[付録] ニュースと感想 (118)

[ 2007.3.19 〜 2007.3.31 ]   

  《 ※ これ以前の分は、

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   のページで 》





● ニュースと感想  (3月19日)

  Google 「自社は立派だ」と自己賛美して、世間をだまそうとしている。そのペテンに引っかからないための方法。
   → Open ブログ 「Google が発見した10の事実:の嘘」


● ニュースと感想  (3月20日)

 「生産性の向上と景気回復」について。
 景気回復のためには生産性の向上が重要だ、という説がある。伊藤元重(東大教授)の見解。(読売・朝刊・1〜2面・コラム 2007-03-19 )
 我田引水とは、このことだ。呆れて、ものが言えない。
 ADSLなどのブロードバンドの普及率が急上昇したというのは、事実だ。しかしそれは、IT戦略会議のおかげか? 構造改革の成果か? それじゃ聞くが、他国はみんなブロードバンド環境がないのか? 違うでしょう。どの国にだって、ブロードバンドの普及には努めている。IT戦略会議があろうとなかろうと、構造改革があろうとなかろうと、どこの国でもやっていることだ。また、日本の普及率が急上昇したのは、Yahoo の成果だろう。その意味は、赤装束や白装束のカルト軍団みないな、インチキ商法である。ブロードバンドを使いもしないおばあさんにまで勝手に売りつけたりしたインチキ商法で、どんどん普及率が上がったわけだ。また、Yahoo の利用者は、最初の数年は激安で、その後は高値、というインチキ商法に引っかかったから、普及率が高まったわけだ。……つまり、ブロードバンド普及率が急上昇した理由は、インチキ商法である。それを自分たちの成果だと商法するのは、とんでもない。我田引水とは、このことだ。

 不動産業だって、同様だ。証券化で不動産業が活性化した? なるほど、量的には不動産開発は増えたが、その最大の理由は、ゼロ金利である。預金するよりは利回りがいいから不動産投資をするだけだ。また、証券化で生産性が向上したというのは、馬鹿馬鹿しくて話にならない。量が増えるということと、生産性の向上が高まるということは、何の関係もない。たとえば、自動車のリースという制度がある。それがないところにそれが導入されれば、自動車の販売台数は少しは増えるだろう。が、だからといって、リースという制度を導入したことで、自動車産業の生産性が向上した、ということにはならない。当り前でしょう。バカでもわかるはずだ。

 以上の二点からわかるように、この人はとんでもないペテン師だ。ブロードバンド業者の成果を、自分の成果だと言い張る。不動産の量的拡大は、ゼロ金利の効果なのに、自分の成果だと言い張る。不動産の量的拡大は、不動産の質的改善ではないのに、ありもしない生産性の向上をあるかのように見せつける。
 前項の Google もペテン師だが、日本にもひどいペテン師がいるものだ。

( 一つ飛ばして、次々項 に続く。)


● ニュースと感想  (3月21日)

 「ライブドア事件・補足」について。
 ライブドア事件の判決が出たあと、「有罪か否か」という点が話題になったが、一番肝心の点が見失われているので、指摘しておこう。
 それは「巨悪はなかった」ということだ。マネーロンダリングも、風説の流布もなかった。あったのは、ただの経理問題だった。ただの帳簿の問題だった。かくも小さな問題だったのだ。
 どうせ帳簿の問題なら、国税庁が毎度毎度、多大な脱税を摘発している。その程度のことだ。つまり、地検特捜部が出るような問題ではない。── これが一番重要なことだ。二年半という刑罰の大小が問題なのではない。
 仮に、地検特捜部が出たことが正しいのであれば、これからも企業の帳簿を毎度毎度、地検特捜部が調べればいい。しかし、そんなことはするまい。地検特捜部は企業の経理係ではないからだ。そんなことを地検特捜部がやる必要はない。

 要するに、「ライブドアに罪があった」ということが問題なのではなく、「見出そうとした罪はなかった」ということが真相だ。── 一番正確な言葉は、「別件逮捕」である。「こいつは殺人犯だ」と大々的に騒いで逮捕したら、実は駐車違反しかしていなかった、というようなものだ。「殺人犯だ、殺人犯だ」というバカ騒ぎはすべて虚構だった、ということだ。
 この虚構性。これに気づかないと、真相を見失う。判決に現れたものより、現れなかったものが大事なのだ。

 ついでにもう一つ。
 犯罪そのものには虚構性があったが、損害は現実のものだった。六千億円という損害はまさしく発生した。虚構の犯罪から、現実の損害が発生した。
 これをもって「駐車違反という犯罪が六千億円の損害をもたらしたから、やはり犯人には罪がある」というのは、誤認である。駐車違反をした人が信用をなくしたせいで損害が生じたとしたら、駐車違反をしたこと自体が問題なのではなくて、駐車違反を殺人事件だと誤認して別件逮捕した検察に問題がある。また、この検察の誤認を是認したマスコミに問題がある。
 図式で因果関係を書くと、こうだ。

  《 虚構 》   殺   人 → 六千億円の損害発生
  《 現実 》   駐車違反 → 六千億円の損害発生
   
 人々は虚構においては「殺人のせいで損害発生」と信じた。しかし現実においては、「駐車違反のせいで損害発生」だった。それでも人々は「六千億円の損害が発生したから、彼の駐車違反は殺人と同じ巨悪だ」と信じた。……論理倒錯。
 人々はいまだにこの論理倒錯にとらわれている。つまり、真実を理解していない。

 [ 付記 ]
 たとえ話。あなたにも起こる、誤認の危険。
 あなたは何も思い当たる節がないのに、妻が誤認して「浮気したわね」と詰め寄った。「ちゃんと証拠があるんですからね」と言って、あなたの全財産を奪って、家出してしまった。あなたは途方に暮れた。その後、妻が「やっぱり私の勘違いだったわ」と言い出したので、一安心したが、妻が詰め寄る。
 「でもあなた、キャバレーに行ったじゃない」
 「それは仕事の接待だから仕方ないよ。そんなことは誰だってやっているよ」
 「でもホステスにキスしたでしょ」
 「そのくらい許してくれよ」
 「許せません。浮気じゃないけど、小さな浮気をしたことになります」
 「でも離婚はしないよね」
 「離婚はしないけど、全財産を返すわけには行かないわ」
 「どうして?」
 「全部すっちゃったのよ。頭に来て、競馬で馬券を買ったら、みんなすっちゃった。もう全然残っていないわ」
 「きみが勘違いしたから悪いんだ!」とあなたは絶叫した。
 「違います」と妻は言い張った。「ホステスにキスしたあなたが悪いのよ。どんなに小さな罪でも、とにかく罪があるんだから。絶対、有罪よ。途方もない巨悪よ」
 「だから全財産を奪うのか?」
 「みんなあなたのせいよ」
 さあ。どっちが悪いんでしょう。ホステスにキスしたあなたが悪いのか。勘違いした妻が悪いのか。
 まわりのみんなに聞きました。すると、みんながそろって勘違いしているせいで、みんながそろって「夫が悪い」とあなたを責めました。「そんなことをすれば妻が怒るのは当り前だ。妻を怒らせるようなことをした方が悪い」と。

  【 追記1 】
 「ライブドアの株価が暴落したのは、ライブドアの嘘がバレて、真相が判明したからだ。やっぱりライブドアは虚業だったのだ」
 という見解がある。だが、これは正しくない。正しくは、次の通り。
 「東証の上場廃止処分(の予想)で、株価を維持できなくなると思った投資家が、投げ売りした。また、不正経理が確定すると金融子会社を維持できなくなり、利益の源が消えるので、やはり投資家が投げ売りした。……つまり、東証の処分と政府の処分という、外部の処分が株価暴落の理由である。外部の処分がなされなければ、株価が暴落することもなかった
 このことは、日興の例を見ればわかる。「東証が上場を廃止する」という予想が出ると、株価はかなり下がった。その後に、外資がTOBをかけるという報道が出ると、株価は上昇した。さらに、「東証が上場を廃止しない」という報道が出ると、またまた株価は上昇した。
 つまり、外部による処分の有無によって株価が変動する、ということだ。ライブドアもまたしかり。つまり、
   妄想 → 妄想した外部による処分 → 投資家が狼狽 → 株価暴落
 という因果関係だ。最初の妄想が、最終的な株価暴落を引き起こす。これは、もとの企業が虚業であるか否かは無関係だ。

 ライブドアそのものが妄想(虚業)だったのではなく、こいつは巨悪という判断が妄想(狂気)だった。何が妄想であるかを、誤認してはならない。

 似た例で言うと、「イラクは大量破壊兵器を持っている」という人々の判断が妄想だったのであり、イラクそのものが妄想だったわけではない。人々は自分の判断が間違っていたことに気づくべきであり、「イラクなんて妄想だ、そんなものはもともと存在しなかった」と主張するべきではない。

( ※ だけど強弁する人もいるだろう。「錯覚させた方が悪い。ゆえに、イラク攻撃は正当だ」と。つまり、自分の失敗はすべて他人のせい、というわけ。便利な理屈。あらゆる失敗を正当化できる。)

  【 追記2 】
 新たに、判決が下った。宮内には実刑判決、熊谷には執行猶予判決。( 2007-03-22 )
 判決理由は、「損失額を隠ぺいするような過去の粉飾決算事例と異なり、投資者に対し、飛躍的に収益を増大させている成長性の高い企業の姿を示して投資判断を大きく誤らせた。一般投資者を欺き、その犠牲の上に立って、企業利益のみを追求した犯罪だ」とのこと。
 要するにね。犯罪の有無を論じてはいけない、ということ。堀江は犯罪そのものを否定した。宮内は犯罪をすっかり認めた。熊谷も両者の中間だ。とにかく、罪の有無だけを論じて、罪の大小を論じなかった。── そこに問題がある。
 「一般投資者を欺き、その犠牲の上に立って、企業利益のみを追求した」というのが肝心の論点なのに、その論点を論じなかった。犯罪の有無ばかりを法的に論じて、被害の大小を経済的に論じなかった。そのせいで、「莫大な被害をもたらした」と認定された。たしかに莫大な被害は生じたが、それをもたらしたのが検察とマスコミであり、ライブドアではなかった、ということが明かされなかった。かくて、濡れ衣を着せられる形で、他人の罪をひっかぶった。
 可哀想というよりは、馬鹿としか言いようがない。濡れ衣を着せられて、単に「私は悪くありません」というふうに弁解するだけ。濡れ衣を着せられたら、濡れ衣を晴らすことが必要だ。そうしなかったんだから、自業自得と言うべき。
 「ライブドア・二重の虚構」を読んでおけば、こんなことにならなかっただろうに。本を読む習慣のない人は、いざというときに、情報不足となって、身を滅ぼす。


● ニュースと感想  (3月22日+)

 前日のライブドア事件の最後に追記しました。
   → 該当箇所


● ニュースと感想  (3月22日)

 「産業政策と経済学」について。
 前々項では、「景気回復のためには供給の改善を。そのためには産業の振興を」という趣旨の説(サプライサイド)を紹介した。しかしこれは、経済学のように見えるが、経済学ではない。ただの産業政策である。
 たとえば、自動車産業の振興のために、何らかの経済政策をなすとする。それは経済学であるか? 経済学者が一番よく知っているか? 否。それは経済学ではなく産業政策であり、経済学者は門外漢の素人にすぎない。経済学者は自動車産業の振興の方法などわかるはずがない。どちらかと言えば、自動車会社の経営者の方がよく知っているし、次いで、他の産業の経営者がよく知っているはずだ。
 ADSL や不動産業も同様だ。該当産業や関連産業の経営者が「こういうのを導入しよう」と提言するならわかる。実際、ADSL の業界は「これこれの基盤整備をしてほしい」と要望しただろう。しかしこれを「経済財政諮問会議の成果」と主張するのは、我田引水もいいところだ。トンビが油揚げをさらうようなものだ。
 典型的な例を挙げる。郵政民営化だ。郵政民営化は(郵政産業の)産業政策である。これを「民営化する」という方針は、一つの政策であって、経済学者でなくてはできないことではないし、経済学ですらない。しかし、である。「民営化するならば、民間会社が参入して、市場で競争することが必要だ。そうしないのでは、独占会社が新たに一つできるだけだ」と主張することは、経済学である。……で、経済財政諮問会議は、そう主張しなかった。つまり、経済学者のなすべきことをしなかった。これが実状だ。

 一般に、サプライサイドは「供給の改善」という一語を述べたあとは、あとは何もすることがない。「生産性の向上」と唱えても、実際に各企業が何をやるかは各企業任せだ。産業全体の基盤整備については、産業政策となるが、これも上記のように、経済学者の担当外となる。誰がやるにしても、該当産業については素人である経済学者のやることじゃない。該当産業について詳しい専門家のやることだ。
 経済学と産業政策とは異なる。── このことをはっきりと自覚するべきだ。
 「供給の改善」という無意味な一語を語るのは勝手だ。語っても何の効果もないから、キャッチフレーズ以外の意義はない。プラスもないが、マイナスもない。首相の人気が上がること(国民をだますこと)はあるだろうが、現実の産業への影響は皆無だから、どうでもいい。……また、「生産性の向上」と語るのも、「産業政策の推進」と語るのも、語るだけなら無効かつ無害だから、構わない。
 とはいえ、政府が実際に産業政策を推進したとして、それを「経済学者の成果」「経済財政諮問会議の成果」と主張するのは、トンビが油揚げをさらうの相当する。手柄泥棒だ。実は、「経済学者は何もしなかった」「経済財政諮問会議は何もしなかった」というのが正しい。つまり、「産業政策はあったが経済政策はなかった」というのが正しい。
 経済学には、二種類ある。一つはマクロ的にGDPを制御するマクロ経済学。もう一つは、ミクロ的に市場原理を分析するミクロ経済学。その変形で、「市場原理がうまく働かなくなった場合」を考察する「ニュー・ケインジアン」もある。また、金融分野に限定するミクロ経済学では、マネタリズムもある。……これらのうち、マクロ経済学は国全体の経済を考察・調整し、ミクロ経済学は産業全体の需給関係を考察・調整する。
 一方、個々の企業の生産性を上げることは、経済学のやることではなく、経営者のやることだ。また、個々の企業の集団に対する影響を駆使することは、産業政策であって、やはり経済学のやることではない。(前述。)
 経済学者は、自らのなすべきことを自覚するべきだ。「生産性の向上」と唱えるのは勝手だが、そのために自分のできることとできないこととを考えるべきだ。
 わかりやすく言おう。「農業従事者の生産性の向上」と唱えるのは勝手だが、そのためになすべきことは、農協による農業指導とか、出荷体制の整備とか、病害対策の推進とか、農地改良の技術援助とか、いろいろある。そのすべては、農業の専門家のやることだ。農業について素人である経済学者のやることではない。経済学者は、「生産性の向上」とラッパを吹くことはできるが、そのために自分ができることは何一つない。つまり、口先男であるにすぎない。そのことを自覚するべきだ。そして、そう自覚したならば、実際に該当産業で何らかのことがなされたとき、「それはおれの成果だ」というふうにトンビが油揚げをさらうような真似は、慎むべきだろう。どうせ何もできないのだから、せめて余計なことだけはしない方がいい。


● ニュースと感想  (3月23日+)

 前日のライブドア事件の最後に、またも追記しました。
   → 該当箇所


● ニュースと感想  (3月23日)

 「市場原理の二題」について。
 市場原理をめぐる興味深い話が二つあった。

 (1) 礼賛
 「市場原理ですべて片付きます。労働問題も市場原理で最適化されます」という竹中の主張を紹介し、竹中を大々的に持ち上げる提灯記事。(朝日・夕刊・1面・特集コラム 2007-03-20 )
 派遣やアルバイトで労働者が最低賃金以下しかもらえないという状況も、「最適化された」というわけだ。「裁量労働制の推進で、残業手当をもらえないまま、過労死するまで働かせる」という方針も、やはり「最適化」というわけだ。
 ま、それはそれで、正しいのだろう。ただし、「国民にとっての最適化」ではなく、「企業にとっての最適化」である。
 竹中のご主人は、企業であって、国民ではない。それが証明されただけだ。

 (2) 否定
 「市場原理ですべて片付きます」という言葉を信じて、どんどん公的事業の民営化を推進していったら、ひどい状況になった、という各国の紹介。米国では公的医療保険がなく悲惨な状況だし、英国では公教育が民営化されて悲惨な状況だし、他にも南米で水道事業が民営化されて悲惨な状況だ、という例もある。なかなか有益な記事だ。(朝日・朝刊・1面・特集コラム 2007-03-21 )

 そう言えば、日本も (2) に似ている。大学への補助金が激減して、授業料が高騰して、普通の人は進学することが大変になっている。貧乏人の子弟は進学が難しい。で、仕方なく、「将来返すから」という理由で金を受け取ったら、「とんでもない悪党」というふうに非難されたのが、先の西武球団の裏金問題だ。……実は、この問題の本質は、奨学制度の不備である。奨学制度の不備ゆえに、貧乏家庭の子弟は借金しようとした。もちろん、銀行が貸してくれるはずがないから、プロ球団から借金した。それを極悪非道の殺人犯のように糾弾される。
 悪をなす社会が、悪の被害者を指弾する。狂気の社会。
 こういう狂気の社会だから、人々は自分で自分の首を絞めても気づかないわけだ。「市場原理で万能」と思った末、竹中にすべてを任せて、自分たちの富を企業に奪われるばかり。


● ニュースと感想  (3月23日b)

 「市場原理と原発政策」について。
 原発のトラブル発覚と、原子力白書の発表とがあった。これを受けて、朝日の社説( 2007-03-21 )は、こう述べる。
 「原子力は本当に温暖化対策の選択肢なのかどうか。それを見定めるのは、だれからも信頼される安全体制を確立してからのことだろう。」
 つまり、安全体制を確立するまでは、原子力を増やすな、ということだ。しかし、どうせ言うなら、「安全体制を確立するまでは、原子力を増やすな」ではなく、「安全体制を確立するまでは、原子力を停止せよ」であろう。しかるに、現時点では、原子力が電力に占める割合は、4割ぐらいになっていたはずだ。(うろ覚えです。済みません。数値は東京電力のみ。)
 で、この状態で、原子力を停止したら、国家経済はマヒしてしまう。だから、「安全体制を確立するまでは、原子力を停止せよ」は、成立しない。また、将来の電力不足を起こすわけにも行かないから、「建設停止」も問題がある。

 しかし、だからといって、行け行けどんどんというわけではない。では、どうするべきか? 読売の社説( 2007-03-21 )は、「電力関係者は重責を自覚せよ」と叱咤する。しかし、それで済むか? 
 ここには根源的な勘違いがある。電力関係者とは、電力会社の社員であるが、電力会社の目的は、安全性ではなくて、利益なのである。それが市場原理というものだ。
 そして、市場原理に従うならば、安全コストは徹底的に削減して、利益を増やすのがベストだ、となる。当り前でしょうが。自分の金を減らしてまで社会に貢献する企業がどこにありますか。トヨタだって、社会貢献費用は、スズメの涙であり、ゼロ同然である。なのに、電力会社が「社会の安全のために」に莫大な費用をかけるなんて、あるはずがない。常識でしょう。
 
 では、そこから得られる結論は? 
 「社会の利益(公共利益)は、市場原理では済まない」
 ということだ。これは、公共経済学という概念で説明される。で、公共の利益を増やすことは、市場原理では済まない。別の原理が必要だ。
 だから、ここでは、「市場原理を捨てる」という発想が必要となる。
 現実には、どうか? 何でもかんでも市場原理に任せる。「寄生は最小点にして、小さな政府にするべし。すべて民間に任せれば、自然に最適化する」という発想だ。竹中や小泉や小沢が主張する主義だ。
 こんな発想のもとでは、電力でトラブルが発生するのは、当然なのである。

 では、どうすればいいか? 
 それは、ライブドア問題を見るとわかる。「問題が起こったら検察が経営者を逮捕する」という一罰百戒では問題を回避できない。事後的対策では問題の発生は回避できない。かわりに、事前対策が必要だ。つまり、「証券監視委による強い監視」である。
 原子力もまた同じ。業界の安全性維持に委ねるのでなく、「原子力安全監視委」のようなチェック機関が必要だ。いわば、泥棒に対する警官である。そういうものがあればこそ、事故や犯罪を未然に抑止できる。
 ただしこれは「小さな政府」とは正反対の発想だ。ゆえに、古典派経済学者や保守は政治家からは、大いに嫌われる。だから、実現しない。
 つまり、原子力でトラブルが起こることの根本原因は、国家そのものにある。国家そのものが根源的に間違っているから、トラブルが起こる。そして、実際にトラブルが起こったら、「あいつが悪い」と担当者を血祭りに上げて、それで済ませるわけだ。「一罰百戒で以後のトラブルは回避できるだろう」と。

 ライブドア事件であれ何であれ、一罰百戒主義にとらわれていると、本質を見失う。その結果は、自分自身に降りかかる。……放射能の雨となって。


● ニュースと感想  (3月24日)

 先に、「Google が発見した10の事実:の嘘」というページを公開した。
 しかしこのページは、Google に不利な情報を含むため、Google の検索対象から排除されてしまった。
   → Open ブログ 「Google の情報統制」


● ニュースと感想  (3月25日)

 インフルエンザ治療薬の「タミフル」の副作用で死亡事故が続発した。このことについて。
   → Open ブログ 「統計の嘘(タミフル)」


● ニュースと感想  (3月26日)

 「北朝鮮とステルス」について。
 北朝鮮のミサイルへの対策として、ステルス機を使えばいい、という趣旨の記事があった。(読売・朝刊・1面・コラム 2007-03-25 )
 こうして「ステルス機による基地攻撃」という結論を「ベスト」と結論した。

 講評。
 これは私が長らく主張してきたことだ。「ミサイル防衛網は(一兆円以上の)金食い虫で効果がなく、むしろステルス機こそ根源対策になる」と。それを、ようやく自衛隊や読売新聞も理解したようだ。……しかし、遅いですねえ。もっと前に「(小)泉の波立ち」を読んでおけばよかったのに。いや、読んでも理解できなかったのかな。頭悪すぎ。……でもまあ、ようやく理解できただけ、マシかも。

 なお、上記に列挙したことは、不正確な結論だ。特に、最後がいけない。いったん「ステルス爆撃機が最善」という結論を出したはずなのに、「ステルス戦闘機が最善」という結論に転換してしまっている。
 なるほど、日本には、ステルス戦闘機 F22 ラプター がやっと配備されたばかりであり、ステルス爆撃機 F-117 は配備されていない。しかし、配備するべきは、ステルス戦闘機 F22 ラプター でなく、ステルス爆撃機 F-117 である。理由は下記。
  最後の点について述べよう。F22ラプター のステルス能力は高くない。敵が戦闘機であるならば、敵のレーダーには見つかりにくい、というだけだ。敵が(戦闘機でなく)大きなパラボラアンテナのレーダーをもつ基地であれば、 F22ラプター は見つかって撃墜されてしまう可能性がある。私が F22ラプター のパイロットだったら、敵基地爆撃のために向かうなんて、まっぴら御免だ。戦闘機は敵の戦闘機と戦闘するためにあるのであって、敵の基地全体と戦うためにあるんじゃない。飛んで火に入る夏の虫にはなりたくない。(仲間が百機いるならともかく、一機だけで行くのはいやです。馬鹿な上司の判断の犠牲になりたくない。)

 ま、日本に配備されているのは F22ラプター だけだから、これにしようとするのだろうが、そういう発想だと、まともなことはできない。
 そもそも、「 F22ラプター が配備されてからその効果を論じる」というのが、どうにも遅れている。 F22ラプター が配備される前に考察するべきだった。配備されてから、配備されたものの効果だけを考える、という愚かさ。
 こういう愚かさを根源的に直さないと、戦争しても完勝は無理ですね。常に事後対策をするだけで、後手に回る。その間に被害は莫大。
 「アメリカがミサイル防衛網を買えと言ったから、ホイホイ買います」
 「アメリカが F22ラプター を配備したから、その効果を考えます」
 こういう犬である限り、戦闘なんて無理です。まずは頭を自立させましょう。頭が奴隷状態。「日本を守る」と言っても、そらぞらしい。もともと隷属国家になっている。


● ニュースと感想  (3月27日)

 「北朝鮮との交渉」について。
 北朝鮮との交渉攻守が難航しているようだ。原爆と銀行口座との取引。
 ここで、日本側は拉致問題を唱えて、「当方が正しい」と主張しているが、この問題は「正しいか正しくないか」ではなく、「利口か馬鹿か」の問題である。そのわけを記す。

 最初にあるのは、「何をするつもりなのか」ということだ。選択肢は二つ。一つは、戦争。もう一つは、交渉。

 第一に、戦争をするつもりの場合。
 その場合は、「正しいか正しくないか」だけを主張すればいい。「当方は正しい」と主張して、北朝鮮に戦争をしかければいい。私としては、それに賛意を示す。北朝鮮が原爆を配備してから戦争をするよりは、今のうちに戦争をする方が賢明だ。相手の基地だけを爆撃すればいいから、予告しておく限り、人的被害も皆無で済む。単に原爆設備を破壊するだけだ。形の上では戦争だが、実質的には戦争ではない。ただの強制破壊である。これがお勧め。(だけど、臆病者ばかりだから、やる気はないでしょうね。……で、あとになって、人的被害が出るころになって、ようやく重い腰を上げる。馬鹿は死ななきゃ直らない。)

 第二に、交渉をするつもりの場合。
 この場合は、「正しいか正しくないか」を主張しても、無意味である。交渉とは、第三者に向けてアピールするものではなく、相手との取引であり、その原理は、ギブアンドテークである。こちらが押しつけるだけでは成立しない。
 では、ギブアンドテークという原理は、成立しているか? 実は、成立していない。日本が自分で拒否をしている。つまり、馬鹿である。ここに最大の原因がある。
 その理由は「拉致疑惑」だ。日本は「拉致を認めよ」と要求する。では、北朝鮮がその要求を呑んだら、どうなるか? 「拉致が判明したので、北朝鮮を罰する」という方針を取る。つまり、北朝鮮としては、「少し譲歩したら、もっと譲歩を迫られる」という原理を提示されているだけだ。「ギブをしたら、もっとギブを要求される」というわけだ。こんな原理のもとで、ギブをするわけがない。当然だ。
 一般に、犯罪者との交渉では、こうなる。
 「自白せよ。自白したら、罰を減じてやる」
 これならば、交渉は成立する。しかし日本の態度は、こうだ。
 「自白せよ。自白しなければ、逮捕しない。自白すれば、監獄にぶち込む」
 これじゃ、自発的に自白するはずがないでしょうが。ま、強制的に監獄にぶち込む(戦争する)という手段をちらつかせるなら、まだわかる。しかし、相手との交渉しかやるつもりがないのなら、相手に単に自白を要求するだけでは、無意味だ。しかも、「自白したら罰する」というふうに提示しているのだから、ほとんど馬鹿としか言いようがない。

 この問題の根源には、過去の経緯がある。
 北朝鮮は数年前に、拉致疑惑を認めた。これに対して、日本は「罰」のかわりに「報酬」を与えるべきだった。過去の分は、将来的に処罰することにして、現時点では、「自白」したことへの報酬を与えるべきだった。
 しかるに現実に日本がやったのは、「罰」だけだった。これによって北朝鮮は教訓を得た。「自白すれば自白するほど損をする」と。
 従って、これ以降、「断固拒否」の方針を取るようになった。これは合理的な判断だろう。北朝鮮は馬鹿ではなかった、ということだ。一度だまされたら二度はだまされない、ということだ。

 結論。
 交渉の原則は、ギブアンドテーク。これを理解すれば利口で、理解しなければ馬鹿。交渉が成立するかどうかは、利口か馬鹿による。しかし日本は馬鹿である。ゆえに交渉は成立しない。馬鹿は単に「正しいか正しくないか」だけを主張して、交渉を進めない。
 外交(=交渉)の仕方ぐらいは知るべし。それが結論。


● ニュースと感想  (3月27日b)

 自費出版で最大手の「新風舎」の詐欺商法が話題になっている。
   → Open ブログ 「新風舎の詐欺商法」


● ニュースと感想  (3月28日)

 「生産性の向上と労働時間」について。
 「生産性が向上しても、なぜ労働時間は減らないか?」という疑問がある。これについては、ずっと前に書いたことがあるので、そちらを読み返してほしい。とても面白い話。
  → 2002年3月23日

 肝心のことは、そこに記してあるとおりだ。簡単に言えば、こうだ。
 「生産性が向上しても、労働時間は減らない。その理由は、人々が生活の質を向上させたがるからだ。多額の金を稼いでも、多額の金を使いたがる。簡単に言えば、以前は米と干物で済ませていたのに、現代ではグルメの食事とIT生活を送りたくなる。つまり、贅沢をしたくなる。だから、たくさんの金を稼ぐ必要がある。

 ただし、追記する形で、次のことも示しておこう。
 「人間はもともと、休んでいたくない。放っておいても、働きたがる。金があれば休みたくなるわけではない。たとえば、宇多田ヒカルと元・夫は、たんまりと金を稼いでいたのだから、二人で仲良くタヒチで遊んでいてもいいはずだ。しかし彼らは、金があっても働きたがる。働くことを優先するあまり、夫婦の仲を壊してしまう。口先では「愛こそ大切」というふうに歌い上げるが、実際には愛よりもお金のために生きる。いや、お金のためというよりは、仕事のために。
 人間にとって一番大切なのは、愛でもなく、お金でもなく、仕事なのだ。仕事は、自分の全存在をかけるほどにも大切なものなのだ。とすれば、「休んでいろ」といわれたら、苦しさのあまり、死んでしまうかもしれない。(というのは大げさだが。)
 
 一般に、人間には、二種類ある。
 一つは、仕事を重視して、ものすごく働く人だ。彼らはすごい生産性を上げる。宇多田ヒカルもそうで、莫大な金を稼ぎ出す。
 もう一つは、休むのを重視して、働くのをいやがる人だ。彼らは、「生産性を高めたい。楽をして高給を得たい。金を稼いだら遊びたい」と思う。こういう人は、せいぜい、2ちゃんねるでクダを巻いているぐらいのことしかできない。「生産性を高めたい」と思う人は、たいてい、生産性がゼロに近い。(古典派経済学者もそうだ。)
 生産性の高い人とは、「生産性を高めたい」などと一般論で抽象的に考えたりせずに、「いかにして仕事の能率を上げるか」を具体的・個別に考える人だ。そういう人は、「生産性」なんていう言葉は使わない。だからこそ、生産性を高めることができる。
 したがって、「生産性が向上しても、なぜ労働時間は減らないか?」というような一般的な疑問を出して考えている人は、生産性がゼロ同然であり、2ちゃんねるでクダを巻いているぐらいのことしかできないのだ。
( ※ 「賃金を上げるためには生産性を高めよ」という議論をする人々も同様だ。)
( ※ 言わずもがなだとは思うが、すぐ上の話は、ただの皮肉であって、まじめな学説ではありません。本気で反論などしないよう。)

 [ 付記 ]
 真面目に戻ると……
 どうせ言うなら、「カイゼンをやれ」「QCをやれ」と言う方が、よほどマシである。そのあとで、カイゼンの仕方を具体的に述べれば、もっと良い。実際、アジアに出向いてカイゼンの指導をする定年退職者は、大きな成果を挙げている。彼らは、一般論を述べず、個別の職場に即応した指導をするから、成果を挙げることができる。
 でもまあ、そのせいで、アジアの力がついて、日本は競争上で不利になるが。仕方ないですね。ともに豊かになるために。
(でもそのせいで、地球温暖化が。……いや、これは、豊かさのせいではなく、ブッシュなどの愚かさのせいだ。ゴアが大統領になっていれば良かったのにね。)


● ニュースと感想  (3月29日)

 「生産性の向上と豊かさ」について。
 前項では、「生産性が向上しても、なぜ労働時間は減らないか?」という問題に、一応の答えを示した。つまり、「人々が生活の質を向上させたがる(= 消費生活が豊かになる = 贅沢になる)から、労働時間が減らない」ということだ。
 本項では、その意味を考えよう。

 前項でも述べたが、人間の生き方には、二通りある。
  ・ いっぱい働いて、贅沢に過ごす。
  ・ あまり働かないで、貧しいがのんびり過ごす。
 このどちらがいいか? もちろん、人それぞれである。
 一般的には、前者が多い。どうせ働く時間は決まっているから、週に 60時間ぐらい働いて、それでもらった金で、いろいろと贅沢をする。自動車を買った家を買ったり。これが普通の生き方。
 ただし2ちゃんねるあたりには、後者が多い。彼らにとって大切なのは、パソコンと向かいあって掲示板に落書きすることだけだ。で、それが生きがいだから、貧しくてカップラーメンでも食べながら、とにかくパソコンと向かいあっていたい。……こういう人たちが、「生産性が向上しても、なぜ労働時間は減らないか?」という問題を出す。
 一方、普通の人ならば、こう思うだろう。
 「生産性が向上しても、なぜ豊かにならないのか?」
 これについての答えは、二通り。

 (1) 相対的豊かさ
 相対的な豊かさで言えば、社会的に貧しい人たちは、「格差の拡大」という形で、巨くん単にしわ寄せを受ける。社会全体が損失を分担するべきときに、底辺層ばかりが極端にしわ寄せを受ける。
 で、ここで、「しわ寄せを受けるような歪みを解消せよ」という発案がある。これはセーフティーネットの発案。
 しかし、物事の根源は、「社会全体に損失が発生する」ということであり、これは、マクロ的な経済政策の失敗による。
 要するに、マクロ的な経済政策の失敗で、社会全体に損失が発生しているから、そこで誰かが損失を負担しなくてはならなくなり、そのあとは、市場原理で、弱者ほど虐待されることになる。
 これはまあ、経済政策の問題です。「弱肉強食」という政策を貫徹するから、弱者はどんどん貧しくなるわけ。……詳しい話は、経済学の大きな問題となるので、ここではとても解説しきれない。大問題すぎ。

 (2) 絶対的豊かさ
 絶対的な豊かさなら、問題はない。超長期的には、「生産性の向上が労働者を豊かにする」というふうになっている。
 たとえば、60年代のアメリカと現代の日本を比較しよう。現代の日本の方が、はるかに生産性は高い。コンピュータもあるし、液晶テレビもあるし、携帯電話もある。これらのことは、60年代ではまったく不可能なことだった。
 その意味では、現代の日本人は、60年代のアメリカの最大の富豪よりも、はるかに豊かな生活を送っている。(当時の富豪は、何兆円をかけても、そのような生活を送れないからだ。)

 問題。
 ここで、問題だ。
 現代の日本の絶対的な「豊かさ」の意味は、「幸福さ」とは異なる。これが重要だ。
 60年代のアメリカ人は、「世界一の豊かさ」を享受して、誰もが幸福だった。自動車やテレビや電気洗濯機を使うことで、「何と幸福なのだろう」と、みなが幸福を満喫していた。しかるに現代の日本では、派遣労働者が「結婚できない。子供もできない。老後は真っ暗」というふうに、ひどく不幸な人生を送っている。
 その意味は、何か? 物質的な豊かさが幸福をもたらすのではない、ということだ。人間的な生活(結婚・出産)が満たされない限り、物質的な豊かさなどは何の意味もない、ということだ。
 ここに気づかないバカ経済学者が、「生産性の向上」というのを推進して、リストラによる解雇や派遣社員をどんどん増やしているのだ。つまり、物質的な豊かさを拡大し、かつ、人間的な生活を破壊している。そして、それを、「経済学の成功」と読んでいる。根本的な倒錯。
 ケータイ電話とパソコンを使う現代人は、物質的な豊かさ(商品の技術的な進歩)ではまったく問題ないのだが、肝心要の人間的な生活が脅かされている。── この事実を理解しない限り、物事の本質は見えてこない。そして、物事の本質を見ない人々が、「生産性の向上」というトンチンカンなことを主張する。

( ※ なぜかと言えば、彼らにとって、経済学の目的は、人間の幸福ではなくて、企業利益の増大だからである。経団連おかかえの経済学者。御用学者。別名、古典派経済学者。)


● ニュースと感想  (3月30日)

 「生産性の向上と労働時間」について。
 経済状況を長期的に見ると、「インフレ」よりも、「不況」(特に失業問題)が大きな問題となっているようだ。特に、日本・米国・欧州などの先進国では、そうだ。 ( → 2月11日
 これは、以前の状況とは異なる。かつては、「世界恐慌」などの「不況」が問題となり、それに対してケインズ政策が提唱された。その後、戦後は復興のために成長路線が続いたので、特に問題はなかった。ところが、石油ショック期以降の「インフレ」(またはスタグフレーション)が生じて、ケインズ政策の限界が明らかとなり、かわって、マネタリズムが登場した。また、ソ連経済の停滞と対比的に、西側経済の好調が続いたことから、「市場原理」を基本とする古典派的な経済学が優勢となった。ところが、その後、現在までは、「インフレ」よりは「不況」の方が問題となってきているのである。と同時に、マネタリズム的な政策の限界も明らかとなってきた。
 そこで、単なる景気循環ではなくて、長期的な問題について考察しよう。つまり、経済状況が長期的に、「インフレ」から「不況」へと変化していったのは、なぜだろうか、という問題だ。

 そもそも、経済の問題とは、需要と供給の問題である。需要のうちの「投資」と「消費」の比率は、本来、最適の比率になるべきだから、長期的には、この問題はないと見なせる。だから、「投資」は「消費」に応じて、最適の水準に決まるはずだ。となると、すべての根源は、「消費」である。
 では、消費は、どう決まるか? 人々に消費意欲があれば、消費はどんどん増える。たとえば、昔は、衣食住も不十分であったから、まずはこれらを満たそうとした。まずは、衣と食を満たそうとした。次いで、住宅ブームが続いて、住を満たそうとした。とはいえ、戦後50年もたつと、住の面でもかなり満たされるようになった。となると、あとは、娯楽費である。まずは、電化製品や自動車を欲した。次いで、コンピュータや携帯電話などのIT製品を欲した。とはいえ、これらは、なくても困ることはないし、また、価格も急激に低下した。初期のコンピュータは、アップル製の商品が 100万円以上もしたが、今は Windows 製品が 10万円以下で買える。……というわけで、人々の消費意欲は、もはやほぼ十分に満たされているのである。「何が何でも欲しい」とも思われたものは、昔なら、「テレビ、冷蔵庫、自動車、ワープロ、コンピュータ」など、いろいろとあったが、これらのものは、今やたいていの人が持っている。持っていない人は、別に欲しくもないから持っていないだけのことだ。
 結局、人類の歴史を見ると、長らく、「消費意欲が生産能力を上回っていた」という状況だった。「あれも欲しい、これも欲しい」と思っているのに、金が足りなくて、買えなかった。そこでせっせと働いて、所得を得て、買おうとした。……こういう過程が、「経済成長」である。  この過程において、一時的に生産能力が損なわれると、「インフレ」となった。また、途上国などで、生産能力が低下したり不足したりすると、やはり「インフレ」という問題が発生した。……こういうときには、問題はあくまで、生産能力の問題だった。一時的に消費を抑制したりして、生産能力を拡大することで、問題は解決された。

 ところが現代では、状況は一転した。問題は、生産能力ではなくて、消費意欲そのものなのである。80年代以降の欧州や、90年代の日本や、2000年ごろの米国では、消費の不足こそが、経済成長を抑制する主因であった。ここでは、消費を喚起することで、経済成長が可能であるはずだったのに、消費が萎縮していたせいで、経済成長が損なわれた。
 しかるに、その間も、生産性の向上で、生産能力だけはどんどん向上していった。ITなどで生産性が向上すればするほど、生産能力はどんどん向上していった。しかるに、消費意欲の方は、そんなにどんどん向上していったわけではなかった。たとえば、自動車は、かつては平均年収の1〜2年分ぐらいの価格だったが、今では平均年収の半年分ぐらいの価格で購入する人が多くなっている。「所得も増えたから、それに応じて、ポルシェやロールスロイスを買おう」と思うことはなくて、「実用性のためならリッターカーで十分だ」と思う人々が多くなっている。こうして、生産つまり所得の向上に見合うほどには、消費意欲の向上がない。かくて、容易に、消費がしぼむ。というわけで、「インフレ」のかわりに、「不況」が、経済の問題となってきた。
 要するに、昔は「物は欲しいが金がない」という「貧乏」状況だったが、今は「物はありあまっていて、もう欲しくない」という「飽食」状況になっている。そのせいで、経済成長が損なわれている。経済成長を損なう原因が、「供給」の側から、「需要」の側に、移っている。── このことが、昔と今とで、経済学の問題が異なっていることの理由だ。

 では、どうするべきか? 解決方法は、次の二つの道がある。
   ・ 消費意欲を拡大すること。
   ・ 供給の伸びを抑制すること。
 このいずれでも、構わない。しかし、とにかく、いずれであれ、どちらかが必要なのだ。これが原則である。この原則を理解しよう。では、この原則の上で、二つのうちのどちらの道を取るか?
 もし前者の道を取るならば、「消費意欲の拡大」をめざす経済政策が必要となる。そのためには、「需要統御理論」で述べたように、「アメとムチ」としての「物価上昇」が必要となる。ここでは、「物価上昇」は、悪ではなくて善なのだ。かつてのマネタリズムのように、「物価上昇は敵だ」というのは、昔の経済状況には適していても、今では適していなくなっているのである。(そして、そのことを理解できないのが、現在の、日・欧・米の政府だ。前述の通り。)
 もし後者の道を取るならば、「供給の伸びの抑制」をめざす経済政策が必要となる。ただし、注意しよう。これは、「生産設備の破壊」を意味するわけではない。「生産性の向上」によって、「供給能力の向上」があるのだから、もし「需要の向上」がそれに見合う分だけ見込めなければ、「需要の向上」が足りない分だけ、「供給能力の向上」を抑制する必要がある。たとえば、生産性の向上が 2.5%あれば、需要の向上が 2.5%あるべきだが、実際には 1.5%しかなければ、差分の 1.0%は、「供給能力の向上」を抑制するべきだ、となる。……では、どうやって? 「生産設備の破壊」ではないとしたら、いったいどうやって? それは、基本的には、「労働量の縮小」である。このことが本質的だ。
 では、「労働量の縮小」とは、何か? 労働者の総数を減らすか、一人あたりの労働時間を減らすか、どちらかだ。前者は、「失業」であり、後者は、「短時間労働」(ワークシェアリング)である。いずれにしても、国全体の労働量は縮小する。
 では、「失業」と「短時間労働」の、どちらを選ぶべきか? どちらでもいいが、どちらにするかは、政府が決める。何もしないで放置すれば、企業は不要な労働者を解雇するから、「失業」が増える。政府が率先してワークシェアリングを進めれば、「短時間労働」が増える。通常、「失業」は好ましくなく、「短時間労働」が好ましい。生産性が向上して、必要な労働量が減ったなら、「短時間労働」という形で、労働時間を減らせばいいのだ。

 人類の歴史を振り返ろう。大昔の石器時代と現代とを比べると、どちらにしても、労働時間はほとんど変わっていない。というか、現代の方が、労働時間はずっと上だろう。これほどにも科学技術が進歩して、生産性は大幅に向上したのだから、普通に暮らすためなら、労働時間は、石器時代の百分の一でもいいはずだ。なのに、現実には、石器時代にも増して長時間の労働をしている。
 こういう状況を改善して、かわりに「短時間労働」のライフスタイルを確立すること。つまり、「生産性の向上」を、「より多くの物欲」のために用いるのではなくて、「時短」「ゆとりある生活」のために用いること。そうすれば、それはそれで、好ましいことなのである。
 
 結語。
 「生産性の向上」が長年続いてきた。そのことで、生産能力は飛躍的に向上した。おかげで、経済学の問題は、「供給不足」(消費意欲過大)から、「供給過剰」(消費意欲不足)へと、変化した。つまり、経済学の対処するべき方向は、まったく反対のものになった。
 ならば、この現実の状況の転換に応じて、経済学もまた、方法を転換するべきなのだ。インフレ退治をめざすマネタリズムの方法とは逆に、デフレ退治をめざす新しい経済学を用いるべきなのだ。
 新しい経済学では、「タンク法」によって、需要をコントロールできる。需要不足に対しては、需要増加をもたらすことができる。ただし、タンク法で解決できるのは、短期的な「消費不足」という問題だけである。長期的な問題には、長期的な対処が必要となる。
 長期的な問題については、二つの対策がある。「消費意欲の拡大」と「供給の伸びの抑制」である。そのどちらを取るかを決めるべきだ。
 この両者のうち、どちらを取るかは、ライフスタイルの問題である。どちらがいいかは、特に善悪は言えない。(なお、経済学でなくて、エネルギーや環境の点からは、後者が好ましいだろう。)
 ともあれ、どちらにするにせよ、この二つの路線は、需給の均衡が取れている。その意味で、経済学的な問題はない。ここから先は、経済学以外の問題となる。
( ※ 経済学の問題は、需給の均衡を取ることだけ。どういう均衡を取るかは、ライフスタイルを選ぶ人生観の問題である。)
( ※ 「贅沢をするために長時間労働をする」というライフスタイルもある。「生産性が向上しても、なぜ労働時間は減らないか?」という話題で、2002年3月23日にも述べたことがある。前々日にも示したとおり。)


● ニュースと感想  (3月31日)

 「長期的な生産性向上」について。
 先進国諸国で失業率が高いことを、構造的なものと見なして、経済学的に説明しようとすると、次のような主張が出てくる。
 「生産性の向上が進んだせいで、失業者が増えることとなったのだ。生産性が向上すれば、労働力の必要が減るからだ。
 これとほとんど同等の主張として、次の主張も出てくる。
 「生産力が海外に移転したせいで、失業者が増えることとなったのだ。インドへ業務委託をしたり、中国から輸入が増加したりすれば、国内の産業が衰退して、国内での労働力の必要が減るからだ。
 これらは、いかにも、もっともらしい説である。しかし、本当にそうなのだろうか?
 仮に、これらの説が正しければ、次のようになるはずだ。
 ということになる。とすれば、対策としては、次のようになるはずだ。
 しかし、そんなのは、いかにもメチャクチャだ。これはいわば、「利口よりも馬鹿であるほど好ましい」という説だ。「利口はいっぱい仕事をするが、馬鹿はろくに仕事をしない。利口がいるせいで、失業者が増える。だからみんな馬鹿になろう」という説だ。
 もちろん、こんなのは、話の方向がずれている。では、正しくは? 次の二つのうち、前者よりは後者を選べばよい。
 ここで、後者を選ぶとしても、「生産量」というのが何かが問題となる。
 経済学的には、「生産量」というのは、金額で計られる。つまり、商品が量的に拡大しようと、質的に向上しようと、違いはない。ただし、現実の生活においては、差がある。昔なら、自動車や電器製品の量が不足していたから、これを量的に増やすことが大切だった。今なら、これらの料は足りているから、これらを質的に向上させることが大切となる。
 ただ、量的な不足は、何としても解決するべきだが、質的な不足は、解決しなくてもよい。たとえば、自動車はベンツでなくて軽自動車でも、本来の「移動」のためには、たいして違いはない。だから、
 「いっぱい働いて、いっぱい稼いで、ベンツを購入する」
 「あまり働かないで、あまり稼がないで、軽自動車を購入する」
 という二つの道があることになる。そのどちらにするかは、ライフスタイルの問題だ。(前項で述べたとおり。)

 結語。
 生産性の向上は、たしかにある。しかしそれを、失業や不況の原因にしてはならない。生産性の向上は、供給を拡大する効果があるが、だからといって、それが「需給ギャップの発生」という問題にはつながらない。解決策には、二つある。
  ・ 需要の拡大
  ・ 供給の縮小
 前者ならば、多く働いて、豊かな生活ができる。後者ならば、少なく働いて、現状通りの生活ができる。……そのいずれであれ、失業や不況をもたらさない。
 結局、生産性の向上は、何らかの変化をもたらすが、その変化は、好ましい変化なのである。ただし、生産性の向上という変動に対して、経済がうまく対応して変動できないと、両者がうまく噛み合わなくなって、需給ギャップが生じる。それが、失業や不況である。
 生産性の向上によって、たしかに、失業や不況が発生することはある。しかし、それは、構造的な必然ではなくて、経済学者や政府が対応を誤ったということを意味するだけだ。正しく対応すれば、生産性の向上は、「豊かな生活」または「短い労働時間」という幸福をもたらすのであって、「失業や不況」という不幸をもたらすのではない。

( ※ 「生産性の向上が需給のバランスを崩すので調整が必要だ」ということについては、かつて詳しく述べた。 → 需要統御理論









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