[付録] ニュースと感想 (73)

[ 2004.7.28 〜 2004.8.21 ]   

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● ニュースと感想  (7月28日)

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   経済理論全体の概要


● ニュースと感想  (7月29日)

 「ロボットと人工知能」について。
 ソニーが「考えるロボット」を開発する予定だという。決められたことしかやらない従来型のロボットに対して、自分で思考して行動するロボット。毎秒1兆回の計算能力があるコンピュータ・システムと組み合わせて、頭の良い人工知能を開発する予定。5年後の実現をめざす。(読売・朝刊・社会面 2004-07-28 )

 結論を言えば、上記のソニーの方針は、狂気の沙汰だ。「考えて行動するロボット」なんかが登場したら、「勝手に誤認識して、殺人をする」という事件が発生しうる。
 ロボットの誤認識という問題があるのに、クリアしていない。そもそもこの問題は、根源的にクリアできない。「百% 正しい認識」なんてのは、根源的に不可能だからだ。実際、人間だって、不可能だ。
 だから人間は、「責任を取る」という形で、罰金や免職や懲役などが科される。しかるにロボットに、罰金や免職や懲役などが科されても、無意味だ。ロボットは、殺人をすることはあるが、責任を取ることはないのだ。とすれば、「殺人してから、破壊する」という処置では駄目であり、「殺人する前に、すべて破壊する」必要がある。
( ※ ロボットによる殺人は、夢想だろうか? 違う。三菱の欠陥自動車による殺人なら、すでに何度も起こった。これは、考えない機械による殺人だ。一方、考える機械なら、誤認識による殺人は飛躍的に増える。)

 さらに、ソニーの方針には、根源的なミスがある。  第1に、「毎秒1兆回の計算能力があるコンピュータ・システム」なんてのを使うということが、根源的に狂っている。人工知能の限界は、計算処理能力の限界ではなくて、脳の思考原理が未解明だという点にある。なのに、計算処理能力を飛躍的に高めても、何の意味もない。
 第2に、「最新の脳科学を使う」という点だ。最新の脳科学はすぐに陳腐になる。最新のCPUがすぐに陳腐になるのと同じだ。十年前の「最新のCPU」は、今日では化石である。今日の「最新の脳科学」は、十年後には化石である。最新の理論を使うということは、すぐにカスみたいになる理論を使うということだ。「すでに百年間ぐらい安定している理論」を使うのならともかく、真偽の検証されていない最新の理論を使うなんて、狂気の沙汰だ。工学ならば最新のものがいいが、理学ならば最新のものはいいとは限らない。むしろ危険だ。そこのところを根本的に理解していない。
 第3に、はっきり言って、現代の脳科学の水準は、真理に到達していない。むしろ、真理の5%ぐらいしかとらえていない。全然、未熟な学問である。幼稚な人間には、自分の幼稚さがわからないだけだ。(私にははっきりとわかる。残りの95%がどのようなものかは、だいたい見当がつく。論文にするほどまとまってはいないが。)……現在の脳科学の水準は、比喩的に言えば、「元素の周期律表を知らない化学」の段階にすぎない。基礎原理がわかっていないから、全然、見当違いだ。
( ※ ちなみに、「最新の脳科学の成果」というのは、ほとんどが実験結果を勝手に誤解釈したものである。「A(という細胞 or 遺伝子)が欠けると、Bという行動が起こらない。ゆえに、Bという行動を起こすのは、Aである」という論理。気違いじみた論理だ。この論理で言えば、すべての行動を決めるのは、心臓だ、ということになる。……今の脳科学ってのは、このようなエセ科学の段階であるにすぎない。左脳がどうの右脳がどうの、という理屈も、これと同様だ。実験事実そのものは正しいが、実験事実の解釈を根本的に間違えている。)

 まとめて言おう。
 ソニーの計画は、まったく間違った前提の上に立ち、まったく間違った方針を取り、まったく間違った方向に進んでいる。だから、まったく危険な結果を出すだろう。いわば、「これで平和を実現できるぞ」と考えて、原子爆弾を創出した末、莫大な死者を出すようなものだ。自分が何をしているか、全然、わかっていない。
 原子爆弾を研究すること自体が悪いとは言わない。ただし、原子爆弾を研究するなら、自分が危険なものを扱っている、と認識するべきだ。なのに、「自分は平和のオリーブの冠を作り出している」なんて信じていると、とんでもない結果となるだろう。
( ※ 下手をすれば、ロボット兵士が続出して、中東で莫大な殺人行為がなされるかもしれない。「探査の能力があり、自爆装置つきで、特攻するロボット兵士」だ。)
( ※ 今回の方針は、ソニーという会社の駄目さ加減を、はっきりと明らかにする。ホンダがロボットを研究したのは、「社員の研究心を満たすため」であった。役立たずの研究を認知した上司は偉かった。しかるにソニーは、知識欲を満たす研究のためではなくて、金を稼ぐ実用化のために、ロボットを開発する。狂気の沙汰だ。実用化して大量生産して金になるとしたら、せいぜい、ロボット兵士ぐらいだ。……ソニーは「自分は殺人ロボットを開発している」「自分たちは悪魔的な殺人鬼だ」とはっきり自覚するべきだ。)
( ※ ロボット兵士ならば、実用化はできるかもしれない。「殺そうと意図したら、間違えて、敵を助けてしまった」ということもあるだろうが、それはそれで悪くはないからだ。正常に作動しない欠陥ロボットが、かえって歓迎されるわけ。皮肉。)
( ※ ついでだが、現在の最先端のロボット技術は、「自動車の自動運転」である。それも、不完全に、だ。アクセルとブレーキも不完全であり、市街地におけるハンドル操作にいたっては無能に等しい。ゴキブリ以下だ。何十年もかけて、やっとこれだけだ。……なのに、ソニーは、たったの5年で、ゴキブリ以下から哺乳類レベルまで、一挙に進化させようとしている。途方もない話だ。イカレているとしか言いようがない。……それとも、ただのホラですかね。ま、ホラと言えば、昔、「第五世代コンピュータ」という大ボラがあったが。あのときと同じホラ[ AI ]を言っている。じゃなかった、あのときよりもさらにすごいホラを言っている。人工知能を開発するより、自分自身の知能を改善するべきか。)

 [ 補足 ]
 「ロボットの思考力なんてのは、全然足りない」と自覚するべきなのだ。
 「人工知能」も、「パワー・スーツ」も、未完成状態のまま、実用化はなされるだろう。しかし、両者を合体させた「知能ロボット」は、未完成状態では危険きわまりない。未完成状態の「知能ロボット」が存在を許されるのは、人間のいないところに限られる。たとえば、惑星探査、深海探査、放射能区域、などだけだ。一般家庭など、もってのほかだ。
 思考するロボットなんてのは、実用的には駄目なのだ。それよりは、人間が思考するべきなのだ。機械に任せるのは、思考ではなくて動力部分だけだ、と自覚するべきだ。
( → 5月31日  「ロボットとサイボーグ」 )

  【 追記 】
 「毎秒1兆回の計算能力をもつ人工知能」というのは、どのくらい賢いだろうか? ちなみに、一番古い8bit のパソコン(PC-8801 か MSX )と、将棋で対戦させてみよう。どちらが賢いか、一発でわかる。
 結果は? 1手で決まる。「毎秒1兆回の計算能力をもつ人工知能」は、コマの動かし方を知らないので、禁じ手を犯す。たとえば、「歩を斜めに動かす」など。かくて、1手で負ける。
 ま、何百回も学習すれば、少しは賢くなるだろう。しかし、十回ぐらい学習しても、8bit のパソコンの将棋ソフトに勝てるはずがない。(ついでに言えば、人間だって、十回ぐらい学習するだけでは、8bit のパソコンの将棋ソフトに勝てない。)
 「毎秒1兆回の計算能力をもつ人工知能」なんて、あらかじめ専用ソフトを組み込んでいない限り、ゴキブリほどの知能もないのだ。そしてまた、専用ソフトを組み込んだあとでは、ただの「高速コンピュータ」であるにすぎず、「人間のように考える機械」なんかではないのだ。


● ニュースと感想  (7月29日b)

 「進化論の嘘」について。
 NHKの「ふしぎ大自然」で、ラッコの番組。( → NHKサイト 。7月29日深夜1:45に再放送。)
 ああだこうだと解釈を述べている。しかし、その基礎には、「環境が進化を決める」という原理がある。しかし、この原理はもはや、完全に破綻しているのだ。
 なぜか? もしそれが正しいとすれば、「猿が新環境(草原など)に出て、人になる」という結論が出るのと同様に、「人が新環境(森など)に出て、猿になる」という結論が出るからだ。しかし、そんなことはありえない。進化は不可逆なのだ。
 「環境が進化を決める」(突然変異の連続的な蓄積が進化をもたらす)という原理は、進化の不可逆性を結論せず、進化の可逆性を結論する。だから、この原理は嘘八百である。そう理解することが必要だ。
( ※ 詳しい説明は、次のページの、「進化の不可逆性」という箇所。最初から読むべきだが、かなり長い。しんどいかも。素人向けではない。 → クラス進化論のページ )

 [ 付記 ]
 参考のため、次の一文を引用しておこう。
 従来の説では、自然淘汰を前提とした上で、「新しい環境への進出にともなって進化が起こる」と考える。そして、「恐竜が空に向かってジャンプしたから、恐竜が鳥になった」とか、「鳥が地上に降りたから、鳥が(足を発達させて)走鳥類になった」というふうに考える。
 しかし、そんなことは、まったくありえないのだ。たとえば、恐竜が空に向かってジャンプすれば、恐竜が鳥になるのではなくて、恐竜が地面に激突するだけだ。鳥が地上に降りれば、鳥が走鳥類になるのではなく、鳥が肉食動物の餌になって食い殺されるだけだ。同様に、人間が空に向かってジャンプしても、人間に翼が生えることはない。また、魚が陸上に進出しても、魚が両生類に進化することはなくて、魚が干上がるだけだ。
 結局、「新しい環境への進出にともなって進化が起こる」ということはありえない。「新しい環境に進出すると、必要に応じて進化が起こる」というのは、ほとんどラマルキズムのような、非科学的な考え方なのである。
( ※ 新しい環境があると、進化は起こりやすくなるが、だからといって、ちょうど好都合に進化が起こってくれるわけではないのだ。たとえて言えば、金が必要だからと言って、ちょうど好都合に空から金が降ってくるわけではない。)
引用元は、上記のページ。

  【 追記 】
 補足のため、解説を加えておく。
 「ラマルキズム」というのは、ラマルクの「用不用説」のこと。「よく使う器官ほど発達して、その獲得形質が子孫に遺伝する」という説。獲得形質遺伝説。
 この説は、獲得形質が遺伝子に影響しないことから、今日では否定されている。ただし、ちょっと形を変えると、今日の主流の進化論になる。
 「有益な器官が発達するような遺伝子をもつ個体ほど、生存率が高まるので、そのような遺伝子が子孫で増える」
 この説により、こう結論する。
 この理屈では、「なぜその遺伝子が出現するか」という根本を無視したまま、「そういう遺伝子が登場すれば有利だ」というところだけに着目する。
 とすれば、これと同じ理屈で、次の主張が出る。
 ここでは、「なぜ貧乏人が金持ちになるか」という根本を無視している。たぶん、「空から金が降ってくる」とでも思っているんでしょう。
 進化論学者は、これと同じだ。「空から好都合な遺伝子が降ってくる」と信じているのだ。非科学。
( ※ 現代科学には、三つのエセ科学と見なせる分野がある。次の三つだ。「経済学」「進化論」「脳科学」。……いずれも、論理をデタラメに使うことで、話を飛躍させて、真実とは逆のことを結論している。


● ニュースと感想  (7月30日)

 「ボーナスアップ」について。
 「大企業のボーナスがアップしている」という報道があった。主として輸出企業を中心に、数パーセントの上昇。平均では昨夏に比べ 2.85%増。6年ぶりに過去最高を更新。(朝日・朝刊・1面 2004-07-22 )
 これについて「景気回復」という言葉を用いて、いかにも景気が好転しているような報道を朝日はする。しかし1面裏の2面では、こういう報道もある。
 「パート・派遣・契約社員などの、正社員以外の割合がどんどんふえている。34.5%となっている。前回の99年に比べて、7.1ポイント上回る。その理由は、企業による「人件費削減」の狙い。労働者がそう望んでいるわけではなくて、労働者は正社員になりたがっている人がけっこう多いという。

 両方あわせると、どうなるか? こうだ。
 「正社員は、所得増。しかし正社員そのものが減っているから、給与の総額はプラスマイナスが打ち消しあっている」
 では、差し引きして、プラスかマイナスか? どうも、ほぼトントンらしい。公務員給与の算定の基礎として、民間企業の給与を調べると、下げ止まっているようだ。とはいえ、去年は過去最大の下げ幅だった。悪化しなくなったとはいえ、元に戻りつつあるわけではない。さらさらない。

 結語。
 大企業の正社員だけを見れば、好転しているように見えるが、国全体を見れば、マクロ的には、総所得は増えも減りもしていない。そして、ここが肝心なのだが、総所得が増えなければ、総需要も増えないのだ。とすれば、景気は、下げ止まっているだけであり、元の水準に回復しつつあるわけでもない。
 たしかに、企業は好決算で幸福だ。とはいえ、それは、生き残った企業だけの話だ。その一方で、国民は、死んだ企業が多かったことの影響を受けて、失業や低賃金(非正社員)という状況に悩んでいる。企業は幸福でも、国民は幸福ではない。それが正しい認識だ。
 だから、マスコミ報道に「景気は回復しつつある」なんていう意味合いの記事があふれていても、そんな記事は事実誤認と言うしかない。なるほど、暗い世の中で、しきりに明るい光を見たがるというのは、人間心理としてはわからなくはない。しかし、そういうことばかりをやっていると、真実を見失ったあげく、正しい道を踏みはずすことになる。たとえ辛くとも暗くとも、その現実を見ることが大切だ。
 夜明け前には、たしかに、かすかな曙光が見える。そのとき、「おお、すばらしい。これで未来は明るい」なんて思うのは、早計過ぎる。「今はまだ、ほぼ真っ暗だ」と認識するのが正しい。さもないと、足を落とし穴にはめて、転ぶハメになる。事実を正しく認識しよう。足元を見つめよう。── マスコミの使命は、煽動ではなくて、事実の報道なのだ。

 [ 付記 ]
 もう少し理論的に説明しよう。
 大企業が好決算だとしても、その総額は、たいしたことはない。GDPに占める輸出の割合は1割だから、それが全体に波及するとしても、波及するうちには十分の1に薄められてしまう。「大企業が主導して、日本全体が好景気になる」なんてのは、楽観視しすぎているのだ。
 マクロ的に概算すれば、こうだ。500兆円のGDPのうち、輸出が50兆円だとして、そのうち半分(自動車産業や電器産業など)だけが2割伸びて、50兆円×半分×2割にあたる5兆円だけ増加。経済波及効果の分で2倍になり、10兆円の増加。これを追加して、GDPは510兆円になる。つまり、GDPは2%のアップだ。……しかし、これでは、景気回復はろくにできない。「一息つく」という程度のことだ。大幅な失業者を雇用することはできない。(一方で、正社員解雇などのリストラがなされているから、内需だけを見れば、2%の増加もない。)(また、外需がしぼめば、すべては元の木阿弥だ。)
 一方、大規模減税ならば、内需全般を最大限まで拡大できる。GDPの1割にあたる輸出の半分だけを増やすのではなく、内需全般を拡大するのだから、効果は20倍だ。輸出産業だけが潤うのではなく、サービス業を含めて全産業が潤う。しかも、これは、均等な成長だから、最も効率がよい。
 「輸出主導の景気回復」というのは、「輸出だけに偏った景気回復」のことだから、小規模であり、いびつである。それは、効果が少なく、かつ、経済を歪める。
 とにかく、マクロ的な認識をすることが大切だ。「トヨタの決算がいい」「名古屋が好調だ」なんていうことを見るより、「GDPがどうなるか」ということを見よう。
( ※ 朝日の記事は、それができない。マクロ経済を見ないで、一部の産業だけを見る。「木を見て森を見ず」という言葉がぴったり。ひどく近視的・虫眼鏡的だ。)
( ※ 読売は扱いが逆だ。同日の記事では、「非正社員が増加」が1面記事で、「ボーナス増加」が2面記事。両者の関連づけはないが、こちらの扱いの方が正当である。読売の方が経済の報道はずっとまともだ。)

( → 7月03日 にも、同趣旨の景気判断。)


● ニュースと感想  (7月31日)

 「DNAと遺伝子」について。
 DNAの二重らせんモデルを考案した二人のうちの一人である、フランシス・クリックが死去。(朝刊・各紙。30日)
 「(生物学では)二十世紀最大の発見」なんて新聞は報道している。そうかもしれないが、そうではないとも言える。
 二重らせん構造の意義は、「遺伝子の構造がたった四つの塩基からなる」ということを示したことだ。つまり、「さまざまな生物はすべてたった四つの塩基の組み合わせからなる」ということを示したことだ。
 これはこれで衝撃的だ。しかし、四つではなくて百個であるとしても、別に、それはそれで構わない。数の大小はたいして意味はない。また、数が有限であるということなら、そもそも元素の数は有限なのだから、塩基が有限であるとしても不思議ではない。
 二重らせん構造が美しい構造だとしても、それは生物学的には何の意味もない。醜い構造だって、別に問題ではない。

 では、一番肝心なことは、何か? DNA構造の発見は、「遺伝子というものが実体のあるものとして、初めて明らかになった」ということだ。それまでの遺伝子というものについての推察が確定した、ということだ。…… とすれば、一番大切なのは、「遺伝子」という概念なのである。DNAの発見は、それを補強しただけだ。
 では、「遺伝子」という概念は、どこから生じたか? 元をたどれば、メンデルに行きつく。ただし、メンデルの「遺伝子」という概念は、学会に提出されたとき、全面否定されたのだ。ここにこそ着目しよう。「遺伝子という概念を見出したのは、人類の偉大な成果である」のではない。「遺伝子という概念を見出したのは、メンデルの偉大な成果であるが、それを否定して 35年間も無視してきたのは、人類の壮大な恥である」のだ。( → クラス進化論 Q&A

 このことを反省するべきだ。そして、そう反省すれば、もっと重要なことに気づく。── われわれはいまだに、「遺伝子とは何か」ということを、ろくにわかっていないのだ。それどころか、事実とは全然違うふうに理解しているのだ。
 勘違いの典型的なのは、「利己的な遺伝子」という学説だ。次いで、「自然淘汰と突然変異による進化」という進化論だ。これらは矛盾だらけである。( → クラス進化論の概要
 また、「個々の遺伝子は特定の機能をになう」という説もある。これもまた、とんでもない勘違いだ。ただし、この点だけは、最近の遺伝子学ではようやく、「これは勘違いだ」というふうに気づきはじめたようだ。では、正しくは? 次のページ。
( → クラス進化論のサイト の「第2部 概要」)

  【 追記 】
 メンデルの提出した「遺伝子」という概念の意義についても、たいていの人は正しく理解できていないようだ。そこで、簡単に示しておく。
 「遺伝には物質的な基礎がある」ということを明らかにしたのが、遺伝子発見の意義である。── そう思っている人がけっこう多いようだ。しかし、とんでもない。それは勘違いだ。
 「遺伝には物質的な基礎がある」ということなら、特別な発想なしに、誰にでも推定が付く。実際、近代科学が登場したときから、ずっと推定されていた。むしろ、それとは逆に、「遺伝の原因には、物質的な基礎がない」なんて発想する人がいるとしたら、それは、「すべては神の手が決めるのだ」と信じるような、宗教家ぐらいだろう。(古典派経済学者も、そう思いそうだが。)
 「遺伝には物質的な基礎がある」ということは、ずっと昔から推定されていた。ただし、その説には、難点があった。今、遺伝の物質的な基礎を「遺伝要素」と呼ぶことにしよう。すると、父親の遺伝要素と、母親の遺伝要素とを、足して2で割る形で、子供の遺伝要素が決まるはずだ。
 「足して2で割る」ということは、遺伝要素の均質化を意味する。(白と黒を足して2で割ると均質化するのと同様だ。)すると、何百世代も経過するうちに、遺伝要素がどんどん均質化するので、あらゆる個体の遺伝子はまったく同じになってしまう。誰もが同じ遺伝要素をもつことになる。これは事実に反する。── かくて、「遺伝要素」という概念は、否定された。
 ところが、メンデルは、ここに補正を加えた。それは、「遺伝要素は、連続的なものではなくて、最小単位をもつ。最小単位は分割されない」という発想だ。その最小単位が「遺伝子」である。父親の遺伝子Aと、母親の遺伝子Bに対して、子供の遺伝子はどうなるか? これまでの発想ならば、「(A+B)/2」となるはずだったが、メンデルの発想によれば、「A または B」となる。
 こうしてメンデルは、遺伝要素に「連続性」のかわりに「最小単位」という概念を導入した。ここにメンデルの画期的な意義がある。そして、遺伝子という概念が重要なのは、この「最小単位」という発想が重要であるからだ。「遺伝には物質的な基礎がある」ということが重要なのではなくて、「遺伝の物質的な基礎には最小単位がある」ということが重要なのだ。ここを、正しく理解しよう。
( ※ ついでに言えば、進化にも、最小単位がある。「遺伝は連続的だ」という発想が誤りであるように、「進化は連続的だ」という発想にも誤りがある。どちらにも、最小単位があるのだ。物質の最小単位は、電子などの量子である。遺伝の最小単位は、遺伝子である。進化の最小単位は、種の進化である。……ところが現代の進化論は、「連続的な進化」という発想を取っている。そのせいで、化石的事実とは完全に食い違っている。結局、遺伝子発見や量子力学などの歴史から、何も学んでいない、と言える。現代の進化論は、事実を無視するような、エセ科学なのだ。人類はかくも真実から遠ざかっているのだ。)
( ※ オマケで言えば、経済学も同様である。古典派経済学者は、「経済現象は連続的だ」と信じている。そのせいで、「均衡と不均衡の間の不連続」という事実に気づかない。……今のあらゆる学問分野を覆っていいるのは、「自然は連続である」という誤った基本認識だ。例外は、量子力学だ。だから、量子力学だけは、20世紀初頭に近代化した。また、コンピュータ科学も、20世紀途中で、「アナログ」から「デジタル」に転じた。それ以外のほとんどの学問は、いまだに「連続」という概念に縛られているせいで、事実を誤認識している。アナログにとらわれたアナクロ科学。)
( → クラス進化論 Q&A2


● ニュースと感想  (7月31日b)

 「国語の誤用」について。
 「部課長の国語世論調査」によると、国語の用語法が、誤用・誤解されることが多いという。「憮然」「檄を飛ばす」「姑息」など。(朝刊・各紙 2004-07-30 )
 すみません。私も「姑息」は間違えていました。政府批判に、「姑息」という用語をしばしば使いましたが、誤用でした。お詫びします。
( ※ ついでですが、新聞社の記事を検索すると、同じ語用がいっぱい見出される。朝日も結構やっているみたいですね。同病、相憐れむ。同じ穴のムジナ。……あれ、これも誤用かな?)
 

● ニュースと感想  (7月31日c)

 「派遣・アルバイト」について。
 派遣・アルバイトなどが増えているようだ。古典派ならば「これで労働市場の需給が均衡する」と喜ぶだろう。しかしマクロ的には、「総所得が縮小するとかえって景気が悪化する」と悲観するだろう。対立する主張が出る。では、どうなる? 
 この問題については、私は次のように答える。

 第1に、原理── 派遣・アルバイトなどは、雇用の弾力化をもたらすが、それゆえ、マクロ的に景気の変動を増幅させる効果があり、好ましくない。均衡状態ならば、雇用の弾力化は市場における配分を最適化するが、不均衡状態ならば、雇用の弾力化は合成の誤謬をもたらす。つまり、各企業の最適化が全体を悪化させる。
 第2に、対策── 派遣・アルバイトなどは、その企業にとっては利益になるが、国民全体には不利益になる。ゆえに、利益に課税することが好ましい。具体的には、派遣・アルバイトなどを利用した企業や雇用者は、失業手当をやたらともらいすぎになるので、その分を追徴するべきだ。「ちょっと働いて、すぐに失業して、失業手当をもらう」というズルができるので、そのズルができないように、課金するべきだ。すなわち、派遣・アルバイトなどを利用した企業に対して、失業保険や社会保障料などを、割り増しに課金する。通常よりも倍ぐらいの率で課金するといいだろう。……このことで、派遣・アルバイトのメリットを打ち消す。「正社員を解雇して、派遣・アルバイトなどへ」という流れを断ち切る。その一方で、どうしても派遣・アルバイトなどを利用したい企業や雇用者は、一定の課金を受け入れることで、派遣・アルバイトなどを利用できる。
( ※ 同様の理由で、「残業税」もよい。)

 なお、現状だと、どうなるか? 米国に似た事情になるだろう。正社員をやたらと解雇して、単純な作業の形で低賃金労働者ばかりが増える。一国全体の賃金レベルが下がる。それぞれの企業は利益を増やすが、いずれも低技能労働者ばかりが増えることで、企業の体質が低技能の集団になってしまう。
 一国の経済方針には、二つの道がある。一つは、ドイツのように、国全体が高技能の集団となり、高技能・高賃金の国家となること。もう一つは、途上国のように、国全体が低技能の国となり、低技能・低賃金の国家となること。
 この二つのうち、どちらでも、企業は高い所得を得ることができる。ただし、ドイツのような道は、たえず努力することが必要だ。途上国のような道は、手っ取り早く利益を上げることが可能だ。
 あとは、経営者の意識しだいだ。経営者が「まともに働いて稼ごう」と思うならば、ドイツのような道を取る。経営者が「楽して帳簿をいじるだけで稼ごう」と思うならば、米国のような道を取る。すると、手っ取り早く金を稼げるが、国全体が先進国から途上国に変えられていく。今は手っ取り早く金を稼げるが、じわじわと金を失っていく。(タコが自分の足を食うようなものだ。)

 結語。
 「派遣・アルバイトなどを利用しよう。そうすれば企業の経営が好転する」という主張は、国全体を先進国から途上国に変えようとすることだ。それは、目先の利益を追うにはいいが、長期的には国全体の水準を低レベルに変えていく。
 優れた企業経営者は、「賃金を下げて利益を出そう」などとは思わず、「企業の質を向上させて、高賃金・高技能の会社にしよう」とするものだ。
 ソニーであれ、トヨタであれ、ホンダであれ、キヤノンであれ、同業他社よりは賃金水準が上である。優れた企業というものは、賃金を下げようとするより、上げようとするものだ。「派遣・アルバイトなどを利用しよう」という主張は、日本全体を、三流企業の集団に変えようとするものだ。「コストを下げればいい」という発想は、経営方針としては最悪なのである。

( ※ 「中国の低賃金に対抗して、日本でも賃下げをせよ」というような野口悠紀雄の主張に従えば、日本全体が中国のような途上国になってしまう。低賃金・低技能の国がよければ、自分一人が日本を脱出して中国の田舎で暮らせばいいのだ。……なぜなら、そういう阿呆な経済学を主張するエコノミストは、自己の主張自体があまりにも低技能であるからだ。そういう低技能なエコノミストは、日本にはふさわしくなく、中国にふさわしい。 → 1月29日


● ニュースと感想  (8月01日)

 「景気診断」について。
 米国の個人消費が大幅に減速したという。理由は、(原油高騰による物価上昇ゆえに)消費者の実質所得が減少したせいであるらしい。(読売・朝刊・経済面 2004-07-31 )
 このことでわかることは、次の二点だ。

 (1) 景気の先行き
 日本経済は、景気回復基調をたどってきた。しかしそれは、外需主導の景気回復だった。外需がしぼめば、景気回復もしぼむ。「いや、米国がしぼんでも、中国がある差」と思うかもしれないが、中国への輸出はもともと、「日本 → 中国 → 米国」という形の迂回輸出のようなものであった。最後の米国市場がしぼめば、中国向けの輸出もしぼむ。
 というわけで、しばらく続いた「外需主導の景気回復」も、いよいよ終局に近づいたようだ。政府やエコノミストは、「景気回復を持続させよう」なんて、お気楽なことを言っていますがね。
 今の景気回復が、自力で成し遂げられたものであれば、自力で継続させることはできる。他力(外需)で成し遂げられたものであれば、自力で継続させることはできない。……だいたい、他力で成し遂げられたものを、「おれがうまくやったからだ」なんて言って、横取るように自慢したのが、そもそもの間違い。

 (2) 物価上昇の効果
 物価上昇が起こると、実質所得の減少で、景気は悪化する。このことが重要だ。
 「インフレ目標」を提言するマネタリストは、「物価上昇が起こると、先食い効果が出るから、景気は回復する」と主張する。これは、「アメとムチ」の効果を述べているように見えるが、実は曲解しているだけだ。物価上昇には、たしかに、「アメとムチ」の効果がある。( → 「需要統御理論」 簡単解説
 とはいえ、その効果は、「物価上昇が継続している」という状態でのみ、成立するのだ。たとえば、「毎年5%の物価上昇」と「毎年5%の賃上げ」ならば、それは「アメとムチ」の効果がある。しかし、「物価上昇が突発的に生じた」という状態では、事情は異なる。その場合、「今年は5%の物価上昇」と「今年は5%の賃上げ」のかわりに、「今年は5%の物価上昇」と「今年は0%の賃上げ」である。つまり、「今年はマイナス5%の実質所得減少」だ。当然、(実質値の)総所得の減少により、(実質値の)総生産は減る。
 今回の統計数値によって、「インフレ目標」を提言するマネタリストの主張が間違っている、ということが実証されたわけだ。
( ※ 実質所得が減少すれば、実質生産が減る、というのは、当り前のことだ。マクロ経済のイロハである。こんなことは、簡単にわかることなのだが、マネタリストには、なかなか理解できない。でもって、今日でもいまだに、「インフレ目標で物価上昇を期待させよう」と主張する。仮に、物価上昇が期待されたら、GDPは増えるどころか減るのだが、そんなこともわからないようだ。)
( ※ ちなみに、あなただったら、どうしますか? 来月から物価が2倍に上がるとする。しかし給料は現状維持だから、実質所得は半分になる。……そうわかっていたら、今月、どうします? 浪費しますか? 倹約しますか? もし浪費すれば、来月は、金がなくなって、サラ金に行くハメになる。倹約すれば、清貧なだけだ。どうします? ……マネタリストの主張だと、「みんな浪費するから、景気は回復する」となる。本気ですかね。たしかにまあ、日本人がみんな浪費癖なら、そうなる。しかし、そんなにバブリーな浪費癖があるなら、とっくに日本経済はデフレを脱出しているはずなんだが。)


● ニュースと感想  (8月02日)

 「刑法の有期刑」について。
 有期刑の上限を 20年から30年に伸ばそう、という方針が出されたそうだ。(朝日か読売の夕刊 2004-07-31 )
 これはこれで、特にコメントする気はないが、別の話。
 アメリカでは、やたらと有期刑で監獄に閉じ込めるかわりに、「最後のチャンス」を与える制度があるという。荒れ地みたいなところに若者を送って、必死に自然と取り組む林業ふうの作業をやらせる。真面目にやると、真面目に更生することができるから、そうなると、監獄に閉じ込めるかわりに、社会復帰させる。社会に復帰しても、前のように無法行為はしなくなり、真面目に生活する。政府としても、無駄飯を食わせるコストが減り、逆に、税を受け取る。一方、ここでも真面目にやることができなかったら、どうしようもないので、監獄にぶち込む。
( ※ 政治家は、反省能力がゼロなので、更生できず、監獄に入るしかないみたいですね。  (^^); )

 [ 参考 ]
 関連して、「死刑廃止」の話。(これはあくまで、個人的な見解です。)
 死刑廃止論というのがある。論者は、オウムのような凶悪事件が出ると、とたんに黙るが、ほとぼりが冷めると、すぐまた口を出す。雨後の竹の子みたいで、キリがなくて、わずらわしい。
 そこで、提案したい。「死刑廃止」については、国民各人が任意で決めることにしよう。
 どうです。これなら、全員が意見の一致を見るはずだ。というわけで、この制度を作って、登録することにしましょう。「死刑廃止」論者は、「私を殺した犯人は死刑にならない」と登録すればよい。これで、問題は解決。皮肉っぽいが有効な解決案。

 [ 付記 ]
 死刑廃止論で一番欠けていると思えるのは、被害者の悲しみへの共感である。私としては、これこそ、最も重要であると思う。「愛」や「悲しみ」こそ、人間の最も基本的な原理だ。「冷静に考えよう」という死刑廃止論者の主張は、「人間性を失おう」という主張と同じである。それは「愛するものを失っても平然としていよう」ということだからだ。……朝日の死刑廃止論には、機械のように冷静な論理ばかりがあって、人間性というものがまったく欠落している。朝日というのは、冷たいロボットみたいだ。
( ※ なお、私が死刑廃止に反対するのは、厳罰主義だからではない。この点は、誤解のないように。)
( ※ なお、死刑囚の命を奪うか否かは、政府が決めるのではなくて、死刑囚自身が決めている。なぜなら、「殺人を犯せば死刑」という制度があるとわかっているあとで、殺人という行為を犯したのは、殺人犯である死刑囚自身であるからだ。……たとえて言おう。「自動車で酒酔い運転すると、交通事故死しやすい」という事実が判明している。ここで、酒酔い運転をして死んだなら、その責任は運転者自身にある。一方、「酒と自動車をなくせば、酒酔い運転の事故死はなくなる。酒酔い運転者の命は、何にも増して貴重だ。ゆえに、酒と自動車を全廃せよ」と主張する立場もある。……そういうのは、私には、責任転嫁としか思えないんですが、どうでしょう?)
( ※ 本項の主張は、あくまで私個人の見解だ。この問題には、個人的な人生観の違いがいろいろと現れるだろう。ゆえに、私は自分の主張を、あえて他人に押しつけるつもりはない。国民各人が考えて決めればいいと思う。……逆に言えば、「死刑賛成論者は、国による殺人を肯定している!」なんてヒステリックに叫んで、他人を殺人鬼のように非難する、朝日のような一方的な主張には、共感できない。)

 [ 余談 ]
 本項で提案したことの意義は? 実は、「死刑廃止」という問題それ自体ではなくて、別のことである。死刑囚の命を奪うことが目的ではなくて、他の人々の命を救うことが目的だ。
 本項の提案のようにすれば、「死刑廃止」という問題に、カタが付く。そうすれば、どっちつかずの下らない論議を、延々といつまでもやらないで済む。かくて、死刑囚の命を救うことから論議をはずして、もっと莫大な生命を救うことに議論を集中できる。
 たとえば、毎年1万人以上が、不況という経済的な理由で自殺している。「年に数人の死刑囚の命を救おう」なんていう馬鹿げた議論を離れて、「年に1万人の善良な人々の命を救おう」という正常な議論をできる。
 実際は? 死刑廃止論の朝日新聞は、「景気回復しつつある」とやたらに報道する。企業の決算だけを見て、労働者の所得を見ない。「最悪から次悪に変わったゆえに、状況はかなり改善している」というデタラメ報道ばかりをして、「最悪ではないとしても、いまだにひどい雇用環境だ」という事実に蓋をする。かくて、「失業や薄給がずっと持続している」という事実報道を、すべて紙面から抹消する。
 つまり、死刑囚の命を救おうとすればするほど、一般人の命を大量に奪う現状を放置するのだ。この十年間で、十万人以上が不況のせいで死んだ。そういう事実を報道するためでなく、そういう事実を隠蔽するために、朝日新聞というのは存在する。
( ※ 世の中を悪くしている諸悪の根源は、与党と朝日だ。この両者を死刑にすれば、世の中はずっと良くなる……と思うんですけど、それが「死刑存続」の理由ではありません。  (^^); )


● ニュースと感想  (8月02日a)

 「死刑問題」について。 ( 前項 [ 付記 ]の続き。) (この項、場所はここだが、掲載日は 8月11日。)
 死刑について、補足すべきことを三件、追加しておく。(いずれも、「二値論理のかわりに、(中間値のある)ファジー論理を使う」という立場からの解説。)

 (1) 誤審
 死刑では、誤審により、間違って人の命を奪う、ということも起こるだろう。これはたしかに、問題だ。
 ただし、だからといって、「死刑を廃止せよ」というのでは、「誤審があるから、あらゆる犯罪者を野放しにせよ」というふうな結論になりがちだ。
 では、どうするべきか? 誤審をなくせばよい。これが根本的な解決案だ。
 では、どうやって、誤審をなくせるか? 別に、特別な工夫はいらない。現在の裁判制度というのは、本質的に、誤審を起こすような仕組みになっている。だから、それを改善するだけでよい。
 説明しよう。裁判で被告がいる。有罪か無罪か、判別しにくい。裁判官が5人いたととして、「3対2」で、どちらか一方に決まる。ところが、ちょっと事情がズレると、「2対3」で、別の側に決まる。── これが現在の裁判システムだ。こういうシステムは、根本的に誤審が生じやすい。確率分布で考えると、まったく同様の事件を裁いたとしても、「3対2」とか「2対3」とかが分布するから、必然的に、世の中の多くの裁判では、誤審が生じる。
 そこで、誤審による弊害を生じさせないために、「疑わしきは罰せず」という原則がある。しかしこの原則は、あまり適用されない。原則通りにすると、たいていの犯罪は無罪になってしまうからだ。そこで、適当な推測が成立すれば、有罪になる。「かなり疑わしきは有罪に」という原則だ。かくて、誤審が大量に発生する。
 では、どうするべきか? そういうシステムを廃止すればよい。つまり、「疑わしき」に対しては、「有罪」も「無罪」も、どちらも誤審が起こるのだから、「有罪」も「無罪」も、どちらもやめればよい。かわりに、どうするか? 「半分ぐらい有罪」というのを導入する。つまり、中間刑を認める。たとえば、こうだ。
 「被告が彼女を殺害したというのは、ほぼ確実である。とはいえ、絶対確実とは言えない。証拠は完璧ではない。ここで、疑わしきは罰せずという原則で、被告を解放してしまうのは、遺族の感情をおもんぱかると、とうてい無理である。社会正義からも納得できない。かといって、有罪にして、死刑を宣告するのは、一抹の不安が残る。ひょっとしたら、被告は犯人ではないかもしれない。……かくて、無罪と死刑のどちらにもしかねる。そこで、罪としては死刑に相当するが、証拠が不十分であるという理由で、(無罪と死刑の中間刑として)懲役15年を判決する」
 これは、白でも黒でもない。となると、被告側にも被害者側にも、納得が行かないかもしれない。とはいえ、どちらも半分ぐらいは納得できるだろう。被告側は「とりあえずは死刑にならずに済んだ」と安堵する。被害者側は「不満足ではあるが、とりあえずは無罪にせずに済んだ」と安堵する。
 現状では、そうなっていない。強引に、白か黒かを決める。当然、誤審が大量に発生する。……現状は、誤審が大量に発生させるシステムになっている。このシステムに、根本的な難点がある。
( ※ 実例としては、「疑惑の銃弾」のロス銃撃事件を思い浮かべるといい。あるいは、米国のシンプソン事件を思い浮かべるといい。状況証拠からは、限りなく黒に近い。誰がどう見ても、黒である。しかし、明白な直接証拠がない。かくて、無罪となる。……こういう場合、中間刑ならば、かなり納得できるのではなかろうか?)

 (2) 死刑と無期刑の間
 「死刑と無期刑の間に、適切な刑がないのが困る」という声がしばしば聞かれる。これは、実は、解決が可能である。次のような刑がある。
 「一定の生存期間つきの死刑」
 たとえば、犯罪実行後、十年間は、基本的に生存権を与える。ただし、悪質度があまり重くない場合には、生存権を延長する。二十年または三十年の生存権を与える。その後に死刑を執行する。死刑囚は死刑執行のときまで、「明日執行か」とびくびくすることもなくなる。
 この生存権の期間が百年になれば、実質的には、無期懲役と同じになる。生存権が追加された結果、余命が平均余命と同じになれば、死刑と自然死とは五分五分で、ギャンブルみたいになる。……この場合、死刑囚としては、特に文句はないだろう。平均寿命ぐらいまでは殺されないことになるのだから。一方、それでも一応は死刑を科したことで、被害者感情としては、ある程度は納得が行く。

 (3) 去勢
 粗暴犯については、死刑と無期刑の間に、「去勢つき懲役刑」というのを選択実施できるいいだろう。たとえば、
 「本件は、きわめて残忍であった。自らの性的欲望に駆られて、若い女性を陵辱し、あげく、被害者に逃げられるとまずいと思って、身勝手に殺害した。そんなことを五回も繰り返した。人倫にもとる野獣とさえ言える。遺族の悲しみは、察するにあまりある。……しかしこの犯罪は、本人が先天的に男性ホルモン過剰体質であったのが根本原因だ。そのせいで、粗暴な獰猛な性格となり、自分でも自分を抑えきれなくなってしまった。これはあくまで性格であり、精神病ではないから、本人の責任は免れない。しかし、男性ホルモン過剰という体質さえなければ、このような犯罪は行なわれなかったはずなのだ。……そこで、次の判決を下す。原則として、死刑。ただし、本人が自発的意思により去勢を受ければ、無期懲役に刑を減じる。どちらがいいかは、本人が決めればよい」

 [ 付記 ]
 最後の「去勢」は、犯罪抑止の効果としては、「死刑」よりもずっと効果がありそうだ。ヤクザ連中にとっては、「死刑にするぞ」と脅したって、あまり効果はない。「ふん。あっしらは命を賭けているんだ。死ぬのが怖くて、シマを張れるか! 文句を言うなら、あんたのタマ(命)をもらうぜ」と。
 しかしそこへ、警官が登場する。「そんなふうに市民を脅かすと、おまえの自慢のタマは裁判所でチョン切られるぜ。それでいいのか」と。
 ヤクザは、血の気が引く。こっちのタマを奪われたら、男から女になってしまう。それは死ぬよりも辛いことだ。


● ニュースと感想  (8月02日b)

 「マイクロソフトの株主還元」について。
 マイクロソフトが株主還元として、特別配当をするという。4年間で8兆円。朝日は先日、これを「すごい」という趣旨で報道した。さらにコラムでは「すごい」と明白に感嘆している。(朝日・夕刊・コラム 2004-07-27 )
 まったく経済音痴な記事は困る。8兆円を特別配当しても、すごくも何ともない。そもそもこれは「株主還元」ではない。これを「株主還元」と呼ぶのであれば、これと正反対の「時価発行」は「株主からの没収」ということになる。「8兆円の時価発行は、株主から8兆円を没収すること」なのか? 馬鹿げた話だ。

 まともに考えよう。8兆円を特別配当したら、株主はいくら得するか? 8兆円、得するか? 実は、1円も得しない。なぜか?
 8兆円は、マイクロソフトという会社の株式価値を減らすことによってまかなわれる。つまり、株式価値が総額で8兆円減り、その分、8兆円が特別配当という形で一時的に与えられる。タコが自分の足を食うのと同じだ。タコは、今は足を食って喜ぶが、その分、自分の体が小さくなる。(8兆円は天から降ってくるわけではないのだから、当然だ。)
 わかりやすいたとえで言おう。100万円の債券があり、利子が5万円だとする。合計、105万円分だ。ここで、利子として8万円をプラスして、元金としては8万円をマイナスする。すると、利子だけを見れば「8万円増えた」と喜べるが、元金は「8万円減った」というふうになるから、差し引きして、損得はない。株式も同様で、配当が8兆円増えれば、株式価値が8兆円分減る。合計すれば、損得はない。

 本質的に言えば、元金は長期の損得を意味し、配当・利子は当期の損得を意味する。配当・利子を増やすと、当期ではその分だけ得をするが、長期的にはその分だけ損する。合計は同じ。
 で、このことに、何の効果があるか? 節税対策だ。ビルゲイツが将来、莫大な株式を売ると、莫大な売却利益に課税される。一方、今すぐ配当をすれば、かなり小額で済むので、莫大な売却利益に対する課税を免れる。その一方で、株式数は不変だから、株式による支配を続けることができる。
( ※ 実は、もう一つ、理由がある。マイクロソフトの社員には、ストックオプションがあり、退社する前に株式に変換して、多大な利益を得ることができる。しかし今のうちに特別配当にしてしまえば、ビルゲイツのような現在の株主は得をするが、マイクロソフト社員のような将来の株主は損をする。そうやって、ビルゲイツが利益をふんだくる。)

 まとめ。
 今回のマイクロソフトの方針は、ただの「ビルゲイツのための節税対策」であるにすぎない。所得を平準化して、莫大な課税を免れようとしているだけだ。(さらに、ストックオプション対策もある。)
 ただし、それを朝日は勘違いして、「株主還元」と誤報する。経済音痴のデタラメ解説。マイクロソフトに対する多大な宣伝行為だ。しかも、虚報である。守銭奴のエゴな節税行為を、社会への慈善であるかのように報道する。……いくらもらっているんだか。サイテー。


● ニュースと感想  (8月03日)

 「パソコン(WindowsXP)の検索と圧縮」について。
 WindowsXP の雑談。検索についての話。二つ。

 (1) 圧縮方式
 Zip で圧縮すると、圧縮ファイル(WindowsXP では圧縮フォルダと言う)の内容も、WindowsXP のファイル検索では検索するそうだ。そのせいで、ものすごく時間がかかることもあるらしい。
 圧縮ファイルの内容を検索するというのは、普通は、高機能な圧縮解凍ソフトを使うが、そもそも、用途自体があまりない。私は使ったことはいっぺんもない。(たいていは元のファイルで grep検索する。)
 つまり、WindowsXP の検索機能は、デメリットがあり、メリットがない。
 これに対する対処法は、二通り。
  (a) WindowsXP では zip 圧縮を使わず、LHA(LZH形式)を使う。
  (b) WindowsXP の検索設定を変える。(特定ソフトを使う。)
 私はとりあえず、両方やっています。
  (a) のためのソフト。LHA圧縮専用ソフトを使うとよい。
      → EF 圧縮専用 ( http://nmvl.s5.xrea.com/
     (これを「送る」(SendToフォルダ)に入れると便利。)
  (b) のためのソフト。WindowsXP の設定を変更する。
      → Win高速化 XP+ ( http://www.asahi-net.or.jp/~vz6t-iwt/

 (2) txt検索
 WindowsXP は、ファイル検索のインデックスファイル(全文検索のインデックスファイルのようなもの)を、常にバックグラウンドで作成している。MSオフィスでは FindFast と呼ばれていたものだ。
 これは、高速検索のメリットはあるが、マシンが勝手にバックグラウンドで動いていることになり、気持ち悪い。テキストファイルやHTMLファイルの検索ぐらいならば、いちいちそのたびにやってもたいして時間は食わないから、こんなインデックスファイルなんかなくても、さして不便ではない。当然、FindFast はOFFにしておいた。
 で、WindowsXP でも同様に、インデックスファイル検索もOFFにした。しかし、あら不思議。こうすると、テキストファイルを普通に検索することが不可能になる。インデックスファイルの作成をやめると、普通のテキストファイル検索機能までなくなってしまう。(なぜかHTMLファイルならばファイル検索される。)……というわけで、実用にならないので、OFFをやめることにした。……これって、バグ? ひどいですね。
( ※ じゃ、どうすればいいか、というと、どうしようもないみたい。ユーザはカスタマイズができなくなる、というだけ。マシンはバックグラウンドでちょいちょい動くことになる。)

 [ 余談 ]
 MS-IE 6.0 にも、表示の際、困った問題がある。
 MS-IE 6.0 では、段落の冒頭が1字分、下げて表示される。そのせいで、当初のレイアウトが崩れてしまう。図では、メチャクチャになることもある。
 何とかならないかと思って、工夫を探そうとしたが、なかなか見出されない。JavaScript でも使うしかないんでしょうか? 困ったもんですね。
 ついでに言えば、EM タグの設定も、スタイルシートがあるとき、以前は「斜体なし」だったのに、今度は「斜体あり」になっている。
 さらには、画面の幅も、以前とは微妙に変わる。
 表示の仕様を勝手に次々と変えるのは困りもの。(どうせW3Cの仕様が何たらかんたら言うんだろうけど。……原理主義者ほど困るものはない。過去の資産を継続できなくなってしまう。そういうのは、歴史破壊主義・文化破壊主義とでも言うべき。)


● ニュースと感想  (8月03日b)

 「携帯型のパソコン」について。 (7月26日b で、「電子辞書にワープロ機能を」と提案したが、その続編。)
 電子辞書をメインにしない形で、携帯型のワープロがほしい。前回も述べたが、切にそう思う。
 かつては、こういう機器もあったが、ほとんど売れなかった。(生産中止になった。) なぜか? 単独で使うことが想定されたからだ。しかし今は、パソコンが普及している。状況は一変している。この状況では、補完的な用途として、携帯型のワープロの存在価値がある。
 特に重要なのは、Windows 互換のファイル形式である、ということだ。かつての携帯型のワープロは、独自のファイル形式であったから、非常に不便だった。いちいち他の専用ワープロと接続するしかなかった。ユーザはその社の機種のユーザに限定された。また、接続も、フロッピーまたは専用コードを使うので、不便だった。
 今は、違う。ユーザは、あらゆるパソコンユーザーだ。(Macを含む。)共通の基盤は、MS-DOS形式のファイルである、ということだけだ。
 似たものに、WindowsCE があるが、あれは、あれやこれやと機能を詰め込みすぎて、すごく重くなっている。カラー液晶画面でグラフィックな機能がいろいろとできたが、そのせいで、「遅い・高い」というふうになり、「役立たずのくせに、値段だけは高い」というふうになっていた。一方、上記の機器ならば、文字ベースの機能に限定することで、「速い・安い」というふうになり、「役に立つのに、値段は安い」というふうになる。
 現在、携帯型のパソコンとしては、20万円〜30万円ぐらいの、サブノートしかない。それ以下の価格では、古い WindowsCE ぐらいしかないが、これは、「役立たずのくせに、値段だけは高い」という商品だ。
 仕方なく、たいていの人は、ケータイで親指入力しているが、やっている本人も、馬鹿らしくなるはずだ。Palm でやれればいいが、QWERTY配列だから、まともに入力できない。また、メモリカードも使えないことが多く、パソコンとの連携が不十分だ。……これらは、携帯性だけが重視され、機能がまったく足りない。
 だから、次のような製品がほしい。
  ・ 大きさは、ノートパソコンと Palm との中間。
  ・ 値段は、Palm の高級機よりもずっと安い。(3万円程度)
 そして、この条件を満たすのが、「ワープロ機能つきの電子辞書」だ。そして、それが可能な理由は、「白黒液晶と文字ベースに機能を絞ること」だ。あと、もう一つ、「既存の電子辞書の生産設備を使うので、初期投資がゼロ同然で済む」ということもある。

 [ 付記 ]
 特に便利そうな機能を紹介しておく。
 ケータイと一体的に使える機能だ。ケータイは、画面が狭い。そこで、ケータイのデータを、外部画面に表示できるようにする。 ( ※ 下図は、ブラウザによっては、右端が  のように表示されます。)

   [ケータイ]────── or :

             コード      外部画面

 ケータイで、長い文章を読んだり、ウェブに接続したときは、これが便利。
 メーカーとしては、ケータイでも買い換え需要を狙えるし、携帯ワープロ機器でも販売を伸ばせるし、一石二鳥だ。
 なお、コードを使わずに、二つの機器を一体化させて接続することができると、ガンダムみたいで、面白い。
 この場合、ケータイは、機能を絞ることで、超小型にできる。通話機能にはあまりこだわないでいいから、折りたたみ機能は不要だ。電源も、携帯ワープロ機器の電源を使うことにすれば、小型で長時間の利用が可能となる。さらには、液晶画面すら、通常よりもずっと小さくていい。予備画面として、1行8字だけ表示できれば十分だ。ボタンだって、ボールペンの先でチョンチョンと打てれば、それで十分だ。……重量40グラムのケータイができるかも。
 この商品セットの名称は「カンガルー」だ。親の中に、小さな子供が収まる。いざとなったら、子供は分離して、一人で行動する。外に出て、子供が不便だとなったら、よその親の中に入る。それでちゃんと使える。肝心の情報は、子供の中のメモリーに入っているから、それで大丈夫。
 なお、親と子供の接続端子は、メモリーカードのソケットと互換にするとよさそうだ。子供(ケータイ)がメモリーカードのかわりになる。


● ニュースと感想  (8月04日)

 「空調服(空冷服)」について。
 服の一部に扇風機(ファン)が付いていて、服の内部に風をめぐらせる、という服が販売されているという。(週刊 AERA 最新号)( 朝日・夕刊・社会面 2004-08-03 にも簡単な記事。……これは 05日に追記。
 けっこう涼しいらしい。おもしろいですね。
 この新発明は、汗の気化熱を使うと説明しているが、要するに、扇風機である。ドラエモンのタケコプターを、自分の内部に向けたわけだ。  (^^);
 模型っぽいが、私は好きです。気化熱を使うという、古いアイデアがよろしい。ハイテクなんか使わないところがよろしい。値段も1万円以下で安いところが、一番よろしい。
 普通の技術者だと、「熱電素子と太陽電池」なんてハイテクのを発想して、値段を百万円ぐらいにするだろう。こういうのは、大嫌いだ。

( ※ こういう大嫌いなハイテクと同じタイプが、先日の「ソニーのロボット」だ。うさんくさい。技術者の自己満足。)
( ※ 似ているのが、日産の次期サニーだ。メーカーの技術者とデザイナーの悪趣味を、強引に押しつける。ふん。ティーノ、パルサー、プリメーラ、スカイライン、プレサージュで、大失敗したくせに。また繰り返す。懲りない人々。)
( ※ 余談だが、トヨタの「 Porte 」という新型ミニカーは、とてもよろしい。ちっともトヨタらしくない。私が前から望んでいたミニカーがようやく実現した、という感じだ。巨大な室内と、5人乗り、という発想。特に、使い勝手については、徹底的に女性ユーザの声を聞いたらしい。これは立派だ。感心した。……私みたいなわがまま男にはできないことです。  (^^);  ← 冷や汗出しても、涼しくない。)


● ニュースと感想  (8月04日b)

 「地中冷暖房」について。
 エアコンの室外機は、通常、外気と熱交換する。これを、地中の地下水と熱交換する形にすると、熱効率が向上するという。夏は地中の冷水を利用し、冬は地中の温水を利用する。地下水は夏も冬もほぼ一定(15度ぐらい)だから、そういうことが可能だという。必要エネルギーは、半分ぐらいで済む計算になる。ただし、設置コストが倍になるのが難点だ、という。(読売・夕刊・科学面 2004-07-31 )
 以後は、私のアイデア。読まなくてもよい。
 上記案は、割と平凡なアイデアではある。実は、私もこれとまったく同じことを考えていた。
 そこで、私なりに、上記の問題を解決する案を示す。
 第1に、コストの問題は、解決可能だ。既存の住宅ではなくて、新築住宅に限り、新築時に設置すれば、土木工事は「ついで」になるので、コストはいくらか減る。さらに、同じ土木工事を、何十軒もまとめてやれば(一括の建て売り住宅にするわけだ)、土木工事の費用は大幅に減少する。……これなら、のちの運転費の低下でまかなえるようになるだろう。(将来の電力料金の値上げも見込むとよい。)
 第2に、特に雪国に限り、冬の積雪を利用する。床のない(屋根と壁だけの)物置小屋のようなものを建てて、室内では、地面に発泡スチロールを敷き詰めておく。発泡スチロールの上に、積雪を溜め込む。冬の間は、雪は溶けないし、発泡スチロールがあるので、地面は別に冷えることはない。やがて、夏になると、積雪が溶けて、発泡スチロールの隙間から、地面にしみこむ。地面にしみこんだ冷水が、地下水を冷やす。……というわけで、「夏も冬も一定温度」ではなくて、「冬は特に変わりないが、夏は特別ひんやり」という地下水となる。これだと、冷房効率が、劇的に向上する。
 [ 付記 ]
 報道されたこの地下水利用の方法は、私は好きである。「太陽電池を」とか「風力発電を」とか、そういうふうに電力供給を増やすかわりに、電力消費を減らす、という道だからだ。逆転の発想。
 なお、太陽電池は、変換効率が低すぎるので、現時点ではコスト的に採算に合わない。ただし、シャープの新開発した薄型の太陽電池は、効率が非常に高く、近いうちには、普及しそうだ。
( ※ とはいえ、太陽電池が普及すれば普及するほど、室外機がガンガンがなり立てて、日本の戸外は暑くなる。)

 [ 付記 ]
 参考情報。地球温暖化。(いずれも、朝日・朝刊・社会面 2004-08-02 )
 (1) 東京都心の7月の平均最高気温は、33.1度。7月としては観測史上最高。20日には都心(大手町)での史上最高である39.5度。7月の月平均気温もタイ記録。平年を3.1度上回る。1日の最低気温が高くなる記録は、21日の29.6度。年間を通じた史上最高値を10年ぶりに塗り替える。これまでは94年29.3度だった。(なお、20日夜から21日朝に欠けては最低気温が30.1度で、超熱帯夜。ただし、21日の深夜になって、上記の温度に下がった。))
 (2) 新潟で万年雪が溶けて、巨大な雪渓が崩落した。不気味。8月1日は新潟が国内で最も暑くて、最高気温は38.6度。
( ※ 別の記事によると、東京・新潟以外の各地も、史上最高を更新したところが多いそうだ。)


● ニュースと感想  (8月05日)

 「サマータイムとサマーワーク」について。
 サマータイムの実験を札幌で実施したところ、すこぶる好評だという。早朝は涼しいし、夜は明るいし、メリットが多大だ。消費も増えたという。(読売・朝刊・社会面 2004-08-01 。朝日・朝刊・社会面3 2004-08-04 にも同種記事。)
 これは、私の主張してきたサマータイム批判とは、矛盾する結果だ、と思える。では、そうか? 実は、この新聞記事の方が間違っているのだ。新聞というものがいかに誤報を重ねるか、という見本。

 第1に、このサマータイムというのは、「夏期時間制」のことではなくて、「夏期就業制」(サマーワーク)とでも称すべきものだ。
 サマータイムならば、時計の針をいっせいに動かす。家中のパソコンや時計や腕時計やケータイや、さらには、炊飯器やオーディオや、ものすごい数の電器製品をいっせいに動かす。そして、秋になったら、また逆のことをやる。毎年二回、狂気的な騒ぎを繰り返す。そして、それが、全員に強制される。
 サマーワークならば、そうではない。あらゆる時計は、そのままだ。また、全員が強制されるわけではなく、サマーワークに参加した職場や学校でのみ、早くなる。当然、実施する人々と実施しない人々が生じる。その結果、通勤のピークや昼食のピークは分散される。結果的に、生活は過ごしやすくなる。

 第2に、実施したのは、札幌である。夏の札幌は、温帯だから、夕方は過ごしやすい。明るい過ごしやすい夕方を楽しめる。一方、夏の本州(九州から仙台あたりまで)は、熱帯または超熱帯だから、夕方は蒸し暑い。一番苦しい時間だ、とさえ言える。こんな時間は、従来ならば職場のクーラーで涼んでいられたのに、そこを追い出されて、地獄の蒸し暑さに苦しむことになる。各家庭ではクーラーをガンガン効かせて、そのせいで、都市の室外はますます暑苦しくなる。

 結語。
 今回の実験でわかったのは、次の二点だ。
   ・ (サマータイムでなく)サマーワークなら、多大なメリットがある。
   ・ (本州でなく)北海道でなら、夕方は過ごしやすい。
 一方、次のことは、正しくない。
   ・ 本州でサマータイムを実施すると、多大なメリットがある。
 記事は、この趣旨だ。実験結果を拡大解釈して、ひどい誤報をしている。読者は、新聞にだまされないように、注意しよう。


● ニュースと感想  (8月05日b)

 「水源税」について。
 森林の保護のために、「水源保全」という名目で、水源税をかける、という案が浮上している。神奈川県では、導入のため、与野党が対立しているそうだ。
 税としての形態は、水源税であれ一般税であれ、たいして違いはない。問題は、「水源保全」のためという名目であり、その支出である。これは本末転倒だ。
 「森林保護」と「水源保全」は、等価ではない。現状では、どうなっているか? 自然林(広葉樹林)を、「建材育成」の名目で、人工林(杉林)に変えた。「自然林は収益率がゼロだが、人工林は収益率がプラスだ。これで大儲け。うひひ」と狙った。ところが、人工林は間伐の手間がかかるので、人件費のコストが高く、収益率がマイナスだ。銀行に寝かせておいた方がまだマシだ。経営が苦しい。そこで、「水源税でまかなってくれ」という発想になる。
 つまりは、不良債権処理だ。「ボロ儲けを狙ったら、狙い通りにならず、赤字が出た。だから尻ぬぐいで、国民全体でツケ払いをしてくれ」というわけだ。
 で、その名分が、「森林による水源保全」である。しかし、ここには論理の倒錯がある。広葉樹林ならば、枯れ葉が腐葉土となり、多くの保水能力がある。しかし針葉樹林は、保水能力がないのだ。やればやるほど、水源はかえって悪化する。

 結語。
 「水源保全」の名目で「針葉樹林の維持」を狙うのは、本末転倒であり、逆効果だ。そんなことをやれば、無限の金食い虫になり、かつ、森林の保水力はどんどん悪化する。狂気の沙汰だ。
(しかも、針葉樹林が成育するはずのころには、地球温暖化のせいで、針葉樹林はすべて枯木林になるかもしれない。そもそも寒帯のための針葉樹が、夏には熱帯同然になる日本で、まともに成育するはずがないのだ。そして枯れる直前には、子孫繁栄のために、大量の花粉をばらまく。……この件は、すぐあとで修正する。
 では、正しくは? 普通なら、何もしなければよい。針葉樹林は荒廃するが、荒廃したあとは、草や雑木が茂り、やがては、広葉樹林になる。広葉樹林になったあとでは、維持費ゼロで、かつ、保水力は高まる。……長期的には、これ以外にあるまい。ただし、その変化の過程では、長い時間がかかる。(途中では荒廃のデメリットも生じる。)
 今現在では、どうするべきか? 一案は、針葉樹林をすべて(ほとんど)伐採することだ。その後に、手間いらずの広葉樹林を形成する。その途中では、草を生やす。このために資金を投入するのであれば、一回限りで済む。
 ただし、もっとうまい方法もある。一回も資金を投入しない方法だ。それは、「混合樹林」という方法だ。具体的には、どういうことか? 詳しくは、林業の専門家に聞けばわかる。この方法を取っている林業家は、外部からの資金援助なしに、針葉樹林で林業経営し、広葉樹で保水し、かつ、納税する。最高だ。
 とにかく、「日本全体を杉だらけにする」という発想が、水源をむしばみ、山谷を荒廃させ、花粉症を日本中に引き起こす。……これは「自然改造計画」ないしは「自然改造で金儲け」という経済主義の結果だ。
( ※ ケインズ政策っぽいですね。ま、ケインズ派の経済学者が、こういう下らない政策を推進しているのは、たしかだ。本四架橋とか、東京湾横断道路とか、タヌキ専用の高速道路とかね。金をかけて、国家を破壊して、「だけど失業率は下がる」と賛美する。)
( → 6月28日 にも同様の話題。 )

  【 追記 】 ( 2004-08-05 )
 (1) 修正
 「そもそも寒帯のための針葉樹」と上記では記したが、これは不正確な記述であった。一般的にはそうなのだが、杉は例外である。杉は、現在の自生地は紀伊半島にしかないなど、(高温多湿を要求する)暖温帯の樹種である。── この点、読者から指摘を得たので、修正しておく。
 私の粗い知識を加えておくと、杉は、さまざまな樹種のなかでも最も古い樹種である。恐竜のいたころには、熱帯みたいな気候のなかで、シダ類が栄えていたが、杉はその仲間みたいなものだ。裸子植物。その後、温帯のあちこちで、被子植物が栄えていった。
 また、上記本文では、記述が粗すぎた。「放置すれば自然回復する」というのは、長期的に見た場合であり、短期的には、「放置すれば荒廃する」となる。「だから人間がこまめに手入れをすればいい」というわけではないのだが、逆に「放置すればいい」という記述でも粗すぎる。正しくは、「広葉樹への移行をスムーズにするための処置」である。その具体的な方法は、細かい話で面倒なので、ここでは記さない。どっちみち、一言で済むような話ではない。
 要するに、上記本文は、森林をどうすればいいかという森林論議ではなくて、「メチャクチャな森林行政がなされているから、正すべきだ」という行政意識の話。個別の各論までは踏み込まない。
( ※ なぜメチャクチャな行政が行なわれているか? 業界の利権のためというよりは、官僚のポスト維持と、営林署の職員雇用のため。一種の失業対策みたいなもの。)
( ※ ちょっと補足しておく。樹種と保水力の点では、樹木そのものではなくて、樹木の下の土壌が肝心だ。広葉樹は落葉樹なので、大量の葉を落として、ふわふわした腐葉土を形成する。針葉樹は常緑なので、そうではない。これが保水力に違いをもたらす。……さらに言えば、この違いは、海洋の漁業にも影響する。広葉樹林のある川の先にある沿岸では、魚が豊かだ。針葉樹林 or 土壌流出のある川の先にある沿岸では、魚が少ない。相関関係がある。)

 (2) 補充情報(森林の砂漠化)
 奥多摩で「森林の砂漠化」が進んでいるという。人工林をすべて伐採したあとで、裸の土地にふたたび杉やヒノキの苗木を植えた。すると、鹿が苗木をみんな食べてしまったので、土が剥き出しになり、土壌の流出が続き、森林が砂漠化しているという。(朝日・朝刊・社会面3 2004-08-05 )
 記事は「鹿が増えすぎたのが悪い」という趣旨で、「だから捕獲数を増やせ」と示唆している。しかし、これは本末転倒だろう。
 鹿が悪いのではなくて、人工林が悪い。人工林は税金を投入しないと維持できない赤字産業なのだから、コストゼロの自然林にするべきなのだ。そうすれば、花粉も出ない。なのに、あいもかわらず、赤字を出す針葉樹をどんどん植え続けている。砂漠化を進めているのは、鹿ではなくて、人間なのだ。(ただし、鹿によく似た馬鹿かもしれない。)
( ※ ついでに言えば、鹿を捕獲するという案も好ましくない。むしろ、肉食獣の狼でも投入した方がいい。そうすれば、生態系のピラミッドが完成する。)(……ただし、都会にいる「送り狼」じゃ、役立たずですけどね。送り狼が食べちゃうのは、鹿じゃなくて、かわいい子猫ちゃんです。送り狼って、私のことじゃないですよ。  (^^); )


● ニュースと感想  (8月06日)

 「太陽熱タービン」について。
 「太陽電池」でもなく「太陽熱温水器」でもなく、両者の合体みたいな「太陽熱タービン」ともいうべき発明・研究がある。太陽熱で代替フロンを過熱してから、小型の専用タービンで発電する、という装置。発電効率は太陽電池の倍で、約20%。(読売・朝刊・社会面 2004-08-04 )
 記事はちょっと不正確だ。太陽電池の発電効率が8%と記しているが、これはアモルファス型。結晶型は13%ぐらいある。さらに、シャープの新型太陽電池は28%もある。( → 朝日のサイト )(ついでだが、太陽電池の場合、集光レンズと組み合わせると、性能をかなり上げることができる。たとえば、集光4倍 × 発電効率 28% = 実質発電効率 112% ……このことの利点は、単価の高い太陽電池を利用できること。)

 というわけで、効率だけを見るなら、太陽熱タービンは、たいしたことはない。設備もデカすぎる。とはいえ、タービン以外はローテクだから、大幅にコストダウンできるかもしれない。そこがポイントだ。
( ※ 現実には、本体コストのほか、工事費がけっこうかかりそうでもある。人件費がね。)

 さて。以上の話だけなら、どうってことはない。私が言いたいのは、次のことだ。
 この発想は、アイデアはいいが、センスがない。代替フロンとタービン、というのなら、ほら、エアコンと同じじゃないですか。だったら、エアコンとのシステム化を考えるのが、センスのある発想。……たとえば、エアコンの廃熱を利用するとか、エアコンと発電機を一体化するとか。(例。発電の電圧をうんと高めれば、エアコンのエネルギー効率が高まる。さらには、温水で風呂を沸かすとか。)
 ま、いろいろアイデアは浮かぶが、たかが 20%ぐらいの発電効率で満足しているようじゃ、あまりセンスがよくないですね。80%の無駄に気づくべき。

 [ 付記 ]
 温度差発電を考えるなら、効率アップのためには、低熱源をどうするかを、最初に考えるべきなんだが。……空冷しか考えていないみたいですね。空冷だとすると、みんながこの空冷発電システムを使うと、戸外の空気が熱くなるから、効率はどんどん悪化する。自己矛盾みたい。
 ついでに言うと、戸外の暑さを減らすのによい工夫は、屋根を白く塗ることです。これはけっこう有名な方法だが、マスコミにはあまり取り上げられない。
 「屋上緑化(植栽)」は、水を撒いた場合には気化熱のおかげで有効だが、水を撒かないと、あまり有効ではない。ただの「緑」は、「白」よりも劣る。単に「緑化すればいい」というのは、頭が夏ボケしている。頭に水を撒いて、頭を冷やすべし。……ハゲ頭が光っている人は別だが。


● ニュースと感想  (8月06日b)

 「パソコンの詐欺商法」について。
 DELL コンピュータについて、詐欺商法を何度か指摘した。(莫大な宣伝費をかけているが、実は送料が馬鹿高いことなど。 → 1月27日b7月15日
 ところがこの会社は、もう一つ、ひどい詐欺手法をやっている。広告をよく見ると、ごく小さな文字で、注記してある。「事業者のお客様に限定します。個人(ホームユーザ)のお客様は対象外です。」と。
 こんなちっこい文字は、普通の人は見ない。で、「買うぞ」と決意したあとで、注文する。すると、どうなるか? こう言われる。
 「個人ユーザ向けではないんです」
 じゃ、買えないのか? その質問には、本当のことを打ち明けられる。要するに、「リサイクルマークがつかない」ということ。PCリサイクルの対象外になる、ということ。廃棄時の回収はユーザが自分で費用負担せよ、ということ。(広告の隅っこに小さく注記してある。以前は、この注記さえも書かずに、隠していた。)
 こんなふうにしてリサイクルをサボるのは、ほとんど脱法行為である。リサイクル法を有名無実にしている。(こんなひどいことをやっている社は、他にはほとんどないだろう。よほどの零細販売社ならともかく。)
 で、現実にはたぶん、個人ユーザは、「リサイクル法に従い、リサイクルマークを付ける必要があるので、3千円、追加してください」と購入時に言われるのだろう。たぶんね。(言われても言われなくても総計の費用負担は同じだが。)……結局、
   本体価格  69980円
   送  料   5250円
   リサイクル  3000円
 ────────────
         78230円

 となって、広告表示よりもはるかに高い金額になってしまう。詐欺。……これに加担しているのが、朝日・読売などの大新聞。
( ※ さらに言えば、別のズルもある。標準のドライブが CD-ROM だが、たいていの人はコンボドライブにアップグレードする。するとここでまたやたらと高いアップグレード料金を取る。……なんだかんだと、追加払いの料金がどんどんかさむ。結局、買ったあとで気づく。「なんだ、ちっとも安くないじゃないか! だまされた!」と。)
( ※ あなたの友人も、そう後悔する。しかしあなたは後悔しないで、自慢する。「おれはだまされなかったぞ。えっへん」「どうして?」「小泉の波立ちに、ちゃんと書いてあったもんね」)


● ニュースと感想  (8月07日)

 「パソコンのデータ復活」について。
 中古パソコンを売却すると、消去したはずのデータが読み込まれる危険があるので、注意すべきだ、という記事。(朝日・朝刊・生活面 2004-08-04 )
 何度も書かれたことのある情報だ。しかし、パソコン記事なら、パソコン情報に詳しい記者が書くべきだ。ど素人がデタラメ情報を書くと、世間を誤らせる。

 (1) 消去・復元ソフト
 記事では「消去・復元のためのソフトは、どちらも数千円程度で市販されている」と記している。それ自体は誤りではないが、肝心の話が書いていない。正しくは、下記。
 「市販品もあるが、どちらも可能な単一ソフトが無料で公開されている」
 ネットで検索するなら「HD データ 消去 復元 ソフト 無料」などの用語で検索すればよい。手っ取り早く結論を言えば、下記のソフト。
   ソフト名称  「復元」
   公開先    Vector
 内の 該当ページ
( ※ ついでに言えば、上記サイト(Vector)では、同種の別ソフトがいくつか公開されている。そちらを使ってもよい。場所は、同じディレクトリの「 ディスク・ファイル復旧 」)

 (2) HD廃棄
 情報保全のため、「一番安全なのはリサイクルに出す前にHDを取り出して金槌で壊すこと」と記事に書いてある。
 まったくの間違いとは言えないが、これではまるで、「人を殺すには大型爆弾を使え」というようなものだ。過激すぎる。軍事用の機密保護とか、企業の機密保護とか、そんなことを狙っているわけじゃないんだから、過激なことを書くのは「煽動記事」と言われても仕方ない。
 正しくは? 
 第1に、普通の人は、HDを取り出すことはできない。「やれ」と言われてもできないことを「やれ」と書くのは間違いだ。それよりは、上記のソフトを使うだけでよい。HDを破壊するなんて、馬鹿げている。企業機密じゃあるまいし。
 第2に、HDを取り出すことのできる人であれば、HDを取り出すべきだ。ただし、その後、「金槌で壊すこと」は必要ない。次のいずれかだ。
 1番目と2番目は、手間がかかるが、HDをはずせる人ならば、取り付けもできるはずだ。だから、問題なし。ものぐさなら、3番目。なお、取りはずしたHDは、自分で使わなくても、家族が使ってもよい。要するに、外部にデータが漏れなければいいだけの話。いちいち壊す必要はない。(HDの一つぐらい、単行本のサイズの半分だから、ちっとも場所を取らない。いちいち捨てる必要はない。HDを捨てるくらいなら、CDケースを捨てるべし。CDはケースなしで保有すればよい。)

 なお、HDをあえて壊した方がいい場合もある。それは、HDが自分で壊れた場合だ。ご臨終。この場合は、金槌で、とどめを刺した方がいい。さもないと、生き返る恐れがあるので。
 要するに、死んだやつをすっかり殺すのはいいが、生きたやつを無理に殺すべきではない、ということ。

 [ 付記 ]
 ついでだが、普通の人の重要機密は、せいぜい、ネットのパスワードだろう。そんなものは、新パソコン購入後にパスワードを変更すれば済む。ネットバンキングみたいな危険なことは最初からやらない方がよい。
 おまけで言っておくと、「ネット株取引」というのは、経済的に言って、馬鹿げている。だから、最初からやらない方がよい。痛い目に遭う危険が高い。ネット株取引は、丁半バクチと同じだ、と考えた方がよい。……朝日の週刊誌などには、「株取引でこんなに儲けました」なんていう煽動記事がしばしば出るが、馬鹿げているので、信じない方がよい。記事が嘘だというのではないが、間違った報道だ。なぜなら、ここ一年ぐらいは、株価が上昇基調にあるからだ。だったら、誰がやっても、平均的には、儲かるのが当り前なのだ。(もちろん、ネット取引でなくてもいいのだが、記者は「ネット取引の効果」と書く。ふん。)
 こういうのはいわば、天気が晴れたあとで、「晴れという予想が当たりました」と報道するのと同じだ。嘘ではないが、晴れのときには「あたり」と報道して、雨のときには「はずれ」と言わずに無視する。その手の報道だ。……とにかく、この手の報道を信じて、ネット株式なんかに手を染めると、今後、株の暴落で、痛い目に遭う危険も高い。
 一般に、株は、ごく小額ならば遊びでやってもいいが、高額ではやるべきではない。なぜか? 高額だと、人生に影響が出る。しかし、人生というものは、賭の対象にならないのだ。「負けたら死ぬ」というような賭は、やってはならないのだ。── これが一番肝心なことだ。そこを無視して株取引を推奨するような記事は、悪魔の記事である。
( → 4月01日b [ 付記 ])


● ニュースと感想  (8月07日b)

 「始祖鳥」について。
 「始祖鳥は空を飛べたと判明した」という記事。翼を動かす能力がないので飛べるかどうか不明だったが、視覚情報を扱う脳が発達していたから、飛べたはずだ、という。(各紙・朝刊 2004-08-05 )
 何を下らないこと言っているんだか。翼を動かす能力がないということと、飛ぶ能力がないこととは、別だ。翼竜だって、翼を動かす能力はないが、グライダーのように滑空したはずだ。始祖鳥も同様。ずっと前からわかっていたことだ。ニュースにはならない。
 視覚情報を扱う脳、というのも、ほとんど意味がない。こんな脳は、チョウチョだって有している。飛行のためには、高度な視覚能力は必要ない。ただし、飛行しながらエサを見つけるには、やや高度な視覚能力が必要だ。始祖鳥は、脳が小さいので、そういう能力があったかは、きわめて疑わしい。 現代の鳥類でさえ、小型のものでは、物体をまともに認識できず、色や形に単純に反応しているだけだ。(例外は、カラスなど。カラスは脳がかなり大きい。)

 なお、始祖鳥では一番肝心なのは、「始祖鳥は現代の鳥類の祖先ではない」ということだ。(定説ではないが。)

爬  ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 現代の爬虫類
虫 ━┻━ 恐竜 ┳━━━━━━┳━ 絶滅
類        ┃      ┗ 走鳥類 ━━ 小型鳥類
         ┗ 始祖鳥 ━ 絶滅    

( 詳しくは → クラス進化論のページ )


● ニュースと感想  (8月08日)

 「刑務所の臭い飯」について。
 閣僚が刑務所の食事を食べてみる、という方針が出された。ところが、発表後、小泉が難色を示して、つぶれたという。「食中毒の恐れがあるから」という理由。(読売・朝刊・政治面・ベタ記事 2004-08-04 )
 残念。せっかくのチャンスなのにね。 (^^);
 橋本・元首相も(政治資金1億円問題で)刑務所に入る可能性があるし、森・元首相も(補助金不正で)刑務所に入る可能性があるし、となると、小泉・現首相もやがては刑務所に入る可能性がある。だから今のうちに、体験しておいた方がいいですよ。
 それとも、「どうせあとで臭い飯を食うハメになるから、今のうちにグルメをやっておこう」という魂胆なのかも。


● ニュースと感想  (8月08日b)

 「ダイエー再建案」について。
 ダイエー再建のために、国の再生機構を使おう、という案が出ているそうだ。福岡ドームを売却したり、プロ野球球団を売却したりして、本業に専念する、という案。(各紙・朝刊 2004-08-06 )
 これをどう評価すべきか? 
 一言で言って、愚にも付かない馬鹿げた案である。「民間ではうまく経営できないから、国が経営すれば、うまくやれる」という案。一方では、道路公団や郵政事業を民営化しようとして、他方では、ダイエーを国営化する。気違いじみている。正気の沙汰ではない。
 そもそも、この再建案というのが、最悪だ。「不採算事業を売却」というのは、つまりは、帳簿主義である。帳簿をきれいにすれば、何とかなる、という理屈。実際の事業を改善するよりも、帳簿だけに着目する。いわば、タコが足を切り捨てて、「これでもう足に必要な栄養は不要になった。収支が改善する」とぬか喜びして、ニタニタ笑う。かくて、足を一本ずつ切り捨てて、最後には全部消えてしまう。残るのは、ニタニタ笑いだけ。( cf. 不思議の国のアリス)
 そもそも、事業効率を考えれば、「球団売却」なんていう案が出るはずがないのだ。そんなことをすれば、トータルで損になるからだ。球団とダイエーが一体化していれば、球団のおかげでダイエーは宣伝効果が出るし、ダイエーのおかげで球団は客が増える。両方が得をする。つまり、相乗効果。ところが、分割すれば、この効果が主室する。両者が不良になるだけだ。愚の骨頂。
( ※ zakzak によると、こうだ。「ロッテ側は買収額として約90億円を提示したが、ダイエーは優勝セールや広告宣伝効果など本業への貢献が大きいことなどを理由に、これを断ったという。」……売ったとしても、たったの90億円にしかならない。千億円規模の赤字には、焼け石に水。なお、球団売却後には、かわりに、広告宣伝費がいっぱいかかる。広告宣伝費をかけなければ、優勝セールみたいな大幅売上げは無理。……帳簿主義はかくも破綻している。)

 では、どうするべきか? 帳簿ではなく、事業を改善するのが本質だ。とすれば、何をどうするべきか? それについては、カネボウの話を思い出そう。( → 6月17日5月18日 )……つまりは、無能な政府機構(または政府の選任したセミプロ)なんかがやっても、まともな経営はできない。むしろ、民間の優秀な専門企業(カネボウについては花王。ダイエーについてはジャスコなど)に、任せるべきだ。そうすれば、状況を劇的に改善できる。
 
 [ 付記1 ]
 再生機構を利用することには、メリットどころかデメリットばかりがある。なのに、なぜ、こんな案が出てくるのか? それは、ダイエー再建のためではなく、UFJ再建のためだ。ダイエーを再生機構に渡せば、ダイエーへの債券が、不良債権から正常債権に転換する。ダイエー自体は何も変わらなくても、帳簿の項目が変わる。かくて、UFJは、財務が健全化する。……これが真の狙いだ。
 だから、記事に「ダイエー再建案」と書いてあるのは嘘っぱちであり、「ダイエーを代償にする、UFJ再建案」というのが正しい。
 再生機構を利用するべきだという主張は、「現状ではダイエー主導の再建案であり、このままでは再建が無理だ」というのを論拠にしている。その主張自体は正しい。ダイエー経営者は無能だ。しかし、だからといって、「再生機構を利用すればいい」というものではない。無能なダイエー経営者に手渡すかわりに、阿呆に手渡しても、解決にはならない。
 再生機構は、カネボウの再建さえ、まともにできていない。最初にやったことは、「銀行に負担させる金額を、数百億円追加する」ということだけだ。つまりは、大幅に無駄を出すぐらいしか、能はないのだ。そして、あとは、帳簿を見ながら、バナナのたたき売りをするだけ。ただの解体屋みたいなものだ。
 再生機構は、鳴り物入りで登場したのだが、カネボウ以前には、まったく成果を挙げることができなかった。そこで、「扱う物件が小物ばかりだからだ」とばかり、カネボウやダイエーに食指を伸ばした。「自分自身が不人気だから、相手が来ない」ということに気づかず、「相手が来ないなら、強権的に相手を連れてきてやる」と主張する。
 これはいわば、嫌われ者のドラ息子が、きれいな女性をよそから強奪するようなものだ。そのドラ息子が、産業再生機構。ドラ息子の親父が、政府。「うちの息子は有能だ」と証明したいので、息子の横暴を黙認する。

 [ 付記2 ]
 では、真のダイエー再建(帳簿でなく業務の健全化)のためには、どうすべきか? 私だったら、こうする。
 ジャスコに全株式を売却し、その株式購入資金を銀行が融資する。ジャスコは、5年程度でダイエーの経営を改善させ、その後、株式を他社 or 一般国民に売却する。ジャスコは、経営改善により、莫大な利益を得る。と同時に、独禁法の適用を免れる。……当面は、独禁法の適用を猶予する。
 ジャスコとしては、自社のシェアを奪われる分、損をするが、営業エリアは必ずしも重ならないから、全面的に損をするわけでもない。(損をするのは、ヨーカドーだろう。)また、多少の損はしても、それを大幅に上回る利益を得る。ジャスコはすでに健全経営だから、いくら努力しても、これ以上の改善は望めない。一方、ダイエーは、不健全経営だから、ちょっと改善するだけで、大幅な利益を望める。その大幅な利益を、ジャスコが独り占めできる。(そのうち何割かは、納税の形で、国民全体に還元される。)
 国民としては、羨ましい感じだが、現実には、ダイエーを改善できるのは、ジャスコぐらいしかないのだから、仕方ない。それがイヤなら、ダイエーを改善できない産業機構に任せる。産業機構は、利益を独り占めすることはない。なぜなら、どうせ損失を出して、赤字を出すだけだからだ。その場合、国民は、赤字を税で負担することになる。(ジャスコの場合とは、偉い違いだ。)
( ※ ジャスコに支援を仰ぐ場合には、ジャスコに株式を売却する必要がある。なお、一部関係者では、「株式を売却しないまま、ジャスコに支援を仰ぐ」という案も出ているという。しかし、どこの企業がボランティアみたいに、無償でライバル社を支援するというのか? 「お国のためなら支援してくれるだろう」という甘い発想。経済原理をまるきり無視している。気違いじみている。)
 
 [ 付記3 ]
 逆に、やってはならないことを示す。それは銀行の「債権放棄」だ。
 債権放棄は、やってもいい場合がある。「倒産させるよりは、債権放棄した方がマシ」という場合だ。ただし、それには、条件がある。「やらなければ倒産」ということが前提されていることだ。では、その条件が成立するか否かは、どう決まるか? 「株価がゼロ同然」ということで決まる。株価が高ければ、次のいずれかだ。
  ・ 実際には倒産寸前ではない。
  ・ 実際に倒産寸前だが、株価ばかりが異様に高い。
 で、どちらか? 実は、どっちでもいい。このように株価が高い場合には、時価発行をすればよい。株価がゼロ以上である限り、どんどん株式を時価発行する。そうやって株価を高めている人々に資金を負担してもらう。実態以上の株価になっているのであれば、株主が損をするだけだ。実態通りの株価になっているのであれば、誰も損しない。……で、どっちにしろ、銀行は損しない。銀行が莫大な債権放棄をする(預金者にツケを転嫁する)かわりに、株主が負担すればよい。
 では、途中で、株価がゼロ近辺にまで低下したら? その時点で、銀行が金を出せばよい。ただし、その場合も、銀行が「時価発行の株を買う」という形になる。つまり、「金を出すが、かわりに、株をもらう」という形だ。これは通常、「債務の株式化」と呼ばれる。(実態は銀行にとっての「債の株式化」のこと。なお、形式的には、ただの時価発行と同じ。)── 「債権放棄」なんかよりは、こちらが本筋だ。
 とにかく、以上が、正常な道だ。資本家がリスクを負い、資本家がリターンを得る。資本主義の原理。……現状は、銀行がリスクを負い、資本家がリターンを得る。倒錯的だ。銀行経営者は、業務上背任で訴えられても仕方ない。
( ※ 銀行経営者は、今のうちに「刑務所の臭い飯」を試した方がいいだろう。)


● ニュースと感想  (8月09日)

 「ドイツの賃下げ」について。
 ドイツのベンツ(ダイムラー・クライスラー)で、実質賃下げの労使協定が結ばれたという。予定された賃上げの解除と、労働時間の延長(週35時間から40時間へ)。「さもないと工場を移転させて、従業員を解雇する」というのが、会社の言い分。これを見て、労働組合を基盤とする首相は、「理性の勝利」と称賛した。(読売・朝刊・国際面 2004-08-07 )
 これをどう解釈するべきか? 古典派ならば、「当然だ」と解釈するだろう。需給曲線による価格調整を前提として、「価格が高いと量が減るから、価格を下げればいい」という理屈だ。
 しかし、これは、物事の本質を突いていない。

 正しくは? 
 本来ならば、こうなるはずだ。「ドイツの国際競争力が相対的に弱まれば、ドイツの通貨が通貨レートを下げる。つまり、マルク安になる。そのことで、自動的に国際競争力は調整される」
 この場合、賃下げはなされない。それでも、なおも残るマルク高のせいで、ベンツの競争力がいまだに弱いかもしれない。が、だとしても、ちっとも問題ではない。なぜなら、ベンツの競争力が弱いとしても、他の企業の競争力が(マルク安のせいで)強くなる。結局は、マルク安を通じて、国全体の競争力は正常に保たれる。
 以上が、本来の姿だ。では、現実には、どうなっているか? ユーロという固定通貨制度を取っているせいで、ドイツの通貨の通貨レートは変動しない。つまり、ドイツでは国全体の人件費が低下しない。というわけで、特にベンツ(など)だけが、人件費を大幅に下げる。
 つまり、変動相場制ならば、国全体でマルク安の分だけ、人件費が下がり、その分、競争力が強まり、国全体の帳尻は合う。しかるに、固定相場制だと、国全体の人件費が下がらないので、特定の産業や企業だけが、ことさら人件費を下げる。
 一般に、国の競争力の変動に応じて、人件費をいちいち上げたり下げたりするのは、非効率である。だから、かわりに、通貨レートを変動させる。それが「変動相場制」だ。これは、国家間の競争力(どっちがどのくらい強いかということ)の変化に、即応できる。しかるに、固定相場制は、そうではない。そして、ユーロという統一通貨制度は、固定相場制と同様である。

 結語。
 通貨統合による統一通貨制度に、根源的な原因がある。所得水準や経済成長率が大きく異なる国同士で、統一通貨を取るというのは、デメリットが非常に大きくなるのだ。「統一通貨」という夢想が、現実とは乖離している、という点に、根源的な原因がある。その乖離の歪みが、特定産業に集中して、ベンツの従業員ばかりが、苦しい目にあうわけだ。
 どうしても統一通貨制度を実施したければ、その前に、所得水準を均一化するべきだ。たとえば、ドイツ国民に大幅に課税して、実質所得を大幅に奪って、その金を、東欧の途上国に分配するべきだ。そうすれば、所得水準が均一化するから、その後の歪みはなくなる。……とはいえ、これは、ドイツにとっては地獄の沙汰だろう。要するに、本音では、「均質化」なんかを望んでいないのだ。先進国では、「自国を途上国と同じにしたい」なんて、誰も思ってもいないのだ。夢想と現実との違いを理解できずに、夢想にとらわれて行動したところに、「統一通貨制度」の根源的な問題がある。
( → 通貨統合:  1月02日c9月23日b 以降 ,12月25日1月01日 以降 ,1月29日4月30日c6月28日4月13日


● ニュースと感想  (8月09日b)

 前項 の続き。「国際競争力と賃下げ」について。
 「賃下げによる国際競争力の強化」という案がある。日本経済の景気対策として、経済団体はこれを主張している。また、古典派のエコノミストも、企業体質の強化という観点から、これを主張している。
 しかし、これは、正しくない。そのことは、前項のベンツの例を見ればわかる。つまり、国際競争力の調整は、通貨レートの調整によって、自動的になされる。
 結局、一国全体では「賃下げが国際競争力の強化になる」ということはありえない。賃下げをすれば、通貨レートが上がって、元の木阿弥だからだ。ただし、国内の産業間で言えば、「賃下げが国際競争力の強化になる」ということは起こる。

 [ 付記 ]
 例を考えよう。上記の説によって、自動車産業やトヨタを見よう。他の産業や企業が賃上げしているのに、自動車産業やトヨタだけが賃下げをすれば、国内の他の産業や企業に比べて、自動車産業やトヨタだけが国際競争力を強める。そうなるはずだ。
 ただし、現実には、そういう理屈通りにはならない。なぜか? 現実には、トヨタの賃金水準は他社に比べて、最高レベルだ。となると、トヨタの従業員は、もっと賃上げをするべきだとしても、賃上げをしにくい。トヨタの従業員としては、不況のさなかで、自分たちだけが賃上げをするのは、肩身が狭いのだろう。
 というわけで、トヨタの国際競争力は強すぎるままだ。労働者は遠慮して賃上げをしないから、いくら外需拡大の効果が出ても、トヨタの社内留保として蓄積されるばかりで、総需要拡大の効果がない。
 結局、トヨタばかり国際競争力が強いと、日本全体では、景気回復するどころか、景気回復効果が消えてしまう。逆に、トヨタの国際競争力が弱まれば、トヨタの輸出は減ってトヨタは損するが、その分、円安が進んで、他の企業が輸出を増やす。他の企業では、トヨタよりはずっと賃金が低いので、平均的には賃上げが進む。おかげで、総需要が拡大する。かくて、景気回復効果が出る。
 となると、諸悪の根源は、トヨタかも。「トヨタを爆破すると、日本の景気は回復する」なんてことになるのかも。(嘘ですけど。)
 ともかく、「輸出企業の国際競争力が強まると、景気回復効果が出る」なんてのは、間違いである。それは通貨レートや総所得を無視した主張だ。古典派流の単細胞な主張にすぎない。
 ある特定企業または産業についてなら、「(その企業・産業の)賃下げは、国際競争力を強める」とは言える。しかし国全体では、「国全体の賃下げは、国際競争力を強める」とは言えない。むしろ逆に、「国全体の賃下げは、マクロ的に総所得減少をもたらして、景気を悪化させる」というのが正しい。


● ニュースと感想  (8月10日)

 「中国の反日騒動」について。
 中国で行なわれたアジア杯のサッカー場で、反日騒動が何度もあったという。サッカーファンは「何でこんな目に遭わなくちゃならないんだ」と憤っているという。
 そこで、私が理由を教えよう。「それは、先のイラク人質事件と同じだ」と。
 イラク人質事件のとき、国民が集団ヒステリーに陥った。特定の相手(人質三人)に向かって、ものすごい攻撃が国中から襲いかかった。「おまえたち三人が非難されても当然だ。もともとおまえが、おれたちに迷惑をかけたからだ」「イラクで死ななかったのなら、日本で死んでしまえ」「テロリストに殺されなかったのなら、おれたちが殺してやる」というふうに。本当は、その人質三人が直接的に迷惑をかけたわけではないのに、「おれたちはおまえのせいで迷惑を受けたぞ」とものすごい非難をする。
 こういう人質非難も、中国人による対日非難も、そっくりでしょ? どっちも妄想を信じて、どっちも気違いのようになって、イナゴの大集団のようになって非難してくるわけだ。(元締めは、どっちも薄汚い政府だが。)……で、今、そういう非難を中国から浴びれば、かつて日本国民が人質になしたことの意味がわかる。まるで鏡を見ているみたいに。
 格言。わが身をつねって、人の痛さを知る。

 [ 付記 ]
 理論的分析。政治学的考察。
 中国政府が現状を放置しているのは、なぜか? 「日本をいじめてやればいい。謝罪する必要なんかない。形式的に一言、遺憾の意を示して、それで十分だ。あとは後ろを向いて、舌を出していればいい。日本政府なんか、それでうまくあしらえるさ」と思っているからだ。(実際、外務省は、それを真に受けて、歓迎する意味の声明を出した。馬鹿丸出し。)
 ではなぜ、中国は日本をいじめようとするか? それには、合理的な理由がある。「いじめれば、その分、日本は譲歩する。だから中国は得をする」と判断しているからだ。この判断は、善悪で言えば悪だが、損得で言えば得だ。つまり、(政治的に)正しい判断である。
 現実を見よう。原則として、日本政府は他国から攻撃されたとき、反撃しないで、やたらとペコペコする。対米追従の癖が付いているから、中国に攻撃されても、ついペコペコする。「攻撃しないでください。かわりにお金を上げます」と。商人根性。……これが問題の根源だ。
 だから、本当は、何も言い返せない(かわりに金だけを出そうとする)日本政府が悪い。では、なすべきことは? 強気で反駁することだ。
「中国がこんな状況を放置するなら、中国五輪をボイコットするぞ」
「米国にもボイコットを働きかけて、中国五輪を開催中止に追い込むぞ」
 で、中国が「ごめんなさい」と誤ったら、今度は一転して、
「仲良くしましょう。日中友好推進」
 と言い立てる。
 そりゃ、節操がない? そうです。節操がないのが、政治家としての大事な素養だ。いわば、「君子豹変す」。……これはつまり、「状況に応じた適応」のことだ。「雨なら傘、晴れなら帽子」ということ。逆に、「雨でも晴れでも、ワンと吠えてシッポを振る」のが日本政府。

 [ 補説 ]
 この問題は、原理的には、4月14日c の「戦争とゲーム理論」における「タカ・ハト」ゲームと同様である。
 つまり、一方が強気(タカ)で、一方が弱気(ハト)だと、強気の方は弱気の方を食い物にできる。弱気の方は、戦いに出て破滅的になるのが怖いので、強気になることができない。そのまま状況は安定してしまう。それが日中関係の現状だ。(タカとハト)
 ここで、日本が強気に出ると、強気と強気(タカとタカ)になる。両方がぶつかり、ともに傷つく。……しかし、そういう過程を経て、ようやく、平和のありがたみがわかる。そのあとで、双方が友好的(ハトとハト)になって、両国は対等な友好状態を保つ。これが日中関係の理想だ。
( ※ なお、日米関係の現状は、どうか? 米国は一方的に強気に出ることはなくなっている。ちょっとぐらいは持ち前の気質でタカだが、特に日本に向かってだけタカになることはなくなっている。第二次大戦前なら、「黄色人種蔑視」で、日本だけをいじめようとしたが、現在ではそういうことはなくなっているし、むしろ、日本とは友好関係を保っている。その点では、現在の日米関係は、「ハト・ハト」関係に近い。……ただし、日本政府は米国の前で、勝手に弱気になっている。これは、ハトではなくて、ポチ。「ハト・ポチ」関係。新語ですかね。)


● ニュースと感想  (8月11日)

 (1)
 8月09日b の[付記]を、少し書き直した。論旨は同じだが、文意不明瞭な点を明瞭にした。

 (2)
 死刑問題の追記 → 8月02日a として、新たに項目を追加した。
 ( ※ 死刑と無期刑の中間となる刑、など。法律論みたいな話。)


● ニュースと感想  (8月12日)

 「デザインと利益率とブランド」について。
 週刊アエラ最新号に、「日本企業はデザインを重視し始めた」という記事がある。例として、松下や日産の例を挙げている。
 あまりにも見当はずれな記事なので、解説しておく。

 (1) デザイン重視
 「デザイン重視」なんて話なら、これまで何度も経済雑誌に掲載されたことがあり、今さら記事にして騒ぐべきではない。ここ30年ぐらい、何度も何度も記事になった。今さら騒ぐほどのこともない。(雑誌のバックナンバーでも調べる方がいい。もしかしたら、調べたすえに、「柳の下のドジョウ」記事にしたのかも。朝日はパクリの記事が多いから、またやっただけかも。)

 (2) 実態
 どうせ記事にするなら、実態を調べて、こう書くべきだ。
 「日本企業は、デザイン重視を唱えているくせに、いつまでたってもデザインがひどいレベルだ」
 記事では、松下や日産を「デザイン重視」の例として示しているが、本気だろうか? これらの企業は、デザイン・ポリシーが、最悪とは言えないまでも、決して成功してはいない。
 むしろ、成功例として言えるのは、米国のアップルだ。iPod にしても、iMac にしても、デザインのレベルは他社のレベルをはるかにしのいでいる。日本企業は、それに比べれば、はるかに下だ。はっきり言って、韓国のサムスンにすら負けている。これは私だけの評価ではなくて、各種のデザイン賞やグッドマークなどを見れば、すぐにわかる。常識だ。
 日本企業の中で例外的に成功しているのは、キヤノンだろう。パソコンではNECがかなり優れている。(実は、NECはソニーのバイオのデザイナーを引っこ抜いた。これは、悪いことではなくて、良いことだ。というか、当り前のことだ。)
 それに引き替え、松下のデザインは、浜崎あゆみのデジカメを見ても、田舎者の独りよがりみたいなデザインだ。アップルの洗練されたデザインに比べると、恥ずかしい感じですね。

 (3) 方針
 デザインで大切なことは何か? それは、日産の失敗例を見ると、よくわかる。大切なのは、「統一性」ではなくて、「多様性」である。
 日産では、「統一性」にこだわった。そのせいで、スカイラインで大失敗だとわかった路線を、何度も繰り返して、失敗した。また、例の ▽ 鼻の路線も、何度も繰り返した。丸っこい日産マークの鼻も、何度失敗しても、懲りずに続ける。サイドビュー(側面デザイン)も、初代プリメーラのころから、ずっと同じ路線なので、いいかげん飽きられてきたのに、いつまでも同じデザインにこだわる。初代プリメーラと現行スカイラインなんて、横から見るとそっくりだ。辟易するね。
 要するに、「統一性」にこだわって、同じ失敗を何度も繰り返す。反省能力がゼロ。こういうのを、「馬鹿」と言う。あまり悪口は言いたくはないが、他に言いようがあるだろうか? 

 (4) ブランド
 日産はなぜ「統一性」にこだわるか? 経営理念があるからではない。こういう発想があるからだ。
 「ベンツやBMWは、統一デザインで、ブランドを確立している。ゆえに、日産も統一デザインを採用すれば、ブランドを確立できるはずだ」
 この件は、前にも言及したことがある。
 「ブランドとは、マークのことではなくて、高品質のことである」
 この本質を理解しよう。本質を忘れて、表面的なことばかりを考える人間が、「マークさえ付ければブランドが確立する」と思い込む。そのあげく、肝心の品質をなおざりにする。その例が、欠陥を放置した三菱だ。( → 6月17日b
 「統一デザインや統一マークばかりにこだわる」ということは、「肝心の品質向上をなおざりにする」ということなのだ。そんな発想は、本質を見失っているのだ。

 (5) 質と量のどちらをめざすか
 そもそも、「高級ブランドを確立しよう」という発想が、企業としては根本的に間違っている。その路線は、高級ブランドを実際に生産している場合(ベンツ・BMW・レクサス・インフィニティ)には有効であるが、高級ブランドを実際に生産していない場合(三菱・トヨタ・日産)には無効である。たとえば、カローラやマーチのためのブランド(トヨタ・日産)を確立して、そのブランドを他の商品(クラウン・フェアレディ)につけても、ユーザーはちっとも嬉しくない。同じマークなんかを付けられたら、たまったもんじゃない。
 高級品を小量生産する企業には、高級ブランドのマークがあるといいが、大衆品を含めた大量生産する企業には、統一のマークなんかは不要なのだ。むしろ、マークなんかは気にしないで、商品独自の魅力で勝負するべきなのだ。そして、そのためには、会社マークなんかはなるべく脇にのけるべきなのだ。
 例として、フォルクスワーゲンを見よう。ゴルフにはVWマークがついている。この安っぽいマークを、高額の高級車種に付けて、販売数量が増えるだろうか? まさか。
 一方、フェラーリを見よう。ブランドを確立しており、馬のマークが有名だ。作った商品は、数千万円でも売れる。ただし、手作りにこだわり、大量生産を望まない。社の方針は、「市場が求めるより少ない台数しか製造しないこと」である。(読売・朝刊・国際面 2004-08-10 のフェラーリ探訪記事)
 だから、トヨタや日産が、自社を高級ブランドとして確立したければ、その方法はただ一つ。レクサスやインフィニティに専念して、トヨタや日産としてのブランドを捨てることだ。大量生産を誇る大メーカーとしての位置を捨てて、小量少品種の稀少品メーカーとして生き残ろうとすることだ。……で、どうなる? 今さらそんなことをやっても、その先にあるのは、たぶん、サーブとかボルボとかローバーみたいな衰退の道しかない、と推測されるけどね。
 結局、「質をめざすなら質をめざす」「量をめざすなら量をめざす」。そのどちらかにするべきだ。どっちつかずは、身を滅ぼすだけだ。
( → 2月21日 の最後の[ 補説 ])

 (6) たとえ話
 みにくいアヒルみたいな少女がいました。「私も白鳥みたいな少女になりたいなあ。お金持ちの家に生まれたかったなあ」と願いました。そこで、お金持ち少女の真似をしました。名前をお金持ちふうの名前に変えて、胸に着けるブローチを家紋の円形マークに変えました。「これで私も、お金持ちの少女と同じだわ」と信じました。そして「私はすごい美人よ。私はモテモテよ」と言いふらしました。しかし、まわりの人々には、嫌われるだけでした。週刊アエラは「変身して美人になった少女」という記事を書きました。しかし小泉の波立ちは、皮肉りました。「表面を部分的に変えたって、本質は何も変わっていないだろう。勝手に自惚れない方が身のためだよ」と。

 [ 付記 ]
 余談だが、日産のマークは、素敵なブローチみたいではなくて、安っぽい五円玉みたいだ。これほどひどいマークはめったにない。こんなのを鼻につけて、豚の鼻みたいにしても、デザインはひどくなるだけだ。実際、米国のマキシマなどは、豚の鼻を付けているせいで、売れ行きがトンとひどい。
 あの最悪のセンスを、もうちょっと何とかしてもらえませんかね。都市景観を破壊していて、気持ち悪すぎる。ついでに言えば、次期サニー後継車と呼ばれる車も、醜すぎる。「自動車業界で最悪のデザイン」というのを列挙するなら、日産車が軒並み上位を占めるのは確実だ。
 週刊アエラって、どうして事実とは正反対の報道をするんだろう? アエラ自体が最悪のデザインセンスだから? かもね。醜いもの同士で、つるんでいるのかも。


● ニュースと感想  (8月13日)

 「消費税の総額表示による景気効果」について。
 「消費税を、外税表示でなく、総額表示にすると、価格が上昇するように見えるので、売上げが減少する」
 という説がある。特に、スーパーやデパートなどの販売店では、そういう見解が多い。では、本当にそうか? 
 実はこれは、マクロ経済学を理解しない勘違いだ。
 今、ある店Aが内税にして「105円」と表示し、ある店Bが外税にして「100円」と表示した、としよう。賢明な消費者であれば、どちらでも同じ行動を取る。愚かな消費者であれば、「100円の方が得だ」と思い込んで、100円の店で購入する。(ただし 105円を支払う。)
 これはまあ、「消費者をいかにしてだますか」という作戦であり、消費者を愚かな猿扱いした作戦である。成功することもあるだろう。実際、消費者は、内税の店から外税の店へ、消費行動をシフトさせることもあるだろう。
 ただし、である。これはミクロ的な市場配分の問題だ。“企業にとって最適な”表示方法(消費者に錯覚させて売上げを増やすという詐欺的な表示方法)へと、市場配分が変更される。しかし、それは、マクロ的な全体量の変化を意味しない。
 内税と外税が混在しているとき、内税のシェアが減り、外税のシェアが上がる、ということはある。では、すべての店が外税にしたら、全体の量が増えるか? 「増える」と思うのが古典派だ。しかし、マクロ的に考えれば、「全体の伸びは、ミクロ的な配分とは別のことだ」とわかる。
 たとえて言おう。プロ野球で、すべての選手を日本人だけにしたチームと、外国人選手を何人か混ぜたチームがある。前者より、後者の方が、勝率が高い。では、全チームが後者のタイプになれば、全チームの勝率が上がるか? そんなことはない。すべてのチームの勝率が上がるということはないのだ。
 同様に、すべての店が外税にすればすべての店のシェアが上がるということはない。また、逆に、すべての店が内部にすればすべての店のシェアが下がるということはない。
 要するに、比率と全体量とは、別の問題なのだ。ある一店が内税にするとその店の売上げが減る、ということはある。しかし、すべての店が内税にするとすべての店の売上げが減る、ということはありえないのだ。ミクロの問題とマクロの問題とは別のことなのだ。
 結局、「内税にすると売上げが減る」とか、「売上げが減ったのは内税にしたせいだ」とか、そういう説は成立しないことになる。それはマクロ経済を理解しない経済音痴の解釈だ。

 [ 余談 ]
 総額表示(内税)について、消費者の「好き嫌い」の民意を、依然、マスコミが調べたことがある。おおむね、賛否が割れたように思う。記者の方は外税が好きらしくて、そういう趣旨の論調が多かった。
 ま、それはそれでいいが、あれからだいぶたった今ごろになって、あらためて民意を調査してもらいたいものだ。変更の前には是非を問う新聞記事がけっこう出たが、変更後には民意を検証する記事がないようだ。少なくとも私は、見たことがない。
 私としては、「内税」が好きである。つまり、「実際に払う額がそのまま表示される」という正直な表示が好きだ。「実際に払う額より5%少なく表示する」という詐欺的な表示方法は嫌いだ。「少なめに表示されると、得をした気分になる」というほど愚かではないので。
 だいたい、「いざ請求されるまで、いくら払うかもわからない」なんてのでは、不安になる。また、端数が出て小銭がじゃらじゃらするのも不便だ。かつては 105円みたいな端数の価格となって、おつりを95円もらったりするので、財布が小銭であふれて、不便だった。しかし今いまでは、100円(または98円)のような価格になることが多いので、お釣りは、もらわないか、2円ぐらいで済むので、財布が小銭であふれないので、便利だ。
 だいたい、外税が好きだという人は、駅の切符を買うときも、「外税にしろ」と言うべきだのだ。そうすると、次のようになる。  この両者みたいなのを、券売機の前でやらされたら、馬鹿らしくてやっていられない。なのに、今まで、スーパーやコンビニでは、似たようなハメになった。で、人々は暗算できないから、計算が出るまで、のんびり待っている。計算が出てから、財布をいじる。のんびりだらだら。で、いつまでたっても、レジが進まない。効率の悪化。生産性の低下。人件費の増大。販売価格の上昇。……愚の骨頂。
 だから、今こそ、マスコミは調査してもらいたいものだ。「総額表示( or 内税)をやめて、外税表示にするべきか否か」と。


● ニュースと感想  (8月14日)

 「消費税値上げの損得」について。
 消費税が総額表示になったが、これにともなって、「税が上がるのが心配だ」と懸念する声が強い。特に、主婦はそうだ。しかし、マクロ経済学的に考えれば、これはまったくの間違いだ、とわかる。
 タンク法の概念を理解すればわかるとおり、税が上がっても下がっても、国民にとってはまったく損得はない。わかりやすく言えば、消費税で年間十万円を奪われても、所得税が十万円下がれば、ちっとも損ではない。所得税の減税のかわりに、社会保障料が下がっても、各種の福祉(たとえば児童手当など)が給付されるようになっても、しょせんは、同じことである。税の形態が変わるだけであって、国民全体にとっては何の損得もない。
 国民にとっての損得は、「消費税が上がるかどうか」ではなくて、「税の総額が上がるかどうか」である。もっと正確に言えば、「取られる税と、戻ってくる給付との、差額がどうなるか」である。十万円多く取られても、十万円多く戻ってくれば、損得はない。だから、「消費税の税率が上がるのは心配だ」などと思う必要はないのだ。

 さて。肝心なのは、「取られる税と、戻ってくる給付との、差額」である。これが問題だ。「取られるだけ取られて、戻ってこない」というのは、明らかに損である。だから、そうならないように注意することが、大切である。「税率が上がるかどうか」ではなくて、「差額がどうなるか」にこそ、注意するべきなのだ。
 では、差額は、どうやって理解されるか? それは、「政府が勝手に金を使うかどうか」によって決まる。たとえば、政府が公共事業と称して、本四架橋を作れば、その分、国民は金を奪われる。政府が本四架橋を得れば、その分、国民は自分のパソコンや自動車を減らす必要がある。
 ここで、大切なのは、「政府が勝手に金を使うかどうか」は、「税を上げるかどうか」には関係ない、ということだ。もちろん、「増税をして、公共事業をやる」となれば、国民は損をする。一方、「増税をしないで、公共事業をやる」となっても、国民は損をするのである。つまり、無駄な公共事業をやれば、増税をしようがしまいが、国民は損をするのである。

 では、なぜ、そうなのか? 場合分けして、理由を示そう。
 第1に、赤字国債の発行をすれば、将来の物価上昇を通じて、将来、損をする。
 第2に、貨幣の増刷をして、その金を政府が使えば、現在の物価上昇を通じて、現在、損をする。
 このうち、第1の点については、これまでも何度も説明してきた。( → ミドル経済学 )
 第2の点については、独立的に説明したことがないので、次項(明日分)で説明しておこう。(いわゆる「シニョリッジ」の話。)


● ニュースと感想  (8月15日)

 「シニョリッジ」について。(特に必要な情報ではないので、ことさら読む必要はない。結論は、「シニョリッジという概念は無視してよい」ということになる。)
 従来の経済学では、「貨幣の増刷をして、その金を政府が使う」という案がある。この案は、「貨幣の増刷」があるとしても、タンク法とはまったく異なる。
 タンク法ならば、「貨幣の増刷をして、その金を国民が使う」となる。ここでは、金を使うのは、政府ではなく国民である。
 両者を比較しよう。まず、タンク法では、「国民が減税で得をして、国民が物価上昇で損をする」となるのだから、国民にとって差し引きはトントンである。
 一方、「貨幣の増刷をして、その金を政府が使う」という案は、どうか? ここでは、「政府が歳入増加で得をして、国民が物価上昇で損をする」となるから、政府が得をして、国民は損をする。具体的に言えば、政府は本四架橋などを作って得をするが、国民は貨幣量の増加による物価上昇で損をする。大局的に見れば、政府の手には本四架橋などが残り、国民の手からはパソコン代や自動車代に使うべき金が物価上昇で奪われ、経済的には物価上昇という状況だけが残る。

 ただし、ここを勘違いした説がある。「貨幣の増刷をして、その金を政府が使えば、公共事業がどんどんできて、景気が回復するから、万々歳だ」という説だ。ここでは、「貨幣発行益」というものを想定して、これを「シニョリッジ」と呼ぶ。
 そして、「シニョリッジは、貨幣を増刷するだけでできるし、これで公共事業ができれば、タダで公共事業をするのと同様だ。景気回復と、貨幣発行益の、一石二鳥ができて、万々歳」と主張する説がある。
 これは、ケインズ派の一部が主張する説である。そこには、近代経済学では当り前の、当然の概念が欠落している。つまり、「貨幣数量説」である。
 「貨幣を増刷すれば、貨幣の量が増えるから、物価は上昇する」というのが、当り前だ。ところが、それを無視して、「お札を増やせば、富がどんどん増える」と思い込む。「国民は、何も生産しなくていい。単に印刷機だけを回転させて、お札をすれば、どんどん富が生じる。そのお札で、自動車でもパソコンでも本四架橋でも買えばいい」と主張する。しかし、いくらお札を印刷しても、自動車やパソコンを生産しない限り、自動車やパソコンを入手することはできないのだ。お札の量を増やしても、商品の量を増やさなければ、富が増えるかわりに、物価が上がるだけなのだ。
 そのことを理解できない人々が、「シニョリッジ」という、ありもしない利益を、勝手に想定するのである。ありもしない利益を、あるかのごとく思うのであるから、「捕らぬタヌキの皮算用」と言うべきか。
 ともあれ、「シニョリッジ」なんていうものは、存在しない利益である。名目的な数字だけはあるが、実質的な数字はない。こんなふうにありもしないものを信じるのは、経済学を知らないエセ経済学者の説にすぎない。仮に、こんな幻を信じて、貨幣を大量に増刷して、本四架橋などをどんどん作っていったら、日本国民はひどい物価上昇に苦しむことになる。あとにはせいぜい、本四架橋の類似物がたくさん残るだけだ。将来の人々は、それを「平成のピラミッド」と読んで、嘲笑うだろう。
( → 3月21日b8月27日9月06日4月26日 にも、平成のピラミッドの話。)

 [ 付記1 ]
 このような「通貨を増やして、利益を得よう」(シニョリッジを得よう)という説が、あまりにもひどい説であることは、はるか昔から、とっくに判明してきた。ゲーテの「ファウスト」の第二部(6055行〜)に書いてある。
 通貨を莫大に増やして、莫大な富を得たつもりになる、という話。そして最後に、阿呆(道化)が、こう語る。「今夜寝るときは、わしのご身分は大地主様だ」と。それを聞いて、悪魔(メフィストフェレス)が、こうつぶやく。「これで誰にもわかったろう、ここの利口者はあの阿呆一人ということさ」と。(6172行)
 つまり、こうだ。通貨というただの紙をばらまいたとしよう。そのあと、阿呆以外の全員は、現実において自分が莫大な富をもっていると思い込む。阿呆は、金持ちになったのが夢だと信じるが、阿呆以外は、金持ちになったのが現実だと思い込む。阿呆だけが利口者で、阿呆以外のすべては馬鹿者だ、ということだ。……そして、そんなことは、ゲーテの時代から、とっくに判明していたことなのだ。そして、「悪魔にだまされるな」と警鐘が鳴らされていたのである。
 悪魔は、甘い言葉で人をたぶらかして、あとでひどく苦しめる。そういう悪魔は、今もたくさんいるのである。エセ経済学者という皮をかぶって。

 [ 付記2 ]
 では、シニョリッジの本質は、何だろうか? それは、「配分の変更」である。
 お札を増やせば、たしかにそのお札で、何かを買うことがでいる。だから、その分だけを見れば、「利益が生じた」と見える。ただし、本当は、その分、他の箇所から利益が奪われるわけだ。その「他の利益を奪う」というメカニズムが、「貨幣価値の低下」つまり「物価上昇」である。
 たとえて言えば、「富が欲しい、富が欲しい」と叫ぶ人に対して、彼の右手に富を与える。ただし、その分だけ、彼の左手の富を奪う。
 ここで、真の経済学者ならば、右手で増えても、左手で同額減ったと理解するので、「全体の損得なし」と判断する。そして、「配分の変更だけがあった」と結論する。
 しかし、彼が愚かなエセ経済学者ならば、右手の分だけを見て、「富が増えた」と喜ぶのである。そして、その増えたと信じる分を、「シニョリッジ」と呼ぶ。
( ※ こうやって人をだます手法は、手品でしばしば使われる。「もともとあった分はそのまま残っている」と信じさせた上で、別の箇所で新たなものを取り出す。すると、「一つのボールが二つに増えた」というふうに見える。本当は、もとの箇所の分はこっそり手のうちに取り込んでいるのだが、観客はコロリとだまされて、「もとの箇所にはそのまま残っているから、新たな箇所の分、ボールが増えた」と思い込んでしまうのだ。……なお、手品師は観客をだますだけだが、エセ経済学者は自分をだます。)
( ※ ここまで考えると、「シニョリッジ」という発想のどこがまずいかが、よくわかる。それによって物価上昇が起こること自体が悪いのではない。物価上昇を通じて、富の再配分が起こることが悪いのだ。つまり、国民の富が奪われて、政府の富が増えることが悪いのだ。……この点、誤解しないように、注意しよう。「物価上昇が起これば、デフレが脱出できて、かえって好ましい」なんていう主張があるが、とんでもない。それは詭弁である。「物価上昇が起こる」とき、同時に、国民の富が奪われるのである。そういう配分の変更が肝心だ。……手品で言えば、「もとのボール」は消えてしまっているのである。そのボールがそのまま残っているかのごとく錯覚させる発想が、「シニョリッジ」だ。詐欺師の手口。)

 [ 付記3 ]
 この「シニョリッジ」というのは、いかにも馬鹿げた概念だが、歴史的には、実現されたことがある。
 昔の政府は、けっこう、これを信じた。政府財政をまかなうために、税を上げるかわりに、どんどんお札を刷った。国民は「税がない」と大喜び。しかし、その結果は、莫大な物価上昇だった。
 たとえば、ドイツのレンテンマルクのころ(直前)。お札をどんどん刷った結果、天文学的な物価上昇が発生した。市民は買物をするのに、毎日、札束を持ち歩くようになった。国民生活は破壊され、ついには、ナチスが台頭するようになり、ドイツだけでなく世界を破壊した。
 「シニョリッジ」というものを信じる阿呆が経済を運営すると、こういう結果になるのだ。


● ニュースと感想  (8月16日)

 「景気の動向」について。
 内閣府が13日に発表した4〜6月期のGDPの実質成長率。前期比 0.4%増(年率 1.7%増)。エコノミストらの事前の予測を大幅に下回った。(2004-08-13 夕刊各紙)
 日本百貨店協会が13日に発表した7月の東京地区百貨店売上高は、前年同月比 1.1%減。7月上旬から一斉に始めたクリアランスセールの効果で、6月の 6.1%減に比べると落ち込み幅は縮小したが、5カ月連続して減少した。(2004-08-14 朝刊各紙)
 また、国内の自動車販売も、新社は7月までに6カ月連続で前年度比マイナス。中古車も3個月連続でマイナス。(2004-08-14 朝日・朝刊)
 また、厚生労働省の統計によると、6月に支給されたボーナスは一人あたりで前年同月比 5.6%減。(2004-08-14 朝日・朝刊)
 以上、報道のまとめ。

 これらのデータを見て、朝日は「景気悪化には驚く」と書いたり、「景気の山はいつか」と窺ったりする。しかし、その発想そのものが、根本的に狂っている。
 景気は循環しないのだ。減衰曲線の形を取るのだ。( → 5月05日b ) ただし、ある出来事が起こったとき、その効果は、一瞬にして現れるのではなくて、社会に波及するのに、何らかの時間がかかる。つまり、遅延が生じる。すると、その遅延のせいで、効果全体には山が生じる。
《 事象の発生 》
         
 ────────── → 時間
《 効果の集積 》
   ||
  ||||
  ||||||:...
 ────────── → 時間

 ここでは、事象は瞬間的に発生するが、効果は山形のピークをもつ。そこが肝心だ。(比喩的に、地震の発生を考えるといい。地層のズレが瞬間的に発生する。前者の図のように。その後、地震波が各地に遅れて伝わるが、伝わった地震波の振幅は、後者の図のような山形となる。つまり、ピークを迎えたあとで、だんだん弱まる。)
 われわれが現実に観測するのは、後者の図に相当する山形である。そのせいで、現実に山形の事象が発生しているのだと思い込む。それを景気循環と呼ぶ。経済には周期的な原理が働いているのだ、と思い込む。しかし、そうではない。周期性などは、どこにもないのだ。あるのはただ、上記の後半のような山形だけであり、それがところどころに発生するだけである。
 たとえば、上向きの山や、下向きの山。大きな幅の山や、小さな幅の山。大きな高さの山や、小さな高さの山。それらの山が、複雑にからみあっている。(なぜなら、複数の事象が同時に発生すると、複数の山がからみあって、複雑な山を形成するからだ。複数のサインカーブが絡み合う形を思い浮かべるとよい。)
 とにかく、景気については、「周期性や景気循環などは成立しない」と理解することが大切だ。

 以上の原理から、景気については、私はかねて、次のように主張してきた。
 「景気は循環しない。不況のあとで景気回復に転じる、ということはない。景気上昇をもたらす力が生じれば、その力によって、一時的には上向きの山が生じるが、その力が消えれば、山も消える。……現状では、外需という上向きの力が生じたから、一時的には山が生じるが、外需という上向きの力が消えれば、山はだんだんなだらかに消えていく。……その山が消えるのは、たぶん、2004年4月以降であろう」(2003年の末ごろから2004年3月ごろまでに示した予測。)
 そして、この予測が、まさしく的中したことになる。3月までは山を形成したが、4月〜6月には、山は消えたのだ。
 では、なぜ、山は続かなかったのか? その理由も、前に何度も示した。それは、「所得の増加」がないからだ。所得の増加があれば、マクロ的に景気拡大のスパイラルが生じる。しかし、所得の増加がなければ、いくら景気が回復しても、スパイラルをなさない。なぜなら、企業が黒字になっても、その利益は、企業に留まっていて、次の時期の需要を生み出さないからだ。……かくて、山は持続せず、一時的な回復に留まるわけだ。(この場合、利益は、消えてしまうのではなくて、企業の銀行預金通帳に蓄積される。その金が投資に向かえばいいが、不況期にはそんなことはないので、結局、利益は金融市場に眠るだけだ。なお、金が眠ることの証拠は、ゼロ金利。)

 参考データ。
 参考として、7月のスーパーの売上げを示しておく。いずれも減少。
 イトーヨーカドーは、前年同月比1〜2%増。イオンは3.3%減。ダイエーは4〜5%減。ただし、概数。(2004-08-14 朝日・朝刊)
   なお、少し古いデータ(1カ月前の記事)を示すと、次の通り。
 ダイエーの6月の売上げが7%の減少だという。4月、5月、と同様に減少傾向が続いている。(読売・朝刊・経済面 2004-07-16 ) ヨーカドーもジャスコも同様。
 もうちょっと古い記事だと、4月の速報では、イオンは 5%減、ダイエーは 3%減、西友は 6%減。 → 5月20日

 [ 付記1 ]
 7〜8月の消費については、猛暑の影響で、若干の上向きになりそうだという。しかしその後は、見込みが暗いようだ。
 とにかく、所得の向上が、何よりも重視される。ここでは、「消費性向はすでに上限に達しており、消費意欲を掻き立てても仕方ない」ということが重要だ。
 不況の初期ならば、消費性向が低下しただけなので、消費意欲を掻き立てれば、景気は上向く。しかし、不況が長く続いたあとでは、所得が減少しており、消費性向はかなり上昇しているので、消費意欲を掻き立てても仕方ない。ここではむしろ所得の増加が必要となる。
 このことを無視したエコノミストたちが多すぎる。彼らは次のように主張する。
 「消費意欲を掻き立てよ」(所得の増加なんか不要だ)
 「景気は循環する」(ほっといても、下向きのあとは上向きになる)
 こういうのはもはや経済学ではなくて、ただの素人のヤマカンにすぎない。裏付けが何もなく、勝手にわめいているだけだ。こんなヤマカンだったら、まだしも、下駄占いの方がマシだ。下駄占いならば、その予測を出した人の半数は正解を出す。しかるに、今のエコノミストたちは、間違った信念(古典派経済学)に従っているせいで、ほぼ全員が誤答を出す。素人ならば、半数が正解だが、自称玄人のエコノミストは、ほぼ全員が誤答だ。
 げに恐ろしきは、マクロ経済音痴なり。

 [ 付記2 ]
 マクロ経済音痴の典型が朝日だ。これまで何度も「景気は回復している」と虚報を垂れ流したあとで、今になってあたふたとしている。見苦しいね。どうせなら「これまでの報道は間違っていました」と頭を下げればいいのだが、辞任したナベツネよりもひどくて、決して頭を下げないのが、この社の体質だ。「たかが読者」というふうに、読者を軽蔑しているのだろう。
 朝日の14日の記事の結語は、次の通り。
「力強い景気回復が続くのか、それとも今回の減速が続いて、本格回復が持ち越されるのか。日本経済は正念場を迎える」
 どうしようもないデタラメですね。では、正しくは? こうだ。
 「力強い景気回復」なんてものはもともと存在せず、ただの一時的な外需効果にすぎなかった。「減速」なんかは生じておらず、単に一時的効果が消えて、元の状況に戻っただけだ。「本格回復」なんてものは、政府がマクロ政策を実施しない限り、ずっとありえない。「正念場を迎える」のは、「日本経済」ではなくて、「日本政府」だ。マクロ的な景気というものは、ほったらかしておくと自律的に周期変動するものではなくて、政府が人為的に特定方向に動かすものなのだ。
 「どうなるだろう」なんていう観測記事は、世論を誤誘導するだけだ。正しくは、「われわれはなすべきことを、なすかなさないか」という意思の有無だ。
 「人事を尽くして天命を待つ」という言葉がある。人事を尽くすかどうかが、核心であり、それを報道するのが、マスコミの使命だ。逆に、人事をほったらかして、「天命を待つ」だけなのが、朝日(および古典派)だ。……彼らは「神の手」を信じているから、自分では何もしない。
 かつて「神の手」を自称して、化石の捏造をやった人物がいた。彼について「神の手の持主」を持ち上げたのが、朝日だ。かくて朝日は、虚報によって、日本の考古学会を破壊した。今もまた朝日は、「神の手」を報道することで、虚報によって、日本経済を破壊しようとしている。
 そして、だからこそ、私は繰り返して主張する。「景気循環などはありえない。放置して回復することなどはありえない。自由放任ではなく、なすべきことをなせ」と。
 つまりは、「穴に落ちたら、穴を脱出するために、自ら努力をせよ」ということだ。「穴に落ちたら、落下と上昇は循環するだろうから、そのうちきっと助かるさ。神の手によって、ほっといても自動的に脱出できるだろう」なんていう妄想を取るべきではないのだ。


● ニュースと感想  (8月17日)

 物理学の「シュレーディンガーの猫」の問題の続編を、新たに公開しました。

   → 二重スリットと観測問題

  ※ 量子論の専門家向けです。
  ※ 数式は用いていないので、一般の人でも理解できます。
  ※ 量子論における認識を改める、重要な理論が提示されます。
  ※ 「波としてふるまう粒子」という従来の発想を、全面否定します。
  ※ 量子論における矛盾(発散問題など)が、原理的に解決されます。


● ニュースと感想  (8月18日)

 短い話を、四つ。

 (1)「大増税」が予定されているらしい。すでになされている減税(低所得者向け・一律)を廃止する形の大増税を実施するらしい。05年度に半分実施、06年度に全部実施、の予定だという。(朝日・朝刊・経済面 2004-08-17 )
 大減税ならぬ大増税。日本経済はメチャクチャになりそうだ。馬鹿な経済学を信じていると、正しい方向とは逆の方向に、ハンドルを切る。対向車が来たとき、「よけよう」と意図しながら、正面衝突する。狂気の経済運営。
 ( ※ 正しくは? 「ミドル経済学」のところで何度も述べたとおり。「完全回復までは、減税路線。完全回復後に、物価上昇の可能性が出たところで、増税」である。物価上昇の芽も出てこないうちに、増税なんかをやれば、惨憺たるありさまとなる。)

 (2) ダイエーの売上高。前々日分では概数だったが、「4%減」と確定したという。(朝日・朝刊・経済面 2004-08-17 )

 (3) トヨタがロボットを開発したという。ホンダのロボットと、ソニーのロボットの、中間みたいなタイプ。完成度はずっと劣るが。(週刊アスキー、最新号、ニュース記事。)
 「ロボットか何かブームだ」というと、すぐに真似したがる会社。( → 5月19日 ) まったく、恥ずかしくないんですかね。真似でなくて、独自路線を進めないんですかね。
 だから私は前にも、「猫も杓子も、ロボットなんかやるな。むしろ、サイボーグをやれ」と主張したんですけどね。( → 5月31日7月29日

 (4) 前日告知のページを更新した。(バージョン・アップ。)


● ニュースと感想  (8月19日)

 短い話を、五つ。

 (1) 「銀行のキャッシュ・カードにセキュリティ上の問題があり、預金をごっそり盗まれた」という話は、先に記した。( → 7月20日b
 これと同じ話で、詳しい記事が、週刊朝日の最新号に出ている。あちこちの銀行は、みんな危ないらしい。
 私の感想は、次の二点。
 「キャッシュカードの限度額が高すぎる。普通の人は、一日に何百万円も下ろすことはないのだから、限度額を低く設定するべきだ。高くしたい人だけが高くすればいい」
 「高額の預金引き下げは、監視カメラで必ず監視するべし。顔を認識する画像ソフトを使って、マスクとメガネをしているような人は、自動的に、チェックする。顔を認識するためでなく、認識できない顔を探すために、チェックする。怪しい奴は、対面チェック。ついでに、警察に連絡して、尾行してもらう」……これをやると、おれおれ詐欺(による預金詐欺)もチェックできそうだ。
 それにしても、銀行ってのは、どうしてこう犯罪者に協力ばかりしているんだろう? 「当行は犯罪者には協力しません」という銀行が一つぐらいあっても、良さそうなものだが。そういう銀行があれば、私はさっそく、その銀行に預金を移転したい。……だけど、駄目銀行ばかりなんですよね。
 「高機能ばかりを重視して、セキュリティがいい加減」……これ、どこかのブラウザ・ソフトにそっくりですね。

 (2) ナベツネが巨人軍のオーナーを辞任した。「裏金」が名目だが、実質的には、世論の総スカンを食った「1リーグ制」の引責辞任だろう。
 だとしたら、格好付けしないで、「私は世論に逆らって、傲慢なひどい発言をしました」と謝罪するべきだ。なのに、現実には、読売の主筆として社説を執筆するという。全然、反省ができていないね。読者を洗脳しようという狙いなのだろうか? それじゃ、朝日と同じだね。
 
 (3) 1リーグ制と言えば、ロッテとオリックスは、あんなに1リーグ制を推進するのは、まったく不思議だ。世論に逆らい、自社の悪宣伝をして、いったい、何のためにプロ野球球団をもっているのだろう? 世論の反発を買うために? なるほど、たいていの人は、「ロッテとオリックスなんか、大嫌い」という気持ちばかりが高まる。両社のブランドは、泥まみれ。
 とすると、両社は、売上げを減らすために、大金をかけて、プロ野球球団を維持しているわけだろうか? 不思議。……というより、ロッテとオリックスは、ただの馬鹿ですかね。

 (4) ロッテのオーナーは、「不退転の決意で、1リーグ制に邁進する」と言っている。さて。1リーグ制というのは、つまりは、パリーグとセリーグの結婚だ。もともとは双方は、独身同士だった。ここで、セリーグは「今のまま独身でいたい」と望むが、パリーグは「私は一人だけでは生きていけない。だから、不退転の決意で、結婚に邁進する」と主張する。
 ふうむ。結婚というのは、一方の決意だけで、実行できるんでしょうか? それはちょっと、モテない暴力男の発想ではないのかな? ……暴力女かも。こわいですね。「ロッテ」なんて、名前だけはかわいいけど。

 (5) 前々日の、量子論の話( 二重スリットと観測問題 )を、またバージョンアップした。
  「素粒子の質量とは何か?」という話など。


● ニュースと感想  (8月20日)

 「人名漢字」について。
 人名漢字の改定案が決まったという。14日の朝刊に新聞報道されたので、その後、インターネットでの公開を待っていたのだが、なかなか公開されない。( 法務省のサイト にも、なかなか出ない。参考情報のページ ならば、見つかるが。……ま、数週間かたてば、何とかなりそうだが。)
 さて。この問題について、コメントを加えておこう。

 (1) パソコン文字
 今回の人名漢字は、新聞報道によると、すべて正字体だ。とすると、パソコンでは出せない。せっかく文字を決めても、パソコンでは出せないのだから、実社会での不便が生じる。となると、パソコンの側が何とかするべきなのだが。
  ・ 政府が何らかの形で、新しいJISを定める。
  ・ 省令一本で、JISの代表字形を変更する。
 のどちらかが必要だろう。(後者は、「秀英明朝」フォントなどを利用すればよい。 → 7月26日

 (2) 社会普及
 文字を定めても、人々が読み書きできないのでは、混乱ばかりが生じる。では、どうするべきか? 人々が読み書きできるように、対処すべきだ。私の提案は、こうだ。
 「書くことはできなくても、読むことができるように、高校で『人名漢字の読み』を習得させる。」
 なぜか? 現状の国語教育では、「中学校までに常用漢字全部(特に読み)」を教えたあとで、高校では、「常用漢字全部(書き)」があるだけで、「読み」としての追加はまったくないからだ。つまり、高校レベルで新しく習う漢字は、ゼロである。散発的に、国語教科書に現れた難読漢字が現れるが、統一的な文字集合がないから、大学受験でも出題されない。当然、誰も新たに覚えようとしない。
 これは、きわめていびつな国語教育と言えるだろう。この歪んだ状況を是正するべきだ。
( → 3月17日b6月14日
 
 [ 付記 ]
 だいたい、「人名漢字の拡張」なんて、馬鹿らしいことこの上ない。たとえば、現状の人名漢字の「翔」ですら、「翔ちゃん」とか「翔平くん」というゆうに「しょう」と呼ぶためだけにあり、「飛翔」という肝心の用語のためにあるわけではない。若者たちは、「飛翔」という語を見ても、その意味がわからず、「翔ちゃんが飛び跳ねることかな?」なんて想像をする。馬鹿馬鹿しい。
 こういうふうに、漢字を音だけのために使って、意味を無視する、というのは、一種の国語破壊政策だ。
 たとえば、「鮎」という漢字にしたって、これは魚の鮎を意味するのであって、浜崎あゆみの真似をして娘に「鮎」なんて名前を付けさせるためにあるのではない。……ところが、現実には、政府は「鮎」を学校教育で教える場をもたず、人名として意味もなしに「あゆ」と発音させるためにだけ制度を整える。
 まさしく、国語破壊政策だ。そのうち、常用漢字も、意味に無関係に音だけで使うような国語政策が出てくるかもしれない。「日本語のローマ字表記」に似ていて、ローマ字のかわりに漢字を音だけで使う、というわけ。……気違いじみている。それが「人名漢字の拡大」のポリシーだ。

 [ 補足 ]
 この件について、基本的な原理を示しておく。
 「文字は自由に使えるべきだ。国家が制限するべきではない」という主張がある。とんでもない勘違いだ。たとえば、「夫婦別姓制度」ならば、夫婦がどういう名字を取るかという個人的な問題だから、これを「社会における家族制度を崩壊させる」なんていう強弁は成立せず、各人(というより各家庭)に任せるべきだ。家庭のことは家庭で決めるべきであって、他人がちょっかいを挟むべきではあるまい。やりたい人はやればいいし、やりたくない人はやらなければいいだけだ。
 たとえば、山田花子が結婚して橋本花子になるかどうかは、彼女が結婚するかどうかということしだいだから、彼女が結婚するかどうかについて、いちいち他人が口を挟むべきではあるまい。つまり、彼女がそのまま山田花子と名乗りたいとき、「結婚して山田花子だと、社会制度が崩れる。しかし、結婚しないで内縁関係のまま山田花子ならば、社会制度が保たれる。ゆえに、結婚しないで、内縁関係であるべきだ」なんていうメチャクチャな理屈を出して、結婚するかしないかに口を挟むよりは、各人の自由に任せるべきだろう。人が結婚するぐらいは、人の自由に任せてほしい。(実を言うと、国会議員で夫婦別姓制度を推進している野田聖子議員は、別姓制度がないせいで、いつまでたっても内縁の妻のままだ。つまり、いつまでたっても、結婚できない。別姓制度ができれば、結婚できるのに。国の横暴ですね。)
 しかし、結婚はともかく、文字は違う。文字は、個人の自由ではないのだ。文字は、一種の尺度のようなものであり、社会における共通の基盤であり、一種の通貨のようなものだ。これについて「個人の自由に任せよ」というのは、いわば、「通貨を個民が自由に発行できるようにせよ」というようなもので、とんでもない社会混乱を引き起こす。
 何でもかんでも「自由は素晴らしい」なんていうのは、子供じみた、阿呆のたわごとにすぎない。「社会のルールを守りましょう」という教育をちゃんと学ぶべきだ。そのために、まずは幼稚園に入って、幼稚園児といっしょに学習してもらおう。……ま、幼稚園の年長クラスは、「社会のルールを守りましょう」ということを学習しているから、幼稚園の年少クラスに入るといいだろう。
( → 6月14日


● ニュースと感想  (8月20日b)

 ぼやき。
 夏ですねえ。私もちょっと休んでいます。ネタ切れかも。  (^^);
 実は、マクロ経済学の総集編&補充編のシリーズを始める予定なのだが、頭が夏モードなので、ちょっと書く気になれない。いや、書くことはもう書いてある(春ごろに完了)のだが、見直して掲載する気になれない。……もうちょっと涼しくならないと。


● ニュースと感想  (8月21日)

 「沖縄の立場」について。(体制や基地の話。)
 沖縄の論考があった。月刊SAPIO最新号に、小林よしのりが書いている。沖縄と香港との類似を指摘する意見に対して、「沖縄はもう香港みたいになっているじゃないか。うまい汁を知っているじゃないか。親に構ってもらえない幼児がすねているみたいなことは言うな」と、沖縄人を侮蔑している。
 他人の意見にいちいちたてつく小林とは違って、私は小林の意見にいちいちたてつくつもりはないのだが、この論考は、私の「沖縄独立論」とは対立するので、ちょっとだけ、コメントしておく。
 私の「沖縄独立論」の趣旨は、「沖縄には基地が多すぎて、一方的に負担を強いられているから、何とかせよ。とりあえず、独立してやれ」という論旨だった。(一種の暴論だが。)( → 5月19日b
 ところが、小林の意見は、「沖縄は甘えている」というものだ。しかし、これは、「沖縄ばかりが莫大な負担を負わされている」という現実を、まったく無視している。これが沖縄で一番肝心なことなのに、このことに目をつぶって、「パパイヤは果物か野菜か」とか、「ゴーヤは沖縄では安い」なんてことばかり、一生懸命書いている。ま、それはいいが、「自衛隊は偉い」なんていう宣伝までやっている。(これじゃ、政府の犬だね。沖縄だから、豚かな。豚と呼ぶと、豚に失礼かも。)
 ま、小林が「沖縄は恵まれている」とか「本土と対等だ」とか、そういう趣旨で言うのであれば、その前にまず、本土を沖縄化するべきだろう。たとえば、東京都の大部分の平地(23区の部分)を、すべて国が没収してから、米国にプレゼントして、米軍基地にする。日本人は、23区から追い出されて、多摩で生活するしかない。多摩で生活していても、頭上の空を戦闘機がぶんぶん飛んで、騒音と衝撃波を発して、ときどき墜落したりする。住んでいる日本人は偉い迷惑を受ける。……そういうふうに、東京を改造するべきだ。それなら、小林の論旨は成立する。
 ついでに言っておこう。沖縄が本土とは決定的に違うのは、「坂だらけだ」ということだ。平地はすべて米軍に没収されたので、沖縄人は凸凹した丘陵部分に追いやられた。そのせいで、沖縄では、自転車に乗る人はほとんどいない。(よほど脚力のある人は別だが。)また、沖縄では、電車というものが存在しない。坂だらけだから、トンネルでも掘らない限り、電車を造れない。作っても、すぐに米軍基地に引っかかるから、ちょっと無理だ。……ただし、つい先日、初めて短距離の電車が建設されて開通したそうだ。ところが、切符と改札口の利用法がわからなくて、多くの人々が困惑したという。……まるで未開国ですね。それが沖縄の現実だ。
 だから、「沖縄は恵まれている」と思うのであれば、まず、本土の電車をすべて廃止して、平地をすべて米軍にプレゼントして、日本人は山地に住んで、自転車も電車もなしに徒歩を基本として、ときどき頭上から衝撃波を受ければいいのだ。
 ま、思考が豚みたいに肥満している小林には、沖縄の衝撃は伝わらないのだろうが。パパイヤばかり食っているせいかな? 「パパイヤ小林」と名乗るといいかも。ダンスでも踊って、「まいう〜」と垂れ目になる。

( ※ 私は基本的には、小林よしのりは好きだ。ただし、政府批判がある場合に限られる。一方、人質問題や、沖縄問題では、小林は、強権者たる政府の側に立って、弱者たる国民を弾圧しようとする。……こういうのは、大嫌いだ。「ゴーマニズム」ではなくて、ただの「政府べったり」ではないか。タイトルを「ゴーマニズム宣言」から、「政府べったり ゴマスリ宣言」と改称するべし。……それとも小林は、ただの保守なのかね? 小泉はポチで、小林はプチ。毛色がちょっと違うが、よく似てるね。どっちも「小」物だ。)

 [ 付記 ]
 オリンピックに浮かれていないで、終戦記念日の話でも聞きたい、という殊勝な読者は、過去ログにある次の記事でも読んでください。(繰り返しになりますけど。)
   → 8月11日 「戦争と平和」


● ニュースと感想  (8月22日)

 「未知の素粒子」について。
 量子力学に未知の現象が発見され、未知の素粒子が予測されているという。さらには、標準理論の破綻がはっきりしたので、新しい理論の構築が要請されているという。
 では、新しい理論とは、どんなものか? 量子力学と重力理論を統一したものらしい、と漠然と感じられているようだ。ただし、実は、「こういうものだ」というふうに、はっきりと明示できる。そのためには、空間の新しい認識が必要だ。
 詳しい話は、先に公開した、量子力学のページに「オマケ」として記述しておいた。専門家向けなので、素人が読んでも、ちんぷんかんぷんです。

  → 二重スリットと観測問題 (オマケ)

( ※ 古いバージョンのファイルとの比較を知りたければ、お手持ちのファイルと最新バージョンとを、「ファイル比較ソフト」で調べるといいでしょう。いろいろあります。vector などで入手可。朝日・週末版 be 青色版 2004-08-21 にも解説されている。)

 [ 付記 ]
 朝日の上記記事には、URL が書いてあるのだが、そこでは数字の「 1 」と半角英字の「 l 」(エル)がほとんど同じ字形であるため、うまく区別がつかない。狂気的ですね。
 ま、パソコンなら、文字が区別できなくても、コピーすることで自動的に正しい文字になる。しかし、新聞記事では、その手は使えない。ちゃんと字形を区別して印刷してもらいたいものだ。
 例。「kill1120」,「kill1120 」,「kill1120
 つまり、「数字だけは太字か斜体にする」など。


● ニュースと感想  (8月22日b)

 「中国の報道規制」について。
 中国で、日本の国旗が焼かれたり、大使館員の乗っている乗用車が破壊されたり、といった暴動が起こっているが、そのことが報道規制されているせいで、中国でまったく報道されないという。こんなことでは駄目だ、と読売が指摘している。(読売・朝刊・解説面 2004-08-20 )
 言っていることはまさしくその通りだ。しかし、一般人が言うならいざ知らず、新聞社がそんな他人事みたいなことを言ってもらっては困る。「ちゃんと報道する」のは、ほかならぬマスコミの使命ではないか。「ちゃんと報道するべし」って、自分自身に言ってほしいですね。
 なぜか? たしかに、読売は中国の新聞ではない。しかし、今では、インターネットという道具がある。これを利用すればよい。インターネットに「読売新聞・中国版」というのを公開して、 yominet.cn  なんてサイトで、中国語の新聞を出せばよい。
 そもそも、情報は、新聞社が握っている。たとえば、私が読売新聞の記事を中国語訳して、適当に広告を集めて、「読売・中国語版」なんてサイトを立ち上げれば、大儲けできるが、たちまち読売新聞社が「著作権の侵害だ」と言って、文句を言うに決まっている。ま、それは正当な文句であるが、だったら、私なんかにやらせないで、自分でやればいいではないか。
 そうすれば、読売は広告料で儲かるし、コストは翻訳料以外はほとんどかからないし、中国ではすごく有名になるし、中国人は情報を入手できるし、いいことずくめだ。
 ま、こうすると、中国当局は、きっと「読売・中国語版」へのアクセス制限を実施するだろうが、それまでに、読売中国語版は、世界各地に転載されて、情報がばらまかれるから、中国当局としては、そのあちこちのページをしらみつぶしにすることはできない。だいいち、google のキャッシュに入ったら、制限はちょっと無理だろう。それとも、google へのアクセスを制限するんですかね? それは自殺行為。

 ま、朝日でも読売でもいいが、「真実報道」の中国語新聞を立ち上げてもらいたいものだ。それが面倒だというなら、少なくとも、どこかの誰か(たとえば私)が勝手に転載して大儲けするのを、邪魔しないで欲しいですね。
( ※ 事業の試算をしよう。コストは、日本語の読める中国人にやらせるなら、一日五千円ぐらい。公開する手間は、ブログみたいな形で単純にHTML化すれば、ほとんど無料。一方、広告は、いくらでもいいが、1日に1万円を上回れば十分。……簡単ですね。容易に黒字になります。3年ぐらいで、すごく売上げが増えているかも。その時点で株式を売ると、google 創業者みたいに巨万の富が手に入るかも。)
( ※ 読売新聞は、ヤンキースの球場に、「読売新聞」という馬鹿でかい漢字の看板を出して、大恥をかいた。莫大な金を払って宣伝をして、自己の悪宣伝をしただけ。……この金を別のことに使えばいいのに。)


● ニュースと感想  (8月23日)

 「UFJ問題」について。
 UFJの問題について、エコノミストの分析があるが、勘違いが多いようなので、私なりに解説しておく。
 まず、「経済的にどうなるべきか」という問題と、「法律的にどう判断されるか」という問題とは、別である。このことをわきまえておこう。

 第1に、経済的には? UFJは、三井住友と合併するよりは、東京三菱と合併する方が、補完的な効果が大きいから、当初の計画通りの方が、経済的なメリットは大きい。UFJにとっては、それがベストだろう。ただし、三井住友にとっては、ライバルがデカくなるのは自社のデメリットだから、ライバルをたたきつぶすためにUFJとの合併を選択するのも当然である。三井住友にとっては、現状維持がベストであり、次善がUFJとの合併だ。もしうまく合併できたら、UFJを適当に切り売りしたり、元UFJ社員を二級社員扱いしたりして、デメリットをなるべく減らそう、という道を取るだろう。……というわけで、UFJは、東京三菱と合併するのが自然である。

 第2に、法律的には? 契約では、信託銀行について「独占交渉権」というのを認めている。とすれば、契約に違反すれば、違約金を払うのが、当然だ。違約金を払うとなれば、その前提として、あくまで「独占交渉権」を認めるべきであり、違約金を払わない限りは、「独占交渉権」の一方的廃棄は認められない。当然だ。この意味で、一審の判決は当然である。
 一方、二審は、「もはや実質的に両者の関係は破綻しているから、独占交渉権は無意味」と判決している。馬鹿げた判決だ。法律を無視している。実質的にどうするかを決めるのは裁判所の仕事ではない。法律が有効かどうかを決めるのが裁判所の仕事だ。つまり、「契約は有効だから、契約破棄するなら違約金を払え」と判決するべきだ。なのに、「契約はもはや守れないから、契約は無効だ」と判決している。気違いじみている。
 このような判決が正当化されるとしたら、次の行為はすべて合法となる。  これらの行為がすべて合法化されてしまう。馬鹿げた話だ。裁判所というのは、ある法律を厳守するかどうか[つまり行為意思]を決めるところではなくて、「法律違反をしたら罰を加える」ということを判決するところだ。結婚の破棄なら、慰謝料。無銭飲食なら、罰金・拘留。殺人なら、懲役または死刑。……そういうふうに判決をするべきだ。「守れなかったから守らなくていい」なんて判決は、狂気の沙汰である。
 UFJに戻っていえば、「契約の一方的な破棄には、違約金を払え」と判決するべきだろう。逆に言えば、「違約金を払わない限りは、独占交渉契約は有効」と見なしてもいいだろう。たぶん。……そのあたりは、いくらかは判断の裁量の余地があるが。


● ニュースと感想  (8月23日b)

 「朝日のデタラメ記事」について。
 また例によって、小林慶一郎が、とんでもないデタラメ解説を書いている。この人は、経済学の教科書にもない珍説を、やたらと書き散らすが、いい加減、世論を惑わすのはやめてもらいたいものだ。はっきり言って、「トンデモ」である。

 今回は、経済について、「市場原理主義」と「設計主義」という区別をしている。UFJ銀行をどうするか、ということを例にしているらしい。
 しかし、UFJ銀行の問題は、こんな問題とは何の関係もない別問題だ。ただの法律論であるにすぎない。経済学者の出る幕はない。( → 前項 )
 一方、「市場原理主義」と「設計主義」なんてのは、初めて聞いた区別だ。たぶん、小林の造語だろう。こんな馬鹿げた区別は、これまで誰もしなかったはずだ。
 そもそも、市場原理主義に対立するのは、経済学的には、次の二つだ。
  ・ マクロ経済学
  ・ 社会主義経済
 前者は、「ミクロ的には市場原理だが、マクロ的には国家調整」という立場だ。市場原理そのものを否定しているのではなくて、「市場原理万能」という極端な説を排除しているだけだ。
 後者は、市場原理そのものを否定している。今回、小林が「設計主義」と呼んでいるのは、この「社会主義経済」のことだ。だったら、いちいち「設計主義」なんていう用語を用いずに、「社会主義経済」と呼べばいいのだ。そして、社会主義経済が駄目だということは、誰でも知っているのだから、いちいち解説する必要などはない。「設計主義」なんていう用語で概念を混同させようとするべきではない。
 記事では例として、米国の例を挙げている。一部銀行で金融破綻問題が起こったときに、金融業界に奉加帳を回して、破綻処理をした。これを「設計主義」なんて呼んでいるが、例としてはまずすぎる。これは単に、「金融業界に増税して、破綻処理の資金の穴埋め」というのをやめて、直接的に奉加帳を回しただけだ。どっちにせよ、実質的にはほとんど同じことなのだが、奉加帳の方が、ずっと速く済む。法律処理の手間を減らしただけのことだ。経済的には、何の意味もない。
 ここではもちろん、金融業界の優勝劣敗や合併などを社会主義的に設計したわけではなくて、単に財政負担のツケ回しを簡略化しただけである。これを「設計主義」なんて呼ぶのは、頭がイカレているとしか思えない。
 記事では例として、日本の例も挙げている。「不良債権処理はもっと迅速に進めるべきだったのだが、政府が邪魔したから遅くなって、不況が深刻化した」なんて趣旨で述べている。例によって「不良債権の遅れが不況をもたらした」という主張。マクロ経済音痴。「倒産が増えれば、総所得と総需要が減る」というマクロ面を無視して、「金融の帳簿がきれいになれば投資が増える」と主張する。需要不足で供給過剰でいるときに、「もっと供給を増やせば、不況が解決する」と主張する。「供給過剰という状況のときには、設備投資で供給を増やすと、供給過剰が解決する」と主張する。倒錯的。

 こういうトンデモ記事は、いい加減、掲載をやめてもらいたいものだ。せめて「社会主義的な統制経済」という用語を用いることにして、「設計主義」なんていう独自用語はやめてもらいたいものだ。

 [ 付記 ]
 だいたい、組織統制と市場調整とを同列に並べて、「うまく切り替えよ」なんて主張をするところからして、頭がイカレている。組織統制と市場調整とは、まったく別のことなのだから、同列に論じるべきではない。そりゃまあ、両者が噛み合ったり食い違ったりする場合も、個々の事例ではあるだろう。しかしそれは、両者が同列の次元にあるということではない。たまたま、かちあう場合がある、というだけのことだ。
 たとえば、会社の残業と、妻と映画鑑賞の約束とが、かち合う。すると、妻が言う。
 「あなた、あたしと仕事の、どっちが大切なの?」
 そんなの、答えられるわけがないじゃないですか。全然別次元のことなのだから。たまたま、かち合っただけのことだ。だから、どうせなら、次のように尋ねてほしい。
 a. 「あなた、あたしと愛人の、どっちが大切なの?」
 b. 「あなた、仕事と趣味の、どっちが大切なの?」
 c. 「あなた、仕事とウェブ更新の、どっちが大切なの?」
 こういうのなら、答えられなくもない。(一番最初の a. には、ちょっと答えにくいが。どっちだと答えても、大変みたいだ。)……これらにはとにかく、答えられなくもない。しかし、これらと違って、次元の違うものを同列に並べたとしても、比較はできない。
 なのに、そういうことを無理にやろうとする。そんな馬鹿女房と同じなのが、エセ経済学者だ。なるほど、この両者なら、同列に比較できる。馬鹿さ加減で。
( ※ 馬鹿女房というのは、特定の人物を意味していません。決して。……ただし、エセ経済学者というのは、特定の人物を意味しています。世間に嘘を垂れ流す迷惑人物。名前の冒頭に「小」が付く人物は、要注意。)


● ニュースと感想  (8月24日)

 「オリンピック」について。(運動音痴の愚痴かも。)
 オリンピックの騒ぎを見ても、どうも今ひとつ共感できない。ドーピングや金まみれという悪要因の影響もある。( → 7月22日b )ただ、それとは別に、もっと根源的に、スポーツというものの意義を、よく考えてみたい。
 スポーツ競技は、観客に感動をもたらすという意味で、芸術に似ている。ただし、芸術とは根本的に異なるところがある。それは、「勝利」を目的としている、というところだ。基本的には「勝者」はただ一人であり、他の全員は敗者である。勝者が栄誉を独り占めして、他の全員は涙に泣きくれる。これを見て、「敗者の美学」なんてことを唱える人もいるが、馬鹿らしい。だったら最初から敗者になるために怠けていればいいだけだ。
 スポーツ競技では、勝敗が決定的に重視される。その意味では、芸術よりは、戦争に近いかもしれない。そこで、「スポーツは戦争の代替物だ」という説もある。しかし別に、国家間で戦争するかわりに、代表者が競争しあうわけではない。そもそも、オリンピックは「平和の祭典」というのが建前だ。(現実は金まみれだ、ということはさておいて。)

 この問題は、経済学的に考えると、事情がはっきりする。
 古典派的な「神の見えざる手」の原理では、「全員が競争することで、社会全体が最適状態になる」というふうになるはずだ。では、スポーツ競技では、どうか? そのことで全員の状態がよくなるか? いや、よくなるのは、勝者となる一人(または少数)だけだ。残りの 99.9%ぐらいは、莫大な努力に対して、何一つ見返りがない。典型的なのは、高校野球だ。生徒たちは高校時代の三年間を費やして、莫大な汗を流すが、その結果、何を得るかと言えば、プロ野球や大学野球に入った数十人を除けば、ほぼ全員が無益である。逆に、彼らがそれだけの努力を、勉学に向けたなら、彼らは自分の人生を豊かにしただろうし、社会をも豊かにしただろう。
 スポーツというのは、まったく無意味ではないし、健康を高めるという有意義な効果がある。だから私も毎日、ジョッギングをやっている。とはいえ、私は一日に十時間もスポーツに費やすようなことはしない。(例外は、ごくたまにやる山登りだけだ。)
 結局、スポーツというのは、適度に短時間だけやるのならば有意義だが、過度にやるのはまるきり無駄なのだ。無駄にならないのはごく少数のスポーツエリートだけであって、他の大多数には無益なのだ。トップアスリートでさえ、有益と言えるのは、金メダルをもらえる人ぐらいだ。日本で一番になったとしても、オリンピックで敗退すれば、ほとんど無益である。

 で、何が言いたいか? 「競争は社会を最適化する」なんてことは成立しない、ということだ。それが成立することもあるが、成立しないこともある。そして、スポーツの場合には、成立しないのだ。競争が激しければ激しいほど、社会が向上するのではなくて、逆に、競争が激しければ激しいほど、社会が悪化する。
 典型的な例は、ボクシングだ。プロとして成立するのは、世界でたった一人、各階級のチャンピオンだけだ。いや、チャンピオンでさえ、まともには生計が立たないことが多い。なのに、チャンピオンになるために、莫大な努力をして、人生をつぶす。あげく、引退後は、パンチドランカー症(パーキンソン病)になって、手足がしびれてしまって、まともに運動できなくなり、廃人のようになる。
 オリンピックの華やかな栄光の裏には、暗い陰がある。それは、無数の敗者であり、無数の屍だ。栄光が美しければ美しいほど、その陰には陰惨な不幸がある。人々が、栄光を賛美して感嘆しているとき、彼らは陰の部分を見ない。しかし、陰の部分は、まさしく存在しているのだ。人々は見ようとしないが。

 光と陰。その両方を見よう。光だけを見ないで、陰も見よう。そうすれば、今の日本経済についても、真実を理解することができる。── 長い不況のあとで、「縮小均衡」という状態が現れる。それは、自由競争の結果だ。そこでは、企業の収益はどんどん好転する。そういう光が見て取れる。しかし一方では、そこに至るまでには無数の倒産が発生したし、倒産のあとには莫大な失業が発生した。生き残った企業だけは勝者として栄光を受けるが、他の多数は敗者として陰に覆われる。古典派経済学者は、勝者だけを見て、自由競争を賛美するが、実は、自由競争は、多大な敗者をも生み出すのだ。光と陰は同時に発生するのだ。
 「自由競争は社会を最適化する」なんていう主張は、世界の半面しか見ない偏見にすぎないのだ。── そのことを、オリンピックは教えてくれる。とはいえ、テレビに現るのは、表彰台に立つ勝者の笑顔だけだが。
( ※ ということもないか。……福原愛ちゃんの悲しそうな「敗者の弁」はとてもよかった。楽しめましたか? という問いに、「楽しむために来たんじゃありません」だって。今回のオリンピックでは、これだけが収穫かも。)

 [ 余談 ]
 ともあれ、教訓を言えば、こうだ。
 「世界一のアスリートになれないような、平凡なわれわれは、人生のすべてを賭けてスポーツに邁進するべきではない。ほどほどに楽しもう」
 「世界一の金持ちになれないような、平凡なわれわれは、人生のすべてを賭けて金儲けに邁進するべきではない。ほどほどに楽しもう」
 こんなことを言うと、古典派の経済学者は怒り狂うだろう。「おまえが真面目に働かないと、社会全体が向上しない! もっと働け! 必死に働け! お国のために!」と。
 しかし私は、やはり、こう勧告する。
 「いくら必死に働いて、ものすごい大発明をしたって、しょせんは成果を、経営者がごっそりかすめ取ろうとするのさ。濡れ手で粟でね。青色ダイオードのときの経営者の言い分を見ればわかる。真面目に働いても、ほとんどの利益は、経営者の側へ。それが実状ですよ。今だって、そうでしょ? 景気は回復しつつあると言われるが、せっかくの利益はみんな、企業の側へ。労働者には、ちっとも還元されない。……結局、古典派の言うことを聞いたって、ちっとも幸福にはならないんだ。働いても、賃金は下がるばかりだ。働けば幸福になるなんていう説は、嘘っぱちだよ。だから、適当に、のらくらしよう!」
 あなたのために、幸福になる方法を教えます。それは、必死に働いて、汗水垂らして、小金をチョコチョコと稼ぐことじゃない。くそ暑いさなかで、汗をかきながら、適当にのらくらと仕事をしたあとは、冷たいビールをグラスで、ぐいと飲みほすことだ。……どうです。ああ、幸せ。
( ※ ついでだが、ビールの税金を大幅に引き下げてくれないですかね。民主党あたりが、「ビール減税」の公約をすれば、すごく票が伸びるはずなんだが。)

 [ 補足1 ]
 以上は、(運動音痴の)一般人向けの話です。日本のオリンピック選手に向けて、「スポーツなんか、やめちまえ」とけしかけているわけではありません。もちろん。
 体操では、金メダルを取ったが、これは、「偉い」と称賛しておこう。というのは、体操選手というのは、まったく報われないからだ。水泳の北島や卓球の福原愛などなら、何千万円(1億円以上?)も手にしているが、体操の選手は、全然違う。恵まれないひどい環境のなかで、栄養費などに莫大な金をかけながら、収入はほとんどない。先日、テレビで放送された練習環境を見て、あまりにもひどいみじめさに、「かわいそう」と涙が出そうになった。「すかんぴん」という言葉がぴったりだ。
 思えば、体操というのは、ほぼ唯一、ドーピングがない種目だ。たいていの種目はパワーと筋力が勝負だが、体操では運動神経が勝負だ。ドーピングなんかやって、余計な筋肉が付いたら、かえって運動のバランスが崩れるので、無意味だ。
 オリンピックの選手村に行くと、巨人症みたいな怪物みたいな体格の人間がごっそりいるなかで、体操の人間だけが小柄だ。しかも、すかんぴんだ。
 偉いです。頭が下がります。……ついでに言うと、私もすかんぴんです。  (^^);

 [ 補足2 ]
 上記を数日前に書いたあと、いろいろ情報を知ると、メダルが続々出るが、経済的にはかなり厳しいようだ。体操だけではなく、水泳選手も、レスリングや柔道の選手も、マラソンの野口みずきも、経済的にはかなり厳しい。所属先を見ても、名のない企業ばかりだ。北島・高橋尚子・福原愛みたいに儲かる選手は例外で、メダリストの9割以上はすかんぴんであるようだ。
 経済的にはとうてい引き合わないですね。で、「だから、やめちまえ」とはいわないけれど、とにかく、経済的には引き合わない。「どんどんやりましょう」なんて、とても言えない。
 ま、普通の人はやめた方がいいと思うが、メダリストぐらいには、せめて、一般企業がまともに応援してあげるといいのだが。莫大な金を儲けているトヨタがやったことは、メダルが絶対確実と言われていた柔ちゃんを雇用したことだけ。どうせなら、他のメダル候補だった(そして実際に何個も金メダルを取った)女子柔道選手も、いっしょに雇用すればいいのに。名古屋のケチ。しみったれ。
 私の結論は、「日本の企業はケチすぎる」だ。ま、「景気回復が遅れている」という点では、普通の企業は何とか免罪されるかもしれないが、輸出産業はみんな大儲けしているのだから、免罪されない。某新聞社も、ヤンキース球場に馬鹿みたいな恥さらし広告をするくらいだったら、その金でメダリストを一人ぐらい雇用する気にはなれないんですかね。情けない。
( → 7月11日c


● ニュースと感想  (8月25日)

 「宇宙のビッグバン」について。
 一般相対論にもとづく宇宙論によると、ビッグバンの最初は、「体積がゼロで、密度が無限大である」という状態から始まったということになる。そしてそこは数学的には特異点となる。
 しかし、くりこみ理論を回避する私の理論によると、最初は体積がゼロではないから、密度は無限大ではない、ということになる。
 両者の違いは、「一般相対論は古典力学的(連続的)であるが、私の理論は量子力学的(離散的)である」ということによる。
 要するに、宇宙の最初は、「ゼロ × ∞ 」という量ではなかった、ということ。(これだと数学的な整合性がある。特異点なんていう概念は不要だ。)

   → 詳しい話


● ニュースと感想  (8月26日)

 「科学と方法」について。
 前日の箇所に、新たに次の一文を追加した。興味深い話なので、ここに転載する。
 科学の世界には、「高度な数学を使えば、宇宙の真実が判明する」と思っている人が多いようだ。しかし、そんなことはあるまい。数学というものは、論理遊びのオモチャではないのだ。事実を複雑に扱うために数学があるのではなく、事実を単純化するために数学はある。
 私の個人的な所感を言えば、こうだ。「真実は、シンプルである。ただし、真実をつかみそこねると、本来のシンプルな姿を見失う。そうなると、かろうじて、複雑な数式で認識するしかない。……だから、数式が複雑であるとしたら、真実をうまくつかんでいるからなのではなくて、真実をうまくつかみそこねているからなのだ。単純なものを、歪んだメガネで見ると、複雑な姿で見える。それだけのことだ。」
 例を示そう。石を投げると、放物線を描く。愚かな人なら、たくさんの円弧を複雑に組み合わせて、何とか近似しようとするだろう。しかしニュートンならば、二次関数で簡潔に表示する。ここでは簡潔なものが真実であり、複雑なものが疑似的な真実なのだ。そして、今のたいていの学者は、疑似的な真実ばかり追究している。
 これは、物理学についての所感だが、経済学についても同様のことが言えるだろう。前にも同趣旨のことを述べた。
( → 4月02日8月19日b3月30日5月28日b

 [ 付記 ]
 素粒子について、新たな現象が発見された。原子核よりも密度の濃い状態。
   → 詳しい話


● ニュースと感想  (8月27日)

 「理論と本質」について。
 理論の本質とは、何か? 理論の形式ではなく、奥にある意味のことだ。では、意味とは? ── それを示すために、次の比喩を述べよう。
 ジグソーパズルがある。ピース数は膨大だ。これを何とか解決したいが、ピース数が膨大すぎて、とても困難だ。たいていの人が取り組んだが、失敗した。戦略としては、「小さな部分を組み合わせていって、最終的に大きなまとまりにする」という方針を取った。しかるに、部分的には成功しても、いくつかのまとまりを組み合わせる段階で、矛盾が生じてしまう。部分的には成功しても、最終的には大失敗だ。
 ここで、人々は、どういう発想を取ったか? それは「ピースには意味はない。ピースの形だけが重要だ」という発想だ。なるほど、ピースとピースが組み合わさるか否かは、形だけで厳密に決まるし、ピースに意味なんか考えても仕方ない。数学的な厳密さは、ピースの形だけで決まる。たしかに、ピースの形は、成功するための必要十分条件であり、それ以外の要素は不要だ。……しかし、そのような発想を取る限り、シラミつぶし的な試行錯誤をするしかない。人生は有限であり、ピース数は膨大だ。シラミつぶしなんかしていては、きりがない。そのまま、十年、二十年、三十年、……と経過していった。
 ここで、別の発想が現れた。「ピースには意味がある」と。ピースをよく見よう。そうすると、絵の一部が描いてある、とわかる。その絵は、部分的な組み合わせを決める際には、ほとんど役立たない。しかし、全体的な配置を考える際には、ヒントとなる。いちいちピースを試行錯誤しなくても、ピースの絵を見れば、あるピースが妥当かどうかは、あらかじめ見当がつく。どのピースがどのあたりに来るかも、おおよその予想がつく。だから、大切なのは、絵なのだ。大切なのは、意味なのだ。そして、その意味が正解であるかどうかを確認するためにだけ、ピースの形がある。ある絵柄から全体像を予測しても、その全体像が形によって否定されたなら、その全体像は否定される。その意味で、最終的な厳密な決定は、形によってなされる。とはいえ、絵柄はまさしく有益なのだ。絵柄を知り、意味を知れば、わからなかった全体像がわかるようになるからだ。
 それまで、多くの人々は、ジグソーパズルのピースをたくさん手にしたとき、ピースを一つまた一つと組み合わせて、試行錯誤した。莫大な手数をかけたが、どんなに莫大な手数をかけても、ジグソーパズルは複雑すぎて、なかなか解決しなかった。ところが、新たな発想をした人は、別の方法を取った。まずは、ピースの全体を、バラバラに並べたのだ。ここでは、一つ一つのピースの形がどう組み合わさるかという細かなことは、一切忘れられる。ただ全体を漠然と眺める。そして、それらのピースにある絵柄を眺めて、全体像を思い浮かべる。ここでは、手を動かすことは、まったくない。かわりに、目を閉じる。そして、目を閉じながら、頭のなかで全体像を思い浮かべる。手によって一つ一つを試行錯誤するのではなくて、想像によって全体像を試行錯誤する。たいていの発想は、部分的には成功するが、全体像としてはどこかがおかしいので、却下される。そういうことを何度も繰り返す。するうちに、ついに、ピンと来る全体像が思い浮かんだ。「これだ!」と思った。そのあとは、ピースを取って、全体像に従って、次から次へと、絵柄のあるピースを全体像に当てはめていく。先に全体像があって、そこにピースを当てはめる。先に意味があって、そこに形をつける。そして、形がうまく付いた段階で、「問題なし」と判定される。そうして何度もピースを組み合わせていくが、もともと矛盾のない全体像があるのだから、「先の方で矛盾が生じるかもしれない」という危険もほとんどない。ピースを当てはめていっても、途中で矛盾が生じることもない。そして、ついに、ジグソーパズルが完成する。「できた!」
 そして、彼がそれに成功したのは、形よりも意味を考えたからなのだ。その意味とは、ジグソーパズルの絵柄である。そして、本質とは、ジグソーパズルの全体像なのだ。
 物事の本質は、もともとは、はっきりとは目に見えない。ジグソーパズルも、バラバラのときには、すぐにはわからない。しかし、いったんジグソーパズルが解決されたあとでなら、そこにある絵は誰にでもわかる。そのときには、本質は、誰にでもよくわかるはずなのだ。


● ニュースと感想  (8月28日)

 「不確定性原理」について。
 量子力学の基礎に「不確定性原理」というものがある。移動する粒子について、「位置と運動量について、不確定さがある」という原理だ。
 この原理は、数式としては正しいが、数式の解釈としては正しくない。なぜなら、「移動する粒子」なんてものを考えるのは、正しくないからだ。移動するのは波であって、粒子ではない。たとえば、音波では、音の波は移動するが、酸素分子という粒子は移動しない。
 不確定性原理が示すのは、いわば、振動する酸素分子について、「振幅の分の不確定さがある」ということだ。しかし、「酸素分子が音速で移動していくときに、位置や速度に不確定さがある」ということではない。また、「音波が音速で移動していくときに、音波の位置や速度に不確定さがある」ということではない。……不確定性原理が示すのは、「波が発生すると、粒子には振幅という形の不確定さがある」ということだ。波と粒子とを区別しよう。
 一方、従来の解釈は、「音波が伝わるとき、酸素分子が音速で移動すると、酸素分子には粒子と波の二重性が現れる」というものだ。しかし、ここでは、「酸素分子が音速で移動する」という解釈そのものが間違っているのだ。(比喩的表現だが。)
 なお、図示すれば、

      ◯  〜〜〜〜〜 → 

 という形で、「 が振動しながら移動する」というのは、従来の解釈だが、これは正しくない。量子について「粒子と波の二重性がある」というのは、そういう意味ではないのだ。まったく別の図で説明する必要がある。さもないと、論理矛盾を起こす。
   → 詳しい話


● ニュースと感想  (8月28日b)

 新ページの告知。
 物理学(量子力学)のトップページを、新たに作成しました。(目次だけ。)
 お暇な方は、よろしければ、このページへのリンクを作成してくださるといいのですが。  (^^); 

    量子論/量子力学 …… その最前線
    http://hp.vector.co.jp/authors/VA011700/physics/quantum.htm


● ニュースと感想  (8月29日b)

 「環境税」について。
 「環境税」という名目で、森林保全のために課税するという動きが各県で広がっているという。一人あたり 500円程度。埼玉・岡山・鳥取・鹿児島・香川・愛媛・神奈川などの各県。(読売・朝刊・1面 2004-08-27 )
 これはおかしい。指摘しておこう。
 環境税というのは、そもそも、環境を破壊する行為に課税して、環境を改善するためにある。たとえば、二酸化炭素を大量に出す工場や、窒素酸化物などの有害ガスを出す自動車に、課税する。この課税を避けるために、排ガスを減らせば、それはそれで効果がある。排ガスを減らさなくても、課税を通じて、社会負担をしていることになるので、社会的な公正さがある。
 これは、「公共経済学」という分野で考察されるとおりだ。公共の財産を損壊する者に対して課税して、社会的な公正さを保つわけだ。
 では、今回の環境税は? まったく違う。
 第1に、課税を受けるのは、個人である。個人は、別に、環境を破壊していない。正確には、森林を破壊していない。つまり、名目だけは「環境税」だが、実質的には、「環境税」ではなくて、ただの「増税」であるにすぎない。正確に言えば、「人頭税」である。もっと本質的に言えば、「空気税」だ。昔、自分勝手な王様がいて、贅沢をするための費用の捻出に困った。そこで、「空気税を」と提案した。空気はそもそも、王様のものである。なぜなら、「人のものはオレのもの、オレのものもオレのもの、だから世界はオレのもの、何でもかんでもオレのもの」というわけだ。そして、国民はみんな、空気を吸って、利益を得ている。ゆえに、その利益に対して、課税してやれ。かくて、「空気税」という発想が生じた。……今回の「環境税」も、まったく同じ発想だ。環境(森林)を破壊したわけでもない人々が、空気のかわりに森林を利用しているという名目で、課税される。やがて、数年後には、本当に「空気税」や「雨水税」や「日光利用税」などが徴収されそうだ。……それにしても、「空気税」なんて、ジョークの世界だけだと思ったのだが、本当に実行する自治体が現れるとは、呆れたね。もっと呆れるのは、それを「はいはい」と信じる人々がいっぱいいることだ。だまされやすい人々。(旗振り人は、マスコミですかね。ハーメルンの笛吹。)
 第2に、森林を破壊した張本人は、誰か? 住民の各人か? 違う。森林の管理者だ。放っておけば1円もかからないのに、勝手に金儲けを狙って人工林に変えて、そうしたら今度は管理に費用かかって赤字になる。そこで、その赤字を、他人にツケ回しする、という構図だ。不良債権処理みたいなもので、誰かが大失敗した赤字を国民全体にツケ回しする、というわけだ。この件は、前にも述べた。そちらを参照。( → 8月05日b 水源税 )


● ニュースと感想  (8月30日)

 「ブラックホールとは何か?」── この問題に、一般相対論を使わずに、初歩的な概念によって説明できる。その本質は、光学における「全反射」だ。つまり、水中に入れた黒い卵が、(空気層のせいで)銀色に見える、というのと同じ原理だ。
 ブラックホールから放射した光は、外側にある稀薄な真空のところで全反射するから、外部に抜け出せないのだ。
( ※ トンデモな珍説と誤解されると困るので注釈しておくが、一般相対論を否定しているわけではない。比べると、表現や論理は異なるが、内容はまったく等価である。ただし私の話は、一般相対論と等価の話を、単純に示している。同じことを、一般相対論は複雑な数式で証明し、私の話は簡単な原理で証明する。表現の仕方が違うだけだ。シュレーディンガー方程式とハイゼンベルク行列式のような関係。)

   → ブラックホールの話 に説明してある。
   → ビッグバン以前の話 も別にある。



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「小泉の波立ち」
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