[付録] ニュースと感想 (72)

[ 2004.7.03 〜 2004.7.27 ]   

  《 ※ これ以前の分は、

    2001 年
       8月20日 〜 9月21日
       9月22日 〜 10月11日
      10月12日 〜 11月03日
      11月04日 〜 11月27日
      11月28日 〜 12月10日
      12月11日 〜 12月27日
      12月28日 〜 1月08日
    2002 年
       1月09日 〜 1月22日
       1月23日 〜 2月03日
       2月04日 〜 2月21日
       2月22日 〜 3月05日
       3月06日 〜 3月16日
       3月17日 〜 3月31日
       4月01日 〜 4月16日
       4月17日 〜 4月28日
       4月29日 〜 5月10日
       5月11日 〜 5月21日
       5月22日 〜 6月04日
       6月05日 〜 6月19日
       6月20日 〜 6月30日
       7月01日 〜 7月10日
       7月11日 〜 7月19日
       7月20日 〜 8月01日
       8月02日 〜 8月12日
       8月13日 〜 8月23日
       8月24日 〜 9月02日
       9月03日 〜 9月20日
       9月21日 〜 10月04日
       10月05日 〜 10月13日
       10月14日 〜 10月21日
       10月22日 〜 11月05日
       11月06日 〜 11月19日
       11月20日 〜 12月02日
       12月03日 〜 12月12日
       12月13日 〜 12月24日
       12月25日 〜 1月01日
    2003 年
       1月02日 〜 1月13日
       1月14日 〜 1月24日
       1月25日 〜 1月31日
       2月02日 〜 2月11日
       2月12日 〜 2月22日
       2月23日 〜 3月07日
       3月08日 〜 3月16日
       3月17日 〜 3月25日
       3月26日 〜 4月06日
       4月07日 〜 4月14日
       4月15日 〜 4月24日
       4月25日 〜 5月10日
       5月11日 〜 8月11日
       8月19日 〜 10月23日
       10月24日 〜 11月28日
       11月29日 〜 12月12日
       12月13日 〜 12月17日
       12月18日 〜 12月26日
       12月27日 〜 1月02日
    2004 年
       1月03日 〜 1月16日
       1月17日 〜 1月22日
       1月23日 〜 2月01日
       2月02日 〜 2月08日
       2月09日 〜 2月14日
       2月15日 〜 2月24日
       2月25日 〜 3月09日
       3月10日 〜 3月19日
       3月20日 〜 4月12日
       4月13日 〜 4月23日
       4月24日 〜 4月25日
       4月26日 〜 5月11日
       4月26日 〜 5月11日
       5月20日 〜 5月29日
       5月30日 〜 6月14日
       6月16日 〜 7月01日
         7月03日 〜 7月27日

   のページで 》




● ニュースと感想  (7月03日)

 「景気は回復しているか」という問題について。
 最近、「景気は回復している」という趣旨の報道がしばしば掲載される。たとえば、日銀短観。「景気は回復しつつある」という企業経営者の意識がひろがっている。朝日はこれを「景気回復の証拠」と見なす日銀に同調して、しきりに「景気回復」という旗を掲げている。(朝日・朝刊・経済面 2004-07-02 )
 一方で、私は否定的な見解を示している。そこで、私の立場から、「景気は回復している」という報道の問題点を指摘しておく。

 (1) 変動と絶対値
 「上がるか下がるか」という変動と、「上がっているか下がっているか」という絶対値とを、区別するべきだ。これが基本である。
 「景気は上向きである」という意味でなら、「景気は回復している」と言ってもよいかもしれない。しかし、その主張は、「どんどん下げれば、いつかは上向く」ということだ。つまりは、「これまで下がりすぎたから、ようやく下げ止まった」というだけのことにすぎない。
 株価で言えば、(莫大な量的緩和や円安介入という効果を込みにしても)小泉内閣発足時の株価には戻っていない。さまざまな労働指標や生産指標でも、当時の水準には戻っていない。「これまであまりにも下がりすぎていたから、ようやく上向きになった」というだけのことだ。
 「それでも上向きになるのは良いことだ」と思う人もいるかもしれない。そういう人は、「上がったり下がったり」という波を喜ぶ阿呆と同様だ。「下がった」という現象を無視して、「上がった」という現象だけを喜ぶ。かくて、「下がって、上がった」という現象を見て、大喜びだ。しかし、まともな人間ならば、「下がって、上がった」なんて現象を喜ばないはずだ。
 結局、「上がる」という上向き現象が大切なのではない。「これまであまりにも下がりすぎた」という絶対水準の低下が問題なのだ。今さら少しぐらい上向きになったからといって、喜ぶわけには行かない。「一年前に比べればマシだ」と喜んでも意味がない。「三年前に比べれば悪い」と悲しむべきなのだ。
 猿に対して、朝も夕も、一つもイモをやらなかったら、猿は怒った。しかし猿に対して、朝は一つ奪ってから、夕に一つやったら、猿は「一つもらえた。もらえる量が増えた。状況は改善した」と喜んだ。……この猿を「日本国民」と呼ぶ。

 (2) 絶対値
 絶対水準では、景気は悪化している、と見なせる。4月以降、百貨店・スーパーの売上げも、前年比4%程度減少している。自動車の販売台数も、5月、6月、と減少傾向だ。(前年比マイナス。6月は5.7%減。軽自動車は2.4%増。軽自動車の販売は全体3分の1。軽自動車込みでは明らかにマイナスで、単価も低下しているわけだ。)
 ここ半年間の自動車販売台数を見ると、1〜3月は前年度比プラスだったが、4月から低下して、5月、6月には明白に低下しつつある。(読売・朝刊・経済面 2004-07-02 )
 というわけで、企業ではなくて個人消費を見る限り、明らかに景気は回復どころか悪化しつつある。
( ※ (1) (2) を見ればわかるとおり、企業業績の改善と、マクロ的なGDPの悪化、という二面性が出ているわけだ。ここに注目のこと。 (6) を参照。)

 (3) 失業率
 それでも、失業率は改善している。完全失業者は 319万人まで減少してきた。
 とはいえ、失業者数は減ったが、雇用者数は 29万人しか増えていない。「失業者は減った」という数字の陰で「雇用者はあまり増えていない」という数字がある。どちらが大切かと言えば、やはり、「雇用者」の方だろう。「失業者が減った」というのは、たぶん、「失業意欲がある」として登録する人が減っただけのことだろう。
 それでも、雇用者数が増えた、という効果はある。しかし、この点は、割り引かなくてはなるまい。
 第1に、「雇用者数は増えても、所得水準が低下した」という事実がある。このことは、「正社員が減って、派遣社員・フリーターが増えている」ということからも裏付けられる。そして、この事実は、総所得の低下をもたらし、総需要の低下をもたらす。結局、景気改善効果は、雇用者数の増加という数字ほどにはない。割り引いて理解するべきだ。
 第2に、雇用者数が増えたといっても、一時的な原因による、と考えられる。それは、外需の効果だ。このことは、次に述べる。

 (4) 外需の効果
 日銀短観では、「企業の業績は向上している。企業の業績見通しも好転している」という調査が出た。(夕刊・各紙 2004-07-01 )しかし、これは、外需の効果が大きい。
 米国は成長率が4%もある。当然、「米国がクシャミをすれば、日本は風邪を引く」の逆の意味で、日本には好影響が出る。つまり、外需の効果が出る。
 GDPの大半は個人消費である。また、GDPの大半はサービス業である。とすれば、輸出を中心とした工業系の会社ばかりを調査しても、あまり意味がない。どちらかと言えば、百貨店やスーパーなどの売上げを重視するべきだ。こちらは、前年比で4%程度の減少、というデータが出ている。

 (5) 中期的な変動
 景気循環の変動のグラフを見ると、3〜4年で、循環してる、とわかる。この点からかんがみると、今はたまたま景気循環のピークに達しているだけだ、とも考えられる。長期的に景気回復企業にあるのではなくて、中期的に在庫減少やら何やらの効果が出て企業業績が改善しているだけだ。これはあくまで企業の事情だけだ。
 一方で、マクロ的には、「総所得と総生産のスパイラル的な拡大」というのは、起こりえない。というのは、所得の増加がないからだ。当然、中期的な企業業績の改善が終わったあとでは、景気は悪化していく。その時期は、本年から来年のころだろう。米国の景気の急拡大が終われば、外需の急拡大も終わって、日本の企業の業績向上も終わりとなる。
( ※ これは内需の場合とは異なる。内需の拡大の場合には、総所得の向上をともなって、スパイラル的に景気は回復しいていく。しかるに、内需の拡大がないと、外需拡大の終了とともに、一時的な景気回復効果は消える。)

 (6) 景気回復の速度
 内需拡大と総所得増大があれば、スパイラル的に景気は回復していくから、やがては不況を脱する。たとえば、減税を20兆円ぐらい実施すれば、企業業績も失業も、ほとんどの問題は解決する。(ただし年5%程度の物価上昇という現象も弊害するが、やむを得ない。空からお金は降ってこないのだから、20兆円をタダでもらえるはずがない。)
 一方、外需拡大による景気回復では、企業の業績は黒字となり、倒産を回避できるとしても、失業率は依然として悪いままだ。現状はそれに当たる。失業率はいくらかは改善傾向にあるとしても、依然として失業率は高いし、また、所得水準は下がったままだ。このままだと、25歳ぐらいのフリーターが正社員になれるのは、彼が35歳ぐらいになってからのことになりそうだ。また、45歳ぐらいの失業者だと、このまま一生、再雇用されないかもしれない。
 景気回復は、たとえなされるとしても、緩慢では駄目なのだ。「景気は上向きならばいい」のではなくて、「失業率が急激に低下する」必要があるのだ。「GDPはゆっくり増えているからいい」のではなくて、「GDPはすぐさま急激に5%ぐらい増えるべき」なのだ。
 では、それは、可能か? 生産力(設備や人員など)があれば、可能だ。しかるに、企業は今、リストラを進めている。リストラとは、生産力の廃棄だ。リストラを進めれば進めるほど、企業の業績は改善するが、企業の潜在的な生産余力は減る。企業の採算性は向上するが、マクロ的なGDPは向上する力をなくす。
 つまり、「企業の業績が回復している」ということは、「企業が縮小したGDPに適応しつつある」ということであり、「縮小したGDPを維持しようとしている」ということであり、「GDPを拡大する余力を失う」ということだ。それは、「企業にとっては幸福だが、国民(失業者)にとっては不幸だ」という状態だ。

 結語。
 「景気は上向きだからいい」などと思い込むのは、単純すぎる。「上向きである」といのは、「低い水準にいる」ということであり、「低い水準に固定しつつある」ということだ。むしろ、正しくは、「低い水準を直ちに脱すること」である。望ましいのは、「ゆるやかな上向き状態が長く続くこと」ではなくて、「急激な大幅な上向き状態が一瞬だけ起こって、そのあとは現状維持になること」である。つまり、「直ちに不況を脱して、その後はずっと普通の景気であること」である。
 「上向きが続くといい」という発想は、「いつまでも病気でいればいい。そうすれば病気の回復が続く」という発想であり、万年病人の発想だ。そんなものを望むべきではない。景気回復というのは、それを「上向き」と理解する限り、望ましいというよりは、望ましくないのである。「病気から回復すること」は望ましくなくて、「さっさと病気から脱すること」が望ましいのだ。

 [ 付記 ]
 個人消費については、(2) で示したデータが正しい。つまり前年比3%〜4%底の減少である。大型小売店を見ても、自動車販売を見ても、同様の調査結果が得られる。(4月以降の総所得の減少のせいだ、と考えるのが正しいだろう。退職者が出ても新規雇用者が出ないため。前にも何度か述べたとおり。)
 さて。総務省の家計調査報告というものがある。サラリーマン世帯の個人消費支出を、家計簿を見て、サンプル調査したものだ。これによると、個人消費は大幅に増加している、という調査報告が出ている。次の通り。
 「5月の実績では、消費支出が実質で、前年同月比 5.6%の増加。所得も、実質4.3%の増加。自動車への支出も増加。自動車の購入は 61%の増加。テレビ購入は 3.5倍に急増。パソコンは二倍近い伸び。なお、4月の消費支出は 7.2%の増加だった。」(朝日・夕刊 2004-06-29 )
 これを見ると、「景気は大幅に回復している」ということになる。ところが、前述の通り、全国の実数を見ると、5月の自動車の販売台数は減少している。つまり、両者のデータは矛盾している。では、どちらが正しいのか?
 もちろん、全国の実数が正しい。総務省の調査は、正しくない。では、なぜ、正しくないデータが出るのか? 理由は、次の通り。
 ・ サンプル数が極度に小さい。(500程度、という話を聞いた。うろ覚え。)
 ・ サンプル世帯が限定されている。(調査に応じるのは高齢の高所得者が多い。)
 ・ サンプル世帯の業態が限定されている。(サラリーマンだけ。自営業などはなし。)
 ・ サンプル世帯が固定されている。(失業中の若手は新規に調査対象に入らない。)
 こういうのは、データとしては、ほとんど当てにならない。だから、「全国では自動車販売が減少中なのに、家計簿の調査では自動車購入額6割もアップ」なんていう調査が出たなら、この調査がまったく当てにならないことを証明しているだけだ。
 だから、新聞記事としては、「この情報はまったくあてになりません」と解説するか、あるいは、情報自体をボツにするか、どちらかにするべきだろう。嘘つき情報は、報道するべきではないのだ。
 なのに、朝日はしばしば、この嘘つき情報を垂れ流す。あげく、「景気は回復しつつある」なんていう煽動記事をしばしば掲載する。その半面で、「自動車販売台数や小売店の売上げは前年比マイナスである」という情報をほとんど掲載しない。……朝日の経済記事は、それ自体が嘘つき記事である。注意しよう。
( ※ なぜ朝日はこういう嘘つき記事を書くか? 一つは、経済知識がゼロであるせいだ。もう一つは、「最初に特定の結論を出して、そのためにあとから理屈をこねあげる」という朝日の根本的な体質のせいだ。彼らは、事実をそのまま報道するのではなくて、自分が決めつけた“事実”を補強するためのデータだけを誇張して掲載するのだ。毎度毎度、その繰り返し。……政府もそうですけどね。政府と朝日は、体質がそっくりだ。「真実の報道」というマスコミの使命とは正反対のことをやっている。つまり「真実の隠蔽」「真実の塗り替え」だ。)
( ※ 悪口ばかりではバランスが取れないので、別のことも記しておく。同じ日の読売・朝刊・経済面では、日銀短観についての解説記事で、正反対の説明をしている。つまり、物価下落や雇用悪化なども残っているし原材料価格の上昇などもある。まだまだデフレを脱却したとは言えないし、先行きは楽観できない、という説明だ。楽観を戒め、警鐘を鳴らしているわけだ。こういう解説が正しい。短観なんていう目先の心理的データよりも、現実の経済データを重視して、緻密に経済分析するわけだ。経済学的には、これが正しい。朝日の経済記事は、経済記事というよりは、経済を扱う素人談義にすぎない。経済知識がゼロの記者が経済記事を書くとこうなる、という見本だ。そして、そのことが、読売との対比から明らかになるわけだ。)

 [ 補説 ]
 今回の日銀短観について、その本質を示しておこう。
 「企業の業績が回復したとしたら、そのどこが悪いのだ」と思う人が多いだろう。特に、古典派経済学者や、企業経営者は、そう思うだろう。そして、その答えは、マクロ経済学の立場からわかる。
 仮に、「企業の業績が向上すれば万歳だ」ということであれば、大幅に賃下げをすればよい。現在の国民の賃金を十分の一ぐらいになるまで、毎月どんどん引き下げていけばよい。企業の人件費は激減するから、企業の業績はどんどん好転するだろう。しかし、その一方で、総所得は縮小するから、国全体の総生産はどんどん縮小していく。その過程で、多くの企業が倒産するが、いったん倒産してしまえば、もはや赤字は発生しない。ともあれ、どんどん縮小均衡に向かっていく。最終的には、ほとんどの企業が倒産するが、残った企業は、黒字である。
 要するに、企業の業績だけを見ていても駄目なのだ。「企業が得をして、国民が損をする」という形では、売上げの減少を通じて、GDPが縮小していく。最終的には少数の黒字企業が残るが、ほとんどバトル・ロワイヤルである。
 正しくは、「最適成長」をなすべきだ。そのためには、企業収益と国民所得が同時に拡大する必要がある。特に不況のときには、先に「国民所得が増えて、次に企業収益が増える」というのが、「経済成長」をもたらすから、好ましい。ところが、「先に企業収益の向上」を取ると、「国民所得の増加」がないから、「経済成長」が実現されない。つまり、不況のときには、企業の業績が改善すればするほど、国民所得の増加が取り残されていることを意味するから、状況は間違った状況となっていることになる。
 わかりやすくたとえて言えば、飢餓の国に、種芋を与えた。すると、愚かな人々は、種芋を植えて翌年の生産を増やすかわりに、種芋をすぐに自分だけで食べてしまって、「腹がふくれた、嬉しい」と大喜びだ。この愚かな人々が、日本の企業の経営者(および古典派経済学者)だ。彼らは、種芋を増やすかわりに、種芋を食べてしまって、喜んでいるだけなのだ。
( ※ では、正しくは? 種芋を増やすことだ。つまり、国民に所得を渡して、GDPを増やすことだ。それがマクロ経済学からわかる正解である。企業収益だけを見ている古典派にはとうてい理解できないことだが。彼らは、今現在さえ腹がふくれれば、それで満足なのだ。将来のGDP成長よりは、現在の均衡だけが大事なのだ。)


● ニュースと感想  (7月04日)

 「MS-IE のセキュリティホール」について。
 MS-IE のセキュリティホールがふたたび問題になっている。ホームページを見ただけでウィルスに感染し、パスワードや個人情報を盗まれる可能性があるという。(朝日・朝刊・経済面 2004-07-01 )
 MSは「セキュリティレベルを『高』に設定せよ」と述べているが、この方法だと、MS-IE はかなり使い勝手が悪くなる。あれこれと煩わしくなる。また、「安全なサイトをいちいち登録せよ」という対処策もあるが、こんなことをやっていてはキリがないので日が暮れてしまう。
 一番簡単なのは、MS-IE を使うのをやめることだ。Opera や Mozilla に切り替えることだ。とはいえ、いちいちインストールするのが面倒らしくて、利用者は1%にも満たない。また、これらのブラウザは、使い勝手が必ずしもよくない。たとえば、Opera だと、いちいち広告画像がダウンロードされるのが煩わしい。(ただしこの部分に目隠しをするソフトはある。)
 では、ユーザーは、どうするべきか? 
 
 私のお勧めは、せめて、大手の会社のサイトを訪れるときには、MS-IE をやめて、他のブラウザを使うことだ。オークションや買物なんかをするときには、MS-IE を使わないで、他のブラウザを使う。これだと、そもそもMS-IE には暗証もクレジットカード番号も入力されていないから、原理的に安全だ。盗むべき情報がもともと存在しないことになる。

 以上はユーザとしての対策だが、MSにも、やってもらいたいことがある。それは、セキュリティホールをなくすことではなくて、セキュリティホールがあっても大丈夫であるように、基本設計を変更することだ。具体的には、技術的に細かい話になるので、以下に記す。

 [ 補足 ]
 その技術的な話。どうするべきか? 原理的に言えば、ブラウザと個人情報部分とを、別々のソフトにする。ブラウザの方で個人情報の入力が必要となったら、別のソフトを呼び出して、そこから受け取るようにする。そして、ここが肝心なのだが、呼び出すべき別のソフトは、多様なフリーソフトができるようにする。フリーのプラグインみたいなものだ。フリーでなくて有料でもいい。たとえばソフト会社が「このプラグインを使うと安全です」と宣伝して、百円ぐらいで売り出す。ウィルス制作者としては、たくさんあるプラグインごとに、いちいちウィルスを開発する手間があるので、面倒だ。やる気をなくす。たとえやったとしても、プラグインを交換するだけでウィルスは無効になる。なお、プラグインとのデータのやりとりの際にはいちいち警告が出るようにする。ブラウザが勝手にデータを読み出すのは禁じる。
 あるいは、逆の方法も考えられる。暗証を制御するプログラムをソフト本体にして、表示するブラウザの部分(MS-IE )をプラグインとして取り込む。……こういうことが現状では可能かどうかはわからないが、MS-IE を丸ごと取り込むという形でプラグインにすることならばすでに可能となっている。(DONUT というソフト。MS-IE をタブ・ブラウザにする。)
 
  【 追記1 】 (2004-07-07 )
 MS-IE を使うのをなるべくやめるべきだ、と述べたが、だからといって、他のブラウザを使えばそれで解決が付く、というわけでもない。 Opera や Netscapeでは正常に表示されないような、大手会社のホームページはかなりたくさんある。(この件は 12月28日b でも指摘したとおり。)
 こうなるのも、根源は、 MS-IE のシェアが高すぎることだ。どうせ MS-IE しか使われないと思って、大手会社が MS-IE 専用のページを作成してしまっている。
 となると、MS-IE を(独禁法違反などの理由で)シェアの制限をすることも、長期的には対処策となるかもしれない。そもそも、独禁法でいえば、MS-IE をOSといっしょに抱き合わせ販売するというのが根本的におかしい。MS-IE が起動しないような(表示の EXE プログラムを含まないような) Windows を開発して、安価で販売すれば、MS-IE のシェア独占もなくなるのだが。
 とはいえ、それは、政府の政策の話。ユーザとしては、どうか? 商品購入のためには、なるべく MS-IE 以外のブラウザを使うべきだろう。MS-IE 以外では読み込めないホームページを出す会社には、「その会社の商品は買わない」というふうにすれば、それはそれで対策になるかも。
 まとめ。要するに、「これが最善」という決定的な方策はない。だから、あれやこれやと、議論がなされる。どうするべきかは、最終的には、各人が決めることだ。
 (1) リスクを覚悟で、利便性を取る。
 (2) 利便性を捨てて、安全性を取る。
 の二つがある。さらに、どっちもほしいとなると、
 (3) Windows98 で古い MS-IE を使う。
 というのもある。これは、ブラウザに関する限りは比較的マシだが、普段、古いパソコンを使うことになる。(新しいパソコンにWindows98をインストールする、というのは、ちょっと酔狂すぎる気がする。)(ブラウザを使うときだけ古いパソコンを使う、という手もあるが、不便かも。LAN接続する、という手もあるけれど、ややこしくなる。)
 結局、いろいろ対策はあるが、どれもこれも、一長一短。未来はともかく、現状では悩みますね。私は選択肢を示したが、「これにせよ」とは言いません。
( ※ 余談だが、最良の策は、「なるべくインターネットを使わないこと」かも。悩まされるページにぶつかる割合は一定だとしても、ブラウザを使用する時間の総計が減れば、悩む時間の総計も減る。)
 
  【 追記2 】 (2004-07-13 )
 MS-IE のセキュリティ・レベルを、かなり安全にする方法があるという。メニューから「ツール」 − 「インターネットオプション」 − 「セキュリティ」 − 「レベルのカスタマイズ」とたどって、ActiveX のコントロールを制限するといいらしい。特に、最初の項目を「ダイアログを表示」にすればいいようだ。
 標準設定だと、「有効」になっている。これだと、ホームページにウィルスが仕込まれると、勝手にMS-IEを操作するが、ActiveX というのはパソコンの全体を操作する能力があるから、ウィルスが悪さのし放題、となる。
 そこで、ActiveX を無効にすると安全だが、そうすると、有用な操作もできなくなるらしい。たとえば、Windows の Update ができなくなるらしい。ただし、無効ではなくて、「ダイアログを表示」ならば、いちいち確認して「OK」を出せばいいから、特に問題ないはずだ。
 なお、以上のことは現状における対策だが、そもそもこういう仕組みになっていること自体がおかしい、と言える。ブラウザというものはもともと ActiveX なんてものは有効である必要がないのだから、最初から「有効」になっているべきではない。つまり、「一つのブラウザがあらゆる状況に対処できる」というのは、便利なようでいて、かえって不便だ。むしろ、複数の同一ブラウザを用意しておいて、状況に応じて、セキュリティ・レベルの異なるブラウザを起動できるようにするべきだ。例を示すと:
  ・ MS-IE (安全タイプ)  …… 普通のホームページ閲覧。
  ・ MS-IE (認証タイプ)  …… 通販サイトで購入の際に利用。
  ・ MS-IE (高機能タイプ) …… システム変更のときに利用。
 こいうふうに、三つのタイプを用意する。ソフトとしてはまったく同じで、セキュリティ・レベルだけが異なる。(仕組みとしては、前述の「ブラウザ部分がプラグインになっている」というのと同様である。)
 ユーザーは、「一つのブラウザですべてに対応する」のではなくて、利用目的に応じて、別々のブラウザを使う。面倒くさがりやの人は、最後のタイプだけを使えばいいが、そうすると、便利であるかわりに、危険度が増す。……現状は、こういうのだけがある。とすれば、MS-IEが危険であるのは、もともとそういうソフトになっているからだ、と言える。単に「穴をつぶせ」という問題ではないのだ。MS-IEの基本設計そのものが、危険を放置する発想になっているのだ。


● ニュースと感想  (7月04日b)

 「WindowsXP および MS-IE 6.0 の文字コード」について。
 WindowsXP ないし MS-IE 6.0 では、文字コードの点で、以前とは違った挙動をする。次の二点だ。
  ・ギリシア語のファイ(φ) という文字の挙動
  ・ 78JISのフォントが使えないこと
 この二点について解説しておく。

 (1) ギリシア語のファイ(φ) という文字の挙動
 ギリシア語のファイ(φ) という文字が、WindowsXP の MS-IE 6.0では、日本語のJISの記号では使えない。欧文フォントに自動変換される。
 ギリシア語のファイ(φ) という文字は、「 」に「  」を引いた記号だ。数学の空集合の記号にそっくりな記号だ。(このHTML文書のソースを開いて、エディタでこの文字を見ればわかるとおり。)
 ところが、この記号が、WindowsXP の MS-IE 6.0では、「の」を逆にしたような、「ψ」の右半分を離さずにつなげたような、そんな文字に変わってしまっている。
 これは WindowsXP の MS-IE 6.0 に固有の現象だ。 WindowsXP でも opera や mozilla などの一般ブラウザでは、こんなことは生じない。また、Windows 版の古い MS-IE でも、こんなことは生じない。
 では、なぜ、 WindowsXP の MS-IE 6.0 では、こういう現象が起こったか? 推定だが、文字コードを内部処理で unicode に統一しているせいだろう。実は、 WindowsXP の MS-IE 6.0 で表示される φ は、日本語フォントの φ ではなくて、欧文フォントの Times New Roman というフォントのユニコード部分の φ なのだ。
 だから、面白い現象も発生する。MS-IE 6.0 で、HTML の charset を「Shift_JIS」に指定していると、日本語フォントの φ を表示できない。しかし、MS-IE 6.0 で、HTML の charset を「西欧語(windows-1252 など)」に指定していると、日本語フォント(MS明朝)の φ を表示できる。日本語環境では日本語フォントを表示できないが、欧文環境では日本語フォントを表示できる。……馬鹿みたいですね。
( ※ なお、番号で φ を指定するには、「φ」を半角でソースに書けばよい。ここではあえて全角で示した。理由は、半角で示すと、番号にはならず、φ になってしまうから。ソース参照。)

 (2) 78JISのフォントが使えないこと
 WindowsXP では、78JISのフォントが原則として使えない。これは、前から予想されていた通り。理由は、内部処理で unicode を使うことになっているから。
 ただし、面白いことに、一部の78JISフォントは、一部使える。例は次の通り。(それぞれのフォントはいずれもWindows98環境で使える78JISのNEC製のフォント。)
   FA明朝  …… WindowsXP で使えない。(インストール不可能)
   FA教科書 …… WindowsXPでは、アプリで異なる。
    ・ 使えないアプリ …… MS-Word95,MS-Word2000
    ・ 使える アプリ  …… 一太郎
    ・ 部分的に使えるアプリ …… 秀丸(ダイアログにおいてのみ文字化け)

 というわけで、WindowsXP では、印刷などはまともにはできない、と思った方がいい。では、どうするべきか? 現状では、Mac を使うしかないだろう。これならば、Mac 環境に限るが、万全だ。
( ※ ただし、Macは特殊な方法を使っているので、文字コードによる同一性は保証されていない。この点、うるさくこだわりたければ、TRONを使うしかない。けど、TRONは、使い勝手は良くない。結局、一長一短。)
( ※ 普通の人にお勧めなのは? 古い Windows98 環境を残して、そこで 78JIS を使うこと。とはいっても、78JISには正字がすべて残っているわけではなく、一部は略字だ。これは万全ではない。)


● ニュースと感想  (7月06日)

 「パソコンのバックアップ」について。
 パソコンの故障で、ファイルを喪失して困った、という話をよく聞く。そこで、「バックアップ」について、簡単にまとめておく。

 → バックアップの話


● ニュースと感想  (7月08日)

 「人類の進化と言語」について。
 現生人類は、15万年前に登場したが、5万年前に急激に勢力を拡大し、ネアンデルタール人を圧倒して、ユーラシア全域に広がった。では、5万年前に、何が起こったか?
 これについて説明する説がある。
 「5万年前に、人類は言語を操るようになった。それは、遺伝子の変異により、音素言語を扱えるようになったからだ」
(読売・朝刊・読書面 2004-07-04。書評。対象は、「5万年前に人類に何が起きたか?」by R・G・クライン、B・エドガー。新書館)
 
 もっともらしい理屈だが、私は賛同しない。
 まず、「5万年前に、人類は言語を操るようになった」というのは、私も前からそう考えていたし、別に、目新しい説ではないだろう。問題は、「それが遺伝子の変異によって起こった」ということだ。
 仮にそうだとすれば、「その遺伝子を持つ個体が、全体のなかで有利だから、個体数が増えた」ということになる。ダーウィン説によれば、そうなるはずだ。しかし、である。言語を操る遺伝子は、一人だけが所有していても、何にもならない。多くの人々が同時にその遺伝子を保有している必要がある。さもなくば、言語による伝達はできない。
 とすれば、筆者の主張は、「多くの個体の間で同時発生的に遺伝子の突然変異が起こった」ということになる。確率的に言って、まったくありえないことだ。
 要するに、筆者の説は、ダーウィン説を取る限りは、成立しないのだ。

 では、私は、どう考えるか? 「言語の使用」を、「言語能力の遺伝子」なんてものに帰したりはしない。もっと根源的に考える。そもそも、「言語の使用」とは、何なのか? チンパンジーでさえ文字記号によって200語の言語を扱えるが、人間とチンパンジーの言語使用の差は何なのか? 
 ここまで遡れば、正解は、ほぼわかる。「言語能力」自体は、15万年前に生じたのだ。それは「大脳の発達」である。ただし、能力が生じたことと、実際に言語を使うようになったことには、長い時間の開きがあった。とはいえ、それは、不自然ではない。
 人類が誕生してから、15万年後に、人類は、コンピュータを使った。では、なぜか? 15万年後に、コンピュータを使うための遺伝子が突然変異によって生じたからか? 違う。コンピュータを使うための遺伝子は、15万年前にすでに生じていたのだ。ただし、その遺伝子が実際にコンピュータを使うために働くようになったのは、人類が長い文化の蓄積をしたあとのことだった。
 人類の能力を開花させるのは、文化である。何もかも遺伝子に帰するわけには行かないないのだ。今の進化論学者の多くは、あまりにも遺伝子中心主義に毒されている。「あれもこれもすべて遺伝子のせいさ」「おれの研究している分野が世界の中心だ」というわけだ。
( ※ 「世界はおれを中心にまわっている」という、アメリカンな考え方に基づく科学観だ。この本の著者もアメリカ人らしい。やっぱりね。人類の長い歴史を無視するあたりも、いかにもアメリカンだ。)


● ニュースと感想  (7月08日b)

 「蛇の先祖」について。
 蛇の先祖の化石が新たに発見された。体型は細長いが、蛇ほどは細長くなくて、短い手足がある。この種(生物種)の化石が発見された場所は、これまでは、かつて海だった領域だった場所だったが、今回は、かつて陸地だった場所だ。というわけで、「蛇は海を泳ぎながら体が細くなった」という海中説から、「蛇は陸上で体が細くなった」という陸上説へ、旗色が変わりそうだという。(各紙・朝刊 2004-07-03,特にNHKニュース 2004-07-02 )
 しかし、ここでは、物理学的な特性が重要である。そのことを指摘しておこう。
 海中を進むためには、体をくねくねさせるのは、有利であるどころか、不利である。魚を見ればわかるとおり、体を左右にひねるのが、正しい泳ぎ方だ。人間でいえば、足に尾ビレみたいなフィンをつけて、体を上下に凸にしたり凹にしたりする。蛇のように 〜〜〜〜〜 なんて波形にはしない。
 では、なぜか? そのことは、物理学的に決められる。「周波数」という考え方を取ればわかる。一定の速度と、一定の振動数から、一定の波長が決まる。振動数は、体を振る回数だから、ほぼ一定の値である。となると、速度と波長とが、ほぼ比例する。宴会の大型魚類(カツオなど)は、時速百キロという速度で進むから、波長はかなり長い。当然、 〜〜〜〜〜 なんて波形にはならない。逆に言えば、蛇のように 〜〜〜〜〜 なんて波形になるとしたら、速度はきわめて遅い。つまり、人間が歩行するぐらいの速度だ。となると、海中を泳いでいたということはありえず、陸上を這っていたとしか考えられない。蛇であれ、魚であれ、海中を泳ぐためには、 〜〜〜〜〜 なんて波形は、有利であるどころか、不利なのだ。そんな体型の遊泳動物は、たちまち絶滅してしまいそうだ。
 なお、似たものに、ウナギがある。ウナギと蛇は形態がよく似ているが、ウナギは魚類であり、蛇は爬虫類だ。ついでに言えば、やはりまったく別種に属するヤツメウナギや肺魚も、ウナギや蛇のような細長い体型をしているが、これらも泥のなかに棲息する。要するに、蛇もウナギもヤツメウナギも肺魚も、泥中や陸上をくねくねと進むために、似たような体型になったわけだ。水中を泳ぐための体型ではない。(いずれも水中を泳ぐことはあるが、泳ぐための体型ではない。なお、人間は泳ぐことはあるが、泳ぐための体型にはなっていない。)
 おそらく、蛇の「海中説」は、「似た体型のウナギも泳ぐ」ということから「蛇も泳ぐ」というふうに結論したのだろうが、ウナギは、泳ぐためにくねくねするのではなくて、這いつくばるためにくねくねするのだ。泳ぐといっても、水中をすいすい泳ぐわけではなくて、海底付近をのらくらと回遊するだけだ。濡れた陸上を這うこともある。本業と副業を間違えてはならない。ウナギの本業は泳ぐことではない。(なお、稚魚のシラスだけは、プランクトンみたいなものだから、体型は何であっても関係ない。)

 さて。今回のことから、重要なことがわかる。それは、「化石の発見地点によって棲息場所を推定してはならない」ということだ。「蛇の先祖の化石が、かつて海だった場所でだけ見つかった」という事実がたくさんあったとしよう。しかしそれは、別に、「蛇が海だけに棲息していた」ということを意味するのではなくて、「海では化石が多く残った」ということを意味するにすぎない。単に確率の問題であるにすぎない。
 そもそも、化石というものは、あまりわんさと大量に発掘されるわけではない。人類の化石でさえ、これまで発見されたものの総量は、段ボール1箱に収まるくらいでしかない。三葉虫の化石なら大量に見つかるし、巨大な恐竜の化石もかなり見つかるが、他の生物の化石も大量に見つかるわけではない。特に、初期の哺乳類の化石は、ごく小量しか見つかっていない。鳥類の化石も、海だった場所からは見つかりやすいが、陸上だった場所からは見つかりにくい。
 「化石の発見地点で棲息場所を推定してはならない」ということを、よく心得ておこう。陸上生物が死んだ場合、原則として、その死体は、骨まで食い尽くされるのが普通だ。たいていの肉食獣は、とらえた捕食動物の骨までバリバリと食い尽くすのである。だから陸上の哺乳類の化石はほとんど残らない。


● ニュースと感想  (7月11日)

 「人名漢字」について。
 人名漢字についての二つの意見が紹介されていた。一人は、親の立場から無制限を主張し、もう一人は、子供の立場から制限を主張する。(読売・朝刊 2004-07-06 )
 後者は、だいたい、私の主張と同じ。ただし、おまけふうに、「ローマ字も認めよ」なんていう極端なことまで述べている。しかし、日本語のローマ字の正書法は決められていないから、「し」は「SHI」「SI」のどちらにもなるし、「CHI」は「ち」「き」のどちらかわからない。「CI」もよくわからない。
 そこで、私も新たに提案しよう。みんながそんなに勝手なことをしたければ、一切の制限をなくせばよい。そして、あらゆる文字を許容すればよい。ハングルでも、アラビア文字でも、トンパ文字でも、楔形文字でも、ヒエログリフ(古代エジプト象形文字)でも、はたまた、コンピュータの顔文字でも、何でもかんでも許容すればよい。読みも意味もわからないが、どうせ、「漢字制限をなくす」というのは、それと同じだ。読みも意味もわからない文字が氾濫することになる。「誰にもわからない」というわけではないが、「たいていの人にはわからない」という文字が氾濫することになる。それが今回の「人名漢字の拡大」という方針なのだから。
 以上、まことに馬鹿げた提案だが、このくらいはっきりと「馬鹿らしさ」を示さないと、たいていの人にはわからないようだ。ついでに言えば、通貨も「円」だけでなく「ドル」や「ユーロ」や「元」や「ウォン」も流通させればいいだろう。混乱がひどくなるが、人名漢字の拡大というのも、それと同種だ。「制限をなくせば世の中がよくなる」という規制緩和の主張。どれもこれも「自由を増やせば、世の中がよくなる。自由万歳!」という発想が、根源にある。(経済学にも、そう信じている連中がいますけどね。ほとんど「犯罪の野放しの無秩序状態が理想」というようなもの。だから彼らはやたらと戦争をしたがるのかも。ブッシュとかね。)

 [ 付記 ]
 人名漢字については、新たな方針が報道された。  「『糞』のような人名に適さない漢字は排除して、残りの大部分を追加する」
 「人名漢字の拡張には、寄せられた意見の8割が賛成だ」
 というわけで、法務省の方針通り、人名漢字は拡張されるされるらしい。「たったの3カ月ぐらいで、一国の国語方針を、法務省なんかが決めるべきではない」という意見は考慮もされなかったようだ。
 プロ野球のオーナーたちは1リーグ制に向かって驀進し、「1年ぐらいは考慮せよ」という選手会の意見を無視する。法務省も、同様だ。わがままな唯我独尊の連中は、他人の声を聞くつもりなんか、もともとないのだ。形式的に聞いたフリをして、結局は自分の方針を押し通すつもりなのだ。
 かくて、独裁と専制がまかり通る。プロ野球でも、国語政策でも。はたまた、さまざまな分野で同様だ。


● ニュースと感想  (7月11日b)

 「広報と広告」について。
 キヤノンが「企業広報大賞」を受賞したという。(読売・朝刊・経済面・ベタ記事 2004-07-06 )
 「広報」は「広告」とは違う。このことに注意しよう。商品の売上げを増やすために宣伝をする、「もうかってナンボ」という大阪商人ふうの発想が「広告」。企業の社会的価値を高めるために宣伝をする、理念のある発想が「広報」。
 普通の経営者は、広告しかやらない。たとえば、同じ日の朝刊経済面には、トヨタの社長が新車発表の場に登場して、新社の宣伝をしている。「これぞ広告だ」とでも思っているのだろう。しかし、不細工な社長を出しても、売上げが増えるわけでもあるまい。こんな場所に社長を出すのは、社長がピエロになっているようなものだ。どうせ広告をやるのなら、藤原紀香か長谷川京子でも出した方が、よほど広告効果がある。
 一方、キヤノンの社長があちこちのテレビ番組に出演して、キヤノンの経営理念を宣伝するのは、有効である。「従業員の賃下げや、派遣重視や、工場の海外移転」なんてのがはやっている最中に、「終身雇用や、技能向上や、国内生産重視」というのを、堂々と理念とともに主張し、国内屈指の利益率を上げている事実を示す。これは効果がある。ただし、製品を直接売るための効果ではなくて、キヤノンというブランドを宣伝する。
 かくて、キヤノンのブランドは確立し、デジカメではキヤノンを指名買いする人が多い。ひところのソニー製品みたいだ。一方、トヨタの方は、いくらレクサスを宣伝しても、欧州でも日本でもちっともブランドを確立できず、ベンツよりもはるかに下だ。「レクサスの方がベンツよりも安くてお得ですよ」と宣伝しているが、そんなことをいくらやってもブランドを確立できない。
 「広報と広告とは違う」ということを、はっきりと理解しよう。日本の企業は、広報が下手すぎる企業が多すぎる。そして、それは、「企業にもともと理念がない」ということに原因があるのだろう。理念がないから、理念を宣伝することの重要性もわからないわけだ。
( ※ ついでに言えば、日産や三菱みたいに「鼻の形を独自にすればブランドを確立できる」と勘違いしている会社もある。立派な理念のかわりに、デカい醜い鼻を宣伝したがるわけだ。かくて、欠陥隠しなどが続出することもある。理念なき企業の末路。日産も、鼻の形にこだわるのをやめないと、そのうち三菱みたいになるかも。 → 6月17日b
( ※ 本項では別に、キヤノンという会社を褒めているわけではない。次項では別の意味で批判している。ただし、キヤノンに限った話ではないが。)


● ニュースと感想  (7月11日c)

 「企業と社会貢献」について。
 子供服メーカーの「ミキハウス」が、五輪選手を雇用して、アマチュア・スポーツに貢献しているという。会社の経常利益に匹敵する額を、このために使っているという。ただし、宣伝目的が主眼ではない。それだったら、とてもペイしない。むしろ、スポーツへの貢献を目的としているという。(朝日・朝刊・週末版 be 青色版 2004-07-10 )
 こんなちっぽけな会社が、五輪選手の多くを支援している。顔ぶれは、福原愛その他で、豪華きわまりない。この会社がなくなったら、日本の五輪メダルは激減しそうだ。かくも多大な貢献をなしている。
 その一方で、日本の大企業は、ちっとも支援をしない。「金がない」というのなら、まだわかるが、トヨタであれ日産であれキヤノンであれ、金はありあまっている。これらの企業は、プロスポーツには、多大な金を支出している。サッカーでは、名古屋グランパス、横浜マリノス、中田英寿。あるいは、F1などのモータースポーツ。あるいは、東京ドームのデカい看板。こういうふうに、プロスポーツのためには、桁違いの多大な金を出している。それでいて、費用に見合った宣伝効果が出ているわけではない。なんとなく、「一流スポーツに莫大な金を出している」という自己満足にひたっているだけだ。
 まったく、情けないね。理念がない。社会貢献という意識もない。トヨタ・日産・キヤノンの社長は、あちこちで「優秀な経営者」として褒められているが、社会貢献という面では、最低クラスなのだ。ミキハウスの社長の、爪の垢でも煎じて飲むべきだ。
 簡単に一言で言っておこう。「金儲けがうまいからと行って、自惚れるな。金を稼いでも、社会貢献ができなければ、どんなにチヤホヤされようと、人間としても企業としてもクズだ」と。

 [ 付記 ]
 同趣旨の話は、他の人も述べている。上記の be の3面には、中国人が中国における日本企業の評価を示している。「優秀な製品を作る企業」としては、日本企業は確たる評価を得ているが、「尊敬される企業」としては、ランキング外だ。トヨタ・日産・キヤノンも、横綱や大関はおろか、前頭にも入れないような、低レベルなのだ。
 「恥を知れ」と言ってやりたいね。……とはいえ、金儲けのことしか考えていないような連中には、「蛙の面にションベン」だろうが。


● ニュースと感想  (7月12日)

 「年金制度の問題」について。
 年金制度の問題について、小林慶一郎が解説している。(朝日・朝刊・オピニオン面 2004-07-11 )
 彼にしては、けっこうまともなことを述べている。大きく批判すべきことはない。ただし、不十分な点もあるので、コメントしておこう。
 記事の要旨は次の通り。
 小林は珍しく、あまり見当はずれなことを言っていない。それでも、私がコメントしておけば、以下のようになる。  [ 補足1 ]
 小林は「保険」と「相互扶助」という言葉を使ったが、私は前に「互助」と「社会保障」という言葉を使った。どちらも意味は同じ。
 前者は、生き残った人が金をもらう、という意味。後者は、貧しい人が金をもらう、という意味。両者を混同すると制度が歪む、ということの指摘は、私も小林も同じ。
( ※ 小林の主張は、私の主張とそのまま丸写しただけ、とも言えそうだ。まさか、パクリじゃないでしょうけど。でもまあ、「小泉の波立ち」を読んで、2カ月遅れでパクって記事にすれば、たっぷり給料をもらえる、ということになるね。 → 5月15日 に私の記述がある。)

 [ 補足2 ]
 パクリにしては、私とは反対のことを述べている箇所がある。記事では、次のように書いている。
 「いつ死ぬかわからない、というリスクに備える保険が、年金
 これは、間違い。正しくは、次の二つのいずれかである。
 「いつ死ぬかわからない、というリスクに備える保険が、生命保険
 「いつまで長生きするかわからない、というリスクに備える保険が、年金」
 つまり、こうだ。死ぬことをリスクと考えて、それに対処するのが「生命保険」である。長生きすることをリスクとして考えて、それに対処するのが「年金」である。小林は両者を正反対に解説している。さっそく、訂正記事を出してもらいたいものだ。
( ※ どうせパクるにしても、せめて、元の話をちゃんと理解していなくちゃね。生半可な理解だと、こういうふうに大失敗をやらかす。……たぶん、自分の頭で考えていないからだろう。)


● ニュースと感想  (7月13日)

 「年金と企業負担」について。
 厚生年金の会社負担を支払わない企業が多いので、厚生労働省が強制徴収をする方針だという。(読売・朝刊・1面 2004-07-11 )
 このこと自体は、特にコメントするつもりはない。ただし、「保険料の会社負担」という問題について考えてみよう。
 「保険料の会社負担」というのは、「会社による立て替え払い」と同様である本来ならば、その分は、給与として個人に支払われ、個人が政府に納入するべきなのだが、会社が直接政府に払う。これを会社がやめると、その分、給料を減らしたのと同じ効果があるので、会社は一種の「給料不払い」の形で、こういう違法行為をやりたがる。政府がこれを摘発するのは当然だ。(実施しなければ、労働者が「賃金不払い」と同じ意味で、損をする。)
 
 さて。だとすれば、保険料は、どういう形で徴収するべきだろうか? もちろん、個人から直接徴収してもいい。手間はかかるが、同じことだ。ただし、重税感が募る。(社会保障料負担と考えれば、重税感はないが。)
 別の形として、「消費税のアップ」とう形もある。これだと、企業規模(経済活動の規模)に比例して、税負担がかかるので、公平だ、と思える。しかし、もっとよく考えてみよう。
 消費税のアップと、個人負担のアップとを、比較してみる。すると、どういう違いがあるか?
 平均的な会社では、どっちみち、同じことだ。平均的な売上げがあり、その粗利益に課税されるのも、従業員の人件費に課税されるのも、どっちみち同じことだ。ただし、違いが出る場合もある。それは、人件費の割合が多い企業(サービス業など)と、人件費の割合が少ない企業(設備産業など)だ。
 人件費の割合が多い企業(サービス業など)だと、人件費を通じて、多大な国庫納入がある。社会保障負担であれ、税であれ、人頭税のような形を取ったり、個人の所得税を通じたりして、多大な国庫納入をする。逆に、人件費の割合が少ない企業(設備産業など)では、こういう国庫納入がほとんどない。利益の大部分は、労働者に配分されることなく、会社の内部留保となる。
 個人に所得があると、個人所得税がかかる。労働者の少ない企業では、その分は、会社の内部留保となる。とすれば、労働者の少ない企業では、個人所得税がかからない分、企業が得をするのか? いや、会社というのは、抽象的な存在だ。会社に利益が溜まっても、それはそれで、単に会社の帳簿に利益が溜まるというだけである。会社というものは、飲食もしないし、女遊びもしないし、旅行もしない。会社の帳簿に利益が溜まるというのは、その段階では、何も起こっていない。
 では、いつ、会社に利益が溜まった効果が現れるか? それは、会社の持主が会社を売ったときだ。つまり、株主が株を売ったときだ。そのときまで、会社の利益の蓄積は、形となって発現しない。とすれば、その段階で、はっきりと課税すればよい。
 では、そのときまで、課税を猶予していいか? いや、それだと、会社は利益をどんどん内部蓄積することになり、会社が一方的に得だ。個人ならば、所得を得た段階で課税されるのであり、所得で何かを購入した時点で課税されるのではない。とすれば、会社もまた、所得を得た時点で、課税される必要がある。それが「法人所得税」だ。そしてまた、株主が株を売った段階で、「キャピタルゲイン税」を課す必要がある。この「法人税」と「キャピタルゲイン税」の和が、個人所得税とほぼ同様であれば、どの国民に対しても公平であることになる。
 現実には、どうか? 企業ならば「企業維持に必要な金」や「研究開発費」は必要経費として控除される。しかるに人間には、「生命維持に必要な金」や「教育費」は必要経費としてあまり控除されない。控除額は、最低の生活費に満たない額であるし、教育費は、まるまる課税だ。また、個人所得税は、かなり効率であるが、法人税とキャピタルゲイン税の和は、あまり高くない。(特に中小企業では税率が低い。)
 
 以上のことからかんがみると、次のようにするのが、公平だ、と思える。
 原則として、経済活動に比例した額を企業から徴収する。これは「売上税」と同じで、実質的には「消費税」と同じだ。
 同時に、「個人所得税」も徴収するが、その分のうち、半分ぐらいは、「売上税」から免除していい。つまり、同じ売上げと利益があったなら、労働者の多い企業は多大な個人所得税と社会保障料を納付しているのだから、その半分ぐらいは、「売上税」から免除する。換言すれば、個人所得税と社会保障料をろくに納付しないような設備産業にも、それなりに課税する。
 利益を出している企業と利益を出していない企業を比較した場合、企業自体については、売上税で差をつけることはしない。ただし、利益を出している企業では、企業の資産価値が高まるので、株主の利益が高まる。将来的に、その分のキャピタルゲインが発生するはずだ。その分について、現在においては「法人税」の形で払ってもらい、将来の株式売却の時点では「キャピタルゲイン税」の形で払ってもらう。その税率は、個人所得税に比べて、低くなりすぎないように注意する。(税率を一律20%にする、なんてのでは不公平だ。)
 なお、配当課税と法人所得税とを併用すると、二重課税になる。これは、この意味では、正しくない。とはいえ、個人においては、「必要経費が認められない」という不利益があるのだから、差し引きすれば、やはり、法人の方が得だろう。一般的に、赤字企業は法人税がゼロだ。どんなに贅沢三昧のやり放題でも、帳簿が赤字というだけで税を払わない。しかるに、生存ギリギリ生活をしている低所得者は、しっかりと税を払っている。
 ま、理想を言えば、企業の方は二重課税をやめるかわりに税率を上げるべきで、同時に、個人については最低控除を大幅に引き上げるべきだろう。特に、子供が二人ぐらいいる家庭では、教育費や食費や衣服費などを、たっぷりと控除するべきだろう。そうすれば、少子化対策にもなる。「子供をたくさん産んで、たくさん税控除を受けよう」とキャンペーンすれば、「貧乏人の子だくさん」ならぬ「高所得者の子だくさん」になりそうだ。
 ざっと推計して、大学生の子供一人について、年200万円の控除。子供二人で、400万円の控除。夫婦二人の自己の分でやはり各100万円の控除。合計して、夫婦で600万円ぐらいまで、課税されない。……個人所得税としては、このくらいの控除が世帯ごとにあっていいだろう。金持ちばかり得しそうだが、正確に言えば、世帯収入が対象だから、共働きが得をするのだ。損をするのは、専業主婦の家庭。というわけで女性就業率が急激に上昇する。GDPも急激に上昇する。少子高齢化の問題は一挙に解決に近づく。
 消費税は5%のままでもいい。かわりに、売上税を15%にする。合計、20%。ただし、設備産業はこの分をまるまる払うが、労働者をたっぷりと雇用している産業ではかなり免除される。というわけで、急激に雇用が増えて、失業問題は解決する。
( ※ ただし、それとは別に、景気が回復していることが必要。)


● ニュースと感想  (7月13日b)

 MS-IE のセキュリティ・ホールについて追記した。
  → 7月04日【 追記2 】


● ニュースと感想  (7月14日)

 「選挙と年金」について。
 選挙で自民党が敗北した。ま、特にコメントはしないが、「年金は大切だ」ということですね。
 年金というのは、ただの一問題ではなくて、国政を左右する最大の問題であるわけだ。自衛隊や景気で少しぐらい失政があっても、自民党はあいかわらず安泰だが、年金で失政があると、高齢者の反発を食らい、あっという間に支持率を下げる。
 教訓です。

 [ 付記1 ]
 実数を見ると、与党はほとんど変化なし。民主党が増えた分、共産党が減った。結果は何も変わっていないのも同然。
 ただし、前回選挙では、自民党は選挙戦術のまずさから、二人が共倒れした選挙区が多い。今回は、それを避けて、一人擁立にした。その分、議席数が増えるはずだ。また、前回は敵に回った公明党が今度は味方に回った。……両方の効果で、本来なら、自民党は議席数を大幅に伸ばして当然だった。15議席ぐらい増やしてもよかった。ところが、この結果。理由は、自民の支持率が激減したから。
 だから、「議席数はあまり減っていない」という結果になったとしても、「自民党の敗北」と評価してよい。
 ただし、「野党の勝利」とは言いかねる。その理由は、二つ。
 一つは、共産党と民主党の共倒れがきわめて多いこと。選挙戦術のまずさ。
 もう一つは、選挙区の歪みから、得票率が議席にはなかなか結びつかないこと。

 [ 付記2 ]
 今回の選挙の結果を誤解しないようにしよう。政治評論家の解説には、数字だけを見て、「痛み分け」みたいな評価も出ている。(朝日・朝刊 2004-07-13 )しかし、それは正しくないだろう。
 数字だけを見れば、「与党の議席数はほとんど変わっていない」と言える。しかし、「与党」という言葉の意味が問題だ。前回と今回とでは、公明党の位置が異なる。公明党は、前回は野党、今回は与党。自民党だけを見れば、激減している。「公明党は与党だから自民と同じ」と思うのは、浅はかだ。なぜなら、公明党は今回の結果(自民よりも民主の方が得票率と議席数が上)を見て、さっそく、「どこの党と組むかは民意しだい」なんて言っている。要するに、次の衆院選で民主が自民を上回ったら、公明党は自民を捨てて民主に乗り換える、という意味だろう。ま、当然だ。自民と組んでも、(地方区で)議席は増えない。民主と組めば、議席が増える。そうなるのが自然だ。
 なお、今回の参院選で、結果がどうのこうのというのは、あまり意味がない。そもそも参院は、政権交替を問う選挙ではない。「民意を問う」という意味でなら、比例区の得票率だけを見ればよい。見れば、「自民は激減、民主は激増、公明は不変、他はやや減少」とわかる。公明は「議席数が増えて大勝した」なんて浮かれているが、それは選挙制度の綾であって、比例区の得票率はほぼ不変なのである。地方区で協力した見返りで、自民の票を上積みしてもらって、このざまだ。実質的には公明も敗北したと言える。
 選挙であっても、物事の本質を見抜くのは、容易ではない。人は議席数だけをみて、結果を論じたがる。しかし本質は、得票率と政権獲得であって、その中間である議席数なんてのは、多少増減しても、あまり意味がないのだ。(たとえば、選挙制度をいじって、議席数が激増したり激減したりしても、それは、選挙制度の問題であって、本質である得票率ないし民意とは関係がない。)


● ニュースと感想  (7月14日b)

 「参院と衆院」について。
 参院選は民主党が勝利したが、結局は、まあ、何も変わらないんですよね。参院は首相を決めないから。
 そこで、今回の結果とは別に、参院と衆院について、理念的・理想的に考えてみよう。(議会制度に関する、法律的な話。経済の話ではない。)

 根本として、参院も衆院も、一票の格差が2倍を超えている、という問題がある。これでは、民主主義が成立しない。かといって、「2倍以下ならいい」というものでもない。できる限り、1票の格差は減らすべきだ。1.5倍以下にする、というのがいいだろう。
 その方法ないし制度は? 大きく分けて、二つある。

 (1) 端数議席(端数票)
 議席数を1とか2とかにしないで、端数も認める。たとえば、1議席の基準人口を百万人としたら、その選挙区の人口が百二十万人であるとき、1.2議席を割り振る。実際に当選する人数は、一人でもいい。この一人が、1.2票を持つ。一方、選挙区の人口が八十万人であるときは、一人が 0.8票を持つ。実際の議会での議決権では、電子投票を用いて、1.2票や0.8票を計算する。最終的には、たとえば、「121.2票 対 116.4票で可決」というふうになる。賛否同数で議長が決める、という余地はほとんどなくなる。
 このやり方だと、1票の格差は、非常に小さくなるはずだ。また、島根や鳥取のような小さな選挙区でも、1人の議員を出すことが可能だ。ただし、0.3票ぐらいにしかならないだろう。ま、それはそれでいい。

 (2) 比例代表制
 比例代表制で決める、という方法もある。これもなかなかいい方法だ。ただし、もしそうするならば、これは衆院でやるべきだ。衆院では比例代表制にして、地元の小選挙区とらわれないような、一国全体の見地を考える人々を当選させる。「地元のために高速道路や新幹線を」なんて考えるのは小選挙区の議員だが、こういうのが衆院にいると、ろくなことはない。そこで、衆院は、[州別の]比例代表制。一方、参院は、小選挙区制(ただし前述の端数制度)。
 これが理想だ。そして、そうとすれば、現状は好ましくない。「衆院は小選挙区300名,(州別の)比例代表区200名。参院は中選挙区152名、(全国の)比例代表区100名」というのが現状だ。参院の比率はともかく、衆院では比例区が少なすぎる。これでは地元の利益を考える議員ばかりになる。まずい。だから、一国の首相や行政担当を決める衆院は、(民意を正確に反映するために)比例代表制を基本とするべきだし、一方、それでは地方の理念が届かないという点については、参院という第二院で声を聞くことにすればよい。

 [ 付記 ]
 比例区だと、「小党乱立」という難点がある。この難点を避けるためには、別途、方策を取ればよい。
 一つは、「一定得票率(5%)以下の場合、全滅する」という制度。
 一つは、「各党から、当選者数を一定数差し引く」という制度。たとえば、40人当選しても、10人を引いて、30人しか議員になれない、というふうに。はみだした分は、「政党職員」の形にして、給料だけは国が払ってあげるといいだろう。大した金額にはなるまい。ついでに、議員総数を減らせば、どうってことはない。
 もう一つは、逆に、政権を取った党だけが、形式的な議席を余分に得る、という制度。これは「首相指名議員」という制度であり、先に示したことがある。( → 首相公選制の私案

 [ 補足 ]
 ただし以上は、現実的ではなくて理想。現実には、民意を歪める制度をあえてやるのが自民党。支持率は半数未満でも政権を取りたい、というわけ。ゲリマンダーと発想は同じ。いや、もっと悪い。民主主義の否定。


● ニュースと感想  (7月15日)

 「パソコン販売と広告」について。
 DELL コンピュータの宣伝が毎度毎度、大きく新聞に掲載されている。うざったくてしようがない。トヨタや日産の数倍の宣伝量だ。莫大な宣伝費をかけていて、それでいてペイするとしたら、相当、品質には手を抜いているはずだ。
 というのは私の推測だったが、店頭で実物を見て、納得した。日本のコンピュータ会社の製品に比べると、相当、品質が劣る。液晶なんて、見られたものではない、という感じ。ケースも、マウスも、キーボードも、いかにも安っぽい。
 「もともと安いから仕方ない」という意見もあるかもしれない。しかし、ほぼ同程度の価格で、ショップ・ブランドの製品では、標準的な品質を保っている。ただし、こちらは、初心者向けのサポートはないが。また、Windows のバージョンは古いことが多いが。
 では、品質とサポートを両立した会社はないか? いろいろ調べると、一つだけある。e-Machine という会社。日本ではシェアは低いが、アメリカではシェアはとても高い。品質は非常によい。値段も格安。Windows のバージョンは常に最新。サポートも充実。難点は、HDが分割されていないこと。ただし、これは、特に難点でもない。なぜなら:
  ・ 初心者にはHD分割は不要。
  ・ 上級者なら、自分で第2HDを増設する。
 私の親は、私の推奨で、これを買った。私もいろいろいじったが、デザインも良く、操作性もよく、発光ボタンもあり、ファンも静かで、満足できる水準だ。そのあとで DELL の製品を見たら、あまりにもひどくて、げんなりした。

 教訓。
 宣伝ばかり大量にやっている会社の製品は、あまり信じるべきではない。米国人のブランド評価で第3位になったというが、宣伝のせいだろう。品質を比べてみての評価だとは思えない。
 ついでだが、DELL の製品は、送料が 5250円。e-Machine は、送料が都内なら無料。どっちが得かという問題ではなくて、どっちが詐欺師的かという問題だ。実際に払う価格より安く表示するかどうか、ということ。上げ底みたいなことをやるかどうか、ということ。詐欺師みたいなことをやる会社は、私は信じない。そこで「だまされるな」と私は警告しておこう。
( ※ 私は普通、特定企業の製品を非難するつもりはない。だが、詐欺師のような会社があると、だまされる消費者が多そうなので、消費者のために注記しておくわけだ。私のホームページのポリシーは「だまされるな・洗脳されるな」だから、その一環だ。)
( ※ だけど、こんなことを書くと、朝日や読売に非難されそうだ。「スポンサーの広告が減ってしまう! おれたちの金が減る!」と。ふん。朝日も読売も、詐欺師とグルなんだよね。詐欺師にお金をもらって、自分たちの給料にしている。)
( ※ なお、このような情報は、新聞にもパソコン雑誌にも書いていない。スポンサーの悪口は言えないから。それどころか「DELLの評価はトップクラス」というような記事を載せる。下らん。無意味だ。その評価は、素人が自己満足している評価にすぎない。製品を比べて評価したわけではなくて、単なる自己満足度の評価だ。当然、素人購入者が多い駄目な会社ほど、評価が高くなる。統計のミスリード。……たぶん、DELL の評価が高いのは、サポートがいいからだろう。だけど e-Machine もサポートはよい。メールでのサポートも受け付けているし、その水準もなかなか高い。私も経験した。十分な知識が感じられる。一方、サポートが最悪なのは、マイクロソフトらしい。ただの無知なお姉ちゃんが、コンピュータを見て検索しながら、機械的に返答しているみたいですね。「それは仕様です」と答えるのが仕事らしい。「駄目会社の駄目製品だから、しようがないです」というのを「しようです」と答えるわけ。)


● ニュースと感想  (7月15日b)

 「近鉄とオリックスの球団合併」について。
 この問題についての一案。「近鉄の経営者を、業務上の背任と見なして、株主代表訴訟で訴える」
 ライブドアに売れば、30億円。それをやめるとしたら、近鉄本社に損をさせることになる。
 オリックス球団と合併させるのなら、それはそれでいいが、次の二点は必須。
  ・ 合併比率は対等として、株式保有率は50%。(現在案は20%。)
  ・ 合併したあと、消えた方の球団の権利は、売却する。
 要するに、近鉄本社は、オリックス球団を半分だけ買えばよい。近鉄球団は消さずに売却すればよい。それができなければ、近鉄本社に損をさせることになるから、業務上背任。株主代表訴訟で、経営者に20億円ぐらいを請求すればよい。

 [ 付記1 ]
 基本は、前にも述べたとおり。「5球団では足りなければ、1球団を新規加盟させればよい」ということ。つまり、
   5+1=6
 である。誰かオーナー会議で、この足し算を教えて上げて下さい。

 [ 付記2 ]
 世論が「1リーグ制反対」だという声を受けて、阪神のオーナーが「2リーグ制維持」に方向転換した。(朝刊・各紙 2004-07-14 )
 これは私の予測したとおり。もともと本音がそうなんだから。( → 6月16日c


● ニュースと感想  (7月16日)

 「銀行統合」について。
 UFJ銀行と東京三菱銀行が統合する方針。(夕刊・各紙 2004-07-14 )
 これに対して、歓迎する声が上がっている。「銀行同士が統合すれば、規模が大きくなり、経営体力が向上し、国際競争力も増す。かくて、日本経済にも良い影響がある。現状では、銀行が多すぎるオーバーバンキングの状況なので、銀行統合は当然だ」という理屈。
 こういう理屈は、古典派丸出しだ。そこで、批判しておく。

 (1) 統合のメリット
 銀行の統合のメリットというのは、ほとんどない。なぜなら、銀行は、物を生産しないからだ。自動車会社や電器会社ならば、物を生産する。企業規模が大きくなれば、開発費が大きくなり、他社に対して有利になる。規模のメリットが出る。しかし、銀行は、違う。大会社が単一市場で多くのシェアを得る、ということはありえない。なぜなら、市場があまりにも細分されているからだ。
 たとえば、小泉広告有限会社という中小企業があるとして、これに対する融資が5千万円であるとする。ここで、市場原理が働いて、各社が競争するとする。これまでは4社で競争していたのが、今度は3社で競争する。ここでは、規模のメリットなど、ほとんどない。大銀行が「5兆円も融資できます」と威張ったって、借り手はたったの5千万円しか借りない。ひょっとしたら、町の信用金庫が、横からひょっこり口を出して、融資をかっさらうかもしれない。
 金融業では、規模のメリットはほとんどない。そのことが根本だ。

 (2) オーバーバンキング
 現在、銀行が多すぎるというのは、たしかだ。しかしその理由は、供給過剰ではなくて、需要不足である。今は不況だから、資金需要が少ないが、やがていつか景気が回復すれば、今度は資金需要が増えて、銀行を必要とする。
 ついでに言えば、銀行統合をしたところで、供給能力が減るわけではない。資金の供給能力は、銀行の数によって決まるわけではないし、銀行の社員の数によって決まるわけでもない。では、何によって決まるか? 日銀の貨幣供給量だ。
 金融市場の供給過剰を、銀行統合によって解決しようというのは、あまりにもひどい見当違いだ。トンチンカン。
( ※ 実を言うと、(2) は (1) に矛盾する。(1) では銀行強化を狙っていて、それなら銀行の強大化により、全体の資金供給能力は高まる。ところが (2) では逆に、全体の資金供給能力を減らす、と主張している。矛盾。)

 (3) 国際競争力
 国際競争力なんて、ほとんど意味がない。金は物ではないのだから、輸出なんかしない。「大銀行ほど、円を輸出するとき、円を高値で売れる」なんてことはないのだ。(自動車会社ならば、大会社ほど、自社製品を高く売れて、利益を出せるが。)

 (4) 支店
 しいて銀行統合のメリットを上げるとしたら、支店の設置だ。あちこちの駅前に支店をつくる際に、規模のメリットはある。大銀行ほど、たくさんの地域に設置できるし、設置した支店では利用率が高まる。
 とはいえ、その程度だ。この意味だったら、あちこちのコンビニでATMを使える特別な小銀行の方が便利だ、とさえ言える。(有料であることもあるが。)

 (5) デメリット
 一方で、デメリットもある。たったの3社しかなくなると、競争が不十分になる。仲間内で馴れ合って、まともに融資の競争が行われなくなる。そろいもそろって駄目銀行ばかりになる、という可能性もある。

 (6) 本質
 本質を言えば、銀行を増やそうが減らそうが、たいして意味はない。統合するかしないかで解決する問題ではない。日本の銀行は、融資にせよ何にせよ、あまりいも前近代的だ。バブル期はそろいもそろって、土地を担保に無駄な目的のために莫大な資金を融資して、あげく、不良債権にして、焦げ付かせた。融資というものを、「利益を生む生産活動への支援」とはとらえず、「担保を確保しての投機の促進」と勘違いした。
 こういう勘違いをした輩たちが、いまだに経営幹部の座に居座っている。とんでもないことだ。UFJは大失敗しても、他の銀行が吸収してくれるから、何とか尻ぬぐいされたことになる。しかし、三つの銀行しか残らなくなったら、一つが大失敗をしたとき、他の銀行は尻ぬぐいをできない。あまりにも規模がデカすぎると、収拾がつかなくなるのだ。
 規模のでかさは、競争においては若干の優位性をもたらすが、同時に、失敗に対するリスクを飛躍的に高める。そのことを理解しよう。
(だけど、それを理解しないで、竹中大臣は銀行統合を促進する。経済音痴が日本経済を動かす、という例。)


● ニュースと感想  (7月16日b)

 「連帯保証人と銀行経営」について。
 連帯保証人という制度のせいで、罪なくして全財産を失う、という例がしばしば聞かれる。そこで、考えてみたのだが、この制度はあまりにも反社会的であるので、法律で禁止した方がいい、と思う。
 連帯保証人というのは、つまりは、銀行が融資のリスク負担ができないから、友人や親戚との情実でリスク負担してもらう、という発想だ。しかし、昔ならともかく、情報化の現代にあって、これはあまりにも非近代的である。
 これで得するのは、経営能力のない銀行だけだ。まともにリスク調査もしないで、いい加減に融資する。そういう体質が身にしみついているから、バブル期にずさんな土地融資をいっぱい出して、大量の焦げ付きを発生させ、莫大な不良債権を抱え込むことになる。
 連帯保証人という制度をなくせば、銀行が自分でリスク負担をする。あるいは、リスク負担をして手数料を稼ぐ保証業者が登場する。いずれにしても、こちらの方が近代的だ。リスクの高い企業は、融資の際に、高い手数料を払う。どこかの友人にリスクを負担させて、いざとなったら倒産させて友人の資産を食いつぶす、という手を使えなくなる。詐欺のような人々は得をできなくなるが、その分、真面目な人々が得をする。
 連帯保証人という制度がまかりとおると、その逆だ。デタラメな経営をするリスクの高い業者が危険な事業に進出して、真面目にコツコツと事業を営む安定経営の業者が巻き添えを食って倒産する。悪人が得をして、善人が損をする。
 時代は変わった。世の中には情報があふれている。どの企業が危険でどの企業が安全かは、興信所がせっせと情報提供してる。連帯保証人なんていう制度は、犯罪的な行為を社会に蔓延させ、社会を崩壊させる。あまりにも前近代的だ。法律で禁じた方がいいだろう。私はそう考える。
 【 追記 】 (2004-07-28)
 連帯保証人の問題はすでに国会で取り上げられていて、限度額を設ける方向で審議中だという。この限度額が十分に低ければ、特に私が指摘するまでもなかったようだ。制度がまともならば、限度額を五十万円以下にするだろう。(本来ならゼロ円にするべきだが。)……でも、まさか、千万円、なんてことはないですよね???
 [ 付記 ]
 本項と関連する話題は、銀行改革だ。「銀行と保険業の規制緩和」とか、「ペイオフ」とか、いろいろと銀行改革の方針が出ている。これらはすべて「規制緩和」だ。しかし、それで万事カタが付く、というのは、あまりにも古典派的な発想だ。「犯罪者を逮捕せずに野放しにすれば、社会はよくなる」というのにも似た発想だ。
 大切なのは、規制緩和ではない。規制緩和には何らかの効果があるとしても、それだけで万事が片付くわけではない。特定方向のことばかりやっても、駄目なのだ。
 たとえば、IT産業で自由化を推進した結果は、マイクロソフトの独占体制と、ウィルスの蔓延だ。社会は莫大な被害を受けている。これを「規制緩和の効果」と呼ぶのなら、「ウィルスを蔓延させてくれて、マイクロソフトさん、ありがとう」とお礼を言うべきか。
 規制緩和を金科玉条のごとく信じる古典派は、あまりにも単細胞すぎる。余計な規制は緩和していいが、必要な規制は追加するべきなのだ。銀行という猛犬を野放しにすれば社会がよくなる、と思ったら、とんでもない勘違いだ。猛犬には、鎖をつける必要がある。さもなくば、弱者に噛みつく。必要な規制というものは、たしかにあるのだ。
 とにかく、何でもかんでも自由にすればいいわけではない。犯罪者は監禁するべきだし、ウィルスは撲滅するべきだし、猛犬には鎖をつけるべきだし、銀行には横暴な反社会的な商行為を禁じるべきだ。玄関に居座る押し売りだって禁止されているんですからね。(……こういうのは、化石的ですね。朝日の先日のサザエさんを参照。)


● ニュースと感想  (7月18日)

 「経済財政白書」について。
 経済財政白書が出た。(各紙 2004-07-16 夕刊〜翌日朝刊。インターネット上では、内閣府のサイト
 あまりにもピンボケ過ぎるので、いくつか指摘しておく。

 (1) 景気分析
 景気回復が進んでいると見なした上で、特徴を上げている。次の三点だ。
  ・ 設備投資などの民間需要が主導する。
  ・ 不良債権処理などの財務面で企業体質が強化されている。
  ・ デジタル家電やハイブリッド車で先端技術開発の成果が出ている。
 要するに、昔の「構造改革」や「e-Japan」の成果が出ました、と言っているわけだ。つまりは、現実を見て何かを理解するわけではなくて、自分の見たいように勝手に現実を解釈しているだけのことだ。事実には反する。
 以上をまとめて言えば、細かな産業や企業などを微視的に見ているだけで、マクロ経済的な認識がまったく欠落している。「総需要がどうか」という認識がなく、あちこちつまみ食いして眺めながら、見た箇所だけの足し算をやっている。あまりに恣意的。不合理の極み。
 マクロを考えるのなら、一番大切な「所得」を考慮するべきなのだが、その点への考慮がまったくない。(ま、所得を考慮すれば、「景気回復」なんて言えないから、あえて見て見ぬフリをしたのだろう。官僚のご都合主義的なつじつま合わせ。)

 (2) 金融政策
 「金融緩和の継続」なんて言っているが、ゼロ金利のときにはあれこれ言っても、始まらない。金融政策をどうこうしようが、投資の増える量はほとんど変わらないのだ。ゼロ金利という状況にあっては、投資の増減を決めるものは、金融政策よりは、外需または内需である。
 意味のない金融政策について「継続を」と主張しても、ほとんど意味はない。

 (3) 地方経済
 地方経済が取り残されていることから、「観光振興を」と主張している。ひどい見当違いだ。
 地方経済が取り残されているのは、地方がどうのこうのというよりは、今回の景気回復が外需主導で、大企業が主導していることだ。ここで「内需拡大を」と提唱するなら意味があるが、「観光振興を」なんてのはお門違いだ。
 足利銀行が破綻して問題となったが、その理由のかなりの部分は、鬼怒川温泉(だったかな)などの温泉街で「観光振興」策を取ったことが理由だ。「観光振興」を狙って、多大な投資をしたが、肝心の客が来ない。つまり、内需拡大という肝心のことをほったらかしたまま、「観光振興」なんかやったって、かつての「リゾート振興法で不良債権が続出」ということの二の舞になるだけだ。
 原因を勘違いすると、対策も勘違いする、という見本。

 (4) 構造改革
 「構造改革」だの「生産性向上」だのを唱えているが、デフレ期には、供給面はネックになっておらず、需要がネックになっている。「構造改革」だの「生産性向上」だのは、供給不足のインフレに対する処方であり、デフレ期には有効どころが逆効果がある。
 それをやればやるほど、一定の生産のために必要な人員は減り、総所得が減り、総需要が減り、縮小のスパイラルに乗る。
 マクロ経済を知れば理解できることを、まったく理解できていない。デフレ期にインフレ対策を取る無謀さ。
( ※ ただし、これをやると、企業の業績は回復する。「企業業績の回復と、成長の抑制」という今回の状況を、かなり説明している、とは言える。問題は、自分の病状を正しく理解できないことだ。)

 (5) グローバル化
 「グローバル化」というのを流行語扱いして、勝手に浮かれている。情けないね。
 経済学の教科書を見ればわかるとおり、「比較生産費」の理論がある。貿易をすれば、各国は、比較優位の生産をなすようになり、そのことで各国の生産が最適化する。ここでは、比較優位だけが大事であり、絶対優位はあまり関係ない。(詳しくは教科書を参照。)
 貿易をすることで、日本国内では産業構造が変化した。衣料品や農業などに従事する人は少なくなり、サービス業に従事する人が多くなった。
 ここで「国際競争力の低い農業では、生産性を高めよ」と主張しても、意味がない。生産性を高めるというのは、労働生産性を高めることであるから、そうすればそうするほど、従事する人数は減ることになる。「農業のコストを減らして、効率を高めよ」ということであるならば、そもそも比較生産費の理論に従って、日本では農業生産をやめるのが最適である。逆に言えば、日本で農業生産をやりたければ、日本ではハイテク産業の競争率を下げればいいのだ。というか、そうせざるをえないのだ。実際、アフリカ諸国はそうだ。農業生産ばかりやって、ハイテク産業がない。そういう道をめざしたければ、まさしく、ハイテク産業をつぶせばよい。
 なお、「アメリカのように農業もハイテクも」というのであれば、莫大な国土が必要となる。それを実現する方法は、次の二つだ。
 ・ アメリカで原住民のインディアンを虐殺したように、他国を侵略して、原住民の持つ広大な土地を奪う。
 ・ 日本国民で大量虐殺をして、国民の数を減らして、人口密度を下げる。
 この二つの、どちらかしかない。要するに、今回の経済財政白書が含意しているのは、この二つなのだ。狂気の沙汰だ。
( ※ 「外国人労働者の受け入れ」というのも、同様だ。日本をアフリカ化するのと同様だ。そしてそれを「グローバル化」と称して、ありがたがる。無知の極み。「グローバル化」という言葉に洗脳されている。「フランス」という言葉に洗脳されて、やたらとブランド品を買いあさる錯覚女と同じ。「あたし、フランス製品をいっぱい買ったから、フランス人になれるわ」と信じている錯覚女と、「外国のものをいっぱい真似すると、グローバル化するぞ」という錯覚男。……今回の経済財政白書を書いたのは、どっちですかね?)
( ※ 欧州では域内貿易が増えて、独仏や英仏の間の輸出入が増えている。これを見て、「欧州では輸出入の比率が急増しているから、グローバル化が進んでいる」と経済財政白書は主張する。ここでは「グローバル化」と「ブロック貿易圏」とが同じ意味で使われている。まか不思議。)
( ※ どうせ「グローバル化」を言うのであれば、もっと適切な例もある。日産自動車がそうだ。フランスのルノーと経営を統合したり、米国で現地生産する車を現地で開発したり、日本の社内で英語を公用語のようにしたりして、「日本企業」から「多国籍企業」へと変貌しつつある。こういう例こそ「グローバル化」にふさわしい。霞ヶ関に閉じこもっている頭はあまりにも局所的すぎる。「霞ヶ関化」している。)

 (6) 「改革なくして成長なし」
 白書の副題が「改革なくして成長なし」となっている。いかにも首相におべっかを使うのも気に食わないが、話の方向が完全に狂っている。
 「改革なくして成長なし」が正しいというのは、すれば、「経済体質を改善すれば(改革すれば)、不況を脱する(成長する)」ということだ。これを裏側から見れば、「「不況になったのは(成長率がマイナスになったのは)、経済体質の悪化があったからだ」ということになる。冗談ではない。一九九一年に日本が急激に不況になったのは、この年、経済体質を急激に悪化させる大事件が起こったからではない。たとえば、大地震とか、干魃とか、洪水とか、台風とか、戦争とか、そういう形で、日本経済の質が悪化したからではない。だいたい、経済の質が悪化したなら、発生するのは「供給不足によるインフレ」であって、「供給過剰によるデフレ」ではない。
 「質を改善すれば量も改善する」というのは、「インフレ」のときには正しいが、「デフレ」のときには正しくないのだ。古典派の勘違い。事実とは正反対の大いなる誤認。
 基本が正反対の事実認識なのだから、あとは推して知るべし。デフレ対策より、インフレ対策をやっている。要するに、何もかもメチャクチャな論旨を出しているのは、基本認識が間違っているからであり、その理由は、マクロ的な認識のできない古典派べったりの発想をしているからだ。
( → 2月08日 経済における「質」と「量」)

 [ 余談 ]
 「改革をするべし」と経済財政白書は述べているが、自分自身の足元が真っ暗だ。灯台もと暗し。
 「e-Japan」というテーマのもとで「電子政府」を提唱したが、ここ数年間、首相官邸のホームページはまったく進歩していない。特に駄目なのが、一番肝心の「検索」機能がまともに機能しないことだ。たとえば今回も「経済財政白書」というキーワードで検索したが、該当のページは出てこない。毎度毎度、そうである。その理由は、データベースの更新頻度があまりにも遅いから。
 結局、経済財政白書の資料を得たければ、「内閣府」のページから取る必要がある。しかも、このページを見ても、どこから得ればいいのか、すぐにはわからない。お暇な人は、内閣府のホームページから、経済財政白書を探してみてください。宝探しみたい。(ふざけた話だ。)


● ニュースと感想  (7月19日)

 「哺乳類の進化」について。
 「生命進化の過程で哺乳類が出現したのは、太古の大噴火で酸素濃度が急激に低下して大絶滅が発生したのが原因だった」という趣旨のテレビ番組があった。(18日夜・NHK)
 まったくの間違いだとは言えないのだが、一番肝心の話が抜けている。たとえて言えば、酒の入っていない酒瓶のようなものだ。中身なしの脱殻と言ってもいい。
 だいたい、こんな話がそのまま成立するのであれば、「地球に毒ガスをぶちまけて大量の死者を出せば、そのあとで急激な進化が起こる」という理屈になる。となれば、オウムのサリン散布も、フセインの化学兵器も、「人類絶滅のあとで進化をもたらすため」というふうな屁理屈が成立してしまう。
 馬鹿げている。本質を見失って、形だけにとらわれると、こういう屁理屈となる。それが今回の番組だ。

 では、正解は? 要点は、二つある。
 一つは、進化の基本だ。「大絶滅による進化」というシナリオは、まったくの間違いとは言えない。しかし、その途中の話、つまり、肝心の話が、すっぽりと抜けている。入口と出口だけがあって、本体がない。だから、「大絶滅を起こせば進化が起こるはずだ」というような極論が成立してしまう。
 では、正しくは? これについては、「クラス進化論」のページで詳しく説明したとおりだ。簡単に言えば、次の通り。(次の順で因果関係が進む。)
  1. 旧種の大絶滅
  2. 空白領域の発生
  3. 自然淘汰の力が弱まる
  4. 遺伝子に多様性が生じる
  5. 多様な遺伝子の多様な組み合わせが発生する。(クラス交差
  6. 多様な新種が登場する
 これが肝心な事柄だ。このあと、多様な新種の間で、自然淘汰が起こる。それは、ダーウィン説の通りだ。しかし、上記の6項については、クラス進化論でしか説明できない。そして、その肝心の点は、「自然淘汰の力が弱まる」という点だ。つまり、ダーウィン説の反対だ。(ダーウィン説では、遺伝子には、多様性が生じるのではなくて、逆に、純一化が進む。これが進化の原動力とされる。)
 要するに、ダーウィン説を否定することが、一番のポイントだ。それが話の本体だ。これを抜きにして、大爆発だの何だの述べても、まったく無意味ある。(それはフセインやオウムの理屈と同様だ。)

 もう一つは、哺乳類の本質だ。哺乳類の本質は、単にオッパイがあることではない。また、酸素濃度の低くなったところで呼吸が上手になることでもない。哺乳類の本質は、「進化のレベルが高い」ということだ。歴史上、「両生類 → 爬虫類 → 哺乳類」という進化の発達の段階があった。哺乳類は、その発達の段階で、爬虫類よりも一つ上の段階に達した。それが哺乳類の本質だ。
 そして、その本質を、進化の過程で根源的に解説することが、進化を解き明かすということだ。それなしに、オッパイや呼吸器や胎盤の説明をしても、ほとんど意味がないのである。だいたい、オッパイに着目するのであれば、豚や犬みたいにオッパイがたくさんある哺乳類は、人類よりも高度な種(進化した種)である、という理屈になる。また、人類には、かつてたくさんのオッパイがあったことの痕跡みたいなものがある。ごく稀に先祖返り(一種の遺伝子エラー)で、四つか六つのオッパイをもつ人間が生まれることもある。こういうふうにオッパイのたくさんある人間が生まれたとしたら、それは進化なのだろうか? 否。先祖返りは、進化というよりは、退化に近い。
 ただし……世の中には、オッパイ大好きな巨乳フェチの男性も、けっこう多い。彼らの頭は、進化論学者の頭と同じで、人間や哺乳類の本質を何も理解していないのである。
( ※ 正解は、ここでは記さない。話せば長くなるので。だいたい、クラス進化論さえ、読んでくれる人がほとんどいないのだから、正解を長々と書いても、読者がほとんどいない。無駄な努力はしません。世間の人々が知りたいのは、真実ではなくて、学界の権威だけなのだ。そういう人々は、私の話を読むよりは、むしろ、NHKの番組を見ながら、巨乳フェチになっていれば、それで満足できるはずだ。)
( ※ 巨乳の画像が見たければ? インターネットで画像検索でもしてください。どうやればうまく検索できるかは、私は知りません。ま、オッパイが大好きなら、ホルスタイン種の牛の画像でも見ながら、冷たい牛乳でも飲むといいですね。オッパイが大きい牛は、人間よりも進化しているのかも???)

 [ 付記 ]
 今回のNHKの番組では、キノドン類のCGが描かれていた。これはなかなか有益だった。キノドン類の資料はあまり公開されていないからだ。骨格から生体の姿を想像してCG化するというのは、最新の技術を応用したのだろうが、なかなか見応えがあった。(だけど動きは、少し間違っていると思う。たぶん。不自然だから。……ま、私も古代の実物を見たわけじゃないから、断言はできないが。)

  【 追記 】
 上記の記述は、ちょっと誤解を招きやすいので、補足しておく。
 大爆発による大絶滅が起こったのは、ペルム紀の末。ここで空白領域のあとで繁栄したのは、哺乳類ではなくて、哺乳類型爬虫類。
 大爆発の前に繁栄していたのは、ディキノドン類。大爆発のあとに繁栄したのは、キノドン類。これは哺乳類型爬虫類で、これがのちの哺乳類につながる。キノドン類はいったん繁栄したが、その後、恐竜との競争に負けて、衰退していった。その陰で、小型のネズミのような哺乳類が登場していった。
 ただし、私の解釈では、「爬虫類と哺乳類とは、別の大きな類である」と考えるのは、正しくない、と思える。この両者の間に、大きな溝を引くべきではない。どちらかと言えば、別の箇所で溝を引くべきだ。その理由は、面倒なので、ここには書かない。
 よく「鳥は恐竜の一種だ」という意見が聞かれるが、その伝で言えば、「哺乳類は爬虫類の一種だ」と言えなくもない。その理由も、面倒なので、ここには書かない。


● ニュースと感想  (7月20日)

 「少子高齢化という用語」について。
 「少子高齢化」という用語について、文句を言っておきたい。この用語は、不適切である。「少子化」はともかく、「高齢化」の方が不適切だ。この用語のニュアンスは、「高齢化社会は困る。働きもしない年寄りが増えて、年金資金を食いつぶして、壮年世代の負担になる」ということだ。
 実際、「今の高齢者は払った以上の年金をもらって有利だ。それに引きかえ、自分たちは不利だ」という若者たちの声が、さんざん出てくる。とはいえ実際には、今の若者たちは、年寄りたちの若年時代に比べれば、まるで王様のような豪華な生活をしている。これでは、まるで、金持ちが「おれたちは損だ。貧乏人が羨ましい」というようなものだ。
 さて。貧富であるならば、金持ちと貧乏人は、別々だ。しかし老若ならば、老人と若者は別々ではない。人は誰しも、かつては若者であり、やがては老人となる。「ずっと若者」とか「ずっと老人」とかいうことはない。とすれば、「高齢者」と「若者」を区別して損得を論じることは、無意味だ。「高齢者」が増えたといっても、別に、ネズミがネズミを生んで増えたように、高齢者が高齢者を生んで増えたわけではない。というわけで、若者が高齢者を批判するニュアンスのある「高齢化」という用語は不適切だ。

 物事の本質を考えよう。「高齢化」とは、本質的には、何か? それは、「長寿化」だ。40年前には、平均寿命は68歳であった。40年たった今日では、平均寿命は81歳余である。それだけ長寿化が進んだ。では、それは、良いことか悪いことか? はっきり言えば、あなたにとって、長生きできることは、良いことか悪いことか? 「良い」と思う人は、そのまま生きればよい。「悪い」と思う人は、老人になる前に自殺すればよい。というわけで、生き残っている全員にとって、長生きできることは良いことだ。
 要するに、「高齢者が増えた」というのは、単に「長寿化が進んだ」というだけのことだ。それに合わさって、出生率の低下が進んだから、高齢者の比率が高まった。とはいえ、出生率の低下が進んだのは、高齢者のせいではなくて、現代の中年や若者のせいである。戦後のベビーブーム(≒ 団塊の世代)を見ればわかるとおり、現代の高齢者はちゃんとたくさんの子供を生んだからだ。一方、もっと若い世代は、子供をあまり生まなくなった。彼らは、親からは生命を授かったくせに、自分では次世代の生命を生むという責任を果たしていない。「金だけが大事」と思い込んで、エゴイズムにひたって、自分だけが豊かな生活を送ろうとする。子供を生むのもいやだし、親の面倒を見るのもいやだ。自分の金は自分だけで使いたい、というわけだ。ふん。
 というわけで、「少子高齢化」というのは、胸くそ悪い用語なので、廃止することを提唱したい。「少子長寿化」と呼び、少なくとも「長寿化」の面については歓迎するべきだ。歓迎したくない人はさっさと自殺してしまえばいいだけだ。
 というわけで、私としては、次の二つから選択をすることを、世間に勧告したい。
  ・「長寿化」という用語を用いて、長寿化社会を歓迎する。
  ・「高齢化」という用語を用いて、高齢になる前に自殺する。
 現状では、「高齢化」という用語を用いながら、自殺しない。そんなのは、矛盾である。「他人が長生きするのはけしからんが、自分が長生きするのはいい」といっているわけだ。各人がそんなことを言い出したら、主張がぶつかりあう。下手をすると、自殺者が出ないかわりに、「おれが高齢者の命を奪ってあげる」という殺人者がまかりとおる。
 というわけで、正気を保つために、矛盾を起こさないための方法を、上に示した。この二つのうちから、どちらかを選択すれば、殺しあいは起こらない。だから、選択しましょう。ね?

  【 追記 】 (2004-07-21 )
 「現代の高齢者は、年金をいっぱいもらえて得だ。おれたちは損だ」と思う若者が多いようだ。しかし、そう思うくらいなら、せっせと子作りをすればいいのだ。そうすれば、増えた子供たちが、やがては年金の費用を負担してくれる。
 「少子化社会で損だ」とわめくよりは、「少子化社会にしない」ことが大事だ。だからどんどんエッチをしましょう……と書いて、はたと気づいた。いくらエッチを勧奨しても、駄目である。働き手の男たちは、疲れ切っているからだ。気力も体力もありません。
 となると、やはり、最大の責任は政府にある。政府が不況を解決して、長時間労働を解決して、人々にのんびりと人間らしい生活を送れるようにするべきだ。「少子化社会」よりは「少エッチ社会」と呼ぶべきかもしれない。結婚前なら頑張るけれど、結婚後は頑張れない男性が多すぎる。出生率を調査する前に、週エッチ率を調査しましょう。

 [ 余談 ]
 前項の進化論と関連づけて、「少子化」について言及しよう。
 現代の進化論の主流の立場では、「生物は自分の遺伝子を残すのが最大の目的だ」ということになる。とすると、少子化の進む日本については、論理的な帰結は、次のいずれかだ。
  ・ 自分の子供を残そうとしない日本人は、生物ではない。
  ・ 現代の進化論が間違っている。
 どっちですかね? 論理的には、二者択一ですが。(私は、後者の立場ですが、現代の進化論学者はたいてい、後者ではありません。必然的に、前者となる。それでいいの?)


● ニュースと感想  (7月20日b)

 「銀行のセキュリティ・ホール」について。
 銀行のキャッシュ・カードのセキュリティ上の問題があり、千万円を盗まれた、というような例が多発しているという。しかし銀行は自らの非を認めないという。なぜなら、自らの非を認めると、弁償しなくてはならないから。かくて、欠陥が放置され、預金者は泣き寝入り。警察もほぼ放任状態だという。理由は「銀行が被害届を出さないから」だって。被害者は預金者なんだが。(月刊「文藝春秋」最新号より)
 手口は、次の通り。銀行で並んでいる人のカードをこっそりスリで抜き取って、電子データを盗み取る。それを別の盗難カードに電子的に刷り込む。ここまではノートパソコンでもできる。その後、ATMからの通信データをこっそり傍受する。そこには暗証番号なども流れるので、すべてのデータが解読されてしまう。
 銀行は「暗証番号を秘密にしておけば大丈夫」と言い張るが、現実には上記の方法で暗証番号も筒抜けだそうだ。
 対策は、預金口座に多額の金を入金しないでおくこと。被害の発生は防げないから、被害の額を減らすこと。それだけ。
 理由は、銀行も警察も電子犯罪を取り締まる気はなくて、責任逃れだけをしているから。ま、いくら被害が出ても、損するのは預金者であって、銀行でも警察でもないから、彼らは何もしないわけだ。どうして? 暑いせいですかね。


● ニュースと感想  (7月21日)

 「暑い夏」について。
 暑いですねえ。都心では 40度にもなったそうだ。西風によるフェーン現象が主因だが、もう一つ、海風が入らないことも理由だという。(20日のテレビ報道では、お台場の日向では建物群を境界に、陸側で44度、海側で41度だという。)
 なるほど。前にどこかで聞いたが、東京湾の海風が入らないと、東京以西の気温は急上昇するらしい。で、海風が入らないのは、品川やらお台場やらに、高層ビルが乱立したせい。つまりは「経済の活性化」なんてエコノミストが主導して、その尻馬に乗ったおかげで、ひどい暑さに苦しめられる。
 エコノミストってのは、大したものだ。人々を苦しめるために、神のごとき大きな影響を及ぼす。ただし、不況を脱するためには、ノミほどの力も発揮しないが。

 [ 付記 ]
 東京以外でも暑い。困ったもんだ。涼しくするのは無理みたいだから、せめて、工夫して乗り切りましょう。その方法は? 逆サマータイム。つまり、生活時間を夜に移行して、夜の涼しい時間を過ごす。……これが昔から、日本で行なわれていた涼み方。理由は? 日本の夏は、熱帯よりももっと暑いから。
 阿呆な人は、「日本はヨーロッパと同じで温帯だから、ヨーロッパと同じサマータイムを実施すればよい」と考える。「何でも真似すればいい」という西洋かぶれの発想ですね。そのうち肌を白く塗りたくったり、黄色い肌の脱色に励むようになるだろう。そのあげく、紫外線を浴びて、皮膚癌の続出。……西洋かぶれというのは、そういうものです。
( → 7月17日c6月28日b にもサマータイムの話。)


● ニュースと感想  (7月21日b)

 前日分への追記 → 該当箇所


● ニュースと感想  (7月22日)

 「プロ野球の経営」について。
 プロ野球界が1リーグ制をめぐって迷走している。セリーグは2リーグ制でほぼまとまったが、パリーグは1リーグ制の意見が強くて、対立。世論は2リーグ制支持。このままだと、ストになる可能性もある。(朝日・朝刊 2004-07-21 )
 読売の社長は口をつぐんだが、これは、読売新聞の不買運動が起こって部数が急減しつつあるからだ、という報道もある。(20日の週刊誌の記事による。週刊朝日か週刊プレーボーイ。うろ覚え。)
 一方で、「今のプロ野球はどこもかも赤字で経営が成り立たない」という報道もある。この問題について、少し考察しておこう。
 「今のプロ野球はどこもかも赤字で経営が成り立たない」ということであれば、人件費を切り下げるのが手っ取り早い。そうすると、優秀な選手はみんな、高額年俸を求めて、フリーエージェントで米国に出て行って、日本にはカスしか残らなくなる。それは困る。(ま、外国で活躍する人が何人か出るのは、それはそれでいいんですがね。)
 さて。そういう「国外流出」が現実になったと仮定しよう。すると、疑問疑問が生じる。
 「なぜ米国では、12どころかもっとずっと多くの球団があるのに、すべての球団経営が成り立つのか?」(例外はエキスポズだけ。これはカナダのチーム。)
 昔はともかく今では、米国と日本の物価水準も所得水準も同じぐらいだから、米国だけが巨額年俸を払える、というのは不自然に思える。そこで、物事の根源を考えると、次のことがわかる。
 「米国では経営が近代化していて、十分な収入を上げているが、日本では経営が前近代的であり、収入が少ない」
 米国では球団経営は、ビジネスである。まともな社長がまともな経営をする。企業として当り前のことだ。しかるに、日本では球団経営は、オーナー会社の副業である。まともな社長などは存在しない。オーナー会社のオーナー会長(つまりは球団オーナー)が、ほとんどすべてを決める。その本人は、本業については詳しいが、副業の野球経営については素人だ。素人がトップに居座って、経営を決めている。これでは、経営が破綻するのは、当然だ。

 なお、本来ならば、市場原理が働くはずである。駄目な経営をする駄目な球団は、大赤字を出して、市場から退出するはずだ。当然、近鉄もオリックスも、球団を売却して、退場するべきだ。そして、かわりに、別の企業が経営を担当すればよい。こうして球界全体の経営が改善していく。(たとえば、サッカーチームの新潟のように、地方チームであっても莫大な観客を動員して、経営を成立させる。)

 結語。
 プロ野球の問題は、次の二点。
  ・ 各チームで、球団経営が前近代的であること。
  ・ 球界全体で、劣者退場という市場原理が働いていないこと。
 この二点が核心だ。「選手の人件費を下げればいい」なんてのは、「電器会社がまずい経営で赤字を出したら、労働者を賃下げすればいい」というのと同様である。経営失敗の責任は、第一義的には経営者にある。なのに、経営者が責任を取らずにいては、無責任すぎる。
 オリックスであれ、近鉄であれ、ロッテであれ、「赤字が出て困った」と思うのであれば、上記の二点で何とかするべきだ。逆に、そうしないのが、次の案だ。
  ・ 各チームで、人件費を切りつめる。
  ・ 球界全体で、劣者の保護のために市場を歪める。
 後者が、1リーグ制だ。こう理解することで、問題の本質がわかる。また、対処法の間違いも、はっきりする。
 経済学を理解すれば、プロ野球のこともわかる。人々はやたらと「賃下げ」なんていう表面的な措置を取りたがるが、問題の根源は別にあるのだ。その根源を見抜くことが大切だ。


● ニュースと感想  (7月22日b)

 「オリンピックの狂騒」について。
 オリンピックの狂騒がひどい。しかし、こんな騒ぎには乗りたくない、と私は思う。
 昔のオリンピックなら、平和の祭典だったが、今のオリンピックは、ドーピング競争のようなものだ。ひいき目に見ても、金目当ての競争にすぎない。金メダルというのは gold ではなくて money のメダルだ。馬鹿らしくて、見ていられない。
 だいたい、プロとアマが同じ場で競いあって、何が面白いんですか? 「日本はプロ野球の一流選手を送るべきだ」と騒ぐマスコミが多いが、くだらないメダル競争のためにプロを出しても面白くもない。たとえば、プロの相撲取りが、アマの高校生の相撲選手に勝ったとして、何の意味があるんだか。馬鹿らしい。
 かつて、万博というものが大人気だった。これは、情報の往来が少ない時代には、国際情報の提供という点で、有意義だった。しかし、今ではインターネットが普及下の絵で、万博というものは意義をなくした。オリンピックも同様だろう。「スポーツを通じた国際交流」なんて、航空券が激安になった今では何の意味もない。国際交流なら、草の根レベルで進んでいる。冬ソナのヨン様詣での観光旅行が人気だが、オリンピックも同程度の意味しかない。ま、それが悪いとは言わないが、こんなことに莫大な金を払う必要があるとは思えない。
 今回のアテネ五輪の放送権料は、180億円。NHKと民放が分担して払う。要するに、国民負担だ。馬鹿らしい。無駄な金は払いたくないね。むしろ、NHK料金の値下げ(または値上げ延期)か、民間企業の宣伝費の減少か、どちらかで、国民に還元してほしい。
 このまま国民がオリンピックに浮かれていると、ますます放送権料が上昇して、ますます金を吸い上げられる。また、夏に行なわれるから、電力危機も招きやすい。やたらとコストがかかる。困ったことだ。
 で、どうするべきか? 国民がオリンピック放送を見なければいい。視聴率が下がれば、民放も放送したがらなくなるから、放送権料も低下する。オリンピック何かよりは、プロ野球で巨人・阪神戦でも見ていた方がマシだ。(ただし1リーグ制になると、ほとんど見られなくなるが。)

 [ 付記 ]
 何だか反発を食いそうな気がするので、注釈を加えておく。私は「スポーツで金をもらうな」とは言わない。ただ、「プロならプロ、アマならアマ、どっちかにしてくれ」という立場だ。
 プロなら、金を稼いで、税金を払う。それはそれで、文句はない。ただし、アマを相手に競わないでほしい。ハンディが違いすぎる。
 アマなら、金を稼がないで、名誉を狙う。それはそれで、文句はない。ただし、国などから公的補助を受けているんだから、プロみたいに金を目当てにしないでほしい。プロはちゃんと税金を払っているのに、アマという名分で補助を受けて、その上、稼いだ金は自分の懐へ、というのでは、虫がよすぎる。国民の血税を猫ババするようなものだ。……限度としては、せいぜいノンプロだ。つまり、生活費ぐらいはもらうが、それ以上の大金をもらったりしない。大金をもらうなら、プロに転じる。プロに転じた時点で、それまでにもらった補助金を全部返済する。
 以上の二つの、どちらかにしてもらいたいものだ。現状は、「大金を稼ぐときはプロで、払う税ともらう補助金についてはアマで」というようなものだ。ずるい。(プロ野球選手なら全部自腹だが、マラソンや水泳で億単位の金を稼ぐ人は公的補助金をたっぷりともらっている。ぐやじい。やっかみ。  (^^); )


● ニュースと感想  (7月23日)

 「少子化の対策」について。
 少子化への対策を考えよう。(これは、高齢化・長寿化や年金問題と関連する。)
 少子化は、出生率の低下のことだが、これは二つの要因からなる。
  ・ 子供を産む気がない。
  ・ 子供を産めない。
 前者は、「子育ての環境が整っていない」という社会制度が原因だ。しかし後者は、産みたくても産めないわけで、個人に生物学的な原因がある。では、どんな? 容疑者として上がっているのは、卵子ではなくて精子の方だ。これが、弱まっているとか、数が少ないとか、そんな傾向にあるらしい。で、環境ホルモンが容疑者になったり、あるいは、夫の精力低下が容疑者になったりする。(なんだか身につまされる?  (^^); )
 そこで、面白いデータを示そう。いわゆるベビーブームは、のちに団塊の世代と呼ばれることになる大量のベビーを誕生させた。では、その時期は? 「産めよ育てよ」の戦争中か? 実は、そうではなくて、戦争直後の数年間であった。つまり、(国策で)産もうとしたときに産んだのではなくて、特に産む気がないときに産んでしまったのだ。では、なぜ? 
 これについては、医学的な裏付けがある。人間は、飢餓に直面すると、出生率が高まるのだ。途上国でやたらと「貧乏人の子だくさん」であるのも、同様であるらしい。これはどうも、人間が飢餓に直面したとき、生物としての「種の保存能力」が高まる(子を産む)ように、生体システムがもともとそうなっているせいらしい。
 というわけで、「子供を産めない」と思っている夫婦は、ダイエットに励むといいだろう。肥満ではなかなか子供を産まれないらしい。ま、個人差はあるだろうが、統計的に見れば、おおむね、ダイエットすればするほど、出産の可能性は高まる。

 ついでに言えば、もう一つある。男性の「禁欲」である。エッチの回数が多いと、液体が薄くなって、効果が弱まるらしい。「禁欲」の直後だと、濃くなって、効果が上がるらしい。
 また、進化論学者の研究によると、夫が狩りから帰ったあとでは妻の妊娠率が高くなる、というような話があったと思う。(うろ覚えだが。)とすると、夫が出張するといいのかも。その直後に、妊娠率が高まる。
 さらにまた、夫が無精子症であっても、大丈夫。妻はしっかり、夫の子を生めるらしい。その方法は、団地に住むことだ。どうしてか? イギリスの団地で、DNAの検査をしたところ、妻の産んだ子の遺伝子は夫の遺伝子ではないことが多いらしく、その割合は10%にもなったという。たいていは、近所のご主人のDNAであるらしい。そういうふうにして、よそのご主人のDNAを使って、(法的に)夫の子を生める。これなら、夫が無精子症でも大丈夫。だから、なかなか子供が産まれないで悩んでいるなら、団地に住むのが手っ取り早いかも。  (^^);
 【 追記 】
 調べ直したのだが、上記の「うろ覚え」の話の出典は、竹内久美子「BC!な話」(新潮社)の19頁のあたりである。元ネタは、ベイカー「精子戦争」(河出書房)。
 パートナー(妻・恋人)との共有時間が少なくなると、男はそのあとで子種を多く放出する、という内容だ。たとえば、出張でいっしょに過ごさないでいたあと、など。
 [ 付記 ]
 進化論学者の話には、この手のエッチな話が多い。竹内久美子が代表だ。「与太ばっかりじゃないか」と言われそうですね。ま、たしかにそうですけど。  (^^);
 ただ、私と彼女との違いもある。私はあくまで冗談口調で書いているが、彼女は真面目な顔をして冗談を書いている。本人も本気でまともな学説だと思い込んでいるらしい。
 だいたい、「ダーウィン説そのものが与太である」というのが基本だ。この基本を理解していないから、すべてが与太になる。彼女はそこに気づいていないのが問題。
( ※ この件は、次項を参照。進化論の説明をしてある。)


● ニュースと感想  (7月23日b)

 「進化論の難点」について。
 前項の続き。補足として、現代の進化論の難点を簡単に説明しておく。つまり、ダーウィン説が正しくない、ということを示す。(背理法。「仮定 ならば 矛盾」という形。)

 仮に、ダーウィン説が正しいとしよう。まず、突然変異は、すべての種で同等に起こるはずだ。とすれば、種が分岐したあとでも、それぞれの種は同等に突然変異が発生して、別の種に進化していくはずだ。とすれば、太古の種は、今現在ではほとんど残っていないはずだ。
 現実には、異なる。人間の前の類人猿であれ、類人猿の前の原始猿であれ、現在でもあまり大差のない種が存続している。ただし、猿の前の原始哺乳類や、原始哺乳類の前の哺乳類型爬虫類は絶滅した。それでも、大きな目で見れば、哺乳類の前の爬虫類も、その前の両生類も、その前の魚類も、その前の下等生物も、ほとんど大昔の形のまま、今日まで存続している。
 こういうことは、ダーウィン説には反する。たとえば、魚類は、一方では両生類に進化したのであれば、他方では両生類に進化しなかったかわりに別のものに進化していていいはずなのだ。たとえば、陸上でどんどん進化して人間になるかわりに、海中でどんどん進化して半魚人になっていいはずなのだ。しかるに、現実には、そうならない。魚類は大昔からほとんど進化していない。
 結局、進化とは、「新種の発生」(旧種はほぼ不変のまま)という形でなされるのであって、「種の分岐・分化」という形で(対等に)分かれることによってなされるのではない。「突然変異の持続的な蓄積によって進化が起こる」というダーウィン説は、基本的には正しくないのだ。
 進化論ではしばしば、「進化の化石」という用語が用いられる。シーラカンスなどを見たとき、その用語で説明する。しかし、それを言うなら、現存するほとんどすべての種は、「進化の化石」なのである。肺魚であれ、ウナギであれ、ホヤであれ、単細胞生物であれ、いずれも太古の姿のまま、たいして変化せずに、今日まで残っている。ダーウィン説に従えば、水中に適してどんどん進化していっていいはずなのだから、これらのなかから半魚人が登場してもいいはずなのだが、そうはならない。また、魚が進化して、水中を泳ぐペンギンや鯨が登場してもいいはずなのだが、そうはならない。これらは陸上生物から進化したのであり、水中生物から進化したのではないのだ。なぜか? 水中では進化は起こらなかったからだ。
 結局、「環境が進化を決める」とか、「遺伝子の偶発的な突然変異の蓄積が進化を決める」なんていう説は、ただの与太にすぎないのだ。そんなのは、「天からお金が降ってくる」(= 天から黄金の隕石が降ってくる)のを期待する、というのと同様で、現実にはありえないような、確率的にはゼロ同然のことを「きっとある」と見なした理屈だ。かくて、パチンコでスッカラカンになる駄目亭主の理屈と同じで、与太となる。
 「ダーウィン説とは与太なのだ」と、はっきり理解しよう。

 [ 注記 ]
 ここで「ダーウィン説」と呼んでいるのは、ダーウィン本人の説ではなくて、近年の主流派の説のこと。つまり、ダーウィン本人の「自然淘汰」説と、その後の「突然変異の蓄積」とを合体させたもの。
 なお、本項で述べたこと自体は、与太ではない。前項は不真面目ですけど、本項は真面目です。勘違いしないでね。  (^^);


● ニュースと感想  (7月24日)

 「新しい日韓関係」について。
 韓国の大統領が来日して、「自分の任期中は歴史問題を取り上げない」と言明した。また、冬ソナのヒロインが、日韓親善大使に任命された。(NHKニュース。2004-07-22 )
 さて。私は前に、韓国についての著作について言及したことがあった。(「スカートの風」へのコメント。韓国人の前近代性など。 → 6月05日
 これらの諸点をすべて考察した結果、次のように結論を下すことにした。

 韓国人はこれまでずっと、反日であったり、歴史的誤認をしてきた。しかしそれは、韓国人が狂気的であるからでもなく、知能指数が低いからでもない。韓国の社会が前近代的であったことが原因だ。  ところが、今度の大統領は、韓国を近代化していく。とすれば、今後、日韓関係は新たな時代に入る。当面は反日感情が強いだろうが、今後、敵対的な感情は急激に薄らいでいき、二十年ほど経過すれば、両国の間にかなり強固な友好関係を築くようになるだろう。日韓関係はまさしく新時代に入りつつある。その転換点が、現在なのだ。
 まとめて言えば、そう判断する。

 以上は、結論。以下では、説明を述べる。
 そもそも韓国は、反日感情がひどかったし、歴史を歪めてきた。ただし、そこには、韓国の特有の事情があった、ということに着目するべきだ。日本は戦前から近代化された社会だったが、韓国は違う。文化的には今でもなお儒教分化が強い。また、政治的には、長らく独裁体制が続き、その後は軍事政権が続いた。民主的政権が生じたのは、1998年に金大中政権が生じたのは初めてだ。20世紀の終わりになって、ようやく民主化されたのだ。あまりにも非近代的な国家体制が続きすぎた。
 しかも、金大中ですら、古い時代の政治家であり、国家を近代化するという理念を持たなかった。そのような理念を持ったのは、現在の韓国大統領が初めてである。しかるに、この大統領の政治方針は、旧体制の議会に徹底的に妨害され、政権はレーム・ダック状態であった。
 ところが、今年の4月、議会闘争の末に、大統領側が議会でも多数派となり、初めて韓国は近代化された社会をめざすようになった。( → 4月19日
 このとき、前近代性のくびきを解き放たれた。4月は方向の転換点であり、その転換方針を、今まさしく韓国は歩みつつある。実際、古い世代は相も変わらず反日を唱え続けているが、小学校では「日韓は仲良くしましょう」という教育がなされて、子供たちは反日感情などは持たなくなってきているようだ。また、若い世代も、日本の大衆文化になじんできている。
 韓国は、前近代的な社会を脱して、近代的な社会に変貌しつつある。とすれば、反日の原因が消えつつあるのだから、日韓関係は正常化していくだろう。「謝れ、謝れ」とやたらに要求することもなくなり、おたがいに握手するようになるだろう。
 そして、韓国が変化しつつあるのであれば、日本もまた変化するべきだ。相手が「謝れ、謝れ」と言わなくなってきているのであれば、日本もまた対応を変えるべきだ。そのことを認識した方がいい。「どうせ韓国人なんて……」なんて偏見の目を持っていると、それはいわば韓国が日本に「謝れ」と要求するのと同様の偏見となる。
 両国はともに偏見を脱する時期に入ったのだ。時代の変化を理解するといいだろう。

 [ 補説 ]
 肝心の話は、以上だけでよい。ただし、オマケふうに、解説を加えておく。実は、以下の話は、今年の3月に書いたまま、お蔵入りになっていた文章だ。前述の話とは、ちょっとニュアンスが違うが、3月時点では、まだ前近代的な社会が続いていたのだから、やむをえない。その点を差し引いた上で、以下の話を読んでほしい。
    *  *  *  *  *  *  *  *  *  *
 韓国はやたらと反日的である。日本批判ばかりをする。事実を見ないで歪めた認識をする。では、なぜだろうか? このことは、精神病理学的に、「心理的コンプレックス」(劣等感・複雑な葛藤)で理解するのと、わかりやすい。すなわち、人が真実からあえて目を逸らそうとしたら、そこには何らかの心理的なトラウマがあるからだ。
 では、心理的なトラウマとは、何か? それが問題だ。このことは、心理的な問題というより、歴史的な問題となる。
 そこで、韓国の歴史を見よう。すると、韓国は非常に不幸であった、とわかる。
 対比すると、日本は、あまり不幸ではなかった。日本は、まわりを海で囲まれていたので、外的に侵略されることはなかった。せいぜい元寇があったくらいだが、これも「神風」という名の台風で救われた。本格的な外国軍は、マッカーサーの占領軍であったが、これは侵略ではなくて日本を民主化するためにあった。
 一方、韓国は、正反対だった。古くから中国や満州族に支配された。ついで日本に支配された。いっそう不幸なのは、日本が去ってからのことだ。独裁政権が長々と続いたのだ。北朝鮮の独裁政権ばかりに目が奪われやすいが、韓国もまた戦後長らく独裁政権が続いたのだ。もちろん民衆は弾圧された。……この最後の独裁体制こそ、一番のトラウマとなる。なぜなら、それは、韓国自身に責任があるからだ。
 両国を比べれば、日本も韓国も、第二次大戦の直後には、国家的に破壊された状態だった。その点では同様だった。ところが、その後が異なる。日本は民主化されて急速に復興していったのに、韓国は長らく独裁政権が続いたのだ。これは韓国自身の問題だ。とはいえ、外に目を向ければ、韓国に軍事政権が続いたのは、北朝鮮という軍事的な危険があったからだ。(朝鮮戦争を思い浮かべよ。)そして、そのまた原因を求めれば、朝鮮半島が南北に分断されたことが原因であり、そのまた原因を求めれば、日本が韓国を支配したことが原因だ。
 結局、日本の韓国支配が端緒となって、不思議な歴史の巡り合わせで、歴史の嵐に弄ばれたすえ、韓国は独裁政権に悩んだ。独裁政権という問題それ自体は、韓国の責任ではあったが、その端緒には、日本の韓国支配があった。その意味で、「みんな日本のせいだ」と韓国人が恨むのには、ある程度の根拠がある。
 もちろん、韓国の問題は根源的には韓国の責任だ。韓国の政治を日本が左右してきたわけではないからだ。むしろ韓国はその間、ずっと反日的であったのだから、影響力が皆無だった日本に責任があるとは言えない。とはいえ、韓国人の心理としては、そのことを認めたがらない。自分自身に第一義的な責任があることを認めるということは、自己批判であって、苦しいことだ。それよりはむしろ、「何もかも日本のせいだ」と思った方が、気が楽である。「あれもこれも、悪いのはみんな日本のせいだ。おれたちはちっとも悪くないんだ」という自己肯定をするわけだ。
 というわけで、従軍慰安婦だの、強制連行だの、本質とはほとんど関係ない細かな問題を、針小棒大のごとくとりあげる。「日本がこういう悪いことをしたから、韓国はずっと経済的に苦境に立たされたのだ。本来ならば、おれたちは世界の先進国になれたのに」と思うわけだ。本当は、従軍慰安婦だの、強制連行だの、そんなことぐらいで、長い独裁政権が続いたことの理由にはならないのだが、あくまでそう思い込もおうとするわけだ。自らの心を慰めるために。
 では、韓国が真実を真実として理解するのは、いつのことか? それは、韓国が精神的に解放されたときだ。一つは、経済的に苦境を脱すること。たとえば、97年〜98年ごろのアジア通貨危機による経済悪化の余波を完全に脱すること。もう一つは、政治的に自由になること。前者は、すでに達成された。後者は、問題だ。(ただし、本項の冒頭で述べたように、今年の4月に転換点を向かえた。)

 [ 付記1 ]
 韓国の民主主義の歴史は、ごく短い。曲がりなりにも民主的な政府が出現したと言えるのは、金大中が登場して以来のことだ。それ以前の大統領は、形の上では民主的だったが、軍人出身で、前近代的だった。最後には、逮捕されて、牢屋入りだ。こんな国は、他にはなかった。
( ※ ただし日本にも田中角栄というのが……。あの人も前近代的だった。田舎っぽくて、金銭主義で、そのあげく、列島改造で日本経済を破壊した。政策によって日本を直接的に破壊したと言えるのは、戦後ではあの人だけだろう。)

 [ 付記2 ]
 韓国では、儒教文化が強く続いてきた。その視点からすると、中国が長兄であり、次が韓国であり、末弟が日本だ。というわけで、「中国にはへりくだるが、日本には威張る」という態度が、身にしみついている。これも前近代性。

 [ 付記3 ]
 韓国のためを思うのであれば、韓国に精神の自由をもたらすべきだ。ところが、それとは逆のことをやっている人々がいる。朝日新聞などのエセ民主主義者だ。「韓国は正しい。日本の保守派は間違っている」とだけ主張して、韓国におもねっている。韓国が間違った道をたどっているときに、「その道は間違っていますよ」と忠告せずに、日本への喧嘩をけしかけるばかりだ。友好よりも、喧嘩をしかける。それでいて、正義のことをやっているつもりでいる。イヤな人たちですね。

 [ 付記4 ]
 23日の朝刊によると、「日韓親善大使」ではなくて、正式名称は別の同義の何とかという名称。(失念。)また、韓国大統領は、「歴史を問題視せず」という発言が国内で反発を受けたため、国民をなだめるためにちょっと修正する意味の逆発言を追加した。……ま、どっちみち、大した問題ではないが。本項で述べたのは、長い歴史スパンでの話。このあと1年ぐらいの話ではない。


● ニュースと感想  (7月24日b)

 「プロ野球の混迷」について。
 巨人のオーナーが1リーグ制に向けて、「オレの言うことを聞かないと、巨人はパ・リーグに入っちゃうぞ」と脅しているそうだ。やれやれ。子供ですね。( → Yahoo!スポーツ
 そんなにやりたければ、そうしてもいいし、あるいは、試しに1年だけでも、1リーグ制を実施したらいいと思う。

 1リーグ制:
   1位〜2位は、ダイエー、西武。3位〜5位は、中日、巨人、阪神。
 2リーグ制:
   パ・リーグは、1位〜2位は、ダイエー、西武。3位は、巨人。
   セ・リーグは、1位〜2位は、中日、阪神。

 どっちにしても、巨人は先頭から引き離されて、カッコ悪いですね。選手はロートルばかりだから、優勝は十年ぐらい無理かな。巨人・ロッテ戦なんて、誰も見ないかも。スポンサーも付かないかも。おまけに、読売の不買運動がひどくなる。渡辺失脚か。
 「巨人を優勝させないために、1リーグ制を実施しよう( or パ・リーグに加盟させよう)」という運動が起こるかもね。  (^^);

 [ 付記 ]
 巨人のオーナーがヤクザまがいの脅しをするのは、なぜか? 「小久保いただき」の、柳の下のドジョウを狙っているのだろう。脅かして、他球団の人気選手を強奪する。マフィア顔負けですね。こういうことをやって勝とうとするわけだ。正々堂々もへったくれもない。
 海の向こうではヤンキースが「金で強奪する」と悪評だ。こちらの巨人は、「脅しで強奪する」だ。こちらの方が、一枚上手だね。悪役としては。
 巨人のファンというのは、暴力団のファンと同じである。犯罪者とグルなのだ。お天道様の下を歩くべきではあるまい。「巨人ファン」を自称する人は、「オウム・ファン」と同様であり、「自己目的のためには社会を破壊してもいい」という主義だ。恥を知った方がいいだろう。(恥を知る人がかなり多いから、東京ドームはスカスカになるのだろう。)


● ニュースと感想  (7月25日)

 「プロ野球の混迷」について。(前項の続き。)
 プロ野球がますます混迷を深めている。そこで、人々の気づいていないと思える点を、簡単に指摘しておく。

 (1) 巨人の幻想
 巨人は1リーグ制の方が有利だと思っているようだが、とんでもない。2リーグ制ならば、首都圏の阪神ファンがたくさんいて、巨人阪神戦を見に来る。1リーグ制では、首都圏にはダイエーファンも西武ファンもほとんどいないから、対西武 or 対ダイエー戦をいくらやっても、観客席は埋まらない。大幅な減収だ。(おまけに、優勝争いから脱落して、3位争いをするようになる。 → 前項

 (2) 4チームの損得
 「パ・リーグが4チームになったら、成り立たない」という主張があるが、とんでもない嘘八百だ。5チームに比べれば、4チームの方がずっと採算性が高い。
 5チームならば、常に1チームが休むから、大幅減収だ。4チームなら、常に試合があるから、特に減収にはならない。単に、新味が感じられなくなって、マンネリ化するだけのことだ。一方、チーム数が減った分、ファンがあちこちのチームに分散するから、平均的には、採算性が向上する。
 差し引きして、トントンだろう。4チームだと採算性が悪化する、というのは、とんでもない嘘八百だ。
( ※ ただし、10チームの1リーグ制だと[パにとって]採算性が高い、というのは、正しい。この両者を混同している。)
( ※ 「4チームだと飽きられやすい」というが、4チームだって5チームだって、たいして変わりはない。劇的に変わるわけではない。)
( ※ なお、どうしても「5チームならいいが、4チームでは駄目」というのであれば、ライブドアを新規加盟させればいいだろう。そうすれば、4チームから5チームに増えて、問題は解決する、というふうになるはずだ。巨人の意見に従えばね。……だから巨人は、「1リーグ制」よりは、「ライブドアの新規加盟」を主張すればいいのだ。論旨に従えばね。……現実には、本音は違うんでしょうけど。)

 (3) パ・リーグの不採算性
 パ・リーグは不採算だ。しかしこれは、問題でも何でもない。もともと不採算は前提されているからだ。そして、「不採算であっても、広告効果があるから、差し引きして、得だ」という判断があるわけだ。日本ハムであれ、西武であれ、ダイエーであれ、同様である。単独での不採算が気に食わないのであれば、さっさとチームをライブドアに売却すればよい。それだけのことだ。
 要するに、たとえチーム不採算でも、親会社にとっての広告効果とあわせれば、十分に採算に乗っている。「単独で不採算だから救済せよ」なんてのは、とんでもない論理である。
 だいたい、本気で救済したければ、「放送権料のリーグ一括管理」をするべきなのだ。つまり、巨人戦の放送権料を、パリーグに分配すればいいのだ。話をそっちに向けるべし。

 (4) 巨人戦のCM
 このまま対立が激化することは、好ましくない。そもそもプロ野球は、ファンあってのものだ。ファンの反発を買うようなことをやっていては、自殺行為である。
 当該チームにとって最悪のシナリオは、下記の通り。
  1. 1リーグ賛成派と反対派が、鋭く対立。
  2. 巨人がセ・リーグを脱退。
  3. 巨人がパ・リーグへ入ろうとするが、協約上、不可能。
  4. 巨人がプロ野球連盟を脱退。新・プロ野球連盟を設立。「この指止まれ」
  5. プロ野球界の11チームが分裂。大混迷。
  6. 世論が大反発。
  7. 近鉄百貨店・オリックス・読売新聞への不買運動が開始される。
  8. 各社とも「不買運動なんか気にしない」と無視する。
  9. 巨人戦TV放送のスポンサー(ご覧の各社の提供です)への不買運動が開始される。
  10. スポンサーの売上げが減少。CMをやればやるほど、売上げ低下。
  11. 放送のスポンサーがいなくなる。
  12. 巨人戦はスポンサーなしで放送される。CM売上げがゼロ。
  13. テレビ局が、巨人戦の放送を停止する。
  14. テレビ局が、巨人との放送契約を解除。放送権料を支払わない。
  15. 読売社内で、クーデターが起こり、ナベツネ追放。
 あれれ。考えてみたら、これは「最悪」というより「最良」のシナリオかも。どっちでしょうね?
 「喧嘩のあとで独裁者の追放」というのは、イラク戦争みたいですね。だけどイラク戦争では、犠牲者も多数だった。となると、やはり、独裁者が追放されても、被害が多すぎるのは、最悪なのかも。

  【 追記 】   ( 2004-07-26 )
 混迷が続いている。子供の喧嘩みたいですね。 (^^);  ( → Yahoo ニュース
 ところで、一番最初の嘘は、どうなっているんでしょう? 「近鉄に買い手がいないから、合併を承認してくれ」と嘘を付いて、承認を求めて、それで一応の了承を得た……というのが経緯だが、その根本の嘘をほったらかして、近鉄とオリックスの合併を前提として、議論を進めている。
 嘘から出たまこと? そりゃ、困りますねえ。ヒョウタンから駒みたいで。メチャクチャすぎ。


● ニュースと感想  (7月25日b)

 「人名漢字」について。
 人名漢字がおおむね決まる予定らしい。意見の聴取を受けたあと、若干の変更を受けて、秋にも決定する予定らしい。(朝日・夕刊 2004-07-23 ,読売・朝刊 2004-07-24 )
 いくらか異論も出ているが、私は根本的な難点を指摘しておきたい。これはとんでもない暴挙である。民主主義の否定だ。
 今回のなした手法は、こうだ。
 こんな方針がまかり通るのであれば、もはや民主主義ではない。ついでに、政治についても、同様になるかもしれない。つまり、国会を廃止して、すべての政治は政府が決める。
 たとえば、小泉が勝手に方針を決めて、国民にはその方針について是非についての議論を許さず、国会の討論も許さない。ただし、微修正についてのみ、国民の意見を聞く。聞くけれども、その取捨選択は、あくまで小泉が決める。自分の気に入った意見だけを採用し、気に食わない意見を採用しない。そして、これに対して、誰にも文句を言わせず、すべて独裁的に決める。
 こうしてお上の決定を短期間で決定する。ただしそのあとで、「国民の意見を受け付けたので、民主的です」と誇る。
 下劣このうえない。最低だ。「民主主義の形骸化」「民主主義の否定」「民主主義の死」だ。なのにそれを、マスコミはほとんど問題視しない。「この文字が増えます」なんていう、重箱の隅みたいなことばかりを報道している。肝心の民主主義が殺されかけているのに、「糞」なんていう文字の話ばかりをしている。
 糞はマスコミでしょ。ふん。

 [ 付記1 ]
 読売はあろうことか、「掬水」を「きくみ」と無理やり読ませる命名を喜ばしく報道している。馬鹿げた話だ。子供の迷惑をまったく考えていない。「掬」は音読みで「キク」、訓読みで「すく(う)」だ。「掬水」を「きくみ」と読ませたくても、たいていの人はそんなふうに読んでくれない。「キクスイ」か「すくいみず」か、どちらかだ。そして、それが正しいのである。
 子供は将来、出会った人たちから、「キクスイ」か「すくいみず」と呼ばれるだろう。そのたびに「きくみです」と言い直しているのでは、面倒くさい。しかも相手から「おまえのその名前は間違っている」と反論されたら、どうしようもない。勝手な読み方は正しくないのだ。
 教訓。「親の親切、子供の迷惑
( ※ センスのないお中元 or 引き出物と同じ。独りよがりな贈り物ほど、もらって迷惑なものはない。)

 [ 付記2 ]
 だいたい、勝手な読み方を許したら、とんでもないことになる。たとえば、「読売」を「よみうり」と読まずに、「とくばい」とか「ばいどく」とか、勝手な読み方を許すことになる。それでは困るだろう。そうだ。文字というものは、尺度の単位と同様に、規範化・標準化されているのであり、個人の勝手な自由を許容するものではないのだ。
 「何でも自由はすばらしい」なんて思うのは、自由を勘違いした発想だ。それはただの誤字・誤読主義にすぎない。こういう方針が、国語を破壊する。
 「意味に関係なく音だけで命名しよう」なんてのも、国語破壊主義の一つだ。国語レベルが低下したあげく、国語を破壊してさらにレベルを下げようとしている。国語破壊のスパイラル。その張本人の一つが、国語をろくに知らないマスコミだ。
( ※ 特に朝日はひどい。毎日一つは、愚劣なダジャレ出るので、寒くて仕方がない。納涼のつもりだろうか? 気持ち悪くて仕方ないんだが、この気持ち悪いオヤジギャグの連発をする新聞を、誰か何とかしてくれませんかねえ。……読売の狂犬は、トップの一匹だけ。朝日の狂犬は、狂犬病みたいに、全社に蔓延している。頭のイカレた狂犬に、誰か鎖をつけてほしい。)
( ※ ついでに言うと、ダジャレをダジャレとして書くのであれば、別に悪くはない。朝日・夕刊・2面コラム 2004-07-23 には、ダジャレのオンパレードがあったが、これはこれで、にんまりとして読める。「見事だ」と褒めるほどではないが、暑いときの下らない息抜き程度にはなる。枝豆ぐらいの価値はある。……一方、真面目な記事の見出しで、下らないダジャレを書くのは、あまりにも場違いだ。厳粛なビジネス会議の冒頭で、下らないダジャレを言うのと同様だ。場違いで、みっともなくて、寒気がする。一人でいい気になっているのだろうが、「恥を知れ。場をわきまえろ」と言ってやりたいね。)
( ※ 朝日のこの問題は、根源的な理由がある。それは「記事と主張を混同している」ということだ。署名入りの主張ならば、個人の見解だから、どんなダジャレでも言うがいい。しかし客観報道では、それは許されない。朝日はそこのところを勘違いしている。報道の原則のイロハを知らない。最低。……私は同じ批判を何度も書くが、それは朝日に、同じ種類の欠陥が山のように累積しているから。)


● ニュースと感想  (7月26日)

 「パソコンの正字体」について。
 パソコンで正字体が使われるはずなのだが、政府はぐずぐずやっている。まったく、困ったもんだ。(人名漢字なんかより、こっちの方が大事だ。)
 こうなると、もう、政府には任せられないから、どこかの民間で、正字体のフォントを発売してもらえないでしょうかね? 肝心のフォントは、もうできている。「秀英明朝」というのがそうだ。ただし、入手が困難・面倒だ。新潮社の「新潮文庫の100選」CD-ROMなどに付属しているが、フォントを単独では販売していない。
 で、「秀英明朝」フォントを、年賀状ソフトの付属フォントにして、いっしょに売ってもらえないでしょうか? もしそういう年賀状ソフトがあったら、さっそく買うんですけど。……「筆王」「筆まめ」なんかのソフトメーカーさん、何とかしてよ。もうかりまっせ。
( ※ 正字をパソコンの外字で使える、なんてソフトはあるが、そんなのは駄目だ。使い勝手が悪すぎて、実用に耐えない。フォントの変更だけでできるのでなくては、駄目。)
( ※ なお、以前ならば、こんなフォントの変更は、勝手にやってはいけなかった。しかし、今では異なる。普通のパソコンの方が間違っていて、秀英明朝の方が正しいのだ。そのことは国語審議会がちゃんと決定しているし、世論の支持を受けている。しかも、JISの[古い]改訂委員会では、この方法を「合法」と公認している。その概念が「包摂」という概念だ。)

 [ 付記 ]
 unicode との統一性が取れない、という反対意見もあるが、そんなのは無視していいだろう。
 そもそも、unicode の統一性という概念は、とっくに破綻している。たとえば、「骨」という文字は、日本語フォントと中国語フォントでは、字形が異なっている。また、日本語フォントでも、草かんむりは、3画のものと4画のもの(++)とが、混在している。行書体・楷書体のフォントでは、4画のものが多い。たとえば、MS-Wordに付属する「HG正楷書体-PRO」の「茨」という文字。
 だから、unicode のなかで、異なる字形[略字と正字]の日本語フォントがあっても、ちっとも構わないのだ。

 [ 補足 ]
 秀英明朝にない正字(つまり略字化されていない漢字)は、たいていは「補助漢字」として、unicode で使える。たとえば、unicode の初めの方では、下記。
 丂 丄 丅 丣 两 丫 丮 丯 丰 乀
(使い方は?  MS-Word などのワープロで。その後、HTML変換すれば、自動的にHTMLになる。)
 結局、秀英明朝と unicode があれば、漢字の問題はほとんどなくなる。「 」も unicode で使える。

 [ 余談 ]
 そもそも、略字なんてのは、誤字の一種なのだから、勝手に修正しても構わない、と私は思う。人名漢字の「翔」だって、正字に書き換えてもいい、と思う。……ただし、この意見は過激すぎるので、反発を食う恐れがかなりある。というのは、たいていの人は、漢字とは、日本語のためにあるのではなくて、自分の名前を書くだけのためにあるからだ。「たいていの平易な字は書けないけど、自分の名前だけは難解な字を書けます」という文盲主義。これが今の日本の流行だ。


● ニュースと感想  (7月26日b)

 「電子辞書とワープロ」について。
 携帯版のパソコンは最近どうなっているのだろう……と思って、ノートパソコン売場の脇のあたりを探してみたが、WindowsCE のようなHDなしのパソコンは、もはや見当たらなくなっているようだ。ま、WindowsCE のパソコンは、8万円ぐらいするくせに、機能的には9万円クラスのA4ノート・パソコンに比べて、圧倒的に機能が劣るから、売れなくても当然かもしれない。とはいえ、携帯できるサブノートは、やはり20万円ぐらいで高いし、重さもかなりあるんですよね。HDなしのパソコンがあってもいいと思うんだが。
 ちなみに、Windows95なら、HDが500MBで済んだ。だから、メモリを500MB積めば、Windows95のHDなしパソコンが作れるはずなんだが。あるいは、Linux でもいいんだが。というか、昔のワープロ専用機みたいなのでもいいんだが。

 さて。売場をちょっと探すと、かわりに、電子辞書というのがものすごくたくさん並んでいる。これが昔の「携帯版のワープロ専用機」に、見た目はそっくりだ。白黒液晶と、小型キーボード。……だけど、肝心のワープロ機能が欠けている。電子辞書機能だけだ。
 もったいないですね。ちょっとRAMとROMを追加して、ワープロ機能とスケジューラ機能をつけてくれると、ありがたいんだが。
 よく見ると、メモリカードスロットも付いている。だから、ワープロにすれば、昔のワープロ専用機などよりも、格段に便利になるはずなんだが。(フロッピーのかわりにメモリカードに文書を記憶しておく。そのメモリカードをパソコンのカードスロットに差し込めば、文書を移転できる。)
 で、こういう「ワープロ機能付きの電子辞書」というのを、どこかの会社で作ってもらえないでしょうか? けっこう売れると思うんですよね。電子辞書機能だけ、なんて単機能タイプに比べれば。
 なお、コストはどのくらいかかるか? たぶん、プラス1万円……ではなく、マイナス2千円ぐらいです。理由は? 付属辞書は、英和・和英と国語辞典だけにして、他の辞書を省くので、その分、コストが大幅に下がるから。執筆用なので、国語辞典はちゃんとしたのがほしいが、英和と和英は安物でも十分。

( ※ なお、キーボードは、QWERTY配列でもいいが、シャープみたいに、ひらがな50音入力が最適だ。1本指入力なんだから、当然である。QWERTY配列なんてのは両手の10本指で打つための配列であり、1本指で打つときには不便このうえない。1本指でローマ字入力だと2倍の手間がかかる。……10本指なら、2倍の手間を10で割るから、5分の1になる。)
( ※ ついでだが、ワープロ機能だけでなく、Palm OSの機能があると、なおさらいいだろう。なくてもいいけど。通常の Palm OSマシンってのは、QWERTY配列がすごく不便なんですよね。こんなのよりは、ケータイ式の親指反復入力の方が、まだマシかも。その点、「電子辞書 + ワープロ + Palm OS」に、ひらがな50音入力のキーボードがあれば、とても便利。)
( ※ ハードでは、メモリカードは必須。カラー液晶や通信機能は不要。そういうのを付けたければ、ケータイと合体させた方がよい。で、うんと高価になる。たぶん売れないだろうけど。一度 WindowsCE で失敗した道。)
( ※ 以上の案を実現するとしたら、昔のワープロ専用機のワープロソフトが生き返ると思う。それはそれでいいんじゃないの? 昔のワープロ専用機は、かなり便利だったと思う。今でも同様の機能が軽量マシンで使えれば、それはそれで魅力的だし、過去の遺産が無駄にならなくなる。……だいたい、パソコン雑誌に、よく書いてあるじゃないですか。「パソコンに必要なのは、重たいワープロソフトなんかじゃなくて、軽量なエディタだ」と。だから、ワープロ専用機の軽量ソフトがあれば、十分なんです。16bit で 16MHzというCPUでもまともに動いていたし。現在の 32bit で 3.2GHz のパソコンに比べると、どのくらい遅い? 速度は400分の1? ……実は、起動時間だけなら、昔の方が早かったみたいですね。文章作成時間だと、まるきり同じかな。簡単で操作法がわかりやすい分、昔の方が早く書けるかも。)

  【 追記 】
 上記の「ワープロ機能つき電子辞書」の主なユーザーは、文章執筆のプロというよりは、普通の若者である。高校生や大学生が、学習用途で使うといいと思う。学校にノート・パソコンを持っていって、いつも持ち運びする、なんてのは、ちょっと面倒だ。そこで、この新・電子辞書で、ちょっとした文章などを書く。(書いた文章を、学校にあるデスクトップパソコンに移転することもできる。逆に、学校にあるデスクトップパソコンにあるデータを、新・電子辞書に取り込むこともできる。なお、学校にあるデスクトップパソコンは、共用だが、自分のIDでログインすれば、自分専用のマシンと同様になる。ノートパソコンなんかいらない。)
 さらに、もっと便利な用途がある。ケータイの入力だ。親指反復入力では、長いメールを打てない。そこで、この電子辞書を使って、ひらがな50音入力で、(ケータイよりは)ずっと大量・高速に打つ。その後、赤外線無線かメモリーカードか接続コードで、ケータイにデータを移転する。
 私なら、この方式を採りたい。たとえば、400字ぐらいになると、ケータイ打鍵はしんどすぎる。ケータイ打鍵は20字ぐらいが限度だ。
( ※ 20字が限度だと、頭の発想も20字になる。かくて思考力が猿並みになる。若者の白痴化は、ケータイの入力方式が原因なのかもしれない。……嘘かまことか???)


● ニュースと感想  (7月27日)

 「トロンの原稿プロセッサ」について。
 私は前に「トロンの原稿プロセッサがなかなか完成しない」と悪口を言ったことがあるが、実はすでに完成しているという。「超漢字」にくっつく別売のエディタ、というふうになっているそうだ。(最新号の初級コンピュータ雑誌 Yomiuri PC に掲載されている。記事は中沢けいの談話という見出し。)
 ただし、これによると、このソフトは驚くべきものだ。「超漢字の何万字がすべて使える」というのは、当たり前すぎて、どうってことはない。びっくりするのは、値段である。税別で3万円もする。で、何ができるのかと、いろいろ記事を読んでみたが、どうも、Windows ならばエディタでできるようなことばかりだ。禁則処理の工夫などをくだくだと述べていたが、どうも本人は禁則処理という概念を知らないらしくて、あれやこれやと悩んだらしい。それで、特別なことをやっているつもりらしい。Windows のエディタなら、禁則処理の自由設定ぐらい、当り前のことなんですけどね。(ただし、トロンだと、「同じ文字列を繰り返す」という意味の、「く」を長くしたような文字種があるから、そこだけが違う。とはいえ、普通は「かく \/ しか \"/」 なんてふうに代用して書くから、特に不便ではないが。)(そもそも、この反復記号は、現代日本語は使われないのだから、こんなものは現代作家には不要だ。古典用に使うならともかく。)
 中沢けいは、「技術者は書き手のことなんか考えていない」と言っている。それはたしかにそうだが、その要望に応えるべき人は、ワープロソフト(エディタソフト)の技術者というよりは、マクロのプログラマだ。作製者ではなく、改造屋だ。望む相手を間違えている。何か要望したいことがあったら、おかかえのマクロ・プログラマに頼む方が、ずっと早いし簡単だ。3000円ぐらい払って、さっさとやってもらう方がいいだろう。ソフトそのものを作り替えるなんて、馬鹿げている。

( ※ ついでに宣伝しておくと、「文章に役立つエディタがほしい」と思うのであれば、あんな稚拙な「原稿プロセッサ」なんかを購入するよりも、私の「原稿エディタ」を使う方が、百倍も便利です。ただし、非売品ですけどね。……残念でした。  (^^); )
( ※ ま、とりあえず、一般の人は、公開済みの「ワープロ機能拡張セット」を使えば、たいていの用途は満たされます。MS-Wordは「重い・遅い」というふうに昔は評価されていたが、さすがに「3GHz,256MB」ぐらいのスペックになると、そういう難点は解消したようだ。……中沢けいの場合、彼女のマシンを見ると、マウス・コンピュータ社の古い安いマシンのようだから、とりあえずは、最新マシンに買い換えた方がいいですよ。5万円ぐらいで済むしね。で、MS-Wordと「ワープロ機能拡張セット」を使えば、今よりもずっと能率が上がるはず。)
( ※ 出ない漢字については? とりあえずは「〓」にしておけばいいし。文字種にこだわるなら、Windows でなければ、TRON のかわりに Mac を使ってもいいし。でも Windowsだって、unicode を使えば、たいていは間に合う。正字体は別だが。 → 前々項


● ニュースと感想  (7月27日b)

 「学力とケータイ」について。
 若者の学力の話と、若者のケータイの話。記事のメモ。(いずれも朝日・朝刊 2004-07-26 )

 (1) 語彙力調査
 高校生の語彙力が大幅に低下している、という調査結果が出た。10年前との比較。最優秀の進学校で、点数が 132から 124に大幅低下。(2面ベタ記事)
( ※ 余談だが、朝日の用語は、昔は「語い」で、今回はルビつきの「語〓(ごい)」。「〓」は「彙」の略字体。国語審議会で「駄目」と言われたのに。この新聞社も、落第点?)

 (2) ケータイ
 高校生の感想。「その場で向きあって話しているのに、ケータイに邪魔される。みんなメールに膨大な時間を費やすあまり、読書や思考の時間を失い、おたがいを磨きあう話し合いをできなくなる。ケータイのない時代に高校生活を送りたかった」(生活面・特集)
 この生徒は賢い。自己反省ができる。その分、進歩できる。だけど、一人じゃ、話し合いもできない。かわいそう。……一方、ほかの生徒は、どうなんでしょう? ケータイに熱中しているから、かわいそうじゃない? そういえば、動物園の猿だって、自分を可哀想だとは思っていないだろう。同じですかね。

 [ 余談 ]
 そういえば、語彙力がひどいのが、もう一つあった。パソコンだ。国語審議会が「駄目」と言った略字が使われ、まともな正字を使えない。……正確に言えば、TRONとMacは使えるが、Windows が使えない。もっと正確に言えば、Windows というOSが使えないのではなくて、Windows 上のアプリが使えないだけだ。たった1種類のフォント以外は、すべてのフォントが狂っている。
 パソコン会社は、まともなフォントを載せたパソコンを販売するべきだ。コストはほとんどかからないし。ユーザーには大きなメリットがあるし。(たとえば宛名の人名をちゃんと書ける。「榊原」も正しく中央を「ネ」でなく「示」にできる。)
 どこかのメーカーで、販売してくれませんかね? すごく宣伝できますよ。「当社のパソコンだけは、国語審議会で正しいとされた文字を使えます。他社のパソコンはみんな間違いだらけ」と。宣伝タイトルは、「間違いだらけのパソコン選び」。
( → 前々々項


● ニュースと感想  (7月27日c)

 「高齢者向けのJIS」について。
 高齢者向けのJISというのを、経済産業省が制定する方針だという。
 だったら、最初に、キーボードを何とかしてもらいたいですね。ローマ字は使えない人もいるし、かといって、ひらがなJISは配列がメチャクチャで、もっと使いにくい。どうせ高齢者(初心者)は1本指でやることが多いのだから、1本指専用の配列にするべきだ。
 だいたい、JISのひらがな配列ってのは、わけがわからない。4段なのだから、ブラインドタッチは不可能。存在意義がない。また、ブラインドタッチが不可能ならば、1本指専用の配列にするべきだから、高速打鍵のための配列は邪魔なだけ。となると、解決策は、50音配列だけだ。
  → 第二章新50音配列







   《 翌日のページへ 》





「小泉の波立ち」
   表紙ページへ戻る    

(C) Hisashi Nando. All rights reserved.
inserted by FC2 system