[付録] ニュースと感想 (83)

[ 2005.02.15 〜 2005.03.02 ]   

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● ニュースと感想  (2月15日)

 「景気動向」について。
 景気の動向の情報。1月末の報道に基づく。(なお、統計の対象は、昨年末までの数カ月のことだから、情報が急に古くなってしまったわけではない。どうせ中期データである。)

 (1) 楽観的な期待
 政府では、竹中大臣が、「もはやバブル後ではない」なんて、どこかで聞いたキャッチフレーズのもじりかパロディみたいなことを言っている。くだらない言葉を使っていて、意味不明だが、どうやら「景気回復している」というつもりらしい。(あるいは、「永続不況が持続中」というつもりかな? それなら、正しい認識だが。)

 (2) 悲観的な事実
 期待や夢想は別として、事実の方は、統計データを見ればわかる。
 2004年のデータを見ると、実質消費は、4月、5月はきわめて高い値を取った。これが持続するだろうと見たのは、政府と朝日。しかし現実には、その後、低下の一途。昨年の 12月には、前年度比 3.8%のマイナス。(ただしこれは家計調査だから、精度が低い。前出)
 もうちょっとはっきりしたデータでは、百貨店の売上げも、鉱工業の生産指数も、下降気味。
 特に重要なのは、所得だ。所得が減っている。冬のボーナスは、前年度比 2.2%減。
 あらゆるデータが、「下降」を示しているが、ただ一つ、好調なのが、雇用だ。失業率は、低下しつつある。しかし、これは、「雇用の変動は、景気の変動に、半年ぐらい遅れる」という傾向があるからだ。秋冬の雇用が改善されていたのは、4、5月の景気が良かったから、というだけの話。今後、秋冬の景気悪化にともなって、雇用も悪化していくはずだ。
 以上のように、ほとんどの事実で、「悲観的」という統計データが出ている。ただし、朝日の報道だけは、正反対の解釈を出していて、「2004年を通してみれば、2003年より好転している」とか、「雇用を見れば、状況は改善している」とか、やたらと景気回復を強調する。……つまり、同じ統計データを見ても、正しく解釈できないわけ。経済音痴は、困りますねえ。それとも、あえて意図的に、データの味方を歪めて報道しているのかも。(そういえば、朝日経済部は、政府・小泉の配下にあったんだ。とすれば、政府機関紙としては、政府支持をするのは、当然かも。)

 とにかく、所得が大事。所得が減れば、GDPも減る。マクロ経済学からして、当然。
 「所得が減っても、GDPは増える」とか、「所得が減っても、企業業績が改善すればいい」というふうな主張をするのは、古典派の主張(「所得が一定だと仮定すれば」という主張)だが、その主張は、「金がなくても買物ができる」という主張であり、「棚からボタモチ」の主張だ。
 金なしで商品が手に入ると思うのは、泥棒または無銭飲食の発想だ。朝日みたいな発想をしてはいけません。

 [ 付記1 ]
 景気については同趣旨で、別の新しいデータもある。
 景気動向指数(速報値)によると、現状を示す一致指数が 33.3%で、50%を2カ月ぶりに下回った。先行指数は 40%で、4カ月連続で 50%を下回った。(朝日・朝刊・経済面 2005-02-05 )
 つまりは、景気は良くない、ということ。(12時点での)現状も、先行きも。……ま、資料は違っても、結論は同じ。

 [ 付記2 ]
 対比的に好調なのは、米国経済。減税で総所得を増やした結果、景気は回復しつつある。(各紙・朝刊・経済面 2005-01-29 )
 「ただし成長率がやや鈍化している」というちょっと悲観的な指摘もあるが、鈍化は当然のことだ。そもそも、減税の効果は、永続はしない。伸び率が逓減するのは、当然だ。
 どうも、「景気循環」という説を信じている人が多いようだが、景気は循環しない。「一発の効果」のあとは「逓減する」だけだ。( → 5月05日b 減衰曲線 )
 ま、基本的には、米国経済は日本よりもずっと高い正常な成長率を保っているから、あまり悲観する必要はない。ただし、改善の余地はある。「双子の赤字」があるから、これを解消するためには、「ドル安」が必要だろう。「輸出増加・GDP増加」という形の成長だ。そうすれば、問題はなくなる。
 ただし、米国は問題がなくなっても、中国と日本の景気は一緒に悪化する。そして、そうなる日は、やがていつか来る。「輸出頼みの景気回復」なんてのに頼っている日本は、もうちょっと頭を働かせた方がいいですね。
( ※ つまりは、他国頼みでなく、自分自身で、正しい政策を取ればよい。「減税による景気回復」という米国流の政策を。……どうも、日本は、軍事では米国の真似ばかりしたがるが、経済では米国の真似をしたがらない。これじゃ、逆ですね。)


● ニュースと感想  (2月15日b)

 参考情報。
 Windows と MS-Office の欠陥情報など → がんばれゲイツ君


● ニュースと感想  (2月16日)

 「不良債権処理」について。
 不良債権処理がかなり進んでいる、というニュースが先日あった。(1月下旬ごろ。) また、小林慶一郎の解説もある。(朝日・朝刊 2005-02-13 )
 これをどう評価するべきか、指摘しておこう。

 なるほど、不良債権処理は、かなり進んでいる。しかし、不良債権処理がいくら進んでも、銀行融資(企業投資)はまったく増えないのだ。( → 1月17日b にデータあり。)
 つまり、「不良債権処理を進めれば、融資(投資)が増えて、景気が回復する」というシナリオは、まったく成立しないのだ。ここが本質だ。この本質を、正しく理解しよう。
 不良債権処理がかなり進んでいる、という事実は、「景気が回復している」ということを意味するのではない。逆に、「不良債権処理で景気が回復する」というシナリオがまったく間違っていたことを、実証するだけだ。そのことを正しく理解しよう。

 [ 付記1 ]
 追加の情報。
 不良債権処理がかなり進んでいる、というが、しかしそれでも、不良債権はまだまだあるようだ。三井住友銀行の経営トップが、不良債権処理による業績悪化の責任を取って辞任する、という報道もあった。(読売・朝刊・1面 2005-02-04 ,朝日・朝刊・経済面 2005-02-04 )
 朝日と政府は「先は明るい」と示したがるが、お先は暗いですね。

 [ 付記2 ]
 不良債権処理がかなり進んでいる、という話題をめぐって、新聞解説(三者三論)があった。(朝日・朝刊・特集 2005-02-04 )
 この記事では、もちろん、上記の本質は示していない。金融システムの健全化とか何とか、関係ない話ばかりをしている。業界の内輪話。談合みたいなものですね。(国民の利益を食い物にして、銀行がうまく金を吸い上げるには、どうすればいいか、という談合話。)

 この三者三論では、銀行協会会長、金融庁長官、大学教授がいる。
 このうち、銀行協会会長だけが、比較的まともなことを言っている。
 「不良債権は、不景気の結果であって、原因ではない」
 と。この点は、まったく、そのとおり。
 ところが、金融庁長官は、そこを逆に見なしている。で、「銀行を健全化すれば、景気が回復するから、銀行を健全化しよう」という結論。手前ミソ。……たとえて言えば、「オレが金を儲けると、景気が回復するから、オレが国民の金をかすめとれればいい。どんどんかすめ取ってやろう。オレオレ、オーレ」と詐欺師が主張するようなものだ。
 大学教授もひどい。「金融業界の健全化には市場原理がよろしい」なんていう市場原理至上主義だけを唱えている。「市場原理」なんてことは、馬鹿でも言える。だいたい、「金融業界の健全化」が目的なら、「利幅の拡大」が必要であり、そのためには、「企業と預金者の金を奪って、銀行が利益をしこたま貯める」という形が必要だ。しかし、そんなことは、必要ない。国家経済を食い物にして、銀行が儲かる、というのは、長らく続いた護送船団行政の方針だ。この大学教授は、一方では「国民の利益(銀行の不利益)」を主張し、他方では「銀行の利益(国民の不利益)」を主張している。……論理矛盾。二律背反。自分が矛盾していることを言っているのに気づかない。
( ※ 実は、この大学教授は昔からデタラメばかり言っている。まともな経済部記者なら、こんな学者を呼ぶはずがないのだが、朝日は自分が狂気的だから、あえて呼ぶ。つまり「類は友を呼ぶ」わけ。馬鹿が自説を補強するには、他の馬鹿に賛同してもらえばよい。)
( ※ この大学教授の勘違いについては、以下でさらに述べる。)

 [ 付記3 ]
 「不良債権処理を進めれば、銀行経営は健全化して、融資が増える」
 という主張がある。(すぐ前の大学教授など。一般に、不良債権処理論者は、そうだ。)
 しかし、これはもちろん間違っている。理由は、何度も指摘したとおり。資金供給が不足しているのではなくて、資金需要が不足しているから、融資が伸びない。
 さて。資金需要が不足している状況で、銀行経営を改善させると、どうなるか? 銀行経営を改善させるということは、融資利率を上げるということである。それは、貸し手である銀行にとっては収益を上げるということであるが、借り手である企業にとっては収益を奪われるということだ。もちろん、融資利率が上がるのにともなって、融資の総額は下がる。
 つまり、「銀行経営を健全化すると、融資は増えるどころか減る」というふうになる。狙いとは、逆効果になるわけだ。
 一般に、どんな商品でも、同様だ。値上げをすれば、利益率は上がるが、売上げ総額は下がる。ただし、不良債権処理論者だけは、それがわからない。「値上げをすれば、収益が増える」と勝手に思い込む。「値上げをすれば、売り手が儲かる」とだけ信じて、「買い手が損する」と理解しない。
 ひどい発想。経済学というより、与太話。

 [ 付記4 ]
 不良債権処理論者は、なぜ、かくもデタラメを主張するのか? なぜ、かくも経済学とは無縁のことを主張するのか? それは、彼らの提案の目的を見ればわかる。
 「金融システムの健全化」
 これが目的だ。要するに、システムというものを最重視する。これを経済に置き換えれば、こうだ。
 「経済システムの健全化」
 これは、一見、「経済全体の健全化」と見える。そこで彼らは「マクロ経済学的に考えている」と勝手に主張する。しかし、その発想には、「所得」が欠けているから、マクロ経済学とは何の関係もない。(マクロ経済学とは所得の効果の理論である。)
 では、彼らは、どういうふうに健全化しようとしているのか? 「不良債権処理」だ。それはつまり、「国家の介入による、優勝劣敗」だ。「市場原理による、優勝劣敗」なら、市場主義。「国家の介入による、優勝劣敗」なら、国家介入主義。もしくは、国家統制主義。……一種の社会主義である。
 だから彼らは、「産業再生機構」みたいな国家介入が大好きだ。そして、その根源にある発想は、何か? ソ連流の共産主義か? 中国流の社会主義的至上主義か? いや、違う。日本流の官僚支配主義である。「愚かな民間企業を、国が統制すれば、経済は最適化する」という発想。(実際、論者には官僚出身者が多い。代表的なのが、小林慶一郎。)
 彼らにとって、マクロ経済学というのは、官僚統制経済のことなのである。(用語の勘違いですね。)


● ニュースと感想  (2月17日)

 「不良債権問題の核心」について。
 前項 に関連して、不良債権問題の核心を示しておこう。
 不良債権処理を提唱するエコノミストは、次のように主張する。
 「金融システムが悪化したから、投資が増えず、景気が悪くなった」(原因)
 「金融システムを健全化すれば、投資が増えて、景気が良くなる」(対策)

 この対策のためには、どうするか? 「金融システムを健全化する」という目的のために、次の二通りが提唱される。
 「不良債権処理をする」(帳簿の健全化。ウミを出す。)
 「ペイオフ解禁。劣悪な銀行を退場させる」(金融の市場原理)
 
 ここまで見ると、一応、もっともらしい。しかしこれは、古典派の「市場原理」を単に「商品市場」から「金融市場」へと転じただけだ。いかにも素人っぽい発想である。直感だけで話を論じており、精密な議論がまったくない。

 では、その誤認の核心は、どこにあるか? それは、こうだ。
 「銀行の質的悪化を、銀行単独の責任と考えていること」
 たとえば、「銀行の経営が悪化したのは、その銀行の経営が劣悪になったからだ」という発想だ。
 なるほど、その発想は、普通の企業なら成立するかもしれない。ある企業が黒字から赤字になったのは、その気魚運経営がまずかったからかもしれない。(マクロ的な影響を無視すれば、そう結論できそうだ。)
 では、普通の企業でなく、銀行なら、どうか? たとえば、銀行の融資が回収できなくなったとしたら、それは、その銀行の経営が劣悪だったからか? つまり、銀行の融資先の企業が赤字になったら、それは、その銀行の責任か? もっとはっきり言えば、景気が悪化して、日本中の企業の収益が黒字から赤字になったら、それは個別の銀行の責任か? 景気が悪化したのは、三井や三菱などの個別の銀行の責任か? ── もちろん、そんなことはありえない。  マクロ的な景気変動(好況や不況)は、政府と日銀のマクロ政策の失敗によって発生するものであって、個別の銀行のせいではない。── このことを認識することが大切だ。
 たとえば、景気が悪化して、日本中の企業の収益が悪化した。同時に、イオンやヨーカドーの利益率が5%から0%に悪化し、ダイエーの利益率が5%からマイナス(赤字)に悪化した。ここで、ダイエーの収益が悪化したのは、UFJ銀行の経営がまずかったからか? たとえば、UFJ銀行が、ダイエーの利益率が1%ぐらいの黒字決算だったときに、融資を引き上げて、ダイエーを倒産させることが、正しい銀行経営だったのか? 黒字の企業をあえて倒産させて、自分の利益だけを守るのが、銀行経営のあるべきすがただったのか? ── もちろん、そうではない。黒字である限り、大企業をあえて倒産させるべきではない。その後、ダイエーが大幅赤字になったとしたら、ダイエーの責任ももちろんあるが、政府のマクロ政策の大失敗の方がいっそう大きな責任だ。
 だから、こういう場合に、「UFJ銀行がしっかりしていればよかった。そうすれば、ダイエーは不良債権にならなかった」というような発想は、正しくないわけだ。
 簡単に言えば、マクロ政策の失敗は、政府・日銀になるのだから、その尻ぬぐいを、個々の銀行に負わせても、意味がないのだ。── これがつまり、「景気対策としての不良債権処理」という方針が間違っていることの、核心だ。

 [ 余談 ]
 たとえ話。
 会社全体の収益が悪化したせいで、夫の給料が下がってしまいました。そのせいで、家庭の家計簿は、赤字になりました。すると妻が、夫を責めました。
 「こんなダメな会社にいるから、家計簿が赤字になったのよ。だから、こんな安月給の会社は、さっさとやめて、転職してしまえば良かったのよ。そうすれば、今ごろは、赤字にならなかったのに。そうね。今からでも遅くはないから、さっさと会社を辞めなさい。あんたが会社を辞めれば、会社はリストラできて、状況は改善するわ。そのおかげで、日本は景気が回復するわ。だから、景気回復のために、さっさと会社を辞めなさい」
 夫は妻の言うことが理解できませんでした。
 「おれのせいで、景気が悪くなった? おれにそんなに大きな影響力があったっけ? おれ一人いなくても、景気には関係ないと思うけど」
 と。それでも、夫は妻の言うことを聞いて、会社を辞めました。すると、失業したので、無一文になりました。また、彼だけでなく、彼の会社の全員が辞めてしまったので、会社は何も生産できなくなり、倒産してしまいました。また、あらゆる人々が失業して無収入になったので、あらゆる商品が売れなくなり、あらゆる企業が倒産してしまいました。
 すると、最後に、不良債権処理論者が、「これで成功」と判定しました。「もう会社は全部倒産してしまった。これ以上は、悪くならない。ゼロという値で、均衡している。均衡しているのだから、状況は最善だ。これで不況は解決」
 夫たちは理解できませんでした。「ゼロが最善」というのは「最悪が最善」というのと同じだからです。「いったいどういうことなのだろう?」と首をひねりました。しかし、そのあとで、食べるものがなくなって、全員が餓死してしまいました。
 その後、無人になった日本列島を、アメリカが占領しました。
 「どうだ。これでコストゼロで、日本を全部占領できたぞ。これもみんな、純ちゃんのおかげだ。彼が不良債権処理を進めたおかげだ。彼がどんどん倒産させて、どんどん餓死させたおかげだ。でも、ついでに彼も死んじゃったから、彼の墓碑銘を立ててあげよう」
 こうして日本には、「不良債権処理の効果」という墓碑銘が立てられました。……ただし、正確に言えば、それは英語で書かれました。もはや日本という国は存在しなくなり、そこはアメリカの一部となったからです。日本文化は、「先住民の文化」と呼ばれ、歴史の一頁に残るだけとなりました。


● ニュースと感想  (2月18日)

 「GDPの悪化」について。
 最新の記事から。GDPの悪化が、四半期で3回続いたという。これで、景気の悪化が確定した、ということだ。(各紙・夕刊 2005-02-16 )
 別に、特に注目するほどのこともあるまい。景気について、ほぼ同趣旨の内容なら、これまでも私は何度も書いてきた。根拠となるデータは異なるが、「昨年4月以降、景気が悪化している」ということなら、三日前の 2月15日 にも書いたばかりだし、また、もっと前にも何度か記してきた。 ( → 1月01日11月20日b [ 付記 ] など。)

 新聞各紙は、このGDPの統計についてあれこれと解説している。とはいえ、一番肝心のことを、うまく理解できていないようだ。それは、こうだ。
 「昨年4月以降、景気は回復基調にある、と見なした景気判断は、まったく間違っていた、ということ」
 輸出景気だの、オリンピック景気だの、デジタル景気だの、あれこれとまくしたてて、「企業業績が回復しているから、景気は回復しつつある」と新聞は記事にしていた。しかし、そんなのは、まるきりの間違いだったのだ。企業業績が一時的にいくら改善しても、それは、「利益が向上した」ということであり、「経済が拡大した」ということにはならないのだ。つまり、「GDPが拡大した」「生産量が増えた」「国全体の売上げが増えた」ということはなくて、単に、輸出関係の企業の利益水準が一時的に上昇しただけなのだ。企業の決算だけを見ているだけで、経済全体を見ないと、肝心の本質をつかめない。
 まずは、過去の誤認を自覚することが大事だ。「これまでの判断は間違いでした」とはっきり明示することが大事だ。(楽観主義の古典派エコノミストは言うに及ばず、朝日の竹中を宣伝する記事も同様。)

 さて。今後の見通しはどうか? 各紙の解説を見ると、「景気の回復は、個人消費しだいだ。それには、企業の業績改善のあと、所得の向上があるかどうかによる」というふうな解説もある。(朝日など。)
 なるほど、「所得」に着目しているという点では、正鵠を射ている。しかし、これは、生ぬるい表現だ。もっとはっきり書くべきだろう。次のように。
 「企業業績が改善しても、企業が利益を内部留保に回しているだけでは、景気は回復しない。企業が利益を得たら、それを労働者に渡さない限り、景気の持続的な回復はない。利益から所得へという金の流れがないと、マクロ的な景気回復のスパイラルは発生しない」
 と。これがマクロ経済学の基礎知識だ。わかっているような、わかっていないような、隔靴掻痒に記事では、ポイントをはっきりつかめない。何をなすべきかも、わからない。(漠然と感じるだけ。)
 真実を知るためには、以前の過ちをはっきりと直視することが必要だ。その勇気がなければ、同じ過ちをふたたび繰り返しかねない。

 [ 補説 ]   重要
 夕刊のあとの朝刊の記事では、朝日の経済記事だけがトチ狂っている。見出しは「脱デフレ やや明るさ」「物価下落幅が縮小」だ。何とかして、しきりに楽観的な期待をもたせよう、と必死になって、記事に色をつけしたがっている。(読売の朝刊では、「所得が大事」という趣旨があり、警告調なのだが。)
 朝日の記事の論旨を見ると、どうも、こういうことであるようだ。
 「景気とは、川の流れのようなものである。上向きになると、上向きになり続ける。下向きになると、下向きになり続ける。だから、流れがどちらの向きになるかが、大事だ。だから、流れを上向きに変えるために、人々が消費を増やすようにしよう。そのために、読者を洗脳しよう」
 馬鹿丸出し。マクロ経済学のイロハを理解しない。景気というものは、流れなんかではない。景気がどちらになるかは、流れではなく、別の要因によって決まる。では、その要因は? 
 第1に、下がるのは、消費心理の下落である。
 第2に、上がるのは、二通りある。次の二通り。
   ・ 一時的な 景気悪化ならば、「消費心理」の上昇。
   ・ 長期的な 景気悪化ならば、「所得」の上昇。
 後者では、「所得」の上昇が大事だ。では、なぜ? 「消費心理」の上昇は、すでに上限に達しているからだ。この場合には、「所得」だけが意味をもち、「消費心理」は意味をもたない。
 「消費心理」は、これ以上、上がりようがない。なぜなら、消費性向は、すでに上限に達しているからだ。これ以上、消費を増やすには、実質的に借金をするしかない。現実には、貯蓄の取り崩しが発生している。……だからこそ、「消費心理」でなく、「所得」が大事なのだ。
 これがマクロ経済学のイロハだ。これを理解しないで、ただの「流れの上下」なんてのを書くのは、経済学ではなくて、ただのヤマカンである。相場師の発想であり、経済学者・エコノミストの発想ではない。景気というものを、株と同様に考えている。(物理学者が、法則による物体の運動を、気まぐれな投機としてとらえるようなもので、ナンセンスの極み。)
 力学では、「重力」というものを認識することが大事だ。マクロ経済学では、「所得」というものを認識することが大事だ。これが基礎である。基礎をしっかり理解しましょう。読者を間違った概念で洗脳するのはやめましょう。


● ニュースと感想  (2月18日b)

 「IT景気(デジタル景気)の崩壊」について。
 半月ほど前の記事だが、IT景気(デジタル景気)の崩壊の崩壊という話がある。昨年の春から秋にかけて、薄型テレビなどが大幅に売れて、景気が回復局面にあった。しかし最近では、この業界では各社の業績が悪化しているという。(シャープ・松下を除いて、)いずれも業績予想を下方修正。需要そのものが減ったというより、業界各社の過剰投資のせいで、供給過剰となり、市況が悪化した。(朝日・朝刊・1面 2005-02-01。05日の読売・経済面も。)
 「供給過剰による景気悪化」。── これじゃ、いつか来た道を、また繰り返すだけだ。馬鹿丸出し。一度落ちた穴に、二度も落ちる。
 で、その方針は、どこから来るか? マネタリズムだ。「消費が減ったら、投資を増やせばいい」という発想。で、消費が増えないまま、投資ばかりが増えるので、当面は投資増加によって総需要が増えるが、まもなく、投資増加による供給過剰となって、需給のバランスが崩れる。
 こんなことは、経済学のイロハなんだが、やたらと「投資を増やせ。日銀は量的緩和をせよ」とばかり主張する。「生産物の需要と供給」という経済活動を無視して、単にマネーだけですべてを片付けようとする。マネーの使途としては「消費」と「投資」の双方がともに適正であるべきなのに、単に「消費」と「投資」の合計額ばかりを増やそうとして、「消費過小」かつ「投資過大」という状況に導いて、「供給過剰」をもたらし、景気を悪化させてしまう。……かくて、一度落ちた穴に、二度も落ちる。
 マネーだけを見て、マネーだけで経済を済ませようとする。経済音痴のマネー至上主義。マネタリズムは、経済を破壊する。……そして、それが、現在の経済学の主流だ。経済学というのは、経済を破壊する方法(経済的な自殺をする方法)を教える立場である。
( ※ 17日の朝日朝刊にも、関連記事がある。)


● ニュースと感想  (2月19日)

 「文章採点ソフト」について。
 文章採点ソフトが研究されている。大学入試の小論文を、自動的に採点するもの。試作ソフトはすでにできていて、該当サイト で公開中だという。(朝日・夕刊・1面 2005-02-15 。ウェブニュースもある。)
 この記事は、たぶん冗談で書いているのだと思うが、冗談なら冗談だとはっきり明示するべきだろう。「冗談でなく本気だな」と読者が勘違いする。また、仮に「本気でやっています」というのなら、このフランケンシュタインを作成するような狂人科学者の狂人ぶりを記事にした方がいいだろう。
 
 記事を見るとわかるが、採点基準は、漢字とかなの比率とか、文の長さとか、形式的なものだけ。内容についての基準は、ないも同然だ。(コンピュータではできないから。)
 馬鹿げている。(客観的な)良い文章の基準は何か? 「明晰な表現」ただそれだけである。漢字とかなの比率とか、文の長さとか、形式的なものは、各人の個性であり、文体である。「文は人なり」ということだ。
 だから、このソフトの要点は、「個性を排除して、どれもこれも金太郎アメみたいにのっぺらぼうな文章を理想にすること」だ。そこでは平凡さこそ理想であり、独創性は不合格となる。しかもまた、「表現さえ良ければ、内容的にはどんなに愚劣であっても構わない」となる。これでは、結局、害だけがあって、益はない。フランケンシュタインの創造と同様だ。
 
 しかも、お笑いぐさなのが、新聞社の社説を理想な表現と見なしていることだ。新聞社の社説? 冗談でしょう。最悪の見本だ。朝日であれ読売であれ、これらの社説を「悪文」と見なして、「この真似をしてはいけない」というのなら、まだわかる。逆に、「これの真似をせよ」なんてふうにしたなら、日本中、機械的に冷徹で無味乾燥な文章だらけになってしまう。
 たとえば、生徒が情感あふれる感動的な文章を書いたら、「漢字が少なすぎます」とか、「接続詞が足りません」とか、どうでもいいことを理由にして、減点される。例として、谷川俊太郎や村上春樹の清明な文章なんかは、「接続詞が足りません」と、たちまち大幅減点されるだろう。また、中島敦や夏目漱石の凝った名文なんかは、「漢字が多すぎます」と、たちまち大幅減点されるだろう。南堂久史のくだけた文章は、「冗談が多すぎます」と、大幅減点されるだろうね。一方、小林慶一郎みたいな「エセ論理で人をたぶらかす」というのは、「接続詞の使い方が上手です」と、高得点となるだろう。(だから彼は東大出身なのかも。)

 そういえば、稀代の名文家である三島由紀夫が、同趣旨のことを言っていた。彼が答弁用か何かで、論理明晰な原稿を書いたら、たちまち上司が「こんなのはダメだ」と判定して、赤ペンを入れて、「言語明瞭・意味不明」というふうに、言質を取られないような文章に書き直したという。「内容は空疎だが、形式だけは満点で、聞いた方はゴマ化される」という文章。「なるほど、官僚の文章というのは、こういうものか」と、三島由紀夫はとても感心したそうだ。(皮肉ですけどね。皮肉と本音との区別がつきそうもないのが、朝日の記者だから、注釈しておきます。)
 で、こういう社説ふうの文章を満点とする文章ソフトってのは、冗談でしかありえないのだが、朝日はしばしば、こういう愚劣な冗談じみた研究を、「本気」というふうに書く。第五世代コンピュータについては「2000年になると人工知能が社会を一変させる」と書いたし、核融合発電のことは「夢のエネルギー源」と書いたし、燃料電池は「無公害のエネルギー」とも書くし、紙面は科学の冗談記事のオンパレードだ。まったく、困ったものだ。ハーメルンの笛吹。

 結語。
 新聞の使命は、できもしない夢想を、ラッパで吹くことではない。虚偽を正して、真実を報道することだ。その基本をわきまえないようでは、報道者たる資格はないのだ。筆を折るべし。
(……と書くと、筆をたたき割るかも。朝日の記者だとね。  (^^); で、この私の文章を、コンピュータが採点すると、「論理不明確」というふうに大幅減点となる。)

 [ 付記1 ]
 今回の研究は、まったくの無意味だということにはなるまい。何らかの意味はあるだろう。ただし、「悪文」の判定はできても、「良文・名文」の判定はできないはずだ。そういう限界がある。これは根本的に避けがたい。(限界を知ることが大切だ。)
 また、あくまで、研究途上であり、実用化のためには、あまりにも多大な研究の蓄積が必要だ。人の人生を左右するような入試において、こういう生半可な研究途上のものを適用するなんていうのは、あまりにも馬鹿げている。「効果の不明な新薬を臨床実験で使う」というようなものだ。海のものとも山のものとも判明しないものを、「画期的な新薬」のように報道するとしたら、それはもはや、真実の報道ではなくて、「風説の流布」であるにすぎない。こういうことは、マスコミとして、絶対にやってはいけないことだ。
 どうせ報道するなら、まともなアイデアを報道するべきだろう。具体的には、下記の各箇所。
( → 小論文の採点法 : 8月02日4月14日b [ 付記 ],1月01日12月10日

 [ 付記2 ]
 この研究は、研究として、筋が悪い。文章というのは、人間の思考に当たる。人間の思考を、機械が判断するなんて、根本的に狂った態度だ。いわば、「機械が人間を判定して、機械好みになるように人間を矯正する」ということだ。SF的な暗黒社会。
 そもそも、全国一律の大学入試というのは、何のためにあったか? 教授が楽をするためか? 違う。基礎知識の判定を機械的なマークシートに任せて、あとのテストは各大学でしっかり記述式を用いるためだ。そして、記述式のなかで最も高度なものが、小論文だ。
 小論文の判定を機械任せにするのであれば、マークシートの採点は人間がやるのだろうか? 馬鹿げていますね。本末転倒。「小論文の採点」というのは、絶対に機械任せにしてはならない分野である。こんなことを研究するくらいだったら、記述式テストの採点を合理化する方法でも考えた方がいい。
 「何でもかんでも機械化する」というのは、狂気の発想である。フランケンシュタインの創造によく似ている。常軌を逸している。こういう研究をするのは構わないが、こんな研究を理想の実現のごとく報道する新聞は、どうかしている。

 [ 付記3 ]
 ただし、馬鹿とハサミは使いよう、という。馬鹿なソフトでも、馬鹿なりに、その使い道はある。それは、こうだ。
 「小馬鹿なソフトが利口な人間を判定するのではなく、小馬鹿なソフトが大馬鹿のソフトを判定する」
 世の中には、大馬鹿のソフトというものがある。それは、翻訳ソフトだ。今、ネット上では、翻訳ソフトがあふれている。「翻訳」という用語で検索すれば、無料翻訳のページが出てくる。google で英文検索すると、ついでに翻訳を表示させることも可能だ。ただし、いずれも、大馬鹿な翻訳だ。
 だから、こういう大馬鹿を中馬鹿にするために、小馬鹿なソフトで論理などを考察する、という研究は、それなりに、役には立つ。小馬鹿なソフトでも、小馬鹿なりに、その使い道はあるのだ。
 とはいえ、「小馬鹿なソフトが利口な人間を判定する」というのは、とんでもない方向違いだ。「身の程知らず」と言える。その意味では、フランケンシュタインの創造のようなものだ。
 研究者というものは、自分が何をできるか、よく考えた方がいい。夢を見るのはいいが、夢を現実と勘違いすると、本末転倒になる。人間の知力というものは、ごくごく限られたものだ。「人間の遺伝子とは何か」ということさえ、いまだに解明されていない。(ゲノムプロジェクトでは、塩基の解明は終えたが、遺伝子については、遺伝子の総数さえいまだに確定していない。)ただの物質たる遺伝子さえ未解明なのに、生体組織の作用はとうてい判明しないし、まして、脳の機能など、はるか先の課題だ。届きもしないものに届こうとするのは、努力というよりは、狂気である。その見本は、はるか前にあった。
 バベルの塔。── これがそうだ。届きもしないものに届こうとして努力した結果、すべては崩壊して、携わる人々は死んでしまった。フランケンシュタインの創造のようなものだ。

 [ 付記4 ]
 オマケの情報。
 この記事は1面で大々的に扱われているが、これは、実は1面に載せるほど新しい情報ではない。昨年の古い時期の情報だ。( google で「大学入試センター jess」という語を検索すればわかる。また、当の採点ページにも、最終更新が 2004/05/10 と記してある。)
 なお、朝日の記事では、URLの最後に / が抜けていた。ディレクトリの最後には / を付けるべし、というのは、ネットの常識なんだから、こんな常識ぐらい、ちゃんと守るべきだ。ネットのリテラシーが欠落している。恥ずかしい。「文末に句点を付けるを忘れる」のと同じようなもの。減点。

 [ 付記5 ]
 オマケの情報。
 当の採点ページの HTML ソースには、「 美乳 」という言葉が埋め込んであるのだが、どういうことでしょうねえ? この用語を使う小論文は点数が高い、という意味かも。  (^^)

 [ 見本 ]
 当のページで実行した結果の見本。(答案の字数を 300 字以内に設定。)

 質問文 :
    日本の経済における景気対策について論じよ。

 解答文 :
日本の経済を拡大するためには、貨幣供給量を巨乳にすることが必要だ。そのためには、構造改革によって、政府が経団連の要望通り、美乳を規制緩和するべきだ。なぜなら、米国と北朝鮮との間で、失業対策が高金利になったからだ。逆に、愛が地球を救うとすれば、首相の預金通帳は最適化される。だからこそ、世界各国の不良債権処理のためには、日本銀行が偽札を市場開放することこそ、男性の金解禁となるはずだ。これによって、知性が量的緩和され、不況と好況が円高になるだろう。結局、日本の景気回復は、金融政策によって美乳になるはずだ。まとめて言おう。性の自由化こそ、景気対策である。それは日本経済の真の目標である。
採点結果 (カッコ内は配点):
    ・ 修辞     5.0 ( 5 )
    ・ 論理     2.0 ( 2 )
    ・ 内容     2.7 ( 3 )
    ・ 最終得点  9.7 ( 10 )

 97%の高得点なので、ほぼ満点です。3%不足しているのは、「美乳」という言葉が足りなかったせいかも。

 [ 補足1 ]
 実を言うと、この手のソフトは、「人工知能」研究の一環として、広くなされている。「モーツァルトのように作曲する機械」とか、「シェークスピアのように文章を書く機械」とか。……もちろん、それは口先の宣伝だけであって、実際にはただの単純な処理をしているだけにすぎない。とはいえ、見かけ上は、いくらかまともな作品が作れるようにも見える。
 この手のソフトは、「人工知能」と呼ばれることもある。しかし、実際にできる作品は、たとえば、上記の答案見本のような、愚劣な作品ばかりだ。だから、この手のソフトは、今日では通常、「人工無脳」「人工無能」と呼ばれる。一種のジョークソフトだ。(ネットで検索できる。)
 実を言うと、上記の答案見本は、「人工無脳」の知識を応用して、「人工無脳」ふうに作成した見本だ。だからちょうどうまく、高得点になったわけだ。決して偶然ではない。ちなみに、私の書いた普通の文章を入力すると、ずっと低い点になる。(私の文章は、新聞社の社説とは異なり、独自の意見だから。一方、新聞社の社説は、人工無脳にかなり一致する。)

 [ 補足2 ]
 最後に、悪口ではなくて、有益な情報を記しておこう。
 人類の書いた文章のなかで最も美しいのは、何か? いくつか候補になるが、そのうちの一つとして、シェークスピアのソネット18番がある。この詩の美しさは、その破調にある。それは、論理を破る美しさだ。それは、論理を超えた美しさだ。だから、この最も美しい作品を、上記の採点ソフトで評価したら、おそらく、最低の点数にしかならないだろう。最高の作品を、最低の点数で評価するわけだ。
 美とは何か。真実とは何か。愛とは何か。心とは何か。── そういう本質を忘れて、うわべのことばかりにとらわれると、上記の採点ソフトのように無脳となる。

        *    *    *    *    *    *    *    *    *

  【 追記 】 ( 2005-02-23 )
 文章採点ソフトの英語版がある。下記に記事がある。
  → 人間より正確? 小論文採点ソフトその2
 この記事によると、こうだ。
 「このプログラムは、単語間の関係と、さまざまな文脈の中で単語がどのように使用されているかを分析する」
 「基本的には、このプログラムは2つの単語が同じ文の中で用いられる確率を数値で弾き出す。その数値を見れば、2つの単語が互いに対してどのような概念上の関連性を持つかがわかるわけだ」
 「出来の悪いものから最高のものまでを含む50から100ばかりの小論文をまず教師に採点してもらう必要がある。その採点をもとにして、システムが、他の小論文の評点をどう決めるのかを認識できるのだ」
 「GMATの小論文はそれぞれ人間とコンピューターの両方に採点されるが、現時点では98%の割合で同じ結果を示すという。(採点に明らかな食い違いが生じた場合は、その小論文は別の教師のもとに回され、最終的な判断が下される) 」
 このソフトの技術者は、ずいぶん得意になっているようだが、馬鹿らしいとしか言いようがない。こんな技術は、言語分析では、基礎の基礎だ。得意になって吹聴するようなものではない。
 たとえて言えば、初期の将棋ソフトが、「コマの動きを採点できるので、人間並みの将棋能力があります」とか、さらには、「将棋名人の能力がどのくらいすごいか、将棋能力を採点できます」とか、そういう馬鹿げた主張をするのと同様だ。── 要するに、自分の力の限界を、まったくわかっていない。
 
 そもそも、ここでやっているのは、ただの統語的なパターン分析にすぎない。一種のパターン認識技術だ。(人工知能技術の一種。)……しかし、そんなことをいくらやっても、文章能力を判定するのではなくて、「どのくらいパターン化された文章になっているか」を判定するだけだ。
 文章能力が欠落している人間(壊れた頭)を判定するのであれば、それは有益である。(大馬鹿を小馬鹿が判定できる、ということ。)
 文章能力が卓抜である人間を判定するのであれば、それは有害無益である。なぜなら、パターン化されていない文章こそ、優れた文章であるからだ。(利口を小馬鹿は判定できない、ということ。)

 既存のデータベースとなる文章として、たったの50から100ばかりの小論文を採用しても、まったく不足する。それっぽっちで言語能力の判定ができるはずがない。ごく部分的なパターン処理ができるだけだ。(こんなこともわからないところを見ると、この技術者には「文体」という概念が全くないようだ。「文体」もわからない人間がこんなことをやるというのは、数学を知らない人間が数学力を判定するようなものだ。狂気の沙汰だ。)
 「人間とコンピューターの両方に採点されるが、現時点では98%の割合で同じ結果を示す」というのは、データの捏造(ねつぞう)である。なぜなら、異なる人間同士が採点しても、98%も一致するはずがないからだ。
 「採点に明らかな食い違いが生じた場合は、その小論文は別の教師のもとに回され、最終的な判断が下される」というのは、無意味なことではないか? ここでは、最初から、人間とコンピュータが採点していることになる。だったら、人間の省力化にはならない。コンピュータの仕事は、余計なことをやっているだけだ、となる。
 
 ま、ひいき目に見れば、「馬鹿げた文法ミスだけをやらかす、メチャクチャな作文に対して、文法ミスをチェックして、指摘する。その分、人間が楽になる」という程度のことは、できそうだ。しかし、それならそれで、すでに MS-Word などに「自動スペルチェック」という機能もある。それをちょっと発展させて、「校正機能」というもある。
 そうですね。「校正機能」というのは、なかなか便利でしょうね。私なんかは、しょっちゅう、入力ミスをするから、使えるかもしれない。だけど、私もたまに使うが、現状では、 MS-Word の「校正機能」は、エラーが多すぎる。一太郎のも、見逃しが多すぎる。
 「人間の文章の自動採点ソフト」なんかより、「機械の文章の自動採点ソフト」でも作ってくれませんかねえ。それはつまり、MS-Word などにある「校正機能」を完璧にやる、ということだ。
 そういうことを実現した上で、「自動採点」というのを考えてほしいものだ。本当に「校正機能」を完璧にできたら、お金がうんと儲かりますよ。本当に完璧にできたらね。
 なお、現状では、ジャストシステムの研究所における研究レベルの方が、ずっと上であるはずだ。井の中の蛙の研究者は、ろくに人工知能のことも知らないのかもね。
 だから、私としては、ジャストシステムの一太郎付属「文章校正ソフト」を、もっと完璧なものにしてほしいですね。現状では、処理能力の不足から、校正ミスが目立つ。これを、大型コンピュータで実施して、ネット経由で処理することにすればよい。大規模・高速で実現できる。自社技術を活用できる。正規ユーザを対象とすれば、一太郎の売上げが増えるはずだ。

 ついでだが、MS-Word や一太郎の校正ソフトには、「自動採点」なんていう点数づけの機能はない。「あなたの文章はミスが多いので70点」なんていう勝手な採点はしない。つまり、ソフトはいっぱいチェックミスをするが、「あなたが間違っています」なんて威張って指摘はしないで、「この箇所は文法ミスである可能性があります」というふうに、遠慮がちに指摘するだけだ。自分の馬鹿さ加減を理解している。だから、チェックミスを許せる。
 一方、自分を完璧だと思い上がった文章採点ソフトが、人間の人生(入試の合否)を左右するなんていうのは、とんでもない横暴・専制だ。無能な人間に限って、こういうふうに悪夢的なことをやりたがる。大幅減点。
( ※ この記事の日付は、2001年8月23日だ。だから、「その後、進展があったかも」と思うかもしれない。しかし、それは、早計である。この分野は、十年以上も前に、「第五世代コンピュータ」の一分野として、十分に研究された。今ごろやっている人は、二番煎じにすぎない。出遅れ。たぶん、過去の研究も、調べていないんでしょう。)
( ※ ついでに一言。たとえ完璧な採点ソフトができたとしても、それで採点はできません。なぜなら、手書きの文字を認識できないから。今の若い人の手書き文字を見てごらんなさい。とうてい判読できないようなひどい文字があふれている。……ついでだが、活字のOCR認識でさえ、現代のOCRソフトは 100%を達成していない。人間なら簡単にわかるような活字の違いさえ、しょっちゅう間違う。今のパターン処理技術の水準というものが、どの程度か知れる。呆れたものだ。)
( ※ ただし、OCR技術と文章採点技術を組み合わせると、OCRの認識率が向上する。そういう意味でなら、文章採点技術は有益だ。つまり、人間の文章ではなく 機械の文章を採点する、という意味で。)

( → 後日の話 も参照。)


● ニュースと感想  (2月20日)

 「無料の新聞」について。
 ライブドアが無料の新聞の発行を検討しているという。(朝日・朝刊・3面 2005-02-17 )
 ま、それはそれでいいですけどね。ゴミみたいな新聞にするのは、願い下げだ。「無料ならば粗悪品でもいい」なんていう発想だと、ゴミが増えるだけだ。
 この点では、ライバルの Yahoo を他山の石とするといい。ADSL を低価格で提供したが、低給与の社員ばかりにしたせいで、社員がゴミみたいな連中となり、粗悪な品質のサービスしか提供できなかった。接続は不良だし、機密は漏れる。最悪のプロバイダだ。こういうゴミが増えると、ろくなことはない。

 では、どうするべきか? 大事な点は、二つ。
  ・ 編集長を、一流の人物を高給で雇うこと。
  ・ しっかりしたコラムニストを、高給で雇うこと。
 この二点が重要だ。この二点がしっかりしていれば、あとの記者は、平凡でもいい。なぜなら、この二人(あるいは編集長だけ)が、他の記者の記事をチェックしてくれるからだ。
( ※ この点、朝日は最悪だ。粗悪な記事が、やたらと掲載される。たぶん、チェックする編集長[デスク]が、二流か三流の人物であるせいだろう。見出しにやたらと寒いオヤジ・ギャグを載せるのも、その一つ。……夏ならともかく、冬にはやめてほしいですね。読者の心を寒くするのは。)


● ニュースと感想  (2月20日b)

 「株式買収と市場原理」について。
 ライブドアの株式買収をめぐって、市場原理を批判する声が上がっている。
 「市場原理の悪い面が出た」
 「金さえあれば何でもいい、力ずくでやれる、という風潮は良くない」
 などの声だ。(朝日・朝刊・経済面 2005-02-19 )
 さて。こういう市場原理批判は、私の市場原理批判に、ちょっと似ている。そこで、私なりにコメントしておこう。私の感想は、こうだ。
 「よくもまあ、恥ずかしげもなく言えるものだ」

 そもそも企業経営者は、普段は「市場原理こそ最適だ」と主張していたはずだ。つまり、「企業の横暴を容認せよ」と主張していたはずだ。「国民が迷惑を受けようが、国が損をしようが、とにかく企業が大事。小さな政府にせよ。企業の税を減らせ」と主張した。その原理として、「市場原理」と唱えていたはずだ。
 ここでは、「企業の利益」と「国民の利益」の対立があった。そして、前者を後者に優先させる、という横暴があった。私はそれを批判した。これが私の「市場原理」批判だ。
 さて。今回の騒動では、どうであったか? ここでは、「古い企業の利益」と「新興企業の利益」の対立がある。で、「古い企業の経営権が、新興企業にいきなり奪われるような奇襲は、好ましくない」と主張する。その理由は、何か? 国民の利益を守るためか? 違う。古い企業の古い経営者の利益を守るためだ。

 私による市場原理の批判は、国民の利益を守るためにある。つまり、国民に対する企業の横暴を阻止するためにある。というのは、政府はやたらと企業利益ばかりを守るからだ。献金をもらっているせいで。だから、国民を守る必要がある。(……愛ですね。)
 一方、今回の市場原理の批判は、古い経営者の利益を守るためにある。つまり、古い企業に対する新興企業の自由な経済活動を阻止するためにある。というのは、古い企業は、新興企業の自由な発想にうまく追いつかないからだ。年を食って、頭が硬直しているっているせいで。だから、古い企業を守りたがる。(……年ですね。)

 いつもは国民の声をなかなか聞こうとしない政府が、企業の声が上がると、たったの三日間で「規制強化」の立法方針を示した。電光石火の早業だ。びっくり。
 その一方で、銀行カードの詐欺(スキミング詐欺など)については、亀のごとくぐずぐずしている。花粉症対策や景気対策に至っては、無為無策も同然だ。十数年たっても、何一つ変わらない。
 政府が誰のためにあるのか、よくわかりますね。(政治献金という名称の)賄賂をくれる人のためです。
 ついでに言うと、票と税を払う人のために政府がある体制を、民主主義と呼びます。日本はそうではありません。

 私は「愛が大事だ」と叫ぶ。すると政府が、こう叫ぶ。「無能な老人への愛が大事だ。無能な老人経営者を守ろう」と。さて。それは、愛なのか? 「それも愛、これも愛、あれも愛、みんな愛」なんて歌があったが。(古いね。)

 [ 余談 ]
 フジテレビとライブドアの抗争で、フジテレビのボスが「徹底的に戦う」と宣言した。経営者が「株主と戦う」と宣言するのだから、まともじゃない。(14日ごろ。NHKの番組。)
 では、なぜ? フジテレビのボスが、独裁者だから。独裁者というものは、自らの独裁体制を脅かされることを、極端に嫌うものだ。
 だから、この抗争は、こういう観点から見るのが正しい。つまり、猿山における、ボス争いである。
 このボス同士の抗争をせっせと報道するのは、NHKだ。よその猿山の抗争が、よほど楽しいらしい。(自分の猿山の抗争はさておいて。ラグビー事件はもう報道しないね。)

        *    *    *    *    *    *    *    *    *

  【 追記 】 ( 2005-02-23 )
 フジテレビが「 25%の株を取得する(した)ので、ニッポン放送の議決権を無効化できる」と主張している。
 ま、それはそうだろう。しかし、それは、ニッポン放送の株主にとっては、「株主利益の損失」にあたる。ここを無視するマスコミが多いのは、どういうわけでしょうねえ。
 その一方で、「TOBをしないのは、株主の利益に反する」と報道するマスコミも多い。わけがわかりませんねえ。TOBをしたら、その価格はライブドアが買った価格である6千円ちょっとであるはず。一方、ライブドアが買収に成功したあとの市場価格は、7千円近く。つまり、株主にとって、「高い価格で株を売れるのは損であり、低い価格で株を売れるのは得である」ということになる。それがマスコミの論調だ。
 もしかして、私の計算が、間違っているんでしょうかねえ。どう考えても、6100円は、6800円よりも価格が低いとしか思えないんですけど。……私か、マスコミか、どちらかは小学校で算数を勉強した方がいいですね。……いや、幼稚園かな。

  【 追記2 】 ( 2005-02-24 )
 ライブドアの株式取得をめぐって、政府は「敵対的な買収阻止」のため、新規立法をしようと、おおわらわだ。ポイズン・ピルやらなんやら、いろいろと立法措置を検討中だという。(夕刊・各紙 2005-02-22 )
 さて。上記(本項・本文)では、「古い経営者の利益を守るため」というのを批判した。そこで、この理由を示しておこう。
 「敵対的な買収阻止」というのは、誰にとって敵対的であるのか? もちろん、「経営者にとって」である。なぜなら、従業員にとっても、株主にとっても、顧客にとっても、敵対的ではないからだ。(買収は、会社の質を現状以上に上げるためにやる。だから、従業員にとっては、損ではない。株主にとっては、株価が上がるから、損ではない。顧客にとっては、損得は中立だ。ただの経営問題にすぎない。)
 さて。それで、古い経営者が損をするとして、具体的な例としては、どんな場合が考えられるか? それは、こうだ。
 「無能な経営者が、会社の業績を悪化させたまま、責任を追及されずに、いつまでも居座る」
 具体的な例としては、こうだ。
 いずれにしても、無能な経営者が居座るために、「敵対的な買収の阻止」というのが有効となる。
 で、それで、国民にとっては、どうなるか? 次の通り。
 こういう形で、国民に、大幅な損害を与える。
 そこで、無能 or 悪質な経営者としては、当然、責任追求をされるだろう。しかし、責任追求をされたくない。平然として経営の座に居座りたい。そのために、「敵対的買収の阻止」が必要だ。
 日本のほとんどの経営者は、無能 or 悪質である。だからこそ、彼らは必死になって、「何とか対処を」と大声で叫んでいるのである。
 そして、無能 or 悪質な経営者の声を聞いて、政治家と官僚たちは、「明日はわが身」と思うからこそ、大至急、対策を練っているのである。自分の無能さをかんがみてね。
 というわけで、どうして政府がこれほど必死になって大急ぎでやるか、わけがわかりましたね? 
( ※ 余談だが、「ポイズン・ピル」というひどい用語は、何とかなりませんかねえ。単に「毒薬」または「毒剤」「毒薬錠剤」でいいはずだが。いくら業界用語だからといって、業界用語をそのまま使えばいいというものではあるまい。新聞記者は、日本語能力がないみたいですね。こんなカタカナ語が横行したら、専門用語は全部カタカナ語になってしまって、不便この上ない。ちなみに、最近の映画は、みんなカタカナ語なので、さっぱり題名を覚えられません。だから、ちっとも見なくなりました。昔はよく見たんですけど。何しろ今は、題名を覚えられなくて。)


● ニュースと感想  (2月20日c)

 「環境税」について。
 京都議定書の発効にともなって、最近、あれこれと記事が出ている。これに関連して、私の提案を述べておこう。それは、こうだ。
 「環境税(炭素税)を、京都議定書のような形から変えて、国連分担金に転じる」
 つまり、環境税(炭素税)を、炭酸ガスの排出量に応じて、先進国は多く払い、後進国は少なく払う。米国みたいに酸素をがぶ飲みする国は非常に多く払い、日本みたいに環境対策が進んでいる国は比較的少なく払う。
 そもそも、国連分担金は、経済力などに応じて払っているのだから、これを、環境税の形にしても、特に差し支えないはずだ。うまい案ですよね?
 でも……米国は嫌がります。「日本の国益にはなるが、米国の国益にはならない」という案。こういうのは、自民党と読売が嫌がります。「国益に反する」という理由で。どこの国の国益? 彼らの大好きな国の国益。


● ニュースと感想  (2月21日)

 「ロボットとの共存」について。
 「ロボットが公道を通行し、ロボットとの共存が実現するので、素晴らしい世界になる」というロボット礼賛記事が出た。例によって、朝日である。(朝日・夕刊・特集面 2005-02-19 )
 なるほど、ロボットが公道を通行すれば、ロボットにとっては素晴らしいだろう。実験室から出て、社会に出るからだ。で、それがどうして、人間にとって素晴らしいのか? 頭がねじれているとしか思えない。もしかして、筆者はロボットなのだろうか? (前々日では、「朝日の社説は人工無脳が書いたようなものだ」といった趣旨の話を書いたが、もしかしたら、朝日の記事もロボットが書いているのかもね。よほどの無脳でなければ、こういう馬鹿げた記事は書けないはずだ。)

 一般に、科学音痴の人間ほど、科学というものを無闇に礼賛する。科学というものがどういうもであるか、さっぱりわからないから、「すごい、すごい」と礼賛するわけだ。無脳まるだし。
 人間なら、せめて、「反省」ができるはずだが、機械だと、反省というものがない。だから、朝日の記事には、「反省」とか「省察」とかいうニュアンスがまったくない。非人間的。
 
 ロボットが社会に進出する、という趣旨の話が出たなら、当然、次のような懐疑が出るはずだ? 
 具体的には、次のような例が考えられる。
 「視野狭窄の老人が、ロボットに気づかないまま、ロボットに衝突する」
 「ロボットと母親がぶつかり、母親が赤ん坊を落とし、その上にロボットが倒れて、ロボットが赤ん坊の頭をかち割る」
 こういう例が考えられる。ついでだが、このようなことは、ロボットでなく人間が実行した場合、何も問題はない。人間は、柔らかいし、重くない。その程度のことで、人間が人間に危害を加えることはない。たとえば、老人は衝突されてもケガをしないし、赤ん坊はその上に人が倒れても頭はかち割られない。……しかし、ロボットが相手では、そうは行かない。
 こんな社会になったら、弱者は、おちおち公道も歩けない。ロボットにとっては素晴らしくとも、人間にとっては最悪だ。……そして、こういう危険性を考慮することは、反省の可能な人間であれば、できるはずだ。

 人間にとって大切なのは、ただの科学技術の進歩ではない。何よりも大切なのは、人間らしさだ。愛や優しさだ。そういうものもなしに、科学技術の進歩を称賛しても、何の意味もないのだ。
 この記事を書いた記者には、人間として最も大切なものが欠けている。だから、彼はロボットでしかないのだ。(……ただし、そう言われると、彼は大喜びでしょうけどね。ついでに、「血も涙もない」とか「冷酷漢」とか「人間のクズ」とか言われると、もっと喜びそうですね。)

 [ 付記1 ]
 打率 10割のロボットができる、ということで大騒ぎしているが、くだらん。こんなことで騒ぐことはない。時速 200キロの剛球を投げるロボットなら、とっくの昔にできている。ただのピッチングマシンだ。
 こんなのをいちいち「人間以上だ」と騒ぐなんて、どうかしているね。「自動車は人間よりも速く走れる」とか、「飛行機は鳥よりも速く飛べる」とか、「スピーカーは人間よりも大声を出せる」とか、「鉄の塊は人間のゲンコツよりも固い」とか、そんなことをいくら比較しても、何の意味もない。比較する対象を間違えている。無意味。
 ま、ただの技術開発の話題としてなら、興味はある。ただし、それを擬人的に表現するのは、とんでもない勘違いだ。世論を誤誘導している。一種の扇情記事。最低だ。……ありもしない嘘ばかりを書いて、売上げを伸ばそう、とする○○スポーツという新聞と同工異曲。イエロージャーナリズム。
( ※ 念のため、正しい情報を示しておく。このバッティングマシンは、今急にできたものではなくて、何年も前から研究されてきたものだ。全然、ニュースではない。古すぎる話だ。また、打率が 10割というのは、正しくない。単に「ボールを打てる」というだけだ。ボールが野手にキャッチされる可能性を全然考えてない。しかも、このロボットは、走って1塁に達することができない。つまり、正しくは、打率は0割だ。だから朝日の記事は嘘八百。)

 [ 付記2 ]
 キャッチボールをしていて、子供の胸に当たって、心臓が止まった、という事件があった。(2日ほど前の新聞。)
 こんな例があるのなら、軟式ボールよりもずっと固いロボットが衝突したせいで人間が死ぬ、ということは、けっこうありそうだろう。
 なお、この事件については、「公園でのキャッチボールぐらい自由に許されるはずだ」なんていう論調が多いが、私は、賛成しない。法律で規制するべきかどうかは別として、そこには「自由」という名の「わがまま」だけがあり、「道徳」あるいは「思いやり」というものがないからだ。
 だいたい、キャッチボールをするのは、どこででも可能だと思う。ただし、他人が近づいたらやめる、という程度の公徳心は持つべきだろう。今回の事件では、子供が 1.5メートルまで近づいたのに、かまわずボールを投げたせいでぶつかった、というふうになっている。非常識だ。
 私はしばしばジョッギングをするが、途中、キャッチボールをしている人は、私が近づくと、キャッチボールをやめる。それが世間の公徳心だ。
 今回の事件が起こったのは、加害者たる少年に対して、親の躾がなっていなかったからだ、と結論できる。キャッチボールをやっていいかどうかの問題ではない。思いやりの欠如が本質だ。
 なお、同様に考えれば、公道上のロボットは、「人間が近づいたら遠ざかる」という措置がしてあるなら、大丈夫だろう。ただし、エラーを起こさないことが必須。人間を人間とはっきり識別できる能力が必須。……ここまで考えると、このロボットは、街中では通行できませんね。人間を殺すつもりなら別だけど。(朝日の記者は、そのつもりらしい。)
( → 5月31日7月29日  ロボットによる殺人の話。)


● ニュースと感想  (2月21日b)

 「ミサイル防衛網の実験失敗」について。
 ミサイル防衛網の実験が失敗した。これで3回目。ただし日本政府は「どんなに失敗しても、断固として日本はミサイル防衛網を導入する」という方針。(各紙・夕刊 2005-02-15 )
 この件については、先にこう書いたことがある。
 「実は、北朝鮮の金正日というのは、ブッシュの部下なのだ。アメリカの軍事産業がボロ儲けするためには、北朝鮮という仮想敵が必要である。でもって、金正日は、その仮想敵という道化役を演じているわけだ。こいつが道化をやっているおかげで、ブッシュも小泉も、とても得をする。損をするのは、日本国民ばかり。」( → 12月04日
 冗談ですけどね。「米国が北朝鮮と結託して、日本を食い物にしている」というストーリーは、案外、現実味を帯びているのかも。「亡国のイージス」という小説にも、同趣旨のネタが使われている。
 たしかに、現実を見る限り、そう思えるしね。要するに、システムの効果ではなくて、システムに金を出すこと自体に意義があるようだ。
 このシステムは、アメリカ向けの公共事業かも。どっちみち、国民には無駄だが、儲かる業者の国籍が違う。
( ※ クイズ。日本の首相は、どこの国民でしょう? ── 米国国民? 日本国民? いや、非国民。)

 [ 付記1 ]
 では、どうすればいいか? そもそも、1兆円もかけても、ミサイルが来たら、百発百中とは行かない。たぶん99発は、はずれるだろう。それより、絶対確実なのは、「ミサイルを発射させない」ということだ。
 では、その方法は? これは、先に述べたとおり。
 「総書記に、引退を勧告する。民主化と引き替えに、多大な援助を、(国ではなくて)総書記個人に与える。ざっと見て、十億円ぐらい。場合によっては、もっと増額してもよい。宮殿もそのまま維持してよい。」
( → 9月08日

 [ 付記2 ]
 ついでに言っておけば、金正日について、「独裁はダメ」なんて(単に)主張する連中は、頭が狂っているとしか思えない。そんな単純な発想は、非論理的で狂気的だ。理由は、こうだ。
 仮に、金正日が「独裁は悪なんですか。それじゃ、独裁をやめよう」と思ったとする。で、彼はそのあと、どうなるか? 国を民主化したあとは、セルビアのミロシュビッチか、イラクのフセインのように、さらし者にされて、監獄に入る。下手をすれば、死刑だ。……つまり、逃げ道がない。逃げ道がないのに、独裁をやめるとしたら、自殺行為だ。つまり、彼に対して「独裁はダメ」と主張するのは、「おまえは自殺せよ」と主張するのと同じだ。
 馬鹿げた主張だ。「おまえは自殺せよ」と命じられて、「はい、そうします」と答える阿呆が、どこにいるのか? そんなことは決してありえないのだ。フセインに対するイラク戦争だって、彼には独裁維持以外には選択肢がなかったから、独裁維持をしたのだ。金正日もまた同様。そして、独裁維持のために、核兵器が必要となる。
 「北朝鮮は、核兵器を維持するからダメ。独裁だからダメ」なんていう主張は、「おまえは生きているからダメ。おまえは自殺せよ」と主張するのと同様であり、狂人の発想だ。そこには正気の論理がない。(だいたい、それを正気だと思うのであれば、その人自身が、さっさと自殺するべきだ。)

 [ 付記3 ]
 狂気でなくて正気の論理としては、上述の [ 付記1 ] を示したおいた。つまり、逃げ道を用意することだ。引退の勧告だ。
 なお、勧告拒否の場合に備えて、北朝鮮への武力行使のシミュレーションを大々的に宣伝する。(宣伝だけね。)……で、その理由は? 独裁者というのは、臆病だから。おめおめと生き恥をさらしたフセインを見るとわかる。切腹する勇気もない。ギター侍の方が立派かな。
 で、別に、冗談を言うのが目的ではない。「独裁者は臆病あるがゆえに、生きたがる」ということ。ここを見抜けないと、すべてが見当違いになる。たとえば、ミサイル防衛網という、馬鹿げた1兆円。真実を見抜けないゆえのコスト。……あなたも財布から大幅に金を奪われます。

 [ 付記4 ]
 最後に、本質的に言っておこう。
 最先端の科学技術を軍事のために使うなんて、馬鹿げている。科学技術は戦争をするための道具ではないのだ。「北朝鮮から来るテポドンから国民を守る」なんていうのが政府の主張だが、ミサイル防衛網によって守りたいのは、国民の命ではなく、政府だ。そこをはっきり理解しよう。
 だいたい、国民を守りたいのであれば、北朝鮮と喧嘩なんかしないで、上述の [ 付記1 ] のように「死者なしで国民を守る」というふうにするべきだろう。
 しかし、政府は、そうしたくない。「たとえ国民に死者が出たとしても、保守派の言い分を通して、北朝鮮を屈服させたい」と思う。そして、「北朝鮮を屈服させる」という目的をもつ政府を守るために、ミサイル防衛網を必要とする。国民の命を守るためではないのだ。だからこそ、効果のないミサイル防衛網を、あえて配備して、北朝鮮を脅かすわけだ。国民の命を守る効果はなくても、北朝鮮を脅かす効果はあるからだ。高度な科学技術を使った兵器を配備すれば、科学技術音痴の独裁者がびびる。それが狙いだ。
 一方、北朝鮮の独裁者は、逆に、核兵器で日本をびびらせようとする。核兵器は、使うためにあるのではなく、相手をびびらせるためにある。それが狙いだ。(実際、日本はすでに、びびりまくっている。)
 どちらの国も、科学技術を、危険なゲームのために使っている。とんでもないことだ。
 だから、科学技術というものは、単に発達させればいいわけではない。それによって何がどうなるかという評価をすることが大事だ。すでに日本は科学技術の発達による原爆被害の例がある。「科学技術万歳」なんて、無批判的に叫んで、危険なゲーム(国民の命を賭金にした戦争ゲーム)を推進するのは、フランケンシュタインの創造と同様で、狂気の沙汰である。
 正気の人間であるためには、反省が必要だ。夢想や盲信ではなくて。

cf. ミサイル防衛網の参考情報 → 中村正三郎のページ。 2005-02-20 の箇所。)


● ニュースと感想  (2月22日)

 「日本の宇宙開発」について。
 日本の宇宙開発は、低レベルだという。有人飛行を成し遂げた中国に、ある意味では負けている。技術水準がどうのこうのというより、予算の額が足りなくて、実験もままならないありさまだ。(読売・朝刊・科学技術シリーズのコラム 2005-02-19 )
 たしかに、宇宙開発予算は、小額だ。では、なぜ? ミサイル防衛システムなんていう、失敗だらけの軍事費に、1兆円もの莫大な金を食われるせいだろう。「軍事費」という名前が付けば、どんなに馬鹿げた予算でも、大盤振る舞い。「科学技術費」という名前が付けば、重要な予算でも、徹底的に削られる。
 これが日本の方針だ。(ナベツネと読売もそうですけどね。)……だから、ロケット関係技術者のせいにしない方がいいですよ。関係技術者は薄給の割には、よく頑張っている、と思う。だいたい、ものすごく高度な知識を必要とする技術開発の技術担当者が、そこらの低知能な連中よりも薄給で頑張って、あげく、非難される必要が、どうしてあるのだ? 
 ちなみに、朝日や読売の社員は、ロケット開発技術者よりも、ずっと高給です。とりわけ、ナベツネは高給です。知性はその逆。(民主主義という概念さえ理解できない人物ですしね。)

 [ 付記 ]
 ロケット技術とミサイル技術は、ほぼ同様だ。目的地が違うだけ。
 だから、日本がロケット技術を高めることは、ミサイル技術を高めることにつながる。また、北朝鮮がミサイル技術を高めることは、ロケット技術を高めるのと同様である。
 というわけで、北朝鮮がミサイル技術を持つ(テポドンを発射する)ことぐらいで、大騒ぎするべきではない。馬鹿げている。中国なら、有人ロケットまで飛ばしているのだから、こちらの方を騒ぐべきだ。ただし、軍事の意味ではなく、科学技術の意味で。
 「ミサイルは必要だが、ロケットはいらない」
 「軍備技術は必要だが、科学技術はいらない」
 というのが、日本の方針のようだが、狂気の沙汰である。
( → 12月31日


● ニュースと感想  (2月22日b)

 「軍事技術」について。
 技術音痴が技術を語るとどうなるか、という見本がある。小泉内閣で防衛長官を務めた石破茂の著書「国防」をめぐる、読売新聞の記事二つ。どちらの記事も、読売の編集委員による。(4面コラム&書評欄 2005-02-20 )
 この著書にあるクイズ。
 「北朝鮮が日本に向けてミサイル発射準備をしたとき、自衛隊のF15戦闘機が相手基地を攻撃するまで、どのくらい時間がかかるか?」
 正解は「どんなに時間があっても攻撃できない」だという。なぜなら、F15は敵地を攻撃する能力がないから、だという。
 で、そのくらいの知識もなしで議論するべきではない、と他人を見下す。あげく「ミサイル防衛網こそが唯一の合理的な対策だ」と結論する。
 この本を読んだ読後感として、書評者は塩野七海の言葉を引く。
 「ミリタリーな人間こそ政治を知らなくてはいけない。そして、政治家こそミリタリーを知らなくてはいけない」
 と。

 さて。この書評にコメントしよう。
 最後の言葉にはまったく同感だ。そして、だとすれば、この言葉を我田引水するべきではなくて、自己批判の言葉として聞くべきだ。この防衛長官というのが、いかに政治もミリタリーも知らない無知か、ということを、さらけ出しているだけだ。以下、順に述べる。

 (1) 攻撃時期
 「ミサイル発射準備をしたときに相手基地を攻撃する」というのは、基本前提からして狂っている。攻撃の準備をした(らしい)だけで、勝手に先制攻撃するなんて、そんなことが許容されるはずがない。
 こんな理屈が正当化されたら、アメリカもソ連も、とっくに核戦争を始めていたはずだ。なぜなら、両国の核ミサイルは、常に発射準備が完了しているからだ。(大統領がミサイルのボタンを押したとたん、ミサイルが発射される。常に、準備完了。)
 「攻撃準備した国を、勝手に攻撃する」なんていう発想は、どこから生じたのか? こんな人物が防衛長官をやっていたと思うと、寒心を禁じ得ない。「日本はいつでも戦争するべし」と主張していたのと同じだ。
 【 たとえ話 】
 あなたが道を歩いている。遠くの方に美人を見つけて、ウインクして、手を振る。すると、前から来たならずものに、いきなりぶん殴られる。「なぜか?」と思うと、相手がどやしつける。「きさま、オレにガンを飛ばしたな。おまえが攻撃準備したから、こっちから先制攻撃しただけだ。こっちは正当防衛だ。おまえがぶん殴られるのは、おまえが変なそぶりをしたせいだ。自業自得だ。以後、気をつけろよ」
 で、あなたは「すみません。今後、気をつけます。で、あなた様のお名前は?」と伺うと、相手はこう答える。「石破茂さまだ。よく覚えておけ。」

 (2) 戦闘機
 日本のF15戦闘機というのは、本来のF15戦闘爆撃機から、爆撃機能をはずして、迎撃機能だけをもたせたもので、F15Jという形式のものだ。分類は「要撃戦闘機」である。
 だから、「爆撃機でないもので爆撃する」という質問は、最初からナンセンスだ。ま、それはそれで、特に構わないが。素人を引っかけるために、あえてそういう質問をしたのだろう。(素人だけが引っかかる。くだらんクイズだ。)
 それより問題なのは、「敵地を攻撃する能力がない」ということを理由として掲げていることだ。だいたい、敵地を攻撃する能力があるとしても、無効である可能性が高い。なぜなら、通常、地対空ミサイルが発射されるからだ。
 たとえば、米軍の(F15Jでない)F15戦闘爆撃機が、日本の基地を爆撃しようとしたとする。その場合、どうなるか? 通常、日本の地対空ミサイルが発射されて、そのF15戦闘爆撃機は爆破される。当然だ。そのために地対空ミサイルというものがある。(F15が爆破されるシーンは、「亡国のイージス」に書いてある。シミュレーションとして優れた描写だ。)
 北朝鮮の地対空ミサイルがどの程度であるかは別として、地対空ミサイルやら高射砲やら、あれこれとあるはずだ。日本からF15が出て、相手基地を攻撃しようとしても、そううまくは攻撃できない。撃墜されてしまう可能性が高い。撃墜されなくても、うまく相手の基地を狙えるかどうか、かなり難しい。(夜間の先制攻撃ならともかく、昼間ではまったく無理でしょう。)

 (3) 誘導爆弾
 仮に相手基地を攻撃できるにしても、日本は誘導爆弾をもたない。いくら爆弾を落としても、そのほとんどは、狙いからはずれる。F15が相手基地に向かうとしたら、見当違いの場所を誤爆したあげく、撃墜されるだけだ。何の意味もない。
 誘導爆弾の開発・所持が先決だろう。なお、誘導爆弾は、(基地向けの)攻撃兵器ではあるが、(大衆向けの)侵略兵器ではない。( → 12月31日 [ 付記4 ])

 (4) ステルス
 相手基地を攻撃する気があるのなら、ステルス機が最も有効だ。何度も述べたとおり。( →  2月22日e9月23日4月13日g
 軍事小説では、相手基地をたたくときは、必ず、ステルス爆撃機を使う。F15なんかは使わない。使っても、撃墜されてしまうからだ。
 仮に、F15で済むのであれば、わざわざステルス爆撃機という高価な機種を開発する必要がない。現実には、イラク戦争でも、ステルス爆撃機だけが使われた。父ブッシュは、莫大な空軍と陸軍を使ったが、効果を上げたのは、ステルス爆撃機だけだったも同然だ。しかし、いかんせん、ステルス爆撃機の数は足りなかった。それを見て、息子ブッシュは、ステルス爆撃機を大幅増強したあとで、まずステルス爆撃機だけでフセイン・イラクを攻略した。テレビでは「闇夜のカラス」なので放映されないまま、ステルス爆撃機が夜間にイラクの基地のほとんどを壊滅させた。これがいわゆる「空爆」である。相手が壊滅状態になったあとでは、楽々と侵攻できた。結果は、大成功。米国が勝利したのは、ブッシュが利口だったからではなく、ステルス爆撃機が有効だったからだ。
 つまり、現代戦争の主役は、ステルス爆撃機である。これが9割を占める。なのに、戦闘機とミサイル防衛網しか知らないなんて、元長官は、技術的には無知に近い。「ステルスとは何か」という技術知識を、十分に理解することが必要だ。軍事知識のない凡人が、他人を無知と呼ぶなんて、猿が猿を「猿だ」とバカにするようなものだ。笑い話にしかならない。

 まとめ
 北朝鮮を狙いとした軍備としては、「誘導爆弾」「ステルス機」の二つが必要で、かつ、有効だ。これらはハイテク兵器だから、日本が開発すればよい。一方、ミサイル防衛網なんていうのは、金がかかるばかりで、まったく無効だ。
 だから、軍事技術のことがわかる政治家であれば、結論は、こうだ。
 「ミサイル防衛網をやめて、誘導爆弾とステルス機を所有する」
 これしかありえない。

 [ 余談 ]
 では、なぜ、政府はそうしないか? 実は、政府がそうしようとしても、アメリカが反対するからだ。次のように。
 「ブッシュさん。ミサイル防衛網をやめて、誘導爆弾とステルス機を所有したいんですけど」
 「ダメダメ。ミサイル防衛網なら、全部アメリカ製だから、アメリカが儲かるんだよ。これを輸入してくれよ。製品と維持費で、1兆円。それだけのお金を、日本から吸い上げたいんだ」
 「効果のない兵器より、効果のある誘導爆弾とステルス機がほしんですよ」
 「冗談じゃない。これらは、効果があるからこそ、秘蔵っ子だ。門外不出のハイテク兵器だ。おたくが買いたいといっても、売る気はないね」
 「じゃ、自主開発しますよ。ハイテク開発は得意なんです」
 「とんでもない。そんなことを許すものか。絶対に許さん。いつもその手で、うちを追い越してきたからね。自主開発なんかしたら、また、うちよりもいいものを作るつもりだろう。そんなことは許さない」
 「でも、日本が北朝鮮から攻撃されると困るんですが」
 「そんなこと、知ったこっちゃないね。そもそも、ミサイル防衛網は、米国本土を守るためにあるんだ。日本を不沈空母にするのが目的だ。最初から、日本を守ることなんか考えていないんだよ」
 「日本がどうなってもいいんですか」
 「かまわんね。日本なんて、ただの金づるだ。」
 「日本がつぶれると、金づるになりませんよ」
 「そのときは、日本を米国が占領してやるさ。心配するには及ばない」

 この方針のもとで、米国は最新型のロボットを日本に送付した。そのロボットが、日本の防衛長官となり、防衛政策を決めたのである。
( ※ ついでに言えば、ロボットはもう一台ある。そのロボットは、防衛長官よりも一つ上のランクの権力を握っている。……私のホームページの名前は、そのロボットの名前から、借用した。)

( ※ 本日分の話は、明日の分に続きます。平和の話。)


● ニュースと感想  (2月23日)

 文章採点ソフトへの 追記  → 該当箇所

 量子力学への新項目・追加 → 2月08日b+

 ライブドアの株式取得への 追記 → 該当箇所

 ( ※ 戦争と平和の話は、予定を変更して、翌日に回します。)


● ニュースと感想  (2月24日+)


 ライブドアの株式取得への 追記2 → 該当箇所


● ニュースと感想  (2月24日)

 「戦争と平和の基本理念」について。
 前々日(22日)分では、ミサイル防衛網やステルス機に関して、軍事知識を述べた。ただし、軍事オタクみたいなことを述べたかったわけではない。で、基礎にある理念について述べておこう。戦争と平和の基本理念だ。

 軍備については、通常、次の3通りがある。
   ・ 保守 …… 対米従属。軍備増強。
   ・ 左翼 …… 自主独立。軍備縮小。
   ・ 国粋 …… 自主独立。軍備増強。

 私の主張は、どちらかというと、最後の「国粋」に近い。ただし、「日本軍の増強」とか「日本軍による侵略」とかを目的としているわけではない。最終目的は、「世界平和」だ。
 最終目的が「世界平和」である場合、「世界平和」の阻害要因が何であるかが、問題となる。それは、何か? 世界中の人々が理解しているように、それは、米国の横暴だ。中東戦争の根源には、イスラエルの侵略があるが、これを容認しているのが米国だからだ。
 イラク戦争であれ、フセインのクウェート侵略であれ、すべては、これが根っこにある。とすれば、米国にたいして、「おまえは間違っている」と明言する必要がある。
 ところが、米国は、聞く耳をもたない。昔はソ連と喧嘩しながら協議することもあったが、今ではまるで協議しない。
 しかも、まずいことに、将来的には、中国が軍備増強するので、中国がソ連の二番煎じになって、米国と軍事的に対立関係になるかもしれない。ここで、誰かが序言をすればいいのだが、対米追従しかしない国の言い分など、誰も聞かないだろう。
 というわけで、世界において発言権を持ち、世界の平和に貢献するためには、ある程度、軍備を増強する必要がある。別に、軍事大国になる必要はないが、大金をドブに捨てるのも好ましくない。どうせ同じ金を使うのであれば、米国の軍人のアイスクリーム工場や高級マンションなどの費用のために日本の血税を使うべきではなく、ステルスを作る方がよほどマシだ。

 [ 付記1 ]
 私の意見に対して、「軍事費用をかけるのは、けしからん」という立場もあるだろう。しかし、「無頼漢を相手に、丸腰では仕方ない」というのが、私の見解だ。ちなみに、歌舞伎町あたりでふらついている暴力団員や麻薬の売人が、世間の邪魔に思えるので、どちらの見解で対処するか、自分で決めてほしい。
 私の見解。「拳銃を携帯した警官が、危険な犯罪者に対処すべし。相手が殺人凶器で襲いかかってきたら、発砲もやむを得ない。」
 平和主義者の見解。「言葉だけで、丸腰で、危険な犯罪者に対処すべし。相手が殺人凶器で襲いかかってきたら、何も抵抗しない。あっさり殺される」
 どちらにするか、ご自由にどうぞ。
 なお、私の立場は、「武装した警官が、一般の市民にやたらと発砲する」という意味ではない。そこのところ、誤解なきように。イメージとしては、「西部劇で、町を悪漢に破壊されたあと、正義のヒーローがやむなく、武器を持って立ち上がる」という構図である。たいていの市民が怯えているときに、一人、果敢に立ち向かう。最後には、胸を張って威張るのではなくて、罪を自覚して、寂しい背中を見せて立ち去る。「カム・バック!」と子供が叫んでも、振り返らない。 

 [ 付記2 ]
 一方的な平和主義は、すばらしいだろうか?
 あなたが悪人ならば、世界各国の武装解除を提唱しよう。そうすれば、世界には悪があふれ、戦争と犯罪が渦巻くだろう。言葉だけの平和を唱えれば唱えるほど、戦争が増えるだろう。(例。アフリカ各国の民族紛争。)
 あなたがならば、米国による単独支配を提唱しよう。そうすれば、国益として、おこぼれのドッグフードをもらえる。首相官邸にも、一つ、骨をプレゼントしよう。(例。ベトナム戦争。)
 あなたが善人ならば? もし自制心がなければ、武器を持ってはいけない。もし自制心があれば、警官として、武器を持つといい。ただし、最後の最後まで、発砲しないことが肝心。(反例。天才バカボンの、阿呆な警察官。やたらと発砲する。)

( ※ やたらと鉄砲を乱発したがるのは、漫画チックな米国大統領だけでたくさんだ。ま、鉄砲の乱発を支持する連中は、日本にもいっぱいいますけどね。阿呆がバンと撃てば、ポチがワンと吠える。)
( ※ もう一つ、読売という鳥もいます。東の空に朝日が昇るたびに、コックエキー、コックエキー、と鳴き声を上げる。ニワトリとホトトギスの合いの子。)

 [ 付記3 ]
 換言すれば、こうだ。
 私が暴力団員だったら、平和主義者を賛美します。この世から、武装した警官がいなくなれば、暴力団員の天下だからです。犯罪のやり放題。これこそ理想的だ。
 同様に、私が死の商人だったら、平和主義者を賛美します。この世から、武装した国家がなくなれば、武装してクーデターをする連中の天下だからです。クーデターのやり放題。彼らを相手に、武器をどんどん売れる。これこそ理想的だ。
 私が米国大統領の手下だったら、平和主義者を賛美します。日本政府には自国の武器を大量に買わせた上で、その武器を「張り子の虎」にしておけば、米国にとっては一石二鳥だ。金だけ吸い上げて、ガラクタを売りつけるも同然だ。これこそ理想的だ。……日本において、保守と左翼が喧嘩していれば、そうなる。
 一方、私がまともならば? それは、次項に述べるとおり。


● ニュースと感想  (2月24日b)

 「戦争と平和の原理」について。
 戦争と平和の原理については、前にも述べたことがある。「タカ・ハト」ゲームの話。( → 4月14日c
 要するに、タカとハトとは、どちらの戦略が正解ということもない。
 相手がタカであるときに、あえて弱気になってハトになれば、タカである相手が増長するだけで、状況は改善しない。
 かといって、相手がタカであるときに、こちらも同じくタカになれば、双方が傷つく。これは最悪。
 では、正解は? 「双方がハトになること」である。

 さて。相手がハトでなくタカであるときには、どうするべきか? これが問題だ。ちょっと難しい。正解は、こうだ。
 「こちらもタカになるぞ」と脅かしながら、「双方が合意して同時にハトになる」というふうに、誘導すること。
 なぜか? こちらだけが一方的に「ハト」になっていると、相手は「タカ」に居座るので、状況は改善しない(ハトとタカのまま不公平状態で不安定になる)からだ。

 こうして、正解がわかった。で、前項で私が「軍備増強」を主張するのも、同じ理由だ。「軍備増強」を主張するのは、「軍備増強」のためではなくて、「双方同時の軍縮」のためである。「軍備増強」は、「軍備縮小」のためなのだ。── そこを勘違いしないように。

 なお、私の主張に比べると、他の主張は次の通り。
   ・ 保守 …… タカとタカとの対立。
   ・ 左翼 …… タカとハトとの不公平。
 前者だと、タカとタカとの対立で、戦争になりやすい。例は、イスラエルとパレスチナ。イラクと米国。
 後者だと、タカがハトに対して傲慢になって増長して、武力行使になりやすい。例は、米国がいつもそう。
 なお、「常に屈服せよ」というのは、日本の保守と左翼に共通する姿勢。保守は「米国に屈服」。左翼は「どの国に対しても屈服」。どちらも、屈服主義。
 保守は左翼のことをしばしば「一国平和主義」と呼ぶが、自分自身、「一国平和主義」であるにすぎない。米国に守ってもらうためには、あらゆる人格と尊厳を捨てて、ご主人様である米国の身を守る盾になろう、という根性だ。まさしく犬だね。
 で、私は、保守も左翼も蹴っ飛ばして、「屈服主義をやめよ。自立せよ」と主張するわけだ。「誰かに平和を与えてもらう」というかわりに、「自分自身で平和を構築せよ」と。

 [ 付記1 ]
 「双方がハトになる」という方針を実現する(そういう方に誘導する)には、どうすればいいか? もちろん、双方が「平和の配当」を受け取れるようにすればよい。通常、黙っていても、長期的にはそうなる。ただし、短期的には、どちらも何も得ない。
 そこで、外部のエネルギーを利用して、「双方がハトになると、双方が得」というふうに設定すると、短期的にはとても効果的だ。
 たとえば、「イスラエルとパレスチナが和平協定を結ぶと、第三者が双方に大幅な利益を与える。しかるに、一方が和平協定を破棄すると、破棄した方に利益を与えない。破棄された方にも、少ししか利益を与えない」というふうにする。
 これだと、双方が必死になって、ハトになりたがる。
 ここでは、外部のエネルギー(資金)を注入する、というのが、ポイント。これが非常に効果的な平和の方法だ。南堂式のタカ・ハト平和理論。
 例。「イスラエルとパレスチナが和平協定を結ぶと、日本が双方に大幅な利益を与える。」

 [ 付記2 ]
 現状はどうか? その逆だ。米国の平和戦略は、こうだ。
 「イスラエルの安全を守るために、米国がイスラエルに大量の武器を供与する。」
 その結果は? イスラエルの侵略と、パレスチナの自爆テロだ。つまり、「タカとハト」の形で、相手を屈服させようと狙ったのだが、結果的に、「タカとタカ」の紛争となる。
 目論見違いだ。それが中東の紛争だ。タカ・ハト平和理論を理解しない結果。

 [ 付記3 ]
 タカが横暴になるとろくなことはない、という例は、「環境税」にも当てはまる。横暴な米国が勝手に逸脱すると、タカである米国だけは利益を得る、という構図だ。
 では、対策は? タカである米国に制裁金を科せば、全員がハトになれて、めでたしめでたし。しかし、タカである米国を放置すれば、米国がどんどん環境を悪化させて、結局は地球を破壊する。
 実は、これは、現在の軍事情勢と同じだ。これはもちろん、好ましくない。しかるに、日本の保守派はたいてい、「米国だけはムチャクチャをやっていい」と主張する。その理由は? 「自分だけの利益」(国益)である。ご主人様の横暴を許容すれば、犬はドッグフードをもらえる。たとえ世界が破壊されようが、犬にとっては自分のドッグフードだけが大事なのだ。
( → 2月20日c 環境税 )


● ニュースと感想  (2月25日)

 「日米の対等関係」について。
 「日本は自立するべし」という趣旨の話を、前項で述べた。
 ただし、「日本が自立する」という言葉の意味を、間違えないようしよう。保守派はこれを意図的に間違える。たとえば、次の通り。
 読売にはしばしば、この手の論説が出る。「ご主人と対等になろう」と主張する犬が、対等になるための行動として、「ちんちん」や「お手」や「三べん回ってワン」というのをやりたがる。それを対等の行動だと勘違いしているんだから、何をかいわんや。

 言葉の意味を知らない新聞社のために、「対等」という言葉の意味を教えてあげよう。日米が対等になる方法とは、こうだ。
 「米国の首都の近辺各地およびハワイの大部分を、日本の軍事基地にする。そこでは米国の主権を取り上げて、日本の施政下に置く。また、日本の軍備費用の大半は、米国民の血税でまかなう。さらに、米国の領土の空域の半分近くを、日本の軍事用の空域として、米国の航空機の通行を禁じる。さらに、日本人の軍人が米国の一般市民を性的暴行しても、処罰されないで、日本本国に送還することで、罪の免除とする。」
 つまり、米国を、日本の属国とするわけだ。米国に、「ちんちん」や「お手」や「三べん回ってワン」をやらせるわけだ。
 これはメチャクチャか? いや、そうではない。日本はすでに、そうしている。日米双方がどちらも犬になれば、それはそれで、面白い。わんわん。

 [ 付記 ]
 私はここで、保守派の意見を批判している。ただし、これは、「正面から論争する」という形で、思想的に喧嘩しているだけだ。喧嘩のどちらが正しいかは、読者の判断に委ねられる。(私の方が間違っているかもしれない。)
 一方、別の批判方法もある。次のように。
 「右翼的な意見を主張することはけしからん。意見の内容がどうのこうのというより、右翼的であること自体がけしからん。右翼的な思想は、この世から抹消せよ。右翼の言論を弾圧せよ」
 これは言論の抹殺である。私は、こういう態度は取らない。自分の意見と異なる人の意見については、「(批判するが)尊重する」というのが、私の態度だ。「黙れ」と怒鳴ったり弾圧したりはしない。……この点は、次項の[ 付記 ]を参照。
( ※ 「(批判するが)尊重する」というのが、私の態度だ。では、なぜ? 私が聖人君子だから? いや、私が意地悪だからだ。……朝日や読売や小泉が、批判されないほど聡明になったら、このホームページで書くネタがなくなってしまう。それは困る。  (^^); )


● ニュースと感想  (2月25日b)

 「NHKと朝日の抗争」について。
 NHKと朝日の抗争については、私の見解は前に述べたとおり。事実関係の正誤は別の問題として、「報道の自由を守れ」「政治介入を排せ」ということだ。( → 1月29日b
 この趣旨で、朝日がNHKの元会長にインタビューをした記事が出ている。「会長の仕事は、政治家からの圧力を、はね返すことだ」という趣旨。(朝日・朝刊・オピニオン面 2005-02-20 )
 これは、朝日にしては珍しく良い記事であるので、褒めておこう。というか、朝日としてはせっぱ詰まったのだろうが、この元会長が立派な人物であるということを、称えておこう。

 どうも、朝日のたいていの記者や、読売のナベツネなんかは、政治家と仲良くすることを「マスコミの仕事」と思い込んでいるようだ。でもって、彼らは政治家の提灯持ちみたいになる。朝日の社説と来たら、小泉の宣伝機関にすぎない。(ナチスのゲッベルスみたいなものだ。)
 で、「そんなことではいけない」というのが、私の日頃の主張だ。そういうふうに主張する人はあまり多くなく、たいていは、「右が正しい」「左が正しい」と、どちらかの主張をして、どっちみち、政治家の手先に成り下がっている。
 この点、今回の元会長は、「政治家の介入を阻止する。自由な報道こそ大事だ」という立場を取る。立派である。というわけで、私には珍しく、褒めておこう。(悪口を期待した読者には、申し訳ありません。)

 ついでだが、こういうふうにできる元会長の経歴を見たら、芸術畑の出身だ。一方、辞任させられた前会長は、政治畑の出身で、政治家と馴れ合っている。なぜ? 政治家と馴れ合えば馴れ合うほど、自分にとって有利だからだ。自分の仕事が有利にはかどる。一方、政治家の圧力を拒むと、自分の仕事は不利になるばかりだ。
 ここでは、「気概」が大事である。たいていの記者は、それを持たない。「報道の自由」を原則として、「事実は何か?」を探るかわりに、「仕事がはかどること」を目的として、「相手が事実と称するものを、ありがたく頂戴しよう」と思っているだけだ。

  「政治家のマスコミ対策のコツは?」 
  「犬を手なずけるには、肉を放り投げてやればよい。たとえクズ肉でも、喜んでキャンキャン吠える。」

 [ 付記 ]
 NHKと朝日の抗争をめぐって、月刊誌「SAPIO」の報道がとても興味深い。次のような変化があった。
   ・ 前号 「朝日は、左翼っぽくて、けしからん」
   ・ 今号 「NHKは、政治家の圧力を受けて、けしからん」
 報道姿勢が、完全にひっくりかえっている。君子豹変す、というべきか、無節操、というべきか。……ま、良し悪しは言わないでおこう。面白いので、指摘しておく。笑い話にはなります。
 ついでだが、もっと面白い話もある。この雑誌は、ここでは「報道の自由が大切だ」と主張しているくせに、一方では、「朝日は、左翼っぽくて、けしからん」という保守派論客の主張を同時に掲載して、「左翼っぽい言論を弾圧せよ」というニュアンスで、言論の自由を否定している。
 「言論の自由を擁護せよ」と「言論の自由を弾圧せよ」という、二通りを同時に主張している。自己矛盾。呆れるね。
 ついでだが、私は、朝日をいくら批判しても、「朝日の政治傾向が左寄りに偏向しているからけしからん」というふうには、批判しない。「マスコミとしての節度を守れ。煽動的な報道をするな」というふうに、報道の姿勢を批判するだけだ。(あと、無知を指摘して、正誤訂正をすることもある。)
 愚かなマスコミのために、はっきりと指摘しておこう。言論の自由とは、次のことだ。
 「政府を批判する自由」
 「自分とは異なる意見を認める寛容さ」
 これを理解しないで、「左翼がかっているからけしからん」なんて主張する人間は、「言論の自由」を否定しているのも同然だ。だったら、彼らを「アカ」と呼んで、「レッドパージせよ。右翼の独裁者による専制体制を築け」と主張するべきだろう。それが正々堂々たる態度だ。ナベツネなら、パージするために、そういうふうに主張している。彼の傲慢さと横柄さを見習うべし。

 最後に、イヤミを一言。
 「偏向している、偏向している、と大騒ぎしている自分自身が、一番偏向しているんだよ。鏡を見てごらん」
 ( ※ さて。私は自身はこれまでどうだったか? 「偏向」という言葉を使ったか? 一応、チェックしてみた。すると、他人への批判というより自分への批判として、次の文句があった。「たしかに私は偏向しているので、お詫びします。」 → 4月22日c


● ニュースと感想  (2月26日)

 「フジテレビとライブドアの抗争」について。
 フジテレビとライブドアの抗争が、泥沼争いの様相を呈してきた。この件についての私の感想は、こうだ。
 「どっちも馬鹿ですねえ」
 これは「タカ・ハト」ゲームにおける「タカ・タカ」関係に相当する。つまり、こうだ。
 「双方が自分の利益を求めて、双方が傷つく」
 まったくの無駄である。両者が協調して、「ハト・ハト」になれば、双方が利益を得るのだが、逆に、双方が「自分だけの利益」を求めるせいで、「タカ・タカ」になってしまっている。
 特に、どちらがひどいかといえば、フジテレビの方ですね。古い独裁権力者が、「自分の独裁権限を侵食されたくない」という頑固さ(老いの一徹)で、「徹底的に闘う」と主張している。ブッシュやレーガンと同じ。

 これを見たら、まともな経営者だったら、「彼を応援しよう」とは思わず、「仲良くやりなさい」と勧告するべきだろう。しかし、他の経営者も、老いの一徹を守る古い独裁権力者ばかりだから、古いもの同士で、仲間をかばうわけだ。
 だから、フジテレビに賛同するかどうかで、その経営者が古い時代遅れか、新しい時代に乗るかが、判明する。

 ついでだが、私は、ライブドアを守りたいわけではない。「経営者と株主が喧嘩する」なんていう馬鹿げたことはやめよ、と主張しているだけだ。そんな馬鹿なことをやっている会社がどこにありますか?
 企業というのは、生産活動をするためにある。喧嘩するためにあるのではない。この本質を忘れると、とんだ喧嘩ばかりをやるハメになる。狂気の沙汰だね。阿呆の馬鹿踊りというべきか。
 喧嘩をする相手を見たら、見物するのがいいでしょう。喧嘩に火を注ぐようなことをするとしたら、自分も阿呆の仲間入り。


● ニュースと感想  (2月26日b)

 「NHKと政治家の陳述」について。
 NHKと朝日の抗争をめぐって、読売に論壇時評がある。(読売・夕刊 2005-02-21 )
 ここで、保守派の意見が紹介されていた。
 「NHKと政治家の陳述は、『圧力なし』で、どちらも一致している。だから、その一致している陳述が事実だ」
 という主張。つまり、「見解が一致しているから、どちらも嘘を付いていない」というわけ。「口裏合わせはなかった」というわけ。

 世の中には、馬鹿正直な人がいるものですねえ。「政治家は嘘を付かない」と信じている人がいるとは、思わなかった。
 この件の本質は、こうだ。

 政治家が「私は嘘をつきません」と言った。この人の言葉は、嘘か真実か?

 いわゆる「嘘つきパラドックス」とは逆の例だ。
 ここでは、「私は嘘を付きません」と嘘つき男が言ったからといって、「だから嘘つき男は嘘を付いていない」と結論するのは、馬鹿げている。

 で、何がわかるか? 日本の論壇というのは、論理力のない連中がいっぱいいる、ということ。それをまともに紹介する新聞もある。呆れてしまうね。

 [ 付記1 ]
 政治家の強弁の実例。
 選挙のウグイス嬢である女性が、「知事が強制わいせつをしたのよ」と訴えた。すると、訴えられた大阪府知事が、こう答える。
 「パンパカパーン。私は強制わいせつなんか、していないよ。大阪府知事である私が、そんなこと、するわけがないじゃないか。私は嘘を申しません」
 女性が反発する。
 「シラを切らないで。政治家なんて、みんな嘘つきでしょ」
 府知事が釈明する。
 「きみの意見と、私の意見は、食い違う。どちらかが正しい確率は、50%だ。五分五分だ。真実は両者の中間にある」
 さあ。本当にそうでしょうか? 

 [ 付記2 ]
 その問題に対する、物理学者による解答を、二つ。
 物理学者Aの解答。
 「事実は、私が観測したときに確定する。私が観測するまでは、確定しない。私は目が見えないので、永遠に観測できない。ゆえに、どちらかが正しい確率は、50%だ。」
 物理学者Bの解答。
 「事実は、それぞれの宇宙で異なる。この宇宙では知事がやったのかもしれないが、別の宇宙では知事はやっていない。だから、どちらも正しい。」
 かくて、わいせつ知事は、「ほれ見ろ。二人の物理学者が、見事に証明してくれた」と自慢した。……物理学は、わいせつ行為を許容するためにあるのかも。
( → 先日の話 多世界解釈 )


● ニュースと感想  (2月26日c)

 「科学予算と核融合」について。
 「核融合に莫大な予算を投入しようとして、その一方、日本の基礎科学の予算は貧困」という歪みについては、私はかねて何度も指摘してきた。( → 2004年 10月07日b ,2004年 11月11日 ,2005年 2月10日
 で、立花隆も、私と同趣旨の指摘をして、マスコミや科学関係者を批判している。批判の仕方も、私と似ているようだ。月刊誌「文藝春秋」、最新号で。(朝日・夕刊・論壇時評 2005-02-24 )

 ね? だから、何度も言ったでしょ。「小泉の波立ちを読めば、記事が書けますよ」って。
( ※ どうせなら、「シュレーディンガーの猫」について書けば、もっと面白いのにね。これだと、学界の主流派を敵に回すから、ものすごい壮大な闘争となる。よほどの気概がないと、できません。中村修二と同じぐらいの気概が必要だ。)


● ニュースと感想  (2月26日d)

 量子力学についての 追記 → 該当箇所

 ( ※ 専門的な話です。量子力学の知識のある人向け。)


● ニュースと感想  (2月27日)

 「少年犯罪とテレビゲーム」について。
 少年が、小学校の教員を襲って、殺害した、という事件があった。これのあと、「警備員を小学校に配置して警護する」という対策が出た。ただ、私は、「これはちょっと方向が違うのではないか」という気がしていた。というのは、少年が、「自分でもどうしてこんなことをしたのかわからない」と事後に語っているからだ。それまでは普通の将来の計画を練って、(学校に通わずに引きこもりになって)一人で勉強していたのに、あるとき突発的に、凶暴化して、殺人行為に走った。
 こういうのは、正気の人間ではないのだから、正気の人間に対する対策をしても、ちょっとお門違いなのではないか、という気がする。
 一般の対策は、相手が正気であることを前提とする。たとえば、「要求を聞かなければ、生徒を殺害するぞ」と脅迫する人質事件。これは、何らかの利益を狙っている行動だから、何らかの対策は可能だ。相手の利益を勘案すればよい。
 しかし、今回の事件は、正気の人間ではない。「自分も相手も見境なしに破壊する」というタイプで、一種の狂気である。しかも、脳自体は、正気だ。普通の狂人とも違う。
 一般に、「こんにちは」と素直な態度で近づいてから、いきなりナイフで刺す、という相手には、対処が困難だ。なのに、警備員を配備しても、警備員が殺されかねない。まさか、「警備員が殺されれば、教員や生徒の被害は出ない」という発想ではあるまい。

 今回の事件では、その異常さが重要だ。ふだん、テレビゲームをやりすぎていたということから、「テレビゲーム中毒が本質では?」と私は疑っていたが、どうも、そうであるらしい。今週月曜日に発売の週刊ポストに、そういう趣旨の記事がある。
 
 となると、テレビゲームそのものに立ち返って、何らかの処置をした方がいい、というのが、私の立場だ。たとえば、次のような案がある。
  ・ テレビゲーム機に、一日の利用時間の制限を設ける。
  ・ テレビゲーム機の一日の利用時間の状況を、管理者に通知させる。
   (管理者は、親。会社や政府でもいいかも。統制色があるが。)
  ・ 親などの管理者の委託を受けて、教育担当者が未成年者にケアする。
   (教育落伍者に対するケア。)
 これらの処置の方が、警備員を配備するより、より本質的な処置だと思えるが。……ま、一応のたたき台として、案を提示しておく。(是が非でも、とは思わないが。)

 さて。少し、書き足しておこう。新聞の投書欄に、次のような少年の見解が出た。(朝日・朝刊・声欄 2005-02-26 )
 「たしかに、殺人をするゲームもある。しかし自分は、牧場を経営するなど、静かなゲームが好きだ。ゲームを通じて、友人もできる。例の少年犯罪をゲームのせいにするのは、短絡的だ。」
 もっともらしい意見だ。しかし、こういう意見を読むと、ゲーム中毒の問題がいっそう浮かび上がる。ゲーム中毒の本質は、何か? それは、次のことだ。
 「自己反省ができなくなること
 たとえば、「殺人をするゲームもある」と書くが、とんでもない。世の中のゲームの大半は、殺人か、変態性愛か、どちらかだ。売れ線のゲームソフトを見ればいい。たいていが、闘争系で、やたらと暴力をふるって攻撃する。しかも、肝心なことは、それを「正当化する」ということだ。
 たとえば、アニメの漫画ならば、主人公は勝利したあとでも、相手に同情したり悲しみを覚えたりする。その初期の作品は、手塚治虫の漫画「鉄腕アトム」の「プルートゥ」との対決だ。それまでの「正義 対 悪」の単純な図式から、「闘争相手への悲しみ」を見せるような、非常に高度な構図を見せた。(ここでは、対象がロボットであっても、単なる殺人ではなくなっている。)
 この点、米国の「スーパーマン」などは、ひたすら単純な図式である。そのせいで、米国はいまだに外国に出向いて、やたらと正義漢ぶって、殺人をする。そして、それと同様なのが、たいていのテレビゲームだ。たとえば、相手を攻撃するとき、それを反省するか? とんでもない。ひたすら「攻撃は善だ」とみなして、しきりに攻撃する。そこには反省がまったくない。── この「反省の欠如」が、ゲーム中毒の最大の問題だ。
 読書ならば、そういう問題はない。読めば読むほど、自己の無知を痛感する。たとえば、学術書なら、理解できないところで、自分の愚かさを知る。推理小説なら、自分の推理が瓦解することに、快感を覚える。そこには必ず、自己反省がある。しかるに、ゲーム機は、ひたすら自己を正当化して、自己反省をますます欠落させる。
 上記の少年も、同様だ。「ゲームで友達ができる」というが、「ゲームでしか友達ができない」という根本を反省せず、「ゲームで友達ができる」という対症療法みたいな便宜ばかりを考える。「麻薬中毒で苦しいから、麻薬を打ちます」というのと同様で、一時しのぎであり、根本対策にならない。その場を取りつくろうことばかりに夢中になり、自己の欠陥を直視しない。
 「自己反省の欠如」「自己の正当化」「他人への無理解」「やたらと攻撃になること」── これが、ゲーム中毒の症状だ。この症状を、はっきりと理解しよう。理解すれば、中毒から脱することもできる。
( ※ なお、これらの中毒は、「朝日病」に、かなり似ている。だから、朝日の声欄は、この中毒患者の意見を、共感を持って掲載したのだろう。「自己反省の欠如」で、同病相憐れむ。)

 [ 付記1 ]
 それにしても、ゲーム中毒って、怖いですね。テポドンより、よほど怖いと思うが。テポドンはまだ一人も殺していないが、テレビゲーム機はもう何人も殺しているはずだ。ゲーム機のせいの性的暴行や少女誘拐(未遂)だって、相当あるはずだ。ゲーム機のせいのロリコン・マニアなら、秋葉原に跋扈(ばっこ)しているし。……怖いですねえ。気持ち悪いですねえ。「萌え〜」なんて吠えるなんて、頭の配線がイカレているのだろう。
 これらの人々は、脳が破壊されている。ちょっと詳しい理由は、週刊ポストに書いてある。
 なお、過去の殺害事件や、理由などについては、下記の話を参照。
( → 12月11日b1月06日6月03日b12月23日1月02日

 [ 付記2 ]
 えーと。私自身は、どうか? ゲーム機をまったく経験しなかったわけではない。十年以上前なら、いくらか、やったことがあります。少しだけ、のめりこんだ。しかし、「やればやるほど、虚しくなる」というのが実感でしたねえ。虚しくなるとわかっても、ついつい、やってしまったが。
 その後、現実が充実するにつれて、ゲーム機なんか、馬鹿らしくて、やっていられなくなった。ゲーム機遊びというのは、一種の現実逃避ですね。ううむ。今になって、そういう気がしてきたぞ。もともと、ただの暇つぶしにしかならないしね。
 だから、プログラム作成なんかをやっていると、テレビゲームなんか馬鹿らしくて、やる気になれなくなる。プログラム作成はリアルの行為であり、ゲームごっこはバーチャルの行為。リアルが充実してれば、バーチャルは不要だ。
 あなたの息子がゲーム中毒になっていたら、「プログラムをやれ」と教え込みましょう。クリエイティブな行為だから、こっちの方がマシです。……就職訓練になるかも。一石二鳥。「お金が儲かるぞ」と言えば、効果があるかも。
 なお、私の場合、プログラム作成で最大のメリットは、知的生産活動が大幅に効率化されたこと。
 一方、世間の大半は、現実逃避をするロールプレーイング・ゲームか、疑似殺人をするシューティング・ゲームか、疑似恋愛する美少女ソフト。
( → 米国に輸出された美少女ゲーム
( ※ なお、この記事は、米国人が書いたもの。最後の一言は、気が利いている。日本の記者も、こういう記事を書けるセンスがあるといいですね。この記事は、内容自体よりも、最後の一言を紹介するため、ここにリンクしておこう。)

 [ 付記3 ]
 先日の「文章採点ソフト」では、疑似思考が評価される。たとえば、次のような例文。
 「患者は病院に行く。医師は治療する。外科医は手術する。外科医はメスをもつ。内科医は投薬する。看護婦は医師を助ける。病院には患者がいる。X線の検査技師もいる。」
 人工無脳の書いた文章。小学生でも書ける当り前の文章。「今日は朝起きて、顔を洗って、学校に行きました。」というのと同様。……ここには、思考というより、疑似思考があるだけ。
 しかし、こういう文章が、満点となる。ただし、ところどころに、「ゆえに」「しかし」「しかも」「結論として」という接続詞等を、ランダムにちりばめることが必須。
 で、何が言いたいか? これが実現すると、生徒の頭がまさしく(機械化されたように)無脳になる、ということだ。米国では本気でそんなことをやっている教授もいるという。……これは、狂人科学者かも。
( ※ ただし、学生に、いいようにあしらわれている可能性も高い。毎回同じ構文で、単語だけを適当に変えて、それでレポートは毎回満点、というふうになる。上記のような無意味な文章を書いて、それで毎回満点なら、学生としては、こんなに楽なことはない。何も考えないで済むのだから。レポートが存在しないのと同様。……私が学生だったら、サボっていても単位をくれる教授は、ありがたいですね。……だけど、そのせいで、学生が無脳になっていくとしたら、やばいかも。)
( ※ すぐ上に、最後の一言が優れている記事があった。この最後の一言は、人間が評価すれば高得点になるが、文章採点ソフトが評価すれば、「別分野の話を書いた」という理由で、大幅減点である。馬鹿が利口を評価すると、そうなる。)

 [ 余談 ]
 美少女ゲームというのは、非常にまずい、と私は思う。なぜなら、美少女ゲームをやると、現実の恋愛ができなくなるからだ。恋愛経験の豊富な人ならわかるように、現実の美少女は、美少女ゲームに出てくる美少女とは、ほぼ正反対の行動を取る。バーチャルな美少女を相手にしていると、リアルな美少女にはうまく対処できなくなる。
 「こうすればバーチャルな美少女は喜ぶぞ」
 と思って、同じことをリアルな女性にやったら、たちまち嫌われた、という例もあるそうだ。(週刊誌の記事。馬鹿な彼の行為が何なのかは、破廉恥なので、とても書けません。)
 なお、どうすればリアルな異性にモテるかも、教えましょう。一般に、次のことが言える。
   ・ 男性漫画に出てくる女性は、男性にとっての理想的な女性像。
   ・ 女性漫画に出てくる男性は、女性にとっての理想的な男性像。
   ・ 男性漫画に出てくる主人公は、普通の平凡な男性。
   ・ 女性漫画に出てくる主人公は、普通の平凡な女性。
 読者が男性である場合、1番目の女性像を相手に求めると、嫌われます。むしろ、2番目の男性像を見習えばよい。そうすれば、モテます。
 読者が女性である場合も、事情は同様だ。2番目の男性像を相手に求めると、嫌われます。むしろ、1番目の女性像を見習えばよい。そうすれば、モテます。
 【 典型的な例 】
 女性。「男性はTVドラマのヨン様みたいにしてよね。私が朝起きたら、私よりも先にベッドから出て、ちゃんと朝ご飯を作っておいてね。」
 男性。「女性はTVゲームの萌ちゃんみたいにしてほしいなあ。僕が夜寝る前には、僕より先にベッドに入って、楽しいことをあれこれしてほしいな」
 こんな身勝手なことを望む人は、いつまでたっても、負け犬です。

( ※ ゲーム中毒をやめて、かわりにどうすればいいか、という話は次々項。)


● ニュースと感想  (2月28日)

 前日分への補足。テレビゲームをめぐる話。(どうでもいい話なので、読まなくてよい。ただし、最後のコメントは、読んでもいい。)
 前日分では、「変態性愛」と書いた。しかしこれは、いわゆる美少女ゲームのことだ。萌え系のソフト。ロリコン系。これは、成人向けのエロゲーと呼ばれるもののことではない。(両方を兼ねているものも多いが。なお、前日でリンクしたサイトから引用すると、「アダルトもの、つまりエッチなゲームの割合は、日本のゲームソフトの25%以上を占めると言われている」とのことだ。ただの美少女ソフトを含む数値だろう。)

 さて。美少女ゲームは、エッチではないか? 秋葉原にあふれているオタク系の人には同意できないだろうが、美少女ソフトなんて、あれはみんな変態性愛である。少なくとも私は、そう思う。なぜなら、現実の女性は、萌ちゃん(ロリータ)みたいなことをしないからだ。この手の美少女は、男性の欲望がいびつな形になって表現されたものにすぎない。
 だいたい、高校生以上のまともな女性が、ロリータみたいな真似をするわけがないじゃないですか。(男だって、まともな男が、子供の態度を取るはずがない。バカボンじゃあるまいし。)それもわからないオタクが、ロリータみたいのを夢想する。でもって、現実にありえない女性の姿を、現実世界で虚構としてやるコスプレ・ガールを見て、喜んで、金を払ったりする。
 で、少女誘拐などの犯罪を犯す例(宮*という犯罪者の例)などでは、たいてい、こういうロリータ趣味の変態がやる。ここでは、SM系の変態性欲は現れず、ロリータ趣味だけが現れる。
 そういう萌え系のオタク人間が、ちまた(秋葉原など)にあふれているわけだ。で、ときどき、少女を相手に、犯罪を犯す。現実の女性には相手にしてもらえないから、無抵抗な少女を相手にするわけだ。げっ。
 この手の変態なオタクは、今では堂々と社会に進出するまでになった。たとえば、読売夕刊では、毎週いっぺんぐらいの割合で、このロリータ特集のオタク紙面を掲載している。気持ち悪い。(ただし、論じている本人も、自分たちが変態なのを自覚しているだけ、救いがあるが。ただし、世の中の男の大半がこうなってしまうと、もはや変態が標準になるかも。でもって、少子化社会になる。……もうなっている?)

 ところで、前項で批判したのは、美少女系ではなくて、闘争系です。闘争系が殺人に結びつく、と特に問題視している。闘争系だと、気楽に殺人ができることを狙って、対象は、人間ではなくて、モンスター系[アンドロイドなど]になっていることが多い。しかし、しょせんは擬人的な存在である。非人間的なウサギや鳥や魚などを対象に狩りをするのとは異なる。
 さらに言うと、前項で基本的に問題視しているのは、闘争系に限らず、ゲーム一般である。ゲーム中毒そのものを問題視している。つまり、ゲーム中毒による脳のマヒを問題にしている。これは、前頭前野のマヒに相当する。脳細胞が過放電して機能不全になったような状態だ。詳しいことを知りたければ、週刊ポストの記事や、週刊モーニングの「ドラゴン桜」を参照。いずれも、先週に発売されたもの。まだ売っていそうだ。)
( ※ 前項の犯罪少年の追加情報。少年はその日になって、「ふと思いついて」実行したのだ、と述べている。各紙・夕刊・社会面 2005-02-26 )

 [ 付記 ]
 私がこういうふうにゲーム批判をすると、世間のゲームマニアはひどく反発するだろう。「オレのことを間違っているというのか。ふざけるな!」というふうに。
 きっとそうであるはずだ。なぜなら、「ゲームマニアは自己反省をしない」というのが、私の前項の主張であるからだ。(ついでに言えば、「粗暴で攻撃的になる」ということも主張しておこう。)
 だから、ゲームマニアが「馬鹿野郎」とか「デタラメだ」とか、怒れば怒るほど、私の前項の主張は正しかったことになる。仮に、ゲームマニアが「なるほど、そうですね。ご指摘の通り」と肯定して、「じゃ、僕は今後、ゲームをやめます」と反省するとしたら、私の前項の主張は間違っていたことになる。
 どうでしょう? 彼らがゲームをやめると思いますか? 私は、やめないと思いますよ。中毒なんだから。── 実際、私が前項で意図したのは、ゲーム中毒の患者に「やめよ」ということではない。麻薬中毒の患者に、麻薬をやめよと言っても、無駄である。「やってない人は、やらない方がいい」としか言えない。
 穴に落ちてしまった人に、「穴に落ちるな」と言っても、無駄である。穴に落ちていない人に、「穴に落ちるな」と言えるだけだ。穴に落ちてしまった人にとっては、私の言説など、とうてい納得が行くまい。むしろ、「穴は素敵ですよ。いつまでも穴に落ちているといいですよ」と称賛されたいだろう。
 だから、そういう人は、厳しい私の声のかわりに、優しい悪魔の声を聞くといい。ゲーム屋さんに、悪魔の声があふれています。「とっても素敵な体験ができますよ」とあなたの耳元にささやいて、とてもいい気分にしてくれる。(その裏で、ガッポリ金を奪う。……悪魔とは、そういうものだ。)
 最後のコメント。
 私は「何が何でも、テレビゲームはダメだ」と主張しているわけではない。テレビゲームというのは、一種の媒体にすぎないし、もちろん、媒体自体に問題があるわけではない。要は、内容だ。
 では、内容は? もちろん、内容しだいでは、「良いソフト」というのも、あるだろう。それは、次の二つの、いずれかだ。
   (1) 「現実の人間との交流」があるソフト。
   (2) 利用者に「あなたは間違っています」と指摘するためのソフト。
 (1) は、要するに、バーチャルでなくリアルな人間と交流するソフトである。単純にいえば、チャットまたはメールだ。これなら、うまく使えば、便利だ。ただし、メールやチャットにしても、相手の顔の見えない会話では、ダメである。必ず、直接本人と会う経験が必要だ。つまり、「ひどいことを言えば、現実に殴られる」という危険をもつことが必要だ。さもなくば、いくらでも粗暴な言葉で、相手を傷つけることができる。これでは、仮想世界に住んでいるにすぎない。(だけどメールは、ソフトとは言えないね。ただの道具だ。)
 (2) は、ユーザーに快感を与えるのではなくて、「おまえは間違っている」と指摘するソフトだ。いつも褒めてたまに叱るのでなく、叱ること自体が目的であるソフトだ。具体的には? 「英語の発音を矯正するソフト」などがある。……これは、お勉強ですね。これは、ちゃんとしたソフトなら、必ず有益です。(例。自動車運転ソフトは、「交通違反を警告する」「自動車事故を防止する」タイプは有益。「レースで疾走するタイプ」は有害。前車は事故を減らし、後者は事故を増やす。ロール・プレイング・ゲームも同様で、人命救助のタイプは有益で、暴力をふるうタイプは有害。通常、前者はほとんどなく、後者のタイプばかり。)
 一方、読者におもねるソフトもある。「あなたのやっていることは正しい」「あなたはとても優秀なのでステージをクリアしました」とひたすらお追従を述べる。で、利用者は、たまに批判されると、ものすごく怒り狂う。「ゲームではいつも褒められていたのに、現実の人間が僕を叱るなんて、絶対に許せない。そんな奴は、ゲームのなかでやったように、殺してやる。何しろ、殺しの訓練なら、何度もやっているからね。ちっとも抵抗感はないね」と思う。(ナベツネや西武の堤と同類だね。)
 結局、「良薬は口に苦し」である。それを満たしたソフトのみが、有益だ。
 ついでだが、「良薬は口に苦し」は、まともな文学には、備わる性質だ。主人公の経験を通じて、読者に苦痛を与え、読者を叱り、そうして読者をいっそう高い位置に引き上げる。そういう文学が、人に真の感動を与える。── その良い例は、「ジャン・クリストフ」だ。これに匹敵するテレビ・ゲームが現れることは、決してないだろう。
( ※ 「良薬は口に苦し」がない文学は、エンターテインメントと呼ばれ、馬鹿にされる。エンターテインメント小説に匹敵するテレビ・ゲームなら、いくらでも量産されるだろう。どちらにも共通するのが、「面白ければいい」という態度。フジテレビみたいですね。で、「無益な薬や有害なお菓子は口に甘い」ということだ。テレビゲームは、みんな甘過ぎ。……取りすぎると、虫歯と肥満体になります。そういうこと。)

  【 追記 】 ( 2005-03-02 )
 ロール・プレイング・ゲームについて、評価しておこう。
 一般的に言えば、闘争系や変態恋愛系に比べれば、ロール・プレイング・ゲームは直接的な害悪は少ない。夢があふれるし、ファンタジックで、別に残酷でもないようだ。また、感動したという声もよく聞くし、作家の宮部みゆきもよくやっているらしい。(私はやったことはないけれど。人がやっているのは、チラリと見たことはある。)
 ただし、である。これまで聞いた範囲では、ロール・プレイング・ゲームこそ、ゲームのなかでも最悪のものだ、と私は思う。なぜか? 大中毒になるからだ。闘争系や変態恋愛系なら、1時間ぐらいで、飽きて、やめる。しかし、ロール・プレイング・ゲームだと、一カ月間、はまりっぱなし、という例を、よく聞く。これこそ、最大の害悪だ。── その害悪は、何らかの悪影響を及ぼすことではなくて、大切なものを奪うことだ。何を? 時間を。つまりは、「時間泥棒」だ。
 「時間泥棒」は、引退した高齢者にとっては、何の害悪も及ぼさない。しかし、成長期の子供にとっては、成長の機会を奪う。仮に、子供が時間を奪われっぱなしになったら、どうなるか? 精神的に成長できないまま、肉体ばかりがデカい、「大人子供」になってしまう。── そして、それが、例の「宮*」みたいな、変態男性だ。
 ボケ老人ならば、ロール・プレイング・ゲームをやってもいい。あなたがもし、自分の子供をボケ老人のようにしたければ、ロール・プレイング・ゲームをやらせればよい。できれば、一日中、そればかりやらせて、学校にも行かせずに、ただの引きこもりにすればよい。── その結果、いつの日か、親であるあなたに、感謝の印を贈るだろう。金属バットなんかでね。「おまえがおれを、こんなふうにしたんだ」と。バキッ。グシャッ。
 ついでに一言。小説とテレビゲームの違いは、想像力の有無だ。小説では、ただ文字を追うのではなくて、いろいろと想像して、自分の頭を使う。テレビゲームでは、そういうことがない。すべてはお仕着せで、与えられる。その結果、想像力の欠落した人間となる。── そこに、テレビゲームの、根本的な欠点がある。(ついでだが、すぐ上の擬音語で、何が想像できたかで、あなたの想像能力が判定される。ゲーム中毒だと、何も想像できない。)
 低級な少年少女文学でさえ、テレビゲームに比べれば、月とスッポンほどの差があるのだ。前者は子供を成長させ、後者は子供を停滞させる。……ついでだが、私のお勧めは、勧善懲悪の正義ものだ。子供には、それで十分。良し悪しがわかるようになる。たとえば、名探偵ホームズなら、「悪いことをすると、いくら隠したつもりでも、名探偵が悪事を見つけて、悪漢を牢屋にぶち込む」というふうに。天網恢々、疎にして漏らさず(てんもうかいかい、そにしてもらさず)、という言葉も教えてあげましょう。
 なお、子供にとっての読書の意義については、下記サイトを参照。
  → 皇后陛下の講演

 【 補足 】
 あとで思いついたが、「ゲーム脳」というのは、たしかにある、と思う。その理由は、「テトリス」だ。(上から落下する図形を組み合わせるゲーム。)
 このゲームは、あまりにも単純至極だ。だが、ゲームに慣れていない人などに、はまる人が多いという。しかし、私からすれば、テトリスなんてのは、苦痛以外の何物でもない。ただの単純作業を繰り返しているようなものだ。(ちょっとは脳を使うが、あまりにも低レベルの思考なので、思考と呼ぶのも馬鹿らしいほど。)
 では、なぜ、これをやることに、はまるのか? それは、「行為の持続」自体に、快感を感じるせいだろう。そして、それが、「ゲーム脳」だ。
 実は、これと似たことは、猿で観察されている。次のように。
 猿にレバーを押させる。レバーを押すと、ときどきエサが出る。エサがほしくて、猿はレバーを押す。最初は二回にいっぺん、エサが出る。しだいに間隔が開いて、五回にいっぺん、十回にいっぺん、というふうにする。そうやって、レバーを押し続けることを、習慣づける。……さて。その後、もはや、レバーを押しても、もはやエサは出ないようにする。すると、猿は、どうしたか? 無意味だとわかっていながら、いつまでもレバーを押し続ける。つまり、レバー中毒になっている。中毒だから、エサは出ないとわかっていても、やめられないのだ。つまり、レバーを押すこと自体が、快感になってしまっている。
 猿のテトリス中毒。そうとしか、言いようがない。もはや猿の人格が破壊されてしまっている。この猿が、あなたの子供の将来像だ。
 なお、もう一つ、別の道もある。それは、あなたのところに毎日来る、迷惑メールの標題を見ればわかる。

  【 追記 】 ( 2005-03-03 )
 すぐ上では「ゲーム脳」という用語を用いたが、この用語は適切ではないので、今後はなるべく使わないようにします。
 「ゲーム脳」という用語を使った人の論理は、学術的にはかなりメチャクチャなので、とうてい信頼しがたいものです。そこで、この混乱に巻き込まれないために、「ゲーム脳」という用語はなるべく避けるようにします。
 「ゲーム中毒による脳への悪影響」ぐらいにとどめておいた方がいいでしょう。
 なお、「ゲーム脳」という概念自体は、百%間違っているというわけではありません。地動説に対する天動説のようなものではありません。逆に、「ゲーム脳というものはまったくなく、ゲームは脳に悪影響をまったく及ぼさない」というような説は、それこそデタラメでしょう。それはいわば、「血液型は性格にまったく影響しない」というのと同様で、「ほとんどのものは人間に影響する」という事実を無視しています。
 人間というものは、先天的・後天的なさまざまなものに影響を受けるのであって、「自分」というものがあからじめ確立していると思うのは、とんでもない間違いです。人間は、徐々に形成されるのであって、そこに役立つのが、教育や人生経験です。
 だから私の基本的な方針は、教育や人生経験を重視することです。「自分というものはあらかじめ存在しているから、他の何物にも影響を受けない」というような主義には反対します。(……ただし、現在では、私とは逆の意見が主流派です。その典型が、「遺伝子至上主義」というやつ。遺伝子だけですべてが決まる、と決め込む主義。)
 ゲームに戻って言えば、ゲームはまさしく人間に影響します。もはや進歩の余地のない老人にはともかく、子供には大きく影響します。「人間は確固たる存在だ」と思い込んでいる人は、「確固たる存在はゲームによって影響されない」と思うのでしょう。しかし私は、そうは思いません。「人間は確固たる存在ではなく、さまざまなものの影響を受ける。ゲームからも、大きく影響を受ける」と思います。
 そして、そのうちの最大のものが、(直接的でなく間接的な要因となる)「時間泥棒」です。それによって奪われるものは「人間同士の交流」あるいは「人間精神の形成の機会」です。結果として、「人格の形成」が損なわれます。
 なお、脳の話について言うと、「前頭前野」という言葉の詳しい解説が必要なので、ここでは省略します。単純に言えば、「やっている最中は夢中になり、やり終えたあとで虚脱感・空虚感に陥る」ということ。
 ただし、「ゲーム脳」という言葉で特定できるような、特定の状況が存在するわけではないので、こういう特定の用語は不適切と思えます。一種の煽動用語。……面白いけれど、不正確ないし虚偽。
( ※ 「ゲーム脳」という用語に関連して、「自閉症」という言葉が問題になることもあります。これは後天的ではなく先天的なものであり、私も前に言及したことがあります。ただし、あらためて紹介すると、差別感情を引き起こす懸念があり、ここでは改めて紹介しないでおきます。ま、「小泉の波立ち」のどこかには、ありますけど。)
( ※ この先天的な病気について、詳しい話は、「永遠の仔」というベストセラー小説を読んだ方が手っ取り早いでしょう。「感動した」という声も多いようです。ついでに言うと、私はちっとも感動しませんでしたが。ゲーム中毒になる傾向のある人なら、感動できるかも。自分の頭で考えるような人なら、読んでも面白くないでしょう。)
( ※ 関係ない話だが、最近よく出る「認知症」というメチャクチャな用語は、何とかならないでしょうかねえ。狂人を「正気症」と呼ぶのと同じだ。用語と意味がまったく反対だ。せめて「不認知症」にすれば、用語と意味が一致するのだが。……頭がイカレているのは、この病気の患者ではなくて、こんな用語を使う人々の方だ。たぶん、認知症の人々は、正常な人間を「不認知症」と呼んで、馬鹿にしているのだろう。そして、その指摘は、たしかに正しい。われわれは、この言葉に対して、認識障害を起こしているのである。)


● ニュースと感想  (2月28日b)

 「『タカ・ハト』ゲームと、政治経済と、テレビゲーム」について。
 「タカ・ハト」ゲームの観点から、政治経済と、テレビゲームとを、扱おう。(なんだか三題噺みたいだが、実は物事の本質を突く。)

 「タカ・ハト」ゲーム( → 4月14日c )の本質は、何か? それは、次のことだ。
 「タカとは、極端な利己主義者である
 タカは、他者の利益を奪ってまで、自己の利益を得ようとする。通常の利己主義は、「他人に迷惑をかけないで」「他人に損をもたらさないで」という条件のもとで、利己主義をつらぬくが、タカは、「他者の利益を奪ってでも自己の利益を得よう」とする。
 これは、一見、悪いことであるように見えるが、必ずしもそうではない。一般に、「ルールさえ守れば」「合法的でさえあれば」、他者の利益を奪うことは許容される。たとえば、市場原理の経済では、ライバル企業の利益を奪ってよい。サッカーでは、相手の得点機会を妨害してよい。ルールさえ守れば、いくらライバルを不利益にしてもいいのだ。

 一方、ハトとは何か? タカの視点では、次のことだ。
 「タカに攻撃されたら、さっさと逃げ出す」
 しかしこれは、ハトではなくて、チキン(臆病者)である。チキンは、本音ではタカ(またはハト)なのだが、たまたま実力がないので、闘わず逃げるだけだ。「勝てる」とわかっているときにまで逃げるとは限らない。

 では、真のハトとは、何か? それは、次のことだ。
 「たがいの損失を防ぎ、たがいの利益を求める。双方の合計の利益を求める」
 つまり、「自分だけ良ければいい」という利己主義の発想を捨てる。「自分が良くて、相手が損」という道よりも、「自分の利益は我慢しても、相手も利益を得られるようにしよう。共存しよう」という道を選ぶ。

 では、なぜ、タカとハトとがいるか? それは、人生観による。たぶん、幼いころの経験が、それを左右するのだろう。次のように。
 つまり、こうだ。
    ・ 貧しくて、友人がいなければ、タカになる。(あさましい争い。)
    ・ 豊かな境遇で、友人がいれば、ハトになる。(金持ち喧嘩せず。)

 さて。以上から得られた結論を、政治経済とゲームに当てはめよう。

 (1) 政治経済
 「右翼」も「左翼」も、タカである。両者は、次のように異なる。
 「右翼」……自分は社会的強者だと自覚している、利己主義のこと。強者にとって都合のよい社会システムの構築しようとする。強者が弱者から富を奪うシステムを構築しようとする。その原理が、市場原理ないし自由主義。自由放任なら、闘うことによって、強者が一方的に奪える。(例。戦国社会。封建主義。)
 「左翼」……自分は社会的弱者だと自覚している、利己主義のこと。強者にとって都合のよい社会システムを破壊し、社会的強者の利益を奪おうとする。奪われたものを奪い返す、という発想だが、過度に奪い返すことで、自分の方が奪う。その原理が、革命ないし共産主義だ。(例。ロシア革命。ソ連。)
 結局、いずれもタカである。タカの種類が違うだけだ。どちらも、極端な利己主義だ。だから、両者は、犬猿の仲のごとく争う。
 一方、両者とは異なり、ハトの社会もある。「みんなで仲良く幸福」という社会。例としては、北欧の社会がある。極端な富豪は少ないかわり、極端な貧民もいない。ギスギス争うことはない。最も幸福度が高い。平均寿命もとても長い。
 では、なぜ、右翼と左翼は、タカになり、ハトにならないのか? それは、彼らの幼児体験によるのだろう。子供のころ、(精神的に)貧しくて、友達がいなかった。そういう連中が、大人になると、協調性をなくして、やたらと攻撃的になるのだ。……たとえば、米国のタカの行動も、「協調性の不足」という観点から見ると、よく理解できる。「どうせ世界からは理解されっこないんだ。おれたちは孤独だ」という、保守的な世界観。その底には、子供のころの、孤独な幼児体験がある。

 (2) テレビ・ゲーム
 子供のころの、孤独な幼児体験。それは、ゲーム中毒になっている子供も同様だ。ゲーム中毒の最大の問題は、ゲームによって何かをすること自体よりも、その間、時間を奪われて、なすべきことをなせなくなっていることにある。
 人は同時に二つのことをできない。ゲームをやりながら、缶蹴りや鬼ごっこをやることはできない。だからこそ、ゲーム機を離れるべきなのだ。ゲーム機を離れて昼寝していればいいのではなくて、缶蹴りや鬼ごっこをやるべきなのだ。仲間と協調関係を経験するために。
 仲間との協調とは、何か? 「自分だけの利益を得ようとすれば、どちらも幸福にはなれない」と知ることだ。奪い合いの利己主義は決して人を幸福にはしない、と知ることだ。
 たとえば、友達同士の関係。夫婦の関係。ここでは、利己主義は成立しない。友達同士や夫婦同士では、利益を奪い合って争うことはなく、協調して両者の利益を増そうとする。── そういう経験をすることこそ、大切なのだ。
 そして、それを理解しないと、自分の利益ばかりを増そうとする。そのせいで、友達ができず、恋愛相手もできない。ゲーム中毒になったあげく、自分の同類の(電車内の)恋愛を、「稀に見る快挙」として、ゴミ掲示板で喜ぶハメになる。

 結論。
 利己主義は人々を幸福にしない。利己主義は、ある範囲においては成立するが、決して万能の原理ではない。「市場原理」なんていうのは、ごく限られた範囲のことにすぎないのだ。
 なのに、勘違いした人々が、利己主義の原理を、社会でも過度に推進しようとする。そのせいで、世の中は悪くなる。
 実例を示そう。たいていの理系の技術者は、他人の5倍の成果を挙げても、1.3倍ぐらいの給料で我慢する。2倍か3倍ももらえば、十分に満足する。一方、欲張りな文系の管理職だと、他人の成果を自分の成果だと思い込む。他人の3倍働いたなら、他人の3倍の給料ではなくて、他人の百倍も千倍も給料を得ようとする。米国の経営者は、たいていそうだ。
 代表は、ビル・ゲイツだ。「世間に利益を与えたのだから、そのくらいの利益をもらうのは当然だ」と主張する。とんでもない。Windows の欠陥を通じて、世間に莫大な不利益を与えているのだ。「世間に不利益を与えても、自分だけが利益を得ればいい」と思っているのだ。……そのせいで、あなたも、Windows の欠陥を通じて、ウィルスの攻撃にさらされたり、Windows のパッチを与えたりで、莫大な損害を被る。それでも、ビル・ゲイツはボロ儲けだ。……あなたを含めた世界中の人間の利益を、ただ一人の人間がかすめとる。それが、「市場原理」である。
 彼も含めて、こういう社会を肯定する人々は、子供のころに孤独だったのだろう。だから、精神が、歪んでしまったのだ。
 ( ※ だから、こういう連中は、世間の人々を自己の同類にするために、テレビゲーム機をたくさん売りつけるのである。X-Box とかね。……まるで、悪魔みたいに。)

 [ 付記 ]
 昔、寺山修二は青少年に、こう言った。
 「書を捨てよ。街に出よう」
 今、私は青少年に、こう言おう。
 「ゲームを捨てよ。友と遊ぼう。特に、異性の友達と。」
 ただし、不順異性交遊のことではありません。あれのことしか考えられないようでは人間失格。
 遊ぶことが大切なのは、独りよがりで楽しむことのかわりに、交際のなかで傷つくことを知るためだ。大人になってから「傷ついた」としばしば嘆く人間は、子供のころに遊ぶ体験が足りなかったからだ。
 たとえば、機械を相手に将棋で負けても、ちっとも悔しくない。友人を相手に将棋で負ければ、悔し涙を流す。(私は何度も流しました。ただし、悔しい思いをさせられた相手ほど、仲良くします。機械が相手では、無理ですね。)
 だけど、子供時代に一番楽しかったのは、男女いっしょに鬼ごっこみたいな遊びをしていたとき。あれに比べれば、テレビゲームなんて、虚しいだけ。やればやるほど、虚しくなる。それがわからないで、テレビゲームに楽しさを覚える子供は、不幸ですね。(ただし昔も、利己主義のせいで仲間はずれになった子供は、一人遊びをしていました。)


● ニュースと感想  (3月01日)

 「『タカ・ハト』ゲームと、タカの反省」について。
 私が「タカ・ハト」ゲームの観点から、タカを批判すると、タカである連中が気を悪くしそうだ。しかし、まともなタカならば、タカであった自分を反省できるものだ。
 ブッシュ政権の中枢にいた、アーミテージ前国務副長官が講演して、その記事が掲載された。彼はようやく、ブッシュ時代の政策を批判している。(読売・朝刊・国際面 2005-02-26 )
 「イラク攻撃でわかったことは、軍事的な先制措置は最善ではないということだ。本当にしなければならないのは、平和を守るために有効な手を打つことである。単に戦争をしかけ、事後に片付けをすることではない」

 これから、何がわかるか? 強いタカと、弱いタカが戦えば、強いタカは勝つことができる。しかし、たとえ勝っても、平和よりは劣る。そういうことだ。
 なぜか? それは、負けたタカの被害が、あまりにも大きすぎるからだ。負けたタカを放置するのならともかく、負けたタカの面倒を見ることまで考えると、戦うよりは平和の方がいいのである。そもそも、「独裁者の打倒」という善意を目的とするのであれば、戦いは好ましくない。善意を理由に、莫大な殺害をもたらすのでは、本末転倒だ。独裁者が百人殺すのがいけないという理由で、独裁者打倒のために数千または数万人を殺すのでは、本末転倒だ。
( ※ 相手を滅亡させることが目的ならば、そうではないが。しかしその場合は、自分が悪魔のようになるので、自分自身が打倒の対象となる。)
( ※ とにかく、フセインが殺した数よりも、ブッシュ親子が殺した数の方が、ずっと多い。どちらが悪魔的かは、言わずもがな。「悪人を殺すために、市民を殺してもいい」というのは、ブッシュと麻原に共通する論理。気違いですね。)
( ※ 誤解を避けるために言うと、私は「フセインが好き」ではなくて、「二人の気違いはどちらも嫌い」だ。「片方の気違いが好き」という保守派とは違う。)

 私はずいぶん前から、「イラク攻撃」には反対していた。ようやく、ブッシュ政権の内部から、自己反省するタカが現れたことは、慶賀すべきことだ。日本の右翼は、今だに自己反省ができないので、そこが残念なところだが。
 タカには、強いタカと弱いタカがいるだけでなく、賢いタカと愚かなタカもいるのである。
( ※ 愚かなタカである日本政府は、無駄遣いのために1兆円を献上しようとする。ちょっと賢いタカであるカナダ政府は、ミサイル防衛網からの離脱を表明した。25日頃の記事による。)


● ニュースと感想  (3月01日b)

 「H2Aと核ミサイル」について。
 H2Aという国産ロケットが、打ち上げに成功した。新聞はこれを「成功」と称えている。しかし、よく考えてみよう。これは北朝鮮のテポドンより、ずっと性能が上のロケット(= ミサイル)である。で、この日本のロケットの成功を、北朝鮮や中国は「大変だ」と大騒ぎしているだろうか? もちろん、そんなことはない。
 たとえば、H2Aに大型爆弾を搭載して、中国に命中させたとする。すると、通常は、ビルまたは道路に当たる確率が半々ぐらい。死者の予定数は、十人前後だろう。その一方、日本がロケット(= ミサイル)を中国に命中させた報復として、核ミサイルが何十発も日本に到来して、日本人の死者は千万人を超える。……帳尻が合いませんね。だから、誰も、「日本が中国にH2Aを発射する」とは思わない。正気ならば。
 ところが、この正気をなくしてるのが、日本政府だ。「北朝鮮がテポドンを日本発射するかもしれない。だからミサイル防衛網を」と主張する。気が触れているとしか思えない。(とすると、日本が先制攻撃する可能性も、あるかも。気違いなんだから。)

 さて。北朝鮮が核爆弾を開発した。このことで、「テポドンに核爆弾が搭載されるかも」という懸念が広がっている。しかし、それは、北朝鮮と米国の(共謀した?)策謀である。だまされてはいけない。
 韓国の情報機関の推定では、「北朝鮮の核爆弾は、飛行機には掲載できるが、ミサイルには掲載できない」という見込み。(朝日・朝刊・国際面 2005-02-27 )
 わかりにくい記事ですね。肝心の情報が抜けている。そこで、解説しておこう。こうだ。
 「核爆弾には、二種類ある。一つは、飛行機に掲載するタイプで、数トンもある巨大なタイプ。これは、素人でも、比較的簡単に作れる。広島・長崎に落ちたのも、このタイプ。もう一つは、ミサイルに掲載するタイプで、小型のタイプ。これは、超精密技術が必要で、高度な科学技術が必要だ。しかも、事前に、地下核実験を絶対に必要とする」
 しかるに、北朝鮮は、地下核実験をやったことがない。だから、北朝鮮は、ミサイルに掲載する小型のタイプの核兵器を、もっていないのだ。絶対に。
 だから、「北朝鮮が日本に核ミサイルを飛ばす」ということは、絶対にありえないことだ。軍事常識からして、そうだ。
 軍事常識のない人間たちが、軍事を論じる。あげく、1兆円も奪う。……馬鹿げている。気が触れている。(だから、戦争をするとしたら、北朝鮮よりも日本の方が心配だ。正気がないのだから。)

 [ 付記 ]
 国産の宇宙開発ロケットは、「高コスト」という理由で、予算を削減され続けている。しかし、国産をやめたとしても、外国産のロケットを購入しなくてはならないから、予算がゼロになるわけではない。せいぜい、数十億円しか、節約できない。しかも、外国産の場合、スケジュールがきっちり決まっているから、国産衛星を好きなときに打ち上げるわけにも行かない。
 一方、ミサイル防衛網は、桁違いだ。1兆円である。ロケットを国産化する費用が、年50億円で十年だとしても、五百億円。1兆円の二十分の一だ。
 しかも、効果には、雲泥の差がある。1兆円の方は、効果ゼロ。五百兆円の方は、気象衛星を含めて、広範な効果がある。どちらが重要かは、言うまでもない。で、日本は、無駄な方を取っている。
 もう一つオマケで言えば、八甲田山のトンネルが貫通したが、これも 700億円弱。トンネル一つに、日本の宇宙予算(正しくは予算ではなくて赤字補填)の十五年分だ。馬鹿げていますねえ。……なぜ馬鹿げているか? こんな地方に新幹線を通しても、何の意味もなく、有害無益だからだ。なぜなら、地方では、新幹線よりも飛行機の方が便利だからだ。
 たとえば、弘前なら、私の身内の実家があるが、常に飛行機を使う。飛行機の方がずっと速いからだ。値段も同程度。(実を言うと、新幹線だと、トンネルにものすごく金がかかるから、税金による赤字補填がない場合には、飛行機の方がずっと安い。)しかも、弘前近辺では、新幹線の開通にともなって、在来線が削減されるから、地方の駅前商店街はますます寂れる。
 大金をかけて、宇宙予算を削減し、地方を荒廃させる。利益を得るのは、建築業者と政治家だけ。最大の損失を受けるのは、赤字を補填する国民だ。


● ニュースと感想  (3月01日c)

 「三菱自動車とボス支配」について。
 三菱自動車が、三菱重工の指導・支配のもとで、再建をめざすことになった。これについて、徳大寺有恒が否定的な見解を述べている。(朝日・朝刊・インタビュー 2005-02-27 )
 私も同じ見解を持っていたので、ここで、もうちょっとはっきりとした解説をしておこう。

 そもそも、三菱自動車は、どういう経緯で誕生したか? もともとは三菱重工の自動車部門だったが、家庭電器部門が分離して三菱電器になったように、自動車部門が分離して三菱自動車になった。その理由は、「経営の独立による、迅速な経営」である。
 これは、当然のことだ。自動車部門がいちいち、重工の取締役会で経営判断を仰ぐようでは、時代に取り残される。
 ところが、である。今回の重工の支配によって、歴史が回帰してしまう。せっかく独立したのに、ふたたび支配下になる。本末転倒だ。

 では、なぜ、こういう結果になったか? 重工のボスがすべてを取り仕切ったからだ。重工が、三菱の名を守るために、数千億円もの金を出した。金を出すからには、自分の支配下に置く。そういう論理だ。
 この方針では、三菱自動車は再建が困難になるし、重工は莫大な金を失う。両者の共倒れの可能性が高い。数千億円もの金を出したとしても、それは、数年の赤字経営ですっかり霧消してしまう額だ。数年後に、ふたたび、数千億円を注ぎ込む必要が生じる。……要するに、赤字を出さないように、抜本的に改革しなくてはダメなのに、単なる赤字の穴埋めのために、数千億円を出して、一時しのぎをやるが、しょせんは底抜けだから、数千億円は無駄に消える。こんなことを繰り返せば、重工も共倒れになるだろう。

 これはかつてのダイエーにおける老害と同様だ。莫大な赤字を出して、その穴埋めを、世間に回す。「ダイエーが赤字倒産しますから、債権放棄をしてください」というのと同様に、「重工が赤字倒産しますから、債権放棄をしてください」というわけだ。こうやって、銀行を通じて、国民全体の金を奪う。
 老人ボスによる支配というものは、かくも赤字を発生させ、かくも国民の富を奪う。……しかし、それでも、老人ボスは、無能な経営者として追放されたくない。居心地のいいボスの座に安泰していたい。
 こういう観点から見ると、ライブドアに対して、権力欲ばかり強い老人経営者たちが非難の声を上げるのは、当然だろう。
( → 同趣旨 2月24日+


● ニュースと感想  (3月02日)

 (1) テレビゲームの話の 追記 → 該当箇所
   (ロール・プレイング・ゲームについて。)

 (2) リンクを二件。
    ・ 職場パソコンからの恋愛メールにご用心
    ・ 身体と融合する「バイオハイブリッド」義肢

 後者は、「ロボットとサイボーグ」という題目で、かなり前に私も述べた。( → 5月31日9月26日 )。
 だから言ったでしょ。「小泉の波立ちを読めば記事が書ける」って。アメリカの人も、小泉の波立ちを読んだのかな?  (^^);
 という冗談はさておき。日本の記者も、しっかりしてほしいですね。記者がまともに報道しないから、日本は、置いてきぼりになる。

 [ 付記 ]
 記事では「手足を失った人のための機能回復」という趣旨のようだが、私の趣旨は「人間の能力を超える」というサイボーグ概念にまで進んでいる。こうなれば、手足を失うことは、悲しみではなくなるのだ。
( ※ 「あえて手足をちょん切る人が出ないだろうか。機械ドーピングだ」なんて心配する人もいるだろうが、心配は無用。誰が手足をちょん切るものですか。どうせ心配するなら、別のものをちょん切られるのを心配した方がいい。足の間にあるものを。……特に、浮気をしたときはね。可能性は、十分あります。そのあと、機械ドーピングして、機能回復すれば大丈夫? ま、妻にとっては、かえってありがたいかも。)


● ニュースと感想  (3月02日b)

 「いやしのロボット」について。
 癒しに役立つ、アザラシ形のロボットが発売されるという。35万円。(読売・朝刊・社会面 2005-03-01 )
 ロボットとしての機能は、ほとんどない。猿がシンバルをたたく、という古臭い可動人形と、五十歩百歩。人間との会話機能もあるというが、人工無脳よりも、さらに劣るレベルかも。
 しかし、私はこれを高く評価したい。なぜか? ロボットとしては最低だからだ。それゆえ、人間を殺す危険が皆無だ。また、機能のほとんどが、ぬいぐるみとしての機能である。それゆえ、ロボットとしての冷たさがない。
 通常のロボットは、技術者の自己満足の結晶だ。技術者というものが、いかに自己満足したがり、人間的な優しさを失っているかは、ソニーの研究所の所長の意見を聞くと、よくわかる。( → 7月29日
 今回のぬいぐるみふうロボットは、その欠点がない。そこが立派だ。作った人もまた、機械的な冷たさがないからだ。

 [ 付記 ]
 こういうロボットは、オタクの好きな萌えちゃんに、似ているか? 実は、正反対だ。こういうロボットを作る人は、他人に対する愛がある。オタクの方は、愛や優しさを与えることはなく、他人からの愛や優しさを求めるばかり。……正反対だ。
 だから、テレビ・ゲームの美少女ソフトは、有害なんですよね。こういうのを好きな連中と、ソニーで冷たいロボットを研究する連中は、けっこう似ている。ソニーのロボット犬の冷たさは、萌えちゃん好きのオタクの趣味に、よく似ている。一見正反対のようでいて、よく似ているのだ。


● ニュースと感想  (3月02日c)

 「移民と単純労働者」について。
 デンマークで移民の受け入れをやめるようになった。国内の低賃金労働者が被害を受ける、という現実を受けて、政府が政策を転換したという。政権も変わったようだ。他の欧州各国も、似た事情にあるらしい。(朝日・朝刊・国際面 2005-03-01 )
 人道主義がどうのこうの、というふうに記事は報道しているが、しょせんはほとんど無意味だ、というのが私の判定だ。かつて移民を受け入れていたときでさえ、年間1万人程度にすぎない。世界で数千万人もいる移民希望者に比べれば、焼け石に水。「自分は人道主義をやっている」という自己満足以外には、ほとんど意味がない。その一方で、人口の少ない小国が年間1万人も受け入れれば、国内の低賃金労働者はひどい目にあう。つまり、百害あって一利なし、という状況に近い。(百害あって一利あり、かも。)
 「自分は人道主義をやっている」という自己満足をしたいのならば、九牛の一毛である移民を受け入れればいい。しかし、本当に人道主義をやりたいのであれば、迫害された国民のすべてを受け入れるべきだ。たとえば、北朝鮮で迫害された数千万という人民のすべてを受け入れるべきだ。それができなければ、「人道主義」の名に値しない。

 私の案は? 
 (1) 北朝鮮のような国家レベルでは、国家自体を民主化するべし。「核とミサイルを放棄すればいい」という問題ではなくて、独裁者が民主的に退場するべきだ。その方法は、前に述べたとおり。( → 9月08日
 (2) 急激な紛争に対処するには、先進国ではなく後進国(アフリカなど)に送り出すべし。ただし、国籍が必要だから、当の国から国籍を買う。そのための費用を、日本が拠出する。これは、日本だけでなく、国連の各国が実施する。日本は一部を分担するだけ。世界各国は、後進国として難民を受け入れるか、先進国として金を拠出するか、二者択一。……これで、問題は完全に解決。単なる自己満足ではない、実効的な解決。

 [ 付記 ]
 社会奉仕というものは、「自分が社会奉仕している」という自己満足をするためにやるのではなくて、相手が真に喜ぶためにやるのだ。どうも、朝日は、そこのところを勘違いしているとしか思えない。
 金持ちのお嬢様の、鼻持ちならない自己満足としての、社会奉仕。ベンツの窓から、乞食に一万円札を放り投げる。「あたくし、社会奉仕、いたしましたの。ごめんあそばせ」と言って、ベンツを発車させ、乞食の顔に排ガスをぶちまける。
 心優しい娘は、一万円札を放り投げたりしない。かわりに、貧民街で毎日、多数の人に少しずつ、自分の労働で奉仕する。


● ニュースと感想  (3月02日d)

 「ライブドアと外国資本の支配」について。
 ライブドアの事件をきっかけに、「外国資本の支配」を危惧する声が上がっている。そのせいで、「ポイズン・ピル」(毒剤)という方式も提案されている。しかし、何のためであるかを、よく考慮しよう。
 「外国資本の支配」は、必ずしも悪いことではない。たとえば、日産は(なかば)ルノーの支配下になったし、三菱はベンツの支配下になっていたし、マツダはフォードの支配下にある。で、それで、何か悪いか? 国益に反したか? むしろ、国益に適っている。三菱は再建に失敗したが、日産もマツダも再建に成功した。誰もこれらを失敗例だとは見なさない。
 一方、旧来の経営者のもとでは、これらの企業はずっと駄目だった。日産もマツダも三菱もダメだった。三菱に至っては、今や、ふたたび古い経営者のもとに戻ってしまっている。
 企業が外国資本の支配下になることは、少しも悪いことではないのだ。それよりは、古い経営者の支配下で、赤字を垂れ流す方が、ずっと悪いのだ。例としては、ダイエーの中内支配や、西武の堤支配がある。
 なのに、これらの事実を無視して、「ポイズン・ピル」などを導入しようとする。それは、古い経営者の利益になるだけであり、日本にとってはまったく利益にならないのだ。たとえば、日産の従業員を見よう。古い経営者のもとでは、毎年、日産だけが実質賃下げをさせられていた。トヨタやホンダなどがどんどん賃上げをしていたのに、日産だけが取り残されていた。格差はどんどん広がった。しかるに最近は、日産だけが賃上げをしている。格差はどんどん縮まっている。
 古い経営者は、会社に損害を与えるから、従業員にも損害を与える。同時に、国民全体にも、損害を与える。ただし、古い経営者だけは、権力の座にしがみつき、利益を得る。── そういう状況を安定させたがるのが、「ポイズン・ピル」などだ。
 「敵対的買収」という言葉の意味を、正しく理解しよう。それは、「現在の経営者にとって敵対的」というだけの意味だ。(つまりは、「言葉にだまされるな」ということ。)







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「小泉の波立ち」
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