[付録] ニュースと感想 (99)

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● ニュースと感想  (12月22日)

 「ヒトラーと合理性」について。
 私の認識の誤りを訂正する。ヒトラーについて。
 これまでは、「ヒトラーの狂気」というふうなことを語ってきた。(たとえば、小泉をヒトラーとたとえた。)  しかし、これは、正しくなかった。ヒトラーは、実は、正気をなくした狂人というよりは、あまりにも正気がありすぎたのである。より正確に言えば、「合理的」でありすぎたのである。この「合理性」を「狂気」ととらえるのは、正しくないだろう。彼が医学的に精神病質であったことは別として、政治的な行為は、異常というよりは、まともすぎたのである。つまり、普通の人間にはできないほど、まともでありすぎたのである。

 たとえば、次の行為がある。
  ・ ユダヤ人の虐殺
  ・ 強制収容所におけるガス室
 これらを見ると、あまりにも残虐なので、「正気の沙汰ではない」と人々は思う。私もそうだった。しかしそれは、まったくの間違いであった。正しくは、こうだ。

 (1) ユダヤ人の虐殺
 ユダヤ人を大量に虐殺したのは、無意味に殺害することが目的だったのではない。れっきとした合理的な根拠があった。それは、「彼らの財産を没収することである。
 当時のユダヤ人は、大量の財産をもっていた。貯金や不動産など。それらを得ることが、ヒトラーの真意だったのだ。「ゲルマン民族は優秀だから、劣悪なユダヤ人を殺していい」というのは、ただのスローガンである。日本で言えば、「構造改革! 優勝劣敗による劣者退場で景気回復。不良債権処理の推進!」というのと同様である。当時のヒトラーやマスコミが騒いでいたのと、現代の小泉や朝日などが騒いでいたのは、まったく同様だ。ただのスローガン。それに国民は洗脳された。
 で、その実質は? 小泉は頭が足りないから、ブッシュのポチになって頭を撫でてもらうことだけが目的だった。ヒトラーは頭がいいから、ユダヤ人を虐殺して、残った財産を没収した。そして、その莫大な財産を使って、戦費として、ヨーロッパで最強の軍隊を作った。あげく、大陸外のイギリスを除いて、全ヨーロッパを支配した。(なお、それでやめておけば最善であったが、さらに拡張政策を取って、イギリスやソ連に踏み込んだ。これが、欲張りすぎで、失敗の原因。)
 ともあれ、ここには、合理的な根拠があったのだ。

 (2) 強制収容所におけるガス室
 強制収容所におけるガス室での虐殺というのは、いかにも非人道的であるようだが、実は、けっこう人道的である。というのは、ガス室というのは、ただの「排ガスによる一酸化炭素中毒」にすぎないからだ。……具体的に言うと、こうだ。
 「みなさん。長らく列車に詰め込まれて、汗だくでしょう。みなさんのために、シャワーを用意しました。シャワーで体を洗ってくださいね。貴重品はお預かりします」
 係員がこう叫んで、人々を裸にして、建物の一室に詰め込む。ドアが閉められたあと、部屋の頭上から、シャワーの水のかわりに、自動車の排ガスが流れ込んでくる。不完全燃焼だから、一酸化炭素がいっぱい。一酸化炭素は匂わない。(石油の臭いは残るが。)……で、人々は、苦しむこともなく、あっさり死ぬ。あとに残ったのは、死体と、預かった貴金属だけ。死体は焼却して、貴金属だけが残る。
 こういうふうにした理由は、何か? 弾丸の節約である。殺したユダヤ人は百万人以上。弾丸は貴重だから、百万発以上の銃弾(当時はとても高価だった)を節約したことになる。この「弾丸の節約」こそ、ガス室の理由だったのだ。

 以上は、参考文献(デイヴィッド・マレル「夜と霧の盟約」ハヤカワ文庫)に基づいた説明。事実はともかく、解釈は、私の解釈も含む。
 で、以上のことから、「ヒトラーは狂気というより、あまりにも合理的であったのだ」と結論できる。

 「合理的であるからといって、狂気でないとは言えないぞ」
 という批判もあるだろう。それはその通り。私も同意する。しかし、私がいいたいのは、そのことではない。現代の経済学のことだ。
 
 現代の経済学の発想は何か? こうだ。
 「合理的であることこそ、最大かつ唯一の基準となる。消費者や企業は合理的にふるまうべきだ。つまり、自己の利益の大小のみを唯一の基準として、損得勘定で行動するべきだ。そうすれば、市場原理により、均衡が実現して、経済は最適化する」
 「しかるに現実には、景気変動が起こる。それは、各人が合理的に行動しないせいだ。そのせいで、最適の均衡点から逸れてしまい、不均衡が生じてしまうのだ。かくて、各人が合理的に行動しないせいで、景気変動(不況など)が起こる」
 
 こういうふうに「合理性の重視」「損得勘定の重視」というのが、現代の古典派(特に合理的期待形成仮説)の発想だ。で、この発想に従うと、「ヒトラーのように合理的に損得勘定で行動することこそ、経済学的には最適の行動だ」というふうになる。現代の経済学者にとって、ヒトラーは理想的な人間像なのだ。

 結語。
 で、何が言いたいか? ただの皮肉な冗談を言いたいのか? もちろん、違う。私がなしたいのは、ヒトラーを「合理的だからすばらしい」と称賛することではない。「合理的であればすばらしい」という発想を、全面否定することだ。── すなわち、現代経済学の主流となる意見を、正面切って批判したいわけだ。「それはヒトラーを理想視する発想である」と。
 要するに、「自由はすばらしい」だの「市場原理はすばらしい」だの「構造改革はすばらしい」だの、経済学における保守派(つまり古典派)の発想は、ヒトラーの発想と同様で、たわけにすぎない。現代の経済学は、合理性をあまりに過剰に重視しており、狂気も同然なのだ。
 では、何が大切か? 冷たい数値的な合理性ではなくて、温かな優しい愛だ。人間への愛だ。経済現象を、冷たい数値や金額で扱うことではなくて、温かな人間性の眼差しで見つめることだ。
 そして、そうすれば、現在の日本の景気についても、あやまたずに理解できるはずだ。つまり、「企業業績の数値が好転しているから、現状はすばらしい。ゆえに、増税しても大丈夫」と見るかわりに、「人々はいまだに失業や低賃金で悩んでいる。ゆえに、増税どころか減税をして、雇用環境を急速に好転させるべし」と。
 比較しよう。ヒトラーの時代と、現代とは、きわめてよく似ている。次のように。
 ドイツの為政者ヒトラーは、合理的に判断したので、ユダヤ人を大量に殺害した。そのことで、ユダヤ人の富を奪って、軍事費に回した。
 日本の為政者小泉は、合理的に判断したので、日本国民を大量に失業させて、さらには賃下げをしたり預金金利を下げたりした。そのことで、日本国民の富を奪って、献金してくれる企業に与えた。そして、(国民の惨状無視したまま)企業だけを見て、企業の業績回復の数値から「景気回復」と称することで、国民に増税を課し、国民の富をさらに奪おうとする。痛めつけたあとで、さらにそれを理由に痛めつける。二重の圧政。ヒトラーの二倍も、国民をいたぶる。


● ニュースと感想  (12月23日)

 「インテリジェント・デザイン」について。
 ダーウィンの進化論を否定する「インテリジェント・デザイン」という説(もしくは政治運動)がある。「進化をなしたのは、賢い存在の意思・計画(インテリジェント・デザイン)だ」と主張する。本当は、「進化をなしたのは神だ」と言いたいのだが、そう言うと科学者の反発を食うから、言葉を曖昧にぼかしているわけだ。
 で、これをめぐって、科学者の反発があり、裁判所でも「インテリジェント・デザイン説は違憲だ」という見解が出た。(各種ニュース 2005-12-21 )
 以上はアメリカの状況だが、日本ではどうか? ひところは、アメリカ以下であった。というのは、「進化」という概念そのものを、教科書から追放してしまったのである。「進化という言葉を掲載した教科書は、一切、許可しない」という文部科学省の方針だ。口あんぐり。
 これは「ゆとり教育」の影響であったが、さすがに、その後、改められて、進化の項目は復活した。
 では、日本は、アメリカよりもまともになったか? 残念ながら、そうではない。実を言うと、アメリカの「インテリジェント・デザイン」の方が、どちらかと言えば科学的である。なぜか? 「インテリジェント・デザイン」説では、「何がどうした」ということを、具体的には何も説明していない。その意味で、科学ではないが、非科学的(嘘)でもない。「たぶんこうだろう」という思想ないし見解であるから、科学でも非科学でもないのだ。
 一方、現代の進化論(ダーウィニズム)は、どうか? 「これは科学です」と主張している。とすれば、その説は、正しいか正しくないか、いずれかだ。では、どちらか? 
 ここで、具体的に、教科書の例を引こう。これだ。
   → 啓林館の教科書
 これによると、進化の証拠として、ガラパゴス・フィンチ(ダーウィン・フィンチの一種)を挙げている。つまりは、「小進化」があったことを、「進化」の証拠としている。その基盤にあるのは、「小進化の蓄積が大進化をもたらす」という説だ。
 しかし、「小進化の蓄積が大進化をもたらす」という説が正しい証拠は、ただの一つも挙がっていない。それどころか、「小進化の蓄積が大進化をもたらさない」という証拠なら、山のように上がっている。というか、あらゆる例が、そのことを示す。
 「時間のなかで小進化は連続的に蓄積するが、それによって種の進化が連続的に起こったことはただの一度もない。(常に断続的に起こる)」
 「一つの種のなかでは多大な個体変異があるが、それらは決して種の変異をもたらさない」
 この二つのことは、一つの事実の裏表である。その事実は、「一つの種は種としての同一性を保つ」ということだ。
 仮に、ダーウィン説が正しければ、種は連続的に変化しているはずだから、種としての同一性は保たれない。空間的にも時間的にも連続的に続くはずだ。たとえば、空間的には、人間と猿の中間種がなだらかに存在するとか、猫と犬の中間種がなだらかに存在するとか。また、人間の進化では、旧人から新人へとなだらかに変化していくとか。……しかし、そういうことは、一切ない。空間的にも時間的にも、種というのは、一つの種としての同一性が保たれ、そのあとは断続的に別の種と隣接する。(小進化というのは、ただの亜種であって、種の変化ではない。個体変異のグループ差にすぎない。)
 これが科学的事実だ。つまり、「小進化の蓄積は大進化を起こさない」ということが。── しかるに、これとは正反対のことを、教科書は記す。アメリカでは、「事実だとは認められていない見解」(つまり想像)を教科書に記すだけだが、日本では、「事実ではないと認められている見解」(つまり虚偽)を教科書に記す。
 では、なぜ、日本の教科書は、そういうことをするのか? 次の違いによる。
  ・ 米国 …… インテリジェント・デザイン (人間以上の知性の存在“神”を想定する。)
  ・ 日本 …… インテリジェント・アイ (人間である“私”こそ最高の知性だと自惚れる。)
 要するに、宗教と自惚れの違い。宗教的見解を信じるのは、信仰心の厚い正常人だが、勝手な思い込みを信じるのは、自分は科学者だと信じている自惚れ屋である。そして、それが、日本の現状だ。
 結局、現在主流の進化論というのは、「たわけ」の説と言えよう。「進化があったこと」を認識するのは正しいが、「進化とは何か」を根本的に勘違いしている。小進化と大進化の区別ができないまま、「どっちも進化だから同じようなものだ」と思い込んでいる。
 ま、米国と日本は、馬鹿と阿呆の違いみたいなものです。「どっちが正しいか」と論じるのはナンセンス。


● ニュースと感想  (12月23日b)

 オタク問題への追記。簡単なたとえ話。
  → 該当箇所
 (すでに述べた話のわかりやすい繰り返しだけであり、新規の情報はありません。)


● ニュースと感想  (12月24日)

 「少子化の原因」について。
 少子化がひどく、早くも人口の純減、という記事が出た。(各紙 2005-12-23 )
 で、「原因が何かわからない」とか「対策をどうしたらいいかわからない」とか、戸惑っているようだ。フランスやスウェーデンでは、しっかりと原因分析と対策をやって、少子化に歯止めをかけているのに、他国の事情を見ることすらできない、という愚かさ。ま、政府が愚かなのは仕方ないとして、マスコミすら右往左往しているのは、情けない。マスコミの仕事は、情報収集であるはずだ。少子化対策についての情報なら、すでにわんさと出ているし、ネットにもたくさんある。「小泉の波立ち」にもたくさんあるのだが。 ( → google 検索

 ま、マスコミが情けないのは毎度のことだから、いちいち言挙げしても仕方ない。他人のことはさておき、本項では物事の本質を示そう。
 少子化問題の本質は、何か? 一言で言えば、「合成の誤謬」である。つまり、各人が自己にとっての最適行動をなす結果、全体としては、最適化されるどころか、最悪となる。具体的には、こうだ。
 要するに、誰もが、自己にとって最適の行動を取っている。そのせいで、全体の状況が悪化してしまう。
 これは、別に、不思議ではない。なぜなら、「出産・子育て」というのは、自分のためにやることではなくて、子供のためにやることだからだ。どこかの進化論学者は、「出産・子育ては、自己の遺伝子を増やすため」というふうにとぼけたことを言っているが、どこの阿呆が、そんなことのためにしんどいことをやるものか。「出産・子育て」というのは、子供のため、愛のためである。そして、不況という逆境においては、自己を守るのに精一杯だから、自己以外の存在である「自分の子」のことにまで手が回らないのだ。

 では、本質は? もちろん、「合成の誤謬」をもたらすような「状況」である。そして、それは、具体的には「不況」のことである。
 だから、原因は「不況」であり、対策は「不況の解決」である。ここで、「企業の業績がいいから不況を脱した」と錯覚すると、「企業は良く、国民は悪い」という「半分の脱出」を取ることになり、国民は相も変わらず貧困に置かれるので、少子化の状況を脱せない。

 結論。
 少子化の根本原因は、「合成の誤謬」となる状況、つまり、「不況」である。ただし、より根源的には、そのことに気づかないでいる、人間の愚かさに原因がある。少なくとも、その愚かさに気づけば、何らかの対策を取っているはずだ。フランスやスウェーデンのように。


● ニュースと感想  (12月24日b)

 「Firefox 1.5 の異常」について。
 本日別項で、「google 検索」というリンクが、Firefox 1.5 では正常に機能しないようです。クリックしても、うんともすんとも言いません。MS-IE や Opera では問題ないのですが。
 Firefox 1.5 は、やたらとバグが多く、すでに私が見つけたものだけで、三つもあります。これほど多くのバグが見つかるのは、MS-Word97 以来かもしれません。(ま、あれほどひどくはないが。あれはやたらと「落ち」てしまう最悪ソフト。)
 Firefox 1.5 は、使わない方が無難ですね。すでにインストールしてしまったのなら、ダウングレードした方がいいと思うが、もはや古い Firefox はネットに見つからないようだ。パソコン内のゴミ箱でも漁るしかないのかも。
 クリスマスの夜には、ゴミ箱あさり。ジングルベル、ジングルベル。

  【 追記 】
 追加情報は、「Open ブログ」を参照。旧バージョンの入手先もあります。
http://openblog.meblog.biz/article/2437.html


● ニュースと感想  (12月25日)

 「本サイトの見方」について。
 前項(追記)で読者からのご連絡があったが、ついでに感想があった。引用すると:
いつも、南堂さんのコラムを読ませていただいている者です。 時に鋭い意見に共感し、時に痛烈な皮肉に苦笑し、はたまた時には、一言の多さ と足りなさに、あきれたり憤慨したりしている者です。
 これが正しい見方だ。なぜなら本サイトの方針は「過激に」であるからだ。(換言すれば「面白く」でもあるが、ちょっと違いますね。)
 逆に、間違った見方は、こうだ。
 「公正中立をモットーとして、はっきりと確定した確実なことだけを語り、あやふやなことは一切言及しない。常に表現を和らげて、誰からも文句が来ないようにする。」
 これはつまり、次のことと同様である。
 「わが身かわいさの保身をモットーとして、一部読者から文句が来そうな危険なことは一切言及しない。常に情報量を最小限にして、読まなくてもわかりきった常識だけを語る」
 こういうのがお好みでしたら、政府広報紙でもお読み下さい。最近のNHKでもいいですけどね。ともあれ、こういうのを本サイトに期待するのは、間違いです。「厳密で正確で公正中立」というのを求める人は、結局、「無味乾燥の常識だけ」を求めているわけですから、本サイトを読むべきではありません。
 過激な表現を読んで、あきれたり憤慨したりするのを楽しむ、という自虐的な(?)人こそ、本サイトを読むのにふさわしい読者です。逆に、「自分の意見が絶対的に正しいのだから、他の意見が存在するのを認めない」という唯我独尊の人は、本サイトを読んではいけません。(該当者:ブッシュ・小泉・ナベツネ・その他)

 [ 付記 ]
 同趣旨のことを、12月21日b にも書いた。過去の話の丸写しだが、引用・抜粋すると:
 ここで、「南堂の過激な表現は不正確だ」という批判は、それはそれで正しいのだが、しかし、そう思うのであれば、私の誇張した話なんか読まないで、退屈な学術雑誌の専門論文でも読んでいればいいのだ。私の話を専門論文扱いすることが間違っている。こと、世相や政治に関する限り、私の話のほとんどは、過激な悪口(誇張)がとても多い。まともに字面通りに受け取ってはならない。たとえば、「小泉は犬だ」と私が書いたとき、「彼は人間だ。シッポをもたないから」なんて言わないでほしい。
 ──
 レトリック(文章技法)における「誇張」とは、何か? ただの嘘八百か? 真実とは正反対の虚偽または誤りのことか? そう思う人は、誇張の文例を読むと、「そんなことはないぞ」と反発する。
 実は、誇張とは、次のことだ。
 「現実の事例は、白か黒かがはっきりとせず、モザイク状だったり灰色だったりする。簡単に割り切れるものではない。そういうものを正確に表現することは困難だ。そこで、きっぱりと白か黒かと断言して、物事の典型をすくい上げる」
 たとえば、正確に語ろうとすると、こうなる。
 「これはですねえ、白の点もあるし、黒の点もあるし、日によっては白や黒が灰色になることもあるしねえ。また、見る人によっても違うし、何と言いますかねえ、……」
 あるいは、こうなる。
 「それは黒ではなくて、紺色と焦げ茶である。紺色と焦げ茶はまったく違う色である。ここやあそこが、こんなに違う。うんちくがこれこれあれこれ」
 一方、私は典型的に誇張して、こう語る。
 「まっ黒だ」
 というわけで、典型的に語ったあと、それを実際に適用する際には、読者の応用が必要となる。読者が頭を働かせて、自分で考えないと、私の言葉を正しく現実に適用できない。「何もかもおんぶでダッコで教えてほしい」という態度では困る。ゲームなら、画面のなかの選択肢から選べばいいが、本サイトでは、どこにも書いてないことを自分の頭で生み出す必要があるのだ。


● ニュースと感想  (12月26日)

 「中毒と人生」について。
 オタク論議から派生した話題で、Q&A

 Q 「何でも中毒は駄目。別に萌えオタクに限らない」
   というのは、勉強もだめなんですか?

 A 「中毒性のあるものについては中毒にならないようにしよう」ということだけです。
 勉強には、中毒性なんかありません。勉強はしんどいものです。精進と中毒は違います。
 勉強というものは、「しんどいしんどい」と思いながら、必死に努力してやるものです。「勉強が楽しくて、やめたくてもやめられない」なんて思っている人は、イカレている。仮に、そういう人がいるとしたら、中毒になっているのではなくて、やる量が全然不足しているだけです。(例。カルチャーセンターで楽しく勉強する有閑マダム。「お勉強をいっぱいしているんですの。オホホ」)

 ついでですが、仕事は中毒性があるので、仕事中毒は駄目です。仕事中毒というのは、「しんどい」という検知をするセンサーが壊れている状態です。あるいは、センサーが壊れていなくても、脳の判断機能が壊れていて、センサーの警告を無視する状態です。いずれにせよ、そうなると、結果は? 過労死。
 で、労働者の過労死によって維持する先進国なんて、無意味です。先進国民として死ぬくらいなら、途上国民として生きる方がマシです。「国民は馬車馬のように死ぬほど働くべし」なんて、経団連の主張そのまま。

 勉強であれ、仕事であれ、体をこわすほどやるのは、馬鹿だけです。実際にそういうことをやった馬鹿(私)が言うのだから、間違いない。  (^^);
 で、これは、自慢しているわけじゃない。大いに反省しています。たとえば、無理して勉強や仕事をやりすぎて、風邪を引いて、寝込んで、大幅なロス。これを「馬鹿丸出し」という。

 人はいかに生きるべきか? 大人なら、「ケ・セラ・セラ」です。 que será ser´
 子供なら? ゲームをやらずに、他のことをやればよい。勉強でも、スポーツでも、読書でも。(ただし、私がこう主張すると、オタクとゲーム業界からものすごい反発が来そうだが。)


● ニュースと感想  (12月26日b)

 「ほぼ日手帳」について。
 話題の「ほぼ日手帳」へのコメント。
  → Open ブログ
 

● ニュースと感想  (12月27日)

 「スポーツのプロとアマ」について。
 プロ野球の国別対抗戦(ワールドベースボールクラシック:WBC)へ松井秀喜選手が参加すべきかどうかでもめている。また、アイススケートでは浅田真央選手がトリノ・オリンピックへ出場できるようにするべきかどうかでもめている。あげく、最終的には、浅田選手以外の三名に決まった。(2005-12-25 ニュース)
 この問題では、頭が混乱している人が多いようだから、私なりに見解をまとめておこう。

 この問題は、どちらも同じことん根っこがある。それは「プロとアマの混同」である。プロならばプロらしく商売勘定でやればいいし、アマならばアマらしく商売勘定抜きでやればよい。(名誉と奉仕精神のみで。)……しかし、どっちつかずというか、両方を欲しがるから、矛盾が噴出する。

 (1) 松井秀喜
 松井にWBCに参加してもらいたいというのは、主宰者の意向だろう。しかし、それは、主宰者の勝手な都合にすぎない。奉仕精神を強いられる選手としては、一方的に犠牲を強いられるだけだ。
 「国の名誉のため」
 というのが名分だろうが、実は、主宰者が金儲けしたいだけのことだ。本当に国の名誉が目的なら、赤字で実施するべきだろう。当然、選手には莫大な出場料を払うべきだ。しかるに、本音は、主宰者がプロに払うべき金を洗わずに、自分の懐に入れてしまおう、と狙っているだけだ。そして、その名分として、「国の名誉」という言葉を持ち出す。で、それに踊らされているのが、王監督たちだ。で、踊らされる阿呆にはなりたくない、というのが、松井秀喜だ。
 私としては、「やるなら選手に莫大な出場料を払え」と言いたいですね。でも、無理だろう。となれば、こんな「国別対抗戦」など、必要ない。
 プロはプロで、自分のリーグでやればよい。国別対抗戦は、アマチュアがやればよい。私は「オリンピックは金儲けの手段」という金がらみの風潮は気に食わない。「オリンピックにプロ選手が出場するのを断じて拒否せよ」とまでは言わないが、「何が何でもオリンピックその他にプロ選手を出場させて、金メダルを狙おう」というメダル至上主義は、大嫌いだ。
 スポーツは楽しんでやればよい。あるいは、ショーとして、金儲けでやればよい。どっちでもいいが、メダルのため(と唱えて勧進元だけがボロ儲けする)なんて、邪道だ。詐欺のようなもの。

 (2) 浅田真央
 年齢制限について、「ルールを守れ」なんていう声が出ているが、ルールという言葉の意味を勘違いしている。ルールというものは本来、誰もが平等に守るべきものだ。特定の一選手だけが引っかかるルールなんてものは、ルールの名に値しない。
 このようなものは、「ルール」(規則)とは呼ばれず、「資格要件」と呼ばれる。そして、「資格要件」なんてものは、いくらでも変えていいのだ。「ルールだから変えてはいけない」なんてことはない。たとえば、選挙制度で言えば、「貴族のみに資格あり」とか、「男子のみに資格あり」とか、普通選挙制度には反する資格要件があったが、こんな資格要件は、いくらでも変えていいのだ。大事なのは「公正さ」であり、「規則を変えないこと」ではない。
 それより、本音を見るべきだろう。本音は、金である。つまり、こうだ。
 「浅田真央選手が出場すると、他の選手が一人、はみ出てしまう。その一人になるのは、自分のところの選手であるかもしれない」
 コーチは誰もがそう思う。そこで、誰もが「浅田選手の出場に反対」と唱えるわけだ。つまりは、カルテルである。最優秀の競争者が出ると、既存の市場参加者たちは、自分が市場からはみ出てしまう恐れがある。
 本当にフィギュアスケート連盟(?)が、日本のメダルを増やそうと思うのなら、浅田選手を参加させようとするのだが、彼らは本音は、「自分のところの選手を出場させたい。金づるだからね」と思っているだけだ。その金を他人に奪われたくない。だから、最優秀の競争者が市場に参加するのを拒否する。
 そして、そのために、「ルールを守る」という名分を、錦の御旗のごとく掲げる。実は本音では、カルテルを守りたいだけなのだが、その真実を隠すわけだ。……詐欺みたいなものですね。
 ここで滑稽なのは、こういうふうに浅田選手を排除した側が、逆に、浅田選手の金に頼っている、ということだ。引用すると:

 来春から高校生の浅田は、CM出演やタレント活動も晴れて解禁される。しかし、日本オリンピック委員会(JOC)がスタートさせた「シンボルアスリート制度」がネック。選手の肖像権をJOCが管理した上で、スポンサー企業のCMに優先的に出演させ(スポンサー企業以外のCM出演も可)、JOCから協力金(年間1000〜2000万円程度)が支給されるもの。
 現在10社近くのスポンサードを受けている女子フリースタイルスキーの上村愛子は、この制度を辞退した。浅田も上村にならえばいいのだが、08年までにこの制度で約63億円の収入を見込んでいるJOCにとって浅田の辞退は大打撃。
( → zakzak
 自分の方から浅田選手を追い出しておきながら、「私たちにお金を数十億円下さい」と、おすがりするわけ。みっともない。恥知らずと言うべきか。

 [ 付記1 ]
 なお、浅田選手を出す方法は、簡単だ。「彼女を出した方が、視聴率がずっと上がりますよ」とオリンピック開催者に訴えればよい。オリンピック開催者は、金目当てだから、視聴率のためには、何だって受け入れる。
 とはいえ、現実には、そうはならない。カルテルを結成しているコーチたちが、頑として受け入れないからだ。全員一致で、「アンチ・浅田」のスクラムを組む。小泉首相が「浅田選手を出したいですね」と言っても、断固として聞き入れない。
 小泉の構造改革も、鉄のカルテル(氷のカルテル)という壁の前には、あっさり挫折したわけだ。
 「感動した」
 とオリンピックで言えなくて、残念ですね。選挙がないせいでしょうか。

 [ 付記2 ]
 と書いたあとで、新たな情報。Yahoo ニュースより。
  <フィギュア>浅田真の特例出場、ISUに打診 連盟副会長
 同連盟によると、ISUのチンクワンタ会長に書簡で特例を求めたのはGPファイナル(16〜18日、東京)の後。大会期間中、同会長が「日本からの働きかけは何もない」と発言したが、その後、小泉首相などが年齢制限を疑問視する声を挙げたことなどを伝え、特例での出場を打診した。同会長からは後日、「認められない」との返事が届いた。
 これは何を意味するか? 「努力はしましたよ」という意味のポーズ。つまり、「ノー」という返事をもらうことが目的のセレモニー(儀式)。現状のまま打診すれば、「ノー」という返事しか来ないことはわかった上で、あえて打診したわけ。形だけね。
 なお、本気で浅田選手を出場させたい場合には、他国全体に対して賛成の意思を喚起する必要がある。そのためには、ISUに対しては、「討議のための会議開催」を要求するべき。
 「ノー」と答えるしかないところに返事を求めれば、「ノー」という返事が来るに決まっている。「ノー」と答えるしかない状況を変えたければ、状況を変える方策(会議開催)が必要となる。政治の選挙でも何でも、同じです。Aという状況でBという状況に変えたければ、選挙運動が必要である。政治活動というのは、そういうものだ。ただの「お伺い」のことではない。
 それとも、こんなイロハもわからないほど、ボケているんでしょうか? ボケたすえ、自分がボケていることを訴えたいのか。あるいは、ボケをかまして、国民をだましたいのか。……いずれにしても、ひどい状況ですね。さすがに、小泉首相にだまされた国民だけのことはある。

 [ 付記3 ]
 浅田選手の持ち点は、他の選手を大幅に上回っており、資格が問われなければ、ダントツで選ばれていたはずだ。また、テレビの映像を見ると、傑出したジャンプをやっている。他の選手とは明らかにレベルが異なる。段違いの能力。
 これじゃ、妬まれて、当然ですね。日本では。……急に現れた突出した能力をもつものは、日本では必ず妬まれる。どの世界でも同じ。浅田選手も「どうせ彼女は四年後にも出場するんだから今回は譲ってくれてもいいじゃない」という理屈で、否応なしに資格を奪われたままになるのだろう。妬み社会。
 「われわれは正々堂々と戦います」
 というのは、ええと、どこの世界でしたっけ? 


● ニュースと感想  (12月27日b)

 「レジ前の行列」について。
 年末になり、スーパーなどではレジ前に行列ができている。で、その間、重たい荷物の入ったカゴをもたなくてはならない。重たくて困る。男性でさえ困るのだから、女性にとっては苦痛であろう。
 こういうふうに客に苦痛を与える売り手というのは、ちょっとイカレているとしか思えない。レジの前には、煙草やガムなどが並べてあり、ちっとも売れていないのだが、それでもけちくさく、そういうふうにする。
 「ガムをちょっとばかり売りたいから、客に苦痛を与える」
 というわけだ。傲慢。

 しかし、売れないガムや煙草を並べるくらいなら、「買い物カゴ載せ場」の台でも置けばよい。レジ前の人の列に沿って、台を置けば、客が助かる。
 で、そうしないと、カゴを床の上に置く人も出てくるが、不潔である。食品を入れるカゴが床に置かれるのでは、カゴを重ねたときに、カゴのなかが不潔になる。で、そういうカゴを客に与えて、買物をさせているわけだ。
 
 こういう顧客無視の店でなく、もっと顧客に配慮した店があれば、ガムは売れなくても、店全体の商品が売れるようになるはずだ。
 まともな店はありませんかね? もし実現したら、「当店はお客様のことを第一に考えております。高齢者のお客様も楽に買物ができます」と宣伝しましょう。


● ニュースと感想  (12月28日)

 「劣者脱線事故への対策」について。
 列車の脱線事故が起こった。突風で吹かれて、脱線して、死者が出る。どこかの野党党首なら、SLファンだから、「あ、また事故が起こった」と大騒ぎして、「だから集団的自衛権で米国に協力しなくっちゃ」と思いそうだが、私としてはまともに対処策を考えよう。たぶん読者が「乗り物オタクみたいな南堂の意見を聞いてみよう」と思っていそうだから。  (^^);
 まず、質問は、こうだ。
 「列車の脱線防止にはどうしたらいいのですか?」
 それに対する回答は、こうだ。
 「脱線防止なんか、する必要はない。やたらとコストがかかる恐れがある。脱線を防止するのではなく、脱線しても被害が出ないようにする、というふうに発想を転換するべきだ」
 では、この方針のもとで、どうするか? 

 今回の事故では、「車体が浮き上がる感じがした」という声があった。しかし、突風なんかで重い車体を持ち上げることはできない。これは実は、下から吹かれて浮き上がる、という意味ではあるまい。両輪がいっしょに離れて、重い列車が宙を飛ぶ、なんてことは、ありえない。「下から吹かれて、軽くなったので、脱線しやすくなった」ということにすぎない。(と書いたあとで、テレビでも同趣旨のことを報道していた。)
 だから本質的には、「浮遊」ではなくて、ただの「脱線」である。車体が横風で傾いたので、傾きと反対側が浮き上がる感じがした、というだけだ。だから、対策は基本的には、横風対策となる。
 脱線防止のために、新幹線の場合には、「ガードないしストッパーを列車の脇に付ける」という改善案があった。しかしこれは、地震にはともかく、突風には有効ではあるまい。では、どうするか? どんな対策をなすべきか? 
 
 この問題には、自動車の横風対策が応用できる。こうだ。
 「風力中心(風の当たる重心のようなもの)を、重さの重心よりも、後方におく」
 自動車だと、風は車体の後半に当たるようにすればよい。こうすると、横風を受けたとき、尻ばかりが流されて、頭は流されないので、車体全体としては、頭が横風の来る方向に向く。そのせいで、横風対策となる。逆に、風力中心が前半にあると、横風を受けて、車体が流されてしまう。── これが、今回の列車の事故だ。つまり、先頭車が最初に脱線して、その方向に大きく流れていってしまった。
 とすれば、対策は、こうだ。
 「突風を受けたとき、先頭車は脱線しないで、後半だけが脱線するようにする」
 この場合、先頭車と最後尾車は、脱線しない。途中の車両だけが脱線する。とすれば、先頭車と最後尾車が、レールに踏み止まって、途中の車両を支えるから、脱線は小規模で済む。被害は最小限で済む。
 では、そのためには、どうするか? 先頭車両の車体断面を、 □ という四角形から、 ○ という円形にすればよい。それは、別に、難しくない。地下鉄ではこういう感じにして、角を削り取った車両ができている。その部分は、下はシートの下だし、上は網棚だから、削り取ることが可能なのだ。
 こういうふうに、横風よけのために、車両断面を ○ という円形にした車両を、先頭車に連結する。その分、既存の車両をはずす。費用は、車両1両の交換代金だけだから、たいしたことはない。日本中でやる必要はなく、突風のある地域でやるだけで済む。
( ※ 「下から吹く風」への対策も必要だが、それは、橋のレール付近に風よけの床や壁を装着しておけばいいだろう。現状は穴だらけだが。)
( ※ ただ、今回の事例では、脱線したのは、下からの風が吹いていた橋の上でのことではなくて、橋を渡りきったあとの地上でのことだから、「下から吹く風」よりは「横風」の方が主因であったようだ。)
 
 さて。もう一つ、問題がある。それは、「風は向かい風だ」ということだ。電車は前進するので、現実の風が横風でも、電車に当たる風は前からぶつかる形になるので、合成して、斜め前からの風になる。すると、斜め前から当たった風は、電車の正面にぶつかり、電車を不安定にさせる。通常ならば問題にならないが、強風のときには問題となる。
 この問題を避けるには、電車の正面を、壁のような垂直面にしないで、風を受け流せる形にすればよい。具体的には、新幹線のような円錐形でもいいが、どちらかといえば、偏平にして鼻先だけが下がった形(くさび形)にするといいだろう。この場合、風が吹けば吹くほど、鼻先に下向きの圧力がかかるので、先頭車両は脱線しにくくなる。
 車体断面を丸くするよりは、先頭の形態をこういうふうに変えることの方が、大きな効果がありそうだ。「横向きの力」それ自体よりも、「横向きの力を受けて大きく影響される不安定状態」の方が、いっそう根源的な問題であると思える。

 [ 余談 ]
 私が以上に述べたことは、専門家としての立場からの意見ではなく、ただの(乗り物オタク的な)門外漢の意見である。……とはいえ、ここから、教訓も得られる。
 専門家は専門知識をもつ。ただし、専門知識というのは、列車のシミュレーションごっこで遊ぶためにあるのではない。世の中に貢献するためにあるのだ。
 ここでは、画面のなかで何かを選択することが大事なのではなく、既存のどこにもない新たな知識を生み出すことが大事だ。で、「最適の選択をすると、祝福の画面(萌え画像つき?)が出ます」なんていうゲームばかりにかまけていると、複雑な現実に対応する能力がむしばまれる。
 現実というものは常に、予想外の出来事が頻発する。人間にとって大切なのは、創意であり、選択ではない。自動車会社のカイゼン運動でさえ、労働者一人一人に無数の創意が要求される。
 大切なのは、創意を養う、日々の頭脳鍛錬だ。それは、既存のものからの「選択」という方式では、決して得られないものだ。
( ※ そのための訓練には、幅広い知識に触れる、[小説でなく教養書の]読書がよさそうだ。読書は、決して、受動的になすものではなく、自ら考えながらなすべきものだ。)


● ニュースと感想  (12月28日b)

 「戦う前原」について。
 田中真紀子が前原不支持。
  → zakzak

 前原登場の弁は、「戦う民主党」であった。いかにも威勢が良く、啖呵を切った。かくて、当選。
 で、今は? 「自民党の腰巾着」になって、しきりに自民党の政策を実現しようとしている。彼は「自民党と戦う」と訴えたが、現実には「党内の民主党と戦う」ありさまだ。「民主党をぶっ壊す」というつもりですかね? 誰の物真似かな?
 でも、「民主党をぶっ壊す」より、自分が自民党に入った方が、早いでしょう。だから、どうせなら、自分をぶっ壊したらどう? さもないと、日本国民がぶっ壊される。

 結論。
 日本にいる与野党の党首二人は、「建設する」ことよりも「ぶっ壊す」ことに熱中しているだけ。でもって、武器を使って、ドンパチごっこをやらかしたがる。子供のお遊び。昔風のゲーム中毒の一種ですかね。


● ニュースと感想  (12月29日)

 「男女雇用均等法」について。
 男女雇用均等法について、経営側が大幅に渋っているそうだ。国際機関からの指摘を受けても拒否し、低賃金のパート・派遣をその状態に据え置こうとする。あげく、女性労働力が不足して、生産量が不足して、少子化をうまく乗り切れない。また、国全体の消費量も減るから、企業自体も売上げ減少で悩む。……愚劣の悪循環。
 で、こういう状態を改めよ、という社説もある。
 男女雇用機会均等法が誕生して20年。労働政策審議会の分科会で、久々の改正に向けた議論が大詰めを迎えている。  最大の焦点は「間接差別」の禁止を盛り込むかどうか。禁止の明文化を求める労働者側の委員に対し、使用者の代表委員は「全面禁止は時期尚早」と譲らない。
( → 朝日社説 2005-12-26 )
 明示的でない実質的な差別について、「禁止は反対」と叫ぶ方もイカレているが、「禁止すればOK」と叫ぶ方もイカレている。
 たとえば、サービス残業(賃金不払い)は禁止されているが、こういう泥棒と同様の犯罪さえ、放置されたままだ。しかも、罰則がない。本来なら、経営者が「泥棒1万回分」として監獄に入れられてもいいはずだが、十円を盗んだ泥棒が半年の実刑を食らうくせに、多数の労働者から莫大な金をかすめ取った経営者は、「不払い分をあとでちゃんと払ったから免罪」とされて、監獄に行くこともなく、経団連の役員や会長に納まったりする。(トヨタを含む。)

 では、「禁止」でなければ、どうすればいいか? 簡単だ。経済の市場原理に乗っ取ればよい。ただし、その市場を、ちゃんと整備する必要がある。それは、こうだ。
 「差別しない企業が有利で、差別した企業が損」
 具体的には、こうだ。
 「男女の賃金を平等にした企業が得で、不平等にした企業が損」
 その具体的な指標は、こうだ。
 「男女の雇用者数または賃金総額を比べて、男子優先の会社には、その分、課徴金(罰金)を科する」
 たとえば、労働者数を見て、男子が90%で、女子が10%なら、女性差別があると見て、その分、罰金。
 また、労働者数を見て、男子が50%で、女子が50%であっても、賃金総額が70%対30%なら、やはり、女性差別があると見て、罰金。

 さて。こういうふうに「罰金制度」を単純に整備すると、経団連は「大反対」と合唱するに決まっているし、そうなると、政府案はボツとなる。そこで、ミソは、次のようにする。
 「全体としては、増減税を中立にする。女性優先度の高い企業には、罰金のかわりに、補助金を出す」
 たとえば、女性雇用率が平均で40%だとしよう。30%の企業は、不足する10%に相当する罰金を払う。一方、50%の企業は、超過する10%に相当する補助金を受け取る。悪人から金を奪い、善人に金を払う。……これなら、経済界全体として、損得はない。単に「悪人が損をして、善人が得をする」という勧善懲悪の制度ができるだけだ。
 で、経団連は、たぶん、これに反対するだろう。なぜなら、経団連は、悪のマフィア組織だからだ。悪人たちが自分たちの利益を守るための団体であるからだ。
 ……と思ったが、それは、悪人のトヨタ会長がトップにいた場合。キヤノンの社長なら、そういうことはないから、経団連も来春以降は、反対しないだろう。
 ついでに、日本IBMの会長か誰かも、経団連の副会長になって欲しいですね。日本IBMは日本屈指の非差別会社だ。女性の雇用率も非常に高い。どの企業も日本IBMを見習ってもらいたいものだ。「やればできる」という見本が、そこにある。

 なお、「こんなふうに女性が増えると、男性の賃金が下がる」という心配があるだろう。その心配は正しい。まさしく、男性の賃金は下がる。
 しかし、夫の賃金が下がった分、妻の賃金は上がる。だから、結婚している限りは、ちっとも損ではない。むしろ、夫婦の総額は、向上するはずだ。妻がアルバイトでなくて正社員になれば、(高技能化による)大幅な賃上げがあるからだ。国全体としては、単純作業は外国に回して、国内では高技能の産業だけがあればいい。(どうしても必要な単純作業は、高齢者のパートタイマーに任せてもいい。)
 全体としては:
  ・ 男性労働者 → 小幅の賃下げ
  ・ 女性労働者 → 大幅な賃上げ
  ・ 高齢失業者 → 雇用される
 となる。というわけで、独身男性以外は、得です。(結婚できない人々[特にどういう人かは指定しませんが]からは、「僕は損する」と文句が来そうだが。)
 
 [ 付記 ]
 日本IBMが良いのは、本家のIBMが女性差別撤廃に熱心だから。日本IBMは、IBM全体では、最下位だったそうだ。で、その後に、改善の努力。女性部長数は日本で一番。
( → google 検索


● ニュースと感想  (12月29日b)

 「マスコミ人の心構え」について。
 新聞記者を主人公としたテレビ番組における、記者役の人の台詞の引用。
 「おれたちは、読者の顔色をうかがって泣かせや体裁を整えることに躍起になって、いつのまに新聞を作り続けていないか」(朝日・朝刊・第二番組面・コラム 2005-12-26 )
 考えてみると、私も同じようなことを言ったことがある。「某新聞社の新聞は、無内容なので、廃品回収に出すための古紙でしかない」と。(こっちの方がきつい?)
 ま、私が言っても仕方がないが、記者本人がこう反省するなら、大いに見込みがある。この主人公は立派だ。
 現実の記者は? 正反対ですね。「おれは正しい」と主張するばかり。だいたい、新聞社の社説で、自己反省の色が見られるところなんか、ほとんどない。他人の悪口を書くだけだ。これじゃ、ネット上のぼやきとたいして変わりはしない。有料でなく、無償公開したらどうでしょう? どのサイトを見習えとは言いませんが。


● ニュースと感想  (12月30日)

 「年末の回顧」について。
 年末の回顧。(年末の解雇じゃなくて良かった。)

 (1) 小泉
 首相の仕事納めの弁。
 「極めて多事多難だったが、生涯忘れられない印象に残る1年だった」( → 日経
 選挙で大勝したことが、よほど嬉しかったらしい。「大仕事をした」と思っているのだろう。実は、選挙で勝ったこと以外、何もしていないのだが。例の構造改革だって、実効性のあることは何一つやっていないに等しい。ひょっとして、ダイエーの再建を「一つ」と数えているかもしれないが、あれは、民間に任せておけば簡単に済んだことを、国が介入して二年間遅らせただけだ。で、「一仕事しました」というふうに手柄を横取りしただけ。無意味。
 景気でいえば、実効性のない量的緩和をやっていたら、外需主導のせいで、輸出企業が潤っただけだ。その一方で、内需はいまだにマイナスだから、自動車の売上げを見ても、「輸出はプラス・国内販売はマイナス、差し引きしてプラス」となっているだけだ。つまりは、外需頼み。他人頼み。……で、それを「私の成果です」と標榜するのが、横取り上手な首相。

 (2) プチ小泉
 というふうに、小泉はまったくの口先男であり、何一つ実効性のあることをやらない詐欺師なのだが、私の見解では、詐欺師は、まだマシである。少なくとも、「景気回復」という目標だけは、間違えなかった。目標は正しかったが、頭が悪くて無能だっただけだ。特に害はない。
 ひるがえって、民主党の前原と来たら。……景気回復という目標すら取れないで、軍備増強による戦争ごっこのことしか考えていない。というか、もともと、外交と軍事のことしか、頭にない。ただの外交・軍事オタクである。総理の器ではない。
 民主党も、ひどいカスをつかんだものだ。これも、前原の弁舌が巧みだったからか。こいつも、小泉とは別の意味で、詐欺師である。
 なお、この二人の詐欺師が師と仰ぐのは、かの偉大なる詐欺師、ヒトラーである。小泉と前原の違いは、小泉がヒトラーの「わが闘争」をよく読んで実行しているのに対し、前原はろくに読まないで実行していることだ。前原の方がずっと馬鹿。
 小泉というのは能なしの首相だったが、日本を破壊しなかったことだけは立派である。首相の役割は、国家を破壊しないことなのだ。ひるがえって、歴代の首相は、バブル期やバブル破裂期に、国家を破壊するばかりであった。前原も同様。ヒトラーも同様。……この中では、小泉が一番、まともであった。


● ニュースと感想  (12月30日b)

 「ゲーム論議の余話」について。
 もうゲーム論議は飽きたと思う人も多いだろうが、本サイトの方針と関係するので、少し述べておく。
 まず、読者からの声。
中毒は本人が「止めよう」と思わない限り直らないものです。 外からただ「止めろ」と言われても、ひとつしか無い砦を否定されることは、当人に は人格の否定とも受け取れる苦痛、到底受け入れられるものではありません。 本当に止めさせたいのなら、方法を変えるべきだと思います。 旅人のコートを吹き飛ばすことが出来ないように、オタクからゲームをむしり取る事 は、そうである自分を鑑みるに、ペンではムリです。
nando ブログ より抜粋。)
 本サイトの方針は、基本的に、「誰かに何かをさせる」ということではない。ゲーム中毒の患者を強引にゲームから引き離そうとすることはない。もちろん、景気対策であれ、国防論議であれ、他の何であれ、他人に何かを強制しようとすることはない。
 そういうこと(他人に何かをさせること)は、政治の問題である。それをやるには権力が必要だ。しかるに私は、権力には関心がない。
 オタクをゲームから引き離すには、何らかの社会制度を整える必要があるだろうが、そういうことは、私の関心にはない。そんな権能を、私は持たないからだ。

 では、本サイトは、何をなすか? 「人々の意識しなかったことを意識させること」「隠された真実を明るみに出すこと」である。
 ゲームで言えば、「ゲームは、生まれたときから存在するし、やるのが当然だ」と思っている人たちに、「ゲームというものには中毒性があるから注意せよ」と、強く意識させること。人々に何かに気づいてもらうこと。……それだけが、本サイトの狙いだ。
 そう意識したあと、どう行動するかは、各人の決めることだ。本サイトの目的は、何かを見せることであって、何かをさせることではない。
 オタクについて言えば、「僕はどうしてもゲームが必要なんだ。他人がなんといおうと、一日中ゲームびたりになるしか、生きる道はないんだ」と言い張るのであれば、それを無理に止めようとするつもりはない。それは当人の勝手だ。私がなすことは、「そういう自分を鏡に映してみろ。その姿はこういう姿なんだぞ」と教えてあげることだけだ。
( ※ どういう姿かを具体的に描写したものもある。これはゲーム・オタクというより、ロリ・オタクの方だが。 → 参考文書の感想文

 [ 付記1 ]
 ついでに一言。オタクは「他人に何かをしてもらおう」という態度に、根源的な難点がある。「ゲームを離れられるようにしてほしい」とか、「異性と付き合えるようにしてほしい」とか。……しかし、人は自らの力で、一歩を踏み出すべきなのだ。人生の荒波のなかを進むことは容易ではないが、それでもその一歩を踏み出すべきなのだ。
 私がなすのは、オタクの体を背中から押すことではなくて、オタクが自ら歩み出す意思をもつように、心を動かすことだけだ。本サイトは、体を動かさせようとはせず、心を動かさせようとする。それだけだ。そのあと、どうするかは、各人が決めることだ。

 ただし、一応、ニンジンもぶら下げておく。「現実の異性ってのは、ゲームの萌えちゃんなんかより、はるかにはるかにすばらしいんだぞ。今のままだと、いつまでたっても、それを味わえないぞ」と。

 [ 付記2 ]
 ここで一つ、重要なことを言っておこう。
 「オタクであれ不況であれ、悪循環というものがある」
 ある穴または蟻地獄のような状況がある。そこにはまってしまうと、なかなか脱せない。そこにいること自体が、そこにいる(いつづける)ことの原因となってしまっている。……こういう悪循環の状況では、「悪循環を脱しよう」とする何らかのきっかけが必要となる。
 ここでは、「自由放任で最適化」という原理は成立しない。むしろ、「脱出のための強い意思と行動」が必要となる。それこそが困難な状況を脱出させる。
 これはオタク問題に限ったことではない。不況でもそうだ。状況を改善するものは、天気でもなく、金でもなく、自らの意思と行動なのだ。
 巨大な山を登るとき、いきなり登ることはできまい。しかし、それでも、最初の一歩は必要なのだ。水前寺清子の歌にも、こういうのがある。
 「千里の道も一歩から」
 この言葉を、新年のために贈る言葉としよう。


● ニュースと感想  (12月31日)

 「青春と恋愛」について。
 年末の大掃除を整理していたら、過去の懐かしいメモが出てきた。それで実感したことは、こうだ。

 「青春の日は二度と現れない。あの日に戻ろうとしても、決して戻ることはできない」
 「青春の日に出会った人とは、二度と出会えない。あのときの彼女と出会おうとしても、決して出会うことはできない」
 「青春の日の体験は、二度と味わえない。あのときのみずみずしい感覚は、年を取ってからでは二度と味わえない」
 「青春の日のすべては失われる。しかし、すべて失われても、その記憶は残る」

 だからこそ青春時代に、おのれの特権として、十分に若さを体験するべきなのだ。そして、そのためには、自分が愛を向ける対象が必要なだけでなく、自分に愛を向けてくれる相手が必要だ。そのとき初めて、心と心の響きあいが生じる。
 その相手は生身の相手であることが必要だ。その相手は実際に心をもっていることが必要だ。ゲームの萌えちゃんは、あなたを愛するフリをすることはできる(そういうプログラムはできる)が、あなたを愛してくれることは決してない。
 「だって、現実の女性より、架空の萌えちゃんの方が、ずっとかわいいんだよ」
 とオタクは言う。なるほど、そうかもしれない。しかし、架空の萌えちゃんは決してあなたを愛してくれることはない。そこにあるのは、リアルな愛ではなく、バーチャルな愛だけだ。

 おのれの限られた青春時代を、架空の萌えちゃんと過ごすことは、貴重な若さを無駄に捨てることだ。その機会は、あとになってから取り戻そうとしても、決して取り戻すことはできない。
 だから、私が言いたいことは、「ゲームを捨てよ」ということではない。「おのれの人生を捨てるな」ということだ。また、どうしても架空の萌えちゃんとだけ過ごして、現実の女性と過ごそうとしたくないのであれば、それはそれで勝手だが、その際、自分の人生を捨てつつあるのだということは、自覚した方がいい。
 中高年になって、愛してくれる人もなく子供もなく、一人で孤独に生きて、かたわらでは架空の萌えちゃんのプログラムだけがささやいてくれる、というのは、あまりにもわびしい。
 会話すら成立しない。たとえば、あなたは架空の萌えちゃんの話に答えることはできるが、架空の萌えちゃんはあなたの話に答えてくれない。
 「ちょっと病気になったみたいなんだ。どうしようかなあ」
 と相談しても、萌えちゃんが答えるのは、ゲームの世界の言葉だけであって、あなたの言葉などまるきり無視する。索漠たる世界。
 
 おのれの貴重な青春を無駄にすることは、おのれの人生そのものを無駄にすることだ。おのれの貴重な青春を充実させることは、おのれの人生そのものを充実させることだ。過去の一枚の写真さえ、それを通じて、豊かな青春の日がよみがえる。そのための限られた機会を、無駄にしない方がいい。── 私は若い人に、そう勧めたい。もちろん、どうするかは、本人しだいだが。


● ニュースと感想  (12月31日b)

 【 告知 】
 年頭は、たぶんお休みします。


● ニュースと感想  (1月03日)

 「新年対話」について。
 との対話。

 ワンワン。ここ掘れ ワンワン。
 ここを掘ればいいんですよ。ここを掘れば、お宝が出てきますよ。「景気回復」という名のお宝が。……ほら、最近になって、ちょっと光るものが出てきました。私の言ったとおりでしょう? だからご主人様、かしこい私を褒めてくださいね。 ワンワン。

 おい。ポチ。いや、ジョン か。いや、ジュン か。おまえは褒めてくれと言うけれど、掘り始めてから、もう五年もたったんだぞ。二〇〇一年から二〇〇六年まで、五年だ。バブルがはじけた一九九一年からなら、十五年だ。で、「ここ掘れ」と言ったおまえに従って、ずっと掘り続けたが、穴はどんどん深くなったし、土を出したせいか借金の山が膨大にふくらんだ。
 五年の歳月。その間に、娘は結婚したし、私は定年退職した。息子に養ってもらおうかと思っても、息子は、少年老いやすく 職なりがたしだ。まったく、ひどいもんだ。私の五年間は、私の十五年間は、失われてしまった。……ああ。何ということだ。私の人生を返してくれ。私の青春を返してくれ。

 ご主人様、泥棒はいけません。オツムが貧しいからといって、文豪の言葉を盗んじゃいけませんね。……ま、何だかんだ言っても、これでいいじゃないですか。とにかく、お宝が見つかったんだから。

 お宝? そいつは本物かね? なるほど、ちょっとは兆しが光っているが、ひょっとして偽物じゃあるまいな? みんなは「景気回復だ」と大騒ぎしているが、私には頭が光っているだけのハゲだとしか思えないんだ。実際、ちっともありがたみが感じられないんだよ。私の財布の金はたったの百円しか増えていないんだ。お年玉かな。これが景気回復かね? 信じられないな。……で、今年はどうなるんだろう? お宝のおかげで、今年こそ豊かになれるのかな?

 お宝が見つかったので、がっぽり増税です。 ワン。


● ニュースと感想  (1月05日)

 「市場原理主義」について。
 1月1日の読売新聞社説に、市場原理主義を批判する主張が掲載されている。一部引用しよう。
 昨今の経済界は、市場原理主義的な投機ファンド、あるいは内外の投機ファンドをバックにしたIT(情報技術)企業などによる株買い占め騒動に揺れている。
 投機ファンドの行動原理は、要するに、安値で買い占めた会社株を高く売り抜ける、というだけのことである。
 もともと市場原理主義者の跳梁(ちょうりょう)は、80年代前半の米国で始まった。
 その弊害を見ながら、日本では対応が遅れた。法整備が動きだしたばかりで、企業の防衛策についての法解釈も確定しない部分が多い。
 これ以上、市場原理主義者につけこまれないよう、本格的、包括的な資本市場法制の整備を急ぐ必要がある。
 最近では、かつてヘッジファンドの総帥として名を馳(は)せたジョージ・ソロス氏も市場秩序、投機ファンド規制の必要性を指摘している。
( → 読売のサイト
 社説は以上のように主張したあとで、あるべき姿として、次のようにも述べている。
 「株主とは、企業とかかわりを有する多くのステークホルダー(利害関係者)の一つにすぎない。企業が永続的な存在であって、株主のほうが一時的な存在である」
「会社は単なる法人ではなく、従業員、経営者、顧客等々によって成立している公共的共同体の性格を持つ」
「アルフレッド・マーシャルも、20世紀初頭に『経済騎士道』の精神を説いていた。」
 以上の指摘はもっともであるが、これらは「市場原理主義」とは何の関係もない。用語を間違えている。
 ここで問題になっているのは、ただの投機である。その意味は、こうだ。
 「市場原理主義者が、『市場原理ですべてうまく行く』とだけ語り、ろくに規制もしないでいるのをうまく利用して、全体の利益を奪い、自己の利益を増やす。特定の個人からの泥棒というより、社会からの泥棒。規制が不十分であるせいで、合法的。」
 つまり、ここで問題になっているのは、規制が不十分であることだ。だから、規制を十分にやればいい。それだけのことだ。
 つまり、市場原理主義者が「市場原理で万事OK」と主張するのに乗じて、自分が甘い蜜を吸うだけだ。彼ら投機主義者は、市場原理主義そのものではなくて、市場原理主義者のお粗末な主張に乗じているだけである。ここを勘違いしてはならない。

 たとえて言おう。学校の先生がこう言う。
 「生徒の自主性に任せましょう。教師は何もやらないのがベストです」
 こうして教師が指導をほったらかす。すると、強いいじめっ子がのさばり、弱い子の給食を奪い取る。本来あるべきルールが踏みにじられる。で、これを利用して、自分だけはうまく蜜を吸おうとする輩が現れる。いじめっ子をさんざんけしかけて、弱い子から給食をたくさん奪わせたあとで、いじめっ子が食べきれなくなった分を、「いただき」とばかり頂戴する。口先三寸で、甘い蜜を吸う。……イアーゴーみたいな奴だ。
 こういう詐欺師みたいな連中が、市場の寄生虫たる投機家である。彼らは本来は規制によって排除されるべきなのだが、その規制がない。なぜか? 教師が「自主性に任せる」と言って、やるべきことをやらなかったからだ。
 ここでは、本質的な責任は、「自主性に任せる」と言って、やるべきことをやらなかった教師にある。そして、この本質的な責任者が、市場原理主義者だ。
 一方、投機家は、そこに付き添う寄生虫にすぎない。彼らそのものは、市場原理なんか主張しない。単に市場原理を利用するだけだ。

 ここまで言えば、読売の社説の勘違いもわかるだろう。読売は村上ファンドのような投機家を「市場原理主義者」と呼ぶが、本当は「市場原理主義者」とは自由経済の信奉者のことなのだ。具体的に言えば、「構造改革」を主張するような、自由経済の信奉者のことだ。つまりは、読売や政府の連中である。
 「企業の生産性を向上すれば、経済は上向く」
 「量的緩和を継続すれば、景気は良くなる」
 こういうふうに主張して、企業のことばかりを見て、供給の改善ばかりを見る。かくて、需要の面を見ない。デフレのときには、供給は十分で需要が不足しているのに、そういうことをまったく無視して、供給の改善による経済体質の改善を唱える。あるいは、消費不足で設備が遊休しているときに、(稼働しないはずの)設備をどんどん増やせとばかり投資をけしかける。……いずれにせよ、需要の側を無視して、生産力ばかりを増やそうとする逆の説を主張する。

 大切なのは、市場原理・自由放任主義にかわる、マクロ政策だ。つまり、市場原理に対比すべきものは、マクロ政策であって、経済騎士道なんかではない。── 読売は初っぱなから、方向を勘違いしている。年頭からこんなことでは、先が思いやられる。……前日の冗談の、犬にも劣るね。


● ニュースと感想  (1月06日)

 「市場原理主義と教育」について。
 読売がさっそく、馬脚を現した。「市場原理主義は駄目」と書いたあとで、1月05日の社説では「市場原理主義こそすばらしい」という趣旨の社説。( → 読売のサイト
 報告書は、戦後教育の平等主義を、「他人と同じことを良しとする風潮は、新しい価値を創造し、社会を牽引(けんいん)するリーダーの輩出を妨げ」てきたと省みる。
 個々の資質や才能を生かし伸ばせるような初等中等教育、入試改革に加え、高い専門性と教養を併せ持った人材をつくり出す大学・大学院改革が必要だ。
 報告書は、こう提言した。高校卒業を待たずとも優秀なら「飛び入学」で大学に入れよ。3年修了段階で大学院に進めるように。博士号も最短3年で取れるようにせよ――。
 これはつまりは、「平等主義を改めて、競争主義にせよ。格差を縮小しようとせず、全体を伸ばせ」ということだ。その趣旨自体は、間違ってはいない。しかし、それをもって万事が改善すると思い込むのは、ただの「市場原理主義」である。
 比喩的に言えば、次の主張も成立するかもしれない。
 「栄養がないと、まともに勉強ができない。ゆえに、給食を普及させよう。そうすれば、国の学力は劇的に向上する」
 「風邪を引くと、まともに勉強ができない。ゆえに、インフルエンザのワクチンを接種しよう。そうすれば、国の学力は劇的に向上する」
 どちらも完全な間違いとは言えないし、「環境を改善しよう」という趣旨は好ましいのだが、だからといって、それだけで万事が解決すると思い込むのは、早計だ。教育の「市場原理主義」も同様だ。「悪平等主義」を封じて「競争原理」を取り入れるのはいいが、それだけで万事が解決すると思い込むのは、錯覚だ。……こういう錯覚をするのが、「市場原理主義」である。
 経済で言えば、競争ばかりを主張して、マクロ政策をさっぱり理解しないのが、「市場原理主義」である。個々の企業の改善ばかりに目を奪われて、「国全体の改善」のための経済政策という概念がない。教育でも、同様だ。一人一人の改善ばかりに目を奪われて、「全員の改善」のための教育政策という概念がない。単に競争を刺激することしか考えていない。ひどい単細胞ですね。こういう単細胞を教育するのが先決かもしれない。

 経済というものは、各企業が競争すれば全体が改善する、というものではない。経済のマクロ政策が必要だ。同様に、教育というものは、各人が競争すれば全体が改善する、というものではない。教育のマクロ政策が必要だ。
 具体的に言えば、「ゆとり教育」だの「総合教育」だの、全体の教育水準を低下させるようなことをやっていては、全然駄目である。最近では「ゆとり教育」を廃止・転換したようだが、40年ぐらい前に比べれば、最近の教科書の厚さは半分でしかない。で、その原因の一つが、「週五日制」だ。教育時間の絶対量が減っている。その分、子供は、どうしているか? 読書や社会勉強をしているか? いや、ゲーム機でボタンをピコピコ押しているだけだ。……教育水準の低下の根源には、読書量の減少による、言語水準の低下も大きく影響している。
 そして、こういう根源的な問題を解決するのが、国のマクロ的な教育政策だ。それをほったらかして、「競争を進めれば万事が解決する」というのが、読売や政府に代表される、市場原理主義である。
 教育における市場原理主義は、有害無益でしかない。市場原理オタク。

 [ 付記 ]
 飛び級という制度について考えよう。ここに、特別出来のいい子供がいるとしよう。その子に対して、特別高度な教育を施すのであれば、効果はあるだろう。では逆に、教育を省略したら? もちろん、効果があるどころが、逆効果がある。それが「飛び級」という制度だ。愚の骨頂。
 実際、「飛び級」という制度が成功した例は、ただの一度もない、と言ってよさそうだ。たとえば、米国では、12歳か15歳ぐらいの子供が飛び級で大学に進学したりするが、そのことで、どんな天才が生まれたか? いやいや、逆に、これらの神童は、「二十歳過ぎればただの人」というふうになっただけだ。
 本質的に言えば、こうだ。飛び級という制度は、基礎的な修練を省略して、一挙に専門課程に飛ぶことだ。なるほど、それは、目先の専門課程を習得するには、近道である。で、習得したあとは? 何らかの業績を上げねばならない。他人の業績を学ぶのではなく、自分の業績をつくりあげなくてはならない。そして、そのためには、基礎的な素養が不可欠なのだ。
 物理学であれ、生理学であれ、社会学であれ、自分で何らかの独創的な業績を上げようとしたら、誰でも思いつく範囲のことをなすのではなく、なかなか思いつかないことをなさなくてはならない。そのためには、専門的な知識を学ぶのでは足りず、専門の外の知識を学ぶ必要がある。何のために? 知識を得るために? 違う。考え方を身につけるためだ。
 幅広い知識が、幅広い発想をもたらす。狭い知識は、狭い発想しかもたらさない。たとえば、「競争で万事が解決する」というふうに単細胞的に思い込むと、その発想から抜け出すことができない。「教育をどうするべきか」を考えるときには、「競争で解決」というような誰でも思いつくようなことを主張するだけでは足りず、マクロ経済学の知識や発想を取り入れる必要がある。
 飛び級という制度は、高度な専門職人を作るには有効だが、独創性のある才能を作るには有害無益なのである。実際、私は、飛び級なんていう制度にはめ込まれないで、実に幸いだったと思う。学校制度の全般において、それぞれの知識を幅広く習得することができた。おかげで幅広い発想法を身につけることができた。仮に、飛び級制度なんかを利用していたら、ただの専門馬鹿になっていただけだ。
 ついでに言えば、私がしきりに勉強したのは、他人との競争に勝つためではない。むしろ、自己との競争に勝つためだ。その目標は、自分なりに掲げた、高い抽象的な目標である。イチローであれ、松井であれ、他の誰であれ、「他人に勝つため」に必死に努力しているわけではない。むしろ、自己の目標に到達するためだ。
 そのことを、市場原理主義者は、まったく理解していない。「馬を競走させれば馬は速く進む」とだけ信じて、馬に飼い葉や水を与えることをほったらかしている。自分のなすべきこと(環境の整備)をやらない。単に「競走、競争、競争」とだけテープレコーダーのように唱える。こういう単細胞たちの頭をたたき直すことが、教育制度を整える際の根幹だろう。


● ニュースと感想  (1月07日)

 → Open ブログ 「ソフマップ転落」


● ニュースと感想  (1月08日)

 「教育とコンピュータ」について。
 文部科学省が「教育のIT化」と銘打った政策を打ち出した。以下、引用。
 文部科学省は2006年度、教員のIT(情報技術)指導力を評価する基準を策定する。 新たに策定する基準は、IT指導力のある教員なのかどうかを見極められるよう、小中高校などの学校段階別や教科別に設定する方針。
 例えば、理科では火山が噴火した際に溶岩が流れ出る様子をパソコンのアニメーションなどで視覚的に解説できるかどうかや、体育では、跳び箱を跳べた子と失敗した子の動画を比較して、両者の違いを教えられるかどうかなど、具体的な指導の可否を盛り込むことを想定している。
( → 読売のサイト
 熔岩のアニメやら、跳び箱の動画やら。……つまりは、プレゼン能力の高い教師が「優秀なIT教員」と見なされるわけだ。これだと、広告会社の社員は最も優秀と見なされるだろうし、逆に、たいていのプログラマはたちまち落第となるだろう。ビル・ゲイツやジョブズや坂村健などは、あっという間に落第だ。(ついでに言えば、私も落第です。ここに顔を出していいんですかねえ。  (^^); )

 どうも、政府のお役人は、IT能力というものをまったく誤解しているようだ。彼らの理解は、こうだ。
 「IT能力とは、特定ソフトの操作能力である。特に、画像の操作ができる人が、最優秀。生徒で言えば、テレビ・ゲームの得意な子供は最優秀。」
 しかし、IT能力というものは、そんなものではない。「ソフトを操作できるか」というのは、二の次である。「ソフトを使って何をするか」というのが、本来の目的だ。そして、そのためには、「自分で何かを作り出す」ということが大事なのであり、だとすれば、画像のお絵かき能力の上手下手よりも、文字や数字の処理能力が問題となる。
 具体的には、次の二点だ。
 「ワープロ能力。自分の思ったことをスラスラと書ける力。特に、ブラインドタッチの能力」
 「表計算能力。与えられた数字を次々と統計的に処理して、適切な統計処理結果を得る能力」
 なお、これらの能力が大切なのは、これらの能力それ自体が重要だからではなく、これらの能力を利用して、本来の目的(文章執筆や統計分析)ができるからだ。その点を勘違いしないようにしよう。

 具体的に言おう。ある商品の市場調査をしたとする。大事なのは、次のことだ。
 「市場調査の数字を統計的に処理して、その数字の意味を明らかにする。その商品が売れているのか売れていないのか、どこにどう問題があるのか、という最終結果を探り出す。その上で、その最終結果を、明確な文章にまとめる」
 一方、政府の想定するのは、次のことだ。
 「他人がまとめた最終結果の数字と文章を、きれいな色と図形で飾り立て、グラフの動きをアニメで見せる。おまけに、グラフの伸び縮みに連動して、犬や猫を走り回らせて、プレゼンの訴求力を高める」
 こんな能力を高めて、どうするのか? トンチンカン。

 結語。
 何であれ、教育というものは、「自らの頭で考える力」を養うためにある。教師は、目先の課題を手際よく処理すればいいのではなく、生徒の考える力を養成するという教育そのものができればよい。
 たとえば、「理科では火山が噴火した際に溶岩が流れ出る様子を視覚的に解説できるか」なんていうのは、ITとは何の関係もなく、ただのビデオ画像の解説と同様である。
 IT能力とは、IT機器を操作する能力のことではない。IT機器を操作することは、ただの手段であって、本来の目的は別にある。本来の目的を忘れて、単に機械やソフトの操作だけを考えているようでは、人が機械を使っているのではなく、人が機械に使われているのである。本末転倒。


● ニュースと感想  (1月09日)

 「ネット恋愛」について。
 ネット恋愛というのがけっこう流行っているようだ。ネット上の交際の場で、未知の男女が知り合い、メール等で連絡しあう、という形の恋愛。遠距離の電話恋愛に似ている。
 本来なら、リアルな体験で知り合った男女が、電話やメールで距離と時間を埋めるのだが、リアルな体験なしに交際が始まる。お手軽ですね。
 ま、これで終わってしまえば、ただのバーチャル恋愛だが、その後、実際に顔を合わせて恋愛が始まることも、結構あるようだ。
 いかにも当世風である。あまりロマンチックではないと思うが、これはこれでいいと思う。ネット恋愛で知り合って結婚する、という男女に向かって、「それは間違いだから結婚をやめよ」なんて勧告するつもりは、毛頭ない。
 男女の恋愛は、当人同士が理解し合って行なうのであれば、きっかけは何でもいい、と私は思う。たとえば、二人が犯罪組織に加わったあげく、それがきっかけで恋愛が芽生えて、二人が結婚して更生する、というのであれば、犯罪も縁の一種であったことになる。(また例によって極論過ぎるが。)
 ただし、ことさらお勧めする場合もある。それは、コンピュータから抜け出せないオタク向けだ。どっちみち現実世界に向かって足を踏み出せないのであれば、現実と仮想世界との中間に、ネット世界があるのだから、そこでまず訓練すれば、リアルな女性との試行錯誤ができる。
 「あんた、オタクなの。気持ち悪いわねえ」
 といわれることがあっても、それはそれで、人生の経験だ。それもいいだろう。
 ま、私としては、これはオタク向けとして、けっこうお勧めできます。なぜか? ネット上では、物理的な犯罪ができないからだ。オタクがキレたとしても、女性に何ら、物理的な損害を与えることはできない。(わざと抽象的に書いていますが、何のことかわかりますね?)
 ただしまあ、「ネットで知り合ったあとで、女性をだまして、暴行魔になる」なんてことだけは、しないようにしましょう。
( ※ いや、まてよ。そもそもオタクは、暴行魔になるはずがないかも。エネルギー量からしても。   (^^); )

 [ 付記 ]
 ネット恋愛をするためには、「ネット恋愛」で検索すればよい。ものぐさな人のために、二つだけ例を示しておく。
http://himapara.to/pc/?d933
http://www.514106.net/hub.cgi?m=75
 リンクはあえて付けません。簡単すぎるのはまずいので。クリック一発の恋愛なんて、安易すぎる。ものぐさすぎる人は、恋愛をやめましょう。萌えちゃんとだけ いちゃついていればよろしい。


● ニュースと感想  (1月09日b)

 前項 の続き。「真の恋愛」について。
 前項だけでは、ただの皮肉になってしまう。そこで、肝心のことを述べておこう。それは、「真の男女交際をするにはどうすればいいか?」ということだ。
 男女交際の指南というと、「女性を喜ばせればいい」という指南書が多い。つまりは、ご機嫌取りである。相手の喜ぶことを言ったり、プレゼントしたり、食事に誘ったり、というふうに。
 しかし、これは「女を釣ろう」という作戦である。馬鹿女なら、これで釣れるだろうが、まともな女性は、釣れるはずがない。魂胆が見え見えである。
 ちなみに、男の立場になってみるといい。「優しくしてあげる」という女性が、しきりに身のまわりの世話をしたり、料理をしたりしてくれることもあるだろう。それでデレデレすることもあるだろう。しかし、それだけであったならば、ただの女中(メード)と同じである。だが、女中と結婚したがる男はいないだろう。(そういうのは、メードマニアのオタクだけだ。つまり、イカレた男だけ。)
 男が真に女性を愛せるのは、相手と真に理解し合ったと感じた場合だけだ。つまり、相手が自分のことをすっかり理解してくれたと感じた場合だけだ。この傾向は、特に女性に強い。男は、自分のことをすっかり理解されなくても、また、愛されなくても、そばに女がいるだけで慰めとなることもある。愛を求めず、慰めだけを求める。そういうことはある。しかし女は、必ず、愛を求める。それは「自分を理解してくれる相手を求める」ということだ。
 ここを勘違いしてはならない。女性は、「男メード」つまり「ボーイ」を求めているわけではない。至れり尽くせりで奉仕してくれるアッシーくんやミツグくんを求めているわけではない。自分に奉仕してくれる人を求めているのではなく、自分が奉仕したくなるような人を求めているのだ。
 ここのところを、根本的に勘違いしてはならない。金や優しい行動で女を釣ろうとしても、馬鹿女が引っかかるだけで、まともな女は引っかからない。女が求めているのは、ボーイとしての行動ではなくて、自分を理解してくれる真の優しさだ。
 とすれば、男女交際の際には、男としては何よりも、「相手を理解しよう」という気持ちが必要となる。そのためには、豊かな会話が必要となる。
 そして、豊かな会話のためには、自分自身に豊かな素養が必要となる。ゲームのことしか語れないようなオタクや、仕事の専門分野のことしか語れない専門馬鹿では、女性にとってはただの人形も同然だ。人形は人間を理解することはできない。機械人形(ロボット)は人間を理解することはできない。しかるに、ゲームや仕事ばかりやっていると、機械人形のようになってしまう。
 大切なのは、心と心の結びつきだ。そのためには、ふだん、ゲームの萌えちゃん画像とボタンで会話していても、まったく無意味かつ有害である。それよりむしろ、男であれ女であれ、生身の人間を相手としてリアルな会話をするべきなのだ。それには、「相手を喜ばせるにはどうすればいいか」と考えるよりも、今まさしく眼前の相手が喜んでいるか否かを感知する体験の積み重ねこそが大切なのだ。
 ドアを開けて、街に出よう。心を開いて、世界に入ろう。


● ニュースと感想  (1月10日)

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● ニュースと感想  (1月11日)

 「親子関係の真実」について。
 親子関係はどのくらい真実であるのか? つまり、「知らぬは亭主ばかりなり」という形で、「実はわが子は間男の子であった」ということは、どのくらいあるのか? 血液型が違うと簡単に判明するが、血液型が矛盾しない形の間男なら、十分にあり得る。というか、通常、血液型がばれないようにして、結婚するのが普通だ。
 「彼の子ができちゃったわ。だけど、彼とは結婚できないし。となると、A男かB男のどちらかと結婚しなくちゃね。その点、彼は血液型がA型だから、A男と結婚すれば、ばれないわね。じゃ、A男と結婚しようっと」
 こういうふうに結婚するのが普通である。というわけで、ばれにくい。とはいえ、DNA鑑定すれば、ちゃんとバレる。で、生物学者が、匿名のもとで、DNAを調査してみた。すると、「間男率」は、10%ぐらいであったそうだ。……ただし、イギリスの調査。
 日本では? もちろん、こうはならないだろう。なぜなら、女性の性道徳は、イギリスよりも、もっと乱れているからだ。たぶん、20%ぐらいかな。  (^^);

 さてさて。ここで、値が 10%かどうか、ということは、問題ではない。おおざっぱに、10%ぐらいはあっても不思議ではない、ということだ。(たとえ血液型の問題がないにしても、だ。)
 で、血液型の判明していない古代であれば、もちろん、まったくばれない。顔が似ているかいないかぐらいしか、判断のよすががない。ま、ばれませんね。

 さてさて。話はここから、天皇制に移る。天皇制では、「万世一系」ということがいわれている。しかし、そうか? 今上天皇は 125代であるが、その間、ただの1人も、間男が混じらなかっただろうか? どうも、ありえないですね。
 仮に、「間男でない」率が 90%であるとして、125人全員が「間男でない」としたら、0.9の 125乗であるが、その値は、10のマイナス6乗(つまり百万分の1)である。つまり、99.9999%の確率で、万世一系は成立しない。本当は、どこかの馬の骨の子孫であるわけだ。たった一回、どこかに馬の骨がまぎれこめば、以後のすべては、馬の骨の子孫となるからだ。
 で、その馬の骨の子孫を見て、「万世一系だ」と多くの人々は信じているわけだ。大いなる錯覚。
 ま、あんまり断定的に言うと、「証拠もないくせに勝手な妄想を吐くな」と右翼に怒られそうだ。たしかにまあ、証拠はない。というわけで、以上は私の憶測であることをはっきりお断りしておく。証拠は何もない。単に、99.9999%という確率を示しているだけだ。で、確率による推論が必ずしも当たらない、ということは、ディープインパクトが負けたことからしても、明らかだ。

 [ 付記1 ]
 なんだか「不敬罪」に問われそうなので、改めて注釈しておく。私がいいたいのは、「血筋が曖昧だから天皇家なんか駄目だ」ということではない。逆だ。「血筋なんかどうでもいい。大切なのは、国民の敬意だ」ということだ。今上天皇の祖先が誰であっても構わない。祖先が誰であれ、われわれの敬意は変わらないはずだ。その敬意の心こそ尊い。
 大切なのは、血ではなく、愛なのだ。「万世一系であるがゆえに天皇の系譜は立派だ」というような意見には、私は与しない。万世一系であろうとなかろうと、天皇を敬う国民の敬意さえあれば、天皇制は維持できる。「万世一系であるがゆえに天皇の系譜は立派だ。今上天皇が偉いのはその血筋ゆえだ」というような意見は、天皇陛下の人柄を侮辱しているも同然であり、不敬罪に当たる、とすら言える。こんな不届きものの連中は監獄にぶち込んでしまえ、とさえ言いたくなる。(私の個人的な誇大な感想ですけどね。)

 [ 付記2 ]
 週刊朝日・最新号によると、「男子の子供ができないのなら、雅子妃と離婚してしまえ」という説が持ち上がっているらしい。
 まったく嘆かわしい。これだったら「側室」の方がよほど人道的である。「側室」というのは、つまりは「妾」のことだが、これは「浮気相手に対して責任を取る」ということなのだから、必ずしも悪いことではなさそうだ。「浮気をするのはトレンディーで現代的でカッコいい」なんて持ち上げる連中が多いのだから、こういう連中に比べれば「浮気相手に対して責任を取る」という方がよほどまともである。
 いえね。私は別に、道徳的に、「浮気することは絶対にけしからんから糾弾せよ」なんてふうには思いませんけどね。(ここだけの内緒ですが。)
 しかしねえ。一番問題なのは、政府だと思いますよ。「愛子様の弟ができても、その弟を天皇にするという現今の制度を廃止して、何が何でも弟のかわりに愛子様を天皇にする」と狙っているのが、現在の政府だ。諸悪の根源は、これでしょう。
 ま、より根源を言えば、「万世一系」なんて妄想を信じているのが根源だが。それが、本項の記述。

 [ 付記3 ]
 「じゃ、南堂はどう思っているんだ」という疑問に対しては、すでに答えてある。理論的な話だ。先日の分を参照。
 ( → 12月04日 追記
 つまり、万世一系とか何とか、嘘っぱちのエセ生物学なんか、どうでもいい。大切なのは、天皇に対する、国民の敬意である。国民が天皇に敬意をもっていれば、万世一系であろうとなかろうと、嫡子であろうと妾の子であろうと、どうでもいいのである。万世一系と称しながら、妾の子の系譜を脈々と続けてきたのが、現代の天皇の系譜だ。こんなものを妄信するのは、馬鹿げている。「万世妾系」と称してもいいだろう。
 「Y染色体が脈々と継がれていることが大切だ」
 と主張するエセ生物学者もいるが、これではまるで、「人間はY染色体だけで決まる」というようなものだ。くだらん。Y染色体なんて、局所的には(小人数的観点からは)、あってもなくてもいいのである。どんな人間にとっても絶対に必要なのは、Y染色体以外の染色体だ。たとえば、X染色体。これは誰にとっても絶対に欠かせない染色体だ。一方、Y染色体なんかなくても、どうってことはない。Y染色体がなければ、男のかわりに女になるだけのことだ。生まれないわけではない。結局、人間の染色体のなかで、一番重要度が低いのが、Y染色体である。
 「Y染色体の維持が大事だ」
 と主張している人々が錯覚しているうちに、いつのまにか、それ以外のすべての染色体は、妾の染色体に置き換わってしまったのだ。Y染色体だけは「万世一系」かもしれないが、その間に、他の染色体はことごとく「万世妾系」になってしまったのである。
 ま、だからといって、どうってことはない、と私は思う。妾の子だっていいじゃないですか。だからまあ、浩宮が妾に子を生ませたとしても、私は別に悪いことだとは思いませんね。……だけど、こんなことを言うと、雅子妃にぶん殴られるかも。
 ま、やはり、夫婦の問題は、夫婦で決めるべきです。まわりの人間がとやかく言うことじゃない。
 だから、天皇のお世継ぎは、天皇家だけで決めればいい。国民一般や政府がとやかく口を出す筋合いじゃない。……これが私の主張。

 ついでに言えば、私が浮気をするかどうかは、私の家庭だけの問題であって、他人がとやかく口を出す筋合いじゃない、と思いますね。
 さらに言えば、オタクが結婚も浮気もしないで、萌えちゃんとだけいちゃついていても、ま、それは、彼の勝手です。(ただし、個人についてはとやかく言わないが、国全体でマクロ的に見れば、オタクが増えすぎて少子化が進むのは、社会的に好ましくない。)


● ニュースと感想  (1月11日b)

 前項の補足。「天皇すり替え説」について。
 「明治天皇は、本物は暗殺されて、別人がすり替わった」という節があるそうだ。「海賊某の孫、大室寅之祐が明治天皇になった」という説。けっこう有名な説であるらしい。根拠は、少年時代の明治天皇と、成年後の明治天皇とが、写真ではまるきり別人であること、だそうだ。他に証言などもある。
  → 検索 大室寅之祐
 うーん。少年時代と成年後とで、顔がまるきり変わることは、結構ある。私の弟も、劇的に顔が変わった。私自身はまったく変わらなかったが。個人差ですね。
 私としては、この件、何とも言えません。否定も肯定もしません。根拠が薄弱すぎる感じ。証拠不十分。


● ニュースと感想  (1月12日)

 「アジア共通通貨」について。
 欧州共通通貨(ユーロ)を真似した「アジア共通通貨」を創設しよう、という主張がある。ネットで「アジア共通通貨」を検索してもいろいろと見解が見出されるし、朝日の記事もある。(朝日・朝刊・1面 2005-10-23 。ずいぶん前の記事で済みません。)
 で、その効果については、「これこれのすばらしい効果がある」という夢も振りまかれる。(たとえば → 朝日のサイト
 で、本当に、そういう夢の通りになるか? この夢は、「欧州共通通貨」の時の夢と同じだが、現実は夢とは正反対だ。欧州共通通貨のせいで、欧州は最適な通貨政策ができなくなった。(通貨政策の手足を縛られたせいで。)結果的に、欧州の先進諸国は、ひどい景気低迷や失業に悩むことになった。この被害を受けずに済んだのは、柔軟な通貨政策ができたイギリス(つまり共通通貨を採用しなかった国)だけだ。
 
 朝日の記事には、こうある。
 「やがては一定幅で通貨を縛り合う段階へと進むだろう」
 しかし、これが馬鹿げていることは、次のことからもわかる。
 「世界共通通貨というものを想定して、一定幅で通貨を縛り合うようにする。この場合、世界共通通貨は、安定するので、多大なメリットが生じる。と同時に、多大なデメリットも生じる。それは『最適な通貨レートを設定できない』ということだ。たとば、中国は通貨の切り上げができなくなり、米国は通貨の切り下げができなくなる。そのせいで、中国は貿易黒字がどんどん蓄積し、米国は貿易赤字がどんどん蓄積する。そして、しばらくはその状態が保つが、あるとき突然、通貨危機が発生して、経済が破綻する」
 要するに、「共通通貨」というのは、「完全な固定レート制」とほとんど同じなのである。こんなことは馬鹿げているのだが、この馬鹿げた発想の根底には、次の学説がある。
 「貨幣量を安定させれば、経済は安定する」
 この発想では、大切な概念が欠落している。次のことだ。
 「各国間の経済成長率( or 生産性向上率)は異なる」
 現実において、経済成長率( or 生産性向上率)が異なるならば、その国における通貨の貨幣価値は変動する。貨幣価値が変動するならば、通貨レートも変動するのが当然だ。……これが「変動相場制」の根拠である。
 しかるに、強制的に、通貨レートを固定すれば、どうなるか? 経済成長率( or 生産性向上率)の違いに応じて、一定の通貨政策が、逆の効果をもつようになる。
 こういうふうに、同一の金融政策が、逆の効果をもつ。「最適の金利」を国情に応じて設定することができないから、ある国では「低すぎ」で、ある国では「高すぎ」となる。── その例が、ドイツやフランスだ。金利が高すぎたまま、不況(高失業率)から脱出することができない。

 というわけで、「共通通貨」という制度は、根本的に間違っているのだ。そして、その根源には、
 「貨幣量を安定させれば、経済は安定する」
 という発想がある。この発想は、マネタリズムの発想である。そして、この発想が、現代の経済学の主流となっている。狂気が経済学を席巻しているのだ。経済学は国家に対して、自滅の道を推奨している。

 [ 付記1 ]
 ただし、正確に言うなら、「単一通貨」ではない「共通通貨」ならば、容認される。具体的には、次の通り。
 「各国の通貨を残したまま、平均的な値の通貨(バスケット通貨方式の通貨)を、新たに設定する」
 たとえば、これを「ACU」と呼ぼう。(すでにこのために使われている名称だが。)このACUは、上記のようにして平均的に定まる。と同時に、各国の通貨も残す。(ここが肝心。)
 各国の通貨は残るから、現実的には、経済政策は何も変わらない。その一方で、域内では、共通通貨を、自国通貨のように使うこともできる。……これはつまり、通貨の「二本立て」「二重化」である。
 これならば、問題はない。通貨政策は維持されるからだ。(共通通貨が自国通貨をしのぐほど流通しないことが条件だが。)
 ただし、である。これだったら、「アジア共通通貨」を使うより、「世界共通通貨」を使う方が、よほどマシである。そして、「世界共通通貨」は、すでに実質的に存在する。それは「ドル」ないし「ユーロ」である。これらの方が、「アジア共通通貨」なんかよりも、ずっと強力であるし、使いやすい。とすれば、「アジア共通通貨」なんてものを作っても、あまり意味はない。
 どうせバスケット通貨方式でやるなら、「世界共通通貨」(WCU)を想定した方がいいだろう。そこには、ドルもユーロも円も含まれる。

 [ 付記2 ]
 ただし、である。上記のような各種の共通通貨(ユーロ以外)は、いずれも、実現性がまったくない。なぜか? これらの共通通貨ができると、ドルがその優先的な地位を失うからだ。
 ドルは、現在、米国が勝手に通貨を増刷できて、通貨発行益を一方的に享受できる。共通通貨ができると、米国はその利益を失う。莫大な損失だ。
 とすれば、日本が世界の利益や自国の利益をめざすならば、まず、「米国の利益を失わせるような政策を取ることができる」という、外交の自立性を獲得することが先決だ。しかるに、「自国の利益を米国の利益よりも優先する」ということは、対米従属を捨てることを意味する。今の政権には、とうてい無理だろう。
 「対米従属! 米国の犬になろう! 理由は、安保」
 これが与党と野党に共通する立場だ。特に、民主党の前原は、極端にこの立場を取る。「日本が米国と対等の立場になって、米国に対して巨額の金銭を献上するのをやめたら、日本の安全保障は保てなくなる」と主張して、大反対するだろう。
 しょせん、犬には、経済のことはわからない。犬にわかるのは、ご主人様の顔色だけだ。かくて犬は、あちこちで獲物を見つけては、ご主人様に献上するのである。ご褒美に、ご主人様の食べ残しの骨をもらいたくて。

 [ 付記3 ]
 じゃ、どうすればいいのか? その質問には、こう答えよう。
 まず、理想を言えば、「自国通貨と世界共通通貨」の二本立てが好ましい。通常は、自国通貨を使うが、部分的には、世界共通通貨を使う。世界共通通貨の発行益は、各国で分けあう。(国連の資金にしてもいい。)
 次に、現実的には、言えば、「自国通貨とドル」の二本立てが好ましい。香港とか、国内でも大ホテルなどでは、これが可能だが、もうちょっと大きく広げるわけだ。……ただし、この場合、米国のメリットが大きくなりすぎるので、米国が財政赤字を垂れ流して、そのせいであとで世界経済が混乱する危険も増える。
 最悪なのは、「共通通貨への統一」という一本立てだ。この場合、通貨政策は不可能となり、経済学は手足を縛られてしまう。自滅ないし自殺である。経済学は、経済を発展させるためにあるのでなく、経済を破壊するためにある。学問的なテロ。
 本項では、その危険性を、はっきりと指摘しておいた。

 [ 付記4 ]
 上記では「テロ」という言葉を用いた。これは、過激だろうか? いや、過激ではない。実例はたくさんある。
  ・ ロシア経済 …… 共産主義体制のあとで、経済全体を破壊した。(90年代は破壊の十年間であった。)
  ・ 韓国経済  …… アジア通貨危機のあとで、経済全体を大幅につぶした。
 ロシアも韓国も、現代ではいくらか立ち直ってきているが、最悪の時期にはとんでもない破壊がなされた。そして、その破壊は、ただ一つ、マネタリズムによる政策があったからだ。年に50%を越えるような超高金利。これはまともな人間ならばとうてい取らないような狂気的な政策だ。その狂気的な政策を正当と見なして、ロシアと韓国の経済を破壊した。
 マネタリズムというのは、狂気的ないし狂信的な経済テロリズムなのである。「自分は正しい」といいながら、常識はずれの主張を繰り出して、国家全体を破壊する。
 その弱い例は、欧州の長期的な高失業率だ。また、日本の長期的な「量的緩和」という無意味な政策もある。日本にとっても、最大の例は、やはり、マネタリズムの政策である。それは、こうだ。
 「バブル期には(物価上昇率が上がっていないという名目で)大幅な量的緩和をなして、資産バブルを膨張させた」
 「その後に、急に総量規制を導入して、資産バブルを一挙に破裂させた」
 つまり、風船にどんどん空気を入れたあげく、あるとき突然、針で刺したわけだ。……こういう馬鹿げたことをやって、平然としているのが、マネタリストだ。そして、そのあとでは、破れた風船に「いっぱい空気を入れています」(無効な量的緩和をしています)というポーズを取る。
 狂気と愚劣。


● ニュースと感想  (1月13日)

 「処方箋のIT化」について。
 処方箋をちょっとIT化する、という政府案がある。
 「自宅で治療を受けている患者やその家族が薬局に出向かなくても薬を受け取れるようにする」とのこと。たとえば、「往診した医師に書いてもらった処方箋を患者が薬局にファクスで送ると、薬剤師が薬局で調合した薬を持って患者宅を訪問し、処方箋の原本を確認して薬を渡すことができるようになる」という。
 ( → 朝日新聞
 呆れましたねえ。ケータイメールや電子メールが盛んである時代に、FAXですよ。今どき、こんな大時代的なものを使っている人が、どれほどいることやら。わが家のFAXは、ほとんど休眠状態です。昔はけっこう使ったものだが。
 
 さて。この件については、別の案がある。「電子処方箋」という話題で、前にも述べた通り。
  → 検索
 要するに、FAXなんか使わないで、ICカードを使えばよい。また、薬局と病院を、オンライン(つまりインターネット)で結べばよい。電話線を使って文字のアナログ画像を送信する、なんて、愚の骨頂である。ほとんど化石化した時代遅れの発想。呆れますねえ。

 特に、「薬剤師が家庭を訪問する」というのは、何たる無駄か。対面する必要なんか、まったくない。「患者の情報の収集」なら、オンラインでできる。「薬の送付」なら、宅配便でできる。

 [ 付記1 ]
 ちなみに、配達で一番安価なのは、「クロネコメール便」であるようだ。この語で検索できる。(宣伝しているわけじゃないので、リンクは付けません。)
 ま、定形外郵便を使ったって、たいして差があるわけじゃないですけどね。手間を考えたら、ポストに入れるだけで済む定形外郵便の方が便利かも。

 [ 付記2 ]
 ICカードといえば、健康保険証カードのことになりそうだが、住民基本台帳カードというのもある。これはほとんど無効化しているようだ。普及率は 0.3%でしかない。
   → google 検索
 ※ 検索されたニュース記事は消えていることが多いので、キャッシュで見るとよい。
 ※ ICカードが普及しないのは、ICカードというものが原理的に駄目だというより、
   日本政府が駄目だから。ICカードそのものより、運営する人の頭が駄目なわけ。


● ニュースと感想  (1月13日b)

 自動車デザインの話。2件。
  → Open ブログ


● ニュースと感想  (1月14日)

 「IT馬鹿」について。
 IT技術を使うと、面白いシミュレーションができる。電車を止めて風邪の予防、というシミュレーション。
 「シミュレーション結果を11日、東京大生産技術研究所と国立感染症研究所の研究者が共同で発表した。」
 「通勤電車の運行を停止すれば、感染者数が3割程度減る。」
 「患者数が人口の1%に達した時に満員電車の運行を禁じると、ピークまでの日数は変わらないが患者数は三十数万人まで減るとの結果も出た。」
( → Yahoo ニュース

 「電車を止めれば患者が減る」というのは、「経済を停止すれば患者が減る」というわけで、極論で言えば、「日本を破壊すれば、患者が減るので、風邪の被害が減る」というようなものだ。風邪の被害を減らそうとして、別の被害を大幅に増やそう、という発想。本末転倒。数字のための数字になってしまっている。
 IT技術というのは、こういう馬鹿げたシミュレーションをするためにあるのではない。「Aが駄目だから、Aが駄目であることのシミュレーションをする」というのはいいが、「Aが駄目だから、Aよりもっと駄目なBを採用して、Aの問題を解決するシミュレーションをする」のでは、何にもならない。
 どちらかと言えば、正反対の施策の方が、まともである。つまり、こうだ。
 「上記の通り、電車を止めて、風邪を予防すると、経済破壊の被害がこれこれである。しかし逆に、電車を止めなくて、風邪の患者を増やせば、経済破壊の被害が減る。ゆえに、風邪の患者を増やそう」
 (ちょっとナンセンスっぽいが。)

 上記の案は、「電車を止めよ」と主張する。テロリスト並みの発想である。というか、テロリストが、これを利用して、大喜びする。「風邪を蔓延させよう。そうすれば、政府が電車をストップして、国家経済を破壊できる」。  ここでは、テロリストと政府が共犯して、経済を破壊するテロ活動を行なうわけだ。狂気の沙汰。テロリストが風邪というタネをまいて、政府が電車停止という形で経済にとどめを刺すわけだ。

 とすれば、どうするべきか? 現状維持でいいか? いや、本当は、どっちも駄目だ。では、正しい策は? 簡単だ。
 「電車を止めないで、患者を減らすこと」
 これである。その理由は? 経済テロをしないためです。小学生でもわかりますよね。
 で、小学生でもわかることがわからないで、狂気の沙汰であるシミュレーションをやるのが、東大の研究者だ。呆れますねえ。

 [ 付記1 ]
 「電車を止めないで、患者を減らすこと」のためには、どうすればいいか? アイデアは、いろいろある。そのためにこそ、人の頭を使うべきなのである。人の頭を使わないで、コンピュータのCPUの処理能力に任せよう、というのが、今回の計算だ。こういうのを、IT馬鹿という。おのれの馬鹿さ加減をCPUに補ってもらおう、という発想。
 では、アイデアとしては、具体的にはどういうアイデアがあるか? 
 簡単にわかるだろう。わからなければ、小学校に行って、さまざまなアイデアを拝借すればよい。東大の研究者は、馬鹿ばかりであるようだから、小学生のアイデアを借りればいいのだ。すると、たちまち、次のアイデアが出る。
 「風邪を引いた人が、会社に来なければいい」
 その通り。風邪を引いた人だけが出勤をやめればいいのであって、全員が出勤をやめる必要はまったくない。当り前。
 で、そのためには、会社が「風邪を引いた人は出勤禁止」という措置を取ればよい。そうすれば、社内の感染を防げるので、会社としても有益である。
 例。「風邪を引いているかどうか上司がチェックする。風邪を引いているくせに出社した社員は、組織破壊という理由で、厳罰に処する」

 [ 付記2 ]
 では、現実は、そうなっているか? いや、なっていない。かわりに、こうなっている。
 「風邪を引いた人にも、制度上の病欠を認めない。病欠なんかした奴は、根性なしと見なして、勤務評定を下げる。根性があるなら、会社のために、無理をしてでも出勤せよ」
 で、こうやって、社内にインフルエンザを蔓延させるわけだ。
 それだけではない。A社の社員は、B、C、D、……、Zなどの他社の社員ウィルスを感染させ、同様に、A社の社員は、B、C、D、……、Zなどの他社の社員からウィルスを感染させられる。
 このことに注意しよう。これは、マクロ的には、不況の原理と同様である。各人が自社の利益だけを考えるせいで、たがいに、国内の他社に不利益を与える。自分のことだけを考えて、全員で他人に迷惑をかける。結果的に、全体では、日本全体がどんどん不利益を増大させる。
 つまり、各社が自己にとっての最適行動を取る結果、国全体では全体状況が悪化する。この基本原理を、「合成の誤謬」と呼ぶ。マクロの基本原理だ。
 こういう深い真実を見抜くことこそ、大切なのである。それもわからないで、表面だけを見て、コンピュータで数字をいじくってばかりいるのが、IT馬鹿である。





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「小泉の波立ち」
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