の決定を批判すればいいのであって、要望者を個人攻撃するべきではない。
    ( 同趣旨 → 5月29日b 追記5月23日e 補説
 このうち、第2項が重要だ。これはつまり、「言論の自由がある」「民主主義がある」ということだからだ。重要な原則である。
 この原則を否定すれば、独裁国家となる。結局、自己責任論者は、日本を、北朝鮮のような独裁国家にしたがっているのだ。
 実際、彼らの主張を、よく読むがいい。読売の主張にせよ、朝日の「便所の落書き」にせよ、そこにあるのは、「国民はお上に従え」ということだけだ。「自己責任」論者というのは、つまりは、物事の本質を逸らして、政府の責任を被害者の責任にすり替えて、あげく、政府による国民弾圧を正当化しようとしているだけだ。彼らは、いわば、「ヒトラー支持」を唱えてドイツ国民を弾圧したナチス親衛隊と同様なのである。(だから狂気的で暴力的で怖い。)

 [ 付記5 ]
 拉致被害者の夫である米国人脱走兵の話に、追記した。
  → 5月24日b 【 追記 】 (2004-06-04)







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