[付録] ニュースと感想 (84)

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● ニュースと感想  (3月03日)

 「読んで考えること」について。
 このホームページ(小泉の波立ち)を読んで、読者はどう思うだろうか? 「南堂の言うとおりだ」と思うだろうか? 「南堂の言うことは間違いだ」と思うだろうか? ── 実は、私としては、どちらでもいい。
 このホームページの狙いは、意見への賛同者を増やしてもらうことではない。読者に、自分の頭で考えてもらうことだ。読者は、「なるほど」と思うのでもいいし、「とんでもない」と思うのでもいい。とにかく、自分の頭で考えてもらいたい。それが、私の期待だ。
 だから、「なるほど」と賛成しようが、「とんでもない」と反対しようが、私の話を読んで、読者が何らかのことを考えたのならば、それはそれで、私の話が役立ったことになる。「考えるヒント」になったことになる。それで十分だ。

 私の話の口調は、かなり過激である。遠慮はないし、謙虚でもない。なぜなら、おもねるつもりはないからだ。「私の意見に賛成してほしい」とは思わない。読者が賛成するか反対するかは、読者の勝手であって、私には何のかかわりもないことだ。あっしにゃあ、かかわりのないことでござんす。── 私が願うのは、読者が自分の頭で考えること、ただそれだけだ。
 だからこそ、これまで、最も強調したのは、「洗脳されるな」ということだ。マスコミであれ、学界の主流派であれ、特定の思想によって、人々の頭を洗脳する。
 「これだけが正しいのだ」
 「これだけが唯一絶対の真実だ」
 「ゆえに、他の意見を、許容しない」
 というふうに。── 私は、それを批判する。もちろん、読者の頭を、私の意見にすっかり染めようとは、毛頭思っていない。「なるほど、そうだな」と思ったら、そのあとさらに、自分の頭でじっくり考えてほしい。
 
 なお、私の方針で一貫しているのは、
 「(私の)これを信じよ」
 ということではなくて、
 「(誰かの)これを信じてはならない」
 ということだ。だから、私の話には、必ずしも正しい真実が書いてあるわけではない。ただの批判しか書いていないこともある。しかし、それはそれで、意義があるのだ。「だまされるな」という警告の意義が。
 だから、読者が、私の話を聞いて、「目を開かされた」という思いがしたなら、それはそれで、私の狙いは一応、達したことになる。

 私の狙いは、私の意見を押しつけることではない。ある種のしがらみから、読者の思考を解放することだ。何かを与えることではなくて、何かを除くことだ。
 読者が私の話から、何かを与えられるとしたら、それは、何らかの有用な知識ではない。役には立たないものであり、実利的な知識でないものであり、ただの気分のような態度である。── それは、「思考の自由」だ。


● ニュースと感想  (3月03日b)

 「ハンセン病と報道」について。
 ハンセン病についてマスコミが報道を怠ってきたことについて、これを断罪する厳しい報告がなされた。(朝刊・各紙 2005-03-02 )
 これを受けて、朝日の社説は一応、反省している。「人権侵害を見過ごさぬよう改めて心したい」と。
 どうも、自分のどこが間違っているかを、まったく理解していないようだ。反省がまったくできていない。これでは先が思いやられる。そこで、指摘しておこう。

 そもそも、マスコミの使命は、何か? 人権侵害の報道か? 違う。事実の報道だ。そこを勘違いしてはならない。
 「かわいそうな人を助けてあげよう」という心が不足していたのではない。「事実を報道しよう」というマスコミの精神が根本的に欠落していたのだ。かわりに、何があったか? 「面白いネタを探そう」という卑しい商売根性だ。「面白くなければニュースじゃない」という下賤な根性だ。そういう根性だから、やたらとニュースを脚色することばかりに、とらわれている。
 その典型が、朝日の社会面の見出しにしばしば見られるダジャレだ。読んでも、何が書いてあるのか、さっぱりわからない。意味が通らないので、「これはダジャレだ」と理解して、あらためて考え直すと、やっと意味とダジャレがわかる、という仕掛け。……書いている本人は、ダジャレができて、嬉しいのだろう。しかし、ただのオヤジ・ギャグだ。読者にとっては、寒気がするだけだ。なのに、朝日はしばしば、この手のダジャレを掲載する。なぜ? 「面白くなければニュースじゃない」という下賤な根性だからだ。事実を報道するかわりに、あえて事実を歪めて報道する。

 この基本精神が問題なのだ。報道者としての基本精神が根本的に歪んでいる。だから、普段も、「面白いネタはないか?」と考えて、あちこちの官庁を伺い、官僚や政治家から、「面白いネタをいただきます」というふうにする。こうして、権力の犬となる。
 学会でも同様だ。学界の中枢に居座るボスにばかり群がって、ボスの意見ばかりを聞こうとする。ボスに反発する周辺部の意見など、なかなか耳に入らない。そもそも、そこまで足を向けない。
 それが今回の事件の根源だ。精神医学界という閉鎖的な社会。そこにいるボスの意見ばかりを聞こうとする。ボスに反発する周辺部の意見など、なかなか耳に入らない。だから、ハンセン病の体制を批判する声があっても、少しも耳に入れなかったのだ。というより、耳をふさいでいたのだ。

 ここに、今回の事件の、本質がある。「目をふさぎ、耳をふさいでいたこと」だ。
 なのに、朝日はこのことを理解しない。だから、反省すらできない。「人権侵害を見過ごさぬよう改めて心したい」と述べて、「自分の優しさが不足していたのだな」と思うだけだ。とんでもない。優しさが不足していたのではない。報道者としての態度が根本的に歪んでいたのだ。「事実の報道」という態度がまったく欠落していたのだ。かわりに、安易な道ばかりをたどっていたのだ。

 では、どうすればいいか? 「事実の報道」は、簡単ではない。たとえば、かなりの情報収集や肉体的な労力を必要とすることもある。( → 2月13日 毎日新聞の、化石捏造の報道。)
 しかし、何より大切なのは、「事実の報道」をめざす心だ。「目をふさぎ、耳をふさぐ」という態度を改めて、「真実を探ろう」とする心だ。それさえあれば、真実をめざす行動を取れる。
 とはいえ、悲しいかな、現実には、それがない。「事実の報道」をめざす心もなく、「真実を探ろう」とする心もない。── その典型的な例が、マスコミ各界の経済報道だ。毎日毎日、政府発表の嘘情報ばかりを垂れ流す。たいていは竹中の発表であり、「景気回復」なんて誰も信じていないのに、それをまっとうな情報であるかのごとく垂れ流す。戦前の大本営発表と同じだ。「大勝利、大勝利」というばかりで、「敗北」という事実を隠蔽する。政府と違う情報を言うかと思うと、今度は「量的緩和で景気回復」とか、「不良債権処理で景気回復」とか、そういう学界のボスのデタラメを垂れ流す。
 一方、学会の周辺には、別の声もある。「現在の景気は、とても景気回復ではない」「量的緩和は無効」「不良債権処理は無効」という声だ。……その声を、完全に無視して、隠蔽する。「事実の報道」とは正反対のことばかりだ。
 ハンセン病の例は、今ふたたび繰り返されているのだ。かつての被害者は、ハンセン病の患者だけだったが、今の被害者は、日本国民すべてなのだ。
 今のマスコミには、反省がまったく欠落している。過ちて改めず、これを過ちと言う。

 [ 付記1 ]
 朝日を批判したが、読売はもっと悪いかも。「自己反省」すら、ほとんど欠けている。「国と社会のせい」というふうにとらえて、「マスコミのせい」という意識があまりない。(同日・読売・社説)
 この態度の件については、先に述べた話がある。マスコミの責務という話題。そちらを参照。
( → 2月10日c6月13日

 [ 付記2 ]
 なぜマスコミは自己の過ちに気づかないのか? 経済で言えば、国民には「景気を回復してくれ」という声があふれているのに、それに気づかない。その理由は、新聞記者やテレビ局社員は雇用が安定しているからだ。
 新聞やテレビは、カルテル的な市場であるから、景気悪化の悪影響をあまり受けていないだけだ。しかし彼らは、自分たちの市場がカルテル的な市場であることを忘れている。だから、景気は回復しつつあると思い込みながら、「自由主義経済はすばらしい」などとほざくのだ。
( ※ 経済学でなくて自然科学において報道しない例は → 2月10日


● ニュースと感想  (3月03日c)

 量子論についての、新しい記述。
 「量子論の値は、なぜ、確率で示されるか?」という問題への回答。
   → 該当サイト ( 【 追記 】 の箇所 )

 複数の事象が確率的に結論されるかわりに、唯一の事象だけが決定論的に結論されてもいいはずだ。なのに量子論では、唯一の事象が決定論的に結論されることはなくて、確率的に「これかもしれないし、これかもしれない」というふうに結論されるだけだ。それは、なぜか?
 その根源を説明する。


● ニュースと感想  (3月03日d)

 「ゲーム脳」という用語を昨日の記述で使いましたが、この用語は不適切なので、今後はなるべく使わないようにします。
  詳しくは → 該当箇所


● ニュースと感想  (3月04日)

 「ライブドアとマスコミ支配」について。
 ライブドアによるニッポン放送の株式買収について、「金の力で強引にやるのは、けしからん」という、いかにも正義漢ぶった論説がしばしば出る。
 しかし、資本主義というのは、「金の力でやる」というのが原理である。なのに、共産主義者が資本主義を否定するならともかく、資本主義の信者が資本主義を否定しているわけだ。……まったく、ちゃんちゃらおかしい。
( ※ 先月末にこう書き始めたあとで、同趣旨の記事が、朝日の経済面 2005-02-27 に出た。藤巻という人の解説。会社は株主のものだ、という趣旨。)
 こういう正義漢ぶった論説のうち、特に笑えるのが、読売の論説だ。「マスコミは公的な機関だから、金の力で権力を取った者が支配するのはけしからん」と主張する。そのくせ、ナベツネによる支配を是認する。

 読売さん。何を勘違いしているんですか? なるほど、たしかに、言論機関を支配するのは、してはならないことだ。しかし、してはならない人は、「金の力で権力を取った者」だけでなく、「独裁体制で権力を維持している者」も同様だ。
 つまり、「ホリエモンが(万一)やるのはいけないが、ナベツネがやるのはいい」なんていうダブル・スタンダードは、茶番みたいな主張でしかない。ちゃんちゃらおかしい。ヘソが茶を沸かす。

 はっきり言っておこう。ニッポン放送をホリエモンが支配したとしても、あるいは、それによってフジテレビに 22%だけ影響したとしても、ちっとも問題ない。問題は、株式をどれだけ取るかではなくて、言論機関を個人的に左右するかどうかだ。たとえ株式を1%も取っていないとしても、ナベツネが読売を言論統制するのは、絶対悪なのだ。── ここを勘違いしてはならない。
 「権力者による言論統制が悪い」というのであれば、まず、読売におけるナベツネ支配にメスを入れるべきだ。西武における堤天皇の支配には、メスが入った。次には、読売におけるナベツネ天皇の支配に、メスを入れるべきだ。さもなくば、いつまでたっても、日本の言論が個人に左右されたままだ。これこそ問題にするべきだろう。株の数なんかに目を惑わされてはならない。
 読売はしきりにライブドア批判のキャンペーンを張る。「株式を取ると、言論機関がホリエモンに左右されるかもしれない」という理由で。理屈にならない理屈だ。なぜ? おそらく、ホリエモンがナベツネみたいになるのを、危険視しているのだろう。あるいは、産経新聞がナベツネのシンパとなって、社内で独裁体制を築いているのが、崩壊させられかねないと、心配しているのだろう。── しかし、マスコミたるものは、「独裁体制が崩壊させられること」を心配するより、「独裁体制が続いていること」を批判するべきなのだ。批判の方向が、正反対だ。
 「言論の自由とは何か」── その本質を、根本的に考えるべきだ。それは決して、株式支配のことではない。そもそも、テレビ局の株式を22%だけ所有することが問題であるとしたら、日本中のテレビ局のたいていは制限に引っかかるはずだ。

 独裁の弊害の実例。
 半年前の大騒ぎを、よく思い出すといい。あれは、何だったか? ナベツネがこう思ったからだ。
 「プロ野球は何でもかんでも、おれの好きにさせろ。文句があるなら、巨人をリーグ脱退させて、プロ野球をぶっつぶすぞ。わかったか。何でもかんでも、オレ様の好きなようにさせろ」
 あれは、近鉄とオリックスの騒ぎではなくて、ナベツネによるプロ野球完全支配を狙ったものだった。2リーグ制だと、セリーグを支配できても、パリーグを支配できない。そこで、1リーグ制にして、プロ野球界全体を、ナベツネの支配下に置く。それが彼の野望だったのだ。
 その象徴が、小久保の無償トレードだ。ダイエー・ホークスが、ナベツネの意に沿わないことばかり言って、おまけにパリーグの盟主のような顔をする。そこで、ナベツネがお灸をすえて、「ダイエー本体をぶっつぶすぞ」と脅かした。で、ダイエーはびくついて、「小久保をプレゼントするから、お見逃しを」と、大切な箱入り娘をタダで献上した。こうやって、偉大なるナベツネ総統は、プロ野球をも支配してきたのだ。「ハイル・ナベツネ」と言わせて、忠誠を誓わせながら。

( ※ ここまで理解すると、ダイエーがつぶれた理由も、よくわかる。小久保と引き替えにもらった証文から、一年たったからだ。ナベツネは、「もう証文の期限は切れたよ」と言って、ダイエーをぶっつぶしたのだ。「今年も、二番目の小久保をもらうつもりだったけどね。今年は、オレはプロ野球をやめたからね。そろそろつぶしてやるか」と言って、産業再生機構を通じて、否応なしにダイエーをぶっつぶしたのだ。……かもね。この件は、保証しません。ただし、産業再生機構のボスが、ナベツネそっくりであることは、保証します。二人で兄弟のちぎりを交わしたのかも。)

 [ 付記 ]
 首が涼しくなってきたぞ。ここまで書いちゃって、いいんでしょうか?
 私は日頃、朝日の悪口ばかり言って、首が半分涼しくなっていた。おまけに、読売の悪口まで言い出して、首がすっかり涼しくなってきた。このままだと、つぶされるかも。
 そう言えば、噂によると、ネットには「南堂久史の馬鹿野郎」という悪口があふれているらしい。出る杭は打たれる。やばいかも。そのうちナベツネか誰かが、「お前のかわいい娘を献上しろ」と言ってくる可能性もありますしね。
 「小泉の波立ち」というこのホームページは、いつまでも続く保証はありません。そのうち、刺客が送られてきたら、その時点で、このホームページは廃止され、公開中止となります。四面楚歌。家を出れば、七人以上の敵。
 余談だが、バーチャルでなくリアルの世界で悪口を言うというのは、こういうことだ。私のように特定の人格で、政府を批判すれば、まともに政府から攻撃される可能性がある。掲示板で匿名で悪口を言うのとは、わけが違うのだ。……実を言うと、(理由は省略するが、)政府は、私の身元をはっきりと特定している。つまり、私は今のところ、見逃されているだけだ。


● ニュースと感想  (3月04日b)

 「ライブドアの株取引」について。
 ライブドア批判について、論理の問題があることを指摘しておこう。(良し悪しは別にして、論理の問題。)
 ライブドアの株取引が時間外の取引であった。このことについての批判がしばしば出る。次のように。
 「TOBで一般株主からも購入するべきだった。不公正だ。ゆえに、ライブドアの株取引は無効にするべきだ」
 と。しかし、これは、論理の倒錯だ。

 「TOBで一般株主からも購入するべきだった。不公平だ。」
 という理由からは、
 「ライブドアの株取引は無効にするべきだ」
 という結論は得られない。かわりに、次の結論が得られる。
 「TOBで一般株主からも購入せよ。そうすれば、公平だ」
 つまり、ライブドアは、あらためてTOBをかけて、6100円ぐらいで一般株主からも、株を購入すればよい。それだけのことだ。

 だから、論者は、そう主張するべきなのだ。それが論理というものである。たぶん、何が何でも、「ライブドアの株取引は無効にするべきだ」と結論したいのだろうが、そのための理屈としては、見当違いの理屈を引いても、ダメである。我田引水は、ダメ。論理のデタラメさを示すだけだ。
 というわけで、論理のわからない論者を説得するために、ライブドアは、6100円ぐらいで、あらためてTOBをかけるといいでしょう。(たぶん、何の意味もないと思うが。市場価格の方が高いのだから。)
 私のこの提案は、論理のわからない連中の、論理の破綻を示すため。


● ニュースと感想  (3月04日c)

 「ライブドアとニッポン放送と新規株式」について。
 ニッポン放送の「フジテレビに対する新規株式の取得権の供与」というのは、違法な行為である、と私は思う。なぜなら、これは、資本主義の原理を否定するからだ。
 フジテレビが大株主であり、経営権を取得しているのであれば、ニッポン放送の方針は、(たぶん)合法的だろう。しかし、フジテレビは大株主ではない。第一位の大株主は、ライブドアだ。それを無視して、経営者が下位の株主に、勝手に新規株主の取得権を与えるとしたら、資本主義の原理は破壊されてしまう。
 たとえば、こう考えよう。日本でも最先端の企業に、キヤノンがある。キヤノンの株式の半分以上は、外国人だ。ここで、経営者が誰かに買収されて、十億円もらう。そのあと、経営者が下位の株主に、市場価格以下で新規株式を大量に発行する。すると、一夜にして、キヤノンはどこかの外国企業に乗っ取られる。
 同様のことが、日本中の企業で成立する。経営者が勝手に新規株式を発行して、勝手に特定の相手に売却していい、というふうになるからだ。日本中の株は、外国に買い占められてしまう。それも、市中価格以下で。(単純な時価発行の増資とは、わけが違う。)
 日本中のマスコミは、ニッポン放送の行為が合法か否かは、五分五分だ、と報じている。ふうん。そうですか。だったら、日本中の企業は、合法的に外国の会社に乗っ取られる可能性が、五分五分なんだ。
 とりあえず北朝鮮に、三菱重工でも、乗っ取ってもらいましょうか。国防産業が北朝鮮のものになる。現状では、三菱重工には、安定株主がいる。しかし、新規株式を勝手に発行して売却していいのであれば、三菱重工を北朝鮮のものにするのは、簡単だ。H2Aを初め、ほとんどの国防技術を、北朝鮮が奪うことができる。── あとは、ニッポン放送のやり方を使えば、簡単だ。
( ※ 北朝鮮が経営者を左右する方法は? お手の物でしょう。恐喝やら、洗脳薬物やら。……なお、恐喝は、ナベツネの手口。洗脳は、朝日の手口。両社とも、特定勢力に、すでに乗っ取られている。)

 [ 付記 ]
 ニッポン放送は、ライブドアの支配がそんなにいやだったら、別の回避策を採ればよい。それは、本質的な策だ。根本的な問題の除去だ。「子会社が親会社を支配する」という構造を取ることを、やめればよい。つまり、フジテレビの株式を市場で売却すればよい。
 これなら、別に問題はないだろう。ただの経営判断である。また、いびつな状況を解消することになるから、かえって好ましい。また、「ライブドアによるマスコミ支配」なんていう心配も、かなり薄らぐ。
 ライブドアがフジテレビの株を買い占めたら? いや、ライブドアは、ニッポン放送とフジテレビの株の双方を購入するほど、金をもっていない。楽天ならば金をもっているが、たとえ買い占めても、別に、どうってことない。全部買い占めたとしても、過半数にはならない。仮に参入したら、「またライブドアの真似」というふうに、馬鹿にされるだけだ。
( ※ 常識的には、買い手を指定して、ニッポン放送がフジテレビの株式を売却すればよい。フジテレビ以外の株も、みんな売却すればよい。コクドと同様で、こんな持ち株会社みたいな会社は不要だから、さっさと手持ちの株を売却するのが、最善の策。)
( ※ 実を言うと、そうしないのは、フジテレビの経営者が、ニッポン放送を通じて、間接的にフジテレビを独裁的に支配しようとしているからだ。……つまりは、ライブドアの経営者とフジテレビの経営者は、同じ穴のムジナである。どちらも、少しの株で、大きな会社を支配しようとする。……で、私が、「どっちもダメ」と判定するわけだ。)


● ニュースと感想  (3月05日)

 「ライブドアと堤義明」について。
 経済界(経営者たち)のボスの一人である堤義明が、逮捕された。(各紙・夕刊 2005-03-03 )
 この件に関連するおもしろい話がある。堤義明は株式独占による企業支配を目的にしていた。で、逮捕を目前にして、目的と現実とを比較した。あげく、「何で上場したのかわからないんですよね」と述べている。
 記事はこれについて、「堤たちの感覚は、世間とは大きくずれていた」と批判的に記述する。(読売・朝刊・社会面 2005-03-03 )

 さて。私の評価を言おう。
 自分のやったことを「何でやったのかわからない」と述べるボケぶりも呆れるが、これを「世間とはずれている」と記述する読売の記事もボケている。実は、堤義明も、世間の半分ぐらいも、どちらもイカレているのだ。その証拠が、ライブドアの問題だ。
 この二件の事件では、古い経営者たちはどちらも、同じことを主張している。
 「株式を公開するが、株式買収によって経営権を奪われたくない。株式公開は、何の意味もない。名目だけ株式を公開するが、その株には実効性(議決権)をもたせたくない」
 どちらにしても、「株式」という資本主義の原理を否定している。堤義明がボケているとすれば、世間の経営者のほとんどもボケていることになる。どちらも、「株式は公開するが、株式を誰かに買われるのは困る」と主張している。
 本当に「株式を誰かに買われるのは困る」と思うのであれば、上場廃止にすればいいのだ。それが筋だろう。
 とすれば、「何で上場したのかわからないんですよね」と述べている堤義明の方が、よほどまともである。なぜなら、彼は、自分を反省できているからだ。それに引き替え、他の古い経営者たちは、同じことを主張しながら、まったく反省できていない。

 読売の記事は堤義明を「ずれている」と書くが、ずれているのは、読売の方だろう。しきりに「敵対的買収を阻止せよ」という趣向の話を掲載する。これでは株式公開の意味がない。単に「古い経営者の既得権益の保護」を主張するだけであり、「古びた経営者の退場」というシステム(自動調整のシステム)を否定する。
 堤義明を批判するより、自分たちの頭のずれ方に気づくのが先決だ。

 [ 付記 ]
 堤義明の株式取得は、世襲であった。ついでだが、他の経営者のほとんども、先代社長の指名によることが多く、世襲に似ている。血筋のかわりにコネなどによる決定。
 この点に着目した話は、「資本主義と封建主義(世襲)」の話題として、次項 で詳しく論じる。


● ニュースと感想  (3月05日b)

 前項 の続き。「ライブドアと資本主義」について。
 ライブドアの株買い占めについて、「金がすべてという態度はけしからん」という経営者の声が出たが、これについて、私は前に指摘した。「国民の利益のためではなく、古い経営者の利益のためだ」と。( → 2月20日b
 これは、資本主義の観点から見ると、まったくおかしい。資本主義というのは、そもそも、「企業の経営権は、金がすべて」という原理だからだ。( → 前日分。また、そこにある朝日の記事 2005-02-27 )

 さて。この問題は、歴史的な観点から見ると、わかりやすい。それは、「封建主義と資本主義」という観点だ。
 資本主義は、「企業の経営権は、金がすべて」という原理だ。つまり、「を出したものが、その比率で株を得て、過半数の株を得たものが経営権を握る」という原理だ。わかりやすい。
 それ以前は、どうだったか? 封建主義だった。つまり、世襲の権力者がすべてを決める、という原理だ。地方領主であれ、親方と徒弟の家内工業であれ、世襲が原理だった。今でも日本の中小企業では、世襲が行なわれることがある。実を言うと、ダイエーの中内も、世襲を必死にやりたがった。堤家も、世襲を目的として、西武の株式をいびつな形でコクドに集約した。この方式に似ているのが、ニッポン放送とフジテレビの関係だ。もともとは鹿内家に株式が集中して、鹿内家がフジテレビを世襲みたいにしていたが、権力欲をなくした鹿内家が株式を手放したのが、今回の騒動のいったんだった。
 で、鹿内家に対してクーデターを起こして、経営権を乗っ取ったのが、現在のフジテレビのボスである日枝だ。……ここまでは、封建主義の争いだった。
 そこで飛び出したのが、資本主義の原理を取るホリエモンだ。当然、封建主義を信じていた老人たちは、びっくりする。これまでは、世襲か、あるいは、情実やコネだった。そこへ、資本主義という金の原理を取る新興勢力が出てきたのだ。「とんでもないことだ」と度肝を抜かれただろう。

 以上が、今回の騒動の本質だ。つまり、「封建主義 対 資本主義」である。(これじゃ、21世紀の争いというよりは、18世紀の争いだ。)
 老人経営者たちによる「金がすべてという態度はけしからん」という批判も、この見地からわかる。彼らは決して、私のように「愛が大事」「国民が大事」と思っているわけではない。「数字の原理よりも、情実とコネが大事」と思っているのだ。それだけのことだ。古いね。
 たとえば、週刊ポストの最新号に、裏情報が出ている。「小泉がホリエモンつぶしを秘密で命じた。日枝会長に恩があるから」と。真偽は不明だが、「さもありなん」という感じである。これもまた、「情実とコネ」だ。(政治家の場合、さらに、賄賂という裏金が働くこともある。)


● ニュースと感想  (3月05日c)

 前項 の続き。「歴史と現在」について。
 歴史というものは大切だ。そこで大切なのは、誰がいつどこでどうした、という、事件ではない。「封建主義から資本主義へ」というような、大きな流れだ。この流れを知ることにこそ、歴史を学ぶ意義がある。
 木を見て森を見ず、ではいけない。そしてまた、歴史を忘れてはいけない。「歴史を忘れるな」という言葉は、戦争の歴史を自分勝手に解釈するためにあるのではない。過去における先祖の行為の失敗を学ぶためではない。過去における人々の思考の過程をたどるためだ。……科学であれ、人文社会であれ、歴史を見れば、現代のわれわれが過ちを犯すことを免れることができる。なぜなら、われわれの過ちは、すでに先人がなしたから。
 現代の老人経営者の主張は、数百年も前の封建的な思想なのだ。人類は、数百年かけても、ほとんど進歩していない。そのことを歴史は教えてくれる。
 特に、ローマの都市社会の遺跡などを見ると、新宿あたりの汚らしい都市社会よりも、数段優れていたことがわかる。実を言うと、人間というものは、生物学的には、ここ数万年の間、まったく変わっていないと言っていい。せいぜい、「鼻の形が変わるバリエーションが生じた」というぐらいのことだ。脳に関する限りは、まったく変わっていない。
 人間というものは、数万年もの間、ちっとも進歩していないのである。コンピュータは進歩しても、人間は変わらない。「進歩した科学技術の時代におけるわれわれは利口だ」と思い上がる人々は、愚かである。歴史を知れば、そのことがわかる。
 社会にいくら知識が蓄積されても、進歩するのは社会だけであり、人間自体はちっとも進歩しないのだ。── 前項 の話から、そのことがわかる。( 21世紀になっても、18世紀の争いをしている。)

( ※ 人類が進歩していないことの証拠。別の例。……いまだに戦争をおっぱじめては、そのあとで反省する。何度もその繰り返し。第二次大戦、ベトナム戦争、イラク戦争。 → アーミテージ の反省 )
( ※ というわけで、私が「タカ・ハト」ゲームを何度も書くわけだ。愚かさを脱するためというよりは、愚かさの原理を知るために。)


● ニュースと感想  (3月06日)

 「ニッポン放送の社員の声明」について。
 ニッポン放送の社員の大半が「ライブドアによる買収に反対する」という声明を出した。その理由は、「聴取者(リスナー)に対する愛がないから」だって。ただし、労組の声明ではない。ニッポン放送には労組がないから。(読売・朝刊・ベタ記事 2005-03-04 )
 これについて感想を述べておこう。

 第1に、「リスナーに対する愛がない」なんて述べているのは、ボケている。そもそも、ラジオの聴取者の多くは老人であるのに、「リスナー」なんているカタカナ言葉を使うところからして、聴取者に対する愛がない。おごりがあるだけだ。しかも、である。聴取者に対する愛が必要なのは、ラジオ局の社員であって、経営者ではない。経営者の仕事は、社員がちゃんと仕事をできるようにすること。社員の仕事は、お客様の要望を満たすこと。……だから、お客様に対する愛が必要なのは、社員であって、経営者ではない。社員の声明は、「経営者は社員としての能力がない」と述べているだけだ。しかしそれでは、「経営者は社員として失格だ」という結論が出るだけであり、経営者としての能力には何の関係もない。ボケぶり。老人聴取者よりも、もっとボケている。

 第2に、そもそも労組がないというのは、先進国の企業の状況ではない。「家内工業」じみている。18世紀以前の状況だ。当然ながら、社内には「言論の自由」つまり「経営者という権力に反対する自由」はない。「経営者に賛同する自由」があるだけだ。こういう状況を改めるのが先決であり、まずは「労組の結成」に向かうのが先決だろう。頭がイカレているとしか思えない。自分自身を守れずに、会社ばかりを守ろうとする。あまりにも健気な自己犠牲。……たぶん、残業手当ももらわずに、滅私奉公しているんでしょうね。おしん。(古すぎ。)
( ※ なお、18世紀じみているという件は、前日にも似た話をした。)

 [ 付記1 ]
 「愛」という言葉は、私もよく使うが、このニッポン放送の社員のやり口には、呆れるね。愛を保身の道具にしている。聴取者を人質に取るようなものだ。やり口が汚い。
 愛というのは、自分が他者に対する思いやりとして心がけるものだ。その心がけは、自分への戒めとしてあるべきだ。たとえば、私が経済学者に対して「愛がない」と批判するときには、「思いやれをもて」というふうに、心がけを喚起するものだ。
 ここでは、「愛がないから、おまえは経済学者として失格だ」なんて述べてはいない。愛は心がけの問題であり、仕事の能力の問題とは別の問題だ。両者はいくらかは関係するが、基本的には別の問題である。ここのところ、混同してはならない。
 だいたい、他の企業で、同じことが考えられるだろうか? たとえば、ソニーでもトヨタでもいいから、そこの社員が同じことを言うだろうか? 経営者に「あんたは顧客に対する愛が感じられない。だから社長をやめちまえ」と主張できるだろうか? ……何だか、書くだけで、恥ずかしいですね。こういう主張はもう、幼児的な甘えでしかないですね。
 「おかあちゃん。愛って大事だよね?」
 「そうだよ、坊や。よしよし」
 となるのを期待している、甘ったれた幼児体質。……仕事を何と心得ているんだろう。ひどい社員ばかりだね。こういう甘ったれた連中は、基本から性根をたたき直した方がいい。となると、ホリエモンがうってつけかも。

 [ 付記2 ]
 ニッポン放送の社員がどうしても「愛」で決めたければ、これからは社員たちを「愛」によって評価すればいいだろう。次のように。
 「おまえは仕事の能力はすごく高いが、リスナーに対する愛がないから、解雇する」と言い渡す。社員がいくら「不当だ、ちゃんと仕事はやっているのに」と反発しても、「仕事の能力の問題じゃない、愛の問題なんだよ。それでクビにしてしまえと主張したのは、自分自身だろう」と言い返す。「でも私は愛がありますよ」と社員が言い返したら、「きみはそう思うかもしれないがね。私はそう思えないんだよ。だいたい、愛なんて、客観的に判断できるわけがないじゃないか。で、他人が勝手に推測して、愛の有無を決めつけていい、と言ったのは、きみ自身じゃないかね? 『愛があるとは思えないから』とホリエモンに反対したのは、きみ自身だろう? だから、その主張を、きみ自身に当てはめるだけだよ」と。
 最後に社員が恐る恐る、経営者に尋ねる。「で、あなたのお名前は? ホリエモンですか?」「いやいや、堤義明だよ。ワンマン経営者で有名だけどね。ニッポン放送だけは、身勝手な経営者の横暴を歓迎すると聞いたものでね。大急ぎで買収することにしたんだよ。いや、会社を買収したんじゃない。経営者を買収したんだ。会社より経営者を買収すればいいって、小泉の波立ち 3月04日c に書いてあったんでね。あれは役立つね」


● ニュースと感想  (3月06日b)

 「ダイエー再建」について。
 ダイエー再建の案として、丸紅が内定したという。(各紙・朝刊 2005-03-02 )
 競争相手となったイオンやキアコンよりも、若干上回っていたのが理由だ、と各紙は報道する。しかし、それは、「木を見て森を見ず」だ。三つのうちのどれが優れているかが問題なのではない。どれもが優れていないということが問題なのだ。
 この再建案を一言で評すれば、こうだ。
 「大山鳴動、ネズミ一匹」
 あれほど大騒ぎして、強引にダイエーを破綻させたあげく、やったことはと言えば、再建相手を丸紅にしたことだけ。こんなことは、当初の経営者の方針(やはり丸紅が相手)とほとんど同様だ。とすれば、結局、何もやっていないのに等しい。単に再建の主体が産業再生機構になっただけだ。つまり、他にはほとんど何もやっていない産業再生機構が、「これは私たちのやった仕事です」と世間に宣伝したいため、ダイエーはその宣伝の道具にされただけだ。(人身御供のようなもの。それに徴収されたのがダイエー。)
 ダイエーの自力再建に比べて、何か意味のあることがあったとすれば、ダイエーの債権を帳簿で「不良債権処理」したことだけだ。つまりは、帳簿処理だけだ。本質的に言えば、帳簿の粉飾と大同小異である。事実は何も変えないまま、帳簿の項目だけをいじくって、赤字を増やしたり赤字を減らしたりして、(BIS規制のために)銀行の決算を好都合にする。ただそれだけ。
 愚劣の極み。

 さて。ここでは、本質的な問題は、別にある。それは、同日および前日の新聞に出ていたとおりで、イオンもヨーカドーも非常に薄利だ、ということだ。ダイエーの経営が決定的に悪かったわけではない。イオンやヨーカドーとは利益率で年1%(1ポイント)も違わない。どちらにしても、利益率は年1%程度だ。この程度のことで、いちいち企業を破産させていたら、キリがない。馬鹿げている。(前にも述べたが。)

 さて。もう一つ、別の問題もある。どうせ再建をするなら、民間経営者にはできないことをやれば良かった、ということだ。私なら、こうする。
 「ダイエーを三つの店舗グループに分割する。三つの店舗グループを、三つの企業に渡す。イオンと競合しない店舗は、イオンに。イオンと競合する店舗は、丸紅やキアコンに。……こうして店舗を渡して、競合させる。同時に、株式は、相手側企業に半分渡す。……数年後に、評価する。再建が最も成功した企業には、株式の全部を高額で渡す。再建に成功しなかった企業からは、株式を安価で買い戻してから、再建に成功した企業に、高値で転売する」
 これが市場原理だ。つまり、成功した企業は成長し、失敗した企業は退場する。そのことで、全体の効率化がなされる。しかも、そのことで、利益が出る。
 しかるに、再建機構は、そうしない。単に天下り式にやるだけだ。一種の国家指導主義経済。……こういうふうに「市場原理」に反することをやる連中が、逆に「市場原理・民間主導」を唱えるのだから、自己矛盾だ。頭のネジがイカレているとしか思えない。他人より自分自身を再建すべし。


● ニュースと感想  (3月06日c)

 このホームページ(小泉の波立ち)の容量が 10MBに達しました。
 ホームページの許容量に達したので、月額加算料金が発生しました。
 読者が読むのはタダですが、私が払う分のお金はかかっていますので、そこのところ、よろしく。
 (といっても、小額ですが。  (^^);  「ケチるな」と怒らないでね。)

 ※ 読者の便宜のために、広告やバナーは付けません。ご安心下さい。


● ニュースと感想  (3月07日)

 「朝日の嘘記事」について。
 また出ました。朝日新聞の、小林慶一郎による嘘記事。(朝日・朝刊・オピニオン面 2005-03-06 )
 今回のは、特に見事で、ここに書いてあることを全部ひっくり返すと、真実になる。
 ただし、再度、苦言を言っておこう。「経済早わかり」というふうに、解説記事の体裁を取るのは、やめてほしい。ここにあるのは、学界のなかでも一方の意見であるに過ぎず、反対派からの厳しい批判を浴びている意見だ。それを唯一の中立的な見解であるかのごとく紹介するのは、読売のブッシュ擁護と同じで、ひどい偏向だ。新聞たるもの、意見が割れているときには、双方を公平に紹介するべきだ。片方だけを紹介して、それが唯一絶対であるかのように報道するなど、絶対に許されないことだ。

 今回のテーマは、財政再建としての増税の是非。これについては、まったく見解が割れているのに、この記事体裁の主張では、「増税」賛成論だけを一方的に紹介して、もう一つの側の意見をまったく無視している。このような形で書くということは、書いた本人の頭がイカレていることを示す。
 私はしばしば反対の意見を書くが、それはあくまで私の個人の主張として書くだけだ。「私の意見が世間や学界において標準である」というふうには書かない。他の意見を示して、その意見を批判する。そういうふうに、両論があることを示す。
 一方、公平な立場で紹介する形を取るのであれば、両論を併記するのが当然だ。なのに、今回の記事は、それができていない。朝日特有の「洗脳記事」の一環だ。反省すべき。猿並みに。
 
 [ 付記1 ]
 「財政再建のためには増税は有効どころか逆効果である」ということは、これまで何度も指摘したので、改めて記述しない。特に、小林への批判として、同趣旨で述べたことも、何度かある。過去の記述を参考にしてほしい。
( → 12月05日12月12日b12月17日4月27日b
 これを見るとわかるとおり、彼は同じことを何度も書いたことがある。それを忘れてしまったようだ。ボケてきたんですかね。
 
 [ 付記2 ]
 記事には「資産課税はダメだ」という主張がある。「資産課税をすると、生産設備が減るので、経済成長を阻害する」という理屈。つまり、「生産設備さえ増えれば、それで経済成長する」とだけ考えて、需要をまるきり無視する。これは、サプライサイドの発想だ。
 こういう発想をするのは、需給を無視したエセ経済学である。実際、論旨を見ればわかるとおり、「経済効率を上げるためには」という質的改善だけを目標としており、量的調整をするマクロ的な認識がまるきり欠落している。
 では、正しくは? これについては、前に述べたことがある。「外形標準課税」という話題。
( → 12月05日b
 なお、正しい方法を取らないと、どうなるか? 結果的に、「質の改善をめざして、量の縮小をもたらす」というふうになる。つまりは、不況の継続。ただし、企業だけは、利益を出す。企業の幸福と、国民の不幸。……現状維持ですね。増税があると、同じ方向で、さらに悪化する。


● ニュースと感想  (3月07日b)

 「キヤノンの生産方法」について。
 キヤノンが最高益を更新。利益率は 16%弱という、並はずれた高さ。経営方針としては、高能率の「セル生産」をしていたが、今度は「無人生産」(ロボット工場)に向かいつつあるという。「(朝日・朝刊・経済面 2005-01-29 )
 これについていくつか述べておこう。

  (1) セル生産
 不況については、円高による空洞化という論調があった。
 「円高だから不況になった。日本は人件費が高いのが原因だ。人件費の低い中国には勝てっこない。不況を解決するには、人件費を下げるしかない。さもなくば、どんどん雇用が流出し、雇用のドーナツ化(空洞化)が起こる」( → 1月29日
 しかしながら、現実には、そうではない。セル生産をやって国内生産をしたキヤノンは、国内最高レベルの利益率。一方、海外進出して生産コストを下げたアイワは、一時はもてはやされたが、技術開発能力をなくして、アジア企業と同然になってしまったため、事実上の倒産。(ソニーに吸収された。)また、薄型テレビでは、安価な海外生産の部品を購入して、ただの組み立て屋になったソニーは、薄い利益率に悩んでいる。(つい先日の報道。)
 コストダウンばかりを唱える古典派経済学者の主張に従う経営者は、最低だ、ということだ。コストダウンよりも、高技術をめざしたキヤノンが、生き残る。
 ついでに言えば、高技術のためには、技術者が必要だ。

 (2) 中国との関係
 「中国から安価な商品が流れ込んで、日本の企業は成立しなくなる」という主張もあった。(上記の古典派経済学者。)
 しかし、現実には、輸出入とも拡大する、という形で、バランスが取れている。日本の入超にはならず、「安価な商品が流れ込むが、高価な商品を売る」という形のバランスだ。(1月25日ごろの報道。)
 ここでは、高度な技術のある商品を輸出して、ただの組み立て商品を輸入しているわけだ。キヤノンで言えば、高度な中核部品を中国に輸出して、それを組み立ててから輸入しているわけだ。(ついでだが、ほぼ逆のことをやっているのが、ソニーだ。「海外から安価な部品を輸入して、国内で組み立てよう」という戦略。古典派経済学者の指南に従うと、こういう馬鹿げたことをやる。あげく、利益喪失。)

 (3) 無人生産
 さて。いよいよ本題だ。
 セル生産に変わって、無人生産をやると、労働者が解雇されて、失業者が増える。これは、難点ではなかろうか? 
 この問題(疑問)については、すでに、結論が出ている。
 第1に、そういうふうに労働者の雇用が減っても、構わない。その分、サービス業で雇用が増えればよい。経済発展の歴史は、常にそうだった。「農業 → 工業 → 商業・サービス業」という人の流れ。今では労働者の大部分は、第三次産業である。
 第2に、そのためには、工業(たとえばキヤノン)の分野で、十分に高い生産性を発揮して、かつ、所得を得る必要がある。その所得が、第三次産業に流れるわけだ。これなら、問題がない。
 第3に、(ここから先はマクロ経済学の話になるが、)工業の分野で所得が十分でなければ、総所得は縮小する。その分、投資が増えればいいが、総所得が縮小した状態では、投資は増えにくい。

 (4) 結語
 すぐ前の「第3」のことから、こう結論できる。
 キヤノンなどが無人生産をするのは、産業構造の変化があるだけであり、当然だ。工場の労働者はどんどん減るし、企業の利益はどんどん増える。
 ただし、(マクロ的に)企業の利益が労働者(もしくは株主)に還元される必要がある。そういう形で、総所得が増える必要がある。さもなくば、企業に蓄積した利益は、貯金されるだけだ。つまり、金が眠る。その結果は、GDPの縮小である。
 ここでは、企業が利益を得れば得るほど、国全体のGDPは縮小することになる。だから、「企業が利益を出しているから素晴らしいことだ」というような朝日の報道姿勢は、狂っているわけだ。
 正しくは、こうだ。「企業がどんどん利益を出しても、その金が国民の所得に回らなければ、状況は改善するどころか悪化する。
 これがマクロ的な認識だ。一方、古典派ならば、「企業業績が改善すると、状況は改善する」となる。それが朝日。
 何が正しく、何が間違っているか、勘違いしないようにしよう。

 [ 付記1 ]
 セル生産というのは、複雑な作業を強いられるが、非人間的でない。なぜなら、作業の速度を自分で調整できるからだ。無理強いされることはない。いくらでもゆっくりやってよい。やりたいときにやればよく、休みたいときに休めばよい。(賃金は下がるが。)
 特に、「休みたいときに休めばよい」というのは、とても重要だ、と思う。他人はともかく、私には絶対に必要だ。できれば一日中、休んでいたいときもあるし。朝寝朝酒のときや、二日酔いのとき。「金はいらんから、ほっといてくれ。もうちょっと寝かせてくれ」なんてね。あるいは、「今日は天気がいいから、会社を休もう。彼女とピクニックへ行こう」なんてね。……いいですねえ。人間的。

 [ 付記2 ]
 無人生産というのは、労働者にとって、良くも悪くもない。そこには人間がいないのだから、人間には関係ない。
 ただし、である。無人生産をした場合、そこに課税することは、必要である。さもないと、同じ生産活動に対して、「機械には無税、人間には有税」という形で、課税の不公平が発生するからだ。「ロボットは免税、人間には課税」というのでは、人間への差別である。また、人間から機械への置き換えを促進したあげく、失業者にばかり課税することになる。機械を増加させ、人間を削減する(死なせる:貧困自殺)。……企業はそれで嬉しいだろうが、人間にとっては暗黒だ。
 ただし、こういうのを促進するエコノミストもいる。企業至上主義の古典派だ。前項 の最後を参照。


● ニュースと感想  (3月07日c)

 「人間のロボット化」について。
 世界で名だたるトヨタのカイゼン運動の実態。それは人間のロボット化である。
 新聞の書評欄で、「自動車絶望工場」という著作の紹介がある。トヨタに期間従業員として勤務した著者が、いかに非人間的な勤務状況を見てきたかを示す。最近ではなくて、かなり前の話だが。(朝日・朝刊・書評欄 2005-03-06 )
 これを読むとわかるが、人間のロボット化というのは、すごいものですね。チャップリンの映画なんか、まだまだ生ぬるい。あれは単純作業をしていれば良かった。自動車工場では、複雑な工程を、高度なロボットのごとくやらされる。単純なロボットから高度なロボットへ。いっそうひどくなっている。
 こうしてみると、経営者にとっては、高価な機械を導入するより、人間をロボット化する方が、ずっと安直かつ有効だ、とわかる。
 でもって、トヨタは、巨額の利益を得る。その一方で、従業員は、ろくに利益を配分されない。……なんだか、資本主義の悪夢ですね。
 なぜ? 古典派の経済学者が、それを推進するせいでしょう。「企業利益の向上こそ、経済学の目的である」(人間の幸福なんて知ったこっちゃないぜ)と。


● ニュースと感想  (3月08日)

 「恐竜型の二足歩行ロボット」について。
 恐竜型の二足歩行ロボットが開発された。(朝日・朝刊・社会面 2005-03-05 など。ネットにも ニュース がある。)
 恐竜型は、人間型の二足歩行ロボットに比べれば、ずっと良い。というのは、前後には倒れにくいので、その分、人が下敷きになる危険性が少ないからだ。人間型の二足歩行ロボットは、前後に倒れやすいので、人が下敷きになる危険性がある。( → 2月21日 )(おまけで言うと、人間を下敷きにしない場合には、ロボット自身が壊れる。「1回転倒するだけで修理費が200万円かかる」とのことだ。 → Yahoo ニュース
 恐竜型は、コンセプトとしても、人間型の二足歩行ロボットよりもマシである。というのは、最初の二足歩行生物は、恐竜であるから、生物の進化の歴史に合致しているからだ。ロボットの進化の歴史も、生物の進化の歴史をたどるのが、好ましい。(さもないと、未熟な技術のまま、上記のような危険性をおかす。)
 とはいえ、恐竜型のロボットだって、まだまだ危ない。前後はともかく、左右には倒れやすい。しかも、現状のロボットは、凸凹の路面ではほぼ必ず倒れるシステムになっている。何か段差でも踏めば、たちまちバランスを崩して、倒れてしまう。事故は頻発する。(恐竜の足が人間の足を踏んづける、ということもありそうだ。情報によると、この恐竜形ロボットは、85キログラム。踏んづけられたら、痛いですねえ。下手をすると、つぶされるかも。女性のハイヒールのとがった部分に踏んづけられたようなものかも。ぎゃっ。)

 では、これらの技術的な課題がすべて解決して、ちゃんと歩けるようになったとしたら、どうか? それでもやはり、「街中にロボットが繰り出す」というのは、悪夢でしかない。なぜか? その理由は、「社会における機械化の歴史」を思い浮かべるといい。
 最初、街中には、人間がいただけだった。その後、馬や馬車が登場すると、人間は肩身が狭くなった。しかし、ここまでは、人間が優先だったからいい。
 問題は、その後だ。自動車が登場した。「すばらしい文明の道具」と人々はありがたがった。で、どうなったか? 自動車が道路を占拠して、「ここは自動車専用道路だ。人間は出て行け」と追い出した。たまに人間の子供が自動車専用道路に飛び出して死んだりしたら、「自動車でなくて人間が悪いんだ」という言い分で、殺人が正当化された。狭い道路は、自動車と人間の共用となったが、ここでも自動車が大いばりで、殿様である自動車様がお通りになったら、人間どもは脇へ下がって道を譲らなければならなくなった。たまに、気づかない老人などがいると、轢き殺されてしまう。その場合も、武士の「切り捨て御免」のようなもので、殺された方は踏んだり蹴ったりだ。殺した方も、せいぜい、数年程度の刑務所暮らしだけ。(たいていは刑期の途中で釈放される。)
 これほどにも、自動車様がのさばったおかげで、人間は自分たちのいた道路から次々と追いやられていった。今では、街中を通るたびに、生命の危機を感じずにはいられない。
 それと同様のことが、将来、人間とロボット様との関係にも、当てはまりそうだ。すでにある歩道は、ロボット様がたくさん通行することになるので、下層の人間どもは、歩道からも追いやられる。たまに、ロボット様のお通りに気づかないと、ロボット様にぶつけられ、下敷きになって殺されたりする。その場合も、せいぜい、ロボット様は調整工場に入れられるだけだ。死刑になることなど、絶対にありえない。(もともと生命がないから。)
 かくて、文明の発達の結果、人間のいられる領域は、この地上からますます減っていく。自動車様とロボット様ばかりがお通りになり、人間どもは追放されていく。(たとえ家のなかに閉じこもっていても、ディーゼル車の排ガスがまぎれこむせいで、花粉症で苦しめられる。逃げ場はない。)

 ただし、である。人間どもの役割が、皆無になるわけではない。役割は、ある。それは、税を払うことだ。自動車様の通行する道路を建設するために、人間どもから莫大な税金を徴収する必要があった。(自動車税以外に一般予算からも支出されたから、歩行者税を払っていたのも同然だ。)……これと同様に、ロボット様の相互調整などのために必要なコストを、人間どもから徴収する必要がある。かくて、人間どもは、莫大な税金を払わされて、ロボット様の奴隷となる。「猿の惑星」ならぬ「ロボットの惑星」かな。
 未来のロボット社会。そこでは、ロボットがご主人様であり、人間はその維持費用を払う奴隷にすぎない。……昔のローマ帝政時代にそっくり。(ローマ市民は人間らしい文化生活を送り、その底辺で下層の奴隷が働いていた。それとそっくり。)
 ついでだが、昔、お犬様を傷つけた人間は、縛り首になった。主客転倒。その再来かも。
 これは、悪夢か? しかしマスコミはしきりに、「バラ色の夢」と宣伝する。
(例。「ロボット様には免税せよ」という主張。 → 3月07日 [ 付記2 ] )

 [ 付記1 ]
 そう言えば、コンピュータについても、マスコミは「バラ色の夢」と宣伝していたね。現実には? ウィルスだらけだし、MSのバグのせいで処置に大わらわ。人間がコンピュータの奴隷となってしまっている。さらには、ケータイの奴隷にもなっている。頭は白痴化していくばかり。画像認知能力は高まるが、言語能力が低下して、そのせいで思考能力は低下するばかり。ときどき、ゲーム中毒のせいで、殺人までする。
 バラ色の世界? そうかもしれない。人間にとって、ではなくて、機械にとって。……とすると、もはやSFふうに、マスコミは機械の統制下にあるのかも。(たとえばナベツネは、ロボットなのかもね。)

 [ 付記2 ]
 書き終えたあとで気づいたが、読売の記事に注目。ロボット特集の大きな記事があるが、「安全性が課題だ。現状では何ら規制もルールもない」というふうに、冒頭でまず、問題点を指摘している。(読売・朝刊・特集 2005-03-07 )
 これは、立派だ。物事の片面だけを見て、「バラ色の夢」と煽動的に宣伝するどこかのマスコミとは、大違いだ。
 この記事の趣旨は、私のかねての指摘(2月21日)と同じだが、ともあれ、好ましいことだ。……だから言ったでしょ。「小泉の波立ち」を読めば、ちゃんとした記事が書けるって。

 [ 余談 ]
 ついでだが、ローマとうり二つの社会を望むのが、朝日の「単純労働者の移入」という提唱。外国人を低賃金の下層労働者として、奴隷のごとくこき使おう、という発想だ。
 それのどこが悪いのか? そうすれば、下層労働者が供給過剰となり、非常に低賃金となり、奴隷化される。一方、そうしなければ、下層労働者が供給不足となり、人並みの生活を送れるので、誰もが平民となる。
 外国人を奴隷として扱えば、自分たちは文化生活を送れる、というのが、朝日の主張。ロボット様が人間をこき使う、という発想にそっくり。
( ※ この週末の朝日の週末版 be にも、「自動車様」を称賛する朝日の提灯記事が掲載されている。「トヨタの自動車様は立派だ」としきりに持ち上げる。「自動車様、自動車様」と崇拝する。……社会に害悪をまきちらして人命を奪う凶器に対して、批判の「ひ」の字すらない。完全なる奴隷化。)

 [ 補足 ]
 文中に「人間ども」という言葉を見て、「蔑称だ、差別語だ」と非難する人がいるかもしれない。それだったら、マスコミにある「子ども」という蔑称を、何とかしてほしいですね。「子ども」というのは、「ガキども」という意味であり、「子供」という意味ではない。「子供」の意味なら、「子供」と書くのが正しい。
 「子ども」という用語は、「子たち」の蔑称であるか、「子供」の誤記か、いずれかである。知能指数が高くて賢明なマスコミがそろって誤記をするとも思えないから、「子たち」の蔑称であろう。(皮肉ですけど。念のため。)
( → 参考サイト

 [ 提案 ]
 なお、私としては、何が何でもロボットに反対している、というわけではない。二足歩行ロボットは有害だと思うが、小型の四足歩行ロボットなら、犬とたいして変わらないから、これは別に問題ないと思う。人間とぶつかったら、ロボットが蹴っ飛ばされるだけだ。(ただし柔らかいことが必要。)
 というわけで、二足歩行ロボットより、四足歩行ロボットを開発しましょう。( → 1月05日
 ついでに言えば、足がなければ、なおさら良い。( → 3月02日b アザラシ型ロボット )
 一番いいのは、手も足もない、ダルマだ。(ただのコンピュータのことね。)
 

● ニュースと感想  (3月08日b)

 「生体認証システム」について。
 銀行のATM(預金機)で、暗証番号に変わるシステムとして、生体認証システムが実用化されそうだ。ただし、方式が二通りある。指(人差し指)と、掌全体(五指を含む)。いずれも、静脈を認識する。ただし、採用する銀行が異なり、二通りが並存しそうだという。優勢なのは、指の方。大手銀行と郵貯がこちらにするので、こちらがずっと優勢だ。で、その理由は? 指だと、掌に比べて、情報量が少なくて済む。だから、ICカードでコスト低下が可能だ、とのこと。(読売・朝刊・経済面 2005-03-05 )
 というわけで、コスト優先で、指の方が普及しそうだ。これで好ましいのであれば、私としても何も言わないが、そうではないので、指摘しておく。

 まず、メリットについて。指による認証だと、コスト低下のメリットがあるという。しかし、コスト低下というのは、まったく無意味である。
 そもそも、メモリーの値段など、どんどん急低下しているから、価格の差など、あと数年で、ほとんど意味がなくなる。
 もっと重要なのは、情報圧縮技術だ。掌の静脈の情報など、フラクタルという技術を用いれば、うまく圧縮できる。容量は少しで済む。だから、コストの差など、ないに等しい。せいぜい十円ぐらいにしかならないだろう。
 もっと重要なのは、ICカードには、他の情報の記憶も入れるべきだ、ということ。たとえば、クレジットカードとか、住民番号とか、健保番号とか、年金番号とか、電子処方箋のデータとか。スイカ・カードや電子マネーというのもありますね。……こういう情報をまとめて入れることにすれば、どっちみち、データ量は大量になるから、生体認証のデータの容量など、ほんの少しばかり増えても、意味がない。たとえば、1MBのメモリで、使用量が 50KBか 100KBかという違いなど、ほとんど意味がない。(どうせメモリの大部分は空き容量である。)……というわけで、コスト低下のメリットは、皆無だ。

 次に、デメリットについて。指による認証だと、不便なことが二つある。
 一つは、「ケガ」だ。人差し指をケガをすることはある。女性に多い。すると、指にキャップや包帯をする。当然、ATMを使えなくなる。不便だ。
 もう一つは、ICカードを盗まれたついでに、指をちょん切られる、ということだ。たとえば、博多の一家惨殺事件のように、狂気の強盗犯がいる。それほどひどくはなくても、強盗のついでに被害者を縄で縛るというのは、しばしば起こる。今後は、そのついでに、人差し指をちょん切られることになる。これは、困りますねえ。
 一方、掌なら、以上の二つの問題はない。たとえば、人差し指だけケガをしても、残る部分が正常なら、十分に認識ができる。また、手首は、ちょん切られない。骨が太いから、まず無理です。強引にやれば、出血多量で、殺人です。また、もし手首をちょん切っても、銀行で使えません。持ち運んで、ちょん切った手首を取り出して、血を滴らせながら、ATMに差し出す、なんてことをやったら、パニックになります。……怖いですねえ。

 以上をまとめて、指認証の方は、メリットはほとんどなく、デメリットは非常に大きい。
 また、それを別としても、「コスト低下」というのは、銀行の都合。「不便になる」というのは、利用者の都合。……とすれば、利用者の都合を無視して、銀行の都合を押しつけるべきではあるまい。
 なお、両方の方式が採用されたら、私としては、掌認証の方に口座を変えるしかないですね。国民がそろってそうするように、掌認証の銀行は、自社の方式を宣伝しましょう。
 「指認証だと、強盗に指をちょん切られますよ。指をちょん切られたくない方は、掌認証の銀行へ」
 と。指の図入りで。血まみれで。
         | イテテ!

 [ 付記1 ]
 指をちょん切るというのは、現実性がないと感じる人もいるかもしれないが、ヤクザ映画では、ちょいちょい出てくる。高倉健の任侠映画など。指を詰める。「エイッ」という掛け声のもと、一瞬にしてちょん切る。
 「あれ、やってみたかったんだ。ただし、他人の指でね」と思うヤクザかぶれの連中が、強盗のついでに、やるかもね。
 なお、ホラーを書きたいわけではありません。無能な技術者の都合と、ケチな経営者の都合を優先して、利用者の都合を無視する、という性根が、気に食わないだけ。

 [ 付記2 ]
 ちょん切った指で実際に認証できるかどうかは、関係ない。強盗が「できる」と思う、というのが、肝心。
 強盗があとになって、「できると思ったんだけど、ちょん切った指では認証できなかったので、ちょん切った指を返します。だから罪に問わないでね」と指を返却しても、そのときでは、もう遅い。
 なお、私の言葉を無視してもいいと思う銀行マンがいたら、とりあえず、自分の指をちょん切って、認証できるかどうか、確認しましょう。

 [ 付記3 ]
 本項のテーマは、「すばらしき未来社会」。前項 (ロボット社会)と同じテーマです。

  【 追記 】 ( 2005-03-13 )
 本件について、知識のある読者から、詳しい情報を受けた。上記の記述は、修正すべきであると思う。ただし、いちいち私がどこがどう間違っているかと正誤訂正するかわりに、読者のご指摘をそのまま掲載する。
 【 引用 】
  生体認証システムの「指 対 掌」の話は、認証対象の物理的な比較ではなく、 光の当て方に大きな違いがあります。
  つまり近赤外線透過式指静脈と光反射式掌の比較になります。そして技術的には 指静脈のほうが優位点が多く低コストになります。まず透過式を採用したことにより、 得られる情報量が大幅にアップしますので、結果として認識率の差が顕著に出ます。 詳細は割愛しますが、数百倍以上の違いが出ます。 (但し両方のエラー率ともに、コンマ以下の数値です、決定的な差とはいえません。)
  次にコストの問題ですが、この差がメモリ容量だというのはマスコミのミスリードです。 データの大きさ以上に問題になるのはスキャナ部分等のメカ部分の大きさです。 指静脈だと全体サイズが普通の電卓サイズ大、スキャナ部分はハンコ台くらいで 収まりますが、掌静脈だと掌よりも大きなスキャナ部分が必要になり、周辺部品も すべて巨大化させる必要があります。このメカ全体のコストダウンはあまり容易 ではありません。
  最後に怪我その他の問題です。普通の怪我であれば静脈の流形はあまり変わらない そうですので問題ありません。そして絆創膏や包帯対策としては、代替指(通常登録を 右人差指にして、代替を左中指等)を登録することで回避可能です。もちろん掌も 左右可能ですから、このあたりはあまり差はありません。 また「他人の手や指を切断してのなりすまし認証」というのはこの生体認証については 不可能です。指も掌方式も切取ると静脈がつぶれてしまうので認識できなくなります。 指紋方式での指切り取り事件はアメリカで実例があると聞いており、これが生体認証 として静脈方式が開発された理由であり、セールスポイントになっています。 但し、ご指摘の通り狂気の犯罪者が手や指を切りそうになっているときに、「生体認証 には生きた指(掌)が必要ですよ」と騒いでもたぶん通じないとおもいます。 そのときには・・・指一本で助かればよいのですが。
 というわけで、私の記述は不正確であったわけだが、その理由は、主に、マスコミの報道が不正確であったから。
 ともあれ、読者のご指摘に感謝いたします。
( ※ 本人の自己紹介に関する部分は、個人情報なので、割愛した。)

 【 オマケ 】
 蛇足として、私の提案をいくつか。(読む必要はありません。)
 指認証にする場合の提案。
 私の気持ち? 警察に指紋がバレても、ちっとも困りません。どうせ犯罪をするつもりはないし。
 それより、誤認逮捕されたら、すごく困る。「あんたのアリバイがないんでね。ちょっと来てくれませんか」なんて、何度も呼び出されたら、すごく困る。「ねえ。ダーリン。何度も警察に呼ばれているよって言うじゃな〜い。でもホントは、浮気しているんじゃないの?」と疑われたりしたら、今まで必死に隠していたのが、すべて、水の泡になってしまう。あるいは、刑事に尾行されて、二人でこっそりホテルに行ったのがバレてしまう。残念。切腹。
 その点、指紋を電子的に登録しておけば、「健全なる善良な市民だな」と安心してもらえる。


● ニュースと感想  (3月09日)

 「ライブドアの株式取得」について。
 ライブドアの株式取得をめぐって、大騒ぎしている。「時間外取引がどうのこうの」なんていう、無意味な手続き論で騒いでいる意見も多いようだ。
 ここで、基本を示しておこう。
 「資本主義の社会では、株の売買も、会社の売買も、ただの商取引であり、当り前のことだ」
 ということだ。たとえば、誰かがトヨタのハイブリッド車を買い占めたり、日産の売れない高級車を買い占めたり、そういうふうに独占的な取得を狙っても、ちっとも悪いことではない。それと同様に、株や会社を売買しても、それはただの商取引にすぎない。言論統制というような弊害が起こらない限り、経営方針が転換しても、何の害悪もない。たとえば、ソニーの社長が替わったとしても、それはちっとも悪いことではなく、ただの当り前のことだ。
 これを基本として据えよう。

 一方、この基本を逸脱した現象もある。それは、こうだ。
 「株の売買によらず、恐喝によって会社を乗っ取ること」
 これは、資本主義の原理を逸脱しており、まともな経営交替ではない。こういうことを許してはならない。会社の経営を乗っ取りたければ、株を買い占めるべきであり、恐喝で経営を乗っ取るなんて、とんでもないことだ。
 ところが、それをやったところがある。産業再生機構だ。恐喝して、ダイエーの経営を乗っ取った。自分では株式の過半数をTOBで取得することもなく、「おれ様の言うことを聞かないとひどい目にあわせるぞ」と脅して、さらには取引先の銀行まで脅して、否応なしに、ダイエーを足元にねじ伏せた。
 
 だから、批判するなら、産業再生機構の方を批判するべきなのだ。それに比べれば、資本主義の原則に則って、会社の売買をしようとしただけのライブドアは、何ら罪がない、と言えよう。せいぜい、ごくわずかに、手続き上の瑕疵(かし)があっただけだ。そんな瑕疵に目くじらを立てるのは、本質を逸らす論議だ。手続きに着目したいのであれば、「手続きを守れ」とだけ言えばいいのであって、「だから全部ダメだ」というのは、論理の飛躍である。
 資本主義の原理を守るか逸脱するか。── そこだけを考えればよい。

 [ 付記1 ]
 ソニーでは、社外取締役の決定で、会長と社長が事実上クビになり、新たな経営陣が収まった。ここでは、正常な経営交替がある。これなら、問題ない。
 一方、多くの会社では、正常な経営交替システムが整っていない。社長が自発的に退陣して後継者を勝手に指名するだけだ。……こうなると、ダメな経営者がいつまでも居座り、企業と社会に迷惑だ。
 そういう弊害を解決する方法が、「資本の市場主義」である。つまり、「株の売買による経営権の交替」だ。これが資本主義の健全なシステムだ。
 これを破壊して、「株の売買による経営の交替はダメだ」なんて言うのは、資本主義を否定して、封建主義にしているだけだ。馬鹿げている。封建主義というのは、別名、日本的談合主義。海外から見たら、お笑いぐさでしかない。「日本という国は何と奇妙な市場主義をやっているのか。本来の市場主義というものをまったく理解していない。ひどい野蛮な前近代的国家だな」と。

 [ 付記2 ]
 思い直すと、ダイエーの再建策も、この「資本主義の原理」に従うべきだった。つまり、こうだ。
 「丸紅やイオンやヨーカドーなどを対象に、株式売却の入札をする。最も高値で応札した企業に、全株式を売却して、経営権を渡す」
 これなら、最も公正である。これがベストだろう。
( ※ 細かく言うと……もともと、既存の株がある。ただし、赤字が上回る会社であるから、あらかじめ 100%減資をしておく必要がある。その後に、新株の売却を入札で行なうわけだ。その株式の売却代金で、赤字の穴埋めをする。埋まらない分は、銀行が融資する。銀行の融資で埋められなければ、破産・清算する。だから銀行は必ず融資する。……というわけで、国による負担はゼロ。産業再生機構が莫大な金を出す必要はない。)
( ※ カネボウの場合も、本来ならばそうなるはずだったのだが、産業再生機構がしゃしゃり出てきたために、無駄をやって、国民による負担がぐんと増えた。産業再生機構というのは、あるだけ邪魔な存在。官僚式社会主義の集団。)

  【 追記1 】 ( 2005-03-10 )
 ライブドアに対して、「報道機関としての公共性への使命感が感じられない」と批判する見解がある。(読売・社説 2005-03-09 )
 しかし、これは、とんでもない錯誤だ。なぜなら、それは、「言論機関の私物化」を意味するからだ。読売のナベツネは、ここを勘違いしているのだろう。
 株主というものは、報道機関の経営状況に、あれこれと口出しをするべきではない。これが原則だ。朝日の記事によれば、ホリエモンは、経営には口を出さず、単に出資するだけだという。これが正しい資本家のあり方だ。資本家は、経営者を選任するが、経営自体は、経営者に任せるべきだ。資本家が「あれをしろこれをしろ」と口を出すというのは、資本家と経営者の役割をごちゃまぜにしており、正しい方針ではない。(例。堤義明の独裁体制。)
 資本家は、報道機関がどうするかについては、何の使命感も心構えもいらない。大切なのは、「ちゃんとした経営者を選ぶこと」、それだけだ。── そして、ここを誤認して、「会社は経営者のものだから、経営者の好き勝手にしていい。外部からの声なんか聞きたくない」と考えるのが、フジテレビの日枝や、読売のナベツネや、西武の堤義明だ。ワンマン経営者。
 ホリエモンが明らかにしたのは、「経営者と株主とは別だ」ということだ。これは資本主義の原則だ。しかるに、これは、すこぶる評判が悪い。なぜか? 「会社は経営者のものだ」という、身勝手なワンマン経営者が世にはばかっているからだ。かくてナベツネは、「報道機関としての公共性への使命感」ゆえに、「言論機関の私物化」をやって、保守論調で紙面を埋めつくす。

  【 追記2 】 ( 2005-03-11 )
 ライブドアの問題について、5件。次の (1) (2) (3) (4) (5)で。

 (1) ライブドアの株数
 ライブドアが株式の過半数を握っているかどうかが、注目の的のようだ。これについて、述べよう。
 私の見解を言えば、「ライブドアはもう過半数を上回っている」となる。なぜ? 「中立」という形で、議決権を放棄する株主が、けっこう多いからだ。フジに味方する株主は、もうフジのTOBに応じている。残っているのは、「中立」がほとんどだ。となると、株式の議決のときも、どちらかに議決権を委ねることはなく、中立だろう。特に、ライブドアの勝利が見通せるときには、中立が最も賢明だ。
 仮に、そうならないとしたら、今まで中立でいた各社が、急にそろって談合して、「反ライブドア」で一致協力する場合。それは、とうてい、ありえない。また、個人株主も、同様だ。というわけで、これらは委任状を出さずに、中立のまま、議決権を放棄する。というわけで、ライブドアはすでに実質的には、過半数を上回っている。
 さらに言えば、株式廃止を見込んで、株式を売却する個人や企業が多く出る。その株式のほとんどは、ライブドアが購入する。となると、「株数で50.01%、株主総会での議決権では60%弱ぐらい」を、ライブドアが占めるだろう。というわけで、株式数に関する限り、もはや決着はついている。

 (2) 今後の予想
 今後はどうなるか? 私なりに、予想してみよう。
 この後、6月の株主総会で、ニッポン放送の取締役がライブドア側になる。その後、ニッポン放送がフジの株式を購入して、25%を超えるので、フジによるニッポン放送への議決権が消滅する。ニッポン放送は完全に、ライブドアの子会社となる。それでもフジが意地を張る。その後は、二通り。
 一つは、フジが意地を張るのをやめて、両社で提携する。
 もう一つは、ライブドアが頭に来て、ニッポン放送を丸ごと他社に売り渡す。たとえば、丸紅とか。で、フジは、「ホリエモンの傘下に入るのはいやだが、丸紅の傘下に入るのならいい」と言い張って、態度を百八十度転換する。これまでの理屈をすべて撤回して、「ホントはただの好き嫌いで言っていたんです。醜男のホリエモンの彼女が美人タレントだったのが気に食わなかっただけなんです。男のやっかみだったんです。うちのカミさん、ちっとも美人じゃないのでね」と本心をさらけ出す。
 この二通りが考えられる。……ただし、その前提は、「裁判所がフジに言い分を認めないこと」(新規の株の予約券を認めないこと)である。どうなるか? 日本の裁判所は、腐っているから、どうなるかは予想がつかない。
( ※ 青色LED裁判では、自分好みの結論を出すために、法を曲げてまで、勝手な解釈を下した。それが日本の腐った裁判所。予断は許さない。)
( ※ 私の予想で言えば、裁判官のカミさんしだい。カミさんが不美人ならやっかみを感じて、フジの勝ち。カミさんが美人ならやっかみを感じないので、経済の原則通り。つまり、ライブドアの勝ち。)

 (3) ライブドアの撤収の場合
 もしライブドアが負けて、撤収したら? 「無一文になる」なんて言っている観測記事もあるが、ありえない。ニッポン放送の資産(フジテレビ・ポニーキャニオンなど)だけで、現在の株価と同じぐらいある、と言われている。とすれば、最悪でも、2割ぐらいの損失で済む。この程度なら、ライブドアの通常利益でまかなえる。
 現実には、「約半数の株式をまとめ売り」という形なら、赤字を出さずに売却することも可能だろう。(たとえば丸紅に。)
 というわけで、ライブドアの撤収の場合も、ホリエモンは無事安泰。(だから勝負したんですね。決して無謀ではない。価値はあるが負けはない、という見通し。)

 (4) 提携と独裁
 さて。本質を考えよう。時間外取引の可否というような手続きは、本質ではない。では、本質は何か?
 まず、本来なら、どうなるべきか? 当然、両社の提携である。提携すれば、両社がともに利益を得る。これが常識。しかるに、そうならない。両社が利益を得ても、不利益になるものがあるからだ。それは? フジテレビの独裁者である。彼だけは、独裁の座を脅かされ、権限を半分ぐらいに減じられる。
 だから、ここが本質だ。会社の損得ではなくて、日枝という個人の独裁を守るかどうかが、争点となっている。当然だが、日枝が退陣すれば、両社は仲良く提携して、両社が利益を得る。その場合、両社の株はともに上昇する。……しかし、日枝としては、そんなのは断じて認められない。それが今回の闘争。

 (5) 一般論
 一般論で言えば、企業の売買は、良くも悪くもない。例として、IBMのパソコン部門の売買がある。シンクパッドなどの部門が、中国のレノボに売却された。これを見て、「いやだ」と思う従業員が多いだろうが、そんなことを言っても仕方ない。企業の売買は、資本主義の原理では、当り前のことだ。また、株主が変わったからといって、従業員の雇用状況が激変するわけでもない。
 IBMの場合と今回の場合とでは、どう違うか? 旧来の経営者の意向に沿うか沿わないか、という違いがあるだけだ。で、旧来の経営者が「OK」と言えばその買収は善であり、旧来の経営者が「いやだ」と言えばその買収は悪である、というのが、おおかたの理屈。経済の原理を、損得ではなくて、好き嫌いという気分で判断していることになる。
 こういうふうに「お殿様の気分で決める」というのが、封建制の特色。一方、「損得という経済原理で決める」というのが、資本主義。……「金がすべてという思想はけしからん」という批判は、封建主義者の主張。(先日に述べたとおり。)


● ニュースと感想  (3月09日b)

 「教育水準の向上の方法」について。
 日本の教育をよくするには、どうするべきか? ── この問題については、前にもいろいろと述べたことがある。( → 1月30日b 総合学習 ,5月28日b 言語力と思考力 )
 ただ、それとは別に、最も基本的なのは、次のことだと思う。
 「週五日制をやめる」
 週五日制というのは、本当にひどいと思うんですよね。なぜか? 子供と大人には、次の差があるからだ。
   ・ 子供 …… 飽きっぽい。すぐに疲れる。回復は早い。
   ・ 大人 …… 疲れにくいが、疲れを抜くのに時間がかかる。
 だから、結論は、こうだ。
   ・ 子供 …… 週六日制がよい。一日の勉強時間が短い。
   ・ 大人 …… 週五日制がよい。一日の労働時間が長い。

 子供のころのことを覚えていますか? 午後3時ぐらいになると、「もう疲れたなあ。早く帰りたいなあ」とばかり思いますよね。一方、休みが二日も続くと、「退屈だなあ。学校でみんなと会いたいなあ」と思います。
 子供は、疲れやすく、飽きっぽい。だからこそ、週六日制がよい。「週五日制がよい」というのは、大人の都合だ。たとえば、
 「週五日制なら、親と子がいっしょに遊べて、便利だ」
 こういう親の都合で、週五日制が導入された。その犠牲になったのが、子供だ。かくて、学力低下。勉強時間の総量が減るし、一日の最後のころの勉強は、やっても無駄だ。一日にたくさん詰め込むので、能率が悪くなる。覚えたものを、記憶できない。その後、土日の間に、覚えかけたものを忘れてしまう。

 用語。「賽(さい)の河原」
 …… 河原で父母供養のために、小石を積んで塔を作ろうとするが、石を積むとすぐに、鬼が来てこわしてしまう。いくら努力しても、元の木阿弥。

 結語。
 小学生・中学生は、週六日制で。高校生・大学生は、(土曜の半日のために電車に乗るのは馬鹿らしいので)週五日制に。
( ※ 私自身は、高校時代、土曜日は自主休講・自主休校にしていました。「サボり」とは呼ばないでください。)

 [ 付記1 ]
 正しい勉強法としては、週刊モーニングに連載されている漫画(ドラゴン桜)がある。これについては、前にも紹介したことがある。
 ただ、「どうしてこんなに正しい方法がわかるのだろう?」と不思議に思っていた。あまりお利口そうでもない漫画家が、これほどにも的確な勉強法を知っているなんて、実に不思議だった。
 そのわけがわかった。二〜三週間ほど前の週刊 FLASH に書いてあった。実は、漫画家の知恵ではなくて、編集者の知恵だという。彼が東大出だ。で、彼が、自分の知恵と友人の知恵を提出して、漫画家に教えたという。東大出の編集者が「東大合格なんて簡単だよ」と言っているわけだ。ふむふむ。
 それなら、納得が行く。なぜか? 東大出の編集者なら、頭がいいからか? 違う。東大出の編集者なら、要領がいいからだ。たぶん、あちこちの予備校や本などから、「正しい勉強の仕方」という知識を得たのだろう。自分で考えることはできなくても、他人の知識を吸収するという点でなら、東大出身者はたいてい上手だ。
 ええと。これは、彼らを馬鹿にしている言葉ではありません。正しい勉強法をすれば、「自分の頭で考える」という訓練はできるようになる。それは正しいことである。決して間違ってはいない。……ただし、正しい訓練をすれば独創的な人間になれる、とは限りません。
 実を言うと、独創性を獲得するには、ある点で、要領の良さとは正反対の能力を要する。「あえて困難な道を選ぶ」という能力だ。……これはちょっと、お利口な秀才ちゃんには、無理ですね。とはいえ、一般の人は、そこまで要求されません。上記の漫画のレベルで十分でしょう。

 [ 付記2 ]
 この漫画の最新号の話題は、「英語のヒアリングのためには、耳でテープを聞くな。教科書を音読せよ。また、教師の音読を復唱せよ」という話。
 それとは別に、新聞の人生相談。「職場(日産?)で、上司も仲間も、みんな英語を使い出した。自分だけは英語を使えないので困っている。どうしたらいいでしょう?」(朝日・朝刊・生活面・コラム 2005-02-25 )
 記事では、名案がないらしく、冗談ばかりの解答だった。そこで、私の解答。
 「英語なんか使えなくても、他の面でちゃんと仕事をすれば大丈夫。セールスマンなら商品を売る。技術者なら優れた設計をする。……そういうことができなければ? それは単に、仕事ができないというだけのことだ。英語もできず、他のこともできない。単なる無能。若いころ遊びすぎたツケが回っただけだ。自業自得。『遊んで楽をできる工夫は?』なんて質問する方が、馬鹿げている。まずはその性根をたたき直すのが先決。」
 というわけで、「英語力がなくて困っている」という人への解答は、「滝で打たれて修行しなさい」だ。そのあとで、上記の漫画を読んで、英語の勉強でもしましょう。……でも、手遅れかもね。
 やはり、勉強をするなら、若いとき。遊んでいて、あとで困るのは自分自身だ。
 ついでだが、「あまり勉強しないでも、成績が良くなる」というふうにする方法はある。それは、「他人の勉強を邪魔する」ということだ。── つまり、他人には「ゆとり教育」と主張する一方で、自分と自分の子供については「真面目に勉強」というふうにする。
 実は、これをやっている人もいます。それは、朝日の社員。社説ではしきりに「ゆとり教育」と主張するが、自分は真面目に勉強して東大に入学する。ずるいね。だから、朝日の社説を読んで、まともに信じると、馬鹿を見ます。文部省の「ゆとり教育」も同様。幹部は、自分の子供だけは「ゆとり教育」なんかやめて、私学に入学させます。文部省の幹部の子供は、公的教育を受けない。
 というわけで、「あまり必死に勉強しないで、良い成績を取りたい」と思ったら、自分だけはしっかり勉強した上で、他人には「ゆとり教育で遊ぼう」と勧奨すればよい。(朝日流の受験対策。自分の子弟の合格のために、紙面を使って他人を洗脳する、という方法。卓抜。)

 [ 付記3 ]
 現在の教育の荒廃について、記事があった。「イラクの位置を知らない生徒が多い」という状況の記事を受けたあとで、解説する。都道府県の県名を、今では小学校でまったく教えないという。また、海外は、アメリカは必須だが、ヨーロッパは英独仏のどれか。アジアは、中国かマレーシア。だから、どこにどんな国があるかは、学校教育ではまったく教えていないという。(上記は中学生の地理。また、高校の地理は必修科目でない。)(朝日・夕刊・2面・コラム 2005-02-24 )
 昔は? 都道府県の県名ぐらいは、当然、教わる。世界各国の位置も、当然、教わる。たとえば、「イタリアは長靴の形をして、地中海に出ている」というのを、ちゃんと教わる。
 いくら「考える力が必要」といっても、最低限の基礎知識がなければ、「言葉を覚えずに思考する」というようなもので、馬鹿げている。たとえば、アメリカが世界地図でどこにあるか理解しなければ、アメリカについて考えるのも馬鹿らしい。
 結論。
 現状の教育は、荒廃している。それ以前に、現状の教育制度が荒廃している。子供はその被害者だ。
( ※ 朝日と文部省[ = 文部科学省 ]のせいかな。)


● ニュースと感想  (3月10日)

 「人類の進化」について。
 新聞の番組予告欄によると、09日の夜の民放で、「人類の進化」という話題が取り上げられるという。アフリカの熱帯に適応して手足が長くなったり、極地の寒さに適応して手足がずんぐりして皮下脂肪がたまったり、……というふうに、環境に適応して進化した、という。(朝日・朝刊・番組欄 2005-03-09 )
 これは嘘八百である。このような適応は、「進化」ではない。ただの個体差だ。なぜなら、次のことが成立するからだ。
   ・ 種の違いをなさない。(混血が可能。)
   ・ 変化(進化?)が可逆的である。
 前者は、明らかだろう。黒人とエスキモーは混血が可能であり、ハーフやクォーターなどの中間形態の子供が無数に生まれる。ゆえに、種の違いをなさない。(普通、異なる種の間では、子が産まれないか、子が産まれても生殖能力をもたない一代雑種である。)
 後者は、こうだ。ずんぐりした人々を熱帯に移して、子孫から手足の長い人だけを選べば、ほんの数百年で、手足の長い人ばかりにすることができる。具体的な例もある。日本人と白人は別の体格をもつと言われるが、アメリカの日系人の体格は白人と大差がない。つまり、ほんの数十年で、差がなくなる。(ほとんどは食生活の差によるわけだ。)
 別の理由もある。こうだ。アメリカ人には多様な人々がいる。そのなかで、手足がずんぐりして皮下脂肪の多い人だけを集めて集団をなすこともできるし、手足が長くて痩せた人だけを集めて集団をなすこともできる。……つまり、「進化」と呼べるものが、ただの分類によって可能である。

 より本質的に言おう。冒頭のような誤解が生じる理由は、何か? それは、次の信念だ。
 「突然変異した遺伝子の蓄積が進化をもたらす」
 これは真っ赤な嘘である。これを言い換えると、こうなる。
 「小進化の蓄積が大進化をもたらす」
 この命題が正しければ、進化は「連続的な進化」になるはずだ。しかし事実は、そうではない。化石は「断続的な進化」を示す。つまり、上記の命題は、化石によって、はっきり否定されている。
 進化があれば、突然変異は蓄積している。しかし、逆は成立しない。つまり、突然変異が蓄積しても、進化は起こらない。そのことは、分子生物学からも、裏付けられている。「突然変異の頻度は常に一定だ」ということ。いわゆる「分子時計」だ。これはさまざまな点ではっきりと実証されている。これは「突然変異は連続的だ」ということを意味する。(木村資生の「中立説」と合致する。)しかるに、進化は断続的なのだ。
 たとえば、現生人類では、突然変異はいっぱい蓄積しているが、その突然変異はすべて個体差のレベルに収まり、種の違いをなさない。また、犬には、同じ種とは思えないほど多様な突然変異がいっぱい蓄積しているが、その突然変異はすべて個体差のレベルに収まり、種の違いをなさない。いわゆる「亜種」「品種」というのは、個体差に地域差が見られるだけのことだ。本質的には、個体差にすぎない。「環境への適応」というのも、そういう「亜種」「品種」のレベルに収まる。

 番組では、「環境に適応して進化する」という説を主題とする。しかし、これはそもそも、ありえない。人類はたしかに、多様な環境に進出したが、多様な環境への進出は決して進化をもたらさなかったのだ。「環境への適応」は、進化によってではなくて、衣服などの道具によってなされた。だから、最大の理由は、「人類の進化」ではなく、「環境に適応する知力」だ。人類にはそれがあった。
 たとえば、寒地に向かったのは衣服があったから。海に入れたのは、船があったから。宇宙に飛び出したのは、宇宙服や宇宙船があったから。これを、人類の生物的な変化としての「進化」と呼ぶのは、とんでもないことだ。人類(ホモ・サピエンス)はたしかに、多様な環境に進出したが、生物的な種としては同一のままであり、進化などはなかったのだ。

 実は、「環境に適応して進化する」という説は、そもそも根本的に、成立しないのだ。
 例。 「魚が陸に上がると、魚に足が生える」
 そんなことはありえない。魚が陸に上がると、魚が干上がって死ぬだけだ。この件は、前にも述べた。
( → 7月29日b2月08日c
 ついでに、お金が欲しい人に、一言。貧乏なときには、お金があると有利だ。では、人間が貧乏な環境に進出すると、お金があると有利だという理由で、お金もうけが上手になる突然変異の遺伝子が、都合よく発生するだろうか? もしそうなら、貧乏生活をしながら、突然変異が都合よく発生することを期待するがいい。── こういう「必要に応じた進化」というのは、「用不用説」といって、現代では否定された説である。「環境に適応して進化が起こる」という説は、「用不用説」であって、完全な間違いなのだ。

 [ 付記 ]
 では、正しくは? 「環境に適応しない遺伝子が自然淘汰で減少する」ということだ。「環境」は、劣者の減少を説明できるが、優者の誕生を説明できない。優者の誕生を説明するには、別の原理が必要だ。
 その原理は? 基本的な話は、クラス進化論のページ で。
 ただし、これは、簡単なあらましだけだ。詳しい話は、現在執筆中の進化論の本(近著)をご覧ください。近著の予告。ものすごくおもしろい話。刊行予定は、かなり先。

  【 追記 】 ( 2005-03-10 )
 人類の寒地適応などの例が「進化」ではない、ということを、もう少しはっきり示そう。
 仮に、これが「進化」だとしたら、寒地適応した人種が、その後、それとは別の体型(元の体型)になったとき、それを「退化」と呼ぶことになる。一方で、その体型の変化が、元の環境(温帯)に適応したものであれば、それはそれで(温帯に適した)一つの「進化」であることになる。
 つまり、同一の現象が、「退化」でもあり「進化」でもあることになる。論理矛盾。理論の破綻。
 要するに、可逆的である変化は、「進化」ではないのだ。そして、寒地適応という例は、可逆的である変化だから、「進化」ではないのだ。それはあくまで、一つの種のなかの個体差にすぎない。
 だいたい、こんなものを進化と呼ぶとしたら、「水泳に適した体型」とか、「相撲に適した体型」とか、そういう体型の個体集団を選んで、「プールという環境に適応した進化」とか、「土俵という環境に適応した進化」とか、そういうものができてしまう。馬鹿げた話。
( ※ 馬鹿げた話の根源は? それは、「環境に適応した進化」という仮説だ。この仮説が完全に間違っていることの、別の証明。日本は北海道は寒くて沖縄は暑いが、どちらも同じ人種。欧州でも、北欧は寒くて南欧は暑いが、どちらも同じ人種。環境は違っても、人種は同じ。)
( ※ では、人種の差は、どう生じたか? 環境に応じて生じたのではない。「アフリカ → 中東」のあと、「中東 → 欧州」と「中東 → 極東」という、二方向の方向分けに応じて、人種差がなだらかに生じた。ただしこれは、進化ではない。前述の通り。)
( ※ ついでに言えば、皮膚の色は、進化とは何の関係もない。メラニン色素は、同じ個体であっても、寒地では減り、熱帯では増える。主に温度差に影響を受けるが、紫外線にも影響を受ける。例。スキー焼け。)


● ニュースと感想  (3月11日)

 「推理小説と勧善懲悪」について。
 先日、少年少女向けの小説として、勧善懲悪のものをお勧めした。「悪いことをすると、いくら隠したつもりでも、名探偵が悪事を見つけて、悪漢を牢屋にぶち込む」というふうになる、と。( → 2月28日
 さて。推理小説というのは、たいてい、最後に犯人がつかまる。つまり、勧善懲悪だ。「犯人がつかまらないで、ゆうゆうと逃げおおせる」というのは、フィクションの推理小説では、まずありえない。(三億円事件のような実録ものを除く。)
 なぜ? これについて、常々疑問に思っていたが、ある推理小説の解説で、ちゃんと説明してあった。実は、「犯人が逃げおおせる」というのは、小説家の手抜きなのだ。ちょっとしたトリックを用意して、「それがうまく行きました」というのでは、単純すぎる。こんな手抜きが許されるなら、ど素人でさえ推理小説が書けてしまう。
 また、小説家よりも利口な読者が、「実はこれこれの理由で失敗しますよ」なんて指摘したら、小説家の顔がつぶれる。(実を言うと、私は昔、これに似たことを指摘してやったことがった。「法医学の点で、そのことは成立しません」と。……今にして思うと、小説家の方は、ずいぶん冷や汗をかいたでしょうねえ。)
 というわけで、あとで読者の指摘を受けないためにも、「このトリックはこういうふうにして瓦解します」というところまで説明しておかないと、不完全な作品となる。プロの作品にはなりません。だから、推理小説では、必ず、犯人がつかまります。
 なるほど。納得。ちなみに、三億円事件のような実録ものでは、犯人がうまく逃げおおせているが、未解決なままなので、読者としては読後感がすごく悪い。推理小説の解決編だけが抜けているようなものだ。読んだあとで、「金返せ」と叫びたくなる感じ。


● ニュースと感想  (3月12日)

 「沈黙の夏」について。(地球温暖化の問題で。)
 「沈黙の春」という言葉は、レーチェル・カーソンが使った言葉。農薬による環境汚染で生物が消えることを象徴的に示した。それを見習って、「沈黙の夏」という言葉を、私は現状に当てはめよう。
 地球温暖化の阻止を狙って、「炭酸ガスの抑制」という方策が、あちこちで話題になっている。特に企業は、「これこれの炭酸ガスを削減しました。これで、莫大な面積の森林緑化をしたのと、同等の効果があります」と自慢する。(読売・夕刊・科学面 2005-02-26 )
 なるほど、炭酸ガスの抑制に限れば、そういう効果はあるだろう。では、だからといって、森林緑化が不要になるだろうか? 「否」というのが、私の見解だ。
 先日( 2月14日c )では、「酸素がなくなる」と指摘したが、これはちょっと大げさだったかもしれない。酸素は炭酸ガスに比べて圧倒的に多いから、炭酸ガスの増加を問題視するほど、酸素の減少が大幅であるわけではない。とはいえ、結論は、変わらない。そこで結論したとおり、「森林の緑化」は、絶対に必要である。
 なぜか? それを示すのが「沈黙の夏」という言葉だ。仮に、森林がなくなれば、どうなるか? 砂漠になる。あるいは、(杉人工林のような)針葉樹林になる。すると、どうなるか? そこには「沈黙」がある。なぜなら、砂漠または針葉樹林には、多様な生物の棲息できる環境がないからだ。

 針葉樹林(裸子植物の森林)というのは、おおざっぱに言えば、恐竜のいた時代の森林である。(正確に言えば、シダ類なので、杉とは全然違うが。ともあれ、被子植物ではない。)
 恐竜のいた時代の森林には、昆虫はいたが、鳥も哺乳類もほとんどいなかった。その後、被子植物が繁栄するにつれて、被子植物の果実を得る鳥が増えた。また、果実を食べる哺乳類も増えた。しかし、今の針葉樹林には、果実はないから、恐竜のいた時代と同様に、鳥も哺乳類もほとんど棲息できない。
 「沈黙の春」という言葉では、生命を奪われたのは、鳥や昆虫や魚貝類だった。「沈黙の夏」という言葉では、生命を奪われるのは、鳥や哺乳類だ。「地球温暖化の阻止」という名目で、炭酸ガスの排出だけは抑制したが、森林の緑化をほったらかしたため、砂漠と針葉樹林ばかりが増えて、広葉樹林が減っていく。(広葉樹は被子植物である。)
 多様な生物が存在できるためには、広葉樹林が絶対に必要なのだ。そのためには、炭酸ガスの抑制だけをいくらやってもダメで、広葉樹林による緑化が絶対に必要なのだ。(熱帯雨林など。)
 広葉樹林は、水の蒸発量が大きいので、雲を形成し、雨を降らせ、地上と空との水の循環を正常化させる。一方、針葉樹林や砂漠は、水の蒸発量が少ない。そのせいで、海洋からしか水の蒸発がない。すると、各地で砂漠化現象がいっそう進んだり、局地的な豪雨が起こったりする。それは人間に対しても、災害をもたらす。(たとえば台風による莫大な被害。……これを「地球温暖化」のだけのせいにするのは、認識が甘い。)

 広葉樹林は美しい。白神山地のブナ林であれ、里山にあるナラやクヌギであれ、あるいは都会の並木のケヤキやハナミズキであれ、公園の桜であれ、殺風景な杉よりもずっと美しい。そこには四季の変化がある。
 この美しい森林が、美しい地球をもたらすのだ。果実と落葉のある広葉樹こそが、自然に多様性をもたらし、生物に多様性をもたらし、この地球に美しさをもたらすのだ。裸子植物である杉は、恐竜の時代の林のように、単調な生態系をもたらすだけだ。そこには美しい豊かな自然はない。
 大切なのは、人間の生存のために、炭酸ガスを減らすことではない。この美しい地球にいる多様な生物を守るために、広葉樹による緑化をすることだ。つまり、「沈黙の夏」を避けることだ。
 現状のままでは、「沈黙の夏」に至る。つまり、炭酸ガスの抑制には成功するが、地球は砂漠化し、人間以外の生物がどんどん死んでいく。鳥は絶滅し、森林の哺乳類も絶滅し、草原の哺乳類も絶滅する。── マスコミは、そのことを指摘するべきだ。「生物の絶滅」を。そして、それを指摘しないマスコミは、いくら「地球温暖化の阻止」という記事を書いても、しょせんは、地球の破壊に賛同しているのも同然なのだ。
( → 2月14日b 風力発電と鳥の被害。)

 [ 付記1 ]
 砂漠化の例としては、サハラ砂漠が有名だ。かつては森林であって、恐竜もいた。また、八千年前までは、肥沃な土地であり、農業もなされ、多くの生物が棲息していた。(同緯度の世界各地と同様。)……しかるに、今では不毛の地となっている。では、なぜ? 
 砂漠化の起こるメカニズムについて、興味深い記事がある。砂漠の拡大の過程で、防砂林などの植生が風を遮ると、砂漠の拡大は食い止められる。しかし、森林が途切れて、風の通り道ができると、砂が風に乗って浸食し、一挙に砂漠化が進む、という。つまり、最初が肝心だ、ということ。(読売・夕刊・科学面 2005-02-26 )
 「蟻の一穴」のようなものだ。こういして砂漠化は拡大していったわけだ。たぶん、八千年ほど前に、農業のやりすぎで、森林を伐採しすぎたのだろう。今と同様。

 [ 付記2 ]
 熱帯雨林の減少も有名だ。人類の誕生のころ、熱帯雨林は地球の40%を占めていたのだが、20世紀の最後のころに急激に減少し、現時点では20%以下になっている。
 熱帯雨林については、「焼き畑農業」がしばしば問題にされる。ただし、焼き畑農業は、それ自体では、悪ではない。規模が小さければ、焼き畑の地点を順々に交替するだけであって、森林の減少にはならないからだ。
 ところが20世紀後半になると、人口の増加にともなって、焼き畑の規模が拡大し、森林の減少が起こった。この時点でようやく、焼き畑が問題となった。……だから、焼き畑の根本原因は、どちらかと言えば、人口の増加だろう。人工の増加がなければ、焼き畑は問題ではないのだから。
 この点では、地球の温暖化も、似た事情にある。「後進国の焼き畑が悪い」と言うのであれば、「先進国の文明生活が悪い」とも言える。

 [ 付記3 ]
 生物の多様性と、有機農業とは、関連する。有機農業では、通常、害虫が繁殖するので、無農薬というのは無理だ(低農薬ならいい)、と言われる。ただし、これを否定する見解がある。株の間隔をひろげて(密生栽培をやめて)、かつ、野草を残して、生物の多様性を保つ。すると、害虫の天敵がうまく繁殖して、生態系のバランスが取れるので、害虫が繁殖することはない。これが有機農業の基本だ、という。(朝日・朝刊・声欄 2005-03-04 )
 興味深い指摘だ。通常、やたらと効率化ばかりを進めて、多様性のないまま、単一作物ばかりを生産する。あげく、農薬漬けだ。しかし、害虫が繁殖するのは、生物の多様性を否定して、単一作物を密生栽培したからなのだ。
 これは人間にも当てはまるかもしれない。そもそもの話、生物には、害虫と益虫の区別などはない。人間が勝手に区別しているだけだ。多様性を否定するなら、害虫の方が人間を「害獣」と判断して、除去してもいい、という理屈になる。
 人間の自分勝手であれ、米国の自分勝手であれ、たいていはあとでしっぺ返しを受ける。むしろ、多様な生物や思想の共存を受け入れ、地上に多様性を保つことこそ、賢明だと言えるだろう。「優勝劣敗」という「市場原理」による単一化は、害悪をもたらすばかりだ。
(例。最も優秀な国だけが残り、他の国の文化をすべて破壊する。最も優秀な人間だけがクローンで遺伝子を残し、他の人間はすべてアウシュビッツで抹殺する。……前者は英語至上主義者。後者はナチス。……前者の例は、日本の歌謡曲にあふれています。「 Are you 〜」なんていう名前の歌手もいるしね。なお、彼女の名前を略して呼ぶようにして、「 How much are you?」と尋ねると、どうなるんでしょうねえ。  (^^); )

 [ 付記4 ]
 レーチェル・カーソンの「沈黙の春」については、当時のマスコミはひろく報じた。そのおかげで、十年ほどの期間を経て、化学物質が規制され、人間の健康は被害を免れた。しかしながら、現在のマスコミは、それだけの勇気がない。
 実を言うと、当時、レーチェル・カーソンが「沈黙の春」を主張した直後、彼女にはものすごい攻撃が襲いかかった。それは、製薬会社による攻撃である。もし彼女の意見が正しいとすれば、製薬会社は莫大な売上げを喪失する。だからこそ、多額の金をかけて、政党に献金したり、政府に根回ししたり、各種企業で共同で広告を打ったりして、彼女にものすごい攻撃をしかけた。
 それでも、結局は、良心的なマスコミのおかげで、じわじわと賛同者が増え、最終的には、化学物質が規制されるようになった。
 ただし、これは、米国の話。米国のマスコミは、比較的まともだから、「沈黙の春」に着目して、製薬会社の横暴に対抗した。日本のマスコミ? たぶん、無理でしょう。「沈黙の春」ならぬ「沈黙のマスコミ」というのが、日本の常だ。
 なぜ? 「面白くなければ、ニュースじゃない」というわけ。


● ニュースと感想  (3月13日)

 「燃料電池と天然ガス」について。
 水素を利用した燃料電池車が試験的に利用されているという。ディーゼル車よりも快適で、排ガスもない、だからすばらしい、という話。
 で、水素を、どうやって取り出すか? 現状では、火力発電で発電して、水素を生成する。これでは、火力発電で温暖化ガスが出る。そこで、水素だけを取り出す工夫も研究されているというが、研究段階。一方、天然ガスから水素を取り出す方法もあるという。(読売・朝刊・国際面 2005-02-23 )

 さて。天然ガスから水素を取り出したとして、残りの残余成分(炭素)は、どうなるか? 炭素を燃やしてしまえば、やはり、炭酸ガスが出る。とすれば、総合して、こうなる。

       ┌─  水素 → 水を排出
  天然ガス ┤
       └─  炭素 → 炭酸ガスを排出


 上半分と、下半分がある。水素だけを見れば、無公害だが、全部ひっくるめれば、天然ガスをそのまま利用したのと、何も変わっていないことになる。これでは、無意味だ。「尻抜け」と呼ぶにふさわしい。あるいは、こうだ。
 「右手から左手に負担を移して、右手の負担は空になったぞ、と喜ぶ」
 つまり、左手の負担が倍になったことに気づかないで、右手だけ見て喜ぶわけだ。

 では、どうすればいいか? 次のことが大事だ。
 「水素だけを単独で取り出せるシステムの構築」
 「残った炭素は燃やさないで使うシステムの構築」
 これなしに、「燃料電池車の開発」ばかりを騒いでも、まるで尻抜けなのだ。
( ※ 残った炭素をプラスチックにするのは、問題ない。プラスチックは工場で燃やされて、炭酸ガスを出すかもしれない。しかし、どっちみち、その分のプラスチックは、石油から作られるはずだった。だから、石油の使用量が減るだけで、炭酸ガスの量には影響しない。)
( ※ ただし、プラスチックには、炭素も水素も必要だ。炭素だけを大量に使う方法は、あまり見つかりそうもないですね。)
( ※ となると、水から電気分解で水素を取り出すしかないかも。……これじゃ、発電設備が別に必要だから、すごく無駄になりそうですね。蓄電池の電気自動車と同じことになる。)

 そして、もう一つ、大切なことがある。現時点の段階としては、「燃料電池車はすばらしい」なんていう十年以上先のことを騒ぐべきではない。むしろ、今すぐの話として、「ガソリン車やディーゼル車よりも、天然ガス車を利用するべきだ」ということだ。乗用車はともかく、バスやトラックは、汚いディーゼル車よりも、きれいな天然ガス車を利用するべきだ。そうすれば、半分だけクリーンな状況が実現する。花粉症は激減し、炭酸ガスもかなり減る。
 ずっと先のことを夢想するより、今すぐなすべきことをなした方がいい。
( ※ だけど、まともな新聞記事を書くと、人気は出ないかもね。遠い先の夢だけを見せて、現実逃避させた方が、読者の受けはいい。……愚民政策。それがマスコミの体質だ。その典型が、「燃料電池」という夢物語。真面目に働くことよりも、競馬やパチンコが好きな連中が書く記事。)

 [ 付記 ]
 炭酸ガスについては、しばしば、次の意見が出る。
 「牛のゲップが、炭酸ガスをたくさん出す」
 さて。本当にそうか? まず、牛と馬の違いを理解しよう。生物学の本に書いてある。(日高という生物学者が書評で書いている。)── 草は栄養素が低い。草食動物は、栄養素を取りにくいので、困る。ここで、牛と馬は、戦略が違う。牛は、草を食べると、胃で何度も反芻して、小量の草から栄養をとる。馬は、大量の草を食べると、さっさと腸の最後まで送り出して、排出する。(だから馬糞はデカくて臭い。)
 このことから、何がわかるか? 
 牛は、何度も反芻するから、体内で微生物が活躍して、牛がゲップして、炭酸ガスをたくさん出す。
 馬は、大量の馬糞を出すから、体外で微生物が活躍して、馬糞が臭いながら炭酸ガスをたくさん出す。
 どちらの方が、炭酸ガスをたくさん出すか? 実は、どちらも、同等である。仮に、馬や牛が食べなければ、草はそのまま腐って、地上で微生物が炭酸ガスを出す。この場合は、炭酸ガスを出すのは、草自身だ。
 草や牛や馬は、生態系の一部だから、そのうちの一部だけを見て、「炭酸ガスを出している」と考えても、何の意味もない。この点では、次の指摘が正しい。
 「木材を燃やすと、炭酸ガスを出すが、木材は放置しても、腐って炭酸ガスを出す。木材を燃やさなくても、ゆっくり燃やしたのと、同じことだ。出る炭酸ガスの総量は同じだ。燃焼の速度が違うだけだ。だから、木材を急速に燃やして、炊事に使うのは、石油などを使って炊事するのに比べて、炭酸ガスを減らす効果がある」
これは、先日の新聞記事に出ていた、識者の話。なかなか卓抜な指摘だ。
( ※ ただし、森林が再生されるのが、条件。砂漠化だと、ダメです。)

  【 追記 】 ( 2005-03-14 )
 本項とだいたい同趣旨の話が、12日の朝日新聞・夕刊と、13日の朝刊に掲載されている。
 なお、私が本項公開したのは、12日の14時ごろです。


● ニュースと感想  (3月13日b)

 「農業振興の方法」について。
 農業振興のために、大規模農家に所得補償する、という案が出た。「バラマキ農政だ」という批判もある。(朝日・朝刊・1面 2005-03-10 )
 この案に対抗して、私の案を簡単に示しておく。農業政策。
 私案を上に提示しておく。簡単だが。


● ニュースと感想  (3月14日)

 「花粉症の対策法」について。
 花粉症で困っている人向けの対策法。情報の整理と一覧。
 以上のすべてを併用する。さらに、ミント味のガムまたはキャンデーも有効。coolmint , greenmint など。
 なお、就眠中にもマスクを使うといいそうだ。(超立体マスクは呼吸がしやすい、と言われる。)
 また、就眠時間には、枕元に濡れタオルを吊しておくとよいそうだ。(花粉を吸着してくれるので。)

 ついでに言うと、「鼻の管を洗う」というのは、風邪の予防にも非常に有効だ。ウィルスの感染をなくすからだ。(花粉症の場合には、花粉を洗い流す。)


● ニュースと感想  (3月14日b)

 「秋葉原のエッチ・ソフト」について。
 秋葉原のエッチ・ソフト(書籍を含む)を視察した英国人(児童ポルノ規制の関係者)がいる。「こんな児童ポルノは、英国ならば逮捕だ」と指摘する。なお、日本では、写真は規制されたが、図画は規制されていない。(読売・朝刊・2面・コラム 2005-03-11 )
 ここで私の見解を述べておくと、ポルノそれ自体が変態なのではない。児童を相手にするというところが変態なのだ。だから、たとえポルノにならなくても、児童を相手にするなら、やはりおかしい。規制すべきかどうかは別として、こんなものを好む連中は、頭がイカレている。
 「萌えちゃんを好むロリータ趣味は、異常性愛だ」と私は 2月28日 に述べた。これは、英国では常識であるわけだ。欧州各国も同様だろう。私だけの見解ではない。
 というわけで、日本の秋葉原は、変態都市であるわけだ。そこのところ、はっきりと自覚してもらいたいですね。

 [ 付記 ]
 想像力の働かない人のために、具体的な例を示す。
 あなたが女性と結婚する。楽しい新婚生活。やがて、かわいい女の子が生まれる。食べちゃいたいぐらいにかわいい。やがて、女の子が育ち、幼稚園になる。「パパー」と言って、まとわりつく。さらに、小学生になる。どんどん育って、小学六年生。胸がちょっとだけふくらみかける。……すると、ある日、娘が家に駆け込んでくる。「パパー。変な男が私にまとわりついているの。こわいよ〜」と。そこであなたが外に出ると、変態チックな男がいる。「何だ、おまえ」と怒鳴りつけると、男はあわてて逃げ出す。そのとき、鞄を落とす。あなたは男の落とした鞄を拾い上げる。そこには変態チックな児童ポルノがいっぱいある。あんな格好や、こんな格好や。……そのうちの一枚は、裸で泣いている少女の姿だ。そばに男の字で、「かわいい○○ちゃん」と書いてある。その名前は、あなたの娘の名前だ。あの変態男は、あなたの娘に、何をしようとしていたのか? 娘がそばで泣いている。「こわいよ〜」

 [ 補足 ]
 参考情報。ゲームの「萌え」ちゃんよりは、現実の「もえ」ちゃんを好きになった方がいいでしょう。現実にいる美少女モデル「押切もえ」ちゃんがお勧めです。 ( → 公式サイトYahoo 検索google 検索
 現実のもえちゃんは、オタク好みの萌えちゃんのようにはふるまいません。むしろ正反対にふるまいます。男に従属しないで、女として自立します。オタクが近づくと、軽蔑の目で見下すか、怖がって逃げ出します。……もえちゃんに好かれるように、立派な男になりましょう。
( ※ 押切もえは、長谷川京子の後継として有望株です。12日の朝日週末版・be にも、すでにマイナーな広告に出ています。新機能ソックスという広告。今後、キヤノンのCMに採用されるかも。)
( ※ と宣伝しておいて恐縮ですが、私自身は、押切もえはあんまり好きじゃありません。押切もえちゃんに、言いつけないでね。  (^^); )


● ニュースと感想  (3月14日c)

 「科学水準の向上の方法」について。
 日本の科学水準は、(予算総額が足りないという話は別としても、)費用対効果が悪い。米国との比較で、予算は半分で成果は四分の一。英仏との比較で、予算は2倍で成果は 1.2倍。金をかけた割に効果がない。なお、成果とは、論文引用回数と特許取得数。(読売・朝刊・社説 2005-02-22 )
 似た趣旨の話が、朝日にも書いてある。ただし、この記事によると、大学と産業界がごっちゃになっているという。産業界は資金を投じているが、論文は書かない。大学だけを見れば、量だけはどっこいだという。質は別だが。(朝日・朝刊 2005-03-13 )

 さて。こういう状況の原因は? 読売の方の記事では、「原因分析が重要だ」と論者が言うが、その先はない。そこで私が、原因を推定しよう。それは、こうだ。
 「研究者が孤立していること。欧米のように、異国人同士で会話しない。英会話も下手だし、英語作文も下手。ミーティングがないから、研究が孤立しがちだ。情報も入らないし、共同研究もうまくできない。だから、水準が低下する」
 では、対策は? 英語力をアップすることか? 語学は幼児期が重要だから、年を取った連中が、今さらやっても、手遅れだろう。だから、かわりに、別の方法がある。

 一つは、こうだ。
 「本人も、海外への会議出席を増やすこと」
 これは、誰でも思い浮かぶ方法だ。ただし、コストがかかる。コストの割には、あまり成果は出そうにない。「やるな」とは言わないが、効率はあまり良くないですね。ホテル代と航空料金が大部分で、研究費用にならない。

 もう一つは、こうだ。
 「日本語と英語の両方できる外国人を研究室に採用して、海外の研究者との意思の疎通を図ること」
 「その上で、電子メールでしばしば、海外の研究者とメールのやりとりをすること(外国人部下にメールを書いてもらう)」
 この方法だと、研究室に外国人が入るので、研究室のグローバル化も進んで、一石二鳥だ。部下が成長して、海外に羽ばたけば、そこに人脈もできる。これがお勧め。
 なお、「メールぐらい、すでにやっているよ」と答える研究者もいるだろうが、量が問題だ。毎日、何十通か何百通も受け取る(そして自分も何通も書く)、というのでないと、十分ではない。「ええっ」と思うかも知れないが、通常のビジネスマンは、そういうことをやっています。そうですよね? 

 [ 余談 ]
 ある人、答えていわく。
 「毎日メールを、いっぱい受け取っているよ。何百通も受け取っているよ」と自慢する。「ただし、ほとんどのメールは、『萌え萌えの美少女と秘密でエッチ』というような題名だけど。」


● ニュースと感想  (3月15日)

 「花粉症の抜本対策」について。
 花粉症にまったくかからないで済む方法がある。それは、沖縄で過ごすこと。沖縄では、花粉症がない。完璧。
  → スギ花粉症が見られない沖縄

 また、沖縄でなくても、孤島でさえあれば、(かなり)大丈夫であるようだ。というのは、花粉症の最大要因は、杉花粉というより、大気汚染であるからだ。たぶん、八丈島とか大島とかでも、けっこう楽になりそうだ。
 ちなみに、杉だらけの屋久島では、症状は軽くなるらしい。
  → 屋久島での花粉症について

 [ 付記1 ]
 上記の沖縄のページで、地図を見ると、太平洋岸と東北とでは、花粉最前線に1カ月余りの時差がある。だから3月前半なら、東北に逃げるのでも、大丈夫だろう。3月だと、東北はまだ雪だらけだろうが、それだけに、花粉は飛ばない。東北で雪が溶け出した4月ごろに、今度は鹿児島のあたりに逃げ出せばよい。
 花粉流浪民。さすらいの人生。

 [ 付記2 ]
 「仕事はどうするのさ?」という声が聞かれそうだが……そこまでは面倒見切れません。ま、有休を取るとか、遠隔地勤務を希望するとか、……解雇されて失業するとか。


● ニュースと感想  (3月15日b)

 「指紋認証」について。
 生体認証ならぬ指紋認証を、出入国管理に利用しよう、という方針を政府が取っているらしい。ICカードに指紋情報を入れて、読み取り機で認証するという。なぜ指紋かというと、各国にある情報はテロリストの指紋情報だからだという。(朝日・朝刊・1面 2005-03-13 )
 まったく無意味なことだと思うんですけどね。そもそも生体認証がなぜ取られたかを理解していない。指紋情報は簡単に偽造されるからだ。
 とっさの場合ならば、指をちょん切るしかない。しかし、出入国管理ならば、あらかじめ十分な時間がある。とすれば、偽造は簡単だ。
 たとえば、その辺の浮浪者の指紋を登録する。そのあと、彼の指紋をコピーして、その偽造した指紋を、テロリストが自分の指に貼りつける。これでおしまい。偽造は簡単にできる。あまりにも簡単。
 具体的な方法は? まずは、画材店に行って、「ポリマー」と呼ばれる半透明樹脂(アクリル絵具用の媒体)を購入する。あと、肌色のアクリル絵具を買う。その後は、こうだ。
  1. 肌色のアクリル絵具とポリマーをまぜて、自分の指に塗る。下塗り。(自分の指紋を消す。)
  2. 半透明のポリマーを、浮浪者にくっつける。乾いたら、それを剥がす。
  3. 剥がした半透明のポリマーを、自分の指に接着する。
 これだと、凸と凹が逆になるが、通常の光学読み取り機なら、簡単にだませるはずだ。
 ついでに言うと、ただの写真撮影(指紋の写真を指に貼りつけるだけ)でも、大丈夫かもしれない。

 せっかく銀行や郵便局が、指認証などの生体認証をやるっていうのに、なんでまた、指紋認証なんていう馬鹿げたことをやるんでしょうね。
 個人を同定する( identify )ためには、生体認証がベストだ。一方、テロリストを検出するには、指紋認証が便利だ。ただし、この二つは、別のことである。とすれば、一つで二つを済ませるのではなくて、二つをする(生体認証をやりながら、同時に指紋認証をやる)というのが、ベストだろう。
 指紋認証だけですべてを片付ける、というのは、愚行である。あまりにも時代遅れだし、テロリストをかえって容易に入国させる。
( → 3月08日b 【 追記 】 の最後のあたりにも、指紋の話。)


● ニュースと感想  (3月15日c)

 「ライブドアの抗争」について。
 そろそろ決着が見えてきたようだ。テレビを見ると、フジテレビの社長は、すっかり腰を柔らかくした。「ライブドアと提携するか?」と問われて、「もちろん。(私は)昔からそんなに頑なじゃない」と好々爺のごとく答える。(14日の朝のワイドショーのニュースから。)
 ま、残る株は、村上グループしかない。村上グループに頭を下げるくらいなら、ホリエモンに頭を下げる方がマシだ。なぜなら、ホリエモンは、「いっしょに仲良くしましょう。フジとライブドアは運命共同体です」とオヤジ殺しの文句を言っているからだ。
 独裁者を操るには、おべっかを使えばよい。単純ですね。(ただし、力の裏付けが必要だが。)

 さて。これらの筋書きのすべては、私のサイトではずっと前から予測されていた。
 2月13日b では、勝敗について、こう予想している。
今回に限って言えば、「ライブドアの勝ち」というのが、私の予想。
 その理由は? (……)ニッポン放送の過半数の株を得る。とすれば、あとは、経営者を送り込めば、株式の時価発行ができる。とすれば、フジテレビの持ち分を下げることは、いくらでも可能だ。(資本主義の世界では、過半数の株を得たものが勝ち。)
 2月26日 では、両社の提携になるはずだという見通しについて、こう述べている。
 (……) 両者が協調して、「ハト・ハト」になれば、双方が利益を得る。
 (……) 「仲良くやりなさい」と勧告するべきだろう。
 (……) 私は、ライブドアを守りたいわけではない。「経営者と株主が喧嘩する」なんていう馬鹿げたことはやめよ、と主張しているだけだ。そんな馬鹿なことをやっている会社がどこにありますか?
 3月11日 には、もうちょっとはっきりしたことを述べている。

 というわけで、いちいち大騒ぎをしなくても、小泉の波立ちを読めば、先のことはちゃんと見通せる。


● ニュースと感想  (3月15日d)

 「朝日の紙面改革」について。
 朝日が春から紙面を刷新するという。で、「これもあります、あれもあります」といふうに、特集を列挙する。読者とすれば、「ほう、すばらしい」と思うかもしれないが、さにあらず。これは毎年、春の恒例だ。これで紙面が良くなったことなど、ただのいっぺんもない。単にメニューが変わっただけ。

 それより、私が朝日に望みたいのは、正反対のことだ。
 「下らない特集を掲載するのをやめる」
 換言すれば、こうだ。
 「まともなニュースを報道する。読み物ではなくて、昨日の出来事を報道する」
 つまり、朝日を、日刊雑誌ではなくて新聞にしてもらいたい。記者の勝手な感想や雑文を書くのではなくて、足で調べた事実を掲載してもらいたい。それが私の希望だ。
 特に、日曜日と月曜日のスポーツ面。朝日のスポーツ面は、土曜と日曜の巣ポーtの情報が極端に少ない。出来事は3倍ぐらいあるのに、紙面は同じだけ。読売に比べると、半分ぐらいの紙面しか使っていない。しかも、記事の6割ぐらいは写真であり、文字は残りの4割だけ。データがまったく少ない。
 新聞の本分を尽くすべし。それが春の恒例のドタバタ騒ぎに対する、私の見解だ。


● ニュースと感想  (3月16日)

 「ドラフト改革」について。
 ドラフト制度の改革が、うまく進んでいないらしい。上位チームと下位チームの利害が反しあうので。
 そこで、私の提案。こうだ。
 「ドラフトの1位と2位は、現状通り、自由指名。3位から5位までは、下位チームを優先するウエーバー制。ただし、一度に、3名ずつ指名する。」
 つまり、最下位チームが3名指名して、次に、下から二番目のチームが3名指名する。
 こうすると、上位チームには、めぼしい人材は残らない。というわけで、戦力均衡の効果が出る。また、上位チームとしては、人気のあるスーパー選手を指名できるので、メリットもある。
 そもそも、下位チームは、戦力が全般的に劣っている。だったら、スーパークラスの選手を一人取るよりも、二番手クラスの選手を多く取る方が、ありがたいはずだ。その方が、年俸も少なくて済むし。
 これなら、双方、ほしいものを得るので、満足できるでしょう。
 なお、ウエーバー制に反対するチームには、捨てゲームで報復するべし。引用しよう。( → 12月31日
敵地試合では、捨てゲームして、他チームなら二軍にいるような若手を出場させる。
 原則として、1イニング目に、あえて20点を失う。これで、試合は、パーになる。観客はそろって帰ってしまうだろう。毎度毎度、その繰り返し。たとえば、対ソフトバンクの試合では、1イニング目の表に、味方が1点か0点を取る。その裏で、ソフトバンクの攻撃が始まったら、ストライクだけを投げて、20点ぐらい取らせる。2イニング目も、10点ぐらい取らせる。完全な捨てゲームだ。
 これで、ソフトバンクとしては、客が入らなくなるし、テレビの視聴率も最低だろう。
 ついでだが、捨てゲームは、八百長ではない。れっきとした戦略だ。特に、前もって「捨てゲーム」と公言しておけば、絶対に八百長にはならない。「負けろ」と指示したわけではない。戦力不足のせいで、勝ちたくても勝てないだけだ。……だいたい、歴代の巨人の監督だって、捨てゲームをやったことは何度もある。たまに戦力不足のときには、捨てゲームをやらざるを得なくなる。まして、弱小チームなら、当然。
 なお、捨てゲームをやらなかったら? 全部の試合が、半ば捨てゲームのようになる。それがパリーグの現状だろう。


● ニュースと感想  (3月16日b)

 「ライブドアの抗争」について。
 ライブドアの抗争が、いよいよ面白くなってきた。というのは、フジテレビの社長が逮捕される可能性が出てきたからだ。
 ニッポン放送は、過半数の株をもって子会社にしているポニーキャニオンの株を、フジテレビに売却するつもりだという。現状のままでは、ポニーキャニオンがフジテレビから取引停止されて、業績が悪化しかねないからだという。(各紙・報道)
 これをフジの側から見ると、こうだ。
 「おまえの株式を寄越せ。もし寄越さないと、取引停止にして、倒産させてやるぞ」
 これは、明白な不公正取引に当たる。独禁法違反だ。わかりやすい図式で言うと、こうだ。
 トヨタが下請けの取引会社と商売している。その会社が、青色LEDのような画期的な発明をした。その発明を奪いたい。そこで、「おまえの会社の株式を売却しろ。さもないと、取引停止で、倒産させてやるぞ」と強要する。
 ま、トヨタならやらないだろうが、マイクロソフトならやりたがるだろう。で、それと同様のことを、フジテレビがやっているわけだ。不公正取引。独禁法違反。
 
 ついでだが、理屈で言えば、次のことは可能だ。
 「フジテレビに取引停止されると、倒産しかねない。だから、ポニーキャニオンの株式を、TBSまたは日本テレビに売却する」
 これなら、ちっとも問題はない。TBSまたは日本テレビが、漁夫の利を得るだけだ。しかし、フジに株を売却するとしたら、恐喝した側が不当利益を上げることになる。だから、これは、不公正取引に当たる。社長は逮捕。独禁法違反のほか、恐喝罪も成立するかも。……堤さんといっしょに、仲良く豚箱で過ごしましょう。


● ニュースと感想  (3月16日c)

 「サマータイム」について。
 サマータイムを推進する動きがあるようだ。世論調査では、賛否半々。(朝日・朝刊・社会面 2005-03-15 )
 私としては、サマータイムよりは、サマーワーク(夏期就業制)を推進していた。つまり、時計は動かさないで、就業時間だけを変える、というわけ。引用しよう。( → 8月05日
 サマータイムならば、時計の針をいっせいに動かす。家中のパソコンや時計や腕時計やケータイや、さらには、炊飯器やオーディオや、ものすごい数の電器製品をいっせいに動かす。そして、秋になったら、また逆のことをやる。毎年二回、狂気的な騒ぎを繰り返す。そして、それが、全員に強制される。
 サマーワークならば、そうではない。あらゆる時計は、そのままだ。また、全員が強制されるわけではなく、サマーワークに参加した職場や学校でのみ、早くなる。当然、実施する人々と実施しない人々が生じる。その結果、通勤のピークや昼食のピークは分散される。結果的に、生活は過ごしやすくなる。
 ただし、これだと、ちょっと面倒かもしれない。そこで、別の案もある。こうだ。
 「一年中、サマータイムにする」
 つまり、春と秋に毎度毎度、時計を動かしたりしない。いったん春にサマータイムにしたら、そのままずっとサマータイムにしたままで、秋になっても戻さないでおく。……冬だって、朝方はけっこう明るいし、一方、夕方はすぐに暗くなる。どちらかと言えば、冬の方が、サマータイムの効果は大きい。だから一年中、サマータイムにすればよい。これなら、毎度毎度、時計を動かすデメリットはない。
 この制度を「オール・サマータイム制」と呼ぼう。私としては、これを推奨しよう。別名、「早寝早起き制」。日本経済を向上させる効果があります。一人あたり、三文ずつ。……ええと、現代語に訳すと、一人あたり三円。一カ月で百円ぐらい。光熱費の削減効果。


● ニュースと感想  (3月17日)

 「中古自動車の海外輸出」について。
 中古自動車の海外輸出という話題で、二月中旬に、朝日新聞・夕刊で連載が続いた。(2月22日まで連載。……古い話で済みません。)
 最後の結論は、こうだ。
 「中古車は宝の山だ。これまで、使えるものを捨てていたのは、馬鹿らしかった」
 これは、良い趣旨である。私としては珍しく、朝日の記事を褒めておこう。

 ただし、である。これは、私が前に書いた話と、まったく同趣旨である。
 「リサイクルよりも、リユース(再利用)を」
 という話。( → 2004年の 11月04日b
 この項では、「リサイクルばかりを推進するしてはダメだ」と朝日を批判している。この批判を聞いて、自己反省をすれば、上記の連載記事のように、正しい話を書ける。「小泉の波立ちを読めば、朝日は間違いを正して、虚偽のかわりに真実を報道できる」という見本。

 なお、この記事で画竜点睛を欠くのは、「過去の間違いへの自己反省が欠けている」というところ。これまでの朝日は、どうだったか? こうだ。
 「リユースはダメだ、リサイクルはすばらしい」
 たとえば、「スーパーでレジ袋をもらって、それをゴミ袋に転用するのは、ダメだ。レジ袋は、回収して、液体化してから、プラスチックに戻すべきだ。一方、ゴミ袋は、新たにプラスチックから作成すればいい。小さなゴミを捨てるためにも、大きなゴミ袋を使えばいい」という趣旨。馬鹿げていますね。


● ニュースと感想  (3月17日b)

 「高齢者の運転」について。
 高齢者の交通事故が激増しているという。そこで、高齢者の免許について「一律停止」の案があるが、一律というのはまずい。そこで、「個別停止」の案があるが、それをチェックするシステムがないという。(読売・夕刊・社会面 2005-02-19 )
 こんなのは、簡単だ。たしかに、医師がチェックしようとしても、できるはずがない。しかし、人間にはできなくとも、機械にはできる。それは、「自動車運転ゲーム」だ。ゲームセンターによくあるやつ。
 こいつをちょっと変えて、「運転能力チェックマシン」に改造すればよい。たとえば、(JAFの機関誌によく出てくるが)次のように。
 こういうのを、「自動車運転ゲーム」でチェックして、ちゃんと反応できるか、調べるといい。簡単ですね。
 もちろん、ゲームに慣れるための時間を与えておく。その上で、たとえ慣れてもダメだ(反応が遅れる)、とわかった人は、免許取り上げ。
 また、取り上げられた人も、納得が行くはずだ。何しろ、画面上で、殺人を犯してるのだから。「実際に殺す前にやめられて良かった」と感謝するはずだ。
 科学技術は、殺人のためにあるのではなくて、人命を救うためにある。それが科学技術の正しいあり方だ。ミサイル防衛網で戦争をしたがる読売とか、ロボットを公道で動かして老人を殺したがる朝日とか、そういうふうに殺人をするためではなくて、人命を救うために、科学技術はあるのだ。
 
 [ 付記 ]
 この「自動車運転ゲーム」の技術は、すごく簡単だ。あっという間にできる。……ただし、技術フェチには、「簡単すぎて、詰まらない」と思えるだろう。それが、技術フェチのフェチたるゆえん。
 だからこそ私は常々、「愛が大切」「心が大切」と強調しているわけだ。ま、なかなか賛同を得られないんですけどね。たいていの人は、技術と金だけが大事だから。


● ニュースと感想  (3月17日c)

 「自動車料金所」について。
 自動車料金所を改良する方法を示す。目的は、ゲートの数を増やして、渋滞を減らすこと。
 具体的には、下記の図の通り。(赤い印は、ゲートの料金所)
  ※ 自動車は、右から入って、料金を払ったあと、左へ向かう。
  ※ 細かな解説はしないので、図を見て、理解してほしい。


 【 現行 】
 
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 【 新1 】     
   
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 【 新2 】     
   
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 【 新1 】または【 新2 】 では、道路幅(図の上下方向)が少しで済む。
 つまり、料金所の数が同じなら、道路幅(図の上下方向)が少しで済む。
 換言すれば、同じ道路幅なら、料金所を多く設置できる。それだけ渋滞が少なくなる。

 ※ これは概念図である。基本的な概念を示すだけ。詳細は略す。
 ※ 係員の事故防止の措置としては、道路の途中に、  標識(ハザード)などを立てて、車両通行止めにすればよい。

 この方式のミソは? 5車線または4車線の幅があれば、料金徴収所をいくらでも(無限に)増やせる、というところ。通常なら、料金徴収所を増やすと、道路幅がどんどん増えていく。しかし、上記の方法だと、道路幅は一定のまま、料金所の箇所の道路部分が前後に長く伸びるだけだ。左右に伸びるかわりに、前後に伸びる。







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「小泉の波立ち」
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